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まずは、今週末から始まる企画展情報です。 

特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」

期 日 : 2018年3月17日(土)~5月13日(日)
会 場 : 神奈川近代文学館 第2・3展示室 横浜市中区山手町110 港の見える丘公園内
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
料 金 : 一般600円(400円) 65歳以上/20歳未満及び学生300円(200円) 高校生100円
      中学生以下無料 *( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日(4月30日は開館)

2018年は、歌人・与謝野晶子(1878~1942)の生誕140年にあたります。20世紀の幕開けの年、22歳の晶子が高らかに恋愛を謳いあげた第一歌集『みだれ髪』は、近代日本の文学界に大きな衝撃を与え、新しい詩歌の時代を切り拓きました。文学史上に燦然と耀くその魅力は、今なお褪せることはありません。本展では、現在も多くの読者に親しまれている晶子の2作品-『みだれ髪』と、晶子訳「源氏物語」を軸に、さまざまな晶子の貌を紹介します。
師であった与謝野鉄幹への恋を貫き、情熱の歌人として知られる晶子は、5男6女を育てた母親でもありました。一家の家計は晶子の筆が支えていたこともあり、歌人としてのみならず、詩、評論、小説、童話、古典研究など、さまざまなジャンルで幅広い執筆活動を行っています。明治、大正、昭和にいたる激動の時代のなか、文学者として、また一人の女性として、常に先駆的な立場で生き抜いた人生は、現代の私たちにも強いメッセージを投げかけています。
本展は、堺市博物館・さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館をはじめ、多くのご関係の方々、団体にご協力を仰ぎながら、数々の貴重資料とともに、晶子の波瀾の人生を辿ります。

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関連行事

生誕140年 与謝野晶子展 記念イベント
 4月 7日(土) 講演会Ⅰ「『恋衣』そして晶子と古典」 講師:尾崎左永子
 4月21日(土) 講演会Ⅱ 「近代を創る―鉄幹晶子の五十年」 講師:三枝昻之
 5月 5日(土・祝) 講演会Ⅲ 「『みだれ髪』―もうひとつの読み方」  講師:今野寿美
 4月14日(土) 朗読会 与謝野晶子「新訳源氏物語」から「桐壺」「若紫」  出演:竹下景子

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ギャラリートーク
 会期中毎週金曜日 各日14:00~ 参加無料・申込不要(要展示観覧料)
 会場=展示館1階エントランスホール


光太郎に関わる展示や、関連行事の講演等でも光太郎がらみのお話などがあるかと存じます。ぜひ足をお運びください。


いろいろ紹介すべき事項が重なっておりまして、もう少し。続いてはラジオ放送の情報です。 

NHKカルチャーラジオ 文学の世界 「詩と出会う 詩と生きる」  【今を生きる詩~高村光太郎と柳宗悦のまなざし】

NHKラジオ第2放送003
 2018年3月15日(木) 午後8:30~午後9:00(30分)
 再放送3月22日(木) 午前10時00分~ 午前10時30分

講師 : 若松英輔

彫刻家・高村光太郎(1883~1956)は言葉によって生気を写し取ろうとした詩人だといえるかも知れません。戦後7年間、岩手県花巻の郊外で独居生活中、彫刻を作りません。彼は触覚を超えるものと静かな対話を続けたのでしょう。一方、民芸運動を率いた柳宗悦(1889~1961)は優れた宗教哲学者でもありました。彼は詩人の作品に刺激されながら詩作を独特に進化させます。


テキストが既に発売されており、過日のこのブログでご紹介しました。

批評家・随筆家の若松英輔氏による「詩と出会う 詩と生きる」。毎回一つのテーマで近現代の「詩人」の作品を取り上げ、その背景に迫ります。

若松氏の定義では、「詩人」の幅が広く、今回光太郎とともに取り上げられる柳宗悦などは、通常、詩人の範疇に入りませんが、「広い意味での「詩」の作品を残している人々」だそうです。


続いて、訃報を1件。

国文学者の平岡敏夫氏死去

 平岡 敏夫氏(ひらおか・としお=国文学者、詩人)5日午後0時27分、肺不全のため東京都内の病院で死去、88歳。
 香川県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻豊子(とよこ)さん、長男可奈之(かなし)氏。
 筑波大教授、群馬県立女子大学長などを歴任。北村透谷や夏目漱石をはじめとする日本近代文学研究で知られ、著書に「日露戦後文学の研究」「佐幕派の文学史」など。詩集も多く残した。


かつて至文堂さんから発行されていた雑誌『国文学解釈と鑑賞』の第41巻第6号(昭和51年=1976)「―特集 高村光太郎その精神と核―」に「国家と天皇と父と」、第63巻第8号(平成10年=1998)「特集 高村光太郎の世界」には「作品の世界『智恵子抄』」という論考を発表されるなど、光太郎に関するご著作もありました。平成27年(2015)に思潮社さんから刊行された『平岡敏夫詩集』にも、光太郎論が掲載されていました。


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連翹忌にも、5回ほどご参加下さっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。悪筆は大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興つて悪筆天下に満ちるの観があるので自戒のため此を書きつけて置く。

散文「書について」より 
昭和14年(1939) 光太郎57歳

昨日と同じ文章から、今日は末尾の部分です。通常、このコーナーでは同一作品から2箇所以上採ることはしていないのですが、今回は例外。書の世界でも大きな足跡を残した光太郎の書論が非常に鮮明に表されていますので。

神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙『タウンニュース』さんの記事から。

文豪の世界に触れる 永田地区センター 講座でゆかりの和菓子も

 高村光太郎、室生犀星、夏目漱石といった文豪の作品解説と3人の作家が好んだ和菓子を食べて楽しむ講座が1月29日、2月5日、26日に永田地区センターで行われる。時間はいずれも午前10時から11時30分。

 講師に一般財団法人出版文化産業振興財団の読書アドバイザー、城所律子さんを招く。城所さんは図書館での読み聞かせや年齢に応じた本の選び方、読み方のアドバイスをしている。今回は作品の紹介だけではなく、作家たちの人となりや時代背景などが分かりやすく解説される予定。

 参加費は全3回で1人1200円。回ごとに取り上げる作家が変わる。全回に参加できなくても申し込みは可能。対象は成人先着12人。申し込みは1月11日から、費用を添えて直接施設へ。申し込み、問い合わせは同地区センター【電話】045・714・9751。


というわけで、調べてみました。会場の永田地区センターさんのサイトから。 

文豪と和菓子

期   日 : 2018年1月29日(月)、2月5日(月)、2月26日(月)
会   場 : 横浜市永田地区センター 横浜市南区永田台45-1
時   間 : 10:00~11:30
料   金 : 1,200円 (要予約 費用を添えて直接施設へ。)
定   員 : 12名(先着順)

高村光太郎・室生犀星・夏目漱石それぞれのゆかりの和菓子をいただきながら、作品を楽しんでいただきます。

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横浜市南区さんの広報紙『広報みなみ』にも案内が出ていました。

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ところで、どちらも和菓子の具体的な品名が出ていません。

光太郎と和菓子というと、当方、真っ先に思い浮かぶのは光太郎の実家や智恵子と暮らしたアトリエにほど近い、団子坂下の「菊見せんべい」さん。

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光太郎最晩年、昭和29年(1954)の『中央公論』に載った談話筆記「わたしの青銅時代」に、光太郎十代、東京美術学校在学中に、通学路の途中にあるその店の看板娘が気になって、そこを通るたび「胸がドキドキして顔がほてつて困つた」的な部分があります。ただ、せんべいそのものについてはうまいともまずいとも発言していませんでしたが(笑)。

それから、昭和20年(1945)に岩手花巻、更に花巻郊外の旧太田村に移り住んでから親しんだ、南部せんべいや豆銀糖。以前にもご紹介しましたが、昭和24年(1949)の対談「朝の訪問」に以下の発言があります。

岩手はね、その、庶民階級がいいんです。それが僕は好きなんです。だから人によく話すけど、八戸煎餅ですね。それと豆銀糖と。ああいうものに実にいい、うまいものがある。で、殿様が食べるようなものは別にない。

詳しく調べれば、まだあるかもしれませんし、今回の講座ではどんな和菓子が取り上げられるのか、気になるところです。また、光太郎と共に取り上げられる犀星や漱石はどんな和菓子が好きだったのか、それも気になるところです。漱石はほっておくとジャムをひと瓶舐めてしまうという甘党だったそうですが(笑)。

こういう部分に着目すると、それぞれの身近に感じられるもので、そういう意味では今回の講座、おもしろい取り組みだと思います。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

丸いものを唯丸く薄いものを唯薄く現はすだけのところに彫刻は無い。彫刻家であるならば、厚いものを拵へて薄く見せ、四角に作つて丸く見せるといつた様なこつ――造形的感性――を身体の中に持つてゐるわけで、その人が写生をすれば、それは自づと彫刻になるのである。

談話筆記「写生の二面」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

こうした意味では、光太郎、最近流行の「超絶技巧」的な実物そっくりの牙彫などは認めていませんでした。実際、光太郎の木彫「蝉」は、薄いはずの羽を分厚く作っていて、しかし何の違和感もありません。芸術とは難しいものですね。

昨日始まった企画展です。いろいろありまして、事前にはご紹介しませんでしたが(理由は後述します)、 早速、昨日、見に行って参りました。

所蔵作品による"なんだろう"展+新収蔵品

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年2月25日(日)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
時 間 : 9:30 ~ 17:00(入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日(1/8、2/12 は開館)、1/9 日(火)、年末年始(12/29~1/3)
料 金 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円  ( ) 内は20 名以上の団体料金

"なんだろう"展は、鑑賞する皆さんが主役です。何が描かれているか想像し、感じたことや作家への質問を書いてみましょう。また、昨年度新たに収蔵された作品も展示します。併せてお楽しみください。

 今回の“なんだろう” 展には、ふだん作品に付されている題名や作者名、解説文もありません。およそ30 点の作品は、幻想的だったり、どこか思わせぶりだったり、楽しくなったり、不思議な気持ちになるものばかりです。作品を見ることに正解はありません。それぞれの作家がつくった作品を見て、感じ、なにが描かれているのか想像してみましょう。そして感じたことを実際にかたわらに書いてみましょう。ほかの来館者が書いてくれた言葉も読んでみるとイメージがふくらむかもしれません。また、加藤芳信、山本直彰、岡村桂三郎、中ザワヒデキの作品についての質問を来館者から募集します。そして会期後半にみなさんの“なんだろう”に対する作家の「答え」を掲出します。さあ、深呼吸してリラックスして、立ち止まったり座ったり、“なんだろう” と考えてみましょう。どうしても気になった作品は、チラシの裏側にリストがあるので見てください。
 なお、同時開催として、福田美蘭《見返り美人鏡面群像図》をはじめ、昨年度、新たに収蔵された作品約40 点を展示しますので、併せてお楽しみください。

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「新収所蔵品展」の方で、光太郎の油絵が1点、出ています。大正3年に描かれた静物画です。「瓶とコップ」という題で展示されています。

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この年、光太郎は油絵の頒布会である「高村光太郎画会」を行いました。「画会」といっても展覧会ではなく、注文を取って油絵を描くためのシステムです。雑誌『現代の洋画』に広告が掲載されています。

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これにより、数点の油絵が制作された、そのうちの1点と思われます。

昭和48年(1973)に春秋社さんから刊行された『高村光太郎選集』別巻の、『高村光太郎 造型』には、その時点で確認されていた光太郎の彫刻、絵画、装幀作品がすべてリストアップされており、当時入手可能だった写真も掲載されています。この絵はそちらには掲載されておらず、その後に「発見」されたものでした。

リストといえば、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻(平成10年=1998)にも造形作品の目録が掲載されており、そちらが現在最新かつ最も信頼のできるものです。そのリストでは「洋酒瓶二本」となっているものだと思われます。(こちらは画像が掲載されていません)。

昭和62年(1987)に小田急グランドギャラリーさんで開催された「光太郎智恵子の世界展」に出品されており、その頃見つかったものと思われます。平成2年(1990)、呉市立美術館さん、三重県立美術館さん、茨城県近代美術館さんを巡回した「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展にも出品されています。それぞれ「静物(洋酒瓶)」という題名で出品されました。ただ、双方の図録とも「大正2年」となっていました。よく見ると絵の中に「1914 光」とサインがあるので、大正3年です。

で、今回、平塚市美術館さんで、「大正3年の静物画「瓶とコップ」が出る」というので、もしかして新発見かと思い、見に行った次第です。事前にご紹介しませんでしたが、それはガセだったら困ると思ったからでした。意外とガセがあります。「これが光太郎作品と言い切れるのか」というものが、光太郎の名で出品される展覧会等。この夏にも関東のある県で開催された企画展で、ありました。そちらは彫刻でした。小さな私設美術館などで、とても光太郎のものと思えない作風の絵が、光太郎のクレジットで常設されているところもあります。

今回のものはまちがいなく真作です。題名が以前に出品された時と異なるのは、ある意味仕方がないでしょう。個人からの寄託品だそうで、同じ方から寄託された木村荘八や萬鉄五郎の絵も、今回並んでいました。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

今日、多くの人は油絵といふものは迚も所謂日本趣味と調和しない様に考へてゐる様ですが、此は習慣性と無識とかから、至極漠然とさう感じてゐるに過ぎないので、実際試みた上の話は少ない様です。私の考へでは、茶室の懸床(かけどこ)などにでも油絵をかけて、立派に調和させることが出来ると思つてゐます。
散文「油絵の懸け方」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

上記でご紹介した静物画などもですが、ここに述べられているような「茶室の懸床(かけどこ)などにでも」「立派に調和させることが出来る」油絵を、光太郎は目指していたようです。

甲信レポートを書いていた前後にも、新聞各紙に光太郎の名が出ています。3件、ご紹介します。

まず、先週ご紹介した『朝日新聞』さんの「彫刻家高田博厚の遺品、東松山市に寄贈へ」の続報的な神奈川版の記事です。

神奈川)彫刻家・高田博厚アトリエ閉鎖 知人らお別れ会

 文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらと親交があり、晩年は神奈川県鎌倉市のアトリエで制作活動をした世界的彫刻家・高田博厚(1900~87)のアトリエが閉鎖され、知人らが集まって2日、お別れ会が開かれた。遺品は交流のあった埼玉県東松山市に寄贈される。
 1931年に渡仏して57年に帰国。66年から86歳で亡くなるまで拠点とした鎌倉市稲村ガ崎のアトリエには同日、親交のあった知人や関係者ら約30人が集まり、お茶を飲みながらピアノ演奏を聞くなど和やかな雰囲気の中、高田の思い出に花を咲かせた。
 洋画家で文化勲章受章者の東京芸大名誉教授・野見山暁治さん(96)は留学時代の53年、パリのカフェで初めて高田に会った時の思い出を語り、「君は日本人かと話しかけられ、『そうか、日本人が外国へ来るようになったのか』と感慨深げだった」としのんだ。
 東松山市に寄贈されるのは彫刻や絵画などの作品のほか書物や家具など数千点。同市の元教育長が高田と親交があった関係で「高田博厚彫刻展」を開いたり、高田の作品を通りで展示したりしている縁で贈られることになった。
 同市の森田光一市長は「遺品をいただけるのは名誉なこと。2020年を目途に何らかの施設を造り、すばらしい芸術家を顕彰していきたい」と話した。
 「死後30年」を機に今回の寄贈を決めた高田の義理の娘の大野慶子さん(80)は「父は『彫刻は触ってみるもの』と言って、東松山市の展示を大変喜んでいたので、今回のことも喜んでくれていると思います。多くの方にみていただき、特に子どもたちに親しんでもらえれば」と話した。
 高田は石川県生まれ。上京して詩人で彫刻家の高村光太郎らと知り合い、31歳で渡仏。彫刻を学び、「指で思索する彫刻家」と称賛された。死後、鎌倉市には主要な作品や絵画など約300点が寄贈されている。(菅尾保)

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同じ件は『東京新聞』さん、NHKさんなどでも紹介されましたが、そちらでは光太郎の名が出なかったので、割愛します。


