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明後日、6月2日に放映されるテレビ番組の情報です。 

のんびりゆったり 路線バスの旅「早春の青森 十和田湖をめざして」

NHK総合1・東京 2013年6月2日(日) 17時30分~18時00分
 
太平洋に面した八戸から十和田湖を目指す。旅人は俳優の平岳大さん。市場の朝ごはん、競走馬の牧場訪問、ちびっ子相撲道場に入門など、ふるさとを愛する人々の笑顔に出会う
番組内容
舞台は青森県。太平洋に面した八戸から、秋田県と境を接する十和田湖を目指す。旅人は俳優・平岳大さん。八戸では港近くの市場で朝ごはん。市場のお母さんから元気をもらう。古くからの馬の産地、五戸町の牧場で馬とスキンシップ。新郷村の謎の踊り“ナニャドラヤ”も紹介。桜満開の十和田市では、ちびっ子相撲道場の子どもたちに出会う。十和田湖では、まだ雪が残る山々の絶景に感動。ふるさとを愛する人々の笑顔に出会う旅。

出演者 旅人 平岳大

この時期に「早春の十和田湖」というのがすごいですね。
 
十和田湖といえば、少し前に展覧会企画制作会社から電話がありました。今秋、十和田湖にある十和田ビジターセンターという施設で、光太郎作の裸婦像に関わる企画展を行いたいとのことで、協力要請でした。
 
十和田湖のシンボルともいえる、光太郎作の裸婦像(乙女の像)は、昭和28年(1953)の除幕。したがって今年で竣工60周年に当たります。それを記念して、ということですね。まだ具体的な話になっていないのですが、詳細が入り次第お伝えします。

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画像は昔のテレホンカードです。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月31日

昭和26年(1951)の今日、詩集『典型』で受賞した第二回読売文学賞の賞金10万円を受け取りました。
 
しかし光太郎、当時住んでいた花巻郊外太田村山口地区に、この賞金をそっくり寄付してしまっています。地区ではこの10万円で、橋を架けたり、青年会の旗を作ったり、小学校の儀式用の幕を作ったりしたそうです。

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隔月刊の美術雑誌『花美術館』の今月号。
 
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青森在住の彫刻家・田村進氏からいただきました。
 
巻頭特集は画像でご覧の通り、竹久夢二ですが、後半の「今日まで、そして明日への芸術」と題する現代作家を紹介するページに、田村氏も取り上げられています。
 
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氏の近作、「レリーフ習作・巨星高村光太郎」の画像、紹介も。
 
曰く「本作は、光太郎との強い縁(えにし)で結ばれた魂の軌跡が深く刻まれ、敬慕なる純正の輝きが奥深い世界から煌めきを放っている。」。
 
氏とは電話で何度かお話しさせていただきましたが、光太郎が十和田湖畔の裸婦像を作った頃、青森で会ったことがあるとのこと。光太郎が没してから生まれた当方にとっては、うらやましいかぎりです。
 
また、本号が通巻30号ということで、アーカイブ的なページもあり、一昨年の第18号の巻頭特集が「光太郎・智恵子」だったため、その際の監修をされた北川太一先生の短文も載っています。

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ちなみに「老彫刻家」とは長崎の「平和祈念像」などで有名な北村西望です。
 
この雑誌、巻頭特集には日本人美術家を一人ずつ(光太郎・智恵子は二人でセットでしたが)を取り上げています。荻原守衛、佐藤忠良、岸田劉生など、光太郎とも縁の深い作家も何度も取り上げてくれています。
 
ある意味、地味な雑誌ですが、作りはほぼ全ページカラーでぶ厚く、その意味では豪華です。こういう真面目な雑誌がしっかり続いていってほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】4月28日

