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演劇公演の情報です。 

チエコ

期 日 : 2013/10/02(水) ~ 10/07(月)  10/09(水)~ 10/14(月)
会 場 : 両国・エアースタジオ   東京都墨田区両国2丁目18-7 ハイツ両国駅前 地下1階
時 間 : 10/02(水) ~   10/09(水)~
料 金 : 3,000円
 
出演
五十里直子、清水知世、西田啓佑、平岡美保、古川原香織、音崎結映、小森毅典、畑野菜々、入江悠、木村ゆめこ、SHUN、芹沢結海子、日高翔太、吉野家菊之介
脚本・演出 野口麻衣子
主催 劇団空感エンジン
 
高村光太郎のアトリエ。高村光太郎と姪の春子が暮らしている。草野心平・中原綾子がアトリエを訪ねてくる。光太郎の亡くなった妻・智恵子への詩集『智恵子抄』を作る相談に乗ってもらう為に二人を呼んだのだ。智恵子との思い出を話しながら過去へと回想する。
 
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出演者の方々のブログ等


「中原綾子」は第二期『明星』に依った歌人・詩人017。そうした関係で光太郎と知遇を得、のちに自ら主宰した雑誌『いづかし』や『スバル』、自身の詩集『悪魔の貞操』に、光太郎の寄稿を受けています。
 
それより有名なのは、昭和31年(1956)6月に発行された『婦人公論』の光太郎追悼特集の中で、昭和9年(1934)から翌年にかけての光太郎書簡を発表したことです。智恵子の統合失調症が昂じて九十九里から連れ帰り、ゼームス坂病院に入院させた頃のもので、当時の智恵子の様子が克明に記されています。
 
ここまで詳しい智恵子の病状の描写が他に見つかっていないため、この書簡群は現在でも研究者の間ではよく利用されています。
 
ところで、光太郎と綾子の間を怪しむ説もあります。智恵子の病状を記した書簡が他の誰にも送られていない(であろう)こと、他にもいろいろと光太郎が便宜を図ってあげていること、この時期に綾子が離婚していること、綾子が流行の言い方をすれば「美人過ぎる」歌人だったこと(右下の画像参照)などがその理由です。
 
さらに書簡にある「あなたの御親切を実にありかたく思ひます。あなたの同情は私に絶大の力を添へてくれます」「あなたの慰めがどんなに私の力になつてゐるか知れません」といった部分が深読みされてもいるようです。
 
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やはり演劇で、野田秀樹作・大竹しのぶ主演の「売り言葉」(平成14年=2002)には、智恵子のこんな台詞があります。
 
その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! しかも、光太郎に同情したその女流詩人から送られた見舞いの林檎を智恵子は食べさせられたのであります。
 
林檎うんぬんは、先の『婦人公論』に載った光太郎書簡に記述があります。
 
しかし、だからといって光太郎と綾子の間を怪しむのはどうでしょうか。あまりに材料が少なすぎますので。
 
まあ、創作作品やエッセイなら許されることだと思います。しかし、「論文」としてそう書いてしまっては駄目ですね。
 
もっとも、エラいセンセイ方の「論文」も、実に噴飯ものの内容だったりすることが多く、いかにも「研究実績」として「論文」を書かなければいけないから苦し紛れに書いているんだろうな、というものが多いのが現状ですが。
 
話がどんどんそれましたが、劇団空間エンジンさんの「チエコ」、公演期間が長いので都合がつきまして、観に行くことに致しました。また観終わったらレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月21日

昭和8年(1933)の今日、宮澤賢治が歿しました。
 
光太郎は賢治の原稿等が散逸するのをおそれ、金を工面して草野心平を花巻に派遣しました。結局、賢治の弟の清六がきちんと管理をしてくれていて、取り越し苦労でしたが、宮澤家ではこの配慮に感激したそうです。
 
光太郎と賢治についてはいずれまた書くことがあるでしょう。

新刊です。

東京叙情詩集 I LOVE TOKYO

日本文学館刊行 津守秀祐輝著 文庫判 価格 630 円(税込)

佃島、表参道、聖橋。世界に類を見ない巨大都市にぎっしりと詰まった地名を追っていると、この町がのっぺりした首都機能の所在地ではなく、人々の生活の集合体であることが実感できる。都会人の控えめな郷土愛が光る叙景詩集。(同社サイトより)
 
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「安達太良山の青い空――長沼智恵子に捧ぐ」という詩が載っている他、光太郎と関連のあった土地――千駄木、上野など――、関わった人物――森鷗外、黒田清輝、八木重吉、草野心平など――をモチーフにした作品もあります。
 
版元は日本文学館さん。自費出版系の出版社です。名前が似ていますが、駒場の日本近代文学館とは関係ありません。
 
自費出版系というと、ひところ「S舎」という出版社があり、盛んに書籍を刊行し、日本一の出版点数などと豪語していましたが、販売には全く力を入れず、とにかく出版することで著者から金をふんだくるという商法を展開していました。それが問題となり、訴訟も起こされ、結局つぶれました。他にも同じような出版社がたくさんあり、刊行されるものは玉石混淆――ほとんど「石」――の状態でしたが、最近はどうなのでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月6日

昭和26年(1951)の今日、『岩手日報』のために「岩盤に深く立て」という詩を書きました。
 
2日後のサンフランシスコ講和条約調印を題材にした作品です。この時期はメディアも混乱しており、旧仮名遣いと新仮名遣いが混ざっています。
 
  岩盤に深く立て
 
四ツ葉胡瓜の細長いのをとりながら1011
ずゐぶん細長い年月だつたとおもう。
何から何までお情けで生きてきて
物の考へ方さへていねいに教えこまれた。
もういい頃と見こみがついて
一本立ちにさせるという。
仲間入りをさせるという。
その日が来た。
ヤマト民族よ目をさませ。
口の中からその飴ちよこを取つてすてろ。
オツチヨコチヨイといわれるお前の
その間に合わせを断絶しろ。
その小ずるさを放逐しろ。
世界の大馬鹿者となつて
六等国から静かにやれ。
更生非なり。
まつたく初めて生れるのだ。
ヤマト民族よ深く立て。
地殻の岩盤を自分の足でふんで立て。
 
写真は花巻郊外太田村山口の山小屋前にあった畑で撮影されたもの。胡瓜ではなくキャベツですが(笑)。

東京日野市での市民講座的なものの案内をネットで見つけました。
 
主催は公益財団法人社会教育協会さんです。 

こんなに面白い 近代文学入門コース 宮沢賢治と昭和の作家たち

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2013年秋季 宮沢賢治と昭和の作家たち
2013年 9/26 10/10・24 11/14・28 12/12 (全6回)
第②・④木曜日 10:00~12:00
講 師 青木登(紀行作家)
場 所 公益財団法人社会教育協会ゆうりか 日野市多摩平1-2-26 シンデレラビル
参加費 10,710円 教材費1,200円別途
 
宮沢賢治 は明29年、岩手県花巻市に生まれ、岩手県に理想郷ドリームランド・イーハトヴを建設しようとた。しかし、冷害や旱魃に見まわれ、世界恐慌に直面して挫折し、傷つき倒れた。
しかし賢治が夢みた理想の世界は賢治が残した童話や詩によって、私たちの胸に生き、限りない感動を与える。
取り上げる童話は、「どんぐりと山猫」「注文の多い料理 料理店」「なめとこ山の熊」「雪渡り」「セロ弾きゴーシュ」「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「おきなぐさ」「よだかの星」「二十六夜」「銀河鉄道の夜」。
詩集「春と修羅」から妹の死を悲しんで詠んだ「無声慟哭」三部作、「岩手山」「小岩井農場」「岩手軽便鉄道」「雨ニモマケズ」「もうはたらくな」「原体剣舞連」。
 
賢治の生前に賢治の作品を評価した著名人の高村光太郎。光太郎は昭和20年に賢治の弟宮沢清六の招きで花巻に疎開し、花巻郊外の山小屋で農耕自炊生活をした。高村光太郎から取り上げる作品は、「智恵子抄」「典型」「智恵子抄その後」。
 
申し込み等は以下のリンクを参照して下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月27日

明治42年(1909)の今日、上州磯部温泉、赤城山などへの旅から帰京しました。
 
この年7月には3年半にわたる欧米留学から帰国しています。赤城山は光太郎が自分の中の日本の原風景と位置づけていたようで、留学前から何度も訪れ、そして帰国早々また訪れています。
 
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昨日ご紹介した森まゆみさん著『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』に関し、『読売新聞』さんに記事が出ています。 

森まゆみさん 編集の視点で「青鞜」考察

 明治の末、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)らが創刊した雑誌「 青鞜 (せいとう ) 」をテーマにした『「青鞜」の冒険』(平凡社)を、作家の森まゆみさん(59)が出版した。
 
 地域誌の編集人を務めた経験を踏まえ、雑誌編集の視点から同誌を見つめ直した。
 「長年の宿題を果たした感じです」
 東京・千駄木で1911年、産声をあげた「青鞜」に著者は親近感を抱いてきた。同じ地域で84年、女性の仲間2人と地域誌「谷中・根津・千駄木」を創刊し、25年間続けたからだ。
 
 「女性の文芸振興や地位向上と、地域の魅力の掘り起こしと、それぞれの雑誌の内容は違います。でも女の人が集まることの面白さ、難しさなど、似ていると思うことがありました」
 
 本作は、<元始、女性は太陽であった>と高らかに唱えた「青鞜」の思想面より、経営面や誌面の出来栄えを探った点が興味深い。創刊号は、1冊25銭で1000部。地元のそば屋の広告や、読者が重なりそうな雑誌と互いに交換広告を掲載する努力もしていた。
 
