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光太郎の父・光雲が彫刻を手がけた、横浜南区山王町に伝わるお三の宮日枝神社さん「火伏神輿」。その名の由来は、関東大震災と太平洋戦争の空襲をくぐりぬけたことです。

毎年9月、日枝神社さんの例大祭で、伊勢佐木町のイセザキ・モールを巡行するのですが、今年は修復作業に入っていたため、出ませんでした。そのため、今年はこのブログでも日枝神社さんの例大祭をご紹介しませんでした。

このたび、その修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目が始まったそうです。

横浜・伊勢佐木町繁栄の象徴 「火伏神輿」

◆90年の歴史で初の修復作業
 横浜・伊勢佐木町の繁栄の象徴で、関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)「火伏(ひぶせ)神輿」が90年余りの歴史で初めての修復作業を終えた。28日にJRAエクセル伊勢佐木(神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1丁目)でお色直しを済ませたばかりの神輿が披露された。
 1923年に完成した神輿は日枝神社例大祭などで担がれてきたため、彫刻や金具が欠けたり、塗りが剥がれたりするなどの傷みが目立っていた。
 そのため、東京都内の文化財修復専門工房に運ばれて、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)が手掛けた彫刻を復元。奈良・法隆寺の七堂伽藍(がらん)に施されたものと同じ極彩色の染料を塗り直し、鮮やかによみがえった。
 今年3月から「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展に貸し出した際、学芸員から「大正期の名工が古代御輿の粋を極めた貴重なもの。豪華な装飾を含めて文化財級」と高い評価を受けたこともあり、今回、本格的に修復を行うことにした。
 神輿がガラスケースに無事に収められると、伊勢佐木町1丁目の婦人用品店4代目店主、津田武司さん(77)は大きな拍手を送った。「神輿が戻ってきてうれしいの一言。世代を超えて大切にしたい」
 吉田新田の完成350周年を迎える来年9月の日枝神社例大祭でイセザキ・モールを練り歩くことにしている。
◆火伏神輿 伊勢佐木町の町内会が1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、高村光雲に制作を依頼した。23年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたと伝えられている。
(2016/11/29 『神奈川新聞』)

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記事にある「「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展」はこちら

 
『東京新聞』さんの神奈川版にも記事が出ました。

よみがえった火伏神輿 修復終わり、イセザキ・モールで展示

 明治時代の彫刻家・高村光雲(一八五二~一九三四年)らが制作した「火伏神輿(ひぶせみこし)」の修復が終わり、二十八日、神輿を所有するイセザキ・モール(横浜市中区)にあるJRAエクセル伊勢佐木一階ホールで展示が始まった。観覧無料。
 神輿は大正天皇の即位を記念し、伊勢佐木町の町内会が高村光雲に制作依頼。高村や東京美術学校(現・東京芸術大)の教授らが一九二一年に東京都内で制作を始めた。二三年九月の完成直前に発生した関東大震災や、四五年五月の横浜大空襲などの火災を免れたことから、火災を防ぐ「火伏神輿」と呼ばれるようになった。高さ一・八メートルで幅一・四メートル、担ぎ棒を含む長さは二・九メートル。
 大掛かりな修復は初めてで、六月から東京都狛江市で文化財修復工房を営む桜庭裕介さん(63)が手掛けた。色がはげた部分はエックス線で表面を分析し、制作当時と同じ顔料で補修。特殊な樹脂を染み込ませて今後の色あせを防ぎつつ、約一世紀の歴史を感じさせる退色はそのままにした。木彫の欠損は木の粉や漆などを混ぜたもので補った。
 来年は、これまで通り九月の地元の祭りで担がれる予定。祖父が制作時の世話人で、宝石店経営を受け継ぐ渡辺洋三さん(64)は「祭りでは乱暴に扱うこともあった」と苦笑しながら「町の人に、素晴らしい神輿だと再認識してほしい」と願った。(梅野光春)


今回いつまで展示されるのか、記事からは不明ですが、以前は祭りの時以外は神奈川県立歴史博物館さんで展示されていたので、今後もそうなるのではないかと思われます。

さらに同時期に光雲によって作られた獅子頭もセットです。

ぜひきれいになった神輿をご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ぐれの雁におもはず窓あけてまたたき多き星を見しかな
明治33年(1900) 光太郎18歳

冬が近づき、空気がキインと澄んでいるため、星がきれいに見えます。当方自宅兼事務所のあるあたりは千葉でも田舎の方でして、夜間の光害が少なく、星の観察にはもってこいです。

昨日は鎌倉および都内に行っておりました。

光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェ「笛ギャラリー」さんでの展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」のためです。

普段こちらにお邪魔する時は、自家用車で北から山を下りてお伺いしていましたが、昨日は公共交通機関を利用、JR北鎌倉駅から歩き、普段とは逆に南から山を登る形でした。

あじさい寺で有名な明月院さんを横目に坂を登っていきます。

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昨日は気持ちよい秋晴れ、しかし紅葉には早く、楓もまだ青々としています。

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明月院さんのすぐ近くに看板が出ています。ここから365歩、だそうで。

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道の傍らに苔むした石仏・石塔。古都情緒がにじみ出ています。こういう風情は歩いてこそのものですね。

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笛さんもその情調の中にぴったり収まるたたずまいです。

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店主の山端氏、今年の連翹忌にはご欠席なさいましたので、ほぼ一年ぶりにお会いしまして、久闊を叙し、早速展示を拝見。

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光太郎智恵子、そして近所に住んでいた光太郎と縁の深かった詩人の尾崎喜八に関するさまざまが並んでいます。古写真、書簡、草稿、著書、関係書籍などなど。

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光太郎書簡。ここに住まれていた妹に宛てたものです。

その妹・しづは、俳句に親炙していたそうで、句稿や句帖も展示されていました。

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尾崎喜八草稿(コピー)。草野心平編、筑摩書房『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959)に掲載された光太郎智恵子回想です。

喜八の妻・實子は、光001太郎の親友・水野葉舟の娘。二人の結婚を祝し、光太郎はミケランジェロの作品を模刻したブロンズの「聖母子像」を贈っています。右は「聖母子像」を手にした實子の写真。かつて雑誌『FOCUS』に掲載されたものです。

そうこうしているうちに、喜八・實子夫妻の令孫で、武蔵野美術大講師の石黒敦彦氏がご来店。特に当方と約束していたわけではないのですが、ご常連ということでよくいらっしゃるそうです。展示されている資料の中には、氏の所蔵されているものも含まれています。

氏とは一昨年もこちらでお会いしました。その際にはご一緒に来店されていたご母堂・榮子様(喜八・實子の息女)が、今年の3月に亡くなられましたので、まずはお悔やみを述べ、一緒に山端氏の淹れて下さった珈琲に舌鼓を打ちつつ(恐縮ながら無料で戴いてしまいました)、カウンターの中の山端氏も交え、いろいろお話をさせていただきました。

石黒氏は、武蔵美さんの芸術文化学科、空間演出デザイン学科で講義をされているとのことで、いわば展示の関連がご専門。また、「湘南福祉アート・デザイン協議会運営委員」という肩書きもお持ちで、メンタルヘルスとアートを関連させるご活動もなさっている由。そういうわけで智恵子にも深く関心を持たれており、ゆくゆくは智恵子に関する企画展示をなさりたいとのことでした。

その後、再会を約し、笛さんを後に、そして石黒氏に連れられて、すぐ近くにある「ギャラリー青騎士」さんへ。この秋オープンしたばかりのギャラリーで、蔵書票を専門に扱うという、いっぷう変わったところです。

こちらの代表の金森大輔氏は、現在新築工事のため休館中のブリヂストン美術館さんにお勤めだった方です。ブリヂストン美術館さんといえば、昭和28年(1953)、美術映画「高村光太郎」を制作しました。この年に除幕された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景、その除幕後、花巻郊外太田村に一時帰村した光太郎の様子などが記録されています。下はその撮影クルーと光太郎。場所は中野のアトリエです。

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光太郎以外に「梅原龍三郎」、「坂本繁次郎」など20本ほど作成された「美術映画シリーズ」のフィルム、館の美術講座的な催しで上映されていたとのことですが、昭和40年代以降それもなくなり、しばらくフィルムの存在自体忘れ去られていたところ、ブリヂストン本社から「こんなものが見つかった」と金森氏に連絡があって、再び日の目を見ることになりました。

「高村光太郎」は現在、花巻高村光太郎記念館や十和田湖畔の観光交流センターぷらっとに行けば常時上映されています。また、この夏の碌山美術館さんでの「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」など、光太郎がらみの企画展で上映されることもよくあります。

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それも金森氏らのお骨折りでデジタルデータになっているおかけです。当方の手元にもあり、改めて御礼を申し上げておきました。それにしても、はからずもそういう方にお会いするという不思議な偶然に驚きました。

石黒氏、金森氏とはここで別れ、駒場の日本近代文学館さんに寄って、調べ物をして帰りました。

さて、笛ギャラリーさんでの「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」、来月1日(火)まで。ただし毎週月・水・木と10/30(日)はお休みだそうですので、お気を付け下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

行くにわれ見るにわれなる一人子や大和山城青空つづく
明治34年(1901) 光太郎19歳

古都つながりで奈良、京都に遊んだ際の歌を一首。この年9月末から、東京美術学校の修学旅行で奈良、京都を訪れています。その期間、なんと2週間。物見遊山ではなく、いにしえの仏像などをしっかり研究するための、まさしく修学旅行でした。

そいうえば修学旅行シーズンですので、鎌倉もそれらしい中高生で賑わっていました。

3ヶ月前にちらっとご紹介しましたが、神奈川県鎌倉市の川喜多映画記念館さんで、故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)の上映があります 

智惠子抄(98分/1957年/東宝/白黒/35mm)

上 映 : 7月8日(金)10:30/14:00、7月9日(土)、7月10日(日)14:00
監 督 : 熊谷久虎
出 演 : 原節子、山村聰、青山京子、三津田健、柳永二郎、三好栄子 他
料 金 :  一般:1000円 小・中学生:500円   6月18日(土)より発売
原 作 : 高村光太郎

詩人、彫刻家として知られる高村光太郎が愛妻智惠子の名を冠して発表した詩集をもとに、二人の出会いから妻の死までを描く。原節子の義兄として公私を支えてきた熊谷久虎による映画化作品。


こちらは3月から同館で開催されている特別展「鎌倉の映画人 映画女優 原節子」の一環です。

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期間中に13本の原さん主演映画が上映され、「智恵子抄」はその大トリです。特別展の方も、「智恵子抄」千秋楽の7月10日(日)まで。「智恵子抄」ポスターなども展示されています。

併せてご覧下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

雨ふればしとしとふれば紙の戸の糊さへかびて我がこころ冷ゆ
明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半に及ぶ欧米留学からの帰国後の作です。

じめっとした日本の空気感が、自然現象としてのそれだけでなく、旧弊な社会全般の閉塞感の象徴としても表されているように読み取れます。

先週、ご案内を頂きましたが、その後岩手に行っておりまして、ご紹介が遅れました。

Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート

夜明けの湖を照らす淡い光のように 音楽は静かに語りかける
ピアニスト・作曲家 荒野愛子による室内アンサンブルコンサート
音楽環境に優れたホールでチェコの名器PETROFの響きとともに

期  日 : 2016年6月4日(土)
時  間 : 開場14:30  開演15:00
会  場 : Sala MASAKA 神奈川県横浜市戸塚区品濃町514-13
料  金 : 前売り:3,500円  当日:4,000円
申し込み: cafecatsmusic@gmail.com 

主  催 : Cafecats Music
協  力 : 株式会社ピアノプレップ

出  演 : Aiko Kono Ensemble
野愛子 Aiko Kono(ピアノ・作曲)
国立音楽大学卒業。在学中よりクラシックを学ぶ傍ら、ジャズ、ポップス、ブラジル音楽等に親しむ。卒業後、演奏活動と同時に作曲を始める。特に文学作品に影響を受けて作曲されたものが多く、朗読や演劇との共演も多数。
2007年にはオリジナル作品を収録した初のピアノソロアルバム「オトヒトシズク」(Cafecats Music)を発表。
2013年には高村光太郎の詩集にインスパイヤされ制作したアルバム「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットのための小曲集」(Cafecats Music)を発表。
ピアノを中心とした自由な形態のアンサンブル、クラシックとその他の音楽を融合したジャンルの限定されない音楽を目指す。 

藤田有希  Yuki Fujita(ヴァイオリン)
2歳よりヴァイオリンを始める。第53回全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門小学生の部第2位、東京都教育委員会から表彰される。2000年、東京芸術劇場大ホールにて東京交響楽団主催の演奏会でソリストとしてデビュー。新宿文化センター主催、第一回ニューイヤー名曲ファミリーコンサートで東京交響楽団と共演。2006年までソリストとして招かれた他、飯盛範親、山下一史、本名徹二、時任康文の著名な指揮者と共演。また、フィンランド国営放送コンサートミストレスとして出演。日本、フィンランドで多数のソロリサイタルを開催。
これまでにヴァイオリンを原田幸一郎、竹澤恭子、富重祐、友永優子、ペトリ・アールニオの各氏に師事。
桐朋女子高等学校音楽科を卒業後、シベリウスアカデミー(フィンランド)に留学。2014年春、シベリウス・アカデミー修士課程を修了し、現在日本とフィンランドを拠点に活動中。


新實紗季 Saki Niinomi(クラリネット)
愛知県出身。13歳よりクラリネットを始める。国立音楽大学卒業。同大学卒業 演奏会に出演の他、各種新人演奏会やサロンコンサート等で演奏を重ねる。
2005年大阪市芸術家支援制度<大阪AIS>オーディションに合格し、大阪にてソロリサイタル、ジョイントリイタルなど多数出演。ソロだけでなく室内楽の分野においても演奏活動をしている。

曲  目 :『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集/中原中也の追想 第一集/他

荒野さんサイトより

今回、兼ねてからコンサートで弾きたいと思っていたチェコのピアノPetrofを使用させていただきます。場所は、東戸塚にある素敵なプライベートホールです。クラシックコンサート仕様に設計されたとても音の良いホールです。
そして一緒に演奏するメンバーも素晴らしいので、本当に楽しみです。
全曲荒野愛子オリジナルを演奏します。
ぜひお越しください!


