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隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第18号。創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「チーズとふきのとう入り茶碗蒸し」だそうで。

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「茶碗蒸しにチーズを入れるか?」という感覚でしたが、実際、光太郎の日記(昭和21年4月3日)にそう書いてあり、意外でした。上記画像、クリックすると拡大表示されます。ちなみに今回の撮影場所は光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)の囲炉裏ばたですね。

当方、チーズもふきのとうなどの山菜も大好きですので、これは是非食べたいと思いましたが、愚妻がチーズを苦手としており、頼んでも作ってくれないでしょう(笑)。自分で自分の分だけ作るというのも何ですし……(笑)。

他に今号は「特集 花」だそうで、花巻市内いろいろな場所で撮影された花の画像がてんこ盛りです。

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都会の片隅にひっそり咲く花もいいのでしょうが、やはり花は広々とした自然の中に置いてこそ、という気がしました。

例年であれば、「ぜひ見に行きましょう」的な呼びかけをここに書くところですが、今年はそうも行きません。

昨日現在、岩手県は47都道府県で唯一、新型コロナの感染報告がありません。『産経新聞』さんのサイトにこんな記事が出ていました。 

「普段通りの春」感染者ゼロの岩手 マスク売れ残るスーパーも、にぎわう回転ずし店

 日本国内で新型コロナウイルスの感染者が増加する中、全国の都道府県で唯一「感染確認ゼロ」が続く人口約123万人の岩手県。6日には学校の新学期が始まり、通学路に子供たちの笑顔も戻った。県内では首都圏や関西圏に比べ、マスク姿もまだまだ少ない。県庁にも「なぜ岩手はゼロなのか?」との疑問が寄せられているという。「移動する人口が少ない」「まじめな県民性で手洗いを守っている」などの声もあるが、隣接する青森、宮城、秋田の3県は感染者が2ケタ台だけに、それだけでは説明がつかない。県民の暮らしぶりは-。
 「普通通りの春を迎えている」。盛岡市近郊に住む主婦(39)は、新型コロナウイルスの感染拡大が続く中での生活ぶりをこう語った。

 3月中はほとんど休みだった中学生の子供2人は、一斉休校が続く首都圏や関西圏とは違い、4月6日に新学期が始まると毎朝、学校に通っている。授業も通常通り夕方まで行われ、部活動でも何の制限もなく練習をこなしているという。

 大型スーパーでもドラッグストアでもマスクは品薄状態が続くが、街ではマスクをしていない人を多く見かける。3月中旬に一度だけトイレットペーパーの買い占めも起きたが、それ以降は普通に買えるようにもなり、特に困ったことはない。ほかの食料品の品ぞろえも豊富で、レジでも前の人や後ろの人と間隔をあけて並ぶこともない。

 「そもそも、住んでいる地域では(感染リスクが高まる密閉、密集、密接という)『3密』の場所や機会がほとんどない」(主婦)。岩手県の面積は47都道府県中、北海道に次いで2位と広く、1平方キロメートル当たりの人口密度の小ささは83・8人とやはり2位。「3密」があるのは「ボウリング場やカラオケのような娯楽施設か居酒屋、スナックぐらい」という。

 それでも、気になることがある。最近、地元のテレビ番組で首都圏から夜行バスで若者たちが帰省してきたというニュースが報じられたからだ。「頼むから、今の時期、コロナ疎開だけがやめてほしい」と眉をひそめた。

 県内で複数の店舗を展開しているスーパーの男性社員(46)によると、新幹線の駅近くや幹線道路の国道4号沿いにある店舗ではマスクがすぐに売り切れてしまうが、それ以外の店舗では1日ではけないこともしばしばあるという。

 「地元では(新型コロナウイルスの感染拡大を)まだまだ対岸の火事で見ている」と打ち明ける。

 土日になれば、国道沿いの回転ずし店の駐車場はいっぱいになり、家族連れでにぎわう。東京都内の飲食店で閑古鳥が鳴いているのに比べて「緊迫感や危機感が薄いことを物語る光景」と話す一方、「地元の人々は、岩手が日本一の『田舎』であることが証明された、と自虐的に言っている」と苦笑する。

 ただ、ご多分に漏れず高齢化が進む岩手では持病を抱える高齢者と一緒に3世代、4世代が暮らす大家族や高齢者のみの家も多く、こうした世帯の危機感は強い。男性社員は「感染者が出るのは時間の問題だと思う。高齢者が多い地区は特に心配だ」と語った。

 日本での感染拡大は、春節の時期に中国から多くの観光客が来日したのが引き金になったとの分析がある。

 岩手の場合、北海道や宮城県などに比べて台湾からの観光客が多い。台北から花巻空港への直行便もあり、台湾総督府民政長官として台湾の発展に貢献した後藤新平の記念館(奥州市)などが人気スポットだ。「中国本土からの観光客が他県に比べ少なかったからこそ、1、2月に感染が広がらなかったのではないか」との声がある。

 県庁には現在、「なぜ感染者ゼロなのか」という問い合わせが県内外から相次いでいるという。県外からの場合、そこには「特別な対策があるのではないか」というニュアンスが含まれており、ある県幹部は「東京まで新幹線の往復が3万円以上で、おいそれと遊びには行けない。まじめな県民性で手洗いを励行しているからだと思う」と分析する。

 ただ、県民が問い合わせる理由は異なる。「PCR検査の実施件数が少ないのが理由ではないのか」というのだ。

 事実、感染の有無を調べるPCR検査は10日現在で136件と全国最少。最後まで「感染者ゼロ」を争った鳥取県、島根県の対人口比検査実施件数と比べてもそれぞれ5分の1、5分の2程度に過ぎず、いずれも感染者数が2ケタ台の宮城県(660件)、秋田県(491件)、青森県(313件)の実施件数と比べても各段に少ない。

 「単に検査体制が十分に整備されていないからではないか」という疑念はある意味もっともにも見えるが、岩手県側は「必要な検査は行っている」と真っ向から否定する。

 今月7日に東京都や大阪府など7都府県に緊急事態宣言が出された直後、県は対象地域への往来自粛を呼びかけた。このまま感染者ゼロが維持されるに越したことはないが、いったん感染者が出れば、一気に拡大した時のリスクは都市部の比ではない。関係者は注意深く動向を見守っている。

どうもそう単純な話ではなさそうですが、まさしく「感染者ゼロが維持されるに越したことはない」わけで、そうなってほしいものです。

そのための対策の一環として、各種イベント等の中止は、やはり岩手県でも行われています。印刷等の関係でしょう、『マチココ』さんには予告の案内が出てしまっていますが、例年5月15日に、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で開催されている「高村祭」、今年は中止だそうです。その前日と、当日、盛岡と花巻で、それぞれ当方が講師を務める市民講座が予定されていましたが、それも中止。花巻高村光太郎記念館さんなども休館中だそうです。致し方ないでしょう。

毎日のように書いていますが、早くこの騒ぎが終息、収束することを祈念するばかりです。


【折々のことば・光太郎】

現代新興美術の立場より見て、古美術を否定すべきいはれ更に無し。

アンケート「古美術と現代美術」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

アンケート全体としては、いわゆる「温故知新」の精神を説いています。

料理研究家の中野由貴さんから、『ワルトラワラ』第45号が届きました。宮沢賢治ファンの方々による文芸同人誌のようです。

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中野さんご執筆の「イーハトーヴ料理館 賢治たちの自炊めし 二膳目 光太郎さんからの食アドバイス」が5ページにわたり掲載されています。

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昭和22年(1947)、光太郎が雑誌『農民芸術』第1巻第3号に発表した散文「玄米四合の問題」を中心に、光太郎の「食」に対する意識、光太郎から見た賢治の「食」などについて述べられています。

また、昨年の今頃、花巻高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展「光太郎の食卓」のレポートなども。同展は、一昨年の秋に行われた同館主催の市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓 part .2」の内容を元にしたものでした。そちらの講師を当方が務めさせていただき、その際のレジュメを中野さんにお送りしたところ、いたく感謝されてしまい、かえって恐縮している次第です。

中野さんとはその後、昨春、いわき市立草野心平記念文学館さんでの企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の関連行事として開催された「居酒屋「火の車」一日開店」でご一緒させていただきました。そんなこんなで今回の玉稿にも当方の名を出して下さっています。ありがたし。

それから、中野さんが監修された都内でのイベントのご案内も同封されていました。花巻市さんと小岩井農場さんのコラボ企画だそうで、題して「宮沢賢治のイーハトーブ花巻レストラン」。


2月8日(土)には、中野さん他によるトーク・朗読イベントもあるそうです。『ワルトラワラ』の件も含め、詳しくは中野さんのサイトをご参照下さい。


【折々のことば・光太郎】

さう言つても、他の人の「存在の理由」を否定するわけでは決してありません。人には各々天性がありますから。

散文「武者小路実篤氏」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

この前段で、朋友・武者小路の人となり、芸術世界を激賞した後の一言です。

一昨日から、残念ながら他の人の「存在の理由」を否定し、「人には各々天性がありますから」と考えられなかった故に起こった凶悪犯罪の裁判が始まっています。その報道を読むにつけ、改めて心が痛みます。

手前味噌で恐縮ですが、拙稿の載った雑誌が出ましたのでご紹介します。

歌壇 2019年9月号

2019年8月16日 本阿弥書店 定価800円(税込み)

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今年3月に開催された、明星研究会さん主催の公開講座的イベント「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で発表を仰せつかり、光太郎の「食」について語らせていただきまして、それを元に書きました。題して「苦しい中でも工夫して」。25字×240行=6,000字=400字詰め原稿用紙15枚。掲載誌には6頁で載っています。

廃仏毀釈のあおりで、仏師だった父・光雲への仕事の注文が激減し、どん底だった幼少年期――光雲が東京美術学校に奉職し、少し生活が好転した学生時代――3年半にわたる欧米留学――極力俗世間と交流を絶った智恵子との芸術精進の生活――智恵子没後の戦時中――戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活――そして最晩年の再上京後と、順を追って、光太郎本人や周辺人物の回想などを紹介しつつ、光太郎の「食」をまとめてみました。

同じ『歌壇』さんの7月号には、静岡県立大学さんの細川光洋氏による「極道に生れて河豚のうまさかな——健啖家・吉井勇」、8月号で歌人・伊東市立木下杢太郎記念館館長丸井重孝氏による「木下杢太郎 割烹は芸術の一種であり、美食は最高の贅沢である」が掲載されています。お二人ともやはり3月の講座で発表された方々です。

それぞれぜひご購入下さい。Amazonさん等でも取り扱いがあります。

【折々のことば・光太郎】

まあ僕は性質としてあんなオーソリテイに対しては意識的に「好かれようとする態度」をとらないで、わざとぶつかつて行くやうな事ばかりしたもので、そんな事ではよく鷗外先生にやられましたよ。

対談「鷗外先生の思出」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

当方、光太郎のこういうところも大好きです(笑)。

光太郎が絡んでいるとは気づかず、紹介が遅れました。 

コレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」

期 日 : 2019年7月5日(金)~10月6日(日)
時 間 : 午前10時~午後6時
場 所 : 文京区立森鷗外記念館  東京都文京区千駄木1-23-4
料 金 : 一般 300円  20名以上の団体は240円  中学生以下無料
休 館 : 7月23日(火)、8月27日(火)、9月24日(火)

「とりあえずビール」と、現在では手軽に飲むことができるビール。江戸時代末に日本にもたらされたビールは、明治に入って本格的に醸造され始め、広く飲まれるようになったのは40年代以降のことでした。
鷗外は、日本ではまだビールが貴重だった明治17年から21年まで、陸軍軍医としてドイツに留学し、本場のビールを楽しみました。留学中の日記『独逸日記』では、鷗外が醸造所やオクトーバーフェスト(ビール祭り)を訪れたり、自ら被験者となって「ビールの利尿作用」について研究していたことが分かります。
こうした鷗外のビール体験は『うたかたの記』(明治23年)などの作品に生かされました。また、同時代の文学者たちもビールを作中に描きました。夏目漱石『吾輩は猫である』(明治38~39年)、太宰治『酒の追憶』(昭和23年)に見られるおもてなしや晩酌としてのビール、高村光太郎『カフエ、ライオンにて』(大正2年)に見られる酒場の様子など、文学作品には明治・大正から現代に通じる様々なビールのある風景が登場します。
本展では、鷗外のビール体験に触れると共に、文学作品に登場するビールのある風景を、所蔵資料から紹介します。この夏、ビールを切り口に文学作品を味わってみませんか。

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光太郎に関しては、小曲詩「カフエライオンにて」6篇の載った雑誌『趣味』第7年第2号(大正2年=1913)が展示されます。復刻版だそうですが。「カフエライオンにて」は、6篇中の4篇が「カフエにて」と改題され、第一詩集『道程』に収められました。

カフェ・ライオンは、明治44年(1911)、銀座に創業したカフェで、光太郎も足繁く通ったようです。美人女給が和服にエプロンという揃いの衣裳で給仕するのが売りでした。また、ビールが一定量売れると、店内のライオン像が吠える仕組みになっていたそうです。経営は変わりましたが現在もビアホール銀座ライオンとして健在です。

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左は雑誌『趣味』第7年第2号に送られたものと見られる詩稿(天理大学さん所蔵)、右は同誌に掲載された、光太郎によるカット。カフェライオンの絵です。

ところで「カフエライオンにて」といえば、過日ご紹介した『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」でも引用して下さいました。その際には、当方、引用部分が「カフエライオンにて」の一節と気づきませんでしたが、あとで気づきました。全文は以下の通り。天理大学さん所蔵の詩稿にも入っています。

 何もかもうつくしい
 このビイルの泡の奮激も
 又其を飲むおれのこころの悲しさも
 かうやつて
 じつと力をひそめてゐると
 何処からかうれしい声が湧いて来る
 酔つぱらひの喧嘩さへ
 リズムをうつてひびくんだ


また、やはり『岩手日報』さんの「風土計」で引用された随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)の載った雑誌『ホーム・ライフ』第2巻第8号も「参考図版」扱いで展示品目録に載っています。パネル展示でしょうか。

それから、展示品目録に光太郎の作品が載った雑誌がまだありました。『ARS』第1巻第3号(大正4年=1915)、それから『スバル』9号(明治42年=1909)。『ARS』には光太郎による翻訳「ドユ モーパスサンの描いたロダン」、『スバル』にはやはり翻訳で「HENRI MATISSEの画論(一)」、それから裏表紙に戯画「屋根の草」が収められています。ただ、ビールとは無関係なので、他の誰かの作品でビールがらみの何かが載っているのでしょう。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

美ならざるなし   短句揮毫  戦前?

