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新刊です。

作家のまんぷく帖

2018年4月13日  大本泉著  平凡社(平凡社新書)  定価 840円+税

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食を語ることが、人生を語ることにつながっていく! 
極度の潔癖症で食べるのがこわかった泉鏡花、マクロビの先駆者だった平塚らいてう。赤貝がのどに貼りついて絶命した久保田万太郎、揚げ物の火加減に厳格なこだわりを見せた獅子文六、胃痛を抱えながら、酒と薬が手放せなかった坂口安吾など、食べることから垣間見える、作家という生き物の素顔に迫る。
樋口一葉、内田百閒、武田百合子、藤沢周平など総勢22人を紹介!

目次
 はじめに
 ◎樋口一葉 ── お汁粉の記憶 
   樋口家の事情/半井桃水との邂逅/ごちそうするのが好きだった一葉/お汁粉の記憶
 ◎泉鏡花 ── 食べるのがこわい
   生い立ち/潔癖症だった鏡花/酒も煮沸消毒/ハイカラだった鏡花
 ◎斎藤茂吉 ── 「俺はえやすでなっす」
   二足の草鞋/病気と食事/鰻と茂吉
 ◎高村光太郎 ── 食から生まれる芸術 
   「食」の「青銅期」/智恵子との「愛」そして「食」/
   「第一等と最下等」の料理を知る/「食」から芸術へ

 ◎北大路魯山人 ── 美食の先駆者 
   美の原初体験/「欧米に美味いものなし」/当時の星岡茶寮/山椒魚の食べ方/
   魯山人の死の謎
 ◎平塚らいてう ── 玄米食の実践者
   女性解放運動の先導者/平塚明の生涯/奥村博史との食生活/玄米食の実践/
   ゴマじるこの作り方/おふくろの味
 ◎石川啄木 ── いちごのジャムへの思い
   夭折の詩人・歌人/社会生活無能者?/啄木の好物/いちごのジャムへの思い
 ◎内田百閒 ── 片道切符の「阿房列車」
   スキダカラスキダ、イヤダカライヤダ/酒肴のこだわり/苦くすっぱいスイーツ?/
   三鞭酒で乾杯
 ◎久保田万太郎 ── 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 
   下町に生きる/苦手なものと好きなもの/下町にある通った店/
   絶命のきっかけとなった赤貝
 ☆コラム◉作家の通った店 江戸料理の「はち巻岡田」
 ◎佐藤春夫 ── 佐藤家の御馳走
   早熟な文壇デビュー/学生時代/奥さんあげます、もらいます/「秋刀魚の歌」/
   アンチ美食家きどり/  
   佐藤家の御馳走
 ☆コラム◉作家の通った店 銀座のカフェ「カフェーパウリスタ」
 ◎獅子文六 ── 「わが酒史」の人生 
   大食漢の作家「獅子文六」の誕生/家での獅子文六/グルメのいろいろ/
   「わが酒史」こそ人生
 ◎江戸川乱歩 ── うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと 
   作家江戸川乱歩の誕生/転居、転職の達人/描かれた〈食〉/ソトとウチとの〈食〉
 ☆コラム◉作家の通った店 「てんぷら はちまき」
 ◎宇野千代 ── 手作りがごちそう 
   恋に「生きて行く私」/凝った食生活/手作りに凝る/長生きの秘訣
 ◎稲垣足穂 ── 「残り物」が一番 
   足穂ワールド/明石の食べもの/「残り物」が一番/「おかず」より酒・煙草/
   観音菩薩
 ◎小林秀雄 ── 最高最上のものを探し求めて
   評論家小林秀雄の誕生/「思想」と「実生活」/
   妹から見た小林秀雄/酒と煙草のエピソード/
   江戸っ子の舌/最高最上のものを探し求めて
 ◎森茉莉 ── おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
   聖俗兼ね備えた少女のようなおばあさん/古い記憶にある味/
   おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
 ☆コラム◉作家の通った店 「邪宗門」
 ◎幸田文 ── 台所の音をつくる 
   「もの書きの誕生」/幸田文の好物/食べるタイミングの大切さ/
   台所道具へのこだわり/心をつぐ酒/
台所の音をつくる
 ◎坂口安吾 ── 酒と薬の日々
   作家坂口安吾の誕生/好物と苦手なもの/酒と薬の日々/安吾と浅草/桐生時代
 ◎中原中也 ── 「聖なる無頼」派詩人
   詩人中原中也の誕生/子供そのものだった中也/葱とみつば/銀杏の味/最期の煙草
 ◎武田百合子 ── 「食」の記憶 
   作家武田百合子の「生」/『富士日記』より/〈食〉の記憶
 ◎山口瞳 ── 〈食〉へのこだわり
   サラリーマンから専門作家へ/アンチグルメの〈食〉へのこだわり/
   山口瞳が通った店/家庭での食生活
 ◎藤沢周平 ── 〈カタムチョ〉の舌
   作家藤沢周平の誕生/〈海坂藩〉そして庄内地方の〈食〉/父としての藤沢周平
 おわりに
 主な参考文献


著者の大本泉氏は、仙台白百合女子大の教授だそうです。

光太郎に関しては、散文、詩、日記を引き、その幼少期から最晩年までの食生活等を追っています。引用されている詩文は以下の通り。

 散文「わたしの青銅時代」  『改造』 第35巻第5号 昭29(1954)/5/1
 対談「芸術よもやま話」    昭30(1955)/9/25談 10/25放送
 散文「ビールの味」     『ホーム・ライフ』 第2巻第8号 昭11(1936)/7/1
 詩「夏の夜の食慾」       『抒情詩』 第1巻第1号 大元(1912)/10/1
 散文「三陸廻り」      『時事新報』 昭6(1931)/10/13
 詩「晩餐」         『我等』 第1年第5号 大3(1914)/5/1
 詩「へんな貧」         『文芸』 第8巻第1号 昭15(1940)/1/1
 日記              昭31(1956)/3
 詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」『婦人公論』 第38巻第1号 昭29(1954)/1/1

一読して、多くの資料を読み込んでいらっしゃるな、と感じました。ひところ、その時々にもてはやされていた「文芸評論家」のエラいセンセイ方が、その人の著作なら売れるとふんだ出版社からの要請で書いたであろうもので、たしかにもてはやされるだけあって鋭い見方が随所に表れているものの、明らかに読んだ資料の数が少ないな、と思えるものが目立ちましたが(現在も散見されます)、大本氏、かなりマイナーな散文にまで目を通されているようで、感心しました。

光太郎以外にも、光太郎智恵子と交流のあった平塚らいてう、佐藤春夫、中原中也などが取り上げられており、興味深く拝読。しかし、定番の夏目漱石や与謝野晶子、宮沢賢治などがいないと思ったら、平成26年(2014)、同じ平凡社新書で出ていた『作家のごちそう帖』ですでに取り上げられていました。

賢治といえば、光太郎、その精神や芸術的軌跡には共鳴しつつも、「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分は承伏できない、としています。特に戦後は、酪農や肉食を勧め、体格から欧米人に負けないように、的な発言も見られました。

光太郎と「食」に関しては、花巻高村光太郎記念館さんで、そのテーマによる企画展等も計画中だそうで、楽しみにしております。

さて、『作家のまんぷく帖』、ぜひお買い求め下さい。


花巻といえば、別件ですが、昨日ご紹介した4月2日の花巻での光太郎を偲ぶ詩碑前祭、昨日発行の『広報はなまき』にも記事が出ましたので、ご紹介します。

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【折々のことば・光太郎】

恐らく日本画は、いはゆる西洋画家によつて救はれるであらう。恐らく木彫は、いはゆる木彫家なる専門家によつてではなく、却つてその専門家の軽蔑する、思ひもかけぬ真の彫刻家の手によつて救はれるであらう。文章を救ふものは文章家ではなく、詩を救ふものはいはゆる詩人ではないであらう。これは逆説ともなりかねる程明白な目前の事実である。

散文「遠藤順治氏のつづれ織」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

その道の専門家は、専門性ゆえに固定観念に囚われ、新機軸を打ち出せないことが多いということに対しての警句でしょう。逆にしがらみを感じることのない門外漢が、新風を吹き込むことも確かにありますね。

遠藤順治は虚籟と号した綴織作家ですが、元々は智恵子と同じ太平洋画会に学んだ画家でした。光太郎はその織物作品に対し、まだ不十分なところがあるとしながらも高い期待を寄せ、遠藤のパトロンであった小沢佐助に木彫「鯰」を贈るなどして援助しています。

神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙『タウンニュース』さんの記事から。

文豪の世界に触れる 永田地区センター 講座でゆかりの和菓子も

 高村光太郎、室生犀星、夏目漱石といった文豪の作品解説と3人の作家が好んだ和菓子を食べて楽しむ講座が1月29日、2月5日、26日に永田地区センターで行われる。時間はいずれも午前10時から11時30分。

 講師に一般財団法人出版文化産業振興財団の読書アドバイザー、城所律子さんを招く。城所さんは図書館での読み聞かせや年齢に応じた本の選び方、読み方のアドバイスをしている。今回は作品の紹介だけではなく、作家たちの人となりや時代背景などが分かりやすく解説される予定。

 参加費は全3回で1人1200円。回ごとに取り上げる作家が変わる。全回に参加できなくても申し込みは可能。対象は成人先着12人。申し込みは1月11日から、費用を添えて直接施設へ。申し込み、問い合わせは同地区センター【電話】045・714・9751。


というわけで、調べてみました。会場の永田地区センターさんのサイトから。 

文豪と和菓子

期   日 : 2018年1月29日(月)、2月5日(月)、2月26日(月)
会   場 : 横浜市永田地区センター 横浜市南区永田台45-1
時   間 : 10:00~11:30
料   金 : 1,200円 (要予約 費用を添えて直接施設へ。)
定   員 : 12名(先着順)

高村光太郎・室生犀星・夏目漱石それぞれのゆかりの和菓子をいただきながら、作品を楽しんでいただきます。

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横浜市南区さんの広報紙『広報みなみ』にも案内が出ていました。

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ところで、どちらも和菓子の具体的な品名が出ていません。

光太郎と和菓子というと、当方、真っ先に思い浮かぶのは光太郎の実家や智恵子と暮らしたアトリエにほど近い、団子坂下の「菊見せんべい」さん。

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光太郎最晩年、昭和29年(1954)の『中央公論』に載った談話筆記「わたしの青銅時代」に、光太郎十代、東京美術学校在学中に、通学路の途中にあるその店の看板娘が気になって、そこを通るたび「胸がドキドキして顔がほてつて困つた」という部分があります。ただ、せんべいそのものについてはうまいともまずいとも発言していませんでしたが(笑)。

それから、昭和20年(1945)に岩手花巻、更に花巻郊外の旧太田村に移り住んでから親しんだ、南部せんべいや豆銀糖。以前にもご紹介しましたが、昭和24年(1949)の対談「朝の訪問」に以下の発言があります。

岩手はね、その、庶民階級がいいんです。それが僕は好きなんです。だから人によく話すけど、八戸煎餅ですね。それと豆銀糖と。ああいうものに実にいい、うまいものがある。で、殿様が食べるようなものは別にない。

詳しく調べれば、まだあるかもしれませんし、今回の講座ではどんな和菓子が取り上げられるのか、気になるところです。また、光太郎と共に取り上げられる犀星や漱石はどんな和菓子が好きだったのか、それも気になるところです。漱石はほっておくとジャムをひと瓶舐めてしまうという甘党だったそうですが(笑)。

こういう部分に着目すると、それぞれの身近に感じられるもので、そういう意味では今回の講座、おもしろい取り組みだと思います。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

丸いものを唯丸く薄いものを唯薄く現はすだけのところに彫刻は無い。彫刻家であるならば、厚いものを拵へて薄く見せ、四角に作つて丸く見せるといつた様なこつ――造形的感性――を身体の中に持つてゐるわけで、その人が写生をすれば、それは自づと彫刻になるのである。

談話筆記「写生の二面」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

こうした意味では、光太郎、最近流行の「超絶技巧」的な実物そっくりの牙彫などは認めていませんでした。実際、光太郎の木彫「蝉」は、薄いはずの羽を分厚く作っていて、しかし何の違和感もありません。芸術とは難しいものですね。

暮れに届きました。定期購読している『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の第5号です。

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毎回裏表紙に掲載されている連載の「光太郎レシピ」。

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花巻郊外太田村在住時の日記を元に、光太郎が食したであろう料理を再現しています。今号は「牛鍋とサツマイモ焼きパン ウイスキー入りミルクティー」。なかなか豪勢です(笑)。

巻頭の特集は「窓」。主に花巻市街のレトロな建築に使われている窓を取り上げています。

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花巻市内の文化施設5館が、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み。花巻高村光太郎記念館さんは「高村光太郎 書の世界」展。他館より期間が長く、来月26日(月)までです。

次号(2月発行)では、「賢治の足跡・光太郎の足跡」という特集を組んで下さるそうです。ありがたや。

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オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊、年6回配本、送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

立体写真的な銅像は、光太郎の最も嫌うところでした。光太郎が手がけた肖像彫刻は、どれもその人物の内面までも表す、その人以上にその人、というものでした。

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0007/20(木)、上野の東京藝術大学美術館さんをあとに、渋谷に向かいました。目指すは西武百貨店渋谷店さん。現在こちらで、日本コカ・コーラ社さんのイベントが開催されています(今月いっぱい)。

館内数カ所でさまざまな展示や臨時ショップなどが設けられていますが、特にB館一階の特設会場では、「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」が開催されており、光太郎に関わる展示も為されています。

以前にもこのブログでご紹介しましたが、大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』第3巻第12号に発表され、同3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に、「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされており(業界紙の記事にはそれ以前に紹介されています)、そのあたりを紹介して下さっています。

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パネル展示以外にも、詩集『道程』の復刻版、さらに毎年5月15日、花巻郊外旧太田村の光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋(高村山荘)で開催されている「高村祭」のパンフレットも展示されていました。「みちのくコカ・コーラボトリング」さんの花巻工場が、高村山荘と同じ、同市太田地区にあるため、毎年、広告を出して下さっています。

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コカ・コーラといえば、先月30日、テレビ東京系列BSジャパンさんでオンエアの「武田鉄矢の昭和は輝いていた」で、コカ・コーラをとりあげ、やはり光太郎とコーラについて、40秒ほど触れて下さいました。

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日本でのコカ・コーラの本格的な販売開始から、今年でちょうど60年だそうで、こうした企画につながっています。世界に冠たるコカ・コーラさんと光太郎、今後ともウィンウィンの関係でお願いしたいところです(笑)。

渋谷西武さんの「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」会場から屋外に出ると、光太郎を敬愛していた彫刻家・佐藤忠良の作品が、道路を挟んで2体、向かい合っています。左は「牧羊神」、右は「マーメイド」。