 「『青鞜』の人々も、初期は苦労して広告を集めた。私たちと同じく地域に支えられていました。あの時点で女だけで雑誌を作ったのは冒険です。今のレベルから見れば習作のような掲載作にも、当時の女の悩みや暮らしが表れている」
 
 一方で、同誌が創刊1年で出版や販売の業務を外部の会社に任せた点には厳しい。「雑誌は原稿を書き、集めるだけでなく、広告取りや購読料の授受、発送、配達こそ大切です。雑誌なんて自分が売る気にならないと売れないんだから……」
 
 「谷中・根津・千駄木」は2009年に94号で終刊した。「雑誌の中で、色々な新しい提案ができた。“小所低所”に徹して身の回りを変える。大きなデモや声高に意見を上げるより、小さな地域を変えれば、全体がしっかりしてくると思う」
 
 100万人に5人しか発症しないとされる自己免疫疾患「原田病」に07年にかかり、目を患った。だが、東日本大震災後は被災地を訪ねて現地の声を聞き、『震災日録――記憶を記録する』(岩波書店)も出版した。「震災で言葉を失ったなどと男は言うけれど、女はその翌日だって米をとがなくてはならない。震災後も考えていることは変わりません。被災地との地域間交流を大切にしてゆきたい」
 
 朗らかな笑い声が、人をひきつける。
 
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記事の中で、平成19年(2007)に難病にかかられた由、記述がありました。地域雑誌『谷根千』休刊の陰にはこうした事情もあったのですね。
 
『谷根千』では、平成2年(1990)刊行の第25号に、今回のご著書の原型とも言うべき特集記事「平塚らいてうと「青鞜」-千駄木山で生まれた女の雑誌」が掲載されています。
 
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版元の「谷根千工房」さんももはや存在しませんが、古書サイト等で見かけることがあります。併せてお買い求めを。
 
今回のご著書にしても、上記の『谷根千』にしても、智恵子の描いた『青鞜』の表紙絵を用いた装丁。つくづくこの表紙はすばらしいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月2日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で開催された稗貫郡PTA講演会で講演をしました。

一昨日、神田の古書会館に行ったついでに、千駄木の森鷗外記念館にも足を伸ばしました。
 
現在、同館では企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」を開催中です。その中の「ミニ企画」として「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」というコーナーが設けられています。
 
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鷗外はあくまで小説家ですが、若い頃にはドイツ留学中に触れたゲーテなどの詩を翻訳したり、千駄木団子坂上の自宅・観潮楼(光太郎アトリエは目と鼻の先です)で歌会を催したりするなど、詩歌にも親しんでいました。観潮楼歌会には、伊藤左千夫や石川啄木、そして光太郎も参加しています。
 
鷗外の作もなかなかのもので、朴訥な中にも厳めしさが漂う、まさに鷗外その人のような歌風です。そういった関連の展示物が並ぶ中に、ミニ企画・「駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」。以下、リーフレットから引用させていただきます(図録は刊行されていませんでした)。
 
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特に目新しいものは並んでいませんでしたが、光太郎から鷗外宛の葉書は肉筆ものですのでかなり貴重です。「おやっ」と思ったのは鉄幹与謝野寛から鷗外宛の書簡。明治42年に留学から戻った光太郎の帰朝歓迎会の案内で、与謝野寛が呼びかけたというのは存じませんでした。この会には招きに応じ、鷗外も参加しています。
 
ちなみに下の画像は展示されたものと同じ雑誌『スバル』明治42年10月号の裏表紙。たまたま当方の手元にも一冊在ります。光太郎の描いた戯画で、「観潮楼安置大威徳明王」と題されていますが、鷗外を茶化したものです。大威徳明王は不動明王と同じく五大明王の一人で、仏法を守護する闘神。たしかに鷗外のイメージにぴったりといえばそうですが、光太郎、大先輩をこんなふうにいじるとは、とんでもありませんね……(笑)。
 
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企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」(含「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」)は9月8日まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今日はいよいよ千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」です。当方はあくまでサブで、メインは北川太一先生ですので気楽ですが、頑張ります!
 
【今日は何の日・光太郎】 7月7日

明治37年(1904)の今日、この年2回目の赤城山登山ををしました。後に与謝野寛、伊上凡骨ら新詩社同人も赤城を訪れ、合流しています。

昨日、神田の東京古書会館で開催中の明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観に行って参りました。
 
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古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。
 
昨日と今日が一般下見展観。実際に出品物を手に取ってみることができるのです。出品物の内容は目録に写真入りで掲載されているのですが、やはり手に取れるというところが魅力なので、行ってきました。
 
実は初めてでした。昨年は何だか忙しかったようで行きませんでしたし、その前までは平日に行くということは不可能でした。
 
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入り口のクロークでカバンを預け(出品物の盗難防止のため)、エレベータで文学関連の並んでいる4階へ。会場内は撮影禁止ですのでお見せできませんが、目録に載っている出品物が所狭しと並んでいました。
 
光太郎関連は、詩集『道程』初版や、草稿、識語署名入り献呈本、書簡などでした。そういったものは当方も持っているのですが、それでもやはり数十年前に光太郎が実際に手にしたものだと思うと、感慨ひとしおでした。また、毛筆の文字などは、写真ではよくわからない筆勢などが感じられ、やはり本物は違う、と思いました。
 
ちなみに文学関係の全ての出品物のうち、入札開始価格が最も高いのは石川啄木の書簡三通となぜか旧制盛岡中学の入学席次表のセット。600万円です。次いで中原中也から小林秀雄宛の書簡1通・400万円、夏目漱石の草稿11枚・280万円、正岡子規の書簡・250万円と続きます。ただし、入札開始価格なので、実際にはどうなるかわかりません。
 
また、今年は入札開始価格を設定せず、「ナリユキ」と記されているものがかなりありました。光太郎の署名本もそうなっています。これらは価値の判断が難しい、ということなのかなと思われます。
 
光太郎関連以外で個人的に最も興味深かったのは、価格としてはそれほどではないもの(といっても25万円)ですが、木村荘太の書簡でした。
 
木村荘太は光太郎と親しかった画家の木村荘八の兄で、明治末には智恵子と知り合う前の光太郎と、吉原の娼妓・若太夫を巡って恋敵となりました。その後、平塚らいてうから『青鞜』の編集を引き継いだ伊藤野枝(辻潤の妻、しかしアナーキスト・大杉栄と不倫恋愛中)に横恋慕(複雑な人間関係です)、そのあたりを戦後になって『魔の宴』という自伝小説に書いています。
 
木村の書簡は2通セットで、1通が伊藤野枝宛(恋文)、もう一通は大杉栄宛でした。「なんでこんなものが残っているんだ?」という感覚でした。ご存知の方はご存知の通り、大杉と野枝は大正12年(1923)、関東大震災のドサクサで、憲兵大尉・甘粕正彦に殺害されています。
 
ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の恩師です。甘粕自身も東京美術学校西洋画科で光太郎の同級生だった藤田嗣治と親しかったりと、なんとも複雑な人間模様というか人間曼荼羅というか……。ついでに言うなら木村荘太は『魔の宴』刊行直後に成田山公園で縊死。その前から成田郊外の遠山村に住んでいたのですが、なんと近くには光太郎の親友だった作家の水野葉舟も移り住んでいました。あちこちでつながります。
 
さて、明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観。会場内には明治大正昭和の名だたる文豪にまつわるお宝が所狭しと並んでいました。それらの文豪達の相関図的なものを描いてみると、とんでもないことになるのでは、などと思いました。改めて明治大正昭和という時代の凄さを感じました。
 
さて、明日は千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、講演です。遠方からお越し下さる方もいらっしゃり、ありがたい限りです。お気を付けてお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月6日

昭和28年の今日、杉並の浴風園病院で診察を受け、正式に結核と診断されました。

「明治古典会七夕古書大入札会」。
 
昨年の今頃もこのブログに書きましたが、一種の年中行事です。7/5(金)~7/7(日)の3日間、神田の東京古書会館で、年に一度開かれる古書籍業界最大のイベントの一つです。
 
古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。
さて、今年の出品目録がネット上にアップロードされました。
 
光太郎関連も毎年のように肉筆原稿や書簡、署名入りの書籍などが出品されており、今年はどんなものが出ているかな、とわくわくしながら見てみました。
 
すると、詩集『道程』のカバーなしが1点、詩稿が3点(全て複数の詩が書かれたもの)、色紙が一点、葉書が10枚で1組(既に存在・内容を知られているもの)、そして一番驚いたのが識語署名入りの著書2冊です。
 
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すべて詩人の高祖保にあてたものです。一冊は随筆集『某月某日』(写真中央)、もう一冊は詩集『をぢさんの詩』(写真右)です。ともに昭和18年(1943)の刊行。画像はおそらく表紙裏の見返しの部分でしょう。
 
葉書も1枚ついています。官製葉書の様式や住所氏名のゴム印などから判断し、おそらく同じ時期のものです。今のところ高祖宛書簡は滋賀の彦根市立図書館に収蔵されている1通(「光太郎遺珠」⑦所収)しか確認できていませんので、文面は不明ながら新発見です。
 
高祖は『をぢさんの詩』の編集作業をやってくれた詩人で、光太郎が書いた同書の自序には高祖に対する謝意が述べられています。また、戦後になって高祖の追悼文(昭和20年=1945・戦病死)も光太郎は書いています。
 
