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一昨日、昨日と、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」について触れましたので、その流れで。

昨年12月28日(金)の地方紙『東奥日報』さんに載った記事です。 

十和田湖畔観光 訪日客に優しく/市、ICTで実証実験/看板にQRコード→多言語でスポット案内

 青森県十和田市は、増加するインバウンド(訪日外国人旅行)需要を踏まえ、1月1日からICT(情報通信技術)を活用した多言語による観光案内の実証実験を開始する。QRコード付きのプレートを、十和田湖畔にある既存の観光看板や、乙女の像などの観光スポット計14カ所に設置。旅行者がスマートフォンなどで読み込むと、それぞれの言語に翻訳された案内を見られる仕組みだ。
  システムは、五所川原市の「立佞武多(たちねぷた)の館」でも採用しているPIJIN社(東京)の「QR Translator」。言語は英語、中国語(簡体字、繁体字)、韓国語に対応。
  英語の一部で、観光庁の「地域観光資源の多言語解説整備事業」の一環として環境省が翻訳した解説文を活用したほか、中国語は、9月に着任した中国出身の地域おこし協力隊員・上官妮娜さんが翻訳した。
  実証実験は、十和田八幡平国立公園が選定された、外国人客誘致の環境整備を集中的に進める「国立公園満喫プロジェクト」の一環で、2019年末までを予定。市観光推進課は「どの言語の利用が多かったかなどを分析し、今後の観光振興に生かしたい」としている。
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実際、十和田湖に足を運びますと、インバウンドの団体さんが目立ちます。かつて光太郎が、十和田湖はいずれ世界的な名所になる、と言っており、まぁそこまではともかく、海外の方々に人気のスポットの一つとなったことは間違いないでしょう。そうした面での対応として、この手の取り組みは重要なことだと思われます。

そうすることによって、日本を代表する芸術家の一人、光太郎についても広く知られてほしいものですし。

全国の観光地の皆さん、ご参考になさって下さい。


【折々のことば・光太郎】

友達よ、未知の魂よ、君たちの愛を以て私を包んでくれ。愛によってのみ人は育つ。

散文「工房よりⅣ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

人類皆兄弟。すべての日本人、そして海外の方々にもこう呼び掛けたいところです。争いや憎しみから人は育ちませんし、国と国とのつながりも育ちません。

もっとも、光太郎のこの一言、実は、だから大きな愛を以て私の彫刻を買ってくれ、という趣旨でもあるのですが(笑)。

テレビ東京さん系列で、昨日放映された「土曜スペシャル いい旅・夢気分 紅葉めざして乗り継ぎ旅スペシャル」。光太郎最後の大作「乙女の像」ががっつり取り上げられました。取り上げられるかどうか微妙だなと思って、このブログでは事前にご紹介しなかったのですが……。

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3本立ての1本目で、太川陽介さん、蛭子能収さんの「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」コンビに、マドンナ釈由美子さんの3人で、奥入瀬渓流、十和田湖、弘前などを巡るコース。

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「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」では、平成25年(2013)に、太川さん、蛭子さんに、さとう珠緒さんを加えた3人で、山形は米沢市から本州最北端・青森県大間崎を目指す途中に十和田湖、奥入瀬を通られました。平成28年(2016)にはDVDが発売されています。

今回は、八戸からスタート。

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蛭子さん、平成25年の記憶がありません(笑)。

路線バスで紅葉の奥入瀬渓流に向かい、途中下車。

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撮影日が10月30日(火)だったそうで、何とまあ、当方が彼地に行っていた2日後でした。

再びバスで、十和田湖畔休屋へ。

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真っ先にお二人が向かったのは……。

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「おお!」という思いと、「くっ、ブログで紹介しておくんだった」という思いでした(笑)。

光太郎の名もしっかり出して下さいました。

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また、いろいろなアングルから像を撮影して下さってもいました。

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ここで、マドンナ・釈由美子さんと合流。

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十和田湖畔で昼食。釈さんは十和田バラ焼きを召し上がっていました。

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さらに、宇樽部地区からボートで湖上散策。

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この日の宿は、昭和27年(1952)、光太郎も泊まった蔦温泉さん。

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翌日、八甲田山麓を越えて青森市へ。何と、酸ヶ湯温泉では雪。そういえば、当方が行ったとき、市役所の方が「そろそろ八甲田では降るでしょう」とおっしゃっていました。

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その後、黒石を経由して弘前へ、という行程でした。

3本立ての残り2本は、競馬の武豊騎手と、小泉孝太郎さんが、やはり光太郎も泊まった宝川温泉を含む群馬の名湯の数々、フィギュアスケートの村上佳菜子さんで、光太郎智恵子婚約の地・信州上高地。

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偶然でしょうが、光太郎ゆかりの地のオンパレードでした。

テレビ東京さん自体、または系列のBSテレ東さんなどで再放送があるといいのですが……。また、テレ東系でない地方テレビ局でも、いわゆる「番販」の形で、休日の昼間などに放映される場合があり、そうなってほしいものです。

情報が入りましたら、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

書く事以外に何の求めるところもない竹林の清さが其処にある。それは又竹林のやうな根の強さを思はせる。

散文「永瀬清子詩集「諸国の天女」序」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

永瀬清子は現在の岡山県赤磐市(当方も一度足を運びましたが実にいいところです。)出身の女流詩人です。

まずは10月30日(火)、NHK秋田放送局さん発のローカルニュース。あきた文学資料館さんで開催中の「特別展示 明治150年秋田を訪れた文人たち」を紹介するものです。 

秋田ゆかりの文人紹介の展示

 秋田市の「あきた文学資料館」には、明治から昭和にかけて、秋田を訪れた9人の文人のエピソードを紹介するパネルや著書などが展示されています。
 秋田には豊かな自然や文化を作品に描こうと訪れる文人も多かったということで、歌人・若山牧水のパネルでは、「名に高き 秋田美人ぞ これ見よと 居ならぶ見れば 由々しかりけり」と、秋田の女性の美しさを詠んだ歌などが紹介されています。
 
また、秋田出身の文化人と親交のあった人も多く、詩人で彫刻家の高村光太郎が、小坂町出身の出版人に宛てた67通の手紙も、期間限定で展示されています。
 小坂町に寄贈された光太郎の手紙がすべて展示されるのは、今回が初めてで、岩手県に疎開していたときに、空襲に遭ったことなどが書かれ、当時の生活や人間関係の交流の様子がうかがえます。

あきた文学資料館の京極雅幸副館長は、「文人たちが、秋田で何を見て何を感じたかを知ることで、秋田の魅力を感じてほしい」と話していました。
 展示会は12月27日まで開かれていて、高村光太郎の手紙は11月4日まで展示されています。

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東北のローカルニュースといえば、過日ご紹介した、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」の光太郎コーナーリニューアルに関し、RAB青森放送さんのニュースで報じられたそうです。弘前在住の大学時代の友人が、LINEで画像を送ってくれました。何も連絡しておかなかったのですが、当方が映っていることに気づいて撮ってくれたとのこと。

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同じ件を報じた、『デーリー東北』さんの記事がこちら。

高村光太郎の逸話紹介 関係者がトークセッション

  十和田湖観光交流センター「ぷらっと」2階展示スペースにある「高村光太郎コーナー」が28日、リニューアルオープンした。同日、セレモニーとイベントが行われ、同湖のシンボルである「乙女の像」を制作し、彫刻家や詩人として活躍した高村について、関係者がトークセッションを通じ人柄や逸話を紹介した。 同コーナーは、新たにブロンズ製の高村の胸像と、乙女の像の制作で使用された回転台を展示し、解説文のパネルを設置した。 胸像は、戦後に岩手県花巻市で生活していた高村をモチーフに、彫刻家の田村進さん(青森市)が制作。旧日本軍の高射砲の台座として使用した物を転用した回転台は、彫刻家の北村洋文さん(東京)が所有していた。 胸像と回転台はそれぞれ十和田市に寄贈され、同日のセレモニーで小山田久市長が、田村さんと北村さんに感謝状を贈呈した。 続いてトークセッションでは、田村さんと北村さん、リニューアルを監修した高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会代表の小山弘明さん(千葉県)の3人がマイクを握った。 北村さんは「野辺地町出身で、乙女の像の制作に助手として携わった小坂圭二先生から、『使わないと意味がない』と言われて頂いた」と回転台を所有した経緯を説明。田村さんは「(乙女の像の)除幕を記念した高村の講演会があり、待ち伏せしてサインをもらおうと思った。背は大きく声は割と低かった」と振り返った。 小山さんは「高村の生前最後の大作で半年ほどの速いスピードで完成した。十和田湖のシンボルの一つとして愛し続けてほしい」と乙女の像をアピールした。

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光太郎、そして智恵子が愛した「みちのく」の地での、さまざまな顕彰活動。今後もいろいろと続きます。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は彫刻家だ。彫刻の悦は、黙つてすぱりと、生きてゐる内天の自然を、まるごとのまま、幽、顕のあはひからつかみ出すところにある。

散文「陶山篤太郎詩集「銅牌」序」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

「乙女の像」も、そういう見地から造られたのでしょう。

10月27日(土)、福島二本松の智恵子生家・智恵子記念館を後に、再び北へ。「〽北へ行くのね ここも北なのに」の「潮騒のメモリー」状態だなと思いつつ(笑)。

東北本線安達駅から福島駅、新幹線を仙台でやまびこからはやぶさに乗り換え、七戸十和田へ。レンタカーを借りて十和田市街方面。ポニー温泉さんというところに1泊しました。

翌10月28日(日)、宿で朝食を摂った後、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖方面を目指し、出発。この日は「奥入瀬渓流エコロードフェスタ」ということで、国道102号線、奥入瀬渓流沿いの部分にマイカー規制がかかっており、麓の焼山からシャトルバスに乗ることにしました。バイパスを使って遠回りすれば十和田湖まで行けたのですが、そちらが混むと面倒ですし、渓流の紅葉も見たかったので。

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焼山の駐車場。すでに山々は色づいていました。

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バスの車中から。

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あいにくの雨でしたが、かなりの人出でした。

十和田湖畔休屋地区に到着。こちらもすっかり紅葉が進んでいました。

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遊覧船の船着き場に近い、市の施設・十和田湖観光交流センター「ぷらっと」。

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こちらの2階、光太郎に関する展示のコーナーがリニューアルということで、式典が行われます。

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左が、青森市ご在住で、生前の光太郎をご存じの彫刻家、田村進氏制作の光太郎胸像。右には、「乙女の像」制作時に光太郎が使った彫刻用の回転台。ともに十和田市に寄贈され、こちらで展示することとなったものです。

田村氏制作の胸像は、名付けて「冷暖自知 光太郎山居」。

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昭和20年(1945)秋から、戦時中の翼賛活動を恥じ、花巻郊外旧太田村の山小屋に逼塞していた当時の光太郎の肖像です。題字の揮毫は当会顧問・北川太一先生。

下世話な話ですが、制作にかかる実費だけでもかなりのものでしょうが、田村氏、ポンと寄贈なさいました。なかなかできることではありません。

僭越ながら、当方が解説板を執筆させていただきました。

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光太郎遺品の回転台はこちら。

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「乙女の像」制作に際し、光太郎の助手を務めた青森野辺地出身の彫刻家・小坂圭二が手配して入手し、光太郎歿後は小坂がもらいうけ、さらに小坂歿後に小坂の弟子筋だった彫刻家の北村洋文氏の手に渡ったものです。

昨夏、千葉船橋にある北村氏のアトリエにお邪魔し、現物を初めて見、「よくぞこれが遺っていた」と感懐に包まれました。その際の経緯などはこちら


目玉はこの2点ですが、それ以外にもいろいろ。

窓には日除けを兼ねたタペストリー。古写真を使い、「乙女の像」完成までの経過を時系列で追うというコンセプトにもなっています。光太郎と一緒に写っているのが小坂圭二です。

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写真の選定にも当方に相談があり、さらに、写真であることにこだわらなければ、こんなのもいいんじゃないでしょうか、と、推薦したのが最後のカット。平成27年(2015)、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんの編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』の挿画の一枚で、十和田市ご在住のイラストレーター・安斉将さんの作品です。

十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんといえば、最後の「乙女の像」設置風景の写真は、同会の地道な調査で発見されたもの。こういう写真が残っていたというのも感慨深いものがあります。


さらに、一時的な展示となるそうですが、「乙女の像」の小型試作。

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また、1階には、回転台を寄贈なさった北村氏の彫刻も。

平成26年(2014)の「ぷらっと」オープンの際から、内部の解説板執筆等でご協力させていただいていますが、こうしてグレードアップしていくのが非常に嬉しい限りです。

さて、午前10時から、式典。その直前には、湖面にうっすらと虹が架かっていました。リニューアルを祝ってくれるかのようでした。

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小山田十和田市長のご挨拶。

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田村氏と北村氏に、感謝状の贈呈。

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その後、田村氏、北村氏、そして当方でトークセッション。

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当方からは、「乙女の像」のアウトライン、田村氏と北村氏には、それぞれの寄贈品についてなどを語っていただきました。さらに田村氏には光太郎、北村氏には小坂圭二、それぞれの生前の思い出等、それから、彫刻家の眼で観た「乙女の像」といったお話も。

昨年、十和田市街で開催された講演会、「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」に当方を講師としてお招き下さった十和田市立三本木小学校地区安全・安心協働活動協議会さん代表の佐藤やえさん、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の吉崎明子さんなど、見知った顔も駆けつけて下さいました。

最後に、若手ガイドの地域おこし協力隊・山下晃平氏の案内により、「乙女の像」までのミニツアー。

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湖畔の木々もすっかり色づき、多くの観光客の皆さんでにぎわっていました。

