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一昨日、神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんで特別御開帳が為されている、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像を拝観後、帰途に立ち寄りました。
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調布市制施行70周年・実篤記念館開館40周年・武者小路実篤生誕140年記念春の特別展「実篤の肖像」

期 日 : 2025年4月26日(土)~6月8日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人200円 小・中学生100円

 武者小路実篤は、今年2025年5月12日に生誕140年を迎えます。東京で生まれ育った実篤は、学生時代を過ごした学習院で多くの友人と出会い、24歳で雑誌『白樺』を創刊して歩み出した文学の道、33歳の時に始めた新しき村の活動、40歳を前に本格的に取り組み始めた書画の制作など、多岐にわたる活動の中で多くの人と交流を重ねました。
 岸田劉生や堅山南風ら日本近代美術を代表する画家が実篤をモデルに絵画を描き、文壇では白樺同人をはじめ、佐藤春夫や久米正雄らが実篤の人柄や文学作品ににじみでる人間性に言及しています。
 本展覧会では同時代の文学者が著した印象や人物像、芸術家が絵画や彫刻で表現した肖像、田沼武能や林忠彦、坂本万七、吉田純ら写真家が撮影したポートレイト、妻や娘から見た父・実篤の姿など、さまざまな「実篤の肖像」をとおして「武者小路実篤」という人物を今一度とらえ直す機会とします。
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絵画も嗜んだ実篤自身の自画像や、交流のあった画家・彫刻家や写真家の手になる実篤像、それから文章で描かれた実篤像(原稿や書籍類、さらに揮毫された書)などの展示です。

それらをただ並べるのではなく、光太郎を含む様々な人物の実篤評を一言ずつ小さなパネルで添えています。それがフライヤーの表に印刷されているこの部分。光太郎の一言も。
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曰く「前額と後頭と眼とはすばらしい」。出典は「人の首」というエッセイで、初出は昭和2年(1927)1月の雑誌『不同調』です。全体としては、彫刻家として「人の首」に異様なまでの興味関心を持たざるを得ない、的な内容で、彫刻家・光太郎の内面がよく表されているため、光太郎の没後に刊行された選集的な書籍の多くに再録されています。

いきなりその書き出しが「私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んでゐるからである」。思わず「獄門晒し首かよ」と突っ込みたくなりますが、それが光太郎の狙いかもしれません。ぐいぐい引きこまれます(笑)。
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少し後の方では「人間の首ほど微妙なものはない。よく見てゐるとまるで深淵にのぞんでゐる様な気がする。其人をまる出しにしてゐるとも思はれるし、又秘密のかたまりの様にも見える。さうして結局其人の極印だなと思はせられる」。確かにサムネイル的な小さい肖像写真でも、その人の人となりがだだ漏れになっているなと感じるものがありますね。

その後は首、というか顔や頭、うなじなどの各パーツがこうで……というやはり彫刻家のミクロ的視点で見た話、さらに人の顔の持つ先天的な美と後天的な美、といった話など。そして終盤近くで、さまざまな味のある顔立ちの人々を列挙。その中で、「武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」。

他に好意的に上げられている人物は、海外だとドストエフスキー、ロマン・ロラン、ポー、ヴェルレーヌ、レーニンら。国内では武者以外に千家元麿、室生犀星、野口米次郎、佐藤春夫、市川團十郎、高橋是清、濱口雄幸など。かなり主観的な見方で、決めつけが激しいと思えるところもありますが。

前額と後頭と眼とはすばらしい」が印字されたプレートは、光太郎とも親しかったバーナード・リーチのエッチングによる実篤像に添えられていました。
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直接光太郎に関わる展示はこちらと、『白樺』10周年の記念で撮られた集合写真くらいでしたが、フライヤーに光太郎の名があり、さらに招待券も頂いてしまっていたので、足を運んだ次第です。その上、参上したところ、図録も頂戴してしまいました。恐縮です。

武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」と書いた光太郎、武者を彫刻のモデルに、とひそかに狙っていました。武者と同じ白樺派の中心にいた志賀直哉も。

 私はかねてから、武者小路さんの顔はブロンズで、志賀さんは木彫で、それぞれ彫塑してみたいと秘かに思つていたものである。しかし、いざモデルとなつていただいても、武者小路さんはじつとはぜず絶えず動いておられるだろうし、志賀さんはあのピリピリした神経が顔の皮膚の外に出ていてお願いするのがなんだか悪い気がし、未だに望みを達することが出来ないでいるのである。
(「志賀さんの顔」 『文芸』第12巻第17号 昭和30年=1955 12月

光太郎は、同じ『文芸』の少し前の号(第12巻第12号 昭和30年=1955 8月)には、「埴輪の美と武者小路氏」という談話筆記もよせ、武者の人間性を賞讃しています。また、『不同調』の第2巻第4号(大正15年4月)にはずばり「武者小路実篤氏」という短評も。

 日本に珍らしい根本的なものを持つてゐる武者小路実篤氏の人と芸術とは、詩に於ける千家元麿氏と同様、全然他の人とは違ふと思ひます。時代が過ぎて見れば殆ど問題にならない程、此は明瞭になると思ひます。
 さう言つても、他の人の「存在の理由」を否定するわけでは決してありません。人には各々天性がありますから。


人としての武者を尊敬していたというのがよく分かりますね。ちなみに光太郎の方が2歳年上なのですが、そんなことは関係なかったのでしょう。

美術を愛した武者の方でも、自らが立ち上げた「大調和展」に光太郎の出品を仰ぎ、『白樺』や『大調和』、『心』などで光太郎の寄稿を取り付けています。そして昭和31年(1956)に光太郎が歿すると、その葬儀委員長の大役も果たしてくれました。
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左で立っているのが当会の祖・草野心平。その右、マイクスタンドで一部隠れていますが、武者が座っています。その右隣は尾崎喜八ですね。

さて、「実篤の肖像」展、6月8日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】a4ba5f65

選集六冊小包でいただきました、先日送つた金も返送され、甚だ恐縮な事です、


昭和28年(1953)4月10日 
岩淵徹太郎宛書簡より 光太郎71歳

岩淵徹太郎は中央公論社の編集者。「選集六冊」は同社より昭和26年(1951)から刊行が続き、この年1月に完結した『高村光太郎選集』全6巻。おそらく6冊セットを誰かに贈るため、光太郎自身が注文したのだと思われます。しかし岩渕の方では「お代は結構です」ということだったのでしょう。

ちなみにこのハガキ、当方手持ちのものです。光太郎書簡は手許に数十通ありますが、中野のアトリエからの発信はこれだけです。

光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのライブ。ここ数年島根の方を拠点にされてミュージカル等に携わられることが多かったのですが、先月に続き都内で「智恵子抄」をメインに演(や)られるそうで。

BOOK CAFÉ LIVE vol2モモの智恵子抄

期 日 : 2025年5月19日(月)
会 場 : 府中の森芸術劇場分館 東京都府中市宮町1-100 武蔵府中ル・シーニュ地下2階
時 間 : 19:15~20:45
料 金 : 3,500円

出 演 : モンデンモモ たしまみちを(ギター)

モモの智恵子抄 春抄 逢いたい時にあうから〜別居結婚 入籍しないの〜 光太郎さんは 智恵子さんに逢えると大喜び〜 違った智恵子さんの姿をお伝えします だって 青鞜の表紙を描き 田村俊子さん 与謝野晶子さん らいてうさんと交流し 自転車を乗り回し グロキシニアの花を抱え やはり 女の最先端でした 今回のブックカフェライブ   モノドラマでおつたえします 19日 いらしてね!!
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もう20年以上のつきあいとなり、都内をはじめ、智恵子のふるさと・福島二本松、光太郎第二の故郷・花巻、当会の祖・草野心平所縁の福島県川内村、モモさんの拠点・島根などで十数回、ステージ等を拝見・拝聴しています。宇宙飛行士の山崎直子さんとのコラボなどもありました。

時々伴奏を担当されるギターのたしま氏とも長い関わりとなりました。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

自分でも忘れてゐるうちに今年は東京でいつの間にか誕生日をむかへるやうになりましたが、今朝は美しい花やおめでたいお菓子やお茶など届けて下され、仕事のあとでたのしくおうけとりいたしました、今日は十三日の金曜日といふ日ですが、まず静かに仕事してゐました、


昭和28年(1953)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎71歳

元日に数え71歳となった光太郎、この日は満70歳の誕生日でした。

イスカリオテのユダを含め、「最後の晩餐」に集まったイエスの弟子が13人、その後、イエスが磔刑に処されたのが金曜日と信じられ、「十三日の金曜日」は不吉とされていますが、この頃の日本でもすでにそういう迷信があったのですね。

光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

そのあたり、十和田湖の西半分を有する秋田県の地方紙『秋田魁新報』さんが報じて下さいました。

高村光太郎が過ごしたアトリエ、解体の危機 十和田湖畔「乙女の像」制作

秋田魁新報1 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体の危機にある。所有者が亡くなり、管理が難しいためで、保存活動に取り組む秋田市河辺出身の曽我貢誠(こうせい)さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「芸術的にも建築的にも文化的にも貴重な施設。ぜひ古里からも関心を寄せてほしい」と話している。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)で、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村に貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごし、代表作となる乙女の像の塑像を制作した。
   一方、建物を管理していた中西の長男利一郎さんが2023年に他界。築70年超で老朽化もあり、解体の話が浮上した。
 立ち上がったのが利一郎さんと交流のあった曽我さん。昨年4月、有志と会を発足し、後世に残すための企画書を作成したり、中野区へ働きかけたりするなど保存活動を活発化させている。会の代表を務めるのは、劇作家で俳優の渡辺えりさん。高村の半生を基にした戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 曽我さんは秋田高から東京理科大へ進み、卒業後は都内で35年間、公立中学校教員を務めた。「戦意高揚の作品を書き、戦後に責任を感じていた高村が、彫刻制作に没頭したのがこのアトリエ。そうした背景、高村の思いを後世に伝えるためにも大切な歴史的遺産」と保存の意義を語る。
 会によると、3月末までに4355筆の署名を集めた。今後、クラウドファンディングも視野に、本県からの協力、支援も期待している。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」から。 問い合わせは曽我さんTEL090・4422・1534

智恵子への愛、像に託す
 東京生まれの高村光太郎は1945年4月の空襲で自宅が被害に遭い、岩手県花巻市へ疎開。戦後、十和田湖畔に設置する記念碑の制作依頼を機に帰郷し、中野のアトリエで暮らした。
 制作に際し、十和田湖を下見して湖の美しさに感動し、2人の女性が向き合う像のイメージを膨らませたとされる。「二体の背の線を伸ばした三角形が『無限』を表す」などの意図があったという。
 余命が長くないことを意識してか、青森県野辺地町出身の彫刻家小坂圭二を助手に雇い、約8カ月で完成させた。生涯をささげた美、妻・智恵子への愛、平和への願いを像に託したとされる。
 制作中、像の顔は白布で覆われた。完成後に「智恵子夫人の顔」と言われるようになったが、高村は「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と答えたという。
秋田魁新報3 秋田魁新報2
個人情報保護の観点などいろいろ制約があり、裏話的な部分は活字にできなかったのでしょうが、見出しの通り「解体の危機」に瀕してしまっています。区としては一銭も金は出さないという方向性です。さらに現地にマンション建設計画があり、もはや猶予がない状況です。

何とか現地での保存活用を最優先にしたいのですが、それも不可能なら移築するのが次善の策ということになります。しかし、移築先として適当な土地のめども立っていません。区として用地を提供してくれるということも無理そうです。となると、近くの企業さん、大学さん、或いは篤志の個人の方でももちろん結構なのですが、「土地を提供しましょう」と声を上げていただけるとありがたいところです。貸借でも構いません。最善なのはアトリエ部分の土地を買い取ってくれる法人さん/個人の方が現れてくれ、移築しないですむことですが。ただし、そうなると億単位の金額が必要でしょう。

我々としましては、アトリエの建物を活用して収益を上げられると見込んでいます。その辺りは建築専門の方々にお願いしたりして、決して夢想ではないさまざまな活用案を練ってあります。実際、同じ中野区内の三岸アトリエ、台東区の旧平櫛田中邸などは、レンタルスペースとして運営されています。音楽や各種パフォーマンスの公演、ギャラリー的な活用、映画などのロケやフォトスタジオ的な使い方もなされています。アトリエを建てた水彩画家・中西利雄や光太郎の記念館・資料館的な運用もありでしょうが、それだと収入は限られてしまうので、そうした機能も持たせつつ、レンタルスペースとして活用するのが最善かと思われます。いっそのこと、古民家カフェ的な態様にしてしまう方法もまったく排除はできません。

移築となると、できれば近い場所が望ましいところです。宮沢賢治の羅須地人協会の建物はそんな例で、元の場所から同じ花巻市内の花巻農業高校さんに移築されました(それとても批判があったやに聞きますが)。近い場所ではなく、遠くに移築された例としては、信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)など。これらはたとえ離れた場所でも、建物が残ったという意味では幸いなのでしょう。

変わった例では、建築家でもあった詩人・立原道造の別荘「ヒアシンスハウス」(さいたま市)。立原の生前にはそれが建てられずに終わり、没後に遺された図面を元に建てられました。同様に中西アトリエも図面を元にどこか別の場所に「復元」ということも考えられますが、そうなると価値はだだ下がりですね。まったく何も無くなるよりはましなのかもしれませんが。

最悪の場合、そうした措置がまったく出来ず、何処にも何も残らないというケース。それだけは何としても避けたいところです。

優先順位を付けてまとめます。

 ① 現地で保存して活用していく
 ② 近くに移築して活用していく
 ③ たとえ遠くでも、建物の保存ができるならということで移築して活用していく
 ④ 図面を元に他の場所に復元し活用していく


いずれの場合でも、かなりの金額がかかります。そのため、クラウドファンディングももちろん考えています。しかし、ゴールが定まらないとCFも立ち上げられません。集まった金額によって、上記①~④のどれに落ち着かせるかを決める、というのもありなのでしょうか?

単なる思いつきでなく、「こういう例を実際に手がけた」など、良いお知恵をお持ちの方、ご協力いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

只今は一尺五寸の雛形完了、三尺五寸の試作も完了、目下七尺の像にとりかかりつつあります、すべて順調に運んで居ります、


昭和28年(1953)3月5日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

中野の中西アトリエで制作していた「乙女の像」の進捗状況です。「七尺の像」が最終完成作です。

浅沼は、中西アトリエに移る前に光太郎が7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。光太郎没後には、浅沼や宮沢家、佐藤隆房医師、そして旧太田村の村民たちが「高村先生の山小屋を後世に遺さなければ申しわけが立たない」と、お金や労力を出し合い、「高村山荘」として保存、現在も遺っています。中西アトリエもそうでなければならないと考えます。

我々としても「すべて順調に運んで居ります」とご報告できる日が来ることを切に祈っております。

4月2日(水)、当会主催の第69回連翹忌の集いにご出席下さった『毎日新聞』さんの記者氏による大きな記事が、4月23日(水)、『毎日新聞』さんの関東版に載りました。

旅するみつける 高村光太郎の理想郷 岩手と東京、最後の道程 「戦争責任」 「小屋」暮らし、文化向上へ交流 アトリエ取り壊しの危機

 アジア太平洋戦争が終結した80年前、みちのくの山野にわが身を「島流し」にした文化人がいた。日本の近現代を代表する彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)である。妻・智恵子への愛を支えとしつつ、戦争責任を背負った光太郎の最後の道程を岩手、東京とたどった。【高橋昌紀】

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㊧高村光太郎の命日で、遺影と献杯酒とレンギョウの花=東京都千代田区で

 ちえこ、ちえこ――。近くの裏山から、光太郎は妻をしばしば呼んだという。「高村山荘」は岩手県花巻市の郊外にある。「大仰な名称がついていますが、本人は『小屋』と呼んでいました」。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」の高橋卓也さん(48)がほほ笑む。
 3月に訪れた光太郎の旧居は、質素を超えて粗末に見えた。山中にあった林業用の作業小屋を転用し、終戦直後の1945年11月に建てられた。土壁に囲まれた板間と土間は計15畳ほどしかなく、杉皮ぶきの屋根が載る。冬には雪が吹き込み、夜具に積もったこともあったそうだ。
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「高村山荘」の板間。当初は電気も通っていなかった。通常は外側からの拝観になる=岩手県花巻市で

  東京都文京区にあった自宅兼アトリエが同年4月、米軍機の空襲で焼損し、光太郎に疎開先を提供したのが旧知の宮沢賢治の弟らだった。しかし、8月には花巻市内の宮沢家も被災し、次に選んだのが内陸部の太田村(現・花巻市)だった。 光太郎は戦時中、戦意高揚の詩を書いた。それを胸に特攻出撃した若者らがいたという。高橋さんが解説する。「戦争に協力したことへの反省があった。彫刻も封印した」。光太郎はここでの生活を「自己流謫(るたく)」と表現したそうだ。
 かといって、世捨て人となったわけではない。戦後の日本に必要なのは文化の向上、と見定めていた。村民はもちろん、東北の芸術家らとの交流エピソードには事欠かない。一般公開されている山荘にはには子供たちと並んだサンタクロース姿の写真もあり、ほほ笑ましい。
 ――智恵子は死んでよみがへり、わたくしの肉に宿つてここに生き、かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ(「メトロポオル」1949年10月、一部抜粋)
 智恵子も共にいた。 
「ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ」(同)とたたえた理想郷だったが、光太郎は離れることになる。1952年10月、青森県から「乙女の像」の制作依頼を受け、一時的な帰京を決める。
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㊧覆屋に守られた「高村山荘」。周囲の農地で、 拡大. 覆屋に守られた「高村山荘」。周囲の農地で、光太郎は「自耕自炊」の日々を送った=岩手県花巻市で
㊨高村光太郎が最後の日々を過ごしたアトリエ。当時のままの大きな窓と斜め屋根が特徴的だ=東京都中野区で