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というわけで、ピアニスト・作曲家の荒野愛子さんを中心とするサロンコンサートです。

プロフィールにあるとおり、荒野さん、「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集」というCDを平成25年(2013)にリリースされています。その際にはリリース記念のコンサートにお誘いいただきましたが、当方の講演の日程ともろかぶりで欠礼いたしました。

今回のコンサートにも出演される新實さんも参加されています。

また、ファーストアルバム「オトヒトシズク」にも、「レモン哀歌」というナンバーが収録されています。

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やはり荒野さんのプロフィールにあるとおり、「ピアノを中心とした自由な形態のアンサンブル、クラシックとその他の音楽を融合したジャンルの限定されい音楽」、そういう感じです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

野ははるか夢ながるるにかくるるに青葉の森の暗き過ぎずや
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日の記事を書くにあたって、荒野さんのCDを流していました。「青葉の森」を歩いているような感覚にとらわれました。

画像は当方自宅兼事務所の裏山に広がる森です。
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先週の土曜日、横浜神奈川近代文学館に行って参りました。

閲覧室での調べ物が主目的でしたが、開催中の特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、招待券を戴いていたので拝見してきました。 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」

「吾輩は猫である」「坊っちやん」「三四郎」「それから」「心」そして「明暗」…人間の心の孤独とあやうさを描いた夏目漱石の作品は、私たちの生き方へ多くの問題を投げかけ、その一方で、夢や謎、笑いに彩られたイメージの宝庫としても読者を魅了して来ました。
作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、漱石は「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」と述べています。そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、多くの人びとが作品を繰り返し読み、その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。漱石文学は読者にとってまさに「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。
没後100年を記念して開催する本展は、こうした作品世界と、英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料、そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。
会 期  2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日
  月曜日(5月2日は開館)
 間  午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場  神奈川近代文学館第1・2・3展示室
観覧料  一般700円(500円) 65歳以上/20歳未満,学生300円(200円) 
     
( )内は20名以上の団体  高校生100円 中学生以下無料     
     東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
 催  県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
特別協力 岩波書店
協力   東北大学附属図書館
後援   NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
協賛   集英社 京浜急行電鉄 相模鉄道 東京急行電鉄
     神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
広報協力 KAAT 神奈川芸術劇場
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漱石と光太郎には美術を通して接点がありました。大正元年(1912)、漱石の書いた美術評論を光太郎が批判したというものです。当時光太郎は数え30歳。留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と縁を切り、ヒユウザン会に加盟、油絵の制作に力点を置いていた時期でした。

漱石はそうした美術界の新機軸に一定の理解を示していました。一つには漱石山房に出入りしていた画家の津田青楓の影響があったと思われます。津田は後に漱石の著書の装幀を多く手がけます。

光太郎の方は、漱石や森鷗外といった権威的な存在には噛みつかずにはいられない、という感じでした。津田とは欧米留学中に親しくつきあっていましたが、お互いの帰朝後は、漱石にかわいがられた津田と、権威的なものに反抗する光太郎とで、自然と疎遠になったようです。

ちなみに光太郎がまだ東京美術学校に在学中で、本郷Ⅸ駒込林町155番地の実家に住んでいた頃、漱石は明治36年(1903)から約3年間、本郷Ⅸ千駄木町57番地(いわゆる「猫の家」)に住んでおり、近所といえば近所でした。

さて、「100年目に出会う 夏目漱石」。当然ですが文学関連が中心の展示で、漱石の自筆資料等もふんだんに出品されており、息遣いが聞こえてくるようでした。

美術関連では、ヒユウザン会がらみの展示はありませんでしたが、漱石自身の絵画がまとめて展示されていました。ただ、津田青楓などは自身で絵の手ほどきをしながら、その方面での漱石の才能がないことを、敬愛を込めながらも揶揄しています。

 津田が自分の仕事の段落のついた或000る日行つてみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるやうな口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの、俺は日本画の方が面白いよ。」さう云つて、半紙ぐらいの厚ぼつたい紙に塗りたくつた妙な画を出して見せられた。
 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息してゐる。そのまへに一匹の馬がある。先づ馬と仮説するだけなんだが、四ツ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先づ馬に近い――その馬が前脚を一つ折つて、これから草の上で休まうとするやうにも、又これから立ち上がらうとするやうにも見える。馬といひ、人といひ、まるで小学校の生徒の画のやうだ。柳は無風状態で重々しくたれ下つてゐる。全体が濁つた緑でぬりつぶされてゐる。柳の下にはフンドシを干したやうに、一条の川が流れてゐる。その川と柳の幹だけが白くひかつて、あとは濁つた緑。下手な子供くさい画と云つても片付けられる。又鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、云つてもみられる。先生はリヤルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし」「夢十夜」あんな作を絵筆で出さうとしてゐられる。
 漱石先生が「どうだ、見てくれ」と云つて出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は挨拶の代りに大きな口をあいて、
「ワハヽヽヽヽヽ」
 先づ笑つた。
(『漱石と十弟子』)


漱石といえば、文豪中の文豪ですが、こういう人間くさいエピソードには、親しみを感じます。並んでいた絵を見て、クスリとしてしまいました。

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、今月22日までです。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

人あり薫風に似て来り坐す      昭和20年(1945) 光太郎63歳

「薫風のよう」といわれる人間になりたいものです(笑)。

昨日は神奈川県鎌倉市に行っておりました。昨日始まった、鎌倉市川喜多映画記念館さんの「特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子」を拝見して参りました 

特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子

期  日 : 2016年3月18日(金)~7月10日(日)
会  場 : 鎌倉市川喜多映画記念館 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目2番地12号
時  間 : 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
料  金 : 一般300円(210)円 小・中学生150円(105)円 ( )内は団体20名以上

〜 美しき微笑と佇まい、スクリーンに輝いた大スターを偲んで 〜
戦前から戦後にかけて日本映画の黄金期に活躍し、こつ然と銀幕を去った後、鎌倉で終生を過ごした原節子。昨年、その訃報が届き、多くの人々が偉大な映画女優の逝去に深い追悼の意を表しました。小津安二郎監督による『晩春』『麦秋』『東京物語』で演じた「紀子」の品性に満ちた美しさや、成瀬巳喜男監督、黒澤明監督などの作品で演じた女性像は、映画を愛する人々の心に永遠に刻まれていることでしょう。
本企画展では、公私ともに親交の深かった写真家・秋山庄太郎による他では見る機会の少ない貴重なポートレートの数々を展示いたします。また、日独合作映画『新しき土』のドイツ公開にあわせて渡欧した際の写真アルバムや特別映像もご覧いただきます。関連作品の上映では、鎌倉文士の永井龍男、今日出海原作の映画化作品の上映もございます。鎌倉における本企画展にて、映画女優・原節子を偲び、皆様の思いを馳せていただく機会になれば幸いです。

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昨秋亡くなった伝説の映画女優・原節子さん。昭和32年(1957)には、熊谷久虎監督の東宝映画「智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。この際には、福島二本松の、智恵子の生家や二本松霞ヶ城などでもロケが行われました。

「智恵子抄」関連の展示があるかどうか、実際に行って見てみないとわからないので、半分賭けでしたが、時間もあったので、鎌倉まで車を走らせました。

川喜多映画記念館さんは、鶴岡八幡宮にほど近いところにあります。鎌倉駅からですと、小町通りを北上し、八幡宮に出る直前を左折するとすぐ見えてきます。当方は八幡宮近くに車を駐め、八幡宮の前を通って行きました。

先日閉館した「カマキン」こと神奈川県立近代美術館・鎌倉館さん。当初は閉館に伴って建物も取り壊される予定でしたが、ル・コルビジェに師事した建築家・坂倉準三の設計で、モダニズム建築の逸品ということで、遺されることになりました。

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さて、川喜多映画記念館さん。

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当方、中に入るのは初めてです。

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受付で入館料300円也を払い、左手の展示室へ。

早速、「智恵子抄」の立看用のポスターが壁面に飾られているのに気付きました。「来た甲斐があった」と胸をなで下ろしました。

その後、順路に従って拝観。原さんの年譜や故・秋山庄太郎氏撮影のポートレート、当時の雑誌、出演作品に関する資料などなど。

原さんの出演作品は少なくなく、代表作の「東京物語」や「青い山脈」などは大きく取り上げられていました。反対に、初期の頃などのあまり有名でない作品は簡単な説明。「智恵子抄」はその中間といった扱いで、最初に見た立看用の縦長のポスター以外にも、通常サイズ(B2判)のポスターやスチール写真などが展示されていました。

当方、原さんの「智恵子抄」ポスターは10種類近く所蔵しています。最初に目に付いた立看用のものは同じものを持っていますが、通常サイズ(B2判)のものはまだ入手できていません。今回展示されているものとは異なるバージョンは持っています。今回のものも、いずれは入手したいものです。

こちらには上映室も完備されており、以前にも「智恵子抄」の上映がありました。来月から、「智恵子抄」を含む原さん主演の映画、計12本が順次上映されます。また近くなりましたら改めてご紹介しますが、「智恵子抄」は最後、7月の上映です。

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ぜひ足をお運びください。

ところで当方、原さんの「智恵子抄」がらみの資料をコツコツ集め続け、気付いたらかなりの量になっています。ポスター、チラシ、パンフレット、スチール写真、撮影風景のスナップ写真、カメラテスト用に撮られたと思われるポートレート、当時の雑誌などなど。「原節子と映画「智恵子抄」」という企画展が出来る程度の量です。この際に、どこかでやっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

寺に入れば石の寒さや春の雨     明治42年(1909) 光太郎27歳

やはり欧米留学中のイタリア旅行での作ですので、「寺」は仏教寺院ではなくキリスト教の教会、修道院の類です。ただ、日本の風景としてイメージしても通用する句ですね。

一昨日拝観した、神奈川県立県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」レポートの2回目です。

水沢勉館長のトークを聞き終え、いよいよ展示を拝見しました。

光太郎作品は2点。

2階の第一展示室に入ってすぐ、油絵の「上高地風景」(大正2年=1913)。下記はNHKさんの「日曜美術館」から採らせていただきました。左端が「上高地風景」です。

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智恵子との婚約を果たした信州上高地での作品です。昨年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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「こんなに大きな絵だったっけか?」というのが正直な感想でした。この絵の実物を見るのは4度目くらいのはずですが、過去3回は他の光太郎絵画と共に展示されたのを見ており、この絵だけの印象はあまり残っていませんでした。

改めてよく観てみますと、フォービズム風の荒い筆触、色遣いの中にも繊細な神経が行き届いており、さらにやはり画面の大きさからくる迫力に圧倒されました。


続いてブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。光太郎が敬愛したロダンの「花子の首」と同じコーナーに並んでいました。光太郎メインの企画展で、ロダン作品を参考出品することはよくありますが、それとは違った主旨で2人の作品が同じコーナーに並んでいることに感慨を覚えました。しかも、モデルの女優・花子はロダンのモデルを務めたほとんど唯一の日本人ということで、光太郎は昭和2年(1927)、郷里の岐阜に花子を訪ね、その模様を評伝『ロダン』に書き残しています。

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前列中央が「裸婦坐像」、左端が「花子の首」です。その間にはブールデル、後列には中原悌次郎など、やはりロダン、光太郎と縁の深い作者の作が並んでいます。


その他、柳敬助、梅原龍三郎、松本竣介、難波田龍起といった、光太郎と縁の深かった人々の作品なども興味深く拝見しました。


再び1階に下りました。館長トークの間に、こんなコーナーがあったのに気付いていて、そちらを拝見しました。

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来館者の皆さんが、自由にメッセージを書き込み、それが掲示されています。

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「日曜美術館」にもそういう部分がありましたが、スタッフ以外にもこの館に対する深い思い入れを持つ方が、非常にたくさんいらっしゃるようです。

こんな書き込みも。「裸婦坐像」についてでしょう。

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企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」、1/31(日)までです。そして最終日には閉館を迎えます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】無題

少女子は兎の族(やから)ま裸になりてきよとんと坐りたるかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

「少女子」は「おとめご」。時期的に少しずれていますが、「裸婦坐像」制作に関わるかもしれません。

詩人の真壁仁による「高村先生の彫刻」(昭和27年=1952)には次のように記されています。

「裸婦」はよく夫人をモデルにした作と思われているが、実際は百合子という横浜のチャブ屋の女である。チャブ屋の生活を嫌ってその女が逃げ出してきたとき、先生は一時かくまってあげた。そのとき、モデルになるかと言ったら、なるというので、先生は彫刻にこさえ、夫人は油絵に描いた。そんな商売の女と思えないほどいいからだだったそうである。

昨日は鎌倉に行っておりました。

今月いっぱいで閉館する神奈川県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」を見て参りました。

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同館は昭和26年(1951)開館、日本で最初の公立近代美術館、世界で3番目の近代美術館という歴史ある館です。2代目館長の土方定一は、文学趣味もあり、草野心平主宰の『歴程』同人で、その縁もあって、光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の在京建設委員に名を連ねるなど、光太郎と縁が深かった人物です。

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その関係もあって、光太郎が歿した昭和31年(1956)、「高村光太郎智恵子展」が初めて開催されたのがこちらです。

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もう少し早く行きたかったのですが、いろいろあり、また、昨日は午後2時から水沢勉館長のトークがあるということで、昨日に致しました。

鎌倉に着いたのは午後1時過ぎ。運良く八幡宮西側の、最も近い有料駐車場に車を入れることが出来ました。昼食は門前で蕎麦でも、と思っていましたので、途中で食べませんでした。昼食の前に券だけ買っておこうと思い、受付を目指すと、なんとまあ、長蛇の列でした。並ぶこと30分くらい。結局、昼食は後回しにしました。

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長年、この鎌倉の地で親しまれてきた館ですので、別れを惜しむ人々の来訪が絶えないのでしょう。また、元々休日でしたし、さらに、企画展も光太郎を含め、内外の有名作家の作品がたくさん出ており、それに加えて水沢館長のトークもあるということで、こうなったと思われます。

それから、先月にはNHKさんの「日曜美術館」で、「さよなら、わたしの美術館~“カマキン”の65年~」の放映があり、それがまたいい内容でしたので、それも大きいのではないでしょうか。

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番組では水沢館長、今回の企画展を担当された主任学芸員の長門佐季さん、そして、かつてこの館にスタッフとして関わられた皆さんの思いが語られました。

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館の建物自体が、ル・コルビジェに師事した建築家・坂倉準三の設計で、モダニズム建築の逸品です。そこでともに写真撮影が趣味だという、伊藤敏恵アナと共に司会を務める俳優の井浦新さん、ゲストで鎌倉出身・女優の鶴田真由さんが、館内外で入魂の写真撮影。

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当初は、閉館後は取り壊される予定でしたが、建築史的に貴重ということで、保存されることになりました。


さて、中に入って、展示の観覧は後ほどにし、まず水沢館長のトークが行われる中庭へ。こちらは光太郎とも縁のあったイサム・ノグチの作品です。

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定刻の2時少し前、水沢館長がご登場。トークが始まるまでの間、お話をさせていただきました。水沢館長は、平成25年(2013)に、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の愛知碧南会場・藤井達吉現代美術館さんで記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさり、当方、それを拝聴、さらに帰りの新幹線でご一緒させていただきました。その後も長門さんともども、一昨年の連翹忌にご参加下さいました。

