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テレビ放映情報です。

スタジオパークからこんにちは クローズアップあおもり「十和田湖をみつめて」

NHK総合 2017年2月15日(水)  14時05分~14時54分

国立公園に指定されて今年で80年を迎えた十和田湖。NHKがこの1年撮影してきた四季折々の雄大な風景と湖畔の人々の営みを美しい映像とともにたっぷりとお送りします。

鮮やかな新緑、澄み渡る空の青、燃えるような紅葉、真っ白な雪景色…。山々の色彩を鏡のように映し出す十和田湖には、四季折々の魅力が詰まっています。十和田湖から流れ出る奥入瀬渓流の美しさも、人々の心を引きつけてやみません。一方、湖畔を開拓して暮らしてきた地元の人たちは、厳しい自然の中でさまざまな努力や工夫を重ね、山と湖の恵みをうけて生活を営んできました。湖が育む豊かな動植物と人々の暮らしを見つめます。

出演 比嘉愛未    キャスター 亀谷渉子    司会 榊原郁恵 伊藤雄彦

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この番組は第1部と第2部に分かれ、第2部では各地のNHK支局がその地域向けに放送した地域情報番組を全国放送しています。

そこで、青森放送局制作の「クローズアップあおもり「十和田湖をみつめて」」が放映されます。青森では昨年4月にオンエアがありました。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されている「十和田湖冬物語」が先週開幕した十和田湖が扱われます。乙女の像が少しでも映ってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】001

わが家(や)の屋根は高くそらを切り その下に窓が七つ 小さな出窓は朝日をうけて まつ赤にひかつて夏の霧を浴びてゐる

詩「わが家」より
大正5年(1916) 光太郎34歳

智恵子との結婚披露、及び詩集『道程』の上梓から、ほぼ2年ぶりに発表された詩です。

智恵子との愛の巣であった駒込林町のアトリエ兼住居を高らかに歌い上げています。

しかし、およそ20年後には同じアトリエが「ばけもの屋敷」と表現されることになります。

十和田湖ネタが続いていますので、もう1件。特産のヒメマス関連で、先週土曜、地元紙『東奥日報』さんに載った記事です。

「十和田湖ひめます」認証店ロゴ決まる

 十和田湖国立公園協会(中村秀行理事長)は3日、「十和田湖ひめます」のロゴマークを発表した。十和田湖ひめますブランド推進協議会が昨年10月に認定した、良質なヒメマス料理を提供する青森県十和田市と秋田県小坂町の「十和田湖ひめます認証店」41店舗に、ステッカーやのぼりとして掲示される。
 ロゴマーク制作は、同協会が同協議会から委託を受けて実施。認証店の投票により決定した。ロゴは、十和田湖を表現した円の中に2匹のヒメマスが元気に跳びはねる様子を表現。それぞれ十和田湖に接する十和田市と小坂町を意味し、乙女の像をも表している。水の波紋は遊覧船をイメージした。十和田市出身の高橋一典さんがデザインした。
 同日、十和田湖畔休屋の十和田湖冬物語の会場で、中村理事長が認証店を代表して木村満さんにステッカーとのぼりを贈呈した。
 「十和田湖ひめます」は2015年1月に地域団体商標に登録され、同協議会などがブランド確立への取り組みを進めている。


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なるほど、向かい合って三角形を構成するフォルムが光太郎最後の大作・乙女の像からのインスパイアというわけですね。

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ヒメマスは、当方が十和田での定宿としている十和田湖山荘さんで食膳に出して下さいます。クセのないさっぱりした味わいです。

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乙女の像の歴史についての展示がある、湖畔の観光交流センター「ぷらっと」さんでは、水槽で展示。

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乙女の像ともども、愛され続けてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

彼は万物と共に踊り 彼は万物を見 また万物を所有する 彼は絶えず悩み、絶えずのり越す ――偉大の生れる時だ

詩「万物と共に踊る」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

「万物」の中には、最愛の智恵子も含まれるのでしょう。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ青森県十和田湖の冬を彩る「十和田湖冬物語2017」が開幕しました。

地方紙『デーリー東北』さんの記事。

十和田湖冬物語が開幕

007 雪と光が幻想的な世界を演出する「十和田湖冬物語2017」が3日、十和田市の湖畔休屋特設会場で開幕した。イルミネーションに彩られた銀世界で、大輪の花火が夜空を染め上げ、来場者は寒さを忘れ見入っていた。26日まで。
 会場では、陸上自衛隊八戸駐屯地が制作した高さ8メートル、幅23・4メートルの巨大雪像「十和田湖伝説」が来場者をお出迎え。オープニングセレモニーでは、関係者が雪像に点灯して開幕を祝福した。
 来場者は「ゆきあかり横丁」で青森、秋田両県の郷土料理を味わったり、かまくらバーで地酒やカクテルを楽しんだりと、思い思いに祭り気分に浸っていた。
 期間中は毎日午後8時から花火が打ち上げられる。湖畔を象徴する乙女の像もライトアップされる。


ざっと検索した範囲では、乙女の像について触れて下さっていたのはこれだけでしたが、とりあえず他の報道もご紹介しておきます。

『東奥日報』さん。

「十和田湖冬物語」が開幕

008 真冬の十和田湖を幻想的な光で包む「十和田湖冬物語」が3日、十和田湖畔休屋地区の特設会場で開幕した。雪と光で彩られた会場を冬花火220発が鮮やかに染めた。
 イベントステージの背景となる大型雪像の今年のテーマは「十和田湖伝説」。南祖坊と竜の八之太郎が向かい合う構図となっている。約16万個の発光ダイオード(LED)電球を使ったイルミネーションが会場を彩る。
 オープニングセレモニーでは、実行委員会の中村秀行委員長が「喜びや楽しみを提供するので、喜んで帰ってもらいたい」とあいさつ。小山田久市長らと雪像に点灯した。午後8時、色とりどりの花火が次々に打ち上げられると、冷えた冬の夜空に光の輪が次々と現れ、会場を照らした。
 冬物語は26日まで。期間中は、毎日午後8時から花火を打ち上げる。
 青森県と秋田県の郷土料理を味わえるゆきあかり横丁や、かまくらBarなども設置されている。


『読売新聞』さん青森版。

雪と光の十和田湖 冬物語始まる

 雪に包まれた十和田湖を光で彩る「十和田湖冬物語」が3日夜、湖畔の十和田市休屋地区で始まった。青やピンクなど約16万個のLED(発光ダイオード)電球の光が幻想的な雰囲気を醸し出している。
 メイン雪像(高さ8メートル、幅18メートル、奥行き7メートル)は、八郎太郎と南祖坊の戦いを描いた「十和田湖伝説」がテーマで、陸上自衛隊八戸駐屯地の隊員らが制作した。
 期間中は毎日、津軽三味線のライブや花火約200発の打ち上げが行われる。雪の滑り台や、十和田バラ焼きなどの料理が味わえる露店街「ゆきあかり横丁」もある。会場周辺に宿泊する客向けに東北新幹線の七戸十和田駅と結ぶシャトルバス(有料)も運行される。
 26日までで、問い合わせは十和田湖国立公園協会(0176・75・2425)へ。
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NHK青森放送局さん。

「十和田湖冬物語」開幕

十和田湖の冬の催し「十和田湖冬物語」が3日夜、開幕し、多くの観光客が打ち上げ花火やイルミネーションで彩られた幻想的な雪景色を楽しみました。
この催しは、観光客が少なくなる冬のシーズンに十和田湖を訪れてもらおうと、十和田湖畔の休屋地区で毎年、開かれています。
3日夜は開会式が開かれ、自衛隊が製作した十和田湖周辺に伝わる竜と僧侶が戦った伝説がモチーフの、高さおよそ8メートル、幅23メートルほどの巨大な雪像をライトアップして開幕を祝いました。
会場には、巨大なかまくらの中でお酒を楽しむバーもあり、寒さを我慢しながら氷で作ったグラスでカクテルを楽しむ人の姿が見られました。
催しの期間は花火が打ち上げられ、観光客たちは打ち上げ花火とイルミネーションで彩られた幻想的な雪景色を楽しんでいました。
八戸市から来たという30代の女性は「花火は夏とちがった感じでとてもきれいでした。また来たいです」と話していました。
十和田湖の冬の催し「十和田湖冬物語」は2月26日まで開かれています。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

汝等は愛に燃え、情慾に燃え 絶大の自然と共に猛進せよ 滅却は罪悪なり、恥辱なり ただ増大せよ、真に瞬刻のいのちを惜しめよ

詩「婚姻の栄誦」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

上記の十和田湖冬物語開幕を報じるNHKさんのニュース動画、カップルの姿が目立ちました。

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光太郎のこの言葉を贈りたいと思います。

昨年暮れにATV青森テレビさんで製作された特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」を録画したDVDが、同局から送られてきまして、早速拝見しました。

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実質25分の番組で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」建立の背景を紹介するもの。当方も製作に協力させていただきました。

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進行役は同局アナウンサーだった川口浩一氏。この番組を最後に退社されたそうです。十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが、一昨年刊行された書籍『十和田湖 乙女の像のものがたり』にもご執筆なさっています。

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ナレーションは佐藤香アナウンサー。

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ブログにこの番組についての御記述もなさっています。

「乙女の像」は、元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念として、彼の地を広く紹介した明治の文豪で、光太郎とも面識のあった大町桂月、インフラ整備に功績のあった明治末から大正初めの青森県知事・武田千代三郎、当時の法奥沢村長・小笠原耕一の三氏を顕彰するモニュメントとして計画されました。

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計画時の知事は、太宰治の実兄・津島文治。

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太宰つながりで佐藤春夫が光太郎との仲介にあたりました。

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こうした経緯がわかりやすく説明されていました。

そして、光太郎。花巻や東京ロケの映像、古写真、ブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」からの動画、乙女の像除幕式の16㍉フィルムなどをふんだんに使い、光太郎の姿が浮き彫りにされていきました。

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智恵子にも触れて下さいました。

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関係者の証言も豊富。大町桂月の令孫・芳章氏、当会顧問の北川太一先生、花巻時代の光太郎を知る高橋愛子さん、像の制作場所だった中野アトリエの現所有者・中西利一郎氏など。

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当方も15秒ほど出演、締めのコメント。

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乙女の像は、光太郎が生涯を掛けて追い求めた美とか愛とかの象徴、そうすると、智恵子の顔を持たざるを得ない、的な。おいしいところを担当させていただきました(笑)。

番組自体の締めは、光太郎詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和29年=1954)。

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青森だけでの放映では残念でしたが、4月4日(火)の午後11時から、系列のCS放送・TBSニュースバードさんでオンエアされるそうです。また近くなりましたらご紹介します。

十和田湖では昨日から「十和田湖冬物語」が始まり、乙女の像のライトアップが為されています。足をお運びの上、像に込められたさまざまな人々の思いを偲んでいただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

一人にめざめよ 一人の力を尊び 一人の意味をしのべ

詩「群衆に」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

社会に対し、孤高の姿勢を貫こうとしていた若き日の光太郎の気概が見て取れます。「孤高」が「孤立」になっては困りますが……。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が建つ青森県十和田市の広報紙『広報とわだ』の今月号。「乙女の像」がらみで2件の記事が載りました。

1/5 ふるさとを育む教材・観光PRに有効活用 乙女の像ものがたりDVD完成

劇団エムズパーティーの仲島みちる代表らが、小山田市長に「乙女の像ものがたりDVD」の完成を報告しました。これは、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会(小笠原哲男会長)が発行した「十和田湖乙女の像のものがたり」に掲載されている小山弘明さん原作の「乙女の像のものがたり」を脚本化し、劇団をはじめ企画に賛同する市民23 人が集まって収録したものです。このDVDは、学校や観光
バス会社、施設などへ無償配布されます。

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先月初めに地元紙『東奥日報』さんで報じて下さった件です。DVD、こちらにはまだ届きませんが、そのうち送られてくると思いますので、その際にはまたご紹介いたします。

試写会が先月末に行われたということで、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイトで紹介されています。


続いて、裏表紙に今日開幕する「十和田湖冬物語」。こちらは記事というより広告という感じですが。

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「乙女の像」のライトアップを大きなスペースにして下さっています。昨年の写真でしょう。

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手前は固めた雪で作った灯籠。幻想的ですね。

盛況となることを祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

われらは雪にあたたかく埋もれ 天然の素中にとろけて 果てしのない地上の愛をむさぼり はるかにわれらの生(いのち)を讃めたたへる
 
詩「愛の嘆美」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

詩「愛の嘆美」は、ほぼ全体が性愛を謳った詩です。この詩が収められた昭和16年(1941)刊行の詩集『智恵子抄』は、終戦までに13刷も版を重ねました。あの時代によくぞ厳しい検閲をかいくぐったものだと思います。

ただ、かなり際どい表現も含まれますが、不思議と淫らな感じはなく、健康的です。そのあたりが発禁を免れた理由だとは思いますが。

毎年ご紹介しています、青森十和田湖畔のイベントの情報です。

~光と雪のページェント~ 十和田湖冬物語2017

冬の澄んだ夜空に打ちあがる花火をはじめ、乙女の像ライトアップ、ゆきあかり横丁、人気のグリューワイン、幻想的なイルミネーション…
この他、様々なイベントをご用意しております。
ご家族、ご友人、恋人と…十和田湖の冬をお楽しみください♪

開催期間 : 平成29年2月3日(金)~2月26日(日)
時  間 : 平日:15:00~21:00  土日祝日:11:00~21:00
会  場 : 十和田湖畔休屋特設イベント会場 
        青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486番地

イベント内容

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このほか、かんじきふっとパス、バナナボート、雪のすべり台、ホーストレッキングなど、たくさんの体験があります!!