 花巻市から約500キロ。東京都中野区のアトリエを訪れた。「ここに置かれていたベッドの上で、伯祖父( おおおじ )は亡くなったそうです」。光太郎の弟の孫娘、桜井美佐さん(61)が特別に案内してくれた。所有者は別なので内観は変わったが、木造一部2階建ての外観はほぼ当時のままだ。「いつ来ても、感無量になります」。桜井さんがしみじみと語る。
 光太郎はアトリエで花巻の「小屋」をしばしば気にしていたという。やがて智恵子をモデルにした塑像を完成させたが、体調は悪化するばかりだった。帰郷はかなわず、1956年4月2日、肺結核のために死去、73歳だった。
 空が無い、ほんとの空が見たい――。そんな智恵子のつぶやきが枕元で聞こえただろうか。アトリエからの帰路、知らず知らずのうち、ビルの合間の空を見上げていた。 
アトリエ取り壊しの危機
 高村光太郎の死後も、旧太田村の住民らは「小屋」=「高村山荘」を守ってきた。風雪害などを防ぐため、1957年に木造の覆屋を建て、さらに77年には鉄骨造の上屋で覆った。光太郎がいかに尊敬され、愛されていたかが分かる。隣接の記念館では詩、彫刻、書、遺品などを展示し、地元の小学校に贈られた「正直親切」と書かれた扁額(へんがく)は光太郎の人柄をしのばせる。
  遺作となった「乙女の像」は青森・十和田湖畔に建つ。塑像が制作された東京都中野区のアトリエは洋画家、中西利雄(00~48年)が建てたが、老朽化が著しい。取り壊しの危機にあり、有志が集まって2023年に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(渡辺えり代表)が発足した。
 光太郎は詩集「道程」「智恵子抄」などで知られるが、アジア太平洋戦争中は戦意高揚のための詩も書いた。劇作家で俳優の渡辺代表は光太郎の半生を舞台劇にしたこともあり、「保存する会」の意義を語る。「光太郎は自らに罰を与えました。反省と悔悟のうえで、『平和と自由の祈り』を『乙女の像』に込めました。その思いを伝えるためにも、アトリエを残したい」
 メモ 「高村山荘」(岩手」(岩手県花巻市太田3の91の3)は、東北新幹線新花巻駅から車で約25分。記念館も近くにある。詳しくは記念館0198・28・3012。東京都中野区のアトリエは「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が署名・寄付などを募集している。同会事務局090・4422・1534(曽我貢誠さん)。

昭和20年(1945)秋からまる7年間を過ごした、花巻郊外旧太田村の山小屋「高村山荘」は、地域住民や宮沢家、佐藤隆房らの尽力で残されました。「お世話になった光太郎先生の小屋を残さなければ申しわけが立たない」という強い意志を花巻の人々が共有して下さった結果です。お世話になったのは光太郎の方でしたが……。

中野のアトリエもそうであってほしいところなのですが、現状、実に厳しい段階です。中野区としては一銭も出さないと明言されています。その後の管理運営活用の問題もありますし。ことはそう単純ではありません。

関連する件で、展示の情報を。

主に現地の皆さんに、こういう建造物があって存続の危機なんだということを広く知っていただく目的で、昨年、なかのZEROさんで「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」を開催しました。その際の展示資料のうち、解説パネル類を転用した展示を行っています。一昨日、会場設営をして参りました。

『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会

期 日 : 2025年4月24日(木)~5月23日(金)
会 場 : 中野区桃園区民活動センター2階ロビー 東京都中野区中央4丁目57-1
時 間 : 9:00~22:00
休 館 : 5月19日(月)
料 金 : 無料

昨年11月、中野ZERO美術ギャラリーにて「中野たてもの応援団」と協力し「中野を描いた画家たちのアトリエ展」を開催しました。今回はその時の一部ですが、地域の皆様に中西利雄先生やアトリエのことをもっと知っていただきたいと、ミニ展示会を開催することにしました。日本の優れた美術家、彫刻家、建築家、詩人などが関わったアトリエについてご紹介します。 

主催:中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会  協力:中野たてもの応援団 
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花巻の「高村山荘/高村光太郎記念館」、中野の「『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会」、それからアトリエ自体も外観は見学可です。桃園区民活動センターから南西方向に徒歩10分ほど、桃園川緑道添いにあります。モダニズム建築家・山口文象設計によるかなり特徴的な建物なので、行けばすぐ分かります。
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表は行き止まりの路地ですが、そちらからも見られます。
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それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今度の仕事のすむまではお医者さんにみてもらはない覚悟で他の医者からの申出も辞退してゐます、(そのわけはお分りでせう)、何卒あしからず、


昭和28年(1953)1月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に励みつつも、宿痾の肺結核を心配した姻族の宮崎が「いい医者を紹介する」的な手紙を寄越したようですが、それに対する返答です。2日後には「普通なら仕事など出来ないからだで今仕事をしてゐるのです。医者に診せたら仕事をやめろといはれるにきまつてゐます」とまで書いています。

それほどの覚悟と決意で「乙女の像」を作った中西アトリエ、取り壊しという事態は本当に勘弁してほしいものです。

一昨日は光太郎忌日・第69回連翹忌でした。光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんにおいて関係の方々にお集まりいただき集いを開催いたしまして、その関連でご紹介すべき事項も残っているのですが、一旦離れます。

本日はテレビ放映関連で。

まず、終わってしまった話ですが一昨日の連翹忌当日、テレビ朝日さん系の「グッド!モーニング」内の「林修のことば検定」。視聴者向けのクイズ形式、リモコンのⓓボタンで解答受付というスタイルですが、光太郎が問題に取り上げられました。

当方は連翹忌の集いに持参する配付資料などを車に積み込んだりしている最中でしたので拝見出来ませんでしたが、ご覧になった方がスマホでテレビ画面を撮影、画像を送って下さいました。
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詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の「智恵子は東京に空が無いといふ」をマクラに、光太郎が昭和20年(1945)、生まれ故郷の東京から岩手に移った理由についてでした。
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常に緑ボタンの選択肢はダジャレです(笑)。
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で、宮沢家との関わりに触れ、結局正解は赤の「疎開」。
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さらに宮沢家も終戦5日前の空襲で焼け出され、戦後になって花巻郊外旧太田村の山小屋に移るのですが、そこで戦時中の翼賛活動を深く反省したというお話も。ありがたし。

ちなみに昨年の連翹忌の日にもこのコーナーで光太郎を取り上げて下さいました。

昨年はマニアックな問題だったためでしょう、スマホやパソコンで正解を調べようとした皆さんがこのブログサイトに殺到(笑)。
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今年も通常の6倍くらいの閲覧数となりました。ありがたいところです(笑)。

さて、これとは別に明日放映の番組。

新美の巨人たち【春のアート旅(1) 上野恩賜公園×本仮屋ユイカ】

地上波テレビ東京 2025年4月5日(土)  22:00〜22:30
BSテレ東      2025年4月12日(土)   23:30~24:00

▼春の上野公園でアート旅!なぜ上野はアートの発信地となったのか?▼その秘密を400年前に誕生した巨大寺院から地下空間の巨大オブジェまで時代を象徴する作品を楽しみながら探っていく▼広重の浮世絵に描かれた情緒ある上野のお山。明治以降は公園に生まれ変わり日本の近代化の舞台となった▼日本初の動物園や音楽ホール、美術館が次々と誕生して上野は文字通り文化の中心となっていく▼そんな上野公園の華麗な美の歴史を俳優の本仮屋ユイカさんが辿る。

出演者 アートトラベラー:本仮屋ユイカ  ナレーション:上野樹里
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上野恩賜公園が舞台ということで、光太郎の父・光雲が主任となって制作された西郷隆盛像なども紹介されるかな、というところです。予告動画等には映っていませんでしたが……。

もう1件。

“団塊"物語「比較文学研究の大家 平川祐弘氏が語る日本と日本人」

BSイレブン 2025年4月6日(日) 19:30〜20:00

戦後80年を経た今、私たち日本人は本当の意味で国際人となり得たのだろうか?『和魂洋才の系譜』の著者である比較文学研究の大家、平川祐弘氏が、日本と日本人に問う。

今回のゲストは、東京大学名誉教授で比較文化史家の平川祐弘氏。比較文学研究の大家である平川氏が翻訳を手掛けたダンテの『神曲』は、出版から半世紀以上の時を経た今でも、名訳として広く読み継がれている。また、森鴎外を通じて急激な近代化する明治期の日本の精神性を解き明かした『和魂洋才の系譜』は、トップエリートたちに多大な影響を与えてきた。敗戦から高度経済成長を成し遂げた昭和、“失われた30年"といわれながらも経済大国の地位を維持してきた平成、令和。時代が移り変わる中でも、戦後80年にわたって日本は、国際社会の一角で存在感を示してきた。しかし、私たち日本人は本当の意味で国際人となり得たのであろうか?平川氏の問いかけは、日本の将来に向けて鋭く問いかける。

出演者 【司会者】牛島信(弁護士・作家) 田村あゆち(フリーキャスター)
    【ゲスト】平川祐弘(東京大学名誉教授 比較文化史家)
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平川祐弘氏がご出演、御著『和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本』(昭和46年=1971)を中心に語られるとのこと。同書は番組説明にあるように森鷗外がメインの書物ですが、光太郎や与謝野晶子、徳富蘇峰らにも触れられています。ちらっとでも光太郎の話題になってほしいものです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間は折角来られたのに大したお構ひも出来ず失礼しました、それでも此処の様子を見てもらつて本望でした、まだ今後何処へゆくか分りませんが当分はここにゐるつもり、後には北海道屈斜路湖の方へ移住するかも知れません、

昭和27年(1952)8月13日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎70歳

孟彦は光太郎実弟。光雲四男でしたが藤岡家に養子に出ました。植物学を修め、戦前から兵庫県農業試験場に勤務していましたが、この時期には茨城県の鯉淵学園に勤務。現在の鯉淵学園農業栄養専門学校さんです。

秋に光太郎が再上京するということで、それなら鯉淵学園で講演を一席頼まれてくれないか、というわけで、花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れたようです。そこで11月に講演が実現しました。その筆録は翌年1月発行の『農業茨城』第5巻第1号に「芸術と農業」の題で掲載され、筑摩書房刊『高村光太郎全集』第19巻に収録されています。
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当分はここにゐるつもり」は、「乙女の像」が完成したらまた太田村に戻ることを意味します。「後には北海道屈斜路湖の方へ移住するかも」は、どの程度本気だったのか……というところです。

昨日は第69回連翹忌でした。光太郎智恵子ゆかりのお店、日比谷松本楼さんにおきまして、全国から関係の方々等がお集まりくださり、光太郎を偲ぶ集いを持たせていただきました。

そちらが夕方5時30分から。その前に例年のルーティンですが、まずは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)から半世紀以上連翹忌の運営に携われられた北川太一先生ご夫妻の墓参。桜のお寺としてひそかに有名な文京区の浄心寺さんです。
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続いて都立染井霊園、光太郎を含む髙村家墓所へ。
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それぞれ既にお花が手向けられていましたが、自宅兼事務所から持参した連翹を追加させていただきました。右上はおまけ(笑)。なぜか髙村家墓所の近くでは毎回といっていいくらい猫の姿を見かけます。

集いの会場、日比谷公園松本楼さん。こちらでもまだ桜が散らずに残っています。
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遺影、一年間で刊行された主な書籍など会場のセッティング。
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配付資料の袋詰めや、連翹の花生け、受付など、多くの方が手伝って下さいました。ありがたし。

そして午後5:30、開会。

ざっとご挨拶をさせていただき、献杯。音頭は光太郎実弟・豊周令孫の櫻井美佐様にとっていただきました。
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着席ビュッフェ形式で、会食。
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一段落ついたところで、恒例となっています参会の方々によるスピーチ。

まずは今回初めてご参加下さった、宮沢賢治実弟・清六令孫の和樹氏。花巻で2度公開対談を一緒にさせていただいたりで、当方としては仲良しになったという感覚でして。先方はそう思われていないかも知れませんが(笑)。
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同じ花巻ということで花巻市役所の光太郎記念館担当の方に寄贈された中原綾子関連の資料等について、光太郎顕彰活動を進められているやつかの森LLCさんの藤原代表、それから昨年度岩手県の「食の匠(たくみ)」に認定された新渕和子さん(右上画像)。新渕さんは昨日、手作りのご当地スイーツ「きりせんしょ」や大福など、たくさんお持ち下さいました。

やはり昨年度、「住みよいみやぎづくり功績賞」を受賞された女川光太郎の会・佐々木英子様。
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その女川で、平成3年(1991)に光太郎文学碑除幕記念として公演された「オペラ智恵子抄」を作曲された仙道作三氏。10年ぶりくらいのご参会でした。

一旦、スピーチを打ち切り、料理を食べきっていただいて、参会者の皆様同士で懇談の後、再開。ご存命であれば100歳になられた北川先生が都立高校教諭であらせられた頃の教え子の皆さんの会「北斗会」を代表して池上徹様、尾崎喜八令孫にして水野葉舟令曾孫・石黒敦彦様(左下)、昨年絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』を刊行された太平洋美術会の坂本富江様(右下)。かつて智恵子も所属した同会も120周年だそうで。
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やはり昨年、光太郎の彫刻刀修繕に触れた『瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家』を刊行された土田昇氏。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連で十和田市企業誘致サポーター・山田安秀氏。

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山田氏もご加盟いただいている光太郎終焉の地・中西利雄アトリエ保存会世話役の曽我貢誠氏、今月中旬から智恵子紙絵展を開催して下さる信州安曇野碌山美術館・武井敏学芸員、光太郎オマージュの作品を作曲中のフルート奏者・吉川久子様、今月27日(日)、二本松の智恵子生家で当方プロデュースの公演をなさる「連翹三人娘」(朗読の荒井真澄さん、箏曲の元井美智子さん、電子楽器テルミンの大西ようこさん)。
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最後の締めに、朗読家・出口佳代様、フリーアナウンサー・早見英理子様による光太郎詩「僕等」(大正2年=1913)、「元素智恵子」(昭和24年=1949)朗読。
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ソロで読まれる部分と、お二人で声を合わせて読まれる部分と、実に工夫されていて、参会の皆様からも「素晴らしい」のお声が多数。

盛会の内に終えることができました。ご協力いただきました全ての皆様に、この場で御礼申し上げます。

来年は記念すべき第70回の連翹忌となります。さらに多くの皆様がご参加下さることを期待しております。参加資格は唯一つ。「健全な精神で高村光太郎を敬愛すること」のみです。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の東京行はただ仕事の為のみで仕事が終つたら又山へ帰つてくるつもりで居ります。東京へ行つても多分アトリエに籠居して、銀座あたりへは行かないでせう。(十月中旬上京)中野桃園は貴下の旧アドレスだつたのでゆかりのふかいところと思ひました。


昭和27年(1952)8月13日 奥平英雄宛書簡より 光太郎70歳

「乙女の像」制作終了後は、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に帰るつもりで居た光太郎。実際、像の除幕後に10日間ほど一時帰村しますが、宿痾の肺結核のため、過酷な寒村での暮らしに耐えられる状態ではありませんでした。次善の策として、厳冬期には中野、それ以外は太田村と、二重生活も目論みますがそれも不可能。結局は中野の貸しアトリエでその生涯を閉じることになります。69年前の昨日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分でした。前日から東京は季節外れの大雪に見舞われました。それは光太郎を敬愛して止まなかった岩手の人々の餞(はなむけ)、或いは先に逝った最愛の妻・智恵子からの贈り物、はたまた「冬」を愛した光太郎が終生追い求めた「自然」からの祝福だったのかもしれません。

本日4月2日は、光太郎忌日・連翹忌です。光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、中野の中西利雄アトリエで第1回連翹忌の集いが開催され、今年で69回目となります(東日本大震災とコロナ禍で、集い自体は中止とした年もありましたが、それぞれ当方が代表して墓参を行い、それを以て1回とカウントさせていただきました)。
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本日も午後、まず墓参を済ませ、午後5時から光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんにて、全国から関係の方々にお集まりいただいて集いを催します。1年ぶりにお会いする方も多く、久闊を叙するのが楽しみです。

このところ数年間、4月2日のこのブログは光太郎が亡くなった当時の関係者の回想文等をご紹介しています。令和3年(2021)翌年(2022)は当会の祖・草野心平、同5年(2023)で光太郎と親しかった美術評論家・奥平英雄、昨年(2024)が中西利雄夫人にして光太郎の最期を看取った中西富江。

今年は、4月4日に青山斎場で執り行われた光太郎葬儀の様子を、光太郎と交流のあった詩人・岩瀬正雄の回想から。

 高村さんが亡くなってから、今日でもう二週間になる。高村さんの死なれたときの草野心平氏の詩に、アトリエの屋根に雪が降り積もることが書いてあったが、昨日、賀茂神社のお祭りに出掛けてみると、いつの間にか桜が咲いて、散つたのか知らなかつた。しかし、日が経つにつれ、先生を失つた私の心の中の穴が、次第に大きくなつてゆくのを覚えるのであつた。そのうつろな穴は、生身の高村さんと私の文学的な、人間的な絆が断れたというだけでなく、高い精神の典型的な明治の人との袂別をいたく感じせしめるのであつた。
 先生の死を、新聞社から電話できいたとき、わたしはどんなことがあつても、お葬式にはおまいりしようと思つた。それは、十九年前、智恵子夫人が痛ましい病で亡くなられる前に、先生から、夫人をいたわる涙のあふれた手紙をいただき、その葬儀には、是非御焼香さしていただこうとしていたのだつたが、それが出来なかつたので、あの顔の小さい、いろの白い智恵子夫人とあわせて弔いたいと考えたからであつた。
 四月四日の東京は、はだ寒い薄曇りの日であつた。品川で国電に乗りかえ、渋谷で降りた。それから青山一丁目まで都電で行き、青山斎場まで歩いた。急ぎ足できたのだつたがもう一時を少し過ぎていた。入口をはいつた建物のそとに新潮社はじめ出版社の大きな花環が目についた。左手の幕のところに中年の人がひとり見えるだけで人影がない。まだ早いのかと思つて近寄つてみると、幕の内が受付になつていて、幾人かの人が、署名帳を前にして、受付をしていた。私は、豊橋から来たことを告げ署名した。
 式場では、もう読経がはじまつていた。私はいちばんうしろに立つた。正面の白木の棺の上に先生の写真が一つ。ちやんちやんこを着た写真。いま先生の葬式だ。全身的に私の体を貫くものがある。私は腰をかける気がしない。右手が遺族席になつて居た。谷口吉郎氏が立つて配置について説明される。八曲白無地の屏風のバツク、写真の前にコツプが一つ。これは先生が、いつもビールを飲んだコツプである。そのコツプに、黄ない連翹の花が一枝。臨終のアトリエの庭に咲いた花であつた。それ以外祭壇にはなにものもない。まことに清流のような簡潔な美しさである。
 棺の下に拡声器が置かれ、そこから先生の詩がきこえてきた。「千鳥と遊ぶ智恵子」・ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――と、発音する先生の口もとが目にうかぶ。次に「梅酒」。姿は見えないが、高村さんがそこに居られるような気がしてきた。
 主治医が病状について話される。岩手から帰られて、苦痛をうつたえられるようになり、病院で診察したときには、もう肺に大きな空洞ができていて、かなり病気は昻じていた。度々喀血されるようになり、医者としての手当ては少しでも先生の苦痛を和らげることしか施しようがなかつた。つぎに右手の葬儀委員席に並んでいた梅原龍三郎氏から弔辞がはじまる。石井鶴三氏の言葉は、紙に書かれたものを持つて述べられるのであつたが、嗚咽でききとれなかつた。十和田湖の裸像の関係のある青森県知事、尾崎喜八氏、草野心平氏の詩、最後に委員長の武者小路実篤氏の言葉があつた。大きな手を振つて、先生は川の向うへ行つてしまつた。もう先生は帰つて来ない。尾崎氏が声をしぼつて述べたとき、熱いものが胸の中でじんじん煮立つた。弔電が読まれ、北海道や、九州や、日本各地から寄せられたなかに、丸山薫氏のものもあつた。
 おまいりがはじまつて、遺族の人のあとに参列者がつづいた。私は志賀直哉、三好達治、伊藤整氏のあとに伊藤信吉氏の手から金盞花と、こでまりの花束を受け取り、棺の前に進み瞑目してささげた。高村さんと縁の深い百名近い人々が花をささげた。著名な人のなかに、ゴム長をはいた東北地方の百姓の人もまじつていた。
 式が終り廊下で私は山形県の真壁仁氏に逢つた。真壁氏は高村さんの詩をうけつぐもつとも近い詩人である。三十年近くも文通しているのだつたが逢うのははじめてであつた。挨拶のあとに言う言葉がでず、これからお互いにしつかりやりましようと手を握りあつた。式場の扉が開かれ、おまいりする人が、あとから、あとからつづいていた。私は荷物を受取りひとりで斎場を出た。
 はりつめていた、切ないおもいを果たすことはできたが、もう、東京には頼りにする人がなくなつてしまつた。

