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昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。

昨年2月に亡くなった、同市の元教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった故・田口弘氏が、一昨年、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさり、市立図書館さん内に、その展示スペース「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、昨日はそのオープンセレモニー等が行われました。

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そのオープンセレモニーのあとの記念講演講師の依頼があり、馳せ参じた次第です。

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午後1時半から、資料コーナーに椅子を並べた会場で、オープンセレモニー。

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設置の経緯の説明や、森田市長さんはじめ来賓の方々のご挨拶等に続き、テープカット。田口氏のご息女もハサミを持たれました。


コーナーの概要をお知らせします。

まず目を引くのが、田口氏が光太郎から贈られた書。

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凸版印刷さんにお願いし、作っていただいた複製だそうですが、この手の技術の進歩には目を見張るものがあります。精巧に出来ており、ぱっと見には本物と区別が付きません。

左の大きな書は、新訳聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。昭和24年(1949)に書かれたもので、筑摩書房『高村光太郎全集』第17巻のグラビアにも使われています。光太郎が聖書の文句を揮毫したものは珍しいのですが、故・田口氏が敬虔なクリスチャンだったことに由来します。

右の方は色紙「世界はうつくし」、「うつくしきもの満つ」など。はじめ、故・田口氏が昭和19年(1944)、南方に出征する際、光太郎に書を書いてもらったそうですが、氏を乗せた輸送艦が撃沈され、氏は九死に一生を得たものの、書は海の藻屑と消えたそうです。そこで戦後、復員された氏が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を訪ね、再び同じ言葉を揮毫してもらったというものです。

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光太郎からの書簡類。こちらも基本、カラーコピーですが、小包の包装、鉄道荷札などは現物でした。

それから、光太郎の署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全6巻。昭和26年(1951)から28年(1953)にかけ、当会の祖、草野心平が中心となって編まれたものですが、故・田口氏が新聞雑誌等から切り抜いたスクラップブックが大いに役立ったそうです。

その他、氏がこつこつ集められた光太郎の著作や、光太郎智恵子に関する書籍類も大量に寄贈されたそうで、それらは定期的に入れ替えながら展示されるとのこと。

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同館2階にこのコーナーが設けられ、無料で拝観できます。ぜひ足をお運びください。

オープンセレモニーの終了後、3階視聴覚ホールを会場に、当方の記念講演。「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」と題させていただきました。

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前半は、総合的な芸術家として、つまづきをくりかえしながらも大きな足跡を残した光太郎の生涯を紹介させていただきました。途中から、故・田口氏とのかかわり、そして光太郎の「詩魂」を受け継ぎ、光太郎とはまた異なる分野で活躍された田口氏の業績を追いました。

講演に先立ち、地元の朗読サークルの方が、光太郎と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読されることになり、何かふさわしい詩はないかというので、以下の詩を指定させていただきました。

光太郎詩は「少年に与ふ」。昭和12年(1937)、雑誌『無風帯』に発表され、同18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められました。

   少年に与ふ015

 この小父さんはぶきようで
 少年の声いろがまづいから、
 うまい文句やかはゆい唄で
 みんなをうれしがらせるわけにゆかない。
 そこでお説教を一つやると為よう。
 みんな集つてほん気できけよ。
 まづ第一に毎朝起きたら
 あの高い天を見たまへ。
 お天気なら太陽、雨なら雲のゐる処だ。
 あそこがみんなの命のもとだ。
 いつでもみんなを見てゐてくれるお先祖様だ。
 あの天のやうに行動する、
 それがそもそも第一課だ。
 えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。
 持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
 それが自然と此の世の役に立つ。
 窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、
 ほら、小父さんの言ふ通りだといつてゐる。


おそらく、少年(青年)時代の田口氏もこの詩を読んだと思われます。そして、戦後に復員されてからの氏のご活躍は、まさに詩の後半の「えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。/持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」を地でゆくようなものだったと思い、この詩を指定した次第です。

追記:昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑が建立された際のパンフレット(おそらく田口氏も制作に関わられたはず)にこの詩が印刷されていました。「やはり」という感じでした。

田口氏の詩は、「けさ八十歳」。光太郎から受け継いだ「詩魂」を、どのように生かしていったかと、そういう詩です。94歳で亡くなった氏が80歳になられた時の作品ですが、氏の半生が履歴書のように一望できます。

     けさ八十歳004

 八十歳のけさは春の彼岸の入り 雲なく風なし
 白木蓮の円錐の樹形の花群れは
 純白の光のいのちを一身に聚め
 吹上の溢れるほどの豊満な花輪の賜りもの
 それに応えるおまえの八十までは何だったのか
 何でおまえは生きてきたのか
 この日頃思案してもの怖じもなく答えれば
 ハイ 感動を求めて生きて来ました と
 その折々の天の配剤をいただいて
 幼くして母、姉と一時に死別 父、兄妹と離ればなれ
 中学時代かけがいのない師 柳田知常先生に私淑
 駒込林町の高村光太郎さんの美に導かれ
 アララギの五味保義先生の姿勢を敬慕し
 戦いの末期 ルソン島沖を泳いで助かる014
 その折失った高村さんの餞別の書「美しきもの満つ」は
 岩手の山小屋で再び書いて頂いて 今在る
 復員した青年教師は〈創造美育〉の運動に熱中したり
 五年間 日教組のオルグでストライキに人の重さを知る
 また全国教育研究集会の「美術」の司会を担当
 推されて埼玉教職員組合の委員長をしたり
 自分の能力の適正を危ぶむ労働金庫の専務まで
 そんな有為転変もいま思いかえせば
 みんなみんな神さまの深いお図らいだったのか
 この一人の運命の曲がり角はそうとしか考えられない
 きわどくしかも無理のない選択だったのか
 〝風はおのが好むところに吹く〟ように
 終わりの十六年 幸せにふるさとの教育長に迎えられ
 今までのキャリアを集注して教育と文化運動にかかわる
 たまたまその間 日本スリーデーマーチの実行委員長
 以来朝の〈歩け〉は二十三年累計四万キロで地球一周にも
 ウォークマンで十年モーツアルトに離れがたく
 兄に眼を開かれた絵は
 ルオーの「キリスト」に辿り着く
 旬日 フィンの息子からスタミッツのセロのCD届く
 もうすぐ高村さんの連翹忌がやってくる

氏は同市を会場に開催されている「日本スリーデーマーチ」の実行委員長も永らく務められましたが、そこにも光太郎の影響があったそうです。

「文化運動」という部分では、やはり光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚と親交を結ばれ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。亡くなった後も、氏のご遺徳による業績が続いているわけです。


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平成27年(2015)、氏のご自宅にお邪魔する機会がありました。その際に氏がおっしゃったお言葉が、忘れられません。「大事なのは、光太郎なら光太郎から学んだことを、あなたの人生にどう生かすか、ということです」。まさしく氏は、光太郎から受け継いだ魂を、さまざまな分野に生かされたわけで、昨日の講演でも、そのようなお話をさせていただきました。不覚にも、講演をしながら、その時の光景がよみがえり、うるっと来てしまいました。


同市では、高田博厚の関係等で、今後も色々と動きがありそうです。また情報がありましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の感覚、此れを深くしては心の触覚、此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。

散文「七つの芸術」中の「二 彫刻について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

故・田口氏にしても、「心の触覚」を鋭敏に働かせて、さまざまな業績を残されたのでしょう。「心の触覚」、言い換えれば「詩魂」となるでしょう。

今年2月に亡くなった、元埼玉県東松山市の教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった田口弘氏

昨年には、「終活」の一環として、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさいました。

その後、同市立図書館さんで、それらの特別公開、田口氏ご本人によるご講演も行われました。

先月発表された、やはり光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚の遺品が同市に寄贈されることとなった件も、田口氏のご遺徳の賜です。氏を介して、高田と同市は以前から深いつながりがありました。

さて、同市立図書館さんでは、田口氏からの寄贈資料を常設展示する「高村光太郎資料コーナー」を設けることとなり、そのオープン記念の講演会が開催されます。僭越ながら、当方が講師を務めさせていただきます。 

田口弘文庫「高村光太郎資料コーナー」オープン記念講演会

期   日 : 2018年1月13日(土)
会   場 : 東松山市立図書館 3階視聴覚ホール 東松山市本町2-11-20
時   間 : 午後2時から3時30分
料   金 : 無料
内   容 : 詩の朗読(朗読ボランティア「あすなろ」)
        記念講演「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」
         講師 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
定   員 : 100人(申し込み順)
申   込 : 2018年1月5日(金曜日)から直接又は電話で市立図書館へ 
         電話:0493-22-0324 ファックス:0493-22-0064

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当方、田口氏とは連翹忌の席上で何度か、それから昨年の講演会、一昨年にはご自宅にお邪魔いたしましてお会いしました。あとは書簡のやりとりといった程度のおつきあいで、氏について詳しく語る資格は不十分かと存じますが、氏と光太郎との関わりという点になると、やはり出馬せざるを得ないかなと思い、お引き受けしました。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美を持たないものを心から信ずるわけにはゆかない。美を顧みない諸般の施設を喜ぶわけにゆかない。美を最奥の標準と為ない都市の建設は詮ずる所住民の虐待に急ぐ事となるのである。

散文「美の立場から(震災直後)」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

関東大震災により大きな被害をうけた東京の復興に関する内容です。欧州の諸都市を見てきた光太郎にとって、震災前のごみごみした東京の景観は許せないものでした。これを機に、美しい都市を造ろうという提言でしたが、それはかないませんでした。

昨日の『朝日新聞』さん埼玉版に載った記事です。

埼玉)彫刻家高田博厚の遺品、東松山市に寄贈へ

 文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらと交遊した世界的な彫刻家高田博厚(ひろあつ、1900~87)が神奈川県鎌倉市に残したアトリエが閉鎖されることになり、ゆかりの東松山市に遺品が寄贈されることになった。12月2日に鎌倉で遺族や知人ら関係者によるお別れの会があり、市への寄贈が改めて表明される。
 高田博厚は石川県生まれで福井県育ち。旧制中学時代から文学や哲学、美術に傾倒し、上京して彫刻家高村光太郎らと出会い彫刻を始めた。31年に渡仏。ロマン・ロランやジャン・コクトー、画家ルオー、哲学者アランらと交遊しながら西欧彫刻界で評価を得た。
 57年に帰国し、鎌倉市稲村ガ崎にアトリエを構えた。真摯(しんし)な写実と知的で詩情ある作風で、代表作にはロマン・ロラン、ルオー、川端康成らの肖像がある。86歳で死去。鎌倉のアトリエには、高田の彫刻作品や絵画、デッサン、ロマン・ロラン、アランの献辞入り書籍などを含む数百冊、彫刻台やヘラ、イーゼルなどの道具もある。没後30年を機に、遺族がアトリエの閉鎖を決めた。
 東松山市との縁は、今年2月に94歳で亡くなった元市教育長で詩人の田口弘さんが、高田と親交のあった国文学者で俳人の柳田知常に師事し、高田と出会ったという。以来、田口さんは東松山市で高田博厚彫刻展を開くなど親交を深めた。市は86~94年には高田の彫刻作品32体を購入し、高坂駅前約1キロの通りに設置。「高坂彫刻プロムナード」として観光資源化を図っている。
 高田の義理の娘、大野慶子さん(80)は「父が亡くなって30年。東松山市の方々の熱意に父も生前に感銘していた。アトリエの遺品すべてを東松山市に寄贈できることをきっと喜んでくれています」と話した。
 お別れ会は鎌倉のアトリエで、慶子さんら遺族のほか、東京芸大名誉教授で文化勲章受章者の洋画家野見山暁治さん、女子美術大名誉教授で洋画家の入江観さん、小樽商大名誉教授の高橋純さんら関係者だけで行われる予定だ。(大脇和明)

