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昨日は久しぶりに国会図書館に行って参りました。久しぶり、といっても2ヶ月ぶりくらいですが。


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国会図書館などに調査に行く場合には、「今日は○○と××について調べる」などと、あらかじめ計画を練っていかないと時間が無駄になります。
 
昨日はまず、昨日のこのブログで小沢昭一さんの訃報にからめて紹介した光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)、に関する調査から始めました。
 
今年4月から年2回、当方が刊行している冊子『光太郎資料』で、「音楽、レコードに見る光太郎」という項を設けており、まずは「歩くうた」を扱っているからです。今までに、当時出版された楽譜や、当時発売されたレコード(徳山璉などの歌唱)、戦後になって他の歌手がカバーしたレコード・CDなどについて紹介しました。
 
そうした調査の中で、当時の厚生省が歩くことを広く国民に呼びかけていたらしいことが判り、その裏付け調査をしておこうと考え、調べてみました。すると、確かにそういう記述のある書籍が見つかりました。また、大毎東日映画部が「歩け歩け」という映画を制作していたことも判り、そちらの調査もしてきました。
 
詳しくは来年4月刊行予定の『光太郎資料』第39集に書きますので、ご入用の方はお声がけください。
 
続いて、当たりをつけておいた光太郎の文筆作品-少し前のブログで長々と書いた「海の思出」のように、埋もれていた文筆作品-の探索。こちらについてはまた明日のブログでご報告します。
 
それにしても、国会図書館に行くと、いい運動になります。同館は図書館といっても、通常の図書館のように開架で本がずらっと並んでいるわけではなく、ほとんどが書庫にしまわれている状態です。古い資料はデジタル化が進み、館内のパソコン画面で閲覧する仕組みになっていますが、それほど古くない物は、現物を書庫から出してもらって閲覧する仕組みです。
 
雑誌以外の書籍の受け取りと返却、複写は本館2階、雑誌に関しては受け取り、返却は新館2階、複写は新館1階。デジタルデータの複写受け取りも新館1階。さらに昨日は新聞系の調査も行ったので、新館4階にも行き、合間に本館6階の食堂で食事、喫煙は本館と新館の間の2階喫煙室。本館も新館も広い建物で、さすがに4階や6階に上がる時にはエレベータを使いますが、1階と2階の間は階段を使った方が早いので、エレベータは使いません。昨日は朝から夕方までいましたが、おそらくキロメートルの単位で歩き回っているんじゃないかな、などと思いつつ過ごしました。当方は普段から犬の散歩で毎日歩いていますので大丈夫ですが、年配の方には優しくないシステムです。
 
しかし、国会図書館は進化しています。一番大きいのはデジタルデータで古い書籍をすぐに見られること。以前は古い物でも現物を書庫から出して貰って閲覧したり、マイクロフィルムやマイクロフィッシュで閲覧したりというのが中心でした。そうすると、出して貰ったり、必要なページを複写して貰ったりするのにも、1件あたり早くて十数分かかり、待ち時間が非常に長かったのです。カウンターの前に総合病院の薬局のような電光掲示板があって、自分の番号が点灯すると、書庫から目的の本が到着あるいは複写完了、というシステムでした。そこで、長い待ち時間の対策として、家から文庫本を持ち込んで読むということをしていました。図書館に自分の本を持ち込んで読書、考えてみると馬鹿馬鹿しい話でした。
 
現在は、やはりデジタル化されていない書籍の受け取りや複写にかかる時間は短縮されたわけではありませんが、待ち時間にパソコンでデジタルデータの調査が出来ます。そちらの複写はパソコンから申し込めます。また、調査しているうちにパソコンに「申し込んだ書籍が届きました」「複写が完了しました」といったメッセージが届くシステムにもなっており、非常に便利です。
 
ただし、あちこち歩き回らなければ行けない、というのは昔のままです。欲を言えば、すべての資料がデジタル化され、自宅にいながらにして閲覧も複写もすべて自分のパソコンで出来てしまうようになればさらに便利です。無理な話だとは思いますが……。

国立西洋美術館「手の痕跡」展をレポートします。
 
これは同館で所蔵するロダンの彫刻58点とブールデルの彫刻11点、素描や版画を展示している企画展です。当方、ロダン作品をまとめてみるのは初めてで、非常に興味深いものがありました。
 
11/24、9時半頃西洋美術館に着きました。まずは予習を兼ねて以前から前庭に展示されている屋外彫刻を見ました(これらも出品点数にカウントされています)。
 
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ロダン作、「考える人(拡大版」)、「カレーの市民」、そして「地獄の門」などです。ご存知の方も多いと思いますが、有名な「考える人」は、最初は「地獄の門」の群像の一部でした。他にも「地獄の門」から取り出して単体の彫刻になったものは数多くあります。

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そして館内地下の企画展示室へ。フラッシュを発光させない、シャッター音に気をつけるという条件のもと、撮影は許可されていました。
 
大半は松方コレクションですが、ロダン彫刻の中でも有名なものがいくつも含まれています。「青銅時代」「洗礼者ヨハネ」「鼻のつぶれた男」「考える人」「ヴィクトル・ユゴー」「接吻」などなど。ほとんどはブロンズで、数点、大理石が混ざっているという構成でした。
 
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6/30前後のブログで紹介した日本人女優・花子の彫刻も2点。

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また、「バルザック」や「地獄の門」の習作もあり、完成作との比較という点で興味深く見ることができました。
 
ところどころにブールデルの作品。作風の似通った二人ですが、おもしろいことに、知らない彫刻を遠目に見ても「あれはブールデルだな」というのがほぼ間違いなくわかること。似通っていても個性がはっきり出ているのです。
 
それから素描や版画。光太郎はロダンの留守中にロダン宅を訪ね、夫人のローズからおびただしい素描を見せられ、圧倒されたという逸話があります。もちろん彫刻の数々も光太郎に大きな衝撃を与えたのはいうまでもありません。
 
さて、感想を。100年の時を経たものがほとんどですが、やはり素晴らしい、の一言に尽きます。「具象」の持つ即物性が圧倒的な力で迫ってきます。「質感」「量感」とでも言えばよいでしょうか。それから不動のものでありながら躍動感にも溢れています。光太郎は、彫刻というものは決して止まっているものではない、自分の方が彫刻の周りをぐるっと回ることで、変化して行く「辺相」=輪郭を楽しむことができる、といったようなことを述べています(すみません、ぱっと出典が思い浮かびません)。今回も展示の方法が工夫され(すべてを壁際に押し込められるとそういう見方ができません)、いろいろな角度から見ることができ、それが実感できました。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
明日は、光太郎彫刻との比較的な部分でレポートします。

今週土曜日、2012年11月24日に第57回高村光太郎研究会が開催されます。
 
この会、元々は昭和38年に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」に端を発します。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏。
 
ほぼ毎年、この世界の第一人者、北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。事前の参加申し込み等必要ありません。ただ、多人数の団体でご参加、というような場合にはご一報いただければ幸いです。
 
今年の研究会は今週土曜日、24日の14:00~17:00。当方の発表「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」と、國學院大にいらした傳馬義澄氏の講演「『智恵子抄』再読」です。
 
当方の発表は、新しく発見した主に海外留学(明治39年=1906~同42年=1909)の時の船旅に関する随筆をめぐってのもので、これまでの年譜等に記載されていない新事実がいろいろと新たにわかったことをレポートします。
 
