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保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、本日開幕です(11月18日(月)まで)。

昨日は会場のなかのZEROさん西館美術ギャラリーにて、展示物の搬入と会場設営を行いました。

作業風景。
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壁面にはパネル展示で、中西利雄ついて、建築としての中西利雄アトリエの解説、中西利雄の没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、光太郎について。
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それから、光太郎をメインに据えて下さると云うことで、中西家からお借りしたものプラス当方手持ちの品々を持ち込みました。
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展示ケースも4台ありましたので、そちらにも。
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彫刻家としての光太郎関連。
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詩人としての側面から。
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中西アトリエでの光太郎。
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他の美術家のアトリエについてもパネル展示で。
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今日は初日ですが、いきなり14:30からこの場で関連行事としてのトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」を行います。劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方による丁々発止(笑)。

さらに11月11日(月)、18:30~20:30には、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。

すべて入場無料です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生ますます山男となり、最低生活をよろこんで居ります、低きに居るものの幸を味つてゐます、


昭和25年(1950)4月27日 宅野田夫宛書簡より 光太郎68歳

言葉通り、上級国民としてではなく、最底辺に近い暮らしから世の中を見つめ続けていました。

2年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、中野の中西利雄アトリエに入りますが、この時点ではまだそうなることなど夢にも思っていなかったと考えられます。

都内から演劇公演の情報です。

劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄

期 日 : 2024年11月21日(木)~11月24日(日)
会 場 : 荻窪小劇場 東京都杉並区荻窪3-47-18 第五野村ビル1F
時 間 : 開場 13:30 開演 14:00
料 金 : 前売 一般4,000円 中高生2,000円  当日 一般4,500円 中高生2,000円

彫刻家であり詩人でもある、高村光太郎その妻智恵子。珠玉の愛の物語『智恵子抄』を一人芝居でお届けします。

皆さまへ、高村光太郎「智恵子抄」との出逢いは、20代後半でした。 あの頃は人生が180度変わる出来事に襲われ、それ以来私は、人を信じる事が出来なくなりました。 トンネルの中を歩いているような数年を過ごしたある時、祖父の書斎で「智恵子抄」を見つけました。 何気なくパラパラと捲り、随筆「智恵子の半生」を読むうちに涙がとめどなく流れ嗚咽していました。 ようやく心の糧になるものに巡り会えた! そんな気持ちでした。それから毎日、智恵子抄を読むうちに、 光太郎 智恵子の生き様に涙し、また励まされ、胸をときめかせました。 稀有な愛の世界を一人でも多くの人に伝えたい。それが私の願いになっていきました。 地元富山では、10年前から一人芝居として「智恵子抄」を公演し好評を得て再演を重ねました。 もっと沢山の方に知って頂きたくて、東京公演を決定しました。

皆様のお越しを心よりお待ちしています♡

出 演 : 茶山千恵子
朗 読 : 一柳みる(劇団昴) 西山水木(下北澤姉妹社) 
      小飯塚貴世江(キヨエコーポレーション)

本編の前にゲストの朗読があります(15分) 宮崎春子 「紙絵のおもいで」
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富山県高岡市ご在住の茶山千恵子氏。地元で光太郎智恵子に関する市民講座講師を務められたり、ご自宅を開放なさって花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に調理された「光太郎ランチ」を予約の方に振る舞われたりと、精力的に活動されています。

今回の「一人芝居智恵子抄」は、令和元年(2019)に富山で上演されたものの再演のようです。

本編の前に、日替わりでゲストの方が朗読をなさるそうです。題目は宮崎春子「紙絵のおもいで」(昭和34年=1959)。春子は智恵子の姪にあたり、智恵子が昭和10年(1935)に南品川ゼームス坂病院に入院後、当時の一等看護婦の資格を持っていたことから、病院で一緒に生活する付き添いをしていました。そしてほとんど唯一、智恵子の紙絵制作の現場を目撃した人物です。
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春子は戦争が終わった昭和20年(1945)12月、光太郎の仲立ちで、光太郎と親交のあった茨城の詩人・宮崎稔と結婚しました。光太郎はそれ以前の同年始めに智恵子紙絵の約3分の1を宮崎家に疎開させており、上記は戦後になってそれを見る春子を写したショットです。

招待券を頂いてしまいまして、お邪魔します。ただ、日程調整がうまくゆかず最終日になっていまいますが。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の病状記を書いておいて下さる事は興味もあるし一般の参考にもなると思いひます、春子さんとお二人で協力されたら面白いとおもひます、 病状と一緒に切抜絵制作の実際をもみたまま書かれるやうにとおもひます、 今盛岡で切抜絵の展覧会をやつて居ます。末日頃小生も一寸見にゆくつもりでゐます。

昭和25年(1950)4月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

春子の夫・稔に宛てた書簡から。主に春子への聞き書きのような形で稔が智恵子の病状記録を残そうとしていたようですが、この時点ではそれは実現しませんでした。

盛岡での紙絵展は4月19日~30日、川徳画廊で開催されていました。宮崎家とは別に花巻の佐藤隆房宅に疎開させた紙絵の中からセレクトしてのものでした。

一昨日、光太郎終焉の地・中野の「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合に出席するために上京しておりました。来月10日(日)開幕の「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」(無料)の最終確認など。あまり宣伝が為されていないようで、初日に開催予定の関連行事としての渡辺えりさんと当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」(無料)など、まだ予約定員に達していないとのこと。ぜひお申し込み下さい。

それはそうと、そちらの会合に行く前に、竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さんに立ち寄りました。こちらでは企画展「ハニワと土偶の近代」が開催中。
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光太郎がらみの展示もあるという情報を得まして、参じました。

MOMATさん、攻めてるな、という感想でした。何が、というと、ある意味およそ美術館らしからぬ展示構成だったためです。しかし、非常に興味深く拝見しました。

「ハニワと土偶」と謳いつつ、埴輪や土偶そのものにスポットを当てるのではなく、近代美術史・社会史の中で埴輪や土偶がどのように受容されていったのか、その変遷史といった趣でした。そこで美術作品そのものよりも、史料類の展示が多く、その意味で「ある意味およそ美術館らしからぬ」と感じた次第です。

特に興味深かったのが、満州事変から太平洋戦争終戦に到る15年戦争時。
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「武人埴輪」=「大王を警護する武人を象(かたど)ったもの」。そこで、近代の「皇軍兵士」へと類推が働き、さまざまな美術作品や工芸品、書籍類の表紙その他に埴輪や古墳時代の武人の姿などが「国威発揚」「戦意高揚」といった使命を担わされ、多用されるようになっていったとのこと。
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下は光太郎とも交流のあった中村直人(なおんど)の「草薙剣」(昭和16年=1941)。
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こうした流れの中で、光太郎も埴輪について言及していました。昭和17年(1942)7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)中の「埴輪の美」という項です。
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 埴輪といふのは上代古墳の周辺に輪のやうに並べ立てた素焼の人物鳥獣其の他の造型物であつて、今日はかなり多数に遺品が発掘されてゐる。これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つであつて、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のやうな、異種を感じさせるものではない。縄文式のものの持つ形式的に繁縟な、暗い、陰鬱な表現とはまるで違つて、われわれの祖先が作つた埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取つた美への満足があり、いかにも清らかである。そこには野蛮蒙昧な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺がない。天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されてゐる。此の清らかさは上代の禊の行事と相通ずる日本美の源泉の一つのあらはれであつて、これがわれわれ民族の審美と倫理との上に他民族に見られない強力な枢軸を成して、綿々として古今の歴史と風俗とを貫いて生きてゐる。此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与へ世界に加へ得る美の大源泉の一特質である。此の「鷹匠埴輪」の無邪気さと、やさしい強さと、清らかさとはよく此の特質を示してゐる。美の健康性がここに在る。

掲載誌の『婦人公論』が展示されていました。
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また、遡って昭和11年(1936)には、野間清六の著書『埴輪美』の序文も光太郎が書いています。

 日本に遺つてゐる造型芸術の中で、埴輪ほど今日のわれらにとつて親しさを感じさせるものはない。埴輪ほど表現に民族の直接性を持つてゐるものはない。それはまるで昨日作られたもののやうである。その面貌は大陸や南方で戦つてゐるわれらの兵士の面貌と少しも変つてゐない。その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有せしめ、決して民族の廃頽を来さしめないところの重要因子である。世界の歴史に見る過剰文化による民族滅亡の悲劇が日本に起り得ないのは、国体の尊厳に基く事はもとよりであるが、又此の重要因子の作用するところも大きいのである。
 古代も今も同じ清浄の美を見よ。今後の世界の美の源泉の一つとして埴輪の持つ意味は深い。これを未来に生かし得る者は当面世界文化の廃頽爛熟を匡正し得るであらう。造型芸術の基本たるものが此此処にある。


そういうわけで、ここのパートのキャプションには光太郎が大きく紹介されていました。
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黒歴史ですね。引用のため入力していて痛ましい気持になりました。

ただし、光太郎、このように文筆では戦争推進に多大な役割を果たしましたが、造型の部分では戦意高揚のための作品(いわゆる「爆弾三勇士の像」のような)を作りませんでした。そこに光太郎の良心の残滓が認められますが、それでも「ペンは剣よりも強し」。「言葉」として印刷され、刊行され、全国や植民地にまであまねく届けられた光太郎の言葉を読んで奮い立ち、死地に赴いた数多くの前途有為な若者達がいたことは忘れてはいけません。「綸言汗の如し」です。

さて、戦後。
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墨塗りの教科書まで展示されていました。

埴輪を皇軍兵士に重ね合わせるという事態は無くなりましたが、光太郎が提唱した「清浄な美」としての埴輪の美しさは、形を変えて生かされ続けます。

やはり光太郎と交流のあった佐藤忠良や猪熊弦一郎の作品。
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光太郎の前に中西利雄アトリエを借りていたイサム・ノグチも。
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古墳時代の埴輪そのものの展示もありました。
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再び光太郎。盟友の武者小路実篤を評した最晩年の「埴輪の美と武者小路氏」(昭和30年=1955)関係。武者が「縄文土器を愛するあまり調布に移住した」というのは存じませんでした。たしかに武者の作品には古代に通じるプリミティブな部分が感じられますね。
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戦後、考古学の飛躍的進展により、また、皇国史観からの解放といった追い風もあって、縄文時代の研究が進みます。そんな中で埴輪より古い土偶にもスポットが当たるようになりました。

ただ、今回、土偶に関する展示は少なかった印象でした。右下は光太郎の同級生だった岡本一平の子息・岡本太郎。
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現代になっても、埴輪は日本人の心を掴み続け……というわけで、サブカルチャーにも着目。映画「大魔神」や、水木しげる氏、石ノ森章太郎氏、諸星大二郎氏らのコミックまで。このあたりも「攻めてる」感が半端ないと思いました。
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出口付近にはNHKさんの「おーい!はに丸」も。お約束と言えばお約束ですが(笑)。
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企画展示拝観後、常設展示的な「MOMATコレクション」展へ。光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)がよく出ているのですが、現在はお休み中でした。

「おっ!」と思ったのが、中西利雄。光太郎の終の棲家となったアトリエを建てた人物ですが、アトリエ竣工直前に急逝し、没後、遺族が貸しアトリエとして運用、イサム・ノグチや光太郎が借りたわけです。
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光太郎実弟にして人間国宝だった豊周の鋳金作品も3点出ていまして、久しぶりに豊周作品を目にしました。ただし、撮影禁止でしたのでキャプションのみ画像を載せます。

さて、「ハニワと土偶の近代」、12月22日(日)迄の開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

出かける日は風速十五―二十米突といふ吹雪を冒しての行進だつたのですが、二人迎へに来て荷を持つてくれたので助かりました。帰る日も若い人三人で小屋まで送つてきてくれました、盛岡から二ツ堰までは刑務所の自働車が運んでくれました、西山村では一理余の雪原を馬橇にのりました、


昭和25年(1950)2月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

1月13日から22日にかけ、盛岡、さらに郊外の西山村を歴訪しました。盛岡では県立美術工芸学校婦人之友生活学校少年刑務所などで7回講演。西山村では、深沢省三・紅子夫妻の子息にして戦時中に詩「四人の学生」のモデルとなった故・深沢竜一氏宅に滞在、好物の牛乳を一升も飲んだそうです(笑)。

一昨日、昨日と、10月13日(日)・14日(月)にお邪魔した智恵子の故郷・福島二本松のレポートを書きましたが、これから書く内容が10月12日(土)の件ですので、時系列的には古い話です。ネタに困る時期には1件ずつ細かくレポートいたしますが、紹介すべき事項が山積しつつあり、申し訳ありませんが、一気に。関係の方々、ご寛恕の程。

まず、千駄木の文京区立森鷗外記念館さんの特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」を拝観。
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茶道・江戸千家家元の川上宗雪氏がご自身のコレクションを同館に寄贈なさり、そのお披露目です。

明治20年代から昭和50年代までの、森鷗外を含む100名弱の著名人が書いたはがき111通。差出人も宛先も様々です。おそらく、古書市場に出たものが中心なのでしょう。
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我らが光太郎のはがきも一通。事前のプレスリリース等で、光太郎のそれについては詳しく紹介されて居らず、宛先、発信年月日等、実際に拝見するまで不明でした。

で、結局、滋賀県在住の野田守雄というアマチュア歌人に送った大正7年(1918)12月25日付の葉書で、『高村光太郎全集』既収のものでした。『全集』等未収録の新発見の可能性もあるなと思って見に行ったのですが、その意味では残念でした。しかしやはり直筆の実物を拝見できたので、それはそれで良かったと思いました。

ちなみに文面は以下の通り。

 あなたが待たれて居られるだらうとおもつていつも済まない気がして居りながら色々の都合で遅れてゐて心苦しくおもひますがどうか今少し待つて下さい 此間のお葉書で御希望が拝察出来ました故小さいけれども人物の全体の習作をお送りするにきめました
 仕事が重なつてゐる為め毎日追はれてゐます 鋳金が間に合はないで閉口です今日はクリスマスですね


これだけだといったい何のことかよくわかりませんが、野田は光太郎のファンで、光太郎が興した絵画の頒布会、彫刻の頒布会に申し込み、作品を購入していました。この葉書はブロンズ彫刻「裸婦坐像」購入に関わります。

野田宛書簡は散逸していて、抜けもあるかとは思われますが、この前後の書簡がかなり把握できており、作家から愛好者へと作品が渡る過程の記録として貴重です。平成25年(2013)に千葉市立美術館さんを皮切りに巡回した「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」の図録には、同館学芸員の藁科英也氏が「この一連の書簡、面白いですね」と、収録なさいました。

ちなみに展示されているはがきに先立つ12月11日には「こんな作品ですよ」ということで、光太郎による粗いスケッチが附されています。
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光太郎以外にも、上記出品目録の通り、ビッグネームがずらり。「この人はこんな字を書くんだ」「この二人がこうつながっていたのか」などと、興味深く拝見しました。ただ、111通の全てを細かくは見ていられない、という感じでして、2期ぐらいに分けての開催でも良かったんじゃないか、とも思いました。

図録(1,600円)と、無料配付の『記念館NEWS』をゲット。
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図録の方は後で細かく拝読いたします。多忙につき読めていません。

さて、千駄木を後に、続いて浅草へ。浅草寺さんにほど近いギャラリー兼イベントスペースのブレーメンハウスさんでのイベント「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」への参加が目的。