半年ぶりに「乙女の像」と対面。

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光太郎が詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)で謳ったように、「いさぎよい非情の金属が青くさびて 地上に割れてくづれるまで この原始林の圧力に堪へて 立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。」と、見るたびに思います。

その後は再びシャトルバスで麓まで戻り、レンタカーを七戸十和田駅前で返却して、帰途に就きました。七戸十和田駅ではまた虹が出ていました。

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十和田湖、奥入瀬の紅葉、まだ楽しめます。「ぷらっと」、「乙女の像」と併せ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

此は到底、営利を外にした各方面の人の気が揃ふと言ふ珍らしい事情の起こらない限り出来ない為事である。私は此の刊行会の当事者のやうなむきな人達の一所に集つた珍らしい機会の到来に感謝する。

散文「「日本古典全集」に感謝す」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

「為事」は、採算をほとんど度外視して、武者小路実篤の新しき村出版部から、与謝野夫妻等の編集で刊行された『日本古典全集』第一期50巻、第二期50巻を指します。

営利を外にした各方面の人の気が揃ふと言ふ珍らしい事情」。「ぷらっと」のリニューアルにも通じる話ですね。

昨日から一泊二日で東北に来ておりまして、帰りの新幹線はやぶさ号車中でこの記事を書いております。
昨日は智恵子の故郷、福島二本松で智恵子の生家・智恵子記念館を訪問しました。生家では、福島ビエンナーレ「重陽の芸術祭」の一環として、切り絵作家の福井利佐さんのインスタレーションが開催されており、裏手の記念館では、普段は複製が展示されている智恵子の紙絵の実物が展示されています。

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さらに北紀行を続け、昨夜は青森十和田市に宿泊。今日、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖畔休屋地区にある市の施設、十和田湖観光交流センター「ぷらっと」内の光太郎コーナーリニューアル完成式典に参加しました。
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青森市ご在住の彫刻家・田村進氏の手になる光太郎胸像と、光太郎が「乙女の像」制作の際に実際に使用した回転台が寄贈され、田村氏、それから回転台を所有されていたやはり彫刻家の北村洋文氏、それぞれに感謝状が渡され、さらに当方を交えてのトークイベント。

その後、「乙女の像」を見て、帰途に着きました。
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詳しくは、明日以降、レポートいたします。

まず、10月20日(土)の『日本経済新聞』さん。智恵子終焉の地・品川区のゼームス坂病院跡についてです。 

今昔まち話 ゼームス坂(東京・品川) 詩人も通ったなだらかな坂

東京都品川区の大井町駅から3分も歩けば、風変わりな名称の坂道にたどり着く。約400メートル続く2車線の両側には新しい高級マンションから昭和時代に竣工したビンテージ物件などが立ち並ぶ。多くがその名を冠するほど、人気の住宅地に浸透している。ところで、ゼームスって誰?
幕末に来日し、明治期にこの地に邸宅を構えた英国人のJ・M・ゼームス(スペルはJames)。船長で日本海軍の創設に関わり、後に勲章が贈られた人物だ。通りの名となった理由は、私財を投じて急な坂道を緩やかに整備したため、と伝えられている。
「もともと浅間坂と呼ばれていた今のゼームス坂を明治時代に改修したとする文献は見つけられない」と話すのは区立品川歴史館の学芸員を長年務めた「品川郷土の会」の会長、坂本道夫さん(68)だ。坂の脇道を入ったところに邸宅があったことから、この脇道を整備したのではないかと推測している。
坂本さんが国立公文書館アジア歴史資料センターで調べたところ、ゼームスは海外情勢を報告した報酬として海軍省から大金を得ていた。坂の近くにあった青果店の男性(故人)からは「ゼームスさんは近所の子供にお小遣いを与えており、自分ももらったことがある」との証言も得ていることから、坂本さんは「資産家で住民から親しまれていたことは間違いないだろう」とみる。
脇道を挟みゼームス邸跡地の反対側は作家の高村光太郎の妻、智恵子が1938年に亡くなるまで入院していたゼームス坂病院があった地だ。郷土の会は95年、光太郎が妻の最期を詠んだ「レモン哀歌」を黒御影石に刻んだ碑を建てた。
「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛(か)んだ」
深い悲しみのなか、優しさに満ちた光太郎の詩は今も多くの人の心を捉えている。智恵子の命日である10月5日、今年も誰かがレモンを詩碑の前に置いていた。人気の住宅街で脇道に潜むストーリーに触れた気がした。

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続いて、10月22日(月)、『福島民報』さん。 

西会津で探究心育む 小学生「ほんとの空プログラム」

 自然の中で子どもたちの好奇心や探究心を育む「ふくしま ほんとの空プログラム-地域の謎を解明せよ!」は二十一日、福島県西会津町奥川で催された。 
  小学一年生から五年生九人が参加した。にしあいづ自遊学校(旧奥川保育所)をスタート・ゴールに、ヒントが記された地図を頼りに約二キロのコースに設けられたチェックポイント八カ所を巡った。途中でバッタやカマキリなどの昆虫採集を楽しむ姿も見られた。 
  昼食ではピザ作りに挑戦。ドラム缶を加工した特製オーブンで焼き上げた熱々のピザを青空の下で味わった。 
  プログラムは福島民報社の主催。オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、日本シビックコンサルタント、日本ファイナンシャル・プランナーズ協会の協賛。NPO法人寺子屋方丈舎の実施運営。全四回あり西会津町は第三弾。

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語、もはや福島の復興の合い言葉として、一人歩きの感がありますね。


さらに昨日の『東奥日報』さん。過日ご紹介した十和田湖観光交流センターぷらっと 高村光太郎コーナー リニューアルオープンセレモニーなどについてです。 

十和田湖畔休屋「ぷらっと」 高村光001太郎コーナー改装 28日式典 胸像展示やガイドツアー

 十和田市は28日、十和田湖畔休屋地区の十和田湖観光交流センター「ぷらっと」2階で、高村光太郎コーナーのリニューアルオープンを記念した式典を開く。コーナーは青森市の彫刻家・田村進さんが制作し昨年市に寄贈した胸像「光太郎山居」を回転台とパネル附きで展示。28日は式典後に、田村さんらによるトークセッション、高村が制作した「乙女の像」を巡るガイドツアーも行う。いずれも参加無料。
 式典は午前10時から。田村さんのほか、解説パネルなどを監修した小山弘明さん(高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会代表)、回転台を寄付した北村洋文さん(むつ市)らが出席。
 午前10時20分から同11時40分まで、田村さんら3氏が高村にとって「最後の大作」となった乙女の像について語りあうトークセッションを行う。
 午前11時50分からは、地域おこし協力隊・山下晃平さんによるガイドツアー。かつて東北有数の山岳霊場として信仰を集めた十和田湖に、弘前大学の斉藤利男名誉教授が歴史的側面からアプローチした本紙連載を基にした単行本「霊山十和田」で紹介されたスポットを巡り、乙女の像をバックに記念撮影を行う。いずれも申し込み不要。問い合わせは十和田市観光推進課(電話0176 51 6771)へ


それから、10月22日(月)には、『毎日新聞』さんの岩手版に「7年間過ごした花巻、昭和20年代ジオラマで 記念館で企画展 来月19日まで」という記事が出たようですが、こちらは共同通信さんの配信で、同一の記事が10月5日(金)の『日本経済新聞』さん他にも掲載されました。


最後に、今朝の『朝日新聞』さん。重松清氏による連載小説「ひこばえ」の一節。

 和泉台文庫では、『○月の特集』と002銘打って、毎月テーマを決め、蔵書の中からお勧め本をピックアップしている。発案したのは田辺麻美さんで、テーマ決めや選書も麻美さんが一人でやっている。
(略)
 壁際の本棚ではなくキャスター付きのブックラックが、特集のコーナーになっていた。小説やエッセイ、児童書や絵本に加え、写真集などのビジュアル本も含めて二十冊ほどのラインナップだった。高村光太郎の『智恵子抄』や城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』といった、私でも題名ぐらいは知っている本もあれば、初めて目にした著者の本もある。

川上和生氏による挿画がいい感じです。『智恵子抄』、本題には関係ないのですが「ごくごく当たり前の本」の例として使われています。

しかし、『智恵子抄』、「ごくごく当たり前の本」でなくなるようなことがあってはいけないな、と、改めて感じました。


【折々のことば・光太郎】

鷗外先生の「花子」はまことに簡にして要を得た小説であつて、ロダンの風貌性格習性がいきいきと描かれて居る。巧にロダンの言説まで取り入れられ、又久保田医学博士といふ人の行動をかりて、ダンテからボオドレエルに至るロダンの思想上の経歴まで暗示されてゐる。

散文「鷗外先生の「花子」」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

森鷗外の「花子」(明治43年=1910)は、確認できている限り唯一、ロダンの彫刻モデルを務めた日本人女優・花子とロダンの関わりを描いた短編小説です。

今週末は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立っている青森十和田湖に行って参ります。

平成26年(2014)にオープンした、湖畔休屋地区の十和田湖観光交流センターぷらっと内部の、光太郎に関するコーナーがリニューアルされ、そのオープンセレモニーを行うというので、お招きを頂いた次第です。

もの自体は今年の4月から展示されているのですが、生前の光太郎をご存じの青森市ご在住の彫刻家・田村進氏から昨年寄贈された光太郎胸像「冷暖自知 光太郎山居」、それから「乙女の像」制作の際に実際に使われた彫刻用の回転台。こちらは「乙女の像」で光太郎の助手を務めた青森野辺地出身の彫刻家・小坂圭二がもらい受け、さらに小坂の弟子に当たる彫刻家・北村洋文氏の手に渡り、そしてやはり昨年、十和田市に寄贈されたものです。

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とりあえず仮に置いておいたという感じだったのを、説明板等をきちんと制作したりして、正式にお披露目ということのようです。その他にも、日除けを兼ねたタペストリーを窓に提げ、そこに「乙女の像」関係の古写真などをプリントするという件でご相談を受けたりもしました。

日時は10月28日(日)、10:00から。「ぷらっと」のオープンの時がそうでしたが、議員さんとかに集まっていただいての式典なのでしょう。

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式典後、トークセッションということで、田村氏、北村氏共々、お前も何かしゃべれと言われておりまして、「乙女の像」関連で少しお話をさせていただこうと思っております。

さらにその後、「乙女の像」まで行って、記念撮影だそうです。


ところで、十和田湖といえば、先だって、下記書籍が発売されました。

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NHKさんで好評放映中の「ブラタモリ」の書籍化です。既に14巻目だそうで、この巻は「箱根 箱根関所 鹿児島 弘前 十和田湖・奥入瀬」。このうち「十和田湖・奥入瀬」は、昨年9月放映分の内容に準拠しています。オンエアでは「乙女の像」は約2秒間出演(笑)。

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書籍では十和田湖全体の見所紹介的なページに記述がありました。

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ただ、説明は某サイトからのコピペのようで、あちこちでこの文章を見かけますが、少し閉口しています。

まず、「最後の作品」ではなく「最後の大作」。「乙女の像」完成後に、小品ではありますが、昭和28年(1953)「乙女の像」除幕式の際、関係者に配られた、大町桂月肖像をあしらった記念メダルが作られ、これが完成したものとしては光太郎「最後の作品」ですし、昭和29年(1954)から手がけ、未完成に終わりましたが「倉田雲平胸像」も、ある意味「最後の作品」です。

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それから「完成までに1年余りを費やした」。ひな形である小型試作の制作開始が昭和27年(1952)11月17日、七尺の本体原型が完成したのが翌年5月31日。1年かかっていません。さらにいうなら、このペースは光太郎としては異常に速いもので、その裏には自らの健康状態への不安があったと思われます。そこで、逆に「半年ほどで完成させてしまった」と書くべきですね。

その他、よく見かける誤りが、「乙女の像」台座の石が「福島産」であるとの記述。これは、地元の十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の皆さんの地道な調査等により、「岩手産」であることが判明しています。従来、この像を含む周辺一帯の設計をした建築家・谷口吉郎が「福島産の折壁石」とあちこちに書き記してしまったため、福島産と思われてきましたが、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。

追記:ちゃんと「岩手産のミカゲ石」と書かれた制作当時の新聞記事を見付けました。
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除幕直前、昭和28年(1953)11月15日の『毎日新聞』です。

さて、その点はともかく、『ブラタモリ⑭ 箱根 箱根関所 鹿児島 弘前 十和田湖・奥入瀬』二重カルデラとしての十和田湖や、奥入瀬渓流の特異な成り立ちなど、非常に興味深い内容です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

氏の詩は実に美しい。その美は実相の葉末に凝つた露滴のやうに自然に形成された美であつて、手先ばかりの作為が無く、偏局せず、破片でない。いつもまともで、精神の高さから生れてゐる。

散文「宮崎丈二詩集「白猫眠る」を読む」より
 
昭和7年(1932) 光太郎50歳

宮崎丈二は明治30年(1897)、銚子生まれの詩人です。大正期からさまざまな詩誌の刊行に関わり、それらに光太郎作品を積極的に載せていました。また、やはり光太郎と縁の深い岸田劉生とも交流があり、岸田の興した草土社にも参加するなど、画業でも優れた作品を遺しています。