会場は文京区湯島2-28-14にあるアカデミー湯島です。東京メトロ千代田線湯島駅、同じく丸ノ内線と都営大江戸線の本郷三丁目駅が最寄りです。
 
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参加費は五百円、終了後に懇親会があり、そちらは実費です。
 
ちなみに研究会に入会されると、年刊の機関誌「高村光太郎研究」が送られてきます。その中に当方の編集「光太郎遺珠」……光太郎の新発見作品集を連載させていただいています。研究会としての会費は年3,000円です。
 
入会しなくとも、年に一度の研究会のみご参加いただくことは可能です。こんな会なのか、と様子をご覧になってから入会するかどうか決めていただいてかまいません。どなたにも門戸を開いております。メンバーは大学や研究機関の先生ばかりでなく、文学館の学芸員や小中高校教員、学生の方、他のお仕事のかたわら執筆をなさっている方、そして当方のような自由人など、いろいろです。
 
はっきり言うと、このところ参加者が少なく、残念に思っています。是非ともこうした会も盛り上げていきたいので、よろしくお願いいたします。

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東京駅22時20分発、最終の高速バスに乗りました。

今日は原宿、アコスタディオさんで、モンデンモモさんのコンサート「モモの智恵子抄2012」がありました。

二本松や川内村と違って、ほぼ全曲が光太郎の詩にモモさんのオリジナルのメロディーを付けた歌。さらにモノドラマ形式の凝った演出でした。

その上、光太郎と縁の深かった宮澤賢治、草野心平にも触れるという欲張りな内容でした。

そこで当方の出番。三人のつながりをレクチャーし、心平の詩「秋の夜の会話」をモモさんと朗読しました。

こういう形でも、光太郎智恵子の世界を一般の皆さんに広めていくことも大切なことだと思います。

今週は土曜日に「高村光太郎研究会」での発表もあり、我ながら八面六臂です(笑)

聴きにいらしていただいた皆様、ありがとうございました。それからモモさんはじめ、キャストとスタッフの皆さん、お疲れさまでした!

閲覧数が6,000件を突破しました。ありがとうございます。
 
紹介しようと思っていて忘れていた件がありました。現在、上野の国立西洋美術館で開催中の「手の痕跡」展です。
 
高村光太郎に多大な影響を与えたロダン001、そしてロダンの系譜を最も色濃く受け継いだ一人、ブールデル。国立西洋美術館ではロダン作品58点、ブールデル作品11点を所蔵しているそうですが、今までそれらをまとめて展示する企画展がなかったそうです。そこで今回の企画展が持たれることになりました。
 
会期は来年1月23日まで。
 
それにしても同館にロダン作品が58点もあったとは知りませんでした(無料で見られる前庭には「考える人」や「地獄の門」「カレーの市民」が据えられています)。大半は「松方コレクション」だと思われます。これは川崎造船所(現・川崎重工業)社長を務めた松方幸次郎が、明治末から大正初めにに商用でヨーロッパを訪れた際、イギリスやフランスで収集した多くの美術品です。 もともと国立西洋美術館自体が「松方コレクション」を中心に作られたという経緯があります。
 
このあたりがブロンズ彫刻の強みですね。同一の型から同じ物が作れるので、「考える人」は世界中に約20点、日本にも数点あるそうです。同館に58点あるからといって、ロダンの母国・フランスにそれが無い、というわけではないのです。
 
光太郎のブロンズ彫刻、有名な「手」なども日本中に散らばっています。このあたり、あまり突っ込むと微妙な問題になってくるので、今日はこれ以上書きませんが、いずれ書きます。
 
さて、「手の痕跡」展。当方も暇を見て行ってこようと思っています。会期が結構長いので、都合がつけやすいと思います。皆様も足をお運び下さい。

シャンソン歌手・モンデンモモさんのコンサートツアー、最終日は東京原宿です。

モモの智恵子抄2012

期 日 : 2012年11月19日(月)
会 場 : 原宿アコスタディオ 東京都渋谷区神宮前1丁目23-27
時 間 : 19:00~
料 金 : 前売り3,000円 当日3,500円
 
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こちらは砂原嘉博さんのピアノにのせ、歌と朗読によるモノドラマ「智恵子抄」。
 
直接モモさんにお問い合わせ下さい。前売り3000円、当日3500円です。
tel080-6772-3746  fax 042-316-7223 mondenmomo@mac.com 

先日、地域の新刊書店によった際、偶然見かけてこんな本を買いました。ムック(雑誌と書籍の中間という位置づけ)です。 

2012/10/23  Town Mook        定価: 750円(税込)

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上の表紙画像にもある東京駅の赤煉瓦駅舎、先頃改修が終わり、ほぼ100周年(開業記念式典は大正3年=1914の12月18日。その4日後に上野精養軒で光太郎智恵子の結婚披露宴が行われています)ということで、テレビなどでよく紹介されています。さらに今年は元号に換算してみると、1912年が大正元年ですから、大正101年にあたります。そんなわけで、大正時代、ちょっとしたブームですね。
 
光太郎、智恵子も生きた大正時代。やはり時代の流れの中での位置づけというのも重要なことだと思います。そう思い、価格も手ごろだったので購入しました。実は通販サイトで似たような本を少し前に見つけていたのですが、価格が高めで二の足を踏みました。こちらは750円でお買い得だったな、という感じです。
 
光太郎に関しては、白樺派を扱った項に名前が出てきますし、集合写真に写っています。智恵子に関しては表紙のデザインをした『青鞜』が紹介されています。ただし智恵子の名が出てこないのが残念ですが。
 
その他、やはり同時代ということで、二人と関わった人々がたくさん紹介されています。また、当時の町並みの写真や絵図、現在も残る当時の建築物の写真など、興味深い内容でした。
 
「ほう」と思ったのは、大正12年(1923)の関東大震災の「東京市火災延焼状況」という古地図。隅田川両岸は壊滅的な状況で、西岸は下谷あたりまで燃えていますが、光太郎のアトリエのあった駒込林町は無事だったというのが視覚的によくわかりました。ちなみに震災当日、智恵子は二本松に帰省中。光太郎は被災者のためにアトリエを解放したという話も伝わっています。
 
さて、これから百年ほど経って、平成はどのように評価、紹介されるのでしょうか。

BS朝日で本日放送された「若大将のゆうゆう散歩 「千駄木(前半)」」。録画しておきました。今、このブログを書きながら見ています。地上波で今月初めにオンエアがあったのですがうっかり見落とし、BSでの再放送があって助かりました。

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加山雄三さん、冒頭部分で千駄木駅から団子坂を上られました。「森鷗外、高村光太郎、川端康成、夏目漱石ら文豪が暮らした街」と紹介されました。嬉しいですね。こういうところで名前が出なくなってしまわないようにしたいものです。
 
その他、伝統の飴細工のお店や、人情味あふれる商店街などが紹介されています。
 
ところで、千駄木界隈が取り上げられると、「下町」として紹介されます。たしかに不忍通りや今回加山さんが歩いたよみせ通りなど坂の下は「下町」の風情です。しかし、団子坂の上などは「山の手」と言えるはず。結論。千駄木は山の手と下町の混在した街である。どうでしょう? ところで「山の手」の区域も、気取った雰囲気ではなく、そこがこの街のいいところだと思います。
 
明日は「若大将のゆうゆう散歩 「千駄木(後半)」」。17:25からのオンエアです。また、明後日はBS11で、「日本ほのぼの散歩 東京・谷根千」(20:00~)。是非ご覧下さい。
 