右の画像は戦後のものですが、おそらく戦前からこの句を好んだ光太郎、頼まれて色紙などに書く揮毫にしばしばこの句を選びました。
 
現在も複数の揮毫が遺されています。
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光太郎第二の故郷ともいうべき・岩手の地方紙『岩手日報』さん。生前の光太郎もたびたび寄稿しました。

その一面コラム「風土計」。たびたび光太郎の名を出して下さいますが、一昨日も。 

風土計

ビールを愛した詩人は多いけれど、代表は高村光太郎だろうか。〈何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも〉▼好きが高じて、飲み方にもこだわりがある。「ビールをのむ時つまみ物は本當(ほんとう)はいらない」。つまみは口寂しいから用意するだけで、なるべく味のない物がいい。のしイカなどよりも、「生胡瓜(きゅうり)ぐらゐがいい」と▼詩人が好むビールやキュウリが今、ニュースで報じられている。記録的な日照不足で、ビール類の売れ行きが振るわない。キュウリをはじめとする夏野菜は病害や生育の遅れで、価格が5割も上がっているという▼きょうの「大暑」も、はっきりしない天気になりそうだ。盛岡はそうでもないが、沿岸や関東地方は梅雨寒が続く。選挙の熱量がいまひとつだったのは、そのせいか▼コーラやウーロン茶を日本で初めて詩にしたのは、光太郎と言われる。〈ウウロン茶、風、細い夕月〉。〈柳の枝さへ夜霧の中で/白つぽげな腕を組んで/しんみに己(おれ)に意見をする気だ/コカコオラもう一杯〉。飲み物に心の内を投影させる人だった▼そのコーラなどの飲料も、今夏は販売の落ち込みが伝えられる。週間予報は曇りがちだが、土日には日照が戻りそうだ。冷えたビイルやコオラを文字に味わうだけで、ぎらつく夏の太陽が恋しくなる。

ビールをのむ時つまみ物は」云々は、随筆「ビールの味」(昭和11年=1936)。雑誌『ホーム・ライフ』に掲載された比較的長いもので、『高村光太郎全集』第20巻に収録されています。

下戸の当方、あまり実感がわきませんが「ビール党あるある」がけっこうちりばめられているようです。

曰く、

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。

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写真は昭和27年(1952)、戦前から行きつけだった三河島のトンカツ屋・東方亭で。たしかに目の前にピール瓶が並んでいますね(笑)。


「風土計」、コーラやウーロン茶にも言及されています。コーラは大正元年12月の雑誌『白樺』に載った詩「狂者の詩」、ウーロン茶は同じ年の雑誌『朱欒』に載った詩「或る宵」に登場します。

ところで、「風土計」冒頭の「何もかもうつくしい/このビイルの泡の奮激も/又其(それ)を飮(の)むおれのこころの悲しさも」という一節、出典が分かりません。ご存じの方はご教示いただければ幸いです。

追記 当該の詩は「カフエライオンにて」(大正2年=1913)、『高村光太郎全集』では補遺巻の第19巻に収められていました。

【折々のことば・光太郎】

何しろ非常に頭のいい人ですから、うつかりした質問でもしようものなら、その質問の下らなさ加減で、お前はもう駄目だ、試験なんか受けなくてもいいと言はれさうな気がして、質問したい事があつても却々(なかなか)切り出せなかつたものです。

談話筆記「頭の良い厳格な人――鷗外追悼――」より
 大正11年(1922) 光太郎40歳

光太郎、東京美術学校時代に鷗外が担当していた美学の講義を受けています。その頃から尊敬はするけれども、親しくつきあいたい人ではないと思っていたようで……。のちにはうっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教されたこともありました(笑)。

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写真は明治44年(1911)、鉄幹与謝野寛の渡欧送別会での集合写真。後列左から5人目が光太郎、前列左から4人目が鷗外です。二人、前後に並んでいます(笑)。

先週号の『週刊ポスト』さんに光太郎の名が。

7代にわたって受け継がれる秘伝のタレ 駒形 前川 東京・台東区

 浅草・駒形橋のたもと、隅田川沿いに位置する「駒形前川」では、風情ある景色を眺めながら、ゆったりと鰻を堪能できる。創業は江戸末期の文化文政期。200年以上引き継がれるタレは、空襲や地震を逃れてきたという。「関東大震災のときは、タレの入った壺を大八車に乗せて逃げたと聞いています」(7代目・大橋一仁さん)
 鰻を幾度も返しつつ焼き上げる熟練の技によって、艶やかな飴色に仕上がる。重箱の蓋をあければ、香ばしさをまとった鰻が姿を現わす。タレは江戸前の辛口でさっぱり。身はふんわりと味わい深い。
 醤油とみりんしか使わずに継ぎ足された秘伝のタレ。詩人の高村光太郎や作家の池波正太郎も駒川前川の味を愛した。
 老舗の味を守りながら、新しい食の提案も行なう。スペインワインの輸入販売も手掛け、ここでしか味わえない鰻とワインのペアリングも楽しめる。
■駒形 前川 住所:東京都台東区駒形2-1-29 営業時間:11時半~21時(L.O.20時半) ※売り切れ次第終了
定休日:年中無休

巻頭グラビアの「鰻の季節がやってきた!」という記事の一部で、他に名古屋の「鰻(うな)う おか富士」さん、葛飾区の「うなぎ 魚政」さん、浜松の「うなぎ 大嶋」さん、久留米の「富松うなぎ屋」さんが紹介されています。

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他店はそれぞれ1ページですが、前川さんのみ見開き2ページ。いわば横綱扱いですね。

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現在は七代目の方が嗣がれているということですが、四代目の時代に光太郎がよく肝焼きを智恵子の土産にと買って帰ったという逸話が残っているそうです。


戦前の光太郎日記はほとんど残っていないため、光太郎の書き残したものの中にそのエピソードは見あたりませんが、たしかにそういうことがあったのでしょう。

光太郎の父・光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)には、前川さんの名が出て来ます。幕末の徒弟時代の回想で「名高かった店などの印象」という項です。

鰌屋横丁を真直に行けば森下(もりした)へ出る。右へ移ると薪炭(しんたん)問屋の丁字屋(ちやうじや)、その背面(うしろ)が材木町の出はずれになつてゐて、この通りに前川(まへかは)といふ鰻屋がある。これも今日繁昌してゐる。

前川さんの名は出ていませんが、光太郎の詩「夏の夜の食慾」(大正元年=1912)には、鰻屋の店頭風景が。

「ぬき一枚――やきお三人前――御酒(ごしゆ)のお代り……」
突如として聞える蒲焼屋の渋団扇
土用の丑の日――
「ねえさん、早くしてくんな、子供の分だけ先きにしてくれりや、あとは明日(あした)の朝までかかつても可いや、べらぼうめ」
「どうもお気の毒さま、へえお誂へ――入らつしやい――御新規九十六番さん……」
真つ赤な火の上に鰻がこげる、鰻がこげる

この直後の部分で、天ぷら屋の「中清(なかせい)」さんが登場します。前川さんと中清さん、直線距離で300メートルほどですので、ことによると前川さんなのかもしれません。もっとも、浅草近辺には他にも鰻屋さんがありますので、何ともいえませんが……。ちなみに光太郎、戦後には日記によるとやはり浅草の小柳さんという鰻屋さんに行ったことを記録しています。


今年の土曜丑の日は月末、7月27日(土)だそうです。夏バテ予防にぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

十年前の今頃は、亡妻智恵子の病気とたたかつてゐました。そして一方、團十郎の首を作り上げようとしてゐました。

アンケート「十年前のあなたは」全文 昭和23年(1948) 光太郎66歳

出典は雑誌『日本未来派』です。ある意味、酷な質問をするものですね。

「團十郎」は九代目市川團十郎。光太郎はその芸を愛し、彼の肖像彫刻で世上にろくな物がないのが残念だと、その制作にかかりました。しかし、戦争の激化とともにそれも頓挫し、結局、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰しました。

ちなみにこのアンケート、「十年後のあなたは」という設問もありましたが、光太郎、そちらには回答していません。もはや自分に十年後はない(8年後に光太郎は没)ことがわかっていたのでしょうか。何とも不思議です。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第14号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

今号は「カフェドシトロンとサヤエンドウサラダ」。

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欧米留学から帰国してすぐの随筆「珈琲店より」(明治43年=1910)、心を病んだ智恵子が入院中の昭和11年(1936)に書かれた随筆「某月某日」が典拠です。

花巻といえば、この『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん、花巻市さんで発行している季刊情報誌『花日和』の2019年夏号に大きく取り上げられました

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『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの版元であるオフィス風屋さん、そして編集に当たられている北山公路氏と高橋菜摘さんの紹介です。当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に昭和20年代の花巻とその周辺を再現するジオラマを作成していただいた石井彰英氏の工房を、北山氏と共に訪れたことがあります。熱い方でした(笑)。

冒頭部分、抜粋します。

 ひと味違う切り口  「 Machicoco (マチココ)」は、花巻 の「まち」と「ひと」にスポットを当て、魅力を伝えることで街歩きにつなげる“花巻まち散歩マガジン”。2017年に創刊し、じわじわとファンを増やしている。今年4月発行の13 号では、特集「春が来たっ。」と題し、市内の春の風景とともに、ピカピカのランドセルを背負った小学生、袖の長い学生服を着た中学生の姿を掲載。他にも「花巻ウラ昔話」、「花巻まにあ」、高村光太郎の食した料理を紹介する「光太郎レシピ」など、観光情報誌とはひと味違った切り口で、地元ならではの話題が盛り込まれている。

そして終末部分。

 北山さんはマチココが街に根付いた理由について、次のように語る。「紙媒体にとって大切だと感じるのは、ブレないこと。クオリティを落とさないこと。創刊当時の初心を貫いたことで、その想いが徐々に浸透したのだと思います」
 ページをめくり、興味を持った人が一人また一人と街に出かけていく。紙媒体には心を動かし、波及させる力がある。北山さんと高橋さんの挑戦は続く。

おっしゃるとおり、紙媒体の良さというものはやはり厳然として存在するわけで、今後もそれにこだわった紙面作りに邁進していただきたいものです。


『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんは、花巻高村光太郎記念館さんをはじめ、花巻市内各所で販売しています。また、オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回配本、送料込みで3,840円。

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『花日和』は無料。市役所や観光案内所等に置いてある他、都内でも岩手県のアンテナショップである東銀座の「いわて銀河プラザ」さんなどで入手可能です。


【折々のことば・光太郎】

返事が出来ないのでせずにゐました。感動をまるで受けないものについての所感をきかれるのは困るものです。

アンケート「帝展の佳作に就いて」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

「帝展」は、文展(文部省美術展覧会)の後身としてこの年から始まった「帝国美術院展覧会」。光太郎、こうした審査を伴うアカデミックな公設展覧会はとにかく毛嫌いしていました。

智恵子の故郷・福島二本松からの情報です。

日本酒オリジナルカクテル「ほんとうの空」をご提供!