林苑 10(5)(104)岩瀬(明40=1907~平15=2003)は静岡出身の詩人。そこで「黄ない連翹の花」はあちらの方の方言のようです。昭和初期から光太郎と交流があり、花巻郊外旧太田村の山小屋や中野の中西利雄アトリエも訪れています。

この文章は光太郎が歿した翌月に雑誌『林苑』に発表されたもので「連翹の花」と題されています。昭和27年(1952)9月7日、岩瀬が花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた際の光太郎写真も掲載されていました。

会場内のレイアウトなどは他の人物の回想にも書かれていますが、棺の下の拡声器から光太郎の肉声が流されたというのはこれを読むまで存じませんでした。昭和27年(1952)の奇しくも4月2日、花巻温泉松雲閣でNHKラジオのため詩人の真壁仁との対談を録音した後、光太郎自身の提案でこれもテープに残されたものです。

それにしても岩瀬の書きぶり、光太郎の死を受け入れられず、まだ呆然としてしまっている感じですね。

棺と連翹はこちら。
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連翹
左上は中西利雄アトリエの庭です。これを一枝剪って、愛用のビールのコップに。これが「連翹忌」命名の由来となりました。ちなみに一番上の画像に写っている連翹は、回りまわってのこの連翹の子孫です。

さて、本日の第69回の集い、恙なくかつ有意義に執り行えるよう、光太郎遺影に祈念いたしております。皆様方におかれましても、それぞれの地で光太郎に思いを馳せて下さい。

【折々のことば・光太郎】

珊子さんがあんなに大きくなつたのですから規君、美津枝さんの成人ぶりは大したものと思つてゐます、

昭和27年(1952)8月13日 髙村規宛書簡より 光太郎70歳

7月31日に、実弟の豊周夫妻と息女「珊子さん」の三人が、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための上京についての打ち合わせを兼ね、訪ねてきました。昭和20年(1945)3月に豊周一家が信州に疎開して以来、7年半ぶりでした。豊周夫妻はともかく、若い珊子は見違えるように大人に。そのきょうだいの「規君、美津枝さん」は今回同行しませんでしたが、十月には再会することになります。

このうち美津枝さんはご存命。ご高齢ということもあり連翹忌の集いにはこのところご参加いただいていませんが。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受け、光太郎が昭和27年(1952)秋から、一時的に花巻郊外旧太田村に帰村した昭和28年(1953)初冬と、赤坂山王病院に入院した昭和30年(1955)初夏を除き、最晩年の3年半を過ごし、昭和31年(1956)4月2日にここで亡くなった中野区の中西利雄アトリエ

昨年から当方も関わって展開されている保存のための運動につき、「乙女の像」地元の青森の地方紙二紙が報じて下さっています。

まず『デーリー東北』さん、今月初めの掲載でした。

「乙女の像」制作 高村光太郎のアトリエ(東京) 価値ある建築物残したい 所有者死去、進む老朽化 保存する会、支援呼びかけ

 彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔に立つ「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエ。長年管理してきた所有者が2年前に亡くなり、保存が難しくなっている。関係者は「価値ある建築物を残したい」と行政や民間の協力を募るものの、行政支援や資金調達のめどは立っていない。
 高村は戦時中、宮沢賢治のつてを便りに岩手花巻市に疎開。戦後も52年まで過ごし、青森県から乙女の像の制作を依頼されたのを契機に中野のアトリエに移った。高村の顕彰活動を続ける小山弘明さん(東京)は「花巻で作ろうとも考えたが、粘土が凍るなどするので新たに東京で制作場所を探した」とする。
 知り合いに紹介されたのが、洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てたアトリエ。死後に完成し、賃貸に出されていた。高村の前に、彫刻家のイサム・ノグチも一時滞在していたという。北から南に傾斜した屋根で、北側に大きな窓を設けており、内外とも白く塗られているのが特徴だ。
 肺結核を患っていた高村は中野に引っ越す頃には病状が悪くなっており、小山さんは「制作にものすごく時間をかける高村が、乙女の像はわずか半年ほどで仕上げている。死が迫るのを意識しながら作ったのではないか」と解説する。野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二もこのアトリエで助手を務めた。
 乙女の像の完成後は花巻に帰るつもりだったが、体調を考慮して中野のアトリエに残り、56年4月に亡くなるまで過ごした。その後は中西の長男の利一郎さんが長年にわたってアトリエを管理してきたものの、23年1月に死去。老朽化が進み、家族も管理が難しくなっている。
 このため、昨年2月に利一郎さんと親交があった曽我貢誠さん(東京)らを中心に、俳優の渡辺えりさんを代表として保存する会を設立。署名活動やイベント開催、行政への働きかけなどを行っている。
 曽我さんは「保存には多額の資金が要る。何とかこの場所に貴重なアトリエを残したい」と訴えるものの、現時点で中野区などから前向きな対応は引き出せていない。
 今後は「行政への要望と並行して周辺の大学や民間企業などに支援を呼びかけたい」と粘り強い活動を続ける考えだ。

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ほぼ同一の内容ですが、『東奥日報』さんも昨日報じて下さいました。

十和田湖畔「乙女の像」生んだアトリエが存続の危機 有志ら保存活動 彫刻家・高村光太郎が晩年過ごす

 詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、十和田湖畔にある「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエが存続の危機にある。歴史的に価値の高いこの建物を残そうと、有志らが活動を本格化させた。青森県十和田市関係者からも署名が寄せられているといい、「支援の輪をさらに広げたい」と方策を模索している。
 高村は亡くなるまでの3年半をこのアトリエで暮らした。斜めの屋根と北側に向く大きな窓が印象的だ。内部には高村の写真や当時の椅子が残されていた。
 建物は、洋画家中西利雄(1900~48年)が建設した。設計は戦前戦後に活躍した建築家山口文象。中西はアトリエの完成を見ず亡くなったが、彫刻家イサム・ノグチや高村に貸し出された。建物を管理していた中西の長男・利一郎さんが2023年に他界。解体の話が出る中、有志らが保存活動を始めた。
 利一郎さんの知人で「保存する会」の曽我貢誠さん(72)=東京都=は、詩人の草野心平や佐藤春夫らも訪れた貴重な建物とし、「高村が戦争を賛美する作品を書いた過去の責任を感じながら、像の制作に没頭したという背景もあり、大切な歴史的遺産だ」と保存の意義を強調する。
 会は行政や民間に支援を求めながら、4千筆超の署名を集めてきた。クラウドファンディングも視野に入れており、縁のある青森県民の支援にも期待する。
 会には七戸町出身で都内に住む山田安秀さん(61)も参加している。「乙女の像は十和田湖の思い出の象徴だ。十和田湖は歴代の知事や市町村長の尽力、今年没後100年を迎える大町桂月ら県外出身の恩人のおかげで全国に知られた。脈々と続く歴史の流れにも思いをはせながら、保存の意義を考えたい」と語った。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」のサイト(https://save-atelier-n.jimdosite.com/)から。問い合わせは曽我さん(電話090-4422-1534)へ。
▽「美、愛、平和」 像に託す
 東京生まれの高村光太郎は、妻・智恵子を1938年に亡くした後、空襲に遭い岩手県花巻市に疎開。戦後、青森県から、十和田湖畔に設置する記念碑の制作を依頼されたのを機に、帰京を決意した。
 「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明さん(60)=千葉県=によると、東京・中野のアトリエは知人らが探し出した。余命がそう長くないと意識していた高村は、それまで使ったことのない助手を雇い、野辺地町出身の彫刻家小坂圭二(1918~92年)が制作を手伝った。
 高村は十和田湖を下見した際、当時の津島文治知事から「自由に創作を」とのお墨付きをもらい、制作に没頭。生涯をささげた「美」、智恵子への愛、平和への願いを像に託したとみられる。小山さんは「半年ほどの驚異的なスピードで作り上げた。自分が倒れた場合の代わりの制作者も指名していたほど」と、高村の当時の情熱を語る。
 完成した像は、十和田湖を世に出した文人大町桂月、知事の武田千代三郎、法奥沢村長の小笠原耕一をたたえ、湖畔に設置された。「乙女の像」として、今も地元の人や観光客に愛されている。
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なかなか保存も単純な話ではありません。単に建物を補修して残すというだけならそうでもないのでしょうが、ただ残すだけでは意味がありません。積極的且つ永続的に「生かす」ことが肝要です。何もない建物だけを公開したところで仕方がありませんし、ちょっとした展示を行い「××記念館」としたところでそう多くの来場者が来るとも思えません。「××記念館」という形にしている古建築が全国にありますが、そういったところは行政が管理運営を行い、採算度外視に近い形もまぁ許されるという状況でしょうが、中野区はそういう方向での支援は行ってくれません。

となると、レンタルスペースなどとして運用し、収益を上げ、それで運用していくしかないのかな、と考えています。その母体をどうするか、どのように使ってもらうか、そうそう借り手が現れるか、最低限の人件費や維持管理費等をまかなえる収益が上げられるかなどなど課題は山積しています。マッチング等を使って希望者を募り、民間で買い取ってもらい、流行りの古民家カフェ的な運用というのもありかもしれませんが、無茶苦茶な使い方をされるのも困りますし。

単なる思いつきでなく、実現可能性を充分に伴う解決策のご提案、さらにはご支援のお申し出、お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

何も持たず、仕事用のヘラだけ持つてゆくつもりです。留守中は村の人に小屋の管理をたのみます、来年原型完成次第又山に帰つて来る筈です。

昭和27年(1952)7月23日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎70歳

さすがに「ヘラだけ」というわけにも行きませんでしたが、それでも中西アトリエにはせいぜい洋服等を送ったくらいで、ほとんどの家財道具や蔵書などは花巻郊外旧太田村の山小屋に残し、布団や調理器具など必要なものは都内で調達しました。住民票もそのままでした。

しかし、もはや山小屋暮らしに耐えられる健康状態ではなくなり、「乙女の像」完成後に一時的に帰村したものの、結局は中西アトリエに戻ることになり、終焉を迎えるわけです。

昨日に引き続き、新刊紹介です。

荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日

発行日 : 2025年3月10日
著者等 : 西川清史
版 元 : 講談社
定 価 : 1,900円+税

■八十年前のあの夜、東京で何が起こっていたのか? 圧巻のドキュメント
保阪正康氏推薦!「戦争を体験し、思索し、表現する文士たちの言葉は第一級の証言である」
■荷風が、谷崎が、向田邦子が目撃した「戦争」の姿が生々しく蘇る
■一夜にして十万五四〇〇人が失われた惨劇! 僕は巨大なB29が目を圧して迫まってくるのを見た。銀色の機体は、地上の火焔を受けて、酔っぱらいの巨人の顔のように、まっ赤に染まっていた。
──江戸川乱歩
■彼らの著述によって東京大空襲の惨劇を再構成するこの労作から、私たちは戦争の非人間性を改めて知らされることになる──保阪正康(歴史家)
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目次
 昭和20年、東京に住んでいた作家たち(地図)
 はじめに
 Ⅰ 焼尽
   永井荷風は電信柱の影に隠れて焼け落ちる偏奇館をいつまでも見つめていた。
   歴史探偵、半藤一利は十四歳だった。火に追われ逃げまどい、危うく川で溺れ死にそう
    になった。
   下町の中心部に住む中田耕治と関根弘は頭上から降り注ぐ焼夷弾から必死で逃げまどっ
    た。
   燃え盛る下町を遠望しながら、堀田義衛は「ひとりの親しい女」の身の上を案じてい
    た。
 Ⅱ 劫火
  「東京が燃えている」。震撼した作家たちはその衝撃をつぶさに日記に刻みつけていた。
  船橋に住む豊田正子は思わず見入った。血を浴びたように赤黒く染まった建物群を。
  B29は美しいと書いている作家が少なくない。機体は銀色の鮎の群れのように光り輝いて
   いた。
  向田邦子の父は悲壮な顔で言い出した。「みんなでうまいものを食べて死のうじゃない
   か」
 Ⅲ 空爆
  米軍の機密文書「作戦任務報告書」で明らかになった東京大空襲の一部始終。
  日本列島焼土化作戦を強力に指揮した男、C・E・ルメイ少将は「鉄のロバ」と呼ばれた。
 Ⅳ 地獄
  東京が焼け野原となったと知って谷崎潤一郎は矢も楯もたまらず東京に向かった。
  医学生、山田風太郎は何もない焼け野原を見て「こうまでしたか、奴ら!」と激昂した。
  鬼哭啾々、想像を絶する風景だったのだろう。多くの文士が本所、深川、浅草の地獄につ
   いて書く。
  B29が大挙して飛来した四月十三日の空襲で江戸川乱歩も澁澤龍彦も飯沢匡も炎に囲まれ
   た。
  隅田川にかかる言問橋や浅草寺には今も東京大空襲の傷痕がくっきりと残っている。
 Ⅴ 日記
  古川ロッパの日記から見えてくる空襲にあけくれるストレスフルな東京の日常。
  B29が飛来するとみんな慌てて飛び込んだ防空壕とはどのようなものだったのか。
  徳川夢声の戦中日記。内容は悲惨なのにそこはかとなく愉快なのはなぜなのだろうか。
 Ⅵ 鏖殺(おうさつ)
  五月二十五日の空襲は東京の息の根を止めた。有馬頼義は落下傘で舞い降りた米兵を捕縛
   した。
  三月十日、吾妻橋で焼け出された中田耕治は五月二十五日の空襲でも九死に一生を得た。
  小泉信三はメラメラと炎を上げる外套を着たまま燃え盛る自宅の中から現れ、昏倒した。
  収集した十数万冊の本は真っ白な灰となり大内兵衛は呆然として立ち尽くしていた。
  靖国神社に逃れるのを嫌った吉行淳之介は千鳥ヶ淵の小さな公園に逃げ込み眠ってしまっ
   た。
  「青山脳病院」が火柱をあげて燃え盛るのを見て、斎藤茂太と北杜夫は青山墓地に逃げ込
   んだ。
  宗左近は炎の海の中に倒れた母を見捨てて逃げた。生涯、その負い目から逃れることはで
   きなかった。
 Ⅶ 戦慄
  米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。
  尾崎一雄はグラマンから機銃掃射を浴びた。植木の幹に弾が当たると、ブスッという音が
   した。
  空襲で母と妹を失った高木敏子の目前で父は機銃掃射でこめかみを射貫かれて即死した。
  八月に入って世の中が騒然としてくる中、我が子を殺すことを考えた徳川夢声と海野十
   三。
 Ⅷ 終結
  偏奇館を失った永井荷風はその後も心の失調をともなうほどの危機に幾度も瀕していた。
  深川まで親しい女に別れを告げに行ったその日堀田義衛は思いがけない光景に身が凍っ
   た。
  B29の大編隊は宮城の上に至って方向を変えた。天皇は見上げもせず、静かに花に水を
   やり続けた。
 あとがき
 参考文献

目次だけでもショッキングな内容の連続です。

光太郎を中心に据えた項が、「Ⅶ 戦慄」中の「米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。」。

光太郎が、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の智恵子と過ごした思い出深い自宅兼アトリエを焼かれたのは、4月13日の空襲でのことでした。最も有名な3月10日の空襲では無事だったのですが、その後も空襲は繰り返されたわけで。

著者の西川氏、二篇の光太郎作品を引いています。まず、さらに遡って昭和17年(1942)4月18日、東京が初めて空襲されたいわゆる「ドゥーリットル空襲」を題材にした詩「帝都初空襲」。それから、戦後の昭和30年(1955)に高見順と行った対談「わが生涯」。

妙な所が戦場になつちやつて、ぼくらの近所はひどかつたですよ。電信柱に足がぶら下つてたりね、往来に靴が落つこつてる、見ると中身があるんだ。気味が悪くつてね。ぼくもいつやられるか、と思つてね。

004この電信柱の足については、光太郎自身がお蔵入りにした詩「わが詩をよみて人死に就けり」(昭和22年=1947)でも語られています。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の太腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向つた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

光太郎にとっては忘れられない記憶となったのでしょう。

ちなみに本書では引用されていませんでしたが、光太郎には「罹災の記」(昭和20年=1945)という文章があって、自宅兼アトリエの焼け落ちた際のことが細かく書かれています。その部分を書き出しましょう。