若干早く着いてしまいまして、浅草寺さんを参拝しました。土曜ということもあって、人山の黒だかりでした。7割方は海外からのインバウンドと思われました。
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ご存じ雷門。このはす向かい当たりに、光太郎が1日に5回も通ったというカフェ「よか楼」があったのですが、今は跡形もありません。

雷門の後側には、光太郎の父・光雲弟子筋の一人・平櫛田中と、菅原安男による天龍像、金龍像。
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本堂右手前の手水舎には、光雲の沙竭羅竜王像。
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久しぶりに拝見しましたが、やっぱりいいな、と思いました。様式美の部分では光太郎もかないません。

さて、ブレーメンハウスさん。
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一階はギャラリーです。
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その名の通り「ブレーメンの音楽隊」をモチーフにしたステンドグラス。築60年ほどの建物だそうでしたが、ステンドグラスは古いものなのか、現代のものなのか判別がつきませんでした。
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二階は和室になっていて、イベントスペースに使っているそうです。こちらには懐かしい型板ガラス。こちらは60年ほど前のものでしょう。レトロ建築好きにはたまりません(笑)。
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左は紅葉、右は富士山。これで幼い頃暮らしていた官舎に使われていた銀河があったら涙が出るところでした(笑)。

「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」開幕。連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏の主催で、お仲間の方々がご参集。一人8分の持ち時間で、自作詩や好きな詩などを朗読したり解説したり。
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当方にも光太郎について語れ、という指示でして、語りました。彫刻を第一の仕事と考えていた光太郎が、なぜ詩を書き続けたのかというあたりをメインとしました。欧米留学前、当時の流行に乗って喜んで作っていたストーリー性あふれる彫刻の愚劣さにあとになって気づき、彫刻に物語や主義主張は不要、そういう心の内面は詩で表現しようと考えた、という感じで。ストーリー性あふれる彫刻の例としては、左下画像の「薄命児」(明治38年=1905)を紹介しました。浅草花やしきで興行を打っていたサーカス団の幼い兄妹がモデルです。
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従って光太郎にとっての詩は、自己内面のストレートな表出、球速100マイル・フォーシームのど直球、きらびやかな美辞麗句に彩られたものでは決してない、などとも。そんな姿勢が良く表された、来月開催される「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品予定で額装しておいた光太郎のはがき(右上)も持参、皆さんに見ていただきました。

正富汪洋主宰の新進詩人社のアンケート「詩界について」に回答するためのはがきで「詩を書かないでゐると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。」と認(したた)められています。

それから、詩も一篇朗読せよとの指令でしたので、光太郎の目指した詩の姿、的な詩「その詩」(昭和3年=1928)を読みました。はがきにしても「その詩」にしても、ご参集の詩人の皆さんへのメッセージでもあるという仕掛け(というほでもありませんが(笑))でした。

まことに申し訳なかったのですが、こちらのイベントは途中で退席させていただきました。新宿で上演される「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」観覧のためです。上京するとできるだけ複数の用件をこなすのが常でして。

というわけで、新宿へ。
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野田秀樹氏の脚本で、平成14年(2002)、大竹しのぶさんの一人芝居として初演されたものです。今回は「虎に翼」にも出演されていた文学座ご所属の平体まひろさんによる一人芝居。
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当方、野田氏の脚本は読みましたが、演劇としては初見でした。大竹さんの初演をテレビ放映で拝見したことはあったのですが。

開演前の会場内。
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中央で平体さんが智恵子を演じられ、観客は両サイドに設けられた客席で観おろすという配置でした。ここで平体さん、90分超をお一人でまさに熱演。素晴らしい。

数ある「智恵子抄」二次創作の中で、光太郎ディスり度が最も高い作品です。吉本隆明曰く「高村の一人角力(ずもう)としかおもえない」、伊藤信吉曰く「強いられたものの堆積」という、光太郎からの一種のモラハラによって徐々に壊れていく智恵子の姿が痛ましいまでに表されました。野田氏の脚本ですでにそうなっているのですが、劇中、智恵子の故郷の福島弁が効果的に使われ、光太郎は「こうたろう」ではなく、「コウダロウ」。「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」と常に要求を突きつけていた光太郎の姿が暗示されています。

そして智恵子も「ちえこ」ではなく、やはりなまって「ツエエ子」。智恵子が自分自身、「強え子」でありつづけたいと思っていた反映にもなっています。今回、改めて感じたのは、光太郎のモラハラの強烈さよりも、「自縄自縛」に陥ってしまった智恵子へのやるせなさでした。元は光太郎の「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」でも、智恵子はそれに抗わず、「その通り」と思い込み、逃げることもせず、そうなれない自分をどんどん追い込んでいく……というわけで。

「いや、そこ、違うだろ、逃げろよ」と言いたくなる場面が多々。しかし、その「逃げる」が出来なかったのが智恵子の悲劇だったんだなぁと、改めて思いました。まるで現代のDV被害者などが、加害者からのマインドコントロールに支配されてしまうような……。

ただ、それだけでなく、光太郎と出会う前から、智恵子にはそういう「強え子」を目指して「自縄自縛」に陥る性向があったという描き方になっています。その通りなのでしょう。

光太郎自身、智恵子が病んでから自分の過ちに気づきます。散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)に曰く「私との此の生活では外に往く道はなかつた」。それを踏まえての『智恵子抄』出版です。決して亡き妻との思い出を語ったノーテンキな「純愛の詩集」ではないのです。そのあたり、少し前に書きましたのでご覧下さい。

そんなわけで、光太郎は昭和25年(1950)に上梓した『智恵子抄その後』の「あとがき」には「「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。」と書きました。本当に、「智恵子抄」の読みは一筋縄ではいきません。

そうした点を踏まえた上で、平体さんの再演なり、他の劇団や個人方による上演なりが続くことを祈念いたします。

以上、長くなりましたが都内レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

お抹茶と甘味とありがたく、これは元旦に若水を汲みましてまづ朝の一杯を心爽やかにいただき、それから村人からもらつた餅でお雑煮をいはひました。

昭和25年(1950)1月11日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

昭和25年(1950)となり、花巻郊外旧太田村の生活も数え6年目となりました。

昨日、当会刊行の冊子『光太郎資料』62集についてご紹介しました。

毎号、同時代人の光太郎訪問記や回想のうち、広く紹介されていないものを掲載するコーナーを設けていますが、今号では「木像生」という人物の書いた「都会情景 カフエー譚」(大正3年=1914 1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号)を取り上げました。

明治末から大正初めにかけての、東京市内のカフェ事情をまとめたもので、光太郎の名と共に、さまざまなカフェが紹介されています。それと合わせ、実際に光太郎の詩文にそれらのカフェがどう描かれているか、『光太郎資料』では解説欄に記しました。

一部、骨子をご紹介します。

まず、明治44年(1911)に京橋日吉町(現・銀座八丁目)に上野の精養軒が開店した「カフェー・プランタン」。この年に発表された光太郎の短章連作詩「泥七宝」(『全集』第一巻)にその名が現れます。

 八重次の首はへちまにて
    小雛の唄は風鈴にて
 さてもよ、がちやがちやの虫の籠は
 「プランタン」てね、轡蟲の竹の籠
 

他にも「泥七宝」中にはその名は現れないものの、プランタンで書かれたものがあると、後年の光太郎が回想しています。「八重次、小雛は新橋の芸妓」の一節と共に。

続いて「カフェー・ライオン」。プランタンと同じく精養軒の経営で、やはり明治44年(1911)、銀座尾張町に開店し、こちらも光太郎詩、ずばり「カフェライオンにて」(大正2年=1913)に謳われています。

「都会情景 カフエー譚」に曰く「カフエー、ライオンは尾張町の電車交差点にある。三階は二百名ばかり居るカフエークラブ会員の遊ぶ処で二階は食堂、階下が賑やかなバーだ。此処でビールが一杯売れるとライオンの形をしたものがヌツと現はれてウヲ――と自働車のラッパの様な声を出す。即ちライオンといふ店の名がある所以だらう」。

さらに、光太郎も中心人物の一人だった芸術運動「パンの会」御用達の「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」。鎧橋の袂に開店し、その後移転を重ねましたが、発祥の地には中央区教委さんによる案内板が立っています。

そして、浅草雷門の「よか楼」。

欧米留学から帰朝した翌年、明治43年(1910)に入れあげていた「モナ・リザ」こと吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は今度は「よか楼」の女給・お梅に首ったけになります。お梅目当てで、一日に5回も「よか楼」に足を運んだことも。お梅が他の客の元に行っていて自分の方に来ないと癇癪を起こして暴れたり……(笑)。ほとんどストーカーですね。

そのお梅、若太夫以上に光太郎詩文にたくさん登場します。

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ/辛き酒を再びわれにすすむる/マドモワゼル・ウメの瞳の深さ
(「食後の酒」 明治44年=1911)

「霧島つつじの真赤なかげに/サツポロの泡をみつむる/マドモワゼルもねむたし」
(「なまけもの」 同)

「マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り/白いナプキンにボルドオはしみ/夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ」
(「ビフテキの皿」 同)

「さう、さう/流行(はやり)の小唄をうたひながら/夕方、雷門のレストオランで/怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで/待つてゐる、マドモワゼルが/待つてゐる、私を――」
(「あをい雨」明治45年=1912)

「真面目、不真面目、馬鹿、利口/THANK YOU VERY MUCH, VERY VERY MUCH,/お花さん、お梅さん、河内楼の若太夫さん/己を知るのは己ぎりだ」
(「狂者の詩」 大正元年=1912)

雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。」
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

「都会情景 カフエー譚」では、お梅は以下のように紹介されています。

又下膨れの丸顔で銀杏返しに結つて居る梅子(二〇)は『元禄梅子』と定連から呼ばれて居るが、此の女は多少文字の素養もあつて永井荷風の小説や晶子の歌集を始め、新らしい作家の著作は片つ端からドンドン渉猟して、衣裳は僅か小さな葛籠(つづら)一つしか持たない代りに書物ならば大葛籠三杯も持つて居るといふ風変りな女だ。そんな所から正宗白鳥、高村光太郎、前田木城、海野美盛、其他の文士画家連には随分肝膽相照して居る人が多い。竹子が踊や長唄を相応にやれる程に多芸ではないが、ハーモニカだけは袖の中から放したことはなく、竹子の歌ふ仏蘭西の国歌に合わせて之を吹くのが唯一つの芸である。

文学好きだったということは、光太郎等の回想にも書かれていましたが、より詳しく描かれています。さらに年齢。「都会情景 カフエー譚」が書かれた大正3年(1914)の時点で二十歳となっています。ということは、光太郎に尻を追いかけ回されていた明治44年(1911)にはまだ17かそこら。ただ、この業界の常で、さばを読んでいた可能性も大いにありますが。

そしてこんな記述も。

ヨカローは実に此の官能世界の一歩を約して思ひ切り繁昌して居るので。これは例の美人の首を利用した新聞広告のきゝ目であること勿論であるが、実際にも此処の女中は粒選りの代物が多い。

注目すべきは「例の美人の首を利用した新聞広告」。「例の」ということは、かなり有名だったと思われます。

光太郎の「ヒウザン会とパンの会」にも、

「よか楼」の女給には、お梅さんはじめ、お竹さん、お松さんお福さんなんてのがゐて、新聞に写真入りで広告してゐた。

とあり、松崎天民ら他の同時代人の回想等にも「よか楼」の新聞広告の件が語られています。

この広告、何としても実地に見てみたいものだと思っておりました。そこでまず活用したのが国会図書館さんのデジタルデータ。すると、まず新聞ではありませんが、『東京大正博覧会要覧』(大正3年=1914)に広告そのもの(左下)を発見しました。
東京大正博覧会要覧 19130815都新聞 案内広告百年史 東京日日新聞2
それから、戦後の書籍で、明治大正の広告事情を紹介したものの中に、『都新聞』(大正2年=1913、中央)と『東京日日新聞』(大正3年=1914、右上)に載った広告。

なるほど、女給たちの写真入りです。しかし、大正2、3年では、光太郎が通っていた明治44年(1911)より少し後なので、もしかするとお梅はもう居ないかも知れません。そこで「明治44年当時の広告はないか」。思い出したのが、「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」。武蔵野美術大学さんの前田恭二教授によって継続中の連載で、『読売新聞』さんの明治期からの過去記事データベース「ヨミダス」が活用されています。「もしかすると「ヨミダス」、広告も検索対象にしているんじゃないか?」と思ったわけです。

隣町の県立図書館さんの分館にダッシュ(笑)。閲覧用PCで「ヨミダス」を立ち上げて頂き、キーワード「よか楼」でポン。すると、ビンゴでした! 何度も広告が出ており、同一の写真を使ったものが多かったのですが、写真の種類で言うと5種類、見つかりました。
y19110704-2 y19110907-2
古い順に、明治44年(1911)7月4日(左上)、同9月7日(右上)、同10月31日(左下)、明治45年(1912)3月6日(下中央)、同7月12日(右下)です。
y19111031-2 y19120306-2 y19120710-2
さらに他紙のデータベースも当たりました。『毎日新聞』さんの「毎索」ではヒットせず。しかし、『朝日新聞』さんの「クロスサーチ」では、「ヨミダス」以上の大漁。

明らかに『読売新聞』さんのものと同一の写真を除くと、8件。
2a19120128 2a19120317
2a19120515 2a19120713
2a19121209 2a19140307
2a19141020 2a19141103
左上から順に、明治45年(1912)1月28日、同3月17日、同5月15日、同7月13日、同じ1912年で改元後の大正元年12月9日、大正3年(1914)3月7日、同10月20日、同11月3日です。

お梅はナンバー2くらいだったようですので、上記画像の中にお梅がいるとみて間違いないでしょう。どれがお梅だかは特定できませんが。

お梅にぞっこんだった明治44年(1911)の暮、光太郎の前に智恵子が現れます。それまで素人女性には興味を抱かなかった光太郎、すぐに智恵子に鞍替えというわけではありませんが、ずっと智恵子は気になる存在として光太郎内部に居続け、しかし、こんな自分と一緒になっても苦労するだけだとか、自分に智恵子と添い遂げる資格があるのだろうかなどと悩みます。そのあたりの逡巡が翌年の詩「涙」「おそれ」などに謳われました。そういいつつ、その前に「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」(「人に」 のちに『智恵子抄』巻頭を飾りました)などとも語りかけ、ズルい奴です(笑)。

まあ、結局は大正元年(1912)、銚子犬吠埼に智恵子が光太郎を追ってやってきたことで、光太郎も覚悟を固めたのだと思います。そしてお梅との関係も解消。この前後でしょう。

お梅さんが朋輩と私の家へ押しかけて来た時、智恵子の電報が机の上にあつたので怒つて帰つたのが最後だつた。その頃、私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである。お梅さんはある大学生と一緒になり、二年ほどして盲腸で死んだ。谷中の一乗寺にその墓があるが、今でも時々思ひ出してお詣りしてゐる。(「ヒウザン会とパンの会」)

お梅も可哀想な女性だったと思います。

ところで、お梅の前に入れ込んでいた吉原河内楼の若太夫についても、後日譚等わかってきましたので、いずれご紹介いたします。

追記 光太郎実弟・豊周著『光太郎回想』(昭和37年=1962 有信堂)にお梅の写真が載っていました。
お梅
【折々のことば・光太郎】

又いただいたカフエはまことに珍しく、此の山の中がまるでフランスのやうに感ぜられ、ここの森のたたずまひさへフオンテンブロオの森の心地いたします。
昭和24年(1949)11月23日 立花貞志宛書簡より 光太郎67歳