期   日 : 2019年5月11日(土) 12日(日) 13日(月) 14日(火) 15日(水)
        16日(木) 17日(金)
会   場 : ダイニングバー メモリー 福島県二本松市本町2-33
時   間 : 19:00-翌3:00011
料   金 : 1杯700円

地元二本松の地酒を使用したここでしか飲めない二本松のカクテルをお楽しみ下さい!
地元二本松の日本酒を使用した、二本松の酒、二本松の空、二本松の菊人形、智恵子抄などをイメージした当店オリジナルカクテルを1杯700円でご提供致します!また、他店ではなかなかご覧になれないフレアバーテンディング(カクテルパフォーマンス)なども是非この機会にご覧下さい!
(フレアは要リクエスト)

なるほど、シャレオツですね。

やはり5月11日(土)、茨城県の旅行会社・石塚サン・トラベルさんでは、こんなバスツアーも組んで下さっています。
会   場 : 二本松市智恵子の生家/智恵子記念館 羽山の里クマガイソウ群生地 他
時   間 : 那珂IC 7:00出発 17:45帰着
料   金 : 10,800円

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ともに茨城県ご在住の画家・村田伊佐夫氏、絵手紙作家・友部久美子氏が同行され、智恵子生家/智恵子記念館裏の智恵子の杜公園から安達太良山スケッチ(雨天時は生家にて)、智恵子生家で紙絵作り体験が組み込まれています。紙絵作り体験は、「高村智恵子生誕祭」の一環として行われているものですね。

今月号の『広報にほんまつ』さんにも紹介されています。

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今月、二本松ではこの他にも様々なイベントが企画されています。少しずつご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

すべての精神活動は生理に基づく。

散文「夏の食事」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での蟄居も5年経ち、すっかり独居自炊生活に慣れた頃の文章です。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」というわけで、健全な肉体を維持するための食事の大切さを説いています。

定期購読しております雑誌2誌、届きました。

まず隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第13号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「そば粉ガレットとウニペイスト 夏みかん添え」だそうで。

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読者の方からの投稿的なページには、以前の号の「光太郎レシピ」を参考に料理を作った旨の記述。

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「花巻ウラ昔話」というコーナーは、かつて花巻市にあった雪印乳業花巻工場について。ここには昭和43年(1968)、光太郎詩「牛」(大正3年=1914)の一節を刻んだ碑が建てられました。平成14年(2002)に工場は閉鎖、現在は雪印さん系の岩手雪運さんという会社の営業所になっています。光太郎碑はまだ健在なのではないかと思われますが、不明です。

石碑といえば、『マチココ』さんに掲載されている石碑の写真。「あれ? こんなところに光太郎が」でした。

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おわかりでしょうか。石碑上部に写真が4枚並べられていますが、左から2枚目が光太郎です。郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で撮影されたもの。000

この石碑は、平成21年(2009)に建てられたもので、かつてここに雪印乳業花巻工場があったことを示す碑のようです。この存在は存じませんでした。

今秋、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座で、花巻市と、さらに隣接する北上市にある光太郎関係の石碑等をめぐるバスツアー的なものが計画されており、当方、講師を仰せつかっています。その際にこちらも見て来ようと思っております。

ちなみに先述の「光太郎レシピ」中の「そば粉ガレット」、光太郎の日記の記述に従い、雪印さんのバターが使われています。写真にも写っています。


その他、特集が「春がきたっ。」ということで、花巻市内各所の春の風景などなど。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊で、年6回配本、送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


もう1点、『月刊絵手紙』さん。

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「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされています。今号は詩「母をおもふ」(昭和2年=1927)の全文。2年前に亡くなった母・わかを偲ぶ詩です。5月は母の日があるということからの引用だそうです。

その他、特集は「夏目漱石の愉快な手紙、いい手紙」。先月のこのブログでご紹介した書籍『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』を書かれた中川越氏の御執筆です。

同誌は一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。バックナンバーとして1冊単位の注文も可能なようです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

小生は言はば一個の風来で、何処にゐても、其処で出来るだけの仕事をし、出来るだけの務めを果たして、そして天命来らば一人で死ねばそれで万事決着といふ孤独生活者です。

散文「ある夫人への返事」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた文章の一節です。もはやこういう割り切りだったわけですね。

3月23日(土)、前日に引き続き、都内に出まして、吉祥寺の武蔵野商工会議所さんにて開催の「第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎」で、公開講座の講師を務めさせていただきました。
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講座は前後半にわかれ、前半が「杢太郎と勇 美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」。木下杢太郎に関し、「グルメといわれるが―杢太郎は何を食べたか」と題し、歌人で伊東市立木下杢太郎記念館の丸井重孝氏、吉井勇について静岡県立大学の細川光洋氏が「極道に生れて河豚のうまさかな―健啖家(グールマン)・吉井勇」と題されたご発表および対談。

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後半は「晶子と光太郎 日仏の出会う食卓風景」ということで、当方が「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」、歌人の松平盟子氏が 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」という題で、与謝野晶子についてご発表。当方、ついついしゃべりすぎて、持ち時間をオーバーしてしまい、ご迷惑をおかけしました。反省しきりです。

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杢太郎や吉井が「食」へのこだわりを強く持っていたというのはほとんど存じませんでしたし、晶子は子だくさんの大変な状況でも、栄養価を考えたり、フランス仕込みの知識などを活用したりで、それなりに豊かな食生活を送ろうと努めていたことがわかりました。

光太郎も、少年時代には廃仏毀釈の影響で父・光雲の仏師としての苦闘期を送り、留学からの帰国後も決して裕福ではなかった智恵子との生活を経、戦中戦後の混乱期と、さまざまに工夫しながらの食生活でした。昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言し、さまざまな工夫を披瀝したりもしています。

今回、目からウロコだったのは、同じ「簡素生活と健康」の中での次の発言。花巻郊外太田村での山居生活に関してです。「川島」は川島四郎。元軍人(最終階級は陸軍主計少将)、栄養学者、農学博士でした。

高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お
   米でも
でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……。
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね。まだ動いているのを  皮をはいで……。近所には
   いゝやつ
がどつさりいたんです。

本当にカエルを食べていたのか? と、以前から疑問でした。座談会ということで、リップサービス的に話を盛っているのでは、と。ところが、松平氏曰く、カエルはフランスではごく普通の食材なので、十分あり得る、とのこと。
確かに、明治45年(1912)に書かれた「画室にて」という散文では、パリ留学中の思い出を語る中で、次の発言もあります。

就中(なかんずく)珍なのは、オルドーブルと云つて外にはないスープの前に出る一皿。それには、雁の胆、蝸牛なぞがつきます。然かも本当の料理を食べる仏蘭西人は、外の物には手もつけない。そのオルドーブルだけ食べるのです。オルドーブルだけで売出した家(うち)さへある。(略)大体の料理は五フランぐらゐで一寸食へるが、その家は五フランでオルドーブルが食べ度いだけ食べられる。

「オルドーブル」は「オードブル」。カエルもちゃんと入っていますね。日本での感覚で考えるとゲテモノですが、そうではなかったわけです。


終了後、近くの居酒屋で懇親会。

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晶子研究の泰斗で、旧知の逸見久美先生のお隣に座らせていただきました。逆サイドのお隣には、光雲の師・高村東雲の末裔に当たられる高村晴雲氏の講座で仏像彫刻を学ばれたというお坊様。驚いたことに、岡本かの子の血縁の方だそうでした。かの子は智恵子同様『青鞜』メンバーでしたし、かの子の夫・一平は東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生でした。いわずもがなですが、一平・かの子の子息はかの岡本太郎です。不思議な縁を感じました。


というわけで、4回にわたっての都内レポート、終わります。


【折々のことば・光太郎】

春が来ると何よりも新鮮な食べものの多くなるのがうれしい。私は野のもの山のものが好きなので、摘草にわざわざ行くといふ程の閑暇はないが、そこらに生えてゐる草の芽の食べられるものは何でも食べる。

散文「春さきの好物」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

同じ文章で光太郎が食べるとしている野草、山菜類 は以下のとおり。ハコベ、ヨメナ、ノビル、スベリヒユ、タンポポ、ツクシ、カンゾウ、カタバミ、イタドリ、ユキノシタ、フキノトウ、センブリ、オニフスベ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、タラの芽、杉の芽、マタタビ。

親友で、やはり『明星』に拠っていた水野葉舟が『食べられる草木』という書物を著しており、参考にしたかもしれません。

お世話になっております明星研究会さん主催の公開講座的イベントです。

第13回与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「明星」文学者、四季の食卓― 杢太郎・勇・晶子・光太郎

期    日 : 2019年3月23日(土)
会    場 : 武蔵野商工会議所 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7

時    間 : 13:30〜16:30
料    金 : 1,500円 (資料代を含みます/お支払いは当日にお願いいたします)

第1部:対談 杢太郎と勇「美食家(グールメ)と健啖家(グールマン)―美食への憧れ」
 「グルメと言われるが―杢太郎は何を食べたか」
   丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館)
 「極道に生れて河豚のうまさかな―グールマン・吉井勇」
   細川光洋(静岡県立大学)
第2部:対談 晶子と光太郎「日仏の出会う食卓風景」
 「苦しい中でも工夫して/高村光太郎の食」
   小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
 「家族と囲む食の喜び ~駿河屋の娘のそののち」  
   松平盟子(歌人)
 日本の四季は食卓に旬の素材と料理を提供し、茶や酒を用意しました。感性豊かな「明星」の歌人・詩人たちにとっても同じ。西洋への憧れを秘めたサラダ、パン、コーヒーやリキュール酒などに揺れる心を託し、日常の彩りとすることも……。与謝野家では子供たちとどんな食卓を囲んでいたのでしょうか? 祇園に出入りした吉井勇は? 伊豆伊東の海を眺めて育った木下杢太郎は? パリ体験が人生の刻印となった高村光太郎は?
 今年は木下杢太郎の詩集『食後の唄』刊行から100年に当たります。これを記念して、詩歌や随筆などに描かれた食の現場・食をめぐる心情風景を追体験してみましょう。多くの皆さまのご来場を心よりお待ちしています。

申し込み 氏名・連絡先(電話)を添え、メールかFAXでお申し込み下さい。当日受付も可能です。
      メールアドレス : apply@myojo-k.net   FAX : 0463-84-5313(古谷方)
終了後、懇親会 会費4,000円 (当日受付でお申し込みください)

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『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんに案内が載ったようです。

光太郎の部分を担当することになりました。ぜひお越し下さいませ。


【折々のことば・光太郎】

一つの型(かた)にまで上昇しない芸術には永遠性が無い。ただ別個的の状態を描き、現場の状況を記録し、瞬間の感動を叙述したに止まる芸術には差別美だけあつて普遍美が無い。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

同じ文章で具体例は挙げられていませんが、他の文章を見ると、ピカソあたりを念頭に置いての発言のようです。「型」といっても、類型を繰り返すことではないとも書いています。

昨日は、福島県いわき市に行っておりました。その前に花巻・盛岡と廻っていたのですが、いわきには立ち寄る形でなく、いったん千葉の自宅兼事務所に戻り、また改めて東北にとんぼ返り。公共交通機関だと、いわきから自宅兼事務所までが面倒ですし、目的地のいわき市立草野心平記念文学館さんがJRの駅から遠い、ということもありまして。

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で、いわき市立草野心平記念文学館さん。

先月もお邪魔しましたが、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」を開催中で、昨日は、関連行事としての市民講座的な「居酒屋「火の車」一日開店」が行われました。

「火の車」というのは、昭和27年(1952)、当会の祖・草野心平が文京区田町に開いた居酒屋です。その後、新宿に移転、区画整理により取り壊される同31年(1956)まで存続しました。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎もよく足を運んでいましたし、他にもそうそうたる顔ぶれが常連で、一種の芸術サロン的な役割を果たしたわけです。

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まずは文学館ボランティアの会の皆さんによる寸劇「火の車の思い出」。

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心平と、心平により「火の車」のにわか板前に仕立てられた同郷の橋本千代吉の二人が「火の車」の思い出を語るという設定でした。橋本には、『火の車板前帖』(昭和51年=1976)という回想録――ここに集った酔漢たちのとんでもない行状録があり、珍しく下ネタを披露した光太郎も描かれています。

最後に観客全員で、心平作詞の「火の車の歌」を斉唱。かつて店でよく歌われていたとのことで、遠く明治末、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」で、酔った参加者たちが、やはり中心メンバー北原白秋の「空に真っ赤な雲の色」を歌っていたというエピソードを思い出しました。

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続いて、館内の講堂に移動、「「火の車」ランチタイム」。

料理研究家の中野由貴さんのご指導のもと、文学館ボランティアの会の皆さん、中野さんのお仲間の方々が腕をふるった料理をいただきました。心平が考案し、「火の車」で出されていたメニューの一部、さらに心平と交流のあった光太郎と宮沢賢治ゆかりの料理が、ビュッフェ形式で並べられました。

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中野さんの解説を拝聴しつつ、美味しくいただきました。


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当方、昨年、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきましたが、その際に作成したレジュメが回り回って中野さんのお手元に行き、参考にして下さったそうです。光太郎がほめたフランスパンが出たり、「火の車」メニューの「白夜」(スープ)には、光太郎の好物の一つ、大根の千六本(せろっぽう……マッチ棒ほどの大きさに刻んだもの)を入れていただいたりしました。

