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11月22日(土)と23日(日)、全日本合唱連盟さん主催の第78回全日本合唱コンクール全国大会の大学職場一般部門が開催されました。

そのうち大学ユースの部の結果を報じる『朝日新聞』さん記事。

都留文化大とソレイユ大臣賞 全日本合唱コン

 第78回全日本合唱コンクール全国大会の大学職場一般部門が22日、佐賀市文化会館で始まった。大学ユースの部と室内合唱の部で計10団体が金賞に輝き、それぞれ都留文化大合唱団(山梨)と女声合唱団ソレイユ(佐賀)が最優秀にあたる文部科学大臣賞を受けた。
 審査結果は次の通り。(特別賞以外の並びは出演順)
 ◇大学ユース(6人以上、28歳以下)
【金賞】都留文科大合唱団(山梨)=文部科学大臣賞=、
    Ensemble SAKAE(埼玉)=佐賀市教育委員会教育長賞=、
    
早稲田大コール・フリューゲル(東京)=日本放送協会賞=、
    関西学院グリークラブ(兵庫)、東京科学大混声合唱団コール・クライネス(東京)
【銀賞】早稲田大女声合唱団(東京)、九大混声合唱団(福岡)、金沢大合唱団(石川)、
    同志社グリークラブ(京都)、新潟大合唱団(新潟)
【銅賞】愛媛大合唱団(愛媛)、福島大混声合唱団(福島)、Chor Karmin(鳥取)、
    北海道大合唱団(北海道)

 ◇室内(6~24人)
【金賞】女声合唱団ソレイユ(佐賀)=文部科学大臣賞=、
    Chor Alyssum(東京)=佐賀市長賞=、
    AF合唱団(千葉)=日本放送協会賞=、
    Choeur Premier(千葉)、Ensemble Nisi(京都)
【銀賞】アンサンブルVine(京都)、札幌チェンバークワイア(北海道)、
    こそり(福島)、倉敷少年少女合唱団(岡山)
【銅賞】エシュコル(愛知)、Serenitatis Ensemble(徳島)、Ensemble Nix(福岡)

東京都代表の早稲田大コール・フリューゲルさんが、金賞および日本放送協会賞に輝きました。自由曲に新実徳英氏作曲の「愛のうた -光太郎・智恵子-男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」から「レモン哀歌」を演奏されての受賞でした。おめでとうございます。
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昨年も金賞ということで、9月に開催された都大会はシードで特別扱い。課題曲・自由曲1曲ずつのみの他団体とは異なり、自由曲としては「レモン哀歌」を含む4曲が演奏されました。全国大会出場は約束されていましたが、全国での自由曲が4曲の内のどれとその時点では発表されていませんでした。

以前ですと事前に各出場団体の演奏曲目がテキストデータでネット上に上がっていたのですが、今回はPDFや画像データでの予告で、見落としていました。来年以降、気をつけます。
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コンクール後に行われる各団体の定期演奏会等で、コンクールの自由曲として演奏した作品をプログラムに入れるケースが結構あります。フリューゲルさんもそうで、来月開催予定のコンサートに「レモン哀歌」も入っていました。

早稲田大学コール・フリューゲル 第70回定期演奏会

期 日 : 2025年12月12日(金)
会 場 : 小金井宮地楽器ホール 大ホール 東京都小金井市本町6-14-45
時 間 : 18:30~ 
料 金 : 全席自由 1,000円

曲 目
 ・ 『レモン哀歌』 《愛のうた -光太郎・智恵子-》
   男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのためにより
   [ピアノ-リダクション(四手連弾)版] 作曲:新実徳英  作詩:高村光太郎
 ・ 『彼岸花』 男声合唱組曲《雪と花火》より 作曲:多田武彦  作詩:北原白秋
 ・ 《Missa Papae Marcelli》より 作曲:Pierluigi da Palestrina
 ・ 男声合唱とピアノのための《あらゆる日も夜も》 作曲:根岸宏輔  作詩:川崎麻希
 ・ ポップス アラカルト 編曲:清水昭
 ・ 男声合唱と三つの打楽器のための《紋》 作曲:松本望  作詩:金子光晴

出 演
 指 揮:清水敬一(常任指揮者)/清水昭/真下洋介/小野由寛(学生指揮者)
 演 奏:早稲田大学コール・フリューゲル
 ピアノ:小田裕之/井川弘毅  パーカッション:篠崎智 

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「レモン哀歌」、本来はオーケストラ伴奏として作曲され、令和4年(2022)の慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団さんの第146回定期演奏会で同団依嘱作品としてオケ伴で初演され、その際のライブ演奏を録画したDVDで拝聴しました。全音さんから刊行された楽譜はピアノ連弾の伴奏となっており、フリューゲルさん、コンクールでも定演でもその形での演奏です。

ピアノ連弾バージョンは聴いたことがないので、行ってみようかなと思っております。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ロダンにとつては、生きてゐるといふ理由のみであらゆる生きて居るものは美しい。そしてあらゆるものは同等に美しい。

光太郎訳 アサア サイマンス「ロダン論」より
大正3年(1914)訳 光太郎32歳

名もない草花にも「美」を見出す、言うのは簡単ですが、それを常に意識するのは難しいような気がします。

朗読のワークショップだそうで。

壤晴彦・演技/朗読短期ワークショップ 11月『「ニュアンス」ってどうやって付けるの? 智恵子抄』

期 日 : 2025年11月21日(金)~11月23日(日)
会 場 : 演劇倶楽部『座』サロン 新宿区新宿5-9-11 アルメリア新宿1F
時 間 : 金・土/18時〜21時、日/13時〜17時 計10時間
料 金 : 20,000円
講 師 : 壤晴彦

あなたは自分の『本当の声』を知っていますか?
「良い声」だと思い込んだ、あるいは教えられた「声」に必死に近づこうとしていませんか?
「自分には遠くまで届く張りのある声は出ないんだ」とあきらめていませんか?

「声真似」ではない、自分の『本当の声』に出会い、「聞く耳に心地良く」「健康効果も抜群」の『省エネ発声法』の他、朗読や台詞・演技のスキルアップに役立つ技術を、テーマ別に指導します。

11月『「ニュアンス」ってどうやって付けるの?』
動詞・形容詞・形容動詞、時には名詞‥‥声の強弱・高低・圧・スピード・温度・湿度‥‥単語ごとの立体化・有機化が「文章の味わい」となります。一つ一つのフレーズを丁寧に扱い、瑞々(みずみず)しい言葉世界を目指します。
教材:智恵子抄(高村光太郎)
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講師の壤晴彦氏は、ご自分でも朗読の公演をなさるかたわら、朗読教育にもご関心が高く、教材としてのCDも出されています。

こちらで把握している限りでは、昨年さいたま市で、今年は都内秋田県で、それぞれ「智恵子抄」朗読を含む公演にご出演。当方は都内での公演を拝聴に伺いました。教材的なCDは平成24年(2012)にリリースされています。

今回の講座は、4月から12月まで3日間ずつ、計27日間。そのうち今月開催分で「智恵子抄」がテキストとして使われます。他の月で取り上げられた/取り上げられる作品は、宮沢賢治「どんぐりと山猫」、アンデルセン「絵のない絵本」、小川未明「野ばら」、夏目漱石「夢十夜」、芥川龍之介「藪の中」など。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

肝腎な点は感動する事、愛する事、望む事、身ぶるひする事、生きる事です。芸術家である前に人である事!


光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

当会顧問であらせられた故・北川太一先生は、光太郎が訳したこの一節を好まれ、頼まれて書く揮毫などによくこの一節、それから昨日ご紹介した一節を選ばれていました。
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昨日に引き続き、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ解体に伴う新聞報道を。

『東京新聞』さん。

高村光太郎やイサム・ノグチも活動した「中西アトリエ」、存続目指し解体 「後世に伝えたい」思い新たに

 「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家、中西利雄(1900〜48年)が東京都中野区に建てたアトリエが老朽化などで解体されることとなり、1日から工事が始まった。保存の動きもあり移築先などは未定だが、建築部材を残し再建に希望をつなぐ。
◆洋画家・中西利雄のアトリエとして山口文象が設計
 工事は柱や梁(はり)、窓枠などの建具を再利用できるように残す「部材保存解体」で実施。1日は建具や照明、水道の設備などを取り外す作業が行われた。
 アトリエは1948年、建築家の山口文象(1902〜78年)の設計で建てられ、戦後間もない時期のモダニズム建築の先駆けとされる。中西は完成した年に死去し、貸しアトリエとなった。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が『乙女の像』を制作し、彫刻家のイサム・ノグチ(1904〜88年)も滞在した。
 管理は長年、中西の長男・利一郎さんが担ってきた。2023年に亡くなった後、妻の文江さん(74)が相続。壁がはがれ落ちるなど危険になったため、解体が決まった。
◆移築先は未定だけれど、調査・記録し建築部材を保存
 1日に始まった解体工事には、文江さんや、保存に動いた団体職員らが立ち会った。作業は重要建築の解体実績がある風基建設(新宿区)が、10月末までの予定で行う。
 解体が迫った9月下旬には、有志の建築士5人がアトリエで壁や天井の構造、建築部材の長さなどを細かく調査、記録し、解体と再建への準備を整えた。
 参加した建築士の伊郷吉信さん(72)は「後世の人に、このアトリエを設計した建築家や、ここで制作した芸術家のことを知ってもらいたい。そういう思いで総力を結集した」と語った。
 アトリエは老朽化が進むとともに存続が危ぶまれた。2024年には、保存を望む建築家や文化人らが「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)を発足し、現地保存の道を模索したが、今年8月に断念した。
◆設計に関わった98歳建築家も参加、感慨深げに
 その後、価値ある住宅建築の継承に取り組む一般社団法人「住宅遺産トラスト」(世田谷区)が建物の所有者の仲介などを引き受け、移築保存への希望がつながった。
 文江さんは「これだけの人が協力してくれるとは思わなかった。アトリエに対して熱い思いを持っていた利一郎もうれしいと思う」と喜ぶ。
 アトリエを設計した山口文象の弟子だった建築家、小町和義さん(98)=東京都八王子市=は10代から山口の事務所で働き、実際に設計図を引いた人物だ。
 取材に「モノが少なくて建てるのも大変な時代で、苦労しながら節(ふし)のある板とか柱を集めた。簡素だけど、丈夫な材料でできた、しっかりしたアトリエ」と胸を張り、保存の動きに「よかった」とうれしそうにつぶやいた。
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保存のために建築部材を整理しながら解体が始まったアトリエ=1日、東京都中野区で
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解体に備えた調査で建物の構造や部材を記録する建築士ら=9月24日、東京都中野区で
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中西利雄が建て、高村光太郎らが滞在したアトリエ=1日、東京都中野区で

続いて『秋田魁新報』さん。

高村光太郎ゆかりの都内アトリエ、解体へ 十和田湖畔の「乙女の像」制作

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体されることになった。保存活動に取り組んできた秋田市河辺出身の曽我貢誠さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「現地からアトリエは姿を消すが、移築も視野に検討を進めている」とし、部材を保管しながら建物の再建を目指すという。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村らに貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごした。
 中西の長男利一郎さんが長年、アトリエを管理してきたが2023年に他界。老朽化もあり解体の話が浮上する中、利一郎さんと交流のあった曽我さんが昨春、有志と会を立ち上げて署名集めや行政への要望など保存活動を行ってきた。
 曽我さんは「多くの支援を受けながら現地保存の道を模索したが、さまざまな条件もあり断念せざるを得なかった」と話す。現地では今月1日から、柱や梁(はり)、窓枠などの建具を再利用できるように残す「部材保存解体」の作業が始まっている。
 9月26、27日には解体前のアトリエ見学会が行われ、集まった人たちがその姿を目に焼き付け、思い出などを語り合っていた。
 保存活動に携わった神奈川大建築学部の内田青藏特任教授(72)=大館市出身=はアトリエについて、戦後間もない時期のモダニズム建築の特徴がみられる貴重な建物と評価。「再建の可能性が残されたのは意義深い。部材の傷みもみられるが、よりよい形で再現されてほしい」と期待した。
秋田魁新報4
秋田魁新報5
今後の移築先の確保、さらに場合によっては活用法を考えるなど、まだまだ課題は山積しています。

よいお知恵や提案をお持ちの方、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」曽我氏までご連絡下さい。save.atelier.n@gmail.com

【折々のことば・光太郎】

――芸術とは自然が人間に映つたものです。肝腎な事は鏡をみがく事です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

なるほど、曇った鏡では正しい姿を映せませんね。

保存運動を継続しております東京中野区の中西利雄アトリエ。昭和27年(1952)から光太郎が居住し、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などを制作し、昭和31年(1956)4月2日、その終焉の地となった建物です。設計はモダニズム建築家の山口文象があたりました。

解体が決定し、先月末には関係者対象の内覧が行われました。すでに解体工事が始まっていますが、消滅は回避、解体した部材は保管され、移築先を探すという状況になりました。

その件や今後の見通しについて新聞各紙で報じて下さっています。掲載順に2日に分けてご紹介いたします。まず、「乙女の像」地元の青森県の地方紙2紙。

『東奥日報』さん。

「乙女の像」高村光太郎晩年の拠点 東京・中野 保存目指す有志 見学会

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエを巡り、移築を視野に入れた検討が進んでいる。10月にも移築に向けた解体作業が始まり、建物の部材は一時保管されるという。26日、保存を目指してきた有志による見学会が行われ、集まった人たちがその姿を目に焼き付けた。
 アトリエは洋画家中西利雄(1900~48年)が建築、48年に完成した。高村は52年秋から亡くなるまでの3年半を過ごし、十和田湖畔(十和田市)にある「乙女の像」の塑像制作に情熱を注いだ。
 移築に向けた動きには、歴史的、文化的に貴重な住宅建築の継承に取り組む「住宅遺産トラスト」が(東京)が関わり、まずは解体に着手する方向となった。完成から80年近くが経過したアトリエは老朽化が進み、現地での保存が困難な状況になっていたという。
 アトリエは中西の長男・利一郎さん(故人)が大切に管理してきた。高村とも親交があったといい、利一郎さんの妻・文江さん(74)は「中西利雄や高村を好きな方たちがここでたくさんの思い出をつくった。夫の思いが生かされる方向になれば一区切りがつきます」と述べた。
 保存に向けては、都内の有志らが会を立ち上げ、署名集めや行政への要望などを行ってきた経緯がある。
 同日、現地を訪れた建築士の十川百合子さん(71)は「アトリエは戦後の建材が不足する中で建てられたが、工夫が凝らされている。さまざまな文化人が集った歴史があり、後世に伝えるためにも、より良い形で再現されてほしい」と期待した。

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同じく『デーリー東北』さん。

高村光太郎アトリエ解体へ 「乙女の像」制作 都内 老朽化、部材や資料は保管 文化的価値継承へ移築模索も

 彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が十和田湖畔にある「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエが、部材などを保管した上で10月に解体されることになった。有志が建物の保存に向けて尽力してきたが、老朽化が進行して困難に。一方、解体後の移築を模索する動きもあり、関係者は文化的価値の継承を願っている。
 アトリエは、洋画家の中西利雄(1900~48年)が使用する予定で建てられたが、亡くなった直後に完成。貸し出されていたところ、岩手県花巻市で過ごしていた高村が青森県から乙女の像の制作を依頼されたのをきっかけに52年に移り、亡くなるまでの間、制作の拠点とした。高村の前には世界的な彫刻家のイサム・ノグチも使用している。
 高村の死後は、中西の長男の利一郎さんが守り継いできた。ただ、2年前に死去してからは管理が難しくなり、利一郎さんの妻・文江さん(74)は「耐震性などを考えると危険な建物でもあった」と語る。
 有志でつくる「アトリエを保存する会」が行政に協力を要請したり、建物内で文化的な交流活動を行ったりしてきたが、現在地に残すことはかなわなかった。
 だが急転直下、歴史的価値のある住宅建築の継承に取り組む「住宅遺産トラスト」(東京都)が所有者と相談し、都内の建設会社が解体された柱などの部材や建物内にあった資料を一時保管することになった。場所や時期は未定だが、移築に向けた動きもあり、保存する会の曽我貢誠さん(同)は「完全になくなるわけではないということで、ほっとしている」と胸をなで下ろす。
 同会には保存を望む5千通以上の署名が寄せられている。曽我さんは移築の実現に期待を寄せ、「若者が想像力を育むような場所になれば」と願う。
 文江さんも「必要な物は保管してもらえる。主人の思いに応えられる道が見えて良かった」と話した。
 解体工事が行われるのを前に、26日は関係者がアトリエを訪れ、往時に思いをはせた。高村の研究を続けてきた小山弘明さん(千葉県)は「移築などで活用される方向でお願いしたい。(貴重な建築物を)継承していく一つのモデルケースになれば」と語った。