こちらの「カフエ」はコーヒーの意味ですね。

立花貞志は戦前に岩手県芸術協会の立ち上げに関わり、宮沢賢治と面識もあった人物で、この頃盛岡のサン書房という出版社に勤務していました。

ところで、コーヒーと言えば、コーヒーをメインにしていた「カフェ・パウリスタ」。「都会情景 カフエー譚」にも紹介されていますし、江口渙などの回想に依れば智恵子や青鞜社のメンバー等が通っていたそうですが、光太郎詩文にはその名が出て来ません。同時代人の回想でも光太郎がパウリスタに通っていたという記述は見当たりません。

ところが、ネット上では「高村光太郎も通っていたパウリスタ」的な記述が溢れています。老婆心ながら「違うよ」と言わせていただきます。全く行ったことがないというわけでもないのでしょうが、上記のさまざまなカフェは酒がメインで、パウリスタは後の純喫茶に近い形。光太郎のニーズとは少し異なっていたようです。

頼まれましたので、出演して参ります。

☆ポエトリーユニオン☆@浅草

期 日 : 2024年10月12日(土)
会 場 : 浅草の和モダン レンタルギャラリーブレーメンハウス 東京都台東区浅草1-37-7
時 間 : 14:00~
料 金 : 1,000円

浅草寺の近くのギャラリーで味わい深いオープンマイクをやります。

当イベントはオープンマイクです。1人の持ち時間8分。好きな絵について語った後、詩を1篇(時間内なら2篇OK)朗読して下さい。

会場1階は萩原哲夫氏の展覧会となっています。ご都合の良い方は早めにお越しいただき、鑑賞していただければ幸いです。

飲み物はペットボトル持参でゴミはお持ち帰りいただけますよう、お願い申し上げます。

『私達の日々は風景の連続ともいえるでしょう。
 美しい瞬間を画家が描いた風景の前に、人は立ちどまります。
 詩人の語る詩情にも絵はあります。
 朗読する詩人達の肉声を通してそれぞれの風景を想像して
 分かち合う午後のひと時をご一緒しましょう。』

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仕掛け人は連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏。この手のイベントをよく主催されているようです。

氏から「光太郎について語ってくれ」と言われ、お受けすることに致しました。他は現役の詩人の皆さんがマイクを握られるのでは、と思われます。

聴くだけでも可でしょうし、ぜひ語りたいという方もまだ受付中と思われます。上記フライヤー画像ご参照の上、お申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩を六篇自分勝手に選択して書きぬき、別封で送ります。多分明日二ツ堰の局までゆけるでせう。今日は暴風雨ですが。「続智恵子抄」ではあまり月並みと思ひ、「智恵子抄その後」としましたがおかしいでせうか。

昭和24年(1949)10月30日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎67歳

粕谷は編集者。連作詩「智恵子抄その後」6篇――「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」――は、翌年1月の『新女苑』に発表されました。

時折、光太郎に関連する企画展示をなさって下さっている文京区の森鷗外記念館さんで、またしてもです。

特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」

期 日 : 2024年10月12日(土)~2025年1月13日(月・祝)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00〜18:00
休 館 : 11月26日(火) 12月23日(月)・24日(火) 12月29日(日)~2025年1月3日(金)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円)  中学生以下無料

 文京区立森鴎外記念館では2024年10月12日(土)から2025年1月13日(月・祝)まで、特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」を開催いたします。
 当館では2023(令和5)年、江戸千家家元・川上宗雪氏より、明治20年代から昭和50年代に交わされたはがきコレクション111枚を一括でご寄贈いただきました。
 差出人は森鴎外を始め、夏目漱石、与謝野晶子、石川啄木、芥川龍之介、宮沢賢治ら文学者。竹久夢二、藤田嗣治、竹内栖鳳、恩地孝四郎ら美術家。他にも幸徳秋水、田中正造、山川菊栄、南方熊楠、柳宗悦など、各分野において近現代史に名を遺す著名人ばかりです。
 内容は、季節の挨拶、礼状、お祝い、事務連絡など暮らしや仕事のやり取りもあれば、私信ならではの本音や心安さが見られるものもあります。手書きでしたためられたはがきには、書き手の個性や受取人との関係性、当時の社会の雰囲気に思いを巡らせる魅力が詰まっています。
 本展では、はがき一枚一枚の魅力や、それらが伝える人物交流、文化的・社会的背景を紹介します。各人の全集に未収録のものや、文京区ゆかりの文化人のもの等、明治から昭和に至る通信環境の変化とあわせて、111枚のはがきの世界をお楽しみください。

■はがきの差出人(五十音順)
文学者
芥川龍之介、石川啄木、伊藤左千夫、井伏鱒二、伊良子清白、氏家信、円地文子、岡本かの子、尾山篤二郎、山本露葉、北原白秋、木下利玄、古泉千樫、齋藤茂吉、島木赤彦、杉田久女、高村光太郎、立原道造、谷崎潤一郎、田山花袋、坪内逍遙、土岐善麿、内藤鳴雪、永井荷風、長塚節、中西悟堂、夏目漱石、萩原朔太郎、馬場弧蝶、二葉亭四迷、堀辰雄、正岡子規、三木露風、宮沢賢治、三好達治、武者小路実篤、室生犀星、森鴎外、吉井勇、若山牧水、柳原白蓮、与謝野晶子、吉川英次 ほか

美術家、工芸家
會津八一、梅原龍三郎、小川芋銭、織田一磨、恩地孝四郎、香月泰男、川端龍子、小出楢重、近藤浩一路、坂本繁二郎、芹沢銈介、竹内栖鳳、竹久夢二、寺崎廣業、堂本印象、富岡鉄斎、橋本関雪、平福百穂、藤田嗣治、前田青邨、松林桂月、松本竣介 ほか

ジャーナリストほか
大川周明、緒方竹虎、木下尚江、幸徳秋水、高田早苗、田中正造、山川菊栄、山川均

哲学者、評論家、芸能ほか
阿部次郎、安倍能成、仮名垣魯文、三遊亭円朝、寺田寅彦、新村出、西田幾多郎、野上豊一郎、久松潜一、藤原銀次郎、正木直彦、南方熊楠、柳宗悦、和辻哲郎
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関連事業

○展示監修者、調査研究協力者による講演会
 ・講演会「111枚のはがきが織りなすタペストリー」
   講師:須田 喜代次 氏(大妻女子大学名誉教授・森鷗外記念会会長)
   日時:2024年11月10日(日)14時~15時30分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界1」
   前半「芥川龍之介のはがきをめぐる三題噺
-〈六朝書体〉・海軍機関学校・小説「河童」」
    講師:伊藤 一郎 氏(東海大学名誉教授)
   後半「夏目漱石のはがきから-漱石の文人趣味」
    講師:松村 茂樹 氏(大妻女子大学教授)
   日時:2024年11月24日(日)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界2」
   前半「宮沢賢治「臨終の詩」の謎-松本竣介はどこでこの詩に出会ったのか?」
    講師:杉浦 静 氏(大妻女子大学名誉教授)
   後半「翻字作業の裏側で-文字に向きあうということ」
    講師:出口 智之 氏(東京大学准教授)
   日時:2024年12月14日(土)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ※講演会はいずれも定員50名

はじめ、鷗外宛のはがきの集成かと思ったのですが、さにあらず。個人のコレクターの方からの寄贈で、とにかく近代著名人の葉書をコレクションするという集め方だったようで、差出人はもちろん、宛先もバラバラのようです。

我らが光太郎の葉書も含まれています。比較的長命だった上に、特に戦後はやたらと筆まめだった光太郎ですので、そう珍しいものではありませんが、『高村光太郎全集』未収録のものであれば嬉しいなと思っております。そうであれば、たった一通でも、通説を覆すようなことが書かれていたり、これまで知られていなかった事実が書かれていたりということがよくありますので。

8月に行って参りました兵庫県たつの市の 霞城館・矢野勘治記念館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に出た光太郎葉書もそんな例で、この発見により、大正年間に埼玉の秩父山麓を周遊していたという知られていなかった事実が判明したりしました。

ところで、光太郎と異なり早世したため、残っている書簡の少ない石川啄木や宮沢賢治のそれも出品され、かえってそちらで「ほおー」と思いました。啄木からは大恩人の金田一京助宛、賢治は高橋秀松という人物に送ったものだそうです。高橋は盛岡高等農林学校の寄宿舎で賢治と同室、戦後、郷里の宮城県名取町(のちに名取市)の町長/市長を務めた人物でした。

他にも文学、美術、さらにその他の分野でも光太郎と縁のあった人物がずらり。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

しかしお彼岸の頃から健康恢復、只今ではもうすつかり元気になりました、夏に弱いことまつたく白熊のやうです。その代りこれから冬にかけては得意の季節です。
昭和24年(1949)10月26日 東正巳宛所感より 光太郎67歳

少し前のこの項でご紹介した、この年の夏、おそらく熱中症で4回ぶっ倒れたという話からの繋がりです。自らを白熊に例えるあたり、笑えます(笑)。

智恵子を主人公とする一人芝居です。

平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』

期 日 : 2024年10月10日(木)~10月14日(月)
会 場 : 雑遊 新宿区新宿3-8-8 新宿O・Tビル
時 間 : 10月10日(木)・10月11日(金) 19:00~
      10月12日(土)・10月13日(日) 14:00~/18:00~
      10月14日(月) 12:00~
料 金 : 10月10日(木)のみ3000円 他は一般 4000円 U25 3000円

〈出演〉 平体まひろ
〈スタッフ〉
演出:下平慶祐  舞台監督:齋藤美由紀  音響:丸田裕也  音響オペレーター:池田優美
照明:阪口美和  舞台美術:竹邊奈津子  当日制作:岡田珠美、渋谷真樹子
宣伝美術:平体まひろ  企画・制作:プテラノドン

 「平体まひろ 一人芝居『売り言葉』」が10月10日から14日まで東京・雑遊にて上演される。
 「売り言葉」は、野田秀樹が執筆した戯曲で、2002年に大竹しのぶの一人芝居として上演されたもの。彫刻家で詩人の高村光太郎の妻・智恵子の半生をモデルに描かれた作品だ。
 約1年弱舞台活動を休止していた平体まひろは本作に向けて「一年弱舞台活動をお休みしていました。ということを知っている方はそんなおらんだろとも思いつつ、自分にとっては覚悟を決めてのことだったので、活動再開にあたっても覚悟を決めて、ひとり芝居に挑戦することにしました。沢山の方々のお力をお借りしながら、自分に売り言葉をふっかけながら、皆様に楽しんでいただくべく励みます。ぜひお運びください!」とコメント。
 また演出を手がける下平慶祐は「高村智恵子が狂気に溺れていく戯曲、と聞くとおどろおどろしいと思うかもしれませんが、読んでみると全く違う印象を抱きました。私自身かなり『おどろ』いたのですが、この戯曲に描かれていたのは、普遍的な、とりわけ女性が、必死に人生と向き合っていく様子です。つまり、死を必することが狂っているということ?それなら自分の人生は? なんてことを考えながら、この作品を皆様に送ります」と意気込みを述べた。

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「売り言葉」、元々は大竹しのぶさんの一人芝居として野田秀樹氏が作られ、平成14年(2002)に南青山スパイラルホールさんを会場に初演されました。翌年、野田氏の『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社)に収められ、その後プロアマ問わずさまざまなところで上演されています。
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たまたま偶然でしょうが、令和元年(2019)には、当方の把握している限り6組もの異なる劇団/個人の方が上演、一昨年で2本、昨年も1本の公演がありました。

この手の脚本(ほん)の中で、光太郎ディスり度が最も高い(これでアンチ光太郎になってしまったという方もいらっしゃるようで)ものですが、それだけに生々しい人間ドラマという意味では秀逸です。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

真亀の老母逝去の由、気の毒な老年だつたと思ひますが、やむを得ません。


昭和24年(1949)10月27日 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

「真亀の老母」は智恵子の実母・セン。宮崎の妻・春子は、センの三女・ミツの子で、智恵子にとっては姪にあたり、当時の一等看護婦の資格を持っていて、南品川ゼームス坂病院に起居して智恵子の付き添いを務めました。春子が幼い頃にミツが夫のDVに耐えかねて実家に戻り、ほどなく早世したため、センは孫の春子を養女として戸籍に入れました。そこで戸籍上は光太郎のみならず宮崎の義母ということにもなり、「老母」としているわけです。
[]
智恵子もそうですが、センもかなり数奇な人生を送りました。家業の長沼酒造破産後は五女のセツの元に身を寄せ、千葉の九十九里浜真亀納屋で暮らし、ゼームス坂病院に入院する前、昭和9年(1934)には心を病んだ智恵子を半年余り受け入れていました。

少し先の話なのですが、ガンガン宣伝してくれと云う話ですので……。

中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ

期 日 : 2024年11月10日(日)~11月18日(月)
会 場 : なかのZERO西館美術ギャラリー2F 東京都中野区中野2丁目9-7
時 間 : 10:00~18:00 最終日のみ16:00まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

中野には創作活動の場であるアトリエが多くはありませんが残っています。残念ながら前回の展示会後に取り壊されてしまったものもあります。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエがありますが、ここで高村光太郎が「乙女の像」を制作しました。

アトリエという建築の魅力、活躍した人々をご紹介します。

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関連講演会
 各回定員60名 定員に達し次第締め切ります 無料
 
  ① 『連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る』
    11月10日(日) 14:30~16:30  会場:なかのZERO
     渡辺えり(劇作家・俳優・中西アトリエを保存する会代表)
     小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)

  
  ② 『中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について』
    11月11日(月) 18:30~20:30 会場:なかのZERO
     内田青蔵(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)
     伊郷吉信(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)001


申込 : メール y-sogawa@tubu.jp

     申込フォーム 
     右記QRコード 

     電話 090-8056-0327(ソガワ)

というわけで、保存運動の起こっている光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展覧会です。主催は中野たてもの応援団さん。

他に三岸好太郎・節子、棟方志功、彫刻家の木下繁、同じく長谷川昂、画家の萩原英雄らのアトリエ、土日画廊という歴史的建造物などについてのパネル展示が為されます。

中西利雄アトリエは、中西本人、それから中西没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、そして光太郎についてのパネル展示。さらに特に光太郎を大きく扱って下さるとのことで、当方手持ちの史料を大量にお貸しします。真作で彫刻(ブロンズレリーフ)や書簡、『道程』などの著書、複製ですが原稿、デッサン、色紙などなど。

また、関連行事としての講演会。初日の11月10日(日)に渡辺えりさんと当方で「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」と題したトークショー。当方が水を向け、渡辺さんにいろいろと語っていただき、専門的なところは捕捉、スクリーンにスライドショーを投影しつつ行います。

翌11月11日(月)には建築専門のお二人から建築としての中西アトリエのお話。個人的にはこれが実に楽しみです。

展覧会、講演会とも無料。ぜひ足をお運び下さい。これで中西アトリエ保存運動に大きく弾みを付けたいと存じますので。

【折々のことば・光太郎】

都会の人は殊に時々登山するといいと思ひます。登山の清らかなたのしみは比較するものもないやうです。


昭和24年(1949)8月24日 髙村規宛書簡より光太郎67歳

令甥・規氏の埼玉の低山に登ったという書簡への返信の一節です。若き日の光太郎はクラシックルートを歩いて信州上高地まで上ったり、上州赤城山にも再三登ったりしました。上州といえば山間部をほぼくまなくトレッキングし、法師、草津、湯檜曾、川古、磯部、伊香保、四万、水上、宝川などの温泉を踏破しています。