 私は四月十三日廿三時の空襲による火事で類焼した。敵機編隊来襲の終りに近く、三、四軒目の隣家両三軒に焼夷弾が十数発落下して火災発生、折からの東南風で火の粉をかぶつたが、それは私一人の火叩きで消せる程度のものであつた。そのうち火は隣組の家々を横へ燃えひろがり、私の家は火に取り残された形となつたので或は助かるかも知れないと思つたが、家伝ひに羽目から羽目へと移る火焔がだんだん猛烈となり、つひに裏隣りの家さへ危くなつた。その家の主人が「もう駄目です」といつて荷物を背負つて避難されてからは、まつたく私一人でバケツの水を自宅裏の羽目板にかけてゐたが、警防団員である妹の主人がかけつけて来て台所の内側からも防火に努めてくれた。此時私はバケツの水の威力を初めて知つた。火焔は猛烈でも火の根に水をかけるとバケツ一杯の水でも火力はちよつと衰へる。それを間断なく続ける事が出来れば火はきつと消えるのである。此時は既に数個の水槽の水も大鉢の水も尽き、一人で車井戸の水を汲み上げてそれをバケツにあけて火に向ふ外なかつたので、火の手は急にもり返して面もむけられないほど空気が熱くなつた。せめて五、六人の人がゐたらこの火は消せたのである。力尽きて避難に取りかかつた。かねて用意の蒲団袋や、米袋を近くの疎開道路の壕へ運んでもらひ、自分は御真影をも収蔵してある大切な道具箱二個と、彫刻用の貴重な砥石二面とをかつぎ出した。これさへ出せばほかの物はどうでもいいと思つてあせらなかつた。家は居抜きのまま敵の兵火に渡してやらうと肚をきめて悠々と行動した。父の作品二点ばかりと、友人に此日もらつたコーヒー罐一つとを風呂敷に包んで立退き、十四、五間ばかり離れた空地から焼け落ちるアトリエの美しい姿に見とれてゐた。爆弾の音もしてゐたが落ちるなら勝手に落ちろと思つて平気だつた。

持ち出せたものは蒲団袋、道具箱二個、砥石二つ、光雲の作品二点、少しばかりの食料。この蒲団袋の中に、大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買ったイギリスの染織工芸家、エセル・メレ作のホームスパン毛布が入っていたと考えられます。また、戦後になって、防空壕に戦前から光太郎が書きためていた詩稿の控えの束が残っていて、自宅兼アトリエの土地を貸していた大家さんから渡されました。詩稿の束を持ち出したことは、同様のもう少し短い回想「仕事はこれから」に書かれていました。

自宅兼アトリエの燃えるさまを「美しい」。これについては、直後に駆けつけてくれた詩人の寺田弘の回想にも書かれています。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。
(『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』 平成24年=2012 TBSサービス)

極限状態に追い込まれると、こうなるのかもしれません。

焼け出された光太郎、1ヶ月ほど近くで焼失を免れた妹の婚家に身を寄せていましたが、宮沢賢治の実家からの誘いを受け、花巻に疎開することになります。その賢治の実家も8月10日の花巻空襲で全焼してしまうのですが。

さて、『荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日』。この手の書籍の常で、まず光太郎中心の章や項を読んでから、他の部分を読みます。ところが書かれている内容が余りに悲惨で、なかなか読み進められません。しかし、こうした事柄から眼をそらしてはいけませんので、少しずつ読んでいこうと思っています。

ちなみに最上部に書影画像を載せましたが、帯を取るとその下に昭和20年(1945)頃の光太郎の顔。
002
このイラストは微笑ましい感じですが、さらにカバーを取った表紙はこう。
003
空襲の悲惨さが象徴されているようです。

皆様もぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

十和田湖、八甲田山一帯の景観はまつたく予想以上の美しさにて、御依頼のモニユマン製作についても、小生快く承諾の腹をきめることができました。 かくも美しき自然に対して自己の全力を傾け得る事の幸を一造形家として感ぜざるを得ず、この夏中に構想を練り、エスキスを試み、秋頃より諸般の便宜多き東京にて原型製作にとりかかり、明年完成の予定で居ります。


昭和27年(1952)6月28日 津島文治宛て書簡より 光太郎70歳

岩手に移って7年余り、敗戦当初は山間に文化集落を造るという無邪気な夢想、青年時代から憧れていた辺境の地での自由な生活といった意味合いが強かったのですが、徐々に自らの戦争責任を痛感せざるを得なくなり、自らを罰する「自己流謫(るたく)」へと変貌しました。「流謫」は「流罪」に同じです。そのため自らへの最大の罰として、彫刻製作も封印。しかし、余命あと僅かという自覚もあり、青森県からの依頼を好機と考え、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を決意します。

2ヶ月半経ってしまいましたが、新刊です。

都市空間を歩く 日本近代文学と東京

発行日 : 2025年1月8日
著者等 : 佐藤義雄・松下浩幸・長沼秀明[著]
版 元 : 翰林書房
定 価 : 2,800円+税

場所と言葉を往還しつつ、〈 地霊(ゲニウス・ロキ) 〉を復原する。文学鑑賞の醍醐味を再認識するための実践的な提案。
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目次
 はじめに 松下浩幸
 一  樋口一葉「日記」「別れ霜」 ― 東京図書館・お茶の水橋・万世橋 松下浩幸
 二  夏目漱石『それから』 ― 神楽坂・小石川・青山 松下浩幸
 三  森鷗外「百物語」 ― 向島 松下浩幸
 四  高村光太郎『智恵子抄』 ― 千駄木・日暮里 松下浩幸
 五  江戸川乱歩「目羅博士」 ― 上野・丸の内 松下浩幸
 六  長谷川時雨『旧聞日本橋』 ― 日本橋 長沼秀明
 七  徳冨蘆花『不如帰』 ― 赤坂氷川町 長沼秀明
 八  田山花袋『田舎教師』 ― 上野公園 長沼秀明
 九  久保田万太郎「春泥」 ― 日暮里 長沼秀明
 十  藤村「並木」と芥川「毛利先生」 ― 日比谷・大手町・神田 佐藤義雄
 十一 永井荷風「紅茶の後」 ― 銀座 佐藤義雄
 十二 三島由紀夫「詩を書く少年」 ― 目白・学習院 佐藤義雄
 講座一覧
 あとがき 佐藤義雄
 初出一覧

目次に「講座一覧」とあるように、元は明治大学さんの「リバティアカデミー」という市民講座中の一つで「都市空間を歩く」が開設され、その報告書的なブックレットからの修正加筆が中心のようです(一部は書き下ろし)。

著者のお三方とも明治大学さんで教壇に立たれている皆さん。お三方で100回余りの講座を受け持たれたそうで、鷗外や漱石、芥川などは繰り返し取り上げられていました。逆に宮沢賢治、萩原朔太郎など本書に収録されなかった作家も多数。で、お三方がご自分の担当講座から数篇ずつを選んで本書が構成されています。

光太郎智恵子に関しては松下浩幸氏によるもの。100回余の講座中、光太郎智恵子を中心に据えたのはこの一回のみだったようで、それを本書に収録してくださったのはありがたいところです。元は平成28年(2016)3月のブックレットに「〈狂気〉と〈純愛〉――高村光太郎『智恵子抄』と千駄木・日暮里」の題で収められていましたので、約10年前ですね。

従って、最新の情報が盛り込まれていません。既に取り壊されてしまった光太郎の実家(旧駒込林町155番地)が写真入りで紹介されていますし、明治45年(1912)に智恵子と福島の医師との間に縁談があったという件は、大島裕子氏の調査で否定されています(相手とされてきた医師は既に妻帯・子持ちだったと判明)が、反映されていません。

まぁ、そうした点はさておき、『智恵子抄』詩篇を読み解きつつ、「恋愛は何よりも近代的な人間であることの証であり、個人の意思を尊重する「ヒユウマニテイ」(人間性)としての行いを実践するという意味を持っていた」「近代的恋愛とは「人類」の普遍的な意志であり、個人が成長していくために必須の思想的実践であった」といった指摘には「なるほど」と思わされました。

まだ手元に届いたばかりで、光太郎智恵子の項と、光太郎といろいろ交流のあった長谷川時雨の項しか精読していませんが、全体に図版や地図も多く、これを片手に文学散歩としゃれ込むのにいいなと思いました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生にとりて東京は好ましき土地ではございませんが、この製作完成までは特に滞在、仮アトリエに蟄居の覚悟を定めました。


昭和27年(1952)6月28日 津島文治宛書簡より 光太郎70歳

津島文治は太宰治の実兄にして当時の青森県知事。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の仕掛人です。

大戦末期の昭和20年(1945)5月から足かけ8年に亘る岩手での暮らしで浄化された光太郎の眼には、伝え聞く戦後の雑駁とした東京の様子は忌避すべきものだったようですが、像の制作のためには仕方ありませんでした。「完成までは特に滞在」とあるように、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に戻るつもりで、住民票やほとんどの家財道具は残したまま上京します。

まず都内から演奏会情報です。

朝岡真木子歌曲コンサート 第8回

期 日 : 2025年3月30日(日)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演(13:30開場)
料 金 : 一般 4,500円 学生券2,000円(全席自由)

曲 目 
 「春宵感懐」 詩:中原中也 
 「さくらの はなびら」 詩:まど・みちお
 組曲〈春にあこがれ〉 詩:星乃ミミナ
 「なぎさ」 詩:木下宣子
 「さんまのうた」 詩:大竹典子
 「秋の手紙」 詩:こわせ・たまみ
 「雪に」 詩:金子みすゞ
 「冬が来た」 詩:高村光太郎
 「ピカドンが落ちたとき」 詩:山中茉莉 新作
 「日本列島」 詩:岡崎カズヱ 新作
 組曲〈人間家族〉より「愛」「欲望」 詩:野上彰 新作
 「わたしは魔女」 詩:冨永佳与子
 「しゃなりとあるく」 詩:矢崎節夫
 他

出 演
 木内弘子(ソプラノ) 黒川京子(ソプラノ) 白須ヒロミ(ソプラノ)
 三縄みどり(ソプラノ) 清水邦子(メゾ・ソプラノ) 紀野洋孝(テノール)
 馬場眞二(バリトン) 朝岡真木子(作曲・ピアノ)
004
光太郎詩をテキストに「組曲 智惠子抄」を作曲なさった作曲家・朝岡真木子氏の歌曲作品が演奏されるコンサートです。ピアノは朝岡氏ご自身です。

今回は、「冬が来た」がプログラムに入っています。歌唱はテノールの紀野洋孝氏だそうです。紀野氏、あちこちで別宮貞雄作曲歌曲集《智恵子抄》の全曲や抜粋を取り上げられて歌われていた方です。一昨年には初台の東京オペラシティさんでのリサイタルで拝聴いたしました。

「朝岡真木子歌曲コンサート」には、一昨年、昨年とお邪魔し、今年も伺うつもりでいて招待券も頂いていたのですが、他の雑用のため残念ながら欠礼させていただきます。実は既に「チケット完売」と布告されていますが、当方欠礼分一席空きましたし(笑)、キャンセル等あるかもしれません。

もう1件。こちらは今日です。それまで曲目はフライヤー画像のみで、一昨日になってX(旧ツイッター)上に「2ステで演奏する「レモン哀歌」(詩:高村光太郎  曲:西村朗)」という語が出て、昨日気づいた次第ですが、記録のためにも載せておきます。

千葉県立千葉中学校・千葉高等学校合唱部 第17回定期演奏会

期 日 : 2025年3月21日(金)
会 場 : J:COM浦安音楽ホール 千葉県浦安市入船1丁目6-1
時 間 : 19:00開演(18:30開場)
料 金 : 無料(全席自由)

曲 目
 混声合唱のための「うたⅡ」より さくら  日本古謡 作曲 武満徹
 Psaim 43 Richte mich,Gott 作曲 Felix Mendelssohn
 混声合唱とピアノのための組曲 レモン哀歌 作詩 高村光太郎 作曲 西村朗


出演
 千葉県立千葉中学校・千葉高等学校合唱部
 指揮 山宮篤子 ピアノ 松原賢司 賛助出演 Chœur Clarté

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一昨年亡くなった西村朗氏作曲の「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」(平成20年=2008)が演奏されます。3曲から成る構成で、「千鳥と遊ぶ智恵子」「山麓の二人」そして「レモン哀歌」。フライヤーにレモンがあしらわれ、これがメインステージという扱いでしょうか。

ところで、以前にも書きましたが、こうした演奏会系の告知は曲目まで活字にしていただきたいものです。「誰が」演奏するのかももちろん大切ですが、「何が」演奏されるのかもそれと同程度に(あるいはそれ以上に)重要な情報と思います。「この曲が演奏されるなら行ってみよう」というのがあると思いますので……。

【折々のことば・光太郎】

十日間ばかりの旅行で十和田湖から帰つてまゐりましたが、用事の始末をつけるのに暇どつて中々厄介です。モニユマンは製作することにきめましたが、製作が冬季になるのと助手、モデル使用の都合、用具調整、石膏型取り、鋳造等の便宜上仮アトリエは東京に造り、製作中小一年は東京に居らねばならなくなるかも知れません。


昭和27年(1952)6月28日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎70歳

十和田湖への下見を経て、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を引き受けることを決意しました。同時にさまざまな都合も考え、上京することも。ただ、この時点では中西利雄アトリエを借りる算段はまだついていませんでした。
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3月21日(金)追記:「智恵子抄」は上映中止だそうです。
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都内から映画の上映情報です。

没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督

期 日 : 2025年3月8日(土)~4月4日(金)
会 場 : 神保町シアター 東京都千代田区神田神保町1-23
料 金 : 一般 ¥1,400 シニア ¥1,200 学生 ¥1,000 U29ペア割引 ¥2,200
      毎週水曜ファン感謝デー どなた様も1,100円均一
      毎月1日映画サービスデー どなた様も1,100円均一
      夕暮れ割 平日3回目の上映 1,100円均一
      誕生日割 誕生日当日 1,100円均一(ご本人のみ、要身分証提示)

今年は伝説の女優・原節子の没後10年にあたります。 これまで神保町シアターでは2度にわたり原節子特集を行ってきましたが、今回は、すべて監督の違う16本の出演作をプログラムしました。
小津安二郎監督作品のミューズとして今もなお世界中で愛され続ける不世出の女優が、監督の違う16本の映画で、それぞれどんな貌をみせているのか。絶世の美女でありながら、文芸ものの難役から洒脱なコメディまで幅広い役に挑んだ女優人生を、新たな趣向で振り返ります。
錚々たる監督陣による、めくるめく原節子の世界――ぜひスクリーンでご堪能ください。
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「没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督」としては3月8日(土)から始まっており、4期に分けての上映で、3月22日(土)~3月28日(金)の第3タームに熊谷久虎監督の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)が含まれています。もちろん智恵子役が原節子さんです。最上部メインのフライヤーで右下。
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二本松の実家に光太郎ともども訪れたというシーンから。全体像がこちら。
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原さん扮する智恵子の左に光太郎役の山村聰さん(山村さんは戦時中にラジオ放送で光太郎の翼賛詩の朗読をなさったこともあります)、さらに左は智恵子の両親で柳永二郎さんと三好栄子さん。柳さんは有楽座、三好さんは島村抱月・松井須磨子の芸術座ご出身。共に光太郎智恵子が観劇に訪れていた記録があります。もはや歴史上の人物、という感じでクラクラします(笑)。

ちなみにこのシーンで原さんが手にされているのは、光太郎木彫「蟬」。美術さんが作った小道具ではなく、実物かもしれません。「座談会 三人の智恵子」(昭和32年=1957 6月1日『婦人公論』第42巻第6号)から、原さんの発言。

映画ではクローズ・アップのときは本物を使うんですが、ふだんはやはり偽物でやってます。セミは富山県の人がもっていらっしゃってそれをわざわざご本人が夜行列車でもってきてくれました。そして、「智恵子さんが最後までもっていらしたセミですから、あんたもうまくやんなさい」と云われて困っちゃった。

このシーンが「クローズ・アップのとき」かどうか判断に迷うところですが。

「智恵子抄」、原さんの出演作品の中では、評価の高いものではありません。まぁ、そちらは原さんの他の出演作品と比較しての相対評価で、この映画だけの絶対評価として考えると、そう悪い出来ではないと思います。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日の佳き日を卜して御依頼の標榜二枚を書きましたのでいつでもお手渡し出来ます

昭和27年(1952)4月29日 帷子敏雄宛書簡より 光太郎70歳

御依頼の標榜二枚」は、岩手県北部の川口村(現・岩手町)の公民館と図書館の看板です。共に現存しますが、風雨にさらされて墨が流れ落ち、文字は殆ど判別出来ません。

今日の佳き日」は天皇誕生日ですね。

今日の記事、ブログカテゴリーを「スポーツ/レジャー」に設定しました。「レジャー」というには少し抵抗がありますが……。いわゆる「掃苔(そうたい)」、最近は「墓マイラー」という語が浸透しつつあります。

偉人たちの物語に触れる 都内有数の霊園巡り

期 日 : 2025年3月22日(土)
会 場 : 谷中霊園   東京都台東区谷中7丁目
      染井霊園   東京都豊島区駒込5丁目(慈眼寺を含む)
      雑司ヶ谷霊園 東京都豊島区南池袋4丁目
      青山霊園   東京都港区南青山2丁目
時 間 : 9:00~18:00
料 金 : 大人(中学生以上)18,800円 小人(小学生以上)18,300円
      ※未就学児はお受けできません

・偉人の存在が身近になる…「名前だけ知っている」という偉人が、実際にお墓に手を合わせて墓前で生涯に想いを馳せると、本当にその人に会ったような感覚に。とても感動的な体験です。
・確実にお墓にたどり着ける…広大な墓地では一人の墓を探すだけで2時間かかることもザラ。最短ルートで巡礼。
・バスならではの機動力…都心の移動は小回りのきくバスが便利。貸切バスなので待ち時間もなし。車内ではここでしか聴けない楽しい墓巡礼トークもあり。

歴史上の偉人に時空を超えて感謝の言葉を直接伝えられる、それが墓巡礼の魅力です。穏やかな春の気候のなか、都内有数の4つの霊園 で近代日本を形成した偉人の墓所を訪ねてみませんか。
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案内人のご紹介 カジポン・マルコ・残月 墓マイラー歴38年
文芸とは全く無縁な日々を送っていたが、青春時代の様々な苦悩がきっかけで絵画、クラシック、文学に没頭。ベートーヴェンやゴッホという偉人たちと“酒が飲みたい!”という熱い思いが頂点に達した時から、貯金を全て墓巡礼に注ぎ込み、あちらとこちらの世界を右往左往している。
現在は墓マイラーとして世界墓マイラー同盟を立ち上げ、同志たちと日本・世界の墓を巡り、テレビ出演や本の出版も手掛けている。
座右の銘:「人は国や文化が違っても、相違点より共通点の方が“はるかに”多い」

来たる3月22日(土)春のお彼岸に、歴史ある都心の霊園(雑司ヶ谷、谷中、染井、青山)に眠る偉人を、貸切りバスで巡礼する旅を初めて近畿日本ツーリストさんと企画しました。いつもは世界墓マイラー同盟の主催でひとつの霊園を巡っていますが、今回はバスの機動力を生かして、4つの霊園で近代史に名を残した偉人のお墓を訪れ、墓前で故人の生涯や功績、人物の魅力について熱く語ります。
巡礼予定は以下の通りです。