また、おむすびは賢治が羅須地人協会で推奨していたという「陸羽132号」。おみやげにも同じお米をいただきました。右下は生産者の方のご挨拶。下に写っているのがおみやげの「3合入り陸羽132号」です。

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お腹も満たされたところで、最後に食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食卓」。

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002講師は中野さん……のはずだったのですが、賢治研究家でもあらせられるお医者様の浜垣誠司氏、さらに当方も講師席に座らされ(笑)……。

それもこれも同館学芸員の小野浩氏の差し金です。バイタリティーに溢れ、さまざまな部分で強引に事を進めた心平よろしく、小野氏の力わざも半端ではありません(笑)。最近は顔つきまで心平に似てきました(笑)。

その前に、展示ケースをわざわざ開けていただき、昭和28年(1953)の3月15日、「火の車」の大福帳に書かれた光太郎の筆跡――開店一周年を祝うメッセージ――を見せていただいたので、文句は言えませんが(笑)。

終了後、中野さんやそのお仲間の方々、小野氏、さらにいわきご在住の彫刻家・安斉重夫氏(賢治作品へのオマージュとしての彫刻も作られています)などの皆さんと、いわき駅前で軽く打ち上げ(当方、中座させていただきましたが)。

というわけで、有意義ないわき紀行でした。

ところで今日は3.11。昨日も、行き帰りの愛車内で見たテレビで、東日本大震災がらみの番組がいろいろありました。明日はそのあたりで書かせていただきます。


【折々のことば・光太郎】

母は全くの無筆で、お家流まがひの金釘流でただたどしく書きつらねた文字であつたが、私の帰国の決心を最初に書き送つた手紙を見ての歓喜の情をそのまま夢心地に書きつけたものと思はれる。こんなよろこびの歌をどうして無視出来ようかと思つて私は読みながら泣いた。

散文「よろこびの歌」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

明治42年(1909)、パリで受け取った母・わe5be2049かからの手紙に関してです。
10年のつもりで出かけた留学を3年あまりで切り上げ、光太郎は帰国の途につきましたが、その主な要因は、結局、西洋人は理解不能という感覚でした。そして日本に帰って、自分の学んだ新しい芸術を日本に根付かせようという使命感。しかし、最終的に決断をさせたのは、帰国しようかどうしようか迷っていると書いた手紙に対する、「早く帰ってこい」という母からの返答でした。

大根の千六本など、「食」の部分でも母から受けた影響が大きかった光太郎。終生、母への敬慕を胸に抱き続けていました。

智恵子の故郷、福島県二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』、今月号は道の駅の特集が組まれています。

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市長・三保恵一氏の玉稿。智恵子に触れて下さっています。

こちらにもあるとおり、同市には3ヶ所の道の駅が存在し、そのうち一つが「道の駅 安達 智恵子の里」。智恵子生家/智恵子記念館に近い、旧安達町にあります。全国的にも珍しいという、国道を挟んで上り線側と下り線側別々に展開している施設です。

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新商品も開発されているようで、「智恵子の思い出 甘酸っぱいレモンゼリー」というのは存じませんでした。次に行く時は買ってこようと思っています。

「通常のレモンゼリーより、酸味が濃いゼリー。一粒が大きいゼリーなので、食べ応え抜群!」だそうで、想像するだけで唾液が分泌されます。「パブロフの犬」状態です(笑)。

もう一点紹介されている「智恵子の里だよりレモンサブレ」は、昨秋、現代アートの祭典「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭2018」の一環として智恵子の生家/智恵子記念館を会場に行われた「重陽の芸術祭in智恵子」の際にゲットしましたが。

上記2点は上り線側での販売のようです。

下り線側にも「道の駅 安達 智恵子の里レモンケーキ」。素朴な感じのものですが、バラ売りで一つから買えるそうで、ありがたいですね。

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いっそのこと、二本松市として「レモンの里」というキャッチコピーにして、道の駅で「全国レモンサミット」でも開催し、ゲストは米津玄師さん……などと勝手なことを考えています(笑)。

まじめな話としては、来月、二本松市でレモンならぬ「2019全国さくらシンポジウム㏌二本松」が企画されています。また近くなりましたら詳しくご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

智恵子のいのちは此家に充満する。智恵子の個体が灰になつてしまふと同時に、智恵子の存在はアトムとなつて至る処に遍在し、到る処を充填する。百千倍となつた復活である。

散文「某月某日」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

昭和13年(1938)、レモンをがりりと噛んで天に昇っていった智恵子。光太郎はその後、智恵子がアトム(原子)となって自分の周囲に充満していると信じるようになりました。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

新刊の雑誌系に載った記事を2件ご紹介します。たまたまどちらも「食」がらみです。

まず、『週刊読書人』さん。いまわの際の智恵子が「がりり」と噛んだレモンにからみます。3月1日号中の「【書評キャンパス】大学生がススメる本」というコーナーで、光太郎の『智恵子抄』が取り上げられました。

高村 光太郎著『智恵子抄』 評者:黒川 あさひ(明治大学文学部3年)

二〇一八年末のNHK紅白歌合戦に今を時000めく米津玄師が出場し、連続ドラマ『アンナチュラル』の主題歌である『Lemon』を歌いあげた。この曲は非常に人気があり、カラオケのランキングでも一を総ナメしているらしい。この『Lemon』という曲は、「レモン哀歌」を元として作ったと米津さんがどこかのインタビューで答えていたことを記憶している。「レモン哀歌」というのは、彫刻家や画家、そして詩人として活躍した、高村光太郎によって紡がれた詩集『智恵子抄』に収録されている詩の一つである。米津の歌詞の節々に『智恵子抄』に収録されている、「レモン哀歌」以外の詩を思わせるような単語もあるため、「レモン哀歌」というよりは『智恵子抄』全体を元にしたのではないだろうかと思う。
『智恵子抄』は愛の詩集だ。高村光太郎が、妻・智恵子と出会い、「清浄」されて、精神分裂症を患った妻をひたすらに支えて、妻が亡くなった後も愛し続けた、その証だ。夫妻が結婚する前から智恵子が亡くなった後までの、30年にもわたる年月の中で光太郎が妻へ宛てて書いた詩を収録している。愛の詩といっても、あまったるいというわけではない。「人に(いやなんです)」「あなたはだんだんきれいになる」といった粉砂糖のようにきらきらと輝いている甘い詩もあれば、「レモン哀歌」や「梅酒」のような、それこそお酒のようにほろ苦いけれど止められない、そんな詩もある。
『智恵子抄』はいくつかの出版社から出ているが、私は中でも新潮文庫版の『智恵子抄』が好きだ。理由としてはいくつかあり、まず他版元では初版に準じて、「『智恵子抄』」「『智恵子抄』補遺」の順に掲載されているが、新潮文庫版では、両方を合わせて作品が全て年代順に並べられているということ。年代順に読むことで、光太郎の幸せ、喜び、そして嘆き、悲しみがより伝わってくるように感じる。次に、表紙、及び冒頭のカラーページを飾るのは、智恵子によって作られた切抜絵の作品ということ。これが非常に素晴らしいもので、またそれらは智恵子が光太郎にだけ見せるために作り続けたものであることが巻末の文章で分かる。最後に、巻末の文章に詩人の草野心平による高村夫妻のエピソードが書かれている文章があること。それがまたどうしようもなく悲しくて切ない、けれどとてつもなく素敵なエピソードなのだ。
この草野心平の文章の中に先ほど挙げた切抜絵のエピソードもあるのだが、私が思わず涙してしまったのは、光太郎が、草野を「喫茶店ともバアともつかないとこ」に呼び出した時に投げかけた言葉だ。思わず息を飲み、何も言えなくなってしまう。静かに涙を流しながら残りの数ページを震える手で捲ったことを覚えている。是非読んでみて欲しい。
『智恵子抄』はぜひとも、夜中に大切な人のことを考えながら読んでみて頂きたい。できればお供として「梅酒」を片手に。

このコーナー、「現役大学生が自ら選書し書評を書く人気コーナー。紙面「週刊読書人」で毎週一人ずつ掲載する他、ウェブ限定の書評もあります。いまの大学生が友だちに薦めたい!と思う本とは?どんなところに魅力を感じているのか?どれも読みごたえのある書評ばかりです。」だそうで、新刊書籍に限らず、古今東西の名著的なものも取り上げられています。そこで、新潮文庫版の『智恵子抄』。

当方、常に光太郎智恵子が忘れ去られる危機感を抱いて活動しているのですが、まだ21世紀を生きる若者の心の琴線に触れる部分がやはりあるのですね。そういった意味で、昨今の「文豪」ブーム、そして書評でも触れられている米津玄師さんの「lemon」、ありがたいところです。


もう1件、定期購読しています『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第12号が届きました。

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花巻高村光太郎記念館さんのご協力で為されている連載「光太郎レシピ」、今号は「光太郎の正月」だそうです。元ネタは昭和23年(1948)1月6日付けの書簡。

姻戚となった茨城取手在住の宮崎仁十郎から届いた餅を使い、雑煮とお汁粉を作ったそうで、小豆は自分で栽培したものを使用したとのこと。さらにイカの中華炒め。美味しそうです。

この連載が実を結んだ部分もあるのでしょう。多方面で「光太郎の食」についてスポットが当てられています。昨年から今年初めにかけ、花巻高村光太郎記念館さんでは企画展「光太郎の食卓」が開催されましたし、現在、いわき市立草野心平記念文学館さんで開催中の冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」でも光太郎が取り上げられています。今週末には関連行事で料理研究家の中野由貴さんを講師に、「居酒屋「火の車」一日開店」があり、その中で「心平・賢治・光太郎 ある日の食事」というトークも為されます。

ちなみに偶然ですが、今月東京武蔵野市で開催される「第13回 与謝野寛・晶子を偲ぶ会」のテーマが「「明星」文学者、四季の食卓――杢太郎、勇、晶子、光太郎」ということで、発表を仰せつかっています。またのちほど詳しくお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

此所で喰べた野草の味が忘れられない。蕨のやうだが蕨よりも歯ぎれぎよく、ぜんまいのやうだがぜんまいよりもしやつきりしてゐる。ただの煮つけではあるが其色青磁の雨過天青といふ鮮やかさにまがひ、山野の香り箸にただよひ、舌ざはり強く、しかも滑かで、噛めばしやりりといさぎがよい。

散文「こごみの味」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

「此所」というのは、群馬県の利根川上流域の藤原村、現在のみなかみ町藤原です。昭和4年(1929)の5月にこの近辺を旅した際の思い出で、題名にもある「こごみ(クサソテツ)」に関わります。村に1軒だけあった食堂でこごみの煮つけを饗され、その味わいに感動したとのこと。

光太郎、この後、戦時中には食糧不足のためやむなく、戦後は岩手花巻郊外太田村の山小屋での蟄居生活で、こちらは自ら好んで、さまざまな野草を口にしています。

昨日は、福島県いわき市に行き、当会の祖・草野心平を祀る同市立草野心平記念文学館さんで開催中の、冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」およびスポット展示「天平と妻梅乃」を拝見して参りました。

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「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の方は、奥の展示室1室を使い、心平が昭和27年(1952)3月に東京都文京区田町に開店した居酒屋「火の車」に関する展示。

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原稿、日記などの心平が書いたものが中心でしたが、「火の車」開店案内などを含め、光太郎に宛てて書かれた書簡類が多数展示されており、「光太郎がこれを手に取って読んだのか」と思いつつ感慨深く拝見しました。

逆に、光太郎が書いたものも。「火の車大福帳」(昭和28年=1953)の中に、開店一周年を祝う光太郎のメッセージが書かれているそうでした。当方、この存在は存じませんでした。ただ、その箇所ではないページが開かれており、見られませんでしたので、後ほど改めて拝見させていただきたいと思っております。

他に、光太郎と宮沢賢治についてのパネル展示、さらに花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されている隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの既刊すべて(こちらは手に取って見られるように置いてありました)など。

「火の車」は、一時期の心平が心血を注いだ活動で、単なる飲食店の枠を超え、光太郎を含む多くの芸術家のサロン的役割を果たしました。しかし、気取った社交場ではなく、集まったそれぞれが人間性を剥き出しにし、激論を闘わせたり、深いつながりを生じさせたりと、その果たした役割は非常に大きかったと思われます。

心平の出す怪しげな料理(笑)と酒が、その媒介となりました。やはり「食」は生きていく上での基本ですので、集った面々も自らの基本に立ち返り、飾らない自己をさらけ出したのでしょう。光太郎もここでは珍しく下ネタを披露したと、「火の車」板前だった故・橋本千代吉の回想にあります。

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スポット展示「天平と梅乃」は、企画展示室の前の一角に。心平とはまたひと味違った、しかし、やはり根っこのところでは相通じる魂を持つ、弟・天平とその妻・梅乃に関する展示でした。

