昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。
昨年2月に亡くなった、同市の元教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった故・田口弘氏が、一昨年、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさり、市立図書館さん内に、その展示スペース「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、昨日はそのオープンセレモニー等が行われました。
そのオープンセレモニーのあとの記念講演講師の依頼があり、馳せ参じた次第です。
午後1時半から、資料コーナーに椅子を並べた会場で、オープンセレモニー。
設置の経緯の説明や、森田市長さんはじめ来賓の方々のご挨拶等に続き、テープカット。田口氏のご息女もハサミを持たれました。
コーナーの概要をお知らせします。
まず目を引くのが、田口氏が光太郎から贈られた書。
凸版印刷さんにお願いし、作っていただいた複製だそうですが、この手の技術の進歩には目を見張るものがあります。精巧に出来ており、ぱっと見には本物と区別が付きません。
左の大きな書は、新訳聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。昭和24年(1949)に書かれたもので、筑摩書房『高村光太郎全集』第17巻のグラビアにも使われています。光太郎が聖書の文句を揮毫したものは珍しいのですが、故・田口氏が敬虔なクリスチャンだったことに由来します。
右の方は色紙「世界はうつくし」、「うつくしきもの満つ」など。はじめ、故・田口氏が昭和19年(1944)、南方に出征する際、光太郎に書を書いてもらったそうですが、氏を乗せた輸送艦が撃沈され、氏は九死に一生を得たものの、書は海の藻屑と消えたそうです。そこで戦後、復員された氏が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を訪ね、再び同じ言葉を揮毫してもらったというものです。
光太郎からの書簡類。こちらも基本、カラーコピーですが、小包の包装、鉄道荷札などは現物でした。
それから、光太郎の署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全6巻。昭和26年(1951)から28年(1953)にかけ、当会の祖、草野心平が中心となって編まれたものですが、故・田口氏が新聞雑誌等から切り抜いたスクラップブックが大いに役立ったそうです。
その他、氏がこつこつ集められた光太郎の著作や、光太郎智恵子に関する書籍類も大量に寄贈されたそうで、それらは定期的に入れ替えながら展示されるとのこと。
同館2階にこのコーナーが設けられ、無料で拝観できます。ぜひ足をお運びください。
オープンセレモニーの終了後、3階視聴覚ホールを会場に、当方の記念講演。「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」と題させていただきました。
前半は、総合的な芸術家として、つまづきをくりかえしながらも大きな足跡を残した光太郎の生涯を紹介させていただきました。途中から、故・田口氏とのかかわり、そして光太郎の「詩魂」を受け継ぎ、光太郎とはまた異なる分野で活躍された田口氏の業績を追いました。
講演に先立ち、地元の朗読サークルの方が、光太郎と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読されることになり、何かふさわしい詩はないかというので、以下の詩を指定させていただきました。
光太郎詩は「少年に与ふ」。昭和12年(1937)、雑誌『無風帯』に発表され、同18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められました。
この小父さんはぶきようで
少年の声いろがまづいから、
うまい文句やかはゆい唄で
みんなをうれしがらせるわけにゆかない。
そこでお説教を一つやると為よう。
みんな集つてほん気できけよ。
まづ第一に毎朝起きたら
あの高い天を見たまへ。
お天気なら太陽、雨なら雲のゐる処だ。
あそこがみんなの命のもとだ。
いつでもみんなを見てゐてくれるお先祖様だ。
あの天のやうに行動する、
それがそもそも第一課だ。
えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。
持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
それが自然と此の世の役に立つ。
窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、
ほら、小父さんの言ふ通りだといつてゐる。
少年の声いろがまづいから、
うまい文句やかはゆい唄で
みんなをうれしがらせるわけにゆかない。
そこでお説教を一つやると為よう。
みんな集つてほん気できけよ。
まづ第一に毎朝起きたら
あの高い天を見たまへ。
お天気なら太陽、雨なら雲のゐる処だ。
あそこがみんなの命のもとだ。
いつでもみんなを見てゐてくれるお先祖様だ。
あの天のやうに行動する、
それがそもそも第一課だ。
えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。
持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
それが自然と此の世の役に立つ。
窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、
ほら、小父さんの言ふ通りだといつてゐる。
おそらく、少年(青年)時代の田口氏もこの詩を読んだと思われます。そして、戦後に復員されてからの氏のご活躍は、まさに詩の後半の「えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。/持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」を地でゆくようなものだったと思い、この詩を指定した次第です。