やはり他者の詩の評ではありますが、詩とは斯くあるべき、という光太郎詩論が垣間見えます。

東北の新聞2紙から。

まずは青森の地方紙『東奥日報』さんの一面コラム。今月23日の掲載分で、先週行われた「十和田湖ウォーク」にからめでです。

天地人 2018年7月23日分

 夏の一日、久しぶりに十和田湖に出かけた。湖畔の「乙女の像」まで足を延ばしたのは、子どものころの遠足以来かもしれない。高村光太郎の晩年の傑作とされる一対の裸婦像は、十和田湖の美を象徴する。彫像の前に、にぎやかな女性旅行者たち。手を合わせるように向き合う乙女のポーズに興じながら写真を撮り合っていた。
 乙女の像から少し奥まった所にある十和田神社は近ごろパワースポットとして人気という。杉木立を抜け境内に入ると、バックパック姿の外国人旅行者が、ベンチに腰を下ろし、霊験あらたかな空気に浸っていた。
 一段と深みを増した緑がぐるり。水面(みなも)を渡る風がすうっと頬をなでる。湖上遊覧では圧倒的なパノラマに解放感を味わった。
 いつからか観光地としての衰退が叫ばれている十和田湖である。しかし悠久の時が創り出した雄大な自然美は、きらきらと多彩な表情を見せ、底知れぬ力を感じさせる。最近は、奥入瀬渓流のコケに注目したエコツーリズムや湖畔のカヌー体験など、新たな切り口でこの一帯の魅力を伝える体験型観光も増えているという。
 きのう全国から千人超が参加した十和田湖ウオークもその一つだろう。神秘の湖の周りを歩いて歩いて1周50キロ。存分にいい汗をかいた後の温泉や冷えたビールは、体にしみたに違いない。いつもよりずっと深い眠りも堪能できたのではないか。


確かにインバウンドの方々が目立つようになった十和田湖周辺ですが、国内の方々にも、もっと訪れていただきたいものです。


続いて『朝日新聞』さんの岩手版。昨日の掲載です。 

光太郎の花巻 再現 記念館でジオラマ公開

 彫刻家で詩人の高村001光太郎(1883~1956)が終戦後の7年間、山居生活を送った当時の花巻を再現したジオラマ模型が、花巻市太田の高村光太郎記念館の企画展「光太郎と花巻電鉄」で公開されている。
 模型は幅1・8メートル、奥行き1・2メートル。旧花巻町役場や花巻病院、光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ詩碑」、商店街や花巻温泉、高村山荘など約70の建造物とその風景が、実物の約150分の1のジオラマで再現されている。光太郎が移動手段として利用した「花巻電鉄」も再現され、「馬面電車」と呼ばれた独特の細い電車がジオラマの中を駆け巡っている。
 光太郎は東京のアトリエを空襲で失い、知人の賢治の実家を頼って花巻市に疎開、戦後の7年間は旧太田村山口(花巻市太田)の山小屋で暮らした。ジオラマは、光太郎が暮らした当時の雰囲気を伝える企画展の目玉で、東京都品川区のジオラマ制作者、石井彰英さんに依頼し、市内の光太郎研究の専門家が情報提供して制作されたという。
 同館は「光太郎は山荘にこもっていたのではなく、市街地や温泉にも出かけて多くの人と交流していた。懐かしい情景と光太郎の足跡を感じてほしい」。展示は11月19日まで(会期中、休館なし)。問い合わせは同記念館(0198・28・3012)。(溝口太郎)


今月14日に始まった花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」をご紹介下さいました。以前も書きましたが、各紙一斉に報じられるより、小出しにしていただけると、その都度読んだ方がいらしていただけるので、ある意味ありがたいところです。『岩手日日』さん、『読売新聞』さんではすでに報じられています。

しかし『朝日』さんの記事にある「市内の光太郎研究の専門家が情報提供」というのは、市内ご在住の『花巻まち散歩マガジンMachicoco(マチココ)』編集長の北山氏と、千葉県在住の当方がごっちゃになっているようです(笑)。


十和田湖、そして花巻。夏の旅行シーズン、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

詩とは人が如何に生くるかの中心より迸る放射のみ。定形無し、定理無し、定住無し、捉ふ可からず、しかも人中に遍漫す。故に詩は無限に変貌す。

散文「余はかく詩を観ず」全文 昭和2年(1927) 光太郎45歳

他にも佐藤春夫、堀口大学らの同じ題の文章が掲載されており、アンケートに分類してもいい内容ですが、『高村光太郎全集』では第8巻の評論の巻に掲載されています。

毎年開催されている「十和田湖湖水まつり」。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップが為されます。 

第53回十和田湖湖水まつり

期 日 : 2018年7月14日(土)・15日(日)
場 所 : 十和田湖畔休屋  十和田市十和田湖畔休屋486
時 間 : 14日・15日 10:00~21:00 16日は花火予備日

十和田湖の夏の観光シーズンの幕開けを告げるまつり。湖上花火大会には、イルミネーションに飾られた遊覧船が花を添え、特設ステージでは様々なイベントが行われます。
1966年(昭和41年)から夏の観光イベントとして毎年行われ、十和田湖の夏の風物詩となっています。

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7/5現在、公式サイトにまだ詳細な情報が出ていないのですが、おそらく昨年と同様の内容と思われます。

休屋地区、遊覧船の船着き場前にある十和田市さんの施設「観光交流センターぷらっと」では、今年の4月から、青森市ご在住の彫刻家。田村進氏の手になる光太郎胸像や、昭和28年(1953)、光太郎が「乙女の像」の制作のために実際に使用した彫刻用回転台の展示が始まっています。併せて御覧下さい。

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【折々のことば・光太郎】

谷口氏のこの言は、日本のいわゆる「駅頭風景」の乱雑な、造型の混迷、意匠の喪失を見て発せられた痛切な慨嘆の声であるが、この「路傍の形」の重大性を一国文化の消長にかけて確認しているのは、いかにもこの新鋭建築家の正しい神経を感じさせる。

散文「谷口吉郎著「意匠日記」書評」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

谷口吉郎は、「乙女の像」の台座を含む、一帯の広場全体の設計を担当した建築家です。

「この言」とは、「民衆の造型的センスは、カンバンに、ポスターに、そればかりでなくポストの形に、警官の制服のスタイルに、あるいは橋の形などに、はつきりと表現されてくる」「世相の造形的美醜こそ、民衆の美的水準を示す」といったものでした。光太郎、我が意を得たり、という感じだったのでしょう。

4/30(月)、秋田の小坂町立総合博物館郷土館さんで、「平成29年度新収蔵資料展」を拝見した後、レンタカーを十和田湖に向けました。

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途中の紫明亭展望台から。

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画像中央あたりに、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」があります。

昼前に十和田湖畔休屋地区に到着。まずは「乙女の像」にご挨拶。こちらも小坂町同様、今年の2月以来です。ただ、その時は、「十和田湖冬物語2018」期間中で、ライトアップされている夜間に参りましたが、地吹雪的な感じで立っているのも困難、早々に立ち去ってしまっていました。

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残雪をバックに見るのはおそらく初めてで、いい感じだな、と思いました。

その後、遊覧船の波止場近くにある、十和田市さんの施設「観光交流センターぷらっと」へ。平成26年(2014)にオープンした施設で、無料の休憩所と、十和田湖特産のヒメマスや、十和田湖を広く世に紹介した明治の文豪・大町桂月、そして光太郎に関する展示も行っています。光太郎コーナーの説明板は、当方が執筆させていただきました。

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入ってすぐ、以前にはなかったジオラマの展示があり、「おっ」という感じでした。

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スケール大きめの十和田神社さん。それから、休屋地区全体のものと、2点です。

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「乙女の像」もちゃんとありました。

続いて2階へ。先月から、新たな展示物が2点、加わっています。まずは、昨夏寄贈された、光太郎胸像。作者は青森市ご在住の彫刻家・田村進氏です。平成元年(1989)、青森県中泊町に設置された、太宰治肖像「小説『津軽』の像(太宰治とたけ)」を制作したことで知られています。

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台座部分は新たに制作されました。刻まれている題名は「冷暖自知光太郎山居」。光太郎が、昭和20年(1945)10月から同27年(1952)10月までの7年間、戦時中の戦争協力を恥じ、岩手県花巻郊外旧太田村の粗末な山小屋に蟄居生活を送っていた当時の肖像彫刻で、直接のモチーフは、昭和24年(1949)10月、太田村の光太郎のもとを訪れた写真家の濱谷浩が撮影した写真です。

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「冷暖自知」とは「仏法の悟りは、人から教えてもらうものでなく、氷を飲んでおのずからその冷暖を知るように、体験して親しく知ることのできるものである。」(岩波書店『広辞苑』)の意。大正元年(1912)作の光太郎詩「或る宵」中の「彼らは自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた/曾て裸体のままでゐた冷暖自知の心を―― 」という一節に使われています。

題字揮毫は、晩年の光太郎と親しく交わり、その没後は筑摩書房『高村光太郎全集』の編集に当たるなどした、光太郎顕彰第一人者にして、当会顧問の北川太一先生です。

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力強い彫刻です。写真は拝見していましたが、実物は初めてで、想像していたよりも大きく、その点でも驚きました。

それから、こんなものも。

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これは一体何なのか、ということになりますが、下の方に写っている台がメインです。

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何とこちらは、昭和27年(1952)から翌年にかけ、東京中野のアトリエで、光太郎が「乙女の像」制作の際に使っていた彫刻用の回転台なのです。

当時の写真がこちら。

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この写真にも写っている、「乙女の像」制作の際の助手だった、青森野辺地出身の彫刻家・小坂圭二がこの台を譲り受け、さらに平成4年(1992)の小坂の歿後、小坂に師事した彫刻家・北村洋文氏の手に渡り、やはり昨年、北村氏から十和田市さんに寄贈されました。

昨夏、当方、その関係で千葉船橋の北村氏の工房にお邪魔し、現物を確認して参りました。その際の写真がこちら。

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金具は「サスペンダー」というそうで、上に載せた彫刻を固定するためのものですが、これも当時のものです。はじめにこの寄贈の話が出たのは一昨年くらいだったと記憶していますが、よくぞこれが残っていた、否、残して下さっていた、と感激しました。

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船橋から十和田へのトラックでの輸送やら、クレーンを使ってのぷらっと2階への据え付けやらも、大変でした。何せ、総重量が250キログラムほどある代物です。

上の分厚い木の板を外すと現れる金属の回転機構部分、これが何と、戦時中の高射砲の部品なのです。

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昭和28年(1953)5月26日付の『東京新聞』さんに載った、「生活に流れる〞詩〟を拾つて 美術映画「高村光太郎」クランク・イン」と言う記事に「戦争の道具を平和な仕事に使つてるんです」という高射砲台座の回転台をまわしたりするところを丹念に撮影」という記述があります。ちなみに今もスムーズに回転します。

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像の顔や手などの高い部分の制作では、光太郎は脚立に登り、下で助手の小坂が回転台を廻して使っていたのだろうと思われます。

戦時中の高射砲はこちら。この根元の部分ですね。ただ、写真は八八式野戦高射砲ですが、高射砲も○○式という型番がいくつかあり、自走式になっているもの、据え付け式のものなど、バリエーションが色々あるようで、そのどれなのかまでは特定できませんでした。

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今回、十和田湖まで赴いたのは、新たに寄贈されたこの2点を拝見するためで、さらにこの2点の説明板の執筆を頼まれました。現在は何のキャプションもなくただ置いてあるだけで、特に回転台の方は一般の人が見てもその正体が何なのか、わからないでしょう。出来るだけ早く原稿を仕上げ、十和田に送るつもりです。

その辺りの打ち合わせを十和田市の観光推進課長・山本氏と致しまして、その後、千葉の自宅兼事務所に帰りました。

十和田湖、これから新緑のいい季節でしょう。皆様もぜひ足をお運びの上、「ぷらっと」にお立ち寄り下さり、新たな展示を御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は一人の男性としてあらゆる女性の内に潜む母性の愛に跪くものである。さうして其によつて浄められようとするものである。無限の奥行あるその深みから幾度でも人を蘇らせる幽妙なその力を受けようとする者である。

散文「母性のふところ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

智恵子の顔を持つ「乙女の像」、そこにも光太郎は「母性」を感じていたのかもしれません。

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東北レポートの2回目、青森十和田湖……に、行く前に、昨日書きました秋田県小坂町の件が報道されていますので、ご紹介します。

高村光太郎の手紙新たに多数発見

 彫刻家で詩人の高村光太郎が出版社と編集の相談をした手紙など、34通が新たに見つかり、3月から秋田県小坂町の博物館で展示されることになりました。
 手紙は高村光太郎が昭和17年から29年にかけて、出版社「龍星閣」の代表、澤田伊四郎さんに送った67通で澤田さんの自宅でもあった東京・千代田区の龍星閣で遺族が保管していました。
 澤田さんが秋田県小坂町出身だったことから小坂町に寄贈され、町や専門家が調べたところ、34通が未公開であることがわかりました。
 高村光太郎は龍星閣から代表作の詩集「智恵子抄」を出版していて、昭和24年12月の手紙では、続編にあたる「智恵子抄その後」の出版について、高村は「まづものにならないと思ひます」などと書いていて、出版に乗り気ではなかったことがわかります。
 岩手県花巻市の高村光太郎記念館のアドバイザーを務める小山弘明さんは「これほどの量の手紙が見つかることはあまりなく、驚いた。出版の経緯なども書かれ、文学史的にも価値が高い」と話しています。
 手紙は、3月11日から小坂町の総合博物館郷土館で開かれる企画展で一般公開される予定です。
(2018/02/14 NHK NEWSWEB秋田)

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秋田ではNHKさんのローカルニュースで放映されました。当方も出演させていただきました(笑)。

