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グルメ情報です。 

脇農園レモンフェア

期 間 : 平成31年2月4日(月)~3月末
会 場 : 御茶ノ水イタリアン トラットリアレモン
 千代田区神田駿河台 1-5-5 レモンパートII ビル1F
時 間 : 17:30~22:00 ラストオーダー21:30

レモンフェアは今年で2年目になります。今年も青いレモン島、愛媛県岩城島にある脇農園さんのレモンでお料理、カクテル、デザートをご用意します!
脇さんは中学生の頃に高村光太郎が書いた「レモン哀歌」という詩を読んだことがきっかけになり、レモンを育てようと思ったそうです。それまでレモンを見たことがなかった脇さんは、レモンとはどんな香りでどんな味がするのだろうと憧れたそうです。大学で農業を学び、昭和46年に愛媛県果樹試験場にやって来たときには、岩城島にレモンの木が1本もなかったそうなのですが、それが今では岩城島が「青いレモンの島」と呼ばれるほどたくさん育てられています。
その脇農園さんのレモンでシェフがご用意するのは!
昨年好評をいただいた脇農園レモンクリームソースパスタ、今年も復活です!野菜は旬のものが4種類ほど入っています。ほんのりレモンの酸味がクリームソースを軽やかにします。
そして今年は脇農園レモンと魚介のリゾットも。ドライトマト、魚介(日替わりですが海老やイカ、貝など)&レモンのさっぱりリゾットです。
シェフ力作2品どうぞお楽しみください。
カクテルは昨年お出しした自家製レモンシロップのレモンスプマンテ、今年はレモンモヒートも登場です!
デザートもレモンづくしでいかがでしょうか?
レモンのティラミスと、レモンパイもご用意しました。

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トラットリアレモンさんは、御茶ノ水にある老舗の画材店・レモン画翠さん(同じビルです)が経営するイタリアンレストランです。レモン画翠さんの前身の今井鐵次郎商店は大正12年(1923)創業で、昭和初期には光太郎の母校である東京美術学校内の売店を引き継ぎ、現在も藝大さんの中に姉妹店・画翠さんが続いています。卒業後も黒田清輝や父・光雲の胸像制作、それから後輩に招かれての座談会などのため、なんやかやで母校に足を運んでいた光太郎、売店を訪れていても不思議ではありません。

昭和25年(1950)には、本店の御茶ノ水に喫茶部ができ、それが現在のイタリアンレストランとなったそうです。こちらでは、愛媛県の脇農園さんと提携し、国産レモンを使ったメニューを充実させているとのことで、そのフェアとなります。

脇農園さんのご主人が、光太郎の「レモン哀歌」(昭和14年=1939)に触発されてレモン栽培を思い立ったというのですから、不思議な縁を感じます。

レモンといえば、やはり「レモン哀歌」からのインスパイアの要素もあるという米津玄師さんの「Lemn」。遅ればせながら購入しました。心にしみる歌ですね。そういえば、米津さんの故郷は愛媛に隣接する徳島県です。気になって調べたところ、国産レモンの出荷額トップは広島県。第2位が脇農園さんのある愛媛県、徳島県は19位でした。
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昨日発効された日欧EPAや、数年前から話題のTPP環太平洋パートナーシップ協定などの影響で、日本の農業も転換点を迎えつつあり、レモンも今後どうなるか、というところですね。国産レモン農家さんにはがんばっていただきたいものです。

というわけで、トラットリアレモンさんの「脇農園レモンフェア」、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

雲と岩とのグロテスクさは想像の外にあるが、凡て宇宙的存在の理法に、万物を統一する必然の道が確にあると思はれる節がある。それは此等無生物の形態生成に人間や動物と甚だよく似たデツサンが用ゐられてゐる事だ。逆には、人間や動物の形態は此等物質の形態されると同じ機構上の約束によつて出来てゐるものと考へられる。

散文「三陸廻り 四 雲のグロテスク」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

雲や岩石、動物や人間(それからここに書かれていませんが、植物なども想定しているかもしれません)など、地球上の万物はその形態生成のあり方に共通する法則的なものがあるのではないか、という言です。だから雲を見て動物に似ていると感じるとか、人間の姿が見えるとかいうのは不思議でないというのです。


光太郎、この後の部分では、地球上に限らず、エイリアンがもしいたら、案外地球人と似た形態なのではないか、それが理にかなっているから、的な発言もしています。

卓越した造形作家の眼で見ると、そういうことなのでしょう。

当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市立草野心平記念文学館さんでの企画展です。 

冬の企画展「草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」

期 日 : 2019年1月12日(土)〜3月24日(日)
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時 間 : 9時から17時まで
料 金 : 一般 430円(340円) 高・高専・大生 320円(250円) 小・中生 160円(120円)
       ( )内は20名以上団体割引料金
休 館 : 毎週月曜日、1月15日、2月12日(1月14日、2月11日は開館)

草野心平は、天性の詩人でしたが、自身と家族のために行った職業は13を数えます。それは何一つ詩人の副業でありませんでした。その一つ、居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)3月に東京都文京区田町に開店しました。同店は昭和30年4月に新宿区角筈に移転し翌31年12月に閉店しますが、この約5年間、ここには「文学仲間との怒号の議論、客との喧嘩、連日の宿酔、そして執筆」と独特のエネルギーが渦巻いていました。
 本展では、「火の車」時代の心平を、①火の車開店まで、②火の車開店以後、③火の車常連客、さらに④草野心平・宮沢賢治・高村光太郎の食のエピソードの4つにわけて紹介します。

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関連イベント

ギャラリートーク   1 月12 日㈯13 時30 分 要観覧料

居酒屋「火の車」一日開店  期日 3月10日(日)
 草野心平が開いていた居酒屋「火の車」で、心平が命名したお品書きにちなんだ料理を試食します。
 ■寸劇「火の車時代」 11 時30 分~11 時50 分 常設展示室
 ■「火の車」ランチタイム
   料理人 中野由貴氏、文学館ボランティアの会会員 12 時~12 時30 分 小講堂 要申込
 ■食卓トーク「心平・賢治・光太郎 ある日の食事」
   講師 中野由貴氏(宮沢賢治学会会員・料理研究家) 13 時~14 時 小講堂
 ●お申し込み方法 電話、往復はがき、FAX、E-mail のいずれか
 ●定 員 先着50 名(2 月10 日より受付開始)
 ●参加料 500 円(所定の観覧料も必要です)


居酒屋「火の車」は、昭和27年(1952)、心平が小石川に開いた怪しげな居酒屋です。のち、新宿に移転しました。最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京した光太郎もたびたび足を運んでいます。

一昨年には同館で「春の企画展 草野心平の詩 料理編」が開かれ、「火の車」に関する展示も為されましたが、今回は「火の車」をメインとするようです。光太郎にも触れて下さるようで、ありがたいところです。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

嵐の通り過ぎた今となつては、首をきられた人も斬つた人も、みんな何だかなつかしい。君達は本気に苦しんだ。さうしてみんな死んだ、何しろみんな死んでしまつたのだ。どつちが強いも弱いもない。

散文「ルイ十六世所刑の図」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

この年、松屋で開催された中世期版画展の際に購入した、フランス革命を題材にした版画に寄せる文章の一節です。「本気に」人生を送ることの尊さを重んじた光太郎らしい発言です。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第11号が届きました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

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今号は「ラムチョップ(骨付きラム)とゴボウチップス」だそうで、昭和26年(1951)のクリスマスの時期の日記から考案されています。

12月25日(火) 昨夜雪少しふる、くもり、弘さん買い物してくる、山羊肉のため千円提供。(略)田頭さん夫人立よる、クリスマスのラジオをきく、校長さんくる(略)

12月26日(水) 終日雨、ひる頃阿部博さん来訪、リンゴ、山芋、岩手川一升もらふ。弘さんにゴボウ及び山羊骨付き肉をもらふ。昨日屠殺、隣人等と饗宴せし由、昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。

光太郎が食したのは骨付きラムといっても、山羊だったようです。「弘さん」は光太郎の暮らした山小屋の付近の開拓地に入っていた青年、「田頭さん夫人」は先般亡くなった高橋愛子さんのお母様、「校長さん」は、高橋愛子さん同様、この地で光太郎の語り部を務められている浅沼隆さんのお父様で、近くの山口小学校校長にして光太郎歿後は花巻高村光太郎記念会事務局長も務められた故・浅沼政規氏。

「阿部博さん」は花巻石神町のリンゴ農家。宮沢賢治の教え子でもありました。平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた「甘酸是人生」の書を贈られた人物です。

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岩手川」は現在も生産されている盛岡の地酒です。ケーキを野生動物に食べられてしまったというエピソード、笑えますね。

クリスマスといえば、12月16日(日)、花巻高村光太郎記念館さんでは、「クリスマススペシャルコンサート」が開催されました。当方、欠礼いたしましたが、館のブログサイトにレポートがアップされています。ご覧下さい。

また、「平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~ 光太郎の食卓」が開催中。展示風景の画像が追加で送られてきました。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

春になると絵画の展覧会が始まる。始まる前になると辻々にビラが張り出され、人々は美しい衣裳をきて、先を争つてそれに出掛ける。

散文「仏蘭西の春」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

留学していたパリの思い出を綴ったエッセイの一節。

パリの春の展覧会は「ル・サロン展」です。光太郎ら新進の芸術家はあまり好まなかったアカデミックな展覧会ですが、一般市民がこぞってそれを観に行く風習が根付いている点には、芸術後進国の日本人として、敬意を表しています。

智恵子の故郷、福島二本松でその顕彰活動に取り組む智恵子のまち夢くらぶさんの主催による「高村智恵子没後80年記念事業」。これまでに「智恵子検定 チャレンジ! 智恵子についての50問」、「全国『智恵子抄』朗読大会」などが行われましたが、その最後のイベントです。  

高村智恵子没後80年記念事業 智恵子カフェ

期 日 : 2018年12月16日(日)
会 場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3番地1
時 間 : 午後1:00~
料 金 : 一般 1,000円  中高生600円
申 込 : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷 0243-23-6743

内 容 : 
 第一部 紙芝居 「夢を描いた人 ~高村智恵子の生涯」
  読み聞かせ 坂本富江さん(太平洋美術会・高村光太郎研究会)
 第二部 智恵子カフェ
  智恵子スイーツパーティー 智恵子抄しゃべり場

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第一部が紙芝居だそうです。制作、そして演じられるのは坂本富江さん。明治末、智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会に所属され、これまでも智恵子の生涯を描いた紙芝居を二本松で上演なさっている他、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』というご著書もあり、今年は智恵子生家での個展も開かれました。

第二部は智恵子カフェということで、市内外のメーカーさんが作った智恵子の名を冠したスイーツを食べつつ、智恵子についての思いを語り合うそうです。

「ほんとの空」の下、安達太良山も雪化粧に被われているようです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

小生当市美術学校へ入りてより毎日先生と喧嘩腰にて勉強致し居り、面白き事かぎり無く候。小生は俗悪なる一種の亜米利加趣味を嫌ふこと甚だしく候。

散文「紐育より 五」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

「美術学校」はアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク。現存します。入学前に約3ヶ月、助手として雇ってくれたガットソン・ボーグラムが教鞭を執っていました。他の生徒から人種差別的な嫌がらせに遭い、怪しげな柔道技でやっつけたというエピソードも残っています。生徒だけでなく、先生とも丁々発止だったのですね。

光太郎第二の故郷・花巻から企画展情報です。 

平成30年度花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~  「光太郎の食卓」

期    日 : 平成30年12月8日(土)~平成31年1月27日(日)
会    場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時    間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料    金 : 小中学生 150円(100円)  高等学校生徒及び学生 250円(200円)
        一般 350円(300円)
   ( )は20名以上の団体
休 館 日 : 12月28日~1月3日

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市総合文化財センター、花巻市博物館、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

高村光太郎記念館 「光太郎の食卓」 太田村山口での山居生活で、農耕自炊の生活を目指していた高村光太郎の「食」にまつわるエピソードや資料を紹介します。

関連行事

ぐるっと歩こう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと協賛館1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げますので、この機会に足を運んでみませんか。

ぐるっと花巻再発見ツアー
 企画展開催館を一度にまわれるバスツアーを開催します。無料で参加できますので、ぜひお申し込みください。
 1回目:平成30年12月13日(木曜日)午前9時から午後3時10分
 2回目:平成31年1月10日(木曜日)午前9時から午後3時10分

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昨年から高村光太郎記念館さんがこの試みに参加、今年は「光太郎の食卓」だそうです。

まだどのような展示が為されるか、具体的には聞いておりませんが、これまでに女性スタッフを中心に取り組んできた「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」、「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part2」といった市民講座や、隔月刊のタウン誌『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』さんでの連載「光太郎のレシピ」などでの蓄積を生かすのだと思われます。


ところで、『広報はなまき』の11/15号に、こんな記事も出ています。

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光太郎愛用の巨大ゴム長靴の紹介です。こちらは常設展示のコーナーで展示中です。

当方、年明けにでも行ってこようかと思っております。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

岩手に来て思ふに、岩手は日本の脊梁の最強部たる地勢を持ち、人間を持つ。岩手の文化はやがて日本を支へる強力な柱とならう。

散文「「小田島孤舟歌碑」序」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身で、光太郎同様、雑誌『明星』に依った歌人であり、明治41年(1908)、岩手新詩社を興した小田島孤舟の著書に寄せた序文の一節です。

情報を得るのが遅れ、始まってしまっていますが、京都から企画展示情報です。 

平成30年度秋季特別展「奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣-寺田出身の青年が作った大正サロン-」

期 日 : 平成30年10月20日(土)~年12月16日(日)
場 所 : 
城陽市歴史民俗資料館 京都府城陽市寺田今堀1 文化パルク城陽西館4階
時 間 : 午前10時から午後5時
料 金 : 大人 200円(160円) 小中学生 100円(80円)(  )内20名以上の団体
休 館 : 11月5・6・12・19・26・27日、12月3・10日

 寺田村出身の青年奥田駒蔵が東京で作った店「メイゾン鴻乃巣」は、明治から大正にかけて近代文学を担った文豪たち、芸術家たちが集う本格的なフレンチレストランでした。この特別展では、「鴻巣山人」と称し、永井荷風、与謝野晶子など錚々たる文学者じゃ、芸術家に愛された奥田駒蔵と彼の生涯、また少年時代の駒蔵が過ごした寺田村の当時の様子をあわせて紹介します。この展示の実施にあたっては、奥田駒蔵氏の孫である奥田恵二氏の妻であり、エッセイストである奥田万里氏の著書『大正文士のサロンを作った男-奥田駒蔵とメイゾン鴻ノ巣』の内容に沿いながら実施します。