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記事にあるとおり、今年2月になくなった、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏のご遺徳で、こうなりました。

氏は戦時中に光太郎と知り合い、出征前には光太郎の元を訪れて書の揮毫をもらったりもしたそうです。南方で九死に一生を得て復員後、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を2度訪問、その後も中央公論社版『高村光太郎選集』編集に協力するなどなさいました。

昨年には、光太郎から贈られた品々などを同市に寄贈。今年、天に召されましたが、実にお見事な「終活」でした。

また、光太郎と深い交流のあった高田博厚とも親しく交わられ、東武東上線高坂駅前に、光太郎像を含む高田の肖像彫刻32体が並ぶ「高坂彫刻プロムナード」の整備に奔走されました。また、今年の6月から7月にかけては、高坂で「高田博厚歿後30年展」が開催されました。そうした縁から、今回の寄贈ということになったのでしょう。

続報が出ましたら、またご紹介します。


ちなみに、来年、氏の一周忌に合わせ、田口氏から同市に寄贈された光太郎関連資料が、市立図書館さんに常設展示されることになりました。蛇足ながら、そのオープン記念ということで、「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」という題で、当方が講演をすることになりました。このあたりも詳細が出ましたらまたご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

ところが、面白いのは如何なるものにも其のもの特殊な興味を発見しないでは止まない人間の芸術慾であります。

散文「版画の話」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

その発明当初、印刷という実用に供するものに過ぎなかった版画が、芸術として発展していったことに対する言です。この場合、「興味」=「美」。

泉下の高田博厚、田口弘氏など「芸術慾」に憑かれた人々も、「そうそう」と首肯しているような気がします。

朗読系イベント情報です。
会 場 : ポルコポルコ 埼玉県越谷市千間台西3丁目1−17
時 間 : 11:00~14:30
料 金 : 第1部 3,800円(アイスティー、チーズケーキ付)  第2部 1,000円

プログラム

第1部 フルート×語りのおとばなライブ 「秘密のおとばな部屋」

 宇高杏那/フルート フルーティスト。作曲も手がける。 フルートオーケストラ「響き」コンサート・ミストレス。
 和久田み晴 /語り 語り手・声優。NHK Eテレ『すすめ!キッチン戦隊クックルン』バニラおばさん役、各種ナレーション・ボイスオーバー等出演。

秘密の隠れ家で、様々な本のページをめくれば人生の様々な機微に遭遇する…
その時きっと、その言葉と音は、あなたの人生にリンクしていく。声と音楽を通して本を味わう1時間!

「ミルクパン」和久田み晴 著
「すりごま」和久田み晴 著
「わが名はピーコ」(角川文庫刊『めろめろ』所収)  犬丸りん 著
「レモン哀歌」(『智恵子抄』所収)  高村光太郎  著
「100万回生きたねこ」(講談社刊)  佐野洋子 著
 物語作品には、すべて宇高杏那&靖人両氏によるオリジナル曲が作曲されています。


第2部 ブクブク交換会

テーマに合った本を持ち寄って、紹介しあって交換するイベント♪
自分では手にとらないであろう本との出会いは面白いもの。
小説に限らず、絵本、ハウツー本、漫画などなど、おススメのものであればなんでもOK!
自分の好きな本を紹介するとき、その人の人柄や本質的なものが現われるのだそう。
本を通して、人とのつながりができるのも、このイベントの面白いところ!
1部から引き続き、おとばなの和久田と宇高も参加♪

※お好きなテーマの本をお持ちください。
※1人2冊くらいお持ちいただくと楽しいです。
※本は新品でも中古でも大丈夫です。
※本は交換してしまうので、持ってきた本は原則手元には戻りません。
 
《今回のテーマ》
 ・知らなかったことを知れた本  ・勇気づけられた本  ・夏休みを思い出す本

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ユニット「おとばな」さん。クラシックギターの宇高靖人氏も加わったフルメンバーで、昨年には「フルートとギターと語りのコンサート『おとばなノスタルジア館』」という公演もなさり、やはり「レモン哀歌」を取り上げて下さいました。ありがたや。

その際は他に用事があって聴きに行けませんでしたが、今回もその前後、岩手に行っておりますので、聴きに行けません。残念です。

ご都合のつく方はぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

昔から此の島の住民は知つてゐる、 嵐のあとに天がもたらす あの玉のやうに美しい秋の日和を。
詩「日本の秋」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この項、『高村光太郎全集』の掲載順に言葉を拾っておりますので、季節外れとなることもしばしばです。関東は梅雨明けとなり、本格的な夏となりました。当方、光太郎ほどに夏に弱くはありませんが、さすがに35度を超える猛暑日は体にこたえます。「玉のやうに美しい秋の日和」が来ることをイメージしつつ、乗り切ろうと思っております。

一昨日の『東京新聞』さん、埼玉版に載った記事です。

<ひと物語>新たな木彫 今を刻む 彫刻師・宮本裕太さん

003 小鹿野町長留の山あいにある工房。彫刻師の宮本裕太さん(30)は、真剣な面持ちで木彫作品二点の仕上がりを確認する。一つは南国の花プルメリア、もうひとつは観葉植物のモンステラとパイナップルの実がモチーフだ。

 いずれも縦四十六センチ、横幅百六十センチ。人の背丈ほどの大きな壁掛け。「ハワイの別荘向けに」と、東京在住の米国人と日本人の夫婦から注文を受けた。これまで手掛けてきた大黒天の座像やフクロウの置物とはだいぶ趣が異なる。

 「今回の壁掛けは洋間に飾るということもあり、デザインを工夫してみた。こうした作品がこれからのニーズなのかも」。宮本さんは確かな手応えを感じ取った。

 宮本さんが彫刻に関心を持ったのは中学生のとき。テレビ番組で彫刻家高村光太郎の作品「鯰(なまず)」を目にしたのがきっかけだ。「表情がとってもいきいきしている」。将来に向けた明確な目標を決められなかった宮本さんの頭に、彫刻師の道が浮かんだ。

 インターネットで情報を収集し、高校卒業後に富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんに弟子入りした。南砺市は精緻な作風で名高い「井波彫刻」のお膝元。そこかしこが彫刻作品に彩られた工芸の町だ。六年間、師匠方に住み込み修業に打ち込んだ。「とにかく経験を積むよう諭された」。独立したのは二〇一一年のことだ。

 木彫はさまざまな工程の積み重ねだ。図案や寸法を決めて、糸のこぎりで大まかな形を切り抜く。のみで形を整えて、小道具や彫刻刀で仕上げる。途中、何度も木を乾燥させる必要があり、数年がかりで取り組む作品もある。

 注文の多くはインターネット経由だ。住宅事情を反映してか、かもいを飾る「欄間」は減り、ウサギやネコの置物や植物のレリーフなどが好まれる。依頼主は主に関東から九州まで。東日本大震災の津波で流されたとして、宮城県の寺からはりを飾る作品のオーダーを受けたこともある。

 宮本さんがいま気に掛けているのは、木彫技術の担い手が少なくなっていること。弟子入りする若者が減っているほか、せっかく独立しても彫刻を断念してしまう人もいる。自ら若手を育成したいとの思いも募る。

 「後継者が少なくなっているからこそ、魅力的な作品が必要。大きな壁掛けや洋風の洒脱(しゃだつ)なデザインなど、いろいろと挑戦していきたい」と見通しを語る。 (出来田敬司)

<みやもと・ゆうた> 小鹿野町生まれ。町立長若中を経て、県立秩父農工科学高電子機械科卒。富山県南砺市の彫刻師野村清宝さんのもとで木彫を習得する。2011年から小鹿野町内で「宮本彫刻」を主宰し、欄間、壁掛け、祭礼用品などを手掛ける。問い合わせ先は宮本彫刻=電0494(75)2276=へ。


現代の若手木彫家の紹介です。なんとまあ、この世界に入ったきっかけが、中学生の時に光太郎の木彫「鯰」をテレビ番組で見たことだそうで、驚きです。

現在30歳の方が中学生だったときで、光太郎の木彫「鯰」……おそらく、テレビ東京さん系の長寿番組「美の巨人たち」でしょう。平成13年(2001)の7月21日に、「鯰」がメインで取り上げられました。

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この番組では、光太郎をメインに扱ったのは3回あり、その最初のものでした(ブロンズ「手」が平成19年=2007、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が平成23年=2011)。

光太郎の簡単な評伝的部分もありました。海外留学でロダンをはじめとする「本物」を見てしまったがゆえの、父・高村光雲との葛藤……。

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幼い頃から光雲に叩き込まれた木彫と、西洋で学んだ塑像彫刻のエスキスとの融合をはからんとする苦闘。その中で「鯰」が生まれたこと、そのために智恵子との生活が犠牲にされたことなど。

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放映当時、神奈川県立近代美術館長だった酒井忠康氏、平成26年(2014)に亡くなった、故・髙村規氏などもコメンテーターとしてご出演なさっていました。

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久しぶりに録画を見返してみましたが、いい作りでした。それにしても、これを見て彫刻家を志した方がいらっしゃるとは、少し驚きました。昨日のこのブログで、昔の美術家の卵は、光太郎編訳の『ロダンの言葉』を読んで美術家を志したと書きましたが、現代は美術番組を見て、というのがあるのですね。当方も時折テレビの仕事のお手伝いをさせていただいていますが、責任重大だな、と思いました。

それにしても、記事にある宮本さん、注文の多くはネット経由だそうで、こういうところにも時代の変化を感じます。

今後とも、光太郎の魂を受け継いでのさらなるご活躍を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

わたくしは此の五分の隙もない貪婪のかたまりを縦横に見て 一片の弧線をも見落さないやうに写生する このグロテスクな顔面に刻まれた日本帝国資本主義発展の全実歴を記録する 九十一歳の鯰よ わたくしの欲するのはあなたの厭がるその残酷な似顔ですよ

詩「似顔」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ここにも「鯰」が登場しますが、ここで作っているのは魚の鯰ではなく、鯰のようにグロテスクな人物――戊申戦役の頃から薩長に取り入って財をなし、大倉財閥を興した大倉喜八郎――の肖像です。少し前のこのコーナーで、大正11年(1922)の「信濃川朝鮮人虐殺事件」をちらっと紹介しましたが、この事件の加害者も被害者も大倉組の関係者でした。この時期、プロレタリア文学者やアナーキスト達と近い位置にいた光太郎にとって、大倉などは不倶戴天の敵です。

それがどうして肖像彫刻を作るはめになったかというと、間に光雲が介在しています。大倉は自身と妻の肖像彫刻を光雲に依頼したのですが、光雲は肖像彫刻をやや苦手としていました。そこで、他にも法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもそうでしたが、まず粘土で光太郎が原型を制作、光雲がそれを元に木で彫るという方式を採っていました。