このあたりについてはいずれまた項を改めて書きます。
 
そして今回出てきたのがその高祖に宛てた長い識語入りの『をぢさんの詩』。その識語もなかなか味のある文章です。
 
ところで最低入札価格ですが、「ナリユキ」となっています。今年の明治古典会七夕古書大入札会では、このように最低入札価格を設定していない出品物が結構あります。どのくらいの値がつくのか興味深いところですが、できればどこかの公共機関で手に入れ、自由に閲覧できるようにしてほしいものです。特に光太郎に興味があるわけでもなく幅広く集めていて、自分の蒐集品は絶対公開しない偏狭なコレクターの手に入り、死蔵されてしまうともうおしまいですから……。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月25日

明治45年(1912)の今日、光太郎の手を離れた神田の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、田村俊子と智恵子による「あねさまとうちわ絵」展が始まりました。
 
数年前、神奈川近代文学館に特別資料として寄贈された木下杢太郎関連の資料の中に、この展覧会の案内が印刷された木下宛の書簡(「光太郎遺珠」②所収)が含まれていました。これを見つけたときの驚きは、新資料発見の五指に入ります。
 
曰く、
    ◎『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会
長沼ちゑの『うちわ絵』と田村としの『あねさま』の展覧会を来る二十五日から二十九日まで五日間琅玕洞で開催いたします
 ほんとうに両人のいたづらをお目にかける様なものなのです。
 極りのわるひ展覧会です。くだらないものと御承知で、見にいらしつて下さいまし。
(以下略)

朗読のイベント情報を見つけました。

第4回  柴川康子 「語りの会」003

期 日 : 2013年 6月12日(水) 14日(金)
会 場 : 江東区清澄庭園 「涼亭」
料 金 : 
各回 800円  
定 員 : 各回 20名

時間と演目
 12日(水)
  14:00~14:30 宮澤賢治 虔十公園林・雨ニモマケズほか
  15:30~16:00 宮澤賢治 林と思想ほか/高村光太郎 道程全文ほか
  18:00~18:30 加島祥造「老子・タオ」より 「荘子」より
  19:00~19:30 加島祥造 「離思」序詩ほか 画帖より
 14日(金)
  14:00~14:30 加島祥造「老子・タオ」より 「荘子」より
  15:30~16:00 加島祥造 「離思」序詩ほか 画帖より
  18:00~18:30 宮澤賢治 林と思想ほか/高村光太郎 道程全文ほか
  19:00~19:30 宮澤賢治 虔十公園林・雨ニモマケズほか
 
*演目は変更になる場合がございます。予めご了承ください。
*14:00と16:00の会は別途入園料がかかります。
(一般、中学生150円 65歳以上70円)
問い合わせは emputy@nifty.com
 
光太郎を取り上げていただけるのはありがたいことです。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月10日

明治41年(1908)の今日、ロンドンを発ち、留学の最終目的地、パリへ向かいました。
 
昨年のこのブログにも書きましたが、従来、どんなルートでパリに渡ったか不明でした。しかし、新たに見つけた昭和17年(1942)の「海の思出」という散文によれば、イギリスのニューヘヴンからフランスのディエップに至る航路を使ったとのことでした。

昨日は乃木坂国立新美術館で太平洋美術展を観たあと、原宿のアコスタディオさんに向かいました。シャンソン歌手・モンデンモモさんのライブです。何度もご紹介してきていますが、光太郎の詩にご自分で作曲され、発表なさっています。
 
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今回は2部構成でした。1部は主に明治末から大正初めの光太郎智恵子が結ばれる時期にポイントを絞り、新曲も多く交えてステージを組みました。モモさんの凄いところは、聴くたびに曲が増えていることです。昨日も今までなかった「N-女史に」とか「或る夜のこころ」、「淫心」などが披露されました。また、智恵子が雑誌『青鞜』の表紙を描いたことをふまえ、平塚らいてうにもからめ、らいてうの書いた「元始、女性は太陽であつた」も歌にしていました。
 
2部は旧曲からのセレクトで、光太郎智恵子の後半生を謳うステージ。その冒頭で5分ほど時間をいただき、レクチャーして参りました。1部で扱われていた明治末から大正初めは、光太郎の内部で満たされない思いが渦を巻き、詩として吐き出されていたり、智恵子との恋愛の成就でそれが満たされ、有頂天になって高らかに詩が謳われたりしたこと、その後は平穏な生活が続き、詩作が途絶えたことなどです。光太郎に限らず詩人全般に言えることですが、平穏な日々を送っている間は詩作が少なく、マイナスの鬱屈した思いや逆にプラスの高揚感で満たされている日々になると詩作が増えます。
 
光太郎に関して言えば、大正3年(1914)の結婚披露から10年ほどの間は詩作が少なく、比較的平穏な日々だったといえます。それが大正12年(1923)頃から再び詩作が多くなるのは、智恵子との生活に「きしみ」が見えてきたからだ、ということで、2部につなげました。このレクチャーが意外と好評だったのでよかったと思います。どさくさに紛れて光太郎生誕130周年記念で花巻の記念館がリニューアルオープンしたことや、来月から始まる「彫刻家・高村光太郎展」の宣伝もさせていただきました。
 
2部まで終わり、アンコールは「道程~冬が来た」。お客様(坂本富江様もいらしていました)の反応も上々でした。光太郎詩以外にも、サティの「Je te veux」やフォーレの「夢のあとに」を歌付きで入れたのも良かったと思います。相変わらず伴奏の砂原嘉博さんのピアノも冴え渡っていました。
 
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終演後の会場で
 
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地下のホールから地上に上がると、なぜかキティーちゃんとダニエル君(笑)。同じビルを拠点にサンリオさんのイベントカーが走り回っていました。
 
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【今日は何の日・光太郎】5月20日

明治19年(1886)の今日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)で、智恵子が誕生しました。
 
智恵子は生誕127年になります。

今日も上京、2件用事を片付けてきました。001
 
1件目は乃木坂の国立新美術館で開催中の第109回太平洋展を観ること、もう1件は原宿アコスタディオさんで開催されたモンデンモモさんのライブに出演することです。2件の場所が近かったので、まとめました。
 
今日はまず太平洋展のレポートを。
 
「一般社団法人太平洋美術会」さんの団体展で、この団体は明治末に日本女子大学校を卒業した智恵子が所属していた「太平洋画会」の後身です。高村光太郎研究会に所属され、連翹忌などのイベントに欠かさずご参加くださる坂本富江様がこちらの会員で、坂本様の作品も並ぶとのことで、見に行って参りました。
 
当方、美術館にはよく足を運びますが、ほとんどは個人作家、それも光太郎と縁のあった作家-したがって少し前の時代の作家-の企画展です。考えてみると、団体展、それも現代の、となると初めて観ました。
 
油絵、水彩画、版画、染織作品、彫刻の五部門が一堂に会し、とんでもない点数の作品が並んでいました。
 
絵画が中心でしたが、ほとんどが100号前後の大きなもの。圧倒されました。圧倒はされましたが、不快なものではありませんでした。意外とわかりやすい具象の作品が多かったせいだと思います。
 
また、版画や染織の作品にも非常に好感が持てました。002
 
さて、坂本様の作品。これも100号の大きな絵です。
 
題して「智恵子抄の里(二本松市)」。桜と針葉樹のある野の道、その向こうに安達太良山、その上には「ほんとの空」。昨年、坂本様の出版なさった「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」と同一のモチーフです。
 
100号もあって自宅に飾るのは不可能ですが、先週リニューアル成った花巻の高村光太郎記念館や、今日、このあとに行ったモンデンモモさんのライブ、それからもちろん連翹忌などでこうしたものが飾られるといい感じだな、と思いました。
 
しかし、「美」を生み出そうとする人間のエネルギーというか、意欲というか、そういうものを非常に感じた展覧会でした。自分も絵心があれば、挑戦してみたいと思うのですが……。
 
会期は5/27(月)までです。
 
明日のブログでは、この後行った、原宿でのモンデンモモさんのライブについてレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎】5月19日

明治26年(1893)の今日、智恵子の両親斎藤今朝吉・セン夫妻が、センの養父長沼次助と夫婦で養子縁組、数え8歳だった智恵子も斎藤姓から長沼姓になりました。
 

先日、日暮里での野村朗氏のリサイタルに行った際、やはりご来場の『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者、坂本富江様からご案内をいただきました。
 
日本女子大学校卒業後の智恵子が在籍した太平洋画会の後身、太平洋美術会の定期展です。

河北抄第109回 太平洋展

開催期間   2013年05月15日(水)~2013年05月27日(月)
        10:00~18:00 【最終日は午前10時~午後3時30分】
展示会場  六本木 国立新美術館 港区六本木7-22-2
巡回展   福岡・大阪・名古屋・神奈川・千葉
 
 
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坂本様の作品も展示されるとのこと。やはり智恵子をモチーフとした作品だそうです。
 
当方、来週、花巻に行きますので、その帰り道に寄ってみようかなと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】5月10日003

明治33年(1900)の今日、上野公園竹の台五号館で始まった彫塑会第一回展覧会に、塑像「観月」を出品しました。
 
この「観月」、確認されているものとしては一番目か二番目に古い塑像です。残念ながら現存確認できていません。
 
光太郎曰く、「坊さんが月を見上げて感慨に耽ってゐるところ」(「美術学校時代」 昭和17年)。
 
さらに同じ「美術学校時代」では、こうも述べています。
 
彫刻をするについても非常に文学的に考へてゐたので」「それが当時の彫刻会では新しかつた。後にかういふことが間違つた新しい彫刻運動のもとになつたりした。
 
要するに、謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻、ということです。後に光太郎はこういう方向性を否定し、彫刻には純粋に造形美のみを求めるようになっていきます。