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一度、お邪魔いたしましたが、雪景色の中に浮かぶ光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップ、非常に幻想的な光景です。

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期間中、土日にはJRバスさん、弘南バス・第一観光バスさんで、それぞれ八戸、弘前とのシャトルバスを運行しています。

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ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

人間の心の影の あらゆる隅隅(くまぐま)を尊重しよう 卑屈も、獰悪(だうあく)も、惨憺も 勇気も、温良も、湧躍(ゆうやく)も それが自然であるかぎり
詩「カフエにて」 大正2年(1913) 光太郎31歳

プラスの感情、マイナスの感情、善なる部分、悪なる部分、いろいろあるのが人間ですね。

青森の地方紙『東奥日報』さんに、以下の記事が出ました。

乙女の像、DVDで紹介/十和田の劇団制作

 青森県十和田市の劇団「エムズ・パーティー」が、高村光太郎の人生と十和田湖畔に立つ乙女の像に込められた思いを描いた「乙女の像ものがたり」のDVDを制作し5日、同市の小山田久市長に報告した。
  DVDは、乙女の像建立60周年を記念して十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会(小笠原哲男会長)が2013年に発行した「十和田湖 乙女の像のものがたり」の巻頭に掲載されている小山弘明氏原作の「乙女の像ものがたり」を脚本化。制作風景や除幕式の動画も加え、当時の様子がより分かる内容となった。
  昨年8月、劇団員や市民有志ら23人が録音に参加、編集作業を重ねたという。市内の中学、高校や観光関係機関への配布分として30部が作られた。
  市役所を訪れた同劇団代表の仲島みちるさん、DVD脚本・演出の南ゆき子さん、編集を担当した米内山和正さん(38)は「外国人にも見ていただけるよう検討を進めている」などと小山田市長に語った。
  同劇団は28日午前10時15分から、完成披露試写会を同市市民交流プラザ「トワーレ」で開く。入場無料。問い合わせは仲島代表(電話090-7066-2873)へ。

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同じ件が、十和田市さんのブログにも。

「乙女の像ものがたり」DVD完成報告

 1月5日、劇団エムズパーティーの仲島みちる代表らが市役所を訪れ、小山田市長に「乙女の像ものがたり」のDVDが完成したことを報告しました。
 これは、2013年、乙女の像建立60周年を記念して十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会(小笠原哲男会長)が発行した「十和田湖 乙女の像のものがたり」の巻頭に掲載されている小山弘明さん原作の「乙女の像のものがたり」を脚本化し、DVDに収録したものです。
 仲島代表は、「劇団をはじめ企画に賛同する市民が集まって、1人1役23人のキャストで収録しました。高村光太郎の人生と乙女の像に込められた思いが描かれたこの作品を、ふるさとを愛する心を育む教材として、また、観光バスで上映するなど観光客のために有効に活用してほしい」と話し、映像を小山田市長に見せました。
 小山田市長は「市民も知っているようで知らないことがたくさんあると思うし、市外の方もこのDVDを見たら、乙女の像の見方が変わってくると思います。とても良いものを作ってくれました」と感謝の言葉を述べました。
 このDVDは、学校や観光バス会社、施設などへ無償配布され、完成披露試写会も開催されます。

「乙女の像ものがたり」DVD完成披露試写会
とき 1月28日㈯ 午前10時15分~11時30分 
ところ 市民交流プラザ「トワーレ」

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なぜか「YouTube」にもこの模様がアップされていました。



もともとは、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんが、一昨年刊行された書籍『十和田湖 乙女の像のものがたり』。光太郎の令甥、故・高村規氏や、当会顧問・北川太一先生、乙女の像設置工事の際の技師だった小山義孝氏などへのインタビューなどから成り、当方も執筆させていただきました。その他、全体の校閲も行って、「監修」ということにしていただいています。

当方の主な執筆部分は「乙女の像」制作の背景をまとめた「「乙女の像」概説」、それからそれとは別に「子供にもわかるものを」という注文があり、光太郎を主人公とし、史実を元にしたジュブナイルフィクション「乙女の像のものがたり」も書きました。

昨年には、その「乙女の像のものがたり」を換骨奪胎し、十和田市の劇団エムズ・パーティーさんが朗読劇にされて公演、さらに「平成28年度 元気な十和田市づくり市民活動支援事業」ということで、市からの助成を受けてDVDを制作なさいました。そういうわけで上記記事に当方の名が出ています。

昨秋にはパイロット版が送られてきて拝見。なかなかよくできていました。その際に気になる点は申し述べておきましたので、完成版はさらにクオリティーの高いものになっていることと察します。いずれ送られてくると思いますので、その際にはまたご紹介いたします。

それから、上記記事にあるとおり、今月末には完成披露試写会だそうで、しばらくこのブログのネタをいろいろご提供いただけそうです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

たとひ離れて目には見ずとも おもつて居ればうれしいと 女はこんなへまをいふ
詩「泥七宝(四)」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

改元されて大正元年となった8月の『スバル』に発表されました。前年暮れに智恵子と運命的な出会いを果たした光太郎。この小曲の背後にも、智恵子の影が見え隠れするように思われます。

こんなセリフをかっこよく言ってみたいものですが(笑)。

年が改まりまして、自宅兼事務所に貼ってあったカレンダーを、今年のものに一新しました。ありがたいことに、いろいろな事業所さん等が無料で下さるカレンダーで、家じゅうの主要な場所はまかなえています。

このブログを書いているパソコン脇の壁には、『朝日新聞』の販売店さんから戴いた実用一点張りのカレンダー。予定等を書き込むのに最適です。

書斎には妻が購入している化粧品店さんからのカレンダー。明治41年(1908)から翌年にかけ、光太郎が留学で滞在していたモンパルナスに近い、パリ7区で活動されているフラワーデザイナー、エリック・ショヴァン氏のフラワーアレンジメント作品をあしらっています。

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バックには光太郎も愛したパリの風景が。いい感じです。

自動車保険の会社さんが持ってきて下さったカレンダーは、日本各地の風景。十和田湖に近い蔦沼の写真も使われていました。

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ちなみにこの手の大きな紙を広げていると、必ず邪魔しに来るやつがいます(笑)。

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さて、十和田といえば、十和田市の民生部まちづくり支援課さんからカレンダーが送られてきました。このところ毎年戴いているのですが、十和田市ご出身の写真家・和田光弘氏が撮影された、十和田の四季折々の写真を使った「十和田市観光カレンダー 季色彩々」です。

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2ヶ月で1枚になっていますが、いきなり1・2月のページに光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。

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表紙にも同じ写真が使われていました。

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手前に写っている雪灯籠からして、毎年2月に開催されているイベント「十和田湖冬物語」の際のものと思われます。「乙女の像」のライトアップも為されているようです。幻想的なショットですね。こちらはもったいなくて使えません。このまま保存しようと思っております。

今年の「十和田湖冬物語」につきましては、また近くなりましたら詳細をお伝えいたします。


ところで、トイレに貼ったカレンダーには、こんなことが書いてありました。

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平成29年は「昭和92年」「大正106年」だそうです。ちなみに明治に換算すると、ちょうど明治150年ですね。全国にはまだまだ明治生まれの方もご存命と思われますが、いつまでもお元気でいてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

ああ、走るべき道を教へよ 為すべき事を知らしめよ 氷河の底は火の如くに痛し 痛し、痛し
詩「寂寥」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

欧米留学からの帰朝後、父・光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界との対立を余儀なくされ、悶々とする日々を送っていた頃の作です。「パンの会」などのデカダンスにはまりながらも、そうした自分を醒めた目で見ているもう一人の自分がいて、これではいけない、と常に警告を発していました。

このあたりが後の無頼派との大きな相違ですね。

来週、ATV青森テレビさんで、下記の番組が放映されます。

「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~

ATV青森テレビ 2016年12月29日(木) 16時55005分~17時25分

「乙女の像」の制作はなぜ、高村光太郎に依頼されたのか、実写映像など貴重な資料をもとに辿ります。

 十和田湖が1936年(昭和11年)2月1日に国立公園に指定されてから、今年で80年を迎えました。
 十和田湖休屋の畔にたたずむ「乙女の像」は、国立公園指定に向けてさまざまな取り組みをした3人の功労者を顕彰すると共に、国立公園指定15周年を記念して昭和28年に建てられたものです。製作は彫刻家で詩人としても名を馳せていた高村光太郎に依頼されました。
 番組では「乙女の像」の制作がなぜ高村光太郎に依頼されたのか、当時を知る関係者の証言を中心に描きながら、高村光太郎が鉛筆で走り書きした最初の「乙女の像」の構想スケッチや制作中の実写映像など貴重な資料を織り交ぜながら構成していきます。

出演 ◆小山田久・十和田市長 ◆奈良秀則・青森県観光コンベンション協会会長 ◆高村規(高村光太郎の甥・故人) ◆北川太一(文芸評論家・高村光太郎研究の第一人者)◆小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)


同局から協力要請があり、先月30日と今月1日、都内での取材・撮影に同行いたしました。文京区の光太郎アトリエ跡、実家、当会顧問・北川太一先生のお宅でインタビュー、さらに中野区の光太郎終焉のアトリエ。その際に当方へのインタビューも撮影されましたので、尺の都合でカットされていなければ、映るでしょう。

光太郎の令甥である故・高村規氏の部分は、平成25年(2013)に、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の皆さんが、『十和田湖乙女の像のものがたり』を刊行するためにお話をお聞きした(その折も同行させていただきました)際の映像が転用されるようです。

追記・残念ながらその部分はカットでした。

青森限定での放映というのが残念ですが、青森にお知り合いのいらっしゃる方、録画をお願いしてみてはいかがでしょうか。

こちらにはDVDが届くことになっております。拝見するのが楽しみです。届きましたらまたレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

火はあかし雪は白しのことわりにかしこや諸手(もろで)胸にくむ世ぞ

明治34年(1901) 光太郎19歳

「かしこ」は「畏」の字を宛て、「畏れ多い」といった畏怖の気持ちを表します。神社の祝詞で使われる「畏み申さく」なども同源です。

ここでは火を赤く、雪を白く創り上げた大いなる自然の力への畏怖、といった意味でしょうか。

火といえば、新潟糸魚川の火災、大変な状況です。亡くなった方はいらっしゃらないようで、不幸中の幸いと存じますが、焼け出された方々、さぞや大変だろうと胸が痛みます。謹んで御見舞い申し上げます。

改めて、火の取り扱いには畏れをもって接したいと思いました。

青森県の地方紙、『東奥日報』さんの一面コラム、一昨日掲載の分です。 

天地人 2016年11月1日(火)

 散り落ちた木の葉が道端に点在していた。大きな木のそばでは、葉の吹きだまりも見える。頬に触れる風が冷たい。拙宅のある青森市郊外の団地は晩秋を通り越し、はや初冬の気配である。季節の移ろいの早さを、あらためて実感する。
 きょうから11月。7日は「立冬」である。俳句では「冬立つ」とも言い、何だか寒さへの覚悟を求める響きがある。
 彫刻家で詩人の高村光太郎は詩集「道程」の一編に<きっぱりと冬が来た>と書いた。高村にとって、冬は格別の季節だったようだ。別の一編にはこうある。<冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る><魂をとどろかして、あの強い、鋭い、力の権化の冬が来る>。
 冬は<魂をとどろかして>やって来る<力の権化>だという。高村が吐いた言葉をまともに受け取ると、気が重くなる。雪国に暮らす以上、過酷な冬はどうしたって避けて通れない。ならば、どうする。食に楽しみを見いだす手もある。ホカホカの鍋料理なら、ポカポカと体が温まり、気分も癒やされる。
 手ごろな一番手はやはり湯豆腐か。土鍋の底に板昆布を敷き、賽(さい)の目に切った豆腐を入れる。ネギのほか、好きな具材があれば魚でも何でも入れられる。<湯豆腐が煮ゆ角々が揺れ動き>山口誓子。豆腐は安価な上にタンパク質が多い。冬にはもってこいの健康鍋だ。


東北も北の方では、既に雪の便りが届いています。北国や雪国では、長く厳しい冬の始まりなのですね。比較的温暖な房総に暮らす身には、申し訳ないような気がします。べつに罪を犯しているわけではありませんが(笑)。

ただ、青森の、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、十和田湖周辺、まだ紅葉が楽しめるようです。

テレビ放映情報です。

L4YOU! 『絶景!秋の青森~奥入瀬渓流の紅葉~』

テレビ東京 2016年11月9日(水)  15時55分~16時54分 

紅葉の見頃を迎えた日本屈指の景勝地、奥入瀬渓流を散策!秋に彩られた渓流と十和田湖、さらにライトアップされた弘前城へも足を伸ばします。今しか見られない絶景をご紹介

出演者
【司会】 草野満代、板垣龍佑(テレビ東京アナウンサー)
【ゲスト】  細川直美、中島史恵


「乙女の像」が少しでも写るといいのですが……。

テレビ東京さんですと、全国的には系列局が少なく、視聴可能な地域が限定されますが、ご覧になれる方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

腹へりて死ぬこともあらん銭といふわりなきものをいやしむるゆゑ
大正13年(1924) 光太郎42歳

少し遅れて昭和6年(1931)に書かれた詩に、以下のものがあります。


   美の監禁に手渡す者
アトリエの光太郎智恵子
納税告知書の赤い手触りが袂にある、
やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。
売る事の理不尽、購ひ得るものは所有し得る者、
所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。
両立しない造形の秘技と貨弊の強引、
両立しない創造の喜と不耕貪食の苦(にが)さ。
がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片(こつぱ)、
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。


光太郎、大正末から昭和初めは彫刻制作で脂ののった時期でしたが、そこに大きな矛盾を感じていました。光太郎の彫刻を買ったり、肖像制作を依頼したりする余裕のある者の多くは、光太郎の嫌いな俗世間での成功者で、真に芸術を理解しているかどうかあやしいと感じていたのです。