まだ先の話ですが、今回閉館する鎌倉館とは別の鎌倉別館で、平成31年(2019)かその翌年に、光太郎智恵子展をやりたいとのことです。別館も近々大がかりな改修工事が入るそうで、それが終わってからのことになります。ありがたいことです。
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水沢館長のトーク、黒山の人だかりとなりました。

鶴岡八幡宮の一角に、回廊(ピロティ)のようなスタイルで造られたこの館、まるで絵馬堂のようだというお話。さらに光太郎とも縁の深かった村山槐多やイサム・ノグチのお話。示唆に溢れるものでした。


その後、実際に展示を拝見しましたが、長くなりましたので、また明日。


【折々の歌と句・光太郎】

なびき行く野火の烟を指さして星なき宵よ友と別れし
明治34年(1901) 光太郎19歳

この年1月3日、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社の集まりが鎌倉で行われ、由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうで、その際の作です。

水沢館長他、近代美術館鎌倉館に関わった人々の思いは「友と別れ」るようなものなのではないでしょうか。

神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮の境内に神奈川県立近代美術館の鎌倉館があります。昭和26年(1951)開館、建物自体もル・コルビジェに師事した板倉準三の設計によるもので、非常に高い評価を受けています。

ちなみに光太郎が歿した昭和31年(1956)、「高村光太郎智恵子展」が初めて開催されたのがこちらです。

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こちらが来年1月をもって、閉館することになりました。土地の貸借、建物の耐震性の問題などがその理由だそうです。

すぐ近くに鎌倉別館があるので、こちらの機能は別館に移転、建物も歴史的に貴重ということで、耐震補強の上、保存される見通しだそうです。

そこで、鎌倉館としての最後の企画展が始まりました。光太郎作品も2点、並んでいます。光太郎作品が並んでいるという情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。申し訳ありません。 

鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」

期  日 : 2015年10月17日(土)~2016年1月31日(日)
第一会場 : 鎌倉館   
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-53 Tel. 0467-22-5000
第二会場 : 鎌倉別館 「鎌倉からはじまった。1951-2016 工芸と現代美術」
          神奈川県鎌倉市雪ノ下2-8-11 Tel. 0467-22-7718
休 館 日  : 月曜日(ただし11月23日、1月11日は開館)、 12月29日(火)-1月3日(日)
開館時間 :  午前9時30分-午後5時(入館は午後4時30分まで)
観 覧 料  : 一般1,000円(900円) 20歳未満と学生850円(750円) 65歳以上500円
       高校生100円 
( )内は20名以上の団体料金

※鎌倉館の観覧券で、当日に限り鎌倉別館を無料でご観覧いただけます。

※中学生以下、障害者手帳をお持ちの方は無料。その他の割引につきましてはお問い合わせください。

※ファミリー・コミュニケーションの日:
毎月第1日曜日(今回は11月1日、12月6日)は、18歳未満のお子様連れのご家族は、優待料金(65歳以上の方を除く)でご観覧いただけます。

※11月3日(火・祝)「文化の日」は、開催中の展覧会を無料でご覧いただけます。


1951年11月17日、日本で最初の公立近代美術館として鎌倉の鶴岡八幡宮境内に誕生した神奈川県立近代美術館は、このたび2016年1月末をもって鎌倉館での展覧会活動を終了することになりました。
2015年度は、「鎌倉からはじまった。1951-2016」と題し、これまでの鎌倉での活動を三期に分けて紹介してまいりましたが、いよいよ本展が最後となります。
これまで鎌倉館に足を運んでくださった多くの皆様に感謝いたしますとともに、2016年4月以降は、葉山館と鎌倉別館の二館体制で活動してまいりますので、今後ともご理解とご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

「カマキン」最後の展覧会
「鎌倉近代美術館(略称:カマキン)」として長く皆様に愛されてまいりました鎌倉館での最後の展覧会となるPART3では、1951年の美術館誕生から1965年までの15年を取り上げます。草創期の当館では、戦前、戦中の文化的空白を埋めるべく、佐伯祐三、萬鉄五郎、古賀春江、松本竣介などの、小規模ながらも充実した展覧会が開催されました。そうした調査と研究を重視した展覧会のあり方は、美術館の礎として受け継がれてきました。本展では、この時期に取り上げた作家による作品を所蔵品から選んで展示すると同時に、美術館の活動に伴って改修が重ねられてきた坂倉準三設計による鎌倉館の変遷を、図面や写真、映像資料で紹介します。なお、鎌倉別館では「工芸と現代美術」と題して、所蔵品のなかから工芸・デザインとその現代美術への展開を追います。ぜひご高覧ください。

関連企画
1 建築トーク 講師:青木淳氏(建築家) 11月1日(日)午後2時-3時30分
*要申込(先着30名)、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

2 トヨダヒトシ氏(写真家)によるスライドショー(ライブ・パフォーマンス)
10月24日(土)午後5時-6時 「白い月」(2010-15年、35mmフィルム、サイレント)
  ニューヨーク、春から冬へと向かう日々を綴った映像日記。
10月25日(日)午後5時-6時 「ツバメー吉村弘に捧ぐ(仮)」(2015年、35mmフィルム)
  サウンド・アーティスト吉村弘が残した写真をもとに構成したスライドショー作品。
*上映開始後の入場はできませんので、4時30分までにご入場ください。展示室は5時で閉場します。
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

3 小杉武久氏、和泉希洋志氏によるコンサート 11月8日(日)午後3時-
*午後1時より整理券を配付します。(混雑状況により入場を制限する場合がございます。)
*参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

4 石田尚志氏(画家/映像作家)による映像インスタレーション上映
11月28日(土)、11月29日(日)各日午後5時-
*4時30分までにご入場ください。上映開始後の入場はできません。展示室は5時で閉場します。
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

5 担当学芸員によるギャラリー・トーク 12月5日(土)午後2時-2時30分
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

6 館長トーク 話し手:水沢勉(当館館長)
12月12日(土)、2016年1月24日(日)各日午後2時-3時
申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

7 連続講演会「近代美術館とわたし」(県立機関活用講座)
第1回 10月17日(土)講師:荻野アンナ氏(作家/慶應義塾大学教授)
第2回 10月31日(土)講師:李 禹煥氏(美術家)
第3回 11月14日(土)講師:高階秀爾氏(大原美術館館長)
第4回 11月15日(日)講師:藤森照信氏(建築史家/建築家)
第5回 11月22日(日)講師:池内 紀氏(ドイツ文学者/エッセイスト)
各回午後2時-4時 *要申込(先着120名)
会場:鎌倉商工会議所会館 地下ホール
受講料:各回1,000円(任意の回数で申込み可能)
*1,7の申込方法:次の事項を明記し、fax、往復はがき、当館ホームページの問い合わせフォームのいずれ
かでお申し込みください。
1)企画名 2)氏名〔ふりがな〕 3)郵便番号、住所、電話番号、fax番号、メールアドレス 4)参加希望人数〔同伴者の氏名、ふりがな〕
*申込先:神奈川県立近代美術館 鎌倉 fax. 0467-23-2464


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さて、光太郎作品ですが、2点展示されています。

まずは大正2年(1913)、智恵子と婚約を果たした信州上高地で描かれた油絵「上高地風景」。この年の生活社主催油絵展覧会に出品されたものです。生活社は、フユウザン会分裂後、光太郎や岸田劉生らが興した団体でした。

今年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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この油絵、光太郎の親友だった水野葉舟に贈られ、水野家で保管されていましたが、現在は同館に寄託されているそうです。

現在、平塚市美術館さんで開催中の企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」に並ぶかな、と思っていたのが展示されず、残念に思っておりましたが、こちらに出すためだったのですね。


もう1点、ブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。無題よく智恵子がモデルと勘違いされますが、違います。

光太郎は、横浜で夜の商売についていた「百合子」という若い女性を一時かくまってやったことがあり、その礼にと、モデルを務めてくれたそうです。智恵子も彼女をモデルに絵を描いたとのこと。


「裸婦坐像」は同型のものが日本各地に存在し、よく眼にしますが、「上高地風景」は油絵なので一点ものです。この機会に御覧下さい。


他の出品作は以下の通りです。

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光太郎と交流の深かった作家の作品もいろいろラインナップに入っています。絵画でいうと、柳敬助、中村彝、梅原龍三郎、松本竣介……。彫刻ではロダン、佐藤忠良、舟越保武、戸張孤雁などなど。

ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月23日

昭和58年(1983)の今日、福島県安達町(現・二本松市)の智恵子の生家裏山に「樹下の二人」詩碑が除幕されました。

「あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川」で始まる、「智恵子抄」中の絶唱の一つです。

この裏山は鞍石山と呼ばれ、幼少時や帰省した智恵子がよく歩いていたり、智恵子の実家を訪れた光太郎を案内して二人で歩いたりした場所です。近くには展望台も設けられています。

晴れた日には碑に「ほんとの空」が映ります。

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昨日は神奈川県の鎌倉から茅ヶ崎、いわゆる湘南に行っておりました。

まずは北鎌倉のカフェ兼ギャラリーの笛ギャラリーさん。こちらは店主の奥様が、光太郎の妹のお孫さんにあたります。過日のこのブログにてご紹介しましたが、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」という展示が始まっています。

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昨年もお邪魔しましたが、不思議なお店です。不思議なお店ですが、鎌倉の雰囲気には非常にマッチしています。「笛」というだけあって、店内には様々な笛が。

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昨年は、お近くにお住まいの尾崎喜八のご息女・榮子様、伊藤海彦令夫人がたまたまいらしていたのですが、今年はいらっしゃいませんでした。

美味しい濃厚な珈琲をいただきながら、展示を拝見。

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左は尾崎夫妻と榮子様、そして光太郎。右は尾崎喜八です。喜八夫人の実子は、光太郎の親友・水野葉舟の長女でした。

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喜八や光太郎の書。光太郎の書はほとんど複製でしたが、1点、直筆のものがありました。

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寒山詩からの引用で「此珠無価数」と読みます。

他にも「書」とは言えませんが、光太郎と喜八の直筆がいろいろ。

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左は光太郎から甥に宛てた書簡。昭和20年(1945)4月の空襲で駒込林町のアトリエが全焼、焼け跡に残った香木の白檀がいい具合に炭になっていて、それを贈る際に添えたものです。

右は喜八が書いた町内の回覧文書。「明月会」というのは町内会で、喜八が役員をしていた際のもの。切れた街灯の修繕に関わるものです。当方も昨年度から町内会の役員をやっており、微笑ましく拝読しました。

その他、二人の著書や研究書の類も並んでいました。

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昨年並んでいた光太郎から尾崎夫妻の結婚祝いに贈られたミケランジェロ模刻のブロンズ「母子像」は、今年は並んでいませんでした。

来月10日まで(ただし月・水・木はお休み)展示が続きます。ぜひ足をお運びください。

その後、車で数分の東慶寺さんに行きました。駆け込み寺、縁切り寺として有名なところですね。といっても、別に誰かと縁を切りたいと考えて参拝したわけではありません(笑)。

こちらは智恵子の親友だった作家・田村俊子の関係です。

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石段を登って山門をくぐり、拝観料を納めるとすぐ左手に、俊子の文学碑が建っています。

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大正2年(1913)に書かれた俊子の短編小説、「女作者」の一節が刻まれています。

この女作者はいつも000
おしろいをつけてゐる
この女の書くものは
大がいおしろいの中から
うまれてくるのである
          
この「女作者」、智恵子も登場します。ただし「女友達」としか書かれていませんが、近々結婚すると言っていることなどから、智恵子がモデルと思われます(光太郎智恵子の結婚披露は翌年)。

ちなみに智恵子と思われる友達のセリフをいくつか引用しましょう。

「結婚したつて私は自分なんですもの。私は私なんですもの。恋と云つたつてそれは人の為にする恋ぢやないんですもの。自分の恋なんですもの。自分の恋なんですもの。」

「私は自分に生きるんだから。自分はやつぱり自分の芸術と云へるわ。自分の芸術に生きると云ふ事は、やつぱり自分に生きるつて事だわ。」

「私だつて随分考へたけれども、私はもう自分に生きるより他はないと思つてしまつたの。私は自分に生きるの。」

いかにも、ですね。

今回はさらに、俊子の墓参もしてきました。碑は10数年前に一度、見に行った事がありましたが、その時は寡聞にして俊子の墓がこちらにあるということを存じませんでした。

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智恵子と、2歳年長だった俊子とは『青鞜』つながりで知り合い、意気投合しました。俊子も智恵子と同じく日本女子大学校に通っていましたが、心臓病のため中退しており、在学中には接点はありませんでした。

『青鞜』といえば、平塚らいてう。

そして、鎌倉からほど近い茅ヶ崎に、らいてうの文学碑が建っています。茅ヶ崎はらいてうにとって、夫となった奥村博との出会いの地です。後に博が結核に罹患した際にも、茅ヶ崎で療養しています。そういった経緯で、茅ヶ崎にらいてうの碑が建てられました。当方、この碑は未見でした。

というわけで、鎌倉をあとに、国道134号線を西へと走りました。まだ先の話ですが、智恵子の故郷・二本松での「智恵子講座’15」で、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」という講義をすることを仰せつかっておりまして、俊子についてもそうですが、そのためのネタ集めという背景があります。

目指す碑は、茅ヶ崎駅に近い高砂緑地というところにありました。

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智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に収められた、有名な一文「原始、女性は太陽であつた 真正の人であつた」が刻まれています。ちなみに同じ号には俊子の小説「生血」も掲載されました。

碑を前に、100年以上も前、女性の自立を求めて立ち上がった彼女らに思いを馳せました。

この碑のある高砂緑地は、元はセレブの別荘地だったところで、今も当時の建物の跡が残っています。

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また、光太郎がその詩的世界を激賞した夭折の詩人・八木重吉もこのあたりで結核の療養をしていたということで、八木の詩碑も立っていました。これは当方、存じませんでした。

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尾崎喜八、実子、水野葉舟、田村俊子、平塚らいてう、奥村博、八木重吉、そしてもちろん光太郎、智恵子……。いろいろな人々に思いを馳せる一日でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月17日

昭和51年(1976)の今日、花巻市太田の旧山口小学校向かいに「太田開拓三十周年記念」碑が除幕されました。

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光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の一節が刻まれています。

10月17日は、昭和20年(1945)に、光太郎がこの地での生活を始めた日なので、この日を選んで除幕したものと思われます。

神奈川県鎌倉市からの情報です。 

10/4追記 日程が変更になりました。下記の通り訂正です。 

回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四

会 期 : 2015年10月9日(金)~11月10日(火)
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215 0467-22-4484
時 間 : 10:00~16:00
休業日 : 毎週月・水・木