昨日、日暮里での野村朗氏作品リサイタル002に行く前に、東京駅丸の内北口の東京ステーションギャラリーさんに寄りました。 

現在、「東京ステーションギャラリー再開記念 生誕120年 木村荘八展」を開催中です。
 
木村荘八(しょうはち)は明治26年(1893))生まれ。光太郎より10歳年下です。岸田劉生と交流を深め、西欧のポスト印象派や岸田の影響を受けつつもそこからの脱却をはかり、東京の景物をモチーフにした絵で独自の境地を開きました。
 
大正元年(1912)、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒユウザン会(のちにフユウザン会)の結成に参加、やはり同人として参加した光太郎と知り合います。
 
大正2年(1913)には、雑誌『近代の洋画』第17号として、光太郎、劉生と3人で、「後期印象派」を刊行しています。
 
また、挿絵画家としても活躍、朝日新聞に連載された永井荷風の「濹東綺譚」などの挿絵を担当しました。今回の展覧会では、この「濹東綺譚」の挿絵原画がたくさん出品されています。
 
荘八はもともと牛肉屋「いろは」の息子です。異腹を含め、きょうだいが多く、兄たちも光太郎と関わっています。
 
四男で作家の荘太(『四』の字を嫌って四画の『太』の字を付けたそうです)は、吉原の娼妓、若太夫を巡って光太郎と争いました。その経緯は荘太の自伝的小説『魔の宴』に詳述されています。
 
五男、荘五は武者小路実篤が「新しき村」の出版部門として大正9年(1920)、池袋に近い長崎村に作った出版社、曠野社にいて、たびたび光太郎作品を掲載した雑誌『生長する星の群』などを刊行していた関係で、光太郎とも親しかったようです。
 
当方、昨年、荘五宛の光太郎書簡を二通、入手しました。
 
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さて、「生誕120年 木村荘八展」。5/19(日)まで東京ステーションギャラリーさんで、その後、5/25~7/7に豊橋市美術博物館さん、7/13~8/25で栃木の小杉放菴記念日光美術館さんを巡回します。
 
光太郎も愛したある意味エキゾチックな江戸情調があますところなく表現されています。是非ご覧ください。
 
【今日は何の日・光太郎】5月5日

昭和57年(1982)の今日、盛岡市川徳デパートで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

川徳さんでは昭和25年(1950)、智恵子の紙絵展覧会が開催されています。

今日は、名古屋の作曲家で、「連作歌曲「智恵子抄」」を作られた野村朗氏の作品リサイタルを聴きに、日暮里に行ってきました。
 
上京する際には複数の用件をこなすのがモットーでして(笑)、午前中には、東京駅に昨年リニューアルオープンした東京ステーションギャラリーに寄りました。現在、「東京ステーションギャラリー再開記念 生誕120年 木村荘八展」開催中です。木村はヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と縁があった画家です。明日、詳しくレポートします。
 
その後、日暮里へ。まだ時間がありましたので、第一日暮里小学校、そしてすぐ近くの太平洋美術会に行ってきました(行ったと言っても、中には入りませんでしたが)。
 
第一日暮里小学校は、光太郎が明治23年(1890)から同25年(1892)まで通っていた小学校です。その縁で校門脇には光太郎自筆の碑があります。
 
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「正直親切」。下段のルビも光太郎の筆跡です。元々は、花巻郊外太田村山口在住の昭和26年(1951)に、山小屋近くの山口小学校に校訓として贈ったものですが、昭和60年(1985)、第一日暮里小学校の創立100年記念に光太郎の母校として、この文字をいただいたとのこと。
 
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碑の向かいにはガラスケースの掲示板があり、同校の学校便りが張ってありました。その名も「正直親切」。
 
ちなみに同校では全校あげて光太郎の顕彰に取り組んでいるそうで、その一環として昨年度3月には『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者、坂本富江さんが講話をなさっています。ありがたい限りです。
 
今日の野村氏のリサイタルには、同校の校長先生や、坂本さんもお見えでした。
 
すぐ近くには太平洋美術会。ここはかつて明治末に智恵子が通っていた太平洋画会の後身です。もっとも、第一日暮里小も太平洋美術会も、光太郎智恵子が通っていた頃とは場所が変わっていますが。
 
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画像の木炭デッサンは智恵子の作品(もちろん複製ですが)。
 
坂本さんはこちらの会員でして、こちらの会の第109回展の招待状を今日いただいてしまいました。5/15(水)~27(日)、六本木の国立新美術館です。こちらもまた項を改めましてご紹介いたします。
 
さて、いよいよ野村氏の作品リサイタル。会場は日暮里駅近くの日暮里サニーホールです。ここでは、数年前に荒川区主催の「光太郎智恵子フォーラム」というイベントがあり、当方が司会を務めました。それ以来でして、懐かしい場所でした。その際は大ホールでしたが、今日はコンサートサロンという小ホールでした。
 
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3月に野村氏の地元、名古屋であったリサイタルの時と同じ、森山孝光様、康子様による演奏でした。
 
前半は八木重吉、三好達治の詩に曲を付けたもの、後半が「連作歌曲「智恵子抄」」。「智恵子抄」は「千鳥と遊ぶ智恵子」「あどけない話」「レモン哀歌」、ピアノインストゥルメンタルの「間奏曲」が入って「案内」。野村氏の光太郎・智恵子に対する思い入れが感じられる作品群です。
 
名古屋では大ホールでしたが、今回は小ホールで森山孝光様の息遣いが感じられ、また康子様の指使いまで見て取れ、、かえって小ホールの方がよかったと思いました。
 
今年の連翹忌で野村氏が招待状を配布してくださったため、会場には、坂本様はじめ、連翹忌にご参加いただいている方々のお姿もちらほら。その中のお一人が、終演後、「光太郎が歌っているようだったね」とおっしゃっていました。「なるほど」と思いました。
 
今後とも、皆様のご活躍に期待したいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】5月4日

明治44年(1911)の今日、父・光雲を頂点とする古い日本彫刻会と訣別し、北海道移住を企てて東京を発ちました。
 
札幌郊外、月寒の牧場にたどり着き、ここで酪農をやりながら美術制作をする生活を考えていましたが、現実にはそんな生活は夢でしかないと悟り、中旬にはすごすご帰京しています。
 
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昨日、目黒区駒場の日本近代文学館に行って参りました。
 
先月ご紹介した同館で開催している講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」を聴講するためです。
 
全6回の講座の1回目で、題は「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」。講師は上智大学教授の小林幸夫先生でした。光太郎、鷗外、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子を語られ、非常に興味深い講座でした。
 
親子ほど年の違う二人の交流、主に二つの出来事が扱われました。
 
まず、光太郎が東京美術学校在学中だった明治末の話。鷗外が非常勤の講師として美術学校の「美学」の授業を担当しました。どうも若き光太郎、「権威」には反発したがる癖があったようで、偉そうな鷗外に親しめませんでした。その最後の講義の日、頓狂な質問をした級友がこっぴどく怒られたエピソードを、光太郎は後々まで繰り返し語っています。
 
さらに大正に入ってから、やはり権威的だった鷗外を揶揄し、「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、光太郎を自宅に呼びつけて叱責したとのこと。鷗外はこの件を雑誌『帝国文学』に載った「観潮楼閑話」という文章に書いています。光太郎も後に高見順や川路柳虹との対談などで回想しています。
 
といって、光太郎は鷗外を嫌悪していたわけではなく、それなりに尊敬していましたし、鷗外は鷗外で、つっかかってくる光太郎を「仕方のないやつだ」と思いつつもかわいがっていた節があります。
 
今回の講座ではそういう話は出ませんでしたが、光太郎が明治末に徴兵検査を受けた際、身長180センチくらいの頑健な光太郎が徴兵免除となりました。理由は「咀嚼(そしゃく)に耐えず」。確かに光太郎、歯は悪かったのですが、それにしても物が噛めないというほどではありません。これはどうしたことかと思っていたら、帰り際に係官の軍人が「森閣下によろしく」とのたまったとのこと。軍医総監だった鷗外が、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったらしいのです。
 
微笑ましいといえば微笑ましい交流ですね。
 
小林先生もおっしゃっていましたが、「文豪」たちのこうした人間的な側面が垣間見えるところに、文学のある種のおもしろさがあるような気がします。
 
同館では、講座とは別に企画展も開催中です。題して「花々の詩歌」。

 
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「文豪」たちの「花」を題材にしたさまざまな作品-主に自筆資料-が並んでいます。夏目漱石が相思相愛だったとも伝えられる大塚楠緒子の死に際して詠んだ有名な句「あるほどの菊なげ入れよ棺のなか」の短冊や、有島武郎が心中の直前に作った短歌「明日知らぬ命の際に思ふこと色に出つらむあじさいの花」の短冊など、見応えのあるものばかりです。
 
それらにまじって、大正期に第二次『明星』のために光太郎が描いた花々のカットも4点展示されています。チラシの右上に載っています。
 
会期は6/8(土)まで。



今日、明日と、信州安曇野の碌山美術館に行って参ります。光太郎の親友だった彫刻家碌山荻原守衛の命日、碌山忌と、記念講演で光太郎の令甥、高村規氏の「伯父 高村光太郎の思い出」があります。
 