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左が光太郎の原型から取ったブロンズ、右が光雲の彫った木彫の大倉像です。

光雲の手にかかると、ロダンから学んだ光太郎の荒々しいタッチも影を潜め、大倉の表情も好々爺然としてしまっていますね。まさしく今大流行の「忖度」です(笑)。

光太郎としては、それがまた気に入りません。しかし、光雲の下職仕事は大切な収入源でもあり、廻してくれる光雲の親心も痛いほどわかります。

生きていくことのつらさがにじみ出ているエピソードですね。

先月亡くなった、埼玉県東松山市の元教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏の関係で、『産経新聞』さんの埼玉版に、光太郎の名が出ました。

東松山市、高坂彫刻プロムナードを整備 ライトアップや案内板でPR

 東松山市は、東武東上線高坂駅西口の高坂彫刻プロムナードに彫刻32体が野外展示されている彫刻家、高田博厚(1900~87年)が今年で没後30年となることを記念し、命日の6月17日に向けて彫刻のライトアップなどのプロムナード整備や、ゆかりの人によるフォーラムを開催する。
  高田は石川県生まれ。18歳で上京し、高村光太郎と出会って彫刻の道に入り、31歳で渡仏。詩人のジャン・コクトーらと交流し、彫刻の制作に没頭した。昭和32年に帰国後は東京芸術大学講師などを務めた。晩年は神奈川県鎌倉市にアトリエを構え、多くの作品を残した。
  2月に94歳で死去した東松山市の元教育長で詩人、田口弘さんが高田と交流があり、同市が高坂駅西口土地区画整理事業の一環として高田の作品を集めて彫刻通りを整備することを計画。昭和61年から国内に残る高田の彫刻175点のうち、高村光太郎や棟方志功、宮沢賢治などのブロンズから裸婦像まで32体を購入し、延長約1キロにわたって設置。同市の名物となった。
  平成29年度は一般会計当初予算案に事業費2千万円を計上。6月ごろまでに同駅西口ロータリーに幅4メートル、高さ2メートルの案内板を設置し、ロータリー内の2つの彫刻「遠望」と「大地」をライトアップ。同駅西口階段に彫刻などをPRする壁面シールなどを掲示する。
  また、命日の6月17日には市民活動センターホールで没後30年記念フォーラムを開催するほか、同1日から30日まで高坂図書館で高田のアトリエから借用した彫刻やデッサンなどを展示する企画展を開催する。
  定例会見で同事業を発表した森田光一市長は、「高田氏の彫刻が32体もあることは大変な資源であり、観光面でも文化的にも価値がある」と強調。貴重な彫刻群を改めて市民にも知ってもらい、観光客にもアピールする考えだ。(石井豊)


記事にある「彫刻プロムナード」に関してはこちら。

田口氏のお手元にあった光太郎の書や書簡類は、すべて市に寄贈されました。

さらにもう一つの「遺産」である高田博厚の彫刻群も、しっかり活用されていくようです。すばらしいですね。


【折々のことば・光太郎】

桜がいちめんにさいてゐるので、 空も地面もありはしない。

詩「校庭」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「校庭」は智恵子の母校、日本女子大学校の校庭です。同校同窓会誌『家庭週報』に掲載されました。創立記念式典か何かの一コマを詠んだ詩です。


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画像は戦前の絵葉書。校庭ではなく寮ですが、桜が咲いているようです。

もうすぐ、空も地面も桜に覆い尽くされる季節となります。はやくそうなってほしいものです。

今月9日に亡くなった、元埼玉県東松山市教育長にして、生前の光太郎と交流のあった田口弘氏の追悼ページが、同市のホームページ上にアップされました。


全国的に見ても非常に異例のことだと思いますが、それだけに氏の功績や人徳の大きさが偲ばれます。多年にわたり教育長を務められた他、東武東上線高坂駅から伸びる「彫刻プロムナード」(光太郎胸像を含む高田博厚作品群が設置)の整備、同市を会場とした「日本スリーデーマーチ」開催・運営への尽力、そして昨年の光太郎関連資料の寄贈などなど……。

動画投稿サイトYouTube上には、昨夏撮影された氏へのインタビューがアップされ、上記のページにも貼り付けられています。こちらでも転用させていただきます。


光太郎の日記は、明治末のもの、昭和20年(1945)に花巻に疎開した後のものを除くと、戦前・戦時中のものは空襲で灰になってしまいました。したがって、その出会いの頃の日記は残っていません。戦後のものも、昭和24年(1949)、25年(1950)の大半は失われています。

花巻郊外太田村の山小屋で書かれ、残っている戦後の日記に氏の名が初めて出て来るのが、昭和22年(1947)8月23日。上の動画で3分33秒頃からのエピソードです。

午後少し横になる。田口弘氏来訪に起される。木村知常氏の教子。フイリツピン ジヤヷの話等。「ジヤヷ詩抄」肉筆、余に献してくれる。乳かんづめ、急須、湯呑等もらふ。林檎御馳走する。三時半辞去、西鉛を教へる。明日詩碑へ詣る由。

「詩碑」はおそらく花巻町の光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治詩碑と思われます。


それから翌年2月9日。

<田口弘さんより去年八月もらつた乳カンをあける>

おそらく練乳でしょう。


続いて昭和26年(1951)12月22日。

選集第三回分を尾崎喜八、宮崎稔氏、田口弘氏宛の小包をつくる、

さらに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した後の、同28年(1953)2月16日。

藤島氏に田口弘氏宛小包托、

「選集」は中央公論社から全六巻で刊行された『高村光太郎選集』。田口氏が作っていた光太郎のスクラップ帳も参考に草野心平が編集にあたりました。動画では9分45秒頃からその話が出ています。

その他、『高村光太郎全集』およびその補遺である当方編集の「光太郎遺珠」(雑誌『高村光太郎研究』連載)に、光太郎から田口氏宛の書簡が計10通。それら全て(小包の包装紙まで保存されていました)、昨年、東松山市に寄贈され、公開されています。

改めて氏の追悼展的に展示されることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

敷居の前にぬぎすてた下駄が三足。 その中に赤い鼻緒の 買ひ立ての小さい豆下駄が一足 きちんと大事相に揃へてある。 それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。
詩「下駄」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

止まった市電の窓から見えた煎餅屋の店先の様子です。そのものを描かなくとも、おかっぱ頭の小さな女の子の姿が目に浮かび、見事です。

短いフレーズを切り取ることが出来ず、このコーナーでは割愛しましたが、この時期、「小娘」「丸善工場の女工達」「米久の晩餐」など、市井に生きる無名の人々に対する暖かな眼差しが感じられる詩が多く作られました。

去る9日、生前の光太郎と交流のあった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が亡くなりました。

『朝日新聞』さんスポーツ面から。

田口弘さん死去

 田口弘さん(たぐち・ひろし=元埼玉県東松山市教育長)9日、多臓器不全で死去、94歳。通夜は14日午後6時、葬儀は15日午前10時から東松山市松山町2の8の32の東松山斎場で。喪主は長男光夫さん。

 1976年から93年まで東松山市教育長。日本ウオーキング協会副会長も務め、2009年度の朝日スポーツ賞を受賞した。


同紙の埼玉版には、追悼記事的なものも掲載されました。氏の人となりを知るには恰好の内容です。

人生にじむ深いまなざし 田口弘さんを悼む

 東松山市の元教育長、田口000弘さんが94歳で亡くなった。高校野球史に残る大敗、戦地からの帰還、詩人・高村光太郎との交流、日本一のウォーキング大会実行委員長……。温かい視線に人生がにじむ「深いまなざしの人」だった。
 田口さんの詩集「四季『こころの詩』より」(2007年)には、太平洋戦争の記憶が繰り返し出てくる。1944年、海軍所属の日本語教員として向かったフィリピン沖で、乗っていた船が米軍の攻撃で沈没。竹につかまり漂流する。
 横須賀港を一緒に発った300人の中で陸にたどりついたのは約30人。「さらに生きのびて終戦を迎えたのは私だけかもしれない」と語っていた。その後、インドネシアへ空路転進する途中のバシー海峡で、撃沈された艦船から流れた重油が覆う「黒い海」を見た。
 戦争の記憶は彩りのない「黒」だった。生死の境をさまよい、「生かされている」が人生の実感になったという。高村光太郎とのつながりも戦争を抜きには語れない。旧制松山中学時代の恩師に連れられ、心酔する高村を訪ねた。
 「世界はうつくし」「美しきもの満つ」と書いてもらった色紙を手に戦地に赴いたが、船が沈み失った。インドネシアでの捕虜生活を経て46年に帰還。再会した高村の筆に望んだのは同じ言葉だった。そんな交流を通じて集まった書簡類約100点を昨年、東松山市に寄贈した。
 野球での大敗は、松山中時代の36年夏。エースのけがで豊岡実に0―72で敗れた試合を、控えの2年生捕手として見ていた。98年に全国高校野球選手権記念青森大会で0―122の記録が出るまで62年間「最多失点の全国記録」だった。
 2008年、球史を顧みるインタビューを受け「屈辱だとは思わない。先輩たちは棄権しようともせず、正々堂々と戦った。結果だけでなくプロセスを大事にした野球があってもいい」と語っている。田口さんらしい言葉だ。
 東松山市教育長としては日本スリーデーマーチを育てた。国内草分けのウォーキング大会で、当初は参加料を払ってただ歩くことへの理解が広がらなかった。実行委員長を12年務め、打ち出したのは「ウォーキング・ルネサンス」。歩いて自己改革する「人間再生」を訴え続けた。
 大会コースの途中に、東武東上線高坂駅から続く「ブロンズ通り」がある。高村やガンジーの像など、日本を代表する彫刻家高田博厚の作品を30余り集めた。毎年、延べ10万人前後の参加者が集まるようになった大会は今秋で40回目。田口さんの思いを実現した「通り」を歩き、追悼する人も多いだろう。(高橋町彰)


当方、田口氏とは十数年前の連翹忌で知遇を得、一昨年にはご自宅にお邪魔させていただきました。その際のレポートには書きませんでしたが、敬虔なキリスト教徒でもあった氏は、「そろそろ天に召されるだろうから、いわゆる「終活」として、手元にある光太郎関連資料の処分をどうするか考えている」とのことでした。

当会にご寄贈くださる、というお話もあったのですが、拝見した数々の資料、この地にあってこそのものと存じ、市なり県なりにご寄贈なさる方が……と申し上げておきました。

その通り、昨年、市にご寄贈され、ニュースになりました。市では市立図書館で展示及び氏の講演会も開催。

ご講演を拝聴し、まだまだお元気で、安心していたのですが……。

記事にある「彫刻通り」に関してはこちら。記事にはない、同市に建つ光太郎碑についても書いてあります。

さらに日本スリーデーマーチの件。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

花のひらくやうに おのづから、ほのぼのと ねむり足りて めざめる人 その顔幸(さいはひ)にみち、勇にみち 理性にかがやき まことに生きた光を放つ
詩「花のひらくやうに」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

やはり睡眠は大切ですね。このところ、コタツなどで数時間ずつ細切れに眠るという、余り良くない習慣が身についてしまっており、反省しています。

上記田口弘氏。永遠(とわ)の眠りに就かれました。しかし、戦時中、九死に一生を得たそのお命を、戦後はさまざまな方面で人々のために使われ、そして「終活」。まことに見事な生き様でした。