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それぞれ文学碑を兼ねたもので、「マーメイド」の方は、光太郎の師・与謝野夫妻を顕彰するものです。台座に伊藤整の揮毫による撰文が。

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光太郎の名も刻まれていました。

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さらに、道玄坂を渋谷駅方面から上っていく途中を左に曲がった小道には「東京新詩社跡」の標柱も。

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この近辺に、与謝野夫妻の立ち上げた新詩社があったことにちなみます。当時は豊多摩郡渋谷村でした。100年以上前、光太郎もこの界隈を足繁く訪れていたわけです。

「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」の件、新詩社関連遺蹟の件、すべて、ロンドンの画像を下さった安藤仁隆氏からの追加情報です。ありがたや。当方、渋谷には足が向かず(電車の乗り換えではよく使いますが)、このあたりには疎いもので……。渋谷を歩いたのは、平成25年(2013)10月オンエアの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録で、NHK放送センターさんに行って以来でした。

この手以外にも、さまざまな情報のご提供、お待ちしております。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

それからひと時 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつた

詩「レモン哀歌」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

前年10月に亡くなった智恵子の臨終を謳った絶唱です。ちなみにいまわの際に智恵子が「がりりと嚙ん」で「トパアズいろの香気」をたてたレモンは、サンキストのレモンだそうです。同社でも光太郎をアーカイブ的な企画の中で取り上げていただければ、と願っているのですが……。

彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった。
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その最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストのレモンの一顆を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗われているように見えた。(散文「智恵子の半生」 昭和15年=1940) 

『週刊朝日』さんに、「人生の晩餐」という連載があります。「著名人がその人生において最も記憶に残る食を紹介する連載」だそうで、週ごとに異なる著名人の方が担当されています。

現在販売中の今週号は、当会会友・渡辺えりさん。連翹忌に触れて下さっています。ありがたや。

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紹介されているのは、連翹忌会場として使わせていただいている、日比谷松本楼さんのカレーとショートケーキ。「このカレーライスとショートケーキは、彼(光太郎)と妻の智恵子がデートの時に好んで食べたそう」。うーん、二人がこちらで「氷菓(アイスクリームまたはかき氷)」を食べたというのは、詩「涙」(大正元年=1912)に書かれていますが、カレーとケーキは出てきません……。まあ、よしとしましょう。

それから、いつものように光太郎と交流があったお父様・渡辺正治氏のエピソードがご紹介されています。「毎年「もう二度と戦争を起こしてはならない」という父の願いを感じながら、しみじみと味わっています」。なるほど、という感じです。

ぜひ皆様も、連翹忌にご参加いただき、他の料理ともども、光太郎智恵子を偲びつつ召し上がって下さい。

ちなみに当方は司会進行のため、ほとんど料理には手がつけられません。それに気づいて下さる方が、こっそり司会者ブースへお皿に取り分けた料理を届けて下さいますが、それとて急いでかき込む、という感じです。今年はケーキも届きましたが、二口で食べました(笑)。

『週刊朝日』さんもぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

現実そのものは押し流れる渦巻だ。

詩「夢に神農となる」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

昭和12年(1937)11月の作、翌年7月の雑誌『大熊座』に発表されました。

昭和12年というと、7月には盧溝橋事件、この詩の書かれた11月には日独伊三国防共協定の締結などがあり、「押し流れる渦巻」のように、戦時体制へと突き進んでいく時期でした。光太郎もどんどん大政翼賛の方向へ進んでいきます。

定期購読しており、それぞれ光太郎に少しずつ触れて下さっている『月刊絵手紙』と、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』が相次いで届きました。

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『月刊絵手紙』は、日本絵手紙協会さんの発行。前号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。今号は詩「案内」(昭和24年=1949)を取り上げて下さっています。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する花巻高村光太郎記念館を管理運営する一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、太田村時代の光太郎スナップが背景にあしらわれています。


隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』は、裏表紙に連載「光太郎のレシピ」。こちらも花巻高村光太郎記念会さん、特に女性スタッフさんたちの協力で作られています。太田村での光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するもの。こちらも連載二回目です。初回は「そば粉の焼きパン」でした。

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今号は、「ホッケのトマトソース煮とヨモギご飯」。付け合わせに卵やジャガイモが添えられています。健康的で美味しそうです。

ただし、光太郎日記には細かなレシピまでは記載されていないので、あくまでこんな感じだっただろう、というものです。光太郎が食したトマトソースもおそらくは缶詰だったのではないかと思われますし、ホッケとヨモギご飯(日記では雑炊)は、それぞれ別の日に作っています。そのあたりは、日記の該当部分をきちんと掲載していますので、問題はないでしょう。

当方、週に一、二回(今夜もですが)、家族の夕食を作っており、参考にさせていただきます(笑)。


『月刊絵手紙』、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』、それぞれ定期購読で自宅に届けてもらうことが可能です。上記の各リンクから、ぜひどうぞ。

ところで、先述の通り、どちらも一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、記念館の宣伝にもつながるかと存じます。良い工夫ですね。全国の文学館さん、タウン誌的なものの編集発行に当たられている皆さん、ご参考になさってはいかがでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

バ ンブ ツイツセイニタテ」アヲキトウメイタイヲイチメンニクバ レ」イソゲ イソゲ ニンゲ ンカイニカマフナ

詩「五月のウナ電」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「ウナ電」は、緊急を要する電報、の意。電話が一般的でなかった明治大正昭和戦前を舞台としたドラマなどで「チチキトクスグ カヘレ(父、危篤。すぐ帰れ)」などと使われるあれです。

昔の電報はカタカナのみ。しかも濁点は一字とカウントされていました。そこで濁点のあとは一文字分のスペースが必ず入りました。

下は戦後の昭和27年(1952)、当時の盛岡短期大学美術工芸科の卒業式のために送られた光太郎からの電報です。「ウナ電」ではありませんが。

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「五月のウナ電」は、宇宙のヘラクレス座から、地球の動植物にあてた電報、というシチュエーションで書かれています。上記を漢字仮名交じりの書き下し文にすれば、以下の通りでしょうか。

万物一斉に立て。青き透明体を一面に配れ。急げ。急げ。人間界に構ふな。

何となくですが、宮沢賢治の詩や童話からのインスパイアのような気もします。

テレビ放映情報です。

連続ドラマW 宮沢賢治の食卓

WOWOWプライム 2017年6月17日(土) 22時00分~23時00分 第1話無料放送

『銀河鉄道の夜』『雨ニモマケズ』などで知られる、国民的作家・宮沢賢治。
孤高の存在として語られる印象とは裏腹に、じつはユーモアに溢れた好奇心の人でした。 賢治とは一体どんな人物で、如何なるものを食したのでしょうか!?
賢治の愛した食べ物には、家族や隣人、そしてやがて早逝する最愛の妹への深い愛情が秘められていました―。
若かりし頃の天真爛漫な宮沢賢治の青春時代を、彼の愛した食やクラシック音楽を通して、家族や親しい人たちとの関わりを描いた感涙必至の物語。
特に傑作詩篇「永訣の朝」にうたわれた最愛の妹・トシとの死別に描かれる兄妹愛の行く末は、涙なくして観られません。今までの映像作品ではなかなか描かれなかった、泣いて笑って躍動する、瑞々しい宮沢賢治 by 鈴木亮平に是非ご期待ください!!

第一話「幸福のコロッケ」
東京に家出をしていた質店の長男・宮沢賢治(鈴木亮平)は妹・トシ(石橋杏奈)の病気の電報を受け、岩手・花巻に帰郷する。母・イチ(神野三鈴)や弟妹たちには歓迎されるも、厳格な父・政次郎(平田満)とはなかなかうまくいかない。食、音楽、文学とあらゆることに興味のある賢治だが、自分を熱くするものを見つけられずにいた。そんなある日、農家の吉盛(柳沢慎吾)一家に出会う。

原作 魚乃目三太(少年画報社刊「思い出食堂」より)
脚本 池田奈津子
音楽 サキタハヂメ
監督 御法川修
出演 鈴木亮平、石橋杏奈、山崎育三郎、市川実日子、柳沢慎吾、井之脇海、神野三鈴、平田満 他


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設定は大正10年(1921)頃のようです。その5年後に、光太郎とただ一度だけ出会い、光太郎の生涯にも大きく関わる宮沢賢治が主人公のドラマです。全5話で、有料放送のWOWOWプライムさんでの放映ですが、第1話のみ無料放送だとのこと。

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鈴木亮平さん演じる賢治自身も光太郎を敬愛し、大正15年(1926)、自ら本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪ねていますが、より光太郎と深く関わった、賢治の家族が登場する点で、興味を引かれています。

賢治の父・政次郎。平田満さんです。賢治歿後に、『宮沢賢治全集』の発刊や、花巻に建った賢治詩碑の揮毫などで世話になった光太郎に恩義を感じ、昭和20年(1945)、空襲でアトリエを焼け出された光太郎を花巻に招きました。

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その妻・イチ。神野三鈴さんが演じます。宮沢家に疎開した光太郎は、すぐに結核性の肺炎で高熱を発し、約1ヶ月臥床。その間、そしてその後も、自宅が空襲で焼ける8月10日まで、かいがいしく光太郎の世話をして下さいました。

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こちらが光太郎(右)と、リアル政次郎・イチ夫妻です。

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賢治の弟・清六(井之脇海さん)と、妹・シゲ(畦田ひとみさん)。

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兄を亡くした二人にとって、光太郎は兄のように思えたのでしょうか、何くれとなく光太郎の面倒を見てくれたりしました。

賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治遺品のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのが光太郎、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

昭和21年(1946)から24年(1949)にかけて、日本読書組合から発行された『宮沢賢治文庫』は、清六と光太郎の共編です。光太郎が花巻郊外太田村に移ってからも、二人はお互いに行き来していました。

シゲは光太郎が疎開してきた際には、既に岩田家に嫁いでいましたが、ちょくちょく実家に帰り、やはり光太郎の世話を色々焼いてくれました。亡き智恵子が織った反物から、羽織やモンペを仕立ててくれたのもシゲですし、光太郎が宮沢家に厄介になっていた頃には、光太郎のために毎日山羊の乳を入手する手配をしてくれました。

それから、賢治の親友・藤原嘉藤治(山崎育三郎さん)。やはり賢治つながりで、光太郎と親交がありました。

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リアル嘉藤治(中央)と光太郎(左)。

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石橋杏奈さん演じる賢治の最愛の妹・トシは、賢治が光太郎と出会う以前の大正11年(1922)に亡くなっていますが、その死を謳った賢治の絶唱「永訣の朝」は、光太郎が智恵子の最期に題材をとぅた「レモン哀歌」に影響を与えていると考えられます。ちなみに、やはり面識はなかったと思われますが、トシは智恵子と同じ日本女子大学校に通っていました。

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動画投稿サイト「YouTube」から。

連続ドラマW 宮沢賢治の食卓/メイキング映像



ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

孤独の痛さに堪へ切つた人間同志の 黙つてさし出す丈夫な手と手のつながりだ 孤独の鐵(かな)しきに堪へきれない泣蟲同志の がやがや集まる烏合の勢に縁はない 

詩「
孤独が何で珍らしい」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

トシ、賢治と、我が子二人を逆縁の不孝で失った政次郎。妻・智恵子に先立たれ、空襲で住処も無くした光太郎に、黙って手を差し伸べてくれました。まさしく「黙つてさし出す丈夫な手と手のつながり」ですね。

欲得ずくで集まっただけのどこぞの政党や、自分の都合が悪くなるとトカゲのしっぽよろしく、手のひらを返して手を切ろうとする大臣閣下諸氏――「孤独の鐵(かな)しきに堪へきれない泣蟲同志の がやがや集まる烏合の勢」――に贈りたい文言です(笑)。

状況をわかりやすくするために、まず『朝日新聞』さん福島版の記事から。一昨日の掲載です。

福島)草野心平の足跡 料理から知る 企画展 6月まで

 いわき市出身の詩人草野心001平(1903~88)の足跡を、心平が一家言を持っていた料理を通じて見つめ直す。そんな企画展が、市立草野心平記念文学館で開催中だ。期間中に関連の催しもある。6月18日まで。
 「蛙(かえる)の詩人」として今も親しまれている心平は、身の回りの動植物だけでなく、食材や料理にも思いをはせる詩人だった。
 稿料だけでは食べていけなかった1931年に、ふるさとの名前を付けて始めた焼き鳥屋台「いわき」や50歳を前に開いた居酒屋「火の車」を切り盛りした話は有名だ。
 企画展「草野心平の詩 料理編」では、1981年刊行の詩集「玄玄」に収録され、「元来が。/愛による。/発明。」とつづった「料理に就いて」の自筆原稿のほか、刊行本、写真、遺品などを展示。食に対するたしなみのほか、生きる力に裏打ちされた人柄や創作活動をしのばせる内容となっている。
 写真で紹介されている「火の車」のカウンターには「悪魔のこまぎれ」「白夜」「美人」など詩人らしい暗号のような品書きが並ぶ。安価な材料を仕入れ、名前とともに独創的な調理法を編み出したとされる。
 屋台「いわき」の焼き鳥の出来栄えについては「東京広しといえども比べもののない程のものだった」とうぬぼれていた。夫高村光太郎と訪ねた智恵子が、たれを入れたかめを見て「おいしそうね」といい、それが智恵子から聞いたまともな言葉の最後だったと心平が記したエピソードも紹介されている。
 期間中、文学作品に登場する料理の創作や研究で知られる料理研究家、中野由貴さんの講演「心平さんの胃袋探訪―創作料理の試食と解説―」が21日に開かれるほか、6日と6月3日には学芸員によるギャラリートークもある。(床並浩一)


というわけで、福島県いわき市の草野心平記念文学館さんで開催中の企画展です。当会の祖・草野心平と料理に絞ったもので、光太郎智恵子に直接関わらないと思っていたので紹介しませんでしたが、そうでもなかったようでした(汗)。

春の企画展 草野心平の詩 料理編

期 日 : 2017年4月15日(土)〜6月18日(日)
場 所 : いわき市立草野心平記念文学館  いわき市小川町高萩字下タ道1番地の39
時 間 : 9時から17時まで(入館16時30分まで) 
休館日 : 月曜日
料 金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)
      小・中生 160円(120円) ( )内は20名以上団体割引料金

 「料理は玄人には勿論のこと料理人でない素人の私達にも無限に広い分野を展開してくれる。」 草野心平『わが酒菜のうた』
 草野心平(1903〜1988)にとって料理は、創作の主題の一つであると同時に、実生活において、ただならぬ関心を寄せていた営みでもありました。
 日々の実践によって編み出された、彼独特の調理法などをまとめた随筆集も刊行していますが、それらは、食材への確かな目利きと、鋭敏で記憶力抜群の味覚によって裏打ちされています。
 本展では、心平の作品世界を料理という視点で展観し、「元来が。/愛による。/発明。」という詩人の料理への思いと、その等身大の魅力を紹介します。