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3月10日(日)には、企画展関連イベントとして、料理研究家の中野由貴さんを講師に、「居酒屋「火の車」一日開店」が催されます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は此夜見かけたいろいろの群像を幻想の中で勝手に構成してみる。エネルギイそのもののやうな鮪と女との構図をいつか物にしたいと思ふ。

散文「三陸廻り 六 女川の一夜」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

女川の飲み屋街を歩き、宿に帰っての感懐です。当時の女川は、新興の港町として非常に活気に溢れる町でした。夜ともなれば漁師たちが紅灯街に繰り出し、矢場や飲み屋など、さまざまな店で女たちが嬌声を上げ、停電になると街のあちこちで、さながら篝火のような焚き火。

居酒屋「火の車」も似たような雰囲気だったのかもしれません。

女川では、昼間、漁港で見た鮪(マグロ)や鮫、そして夜の女たちが光太郎の印象に深く残りました。下記は掲載誌『時事新報』に載った光太郎自筆のカットです。

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グルメ情報です。 

脇農園レモンフェア

期 間 : 平成31年2月4日(月)~3月末
会 場 : 御茶ノ水イタリアン トラットリアレモン
 千代田区神田駿河台 1-5-5 レモンパートII ビル1F
時 間 : 17:30~22:00 ラストオーダー21:30

レモンフェアは今年で2年目になります。今年も青いレモン島、愛媛県岩城島にある脇農園さんのレモンでお料理、カクテル、デザートをご用意します!
脇さんは中学生の頃に高村光太郎が書いた「レモン哀歌」という詩を読んだことがきっかけになり、レモンを育てようと思ったそうです。それまでレモンを見たことがなかった脇さんは、レモンとはどんな香りでどんな味がするのだろうと憧れたそうです。大学で農業を学び、昭和46年に愛媛県果樹試験場にやって来たときには、岩城島にレモンの木が1本もなかったそうなのですが、それが今では岩城島が「青いレモンの島」と呼ばれるほどたくさん育てられています。
その脇農園さんのレモンでシェフがご用意するのは!
昨年好評をいただいた脇農園レモンクリームソースパスタ、今年も復活です!野菜は旬のものが4種類ほど入っています。ほんのりレモンの酸味がクリームソースを軽やかにします。
そして今年は脇農園レモンと魚介のリゾットも。ドライトマト、魚介(日替わりですが海老やイカ、貝など)&レモンのさっぱりリゾットです。
シェフ力作2品どうぞお楽しみください。
カクテルは昨年お出しした自家製レモンシロップのレモンスプマンテ、今年はレモンモヒートも登場です!
デザートもレモンづくしでいかがでしょうか?
レモンのティラミスと、レモンパイもご用意しました。

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トラットリアレモンさんは、御茶ノ水にある老舗の画材店・レモン画翠さん(同じビルです)が経営するイタリアンレストランです。レモン画翠さんの前身の今井鐵次郎商店は大正12年(1923)創業で、昭和初期には光太郎の母校である東京美術学校内の売店を引き継ぎ、現在も藝大さんの中に姉妹店・画翠さんが続いています。卒業後も黒田清輝や父・光雲の胸像制作、それから後輩に招かれての座談会などのため、なんやかやで母校に足を運んでいた光太郎、売店を訪れていても不思議ではありません。

昭和25年(1950)には、本店の御茶ノ水に喫茶部ができ、それが現在のイタリアンレストランとなったそうです。こちらでは、愛媛県の脇農園さんと提携し、国産レモンを使ったメニューを充実させているとのことで、そのフェアとなります。

脇農園さんのご主人が、光太郎の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)に触発されてレモン栽培を思い立ったというのですから、不思議な縁を感じます。

レモンといえば、やはり「レモン哀歌」からのインスパイアの要素もあるという米津玄師さんの「Lemn」。遅ればせながら購入しました。心にしみる歌ですね。そういえば、米津さんの故郷は愛媛に隣接する徳島県です。気になって調べたところ、国産レモンの出荷額トップは広島県。第2位が脇農園さんのある愛媛県、徳島県は19位でした。
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昨日発効された日欧EPAや、数年前から話題のTPP環太平洋パートナーシップ協定などの影響で、日本の農業も転換点を迎えつつあり、レモンも今後どうなるか、というところですね。国産レモン農家さんにはがんばっていただきたいものです。

というわけで、トラットリアレモンさんの「脇農園レモンフェア」、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

雲と岩とのグロテスクさは想像の外にあるが、凡て宇宙的存在の理法に、万物を統一する必然の道が確にあると思はれる節がある。それは此等無生物の形態生成に人間や動物と甚だよく似たデツサンが用ゐられてゐる事だ。逆には、人間や動物の形態は此等物質の形態されると同じ機構上の約束によつて出来てゐるものと考へられる。

散文「三陸廻り 四 雲のグロテスク」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

雲や岩石、動物や人間(それからここに書かれていませんが、植物なども想定しているかもしれません)など、地球上の万物はその形態生成のあり方に共通する法則的なものがあるのではないか、という言です。だから雲を見て動物に似ていると感じるとか、人間の姿が見えるとかいうのは不思議でないというのです。


光太郎、この後の部分では、地球上に限らず、エイリアンがもしいたら、案外地球人と似た形態なのではないか、それが理にかなっているから、的な発言もしています。

卓越した造形作家の眼で見ると、そういうことなのでしょう。

当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんでの企画展です。 

冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」

期 日 : 2019年1月12日(土)〜3月24日(日)
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時 間 : 9時から17時まで
料 金 : 一般 430円(340円) 高・高専・大生 320円(250円) 小・中生 160円(120円)
       ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 : 毎週月曜日、1月15日、2月12日(1月14日、2月11日は開館)

草野心平は、天性の詩人でしたが、自身と家族のために行った職業は13を数えます。それは何一つ詩人の副業でありませんでした。その一つ、居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)3月に東京都文京区田町に開店しました。同店は昭和30年4月に新宿区角筈に移転し翌31年12月に閉店しますが、この約5年間、ここには「文学仲間との怒号の議論、客との喧嘩、連日の宿酔、そして執筆」と独特のエネルギーが渦巻いていました。
 本展では、「火の車」時代の心平を、①火の車開店まで、②火の車開店以後、③火の車常連客、さらに④草野心平・宮沢賢治・高村光太郎の食のエピソードの4つにわけて紹介します。

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関連イベント

ギャラリートーク   1 月12 日㈯13 時30 分 要観覧料

居酒屋「火の車」一日開店  期日 3月10日(日)
 草野心平が開いていた居酒屋「火の車」で、心平が命名したお品書きにちなんだ料理を試食します。
 ■寸劇「火の車時代」 11 時30 分~11 時50 分 常設展示室
 ■「火の車」ランチタイム
   料理人 中野由貴氏、文学館ボランティアの会会員 12 時~12 時30 分 小講堂 要申込
 ■食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食事」
   講師 中野由貴氏(宮沢賢治学会会員・料理研究家) 13 時~14 時 小講堂
 ●お申し込み方法 電話、往復はがき、FAX、E-mail のいずれか
 ●定 員 先着50 名(2 月10 日より受付開始)
 ●参加料 500 円(所定の観覧料も必要です)


居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)、心平が小石川に開いた怪しげな居酒屋です。のち、新宿に移転しました。最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京した光太郎もたびたび足を運んでいます。

一昨年には同館で「春の企画展 草野心平の詩 料理編」が開かれ、「火の車」に関する展示も為されましたが、今回は「火の車」をメインとするようです。光太郎にも触れて下さるようで、ありがたいところです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

嵐の通り過ぎた今となつては、首をきられた人も斬つた人も、みんな何だかなつかしい。君達は本気に苦しんだ。さうしてみんな死んだ、何しろみんな死んでしまつたのだ。どつちが強いも弱いもない。

散文「ルイ十六世所刑の図」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

この年、松屋で開催された中世期版画展の際に購入した、フランス革命を題材にした版画に寄せる文章の一節です。「本気に」人生を送ることの尊さを重んじた光太郎らしい発言です。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第11号が届きました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

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今号は「ラムチョップ(骨付きラム)とゴボウチップス」だそうで、昭和26年(1951)のクリスマスの時期の日記から考案されています。

12月25日(火) 昨夜雪少しふる、くもり、弘さん買い物してくる、山羊肉のため千円提供。(略)田頭さん夫人立よる、クリスマスのラジオをきく、校長さんくる(略)

12月26日(水) 終日雨、ひる頃阿部博さん来訪、リンゴ、山芋、岩手川一升もらふ。弘さんにゴボウ及び山羊骨付き肉をもらふ。昨日屠殺、隣人等と饗宴せし由、昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。

光太郎が食したのは骨付きラムといっても、山羊だったようです。「弘さん」は光太郎の暮らした山小屋の付近の開拓地に入っていた青年、「田頭さん夫人」は先般亡くなった高橋愛子さんのお母様、「校長さん」は、高橋愛子さん同様、この地で光太郎の語り部を務められている浅沼隆さんのお父様で、近くの山口小学校校長にして光太郎歿後は花巻高村光太郎記念会事務局長も務められた故・浅沼政規氏。

「阿部博さん」は花巻石神町のリンゴ農家。宮沢賢治の教え子でもありました。平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた「甘酸是人生」の書を贈られた人物です。

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岩手川」は現在も生産されている盛岡の地酒です。ケーキを野生動物に食べられてしまったというエピソード、笑えますね。

クリスマスといえば、12月16日(日)、花巻高村光太郎記念館さんでは、「クリスマススペシャルコンサート」が開催されました。当方、欠礼いたしましたが、館のブログサイトにレポートがアップされています。ご覧下さい。

また、「平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 光太郎の食卓」が開催中。展示風景の画像が追加で送られてきました。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

春になると絵画の展覧会が始まる。始まる前になると辻々にビラが張り出され、人々は美しい衣裳をきて、先を争つてそれに出掛ける。

散文「仏蘭西の春」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

留学していたパリの思い出を綴ったエッセイの一節。

パリの春の展覧会は「ル・サロン展」です。光太郎ら新進の芸術家はあまり好まなかったアカデミックな展覧会ですが、一般市民がこぞってそれを観に行く風習が根付いている点には、芸術後進国の日本人として、敬意を表しています。

智恵子の故郷、福島二本松でその顕彰活動に取り組む智恵子のまち夢くらぶさんの主催による「高村智恵子没後80年記念事業」。これまでに「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」、「全国『智恵子抄』朗読大会」などが行われましたが、その最後のイベントです。  

高村智恵子没後80年記念事業 智恵子カフェ

期 日 : 2018年12月16日(日)
会 場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3番地1
時 間 : 午後1:00~
料 金 : 一般 1,000円  中高生600円
申 込 : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷 0243-23-6743

内 容 : 
 第一部 紙芝居 「夢を描いた人 ~高村智恵子の生涯」
  読み聞かせ 坂本富江さん(太平洋美術会・高村光太郎研究会)
 第二部 智恵子カフェ
  智恵子スイーツパーティー 智恵子抄しゃべり場

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第一部が紙芝居だそうです。制作、そして演じられるのは坂本富江さん。明治末、智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会に所属され、これまでも智恵子の生涯を描いた紙芝居を二本松で上演なさっている他、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』というご著書もあり、今年は智恵子生家での個展も開かれました。

第二部は智恵子カフェということで、市内外のメーカーさんが作った智恵子の名を冠したスイーツを食べつつ、智恵子についての思いを語り合うそうです。

「ほんとの空」の下、安達太良山も雪化粧に被われているようです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

小生当市美術学校へ入りてより毎日先生と喧嘩腰にて勉強致し居り、面白き事かぎり無く候。小生は俗悪なる一種の亜米利加趣味を嫌ふこと甚だしく候。

散文「紐育より 五」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

「美術学校」はアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク。現存します。入学前に約3ヶ月、助手として雇ってくれたガットソン・ボーグラムが教鞭を執っていました。他の生徒から人種差別的な嫌がらせに遭い、怪しげな柔道技でやっつけたというエピソードも残っています。生徒だけでなく、先生とも丁々発止だったのですね。

光太郎第二の故郷・花巻から企画展情報です。 

平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~  「光太郎の食卓」

期    日 : 平成30年12月8日(土)~平成31年1月27日(日)
会    場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時    間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料    金 : 小中学生 150円(100円)  高等学校生徒及び学生 250円(200円)
        一般 350円(300円)
   ( )は20名以上の団体
休 館 日 : 12月28日~1月3日

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市総合文化財センター、花巻市博物館、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

高村光太郎記念館 「光太郎の食卓」 太田村山口での山居生活で、農耕自炊の生活を目指していた高村光太郎の「食」にまつわるエピソードや資料を紹介します。

関連行事

ぐるっと歩こう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと協賛館1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げますので、この機会に足を運んでみませんか。