展示構成
 1 奥田駒蔵とふるさと寺田村
  『カフェエ夜話』 寺田尋常高等小学校写真・資料 大正~昭和初期の鴻巣山関係資料
 2 西洋料理店「メイゾン鴻乃巣」とは
  『文章世界』明治44年9月号 『白樺』大正3年9月号 サモワール
  「メイゾン鴻乃巣創業の地」説明版写真 京橋鴻乃巣新装落成記念ポスター 
  カラトリー、すっぽん鍋
 3 メイゾン鴻乃巣に集った人々
  木下杢太郎写真、「該里酒」(『食後の唄』収録) 北原白秋写真、「屋根の風見」
  芥川龍之介写真、
  『羅生門』出版記念会写真 志賀直哉写真、
  志賀の手がけた鴻乃巣の広告(『白樺』第3巻10月号)他
  関根正二「子供」 与謝野鉄幹・晶子夫妻写真、駒蔵葬儀の写真、晶子の追悼歌他
 4 自由人奥田駒蔵-その人と作品-
  掛軸「蛙百態」「洋蘭」 掛軸「父上像」「南京と蜜柑」 屏風「蛙」 
  版画「ダリア」「柿」他スケッチ画5点
  奥田駒蔵と家族の写真 『カフェエ夜話』

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関連イベント

第83回文化財講演会 祖父奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣
 講師 奥田恵二氏、奥田万里氏
 日時 平成30年11月23日(金・祝) 13:30~15:00
 場所 文化パルク城陽ふれあいホール
 申込み・参加費 不要

ギャラリートーク
 日時 10月27日(土)、11月17日(土)、12月9日(日) 14:00~15:00
 場所 城陽市歴史民俗資料館特別展示室
 講師 資料館職員


光太郎、北原白秋、木下杢太郎らの芸術運動「パンの会」の会場として使われ、光太郎の詩文にたびたび登場する日本橋にあったカフェ「メイゾン鴻乃巣」。創業者の奥田駒三が現在の城陽市の一部、寺田村出身ということで企画されたようです。

駒三の令孫にあたる奥田恵二氏、奥田万里氏夫妻の地道な調査により、平成27年(2015)には『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』という書籍が刊行され、興味深く拝読しました。関連行事としての講演ではご夫妻が講師を務められます。

メイゾン鴻乃巣に集まった文士たちに関する展示もあり、「パンの会」での光太郎の朋友・木下杢太郎や北原白秋、それから「パンの会」とは関わりませんが、光太郎の師・与謝野夫妻の名が上がっています。おそらく光太郎についても名前程度は出していただいているのでは、と思われます。

来月もあちこち飛び回るつもりでおりますが、都合をつけて観に行くつもりです。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は生きいきした人生の礼讃者である。明るい、健康な、いぢけない、四肢五体に意識と智慧と精神とのはつきり行き渡つてゐる人生の渇仰者である。暗愚な、おどおどした、無智な、無意識な人生からは一刻も早く脱したいと思ふ。
散文「日本家庭百科事彙」より 昭和3年(1928) 光太郎47歳

彫刻に、詩に、脂ののっていた時期の文章だけに、こういう発言となっています。ただし、パートナー・智恵子の方は実家の長沼酒造の経営が傾きはじめ、油絵にも絶望、徐々に精神の均衡を保てなくなっていました。

まずは状況説明を兼ねて、『岩手日報』さんの記事。9月2日(日)、花巻からの帰りがけにゲットして参りました。

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もう一紙、『岩手日日』さんにも載りましたが、一日遅れだったため、現物はゲットできず。さらにネットでも有料会員限定の記事なので読めません。どうやら当方の顔がどアップで出ているようなのですが(笑)。

用意したレジュメを掲載します。画像をクリックしていただくと拡大します。幼少期から最晩年まで、光太郎や周辺人物の遺した詩文から、「食」に関する内容の部分などを抜き出しました。ただ、光太郎に関しては、全てを網羅するには準備期間が短く、書簡類、短歌、俳句などはほぼ割愛。随筆的なもの、対談・座談、日記、そして詩に限定しました。
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まずは幼少年期。明治中期から後期です。

廃仏毀釈の影響で、彫刻の注文仕事が激減していた父・光雲。光太郎が生まれた明治16年(1883)頃が、窮乏のどん底だったそうで、光太郎幼少期の一家の食事は、漬物系に豆などがメインディッシュ、魚が出れば御馳走という状況でした。

その後、光雲が東京美術学校に奉職してから徐々に生活は好転し、海外留学直前の日記を見ると、牛肉なども食卓に並ぶようにはなりました。しかし、まだまだつつましいものでした。

光太郎実弟の豊周は、光太郎が留学に出た明治末になって初めてカレーを口にし、「こんなうまいものが世の中にあったのか」という感想を記しています。光太郎自身も留学に出て、初めて洋食らしい洋食に出会ったようです。明治39年(1906)~同42年(1909)の留学時代。

以前にも書きましたが、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で、自分で作っていたことが日記に残されているボストンビーンズなどが現れます。イタリアでは、パスタの食べ方が分からなくてうろたえた、というのが笑えます。
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帰国後、智恵子との生活。欧米で親しんだ洋食も取り入れ、和洋折衷の食生活となったようです。朝食はパンにオートミールなど、のちの高度経済成長期の共働き家庭を先取りしている感がありました。夕食は和食系が多かったようです。
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決して豊かでなかった生活の中で、野草を食べるなどの工夫していたこともうかがえます。しかし、金が入ると贅沢もしていたようで、朝からサラダにマヨネーズ(当時は高級品)をかけて食べたり、玉露のお茶を常用したりしていた光太郎を、豊周は「世間一般とは物差がちがう」とし、容赦ありません。

昭和初期、智恵子が心を病み、転地療養、入院ということで、光太郎のひとり暮らしが始まります。もっとも、それ以前から智恵子は福島の実家に帰っていた時期が長かったのですが。そして智恵子が亡くなった前後から、泥沼の戦争……。日本全体が食糧不足に陥りますが、この時期も、それなりに工夫していたようです。
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そして、智恵子と暮らした思い出深い駒込林町のアトリエ兼住居が空襲で全焼。宮沢賢治の実家の誘いで花巻に疎開し、終戦を迎えます。その後も東京に帰らず、戦時中に詩文で若者を鼓舞して死に追いやった反省から、郊外旧太田村での蟄居生活。
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穀類は配給に頼らざるを得ませんでしたが、野菜類はほぼ自給。あとは、旧知の人々が、光太郎を気遣って、いろいろなものを送ってくれ、それで凌ぎました。戦後の日記はかなり残っており、どのような食事をしていたかがほぼわかります。それらをもとに、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに、「光太郎レシピ」という連載が為されています。

やはりいろいろ工夫をし、厳しい環境の中でも豊かな食生活を心がけていたようです。山奥の陋屋にいながら、仏蘭西料理的なものも自作したりしています。逆に、真実かどうか、リップサービスで「盛ってる」のではないかとさえ思われますが、座談会では蛙まで捕まえて食べたと発言したりもしています。そこで、見かねた周囲の人々が、光太郎を招いて豪勢な会食会を開いたことも。

亡き宮沢賢治を敬愛していた光太郎ですが、有名な「雨ニモマケズ」の「玄米四合ト味噌ト少シノ野菜」では駄目だ、という発言は繰り返ししていました。これからの日本人は、肉や牛乳などをもっと積極的に摂取し、体格から変えなければ欧米に伍していけない、と。戦後、各界からそういう提言がありましたが、光太郎の発言は、それらを先取りしていたように思われます。

最後に、青森十和田湖畔に立つ「乙女の像」制作のため、再び上京した昭和27年(1952)以降。
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日記によれば、上京してからしばらくは、かなり外食もしていました。何だかんだ言って、やはりプロの料理には舌鼓を打っていたようです。アトリエを借りた中野にほど近い新宿がホームグラウンド。当会の祖・草野心平が経営していた「火の車」という怪しい居酒屋(笑)がありました。あとは生まれ故郷に近い浅草・上野方面、それから日本橋周辺にもよく出没しました。時には渋谷、目黒、神田、赤坂などにも。こってり系の店がけっこう多いのも特徴です。中華、うなぎ、牛鍋、天ぷら、はたまたロシア料理や柳川鍋など。最頻値は寿司屋でしたが。今も残る店がかなりあり、今後、小分けにして訪れてみようと思っています。
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最晩年、体調の悪化に伴い、外出を控えるようになると、アトリエの家主・中西夫人に頼んで食材などを買ってきて貰い、自炊。やはり肉類が目立ちます。

今回、あらためて光太郎の食生活を辿ってみると、やはりその時期その時期の生活全体が端的に象徴されているように感じました。また、光太郎という巨人を作り上げる上で、「食」の果たした大きな役割も実感できたように思います。結局、座談会で光太郎が述べていますが「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです。」の一言に尽きるように思われます。


【折々のことば・光太郎】

古来多くのよい詩はやはり必ず人間性の基底に強く根を張つてゐる。作者個人のものであつてしかし同時に万人のものである。それは個人を超え、時代を超え、思想を超える。どういふ時にも人の心にいきいきと触れる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

光太郎にとっての目指すべき「詩」の在り方であると同時に、74年の生涯で、光太郎にはそれが体現できたと言えましょう。

昨日、花巻にやって参りまして、本日、花巻高村光太郎記念館さんの市民講座「実りの秋を楽しむ 光太郎の食卓part .2」の講師を務めさせていただきました。
今回は、花巻まで愛車を駆って行き、昨日の早朝に千葉県の自宅兼事務所を出発、午後には着きました。ちょうど秋田小坂町の皆さんがバスで来られていました。

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下の画像は、小坂町出身の出版社・龍星閣主人の澤田伊四郎が印税がわりに建ててやった別棟。皆さん、興味深そうにご覧になっていました。

その後、記念館さんで今日の講座の打ち合わせ。

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打ち合わせを終えて宿へ。今回、鉛温泉♨さんにお世話になっております。


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かつて光太郎が堪能した宿名物の深さ1.3 メートルの立って入る「白猿の湯」や、美味しい料理を満喫しました。

今朝、再び記念館さんに参りまして、講座の受講者の皆さんを待ちました。会場は昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館。

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当会の祖、草野心平が建立に尽力し、看板の文字も揮毫しています。現在は「森のギャラリー」として、こうしたイベントや市民の方々の作品展などに活用されています。

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現在は地元太田地区ご出身の方の版画などが展示されており、光太郎をモチーフとした作品も。

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やがて受講者の皆さんご到着。付近の自然観察というのもメニューに入っていて、そのひとコマです。

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このあと、当方は光太郎が書き残した詩文をもとに、幼少期から最晩年の光太郎の食生活を紹介しました。細かな内容はまた帰ってからブログに書きます。

さらに藤原記念館館長、高橋花巻光太郎記念会事務局長からもお話。

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その後、光太郎が児童を孫のようにかわいがった旧山口小学校(現在はスポーツキャンプむら屋内運動場)で、山口小学校卒業生の方のお話を拝聴。

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さらに地区の公民館的な施設で昼食。光太郎が残した日記などを元にメニューを組んだ「光太郎弁当」(笑)。

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ヘルシーなメニューで美味でした。いずれ商品化も考えているとのこと。

記念館さんに戻り、展示の見学。現在は企画展「光太郎と花巻電鉄」開催中です。

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ここで皆さんとはお別れし、このあと当方は花巻市街でぶらりと光太郎の足跡をたどりました。いずれレポートいたします。

今夜も鉛温泉♨さんに泊まり、明日、ゆっくり帰ります。

光太郎第二の故郷・岩手花巻から市民講座の情報です。 

光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ

期   日 : 2018年9月1日(土)
時   間 : 午前9時から午後3時20分まで
会   場 : 花巻高村光太郎記念館他 (集合:まなび学園ロビー バスで移動)
料   金 : 400円
対   象 : 花巻市内に在住または勤務する方 小学生は保護者同伴 定員20名

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高村光太郎記念館に併設の「森のギャラリー」での講話は、高村光太郎記念館長・藤原睦氏、花巻高村光太郎記念会事務局長・高橋邦広氏、それから当方もお話をさせていただきます。当方からは、光太郎の生涯を通じ、どのような食生活を送っていたか、光太郎本人や周辺人物の証言などから追いかけます。

その他、マイクロバスを使い、市街の桜地人館さん、光太郎が碑文を揮毫した賢治詩碑などをめぐる予定で、対象は花巻市在住または勤務の方限定となっています。

終了後、このような話をしたよ、というのはこちらのブログでレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

詩がいつまでも幼稚であつていいといふのではない。成長すればする程、複雑微妙になればなる程、技術の高度化が加はれば加はる程、尚更思はくを絶した絶対境につきすすまねばならない。それが詩のよろこびである。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

一般読者の投稿詩に対するアドバイスですが、かつての光太郎自身もこのようにして成長してきたんだよ、ということなのでしょう。

光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市。そちらの広報紙『広報はなまき』さんの今月15日号の、「花巻歴史探訪 〔郷土ゆかりの文化財編〕」という連載で、光太郎の遺品が紹介されています。

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題して「光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) 昭和20年花巻空襲被災当時の所持品」。その通りで、昭和20年(1945)8月10日、東京を焼け出されて疎開していた花巻の宮沢賢治の実家で再び空襲に遭った際に身に着けていたものです。鳶口の柄には、「高村光太郎」と記名してあります。

お茶の水女子大で教鞭を執っていた椛澤ふみ子(佳乃子)に宛てた、8月24日付の長い書簡の中に、「警報と同時に小生は例の通り、鉄兜をかぶり、飯盒、鉈を腰にぶらさげ、バケツと鳶口とを手に持つてゐたので……」という一節があります。

おそらく花巻高村光太郎記念館さんの所蔵なのでしょうが、以前に頂いた所蔵品のリストには入っていなかったように記憶しております。当方の記憶違いかも知れませんが。或いは、最近、新たに遺品類が出てきたやに聞いておりますので、その中のものかも知れません。月末にはまた行って参りますので、確かめてみます。


それから、やはり花巻高村光太郎記念館さんの協力で為されている『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん第9号(8/10発行)の連載、「光太郎レシピ」。

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今号は、「ボストンビーンズとアンチョビサンド」。それぞれ花巻郊外太田村の山小屋での日記に記述があるものです。

ボストンビーンズは、インゲンマメなどをメープロシロップを使った甘辛いソースで調理した料理。なんと、明治39年(1906)から翌年にかけて留学で滞在していたニューヨークでこれを食べていたという記録もあります。

食事はスヰトン鍋の自炊ときめてゐたが、外へ出るとデリカテツセンに安い出来合ひの食料が何でもあるので其を五仙(セント)十仙と買つて来て使つた。昼食は工場の近くの店で十仙均一のボストンビーンズや、フオースや、ホツトケークなどを一皿食ふ事にしてゐた。
「ヘルプの生活」昭和4年(1929)

「工場」は、おそらく「こうじょう」ではなく「こうば」と読み、光太郎が助手を務めていた彫刻家、ガットソン・ボーグラムのアトリエです。

ちなみに、来月1日に、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」があり、講師を仰せつかっております。とりあえずじょうきのように、光太郎の「食」に注目して生涯を概観しようと思っております。詳細はまた後ほど。


【折々のことば・光太郎】

小生は好んで古今の俳句をよみ、且ついろいろに噛み味つて居ります。此の世界に稀な短詩型の持つ一種特別な詩的表現は、小生自身の詩作に多くの要素を与へてくれます。

散文「中村草田男雅丈」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

俳人・中村草田男の主宰する雑誌『万緑』創刊号に載った、おそらく中村宛の書簡そのままから。のち、中村の句集の序文としても使われました。

光太郎自身、少年期から俳句の実作に親しみ、それは戦後まで断続的に続きました。また、確かに詩の中にも俳句的発想が見られるような気もします。

雑誌系、いろいろ届いております。

昨年刊行された隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん、第8号。花巻高村光太郎記念館さんの協力で、毎号、「光太郎レシピ」というページが設けられています。太田村在住時の日記、周辺人物の回想などから、光太郎の食卓を再現する試みで、好評を博しているとのこと。今号は「アカシアの天ぷらとアカシアはちみつ入りヨーグルト」。なんともお洒落ですね。