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関連行事 

ギャラリートーク

 日時 2017年5月6日(土)13時30分〜14時
 会場 文学館企画展示室
 定員 ありません。
 聴講 観覧券が必要です。申し込みは不要ですので会場にお越しください。

「心平さんの胃袋探訪 〜創作料理の試食と解説〜」

 日時 2017年5月21日(日)11時〜13時
 講師 料理研究家 中野由貴
 会場 文学館小講堂
 定員 先着50名
 参加 参加料500円。申し込みが必要です。
 申し込み受付 2017年4月20日(木)午前9時から受付
 申し込み方法 電話0246(83)0005、FAX 0246(83)2939、
        E-mail info@k-shimpei.jpのいずれかで、「胃袋探訪係」まで。
        お名前、電話番号をお知らせください。


他にも関連はしませんが、期間中に、「いわき濤笛会 山口流篠笛コンサート そよ風のしらべ」(5/7)、「心平誕生日の市民朗読会」(5/12)、「あがた森魚コンサート」(5/13)などが予定されています。

ぜひ足をお運びください。


さて、冒頭の『朝日新聞』さんに紹介されているエピソード。出所は心平が書いた「光太郎・智恵子」。初出は昭和39年(1964)の『新潮』ですが、単行書『わが光太郎』(昭和44年=1969 二玄社)『実説智恵子抄』(昭和50年=1975 弥生書房)などにも収録されました。

私が新宿で屋台のやきとり屋をやってた時である。よしず張りの紺ののれんをくぐって鳥打帽の高村さんと、全く思いもよらない智恵子さんが現われた。私はいきおいよく渋団扇を叩いた。
「それたれですか。」
智恵子さんは小さなカメを指して言った。
「ええ。」
「見せて下さい。」
カメを少し斜めにすると、のぞきこんだ智恵子さんが、
「おいしそう。」
と言った。わきで高村さんが、
「近頃方々のを食べてるんだが、屋台では草野君とこが一番うまい。」
誰にともなく高村さんがそう言った。
その晩が、まともな智恵子さんの、私にとっては最後だった。(それ以前は色々。)

心平が焼き鳥「いわき」を開店したのは、昭和6年(1931)5月(翌年には閉店)。開店に先立って、智恵子から椅子代わりにリンゴの木箱をもらったそうです。智恵子の統合失調症が顕在化したのが、同じ年の8月。その頃のエピソードです。

心平は飲食店経営への夢が断ちがたかったようで、昭和27年(1952)には小石川田町に居酒屋「火の車」を開店(のち、新宿角筈に移転)、同31年まで営業していました。

この間、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎が、まだ健康状態が許した頃にはよく通いました。ということは、『朝日新聞』さんの記事にも紹介されている怪しげなメニューも食べたのでしょう。ちなみに「白夜」はキャベツとコーン入りの牛乳スープ、「悪魔のこまぎれ」は酢蛸です。「美人」というのは存じませんが、板わさが「美人の胴」というネーミングでした。他に「丸と角」(チーズとカルパス)、「十万」(数の子)、「どろんこ」(鰹の塩辛)、「冬」(豚の煮こごり)などがありました。

その後、昭和35年(1960)には、バー「学校」も開いています。こちらは心平が名誉村民となった福島県川内村で健在です。


さて、「春の企画展 草野心平の詩 料理編」。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

冬は鉄碪(かなしき)を打つて叫ぶ、 一生を棒にふつて人生に関与せよと。
詩「冬の言葉」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

昨日ご紹介した「或る墓碑銘」にも「一生を棒に振りし」というフレーズがありましたし、この後も同様の句が散見されます。当方、できれば棒に振りたくありませんが(笑)。

「鉄碪(かなしき)」は「鉄床」「鉄敷」とも称し、加工しようと思う金属を乗せる鋳鉄製の台です。それを金槌などで叩けば、硬質の金属音。冬の凍てついた空気感の象徴でもありましょう。

元日の『読売新聞』さんの滋賀県版に、以下の記事が載りました。

近江クール考<壱 ミカク>湖国の食 世界へ

 初雪が舞ったような、きめ細かいサシが入った近江牛が鉄鍋に触れた瞬間、甘い香りが漂った。東京・浅草の老舗「今半別館」。地元の「あさくさ」などの名が付くすき焼きのコースで最高級に「ながはま」の名を冠し、300近くあるブランド牛で近江牛にこだわり続ける。粋を凝らした閑静な和室で、店主の長美勝久さん(56)が理由を教えてくれた。「繊細な旨(うま)みと口溶けの良さ、豊かな香り。この最高の肉を使って『おいしくない』と言われたら、それはもう、どうしようもないですよ」
 1687年、彦根藩で味噌(みそ)漬けにされ、幕府に献上された養生薬「反本丸(へんぽんがん)」に歴史を遡るという近江牛。浅草との縁は明治初期の1880年頃、近江出身の家畜商・竹中久次が牛鍋屋を開業して始まった。これを機に、この地はすき焼き店が立ち並ぶ“聖地”に。詩人・彫刻家の高村光太郎をはじめ文人墨客、角界、銀幕のスターをも魅了してきた。文明開化の扉を開けたのは、近江の人でもあったのだ。
 湖国の味覚は皇室でも愛(め)でられてきた。その証しが東近江市の資料館に残る。
 「然(しか)るに右『モロコ』は聖上竝(なら)びに皇太后陛下にも御好様故お(このみようゆえ)を以(もっ)て……大正天皇の……御神前に御供の上御召し上り……」
 1931年(昭和6年)に書かれたこの手紙の差出人は久邇宮家に仕えていた人物。宛先は県ゆかりの繊維商社「ツカモトコーポレーション」の創業家関係者。手紙には、久邇宮邦彦王妃に届けられた琵琶湖固有種のホンモロコが、昭和天皇と皇后の元に渡り、さらに天皇の母・貞明皇后(皇太后)にも届いていたことが記されている。そして、貞明皇后は大正天皇の神前に供えた後、召し上がった――と。
 「皇族方の間で回っていることから、日持ちがする佃(つくだ)煮だと思う」と、手紙を発見した同社資料館「聚心庵(じゅしんあん)」の藤堂泰脩館長(80)。「都が京都にあった頃、御膳に湖魚が上ったこともあるでしょう。ホンモロコは歴代皇族方が親しまれてきた『都の味』。そんな思いで、子孫の方々も食されたのではないでしょうか」
 ブランド力アップが課題の県にとって、知名度がある近江牛や湖魚は発信に欠かせない「クールコンテンツ」だ。東京五輪の2020年を見据え、県はブランド戦略の中心に位置付ける。
 近江牛で言えば、すでに富裕層が多いシンガポールやタイなど6か国・地域に向け、年間6000頭のうち450頭以上が海を渡っている。今年は07年の「近江牛」商標登録から10年の節目。健康志向が高まる中、悪玉コレステロールを抑制するというオレイン酸の含有量が豊富な点も前面に打ち出し、更なる飛躍を目指す。
 「国内だけでなく、外国産の『WAGYU』も台頭し、ライバルは多い」と担当者。「だが」、と力を込める。「近江牛は『サムライ、ショーグンも食べた牛肉』という国内随一の歴史、ストーリー性がある」
 県がターゲットにする国には、南米で初めて日本からの牛肉輸出先となるブラジルの名も見える。地球の裏側でも、特別な日は、近江牛のすき焼きに舌鼓を打つ――。そんな日も遠くないかもしれない。


高級和牛として名高い近江牛の歴史、そしてこれからを紹介しています。

光太郎の名が出ましたが、その前に名がある近江出身の家畜商・竹中久次が浅草に開き、現在も続く米久(よねきゅう)さんをこよなく愛し、「米久の晩餐」という長大な詩を書いているからです。

ちなみにその前に紹介されている今半さんの人形町店には、光太郎の詩「ビフテキの皿」(明治44年=1911)の一節が書かれた額が飾られているそうです。光太郎自身の揮毫ではなく現代の書のようですし、この詩の舞台はどこなのかは明確にはなっていませんが。


     ビフテキの皿

  さても美しいビフテキの皿よ

  厚いアントルコオトの肉は舌に重い漿汁(グレエヸイ)につつまれ
  ポンム・ド・テルの匂ひは野人の如く率直に
  軽くはさまれた赤大根(レデイシユ)の小さな珠は意気なポルカの心もち

  冴えたナイフですいと切り、銀のフオオクでぐとさせば
  薄桃いろに散る生血
  こころの奥の奥の誰かがはしやぎ出す

  マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り
  白いナプキンにボルドオはしみ
  夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ

  首祭りに受けて飲む血のあたたかさ
  皿をたたいて
  にくらしい人肉をぢつと嚙みしめるこころよさ

  白と赤との諧調に
  シユトラウスの毒毒しいクライマツクス
  見よ、見よ、皿に盛りたるヨハネの黒血を

  銀のフオオクがきらきらと
  君の睫毛がきらきらと
  どうせ二人は敵同志、泣くが落ちぢやえ

  ナイフ、フオオクの並んで載つた
  さても美しいビフテキの皿よ
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その晩年まで肉類を好んだ(岩手太田村から再上京した後も、米久さんに食べに行っています)光太郎の本領発揮というような詩ですね。

ただし、翌年に書かれた「夏の世の食慾」という詩には、「浅草の洋食屋は暴利をむさぼつて/ビフテキの皿に馬肉(ばにく)を盛る」という一節があったりもします。


さて、滋賀の方にも機会があったら調査しに行かなければ、という案件があります。その際には近江牛を堪能しようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

汝を生んだのは都会だ 都会が離れられると思ふか 人間は人間の為した事を尊重しろ 自然よりも人工に意味ある事を知れ

詩「声」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

昨日も同じ詩「声」から引用いたしました。この詩は自然派と都会派の二人が言い争うという形で書かれたもので、上記は都会派の言い分です。

自然派、都会派、どちらも光太郎の内面に巣くう別個の人格で、この時期の光太郎は二人のせめぎ合いに悩んでいました。

自然派の声に従い、この年、北海道に渡って酪農にいそしむ計画を立て、実際に札幌郊外の月寒まで行ったものの、少しの資本ではどうにもならないことを知り、1ヶ月ほどですごすご帰京。結局は都会派の声に従い、昭和20年(1945)の空襲で焼け出されるまで、東京暮らしを続けます。

その後、宮沢賢治の実家から誘われて花巻に疎開、終戦後も花巻郊外太田村で隠遁生活を送り、最晩年になって帰京しますが、そのあたりはその頃の作品を紹介する中で論じます。

新宿の中村屋サロン美術館さんから、企画展のご案内を頂きました。

中村屋創業115周年記念 新宿中村屋食と芸術のものがたり

期 日 : 2016年12月17日(土)~2017年2月19日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 東京都新宿区新宿3丁目26番13号 新宿中村屋ビル3階
時 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 :  毎週火曜日(火曜日が休日の場合は開館、翌日休館)、12/31(土)~1/3(火)
料 金 : 200円
 ※高校生以下無料(高校生は学生証をご呈示ください)
 ※障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

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食と芸術のドラマが織り成す新宿中村屋の“味”
 中村屋は1901年に創業し、2016年12月30日に115周年を迎えます。この間、多彩な食を生み出すとともに芸術活動を支援し、単なる小売店ではない、新宿中村屋という店格を築いてまいりました。創業者 相馬愛藏・黒光夫妻の独創性から、今まで日本に無かった食が生まれ、二人に惹かれて、多くの芸術家・文化人たちが中村屋に集いました。
 本展では、愛蔵・黒光を中心に起こった、食と芸術誕生のドラマを垣間見ていきます。一つ一つのドラマがスパイスとなり新宿中村屋という“味”を形成していった、その様子をお楽しみください。

主な展示作品
 彫刻 荻原守衛(碌山) 「女」「坑夫」  
 油彩 柳敬助「諏訪湖畔雪景」   中村彝「小女」  鶴田吾郎「盲目のエロシェンコ」
 水彩 布施信太郎 「中村屋の包装紙原画」
 版画 棟方志功 「中村屋の羊羹掛け紙」
 書   会津八一 「おほてらの」「いかるがの」 
 

関連行事 

新宿中村屋のドラマと料理を味わう ~食事付講演会~

 新宿中村屋の歴史やゆかりのある芸術家たちについて学んだ後、中村屋伝統の料理をご賞味いただきます。その後、中村屋サロン美術館にて展示をご覧いただく、中村屋満喫のイベントです。

《第1回テーマ》 創業者 相馬愛藏・黒光と新宿中村屋
 日  時 : 2017年1月21日(土) 10時~13時半頃
 講  師 : 株式会社中村屋CSR推進室課長 広沢久美子

《第2回テーマ》 相馬黒光と中村屋サロンの芸術家たち
 日  時 : 2017年2月4日(土) 10時~13時半頃
 講  師 : 中村屋サロン美術館学芸員 太田美喜子

定  員 : 各回24名 先着順、定員になり次第〆切
参加費  : 各回3,000円(税込、食事代、美術館入館料込み)
場  所 : 新宿中村屋ビル8F グラシナ
料  理 : 伝統のインドカリーやボルシチを含めたコース料理
申  込 : 中村屋サロン美術館 museum@nakamuraya.co.jp 03-5362-7508

既に定員に達しているそうです。


展示の方は、光太郎作品は並ばないようですが、講演の方で光太郎にもからむかな、と思っておりましたら、既に定員に達しているそうです。ただ、キャンセル待ち等があるかも知れません。

展示は昨日から始まっています。ぜひ足をお運びください。当方も年明けに行って参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

我おもひ胸にはひめむしかはあれどあまりにやせしこの頬をいかに

明治33年(1900) 光太郎18歳

『明星』時代の、おそらくは架空の恋の歌です。

しかし、10年後の新宿中村屋における碌山荻原守衛を謳ったようにも読める歌です。

まずは先週土曜日の『福島民友』さんの記事。

【二本松】洋風七味『智恵こしょう』販売 「お肉やスープでいかが」

 二本松市のにほんまつ観光協会(安斎文彦会長)は、同市出身の洋画家高村智恵子の夫・光太郎の詩集「智恵子抄」をもじった洋風七味「智恵こしょう」(内容量10グラム、税込み600円)を売り出している。
 こしょうやハーブソルト、ローズマリー、唐辛子などをブレンドした。県立霞ケ城公園で23日まで開催中の「二本松の菊人形」会場で開かれる紅葉まつり(5、12、13、20の各日)で販売する。
 二本松観光大使の女優大山采子さんは「お肉に振り掛けてもおいしいし、スープにしても香ばしい」と笑顔を振りまき、PRしている。