二度と目覚められることはありませんが、おそらくそのお顔は「幸(さいはひ)にみち、勇にみち 理性にかがやき まことに生きた光を放」っているのでは、と存じます。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。同市の市立図書館で開催中の「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」を拝見、さらに講演を拝聴して参りました。田口弘氏は同市の元教育長。戦時中から光太郎と親交のあった方です。

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開館と同時くらいに現地に到着、まずは展示を拝見しました。

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入ってすぐが光太郎肉筆資料のコーナー。書や書簡等がガラスケースに並べられています。以前に田口氏のお宅ですべて拝見しましたが、きれいに並べられていると、また違った見え方がします。

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書簡の大半は、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)からのもの。山小屋暮らしの一端が垣間見え、興味深いものです。

例えば昭和25年(1950)2月の封書。欄外に「積雪の重みで電燈は断線、小さな物置小屋はつぶれました、」などとさりげなく書かれています。

一通のみ、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、再上京して居住した中野のアトリエからのハガキがあり、そちらでは乙女の像の制作にも触れられています。

仕事のことに没頭してゐるため、ついお便りを書くことさへのびのびとなつてゐました、仕事の方は着々進んで居ります、

周囲の壁には、花巻高村光太郎記念会さんご提供の写真画像(山小屋生活の様子、乙女の像など)が引き延ばされて貼られており、理解が助けられます。

会場奥は、光太郎に関わる元の田口氏蔵書。光太郎本人から送られたサイン入りのものから、平成に入ってからのものまで、さまざまです。光太郎から贈られたものについては、その小包の包み紙や鉄道荷札まで保存されており、一緒に展示されていました。

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また、昭和58年(1983)、田口氏のお骨折りで市内の新宿小学校に建立された光太郎書を刻んだ「正直親切」の碑の画像、その元となった光太郎の書(複製/花巻高村光太郎記念会提供)、さらに田口氏、光太郎本人と交流のあった彫刻家・高田博厚のコーナーも設けられていました。

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同館ではここまでがかりな企画展示は初めてとのことでしたが、なかなか充実した展示でした。


その後、展示会場と隣接する視聴覚ホールにて、田口氏のご講演。教育委員会の方もご登壇し、インタビュー形式でのお話でした。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうか分かりませんが、大正11年(1922)のお生まれで、おん年94歳の田口氏、ユーモアを交えながら、非常に貴重なお話をご披露されました。

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昭和24年(1949)8月、復員後、中学校教諭をなさっていた氏は、二度目の太田村ご訪問をなさいました。この年の大半の光太郎日記は現存が確認できないのが残念です。その際に氏と同道した当時の教え子お三方のうちのお一人、馬橋旭氏も会場にいらっしゃり、思い出をお話下さいました。

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午後は、同じ会場で昭和42年(1967)公開の中村登監督・岩下志麻さん、丹波哲郎さんコンビによる松竹映画「智恵子抄」の上映がありました。ただ、以前にも観たことがありましたし、他の用件もあったためそちらはパスしました。いずれまたゆっくり拝見したいとは思っております。


同展は28日(日)まで開催中。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん
制作年不詳

昨日に引き続き、昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。こちらは、画像左の雌の方に添えられたものです。

雌雄を比べてみると、ぱっちりと眼を開けている雄に対し、雌の方はやや眼を細めています。

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先頃、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、書簡や書など光太郎関連資料を寄贈された件がニュースになりました。地元テレビ局・テレ玉さんの報道がこちら。『東京新聞』さんと『毎日新聞』さん、そして『産経新聞』さんはこちら

少し遅れて先週、『朝日新聞』さんの埼玉版にも記事が載りました。

埼玉)高村光太郎の書簡、元東松山市教育長が寄付

005 元教師で、東松山市教育長を長く務めた田口弘さん(94)が先月、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883―1956)から届いたはがきや封書、色紙、直筆サイン入り全集など約100点を市へ寄贈した。書簡は主に戦中戦後、田口さんが高村に送った自作の詩や食料品に対するお礼状で、高村の誠実な人柄がうかがえる。
 田口さんは旧制松山中学に在学当時、国文学者だった恩師の影響で高村研究を始めた。師範学校専攻科で、新聞や雑誌に載った高村の記事や作品をノートに書き写すなどして卒業論文にまとめた。44年4月、その恩師に連れられて高村を訪ね、論文を見せたところ、「僕より僕のことを知っているね」と言われたという。
 「すでに『智恵子抄』などを発表した著名人だったのに、初対面の学生の論文を丹念に読んでくれた」と感激した田口さんは、ますますファンに。海軍軍属として南方戦線へ赴く直前に会うと、「世界はうつくし」など色紙2枚を書いてくれたという。田口さんはインドネシアで捕虜生活をおくりながら詩作に励み、「ジャワ抄」にまとめた。
006 復員後、岩手県の疎開先へ高村を訪ねた田口さんが、戦地で色紙を失ったことをわびると書き直してくれた。新制松山中学の教諭となった田口さんは、その後も妻が編んだ靴下や高村が好物の練乳など食料品を送り続け、生まれた長男には「光夫」と名付けた。
 練乳に対して高村は「かかる乳製品の貴重なものを老人がいただくのは世の嬰児達(えいじたち)に相済まぬ気がいたしましたが」「紅茶に入れたり、うすめて朝ののみものにしたり、パンをつくったりしてよろこんで居(お)ります」と封書をしたためた。
 田口さんが送った作品には「立派なものです。新鮮で、ほんとの感じに満ちてゐます」などと評し、「ジャワ抄」で田口さんが用いた「カンポン」(集落)という現地語を返礼のはがきの文面に使うなど気遣いも随所に見せている。
 田口さんは「高村は今も、私の生き方の教科書。若い時代の出会いが人生を決める。寄贈する書簡で、若い人が高村の崇高な人間性にふれてくれれば」と話す。市は書簡を市立図書館に所蔵し、8月10日から公開することにしている。(西堀岳路)

記事にある「ジャワ抄」は正しくは「ジャワ詩抄」。田口氏手製の詩集です。


記事にある市立図書館での公開及び田口氏の講演会について、市の広報誌『広報ひがしまつやま』の今月号に、案内が掲載されました。 

高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~

期 日 : 8月10日(水)~28日(日) 
会 場 : 東松山市立図書館3階展示室 東松山市本町2-11-20
時 間 : 午前9時30分~午後7時
休館日    : 第4月曜日

講演会
期  日 : 8月21日(日)午前11時~11時45分
会  場 : 市立図書館3階研修室
講  師 : 田口 弘 氏
定  員 : 50人(申込順)
申込み 8月5日(金)から直接又は電話で市立図書館へ。[TEL] 0493(22)0324

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『広報ひがしまつやま』、さらに田口氏と光太郎の関わりについての記事も掲載されています。

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当方も講演会にはお邪魔しようと考えております。

展示される資料も、光太郎自筆ハガキ以外にも、筑摩書房『高村光太郎全集』の口絵を飾った書や、それらが贈られた際の小包の包装紙、鉄道荷札などもあるはずで、光太郎の息吹がありありと感じられる逸品ぞろいです。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

つつましく手にはふ小蝉ぢぢとなきたちまち飛びて青空に入る

大正13年(1924) 光太郎42歳

過日ご紹介した、埼玉県東松山市の元教育長で、生前の光太郎をご存じの田口弘氏から、市へ光太郎の肉筆資料等のご寄贈があった件、新聞三紙で紹介されているのがネットで確認できました。

まずは『東京新聞』さんの埼玉版。 

光太郎との絆、後世に 東松山の田口さんが書簡など市に寄贈

 「道程」「智恵子抄」などで知られる001詩人で彫刻家の高村光太郎(一八八三~一九五六年)の晩年に交流があった東松山市の元教育長田口弘さん(94)が二十四日、光太郎からの書簡や書など約百点を市に寄贈した。直筆の書簡十通はどれも、四十歳近く年下の田口さんに細かい気遣いを見せる誠実な人柄をしのばせる。田口さんは「高村さんに関心を持つ若い人の研究のために少しでも役立てたい。高村さんの高い精神にぜひ触れてほしい」と話している。

 田口さんは旧制松山中学(現松山高校)三年のとき、国語教師だった柳田知常氏(後に金城学院大学長・故人)の授業で光太郎の詩に触れた。以来、新聞・雑誌に掲載される光太郎の詩や随筆のスクラップを始め、入手できなかった「道程」を柳田氏から借りて全文をノートに書き写すなど、光太郎にのめり込んだ。

 田口さんは進学した大泉師範学校専攻科(現東京学芸大)で卒業論文「高村光太郎研究」をまとめ、一九四四年春、師事を続けていた柳田氏に連れられて東京・駒込のアトリエで初めて光太郎に会う。光太郎は卒論を一ページずつめくりながら「私のことを私よりも知っているね」と笑みを浮かべたという。初対面の学生にもていねいに接する光太郎に、田口さんは感銘を受けた。

 田口さんは占領地域で日本語を教える海軍教員として南方への赴任が決まった同年夏、光太郎のアトリエを訪ね「世界はうつくし」「うつくしきもの満つ」の書をもらったが、同年十二月、乗っていた輸送船がフィリピン沖で米軍に撃沈され、書は多くの仲間とともに沈んでしまった。今回、市に寄贈した同じ言葉の書は四七年、岩手県太田村(現花巻市)山口の山小屋に光太郎を訪ね、再び書いてもらったものだ。

 四五年から七年間、雪の吹き込む粗末な山小屋で独居生活をしていた光太郎。戦中に戦争協力詩を多く発表したことへの自省の念から、とされる。田口さんは勤めていた松山中学の教え子を連れて会いに行ったり、足が十三文(約三十一センチ)と大きく、既製品の靴下が買えない光太郎のために、妻の手編みの靴下を送るなどの交流を続けた。

 四八年に届いたはがきには「『ジャワ詩抄』は今も小生の机上にあります。山口部落(カンポン)にて」とあった。ジャワ詩抄は田口さんが復員前のインドネシアの収容所で書いた詩をまとめ、光太郎に送った詩集のタイトル。「カンポン」は詩集の中に出てくるインドネシア語の「村」の意で「あなたの詩集をちゃんと読んでいますよ」という温かい心遣いだった。

 旧制中学時代の田口さんのスクラップノート五冊は詩人の草野心平に貸し出され、草野が編集を担当して五一年から刊行された「高村光太郎選集」(全六冊)に役立てられた。光太郎は「あなたの切り抜きのおかげ」と、自ら包装した小包で配本のたびに送ってきたという。

 田口さんは「詩人、芸術家としての立派さだけでなく、人間として生きる(志の)高さ、誠実な生き方をした人だった」と振り返った。

 市は寄贈された書簡などを八月十~二十八日、市立図書館で一般公開する。森田光一市長は「素晴らしい市の宝として大切にしていきたい」と述べた。


続いて『毎日新聞』さん。こちらも埼玉版に記事が出ました。 

高村光太郎の書や交流書簡 元教育長の田口弘さん、東松山市に全資料 市立図書館収蔵、8月10日から一般公開 /埼玉

「誠実な生き方も次世代に伝えたい」 002
 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と親交があった元東松山市教育長で同市在住の詩人・田口弘さん(94)が24日、高村の書や交流書簡などを同市に寄贈した。寄贈品は同市立図書館に収蔵され、8月10~28日に一般公開される。森田光一市長は「東松山出身の梶田隆章先生のノーベル物理学賞受賞に続き、市の宝がまた一つ増えた」と感謝した。

