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昨日は神奈川県鎌倉市に行っておりました。

メインの目的地は、北鎌倉。「あじさい寺」として有名な名月院さん近く(「徒歩365歩」だそうです(笑))のカフェ兼ギャラリー・笛さん。光太郎のすぐ下の妹・しづの婚家で、令孫の山端夫妻が経営されています。
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こちらでは、毎年この時期に、光太郎に関わる展示をなさってくださっています。昨年は当方がバタバタしており伺えなかったのですが、今年はご案内もいただきまして、昨日の初日にお邪魔して参りました。
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近くに、光太郎と親交の深かった詩人の尾崎喜八が住んでいて、その尾崎の結婚(妻は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子)祝いに光太郎が贈ったブロンズ(大正13年=1924)です。ミケランジェロの「聖母子像」の模刻ですが、石膏原型は既に喪われ、鋳造もこれ一点しか確認できていない貴重なものです。

平成26年(2014)にお邪魔した時には、尾崎夫妻ご息女の故・榮子様がご健在で、ちょうどいらしていて、子供の頃、智恵子に抱っこされた思い出など、貴重なお話を伺うことができました。ちなみに今日、10月5日は智恵子命日「レモンの日」です。

その他、複製が中心ですが、智恵子の紙絵や光太郎デッサンなどなど。書(色紙)は複製でない光太郎肉筆のものが一点飾られていました。
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また、展示されていなかった古写真も拝見。
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昭和18年(1943)、「笛」オーナーの山端夫妻のご両親である敏夫氏(しづ四男)・静江様ご結婚の折の記念写真だそうです。

光太郎も写っています。珍しく(笑)ネクタイ姿です。
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最後列一番右が光太郎(長男)、その前に実弟・豊周(三男)夫妻、豊周の右隣は藤岡家に養子に行った孟彦(四男)と思われます。次男・道利はなぜか写っていないようです。

こんなものも展示されていました。
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東大地震研究所さんで作った光太郎木彫「鯰」のレプリカ。昭和45年(1970)、同所の創立45周年の記念品です。言わずもがなですが、「地震」で「鯰」、洒落が利いています。当方は5年後に作られた同50周年記念のものを持っていますが、そちらは樹脂で周りを固めたペーパーウェイトになっています。
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さて、「笛」さんでの展示、11月22日(日)までです。ただし、火・金・土・日のみですので、ご注意を。

「笛」さんにお邪魔する前、同じ鎌倉の川喜多映画記念館さんで、「【特別展】生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優- 原節子と山口淑子」を拝見しました。明日はそのあたりを。


【折々のことば・光太郎】

僕は上等な料理よりも栄養のある料理のほうがいいのです。上等な料理は体裁がよくても、栄養がないということが多いのです。臓物や尾などの捨てるところに栄養があるのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二一」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

光太郎、当時は精肉店などで捨てられていた牛のシッポを貰ってきて、オックステールスープを自作していたそうで……。

神奈川県鎌倉市にある川喜多映画記念館での特別展情報です。 

期 日 : 2020年9月11日(金)~12月13日(日)
会 場 : 鎌倉市川喜多映画記念館 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目2番地12号
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が休日の場合は開館、翌平日を休館日とします
料 金 : 一般400円(280円) 小・中学生200円(140円)( )内は20名以上の団体料金

 2020年は、伝説的な存在として人々の記憶に留まり続ける二人の女優─原節子(1920年6月17日~2015年9月5日)と山口淑子(1920年2月12日~2014年9月7日)─の生誕100年にあたります。
 デビューから間もない1936年に日独合作映画のヒロインに抜擢され、一躍スターとなった原節子は、戦時中は国策映画、戦後は一転して民主主義映画のシンボルとして、国民的な人気を誇りました。そして、小津安二郎をはじめ巨匠たちと組んで大女優としての地位を確立したのち、若くして表舞台を去り、スクリーンにその輝きを残したまま、鎌倉の地で静かに余生を送りました。
 一方の山口淑子は、満州事変から日中戦争へと続く植民地支配下の中国に生まれ育ち、1938年に日本の国策映画会社・満映から《李香蘭》の名でデビュー、歌手として女優として、東アジアの大スターの座に君臨しました。終戦後、日中両国の間に挟まれ命からがら日本に戻った彼女は、国際派女優として、その後は司会者や政治家として、常に世界を見据えた視点で幅広い活躍を続けました。
 その生き方も、女優としてのイメージも大きく異なる二人ですが、本展では、同じ年に生まれ、ともに激動の時代を生き抜いた二人の女優の姿を、貴重な資料を通して振り返ります。

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関連行事

植木金矢作品展 映画女優・原節子を描く

10月8日(木)~11日(日)003
10:00/11:00/13:00/14:00/15:00
昭和28年、チャンバラ時代活劇「風雲鞍馬秘帖」で子供たちの心を虜にして以降、生涯にわたって多くのファンを魅了し続けた鎌倉在住の劇画家・植木金矢さん(享年97)。一周忌にあたる10月11日にあわせて作品展を開催します。植木さんは晩年、女優の中では「原節子」を最も多く描きました。植木さんが作品に込めた思いをぜひご覧ください。