この詩では、自分が精魂込めて作った彫刻が、そういう者に「監禁」されること、その「監禁」に手を貸さざるを得ないことに対する嘆きが語られています。

光太郎最後の大作である「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ、青森十和田市の広報紙『広報とわだ』の今月号で、「特集「十和田湖・奥入瀬渓流」」が6ページにわたって組まれています。

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十和田湖のシンボル、「乙女の像」に関しても記述があります。

■乙女の像  十和田湖の誘客に寄与
 十和田湖では、1912(大正元)年に十和田保勝会(現・財団法人青森県観光事業協会)が動力観光船を運航しました。1934(昭和9)年には青森〜和井内間、1935(昭和10)年には和井内〜毛馬内(けまない)間に省営バス(現・JRバス東北)が開通され、八甲田〜奥入瀬〜十和田湖ルートが開かれています。戦後の復興期である1950(昭和25)年に、青森県知事の津島文治(太宰治の長兄)らによって、観光客誘致のため、国立公園指定15周年を記念し、十和田湖に記念碑を建立する計画が立てられました。この計画により1953(昭和28)年に完成した記念碑「乙女の像」は、高村光太郎が彫刻を引き受けたもので、一躍十和田湖のシンボル的彫刻として有名になり、また、佐藤春夫作詞の歌謡曲「湖畔の乙女」が全国的に愛唱されたこともあり、「乙女の像」は十和田湖への誘客に大いに寄与しました。
対峙する2人の像は、高村光太郎が遊覧船に乗った際、澄んだ湖面に映った自分の姿にヒントを得て「自分自身を写す人間の理性」を表現したといいます。
 風雪に耐えながら幾千年朽ちるまで立つという像は、十和田湖観光事業の栄華と衰退、将来を無言で見つめています。

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また、「乙女の像」建立の目的は、「十和田の三恩人」の顕彰。その三人についても詳しく紹介されています。

■十和田の名は全国に
 1953(昭和28)年に高村光太郎作「乙女の像」が十和田湖岸に建てられました。この台座には、十和田国立公園の実現に奔走した大町桂月(けいげつ)、武田千代三郎、小笠原耕一の3氏の功績が刻まれています。「住まば日ひのもと本 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬の 三里半」 これは、十和田を全国的に知らせた高知県出身の詩人、大町桂月の一首です。   
 1908(明治41)年に大町桂月は初めて十和田湖を訪れました。その後、1921〜23(大正10〜12)年にかけて十和田湖や八甲田山中を数多く探勝しますが、拠点とした蔦(つた)温泉をこよなく愛し、1925(大正14)年に蔦で永眠するまで、晩年を蔦で送りました。この桂月の文筆活動の効果で、景勝地としての十和田の名は全国的に知られるようになります。
 1911(明治44)年、桂月の紀行文を読んだ皇太子嘉仁親王(大正天皇)から、第18代青森県知事・武田千代三郎に、「十和田湖を観賞できないか」との御下問がありました。武田知事はさっそく十和田湖を視察し、1912(大正元)年の県議会に、三本木口と黒石口両線の開削費予算を提案し、頑迷な反対派を説得し、十和田湖への道を完成させます。
 この武田知事とともに、十和田湖の発展に尽力したのが、小笠原耕一です。小笠原は、法奥沢(ほうおくさわ)村(元・十和田湖町)の村長だった当時、大凶作に見舞われており、その救済事業として、当時の青森大林区署(元・青森営林局)に、十和田道の開削を具申し、焼山から奥入瀬渓流沿い、子ノ口から休屋までの区間を、幅員4尺(約1・3メートル)の牛馬道として開削し、翌1903(明治36)年に完成させました。岩石に覆われた奥入瀬渓流を切り開くためには、大量の火薬を使う難工事だったといいます。

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その他、一昨年、十和田湖畔にオープンした十和田湖観光交流センターぷらっと の紹介も。

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こうした地域の財産を持ち腐れにしないよう、広報紙などを通じて紹介していくのはいいことだと思います。また、ネットで公開することで、他地域の人々の目にも触れ、PRになると思います。

ところで十和田湖周辺、これから紅葉の盛りでしょう。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん

大正13年(1924) 光太郎42歳

木彫「柘榴(ざくろ)」を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。写真撮影は故・髙村規氏です。

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こうした木彫作品を包む袱紗や袋のたぐいは、そのほとんどが智恵子が縫ったものと推定されています。そこで、「たれとかたらん」=「誰と語ろうか」、この背後にはやはり智恵子の姿が見えてきます。

のちに心を病んだ智恵子、晩年の南品川ゼームス坂病院で、千数百点の紙絵を制作します。その中に、柘榴をモチーフとしたものもありました。夢幻の世界の中でも、幸せだった頃の遠い日々を思い起こしていたのかも知れません。

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株式会社アールビーズさん発行の『ランナーズ』という、ランニング愛好家向けの雑誌があります。その最新号に、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が取り上げられています。10月号の扱いですが、すでに入手可能です。 
2016/10/01 株式会社アールビーズ 定価722円+税

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スポーツライターの武田薫氏の「マラソンの行方 取材ノートから」という連載、今号はサブタイトルが「熊出没の青森鹿角は駅伝の故郷 武田千代三郎と乙女の像の因縁」。毎年8月7日に開催されている「十和田八幡平駅伝」(通称・十八駅伝)について書かれています。

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武田千代三郎は、明治41年(1908)から大正2年(1913)まで青森県知事を務め、その間、十和田湖畔の旧法奥沢村村長・小笠原耕一と協力し、十和田湖付近の道路整備等に腐心し、国立公園指定の礎を築きました。さらに十和田湖の景勝美を広く世に紹介した大町桂月とも親交がありました。

「乙女の像」は、戦後、武田、小笠原、桂月を顕彰する意味も含め、国立公園指定15周年を記念して計画されたモニュメントです。

当方存じませんでしたが、「駅伝」の語の命名者が武田だそうで、これはランニング愛好家の皆さんにとっては常識のようです。

そこで、昭和23年(1948)、当時の全国マラソン連盟会長だった金栗四三が、日本人選手が国際大会で活躍するための暑さ対策練習として、十八駅伝の開催を提唱、スタート地点を武田ゆかりの「乙女の像」の立つ十和田湖畔休屋地区としたとのこと。十和田湖で、「十和田湖マラソン大会」も行われているのも偶然ではないのでしょう。

ランニング愛好家の皆さんには常識的なことなのかもしれませんが、光太郎ファンとしては意外といえば意外な内容でした。

こういった部分でも、十和田湖観光の機運がもっと盛り上がって欲しいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

蚊やりに火蟲除け菊をくべたまへ蟲を好まず蟲を好まず
明治43年(1910) 光太郎28歳

昨日、愛犬の散歩で裏山を歩いたところ、台風の雨であちこちに水たまりが出来、蚊が大量発生していて、半分逃げ帰るように走り抜けました。庭の木の剪定をしている時も、手足に虫除けスプレーを振りかけているにもかかわらず蚊が襲来してきます。夏ももうすぐ終わり。やつらも必死ですね(笑)。

週末の『朝日新聞』さんから、全文が長いので、抜粋で。 

(大峯伸之のまちダネ)御堂筋のいま2

■知恵出し合う「企業町会」
 行政と企業が手を携えた街づくりが進む大阪・御堂筋。先週紹介した「御堂筋まちづくりネットワーク」の活動エリアの南側では、長堀通を中心に取り組むNPO法人の「御堂筋・長堀21世紀の会」がある。約120の会員の大半は企業だ。
■作品29体「彫刻ストリート」
 オーギュスト・ロダン、ヘンリー・ムーア、高村光太郎、佐藤忠良……。御堂筋の東西の歩道には、国内外の著名な彫刻家の作品29体が並んでいる。
 大阪市の呼びかけで1991年から沿道の企業を中心に作品を買い、置いた。いずれも本物だ。最近は「御堂筋彫刻ストリート」とも呼ばれている。
 大阪市のガイドツアー講師を務める伊藤義麿さん(78)は鐘淵化学工業(現・カネカ)で働いていた頃、御堂筋沿いの日本生命を訪問。そのとき、歩道のアントワーヌ・ブールデルの作品に気づいた。
 伊藤さんの父は美術評論家の故・柳亮(やなぎりょう)。フランスのパリで暮らし、ブールデルの弟子の清水多嘉示(たかし)と交流があった。清水の作品「みどりのリズム」もまた御堂筋の歩道にある。伊藤さんは父が残した資料を読み込み、美術の勉強にのめり込んだ。
 伊藤さんと一緒に彫刻ストリートを歩いた。「足の筋肉の表現が細かくて緻密(ちみつ)でしょう」。大阪ガスビル近くのロダンの作品「イヴ」を前に、伊藤さんの話が止まらない。作品の前に自転車が放置される時期もあったが、伊藤さんは「最近は改善されました」とほほ笑んだ。
■府市と企業で目玉イベント
 四季を通じて、御堂筋はさまざまなイベントで盛り上がる。
 かつての代表格は「御堂筋パレード」だった。1983年に始まり、マーチングバンドやバトントワリング、企業などによる「フロート(花車)」が秋の大阪を彩ってきた。
 ところが、分担金を出してきた大阪府から見直しを求められたことをきっかけに、パレードは御堂筋の完成70周年にあたる2007年が最後に。約2キロを72団体・約7千人が練り歩き、約125万人(主催者発表)が沿道を埋めた。
 08~12年の春には、歩行者天国の「御堂筋フェスタ」、秋には「御堂筋kappo(カッポ)」がそれぞれ催された。この2イベントは13年春、同じ日の開催となった。一連の取り組みは「府市統合」をめぐる動きや議論と重なったものの、府と市の担当者は企業と手をたずさえ、「御堂筋の活性化」へ知恵を出し合っていく。
 14年春。府市は一緒に「御堂筋ジョイふる」を開き、昨年秋には「御堂筋オータムパーティー」に。F1カーや100台のフェラーリ車が登場した。
 この秋、どんな「目玉企画」が出てくるか楽しみだ。(大峯伸之)

記事にある御堂筋の彫刻ストリート、光太郎彫刻は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作が設置されています。2年前に見てきたレポートがこちら

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数少ない光太郎彫刻屋外展示の一つです。


本家、十和田湖を扱うテレビ番組放映がありますので、ついでにご紹介します。 

イチオシ!2泊3日の旅 青森・奥入瀬~八甲田…水と緑の絶景!

BS日テレ 2016年8月11日 (木)  20時00分~20時54分

苔むす岩々が織りなす奇跡の渓流▽青森リンゴにこだわった贅沢高級ビュッフェ▽十和田湖の神秘的な光景に大感動▽ワイルドなボートツアー絶叫体験▽八甲田の温泉で絶品御膳

1泊2日の慌ただしい行程ではなく、「2日目をゆったり使える」2泊3日の旅を楽しみませんか?日本全国の風光明媚な景観を訪れ、旬の味覚を味わう2泊3日の“時間を贅沢に使った"旅番組です。

出演  旅人 佐伯チズ&南美希子   ナレーター 真地勇志


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ちらっとでも乙女の像の紹介があるといいのですが……。


当方、今日から地方出張で4泊5日の長旅です。

まずは信州安曇野。碌山美術館さんで開催中の企画展「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事で講演を仰せつかり、「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」と題してお話しさせていただきます。それが7日(日)ですが、早のりで今日から信州に参ります。

昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集による『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍が刊行され、前半部分を執筆し、「乙女の像」についてがっつり調べましたので、その成果です。元々碌山美術館さんで「乙女の像」の中型試作、小型試作を所蔵されており、「この辺の内容でどうですか」というご提案もありました。もちろんそれ以外に光太郎の生涯の俯瞰、碌山荻原守衛と光太郎との関連、智恵子についても述べる予定です。

その後、9日(火)が宮城女川で女川光太郎祭。そちらでも講演が入っており、一旦帰宅すると遠回りになるので、8日(月)、一日かけて信州から三陸まで移動します。

帰宅予定は10日(水)。その間、このブログは携帯から投稿します。字数制限がある上、画像も制約があり、内容が薄いものとなりましょうが(いつもだろ、と突っ込まれそうですが)、見捨てないで下さい(笑)。

【折々の歌と句・光太郎】

ちひさき蟲にはあれどわれよりも命ながしとはしきわが蝉
大正13年(1924) 光太郎42歳

先週、青森十和田湖畔に立つ光太郎最後の大作である「乙女の像」をキーワードにネット検索をしていたところ、熊の出没情報のページが引っかかりました。近くの十和田湖小学校さんでは、熊の糞らしきものが発見されています。 

青森県の熊(クマ)目撃・出没情報

十和田市の乙女の像付近
    • 日時:7月21日午後1時50分ごろ
    • 場所:奥瀬字十和田湖畔休屋「乙女の像付近」の藪

十和田市の「十和田湖小学校」付近
    • 日時:7月12日午後2時ごろ
    • 場所:十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
    • その他:クマの”ふん”らしきものを発見


今年は特に東北で、熊による痛ましい事故が相次ぎました。秋田県鹿角市の十和田大湯地区では、山菜採りの方連続して亡くなる被害も出て、十和田湖の近くだから心配だと思っていましたが、先月30日には、十和田湖を泳ぐ熊の姿が撮影されたというニュースも報じられました。

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しかし、十和田湖も広いので、人の立ち入らないエリアでの話だろうと思っていて、まさか、観光施設も建ち並ぶ休屋地区にある、乙女の像の近くに現れるとは思っていませんでした(その「まさか」がいけないのでしょうが)。