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いろいろセンシティブな問題があり、詳細は書けませんが、現状、こういうことになっています、ということで。

以前も書きましたが、移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。できれば近くであるに越したことはないのですが、離れた場所でも仕方がないでしょう。保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com
よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

――彩色と彫刻と何の関係もありません。光と陰とがあれば彫刻家は沢山です。若し其の構造的表現が正しければ。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

一般にブロンズの塑像や、大理石彫刻などには彩色を施しません。木彫の場合には大理石とは異なり彩色されることがあって、光太郎も行っていますが、それとて最小限です。彩色されていなくても、色彩を感じさせる彫刻でなければ……ということでしょう。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった、中野区の中西利雄アトリエ。モダニズム建築家・山口文象の設計です。一昨年からその保存運動に取り組んでいます。

文治堂書店『とんぼ』第17号/「中西利雄アトリエを後世に残すために」企画書。
「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
『中野・中西家と光太郎』。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。
中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会レポート。

現地保存にむけ、多くの皆さんが署名して下さったり、展示やイベントなどの関連行事にもご協力いただいたりしましたが、様々な理由で移設の方向で梶を切ることとなりました。

その後、住宅遺産トラストさんのご協力をいただけることになり、いったん解体して部材を保管し、移する方向で動いております。

そこで、関係者のみが参加しての内覧会を解体前に行うこととなり、9月26日(金)、27日(土)の2日間、ともに午後、開催いたしました。54平米の小さな建物でキャパに制約があり、申しわけありませんがクローズドでの実施とし、このブログでは告知できませんでした。

撮影してきた画像を載せます。

まず正面方向からの外観。
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採光のため北側に大きく作られた窓。
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東側、そして南側の外観。
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窓枠は北側以外はサッシに換えられています。
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そして内部。
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二階、というか、ロフトのような空間があり、そこから俯瞰しました。右手が北側になります。右上のあたりで光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。
キャプション「中西アトリエにて 「乙女の像」制作風景」① キャプション「中西アトリエにて 「乙女の像」制作風景」②
ちなみに像を据えた回転台は、助手を務めた青森県出身の彫刻家・小坂圭二、さらに小坂の弟子にあたる北村洋文氏へと受け継がれ、北村氏から十和田湖観光交流センター・ぷらっとに寄贈されました。
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ロフト部分。ここに上がったのは初めてでした。
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下から見上げるとこんな感じ。
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施工主の中西利雄の意向で作られた空間で、ここに弦楽アンサンブルの演奏者に入ってもらい、階下のアトリエ部分でダンスパーティーなどとという構想があったそうです。実現はしませんでしたが。

玄関脇、奥の小部屋など。
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中西利雄蔵書類。
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中西利雄はこのアトリエの完成直前の昭和23年(1948)に亡くなり、戦後の混乱期ゆえ、光太郎のようにアトリエを戦災失ったりした芸術家の需要があるだろうと、中西夫人が貸しアトリエとして運用することにしました。光太郎の前には、イサム・ノグチがここを使い、昭和27年(1952)から昭和31年(1956)まで光太郎。その後、画家の陶山侃に貸し出されたとのこと。

光太郎が居た間、実弟で鋳金の人間国宝・髙村豊周、その子息で写真家となった髙村規氏、当会の祖・草野心平、当会顧問であらせられた北川太一先生などをはじめ交流のあった人々が連日、ここを訪れました。「乙女の像」依頼主の津島文治青森県知事、県と光太郎を仲介した佐藤春夫、「乙女の像」を含む一帯の公園を設計した建築家・谷口吉郎、光太郎の花巻疎開に尽力した宮沢清六や佐藤隆房医師、画家の難波田龍起、写真家・田沼武能、光太郎の古い親友で陶芸家のバーナード・リーチ、伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀、文学方面では亀井勝一郎や高見順、尾崎喜八、親友だった水野葉舟子息でのちに総務庁長官や建設大臣を歴任した水野清、芸能関係でも長岡輝子、初代水谷八重子、ラジオパーソナリティーの秋山ちえ子などなど。

そうした人々の息づかいも感じられる空間でした。

移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。できれば近くであるに越したことはないのですが、離れた場所でも仕方がないでしょう。

保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

人間が自分を育てるのです。神性あるものは自然です。神とはわれわれの事です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

わけのわからない新興宗教の教祖様のように「我こそは神」なり、というわけではなく、全ての人間は心の中に「神」のような部分、いわば「良心」を持っていて、その声に従うことが大切だ、ということでしょうか。ある種の性善説ですね。

先月のNHKEテレさんの「アートシーン」でも紹介された、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展につき、『朝日新聞』さんが9月16日(火)付夕刊で、光太郎に触れつつ大きく取り上げました。

(美の履歴書:913)「生の記録3」 難波田龍起 燃える青、たちのぼるのは

 難波田(なんばた)作品に特徴的な垂直の線ももはや消え、青のモノクロームの濃淡だけがモヤモヤ漂う。細い筆で点を置いていくように丹念に描かれた筆跡は、密集し拡散する無数の粒子のようだ。「気の遠くなるような行為の集積に、人間の息づかいや念がこもっている」と、東京オペラシティアートギャラリーの福士理シニア・キュレーターは言う。
 この「粒子」感は、若き日の難波田龍起(たつおき)が薫陶を受けた高村光太郎に由来する。詩人で彫刻家の高村は、絵画は視覚だけでなく触覚との結びつきが肝要だと語った。それは画面を触って感じられる画材の質感とは異なり、あくまでイメージとしてたちののってくるマチエール(絵肌)だ。
 高村はもう一つ、芸術には「生命の戦慄」が必須だとも教えた。
命や人間性を重んじる思想と、キュビスム由来の幾何学的抽象の冷たさとの矛盾に悩んだ難波田。やがて、1950年代後半に日本に入ってきたアンフォルメルの「熱い抽象」とも呼ばれるエネルギーに活路を見いだす。
 難波田は、モネの晩年の傑作「睡蓮(すいれん)」をアンフォルメルの先例とみなしていた。88歳で訪れたパリ・オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に触発され、帰国後すぐに描き始めたのが、画業最大にして全4点の「生の記録」だ。
 絵画の物質性に頼り切ることなく、自らの精神によって生命を表現する。その実践の集大成は、まさに難波田自身の「生の記録」でもあった。
 同時に、「龍起個人や人間の存在を越えて、宇宙や生命現象の始まり、劫初(ごうしょ)の光を感じる」と福士さん。
 「難波田ブルー」とも呼ばれる青が、銀河の奥で燃える炎のように見えてくる。

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美の履歴書 913
・名前 生の記録3
・生年 1994年
・体格 舘162.1㌢×横390.9㌢
・生みの親 難波田龍起(1905~97)
・親の経歴 
 北海道・旭川に生まれ、翌年東京へ転居。19歳の頃、隣家に住む高村光太郎を自作の詩を携えて訪ね、以後親交を持つ。高村の勧めで太平洋画会研究所に学ぶがなじめず退所する。初期はギリシャ彫刻や仏像などのモチーフを描いていたが、戦後に抽象へ移行。欧米のアンフォルメルや抽象表現主義の影響を受けつつ、独自の抽象表現を探求した。
・日本にいる兄弟姉妹 東京・世田谷美術館、東京国立近代美術館などに。
・見どころ004
 ❶3枚のパネルを連ねた巨大な画面を埋める緻密(ちみつ)な筆致が、88歳の覇気を物語る。
 ❷青の濃淡や明暗が白っぽい筋をつくる。隣に展示されている、黄色が基調の「生の記録4」と比べても、より繊細な表現だ。

▽「難波田龍起」展は、東京オペラシティアートギャラリーさで10月2日まで。祝日をのぞく月曜と9月16日休館。日本の抽象絵画のパイオニアとして知られるの生誕120年にあわせた、約四半世紀ぶりの回顧展。写真は「昇天」(1976年)。問い合わせはハローダイヤル(050・5541・8600)


ついでですので、光太郎が難波田について描いた文章もご紹介しておきます。

まず昭和17年(1942)、銀座の青樹社で開催された難波田の第一回個展の目録に載った文章。

   難波田龍起の作品について

 難波田龍起君の芸術の中核はその内面性にあるやうに思はれる。初期の頃一時ルドンに熱中してゐた事があつたが、あの魂の共感はいろいろの形で其後にもあらはれてゐる。種々の段階を通つて進んで来たが、ギリシヤの発見以来同君の芸術は急速に或る結成の方向を取つたやうに見える。それはやはり同君の内面的映像への求心性が然らしめたものと推察する。それ故同君の構想には人に知られぬ内面の必然性があつて、互に連絡し交叉しあつてゐる。此の点を見のがしては、今後に於ても同君の芸術の魅力は領解不十分となるであらう。画面上の技術にも珍しく緻密な用意がある。かういふ特質ある画家を十分に育て上げるやうな文化的環境が是非欲しい。同君の未来に私はわれわれ民族の内面形象を大に期待する。


続いて、昭和28年(1953)、やはり難波田の個展の際、会場に置かれた「感想帖」に鉛筆で書き込まれた言葉。

 昔ながらに色がいいと思つた。ギリシヤ時代のあの色がここにも生きてゐて愉快に思つた。Peintureではイロが第一の門だと今でもおもふ。

双方に出てくる「ギリシヤ」云々は、難波田が光太郎のアトリエでギリシャ彫刻の写真などを見せられてその精神性に惹かれ、モチーフとしていたことを指します。まだ抽象画に移行する前の話です。

それにしても、短文であっても本質をずばりと捉える光太郎の評には相変わらず舌を巻かされます。

東京オペラシティアートギャラリーさんでの「難波田龍起」展、10月2日(木)までの開催です。まだ足を運ばれていない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

世界は美しいもので満ちて居ます。それの見える人、眼でばかりで無く、叡智でそれの見える人が実に少ない!


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

難波田は叡智で美を見られる少数派の一人だったのでしょう。

光太郎、のちに頼まれて色紙などに揮毫する際、「美しきもの満つ」とか「世界はうつくし」と書くことが多くありました。その元ネタがこの一節だったようです。
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光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさん。島根県を拠点にミュージカル等に携わられることが多いのですが、ご自宅は都内で、今年は「智恵子抄」をメインにしたライブを4月5月と開催されまして、さらにまたやられるとのこと。

BOOK CAFÉ LIVE モモの智恵子抄

期 日 : 2025年9月20日(土)
会 場 : 蔵カフェ 東京都府中市宮西町4-2-1
時 間 : 15:00~
料 金 : 3,500円+カフェご注文

出 演 : モンデンモモ たしまみちを(ギター)

我地元。大国魂神社に抱かれる 蔵カフェにて シリーズが始めさせていただけることになりました。このカフェは長い文化の源です。

私の根幹であります 智恵子抄 常にお届けしてまいります 光太郎さんとの出逢いから レモンの香りに包まれる現世 そして魂になり 光太郎さんと遊び見守り智恵子さん 時代と共にその魂も遊びます 本当に素敵なカフェです あなたも蔵カフェで歴史を築かれませんか モンデンモモモモ ここで 集約して参ります お待ちしています
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ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

のろい、考へつつする仕事や、手業。此は神来よりは美しくない様に見えます。ぱつとしない。それにも拘らず、此が芸術の総根元なのです。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

「神来」は、神の啓示を受けたかのように、突然に達する境地。芸術とはそういうものではなく、地道な積み重ねが重要だと、ロダンも、それを訳した光太郎も考えていました。

一昨日、拝見して参りました。光太郎の薫陶を受けて芸術の道を志した難波田龍起作品の展示です。

生誕120年 難波田龍起展

期 日 : 2025年9月3日(水)~9月20日(土)
会 場 : ギャラリーときの忘れもの 文京区本駒込5-4-1
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 日・月・祝日休廊
料 金 : 無料

 難波田龍起(1905~1997)は戦前戦後の前衛美術運動の中で誠実に己の道を歩み、形象の詩人に相応しい澄んだ色彩、連続したモティーフと曲線による生命感あふれる独自の画風を築かれました。
 私たちが難波田先生に初めて銅版画制作を依頼したのは1977年、画家として同じ道を歩んでいたご子息二人を相次いで亡くされた2年後のことでした。
 ご傷心の中にもかかわらず温かく迎え入れてくださり、私たちが持ち込んだ銅版に夢中で取り組まれ、次々に名作を生みだされました。
 1995年にときの忘れものは南青山に開廊しましたが、第一回の展覧会は「白と黒の線刻 銅版画セレクション1」(出品作家:長谷川潔、難波田龍起、瑛九、駒井哲郎)でした。
 当時現存の作家で私たちの画廊で初めて展示してくださったのが難波田先生でした。
 同年刊行したときの忘れものの最初のエディションも『難波田龍起銅版画集 古代を想う』で、約20年の間に、版元として多くの版画誕生に立ち会うことができました。
 今回の生誕120年記念展では、ご遺族のご協力を得て、油彩、水彩、版画を17点出品いたします。
現在、東京オペラシティ アートギャラリーで難波田龍起先生の大規模な回顧展が開催されています(10/2まで)。合わせてご覧いただければ幸いです。
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画廊主の綿貫ご夫妻は、ほぼ毎年、当会主催の連翹の集いにご参加下さっていて、今回の展示もご案内を頂きましたし、1ヶ月前には新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんでの「難波田龍起」展を拝見しましたので、併せて観ておこうと思い、お邪魔いたしました。
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ぜいたくなことに、直接難波田をご存じの綿貫氏によるギャラリートークを拝聴しながら拝観させていただきました。
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東京オペラシティアートギャラリーさんの方は大作が多く、圧倒される感じでしたが、こちらは愛らしい小品が中心で、また違った感じでした。綿貫氏曰く「小さな作品でも決して手を抜いていない」。なるほど。
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制作法も、油彩あり、エッチングあり、パステル+水彩ありと、バリエーションに富み、抽象が中心ですが、街の風景のようなかなり具象っぽいもの(それでもシュールな感じ)もありました。
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フライヤー的な案内ハガキに使われたこちらの作品、版画に手彩色だそうで、そういうやり方もしていたのか、という感じでした。

それから、やはり光太郎と交流の深かった舟越保武の石彫も。
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この日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存会の会合で、そちらに向かう途中に寄らせていただいたのですが、その中西アトリエで撮られた難波田と子息、光太郎の写真。
難波田
東京オペラシティアートギャラリーさんで展示されており、「どこかで見た記憶があるんだよな」と思っておりましたが、昭和62年(1987)に竹橋の東京国立近代美術館さんで開催された「今日の作家 難波田龍起展」の図録でした。ただ、キャプションが誤っており、正しくは昭和29年(1954)のようです。

その中西アトリエの方は、残念ながら現地での保存は断念、現在、移設先を探しているところです。54坪ほどのあまり大きくない建造物、手を挙げていただける自治体さん、法人さん、個人の方でも、ご連絡いただければ幸いです。

さて、ときの忘れものさんでの「難波田龍起展」、9月20日(土)まで。9月13日(土)には、写真にも写られている難波田子息の武男氏と、東京オペラシティアートギャラリーさんのキュレーター・福士理氏の対談形式のギャラリートークも予定されているとのことです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

石に一滴一滴と喰ひ込む水の遅(のろ)い静かな力を持たねばなりません。そして到着点を人間の耐忍力にとつて余り遠すぎると考へてはなりません。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