高村光太郎の書簡34通発見 秋田

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年001)が詩集出版を巡り編集者とやりとりした書簡34通が、秋田県小坂町で見つかった。いずれも全集に収められておらず、担当者は「高村研究の空白部分を埋める価値がある」としている。
 小坂町立総合博物館郷土館の安田隼人学芸員(34)によると、書簡は1942~54年のもの。代表作の詩集「智恵子抄」の続編「智恵子抄その後」について「ものにならないと思います」と記しており、高村が出版にあまり乗り気ではなく、書籍として売れるかどうか不安を感じていたことがうかがえる。
 青森県十和田市の湖畔に立つ高村最後の彫刻「乙女の像」を巡り、設置場所の視察のため「十和田湖を見に行くことになりそうです」などと書いたものもある。
 書簡の相手は、詩集を出版した竜星閣(東京都千代田区)の元社長で、小坂町出身の故沢田伊四郎氏。昨年5月ごろ、同社から高村など複数の作家や画家の書簡、メモ類を寄贈された町立総合博物館が調査していた。
 同館は3月11日~5月20日、今回見つかった書簡34通を無料で一般公開する。
(2018/02/14 共同通信)


共同通信さんの配信を元に、『日本経済新聞』さんや全国の地方紙に記事が載ったようです。


さて、そちらの調査中に、青森県十和田市役所の山本様が車で迎えに来て下さり、十和田湖へ。十和田湖も西半分は小坂町ですが、県境を越えた青森側の休屋地区で、「十和田湖冬物語2018」が開催中です。当方、平成26年(2014)に一度お邪魔し、2度目でした。

まずはライトアップされている光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を見に行きました。4年前は湖畔を歩いていきましたが、今回は十和田神社さんの参道を歩きました。こちらには雪灯籠的なものが設置されています。画像は山本様の撮影したもので、写っている不審な男は当方です(笑)。

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この辺りは除雪もきちんとなされ、さらに杉並木などの樹木のおかげでしょうか、雪はそれほどではありませんでした。ところが、「乙女の像」近くまで行くと、まともに湖からの風雪が舞って来ており、道なき道。

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「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」(「道程」大正3年=1914)状態でした(笑)。

ちなみに明朝、NHK Eテレさんの幼児向け番組「にほんごであそぼ」中で、坂本龍一氏作曲の「道程」が放映されます。以前に放映されたものの使い回しですが。 

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2018年2月16日(金)  6時35分~6時45分   再放送 2018年3月2日(金) 6時35分~6時45分

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。
今週は、リクエスト&ちょい暗記特集! 鈴と、小鳥と、それから私。みんなちがって、みんないい。「私と小鳥と鈴と」金子みすゞ、花鹿亭/「不老不死」桂宮治、投稿ちょちょいのちょい暗記/8級「寿限無」、歌/道程、私と小鳥と鈴と。

出演 美輪明宏 三世桐竹勘十郎 小錦八十吉 桂宮治 ほか


閑話休題。ライトアップされた「乙女の像」。

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画像ではわかりにくいところですが、湖からの風が積もった雪を舞い挙げ、地吹雪となっていました。この像へのオマージュとして作られた光太郎詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)には、「すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで/天然四元の平手打をまともにうける/銅とスズとの合金で出来た/女の裸像が二人/影と形のやうに立つてゐる。」とありますが、まさしくそういう感じでした。


その後、メイン会場へ。

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陸上自衛隊八戸駐屯地の隊員さんたちが002作った大雪像兼メインステージでは、さまざまなパフォーマンス。それから、パビリオン的に、かまくらバーやかまくらチャペル、雪の滑り台などなど。

青森県側なのに、なぜか「秋田犬コーナー」も。おりこうさんなわんこで、モフモフでした(笑)。

昨秋、BS朝日さんで放映された「暦を歩く #140「乙女の像」(青森県十和田湖)」に、女将さんがご出演なさった十和田神社さんの鳥居近くのもりた観光物産さんが出されているプレハブのお店で夕食をいただきました。

外はマイナス10℃。低温のためスマホの電源が落ち、入らなくなった時もあった状態でしたので、生き返りました。

メインイベントは、午後8時からの花火。直前には大雪像を使ったプロジェクションマッピングで、「乙女の像」も写りました。

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幻想的な光景に、歓声が上がっていました。


「十和田湖冬物語2018」、今月25日の日曜日までです。ぜひ足をお運びください。

この後、また山本様に小坂町まで送っていただき、宿泊。翌日は岩手。明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

われわれは古代人の闊達な心を以て世界のあらゆる美を併呑し駆使し、日本の持つ美の源泉から更に新鮮無比な未曾有の美を創造して、あまねく其の光を以て世界を包みこむやうになる時代に向つて邁進せねばならないのである。
散文「内面的力量の問題」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

太平洋戦争中の文章ということで、きな臭さも感じられますが、趣旨としては誤りではありませんね。

今年もこの季節になったか、という感じです。毎年ご紹介している青森県十和田湖畔でのイベントの情報です。

十和田湖冬物語2018

冬の澄んだ夜空に打ちあがる花火をはじめ、乙女の像ライトアップ、ゆきあかり横丁、人気のグリューワイン、幻想的なイルミネーション…
この他、様々なイベントをご用意しております。
ご家族、ご友人、恋人と…十和田湖の冬をお楽しみください♪

開催期間 : 平成30年2月2日(金)~2月25日(日)
時  間 : 平日:15:00~21:00  土日祝日:11:00~21:00
会  場 : 十和田湖畔休屋特設イベント会場 
       青森県十和田市大字奥瀬字十和田湖畔休屋486番地

問合せ先 十和田湖冬物語実行委員会【事務局:(一社)十和田湖国立公園協会】 
     0176-75-2425

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例年どおり、光太郎最後の大作にして、十和田湖のシンボルともいうべき「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップがなされます。
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その他、こちらもライトアップされる陸上自衛隊さんによる大雪像、その前でのステージイベント、光のゲート&トンネル、雪のすべり台やかまくら、湖上遊覧船のイルミネーション、そして毎日20時からの打ち上げ花火など、盛りだくさんの内容です。食のコーナーや体験コーナーも充実。なぜか青森なのに秋田犬コーナーも(笑)。

最近はアクセスもしやすくなりました。東北新幹線の七戸十和田駅、八戸駅からシャトルバスが出ていますし、さらに弘前から周遊観光バスも出ます。

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当方、来月半ばに別件で、やはり十和田湖畔に位置する秋田県小坂町に参ります。ついでと言っては何ですが、久々に冬物語も拝見する予定でおります。

皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

美は到るところに在る。美は又到るところに創り得る。

散文「比例均衡」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

しかし、一つの大きな自然の理法――比例均衡――にのっとったものでなければ、美たり得ないと論が展開します。そうした意味では、十和田湖畔における「乙女の像」の比例均衡の美は、やはり現地に行って観ないと、実感できません。

先月末、青森県十和田市で講演をして参りました。題して「、「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」。その際のレポートがこちら

主催の三本木小学校地区安全・安心協働活動協議会代表の佐藤様が、地方紙『デーリー東北』さんに載った記事を郵送してくださいました。

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恐縮です。

前後して、青森県上北地域県民局さんからは、DVDが送られてきました。以前に制作に協力した観光PR用のもので、「~水と森が生命(いのち)を紡ぐ(つむぐ)~ 「十和田湖「深」発見(「しん」はっけん)の旅」 」。3月くらいには完成していたようですが、どうも手違いがあったようで、こちらに届いておりませんでした。

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「監修協力」ということで、ジャケットに名前を載せていただいております。

早速、拝見。

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チャプターが7つに分かれており、当方の監修協力は最後から二つ目の「乙女の像ストーリー ~乙女の像と人々の想い~」と題された部分です。前半部分を執筆し、一昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍の内容を元に作られています。

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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作経緯などを、当時の画像や動画を交えて紹介しています。

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元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念する事業として、指定の礎を築いた作家・大町桂月、元知事・武田千代三郎、元村長・小笠原耕一の三人を顕彰するモニュメントとして、太宰治の実兄・津島文治知事が光太郎に依頼しました。

間に入ったのが、佐藤春夫。さらに草野心平らが光太郎を助け、完成にこぎつけました。

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並行して光太郎の生涯もダイジェストで紹介。

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ブリヂストン美術館さん制作の美術映画「高村光太郎」(昭和29年=1954)や、「乙女の像」除幕式の記録フィルムからの動画も。

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よくまとまっていました。


また、前半の「歴史と文化 ~History&Culture」の部分でも、「乙女の像」の紹介が。やはり昔の動画が使われています。

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それ以外の部分でも、ところどころに「乙女の像」。

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チャプター5の「アクセス~Access~」までは、一括してyoutubeにアップされています。


「歴史と文化 ~History&Culture」の「乙女の像」紹介は15分25秒くらいから。

「乙女の像ストーリー ~乙女の像と人々の想い~」の部分は、残念ながらyoutubeにはアップされていないようです。

DVDとしては非売品のようですが、関係機関等には配布されていると思われます。広く活用されてほしいものです。


ついでと言っては何ですが、やはり先月末にオンエアされた、BS朝日さんの「暦を歩く #140「乙女の像」(青森県十和田湖)」。5分間番組で、「私たちが愛唱してきた「歌」を通して、日本の風景を見つめ直す番組です。それぞれの歌に息づく日本人の原風景を、一篇の詩のような美しい映像でお届けします。」というコンセプトだそうです。

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講演の翌日、十和田湖に行った際、十和田神社さんの鳥居近くのもりた観光物産さんの女将さんに、ロケがあったという話は聞いておりました。ところが、オンエアを見てびっくり。なんと、女将さんがご出演。そういう話は聞いていませんでした。

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この番組は再放送がないようで残念ですが、美しい映像や、そこに息づく人々の想いなど、残すべきもののように思われます。他の回と一括してDVD化などされないものでしょうか。


【折々のことば・光太郎】

ヤマト民族よ深く立て。 地盤の岩盤を自分の足でふんで立て。

詩「岩盤に深く立て」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

サンフランシスコ講和条約の発効による、連合国による占領の終結が背景にあります。

それから66年経ちました。しかし、宗主国の親分が来れば、ポチが尻尾を振ってお出迎えする状態。結局はいまだに「ヤマト民族」は「自分の足で」「立て」ていないようですね。

十和田湖でチラシをゲットして参りました。

奥入瀬渓流エコツーリズム市民のつどい

期   日 : 2017年10月27日(金)
会   場 : 十和田市民文化センター 青森県十和田市西三番町2-1
時   間 : 13:00~
料   金 : 無料
問い合わせ : ℡ 0176‐22‐5200

第1部 講演 元外務大臣 田中真紀子氏 「神秘の奥入瀬渓流に魅せられて」
第2部 コンサート コールアゼリア(十和田市) 「湖畔の乙女」「出逢いを求めて」「奥入瀬大滝の歌」「奥入瀬」

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第2部で、地元十和田市の合唱団「コールアゼリア」さんがご出演、ご当地ソングを披露なさいます。

「湖畔の乙女」は、作詞・佐藤春夫。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」へのオマージュとして作られました。作曲は県立三本木高校の教諭だった長谷川芳美。同校生徒によって、乙女の像除幕式(昭和28年=1953)の際に披露されました。

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昭和39年(1964)には、本間千代子さんの歌唱でコロムビアレコードからリリースされ、ヒットしました。地元のバスガイドさん達が必ず歌ったり、今回演奏されるコールアゼリアさんがレパートリーにされたりして、歌い継がれてきました。


先日開催された当方の講演会「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」でも、最後に会場の皆さんで大合唱。講演でパワーポイントを使いましたので、その流れでカラオケ風のスライドを作りました。

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今回演奏される「奥入瀬大滝の歌」も、佐藤春夫・長谷川芳美コンビの作です。

「出逢いを求めて」は、昭和61年(1986)、芹洋子さんの歌でリリースされました。サブタイトルが「十和田湖へ」。こちらもご当地ソングで、乙女の像も詠み込まれています。当方、平成8年(1996)のシングルCDを持っています。

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昭和61年(1986)版のアナログレコードは、十和田国立公園50周年記念、平成8年(1996)版のCDは同60周年記念。どちらも青森県の肝煎りのようです。当方の持っているCDの題字は、当時の青森県知事・木村守男氏の揮毫です。

現在の三村知事も多方面でご活躍中ですが、乙女の像の発願も、当時の知事・津島文治。太宰治の実兄です。そうした観光PRに力を入れる伝統のようなものがあるのでしょうか。良いことだと思われます。

ちなみにアナログレコードには、ジャケットに乙女の像をあしらった青森観光連盟発行の特別盤があるそうです。B面なしの片面盤だそうで、珍しいものですね。

こうしたご当地ソング、今後とも歌い継がれていって欲しいものです。


日曜日には、「湖畔の乙女」関連のテレビ番組放映があります。

暦を歩く #140「乙女の像」(青森県十和田湖)

2017年10月29日(日)  20時54分~21時00分

日本には四季がある、歌がある−。 草木や花々、川の流れや空の色、多様な生きものたち、人々の日々の暮らしや祭り…。 私たち日本人は、一年の時の移ろい=「暦」を四季折々の「歌」に織り込み、この国ならではの感性を磨いてきました。私たちが愛唱してきた「歌」を通して、日本の風景を見つめ直すとともに、それぞれの歌に息づく日本人の原風景を、一篇の詩のような美しい映像でお届けします。

「あはれ いみじき 湖畔の乙女 ふたりむかひて 何をか語る」
紅葉の名所として知られる、青森県の十和田湖。湖畔には、二人の乙女が向かい合った像が佇んでいます。昭和28年の秋にお披露目されたこの像は、高村光太郎の最後の彫刻作品です。この像の制作を支えた佐藤春夫は、「湖畔の乙女」という詩を紡ぎました。この歌は、後に本間千代子が歌い、全国に知られるようになりました。

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5分間番組ですが、毎回、全国各地の美しい風景に乗せて、いい作りになっています。今年1月放映第99回でも、智恵子の故郷・福島二本松ロケで、「智恵子抄」に触れて下さいました。

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ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