〔谷中霊園〕 徳川慶喜 渋沢栄一 横山大観 長谷川一夫 森繁久弥など
〔染井霊園〕 高村光太郎 岡倉天心 二葉亭四迷 実相寺昭雄
       芥川龍之介(慈眼寺) 谷崎潤一郎(慈眼寺)など
〔雑司ヶ谷霊園〕 夏目漱石 小泉八雲 中浜ジョン万次郎 永井荷風 竹久夢二など
〔青山霊園〕 大久保利通 志賀直哉 北里柴三郎 歴代市川團十郎 ハチ公など

当日は9時に谷中霊園集合、18時ごろに東京駅解散です(昼食付き)。現地の解説は無線イヤホンで行うため声がよく聞こえます。気になる旅行代金ですが、昨今の物価・人件費高騰を受け、バスのチャーター費、昼食代、人数分の無料イヤホン、駐車場代、添乗員費用などを含め、お一人様あたり「18,800円」になります。

普段の墓マイラー同盟イベントは2千円で行っているので高く見えますが、これはけっしてボッタクリではなく、バスの運転手さん不足もあってどうしてもこの値段になってしまうとのことです。最少催行人数が25名で、これより少ないと企画は流れるという価格です。私自身、この値段設定で何人集まるのか不安がありますが、とにもかくにもまずは募集してみなければ何も始まりません。募集期間は1月10日(金)12:00 ~ 2月21日(金)12:00になります。

時空を超えて偉人本人と出会うような胸熱のお墓参り、その素晴らしさを伝えるべく当日は全力で解説します!バスの中でも墓マイラートーク全開で、国内外のいろんな墓参エピソードを紹介します。ご興味のある方、一緒に巡礼しませんか。

染井霊園さんで光太郎の名を真っ先に上げて下さいました。ありがたし。

正確には光太郎のみの墓ではなく、髙村家としての累代の墓。光太郎の母・わか(通称・とよ)が大正14年(1925)に大腸カタルで亡くなったのを機に浅草の寺院から移されました。幕末に亡くなった光太郎の曽祖父母に始まり、光太郎祖父母、光太郎の父・光雲と母・わか、独身のまま歿した光太郎のきょうだい、光太郎智恵子夫妻、そして長男光太郎に代わって髙村家を継いだ豊周(三男)の家系へと続き、平成26年(2014)に逝去された規氏までが眠っています。

近ツリさんが入ってのバスツアーということですし、その道のプロの方がガイドして下さるということで、個人で廻られるよりはるかに楽ですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

茴香の種子、その他豆類の種子忝くいただきました、今年は急にあたたかくなつたので少々まごついて居りますがこれらの種子を育てるのがたのしみです。
昭和27年(1952)4月10日 福田ハレ子宛書簡より 光太郎70歳

「茴香」は「ういきょう」、ハーブですね。

福田ハレはホームスパン作家。及川全三の弟子にあたり、光太郎一張羅の猟人服は、福田が織った生地を使って作られています。智恵子遺品の、イギリスの染織工芸家エセル・メレ作のホームスパン毛布に関し、貴重な回想も残しています。

当会として最大のイベント、高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、忌日である4月2日(水)、下記の通り実行いたします。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

                                     

日 時  令和7年4月2日(水) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線・京浜東北線 有楽町駅 日比谷口
     地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅 A14 出口
     地下鉄日比谷線・丸ノ内線 霞ヶ関駅 B2 / B1A / B3A 出口
松本楼地図
会 費  12,000円(含食事代金)

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替 郵便局備え付けの同封の払込取扱票にて郵便局よりお願いいたします。
       ATM、窓口にて取り扱い可能です。
       申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。

       ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(日)までにご連絡頂ければ、
 後日、返金いたします。

 参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
 事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

 複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
 参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
 4月1日(火) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
 残部は欠席の方等にお送りいたします。
 公序良俗に反するものでなければ特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
 当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
 書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

 当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いをお願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。当方、午後3時頃には会場入りしております。

当日備考
    着座ビュッフェ形式にて執り行います。ドレスコードは特に設けておりません。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子にインスパイアされた美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋のまはりはもう一尺ほどつもつた雪で美しい冬景色になり、毎朝小鳥が訪れて来ます。

昭和26年(1951)11月30日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で過ごす最後の冬が始まりました。

現代アートの個展、始まってしまっていますが、会期が長いのでご寛恕の程。
期 日 : 2025年2月1日(土)~3月29日(土)
会 場 : MAKI Gallery天王洲 東京都品川区東品川1-33-10 
時 間 : 11:30~19:00
休 館 : 日曜・月曜
料 金 : 無料

MAKI Galleryではこのたび、日本人アーティスト清川あさみによる個展「神話の糸」を天王洲ギャラリースペースにて開催いたします。本展は2024年夏に鹿児島県・霧島アートの森にて開催された清川の特別企画展「ミスティック・ウィーヴ:神話を縫う」を引き継ぎながら、過去から未来へと続く人類の物語を自然と都市、伝統とテクノロジーの交差点で紡ぎ直す試みとなります。

清川のアーティストとしての活動は、個人の内面や感情を描いた初期の作品から、社会全体や地球規模のテーマを扱う現在の作品へと大きな変化を遂げてきました。しかし、その根底にある「人間の本質に問いを投げかける」という姿勢は一貫しています。自然と都市、伝統とテクノロジー、個人と社会といったテーマに対して、これまでにない視点で考えるきっかけを生み出したいと強く願う清川。そんな作家が神話の世界に鑑賞者を誘い、新たな時代の価値観をともに探ろうとする本展を、どうぞ会場にてご高覧ください。
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平成29年(2017)に智恵子の故郷・福島二本松の智恵子の生家も会場となった現代アートの「重陽の芸術祭2017」で展示された、巨大な刺繍作品「女である故に」がこちらでも展示されています。
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平成29年(2017)、智恵子生家での展示風景はこちら。
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タイトルの「女である故に」は、大正5年(1916)5月、『婦人週報』に掲載された智恵子のアンケート回答が出典です。アンケートの質問は「女なる事を感謝する点」。

 私に恋愛生活(現在)のが始まつてから、始めてさういふ感じを意識しました。これは一つの覚醒です。其の他(た)にはまだ私には経験がありません。「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。

光太郎との結婚披露が終わって1年半ほどの時期のものです。

この時期、智恵子が本当にそう考えていたのか、あるいは「こうあるべき」と自分に言い聞かせていたのか、後の大いなる悲劇に思いを馳せると、何とも難しいところです。

さて、「Mythic Threads:神話の糸」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

宮崎さんの件については小生不賛成なのですが、まづ黙認することにして、中央公論社が出すならば当然「選集」出版済の後であるべきでせう。御考を願ひます。書名も「愛情の手紙」などは低能です。


昭和26年(1951)11月17日 松下英麿宛書簡より 光太郎69歳

松下は中央公論社の編集者。「宮崎さんの件」は、宮崎の編集による光太郎書簡集『みちのくの手紙』(昭和28年=1953)に関わります。

宮崎は昭和22年(1947)の光太郎歌集『白斧』にしてもそうですが、光太郎が拒否したにもかかわらず、光太郎文筆作品集の出版を強行することがありました。

宮崎は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚し、光太郎とは姻戚ですし、経済的に豊かでないことをわかっている光太郎、あまり強いことは言えませんでした。
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都内から朗読会の情報です。

チャリティー朗読会 和・輪・話

期 日 : 2025年1月27日(月)
会 場 : 紀尾井小ホール 東京都千代田区紀尾井町6番5号
時 間 : 13時30分
料 金 : 全席自由 2,500円

会場にお越しいただいた皆様からの募金は、『令和6年能登半島地震災害義援金』として、日本赤十字社東京都支部を通して現地へお送りいたします。皆様のご賛同を心よりお待ち申し上げます。

演目
 佐藤春夫 作 『小説智恵子抄』より 中島悦代
 平岩弓枝 作 『女の休暇』 佐々木冨紀
 北村薫 作 「語り女たち」より『梅の木』 船山則子
 角田光代 作 『口紅のとき』 和田幾子
 海野弘 作 『枕売り』 森実あき子
 芥川龍之介 作 『羅生門』 田島みどり
 西澤實 版 『芝浜』 斉藤由織
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演目のうち、「小説智恵子抄」は、光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤春夫が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社さんで単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入り、現在も版を重ねています。また、丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演の松竹映画「智恵子抄」原作と位置づけられました。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

どうして斯かるものを入手されたか、不思議に思ひます。確におぼえのあるもので、小生十三、四才の頃の作。日清戦争の直後にあたります。まことになつかしく、あの頃のいろいろの事を思ひ出しました。


昭和26年(1951)4月14日 菊岡久利宛書簡より 光太郎69歳

斯かるもの」は光太郎作の手板浮彫。明治29年(1896)、光太郎数え14歳、東京美術学校の予備校的な共立美術学館在学中の作品です。
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光太郎随筆「わたしの青銅時代」(昭和29年=1954)には次の記述があります。

 この間、菊岡久利君が鎌倉の古道具屋で見つけたといつて、板に彫つた彫刻をもつて来た。それには十四歳と記されていた。菊岡君が見つけてくれた時は、わたしはちょうど岩手の山にいた時だつたが、それを送つて来て、本当か嘘かと問い合せてきた。見ると、確に彫つた覚えがある。五十五年ぐらい前のもので、青い葡萄が刻まれていた。

菊岡が昭和28年(1953)に雑誌『芸術新潮』によせた「ぴいぷる」という文章には、次の一節。

 僕はそれを鎌倉の古道具屋で見つけたのだ。人々はまだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思ったらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時まだ岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、 五十五年 青いぶだうが まだあをい と詩を書いてよこしてくれたものだ。

光太郎実家の髙村家にはこの類の手板が、光雲による手本用のものから、弟子たちの成績品まで数多く残されていましたが、戦後、土蔵を整理した際、誤って流出したものと思われます。他にも紅葉と宝珠を彫った光太郎の手板も鎌倉で平櫛田中が発見し、現在は東京藝術大学に収められています。

後から書き込んだ「五十五年 青いぶだうが まだあをい」は、字余りになるものの、季語もあり、俳句と言っていいのではと思われます。

このブログサイトでご紹介すべき昨年いろいろあった事柄のうち、主なものは昨年のうちに何とかご紹介し終えましたが、中には越年となり申し訳なく思うものも。

そのうち『東京新聞』さんで12月27日(土)に掲載された記事。

TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機 俳優・渡辺えりさんら尽力 保存活動

 2024年も残りわずか。TOKYO発では今年も街のトレンドや知られざる地域の歴史、ヒューマンストーリーなど、多彩な話題を取り上げてきた。今日は「その後」を――。
 中野区に残る、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)ゆかりのアトリエの所有者が亡くなり、存続の危機にあると1月12日に紹介した。
 アトリエは洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てた。光太郎は晩年の52~56年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作した。
 記事の掲載後、若手建築家をはじめ、さまざまな立場の人から保存・活用法の提案が寄せられたという。有志らは4月、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、署名活動を始めた。
 会の代表に就いたのは、俳優で劇作家の渡辺えりさん。えりさんの父は生前光太郎と交流があり、えりさん自身も光太郎の半生をもとに戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 11月、会は区内でアトリエを紹介する展示を行い、講演会を開催。えりさんは「光太郎の肌合いが残る場所が中野区にあるのはすごいこと。何とかいい形で保存できないか」と語り、「生きるための糧の一つとして文化芸術がある」と理解を求めた。
 今後、会は区への働きかけや新たな講演会の企画など、地道に活動を続ける。署名への協力などは会の名前で検索。
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昨年1月12日の記事はこちら

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」サイトはこちら。当方も幹事を務めさせていただいております。こちらからインターネット署名も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。

アトリエを紹介する展示」は11月10日(土)~19日(月)の日程で行いました。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。

新たな講演会」は、2月15日(土)の予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせいたしますが、とりあえず中西利雄に特化した内容となるとのこと。

また、クラウドファンディングを立ち上げ、ご支援を募ることも視野に入れております。そうなりました場合には、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生旧臘来肋間神経痛といふ厄介なものにひつかかり、一ヶ月近く小屋を留守にいたし、病院長さん邸や温泉などに滞在、最近、雪中を橇で帰つてまゐりましたがまだ病気は残つてゐます、字を書くと病気にひびくのでテガミや原稿がかけずにゐます、


昭和26年(1951)2月26日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

肋間神経痛」は結核性のもの。結核も抗生物質の普及により、戦前ほどは怖れられる病ではなくなりましたが、さりとてもはや完治は不能でした。約5年後には光太郎の命を奪います。

病院長さん」は、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房、「温泉」は大沢温泉さん。1月23日から2月2日まで、かなり長く滞在しました。

活動を継続中の中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会会長にして、劇作家・女優の渡辺えりさん。この5日にはめでたく古稀を迎えられるそうで、それを記念した公演です。

渡辺えり古稀記念2作連続公演『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』

東京公演
 期 日 : 2025年1月8日(水)~1月19日(日)
 会 場 : 本多劇場 東京都世田谷区北沢2-10-15
 時 間 : 
  『鯨よ!私の手に乗れ』 
   1月8日(水) ・11日(土)~14日(火)・16日(木) 18:00~
   1月9日(木) ・13日(月)・15日(水)・17日(金) 13:00~
  『りぼん』
   1月11日(土)・12日(日)・14日(火)・16日(木)・19日(日) 13:00~
   1月15日(水)・17日(金) 18:00~
   1月18日(土) 13:00~/18:00~(連続公演)
 休 演 : 1月10日(金)
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円  土日祝 一般11,000円 学生 5,000円

山形公演(『りぼん』のみ)
 期 日 : 2025年1月22日(水)
 会 場 : 山形市民会館 山形市香澄町2-9-45
 時 間 : 18:00~
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円

『鯨よ!私の手に乗れ』
架空の地方都市の町、山崎県山崎市にある介護施設に神林絵夢がやってくる。ここは母・生子が入所しているのだ。久しぶりに見舞いにきた神林絵夢。母・生子は認知症で、絵夢の弟・公男やその妻・美代子が世話をしているものの、二人が誰かはわからない。絵夢が60歳になるまで演劇を続けてきたのは母のおかげ。晩年ぐらいは自分のために自由に生きてほしいという思いとは裏腹に、時間や規則に縛られて暮らす母の様子を見て絵夢はショックを受け介護士たちに不満をぶちまける。介護施設には元美術教師だった藍原佐和子、看護婦のように振る舞う涼子ら入所者、ヘルパーとして働く水島貴子と生子と同世代の人々がいる。彼女たちは次々に語り出す。彼女らは40年前に解散した劇団のメンバーで、主宰が行方不明になったため上演できなかった作品をいつかやりたいと約束をしていた。生子もその劇団のメンバーだった。ところが彼らの持っている台本は、認知症の患者が認知症の老人を演じるというもの。悲しい結末を知った介護士が途中から破り捨ててしまっていた。その状況に絵夢は台本を書くと言い出す――。2017年に上演された本作品。『演劇』を通して人生を見つめる。人生の中に「演劇」がある力強さを今一度、現代に問いかける。
キャスト
 木野花 三田和代 黒島結菜 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

『りぼん』
現代の横浜。「すみれ」、「百合子」、「桜子」3人は関東大震災後に建てられ、最近取り壊された「同潤会アパート」の同じ住人であった。彼女らが住むアパートには、シベリアで抑留されていた夫を持つという「春子」、影を背負う謎の老女「馬場」ら、過去に心の傷を負った女性たちが支え合いながら暮らしていた。そしてそれぞれに「水色のりぼん」の記憶を持っていた。一方、欲情すると水色のりぼんを吐くという奇病を持つ青年「潤一」は、母の遺骨を探す旅の途中、横浜で“浜野リボン”と出会う。リボンは、赤子であった自分の胸に水色のりぼんを縫い付け、墓場に捨てた母の消息を求め、娼婦であった母を知る人物の目に留まるようにと、自らを娼婦の姿に変え、横浜を徘徊している青年と出会った。母から体に水色のりぼんを十字架のように背負わされる2人は、その謎を解くために鍵となる「同潤会アパート」へと向かう。まるで水色のりぼんが彼らを引き寄せるように……。同潤会アパートで潤ーたちと春子らアパートの住人達は初めて出会い、皆の生い立ちと記憶の謎が明らかになってゆく。住人の一人「春子」は愛娘を夫に殺されたという過去を持っていた。戦後娼婦として働かされたという春子の境遇に逆上した夫が春子と娘とを見間違え、首をりぼんで絞めてしまった。そして、実は愛娘の死体のお腹から産まれたのが潤ーであった。2003年に上演、2007年に再演された本作品。未だ混沌と尽きない悩みの最中にある現代日本で蘇る。バンドネオン・ピアノ・ギターの生演奏と共にお送りする音楽劇。
キャスト
 室井滋 シルビア・グラブ 大和田美帆 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

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昨年12月25日の『山形新聞』さんに、こちらに関連する渡辺さんのご寄稿。

渡辺えりのちょっとブレーク(235)心のもやもやも込めて

006 古希特別記念連続公演の稽古中です。
 一作品に43人が出演する超大作の連続公演で、前代未聞、前人未到の企画に挑戦することになりました。
 「鯨よ!私の手に乗れ」は、母が介護施設にお世話になるようになってからの実話を基にした作品。11月に母が亡くなったので、母親役の三田和代さんの場面になると泣けてきます。幼い頃からの思い出がよみがえり、たまらなくなりますが、それだからこそ母のためにも成功させたいと頑張っています。
 「りぼん」は山形第六中学校の生徒が東京と横浜に修学旅行に来るストーリー。そこで日本の隠された歴史を発見して驚愕(きょうがく)します。私が実際に昭和40年代に六中の修学旅行で初めて横浜の氷川丸に宿泊した思い出を基に創作しました。2作とも、母親たちが女性として苦労してきた今日までの思いを青いりぼんの思い出とともに表現します。
 2作とも山形弁が多く使われていますが、殺陣指導をお願いした山形市出身の大道寺俊典先生が「みんなもっと山形弁を勉強してほしい」とため息つくほど山形弁は難しいらしいです。大枠の演出が済んだ後に、細かい方言指導もやるつもりで張り切っています。
 歌と踊りも素晴らしい方々が多く出演しているので、新年1月22日の山形公演を楽しみにお待ちください。
 ただ、昔と違って徹夜もできなくなり、朝から晩までの稽古は途中で頭がぼうっとしてしまうこともあります。人間年を取ってみないと、この状況は想像できませんね。両親にもっともっと優しく親切にするんだったと、近頃切に思います。年寄りに親切にしてきた人はきっと、自分が年を取った時に周りに優しくしてもらうでしょうね。介護施設にいた両親が介護士の方たちに「ありがとう。ありがとう」といつも声をかけて、頭を下げていたことを思い出します。山形人はみんな昔からテレパシーで会話する人間が多いため、心で思っていても、なかなか口に出してお礼を言うのが苦手な方が多いように思います。私もそうでしたが、両親を思い出して、口に出すように心がけています。
 今回の「りぼん」は関東大震災や第2次世界大戦、シベリア抑留、接収されていた横浜のことなど日本の過去の歴史がいろいろ出てきますが、オーディションで出演する若者たちとの世代のギャップを感じています。東京オリンピックの思い出を語る場面では「アベベってなんですか?」と聞かれ、高村光太郎の詩「道程」も誰も知らないと分かり、それらを説明するだけでも時間がかかります。今回の2本立てを1カ月半で稽古するのは、至難の業だと分かったのでした。そしてそんなことを愚痴る両親も今は亡く、この心のもやもやも含めて舞台の作品に込めていきたいと思います。
 山形公演を手伝ってくれる友人たち、親戚の皆さん、そしていつも応援して下る皆さま、本当にありがとうございます。山形六中からお借りした制服とショルダーバッグも本当にありがたいです。太った人用の制服が足りず、私の分は生地を足して直しています。終了後はクリーニングに出して速やかにお返しする予定です。私の分はまたほどいてからお返しするので時間がかかると思います。
 さまざまなことがあった一年でしたね。暗いニュースもたくさんありましたが、来年が皆さまにとって良い年になりますように心から願っています。みんなで支え合って諦めずに平和な世の中をつくっていきましょうね。昨年は本当にお世話になりました。喪中なので新年のごあいさつは控えさせていただきますが、皆さま良いお年をお迎えください。
(俳優・劇作家、山形市出身)