昭和8年(1933)の今日、日本女子大学校刊行の『家庭週報』第1175号に散文「おわびとお礼と」が掲載されました。
 
この年除幕された同校創立者、成瀬仁蔵の胸像に関し、完成までに14年もかかった経過が述べられています。

昨日に引き続き、震災と光太郎関連を。
 
先週の『読売新聞』さんの青森版の記事です。

観光客「魅力あれば戻る」 風評被害 

 寒風吹きすさぶ2月下旬。県内有数の観光地・十和田湖畔休屋地区は静まりかえっていた。メーンストリートのホテルや土産物屋は多くがシャッターを下ろし、道の両脇には雪がうずたかく積もったまま。
 「お客さんはすぐ戻ってくれると思っていたが、2年たっても戻らない。どう手を打てばいいのか、出口が見えない」
 本県側の湖畔で唯一、冬季営業を続けるホテル「十和田荘」の中村秀行社長(57)の表情は険しい。
 バブル崩壊後の1990年代後半以降、減少傾向が続いていた湖への観光客。追い打ちをかけたのが、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故だった。十和田市などによると、震災前の2010年に比べ、客足は11年は6割程度、12年も7~8割程しか戻っていない。特に外国人観光客は一時ほぼゼロになり、風評被害の影響が顕著に表れた。観光客の関心は西日本に移り、今も東北地方全体で観光客が戻りにくい状況だ。
 観光関係者らでつくる十和田湖国立公園協会によると、震災後、湖畔の宿泊施設は8軒中4軒が閉鎖。売店の閉店が相次いだ。撤去費用がない施設は放置され、景観を壊すという悪循環に陥っている。
 「復活できるかどうか、正念場の3年目になる」。そんな危機感が官民に広がる中、再起に向けたアイデアが出始めている。
 十和田市は、名産「十和田湖ひめます」の販路拡大や宿泊クーポンの発行など、観光再生に向けた事業を来年度当初予算案に盛り込んだ。今年で設置60周年を迎えた湖畔の観光名所「乙女の像」の作者高村光太郎と妻・智恵子の愛をモチーフに「恋の名所」として湖をPRする案も浮上。市観光推進課の岡山新一課長は、「もはや風評被害で言い訳はできない。魅力があれば必ずお客さんは戻ってくる」と強調する。
 かつて十和田神社への参道沿いに栄えた門前町を再現する構想を温めるのは、十和田湖の冬祭り「十和田湖冬物語」を手がけるレストラン経営鈴木章悦さん(42)。十和田湖観光が衰退した要因について「企業努力が少なく観光客に飽きられてしまったのでは」と話す。これからは民間が自由にアイデアを出し、行政がフットワークよく支援することが重要だと指摘する。
 震災で顕在化した観光地としての足腰の弱さ。克服に向け、鈴木さんは意気込む。「昔はシャッターを開ければお客さんが来たが、もうそうはいかない。必ず『十和田湖は良くなった』と言わせたい」
2013年3月8日 読売新聞)
 
「魅力ある街づくり」。大切なことです。
 
当方の住む千葉県香取市も、ほんの10数年前まではさびれた街でしたが、江戸時代以来の古い街並みを生かし始めたところ、観光地として再生しました。首都圏に近いというのも大きいのですが、古民家や歴史遺産をうまく活用し、個性的な店が並ぶようになったのが大きいと思います。
 
相変わらずテレビ等のロケも多く行われており、NHK大河ドラマ「八重の桜」(会津藩本陣金戒光明寺のシーン)や、NTTドコモの堀北真希さん出演のCMなどは香取市で撮影されています。
 
しかし、やはり震災の爪痕は深く、半壊した古民家、液状化でガタガタになった道路などの改修もなかなか進みません。それでも一時激減した観光客の皆さんがかなり戻ってきました。ありがたいことです。
 
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十和田をはじめ、東北はやはり首都圏からのアクセスの問題もあるかと思います。それでも記事にあるとおり、「魅力があれば必ずお客さんは戻ってくる」と信じ、努力を続けてほしいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】3月12日