おそらく難波田もこの一節が載った光太郎訳『ロダンの言葉』を読んだのではないでしょうか。

ちなみにときの忘れものさんのサイト内に、光太郎との関わりを綴った難波田のエッセイがアップされています。お読み下さい。

演劇公演の情報です。

チエコ

期 日 : 2025年9月11日(木)~9月15日(月・祝)
会 場 : 両国・エアースタジオ   墨田区両国2丁目18-7ハイツ両国駅前地下1階
時 間 : 9/11 19:00~ 9/12 15:30~ 19:00~ 9/13~15 12:00~ 15:30~ 19:00~ 9/14
料 金 : 来場チケット ¥4,000(全席自由/要予約) ★配信チケット¥3,000

詩人・高村光太郎とその妻智恵子の愛の物語。智恵子の死後、智恵子抄を作ろうと友人の草野心平と中原綾子を呼び智恵子の思い出を振り返る。

出 演 : A 小森毅典 武口菜々子 菖蒲万紀彦 千歳れな ルーシー大原くん  菜月あいり 愛美
      B 新城侑樹 山﨑皆 野田慧 野中梨緒那 風間悠介 中島彩果 阿部優華
      C 松山傑 米良美沙 福岡洸星 富山悠里 安藤良侑 富田凪 藤井円
脚本演出 : 野口麻衣子
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登場人物は7人。それを3組の役者さん達が演じられます。順に光太郎、智恵子、光太郎実弟の豊周、智恵子の姪・春子、当会の祖・草野心平、歌人・中原綾子、智恵子の親友・田村俊子。

「劇団空感エンジン」さんとしての公演を同じ会場で、平成25年(2013)平成30年(2018)と拝見しました。それ以前の平成22年(2010)頃、それからその後令和3年(2021)にも公演がありました。一部、役者さんがかぶっています。

この手の脚本の中では、わかりやすさの面ではピカイチのものの一つです。光太郎智恵子についての予備知識が少ない方がご覧になっても「?」という場面が少ないでしょう。それだけに再演が重ねられているのだと思われます。

また、登場人物それぞれがうまく生かされています。智恵子の心の病という重い現実に関し、それぞれに言い分があって、相互の行き違いや齟齬、時に痛烈な非難的な場面もありますが、結局、それは仕方のないことだった、誰が悪いわけでもない、というような。

それから、キャスト、スタッフの方の中には、公演に向けてと言うことで、光太郎智恵子聖地巡礼などをなさる方もいらしたようで、素晴らしいと思いました。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

何といふ誇張のない的確だ! 此は君の特質の一つです。真実である事、そして単にそれきりだ。

光太郎訳 ロダン「手紙」より 明治43年(1910)頃訳 光太郎28歳頃

人体彫刻に於ける筋肉の付け方など、まったくやっていなかったわけではありませんでしたが、ロダンはあらゆる面で、わざとらしい「誇張」を嫌っていました。

全日本合唱連盟さんの下部組織である東京都合唱連盟さん主催の「第80回東京都合唱コンクール」が来週開催されます。上位入賞団体は10月から11月にかけて行われる全国大会の出場権を獲得できる仕組みです。画像は昨年の第79回大会の模様。
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都合唱連盟さんのサイトで、都大会の出場団体、曲目まで公開されています。その中で、「大学ユースの部」に出場される早稲田大学コール・フリューゲルさんが、新実徳英氏作曲の「愛のうた -光太郎・智恵子-男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」から「レモン哀歌」を演奏されるとのこと。本来、サブタイトルにあるとおりオケ伴として作曲されたものですが、公刊されている楽譜は四手連弾のピアノ譜が付されていて、その形で演奏されるのでしょう。

コール・フリューゲルさん、昨年度の「第77回全日本合唱コンクール全国大会」で金賞を獲得したそうで、そのため、今回の都大会では「シード」。出場はされるそうですが審査の対象外で、もう全国大会出場が決まっているとのこと。そういう規程になっているとは存じませんでした。

また、都大会の演奏も課題曲と自由曲それぞれ1曲ずつを演奏する他団体と異なり、課題曲1曲と、自由曲的に4曲の演奏となっています。そのうちの1曲が「レモン哀歌」、他に「早稲田大学校歌」(作詩:相馬御風 作曲:東儀鉄笛 編曲:山田耕筰)、「男声合唱と四手のピアノのための『一人は賑やか』より 一人は賑やか」(作詩:茨木のりこ 作曲:三善晃)、「『リーダーシャッツ21』男声合唱篇より さらに高いみち」(作詩:木島始 作曲:信長貴富)。シード権を得ると、もはやアトラクション的な扱いになるようです。

全国大会では地方予選を勝ち上がっていた団体と同様に、課題曲と自由曲それぞれ1曲ずつの演奏となるそうで、そちらの曲目はまだ不明です。ぜひ全国でも「レモン哀歌」を演奏していただきたいところですが。

都大会の詳細は以下の通り。

第80回東京都合唱コンクール

期 日 : 2025年9月6日(土) 小学生部門 大学職場一般部門 混声合唱の部/同声合唱の部
      9月7日(日) 大学職場一般部門 大学ユースの部/室内合唱の部
      9月21日(日) 中学生部門 高等学校部門
会 場 : 文京シビックホール 東京都文京区春日1-16-21
時 間 : 9/6  10:30~ 9/7 10:15~ 9/21 10:30~
料 金 : 一般 前売り1,500円/当日券2,000円 小学生 前売り800円/当日券1,000円
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コール・フリューゲルさん、1日目の9月6日(土)、予定では18:48~の演奏ということになっています。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

芸術に於て、人は何にも創造しない! 自分自身の気質に従つて自然を通訳する。それだけだ!

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「自分自身の気質に従つて自然を通訳」。優れた音楽も、そういうものなのかもしれません。

ひさびさにテレビ番組の放映情報です。

まず再放送ですが、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展が取り上げられています。

日曜美術館 アートシーン「難波田龍起」展

NHK Eテレ 2025年8月24日(日) 20:45~21:00

「難波田龍起」(東京オペラシティアートギャラリー 7月11日〜10月2日)ほか展覧会情報


NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。初回放映が8月17日(日)の朝でした。
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本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住み、光太郎の影響で芸術家となった難波田ですので、番組内でも光太郎の名が連呼されました。ありがたし。
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光太郎がロダンから学んだ「生命」の芸術は、難波田ら後進の芸術家にも受け継がれていった、と。

番組をご覧の上、展覧会そのものにもぜひ足をお運び下さい。

もう1件、やはり再放送系ですが。

わたしの芸術劇場 #21「小平市平櫛田中彫刻美術館(東京都小平市)」

BS11(イレブン) 2025年8月23日(土) 10時35分~11時00分

「美術館」をちょっと堅苦しい場所だと思っている方々へ送る番組。

学芸員の方々が見せ方を工夫したり、今までにないテーマで企画展を開催したり、並々ならぬ苦労と最高のセンスで展示している。そんな美術館を「芸術を体験できる劇場」として捉え、舞台を鑑賞しているようなわくわくした気持ちにしてくれる番組。番組を見た後は、きっと美術館に足を運び、芸術に浸りたくなること間違いなし。

今回の舞台は、「小平市平櫛田中彫刻美術館」。明治生まれの木工彫刻を得意とした平櫛田中は、岡山県の田中家に生まれ10歳で平櫛家の養子となり、実家の田中と養家の平櫛、両方の姓を用いて「平櫛田中(ひらくし でんちゅう)」と名乗る。22年の歳月をかけて制作した国立劇場の《鏡獅子》で、田中の集大成を見ることができるが、107年の生涯で亡くなる直前まで作品を作り続けた。100 歳を超えてもなお創作意欲がつきなかった平櫛田中に、大きな拍手を!

出演:片桐仁

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光太郎の父・光雲の弟子にあたる平櫛田中の旧居跡に建てられた小平市平櫛田中彫刻美術館さんが舞台です。当方もいろいろお世話になっている学芸員の藤井明氏もご出演。

この番組、元々はTOKYO MXテレビさんで放映されていたもので、当該回は令和4年(2022)5月20日が初回放映でした。

ちなみにTOKYO MXさんで令和3年(2021)3月、BS11さんで先月放映された中村屋サロン美術館さんの回では、同館所蔵の光太郎の油彩自画像(大正2年=1913)も取り上げて下さいました。
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今回もちらっとでいいので田中の師・光雲の話になればと思っております。

もう1件。5分間番組で、微妙なところですが紹介しておきます。

国立公園の絶景 5分ミニ(2)

NHK BS 2025年8月27日 00:55〜01:00

国立公園の絶景5分ミニ(2)雲仙天草・大山隠岐・十和田八幡平


5分間で3箇所の国立公園が紹介されます。ちらっとでも光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が映るといいのですが……。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

諸君は、今日の人々が意味する「独創(オリジナル)」とは何をか知つてゐるか。其は「類から離れる事(デパレイエ)」である。

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「独創(オリジナル)」とそれまでの「類」との格闘、芸術家にとって永遠の課題の一つですね。

8月16日(土)、御茶ノ水で「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」を拝聴する前、竹橋の東京国立近代美術館さんに立ち寄りました。こちらで先月から開催されている企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」に光太郎がらみの出品物があると、SNSで知ったためです。
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同館公式サイトでは「戦争記録画を含む当館のコレクションを中心に他機関からの借用を加えた計280点の作品・資料で構成される本展覧会」と謳われています。
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お盆中でもなかなかの入りでした。
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基本的には絵画がメイン。
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「アッツ島玉砕」など、以前にも特集展示的な感じで複数並べられた、東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生だった藤田嗣治作品がやはり目をひきました。
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他に梅原龍三郎、猪熊弦一郎など光太郎と交流のあった面々の作品も。
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かの丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」も。
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それらをただ並べてあるだけでなく、いろいろと工夫も。たとえば従軍画家として作曲家の古関裕而と共にミャンマー入りした向井潤吉の場合、戦争画と有名な戦後の民家シリーズの作品とを並べ、一つの文脈で捉えるなど。
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こんな作品も。一見、単なる婦人像に見えますが、よく見ると縫っているのは千人針です。
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その他、プロパガンダ系のポスターなど。
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「現在でも自民党本部に貼ってあるんじゃないの?」というようなものも。ここまでは上の方に画像を貼っておいた出品目録に掲載されているものです。

これら以外に、展示ケースをふんだんに使い、出版物等の展示も充実。昨年、同館で開催された「ハニワと土偶の近代」展と似たような感じだなと思いました。美術館としてこういう展示の方法は、なかなか勇気の要ることだと思います。
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この流れの中に、光太郎の翼賛詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)が展示されていました。
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過日もご紹介した「十二月八日」のページを開いての展示でした。
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同じ並びには日本放送協会(現・NHK)編の『愛国詩集』、大政翼賛会編の『翼賛詩歌』第一輯。共に光太郎の翼賛詩が収められたアンソロジーです。前者には「彼等を撃つ」(昭和17年=1942)「シンガポール陥落」(同)後者には「必死の時」(昭和16年=1941)が掲載されています。
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戦後の出版物も。やはり「ハニワと土偶の近代」展同様、サブカルチャー的なものも積極的に。

水木しげるの『総員玉砕せよ!!』。
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中沢啓治「はだしのゲン」。単行本ではなく、初出掲載誌の『週刊少年ジャンプ』、『市民』が展示され、より生々しい感じです。
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圧倒される展示でした。

続いて階上の常設展示的な「所蔵作品展 MOMATコレクション」。光太郎のブロンズ「手」などがよく出ているのですが、現在は光太郎作品はお休み中でした。

光太郎の親友・碌山荻原守衛の「女」は出ていました。
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その他、いろいろ名品が並ぶ中、階下の「記録をひらく 記憶をつむぐ」とリンクさせる意図もあるのでしょうか、やはり戦争画的なものも多かったように感じました。
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光太郎智恵子と交流のあった津田青楓の「叛逆者」。これなども「記録をひらく 記憶をつむぐ」と併せて見ることで、違った見え方になるような気がしました。
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館を出て、「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」までまだ余裕がありましたので、近くの戦争遺跡を見に。元々、時間があればそうするつもりでした。北の丸公園に、皇居防衛のために設置された「九八式高射関砲」の台座が遺されています。下記画像は国民公園協会さんのサイトから。
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スマホの地図アプリと連動した「道案内」的なサイトが用意されていまして、その通りに歩きました。都心のさらにど真ん中とは思えないような緑陰で、実にいい感じでした。
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しかし、そのサイトが超頓珍漢でして、全然何もない場所に案内されてしまいました。近くをさんざん探しましたが、ありません。慌てて他のサイトに当たってみると、正しくは全く離れた場所だということがわかりました。この手の道案内アプリ、時々こういうことがあるんですが、なぜなのでしょう?

結局断念し、御茶ノ水に向かいました。残念でした。

代わりというと何ですが、さらに前日に足を運んだ戦争遺跡の画像を。場所は当会事務所兼自宅のある千葉県香取市に隣接する旭市です。同市には千葉県立図書館の分館があり、そちらで調べもののついでに立ち寄りました。
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戦時中に香取海軍航空隊の基地があった場所で、空襲などの際に敵機から自機を隠すための掩体壕(えんたいごう)です。
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鎌数伊勢大神宮さんという神社の近く。同社の第二駐車場から徒歩数分です。先月、花巻で見た戦争遺跡同様、粛然とした気持にさせられました。

この手の掩体壕はさらに南の匝瑳市や、北に位置する茨城県鹿嶋市にも現存しています。鹿嶋市のものは以前に行きましたが、特攻兵器・桜花を収納するためのもので、桜花のレプリカも展示されていました。

終戦から80年。こういうものがまた必要になる時代に二度としてはならない、と、改めて思います。

【折々のことば・光太郎】

彫刻に於ける、あらゆる側面からの描形(デツサン)。此が魂を石に下降させ得る呪(まじなひ)である。


光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

不謹慎のような気がしないでもありませんが、上記掩体壕のコンクリートの造型を見て、彫刻的な美しさを感じてしまいました。

昨日は上京しておりました。メインの目的は、講談「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」の拝聴でした。

会場は御茶ノ水のスカイルーム太陽さん。すぐ近くにはニコライ堂さん。
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真打・一龍斎貞橘さんがメインで、午前中から3部に分けての公演。3部それぞれに「助演」ということで、田辺いちかさん、神田伊織さん、そして一龍斎貞奈さんと、二ツ目の方々がワキを固めました。さらに当方が拝聴した第3部では前座(来月二ツ目に昇進されるそうですが)の宝井小琴さん。
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第1部から通しで聴かれた方もいらしたそうですが、当方は第3部のみ拝聴。助演の一龍斎貞奈さんがオリジナルの新作「高村智恵子の恋」を演じられるということで。

初演は8月9日(土)、日本橋社会教育会館で開催された「一龍斎貞奈 入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜」でしたが、その際は当方、宮城県女川町での第34回女川光太郎祭に参列しておりまして、聴けませんでした。で、「再演してくれないかな」と思っておりましたところ、さっそく再演。「これはありがたい」と、馳せ参じた次第です。

ちなみに帰ってから調べましたところ、貞奈さん、午前中にも向島の墨亭さんという寄席で「高村智恵子の恋」を演じられていたそうで、そのパワフルさには驚きました。
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もう一つ「ありゃま」がありまして、「夏の太陽講談会」の方、日比谷松本楼さんでの今年の第69回連翹忌の集い、それから先月、中野区の産業振興センターさんで開催した「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」で、「智恵子抄」からの朗読をしていただいたフリーアナウンサーの早見英里子さんもいらっしゃり、隣に座らせていただきました。

さて、開演。

まずは宝井小琴さんによる新作、江戸川乱歩の「黄金の塔」。お馴染み名探偵・明智小五郎や少年探偵団の小林少年と、怪人二十面相との知恵比べ。こういうものも講談のモチーフになるんだ、という感じでした。

続いて一龍斎貞橘さん。演目は「一心太助~楓の皿」。もはや若い皆さんには「ご存じ一心太助」とは言えないでしょうが、太助が魚屋となるまでの顛末。貞橘師匠はこの後の「高村智恵子の恋」の後の大トリで、正統派の「源平盛衰記」から採った「宇治川の先陣争い」も演じられました。意味がぱっと解りにくい古典の文章も、声に出して読むことで非常にリズミカルに聞こえ、細かな意味まで解らなくともそれでいいのだろう、という感じでした。