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続いて『月刊絵手紙』さん、2018年7月号。こちらも花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

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今号は、詩「山菜ミヅ」(昭和22年=1947)。過日行われた花巻高村光太郎記念館講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」でも取り上げられた、光太郎がことのほか好んだ山菜を謳った詩です。

光太郎の書いたミヅのスケッチに活字版で詩の全文を添え、さらに見開き2ページで光太郎の詩稿を載せて下さいました。おそらく初出発表誌の『婦人公論』に送られたものと推定されます。


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もう1冊。静岡県の伊東市で刊行されている年刊の同人誌『総合文芸誌 岩漿』さん。詩や小説で、250ページ超の立派なものです。主宰の方が、光太郎とも交流のあった詩人・前田鉄之助に師事されたそうで、さらに光太郎を心の師として詩作に励んでこられたとのこと。で、当方が座談会の司会を務めさせていただいた今年の花巻高村祭においで下さったそうです。

その直後に、昨年刊行された第25号を送って下さいました。そちらの「編集後記」で光太郎に触れて下さっていましたが、1年前のものなのでこのブログではご紹介しませんでしたが、このほど今月刊行された第26号が届きました。こちらでも「編集後記」で光太郎に触れて下さっています。

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光太郎、というより、昨年亡くなった大岡信氏に関してがメインですが、ありがたく存じます。やはり静岡の文芸同人誌ということで、三島出身の大岡氏を取り上げられたのでしょう。


今後とも、さまざまなメディアに光太郎が取り上げられることを願ってやみません。


【折々のことば・光太郎】

高田君が粘土をいじる巧みさは、これも不思議である。同君の手は料理人のいふ「ウマ手」に属する短い、太い、切つたやうな指を持つてゐる手であつて、一寸考へると、あの指がどうしてこんな繊細な技術に堪へるのかと思ふほどであるが、それがまつたく万能の指なのである。

散文「高田君の彫刻」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「高田君」は、高田博厚。17歳年長の光太郎と知遇を得、彫刻の道を志し、光太郎等の援助で昭和6年(1931)に渡仏、以後、30年近くをパリで過ごしました。早世した荻原守衛を除けば、光太郎が最も高く評価していた同時代の彫刻家です。

それに応え、高田は光太郎の歿後に帰国してからは、光太郎の胸像を製作したり、高村光太郎賞の選考委員を務めたりと、光太郎顕彰の先鞭をつけてもくれました。

「ウマ手」に関しては、他の散文に詳しく記述がありますので、またのちほどご紹介します。

先週9日、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻で、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」が実施されました。

地元紙『岩手日日』さんの報道。 

光太郎 より身近に 記念館講座 ゆかりの地巡る

 高村光太郎記念館講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」は9日、花巻市内で開かれた。参加者は詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)ゆかりの地をバスで巡ったり講話に耳を傾けたりして、花巻で一時期を過ごした偉人に思いをはせた。
 1945年に花巻に疎開し旧太田村山口の小屋で戦後7年間、地域の人たちと交流しながら暮らした光太郎への理解を深めようと同記念館が毎年開催。市内から親子ら約30人が参加した。
 同市桜町の桜地人館や詩人で童話作家の宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩が刻まれた詩碑を見学後、同市太田の高村山荘に移動。花巻高村光太郎記念会のメンバーや花巻観光協会ボランティアガイドの説明を受けながら、光太郎が暮らした小屋や展望台、光太郎の詩「雪白く積めり」が刻まれた詩碑など山荘一帯を歩いて巡った。
 ガイドらは小屋を2層のさや堂で覆い保存していることや、展望台がある高台から光太郎が妻智恵子の名を叫んでいたこと、詩碑の下には光太郎のひげが埋められていることなどを紹介。参加者はメモしながら聞き入っていた。
 同市東和町安俵、主婦小原由起子さん(43)は、長男佑太君(7)と初めて参加。「光太郎のことを知るきっかけになればと思って参加した。大変な暮らしだったことが分かった」と改めて理解を深めた様子。佑太君は「学校の勉強と違って観察したりいろいろなものを見つけたりすることができて面白い」と楽しんでいた。
 参加者は昼食で光太郎の日記から再現した食事を味わい、講話にも耳を傾けた。

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その後、花巻高村光太郎記念館さんのスタッフ女史からメールで詳細なご報告や画像が送られてきましたので、捕捉します。

郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺散策の際の資料。「見つけよう!」だそうです。

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いかにも自然が豊かな場所だというのが分かりますね。

こちらは、光太郎が好んで食べ、詩にもしている山菜・ミヅ。正式にはウワバミソウというそうです。当方も先月行われた第61回花巻高村祭の折にいただきました。シャキシャキした食感がよく、また、食べきれずに持ち帰った分は、うどんに入れて山菜うどんにしてみましたが、goodでした。

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その後、古民家を改修して集会所的に活用している「新農村地域定住交流会館・むらの家」で、地区の祭りに参加、地元の太田小学校の子供たちに混じって、餅つきや魚つかみに挑戦したそうです。

昼食は記事にあるとおり、光太郎の日記から再現された弁当。ラベルは特製のようです。

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箸袋にメニューが記載されていますが、よもぎ御飯、そば粉パン、ホッケのトマトソース、シュークルート、ミヅの吸い物、焼き鳥、煮豆、ヨーグルトだそうです。商品化してもいけるような気がします。


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昨年は当方も講師に加えていただき、光太郎文筆作品に記された星々の話をさせていただきましたが、その時のレジュメを転用し、天文サークルの方が講話「光太郎と星」をなさったり、星座早見盤の使い方の講習などを行ったりしたとのことです。

その後は記念館さんの自由見学だったそうです。


この手の地域密着型の講座――特に若い世代に向けて――というのは、非常に大切な試みだと思われます。

記念館さんでは、来月14日から、かつて花巻とその郊外の村々を結び、二つの路線が走っていて、光太郎もたびたび利用したた花巻電鉄にスポットを当てた企画展「光太郎と花巻電鉄」を開催予定です。ジオラマ作家の石井彰英氏にご協力いただき、光太郎が暮らしていた頃の昔の花巻とその周辺のジオラマを制作していただいており、そちらが展示される予定です。

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来週には、東京・大井町の工房から搬出だそうで、当方も立ち会う予定でおります。

また近くなりましたらご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

リーチの美は正統な伝統から生れながら、現代感覚の相当大胆な表現につき進んでいるが、病的のうるささには落ちていない。それはリーチの人柄の如き好ましい新である。恐らく健康な原始人の感覚を内蔵しているリーチの先祖がえりの新であろう。この新は下司ばつていない。とりすましていない。物欲しげでない。まして神々のへどではない。

散文「リーチ的詩魂」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

このところこのコーナーでご紹介している、バーナード・リーチの陶芸作品に関してです。他者の作品評ではありますが、光太郎自身の目指す芸術のあり方もよく表現されています。

昨日に引き続き、智恵子の故郷・福島二本松ネタで攻めます。

まず、地元紙『福島民友』さんに昨日載った記事から。  

道の駅・安達でレモンドレッシング発売 安達東高生の蜂蜜使用

 二本松市振興公社が運営する道の駅「安003達」は5月31日、同市の安達東高の生徒が作る蜂蜜「あいさつ坂」を使った新商品「安達ハチミツと有機レモンのドレッシング」を同道の駅で発売した。
 採れたての蜂蜜や、同市出身の洋画家高村智恵子が死の床でかんだレモンにちなんで国産レモンを利用したオリジナル限定商品で、会津若松市の会津ブランド館で製造する。
 ドレッシングはサラダだけでなく、唐揚げなどの揚げ物にも合うよう工夫した。同道の駅で試食した同校3年の生徒3人は「最初はレモンの酸味が強く、後から蜂蜜の甘みがあっておいしい」と口をそろえた。
 問い合わせは同道の駅の上り線、下り線へ。


こちらのドレッシング、6/2(土)の朝、テレビ朝日さん系で放映されている紀行情報番組「朝だ!生です旅サラダ」で紹介されました。

「ラッシャー板前の生中継」というコーナーで、その名の通り、レポーターはラッシャー板前さん。

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それから、KFB福島放送・山崎聡子アナウンサー。

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ドレッシング、というより、その原料となっている蜂蜜を、県立安達東高校さんの農業コースの生徒さんたちが造作っている、という紹介がメインでした。

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ワイプのスタジオMC・神田正輝さんの表情が何とも言えませんね(笑)。

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その蜂蜜を使って商品化されたもの、ということで、まずは蜂蜜そのもの「あいさつ坂」。

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同校正門前の坂の名にちなむネーミングだそうです。

後半は、道の駅「安達」智恵子の里に入っている二本松ベーカリーさんの方々がご登場、蜂蜜を使った料理をご紹介。

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その中で、レモンドレッシングも紹介されました。

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最後は高校生の皆さんも料理を堪能。

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こうして頑張っている若い人達の姿を見ると、まだまだこの国も捨てたもんじゃないと思えます。

ところで、ラッシャーさん、朝早い生中継のため、前日から二本松入りし、智恵子生家・智恵子記念館にほど近い「かねすい智恵子の湯」さんに宿泊されたそうです。ラッシャーさんのブログで、細かくレポートされています。


併せてお読み下さい。


当方、今週末には二本松に隣接する大玉村に行く予定です。余裕があれば、智恵子が死の床でかんだレモンにちなんで国産レモンを利用したドレッシング、購入して参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

その描法の強い明暗とキヤロスキユロとは、遠くフランス十八世紀の伝統を引いてゐながら、又それが近代的息吹に蘇つてゐることを感ぜしめる。

散文「ロダンの素描」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

ロダンのデッサンに関する散文です。「キヤロスキユロ」は「chiaroscuro」、仏語かと思ったら伊語で、明暗のコントラストを表します。

ロダンにしても、敬愛していた光太郎にしても、古くからある技法を一切合切否定するのでなく、そのおいしい部分を咀嚼して自分流にアレンジするということに対しては、貪欲とも言える面を持っていました。

この文章、昭和15年(1940)4月刊行の雑誌『造形芸術』に掲載されました。同誌の表紙に「第八号」とあるため、『高村光太郎全集』の解題では「第二巻第八号」となっていますが、正しくは「第二巻第四号、通巻第八号」の誤りです。当時としては珍しく、原色版の口絵が掲載されています。

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花巻高村光太郎記念館さんから、市民講座の情報です。

光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ

期   日 : 2018年6月9日(土)
時   間 : 午前9時~午後3時20分
対   象 : 花巻市内に在住または勤務する方 小学生は保護者同伴
集 合 場 所 : 生涯学園都市会館(まなび学園)ロビー  貸し切りバスで移動
料   金 : 1,000円
問合・申込    : 高村光太郎記念館 0198‐28‐3012

高村光太郎の太田村山口で暮らした山村周辺の自然豊かな里山と展示作品を鑑賞します。
光太郎が日記に書き残していた、当時の自炊生活の食卓を再現して光太郎の世界を感じます。


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詳細日程
 8:50 まなび学園ロビー集合して受付  
 9:00 まなび学園発バス移動
 9:05 賢治詩碑・桜地人館見学(20分)
 9:25 桜地人館出発バス移動
 9:45 髙村光太郎記念館駐車場着
 9:50 高村山荘自然散策(50分)
      あじさいロード自然散策(ガイド)(5分) 
      高村山荘見学(ガイド)(10分)
      展望台見学(ガイド、本舘)(10分) 
      森のギャラリー見学(本舘)(10分)
      トイレ休憩(5分)
      「雪白く積めり」詩碑(ガイド)(5分)
      案内所まで(ガイド)(10分)
 10:40 駐車場集合 出発 バス移動 
 10:45 むらの家見学 祭りへの参加 (55分) 
 11:15 餅つき、魚つかみ体験、釜石交流など
 11:40 むらの家出発
 11:45 旧山口小学校見学(学校門札、ドーム、正直親切の看板など(10分)
 11:55 太田地区振興会館に徒歩で移動
 12:00 昼食会交流会
       光太郎レシピ紹介、受講者感想発表など
 13:00 太田地区振興会館出発バス移動 記念館へ 
 13:25 記念館企画室へ集合
 13:30 講話「光太郎と星」(20分)天文サークル星の喫茶室代表 佐々木一行氏
      DVD視聴(10分)  
      星座早見盤の使い方と星の話(20分) 伊藤 修氏
 14:20 記念館自由見学・休憩(40分)
 15:00 記念館出発バス移動
 15:20 まなび学園着 解散


高村光太郎記念館さん以外にも、市街桜町の光太郎が碑文を揮毫した賢治詩碑、桜地人館さん、太田地区の新農村地域定住交流会館・むらの家さん(ちょうどイベントが開かれているそうで、そちらに合流)、旧山口小学校跡地などを回るそうです。

高村光太郎記念館さんでは、昨年も行われました天文サークルの方によるお話(星の観察会はまた別個)などが盛り込まれていますし、昼食は光太郎記念館さん女性スタッフによる、光太郎が食べたメニューの再現だそうで、もりだくさんの内容です。

市内在住か勤務の方対象ですが、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

ああ研究! 研究とは何だらう! 柱の数を数へたり、敷石の色を調べたり、窓の大きさを計つたり、様式が何だの、時代が斯うだのと言つて騒ぎ立てるのが研究かしら。馬鹿馬鹿しいと思つた。

散文「ミラノの本寺とダ ヸンチの壁画」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

光太郎はこの年の春、3年超の欧米留学を切り上げて帰国する前に、パリを出発してスイス経由でイタリアを1ヶ月ほど旅して回りました。この文章は帰国後に発表したものですが、現地のレポートを「××君」宛の書簡形式で書いたものです。「××君」は、荻原守衛あたりかと推察されます。

イタリアでは最初にミラノを訪れ、ミラノ大聖堂(ミラノの本寺)やスフォルツェスコ城、そしてサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会でレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を眼にしました。

上記はミラノ大聖堂の荘厳な建築を見ての一節。本当に美しい芸術作品を前にすると、こういう感懐にとらわれるものでしょう。

造形美術に限らず、音楽でも、文学でも、そうだと思います。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村での第61回高村祭に参加して参りまして、花巻高村光太郎記念館さんの新しいパンフレットをゲットして参りました。A4判、三つ折り、オールカラー。

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今年度のスケジュールが掲載されています。

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大きなところとしては、以下の通り。

まず来月、市民講座「光太郎の食卓と星降る里山を楽しむ」が企画されています。また近くなりましたら精しくご紹介しますが、貸切バスを使い、花巻市街の桜地人館さん見学、郊外の里山散策、昨年も行われました天文サークルの方によるお話(星の観察会はまた別個)などが盛り込まれています。

7月14日からは、企画展「光太郎と花巻電鉄」。かつて花巻とその郊外の村々を結び、二つの路線が走っていて、光太郎もたびたび利用したた花巻電鉄にスポットを当てます。このブログでフライング気味に何度か紹介してしまって、関係の方にご迷惑をおかけしてしまっていたのですが、ジオラマ作家の石井彰英氏にご協力いただき、光太郎が暮らしていた頃の昔の花巻とその周辺のジオラマを制作していただいており、そちらが展示される予定です。