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「乙女の像」といえば、上記画像、テレビ東京系のBSジャパンさんで24日の日曜日に放映された「ミステリアス・ジャパン【恐山に並ぶ霊場・十和田湖 ~青森・十和田市~】」から。20秒ほどでご紹介いただきました。


続いて岩手県。

2週間前、岩手花巻の宮沢賢治イーハトーブセンターさんに「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を観に行った際に、付近に出没したという掲示が出ていました。

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花巻市さんのサイトに、光太郎が7年間を暮らした山小屋(高村山荘)・高村光太郎記念館のある、同市太田地区でも目撃情報があったことが出ています。同じ太田地区でも、山荘や記念館とは少し離れたところでしたが。

記念館では、熊よけのためにラジオ放送を大音量で流したりもしています。

光太郎が住んでいた戦後すぐの時期にも、もちろん熊が居たようで、昭和24年(1949)に書かれた「案内」という詩に、熊が現れます。

    案内000

三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三畝、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯ういふところ好きでせう。


記念館には、光太郎が実際に使っていた熊よけの鈴も展示されています。

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熊は非常に恐ろしい動物ですが、こうした工夫でかなり被害は防げるはずです。むやみに怖れるあまり、「青森も岩手も行かないよ」ということにはなってほしくないものです。

当方、明後日にも花巻に行って参ります。高村光太郎記念館において、テルミン奏者の大西ようこさん、朗読の荒井真澄さんによるロビーコンサート的な催しがあります。熊には十分注意したいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

ぢりぢりときしる蝉の音すみゆけば耳にきこえずただ空に満つ
大正13年(1924) 光太郎42歳

青森の地方紙『デーリー東北』さんの昨日の記事です。 

十和田湖畔休屋に人形館オープン 奈里多さんの代表作展示

 全国で根強い人気を誇り七戸町にアトリエを構える創作人形作家、奈里多究星(なりた・きゅうせい)さんのギャラリー「十和田湖究星人形館」が25日、十和田湖畔休屋にオープンした。奈里多さんの代表作である美しい人形約50体が並び、見る人を引き付けている。
 十和田湖レークサイドホテルの中村十二(じゅうじ)社長が、2013年と14年に休屋の休業中の旅館で開催された、奈里多さんの人形展を見て「期間限定ではもったいない」と思い、奈里多さんに呼び掛け、同ホテルが所有する、喫茶「赤とんぼ」の2階にギャラリーを設けた。
 ギャラリーには、十和田湖の乙女の像を題材にした作品や、人形劇に使われる大きな作品などが並ぶ。さらに、窓辺の喫茶・休憩スペースからは湖も眺めることができる。今後は小さい人形や、ポストカードの販売も予定している。
 中村社長は「十和田湖の一つの魅力となり、観光客の滞在時間が増えるきっかけになってほしい」と意気込む。奈里多さんは「湖には女性のイメージがあるので人形にぴったり。県外の人にも見てもらいたい」と話した。
 ギャラリーは11月上旬まで無休で開館。時間は午前9時~午後6時。入場料は一般500円、中学生以下は無料。問い合わせは十和田湖レークサイドホテル=電話0176(75)2336=へ。

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奈里多究星氏、調べてみたところ、七戸町のご出身で、同町の廃校になった小学校を使って「NonoUe人形の館」というアトリエ兼ギャラリーを開かれています(上記の準備のため7/20頃まで休館)。「Nonoue」は廃校となった小学校の名前、「野々上小学校」に由来しています。

記事にある「2013年と14年に休屋の休業中の旅館で開催された、奈里多さんの人形展」というのも、ネット上に情報が残っていました。当方が十和田で定宿としている十和田湖山荘さんの近くで、看板は今も残っており、これは何だろうと常々思っていましたが、ようやく納得いきました。

十和田湖の乙女の像を題材にした作品」というのが、非常に気になるところです。また十和田湖を訪れる際には立ち寄ってみようと思っております。

十和田湖周辺では、来月には「十和田八幡平国立公園 十和田八甲田地域指定80周年記念式典」、「第51回十和田湖湖水まつり」などのイベントが企画されています。併せて足をお運び下さい。十和田湖レークサイドホテルさんのサイトはこちら


【折々の歌と句・光太郎】

雨蛙今日はとるとてとりもせず萬年橋に白き瀬を見る(青梅在)

大正13年(1924) 光太郎42歳

「萬年橋」というと、隅田川にかかる深川萬年橋を思い浮かべますが、同じ東京でも奥多摩の入り口、青梅にある萬年橋が作歌の舞台です。蛙を木彫のモデルにしようとしたのではないかと思われます。

彫刻家高村光太郎最後の大作である「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像(通称・乙女の像)」が建つ、青森十和田湖からのイベント情報です。

十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域指定80周年記念 第51回十和田湖湖水まつり

期 日 : 2016年7月16日・17日、18日(花火は16日・17日)
場 所 : 十和田湖畔休屋  十和田市十和田湖畔休屋486
時 間
 : 16日・17日 10:00~21:00 18日は花火予備日 クルージングのみ10:10~

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16日(土)、17日(日)の両日とも、18:00から乙女の像のライトアップ、さらに20:00から花火の打ち上げがあります。その他、燃料電池車MIRAIの試乗会、魚つかみどりなど、さまざまなイベントが企画されています。

18日(月・祝)は、花火の予備日であるとともに、遊覧船に500円で乗れるというワンコインクルーズが実施されます。昨年までは抽選で決めていたようですが、今年は先着200名だそうです。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

五月雨の山窟(やまむろ)くらき狸汁奇士大(だい)さんの笑ひやうかな

明治37年(1904) 光太郎22歳

舞台は青年期の光太郎が足繁く登った上州赤城山。「大さん」は、その山中に独居していた一風変わった人物(奇士)です。なぜか光太郎とは馬が合い、光太郎はよく訪ねていきました。

光太郎の親友であった作家の水野葉舟がこの年に記した「夏籠――赤城日記」から。

 道々高村君は大さんの身の上話をした。もとは上州でも有名な博徒であつたが、女房が変な奴だとかで、大さんは多少ある財産を持つて、わづらはしい生活をするのを嫌つて、突然其を女房と息子にくれてやつて、この山上(やまのうへ)の氷小屋の番人になつたのだ。――顔なども剛な処があつて、それでひどく無邪気だ。笑ふ時などはまるで子供の様だ。高村君がこう話したので、
「幾歳(いくつ)位だい?」
と聞くと、
「五十四五だらうね」

大さんの暮らす氷小屋(山窟)の様子は以下の通り。

 小さな路がついて居て、藪を廻ると、倒れかゝつた垣根があつて、其処に鶏が遊んで居る。小屋と言つても、私などが嘗て見た事の無い程のあばら屋だ。一方土を切り下げ壁の代りにして、小屋が建てられてある柱には皮のまゝの木が使つてあつて、其に一つもそろつて居ない板が乱雑に打ち付けてある。そして入口には筵が下げてあつた。

しかし、この時、大さんは近在に熊が出たというのでそれを仕留めに行っていて留守。

 炉には大きな鍋がかかつて居た。小屋の中は二つに仕切つてある。一つは物置らしく、まつくらだ。一つの方は、僅かに、床があつて、其上に板が並べてある。其板の上には筵が敷いてあつた。寝道具が一隅(ひとすみ)に、其他色々な道具を入れる棚の様なものが有る。――大さんの坐たらしい炉のふちには山犬の皮が二三枚敷いてあつた。窓と言つては一つもない。中はいつも薄暗く、たゞ入口の筵の間からと、壁の板の隙からと、日がさし入つて来るが、穴の中の様な心持がした。

戦後、光太郎が独居生活を送った花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)を彷彿とさせられます。光太郎も山小屋生活を始めるにあたって、おそらく40数年前に訪れた大さんの氷小屋をイメージしていたのではないかと思われます。

光太郎最後の大作、「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像(通称・乙女の像)」が建つ、青森十和田湖からのイベント情報です。 

十和田八幡平国立公園 十和田八甲田地域指定80周年記念式典

日 時 : 2016年7月9日(土)13:00 ~ 16:30
会 場 : 十和田湖小学校体育館 十和田市奥瀬字十和田湖畔休屋16-1
定 員 : 150人程度 どなたでもご参加いただけます

基調講演 :
 1.「十和田八甲田地域80 周年振返り」
 講師: 小笠原哲男氏 (十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会会長)
 2.「吉野熊野国立公園の自然を活用した地域の活性化」
 講師:木下藤寿 氏((特非)熊野で健康ラボ代表理事)
パネルディスカッション
 「十和田八甲田地域の自然を活用した地域活性化」

主 催 : 環境省東北地方環境事務所/青森県/秋田県
問合せ : 環境省東北地方環境事務所

 昭和11年2月1日に十和田湖、奥入瀬、八甲田等からなる十和田八甲田地域が十和田国立公園に指定されました。昭和31年7月10日には八幡平、岩手山、秋田駒ヶ岳等からなる八幡平地域が十和田国立公園に編入され、十和田八幡平国立公園に改称されて現在に至っています。
 今年は、十和田八甲田地域が指定80周年、八幡平地域が指定60周年を迎え、それぞれの地域において記念式典を開催しますのでお知らせします。

 記念式典の翌日(7月10日(日))には、十和田湖畔において十和田市・小坂町共催の「十和田湖マラソン」(秋田県鹿角郡小坂町大川岱~青森県十和田市子ノ口までの約21km)が開催されます。また、自然体験、自然体感のイベントや十和田湖のひめます誕生の芝居の上演等が行われます。

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というわけで、昭和11年(1936)、十和田八甲田地域が十和田国立公園に指定されてから80周年ということで、記念の式典です。

昨年、『十和田湖乙女の像のものがたり』を刊行された、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会の会長を務める小笠原哲夫氏によるご講演が企画されています。乙女の像に関わるお話も入ると期待しています。元々、乙女の像も、十和田八甲田地域の国立公園指定15周年を記念して制作されたものでした。

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同じ7月9日には、「十和田湖花火大会」。それに合わせて「祝80th記念湖上クルーズ 花火鑑賞船」が航行。人数は予約優先・100名様限定、料金は大人1,400円、子供700円だそうです。お問合わせは十和田湖遊覧船 0176-75-2909まで。

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その他、さまざまな関連イベントが企画されています。 

十和田国立公園指定80周年で十和田市が記念行事

 青森県十和田市は3日、十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域指定80周年を記念した市主催行事を発表した。花火大会やグルメ企画、写真展、公募による絵画展など六つのイベントを実施し、節目の年を盛り上げる。
 花火大会は、国と青森・秋田両県主催の記念式典が開かれる7月9日に十和田湖畔休屋地区で行う。午後7時半から、同市初となる10号玉3発を含む2500発を打ち上げる。観覧船の運航も予定している。
 地元や周辺自治体の食を集め紹介するイベントも開く。「上十三の味力をぎゅっ!十和田湖味紀行」と題し10月1、2の両日、休屋に特設会場を設ける。
 休屋にある十和田湖観光交流センター「ぷらっと」では4事業を実施。スマートフォンで撮影した写真に「#LakeTOWADA」をつけ、会員制交流サイト(SNS)に投稿すると専用端末から写真が印刷される「#SnSnap」は、7月9日から10月30日まで行う。
 十和田湖・奥入瀬をテーマにした絵画展は8月8日から9月16日まで募集、10月15日から展示する。小学生低学年以下、同高学年、中学生、高校生、一般の各部門の入賞者を表彰する。
 写真展は7月9日から。同市出身のカメラマン岩木登氏、和田光弘氏の作品を通し、魅力を伝える。紙とは思えない斬新な作品約45点を展示する「紙わざ展」は同30日から実施する。
 小山田久市長は3日の会見で「震災以降、十和田湖への観光客が減少し戻って来ない状況にある。これを契機にこの地を訪れる人が一人でも増えてほしい」と期待を込めた。
(『東奥日報』 2016/06/03)

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さらに、例年行われている「十和田湖 湖水まつり」(乙女の像のライトアップを含む)が、これとは別に開催されます。こちらはまた後ほどご紹介いたします。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

のみさしの茶の冷たさよ五月雨   明治33年(1900) 光太郎18歳

この時期のイベントは雨が心配ですね。少雨のから梅雨でも困りますが。

月が改まりまして6月となりました。

光太郎とゆかりのある岩手県花巻市、青森県十和田市。それぞれの広報紙の今月号から。

まずは花巻市の『広報はなまき』。先月15日に行われた第59回高村祭のレポートが掲載されました。

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前日に行われた「高村光太郎記念館講座 高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」についても載るかな、と思っておりましたが、残念ながらそちらは掲載されませんでした。

双方に関する当方のレポートはこちら


続いて青森県十和田市の『広報とわだ』。十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域が国立公園指定80周年を迎えたということで、今月号から「受け継がれる歴史 十和田・八甲田」という連載が始まりました。

第一回は「十和田と大町桂月」。

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 十和田国立公園(現十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域)指定80周年を迎えました。
 桂月が、明治41年に初めて十和田を訪れて著した「奥羽一周記」は大正天皇(当時の皇太子)にも感動を与え、全国に十和田の名を知らしめました。晩年には「十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願」という請願文を起草し、国立公園の指定にも貢献しています。
 十和田国立公園指定15周年を記念して建立された「乙女の像」は、十和田の観光開発に功績のある桂月、県知事武田千代三郎、地元の村長で県議会議員小笠原耕一の3氏を顕彰したものです。
 桂月は、十和田の紀行文、漢詩、和歌など多く残しています。上の写真の歌は、桂月が好んで揮毫(きごう)したものです。晩年には、「山は富士 湖水は十和田 広い世界に ひとつづつ」「住まば日本(ひのもと) 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半」と、推敲しています。
 この二つの歌が、初めて文献に登場するのは、4回目の訪問で定宿の蔦温泉に滞在中の大正11年8月29日の日記です。   【文責・大町桂月を語る会】