 
それから週末にはこんな番組もありますね。福島安達太良山が取り上げられます。 

にっぽん百名山 グッと来る!東北の山たびへ

NHKBSプレミアム 2012年10月27日(土) 19時30分~21時00分

番組内容
秋の東北の山は魅力がいっぱい。山の達人が登山のほか、紅葉の絶景、山麓の祭り、温泉、パワースポット、スイーツなどを楽しむ。福島の安達太良山を田部井淳子と華恵が女子会ハイキング、八甲田の紅葉をほっしゃん。が堪能。津軽の岩木山では、お山参詣を風間トオルが体感する。みなみらんぼうの心に染みる山歩き、w-inds.が沢登りに挑戦。思わず出かけたくなるグッとくる!山旅の魅力が満載。

司会 内藤剛志、中田有紀

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ぜひご覧下さい。

「一枚物(いちまいもの)」。古書籍商の業界用語で、無綴で書籍の形になっていないもの-主に印刷物-を指します。「刷り物」という場合もあります。8/22のブログで紹介した三陸汽船の運賃表などもこの類です。広い意味では絵葉書や古地図などもこのカデゴリーに入ります。
 
面白い出物がないかと、こういうものにも目を光らせているのですが、最近、こんなものを手に入れました。二つ折りのB4判ザラ紙6枚(全12ページ)をホチキスで留めてあり冊子の形になっているので、正確には「一枚物」ではありませんが、まあ似たようなものです。

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タイトルは「第二囘中央協力會議開催要旨」です。「中央協力会議」とは昭和15年(1940)に近衛文麿らが中心となり結成された大政翼賛会の中に置かれた下情上通を目的とした機関です。大政翼賛会内に地方組織として道府県・六大都市・郡・市区町村に各支部が置かれ、各段階の支部にそれぞれ協力会議が付置されて、さらに地方代表、各界代表による「中央協力会議」が持たれたわけです。
 
 光太郎は劇作家・岸田国士のすすめで中央協力会議議員となり、昭和15年の臨時協力会議に出席。この時はその時限りと考えていたようですが、翌16年の第一回、第二回の会議にも出席しています(17年の第三回以降は委員を辞退)。
 
そして今回手に入れたのが、第二回中央協力会議の開催要項です。会場は丸の内の大政翼賛会本部。下の画像は9ページ目。会議の日程です。日付を注意して御覧下さい。

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おわかりでしょうか。まさに太平洋戦争開戦の日、昭和16年12月8日なのです。翌昭和17年の『中央公論』に載った光太郎の散文「十二月八日の記」によれば、そのため会議の開始は午後に延期と決定、待たされている間に開戦を告げる天皇の詔勅が放送され、要項には5日目まで書かれている会議は1日で打ち切りになったそうです。
 
まさに歴史的な日、光太郎も手にしていたであろう要項がこれです。歴史の重みを感じます。中央協力会議に関しては、議事録や事前に配られたであろう議案などは国会図書館に収められていますし、古書市場にも出ますが(ただしむちゃくちゃ高い値段です)、かえってこういう要項は珍しいと思います。
 
他にもちょっと変わった一枚物をいろいろ手に入れていますので、明日以降、少しまとめて紹介しましょう。

BS朝日の番組「百年名家」を見て、千駄木の光太郎アトリエが空襲で焼け落ちた時のエピソードを思い出しましたので紹介します。
 
6/25のブログで紹介した『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載された元日本詩人クラブ会長の寺田弘氏による「証言」です。

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 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って。これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやっていたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうに立ち止まったのが、印象的でしたね。
 
それに対する爆笑問題のお二人のコメント。
 
田中 自分の家が燃えているのに。
太田 きれいだねって。
田中 なかなかね、そんなこと言えないじゃないですか。
太田 これは言えないよ。言えないっていうか、ちょっと狂気ですよね。なんでもそうやって芸術家
っていうのはさ。表現者っていう職業はどんなことでもそうやってとらえますよね。ああこれはきれい だとかなんだとかって言ってる場合じゃねえんだ、馬鹿野郎ってことですよね。
田中 まあ、どうなんですかね。思い出の家とか、本当はもっとすごい思いをしてるんでしょうけど。空襲ですもんね。でもそんなときに、そこで、こう言ってしまうという。
太田 言ってしまうというか、本気で感じちゃうところに問題があるんですよ。やっぱりこういう表現者ってどこか異常ですからね。だから普通の生活はできないですよね、こういう人たちは。特にこの 時代の文壇の人たちってのはみんなそうでしょうけどね。
 
当方、焼け落ちるアトリエを見つめる光太郎の姿に、芥川龍之介作「地獄変」の主人公、絵師・良秀の姿が重なります。

ところで『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』、売れているのでしょうか? 当方の「証言」も掲載されているので気に掛かります。少し前、近所の書店では新刊コーナーに1冊置いてありましたし、高速バスのターミナルがあるので時々立ち寄る浜松町の書店では平積みになっていましたが。

さて、千駄木。予想通り「若大将のゆうゆう散歩 千駄木(後半)」も再放送されるようです。 

若大将のゆうゆう散歩 「千駄木(後半)」

BS朝日  2012年10月23日(火) 17時25分~18時00分
 
今日は昨日にひき続き文京区「千駄木」をお散歩 ▽日本では数少ないレースドール作家の繊細な技 ▽伝統技術でつくる木製風呂桶の父娘職人

番組概要
さあ、若大将と一緒に街に出ませんか?散歩の楽しみ方、お勧めコースをお茶の間に紹介するこの番組。好奇心旺盛な加山さんは永遠の少年。目をキラキラ輝かせながら、街の息づかい、人とのふれあいを体験します。

出演者    加山雄三、生稲晃子、佐分千恵(テレビ朝日アナウンサー)

ぜひ御覧下さい。

福岡に行っている間に録画予約をしておいたテレビ放映を見ました。
 
BS朝日の「百年名家 東京 根津・千駄木~文豪の愛」です。最初に今年11月にオープンする森鷗外記念館の前でのロケ。その後、根津・千駄木は文豪が多く暮らした街だということで、漱石の旧居跡の碑や、宮本百合子旧宅跡の案内板にまじり、光太郎アトリエ跡や青鞜社発祥の地の案内板が映りました。
 
その後はこの一角に残る古い邸宅、店舗からのレポート。メインは若い頃の光太郎が暮らし、後に光太郎の弟、豊周が跡を継いで現在に至る高村家の隣に建つ旧安田楠雄邸でした。大正浪漫あふれる室内の造作、調度に感心いたしました。こちらは公益財団法人・日本ナショナルトラストに寄贈され、一般公開されています。来月に鷗外記念館がオープンしたら併せて行ってみようと思いました。
 
それにしても、指呼の距離にあった光太郎のアトリエは戦災で炎上してしまったのに、こちらは無事だったというのが何よりです(お隣の高村家も無事でした)。
 
東京という街、むろん大都会ですが、実は下手な地方都市よりずっと緑が多い街です。この千駄木近辺などもそうです。数十年前、光太郎や智恵子がここを歩いていたことに思いをはせながら散策してみませんか?
 
