11月30日(日)、港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」に出演させていただきました。
いろいろといただきものがあってウハウハしていたところ、翌日になってやはり十和田湖関連で、しかし逆にいただきたくないものをいただいてしまいました。
青森の彫刻家・田村進氏の奥様からの喪中葉書。
小説『津軽』(昭和19年=1944)中の、かつて津島家で働いていた女中さん・越野タケとの再会のシーンだそうで、太宰ファンの方なら「ああ、これか」でしょう。
やはり佐久間氏と同じく、田村氏も生前の光太郎をご存じでした。昭和28年(1953)10月23日、前々日に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式に出席した光太郎は、青森市の野脇中学校で催された文芸講演会で登壇、「乙女の像」などについて講演を行いました。また、光太郎と共に、像の制作に関わった当会の祖・草野心平や建築家の谷口吉郎、青森県と光太郎を仲介した佐藤春夫らも。若き日の田村氏は除幕式にも参列されて、さらにこの講演会もお聴きになり、終演後には光太郎とお話もなさったそうで。
「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」の際には、十和田湖畔の「観光交流センターぷらっと」さんについても語らせていただきました。大町桂月や「乙女の像」にかかわる展示が為されているよ、ということで。その「ぷらっと」さんに、田村氏ご制作の光太郎胸像も展示されています。
題して「冷暖自知光太郎山居」。光太郎が、昭和20年(1945)10月から同27年(1952)10月までの7年間、戦時中の戦争協力を恥じ、岩手県花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で蟄居生活を送っていた当時の肖像彫刻で、直接のモチーフは、昭和24年(1949)10月、太田村の光太郎のもとを訪れた写真家の濱谷浩が撮影した写真です。
「冷暖自知」とは「仏法の悟りは、人から教えてもらうものでなく、氷を飲んでおのずからその冷暖を知るように、体験して親しく知ることのできるものである。」(岩波書店『広辞苑』)の意。『智恵子抄』にも収められた大正元年(1912)作の光太郎詩「或る宵」中、「彼らは自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた/曾て裸体のままでゐた冷暖自知の心を―― 」という一節に使われています。
青森市内にある氏のアトリエ(「彫夢」と書いて「ほるむ」だそうで)が公開されているという情報を、青森山田高校さんのサイトで少し前に知りました。それを読んで「田村さん、まだお元気なんだな」と思っておりましたが、逆でした。同サイトには亡くなったことが書かれていませんでしたが、亡くなったがためにアトリエを公開ということだったようです。
アトリエには光太郎胸像「冷暖自知」の石膏原型も保管されています。
最上部に掲げた喪中葉書によれば「冬期間閉鎖」だそうですが、いずれまた青森方面に行く際にはご焼香がてら足を運んでみようと思っております。
遅ればせながら、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・智恵子】
「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。
完璧とは言えませんが、光太郎には「男尊女卑」という考えはほぼ無かったようで、かなりの部分で光太郎も家事労働を分担していました。そうした意味では智恵子は同時代の女性たちと較べると恵まれていた部分がありました。
しかし、それだけに女性の置かれている立場に対する眼が開かれてしまったところもあったかもしれません。婚家や夫にこき使われている女性たちの中には、それを「理不尽」と感じることすら出来ていなかった女性も多かったように思われます。
いろいろといただきものがあってウハウハしていたところ、翌日になってやはり十和田湖関連で、しかし逆にいただきたくないものをいただいてしまいました。
青森の彫刻家・田村進氏の奥様からの喪中葉書。
田村氏、4月30日(水)に亡くなられていたそうですが、存じませんで驚きました。過日お伝えした仙台の佐久間晟氏と同様でした。昭和8年(1933)のお生まれで、満92歳ということでした。
田村氏、中泊町にある太宰治(本名・津島修治)の銅像を作られたことで有名です。
田村氏、中泊町にある太宰治(本名・津島修治)の銅像を作られたことで有名です。
やはり佐久間氏と同じく、田村氏も生前の光太郎をご存じでした。昭和28年(1953)10月23日、前々日に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式に出席した光太郎は、青森市の野脇中学校で催された文芸講演会で登壇、「乙女の像」などについて講演を行いました。また、光太郎と共に、像の制作に関わった当会の祖・草野心平や建築家の谷口吉郎、青森県と光太郎を仲介した佐藤春夫らも。若き日の田村氏は除幕式にも参列されて、さらにこの講演会もお聴きになり、終演後には光太郎とお話もなさったそうで。
「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」の際には、十和田湖畔の「観光交流センターぷらっと」さんについても語らせていただきました。大町桂月や「乙女の像」にかかわる展示が為されているよ、ということで。その「ぷらっと」さんに、田村氏ご制作の光太郎胸像も展示されています。


題字揮毫は、晩年の光太郎と親しく交わり、その没後は筑摩書房『高村光太郎全集』の編集に当たるなどした、光太郎顕彰第一人者にして当会顧問であらせられた故・北川太一先生です。
レリーフでの習作を経て、平成25年(2015)に完成、平成29年(2017)には十和田市に寄贈、翌年に「ぷらっと」さんでの展示が始まり、その年の秋には寄贈のセレモニーが開催されました。かつて当会主催の連翹忌の集いにもご参加下さっていた田村氏でしたが、この時にお会いしたのが最後となってしまいました。
青森市内にある氏のアトリエ(「彫夢」と書いて「ほるむ」だそうで)が公開されているという情報を、青森山田高校さんのサイトで少し前に知りました。それを読んで「田村さん、まだお元気なんだな」と思っておりましたが、逆でした。同サイトには亡くなったことが書かれていませんでしたが、亡くなったがためにアトリエを公開ということだったようです。
アトリエには光太郎胸像「冷暖自知」の石膏原型も保管されています。
最上部に掲げた喪中葉書によれば「冬期間閉鎖」だそうですが、いずれまた青森方面に行く際にはご焼香がてら足を運んでみようと思っております。
遅ればせながら、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・智恵子】
「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。
アンケート「女なる事を感謝する点」より 大正5年(1916) 智恵子31歳
完璧とは言えませんが、光太郎には「男尊女卑」という考えはほぼ無かったようで、かなりの部分で光太郎も家事労働を分担していました。そうした意味では智恵子は同時代の女性たちと較べると恵まれていた部分がありました。
しかし、それだけに女性の置かれている立場に対する眼が開かれてしまったところもあったかもしれません。婚家や夫にこき使われている女性たちの中には、それを「理不尽」と感じることすら出来ていなかった女性も多かったように思われます。




















































































![[]](https://livedoor.blogimg.jp/koyama287/imgs/7/4/74576fd9-s.jpg)




























































































抽象的な木彫で知られた文化勲章受章者で、東京芸術大学長も務めた彫刻家の澄川喜一(すみかわ・きいち)さんが4月9日に91歳で死去していたことが分かった。同大学が発表した。




