追記:昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑が建立された際のパンフレット(おそらく田口氏も制作に関わられたはず)にこの詩が印刷されていました。「やはり」という感じでした。
追記:昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑が建立された際のパンフレット(おそらく田口氏も制作に関わられたはず)にこの詩が印刷されていました。「やはり」という感じでした。
田口氏の詩は、「けさ八十歳」。光太郎から受け継いだ「詩魂」を、どのように生かしていったかと、そういう詩です。94歳で亡くなった氏が80歳になられた時の作品ですが、氏の半生が履歴書のように一望できます。
八十歳のけさは春の彼岸の入り 雲なく風なし
白木蓮の円錐の樹形の花群れは
純白の光のいのちを一身に聚め
吹上の溢れるほどの豊満な花輪の賜りもの
それに応えるおまえの八十までは何だったのか
何でおまえは生きてきたのか
この日頃思案してもの怖じもなく答えれば
ハイ 感動を求めて生きて来ました と
その折々の天の配剤をいただいて
幼くして母、姉と一時に死別 父、兄妹と離ればなれ
中学時代かけがいのない師 柳田知常先生に私淑
駒込林町の高村光太郎さんの美に導かれ
アララギの五味保義先生の姿勢を敬慕し
戦いの末期 ルソン島沖を泳いで助かる
その折失った高村さんの餞別の書「美しきもの満つ」は
岩手の山小屋で再び書いて頂いて 今在る
復員した青年教師は〈創造美育〉の運動に熱中したり
五年間 日教組のオルグでストライキに人の重さを知る
また全国教育研究集会の「美術」の司会を担当
推されて埼玉教職員組合の委員長をしたり
自分の能力の適正を危ぶむ労働金庫の専務まで
そんな有為転変もいま思いかえせば
みんなみんな神さまの深いお図らいだったのか
この一人の運命の曲がり角はそうとしか考えられない
きわどくしかも無理のない選択だったのか
〝風はおのが好むところに吹く〟ように
終わりの十六年 幸せにふるさとの教育長に迎えられ
今までのキャリアを集注して教育と文化運動にかかわる
たまたまその間 日本スリーデーマーチの実行委員長
以来朝の〈歩け〉は二十三年累計四万キロで地球一周にも
ウォークマンで十年モーツアルトに離れがたく
兄に眼を開かれた絵は
ルオーの「キリスト」に辿り着く
旬日 フィンの息子からスタミッツのセロのCD届く
もうすぐ高村さんの連翹忌がやってくる
白木蓮の円錐の樹形の花群れは
純白の光のいのちを一身に聚め
吹上の溢れるほどの豊満な花輪の賜りもの
それに応えるおまえの八十までは何だったのか
何でおまえは生きてきたのか
この日頃思案してもの怖じもなく答えれば
ハイ 感動を求めて生きて来ました と
その折々の天の配剤をいただいて
幼くして母、姉と一時に死別 父、兄妹と離ればなれ
中学時代かけがいのない師 柳田知常先生に私淑
駒込林町の高村光太郎さんの美に導かれ
アララギの五味保義先生の姿勢を敬慕し
戦いの末期 ルソン島沖を泳いで助かる
その折失った高村さんの餞別の書「美しきもの満つ」は
岩手の山小屋で再び書いて頂いて 今在る
復員した青年教師は〈創造美育〉の運動に熱中したり
五年間 日教組のオルグでストライキに人の重さを知る
また全国教育研究集会の「美術」の司会を担当
推されて埼玉教職員組合の委員長をしたり
自分の能力の適正を危ぶむ労働金庫の専務まで
そんな有為転変もいま思いかえせば
みんなみんな神さまの深いお図らいだったのか
この一人の運命の曲がり角はそうとしか考えられない
きわどくしかも無理のない選択だったのか
〝風はおのが好むところに吹く〟ように
終わりの十六年 幸せにふるさとの教育長に迎えられ
今までのキャリアを集注して教育と文化運動にかかわる
たまたまその間 日本スリーデーマーチの実行委員長
以来朝の〈歩け〉は二十三年累計四万キロで地球一周にも
ウォークマンで十年モーツアルトに離れがたく
兄に眼を開かれた絵は
ルオーの「キリスト」に辿り着く
旬日 フィンの息子からスタミッツのセロのCD届く
もうすぐ高村さんの連翹忌がやってくる
氏は同市を会場に開催されている「日本スリーデーマーチ」の実行委員長も永らく務められましたが、そこにも光太郎の影響があったそうです。
「文化運動」という部分では、やはり光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚と親交を結ばれ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。亡くなった後も、氏のご遺徳による業績が続いているわけです。
平成27年(2015)、氏のご自宅にお邪魔する機会がありました。その際に氏がおっしゃったお言葉が、忘れられません。「大事なのは、光太郎なら光太郎から学んだことを、あなたの人生にどう生かすか、ということです」。まさしく氏は、光太郎から受け継いだ魂を、さまざまな分野に生かされたわけで、昨日の講演でも、そのようなお話をさせていただきました。不覚にも、講演をしながら、その時の光景がよみがえり、うるっと来てしまいました。
同市では、高田博厚の関係等で、今後も色々と動きがありそうです。また情報がありましたらお伝えいたします。
【折々のことば・光太郎】
彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の感覚、此れを深くしては心の触覚、此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。
散文「七つの芸術」中の「二 彫刻について」より
昭和7年(1932) 光太郎50歳
昭和7年(1932) 光太郎50歳
故・田口氏にしても、「心の触覚」を鋭敏に働かせて、さまざまな業績を残されたのでしょう。「心の触覚」、言い換えれば「詩魂」となるでしょう。