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観光大使の一色采子さん(本名・大山采子さん)、相変わらずご活躍です。

「智恵こしょう」、一昨年ぐらいには既に売り出されていたような気がするのですが、良しとしましょう。

察するに、現在開催中の「二本松の菊人形」会場で見かけた記者さんが、「これは面白い」と、取り上げて下さったのではないでしょうか。

菊人形といえば、テレビでCMが流れていて驚きました。昨年の智恵子人形も映っていました。11/23迄の開催です。




11/11 追記 地元の方より、菊人形会場でのイベント情報をお知らせいただきました。下記「コメント」欄、ご覧下さい。


続いて、7日の『毎日新聞』さん。以前にも続けて光太郎が引き合いに出された、俳句に関するコラム「季語刻々」です。 

季語刻々 2016年11月7日

五郎丸のポーズをみんな冬来る 児玉硝子(がらす)

 季語「冬来る」は立冬を指す。今日が立冬だが、硝子さんの句では、みんながいっせいに五郎丸ポーズをとって冬を迎えている感じ。彼女は大阪市に住む私の俳句仲間。では、高村光太郎の詩「冬が来る」の第一連をどうぞ。「冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る」。この冬に私も五郎丸ポーズで向き合いたい。さあ、来い、冬よ。<坪内稔典>


もう立冬が過ぎたか、という感じです。当方、光太郎と違って冬の寒さには弱いので、「まだ秋でいいじゃん」という感覚ですが(笑)。


もう一件、予告です。

『朝日新聞』さんの土曜版に、2ページにわたり「みちのものがたり」という連載が為されています。毎回、全国のさまざまな「道」を取り上げ、それにまつわる人間ドラマを紹介しています。

明後日、11/12の「みちのものがたり」は、青森県の八甲田・十和田ゴールドラインが取り上げられます。予告によれば「明治、大正期の文人・大町桂月が愛し、終生の地とした名湯、蔦温泉があります。」とのことです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、もともと十和田湖の国立公園指定15周年記念に、大町桂月ら、十和田湖の紹介、開発に功績のあった3人を顕彰するモニュメントとして企画されました。桂月が取り上げられるということで、光太郎や「乙女の像」にも言及していただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

オベリスク金にかはれてアメリカの町に立つかよ此のオベリスク 

制作年不詳

舞台はニューヨークのセントラルパーク。エジプトから運ばれて建てられたオベリスクを詠っています。

明治39年(1906)から翌年にかけてのアメリカ留学中の経験を下敷きにしている詩「象の銀行」にも、このオベリスクが使われます。大正15年(1926)の作。

  象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツ バンク)にちやりんと入れる。
時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。009
象がさういふ。
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。
印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。
夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。


もともとは西洋的唯物主義、行き過ぎた資本主義、帝国主義への警句として書かれた詩です。しかし、のちに昭和19年(1944)になって、単に光太郎に人種的劣等感を植え付けた当時の敵国・アメリカへを批判している点から、翼賛詩集『記録』に収められるという韜晦が為されました。

その際に付された前書きにはこのように書かれています。

大正十五年二月作。明治三十九年夏から冬筆者は紐育市西六五丁目一五〇番にある家の窓の無い天井裏の小さな部屋に住んでゐた。光線は天井の引窓から来た。市の中央公園が近いのでよく足を運んだ。そこには美術館もあつた。小さな気のきいた動物園もあつた。埃及から買取つたオベリスクも立つてゐた。みな金のにほひがしてゐた。

アメリカ大統領選挙、トランプ氏の勝利に終わりました。ヒスパニック系の人々などが、光太郎と同じような「憤り」を感じないようなアメリカであってほしいものですが……。ましてや「ジャップ」という語がまたまかり通るようになるのも困りものです。

12/12(土)、雄物川郷土資料館さんで第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」を拝観するなどした秋田横手をあとに、夕方には花巻に到着しました。

在来の花巻駅で花巻高村記念会の高橋事務局長のお出迎えを受け、まずは宿屋に荷物を置きに行きました。今回は急に決めての東北行だったので、宿も駅前の商人宿に素泊まりです。荷物を置いた後、高橋事務局長のご案内で、歩いて夕食を摂りに行きました。

花巻駅、そして宿のすぐ近くにある伊藤屋さんという大衆食堂です。下の画像は、翌朝撮影しました。

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建物自体は新しくなっていましたが、ここはかつて光太郎が食事をした店だそうで、帰ってから調べてみましたところ、なるほど、戦後の光太郎日記に記述がありました。

朝会計をすまし、山にゆかんとせしがリユツクが重すぎるので花巻駅にゆき、伊藤屋にて中食、ハイヤーをたのみて院長さん宅に来る。二三日又滞在のつもり。(昭和26年=1951 2月2日)

会計云々は、前月23日から宿泊していた大澤温泉です。「花巻駅」は今は廃線となった花巻電鉄。当時、大澤温泉を含む花巻南温泉峡とつながっていました。


畑の手入れ後花巻に出て院長さん宅に泊まる、 伊藤屋にて中食中院長さん車で迎に来らる、八戸の弟さん同乗、(昭和27年=1952 7月10日)

花巻郊外太田村の山小屋から花巻町に宿泊に来た時の日記をあたってみると、以上の記述がありました。日帰りで町に出て来た時については調べていませんので、もしかするとまだあるかもしれません。また、日記も欠落が多いので、記録に残っていない来店もあるのではないでしょうか。

さて、当方、伊藤屋さんでさらに花巻市役所の方と合流。いろいろと打ち合わせをしました。また近くなって正式に決まりましたらご紹介しますが、いろいろと新しい事業を計画中だとのことです。

まず、佐藤隆房邸の一般公開。計画では来年5月14日の土曜日(翌日は旧太田村の高村山荘敷地内で高村祭です)。上記光太郎日記にある「院長さん宅」というのがそれで、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、ここで暮らしました。

順を追って説明しますと、この年4月13日に、智恵子と暮らした東京駒込林町のアトリエが空襲で全焼。しばらくは近所にあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎は、5月15日に花巻に向けて東京を発ちます。賢治を広く世に紹介してくれたということで、恩義を感じていた宮澤家、そして賢治の主治医だった総合花巻病院長・佐藤隆房の招きに応じてのことでした。

花巻では最初に宮澤家に厄介になりましたが、8月10日の花巻空襲で宮澤家も全焼。そこで花巻町南舘の元花巻中学校長・佐藤昌宅に移ります。さらに9月10日は佐藤隆房邸に移ったわけです。

佐藤邸では離れの2階を借り、ここを「潺湲楼(せんかんろう)」と命名、その後、太田村に移ってからも、花巻町に出て来た時にはよく泊めてもらっていました。これも上記日記の通りです。

こちらは現在も佐藤隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、来年5月14日(土)に一般公開するという予定だそうです。時間を決めて公開し、三々五々自由に来てもらうか、市民講座のような形で参加者を募集してバスツアーのような形にするか、そうすると県外などからの希望者はどうするかなど、詳細はこれからです。


2点目、光太郎縁戚の方の手記。盛岡に光太郎の縁戚―それも父方、母方双方につながる―の方がいらっしゃり、今年、そちらのお宅に伝わる光雲・光太郎関係資料等をまとめた手記を書かれました。それを高村記念会として出版するという計画もあるそうです。コピーを戴いて、帰りの新幹線の車中で拝読しましたが、今まで知られていなかったエピソード、見たことのない写真、『高村光太郎全集』未収録の光太郎書簡などが満載で、実に貴重なものです。母方でみれば光太郎の従姉妹にあたる方が98歳でご存命。高橋事務局長がその方のお宅でインタビューなさっているDVDをいただきましたが、それを見ると、まだまだお元気でしっかりされています。手記を書かれたのはその方のご子息です。


その他にも、佐藤家の関係で光太郎筆の色紙が寄贈されるとか、記念館のパンフレットを新たに編集して刊行するとか、記念館の企画展で智恵子紙絵の現物を展示するとか、実に様々な話になりました。それぞれ時期は未定ですが、おおむね来年の話です。詳細が決まったらお知らせします。


かくて伊藤屋さんでの夜も更け、宿屋に退散。翌日は高村光太郎記念館、高村山荘、そして先述の佐藤隆房邸などを回りました。その辺りは、また明日以降に。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月15日

昭和44年(1969)の今日、箱根彫刻の森美術館で企画展「近代日本の彫刻」が開幕しました。

翌年3月31日迄の会期で、光太郎彫刻も7点展示されました。下記は図録の表紙。光太郎の木彫「蓮根」(昭和5年=1930)の写真が使われました。

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昨日は、東京上野に行っておりました。目的は、大正3年(1914)、光太郎智恵子が結婚披露宴を行った精養軒さんでの、「福の島プロジェクト 福島応援団四周年記念 第四回 ふくしまの食材を使ったフレンチの夕べ」でした。

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東日本大震災からの復興支援ということで、福島の食材の魅力をアピールする催しで、さまざまな団体さんの協賛のもと、政財界を始め100名あまりの参加者が集い、盛大な催しとなりました。

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会場内には即売コーナーも。

まずはオープニングライブということで、「智恵子抄」に自作の曲をつけて唄われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。会場の一角をパーテーションで仕切った即設のライブスペースで行いました。

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ピアノ伴奏は船本美奈子さん。

特に「樹下の二人」(あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川)、「あどけない話」(智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。)といった、福島を謳った作品には、お聴きの皆さんも心打たれたようでした。

その後、メイン会場に戻り、「フレンチの夕べ」でした。

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主催者であられる「福の島プロジェクト」さんの小林文紀会長、「ほんとの空」にからめてのご挨拶。

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乾杯の御発声は、川内村村長・遠藤雄幸氏。

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同村で毎年開催されている、当会の祖・草野心平を偲ぶ「かえる忌」や「天山祭」の関係で、遠藤村長とは親しくさせていただいており、昨夜もいろいろお話をさせていただきました。一昨年の第2回からご参加なさっているとのこと。

その後は美味しい料理を堪能いたしました。ひさしぶりに日本酒もいただきました。

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一品ずつ、生産者や販売者の方、関係者の方による説明があってから饗されるというスタイルで、それぞれの方の熱い思いが語られました。

上記は鯉の唐揚げの際のご説明。郡山市長・品川萬里氏です。食用の鯉は、福島が全国一の生産量だそうです。

後半には再びモンデンモモさんと船本美奈子さんがご登場、今度はシャンソンのスタンダードナンバーをご披露なさいました。

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モモさん、ご来賓のフランスの方をステージに上げ、デュエット。相変わらず強引です(笑)。

そして閉会。

帰りがけ、参加者全員に、福島産の薔薇一輪と、お米「天のつぶ」(500㌘)が配られました。ありがたや。薔薇はさっそく書斎に飾ってある光太郎遺影に供えさせていただきました。

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お米もいずれいただきます。



まだまだ福島の復興も道半ばです。いわれなき風評被害はだいぶ治まったようですが、これからは、「風化」との闘いでしょう。皆様も、ご支援のほどお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月27日

大正14年(1925)の今日、光太郎の父・高村光雲が、勲二等瑞宝章に叙せられました。

今月中行われるもので3つほど、「智恵子抄」関連のイベントの情報を得ているうちの2つめです。 

大正3年(1914)12月22日、光太郎智恵子の結婚披露宴が開催された上野精養軒さんでのイベントです。 

福の島プロジェクト 福島応援団四周年記念 第四回 ふくしまの食材を使ったフレンチの夕べ

 皆さまお変わりなくお過ごしのことと、およろこび申し上げます。いつも、福島県を心にかけていただき、まことにありがとうございます。
東日本大震災、それに伴う原発事故から4年半が過ぎ、表面上は日常を取り戻した福島県ですが、まだ自宅に戻れない避難者が10万人を超え、さらには、農林水産物への風評被害もいまだ進行形です。
 私ども福の島プロジェクトが、震災直後から福島県の正しい姿を全国に発信する活動をしてはや4年。福島県産の農産物を使ったフレンチの夕べも、首都圏の皆様の友情に支えられて、今回で4回目を数えることとなりました。
今年も、全国新酒艦評会で金賞受賞数3年連続日本一の福島県より、自慢の日本酒を始め、おいしいおコメ、野菜など、ふくしま食材を使った、美味しいフレンチをお楽しみいただきます。
 首都圏にお住まいの皆様と、福島のおいしい時間をご一緒できますことを、楽しみにしております。
福の島プロジェクト 会長 小林文紀
日 時 : 平成27年11月26日(木) 開場 17:30
         オープニングライブ 智恵子抄をうたう 18:00~18:30
         ディナータイム フレンチの夕べ      19:00~20:45 
場 所 : 上野精養軒 桜の間 東京都台東区上野公園4-58 TEL:03-3821-2181
会 費 : 前売10,000円(当日10,800円)
 理 : フレンチの老舗上野精養軒のシェフが福島の食材をふんだんに生かした心込めたおもてなし .
飲み物 : 福島の蔵元から直送の日本酒/福島工場製造の朝日スーパードライ/
         こぶしの里のさるなしジュース/尾瀬の自然水/アクアイズ天然炭酸水
お楽しみ
 ◎福島の食材のフレンチディナーを着席ビュッフェスタイルで
 ◎全国酒艦評会金賞受賞酒とのマリアージュ
 ◎モンデンモモが唄うシャンソンの名曲に酔いしれてください
 ◎福島にこにこバラ園のバラ/会津木綿に江戸友禅師・加藤孝之氏デザインのナフキン
 ◎その他
主 催 : 福の島プロジェクト
主 管 : 有限会社HA2
協 力 : フランス料理文化センター/ラ・キャラバン・ボナペティ/
      NPO法人プロジェクト福島屋商店/GBP(がんばっぺ)福島/笹の川酒造/
      上野観光連盟/上野精養軒

オープニングライブ 智恵子抄をうたう

 高村光太郎が、亡き妻智恵子さんを偲んで詠んだ詩集「智恵子抄」にモンデンモモさんがメロディーをつけて歌い語ります。
 「智恵子抄」には、智恵子さんのふるさと福島県二本松市の大自然が詠われています。
 ご夫妻が結婚式を挙げた上野精養軒を舞台に、安達太良山や阿武隈川の光景を思い浮かべながらゆったりとした時をお過ごしください。

出 演 : 歌と語り モンデンモモ  ピアノ 船本美奈子

 この企画は、福島県に拠点をおく下村満子さん主宰の「生き方塾」の事務局長・三田様のご協力により実現しました。生き方塾応援団のお一人であるモンデンモモさんが福島を思う熱い気持ちのままに、智恵子抄を歌いあげます。