そうそう、こんな番組も放送されます。 

2012年10月22日(月) 17時25分~18時00分
 
今日は文京区「千駄木」をお散歩 ▽懐かしいあめ細工の実演販売に加山さん感激! ▽人情味あふれる商店街散策

番組概要
さあ、若大将と一緒に街に出ませんか?散歩の楽しみ方、お勧めコースをお茶の間に紹介するこの番組。好奇心旺盛な加山さんは永遠の少年。目をキラキラ輝かせながら、街の息づかい、人とのふれあいを体験します。

出演者 加山雄三、生稲晃子、佐分千恵(テレビ朝日アナウンサー)


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地上波で今月初めにオンエアがあったのですが、気がつきませんでした。BSでの再放送です。「千駄木(後半)」も放映してほしいものです。

今日、10月5日は智恵子の命日、レモンの日です。
 
思い立って、駒込染井霊園の高村家のお墓に行って参りました。今年の連翹忌(4月2日、光太郎の命日)以来ですので半年ぶりです。
 
着いたのは午(ひる)近くでしたが、すでに同じようにお参りされた方がいらっしゃったようでした。花やお線香、そしてお約束のレモンが供えてありました。自分もお線香とレモンをお供えして参りました。
 
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光太郎智恵子ゆかりの方でしょうか。それとも当方のような光太郎智恵子ファンでしょうか。はたまた最近は「墓参ラー」といって著名人のお墓参りを趣味にしている方も多いと聞きます。そういう方でしょうか。
 
いずれにせよ、誰もお参りに来ない、という状況にはなってほしくないものです。光太郎智恵子が世の中から忘れ去られてしまったら、そういうことも起こりえます。そうならないように、二人の業績などを語り継ぐ役割をしっかり果たしたいと、改めて思いました。

今日は神田神保町・東京堂書店さん6階の東京堂ホールで開催された講演会「与謝野夫妻の評伝を書き終えて」を聴きに行ってきました。
 
講師は与謝野夫妻研究の第一人者、逸見久美氏。北川太一先生とも旧知の間柄で、講演会終了後ご挨拶に行ったら「北川先生にくれぐれもよろしく」とおっしゃっていました。
 
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今回の講演は、逸見氏のご著書『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念ということで、版元の八木書店さんの主催でした。
 
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労作です。それから同じ八木書店さんからは『与謝野寛晶子書簡集成』というご著書も出されています。
 
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どちらのご著書にも大変お世話になりました。というか、最近また光太郎と与謝野夫妻がらみの新資料が続々見つかってきましたので、現在進行形でお世話になっています。
 
光太郎の本格的な文学活動の出発点は与謝野夫妻の新詩社から。寛のプロデューサー的な才能はかなり高かったようで、今日のご講演でも、「現在、晶子の名が高く、寛がかすみがちだが、寛あっての晶子である」という趣旨のご発言がくり返されました。そういう意味では光太郎も寛のプロデュースにうまく乗った一人なのではなかろうかと思います。
 
というふうに、光太郎と縁の深い与謝野夫妻ですが、当方、与謝野夫妻についてどれだけ知っているかというと、その知識は貧弱です。そういうことではいかんな、と思い、今日のご講演を拝聴しに行きました。光太郎だけに詳しい専門馬鹿では駄目ですね(といって、光太郎についてすべてを知っているかと問われれば答は「否」ですが)。せめて光太郎と近しい間柄だった人々に関しては、ある程度押さえておく必要があります。だから昨日はリーチ展にも行きました。「木を見て森を見ず」にならぬよう、光太郎を取り巻いていた環境をしっかり把握したいと思っております。
 
さて、今日のご講演で特に面白く感じたのは、逸見氏が与謝野夫妻の書簡を求め、日本各地を歩かれたくだり。1回の調査で百通を超える書簡が見つかり、現地に数週間滞在して調査なさったとか、コピー機のない時代で、すべて筆写したとか、筆写にあたって寛の字は読みやすいが晶子の字は実に読みにくいとか、御労苦がしのばれました。当方も似たような経験をしておりますので、尚更です。しかし、光太郎に関しては既に北川太一先生がほとんどやりつくされていますので、当方はその落ち穂拾い。あらためて北川先生も昔はそういう御苦労をされたんだろうな、と感じました。
 
落ち穂もまだまだたくさん残っています。今日も午前中、駒場東大前の日本近代文学館さんに寄ってから講演に行きましたが、やはり落ち穂がありました。いずれ「光太郎遺珠」にて紹介します。
 
ついでに言うなら来週は横浜の神奈川近代文学館さんに落ち穂拾いに行って参ります。

昨日、光太郎が留学から帰国する際に乗った日本郵船の阿波丸の絵葉書を紹介しました。
 
ついでに同じ店から同時に購入した古い絵はがきを紹介しましょう。
 
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東京・上野の写真です。人力車が走っているところがすごいですね。左の建物が、大正3年(1914)に光太郎・智恵子が結婚披露宴を行った精養軒です。現在も老舗の西洋料理店として健在ですね。
 
ちなみに一見カラー写真に見えますが、「手彩色」といって、モノクロの写真に手作業で着色してあります。
 
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もう一枚、昭和3年(1928)、有名な詩「ぼろぼろな駝鳥」に歌われた上野動物園の駝鳥です。といっても、この個体を見て作られたのかどうかは不明ですが。こちらは手彩色ではなく、ちゃんとしたカラー写真です。したがって比較的新しいものかと思いますが、それでも「東京市発行」となっていますし、横書きで右から左に「(鳥駝)うてだ」と歴史的仮名遣いになっています。戦前のものでしょう。
 
以前のブログにも書きましたが、光太郎・智恵子ゆかりの地などの古い絵葉書を結構入手しました。二人が見たであろう風景に近い時代のもの、というわけで、それなりに貴重な資料だと思っています。

あまり光太郎と関係ないかも知れませんが、yahoo!のテレビ番組検索で1件ヒットしましたのでご紹介します。 

GRACE of JAPAN~自然の中の神々【文豪の町 根津神社・白山神社】

BSジャパン 2012年8月16日(木) 21時00分~21時54分
 
日本全国の約8万の神社の中から、その季節、全国で最も美しいとされる神社と周りに広がる美しく神秘的な風景を、静かな感動とともにお楽しみいただけます。
 
東京の東側、文京区の鎮座するお宮「根津神社」「白山神社」の2つのお宮。古き良き下町情緒を残す街並み、迷路のように細い路地が入り組み昔の面影を今だに残す町。この地域は多くの文豪が愛した文化香る町として知られています。森鴎外、夏目漱石、高村光太郎、与謝野鉄幹、石川啄木、川端康成など日本を代表する文豪たちが住み、その文豪たちの小説にもたびたび登場する「根津神社」「白山神社」をご紹介します。
 
◆ナビゲーター 堤真一
 
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一昨日、練馬区立美術館さんに講演を聴きに行く途中、江東区の東京都現代美術館さんに寄り道しました。こちらには美術図書室という施設があり、古い美術関係の蔵書が充実しているからです。
 
目当ては『芸術新聞』という古い新聞。その名の通り、美術や音楽、文学や演劇など、芸術全般についての記事が載った新聞です。昭和18年(1943)初め頃の号に、光太郎の「われらの道」という詩が載っているかも知れないと考え、調査してみました。
 
「われらの道」は、光太郎の詩集『記録』に収められたので、内容は分かっています。しかし、初出-雑誌等に初めて発表された状況-が不詳です。光太郎の手許に残された控えの原稿には「芸術新聞へ」のメモ書きが残されています。
 
さて、収蔵庫から出していただいたのは、マイクロフィルム。国会図書館では所蔵品のデジタル化が進み、館内のパソコン画面で閲覧するシステムになっていますが、他館ではまだそうしたシステムが不十分で、古い書籍や新聞雑誌等、写真撮影したマイクロフィルム(リールになっているもの)やマイクロフィッシュ(シートになっているもの)を専用の機械で閲覧するという方式が多く採られています。
 