明治22年(1889)の今日、岡倉天心の勧めで、街の仏師だった光雲が東京美術学校に奉職することになりました。

昨日から、青森県の十和田湖で「十和田湖冬物語2013」というイベントが開かれています。
 
以下、社団法人十和田湖国立公園協会さまのサイトから。

十和田湖冬物語2013

 十和田湖冬物語特設会場で開催される北東北最大級の雪祭。
期間中は【津軽三味線ライブ】等のステージイベントの他、青森・秋田の地産品の数々が味わえる【ゆきあかり横丁】、【かまくらBar】、【酒かま蔵】【雪の大型すべり台】、【十和田湖畔温泉足湯】、赤ちゃん用の授乳スペース・キッズスペースが人気の【あったかこどもハウス】といった施設が目白押し!
夜には冬花火も上がり、冬の十和田湖畔を盛り上げます

ご家族で、カップルで、ご友人で、冬の十和田湖を存分にお楽しみ下さい!
スタッフ一同、お客様のお越しを心よりお待ちしています☆

※ イベントの内容が変更になる場合がございます。

開催期間:2013年2月1日(金)~24日(日)
開催時間:平日15:00~21:00 / 土日祝11:00~21:00
駐 車 場:約600台(無料)
開催場所:十和田湖畔休屋 (十和田湖冬物語特設会場)
住   所:〒018-5501 青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486

【雪のゲート】
雪と光のゲートがお客様をお出迎え致します。

【乙女の像ライトアップ】
冬物語期間中は雪灯籠(スノーランプ)が設置され、幻想的な雰囲気に湖畔を彩ります。

【冬花火】
お客様から最も人気のあるイベントの一つが冬花火♪
凛と静まりかえった夜空に咲く大輪の花火は必見です!


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昨年には原発事故の風評被害で観光客が減少し、遊覧船の会社が経営破綻というショッキングな報道がありました。逆風にめげず、がんばってほしいものです。
 
と、紹介しておきながら申し訳ないのですが、当方、今月はあちこち出かける機会が多く、こちらはパスするつもりです。もしかして、会期終わり頃に余裕があったら行って来るかも知れません。
 
【今日は何の日・光太郎】2月2日

昭和22年(1947)の今日、明治末の新詩社時代からの親友だった作家、水野葉舟が歿しました。

新着情報です。
 
まずはイベント系。二本松市で行われている「智恵子講座’12」。先日、詩人の木戸多美子さんが講師を務められた第4回に行って参りましたが、あまり間をおかず第5回が開催されますのでお知らせします。 

智恵子講座’12 第5回

期 日 : 2012年10月8日 (祝)
会 場 : 二本松市市民交流センター 福島県二本松市本町二丁目3番地1
時 間 : 午前10時~
料 金 : 1,000円
内 容 :
 「闘病別離期を中心に」 講師 小野浩氏(元いわき市立草野心平記念文学館学芸員)
 
全7回のうちの5回目で、希望する会だけの参加も可能とのことです(参加費1,000円)。申込先は智恵子のまち夢くらぶの熊谷さん。tel/fax0243-23-6743。1週間前ですから来月はじめまで申し込み受付中のようです。
 
今回は当方、別件の用事があり、欠席いたします。
 
 
続いてテレビ放映。CS放送です。十和田湖が扱われるようです。 

山崎まゆみの混浴秘湯めぐり Part2 #1

CS362 旅チャンネル

2012年9月26日(水) 25時00分~25時30分 (正確には9月27日(木)午前1時00分~1時30分)
再放送 9月29日(土)9:30 ~ 10:00  10月8日(月)26:00 ~ 26:30
 
「青森県・酸ヶ湯温泉」 温泉 混浴秘湯 伝統的な湯治場や野趣溢れる野天風呂の混浴温泉をご案内 広さ160畳のヒバ千人風呂 出演:山崎まゆみ(温泉エッセイスト)

番組内容

日本人がこよなく愛し、その文化を育んできた「温泉」。その原風景ともいえる「混浴」という習慣。この番組では、「だから混浴はやめられない」(新潮新書)等の著作で知られる、温泉エッセイスト山崎まゆみが、伝統的な湯治場や野趣溢れる野天風呂の混浴温泉をご案内。さらにその地に伝わる歴史や文化を体験し、温泉を介した人との出会いを楽しみます。 第1話「青森県・酸ヶ湯温泉」今回は300年の歴史を誇り、160畳もの広さを誇る混浴のヒバ千人風呂で有名な温泉、青森県の酸ヶ湯温泉を訪れます。酸ヶ湯温泉は海抜900メートルの高さにあり、雲上の霊泉とも称され、その豊富な温泉の湧出量や効能、さらには清純な環境が認められて国民温泉第1号として指定を受けたほどの名湯。そんな酸ヶ湯温泉の魅力を八甲田の自然や十和田湖の美しさを交え、たっぷりとご紹介いたします。