大きくバトンを宙にゑがいて このニツポンのもろもろの美を つよくメイジヤアの積極調にたて直せ。

詩「あいさつ」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

ニツポンのマイナア調を暫くすてよ。」で始まるこの詩、わびさびに代表される日本人の気質―それはそれで奥ゆかしいものではあるけれども―を見直し、世界に通用する「積極調」に立て直せ、と述べています。

第二次大戦による全世界の悲惨な被害、それも復興しないうちに緊張が高まる東西冷戦。その中で敗戦国ニッポンの行く末が案じられています。

10/21(土)、つつがなく講演「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」を終え、翌日は、その「乙女の像」を観に行きました。約2年ぶりでした。

前日に続き、十和田市役所観光推進課にお勤めで、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会員でもあられる山本様が車を出して下さり、十和田市街の宿泊先から、十和田湖へ。

途中のかつて光太郎も訪れた奥入瀬渓流。台風21号の影響で小雨でしたが、紅葉の見頃でした。

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渓流沿いの国道102号線を上りきり、十和田湖畔・子(ね)の口から左折、乙女の像の建つ休屋(やすみや)地区を目指しました。

途中の宇樽部地区にあった、昭和27年(1952)、翌28年(1953)にそれぞれ光太郎が一泊した旅館「東湖館」の建物が、老朽化のため解体されてしまっていました。一昨年にはまだ健在だったのですが、残念です。

さて、休屋地区に到着。十和田神社さんの鳥居近くのもりた観光物産さんの駐車スペースに車を駐めさせていただきました。こちらの女将さんは十和田湖国立公園婦人部副会長。十和田湖にお邪魔した際には、ほぼ毎回立ち寄らせていただいております。

十和田神社さん。

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そして、乙女の像。まだ8時過ぎくらいでしたが、既に小雨の中、観光客の皆さんが多数。ありがたいことです。

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当方、2年ぶりに観る乙女の像ですが、何度観ても飽きることがありません。

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周りの木々の紅葉も見事でした。


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再会を約して、像としばしのお別れ(次は来春に訪れるつもりです)。もりた観光物産さんに寄り、土産を購入、お茶をいただき、十和田湖をあとにしました。

山本様の車で、七戸十和田駅まで送っていただき、新幹線に乗車。風雨が強ければそのまま帰るつもりでしたが、まだそれほどでもなかったので、智恵子の故郷・福島二本松に立ち寄りました。14日から始まった恒例の「二本松の菊人形」を観るためです。

ここ数年、光太郎智恵子の菊人形が出ており、もうそれが定番となるのかな、と思い、過日、二本松市コンサートホールで開催された「震災復興応援 智恵子抄とともに~野村朗作品リサイタル~」を拝聴に行った際に、設営中だった菊人形会場の霞ヶ城公園に行ってみました。その折に、会場で作業をされていた方にうかがったところ、今年は光太郎智恵子の人形はない、とのことでしたが、自分の目で「ない」ことを確かめたく思っておりました。また、光太郎智恵子人形はないにせよ、お世話になっている二本松観光大使にして女優の一色采子さんのお顔から型を取った人形や、現代アートの「重陽の芸術祭2017」がらみも観たかったもので。

さて、会場の霞ヶ城公園。

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少しずつ雨脚が強くなってきまして、足早に会場内へ。

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今年のテーマは、「「EDO TRIP 菊花繚乱!徳川時代絵巻」だそうです。

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このあたりが、一色さんの人形なのかな、という感じでした。

会場内には、「重陽の芸術祭2017」の一環として、福島大学の学生さんによる墨絵作品「百鬼夜菊」。お化け屋敷的なブースでした(笑)。

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最後まで会場内を歩きましたが、やはり光太郎智恵子人形、今年はありませんでした。昨年、それがあったガーデンゾーンの同じ場所には、七福神と二本松少年隊の人形。残念でしたが、いたしかたありません。

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会場を出て、天守台方面にあるはずの現代アート作家のヤノベケンジさんによる巨大な猫のモニュメント、お城の紅葉も観たかったのですが、ズボンがびしゃびしゃになってきて、断念。これで帰りました。


ところで、別件ですが、紅葉と言えば、今日のテレビ放映。今年の1月に初回放映があった、光太郎智恵子も紹介されたNHK BS1の番組の再放送があります。 

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」

NHK BSプレミアム 2017年10月24日(火)  12時00分~12時30分 

北アルプスの玄関、長野・上高地。今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

出演 仲川希良  語り 渡部沙弓

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テレビ放映と言えば、今週土曜には、乙女の像がらみの番組も。長くなりましたので、そちらは明日、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

人類がかかげる一つの意慾。 何と烈しい人類の已みがたい意慾が ぎつしりこの新年につまつてゐるのだ。

詩「この年」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

翌年元旦の『読売新聞』のために書かれた詩の一節です。

第二次大戦が終わって4年と数ヶ月。いまだ世界情勢は不安定ながら、平和を希求する人類全体の声を代弁しています。しかし、それと裏腹に、翌年には朝鮮戦争が勃発。いつの時代もかかげる「意慾」と現実のギャップが大きい、困った「人類」です……。

一昨日行われた十和田市立三本木小学校地区安全・安心協働活動協議会さん主催の講演会、「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」講師を仰せつかり、1泊2日で青森に行って参りました。レポートいたします。

早い時は自宅兼事務所最寄り駅を午前4時台に出る始発列車に乗るのですが、一昨日は講演会が夜の開催でしたので、ゆっくり出かけました。

東北新幹線で八戸駅に到着したのが午後2時過ぎ。十和田市役所観光推進課にお勤めで、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会員でもあられる山本様がお迎えに来て下さり、翌日まで運転役を務めて下さいまして、非情に助かりました。

まず向かったのは、八戸クリニック街かどミュージアムさん。

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こちらで開催中の「5周年記念秋期展旅と名所――広重から北東北の新版画・鳥瞰図まで」を拝見。広重の浮世絵、川瀬巴水(光太郎と同じ明治16年=1883生まれです)の新版画、そして吉田初三郎の鳥瞰図などで、北東北の風景を扱ったものがメインでした。

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その中で、やはり地元に関わるお宝ということで、光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために習作として作った手を鋳造したもの、それから同じく「乙女の像」の中型試作の首の部分だけが展示されていました。

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「手の習作」は3月に千葉県立美術館さんで拝見して約半年ぶり、中型試作の首だけ、というのは初めて拝見しました。どういう経緯で首だけの鋳造が存在するのか、当方にも分かりません。

これらすべて、八戸クリニックさんのご先代の個人コレクションから始まったそうで、地元に関わるお宝ということでコツコツ集められたとのこと。頭が下がります。


その後、一路、十和田市街へ。

一泊お世話になる十和田シティホテルさんにチェックイン、不要な荷物を置いていきました。

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講演会のポスターを掲示して下さっていました。

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画像右は、階段に飾られていた色紙。よくある、ここに宿泊した芸能人のサインがずらっと並んでいる中の1枚です。清水邦夫氏作・演出の舞台「哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―」で光太郎を演じられた小林勝也さんのお名前が真っ先に目に入り、「あれっ」と思ってよく見てみました。すると、「哄笑」の十和田公演の際のもので、驚きました。帰ってから調べましたところ、「哄笑」、たしかに平成5年(1993)に十和田市公演がありました。

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ちなみに小林さん、昨年のNHKさんの大河ドラマ「真田丸」では、前田利家役で存在感を放たれていました。智恵子役の松本典子さんは平成26年(2014)にご逝去。この方々の泊まった宿に泊まるかと思うと、感慨深いものがありました。


さらに、灌漑事業などで十和田の開発に功績のあった、新渡戸三代の銅像を拝見。

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こちらは野辺地潮出身の彫刻家、小坂圭二の作品です。小坂は「乙女の像」制作に際し、光太郎の助手を務めた人物です。

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そんなこんなで、講演会場の東公民館さんに到着。心配していた天気も、開会まではもちました(やはり途中で雨になりましたが)。それから、もう一つ心配していたお客さんの入りも、定員200名には届きませんでしたが、130ほどはお集まり下さったとのことで、ありがたいかぎりでした。

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午後6時、開会。主催の三本木小学校地区安全・安心協働活動協議会佐藤やえさんのご挨拶。

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この日がちょうど、十和田湖畔に「乙女の像」が除幕された日ということで、乙女像64回目の誕生祝い(笑)。右に座られている方は光太郎だそうで(笑)。

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その後、当方の講演に入りました。パワーポイントでスライドショーを展開しつつ、前半は光太郎の生涯をダイジェストで、後半は「乙女の像」について、約2時間でした。聴きにいらして下さった十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんの方が、レポートして下さっています。過分なお褒めの言葉に恐縮です(汗)。そちらから画像を拝借。

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無事終了後、三本木小学校地区安全・安心協働活動協議会の皆さん、十和田市役所の皆さんなどと打ち上げ。巨大なホタテなど美味しい青森の海産物をいただき、大満足でした。

翌日は十和田湖方面へ。明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

野放しの一人民には違ひないこの微生物の 太田村字山口のみじめな巣に 空風火水が今日は荒れる。 嵐に四元は解放せられ、 嵐はおれを四元にかへす。
詩「山荒れる」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

野放しの一人民には違ひないこの微生物」は、光太郎。大宇宙の中のちっぽけな存在に過ぎない、という意味です。

空風火水」の「四元」は、のちに「乙女の像」完成後に像を謳った「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)でも、「すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで/天然四元の平手打ちをまとにうける」として使われます。

通常は「地水火風空」の五大元素として、仏教にもつながるインド哲学に出てくるものですが、なぜか「四元」。このあたり、少し調べてみます。

昨日から1泊2日で、青森に行っており、さきほど帰宅いたしました。

昨日は八戸で美術館拝観、十和田市街で講演、今日は奥入瀬渓流を通って十和田湖、そして帰りがけに福島二本松に寄りました。

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道中、台風の影響はあまりなかったのですが、帰ってきてから、暴風雨の中、愛犬の散歩(笑)。自宅兼事務所敷地内では、排泄をしませんので……。東北遠征より、それで疲れてしまいました(笑)。

詳しくは明日以降、レポートいたします。

今日から1泊2日で、青森県十和田市に行って参ります。

メインは当方の講演で、十和田市立三本木小学校地区安全・安心協働活動協議会さんの主催で、題して「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」。

ちょうど64年前の今日、十和田湖畔休屋御前ヶ浜に、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕されたので、そのメモリアルデーに合わせての開催です。

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現地では、数年前から十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の皆さんが、「乙女の像」を見直す活動をいろいろと展開して下さり、同会編集・刊行の『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍で、前半部分を執筆させていただきました。そのうちのジュブナイル「乙女の像のものがたり」を、同市の劇団「エムズ・パーティー」さんが朗読劇として上演して下さったり、DVD化して下さったりもしています。

平成26年(2014)には、十和田湖畔に十和田市の施設「十和田湖観光交流センターぷらっと」がオープンし、展示コーナーのうち、光太郎に関わる部分のパネルを執筆させていただいたり、昨年はATV青森テレビさんで製作された特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」に出演させていただいたりもしました。

そんなこんなで今回の講演会が実現しました。ありがたいことです。

昨日の地方紙『東奥日報』さんに、告知記事が出たとのこと。

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「定員200人」というのがプレッシャーです(笑)。別に200人を前にしゃべるのは苦痛ではありませんが、果たして何人集まるかと、そっちです(笑)。

間に入っていただいた十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の方からのメールに、「乙女の像の誕生日ということで、ケーキを献菓することにしていますが、そのときに乙女の像や光太郎が登場するそうです。」という一節がありました。

堅苦しい話ばかりでなく、こういう楽しい催しも企画されているようですので、お近くの方、ぜひどうぞ。


ついでというと何ですが、十和田湖まで足を伸ばし、「乙女の像」を約2年ぶりに観て参ります。また、「乙女の像」のための手の試作をブロンズに鋳造した作品が展示されている、八戸クリニック街かどミュージアムさんで開催中の「5周年記念秋期展旅と名所――広重から北東北の新版画・鳥瞰図まで」も拝見して参ります。

詳しくは帰りましてから。


【折々のことば・光太郎】

おれはのろまな牛(べこ)こだが じりじりまつすぐにやるばかりだ。

詩「鈍牛の言葉」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

光太郎は、その若き日から自らを牛に例えた詩を作っています。大正2年(1913)には、そのものずばり「牛」という115行にもわたる長大な詩を書きました。「牛はのろのろと歩く」というフレーズがリフレインされ、「じりじりまつすぐにやる」と呼応しています。

時にその道を踏み誤ることもあった光太郎ですが、牛のように「のろのろ」「じりじり」というスタイルは、終生ぶれませんでした。そうありたいものですね。

手前味噌になりまして恐縮ですが、当方が講師を務めさせていただきます講演会が、青森十和田市で開催されます。 

三本木小地区安全・安心協働活動協議会講演会「知っておきたい! 乙女の像ものがたり~秘められた光太郎の思い~」

期   日 : 2017年10月21日(土)
会   場 : 十和田市立東公民館 十和田市大字三本木里ノ沢1-240
時   間 : 18:00~20:30 
料   金 : 無料 申し込み不要
講   師 : 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
問い合わせ : 三本木小地区安全・安心協働活動協議会・佐藤☎ 090-4552-2375

昭和28年10月21日は、乙女の像の誕生日。今年で64歳になります。乙女の像は、国立公園指定15周年記念事業として、十和田開発に功績のあった三氏を顕彰するために建てられました。なぜ『智恵子抄』で知られる高村光太郎が制作することになったのか、なぜ2体が向き合っているのか、光太郎のどんな思いが込められているのか…etc。十和田湖のシンボルに秘められた歴史と浪漫を紐解きます。