劇中で光太郎にも触れられるそうで、さらに特に『鯨よ……』の方は、生前の光太郎をご存じで、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されているそうで。ちなみに亡くなられた11月10日には、えりさん、当方と中野でトークショーでした。

そんなこんなもありますし、御招待いただいているので、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生ここへ来てからもう満五年二ヶ月になりますが世情ますます紛糾、いつ彫刻が思ふやうに出来るか、まだ見当がつきません。出来ることを出来る時にしてゐる自然の生活を営むばかりです。


昭和26年(1951)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳


花巻郊外旧太田村での蟄居生活。新しい年が明けて一つの節目と感じてはいたようですが、まだ自らそれを切り上げる気にはなっていませんでした。

この年の秋に山小屋を訪れた詩人の宮静枝によれば、「いま私に彫刻をさせないことは日本の損失だと思います」とまで語ったとのこと。そう考えるなら帰京すれば、と思うのですが、公的に訴追されなかったとしても、自らの戦争犯罪を他が許さないうちは自らも許すことが出来ない、というわけでしょう。

宮曰く、

光太郎は余りにも明治でありすぎたと思うのである。国からの招請を心ひそかに待ち続け、自らの生命を無為に山野に燃焼し尽くした光太郎も、日本の大きい犠牲者であり、まさに悲しみの典型だったのである。(『詩集 山荘 光太郎残影』あとがき「悲しみの典型」平成4年=1992)

昨日のこのブログでは、一昨日、昨日と滞在しておりました光太郎第二の故郷・岩手花巻のレポートを途中まで致しておりましたが、一旦中断し、その後向かいました世田谷での観劇レポートを。そちらの公演が今日までですので、これを見て行ってみようという方が一人でもいらっしゃれば、と思いまして。

燦燦たる午餐さんの第二回公演「凌霄花の家」。ハコは小田急線千歳船橋駅近くのAPOCシアターさん。キャパ20名ちょいくらいの小劇場でした。しかし天井は高く狭苦しい感じではなく、奈落(?)に降りる階段なども劇中で効果的に活用されていました。
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こちらは終演後。左端に階段。
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登場人物は三人(劇中劇的に、他の人物の役どころを演じる役回りも設定されていましたが)。それぞれ熱の籠もった演技でした。

まず令和の現代を生きる若い女性・遙佳(中嶋真由佳さん)。彼女がさまざまな鬱屈を抱え、鬱蒼とした森の中を歩いている中で、凌霄花(ノウゼンカズラ)に包まれたあばら屋を見つけ、屋内に。そこで見つけた古い絵や日記、手紙などに見入っていると、一人の男(石倉来輝さん)が現れ、「この家のゆかりの者」的な自己紹介。そしてかつてこの家であったことを語り出す、という流れです。この手法、能の定石ですね。実はその語っている人物の正体は……という所まで含めて。

男の語る昔語りは、この家(実はアトリエ)で100年ほど前にあった画家夫婦、孝治(石倉さん)と夕子(畑中咲菜さん)の話。この画家夫婦というのが、光太郎智恵子をモチーフとしています。ただ、孝治は彫刻家ではなく画家。彫刻家とするより画家の方が描きやすそうですし、一般の理解も得られるかなとは思いました。評論や翻訳なども書いているという設定は、光太郎そのままです。しかし、詩を書いているという設定にはなっていませんでした。後述しますが、史実の光太郎が書いていた詩も含め、孝治の絵がその役割を担っている感じの描き方でした。

光太郎の「緑色の太陽」を彷彿とさせる評論を読んだ、自身も絵を描いている夕子が孝治のアトリエを訪れ、意気投合、双方の両親の反対を押し切って、結婚。この辺りも光太郎智恵子の史実に近い設定です。また、あまり強調されませんでしたが、孝治の父は、光太郎の父・光雲同様、斯界の権威ということになっていました。

当初は売れない画家だった孝治は、特に夕子をモデルに描いた絵が徐々に世の中に認められていき、夕子も細々と雑誌の挿絵や絵葉書を描いて……という二人の生活。史実だと光太郎は智恵子をモデルとした彫刻も複数作り、発表もしましたが、その数は多くありませんでした。
無題
しかし、のちに『智恵子抄』に収められる詩群に智恵子を謳い、それによって智恵子のイメージが世に広まった部分はありました。そう考えると、劇中での孝治の智恵子を描いて好評を博した絵は、『智恵子抄』の詩群と置き換えられるように思いました。

細々と夕子に舞い込む仕事の依頼は、「絵にも描かれた孝治の妻」という形容詞がついてのものだったり、孝治の絵と違う服装でいると世間から違和感を感じられたり、と、このあたりはさもありなん、でした。ただし史実では、智恵子は主に母校の日本女子大学校の関係で挿絵や絵葉書などの依頼を受けていましたが、結婚後はそれもほぼ無くなっています。結婚後、智恵子が対外的に行っていたのは雑誌への文章等の寄稿。これも「新進芸術家・光太郎の妻」ということで依頼されていたのかも知れない、と、これは当方、そこまでは深く考えていませんでしたので、目から鱗でした。

『智恵子抄』オマージュは劇中に色々ちりばめられていて、例えば詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)関連のエピソード。

   あなたはだんだんきれいになる

 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。318486bb-s
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属。
 見えも外聞もてんで歯のたたない
 中身ばかりの清冽な生きものが
 生きて動いてさつさつと意慾する。
 をんながをんなを取りもどすのは
 かうした世紀の修業によるのか。
 あなたが黙つて立つてゐると
 まことに神の造りしものだ。
 時時内心おどろくほど
 あなたはだんだんきれいになる。

この詩に関しては、光太郎の散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)に、次のように語られています。

彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。

と私が書いたのも其の頃である。

このあたり、劇中ではかなり効果的に使われていました。孝治は夕子をモデルにした絵を「彼女の内面の美を引き出すんだ」と意気込み、実際、ある程度成功したり、古着屋のエピソードは「質屋」と置き換えられていましたが、夕子が対応して自分の着物を「もう着ない柄だから」と言って換金したり、と。「スエタアとヅボン」も。

しかし、そうやって「描かれた自分」と「実際の自分」とのギャップ、孝治や世間による自らの「聖女化」(それとて悪意は無いわけですし)、自身の絵は「孝治の妻が描いた絵」としてしか見られないことなどに耐えられなくなった夕子は壊れ始め……というあたりで終わります。それ以降を語るにはしのびない、あとは想像に任せる、という感じでしょうか。

というわけで、光太郎智恵子をモチーフとしながらも、一般的な話に落とし込み、よりリアリティが増しているように感じました。

会場では製本された台本(月森葵氏著)の販売も行われていまして、一部購入してきました。100ページ近くで1,000円也。お買い得です。公演は今日の昼の部まで。台本は主宰の「燦燦たる午餐」さんに申し込めば入手可能かも知れません。
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スタッフ・キャストなど関係の方々の今後のさらなるご活躍、さらに出来れば再演を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

検印紙は捺印しかけてありますが明三十日は小生山形市へ行かねばならなくなり、三日に帰つてきますから、帰つたらすぐ全部捺印して速達で送ります、

昭和25年(1950)10月29日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「検印紙」は澤田の龍星閣から翌月刊行された詩文集『智恵子抄その後』のためのもの。この年1月に発表した同題の連作詩を根幹とします。

その「あとがき」の最後にはこうあります。

「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。「智恵子抄その後」の奥底に何があるか、書いてから一年ばかりにしかならないので、まだ自分にもよく分からない。おそらくこれを読む人々が卻てそれを鋭く見ぬいてくれることであらう。

智恵子が歿して既に12年、この年は13回忌でした。それだけ経っても智恵子の姿はありありと光太郎の中に残っていたわけで……。

都内から演劇公演の情報です。

凌霄花の家

期 日 : 2024年12月20日(金)~12月22日(日)
会 場 : APOCシアター 東京都世田谷区桜丘5-47-4
時 間 : 12/20(金) 19:00 12/21日(土) 13:00/18:00 12/22日(日) 13:00
料 金 : 一般/4500円 学割/2000円(要学生証)

鬱蒼とした森の中に佇む一棟の廃屋。床から壁から屋根まで季節外れの凌霄花(ノウゼンカズラ)に覆われ、古びた画材や生活の痕跡が置き去られている。偶然そこに足を踏み入れた少女が黴と埃にまみれた日記帳を開いたとき、どこからともなく一人の男が現れる。彼は少女に、この家にまつわる話を聞いてほしいと頼む。かつてこの家に確かに在った、或る愛についての物語を――

作:月森 葵(燦燦たる午餐)  演出:戸塚萌(燦燦たる午餐)
出演:石倉来輝、畑中咲菜、中嶋真由佳
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フライヤーには智恵子による『青鞜』創刊号の表紙絵(明治44年=1911)があしらわれています。内容的にも出演者の方のX(旧ツイッター)投稿などによれば「高村光太郎・智恵子夫妻をモチーフに書かれたオリジナル台本です。」「能「定家」と高村光太郎『智恵子抄』にインスピレーションを得た、愛と芸術についての物語。」だそうで、これは観に行かねば、と思い、12月21日(土)の昼の部を予約しました。

今年は光太郎智恵子がらみの演劇を3本観ました。

心を病んでからの智恵子を主人公とし、自分の中に「かつての光太郎」や光太郎自身の思う「あるべき自分」はもはやここには居ないという描き方だった「哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー」、「かくあらねば」という姿に囚われ、自縄自縛に自らを追い込み、光太郎のモラハラを剔抉し、智恵子が壊れていく様を追った「売り言葉」、病んでなお紙絵を通して光太郎への愛のメッセージを送り続けた智恵子、的な「智恵子抄」……。今回、どんな光太郎智恵子が表わされるのか、興味深いところです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

其後閲読してゐましたが、此書は大変親切によく出来てゐます、本文はもとより、挿画その他も甚だ趣味が健康です。明るさがあり、又謎のやうなものもあり、おもしろいです。実地に演出した経験が見事に生かされて、細かいところまで注意が行届いてゐます、読者は大いに喜ぶでせう、


昭和25年(1950)9月19日 花巻賢治子供の会・照井登久子宛書簡より
 光太郎68歳

宮沢賢治の教え子だった照井謹二郎と、妻・登久子が起ち上げた児童劇団「花巻賢治子供の会」。昭和22年(1947)、郊外旧太田村に隠棲していた光太郎の慰問のために始められましたが、その後、活動の場を広げていきました。毎年春から初夏には太田村で、秋には花巻町中心街で公演を行い、光太郎も確認出来ている限り7回、それらを観ています。光太郎、若い頃から演劇鑑賞は大好きでした。

昭和25年(1950)には登久子がそれまで上演してきた脚本をまとめ、『どんぐりと山猫』を上梓、光太郎にも贈りました。それに対する礼状の一節です。
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昨日は上京し、お茶の水のワイム貸会議室さんで開催された「第18回明星研究会シンポジウム 大逆事件に震撼した時代~平出修・啄木・晶子」を拝聴して参りました。
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コロナ禍となって以後はオンライン限定でした明星研究会さんのシンポジウム。久しぶりに対面方式も復活(web上でも)ということで、自宅兼事務所がZOOM対応になっていませんので、ここぞとばかりに参加いたしました。

今回メインで取り上げられたのは平出修。光太郎より5歳上の明治11年(1878)、新潟の生まれ。筆名は「露花」。光太郎と同じ頃、与謝野夫妻の新詩社に加わり、明治41年(1908)に『明星』が終刊となると、翌年発刊されたその系譜を継ぐ『スバル』の編集等にあたりました。

横浜の神奈川近代文学館さんには、木下杢太郎に宛てられた書簡がごっそり所蔵されており、その中に『スバル』としての明治44年(1911)の年賀状が含まれています。

恭賀新年 明治四拾四年一月元旦 昴発行所 高村光太郎 吉井勇 江南文三 平出修

本文は印刷で、文面はこれだけですが、なぜか光太郎のが筆頭で、発行名義人だった江南の名が三番目(前年までの江南の前の発行名義人は石川啄木でした)、最後に平出の名も。

明治44年(1911)といえば、幸徳秋水・管野スガ等の大逆事件。平出は弁護士でもあり、被告の弁護にあたりました。

平出の令孫・洸氏は、明星研究会さんの世話役も務められた方でしたが、今年亡くなったそうで、昨日はその追悼を兼ねてのシンポジウムでした。
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ご発表はお三方。

まず、中川滋氏。やはり平出令孫で、洸氏の従兄弟にあたられます。
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血縁の方ということで、平出の系譜、没後の顕彰活動などについてのお話でした。

お二人目が明治大学教授・池田功氏。
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大逆事件のアウトライン、啄木は社会主義的思想に興味を持っていましたし、平出との関係もあり、この事件には非常に関心が高かったこと、事件を描いた平出の小説三編についてなど。

最後に会の中心人物・松平盟子氏。
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管野スガが晶子の短歌を激賞していたこと、スガ自身も晶子ばりの短歌を詠んでいたこと、収監後に平出が『スバル』や晶子の歌集を差し入れたりしたこと等々。

ご発表と並行し、晶子の短歌や、瀬戸内寂聴の小説『遠い声 管野須賀子』の一節を、ゲストの津田真澄氏(劇団青年座)が朗読なさいました。
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それぞれのご発表、特に新事実の披露等を含むと言うわけでは無かったようですが、平出や晶子、啄木についてそれほど詳しいわけではない当方としては、「そうだったのか」の連続で、実に興味深いものでした。

ちなみに光太郎と平出。先述の年賀状以外の関わりとしては、明治38年(1905)に光太郎から平出に宛てた書簡が一通知られています。

しばらく御無沙汰いたし居り候処益々御清福の段奉賀候 このたび御転居の御由御祝申上候 談論の筆も此より愈々麹町式の権威に神田式の辛辣を加ふべき事と存上候 失礼ながらはがきにて御移転御祝まで。

この転居に伴い、平出は自宅に法律事務所を開いたそうです。

光太郎と平出が共に写った写真が二葉確認出来ています。
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明治37年(1904)、新詩社小集での集合写真です。後列ののっぽが光太郎、その右下が平出、その右隣には鉄幹がどんと構えています。

これより前、明治34年(1901)のショット。
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投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号発行を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催した際の集合写真。総勢約80人、前から六列目の左端が光太郎です。ただ、平出は写っていることはわかっていますが、何処にいるのか当方には判りません。他にも窪田空穂や水野葉舟、横瀬夜雨、伊良子清白、河合酔茗などが写っているとのことです。

そして平出は大正3年(1914)、数え37歳で骨腫瘍のため早世。光太郎はその三日前に書いた詩「瀕死の人に与ふ」で平出を謳いました。この詩は雑誌『我等』に発表され、この年刊行された光太郎第一詩集『道程』にも収められました。

   瀕死の人に与ふ

 汝の病あつく
 汝はいま死に瀕んでゐる
 暗い、深い、無間の底から不可抗の手が
 すでに汝の手を握つた
 汝はいま何を考へ
 また何を望んでゐるか
 こんこんとして睡る者よ

 汝の縁者はみな涙にひたり
 汝の友はみな愁に凍えてゐる
 感動が人人の心に常習の魔術をかけた
 その中で
 汝は睡つてゐる
 しづかに、またやすらかに
 こんこんとして睡る者よ

 起きよ、めざめよ
 汝のその從順のこころを棄てよ
 汝のそのつつしみ深い忍默を破れよ
 死に背け
 死の面上に拳(こぶし)を与へよ
 死に降服する事なく
 ひたすらに生きよ
 死はただ空洞(うつろ)である
 死はただ敗残である
 死に落つるは人間の墮落である事を知れよ
 死ぬなかれ、死ぬなかれ
 こんこんとして睡る者よ

 汝は今まで生きながら死んでゐた
 汝の仕事は皆生(いのち)のない破片に過ぎなかつた
 汝の本能と良心とがめざめかけて來た時
 汝は死の力におさへられた
 そして脆くも死んでゆかうとする
 涙と哀悼とに囲まれ
 萬人の死を死なうとする
 起きよ、睡るものよ
 その甘美の情念を却けよ
 その卑屈な平安を軽んぜよ
 汝の生きる時また汝の一生に値ふ時が
 今こそ來たのである
 ひたすらに生きよ
 生きる事のまことを捉へよ
 汝の余命は短い
 疾く起きよ
 起きて此の広大無辺のいのちを得よ
 こんこんとして睡る者よ

 汝に濺ぎかけられる多くの涙を
 汝は明かに心読せよ
 人の感情の淫奔性を洞察せよ
 汝は正しく、たじろがず、乱れず
 汝の魂に人間の本体をめざましめ
 さらにその源泉たる自然を体感せよ
 現実の微妙に溶け込めよ
 謙讓を極めた今の汝の心をもつて
 いのちに入るはただ力の有無(ありなし)である
 起きよ、めざめよ
 死は醜し
 愚かなあきらめの小康に身をまかす事なかれ
 死に勝ち、死を滅ぼし
 あくまで汝のいのちに荘厳せられつつ
 肉体の敗闕と共に
 美しく、確然たる運命に帰れ
 起きよ、めざめよ
 こんこんとして睡る者よ

けっこうな長詩ですが、それだけに理不尽な死に対する怒りがよく表されています。

話があちこちに飛びますが、光太郎、大逆事件に関してはほとんど沈黙していました。僅かに事件をモチーフとした木下杢太郎の「和泉屋染物店」を面白いとした程度です。『高村光太郎全集』に、幸徳やスガの名は出て来ません。