ぐるっと花巻再発見ツアー
 企画展開催館を一度にまわれるバスツアーを開催します。無料で参加できますので、ぜひお申し込みください。
 1回目:平成30年12月13日(木曜日)午前9時から午後3時10分
 2回目:平成31年1月10日(木曜日)午前9時から午後3時10分

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昨年から高村光太郎記念館さんがこの試みに参加、今年は「光太郎の食卓」だそうです。

まだどのような展示が為されるか、具体的には聞いておりませんが、これまでに女性スタッフを中心に取り組んできた「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」、「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part2」といった市民講座や、隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんでの連載「光太郎のレシピ」などでの蓄積を生かすのだと思われます。


ところで、『広報はなまき』の11/15号に、こんな記事も出ています。

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光太郎愛用の巨大ゴム長靴の紹介です。こちらは常設展示のコーナーで展示中です。

当方、年明けにでも行ってこようかと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

岩手に来て思ふに、岩手は日本の脊梁の最強部たる地勢を持ち、人間を持つ。岩手の文化はやがて日本を支へる強力な柱とならう。

散文「「小田島孤舟歌碑」序」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身で、光太郎同様、雑誌『明星』に依った歌人であり、明治41年(1908)、岩手新詩社を興した小田島孤舟の著書に寄せた序文の一節です。

情報を得るのが遅れ、始まってしまっていますが、京都から企画展示情報です。 

平成30年度秋季特別展「奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣-寺田出身の青年が作った大正サロン-」

期 日 : 平成30年10月20日(土)~年12月16日(日)
場 所 : 
城陽市歴史民俗資料館 京都府城陽市寺田今堀1 文化パルク城陽西館4階
時 間 : 午前10時から午後5時
料 金 : 大人 200円(160円) 小中学生 100円(80円)(  )内20名以上の団体
休 館 : 11月5・6・12・19・26・27日、12月3・10日

 寺田村出身の青年奥田駒蔵が東京で作った店「メイゾン鴻乃巣」は、明治から大正にかけて近代文学を担った文豪たち、芸術家たちが集う本格的なフレンチレストランでした。この特別展では、「鴻巣山人」と称し、永井荷風、与謝野晶子など錚々たる文学者じゃ、芸術家に愛された奥田駒蔵と彼の生涯、また少年時代の駒蔵が過ごした寺田村の当時の様子をあわせて紹介します。この展示の実施にあたっては、奥田駒蔵氏の孫である奥田恵二氏の妻であり、エッセイストである奥田万里氏の著書『大正文士のサロンを作った男-奥田駒蔵とメイゾン鴻ノ巣』の内容に沿いながら実施します。

展示構成
 1 奥田駒蔵とふるさと寺田村
  『カフェエ夜話』 寺田尋常高等小学校写真・資料 大正~昭和初期の鴻巣山関係資料
 2 西洋料理店「メイゾン鴻乃巣」とは
  『文章世界』明治44年9月号 『白樺』大正3年9月号 サモワール
  「メイゾン鴻乃巣創業の地」説明版写真 京橋鴻乃巣新装落成記念ポスター 
  カラトリー、すっぽん鍋
 3 メイゾン鴻乃巣に集った人々
  木下杢太郎写真、「該里酒」(『食後の唄』収録) 北原白秋写真、「屋根の風見」
  芥川龍之介写真、
  『羅生門』出版記念会写真 志賀直哉写真、
  志賀の手がけた鴻乃巣の広告(『白樺』第3巻10月号)他
  関根正二「子供」 与謝野鉄幹・晶子夫妻写真、駒蔵葬儀の写真、晶子の追悼歌他
 4 自由人奥田駒蔵-その人と作品-
  掛軸「蛙百態」「洋蘭」 掛軸「父上像」「南京と蜜柑」 屏風「蛙」 
  版画「ダリア」「柿」他スケッチ画5点
  奥田駒蔵と家族の写真 『カフェエ夜話』

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関連イベント

第83回文化財講演会 祖父奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣
 講師 奥田恵二氏、奥田万里氏
 日時 平成30年11月23日(金・祝) 13:30~15:00
 場所 文化パルク城陽ふれあいホール
 申込み・参加費 不要

ギャラリートーク
 日時 10月27日(土)、11月17日(土)、12月9日(日) 14:00~15:00
 場所 城陽市歴史民俗資料館特別展示室
 講師 資料館職員


光太郎、北原白秋、木下杢太郎らの芸術運動「パンの会」の会場として使われ、光太郎の詩文にたびたび登場する日本橋にあったカフェ「メイゾン鴻乃巣」。創業者の奥田駒三が現在の城陽市の一部、寺田村出身ということで企画されたようです。

駒三の令孫にあたる奥田恵二氏、奥田万里氏夫妻の地道な調査により、平成27年(2015)には『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』という書籍が刊行され、興味深く拝読しました。関連行事としての講演ではご夫妻が講師を務められます。

メイゾン鴻乃巣に集まった文士たちに関する展示もあり、「パンの会」での光太郎の朋友・木下杢太郎や北原白秋、それから「パンの会」とは関わりませんが、光太郎の師・与謝野夫妻の名が上がっています。おそらく光太郎についても名前程度は出していただいているのでは、と思われます。

来月もあちこち飛び回るつもりでおりますが、都合をつけて観に行くつもりです。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は生きいきした人生の礼讃者である。明るい、健康な、いぢけない、四肢五体に意識と智慧と精神とのはつきり行き渡つてゐる人生の渇仰者である。暗愚な、おどおどした、無智な、無意識な人生からは一刻も早く脱したいと思ふ。
散文「日本家庭百科事彙」より 昭和3年(1928) 光太郎47歳

彫刻に、詩に、脂ののっていた時期の文章だけに、こういう発言となっています。ただし、パートナー・智恵子の方は実家の長沼酒造の経営が傾きはじめ、油絵にも絶望、徐々に精神の均衡を保てなくなっていました。

まずは状況説明を兼ねて、『岩手日報』さんの記事。9月2日(日)、花巻からの帰りがけにゲットして参りました。

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もう一紙、『岩手日日』さんにも載りましたが、一日遅れだったため、現物はゲットできず。さらにネットでも有料会員限定の記事なので読めません。どうやら当方の顔がどアップで出ているようなのですが(笑)。

用意したレジュメを掲載します。画像をクリックしていただくと拡大します。幼少期から最晩年まで、光太郎や周辺人物の遺した詩文から、「食」に関する内容の部分などを抜き出しました。ただ、光太郎に関しては、全てを網羅するには準備期間が短く、書簡類、短歌、俳句などはほぼ割愛。随筆的なもの、対談・座談、日記、そして詩に限定しました。
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まずは幼少年期。明治中期から後期です。

廃仏毀釈の影響で、彫刻の注文仕事が激減していた父・光雲。光太郎が生まれた明治16年(1883)頃が、窮乏のどん底だったそうで、光太郎幼少期の一家の食事は、漬物系に豆などがメインディッシュ、魚が出れば御馳走という状況でした。

その後、光雲が東京美術学校に奉職してから徐々に生活は好転し、海外留学直前の日記を見ると、牛肉なども食卓に並ぶようにはなりました。しかし、まだまだつつましいものでした。

光太郎実弟の豊周は、光太郎が留学に出た明治末になって初めてカレーを口にし、「こんなうまいものが世の中にあったのか」という感想を記しています。光太郎自身も留学に出て、初めて洋食らしい洋食に出会ったようです。明治39年(1906)~同42年(1909)の留学時代。

以前にも書きましたが、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で、自分で作っていたことが日記に残されているボストンビーンズなどが現れます。イタリアでは、パスタの食べ方が分からなくてうろたえた、というのが笑えます。
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帰国後、智恵子との生活。欧米で親しんだ洋食も取り入れ、和洋折衷の食生活となったようです。朝食はパンにオートミールなど、のちの高度経済成長期の共働き家庭を先取りしている感がありました。夕食は和食系が多かったようです。
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決して豊かでなかった生活の中で、野草を食べるなどの工夫していたこともうかがえます。しかし、金が入ると贅沢もしていたようで、朝からサラダにマヨネーズ(当時は高級品)をかけて食べたり、玉露のお茶を常用したりしていた光太郎を、豊周は「世間一般とは物差がちがう」とし、容赦ありません。

昭和初期、智恵子が心を病み、転地療養、入院ということで、光太郎のひとり暮らしが始まります。もっとも、それ以前から智恵子は福島の実家に帰っていた時期が長かったのですが。そして智恵子が亡くなった前後から、泥沼の戦争……。日本全体が食糧不足に陥りますが、この時期も、それなりに工夫していたようです。
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そして、智恵子と暮らした思い出深い駒込林町のアトリエ兼住居が空襲で全焼。宮沢賢治の実家の誘いで花巻に疎開し、終戦を迎えます。その後も東京に帰らず、戦時中に詩文で若者を鼓舞して死に追いやった反省から、郊外旧太田村での蟄居生活。
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穀類は配給に頼らざるを得ませんでしたが、野菜類はほぼ自給。あとは、旧知の人々が、光太郎を気遣って、いろいろなものを送ってくれ、それで凌ぎました。戦後の日記はかなり残っており、どのような食事をしていたかがほぼわかります。それらをもとに、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

やはりいろいろ工夫をし、厳しい環境の中でも豊かな食生活を心がけていたようです。山奥の陋屋にいながら、仏蘭西料理的なものも自作したりしています。逆に、真実かどうか、リップサービスで「盛ってる」のではないかとさえ思われますが、座談会では蛙まで捕まえて食べたと発言したりもしています。そこで、見かねた周囲の人々が、光太郎を招いて豪勢な会食会を開いたことも。

亡き宮沢賢治を敬愛していた光太郎ですが、有名な「雨ニモマケズ」の「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」では駄目だ、という発言は繰り返ししていました。これからの日本人は、肉や牛乳などをもっと積極的に摂取し、体格から変えなければ欧米に伍していけない、と。戦後、各界からそういう提言がありましたが、光太郎の発言は、それらを先取りしていたように思われます。

最後に、青森十和田湖畔に立つ「乙女の像」制作のため、再び上京した昭和27年(1952)以降。
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日記によれば、上京してからしばらくは、かなり外食もしていました。何だかんだ言って、やはりプロの料理には舌鼓を打っていたようです。アトリエを借りた中野にほど近い新宿がホームグラウンド。当会の祖・草野心平が経営していた「火の車」という怪しい居酒屋(笑)がありました。あとは生まれ故郷に近い浅草・上野方面、それから日本橋周辺にもよく出没しました。時には渋谷、目黒、神田、赤坂などにも。こってり系の店がけっこう多いのも特徴です。中華、うなぎ、牛鍋、天ぷら、はたまたロシア料理や柳川鍋など。最頻値は寿司屋でしたが。今も残る店がかなりあり、今後、小分けにして訪れてみようと思っています。
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最晩年、体調の悪化に伴い、外出を控えるようになると、アトリエの家主・中西夫人に頼んで食材などを買ってきて貰い、自炊。やはり肉類が目立ちます。

今回、あらためて光太郎の食生活を辿ってみると、やはりその時期その時期の生活全体が端的に象徴されているように感じました。また、光太郎という巨人を作り上げる上で、「食」の果たした大きな役割も実感できたように思います。結局、座談会で光太郎が述べていますが「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです。」の一言に尽きるように思われます。


【折々のことば・光太郎】

古来多くのよい詩はやはり必ず人間性の基底に強く根を張つてゐる。作者個人のものであつてしかし同時に万人のものである。それは個人を超え、時代を超え、思想を超える。どういふ時にも人の心にいきいきと触れる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

光太郎にとっての目指すべき「詩」の在り方であると同時に、74年の生涯で、光太郎にはそれが体現できたと言えましょう。

昨日、花巻にやって参りまして、本日、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきました。
今回は、花巻まで愛車を駆って行き、昨日の早朝に千葉県の自宅兼事務所を出発、午後には着きました。ちょうど秋田小坂町の皆さんがバスで来られていました。

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下の画像は、小坂町出身の出版社・龍星閣主人の澤田伊四郎が印税がわりに建ててやった別棟。皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

その後、記念館さんで今日の講座の打ち合わせ。

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打ち合わせを終えて宿へ。今回、鉛温泉♨さんにお世話になっております。


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かつて光太郎が堪能した宿名物の深さ1.3 メートルの立って入る「白猿の湯」や、美味しい料理を満喫しました。

今朝、再び記念館さんに参りまして、講座の受講者の皆さんを待ちました。会場は昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館。

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当会の祖、草野心平が建立に尽力し、看板の文字も揮毫しています。現在は「森のギャラリー」として、こうしたイベントや市民の方々の作品展などに活用されています。

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現在は地元太田地区ご出身の方の版画などが展示されており、光太郎をモチーフとした作品も。

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やがて受講者の皆さんご到着。付近の自然観察というのもメニューに入っていて、そのひとコマです。

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このあと、当方は光太郎が書き残した詩文をもとに、幼少期から最晩年の光太郎の食生活を紹介しました。細かな内容はまた帰ってからブログに書きます。