そして貞奈さんによる「高村智恵子の恋」。

元々、野田秀樹氏脚本・大竹しのぶさん主演の「売り言葉」をご覧になっての着想だそうで、「光太郎の妻」という刺身のツマ扱いではなく、自らの信念に従って自分の足で立とうとする女性であった智恵子を描こうという意図が充ち満ちていました。しかし、智恵子の前にさまざまな困難が立ちはだかってなかなか思うように行かず、それでもへこたれることなく……というわけで。

智恵子の評伝等の類にもあたられてかなり勉強されたようで、感心いたしました。冒頭近くに智恵子の福島高等女学校時代の同級生・大熊ヤスが登場したり(二人の福島弁での掛け合いがユーモラスでした(笑))、この手の二次創作ではほとんど扱われない宮崎与平・渡辺文子との三角関係(光太郎と知り合う前の)なども紹介されたりと。それらや、日本女子大学校での一年先輩・平塚らいてうとのテニス勝負の場面、光太郎と知り合ってからも、駒込林町のアトリエ竣工祝いにグロキシニアの鉢植えを持って行くシーンなどなど、高座卓から身を乗り出さんばかりの熱演。

余談ですが、当会事務所兼自宅のグロキシニア、まだ花を咲かせ続けています。
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そして、連翹忌会場ともさせていただいている日比谷松本楼さん、智恵子が光太郎を追って行った犬吠埼等々のエピソードへと進み、大正3年(1914)の二人の結婚まで。およそ40分程の構成でした。

終演後、早見さんともども、既にお着替えを終えられた貞奈さんと少しお話をさせていただきました。
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その後の光太郎智恵子の、俗世間とは極力交渉を絶って「都会のまんなかに蟄居した」というような生活、智恵子の心の病、そして死、さらに詩集『智恵子抄』といったあたりについては、続編として「高村智恵子の」ならぬ「高村智恵子の」として構想中だそうです。期待大ですね。
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関係の皆さんの、今後のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

叡智は描形(デシネ)する。が肉づけするのは心だ。

光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「描形」は構想、「肉づけ」が実際の制作という意味でしょうか。どんなに頭を使って構想を練ってもそれだけでは不十分だし、実作する過程でいろいろなものが付け足されたり、逆に不要なものが削り取られたり、そういうものだというロダンの信念でしょう。

造型芸術に限らず、文学や音楽、講談なども含めた舞台芸術等にも言えることだと思います。

講談の公演情報です。

夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜講談前線異常なし〜(仮)

期 日 : 2025年8月16日(土)・17日(日)
会 場 : スカイルーム太陽 千代田区神田駿河台2-4-3 藤沢ビル5F
時 間 : 【一部】10:30開演 【二部】13:00開演 【三部】15:30開演
料 金 : 予約2,000円 当日2,200円
出 演 : 一龍斎貞橘
       助演 16(土) 1部いちか 2部伊織 3部貞奈
          17(日) 1部紅純 2部琴鶴 3部お楽しみ!

予約問合せkoudankai@gmail.com 熱い夏に熱い講談を! カレーもあるよ!

過日ご紹介しました「一龍斎貞奈 入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜」で、「高村智恵子の恋」が演目に入り、ぜひ拝聴に伺いたかったのですが、あいにく第34回女川光太郎祭とブッキングでした。すると、一龍斎貞奈さんのX(旧ツイッター)アカウントに以下の投稿
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これは聴かざあなるめいと、予約いたしました。8月16日(土)ということで、ラッキーでした。翌日ですとまたブッキング(テレビ番組の収録です)でしたので。

さらに貞奈さんのX(旧ツイッター)投稿から。

【高村智恵子についてのボヤキ】006
昨日は、「高村智恵子の恋」を初口演した。
相変わらず計画を守れない私は、前日まで台本が仕上がらず独演会でトリネタで語るクオリティとして全く仕上がっていなかっただろう・・・

が、私自身としては台本の構成と人物描写について「及第点かな」と、自信過剰な自己評価をしよう。

そもそも高村智恵子の人生について興味を持ったのは2002年のスパイラルホール。
野田秀樹さん脚本監督・大竹しのぶさん主演の一人芝居「売り言葉」。

高村光太郎の詩は、中学の教科書で「レモン哀歌」「あどけない話」を習ったという記憶があったくらいで良く知らなかった。
『むかしの芸術家のラブレターが文学になるんだな~』くらいの認識だったように思う。

「売り言葉」は、妻を愛しその死を嘆き悲しみ光太郎の見た美しい智恵子への愛を、その真逆から映し出したお芝居だった。

私の講談に取り入れたこの場面。
「あんたの見るあの南天の色と、私が見る南天の色が同じとは、限んねぇよない」

これは、私が14歳のころに同じく感じた事だった。

内弁慶で無口で恥ずかしがりやなのに、なぜか大胆不敵で自意識過剰。

この辺りの人物解釈も私の共感を生んだ。

智恵子と光太郎が恋人同士になる前、
「私がこれほど高村さんをお慕いしているんだから、高村さんだって少なからず私に好意を持ってくださっているはず・・・」
と思いつつも、お見合いのために故郷へ帰るという智恵子を引き留めない光太郎に、涙を流す。

私の台本のこのシーンを、昨日評価してくださる方が多くいらっしゃって、それだけでも「高村智恵子の恋」はまずまず「及第点」を取れたと自負する。

この部分に、私が表現したかったすべてが詰まっていた。それが観客に少なからず伝わったのであれば、これほどやりがいのある仕事はないよね、と思ったり、思わなかったり、ラジバンダリ。

結婚生活が始まり、幸せな暮らしも束の間、数々の苦境に立たされて、やがて心を病んでいく智恵子。
むしろ後半の人生こそ、令和の女性たちにぜひ聞いていただけたら嬉しい。

そんなわけで、後半は「智恵子の変」をいずれの場で口演したいと思います。

智恵子の異変。
光太郎の能天気さに対する純愛文学への変。
光太郎の変心。

まぁ、智恵子も私も変なんだ。
しかし、恋するって素晴らしい。
恋できるって素晴らしい。

そんな私の「智恵子の変」。こうご期待。

「期待」しております(笑)。ただ、この手の公演の場合、急遽出演者や演目が変更になったりする場合があるようですが、そうならないことを祈ります。

【折々のことば・光太郎】

自然、とは天と地とである。人々は此の天と地との間で苦しみ又考へる。

光太郎訳ロダン「フランスの自然」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

古今の人々が「天と地との間で苦しみ又考へる」その生きざまを語る、という意味では、講談にも通じる一言ですね。

8月6日(水)、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展を拝見後、上野に足を向けました。次なる目的地は東京文化会館さん。モダニズム建築の巨匠・前川國男の設計です。音楽ホールとしては珍しく、かつてテレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられました。もっとも同番組、ヘーベルハウスさんの単独提供となってから「『建築の巨人たち』じゃねーか」と突っこみたくなっているのですが(笑)。
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こちらの小ホールで、「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」を拝聴。
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「駅伝」の名に相応しく、15:30から20:00まで、50名超の歌い手の皆さん、10名以上のピアニストさんが演奏し継いでいくという催しでした。
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最後の「日本歌曲研究会」さんの部で、朝岡真木子氏作曲の「組曲 智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」を清水邦子氏が歌われるので、最終休憩の前、18:30頃参上いたしました。いきなり受付付近に朝岡氏がいらっしゃり、ご挨拶させていただきました。

休憩中の小ホール。
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こちらには初めて足を踏み入れましたが、小ホールといいつつ、へたな施設の大ホールより素晴らしいと思いました。ステージは確かに狭いのですが、天井の高さがそれを感じさせず、実際、後ほど演奏が始まると音響効果はえもいわれぬものでした。

来年、大規模改修が始まるそうですが、オリジナルの雰囲気はそのままにリニューアルされることを強く望みます。

「ロシア歌曲研究会」さんの後、「日本歌曲研究会」さん。
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朝岡氏作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」。清水氏は組曲の中の一曲だけを取り出すのは難しいとおっしゃっていましたが、どうしてどうして秀逸な演奏でした。

トリをつとめられた前澤悦子氏、令和4年(2022)の「えつ子とまき子のコンサート 2022秋」など、朝岡氏作曲のコンサートご常連で、この日も「智恵子抄」ではありませんでしたが、朝岡氏作曲の「日の光」(詩:金子みすゞ)を清水氏とデュエットなさったりもされました。

「日本歌曲研究会」さんの終演後。
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さらにグランドフィナーレは、おそらく今回の駅伝に参加されたほぼ全ての歌い手さん(プラスアルファもいらしたような……)による「歓喜の歌」サビの部分大合唱。伴奏はピアノ連弾でした。

すべて終演後のホワイエ。
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関係の皆さまのますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

芸術による思想の伝導は、生の伝導と同じく、熱情と愛との仕事である。

光太郎訳「ロダンの芸術」(ユージエヌ カリエール)より
大正5年(1916)訳 光太郎34歳

この項、元々、『高村光太郎全集』第1巻から始め、光太郎の詩文から「人生訓」的なものを紹介するというコンセプトでしたが、第12・13・20巻の日記や第14・15・21巻、さらに補遺である「光太郎遺珠」の書簡からの引用になって、当初の意義が薄れてしまっていました。

今日からは第16~18、20巻の翻訳の巻から元に戻して「人生訓」的な言葉を拾います。翻訳なので光太郎自身の言葉と言えませんが、やはり原語を日本語に変換する過程で光太郎の思想も入っていますし、多くはそれらの言葉が光太郎の血肉となっていますので。

まずは訳書『ロダンの言葉』(大正5年=1916)の序文的な文章から。ここで言う「芸術」は、彫刻などの造型芸術に限らず、文筆や音楽など、すべてのジャンルに当てはまるものと思われますね。

昨日は上京しておりました。

メインの目的は上野の東京文化会館さんでの「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」の拝聴でしたが、その前に新宿まで足を伸ばし、東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展を拝見。

洋画家・難波田龍起(明38=1905~平9=1997)は旧本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)にあった光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住み、光太郎の影響で芸術の道に入った人物です。はじめ詩作を志し、大正末には光太郎に詩稿を見てもらうなどしたものの、どうもそちらはものにならなかったようで(後々まで続けますが)、後に画家として立つことになります。智恵子も通っていた太平洋画会に一時加入しました。画の分野では川島理一郎、松本竣介、詩の方面では宮崎丈二など、その交友圏は光太郎とかなりの部分で重なっていました。光太郎との交流は光太郎最晩年まで続き、中野のアトリエを足繁く訪れた他、昭和28年(1953)に光太郎が花巻郊外旧太田村に一時帰村した際には同行しています。

そこで、「難波田龍起」展、「光太郎と交流の深かった画家」という点が前面に押し出されています。ただ、光太郎自身の作品等は展示されないということで、このブログでもご紹介せずにいました。
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出品リストが以下の通り。
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会場内。撮影可でした。
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初期の頃はそれほど特徴がない感じに見えましたが、戦後になって抽象の度合いが色濃くなると、豊かな個性の発露が感じられました。
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サイケなガシャガシャしたイメージではなく、静謐さも湛えているように見えるのは、色調が抑えられているせいかと思いました。

展示の終わり近くにスナップ写真などがケース内に並んでおり、光太郎も。見たことがあるような無いような写真でした。
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キャプションには「1953年」とありますが、光太郎日記を参照してみますと、どうも昭和29年(1954)1月5日のようです。

一月五日 火
晴温 終日在宅、難波田龍起氏子供さん3人同道来訪、リンゴ進呈、

一月十四日 木
晴、くもり、 ひる頃難波田さんくる、先日子供さんのとつた写真数枚もらふ、よくとれてゐる、

展覧会詳細は以下の通り。

難波田龍起

期 日 : 2025年7月11日(金)~10月2日(木)
会 場 : 東京オペラシティアートギャラリー 新宿区西新宿3-20-2
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 月曜日 (8月11日、9月15日は開館)
      月曜祝休日の翌火曜日(8月12日、9月16日) 8月3日[日](全館休館日)
料 金 : 一般1,600円[1,400円]/大・高生1,000円[800円] 中学生以下無料

 難波田龍起(1905-1997)は、戦前から画業を始め、戦後はわが国における抽象絵画のパイオニアとして大きな足跡を残しました。大正末期に詩と哲学に関心をもつ青年として高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで画家を志した難波田は、身近な風景やいにしえの時代への憧れを描くことで画業を開始します。戦後になると抽象へと大きく制作を進め、海外から流入する最新の動向を咀嚼しながらも情報に流されず、また特定の運動に属することもなく、独自の道を歩みました。その作品は、わが国における抽象絵画のひとつの到達点として高く評価されています。
 東京オペラシティアートギャラリー収蔵品の寄贈者である寺田小太郎氏が本格的な蒐集活動にのりだし、さらにコレクションを導くコンセプトのひとつである「東洋的抽象」を立てたのも、孤高の画家難波田龍起の作品との出会いがきっかけでした。難波田が東京オペラシティアートギャラリーの所蔵する寺田コレクションの中心作家となっていることは言うまでもありません。
 本展は難波田龍起の生誕120年を機に、当館収蔵品はもとより、国内の美術館の所蔵品、また個人蔵の作品などもまじえ、難波田の画業の全貌を四半世紀ぶりに紹介し、今日的な視点から検証するものです。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変突然ですが 御預り願つておりました智恵子の紙絵を御送附いただきたく思います 手許で見たくなりましたので…永い間、御預りいただいてゐましたこと深謝にたへません。鉄道便箱づめにして御送り下さい。同封の送料で何卒よろしくお願いします。

昭和31年3月27日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎74歳

亡くなる6日前のもので、現存が確認できている光太郎最後の書簡です。『高村光太郎全集』には脱漏していましたが、現物が花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されており、展示されたことも。

この時点では長い文面を自ら書き記す力はほとんど残っていなかったようで、借りていた貸しアトリエの大家である中西富江に代筆して貰っています。ただし、翌日には喀血・血痰が一旦治まり、散文「焼失作品おぼえ書」の最後の一枚を自ら書き、周囲を驚かせました。

生涯最後の書簡が最愛の妻・智恵子や第二の故郷・花巻(佐藤は光太郎を花巻に招いた一人)であることに、何やら象徴的なものを感じます。

保存運動を展開している、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ関連です。

協同組合伝統技法研究会さんという建築関係の組織があり、そちらの会報『伝統技法』の第52号が6月に発行されています。同会サイトには先月末に情報がアップされました。

会報52号 発行しました

会報52号を発行しました!