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というわけで、このブログで何度もご登場いただいているモンデンモモさんがご登場。オープニングライブと、ディナータイムの中でも歌われるようです。

こちらのイベントは今回で4回目。智恵子の故郷・二本松にほど近い郡山に拠点を置く「福の島プロジェクト」さんの企画で開催されます。公式サイトには以下の記述があります。

 「福の島プロジェクト」は、東日本大震災、そしてそれに伴う原発事故から立ち上がろうとする福島県を応援するために、福島県産品だけを取り扱う「ネットショップ福島屋商店」を中核に、福島県内の農業生産者、食品加工業者、道の駅、農産物直売所、酒蔵、宿泊業地域づくり団体が一つになって、これまで約3年間活動を続けてきました。

 活動3年目の今年は、県外・国外の皆様に、震災後の福島県の姿を正しく見ていただくために、活動の幅を広げています。

 福島県は案外大きな県です。県土の大きさはもちろんですが、少子化と震災で減らしたとはいえ、人口も195万人程あります。ほどよく首都圏から離れ、交通の便が良く、中都市が分散する県土は、それぞれの地域に異なった文化と伝統を持つ魅力ある地域です。私たちは、震災以前よりこの福島県を「うつくしま・ふくしま」と自慢していました。

 この「うつくしま・ふくしま」で育てられた農産物や加工食品を、安全には万全の注意を払ってお届けします。

 どうぞ、おいしいふくしまをお楽しみください。そして、「うつくしま・ふくしま」においでください。心からお待ちしております。

会長の小林文紀さんについてはこちら。



こういったイベントへの参加も、一つの復興支援です。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月11日000

昭和26年(1951)の今日、詩人の宮靜枝が花巻郊外太田村の山小屋を訪れました。

宮靜枝は岩手江刺の出身で、戦前から東京で詩人として活動。光太郎同様、東京の家を戦災で焼かれ、郷里に近い盛岡に疎開していました。

宮はこの時の体験を元に、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』を上梓、第33回晩翠賞に輝いています。

この中には、光太郎を謳った21篇の詩、詳細な訪問記、自身や同行した甥御さん、息子さんが撮った15葉の写真も収められています。


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先月、花巻高村祭の後で現地調査に訪れた奥州市の人首文庫さんから、『高村光太郎全集』等未収録の書簡など、お願いしていた数々の資料コピーが届きました。ありがたや。

その中に、光太郎が写っている写真があったということで、こちらのコピーも含まれていました。クリックで拡大します。

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光太郎は中央やや右の方にいます。これがい007 (2)つどこで撮られたものかというと、昭和25年(1950)1月18日、盛岡にあった菊屋旅館です。

では、何の集まりかというと、その名も「豚の頭を食う会」。記録が残っています。長くなりますが引用します。

まずは昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』という書籍の一節です。したがって文中「現在」とあるのは昭和51年の時点です。

 昭和二十五年一月十八日の夕方、菊屋旅館で「豚の頭を食う会」が開かれた。メーン・ゲストはもちろん高村光太郎。これに、“南部の殿さま”南部利英夫妻や盛岡市長、盛岡警察署長、美校(注・岩手県立美術工芸学校)の教授・助教授陣ら約三十人が加わり、豪華な中国料理に舌つづみをうった。
 発起人は深沢省三と堀江赳、それに現在「オームラ洋裁学校」を経営している大村次信の三人だった。この三人が桜山のおでん屋で酒を飲みながら話をまとめ、大村が後日、直接山口に出向いて光太郎を誘った。費用は会費とカンパでまかない、コック長は大村の遠縁で、戦前彼と同じく満州国の「協和会」で一等通訳をしていた浜田敏夫がつとめた。菊屋旅館の台所は数日前から、前述の君子(注・菊屋旅館女将)以下、お手伝いさんたちが仕込みで大騒ぎしていた。
 光太郎は五日前の十三日、盛岡に出て来、教員を対象にした美校の美術講座や「盛岡宮沢賢治の会」の講演会、少年刑務所での講演など多忙なスケジュールをこなしていた。「深沢牧場」を訪問したのはこの翌日になる。
 例えば新聞社でも、夜食にカツドンを食う記者がいれば、同僚から「ほう」という声がもれた時代だ。大村の命名になるこの「豚の頭を食う会」は、翌日の朝刊を写真入りの記事で飾った。その十九日付の地元紙――
<この会は翁(注・光太郎)の日ごろの持論である「日本人の食生活はあやまっている、肉を大いに食うべし、しかも従来日本人の多くはうまい所ばかり食べて臓物や尾など栄養価の高いものを食べていない、豚の頭や牛のシッポを食べなければならない」というのを早速実践に移そうということで計画された>
 この日の献立を挙げておこう。大村ら発起人が出席者に配ったものだが「高度成長」を遂げた二十五年後の今日でも、ちょっとわれわれ庶民の口には入りそうもない。それほど豪華だ。
 <前菜(蒸し肉ほか三種)炒菜(イリ豚肉ほか三種)炸菜(豚の上ロースの天ぷらほか三種) フカのヒレの煮物 コイの丸揚げ 山イモのアメ煮 リンゴの甘煮 豚の白肉の寄せなべ 肉の団子のアンかけ 鶏肉の白玉子とじ アヒルの蒸し焼き カニ玉子 玉子とじ汁 もち米の甘い八目飯 ほかに天津包子>
 どうですか? 実際は「豚の頭」などどこにもない。単にユーモラスな名称以上のものではなかったわけだが、大村も「当日高村さんは席につくなり、ほう、大変なごちそうだねと感心し、次いで、どこに豚の頭が入っているのと聞いた」と笑う。それにしても、光太郎に栄養補給してあげようという大村ら発起人の気持ちはともかく、これだけのものを食べていながら、光太郎が<日本人の食生活はあやまっている>などと記者に語ったのが事実だとすれば、実にいい気なものだといわざるをえない。まだ朝鮮戦争による特需景気もなく、日本人は食べたくても食べられなかった時代だ。


続いて昭和37年(1962)、筑摩書房刊行の『高村光太郎山居七年』(先頃、花巻の高村光太郎記念会より復刊されました)。

 盛岡美校の深沢さんに堀江さん、その友人の大村さん高橋さんの四人が、桜山前のおでんや「多美子」に休んだとき、かわったうまいものの話などが出ました。
 「高村先生を招いて豚の頭を食う会を開こうではないか。」との話がで、皆大賛成です。先生は、頭だの尻尾だの内臓だのに一番栄養があると常々話をしているから、先生に上げみんなも試食しようというわけで、会を開くことにしました。幹事に大村次信さんが当り、日時は美校での講演会の夜、会場は絵が好きで深沢さんと親しくしている菊池正美さんの旅館菊屋にしました。
 次信さんは、今度の会は豚の頭の料理なのだからその通(つう)の人でないとうまい料理が作れそうもないので適材を物色しましたところ、盛中出身の一等通訳で、中国に長くいた浜田年雄さんがその通だというのでそれに頼み、然るべき方々に案内状を出し、又電話をかけました。
 講演会のあとで案内を受けた人々が会場菊屋に集まりました。
 先生は豚の料理を前にして
「日本人は体が小さい。食生活をかえなくては大人(だいじん)になれない。体も心もです。トルストイも一つは大地が育んでいるが一つは食べ物がうんでいる。栄養をうんと摂ることが必要だ。」
 豚の頭の料理を皆で一緒に食べましたが、いろいろの味があり、食べつけない一同は何とも批評ができませんでしたが、先生は蛇の話熊の話動物の叡智など面白く語り、かなり酒もまわって来ました。大いに飲み大気焔になるのもあります。益々まわって来た先生は南の方に向かい両手を畳について
「高山彦久郎ここにあり、はるかに皇居を拝す。」
 と大声をあげ、巨体を前に伏しました。団十郎の声色を真似たのでしょう。酔余の余興ではありましたが、座は粛然と成りました。(大村次信氏談)


同じ大村氏を情報ソースとしながら、微妙に異なるところがありますが、まあ大筋は一致しています。要するに光太郎を囲んでの食事会です。

ちなみに次の日に訪れたという「深沢牧場」は雫石の深沢省三・紅子夫妻の住まい。今年3月に、女優の渡辺えりさんとともに、子息・竜一氏にお話を伺って参りました


当時、盛岡在住だった詩人の佐伯郁郎も「豚の頭を食う会」に出席。そこで、人首文庫さんに上記の写真が残っていたというわけです。人首文庫さんによれば佐伯は最後列の右端です。同じく人首文庫さん情報では、光太郎の左前にいるのは作家の鈴木彦次郎だそうです。

写真には40名弱が写っていますが、当方、顔でわかるのは深沢省三(最後列左端)、深沢紅子(光太郎の右後)、菊池君子(前列左から五人目)ぐらいです。岩手県立美術工芸学校の関係者が多いようです。

他に、大村次信、舟越保武、堀江赳、森口多里、佐々木一郎、南部利英、菊池政美といった面々がいるはずなのですが、どれだかわかりません。また、それ以外には名前すら不明です。

写真を見て、これは「うちのじいちゃんだ」というような方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。

ところで、昨年、盛岡てがみ館さんで開催された企画展「高村光太郎と岩手の人」で、「豚の頭を食う会」の献立が展示されました。『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』に記述があるもので、ガリ版刷りです。これを見た時には、よくぞこういうものを遺しておいてくれた、と、涙が出そうになりました。

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ちなみに発起人の一人、大村次信が経営していたという「オームラ洋裁学校」は「オームラ洋裁教室」と名を変え、存続しているようです。ところが会場の「菊屋旅館」が、ネットではヒットしません。こちらも改名されて、このホテルじゃないか、と推理できるところはあるのですが、はっきりしません。そのあたりご存じの方もご連絡いただければ幸いです。

追記 「菊屋旅館」は現在の「北ホテル」さんと判明しました。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月18日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で日本文学報国会の発会式が開催されました。

「報告会」ではありません。「報国会」です。「七生報国」の「報国」です。定款第三条によれば、

本会ハ全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想ヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス

という団体です。

当時の『日本学芸新聞』の報道。

  一堂に会す全日本の文学者 皇道文化創造へ邁進 日本文学報国会力強き第一声

 全日本の文学者を打つて一丸となし、愛国尽忠の至誠烈々として、その総力を集結する「社団法人日本文学報国会」の発会式は六月十八日午後一時から日比谷公会堂に於いて挙行された。
 この日、全国から馳せ参じた三千有余の文学者はもとより、友好団体たる少国民文協、音協出版、文協、都下大学文化学生等参加。甲賀三郎氏(総務部長)司会の下に下村宏氏座長となり、久米正雄常務理事が会務を報告し、会長に徳富猪一郎を推挙、つづいて八部会の各代表の華々しい宣誓に移り――菊池寛(小説部会代表)、太田水穂(短歌部会代表)、河上徹太郎(評論随筆部会代表)、深川正一郎(俳句部会代表)、茅野蕭々(外国文学部会代表)、橋本進吉(国文学部会代表)、尾崎喜八(詩部会代表)、武者小路実篤(劇文学部会代表)――東條翼賛会総裁、谷情報局総裁、文部大臣橋田邦彦氏の祝辞があり、最後に吉川英治氏の提唱で「文学者報道班員に対する感謝決議」を行つたが、この誠に文壇未曾有の盛事に、際会して、全日本文学者の意気凛々として満堂を圧する観があつた。

光太郎は詩部会長でしたが、代表として宣誓を行ったのは尾崎喜八でした。尾崎は光太郎の詩「地理の書」を朗読しています。

当方の住む関東地方も、今週初めに梅雨入りいたしました。当方自宅兼事務所の紫陽花です。

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もともと梅の実が熟する頃、というわけで「梅雨」の時が当てられたものです(※諸説あり)。「梅」といえば「智恵子抄」に収められた「梅酒」。「智恵子抄」の中で、この詩が一番好き、という方も多いようです。

  梅酒
 
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、007
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。

画像は以前にいただいた、イラストレーター・河合美穂さんの作品です。


「梅酒」を今日の『山陽新聞』さんの一面コラムで取り上げて下さいました。

滴一滴

店頭に青梅が出回っている。梅酒づくりの季節である。梅干しは難しくて…という人でも手軽にできることからファンは多い。工夫次第でわが家だけの味が楽しめるのも魅力だ▼氷砂糖の代わりに蜂蜜や黒糖を使ってもいい。無色透明の焼酎ではなく、香りのいいブランデーやウイスキーを入れるという人もいる。青梅の時季は短いが、黄色く熟した梅を使っても独特の風味に仕上がるという▼高村光太郎の詩「梅酒」を思い出す。<死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、いま琥(こ)珀(はく)の杯に凝って玉のようだ>(「智恵子抄」から)▼精神を病む前の最愛の妻が、この世に遺(のこ)していった。早春の夜更けの寒い時に召し上がってくださいと。その梅酒を光太郎は台所の片隅に見つけ、ひとり、しずかにしずかに飲む。その味わいは<狂瀾(きょうらん)怒(ど)濤(とう)の世界の叫もこの一瞬を犯しがたい>▼生涯のほぼ半分を結核と闘った俳人・石田波郷には、こんな作品がある。<わが死後へわが飲む梅酒遺したし>。呼吸をするのも苦しかった没年の作という▼きょうは「入梅」。立春から数えて135日目に当たり、青梅の収穫もピークを迎える。梅酒は法律に基づいて自宅でつくり、自ら楽しむことができる身近なお酒だ。甘酸っぱいその味は、時に人生の深い一滴も含んでいる。


「梅酒」が書かれたのは昭和15年(1940)。前年にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。日中戦争は既に泥沼化し、日独伊三国同盟が締結され、翌年には太平洋戦争が始まる、そんな時期です。

そういう世相が「狂瀾怒涛の世界の叫」と表されています。しかし、それも智恵子の遺した梅酒を静かに味わう感懐には無縁、と謳っています。

かなり前の作品ですが、昭和7年(1932)の詩「もう一つの自転するもの」でも、同じような内容を謳っています。

  もう一つの自転するもの008

春の雨に半分ぬれた朝の新聞が
すこし重たく手にのつて
この世の字劃をずたずたにしてゐる

世界の鉄と火薬とそのうしろの巨大なものとが
もう一度やみ難い方向に向いてゆくのを
すこし油のにじんだ活字が教へる
とどめ得ない大地の運行
べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく
もう一つの大地が私の内側に自転する


画像は岩手県奥州市の人首文庫さんからいただいた、掲載誌『文学表現』に送られた草稿のコピーです。

しかし、「もう一つの大地が私の内側に自転する 」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態は長く続きませんでした。

その結果、どうなって行くのか、以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月11日

昭和36年(1961)の今日、山形県酒田市の本間美術館で開催されていた「高村光太郎の芸術」展が閉幕しました。

光太郎展としてはかなり早い段階のものです。

新刊です。 

大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣

2015/5/25 奥田万里著 幻戯書房 定価2,000円+税

帯文から

荷風『断腸亭日乗』に記され、杢太郎の詩に詠まれ、晶子がその死を悼んだ男とは?