続いて、『読売新聞』さんの高知版。

詩人・岡本弥太功績たたえ ◇香南で一絃琴演奏、朗読も

 「南海の宮沢賢治」と評され、1942年12月2日に43歳の若さで亡くなった香南市香我美町出身の詩人、岡本弥太の没後75年を記念した「岡本弥太祭」が2日、同町の峯本神社で営まれた。
 弥太は20歳の頃から詩を書き始め、地元で教べんをとりながら創作活動。1932年には、生前唯一の詩集で中央詩壇から高く評価された「瀧」を刊行した。没後の48年、詩人の高村光太郎の書による詩碑「白牡丹図」が同神社に建てられた。
 この日の祭には地元住民らが参列。弥太の孫に当たる岡本龍太さん(59)が「弥太は『自分で二度と詠みたくない詩は、詩ではない』と話していた」などのエピソードを披露した後、市立香我美小の児童有志が、弥太の詩に曲を付けた「わが涙」を一絃琴で演奏した。県立城山高校の生徒ら4人も弥太の詩4編を朗読し、弥太の功績をたたえた。
 実行委員長の猪原陸さん(77)は「年々輪が広がりつつあり、弥太も喜んでくれていると思う。次代に引き継いでいくことが大事で、来年も続けていきたい」と話していた。


岡本弥太は、光太郎より16歳年下、明治32年(1899)の生まれ。終生、高知で小学校教員を務めながら詩人として活動していたようです。歿したのは昭和17年(1942)、やはり結核でした。年代といい、地方で活動していたことといい、結核で早世したことといい、光太郎との関わりといい、昨日ご紹介した野澤一を彷彿とさせられます。

生前に上梓した詩集は『瀧』(昭和7年=1932)一冊のみ。翌年に親しかった間野捷魯編集で刊行された『瀧批評集録』に、光太郎からの『瀧』受贈の礼状が掲載されています。

啓。貴著詩集「瀧」及御てがみ忝くおうけとりしました。丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました為めお礼のてがみさへ遅れて失礼しました。詩集はもつとよく落ちついてから精読したいと思つておりますから、その上何か申上げたいと存じます。此事御諒承願ひます。畧儀ながら御礼まで。

素っ気ない気がしますが、仕方がありません。光太郎の弁護を致しますと、智恵子の心の病が昂じ、自殺未遂をやらかした後だったので、それが「丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました」なのです。

戦後になって、高知で岡本の詩碑建立が決まり、イラストレーターの依光隆、光太郎と親交のあった島崎曙海らを介して、光太郎に碑文の揮毫が依頼され、実現しました。昭和22年(1947)、23年(1948)の光太郎日記、依光(旧姓川島)や島崎に宛てた書簡にその辺りの経緯が記されています。それによると、光太郎、驚くべきことに揮毫の礼として送られた小為替1,000円分を、建碑の足しに、と、そっくりそのまま送り返しています。「やるなぁ」という感じでした(笑)。

当方、この碑を見るために、20数年前に高知まで飛びました。

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当時は携帯電話など持っていませんでしたので(今ならナビ機能が使えます)、迷いながらもたどり着き、光太郎独特の味のある字を見て、旧友に再会したような感覚にとらわれました。

刻まれているのは『瀧』に収められた「白牡丹図」。

 白い牡丹の花を
 捧げるもの
 剣を差して急ぐもの
 日の光青くはてなく
 このみちを
 たれもかへらぬ


調べてみましたところ、岡本に関しては他にも顕彰の機運が盛り上がりつつあるようで、また改めてご紹介します。


最後に、先週の『河北新報』さん夕刊のコラム。

河北抄 2017年11月29日水曜日

 師走を前に寒さが駆け足になりつつある。仙台は初雪が降るとともに最低気温が氷点下になる日もあり、繁華街ではコート姿の人たちを多く見掛ける。
 冬の季語に「セーター」や「カーディガン」がある。家はもちろん、職場でも背広を脱いで装う人は結構いるだろう。
 頭の中のたんすにしまい込んだ記憶がある。1994年の今頃、現大リーガーのイチロー外野手(44)は当時所属するプロ野球オリックスと、年俸800万円から10倍増の8千万円(金額はいずれも推定)で来季契約を結んだ。「大金を何に使いますか」と記者に尋ねられると、「いいセーターを買います」と答えた。
 車でなく、家でなく、貯金でもない。毛糸の編み物。背伸びをせず肩肘張らずに自然体で生きているという青年の実像に触れたようで、とても好感を持った。
 球界は今、シーズンオフ。イチロー選手のような話題に出合うと、うれしくなる。こんなとき、高村光太郎の詩『冬が来た』の一節を思い出す。<冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ>。セーターのような詩である。


まさしく「冬が来た」今日この頃。皆様も風邪など召されませんよう、ご自愛下さい。


【折々のことば・光太郎】

本統に絵や彫刻を愛したり、味はうとする人がないと言ふのは、一面から考へれば人々に芸術を鑑賞する力がないからだとも言へるし、又一方から見れば、人々を引き付けるチヤームが芸術に無いからだとも言へる。其の何れにしても兎に角嬉しいことではない。

談話筆記「芸術を見る眼」より 治44年(1911) 光太郎29歳

2年前の帰国当初、欧米で実際に触れてきた新しい芸術を日本にも伝えるため、啓蒙の意欲に燃えていた光太郎ですが、この頃になると、もはや日本全体を変えるのは不可能、という一種のあきらめにたどりつきます。

俗世間とは縁を切って、個の鍛冶、自らの芸術精進という方向性の企図です。この後、主に絵画の方面ではヒユウザン会、生活社などで同志と言える存在に恵まれますが、彫刻では、前年に荻原守衛が夭折し、孤軍奮闘となってゆきます。

昨日は、テルミン奏者大西ようこさんと、ギターの三谷郁夫さんによるユニット「ぷらイム」さん、ユニット結成10周年記念コンサート「テルミンと語りで紡ぐ愛の物語り 智恵子抄」を拝聴して参りました。

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会場は横浜美術館さん。平成26年(2014)に開催された「ヨコハマトリエンナーレ2014」以来でした。

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来週がハロウィンということで、前庭ではそれにからめた子供さん向けのイベントが行われていました。ハロウィンモードのアンパンマンに遭遇(笑)。

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コンサートが開催される美術館内のレクチャーホールへ。

ちょうどリハ中でした。


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開演は午後3時。その前に、受付で渡されたパンフ、チラシ類に混じって、「ぷらイム10周年智恵子抄クイズ」なる紙が。

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005ロビーに展示されている昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』初版第一刷と、同18年の第十一刷り、それぞれの重さをあててくださいとのこと。最も近い解答の方に、特製マグカッププレゼントだそうで、面白いことを考えるものです(笑)。

のちほど発表された正解は、第一刷が144グラム、第十一刷が257グラムだそうでした。戦時中ということもあり、手に入る用紙の種類がバラバラだったため、このような現象が起きています。特に第一刷は奥付によれば「表紙ハ特漉西ノ内 見返ハ手漉鳥ノ子紙 本文ハ奉書紙生漉」。要するに高級な和紙なのですが、逆に問屋に高級な紙しか残っていなかったというのです。

画像は当方手持ちの第一刷りの奥付です。この本、一昨年、NHKさんで放映された「歴史秘話ヒストリア第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」の際にお貸しし、テレビ出演を果たしました(笑)。

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珍しい、という「愛読者カード」も付いています。これの有る無しで古書価としてはかなり変わるそうで。

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閑話休題。会場もほぼ満席となり、いよいよ開演。

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2部構成で、当初、第一部が、女優の水沢有美さんを交えての『智恵子抄』、第二部がぷらイムのお二人のみの演奏という予定でしたが、逆転し、先にぷらイムのお二人。

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こちらでも、曲間に「智恵子抄」がらみのMCが入りました(そちらの方が演奏時間より長かったような(笑))。肝心の演奏も、相変わらずすばらしいものでしたが。

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003上記は、大西さんの「研究」成果。x軸が光太郎の詩が発表された年、y軸が試作品の発表数。『道程』期の明治末と、戦時中に発表数が多くなり、しかし、『智恵子抄』所収の作品は戦時にはない、という話です。

休憩後、第二部。水沢さんを交えての『智恵子抄』。予想していたよりも「攻め」の演出でした。水沢さんは一ヶ所にとどまらず、ほぼ常に動きながらの語り。演劇に近い動きでした。

三谷さんとの掛け合いもあり、光太郎作品の引用以外のセリフ的な部分もあり、歌あり、ダンス的な動きもあり。語り口も、絶叫や、心を病んだ智恵子の独白などもあって、バリエーションが実に豊かでした。お客さんも食い入るように引き込まれていました。


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終演後のロビー。

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例によって、水沢さんには連翹忌の宣伝をしておきました。

今後とも、光太郎智恵子の世界を広めるのに、一役買っていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

蝮(クチバミ)がとぐろをまいておれを見る。 それはあんまりきれいな敵意で けだかく、さとく、思慮ぶかく、 どうもおれには手出しができない。
詩「クチバミ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

「クチバミ」はマムシの古名です。蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋周辺には、うようよ生息していたということで、珍しいものではなかったようですが、ここにはある種の「畏怖」の感情が見て取れます。マタギ猟師の人々が、山の神への敬虔な気持ちを忘れないような。

千葉と言っても田舎で、里山を背負った当方自宅兼事務所近辺でも、よくマムシやヤマカガシ、ジムグリ、アオダイショウを見かけます。一昨日も愛犬の散歩中にジムグリに遭遇しました。当方は畏怖より恐怖が先に立ちますが(笑)。

先週末、当方が花巻に行っている間に開催されたイベントが報道されていますので、ご紹介します。

まずは『神奈川新聞』さんから、 「横浜日枝神社例大祭」に関して。 

修復神輿お披露目 横浜、「火伏行列」練り歩き

 お三の宮として親しまれている日枝神社(横浜市南区)例大祭のメイン行事の一つ「火伏(ひぶせ)神輿(みこし)行列」が15日、同市中区のイセザキ・モールで行われた。約90年ぶりに神輿の修復を済ませてからは初めての行列で、塗り直された極彩色の彫刻などが披露された。
  烏帽子(えぼし)と白装束姿の氏子約30人が神輿を担ぎ、「エイサー、エイサー」の掛け声でゆっくりと練り歩いた。
  神輿は大正天皇即位記念事業の一つとして伊勢佐木町の商店主らが企画。当時の帝室技芸員・高村光雲らが1923年に製作した。関東大震災と横浜大空襲の2度の火難を逃れたことから火伏神輿と呼ばれるようになった。
  2016年の修復の世話人を務め、祖父が製作時の世話人だった渡辺洋三さん(65)は「高村光雲の木彫りがひときわ美しくなった。火伏神輿は地域の宝であり文化財。大切に残していきたい」と語った。

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続いて、光太郎詩「あどけない話」の一節「ほんとの空」を冠した、「ふくしま ほんとの空プログラム」について、『福島民報』さんから。 

鮫川の自然満喫 児童らピザ作り「ふくしま ほんとの空プログラム」

 子どもの好奇心と探究心を育む原体験活動「ふくしま ほんとの空プログラム」は16日、鮫川村赤坂東野字葉貫のあぶくまエヌエスネットで始まった。県内外の児童、保護者ら25人が日帰りで里山の自然を満喫した。
 子どもたちがウオールクライミングや広場で野球をして体を動かしたほか、小川で水生生物をつかまえたり、ヤギと触れ合ったりして、ゆったりとした時間を過ごした。昼食には石窯を使ったピザ作りも体験。自ら生地を広げて、野菜などをトッピングした。福島市の新田樹君(9つ)=清水小3年=は「鮫川村に来たのは初めて。いろいろな自然がある」と話し、木工遊びなどを楽しんだ。
 福島民報社の主催、JTB東北法人営業仙台支店の企画・実施、NPO法人あぶくまエヌエスネットの協力、鮫川村の後援。王子製紙、オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、東北エールマーケット、日本シビックコンサルタントの協賛。
 今後のプログラムは30日と10月22日に同様の日帰りを、10月28、29の両日に1泊2日の宿泊体験を実施する。日帰りは時間がともに午前10時~午後3時半。小学生3000円、保護者1500円。宿泊体験は小学生7000円、保護者5000円。
 参加希望者は、はがきに(1)参加希望プログラム(2)参加者氏名(ふりがな)(3)生年月日(4)学年または年齢(5)性別(6)学校名(7)郵便番号(8)住所(9)日中連絡がつきやすい電話番号(10)アレルギーや投薬など運営団体への連絡事項を記入し、郵便番号980-0804 仙台市青葉区大町1の4の1 明治安田生命仙台ビル4階 JTB東北法人営業仙台支店「ふくしま ほんとの空プログラム」係へ。プログラムに関する問い合わせは福島民報社東京支社 電話03(6226)1001(平日午前10時~午後5時)へ。旅行内容に関する問い合わせはJTB東北法人営業仙台支店 電話022(263)6712(平日午前9時半~午後5時半)へ。

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「ほんとの空」の語を冠したイベント、別件で来週にも行われます。明日、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

おのれの暗愚をいやほど見たので、 自分の業績のどんな評価をも快く容れ、 自分に鞭する千の非難をも素直にきく。 それが社会の約束ならば よし極刑とても甘受しよう。

連作詩「暗愚小伝」中の「山林」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

連作詩「暗愚小伝」終末の一篇です。全20篇を書き上げ、自らの戦争責任と、そこに到るこれまでの生涯を振り返り、到った境地がここでした。

戦時中、ほとんどの文学者が光太郎同様、翼賛作品を書いていました。一般には戦争反対の立場を貫いたとされる文学者もいますが、翼賛作品が隠蔽されているに過ぎず、なにをかいわんや、です。そして、戦後、ここまでの反省を公にした文学者は、ほぼ光太郎のみと言っていいと思います。歌人のSなどは過ちを認めず、かたくなに天皇崇拝、神国日本讃仰をやめませんでした。左翼系詩人のTなどは、戦時中に自らも翼賛詩を書いていたことを棚に上げ、戦犯糾弾の急先鋒となりました。そしてほとんどの文学者は、民社主義による明るい未来の到来を信じて疑わず、楽天的な作品を書きました。

無論、「暗愚小伝」による光太郎の反省とて、言い訳がましさ、他への責任転嫁的な部分も見られ、十分とは言い難いものではあります。しかし、その後に展開された光太郎の詩業、そして実生活は、その反省をさらに押し進め、揺るぎないヒューマニズムに根ざしたものとなっていきます。

横浜伊勢佐木町ににあるお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光太郎の父・高村光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。大正天皇即位記念に製作され、関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。

昨年は滋賀県甲賀市のMIHO MUSEUMさんで開催された企画展「かざり -信仰と祭りのエネルギー」に出品された後、本格的な修復に入ったため、この時期の例大祭には出ませんでした。その後、11月には修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目されました。

というわけで、今年は2年ぶりに火伏神輿の巡幸があります。 

日枝神社例大祭(お三の宮 秋まつり)

期   日 : 2017年9月15日(金)~17日(日)
会   場 : イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目
日   程 : 9月15日(金) 13:30~ 火伏神輿行列

雅楽の生演奏を先導に、白装束の担ぎ手約30人が厳かに行列します。高村光雲作の神輿。関東大震災・横浜大空襲と、2度の苦難を乗り越えたことから、誰呼ぶともなく、「火伏(ひぶせ)の神輿」との名が付き、災難よけの神輿として崇められています。

 16日(土) 13:00~ 和太鼓演奏   17:00~19:00 千貫神輿奉安
社宝大神輿は千貫神輿とも呼ばれ、その大きさ、巧緻さ、荘重さ等、横浜随一の大神輿です。以前は、3日にわたり飾り立てた黒牛に引かせていましたが、現在は小型トレーラーで牽引しています。
猿田彦神、祓い神職により先導され、氏子・崇敬者と共に丸一日かけて氏子町内を御巡行致します。

  17日(日) 12:00~ 氏子町内神輿連合渡御   13:00~ 和太鼓演奏
奇数年毎の本祭りでは、神社からイセザキモールへと40基にも及ぶ大小の町内神輿が威勢良く練り歩き、大勢の祭り好き、神輿好きが集まります。

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会期中、火伏神輿と同時期の、やはり光雲作である獅子頭も、イセザキ・モール内有隣堂書店さんの前に並びます。
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当方、平成26年(2014)に拝見に伺いましたが、火伏神輿、獅子頭ともに、見事な作でした。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