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「あじさい寺」として有名な明月院さんの近く000にあるカフェ兼ギャラリーの笛ギャラリーさんでの展示です。店主の奥様が、光太郎のすぐ下の妹・しづのお孫さんに当たられ、光太郎ゆかりの品々が伝わっているというお店です。毎年この時期にこの展示を開催されています。

尾崎喜八は明治25年(1892)生まれの詩人。光太郎より9歳年少です。大正13年(1924)、光太郎の親友・水野葉舟の娘・実子と結婚し、光太郎が介添えを務めました。さらに結婚祝いとしてミケランジェロの「母子像」約7分の1模刻のブロンズ像を贈っています。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

下記は昭和61年(1986)の写真週刊誌『FOCUS』のコピーで、当時、健在だった実子に関する記事です。

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現在も喜八・実子夫妻のお嬢さんである榮子さんが笛ギャラリーさんのお近くにお住まいで、光太郎つながりでよくいらっしゃるとのこと。そこで、尾崎家に伝わる品々も展示されるというわけです。

当方、昨年、お邪魔いたしました。その際のレポートがこちら。たまたま榮子さんと、さらにやはり光太郎と交流のあった詩人の伊藤海彦氏の奥様がいらしていて、いろいろとお話を伺うことができました。榮子さんは当方の知る限り、唯一、生前の智恵子をご存じの方です。

伊藤家のお宝、そして「母子像」も展示されており、興味深く拝見しました。

他にも『高村光太郎全集』に未収録の、しづ宛の書簡が3通も見つかり、のちに当方編集の「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。

今年も同様の展示になるのでは、と思います。ぜひ足をお運び下さい。


10/16追記 今年は「母子像」は展示されていませんでした。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月28日

昭和15年(1940)の今日、光太郎が装幀、題字、装画を手がけた水野葉舟の歌集『滴瀝』が刊行されました。

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このコーナー、事前に書く内容をピックアップしてリストにしてあります。

上記笛ギャラリーさんの記事を書き終わってから、さて、「今日は何の日だっけ」と思ってリストを見てみると、たまたま葉舟関連だったので驚きました。

昨日、神奈川県平塚市で、企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」を見て参りましたのでレポートいたします。

会場の平塚市美術館さんは、JR東海道線平塚駅から徒歩20分ほど。なかなか立派な外観でした。入り口には大きなポスターも。

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受付でチケットを購入、企画展会場の2階に上がりました。

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展示会場は2室に分かれており、第1会場が「画家の詩」でした。「画家の詩」といっても、メインは絵画で、それぞれの画家が作った詩がパネルに活字で印刷され、絵画と並べられていたり、画家によっては詩稿などが展示されていたり、といった構成でした。

光太郎と交流の深かった画家も多く取り上げられていました。フユウザン会を一緒に立ち上げた萬鉄五郎、その特異な才能を認め、詩「村山槐多」に詠んだ村山槐多、駒込林町ですぐ近所に住んでいた難波田龍起、主宰した雑誌『雑記帳』に詩を寄稿した松本竣介、智恵子とも顔見知りだった竹久夢二、翻訳『回想のゴツホ』(大正10年=1921)出版に際し、写真を貸してくれた中川一政などなど。

展示室2は、「詩人の絵」でした。入ってすぐに光太郎の油彩画2点が展示されていました。

まず「静物(瓶と果物)」。大正3年(1914)の作です。この年、光太郎が始めた「高村光太郎画会」による作品と推定されています。油絵を購入してもらうための会で、雑誌『我等』(下記画像)、『現代の洋画』に広告を出しています。

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もう一点は、「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)。与謝野夫妻を通じて交流のあった新潟佐渡の歌人、渡辺湖畔の娘で、この年に3歳で夭折した道子の肖像です。この絵に関しては、渡辺湖畔あての書簡でその成立過程がわかります。

又御手帋にて御話の御愛嬢の事につきては 御悲嘆のほど察上候 御写真にて拝見してもいかにも無邪気に見うけられ候 元来写真によりて作る事はまことに苦しきものに候へ共 御言葉により ともかくも油画にて試み可申候 しかし此はとても小生自身満足し得るもの出来難からんと思はれ候 此事は前以てお含み置き被下樣願上候 (大正7年=1918 7月8日)

 あの愛らしいみち子さんの方は 初め木炭でいろいろ素描を試み今早朝の時間を以て八号のカムバスへ油画に致して居ります あの無邪気な晴朗とした面影を捉へたいと念じて居ります
 多分今月末にはとにかく一応お目にかけ得る程になるかと思ひます 其時は画を一旦御送附いたします故 み親としての御考をよく御きかせ下さるよう御願いたします 何しろ一度もお目にかかつた事が無いので甚だ心細く思つて居りますから 御考をきいた上で最後の筆を加へたいと思つて居ります (同 8月23日)

10月には光太郎は佐渡の渡辺家を訪れています。道子の肖像以外にも、渡辺の父・金六の肖像彫刻の依頼も受けていたためです。ただし、この彫刻は完成しませんでした。次は東京に帰ってからの書簡です。

製作上の参考となる事多く満足此上も無く候 此印象の薄れぬうち早速みちこ様の油画をかき上ぐる心筭に有之候 (同 10月12日)

そして12月には絵が完成しました。

 みち子嬢の油画はやつと出来ました 明日荷造りをしてお送りします 丈夫に荷造りいたしませう 此は元来私に到底出来ない仕事でありましたが 御心を汲むととてもお断り出来なかつたので兎に角かき上げましたが 作としては自信はとてもありません 私は写真から製作する事はどうしてもうまくゆかないのです しかし自分に出来るだけの事は尽しました 御覧になつた上お気付きの事がありましたら言つて下さい そしてお送り下されば又筆を入れませう それから此画には私の名を入れません 其は私の良心がゆるしませんから 此事は御承知下さるやう御ねがひします 名は入れませんが無責任にかいたのではありません 此事は御領会下さる事と信じます (同 12月25日)

 昨夜手がみで申上げた油画の荷造を終り今夕関根運送店に托して御送りいたしました故御受取り下さい。荷は「此処カラ開ケル事」と書いてある板をはづして下されば中から画を引き出せる事になつてゐますから箱を壊さずとも出ます。画面に若し木屑等の細末が附着してゐましたら奇麗な筆のやうなもので静かに払つて取つて下さい。まだ十分に乾いていませぬから事によると着いているかも知れません。御取扱に御注意下さるやう願ひます。荷が無事に着くやうにと祈つてゐます。御意見を聞いた上で写真は後にお返し致します。 (同 12月26日)

光太郎の細やかな心遣いが溢れていると思います。

光太郎の作品はこの2点でした。帰りがけに購入した青幻舎さん刊行の図録を兼ねた書籍『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』では、もう一点、大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」も掲載されていましたし、今月初めに平塚市美術館さんに問い合わせた際にはそちらも並ぶ的なお話だったのですが、不出品でした。この企画展自体は来年8月まで全国を巡回しますので、いずれかの会場には並ぶと思います。

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光太郎の他に絵画が展示されていた詩人は以下の通りです。一番右の「展示」という項目で、展示替えや不出品の情報がありますので、ご注意下さい。

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光太郎と交流の深かった詩人では、北原白秋、木下杢太郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、宮澤賢治草野心平、中原中也などが挙げられます。

ちなみに上記画像は展示室2の出品目録です。展示室1の目録も兼ねているのだろうと思っていたら、展示室2のみのもので、展示室1のものは入手しませんでした。失敗しました。

同展、平塚市美術館さんでは11月8日(日)まで、その後、下記の予定で全国巡回です。それぞれ近くなりましたらまたご紹介します。

2015年11月17日(火)~12月20日(日)  愛知県碧南市藤井達吉現代美術館
2016年2月13日(土)~3月27日(日)   姫路市立美術館
2016年4月9日(土)~6月12日(日)   栃木足利市立美術館
2016年6月18日(土)~8月7日(日)   北海道立函館美術館


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月24日

平成10年(1998)の今日、筑摩書房から「ちくま文庫」の一冊として、橋本千代吉著『火の車板前帖』が刊行されました。

橋本は、草野心平と同郷。戦後、心平が開いた居酒屋「火の車」で板前を務めていました。同書は心平を巡るとんでもない酔っぱらいたちの記録ですが、「夜の高村光太郎」ということで、光太郎にも言及しています。

元版は文化出版局から昭和51年(1976)にハードカバーで刊行されました。

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神奈川県平塚市から企画展情報です。

画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく

会 期 : 2015 年9月19 日(土) ~11月8 日(日)
時 間 : 9:30 ~ 17:00(入場は16:30 まで)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
休館日 :  月曜日( ただし9/21、10/12は開館)、10/13
料 金 : 一般800(640) 円、高大生500(400) 円、小中学生無料
主 催 : 平塚市美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会

 古来、西洋では「絵は黙せる詩、詩は語る絵」といわれてきました。日本でも画賛(がさん)、詞書(ことばがき)が絵画の重要な役割を果たし、「詩書画」の一致を成してきました。一方、日本の近代洋画は、文学からの自立を目指した西洋近代美術の影響のもとで始まっています。特に印象派以後、新しい造形表現を積極的に取り入れた結果、実に多様な作品がうまれました。しかし、現実の生きた情感から浮き上がった作品が多く生まれたことも事実です。こうした中で、村山槐多、長谷川利行、古賀春江、三岸好太郎、山口薫などは、西洋近代美術に学びながらも、文学性、詩情を拠りどころとして優れた作品を残しています。さらにまた、詩の世界では宮沢賢治、立原道造、草野心平らが独自性のある絵を描いています。ある意味では、モダニズムが斥けてきた詩情、文学性を活かすことで、日本独自の絵画が成立したといえます。
  近年では、一部の画家たちが積極的に詩の世界に接近し、新しい表現を生み出そうとしています。本展は、明治から現代までの画家と詩人の絵画と詩を一堂にあつめ、絵画と詩の密接なつながりを検証するものです。
 
画家
 小杉未醒、青木繁、竹久夢二、萬鐡五郎、藤森静雄、恩地孝四郎、田中恭吉、中川一政、長谷川利行、古賀春江、川上澄生、村山槐多、谷中安規、三岸好太郎、棟方志功、長谷川リン二郎、難波田龍起、山口薫、香月泰男、南桂子、松本竣介、浅野弥衛、飯田善國、草間彌生、田島征三、芥川麟太郎、藤山ハン、難波田史男、イケムラレイコ、瓜南直子、O JUN、小林孝亘、鴻池朋子、村瀬恭子、伊庭靖子
 
詩人
 正岡子規、高村光太郎、北原白秋、木下杢太郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、西脇順三郎、宮沢賢治、佐藤一英、尾形亀之助、稲垣足穂、岡崎清一郎、富永太郎、小熊秀雄、北園克衛、瀧口修造、草野心平、中原中也、長谷川四郎、まど・みちお、立原道造、三好豊一郎、新国誠一、木島始、春日井建、吉増剛造、田畑あきら子、山本陽子

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関連行事

■ O JUN × 小林孝亘 対談「読む形・見える言葉」
日時 2015年10月4日(日) 14:00-15:30  場所 ミュージアムホール  ※申込不要、先着150名

■ 講演会 窪島誠一郎「絵を語る、詩を語る」
日時 2015年10月12日(月、祝) 14:00‐15:30  場所 ミュージアムホール  ※申込不要、先着150名

■ 学芸員によるギャラリートーク
日時 2015年10月17日(土)、10月31日(土) 各回14:00-14:40  場所 展示室Ⅱ  ※申込不要、要観覧券


というわけで、光太郎の絵画も展示されます。

光太郎の画業は、詩人でありながら絵画も手がけていた、というニュアンスではありません。特に明治42年(1909)、欧米留学から帰ってからしばらくは、むしろ画家として活動していたといっていい時期です。

欧米でロダンをはじめとする西洋近代彫刻の何たるかを学んだ光太郎は、帰国後、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界に絶望し、極力関係を絶とうとしました。文展などの展覧会等に出品すれば、「洋行帰り」「光雲の息子」という肩書きが優先され、彫刻としての価値を理解されないまま入賞することは目に見えていました。同じく洋行帰りの荻原守衛の作品もそうでした。光太郎曰く、


この珍奇のちん入者を文展の方では持てあましたらしかつたが、ともかくも技術があるので無下に排斥もならず、時には三等賞ぐらゐつけて、度量のあるところを見せたものである。彫刻の質に於いて、彼等と彼とは全くちがつてゐるのだといふことにはまるで気がつかない時代であつた。
(「荻原守衛」 昭和29年=1954)

という状況でした。

ちなみにパリで守衛が作り、光太郎が000ぜひ石膏に取って持ち帰るようにと勧めた「坑夫」は、ロダン風の荒々しいタッチが「未完成」と判断され、明治42年(1909)の第2回文展では落選の憂き目に遭っています。審査には光雲も当たっていました。

そこで光太郎は、この時期、彫刻より絵画制作に力を注ぐようになります。大正元年(1912)には、岸田劉生、斎藤与里らとヒユウザン会(のちフユウザン会)を結成、その分裂後も岸田が立ち上げた「生活社」に合流し、智恵子と過ごした上高地での油絵などを出品しています。

また、光太郎はその前後もかなり多くの絵画を描いています。東京美術学校在学中は日本画の臨書の授業があり、ここで絵画の基礎をしっかり学んでいます。フユウザン会や生活社の後も、自身の油絵の頒布会を行ったり、旅先でスケッチをしたり、書籍の挿画などでも筆を振るったりしました。戦後の花巻郊外太田村での暮らしの中でも、時折絵筆を握っています。

さて、今回の企画展に出る光太郎絵画はいずれも油絵で、3点。

大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」。平成12年(2000)、永らく行方不明だったこの絵が発見され、大きく報道されました。

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※ 9/22 追記 平塚市美術館さんでは「日光晩秋」は展示されないそうです。


それから同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」、そして新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)です。


この「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」展、平塚市美術館さんを皮切りに、以下の日程で全国巡回が予定されています。

2015年11月17日(火)~12月20日(日)  愛知県碧南市藤井達吉現代美術館
2016年2月13日(土)~3月27日(日)   姫路市立美術館
2016年4月9日(土)~6月12日(日)   栃木足利市立美術館
2016年6月18日(土)~8月7日(日)   北海道立函館美術館

ただ、平塚市美術館さんがそうですが、展示替えがあるそうで、常に上記3点の光太郎絵画が見られるかどうかは不明です。それぞれ近くなりましたらまたご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月6日

