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昨日に続き鎌倉ネタです。
 
鎌倉は鶴岡八幡宮にほど近いところに川喜多映画記念館さんがあります。こちらで現在、「~永遠の伝説~ 映画女優 原節子」という企画展示および映画上映を行っています。
 
同館サイトから。
 
『ためらふ勿れ若人よ』でデビューとなった15歳の新人女優は、役名の一部から「原節子」と名付けられました。類まれなる美貌でたちまち注目を浴び、16歳で日独合作映画『新しき土』のヒロインを演じ、映画は大ヒットを記録します。戦後は『わが青春に悔なし』、『東京物語』などに出演、日本映画界を代表するスター女優として、多くの名作を残します。しかし、昭和37年『忠臣蔵』への出演を最後に、表舞台には一切出ることなく、その存在は永遠の伝説として人々の心に深く刻み込まれました。
 本企画展は、写真家・秋山庄太郎、早田雄二によるポートレートや映画資料などの展示、出演作品や『新しき土』関連映像の上映を中心に、鎌倉にゆかりの深い大女優・原節子の軌跡を辿ります。今も多くの人々を魅了し続けるその美しさを、名作の数々とともにぜひご覧ください。
 
原節子さんといえば、伝説の映画女優ですね。同じく伝説的な映画監督・小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男らの作品に出演しています。引退後は一切メディアに出ず、鎌倉で暮らされているそうです。
 
その原節子さんが智恵子役、光太郎役に山村聰さんを配した熊谷久虎監督作品「智恵子抄」が、光太郎の歿した翌年の昭和32年(1957)に封切られました。
 
川喜多映画記念館での「~永遠の伝説~ 映画女優 原節子」の一環として、「智恵子抄」も上映されます。
 
期間は来年1月7日(火)~9日(木)。7日は午前10:30からと、午後2時からの2回、8日と9日は午後2時からの1回のみの上映です。
 
昨日ご紹介した神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」と併せて是非ご覧下さい。
 
ちなみに原節子さんの映画「智恵子抄」、20年ほど前にVHSテープで市販されました。現在は版を絶っており、時折中古市場でかなりプレミアの付いた価格で売りに出ています。
 
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その他、当方、こつこつと集めたポスター、パンフレット、チラシ、シナリオ、スチール写真、記事の載った当時の雑誌などを持っています。その一部を、一昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」の際にお貸しし、展示されました。年配のお客様には「あらー、原節子よー」ということで、好評だったそうです。
 
こうしたものに限らず、当方手持ちのものは、各種企画展、イベントなどにお貸しすることは可能ですので、必要とあらばお声がけ下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月24日

昭和16年(1941)の今日、大政翼賛会会議室で催された文学者愛国大会に出席、日本文学者会設立委員に任じられました。
 
翌年設立された日本文学報国会につながって行く流れです。 

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
第一の目的は、神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」を観るためでした。
 
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こじんまりとした企画展示でしたが、内容は濃いものでした。
 
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まず会場にはいるとロダン作「花子のマスク」。明治41年(1908)の作です。ただし、「鋳造1974年」と特記してありました。
 
以前にも書きましたが、花子はロダンのモデルを務めた日本人女優で、光太郎は昭和2年(1927)に岐阜まで会いに行っています。
 
それからロダンの素描が1点、展示されていました。
 
他はロダンに影響を受けた後進の彫刻家達の作品。海外ではブールデル、ジャコメッティなど、日本では中原悌二郎、戸張孤雁、保田龍門など。
 
そして光太郎。大正6年(1917)の「裸婦坐像」と、同15年(1926)の「大倉喜八郎の首」が並んでいました。
 
それから特集展示ということで、チェコの彫刻家ズビネック・セカールの作品が約20点。庭にも本郷新や柳原義達など、やはりロダンや光太郎の影響を受けた彫刻科の作品がありました。
 