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秋には2回目の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」、12月からは次の企画展「光太郎の食卓」。

昨年刊行された『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんに、高村光太郎記念館さんの協力で、毎号、「光太郎レシピ」というページが設けられています。太田村在住時の日記などから、光太郎の食卓を再現する試みで、好評を博しているとのこと。そのあたりともリンクするようです。

こちらが先月発行のマチココさん第7号。まだこのブログでご紹介していませんでした。

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今号は「鶏ガラスープ入りカレーピラフとヤキトリ」。実に美味しそうです。


ついでと言っては何ですが、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』も、昨年度から引き続き、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載を続けて下さっていますのでご紹介します。こちらも高村光太郎記念館さんのご協力が入っています。

最新号の2018年5月号。

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「ことば」は光太郎詩「五月のウナ電」(昭和7年=1932)、挿画は太田村在住時に光太郎が描いたスケッチ帖の中から、薬草としても使われる「ナットウダイ」。


ちなみにマチココさんでは、ジオラマのご紹介もして下さるそうですが、その他、多方面で光太郎智恵子、もっともっと盛り上がって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

美しい生活いふのは伸縮自在なやうに生活を調整して、うしろ暗い事が心に存在せぬ生活である。さうすると自然に生活の外形も美しくなる。無理をした立派さほど醜いものはない。

散文「美しい生活」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

タウン誌のはしりのようなものでしょうか、光太郎が暮らしていた太田村の隣村・湯口村の久保田良致という人物が発行していた謄写版の冊子『若い感覚』に寄せた文章の一節です。

自らの山小屋暮らしを念頭に語っていることはいうまでもありません。

新刊情報です。

文豪と酒 酒をめぐる珠玉の作品集

2018年4月20日 長山靖生編 中央公論社(中公文庫) 定価820円+贅

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漱石、鴎外、荷風、安吾、太宰、谷崎ら16人の作家と白秋、中也、朔太郎ら9人の詩人の作品を厳選。酒に託された憧憬や哀愁がときめく魅惑のアンソロジー。

収録作品  屠蘇……夏目漱石「元日」  どぶろく……幸田露伴「すきなこと」  ビール……森鴎外「うたかたの記」  食前酒……岡本かの子「異国食餌抄」  ウィスキー……永井荷風「夜の車」  ウィスキーソーダ……芥川龍之介「彼 第二」  クラレット……堀辰雄「不器用な天使」  紹興酒……谷崎潤一郎「秦准の夜」  アブサン酒……吉行エイスケ「スポールティフな娼婦」  花鬘酒……牧野信一「ファティアの花鬘」  老酒……高見順「馬上侯」  ジン……豊島與志雄「秦の出発」  熱燗……梶井基次郎「冬の蝿」  からみ酒……嘉村礒多「足相撲」  冷酒……坂口安吾「居酒屋の聖人」  禁酒……太宰治「禁酒の心」  
●諸酒詩歌抄 上田敏「さかほがひ」  与謝野鉄幹「紅売」  吉井勇「酒ほがひ」  北原白秋「薄荷酒」  木下杢太郎「金粉酒」「該里酒」  長田秀雄「南京街」  高村光太郎「食後の酒」  中原中也「夜空と酒場」  萩原朔太郎「酒場にあつまる」


最近流行の、文豪アンソロジーものです。

光太郎作品は、詩「食後の酒」(明治44年=1911)。「雷門にて」の総題で、雑誌『スバル』に発表された5篇のうちの一つです。

  食後の酒003

青白き瓦斯の光に輝きて
吾がベネヂクチンの静物画は
忘れられたる如く壁に懸れり

食器棚(ビユツフエ)の鏡にはさまざまの酒の色と
さまざまの客の姿と
さまざまの食器とうつれり

流し来る月琴の調(しらべ)は
幼くしてしかも悲し
かすかに胡弓のひびきさへす

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ
辛き酒を再びわれにすすむる
マドモワゼル、ウメの瞳のふかさ


「マドモワゼル、ウメ」は、浅草雷門のカフェ「よか楼」の女給・お梅。吉原の娼妓・若太夫に失恋したあと、光太郎は今度はお梅に入れあげ、日に5回も通ったとか。ところがこの年の暮、智恵子と出会い、お梅との関係は解消します。

「ベネヂクチン」は「bénédictine」。仏国ノルマンジー地方のベネディクト派修道院に昔から伝わるリキュールです。その瓶を描いた光太郎の静物画が、よか楼の壁に掛けてあったそうですが、酔った光太郎自身がナイフで切り裂いてしまったとかいう逸話もあります。

右は少し下って大正3年(1914002)に描かれたやはり洋酒の瓶の静物画。おそらく似たような絵だったのではないかと思われます。

強く辛い酒に酔いながらも、心のどこかは醒めている若き光太郎、この時、数え29歳です。

他に収録されている詩の作者で、光太郎と交流の深かった吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄ら、すべて芸術至上主義運動「パンの会」のメンバーです。「よか楼」が「パンの会」会場となったこともありました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

その軸がかかると私の粗末な四畳半に或るほのかな匂がただよふのである。ほのかであるが消えやらない、ロワンタンであるが深く実相にしみ入るけはひ、又殆とあるかと見れば無く無きかと見れば有るもののたたずまひである。
散文「松原友規小品画頒布会」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

松原友規は、光太郎も寄稿していた雑誌『潮音』の表紙画を書くなどしていた画家です。あまり有名な画家ではありませんでしたが、光太郎はその作を高く評価し、軸装して自室にかかげていたとのこと。

「ロワンタン」は仏語の「lointain」。「漠然とした」の意です。

新刊です。

作家のまんぷく帖

2018年4月13日  大本泉著  平凡社(平凡社新書)  定価 840円+税

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食を語ることが、人生を語ることにつながっていく! 
極度の潔癖症で食べるのがこわかった泉鏡花、マクロビの先駆者だった平塚らいてう。赤貝がのどに貼りついて絶命した久保田万太郎、揚げ物の火加減に厳格なこだわりを見せた獅子文六、胃痛を抱えながら、酒と薬が手放せなかった坂口安吾など、食べることから垣間見える、作家という生き物の素顔に迫る。
樋口一葉、内田百閒、武田百合子、藤沢周平など総勢22人を紹介!

目次
 はじめに
 ◎樋口一葉 ── お汁粉の記憶 
   樋口家の事情/半井桃水との邂逅/ごちそうするのが好きだった一葉/お汁粉の記憶
 ◎泉鏡花 ── 食べるのがこわい
   生い立ち/潔癖症だった鏡花/酒も煮沸消毒/ハイカラだった鏡花
 ◎斎藤茂吉 ── 「俺はえやすでなっす」
   二足の草鞋/病気と食事/鰻と茂吉
 ◎高村光太郎 ── 食から生まれる芸術 
   「食」の「青銅期」/智恵子との「愛」そして「食」/
   「第一等と最下等」の料理を知る/「食」から芸術へ

 ◎北大路魯山人 ── 美食の先駆者 
   美の原初体験/「欧米に美味いものなし」/当時の星岡茶寮/山椒魚の食べ方/
   魯山人の死の謎
 ◎平塚らいてう ── 玄米食の実践者
   女性解放運動の先導者/平塚明の生涯/奥村博史との食生活/玄米食の実践/
   ゴマじるこの作り方/おふくろの味
 ◎石川啄木 ── いちごのジャムへの思い
   夭折の詩人・歌人/社会生活無能者?/啄木の好物/いちごのジャムへの思い
 ◎内田百閒 ── 片道切符の「阿房列車」
   スキダカラスキダ、イヤダカライヤダ/酒肴のこだわり/苦くすっぱいスイーツ?/
   三鞭酒で乾杯
 ◎久保田万太郎 ── 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 
   下町に生きる/苦手なものと好きなもの/下町にある通った店/
   絶命のきっかけとなった赤貝
 ☆コラム◉作家の通った店 江戸料理の「はち巻岡田」
 ◎佐藤春夫 ── 佐藤家の御馳走
   早熟な文壇デビュー/学生時代/奥さんあげます、もらいます/「秋刀魚の歌」/
   アンチ美食家きどり/  
   佐藤家の御馳走
 ☆コラム◉作家の通った店 銀座のカフェ「カフェーパウリスタ」
 ◎獅子文六 ── 「わが酒史」の人生 
   大食漢の作家「獅子文六」の誕生/家での獅子文六/グルメのいろいろ/
   「わが酒史」こそ人生
 ◎江戸川乱歩 ── うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと 
   作家江戸川乱歩の誕生/転居、転職の達人/描かれた〈食〉/ソトとウチとの〈食〉
 ☆コラム◉作家の通った店 「てんぷら はちまき」
 ◎宇野千代 ── 手作りがごちそう 
   恋に「生きて行く私」/凝った食生活/手作りに凝る/長生きの秘訣
 ◎稲垣足穂 ── 「残り物」が一番 
   足穂ワールド/明石の食べもの/「残り物」が一番/「おかず」より酒・煙草/
   観音菩薩
 ◎小林秀雄 ── 最高最上のものを探し求めて
   評論家小林秀雄の誕生/「思想」と「実生活」/
   妹から見た小林秀雄/酒と煙草のエピソード/
   江戸っ子の舌/最高最上のものを探し求めて
 ◎森茉莉 ── おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
   聖俗兼ね備えた少女のようなおばあさん/古い記憶にある味/
   おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
 ☆コラム◉作家の通った店 「邪宗門」
 ◎幸田文 ── 台所の音をつくる 
   「もの書きの誕生」/幸田文の好物/食べるタイミングの大切さ/
   台所道具へのこだわり/心をつぐ酒/
台所の音をつくる
 ◎坂口安吾 ── 酒と薬の日々
   作家坂口安吾の誕生/好物と苦手なもの/酒と薬の日々/安吾と浅草/桐生時代
 ◎中原中也 ── 「聖なる無頼」派詩人
   詩人中原中也の誕生/子供そのものだった中也/葱とみつば/銀杏の味/最期の煙草
 ◎武田百合子 ── 「食」の記憶 
   作家武田百合子の「生」/『富士日記』より/〈食〉の記憶
 ◎山口瞳 ── 〈食〉へのこだわり
   サラリーマンから専門作家へ/アンチグルメの〈食〉へのこだわり/
   山口瞳が通った店/家庭での食生活
 ◎藤沢周平 ── 〈カタムチョ〉の舌
   作家藤沢周平の誕生/〈海坂藩〉そして庄内地方の〈食〉/父としての藤沢周平
 おわりに
 主な参考文献


著者の大本泉氏は、仙台白百合女子大の教授だそうです。

光太郎に関しては、散文、詩、日記を引き、その幼少期から最晩年までの食生活等を追っています。引用されている詩文は以下の通り。

 散文「わたしの青銅時代」  『改造』 第35巻第5号 昭29(1954)/5/1
 対談「芸術よもやま話」    昭30(1955)/9/25談 10/25放送
 散文「ビールの味」     『ホーム・ライフ』 第2巻第8号 昭11(1936)/7/1
 詩「夏の夜の食慾」       『抒情詩』 第1巻第1号 大元(1912)/10/1
 散文「三陸廻り」      『時事新報』 昭6(1931)/10/13
 詩「晩餐」         『我等』 第1年第5号 大3(1914)/5/1
 詩「へんな貧」         『文芸』 第8巻第1号 昭15(1940)/1/1
 日記              昭31(1956)/3
 詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」『婦人公論』 第38巻第1号 昭29(1954)/1/1

一読して、多くの資料を読み込んでいらっしゃるな、と感じました。ひところ、その時々にもてはやされていた「文芸評論家」のエラいセンセイ方が、その人の著作なら売れるとふんだ出版社からの要請で書いたであろうもので、たしかにもてはやされるだけあって鋭い見方が随所に表れているものの、明らかに読んだ資料の数が少ないな、と思えるものが目立ちましたが(現在も散見されます)、大本氏、かなりマイナーな散文にまで目を通されているようで、感心しました。

光太郎以外にも、光太郎智恵子と交流のあった平塚らいてう、佐藤春夫、中原中也などが取り上げられており、興味深く拝読。しかし、定番の夏目漱石や与謝野晶子、宮沢賢治などがいないと思ったら、平成26年(2014)、同じ平凡社新書で出ていた『作家のごちそう帖』ですでに取り上げられていました。

賢治といえば、光太郎、その精神や芸術的軌跡には共鳴しつつも、「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分は承伏できない、としています。特に戦後は、酪農や肉食を勧め、体格から欧米人に負けないように、的な発言も見られました。

光太郎と「食」に関しては、花巻高村光太郎記念館さんで、そのテーマによる企画展等も計画中だそうで、楽しみにしております。

さて、『作家のまんぷく帖』、ぜひお買い求め下さい。


花巻といえば、別件ですが、昨日ご紹介した4月2日の花巻での光太郎を偲ぶ詩碑前祭、昨日発行の『広報はなまき』にも記事が出ましたので、ご紹介します。

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【折々のことば・光太郎】

恐らく日本画は、いはゆる西洋画家によつて救はれるであらう。恐らく木彫は、いはゆる木彫家なる専門家によつてではなく、却つてその専門家の軽蔑する、思ひもかけぬ真の彫刻家の手によつて救はれるであらう。文章を救ふものは文章家ではなく、詩を救ふものはいはゆる詩人ではないであらう。これは逆説ともなりかねる程明白な目前の事実である。

散文「遠藤順治氏のつづれ織」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

その道の専門家は、専門性ゆえに固定観念に囚われ、新機軸を打ち出せないことが多いということに対しての警句でしょう。逆にしがらみを感じることのない門外漢が、新風を吹き込むことも確かにありますね。

遠藤順治は虚籟と号した綴織作家ですが、元々は智恵子と同じ太平洋画会に学んだ画家でした。光太郎はその織物作品に対し、まだ不十分なところがあるとしながらも高い期待を寄せ、遠藤のパトロンであった小沢佐助に木彫「鯰」を贈るなどして援助しています。

神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙『タウンニュース』さんの記事から。

文豪の世界に触れる 永田地区センター 講座でゆかりの和菓子も

 高村光太郎、室生犀星、夏目漱石といった文豪の作品解説と3人の作家が好んだ和菓子を食べて楽しむ講座が1月29日、2月5日、26日に永田地区センターで行われる。時間はいずれも午前10時から11時30分。

 講師に一般財団法人出版文化産業振興財団の読書アドバイザー、城所律子さんを招く。城所さんは図書館での読み聞かせや年齢に応じた本の選び方、読み方のアドバイスをしている。今回は作品の紹介だけではなく、作家たちの人となりや時代背景などが分かりやすく解説される予定。

 参加費は全3回で1人1200円。回ごとに取り上げる作家が変わる。全回に参加できなくても申し込みは可能。対象は成人先着12人。申し込みは1月11日から、費用を添えて直接施設へ。申し込み、問い合わせは同地区センター【電話】045・714・9751。


というわけで、調べてみました。会場の永田地区センターさんのサイトから。 

文豪と和菓子

期   日 : 2018年1月29日(月)、2月5日(月)、2月26日(月)
会   場 : 横浜市永田地区センター 横浜市南区永田台45-1
時   間 : 10:00~11:30
料   金 : 1,200円 (要予約 費用を添えて直接施設へ。)
定   員 : 12名(先着順)

