8月19日(月)の『毎日新聞』さんから。
全文はこちら。
土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。
昭和18年(1943)3月1日の雑誌『写真文化』第26巻第3号に載った「土門拳とそのレンズ」。戦後の昭和28年(1953)に刊行された土門の写真集『風貌』の内容見本に転載され、『高村光太郎全集』では初出をそちらとしていましたが、数年前に『写真文化』への掲載を確認しました。
『風貌』には木彫「鯉」を彫る光太郎の姿が収められました。
他に土門を評した文章として、昭和27年(1952)4月1日の『岩手日報』に載った「藝術についての断想」の一節。
写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。
土門の写真は評価していた光太郎ですが、自分が撮られるのは実に嫌がっていまして……(笑)。「いつか」というのは昭和26年(1951)5月21日。日記に記述がありました。
ひる頃土門拳来訪、助手二人同道、今夜横手市の平源にゆき、明日秋田市にゆく由。写真撮影。三時頃辞去。元気なり。
宇垣一成は戦前の外務大臣。昭和13年(1938)、宇垣を撮った写真がアメリカの『ライフ』に掲載され、土門の名を高からしめました。その宇垣の写真、宇垣の評伝の表紙に使われたりもしています。
なるほど、光太郎の「あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない」「宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえる」という発言も頷けます。自分がこんな写真を撮られるのは勘弁、ということでしょう。
土門は仏像の撮影でもその手腕を発揮しました。昭和27年(1952)には、土門が写真を撮り、光太郎、志賀直哉、高見順らが解説を書いた『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』という大判の写真集が美術出版社から刊行されています。
こちらに載る予定だった光太郎の「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛しています。
ただ、大人の事情で撮影許可が下りず、この文章は未掲載となってしまいました。
他に土門は、「鯉」とともに現存が確認できていない光太郎の彫刻「黄瀛の首」を撮影しました。そちらは当会の祖・草野心平主宰の『歴程』の表紙を飾るなどしています。
さて、土門拳記念館さん。記事に有る通り、苦戦中だそうで。地の利も余りよくありませんし、コロナ禍なども逆風となったのではないでしょうか。この手の文化施設共通の悩みのような気もします。
「新たなファン開拓のため「若い世代にアピールしたい」と、固定化した土門のイメージの刷新」だそとのことで、それが吉と出るか凶と出るか、ですね。時代の変遷に対応するのは大事ですが、さりとて迎合となるのは避けていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
この旗は現存します。
「写真の鬼」の新たな顔発掘 土門拳記念館、展示の幅広げる 山形・酒田、若いファンを開拓
昭和を代表する写真家で「写真の鬼」と呼ばれた土門拳(1909~90年)の記念館が、出身地の山形県酒田市にある。全作品を所蔵する聖地だが、ファンの高齢化が主な要因で来場者が減少。同館は新たなファン開拓のため「若い世代にアピールしたい」と、固定化した土門のイメージの刷新に乗り出した。
土門は戦前、報道写真家として歩み始め、脳出血で倒れた60年ごろから寺社や仏像の撮影に注力した。リアリズムに徹した作品で国内外に知られ、詩人の高村光太郎からは「土門拳のレンズは人や物の底まであばく」と評された。写真集「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「古寺巡礼」などが有名だ。
酒田市の名誉市民第1号になった74年、同市に全作品を寄贈すると表明。記念館は日本初の写真専門美術館として83年に開館し、ピークの90年度には約8万2千人が訪れた。だが以降はほぼ右肩下がりで、2023年度は約2万2千人だった。
そこで取りかかったのが「土門の新たな面に光を当てる」試みだ。これまで代表作中心に展示してきた中、今年4~7月に、演出的手法で有名な写真家・植田正治との2人展を開催。対照的に語られる2人に共通点も少なくないことを紹介した。
2人展では、土門の作品約30点を初展示。13万5千点に及ぶ所蔵作はほとんどが写真集や雑誌に掲載されたことがないため、今後も展示の幅を広げていく。
昨年6月には5代目館長に、同市出身の写真家・佐藤時啓さん(66)が就いた。今までは土門の弟子や親族などが務めてきたが、土門と会ったことがない初めての館長になった。業績顕彰のコンセプトは維持しつつ刷新も目指すため、来年4月から館の呼称を「土門拳写真美術館」に変える。「新たな解釈を発掘し、常に生きた展示をしたい」と強調した。