リンゴばたけに雨ふりて 銀のみどりのけむる時 リンゴたわわに枝おもく 沈々として紅きかな

詩「(リンゴばたけに)」全文 昭和22年(1947) 光太郎65歳

きちんと題名を付けて原稿用紙に書かれたものでなく、まずは手帖に記し、のち、画仙紙に揮毫したものです。

リンゴの生産。青森、長野ほどではありませんが、それに次いで山形と並び岩手でも盛んです。光太郎が蟄居していた旧太田村近辺にも、リンゴ畑が広がっています。

光太郎、リンゴは彫刻のモチーフにはならないと言っていましたが、食べる方では非常に好んだようです。

ピアニストの荒野(こうの)愛子さん。これまで『智恵子抄』からのインスパイア的なオリジナル曲を作られ、CDをリリースなさったり、コンサートで取り上げて下さったりしている方です。

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昨年も横浜戸塚で「Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート」を開催され、当方も拝聴して参りました。その際は、クラリネットの新實紗季さん、ヴァイオリンで藤田有希とのコラボで、光太郎と中原中也の詩へのオマージュ的なプログラムでした。

最近は老舗ジャズライブハウス・横濱エアジンさんにもご出演。4月にはヴォーカル・鈴木典子さん、ヴァイオリンの西田けんたろうさんとのセッション「plays SONGS, sings SCENES」で、中也作品を取り上げられました。これまでと違い、インストゥルメンタルではなく、さまざまな方向性をさぐってらっしゃるようです。


来月初めにも、同じ横濱エアジンさんのライブにご出演されます。

~ヨーロピアンジャズ~◆高村光太郎と中原中也に寄せて 

期  日 : 2017年7月2日(日)
時  間 : 19:30~
場  所 : 横濱エアジン 横浜市中区住吉町5-60
出  演 : 荒野愛子 Piano, Composition   鴻野暁司 Bass   吉島智仁 Drums

今回はまたインストで、ほぼほぼ純粋にジャズ系のようですが、どのようなコンポジションになるのか、興味深いところです。日程的に都合がつけば参上するつもりでおります。

昨今、静かに「文豪」ブームでして、こういう切り口からも「文豪」の世界がひろがることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

君は見るだらう 僕が逆境の友を多く持ち順境の友をどしどし失ふのを なぜだらう 逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間が多いからだ

詩「友よ」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

順風の時だけお互い利用し合い、逆風が吹き始めると手のひらを返してばっさり切り捨てる、真逆の人が多いですね。特に永田町界隈に(笑)。

静岡の地方紙『伊豆新聞』さんに載った記事です。長いので換骨奪胎します。

川端康成邸から書画など70件発見 牧水ら伊豆ゆかり多数

 ノーベル文学賞を受賞した文豪・川端康成(1899~1972年)の神奈川県鎌倉市の自宅から6日までに、明治、大正、昭和初期に活躍した作家らを中心に総数約70件の書画などが見つかった。歌人・若山牧水が伊豆・湯ケ島で詠んだ有名な「山桜の歌」、昨年没後100年、今年生誕150年を迎える夏目漱石の五言絶句の漢詩のほか、島崎藤村、高浜虚子、尾崎紅葉、斎藤茂吉、横光利一、島木健作らそうそうたる顔ぶれ。小説「伊豆の踊子」の名場面の絵画などもあり、伊豆と関係の深い人々の作品が目立つ。ノーベル賞の賞金で現地スウェーデンで衝動買いしたという椅子4脚も含まれる。(森野宏尚記者)

 川端の死後、川端文学の継承を目的に発足した財団法人・川端康成記念会(川端香男里理事長、初代理事長は井上靖)の関係者が書斎や書庫を整理していて発見した。
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特集=川端康成が収集 島崎藤村や尾崎紅葉の書
 ■盟友、横光に思い馳せる
 若山牧水、夏目漱石のほか見つかったのは島崎藤村の書、若菜集の宮城野より抜粋▽高浜虚子の虚子像、虚子句▽横光利一の書「蟻 臺の上に 月高し」など▽尾崎紅葉の書▽徳田秋声の書「古き伝統と新しき生命」▽斎藤茂吉の書「蓮花寺小吟三首」▽田山花袋の七言絶句▽高村光太郎の書(扇面)智恵子抄より▽林芙美子の書▽岡本かの子の書▽武者小路実篤の書「伊香保風景」▽久米正雄の書「初芝居」▽吉野秀雄の書「伊豆大仁望嶽詩」▽富岡鉄斎の書簡▽室生犀星の書簡など。多くは鎌倉の古書店で購入したようだ。
 また醍醐寺の如意輪観音(鎌倉時代)▽藤原定家の懐絵▽大燈国師(南北時代の禅僧)自筆録抄▽寂室元光の一行書▽雪村周継(室町時代の画僧)の風濤図、池大雅の書なども含まれる。
 林芙美子の書には「硯[すずり]冷えて 銭もなき 冬の日暮れかな」と書かれ、水原園博さんは「貧乏時代の彼女そのもので、放浪記で一躍有名になったものの作家仲間からは疎んぜられていた芙美子に、同情を寄せる川端の視線を彷彿とさせる」、新感覚派の旗手で川端とは真の盟友として心通わせた横光利一の「蟻 臺(台)上に 月高し」について、水原さんは「横光は急死し、川端の喪失感はいかばかりだったか。蟻 臺上に…の一文にどう思いを馳せたか」としみじみ語った。

 ■川端邸 一般公開も視野 審美眼、育てた美術品
 川端康成は生前、国宝2点や日本画家・安田靫彦[ゆきひこ]、東山魁夷など多くの美術品を収集していた。無名の若い画家にも着目し、作品を進んで購入した。草間弥生などはその代表格だ。

 川端記念会は川端没後30年の2002(平成14)年から、所蔵品を「川端コレクション展」として全国28美術館で開催してきた。4月から川端が好んだ洋画家・古賀春江の生誕地、福岡県の久留米市美術館(旧石橋美術館)での開催も決まっている。
 川端香男里・川端記念会理事長は「(これまで何度も発見があるので)また出てきたかという思いだが、新発見の品々の何点かは久留米でも披露されるだろう。今後は川端の愛した美術品などに触れる機会を増やすため、川端邸の一般公開も考えていきたい」と展望を語った。
 川端康成学会・常任理事の平山三男さん(69)は「川端の美意識、審美眼は多くの美術品などを通して養われ、作品にも投影されている」とし、今回、先輩、同世代作家の書画が多く出てきたことについては「美を追い求めた川端の憧れや親しみ、その人を深く知りたいなどの思いがあるのではないか」と分析した。


というわけで、川端康成の旧宅から名だたる文豪たちの書画などが大量に見つかり、光太郎の書も含まれていたとするものです。

ネットに載った記事では、残念ながら「光太郎の書」の画像は含まれていませんでした。したがって、真贋のほどは何ともいえませんが、生前、多くの美術品などを購入していたという川端ですので、まず間違いはないのでは、と思います。

いずれ目にできる機会が来ることを期待しております。


【折々のことば・光太郎】

いやなんです あなたのいつてしまふのが―― 

001詩「人に」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『劇と詩』に初出の段階では、「N――女史に」という題名でした。「N」は長沼智恵子の「N」です。詩の冒頭及び途中、末尾と3回リフレインされています。

大正3年(1914)には詩集『道程』に収められ、「――に」と題名が変わり、内容も大幅に改訂されています。そして昭和16年(1941)、詩集『智恵子抄』では、さらに「人に」と改題されて、その巻頭を飾りました。

改訂が行われても、このリフレインは変更されていません。それだけ光太郎にとって思い入れのある詩句だったのではないでしょうか。

おそらくこの詩を読んだ智恵子も決心し、晴れて光太郎と結ばれることとなります。

光太郎の父・光雲が彫刻を手がけた、横浜南区山王町に伝わるお三の宮日枝神社さん「火伏神輿」。その名の由来は、関東大震災と太平洋戦争の空襲をくぐりぬけたことです。

毎年9月、日枝神社さんの例大祭で、伊勢佐木町のイセザキ・モールを巡行するのですが、今年は修復作業に入っていたため、出ませんでした。そのため、今年はこのブログでも日枝神社さんの例大祭をご紹介しませんでした。

このたび、その修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目が始まったそうです。

横浜・伊勢佐木町繁栄の象徴 「火伏神輿」

◆90年の歴史で初の修復作業
 横浜・伊勢佐木町の繁栄の象徴で、関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)「火伏(ひぶせ)神輿」が90年余りの歴史で初めての修復作業を終えた。28日にJRAエクセル伊勢佐木(神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1丁目)でお色直しを済ませたばかりの神輿が披露された。
 1923年に完成した神輿は日枝神社例大祭などで担がれてきたため、彫刻や金具が欠けたり、塗りが剥がれたりするなどの傷みが目立っていた。
 そのため、東京都内の文化財修復専門工房に運ばれて、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)が手掛けた彫刻を復元。奈良・法隆寺の七堂伽藍(がらん)に施されたものと同じ極彩色の染料を塗り直し、鮮やかによみがえった。
 今年3月から「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展に貸し出した際、学芸員から「大正期の名工が古代御輿の粋を極めた貴重なもの。豪華な装飾を含めて文化財級」と高い評価を受けたこともあり、今回、本格的に修復を行うことにした。
 神輿がガラスケースに無事に収められると、伊勢佐木町1丁目の婦人用品店4代目店主、津田武司さん(77)は大きな拍手を送った。「神輿が戻ってきてうれしいの一言。世代を超えて大切にしたい」
 吉田新田の完成350周年を迎える来年9月の日枝神社例大祭でイセザキ・モールを練り歩くことにしている。
◆火伏神輿 伊勢佐木町の町内会が1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、高村光雲に制作を依頼した。23年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたと伝えられている。
(2016/11/29 『神奈川新聞』)

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記事にある「「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展」はこちら

 
『東京新聞』さんの神奈川版にも記事が出ました。

よみがえった火伏神輿 修復終わり、イセザキ・モールで展示

 明治時代の彫刻家・高村光雲(一八五二~一九三四年)らが制作した「火伏神輿(ひぶせみこし)」の修復が終わり、二十八日、神輿を所有するイセザキ・モール(横浜市中区)にあるJRAエクセル伊勢佐木一階ホールで展示が始まった。観覧無料。
 神輿は大正天皇の即位を記念し、伊勢佐木町の町内会が高村光雲に制作依頼。高村や東京美術学校(現・東京芸術大)の教授らが一九二一年に東京都内で制作を始めた。二三年九月の完成直前に発生した関東大震災や、四五年五月の横浜大空襲などの火災を免れたことから、火災を防ぐ「火伏神輿」と呼ばれるようになった。高さ一・八メートルで幅一・四メートル、担ぎ棒を含む長さは二・九メートル。
 大掛かりな修復は初めてで、六月から東京都狛江市で文化財修復工房を営む桜庭裕介さん(63)が手掛けた。色がはげた部分はエックス線で表面を分析し、制作当時と同じ顔料で補修。特殊な樹脂を染み込ませて今後の色あせを防ぎつつ、約一世紀の歴史を感じさせる退色はそのままにした。木彫の欠損は木の粉や漆などを混ぜたもので補った。
 来年は、これまで通り九月の地元の祭りで担がれる予定。祖父が制作時の世話人で、宝石店経営を受け継ぐ渡辺洋三さん(64)は「祭りでは乱暴に扱うこともあった」と苦笑しながら「町の人に、素晴らしい神輿だと再認識してほしい」と願った。(梅野光春)


今回いつまで展示されるのか、記事からは不明ですが、以前は祭りの時以外は神奈川県立歴史博物館さんで展示されていたので、今後もそうなるのではないかと思われます。

さらに同時期に光雲によって作られた獅子頭もセットです。

ぜひきれいになった神輿をご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ぐれの雁におもはず窓あけてまたたき多き星を見しかな
明治33年(1900) 光太郎18歳

冬が近づき、空気がキインと澄んでいるため、星がきれいに見えます。当方自宅兼事務所のあるあたりは千葉でも田舎の方でして、夜間の光害が少なく、星の観察にはもってこいです。

昨日は鎌倉および都内に行っておりました。

光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェ「笛ギャラリー」さんでの展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」のためです。

普段こちらにお邪魔する時は、自家用車で北から山を下りてお伺いしていましたが、昨日は公共交通機関を利用、JR北鎌倉駅から歩き、普段とは逆に南から山を登る形でした。

あじさい寺で有名な明月院さんを横目に坂を登っていきます。

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昨日は気持ちよい秋晴れ、しかし紅葉には早く、楓もまだ青々としています。

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明月院さんのすぐ近くに看板が出ています。ここから365歩、だそうで。

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道の傍らに苔むした石仏・石塔。古都情緒がにじみ出ています。こういう風情は歩いてこそのものですね。

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笛さんもその情調の中にぴったり収まるたたずまいです。

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店主の山端氏、今年の連翹忌にはご欠席なさいましたので、ほぼ一年ぶりにお会いしまして、久闊を叙し、早速展示を拝見。

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光太郎智恵子、そして近所に住んでいた光太郎と縁の深かった詩人の尾崎喜八に関するさまざまが並んでいます。古写真、書簡、草稿、著書、関係書籍などなど。

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光太郎書簡。ここに住まれていた妹に宛てたものです。

その妹・しづは、俳句に親炙していたそうで、句稿や句帖も展示されていました。

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尾崎喜八草稿(コピー)。草野心平編、筑摩書房『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959)に掲載された光太郎智恵子回想です。

008喜八の妻・實子は、光太郎の親友・水野葉舟の娘。二人の結婚を祝し、光太郎はミケランジェロの作品を模刻したブロンズの「聖母子像」を贈っています。右は「聖母子像」を手にした實子の写真。かつて雑誌『FOCUS』に掲載されたものです。

そうこうしているうちに、喜八・實子夫妻の令孫で、武蔵野美術大講師の石黒敦彦氏がご来店。特に当方と約束していたわけではないのですが、ご常連ということでよくいらっしゃるそうです。展示されている資料の中には、氏の所蔵されているものも含まれています。

氏とは一昨年もこちらでお会いしました。その際にはご一緒に来店されていたご母堂・榮子様(喜八・實子の息女)が、今年の3月に亡くなられましたので、まずはお悔やみを述べ、一緒に山端氏の淹れて下さった珈琲に舌鼓を打ちつつ(恐縮ながら無料で戴いてしまいました)、カウンターの中の山端氏も交え、いろいろお話をさせていただきました。

石黒氏は、武蔵美さんの芸術文化学科、空間演出デザイン学科で講義をされているとのことで、いわば展示の関連がご専門。また、「湘南福祉アート・デザイン協議会運営委員」という肩書きもお持ちで、メンタルヘルスとアートを関連させるご活動もなさっている由。そういうわけで智恵子にも深く関心を持たれており、ゆくゆくは智恵子に関する企画展示をなさりたいとのことでした。

その後、再会を約し、笛さんを後に、そして石黒氏に連れられて、すぐ近くにある「ギャラリー青騎士」さんへ。この秋オープンしたばかりのギャラリーで、蔵書票を専門に扱うという、いっぷう変わったところです。

こちらの代表の金森大輔氏は、現在新築工事のため休館中のブリヂストン美術館さんにお勤めだった方です。ブリヂストン美術館さんといえば、昭和28年(1953)、美術映画「高村光太郎」を制作しました。この年に除幕された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景、その除幕後、花巻郊外太田村に一時帰村した光太郎の様子などが記録されています。下はその撮影クルーと光太郎。場所は中野のアトリエです。

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光太郎以外に「梅原龍三郎」、「坂本繁次郎」など20本ほど作成された「美術映画シリーズ」のフィルム、館の美術講座的な催しで上映されていたとのことですが、昭和40年代以降それもなくなり、しばらくフィルムの存在自体忘れ去られていたところ、ブリヂストン本社から「こんなものが見つかった」と金森氏に連絡があって、再び日の目を見ることになりました。

「高村光太郎」は現在、花巻高村光太郎記念館や十和田湖畔の観光交流センターぷらっとに行けば常時上映されています。また、この夏の碌山美術館さんでの「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」など、光太郎がらみの企画展で上映されることもよくあります。

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それも金森氏らのお骨折りでデジタルデータになっているおかけです。当方の手元にもあり、改めて御礼を申し上げておきました。それにしても、はからずもそういう方にお会いするという不思議な偶然に驚きました。

石黒氏、金森氏とはここで別れ、駒場の日本近代文学館さんに寄って、調べ物をして帰りました。

さて、笛ギャラリーさんでの「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」、来月1日(火)まで。ただし毎週月・水・木と10/30(日)はお休みだそうですので、お気を付け下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