昨日は上京しておりました。メインの目的は光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関連して。また詳しくご紹介いたしますが、中野たてもの応援団さんの企画に乗っかる形で、11月に中野ZEROさんにおいて企画展示を行います。その展示用備品の確認でした。

そちらの終了後、原宿へ。エンパシーギャラリーさんで開催中の彫刻家・瀬戸優氏の個展「ime Traveler」を拝見して参りました。
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今回並んでいるのほとんどの作が動物をモチーフとした具象彫刻で、目玉の一つが光太郎の父・光雲の「老猿」(明治25年)オマージュのもの。
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マルチアーティスト・井上涼氏曰くの「黙すれど語る背中」もしっかり再現。
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事前に画像を拝見して、粘土なんだろうな、と思っていましたが、焼成して着色したテラコッタとのこと。画廊オーナーの方がギャラリートーク的にいろいろとご説明下さいました。その中で「へー」と思ったのが、目の処理。

仏像の玉眼のように、裏側からガラスを嵌め込み、着色。そして瞳がどの角度から見てもこちらを向くようにしてあるというのです。秘密の技法があるようで、これには驚きました。
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他の作。
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テーマの一つが「オマージュ」だそうで(猿もそうでしたが)、他にも過去のいろいろな系統からのオマージュが。上画像の犬は古代エジプトのアヌビス神像ですし、同じエジプトのカノプス壺(ミイラ制作の際に取り出した臓物を入れる容器)も。
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西アジアから広まった祭器・リュトン。
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一見、木彫に見えますが(それを狙っているようです)これもテラコッタ。

さらに東洋の十二支。
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今年の干支、辰(ちなみに当方、年男です(笑))。

他にもライオンやら狼やら。
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硬く焼き締められたテラコッタでありながら、もふもふ感が感じられるのが不思議です。そして躍動感というか、ムーヴマンというか、まぁ、光太郎曰くの「生(ラ・ヴィ)」ですね。アカデミックなにおいのしないワイルドさが好ましいところです。

下世話な話になりますが、かなり売約済となっていました。
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「老猿」も。シールで隠れて価格が見えなかったので訊いたところ、99万円だったそうですが。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

会期は明後日まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

お便りと「パンの会」といただき、ありがたく存じました。此の本は大変立派でパンの会にふさはしいと思ひました、かういふ混雑した時代の事を後で書き分けるのは随分苦労なことと推察します。

昭和24年(1949)8月5日 野田宇太郎宛書簡より 光太郎67歳

「パンの会」は明治末に起こった芸術運動。光太郎の欧米留学中に木下杢太郎、北原白秋、吉井勇らが始め、帰国した光太郎もたちまちその喧噪に巻き込まれます。連翹忌会場の日比谷松本楼さんでも大会が行われたことがありました。

評論家・野田宇太郎は文学散歩的な視点をメインに明治大正の文学史を俯瞰した書物を多く著しましたが、『パンの会』もその一つ。旧悪とまでは行きませんが、若気の至りの数々を記録に残された光太郎、苦笑しながらも懐かしんでいたのではないかと思われます。

都内で彫刻家の方の個展です。

瀬戸優個展「Time Traveler」

期 日 : 2024年9月7日(土)~9月23日(月・祝)
会 場 : エンパシーギャラリー 渋谷区神宮前3丁目21-21 ARISTO原宿2階
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料 

生命の息吹を宿す動物彫刻で知られる瀬戸優が、本展で新たな挑戦に挑みます。

テーマは「Time Traveler」。さまざまな時代に生きた動物たちを彫刻として再現し、時を越えて伝わるその存在感を感じていただける作品が並びます。

本展は、瀬戸優にとって今年最大規模の展覧会となり、34点の作品が出品されます。

ぜひ、この特別な機会にご来場ください。

今回の展示は、瀬戸優にとって初めての「オマージュ」に焦点を当てた試みです。耐久性の高い彫刻作品は、長い年月を経てもなお、私たちに語りかけてきます。古代エジプトの「アヌビス神像」(紀元前1500年)から、19世紀の「老猿」(1893年)まで、幅広い時代と地域の動物彫刻にインスパイアされた作品が展示されます。

前回の個展「星を数える」に続き、今回は「時間」に秘められたロマンを感じ取っていただければ幸いです。
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瀬戸氏ご本人が Instagramのテキストアプリ「Threads」上に作品画像を公開されており、光太郎の父・光雲の「老猿」オマージュの作もアップされています。
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「Threads」テキストによれば、光雲の「老猿」制作の背景もきちっと押さえた上で作られているそうです。「老猿」制作中に、光雲の数え十六歳だった長女の咲(さく)が肺炎で亡くなっています。咲は狩野派の絵師に学び、将来を嘱望される腕前でした。後の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)にそのあたりが語られています。
 総領の娘を亡くした頃のはなし
 栃の木で老猿を彫ったはなし

また、光太郎の回想「姉のことなど」(昭和16年=1941)にも。光太郎は数え十歳でした。

 明治二十五年には姉さんも十六歳になつた。絵画の技倆は驚異的に上達して来た。いよいよこれからといふ其年の九月九日に此の姉さんが死んだ。
(略)
 黙りかへつた家内中の人に囲まれて姉さんはいつものやうに臥てゐた。苦しさうであつたやうな気がしない。母が私の手を持ち添へて、枕元にある茶碗の水を細長い小さな紙に浸まして姉さんの少しあいてゐる口を塗らした事をおぼえてゐる。みんなが泣いてゐたやうだつたが私は泣いたやうに思はない。その時祖父さんがいきなり叱るやうな声で「親不孝め」と言つたので驚いた事が頭に残つてゐる。
(略)
 八月末からは臥たきりであつたやうだ。或る夕方祖父が井戸端でつるべの水を頻に浴びてゐるのを見たので暑いからだと思つてゐたが、後年それは水垢離をとつてゐたのだときかされた。これもあとで聞くと、姉さんは裏隣にあつた総持寺といふ寺の不動尊にひそかに願をかけて、父の無事息災を祈り、父の災難の身代にさせてくれと願つてゐたのださうである。その年が丁度父の厄年にあたり、しかも美術学校で父が高いところから落ちた事があつたりした。其上、父はシカゴ大博覧会へ出品する大きな木彫の猿を作りかけて、これが中々はかどらないやうな状態の時であつた。


このあたりを受けて、瀬戸氏曰く「光雲の無念さははかり知れず、何も手につかないほど落胆したが、制作を通じて気力を取り戻していったという。このエピソードを知り、老猿の迫力の秘密がわかった気がした。我々作家にとって、作品制作だけが精神を安定させ、自身を幸福に導いてくれる」。

なるほど。

他にも動物系の具象作品が多いようですが、不思議な迫力に満ちた作品群です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

油画の方でも梅原安井程度でゆきどまりではなりません。もつと大きくひらけて油画の大道に出ねばならぬと考へます。あれだけではひどく小さいです。

昭和24年(1949)6月21日 椛沢ふみ子宛書簡より光太郎67歳

自らは蟄居生活を送りながらも、美術界に対する期待は大きかったのですね。

上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。昨日、拝見に行って参りました。
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展示会場は3階の2室を使い、奥がメインの展示・台湾から東京美術学校に留学していた黄土水の作品群。
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手前が前座的に黄が師事した光雲や同時代ということで光太郎などの作品群でした。まずはそちらから。

いきなり最初に光雲作品が出迎えてくれます。
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作品というより、学生たちに示すための教材ですね。ラベルにも「標本」とあります。文殊菩薩像を木寄せで作る際の、いわば3D設計図のような。

同様の用途でしょう、観音像の頭部のみ。
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「聖徳太子像」は「作品」として制作されたと思われますが、ことによるとこうしたものも学生たちに手本として示されたかもしれません。
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太子、イケメンです(笑)。

さらに光雲の作が続きます。
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「鷹」。羽根の先端や俵を縛る縄など、細部まで作り込まれています。
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「蘭陵王」。以前に見た時はアタッチメントの面を装着した状態でしたが、今回は外されていて、ラッキーでした。
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「狸」。擬人化された法師の姿です。ここまでの作は、全て一度は他の機会に見たことがあるものでしたが、これは初見。その意味では最も見たかった作品でした。類例は清水三年坂美術館さんやその出開帳などで見たことがありましたが、そちらは立ち姿でした。

この「狸」は、光太郎の「蓮根」と並べてありました。父子競演です。ところでSNS上で父子を混同している投稿をよく見かけます。「高村光雲のレンコン」などと……なげかわしいところです。
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「蓮根」、令和元年(2019)に藝大さんに寄贈されたものです。翌年の「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」で展示されて以来かな、と思われます。コロナ禍もありましたし。
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光太郎作品はもう1点。卒業制作の日蓮像「獅子吼」が出ています。こちらはブロンズです。
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木を削って作るカービングと、粘土を積み上げて形にするモデリング、双方で一流の彫刻家というのも日本ではあまり多くないのでは、と、改めて思いました。光雲はカービングの人ですし、光太郎の親友だった荻原守衛にはカービングの作は無いと思われます。

その守衛の「女」。
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ブロンズは一つの型から鋳造したものが複数存在することが多いのですが、「女」も全国にどれだけあるのか当方も存じません。都内だけでも少なくとも5点は把握していますが。

こちらには「伊藤美術鋳造研究所鋳」の刻印。
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光太郎最後の大作「乙女の像」の鋳造を担当した伊藤忠雄の工房です。「おお!」と思いました。

カービングにもどると、光太郎の同級生だった水谷鉄也、光雲高弟の一人・平櫛田中など。

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冒頭の「文殊木寄」や「観音像頭部」のように、教材として使われたであろう手板がずらっと。この手のものが一時、大量に処分されてしまったという話を聞いたことがあるのですが、現存もしているのですね。いちいち作者の銘が入っていません。
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モデリングの方では、中原悌二郎、池田勇八、石井鶴三、朝倉文夫など。
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こちらはほとんど撮影禁止でしたが絵画も。津田青楓、和田英作らにまじって、彫刻科を卒(お)えてから光太郎が入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二など。
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そしていよいよ今回の目玉の黄土水ですが、長くなりましたので、また明日。

【折々のことば・光太郎】

田植の頃に花巻から賢治子供の会の皆さんがはるばる来てくださることもう三度目となりほんとに一年に一度めぐつてくるこよない幸福の日と思ひました 昨日は「雁の童子」だつたので一入感動いたしました 子供等は無邪気にやるのでせうが作の持つ美しさと深さとが自然と素直に表現せられて心にしみ入るやうでした。


昭和24年(1949)6月13日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎67歳

児童劇団「花巻賢治子供の会」の太田村公演に対する礼状の一節。そもそもは光太郎に見てもらうために旧太田村で公演を打っていました。













今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエの保存のための組織です。先頃、会としてのホームページも出来、去る9月4日(水)には5度目くらいの会合を開き、今後の活動等について確認いたしました。

再来週くらいには詳細情報を出せるかと存じますが、11月には中野区内でアトリエに関する企画展示を行うことに決定しました。関連行事として建築家の方による中西利雄アトリエの歴史的価値、設計者の山口文象について等のご講演、会の代表・渡辺えりさんと当方による光太郎や中西アトリエをとりまくもろもろについてのトークショーなどが予定されております。

ホームページ上では保存に賛同して下さる方に署名をお願いしており、電子署名、紙媒体による署名と双方を用意してあります。さらにカラー版のフライヤーを兼ねた署名用紙を作って下さった会員の方がいらっしゃいまして、下に載せておきます。
フライヤー
署名用紙カラー
事業所さんや店舗さん等の場合、可能であれば裏表で印刷していただいて、カウンターなどに置いていただき、いらした方に署名をお願いしていただけると助かります。

適当なところでFAXまたはスキャンデータでお送り下さるか、さらに用紙そのものを下記あて郵送して下さっても結構です。

 〒113-0031 文京区根津2-37-4-801 曽我貢誠

さらには保存運動につき、SNS他、さまざまな形で「こんな動きがあるよ」と拡散していただければ幸いです。各種マスメディアさん等の取材も大歓迎です。

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会
Home | save-atelier-n (jimdosite.com)

どうぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

六月十一日には先日お送りした原稿にある通り裏山の展望台に立つて南方はるかに東京の空を眺めませふ。あなたの舞踊にのり移つた智恵子の事を思ひませう。帝劇で若し眼のあたりあなたの舞踊を見たら小生の眼は涙でくもつてしまふでせう。

昭和24年(1949)5月23日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

六月十一日」は、舞踊家の藤間節子(のち黛節子と改名)が、帝国劇場で「智恵子抄」を含むリサイタルを行う日です。「原稿」はそのパンフレットに掲載されました。
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会期残りわずかですが……。

齊藤秀樹展 ― 一木(いちぼく)―

期 日 : 2024年8月28日(水)~9月9日(月)
会 場 : 新宿高島屋10階美術画廊 渋谷区千駄ヶ谷5丁目24番2号
時 間 : 午前10時30分~午後7時30分 最終日のみ午後4時閉場
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

齊藤秀樹氏は、1969年東京に生まれ、1993年大阪芸術大学芸術学部美術学科彫刻コース専攻科修了。自然をテーマに掲げ、猫やトカゲ、金魚や蝶など子供の頃に触れてきた身近な生き物や植物たちを実物大の木彫にて表現し、個展・グループ展、アートフェアなど精力的に発表を続けています。 その精巧な描写、実物大にこだわり制作されていくことで、今にもそこから動き出すかのような空間を放ち、情景さえも想起させてしまうリアルな表現は、動植物の息吹やぬくもりをも感じさせると同時に、木彫だからこそ得られる「木」そのもの香りやぬくもりをも感じることができます。 今展では、大人になり忘れてしまいがちな、人々の心の中にある自然との「思い出」や「記憶」をそれぞれに喚起する最新作の一木造りの木彫達を中心に、様々な自然に生きる生物たちを一堂に展観いたします。この機会にぜひご高覧ください。

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木彫作家の齊藤氏、動物をモチーフとした作品等も手がけられ、その方面での大先達である光太郎の父・光雲作品オマージュなども作られています。

今回展示されている「矮鶏(ちゃぼ)」。氏のX(旧ツィッター)投稿から画像をお借りしました。
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同じ作品は一昨年、西武池袋本店さんで開催された「齊藤秀樹 木彫展~人のそばにいる自然 自然の中にいる人~」でも展示されました。

宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の光雲木彫「矮鶏」(明治22年=1889)の雄鶏の方をモデルとなさったものです。
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光雲の「矮鶏」、当初は一般人から注文を受けて制作されたものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが観覧に来た明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その経緯や制作の苦心譚など、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。


これ以外にも「鳥獣戯画」オマージュの作品、オリジナルの愛らしい柴犬や保護猫なども展示されています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

三好達治さんが来訪されたのには驚きました。どういふわけで来訪されたのかいまだに分かりません。訪問記でも書かれるのでせうか。


昭和24年(1949)5月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村にひょっこり三好がやってきたのは前月のことでした。この時の模様を三好は「高村光太郎先生訪問記」(『文芸往来』第三巻第七号)に詳しく書きました。ただ、初めからそのつもりだったわけでもないようで、こう書いています。

 妙なことをいふやうだが、もともと私は格別な用件をもつて、こんな山間に高村さんをお訪ねしたわけではなかつた。久しぶりで一寸お目にかかりたかつた、さうして暫く雑談でも承ればもう私の望みは足りるといふほどの気持であつた。