高村光太郎・室生犀星・夏目漱石それぞれのゆかりの和菓子をいただきながら、作品を楽しんでいただきます。

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横浜市南区さんの広報紙『広報みなみ』にも案内が出ていました。

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ところで、どちらも和菓子の具体的な品名が出ていません。

光太郎と和菓子というと、当方、真っ先に思い浮かぶのは光太郎の実家や智恵子と暮らしたアトリエにほど近い、団子坂下の「菊見せんべい」さん。

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光太郎最晩年、昭和29年(1954)の『中央公論』に載った談話筆記「わたしの青銅時代」に、光太郎十代、東京美術学校在学中に、通学路の途中にあるその店の看板娘が気になって、そこを通るたび「胸がドキドキして顔がほてつて困つた」という部分があります。ただ、せんべいそのものについてはうまいともまずいとも発言していませんでしたが(笑)。

それから、昭和20年(1945)に岩手花巻、更に花巻郊外の旧太田村に移り住んでから親しんだ、南部せんべいや豆銀糖。以前にもご紹介しましたが、昭和24年(1949)の対談「朝の訪問」に以下の発言があります。

岩手はね、その、庶民階級がいいんです。それが僕は好きなんです。だから人によく話すけど、八戸煎餅ですね。それと豆銀糖と。ああいうものに実にいい、うまいものがある。で、殿様が食べるようなものは別にない。

詳しく調べれば、まだあるかもしれませんし、今回の講座ではどんな和菓子が取り上げられるのか、気になるところです。また、光太郎と共に取り上げられる犀星や漱石はどんな和菓子が好きだったのか、それも気になるところです。漱石はほっておくとジャムをひと瓶舐めてしまうという甘党だったそうですが(笑)。

こういう部分に着目すると、それぞれの身近に感じられるもので、そういう意味では今回の講座、おもしろい取り組みだと思います。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

丸いものを唯丸く薄いものを唯薄く現はすだけのところに彫刻は無い。彫刻家であるならば、厚いものを拵へて薄く見せ、四角に作つて丸く見せるといつた様なこつ――造形的感性――を身体の中に持つてゐるわけで、その人が写生をすれば、それは自づと彫刻になるのである。

談話筆記「写生の二面」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

こうした意味では、光太郎、最近流行の「超絶技巧」的な実物そっくりの牙彫などは認めていませんでした。実際、光太郎の木彫「蝉」は、薄いはずの羽を分厚く作っていて、しかし何の違和感もありません。芸術とは難しいものですね。

暮れに届きました。定期購読している『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』の第5号です。

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毎回裏表紙に掲載されている連載の「光太郎レシピ」。

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花巻郊外太田村在住時の日記を元に、光太郎が食したであろう料理を再現しています。今号は「牛鍋とサツマイモ焼きパン ウイスキー入りミルクティー」。なかなか豪勢です(笑)。

巻頭の特集は「窓」。主に花巻市街のレトロな建築に使われている窓を取り上げています。

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花巻市内の文化施設5館が、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み。花巻高村光太郎記念館さんは「高村光太郎 書の世界」展。他館より期間が長く、来月26日(月)までです。

次号(2月発行)では、「賢治の足跡・光太郎の足跡」という特集を組んで下さるそうです。ありがたや。

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オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊、年6回配本、送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

似せしめんと思ふ勿れ。構造乃至肉合を得ばおのづから肖像は成る。通俗的肖似をむしろ恥ぢよ。

散文「彫刻十個條」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

立体写真的な銅像は、光太郎の最も嫌うところでした。光太郎が手がけた肖像彫刻は、どれもその人物の内面までも表す、その人以上にその人、というものでした。

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0007/20(木)、上野の東京藝術大学美術館さんをあとに、渋谷に向かいました。目指すは西武百貨店渋谷店さん。現在こちらで、日本コカ・コーラ社さんのイベントが開催されています(今月いっぱい)。

館内数カ所でさまざまな展示や臨時ショップなどが設けられていますが、特にB館一階の特設会場では、「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」が開催されており、光太郎に関わる展示も為されています。

以前にもこのブログでご紹介しましたが、大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』第3巻第12号に発表され、同3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に、「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされており(業界紙の記事にはそれ以前に紹介されています)、そのあたりを紹介して下さっています。

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パネル展示以外にも、詩集『道程』の復刻版、さらに毎年5月15日、花巻郊外旧太田村の光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋(高村山荘)で開催されている「高村祭」のパンフレットも展示されていました。「みちのくコカ・コーラボトリング」さんの花巻工場が、高村山荘と同じ、同市太田地区にあるため、毎年、広告を出して下さっています。

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コカ・コーラといえば、先月30日、テレビ東京系列BSジャパンさんでオンエアの「武田鉄矢の昭和は輝いていた」で、コカ・コーラをとりあげ、やはり光太郎とコーラについて、40秒ほど触れて下さいました。

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日本でのコカ・コーラの本格的な販売開始から、今年でちょうど60年だそうで、こうした企画につながっています。世界に冠たるコカ・コーラさんと光太郎、今後ともウィンウィンの関係でお願いしたいところです(笑)。

渋谷西武さんの「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」会場から屋外に出ると、光太郎を敬愛していた彫刻家・佐藤忠良の作品が、道路を挟んで2体、向かい合っています。左は「牧羊神」、右は「マーメイド」。


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それぞれ文学碑を兼ねたもので、「マーメイド」の方は、光太郎の師・与謝野夫妻を顕彰するものです。台座に伊藤整の揮毫による撰文が。

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光太郎の名も刻まれていました。

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さらに、道玄坂を渋谷駅方面から上っていく途中を左に曲がった小道には「東京新詩社跡」の標柱も。

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この近辺に、与謝野夫妻の立ち上げた新詩社があったことにちなみます。当時は豊多摩郡渋谷村でした。100年以上前、光太郎もこの界隈を足繁く訪れていたわけです。

「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」の件、新詩社関連遺蹟の件、すべて、ロンドンの画像を下さった安藤仁隆氏からの追加情報です。ありがたや。当方、渋谷には足が向かず(電車の乗り換えではよく使いますが)、このあたりには疎いもので……。渋谷を歩いたのは、平成25年(2013)10月オンエアの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録で、NHK放送センターさんに行って以来でした。

この手以外にも、さまざまな情報のご提供、お待ちしております。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

それからひと時 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつた

詩「レモン哀歌」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

前年10月に亡くなった智恵子の臨終を謳った絶唱です。ちなみにいまわの際に智恵子が「がりりと嚙ん」で「トパアズいろの香気」をたてたレモンは、サンキストのレモンだそうです。同社でも光太郎をアーカイブ的な企画の中で取り上げていただければ、と願っているのですが……。

彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった。
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その最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストのレモンの一顆を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗われているように見えた。(散文「智恵子の半生」 昭和15年=1940) 

『週刊朝日』さんに、「人生の晩餐」という連載があります。「著名人がその人生において最も記憶に残る食を紹介する連載」だそうで、週ごとに異なる著名人の方が担当されています。

現在販売中の今週号は、当会会友・渡辺えりさん。連翹忌に触れて下さっています。ありがたや。

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紹介されているのは、連翹忌会場として使わせていただいている、日比谷松本楼さんのカレーとショートケーキ。「このカレーライスとショートケーキは、彼(光太郎)と妻の智恵子がデートの時に好んで食べたそう」。うーん、二人がこちらで「氷菓(アイスクリームまたはかき氷)」を食べたというのは、詩「涙」(大正元年=1912)に書かれていますが、カレーとケーキは出てきません……。まあ、よしとしましょう。

それから、いつものように光太郎と交流があったお父様・渡辺正治氏のエピソードがご紹介されています。「毎年「もう二度と戦争を起こしてはならない」という父の願いを感じながら、しみじみと味わっています」。なるほど、という感じです。

ぜひ皆様も、連翹忌にご参加いただき、他の料理ともども、光太郎智恵子を偲びつつ召し上がって下さい。

ちなみに当方は司会進行のため、ほとんど料理には手がつけられません。それに気づいて下さる方が、こっそり司会者ブースへお皿に取り分けた料理を届けて下さいますが、それとて急いでかき込む、という感じです。今年はケーキも届きましたが、二口で食べました(笑)。

『週刊朝日』さんもぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

現実そのものは押し流れる渦巻だ。

詩「夢に神農となる」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

昭和12年(1937)11月の作、翌年7月の雑誌『大熊座』に発表されました。

昭和12年というと、7月には盧溝橋事件、この詩の書かれた11月には日独伊三国防共協定の締結などがあり、「押し流れる渦巻」のように、戦時体制へと突き進んでいく時期でした。光太郎もどんどん大政翼賛の方向へ進んでいきます。

定期購読しており、それぞれ光太郎に少しずつ触れて下さっている『月刊絵手紙』と、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』が相次いで届きました。

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『月刊絵手紙』は、日本絵手紙協会さんの発行。前号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。今号は詩「案内」(昭和24年=1949)を取り上げて下さっています。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する花巻高村光太郎記念館を管理運営する一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、太田村時代の光太郎スナップが背景にあしらわれています。


隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』は、裏表紙に連載「光太郎のレシピ」。こちらも花巻高村光太郎記念会さん、特に女性スタッフさんたちの協力で作られています。太田村での光太郎日記から、光太郎がどんな料理を作り、食べていたのかを紹介するもの。こちらも連載二回目です。初回は「そば粉の焼きパン」でした。

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今号は、「ホッケのトマトソース煮とヨモギご飯」。付け合わせに卵やジャガイモが添えられています。健康的で美味しそうです。

ただし、光太郎日記には細かなレシピまでは記載されていないので、あくまでこんな感じだっただろう、というものです。光太郎が食したトマトソースもおそらくは缶詰だったのではないかと思われますし、ホッケとヨモギご飯(日記では雑炊)は、それぞれ別の日に作っています。そのあたりは、日記の該当部分をきちんと掲載していますので、問題はないでしょう。

当方、週に一、二回(今夜もですが)、家族の夕食を作っており、参考にさせていただきます(笑)。


『月刊絵手紙』、『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』、それぞれ定期購読で自宅に届けてもらうことが可能です。上記の各リンクから、ぜひどうぞ。

ところで、先述の通り、どちらも一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんの協力で作られており、記念館の宣伝にもつながるかと存じます。良い工夫ですね。全国の文学館さん、タウン誌的なものの編集発行に当たられている皆さん、ご参考になさってはいかがでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

バ ンブ ツイツセイニタテ」アヲキトウメイタイヲイチメンニクバ レ」イソゲ イソゲ ニンゲ ンカイニカマフナ

詩「五月のウナ電」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「ウナ電」は、緊急を要する電報、の意。電話が一般的でなかった明治大正昭和戦前を舞台としたドラマなどで「チチキトクスグ カヘレ(父、危篤。すぐ帰れ)」などと使われるあれです。

昔の電報はカタカナのみ。しかも濁点は一字とカウントされていました。そこで濁点のあとは一文字分のスペースが必ず入りました。

下は戦後の昭和27年(1952)、当時の盛岡短期大学美術工芸科の卒業式のために送られた光太郎からの電報です。「ウナ電」ではありませんが。

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「五月のウナ電」は、宇宙のヘラクレス座から、地球の動植物にあてた電報、というシチュエーションで書かれています。上記を漢字仮名交じりの書き下し文にすれば、以下の通りでしょうか。

万物一斉に立て。青き透明体を一面に配れ。急げ。急げ。人間界に構ふな。

何となくですが、宮沢賢治の詩や童話からのインスパイアのような気もします。

テレビ放映情報です。

連続ドラマW 宮沢賢治の食卓

WOWOWプライム 2017年6月17日(土) 22時00分~23時00分 第1話無料放送

『銀河鉄道の夜』『雨ニモマケズ』などで知られる、国民的作家・宮沢賢治。
孤高の存在として語られる印象とは裏腹に、じつはユーモアに溢れた好奇心の人でした。 賢治とは一体どんな人物で、如何なるものを食したのでしょうか!?
賢治の愛した食べ物には、家族や隣人、そしてやがて早逝する最愛の妹への深い愛情が秘められていました―。
若かりし頃の天真爛漫な宮沢賢治の青春時代を、彼の愛した食やクラシック音楽を通して、家族や親しい人たちとの関わりを描いた感涙必至の物語。
特に傑作詩篇「永訣の朝」にうたわれた最愛の妹・トシとの死別に描かれる兄妹愛の行く末は、涙なくして観られません。今までの映像作品ではなかなか描かれなかった、泣いて笑って躍動する、瑞々しい宮沢賢治 by 鈴木亮平に是非ご期待ください!!

第一話「幸福のコロッケ」
東京に家出をしていた質店の長男・宮沢賢治(鈴木亮平)は妹・トシ(石橋杏奈)の病気の電報を受け、岩手・花巻に帰郷する。母・イチ(神野三鈴)や弟妹たちには歓迎されるも、厳格な父・政次郎(平田満)とはなかなかうまくいかない。食、音楽、文学とあらゆることに興味のある賢治だが、自分を熱くするものを見つけられずにいた。そんなある日、農家の吉盛(柳沢慎吾)一家に出会う。

原作 魚乃目三太(少年画報社刊「思い出食堂」より)
脚本 池田奈津子
音楽 サキタハヂメ
監督 御法川修
出演 鈴木亮平、石橋杏奈、山崎育三郎、市川実日子、柳沢慎吾、井之脇海、神野三鈴、平田満 他


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設定は大正10年(1921)頃のようです。その5年後に、光太郎とただ一度だけ出会い、光太郎の生涯にも大きく関わる宮沢賢治が主人公のドラマです。全5話で、有料放送のWOWOWプライムさんでの放映ですが、第1話のみ無料放送だとのこと。

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鈴木亮平さん演じる賢治自身も光太郎を敬愛し、大正15年(1926)、自ら本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪ねていますが、より光太郎と深く関わった、賢治の家族が登場する点で、興味を引かれています。

賢治の父・政次郎。平田満さんです。賢治歿後に、『宮沢賢治全集』の発刊や、花巻に建った賢治詩碑の揮毫などで世話になった光太郎に恩義を感じ、昭和20年(1945)、空襲でアトリエを焼け出された光太郎を花巻に招きました。

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その妻・イチ。神野三鈴さんが演じます。宮沢家に疎開した光太郎は、すぐに結核性の肺炎で高熱を発し、約1ヶ月臥床。その間、そしてその後も、自宅が空襲で焼ける8月10日まで、かいがいしく光太郎の世話をして下さいました。

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こちらが光太郎(右)と、リアル政次郎・イチ夫妻です。

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賢治の弟・清六(井之脇海さん)と、妹・シゲ(畦田ひとみさん)。

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兄を亡くした二人にとって、光太郎は兄のように思えたのでしょうか、何くれとなく光太郎の面倒を見てくれたりしました。

賢治が歿した翌年の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、清六が持参した賢治遺品のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのが光太郎、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

昭和21年(1946)から24年(1949)にかけて、日本読書組合から発行された『宮沢賢治文庫』は、清六と光太郎の共編です。光太郎が花巻郊外太田村に移ってからも、二人はお互いに行き来していました。