事前に書誌情報として「欠号多」という文字を眼にしていましたので覚悟はしていましたが、やはり「われらの道」、発見できませんでした。ちょうど掲載された号が脱けているのだと思います。普通に考えれば、数十年前の特殊な分野の新聞がきっちり揃っていないというのも仕方のない話でしょう。まあ、あきらめずに探索は続けます。
 
そのままだと癪にさわりますし、まだ時間もあったので、開架コーナーから総目録的なものを取り出し、知られていない光太郎作品の掲載がないかどうか調べました。6/7のブログにも書きましたが、特定の雑誌の執筆者、記事の題名等の索引がしっかりしているものは重宝します。
 
さて、『東京美術学校校友会雑誌』『工芸』などの雑誌の総目録を調べましたが、目新しいものは見つかりません。ところが、『美術新報』という雑誌の総目録を見ると、持参した当方作成のリストに載っていない光太郎作品が記されています。題名は「美しい生命」。しかし、大喜びはできません。こういう場合、落とし穴があることがわかっているからです。
 
ともあれカウンターに行き、該当する明治43年(1910)の号を含む合冊(復刻版でした)を出してもらい、当該ページを見てみましたら、題名のあとに「高村光太郎氏(早稲田文学)」とあります。「やはりな。」と思いました。この時期の特に美術系雑誌は、他の雑誌に載った記事の転載が非常に多いのです。そこで、持参したリストで『早稲田文学』を調べてみました。しかし、「美しい生命」という題名の作品は載っていません。しかし、この時点でも大喜びはできません。まだまだ落とし穴があることがわかっているからです。

 
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当該ページをコピーし、そろそろ時間なので東京都現代美術館を後に、練馬区立美術館へ。講演を聴き、帰宅。『高村光太郎全集』を引っ張り出し、『早稲田文学』所収の作品を調べます。すると明治43年(1910)7月の第56号に載った「ENTRE DEUX VINS」という作品の一部が、コピーしてきた「美しい生命」と完全に一致することが判明しました。「やはりそうか。」と思いました。予想はしていましたが、少し悔しいものです。
 
特に古い美術系雑誌では、こういうふうに他の雑誌や新聞、書籍などから記事を転載し、さらに題名を変えてしまうというケースも結構多いのです。試みに手持ちのリストでページを繰ってみますと、備考欄に「転載」の文字がたくさん入っています。例えば明治45年(1912)の『読売新聞』に載った「未来派の絶叫」という文章は大正7年(1919)の『現代之美術』という雑誌に転載、同じ『読売新聞』に大正14年(1925)1月掲載の「自刻木版の魅力」という文章は同じ年5月の『詩と版画』という雑誌に転載、大正2年(1913)7月の『時事新報』に載った「真は美に等し」という文章は翌月の『研精美術』という雑誌に転載、というように枚挙にいとまがありません。そして、転載の際に題名が変えられることも多く、混乱することがあるのです。初めてこのケースの落とし穴にはまった時は、腹立たしいやら喜んでいた自分が情けないやらでした。以後、こういう落とし穴があるということを肝に銘じ、注意しています。
 
光太郎以外の書き手についてはよく知りませんが、この頃の美術系雑誌ではこういうこと(転載、題名の改変)が半ば当たり前のように慣習化していたのでしょうか。詳しい方、ご教示いただけるとありがたい限りです。
 
ただ、逆のケースもあるので注意が必要です。明日はその逆のケースを紹介します。

今日は練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参りました。本日まで開催の日本大学芸術学部美術学科さん(N)と練馬区立美術館さん(N)の共同企画展「N+N展2012」の関連行事です。
 
「N+N展2012」は「触れる」というテーマのもと、日本大学芸術学部美術学科教職員の皆様による作品を展示していました。最近の美術界の傾向として、視覚だけに頼るのではなく、もっと五感(五官)を駆使すべしという流れがあるそうで、こちらのテーマも「触れる」ですから、自由に触れられる作品が多く展示されていました。
 
そして講演は「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。講師は同大教授の髙橋幸次氏。パワーポイント等使いながら、非常にわかりやすいお話で、1時間40分ほど、あっという間でした。
 
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光太郎は昭和3年(1928)の時点で、既に五感(五官)すべてが「触覚」に帰結する、という趣旨の発言をしていることをご紹介されました。そう考えると、光太郎は時代を突き抜けていたといえるかも知れませんね。
 
それから有名な「手」の彫刻を実例に挙げての光太郎の空間認識。当方、あの彫刻の画像を名刺に使ったりしていながら、今までそういう見方をしたことがなかったのですが、てのひらの部分に空間が設定されており、それを包み込みながら回転運動、そして人差し指が指す天を目指してあがってゆくイメージがあるとのこと。確かにそう見えます。
 
下の画像は平成19年(2007)、新潟市の会津八一記念館で行われた企画展の図録の表紙です。「手」が使われているので載せさせていただきました。おわかりになるでしょうか。

 
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あのロダンの「考える人」も、実はものすごいねじり、ひねりが入ったポーズです。自分でやってみるとわかりますが、右の肘を左の膝に置いています(このあたり、ミケランジェロの影響を指摘する説もあります)。こういうイメージ、いわば「視覚で触る」というようなイメージですね。それを光太郎も意識している、と、こういうわけです。
 
実にいい勉強になりました。
 
確かに光太郎は他にも様々な彫刻で、空間認識を大事にしているな、ということに思い当たりました。明日はその辺を書いてみようと思います。

明治古典会七夕古書大入札会、冊子の目録が届きました。頒価2500円ですが、以前、大口の買い物をしたということで、無料で頂きました。ありがたいことです。

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「たかが目録が2,500円?」というなかれ。A4判280余頁、カラー図版多数の豪華なものです。この時代の文学者の位置づけ的なものも表れ、後に「平成24年頃にはこの作家が人気が高かったんだ」という資料にもなります。
 
時間があったので、近代文学関連のみ最低入札価格の高額ランキングを調べてみました。あくまで業者が設定した最低入札価格ですので、実際にいくらで落札されるかは不明です。ことによると応札なし、ということもあり得ます。また、今年の出品物に限っての話ですので、ご了承下さい。これがイコール現代の作家の人気ランキングというわけではないということです。出品物の状態にも左右されますし、たまたまエントリーのない作家もいますから。
 
150万円以上に設定されているのは次の通りでした。
 
 岩波茂雄宛宮澤賢治書簡 500万003
 永井荷風草稿 400万
 更級源蔵宛高村光太郎書簡9通 署名本9冊付 350万
 芥川龍之介未定稿 300万
 森鷗外書巻「古稀庵記」 220万
 正岡子規宛夏目漱石書簡 200万
 斎藤緑雨採集草稿 樋口一葉・幸徳秋水関連 200万
 夏目漱石 我輩ハ猫デアル① 150万
 野呂邦暢草稿 150万
 
やはり書籍は「猫」1点だけでした。他は肉筆物です。堂々の1位は、賢治の書簡。夭折ということで、賢治の書簡は非常に少ないのでこの値段もうなずけます。宛先も岩波書店の社長で、メジャーどころですし。
 
光太郎の書簡が第3位ですが、9通セット、署名本9冊付と言うことで、一種の人海戦術のようなものですね。それを言ったら野呂の草稿も約150枚で150万ですから、もっと短いものだったらランク外です。
 