 1922(大正11)年生まれの田口さんは旧制松山中(現県立松山高)3年の時、国語教師だった恩師から高村のことを教わり、その作品と芸術への取り組み方に魅せられるようになった。高村が書いたり、紹介されたりした新聞や雑誌の記事をもらさずスクラップしたノートは5冊を数える。
 教師を養成する当時の東京府大泉師範学校に進学後も研究を続け、卒業前に論文「高村光太郎研究」にまとめると、恩師と東京・駒込のアトリエに高村を初めて訪ねた。38年に妻の智恵子さんを亡くし「智恵子抄」で多くの人々の心をとらえていた高村は39歳離れた学生の論文に目を通し、「私よりも私のことを知っている」とユーモアを交えて語った。田口さんは高村のこまやかな心遣いに感銘を受け、卒業後、日本軍占領地で住民に日本語を教える海軍軍属になることが決まって出発する前にもアトリエを訪ねた。
 高村は45年の東京空襲で焼け出され、宮沢賢治の弟・清六の招きで疎開した岩手・花巻の宮沢家でも花巻空襲で再び焼け出された。花巻郊外の粗末な小屋で7年間に及ぶ農耕自炊の生活を送った高村を、46年に復員して現在の東松山市立中の美術教師となった田口さんが訪ねたのは47年。49年には中学3年の教え子3人を連れて再訪した。
 52年に帰京するまで冬は雪が吹き込む小屋で農耕がてら詩を作っていた高村に、田口さんは誕生日の贈り物などとして妻手作りの毛糸の靴下や練乳などを送り続けた。
 今回寄贈したのは、その時の礼状を含めた高村直筆の封書2点やはがき8点、訪ねた際に書いてもらうなどした書幅4点に、関連書籍を加えた約100点。封書やはがきの字は能筆でも知られた高村らしく、丁寧でバランスも良い。
 田口さんは、49年に受け取った「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」という書を掛け軸にして特に大切にしてきた。高村は、同封した手紙に新約聖書の中で「感激」した言葉を書いたと記していた。
 田口さんは「私たちがもし、見たいと思っているものがあるなら、それはすぐに見えるものではないのだから、じっと我慢して生活する中で見つめ続けていれば体得できるという意味でしょう」と説明し、「私がキリスト教徒で、詩を書いていることをご存じだったので、『芸術を志す者は忍耐強く、自分の願っているものを終生求めなさい』という励ましを込めた言葉」と受け止めている。
 日教組中央執行委員や県教組委員長などを経て76年から同市教育長を16年間務めながら詩を書き続けてきた田口さんは「青春時代の出会いは大事。高村さんと実際に会って目を開かされた者として、詩人として立派というにとどまらない、その誠実な生き方も次世代に伝えたい。そのために役に立てば、という思いで全ての資料を寄贈しました」と話している。


最後に『産経新聞』さん。やはり埼玉版です。 

高村光太郎の書簡など寄贈 東松山の元教育長、市へ100点 埼玉

 東松山市の元教育長で詩人、田口弘さん(94)が、親交のあった彫刻家で詩人、高村光太郎(1883~1956年)の書簡や書幅など約100点を同市に寄贈した。田口さんは高村と3回面会し、書簡をやりとりするなど高村が亡くなる直前まで細やかな交流が続いた。市は書簡などを市立図書館で所蔵し、今夏一般公開するほか、高村の誕生月の3月に毎年公開する予定だ。
                   ◇
 田口さんは旧松山中在学中に恩師の柳田知常さんの指導で高村を研究。昭和19年、東京府大泉師範学校の卒業論文で高村論を書き上げ、柳田さんに連れられて東京・駒込のアトリエを訪問。初めて会った高村は論文を繰った後、「僕以上によく知っていますね」と笑顔を見せたという。
 その後、田口さんが海外教員として戦地に赴任する際に高村から書を贈られるなど交流は続いた。詩人、草野心平が編纂した「高村光太郎選集」(中央公論社、全6巻)では、田口さんが中学時代から切り抜いた新聞スクラップなどの高村研究ノートが資料として生かされた。
 書簡は昭和23年から高村が亡くなる3年前の同28年まで、直筆はがき8点、直筆封書2点の計10点。田口さんが書いた詩の感想や贈り物への謝礼、日々の暮らしなどが簡潔に綴られている。さらに、直筆の色紙や掛け軸など書幅4点、高村の署名入り同選集など貴重な書籍が寄贈された。
 田口さんは「高村さんは誠実な方でした。半歩でも一歩でも近寄りたいと願い、おぼつかないが生涯の弟子として生きてきた」と述懐。思い出の品の寄贈について「現物で高村さんが生きているんだと紹介できる。青春時代の文学青年は出会いが一番大事。出会いがないと目が開かれない」と話した。このほか、彫刻家、高田博厚(1900~1987年)の彫刻「萩原朔太郎青銅像」(昭和49年制作)1点も寄贈した。
 同図書館は8月10~28日、書簡などを一般公開する。同21日には田口さんの展示品解説を含めた講演会も開かれる。問い合わせは同図書館(電)0493・22・0324。

その他、東松山市さんの公式ツイッター、市長の森田光一氏のブログにも記述がアップされています。ご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

わが船の鳴く声きけばわがこころ神戸の水戸に血をしぼり泣く

明治42年(1909)頃 光太郎27歳頃

明治42年(1909)の今日、光太郎は約3年半の海外留学を終え、日本郵船の阿波丸に乗って、神戸港に到着しました。

欧米で世界最先端の芸術をまのあたりにし、日本美術界とのあまりの落差を感じて、これから始まる自らの苦闘を予感して作った歌です。

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埼玉県のローカルテレビ局、テレ玉さんが昨日報じたニュースです。

高村光太郎と親交があった男性 直筆書簡などを寄贈

詩人、彫刻家として知られる高村光太郎と親交があった男性が高村光太郎から送られた書簡や書籍など100点あまりを東松山市に寄贈しました。東松山市役所を訪れたのは、市内在住で、市教育長を17年間務めた田口弘さん(94)です。田口さんは、旧制中学時代に高村光太郎の研究をはじめ、その時に使っていたノートが「高村光太郎選集」の編集に資料として使われたことから、20歳の頃に高村光太郎と出会い、高村から詩集を贈られるなど交流を続けました。「高村光太郎がライフワーク」と話す田口さんが集めた書籍およそ80冊や直筆の書簡、掛け軸など、およそ100点が寄贈されました。東松山市の森田光一市長は、「市の宝として、多くの人に見てもらえるようにします」と感謝の意を述べました。田口さんから寄贈された書籍などは、8月10日から28日まで市立図書館で一般公開されるということです。

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田口氏は記事にもあるとおり、東松山市の教育長を永らく務めた方です。その間、今も同市で開催されている日本スリーデーマーチの誘致、運営や、東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻通り」の整備などにも力を注がれました。「彫刻通り」は光太郎と縁の深かった故・高田博厚の作品――光太郎胸像を含む――を屋外設置したものです。また、やはり氏のお骨折りで、市立新宿小学校さんには、光太郎の筆跡を刻んだ「正直親切」の石碑が昭和58年(1983)に建立されています。

当方、昨年、東松山の田口氏のご自宅を訪問させていただきました。かつて光太郎命日の集い・連翹忌にご参加いただいていましたが、最近はご高齢のため遠出は不可能とのことで、ご欠席が続いており、10年ぶりくらいにお会いしました。その際のレポートがこちら。氏と光太郎の縁や、今回寄贈された品々の簡単な解説も載せてあります。

その折に、その品々の寄贈先についてのご相談も受けました。当会に寄贈、というお話もあったのですが、それよりも地元のお宝として、市に寄贈されるか、花巻の高村光太郎記念館さんなどの施設に寄贈されるかした方が良いでしょうというお話をして参りました。結局、市に寄贈なさったというわけです。

過日、東松山市立図書館さんから光太郎関連資料の寄贈を受けた旨、メールを戴きました。その中の書簡一通についてのご質問でしたが、個人情報保護の観点からでしょう、最初は田口氏の名は書かれていませんでした。しかし、「東松山」「光太郎」「寄贈」で、田口氏だとピンと来ました。はたしてその通りだと追伸のメール。ただ、失礼ながらお年がお年ですので、亡くなられ、ご遺族からの寄贈かとひやっとしましたが、それは違うとのことで安心しました。

テレ玉さんで、市立図書館さんでの公開については触れられていましたが、さらに会期中に田口氏ご本人の講演も企画されているとのことです。戦後の光太郎をご存じの方はまだ多くご存命ですが、花巻疎開前の駒込林町アトリエ時代をご存じの方はめっきり少なくなりました。非常に貴重な証言が聴けるはずです。

東松山での展覧会については、詳細が出ましたらまたご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

稲妻や旅の靴ぬぐ夕まぐれ        明治42年(1909) 光太郎27歳

そろそろ梅雨も終わりに近づいています。そうすると大気の状態が非常に不安定。九州などでは豪雨の被害も出ています。雷や突風、低い土地への浸水など、十分お気を付け下さい。

埼玉所沢より演奏会情報です。 

所沢メンネルコール 第30回記念演奏会~歌は心のよろこび

期  日 : 2016/06/18 (土)
時  間 : 12:45 開場  13:30  開演
会  場 : 
所沢市民文化センター ミューズ アークホール
       埼玉県所沢市並木一丁目9番地の1
料  金 :  1,000円 全席自由
問  合 : 猪股 04-2955-1655 岩田 04-2948-6145
曲  目 :
 1. F.リスト:レクイエム(パイプオルガンと管楽器との共演)
   Requiem aeternam / Dies irae / Sanctus / Agnus Dei
 2. 昭和浪漫
   青い山脈 / 夜明けのうた / 長崎の鐘 / 海 その愛 / 喜びも悲しみも幾年月
 3.清水脩 「智恵子抄より」
   「智恵子抄巻末のうた6首」 「ある夜のこころ」
 4. トコメン思い出のうた
   野分 / ヒャンス향수(郷愁) / 終電車のブルース / 石家荘にて / 海よ / 川の流れのように

指揮 : 岩佐 義彦  ピアノ : 大下 さや香  パイプオルガン:川越 聡子

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所沢に本拠を置く男声合唱団、所沢メンネルコールさんの演奏会です。

008故・清水脩氏が光太郎の詩歌に曲を付けた2曲がプログラムに含まれています。

「智恵子抄巻末のうた六首」は、昭和39年(1964)、東海メールクワイヤーさんの依嘱によって作曲、初演。翌年にはカワイさんから楽譜も刊行されました。ア・カペラ(無伴奏)の曲です。

「ある夜のこころ」。こちらはピアノ伴奏付きで、同40年(1965)、慶應義塾大学ワグネル・ソサエティーさんの依嘱・初演です。楽譜は音楽之友社さんから刊行された「清水脩・合唱曲集」シリーズに含まれていたはずですが、こちらは当方、持っておりません。