昭和20年(1945)の今日、花巻町で9月分の配給を受け取りました。

当日の日記の一節です。

午前米配給所にゆきて九月分(一ヶ月)をもらふ。米5キロ大豆3キロ也。かついでかへる。

数え63歳の高齢者にとって、この量がどうなのか、何とも言えません。

昨日に引き続き、光雲関連の情報です。

シンワアートオークション近代美術/木梨憲武

開催日 : 2015年 9月19日(土)
時 間 : 18:00
会 場
 : シンワアートミュージアム 東京都中央区銀座7-4-12 銀座メディカルビル
下見会 : 2015年 9月16日(水)~ 9月 18日(金) 10:00~18:00
           9月19日(土) 10:00~12:00 
出品点数 : 近代美術129点 木梨憲武8点
落札予想価格下限合計 : 近代美術:2億4,175万円  木梨憲武: 195万円

日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。たびたび光雲作品が出品され、このブログでもご紹介していますが、今月開催のオークションで光雲の「木彫魚藍観世音」が出品されます。

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光太郎の箱書きがあるとのことで、真筆であれば非常に珍しい例です。それもあるので、落札予想額が8桁です。


もう1件。

毎年このブログでご紹介しています横浜南区山王町のお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。

当方、昨年は観に行って参りました。

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今年は9月18日~20日の3日間が例大祭だそうです。ところが公式サイトに「火伏神輿」の件が記されておらず、今年は出ないのかな、と思い、電話で問い合わせてみたところ、9月18日(金)13:30~、イセザキ・モールを巡回するとのことでした。

あとでイセザキ・モールのサイトを調べてみたら、チラシが掲載されていました。

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それから、やはり光雲作の獅子頭の木彫も、沿道にある書店の有隣堂さん前に展示されます。下の画像は昨年観に行った際に撮ったものです。火伏神輿も担がれていない時は同じ場所に置かれるようです。

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ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月3日

平成14年(2002)の今日、徳島県立近代美術館で「高村光雲とその時代展」が開幕しました。

この年4月から、三重県立美術館、茨城県立近代美術館、千葉市立美術館と巡回し、最後の開催地でした。光雲作品が約90点、光太郎木彫も5点並びましたが、意外といえば意外なことに、初の大規模な光雲展でした。

上記の記事でも解るように、光雲作品は散逸とまではいきませんが、その生涯に膨大な数が作られ、各地に存在するためです。また、弟子がほぼ全体を作り、仕上げのみ光雲が行って、光雲の銘が入れられたいわば工房作品も多く、そのあたりもネックです。

下記は当方が観に行った茨城展のチラシです。

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神奈川県平塚市美術館さんで開催中の企画展です。 

生誕100年記念 写真家 濱谷浩展

期 日 : 2015 年7 月18 日(土) ~ 9月6 日(日)
会 場 : 平塚市美術館
  : 9:30 ~ 18:00( 入場は17:30 まで)

       ※9 /1(火)以降9:30 ~ 17:00( 入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日( ただし7 /20 は開館、7/21は休館)
 
 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円
        ※( ) 内は20 名以上の団体料金
        ※中学生以下、毎週土曜日の高校生は無料
        ※各種障がい者手帳をお持ちの方と付添1 名は無料
        ※65 歳以上で、平塚市民の方は無料、市外在住の方は団体料金
  : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
特別協力
 : 濱谷浩写真資料館

 このたび平塚市美術館では世界的に著名な写真家濱谷浩の生誕100 年を記念した展覧会を開催します。
 濱谷浩(はまやひろし:1915-1999)は東京下谷で生まれ、後年は大磯に居を構えた日本を代表する写真家です。15 歳のときに父の友人からカメラを贈られたことをきっかけに写真に情熱を傾けるようになった濱谷は、高校卒業後に銀座のオリエンタル写真工業に勤め、本格的に写真の技術や知識を身に付けると、まもなくフリーランスのカメラマンとして活動を始めました。1939(昭和14)年に雑誌の取材で新潟県の高田市を訪れ、雪国の厳しい風土とそれに立ち向かう人々の営為に感銘を受け、以降、日本の風土と人間の関係を突き詰めた写真を撮影するようになります。
 その後、高度成長期を迎えた日本においてテレビが普及し、報道の機動性、速報性、同時性などの面でその影響力が増していく中で写真表現の可能性を模索した濱谷は、エヴェレストをはじめ世界に残された自然の撮影を開始します。
 人間の生を深く洞察し、大自然の極限の様相に迫るカメラワークは国内外で高く評価され、1987(昭和62)年写真界のノーベル賞と称される「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞しました。
 本展では、大きく変動する昭和という時代に生き、カメラを通して「人間が生きるとは何か」ということを真摯に問いかけた濱谷の軌跡をご紹介します。

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濱谷浩(はまや ひろし)は大正4年(1915)生まれの写真家。日本の風土に生きる人々を撮り続け、特に「裏日本」を題材にした写真が有名です。また、肖像写真も多く手がけ、昭和58年(1983)には、光太郎を含む学者、芸術家100名ほどのポートレートをまとめた『學藝諸家』という写真集を出版しています。

昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に、濱谷による光太郎が暮らす山小屋訪問記「孤独に生きる 高村光太郎氏を岩手県太田村に訪ねて」が掲載されました。ちなみに表紙は木村伊兵衛撮影のヴァイオリニスト・諏訪根自子です。

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グラビアとして写真が8葉、長文の訪問記も、光太郎書簡や贈られた短歌などを引きつつ、興味深い内容です。写真はどれも、厳しい山居生活の側面を写し取り、すばらしいものです。上記の手の肖像は、肥後守の小刀で、鰹節を削る光太郎の手です。想像ですが、何か彫っているところを撮りたい、という濱谷のリクエストに、戦時の反省から彫刻封印の厳罰を自らに科していた光太郎が、彫刻刀で木を彫るところではなく、小刀で鰹節を削る様子を撮らせたのではないかと思います。

さて、ここに収められた写真が、平塚市美術館さんの「生誕100年記念 写真家 濱谷浩展」にも並んでいるとのこと。情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。濱谷は晩年は平塚に住んでいたとのことで、平塚市美術館さんでの開催です。


ちなみに、疎開などでやはり濱谷と縁の深い新潟・長岡市の新潟県立近代美術館さんでも、「生誕100年 写真家・濱谷浩」展を開催中です。ただ、こちらは光太郎の肖像写真が展示されているかどうか不明です。情報をお持ちの方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月17日

昭和40年(1965)の今日、詩人の高見順が歿しました。

高見は明治40年(1907)の生まれ。自分よりはるかに若い詩人たちをかわいがった光太郎に気に入られ、昭和25年(1950)に刊行された高見の詩集『樹木派』の題字を揮毫したり、最晩年の昭和30年(1955)には雑誌『文芸』のため、高見との対談「わが生涯」を行ったりしています。

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詩集『樹木派』の題字は、現在も公益財団法人高見順文学振興会さんの会報に使われているそうです。

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
あじさい寺として有名な明月院さんの近くに、「ギャラリー笛」という不思議なお店があります。カフェ兼ギャラリー、店内でコンサートも行うというところです。
 
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こちらは光太郎の縁戚(妹・静子(しず)のお孫さん)にあたる山端様のお店です。
 
「笛」という店名の通り、店内にはオカリナや各種の笛をはじめ、さまざまな民族楽器なども並んでいます。
 
こちらで現在、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示がなされています。
 
 
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お近くに光太郎と親交の深かった詩人の故・尾崎喜八氏、故・伊藤海彦氏が住まわれていて、山端家、尾崎家、伊藤家に伝わる光太郎関連のお宝が展示されています。
 
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彫刻、古写真、光太郎書簡、色紙、関連書籍などなどです。
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彫刻は尾崎喜八の結婚祝いに送られたミケランジェロ模刻の「聖母子像」(大正13年=1924頃)。原型は既に失われ、鋳造もこれ1点しか為されていない、非常に貴重なものです。
 
昨年、千葉市美術館他3館で巡回された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にもお貸しいただきましたが、その時以来、約1年ぶりに拝見しました。
 
古写真は、すでにいろいろな書籍に掲載されているものの他に、少年時代の光太郎や、戦時中の山端家の結婚式での集合写真など、当方も初めて見るものがあり、驚きました。
 
書簡も、『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方が継続中の「光太郎遺珠」未収録のものが3通もあり、早速コピーを戴いて参りました。来年4月、高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
さらに驚いたことがもう一つ。
 
昨日、当方はお伺いするとも何とも言わず、突然お邪魔したのですが、たまたま、本当に偶然にも、故・尾崎喜八氏のお嬢さん・榮子様と、故・伊藤海彦氏の奥様もいらしていて、いろいろ貴重なお話が聴けました。
 
榮子様は上記チラシの画像、一番左に写っている女の子です。その隣が光太郎、そして喜八と故・實子夫人。實子夫人は光太郎の親友・水野葉舟の娘で、光太郎が取り持つ縁で結ばれました。したがって、榮子様は水野葉舟のお孫さんにもあたられるわけです。
 
そのあたり、以下の書籍に詳述されています。amazon等で購入可能です。
 
『夏の最後の薔薇 詩人尾崎喜八の妻 實子の生涯』004
2004/2/4 有限会社レイライン刊
重本恵津子著
 
女性の年齢を話題にするのも失礼ですが、榮子様は大正14年(1925)のお生まれ。故・伊藤海彦氏、北川太一先生も同じ年のお生まれです。昨日は、駒込林町のアトリエでの光太郎智恵子に関する思い出をお話ししていただきました。アトリエの2階が智恵子の画室で、智恵子にだっこしてもらい、その窓から駒込林町の風景を見たことなどなど。
 
生前の光太郎をご存知の方は、まだまだ方々にいらっしゃいますが(それでもだいぶ少なくなりましたが)、智恵子の生前を語れる方は、当方、他に存じません。本当に貴重な体験をさせていただきました。
 
さて、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」。11月4日(火)までの会期です。月水木はお休み、さらに10月26日(日)と11月1日(土)は臨時休業だそうです。時間は10:00~16:00だそうですが、昨日、当方は16:00過ぎても居座ってしまいました(笑)。
 
その他にも、音楽関連のイベント、講座等も行われています。
 
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ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月12日005
 
昭和27年(1952)の今日、「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)制作のため、7年半ぶりに帰京しました。
 
右は上野駅での一コマ。ホームスパンの猟人服に巨大な長靴(ちなみに光太郎の足のサイズは30㌢ほどあったといわれています)。
 
戦後のまだ傷跡の残る時代でしたが、朝鮮戦争による特需景気で、東京はかなり復興が進んでいました。その東京で、この光太郎の姿は実に異様だったそうです。
 
光太郎、このあとすぐに草野心平らを引き連れて生ビールを堪能、この日は駒込林町の実家に泊まりました。
 
戦前からいたばあやさんがまだ健在で感激したり、翌朝、空襲で焼失したかつてのアトリエ跡を見に行ったりしたと、この夏亡くなった甥の規氏の回想にあります。
 
アトリエ跡を見に行った13日には、中野に今も残る水彩画家、故・中西利雄のアトリエに入り、裸婦像の制作にかかりました。

昨日は、横浜伊勢佐木町に行き、先週ご紹介した日枝神社例大祭で、光雲作の彫刻を配した神輿を観て参りました。
 
午後1時から神輿の巡行というので、それに併せて自宅を出、「ヨコハマトリエンナーレ2014」会場の横浜美術館に車を駐めました。高速を下りてすぐですし、意外といつもガラガラなので、都合がよいのです。天気もよかったので、伊勢佐木町まで歩きました。ただ、汗ばむ陽気でした。
 
イセザキモールの有隣堂さんの前に神輿があるというので、そちらへ。時計を見ると12時過ぎ。ちょうど和太鼓の演奏で盛り上がっていました。
 
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少し離れたところにめあての神輿。立派な神輿でした。
 
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てっぺんには鳳凰。側面には唐獅子のレリーフ。唐獅子は丸彫りのものも四隅に配されています。
 
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さらに唐獅子と唐獅子の間には、十二支の彫刻。非常に精緻です。
 
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ただ、よく見る光雲作品と違って、彩色が施されており、木肌の感じなどがよく判りませんでした。
 
近くにはやはり光雲作の獅子頭も。こちらは木の質感がまさに光雲彫刻です。
 
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午後1時の巡行にはまだ間があったので、近くで昼食を取り、あらためて出直しました。
 
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若衆が威勢よくかつぐのもいいのですが、こういう白装束の面々がしずしずとかついでいくのもいい感じですね。
 
ちなみに『神奈川新聞』さんの記事がこちら。 

白装束で厳かに 横浜・イセザキモールで火伏神輿行列

 災難よけで知られる神輿(みこし)が練り歩く「火(ひ)伏(ぶせ)神輿行列」が13日、横浜市中区伊勢佐木町1、2丁目で行われた。日枝神社例大祭のメーン行事の一つ。今年で10回目。
 町内の有志による担ぎ手30人が白装束に身を包み、雅楽の演奏を先導に「エイサー、エイサー」と掛け声を掛けながら厳かに1、2丁目を往復した。
 同神輿は関東大震災や戦火を免れたことから、火を逃れた霊験をたたえ火伏の神輿と呼ばれるようになったという。
 
 
ちなみに光雲が暮らした文京区千駄木にも、光雲作の子供神輿が残っているはずなのですが、詳細が不明です。情報をお持ちの方はご教示下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月14日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の診療所医師・太田公俊方で村人15,6人と酒を飲みつつ座談を行いました。
 
十和田湖畔の裸婦像制作のため上京する光太郎の送別会的に、村長・高橋雅郎の肝煎りで行われました。筆録が残っており、平成18年(2006)刊行の厚冊『光太郎遺珠』に掲載してあります。

昨日に引き続き、光太郎の父・高村光雲に関する新着情報です。

シンワアートオークション 近代美術

開催日 2014年 9月27日(土)
時間 17:00
会場 シンワアートミュージアム
下見会 シンワアートミュージアム
 2014年 9月24日(水)~9月26日(金) 10:00~18:00
 2014年 9月27日(土) 10:00~12:00 
カタログ 4,000円
出品点数 176点
落札予想価格下限合計 3億6,175万円
 
主な出品作品
高村光雲 「大黒天像」 H14.9cm 木彫 大正13年作 落札予想価格:\5,000,000.~\8,000,000
 
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東山魁夷「湖光る」/荻須高徳「Marchand de Charbon à Vanve, Paris」/ピエール=オーギュスト・ルノワール「Buste de Femme」
 
以前にも光雲作品が出たのでご紹介したシンワアートオークションさんでの、新たな入札会です。
 
 
もう1件。
2014/9/12(金)~14(日)
 
年間で最も大切な祭事であり、かつ盛大に執り行われる日枝神社の例祭のことです。
また、お三の宮秋祭りでも知られており、現在は九月中旬、敬老の日前の金土日に行われ、『神奈川の祭り五〇選』にも選ばれています。