正直、荻原守衛や舟越保武、佐藤忠良なども並んでいるともっとよかったかな、と思いましたが、ぶらっと立ち寄るにはちょうどいい規模かもしれません。
 
会期は来年3月23日までです。
 
こちらがあまり時間がかからなかったので、古都・鎌倉を歩きました。以前から行ってみたいと思いつつ、未踏の場所があったからです。
 
材木座にある長勝寺さん。日蓮宗の古刹で、元々日蓮が草庵を結んだ地だそうです。
 
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こちらの境内に立つ日蓮上人の銅像が、光雲の作です。
 
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上の画像、対象物がなくて大きさがわかりにくいと思いますが、高さ約8メートルだそうで、巨大な像です。日蓮と言えば辻説法。その姿をとらえています。
 
この像、もともとここに建てられたものではなく、東京の洗足池畔にあったものを移したとのことですが、詳しい経緯などは書かれていませんでした。
 
日蓮といえば、光太郎も東京美術学校の卒業制作(明治00635年=1902)で日蓮を作っています。題して「獅子吼」。こちらは経巻を投げ捨て、憤然として立つ姿、とのことですが、腕まくりをして、今にも殴りかかってきそうなポーズです。腕を組んでいる、と勘違いしている方が多いのですが、右腕は垂らしています。
 
やはり光太郎の日蓮の方が、近代的ですね。おそらく光雲の日蓮は上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像同様、原型は木型でしょう。衣の波打ち方など、様式にはまっていて、リアルさには欠けています。迫力はあるのですが……。
 
さて、今日は自家用車でなく、公共交通機関で行きました。鎌倉駅に行くのも一つの目的でしたので。
 
今年6月に、横浜で、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートをされたフルート奏者の吉川久子さん。

今年7月から、JR鎌倉駅の発車メロディーとして、吉川さんの演奏による「鎌倉」(♪しーちりがーはーまーのー、いーそづーたーいー)が流れているとのことで、聴いてみたかったのです。いい感じでした。通常の発車メロディーは電子音によるもので、やはり機械的な感じが否めませんが、JR鎌倉駅のものは吉川さんのフルート演奏を録音して使っているため、温かみがあります。古都の雰囲気にぴったりですね。
 
鎌倉駅をご利用の際には、ぜひ耳をお傾け下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月23日

昭和63年(1988)の今日、東京地方裁判所民事法廷において、長く争われていた『智恵子抄』著作権に関する裁判の判決が言い渡され、著者側の勝利となりました。
 
その後の控訴審も同様の判決が出、著作権に関する代表的な判例ということで、法曹界では有名な事象です。

展覧会情報です。  

ロダンからはじまる 彫刻の近代

2013年12月14日~2014年3月23日
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 鎌倉市雪ノ下2-8-1
近代彫刻の父と呼ばれるフランスの彫刻家ロダンとその弟子ブールデル、彼らの影響を受けた高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎らのほか、海外の20世紀彫刻からはアルプやジャコメッティなど、当館の所蔵作品から選りすぐりの彫刻作品と彫刻家による素描や版画、約30点を紹介します。併せて、チェコスロバキア出身の彫刻家ズビネック・セカール(1923-1998)の作品約20点による特集展示を行います。
 
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先日、同館館長の水沢勉氏にお聞きしたのですが、光太郎作品は、同館で所蔵している「裸婦坐像」が展示されるとのことです。
 
12/22追記「大倉喜八郎の首」も展示されていました。
 
チラシ右上の画像はロダンの「花子の首」ですね。光太郎はロダンの評伝執筆(昭和2年=1927)に際し、モデルになった日本人女優・花子こと太田ひさに会いに岐阜まで行っています。

他にも光太郎と交流のあった彫刻家の作品が並び、彫刻史の中で光太郎を捉えるには恰好の機会でしょう。冬の鎌倉も乙なものと思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
展覧会がらみでもう一件。現在、愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」についての報道がありました。 