どちらも音楽之友社さんの『清水脩 男声合唱曲集 智恵子抄巻末のうた六首』に収録され、オンデマンド(受注出版)の形で入手可能です。

CD等の音源もリリースされています。

東芝EMIさんの「合唱名曲コレクション21(男声合唱) 月光とピエロ」に東京リーダーターフェルさんの演奏で、2曲共に。「巻末のうた」の方は、ビクターさんから発売の「日本合唱曲全集 月光とピエロ 清水集作品集」にも収められています。こちらの演奏は東海メールクワイヤーさん。

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清水氏は、昭和16年(1941)に刊行された『智恵子抄』を手に取り、「異常なほどの感動を覚え、以来、この愛情の詩に曲を付けたいと思い続けていた」と後年語っています。その「智恵子抄」作曲は男声合唱にとどまらず、混声合唱、独唱歌曲、箏曲にまでおよんでいます。「智恵子抄巻末のうた六首」は、混声版も存在します。


今年は光太郎没後60年、智恵子生誕130年。またひとつ花を添えていただけるかと期待しております。


【折々の歌と句・光太郎】

「トスカン」の酒の赤さよ衣がへ    明治42年(1909) 光太郎27歳

「トスカン」は、フィレンツェを含むトスカーナ地方。赤い酒は、かの地特産のワインでしょう。

昨日は埼玉県加須市に行って参りました。

サトヱ記念21世紀美術館さんで開催中の「生誕130年記念 斎藤与里展 ~巨匠が追い求めた永遠なる理想郷~」の関連行事、第2回ミュージアムトーク拝聴のためです。

同展には昨秋に行って参りまして、2度目の訪問となりました。


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講師は美術文献研究家の佐々木憲三氏。斎藤与里、そして光太郎らを中心に、明治末に結成されたヒユウザン会(のちフユウザン会)の機関誌『ヒユウザン』(のち『フユウザン』)の復刻などに関わられた方です。連翹忌の御常連でもあります。

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演題は「斎藤与里・画家としての軌跡」。約2時間、与里の人となり、業績、さらに光太郎を含む周辺人物との関わりなどのお話でした。

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同展は来月13日までの会期です。

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ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

今おもふ人のことこそをかしけれけものとなりて湯にひたる時
大正13年(1924) 光太郎42歳

温泉につかりながら思う人は、やはり智恵子なのでしょうか。

第68回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の中学、高校部門が今月24(土)、25日(日)にさいたま市の大宮ソニックシティ大ホールで行われます。
 
合唱楽譜の発行、販売を専門にしているパナムジカさんのサイトに、コンクール情報として、参加校と演奏曲目の一覧がアップされています。
 
それによると、光太郎作詞――というより光太郎の詩に000曲をつけたもの――を自由曲を選んだ学校が、高校の部で2校ありました。

まず、高校Aグループ(8~32人)で、智恵子の後輩にあたる日本女子大学附属高等学校コーラスクラブの皆さんが、鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための組曲 智恵子抄」」中の「裸形」を演奏します。この組曲は、福島県立橘高等学校合唱団による委嘱作品です。以前にも書きましたが、橘高校さんは、智恵子の母校・福島高等女学校の後身です。これも以前にも書きましたが、同校合唱団は、平成21年(2009)から3年間、この組曲全3曲の中から1曲ずつを自由曲とし、全日本合唱コンクール全国大会高等学校部門Bグループで上位入賞しています。
 
 第62回大会 平成21年(2009) 自由曲「レモン哀歌」 金賞
 第63回大会 平成22年(2010) 自由曲「裸形」 銀賞
 第64回大会 平成23年(2011) 自由曲「亡き人に」 銀賞001

楽譜やCDも発売され、コンクールの定番曲の一つとなり、昨年の第67回大会では、神奈川の清泉女学院音楽部さんが「亡き人に」で金賞、北海道の北海道帯広三条高校合唱部さんが「レモン哀歌」で銀賞を獲得し、高く評価されています。


今年「裸形」を演奏する日本女子大学附属高等学校コーラスクラブさんは、昨年は与謝野晶子作詩の「絵師よ」で銀賞でした。今年は金賞をゲットしていただきたいものです。智恵子の後輩として、「智恵子抄」中の詩に曲をつけたものの演奏ですので、例年以上に頑張って欲しいと思います。

さらに、高校Bグループ(33人以上)で、東京の007豊島岡女子学園高等学校コーラス部さんが、三好真亜沙さん作曲の「冬の奴」で出場。これは「女声合唱とピアノのための「冬が来た」」中の1曲です。

こちらは昨年、初演された新しい曲です。当方、その初演を聴きに行って参りましたが、硬骨な光太郎詩の特徴を活かした曲でした。作曲者の三好さんいわく「カッコいい女声合唱」。そして「冬の奴」は組曲の終曲ということもあり、終末部分フォルティッシモのロングトーンでガーッと終わる構成になっています。大人数のBグループ向きの曲ですね。ただ、豊島岡さんはBグループの中では少なめの42人だそうで、100人を超す参加校もある中、迫力よりは、冬の清澄な空気の透明感とでもいいましょうか、そういったものが表現されている中間部のハーモニーで勝負して欲しいものです。

こちらも楽譜とCDが発行されており、今後もいろいろな合唱団003さんに取り上げていただきたいと思います。

全日本合唱コンクール、大学職場一般部門は来月21日(土)・22日(日)、長崎市の長崎ブリックホールでの開催だそうです。こちらは曲目等まだ発表されていませんが、やはり光太郎詩を扱った作品が出て来るといいな、と思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月20日

昭和14年(1939)の今日、光太郎が装幀、題字揮毫、装画を手がけた長谷川時雨の随筆集『きものが刊行されました。

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長谷川は光太郎の木彫「桃」を購入したりで、これ以前から光太郎と交流がありました。同年2月に刊行された随筆集『桃』では、その写真を扉に使っています。

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昨年のNHKさんの朝ドラ「花子とアン」に登場した藤真利子さん演ずる「長谷部汀」は長谷川がモデルと思われます。

合唱の演奏会情報を2件。それぞれ光太郎作詞の合唱曲がプログラムに入っています。

コール・オービーレン第8回演奏会

期  日 : 2015年9月22日(火・祝)
時  間 : 開場13:30 開演14:00
料  金 : 無料 (全席自由)
場  所 : 川口総合文化センターリリア 音楽ホール  埼玉県川口市川口3-1-1
曲  目 :
 混声合唱組曲「 猛獣篇」 (高村光太郎 作詞/佐藤 敏直 作曲)
 宗教曲 「ハレルヤコーラス」 他
 映画音楽 「慕情」「シャレード」 他
<指揮> 山口 大五郎 <ピアノ> 中谷 路子


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コール・オービーレンさんというのは、東京大学混声合唱団コール・ユリゼンさんのOB・OGの集まりから出来た混声合唱団だそうです。

プログラムの最初が、佐藤敏直氏作曲の「猛獣篇」。光太郎の同名の連作詩中の詩4篇に曲をつけたものです。元々は昭和63年(1988)、専修大学グリークラブさんの依嘱で男性合唱曲として作曲され、平成2年(1990)にはカワイ出版さんから楽譜も刊行されました。「森のゴリラ」「傷をなめる獅子」「ぼろぼろな駝鳥」「マント狒狒」の4曲でした。

そして、同じく平成2年(1990)から5年(1993)にかけ、南生田コーラスさんの依嘱で混声版が新たに作られています。ただし、総題は同じ「猛獣篇」ですが、曲目は「龍」「象」「傷をなめる獅子」「苛察」。「傷をなめる獅子」は男声版から混声へのアレンジですが、他は新作です。平成22年(2010)にやはりカワイ出版さんから楽譜が出ています。

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CDなどの音源としては、まとまった形ではリリースされていないようです。当方、会津高等学校男声合唱団さんの演奏会のライブ録音CDで、男声版の入ったCDを持っていますが、自主制作盤のようです。また、これも自主制作盤的なものだと思いますが、全日本合唱コンクールの東北支部大会ライブ録音のCD。やはり男声版の「傷をなめる獅子」が、同じく会津高校さんの演奏で入っています。

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もう1件。

コール・マルシュナー第4回福島演奏会

期  日 : 2015年9月27日(日)
時  間 : 開場13:30 開演14:00
場  所 : 福島市音楽堂 大ホール  福島県福島市入江町1-1
料  金 : 1,000円 (全席自由)
主  催 : 福島高校在京OB合唱団“コール・マルシュナー”
問い合せ : 042-345-6010 (弥勒 誠之)
曲  目 :
 1.男声合唱組曲「中 勘助の詩から」
 2.ロバート・ショウ合唱曲集 ファニータ、おじいさんの時計 他
 3.清水脩 作品集  海、智恵子抄巻末のうた六首 他
 4.愛唱曲集   早春賦、小さな喫茶店、箱根八里 他
 【特別出演】福島高等学校合唱団
  1.夜もすがら(「万丈記」より) 2.Os Justi



コール・マルシュナーさんというのは、福島県立福島高校さん在京OBによる男声合唱団だそうです。福島県は「合唱王国」と言われ、県全体のレベルの高さには定評があります。こういう合唱団が存在し、地元福島での演奏会が継続して行われている、というところにもそれが表れているように思います。

曲目の中で、故・清水脩氏作曲の「智恵子抄巻末のうた六首」が光太郎作詞、というより清水氏がそれに曲をつけたものです。昭和39年(1964)、東海メールクワイヤーさんの依嘱作品。当初は男声合唱曲として作られ、のち、昭和57年(1982)には混声合唱にアレンジされた楽譜も刊行されています。

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また、本家の東海メールクワイヤーさんをはじめ、東京リーダーターフェルさん、さらに合唱団京都エコーさんと松原混声合唱団さんの合同演奏によるCDがリリースされています。

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当方も混声、男声合唱を個人的にやっており、「智恵子抄巻末のうた六首」の男声版は、一度、生演奏で聴きました。当方の属する合唱団も参加した平成24年(2012)の千葉県合唱祭で、船橋HGメンネルコールさんの演奏でした。


こうした光太郎詩にきちんとした曲がつけられ、きちんとした演奏が為される機会がどんどん増えてほしいものです。それによって、光太郎智恵子の世界が広まることを期待します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月9日

昭和7年(1932)の今日、光太郎の父・光雲が海軍の東郷平八郎元帥と小笠原長生中将に、自作の千手観音像を贈りました。

光雲と小笠原は、光雲に依頼してたくさんの仏像を作ってもらった寺院・駒込の曹洞宗金龍山大圓寺を通じて知り合い、さらに小笠原を介して東郷と光雲の会見が実現しました。その会見が昭和7年(1932)の今日。光雲は東郷と小笠原それぞれに武運長久を祈念して自作の像を贈ったというわけです。

のちに東郷からは「妙神入」の書が返礼として光雲に送られました。光雲の刀技を神業の域と讃えたものと思われます。

以前もご紹介しましたが、下記が昭和7年(1932)の今日、撮影された写真です。

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左から大圓寺の服部太元、光雲、東郷平八郎、小笠原長生です。

昨日は埼玉県東松山市に行って参りました。こちらにお住まいの、光太郎と交流のあった田口弘氏のお宅を訪問させていただくのが第一目的でした。

氏は同市の教育長を永らく務められ、在任中には、今も同市で開催されている日本スリーデーマーチの誘致、運営に骨を折られました。退任後は市立図書館顧問、幼稚園の園長先生などを歴任、現在はご隠居なさっています。大正11年(1922)年生まれの、御年93歳だそうです。