行くにわれ見るにわれなる一人子や大和山城青空つづく
明治34年(1901) 光太郎19歳

古都つながりで奈良、京都に遊んだ際の歌を一首。この年9月末から、東京美術学校の修学旅行で奈良、京都を訪れています。その期間、なんと2週間。物見遊山ではなく、いにしえの仏像などをしっかり研究するための、まさしく修学旅行でした。

そいうえば修学旅行シーズンですので、鎌倉もそれらしい中高生で賑わっていました。

3ヶ月前にちらっとご紹介しましたが、神奈川県鎌倉市の川喜多映画記念館さんで、故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)の上映があります 

智惠子抄(98分/1957年/東宝/白黒/35mm)

上 映 : 7月8日(金)10:30/14:00、7月9日(土)、7月10日(日)14:00
監 督 : 熊谷久虎
出 演 : 原節子、山村聰、青山京子、三津田健、柳永二郎、三好栄子 他
料 金 :  一般:1000円 小・中学生:500円   6月18日(土)より発売
原 作 : 高村光太郎

詩人、彫刻家として知られる高村光太郎が愛妻智惠子の名を冠して発表した詩集をもとに、二人の出会いから妻の死までを描く。原節子の義兄として公私を支えてきた熊谷久虎による映画化作品。


こちらは3月から同館で開催されている特別展「鎌倉の映画人 映画女優 原節子」の一環です。

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期間中に13本の原さん主演映画が上映され、「智恵子抄」はその大トリです。特別展の方も、「智恵子抄」千秋楽の7月10日(日)まで。「智恵子抄」ポスターなども展示されています。

併せてご覧下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

雨ふればしとしとふれば紙の戸の糊さへかびて我がこころ冷ゆ
明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半に及ぶ欧米留学からの帰国後の作です。

じめっとした日本の空気感が、自然現象としてのそれだけでなく、旧弊な社会全般の閉塞感の象徴としても表されているように読み取れます。

先週、ご案内を頂きましたが、その後岩手に行っておりまして、ご紹介が遅れました。

Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート

夜明けの湖を照らす淡い光のように 音楽は静かに語りかける
ピアニスト・作曲家 荒野愛子による室内アンサンブルコンサート
音楽環境に優れたホールでチェコの名器PETROFの響きとともに

期  日 : 2016年6月4日(土)
時  間 : 開場14:30  開演15:00
会  場 : Sala MASAKA 神奈川県横浜市戸塚区品濃町514-13
料  金 : 前売り:3,500円  当日:4,000円
申し込み: cafecatsmusic@gmail.com 

主  催 : Cafecats Music
協  力 : 株式会社ピアノプレップ

出  演 : Aiko Kono Ensemble
野愛子 Aiko Kono(ピアノ・作曲)
国立音楽大学卒業。在学中よりクラシックを学ぶ傍ら、ジャズ、ポップス、ブラジル音楽等に親しむ。卒業後、演奏活動と同時に作曲を始める。特に文学作品に影響を受けて作曲されたものが多く、朗読や演劇との共演も多数。
2007年にはオリジナル作品を収録した初のピアノソロアルバム「オトヒトシズク」(Cafecats Music)を発表。
2013年には高村光太郎の詩集にインスパイヤされ制作したアルバム「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットのための小曲集」(Cafecats Music)を発表。
ピアノを中心とした自由な形態のアンサンブル、クラシックとその他の音楽を融合したジャンルの限定されない音楽を目指す。 

藤田有希  Yuki Fujita(ヴァイオリン)
2歳よりヴァイオリンを始める。第53回全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門小学生の部第2位、東京都教育委員会から表彰される。2000年、東京芸術劇場大ホールにて東京交響楽団主催の演奏会でソリストとしてデビュー。新宿文化センター主催、第一回ニューイヤー名曲ファミリーコンサートで東京交響楽団と共演。2006年までソリストとして招かれた他、飯盛範親、山下一史、本名徹二、時任康文の著名な指揮者と共演。また、フィンランド国営放送コンサートミストレスとして出演。日本、フィンランドで多数のソロリサイタルを開催。
これまでにヴァイオリンを原田幸一郎、竹澤恭子、富重祐、友永優子、ペトリ・アールニオの各氏に師事。
桐朋女子高等学校音楽科を卒業後、シベリウスアカデミー(フィンランド)に留学。2014年春、シベリウス・アカデミー修士課程を修了し、現在日本とフィンランドを拠点に活動中。


新實紗季 Saki Niinomi(クラリネット)
愛知県出身。13歳よりクラリネットを始める。国立音楽大学卒業。同大学卒業 演奏会に出演の他、各種新人演奏会やサロンコンサート等で演奏を重ねる。
2005年大阪市芸術家支援制度<大阪AIS>オーディションに合格し、大阪にてソロリサイタル、ジョイントリイタルなど多数出演。ソロだけでなく室内楽の分野においても演奏活動をしている。

曲  目 :『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集/中原中也の追想 第一集/他

荒野さんサイトより

今回、兼ねてからコンサートで弾きたいと思っていたチェコのピアノPetrofを使用させていただきます。場所は、東戸塚にある素敵なプライベートホールです。クラシックコンサート仕様に設計されたとても音の良いホールです。
そして一緒に演奏するメンバーも素晴らしいので、本当に楽しみです。
全曲荒野愛子オリジナルを演奏します。
ぜひお越しください!


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というわけで、ピアニスト・作曲家の荒野愛子さんを中心とするサロンコンサートです。

プロフィールにあるとおり、荒野さん、「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集」というCDを平成25年(2013)にリリースされています。その際にはリリース記念のコンサートにお誘いいただきましたが、当方の講演の日程ともろかぶりで欠礼いたしました。

今回のコンサートにも出演される新實さんも参加されています。

また、ファーストアルバム「オトヒトシズク」にも、「レモン哀歌」というナンバーが収録されています。

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やはり荒野さんのプロフィールにあるとおり、「ピアノを中心とした自由な形態のアンサンブル、クラシックとその他の音楽を融合したジャンルの限定されい音楽」、そういう感じです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

野ははるか夢ながるるにかくるるに青葉の森の暗き過ぎずや
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日の記事を書くにあたって、荒野さんのCDを流していました。「青葉の森」を歩いているような感覚にとらわれました。

画像は当方自宅兼事務所の裏山に広がる森です。
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先週の土曜日、横浜神奈川近代文学館に行って参りました。

閲覧室での調べ物が主目的でしたが、開催中の特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、招待券を戴いていたので拝見してきました。 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」

「吾輩は猫である」「坊っちやん」「三四郎」「それから」「心」そして「明暗」…人間の心の孤独とあやうさを描いた夏目漱石の作品は、私たちの生き方へ多くの問題を投げかけ、その一方で、夢や謎、笑いに彩られたイメージの宝庫としても読者を魅了して来ました。
作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、漱石は「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」と述べています。そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、多くの人びとが作品を繰り返し読み、その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。漱石文学は読者にとってまさに「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。
没後100年を記念して開催する本展は、こうした作品世界と、英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料、そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。
会 期  2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日
  月曜日(5月2日は開館)
 間  午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場  神奈川近代文学館第1・2・3展示室
観覧料  一般700円(500円) 65歳以上/20歳未満,学生300円(200円) 
     
( )内は20名以上の団体  高校生100円 中学生以下無料     
     東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
 催  県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
特別協力 岩波書店
協力   東北大学附属図書館
後援   NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
協賛   集英社 京浜急行電鉄 相模鉄道 東京急行電鉄
     神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
広報協力 KAAT 神奈川芸術劇場
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漱石と光太郎には美術を通して接点がありました。大正元年(1912)、漱石の書いた美術評論を光太郎が批判したというものです。当時光太郎は数え30歳。留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と縁を切り、ヒユウザン会に加盟、油絵の制作に力点を置いていた時期でした。

漱石はそうした美術界の新機軸に一定の理解を示していました。一つには漱石山房に出入りしていた画家の津田青楓の影響があったと思われます。津田は後に漱石の著書の装幀を多く手がけます。

光太郎の方は、漱石や森鷗外といった権威的な存在には噛みつかずにはいられない、という感じでした。津田とは欧米留学中に親しくつきあっていましたが、お互いの帰朝後は、漱石にかわいがられた津田と、権威的なものに反抗する光太郎とで、自然と疎遠になったようです。

ちなみに光太郎がまだ東京美術学校に在学中で、本郷Ⅸ駒込林町155番地の実家に住んでいた頃、漱石は明治36年(1903)から約3年間、本郷Ⅸ千駄木町57番地(いわゆる「猫の家」)に住んでおり、近所といえば近所でした。

さて、「100年目に出会う 夏目漱石」。当然ですが文学関連が中心の展示で、漱石の自筆資料等もふんだんに出品されており、息遣いが聞こえてくるようでした。

美術関連では、ヒユウザン会がらみの展示はありませんでしたが、漱石自身の絵画がまとめて展示されていました。ただ、津田青楓などは自身で絵の手ほどきをしながら、その方面での漱石の才能がないことを、敬愛を込めながらも揶揄しています。

 津田が自分の仕事の段落のついた或000る日行つてみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるやうな口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの、俺は日本画の方が面白いよ。」さう云つて、半紙ぐらいの厚ぼつたい紙に塗りたくつた妙な画を出して見せられた。
 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息してゐる。そのまへに一匹の馬がある。先づ馬と仮説するだけなんだが、四ツ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先づ馬に近い――その馬が前脚を一つ折つて、これから草の上で休まうとするやうにも、又これから立ち上がらうとするやうにも見える。馬といひ、人といひ、まるで小学校の生徒の画のやうだ。柳は無風状態で重々しくたれ下つてゐる。全体が濁つた緑でぬりつぶされてゐる。柳の下にはフンドシを干したやうに、一条の川が流れてゐる。その川と柳の幹だけが白くひかつて、あとは濁つた緑。下手な子供くさい画と云つても片付けられる。又鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、云つてもみられる。先生はリヤルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし」「夢十夜」あんな作を絵筆で出さうとしてゐられる。
 漱石先生が「どうだ、見てくれ」と云つて出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は挨拶の代りに大きな口をあいて、
「ワハヽヽヽヽヽ」
 先づ笑つた。
(『漱石と十弟子』)


漱石といえば、文豪中の文豪ですが、こういう人間くさいエピソードには、親しみを感じます。並んでいた絵を見て、クスリとしてしまいました。

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、今月22日までです。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

人あり薫風に似て来り坐す      昭和20年(1945) 光太郎63歳

「薫風のよう」といわれる人間になりたいものです(笑)。

昨日は神奈川県鎌倉市に行っておりました。昨日始まった、鎌倉市川喜多映画記念館さんの「特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子」を拝見して参りました 

特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子

期  日 : 2016年3月18日(金)~7月10日(日)
会  場 : 鎌倉市川喜多映画記念館 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目2番地12号
時  間 : 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
料  金 : 一般300円(210)円 小・中学生150円(105)円 ( )内は団体20名以上

〜 美しき微笑と佇まい、スクリーンに輝いた大スターを偲んで 〜
戦前から戦後にかけて日本映画の黄金期に活躍し、こつ然と銀幕を去った後、鎌倉で終生を過ごした原節子。昨年、その訃報が届き、多くの人々が偉大な映画女優の逝去に深い追悼の意を表しました。小津安二郎監督による『晩春』『麦秋』『東京物語』で演じた「紀子」の品性に満ちた美しさや、成瀬巳喜男監督、黒澤明監督などの作品で演じた女性像は、映画を愛する人々の心に永遠に刻まれていることでしょう。
本企画展では、公私ともに親交の深かった写真家・秋山庄太郎による他では見る機会の少ない貴重なポートレートの数々を展示いたします。また、日独合作映画『新しき土』のドイツ公開にあわせて渡欧した際の写真アルバムや特別映像もご覧いただきます。関連作品の上映では、鎌倉文士の永井龍男、今日出海原作の映画化作品の上映もございます。鎌倉における本企画展にて、映画女優・原節子を偲び、皆様の思いを馳せていただく機会になれば幸いです。

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昨秋亡くなった伝説の映画女優・原節子さん。昭和32年(1957)には、熊谷久虎監督の東宝映画「智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。この際には、福島二本松の、智恵子の生家や二本松霞ヶ城などでもロケが行われました。

「智恵子抄」関連の展示があるかどうか、実際に行って見てみないとわからないので、半分賭けでしたが、時間もあったので、鎌倉まで車を走らせました。

川喜多映画記念館さんは、鶴岡八幡宮にほど近いところにあります。鎌倉駅からですと、小町通りを北上し、八幡宮に出る直前を左折するとすぐ見えてきます。当方は八幡宮近くに車を駐め、八幡宮の前を通って行きました。

先日閉館した「カマキン」こと神奈川県立近代美術館・鎌倉館さん。当初は閉館に伴って建物も取り壊される予定でしたが、ル・コルビジェに師事した建築家・坂倉準三の設計で、モダニズム建築の逸品ということで、遺されることになりました。

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さて、川喜多映画記念館さん。

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当方、中に入るのは初めてです。

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受付で入館料300円也を払い、左手の展示室へ。

早速、「智恵子抄」の立看用のポスターが壁面に飾られているのに気付きました。「来た甲斐があった」と胸をなで下ろしました。

その後、順路に従って拝観。原さんの年譜や故・秋山庄太郎氏撮影のポートレート、当時の雑誌、出演作品に関する資料などなど。

原さんの出演作品は少なくなく、代表作の「東京物語」や「青い山脈」などは大きく取り上げられていました。反対に、初期の頃などのあまり有名でない作品は簡単な説明。「智恵子抄」はその中間といった扱いで、最初に見た立看用の縦長のポスター以外にも、通常サイズ(B2判)のポスターやスチール写真などが展示されていました。

当方、原さんの「智恵子抄」ポスターは10種類近く所蔵しています。最初に目に付いた立看用のものは同じものを持っていますが、通常サイズ(B2判)のものはまだ入手できていません。今回展示されているものとは異なるバージョンは持っています。今回のものも、いずれは入手したいものです。

こちらには上映室も完備されており、以前にも「智恵子抄」の上映がありました。来月から、「智恵子抄」を含む原さん主演の映画、計12本が順次上映されます。また近くなりましたら改めてご紹介しますが、「智恵子抄」は最後、7月の上映です。

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ぜひ足をお運びください。

ところで当方、原さんの「智恵子抄」がらみの資料をコツコツ集め続け、気付いたらかなりの量になっています。ポスター、チラシ、パンフレット、スチール写真、撮影風景のスナップ写真、カメラテスト用に撮られたと思われるポートレート、当時の雑誌などなど。「原節子と映画「智恵子抄」」という企画展が出来る程度の量です。この際に、どこかでやっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

寺に入れば石の寒さや春の雨     明治42年(1909) 光太郎27歳

やはり欧米留学中のイタリア旅行での作ですので、「寺」は仏教寺院ではなくキリスト教の教会、修道院の類です。ただ、日本の風景としてイメージしても通用する句ですね。

一昨日拝観した、神奈川県立県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」レポートの2回目です。

水沢勉館長のトークを聞き終え、いよいよ展示を拝見しました。

光太郎作品は2点。

2階の第一展示室に入ってすぐ、油絵の「上高地風景」(大正2年=1913)。下記はNHKさんの「日曜美術館」から採らせていただきました。左端が「上高地風景」です。

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智恵子との婚約を果たした信州上高地での作品です。昨年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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「こんなに大きな絵だったっけか?」というのが正直な感想でした。この絵の実物を見るのは4度目くらいのはずですが、過去3回は他の光太郎絵画と共に展示されたのを見ており、この絵だけの印象はあまり残っていませんでした。

改めてよく観てみますと、フォービズム風の荒い筆触、色遣いの中にも繊細な神経が行き届いており、さらにやはり画面の大きさからくる迫力に圧倒されました。


続いてブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。光太郎が敬愛したロダンの「花子の首」と同じコーナーに並んでいました。光太郎メインの企画展で、ロダン作品を参考出品することはよくありますが、それとは違った主旨で2人の作品が同じコーナーに並んでいることに感慨を覚えました。しかも、モデルの女優・花子はロダンのモデルを務めたほとんど唯一の日本人ということで、光太郎は昭和2年(1927)、郷里の岐阜に花子を訪ね、その模様を評伝『ロダン』に書き残しています。