高村光太郎展、入場1万人に 愛知・碧南、15日まで

2013年12月5日03時00分 朝日新聞
 碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「彫刻家 高村光太郎展」(同美術館主催、朝日新聞社など共催)が4日、入場者1万人を達成した。
 1万人目は、初めて同館を訪れた半田市上池町の主婦広瀬和子さん(66)。彫刻家としての光太郎に興味があり、友人と一緒に訪れたという。
 広瀬さんは「力強いブロンズの『手』や、可愛らしい『蝉(せみ)』『柘榴(ざくろ)』などの木彫に感動しました。彫刻家としての才能も感じた」と話し、木本文平館長から認定書や同展の図録、藤井達吉の陶板などが贈られた。
 同展は、光太郎の生誕130年を記念して開催。妻智恵子の切り紙絵なども展示されている。
 15日まで。一般700円、高大生500円、小中学生300円。問い合わせは同美術館(0566・48・6602)へ。
 
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先日も書きましたが、3館巡回のうち、既に終了している千葉市美術館ではのべ2万人近く、岡山井原の田中美術館でも同じく1万人以上の方がご来場下さったそうです。ありがたいことです。
 
こちらは来週末までとなっています。あと10日ほどでどれだけ入場者数が伸びるでしょうか。本当に一人でも多くの方にご覧いただきたいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月6日

昭和30年(1955)の今日、『国立博物館ニュース』掲載のため、美術史家の奥平英雄と対談を行いました。
 
原題は「高村光太郎氏にきく/芸術について私はこう思う/自然に残る伝統芸術/詩精神と彫刻の問題など」。「芸術について」の題で『高村光太郎全集』第11巻に収録されています。

昨日は横浜みなとみらいホールにて、フルート奏者・吉川久子さんのコンサート、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」を聴いて参りました。
 
とてもいい演奏会でした。
 
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もちろん吉川さんの演奏がメインで、曲間に吉川さんご自身が『智恵子抄』収録詩の朗読をなさったり、光太郎智恵子についての解説をなさったりという構成でした。
 
曲目は以下の通り。
 
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直接、智恵子に関わる曲はありませんでしたが、既存の曲の組み合わせでもたしかに『智恵子抄』の世界がうまく表現されていたように感じました。
 
吉川さんのフルートはもちろんすばらしく、伴奏のお二人(キーボード・海老原真二さん、パーカッション・三浦肇さん)の演奏も非常に工夫されていました。特にパーカッションは、いろいろな楽器……というより道具? を使って、効果音のような音を奏でていたのが面白く感じました。時に鳥のさえずり、時に虫の声、そうかと思えば川のせせらぎ、九十九里の波の音、などなど。
 
さらに曲間の吉川さんのMC。通り一遍の解説でなく、よく調べているな、と感心いたしました。数年前に発見された光太郎の短歌「北国の/女人はまれに/うつくしき/うたをきかせぬ/ものの蔭より」を引用されて、智恵子が時折、造り酒屋だった実家の杜氏たちが歌っていた酒造りの歌などを口ずさんでいたことに結びつけるなど。この短歌、一般にはほとんど知られていないはずですので。また、太陽が赤いという固定観念に異を唱える光太郎の評論「緑色の太陽」の話、智恵子の恩師・服部マスの話など、ずいぶんお調べになったのがわかりました。実際、二本松にも行かれたというお話でした。
 
それにしても、平日の昼間にもかかわらず、440席ほぼ満員でした。吉川さん、「こころに残る美しい日本のうた」と冠したコンサートはこれまでも定期的に続けてこられたようで、コアなファンがいらっしゃるようでした。「智恵子抄」だから、というお客さんがどの程度だったのか、興味のあるところですが。
 
いつも同じことを書いていますが、こういう形でも光太郎・智恵子の世界を広めていただけるのは、本当にありがたいことです。
 
当方も明日は二本松に参り、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座’13」にてしゃべって参ります。このところ、月に1~2件、この手の仕事が入っています(もっと増えるといいのですが……)。与えられた場で光太郎・智恵子の世界を無題1広めて行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月15日

昭和27年(1952)の今日、裸婦像制作のための現地視察で、十和田湖に向けて花巻郊外太田村の山小屋を出発しました。
 
画像は一昔前のテレホンカードです。
 
裸婦像に関しては、また折を見て詳述します。
 

横浜でのコンサート情報です。以下、『産経新聞』さんのサイトから。 

フルート奏者の吉川さん「智恵子抄」の世界に挑戦 福島に思いはせ14日に横浜でコンサート

 日本の美しい旋律を演奏し続ける横浜市在住のフルート奏者、吉川久子さんが14日、詩人・高村光太郎が妻、智恵子との愛をつづった詩集「智恵子抄」をテーマにしたコンサートを開く。智恵子は光太郎と暮らした東京から故郷・福島を思い続けた。吉川さんは演奏を通じて、東日本大震災に伴う福島第1原発事故から2年以上が過ぎても避難生活を続ける被災者へ思いをはせたいと意気込む。(渡辺浩生)
 