十和田湖の景勝美を初めて中央に紹介した大町桂月。昭和28年(1953)に除幕された光太郎作の「乙女の像」は、記事にあるとおり、桂月ら3人の顕彰のためのものでした。

以下、当会顧問北川太一先生の談話筆記から。実際に光太郎から聴いた話の紹介です。

 大町桂月と高村さんは、早くから直接面識がありました。しかし、桂月は若い頃に高村さんが加わっていた新詩社の与謝野鉄幹とか晶子とかとは、むしろ反対の立場でした。鉄幹は『文壇照魔鏡』事件の時に桂月と喧嘩したことがあったし、晶子の詩「君死に給ふことなかれ」を桂月は「非国民」だと言って非難した。
 高村さん自身も「僕もよく知っていた。桂月に怒鳴られたこともあるし、十和田湖のモニュメントにしても、桂月がもし生きていて、僕が裸の女の人を造ると言ったら、必ず憤慨して『なぜこんなものを造った』と怒られただろう」と言っています。
 (略)
 高村さんは、十和田湖の景色にものすごく感動しています。大町桂月も同じく十和田湖の景色に感動した。だから自分の感動をそのまま表現すれば、それは大町さんだって喜んでくれるだろうという思いがあった。
(『十和田湖乙女の像のものがたり』 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会 平成27年=2015)


さて、『広報とわだ』さんの連載、いずれは光太郎も紹介していただけるでしょう。注意していたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

雲まよふ刀根(とね)のゆふべの真菰舟なにか悲しき風のおもひぞ
明治35年(1902) 光太郎20歳

「(以下五首常陸の旅の歌の中に)」という詞書きがついています。「刀根」は「利根」、千葉、茨城県境を流れる利根川です。また、連続する他の歌の中に「出島」の語が使われており、かつて利根川につながる霞ヶ浦沿岸に「出島」という地名がありました。ただ、地名ではなく、「小さな半島状の地形」の意味で使われているかも知れません。

明治35年(1902)のこの旅行の記録が残っておらず、どのあたりを回ったのか不明です。「出島」が地名として使われているのであれば、当方の住む千葉県香取市にそう遠くない場所です。利根川も当方自宅兼事務所から2㎞足らずのところを流れています。もしかすると104年前に当地の近くを舟で通ったのかも、と思っています。

「真菰」は「まこも」と読み、水辺に生えるイネ科の草です。かつては食用や眉墨、お歯黒の原料などに使われ、それを刈るための小舟を「真菰舟」と言っていました。夏の季語です。

先月16、17日に青森県十和田市で公演があった、劇団エムズ・パーティーさんによる朗読劇「乙女の像のものがたり」。2日分の公演を撮影したDVD、ブルーレイディスクが届きました。十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会の方が送って下さいました。感謝。

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さっそく拝見。

まず1日目、会場は十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」。

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基本、動きはなく、スクリーンにスライドショーを投影しながらセリフやト書きを朗読するという形です。

総勢10名以上の方がご出演。登場人物が多いので、お一人で2役、3役こなされた方もいらっしゃいました。原作は当方ですが、上演されることを前提には書かなかったので、キャラが多くなってしまいました。「史実」という制約があると、尚更です。「史実」を大胆に改変していいのであれば、明治末の「パンの会」の場面前後にだけ登場した北原白秋柳敬助夫妻を、全体の狂言回しに使った草野心平や、後半に登場する佐藤春夫夫妻に替えてしまったりした方が、ストーリー的にはすっきりするな、と感じました。

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左が智恵子役の仲島みちるさん、右が光太郎役の子午線馬ノ助こと植田祐介さん。お二人とも、さらに他の皆さんも、まさしく「熱演」でした。

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エンドロールには、当方の名も出して下さいました。

2日目は、十和田市街の市民交流プラザ「トワーレ」。こちらは市街ということもあり、予定を大幅に上回るお客さんの入りだったそうです。

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2回目ということもあり、キャストの皆さんも、さらに熱の入ったパフォーマンスでした。

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エンドロールのバックに、テーマソング的に佐藤春夫作詞の「湖畔の乙女」を流したところ、前日の「ぷらっと」での公演でもそうでしたが、観客席の皆さんも自然と大合唱。

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小山田十和田市長のごあいさつ。市としても後援に入って下さっていて、ありがたいですね。

今後、市の助成を受け、DVD化して学校さんなどでの上映も検討されているとのこと。是非とも実現してほしいと思います。さらには機会があれば、再演も。


そして観光客や、原作本の売り上げも増加してほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

やせこけしかの母の手を取りもちてこの世の底は見るべかりけり
昭和2年(1927) 光太郎45歳

明日は「母の日」。

光太郎の母・わかは、大正14年(1925)に亡くなりました。その三回忌を前に作った作です。

昨日、青森県十和田市で開催された「乙女の像のものがたり」朗読会について書きました。その流れで十和田からの報道を2件、ご紹介します。

また十和田湖・奥入瀬観光ボランティアガイドの会さんの方からメールを戴き、添付されていました。地方紙『デーリー東北』さんの記事です。 

観光推進へ連携確認 TMG48とはなまきコンシェル 交流会互いに活動紹介

 岩手県花巻市の観光案内に取り組む市民団体「はなまきコンシェル」の6人が17日、十和田市を訪れ、地元の女性グループ「TMG48(トワダもてなしガールズ)」と交流した。互いの活動や観光スポットなどを紹介し合い、両市の観光推進で連携することを確認した。

 両市は、十和田の開拓を先導した新渡戸家ゆかりの友好都市であるほか、十和田湖畔の「乙女の像」を制作した高村光太郎が花巻に住んでいた縁もある。
 今回の来訪は、TMG48が昨年、花巻市のわんこそば大会に出向き、交流の話が持ち上がったのがきっかけ。同日、乙女の像の朗読劇が十和田市で上演されるのに合わせ、花巻側から研修を兼ねて訪れた。
 交流会は市内の店舗で開催された。TMG48の前田美保子代表ら6人と特産野菜キャラ「十和田ねぎん」が歓迎。官庁街通りでの「さくら案内所」の運営や各種イベントの受け付けなど活動内容を説明し、馬産地にちなんだかぶり物「ウマジン」も紹介した。
 前田代表は「活動を通して私たちも十和田のことをいろいろ覚えた。一緒に楽しむ友達の輪が広がっている」と強調した。
 はなまきコンシェルは帽子やマントを身に着けて宮澤賢治になった気分で写真を撮るサービスなどを披露した。互いの地域に伝わる昔話も披露し、“お国自慢”で盛り上がった。
 はなまきコンシェルの高橋孝子さんは「同じような活動があって親近感がわいた。今後も情報を交換し交流を深めたい」と話していた。
(2016/04/20)
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記事にもあるとおり、「はなまきコンシェル」の皆さん、「乙女の像のものがたり」朗読劇をご覧下さったとのこと。

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こうした民間レベルでの草の根交流も大切なことと存じます。当方、「はなまきコンシェル」さんという団体は存じませんでしたが、今年も複数回花巻に出向きますので、その際にお会いできるかも知れません。


もう1件。仙台に本社を置く『河北新報』さんの記事がネットで閲覧できました。 

<十和田湖>遊覧船1社体制でシーズン開幕

 青森、秋田両県にまたがる十和田湖で6c2092aa15日、観光シーズンの幕開けを告げる遊覧船の運航が始まった。競合する2社のうち1社が事業を廃止し、今年からは1社体制になる。

 十和田観光電鉄(青森県十和田市)が奥入瀬渓流に近い子ノ口(ねのくち)地区と乙女の像がある休屋地区を結ぶコース、休屋地区発着の周遊コースを運航する。所要時間はそれぞれ約50分で、11月14日まで1日最大計18便が出る。
 十和田湖の国立公園指定80周年を迎え、今年は7月に休屋地区で記念式典やマラソン大会がある。参加者の輸送にも遊覧船を活用し、湖の魅力を発信する。

 遊覧船を巡っては、経営破綻した青森市の会社の船を引き継いだ十和田湖遊覧船企業組合が2014年8月に運航を再開。労使対立などから今年2月に事業を廃止した。10年前、30万人以上いた利用客はここ数年、10万人台前半まで減った。

 初日は悪天候で予定した計11便が欠航した。十和田観光電鉄の白石鉄右エ門社長は「1社になっても湖観光のシンボルである遊覧船の位置付けは変わらない。年間12万5000人の利用を目標に安全運航に努める」と語った。料金は大人1400円、小学生700円。連絡先は同社0176(75)2909。
(2016/04/16)

十和田湖といえば、遊覧船。当方も2回、載せていただきました。新幹線や飛行機、車などのスピード社会にある意味逆行するゆったりのんびり感もまたいいものです。

しかし、現状としてはいろいろ厳しいようです。

記事に有るとおり、一昨年には2社が運行していたのですが、もう片方の会社はどうも当初からいろいろあやしいところがあり、結局、廃業してしまいました。現行の十和田湖観光電鉄さんには、地道に頑張っていただきたいものです。

昨夜、テレビ東京系の経済番組「カンブリア宮殿」で、当方の住む千葉県のローカル線「いすみ鉄道」さんを取り上げていました。題して「本当の価値で客を集めろ!赤字鉄道の感動再生術」。国鉄民営化後に第三セクターとして存続したものの、人口減などで利用客数が激減、廃線の危機まで落ち込んだ同線の業績が、様々なアイディアでV字回復、という話でした。

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ローカル鉄道と遊覧船では立ち位置に異なる点も多々ありましょうが、こうしたノウハウは遊覧船にも活かせないかな、と思いました。

ちなみに明日から、青森と八戸から十和田湖へのバスが運行されるそうです。いよいよ十和田も観光シーズン本格化。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

花に立つ人よふたたび傘とぢず蝶の片羽(かたは)に小雨そぼふる
明治34年(1901) 光太郎19歳

蝶の姿も普通に見られるようになりました。また、当方自宅兼事務所の庭では、ハナミズキの花が盛りを迎えつつあります。

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16日(土)、17日(日)、過日ご紹介した劇団エムズ・パーティーさんによる「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇が上演されました。

地方紙に載った予告の記事はネット上に出たのですが、上演されたという記事がネットで発見できず、困っておりましたところ、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんの方から、PDFファイルを戴きました。初日の公演を報じた記事でした。 

美しい十和田湖いとおしく 乙女の像さらに身近に 地元劇団、建立物語を朗読

 十和田市の劇団「エムズ・パーティー」が16日、十和田市で朗読劇、「乙女の像のものがたり」を上演した。約30人が像建立までの美しいストーリーに聴き入った。
 「乙女の像のものがたり」は十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会が2年間の調査結果をまとめ、2015年に発行した。会場の十和田市観光交流センター「ぷらっと」は乙女の像が立つ湖畔の休屋にある。
 劇では高村光太郎と智恵子との出会いや死別、乙女の像の建立に動く地元の奮闘などが紹介された。
 同市の小学校教諭・白川星智さん(42)は鑑賞後、「近くに住んでいたが像のことも高村さんのこともよく知らなかった。これを機にまた勉強して周りに広めていきたい」と感想を語った。
 劇団代表の仲島みちるさんは「子どもたちに、乙女の像は素晴らしい人々が関わってできたと知ってほしいし、地域に愛着や誇りを持ってもらいたい。観光振興の一助にもなれば」と話す。
 朗読劇は17日午後3時から、同市の市民交流プラザ「トワーレ」でも開かれる。入場は無料。
(2016/04/17 『東奥日報』)

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光太郎の人生 感情豊かに 「乙女の像のものがたり」劇団が朗読劇上演

 十和田市の劇団「エムズ・パーティー」(仲島みちる代表)は16日、十和田湖畔休屋の十和田湖観光交流センター「ぷらっと」で、朗読劇「乙女の像のものがたり」を上演し、像の作者で詩人である高村光太郎の波乱に満ちた人生を感情豊かに伝えた。
 この朗読劇は、十和田八幡平国立公園の指定80周年を記念し、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会が編集した冊子を基に制作した。上演時間は約50分。
 会場には約40人が来場した。団員は、場面を伝えるナレーションとスクリーンに映し出される画像に合わせ、立ち上がってせりふを朗読。光太郎と妻智恵子との出会い、光太郎に像の制作が依頼される過程、制作の状況などを生き生きと演じた。
 来場者は、十和田湖を象徴する乙女の像にまつわるエピソードに興味深く見入っていた。
 この朗読劇は、17日午後3時から、十和田市民交流プラザ「トワーレ」で行われる。入場は無料。
(2016/04/17 『デーリー東北』)

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17日の公演については、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイトに記述があります。こちらは市街地ということもあり、100名ほどの観客があったとのこと。当初、60名の定員で告知がされましたが蓋を開けてみれば遙かに多く集まったようで、しかし、閉め出さずに皆さんに聴いていただいたというのは神対応ですね。

 最終日、十和田市トワーレ会場の様子です。
 定員を大幅にオーバーし、お手伝いで参加した私は準備等に焦りました。
 100人ほど、ビチビチで鑑賞していただきました。
 乙女の像のものがたりの本の中から「乙女の像ものがたり」を抜粋し、朗読劇で披露してくれたエムズパー
ティーの皆さんの熱演ぶりに涙がでました。
 生で感じる空気に、どっぷり物語の中に引き込まれてしまい本当に感動でした。
 アンケートや、来場の皆様からは
 「また、見たい。」
 「乙女の像って、こんな経緯で建ったんだ〜」
 「市の文化祭に発表してください」
 「学校でも、やってください」
 など、大変嬉しい声をいただきました。
 そうそう、最後に「湖畔の乙女」の歌が流れたのですが、会場は大合唱でした。
 えっ!?
 皆、知ってるんだ!!
 一冊の本が、朗読劇という表現で「乙女の像」について、皆さんに感動を与えてくれたことに感謝いたしま
す。
 スクリーンの前には、連翹とレモンが添えられていました。
 光太郎と智恵子さんも、仲良く観ていたのでしょうか・・・