今回の目次は
●杉並に残る民家 高橋 政則
●婦人之友社社屋に学ぶ〜引き継がれた有機的建築 伊郷 吉信
●髙井鴻山記念館の張付壁 大平 茂男
●村野家住宅の茅葺き屋根の修理 大平 茂男
●飯田喜四郎先生が1月4日に亡くなられました 大平 茂男
●文化財建造物の保存修理に思うこと 大平 秀和
●中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ 十川

となっております。
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サイト上の情報ではなぜか執筆者名が苗字しか書かれていませんが、当方も所属する中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の中心メンバーのお一人、十川百合子さんによる「中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ」という文章が6ページにわたって掲載されています。
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施主である水彩画家・中西利雄のプロフィール、当該アトリエについて、ここを借りた光太郎とのからみ、そしてこれまでの保存運動の報告等。

奥付画像を載せておきます。必要な方、ご参考までに。
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ところで、アトリエについて、非常に残念なご報告があります。

現所有者の意向で、10月から11月頃に解体されることが決定したそうです。

これまで、中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会としては、現地での保存をまず第一に考えて交渉等を重ねて参りましたが、力及ばずでした。

そこで今後はプランB・次善の策として、どこか適当な場所に移築、という方向で動かざるを得ません。その移転候補地等も全く白紙に近い状態です。モダニズム建築家・山口文象設計という建造物としての重要性だけでなく、光太郎終焉の地という付加価値があるため、できれば近くにと思いますが、それも不可能であれば離れた場所でも仕方がないでしょう。信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)などがそうした例ですが、まったくゼロになってしまうよりどれだけましか、ということになります。

移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。場所さえ提供していただければ、あとは何とかできそうな構想にはなっています。

保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の容態はさつぱりよくなりませんが少しづつ原稿を書いて居ます原稿が書けなくなる日もあることでせう


昭和31年(1956)1月31日 宮崎春子宛書簡より 光太郎74歳

余命2ヶ月あまり、ほぼ病臥の生活となりましたが、調子のさほと悪くない時は原稿執筆も行っていました。詩では前年暮れには『読売新聞』に寄稿した「生命の大河」、同じく『中部日本新聞』などの三者連合に「開びゃく以来の新年」、NHKラジオに「お正月の不思議」。散文は雑誌『新潮』、『みづゑ』、『家の光』、『国立博物館ニュース』、『地上』、『旅行の手帖』などに。

カルチャースクール系の講座情報、目黒学園カルチャースクールさん主催の詩の講座です。

詩の創作と鑑賞講座 7月期

期 日 : 2025年7月7日(月)、8月4日(月)、9月1日(月)
会 場 : 目黒学園カルチャースクール第1教室 品川区上大崎3-3-1 アトレ目黒2 2階
時 間 : 18:00~20:00
料 金 : 9,900円(税込)3ヶ月3回

講座の前半では、名詩を鑑賞します。中原中也、萩原朔太郎や、谷川俊太郎ら馴染みのある詩人の作品を対象にして、読む楽しさについて学びます。また、世界の名詩も取り上げ、日本の詩と比較しながら詩を味わい、ことばを用いて書くことの楽しさについて触れてゆきます。講座の後半では、受講生のみなさんの詩を鑑賞し、受講生同士や講師から講評を受けながら、詩を書くことの面白さを皆さんと一緒に分かち合います。ありのままの感性を大切にことばと向き合いましょう。初心者の方、学生の方も歓迎です。

7/7は 『高村光太郎詩集』を鑑賞します。8/4、9/1は後日、決定いたします。

7/7(月)に体験会を開催いたします。(18:00~20:00 受講料 1,210円) 『高村光太郎詩集』岩波文庫 https://www.iwanami.co.jp/book/b249180.html を各自ご用意ください。それ以降は1回分受講料で随時体験をお受けします。詳しくはお問い合わせください。

講師 山﨑修平 詩人・文芸評論家、法政大学江戸東京研究センター客員研究員
   東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。
   法政大学大学院人文科学研究科日本文学専攻修士課程修了。
   同博士後期課程単位取得満期退学
   著書:詩集『ロックンロールは死んだらしいよ』、『ダンスする食う寝る』。
   小説:『テーベックのきれいな香り』。
   共著『吉田健一に就て』。
   文学イベントのゲストスピーカーやパネリストとして多く登壇。
   『週刊読書人』の文芸時評を担当するなど、文芸誌・新聞・専門誌での執筆経験をもつ。

〈講師からのメッセージ〉
 名詩を鑑賞し、そのエッセンスを丁寧に学びながら、詩を創作する喜びを分ち合いましょう。「詩はなんだか難しそう」、「詩なんて書いたこと無い」という方でも大丈夫です。受講生同士や講師からの、アットホームな雰囲気での講評によって、ありのままの感性を大切にことばと向き合う講座にしてゆきたいと思っています。一歩ずつ丁寧に進めていきます。ぜひ、ご一緒しましょう!
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岩波文庫の『高村光太郎詩集』をテキストにされるそうで。表紙に書かれた解説文は以下の通り。

世俗的なものとの妥協を排し,不断の情熱をたぎらせて人生の意味を追求し続けた光太郎の詩は,美しいもの,真実なものに対する善意と愛に満ちている.その歩みの中から九十三の詩篇を精選し,「道程」より・「道程」以後・「智恵子抄」より,の三部に編んだ.作者が生前自ら校閲した最後の詩集である. (解説 奥平英雄)

光太郎自身の「はしがき」も掲載されています。

 知友、東京国立博物館技官、奥平英雄氏からのお話によつて、岩波文庫版としてこの選詩集は出す気になつた。詩篇の選択、編集、組方、校正まですべて奥平氏の厄介になつた。奥平氏によつて選ばれた詩篇の中から私は更に三四篇を削除したが、これは自己の旧作に対して、私のやうな気質の人間の誰でもが抱くであらう一種のはにかみと不満とによるものである。実をいふと、自分の旧作をよんでゐて感ずるものは、あれもこれも消してしまひたいやうな衝動である。しかし消しはじめたらきりがなく、結局一篇も採れなくなりさうなので、これくらゐですませた。
 時代感覚を保存するために、今日の制限外漢字や旧やかなかな遣ひをそのままにして置いた。詩篇の選択を年代としておよそ「智恵子抄」あたりまでに限定したのは岩波文庫係の意見によるものであり、戦後の詩篇は一切編入されてゐない。尚この集詩篇の制作年代の決定は一々確実な記録によつたのですべて正しい。ただしこの年代は制作年代であつて発表年代ではない。
    一九五四年十一月


編者は解説も書いている美術史家の奥平英雄。晩年の光太郎に親炙し、その任を引き受けた他、『晩年の高村光太郎』(昭和37年=1962 二玄社)、『忘れ得ぬ人々  一美術史家の回想』(平成5年=1993 瑠璃書房)など、貴重な光太郎回想を残しています。『晩年の……』の方は瑠璃書房版の特製本(昭和52年=1977)もあり、こちらは特別附録としてラジオ放送のための奥平と光太郎の対談「芸術と生活 高村光太郎・奥平英雄」(昭和28年=1953 12月27日録音)が収録されたカセットテープが付いています。

7月7日(月)の光太郎の回が体験入学会を兼ねた実施だそうで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

医者のすすめに従ひ、今安静療法をやつてゐるため、胸像の完成はもすこしのびます、

昭和29年(1954)6月14日 牛越誠夫宛書簡より 光太郎72歳

牛越は石膏取り師、「胸像は」遺作となった「倉田雲平胸像」。結局、制作を中断したままになってしまいました。

昨日は上京しておりました。行き先は神田神保町の古書店、八木書店さん。目的は、こちらが主催の近代文学特別講座「活字をはみだすもの 第25回 高村光太郎「独居自炊」の思想―宮崎稔宛書簡から」拝聴でした。
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それぞれ別の方が講師を務められる全4回の講座の最終回で、この回の講師は東海大学さん文学部日本文学科教授であらせられる大木志門氏。
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副題が「「独居自炊」の思想―宮崎稔宛書簡から」ということで、茨城取手在住だった光太郎の姻族・宮崎稔(明34=1901~昭28=1953)にスポットが当てられてのお話でした。

まず驚いたのが、光太郎から宮崎、それから「鯉軒」とも号した宮崎の父・仁十郎、そして宮崎の妻にして智恵子の姪・春子宛書簡がズドンと200通ほど積み上げられていたこと。
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大木氏のコレクションかと思ったら、八木書店さんでお持ちのものだそうで、となると、いわば商品ですね。

光太郎からの宮崎家関係のこの手の書簡類、献呈本、書などはおそらくその全てが売却されてしまい、現在でも特に書簡類はよく市場にでるのですが、八木書店さんでこんなにたくさんお持ちだったというのは存じませんで、びっくりしました。

幸い、書簡類はおそらくその全てが『高村光太郎全集』に収録されています。ただ、細かい部分では『全集』で活字になっているものと齟齬があるようです。実際、昨日手にとらせていただいて拝見した一通は、『全集』では稔宛となっているものの、現物は春子宛でした。

ちなみに大木氏もご指摘されていましたが、表書きというか宛先というかが「取手町 宮崎○○様」で届いてしまっています。地区名や番地なしです。取手で「宮崎」といえばこの家、というほどの素封家だったことがわかります。仁十郎は日本画家・小川芋銭のパトロンでもありました。

光太郎と宮崎家との交流は戦前に遡ります。

仁十郎が檀家総代だった長禅寺さん境内に、「小川芋銭先生景慕之碑」が建てられたのが昭和14年(1939)。光太郎はその題字を揮毫しました。芋銭は前年に亡くなっています。
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太平洋戦争中の昭和19年(1944)には、やはり長禅寺さんで光太郎が講演。
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長禅寺さんといえば、戦後の昭和23年(1948)に山門前の石段脇に建てられた「開闡郷土」碑も光太郎が題字を揮毫しています。

取手で揮毫と言えば、旧取手町長・中村金左右衞門の子息二人(共に戦死)の墓碑の揮毫も光太郎。こちらは長禅寺ではなく、町外れの明星院さんという寺院近くの共同墓地に佇んでいます。

それら全て、宮崎家が仲介したり何だりで行われた事柄です。

稔は光太郎の手助けをいろいろ。最も大きかったのは、昭和20年(1945)5月の光太郎花巻疎開に際して。老年にさしかかり、健康も害していた光太郎に花巻まで同行したり、荷物の運送の手筈を調えたりしてやりました。その直前には、智恵子紙絵の約3分の1の疎開も引き受けています。

そんなわけで、光太郎は当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付き添いを務めてくれ、その最期を看取った智恵子の姪・春子を稔に紹介、二人は昭和20年(1945)の暮れに結婚しました。そして姻族となったわけです。

そこで、非常に近しい間柄だった宮崎家の人々に宛てた光太郎書簡は膨大なものになりました。その書簡群から垣間見える、特に戦中・戦後の光太郎について、大木氏が熱弁。
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レジュメの一部です。
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なるほど、たしかに量が多いだけに、さらに懇意にしていて踏み込んだ話もされることから、宮崎家宛ての書簡を概観するだけで、光太郎の動向やその時その時の心情がかなりわかるもんだな、と思いました。

ただ、光太郎にしてみれば困った点も。稔が光太郎の意志に反し、「やめてくれ」というのを振り切って、歌集『白斧』(昭和22年=1947)、書簡集『みちのくの手紙』(昭和28年=1953)を強引に出版してしまったことなどです。

それを受けて、『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜では、当会顧問であらせられた北川太一先生、昭和28年(1953)4月の項に「二十七日、何かと光太郎の身辺を案じ、一面では光太郎の心労の一因でもあった宮崎稔が胃潰瘍による吐血の末、四十三歳で没した」と書きました。実際、光太郎としては悼む気持も当然ありつつ、胸をなで下ろした部分もあったと思われます。

そしておそらく昭和63年(1988)に春子が没してからと思われますが、宮崎家関係の書簡類、献呈本、書などのおそらく全てが売却されてしまいました。先述の通り、そのうちの書簡200通ほどが八木書店さんに保管されています。八木さんとしては「これ、どうしよう」という部分もおありのようです。花巻高村光太郎記念館さんや駒場の日本近代文学館さんなどに寄贈していただければありがたいのですが、数百万円にはなるであろう市場価値を考えると、簡単に寄贈してくれ、とも言えません。さりとて予算の少ない公立の館で買い取る算段が付くか、というとそれも疑問です……。

さて、終了後、大木氏から氏の編集なさった下記書籍をいただいてしましました(と言いつつ、いただけるだろうなと姑息な予想をしておりまして(笑)、購入せずにいたものです)。
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田畑書店さん刊行の『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』。文庫サイズです。

てっきり一冊の書籍だと思い込んでいたのですが、袋から出してびっくり。何と、全9冊に分かれていました。「アンソロジー」ということで、光太郎作品群が8冊。
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それから大木氏の解説が書かれた「チュートリアルブック」が一冊。
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直接大木氏に伺ったのですが、『道程』や『智恵子抄』などのメジャーどころは敢えて外したとのこと。

表紙(というかカバー)がこうなっているのは、光太郎も登場するオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画であるためだそうで。同ゲーム、「文アル」と略され、朗読CD演劇などでも光太郎がらみになったことがありますし、花巻高村光太郎記念館さんとのコラボ企画もありました。こういうところを入口に、若い皆さんが興味を持って下さるのは大歓迎です。

ちなみに大木氏の「チュートリアルブック」中には清家雪子氏の漫画『月に吠えらんねえ』にも言及がありました。

多謝。

というわけで、田畑書店さんサイトからご注文下さい(都内の一部の新刊書店などでも扱いが始まったようですが)。

【折々のことば・光太郎】

小生は今安静中でお医者が三、四人見にきます、 外出しないので此手紙発送も中西夫人にお願します、


昭和29年(1954)6月3日 宮崎春子宛書簡より 光太郎72歳

これも春子宛の書簡です。

光太郎の結核悪化を心配した周囲の人物が、それぞれ懇意にしている医師を紹介。そこで「お医者が三、四人」です。医師達も心得たもので、「チーム・バチスタ」ならぬ「チーム・光太郎」を組んで、中野のアトリエへの往診や治療に当たってくれました。

2度ほどちらっとご紹介しましたが、当方も所属しています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」主催です。

中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会

期 日 : 2025年7月6日(日)
会 場 : 中野区産業振興センター 東京都中野区中野 2-13-14
時 間 : 13:30~16:00
料 金 : 無料

中西アトリエは画家・中西利雄亡き後、高村光太郎が創作のため1952年から1956年まで滞在しました。十和田湖畔の乙女の像の塑像をこのアトリエで制作しここで亡くなりました。詩人でもあった光太郎の滞在時には多くの文人たちが訪れたそうです。光太郎と仲間たちを偲ぶ朗読会のご案内です。

1、吹木文音(詩人) 
   宮沢賢治作
 よだかの星/銀河鉄道の夜
2、田井淑江(書家)
    太宰 治作
 人間失格 /走れメロス
3、 立原一洋(ギター奏者)、 
   佐藤春夫作
 秋刀魚の歌(作曲・立原一洋)
4、宮本苑生(詩人)
    草野心平作 
高村光太郎の死の前夜/高村光太郎死す/秋の夜の会話 他
5、原詩夏至(詩人)
    尾崎喜八作
 友/三国峠/私の詩
6、宮尾壽里子(朗読講師)
  高村光太郎
 レクイエム智恵子(構成・宮尾壽里子)
 ◆休憩◆   (10分)
7、出口佳代(朗読家)・早見英里子(フリーアナウンサー)   
  【光太郎智恵子】2人の声が奏でる静かで深い愛の物語
  高村光太郎作 僕等/道程/あなたはだんだんきれいになる/風にのる智恵子/
  レモン哀歌/元素智恵子
8、吉川久子(フルート奏者)・山田大輔(ギター奏者) 
  演奏曲目ほらねんねんねろ/ふるさと/星めぐりの歌/谷戸の風/小泉八雲の子守歌
  朗読作品 高村光太郎 樹下の二人/宮沢賢治 双子の星 春と修羅/太宰治の格言
9、一色采子(俳優)・田中健(ピアノ)
  詩と音楽のマリアージュ 高村光太郎「智恵子抄」より ドビュッシーの音楽に乗せて
  高村光太郎作 人に/樹下の二人/あどけない話/レモン哀歌

※朗読作品、演奏曲目、順序等、変更になる場合が御座います。ご了承ください。


司会/解説 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)

申し込み者募集中、80名(詳細は下記のチラシ)定員になり次第締め切り。
メール・sogakousei@mva.biglobe.ne.jp
☎090-4422-1534(ショートメール可)
朗読会案内①
朗読会案内②
光太郎が生涯最後の大作「乙女の像」を制作し、その終焉の地ともなり、さらに記念すべき第一回連翹忌会場となった、中野の中西利雄アトリエ。現在、保存に向けての活動を展開中ですが、この建物にかくも錚々たる人々が集まった(関わった)ということで、その人々の作品を朗読や音楽に乗せてお届けし、広くアトリエの価値の一つの側面を周知するための取り組みです。

ここで約3年半起居し、亡くなった光太郎をはじめ、光太郎の元を訪れた文人として、「乙女の像」仕掛人の一人・佐藤春夫、当会の祖・草野心平、そして尾崎喜八。それから光太郎が入居する前に亡くなりましたが、「乙女の像」クライアントの津島文治青森県知事実弟で春夫とも縁が深い太宰治、光太郎や心平らの努力で没後にその作品世界が広く世に認められるに至った宮沢賢治の作品も取り上げます。太宰と賢治はこのアトリエを訪れていませんが、それぞれの兄弟、津島知事と宮沢清六は足跡を残しています。