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前列中央が「裸婦坐像」、左端が「花子の首」です。その間にはブールデル、後列には中原悌次郎など、やはりロダン、光太郎と縁の深い作者の作が並んでいます。


その他、柳敬助、梅原龍三郎、松本竣介、難波田龍起といった、光太郎と縁の深かった人々の作品なども興味深く拝見しました。


再び1階に下りました。館長トークの間に、こんなコーナーがあったのに気付いていて、そちらを拝見しました。

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来館者の皆さんが、自由にメッセージを書き込み、それが掲示されています。

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「日曜美術館」にもそういう部分がありましたが、スタッフ以外にもこの館に対する深い思い入れを持つ方が、非常にたくさんいらっしゃるようです。

こんな書き込みも。「裸婦坐像」についてでしょう。

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企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」、1/31(日)までです。そして最終日には閉館を迎えます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】無題

少女子は兎の族(やから)ま裸になりてきよとんと坐りたるかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

「少女子」は「おとめご」。時期的に少しずれていますが、「裸婦坐像」制作に関わるかもしれません。

詩人の真壁仁による「高村先生の彫刻」(昭和27年=1952)には次のように記されています。

「裸婦」はよく夫人をモデルにした作と思われているが、実際は百合子という横浜のチャブ屋の女である。チャブ屋の生活を嫌ってその女が逃げ出してきたとき、先生は一時かくまってあげた。そのとき、モデルになるかと言ったら、なるというので、先生は彫刻にこさえ、夫人は油絵に描いた。そんな商売の女と思えないほどいいからだだったそうである。

昨日は鎌倉に行っておりました。

今月いっぱいで閉館する神奈川県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」を見て参りました。

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同館は昭和26年(1951)開館、日本で最初の公立近代美術館、世界で3番目の近代美術館という歴史ある館です。2代目館長の土方定一は、文学趣味もあり、草野心平主宰の『歴程』同人で、その縁もあって、光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の在京建設委員に名を連ねるなど、光太郎と縁が深かった人物です。

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その関係もあって、光太郎が歿した昭和31年(1956)、「高村光太郎智恵子展」が初めて開催されたのがこちらです。

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もう少し早く行きたかったのですが、いろいろあり、また、昨日は午後2時から水沢勉館長のトークがあるということで、昨日に致しました。

鎌倉に着いたのは午後1時過ぎ。運良く八幡宮西側の、最も近い有料駐車場に車を入れることが出来ました。昼食は門前で蕎麦でも、と思っていましたので、途中で食べませんでした。昼食の前に券だけ買っておこうと思い、受付を目指すと、なんとまあ、長蛇の列でした。並ぶこと30分くらい。結局、昼食は後回しにしました。

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長年、この鎌倉の地で親しまれてきた館ですので、別れを惜しむ人々の来訪が絶えないのでしょう。また、元々休日でしたし、さらに、企画展も光太郎を含め、内外の有名作家の作品がたくさん出ており、それに加えて水沢館長のトークもあるということで、こうなったと思われます。

それから、先月にはNHKさんの「日曜美術館」で、「さよなら、わたしの美術館~“カマキン”の65年~」の放映があり、それがまたいい内容でしたので、それも大きいのではないでしょうか。

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番組では水沢館長、今回の企画展を担当された主任学芸員の長門佐季さん、そして、かつてこの館にスタッフとして関わられた皆さんの思いが語られました。

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館の建物自体が、ル・コルビジェに師事した建築家・坂倉準三の設計で、モダニズム建築の逸品です。そこでともに写真撮影が趣味だという、伊藤敏恵アナと共に司会を務める俳優の井浦新さん、ゲストで鎌倉出身・女優の鶴田真由さんが、館内外で入魂の写真撮影。

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当初は、閉館後は取り壊される予定でしたが、建築史的に貴重ということで、保存されることになりました。


さて、中に入って、展示の観覧は後ほどにし、まず水沢館長のトークが行われる中庭へ。こちらは光太郎とも縁のあったイサム・ノグチの作品です。

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定刻の2時少し前、水沢館長がご登場。トークが始まるまでの間、お話をさせていただきました。水沢館長は、平成25年(2013)に、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の愛知碧南会場・藤井達吉現代美術館さんで記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさり、当方、それを拝聴、さらに帰りの新幹線でご一緒させていただきました。その後も長門さんともども、一昨年の連翹忌にご参加下さいました。

まだ先の話ですが、今回閉館する鎌倉館とは別の鎌倉別館で、平成31年(2019)かその翌年に、光太郎智恵子展をやりたいとのことです。別館も近々大がかりな改修工事が入るそうで、それが終わってからのことになります。ありがたいことです。
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水沢館長のトーク、黒山の人だかりとなりました。

鶴岡八幡宮の一角に、回廊(ピロティ)のようなスタイルで造られたこの館、まるで絵馬堂のようだというお話。さらに光太郎とも縁の深かった村山槐多やイサム・ノグチのお話。示唆に溢れるものでした。


その後、実際に展示を拝見しましたが、長くなりましたので、また明日。


【折々の歌と句・光太郎】

なびき行く野火の烟を指さして星なき宵よ友と別れし
明治34年(1901) 光太郎19歳

この年1月3日、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社の集まりが鎌倉で行われ、由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうで、その際の作です。

水沢館長他、近代美術館鎌倉館に関わった人々の思いは「友と別れ」るようなものなのではないでしょうか。

神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮の境内に神奈川県立近代美術館の鎌倉館があります。昭和26年(1951)開館、建物自体もル・コルビジェに師事した板倉準三の設計によるもので、非常に高い評価を受けています。

ちなみに光太郎が歿した昭和31年(1956)、「高村光太郎智恵子展」が初めて開催されたのがこちらです。

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こちらが来年1月をもって、閉館することになりました。土地の貸借、建物の耐震性の問題などがその理由だそうです。

すぐ近くに鎌倉別館があるので、こちらの機能は別館に移転、建物も歴史的に貴重ということで、耐震補強の上、保存される見通しだそうです。

そこで、鎌倉館としての最後の企画展が始まりました。光太郎作品も2点、並んでいます。光太郎作品が並んでいるという情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。申し訳ありません。 

鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」

期  日 : 2015年10月17日(土)~2016年1月31日(日)
第一会場 : 鎌倉館   
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-53 Tel. 0467-22-5000
第二会場 : 鎌倉別館 「鎌倉からはじまった。1951-2016 工芸と現代美術」
          神奈川県鎌倉市雪ノ下2-8-11 Tel. 0467-22-7718
休 館 日  : 月曜日(ただし11月23日、1月11日は開館)、 12月29日(火)-1月3日(日)
開館時間 :  午前9時30分-午後5時(入館は午後4時30分まで)
観 覧 料  : 一般1,000円(900円) 20歳未満と学生850円(750円) 65歳以上500円
       高校生100円 
( )内は20名以上の団体料金

※鎌倉館の観覧券で、当日に限り鎌倉別館を無料でご観覧いただけます。

※中学生以下、障害者手帳をお持ちの方は無料。その他の割引につきましてはお問い合わせください。

※ファミリー・コミュニケーションの日:
毎月第1日曜日(今回は11月1日、12月6日)は、18歳未満のお子様連れのご家族は、優待料金(65歳以上の方を除く)でご観覧いただけます。

※11月3日(火・祝)「文化の日」は、開催中の展覧会を無料でご覧いただけます。


1951年11月17日、日本で最初の公立近代美術館として鎌倉の鶴岡八幡宮境内に誕生した神奈川県立近代美術館は、このたび2016年1月末をもって鎌倉館での展覧会活動を終了することになりました。
2015年度は、「鎌倉からはじまった。1951-2016」と題し、これまでの鎌倉での活動を三期に分けて紹介してまいりましたが、いよいよ本展が最後となります。
これまで鎌倉館に足を運んでくださった多くの皆様に感謝いたしますとともに、2016年4月以降は、葉山館と鎌倉別館の二館体制で活動してまいりますので、今後ともご理解とご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

「カマキン」最後の展覧会
「鎌倉近代美術館(略称:カマキン)」として長く皆様に愛されてまいりました鎌倉館での最後の展覧会となるPART3では、1951年の美術館誕生から1965年までの15年を取り上げます。草創期の当館では、戦前、戦中の文化的空白を埋めるべく、佐伯祐三、萬鉄五郎、古賀春江、松本竣介などの、小規模ながらも充実した展覧会が開催されました。そうした調査と研究を重視した展覧会のあり方は、美術館の礎として受け継がれてきました。本展では、この時期に取り上げた作家による作品を所蔵品から選んで展示すると同時に、美術館の活動に伴って改修が重ねられてきた坂倉準三設計による鎌倉館の変遷を、図面や写真、映像資料で紹介します。なお、鎌倉別館では「工芸と現代美術」と題して、所蔵品のなかから工芸・デザインとその現代美術への展開を追います。ぜひご高覧ください。

関連企画
1 建築トーク 講師:青木淳氏(建築家) 11月1日(日)午後2時-3時30分
*要申込(先着30名)、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

2 トヨダヒトシ氏(写真家)によるスライドショー(ライブ・パフォーマンス)
10月24日(土)午後5時-6時 「白い月」(2010-15年、35mmフィルム、サイレント)
  ニューヨーク、春から冬へと向かう日々を綴った映像日記。
10月25日(日)午後5時-6時 「ツバメー吉村弘に捧ぐ(仮)」(2015年、35mmフィルム)
  サウンド・アーティスト吉村弘が残した写真をもとに構成したスライドショー作品。
*上映開始後の入場はできませんので、4時30分までにご入場ください。展示室は5時で閉場します。
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

3 小杉武久氏、和泉希洋志氏によるコンサート 11月8日(日)午後3時-
*午後1時より整理券を配付します。(混雑状況により入場を制限する場合がございます。)
*参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

4 石田尚志氏(画家/映像作家)による映像インスタレーション上映
11月28日(土)、11月29日(日)各日午後5時-
*4時30分までにご入場ください。上映開始後の入場はできません。展示室は5時で閉場します。
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

5 担当学芸員によるギャラリー・トーク 12月5日(土)午後2時-2時30分
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

6 館長トーク 話し手:水沢勉(当館館長)
12月12日(土)、2016年1月24日(日)各日午後2時-3時
申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

7 連続講演会「近代美術館とわたし」(県立機関活用講座)
第1回 10月17日(土)講師:荻野アンナ氏(作家/慶應義塾大学教授)
第2回 10月31日(土)講師:李 禹煥氏(美術家)
第3回 11月14日(土)講師:高階秀爾氏(大原美術館館長)
第4回 11月15日(日)講師:藤森照信氏(建築史家/建築家)
第5回 11月22日(日)講師:池内 紀氏(ドイツ文学者/エッセイスト)
各回午後2時-4時 *要申込(先着120名)
会場:鎌倉商工会議所会館 地下ホール
受講料:各回1,000円(任意の回数で申込み可能)
*1,7の申込方法:次の事項を明記し、fax、往復はがき、当館ホームページの問い合わせフォームのいずれ
かでお申し込みください。
1)企画名 2)氏名〔ふりがな〕 3)郵便番号、住所、電話番号、fax番号、メールアドレス 4)参加希望人数〔同伴者の氏名、ふりがな〕
*申込先:神奈川県立近代美術館 鎌倉 fax. 0467-23-2464


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さて、光太郎作品ですが、2点展示されています。

まずは大正2年(1913)、智恵子と婚約を果たした信州上高地で描かれた油絵「上高地風景」。この年の生活社主催油絵展覧会に出品されたものです。生活社は、フユウザン会分裂後、光太郎や岸田劉生らが興した団体でした。

今年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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この油絵、光太郎の親友だった水野葉舟に贈られ、水野家で保管されていましたが、現在は同館に寄託されているそうです。

現在、平塚市美術館さんで開催中の企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」に並ぶかな、と思っていたのが展示されず、残念に思っておりましたが、こちらに出すためだったのですね。


もう1点、ブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。無題よく智恵子がモデルと勘違いされますが、違います。

光太郎は、横浜で夜の商売についていた「百合子」という若い女性を一時かくまってやったことがあり、その礼にと、モデルを務めてくれたそうです。智恵子も彼女をモデルに絵を描いたとのこと。


「裸婦坐像」は同型のものが日本各地に存在し、よく眼にしますが、「上高地風景」は油絵なので一点ものです。この機会に御覧下さい。


他の出品作は以下の通りです。

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光太郎と交流の深かった作家の作品もいろいろラインナップに入っています。絵画でいうと、柳敬助、中村彝、梅原龍三郎、松本竣介……。彫刻ではロダン、佐藤忠良、舟越保武、戸張孤雁などなど。

ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月23日

昭和58年(1983)の今日、福島県安達町(現・二本松市)の智恵子の生家裏山に「樹下の二人」詩碑が除幕されました。

「あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川」で始まる、「智恵子抄」中の絶唱の一つです。

この裏山は鞍石山と呼ばれ、幼少時や帰省した智恵子がよく歩いていたり、智恵子の実家を訪れた光太郎を案内して二人で歩いたりした場所です。近くには展望台も設けられています。

晴れた日には碑に「ほんとの空」が映ります。

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昨日は神奈川県の鎌倉から茅ヶ崎、いわゆる湘南に行っておりました。

まずは北鎌倉のカフェ兼ギャラリーの笛ギャラリーさん。こちらは店主の奥様が、光太郎の妹のお孫さんにあたります。過日のこのブログにてご紹介しましたが、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」という展示が始まっています。

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昨年もお邪魔しましたが、不思議なお店です。不思議なお店ですが、鎌倉の雰囲気には非常にマッチしています。「笛」というだけあって、店内には様々な笛が。

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昨年は、お近くにお住まいの尾崎喜八のご息女・榮子様、伊藤海彦令夫人がたまたまいらしていたのですが、今年はいらっしゃいませんでした。

美味しい濃厚な珈琲をいただきながら、展示を拝見。

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左は尾崎夫妻と榮子様、そして光太郎。右は尾崎喜八です。喜八夫人の実子は、光太郎の親友・水野葉舟の長女でした。

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喜八や光太郎の書。光太郎の書はほとんど複製でしたが、1点、直筆のものがありました。

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寒山詩からの引用で「此珠無価数」と読みます。

他にも「書」とは言えませんが、光太郎と喜八の直筆がいろいろ。

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左は光太郎から甥に宛てた書簡。昭和20年(1945)4月の空襲で駒込林町のアトリエが全焼、焼け跡に残った香木の白檀がいい具合に炭になっていて、それを贈る際に添えたものです。

右は喜八が書いた町内の回覧文書。「明月会」というのは町内会で、喜八が役員をしていた際のもの。切れた街灯の修繕に関わるものです。当方も昨年度から町内会の役員をやっており、微笑ましく拝読しました。

その他、二人の著書や研究書の類も並んでいました。

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昨年並んでいた光太郎から尾崎夫妻の結婚祝いに贈られたミケランジェロ模刻のブロンズ「母子像」は、今年は並んでいませんでした。

来月10日まで(ただし月・水・木はお休み)展示が続きます。ぜひ足をお運びください。

その後、車で数分の東慶寺さんに行きました。駆け込み寺、縁切り寺として有名なところですね。といっても、別に誰かと縁を切りたいと考えて参拝したわけではありません(笑)。

こちらは智恵子の親友だった作家・田村俊子の関係です。

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石段を登って山門をくぐり、拝観料を納めるとすぐ左手に、俊子の文学碑が建っています。

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大正2年(1913)に書かれた俊子の短編小説、「女作者」の一節が刻まれています。

この女作者はいつも000
おしろいをつけてゐる
この女の書くものは
大がいおしろいの中から
うまれてくるのである
          
この「女作者」、智恵子も登場します。ただし「女友達」としか書かれていませんが、近々結婚すると言っていることなどから、智恵子がモデルと思われます(光太郎智恵子の結婚披露は翌年)。

ちなみに智恵子と思われる友達のセリフをいくつか引用しましょう。

「結婚したつて私は自分なんですもの。私は私なんですもの。恋と云つたつてそれは人の為にする恋ぢやないんですもの。自分の恋なんですもの。自分の恋なんですもの。」

「私は自分に生きるんだから。自分はやつぱり自分の芸術と云へるわ。自分の芸術に生きると云ふ事は、やつぱり自分に生きるつて事だわ。」

「私だつて随分考へたけれども、私はもう自分に生きるより他はないと思つてしまつたの。私は自分に生きるの。」

いかにも、ですね。

今回はさらに、俊子の墓参もしてきました。碑は10数年前に一度、見に行った事がありましたが、その時は寡聞にして俊子の墓がこちらにあるということを存じませんでした。

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智恵子と、2歳年長だった俊子とは『青鞜』つながりで知り合い、意気投合しました。俊子も智恵子と同じく日本女子大学校に通っていましたが、心臓病のため中退しており、在学中には接点はありませんでした。