三好と光太郎、戦前から面識はあったのでしょうが、それほど親しかったわけではなさそうです。それでも三好にすれば、この時期に会っておきたいと思わせる何かが光太郎にあったのでしょう。

あくまで想像ですが、やはり戦争の問題が背後にあるのではないかと思われます。三好も光太郎同様、戦時中には多くの翼賛詩を書いていました。

若干先の話ですが、申込締め切りが近いもので……。

第2回 文(ふみ)の京(みやこ)ガイドツアー 「Bーぐる」がゆく本郷台地~須藤公園から六義園~

期 日 : 2024年9月28日(土)
会 場 : (集合)須藤公園―島薗邸―旧安田楠雄邸庭園―宮本百合子旧居跡―
      高村光太郎旧居跡―動坂遺跡―鷹匠屋敷跡―天祖神社―名主屋敷―富士神社―
      東洋文庫―六義園(解散) 全行程約2㎞
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料(六義園内庭園ガイドツアー 一般300円、各種割引等ありは自由参加)
〆 切 : 9月10日(火) 電子申請又は往復はがき
       〒112-0003 文京区春日1-16-21シビックセンター1階文京区観光インフォメーション

須藤公園を出発し、Bーぐるの路線に沿って、六義園まで区公認の観光ガイドが案内します。
※1グループ2人まで ※事前に申込フォームの「ご利用にあたってのお願い」を確認のこと
※天候等により中止の場合あり
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「「Bーぐる」って何だ?」と思って調べたところ、文京区内を循環するコミュニティバスだそうでした。「文京区(Bunkyouku)」を「ぐるぐる」で「Bーぐる」。なるほど。で、それに乗って巡るのかと思いきや、全行程徒歩だそうです。「B―ぐるの通るコースを歩く」というコンセプトだとのこと。

区公認のガイドの方が同行されて、各ポイントの説明をして下さるそうです。文京区さん、そういうシステムが整っているという時点で、素晴らしいと思います。他の市区町村さんも参考にしていただきたいところです。自分のエリア内にある文化財等に無関心な自治体の何と多いことか。

そういう意味では「自治体ガチャ」というワードが思い浮かびます。元々は国会でも取り上げられた、子育て支援等の自治体間格差を指す語ですが、文化行政などについても言えるような気がします。子育て支援等で困る場合には、隣の自治体に引っ越すとかもありでしょうが(実際、そんなこんなで人口減少に歯止めが掛からない自治体、そこからどんどん人が流入している自治体がそれぞれ自宅兼事務所近くにありまして)、建造物等の文化財はその場所から動かすことが難しいので(これも、とある件をイメージして書いています。勘の鋭い方はお判りですね(笑))。

閑話休題。今回のガイドツアー、千駄木五丁目の光太郎旧居跡も行程に含まれています。昭和20年(1945)4月の空襲で灰燼に帰したアトリエ兼住居があった場所。
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戦後しばらくは更地で、玄関にあった大谷石の石段の残骸などは残っていたそうですが、その後、月極駐車場となっていた期間が長く、さらに現在は宅地になってしまっています。当時を偲ぶよすがは文京区さんの建てた案内板のみとなってしまいました。
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ついでにいうと、この手の案内板も、文京区では充実しています。

すぐ近くにはやはり今回の行程に入っている宮本百合子旧居跡。
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それから、こちらは今回の行程には含まれていませんが、団子坂上の「青鞜社発祥の地」。
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団子坂自体も。
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「青鞜」のそれと団子坂のそれには光太郎や智恵子の名が記されています。

このあたりもやっぱり「自治体ガチャ」ですかね(笑)。

それから、光太郎や宮本百合子の旧居跡の前には旧安田楠雄邸庭園がコースに含まれています。こちらは光太郎アトリエと指呼の距離ながら空襲の被害を免れ、健在です。
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ちなみに現在放送中のNHKさんの朝ドラ「虎に翼」のロケにも使われているそうです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

頃日御尽力の県下国宝保存の運動は大に賛成でございます。一般の協力を望んで居ります。
昭和24年(1949)3月30日 森口多里宛書簡より 光太郎67歳

森口多里は美術評論家。昭和22年(1947)に開校した岩手県立工芸美術学校の初代校長を務めました。本来の業務以外にも文化財保護に尽力し、光太郎もそれに賛同していました。こういう人物がいないと文化財保存というのは弾みが付かないのでしょう。

昨日は久々に上京しておりました。まずは上野の東京国立博物館(トーハク)さんの常設展示・総合文化展の拝観(その後、国会図書館さんに廻って調べもの)。
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盆中でどんなもんだろうと思っていたのですが、そこそこの人出という程度、押すな押すなの盛況というわけではありませんでした。

真っ先に第18室へ。
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最も見たかった作品が、光太郎の木彫「魴鮄(ほうぼう)」(大正13年=1924)。コロナ禍中の令和3年(2021)にもひっそりと出されていたそうなのですが、その際には気づきませんで……。

同じく木彫の「鯰」(大正14年=1925)と並べて展示されています。
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あまり混んでいなかったので、さまざまな角度から見て撮影出来ました。ラッキーでした。
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魴鮄の大きな特徴である巨大な鰭(ひれ)は体側に畳まれた状態。これを広げて表現すると、光太郎の技倆なら不可能ではないのでしょうが、どうも玩具のようになってしまうような気がします。
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cfc02c35鱗(うろこ)なども省略しています。光太郎、同じことを後に「鯉」の木彫でやろうとしました。鱗を彫ると俗っぽくなる、と。しかし鱗がないとどうにも鯉感が出せず、その処理が難しい、というわけで、結局、「鯉」は完成しませんでした。ただ、土門拳による製作中のスナップが残っています。

この「鯉」、注文したのは新潟の素封家にして美術愛好家・松木喜之七でした。光太郎は「鯉」を完成出来なかったおわびにと、代わりに「鯰」を納品。この「鯰」は、現在、愛知県小牧市のメナード美術館さんで展示中です。

ちなみに松木、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、48歳にもなっていたのに「根こそぎ動員」ということで召集され、その年10月に南方で戦死しています。戦後、短歌も趣味だった松木の遺稿歌集『九官鳥』が上梓され、光太郎も追悼文を寄せました。

「魴鮄」と並べて「鯰」。松木に贈られたのとは別物です。さらにいうなら竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さんにもまた別の「鯰」が収蔵されています。今回のものが「鯰1」、MOMATさんは「鯰2」、メナードさんで「鯰3」です。
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「魴鮄」がほぼ真っ直ぐな姿態であるのに対し、「鯰」はゆるやかにカーブを描き、そこが実にいいところですね。このカーブの部分を前後両方向からではなく、一方向からのみ彫っているそうで、それは実に難しいとのこと。この「鯰」を見た光太郎の父・光雲は、まずその点に驚いたそうです。プロは着眼点が違いますね。
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また、近代彫刻史の専門家・髙橋幸次氏は、このカーブによって体側にできる空間に面白味がある、とおっしゃっていました。余白の美、的な。そう考えると、晩年に光太郎が取り憑かれた「書」にも通じるような気がします。無理くりかも知れませんが。

光太郎作品はもう1点、ブロンズの「老人の首」も出ています。
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光太郎生前の鋳造で、もしかすると大正15年(1926)に開催された「聖徳太子奉賛展」に出品されたそのものかもしれません。

そして光雲の「老猿」。
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昨年3月、MOMATさんでの「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」以来の拝観。

像高90㌢程なのですが、何度見てもその迫力に圧倒され、巨大な像に見えてしまいます。不思議なものですね。猿の視線が天空へと放散されているせいかもしれません。トーハクさんでは台座を高く設定しているというのもあるのでしょうが。

今回の展示は10月27日(日)までの予定。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスにはケーキを作りましたが香料がないので不十分でした。


昭和23年(1948)12月28日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

岩手の山中の山小屋で一人クリスマスケーキを焼く66歳……。ケーキと云っても生クリームなどありません。どんなものだったのか……。

001上野の東京国立博物館(トーハク)さんの常設展示「総合文化展」。数ヶ月ごとに展示品を入れ替え、「近代の美術」の展示室(第18室)で光太郎や父・光雲の作が出されることもけっこうあります(常に、というわけではありませんが)。光太郎ですとブロンズの「老人の首」(大正14年=1925)、光雲なら「老猿」(国指定重要文化財 明治26年=1893)が多く展示されます。

現在の展示は8月6日(火)から。10月27日(日)までの予定です。「老人の首」と光雲の「老猿」がやはり出ています。

「老人の首」は、光太郎のアトリエ兼住居に花を売りに来ていた老人がモデル。零落した江戸時代の旗本のなれの果てだそうで。光太郎生前の鋳造で、昭和20年(1945)5月、花巻に疎開する直前に思想家・江渡狄嶺の妻・ミキに託したものです。
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それから光太郎木彫が2点出ています。

まず「鯰」。複数の作例があるうち「鯰1」とナンバリングをされているもの。大正14年(1925)の作です。
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ぬめぬめ感がたまりません(笑)。

この「鯰」はトーハクさんでも時々展示され、それから他館の光太郎展的な展示に貸し出されることもありますが、今回もう1点、そうでない作品が出ています。実はコロナ禍中の令和3年(2021)にも出ていたそうですが、その際は気づきませんでした。

「魴鮄(ほうぼう)」(大正13年=1924)。
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他館での光太郎展等だと、昭和41年(1966)、西武百貨店7階SSSホールで開催された「詩情に生きる〈美と愛〉 高村光太郎と智恵子展」に出されたのが最後ではないかと思われます。したがって、当方も現物を見たことがありません。出品目録によれば「個人蔵」。おそらく寄託されているのだと思われます。

現存が確認出来ている光太郎彫刻は、70種類あるかどうか。ブロンズは同一の型から抜いたものが複数存在するものが多く(代表作「手」など)、のべにすれば倍増しますが、木彫は1点ものですし。

さらに70種類程のうち、ブロンズでもそうですが、特に木彫で「大人の事情」により、ほとんど観ることが不可能になってしまっている作品もかなりの数存在します。中にはそうこうしているうちに火災で焼失してしまったらしい、と云われているものも。

「魴鮄」もそれに近いのかな、と思っていたのですが、健在が確認出来、さらに展示が為されているということで、喜ばしい限りです。

明後日あたり、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

のりは御母上の思召のよし、何ともありがたく存じました。朝食に焼いていただくと子供の頃の事をおもひ出しますし、又「智恵子抄」の中の「晩餐」といふ詩の中の「鋼鉄をのべたやうな奴」といふ句をも思ひ出し何ともいへずなつかしい気がします。


昭和23年(1948)12月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

岩手の山中での暮らしだと、海苔はなかなか手に入りにくかったようです。

「晩餐」(大正3年=1914)は下記の通り。

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 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)から
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて1005
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

昨日は東京都中野区に行っておりました。光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になるの中西利雄アトリエ保存運動「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の4回目の会合でして。

少し早めに行き、中野駅南口近く、旧桃園町を歩きました。最晩年の昭和29年(1954)以降、外出もままならなくなった光太郎が貸しアトリエの大家さんだった中西利雄夫人に託した膨大な買い物などを頼むメモが残されていて、その中に下記の地図が含まれています。通常の地図と同じく北が上、右上の方が中野駅方面で、左下の「中西」と書いてあるところがアトリエです。
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現代の地図では下記の紫の枠内、左下の☆がアトリエです。
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およそ70年経って、書かれている様々なお店がどうなっているのか、地図を片手に歩いてみました。先月、「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」を拝見した折にも歩きましたが、その際は光太郎の書いた地図については失念していました。

さて、まず地図右上の「薬局」。瀟洒な会計学院の建物になっていました。
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昭和27年(1952)に中野に移ってから、常に健康を害していた光太郎。様々な薬品の購入を中西夫人に託しましたが、おそらくここで買われたものが多かったはず。
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薬局のはす向かいに「豆腐屋」。おそらくこちらが元は豆腐屋さんだったのではないかというお店(左下)。古民家カフェになっていました。
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右上は光太郎の地図で「果物」と書かれているお店。こちらのみ、光太郎の地図と同じ業種で存続していました。ただし、建物は建て替わっています。

そのお隣は光太郎の地図では「魚ヤ」ですが、現在はリサイクル着物店。光太郎メモに最も頻出する「神田屋肉屋」と「八百屋」、さらには「スワン」(洋品店だったそうです)、「松屋酒屋」、「時計屋」はまったく痕跡がありません。普通の民家になっていたりでした。
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そのあたりに古そうな和菓子屋さんがあったので、聞き込み調査をしましたが、こちらのお店は創業60年程だそうで、光太郎が居た70年前には未だ開業していなかったとのこと。
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光太郎地図で「フミヤ」となっているところは、現在はコンビニに。
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やはり70年という時間の経過を感じざるを得ませんでした。

逆に、光太郎の書いた地図やメモには記載がありませんが、古いものも。

公民館的な。
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それから、戦争遺跡と言えるでしょう。戦時中の昭和18年(1943)建立の石碑。
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ついでですので、中西アトリエにも行きました。
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PXL_20240710_084151737とにかくこの建物は残さにゃいかん、と、決意を新たに致しました。

その後、中野駅北口に回り、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合会場のスマイル中野さんへ。

代表の渡辺えりさん、実務の中心の曽我貢誠氏のもと、現状報告やら今後の活動についてやらのもろもろ。

会のメンバーその他があちこちでお願いしている保存に賛同するという署名はおよそ1,200名分集まったそうです。海外からも届けられているとのことで、感謝に堪えません。

今後、アトリエの所有者である中西家の意向確認、それから関係団体との交渉など、まだまだ課題が山積の状況です。
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署名につきましては、まだまだ受付中。このブログサイト内のこちらのリンク、それから下記画像等をご参照の上、ご協力いただければ幸いです。
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また、当方、今後も様々な場所に出没し、行った先々で署名をお願いいたします。そうした際にも快くご協力いただければ幸いに存じます。

さらに、健全な意図の元に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」で活動してみたいという方もウェルカムです。曽我氏までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡に於ける美術工芸学校の創設発足は本年を記念する最も意義ふかき事業と存ぜられます、幸に貴下の如き適任者が当県に居られてその創業の際に之が鞅掌にあたられる事此上なきよろこびです。この有望な岩手の美術工芸をどこまでももり立て育て上げて下さい。岩手は確かに日本のホープです。


昭和23年(1948)4月18日 森口多里宛書簡より 光太郎66歳

戦前から光太郎と交流のあった美術史家・森口は、この年開校した県立美術工芸学校の初代校長に就任しました。岩手で暮らし始めて丸三年近く経った光太郎、「岩手は確かに日本のホープです。」とまで書くようになりました。

都内の古書籍商の皆さんで作る明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼、入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。「日本最大の古書市」という触れ込みで長年続いています。今年で第59回だそうです。

出品物を手にとって見られる「一般下見展観」が下記の要領で行われます。

令和6年 第59回 七夕古書大入札会一般下見展観

期 日 : 2024年7月5日(金)・7月6日(土)
会 場 : 東京古書会館 東京都千代田区神田小川町3-22
時 間 : 7/5 10:00~18:00  7/6 10:00~17:00
料 金 : 無料
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コロナ禍前までは確かに「日本最大の古書市」というに相応しい活況でした。令和2年(2020)にパンデミック対応で中止、翌年には大幅に規模を縮小して再開、令和4年(2022)からシステム的には旧に復したのですが、その年と昨年と、出品点数はコロナ禍前から比べると半減に近くなりました。今年もそれに近いようです。