 吉川さんは7年前からコンサート「こころに残る美しい日本のうた」を毎年開催。東日本大震災直後の一昨年4月には、岩手県出身の宮沢賢治を題材にチャリティー演奏会を実施し、被災者の心の支えとして当時注目された代表作「雨ニモマケズ」も朗読した。
 今年、「智恵子抄」に着目したのも、故郷に戻れぬ福島県の被災者を「忘れてはならない」という思いがあるからだ。
 「智恵子は東京に空が無いといふ」(あどけない話=智恵子抄に収録)。智恵子は東京になじめず、福島県中部の名山、安達太良山(あだたらやま)の上の「ほんとの空が見たい」と言い続けた。 智恵子の心は時代を超えて被災者とも通じている-。5月、智恵子の故郷、同県二本松市を訪ねた吉川さんは、「同じ青空を見上げて」そう感じた。
 コンサートでは、智恵子や福島にちなんだ唱歌・童謡の演奏や詩の朗読を通じて光太郎と智恵子の愛の世界、智恵子の望郷の念を表現する。キーボードは海老原真二氏、パーカッションは三浦肇氏が担当。
 14日午後1時開場、1時半開演。横浜みなとみらいホール小ホール。申し込み・問い合わせは「心に残る美しい日本の曲を残す会事務局」((電)03・5540・8675)まで。
 

このコンサートについて検索してみたところ、いろいろとヒットしました。イベント情報的なサイトから。 

吉川久子フルートコンサート『こころに残る美しい日本のうた』 智恵子抄の世界に遊ぶ

期 日 : 2013年 6月14日(金)
会 場 : 横浜みなとみらいホール小ホール
時 間 : 1時開場  1時半開演
料 金 : 全席自由 2,500円

「東京に空がない」という詩の一節で知られる『智恵子抄』は、詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子との愛を綴った詩集。 
 
大正三年に結婚した二人でしたが、洋画家だった智恵子は東京に馴染めず、油絵もなかなか評価されず悩んでいました。そんなおり、実家の破産も重なり、昭和六年頃から精神を病みはじめ、昭和十六年に七年にわたる闘病生活のすえ五十二歳で旅立ちます。 
『智恵子抄』には、二人が共有した時代の愛と喜び、生活の変転、人の世の悲しみが詠われています。

第八回を数える今回の「こころに残る美しい日本のうた」は、フルート奏者の吉川久子が、かつて映画や舞台にもなり、多くの人々に感動をあたえた『智恵子抄』に挑戦し、現代にも通じる光太郎と智恵子の愛の強さ、愛の深さを音の世界で表現します。 

[出演]
吉川 久子/フルート
東京生まれ、鎌倉育ち。横浜在住。ソリストとしてクラシックは勿論、幅広い楽曲を優雅に親しみやすく奏でるフルート奏者。リラックスタイムを演出するコンサートは大好評で、「マタニティーコンサート」の草分け的存在。1993年、秋篠宮紀子妃殿下のご臨席を仰ぎ、フルートの音を披露。コロンビア ミュージックエンターテインメント、エム・アイ・シー、キングレコードから多数のCDアルバムも発売されている。チェコフィルハーモニー六重奏団等、海外アーティストとの共演も多く、高い評価を獲得している。
 
海老沢 真二/キーボード
関西にて、フォークヂュオ「紙ふうせん」のサポートキーボーディストとしてプロ活動を開始。上京後、岡村孝子、あみん、森口博子、森公美子、喜多郎、TOSHI(XJpan)等々、様々なアーティストのコンサートツアーサポート、レコーディングセッションに参加。喜多郎ワールドツアーにも数年にわたり参加する。その他、中国人アーティストとのコラボレーション等様々なジャンルで活動。吉川久子の新譜「アニマ」にもアレンジャー、プレーヤーとして参加している。
 