「猫」①以外、書籍だけに限定して高額商品を調べたところ、以下の通りでした。何冊もセットで出ているものは除きました。ただし、「猫」は元々全三巻ですので除いていません。
 
 宮澤賢治 『春と修羅』① 78万002
 中原中也 『山羊の歌』 60万
 宮澤賢治 『春と修羅』② 50万
 北原白秋 『邪宗門』署名入り 50万
 上田敏 『海潮音』40万
 夏目漱石 『我輩ハ猫デアル』② 40万
 与謝野晶子 『みだれ髪』 40万
 高村光太郎 『道程』 40万
 神崎武夫 『寛容』 40万
 太宰治 『駈込み訴へ』 40万
 福永武彦 『福永武彦詩集』40万
 
同じ「猫」でも、40万の出品もあります。白秋の『邪宗門』は署名入りという付加価値があります。光太郎『道程』は同率第5位ですね。金額がすべてではありませんが、光太郎ファンとしては、やはり嬉しいものです。それだけ認められている、ということですから。
 
「高村光太郎? 何それ? 全然人気がないからもう値段つかないよ」という時代が来ないでほしいと祈ります。祈るだけでなく、「光太郎はこんなに素晴らしい」ということをアピールし続けたいと思います。
 
それにしても、こういうものをポンと買えるのはどういう人なんだろうと、興味がありますね。こういうものを購入する方にお願いしたいのは、「死蔵しないでほしい」ということです。こういうものは日本国民共有の文化遺産ととらえ、研究等の用に役立てるべきだと思います。金額や希少価値にのみ拘泥して何ら世の役に立てず金庫にしまわれてしまっては、それこそ宝の持ち腐れです。活用されてこその宝です!

新着情報です。
 
2012年7月6日(金)~8日(日)の3日間、東京神田の東京古書会館で、年に一度開かれる古書籍業界最大のイベントの一つ、「明治古典会七夕古書大入札会」が開かれます。
 
古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。光太郎関連も毎年のように肉筆原稿や書簡、署名入りの書籍などが出品されており、目が離せません。
 
さて、今年の「明治古典会七夕古書大入札会」、昨日、出品目録がネット上にアップロードされました(これも今か今かと心待ちにしていました)。冊子の目録もおっつけ届くはずです(簡易版の目録は先週届いています)。ちなみに冊子の目録、ご希望の方は明治古典会加盟の古書店に請求すれば手に入ります(2,500円のはずです)。当方、何度か取引があった本郷の文生書院様にお願いしてあります。
 
光太郎関連、今年は例年にましてたくさん出品されています。

最低入札価格が設定されており、人気の商品はここからどんどん値が上がっていきます。
 
驚いたのは、詩集『道程』のカバー付きが出たこと。状態にもよりますが、カバー無しであれば10万円位で時々出ますが、カバー付きはここ数十年で、公の市場には数回しか出ていないはずです(当方もカバー無しは一冊持っています)。最低入札価格が40万円ですが、おそらくここから跳ね上がるでしょう。ただ、「背少傷(背の部分にそれとわかる傷があって痛んでいる)」ということなので、驚く程の値段にはならないかも知れません。稀覯本コレクターの方々は、本当に状態を気にしますので。

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それにしても、以前と比べると古書価もぐっと下がりました。やはり長引く不況の影響なのでしょう。試みに昔の目録を調べてみました。バブル真っ盛りの平成2年頃の目録では最低入札価格の記載がなく、比較できませんが、既にバブルがはじけた後の平成9年の目録と比較しても、明らかに値が下がっています。
 
例えば、宮澤賢治『春と修羅』。平成9年の最低入札価格は105万なのに対し、今年は2冊出品されていて、50万と78万。与謝野晶子の『みだれ髪』は、平成9年に100万だったのが、今年は40万。状態にもよるので、単純な比較はできませんが。ちなみに当方の記憶に間違いがなければ、『春と修羅』はバブルの頃には250万位の値がついたはずです。
 
『道程』も「40万」と聞くと「安いな」という感覚です。10数年前、カバー付きを持っているという古書店主と話をした時に「150以下では手放せないね」と言っていたのが記憶に残っていますので。もっとも40万から値が上がると予想しています。いくらになるのか興味深い所です。
 
しかし、こうした書籍系の値は下がっているものの、ここ数年、肉筆系の出品物は以前にも増して充実しているなと感じます。やはり古書店側も書籍系の値が下がっているためにいろいろ考えてこういうものを積極的に掘り出しているのではないでしょうか。ただし、落とし穴もありますね。今回の光太郎関連の出品物の中にも、いけないものが混ざっています。差し障りがあるので特定はしませんが。
 
さて、7月6日(金)~8日(日)の3日間のうち、6日、7日が一般公開。とても手の出る値段ではないので、入札はしませんが、目の保養のためどちらかの日に観に行ってみようと思っています。

6月16日土曜日、二本松に行く途中、三宅坂の国立国会図書館に寄り道しました。以前も書きましたが、当方の居住地から都心まで出るのも一苦労で(高速バスで約1時間30分1,700円、JRの普通列車で約2時間、1,620円)、こういう機会も活用しています。

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このところ、光太郎作詞の歌曲について調査をしています。同時代や後世の作曲家が元々あった光太郎の詩に曲をつけたものではなく(それはそれで重要なのですが)、最初から光太郎が歌の歌詞として詩を作ったものについて主に取り組んでいます。
 
光太郎は歌の作詞にはあまり熱意を持っておらず、このカテゴリーに属するものの数は多くありません。そういう意味では同時代の北原白秋、三木露風、野口雨情等と比べると異質です。また、北川太一先生のご指摘によれば、光太郎には校歌の作詞が一篇もないとのこと。たしかに校歌というもの、名だたる詩人に依頼することが多いものですね。実際、光太郎の日記にも依頼があったことは記されていますが、引き受けたという記述は見あたりません。「おらが村の学校の校歌は光太郎作詞だ」という方がもしいらしたら、大発見です。ご教示下さい。
 
ただ、校歌は作っていない光太郎ですが、岩波書店の「社歌」は作詞しています。これを含め、10曲たらずですが、最初から光太郎が歌の歌詞として詩を作ったものについて調査をしています。作曲者が誰で、レコードや楽譜はいつどこから発行され、レコードなら誰が歌い、ラジオでの放送は、独唱・合唱誰が編曲し、現在手に入るCDは、などなど、こういったことについてまとまった記録がありませんので、すこしずつやっているわけです。誰かがまとめておかないと、こうした事実も歴史の波に埋もれてしまいますから。
 
しかし、これが予想外に難航しています。楽譜やレコードの類は一般の古書籍ほど市場が確立していませんし、図書館等にもあまり所蔵されていません。それでも国会図書館では、当方未知の資料が最近になって館内限定閲覧のデジタル資料に登録されたので、調べに行って参りました。
 
いろいろな書籍やインターネットサイトで調べても脱漏や事実誤認が多く、なかなか全貌を明らかにするのは困難です。平安時代とかではなく、たかだか数十年前の話なんですけどね。
 
調査の結果わかったこと、楽譜などは、当方の発行しています冊子『光太郎資料』に少しずつ掲載しています。『光太郎資料』については、また後ほどこのブログでご紹介いたします。
 
話は変わりますが、またやってしまいました。先程気がついたのですが、昨夜、テレビ東京系の『乃木坂浪漫』で「智恵子抄」の朗読があったとのこと。

先月も同じ番組で「道程」その他の朗読があったのを見逃しました。この番組、yahoo!のテレビ番組の内容検索でひっかからないので、うっかりしていました。後でDVDにでもして発売してほしいものです。