光太郎がらみの出品物は、2点。かつては5~6点は必ず出ていた感じでしたが。まぁ、昨年はゼロでしたので、それに比べれば……とは思います。

戦後の色紙揮毫が1点。
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短歌で「吾山になか(が)れてやまぬ山みつ(づ)のやみかたくして道はゆくなり」。昭和24年(1949)前後のもので、複数の揮毫例が確認できているものです。「ま」を「万」、「み」を「ミ」と変体仮名的な文字の選択にする、光太郎書の特徴がよく表れています。

余談ですが、「み」を「ミ」と書くため、「美しきものミつ」と書かれた短句を「美しきもの三つ」と誤読し、「三つとは、第一に○○、二番目に××で……」と噴飯ものの解釈が為されていたりして困っています。

書簡五通が一括で。
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姻戚となった詩人の宮崎稔に宛てたもの。おそらく『高村光太郎全集』既収のものです。文面が短い葉書ではなく、封書ですので、これはこれで額装したり、或いは思い切って軸装したりすると味のあるものになりそうな気はしますが。

完全に光太郎のものは以上2点。あとは「おやっ」と思ったのがこちら。
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光太郎が詩部会長を務めていた、戦時中の日本文学報国会関係の印刷物。精査するといろいろ解るような気がしないでもありません。

他に様々な文豪らの肉筆ものや稀覯本のたぐい等々。

一般下見展観では、普段はガラスケース越しにしか目に出来ないこれらを、手に取って見ることが出来ます(色紙は壁に掛けられていて無理かも知れませんが)。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

来年の冬はことによつたら一月から三月一ぱいの三ヶ月間、大沢温泉に下宿しようかと今日考へつきました。温泉でも追々設備が整ふでせうし、それまでには小生にも経済上の余裕がいくらか出来るかと思つてゐます。さうすれば皆さんに御心配をかける事も少く、小生も温泉に温まつて越冬出来れば風邪もまづひかぬでせう。仕事も却つて出来るでせう。電燈もあるし、食事も賄つてもらへば時間が出来ます。四月に小屋へかへつて来て、畑にかかればいいと思ひます。配給品は学校か村の人にたのんで時々とりに来ればいいわけです。


昭和23年(1948)3月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

大沢温泉さんでの冬籠もり、なかなかいい思いつきのようでしたが、実現には至りませんでした。自炊部ではなく食事付きで、となるとやはり経済的に難しかったようです。ただ、昭和26年(1951)には2週間近く滞在したことはありました。

当方も家のことや経済的な部分などまったく考えなくていいのなら、自炊部でいいので大沢温泉さんで暮らしたいと思ったりもしています(笑)。

このところ上京する機会が多いのですが、今週末も。

まずは六本木の国立新美術館さんで6月26日(水)に開幕した「日本教育書道芸術院 第43回同人書作展」を拝見しました。お世話になっている書家の菊地雪渓氏から「ぜひ足をお運びください」というご案内を頂きまして。
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菊地氏の出展作。杜甫の漢詩ですね。
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その菊地氏、師に当たられる方が光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)を書かれたとのことで、見に来てくれというお話。そういえば昨年、氏を通して「詩の文言はこれでいいのか?」的なレファレンス依頼があったことを思い出しました。「ああ、あの時の……」というわけで。

で、こちらが当該作。
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力強い光太郎詩そのままに雄渾な筆遣いの堂々たる大作でした。

他にも光太郎詩を書いて下さった方が複数。ありがたし。

「葱」(大正15年=1926)。
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光太郎詩の中ではマイナーな作なので、少し解説しますと、立川農事試験場の場長・佐藤信哉から贈られた葱の美しさを題材にした詩です。

佐藤の妻、すみ子(スミ 旧姓・旗野)は、智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在し、スキーや水泳に興じたりました。

「智恵子抄」から「樹下の二人」(大正12年=1923)。
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かなりの長詩ですので抜粋ですね。

詩集『道程』収録作「なまけもの」(明治44年=1911)。
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智恵子と知り合う半年程前、浅草雷門前のカフェよか楼の女給・お梅に入れあげ、通い詰めていた頃の日常が描かれています。

そして云わずと知れた「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。
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ありがとうございました。

古いものでは明治末から、もっとも新しいものでもこの「レモン哀歌」。100年前後経っています。1世紀を経てもまだ光太郎詩が現代人の琴線に触れていると思うと、嬉しい限りです。

7月7日(日)迄の会期です。ぜひ足をお運びください。

明日は阿佐谷の「名曲喫茶ヴィオロン」さんでの「ノスタルジックな世界 ライブ 朗読&JAZZ演奏」の模様をレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

お茶たくさんと和紙、きざみなどいろいろ細かいお心づくしのもの忝く、たのしくいただきました。和紙は昔の雅邦紙のやうに見えるもの、どんな工合のものか、今度筆を染めるのがたのしみです。純粋な半紙も珍重です。


昭和23年(1948)3月6日 多田政介宛書簡より 光太郎66歳

光太郎自身もこの時期、彫刻封印の代わりといっては何ですが、書に強い関心を持ち、数々の優品を生み出しました。

戦後2年半ほど経ち、そろそろ物資不足も解消しつつあったようで、それなりの紙が贈られてきました。「雅邦紙」はその名の通り、画家の橋本雅邦(光太郎の父・光雲と東京美術学校で同僚でした)が愛用した種類の紙です。

戦後間もない頃には揮毫を頼まれてもちゃんとした紙が無く、粗悪なボール紙のようなものを色紙代わりにしていたこともありました。

百貨店さんのイベントを2件。

まずは三越日本橋本店さん。

木の呼吸 ー伝統と革新ー

期 日 : 2024年7月3日(水)~7月8日(月)
会 場 : 日本橋三越本店本館6階美術特選画廊 東京都中央区日本橋室町1-4-1
時 間 : 午前10時~午後7時(最終日は午後5時閉場)
料 金 : 無料

このたび日本橋三越本店では 木の呼吸 伝統と革新 を開催いたします。日本古来より受け継がれてきた伝統的技術「木彫」。自然の中ではぐくまれてきた木々との対話を通し、匂いや木肌を感じ取りながら作家それぞれの卓越した技術により、一つの素材が作品へと昇華されます。本展では近代巨匠作家の秀作から、俊英若手作家の作品 約30余点を展観いたします。
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プレスリリース等で使われているサムネイル画像は現代の作家さんの作品ですが(左・佐藤丹山氏、右・百々謙三氏)、光太郎の父・光雲の作も出展されます。最晩年の昭和7年(1932)作の「鬼はそと福はうち」。今年3月に銀座のギャラリーせいほうさんさんで開催された「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」でも展示されました。それから、同じく山崎朝雲の「仔犬」。
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近代はこの師弟二人ですが、他に現代作家でサムネイルのお二人以外に秋山隆、石川時彦、榎戸項右衛門、木村俊也、澤田志功、下山直紀、丸山達也の各氏。系譜を辿ると光雲や朝雲に連なるという方もいらっしゃるのでしょうか?

もう1件、同様の催しで、そごう千葉店さん。

近代木彫秀作展008

期 日 : 2024年7月2日(火)~7月8日(月)
会 場 : そごう千葉店 千葉市中央区新町1000番地
時 間 : 午前10時~午後8時 最終日は午後4時閉場
料 金 : 無料

近代木彫を代表する彫刻家 高村光雲、平櫛田中や、鎌倉時代の名佛師運慶・快慶の流れをくむ現代の大佛師 松本明慶氏の作品を中心にご紹介いたします。

こちらは先月、そごう大宮店さん、それから先月から今月にかけ、大和百貨店富山店さんで行われたものと同じ業者さんによる巡回のようです。それぞれ光雲の聖徳太子像が出ていました。今回もそうだろうと思われます。

ちなみに令和2年(2020)にも千葉そごうさんで同様の展示即売がありまして、その際は光雲の「孔子像」、「大国主命」、レリーフの「瑞雲」、それから光雲の師・髙村東雲の孫にあたり光雲に師事した髙村晴雲の「釈迦如来像」が出ていました。

光雲の木彫、じっくり見られる機会はあまり多くありません。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

送つて下さつた貴下の小説「塔」をまだ雪に埋まつてゐる小屋の中でいただきました。貴下の小説をよむのははじめてなのでひどくたのしみに思ひます。感謝。
昭和23年(1948)2月23日 福永武彦宛書簡より 光太郎66歳

福永は光太郎を尊敬していたようで、こまめに著書を贈っていました。前年にはボードレールに関する評論を贈っています。また、個人的な悩みの相談もしていたようです。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、中野駅近くのテアトルBONBONさんにて上演中の「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」拝見。

そちらが午後2時開演でしたので、午前中に国会図書館さんに立ち寄りました。このサイトで何度か触れているデジタルコレクションリニューアルに伴う調査が未了でして、同館まで出向かないと引っぱり出せないデータがかなり多く、それらの閲覧です。『高村光太郎全集』等に漏れている光太郎の文章(日夏耿之介著書の書評)、生前の光太郎を知る人々の回想文、弘田龍太郎が戦時中に作曲した「ぼろぼろな駝鳥」の楽譜(レコードは持っていましたが、楽譜は未見でした)などを見つけることが出来ました。

その調査は予想外に時間が掛かり、気がつくと正午を廻っていて、慌てて6階に駆け上がって(実際にはエレベータですが(笑))食堂で「国会図書館カレー」を掻き込み、中野へ。

テアトルBONBONさん、光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中西利雄アトリエと指呼の距離です。中野駅から、おそらく光太郎が何度も歩いたであろう道を通って行きました。
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帰ってから気づいたのですが、中西利雄子息の故・利一郎氏からお借りしてコピーを取らせていただいた、かつて光太郎が氏のお母さま(利雄夫人・富江さん)に託した買い物を頼む膨大なメモの中に、この辺りの地図もあったはず。探してみたところ、ビンゴでした。
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この地図で左上の二股に分かれた道沿い、「時計屋」とある右上辺りが現在のテアトルBONBONさんでしょう。次に中野に行く時は、この地図など(駅北口の地図もありました)を片手に周辺を歩いてみたいと思いました。地図にある店舗、もしくはその名残くらいは現存しているかもしれません。

さて、ちょうど開場時間。
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PXL_20240621_044008043受付後、「夢のれん」さんを主宰なさり、今回の公演の演出も手がけられた大谷恭代氏とお話しさせていただきました。受付の脇にはアトリエ保存のための署名コーナーを設けて下さり、その御礼など。

アトリエ保存会のメンバーに、「夢のれん」さんのご所属ではないのですが、遠藤哲司氏という役者さんがいらっしゃり、「夢のれん」さんの方々とも親しくされているということで、同氏のお骨折りもあってこのような形でご協力を賜りました。まことに感謝に堪えません。5日間、全8回の公演で、多くのご署名が集まることを願って已みません。

客席へ。キャパ120だそうで、平日の昼間でしたがほぼ満席。「夢のれん」さんの固定ファンのような方々が多いのかな、という印象でした。あとはやはり清水邦夫という巨匠の作品である点も大きいのでしょう。


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物語の舞台は昭和11年(1936)の「ゼームス坂教会」。史実でその前年から智恵子が入院していたゼームス坂病院の隣、という設定です。教会の存在はおそらく清水氏の創作でしょう。登場人物は教会の牧師と4人の娘、それから境の塀を乗り越えてやってくる智恵子ら入院患者、そして光太郎や軍人たちなどの外部の人物。ちなみに2.26事件の約2ヶ月後というわけで、憲兵が当たり前に登場します。

智恵子は心を病んで入院しているのですが、これも清水氏の創作で、光太郎は既に死んでいると思い込んでいます。そこで見舞いに来る光太郎をニセモノだと認識。光太郎はそれに戸惑いつつも、話を合わせるという設定。しかし、観ているうちに、智恵子の方が正しいんじゃないか? と思えても来ました。史実では光太郎は存命だったわけですが、智恵子の中の「かつての光太郎」、光太郎自身の思う「あるべき自分」はもはやここには居ない、みたいな。

実際、この時期くらいから光太郎はどんどん変貌していきました。大正末から昭和初期には当会の祖・草野心平らの影響もあってアナキスト系に近い立ち位置だったのが、満州事変、そして今回の物語の舞台の翌年、日中戦争開戦ともなると、どんどん右傾化していきます。「芸術家あるある」の、俗世間とは極力交渉を絶ち、孤高の姿勢を貫くというライフスタイルが智恵子を追い詰め、心の病に至らしめたという反省、そしてそんな生活を続けていては自分もおかしくなるという危惧があったように感じます。そこで自ら積極的に俗世間と交わる方向に梶を切ったところ、世の中の方がおかしな方向に進んでいた、というわけで。

やがて智恵子が亡くなり、手向けの詩集『智恵子抄』刊行後は、光太郎は詩の中で智恵子を謳うことを止めてしまいます。それが復活するのは戦後。その間、詩と言えばほとんど愚にもつかない翼賛詩一辺倒、戦争とは直接関わらない身辺雑記的な詩もわずかに書かれましたが、そこに智恵子が謳われることはありませんでした。

「哄笑」、昭和11年(936)が舞台ですので、そこまで描かれることはありませんでしたが、そういう部分が暗示されているんじゃないかなと思って観ていました。

それから教会の一家、憲兵以外の軍人、入院患者たち、それぞれに苦悩や悔恨などを抱えています。複雑な人間ドラマです。それぞれの役者さんの熱量で、不思議な世界観が存分に表現されていました。特に智恵子役の槇由紀子さんという方、故・松本典子さんが乗り移ったかのような……。といっても当方、松本さんの智恵子を観たわけではないのですが……。
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ちなみに会場では脚本の冊子も販売されています。一部1,500円。河出書房新社さんから刊行された『清水邦夫全仕事 1981~1991』に載っているのですが、絶版となっており入手困難なので貴重です。

公演は明日まで。昨日の段階では残席状況、以下の通り。

 6/22(土)  ◆13:00🔺←あと数席💦
                 ◇18:00⭕️←オススメ🌸
           当日券あり☘️
 6/23(日)  ◇12:00🔺←残少々
                 ◆16:00⭕️←オススメ🌸

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

御書面中小生の現状を羨望し居らるる方々も有之由拝承候処、これは聊か他家の花紅しの類にて、その方々に小生と同じ生活が一ヶ月もつづけられ候や否やは疑問のやうに存ぜられ候へ共果して如何。


昭和23年(1948)1月13日 宮沢政次郎宛書簡より 光太郎66歳

賢治の父・政次郎宛の書簡から。候文を意訳すれば、「御手紙の中に、光太郎の生活っていいなぁ、憧れるよ、などという方々がいるというお話でしたが、「隣の芝生は青い」の例えの通りで、山の暮らしを甘く見ているのでしょう。この暮らしを1ヶ月も続けられるとは到底思えませんが、いかがお考えですか?」といった感じですね。

厳冬期はマイナス20℃、醤油や万年筆のインクが室内で凍り、寝ている頭に隙間から吹き込んだ雪が積もり、メートル単位で雪が積もる、そんな暮らしですから。下の画像はまだ初冬の雪が少ない時期のものです。
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昨日、年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』最新号中の当方の連載についてご紹介しました。今号では、建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関しても複数箇所で触れられています。