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無料放映の期間に当たっているようです。衛星放送受信用アンテナが必要ですが、観られる環境の方、ぜひどうぞ。

先日紹介しましたNHK総合テレビで放映の「歴史秘話ヒストリア」、昨日オンエアされました。
 
光雲が制作主任となって、上野に作られたおなじみの銅像が取り上げられましたが、光雲とか東京美術学校という話にはなりませんでした。少し残念でしたが、銅像の場合、「誰が作ったか」より「誰を作ったか」が重きをなすことが多いので、しかたがないでしょう。
 
ただ、顔の制作の際、「光雲が」という主語は抜けていましたが、弟の西郷従道の顔を参考にした、というエピソードは紹介されていました。
 
下の画像は、やはり古い絵葉書。銅像の完成後、西郷さんの故郷・鹿児島に据えられた原型の木型です。

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少し後の時代になると、銅像の類は粘土で原型を作る塑像が一般的になりますが、この時期(西郷像は明治25年=1892)、原型は木彫で作られていました。これが残っているのであれば、鹿児島まで見に行こうと思っていたのですが、残念ながら太平洋戦争中に空襲で焼失してしまったそうです。
 
光太郎の彫刻もそうですが、戦災で焼失したものは少なくありません。また、金属供出といって、武器制作のため、全国の銅像が次々と鋳つぶされました。渋谷のハチ公もしかり。現在のハチ公は2代目です。光雲や光太郎の作った銅像にも、供出されてしまったものがあり、原型も空襲で焼けてしまったため、今では写真でしか見られないものもあります。
 
そうかと思うと、昨日のニュース、今朝の新聞で報道されていましたが、なんと、十和田湖の湖底から旧日本軍の飛行機が引き上げられたとのこと。
 
何とも複雑な思いです。

昨日、十和田湖の遊覧船の会社が破産というニュースを紹介しました。
 
すると、青森の地方紙「デーリー東北」さんに以下のコラム(朝日新聞さんでいえば「天声人語」欄にあたる部分でしょう)が載りました。 

天鐘(2012/08/20掲載)

詩人で評論家の大町桂月が初めて青森県を訪れたのは1908(明治41)年8月下旬のこと。五戸町出身の鳥谷部春汀の誘いがきっかけ。14日間滞在し、地元の人々の案内で十和田湖などを探訪した▼湖上遊覧も楽しみ、神秘の湖の美しさに息をのむ。旅を終え、桂月は春汀が編集長を務める雑誌「太陽」に紀行文「奥羽一周忌記」を寄せた。それが十和田湖を世に知らしめ、後の国立公園の指定に道を開くことになる▼彫刻家で詩人の高村光太郎も湖上遊覧で十和田湖に魅せられた人物。52(昭和27)年、国立公園指定15周年を記念する像の制作を依頼され、詩人で小説家の佐藤春夫とともに現地を訪れた▼光太郎は湖上遊覧の後、「裸婦像でいいか」と周囲に漏らす。湖面に映る自らの姿をヒントに、向かい合う2人の女性像の構想を固めた。そして翌年完成したのが、十和田湖のシンボル、乙女の像だ▼エンジン付きの遊覧船が十和田湖に進水したのは、ちょうど100年前の8月。以来、修学旅行生や海外からの旅行客を乗せ、絶景を味わう役割を果たしてきた。しかし、近年は観光客の激減に見舞われている▼先日、遊覧船を運航する2社のうち1社が経営破綻し、民事再生法の適用を申請した。営業を続けながら再建を目指すという。特定の企業の問題にとどまらず、十和田湖が直面する課題が凝縮されているのではないか。時代に合った魅力ある観光はどうあるべきかが問われている。
 