「湖畔の乙女」についてはこちら

さらに当日撮影された画像と短い動画も送って下さいました。全編を撮影した動画も後ほど下さるそうです。感謝。

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スクリーンの左下に写っている白い頭は、小山田十和田市長、右のピンクの服の方々は、花巻市からいらした観光ガイドの方々だそうです。ありがたいですね。

メールには「観終わった方たちは、こんな素晴らしい話があっことを知らなかった、もっと子どもたちに教えたほうがいい、と興奮気味でした。」「朗読劇に取り組んだ、劇団エムズパーティーでは、DVDの作成や、外国語版なども作りたいと話していました。」とありました。話半分に聞いても、原作者としては嬉しい限りです。もっとも、原作といっても、誰が書いても同じような話になるわけで、それだけ光太郎智恵子その他の生き様が鮮烈だったということですね。

エムズ・パーティーさんもお忙しいとは存じますが、いろいろなところで再演されることを望みます。


【折々の歌と句・光太郎】

花やいかに歌やいくつのさてつらきただ春の雨むらさきなりき
明治34年(1901) 光太郎19歳

この時期の作には鉄幹与謝野寛の添削がかなり入っているということですが、「雨」を「むらさき」と見るあたりに造形作家としての特別な目が感じられます。

一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊に、光太郎の名が出ました。

「あのとき、それから」という、昔懐かしのアイテムなどを紹介する連載で、コーラを紹介するものでした。

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長い記事ですので全文は引用しません。上記画像をクリックすると拡大されます。

記事は、光太郎が亡くなった翌年の昭和32年(1957)、コカ・コーラとペプシコーラの日本法人が本格的に輸入、製造、販売を開始したことに始まり、アメリカでそれぞれが誕生した歴史、本格輸入前の日本での受容が紹介されています。

その中で、光太郎の名が。触れられている段落のみ引用します。

 日本では、大手ブランド2社の上陸前に輸入は始まっていた。輸入小売店の明治屋が1910年代後半に「コカコラタンサン」の広告を出した。高村光太郎の詩集「道程」(14年刊行)には「コカコオラもう一杯」とあり、芥川龍之介が25年に記した手紙にも登場する。

この件はそれなりに有名な話で、日本コカ・コーラ株式会社さんのサイトにも記述がありますし、このブログでも以前にちらっとご紹介しました。

「コカコオラもう一杯」は、『道程』所収の「狂者の詩」(大正元年=1912)という作品の一節です。長い詩ですので、該当部分のみ引用します。

 (略)
 コカコオラ、THANK YOU VERY MUCH
 銀座二丁目三丁目、それから尾張町
 電車、電燈、電線、電話000
 ちりりん、ちりりん、
 柳の枝さへ夜露の中で
 白ぼっけな腕を組んで
 しんみに己に意見をする気だ
 コカコオラもう一杯
 サナトオゲン、ヒギヤマ、咳止めボンボン
 (略)
 ああ、髪の毛の香ひがする
 それはあの人のだ、羚羊(りんやん)の角(かく)
 コカコオラもう一杯
 きちがひ、きちがひに何が出来る
 己はともかくも歩くのだ
 銀座二丁目三丁目、それから尾張町
 (略)

というわけで、「コカコオラ」の語が三回出て来ます。

初出は大正元年(1912)12月の雑誌『白樺』第3巻第12号。この際には「コカコオラ」は「COCA COLA」でした。その他、詩集『道程』(大正3年=1914)に収録される際に、かなりの改変が見られます。

以前は、この時期にコーラはまだ輸入されていなかったはずだ、として、米国留学時代(明治39年=1906~翌年)を思い出しての光太郎の幻想だという説もありました。たしかに、この詩全体が酔っぱらいの幻覚のような内容なので、それも全く否定は出来ません。しかし、近年、コーラ受容の歴史が明らかになるにつれ、本当に銀座でコーラを飲んでいてもおかしくないことがわかってきました。

『朝日新聞』さんの記事に、「輸入小売店の明治屋が1910年代後半に「コカコラタンサン」の広告を出した。」とありますし、明治44年(1911)に発行された雑誌『飲料商報』第27号には、アメリカのコカ・コーラ工場の様子が紹介されています。

 米国人に好かるゝ飲料にコカ、コーラと云ふのがある。此の飲料の壜詰工場は、米国アトランタ州にあつて、主人をモント君と云ふ。モント君非常な八釜敷屋(やかましや)で、工場に向つて「絶対的清潔」を命令するので、職工共は一と通りならぬ、注意と苦心を重ねて居るが、其の結果、此の工場は米国でも第一流の仲間入りが出来て、其の製造にかゝるコカ、コーラの信用は、国の上下に厚いのである。

「狂者の詩」以前に、既にコカ・コーラが紹介されていました。したがって、ネット上に時折「光太郎が初めてコカ・コーラを日本に紹介した」という記述がありますが、それは誤りです。

この話は、画家の林哲夫氏が雑誌『彷001書月刊』第212号(平成16年=2004)に発表した「光太郎、スカッとさわやか――清涼飲料の時代」という記事に引用されていました。

ちなみに『彷書月刊』、題字は当会顧問の北川太一先生作の木版によるものです。

閑話休題。林氏、さらに「サナトオゲン、ヒギヤマ、咳止めボンボン」に注目し、「コカコオラ」を含め、薬局のソーダファウンテンで売られていたのでは、と推測されています。

ソーダファウンテンは、現代のファミレスなどで、ドリンクバーに使われている機械です。やはり林氏によれば、明治35年(1902)に、資生堂さんがアメリカから機械一式を輸入し、全国の薬局や菓子店などが追随したとのことです。資生堂さんといえば資生堂パーラー。ここは光太郎も訪れた店で、銀座で現在も営業中。かつては連翹忌会場に使わせていただいたこともあります。また、林氏は、銀座一丁目で薬品や化粧品を扱っていた佐々木源兵衛商店もその候補に挙げています。

おそらく、そのあたりで正解なのでしょう。

ところで、東北地方に展開する「みちのくコカ・コーラボトリング」さんの工場は、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)にあります。そんなご縁で、昨年5月15日に開催された第58回高村祭のプログラムには、広告を出して下さいました。

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ありがとうございました。


さて、もう1件。明日の話題が予告報道されていますので、今日のうちにご紹介します。 

「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演

 十和田八幡平国立公園の002指定80周年を記念し、青森県十和田市の劇団「エムズ・パーティ」(仲島みちる代表)は16、17の両日、市内の2会場で、十和田湖の象徴となっている「乙女の像」をテーマにした朗読劇を上演する。本番を控え、団員たちは声の抑揚や場面を切り替えるポイントの確認など練習に熱を入れている。

 タイトルは「乙女の像のものがたり」で、「十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会」が、像の建立60周年を記念して編集した冊子を基に制作した。

 像の作者である高村光太郎の波乱に満ちた人生を交え、像が完成するまでの過程などを描く。上演時間は約50分。

 練習会場は市民交流プラザ「トワーレ」。夜、仕事を終えた団員が集い、台本を手に感情豊かに、せりふを読み上げた。せりふを切り出すタイミング、声のトーン、場面の進行などを入念にチェックしている。

 仲島代表は「郷土の歴史や文化を子どもたちに伝えたい。朗読劇といっても役者として取り組む以上、感情を込めて表現したい」と意欲を見せる。

 会場は16日が十和田湖観光交流センター「ぷらっと」、17日が十和田市民交流プラザ「トワーレ」で。いずれも午後3時開演。入場は無料。座席数に限りがあるため予約が優先となる。

 申し込み、問い合わせは仲島代表=携帯電話090(7066)2873=へ。


過日もご紹介した「乙女の像のものがたり」朗読劇に関してです。青森の地方紙『デーリー東北』さんでご紹介下さいました。

言い出しっぺである十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんのサイトにも紹介されています。原作は当方です。自分の作ったものがこういう形で公演されるというのも、不思議な感覚です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

赤き屋根のあちこちにあり青畠     明治42年(1909) 光太郎27歳 

当方自宅兼事務所のある千葉県香取市では、そろそろ田植えです。田には水が張られ、蛙の大合唱も始まりました。

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青森・十和田市の広報紙『広報とわだ』の今月号に、以下の記事が載りました。 

「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇

乙女の像建立60 周年記念に十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会が発刊した「乙女の像のものがたり」を安斉将(まさる)さんのイラストを投影して上演します。
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❶とき 4月16 日㈯ 午後3時~
  ところ 十和田湖観光交流センター「ぷらっと」
       十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486
 定員 50 人(先着順)

❷とき 4月17 日㈰ 午後3時~
 ところ 市民交流プラザ「トワーレ」
       十和田市稲生町18-33 
 定員 60 人(先着順)

入場無料

どちらも30 分前開場

問い合わせ 
 劇団エムズ・パーティー・仲島 ☎ 090-7066-2873


昨年の今頃、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんの編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』。当方も監修として名を連ねさせていただき、巻頭に年少者向けの「乙女の像ものがたり」、資料編に「「乙女の像」概説」と、2本の原稿を書かせていただきました。

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先月、ボランティアの会さんの方からご連絡があり、十和田市内に活動拠点を置く劇団エムズ・パーティーさんが、年少者向けの「乙女の像ものがたり」を換骨奪胎し、同書の挿絵に使われたイラストレーター・安斉将の作品や効果音をプロジェクタで流しつつ、朗読劇にしたいというお話を戴きました。メールで送られてきたシナリオを拝見、もちろん快諾いたしました。

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その公演が2回、今月行われます。最初が十和田湖畔の観光交流センター・ぷらっとさんで16日に。次の日には十和田市街の市民交流プラザ・トワーレさんでの開催だそうです。

当方原作の瑕疵は朗読や演出でをカバーし、成功させてていただきたいものです。

お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

パラタンのあさき緑とこんじきの砂を背にして君立てりけり
明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作。「パラタン」は古代ローマ七丘の一つ、「パラティーノ」の丘です。この際には一人旅でしたが、「君」とは誰なのか……旅先で知り合った人か、単なる妄想か、気になるところです。

青森の地方紙『デーリー東北』さん。先週、一面コラムで光太郎について触れて下さいました 

天鐘(3月15日)

彫刻家で詩人だった高村光太郎の手と足は並外れて大きかった。国産の革靴は入らず米国人から譲り受けた13文半(32センチ)を愛用。長靴は靴屋で一番大きい12文半(30センチ)を調達したが小さくて我慢して履いていたという▼花巻市の記念館が所蔵する革靴と長靴を改めて測っていただいた。12文半で窮屈だから32センチ近かったのだろう。身長は6尺(180センチ)で当時としてはかなりの偉丈夫だが、体躯(たいく)にも増して手足が大きかった▼32センチなら身長209センチのジャイアント馬場と同じ。「16文キック」は米靴規格の号を文と取り違えたためで実際は14文だった。光太郎は大きな四肢を気にしていたが、自身の左手を描いた塑像は指が長くて美しい▼24歳の時、留学先の米国で自作にいたずらした学生の腕を締め上げた。すると柔道と勘違いされ、レスリング選手と闘うはめに。柔道は未経験だったが逆手で押さえつけたら相手は悲鳴を上げて降参したとか▼頑丈な体躯をサンドー体操(今のボディビル)で鍛え、腕っ節も人一倍強かった。戦争を賛美した芸術家が素知らぬ顔で転向していく中、彼は戦争詩を書いた贖罪(しょくざい)から花巻の山麓で独居生活に入り、自らを戒めた▼明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。輸入軍靴が大き過ぎたためだが、逆に手足が国際規格の光太郎を悩ませた。和製ロダンの秘話である。


意外と知られていない光太郎のエピソードを紹介して下さり、ありがたく存じます。

30㌢の靴が小さくて我慢して履いていたというのは本当のようで、常に靴や靴下には困っていたことが、いろいろな文献から伺えます。

つい昨年発見した書簡にも記述がありました。

 本当にあるのですね。
 あたたかい十三文の靴下。送つていたゞいて、小生の特大の足もよろこんでゐます。ばけもの屋敷で、あたたかい冬がこせそうです。有り難う存じます。
(昭和16年=1941 12月10日 西倉保太郎宛はがき)

「ばけもの屋敷」は、智恵子没後の駒込林町のアトリエ。近所の子供達がそう呼んでいたそうです。


それから花巻高村光太郎記念会さんで復刊した『高村光太郎山居七年』という書籍にも。

 山口に移った旧冬、先生が戸来恭三さんの所へ来た時、
「冬になって雪が降ってきたが、下駄があるだけで、はきものがなくて困りました。何しろ僕の足が特別大きいので、はき物を探すには大変苦労します。」
「それあ、ことだなす。先生などにお使いってもらうのは、ほんとに笑いごったどもが、こっちの方では藁であんだつまごというのめいめいの家でつくってはくもなす。そんなもんでよくおでれば、何時でもつくって上げあんす。」
「つまごというのは藁の靴のことでしょうね。……それはまことにいい話を伺いました。藁は毛皮についで保温の性能がよいということだから、藁の靴ならまことにあたたかでよいでしょう。是非一つお作りになっていただきます。僕の足はとても大きいのだから。十三文位あるんだから。そこをよくしってつくっていただきたいです。」
 恭三さんは、藁細工の上手な老父に頼んで早速大きなつまごを作って貰いました。そのつまごは、編上げの靴風に足くびも隠れる半長の吟味したものでした。
 その靴を先生に届けた所、手にとり色々にもちかえて眺め、靴の中へ手を入れてみたり、足袋の足にあわせてみたりして大変喜ばれ
「これは素晴らしい。これがあれば雪の道も暖かく歩けます。大きさもたっぷりできてるし、それに美しい。」
 先生は冬を通して此の靴を愛用しました。春になってその藁靴が要らなくなった時、小屋の東側の水屋に近い柱にかけておきましたが、その藁靴が何枚かのスケッチの材料となりました。