『青鞜』といえば、平塚らいてう。

そして、鎌倉からほど近い茅ヶ崎に、らいてうの文学碑が建っています。茅ヶ崎はらいてうにとって、夫となった奥村博との出会いの地です。後に博が結核に罹患した際にも、茅ヶ崎で療養しています。そういった経緯で、茅ヶ崎にらいてうの碑が建てられました。当方、この碑は未見でした。

というわけで、鎌倉をあとに、国道134号線を西へと走りました。まだ先の話ですが、智恵子の故郷・二本松での「智恵子講座’15」で、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」という講義をすることを仰せつかっておりまして、俊子についてもそうですが、そのためのネタ集めという背景があります。

目指す碑は、茅ヶ崎駅に近い高砂緑地というところにありました。

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智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に収められた、有名な一文「原始、女性は太陽であつた 真正の人であつた」が刻まれています。ちなみに同じ号には俊子の小説「生血」も掲載されました。

碑を前に、100年以上も前、女性の自立を求めて立ち上がった彼女らに思いを馳せました。

この碑のある高砂緑地は、元はセレブの別荘地だったところで、今も当時の建物の跡が残っています。

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また、光太郎がその詩的世界を激賞した夭折の詩人・八木重吉もこのあたりで結核の療養をしていたということで、八木の詩碑も立っていました。これは当方、存じませんでした。

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尾崎喜八、実子、水野葉舟、田村俊子、平塚らいてう、奥村博、八木重吉、そしてもちろん光太郎、智恵子……。いろいろな人々に思いを馳せる一日でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月17日

昭和51年(1976)の今日、花巻市太田の旧山口小学校向かいに「太田開拓三十周年記念」碑が除幕されました。

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光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の一節が刻まれています。

10月17日は、昭和20年(1945)に、光太郎がこの地での生活を始めた日なので、この日を選んで除幕したものと思われます。

神奈川県鎌倉市からの情報です。 

10/4追記 日程が変更になりました。下記の通り訂正です。 

回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四

会 期 : 2015年10月9日(金)~11月10日(火)
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215 0467-22-4484
時 間 : 10:00~16:00
休業日 : 毎週月・水・木

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「あじさい寺」として有名な明月院さんの近く000にあるカフェ兼ギャラリーの笛ギャラリーさんでの展示です。店主の奥様が、光太郎のすぐ下の妹・しづのお孫さんに当たられ、光太郎ゆかりの品々が伝わっているというお店です。毎年この時期にこの展示を開催されています。

尾崎喜八は明治25年(1892)生まれの詩人。光太郎より9歳年少です。大正13年(1924)、光太郎の親友・水野葉舟の娘・実子と結婚し、光太郎が介添えを務めました。さらに結婚祝いとしてミケランジェロの「母子像」約7分の1模刻のブロンズ像を贈っています。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

下記は昭和61年(1986)の写真週刊誌『FOCUS』のコピーで、当時、健在だった実子に関する記事です。

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現在も喜八・実子夫妻のお嬢さんである榮子さんが笛ギャラリーさんのお近くにお住まいで、光太郎つながりでよくいらっしゃるとのこと。そこで、尾崎家に伝わる品々も展示されるというわけです。

当方、昨年、お邪魔いたしました。その際のレポートがこちら。たまたま榮子さんと、さらにやはり光太郎と交流のあった詩人の伊藤海彦氏の奥様がいらしていて、いろいろとお話を伺うことができました。榮子さんは当方の知る限り、唯一、生前の智恵子をご存じの方です。

伊藤家のお宝、そして「母子像」も展示されており、興味深く拝見しました。

他にも『高村光太郎全集』に未収録の、しづ宛の書簡が3通も見つかり、のちに当方編集の「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。

今年も同様の展示になるのでは、と思います。ぜひ足をお運び下さい。


10/16追記 今年は「母子像」は展示されていませんでした。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月28日

昭和15年(1940)の今日、光太郎が装幀、題字、装画を手がけた水野葉舟の歌集『滴瀝』が刊行されました。

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このコーナー、事前に書く内容をピックアップしてリストにしてあります。

上記笛ギャラリーさんの記事を書き終わってから、さて、「今日は何の日だっけ」と思ってリストを見てみると、たまたま葉舟関連だったので驚きました。

昨日、神奈川県平塚市で、企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」を見て参りましたのでレポートいたします。

会場の平塚市美術館さんは、JR東海道線平塚駅から徒歩20分ほど。なかなか立派な外観でした。入り口には大きなポスターも。

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受付でチケットを購入、企画展会場の2階に上がりました。

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展示会場は2室に分かれており、第1会場が「画家の詩」でした。「画家の詩」といっても、メインは絵画で、それぞれの画家が作った詩がパネルに活字で印刷され、絵画と並べられていたり、画家によっては詩稿などが展示されていたり、といった構成でした。

光太郎と交流の深かった画家も多く取り上げられていました。フユウザン会を一緒に立ち上げた萬鉄五郎、その特異な才能を認め、詩「村山槐多」に詠んだ村山槐多、駒込林町ですぐ近所に住んでいた難波田龍起、主宰した雑誌『雑記帳』に詩を寄稿した松本竣介、智恵子とも顔見知りだった竹久夢二、翻訳『回想のゴツホ』(大正10年=1921)出版に際し、写真を貸してくれた中川一政などなど。

展示室2は、「詩人の絵」でした。入ってすぐに光太郎の油彩画2点が展示されていました。

まず「静物(瓶と果物)」。大正3年(1914)の作です。この年、光太郎が始めた「高村光太郎画会」による作品と推定されています。油絵を購入してもらうための会で、雑誌『我等』(下記画像)、『現代の洋画』に広告を出しています。

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もう一点は、「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)。与謝野夫妻を通じて交流のあった新潟佐渡の歌人、渡辺湖畔の娘で、この年に3歳で夭折した道子の肖像です。この絵に関しては、渡辺湖畔あての書簡でその成立過程がわかります。

又御手帋にて御話の御愛嬢の事につきては 御悲嘆のほど察上候 御写真にて拝見してもいかにも無邪気に見うけられ候 元来写真によりて作る事はまことに苦しきものに候へ共 御言葉により ともかくも油画にて試み可申候 しかし此はとても小生自身満足し得るもの出来難からんと思はれ候 此事は前以てお含み置き被下樣願上候 (大正7年=1918 7月8日)

 あの愛らしいみち子さんの方は 初め木炭でいろいろ素描を試み今早朝の時間を以て八号のカムバスへ油画に致して居ります あの無邪気な晴朗とした面影を捉へたいと念じて居ります
 多分今月末にはとにかく一応お目にかけ得る程になるかと思ひます 其時は画を一旦御送附いたします故 み親としての御考をよく御きかせ下さるよう御願いたします 何しろ一度もお目にかかつた事が無いので甚だ心細く思つて居りますから 御考をきいた上で最後の筆を加へたいと思つて居ります (同 8月23日)

10月には光太郎は佐渡の渡辺家を訪れています。道子の肖像以外にも、渡辺の父・金六の肖像彫刻の依頼も受けていたためです。ただし、この彫刻は完成しませんでした。次は東京に帰ってからの書簡です。

製作上の参考となる事多く満足此上も無く候 此印象の薄れぬうち早速みちこ様の油画をかき上ぐる心筭に有之候 (同 10月12日)

そして12月には絵が完成しました。

 みち子嬢の油画はやつと出来ました 明日荷造りをしてお送りします 丈夫に荷造りいたしませう 此は元来私に到底出来ない仕事でありましたが 御心を汲むととてもお断り出来なかつたので兎に角かき上げましたが 作としては自信はとてもありません 私は写真から製作する事はどうしてもうまくゆかないのです しかし自分に出来るだけの事は尽しました 御覧になつた上お気付きの事がありましたら言つて下さい そしてお送り下されば又筆を入れませう それから此画には私の名を入れません 其は私の良心がゆるしませんから 此事は御承知下さるやう御ねがひします 名は入れませんが無責任にかいたのではありません 此事は御領会下さる事と信じます (同 12月25日)

 昨夜手がみで申上げた油画の荷造を終り今夕関根運送店に托して御送りいたしました故御受取り下さい。荷は「此処カラ開ケル事」と書いてある板をはづして下されば中から画を引き出せる事になつてゐますから箱を壊さずとも出ます。画面に若し木屑等の細末が附着してゐましたら奇麗な筆のやうなもので静かに払つて取つて下さい。まだ十分に乾いていませぬから事によると着いているかも知れません。御取扱に御注意下さるやう願ひます。荷が無事に着くやうにと祈つてゐます。御意見を聞いた上で写真は後にお返し致します。 (同 12月26日)

光太郎の細やかな心遣いが溢れていると思います。

光太郎の作品はこの2点でした。帰りがけに購入した青幻舎さん刊行の図録を兼ねた書籍『画家の詩、詩人の絵 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく』では、もう一点、大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」も掲載されていましたし、今月初めに平塚市美術館さんに問い合わせた際にはそちらも並ぶ的なお話だったのですが、不出品でした。この企画展自体は来年8月まで全国を巡回しますので、いずれかの会場には並ぶと思います。

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光太郎の他に絵画が展示されていた詩人は以下の通りです。一番右の「展示」という項目で、展示替えや不出品の情報がありますので、ご注意下さい。

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光太郎と交流の深かった詩人では、北原白秋、木下杢太郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、宮澤賢治草野心平、中原中也などが挙げられます。

ちなみに上記画像は展示室2の出品目録です。展示室1の目録も兼ねているのだろうと思っていたら、展示室2のみのもので、展示室1のものは入手しませんでした。失敗しました。

同展、平塚市美術館さんでは11月8日(日)まで、その後、下記の予定で全国巡回です。それぞれ近くなりましたらまたご紹介します。

2015年11月17日(火)~12月20日(日)  愛知県碧南市藤井達吉現代美術館
2016年2月13日(土)~3月27日(日)   姫路市立美術館
2016年4月9日(土)~6月12日(日)   栃木足利市立美術館
2016年6月18日(土)~8月7日(日)   北海道立函館美術館


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月24日

平成10年(1998)の今日、筑摩書房から「ちくま文庫」の一冊として、橋本千代吉著『火の車板前帖』が刊行されました。

橋本は、草野心平と同郷。戦後、心平が開いた居酒屋「火の車」で板前を務めていました。同書は心平を巡るとんでもない酔っぱらいたちの記録ですが、「夜の高村光太郎」ということで、光太郎にも言及しています。

元版は文化出版局から昭和51年(1976)にハードカバーで刊行されました。

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神奈川県平塚市から企画展情報です。

画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく

会 期 : 2015 年9月19 日(土) ~11月8 日(日)
時 間 : 9:30 ~ 17:00(入場は16:30 まで)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
休館日 :  月曜日( ただし9/21、10/12は開館)、10/13
料 金 : 一般800(640) 円、高大生500(400) 円、小中学生無料
主 催 : 平塚市美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会

 古来、西洋では「絵は黙せる詩、詩は語る絵」といわれてきました。日本でも画賛(がさん)、詞書(ことばがき)が絵画の重要な役割を果たし、「詩書画」の一致を成してきました。一方、日本の近代洋画は、文学からの自立を目指した西洋近代美術の影響のもとで始まっています。特に印象派以後、新しい造形表現を積極的に取り入れた結果、実に多様な作品がうまれました。しかし、現実の生きた情感から浮き上がった作品が多く生まれたことも事実です。こうした中で、村山槐多、長谷川利行、古賀春江、三岸好太郎、山口薫などは、西洋近代美術に学びながらも、文学性、詩情を拠りどころとして優れた作品を残しています。さらにまた、詩の世界では宮沢賢治、立原道造、草野心平らが独自性のある絵を描いています。ある意味では、モダニズムが斥けてきた詩情、文学性を活かすことで、日本独自の絵画が成立したといえます。
  近年では、一部の画家たちが積極的に詩の世界に接近し、新しい表現を生み出そうとしています。本展は、明治から現代までの画家と詩人の絵画と詩を一堂にあつめ、絵画と詩の密接なつながりを検証するものです。
 
画家
 小杉未醒、青木繁、竹久夢二、萬鐡五郎、藤森静雄、恩地孝四郎、田中恭吉、中川一政、長谷川利行、古賀春江、川上澄生、村山槐多、谷中安規、三岸好太郎、棟方志功、長谷川リン二郎、難波田龍起、山口薫、香月泰男、南桂子、松本竣介、浅野弥衛、飯田善國、草間彌生、田島征三、芥川麟太郎、藤山ハン、難波田史男、イケムラレイコ、瓜南直子、O JUN、小林孝亘、鴻池朋子、村瀬恭子、伊庭靖子
 
詩人
 正岡子規、高村光太郎、北原白秋、木下杢太郎、萩原朔太郎、佐藤春夫、西脇順三郎、宮沢賢治、佐藤一英、尾形亀之助、稲垣足穂、岡崎清一郎、富永太郎、小熊秀雄、北園克衛、瀧口修造、草野心平、中原中也、長谷川四郎、まど・みちお、立原道造、三好豊一郎、新国誠一、木島始、春日井建、吉増剛造、田畑あきら子、山本陽子

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関連行事

■ O JUN × 小林孝亘 対談「読む形・見える言葉」
日時 2015年10月4日(日) 14:00-15:30  場所 ミュージアムホール  ※申込不要、先着150名

■ 講演会 窪島誠一郎「絵を語る、詩を語る」
日時 2015年10月12日(月、祝) 14:00‐15:30  場所 ミュージアムホール  ※申込不要、先着150名

■ 学芸員によるギャラリートーク
日時 2015年10月17日(土)、10月31日(土) 各回14:00-14:40  場所 展示室Ⅱ  ※申込不要、要観覧券


というわけで、光太郎の絵画も展示されます。

光太郎の画業は、詩人でありながら絵画も手がけていた、というニュアンスではありません。特に明治42年(1909)、欧米留学から帰ってからしばらくは、むしろ画家として活動していたといっていい時期です。

欧米でロダンをはじめとする西洋近代彫刻の何たるかを学んだ光太郎は、帰国後、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界に絶望し、極力関係を絶とうとしました。文展などの展覧会等に出品すれば、「洋行帰り」「光雲の息子」という肩書きが優先され、彫刻としての価値を理解されないまま入賞することは目に見えていました。同じく洋行帰りの荻原守衛の作品もそうでした。光太郎曰く、


この珍奇のちん入者を文展の方では持てあましたらしかつたが、ともかくも技術があるので無下に排斥もならず、時には三等賞ぐらゐつけて、度量のあるところを見せたものである。彫刻の質に於いて、彼等と彼とは全くちがつてゐるのだといふことにはまるで気がつかない時代であつた。
(「荻原守衛」 昭和29年=1954)

という状況でした。

ちなみにパリで守衛が作り、光太郎が000ぜひ石膏に取って持ち帰るようにと勧めた「坑夫」は、ロダン風の荒々しいタッチが「未完成」と判断され、明治42年(1909)の第2回文展では落選の憂き目に遭っています。審査には光雲も当たっていました。

そこで光太郎は、この時期、彫刻より絵画制作に力を注ぐようになります。大正元年(1912)には、岸田劉生、斎藤与里らとヒユウザン会(のちフユウザン会)を結成、その分裂後も岸田が立ち上げた「生活社」に合流し、智恵子と過ごした上高地での油絵などを出品しています。

また、光太郎はその前後もかなり多くの絵画を描いています。東京美術学校在学中は日本画の臨書の授業があり、ここで絵画の基礎をしっかり学んでいます。フユウザン会や生活社の後も、自身の油絵の頒布会を行ったり、旅先でスケッチをしたり、書籍の挿画などでも筆を振るったりしました。戦後の花巻郊外太田村での暮らしの中でも、時折絵筆を握っています。

さて、今回の企画展に出る光太郎絵画はいずれも油絵で、3点。

大正3年(1914)に描かれた「日光晩秋」。平成12年(2000)、永らく行方不明だったこの絵が発見され、大きく報道されました。

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※ 9/22 追記 平塚市美術館さんでは「日光晩秋」は展示されないそうです。


