そこで本日は、群馬の地方紙『上毛新聞』さんの一面コラム、10月9日(水)掲載分です。
秋の味覚のシーズンとなり、旬の話題ですね。
光太郎が戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までまる7年間、独居自炊の生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋、「栗林の真ん中」というわけではありませんが、確かに周囲には栗の木がたくさん自生しています。そこで、貴重な食料源の一つでした。
しかし、奥羽国境山脈の麓ゆえ、クマったことに(笑)クマの生息地でもあります。光太郎が居た頃はあまり人里に降りてくることも多くなかったのですが、現代は却って昔よりひどい状況になっています。先般、現地に行った際も、山小屋裏手の智恵子展望台方面への散策路は立ち入り禁止にしてありました。隣接する高村光太郎記念館さんの看板などは、クマの爪とぎ痕で傷だらけです。

また、今年の4月でしたか、光太郎や宮沢賢治に愛された大沢温泉さんの駐車場にあるゴミ捨て場にクマが現れた映像がニュースで取り上げられていました。
ところでクマと言えば、X(旧ツイッター)上の書き込みなどに、「光太郎が素手でクマを倒したことがある」的な書き込みが散見されます。
![[]](https://livedoor.blogimg.jp/koyama287/imgs/f/c/fc919008.jpg)
上記画像最後の方が書いてらっしゃるように、ゲームか何かの二次創作でそういうエピソードがあったのかも知れませんが、真に受けないようにお願いいたします。
それにしても、クマにも罪はないわけで、「倒す」のではなく、何とか共存共栄を図りたいものですね。
【折々のことば・光太郎】
詩集を編さんしてもいいとの事、感謝します、批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます。
「詩集」は翌年刊行され、現在でも版を重ねている新潮文庫版『高村光太郎詩集』。ただ、昭和43年(1968)に改版となり、それまでの版に含まれていない昭和25年(1950)以後の詩も収められました。
次のようなやりとりがあったようです。
新潮社「高村先生のお若い頃から近作までを集めた詩集を文庫で出したいのですが」
光太郎「そりゃかまいませんが、自分で編んでいる暇がありません」
新潮社「では、どなたか信頼の置ける方に編集と解説をお願いするというのはどうでしょう」
光太郎「草野心平君が適任でしょうが、彼は他社でやってますからね。他の心当たりに頼もうと思うのですが」
新潮社「なるほど、では、高村先生の方で内諾を取っていただけますか?」
光太郎「お願いしてみましょう」
「批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます」。まさしく『論語』の「六十而耳順(六十にして耳したがう)」ですね。