シゲは光太郎が疎開してきた際には、既に岩田家に嫁いでいましたが、ちょくちょく実家に帰り、やはり光太郎の世話を色々焼いてくれました。亡き智恵子が織った反物から、羽織やモンペを仕立ててくれたのもシゲですし、光太郎が宮沢家に厄介になっていた頃には、光太郎のために毎日山羊の乳を入手する手配をしてくれました。

それから、賢治の親友・藤原嘉藤治(山崎育三郎さん)。やはり賢治つながりで、光太郎と親交がありました。

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リアル嘉藤治(中央)と光太郎(左)。

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石橋杏奈さん演じる賢治の最愛の妹・トシは、賢治が光太郎と出会う以前の大正11年(1922)に亡くなっていますが、その死を謳った賢治の絶唱「永訣の朝」は、光太郎が智恵子の最期に題材をとぅた「レモン哀歌」に影響を与えていると考えられます。ちなみに、やはり面識はなかったと思われますが、トシは智恵子と同じ日本女子大学校に通っていました。

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動画投稿サイト「YouTube」から。

連続ドラマW 宮沢賢治の食卓/メイキング映像



ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

孤独の痛さに堪へ切つた人間同志の 黙つてさし出す丈夫な手と手のつながりだ 孤独の鐵(かな)しきに堪へきれない泣蟲同志の がやがや集まる烏合の勢に縁はない 

詩「
孤独が何で珍らしい」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

トシ、賢治と、我が子二人を逆縁の不孝で失った政次郎。妻・智恵子に先立たれ、空襲で住処も無くした光太郎に、黙って手を差し伸べてくれました。まさしく「黙つてさし出す丈夫な手と手のつながり」ですね。

欲得ずくで集まっただけのどこぞの政党や、自分の都合が悪くなるとトカゲのしっぽよろしく、手のひらを返して手を切ろうとする大臣閣下諸氏――「孤独の鐵(かな)しきに堪へきれない泣蟲同志の がやがや集まる烏合の勢」――に贈りたい文言です(笑)。

状況をわかりやすくするために、まず『朝日新聞』さん福島版の記事から。一昨日の掲載です。

福島)草野心平の足跡 料理から知る 企画展 6月まで

 いわき市出身の詩人草野心001平(1903~88)の足跡を、心平が一家言を持っていた料理を通じて見つめ直す。そんな企画展が、市立草野心平記念文学館で開催中だ。期間中に関連の催しもある。6月18日まで。
 「蛙(かえる)の詩人」として今も親しまれている心平は、身の回りの動植物だけでなく、食材や料理にも思いをはせる詩人だった。
 稿料だけでは食べていけなかった1931年に、ふるさとの名前を付けて始めた焼き鳥屋台「いわき」や50歳を前に開いた居酒屋「火の車」を切り盛りした話は有名だ。
 企画展「草野心平の詩 料理編」では、1981年刊行の詩集「玄玄」に収録され、「元来が。/愛による。/発明。」とつづった「料理に就いて」の自筆原稿のほか、刊行本、写真、遺品などを展示。食に対するたしなみのほか、生きる力に裏打ちされた人柄や創作活動をしのばせる内容となっている。
 写真で紹介されている「火の車」のカウンターには「悪魔のこまぎれ」「白夜」「美人」など詩人らしい暗号のような品書きが並ぶ。安価な材料を仕入れ、名前とともに独創的な調理法を編み出したとされる。
 屋台「いわき」の焼き鳥の出来栄えについては「東京広しといえども比べもののない程のものだった」とうぬぼれていた。夫高村光太郎と訪ねた智恵子が、たれを入れたかめを見て「おいしそうね」といい、それが智恵子から聞いたまともな言葉の最後だったと心平が記したエピソードも紹介されている。
 期間中、文学作品に登場する料理の創作や研究で知られる料理研究家、中野由貴さんの講演「心平さんの胃袋探訪―創作料理の試食と解説―」が21日に開かれるほか、6日と6月3日には学芸員によるギャラリートークもある。(床並浩一)


というわけで、福島県いわき市の草野心平記念文学館さんで開催中の企画展です。当会の祖・草野心平と料理に絞ったもので、光太郎智恵子に直接関わらないと思っていたので紹介しませんでしたが、そうでもなかったようでした(汗)。

春の企画展 草野心平の詩 料理編

期 日 : 2017年4月15日(土)〜6月18日(日)
場 所 : いわき市立草野心平記念文学館  いわき市小川町高萩字下タ道1番地の39
時 間 : 9時から17時まで(入館16時30分まで) 
休館日 : 月曜日
料 金 : 一般 430円(340円)/高・高専・大生 320円(250円)
      小・中生 160円(120円) ( )内は20名以上団体割引料金

 「料理は玄人には勿論のこと料理人でない素人の私達にも無限に広い分野を展開してくれる。」 草野心平『わが酒菜のうた』
 草野心平(1903〜1988)にとって料理は、創作の主題の一つであると同時に、実生活において、ただならぬ関心を寄せていた営みでもありました。
 日々の実践によって編み出された、彼独特の調理法などをまとめた随筆集も刊行していますが、それらは、食材への確かな目利きと、鋭敏で記憶力抜群の味覚によって裏打ちされています。
 本展では、心平の作品世界を料理という視点で展観し、「元来が。/愛による。/発明。」という詩人の料理への思いと、その等身大の魅力を紹介します。

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関連行事 

ギャラリートーク

 日時 2017年5月6日(土)13時30分〜14時
 会場 文学館企画展示室
 定員 ありません。
 聴講 観覧券が必要です。申し込みは不要ですので会場にお越しください。

「心平さんの胃袋探訪 〜創作料理の試食と解説〜」

 日時 2017年5月21日(日)11時〜13時
 講師 料理研究家 中野由貴
 会場 文学館小講堂
 定員 先着50名
 参加 参加料500円。申し込みが必要です。
 申し込み受付 2017年4月20日(木)午前9時から受付
 申し込み方法 電話0246(83)0005、FAX 0246(83)2939、
        E-mail info@k-shimpei.jpのいずれかで、「胃袋探訪係」まで。
        お名前、電話番号をお知らせください。


他にも関連はしませんが、期間中に、「いわき濤笛会 山口流篠笛コンサート そよ風のしらべ」(5/7)、「心平誕生日の市民朗読会」(5/12)、「あがた森魚コンサート」(5/13)などが予定されています。

ぜひ足をお運びください。


さて、冒頭の『朝日新聞』さんに紹介されているエピソード。出所は心平が書いた「光太郎・智恵子」。初出は昭和39年(1964)の『新潮』ですが、単行書『わが光太郎』(昭和44年=1969 二玄社)『実説智恵子抄』(昭和50年=1975 弥生書房)などにも収録されました。

私が新宿で屋台のやきとり屋をやってた時である。よしず張りの紺ののれんをくぐって鳥打帽の高村さんと、全く思いもよらない智恵子さんが現われた。私はいきおいよく渋団扇を叩いた。
「それたれですか。」
智恵子さんは小さなカメを指して言った。
「ええ。」
「見せて下さい。」
カメを少し斜めにすると、のぞきこんだ智恵子さんが、
「おいしそう。」
と言った。わきで高村さんが、
「近頃方々のを食べてるんだが、屋台では草野君とこが一番うまい。」
誰にともなく高村さんがそう言った。
その晩が、まともな智恵子さんの、私にとっては最後だった。(それ以前は色々。)

心平が焼き鳥「いわき」を開店したのは、昭和6年(1931)5月(翌年には閉店)。開店に先立って、智恵子から椅子代わりにリンゴの木箱をもらったそうです。智恵子の統合失調症が顕在化したのが、同じ年の8月。その頃のエピソードです。

心平は飲食店経営への夢が断ちがたかったようで、昭和27年(1952)には小石川田町に居酒屋「火の車」を開店(のち、新宿角筈に移転)、同31年まで営業していました。

この間、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎が、まだ健康状態が許した頃にはよく通いました。ということは、『朝日新聞』さんの記事にも紹介されている怪しげなメニューも食べたのでしょう。ちなみに「白夜」はキャベツとコーン入りの牛乳スープ、「悪魔のこまぎれ」は酢蛸です。「美人」というのは存じませんが、板わさが「美人の胴」というネーミングでした。他に「丸と角」(チーズとカルパス)、「十万」(数の子)、「どろんこ」(鰹の塩辛)、「冬」(豚の煮こごり)などがありました。

その後、昭和35年(1960)には、バー「学校」も開いています。こちらは心平が名誉村民となった福島県川内村で健在です。


さて、「春の企画展 草野心平の詩 料理編」。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

冬は鉄碪(かなしき)を打つて叫ぶ、 一生を棒にふつて人生に関与せよと。
詩「冬の言葉」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

昨日ご紹介した「或る墓碑銘」にも「一生を棒に振りし」というフレーズがありましたし、この後も同様の句が散見されます。当方、できれば棒に振りたくありませんが(笑)。

「鉄碪(かなしき)」は「鉄床」「鉄敷」とも称し、加工しようと思う金属を乗せる鋳鉄製の台です。それを金槌などで叩けば、硬質の金属音。冬の凍てついた空気感の象徴でもありましょう。

元日の『読売新聞』さんの滋賀県版に、以下の記事が載りました。

近江クール考<壱 ミカク>湖国の食 世界へ

 初雪が舞ったような、きめ細かいサシが入った近江牛が鉄鍋に触れた瞬間、甘い香りが漂った。東京・浅草の老舗「今半別館」。地元の「あさくさ」などの名が付くすき焼きのコースで最高級に「ながはま」の名を冠し、300近くあるブランド牛で近江牛にこだわり続ける。粋を凝らした閑静な和室で、店主の長美勝久さん(56)が理由を教えてくれた。「繊細な旨(うま)みと口溶けの良さ、豊かな香り。この最高の肉を使って『おいしくない』と言われたら、それはもう、どうしようもないですよ」
 1687年、彦根藩で味噌(みそ)漬けにされ、幕府に献上された養生薬「反本丸(へんぽんがん)」に歴史を遡るという近江牛。浅草との縁は明治初期の1880年頃、近江出身の家畜商・竹中久次が牛鍋屋を開業して始まった。これを機に、この地はすき焼き店が立ち並ぶ“聖地”に。詩人・彫刻家の高村光太郎をはじめ文人墨客、角界、銀幕のスターをも魅了してきた。文明開化の扉を開けたのは、近江の人でもあったのだ。
 湖国の味覚は皇室でも愛(め)でられてきた。その証しが東近江市の資料館に残る。
 「然(しか)るに右『モロコ』は聖上竝(なら)びに皇太后陛下にも御好様故お(このみようゆえ)を以(もっ)て……大正天皇の……御神前に御供の上御召し上り……」
 1931年(昭和6年)に書かれたこの手紙の差出人は久邇宮家に仕えていた人物。宛先は県ゆかりの繊維商社「ツカモトコーポレーション」の創業家関係者。手紙には、久邇宮邦彦王妃に届けられた琵琶湖固有種のホンモロコが、昭和天皇と皇后の元に渡り、さらに天皇の母・貞明皇后(皇太后)にも届いていたことが記されている。そして、貞明皇后は大正天皇の神前に供えた後、召し上がった――と。
 「皇族方の間で回っていることから、日持ちがする佃(つくだ)煮だと思う」と、手紙を発見した同社資料館「聚心庵(じゅしんあん)」の藤堂泰脩館長(80)。「都が京都にあった頃、御膳に湖魚が上ったこともあるでしょう。ホンモロコは歴代皇族方が親しまれてきた『都の味』。そんな思いで、子孫の方々も食されたのではないでしょうか」
 ブランド力アップが課題の県にとって、知名度がある近江牛や湖魚は発信に欠かせない「クールコンテンツ」だ。東京五輪の2020年を見据え、県はブランド戦略の中心に位置付ける。
 近江牛で言えば、すでに富裕層が多いシンガポールやタイなど6か国・地域に向け、年間6000頭のうち450頭以上が海を渡っている。今年は07年の「近江牛」商標登録から10年の節目。健康志向が高まる中、悪玉コレステロールを抑制するというオレイン酸の含有量が豊富な点も前面に打ち出し、更なる飛躍を目指す。
 「国内だけでなく、外国産の『WAGYU』も台頭し、ライバルは多い」と担当者。「だが」、と力を込める。「近江牛は『サムライ、ショーグンも食べた牛肉』という国内随一の歴史、ストーリー性がある」
 県がターゲットにする国には、南米で初めて日本からの牛肉輸出先となるブラジルの名も見える。地球の裏側でも、特別な日は、近江牛のすき焼きに舌鼓を打つ――。そんな日も遠くないかもしれない。


高級和牛として名高い近江牛の歴史、そしてこれからを紹介しています。

光太郎の名が出ましたが、その前に名がある近江出身の家畜商・竹中久次が浅草に開き、現在も続く米久(よねきゅう)さんをこよなく愛し、「米久の晩餐」という長大な詩を書いているからです。

ちなみにその前に紹介されている今半さんの人形町店には、光太郎の詩「ビフテキの皿」(明治44年=1911)の一節が書かれた額が飾られているそうです。光太郎自身の揮毫ではなく現代の書のようですし、この詩の舞台はどこなのかは明確にはなっていませんが。


     ビフテキの皿

  さても美しいビフテキの皿よ

  厚いアントルコオトの肉は舌に重い漿汁(グレエヸイ)につつまれ
  ポンム・ド・テルの匂ひは野人の如く率直に
  軽くはさまれた赤大根(レデイシユ)の小さな珠は意気なポルカの心もち

  冴えたナイフですいと切り、銀のフオオクでぐとさせば
  薄桃いろに散る生血
  こころの奥の奥の誰かがはしやぎ出す

  マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り
  白いナプキンにボルドオはしみ
  夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ

  首祭りに受けて飲む血のあたたかさ
  皿をたたいて
  にくらしい人肉をぢつと嚙みしめるこころよさ

  白と赤との諧調に
  シユトラウスの毒毒しいクライマツクス
  見よ、見よ、皿に盛りたるヨハネの黒血を

  銀のフオオクがきらきらと
  君の睫毛がきらきらと
  どうせ二人は敵同志、泣くが落ちぢやえ

  ナイフ、フオオクの並んで載つた
  さても美しいビフテキの皿よ
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その晩年まで肉類を好んだ(岩手太田村から再上京した後も、米久さんに食べに行っています)光太郎の本領発揮というような詩ですね。

ただし、翌年に書かれた「夏の世の食慾」という詩には、「浅草の洋食屋は暴利をむさぼつて/ビフテキの皿に馬肉(ばにく)を盛る」という一節があったりもします。


さて、滋賀の方にも機会があったら調査しに行かなければ、という案件があります。その際には近江牛を堪能しようと思っております。


【折々のことば・光太郎】

汝を生んだのは都会だ 都会が離れられると思ふか 人間は人間の為した事を尊重しろ 自然よりも人工に意味ある事を知れ

詩「声」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

昨日も同じ詩「声」から引用いたしました。この詩は自然派と都会派の二人が言い争うという形で書かれたもので、上記は都会派の言い分です。

自然派、都会派、どちらも光太郎の内面に巣くう別個の人格で、この時期の光太郎は二人のせめぎ合いに悩んでいました。

自然派の声に従い、この年、北海道に渡って酪農にいそしむ計画を立て、実際に札幌郊外の月寒まで行ったものの、少しの資本ではどうにもならないことを知り、1ヶ月ほどですごすご帰京。結局は都会派の声に従い、昭和20年(1945)の空襲で焼け出されるまで、東京暮らしを続けます。