横浜随一の大神輿による氏子内御巡行は毎年行われ、本祭り(奇数年毎)には大小40基にも及ぶ町内神輿連合渡御がイセザキ町などを練り歩き、市内屈指の規模を誇ります。
境内では神賑行事として、氏子有志による奉納演芸会や、児童園児による書画の作品展などが催され、縁日や献灯で賑わいます。
 
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横浜は南区山王町のお三の宮日枝神社さんのお祭りです。年中行事ですので、このブログでも一昨年昨年と紹介いたしました。光雲作の「火伏神輿」も出ます。13日(土)の13時から、伊勢佐木町を練り歩きます。3日の間で練り歩かないときは有隣堂さんの前に、やはり光雲作の獅子頭とともに展示されるとのことです。
 
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今年は見に行ってみようかな、と思っております。000
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月8日
 
昭和17年(1942)の今日、光太郎が背の文字を揮毫した佐藤隆房著『宮澤賢治』が冨山房から刊行されました。
 
佐藤隆房医師は、総合花巻病院を開いた宮澤賢治の主治医。その関係で、賢治を広く世に紹介した光太郎と知り合いました。昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役かってもいます。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしました。その後も足かけ8年岩手で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後も花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
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今週初めに行って参りました。 

ヨコハマトリエンナーレ2014

展覧会タイトル 「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」
期 日 : 2014.8.1[金]-11.3[月・祝] 開場日数:89日間
会 場 : 横浜美術館新港ピア(新港ふ頭展示施設)
時 間 : 10:00-18:00 ※入場は閉場の30分前まで
料 金 : 一般・高校生500円、中学生300円、小学生以下無料。
休 日 : 月曜、火曜

主催
 横浜市 (公財)横浜市芸術文化振興財団  NHK 朝日新聞社 横浜トリエンナーレ組織委員会
支援
 文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業) 文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業)
 特別協力独立行政法人国際交流基金
後援
 外務省、神奈川県、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)、スペイン大使館、
 駐日韓国大使館韓国文化院、中華人民共和国駐日本国大使館、Goethe-Institut Tokyo、
 東京ドイツ文化センター、ベルギー王国大使館
認定 公益社団法人企業メセナ協議会
 

 
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横浜市で、3年に1度開かれる、基本、現代アートの展覧会です。今年の開場は、みなとみらい地区の横浜美術館と、埠頭展示施設の新港ピアです。

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基本、現代アートですのでこういう感じです。
 
メイン開場二つのうち、横浜美術館の一角に、「大谷芳久コレクション」という展示がなされています。
 
以下、公式サイトから。
 
現代美術画廊「かんらん舎」のオーナー・大谷芳久が、1995年にドイツで見たジョージ・グロスの個展を機に、太平洋戦争期の日本の芸術家の表現活動を調べるべく収集した書籍コレクションの一部を展示。戦中に出版された詩文の多くは戦争や軍への讃歌であり、ベストセラーとなったが、戦後はその多くが消えることとなった。
 
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光太郎の詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)を含む、戦時下の文芸書、17点が展示されています。
 
『大いなる日に』『記録』以外は以下の通り。
 
三好達治 『捷報いたる』(同17年=1942) 『寒析』(同18年=1943)
草野心平 『大白道』 (同19年=1944)
伊東静雄  『春のいそぎ』(同18年=1943)
北原白秋  『大東亜戦争小国民詩集』(同18年=1943)
佐藤春夫 『東天紅』(同13年=1938) 『日本頌歌』(同17年=1942)  『大東亜戦争』(同18年=1943)
野口米次郎  『伝統について』(同18年=1943) 『宣戦布告』(同18年=1943)
中勘助  『詩集百城を落す』(同14年=1939)
西条八十 『銃後』(同18年=1943)
日本文学報国会編 『辻詩集』(同18年=1943) 『辻小説集』(同)
大政翼賛会文化部編 『軍神につづけ』(同18年=1943)
 
最後の『軍神につづけ』は、多数の詩人によるアンソロジーで、光太郎の詩「みなもとに帰るもの」も載っています。

さらに、光太郎とも交流のあった画家・松本竣介が、疎開先の妻と四歳の息子にあてた、終戦前後の書簡三通も展示されています。
 
で、この展示がいったい何を目指しているのか、ということになりますと、トリエンナーレ全体のタイトル、「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」につながるわけです。
 
以下、やはり公式サイトから。
 
ヨコハマトリエンナーレ2014がめざすのは
芸術的冒険の可能性を信じるすべての人々
そして、大胆な世界認識を持ちたいと望む
 すべての人々と共に
「芸術」という名の舟に乗り込み
「忘却」という名の大海へと
冒険の旅に出ることである

「華氏451の芸術」というタイトルは、言うまでもなく、レイ・ブラッドベリ作のSF小説『華氏451度』に由来している。いわゆる焚書がテーマの小説で、本を読むことも持つことも禁じられた近未来社会が舞台となっている。
1953年作とは思えないくらい、現代社会を予見していて見事だが、それ以上に興味深いのは、これが「忘却」の重みについてあらためて考えさせられる小説だという点である。
 物語の後半、「本になる人々」の集団というものが登場する。一人ひとりが一冊ずつ本を選び、それをまるごと記憶しようとする。つまり焚書へのレジスタンス(抵抗)として、本という物質を記憶という非物質に置き換え、本の精神のみを隠し持とうと試みる。
 「本になる人々」は本を禁止する社会からの亡命者達であり、また上述のように本を非物質な記憶に置き換えようとしているため、その存在と行為の両側面において、現実社会の表舞台には決して現れることのない、不在の人々となる(=生きている痕跡をこの世から消滅させた「忘却の人々」たらざるをえなくなる)。ところがこの「忘却の人々」にこそ、膨大な本の記憶がたまり込んでいるというのが、ブラッドベリの小説がもたらす、「忘却」に関する重い教訓なのである。

「忘却」とは、記憶されざる記憶がたまりこんだ、ブラックホールとしての記憶のことである。
 
ここに展示された書籍は、それぞれの作家の「汚点」「黒歴史」ともいえるものです。光太郎自身も戦後になってこれらの戦争協力の作品を「変な方角の詩」と言っています。作家によっては、戦後に刊行された全集には収録せず、無かったことにしてしまっている場合もあります。
 
いわば、戦後の「焚書」によって忘れ去られつつあるものです。
 
しかし、その「忘却」には危険が伴います。光太郎のしたような真摯な反省までも忘却の彼方へ押しやられると、「歴史は繰り返す」に成りかねません。
 
これはそういう点への警鐘の意味での展示です。キャプションにも、その辺りがよく表現されていました。書籍のキャプションには「美しい言葉の羅列がもつ魔力」、松本の書簡には「無差別に人を殺傷する近代戦争の無慈悲さへの衝撃」「息子が生きる未来を案じる」などなど(うろおぼえですが)。
 
現実に、ことさらに光太郎の戦時の作品を賛美し、戦前戦時を髣髴とさせるおぞましいヘイトスピーチ的な言説がまかり通っています。そういう幼稚なネトウヨは、この展示を見て、「素晴らしい! これぞ大和魂だ!」とかいうトンチンカンな感想を持つのかも知れませんね(笑)。
 
今年の連翹忌のご案内に載せさせていただいた、北川太一先生のご挨拶の中の「歴史がもういちど反転しそうな今こそ、その命の軌跡をかえりみ、繰り返し語り合い、語りつぐひと時を、思いを同じくするみなさんと一緒に過ごしたいと存じます。」という一節が、ほんとうに心に染みる今日この頃です。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月30日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村の青年が蓄音機とレコードを持ってきてくれました。
 
当日の日記の一節です。
 
夜になつてから佐藤弘さん、大三さんが蓄音機の箱とレコードとを持参。五六枚きかしてくれる。バツハのコンチエルトあり。すばらしさに魂を奪はれる思す。
 
当方、今日は四ツ谷の紀尾井ホールにて、The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜を聞いて参ります。「すばらしさに魂を奪はれる思」をしたいものです。

昨日、横浜に行って参りました。
 
午前中、港の見える丘公園にある神奈川近代文学館で調べ物をし、午後はそこからほど近い南区の増徳院というお寺に行きました。元々は元町にあったお寺で、有名な外国人墓地はこのお寺の敷地だったそうですが、関東大震災の関係で、数㌔離れた現在地に移転したとのことでした。
 
こちらの境内に光雲作という聖観音菩薩像が鎮座ましましているというので、観に行った次第です。
 
港の見える丘公園から、外個人墓地やフェリス女学院などのある山手地区の高台の道を、カーナビに導かれて走ること数分、着きました。門前に駐車スペースが見あたらなく、「困ったな」と思ったところ、山門をくぐった境内が非常に広く、そちらに駐められました。
 
目指す観音像は、本堂の手前に独立した観音堂という堂宇があり、そちらにいらっしゃいました。
 
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像高約七尺。かたわらに立つ案内板に依れば、奈良薬師寺の聖観音像を模刻したものだそうです。非常に優美なお姿の鋳造仏です。
 
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大正12年(1923)10月の作とあり、まさに関東大震災の直後です。説明板には震災の文字はありませんが、このお寺の縁起にも震災が関わっており、無関係とは思えません。ただし、この地にこの像が建てられたのは昭和42年(1967)だそうです。しかし、この案内板を読んでも今ひとつなぜここにこれが、というのがよく判りませんでした。
 
失礼して像の裏手に回ってみると、台座にいろいろと銘が入っていました。
 
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「大正十三年四月」の文字。鋳造の成った年月でしょう。
 
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「顧問 高村光雲」。「顧問」という語から、工房作といったニュアンスが感じられます。
 
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さらに「池田鋳造所」の文字。
 
ただ、案内板を読んでも詳しいことが判りません。
 
光雲の仏像はあちこちで見られます。同じ神奈川の鎌倉は材木座の長勝寺さんの日蓮像、東京浅草観音の沙竭羅龍王像信濃善光寺の仁王門などなど。
 
ただし、なぜそこにこれが、という由来が今ひとつはっきりしないものが多く、そのあたりの調査も今後の課題の一つかな、と思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月26日

昭和16年(1941)の今日、『都新聞』に散文「神経の浪費 中央協力会議の印象(上)」が掲載されました。
 
「中央協力会議」は大政翼賛会の肝煎りで始まったもので、各地方代表、各界代表の代議員が参加、挙国一致体制の確立に向け、さまざまな提案、議論がなされました。
 
前年12月に臨時会議が開催され、さらにこの年6月16日~20日の日程で第1回会議が開催されました。光太郎はこの第1回会議で「芸術による国威宣揚」について提案しています。さらに第2回会議はちょうど太平洋戦争開戦の日に重なり、途中で切り上げられました。この後も何度か開催されましたが、光太郎は第2回限りで委員を辞しています。
 
こういう会議の印象記であるにもかかわらず、光太郎の論調は否定的ですし、サブタイトルが「神経の浪費」、さらに翌日掲載の(下)に至っては「無駄な時間」というサブタイトルです。このサブタイトルは『都新聞』がつけたものかもしれませんが、大政翼賛会にケンカを売っているようにしか見えません。太平洋戦争開戦前には、まだこんなことが許されていたのですね。ちなみに『都新聞』は現在の『東京新聞』です。
 
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この文章、永らく初出掲載誌が不明で、『高村光太郎全集』には随筆集『某月某日』からの採録でしたが、数年前に『都新聞』に掲載を確認しました。

鎌倉から映画の上映情報です。

「智恵子抄」を上映

  映画「智恵子抄」(中村登監督・1967年)の上映会が6月20日(金)、鎌倉生涯学習センターホールで行われる。「鎌倉で映画と共に歩む会」が主催。午前9時15分開場、9時30分開映。入場料は前売900円、当日1千円。
 同作品は松竹大船撮影所でメガホンをとっていた中村監督の手によるもの。詩人で彫刻家の高村光太郎が妻・智恵子との30年に及ぶ愛を綴った詩集「智恵子抄」と佐藤春夫の「小説 智恵子抄」が原作となっている。第40回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。チケットは たらば書房などで販売中。予約や問合わせは【電話】0467・23・3237同会・木口さんへ。
(『タウンニュース』)
 
昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」です。主演は岩下志麻さん、故・丹波哲郎さん。
 
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以下、昭和63年(1988)刊行の雑誌『彷書月刊』第4巻第10号「特集 高村智恵子」に載った岩下さんの回想です。
 
 私が、高村光太郎さんの『智恵子抄』の智恵子を演じさせて戴いたのは昭和四二年ですから、もう随分昔になります。
 中村登監督のもとで、光太郎役は丹波哲郎さんでした。
 その時、はじめて智恵子の切り絵を見せて戴きましたが、優れた色彩感覚、繊細で巧妙な技術、その切り絵から智恵子の純粋な魂の叫びが聞こえてくるような感動で、長い間見とれていたのを今も鮮明に覚えています。又、精神に異常をきたしてしまった智恵子をうたった光太郎の詩の何篇かに心から涙しました。
 『智恵子抄』は、夫婦の愛のあり方、愛についてを改めて考えさせられた作品でもあります。今も、私は“智恵子”と聞くと、病弱で非社交的でやさしいが勝ち気で、単純で真摯で、愛と信頼に全身を投げだしているような智恵子が目の前にいる様で、なつかしさでいっぱいになります。
 それ程、『智恵子抄』は、私にとって心に残っている映画の一つです。
 
販売用のDVD等になっていない作品ですが、このようにポツリポツリとではありますが、上映され続け、ありがたいかぎりです。販売用DVDにしていただけるとありがたいのですが、かえってそうなっていないからこうして上映され続けているのかもしれません。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月11日
 
昭和16年(1941)の今日、詩「荒涼たる帰宅」を書きました。
 

  荒涼たる帰宅
 006
あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
 
この年8月に刊行された龍星閣版オリジナル『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されています。
 
右上はありし日の智恵子と光太郎。昭和3年(1928)、箱根での一コマです。

昨日は二十四節季の一つ、「小寒」でした。冬の寒さが一番厳しい時期となる節目ですが、生涯、冬を愛した光太郎にとっては、本領発揮の時候です。
 
さて、その小寒の日の『神奈川新聞』さんのコラムです。朝日新聞における「天声人語」のような位置づけでしょうか。

照明灯 

 冬型の気圧配置が平年よりも強まり、気象庁の予想では1月から3月は東日本の気温は平年より低くなるそうだ。太平洋側ではからりと晴れの日が多くなる見込みだという
 
 ▼「秩父、箱根、それよりもでかい富士の山を張り飛ばして来た冬/そして、関八州の野や山にひゆうひゆうと笛をならして騒ぎ廻る冬」。高村光太郎の詩の一節。冷厳なこの季節を愛した高村は冬の詩人とも呼ばれる。力強く人を鼓舞する詩句が好きで、青春時代、よく親しんだ
 