しかし、『平民新聞』を購読し、後には幸徳の系譜に連なる大杉栄等のシンパに近い立場にもなった光太郎、何も感じていなかったわけがありません。

その答は最晩年、当会顧問であらせられた故・北川先生が残された「高村光太郎聞き書」に。

 洋行から帰ってきても、その問題にぶつかったな。はじめっから終りまで、それはあった。それで非常に困っちゃって、どうしても最後にはその壁にぶつかる。われわれは考えないでいるよりしょうがないと思った。
 その方にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。


狡いといえば狡い考え方ですが、ある意味、仕方がなかったかも知れません。

こういう社会と無縁に芸術精進、という生活が、後の智恵子の悲劇にも繋がったわけで、智恵子が病んでからはそれを是とせず180度方向転換。自ら積極的に世の中と関わろうとします。ところがその世の中の方が15年戦争でおかしな方向に進んでしまっていたわけで、それに加担した光太郎、最大の過ちでした。

閑話休題、幸徳やスガ、そして平出修。これからも語り継がれていって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今朝スバルの阿部三夫さんが友達と一緒に来訪。お名刺の紹介と委託のビール五本とを拝受しました。早速三人でビール三本をいただき、時ならぬ山の会飲をいたしました。阿部氏は自作詩朗読、尚浜離宮での写真も拝見しました。

昭和25年(1950)9月9日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳

「スバル」は戦後の第三次。与謝野夫妻の長男・光や吉井勇の勧奨で始められ、晶子の衣鉢を継いだ中原が主宰でした。光太郎はその題字を手がけた他、寄稿も多数行いました。

今年、花巻市に中原令孫から寄贈された大量の光太郎関連史料の中に、この書簡や「スバル」への寄稿原稿も含まれていました。

対面型及びオンラインでのシンポジウムです。主催は明星研究会さん。間際で申し訳ありませんが、締め切りが明日です。ただ、対面の方は2~3日前の段階で、まだまだ申し込みが少ないというお話でしたので、延長があるかも知れません。

第18回明星研究会シンポジウム 大逆事件に震撼した時代~平出修・啄木・晶子

期 日 : 2024年12月8日(日) 
会 場 : 対面型 ワイム貸会議室お茶の水 千代田区神田駿河台2-1-20 御茶ノ水安田ビル
      オンライン ZOOM対応
時 間 : 14時~16時30分
料 金 : 2,000円

1910年(明治43)、明治天皇への暗殺計画が準備されたかどで、首謀者に見做された思想家の幸徳秋水、その内縁の妻で新聞記者の管野スガ子らが逮捕されました。同時に、社会主義者、無政府主義者が全国で多数捕らえられます。翌年1月には十分な審理を受けることなく12名が絞首刑、12名が終身刑の判決を受けました。いわゆる大逆事件です。

強権的な思想弾圧事件は当時の人々を驚かせ、文学者にも大きな衝撃を与えました。その一人が石川啄木。啄木は「明星」同人の弁護士・平出修にひそかに陳弁書を閲覧させてもらいます。平出は大逆事件の弁護人でした。また獄中の管野スガ子は与謝野晶子の熱烈なファンで、平出はスガ子のために晶子の歌集を差し入れてもいます。スガ子は感謝の手紙を平出に送りました。あらためて思うのは、平出修はいわばこの事件における文学者側のキーマンでした。

平出修の子孫で、今年5月に逝去された平出洸さんを偲び、今回は開催いたします。対面とZoomとのハイブリッドで開催いたします。

●プログラム● 講演
「〈平出修研究会〉の沿革~平出洸氏を偲んで」 中川 滋(平出修子孫)
「大逆事件・啄木・平出修」 池田 功(国際啄木学会会長・明治大学教授)
「晶子とスガ子~修を介して交差した二人」松平盟子(歌人)朗読:津田真澄(劇団青年座)
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直接的には光太郎に関わりませんが、与謝野晶子、石川啄木、平出修、いずれも『明星』を通して光太郎と縁の深い人々でした。大逆事件の幸徳秋水や管野スガとは直接の交流はなかったようですが。

明星研究会さんのシンポ、コロナ禍となって以後はオンライン限定でしたが、久しぶりに対面方式も復活ということで、自宅兼事務所がZOOM対応になっていない当方としてはありがたく存じ、参加することに致しました。

対面、オンライン、御都合の良い方法で、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

御申越の「サンデー毎日」への転載といふことは一向差支ありませんが、「或日」といふ詩を小生思ひ出しません、どんな詩だつたのか、確に小生の詩なのか、不安な気もします、間違だつたら滑稽ですから一応おたしかめ下さい、

昭和25年(1950)7月26日 池田克己宛書簡より 光太郎68歳

「サンデー毎日」への転載」は、10月20日発行の増刊「中秋特別号」。巻頭カラーページには光太郎、北原白秋、佐藤春夫、室生犀星、萩原朔太郎等の旧作の詩に、東郷青児、足立源一郎ら当代きっての画家による挿絵がつけられた豪華な造りです。光太郎のページは、宮本三郎が担当しました。
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詩「或る日」は以下の通り。

    或る日

 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。

20年以上前の昭和3年(1928)の作で、題名も特徴的なものではないためでしょうか、光太郎、自分でどんな詩だったのか忘れていました。で、気軽に「転載してもかまわないよ」と答えたところ、届いた掲載誌を見てびっくり。

この詩は秩父宮雍仁親王と、旧会津藩主松平容保の孫・勢津子妃殿下のご成婚に題を採った詩でした。それに田舎の花嫁の輿入れ姿を描いた挿絵が附され、苦笑したわけです。

11月23日(土)、都内荒川区荒川ふるさと文化館さんで企画展示「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」、上野の東京都美術館さんで「第46回東京書作展」をそれぞれ拝観後、東京ドーム近くの文京シビックセンターさんで「第67回高村光太郎研究会」に参加。いったん千葉の田舎にある自宅兼事務所に戻りました。

翌11月24日(日)は、杉並区の荻窪小劇場さんへ。都内で一泊しても良かったのですが、宿泊するより往復の公共交通機関運賃の方が安いという判断で、両日とも日帰りにしました。11月9日(土)~11月18日(月)までは中野区のなかのZEROさんで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に毎日スタッフとして詰めておりまして、その間、鎌倉にも足を延ばしたりと、計算するのも恐ろしいほど交通費を使いましたが、世の中にお金を回すことに貢献しているかなと、変に自分に言い訳をしております(笑)。ちなみに片道2時間超です。

で、荻窪小劇場さん。
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こちらでは「劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄」を観覧。
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ちなみに平成29年(2017)には同じ会場にDangerous Boxさんという劇団の二本立て公演「門ノ月~Aida~/智恵子抄」を拝見に伺いました。もう7年も経つか、という感じでしたが。

今回の「智恵子抄」、基本、一人芝居です。演じられたのは茶山千恵子さん。富山県ご在住、地元で光太郎智恵子に関する市民講座講師を務められたり、ご自宅を開放なさって花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に調理された「光太郎ランチ」を予約の方に振る舞われたりと、精力的に活動されています。連翹忌の集いにも昨年今年と、続けてご参加くださいました。
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本編の前に、智恵子の姪にあたり、智恵子が昭和10年(1935)に南品川ゼームス坂病院に入院後、当時の一等看護婦の資格を持っていたことから、病院で一緒に生活する付き添いをした宮崎春子による「紙絵のおもいで」(昭和34年=1959)の朗読。こちらは4日間の公演で3人の方が日替わりで務められ、この日は一柳みるさんでした。

そして茶山さんによる一人芝居。

「智恵子抄」系の一人芝居というと、野田秀樹氏脚本の「売り言葉」が平成14年(2002)以来、様々な劇団や個人の方々が繰り返し取り上げてらっしゃいまして、当方も先月、平体まひろさんによる公演を拝見して参りました。そちらは光太郎智恵子の関係性をかなりアイロニカルに捉え、「智恵子を潰した光太郎」「モラハラから逃げることをせず自縄自縛に陥った智恵子」的な描き方でした。そこで、いろいろ考えさせられるものの、あまり後味のいいものではありません。

今回のものはそうした視点ではなく、心を病んだ智恵子の悲劇性はクローズアップされるものの、あくまでそれは仕方がなかった的なまとめ方でした。紙絵に関しても、言葉を失った智恵子から光太郎へのラブレターといった捉え方。そして全編「美しく」という流れの中で。

どちらを好むかは、人それぞれでしょう。

終演後、茶山さんと一柳さん。
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茶山さん、ステンドグラスの制作などもなさっているそうで、大道具的に配置されていたこちらも茶山さんのご自作とのことです。
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言わずもがなですが、智恵子による『青鞜』創刊号の表紙絵(明治44年=1911)がモチーフです。

その後、客席で懇親会。
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要請により、光太郎智恵子、さらには宮沢賢治についても語らせていただきました。

茶山さん、智恵子没後の光太郎を描く続篇も構想なさっているとのこと。期待したいところです。

以上、長々書きましたが、2日間の都内レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今年もまた子供さん達の劇を見せて下さつて、たのしい一日を過ごしました、今年は部落の少年少女ばかりでなく、開拓の方からも人が集まり、皆どんなによろこんであの日をたのしんだか知れないと思ひます、劇の選定もいいし、演出が巧みなのでどれも面白く、子供達の自由な動きですべて生き生きとしてゐました、賢治独特の味ひもよく生きてゐました、子供達の技倆もたしかに年々上達してゐるやうです、それに今年は音楽まではいつたので尚更愉快でした、

昭和25年(1950)7月2日 照井登久子宛書簡より 光太郎68歳

「子供さん達の劇」は、花巻賢治子供の会による児童劇。5月、6月頃には光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村で、秋には花巻町中心街で、それぞれ賢治の童話などを演目として公演を行い、光太郎はそれを楽しみにしていました。

都内レポートの第3弾です。

11月23日(土)、荒川区荒川ふるさと文化館さんで企画展示「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」、上野の東京都美術館さんで「第46回東京書作展」をそれぞれ拝観後、東京ドーム近くの文京シビックセンターさんに向かいました。こちらでは「第67回高村光太郎研究会」。
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年一回の開催で、今年のご発表はお二人。智恵子の故郷・福島二本松の「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの熊谷健一代表、智恵子に関するご著書等おありの大島裕子氏。
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熊谷氏の発表題は「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」。
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智恵子と光太郎がどのようにお互いに影響を与えつつ歩んでいったのかといったような点につき、智恵子の地元で顕彰活動に当たられているお立場から。

大島氏の方は、「智恵子について、今思うこと」。おおむね2本立てで、まずは氏が以前に明らかにされた智恵子の縁談について、さらに詳しく。

様々な研究書や、智恵子に関する二次創作等で、明治45年(1912)の時点で智恵子には郷里の医師・寺田三郎との縁談が持ち上がっていたものの、智恵子はそれを断って、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎の元に走った(光太郎が滞在していた犬吠埼まで追いかけていった)とされてきました。その話の大元は、昭和48年(1973)の第17回連翹忌の集いの席上、参加していた寺田の実弟・四郎が行ったスピーチでした。
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ところが、寺田三郎は既に明治41年(1908)に結婚、智恵子との縁談があったとされる同45年(1912)には2人の子まで為していました。智恵子との縁談が持ち上がったのはもっと前、同40年(1907)頃、昭和48年(1973)の時点で上記のスピーチをした四郎ももう高齢で、70年近く前の話でもあり、記憶違いがあったのだろうとのこと。
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それでは明治45年(1912)の智恵子の縁談というのは何だったのか、ということになります。大島氏は寺田三郎以外の誰かと縁談があったのでは、と推測されています。傍証はこの時期に書かれた智恵子の親友・田村俊子の小説類。
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「Yさん」というのが光太郎のことですね。

実際に誰かと縁談があった可能性が高いでしょう。それがいつ作られたか詳細は不明ですが、婚儀用の豪華な打掛も残っていますので、ほぼ話は纏まっていたのではと推測されます。

ただ、恋愛問題に対して煮え切らない態度を取っていた光太郎に対し、ありもしない縁談をでっち上げて、光太郎の気持ちを確かめようとしたという可能性も捨てきれません。今後、そのあたりが解明されていくことを期待します。

4377a952さらに大島氏、昭和4年(1929)の智恵子の実家・長沼酒店破産前後の福島の地方紙報道から、智恵子や親族の動向なども。なかなか興味深い内容でした。

研究発表会は年に一度。会報的な『高村光太郎研究』が年刊で4月の連翹忌に合わせて発行されています。だいたい前年の発表者が発表内容を元に論文的なものを寄稿する慣例です(全くそれを無視した意味不明のものが載っている場合もあって閉口しているのですが)。それ以外に当方は新発見の光太郎文筆作品を紹介する「光太郎遺珠」、それから1年間を振り返る「高村光太郎没後年譜」を任されています。研究会に入会し、会費3,000円を納めれば送られてくるシステムです。

そういうわけで研究誌としてのレベルはあまり高いものではありませんが、参加のハードルもそれほど高くない点はいいところでしょう。奥付画像を載せておきますので、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。主宰の野末氏、毎年の発表者の確保に苦労されているようですし。

【折々のことば・光太郎】

一、お茶 [六月廿五日発送]右受領候也 六月廿七日 純粋な川根のお茶はまことに美味、丁度もらつた八戸せんべいがあるので申分ありません

昭和25年(1950)6月27日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

澤田は『智恵子抄』版元の龍星閣主。光太郎、澤田からのさまざまな贈り物に対し、几帳面に受領証的な返信を続けました。「八戸せんべい」は南部煎餅ですね。

11月23日(土)、都内3ヶ所を巡りましたが、まず最初に訪れたのが荒川区の荒川ふるさと文化館さん。こちらで「令和6年度荒川ふるさと文化館企画展「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」」が開催中です。

「銅像」「近代」とくれば、光太郎や光太郎の父・光雲、もしかすると光雲三男にして光太郎実弟の豊周にも関わるかと思っていたのですが、ネット上の情報ではそのあたりが不分明で、事前にはご紹介していませんでした。

そこで突撃取材。
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事前に得ていた情報では、荒川区日暮里周辺には鋳造工場が多く、近代の銅像にはこの地で鋳造されたものが少なからず存在し、それぞれの工場の職人にスポットを当てる展示とのこと。

銅像の場合、一般の認識はまず「誰の姿をかたどった像であるか」。「西郷隆盛の像」「楠木正成の像」というふうに。多くはそこで終わってしまいます。一定以上の興味を持つ人々は「原型の彫刻作者は誰か」まで考えます。まぁ、普通はせいぜいここまでですね。「鋳造を誰が手がけたか」まで気にする人はほとんどいません。そこまでの情報もあまり公表されておらず、当方にしたところで、銅像ではない彫刻作品であっても、光太郎や光雲が原型を作ったものの鋳造者がそれぞれ誰であるか、そのすべてを把握しているわけではありません。

ちなみに光太郎のブロンズは、光太郎生前であればその多くは実弟の豊周が手がけ、戦後は豊周弟子筋の齋藤明、西大由などの手になるものが目立つ感じです。光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」「楠木正成像」などは、岡崎雪声。彼等は他人の彫刻原型を鋳造することもしましたが、自分でもオリジナルの鋳金作品を制作発表し、その方面で名を成している人々です。

今回の展示はそういった面々ではなく、純粋な「職人」がメイン。「名も無き」というと失礼ですが、いわば「地上の星」のような存在です。

まず館内に入ると、受付より手前のロビーにパネル展示。日暮里に工房を構えた職人達の手がけた銅像の写真と、関わった職人達の名。
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全く不勉強だったと反省させられました。恥ずかしながらほとんど名を存じませんでした(一人二人、何となく記憶の底に引っかかる名はありました)。原型制作者の彫刻家はもちろん知っていましたが。

このコーナーを過ぎ、受付で観覧料100円(もっと取っていいよ、という感じですが(笑))を払い、展示室内へ。

彼等が関わった「銅像」に関してのパネル展示がメインでしたが、一部、銅像ではない小品で実際の鋳造作品も並んでいました。また、古書籍や文書等も。

ざっと見たところ、光太郎や豊周の名は見つかりませんでしたが、光雲の名はあちこちに。
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昭和3年(1928)に刊行され、全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍。「西郷隆盛像」「楠木正成像」、ともに鋳造者としては岡崎雪声の名が伝えられていますが、その助手として働いたのが日暮里に工房を構えていた平塚駒二郎という職人だったそうです。特に西郷像の方は校長の岡倉天心がバッシングされた美術学校騒動で岡崎が連袂辞職してからは、平塚が中心になって進められたとのこと。全く存じませんでした。
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秋田の千秋公園にかつてあった佐竹義堯像。こちらは安部胤斎という職人が鋳造したそうです。

購入した図録によると、安部は光雲作品の鋳造を他にも手がけています。そのため、安部の名だけは何となく記憶に残っていましたが、あれもこれも安部の鋳造だったか、という感じでした。
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左は福井にあった大和田荘七銅像。ちなみに大和田荘七は俳優の大和田伸也さん・貘さんご兄弟のご先祖様です。右上でトーハクさん所蔵の銅製聖徳太子像

右下の長尾精一像は、佐竹像、大和田像同様、戦時の金属供出で失われましたが、光雲による塑像原型が残っていたことがわかり、つい先日、千葉大学さん亥鼻キャンパス内に再建されました。画像はX(旧ツイッター)投稿から。
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キャンパス内に入れてもらえるのであれば見に行こうと考えていた矢先でしたので、実に驚きました。

下は安部に関する展示パネル、それから図録表紙。
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図録はほぼほぼオールカラー100ページ近くで、何と510円。情報量満載で実にお買い得です。

詳しく経緯が書かれている、仙台青葉城に立つ、かの伊達政宗像も日暮里の「伊藤美術研究所」で鋳造されたことなど、全く存じませんでした。

ただ、この方面、まだまだいろいろ解明が進んでいないようです。「伊藤美術研究所」にしても、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の鋳造を手がけた伊藤忠雄が関わっているはずなのですが、こちらでは伊藤和助という職人に関してがメイン。和助と忠雄の関係など、当方も存じません。和助が先代で、忠雄が二代目なのかな、などと推理しているのですが、そのあたりご存じの方、ご教示いただければ幸いです。

また、図録表紙にも使われ、昭和15年(1940)、皇居ちかくに建てられた和気清麻呂像。こちらの原型は光雲孫弟子の佐藤朝山(のち玄々・本名は清蔵)が作ったはずで、光太郎もこの像を好意的に評したりしていたのですが、今回の展示では佐藤の名が見あたりません。図録にはほんの少し記述がありましたが。
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今後、この方面の研究がもっと進むことを期待します。