志賀直哉 吉井勇 北原白秋 小山内薫 高村光太郎 尾竹紅吉 平塚雷鳥 大杉栄 堺利彦 長谷川潔 関根正二 太田黒元雄 ポール・クローデルら文士ばかりでなく、芸術家や社会主義者も集った西洋料理店&カフェ「鴻乃巣」の店主・駒蔵のディレッタントとしての生涯を追った書下ろしノンフィクション。

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「メイゾン鴻乃巣」とは、明治43年(1910)、日本橋小網町に開店した西洋料理店です。のちに日本橋通一丁目、さらに京橋に移転、大正末まで「文化の発信基地」的な役割を担いました。光太郎、北原白秋、木下杢太郎らの芸術運動「パンの会」の会場として使われています。ただし、「パンの会」は案内状まで発送して大々的に行う「大会」と、通常の会の二通りがあり、「メイゾン鴻乃巣」では「大会」は開催されなかったようです(実はこのあたり、同書には勘違いがあって、少し残念です)。

本書はその店主・奥田駒蔵の生涯を追ったノンフィクションです。著者の奥田万里氏は、駒蔵の孫・恵二氏夫人。万里氏から見れば、駒蔵は義祖父ということになります。駒蔵は大正14年(1925)、満43歳で早逝しており、奥田家でも孫の代になるとその業績等、全くといっていいほど不明だったようです。本書は、その駒蔵の生涯を、ご親戚への聞き取りや当時の文献調査などにより、明らかにした労作です。

元は平成20年(2008)、かまくら春秋社からエッセイ集として刊行された『祖父駒蔵と「メイゾン鴻之巣」』。そちらをベースに加筆修正されています。

先月はじめごろ、当会顧問の北川太一先生から、その元版を入手してくれという指示があり、調べてみたところ、月末には新版が刊行されるという情報を得、さっそく北川先生の分と当方の分、2冊予約し、2週間ほど前に届きました。

帯文に光太郎の名がありますが、光太郎もメイゾン鴻之巣によく足を運んでおり、その作品中に登場します。

 飯田町の長田秀雄氏の家の近くの西洋料理店を思ひ出す。ヴエニス風な外梯子のかかつてゐた、船のやうにぐらぐら動く二階で北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇等の諸氏に初めて会つたのだと思ふ。何だか普通の人と違つてゐるので面白かつた。此人達の才気横溢にはびつくりした。負けない気になつて、自分も馬鹿にえらがつたり、大言壮語したり、牛飲馬食したり、通がつたり、青春の精神薄弱さを遺憾なくさらけ出したものだ。真剣と驕飾とが矛盾しつつ合体してゐた。自己解放の一つの形式だつたのだと思ふ。掘留の三州屋の二階。永代橋の橋際の二階。鳥料理都川の女将。浅草のヨカロー。小舟町の鴻乃巣。詩集「思ひ出」。雑誌「方寸」。十二階。
(「パンの会の頃」 昭和2年=1927)

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあつた三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集つたものである。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

奥田さんといふ奇人の創めた小網町河岸のカフエ「鴻の巣」は梁山泊の観があつたし、下町の明治初年情調ある小さな西洋料理店(例へば掘留の三州屋)などを探し出して喜んだりした。
(「あの頃――白秋の印象と思ひ出――」 昭和18年=1943)

相変らず金に困り、困るからなほ飲んだ。鴻乃巣だの、三州屋だの、「空にまつかな雲のいろ」だのといつても、私のは文学的なデカダンではなくて、ほんとに生活そのものが一歩一歩ぐれてゆくやうで、足もとが危険であり、精神が血を吐く思ひであつた。
(「父との関係」 昭和29年=1954)

以上四篇はエッセイですが、詩では連作詩「暗愚小伝」中の「デカダン」(昭和22年=1947)に、当時を回想しての

鎧橋の「鴻の巣」でリキユウルをなめながら
私はどこ吹く風かと酔つてゐる。
酔つてゐるやうにのんでいる。


との一節があります。

すぐに思い出したのは以上ですが、精査すればもっとあるかもしれません。

また、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、同店の名物の一つが、ロシアから輸入したというサモワールだったそうです。

その記述を読んで、当方のアンテナが発動しました。「『道程』時代の詩にサモワールが出てきたは004ず」と。調べてみると、明治44年(1911)に書かれた「或日の午後」という詩でした。

     或日の午後

 珈琲(カフエ)は苦く、
 其の味はひ人を笑ふに似たり。

 シヨコラアは甘(あま)く、
 其のかをり世を投げたるが如し。

 ふと眼にうかぶ、
 馬場孤蝶の凄惨なる皮肉の眼(まな)ざし。

 サモワアルの湯気は悲しく、さびしく、完(まつた)くして、
 小さんの白き歯の色を思はしむ。

 此の日つくづく、
 流浪猶太人(ル・ジユイフ・エラン)の痛苦をしのべば――
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 心しみじみ、
 春はいまだ都の屋根に光らず――

 珈琲(カフエ)は苦く、
 シヨコラアは甘し、
 
 倦怠は神経を愛撫す、
 或る日の午後。


雑誌『スバル』に発表された詩です。残念ながら詩集『道程』には採られませんでした。画像は『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』から採らせていただきました。絵画もたしなんだ奥田駒蔵自筆のメイゾン鴻乃巣店内です。サモワールも描かれています。

明治末にサモワールがどの程度普及していたのかよくわかりませんが、「メイゾン鴻乃巣」名物と云われるということは、かなり珍しかったのではないのでしょうか。そうすると、この詩の舞台も「メイゾン鴻乃巣」のように思われます。

これも『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知りましたが、鴻乃巣のサモワールにはこんなエピソードもあります。

やはり明治44年(1911)の雑誌『白樺』の編集後記に、こんな記述があるそうです。

同人の九里四郎は丁度仏蘭西に絵の研究に行つた。お名残の展覧会が琅玕洞で十日斗り開かれてゐた。十七日の日曜日には九里が御ひいきのメーゾン鴻の巣が九里の為めに「雷のやうにピカピカ光るサモワール」を持ち出して御客様に御茶をすゝめた。当日は主人自ら出張してめざましく働いてゐた。

「琅玕洞」は前年に光太郎が神田淡路町に開いた我が国初の画廊です。ただし、この時点では琅玕洞の経営は光太郎の手を離れています。ただ、譲渡後も琅玕洞で自分の個展を開こうとしたり(結局実現せず)しているため、時折足は運んでいたようです。


サモワールがらみでもう一件、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで興味深く思ったことがありました。

佐渡島に住んでいた歌人の渡辺湖畔との関わりです。湖畔は共通の知人であった与謝野夫妻を通じ、大正9年(1920)、駒蔵にサモワール購入の斡旋を頼んだというのです。

「ここで湖畔が出てくるか!」と思いました。湖畔はのち、大正15年(1926)に、光太郎の木彫「蟬」を購入している人物です。その縁で、令甥に当たる和一郎氏ご夫妻は、時折連翹忌にご参加くださっています。


他にもいろいろと、光太郎と奥田駒蔵の関わりがあります。

光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるった、「メイゾン鴻乃巣」のメニューの存在が、大正2年(1913)9月21日の『東京日日新聞』に紹介されています。これはぜひ見てみたいのですが、現存が確認できていません。当時の雑誌などに口絵の形で載ったものでも……と思って探し続けていますが、いまだに見つかりません。

また、これも、『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』を読んで初めて知ったのですが、大正10年(1921)の新詩社房州旅行に、光太郎智恵子ともども、駒蔵も参加していたそうです。この旅行に関しては、この頃から智恵子の言動が少し異様だったという深尾須磨子の回想が残っています。また、伊上凡骨も此の旅行に参加しています。


とりあえず、光太郎に関わる部分のみを紹介しましたが、全体に非常に面白い内容でした。奥田駒蔵という人物のある意味自由奔放な、しかし世のため人のためといった部分を忘れない生き方、その周辺に集まった人々の人間模様などなど。

さらに、著者の奥田万里氏の調査の過程。当方も光太郎智恵子について、聞き取りやら文献調査やらで同じような経験をしているので、「あるある」と、共感しながら読ませていただきました。ただし、光太郎智恵子については当会顧問の北川太一先生はじめ、先哲の方々の偉大な業績があって、当方はその落ち穂拾い程度ですが、奥田氏の場合、ほぼゼロからのスタート。頭が下がりました。

そして、全編に義祖父・駒蔵へのリスペクトの念が満ち溢れていることにも感心しました。


やはり人を論ずる場合、その人に対するリスペクトが感じられなければ、読んでいて鼻持ちなりません。逆に言えば、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」と言いたくなります。

余談になりますが、ある大手老舗出版社が出しているPR誌の今月号に、「智恵子抄」に関するエッセイが載っています。筆者は辛口の批評で知られる文芸評論家のセンセイです。そこには全くといっていいほど、光太郎ら、そこで取り上げている人物に対するリスペクトの念が読み取れません。さらに云うなら、リスペクトの念がないから詳しく調べるということもしないのでしょう、出版事情等に関し、事実誤認だらけです。「○○は、現在××と△△からしか出版されていない」、いやいや「□□と◇◇からもちゃんと出版されているよ、マイナーな出版社のラインナップだけど」と云う感じです。

「解釈」の部分は主観なので、その人の勝手かも知れませんが、客観的な事実の部分までテキトーに書いて、そしてこの方のお家芸(少し前には、光太郎智恵子を取り上げたあるテレビ番組についても、見当外れの罵詈雑言を某新聞の地方版に発表しているようです)ですが、とにかく揚げ足取りや「批判」をしなければ気が済まない、みたいな。その辛口ぶりがかえって新鮮でもてはやされているようですけれど、「それではあなたの仕事が数十年後まで残りますか?」と問いたくなりますね。

むろん、論じる対象に対し、妄信的、狂信的にすべて賞賛すべきとはいいませんが、「リスペクトの念がないのなら、論じるな」です。反面教師とするために論じるというのであれば別かもしれませんが、この人の書き方は揶揄や軽侮が先に立っていて、批判するために批判しているようにしか読めません。

当方、その筆者のセンセイにリスペクトを感じませんので、これ以上は論じません。


閑話休題、リスペクトの念に溢れた『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』、ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月10日

昭和22年(1947)の今日、日本読書組合から、『宮澤賢治文庫 第三冊』が刊行されました。

第二回配本で、「春と修羅 第二集」。宮澤清六と光太郎の共編、光太郎は装幀、題字と「おぼえ書き」の執筆もしています。

当方手持ちの全6巻は、現在、花巻の高村光太郎記念館にて展示中です。

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一昨日の『東京新聞』さんの一面コラムです。

筆洗

彫刻家の高村光雲はカツオの刺し身をある時から還暦になるまでぷっつりと口にするのをやめた。こんな理由がある▼師匠の家で奉公していた時、食事にカツオの刺し身が出たが、若い光雲には満足できる量ではなかった。師匠の分が台所にある。光雲は大根で猫の足跡の印形を彫り、判子(はんこ)のようにあちこちに押した。猫の犯行に見せ掛けて、師匠の分を平らげた▼気の毒なのは裏長屋の無実の猫で、師匠の妹さんに捕まり、ひどいお仕置きを受けた。「それ以来、無実の罪を得て成敗を受けた猫のために謝罪する心持ちで鰹(かつお)の刺身だけは口に上さぬように心掛け」ていたとは殊勝だが、若き日は、カツオの刺し身の魅力に勝てなかったか▼カツオではなく、豚肉である。六月中旬から食中毒防止のため飲食店などで生レバーや生肉を提供できなくなる。豚の生肉を食した経験はないが、がっかりしている人もいるだろう。お気の毒だが、危険がある以上、御身のためである▼カツオのたたきには、真偽の分からぬ「伝説」があるそうだ。土佐藩主の山内一豊が腹を痛めやすいとカツオを刺し身で食べることを禁じたが、それでも食べたい庶民が表面だけを焼くたたきを編み出したという▼光雲の猫の足跡ではないが、豚の生肉の提供禁止を受け、食いしん坊の日本人が新たな「味」を発見するのではないか。前向きに考えてみる。


元ネタは、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』です。同書には、この他にもこうした落語のような話が満載で、飽きさせません。むろん、真面目な話も多いのですが。

東京美術学校教授、帝室技芸員として当時の彫刻界の頂点に上り詰めた光雲。しかし、その若き日には廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、輸出向けの象牙彫刻が大流行し、木彫の灯は風前の灯火でした。そうした頃の苦労譚の一つです。

さて、明朝9時から、NHKEテレさんの「日曜美術館」で、「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」が放映されます。

下記は現在発売中のNHKさん刊行の番組情報誌『NHKステラ』に載った同番組の紹介記事です。クリックで拡大します。

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予想通り、「『光雲懐古談』の朗読を交え」とあります。朗読は石橋蓮司さん。楽しみです。

再放送もありますが、お見逃し無く。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月30日

昭和25年(1950)の今日、創元社から『現代詩講座 第2巻 詩の技法』が刊行されました。

当時の錚々たる詩人、二十余名の寄稿から成ります007。光太郎も寄稿しています。

しかし、この巻は「詩の技法」というサブタイトルで、他の詩人達が「現代詩の構成」(村野四郎)、「現代詩のレトリック」(丸山薫)、「現代詩に於ける「俳句」と「短歌」」(三好達治)など、大まじめに書いている中、光太郎は「詩について語らず」という題です。書き出しからしてこうです。

詩の講座のために詩について書いてくれといふかねての依頼でしたが、今詩について一行も書けないやうな心的状態にあるので書かずに居たところ、編集子の一人が膝づめ談判に来られていささか閉口、なほも固辞したものの、結局その書けないといういはれを書くやうにといはれてやむなく筆をとります。

なぜ「詩について一行も書けないやうな心的状態にある」のでしょうか。やはり、戦時中、大量に空疎な先勝協力詩を書き殴った自責の念がそこに垣間見えます。

以前には断片的ながら詩について書いたこともありましたが、詩についてだんだんいろいろの問題が心の中につみ重なり、複雑になり、卻つて何も分らなくなつてしまつた状態です。今頃になつてますます暗中模索といふ有様なのです。

かえって詩に対する真摯な態度が読み取れる、と言えばほめすぎでしょうか。

一昨日の『朝日新聞』さんの福島県版に、下記の記事が載りました。以前にもご紹介した二本松の「あだたら恋カレー」にも触れています。 

福島)中通り北部を売り込め 住民らが知恵絞る

 「八重の桜」や「フラガール」とまではいかなくても、もう少し全国的に知名度の高い観光の目玉を、中通りの北部にも。住民らによるそんな取り組みが、広がりつつある。人口の少ない中山間地ならではの魅力を売り込もうと、知恵を絞っている。
 