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氏と光太郎、出会いは昭和18年(1943)。俳人の柳田知常を介してだったそうです。翌年には軍属として南方へ出征される前に、駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、数点の揮毫をしてもらったとのこと。この点、3月に女優の渡辺えりさんとご一緒にお話を伺いに行った、深沢竜一氏や、動員先の工場から光太郎を訪ねたえりさんのお父様と似ています。

氏は南方で乗っていた輸送艦が撃沈されて命からがらの目にあいました。その際、出征前に光太郎に揮毫して貰った書は海のもくずとなったそうです。戦後は捕虜としてジャワ収容所に入れられ、昭和21年(1946)に帰国されたとのこと。

昭和22年(1947)には、花巻郊外太田村に隠棲していた光太郎を訪問。その後も2回ほど太田村の光太郎の元を訪れたそうです。

光太郎ゆかりの品々を、拝見して参りました。

山小屋で書いて貰ったり、埼玉のご自宅008に送り届けられたりした書が4点、光太郎からの書簡が10通、光太郎から贈られた献呈署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻、それらが小包で届いた際の包み紙(宛名や差出人の部分が光太郎筆跡)、鉄道荷札。さらに、光太郎歿後に、特に高村家にお願いして鋳造させて貰ったという、ブロンズの「大倉喜八郎の首」など。

こちらは軸装された書。聖書の一節です。氏がクリスチャンであるため、光太郎が特にこの言葉を選んで揮毫してくれたそうです。

我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん ロマ書 光太郎

と読みます。

他の3点の書は、色紙。しかし、太田村の山小屋で、目の前で書いて貰ったという2点は、戦後の混乱期ゆえ、色紙というよりボール紙のようなものです。よくある縁取りもされていません。
しかし、それだけにかえってよそゆきでない雰囲気が感じられました。

書かれているのは短句「うつくしきもの満つ」「世界はうつくし」、短歌「太田村山口山のやまかげにひえをくらひて蟬彫る吾は」。短句二つは、南方の海に沈んだ書と同じ言葉を、再度書いて貰ったそうです。

うつくしきもの満つ」は、光太郎が好んで書いた言葉で、他にも類例がありますが、この言葉を最初に書いて貰ったのは、昭和19年(1944)の自分が最初ではないかというのが氏の弁です。

世界はうつくし」。昭和16年(1941)には「うつくし」が漢字の「世界は美し」という詩が作られていますが、この言葉が書かれた書は類例がありません。

それぞれ氏が私刊された書籍(『詩文集 高村光太郎の生き方』)などで写真は見たことがありましたが、やはり実物を手に取ってみるのとでは大違いですね。


氏とは、10年ほど前の連翹忌でお会いしていますが、長々お話ししたのは初めてでした。氏から当方の自宅兼事務所に電話があり、一度会って話がしたい、ということでお邪魔いたしました。こうした品々の今後について、これからご相談させていただくことになります。

昨日のお話の中で、氏のおっしゃった言葉が非常に心に残りました。光太郎について詳しく研究するのはいいが、それだけでなく、そこから何を学ぶか、自分の人生にどのように活かしていくかが重要だ、とのお言葉。まったくもってそのとおりですね。


帰りがけ、氏のお宅から2㌔ほどの所にある市立新宿小学校さんに寄りました。こちらには、氏のお骨折りで建立された石碑があります。

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光太郎が昭和26年(1951)、太田村の山口分教場が小学校に昇格した際、校訓として贈った言葉「正直親切」が刻まれています。

10年ほど前にこの碑を見に行ったことがありましたが、昨日、建立の際のお話も伺ったので、改めて観て参りました。

文字は渋る石屋さんを、「あなたの仕事が半永久的に残るんだから」となだめすかし、手彫りでやってもらったとのこと。機械を使っての彫りでは、光太郎の書の感じがうまく表せないという理由です。

この書の現物は花巻の高村光太郎記念館にありますし、光太郎の母校である東京荒川区の第一日暮里小学校さんも校訓として使用、やはりが建っていますし、花巻の山口小学校跡地にも碑が建っています。

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小学一年生でも読めるようにと、ひらがなのルビも光太郎が書き添えています。

「正直親切」。単純なようで、奥の深い、いい言葉です。


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他にも東松山市には、やはり田口氏のお骨折りで出来た、光太郎を敬愛していた彫刻家・高田博厚の作品を配した「彫刻通り」があります。こちらには光太郎胸像もあるのですが、一昨年、観て参りましたので、昨日はパスしました。


それにしても、貴重なお話が伺えました。当方、生前の光太郎は存じません。その分、直接交流のあった方々の証言など、積極的に聴いておきたいと考えております。

来週末には、花巻高村祭のためまた花巻に行きます。その際、地元の、やはり生前の光太郎を知る方々とお話しできる機会を設けて下さるとのこと。ありがたく拝聴して参ります。

追記 田口氏、2017年2月にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈009り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月10日

大正13年(1924)の今日、古今書院からロマン・ロラン作、光太郎訳の戯曲『リリユリ』が刊行されました。

装幀、題字も光太郎です。

つい先だって、今まで知られていなかったロマン・ロランの文章の光太郎訳が見つかりました。のちほど詳細をレポートします。

今日は「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の最後の巡回先、愛知県碧南市藤井達吉美術館にての開会式・内覧会(一般公開は明日から)に行って参ります。帰りは夜中となりそうなので、日付が変わった未明のうちに今日の分を書いてしまいます。
 
出先からケータイで短めに投稿する事も可能なのですが、早めに書いてしまいたい事情もあります。
 
このブログでは光太郎智恵子がらみのさまざまなイベント等をご紹介しています。そのために情報収集はおさおさ怠りなくやっているつもりなのですが、こちらの網の目から漏れる情報も多いようです。
 
終わってしまってからこんなイベントがあったというのをネットで見つけることもしばしばありますし、昨日書いた田沼武能「アトリエの16人」のように、終了間際に気がつく場合もあります。当方の情報収集力もまだまだです。
 
今回もそう。明後日に行われるイベントを昨日になって知りました。反省しきりです。というわけで、間がないのでできる限り早くご紹介します。 

リーディングドラマ「智恵子の空は」

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『朝日新聞さいたま版マリオン』さんの記事から。
 
朗読グループ「声の会」による公演。浅川安子(構成、演出)。音楽、動きなどを取り入れ、高村光太郎の「智恵子抄」をもとに智恵子の生涯を語る。ピアノとクラリネットの演奏も。1000円。要予約。電話中村さん(048・641・6753)。
 
日 時:2013年11月2日(土) 昼の部13:30~ 夜の部18:00~
会 場:彩の国さいたま芸術劇場小ホール(最寄り駅 与野本町)
料 金:1000円 全席自由
 
同会HPによれば、「リーディングドラマ」とは、以下の通りです。
 
 昨今、朗読の持つ力が見直され、朗読劇や朗読構成劇などという名前で舞台上演されることも増えてきました。これは日本語の持つ生命力を目や耳を通して回復させたいというあらわれだと思います。
 私たち「声の会」のリーディングドラマも、朗読に美術や音楽、照明、動きを取り入れ、総合的な舞台表現を目指しています。私たちの発する言葉が、舞台空間をより際だたせることによって、何倍もの力を得て、ストレートに観るものの心に伝わることを切に願うからです。
 
ぜひ行きたいのですが、なにせ急に知ったもので都合がつきません。残念です。

【今日は何の日・光太郎】 10月31日

昭和16年(1941)の今日、牛込矢来町の城西仏教会館で催された「文芸講演と詩朗読の会」で講演をしました。
 
上記と同じ朗読の会ですが、その趣旨は大きく違います。
 
当方、この時のプログラム(B4判二つ折り)を所蔵しています。裏面に書かれた趣意書的なものを引用しましょう。
 
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 変転きはまりない時代に最も肝要にして不動不退転の国民の生活を樹立させる底のものは国家の力であり、国民の固き信念であります。大日本帝国臣民であるわれわれはこの力を充分蓄積し、この固き信念を深く身につけて一旦緩急の際には、すみやかに勇往邁進凛々真摯敢闘の精神を内に充溢しのぞまねばなりません。われわれ青年はすでに銃剣の林を征き砲煙をおかして帝国の威力を世界に轟かして参りました。今日われわれの思はねばならぬ責務の重大は、銃前と云はず銃後と云はず、現代日本の各方面より要望されており、われわれ青年はわれわれ青年の意気と熱情とを以てこれに当るべき秋であります。
 このとき文化面に於て、われわれは青年詩人の新しい声と盛り上がる熱情とをかたむけて新文化銃後翼賛の微力をつくしたいと思ふものであります。たゞならぬ今日のあらねばならぬ方向はこの巨大な歴史的現実の下に厳然として唯一つ存在して居る、捨身即ち祖国を愛する日本民族の血の伝統に生きる事であります。われわれ青年詩人は今こそ現代日本の輿望に応へて詩精神の覚醒と正しい履践をせねばならぬのであります。
 民族が興隆せんとするときには必ず民族の詩は栄えるのであります。現代日本の直面してゐる情勢は新しき東亜の黎明へ、十億の民の共栄へ向つて輝かしい任務を遂行する努力でもありまして、この偉大なる希望のもとにわれわれの血はたぎつてゐるのであります。文字通りわれわれは詩を以て聖業に翼賛し奉る秋であります。大政翼賛会文化部に於てもかゝる時代にかゝる詩の国民に与へる力の重大を惟ひ既に「詩の朗読」の運動が始められて居ります。
 詩と詩人社もこゝに「文芸講演と詩の朗読会」を催して現代青年詩人の志向とその自主的精神を明らかにし詩によつて民族精神の高揚を為す運動の一としたいと考へる次第であります。
 昨秋及今春名古屋に於ける「文芸講演と詩の朗読会」に引続き催される今回の会は現代詩精神社の後援の下に、一つには同人山田嵯峨の大浪漫主義を盛つた詩集「四方天」の出版を記念し、又一つには徳安攻略戦に散華した詩友田中清司を偲ぶために開催されるものであります。したがつて今迄在来の出版記念会や追悼会の旧套を打破する意味も含み、こゝに詩壇新体制確立の為青年詩人を中心に溌剌清新の新風を盛りうる事と信ずるものであります。
 幸ひ詩壇の耆宿高村光太郎氏と詩朗読の先輩照井瓔三氏の賛助御快諾を得ました事はわれわれのもつとも光栄とするところであります。就而此青年詩人の一大快事に御集り願ひ度く御友人御誘ひの上御来場下さいます様御案内申上げます。
 昭和十六年十月   詩と詩人社同人識
 
まるで某半島の某独裁国の「ナントカ日報」という新聞のような感じですね。日本もつい数十年前にはこうだったのです。
 
この時はまだ太平洋戦争開戦前です。しかし既に日中戦争は泥沼化していました。国家総動員法はこれにさかのぼる昭和13年(1938)には制定されており、各種団体は大政翼賛会の旗の下に統合が進み、文学もその例外ではありませんでした。
 
詩人はその作品の執筆や朗読で、国策に協力する事が義務づけられた時代だったのです。
 
「詩と詩人社」は新潟・魚沼に本部を置いた詩人結社です。やはりプログラムの裏に同人の一覧が載っていました。
 
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当方、寡聞にして田村昌由、浅井十三郎、武井京史(「武井京」とあるのは誤り?)山田嵯峨くらいしか知りません。
 