まず、会の代表、渡辺えりさんの名で、大きく広告的な内容で1ページまるまる。題して「高村光太郎終焉の地、「中西アトリエ」保存活動にご協力を」。
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それ以外にも、会の中心人物にして日本詩人クラブ理事・曽我貢誠氏の4ページに亘る長詩「光太郎爺さんと連翹と――中西利一郎氏の話から――」。さらに曽我氏、エッセイ的な「最も大切な物は朽ちやすい」(1ページ)でも。ともにアトリエの所有者であらせられた故・中西利一郎氏との思い出が根幹です。

奥付画像を載せておきます。ご入用の方、1部600円だそうですが、お申し込み下さい。また、文治堂さんのサイトからも注文可です。
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さて、アトリエ保存に関してですが、6月1日(土)、NHKさんの東北6県向けの情報番組「ウイークエンド東北」でも取り上げて下さいました。
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まずは4月2日(火)、日比谷松本楼さんで開催した当会主催の連翹忌でのロケ。
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息巻く渡辺えりさん(笑)。

「あそこのアトリエ」とは何ぞや? ということで、現地取材。
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ここに最晩年の光太郎がいたんだよ、ということで。
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下の画像は、アトリエで中西氏が保管されていた写真です。背景はアトリエの外壁。この写真、当方も初めて見ました。
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しかしこのアトリエ、老朽化が目立ち……という紹介。
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多少順番が前後していますが、アトリエロケの後は、東北各地で光太郎や智恵子の顕彰に当たられている人々のご紹介。

まずは智恵子の故郷・福島二本松。
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こちらで智恵子顕彰にあたられている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん熊谷代表。
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同会主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の際、智恵子生家での撮影でした。

続いて、花巻でのロケが入りますが、諸事情により、明日に回します。

最後に光太郎最後の大作「乙女の像」が据えられた十和田湖。この像の塑像原型が中野のアトリエで制作されました。
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こちらでボランティアガイドを務められている吉崎明子さん。当方、さんざんお世話になった方です。お元気そうで何よりでした。
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光太郎が像に込めた思いの中には、15年戦争と、さらに戦後の混乱期を生きた光太郎の平和に対する希求も含まれているということで、吉崎さん、自らの戦争体験と重ね合わせ……。
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そして、アトリエ。
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ちなみに十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」には、光太郎コーナーもあり、平成30年(2018)には、中野のアトリエで像の制作の際に実際に使われた大きな彫刻用の回転台が寄贈され、展示中です。

割愛した花巻編では、主に「食」を通じて光太郎顕彰に取り組まれているやつかの森LLCさんの井形幸江さんがご出演。そちらは実際のやつかの森さんの最新の活動と合わせ、明日、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

日報社からもらつた一級酒一升は元日に皆のんでしまひました。一級酒といつてもまるでたわいの無い酒で一升のんでもさつぱり陶然としませんでしたが、それでも何となくめでたい気がしました。


昭和23年(1948)1月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

戦後間もない時期で、酒の品質などもまだあまりよくなかったのかも知れませんが、それにしても一升とは……(笑)。

たまたまですが、演劇の公演情報、3連発となりました。

夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】

期 日 : 2024年6月19日(水)~6月23日(日)
会 場 : テアトルBONBON 東京都中野区中野3丁目22-8
時 間 : 6月19日(水) 19:00~      6月20日(木) 19:00~
      6月21日(金) 14:00~/19:00~   6月22日(土) 13:00~/18:00~
      6月23日(日) 12:00~/16:00~
料 金 : 4,500円 学割・リピーター割 3,500円

脚 本 : 清水邦夫
演 出 : 大谷恭代

昭和11年5月上旬。南品川ゼームス坂教会、集会室。この約二ヶ月前に二・二六事件が起こった…
教会の隣にはゼームス坂病院があり、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻、智恵子をはじめ、多くの精神病患者が入院している。智恵子は夫の光太郎がすでに死んでいると思い込み、目の前に現れる光太郎を受け入れない。智恵子は自ら狂気の世界へ逃げたのか、光太郎の過剰とも言える愛が彼女を追い詰めたのか…
ドイツからやってきた飛行船ツェッペリンのように、しなやかで、気まぐれで、愛すべきキラキラした不良少年・少女たちが闊歩していた東京の街に、軍靴の音が響き始めてきた…


「智恵子抄」の高村智恵子とその夫 高村光太郎 愛の物語です。かなり昔に打診したのですが生前の作者の希望により、外部上演の許可が下りませんでした。今回、元木冬社の方々や各方面の皆様に確認・協力をいただき上演の運びとなりました🙇‍♀️ まだまだ未熟な主宰・演出ですが清水作品の世界観を舞台上に広げられるよう誠心誠意、丁寧に創り上げます❗️
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オリジナルは故・清水邦夫氏作・演出の、ある意味伝説の舞台です。初演は平成3年(1991)、再演が同5年(1993)。いずれも木冬社さんとしての公演で、光太郎役は小林勝也さん、智恵子役は清水氏の奥様だった故・松本典さんが演じられました。再演の際は地方巡回も行われました。当方、平成29年(2017)にたまたま泊まった十和田市のビジネスホテルで十和田公演の際に書かれた松本さん、小林さんらの色紙が飾られているのを見つけ、驚きました。
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004その後、木冬社さんは平成13年(2001)に解散、清水氏も松本さんも亡くなり、再演されることはないのだろうと半ば諦めていましたが、さにあらずでした。

オリジナルの舞台は拝見出来ず、パンフレットは古書店で入手、脚本は河出書房新社さんから刊行された『清水邦夫全仕事 1981~1991』(絶版)で拝読いたしました。光太郎智恵子以外のキャストはすべて架空の人物と思われ、今回のフライヤーにも使われている昭和4年(1929)に飛来した飛行船・ツェッペリン号が一つのモチーフとなった、不思議な世界観です。

当方、6月21日(金)の回を予約いたしました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の歌集の広告を見られたさうですが、あれは小生の意に反して十字屋と編者とが強引に出版するもので、書名の「白斧」といふのも誰がつけたか、小生の認知せぬものです。小生は生前歌集は出さぬ主張を持つてゐたのでこの出版には閉口してゐます。内容も小生の校閲を経てゐません。


昭和22年(1947)12月5日 和田豊彦宛書簡より 光太郎65歳

005明治末からの光太郎短歌を集めた歌集『白斧』に関わります。光太郎姻族となった宮崎稔が、光太郎短歌を集めて出版することを提案、光太郎は拒否しましたが、宮崎は上梓を強行しました。そこで光太郎は、あくまで自分とは関わりのないところでの出版である旨を明記せよ、と書き送りました。

タイトルの『白斧』は、明治37年(1904)の第一期『明星』にに載った短歌35首の総題から採られました。総題を付けたのはおそらく鉄幹与謝野寛で、元としたのは「刻むべき利器か死ぬべき凶器(まがもの)か斧の白刃(しらは)に涙ながれぬ」。自分で総題を付けたわけではないので記憶になかったのでしょう。「「白斧」といふのも誰がつけたか」というのはそういうわけです。

ちなみに光太郎、詩とは異なり、短歌は手控えの原稿を残しませんでした。そこで現在でもこれまで知られていなかった短歌の発見が相次いでいます。平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後に見つかった光太郎短歌は20首ほどにもなります。

都内から演劇公演の情報です。

葵の会第二十三回公演 青鞜の女たち

期 日 : 2024年6月15日(土)
会 場 : 府中市中央文化センター ひばりホール 東京都府中市府中町2丁目25
時 間 : 1回目13時〜  2回目16時半〜
料 金 : 無料

明治末期に雑誌「青鞜」を創刊した平塚雷鳥を中心に集う女性たちの物語

脚 本 : 高垣葵     脚 色 : 瀧田千聰
演 出 : 吉澤佳代子   出 演 : 葵の会

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令和3年(2021)に、同じ脚本で、町田市の市民劇団・ひなた村劇団さんが町田市で上演なさいました。また、同じひなた村劇団さんで「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」の中でもプログラムに入りました。当方、町田での公演を拝見に伺いました

今回のフライヤー裏面を見るとわかりますが、登場人物がとにかく多く、史実として伝えられる『青鞜』周辺のさまざまなエピソード(それ以外も)がてんこ盛りです。

光太郎智恵子も登場し(フライヤーでは「千恵子」と誤植されていますが)、『青鞜』とは直接関わらない、犬吠埼やずっと後の九十九里での場面なども含まれています。

今回演じられるのは「葵の会」さん。脚本を書かれた故・高垣葵氏と関係があるのでしょうか。ちなみに高垣氏、黒柳徹子さんもご出演なさった伝説的ラジオドラマ「一丁目一番地」(昭和32年=1957)などを手がけられた脚本家で、父君はかの高垣眸です。

というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ拝見、あなたの精進のありさまをよんで、大変うれしく感じました。宮澤賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでゆくやうに見えます。


昭和22年(1947)11月30日 渡辺正治宛書簡より 光太郎65歳

故・渡辺正治氏は、劇作家・女優の渡辺えりさんのお父さまです。

光太郎との出会いは太平洋戦争末期の昭和20年(1945)4月、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が空襲により全焼する3日前でした。当時、中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場で働いていた渡辺氏、戦後は郷里・山形に帰られ山形大学に入学、教職の道に進まれます。

おそらく大学在学中、「昭和20年4月に東京でお会いした者ですが、大学に入り直して……」的な書簡を光太郎に送ったのでしょう。それに対する返答の一節です。

このハガキと、最初の出会いの時に光太郎に贈られた『道程 再訂版』は、えりさんを通じて花巻高村記念館さんに寄贈されました。

都内から演奏会情報です。

コール淡水・東京(CTT)第11回定期演奏会

期 日 : 2024年6月2日(日)
会 場 : トッパンホール 東京都文京区水道1-3-3
時 間 : 13:30開場 14:00開演
料 金 : 無料

出 演 : 永原恵三(指揮) 鈴木ゆか(pf) コール淡水・東京(合唱)
曲 目 :
    第1ステージ 男声合唱とピアノのための『土佐日記による前奏曲集』
                          作:紀貫之 作曲:次郎丸智希 
    第2ステージ 『The Best of THE BEATLES』
                          編曲:次郎丸智希
    第3ステージ 『雨にうたるるカテドラル』(委嘱作品・初演)
                          詩:高村光太郎 作曲:次郎丸智希

第11回定期演奏会を永原恵三氏の全曲指揮で開催する運びとなりました。コロナ禍を何とか凌いで5年振りです。今回も次郎丸智希氏の委嘱作品の初演をいたしますが、3ステージ全て次郎丸作品としました。是非ご来場くださいませ。
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「淡水会」さんというのは、兵庫県立神戸高等商業学校さん・兵庫県立神戸経済専門学校さん・神戸商科大学さん・兵庫県立大学(神戸商科キャンパス)さんの同窓会だそうで、「コール淡水・東京」さんは神戸商科大学グリークラブさんの都内在住OBの方々が立ち上げられた男声合唱団だとのことです。30名ほどの編成のようです。

全ステージ、次郎丸智希氏という方の作品(編曲を含む)で、最終ステージが光太郎詩に曲を付けられた「雨にうたるるカテドラル」。ありがたし。

雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)、110行にもなる長大な詩ですので、これまで日本でこの詩をテキストにした合唱曲、独唱歌曲とも、当方は寡聞にして存じません(寡聞なので存じ上げないだけで作曲が為されていることがあるやもしれませんが)。

ただ、アメリカの作曲家スティーブン・ハートキ(Stephe Hartke)氏が、「Cathedral in the Thrashing Rain」という男声合唱曲を発表なさっていて、手許にCD(平成15年=2003)があります。
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歌詞は基本、英語です。しかし、数ヶ所「O mata fukitsunoru ame kaze」「O nanto iu ame kaze no shuuchuu」などと、日本語を配していまして(ところどころ間違っているのですが(笑))、日本人・光太郎へのオマージュなのかな、という感じです。
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ヒリヤード・アンサンブルという合唱団のア・カペラで、そうと知らねばラテン語によるルネサンス期の教会音楽のようにも聞こえます。

閑話休題、おそらく日本語としては初の「雨にうたるるカテドラル」、ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

上野の表慶館にあるといふ西洋画展は飛行機でもあれば一日いつてみたい気がいたします、日本の油画は、もう一度本当に苦しまねば本当にならないと存ぜられます。梅原安井にしてもあんまり早く、小さく日本化してしまひました。もつと「大きさ」が画格になくてはなりません。


昭和22年(1947)10月24日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

花巻空港が開港したのは17年後の昭和39年(1964)でした。

油絵に関してのひと言、辛辣ではありますが、ある意味その通りかも知れません。かつての留学仲間・梅原龍三郎や安井曾太郎に対しても斟酌なしですね。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になる中野区の中西利雄アトリエの保存運動の関係です。

1月に『東京新聞』さん、2月には『読売新聞』さんが報じて下さいまして、保存に向けての関係者会合を既に3回行いました。ちなみに会の代表には、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった、劇作家・女優の渡辺えりさんにお願いしました。

その席上、中野区やその周辺にご在住の方々から「中野にこういう建築が残っているとは知らなかった」という声も聞かれました。さらに「知らない人が多いだろう」とも。確かにそうでしょう。現在は単に民家の敷地の一部に建っているだけで、外部に説明板やらは設置されていませんし、一般公開も基本的には行っていませんので。

ただ、『東京新聞』さんや『読売新聞』さんの記事で、関心を持って下さった方も少なからずいらっしゃるようで、中には保存運動に関わりたいと申し出て下さって、会合に参加されるようになった方もいらっしゃいます。ありがたいかぎりです。

また、先日、会のメンバーの方から、中野区内のギャラリー兼カフェの入口に『東京新聞』さんの記事が貼られてあるのをたまたま見かけた、と、画像入りでお知らせを頂きました。これも実にありがたく存じました。
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茶房・靑蛾さん。東中野です。元々は戦後すぐに新宿で喫茶店として開業されたお店ですが、創業者の方の没後、中野に移転してギャラリーのみだったのが、近年、茶房としても復活されたとのこと。

その創業者のご息女に当たる方、令和2年(2020)に、光太郎から実弟の道利に宛てたローマからの絵はがき(明治42年=1909)を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈下さいました。こちらは一昨年、同館で開催された企画展示「光太郎、海を航る」の際に展示されました。

そういう方のお店ですので、光太郎関連、これは、ということで記事を掲げて下さっているようです。

それにしても、アトリエ保存、なかなか難しい問題です。単に建物を修復して保存する、というだけではただ建物の寿命を延ばすだけで、いずれまたどうするかということになってしまいます。修復・保存した上で「活用」の方法などを考えて行かなくてはなりません。

もはや個人でどうこうできるレベルではなく、そうなると、行政の支援がほしいところです。理想を言えば敷地ごと区が買い取って下さって、区立のなにがしかの施設として運営していただくという方法(区立が不可能なら、NPO法人さんなどに委ねることもありましょうが)、或いは現地での保存が無理ということであれば、次善の策ですが、移転しての保存、活用。それにしても支援を受けたく存じます。

幸い、区議さんの中には理解を示して下さり、区への働きかけを少しずつ進められている方もいらっしゃるとのこと。

それでも、「この建物を残すとことについて、これだけたくさんの人々の声が上がっていますよ」という後ろ盾が無ければ、というお話です。

そこで、会として署名を集め始めています。当会としましても、4月2日(火)に開催いたしました連翹忌にご参集下さった皆さんに用紙を配付したり、その際にご欠席だった関係の方々や、全国の少しでも光太郎に関わりのありそうな文学館さん/美術館さんなどに用紙を発送したりいたしました。また、4月22日(月)の、信州安曇野での碌山忌にお集まりの方々に署名していただいております。