昭和20年(1945)、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に移り住んで間もなくのエピソードです。

光太郎が愛用したつまごの実物は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。また、昭和22年(1947)、甥の故・高村規氏に送ったはがきに、このつまごが描かれています。

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他にもやはり米兵用と思われる特大の靴下をもらって喜んだ話も載っています。


再び「天鐘」。怪しげな柔道技で米国人学生をギブアップさせた話、ボディービルの話も実話です。4年程前にこのブログでもご紹介しました。

こうした人間くさいエピソードを知ると、ぐっと身近に感じると思うのですが、どうでしょうか。


ちなみに「天鐘」末尾に「明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。」とありますが、その工場を造ったのが西村勝三。のち、明治39年(1906)になって、東京向島の西村家別邸に、光太郎の父・光雲が原型を作った西村の銅像が建立されています。

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【折々の歌と句・光太郎】

自転車を下りて尿すや朧月       明治33年(1900) 光太郎18歳

軽犯罪法違反ですが(笑)、これも人間くささの表れ、ということで。

まず先週末に始まった青森十和田湖での観光イベント「十和田湖冬物語2016」開幕に関する続報です。 

<十和田湖冬物語>夜空焦がす花火 20038日まで

 青森県十和田市の休屋地区で5日、雪祭り「十和田湖冬物語」が開幕した。かまくらバーや花火、16万個の発光ダイオード(LED)が湖畔を彩る。28日まで。
 日が暮れると、乙女の像や遊覧船がライトアップされ、ステージで津軽三味線などが演奏される。午後8時からは10分間、音楽に合わせて「冬花火」が夜空を焦がす。週末の日中はバナナボートなどが楽しめる。
 初日の夜の気温は氷点下4度。来場者は地酒や屋台料理を楽しみ、幻想的な花火に見入っていた。
 連絡先は十和田湖国立公園協会0176(75)2425。
(『河北新報』 2016/2/7)
 

国立公園指定80周年アピール 十和田湖冬物語開幕

 2月1日に指定80周年を迎えた十和田八幡平国立公園。その十和田湖畔休屋の特設会場で5日、「十和田湖冬物語2016」が始まった。毎年恒例だが、ことしは80周年にちなんだ巨大雪像が登場するなど、国立公園を前面にアピールする。苦境が続く十和田観光。それでも、3月には北海道新幹線が開業するなど明るい話題もある。関係者は冬の一大イベントを、再生につなげたい考えだ。
  光と雪が幻想の世界を描き出す冬物語。光のゲートやスノーランプの明かりがともる中、来場者は青森、秋田両県のグルメを味わったり、かまくらバーでくつろいだり。名物の打ち上げ花火が寒空を照らした。
  会場に堂々と陣取るのは、高さ8メートル、幅23・4メートルの巨大雪像。陸上自衛隊八戸駐屯地が制作に当たった。国立公園指定80周年の「80」を中央に刻み、迫力ある十和田湖伝説の竜や修行僧が来場者を迎えた。
  「ことしは記念の年で、さまざまな催しを考えている。地域一丸となって十和田湖の魅力をアピールしていく」。十和田湖国立公園協会の中村秀行理事長は、開会式で強調した。
  県内外から多くの観光客が訪れる冬物語は、国立公園をあらためてPRする絶好の機会。青森、秋田両県の関係者からは、十和田観光の再生への決意表明が相次いだ。
  青森県上北地域県民局の山田裕局長は、三村申吾知事のメッセージを代読。「北海道新幹線の開業で、青森と歴史的なつながりのある道南が一つの旅行エリアになる。国内外から新たな需要が喚起できる」と活性化へ期待を込めた。
  十和田市の小山田久市長は、冬物語について「青森、東北の冬のイベントとして定着してきた」とした上で、「北海道新幹線で十和田湖へ誘客を図るためにも、盛り上げていきたい」と意欲。
  これに呼応するように、秋田県小坂町の細越満町長も「十和田湖の旅行商品をつくり、誘客を図りたい」と意気込んだ。
(『デーリー東北』 2016/2/6)
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続いて、福島二本松から、

【二本松】『智恵子の生活』感じて! 二本松で生家の2階を「特別公開」

 詩人・彫刻家高村光太005郎の妻で光太郎の詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子を育んだ二本松市油井の「智恵子の生家」で6日、智恵子の居室を含む2階部分の特別公開が始まった。
 特別公開は同市合併10周年記念で、大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」期間中や夏休み、菊人形期間中に続く公開となる。公開は週末と祝日で、今月の7、11、13、14、20、21、27、28の各日に公開される。
 元造り酒屋の生家2階にある智恵子の居室は4畳半で、急な階段を登った最初の部屋。弟や妹が暮らしたとされる木葉屋根の部屋にも隣接している。特別公開では普段立ち入りを制限している座敷なども公開されている。初日に訪れた東京都多摩市の小柳進さん(60)は「当時の様子を知ることができて感慨深い。これから『智恵子抄』もじっくりと読んでみたい」と語った。
 公開時間は午前11時~午後0時30分と午後1時30分~同3時。特別公開期間の入館料金は一般410円、高校生以下200円。問い合わせは智恵子記念館(電話0243・22・6151)へ。
(『福島民友』 2016/02/07)


それぞれぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

きびもちのあさき黄いろの切り口のつやつやしきはきさらぎにをせ
大正14年(1925) 光太郎43歳

「をせ」は「食べる」の古語「食す(をす)」の命令形。

きびもちの切り口に現れた薄い黄色の光沢に着目するあたり、造形作家としての本領発揮です。

びもち あさきいろ り口の つやつやしは さらぎにをせ」、頭韻、脚韻もみごとです。

光太郎最晩年の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森十和田湖で、先だってご紹介した観光イベント「十和田湖冬物語2016」が開幕しました。

地元紙『東奥日報』さんから。 

花火、冬の夜空照らす 十和田湖冬物語開幕

 真冬の十和田湖を幻想的な光で演出する「十和田湖冬物語」が5日、青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区の特設会場で開幕した。冬花火が湖畔の夜空を鮮やかに染めた。
 今年の大型雪像は「十和田湖伝説」がテーマ。南祖坊と竜の八之太郎が迫力いっぱいの表情で向かい合っている。両者の間には、十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域の指定80周年を記念し「80」の数字がデザインされた。
 オープニングセレモニーで、小山田久市長らが雪像に点灯。午後8時、花火の打ち上げが始まると、色とりどりの200発が次々夜空を照らし、来場者が見入っていた。
 会場には、青森県と秋田県の郷土料理などを味わえる「ゆきあかり横丁」や、雪のテーブルで飲み物を楽しめる「かまくらBar」などのブースが設けられた。実行委員会の橋野修一委員長は「寒い日が続いたため雪像がきれいに仕上がった。節目の年に多くの人に楽しんでもらいたい」と話した。
 冬物語は28日まで。会期中は毎日午後8時から花火を打ち上げるほか、約16万個の発光ダイオード(LED)を使ったイルミネーションが会場を彩る。

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「乙女の像」のライトアップもなされ、地元の十和田湖小学校さん、十和田西高校さんの児童生徒の皆さんが作ったスノーランプが彩りを添えています。

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今月28日まで。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

何となく神したはしきこの夕野火のささめき吾聞えたり
明治34年(1901) 光太郎19歳

ライトアップならぬ野火。この場合は焚き火ですが、炎に幻想的なものを感じています。

昨日、予約注文しておいたDVDが届きました。

ローカル路線バス乗り継ぎの旅 《米沢~大間崎編》

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太川陽介&蛭子能収のコンビにマドンナ1名を迎え、男女3人が路線バスだけを乗り継ぎ3泊4日で目的地を目指すガチンコ旅。今回はマドンナとしてさとう珠緒を迎え、山形は米沢市から本州最北端・青森県大間崎を目指します。道も無い! 宿も無い! バスもそれほど走ってない!! 魅惑の酒造やバラ園を尻目に、ひたすら続くのは炎天下の徒歩の旅!? 数々の超絶トラブルを乗り越えて、果たして三人は大間のマグロにたどり着けるのか!? 蛭子とエビ子の迷(?)コンビも必見です!!

出演 太川陽介、蛭子能収、さとう珠緒、キートン山田(ナレーション)

特典
蛭子能収描きおろしイラストジャケット仕様 旅の経路マップ封入
<音声特典>  オーディオコメンタリー(太川陽介×蛭子能収×さとう珠緒)
<映像特典>  ・歴代マドンナ集合!大感謝祭 未公開映像集 <後編>
                        ・太川&蛭子DVD発売コメント
                        ・「ローカル路線バス乗り継ぎの旅 THE MOVIE」予告編
本編収録時間 : 約109分
定価 : 3,800円+税

テレビ東京系の人気番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」の第15弾として、平成25年(2013)8月31日にオンエアされた《米沢~大間崎編》を核に、特典映像をおさめたものです。

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太川陽介さん、蛭子能収さんのお二人と、毎回変わる「マドンナ」――この回はさとう珠緒さん――が、路線バスを乗り継いで目的地を目指すというコンセプト。毎回、3泊4日という時間制限があり、さらに路線バス以外の交通機関利用禁止というルールがあります。

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この回は、山形県の米沢から本州最北端の青森県大間崎を目指す、走行距離約510㌔というものでした。

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4日目(最終日)の朝、一行は秋田の大湯温泉を出発、十和田湖に立ち寄っています。

光太郎関係の展示もある観光交流センターぷらっと(放映当時にはまだオープンしていませんでした)のすぐ前にあるバスターミナルに到着。

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続いて焼山行きのバスに乗り換える予定でしたが、待ち時間を利用して、このブログでもご紹介した喫茶店「茶房憩い」さんで一休み。

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光太郎作の「乙女の像」も写りました。

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その後、当方も何度か利用したJRさんのバス「みずうみ号」に乗り、奥入瀬渓流を通って先を目指します。

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果たしてゴール成るか、というところですが、それはご購入してのお楽しみ。

通常の旅番組と異なり、ある意味行き当たりばったりの珍道中。それでいて、訪れた場所の魅力もしっかり表現され、また、お三方の掛け合いも絶妙です。

テレ東さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

あしきもの追儺(やら)ふとするや我船を父母(ちちはは)います地より吹く風
明治39年(1906) 光太郎24歳

今日は節分。各地の寺社などで豆まきなどが行われます。当方事務所兼自宅近くの香取神宮には大相撲の錣山親方(元寺尾関)と豊真将関、成田山新勝寺には市川海老蔵さん、横綱白鵬関、大関稀勢の里関、NHK大河ドラマ「真田丸」にご出演の草刈正雄さん、高畑淳子さん、西村雅彦さん、藤本隆宏さん、藤岡弘、さんなどがいらっしゃいますが、インフルエンザウィルスをもらいに行くような気もしますので行きません。

ところで節分は、元々は季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊払いの儀式であった宮中の伝統行事・「追儺(ついな)」に端を発します。「追儺」は「鬼追儺(おにやら)い」などとも称されました。

さて、明治39年(1906)の今日、光太郎は横浜港からカナダ太平洋汽船のバンクーバー行き貨客船アセニアンに乗り、出港。4年にわたる海外留学に出発しました。

まるで自分が邪鬼で、日本から追われるように感じたというところですね。

昨日、光太郎作「乙女の像」にからめ、十和田湖関連の情報をご紹介しましたが、もう少し。

地方紙『デーリー東北』さんには、箴言ともとれる記事が載りました。 

再生 十和田観光 ―国立公園80周年― (1)開発の代償

 十和田八幡平国立公園の十和田八甲田002地域が1936年2月1日に「十和田国立公園」として指定されてから、2月1日で80周年の節目を迎えた。観光再生への模索が続く十和田八甲田地域の課題と展望を探る。

 十和田湖を象徴する高村光太郎作の「乙女の像」を訪ね、写真に収める観光客。その後ろでは遊覧船が優雅に湖上を進む。穏やかな十和田観光の一こまだ。美しい景観とは裏腹に、近くの休屋の目抜き通りは、休廃業したホテルや食堂が並び、景観を損ねている。
 国立公園として“傘寿”を迎えた十和田八甲田地域。近年の旅行スタイルの変化に加え、2011年の東日本大震災による打撃から、観光客は震災前の水準に回復しておらず、多くの課題を抱え、自然景観を生かし切れない状況に陥っている。
 青森県観光客入込統計によると、2014年の国立公園十和田地区の観光客は192万人。震災が発生した11年に風評被害もあり、161万人まで落ち込んだのに比べると、回復傾向にあるとはいえ、震災前年(10年)の234万人には戻っていない。
 この統計は10年に集計方法が変わったため、単純に比較できないが、十和田地区の観光客が300万人を超え、にぎわいを見せたのは03、04年。以降、景気が後退して団体旅行が減少するとともに、個人旅行を取り込む対応も遅れた。観光客が減少する中、震災が追い打ちを掛けた。
 05年度は湖畔休屋地区の宿泊施設や商店、売店が50件以上も営業していた。それが13年度には30弱に急減。観光地の基盤が縮小し、休廃業施設が〝負の遺産〟として重くのしかかる。「開発の代償」は大きいと言わざるを得ない。
 宿泊客の全体の収容数は大きく落ち込み、繁忙期にはすぐに満員になりやすい課題も浮上している。さらに、経営側は、繁忙期に合わせてスタッフの雇用や施設の整備を維持する必要があり、閑散期の宿泊客の確保も重要となる。
 十和田湖国立公園協会理事長で、休屋で最も規模の大きいホテル・十和田荘の中村秀行代表は「5月の連休明けから8月ぐらいまでの観光客が、震災前の水準に戻らないのが痛い」と厳しい表情を浮かべる。
 青森県や環境省などと共に、十和田湖観光再生行動計画を策定し、観光振興に取り組む十和田市。横道彰観光商工部長は「余暇の時間を持つ中高年層に平日の利用を期待したい。旅行会社の協力を得て、冬のツアーを増やせないかと思っている」と話す。
(2016/02/01)