その後、宮沢賢治の実家から誘われて花巻に疎開、終戦後も花巻郊外太田村で隠遁生活を送り、最晩年になって帰京しますが、そのあたりはその頃の作品を紹介する中で論じます。

新宿の中村屋サロン美術館さんから、企画展のご案内を頂きました。

中村屋創業115周年記念 新宿中村屋食と芸術のものがたり

期 日 : 2016年12月17日(土)~2017年2月19日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 東京都新宿区新宿3丁目26番13号 新宿中村屋ビル3階
時 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 :  毎週火曜日(火曜日が休日の場合は開館、翌日休館)、12/31(土)~1/3(火)
料 金 : 200円
 ※高校生以下無料(高校生は学生証をご呈示ください)
 ※障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

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食と芸術のドラマが織り成す新宿中村屋の“味”
 中村屋は1901年に創業し、2016年12月30日に115周年を迎えます。この間、多彩な食を生み出すとともに芸術活動を支援し、単なる小売店ではない、新宿中村屋という店格を築いてまいりました。創業者 相馬愛藏・黒光夫妻の独創性から、今まで日本に無かった食が生まれ、二人に惹かれて、多くの芸術家・文化人たちが中村屋に集いました。
 本展では、愛蔵・黒光を中心に起こった、食と芸術誕生のドラマを垣間見ていきます。一つ一つのドラマがスパイスとなり新宿中村屋という“味”を形成していった、その様子をお楽しみください。

主な展示作品
 彫刻 荻原守衛(碌山) 「女」「坑夫」  
 油彩 柳敬助「諏訪湖畔雪景」   中村彝「小女」  鶴田吾郎「盲目のエロシェンコ」
 水彩 布施信太郎 「中村屋の包装紙原画」
 版画 棟方志功 「中村屋の羊羹掛け紙」
 書   会津八一 「おほてらの」「いかるがの」 
 

関連行事 

新宿中村屋のドラマと料理を味わう ~食事付講演会~

 新宿中村屋の歴史やゆかりのある芸術家たちについて学んだ後、中村屋伝統の料理をご賞味いただきます。その後、中村屋サロン美術館にて展示をご覧いただく、中村屋満喫のイベントです。

《第1回テーマ》 創業者 相馬愛藏・黒光と新宿中村屋
 日  時 : 2017年1月21日(土) 10時~13時半頃
 講  師 : 株式会社中村屋CSR推進室課長 広沢久美子

《第2回テーマ》 相馬黒光と中村屋サロンの芸術家たち
 日  時 : 2017年2月4日(土) 10時~13時半頃
 講  師 : 中村屋サロン美術館学芸員 太田美喜子

定  員 : 各回24名 先着順、定員になり次第〆切
参加費  : 各回3,000円(税込、食事代、美術館入館料込み)
場  所 : 新宿中村屋ビル8F グラシナ
料  理 : 伝統のインドカリーやボルシチを含めたコース料理
申  込 : 中村屋サロン美術館 museum@nakamuraya.co.jp 03-5362-7508

既に定員に達しているそうです。


展示の方は、光太郎作品は並ばないようですが、講演の方で光太郎にもからむかな、と思っておりましたら、既に定員に達しているそうです。ただ、キャンセル待ち等があるかも知れません。

展示は昨日から始まっています。ぜひ足をお運びください。当方も年明けに行って参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

我おもひ胸にはひめむしかはあれどあまりにやせしこの頬をいかに

明治33年(1900) 光太郎18歳

『明星』時代の、おそらくは架空の恋の歌です。

しかし、10年後の新宿中村屋における碌山荻原守衛を謳ったようにも読める歌です。

まずは先週土曜日の『福島民友』さんの記事。

【二本松】洋風七味『智恵こしょう』販売 「お肉やスープでいかが」

 二本松市のにほんまつ観光協会(安斎文彦会長)は、同市出身の洋画家高村智恵子の夫・光太郎の詩集「智恵子抄」をもじった洋風七味「智恵こしょう」(内容量10グラム、税込み600円)を売り出している。
 こしょうやハーブソルト、ローズマリー、唐辛子などをブレンドした。県立霞ケ城公園で23日まで開催中の「二本松の菊人形」会場で開かれる紅葉まつり(5、12、13、20の各日)で販売する。
 二本松観光大使の女優大山采子さんは「お肉に振り掛けてもおいしいし、スープにしても香ばしい」と笑顔を振りまき、PRしている。

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観光大使の一色采子さん(本名・大山采子さん)、相変わらずご活躍です。

「智恵こしょう」、一昨年ぐらいには既に売り出されていたような気がするのですが、良しとしましょう。

察するに、現在開催中の「二本松の菊人形」会場で見かけた記者さんが、「これは面白い」と、取り上げて下さったのではないでしょうか。

菊人形といえば、テレビでCMが流れていて驚きました。昨年の智恵子人形も映っていました。11/23迄の開催です。




11/11 追記 地元の方より、菊人形会場でのイベント情報をお知らせいただきました。下記「コメント」欄、ご覧下さい。


続いて、7日の『毎日新聞』さん。以前にも続けて光太郎が引き合いに出された、俳句に関するコラム「季語刻々」です。 

季語刻々 2016年11月7日

五郎丸のポーズをみんな冬来る 児玉硝子(がらす)

 季語「冬来る」は立冬を指す。今日が立冬だが、硝子さんの句では、みんながいっせいに五郎丸ポーズをとって冬を迎えている感じ。彼女は大阪市に住む私の俳句仲間。では、高村光太郎の詩「冬が来る」の第一連をどうぞ。「冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る」。この冬に私も五郎丸ポーズで向き合いたい。さあ、来い、冬よ。<坪内稔典>


もう立冬が過ぎたか、という感じです。当方、光太郎と違って冬の寒さには弱いので、「まだ秋でいいじゃん」という感覚ですが(笑)。


もう一件、予告です。

『朝日新聞』さんの土曜版に、2ページにわたり「みちのものがたり」という連載が為されています。毎回、全国のさまざまな「道」を取り上げ、それにまつわる人間ドラマを紹介しています。

明後日、11/12の「みちのものがたり」は、青森県の八甲田・十和田ゴールドラインが取り上げられます。予告によれば「明治、大正期の文人・大町桂月が愛し、終生の地とした名湯、蔦温泉があります。」とのことです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、もともと十和田湖の国立公園指定15周年記念に、大町桂月ら、十和田湖の紹介、開発に功績のあった3人を顕彰するモニュメントとして企画されました。桂月が取り上げられるということで、光太郎や「乙女の像」にも言及していただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

オベリスク金にかはれてアメリカの町に立つかよ此のオベリスク 

制作年不詳

舞台はニューヨークのセントラルパーク。エジプトから運ばれて建てられたオベリスクを詠っています。

明治39年(1906)から翌年にかけてのアメリカ留学中の経験を下敷きにしている詩「象の銀行」にも、このオベリスクが使われます。大正15年(1926)の作。

  象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツ バンク)にちやりんと入れる。
時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。009
象がさういふ。
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。
印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。
夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。


もともとは西洋的唯物主義、行き過ぎた資本主義、帝国主義への警句として書かれた詩です。しかし、のちに昭和19年(1944)になって、単に光太郎に人種的劣等感を植え付けた当時の敵国・アメリカへを批判している点から、翼賛詩集『記録』に収められるという韜晦が為されました。

その際に付された前書きにはこのように書かれています。

大正十五年二月作。明治三十九年夏から冬筆者は紐育市西六五丁目一五〇番にある家の窓の無い天井裏の小さな部屋に住んでゐた。光線は天井の引窓から来た。市の中央公園が近いのでよく足を運んだ。そこには美術館もあつた。小さな気のきいた動物園もあつた。埃及から買取つたオベリスクも立つてゐた。みな金のにほひがしてゐた。

アメリカ大統領選挙、トランプ氏の勝利に終わりました。ヒスパニック系の人々などが、光太郎と同じような「憤り」を感じないようなアメリカであってほしいものですが……。ましてや「ジャップ」という語がまたまかり通るようになるのも困りものです。

12/12(土)、雄物川郷土資料館さんで第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」を拝観するなどした秋田横手をあとに、夕方には花巻に到着しました。

在来の花巻駅で花巻高村記念会の高橋事務局長のお出迎えを受け、まずは宿屋に荷物を置きに行きました。今回は急に決めての東北行だったので、宿も駅前の商人宿に素泊まりです。荷物を置いた後、高橋事務局長のご案内で、歩いて夕食を摂りに行きました。

花巻駅、そして宿のすぐ近くにある伊藤屋さんという大衆食堂です。下の画像は、翌朝撮影しました。

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建物自体は新しくなっていましたが、ここはかつて光太郎が食事をした店だそうで、帰ってから調べてみましたところ、なるほど、戦後の光太郎日記に記述がありました。

朝会計をすまし、山にゆかんとせしがリユツクが重すぎるので花巻駅にゆき、伊藤屋にて中食、ハイヤーをたのみて院長さん宅に来る。二三日又滞在のつもり。(昭和26年=1951 2月2日)

会計云々は、前月23日から宿泊していた大澤温泉です。「花巻駅」は今は廃線となった花巻電鉄。当時、大澤温泉を含む花巻南温泉峡とつながっていました。


畑の手入れ後花巻に出て院長さん宅に泊まる、 伊藤屋にて中食中院長さん車で迎に来らる、八戸の弟さん同乗、(昭和27年=1952 7月10日)

花巻郊外太田村の山小屋から花巻町に宿泊に来た時の日記をあたってみると、以上の記述がありました。日帰りで町に出て来た時については調べていませんので、もしかするとまだあるかもしれません。また、日記も欠落が多いので、記録に残っていない来店もあるのではないでしょうか。

さて、当方、伊藤屋さんでさらに花巻市役所の方と合流。いろいろと打ち合わせをしました。また近くなって正式に決まりましたらご紹介しますが、いろいろと新しい事業を計画中だとのことです。

まず、佐藤隆房邸の一般公開。計画では来年5月14日の土曜日(翌日は旧太田村の高村山荘敷地内で高村祭です)。上記光太郎日記にある「院長さん宅」というのがそれで、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、ここで暮らしました。

順を追って説明しますと、この年4月13日に、智恵子と暮らした東京駒込林町のアトリエが空襲で全焼。しばらくは近所にあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎は、5月15日に花巻に向けて東京を発ちます。賢治を広く世に紹介してくれたということで、恩義を感じていた宮澤家、そして賢治の主治医だった総合花巻病院長・佐藤隆房の招きに応じてのことでした。

花巻では最初に宮澤家に厄介になりましたが、8月10日の花巻空襲で宮澤家も全焼。そこで花巻町南舘の元花巻中学校長・佐藤昌宅に移ります。さらに9月10日は佐藤隆房邸に移ったわけです。

佐藤邸では離れの2階を借り、ここを「潺湲楼(せんかんろう)」と命名、その後、太田村に移ってからも、花巻町に出て来た時にはよく泊めてもらっていました。これも上記日記の通りです。

こちらは現在も佐藤隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、来年5月14日(土)に一般公開するという予定だそうです。時間を決めて公開し、三々五々自由に来てもらうか、市民講座のような形で参加者を募集してバスツアーのような形にするか、そうすると県外などからの希望者はどうするかなど、詳細はこれからです。


2点目、光太郎縁戚の方の手記。盛岡に光太郎の縁戚―それも父方、母方双方につながる―の方がいらっしゃり、今年、そちらのお宅に伝わる光雲・光太郎関係資料等をまとめた手記を書かれました。それを高村記念会として出版するという計画もあるそうです。コピーを戴いて、帰りの新幹線の車中で拝読しましたが、今まで知られていなかったエピソード、見たことのない写真、『高村光太郎全集』未収録の光太郎書簡などが満載で、実に貴重なものです。母方でみれば光太郎の従姉妹にあたる方が98歳でご存命。高橋事務局長がその方のお宅でインタビューなさっているDVDをいただきましたが、それを見ると、まだまだお元気でしっかりされています。手記を書かれたのはその方のご子息です。


その他にも、佐藤家の関係で光太郎筆の色紙が寄贈されるとか、記念館のパンフレットを新たに編集して刊行するとか、記念館の企画展で智恵子紙絵の現物を展示するとか、実に様々な話になりました。それぞれ時期は未定ですが、おおむね来年の話です。詳細が決まったらお知らせします。


かくて伊藤屋さんでの夜も更け、宿屋に退散。翌日は高村光太郎記念館、高村山荘、そして先述の佐藤隆房邸などを回りました。その辺りは、また明日以降に。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月15日

昭和44年(1969)の今日、箱根彫刻の森美術館で企画展「近代日本の彫刻」が開幕しました。

翌年3月31日迄の会期で、光太郎彫刻も7点展示されました。下記は図録の表紙。光太郎の木彫「蓮根」(昭和5年=1930)の写真が使われました。

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昨日は、東京上野に行っておりました。目的は、大正3年(1914)、光太郎智恵子が結婚披露宴を行った精養軒さんでの、「福の島プロジェクト 福島応援団四周年記念 第四回 ふくしまの食材を使ったフレンチの夕べ」でした。

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東日本大震災からの復興支援ということで、福島の食材の魅力をアピールする催しで、さまざまな団体さんの協賛のもと、政財界を始め100名あまりの参加者が集い、盛大な催しとなりました。

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会場内には即売コーナーも。

まずはオープニングライブということで、「智恵子抄」に自作の曲をつけて唄われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。会場の一角をパーテーションで仕切った即設のライブスペースで行いました。

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ピアノ伴奏は船本美奈子さん。

特に「樹下の二人」(あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川)、「あどけない話」(智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。)といった、福島を謳った作品には、お聴きの皆さんも心打たれたようでした。

その後、メイン会場に戻り、「フレンチの夕べ」でした。

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主催者であられる「福の島プロジェクト」さんの小林文紀会長、「ほんとの空」にからめてのご挨拶。

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乾杯の御発声は、川内村村長・遠藤雄幸氏。

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同村で毎年開催されている、当会の祖・草野心平を偲ぶ「かえる忌」や「天山祭」の関係で、遠藤村長とは親しくさせていただいており、昨夜もいろいろお話をさせていただきました。一昨年の第2回からご参加なさっているとのこと。

その後は美味しい料理を堪能いたしました。ひさしぶりに日本酒もいただきました。

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一品ずつ、生産者や販売者の方、関係者の方による説明があってから饗されるというスタイルで、それぞれの方の熱い思いが語られました。

上記は鯉の唐揚げの際のご説明。郡山市長・品川萬里氏です。食用の鯉は、福島が全国一の生産量だそうです。

後半には再びモンデンモモさんと船本美奈子さんがご登場、今度はシャンソンのスタンダードナンバーをご披露なさいました。

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モモさん、ご来賓のフランスの方をステージに上げ、デュエット。相変わらず強引です(笑)。

そして閉会。

帰りがけ、参加者全員に、福島産の薔薇一輪と、お米「天のつぶ」(500㌘)が配られました。ありがたや。薔薇はさっそく書斎に飾ってある光太郎遺影に供えさせていただきました。