さらに藤原記念館館長、高橋花巻光太郎記念会事務局長からもお話。

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その後、光太郎が児童を孫のようにかわいがった旧山口小学校(現在はスポーツキャンプむら屋内運動場)で、山口小学校卒業生の方のお話を拝聴。

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さらに地区の公民館的な施設で昼食。光太郎が残した日記などを元にメニューを組んだ「光太郎弁当」(笑)。

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ヘルシーなメニューで美味でした。いずれ商品化も考えているとのこと。

記念館さんに戻り、展示の見学。現在は企画展「光太郎と花巻電鉄」開催中です。

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ここで皆さんとはお別れし、このあと当方は花巻市街でぶらりと光太郎の足跡をたどりました。いずれレポートいたします。

今夜も鉛温泉♨さんに泊まり、明日、ゆっくり帰ります。

光太郎第二の故郷・岩手花巻から市民講座の情報です。 

光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ

期   日 : 2018年9月1日(土)
時   間 : 午前9時から午後3時20分まで
会   場 : 花巻高村光太郎記念館他 (集合:まなび学園ロビー バスで移動)
料   金 : 400円
対   象 : 花巻市内に在住または勤務する方 小学生は保護者同伴 定員20名

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高村光太郎記念館に併設の「森のギャラリー」での講話は、高村光太郎記念館長・藤原睦氏、花巻高村光太郎記念会事務局長・高橋邦広氏、それから当方もお話をさせていただきます。当方からは、光太郎の生涯を通じ、どのような食生活を送っていたか、光太郎本人や周辺人物の証言などから追いかけます。

その他、マイクロバスを使い、市街の桜地人館さん、光太郎が碑文を揮毫した賢治詩碑などをめぐる予定で、対象は花巻市在住または勤務の方限定となっています。

終了後、このような話をしたよ、というのはこちらのブログでレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

詩がいつまでも幼稚であつていいといふのではない。成長すればする程、複雑微妙になればなる程、技術の高度化が加はれば加はる程、尚更思はくを絶した絶対境につきすすまねばならない。それが詩のよろこびである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

一般読者の投稿詩に対するアドバイスですが、かつての光太郎自身もこのようにして成長してきたんだよ、ということなのでしょう。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市。そちらの広報紙『広報はなまき』さんの今月15日号の、「花巻歴史探訪 〔郷土ゆかりの文化財編〕」という連載で、光太郎の遺品が紹介されています。

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題して「光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) 昭和20年花巻空襲被災当時の所持品」。その通りで、昭和20年(1945)8月10日、東京を焼け出されて疎開していた花巻の宮沢賢治の実家で再び空襲に遭った際に身に着けていたものです。鳶口の柄には、「高村光太郎」と記名してあります。

お茶の水女子大で教鞭を執っていた椛澤ふみ子(佳乃子)に宛てた、8月24日付の長い書簡の中に、「警報と同時に小生は例の通り、鉄兜をかぶり、飯盒、鉈を腰にぶらさげ、バケツと鳶口とを手に持つてゐたので……」という一節があります。

おそらく花巻高村光太郎記念館さんの所蔵なのでしょうが、以前に頂いた所蔵品のリストには入っていなかったように記憶しております。当方の記憶違いかも知れませんが。或いは、最近、新たに遺品類が出てきたやに聞いておりますので、その中のものかも知れません。月末にはまた行って参りますので、確かめてみます。


それから、やはり花巻高村光太郎記念館さんの協力で為されている『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん第9号(8/10発行)の連載、「光太郎レシピ」。

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今号は、「ボストンビーンズとアンチョビサンド」。それぞれ花巻郊外太田村の山小屋での日記に記述があるものです。

ボストンビーンズは、インゲンマメなどをメープロシロップを使った甘辛いソースで調理した料理。なんと、明治39年(1906)から翌年にかけて留学で滞在していたニューヨークでこれを食べていたという記録もあります。

食事はスヰトン鍋の自炊ときめてゐたが、外へ出るとデリカテツセンに安い出来合ひの食料が何でもあるので其を五仙(セント)十仙と買つて来て使つた。昼食は工場の近くの店で十仙均一のボストンビーンズや、フオースや、ホツトケークなどを一皿食ふ事にしてゐた。
「ヘルプの生活」昭和4年(1929)

「工場」は、おそらく「こうじょう」ではなく「こうば」と読み、光太郎が助手を務めていた彫刻家、ガットソン・ボーグラムのアトリエです。

ちなみに、来月1日に、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」があり、講師を仰せつかっております。とりあえずじょうきのように、光太郎の「食」に注目して生涯を概観しようと思っております。詳細はまた後ほど。


【折々のことば・光太郎】

小生は好んで古今の俳句をよみ、且ついろいろに噛み味つて居ります。此の世界に稀な短詩型の持つ一種特別な詩的表現は、小生自身の詩作に多くの要素を与へてくれます。

散文「中村草田男雅丈」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

俳人・中村草田男の主宰する雑誌『万緑』創刊号に載った、おそらく中村宛の書簡そのままから。のち、中村の句集の序文としても使われました。

光太郎自身、少年期から俳句の実作に親しみ、それは戦後まで断続的に続きました。また、確かに詩の中にも俳句的発想が見られるような気もします。

雑誌系、いろいろ届いております。

昨年刊行された隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん、第8号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、毎号、「光太郎レシピ」というページが設けられています。太田村在住時の日記、周辺人物の回想などから、光太郎の食卓を再現する試みで、好評を博しているとのこと。今号は「アカシアの天ぷらとアカシアはちみつ入りヨーグルト」。なんともお洒落ですね。

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続いて『月刊絵手紙』さん、2018年7月号。こちらも花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

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今号は、詩「山菜ミヅ」(昭和22年=1947)。過日行われた花巻高村光太郎記念館講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」でも取り上げられた、光太郎がことのほか好んだ山菜を謳った詩です。

光太郎の書いたミヅのスケッチに活字版で詩の全文を添え、さらに見開き2ページで光太郎の詩稿を載せて下さいました。おそらく初出発表誌の『婦人公論』に送られたものと推定されます。


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もう1冊。静岡県の伊東市で刊行されている年刊の同人誌『総合文芸誌 岩漿』さん。詩や小説で、250ページ超の立派なものです。主宰の方が、光太郎とも交流のあった詩人・前田鉄之助に師事されたそうで、さらに光太郎を心の師として詩作に励んでこられたとのこと。で、当方が座談会の司会を務めさせていただいた今年の花巻高村祭においで下さったそうです。

その直後に、昨年刊行された第25号を送って下さいました。そちらの「編集後記」で光太郎に触れて下さっていましたが、1年前のものなのでこのブログではご紹介しませんでしたが、このほど今月刊行された第26号が届きました。こちらでも「編集後記」で光太郎に触れて下さっています。

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光太郎、というより、昨年亡くなった大岡信氏に関してがメインですが、ありがたく存じます。やはり静岡の文芸同人誌ということで、三島出身の大岡氏を取り上げられたのでしょう。


今後とも、さまざまなメディアに光太郎が取り上げられることを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

高田君が粘土をいじる巧みさは、これも不思議である。同君の手は料理人のいふ「ウマ手」に属する短い、太い、切つたやうな指を持つてゐる手であつて、一寸考へると、あの指がどうしてこんな繊細な技術に堪へるのかと思ふほどであるが、それがまつたく万能の指なのである。

散文「高田君の彫刻」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「高田君」は、高田博厚。17歳年長の光太郎と知遇を得、彫刻の道を志し、光太郎等の援助で昭和6年(1931)に渡仏、以後、30年近くをパリで過ごしました。早世した荻原守衛を除けば、光太郎が最も高く評価していた同時代の彫刻家です。

それに応え、高田は光太郎の歿後に帰国してからは、光太郎の胸像を製作したり、高村光太郎賞の選考委員を務めたりと、光太郎顕彰の先鞭をつけてもくれました。

「ウマ手」に関しては、他の散文に詳しく記述がありますので、またのちほどご紹介します。

先週9日、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」が実施されました。

地元紙『岩手日日』さんの報道。 

光太郎 より身近に 記念館講座 ゆかりの地巡る

 高村光太郎記念館講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」は9日、花巻市内で開かれた。参加者は詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)ゆかりの地をバスで巡ったり講話に耳を傾けたりして、花巻で一時期を過ごした偉人に思いをはせた。
 1945年に花巻に疎開し旧太田村山口の小屋で戦後7年間、地域の人たちと交流しながら暮らした光太郎への理解を深めようと同記念館が毎年開催。市内から親子ら約30人が参加した。
 同市桜町の桜地人館や詩人で童話作家の宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩が刻まれた詩碑を見学後、同市太田の高村山荘に移動。花巻高村光太郎記念会のメンバーや花巻観光協会ボランティアガイドの説明を受けながら、光太郎が暮らした小屋や展望台、光太郎の詩「雪白く積めり」が刻まれた詩碑など山荘一帯を歩いて巡った。
 ガイドらは小屋を2層のさや堂で覆い保存していることや、展望台がある高台から光太郎が妻智恵子の名を叫んでいたこと、詩碑の下には光太郎のひげが埋められていることなどを紹介。参加者はメモしながら聞き入っていた。
 同市東和町安俵、主婦小原由起子さん(43)は、長男佑太君(7)と初めて参加。「光太郎のことを知るきっかけになればと思って参加した。大変な暮らしだったことが分かった」と改めて理解を深めた様子。佑太君は「学校の勉強と違って観察したりいろいろなものを見つけたりすることができて面白い」と楽しんでいた。
 参加者は昼食で光太郎の日記から再現した食事を味わい、講話にも耳を傾けた。

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その後、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフ女史からメールで詳細なご報告や画像が送られてきましたので、捕捉します。

郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺散策の際の資料。「見つけよう!」だそうです。

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いかにも自然が豊かな場所だというのが分かりますね。

こちらは、光太郎が好んで食べ、詩にもしている山菜・ミヅ。正式にはウワバミソウというそうです。当方も先月行われた第61回花巻高村祭の折にいただきました。シャキシャキした食感がよく、また、食べきれずに持ち帰った分は、うどんに入れて山菜うどんにしてみましたが、goodでした。

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その後、古民家を改修して集会所的に活用している「新農村地域定住交流会館・むらの家」で、地区の祭りに参加、地元の太田小学校の子供たちに混じって、餅つきや魚つかみに挑戦したそうです。

昼食は記事にあるとおり、光太郎の日記から再現された弁当。ラベルは特製のようです。

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箸袋にメニューが記載されていますが、よもぎ御飯、そば粉パン、ホッケのトマトソース、シュークルート、ミヅの吸い物、焼き鳥、煮豆、ヨーグルトだそうです。商品化してもいけるような気がします。


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昨年は当方も講師に加えていただき、光太郎文筆作品に記された星々の話をさせていただきましたが、その時のレジュメを転用し、天文サークルの方が講話「光太郎と星」をなさったり、星座早見盤の使い方の講習などを行ったりしたとのことです。

その後は記念館さんの自由見学だったそうです。


この手の地域密着型の講座――特に若い世代に向けて――というのは、非常に大切な試みだと思われます。

記念館さんでは、来月14日から、かつて花巻とその郊外の村々を結び、二つの路線が走っていて、光太郎もたびたび利用したた花巻電鉄にスポットを当てた企画展「光太郎と花巻電鉄」を開催予定です。ジオラマ作家の石井彰英氏にご協力いただき、光太郎が暮らしていた頃の昔の花巻とその周辺のジオラマを制作していただいており、そちらが展示される予定です。

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来週には、東京・大井町の工房から搬出だそうで、当方も立ち会う予定でおります。

また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

リーチの美は正統な伝統から生れながら、現代感覚の相当大胆な表現につき進んでいるが、病的のうるささには落ちていない。それはリーチの人柄の如き好ましい新である。恐らく健康な原始人の感覚を内蔵しているリーチの先祖がえりの新であろう。この新は下司ばつていない。とりすましていない。物欲しげでない。まして神々のへどではない。

散文「リーチ的詩魂」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

このところこのコーナーでご紹介している、バーナード・リーチの陶芸作品に関してです。他者の作品評ではありますが、光太郎自身の目指す芸術のあり方もよく表現されています。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松ネタで攻めます。

まず、地元紙『福島民友』さんに昨日載った記事から。  

道の駅・安達でレモンドレッシング発売 安達東高生の蜂蜜使用

 二本松市振興公社が運営する道の駅「安003達」は5月31日、同市の安達東高の生徒が作る蜂蜜「あいさつ坂」を使った新商品「安達ハチミツと有機レモンのドレッシング」を同道の駅で発売した。
 採れたての蜂蜜や、同市出身の洋画家高村智恵子が死の床でかんだレモンにちなんで国産レモンを利用したオリジナル限定商品で、会津若松市の会津ブランド館で製造する。
 ドレッシングはサラダだけでなく、唐揚げなどの揚げ物にも合うよう工夫した。同道の駅で試食した同校3年の生徒3人は「最初はレモンの酸味が強く、後から蜂蜜の甘みがあっておいしい」と口をそろえた。
 問い合わせは同道の駅の上り線、下り線へ。


