昨日は神奈川県の鎌倉から茅ヶ崎、いわゆる湘南に行っておりました。
まずは北鎌倉のカフェ兼ギャラリーの笛ギャラリーさん。こちらは店主の奥様が、光太郎の妹のお孫さんにあたります。過日のこのブログにてご紹介しましたが、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」という展示が始まっています。
昨年もお邪魔しましたが、不思議なお店です。不思議なお店ですが、鎌倉の雰囲気には非常にマッチしています。「笛」というだけあって、店内には様々な笛が。
昨年は、お近くにお住まいの尾崎喜八のご息女・榮子様、伊藤海彦令夫人がたまたまいらしていたのですが、今年はいらっしゃいませんでした。
美味しい濃厚な珈琲をいただきながら、展示を拝見。
左は尾崎夫妻と榮子様、そして光太郎。右は尾崎喜八です。喜八夫人の実子は、光太郎の親友・水野葉舟の長女でした。
喜八や光太郎の書。光太郎の書はほとんど複製でしたが、1点、直筆のものがありました。
寒山詩からの引用で「此珠無価数」と読みます。
他にも「書」とは言えませんが、光太郎と喜八の直筆がいろいろ。
左は光太郎から甥に宛てた書簡。昭和20年(1945)4月の空襲で駒込林町のアトリエが全焼、焼け跡に残った香木の白檀がいい具合に炭になっていて、それを贈る際に添えたものです。
右は喜八が書いた町内の回覧文書。「明月会」というのは町内会で、喜八が役員をしていた際のもの。切れた街灯の修繕に関わるものです。当方も昨年度から町内会の役員をやっており、微笑ましく拝読しました。
その他、二人の著書や研究書の類も並んでいました。
昨年並んでいた光太郎から尾崎夫妻の結婚祝いに贈られたミケランジェロ模刻のブロンズ「母子像」は、今年は並んでいませんでした。
来月10日まで(ただし月・水・木はお休み)展示が続きます。ぜひ足をお運びください。
その後、車で数分の東慶寺さんに行きました。駆け込み寺、縁切り寺として有名なところですね。といっても、別に誰かと縁を切りたいと考えて参拝したわけではありません(笑)。
こちらは智恵子の親友だった作家・田村俊子の関係です。
石段を登って山門をくぐり、拝観料を納めるとすぐ左手に、俊子の文学碑が建っています。
大正2年(1913)に書かれた俊子の短編小説、「女作者」の一節が刻まれています。
おしろいをつけてゐる
この女の書くものは
大がいおしろいの中から
うまれてくるのである
この「女作者」、智恵子も登場します。ただし「女友達」としか書かれていませんが、近々結婚すると言っていることなどから、智恵子がモデルと思われます(光太郎智恵子の結婚披露は翌年)。
ちなみに智恵子と思われる友達のセリフをいくつか引用しましょう。
「結婚したつて私は自分なんですもの。私は私なんですもの。恋と云つたつてそれは人の為にする恋ぢやないんですもの。自分の恋なんですもの。自分の恋なんですもの。」
「私は自分に生きるんだから。自分はやつぱり自分の芸術と云へるわ。自分の芸術に生きると云ふ事は、やつぱり自分に生きるつて事だわ。」
「私だつて随分考へたけれども、私はもう自分に生きるより他はないと思つてしまつたの。私は自分に生きるの。」
いかにも、ですね。
今回はさらに、俊子の墓参もしてきました。碑は10数年前に一度、見に行った事がありましたが、その時は寡聞にして俊子の墓がこちらにあるということを存じませんでした。
智恵子と、2歳年長だった俊子とは『青鞜』つながりで知り合い、意気投合しました。俊子も智恵子と同じく日本女子大学校に通っていましたが、心臓病のため中退しており、在学中には接点はありませんでした。
『青鞜』といえば、平塚らいてう。
そして、鎌倉からほど近い茅ヶ崎に、らいてうの文学碑が建っています。茅ヶ崎はらいてうにとって、夫となった奥村博との出会いの地です。後に博が結核に罹患した際にも、茅ヶ崎で療養しています。そういった経緯で、茅ヶ崎にらいてうの碑が建てられました。当方、この碑は未見でした。
というわけで、鎌倉をあとに、国道134号線を西へと走りました。まだ先の話ですが、智恵子の故郷・二本松での「智恵子講座’15」で、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」という講義をすることを仰せつかっておりまして、俊子についてもそうですが、そのためのネタ集めという背景があります。
目指す碑は、茅ヶ崎駅に近い高砂緑地というところにありました。
智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に収められた、有名な一文「原始、女性は太陽であつた 真正の人であつた」が刻まれています。ちなみに同じ号には俊子の小説「生血」も掲載されました。
碑を前に、100年以上も前、女性の自立を求めて立ち上がった彼女らに思いを馳せました。
この碑のある高砂緑地は、元はセレブの別荘地だったところで、今も当時の建物の跡が残っています。
また、光太郎がその詩的世界を激賞した夭折の詩人・八木重吉もこのあたりで結核の療養をしていたということで、八木の詩碑も立っていました。これは当方、存じませんでした。
尾崎喜八、実子、水野葉舟、田村俊子、平塚らいてう、奥村博、八木重吉、そしてもちろん光太郎、智恵子……。いろいろな人々に思いを馳せる一日でした。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月17日
昭和51年(1976)の今日、花巻市太田の旧山口小学校向かいに「太田開拓三十周年記念」碑が除幕されました。
光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の一節が刻まれています。
10月17日は、昭和20年(1945)に、光太郎がこの地での生活を始めた日なので、この日を選んで除幕したものと思われます。