「時代に合った魅力ある観光」、その通りですね。最近はわざわざ船に乗ろう、という人は少ないのではないでしょうか。当方も、子供が小さかった頃は各地の観光地でよく船に乗りましたが、一番最近船に乗ったのは? と訊かれると正確にいついつ、と答えられません。おそらく、数年前に千葉の富津から横須賀の久里浜までフェリーに乗ったのが最後と思われますが、何年前だったか、はっきりしません。十和田湖に行った時も(一人旅でしたが)「遊覧船? 高いからパス」という感覚でした。
 
交通機関としての船は、航空機や鉄道にスピードの点で勝負になりません。しかし、時間に余裕がある旅であれば、船を使うのも一興かと思います。こういうスピード時代だからこそ、かえってそれに逆行するのも面白いのではないでしょうか。最近、光太郎の船旅についていろいろ調べているもので、特にそう感じます。
 
以下、昭和6年に書かれた光太郎の「三陸廻り」の一節です。
 
私は今でも船のある処は時間の許す限り船に乗る。船と海との魅力は遼遠な時空の故郷にあこがれる私の生物的本能かも知れない。曾て海からはひ上つて来た私の祖先の血のささやきかも知れない。船の魅力は又闇をわけて進む夜の航海に極まる。其は魂をゆする。
 
今度十和田湖に行く機会があったら、船に乗ってみようと思っています。
 
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昭和三十年代と思われる絵葉書のセットの袋に印刷されていた十和田湖周辺地図です。
 

つい3日前のブログに芹洋子さんのCDがらみで十和田湖のことを書いたばかりですが、十和田湖に関して残念なニュースが入っています。 

十和田湖観光汽船が倒産 「原発事故の風評被害が深刻」

 青森・秋田両県にまたがる十和田湖で遊覧船を運航する十和田湖観光汽船(本社・青森市)が17日、民事再生手続きの開始を青森地裁に申請し、倒産した。同社は「原発事故の風評被害で修学旅行生らが来なくなった。乗客数は事故前の7割までしか戻らず、収益回復が見込めない」と説明している。
 同社によると、震災後、外国人旅行者と修学旅行生が激減。乗客は2010年度の約10万人から11年度に約6万5千人に減り、12年度も回復していない。
 負債総額は約5億7千万円。今後も遊覧船事業を続けながら、従業員42人も解雇せずに再建を目指すとしている。青森県や金融機関に十和田湖の観光振興策などの支援を求めている。
 同社は3月、原発事故の風評被害だとして昨年4月~今年2月の減収分の全額4200万円の賠償を東京電力に求めたが、5月に昨年3~5月の外国人旅行客の減少分として75万円が払われただけだったという。
朝日新聞デジタル  2012年8月17日19時16分
 
まったくこんなところにも震災や原発事故の影響か、と、正直なさけなくなります。
 
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画像はひと昔前のテレホンカードです。光太郎作の乙女の像と遊覧船が写っています。
 
当該の会社は遊覧船の運航は続けるそうですし、十和田湖では二社が遊覧船を運航していたということですので、残る一社にも頑張ってほしいものです。しかし、頑張るといっても人が来ないことにはどうしようもありません。
 
当方、4月来、4回東北に行きました。まだまだ震災や原発事故の爪痕が残っています。その現状を風化させず、日本全体の問題として捉えるためにも、ぜひ東北を訪れてほしいと思います。現地の様子を見るだけで、一つの復興支援になると思います。

閲覧数が3,000を超えました。ありがとうございます。

最近入手したCDをもう一枚紹介します。

芹洋子「出会いを求めて -十和田湖へ-」

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平成8年(1996)のリリースです。懐かしい8㌢CDですね。歌は「四季の歌」の芹洋子さん。
 