さて、展示の概要を。

令和6年度荒川ふるさと文化館企画展「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」

期 日 : 2024年10月26日(土)~12月1日(日)
会 場 : 荒川ふるさと文化館 東京都荒川区南千住6-63-1
時 間 : 9時~17時
休 館 : 月曜
料 金 : 100円

本展では、昭和5年の日暮里町生産品展覧会に出品された獅子形の香炉「獅子(制作年不明)」や堀川次男氏制作の鋳造「堀川子之吉胸像(昭和32年制作)」のほか「伯爵大隈重信閣下御寿像(明治45年制作)」、「工学博士原龍太氏之像(大正3年制作)」、「和気清麻呂像完成記念写真(昭和15年)」の縦4メートルの巨大バナーなどが展示されています。また鋳造家の家に伝わった銅像完成時の貴重な古写真等も展示しています。現在の伝統工芸につながる日暮里にいた鋳造の職人の幅広い仕事ぶりがわかる企画展となっています。

また、「あらかわの伝統工芸—金工・諸工芸—」展(10月11日(金曜)~令和7年3月12日(木曜))とあらわ座市(伝統工芸品の展示・解説・販売)(11月2日(土曜)~4日(月曜・振休))も同時期に開催します(無料)。
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ちなみに別途料金無しで常設展示も拝観可。昔の下町の街並みが再現されており、いい感じです。
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お隣には由緒ありそうな千住天王素盞雄神社さん。
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色づいたイチョウが実に見事でした。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日ラジオで金閣寺全焼の報をききびつくりしました。あの建築は大していいものではありませんが。

昭和25年(1950)7月2日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

言われてみれば、この年だったのですね。

昨日は上京し3件の用件をこなして参りました。

行った順に、
 ・荒川区荒川ふるさと文化館さんで企画展示「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」拝観
 ・上野の東京都美術館さんで「第46回東京書作展」拝観
 ・文京シビックセンターさんで「第67回高村光太郎研究会」に参加
でした。

このうち「第46回東京書作展」が今日までですので、もしかするとこのブログを見て行ってみるか、という方もいらっしゃるかも知れないと思い、時系列を無視してそちらのレポートから。

会場の東京都美術館さんのある上野公園、紅葉に彩られていました。
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この手の書道展はおおむねお世話になっている書家の菊地雪渓氏から招待状を頂いて参上しています。こちらの「東京書作展」は、全国公募のもので、菊地氏、令和元年(2019)の第41回では最高賞である内閣総理大臣賞/東京書作展大賞を受賞なさっています。その後、無鑑査で毎年ご出品。

今年の出品作。
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杜甫の漢詩ですね。あいかわらずお見事です。

そちらを拝見後、他の方々の出品作で、光太郎詩文が書かれた作品を探しました。この手の書道展では宝探し的なそれが大きな楽しみです。

見落としが無ければ3点出ていました。

「特選」入賞作。「手紙に添へて」(昭和13年=1938)。
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002光太郎詩の中ではマイナーな部類のものですが、よくぞ取り上げて下さいました。

  手紙に添へて

 どうして蜜柑は知らぬまに蜜柑なのでせう
 どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
 中にかはいい部屋を揃へているのでせう
 どうして蜜柑は葡萄でなく
 葡萄は蜜柑でないのでせう
 世界は不思議に満ちた精密機械の仕事場
 あなたの足は未見の美を踏まずには歩けません003
 何にも生きる意味の無い時でさへ
 この美はあなたを引きとめるでせう
 たつた一度何かを新しく見てください
 あなたの心に美がのりうつると
 あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます
 どんなに切なく辛(つら)く悲しい日にも
 この美はあなたの味方になります
 仮りの身がしんじつの身に変ります
 チルチルはダイヤモンドを廻します
 あなたの内部のボタンをちよつと押して
 もう一度その蜜柑をよく見て下さい

やはり過去の第40回展(平成30年=2018)で、光太郎詩「冬」(昭和14年=1939)を書かれて東京都知事賞に輝かれた中原麗祥氏。今年は「雪白く積めり」(昭和20年=1945)。
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もう1点、『智恵子抄』から定番の「あどけない話」(昭和3年=1928)を書かれた方も。
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それぞれ、ありがとうございました。

東京都美術館さんで、会期は今日までです。ぜひ足をお運びください。

ところで「今日まで」というと、杉並区の荻窪小劇場さんで、「劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄」も11月21日(木)に開幕し、今日まで。今日はそちらに伺いますが、当日券もあるようです。こちらもお時間のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

木村さんの会には出たいのですが何分遠隔の地にあるので不本意なから欠席します、『魔の宴』も忝く拝受 いろいろの事をおもひ出します、

昭和25年(1950)6月19日 和田豊彦宛書簡より 光太郎68歳

ca6d4a55「木村さん」は木村荘太(艸太)。武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家です。フユウザン会などで光太郎と親しかった画家・木村荘八の実兄でもありました。遠く明治末には、吉原河内楼の娼妓・若太夫をめぐって光太郎と三角関係となり、決闘未遂にまでなりました。

『魔の宴』はその頃を回想した自伝的小説で、この年5月に刊行されました。若太夫をめぐるすったもんだなどにも詳しく触れられています。

木村、大正12年(1923)から、旧遠山村(現・成田市。光太郎の親友・水野葉舟も住んでいました)に移り、旧制成田中学(現・成田高校さん)や図書館などに勤務していましたが、何を思ったか、この刊行直前の4月に、成田山新勝寺内の成田山公園で縊死してしまいました。

保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、折り返しを過ぎまして、今日を含めてあと4日となりました。

初日(11月10日(日))には関連行事としまして、
劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー

その翌日、11月11日(月)には、
建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が行われました。
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内田氏は主にアトリエ設計者である建築家・山口文象に関して。

伊郷氏は施主だった水彩画家・中西利雄と、完成したアトリエについて。
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山口と中西利雄に関しては、当方もあまり詳しくありませんので、実に参考になりました。

下記は展示されているパネルをプリントアウトしたもの。
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展示と言えば、アトリエに関しては詳細な図面等も展示してあります。
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模型も。
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渡辺えりさんとお父さまの光太郎や中西アトリエに関するコーナーも新設しました。
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昨日の『東京新聞』さん。

「存続危機のアトリエ知って」 中野で企画展 18日まで 高村光太郎も晩年滞在

 中野区内に点在するアトリエ建築を紹介する企画展「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」が、中野ZERO西館2階の美術ギャラリー(中野2)で開かれている。18日まで。
 中野には、戦前から若い芸術家らが豊かな風景を求めて移り住み、制作活動の場として多くのアトリエが建てられた。企画展は、アトリエの記録を残そうと、区内で歴史的建造物の保存や調査活動をする市民団体「中野たてもの応援団」が集めた資料など50点を展示する。2019年に続き2回目。
 区内に残る十数ヶ所のアトリエをパネル形式で紹介。中でも大正から昭和に活躍した洋画家で「水彩画の巨匠」と呼ばれた中西利雄(1900〜48年)のアトリエ(中野3)については、写真や図面、模型なども展示して詳しく解説している。
 中西のアトリエは、一方向に傾斜する片流れ屋根の木造一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に大きな窓があるのが特徴だ。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が晩年の3年半滞在し、代表作「乙女の像」の塑像を制作した。光太郎をしのぶことができる建築は都内では中西アトリエが唯一とされ、貴重な建築という。光太郎の手紙やデッサンなども並ぶ。
 同団事務局の十川(そがわ)百合子さんは「中西アトリエをはじめ多くのアトリエが所有者が亡くなるなどして存続の危機にある。今も街の中に残るアトリエをギャラリーなどとして活用できたら」と話している。
 入場無料。午前10時〜午後6時(最終日は午後4時まで)。会場では中西アトリエ保存を求める署名も受け付けている。

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昨日、といえば、中野区長さんもいらっしゃいました。
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11月18日(月)まで。通常、18:00までですが、最終日は撤収作業のため公開は16:00で打ち切ります。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

イサム ノグチ氏来朝の由で愉快ですがやはり小生は東京へ行けさうもありません。同氏のオブジエは立派だと思ひます。


昭和25年(1950)5月29日 笹村草家人宛書簡より 光太郎68歳

彫刻家イサム・ノグチは、明治37年(1904)、詩人にして英文学者の野口米次郎と、アメリカ人作家レオニー・ギルモアとの間に、アメリカロサンゼルスで生まれました。父は光太郎とも交流があり、後年、ノグチ自身も光太郎の知遇を得ることとなりました。

3歳の時に来日し、幼少期を日本で過ごし、造型作家となることを夢見るようになって、14歳で再渡米、周囲の勧めもあり彫刻の道へと進みます。かつて光太郎が留学中にその助手を務めた彫刻家ガットソン・ボーグラムに弟子入りするも、そりが合わず訣別して独立。パリに留学してコンスタンティン・ブランクーシに師事。その後はニューヨークに拠点を置きつつ、日本を訪れて陶芸を学ぶなどしました。太平洋戦争開戦後は日系人ということで収容所生活も経験。スパイや二重スパイの嫌疑をかけられ、多大な苦労をしたとのこと。

戦後、昭和25年(1950)に再来日し、同36年(1961)まで日本に滞在。その間、李香蘭こと山口淑子と結婚、一時、中西アトリエを借りて彫刻制作を行いました。彫刻以外にもアメリカ時代からインテリアデザインに興味を持ち、日本で丹下健三、谷口吉郎らの建築家と親しく交わって、庭園設計なども行った他、採用されなかったものの広島の原爆慰霊碑の設計にも取り組みます。また、中西アトリエを出て鎌倉に移り、北大路魯山人に陶芸を学んだりもしています。

その後に光太郎が中西アトリエを借りたわけです。

年に一度の研究発表会です。といっても、堅苦しいものでは全くありません。少人数で和気あいあいと、アットホームにやっています。

第67回高村光太郎研究会

期 日 : 2024年11月23日(土・祝)
会 場 : 文京シビックセンター 東京都文京区春日1-16-21
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円

発 表 : 「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」 熊谷健一氏
      「智恵子について、今思うこと」 大島裕子氏

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昨年の様子はこちら

今年は智恵子の故郷・福島二本松で活動されている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの熊谷健一代表、智恵子に関するご著書等おありの大島裕子氏のご発表。智恵子に少しウェイトが傾くかな、という感じです。

案内文書には「懇親会を取りやめます」とありますが、有志で勝手に行います(笑)。

会に入会なさらずとも、聴講のみ可。聴いてみて、これなら活動に加われそうだという方は入会なさって下さい。決して怪しい団体ではありません(笑)。ホワイト案件です――とか書くと却って疑われますね(笑)。

【折々のことば・光太郎】

山ではまつたく今新緑の美しさ無類です、その上ツツジも満開、スミレ、イカリ草など色とりどりの花が地上に満ちて実に豪華な装ひです、 四十雀、うぐひす、クロツブミ、山鳩の声にめざめ、蛙の声にねむります。


昭和25年(1950)5月9日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎68歳

5月、岩手の山あいでも好季節を迎えました。これがもう少し暑くなると光太郎はほとんど活動停止になってしまうのですが(笑)。

昨日開幕した、保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱの関連行事として企画した、渡辺えりさんと当方によるトークショー的な講演会、「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。つつがなく終わりました。
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高村光太郎とは何者だ? というような話から、実際に生前の光太郎と交流がおありだった戦時中や戦後の御両親のお話、お父さまが連翹忌や花巻の高村祭にご参加下さったお話、ご自身も小さい頃から光太郎詩を子守唄代わりに聞かされて育ったお話、舞台やテレビで光太郎を取り上げたお話、そして中西利雄アトリエを受け継がれた子息・利一郎氏とのご交流、さらにはその中西利雄アトリエを保存していこうじゃないかというようなお話などなど。

当方はPCでスライドショーの操作をしながらだったので座らせていただきましたが、えりさんはスクリーンの前にずっと立ちっぱなしで熱く語られた約2時間でした。

聴かれた方にはおおむね好評だったようで、胸をなで下ろしております。

ところで、ここで書くべきかどうか……とも思ったのですが、書きます。

えりさん、お母さまがご危篤ということで、故郷の山形に帰ってらしたのですが昨日はこのイベントのために上京。そしてイベント終了後の20時38分、そのお母さまが亡くなったそうです。
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そのお母さまのお話もしていただきました。戦後の昭和25年(1950)11月、若かりしお母さまは蓄膿症の手術を受け、山形の病院に入院されていたそうです。すると、御結婚前だったお父さまが病院の窓から現れ「高村光太郎先生の講演会が山形でこれから開かれるから、聴きに行こう」と、お母さまを病院から半分無理矢理連れ出したとのこと。その講演自体は音響が良くなく、あまり聴き取れなかったそうですが、お母さまもお父さまの影響で、光太郎ファンとなられ、のちに還暦の祝の引き出物には光太郎の詩集『智恵子抄』を皆さんに配られたなどというお話も。

お母さまの最期に立ち会わせて上げられなかったという意味で、えりさんには誠に申し訳ないのですが、それでも、こうして御両親のお話をなさったその日に亡くなられたお母さま、先に逝かれたお父さまともども、きっとえりさんに「よくやった」とおっしゃって下さっているのでは、と思います。

以下は昨日のスライドショーからの画像。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

尚、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事としての講演会第二弾、建築家の内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が、本日18:30~で、アトリエ展会場のなかのZEROさんにて行われます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生明日花巻に出で、明後日役場の二階で美術講話をいたす事になつて居ります、地方に居りますとかやうの事も已むを得ぬ場合が時々ございます、


昭和25年(1950)5月12日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、自分は戦争責任を恥じての蟄居中なので、あまり人前に出るのは気が進まないという感じでしたが、その人品骨柄を慕う人々から「ぜひご講演を」という依頼は引きも切りませんでした。

光太郎が講演を行った当時の花巻町役場の建物、移築されて現存しています。
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保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、本日開幕です(11月18日(月)まで)。

昨日は会場のなかのZEROさん西館美術ギャラリーにて、展示物の搬入と会場設営を行いました。

作業風景。
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壁面にはパネル展示で、中西利雄ついて、建築としての中西利雄アトリエの解説、中西利雄の没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、光太郎について。
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それから、光太郎をメインに据えて下さると云うことで、中西家からお借りしたものプラス当方手持ちの品々を持ち込みました。
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展示ケースも4台ありましたので、そちらにも。
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彫刻家としての光太郎関連。
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詩人としての側面から。
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中西アトリエでの光太郎。
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他の美術家のアトリエについてもパネル展示で。
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今日は初日ですが、いきなり14:30からこの場で関連行事としてのトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」を行います。劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方による丁々発止(笑)。

さらに11月11日(月)、18:30~20:30には、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。

すべて入場無料です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生ますます山男となり、最低生活をよろこんで居ります、低きに居るものの幸を味つてゐます、


昭和25年(1950)4月27日 宅野田夫宛書簡より 光太郎68歳

言葉通り、上級国民としてではなく、最底辺に近い暮らしから世の中を見つめ続けていました。

2年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、中野の中西利雄アトリエに入りますが、この時点ではまだそうなることなど夢にも思っていなかったと考えられます。

都内から演劇公演の情報です。

劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄

期 日 : 2024年11月21日(木)~11月24日(日)
会 場 : 荻窪小劇場 東京都杉並区荻窪3-47-18 第五野村ビル1F
時 間 : 開場 13:30 開演 14:00
料 金 : 前売 一般4,000円 中高生2,000円  当日 一般4,500円 中高生2,000円

彫刻家であり詩人でもある、高村光太郎その妻智恵子。珠玉の愛の物語『智恵子抄』を一人芝居でお届けします。

皆さまへ、高村光太郎「智恵子抄」との出逢いは、20代後半でした。 あの頃は人生が180度変わる出来事に襲われ、それ以来私は、人を信じる事が出来なくなりました。 トンネルの中を歩いているような数年を過ごしたある時、祖父の書斎で「智恵子抄」を見つけました。 何気なくパラパラと捲り、随筆「智恵子の半生」を読むうちに涙がとめどなく流れ嗚咽していました。 ようやく心の糧になるものに巡り会えた! そんな気持ちでした。それから毎日、智恵子抄を読むうちに、 光太郎 智恵子の生き様に涙し、また励まされ、胸をときめかせました。 稀有な愛の世界を一人でも多くの人に伝えたい。それが私の願いになっていきました。 地元富山では、10年前から一人芝居として「智恵子抄」を公演し好評を得て再演を重ねました。 もっと沢山の方に知って頂きたくて、東京公演を決定しました。

皆様のお越しを心よりお待ちしています♡

出 演 : 茶山千恵子
朗 読 : 一柳みる(劇団昴) 西山水木(下北澤姉妹社) 
      小飯塚貴世江(キヨエコーポレーション)

本編の前にゲストの朗読があります(15分) 宮崎春子 「紙絵のおもいで」
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富山県高岡市ご在住の茶山千恵子氏。地元で光太郎智恵子に関する市民講座講師を務められたり、ご自宅を開放なさって花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に調理された「光太郎ランチ」を予約の方に振る舞われたりと、精力的に活動されています。

今回の「一人芝居智恵子抄」は、令和元年(2019)に富山で上演されたものの再演のようです。

本編の前に、日替わりでゲストの方が朗読をなさるそうです。題目は宮崎春子「紙絵のおもいで」(昭和34年=1959)。春子は智恵子の姪にあたり、智恵子が昭和10年(1935)に南品川ゼームス坂病院に入院後、当時の一等看護婦の資格を持っていたことから、病院で一緒に生活する付き添いをしていました。そしてほとんど唯一、智恵子の紙絵制作の現場を目撃した人物です。
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春子は戦争が終わった昭和20年(1945)12月、光太郎の仲立ちで、光太郎と親交のあった茨城の詩人・宮崎稔と結婚しました。光太郎はそれ以前の同年始めに智恵子紙絵の約3分の1を宮崎家に疎開させており、上記は戦後になってそれを見る春子を写したショットです。

招待券を頂いてしまいまして、お邪魔します。ただ、日程調整がうまくゆかず最終日になっていまいますが。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の病状記を書いておいて下さる事は興味もあるし一般の参考にもなると思いひます、春子さんとお二人で協力されたら面白いとおもひます、 病状と一緒に切抜絵制作の実際をもみたまま書かれるやうにとおもひます、 今盛岡で切抜絵の展覧会をやつて居ます。末日頃小生も一寸見にゆくつもりでゐます。

昭和25年(1950)4月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

春子の夫・稔に宛てた書簡から。主に春子への聞き書きのような形で稔が智恵子の病状記録を残そうとしていたようですが、この時点ではそれは実現しませんでした。

盛岡での紙絵展は4月19日~30日、川徳画廊で開催されていました。宮崎家とは別に花巻の佐藤隆房宅に疎開させた紙絵の中からセレクトしてのものでした。

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