それから同年に描かれた洋酒の瓶と果実を描いた「静物」、そして新潟・佐渡島の歌人・渡邊湖畔の息女を描いた「渡辺湖畔の娘道子像」(大正7年=1918)です。


この「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」展、平塚市美術館さんを皮切りに、以下の日程で全国巡回が予定されています。

2015年11月17日(火)~12月20日(日)  愛知県碧南市藤井達吉現代美術館
2016年2月13日(土)~3月27日(日)   姫路市立美術館
2016年4月9日(土)~6月12日(日)   栃木足利市立美術館
2016年6月18日(土)~8月7日(日)   北海道立函館美術館

ただ、平塚市美術館さんがそうですが、展示替えがあるそうで、常に上記3点の光太郎絵画が見られるかどうかは不明です。それぞれ近くなりましたらまたご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月6日

昭和20年(1945)の今日、花巻町で9月分の配給を受け取りました。

当日の日記の一節です。

午前米配給所にゆきて九月分(一ヶ月)をもらふ。米5キロ大豆3キロ也。かついでかへる。

数え63歳の高齢者にとって、この量がどうなのか、何とも言えません。

昨日に引き続き、光雲関連の情報です。

シンワアートオークション近代美術/木梨憲武

開催日 : 2015年 9月19日(土)
時 間 : 18:00
会 場
 : シンワアートミュージアム 東京都中央区銀座7-4-12 銀座メディカルビル
下見会 : 2015年 9月16日(水)~ 9月 18日(金) 10:00~18:00
           9月19日(土) 10:00~12:00 
出品点数 : 近代美術129点 木梨憲武8点
落札予想価格下限合計 : 近代美術:2億4,175万円  木梨憲武: 195万円

日本のアートオークション運営会社の中でも大手のシンワアートオークションさん。たびたび光雲作品が出品され、このブログでもご紹介していますが、今月開催のオークションで光雲の「木彫魚藍観世音」が出品されます。

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光太郎の箱書きがあるとのことで、真筆であれば非常に珍しい例です。それもあるので、落札予想額が8桁です。


もう1件。

毎年このブログでご紹介しています横浜南区山王町のお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。

当方、昨年は観に行って参りました。

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今年は9月18日~20日の3日間が例大祭だそうです。ところが公式サイトに「火伏神輿」の件が記されておらず、今年は出ないのかな、と思い、電話で問い合わせてみたところ、9月18日(金)13:30~、イセザキ・モールを巡回するとのことでした。

あとでイセザキ・モールのサイトを調べてみたら、チラシが掲載されていました。

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それから、やはり光雲作の獅子頭の木彫も、沿道にある書店の有隣堂さん前に展示されます。下の画像は昨年観に行った際に撮ったものです。火伏神輿も担がれていない時は同じ場所に置かれるようです。

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ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月3日

平成14年(2002)の今日、徳島県立近代美術館で「高村光雲とその時代展」が開幕しました。

この年4月から、三重県立美術館、茨城県立近代美術館、千葉市立美術館と巡回し、最後の開催地でした。光雲作品が約90点、光太郎木彫も5点並びましたが、意外といえば意外なことに、初の大規模な光雲展でした。

上記の記事でも解るように、光雲作品は散逸とまではいきませんが、その生涯に膨大な数が作られ、各地に存在するためです。また、弟子がほぼ全体を作り、仕上げのみ光雲が行って、光雲の銘が入れられたいわば工房作品も多く、そのあたりもネックです。

下記は当方が観に行った茨城展のチラシです。

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神奈川県平塚市美術館さんで開催中の企画展です。 

生誕100年記念 写真家 濱谷浩展

期 日 : 2015 年7 月18 日(土) ~ 9月6 日(日)
会 場 : 平塚市美術館
  : 9:30 ~ 18:00( 入場は17:30 まで)

       ※9 /1(火)以降9:30 ~ 17:00( 入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日( ただし7 /20 は開館、7/21は休館)
 
 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円
        ※( ) 内は20 名以上の団体料金
        ※中学生以下、毎週土曜日の高校生は無料
        ※各種障がい者手帳をお持ちの方と付添1 名は無料
        ※65 歳以上で、平塚市民の方は無料、市外在住の方は団体料金
  : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
特別協力
 : 濱谷浩写真資料館

 このたび平塚市美術館では世界的に著名な写真家濱谷浩の生誕100 年を記念した展覧会を開催します。
 濱谷浩(はまやひろし:1915-1999)は東京下谷で生まれ、後年は大磯に居を構えた日本を代表する写真家です。15 歳のときに父の友人からカメラを贈られたことをきっかけに写真に情熱を傾けるようになった濱谷は、高校卒業後に銀座のオリエンタル写真工業に勤め、本格的に写真の技術や知識を身に付けると、まもなくフリーランスのカメラマンとして活動を始めました。1939(昭和14)年に雑誌の取材で新潟県の高田市を訪れ、雪国の厳しい風土とそれに立ち向かう人々の営為に感銘を受け、以降、日本の風土と人間の関係を突き詰めた写真を撮影するようになります。
 その後、高度成長期を迎えた日本においてテレビが普及し、報道の機動性、速報性、同時性などの面でその影響力が増していく中で写真表現の可能性を模索した濱谷は、エヴェレストをはじめ世界に残された自然の撮影を開始します。
 人間の生を深く洞察し、大自然の極限の様相に迫るカメラワークは国内外で高く評価され、1987(昭和62)年写真界のノーベル賞と称される「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞しました。
 本展では、大きく変動する昭和という時代に生き、カメラを通して「人間が生きるとは何か」ということを真摯に問いかけた濱谷の軌跡をご紹介します。

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濱谷浩(はまや ひろし)は大正4年(1915)生まれの写真家。日本の風土に生きる人々を撮り続け、特に「裏日本」を題材にした写真が有名です。また、肖像写真も多く手がけ、昭和58年(1983)には、光太郎を含む学者、芸術家100名ほどのポートレートをまとめた『學藝諸家』という写真集を出版しています。

昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に、濱谷による光太郎が暮らす山小屋訪問記「孤独に生きる 高村光太郎氏を岩手県太田村に訪ねて」が掲載されました。ちなみに表紙は木村伊兵衛撮影のヴァイオリニスト・諏訪根自子です。

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グラビアとして写真が8葉、長文の訪問記も、光太郎書簡や贈られた短歌などを引きつつ、興味深い内容です。写真はどれも、厳しい山居生活の側面を写し取り、すばらしいものです。上記の手の肖像は、肥後守の小刀で、鰹節を削る光太郎の手です。想像ですが、何か彫っているところを撮りたい、という濱谷のリクエストに、戦時の反省から彫刻封印の厳罰を自らに科していた光太郎が、彫刻刀で木を彫るところではなく、小刀で鰹節を削る様子を撮らせたのではないかと思います。

さて、ここに収められた写真が、平塚市美術館さんの「生誕100年記念 写真家 濱谷浩展」にも並んでいるとのこと。情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。濱谷は晩年は平塚に住んでいたとのことで、平塚市美術館さんでの開催です。


ちなみに、疎開などでやはり濱谷と縁の深い新潟・長岡市の新潟県立近代美術館さんでも、「生誕100年 写真家・濱谷浩」展を開催中です。ただ、こちらは光太郎の肖像写真が展示されているかどうか不明です。情報をお持ちの方、こちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月17日

昭和40年(1965)の今日、詩人の高見順が歿しました。

高見は明治40年(1907)の生まれ。自分よりはるかに若い詩人たちをかわいがった光太郎に気に入られ、昭和25年(1950)に刊行された高見の詩集『樹木派』の題字を揮毫したり、最晩年の昭和30年(1955)には雑誌『文芸』のため、高見との対談「わが生涯」を行ったりしています。

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詩集『樹木派』の題字は、現在も公益財団法人高見順文学振興会さんの会報に使われているそうです。

昨日は鎌倉に行って参りました。
 
あじさい寺として有名な明月院さんの近くに、「ギャラリー笛」という不思議なお店があります。カフェ兼ギャラリー、店内でコンサートも行うというところです。
 
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こちらは光太郎の縁戚(妹・静子(しず)のお孫さん)にあたる山端様のお店です。
 
「笛」という店名の通り、店内にはオカリナや各種の笛をはじめ、さまざまな民族楽器なども並んでいます。
 
こちらで現在、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示がなされています。
 
 
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お近くに光太郎と親交の深かった詩人の故・尾崎喜八氏、故・伊藤海彦氏が住まわれていて、山端家、尾崎家、伊藤家に伝わる光太郎関連のお宝が展示されています。
 
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彫刻、古写真、光太郎書簡、色紙、関連書籍などなどです。
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彫刻は尾崎喜八の結婚祝いに送られたミケランジェロ模刻の「聖母子像」(大正13年=1924頃)。原型は既に失われ、鋳造もこれ1点しか為されていない、非常に貴重なものです。
 
昨年、千葉市美術館他3館で巡回された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にもお貸しいただきましたが、その時以来、約1年ぶりに拝見しました。
 
古写真は、すでにいろいろな書籍に掲載されているものの他に、少年時代の光太郎や、戦時中の山端家の結婚式での集合写真など、当方も初めて見るものがあり、驚きました。
 
書簡も、『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方が継続中の「光太郎遺珠」未収録のものが3通もあり、早速コピーを戴いて参りました。来年4月、高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
さらに驚いたことがもう一つ。
 
昨日、当方はお伺いするとも何とも言わず、突然お邪魔したのですが、たまたま、本当に偶然にも、故・尾崎喜八氏のお嬢さん・榮子様と、故・伊藤海彦氏の奥様もいらしていて、いろいろ貴重なお話が聴けました。
 
榮子様は上記チラシの画像、一番左に写っている女の子です。その隣が光太郎、そして喜八と故・實子夫人。實子夫人は光太郎の親友・水野葉舟の娘で、光太郎が取り持つ縁で結ばれました。したがって、榮子様は水野葉舟のお孫さんにもあたられるわけです。
 
そのあたり、以下の書籍に詳述されています。amazon等で購入可能です。
 
『夏の最後の薔薇 詩人尾崎喜八の妻 實子の生涯』004
2004/2/4 有限会社レイライン刊
重本恵津子著
 
女性の年齢を話題にするのも失礼ですが、榮子様は大正14年(1925)のお生まれ。故・伊藤海彦氏、北川太一先生も同じ年のお生まれです。昨日は、駒込林町のアトリエでの光太郎智恵子に関する思い出をお話ししていただきました。アトリエの2階が智恵子の画室で、智恵子にだっこしてもらい、その窓から駒込林町の風景を見たことなどなど。
 
生前の光太郎をご存知の方は、まだまだ方々にいらっしゃいますが(それでもだいぶ少なくなりましたが)、智恵子の生前を語れる方は、当方、他に存じません。本当に貴重な体験をさせていただきました。
 
さて、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」。11月4日(火)までの会期です。月水木はお休み、さらに10月26日(日)と11月1日(土)は臨時休業だそうです。時間は10:00~16:00だそうですが、昨日、当方は16:00過ぎても居座ってしまいました(笑)。
 
その他にも、音楽関連のイベント、講座等も行われています。
 
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ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月12日005
 
昭和27年(1952)の今日、「十和田湖畔の裸婦群像」(通称「乙女の像」)制作のため、7年半ぶりに帰京しました。
 
右は上野駅での一コマ。ホームスパンの猟人服に巨大な長靴(ちなみに光太郎の足のサイズは30㌢ほどあったといわれています)。
 
戦後のまだ傷跡の残る時代でしたが、朝鮮戦争による特需景気で、東京はかなり復興が進んでいました。その東京で、この光太郎の姿は実に異様だったそうです。
 
光太郎、このあとすぐに草野心平らを引き連れて生ビールを堪能、この日は駒込林町の実家に泊まりました。
 
戦前からいたばあやさんがまだ健在で感激したり、翌朝、空襲で焼失したかつてのアトリエ跡を見に行ったりしたと、この夏亡くなった甥の規氏の回想にあります。
 
アトリエ跡を見に行った13日には、中野に今も残る水彩画家、故・中西利雄のアトリエに入り、裸婦像の制作にかかりました。

昨日は、横浜伊勢佐木町に行き、先週ご紹介した日枝神社例大祭で、光雲作の彫刻を配した神輿を観て参りました。
 
午後1時から神輿の巡行というので、それに併せて自宅を出、「ヨコハマトリエンナーレ2014」会場の横浜美術館に車を駐めました。高速を下りてすぐですし、意外といつもガラガラなので、都合がよいのです。天気もよかったので、伊勢佐木町まで歩きました。ただ、汗ばむ陽気でした。
 
イセザキモールの有隣堂さんの前に神輿があるというので、そちらへ。時計を見ると12時過ぎ。ちょうど和太鼓の演奏で盛り上がっていました。
 
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少し離れたところにめあての神輿。立派な神輿でした。
 
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てっぺんには鳳凰。側面には唐獅子のレリーフ。唐獅子は丸彫りのものも四隅に配されています。
 
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さらに唐獅子と唐獅子の間には、十二支の彫刻。非常に精緻です。
 
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ただ、よく見る光雲作品と違って、彩色が施されており、木肌の感じなどがよく判りませんでした。
 
近くにはやはり光雲作の獅子頭も。こちらは木の質感がまさに光雲彫刻です。
 
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午後1時の巡行にはまだ間があったので、近くで昼食を取り、あらためて出直しました。
 
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若衆が威勢よくかつぐのもいいのですが、こういう白装束の面々がしずしずとかついでいくのもいい感じですね。
 
ちなみに『神奈川新聞』さんの記事がこちら。 

白装束で厳かに 横浜・イセザキモールで火伏神輿行列

 災難よけで知られる神輿(みこし)が練り歩く「火(ひ)伏(ぶせ)神輿行列」が13日、横浜市中区伊勢佐木町1、2丁目で行われた。日枝神社例大祭のメーン行事の一つ。今年で10回目。
 町内の有志による担ぎ手30人が白装束に身を包み、雅楽の演奏を先導に「エイサー、エイサー」と掛け声を掛けながら厳かに1、2丁目を往復した。
 同神輿は関東大震災や戦火を免れたことから、火を逃れた霊験をたたえ火伏の神輿と呼ばれるようになったという。
 
 
ちなみに光雲が暮らした文京区千駄木にも、光雲作の子供神輿が残っているはずなのですが、詳細が不明です。情報をお持ちの方はご教示下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月14日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の診療所医師・太田公俊方で村人15,6人と酒を飲みつつ座談を行いました。
 
十和田湖畔の裸婦像制作のため上京する光太郎の送別会的に、村長・高橋雅郎の肝煎りで行われました。筆録が残っており、平成18年(2006)刊行の厚冊『光太郎遺珠』に掲載してあります。

昨日に引き続き、光太郎の父・高村光雲に関する新着情報です。

シンワアートオークション 近代美術

開催日 2014年 9月27日(土)
時間 17:00
会場 シンワアートミュージアム
下見会 シンワアートミュージアム
 2014年 9月24日(水)~9月26日(金) 10:00~18:00
 2014年 9月27日(土) 10:00~12:00 
カタログ 4,000円
出品点数 176点
落札予想価格下限合計 3億6,175万円
 
主な出品作品
高村光雲 「大黒天像」 H14.9cm 木彫 大正13年作 落札予想価格:\5,000,000.~\8,000,000
 
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東山魁夷「湖光る」/荻須高徳「Marchand de Charbon à Vanve, Paris」/ピエール=オーギュスト・ルノワール「Buste de Femme」
 
以前にも光雲作品が出たのでご紹介したシンワアートオークションさんでの、新たな入札会です。
 
 
もう1件。
2014/9/12(金)~14(日)
 
年間で最も大切な祭事であり、かつ盛大に執り行われる日枝神社の例祭のことです。
また、お三の宮秋祭りでも知られており、現在は九月中旬、敬老の日前の金土日に行われ、『神奈川の祭り五〇選』にも選ばれています。

横浜随一の大神輿による氏子内御巡行は毎年行われ、本祭り(奇数年毎)には大小40基にも及ぶ町内神輿連合渡御がイセザキ町などを練り歩き、市内屈指の規模を誇ります。
境内では神賑行事として、氏子有志による奉納演芸会や、児童園児による書画の作品展などが催され、縁日や献灯で賑わいます。
 