【今日は何の日・光太郎】4月21日

明治45年(1912)の今日、上野竹の台陳列館において第10回太平洋画会展覧会が開幕しました。智恵子が油絵「雪の日」「紙ひなと団扇絵」を出品しました。
 
どちらの作品も現存が確認されていません。どこかから出てこないものでしょうかね……。

今日もいただきもののご紹介ですが、ともに新聞関連です。
 
まず、花巻の財団法人高村記念会様より、『岩手日日』さんの4月3日号。
 
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花巻での連翹忌などの様子が報じられています。
 
記事の内容自体は4/6のブログでご紹介しました。
 
当方、ネットで内容を見たのですが、やはり新聞そのもので見ると、また感じが違いますね。
 
続いて福島県川内村のかわうち草野心平記念館からいただきました、4月6日の福島民報さんの記事です。
 
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先日のブログで東京の連翹忌の様子がなかなか報道されない、と書きましたが、福島の地方紙で報道されていました。これは全く存じませんでした。
 
ただ、記者の方がお見えになったわけではなく、参加者どなたかからの伝聞で書かれたようで、若干、事実と異なる部分があったります。まぁ、何はともあれありがたいことです。
 
お送りいただいた皆様、ありがとうございました。
 
まだまだいろいろなものが届いており、順次、ご紹介します。順不同となりますことご了承ください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月14日

昭和28年(1953)の今日、前後3日間にわたりNHKラジオで『ロダンの言葉』が放送され、光太郎も録音で出演しました。

昨日は武者小路実篤の命日でした。武者小路はご存じの通り白樺派の中心人物の一人で、同人だった光太郎とも縁の深かった人物です。
 
しかし、意外なことに光太郎から武者小路本人に宛てた書簡は、現在のところ一通しか確認できていません。もう一通、武者小路の古稀祝賀会宛を確認していますが、住所が「新しき村」東京支部の新村堂内になっており、武者小路本人に宛てたものではありません。
 
どうも武者小路は手元に古い物を残さないたちだったようで、遺品の中に本人に関わる資料が少なく、昭和60年に調布に武者小路実篤記念館ができた際にも、収蔵品の数は多くなかったそうです。代表作『友情』の初版本すら遺品には入ったいなかったとのこと。したがって、来翰類も本人が処分してしまっていたと推定されます。
 
ただ、どこかからごっそりまとめて出てくる可能性も捨てきれません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。
 
さて、唯一確認されているものは調布の武者小路実篤記念館所蔵のはがきで、昭和23年(1948)5月、花巻郊外太田村山口の山小屋から送られたものです。
 
おてがみいただきました。あの変な詩を快く受け入れて下さつた事を感謝してゐます。雑誌からもらつた金は大いに助かりました。新しい村三十年記念展覧会に出品の事まだ何ともお答へ出来ません。穣さん御承知の通りの光線メチヤメチヤな小屋なのでまだ本格的な彫刻は始めません。やつと板彫とか帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎないので、東京の展覧会に送るのはどうかと思つてゐますが、いづれ来月■手紙で申上げる事にいたします。今日は茄子の移植をやります。
 
文中の「■」は染みのため判読不能の文字です。
 
「あの変な詩」は、この年、武者小路が主幹となって発刊された雑誌『心』に掲載された詩「人体飢餓」と推定されます。「穣さん」は武者小路の娘婿。当時日本読書購買利用組合に勤務しており、光太郎が編集に当たった『宮沢賢治文庫』の出版に関わっており、太田村の小屋も訪れました。
 
さて、最も注目されるのは「やつと板彫とか帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る」。
 
太田村の山小屋での7年間での、光太郎の彫刻らしい彫刻は一点も確認されていません。確認できているものはわずかに、詩集『典型』の題字の自刻木版、山小屋の便所の壁に彫った「光」一字(これらは「彫刻」というより「書」の延長といえます)、没後に山小屋の囲炉裏の灰から見つかった粘土の「野兎の首」程度です。
 
本当に板彫りや帯留めを作っていて、確かにそれと確認できるものが見つかれば、大ニュースです。花巻周辺のどこかに残っている可能性も高いので、今後に期待します。
 
ところで、山小屋時代の光太郎の短歌に次の作があります。
 
太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは
 
現存が確認できている「蝉」の木彫は4点。すべて戦前のものです。本当に山小屋でも蝉を彫っていたのでしょうか? 残された日記や書簡、周辺人物の回想等を読む限り、どうもそうではない気がしてなりません。結局、光太郎の詩歌はすべてがドキュメントではない証左と言えるのではないでしょうか。
 
といいつつ、山小屋時代の蝉が見つかる可能性も皆無ではありませんが……。

追記 光太郎と交流のあった詩人・竹内てるよの回想に、山小屋で「蝉」を見たということが書かれていました。また、京都の骨董商さんで、5点目の「蝉」が出てきました。

余談になりますが、6月29日から千葉市立美術館で開かれる企画展「彫刻家・高村光太郎展」。担当学芸員の藁科氏と連絡を取りつついろいろ進めていますが、先日、ポスター及びチラシの原案が送られてきました。現存する「蝉」のうちの一点をドーンと大写しにした構図で、なかなか今までにない斬新なものです。ご期待下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】4月10日

昭和32年(1957)の今日、新宿大曲の観世会館で、武智鉄二構成演出、観世寿夫節附・作舞による新作能「智恵子抄」が上演されました。 

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結局、実現しませんでしたが、光太郎、この能のために自作の面を作ろうと、スケッチを残しています。

第57回連翹忌、会の様子は昨日のブログにてアップしました。ご高覧下さい。
 
いろいろな方々にいろいろと語っていただいたりしていただくのと別に、会場内に展示スペースを設けました。展示したものは主に二種類。
 
まずは光太郎直筆のもの。2月のブログで御紹介した短冊、それから新たに見つけた草稿や書簡の類を並べました。新発見の方は、この日刊行になった『高村光太郎研究(34)』中の「光太郎遺珠⑧」で詳細に紹介しております。

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また、現物は手に入らなかったものの、画像を入手できたものはコピーを展示しました。
 
それからもう一種類、この一年で世に出た光太郎智恵子関連の書籍や楽譜(先週高山佳子様から届けていただいた合唱曲「ほんとの空」など)、CD、DVD、新聞記事、それからさまざまな講演や公演、イベントや展覧会のチラシ、パンフレットの類も展示しました。主にこのブログでその都度御紹介してきたものです。
 
一年間に発行されたものだけで、結構な量になりました。それだけ光太郎智恵子への関心が高いということがわかります。この状態を維持、いや、発展させていきたいと思っています。光太郎智恵子を誰も取り上げないという事態にはならないようにしていきたいものです。
 
ちょっと変わり種として、青森在住の彫刻家、田村進様の制作されたレリーフの巨大画像も展示しました。田村様から送られてきたプリントアウトしたものを両面テープで貼り合わせ、パネルに入れました。
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原画は昭和25年(1950)の1月に雑誌『アサヒカメラ』に載った濱谷浩撮影の光太郎肖像写真です。田村氏はこれをもとにブロンズのレリーフを作成なさったとのこと。

 
繰り返しになりますが、いろいろな分野の方が光太郎智恵子を取り上げて下さっている現状、これをもっともっと発展させていきたいと思っております。ご協力、よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月5日

明治25年(1892)の今日、智恵子の妹、ミツが誕生しました。

智恵子の最期を看取った姪・春子の母にあたります。

4/2は光太郎の命日、連翹忌でした。東京日比谷松本楼様では、午後5時半開会で、第57回連翹忌の集いを開催しました。
 
開会宣言のあと、黙祷を捧げました。もちろん光太郎に。そして東日本大震災で亡くなられた方に、という意味も込めました。連翹忌の関係者で、震災によって亡くなった方もいらっしゃいますので。それから当方の勝手な判断ですが、この一年に震災とは関係なく亡くなった連翹忌関係者の方もいらっしゃったので、そういう方への追悼の意味も込めさせていただきました。
 
続いて、高村光太郎記念会事務局長、北川太一先生のご挨拶。
 
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続いて高村光太郎の令甥で、現在の高村家当主にして高村光太郎記念会理事長の高村規氏による乾杯のご発声。その後、しばしの歓談の時間を取りました。
 
続いて、東北を中心に活動なさっている水墨画家の一関恵美様、ピアニストの齋藤卓子様による、光太郎智恵子をイメージしてのアクションペインティングをご披露していただきました。
 
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斎藤様の奏でるベートーヴェン「月光」、ドビュッシー「月の光」に乗せ、一関様がその場で描かれました。会場からは大きな拍手が。
 
お二人とは昨年知り合ったのですが、早速、今回の連翹忌で大きなお仕事をお願いしてしまいました。快くお引き受け下さり、ありがたい限りでした。
 
その後は恒例のスピーチを何人かの方にお願いしました。主にこの一年間で光太郎智恵子がらみのイベントや出版をなさった方、これからなさる方にお願いしました。
 
名古屋の作曲家で、連作歌曲「智恵子抄」を発表なさった野村朗様。
 

今年、全国3つの美術館巡回で行われる「彫刻家・高村光太郎展」に関し、碧南市藤井達吉現代美術館の木本館長。
 
4/21~22、光太郎の親友だった荻原守衛の碌山忌関連で、信州安曇野碌山美術館長の所賛太氏。
後ほどまた御紹介しますが、4/21には高村規氏のご講演があります。
 
花巻の高村記念館リニューアルに関して、花巻高村記念会の高橋卓也氏。
 
光太郎の詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

 
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福島県川内村で、原発事故にもめげず草野心平関連の顕彰活動を続けられているかわうち草野心平記念館長・晒名昇氏。
 