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今月号の『広報とわだ』さんに紹介が載りました。

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途中で休憩を挟み、100分ほど。前半は、光太郎の生涯をダイジェストで、後半は「乙女の像」について詳しく、と考えております。一昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集による『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍が刊行され、前半部分を執筆し、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」についてがっつり調べましたので、その成果です。プロジェクタで画像等を投影しながら、また、光太郎の肉声も流す予定です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


十和田湖、といえば、昨夜というか今日未明、地上波TBSテレビさんで放映された「タビフク。#63十和田湖・奥入瀬」。存じませんでしたが、この番組は2週間でワンセットとなっており、来週12日(木)のやはり未明に後編が放映されます。

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出演は、NHKさんの朝ドラ「ひよっこ」に出演されていた小島藤子さんと、やはり女優の宮崎香蓮さん。

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前編は、十和田市現代美術館さん、南部裂織の里さん、そして十和田プリンスホテルさんでした。

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来週の後編では、十和田湖、奥入瀬渓流だそうです。

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タビフク。#64「十和田湖・奥入瀬 後編」小島藤子&宮崎香蓮

地上波TBS 2017年10月11日(水) 25時58分~26時28分(10月12日(木)午前1時58分~2時28分)

プライベートでも仲の良い二人が究極のおしゃれ女子タビに。ひよっこの寮長・小島藤子&女優・宮崎香蓮が青森県・十和田湖・奥入瀬渓流へ。
素敵な日本の風景、極上のホテルルーム、あこがれのおしゃれ女子女子たちとまばゆいファッション・・・オンナの子の憧れがいっぱいにつまった番組。高精彩の4Kカメラにより撮影されています。残念ながら現在の地上波TVでは2Kフルハイビジョンでの放送となりますが、それでも映像の美しさは格別です。ぜひ極上の日本の風景をお楽しみください。

出   演   者 小島藤子&宮崎香蓮
番組案内役 タビフク。コンシェルジュ 季葉(きわ)

「乙女の像」、ちらっとでもいいので写ってほしいものです。


さて、今日は智恵子の命日「レモンの日」。今から智恵子の故郷・二本松に行って、連翹忌等でお世話になっている一色采子さんの出演される公演「智恵子・レモン忌 あいのうた」を拝見して参ります。


【折々のことば・光太郎】

小学校の教育は大学の教育よりも大切です。 本当の人間の根源をつくるからです。
詩「お祝のことば」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

光太郎が蟄居生活を送っていた、花巻郊外太田村山口地区の山小屋の近くにあった太田小学校山口分教場。
近くといっても、山小屋から500メートルほど離れていましたが、その間には民家は一軒もありませんでしたので、最寄りの建造物といえば、これでした。光太郎が山口地区に移り住んだ昭和20年(1945)秋、山小屋が落成するまで、ここの宿直室に1ヶ月ほど寝泊まりしていました。

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その後も、郵便物はここまでしか届けてくれず、光太郎が散歩がてら取りに行って職員室でお茶を飲みながらだべったり、児童が山小屋に届けてくれたりしていました。そうした縁もあり、児童や教職員と光太郎は深い交流を持ち、光太郎は「風の又三郎」の学校のようだ、と評していました。

分教場から山口小学校へと昇格したのは昭和23年(1948)。光太郎は落成式に招待され、この詩を朗読しました。従来、生前に活字になった記録が確認されていませんでしたが、地方紙『花巻新報』の、この年12月7日の号に載った開校式報道の中で引用されていたことが判明しています。

昭和45年(1970)には閉校、その後、市の歴史民俗資料館として活用されていましたが、平成の初め頃、老朽化のため解体されました。

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跡地にはスポーツキャンプ村屋内運動場(通称・高村ドーム)が建設され、毎年5月15日の高村祭が雨天の場合の会場として使われています。また、光太郎が校訓として贈った「正直親切」の書を刻んだ碑も建てられています。

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昨日に引き続き、光太郎彫刻が展示されている企画展の情報です。

状況をわかりやすくするために、地元紙『デーリー東北』さんの記事をご紹介します。

「旅と名所」テーマに 街かどミュージアムで5周年記念秋期展/青森・八戸

 青森県八戸市にある八戸クリニック街かどミュージアム(小倉秀彦館長)で、23日から5周年記念秋期展「旅と名所」が開かれる。時代ごとに変わる旅の楽しみや名所の捉え方にスポットを当て、全国各地の風景や名物を描いた浮世絵や木版画など195点を展示。観光名所として名高い十和田湖にある高村光太郎作「乙女の像」の習作「手」の石こうから鋳造されたブロンズ像も特別に公開する。11月12日まで。
  江戸時代、街道と宿場の整備により、旅は庶民の娯楽となり、それに伴い、さまざまな名所絵が描かれた。会場では、歌川広重の「狂歌入東海道五十三次」全56図をはじめ、歌川国芳、歌川国貞ら人気絵師が手掛けた名所絵を紹介。同館の小倉学学芸員は「和歌に詠まれた名所や、その土地にある伝説など、文学を織り交ぜた作品が多い」と特徴を解説する。
  明治時代になると、江戸や京都に限らず、全国津々浦々の名所が注目されるようになる。背景には、国民の郷土愛を培うとともに、外貨獲得や自然保護を目指す当時の政府の狙いがあった。その時代を反映した作品として、鳥瞰(ちょうかん)による旅行案内図を制作した吉田初三郎や、伝統的な浮世絵技術の復興と近代化を目指した「新版画」を確立した版画家川瀬巴水の作品などを中心に展示する。
  浮世絵や木版画を通して、時代の変遷とともに移り変わる人々の“旅情”が感じられる展示となっている。
  入館料は一般500円、高校生200円、中学生以下無料。開館時間は午前10時~午後5時。休館日は祝日を除く月・火曜日。
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というわけで、光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために、習作として作った手の習作を鋳造したものが展示されています。

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本来は習作で、光太郎生前には鋳造はされなかったものですが、その歿後にブロンズが作られ、光太郎展的な企画展に展示されることがあります。平成25年(2013)に千葉市美術館さん、岡山井原市立田中美術館さん、そして愛知碧南の藤井達吉現代美術館さんを廻った「生誕130年彫刻家高村光太郎展」でも並びました。今回の八戸では、企画展自体のコンセプトとはあまり関係ないようですが、「特別公開」ということだそうです。

そちらの詳細がこちら。

5周年記念秋期展旅と名所――広重から北東北の新版画・鳥瞰図まで

期 日 : 2017年9月23日(土)~11月12日(日)
会 場 : 八戸クリニック街かどミュージアム 青森県八戸市柏崎1丁目8-29
時 間 : 10:00〜17:00
休館日 : 毎週月曜日・火曜日(祝日の場合は開館)
料 金 : 大人500(400)円 高校生200(100)円 
      ( )内10名以上の団体 中学生以下無料

江戸時代、街道と宿場の整備が進み、旅は人々の娯楽となりました。寺社詣を口実に、江戸や京都の名所を訪れ芝居や食事を楽しむ。浮世絵にはそんな彼らの姿と共に、旅に関連させ狂歌や伝説などを楽しむ文化が表れています。全国に鉄道網が敷かれる明治を経て、大正以後の経済発展により旅の大衆化が進み、国家も自然保護・外貨獲得・国民の保健休養教化の一環などの目的で関連政策を強化、近代の観光産業が成立していきます。そんな時代に鳥瞰図や新版画などが生まれ、その近代の新たな風景は人々に旅への憧憬を抱かせました。今回は、これらの作品を紹介し江戸から昭和初期までの旅を概観します。

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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

おれは自己流謫のこの山に根を張つて おれの錬金術を究尽する。 おれは半文明の都会と手を切つて この辺陬を太極とする。

詩「「ブランデンブルグ」」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

詩の中に初めて「自己流謫」の語が使われました。「流謫」=「流罪」です。結局、公的には戦犯として処されることがなかった光太郎、だからといって「助かった」というわけではなく、己で己を罰することにしたのです。

具体的には花巻郊外太田村の山小屋での、自虐に等しい独居生活。しかし、ただここに住んでいるというだけでは不十分でした。そこで、光太郎は自らに考え得る限りの最大の罰を与えています。すなわち、天職と考えていた彫刻の封印でした。

青森の地方紙『東奥日報』さんの一面コラム、昨日掲載分です。

天地人 9月7日

 いちめんの、ススキ原の白い穂が、海の波のように風になびく。その大きな動きを見ていて、高村光太郎は、好きな歌劇の序曲を連想したらしい。<清涼限りなく、まつたく宝玉のような東北の秋の日が毎日つづく>と記した。 
 光太郎は戦後の7年間、岩手で農耕自炊の生活をおくった。住まいをかまえていた集落に、秋風が急にふいてきた。一朝にして季節の感じをかえてしまう。うつりかわる里山の姿を、随筆『山の秋』に書いた。
 県内は、里でも花ススキが目につく季節となった。花があつまった長い穂は、馬などの尾に似ている。「尾花(おばな)」と呼ばれる。<萩の花尾花葛花(くずばな)…>と、山上憶良が万葉集に詠んだ、秋の七草の一つである。秋風になびくススキには、日本画に描かれる独特のさびしさがある。
 きょうは「白露(はくろ)」。秋の気配がしだいに色こくなり、昼夜の寒暖差から、野草に「しらつゆ」が宿るころの節気である。露は、日がのぼると、またたく間に乾いたり、風で落ちたりする。「露の身」「露の世」と、はかなく消えやすいものの、たとえに用いられる。
 あすから十和田・三戸・南部などで秋祭りがはじまる。五穀豊穣(ほうじょう)を神々に感謝し、祝う。山車をひく沿道から、ススキは見えるか。秋景色に、風情を添えていることだろう。生命力が強いススキの花言葉は、「活気」「元気」と聞いた。秋祭りにふさわしい。


取り上げられているのは、随筆「山の秋」。昭和28年(1953)8月19日の執筆で、この年10月の『婦人公論』に掲載されたものです。400字詰め原稿用紙20枚ほどの長い作品ですが、今も光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)が残る、花巻郊外旧太田村の秋の風物詩が語られています。

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執筆したのは東京です。青森県からの依頼で、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京したのが前年。ただし、この頃は東京と太田村を行ったり来たりしながらの生活を考えていたようで、住民票は太田村に残し、「山の秋」が『婦人公論』に掲載され、「乙女の像」除幕式が終わった後、2週間ほど村に帰っています。しかし、宿痾の肺結核がかなり進行し、もはや長距離の移動や寒村での生活やには身体が耐えられなくなっており、それを最後に村に帰ることはなくなってしまいました。

さて、「山の秋」。太田村の農民たちの暮らし、旬の農作物、秋の草木や動植物などについて、旅人目線ではなく、住民としての視点で細かに綴っています。さまざまな点で不自由な蟄居生活でしたが、一面、若い頃から憧れていた自然と一体化する生活の実現という意味では、快適に感じる部分も多かったようです。また、何くれとなく世話を焼いてくれた村人達との交流も。

『東奥日報』さんで触れられている部分を取り出してみましょう。

 秋風は急に吹いてきて、一朝にして季節の感じを変えてしまう。ばさりとススキをゆする風が西山から来ると、もう昨日のような日中の暑さは拭い去られ、すっかりさわやかな日和となって、清涼限りなく、まつたく宝玉のような東北の秋の日が毎日つづく。空は緑がかった青にすみきり、鳥がわたり、モズが鳴き、赤トンボが群をなして低く飛ぶ。いちめんのススキ原の白い穂は海の波のように風になびき、その大きな動きを見ると、わたくしは妙にワグネルの「リエンチ序曲」のあの大きな動きを連想する。ススキ原の中の小路をゆくと路ばたにはアスター系の白や紫の花が一ぱいに咲きそろい、オミナエシ、オトコエシが高く群をぬいて咲き、やがてキキヨウが紫にぱつちりとひらき、最後にリンドウがずんぐりと低く蕾を出す。リンドウは霜の降りる頃でもまだ残つて咲く強い草だ。

「ワグネル」は、ドイツのリヒャルト・ワーグナー。「リエンチ」は「リエンツィ」とも表記される、1840年作曲のオペラです。村のススキの穂波から、その序曲を思い浮かべたとのこと。

光太郎、クラシック音楽にも造詣が深く、とりわけ好んだのはバッハだそうですが、ワーグナーの名も『高村光太郎全集』のあちこちに散見されます。他にはベートーヴェン、ベルリオーズ、ドビュッシーなどが多く語られています。意外なことにモーツァルトやシューベルトについてはあまり言及がなく、チャイコフスキー、ブラームス、メンデルゾーンあたりは『高村光太郎全集』にまったく名が出てきません。

閑話休題。当方、明日は福島二本松に日帰りで、そして来週には花巻に1泊2日で行って参ります。関東もめっきり秋めいてきましたが、さらに一歩進んでいるであろう東北の秋を堪能して参ります。


【折々のことば・光太郎】

狭くるしい檻のやうに神戸が見えた。 フジヤマは美しかつたが小さかつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「親不孝」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

3年半にわたる欧米留学を終え、日本郵船の阿波丸で神戸に上陸したのが明治42年(1909)7月。東京へは迎えに来た父・光雲とともに、列車で向かいました。車窓から見えた富士山も、光太郎の目には格別な感興を催しませんでした。

その車中で、光雲が光太郎に語ったのは、光太郎を中心にしての「銅像会社」設立の構想。世界最先端の本物の芸術を見てきた光太郎が断ったのは、言うまでもありません。

それ以外にも、美術学校教授職、江戸前の娘さんとの縁談など、ことごとく光雲の申し出を却下、苦闘の日々が始まります。

このブログでたびたび取り上げさせていただいております、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で、東日本大震災前にかつて建っていた高村光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」。

先月11日には、町内小屋取浜と御前浜に新たに建立され、予定の全21基中、16基が竣工したそうです。


先月末、中心になって活動している、女川第一中学校(現・女川中学校)の卒業生の皆さんの活動を紹介する集会が、東京大田区で開かれ、『毎日新聞』さんの東京版と宮城版でそれぞれ紹介されました。 