田村にしても前後3回ほど光太郎に詩集の序文を書いてもらっているから知っているようなもの。浅井・武井・山田は昭和18年(1943)に行われ、同社発行の「詩と詩人」に載った座談で光太郎と同席しているから知っているようなものです。
 
それにしても戦死した同人の追悼を兼ねるとか、名簿に「出征中」の文字があるとか、本当に嫌な時代です。詩人が銃を手に取って戦うとか、銃後の者たちもこんなイベントで国策協力とか、そしてそこに光太郎も絡んでいるとか、そんな時代だったわけです。

一昨日、「伊藤信吉没後10年記念展」を観に行った高崎の群馬県立土屋文明記念文学館へは、自家用車で行きました。もう一カ所、お目当ての場所があったためです。
 
群馬県立土屋文明記念文学館を後にし、前橋インターから関越自動車道に乗り、南下。埼玉県に入ってしばらく走り、東松山インターで関越道を下りました。そのまま更に一般道を南下、目指すは東武東上線の高坂駅です。
 
高坂駅から西にのびる通りは、「彫刻通り」と名付けられ、光太郎と交流のあった彫刻家・高田博厚(明33=1900~昭62=1987)の作品が32体、配されています。なぜここに、というと、昭和57年(1982)に、高田が東松山市で講演と彫刻展を行ったことがきっかけだそうで、おそらく当時の教育長で、やはり光太郎と交流のあった田口弘氏の尽力があったのではないかと推測されます。同市の新宿小学校には、田口氏の尽力で、光太郎の筆跡を刻んだ「正直親切」の石碑が昭和58年(1983)に建立されています。

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彫刻群の設置は昭和61年(1986)、高坂駅西口の区画整理に伴ってことでした。
 
ただ光太郎と交流があった彫刻家の作品群、というだけでなく、ずばり「高村光太郎」像があるので、今回、足をのばしたわけです。以前からそれがあるというのは知っていましたが、なかなか機会がなく、延び延びになっていました。新宿小の石碑は以前に見に行ったのですが、その時には高坂駅前の彫刻の存在を知りませんでした。当方、やはり子供の頃、東松山に3年余り住んでいたのですが、離れて数十年経つと疎くなります。
 
さて、こちらが光太郎像。

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昭和34年(1959)の作です。晩年の光太郎の肖像ということでしょう。何だか古代ギリシャの哲人の像、といっても通用しそうです。

ここの作品には、高田の一言がそれぞれの台座に刻まれています。曰く、
 
日本の彫刻界で彼のように聡明確実な腕を持った者は一人もいなかった。 その上彼の世間を相手にしない孤高な魂はそれに気品を与えた。彼は木盆にヴェルレーヌの、 「われは選ばれたる者の怖れと喜びを持つ」を原語で自ら彫りつけていた。
 
光太郎本人をよく知る高田の言ということで、興味深いものがあります。
 
ちなみに「ここの」、と書きましたが、同じ原型から鋳造された光太郎像は、岩手花巻の花巻北高校校庭にもあります。こちらは昭和51年(1976)の設置。光太郎詩「岩手の人」の一節が台座に刻まれています。
 
岩手の人 沈深牛の如し。両角の間に天球をいだいて立つ かの古代エジプトの石牛に似たり。地を往きて走らず、企てて、草卒ならず、つひにその成すべきを成す。

同校と光太郎に直接の関連はありませんが,光太郎の精神に共鳴した同校卒業生父兄らによって建立されました。

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さらにもう一点、屋内展示ですが、信州塩尻の古田晃記念館にもこの光太郎像が収蔵されています。古田晃は筑摩書房の創立者で、やはり光太郎と交流がありました。
 
探せばまだ全国の美術館等のどこかにある016のかも知れません。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。
 
高坂駅西口の高田博厚彫刻群。宮沢賢治もいました。
 
こちらも凛とした感じですね。
 
さて、今日、明日と1泊2日で、岡山に行ってきます。
 
1/16のブログで御紹介しましたが、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子関連のイベントに参加します。他にもやはり光太郎と交流のあった詩人・高祖保の関係で、調査をして参ります。我ながら自分のフットワークの軽さに感心しています(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】2月16日

昭和9年(1935)の今日、新宿で宮沢賢治を追悼する「第一回宮沢賢治友の会」が開かれ、その席上、遺品の手帳から「雨ニモマケズ」が見つかりました。
 
その場にいたのが、光太郎や草野心平。そして永瀬清子も。なかなかすごい偶然ですね。

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本物のピカソ、やってくる 埼玉・川越の中学校

 本物のピカソやルノワール、人間国宝らのアート作品が、16日から2日間、川越市今福の市立福原中学校体育館で展示される。人間国宝美術館(神奈川県湯河原町)と真鶴アートミュージアム(同県真鶴町)による「出張美術館」の一環。
 なかなか美術館に足を運ぶことがない人や子どもたちが本物に触れる機会をつくり、震災や不況の中にある日本を元気にしようと、両美術館が昨年から始めた企画。今年は福島県郡山市の専門学校とともに同校が選ばれた。
 展示するのは、両館が所蔵する絵画、彫刻、陶器など約100点。ピカソやルノワール、シャガール、コローら海外の有名画家の作品に加え、国内からも棟方志功、岡本太郎、高村光雲、梅原龍三郎、東山魁夷、平山郁夫、横山大観、北大路魯山人、草間彌生らによる超一級の芸術作品がそろう。
 16、17日の午前9時30分~午後4時。学芸員の説明もある。16日午後(時間未定)には、東京芸術大学の北郷悟副学長が来校し、作品を解説する。
 入場無料。駐車場が狭いため公共交通機関の利用を呼びかけている。問い合わせは同校(049・243・4140)。
朝日新聞デジタル 2013-02-09

お近くの方、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
 
川越は江戸時代、特産のサツマイモのキャッチコピーを「九里四里(栗より)美味い十三里」とし、江戸から川越までの距離、13里(約50㎞強)がサツマイモの別名となりました。都心から50㎞強、池袋から東武東上線で約40分、以外と近いところです。当方、子供の頃、2年余り住んでいました。蔵作りの古い街並みがいい感じです。
 
都内の方もどうぞ足を運ばれてみて下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】2月14日

昭和16年(1941)の今日、『読売新聞』に15回にわたって掲載された座談「新女性美の創造」が最終回となりました。光太郎の他に宮本百合子、豊島与志雄などが参加しました。

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左から3人目、光太郎

昨日、これを書くつもりでしたが、女川からの記事が朝日新聞に載ったので、そちらを優先しました。
 
さて、11/2、3、4の金土日、埼玉県東松山市をメイン会場にして、「第35回日本スリーデーマーチ」が開催されました。
 
毎年11月、比企丘陵を舞台に繰り広げられるウォーキングの祭典ということで、国内のみならず、海外からの参加者も多く、今年は12万人もの参加者だったそうです。
 
さて、これが光太郎とどう関わるのかというと、大会初期の頃に礎を築いた元実行委員長、田口弘氏(元東松山市教育長、連翹忌にもご参加いただいています)が、生前の光太郎と関わっていたのです。
 
5年前の朝日新聞で、日本スリーデーマーチが30回の節目ということで、大きく特集を組みました。その時の記事から。
 
 彫刻家で詩人だった高村光太郎が、昭和15年につくった「歩く うた」という詩がある。
  歩け歩け 歩け歩け
  南へ北へ 歩け歩け
  東へ西へ 歩け歩け
  路ある道も 歩け歩け
  路なき道も 歩け歩け
    詩人で東松山市の教育長を76年から16年半務めた田口弘さん(85)=写真=は、「日本歩け歩け協会(日本ウオーキング協会の旧名)の『歩け』は、この詩が原点になっていると思うんです」と語る。「後に曲がついてレコード化されたが、4番まである詞には、軍隊的な言葉が一つも出てこない」
田口さんは中学の恩師が光太郎と交遊があった縁で、光太郎に傾倒。戦前の高村宅を訪れ、自分で書いた詩を見てもらったこともある。「先生は歩くのが好きで書斎にこもらずに、こまめに歩き回っていました。素朴な原始的な力強さを感じる、歩けでも師です」

田口さんは、日本スリーデーマーチが東松山市に会場が変わった第3回大会から第15回までの実行委員長。子どもたちの参加を働きかけ、第6回からは市内の全小中学生が3日間、日本全国や海外からのウオーカーと 歩くことを実現させた。
  (以下略)
 
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というわけなのです。
 
「歩くうた」は昭和15年に飯田信夫の作曲で「国民歌謡」として発表されました。ラジオでくり返し流れたり、徳山璉(たまき)の歌唱のレコードがヒットしたりで、当時の子供達はみんなでこれを歌いながら行進していたそうです。
 
「歩くうた」が発表されてから七十余年。戦闘機も爆撃機も飛んでいない空の下、歩くことを愛した光太郎の精神は今も息づいているのですね。
 
ちなみに当方、毎日がっつり歩いています。お供は愛犬・文吉(ぶんきち)。
 
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柴犬系雑種です。こいつと一緒に、朝と夕方、多い日で計10㎞以上歩く日もあります。おかげで自分も犬も、すこぶる健康です。
 
皆さんも、ぜひ、歩きましょう! 

昨日のブログに名前を挙げました「神保光太郎」。同じ「光太郎」ということで、「高村光太郎」と取り違えられる事がある詩人です。山形出身ですが、埼玉での生活が長かったそうです。
 
神保の方は明治38年(1905)生まれなので、明治16年(1883)生まれの光太郎より20歳ほど年下ですが、二人は交流がありました。『高村光太郎全集』をひもとくと、随所に名前が出てきます。そういう意味では9/4のブログに書いた「光太郎梁山泊」の一員ですね。
 
数年前、高村光太郎から神保光太郎あての(ややこしいですね)それまで知られていなかった葉書を入手しましたのでご紹介します。
 
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昭和17年(1942)12月のものです。
 
この間は無事な御様子を見て安心しました、今度は実に御苦労な事であつたとまつたく感謝します。大きな仕事をして来られたわけです。あなたの風貌に何となく幅が出来たことを感じました。風邪のやうでしたが、出来れば二三日でも入湯されればいいと思ひます。伊香保ならばよい家を御紹介しますが少々寒すぎるでせう。やはり伊豆がいいでせう。夫人にもよろしく。
「おいこら」で夫人を驚かせないやうに願ひます。いづれまた、
 
「実に御苦労な事」というのは、神保が約1年、報道班員として南方戦線に従軍したことを指します。
 
光太郎の筆跡、決して流麗な達筆というわけではありませんが、独特の味わいがあります。この筆跡を見るとほっとするような温かさというか……。
 
さて、情報提供のお願いです。平成18年(2006)の明治古典会七夕古書台入札会に、やはり高村光太郎から神保光太郎宛の書簡20通と原稿が出品されました。最低落札価格は30万円。とても手の出る代物ではなくあきらめましたが、ある意味、あきらめきれません。虫のいい話ですが、ともかく内容を知りたいと思っています。これの行方をご存じの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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追記 大妻女子大学さんでこちらを購入されたこが判明しました。ありがとうございました。

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