山形県酒田市の土門拳記念館さんがらみ。写真家の土門拳、その人となりが紹介される際、今回の記事のように光太郎の評が引用されることがままあります。平成27年(2015)、令和元年(2019)の『山形新聞』さんなど。全文はこちら。
土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。
昭和18年(1943)3月1日の雑誌『写真文化』第26巻第3号に載った「土門拳とそのレンズ」。戦後の昭和28年(1953)に刊行された土門の写真集『風貌』の内容見本に転載され、『高村光太郎全集』では初出をそちらとしていましたが、数年前に『写真文化』への掲載を確認しました。
『風貌』には木彫「鯉」を彫る光太郎の姿が収められました。
他に土門を評した文章として、昭和27年(1952)4月1日の『岩手日報』に載った「藝術についての断想」の一節。
写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。
土門の写真は評価していた光太郎ですが、自分が撮られるのは実に嫌がっていまして……(笑)。「いつか」というのは昭和26年(1951)5月21日。日記に記述がありました。
ひる頃土門拳来訪、助手二人同道、今夜横手市の平源にゆき、明日秋田市にゆく由。写真撮影。三時頃辞去。元気なり。
宇垣一成は戦前の外務大臣。昭和13年(1938)、宇垣を撮った写真がアメリカの『ライフ』に掲載され、土門の名を高からしめました。その宇垣の写真、宇垣の評伝の表紙に使われたりもしています。
なるほど、光太郎の「あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない」「宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえる」という発言も頷けます。自分がこんな写真を撮られるのは勘弁、ということでしょう。
土門は仏像の撮影でもその手腕を発揮しました。昭和27年(1952)には、土門が写真を撮り、光太郎、志賀直哉、高見順らが解説を書いた『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』という大判の写真集が美術出版社から刊行されています。
こちらに載る予定だった光太郎の「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛しています。
土門拳が法隆寺夢殿の救世観音をとると伝へられる。到頭やる気になつたのかと思つた。土門拳は確かに写真の意味を知つてゐる。めちやくちやな多くの写真家とは違ふと思つてゐるが、中々もの凄い野心家で、彼が此の観音像をいつからかひそかにねらつてゐたのを私は知つてゐる。
(略)
写真レンズは、人間の眼の届かないところをも捉へる。平常は殆と見えない細部などを写真は立派に見せてくれる。それ故、専門の彫刻家などは、細部の写真によつてその彫刻の手法、刀法、メチエール、材質美のやうな隠れた特質を見る事が出来て喜ぶ。土門拳の薬師如来の細部写真の如きは実に凄まじいほどの効果をあげてゐて、その作家の呼吸の緩急をさへ感じさせる。人中、口角の鑿のあと。衣紋の溝のゑぐり。かういふものは、とても現物では見極め難いものである。
その土門拳が夢殿の救世観音を撮影するときいて、大いに心を動かされた。彼の事だから、従来の文部省版の写真や、工藤式の無神経な低俗写真は作る筈がない。
(略)
救世観音像も例によつて甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、からみ合つた手のふるへるやうな細かい神経、あれらをどう写すだらう。土門拳よ、栄養を忘れず、精力を蓄へ、万事最上の條件の下に仕事にかかれ。
ただ、大人の事情で撮影許可が下りず、この文章は未掲載となってしまいました。
他に土門は、「鯉」とともに現存が確認できていない光太郎の彫刻「黄瀛の首」を撮影しました。そちらは当会の祖・草野心平主宰の『歴程』の表紙を飾るなどしています。
さて、土門拳記念館さん。記事に有る通り、苦戦中だそうで。地の利も余りよくありませんし、コロナ禍なども逆風となったのではないでしょうか。この手の文化施設共通の悩みのような気もします。
「新たなファン開拓のため「若い世代にアピールしたい」と、固定化した土門のイメージの刷新」だそとのことで、それが吉と出るか凶と出るか、ですね。時代の変遷に対応するのは大事ですが、さりとて迎合となるのは避けていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
昨日は小学校の卒業式で、可愛らしい生徒さん達のよろこぶさまを愉快に思ひました。小生も一席お祝をのべました。部落の青年団の団旗の図案をして上げたのが出来てきて青年達がその旗を持つて見せにきました。独創的なもので中々おもしろく出来ました。
昭和24年(1949)3月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳
この旗は現存します。