大トリに、女優の一色采子さん。都内や智恵子の故郷・二本松で北條秀司作の舞台を朗読劇化した「智恵子抄」公演で智恵子役をなさったり、お父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描かれた絵も複数遺されたりしています。

その前に、フルート奏者の吉川久子さん。こちらも「智恵子抄」がらみの公演を複数回なさって下さっています。当初、お仲間の方が朗読なさる予定でしたが、健康を崩されて、朗読も吉川さんがなさいます。

それから今年の連翹忌の集いで朗読を披露していただき、絶賛を浴びたフリーアナウンサーの早見英里子さんと朗読家の出口佳代さんのコンビ。

宮尾壽里子さんはじめ、ご自身で詩作等もなさっている詩人系の方々も。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

“62のソネツト”感謝、小生、まじめな人の詩に接するのは いつでも大きなよろこびであり、又それによつて勇気づけられます、


昭和29年(1954)5月20日 谷川俊太郎宛書簡より 光太郎72歳

昨年亡くなった谷川俊太郎氏宛で、唯一確認出来ているものです。『宮沢賢治全集』編集などで、父君の谷川徹三とは旧知の仲でした。俊太郎氏も複数のご著書を光太郎に贈っています。ただ、それらは郵送で、直接の面識は無かったようです。
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市民講座情報2件、ご紹介します。

まず、埼玉から彫刻関連。

文化芸術講座(高坂彫刻プロムナード)

期 日 : 2025年6月24日(火)
会 場 : 平野市民活動センター 埼玉県東松山市大字東平567-1
時 間 : 午前10:30~12:00
料 金 : 無料
講 師 : 東松山市文化芸術推進室長 熊澤篤司


高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚氏と東松山市の関係についてご紹介します。なぜ、高田博厚の作品が東松山市に集まるのか?彫刻家・高村光太郎とも関係がある?
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早世した荻原守衛を除き、光太郎が唯一と言っていいくらい高い評価を与えた同時代の彫刻家・高田博厚。光太郎の影響で彫刻家を志し、光太郎等の援助で渡仏しました。何度も書きましたが、同市の元教育長だった故・田口弘氏が戦時中から光太郎と交流があり、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで高田と出会って意気投合、光太郎胸像を含むプロムナードの建設につながりました。他にも同市では高田の顕彰活動さまざまに取り組んでいます。そんなこんなのお話が為されるのでしょう。

対象が同市在住・在勤・在学の人に限られていて、少し残念です。同様の講座が先月にもありましたが、その際もそうでしたが。

もう1件、都内で開催のものです。

活字をはみだすもの(第25回)◆高村光太郎「独居自炊」の思想 ―宮崎稔宛書簡から

期 日 : 2025年6月28日(土)
会 場 : 八木書店古書部三階催事場 千代田区神田神保町1-1-7
時 間 : 15:00~16:00
料 金 : 無料

◆講師 大木志門 先生
大戦中に多数の戦争協力詩を著した彫刻家で詩人の高村光太郎は、空襲によるアトリエ焼失後に岩手県花巻郊外の山小屋にこもり、独居自炊の生活を7年間にわたって継続した。その暮らしは厳しい自然と地域の人々との交流の中で営まれ、そこから新しくいくつもの詩が生まれ出ていった。光太郎自身により自己流謫とも表現されたその生活の様子と、戦中の自己と戦後日本の姿を見据えた詩人の晩年を、夥しく残された取手の詩人・宮崎稔宛の書簡からたどってみたい。

〔講師紹介〕東海大学教授、1974年生。自然主義文学・私小説を中心に研究。主な著書・編著に『徳田秋聲と「文学」』(鼎書房、2021)、『高村光太郎作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』(田畑書店、2025)、『石川啄木作品アンソロジー エッセンシャル啄木』(同、2024)、『島崎藤村短篇集』(岩波文庫、2022)など。
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他に3つの講座があり、ラインナップは以下の通り。

◆病気と文人 ―書簡から見る病んだ作家たち 尾崎紅葉、内田百閒、子母澤寛、斎藤茂吉、森田草平
 講師 中澤 弥 先生 6月21日(土) 13:00~14:00
◆1枚のハガキが証してくれたこと ―大阪毎日新聞社と菊池寛、芥川龍之介の一断面
 講師 庄司達也 先生 6月21日(土) 15:00~16:00
◆信子がくれた聖書  ―田村三治宛書簡にみる国木田独歩の青春
 講師 河野龍也 先生 6月28日(土) 13:00~14:00

それぞれ10名程の定員で、光太郎の回は既に満席だそうですが(当方も申し込みました)、これからキャンセル等もあるかも知れませんし、記録のためにもご紹介しておきます。

市民講座と言えば、実は明日、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市での講師を仰せつかっています。クローズドのイベントなので告知しませんでした。同市のボランティアの方々対象です。
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そういうわけで、今日、花巻に旅立ちます。

こうした光太郎関連の講座等、途切れることなく続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

染井墓地にある墓に彫つてある智光童女といふのはお言葉通り姉梅子で、七月とある由ですが、それは間違で、一月が正しいのです。小生の生れる前に既に死んでゐました。


昭和29年(1954)4月19日 北川太一宛書簡より 光太郎72歳

当会顧問であらせられた北川太一先生。この頃から光太郎の生涯をしっかり記録に残すことを考えられ、年譜の作成や光太郎への聞き書きに取り組まれていました。その一環で、染井霊園の髙村家墓所に眠る人々の調査等も行われたようです。

光太郎の直ぐ上の姉・うめ(梅子)は光太郎が生まれた明治16年(1883)、数え5歳で病没しました。非常に利発な子供だったとのこと。書簡の方が勘違いだったようで、やはり7月が命日です。

都内から演奏会情報です。

第39回カトリック松原教会チャリティーコンサート~ガリラヤの風かおる丘で~ フィリピン・ミンダナオ島で活動するシスターたちのために

期 日 : 2025年6月22日(日)
会 場 : カトリック松原教会 世田谷区松原2丁目28番5号
時 間 : 14:30開場 15:00開演
料 金 : 一般 3,000円 小中高生 2,000円

「ガリラヤの風かおる丘で」を作曲された蒔田尚昊先生は松原教会に所属されていました。蒔田先生は「ウルトラセブン」で知られる冬木透でもありました。昨年12月に帰天された先生を偲んで、先生の作品も紹介します。今回は松原教会メンバーに加え、若いバリトン歌手が賛助出演いたします。このコンサートは、フィリピン・ミンダナオ島にあるニーニャ・マリア・ラーニングセンターの貧しい家庭の子どもたちの支援のために行います。

出演
 秋永佳世(Sop) 有坂緑(Fl) 黒川京子(Sop) 小西陽子(Pf) 千賀由里(Pf)
 藤本典子(Ms)  安田紀生子(Vn) 保多由子(Ms) 楢原敬之(Br)

曲目
 蒔田尚昊   ガリラヤの風かおる丘で 「智恵子抄」より
 冬木透    ゾフィーのバラード
 アメリカ民謡 アメージング・グレース
 メルカデンテ サルベ・マリア
 ピアソラ   「天使の組曲」より
 中田喜直   悲しくなったときは
 他

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6月7日(土)、上野の旧東京音楽学校奏楽堂さんで開催された「第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会」で蒔田尚昊氏の歌曲集「智恵子抄」から「Ⅱ. あどけない話」「Ⅴ. レモン哀歌」の二曲を歌われた黒川京子氏がご出演。おそらく同じ二曲を演奏されるのだと思われます。

他に蒔田氏が映画音楽等を作曲なさった際の変名である冬木透クレジットで「ゾフィーのバラード」。ゾフィーはウルトラ兄弟の長男ですね。ファーストウルトラマンの最終回、宇宙恐竜ゼットンに敗れ、命を落としたウルトラマンを助けにやってきたのが初登場でした。その当時は兄弟とか長男とかの設定にはなっていませんでしたが。
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売り上げはフィリピン・ミンダナオ島での活動支援に宛てられるそうです。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お餅と白いんげんたくさんいただきありがたく存じました。これでお正月の雑煮も出来ました。東京は此頃たいへんあたたかです。山口ではもう雪になつた事でせう。


昭和28年(1953)12月25日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

前年まで花巻郊外旧太田村山口地区に蟄居していた頃は、都内の友人等からいろいろと食糧等が送られていましたが、中野の貸しアトリエに出て来てからは、逆に太田村民らから様々な食品などの贈り物。食糧難の時代も過ぎ、光太郎とてこの頃は経済的な困窮はまったくなかったのですが、人徳なのでしょうね。

こちらの検索の網に「智恵子抄」、「ほんとの空」の語でヒットしました。都内で開かれる、智恵子の故郷・福島二本松市主催のイベントです。

二本松市移住出張相談会 一緒に地域おこししませんか?

期 日 : 2025年6月15日(日)
会 場 : 東京交通会館8階ふるさと回帰支援センター 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 10:30~17:00 (1枠45分)
料 金 : 無料

移住に興味をお持ちの方へ、ぜひ二本松市を選択肢の一つに加えてみませんか?

首都圏から新幹線で約2時間程度。「智恵子抄」で詠われた『ほんとの空』が広がる二本松市は城下町として栄え、温泉や里山など田舎暮らしをしたい方の望むものが揃う一方、病院や公園などの遊び場も多く、子育て世帯も住みやすい街です。福島県の中でも、県庁所在地である福島市と、人が多く集まる商業都市である郡山市のちょうど中間地点に位置しており、利便性にも優れています!
 地域おこし協力隊としての活動先をご検討中の方、移住生活に興味はあるけれど具体的にイメージできない方、移住に向けて一歩踏み込んだ話をしたい方など、ぜひこの機会にお気軽にご利用ください。
 あなたのご参加をお待ちしております♪

■ご相談内容の例
 ・地域おこし協力隊活動についてのご相談
 ・二本松市での暮らし、仕事、住まいについてのご相談
 ・具体的な移住支援制度についてのご紹介
 ・子育て支援についてのご案内
 ・移住された方の事例についてのご紹介
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以前にも同様の相談会等の情報が「智恵子抄」、「ほんとの空」の語でヒットしました。コロナ禍中の令和3年(2021)には、やはり二本松市さんがオンラインで相談会を開催。それ以前の令和元年(2019)には実際に二本松市内で「田舎暮らし体験ツアー」。この年には二本松市を含む「福島圏域」としての合同セミナーも今回と同じ東京交通会館さんで開催されました。

また、今回の要項では「地域おこし協力隊」関連も視野に入れていることが窺えます。同隊員の募集も今年始めにこのブログで紹介させていただきました。

さらに、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市さんでも「花巻市外から移住した方、移住者と交流したい市民、市へ移住希望の方向け」ということで、「移住者交流会・花巻めぐりバスツアー」などの取り組みを行っています。

東京一極集中の弊害が叫ばれて久しいところですし、コロナ禍を機に広まったリモートワークの充実も追い風と言えるでしょう。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

椛沢さんが指圧療法を修得されて中々うまいやうですが、あなたも椛沢さんにそれを習つてみたらどんなものでせう、田舎でなら繁昌するかもしれないやうに思はれますがどうでせう、


昭和28年(1953)12月7日 宮崎春子宛書簡より 光太郎71歳

宮崎春子は智恵子の姪で、その最期を看取りました。この年に夫の稔を亡くし、光太郎としては幼子二人を抱えた義姪の生活のたづきを心配していました。ただ、稔の父・仁十郎は茨城取手の素封家で、この頃はいまだ健在、春子もすぐに困窮というわけではありませんでした。

昨日は上野で「第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会」を拝聴して参りました。レポートいたします。
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会場は旧東京音楽学校のホール・奏楽堂さん。場所は少し動かされていますが、明治23年(1890)の竣工で、隣の東京美術学校に通っていた光太郎も目にしたことのあるはずの建物です。
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敷地内には光太郎とも交流のあった朝倉文夫による滝廉太郎像などもたっています。

開演前のステージ。
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13:00開演。
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当方、あまり詳しくはないのですが、二期会さんの中でいろいろな「○○研究会」という部会があって、その一つの「日本歌曲研究会」さんに所属する歌手の方々なのでしょう、12名の方が思い思いに自選された歌曲を歌われるというものでした。

故・蒔田尚昊氏作曲の歌曲集「智恵子抄」から「Ⅱ. あどけない話」「Ⅴ. レモン哀歌」の二曲が、黒川京子氏の歌唱で演奏されました。ピアノは髙木由雅氏という方。
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いずれも抒情的なメロディに乗せて切々と光太郎智恵子の心境が表され、また確かな技倆に支えられて素晴らしい演奏でした。

「あどけない話」は、全音さんの『日本歌曲集3』(昭和45年=1970)に収められていますが、他の4曲「I 樹下の二人」「 III 同棲同類」「IV 千鳥と遊ぶ智恵子」「V レモン哀歌」は公刊された楽譜集等に収録されておらず、最近の各種演奏会でも抜粋で取り上げられるだけで(今回もそうでしたが)、全曲の楽譜公刊、コンサート等での演奏、さらにCD化が為されてほしいと願っております。

他の方々の演奏も堪能させていただきました。やはり「組曲 智恵子抄」を作曲され、連翹忌にもご参加下さった朝岡真木子氏作曲の作品(「智恵子抄」ではありませんでしたが)を取り上げた方もいらっしゃいました(朝岡氏、当方のすぐ前の席に座られ、お話しさせていただきました)。

それから、三木露風北原白秋山村暮鳥谷川俊太郎など、光太郎と交流のあった人々が作詞した曲が多く、その意味でも嬉しゅうございました。

終演後のカーテンコール的な。
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右からお二人目が黒川氏。黒川氏は、他に宮沢賢治がらみの歌曲等にも取り組まれるということで、お仲間で朝岡氏の「組曲 智恵子抄」をやはり奏楽堂さんで歌われCD化もなさって、今回も聴きにいらしていた清水邦子氏ともども、今年の1月31日(金)・2月1日(土)の2日間、当方が花巻の光太郎/賢治聖地巡礼ガイドを務めさせていただきました。

先の話ですが、その賢治がらみ。清水氏もご出演なさいます。
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他にも受付でもらったり、朝岡氏・清水氏から直接いただいたりしたフライヤー類。

蒔田氏・朝岡氏の「智恵子抄」が演奏されるもの(近くなりましたらまた詳細をお伝えいたします)。
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光太郎関係ではありませんが、朝岡氏・清水氏が作曲されたり出演なさったりするもの。
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左上は創作版画の川瀬巴水(ちなみに光太郎と同年の明治16年=1883生まれです)オマージュの歌曲が演奏されます。林望氏が作詩だそうで。右上は青島広志氏作曲のオペラですが、なんと、古代史や民俗学等に材を採ったおどろおどろの漫画(10冊ほど書架にあるのですが(笑))で有名な諸星大二郎氏の作品が原作です。最近はクラシック界も一筋縄ではいかないようですね(笑)。

関係の皆様方のさらなるご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

五日に無事に東京につきました、道具箱も安泰、木炭三十俵も昨六日届きました、お手数感謝いたします、 今度はいろいろお世話様になり、御馳走になり、出発の際には奥さまのお見送りをうけ、恐縮に存じました、 又部落の方から木炭十俵をいただき難有く存じます、よろしくお礼をお伝へ下さい、

昭和28年(1953)12月7日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

11月25日から12月5日にかけ、前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村へ、約1年ぶりの帰村。中野の貸しアトリエに戻ったよ、という報せです。
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都内と太田村との二拠点生活を考え、住民票は太田村に残していましたが、結局は健康状態がそれを許さず、この際が最後の太田村訪問となってしまいました。光太郎の余命、あと2年余りです。

都内から演奏会の情報です。

第二十二回 二期会日本歌曲研究会演奏会

期 日 : 2025年6月7日(土)
会 場 : 旧東京音楽学校奏楽堂 東京都台東区上野公園8番43号
時 間 : 12:30 開場 13:00開演
料 金 : 全席自由 4,000円