一番の歌詞に「愛する人との 出逢いを求めて/ああ 十和田湖の 湖畔の乙女に/ああ その人に 逢える日祈りたい」というフレーズがあります。
 
ジャケットに「十和田国立公園60周年」の文字も。例の光太郎作の裸婦像が国立公園指定15周年記念行事の一環でした。
 
裸婦像、今も十和田湖のシンボルとして愛されているようです。昨年にはテレビ東京さん系「美の巨人たち」で扱われました。

女川、花巻、二本松などのように、十和田でも光太郎がらみのイベントなどが定期的に開かれるといいと思います。

昨日拝聴して参りました、日本大学芸術学部髙橋幸次教授のご講演からのインスパイアで、光太郎彫刻の空間認識といったことについて述べてみたいと思います。
 
まず有名な十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)について。これは昭和28年(1953)の作。光太郎はこの像を造るため、7年間の山居を切り上げて上京しました。智恵子の顔をもつ、といわれています。
 
この像の除幕式で述べた「裸婦像完成記念会挨拶」(『全集』第11巻)には、こんな一節があります。
 
造形的には群像になりますから、像ばかりでなくて、像と像の間に出来るいろいろな空間が面白い。それで、それを考慮して、いろいろなシンメトリカルな穴が出来るわけです。それが面白いわけです。
 
また、『東奥日報』に載った「高村氏制作の苦心語る"見て貰えば判ります"像の意味は言わぬが花」という談話(「遺珠」③)では、以下の通りです。
 
あの像は全体がこういう(手で形を示して)ピラミツド型になつていて上へ行つて交叉している気持なんです。それを中途で切つた辺が頭になつていて、二人の中間のあたりが、ちょうど将棋の駒みたいなかつこうを形づくつている。彫刻は空間を見るんですネ。像が一人のときは真中が主になるが、二人以上の群像になると、二人の間にできるスキ間に面白味があるんですよ。

図にしてにると、下の画像のようになるでしょうか。写真は『高村光太郎彫刻全作品』(穴沢一夫他編 六耀社 昭和54年=1979)からスキャンさせていただきました。
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この隙間というか、余白に注目するという考え方は、書道でもよく行われます。光太郎が特に晩年、書の制作に意欲を燃やしたのも、あながち無縁ではないでしょう。

続いて平成14年(2002)、実に70余年ぶりに見つかった栄螺(さざえ)の木彫です。

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これについても、少し長いのですが、光太郎自身の言葉を引用してみましょう。出典は昭和20年(1945)の「回想録」(『全集』第10巻)です。
 
 実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損つて、何遍やつても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやつてゐるが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵へ拵へする最後の時に、色々考へて本物を見てゐると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあつて、それが軸になつてゐて、持つて廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になつて、針が一つ宛殖えて行くといふことが解つた。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思つて、其処をさういふ風に考へながら拵へたら、丸でこれまでのと違つて確りして動きのない拠り所が出来た。それで私は、初めてかういふものも人間の身体と同じで動勢(ムウヴマン)を持つといふことが解つた。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂れが解らなかつたが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないといふことを悟つた。
 それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違はずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考へ、その理法の推測のもとに物を見て、それに合へばいいし、さうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやつたものは、本当の謂れが分らないから彫つたものが弱い。展覧会などにも、さういふ弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違はないけれども、その形の拠り所分つてゐないから肝心のところで逃げてゐて人形のやうになつて了ふ。人形と彫刻とは丸で格段の違ひである。その違ふ製作的根拠をはつきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
 
こういう光太郎の空間認識を意識して、光太郎の彫刻を見ると、また違った見え方になります。画像ソフトでいたずらしてみました。参考にしてみて下さい。写真は平成2年(1990)に茨城県近代美術館他で行われた企画展「高村光太郎・智恵子-その造形世界」の図録からスキャンさせていただきました。
 
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ただし、「白文鳥」の木彫は2体をどういう向きに並べるべきなのかはよくわかりません。
 
結局、光雲たち草創期の近代彫刻家には、こういう意識が欠如、あるいはあっても不十分だったということではないのでしょうか。専門の方の御意見を伺いたいものです。
 
今日の内容が、みなさんがどこかで光太郎彫刻を目にする時の一助となれば幸いです。

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