 「伊達の名物はあんぽ柿や桃だけじゃない。『いかにんじん』は実は松前漬けの元祖」「日本初の五つ子が生まれたのは梁川」「産業伝承館の農家レストランに行くと、90歳近い名物のおばあさんに会える」
 
 今月20日、伊達市で開かれた「阿武隈おもてなし人(びと)ゼミナール」。旅館や観光会社の社員、郷土史研究会のメンバーら多彩な顔ぶれの参加者が、伊達市の「名物」をあげていった。
 
 ゼミナール開催は4回目。町おこしに取り組むNPO法人「いいざかサポーターズクラブ」が県北地方振興局の委託を受け、昨年12月から開いて004いる。国道349号に沿った福島市、伊達市、二本松市、本宮市、川俣町の中山間地で、なにが「観光の目玉」にできるかを考える。これまでに数十人が参加した。
 
 参加者はまず、それぞれが思い思いの「名物」をシールに1項目ずつ書き、大きな紙に貼り付ける。その後、シールを「史跡」「自然」「花」「食べ物」など関連があるものごとにまとめ、「化石発掘ツアー」「伊達の地酒3本セット」など、複数の名物を組み合わせたパッケージがつくれないか、考えていく。
 
 「ふくしま農家の夢ワイン」の社員、熊谷耕平さん(26)は昨年12月、地元の二本松市で開かれたゼミナールに参加した。
 
 「仕事も年齢層も違う人たちと意見交換ができて、刺激になりました」
 「農家の夢ワイン」では、地元の農家が栽培するリンゴを原料に発泡酒「シードル」をつくっている。地元に来て買ってもらいたいと、問屋に卸すのではなく、地元の料理店や道の駅中心に出している。
 
 「シードル工房を見学に来たグループには、スタッフ手づくりの料理をふるまうなどのもてなしもしています。より参加型、体験型の販売方法も考えていきたい」と熊谷さん。
 
 NPO法人「ゆうきの里東和」は同じ二本松市で、地域の特徴を生かした観光に早くから取り組んできた。かつて養蚕業が盛んだった東和地区の歴史を踏まえ、「桑の葉茶」などを開発。国道349号沿いで運営する道の駅「ふくしま東和」には、地元産の野菜やシードルなどが並ぶ。
 
 最近は「あだたら恋カレー」と「酒粕(さけかす)アイスクリーム」を売り出した。カレーの名前の由来は、同市出身の画家・高村智恵子と夫で詩人の光太郎との「恋」。加えて、地元産ハーブの味が「濃い」、具だくさんで内容が「濃い」、お客さんよ「来い」という意味が込められている。
 
 震災後の2012年から農家民宿も始めた。農家に泊まり、地元の新鮮な野菜料理を堪能し、希望者には農作業も体験してもらう。
 
 震災後、福島産の野菜が売れなくなった。ゆうきの里東和理事長の武藤一夫(いちお)さん(62)は「われわれがどのように野菜をつくり、検査しているのか。目で見て知ってもらい、福島の農家と交流してもらうことを主目的でやっています」。
 
 農家12軒でスタートし、いまは16軒に増えた。 

 いいざかサポーターズクラブの藤原純理事長は「意識していなかった地元の名所や名物に気づき、有機的に組み合わせて新たな観光資源を生み出す。ゼミナールを、その端緒にしてほしい」と期待する。
 
 国道349号北部の観光施設32カ所によるスタンプラリーも昨年12月下旬から始まった。3月6日まで。(大岩ゆり) 
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頑張って下さい。応援しています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月27日

昭和25年(1950)の今日、詩人で編集者の八森虎太郎からストーブを貰いました。
 
光太郎は日記以外に、書簡類の授受を詳細に記録した『通信事項』というメモを遺しています。昭和24・25年(1949・1950)は書かれたはずの日記が失われており、それを補完する意味で、筑摩書房『高村光太郎全集』の第13巻に、この2年分が収められています。
 
そちらの記述がこちら。
 
一月廿七日
〔受〕ストーヴ一揃、運送屋岡本さんがソリにて運びくる、北海道八森虎太郎氏より贈られしもの、但し小屋にては使用不能につき、学校に寄附のつもりで学校に届けてもらふ、
 
さすがにこの山小屋ではストーブは設置できなかったようです。
 
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福島は二本松からローカルニュースです。

二本松・東和にご当地グルメ「あだたら恋カレー」誕生

 二本松市の道の駅ふくしま東和は2000日、同市東和地区の新たなご当地グルメ「あだたら恋カレー」のお披露目会を開き、同日から販売を開始した。
 「あだたら恋カレー」は、詩集「智恵子抄」で知られる同市出身の高村智恵子・光太郎夫妻の結婚100周年などにちなみ考案。安達太良山の形をかたどったご飯に二本松産の野菜をふんだんに使い、智恵子抄をもじった洋風七味「智恵こしょう」を振り掛けた味もスパイスも「濃い」カレーに仕上げた。1杯680円(税込み)。
 お披露目会は1、2の両日、道の駅ふくしま東和で開かれた収穫祭に合わせて行われた。本県で活動しているお笑いコンビ「ぺんぎんナッツ」の司会で無料試食会が開かれ、来場者が新グルメを堪能した。
 このほか収穫祭では、新米試食体験や青空フリーマーケット、こども広場などが開かれ、大勢の来場者でにぎわった。
 
福島民友新聞 11月3日(月)
 
 
このニュースでほっこりさせていただきました。
 
同じ二本松にある道の駅「安達」智恵子の里さんでは、安達太良山の「乳首山」という別称から商品化された「おっ!PAIぷりーん」を販売していますが、どちらも二本松名物となってほしいものです。
 
愚妻曰く「レトルトはないの?」。 なるほど、千葉県我孫子市の「白樺派のカレー」のように、ぜひ開発してほしいものですね。
 
十和田からもほっこりするニュースが入っていますが、のちほどご紹介します。
 
ところで二本松といえば菊人形が開催中。今日の地上波フジテレビさんで、菊人形が取り上げられます。といっても、5分間番組ですが(笑)。 

ふくしまてくてく

地上波フジテレビ 2014年11月8日(土)  11時40分~11時45分
 
元気いっぱい魅力あふれる福島の地元の人々だけが知る楽しみ方を伝授します。毎週、地元の名産や街を紹介し、それにまつわる方への取材を交えて放送。ガイドブックには載らない“通"の福島歩き。あなたも、明日、出かけてみませんか?
 
魅力あふれる福島をぶらり散歩。二本松市のランドマーク「霞ヶ城公園」を散策。城内のマニアックな楽しみ方のほか、名物の菊人形も紹介します!
 
出演 宮澤智(フジテレビアナウンサー)
 
放送終了後、次回の放送までの間に、インターネットに動画としてアップロードされるようです。ぜひご覧下さい。光太郎智恵子の人形、会場の霞ヶ城にある光太郎詩碑や智恵子の藤棚なども紹介していただきたいものです。
 
当方、今日は同じ福島の川内村で行われる、草野心平忌日の集い、「第4回天山・心平の会「かえる忌」」に参加して参ります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月8日
 
大正3年(1914)の今日、日光に2泊3日の写生旅行に出かけました。
 
平成12年(2000)、この時描かれた油絵が発見され、大きく報道されました。
 
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ちょうど100年前です。

先週行って参りました我孫子市白樺文学館さんにて、いろいろ手に入れて参りましたのでご紹介します。

雑誌『民藝』 第740号 特集 我孫子と柳宗悦

2014/8/1 日本民芸協会発行 定価787円+税
 
 
現在同館にて開催中の「柳宗悦展-出会いと絆の地、我孫子-」とリンクした特集です。
 
図版も豊富です。
 
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左上は大正期の『白樺』。すべて光太郎が寄000稿している号です。右上はやはり光太郎も手にとった、ロダンから白樺派に贈られたブロンズ3点のうちの一つ、「ある小さき影」。下は光太郎の朋友バーナード・リーチや柳宗悦関連の古写真です。
 
 
ロダン「鼻のつぶれた男」ポストカード
 
昨日もこの画像を載せましたが、ポストカードになっています。
 
上記の「ある小さき影」とは違い、白樺派に贈られたものではありませんが、ロダンのブロンズ彫刻の中では有名なものの一つです。光太郎も評論などの中で、繰り返しこの彫刻に触れています。
 
 
 
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公式サイトより)
 
■白樺派のカレーとは?
大正デモクラシーの頃、白樺派の文人達が手賀沼沿いに居を構え、活発な創作活動をしていたころの話です。当時としては先進的な食文化の象徴であったカレーが我孫子で作られました。
誰もがご存知の白樺派の文人達がこのカレーを食べていたのです。

■  柳兼子さんが白樺派の文人たちに振舞ったカレーを再現!
白樺派の中心人物の一人である柳宗悦氏、その夫人の兼子さんが、陶芸家バーナードリーチの助言をうけて、おいしいカレーを作りました。
隠し味に味噌を使ったのでした。
食の研究家が当時の文献を丹念に調べ、長い歳月をかけて白樺派のカレーを再現しました。兼子さんはアルト歌手としても国内外で有名な方でした。
 
ちなみに柳兼子は、戦時中に光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」をラジオ放送で歌ったりもしています。
 
チキン、ポーク、ビーフの3種類のレトルトが販売されています。当方、ポークを買って参りました。もったいなくてまだ食べていません。
 
 
それから、こちらは今回入手したものではなく、以前に買ったものですが、やはり白樺文学館で販売していたのでご紹介しておきます。

『白樺派の文人たちと手賀沼 その発端から終焉まで』 

 2011/10/11 崙書房出版 山本鉱太郎著 定価1,300円+税
 
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版元サイトから)
 
東京から30キロ、自然豊かな手賀沼。大正時代初め、沼を一望する高台に若き日の柳宗悦、武者小路実篤、志賀直哉、バーナード・リーチら白樺派の文人たちが集った。そしてここから彼らはそれぞれの活動へと旅立つ。白樺派の我孫子時代からその終焉までを見届ける。「ふるさと文庫」200号作品。
 
それだけでなく、第一章が「リーチと高村光太郎の出会い」、第二章に「日本の頭脳上野の森に」、第三章で「「白樺」創刊のころ」となっており、ここまでで光太郎がたくさん登場します。この後の四章以降が我孫子の話になっていきます。
 
著者山本鉱太郎氏は、作曲家・仙道作三氏と組んで、平成3年(1991)に「オペラ智恵子抄」を作られました。そのあたりの話や、十和田湖畔の裸婦群像にも触れています。
 
以上もろもろ、ぜひお買い求め下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月13日
 
明治36年(1903)の今日、歌舞伎俳優九代目市川團十郎が歿しました。
 
光太郎は団十郎のファンで、残念ながらどちらも現存が確認できませんが、2度、団十郎像を彫刻で作りました。くわしくはこちら

福島からの報道です。

「おっ!PAIぷりーん」商品化 「乳首山」新名物優秀作品

『福島民報』8月9日(土)9時26分配信
 
 福島県二本松市の象徴・安達太良山の愛称「乳首山」にちなんだ食の新名物を決めるコンテストで優秀作品に選ばれた「おっ!PAIぷりーん」が商品化された。市内の道の駅「安達」智恵子の里上下線で販売を始め、8日、同駅下り線でお披露目会が開かれた。
 コンテスト作品の商品化は初めて。「おっ!PAIぷりーん」はプリンの上に生クリームとピンク色のチョコレートを乗せ、乳首山を表現した。口当たりは滑らかで、甘さは控えめ。価格は1個267円(税込み)。
 お披露目会には作者で市内のお菓子製造業「HAPPY」代表の石川真由美さん、コンテスト主催者の安斎文彦にほんまつ未来創造ネットワーク会長、市観光大使で女優の一色采子さんが訪れた。石川さんは「二本松のお土産として定着してほしい」と語った。コンテストはJRのふくしまデスティネーションキャンペーンに合わせ、二本松の魅力を発信しようと企画。3月に入賞作品を発表した。
 商品の問い合わせはHAPPY 電話0243(55)2976へ。

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記事にもあるとおり、安達太良山は、山頂の大岩の形状が遠くからだとそう見えるため、「乳首山」という別名があります。
 
下記は二本松観光協会さん発行のパンフレットから。
 
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左のページ、「阿武隈川」の「川」と「光太郎」署名の中間、たしかにそう見えなくもありませんね。
 
で、二本松市の旧安達町エリア、国道4号沿いにある道の駅「安達」智恵子の里さんで販売を始めたとのことです。商品の画像は上にありますが、まあ、この程度ならセクハラと騒がれないで済みそうですね。瓶の形がレトロ感も醸し出しています。
 
お近くをお通りの際は、ぜひお立ち寄り、お買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月14日
 
大正9年(1920)の今日、『時事新報』にエッセイ「私の事」が掲載されました。
 
一部、抜粋します。
 
 私のからだの中には確かに手におへない五六頭の猛獣が巣喰つてゐる。此の猛獣のため私はどんなに苦んでゐるか知れない。私をしてどうしても世人に馴れしめず、社会組織の中に安住せしめず、絶えず原野を恋ひ、太洋を慕ひ、高峰にあこがれ、野蛮粗剛孤独不羈に傾かしめるのは此の猛獣共の仕業だ。私は人一倍人なつこく、温い言葉と春のやうな感情とに常に飢ゑてゐるのだが、この猛獣のおかげで然ういふ甘露の味を味ふ事が実にすくない。
 
この時期の光太郎は、大正デモクラシー、プロレタリア文学・美術の勃興などを背景に、さまざまな形で露呈する社会矛盾への怒りをあらわにし始めていました。さらに大正12年(1923)の関東大震災後にはその傾向が顕著となり、有名な「ぼろぼろな駝鳥」などを含む連作詩「猛獣篇」へとつながっていきます。
 
この「私の事」は、そうした自己の内部に巣くう「猛獣」について述べた早い段階のものの一つでした。

新刊です。
2014/8/1 新潮社(新潮文庫) 嵐山光三郎編 定価693円
 
『文人』シリーズの著者が、食に拘る作家18人の小説と随筆34編を厳選したアンソロジー。

これは旨い! 森鷗外、幸田露伴、正岡子規、泉鏡花、永井荷風、斎藤茂吉、種田山頭火、高村光太郎、萩原朔太郎、内田百閒、芥川龍之介、宮沢賢治、川端康成、稲垣足穂、林芙美子、堀辰雄、坂口安吾、檀一雄。食にまつわる短編と随筆。『文人』シリーズの嵐山光三郎が34編を厳選。
 