出演
 <ソプラノ> 阿部麻子 木内弘子 黒川京子 品田昭子 柴田百代 武かほる
        鳥養和歌子 中村良枝 福成紀美子 毛木香保里
 <メゾソプラノ> 草西富貴子
 <バリトン> 馬場眞二
 <ピアノ> 髙木由雅 森裕子

演奏予定曲目
 山田耕筰 作曲 病める薔薇/南天の花
 斎藤佳三 作曲 ふるさとの
 平井康三郎 作曲 茉利花(まつりか)の/小面幻想
         歌曲集「日本の笛」より 夏の宵月 野焼の頃
 中田喜直 作曲 「”マチネ・ポエティク”による四つの歌曲」より 3. 髪
 武満徹 作曲 死んだ男の残したものは
 三善晃 作曲 「聖三稜玻璃」より 1. いのり 3. 青空に 4. ほんねん
 蒔田尚昊 作曲 「智恵子抄」より Ⅱ. あどけない話 Ⅴ. レモン哀歌
 加賀清孝 作曲 歌曲集Ⅳ「ハイゼのイタリア詩集(邦訳)による7つの歌」より
         2. あなた その気弱な一言で 5. 彼が歌ってるの 月明かりのおうちの前で
         6. きのう真夜中に起きたら
 朝岡真木子 作曲 さくらの はなびら
         まど・みちおの詩による組曲「リンゴを ひとつ」より 3. 貝のふえ
 木下牧子 作曲 「竹久夢二の詩による7つの歌」より
         3. ゆふぐれがたに 6. ジョウカア 7. あなたの心
 千原英喜 作曲 歌曲集「ありがとう」―谷川俊太郎の4つの歌―より
         1. 誰もしらない 4. ありがとう
 松下倫士 作曲 うたを うたうとき
 <委嘱作品>
 「音楽四章」前田佳世子 曲 / 谷川俊太郎 詩
   1.音楽の時 2. ただそれだけの唄 3.ないしょのうた 4.音楽
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故・蒔田尚昊氏作曲の歌曲集「智恵子抄」から、第二曲「あどけない話」と第五曲(最終曲)「レモン哀歌」がプログラムに入っています。歌われるのは黒川京子さん。今回はご出演なさいませんが、お仲間で、朝岡真木子氏ご作曲の「組曲 智恵子抄」を歌われた清水邦子さんともども、今年の1月31日(金)、2月1日(土)と、花巻の光太郎・宮沢賢治関係スポットをご案内させていただきました。そんなこんなで招待券を頂いてしまっています。恐縮です。

蒔田氏の「智恵子抄」、公刊されている楽譜集では、全音さんの『日本歌曲集3』(昭和45年=1970)に「あどけない話」が収められているだけですし、市販のアナログレコードやCD等にも収録されていません(見落としがなければ、ですが)。YouTube上には令和3年(2021)に紀尾井ホールさんで開催された「蒔田尚昊 歌の世界〜アヴェ・マリアからウルトラマン賛歌まで〜」(コロナ禍のため無観客)、同5年(2023)に渋谷区文化総合センター大和田さんで開催の「「男声合唱のためのウルトラセブン」 楽譜出版記念コンサート」での演奏などがアップされています。前者は大野光彦氏、後者は加耒徹氏の歌唱です。他に、野々村彩乃氏という方の演奏も上げられていますが、こちらは寡聞にしていつどこで収録されたものか不明です。

ちなみにウルトラ系がタイトルに入っているのは、蒔田氏が「冬木透」名義で「ウルトラセブン」をはじめとするウルトラ系の楽曲を作曲されているためです。

今回の会場は上野公園内の旧東京音楽学校奏楽堂さん。東京音楽学校は、光太郎の母校・東京美術学校とともに戦後に東京藝術大学さんへと改組され、ホール自体も藝大さんを離れて台東区さんに所管が移りましたが、創建当初の姿を残してリノベーションされ、味わい深い建造物です。重要文化財指定もされています。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日はメダル原型の石膏を渡して、百五十個作成を御依頼しました、経四寸、片面のメダル、一個分五〇〇円の由につき、県庁の金で半金三七、五〇〇円お渡し致しました。


昭和28年(1953)9月10日 牛越誠夫宛書簡より 光太郎71歳

「メダル」は、10月に行われる生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に記念品として贈られる「大町桂月メダル」。十和田湖の景観美を広く世に紹介した大町桂月は、道路整備等に腐心した元青森県知事の竹田千代三郎、元法奥沢村長の小笠原耕一とともに「十和田の三恩人」と称され、「乙女の像」は三恩人の顕彰という意味合いもありました。
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結局、このメダルが光太郎彫刻最後の完成作となりました。

現在、「春の特別展 実篤の肖像」を開催中の調布市武者小路実篤記念館につき、『東京新聞』さんが大きく取り上げました。光太郎にも触れて下さいました。特別展のレポートと言うよりは、館自体の紹介です。毎月第4木曜に掲載の、「首都圏の文学館を訪ね、作家や作品にゆかりのある場所を巡」る、「本を読もう、街に出よう」という連載です。

〈本を読もう、街に出よう〉 武者小路実篤 人間輝け ロマンチストの願い

 「君は君 我(われ)は我也(なり) されど仲よき」
 「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲く也」
 ひと昔前に旅館や食堂で、そんな言葉とカボチャや可憐(かれん)な花の挿絵が入った色紙をよく見かけた。今月、生誕140年を迎えた武者小路実篤だ。味のある文字と、身近な野菜や植物を題材にした素朴な画風は多くの人に親しまれてきた。
 作家として成功する逸材は幼少期に学業優秀であることが多いが、実篤は例外。しかも、作文と図画が苦手だった。ところが10代後半にロシアの文豪、トルストイに影響を受け、夏目漱石を愛読するようになり、「社会に影響力のある作家になろう」と決意した。
 絵を描きはじめたのは38歳と遅い。生まれたばかりの長女がかわいく、絵心のある妻が娘をサラサラと描く姿を見て「私も描こう」。スケッチや淡彩画、そして油絵も独学で身に付けた。子や孫に「やりたいことを見つけて、頑張って続けよう」と諭した。それを自ら心掛けていたのだろう。
 「理想的社会」と題した評論で、その柱を「長生き」「個性を発揮出来る」「喜びを感じて生きられる」とした。人権の尊重や愛、友情―と人間社会に理想を求めたロマンチストだったようだ。実篤が中心となって創刊した雑誌「白樺(しらかば)」を愛読した作家、芥川龍之介は彼を「道徳的天才」と呼んだ。詩人、高村光太郎は実篤作品に触れると「おのずと明るくなり、人間を肯定しなければならなくなってくる」と話していた。
 白樺が成功した実篤は「人間らしく生活できる理想郷」をつくろうとした。1918年、宮崎県木城村(現・木城町)に「新しき村」を開村。出自に関係なく平等に農耕し、芸術や演劇などの活動を通じて自由で文化的な共同体を目指した。自身も6年間暮らし、農作業の傍ら小説を書き、今も版を重ねるロングセラー「友情」を発表。実篤の経済的支援もあって最盛期に村民は50人を超えた。その後、ダム建設で水没することになり、1939年に埼玉県毛呂山町に新設された村に一部の村民が移転。村民は減ったが、今も理念は受け継がれている。
  その活動を、白樺の同人だった作家、有島武郎は「失敗にせよ成功にせよあなた方の企ては成功です。それが来るべき新しい時代の礎になる事に於(おい)ては同じです」と評価していた。
 実篤の人物像に触れるこんな逸話がある。1939年に発表した「愛と死」で将来を誓い合った2人の悲恋を描いた。同作に取り組んだのはその2年前に日中戦争が勃発し、徴兵されて戦死した多くの若者たちがいたからだ。戦時色が強まる中、実篤は「愛する人を失う人の気持ちを書こう」と机に向かい、気持ちが高ぶっては落涙した。涙の跡がある原稿が今も残っている。
  実篤は55年に現在の調布市若葉町に転居し、76年に90歳で亡くなった。邸宅と庭は同市に寄贈されて実篤公園となり、武者小路実篤記念館も建てられた。特別展「実篤の肖像」を開催している同館の学芸員、佐藤杏さんは「ワークライフバランスといった言葉がない時代に実篤は働き方改革を進め、人間性豊かな社会をつくろうとした。前向きに、正直に生きた実篤の作品や名言は、格差や貧困が問題となっている今こそ味わい深い」と話す。
 特別展は6月8日まで。原則月曜休館。敷地内の旧実篤邸は週末と祝日に公開。
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武者小路実篤 むしゃこうじ・さねあつ
 1885年、東京生まれ。華族の家系で2歳の時に父が結核で死去。学習院高等学科を卒業した1906年に東京帝国大哲学科入学。その後中退し、学習院時代の同級生、志賀直哉らと1910年に雑誌「白樺」を創刊。人間賛美を理想とする白樺派の中心人物に。51年、文化勲章受章。代表作に「お目でたき人」「真理先生」「一人の男」など。

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左:武者小路実篤 右:ロビーに展示されている実篤の手形のレリーフ
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自伝小説「一人の男」の自筆原稿も展示
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緑豊かな実篤公園にある武者小路実篤の銅像
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展示されている武者小路実篤の書画
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晩年を過ごした邸宅の隣接地にある武者小路実篤記念館

引用されている光太郎の武者評は、光太郎最晩年の昭和30年(1955)、雑誌『文芸』第12巻第12号に載った「埴輪の美と武者小路氏」の一節です。ちなみに『文芸』のこの号は、昨年、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催された「ハニワと土偶の近代」で、そのページを拡げて展示されました。
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埴輪の持つ素朴で原始的な美を「明るく、清らかで、単純で、惑うところのないこの美」と述べ、文芸の分野でも自らも同人に近い位置にいた白樺派が台頭した頃、「埴輪的性格がまだもどつて来た」とし、「武者さんが現われたからであり、武者さんは埴輪の美を、造型ではなく身につけたものとして我が国に現われたのである。我が国本来の姿が、ここに始めて立還つたと言つても過言ではなかつたのである」と続けています。その後、『東京新聞』さんに引用された箇所を含む次の一節。

 武者さんから沁み出るものを感取していると、人は自ずと明るくなり、人間を肯定しなければならなくなって来る。大きな考えでものを包み込んでしまうから、武者さんには小さないざこざが起らないのである。

その後も延々と武者を手放しで賞讃しています。

光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居中も、山小屋に武者の色紙を飾っていました。
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医は①
いずれの写真にも左上に写っています。

ついでというと何ですが、武者からの光太郎評も。

 高村光太郎君が日本に居てくれることは何となく嬉しい。滅多に逢はないし、作品も彫刻の方は暫く見ない。しかし高村君が居ることは何となく信頼が出来る感じだ。
 個人としてはこの頃少しも逢はない。訪問したい気はあるのだが、遠いのと、何かと用があつて、時間が足りないので、高村君の所までゆく閑がないが、しかしいくら逢はないでも、生きてゐてくれるだけで嬉しいのだ。珍らしい存在である。
(略)
 僕は高村君の木彫に一番愛着をもつてゐる。
(略)
 しかしそれ等以上に、人間が好きだと言つていゝと思ふ。要領を得ない感じがよく、何んでも言つて、わかつてもらへさうな気がする。実に気らくに本気な話の出来る人である。又常に夢みてゐる人で、その夢が実に面白い。

(「高村光太郎君に就て」 昭和16年=1941 雑誌『道統』第4巻第9号)

 高村君が当時の日本の彫刻界の事を実に痛快に罵倒した評論を読み、胸のすく思ひをしたのは事実で、あんな痛快な批評はなかつたと思つてゐます。荻原碌山だけは認めて居たと思ひますが。それが痛快すぎて、たうとう高村君は彫刻の方では芸術院会員になれなくなつたのではないかと僕は思つてゐるのですが、事実かどうかは知りません。何しろ痛快なものでした。
 白樺でロダン号を出す時、勿論高村君に原稿をたのみ、承諾を得ていゝ原稿をもらつて喜びました。
 当時僕はよく高村君のアトリエを訪問しました。高村君は作品を見せようと自分の方からはしない人なので、僕は勝手に許しを得てまいてある布をほどいて見たものです。それが僕の特権でもあるやうに思つて、言ひたい事を言つて、仕事を大いにするやうにすゝめたと思ひます。
(「白樺と高村君」 昭和31年=1956 雑誌『文芸』臨時増刊号『高村光太郎読本』)
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長期間にわたって頻繁に会っていたというわけではない二人ですが、お互いにお互いを信頼し、敬愛していたのがよく分かりますね。

そんなわけで、調布市武者小路実篤記念館さん、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おハガキいただきましたがやはり秋冷の頃までは覚束なく、まるでダメとお思ひください。今、暑さで閉口、とても出来さうもありません。

昭和28年(1953)7月28日 高藤武馬宛書簡より 光太郎71歳

高藤は雑誌『言語生活』主幹。その原稿依頼に対する断りの返信です。若い頃からの夏場は電池切れになる性向(笑)は、最晩年まで続いたようです。

一昨日、六本木の国立新美術館さんでの第120回記念 2025年太平洋展拝観後、品川に足を向けました。次なる目的地は品川駅近くのキヤノン S タワー内にあるキヤノンオープンギャラリー。こちらで「東京写真月間2025 国内企画展 髙村 達 写真展 Re Flowers」が開催中です。
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髙村達氏は、長男でありながら家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ光雲三男にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周令孫の写真家です。お父さまの故・規氏も写真家でした。

ここで写真展詳細情報を。

東京写真月間2025 国内企画展 髙村 達 写真展「Re Flowers」

期 日 : 2025年5月20日(火)~6月23日(月)
会 場 : キャノンオープンギャラリー1 港区港南2-16-6 キヤノン S タワー2F
時 間 : 10時~17時30分
休 館 : 日曜日
料 金 : 無料

 本展は写真家 髙村達氏による写真展で21点の作品を展示します。東京写真月間実行委員会が主催する「東京写真月間2025」の国内企画展の一環で、「写真の力で伝えよう 未来に希望を」をキャッチフレーズにSDGsを意識した写真展のシリーズVol.4として開催します。
 なお、本年の国内企画展は「写真で伝えようSDGs」を継続テーマとして、日頃写真を通して様々なアプローチでSDGsを表現している7名の出展者が選出され、都内6会場で写真展を開催します。展示作品は日本写真協会会員を対象にした公募形式で作品を募集しました。いずれも多面的な視点で「SDGs」についての取り組みが表現された写真展です。
 本会場の作品はすべてキヤノンの大判プリンター「imagePROGRAF」を使用してプリントし、展示します。

作家メッセージ
 高精細な表現と長期保存のプリント作品を意識するようになり風景写真と同じくマクロ撮影に興味を持ち、自然の中の緻密な植物の模様や表情をスタジオで撮影した。植物のディテールが撮影できた時、植物に対する興味が深まり散歩をしながら落ち葉やお花など植物を拾いノートに挟んだ。背景も金属の板に模様を描いては削り外で雨や風にさらして錆を繰り返して作りライティングをして僅かな陰影を活かし撮影をしました。今回の「Re Flowers」押し花は自然の中のお裾分けの一部であり今後も撮り続けていきたいテーマです。
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達氏が副会長を務められている日本写真家協会さんとしての「国内企画展 SDGsシリーズvol.4 写真の力で伝えよう SDGs」の一環という位置づけだそうです。

さて、レポートを。
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入口から入ると、基本的に会場内は暗く、黒い壁をバックにして各作品にスポットが当てられているという構成。藤城清治氏の影絵のような。と言っても真っ暗というわけではありません。こういうやり方もありなんだな、と思いました。
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来場の方に開設されている達氏。この後、当方も詳しく説明を拝聴しました。

基本、風雨に晒して錆びさせた鉄板をバックにし、散ったり朽ちかけたりした葉や花弁などを置いて撮影されているそうです。ものによって拡大率等が異なるようですが、マクロ撮影が中心ですね。そのデータをキャノンさんのプリンタを使って、漆喰をシート状に加工した特殊なインクジェット紙にプリントアウトする「フレスコジクレー」という技法です。それによって顔料が漆喰に浸透して耐久性が増し、褪色が防げるとのこと。中世ヨーロッパのフレスコ画に近いやり方ですね。
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参観された方から「智恵子の紙絵に似ていますね」という声が寄せられたそうです。なるほど、と思いました。