三浦  肇/パーカッション
打楽器奏者として数々のオーケストラに参加。スタジオワークからライブ演奏まで、幅広いフィールドで活躍を続ける一方、ドラム教室を開催。後進の指導を通じ、打楽器の魅力を広く伝えている。吉川久子の新譜「アニマ」にも参加している。 

後援:横浜市文化観光局・神奈川新聞社・TVK(テレビ神奈川) 

チケット取扱:みなとみらいホールチケットセンターにて発売
チケット予約:ビー・ビー・ビー株式会社内「心に残る美しい日本の曲を残す会」
事務局 担当:榎本 ☎03-5540-8675 FAX.03-5540-8501
 
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何とか都合をつけて聴きに行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、最晩年を過ごした中野のアトリエで、十和田湖畔の裸婦像原型からの石膏取りが始まりました。

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昨日に引き続き、あちこちの美術館、文学館等での企画展で光太郎作品が展示されているものをご紹介します。   

期 日 : 平成25年1月26日(土)~3月24日(日)
会 場 : 神奈川県立近代美術館葉山館 神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
時 間 : 午前9時30分から午後5時
休 館 : 月曜日(ただし祝日および振替休日の場合は開館)
料 金 : 一般 900円(団体800円)20歳未満・学生 750円(団体650円)65歳以上 450円
      高校生 100円


「保存、修復という作品の知られざる部分に光をあてることによって、近代日本美術の問題点を探り、新たなる発見を浮かび上がらせようとする展覧会」だそうで、岸田劉生、藤田嗣治、松本竣介などを中心に明治期から昭和前期までの約60名による油彩画、水彩画、約170点が並んでいるそうです。
 
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光太郎の作品は大正2年の油絵「上高地風景」1点。また、約60名ということで、光太郎と交流のあった画家の作品も数多く展示されています。黒田清輝、岸田劉生、藤田嗣治ら有名どころもいれば、あまり観る機会の多くない村山槐多、柳敬助、南薫造らの作品も並んでいるそうです。
 
別件ですが「上高地」ということで、先月のブログで御紹介したBSフジのテレビ番組「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」、再放送があります。2013/03/01(金)22:00~22:55 です。見逃した方はぜひご覧下さい。光太郎・智恵子のエピソードが約3分間あります。
 
【今日は何の日・光太郎】2月22日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村人の好意で初めて電灯がともりました。
 
光太郎がこの小屋に入ったのが昭和20年(1945)の秋ですから、約3年半、電気のない生活を送っていたのです。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、当方が発表を行いました。題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。その内容について何回かに分けてレポートいたします。
 
今年に入り、光太郎が書いた「海の思出」という随筆を新たに発見しました。そこには今まで知られていた光太郎作品や、『高村光太郎全集』所収の年譜に記述がない事実(と思われること)がいろいろと書かれており、広く知ってもらおうと思った次第です。ちなみに先月当方が発行した冊子『光太郎資料』38には既に掲載しましたし、来年4月に刊行予定の『高村光太郎研究』34中の「光太郎遺珠⑧」にも掲載予定です。
 
「海の思出」、掲載誌は昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号です。この雑誌は日本海運報国団という団体の発行で、翌昭和18年(1943)と、さらに同19年(1944)にも光太郎の文章が掲載されています(それらは『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に所収済み)。日本海運報国団は、その規約によれば「本団は国体の本義にのっとり海運産業の国家的使命を体し全海運産業人和衷協同よくその本分をつくしもって海運報国の実をあげ国防国家体制の確立をはかるを目的とす」というわけで、大政翼賛会の指導の下に作られた海運業者の統制団体です。
 
そういうわけで、昭和18年、同19年に掲載された光太郎作品はかなり戦時色の強いものでしたが、なぜか今回の「海の思出」は、それほど戦時に関わる記述がありません。まだ敗色濃厚という段階ではなかったためかもしれません。
 