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昨年、同じく新潮文庫・嵐山氏の『文士の料理店』をご紹介しました。そちらと、それから旧著の『文人悪食』(ともに光太郎が扱われています)などは、嵐山氏の文章によるものでしたが、こちらは鷗外、子規らの「食」に関する作品を集めたアンソロジーです。
 
光太郎の作品は、詩「米久の晩餐」、同じく「梅酒」、随筆「こごみの味」が採られています。
 
少し安易かな、という気がしなくもありませんが、やはり原典を読むというのは大事なこと。ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月13日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、実弟の藤岡孟彦に葉書を書きました。
 
孟彦は高村家四男として産まれましたが、藤岡家の養子になりました。植物学を専攻し、現在も続く茨城県の鯉淵学園で教鞭を執っていました。ご子息・光彦氏は健在で、毎年、連翹忌にご参加下さっています。
 
文面は以下の通り。
 
 此間は折角来られたのに大したお構ひも出来ず失礼しました、それでも此処の様子を見てもらつて本望でした、
 まだ今後何処へゆくか分りませんが当分はここにゐるつもり、後には北海道屈斜路湖の方へ移住するかも知れません。
 東京へは十月にゆき、半年ほど滞在の筈です。
 
「東京」云々は、十和田湖畔の裸婦群像制作を指します。像の完成後はまた岩手に帰るつもりでいたことがうかがえます。それどころか、さらに北海道への移住も考えていたようです。
 
しかし、健康状態がそれを許さず、裸婦像除幕後、短期間、岩手に帰ったものの、東京で療養せざるを得ない病状で、結局、東京で亡くなることになります。

一昨日、たまたま立ち寄ったコンビニで、コミックの単行本を買いました。

思い出食堂 特別編集 旅の味 なつかしい人々

2014年5月5日  少年画報社   定価 476円+税

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廉価ないわゆるコンビニコミックです。初版は今年5月でしたが、重版が並んでいました。
 
北は北海道から、南は沖縄まで、「旅の味」をテーマに、「佐世保バーガー」や「ほうとう」、「ゴーヤーチャンプル」など、各地の名物料理等をあつかった、29本の読み切りマンガから成っています。おおむね、各10ページです。
 
で、「浪江焼きそば」の中で、光太郎詩「樹下の二人」がモチーフに使われています。
 
これを購入したコンビニでは、立ち読み防止のために、ビニールのパッケージに入れられていました。
 
しかし、表紙に「浪江焼きそば」の文字を見つけ、「もしかすると、二本松や『智恵子抄』がらみの話になっているかも」と思い、購入しました。
 
帰ってから読んでみると、まさしくビンゴ。こういうときは痛快です。
 
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物語は、「浪江焼きそば」を看板メニューにしていた食堂の夫婦が、東日本大震災の犠牲になり、パン屋を開くのが夢だった息子が、自分の夢と、両親から受け継いだ「浪江焼きそば」の味を合体させ、「浪江焼きそばパン」を作る、というものです。
 
と、書いているだけで、食べたくなってしまいますが、どうやら架空のメニューのようです。
 
そもそも、「浪江焼きそば」とは、福島県双葉郡浪江町のご当地グルメ。極太の麺を使うのが特徴です。昭和30年(1955)頃には、すでにあったとのこと。
 
浪江町は、福島第一原発のある双葉町に隣接しており、東日本大震災後、町全域が「帰還困難区域」となりました。
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そして、多くの町民は二本松市に避難し、町役場も二本松市に仮庁舎を設置、今もその状態が続いています。上記画像は今年の4月現在のもの。震災から3年経っても、まだこの状態です。こういう状態でいながら、なぜ再稼働にこだわるのか、理解に苦しみます。そんなに原発が好きなら、永田町に作って下さい。
 
約20軒あった、「浪江焼きそば」を饗する店も、再開できたのは、二本松駅前の市民交流センター1階の「杉乃家」さんだけだそうです。
 
ちなみに当方、今日は、浪江町にほど近い、川内村の天山祭りに行って参ります。昨秋の草野心平を偲ぶ集い、かえる忌以来ですが、どれだけ復興が進んでいるのか、いないのか、この目で見てきます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月12日
 
明治40年(1907)の今日、農商務省の海外実業訓練生に任ぜられました。
 
光太郎は前年から欧米留学中で、この時、ロンドンにいました。もともと私費留学、現地で生活費を工面という苦学生でしたが、光雲の奔走により、海外実業訓練生任命となりました。レポートの提出が義務づけられましたが、代わりに毎月60円ずつ支給されるようになり、ぜいたくはできないものの、とりあえずの心配はなくなりました。

新刊コミックスです。

くーねるまるた 第3集

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小学館『ビッグコミックスピリッツ』連載の漫画の単行本・第3集です。作者は高尾じんぐさん。
 
主人公は、日本の大学院修了後、そのまま日本に居着いてしまったポルトガル人女性といういっぷう変わった設定です。、同じアパートに住む女性達との「食生活」を軸に話が展開、毎回、お金を使わない安上がりな、しかししゃれた料理のレシピが掲載されています。
 
このほど刊行された第3巻の「第36話 青梅」で、『智恵子抄』に触れています。「梅」ということで「梅酒」です。
 
  梅酒006
 
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。
 
この回では梅酒以外に、「梅醤油」、「梅ドリンク」などが紹介され、さらにメインは梅酒の梅を具に使った「梅酒カレー」。レシピも載っています。
 
ところで、今年の初め頃、その名もズバリ『梅酒』という題名のコミックスを紹介しました。
 
こちらの作者は幸田真希さんという女性漫画家。
 
そして今回の高尾じんぐさん、ということで、女性は『智恵子抄』の「梅酒」が好きなんだな、と思ったところ、今日の記事を書くために調べていて、高尾さんは実は男性だと知りました。上記の絵柄で、料理漫画。登場人物のほとんどが女性。てっきり作者も女性だと思いこんでいました。
 
「そういうのが封建時代的性差別観念だ」と、ジェンダー論者のコワいお姉様方に糾弾されてしまいそうです(笑)。

【今日は何の日・光太郎】 12月20日

昭和9年(1934)の今日、九十九里で療養していた智恵子を再び駒込林町のアトリエに引き取りました。
 
福島の智恵子の実家・長沼家破産、一家離散後、九十九里に移っていた智恵子の妹・セツの婚家に、母・センともども身を寄せていた智恵子。この年5月からの九十九里生活の中で、「尾長や千鳥と相図」(詩「風にのる智恵子」)し、「人間商売さらりとやめて」(同「千鳥と遊ぶ智恵子」)、「限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出」(同「値ひがたき智恵子」)てしまいました。いわば人格崩壊……。
 
九十九里の家には幼い子供もおり、ギブアップ。しかしアトリエに戻っても智恵子の病状は昂進するばかりで、翌昭和10年(1935)2月末には、南品川ゼームス坂病院に入院させることになります。
 
上記の梅酒は、おそらく九十九里に行く前に智恵子が作ったものでしょう。

新刊です。正確に言うと、平成22年(2010)にハードカバーで刊行されたものの文庫化ですが。 

『文士の料理店(レストラン)』 

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2013年6月1日 嵐山光三郎著 新潮社(新潮文庫) 定価670円

「松栄亭」の洋風かきあげ(夏目漱石)、「銀座キャンドル」のチキンバスケット(川端康成)、「米久」の牛鍋(高村光太郎)、慶楽」のカキ油牛肉焼そば(吉行淳之介)、「武蔵」の武蔵二刀流(吉村昭)──和食・洋食・中華からお好み焼き・居酒屋まで。文と食の達人厳選、使える名店22。ミシュランの三つ星にも負けない、名物料理の数々をオールカラーで徹底ガイド。『文士の舌』改題。(裏表紙より)
 
長大な詩なので全文は引用しませんが、大正11年(1922)に発表された光太郎の詩で、「米久の晩餐」という作品があります。浅草で今も続く牛鍋屋・米久さんで、詩人・尾崎喜八と牛鍋を食べた時の光景を詩にしたものです。
 
この書籍によれば、米久さん、メニューは牛鍋のみ。畳敷きの大広間に一、二階合わせて三百席。食事時ともなればもうもうとわき上がる湯気の中、ものすごい喧噪だとのこと。

光太郎の「米久の晩餐」にも、自分たちだけでなく、周囲の客やアマゾン(女中さん)の様子、会話が生き生きと活写されています。光太郎曰く、「魂の銭湯」。
 
本書では、カラー画像もふんだんに使っており、非常に食欲をそそられます。

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レポする嵐山氏の筆も、光太郎に負けず劣らずあますところなくその魅力を紹介しており、思わず行きたくなってしまいます。
 
さらに森鷗外や夏目漱石など光太郎と縁のあった人物や、光太郎の項ではないものの、光太郎も足を運んだ銀座資生堂パーラーなども取り上げられています。
 
是非お買い求めを。
 
ちなみに嵐山氏には、同じく新潮文庫に『文人悪食』『文人暴食』というラインナップもあります。「文士の食卓それぞれに物語があり、それは作品そのものと深く結びついている」というコピーの『文人悪食』では、やはり光太郎が取り上げられています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月16日

大正15年(1926)の今日、父・光雲が東京美術学校名誉教授となりました。

昨日は、連翹忌会場である日比谷松本楼様に行って参りました。昨年5月、仙台で「シューマンと智恵子抄」というコンサートを開催されたピアニストの齋藤卓子さんとご一緒させていただきました。

 
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今度の連翹忌では、斎藤さんのピアノに合わせ、「墨画」の一関恵美さんに実際に描いていただくというパフォーマンスをご披露していただきます。そのため、斎藤さんとメールのやりとりをしている中で、会場の下見も可能ですよ、という話になり、昨日、ご案内した次第です。一関さんは所用のため上京できず、斎藤さんと二人で松本楼様を訪れました。
 
本来ならそのお二人に朗読の荒井真澄さんが加わるのですが、荒井さんは御都合が合わず、今度の連翹忌には参加されません。残念ですが、来年以降に期待しましょう。
 
しかし、お二人でも素晴らしいパフォーマンスが拝見できることと期待しております。お二人は昨年、パリに行かれ、あちらで同様のパフォーマンスをなさったそうです。すごいですね。
 
会場の2階大広間を見せていただいた後、少し時間がありましたので、1階のレストランでお茶しました。松本楼様と言えば、光太郎・智恵子も食べた氷菓(アイスクリーム)。昨日の都心は初夏のような陽気でしたので、ちょうど良い具合でした。
 
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こちらのアイスクリームは昨年11/30、BSジャパンの「小林麻耶の本に会いたい<本に会える散歩道 日比谷>」で紹介された逸品です。
 
美人と差し向かいでお茶。これも役得ですが、こうしたシチュエーションに慣れないせいか、緊張しました(笑)。斎藤さんは岩手の宮古にご在住です。もうすぐ3.11ということもあり、自然と震災の話になりました。それからもちろん光太郎を巡る話(斎藤さんのお誕生日は奇しくも智恵子の命日、レモン忌の10月5日だそうです。奇遇ですね)。
 
長らく音楽に携わってこられた中で、光太郎の詩は、詩そのもののリズム感(白秋などの定形詩的なものの)とかそういったことではなく、バックに流れる音楽を感じる、というお話でした。そして冬を愛した光太郎の精神、東北人としての震災に対する思い、そういったもろもろの熱い思いをこめて、当日は一関さんとのコラボに臨まれるそうです。ご期待下さい!
 
近々書きますが、今度の連翹忌では他にも凄いサプライズがあります。まだまだ連翹忌ご参加希望の方のお申し込みを受付中です。こちらをご参考にお申し込み下さい。


【今日は何の日・光太郎】3月9日

明治45年(1912)の今日、数寄屋橋有楽座で開催された「東京仮装会」の発起人に、永井荷風、市川左団次らと共に名を連ねました。
 
この時の案内状を発見しました。いずれ活字に致します。

【今日は何の日・光太郎】1月5日

昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエで中西利雄夫人・富江にこの年初めての買い物を頼みました。


頼んだのはゴボウ、人参、玉ネギ、ジャガイモ、トイレットペーパーでした。
 
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昭和27年(1952)から同31年(1956)まで、光太郎がその最晩年を過ごしたのは、東京中野に今も残る水彩画家・故中西利雄のアトリエでした。このアトリエを借り受けた光太郎は、花巻郊外の山小屋から上京、十和田湖畔の裸婦像をここで制作しました。
 
光太郎は、裸婦像完成後は再び山に帰るつもりでいましたが、健康状態がそれを許しません。昭和30年(1955)には赤坂山王病院に入院した時期もありましたし、それ以外の時もベッドで過ごすことが多くなります。それでも頼まれれば原稿や書を書き、死の数日前まで日記に書の展覧会を開きたい旨の記述を残しています。
 
そんな光太郎を支えたのが、故・草野心平や北川太一先生ら「年下の友人達」。心平は出版社に掛け合い、印税を前借りして電気冷蔵庫の購入に奔走したりしました。
 
また、中西家の人々も、何くれとなく光太郎の面倒を見てくれました。中西利雄ご子息の利一郎氏は今でも連翹忌に御参加いただいており、その頃の思い出を語ってくださったことがあります。
 
日常の必要な物の購入は、主に中西夫人に託されました。その際に光太郎が書いた膨大なメモが、現在も中西家に残っています。一昨年、群馬県立土屋文明記念館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」に出品された他、利一郎氏の許可を得て、当方により一昨年から『高村光太郎全集』補遺作品集「光太郎遺珠」にその全貌を掲載しています。量が多いので、一昨年は昭和29年(1954)のもの、昨年は昭和30年(1955)のもの、今年4月発行予定のものには日付が入っていない時期不明のものを載せ、それで完結する予定です。
 
便箋や包装紙の裏等を利用したもので、時に図入りで詳細な指示等も書かれています。当時の光太郎の嗜好、需要や健康状態などの細かな生活の断面が垣間見える貴重な資料です。
 
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意外と光太郎は肉食系だったようで、「ソテー用豚肉」とか「ビフテキ用牛肉」「ベイコン」などの文字が目立ちます。また、面白いなと思つたのは、現在でも販売されていたり、当方が子供の頃こんなものがあったっけな、と懐かしく思えたりする商品名が書かれていることです。
 
「サリドン」「ビオフェルミン」「龍角散」「浅田固形アメ」「フジヤプラムケーキ」「あけぼの鮭かん」「モノゲン」「ライオン歯磨チューブ入り」「ミツカン酢」「味の素」「ヤマサ醤油」「アリナミン錠」「小岩井バター」「ミューズ石鹸」「明治オレンジジユース」「渦巻蚊遣二箱(金鳥)」……。

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こういうものを読むと、光太郎、歴史上の人物という感覚ではなく、非常に身近に感じます。

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