宮城県女川町で、津波の被害にもめげず女川光太郎祭を続けられている佐々木英子様。

 群馬県立土屋文明記念文学館から、県立高校に異動になったという高村光太郎研究会の佐藤浩美さん。
 
そして、今回、新たに連翹忌にご参加いただいた方を代表し、岩手紫波町からお越しの畠山宏樹氏。お母様が「町の小さな文化館」というコンセプトで、「権三ほーる」という施設を運営なさっているそうです。畠山氏には、晩年の光太郎と縁のあった藤原嘉藤治について語っていただきました。
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ご参会の方全員に光太郎智恵子に対する思いを語っていただきたいのですが、そうもいかず、午後8時、閉会となりました。
 
来年以降も同じく松本楼様で連翹忌のつどいを執り行います。もっともっと、光太郎智恵子を敬愛する皆さんの輪を広げていきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月4日

昭和31年(1956)の今日、東京青山斎場にて光太郎の葬儀が執り行われました。

棺の上には生前の光太郎が愛した連翹の花が一枝。これが「連翹忌」命名の由来となりました。

昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第57回連翹忌の集いを開催しました。ご参会の皆様に助けられ、つつがなく終える事が出来ました。ありがとうございました。
 
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詳しくは明日以降、レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月3日

昭和40年(1965)の今日、銀座資生堂ギャラリーで開かれていた高村光太郎賞受賞者と選考委員による展覧会、「第三回連翹会展」が閉幕しました。

【今日は何の日・光太郎】4月2日

昭和31年(1956)の今日、高村光太郎が数え74歳の生涯を閉じました。
 
というわけで、今日、4月2日は第57回連翹忌です。
 
光太郎の故郷、東京では日比谷の松本楼様で、第二の故郷とも言える岩手・花巻では松庵寺様で、それぞれ光太郎を偲ぶ集いが開かれます。
 
東京では昨年を上回る70名程のご参加申し込みがありました。詳しい様子は明日以降レポートいたします。
 
別件の用事やお体の都合によりご参加できない方も含め、光太郎を敬愛する皆さん、それぞれの場所で光太郎に思いを馳せて下さい。よろしくお願いいたします。
 
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今朝の朝日新聞さんの「天声人語」。新装成った歌舞伎座のこけら落としにからめ、連翹忌の話題を枕に使っています。朝、新聞を開いて驚きました。この記念すべき日に、ありがたいかぎりです。
 
 春を彩る黄色い花、レンギョウの名をもらった「連翹忌(れんぎょうき)」はきょう、高村光太郎の命日をいう。彫刻家で詩人の光太郎は九代目市川団十郎にほれ込んでいた。「明治の劇聖」と呼ばれた人で、東京の歌舞伎座をゆるがぬ存在にした立役者である▼「団十郎は決して力まない。力まないで大きい」と光太郎は称賛した。若い頃、団十郎の舞台に入りびたったというから、初代の歌舞伎座に通ったのかもしれない。時は流れて、五代目となる歌舞伎座がきょう、こけら落としの幕を開ける。光太郎も喜んでいよう▼ 

一昨日ですが、上野へ行って参りました。
 
千葉市美術館をはじめ、6月から全国3つの美術館で巡回される企画展「彫刻家・高村光太郎展」の図録執筆に関わる調査のためです。
 
図録には「展覧会歴」ということで、生前/没後に光太郎の彫刻が出品された展覧会をまとめる項があります。没後に行われたものは、基本的に光太郎をメインにしたものに限定しましたので、そちらは意外とまとめやかったのですが、問題は生前に開かれたもの。
 
生前には光太郎がメインの展覧会は一度しかありませんでした。昭和27年(1952)に中央公論社画廊で開かれた「高村光太郎小品展」です。それだけを載せてもしょうがないので、生前に関しては他の作家といっしょに作品を出品したもの(下記、今日の【今日は何の日・光太郎】に書いたようなものです)を網羅しようと考えました。
 
だいたいは『高村光太郎全集』別巻の北川太一先生作成の年譜に記述があります。しかし、どうもそれだけではないと前々から思っていました。実際、昭和5年(1930)に大阪の高島屋長堀店で開かれた「木耀会木彫展覧会」は年譜に抜けています。この時は木彫「栄螺(さざえ)」が出品され、買い手が付き、以後、平成14年(2002)まで70余年、「栄螺」は行方不明でした。
 
さて、今回、改めて他に光太郎が出品した展覧会を調査するため、一昨日は上野に行きました。
 
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上野といえば桜の名所。もうほぼ満開の状態でした。
 
目的地は2カ所、東京国立博物館の資料館と、すぐ近くの光太郎の母校、東京芸術大学の図書館です。
 
まぁ、行く前から目星をつけていたということもあり、調査の甲斐あって、これまでの年譜に載っていない展覧会の記録を発見できました。具体的には明治35年(1902)、光太郎が東京美術学校(現・芸大)卒業の際の「東京美術学校生徒成績品展覧会」。卒業制作の日蓮をモチーフにした塑像「獅子吼」が出品されました。
 
また、京都で開催された展覧会に関しても、別口の調査で記録を確認できました。後日、ブログに書きます。
 
さらに芸大図書館ではついでに他の調査もして参りまして、いろいろと手がかりがつかめたり、新資料が手に入ったりしました。それらも後ほど活字にしていきます。
 
ちなみに芸大図書館の脇には、昭和10年(1935)、光太郎作の彫刻「光雲一周忌記念胸像」があります。
 
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付近には他の彫刻家による他の人物の胸像も配されていますが、やはり光太郎の作が出色だと感じるのは身びいきでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】3月23日

昭和4年(1929)の今日、銀座資生堂ギャラリーで開かれていた荻生会主催美術展覧会が閉幕しました。光太郎は木彫「魴鮄(ほうぼう)」を出品しました。

インターネットで調査中、たまたまこういう演劇の公演があることを知りました。
 
もうまもなくということで、予定が合わず行けませんが、とりあえず御紹介のみ。 

期 日 : 2013年3月27日(水)~31日(日)
会 場 : 武蔵野スイングホール (JR武蔵境駅から徒歩2分)
時 間 : 27日(水) 19時~ 28日(木) 19時~ 29日(金) 19時~ 30日(土) 14時~/19時~
              31日(日) 14時~  (開場は開演の30分前)
料 金 : 前売り:3500円 当日:3700円

作・演出 : 千葉あさひ
主 催 : 劇団蒼い電波塔の会
  
時は大正時代。メンバーは全員女! ある雑誌が産声をあげた。彼女たちは「新しい女」として自分たちを世の中に晒していく。 女の権利とは? 女の自由とは?

そして一歩前に歩くということはどういうことなのか。 ~立ち生まれる新しい女たち~大正浪漫喜劇!

キャスト
 平塚らいてう/高尾まみ 平塚孝子/佐々木侑子 保持研子/香織あみ 物集和子/宮越衣絵
 荒木郁子/丸山朋子 長沼智恵子/野中紗織 神近市子/友澤千紗 尾竹紅吉/大城希美
 伊藤野枝/黒野絢菜 生田長江/坂西悟 奥村博史/藤田ひさお 大杉栄/中山将志

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『青鞜』を扱った演劇のようです。ただ、「時は大正時代」とありますが、『青鞜』創刊は明治44年(1911)。まぁ、演劇としての演出なのでしょうし、キャストに奥村博史や大杉栄とあり、彼らが『青鞜』と関わってくるのは大正に入ってからなので、やはり大正時代がメインなのでしょう。

御都合のつく方、ぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎】3月22日

明治36年(1903)の今日、新詩社同人の面々と、歌舞伎座で市川團十郎らの「清正誠忠録」「曽我対面」を観ました。

名古屋在住の作曲家、野村朗(あきら)氏。『智恵子抄』の中の詩に曲をつけたものを発表されています。今月9日には名古屋でその連作を含むリサイタルがありました。
 
氏からご連絡がありました。4/2の第57回連翹忌にご参加くださるとのことです。
 
実は氏は腎臓を患っており、透析等で大変なのですが、4/2は透析の日に当たっていないとのことです。そこで、先の名古屋でのリサイタルのDVD、CD等をご参会の皆様に配布されるとのこと。ありがたい限りです。
 
また、先日のリサイタルのパンフレットにチラシが挟まっていたのですが、5月4日(土)には、東京日暮里のサニーホールでリサイタルを開催される由。
 
東日本の皆さん、是非足をお運び下さい。
 
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さらには今後、光太郎智恵子ゆかりの地、花巻や二本松などでも公演をなさりたいとのこと。
 
光太郎・智恵子の顕彰を広めていくためには、こういう活動も大事なことだと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】3月20日

明治33年(1900)の今日、『読売新聞』の「俳句はがき便」に数え18歳の光太郎の句が掲載されました。
 
同じ明治33年秋には与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加入。この年から光太郎の文学活動が活発になっていきます。

光太郎に関わる各種の講座が開かれますので御紹介します。 

日本近代文学館 講座「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」

2013年4月20日(土)14:00~15:30
駒場東大前 日本近代文学館ホール
青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎
講師:小林幸夫(上智大学教授)
大正6年10月9日、34歳の高村光太郎は、55歳の鷗外に呼ばれて観潮楼の門を潜った。
その折の事が「観潮楼閑話」に記されている。
それを原稿で読みながら二人の議論を考察し、あわせて『青年』に描かれた観潮楼付近に触れる。
 
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全6回の講座の1回目です。他の5回は「電車が作る物語-田山花袋と夏目漱石」「女性たちの東京-永井荷風と泉鏡花」「モダンな盛り場―浅草 川端康成・堀辰雄など」「震災と復興――銀座 水上瀧太郎・久保田万太郎・里見弴など」「太宰治―中央線時代の文学と恋。甲府の石原美知子~御茶ノ水の山崎富栄」。4月~11月まで、月1回の開講です。
 