 ▼冬の詩人が「ひとちぢみにちぢみあがらして」と難じる中年者となった今だが、澄んだ外気に身をさらせば、正月の酒席でほてった酔顔もいやおうなく寒風にはたかれ、がつんといさめられたような気分となる。何やら凜(りん)として、心地がいい
 
 ▼昨年、世界の平均気温は平年を0・2度上回り1891年の統計開始以来2番目の高温。史上最高だった1998年はエルニーニョ現象の影響が顕著だったが昨年は特殊事情がなく、「地球温暖化の傾向が明瞭に示された」と専門家は言う
 
 ▼「サッちゃん」の作詞で知られる阪田寛夫の詩。「こんなに さむい/おてんき つくって/かみさまって/やなひとね」。こわばる頬も緩む。温暖化の今、冬らしい冬がいい。小寒。寒の入りだ。

 
引用されている光太郎の詩は、大正2年(1913)に書かれた「冬の詩」。「冬だ、冬だ、何処もかも冬だ」で始まり、150行を超える長大な作品です。数年前に黒木メイサさん、松田龍平さんがご出演されたユニクロさんのCMで使われていたので、耳に残っている方も多いのではないでしょうか。


 
からっ風にさらされる関東平野の冬もきついのですが、北国はもっとすごいことになっているでしょう。皆様、どうぞご自愛のほどお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月6日
昭和2年(1927)の今日、詩集『智恵子抄』に収録された「あなたはだんだんきれいになる」を執筆しました。
 
  あなたはだんだんきれいになる005
 
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。  
 
智恵子歿後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた散文「智恵子の半生」で、この詩について次のように語られています。
 
私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、
 
 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属
 
と私が書いたのも其の頃である。
 
木々は葉を落とし、澄み切った空気に包まれる「冬」。木々と同じように、余計な装飾を落とし、凛とした雰囲気を身にまとう智恵子に、「冬」のイメージを重ねていたのかもしれません。

昨日に続き鎌倉ネタです。
 
鎌倉は鶴岡八幡宮にほど近いところに川喜多映画記念館さんがあります。こちらで現在、「~永遠の伝説~ 映画女優 原節子」という企画展示および映画上映を行っています。
 
同館サイトから。
 
『ためらふ勿れ若人よ』でデビューとなった15歳の新人女優は、役名の一部から「原節子」と名付けられました。類まれなる美貌でたちまち注目を浴び、16歳で日独合作映画『新しき土』のヒロインを演じ、映画は大ヒットを記録します。戦後は『わが青春に悔なし』、『東京物語』などに出演、日本映画界を代表するスター女優として、多くの名作を残します。しかし、昭和37年『忠臣蔵』への出演を最後に、表舞台には一切出ることなく、その存在は永遠の伝説として人々の心に深く刻み込まれました。
 本企画展は、写真家・秋山庄太郎、早田雄二によるポートレートや映画資料などの展示、出演作品や『新しき土』関連映像の上映を中心に、鎌倉にゆかりの深い大女優・原節子の軌跡を辿ります。今も多くの人々を魅了し続けるその美しさを、名作の数々とともにぜひご覧ください。
 
原節子さんといえば、伝説の映画女優ですね。同じく伝説的な映画監督・小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男らの作品に出演しています。引退後は一切メディアに出ず、鎌倉で暮らされているそうです。
 
その原節子さんが智恵子役、光太郎役に山村聰さんを配した熊谷久虎監督作品「智恵子抄」が、光太郎の歿した翌年の昭和32年(1957)に封切られました。
 
川喜多映画記念館での「~永遠の伝説~ 映画女優 原節子」の一環として、「智恵子抄」も上映されます。
 
期間は来年1月7日(火)~9日(木)。7日は午前10:30からと、午後2時からの2回、8日と9日は午後2時からの1回のみの上映です。
 
昨日ご紹介した神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」と併せて是非ご覧下さい。
 
ちなみに原節子さんの映画「智恵子抄」、20年ほど前にVHSテープで市販されました。現在は版を絶っており、時折中古市場でかなりプレミアの付いた価格で売りに出ています。
 
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その他、当方、こつこつと集めたポスター、パンフレット、チラシ、シナリオ、スチール写真、記事の載った当時の雑誌などを持っています。その一部を、一昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」の際にお貸しし、展示されました。年配のお客様には「あらー、原節子よー」ということで、好評だったそうです。
 
こうしたものに限らず、当方手持ちのものは、各種企画展、イベントなどにお貸しすることは可能ですので、必要とあらばお声がけ下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月24日

昭和16年(1941)の今日、大政翼賛会会議室で催された文学者愛国大会に出席、日本文学者会設立委員に任じられました。
 
翌年設立された日本文学報国会につながって行く流れです。 

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
第一の目的は、神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催中の「ロダンからはじまる 彫刻の近代」を観るためでした。
 
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こじんまりとした企画展示でしたが、内容は濃いものでした。
 
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まず会場にはいるとロダン作「花子のマスク」。明治41年(1908)の作です。ただし、「鋳造1974年」と特記してありました。
 
以前にも書きましたが、花子はロダンのモデルを務めた日本人女優で、光太郎は昭和2年(1927)に岐阜まで会いに行っています。
 
それからロダンの素描が1点、展示されていました。
 
他はロダンに影響を受けた後進の彫刻家達の作品。海外ではブールデル、ジャコメッティなど、日本では中原悌二郎、戸張孤雁、保田龍門など。
 
そして光太郎。大正6年(1917)の「裸婦坐像」と、同15年(1926)の「大倉喜八郎の首」が並んでいました。
 
それから特集展示ということで、チェコの彫刻家ズビネック・セカールの作品が約20点。庭にも本郷新や柳原義達など、やはりロダンや光太郎の影響を受けた彫刻科の作品がありました。
 
正直、荻原守衛や舟越保武、佐藤忠良なども並んでいるともっとよかったかな、と思いましたが、ぶらっと立ち寄るにはちょうどいい規模かもしれません。
 
会期は来年3月23日までです。
 
こちらがあまり時間がかからなかったので、古都・鎌倉を歩きました。以前から行ってみたいと思いつつ、未踏の場所があったからです。
 
材木座にある長勝寺さん。日蓮宗の古刹で、元々日蓮が草庵を結んだ地だそうです。
 
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こちらの境内に立つ日蓮上人の銅像が、光雲の作です。
 
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上の画像、対象物がなくて大きさがわかりにくいと思いますが、高さ約8メートルだそうで、巨大な像です。日蓮と言えば辻説法。その姿をとらえています。
 
この像、もともとここに建てられたものではなく、東京の洗足池畔にあったものを移したとのことですが、詳しい経緯などは書かれていませんでした。
 
日蓮といえば、光太郎も東京美術学校の卒業制作(明治00635年=1902)で日蓮を作っています。題して「獅子吼」。こちらは経巻を投げ捨て、憤然として立つ姿、とのことですが、腕まくりをして、今にも殴りかかってきそうなポーズです。腕を組んでいる、と勘違いしている方が多いのですが、右腕は垂らしています。
 
やはり光太郎の日蓮の方が、近代的ですね。おそらく光雲の日蓮は上野の西郷隆盛像や皇居前広場の楠木正成像同様、原型は木型でしょう。衣の波打ち方など、様式にはまっていて、リアルさには欠けています。迫力はあるのですが……。
 
さて、今日は自家用車でなく、公共交通機関で行きました。鎌倉駅に行くのも一つの目的でしたので。
 
今年6月に、横浜で、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」というコンサートをされたフルート奏者の吉川久子さん。

今年7月から、JR鎌倉駅の発車メロディーとして、吉川さんの演奏による「鎌倉」(♪しーちりがーはーまーのー、いーそづーたーいー)が流れているとのことで、聴いてみたかったのです。いい感じでした。通常の発車メロディーは電子音によるもので、やはり機械的な感じが否めませんが、JR鎌倉駅のものは吉川さんのフルート演奏を録音して使っているため、温かみがあります。古都の雰囲気にぴったりですね。
 
鎌倉駅をご利用の際には、ぜひ耳をお傾け下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月23日

昭和63年(1988)の今日、東京地方裁判所民事法廷において、長く争われていた『智恵子抄』著作権に関する裁判の判決が言い渡され、著者側の勝利となりました。
 
その後の控訴審も同様の判決が出、著作権に関する代表的な判例ということで、法曹界では有名な事象です。

展覧会情報です。  

ロダンからはじまる 彫刻の近代

2013年12月14日~2014年3月23日
神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 鎌倉市雪ノ下2-8-1
近代彫刻の父と呼ばれるフランスの彫刻家ロダンとその弟子ブールデル、彼らの影響を受けた高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎らのほか、海外の20世紀彫刻からはアルプやジャコメッティなど、当館の所蔵作品から選りすぐりの彫刻作品と彫刻家による素描や版画、約30点を紹介します。併せて、チェコスロバキア出身の彫刻家ズビネック・セカール(1923-1998)の作品約20点による特集展示を行います。
 
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先日、同館館長の水沢勉氏にお聞きしたのですが、光太郎作品は、同館で所蔵している「裸婦坐像」が展示されるとのことです。
 
12/22追記「大倉喜八郎の首」も展示されていました。
 
チラシ右上の画像はロダンの「花子の首」ですね。光太郎はロダンの評伝執筆(昭和2年=1927)に際し、モデルになった日本人女優・花子こと太田ひさに会いに岐阜まで行っています。

他にも光太郎と交流のあった彫刻家の作品が並び、彫刻史の中で光太郎を捉えるには恰好の機会でしょう。冬の鎌倉も乙なものと思います。ぜひ足をお運び下さい。
 
展覧会がらみでもう一件。現在、愛知碧南の藤井達吉現代美術館で開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」についての報道がありました。 

高村光太郎展、入場1万人に 愛知・碧南、15日まで

2013年12月5日03時00分 朝日新聞
 碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「彫刻家 高村光太郎展」(同美術館主催、朝日新聞社など共催)が4日、入場者1万人を達成した。
 1万人目は、初めて同館を訪れた半田市上池町の主婦広瀬和子さん(66)。彫刻家としての光太郎に興味があり、友人と一緒に訪れたという。
 広瀬さんは「力強いブロンズの『手』や、可愛らしい『蝉(せみ)』『柘榴(ざくろ)』などの木彫に感動しました。彫刻家としての才能も感じた」と話し、木本文平館長から認定書や同展の図録、藤井達吉の陶板などが贈られた。
 同展は、光太郎の生誕130年を記念して開催。妻智恵子の切り紙絵なども展示されている。
 15日まで。一般700円、高大生500円、小中学生300円。問い合わせは同美術館(0566・48・6602)へ。
 
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先日も書きましたが、3館巡回のうち、既に終了している千葉市美術館ではのべ2万人近く、岡山井原の田中美術館でも同じく1万人以上の方がご来場下さったそうです。ありがたいことです。
 
こちらは来週末までとなっています。あと10日ほどでどれだけ入場者数が伸びるでしょうか。本当に一人でも多くの方にご覧いただきたいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月6日

昭和30年(1955)の今日、『国立博物館ニュース』掲載のため、美術史家の奥平英雄と対談を行いました。
 
原題は「高村光太郎氏にきく/芸術について私はこう思う/自然に残る伝統芸術/詩精神と彫刻の問題など」。「芸術について」の題で『高村光太郎全集』第11巻に収録されています。

昨日は横浜みなとみらいホールにて、フルート奏者・吉川久子さんのコンサート、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」を聴いて参りました。
 
とてもいい演奏会でした。
 
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もちろん吉川さんの演奏がメインで、曲間に吉川さんご自身が『智恵子抄』収録詩の朗読をなさったり、光太郎智恵子についての解説をなさったりという構成でした。
 
曲目は以下の通り。
 
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直接、智恵子に関わる曲はありませんでしたが、既存の曲の組み合わせでもたしかに『智恵子抄』の世界がうまく表現されていたように感じました。
 
吉川さんのフルートはもちろんすばらしく、伴奏のお二人(キーボード・海老原真二さん、パーカッション・三浦肇さん)の演奏も非常に工夫されていました。特にパーカッションは、いろいろな楽器……というより道具? を使って、効果音のような音を奏でていたのが面白く感じました。時に鳥のさえずり、時に虫の声、そうかと思えば川のせせらぎ、九十九里の波の音、などなど。
 
さらに曲間の吉川さんのMC。通り一遍の解説でなく、よく調べているな、と感心いたしました。数年前に発見された光太郎の短歌「北国の/女人はまれに/うつくしき/うたをきかせぬ/ものの蔭より」を引用されて、智恵子が時折、造り酒屋だった実家の杜氏たちが歌っていた酒造りの歌などを口ずさんでいたことに結びつけるなど。この短歌、一般にはほとんど知られていないはずですので。また、太陽が赤いという固定観念に異を唱える光太郎の評論「緑色の太陽」の話、智恵子の恩師・服部マスの話など、ずいぶんお調べになったのがわかりました。実際、二本松にも行かれたというお話でした。
 
それにしても、平日の昼間にもかかわらず、440席ほぼ満員でした。吉川さん、「こころに残る美しい日本のうた」と冠したコンサートはこれまでも定期的に続けてこられたようで、コアなファンがいらっしゃるようでした。「智恵子抄」だから、というお客さんがどの程度だったのか、興味のあるところですが。
 
いつも同じことを書いていますが、こういう形でも光太郎・智恵子の世界を広めていただけるのは、本当にありがたいことです。
 
当方も明日は二本松に参り、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座’13」にてしゃべって参ります。このところ、月に1~2件、この手の仕事が入っています(もっと増えるといいのですが……)。与えられた場で光太郎・智恵子の世界を無題1広めて行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月15日

昭和27年(1952)の今日、裸婦像制作のための現地視察で、十和田湖に向けて花巻郊外太田村の山小屋を出発しました。
 
画像は一昔前のテレホンカードです。
 
裸婦像に関しては、また折を見て詳述します。
 

横浜でのコンサート情報です。以下、『産経新聞』さんのサイトから。 

フルート奏者の吉川さん「智恵子抄」の世界に挑戦 福島に思いはせ14日に横浜でコンサート

 日本の美しい旋律を演奏し続ける横浜市在住のフルート奏者、吉川久子さんが14日、詩人・高村光太郎が妻、智恵子との愛をつづった詩集「智恵子抄」をテーマにしたコンサートを開く。智恵子は光太郎と暮らした東京から故郷・福島を思い続けた。吉川さんは演奏を通じて、東日本大震災に伴う福島第1原発事故から2年以上が過ぎても避難生活を続ける被災者へ思いをはせたいと意気込む。(渡辺浩生)
 