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お米もいずれいただきます。



まだまだ福島の復興も道半ばです。いわれなき風評被害はだいぶ治まったようですが、これからは、「風化」との闘いでしょう。皆様も、ご支援のほどお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月27日

大正14年(1925)の今日、光太郎の父・高村光雲が、勲二等瑞宝章に叙せられました。

今月中行われるもので3つほど、「智恵子抄」関連のイベントの情報を得ているうちの2つめです。 

大正3年(1914)12月22日、光太郎智恵子の結婚披露宴が開催された上野精養軒さんでのイベントです。 

福の島プロジェクト 福島応援団四周年記念 第四回 ふくしまの食材を使ったフレンチの夕べ

 皆さまお変わりなくお過ごしのことと、およろこび申し上げます。いつも、福島県を心にかけていただき、まことにありがとうございます。
東日本大震災、それに伴う原発事故から4年半が過ぎ、表面上は日常を取り戻した福島県ですが、まだ自宅に戻れない避難者が10万人を超え、さらには、農林水産物への風評被害もいまだ進行形です。
 私ども福の島プロジェクトが、震災直後から福島県の正しい姿を全国に発信する活動をしてはや4年。福島県産の農産物を使ったフレンチの夕べも、首都圏の皆様の友情に支えられて、今回で4回目を数えることとなりました。
今年も、全国新酒艦評会で金賞受賞数3年連続日本一の福島県より、自慢の日本酒を始め、おいしいおコメ、野菜など、ふくしま食材を使った、美味しいフレンチをお楽しみいただきます。
 首都圏にお住まいの皆様と、福島のおいしい時間をご一緒できますことを、楽しみにしております。
福の島プロジェクト 会長 小林文紀
日 時 : 平成27年11月26日(木) 開場 17:30
         オープニングライブ 智恵子抄をうたう 18:00~18:30
         ディナータイム フレンチの夕べ      19:00~20:45 
場 所 : 上野精養軒 桜の間 東京都台東区上野公園4-58 TEL:03-3821-2181
会 費 : 前売10,000円(当日10,800円)
 理 : フレンチの老舗上野精養軒のシェフが福島の食材をふんだんに生かした心込めたおもてなし .
飲み物 : 福島の蔵元から直送の日本酒/福島工場製造の朝日スーパードライ/
         こぶしの里のさるなしジュース/尾瀬の自然水/アクアイズ天然炭酸水
お楽しみ
 ◎福島の食材のフレンチディナーを着席ビュッフェスタイルで
 ◎全国酒艦評会金賞受賞酒とのマリアージュ
 ◎モンデンモモが唄うシャンソンの名曲に酔いしれてください
 ◎福島にこにこバラ園のバラ/会津木綿に江戸友禅師・加藤孝之氏デザインのナフキン
 ◎その他
主 催 : 福の島プロジェクト
主 管 : 有限会社HA2
協 力 : フランス料理文化センター/ラ・キャラバン・ボナペティ/
      NPO法人プロジェクト福島屋商店/GBP(がんばっぺ)福島/笹の川酒造/
      上野観光連盟/上野精養軒

オープニングライブ 智恵子抄をうたう

 高村光太郎が、亡き妻智恵子さんを偲んで詠んだ詩集「智恵子抄」にモンデンモモさんがメロディーをつけて歌い語ります。
 「智恵子抄」には、智恵子さんのふるさと福島県二本松市の大自然が詠われています。
 ご夫妻が結婚式を挙げた上野精養軒を舞台に、安達太良山や阿武隈川の光景を思い浮かべながらゆったりとした時をお過ごしください。

出 演 : 歌と語り モンデンモモ  ピアノ 船本美奈子

 この企画は、福島県に拠点をおく下村満子さん主宰の「生き方塾」の事務局長・三田様のご協力により実現しました。生き方塾応援団のお一人であるモンデンモモさんが福島を思う熱い気持ちのままに、智恵子抄を歌いあげます。

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というわけで、このブログで何度もご登場いただいているモンデンモモさんがご登場。オープニングライブと、ディナータイムの中でも歌われるようです。

こちらのイベントは今回で4回目。智恵子の故郷・二本松にほど近い郡山に拠点を置く「福の島プロジェクト」さんの企画で開催されます。公式サイトには以下の記述があります。

 「福の島プロジェクト」は、東日本大震災、そしてそれに伴う原発事故から立ち上がろうとする福島県を応援するために、福島県産品だけを取り扱う「ネットショップ福島屋商店」を中核に、福島県内の農業生産者、食品加工業者、道の駅、農産物直売所、酒蔵、宿泊業地域づくり団体が一つになって、これまで約3年間活動を続けてきました。

 活動3年目の今年は、県外・国外の皆様に、震災後の福島県の姿を正しく見ていただくために、活動の幅を広げています。

 福島県は案外大きな県です。県土の大きさはもちろんですが、少子化と震災で減らしたとはいえ、人口も195万人程あります。ほどよく首都圏から離れ、交通の便が良く、中都市が分散する県土は、それぞれの地域に異なった文化と伝統を持つ魅力ある地域です。私たちは、震災以前よりこの福島県を「うつくしま・ふくしま」と自慢していました。

 この「うつくしま・ふくしま」で育てられた農産物や加工食品を、安全には万全の注意を払ってお届けします。

 どうぞ、おいしいふくしまをお楽しみください。そして、「うつくしま・ふくしま」においでください。心からお待ちしております。

会長の小林文紀さんについてはこちら。



こういったイベントへの参加も、一つの復興支援です。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月11日000

昭和26年(1951)の今日、詩人の宮靜枝が花巻郊外太田村の山小屋を訪れました。

宮靜枝は岩手江刺の出身で、戦前から東京で詩人として活動。光太郎同様、東京の家を戦災で焼かれ、郷里に近い盛岡に疎開していました。

宮はこの時の体験を元に、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』を上梓、第33回晩翠賞に輝いています。

この中には、光太郎を謳った21篇の詩、詳細な訪問記、自身や同行した甥御さん、息子さんが撮った15葉の写真も収められています。


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先月、花巻高村祭の後で現地調査に訪れた奥州市の人首文庫さんから、『高村光太郎全集』等未収録の書簡など、お願いしていた数々の資料コピーが届きました。ありがたや。

その中に、光太郎が写っている写真があったということで、こちらのコピーも含まれていました。クリックで拡大します。

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光太郎は中央やや右の方にいます。これがい007 (2)つどこで撮られたものかというと、昭和25年(1950)1月18日、盛岡にあった菊屋旅館です。

では、何の集まりかというと、その名も「豚の頭を食う会」。記録が残っています。長くなりますが引用します。

まずは昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』という書籍の一節です。したがって文中「現在」とあるのは昭和51年の時点です。

 昭和二十五年一月十八日の夕方、菊屋旅館で「豚の頭を食う会」が開かれた。メーン・ゲストはもちろん高村光太郎。これに、“南部の殿さま”南部利英夫妻や盛岡市長、盛岡警察署長、美校(注・岩手県立美術工芸学校)の教授・助教授陣ら約三十人が加わり、豪華な中国料理に舌つづみをうった。
 発起人は深沢省三と堀江赳、それに現在「オームラ洋裁学校」を経営している大村次信の三人だった。この三人が桜山のおでん屋で酒を飲みながら話をまとめ、大村が後日、直接山口に出向いて光太郎を誘った。費用は会費とカンパでまかない、コック長は大村の遠縁で、戦前彼と同じく満州国の「協和会」で一等通訳をしていた浜田敏夫がつとめた。菊屋旅館の台所は数日前から、前述の君子(注・菊屋旅館女将)以下、お手伝いさんたちが仕込みで大騒ぎしていた。
 光太郎は五日前の十三日、盛岡に出て来、教員を対象にした美校の美術講座や「盛岡宮沢賢治の会」の講演会、少年刑務所での講演など多忙なスケジュールをこなしていた。「深沢牧場」を訪問したのはこの翌日になる。
 例えば新聞社でも、夜食にカツドンを食う記者がいれば、同僚から「ほう」という声がもれた時代だ。大村の命名になるこの「豚の頭を食う会」は、翌日の朝刊を写真入りの記事で飾った。その十九日付の地元紙――
<この会は翁(注・光太郎)の日ごろの持論である「日本人の食生活はあやまっている、肉を大いに食うべし、しかも従来日本人の多くはうまい所ばかり食べて臓物や尾など栄養価の高いものを食べていない、豚の頭や牛のシッポを食べなければならない」というのを早速実践に移そうということで計画された>
 この日の献立を挙げておこう。大村ら発起人が出席者に配ったものだが「高度成長」を遂げた二十五年後の今日でも、ちょっとわれわれ庶民の口には入りそうもない。それほど豪華だ。
 <前菜(蒸し肉ほか三種)炒菜(イリ豚肉ほか三種)炸菜(豚の上ロースの天ぷらほか三種) フカのヒレの煮物 コイの丸揚げ 山イモのアメ煮 リンゴの甘煮 豚の白肉の寄せなべ 肉の団子のアンかけ 鶏肉の白玉子とじ アヒルの蒸し焼き カニ玉子 玉子とじ汁 もち米の甘い八目飯 ほかに天津包子>
 どうですか? 実際は「豚の頭」などどこにもない。単にユーモラスな名称以上のものではなかったわけだが、大村も「当日高村さんは席につくなり、ほう、大変なごちそうだねと感心し、次いで、どこに豚の頭が入っているのと聞いた」と笑う。それにしても、光太郎に栄養補給してあげようという大村ら発起人の気持ちはともかく、これだけのものを食べていながら、光太郎が<日本人の食生活はあやまっている>などと記者に語ったのが事実だとすれば、実にいい気なものだといわざるをえない。まだ朝鮮戦争による特需景気もなく、日本人は食べたくても食べられなかった時代だ。


続いて昭和37年(1962)、筑摩書房刊行の『高村光太郎山居七年』(先頃、花巻の高村光太郎記念会より復刊されました)。

 盛岡美校の深沢さんに堀江さん、その友人の大村さん高橋さんの四人が、桜山前のおでんや「多美子」に休んだとき、かわったうまいものの話などが出ました。
 「高村先生を招いて豚の頭を食う会を開こうではないか。」との話がで、皆大賛成です。先生は、頭だの尻尾だの内臓だのに一番栄養があると常々話をしているから、先生に上げみんなも試食しようというわけで、会を開くことにしました。幹事に大村次信さんが当り、日時は美校での講演会の夜、会場は絵が好きで深沢さんと親しくしている菊池正美さんの旅館菊屋にしました。
 次信さんは、今度の会は豚の頭の料理なのだからその通(つう)の人でないとうまい料理が作れそうもないので適材を物色しましたところ、盛中出身の一等通訳で、中国に長くいた浜田年雄さんがその通だというのでそれに頼み、然るべき方々に案内状を出し、又電話をかけました。
 講演会のあとで案内を受けた人々が会場菊屋に集まりました。
 先生は豚の料理を前にして
「日本人は体が小さい。食生活をかえなくては大人(だいじん)になれない。体も心もです。トルストイも一つは大地が育んでいるが一つは食べ物がうんでいる。栄養をうんと摂ることが必要だ。」
 豚の頭の料理を皆で一緒に食べましたが、いろいろの味があり、食べつけない一同は何とも批評ができませんでしたが、先生は蛇の話熊の話動物の叡智など面白く語り、かなり酒もまわって来ました。大いに飲み大気焔になるのもあります。益々まわって来た先生は南の方に向かい両手を畳について
「高山彦久郎ここにあり、はるかに皇居を拝す。」
 と大声をあげ、巨体を前に伏しました。団十郎の声色を真似たのでしょう。酔余の余興ではありましたが、座は粛然と成りました。(大村次信氏談)


同じ大村氏を情報ソースとしながら、微妙に異なるところがありますが、まあ大筋は一致しています。要するに光太郎を囲んでの食事会です。

ちなみに次の日に訪れたという「深沢牧場」は雫石の深沢省三・紅子夫妻の住まい。今年3月に、女優の渡辺えりさんとともに、子息・竜一氏にお話を伺って参りました


当時、盛岡在住だった詩人の佐伯郁郎も「豚の頭を食う会」に出席。そこで、人首文庫さんに上記の写真が残っていたというわけです。人首文庫さんによれば佐伯は最後列の右端です。同じく人首文庫さん情報では、光太郎の左前にいるのは作家の鈴木彦次郎だそうです。

写真には40名弱が写っていますが、当方、顔でわかるのは深沢省三(最後列左端)、深沢紅子(光太郎の右後)、菊池君子(前列左から五人目)ぐらいです。岩手県立美術工芸学校の関係者が多いようです。

他に、大村次信、舟越保武、堀江赳、森口多里、佐々木一郎、南部利英、菊池政美といった面々がいるはずなのですが、どれだかわかりません。また、それ以外には名前すら不明です。

写真を見て、これは「うちのじいちゃんだ」というような方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。

ところで、昨年、盛岡てがみ館さんで開催された企画展「高村光太郎と岩手の人」で、「豚の頭を食う会」の献立が展示されました。『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』に記述があるもので、ガリ版刷りです。これを見た時には、よくぞこういうものを遺しておいてくれた、と、涙が出そうになりました。

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ちなみに発起人の一人、大村次信が経営していたという「オームラ洋裁学校」は「オームラ洋裁教室」と名を変え、存続しているようです。ところが会場の「菊屋旅館」が、ネットではヒットしません。こちらも改名されて、このホテルじゃないか、と推理できるところはあるのですが、はっきりしません。そのあたりご存じの方もご連絡いただければ幸いです。

追記 「菊屋旅館」は現在の「北ホテル」さんと判明しました。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月18日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で日本文学報国会の発会式が開催されました。

「報告会」ではありません。「報国会」です。「七生報国」の「報国」です。定款第三条によれば、

本会ハ全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想ヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス

という団体です。

当時の『日本学芸新聞』の報道。

  一堂に会す全日本の文学者 皇道文化創造へ邁進 日本文学報国会力強き第一声

 全日本の文学者を打つて一丸となし、愛国尽忠の至誠烈々として、その総力を集結する「社団法人日本文学報国会」の発会式は六月十八日午後一時から日比谷公会堂に於いて挙行された。
 この日、全国から馳せ参じた三千有余の文学者はもとより、友好団体たる少国民文協、音協出版、文協、都下大学文化学生等参加。甲賀三郎氏(総務部長)司会の下に下村宏氏座長となり、久米正雄常務理事が会務を報告し、会長に徳富猪一郎を推挙、つづいて八部会の各代表の華々しい宣誓に移り――菊池寛(小説部会代表)、太田水穂(短歌部会代表)、河上徹太郎(評論随筆部会代表)、深川正一郎(俳句部会代表)、茅野蕭々(外国文学部会代表)、橋本進吉(国文学部会代表)、尾崎喜八(詩部会代表)、武者小路実篤(劇文学部会代表)――東條翼賛会総裁、谷情報局総裁、文部大臣橋田邦彦氏の祝辞があり、最後に吉川英治氏の提唱で「文学者報道班員に対する感謝決議」を行つたが、この誠に文壇未曾有の盛事に、際会して、全日本文学者の意気凛々として満堂を圧する観があつた。

光太郎は詩部会長でしたが、代表として宣誓を行ったのは尾崎喜八でした。尾崎は光太郎の詩「地理の書」を朗読しています。

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