では、どのような内容かというと、光太郎の幼少年期から明治末の海外留学時の海や船に関する思い出が記されています。
 
まず幼少年期。
 
 東京に生まれて東京に育つた私は小さい頃大きな海といふものを見なかつた。小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた時、品川の海を眺めたのが海を見た最初だつた。その時どう感じたかを今おぼえてゐないが、遠くに房州の山が青く見えたのだけは記憶してゐる。その後十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた事がある。この時は砂浜づたひに由比ヶ浜から七里ヶ浜を歩いて江の島に渡つたが押し寄せる波の烈しさにひどく驚いた。波打際にゐると海の廣さよりも波の高さの方に多く気を取られる。不思議にその時江の島の讃岐屋といふ宿屋に泊つて鬼がら焼を食べた事を今でもあざやかにおぼえてゐる。よほど珍しかつたものと見える。十六歳の八月一日富士山に登つたが、頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。
 
 この中で、「小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた」「十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた」というのは既知の光太郎作品や年譜に記述がありません。はっきり明治何年何月とはわかりませんが、記録にとどめて置いてよいと思われます。江ノ島に関しては「十四歳頃」と書かれていても、単純に数え14歳の明治29年(1896)とは断定できません。意外と光太郎の書いたものには時期に関する記憶違いが目立ちますので。ただ、場所まで記憶違いということはまずありえないでしょう。実際、明治三十年五月刊行の観光案内『鎌倉と江之島手引草』の江ノ島の項には「金亀山と号し役の小角の開闢する所にして全島周囲三十余町 人戸二百土地高潔にして四時の眺望に富み真夏の頃も蚊虻の憂いなく実に仙境に遊ぶ思いあらしむ 今全島の名勝を案内せん(略)旅館は恵比寿屋、岩本楼、金亀楼、讃岐屋を最上とす 江戸屋、堺屋、北村屋之に次ぐ」という記述があり、光太郎が泊まったという讃岐屋という旅館が実在したことがわかります。ちなみに「鬼がら焼」は今も江ノ島名物で、伊勢エビを殻のまま背開きにし、焼いたものです。なぜか14歳くらいの少年が一人旅をし、豪華な料理に舌鼓を打っています。

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つづく「十六歳の八月一日富士山に登つた」は、昭和29年(1954)に書かれた「わたしの青銅時代」(『全集』第10巻)にも「わたしは、十六のとき祖父につれられて富士山に登つた」とあるので、数え16歳の明治31年(1898)で確定かな、と思うとそうではなく、どうやら記憶違いのようです。祖父・兼松の日記(『光太郎資料』18)によれば、富士登山は翌32年(1899)です。こちらの方がリアルタイムの記録なので優先されます。こういうところが年譜研究の怖ろしいところですね。
 
いずれにしても既に東京美術学校に入学してからで、彫刻科の卵だった時期です。「頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。」こういった空間認識は、やはり彫刻家としてのそれではないでしょうか。
 
「海の思出」、このあと、留学時代の内容になります。以下、明日以降に。

今日は横浜の神奈川近代文学館さんに行って参りました。
 
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こちらも国会図書館さんや駒場の日本近代文学館さん同様、収蔵資料が閲覧でき、よく利用させてもらっています。特筆すべきは書簡や草稿などの肉筆ものが充実していること。それも、どんどん新しいものが増え続けていることです。こうしたものは寄贈による場合が多いようで、館から届くメールニュースに毎回のように「寄贈資料」としていろいろ紹介されています。
 
こうしたものを寄贈なさる方々、非常に素晴らしいと思います。売れば売ったでかなりの値がつくものもあり、結局、古書市場に出回っているものは売られたものです。それはそれで入手したいという需要に応える上で大切なのでしょうが、我々個人にとっては、なかなか手が出ません。はっきり言えば、わけのわからない人に買われてしまって、日の目を見ずに死蔵されてしまうということも少なからずあります。
 
その点、こういうちゃんとした公的機関に寄贈されていれば、我々も眼にすることができ、非常にありがたいわけです。
 
いつも一言多いのがこのブログですが、公的機関でも、収蔵資料の状況を外部に発信しなかったりと、死蔵に近い状態にしているところもあり、困ったものだと思うこともしばしばです。
 