いったん中断しましたが、『高村光太郎全集』補遺作品集として毎年連翹忌の日に世に出しています「光太郎遺珠」、平成19年に刊行した②の内容を紹介します。 

「光太郎遺珠」②

 平成19年(2007)4月2日 高村光太郎談話会
 
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俳句2句                                                      大3 『睡蓮』
短歌4首                                                     〃
散文「ツルゲーネフの再吟味」                     昭9 『ツルゲーネフ全集内容見本』
 〃 「木下利玄全集内容見本」                       昭14 『木下利玄全集内容見本』
雑纂「日本人名録」                                       昭24 『毎日年鑑昭和二十五年版』
短句1篇                                                         昭23(推定)
書簡3201 平櫛倬太郎(田中)宛                明39
 〃 3202     〃                                      〃
 〃 3203 太田正雄(木下杢太郎)宛          明44
 〃 3204     〃                                         〃
 〃 3205     〃                                      明45
 〃 3206 Henri Matisse(アンリ・マチス)宛          〃
 〃 3207 真山孝治宛                                 大2(推定)
 〃 3208 太田正雄(木下杢太郎)宛          大3
 〃 3209 佐藤春夫宛                                   年代不明(大正期と推定)
 〃 3210 硲眞次郎宛                                   昭5
 〃 3211 米澤理蔵宛                                   昭7
 〃 3212 吉野秀雄宛                                   昭9
 〃 3213    〃                                           〃
 〃 3214    〃                                          昭11
 〃 3215 森川勇作宛                                   昭13
 〃 3216 吉野秀雄宛                                     〃
 〃 3217 神保光太郎宛                                昭15
 〃 3218 吉野秀雄宛                                      〃
 〃 3219 平櫛田中宛                                   昭16
 〃 3220  森下文一郎宛                                 昭17(推定)
 〃 3221 神保光太郎宛                                  〃
 〃 3222 吉野秀雄宛                                   昭20
 〃 3223 天江富弥宛                                   昭21
 〃 3224 黒須忠宛                                      昭26
 〃 3225 長嶌三芳宛                                     〃
 〃 3226 野末亀治宛                                   昭27頃
 〃 3227 谷川俊太郎宛                                昭28(推定)
 〃 3228 武者小路実篤古稀祝賀会宛          昭29
題字「八木重吉詩集のための「麗日」「花がふつてくるとおもふ」    昭18
智恵子書簡68 太田正雄(木下杢太郎)宛   明45
参考資料 パン大会案内                                明43

 
平成18年(2006)に「光太郎遺珠」①を刊行し、その後1年間で見つけた新資料です。この年はやはり書簡がものすごくたくさん見つかりました。特に大きな発見は、智恵子書簡。田村俊子と二人で開いた「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」の案内状です。
 
こういったものをどうやって見つけるのか、後ほどその方法も書いてみたいと思っています。
 
今回紹介した「光太郎遺珠」②、現物は当方手許にある一冊だけとなってしまいました。ただ、データの形では提供できますので、ご希望の方はお声がけ下さい。

さて、昨日観て参りました渡辺えりさん率いる劇団おふぃす3○○(さんじゅうまる)さんの舞台、「月にぬれた手」と「天使猫」をレポートします。
 
会場は座・高円寺さん。休日で二本立てということもあって、二公演とも233席、満員でした。ちなみに花巻高村記念会の高橋氏もいらしていました。夜行バスで花巻との往復だそうで、お疲れ様です。

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昨日は昼の部でまず13:00開演の「天使猫」。宮澤賢治が主人公です。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の名言を軸に、理想と現実のはざまで苦悩・葛藤する賢治の姿が描かれています。そんな賢治を温かく見守る弟の清六や妹のトシ、逆に非難・嘲笑する人々、そして賢治を取り巻く「イーハトーヴ」の大自然などとのからみが、幻想的な賢治童話に乗せて展開されます。

<配役>
 猫/保坂嘉内/きつね/生徒B/紳士……手塚とおる
 宮沢賢治……土屋良太
 トシ/ひばりの母/山猫/ヤス……馬渕英俚可
 清六/岩手山……宇梶剛士
 (山の役、というのもすごいものがありました。渡辺さんのブログに画像があります。)
 信夫/校長/うさぎの父/生徒A/別当/政次郎……谷川昭一朗
 絹江/ホモイ/イチ……渡辺えり
 キヌ/稲妻小僧……奥山隆   斎藤……醍醐直弘   川村……原田菜奈
 菊地/ひばりの子……佐藤友紀 小原……石山知佳   伊藤……加藤ちえり
 清六少年……川口龍      シゲ……加藤亜依   マツ……川崎侑芽子
 タケ……小出奈央       ウメ……金田彩乃

光太郎は配役として設定されていませんが、ストーリーの中で何度も「高村光太郎先生」として語られました。

夜の部は17:00開演で「月にぬれた手」。光太郎が最晩年を過ごした中野のアトリエ、それに先立つ花巻の山小屋が物語の舞台です。戦時中に自分が書いた詩を読んで散っていった若い命、夢幻界の住人となった智恵子に対する悔恨が浮き彫りにされています。最晩年の光太郎は「脱却」という語を好んで使いましたが、そこに到るまでにはどれほどの苦悩があったことか……。この舞台ではそれを表現しようとしているのだと思います。木野花さん演じる村の農婦が光太郎に投げつける「戦争中にこいづが書いた詩のせいでよ、その詩ば真に受げて、私の息子二人とも戦死だ。」「おめえがよ、そんなにえらい芸術家の先生なんだらよ。なしてあんだな戦争ば止めながった? なしてあおるだげあおってよ。自分は生ぎでで、私の息子だけ死ねばなんねんだ。」という台詞、重たいものがありました。
 
「天使猫」にしてもそうですが、重いテーマを扱いながら、ユーモラスな描写も多く(ウサギのかぶりもので走り回る渡辺さんには客席から爆笑が起こりました。)、それが救いとなっている部分も多かったと思います。特に「月にぬれた手」では、光太郎ファンにしかわからないような小ネタが散りばめられていたり、当方もよく存じ上げている実在の方々がモデルになっていたりと、そうした部分でも楽しめました。

<配役>
高村光太郎……金内喜久夫                智恵子……平岩紙
わか(光太郎の母)……神保共子      春子(智恵子の姪)……藤谷みき

【光太郎と交流を持つ近隣の住人たち】
はじめ/秀……神保共子                   良枝(はじめの母)/伸……木野花
節子(秀の娘)……平岩紙

【光太郎を訪ねてくる人々】
長沼千代子……渡辺えり                    田辺正夫/北山……小椋毅
八千代(正夫の婚約者)……藤谷みき

【山口小学校】
校長……木野花                               村長……藤谷みき
子供たち……加藤亜依、小出奈央、佐藤友紀、醍醐直弘、内川啓介
 
「天使猫」は6/3(日)まで。「月にぬれた手」は5/28(月)まで。まだ若干の空席のある日もあるそうですので、おふぃす3○○(さんじゅうまる)さんまでお問い合わせ下さい。

今日は渡辺えりさん率いる劇団おふぃす3○○(さんじゅうまる)さんの舞台、「月にぬれた手」と「天使猫」の二本立てを観に行きます。

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開演は午後なので、午前中は国会図書館さんで調べもの。当方、千葉県在住ですが、千葉県といっても田舎の方で、都心に出るのも一苦労でして、上京(本当にそういう感覚です)する際には複数の用事を片付けることにしています。