「1000年後の命を守りたい」 津波到達点に石碑を 宮城・女川中卒業生、活動紹介の集会 大田 /東京

016 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県女川町の女川中学校卒業生が、津波到達点に石碑を設置する活動を続けている。活動を紹介する集会が26日、大田区で開かれ、卒業生は「1000年後の命を守りたい」と、約80人を前に防災への意気込みを語った。
 女川町は震災で人口約1万人のうち873人が犠牲となった。震災直後に中学に入学した卒業生らは「悲しみを繰り返してほしくない」と町内全21地区の津波到達点に石碑を設置する活動を始め、現在までに16基を設置。全国の同世代に伝えるため、3月に教訓をまとめた「いのちの教科書」も作製した。
 卒業生らは活動にかけるそれぞれの思いを語った。震災で母と祖父母を失った鈴木智博さん(18)=女川町=は「一度避難したのに自宅に戻って亡くなった人がいた。石碑に『絶対に戻らないで』と強い口調の言葉を入れた」と紹介。大学1年の渡辺滉大(あきと)さん(19)=同県石巻市=は「防災が空気のように当たり前になってほしい」と訴えた。
 卒業生を囲んで車座になった参加者は「大人も震災を忘れてはいけない」などと語り合った。卒業生の一人、木村圭さん(18)=荒川区=は「いろんな方と話して、中学時代は会ったことのない多くの人に支えられ、見守られていたんだと実感した」と振り返った。【百武信幸、伊藤直孝】


女川町の広報誌、『広報おながわ』の先月号には、こんな記事も。

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2番目に碑が建てられた、同町竹浦地区に関するもので、同区長・鈴木成夫さんの談話に、「今、海を見下ろす境内には、いのちの石碑が立っています。ここに居住する誰もが安心して住めるまちになりました。」とあります。

そういえば、やはり先月末、NHK BSさんで、アニメドキュメント「女川中バスケ部 5人の夏」という番組が放映されました。実話を元に、昨年の夏、全国大会出場を目指してがんばった、「いのちの石碑」プロジェクトメンバーの後輩たち、女川中学校女子バスケットボール部を描いたアニメです。

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東北を舞台としたこの番組のために、東北ゆかりの人々が集まってくれました。チームを支える町の大人たちを演じたのは、ベテラン声優・山寺宏一さん(宮城県出身)と、人気お笑いコンビ・サンドウィッチマン(宮城県出身)のお二人。さらに、プロバスケットボールプレーヤーの大神雄子さん(山形県出身)が本人役として登場し、音楽を担当したのはシンガーソングライター・遊佐未森さん(宮城県出身)でした。そして、番組ナレーションは、やはりNHKさんの大河ドラマ「八重の桜」に主演され、東北とも縁の深い綾瀬はるかさんでした。

この中で、一瞬でしたが、「いのちの石碑」が背景に使われていました。

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女川を代表する風景の一つとなっているということかもしれません。

今後とも「1000年後の命を守る」ためにがんばっていただきたいものです。


「一瞬映った」といえば、先週、やはりNHKさんで放映された「ブラタモリ #81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~」。こちらでは、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が、2秒間(笑)映りました。

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残念ながら詳しい紹介はなかったのですが、やはり十和田湖を代表する風景の一つということでしょう。

その他、二重カルデラ湖としての十和田湖、V字形の「渓谷」ではなくU字形の「渓流」である奥入瀬渓流の成り立ち、ヒメマスやらコケやらの話など、なかなか充実した内容でした。

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今夜、再放送があります。25時00分~25時45分ということで、日付が変わって明日未明、午前1時からですね。

見逃された方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

私のあたまはその時、 誰かの手につよく押へつけられた。 雪にぬれた砂利のにほひがした。 ――眼がつぶれるぞ――

連作詩「暗愚小伝」中の「土下座(憲法発布)」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での蟄居生活の中、自らの戦争責任に向き合い、さらには遡っての自らの来し方を検証する連作詩「暗愚小伝」が生まれました。全20篇、7つの章立てで、第一章が忠君愛国の精神を叩き込まれた幼少年期を語る「家」。その冒頭を飾るのがこの詩です。

明治22年(1889)2月11日の憲法発布式に伴う明治天皇の上野行幸の列を見物する数え7歳の光太郎。「誰か」の背に負われて見物に来ています。やがてやってきた箱馬車。「誰か」は「頭が高い」とばかりに光太郎の頭を押さえつけました。詩の中では「誰か」が誰なのか、具体名は挙げられていません。実際にはこの年、東京美術学校に奉職する光太郎の父・光雲、または天狗の存在を確信していた祖父・兼松、あるいは光雲の弟子筋の若い衆かもしれません。しかし、具体名が挙げられていないことから、幼少期の光太郎を取り巻いていた、旧弊なこの国全体の象徴、と捉えることも可能かと思われます。

第一章「家」では、その他、日清日露の両戦争や、帝室技芸員に上り詰めた光雲と皇室のからみなどが謳われます。そこには、頭を押さえつけられたまま過ごした幼少年期の光太郎が居ました。

テレビ放映情報です。

ブラタモリ #81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~

NHK総合 2017年9月2日(土) 午後7時30分~8時15分

出演 タモリ/近江友里恵アナウンサー ナレーション 草彅剛 テーマソング 井上陽水

ブラタモリ、十和田湖・奥入瀬へ!
十和田湖といえば、青森と秋田の県境に広がる美しい湖。奥入瀬渓流とあわせて、年間100万の観光客がやってくる人気スポットです。
新緑のシーズンから秋の紅葉、そして厳しい雪景色と、1年を通じて「神秘的」な風景が楽しめる場所ですが・・・でもそもそも、どうして十和田湖は“神秘の湖”になったのでしょうか?十和田湖、そして奥入瀬の不思議な成り立ちと知られざる姿を、タモリさんがブラブラ歩いてひも解きます。
まずやってきたのは、十和田湖の湖畔。湖底に現れる神秘的な「白い筋」が、十和田湖の成り立ちを解き明かすカギだった?なぜか喫茶店の「ココアと練乳」であきらかになる十和田湖誕生の秘密!・・・っていったいどういうこと!?
実は十和田湖は、火山の噴火によって出来たカルデラ湖。しかもなんと出来たてホヤホヤの、世にも珍しい「二重カルデラ湖」だった!ボートで湖へ出たタモリさん、目の前にそそりたつ急な崖に大興奮!この崖こそ、火山の中身が見えるというダイナミックな神秘だった!
さらに十和田湖の神秘といえば、もともと魚がいなかったという湖に、なぜか棲んでいるヒメマス。ヒメマスが養殖できたのも、「二重カルデラ」がつくった湖の神秘的な地形がきっかけだった?
さらに美しい滝と渓谷で知られる、奥入瀬渓流へ。十和田湖の水がただひとつ流れ出るスポットにも神秘がいっぱい!14あるという滝に隠された、1万5000年前の奇跡とは?奥入瀬の美しい森を作り出したのは・・・何と「コケ」だった?コケが織り成す神秘的なミクロの世界にタモリさんもビックリ!

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というわけで、NHKさんの人気番組「ブラタモリ」。地質学の普及への貢献が評価され、日本地質学会さんから表彰されたりもしています。

今週はお休みですが、来週土曜日、9月2日の放送で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖と、奥入瀬渓流が取り上げられます。予告編では、「乙女の像」は写っていませんでしたが、ぜひとも写っていてほしいものです。

他にも光太郎智恵子ゆかりの地で、銚子犬吠埼や安達太良山など、地質学的に特異な場所がいろいろありますので、そちらも取り上げて下さればとも存じます。


【折々のことば・光太郎】

石くれは動かない 不思議なので しやがんで いつまでも見てゐた

詩「石くれの歌」より 昭和20年(1945)頃 光太郎63歳頃

光太郎が手元に残した紙切れに書かれていたもので、おそらく雑誌等には未発表の詩です。ただ、実現しませんでしたが、戦争末期に『石くれの歌』という詩集を刊行する意図があったことは確かで、それに関わるという推理が可能なため、「昭和20年(1945)頃」としています。

不動の「石」に対し、自分でも余り予期していなかった「動き」――過激な戦争協力――をしてしまった、せざるをえなかった光太郎、何を見ていたのでしょうか……。

先日、十和田市役所の方から、最新の十和田湖関連のパンフレット類を頂きました。

まずは十和田市としての観光ガイドパンフレット『とわだ旅』。「街なか編」「奥入瀬編」そして「十和田湖編」の三種類があり、それぞれA5判16ページ、オールカラーの冊子になっています。

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このうち「十和田湖編」で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が紹介されています。

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それから別冊の、A3判1枚両面印刷を4つ折りにした「とわだ旅~ゆったり癒しの感動体験~」にも。

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また、平成26年(2014)にオープンした、「十和田湖観光交流センターぷらっと」の新しいパンフも併せて頂きました。こちらはA5判8ページの冊子です。

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展示コーナーの内容が説明されています。

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特産のヒメマス養殖に生涯を捧げた和井内貞行、十和田湖の魅力を初めて広く紹介した大町桂月。

そしてわれらが光太郎。

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ありがたいですね。


この「ぷらっと」に、来春、青森在住の彫刻家にして、生前の光太郎を知る田村進氏による光太郎胸像のブロンズ彫刻が寄贈され、展示される予定です。

その寄贈を報じた地元紙2紙の画像も頂きました。

まず『デーリー東北』さん。

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『デーリー東北』さんの記事は、ネット上でも読めましたが、やはり実際の紙面で見る方が、いい感じです。

続いて、『東奥日報』さん。

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この光太郎胸像と共に、さらに、もう1点、「乙女の像」にまつわるなかなかすごいお宝が、やはり来春から「ぷらっと」で展示されることになりそうです。

そちらの方は、詳細が公表されましたらまたこのブログにてご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

父なく母なく妻なく子なく、 木端(こつぱ)と粘土と紙屑とほこりとがある。 草の葉をむしつて鍋に入れ、 配給の米を余してくふ。

詩「独居自炊」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

前年12月8日に太平洋戦争が開戦。この前後はほとんど程度の低い翼賛詩のオンパレードです。そうした中で、ふと謳われた身辺雑事。かえってこういう詩に、光太郎の魂のありようが見て取れます。

青森県さんのサイトから。
県では、関西圏での観光PRの一環として、滑舌の悪い芸人として人気の諸見里大介氏と青森県民がラップバトルするムービー「ディス(り)カバリー青森」第2弾を公開します。

日程
2017年08月09日〜2018年03月31日 

お問い合わせ 誘客交流課 国内誘客グループ 大庭 017-734-9384  

更新日付:公開日:2017年8月9日


早速、拝見。

「ディス(り)カバリー」は、「ディスカバリー(discovery)=発見」と、「ディスリスペクト (disrespect)=侮辱する」からの造語「ディスる」を、さらに組み合わせたものですね。

青森を「ディスる」吉本新喜劇座員の諸見里大介さんが、県内各地で青森県民の皆さんと「ラップ対決」をするというシチュエーションです。

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三内丸山遺跡、八戸屋台村みろく横町。

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そして、2分03秒頃から、十和田湖。

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諸見里さんと「対決」するのは、謎の女子高生二人組。

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光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の前でも、バトル。ただし、仲間割れも(笑)。

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諸見里さんも負けていません。

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と言いつつ、彼は沖縄出身だそうですが(笑)。

酸ヶ湯温泉では……

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謎のおじさんが……

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何と、その正体は……

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青森県知事・三村申吾氏。「ちじ」ではなく「つづ」だそうで(笑)。

こんなカットも。

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諸見里さん、最後は「改心」(笑)。

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追記 2018年3月をもってYoutubeさんでの公開が終了してしまいました。

ここまで開き直ると、かえって痛快です。半分以上は意味不明ですが(笑)。

当方、10月に十和田に講演に行くことになりました。皆様ぜひ青森へ!