参加費は6回で10,000円、1回のみで2,000円とのこと。当方、1回目のみ申し込みました。皆様もぜひどうぞ。

 
【今日は何の日・光太郎】3月16日

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村山口地区の屋号「田頭」高橋家で村人3,40人との酒宴に招かれました。

昨日は、連翹忌会場である日比谷松本楼様に行って参りました。昨年5月、仙台で「シューマンと智恵子抄」というコンサートを開催されたピアニストの齋藤卓子さんとご一緒させていただきました。

 
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今度の連翹忌では、斎藤さんのピアノに合わせ、「墨画」の一関恵美さんに実際に描いていただくというパフォーマンスをご披露していただきます。そのため、斎藤さんとメールのやりとりをしている中で、会場の下見も可能ですよ、という話になり、昨日、ご案内した次第です。一関さんは所用のため上京できず、斎藤さんと二人で松本楼様を訪れました。
 
本来ならそのお二人に朗読の荒井真澄さんが加わるのですが、荒井さんは御都合が合わず、今度の連翹忌には参加されません。残念ですが、来年以降に期待しましょう。
 
しかし、お二人でも素晴らしいパフォーマンスが拝見できることと期待しております。お二人は昨年、パリに行かれ、あちらで同様のパフォーマンスをなさったそうです。すごいですね。
 
会場の2階大広間を見せていただいた後、少し時間がありましたので、1階のレストランでお茶しました。松本楼様と言えば、光太郎・智恵子も食べた氷菓(アイスクリーム)。昨日の都心は初夏のような陽気でしたので、ちょうど良い具合でした。
 
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こちらのアイスクリームは昨年11/30、BSジャパンの「小林麻耶の本に会いたい<本に会える散歩道 日比谷>」で紹介された逸品です。
 
美人と差し向かいでお茶。これも役得ですが、こうしたシチュエーションに慣れないせいか、緊張しました(笑)。斎藤さんは岩手の宮古にご在住です。もうすぐ3.11ということもあり、自然と震災の話になりました。それからもちろん光太郎を巡る話(斎藤さんのお誕生日は奇しくも智恵子の命日、レモン忌の10月5日だそうです。奇遇ですね)。
 
長らく音楽に携わってこられた中で、光太郎の詩は、詩そのもののリズム感(白秋などの定形詩的なものの)とかそういったことではなく、バックに流れる音楽を感じる、というお話でした。そして冬を愛した光太郎の精神、東北人としての震災に対する思い、そういったもろもろの熱い思いをこめて、当日は一関さんとのコラボに臨まれるそうです。ご期待下さい!
 
近々書きますが、今度の連翹忌では他にも凄いサプライズがあります。まだまだ連翹忌ご参加希望の方のお申し込みを受付中です。こちらをご参考にお申し込み下さい。


【今日は何の日・光太郎】3月9日

明治45年(1912)の今日、数寄屋橋有楽座で開催された「東京仮装会」の発起人に、永井荷風、市川左団次らと共に名を連ねました。
 
この時の案内状を発見しました。いずれ活字に致します。

昨日に引き続き、各地から寄せられた案内の御紹介。今日はシャンソン歌手・モンデンモモさんのライヴです。
 
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5月は智恵子の生まれ月ということで、昨秋にもモモさんのライヴが行われた原宿・アコスタディオさんが会場で開催されています。
 
今回は日本女子大の智恵子さんというテーマで、平塚らいてうなどもからめるようです。
 
当方、こちらも協力ということで、また引っ張り出されるようです。
 
お申し込み、お問い合わせ等は上記画像のチラシをご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】3月6日

明治33年(1900)の今日、『東京美術学校校友会雑誌』第2号に、光太郎の短歌「まど近くなくなる蛙我が宿の夜をゆかしみ来る友もがな」が載りました。

活字となったものとしては、現在確認されている最も古い光太郎作品です。

昨日のブログにて、今年4月2日(火)の第57回連翹忌のご案内を掲載しました。
 
そもそも「連翹忌」とは何ぞや? 歴史をひもといてみます。
 
高村光太郎は、昭和31年(1956)4月2日、東京中野の中西利雄のアトリエで亡くなりました。青森県から委嘱された十和田湖畔の裸婦像制作のため、花巻郊外太田村山口の山小屋から上京したのが昭和27年(1952)秋。裸婦像完成後はまた山に帰るつもりでしたが、健康状態がそれを許さず、ごく短期間、山に帰った以外、(そうした際に少し前のブログに書きましたSL・C-61 20号機を利用した可能性があります)結局は中野のアトリエが終の棲家となりました。
 
葬儀は4月4日、青山斎場に於いて行われました。白屏風の前に置かれた棺の上に、光太郎の甥で写真家・高村規氏撮影の肖像写真と、コップに挿した連翹の花が並べられた簡素な祭壇は、十和田湖畔の裸婦像台座を設計した建築家、谷口吉郎の意匠でした。梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、武者小路実篤、そして草野心平が弔辞を読み、同日、落合火葬場にて荼毘に付されました。
 
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弔辞を読む草野心平
 
光太郎葬儀(棺の上の連翹)
なぜ、連翹の花なのか。生前の光太郎が中西家アトリエの窓の下に咲く連翹を見て、中西夫人に「あの黄色い花は何て言う花なんですか」と問い、夫人が「あれは連翹という花ですよ」と教えたところ、「かわいらしい花ですね」と言ったとのこと。
 
まさに3月末から4月はじめに咲き始める花です。我が家の庭の連翹(かつての連翹忌で光太郎の親友だった水野葉舟のご子息、元建設大臣の水野清氏が御持参されたものを持ち帰り、庭に挿しておいたら根付きました)は、昨年、3月下旬になっても咲かず、やきもきしていましたが3月31日に咲きました。2日には剪って、まず駒込染井霊園の高村家の墓に供え、残りを連翹忌会場・日比谷松本楼に飾らせていただきました。
 
さて、翌昭和32年(1957)4月2日、一周忌の法要を中野のアトリエで執り行うこととなりました。草野心平の書いた案内状が現存しています。
 
  連翹忌 御案内          
 
今年もまた連翹の咲く季節が巡つてきました。四月二日は故高村光太郎の一周忌ですが、この日を連翹忌となづけ、今後ひきつづいて高村さんの思ひ出を語りあひたいと存じます。その第一回の会合に是非御出席願ひあげます。
 場所 中野区桃園町四八 中西家アトリエ(電話 38 七四〇二)
 時  一九五七年四月二日午後五時半
 会費 三百円(当日御持参乞ふ)
  (高村豊周家から色々御寄付があります)
右 発起人一同
 
この時から「連翹忌」の名称が使われ始め、これが第一回「連翹忌」ということになりました。記録によれば参加者47名。今にして見れば錚々たるメンバーです。

高村豊周 高村君江 高村規 高村珊子 高村武次 高村美津枝 宮崎春子 宮崎丈二 竹間吾勝 奥平英雄 岡本圭三 小坂圭二 細田藤明 桑原住雄 伊藤信吉 佐藤春夫 草野心平 今泉篤男 関覚二郎 大気寿郎 土井一正 井上達三 海老沢利彦 庫田叕 本郷新 尾崎喜八 尾崎実子 難波田龍起 吉田千代 松下英麿 谷口吉郎 長谷川亮輔 椛澤佳乃子 菊池一雄 黛節子 松方三郎 伊東忠雄 中原綾子 土方定一 知念栄喜 小林梅 北川太一 藤島宇内 中西富江 川口師孝 大柴正彦 沼本効子

席上、詩人の佐藤春夫が黒い手帳を取り出し、次の短歌を披露しました。
 
れんげうにかなしみのいろあらたなり きみゆきてよりひととせをへぬ
 
以後、一ツ橋如水会館、銀座資生堂パーラーなどに会場が変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼に会場が落ち着き、今日に至っています。日比谷松本楼は、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べた店です。
 
一昨年は東日本大震災直後ということもあり、東北方面からの参加が不可能、計画停電等の心配もあり、集まりは中止となりました。しかし、募った参加費のうち一部を東北への義援金として回し、それをもって第55回連翹忌としました。また、特に声かけはありませんでしたが、足が確保できる人は三々五々、駒込染井霊園に墓参に行きました。当方も連翹の花を供えに行きました。
 
昨年は2年ぶりの集まりとなり、57名が参加。2年ぶりということで、久闊を序する姿が会場のあちこちで見受けられました。
 
光太郎へ、そして女川光太郎の会事務局長であった故・貝廣氏をはじめとする東日本大震災で亡くなられた方々へ黙禱を捧げ、義援金の報告等が行われました。その後、高村光太郎記念会事務局長・北川太一氏の御挨拶、同理事長の高村規氏の発声による乾杯と続きました。
 
その後、しばしの歓談の後、一昨年、昨年と、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」の公演をなさった渡辺えり様率いる劇団「おふぃす三○○」の皆様による光太郎詩「旅にやんで」「葱」「月にぬれた手」の朗読の後、恒例のスピーチをお願い致しました。
 
まずは震災の関係もあり、東北の皆様にそれぞれの地の現状等を語っていただきました。
 
さらに一昨年に開催された光太郎関連行事のご報告ということで、鎌倉笛ギャラリーの山端通和様には「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」展について、群馬県立土屋文明記念文学館の佐藤浩美様には、企画展「『智恵子抄』という詩集」についてご報告いただき、光太郎・智恵子に関する著書を新たに刊行された(刊行される)方々にも一言いただきました。
 
また、生前の光太郎を知る、鋳金家で人間国宝の斎藤明様には、光太郎に関する貴重な思い出をご披露いただきました。
 
今後も、光太郎・智恵子を敬愛する皆様のネットワークの総本山として、連翹忌を続けて参ります。新たな方々の御参加もお待ちしております。皆様方のお力で、光太郎・智恵子を敬愛する人々のネットワークをさらに拡げていただきたいものです。ご参加お申し込み、お待ちしております。
 