こちらのドレッシング、6/2(土)の朝、テレビ朝日さん系で放映されている紀行情報番組「朝だ!生です旅サラダ」で紹介されました。

「ラッシャー板前の生中継」というコーナーで、その名の通り、レポーターはラッシャー板前さん。

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それから、KFB福島放送・山崎聡子アナウンサー。

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ドレッシング、というより、その原料となっている蜂蜜を、県立安達東高校さんの農業コースの生徒さんたちが造作っている、という紹介がメインでした。

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ワイプのスタジオMC・神田正輝さんの表情が何とも言えませんね(笑)。

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その蜂蜜を使って商品化されたもの、ということで、まずは蜂蜜そのもの「あいさつ坂」。

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同校正門前の坂の名にちなむネーミングだそうです。

後半は、道の駅「安達」智恵子の里に入っている二本松ベーカリーさんの方々がご登場、蜂蜜を使った料理をご紹介。

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その中で、レモンドレッシングも紹介されました。

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最後は高校生の皆さんも料理を堪能。

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こうして頑張っている若い人達の姿を見ると、まだまだこの国も捨てたもんじゃないと思えます。

ところで、ラッシャーさん、朝早い生中継のため、前日から二本松入りし、智恵子生家・智恵子記念館にほど近い「かねすい智恵子の湯」さんに宿泊されたそうです。ラッシャーさんのブログで、細かくレポートされています。


併せてお読み下さい。


当方、今週末には二本松に隣接する大玉村に行く予定です。余裕があれば、智恵子が死の床でかんだレモンにちなんで国産レモンを利用したドレッシング、購入して参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

その描法の強い明暗とキヤロスキユロとは、遠くフランス十八世紀の伝統を引いてゐながら、又それが近代的息吹に蘇つてゐることを感ぜしめる。

散文「ロダンの素描」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

ロダンのデッサンに関する散文です。「キヤロスキユロ」は「chiaroscuro」、仏語かと思ったら伊語で、明暗のコントラストを表します。

ロダンにしても、敬愛していた光太郎にしても、古くからある技法を一切合切否定するのでなく、そのおいしい部分を咀嚼して自分流にアレンジするということに対しては、貪欲とも言える面を持っていました。

この文章、昭和15年(1940)4月刊行の雑誌『造形芸術』に掲載されました。同誌の表紙に「第八号」とあるため、『高村光太郎全集』の解題では「第二巻第八号」となっていますが、正しくは「第二巻第四号、通巻第八号」の誤りです。当時としては珍しく、原色版の口絵が掲載されています。

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花巻高村光太郎記念館さんから、市民講座の情報です。

光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ

期   日 : 2018年6月9日(土)
時   間 : 午前9時~午後3時20分
対   象 : 花巻市内に在住または勤務する方 小学生は保護者同伴
集 合 場 所 : 生涯学園都市会館(まなび学園)ロビー  貸し切りバスで移動
料   金 : 1,000円
問合・申込    : 高村光太郎記念館 0198‐28‐3012

高村光太郎の太田村山口で暮らした山村周辺の自然豊かな里山と展示作品を鑑賞します。
光太郎が日記に書き残していた、当時の自炊生活の食卓を再現して光太郎の世界を感じます。


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詳細日程
 8:50 まなび学園ロビー集合して受付  
 9:00 まなび学園発バス移動
 9:05 賢治詩碑・桜地人館見学(20分)
 9:25 桜地人館出発バス移動
 9:45 髙村光太郎記念館駐車場着
 9:50 高村山荘自然散策(50分)
      あじさいロード自然散策(ガイド)(5分) 
      高村山荘見学(ガイド)(10分)
      展望台見学(ガイド、本舘)(10分) 
      森のギャラリー見学(本舘)(10分)
      トイレ休憩(5分)
      「雪白く積めり」詩碑(ガイド)(5分)
      案内所まで(ガイド)(10分)
 10:40 駐車場集合 出発 バス移動 
 10:45 むらの家見学 祭りへの参加 (55分) 
 11:15 餅つき、魚つかみ体験、釜石交流など
 11:40 むらの家出発
 11:45 旧山口小学校見学(学校門札、ドーム、正直親切の看板など(10分)
 11:55 太田地区振興会館に徒歩で移動
 12:00 昼食会交流会
       光太郎レシピ紹介、受講者感想発表など
 13:00 太田地区振興会館出発バス移動 記念館へ 
 13:25 記念館企画室へ集合
 13:30 講話「光太郎と星」(20分)天文サークル星の喫茶室代表 佐々木一行氏
      DVD視聴(10分)  
      星座早見盤の使い方と星の話(20分) 伊藤 修氏
 14:20 記念館自由見学・休憩(40分)
 15:00 記念館出発バス移動
 15:20 まなび学園着 解散


高村光太郎記念館さん以外にも、市街桜町の光太郎が碑文を揮毫した賢治詩碑、桜地人館さん、太田地区の新農村地域定住交流会館・むらの家さん(ちょうどイベントが開かれているそうで、そちらに合流)、旧山口小学校跡地などを回るそうです。

高村光太郎記念館さんでは、昨年も行われました天文サークルの方によるお話(星の観察会はまた別個)などが盛り込まれていますし、昼食は光太郎記念館さん女性スタッフによる、光太郎が食べたメニューの再現だそうで、もりだくさんの内容です。

市内在住か勤務の方対象ですが、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

ああ研究! 研究とは何だらう! 柱の数を数へたり、敷石の色を調べたり、窓の大きさを計つたり、様式が何だの、時代が斯うだのと言つて騒ぎ立てるのが研究かしら。馬鹿馬鹿しいと思つた。

散文「ミラノの本寺とダ ヸンチの壁画」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

光太郎はこの年の春、3年超の欧米留学を切り上げて帰国する前に、パリを出発してスイス経由でイタリアを1ヶ月ほど旅して回りました。この文章は帰国後に発表したものですが、現地のレポートを「××君」宛の書簡形式で書いたものです。「××君」は、荻原守衛あたりかと推察されます。

イタリアでは最初にミラノを訪れ、ミラノ大聖堂(ミラノの本寺)やスフォルツェスコ城、そしてサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会でレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を眼にしました。

上記はミラノ大聖堂の荘厳な建築を見ての一節。本当に美しい芸術作品を前にすると、こういう感懐にとらわれるものでしょう。

造形美術に限らず、音楽でも、文学でも、そうだと思います。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村での第61回高村祭に参加して参りまして、花巻高村光太郎記念館さんの新しいパンフレットをゲットして参りました。A4判、三つ折り、オールカラー。

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今年度のスケジュールが掲載されています。

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大きなところとしては、以下の通り。

まず来月、市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」が企画されています。また近くなりましたら精しくご紹介しますが、貸切バスを使い、花巻市街の桜地人館さん見学、郊外の里山散策、昨年も行われました天文サークルの方によるお話(星の観察会はまた別個)などが盛り込まれています。

7月14日からは、企画展「光太郎と花巻電鉄」。かつて花巻とその郊外の村々を結び、二つの路線が走っていて、光太郎もたびたび利用したた花巻電鉄にスポットを当てます。このブログでフライング気味に何度か紹介してしまって、関係の方にご迷惑をおかけしてしまっていたのですが、ジオラマ作家の石井彰英氏にご協力いただき、光太郎が暮らしていた頃の昔の花巻とその周辺のジオラマを制作していただいており、そちらが展示される予定です。

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秋には2回目の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」、12月からは次の企画展「光太郎の食卓」。

昨年刊行された『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに、高村光太郎記念館さんの協力で、毎号、「光太郎レシピ」というページが設けられています。太田村在住時の日記などから、光太郎の食卓を再現する試みで、好評を博しているとのこと。そのあたりともリンクするようです。

こちらが先月発行のマチココさん第7号。まだこのブログでご紹介していませんでした。

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今号は「鶏ガラスープ入りカレーピラフとヤキトリ」。実に美味しそうです。


ついでと言っては何ですが、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』も、昨年度から引き続き、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載を続けて下さっていますのでご紹介します。こちらも高村光太郎記念館さんのご協力が入っています。

最新号の2018年5月号。

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「ことば」は光太郎詩「五月のウナ電」(昭和7年=1932)、挿画は太田村在住時に光太郎が描いたスケッチ帖の中から、薬草としても使われる「ナットウダイ」。


ちなみにマチココさんでは、ジオラマのご紹介もして下さるそうですが、その他、多方面で光太郎智恵子、もっともっと盛り上がって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

美しい生活いふのは伸縮自在なやうに生活を調整して、うしろ暗い事が心に存在せぬ生活である。さうすると自然に生活の外形も美しくなる。無理をした立派さほど醜いものはない。

散文「美しい生活」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

タウン誌のはしりのようなものでしょうか、光太郎が暮らしていた太田村の隣村・湯口村の久保田良致という人物が発行していた謄写版の冊子『若い感覚』に寄せた文章の一節です。

自らの山小屋暮らしを念頭に語っていることはいうまでもありません。

新刊情報です。

文豪と酒 酒をめぐる珠玉の作品集

2018年4月20日 長山靖生編 中央公論社(中公文庫) 定価820円+贅

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漱石、鴎外、荷風、安吾、太宰、谷崎ら16人の作家と白秋、中也、朔太郎ら9人の詩人の作品を厳選。酒に託された憧憬や哀愁がときめく魅惑のアンソロジー。

収録作品  屠蘇……夏目漱石「元日」  どぶろく……幸田露伴「すきなこと」  ビール……森鴎外「うたかたの記」  食前酒……岡本かの子「異国食餌抄」  ウィスキー……永井荷風「夜の車」  ウィスキーソーダ……芥川龍之介「彼 第二」  クラレット……堀辰雄「不器用な天使」  紹興酒……谷崎潤一郎「秦准の夜」  アブサン酒……吉行エイスケ「スポールティフな娼婦」  花鬘酒……牧野信一「ファティアの花鬘」  老酒……高見順「馬上侯」  ジン……豊島與志雄「秦の出発」  熱燗……梶井基次郎「冬の蝿」  からみ酒……嘉村礒多「足相撲」  冷酒……坂口安吾「居酒屋の聖人」  禁酒……太宰治「禁酒の心」  
●諸酒詩歌抄 上田敏「さかほがひ」  与謝野鉄幹「紅売」  吉井勇「酒ほがひ」  北原白秋「薄荷酒」  木下杢太郎「金粉酒」「該里酒」  長田秀雄「南京街」  高村光太郎「食後の酒」  中原中也「夜空と酒場」  萩原朔太郎「酒場にあつまる」


最近流行の、文豪アンソロジーものです。

光太郎作品は、詩「食後の酒」(明治44年=1911)。「雷門にて」の総題で、雑誌『スバル』に発表された5篇のうちの一つです。

  食後の酒003

青白き瓦斯の光に輝きて
吾がベネヂクチンの静物画は
忘れられたる如く壁に懸れり

食器棚(ビユツフエ)の鏡にはさまざまの酒の色と
さまざまの客の姿と
さまざまの食器とうつれり

流し来る月琴の調(しらべ)は
幼くしてしかも悲し
かすかに胡弓のひびきさへす

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ
辛き酒を再びわれにすすむる
マドモワゼル、ウメの瞳のふかさ


「マドモワゼル、ウメ」は、浅草雷門のカフェ「よか楼」の女給・お梅。吉原の娼妓・若太夫に失恋したあと、光太郎は今度はお梅に入れあげ、日に5回も通ったとか。ところがこの年の暮、智恵子と出会い、お梅との関係は解消します。

「ベネヂクチン」は「bénédictine」。仏国ノルマンジー地方のベネディクト派修道院に昔から伝わるリキュールです。その瓶を描いた光太郎の静物画が、よか楼の壁に掛けてあったそうですが、酔った光太郎自身がナイフで切り裂いてしまったとかいう逸話もあります。

右は少し下って大正3年(1914002)に描かれたやはり洋酒の瓶の静物画。おそらく似たような絵だったのではないかと思われます。

強く辛い酒に酔いながらも、心のどこかは醒めている若き光太郎、この時、数え29歳です。

他に収録されている詩の作者で、光太郎と交流の深かった吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄ら、すべて芸術至上主義運動「パンの会」のメンバーです。「よか楼」が「パンの会」会場となったこともありました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

その軸がかかると私の粗末な四畳半に或るほのかな匂がただよふのである。ほのかであるが消えやらない、ロワンタンであるが深く実相にしみ入るけはひ、又殆とあるかと見れば無く無きかと見れば有るもののたたずまひである。
散文「松原友規小品画頒布会」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

松原友規は、光太郎も寄稿していた雑誌『潮音』の表紙画を書くなどしていた画家です。あまり有名な画家ではありませんでしたが、光太郎はその作を高く評価し、軸装して自室にかかげていたとのこと。

「ロワンタン」は仏語の「lointain」。「漠然とした」の意です。

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