さらに、署名を集めたいと存じますので、ご賛同下さる方は、下記画像をプリントアウトしてご協力下さい。アナログで申し訳ありませんが、手書きでお願いいたします。電子署名、PDF形式でフォーマットを引っぱり出すなどということが、このサイトでは不可能でして。いずれ会としてのHPを立ち上げ、そちらからいろいろできるようにすることになると思うのですが、それまでの繋ぎです。
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手書きでご署名下さいましたら、可能な方はスキャンしていただき、メールの添付ファイルで、そうでない方はFAXや郵送で、とりまとめ役の曽我貢誠氏(日本詩人クラブ理事)までお願いいたします。宛先は用紙の下部に記入してあります。特に〆切り等は設けておりません。

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

姉の命日には焼香、取り立ての胡瓜茄子等供へました。 今年は母の廿三回忌なので十月九日松庵寺で法要を営みます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

光太郎には姉が二人いましたが、いずれも早世しています。ここでいう「姉」は、長姉・さく(咲/咲子とも)。光太郎より6歳年長でした。狩野派の日本画を学び、かなりの腕前で将来を嘱望されていましたが、明治25年(1892)、数え16歳で病没しました。さくの描いた幼き日の光太郎像が現存しています。
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50年以上前の姉の命日やら、母の回忌までよく記憶しているものだと思いました。父・光雲には芸術上の行き方で反発することが多かった光太郎ですが、そういった部分を抜きにすれば家族思いだったことがうかがえます。

都内から演奏会情報です。

大阪コレギウム・ムジクム演奏会 大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団第21回東京定期公演

期 日 : 2024年4月29日(月・祝)
会 場 : 第一生命ホール 東京都中央区晴海1-8-9 晴海トリトンスクエア内
時 間 : 午後2:30開演(午後2:00開場)
料 金 : 全席指定 S席 ¥5,500 A席 ¥4,500 B席 ¥3,000
      学生 ¥1,800(当日¥2,000) 高校生以下 ¥800(当日¥1,000)
      ライブ配信チケット料金 2,000円 + システム利用料220円

こころ通う仲間がいる こころ動く音がある
大阪の地に育まれて49年。音楽と、人との出会いに導かれて演奏を続けています。今回は、木下氏、昨年惜しくも亡くなられた西村氏の人気の合唱作品に加え、ベートーヴェンの名曲の“本歌取り”が驚きと感動を呼ぶ千原氏の最近作をご紹介します。指揮者・當間修一とともに時を重ね、互いを信頼し合うメンバーが音楽の力を信じて奏でるアンサンブルが、どうか皆さまのこころに届きますように。

指 揮 : 當間 修一
ピアノ : 木下 亜子
室内楽 : シンフォニア・コレギウムOSAKA

曲 目

 木下牧子 珠玉のア・カペラ コーラス セレクション
  女声合唱曲「めばえ」〔詩:みずかみかずよ〕
  男声合唱曲「恋のない日」〔詩:堀口大学〕
  混声合唱曲「44わのべにすずめ」〔原詩:ダニエル・ハルムス 訳詩:羽仁協子〕
  混声合唱曲「祝福」〔詩:池澤夏樹〕  ほか
 千原英喜
  ピアノと7楽器のためのコンチェルティーノ
   ベートヴェニアーナ“明けない夜はない”【関東初演】
    ピアノ:木下亜子 ヴァイオリン:森田玲子・中前晴美 
    ヴィオラ:神谷将輝・澤井杏
 チェロ:大木愛一・柳瀬史佳 
    クラリネット:鈴木祐子 ホルン:椋橋基博
    ファゴット:渡邊悦朗 ティンパニ:高鍋歩
 西村朗
  混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」〔詩:高村光太郎〕
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昨年亡くなった西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」がプログラムに入っています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「道程復元版」の事で更科君と真壁君と同道で来られました。


昭和22年(1947)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

002詩集『道程』は、大正3年(1914)に初版が抒情詩社から刊行された後、売れ残りの残本を改装し奥付だけ変えた再版(国会図書館さんのデジタルデータで見られるのはこれです)が数回出されました。その後、昭和15年(1940)に山雅房から「改訂版」が三種(百五十部限定版/書店版/普及版)、戦時中の昭和20年(1945)1月には青磁社から「再訂版」が上梓されました。

それらも書店の店頭から消えていたこの時期、青磁社の札幌支社的な札幌青磁社から「復元版」が刊行。「改訂版」「再訂版」が初版と詩の選択が異なっていたのに対し、こちらは初版の内容の復元を図ったものでした。奥付では6月の発行となっていますが、東京本社と札幌青磁社との間でのゴタゴタもあったらしく、実際にはずれ込んだようです。そのため札幌青磁社に勤務していた更科源蔵が、友人の真壁仁を伴って弁明に訪れたと思われます。

昨日は光太郎忌日、第68回の連翹忌でした。『東京新聞』さんで取り上げて下さいました。
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午後5:30から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷公園松本楼さんにて、全国の関係の方々に集まっていただき、集いを催しました。
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その前に、毎年のルーティンですが、晩年の光太郎に親炙し、その歿後は永らく連翹忌を主宰なさっていた故・北川太一先生と奥様の節子先生のお墓に詣でました。文京区の浄心寺さん、桜のお寺として有名です。
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さらに都立染井霊園の髙村家墓所に参拝。それぞれのお墓に連翹の花を手向け、香を焚き、「本日、第68回をやります。」とご報告。
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染井霊園の桜。
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そして日比谷公園。
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集いの開会は午後5:30の予定でしたが、その前に配付資料の袋詰めや参会の皆様のネームプレートなどの準備。多くの方々にお手伝いいただきまして、スムーズに進みました。感謝に堪えません。

光太郎遺影をセット。
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毎年、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏撮影およびプリントの写真を、北川先生から受け継いだ当方が持参して飾っていたのですが、昨日は愛車に積み忘れ、「やべっ」(笑)。それに気づいたのが浄心寺さんで車内から線香をガサガサ探していた時で、慌てて規氏子息の達氏に「面目ありません、遺影を置いてきてしまいましたので、お宅にあれば持ってきて下さい」とメール。幸い、立派な額装のものをお持ち下さいまして、ことなきを得ました。

さて、開会。当方の開会宣言の後、光太郎に、そしてこの一年に亡くなられた関係の皆様に、黙祷。続いて、達氏に音頭を取っていただいて、献杯。
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ビュッフェ形式にて会食。
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お集まりいただいた70余名の皆様の中から、10名ほどにスピーチをお願いいたしました。

トップバッターは女優・一色采子さん。令和3年(2021)同4年(2022)、北條秀司作の「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を務められました。お父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数。采子さんが名誉館長を務められる二本松の大山忠作美術館さんで、画伯渾身の大作・成田山新勝寺さんの襖絵を今秋展示されるということで、その宣伝。
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二本松で活動されている智恵子の顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」熊谷代表。今年度の顕彰活動予定を。
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ちなみに昨日、東北新幹線が工事用車両の故障とかで大幅にダイヤが乱れ(JR東日本さん、最近グッダグダですね。企業体質として何か大きな問題があるのではないでしょうか)、同会の皆さん8名もご参加いただきましたが、在来線で上京なさったとのこと。大変でした。

今年元日の能登半島地震で大きな被害のあった富山県からいらしてくださった、茶山千恵子氏と森寛子氏。茶山氏は今秋、「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうで。
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花巻高村光太郎記念館さんの梅原奈美館長。北東北の皆さんは昼頃復旧した新幹線で来ることができたそうです。
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中国からの留学生の唐昆宇さん。一橋大学さんで光太郎について学ばれているそうで。素晴らしい!

この3月で神奈川県立近代美術館館長を退任なさった水沢勉氏。
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早世した荻原守衛を除き、唯一光太郎が高く評価した同時代の彫刻家・高田博厚を顕彰する活動を進められている埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏。

昨年、中野区で開催された朗読公演「くつろぎの朗読」で「智恵子抄」を朗読して下さった出口佳代氏。それからやはり昨年、横浜で「智恵子抄」を箏曲で演じられた元井美智子氏。
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智恵子や荻原守衛も学んだ太平洋画会(現・太平洋美術会)の坂本富江氏。同会、今年で創立120周年だそうです。
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そして、お父さまが光太郎と交流がおありだった、ご存じ渡辺えりさん。
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えりさんには昨年に引き続き光太郎詩朗読もお願いしておきました。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった中野の中西利雄アトリエ保存運動にも関わっていただいておりますので、その中野のアトリエで作られた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)。やはり中野のアトリエで作られた生涯最後の大作「乙女の像」に寄せた詩です。
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それを受けて、日本詩人クラブの曽我貢誠氏。アトリエ保存運動の中心メンバーで、その件を熱く語って下さいました。あまりに熱き語り口で、写真を撮るのを忘れてしまいました(笑)。
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さらに同じ件で、やはり保存運動に関わられている櫻井美佐氏。光太郎実弟・豊周の令孫です。直接生前の光太郎をご存じのお母さまはご存命ですが、連翹忌にはしばらくいらしていません。

そんなこんなで午後8:00、予定通り閉会。

たくさんの方々のご協力により、つつがなく終えることができました。ありがとうございました。

先日も書きましたが、昨夜は連翹忌史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなりました。そして中野のアトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるところです。

今後とも皆様方のご協力を仰ぎつつ、顕彰活動を進めて参ります。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

東京はもう春になつた由、こちらはまだですが、雪の下からフキの花が出てきました。此辺ではバツケと言ひます。


昭和22年(1947)4月6日 髙村珊子宛書簡より 光太郎65歳

当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、都内の実姪に送った絵手紙の一節です。
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今年も4月2日、光太郎の命日が巡って参りました。

朝鮮戦争による特需景気、その後の神武景気を経て、前年のGDPが戦前の水準を上回り、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言し、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞受賞、「太陽族」の語が流行語となった昭和31年(1956)。その4月2日(月)、不世出の巨人・高村光太郎は天然の素中に還っていきました。

その終焉の地、中野区の中西利雄アトリエの大家(おおや)だった中西夫人、故・富江氏の回想。

 先生が私の家に来られたその翌年の正月、十和田湖の彫刻の仕事に打込んでいられた時のことでしたが、ちようど正月の仕事始めをなさるその日に雪が降りました。「これは縁起がいい」と先生がつぶやかれたのを覚えています。雪の白さに先生は天啓のようなものを感じられたのでしょうか。子どものころ雪が降ると湧きたつたあのうれしさ楽しさ、そんなものを先生はやはり心のどこかにもつていられたに違いありません。
 そして、あの四月二日未明は十何年ぶりとかの春雪にこの地上は祝福されていたのでした。先生のいわれたあの言葉。縁起がいいというあのお言葉のままに、先生は白い清らかな雪に迎えられて、この地上から旅立たれて行かれたのでした。
 あの時、アトリエからのベルに飛び起きました。あまりの衝撃に私は気を失わんばかりでした。膝はガクガクふるえ、羽織を着る手もふるえて手間どつたように思い出されます。廊下から飛び出すようにして雪に包まれた庭を敷石伝いに走りながら「どうかご無事でありますように」と心の中で私は祈り続けました。
 アトリエに入ると、看護婦さんが、私をみるなり「もう駄目ですよ」と言いました。それは暗い暗い深いおとし穴に突き落とされた瞬間でした。
 ベッドにかけつけた時の先生のお痛ましいお姿、前の晩から、よほど苦しかつたとみえて、酸素吸入をしたいとご自分から云い出された先生。吸入器をつけて、ずい分お苦しかったことでしよう。
 かすかな息づかいの中で……あのひと息ごとにうなるようにしていられた声も今は立てられず……それから間もなく本当に静かに、素直に、大きな自然の中へ帰つて行かれたのでした。
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 いよいよ重態になられてからも、看護婦さんや家政婦さんの喰べるものまでも心配されていたことなど、最後まで意識がはつきりしておられた先生のお言葉が未だに私の脳裡をはなれません。
 あれからもう一と月経ちました。高村先生がお好きだつたれんぎようの美しい花もすつかり散り、燃えるような新緑が五月の風にそよいでいます。母屋からアトリエに通ずる庭の石ダタミの道。お元気だつたころは、よく夕方、母屋でお湯を使つてから、タオルと石ケンを片手に、ゆらりゆらりとアトリエに帰つて行かれるその後姿が、まるで昨日のことのように思いおこされます。……その道も今は樹々の緑におおわれて、緑のトンネルのようになつています。私の心の中で、肩を落として背を丸められた丹前姿の先生が小さく……だんだん小さく緑の中に遠ざかつて行きます。
 尾崎喜八さんが弔辞の中でお話しになつたように、もう一度こちらを振返えつて、あの大きなお手をふつて下されば……などと時折考えたりいたしております。
(「中野アトリエの高村先生」 『高村光太郎と智恵子』草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959) 
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胸打たれる文章ですね。

1年後の昭和32年(1957)4月2日(火)、記念すべき第一回連翹忌も、終焉の地・中西利雄アトリエで行われました。以後、いろいろな場所に会場を変え、平成11年(1999)の第43回から、現在と同じ、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんでの開催となっています。

本日も午後5:30開会で、全国から光太郎智恵子を敬愛する方々70名超にお集まりいただき、連翹忌の集いを開催いたします。

昨年、コロナ禍も漸く沈静化し、4年ぶりに第67回連翹忌を開催致しましたが、今年もつつがなく執り行うことができそうで、喜びに堪えません。

今回の連翹忌は、その史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなります。そしてやはり今回、光太郎終焉の地にして記念すべき第1回連翹忌会場となった中野区の中西利雄アトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるのかと考える次第であります。

皆様方におかれましても、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ幸いに存じます。

【折々のことば・光太郎】

もう雪解の季節になりました。今日は猛烈な風で山林が鳴動してゐます。

昭和22年(1947)4月2日 安藤一郎宛書簡より 光太郎65歳

ちょうど亡くなる9年前、当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの発信です。

都内から個展の情報です。

ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日

期 日 : 2024年4月5日(金)~7日(日)、4月12日(金)~14日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

墨画、水彩画などの絵で活動し、たくさんの人に絵画を教えるASAKOさんは今回が初個展。高村光太郎や中原中也の詩を元に作品集を作りました。

ASAKOさんメッセージ
中原中也、高村光太郎、芥川龍之介の詩に、絵を添えた作品集と原画を準備致しました。在廊しております。桜、お花見のついでにお寄りくださいませ。
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今月、「レモン哀歌」もモチーフとして使われた「星センセイと一郎くんと珈琲」展を開催して下さった、ギャラリー装丁夜話さんで、またしても光太郎インスパイアの作品が出ます。おそらくたまたまなのでしょうが、それだけ現代の作家さんの中にも光太郎オマージュの精神が浸透しているということなのかなと存じ、ありがたいかぎりです。

ASAKO氏、ご本名と思われる「井出朝子」クレジットで『琥珀糖』という画集も出される由、その出版記念的な要素もある個展なのでしょうか。
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おそらく会場で販売されるのではないでしょうか。

当方、昨日ご紹介した「旧平櫛田中邸 de タコダンス」と併せてお伺いする予定です。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】001

今日は三月十三日、いかにも誕生日らしく、連日の雪がはれて今朝は朝日が雪の上にまばゆく輝き三尺もある軒のツララが日にとけて落ちる音がしてゐます。

昭和22年(1947)3月13日
椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

満65歳となった日の書簡です。便箋代わりに原稿用紙を使っていますが、その上部余白には氷柱の絵。ほんとうに天性の芸術家だったんだな、と改めて思わせられます。

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