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横浜は南区山王町のお三の宮日枝神社さんのお祭りです。年中行事ですので、このブログでも一昨年昨年と紹介いたしました。光雲作の「火伏神輿」も出ます。13日(土)の13時から、伊勢佐木町を練り歩きます。3日の間で練り歩かないときは有隣堂さんの前に、やはり光雲作の獅子頭とともに展示されるとのことです。
 
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今年は見に行ってみようかな、と思っております。000
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月8日
 
昭和17年(1942)の今日、光太郎が背の文字を揮毫した佐藤隆房著『宮澤賢治』が冨山房から刊行されました。
 
佐藤隆房医師は、総合花巻病院を開いた宮澤賢治の主治医。その関係で、賢治を広く世に紹介した光太郎と知り合いました。昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役かってもいます。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしました。その後も足かけ8年岩手で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後も花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
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今週初めに行って参りました。 

ヨコハマトリエンナーレ2014

展覧会タイトル 「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」
期 日 : 2014.8.1[金]-11.3[月・祝] 開場日数:89日間
会 場 : 横浜美術館新港ピア(新港ふ頭展示施設)
時 間 : 10:00-18:00 ※入場は閉場の30分前まで
料 金 : 一般・高校生500円、中学生300円、小学生以下無料。
休 日 : 月曜、火曜

主催
 横浜市 (公財)横浜市芸術文化振興財団  NHK 朝日新聞社 横浜トリエンナーレ組織委員会
支援
 文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業) 文化庁(国際芸術フェスティバル支援事業)
 特別協力独立行政法人国際交流基金
後援
 外務省、神奈川県、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)、スペイン大使館、
 駐日韓国大使館韓国文化院、中華人民共和国駐日本国大使館、Goethe-Institut Tokyo、
 東京ドイツ文化センター、ベルギー王国大使館
認定 公益社団法人企業メセナ協議会
 

 
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横浜市で、3年に1度開かれる、基本、現代アートの展覧会です。今年の開場は、みなとみらい地区の横浜美術館と、埠頭展示施設の新港ピアです。

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基本、現代アートですのでこういう感じです。
 
メイン開場二つのうち、横浜美術館の一角に、「大谷芳久コレクション」という展示がなされています。
 
以下、公式サイトから。
 
現代美術画廊「かんらん舎」のオーナー・大谷芳久が、1995年にドイツで見たジョージ・グロスの個展を機に、太平洋戦争期の日本の芸術家の表現活動を調べるべく収集した書籍コレクションの一部を展示。戦中に出版された詩文の多くは戦争や軍への讃歌であり、ベストセラーとなったが、戦後はその多くが消えることとなった。
 
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光太郎の詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『記録』(同19年=1944)を含む、戦時下の文芸書、17点が展示されています。
 
『大いなる日に』『記録』以外は以下の通り。
 
三好達治 『捷報いたる』(同17年=1942) 『寒析』(同18年=1943)
草野心平 『大白道』 (同19年=1944)
伊東静雄  『春のいそぎ』(同18年=1943)
北原白秋  『大東亜戦争小国民詩集』(同18年=1943)
佐藤春夫 『東天紅』(同13年=1938) 『日本頌歌』(同17年=1942)  『大東亜戦争』(同18年=1943)
野口米次郎  『伝統について』(同18年=1943) 『宣戦布告』(同18年=1943)
中勘助  『詩集百城を落す』(同14年=1939)
西条八十 『銃後』(同18年=1943)
日本文学報国会編 『辻詩集』(同18年=1943) 『辻小説集』(同)
大政翼賛会文化部編 『軍神につづけ』(同18年=1943)
 
最後の『軍神につづけ』は、多数の詩人によるアンソロジーで、光太郎の詩「みなもとに帰るもの」も載っています。

さらに、光太郎とも交流のあった画家・松本竣介が、疎開先の妻と四歳の息子にあてた、終戦前後の書簡三通も展示されています。
 
で、この展示がいったい何を目指しているのか、ということになりますと、トリエンナーレ全体のタイトル、「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」につながるわけです。
 
以下、やはり公式サイトから。
 
ヨコハマトリエンナーレ2014がめざすのは
芸術的冒険の可能性を信じるすべての人々
そして、大胆な世界認識を持ちたいと望む
 すべての人々と共に
「芸術」という名の舟に乗り込み
「忘却」という名の大海へと
冒険の旅に出ることである

「華氏451の芸術」というタイトルは、言うまでもなく、レイ・ブラッドベリ作のSF小説『華氏451度』に由来している。いわゆる焚書がテーマの小説で、本を読むことも持つことも禁じられた近未来社会が舞台となっている。
1953年作とは思えないくらい、現代社会を予見していて見事だが、それ以上に興味深いのは、これが「忘却」の重みについてあらためて考えさせられる小説だという点である。
 物語の後半、「本になる人々」の集団というものが登場する。一人ひとりが一冊ずつ本を選び、それをまるごと記憶しようとする。つまり焚書へのレジスタンス(抵抗)として、本という物質を記憶という非物質に置き換え、本の精神のみを隠し持とうと試みる。
 「本になる人々」は本を禁止する社会からの亡命者達であり、また上述のように本を非物質な記憶に置き換えようとしているため、その存在と行為の両側面において、現実社会の表舞台には決して現れることのない、不在の人々となる(=生きている痕跡をこの世から消滅させた「忘却の人々」たらざるをえなくなる)。ところがこの「忘却の人々」にこそ、膨大な本の記憶がたまり込んでいるというのが、ブラッドベリの小説がもたらす、「忘却」に関する重い教訓なのである。

「忘却」とは、記憶されざる記憶がたまりこんだ、ブラックホールとしての記憶のことである。
 
ここに展示された書籍は、それぞれの作家の「汚点」「黒歴史」ともいえるものです。光太郎自身も戦後になってこれらの戦争協力の作品を「変な方角の詩」と言っています。作家によっては、戦後に刊行された全集には収録せず、無かったことにしてしまっている場合もあります。
 
いわば、戦後の「焚書」によって忘れ去られつつあるものです。
 
しかし、その「忘却」には危険が伴います。光太郎のしたような真摯な反省までも忘却の彼方へ押しやられると、「歴史は繰り返す」に成りかねません。
 
これはそういう点への警鐘の意味での展示です。キャプションにも、その辺りがよく表現されていました。書籍のキャプションには「美しい言葉の羅列がもつ魔力」、松本の書簡には「無差別に人を殺傷する近代戦争の無慈悲さへの衝撃」「息子が生きる未来を案じる」などなど(うろおぼえですが)。
 
現実に、ことさらに光太郎の戦時の作品を賛美し、戦前戦時を髣髴とさせるおぞましいヘイトスピーチ的な言説がまかり通っています。そういう幼稚なネトウヨは、この展示を見て、「素晴らしい! これぞ大和魂だ!」とかいうトンチンカンな感想を持つのかも知れませんね(笑)。
 
今年の連翹忌のご案内に載せさせていただいた、北川太一先生のご挨拶の中の「歴史がもういちど反転しそうな今こそ、その命の軌跡をかえりみ、繰り返し語り合い、語りつぐひと時を、思いを同じくするみなさんと一緒に過ごしたいと存じます。」という一節が、ほんとうに心に染みる今日この頃です。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月30日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村の青年が蓄音機とレコードを持ってきてくれました。
 
当日の日記の一節です。
 
夜になつてから佐藤弘さん、大三さんが蓄音機の箱とレコードとを持参。五六枚きかしてくれる。バツハのコンチエルトあり。すばらしさに魂を奪はれる思す。
 
当方、今日は四ツ谷の紀尾井ホールにて、The Premiere Vol.3 〜夏のオール新作初演コンサート〜を聞いて参ります。「すばらしさに魂を奪はれる思」をしたいものです。

昨日、横浜に行って参りました。
 
午前中、港の見える丘公園にある神奈川近代文学館で調べ物をし、午後はそこからほど近い南区の増徳院というお寺に行きました。元々は元町にあったお寺で、有名な外国人墓地はこのお寺の敷地だったそうですが、関東大震災の関係で、数㌔離れた現在地に移転したとのことでした。
 
こちらの境内に光雲作という聖観音菩薩像が鎮座ましましているというので、観に行った次第です。
 
港の見える丘公園から、外個人墓地やフェリス女学院などのある山手地区の高台の道を、カーナビに導かれて走ること数分、着きました。門前に駐車スペースが見あたらなく、「困ったな」と思ったところ、山門をくぐった境内が非常に広く、そちらに駐められました。
 
目指す観音像は、本堂の手前に独立した観音堂という堂宇があり、そちらにいらっしゃいました。
 
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像高約七尺。かたわらに立つ案内板に依れば、奈良薬師寺の聖観音像を模刻したものだそうです。非常に優美なお姿の鋳造仏です。
 
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大正12年(1923)10月の作とあり、まさに関東大震災の直後です。説明板には震災の文字はありませんが、このお寺の縁起にも震災が関わっており、無関係とは思えません。ただし、この地にこの像が建てられたのは昭和42年(1967)だそうです。しかし、この案内板を読んでも今ひとつなぜここにこれが、というのがよく判りませんでした。
 
失礼して像の裏手に回ってみると、台座にいろいろと銘が入っていました。
 
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「大正十三年四月」の文字。鋳造の成った年月でしょう。
 
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「顧問 高村光雲」。「顧問」という語から、工房作といったニュアンスが感じられます。
 
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さらに「池田鋳造所」の文字。
 
ただ、案内板を読んでも詳しいことが判りません。
 
光雲の仏像はあちこちで見られます。同じ神奈川の鎌倉は材木座の長勝寺さんの日蓮像、東京浅草観音の沙竭羅龍王像信濃善光寺の仁王門などなど。
 
ただし、なぜそこにこれが、という由来が今ひとつはっきりしないものが多く、そのあたりの調査も今後の課題の一つかな、と思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月26日

昭和16年(1941)の今日、『都新聞』に散文「神経の浪費 中央協力会議の印象(上)」が掲載されました。
 
「中央協力会議」は大政翼賛会の肝煎りで始まったもので、各地方代表、各界代表の代議員が参加、挙国一致体制の確立に向け、さまざまな提案、議論がなされました。
 
前年12月に臨時会議が開催され、さらにこの年6月16日~20日の日程で第1回会議が開催されました。光太郎はこの第1回会議で「芸術による国威宣揚」について提案しています。さらに第2回会議はちょうど太平洋戦争開戦の日に重なり、途中で切り上げられました。この後も何度か開催されましたが、光太郎は第2回限りで委員を辞しています。
 
こういう会議の印象記であるにもかかわらず、光太郎の論調は否定的ですし、サブタイトルが「神経の浪費」、さらに翌日掲載の(下)に至っては「無駄な時間」というサブタイトルです。このサブタイトルは『都新聞』がつけたものかもしれませんが、大政翼賛会にケンカを売っているようにしか見えません。太平洋戦争開戦前には、まだこんなことが許されていたのですね。ちなみに『都新聞』は現在の『東京新聞』です。
 
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この文章、永らく初出掲載誌が不明で、『高村光太郎全集』には随筆集『某月某日』からの採録でしたが、数年前に『都新聞』に掲載を確認しました。

鎌倉から映画の上映情報です。

「智恵子抄」を上映

  映画「智恵子抄」(中村登監督・1967年)の上映会が6月20日(金)、鎌倉生涯学習センターホールで行われる。「鎌倉で映画と共に歩む会」が主催。午前9時15分開場、9時30分開映。入場料は前売900円、当日1千円。
 同作品は松竹大船撮影所でメガホンをとっていた中村監督の手によるもの。詩人で彫刻家の高村光太郎が妻・智恵子との30年に及ぶ愛を綴った詩集「智恵子抄」と佐藤春夫の「小説 智恵子抄」が原作となっている。第40回アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。チケットは たらば書房などで販売中。予約や問合わせは【電話】0467・23・3237同会・木口さんへ。
(『タウンニュース』)
 
昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」です。主演は岩下志麻さん、故・丹波哲郎さん。
 
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以下、昭和63年(1988)刊行の雑誌『彷書月刊』第4巻第10号「特集 高村智恵子」に載った岩下さんの回想です。
 
 私が、高村光太郎さんの『智恵子抄』の智恵子を演じさせて戴いたのは昭和四二年ですから、もう随分昔になります。
 中村登監督のもとで、光太郎役は丹波哲郎さんでした。
 その時、はじめて智恵子の切り絵を見せて戴きましたが、優れた色彩感覚、繊細で巧妙な技術、その切り絵から智恵子の純粋な魂の叫びが聞こえてくるような感動で、長い間見とれていたのを今も鮮明に覚えています。又、精神に異常をきたしてしまった智恵子をうたった光太郎の詩の何篇かに心から涙しました。
 『智恵子抄』は、夫婦の愛のあり方、愛についてを改めて考えさせられた作品でもあります。今も、私は“智恵子”と聞くと、病弱で非社交的でやさしいが勝ち気で、単純で真摯で、愛と信頼に全身を投げだしているような智恵子が目の前にいる様で、なつかしさでいっぱいになります。
 それ程、『智恵子抄』は、私にとって心に残っている映画の一つです。
 
販売用のDVD等になっていない作品ですが、このようにポツリポツリとではありますが、上映され続け、ありがたいかぎりです。販売用DVDにしていただけるとありがたいのですが、かえってそうなっていないからこうして上映され続けているのかもしれません。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月11日
 
昭和16年(1941)の今日、詩「荒涼たる帰宅」を書きました。
 

  荒涼たる帰宅
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あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
 
この年8月に刊行された龍星閣版オリジナル『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されています。
 
右上はありし日の智恵子と光太郎。昭和3年(1928)、箱根での一コマです。

昨日は二十四節季の一つ、「小寒」でした。冬の寒さが一番厳しい時期となる節目ですが、生涯、冬を愛した光太郎にとっては、本領発揮の時候です。
 
さて、その小寒の日の『神奈川新聞』さんのコラムです。朝日新聞における「天声人語」のような位置づけでしょうか。

照明灯 

 冬型の気圧配置が平年よりも強まり、気象庁の予想では1月から3月は東日本の気温は平年より低くなるそうだ。太平洋側ではからりと晴れの日が多くなる見込みだという
 
 ▼「秩父、箱根、それよりもでかい富士の山を張り飛ばして来た冬/そして、関八州の野や山にひゆうひゆうと笛をならして騒ぎ廻る冬」。高村光太郎の詩の一節。冷厳なこの季節を愛した高村は冬の詩人とも呼ばれる。力強く人を鼓舞する詩句が好きで、青春時代、よく親しんだ
 
 ▼冬の詩人が「ひとちぢみにちぢみあがらして」と難じる中年者となった今だが、澄んだ外気に身をさらせば、正月の酒席でほてった酔顔もいやおうなく寒風にはたかれ、がつんといさめられたような気分となる。何やら凜(りん)として、心地がいい
 
 ▼昨年、世界の平均気温は平年を0・2度上回り1891年の統計開始以来2番目の高温。史上最高だった1998年はエルニーニョ現象の影響が顕著だったが昨年は特殊事情がなく、「地球温暖化の傾向が明瞭に示された」と専門家は言う
 
 ▼「サッちゃん」の作詞で知られる阪田寛夫の詩。「こんなに さむい/おてんき つくって/かみさまって/やなひとね」。こわばる頬も緩む。温暖化の今、冬らしい冬がいい。小寒。寒の入りだ。

 
引用されている光太郎の詩は、大正2年(1913)に書かれた「冬の詩」。「冬だ、冬だ、何処もかも冬だ」で始まり、150行を超える長大な作品です。数年前に黒木メイサさん、松田龍平さんがご出演されたユニクロさんのCMで使われていたので、耳に残っている方も多いのではないでしょうか。


 
からっ風にさらされる関東平野の冬もきついのですが、北国はもっとすごいことになっているでしょう。皆様、どうぞご自愛のほどお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月6日
昭和2年(1927)の今日、詩集『智恵子抄』に収録された「あなたはだんだんきれいになる」を執筆しました。
 
  あなたはだんだんきれいになる005
 
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。  
 
智恵子歿後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた散文「智恵子の半生」で、この詩について次のように語られています。
 
私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、
 
 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属
 
と私が書いたのも其の頃である。
 
木々は葉を落とし、澄み切った空気に包まれる「冬」。木々と同じように、余計な装飾を落とし、凛とした雰囲気を身にまとう智恵子に、「冬」のイメージを重ねていたのかもしれません。

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