和紙にプリントされた作品も。
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実際に上記の方法で制作された作品そのものも1葉、いただいて参りました。ハガキ大の小さなものですが。
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もはや一般的な「写真」という概念には収まらない感じですね。絵画や彫刻などの世界でも、新しい素材が開発されたり従来見られなかった手法が取り入れられたりと日進月歩ですが、写真の分野でもそうなのだと思いました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間の絹地の小さい方に「わが山に」のうたを書きました、小包にするのが厄介なので中西さんの奥さまに托しました いつでもお渡し出来ます、


昭和28年(1953)7月29日 奥平英雄宛書簡より 光太郎71歳

奥平英雄は戦時中から交流のあった美術史家。この頃、東京国立博物館に勤務していました。

書もよくした光太郎、奥平には書画帖『有機無機帖』をはじめ、多くの書を進呈しています。「わが山に」は短歌。複数の揮毫例があり、「わが山に」ではなく「吾(われ)山に」となっているものが多く存在します。
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上記は奥平に贈られた物ではありません。「吾山に 流れてやまぬ 山みづの やみがたくして 道はゆくなり」と読みます。

また、「道はゆくなり」が「この道はゆく」、「あしき詩を書く」などとなっている異稿も存在します。

昨日は上京し、都内をふらふらしておりました。今日明日と、2日に分けてレポートいたします。

まず向かったのは六本木の国立新美術館さん。
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こちらでは、明治末から大正初めにかけて智恵子が所属していた太平洋画会の後身・太平洋美術会さんの「第120回記念 2025年太平洋展」が開催されています。
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智恵子が加入していた太平洋画会は、前身の明治美術会が明治22年(1889)の創設で、明治35年(1902)に太平洋画会と改称、第1回展が開かれました。そして120年前の明治38年(1905)に谷中清水町から谷中真島町に移り、本格的に活動開始だそうです。その年からまだ日本女子大学校在学中だった智恵子が同会に通い始め、正式に加入したのは同校を卒業した明治40年(1907)と推定されています。いずれも日本女子大学校で美術を教えていた松井昇の手引きと思われます。
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今回が第120回記念展ということで、そのあたりの歴史に関する展示が為されており、その拝見が大きな目的でした。
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幟(のぼり)や看板なども。さらに光太郎と交流の深かった石井柏亭の名も。
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ただ、谷中真島町も戦時中の空襲でやられ、現在の西日暮里に移転したためでしょう、戦前の資料などはあまり遺っていないようでした。以前に一度お邪魔して、智恵子の名の載った(「千恵子」と誤記されていましたが)名簿などを見せていただきましたが。

智恵子は明治45年(1912)の第10回展に「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品。
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ちなみに隣に名のある池田永治は、駒込林町の光太郎アトリエ兼住宅の近くに住み、昭和20年(1945)5月14日(光太郎が花巻に疎開のため出発する前日)、その時着ていたチョッキに光太郎の揮毫を貰った人物です。
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智恵子や池田に直接関わる展示物は見あたりませんでしたが。

その後、通常の入選作等の拝見。

「先輩」智恵子の顕彰を様々な方面から行われている坂本富江氏。「会員秀作賞」だそうで、素晴らしい。
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能登の桜だそうで、「ほおお」という感じでした。

それから、以前にお邪魔した際お世話になった、同会事務局のお仕事もなさり、同会のX(旧ツイッター)アカウントの「中の人」・松本昌和氏。こちらは「記念賞」とのこと。
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西日暮里にある現在の同会研究所の向かいに鎮座まします諏方神社さんが描かれています。

たまたまでしょうが、彫刻の部では「道程」と題された作も。
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その他、染織や版画の作品も。

東京展は5月26日(月)まで、その後、福岡、大阪、名古屋に巡回だそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日は老人医学の大家である尼子博士に身体検査をしてもらひ、肋間神経痛の治療にかかりました。二三日うちにレントゲン検査をしてもらふことになつてゐます。中々山口に帰れないので困ります。


昭和28年(1953)6月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

「山口」は前年まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は帰るつもりで、ほとんどの家財道具や住民票は残したままでした。

尼子博士」は尼子富士郎。現在の浴風会病院さんの前身である浴風園の医長(のち、院長)でした。かつては駒込千駄木町に住み、その父・四郎は夏目漱石と交流があって、『吾輩は猫である』に「甘木先生」として登場します。富士郎も漱石に中学受験の際に英語の家庭教師をして貰いました。

結局、富士郎の診断は「重度の肺結核」。光太郎の余命、あと2年半余りです。

中野区の桃園区民活動センターで開催されている『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会について、『東京新聞』さんが報じて下さいました。

「水彩画の巨匠」中西利雄アトリエ残したい 中野で有志が企画展 23日まで ゆかりの芸術家や内外装 パネルで紹介

 「水彩画の巨匠」と呼ばれる洋画家の中西利雄(1900~48年)が中野区内に建てたアトリエを伝えるミニ展示会が、近くの桃園区民活動センター(中央4)で開かれている。存続の危機にあり、広く知ってもらおうと企画された。23日まで。
 中西が建てたアトリエでは、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作。設計は建築家の山口文象で、世界的彫刻のイサム・ノグチが住んでいた時期もあり、芸術家らとのゆかりは深い。
 中西の息子が2023年に亡くなった後、保存活用の在り方が問われてきた。展示会は有志による「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)が主催し、アトリエの内外装やゆかりの人々などをパネル10点ほどで伝える。
 同会の曽我貢誠(こうせい)事務局長(72)は、中西やその家族は積極的に地域の人々と交流し、身近な存在だともした上で、「区民らにアトリエのことを知ってもらいたい」と呼びかけた。
 入場無料。期間中は19日休館。

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アトリエの歴史や文化的価値を説明する曽我貢誠事務局長=中野区で

先週もこのブログで書きましたが
光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

主に区民の皆さんにそのあたりを周知したいということで、先月24日から、記事の通り桃園区民活動センターさんでミニ展示を行っています。
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問題のアトリエ、しっかり活用計画を考えて土地ごと買い取って下さるという方(法人さんでも個人の方でも)が現れてくれれば最善です。また、買い取りではなく貸借で、ということも考えられます。活用計画は無理、という場合でも、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」として相談に乗りますし、同会が指定管理者的な立場となることもありでしょう。

現地保存ではなく、土地を提供するので移築して活用したい、というお申し出も次善の策として考えています。その場合、近くであるに越したことはありませんが、たとえ離れた場所であっても、アトリエが烏有に帰すよりはずっとましですし、実際、そうした例も少なからず存在します。

現地やミニ展示をご覧の上、手を挙げて下さる方に現れていただけることを祈念いたしております。

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山口の小屋は駿河重次郎翁に万事まかせて来ましたから多分時々見てくれてゐることと推察します、

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宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「乙女の像」制作のため、中西アトリエに入って半年余り。その前の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれたのが、太田村の長老格の一人・駿河重次郎でした。

上京する際も駿河に小屋の管理を委託、駿河は約束を違えず、湿気のこもる小屋の中に風を入れに行ったりということを怠りませんでした。

さらに昭和31年(1956)の光太郎没後には、宮沢家や佐藤隆房医師、他の村民たちとともに小屋の保存に尽力。そのおかげで小屋は高村山荘として現存しています。

以前にも書きましたが、中西アトリエもそうでなくてはいけないと思うのですが……。

一昨日、神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんで特別御開帳が為されている、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像を拝観後、帰途に立ち寄りました。
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調布市制施行70周年・実篤記念館開館40周年・武者小路実篤生誕140年記念春の特別展「実篤の肖像」

期 日 : 2025年4月26日(土)~6月8日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人200円 小・中学生100円

 武者小路実篤は、今年2025年5月12日に生誕140年を迎えます。東京で生まれ育った実篤は、学生時代を過ごした学習院で多くの友人と出会い、24歳で雑誌『白樺』を創刊して歩み出した文学の道、33歳の時に始めた新しき村の活動、40歳を前に本格的に取り組み始めた書画の制作など、多岐にわたる活動の中で多くの人と交流を重ねました。
 岸田劉生や堅山南風ら日本近代美術を代表する画家が実篤をモデルに絵画を描き、文壇では白樺同人をはじめ、佐藤春夫や久米正雄らが実篤の人柄や文学作品ににじみでる人間性に言及しています。
 本展覧会では同時代の文学者が著した印象や人物像、芸術家が絵画や彫刻で表現した肖像、田沼武能や林忠彦、坂本万七、吉田純ら写真家が撮影したポートレイト、妻や娘から見た父・実篤の姿など、さまざまな「実篤の肖像」をとおして「武者小路実篤」という人物を今一度とらえ直す機会とします。
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絵画も嗜んだ実篤自身の自画像や、交流のあった画家・彫刻家や写真家の手になる実篤像、それから文章で描かれた実篤像(原稿や書籍類、さらに揮毫された書)などの展示です。

それらをただ並べるのではなく、光太郎を含む様々な人物の実篤評を一言ずつ小さなパネルで添えています。それがフライヤーの表に印刷されているこの部分。光太郎の一言も。
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曰く「前額と後頭と眼とはすばらしい」。出典は「人の首」というエッセイで、初出は昭和2年(1927)1月の雑誌『不同調』です。全体としては、彫刻家として「人の首」に異様なまでの興味関心を持たざるを得ない、的な内容で、彫刻家・光太郎の内面がよく表されているため、光太郎の没後に刊行された選集的な書籍の多くに再録されています。

いきなりその書き出しが「私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んでゐるからである」。思わず「獄門晒し首かよ」と突っ込みたくなりますが、それが光太郎の狙いかもしれません。ぐいぐい引きこまれます(笑)。
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少し後の方では「人間の首ほど微妙なものはない。よく見てゐるとまるで深淵にのぞんでゐる様な気がする。其人をまる出しにしてゐるとも思はれるし、又秘密のかたまりの様にも見える。さうして結局其人の極印だなと思はせられる」。確かにサムネイル的な小さい肖像写真でも、その人の人となりがだだ漏れになっているなと感じるものがありますね。

その後は首、というか顔や頭、うなじなどの各パーツがこうで……というやはり彫刻家のミクロ的視点で見た話、さらに人の顔の持つ先天的な美と後天的な美、といった話など。そして終盤近くで、さまざまな味のある顔立ちの人々を列挙。その中で、「武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」。

他に好意的に上げられている人物は、海外だとドストエフスキー、ロマン・ロラン、ポー、ヴェルレーヌ、レーニンら。国内では武者以外に千家元麿、室生犀星、野口米次郎、佐藤春夫、市川團十郎、高橋是清、濱口雄幸など。かなり主観的な見方で、決めつけが激しいと思えるところもありますが。

前額と後頭と眼とはすばらしい」が印字されたプレートは、光太郎とも親しかったバーナード・リーチのエッチングによる実篤像に添えられていました。
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直接光太郎に関わる展示はこちらと、『白樺』10周年の記念で撮られた集合写真くらいでしたが、フライヤーに光太郎の名があり、さらに招待券も頂いてしまっていたので、足を運んだ次第です。その上、参上したところ、図録も頂戴してしまいました。恐縮です。

武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」と書いた光太郎、武者を彫刻のモデルに、とひそかに狙っていました。武者と同じ白樺派の中心にいた志賀直哉も。

 私はかねてから、武者小路さんの顔はブロンズで、志賀さんは木彫で、それぞれ彫塑してみたいと秘かに思つていたものである。しかし、いざモデルとなつていただいても、武者小路さんはじつとはぜず絶えず動いておられるだろうし、志賀さんはあのピリピリした神経が顔の皮膚の外に出ていてお願いするのがなんだか悪い気がし、未だに望みを達することが出来ないでいるのである。
(「志賀さんの顔」 『文芸』第12巻第17号 昭和30年=1955 12月

光太郎は、同じ『文芸』の少し前の号(第12巻第12号 昭和30年=1955 8月)には、「埴輪の美と武者小路氏」という談話筆記もよせ、武者の人間性を賞讃しています。また、『不同調』の第2巻第4号(大正15年4月)にはずばり「武者小路実篤氏」という短評も。

 日本に珍らしい根本的なものを持つてゐる武者小路実篤氏の人と芸術とは、詩に於ける千家元麿氏と同様、全然他の人とは違ふと思ひます。時代が過ぎて見れば殆ど問題にならない程、此は明瞭になると思ひます。
 さう言つても、他の人の「存在の理由」を否定するわけでは決してありません。人には各々天性がありますから。


人としての武者を尊敬していたというのがよく分かりますね。ちなみに光太郎の方が2歳年上なのですが、そんなことは関係なかったのでしょう。

美術を愛した武者の方でも、自らが立ち上げた「大調和展」に光太郎の出品を仰ぎ、『白樺』や『大調和』、『心』などで光太郎の寄稿を取り付けています。そして昭和31年(1956)に光太郎が歿すると、その葬儀委員長の大役も果たしてくれました。
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左で立っているのが当会の祖・草野心平。その右、マイクスタンドで一部隠れていますが、武者が座っています。その右隣は尾崎喜八ですね。

さて、「実篤の肖像」展、6月8日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】a4ba5f65

選集六冊小包でいただきました、先日送つた金も返送され、甚だ恐縮な事です、


昭和28年(1953)4月10日 
岩淵徹太郎宛書簡より 光太郎71歳

岩淵徹太郎は中央公論社の編集者。「選集六冊」は同社より昭和26年(1951)から刊行が続き、この年1月に完結した『高村光太郎選集』全6巻。おそらく6冊セットを誰かに贈るため、光太郎自身が注文したのだと思われます。しかし岩渕の方では「お代は結構です」ということだったのでしょう。

ちなみにこのハガキ、当方手持ちのものです。光太郎書簡は手許に数十通ありますが、中野のアトリエからの発信はこれだけです。

光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのライブ。ここ数年島根の方を拠点にされてミュージカル等に携わられることが多かったのですが、先月に続き都内で「智恵子抄」をメインに演(や)られるそうで。

BOOK CAFÉ LIVE vol2モモの智恵子抄

期 日 : 2025年5月19日(月)
会 場 : 府中の森芸術劇場分館 東京都府中市宮町1-100 武蔵府中ル・シーニュ地下2階
時 間 : 19:15~20:45
料 金 : 3,500円

出 演 : モンデンモモ たしまみちを(ギター)

モモの智恵子抄 春抄 逢いたい時にあうから〜別居結婚 入籍しないの〜 光太郎さんは 智恵子さんに逢えると大喜び〜 違った智恵子さんの姿をお伝えします だって 青鞜の表紙を描き 田村俊子さん 与謝野晶子さん らいてうさんと交流し 自転車を乗り回し グロキシニアの花を抱え やはり 女の最先端でした 今回のブックカフェライブ   モノドラマでおつたえします 19日 いらしてね!!
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もう20年以上のつきあいとなり、都内をはじめ、智恵子のふるさと・福島二本松、光太郎第二の故郷・花巻、当会の祖・草野心平所縁の福島県川内村、モモさんの拠点・島根などで十数回、ステージ等を拝見・拝聴しています。宇宙飛行士の山崎直子さんとのコラボなどもありました。

時々伴奏を担当されるギターのたしま氏とも長い関わりとなりました。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

自分でも忘れてゐるうちに今年は東京でいつの間にか誕生日をむかへるやうになりましたが、今朝は美しい花やおめでたいお菓子やお茶など届けて下され、仕事のあとでたのしくおうけとりいたしました、今日は十三日の金曜日といふ日ですが、まず静かに仕事してゐました、


昭和28年(1953)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎71歳

元日に数え71歳となった光太郎、この日は満70歳の誕生日でした。

イスカリオテのユダを含め、「最後の晩餐」に集まったイエスの弟子が13人、その後、イエスが磔刑に処されたのが金曜日と信じられ、「十三日の金曜日」は不吉とされていますが、この頃の日本でもすでにそういう迷信があったのですね。

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