 吉川さんは7年前からコンサート「こころに残る美しい日本のうた」を毎年開催。東日本大震災直後の一昨年4月には、岩手県出身の宮沢賢治を題材にチャリティー演奏会を実施し、被災者の心の支えとして当時注目された代表作「雨ニモマケズ」も朗読した。
 今年、「智恵子抄」に着目したのも、故郷に戻れぬ福島県の被災者を「忘れてはならない」という思いがあるからだ。
 「智恵子は東京に空が無いといふ」(あどけない話=智恵子抄に収録)。智恵子は東京になじめず、福島県中部の名山、安達太良山(あだたらやま)の上の「ほんとの空が見たい」と言い続けた。 智恵子の心は時代を超えて被災者とも通じている-。5月、智恵子の故郷、同県二本松市を訪ねた吉川さんは、「同じ青空を見上げて」そう感じた。
 コンサートでは、智恵子や福島にちなんだ唱歌・童謡の演奏や詩の朗読を通じて光太郎と智恵子の愛の世界、智恵子の望郷の念を表現する。キーボードは海老原真二氏、パーカッションは三浦肇氏が担当。
 14日午後1時開場、1時半開演。横浜みなとみらいホール小ホール。申し込み・問い合わせは「心に残る美しい日本の曲を残す会事務局」((電)03・5540・8675)まで。
 

このコンサートについて検索してみたところ、いろいろとヒットしました。イベント情報的なサイトから。 

吉川久子フルートコンサート『こころに残る美しい日本のうた』 智恵子抄の世界に遊ぶ

期 日 : 2013年 6月14日(金)
会 場 : 横浜みなとみらいホール小ホール
時 間 : 1時開場  1時半開演
料 金 : 全席自由 2,500円

「東京に空がない」という詩の一節で知られる『智恵子抄』は、詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子との愛を綴った詩集。 
 
大正三年に結婚した二人でしたが、洋画家だった智恵子は東京に馴染めず、油絵もなかなか評価されず悩んでいました。そんなおり、実家の破産も重なり、昭和六年頃から精神を病みはじめ、昭和十六年に七年にわたる闘病生活のすえ五十二歳で旅立ちます。 
『智恵子抄』には、二人が共有した時代の愛と喜び、生活の変転、人の世の悲しみが詠われています。

第八回を数える今回の「こころに残る美しい日本のうた」は、フルート奏者の吉川久子が、かつて映画や舞台にもなり、多くの人々に感動をあたえた『智恵子抄』に挑戦し、現代にも通じる光太郎と智恵子の愛の強さ、愛の深さを音の世界で表現します。 

[出演]
吉川 久子/フルート
東京生まれ、鎌倉育ち。横浜在住。ソリストとしてクラシックは勿論、幅広い楽曲を優雅に親しみやすく奏でるフルート奏者。リラックスタイムを演出するコンサートは大好評で、「マタニティーコンサート」の草分け的存在。1993年、秋篠宮紀子妃殿下のご臨席を仰ぎ、フルートの音を披露。コロンビア ミュージックエンターテインメント、エム・アイ・シー、キングレコードから多数のCDアルバムも発売されている。チェコフィルハーモニー六重奏団等、海外アーティストとの共演も多く、高い評価を獲得している。
 
海老沢 真二/キーボード
関西にて、フォークヂュオ「紙ふうせん」のサポートキーボーディストとしてプロ活動を開始。上京後、岡村孝子、あみん、森口博子、森公美子、喜多郎、TOSHI(XJpan)等々、様々なアーティストのコンサートツアーサポート、レコーディングセッションに参加。喜多郎ワールドツアーにも数年にわたり参加する。その他、中国人アーティストとのコラボレーション等様々なジャンルで活動。吉川久子の新譜「アニマ」にもアレンジャー、プレーヤーとして参加している。
 
三浦  肇/パーカッション
打楽器奏者として数々のオーケストラに参加。スタジオワークからライブ演奏まで、幅広いフィールドで活躍を続ける一方、ドラム教室を開催。後進の指導を通じ、打楽器の魅力を広く伝えている。吉川久子の新譜「アニマ」にも参加している。 

後援:横浜市文化観光局・神奈川新聞社・TVK(テレビ神奈川) 

チケット取扱:みなとみらいホールチケットセンターにて発売
チケット予約:ビー・ビー・ビー株式会社内「心に残る美しい日本の曲を残す会」
事務局 担当:榎本 ☎03-5540-8675 FAX.03-5540-8501
 
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何とか都合をつけて聴きに行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、最晩年を過ごした中野のアトリエで、十和田湖畔の裸婦像原型からの石膏取りが始まりました。

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昨日に引き続き、あちこちの美術館、文学館等での企画展で光太郎作品が展示されているものをご紹介します。   

期 日 : 平成25年1月26日(土)~3月24日(日)
会 場 : 神奈川県立近代美術館葉山館 神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
時 間 : 午前9時30分から午後5時
休 館 : 月曜日(ただし祝日および振替休日の場合は開館)
料 金 : 一般 900円(団体800円)20歳未満・学生 750円(団体650円)65歳以上 450円
      高校生 100円


「保存、修復という作品の知られざる部分に光をあてることによって、近代日本美術の問題点を探り、新たなる発見を浮かび上がらせようとする展覧会」だそうで、岸田劉生、藤田嗣治、松本竣介などを中心に明治期から昭和前期までの約60名による油彩画、水彩画、約170点が並んでいるそうです。
 
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光太郎の作品は大正2年の油絵「上高地風景」1点。また、約60名ということで、光太郎と交流のあった画家の作品も数多く展示されています。黒田清輝、岸田劉生、藤田嗣治ら有名どころもいれば、あまり観る機会の多くない村山槐多、柳敬助、南薫造らの作品も並んでいるそうです。
 
別件ですが「上高地」ということで、先月のブログで御紹介したBSフジのテレビ番組「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」、再放送があります。2013/03/01(金)22:00~22:55 です。見逃した方はぜひご覧下さい。光太郎・智恵子のエピソードが約3分間あります。
 
【今日は何の日・光太郎】2月22日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村人の好意で初めて電灯がともりました。
 
光太郎がこの小屋に入ったのが昭和20年(1945)の秋ですから、約3年半、電気のない生活を送っていたのです。

11/24(土)に行われました第57回高村光太郎研究会にて、当方が発表を行いました。題は「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。その内容について何回かに分けてレポートいたします。
 
今年に入り、光太郎が書いた「海の思出」という随筆を新たに発見しました。そこには今まで知られていた光太郎作品や、『高村光太郎全集』所収の年譜に記述がない事実(と思われること)がいろいろと書かれており、広く知ってもらおうと思った次第です。ちなみに先月当方が発行した冊子『光太郎資料』38には既に掲載しましたし、来年4月に刊行予定の『高村光太郎研究』34中の「光太郎遺珠⑧」にも掲載予定です。
 
「海の思出」、掲載誌は昭和17年(1942)10月15日発行『海運報国』第二巻第十号です。この雑誌は日本海運報国団という団体の発行で、翌昭和18年(1943)と、さらに同19年(1944)にも光太郎の文章が掲載されています(それらは『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に所収済み)。日本海運報国団は、その規約によれば「本団は国体の本義にのっとり海運産業の国家的使命を体し全海運産業人和衷協同よくその本分をつくしもって海運報国の実をあげ国防国家体制の確立をはかるを目的とす」というわけで、大政翼賛会の指導の下に作られた海運業者の統制団体です。
 
そういうわけで、昭和18年、同19年に掲載された光太郎作品はかなり戦時色の強いものでしたが、なぜか今回の「海の思出」は、それほど戦時に関わる記述がありません。まだ敗色濃厚という段階ではなかったためかもしれません。
 
では、どのような内容かというと、光太郎の幼少年期から明治末の海外留学時の海や船に関する思い出が記されています。
 
まず幼少年期。
 
 東京に生まれて東京に育つた私は小さい頃大きな海といふものを見なかつた。小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた時、品川の海を眺めたのが海を見た最初だつた。その時どう感じたかを今おぼえてゐないが、遠くに房州の山が青く見えたのだけは記憶してゐる。その後十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた事がある。この時は砂浜づたひに由比ヶ浜から七里ヶ浜を歩いて江の島に渡つたが押し寄せる波の烈しさにひどく驚いた。波打際にゐると海の廣さよりも波の高さの方に多く気を取られる。不思議にその時江の島の讃岐屋といふ宿屋に泊つて鬼がら焼を食べた事を今でもあざやかにおぼえてゐる。よほど珍しかつたものと見える。十六歳の八月一日富士山に登つたが、頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。
 
 この中で、「小学生の頃蒲田の梅園へ遠足に行つた」「十四歳頃に一人で鎌倉江の島へ行つた」というのは既知の光太郎作品や年譜に記述がありません。はっきり明治何年何月とはわかりませんが、記録にとどめて置いてよいと思われます。江ノ島に関しては「十四歳頃」と書かれていても、単純に数え14歳の明治29年(1896)とは断定できません。意外と光太郎の書いたものには時期に関する記憶違いが目立ちますので。ただ、場所まで記憶違いということはまずありえないでしょう。実際、明治三十年五月刊行の観光案内『鎌倉と江之島手引草』の江ノ島の項には「金亀山と号し役の小角の開闢する所にして全島周囲三十余町 人戸二百土地高潔にして四時の眺望に富み真夏の頃も蚊虻の憂いなく実に仙境に遊ぶ思いあらしむ 今全島の名勝を案内せん(略)旅館は恵比寿屋、岩本楼、金亀楼、讃岐屋を最上とす 江戸屋、堺屋、北村屋之に次ぐ」という記述があり、光太郎が泊まったという讃岐屋という旅館が実在したことがわかります。ちなみに「鬼がら焼」は今も江ノ島名物で、伊勢エビを殻のまま背開きにし、焼いたものです。なぜか14歳くらいの少年が一人旅をし、豪華な料理に舌鼓を打っています。

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つづく「十六歳の八月一日富士山に登つた」は、昭和29年(1954)に書かれた「わたしの青銅時代」(『全集』第10巻)にも「わたしは、十六のとき祖父につれられて富士山に登つた」とあるので、数え16歳の明治31年(1898)で確定かな、と思うとそうではなく、どうやら記憶違いのようです。祖父・兼松の日記(『光太郎資料』18)によれば、富士登山は翌32年(1899)です。こちらの方がリアルタイムの記録なので優先されます。こういうところが年譜研究の怖ろしいところですね。
 
いずれにしても既に東京美術学校に入学してからで、彫刻科の卵だった時期です。「頂上から眺めると、世界が盃のやうに見え、自分の居る処が却て一番低いやうな錯覚を起し、東海の水平線が高く見上げるやうなあたりにあつて空と連り、実に気味わろく感じた。高いところへ登ると四方がそれにつれて盛り上るやうに高くなる。」こういった空間認識は、やはり彫刻家としてのそれではないでしょうか。
 
「海の思出」、このあと、留学時代の内容になります。以下、明日以降に。

今日は横浜の神奈川近代文学館さんに行って参りました。
 
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こちらも国会図書館さんや駒場の日本近代文学館さん同様、収蔵資料が閲覧でき、よく利用させてもらっています。特筆すべきは書簡や草稿などの肉筆ものが充実していること。それも、どんどん新しいものが増え続けていることです。こうしたものは寄贈による場合が多いようで、館から届くメールニュースに毎回のように「寄贈資料」としていろいろ紹介されています。
 
こうしたものを寄贈なさる方々、非常に素晴らしいと思います。売れば売ったでかなりの値がつくものもあり、結局、古書市場に出回っているものは売られたものです。それはそれで入手したいという需要に応える上で大切なのでしょうが、我々個人にとっては、なかなか手が出ません。はっきり言えば、わけのわからない人に買われてしまって、日の目を見ずに死蔵されてしまうということも少なからずあります。
 
その点、こういうちゃんとした公的機関に寄贈されていれば、我々も眼にすることができ、非常にありがたいわけです。
 
いつも一言多いのがこのブログですが、公的機関でも、収蔵資料の状況を外部に発信しなかったりと、死蔵に近い状態にしているところもあり、困ったものだと思うこともしばしばです。
 
さて、今日は詩人の上田静栄に宛てた書簡などを拝見してきました。最近同館に所蔵されたものです。上田には「海に投げた花」(昭和15年=1940)という詩集があり、序文を光太郎が書いています(その草稿も見せていただきました)。つい最近、このブログで誤植についていろいろ書きましたが、上田宛の書簡の中でも誤植の件が話題になっていました。また、智恵子に関する内容も含まれており、興味深いものでした。いずれ「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介するつもりです。

閲覧数が4,000件を超えました。ありがとうございます。
 
昨日、横浜に行ってきました。11月の高村光太郎研究会での発表のため、船と光太郎について調べており、その関係で、横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さん、そして山下公園の氷川丸を廻りました。
 
明治39年(1906)から42年(1909)にかけ、光太郎は留学ということで、アメリカ、イギリス、フランスに約1年ずつ滞在、ぐるっと地球を一周して帰ってきています。旅客機というもののなかった時代ですから、移動の大半は船。光太郎の船旅に関しては、これまであまり注目されていませんでしたが、いろいろと細かな新事実がわかってきました。詳細は研究会の後でブログに書きます。
 
横浜開港資料館さん、日本郵船歴史博物館さんでは海事関係の資料の閲覧が目的でしたが、時間の関係で開港資料館の方は閲覧室の利用だけにしました。日本郵船歴史博物館さんの方では、展示も興味深く拝見しました。

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そして氷川丸。初めて中に入ってみました。
 
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氷川丸は日本郵船さんが所有する船で、昭和5年(1930)、横浜~シアトル航路に就航し、約30年、洋上で活躍しました。現役引退後、山下公園に固定され、現在は産業遺産として内部を一般公開しています(観覧料200円)。かつてかの嘉納治五郎師範が、IOC会議の帰途この船に乗られ、そして洋上で亡くなりました。その他、チャップリンや秩父宮御夫妻なども。
 
光太郎は帰国の際に日本郵船さんの船「阿波丸」に乗っており、時期は20年ほどずれますし、氷川丸は阿波丸の2倍程の大きさなのですが、参考になるかと思い、見てみました。一等船客のための施設設備は非常に豪華で驚きました。船室(個室)はもちろん、食堂、読書室、社交室など、レトロな雰囲気とも相まって、いい感じでした。
 
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ただし、光太郎は帰国の際は船中無一文だったと述べており、三等船客だったのではないかと思います。三等船室は二段ベッドの8人部屋でした。凄い格差です。

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しかし、光太郎も明治40年(1907)、アメリカからイギリスに渡る際には豪華客船の二等船室を利用しています。このあたり、かのタイタニックにもからむ話になっており、調べていて興奮しました。
 
先述の通り、詳細は研究会の後でブログに書きます。お楽しみに。

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