さて、今日は詩人の上田静栄に宛てた書簡などを拝見してきました。最近同館に所蔵されたものです。上田には「海に投げた花」(昭和15年=1940)という詩集があり、序文を光太郎が書いています(その草稿も見せていただきました)。つい最近、このブログで誤植についていろいろ書きましたが、上田宛の書簡の中でも誤植の件が話題になっていました。また、智恵子に関する内容も含まれており、興味深いものでした。いずれ「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介するつもりです。

閲覧数が4,000件を超えました。ありがとうございます。
 
昨日、横浜に行ってきました。11月の高村光太郎研究会での発表のため、船と光太郎について調べており、その関係で、横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さん、そして山下公園の氷川丸を廻りました。
 
明治39年(1906)から42年(1909)にかけ、光太郎は留学ということで、アメリカ、イギリス、フランスに約1年ずつ滞在、ぐるっと地球を一周して帰ってきています。旅客機というもののなかった時代ですから、移動の大半は船。光太郎の船旅に関しては、これまであまり注目されていませんでしたが、いろいろと細かな新事実がわかってきました。詳細は研究会の後でブログに書きます。
 
横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さんでは海事関係の資料の閲覧が目的でしたが、時間の関係で開港資料館の方は閲覧室の利用だけにしました。日本郵船歴史博物館さんの方では、展示も興味深く拝見しました。

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そして氷川丸。初めて中に入ってみました。
 
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氷川丸は日本郵船さんが所有する船で、昭和5年(1930)、横浜~シアトル航路に就航し、約30年、洋上で活躍しました。現役引退後、山下公園に固定され、現在は産業遺産として内部を一般公開しています(観覧料200円)。かつてかの嘉納治五郎師範が、IOC会議の帰途この船に乗られ、そして洋上で亡くなりました。その他、チャップリンや秩父宮御夫妻なども。
 
光太郎は帰国の際に日本郵船さんの船「阿波丸」に乗っており、時期は20年ほどずれますし、氷川丸は阿波丸の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い、見てみました。一等船客のための施設設備は非常に豪華で驚きました。船室(個室)はもちろん、食堂、読書室、社交室など、レトロな雰囲気とも相まって、いい感じでした。
 
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ただし、光太郎は帰国の際は船中無一文だったと述べており、三等船客だったのではないかと思います。三等船室は二段ベッドの8人部屋でした。凄い格差です。

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しかし、光太郎も明治40年(1907)、アメリカからイギリスに渡る際には豪華客船の二等船室を利用しています。このあたり、かのタイタニックにもからむ話になっており、調べていて興奮しました。
 
先述の通り、詳細は研究会の後でブログに書きます。お楽しみに。

ブログ、開設したばかりで最近の報告が追いつきません。
 
4月14日(土)、まずは横浜のそごう美術館さんに行って参りました。お目当ては企画展「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」(会期は4/22までで、もう終わってしまっています)。


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現在は福島のいわき市立美術館で巡回開催中(6/17まで)。
 
赤羽末吉、いわさきちひろ、武井武雄、司修、ますむらひろしなど、後世のアーティスト達が表現した賢治の世界がメインでしたが、そこに光太郎の書も展示されました。岩手花巻、羅須地人協会の跡地に建つ「雨ニモマケズ」を刻んだ詩碑の元になった光太郎の揮毫です。
 
光太郎と賢治、二人が直接会ったのは大正15年の秋、おそらく一度しかありません。しかし、お互いにお互いの芸術世界を激賞していました。そうした縁もあり、賢治没後の昭和11年(1936)に建てられた碑の揮毫を光太郎が引き受けたのです。
 
当方、碑は何度も見ましたし、拓本も持っているのですが、やはり元の筆跡はまた違った感じがしました。

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それにしても光太郎の筆跡のすばらしさ。この揮毫に限らず、光太郎書の全般にいえることですが、どれもものすごい芸術的な書、というわけではなく、当たり前の書法で当たり前に書いています。しかし、そこから漂う「品格」「気」とでもいうのでしょうか、それは絶対に真似の出来ないものだと思います。

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