当方、一昨年に3回、昨年は1回、十和田湖を訪れました。たしかに記事にあるように、湖畔に急廃業施設がそのまま残り、ゴーストタウン化している現状には心を傷めました。

地元でも黙って腕を組んでいるわけではなく、観光客を取り戻すさまざまな取り組みをおこなっているのでしょうが、なかなか決定打に欠けていると言わざるを得ないのかも知れません。

そんな取り組みの一つが、今月から始まる「十和田湖冬物語2016」。地元紙の報道から。 

十和田湖冬物語 巨大雪像作り始まる001

2月5日に始まる「十和田湖冬物語2016」に向け、陸上自衛隊八戸駐屯地(篠田光正司令)による巨大雪像の制作が14日、十和田湖畔休屋のイベント会場でスタートした。雪像の題材は「十和田湖伝説」。隊員35人が寒さをものともせず、懸命に雪像作りを進めている。
(『デーリー東北』 2016/01/15 )

有名な札幌の雪まつり同様、こちらでも自衛隊さんが訓練の一環として協力してくださっています。
 

わくわく雪ランプ作り 十和田湖冬物語に向けて100個

 青森県十和田市の十和田西高校観光科の1年生34人と十003和田湖小学校の児童7人が1月29日、十和田湖畔休屋地区で2月5日に開幕する「十和田湖冬物語」会場でスノーランプ作りを行った。
  ランプは会場前の道路沿いに設置され、来場者をほのかな明かりで出迎える。作り方は45リットルのプラスチックのバケツにスコップで雪と水を交互に入れ、湯飲みのような形に押し固めたらバケツをひっくり返し、明かり窓を開ける。
  最初のうちは型どりがうまくいかず、雪が崩れるなどミスもあったが、だんだんと“腕前”が上達。この日は80個の予定が100個のランプが出来上がった。
  十和田西高の川崎美桜さん(16)は「寒かったけど、小学生と協力しあって、気持ちを込めて作業ができた。本番でどんな明かりになるかワクワク。十和田湖を訪れるお客さんに楽しんでほしい」と話した。
  十和田湖冬物語は28日まで開催する湖畔のイベント。陸上自衛隊八戸駐屯地の隊員が制作するメーン雪像のほか、雪の滑り台、「かまくらBar」などの会場の設営が進んでいる。
(『東奥日報』 2016/02/01 )

このスノーランプは「乙女の像」の周囲にも設置され、幻想的な雰囲気の演出に効果を発揮します。十和田湖小学校さんのブログでも紹介されました。


ほんとうに、多くの皆さんが十和田湖を訪れ、その魅力を味わってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

いかに見よわかきが信(しん)の一しづくまなじり空の日をも消つべし
明治35年(1902) 光太郎20歳

「消つ」は「消す」の古語。空の日を消すほどの強い信念を持って生きていこうというところでしょうか。十和田湖再生に関わる皆さんも、そうした気概で臨んで下さい。

青森県十和田市さんで、本日発行の『広報とわだ』。裏表紙に今週末から始まる「光と雪のページェント 十和田湖冬物語2016」の案内が大きく出ています。

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過去の画像だとは思いますが、ライトアップされた光太郎作の「乙女の像」の写真も。

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それから、地元紙『東奥日報』さんに昨日載った記事です。 

人間の姿十和田・八甲田地区 1日国立公園指定80周年

 十和田八幡平国立公園(青森県)の十和田・八甲田地域が2月1日、指定80周年を迎える。奥入瀬渓流や十和田湖、八甲田連峰などの豊かな自然が国内外からの観光客を魅了し続けてきた。同日には、環境省などが記念のロゴマークを発表する。
 同公園は、本県と岩手、秋田の三県にまたがり、湖沼や渓流、山岳からなる。総面積は8万5千ヘクタール。1936(昭和11)年に十和田湖、奥入瀬渓流、八甲田連峰一帯(十和田・八甲田地域)が指定を受けた。十和田湖・奥入瀬渓流を世に紹介した明治・大正期の文人、大町桂月は、国に請願文を提出し、国立公園指定に尽力した。
 また、20年後の56年には、八幡平、岩手山、秋田駒ケ岳の一帯(八幡平地域)まで国立公園の範囲が拡張された。
 ロゴマークは、環境省東北地方環境事務所と同地域に関係する自治体などで構成する選考委員会が一般から募集、審査した。節目の年を広くアピールするために活用される。
 記念式典(環境省と青森県、秋田県3者の共催予定)は7月9日、十和田湖畔休屋地区で実施する。フォーラムなどを通じてこれまでを振り返るとともに、同国立公園の将来の方向性を探る。

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十和田湖畔休屋の御前ケ浜にたたずむ「乙女の像」。十和田湖を広く世に紹介した文人・大町桂月らの功績をたたえるとともに、国立公園指定15周年を記念して県が1953(昭和28)年に建立した


キャプションにあるとおり、「乙女の像」は国立公園指定15周年を記念して、当地の景勝美を広く世に紹介した大町桂月、道路整備等に腐心した元知事の武田千代三郎と元法奥沢村長の小笠原耕一の功績をたたえるために建てられました。したがって、正式名称は「十和田国立公園功労者顕彰記念碑のための裸婦像」といいます。

毀誉褒貶いろいろある像ですが、それでも何だかんだいいながら、ある意味十和田湖のシンボルとしてすっかり定着していますね。詳しくは昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんの編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』をご参照下さい。

今夏には記念の式典・フォーラムが催されるそうですし、今日は環境省から記念のロゴマークが発表されるそうです。続報に注意しようと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

きさらぎや町ゆけば何ぞ女多き     明治42年(1909) 光太郎27歳

既に何句かご紹介したスイス経由イタリア旅行中の作です。パリに居た留学生仲間の津田青楓に送った書簡にしたためられました。書簡の日付は4月2日ですが、この年の旧暦に換算すると、閏2月12日。「きさらぎ」ですね。遠く欧州に居て、日本を離れること既に3年あまり経っていましたが、旧暦をちゃんと知っていたというのも面白いと思いました。

青森からイベント情報です。 

光と雪のページェント 十和田湖冬物語2016

冬の澄んだ夜空に打ちあがる花火をはじめ、乙女の像ライトアップ、ゆきあかり横丁、人気のグリューワイン、幻想的なイルミネーション…
この他、様々なイベントをご用意しております。
ご家族、ご友人、恋人と…十和田湖の冬をお楽しみください♪

 間 : 平成28年2月5日(金)~2月28日(日)
時 間 : 平日:15:00~21:00  土日祝日:11:00~21:00
会 場 : 十和田湖畔休屋特設イベント会場
      青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486番地


イベント内容
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このほか、スノードーム作り、ワックスボール作り、灯篭作り(平日)、ホーストレッキングなどなど、たくさんの体験があります!!
◆2月13日(土)には、歩くスキーや雪上カーリングなどが楽しめる十和田湖大運動会があります☆
◆2月14日(日)にはバレンタインデー企画として、チョコレート作りもあります。
限定の体験もあったりと、盛りだくさんのイベントをぜひお楽しみください♪
問合せ先 : 十和田湖冬物語実行委員会【事務局:(一社)十和田湖国立公園協会】
       0176-75-2425


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当方、一昨年にお邪魔しました。極寒の清冽な空気の中でライトアップされた光太郎作の乙女の像(十和田湖畔の裸婦群像)の姿には感動を禁じ得ませんでした。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

雲にほふかなたギリシヤのあめつちに立たむ日までのせばきすみかぞ

明治35年(1902) 光太郎20歳

数え20歳の光太郎、その目は「せばき(狭い)」日本を突き抜け、広い世界に向けられています。実際に留学で世界に飛び出すのは4年後。ただしギリシャには足を踏み入れることはありませんでした。

地方紙の一面コラムから。

まずは昨日の『岩手日報』さん。 

風土計 2016.1.1

「老猿」は明治大正期の木彫家高村光雲の代表作。力と威厳に満ちた姿が真に迫る。著書「幕末維新懐古談」にある制作秘話は含蓄がある
▼白猿を彫るため光雲は純白のトチノキを求め栃木の山村へ。山猿のような老人から良材を3円で買うが、問題は東京への運搬。結局、運賃など200円も掛かった。いよいよノミを入れたら純白どころか茶褐色。そこで、野育ちの猿を彫ることに
▼こうして傑作は生まれた。自然を生かし、生かされてこそ真実に到達する。長男光太郎は詩「道程」で「僕を一人立ちにさせた広大な父よ」とうたうが、父とは光雲であり、自然という大いなる父でもあることだろう
▼彫刻家、詩人として名をはせた光太郎。太平洋戦争末期、空襲で東京のアトリエを失い、花巻に疎開した。玉音放送、一億号泣、そして山小屋での独居自炊生活へ。そこには戦時中、戦意を鼓舞する詩をつくったことへの深い悔恨の念があった
▼深い雪に閉ざされた冬の山小屋で独り、自らの内面を見つめ、戦争責任に向き合い続ける日々。厳しくも豊かな岩手の自然に包まれた7年もの歳月を経て、芸術家として再出発した
▼2016年が始まった。後ろには戦後70年の道。だが、私たちの前に道はない。清らかな岩手の自然のただ中に立ち、確かな一歩を踏み出したい。


続いて青森の地方紙『デーリー東北』さん。こちらは昨年暮れに掲載されたものです。

天鐘(12月29日)

 高村光太郎は昭和28年、完成させた十和田湖畔の裸像に寄せて「銅とスズの合金が立っている。どんな造形が行はれようと(略)はらわたや粘液や脂や汗や生きもののきたならしさはここにない」という一編の詩を綴(つづ)った
▼亡き妻智恵子そっくりの「乙女の像」に自身の魂を吹き込んだのであろう。無機質の造形には穢(けが)れがなく、自然と堂々調和して永遠に残ってほしいとの願いを込めた
▼同じブロンズだがソウルの日本大使館前にある「少女像」は慰安婦を象徴したものだという。4年前、市民団体が設置し始め、今では韓国内に10数体、米国にも2体ある
▼碑文には慰安婦を「性的奴隷」と英訳。日本政府に「慰安婦問題の障害」とまで言わしめた象徴である。穢れなき無機質の造形のはずが両国を分かつ高い障壁となり、反日感情を扇動する動力源となってきた
▼28日の日韓外相会談で日本が反省し、新設する財団に資金拠出することで50年来の懸案が氷解することになった。日韓に刺さった棘(とげ)のため日米韓の連携も長く機能不全に陥っていたが、やっと足並みが揃(そろ)いそうだ
▼だが政府間は合意しても反日感情は沈静化するのか。鍵を握る少女像は拳を握り締め口を閉ざしたままだ。像に罪はないが韓国内に「日韓が背を向けたのは像のせい」との批判も出ているとか。脂や汗を洗い流し、早く少女らしい明るい笑顔を取り戻してほしいものだ。


昨年は戦後70年ということで、いろいろと検証が為されました。しかし、まだまだ充分とは云えません。逆に戦前のような世の中に戻そうという輩も横行。今こそ光太郎の精神に学びたいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

初夢の棄てどころ無し島のうち
大正末期 光太郎44歳頃

「歌と句」ということで、このコーナーでは俳句もご紹介します。

友人の作家・田村松魚に宛てた葉書の末尾に記された句です。消印が不鮮明で年月日は特定できませんが、葉書の様式や、多くの書簡を田村に送っていた時期から、大正末期と推定されます。

この時期の光太郎は、関東大震災(大正12年=1923)後に露わとなった社会の矛盾に対し憤りを感じ、プロレタリア文学者たちと近い立ち位置にいました。大正13年(1924)には、詩「清廉」を書き、外部社会への鋭い批判と生の決意を謳う「猛獣篇」の時代に入ります。

この句の書かれた葉書にも、以下の文言があります。

今のままで貧乏しながら行けるところまで行きませう。いよいよせつぱつまつたら ずつと遠い処へ旅立つばかり。僕のやうな性情のものが今日の世に生きてゐるのは時代錯誤と思ひます。

「島」は「日本」。この国に対する「棄てどころ」のない怒りが見て取れます。

ところで、初夢と言えば「一富士 二鷹 三なすび」。それにまつわるNHKさんのスペシャルドラマ「富士ファミリー」が今夜、オンエアされます。


富士山のふもとにある小さなコンビニ『富士ファミリー』には近所で評判の美人三姉妹がいた。長女の鷹子(薬師丸ひろ子)は、一家の大黒柱。自由奔放な次女・ナスミ(小泉今日子)は、東京から夫の日出男(吉岡秀隆)を連れて帰るとすぐに、病気で亡くなってしまう。三女の月美(ミムラ)は面倒な店の経営から逃げるため、さっさと嫁いでいた。
年の瀬もせまったある日、笑子バアさん(片桐はいり)の前に死んだはずのナスミが現れ、あるメモを見つけて欲しいと言う。ケーキ、懐中電灯、四葉のクローバー、光太郎……ナスミの文字でメモに残された脈絡もない7つの言葉。このメモをきっかけに騒動が巻き起こる…。

この「光太郎」が「高村光太郎」なのかどうか、わかりません。とりあえず今夜、視聴してみます。

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