詳しくは帰ってからご報告致します。

名古屋の方からこんなニュースがあったとお知らせいただきました。

高村光雲の木彫を無断売却=横領容疑、元美術商逮捕―横山大観作品も質入れ―警視庁

時事通信 5月15日(火)16時36分配信

 預かっていた高村光雲作の木彫を2500万円で勝手に売却し、横領したとして、警視庁捜査2課などは15日、業務上横領容疑で、鳥取市桂見、元美術商の山本麿容疑者(47)を逮捕した。同課によると、容疑を認めており、売却益は遊興費や借金返済に充てたという。山本容疑者は他の美術商らから横山大観や東山魁夷作の絵画など約11点の販売委託も受けていたが、いずれも質の出し入れを繰り返していた。
 逮捕容疑は昨年9月、静岡県内の美術館に販売する名目で、東京都練馬区の美術商から預かった高村光雲作の木彫を別の美術商に2500万円で売却し、横領した疑い。
 同課によると、山本容疑者が美術館に売却する話を持ち掛け、4000万円で商談が成立したが、売却話は架空だったという。 
 
バブルがはじけてだいぶ経ちますが、光雲の木彫ともなるとこのくらいの金額になるのですね。
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ムンクの「叫び」はオークションで96億円という話でしたが……。

昨日のテレビ朝日系「徹子の部屋」、ゲストは渡辺えりさんでした。貴重なお話がたくさん聞けました。
 
今年87歳になられる渡辺さんのお父様は光太郎と面識があり、お父様が光太郎と出会った時のエピソードをご紹介、光太郎署名入りの『道程 再訂版』や、光太郎からの葉書をご持参、黒柳さんも興味深そうでした。
 
お父様と光太郎にまつわるエピソードは、以下の書籍・雑誌に記述があります。 

 中央公論社 平成15年(2003) 渡辺えり子(美輪明宏さんの勧めで改名する前の渡辺さんです)

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ちなみに当方の持っている『思い入れ歌謡劇場』に、渡辺さんにサインをしていただきました。 

月刊絵手紙2003年6月号通巻90号003

日本絵手紙協会 平成15年(2003)
 
渡辺正治氏(お父様です)の「昭和20年4月10日光太郎先生との一期一会」2ページ。先の『道程』や葉書の画像も掲載されています。

ただ、ちょっと古い雑誌でして、ざっとネットで探した範囲ではバックナンバーも完売してしまって販売されていないようです。入手には古書市場だのみとなりますね。

 
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こちらの書簡については、平成18年(2006)高村光太郎記念会発行の『光太郎遺珠』北川太一・小山弘明編にも掲載させていただいております。『光太郎遺珠』とは何か? また後ほどのブログで紹介いたします。 

牛田守彦著 ぶんしん出版 平成23年(2011)

昨日の「徹子の部屋」オンエアで紹介されたものですが、当方、こちらの書籍は存じませんでした。早速購入しようと思います。 
 
また、今月17日から公演が始まる舞台、光太郎・智恵子を描いた『月にぬれた手』、宮澤賢治が主人公の『天使猫』についてもお話がありました。当方、5/26(土)のチケットを購入、2本立てで見に行って参ります。
 
今日は夜7:30~8:00、NHKBSプレミアムの「きらり!えん旅」で、由紀さおりさんが二本松を訪れた模様が放映されます。再放送は5/16(水)午前11:00~11:30、5/17(木)午後3:30~4:00です。

いろいろなところで光太郎、智恵子が取り上げられ、嬉しい限りです。この流れを途切らせないようにしたいものです。
 
また、明日5/11(金)、地上波テレビ東京系11時35分~12時30分、大人の極上ゆるり旅「岩手・花巻温泉郷/中伊豆・名湯巡り」が放映されます。元「わらべ」の高橋真美さんと、温泉エッセイストの山崎まゆみさんが、光太郎も時折滞在した花巻・鉛温泉を訪れます。

この番組、一回の収録で何回かに分けてオンエアされるようで、4/27の放映は、同じお二人が、やはり光太郎が愛した花巻・大澤温泉と花巻温泉を訪れた模様でした。この回では、宮澤賢治に関しては詳しく取り上げていましたが、光太郎の話は出てきませんでした(背景に光太郎の揮毫した書が映りましたが)。今回の鉛温泉はどうでしょうか? 

4月14日(土)、横浜のそごう美術館さんを後にし、000一路、新宿へと向かいました。
 
老舗のライヴハウス、ミノトール2さんにて、高木馨さんの『高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥』出版記念イベントがあったためです。同書は、昨年10月に文治堂書店さんから刊行されました。原稿用紙500枚という大作です。
 
さて、イベントは高木さんの親友で詩人・刀道の達人、佐土原台介氏の司会で始まりました。
 
光太郎関連では、中西利一郎氏の興味深いお話がありました。中西氏は、水彩画家の故・中西利雄氏(明33~昭23)のご子息で、中野区ご在住です。光太郎がその最晩年、十和田湖畔に建つ裸婦像(通称・乙女の像)の制作のため借りたのが中西利雄のアトリエ。

ちなみに光太郎はこちらの庭に咲いていた連翹を愛し、そこから光太郎の命日が「連翹忌」と命名されました。中西利一郎氏は、写真のパネル等を持参され、光太郎の回想を披瀝されました。
 
続いて当方のスピーチ。連翹忌についての話をメインに、15分ほどしゃべらせていただきました。
 
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その後は高木さんのお仲間のみなさんによるアトラクション。シンガーソングライター小藤博之さん、
ピアノ引き語りいまむら直子さんとシューフィーズの皆さん、アコースティックギター中村ヨシミツさんと歌の三原ミユキさん、フラメンコ手下倭里亜さんと手下ダンススタジオの皆さん。
 
この手のイベントが有れば、出来る限り駆けつけますし、しゃべれと言われればしゃべりますので、お声がけ下さい。

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平成24年(2012)4月2日、東京日比谷の松本楼において、第56回連翹忌が行われました。昨年は震災の影響で集まりは中止、こうして皆さんとお会いするのは2年ぶりとなりました。
 
まず、一昨年の連翹忌まで、毎回元気に参加なさっていた宮城・女川光太郎の会の貝廣さんをはじめ、震災で犠牲になられた方々への黙祷。
 
乾杯のあとは、各地で活躍される方々からスピーチをいただきました。
 
高村光太郎記念会事務局長にして当会顧問をお願いいたしました、北川太一先生
女川光太郎の会の笠松さん、佐々木さん
岩手・高村記念会の高橋さん
光太郎・智恵子を主人公とした舞台「月にぬれた手」を上演される女優の渡辺えりさんとお仲間のみなさん
長野・碌山美術館の武井さん
昨年、「北川太一とその仲間達」を上梓された文治堂書店さん
やはり昨年、文治堂書店さんより力作「高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥」を刊行された高木馨さん
今年、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を刊行される坂本富江さん
光太郎のご親族で、鎌倉でギャラリー笛を開かれている山端ご夫妻
生前の光太郎を知る鋳金家・人間国宝の斎藤明先生
オペラ「智恵子抄」等でご活躍の歌手・本宮寛子さん
福島・智恵子のまち夢くらぶ熊谷さん
 
他にも大勢の方にスピーチをいただきました。ありがとうございました。
 
来年の第57回連翹忌も、どうぞよろしくお願いします。

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