【折々のことば・光太郎】

この世に何が起らうと、 こころに美を持つ 凛々しい女性の居るかぎり 人は荒まず滅びない。

詩「こころに美を持つ」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

上記動画で、開き直って青森の魅力を訴える、特に女性の姿を見て、なるほどな、と思いました。

青森の地方紙『デーリー東北』さんから。 

内なる魂を感じて 高村光太郎のブロンズ胸像寄贈/青森・十和田

 青森市在住の元教員田村進さん(84)が、詩人で彫刻家の高村光太郎の偉大さを伝えようと、ブロンズ製の胸像「光太郎山居(さんきょ)」を完成させた。田村さんは8日、青森県十和田市役所に小山田久市長を訪ね、市に寄贈することを報告。胸像は来年4月から、十和田湖畔休屋の光太郎が制作した「乙女の像」の周辺にある十和田湖観光交流センター「ぷらっと」で展示される予定だ。

 田村さんは10代から光太郎の詩や書、彫刻などの作品に親しんだ。乙女の像が完成した1953年には、除幕式の翌日に本人と直接会う機会に恵まれ、以後も光太郎の芸術世界を思い続けてきたという。

 県内の中・高校で美術教員を務め、退職後の80歳の時に、今回の胸像の原型となる石こう像を4カ月半かけて制作。昨年7月、十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域指定80周年の記念式典会場に展示された。これを契機に市への寄贈の話が進み、石こう像から型を取ったブロンズ像を完成させた。

 像は高さ74センチ、幅78・5センチ。重さが85キロあり、台座を市が今後準備した後、ぷらっとに展示する。

 この日は田村さんが胸像の写真パネルを小山田市長に贈り、制作の経緯などを説明。小山田市長は「観光などで訪れる多くの人に見ていただき、高村や乙女の像について関心を持ってもらえればと思う」と謝辞を述べた。田村さんは取材に「胸像から高村の内なる魂、すごさ、優しさを感じてもらいたい」と話していた。

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田村進氏、記事にあるとおり、青森市在住の彫刻家で、昭和28年(1953)には光太郎本人とも会われたという方です。連翹忌にも3回、ご参加下さっています。

平成24年(2012)頃から、光太郎像の制作にかかられ、レリーフ習作を経て、平成26年(2014)には胸像本体の原型が完成したそうです。で、このたび、ブロンズに鋳造したものが十和田市に寄付されたとのこと。

展示は来春からになるそうですが、十和田湖畔の「十和田湖観光交流センターぷらっと」にてなされるそうで、元々ある光太郎がらみの展示と合わせ、多くの方々に見ていただきたいものです。


十和田市さんのブログサイト「駒の里から」でも報じられているほか、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の方から、さらに詳しくこの件を扱った地元紙『十和田新報』さんの記事を、メールで頂きました。

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画像クリックで拡大します。


来春以降、十和田湖にお立ち寄りの際は、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】005

南へ 北へ (あるけ あるけ)  東へ 西へ (あるけ あるけ)  路ある道も (あるけ あるけ)  路なき道も (あるけ あるけ)  

歌詞「歩くうた」 より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

日本放送協会選定の国民歌謡として作られた、飯田信夫作曲による歌曲です。戦意高揚という部分を抜きに考えれば、詩としては悪くないと思います。

徳山璉(たまき)らの歌唱などでSPレコード化され、それなりにヒットしたそうです。

手元に届きました雑誌2冊をご紹介します。

まず、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』8月号。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。今号は評論「生きた言葉」(昭和4年=1929)から言葉が取り上げられています。

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「詩は無限なものだから何処からでも生れる。」にはじまり、「人間の在る所詩は常に澎湃(ほうはい)する。」で結ばれています。路傍の瓦礫の中にも「詩」はあるとし、「生きた言葉」をつかむ悦びが語られています。

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定価762円+税です。


もう一冊。JAF(ジャパン・オートモビル・フェデレーション=日本自動車連盟)さんの会員向け月刊情報誌『JAF Mate』。当方、会員ですので、毎月届いています。

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今月号の中で、「アートのある町 青森県十和田市、七戸町」という項が10ページ。

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十和田市現代美術館さん、星野リゾート奥入瀬渓流ホテルさんなどが大きく取り上げられていますが、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、光太郎の名入りで紹介して下さっています。ありがたや。

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このようにちらっとでも、光太郎智恵子に触れられ続ける状況が続いていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

見たまへ野山にあふれる別箇の気を 天の香料地の体臭 目まひのするほど激動し 耳しひるほどとどろきわたる 晩春初夏のアトムのひびきは もつと厖大な精緻な新規な 積極無道の美に満ちる

詩「初夏言志」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

日本の自然美を高らかにほめたたえています。ただ、智恵子を失った空虚感から、翼賛の方向に梶を切った光太郎、この詩も「もう一度東洋を溶鉱炉になげこまう」などと、軍部の侵略政策を肯んじる詩句もあり、残念です。

毎年開催されている「十和田湖湖水まつり」。光太郎最後の大作である「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦群像(通称・乙女の像)」が建つ、青森十和田湖でのイベントです。

第52回十和田湖湖水まつり

期 日 : 2016年7月15日(土)・16日(日)
場 所 : 十和田湖畔休屋  十和田市十和田湖畔休屋486
時 間 : 15日・16日 10:00~21:00 17日は花火予備日 クルージングのみ10:10~

十和田湖に夏の観光シーズン幕開けを告げるお祭です。
花火大会では遊覧船が運航し、日中はよさこい演舞やクラフト体験、湖畔散策ガイドなどのイベントが行われます。
ご家族、ご友人、カップルで十和田湖湖水まつりをお楽しみ下さい!

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例年通り、「乙女の像」のライトアップがなされます。当方、一度拝見しましたが、湖面に打ち上げられる花火をバックに幻想的な姿が呈されます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

険しさは人を浄め、 はげしさは人を高める。

詩「冬が来る」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

この言葉だけ読めば、確かにその通りですね。

しかし、詩の終末に「けさの新聞があの朔北の遠くから私をひつぱたく」とあり、この詩は11月の執筆ですので、日本軍の上海占領や、大本営の設置、中国国民政府の南京から重慶への遷都などが背景にあるようです。南京大虐殺は翌12月の出来事です。

青森の地方紙『東奥日報』さん、先週の記事から。

十和田湖の魅力知って 大学生ツアー

 青森県弘前000市と十和田湖を結ぶ予約制のシャトルバスを運行している「りんごのふるさとシャトルバス運営協議会」(会長・櫻田宏弘前市観光振興部長)と弘前大学はこのほど、弘大生対象のモニターツアーを実施した。近年十和田湖観光から遠のいている若年層に魅力をアピールし、バスの利用を促進するのが狙い。昼前に休屋地区に着いた県外出身者中心の弘大生16人は、ガイドの案内で湖畔のスポットを巡った。
 一行は弘前市の弘大文京キャンパスを朝に出発し、秋田県の小坂鉱山事務所跡を見学した後に休屋に到着。2班に分かれてガイド付きで散策した。
 ガイドの1人は弘大OBで、十和田市の地域おこし協力隊活動2年目の山下晃平(こうへい)さん(27)。高村光太郎による「乙女の像」、十和田神社、修験者たちが修行や祈りを行っていた洞窟の跡が連なる「開運の小道」などを案内し、ナナカマド、ダケカンバ、ヤマツツジなど湖畔の豊かな植生の解説も織り交ぜた。
 十和田市が外部業者に委託して行った昨年10月の調査では、十和田湖地区への観光客はシニア層が中心で、将来的な「十和田湖ファン」の獲得が課題になっている。山下さんは見学を終え、休屋を去る学生たちに「土日でもこの通り、人が少ない。観光で食べている方も多いので、お客さんにもっと来てほしい。若い人がなかなか来てくれないことが悩みなので、感じたことをリポートにまとめて」と話していた。
 参加者の理工学部1年生・井畑礼さん(18)=札幌市出身=は、十和田湖を訪れるのが中学の修学旅行以来といい、「自然に触れる良い機会になった。今度はもっと天気のいい日に、友達と一緒に来てみたい」と話した。初めて訪れた理工学部大学院2年の女性=静岡県出身=も「今度は湖の上からの景色を見てみたい」と再訪に前向きだった。


十和田湖に限らず、当方、行く先々の観光地的な場所で、たしかに若年層の姿は少なく感じます。よく目にするのはいわゆるシニア世代の皆さん。その方々はお孫さんを連れて、というのではなく、老夫婦お二人でとか、気のあったお仲間同士でというのが目立つように思われます。家族形態やらそれぞれの年代のライフスタイルやらの変化が大きいのでしょう。

若年層にとっては、昔ほど「旅」というものにロマンを感じなくなっているのかもしれません。「旅をしないやつはダメだ」と決めつけるつもりは毛頭ありませんが、やはり見聞を広めるという意味では、百聞は一見にしかず、あちこち出かけるのが効果的です。

旅行にはお金がかかる、列車料金が高い、新幹線などで移動してもその先のローカル線や路線バスがどんどん廃止されている、高速道路料金も高い、第一、最近の若者は車離れ、バイト代はスマホ料金に消える、世の中全体不景気だし、わざわざ外に出ずともネットやテレビで居ながらにして情報は手に入る、スキーやら登山やらツーリングやらサイクリングやらも下火、娯楽形態の変化、仲間としじゅう一緒にいなくてもSNSでつながっているから行動を共にする必要もない、そして何といっても少子化……。要因を挙げればきりがありませんね。

そこであきらめてしまって、各自治体や観光関係者も手をこまねいていてはいけないわけで、記事にあるような試みもその打開のための一つの方策でしょう。

旅離れ現象が続く中でも、魅力的なテーマパーク、人気のイベントなどには人が集まっています。だからといって、ナントカ村とかの中途半端なテーマパークや、十分な計画性のない、一過性の流行イベントを観光地に誘致し、結局、長期的には人が来ずに負のレガシィとして残るというケースも少なくありませんね。そういう方向ではなく、あるものをいかに活用するか、いかにその魅力を発信するかが鍵だと思います。

各自治体や観光関係の皆さん、よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

詩とは文字ではない、言葉である。 言葉とはロゴスではない、アクトである。
詩「非ユークリツド的」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「ロゴス」は論理、「アクト」は行動。

意味のない文字の羅列に過ぎないものではなく、実感を伴う言葉を生かしたものこそが詩であると、この頃からはやり始めた現代詩的なものへの警句でしょうか。もう少し早い時代の作であれば、空虚な美辞麗句を並べただけの新体詩、文語定型詩への訣別宣言と捉えられますが。若い詩人たちに、あるいは自らへの自戒も含め、過去の新体詩、文語定型詩の陥った陥穽にはまるべからず、ということかもしれません。

あるいは、内容の尖鋭さのみが優先され、詩としての言葉の美しさをなおざりにしていたプロレタリア詩的なものへの反発、という側面もあるかもしれません。

昨日ご紹介した、青森十和田市の劇団・エムズ・パーティーさんからいただいたDVD「愛と平和への願い ~乙女の像のものがたり」、市役所さんを経由して届きました。

一緒に封筒に入っていたのがこちら。

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A4判24ページオールカラー、豪華なパンフレットです。奥付等がないので、いつの発行かわかりませんが、比較的新しいもののようです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がそちこちに。

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現在開催中の、「十和田湖冬物語」の紹介でも。

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感謝いたしております。


十和田湖といえば、一昨日、NHK総合さんでオンエアされた「スタジオパークからこんにちは」の第2部で、青森放送局制作の「クローズアップあおもり 十和田湖をみつめて」が放映されました。

この番組は第1部と第2部に分かれ、第2部では「NHK54局からこんにちは」と題して、各地のNHK支局がその地域向けに放送した地域情報番組を全国放送しています。

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製作期間一年、四季折々の美しい自然や、そこに生きる人々の営みを追っていました。

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「乙女の像」も、冒頭タイトル部分と「夏」の部の終わりに、数秒ずつ2回出演(笑)。

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ありがたや。

BS放送などもあることですし、この手の番組の放映がもっと広まってほしいものです。


今年は十和田に行く機会がありそうで、一昨年以来です。皆様もぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

お前にただ一つ入用なのは力だ 力は何処から来る 力は天然から来る

詩「妹に」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

「妹に」は、光太郎より11歳下の末妹・よしに宛てた詩です。光太郎には姉が2人いましたが、いずれも夭折。3番目に生まれた光太郎が長子となりました。それだけに弟妹思いの念は強かったようです。この詩の結句も、「邪念のない妹よ 兄はいつでもお前の後ろに立つてゐる」となっています。

昨年、十和田市内で朗読劇「乙女の像のものがたり」を上演なさった劇団エムズ・パーティーさんから、ほぼ同じ台本で作成されたDVDが届きました。

約1時間の内容で、一昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんの編集で刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』中の、当方執筆によるジュブナイルを原作としています。

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早速、拝見。

物語は昭和26年(1951)春、花巻郊外太田村に隠遁中の光太郎を草野心平が訪れ、帰京を促すシーンから始まります。しかし光太郎は、「まだその時ではない」と拒否。「君だって、なぜ僕がこんな山の中に居るのかわかっているだろう」と諭します。

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そこで時計の針が巻き戻され、ここまでの光太郎の生涯の俯瞰。高村光雲の跡継ぎとして彫刻の道に入り、ロダンの彫刻を見て本物の芸術に眼を開かされ、画家志望の智恵子との出会い・結婚、そして独自の芸術を切り開く姿。しかし智恵子は絵画制作に絶望し、心を病んで死亡。光太郎も時代の流れに翻弄され、軍の手先となって多くの戦争詩を書き、戦後は自ら蟄居生活に入ったこと……。

そして、周囲からの働きかけもあって、自らの彫刻の集大成として乙女の像を作るにいたった光太郎、その死までが描かれています。

書籍『乙女の像のものがたり』に使われた、安斉将氏のイラストや、古写真、美しい十和田湖周辺の風景などの静止画に交じって、太田村の山小屋や乙女の像の制作風景、除幕式の様子などの動画も使われ、非常にイメージしやすく作ってありました。

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声の出演の方々は、朗読劇公演の際には10数名だったのが、倍増。一般市民の方も混ざっているそうですが、皆さん、熱演されています。せりふやト書きは全てテロップで表示され、耳の不自由な方にも対応されています。

自分で書いた物語ながら、クライマックスのあたりではうるっと来てしまいました(笑)。


十和田市さんの「元気な十和田市づくり市民活動支援事業」による助成を受けての制作だそうで、ここまでのクオリティーですと、自費負担ではとても制作できなかったと思われます。ナントカ市場とは違って、正しい税金の使い方ですね(笑)。

今後、学校や観光バス会社、施設などへ無償配布され、さらに販売も考えていらっしゃるそうです。そのあたりの詳細が伝わって参りましたら、またご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

寒風に魂よろこび 野に走り出れば 路のぬかるみ悉くかがやき 水たまり静かに天上の緑をうつす 烈風はなほも吹きつのり 吹きつのり 世界はいまや浄められようとする

詩「晴れゆく空」より 
大正5年(1916) 光太郎34歳

冒頭近くに「十二月」の語があり(まぁ、「寒風」ですから、それがなくとも、ですが)、やはり光太郎が好んで作った冬の詩の一環であることが分かります。雨上がりで埃が舞っていない空を謳っています。

寒さの苦手な当方としては、春めいてきた今日この頃の陽気に「魂よろこび」という状態です。光太郎に「甘い!」と叱られそうです(笑)。

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