【今日は何の日・光太郎】2月13日

昭和54年(1979)の今日、十和田湖畔の裸婦像台座や光太郎葬儀の祭壇を設計した建築家・谷口吉郎の葬儀が、光太郎と同じ青山斎場で行われました。

今年も光太郎忌日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第57回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には郵送いたしましたので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。
 



第57回連翹忌の御案内
 

                                       
日 時  平成25年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山弘明
 
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 申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
 当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。
 

ごあいさつ

 新しい年度の連翹忌も、もう間近になりました。この一年を顧みても随分沢山の出来事が、世界のあちこちで起こりました。世情の混迷のみならず、自然現象の異常も数え切れないほどです。いつもお目にかかる皆さんの身辺にお変わりのないことを、心からお祈りしております。

 しかしそんな時でも、今年で生誕百三十年を数える高村さんへの関心はますます強く深く、昂まっております。この集まりを推進する委員の人々の新資料発掘や研究会の研究誌続刊の努力は勿論、次々に公刊される印刷物や音楽などの公演、展覧会の開催等々はこれからも続くでしょう。花巻の高村記念会は新しい再生を迎えようとし、青森の彫刻家田村進氏によって力ある光太郎像も誕生するはずです。

 これは私ごとですが、あの東日本大震災の三月を含めて未だに運動不自由ななか、初めて女川に運んで下さった仲間の皆さんに感謝します。その私も数え年で八十九歳です。四月二日には是非お目にかかって、たくさんのお話をお聞きするのが楽しみです。

平成二十五年二月吉日
                               北川太一

【今日は何の日・光太郎】2月12日

明治44年(1911)の今日、浅草「よか楼」で開かれた「パンの会」に出席しました。
 
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今週発売の『週刊ポスト』に「ニュースを見に行く! 現場の磁力 「光太郎・智恵子」と上野精養軒の時代」という記事が載りました。
 
実は今週の『週刊ポスト』は、月曜日に歯医者の待合室で手に取っていたのですが、グラビアページばかり見ていて気付きませんでした(笑)。昨日、ネットで気づき、今日、慌てて買ってきました。
 
筆者は作家の山藤章一郎氏。大正3年(1914)12月22日、上野の精養軒で光太郎と智恵子の結婚披露宴が行われたことを軸に、同じ年の東京駅落成やJTBの開業などにも触れています。光太郎・智恵子に関しては、津村節子氏の小説『智恵子飛ぶ』や光太郎の詩篇などを引用しつつ、簡潔に二人の生涯をたどっています。当時の世相とからめながら展開する書き方が面白いと思いました。
 
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『週刊××』の類。新聞広告や電車の中吊りなどで、どぎつい見出しがやけに目立ちますが、こういうまじめな記事ももっともっと載せてほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月23日

昭和26年(1951)の今日、花巻の大沢温泉に宿泊しています。

今日はモンデンモモさんプロデュースのミュージカルを観に、杉並公会堂に行って参りました。演目はドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの「モモ」。「時間」に追われる忙しい日々の中で、心の余裕を失ってしまった近代人を批判する内容です。
 
今年から光太郎顕彰活動に専念するようになり、「時間」に追い回されることはあまりなくなりましたが、かつて、毎日4時半に起床し、日の出前に出勤していた当時を思うと、あの頃はああだったんだなあ、とつくづく思いました。
 
杉並は午後からで、午前中は千駄木に寄り道しました。お目当ては、先月、リニューアルオープンした文京区立森鷗外記念館です。
 
東京メトロ千代田線の千駄木駅で降りると団子坂です。
 
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この坂を登り切って、右に曲がると光太郎のアトリエがありました。曲がらずに直進すると道の左側に森鷗外記念館です。ここはかつて鷗外の住んでいた「観潮楼」のあった場所。光太郎のアトリエとは指呼の距離です。光太郎アトリエ同様、昭和20年に空襲で焼失してしまいました。
 
戦後、焼け跡は児童公園となりましたが、昭和37年(1962)には区立本郷図書館、平成18年(2006)からは鷗外記念室となりました。そして今年、鷗外生誕150年を記念して建物を建て替え、先月、森鷗外記念館としてリニューアルオープンしたというわけです。
 
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地上二階、地下一階で、地下が展示スペースとなっており、鷗外の一生をコンパクトに紹介するようになっていました。タッチパネルを使ったモニターなど、「ほう」と思わせるものがあります。館内撮影禁止なので、画像をお見せできないのが残念です。
 
光太郎と鷗外、単にご近所というだけでなく、浅からぬ縁があります。光太郎在学中の東京美術学校(現・東京芸術大学)で鷗外が教鞭を執っていた時期もありますし、鷗外が顧問格だった雑誌『スバル』に光太郎はたびたび寄稿していました。その他にもいろいろと。
 
しかし、どうも光太郎の方で鷗外を敬遠していたらしいのです。忌み嫌っていたわけではないのですが、文字通り「敬して遠ざける」という感じでした。そのあたり、いずれまた書きます。
 
そのためか、期待していたほど光太郎に関わる資料の展示がありませんでした。だいたい、確認されている光太郎から鷗外宛の書簡も5通だけですし(うち4通は同館所蔵)、内容的にも観潮楼での歌会への誘いを断るものなどです(歌会に積極的だった石川啄木などは展示で大きく取り上げられていました)。
 
しかし、光太郎と鷗外、いろいろと面白いエピソードがありますので、先述の通り、いずれ書きますのでよろしく。

昨日は久しぶりに国会図書館に行って参りました。久しぶり、といっても2ヶ月ぶりくらいですが。


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国会図書館などに調査に行く場合には、「今日は○○と××について調べる」などと、あらかじめ計画を練っていかないと時間が無駄になります。
 
昨日はまず、昨日のこのブログで小沢昭一さんの訃報にからめて紹介した光太郎作詞、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)、に関する調査から始めました。
 
今年4月から年2回、当方が刊行している冊子『光太郎資料』で、「音楽、レコードに見る光太郎」という項を設けており、まずは「歩くうた」を扱っているからです。今までに、当時出版された楽譜や、当時発売されたレコード(徳山璉などの歌唱)、戦後になって他の歌手がカバーしたレコード・CDなどについて紹介しました。
 
そうした調査の中で、当時の厚生省が歩くことを広く国民に呼びかけていたらしいことが判り、その裏付け調査をしておこうと考え、調べてみました。すると、確かにそういう記述のある書籍が見つかりました。また、大毎東日映画部が「歩け歩け」という映画を制作していたことも判り、そちらの調査もしてきました。
 
詳しくは来年4月刊行予定の『光太郎資料』第39集に書きますので、ご入用の方はお声がけください。
 
続いて、当たりをつけておいた光太郎の文筆作品-少し前のブログで長々と書いた「海の思出」のように、埋もれていた文筆作品-の探索。こちらについてはまた明日のブログでご報告します。
 
それにしても、国会図書館に行くと、いい運動になります。同館は図書館といっても、通常の図書館のように開架で本がずらっと並んでいるわけではなく、ほとんどが書庫にしまわれている状態です。古い資料はデジタル化が進み、館内のパソコン画面で閲覧する仕組みになっていますが、それほど古くない物は、現物を書庫から出してもらって閲覧する仕組みです。
 
雑誌以外の書籍の受け取りと返却、複写は本館2階、雑誌に関しては受け取り、返却は新館2階、複写は新館1階。デジタルデータの複写受け取りも新館1階。さらに昨日は新聞系の調査も行ったので、新館4階にも行き、合間に本館6階の食堂で食事、喫煙は本館と新館の間の2階喫煙室。本館も新館も広い建物で、さすがに4階や6階に上がる時にはエレベータを使いますが、1階と2階の間は階段を使った方が早いので、エレベータは使いません。昨日は朝から夕方までいましたが、おそらくキロメートルの単位で歩き回っているんじゃないかな、などと思いつつ過ごしました。当方は普段から犬の散歩で毎日歩いていますので大丈夫ですが、年配の方には優しくないシステムです。
 
しかし、国会図書館は進化しています。一番大きいのはデジタルデータで古い書籍をすぐに見られること。以前は古い物でも現物を書庫から出して貰って閲覧したり、マイクロフィルムやマイクロフィッシュで閲覧したりというのが中心でした。そうすると、出して貰ったり、必要なページを複写して貰ったりするのにも、1件あたり早くて十数分かかり、待ち時間が非常に長かったのです。カウンターの前に総合病院の薬局のような電光掲示板があって、自分の番号が点灯すると、書庫から目的の本が到着あるいは複写完了、というシステムでした。そこで、長い待ち時間の対策として、家から文庫本を持ち込んで読むということをしていました。図書館に自分の本を持ち込んで読書、考えてみると馬鹿馬鹿しい話でした。
 
現在は、やはりデジタル化されていない書籍の受け取りや複写にかかる時間は短縮されたわけではありませんが、待ち時間にパソコンでデジタルデータの調査が出来ます。そちらの複写はパソコンから申し込めます。また、調査しているうちにパソコンに「申し込んだ書籍が届きました」「複写が完了しました」といったメッセージが届くシステムにもなっており、非常に便利です。
 
ただし、あちこち歩き回らなければ行けない、というのは昔のままです。欲を言えば、すべての資料がデジタル化され、自宅にいながらにして閲覧も複写もすべて自分のパソコンで出来てしまうようになればさらに便利です。無理な話だとは思いますが……。

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