トークイベント「李香蘭と川喜多長政を繋いだ“中華電影”」
10月17日(土) 『萬世流芳』上映後  ゲスト:刈間文俊さん(東京大学名誉教授)
満州に設立された映画会社「満映」からデビューした李香蘭と、上海に誕生した「中華電影」の最高責任者だった川喜多長政。同じ時代に中国の異なる土地で映画作りに携わっていた2人を結び付けたのは、両映画会社が共同製作した『萬世流芳』(1942 年)でした。トークイベントでは、長年にわたり中国映画の研究に従事されている刈間文俊さんに、当時の歴史的背景と中国の映画事情、李香蘭と川喜多長政の関わりについてお話しいただきます。
料金:(『萬世流芳』鑑賞料金含む)一般1,600円、小・中学生800円


トークイベント「晩年の李香蘭、山口淑子」
10月18日(日)『私の鶯』上映後   ゲスト:高橋政陽さん(テレビ朝日前記者)
奉天での幼少期、中国人として過ごした北京時代、思いがけない女優デビューとスターへの階段、敗戦と引揚げの混乱、戦後日本映画界での活躍、結婚と別れ、女優引退と外交官の妻としての日々、やがて司会者としてのテレビ復帰と政治家としての活躍…。文字通り激動の時代を生きた山口淑子さんの実人生の歩みとその人柄を、親交のあったジャーナリストである高橋政陽さんにお話しいただきます。
料金:(『
私の鶯』鑑賞料金含む)一般1,600円、小・中学生800円

トークイベント「原節子と『新しき土』」
10月31日(土)14:00~  ゲスト:石井妙子さん(ノンフィクション作家)
経済的な理由から女優になり、まだ間もない原節子にとって、スター女優への 道を決定づけた作品『新しき土』。日独の政治的な思惑が絡み合った本作において、原節子はどのような役割を果たしたのでしょうか。また、映画の宣伝のため半年にわたった欧米旅行は、彼女にどのような影響をもたらしたでしょうか。トークイベントでは、評伝「原節子の真実」で新潮ドキュメント賞を受賞し、最近では「女帝 小池百合子」の著者としても大きな話題を呼んだ石井妙子さんに、若き原節子と『新しき土』の関わりを紐解いていただきます。
料金:一般1,200円、小・中学生600円 チケット発売日:9月19日(土)

映画上映
東京物語(1953年/135分/松竹/白黒/DCP) 
 9/15(火)・17(木)・19(土) 10:30  9/16(水)・18(金)・20(日) 14:00
麦秋(1951年/124分/松竹/白黒/DCP)
 9/16(水)・18(金)・20(日) 10:30  9/15(火)・17(木)・19(土) 14:00
新しき土(1937年/日本=ドイツ/白黒/106分/ブルーレイ)
 10/27(火)・31(土) 10:30       10/28(水)・30(金)・11/1(日) 14:00
智恵子抄(1957年/東宝/白黒/97分/35mm)
 10/28(水)・29(木)・30(金)・11/1(日) 10:30 10/27(火)・29(木) 14:00
醜聞〈スキャンダル〉(1950年/松竹/白黒/104分/35㎜)
 11/23(月・祝)26(木)・28(土) 10:30 10/25(水)・27(金)・29(日) 14:00
白痴(1951年/松竹/カラー/166分/35㎜)
 11/25(水)・27(金)・29(日) 10:00  
 10/23(月・祝)・26(木)・28(土) 14:00
私の鶯(1944年/99分/東宝+満映/白黒/35mm)
 10月15日(木)14:00、16日(金)10:30 18日(日) 14:00
萬世流芳(1942年/151分/中華聯合製片+中華電影+満映/白黒/ブルーレイ)
 10月16日(金)14:00、17日(土)13:00
青い山脈/続・青い山脈【特別上映】
 (1949年/93分・84分/東宝=藤本プロ/白黒/35mm)
 11月10日(火)10:00、11日(水)14:00、12日(木)10:00、13日(金)14:00、
 14日(土)10:00、15日(日) 14:00
暁の脱走(1950年/116分/新東宝/白黒/35mm)
 11月10日(火)14:00、11日(水)10:30、12日(木)14:00、13日(金)10:30、
 14日(土)14:00、15日(日)10:30

《展示解説》/《上映解説》
展示の見どころと上映作品の解説を、学芸員が映像資料室内で実施します。(要特別展観覧料)
《展示解説》9/12(土)・10/24(土)・11/21(土)各日14:00~(約40分)
《上映解説》9/20(日)・10/4(日)・11/27(金)・12/4(金)各日午後の上映終了後(約30分)


昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」で智恵子役を演じられ、平成27年(2015)に亡くなった原節子さん、そして光太郎が入居する前の終焉の地・中野の貸しアトリエを借りていた彫刻家、イサム・ノグチの妻であった山口淑子さん(平成26年=2014没)。お二人を顕彰する展示/イベントです。

同館では、原さんに関しては、亡くなった翌年の平成28年(2016)にも「特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子」を開催し、当方、拝見して参りました。「智恵子抄」の立看ポスターなどが展示されていましたし、その際にも「智恵子抄」の上映がありました。

それにしてもお二人が同年(大正9年=1920)の生まれで、今年が生誕100年とは存じませんでした。上記の通り亡くなったのは比較的最近ですので、お二人ともご長寿だったわけですね。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

お互いに日本を彫刻国として立派に作り上げる事に努力せねばなりません 日本は其に値する資格が十分にあると存じます

雑纂「(私信より)」全文 昭和15年(1940) 光太郎58歳

光太郎、日本人の「美」に対する意識や、古代から作り上げられてきた彫刻作品のレベルの高さなどは世界的に見ても遜色がないと考えていました。実際、それは否定できないでしょう。

ただ、そうした優位性に対する意識が翼賛思想に結びついてしまったのは残念なことですが……。

神奈川県秦野市からイベント情報です

状況をわかりやすくするために、地域情報紙『タウンニュース』さんの記事から。 

第12回 県人会フェア 舞台と物産でお国自慢

 「ふるさとお国じまん第12回県人会フェア 郷001土芸能と物産展」(福永嘉弘実行委員長=人物風土記で紹介)が2月9日(日)、クアーズテック秦野カルチャーホール(秦野市文化会館)の大ホールとホワイエで開催される。時間は午前10時半から午後4時。入場無料。

 秦野市内の15の県人会が参加し郷土芸能の発表や物産展などを行う。ステージ発表は以下の通り。オープニング(秦野観光和太鼓)、福岡(祭り酒)、山形(山形大黒舞、花笠踊り)、北海道(イヨマンテの夜、北海盆唄)、宮城(宮城野盆唄踊り、大漁唄い込み)、新潟(十日町小唄、佐渡おけさ)、福島(安達ケ原の鬼ばば、智恵子抄)、高知(よさこい祭り紹介、南国土佐を後にして)、長野(信州と永六輔)、長崎(長崎の鐘、愛長崎大村線)、岩手(盛岡さんさ踊り、遠野のまぬけ節パート2)、鹿児島(鹿児島おはら節)、秋田(秋田節、ドンパン節)。さらに秦野ささら踊り保存会がゲスト出演する。

 またホワイエでは、熊本ラーメン(熊本)、八ツ橋(京都)、バラ焼きのタレ(青森)など15のブースで地域の特産品を販売する。また今年も特産品が当たる抽選会を実施する。

 問い合わせは【電話】0463・82・5118市市民活動支援課へ。


という記事を見つけたので、調べてみました。

ふるさとお国じまん 県人会フェア

期 日 : 2020年2月9日(日)
会 場 : クアーズテック秦野カルチャーホール(文化会館) 秦野市平沢82
時 間 : 午後0時15分から4時(物産販売は午前10時半から)
料 金 : 無料

県人会相互の連携強化や市民の文化交流を目的に開催する県人会フェア。12回目を迎える今年も、自慢の唄や踊りを披露します。

内容 郷土芸能の披露、15県人会による活動紹介や物産販売など

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秦野市くらいの規模(人口約165,000人)になると、「○○県人会」が15もあるのですね。ただ、参加団体が15というだけで、実際にはもっとあるのかも知れません。

で、ホールでの郷土芸能的なステージ発表と、ホワイエでの物産展の二本立てだそうで、福島県人会さんのステージ発表発表が、「安達ケ原の鬼ばば、智恵子抄」とのこと。寸劇仕立てでやるのか、あるいは二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲)あたりを持ち出すのかな、などと思っております。

当方、寡聞にして、こうした「県人会」の競演といった催しがあることを存じませんでした。こういうことが可能である大きめの自治体さんでは、どんどんこういう企画をやってほしいものですし、そうなった場合、「福島県人会」の皆さん、「智恵子抄」をよろしくお願いします(笑)。


【折々のことば・光太郎】

その人の心が真実に働いてゐるなら必ず体も光つて見えます。決して体は体と思つてはならない。体は即ち其の人の心、心は即ち体であります。

談話筆記「薄衣の女」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

「健全な精神は健全な肉体に宿る」的な軍隊式の考えからの発言ではなく、彫刻家の目から、街ゆく人々を見ての感想です。

10月9日(火)、前日まで1泊2日で福島二本松、山形天童と廻っておりましたが、今度は北鎌倉に向かいました。明月院さんの上(歩いて365歩)の笛ギャラリーさんで開催中の「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七」拝見のためです。

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基本、カフェですが、店内の壁などを使ってギャラリーとしても活用されています。ご主人・山端氏の奥様が、光太郎のすぐ下の妹・しずの令孫にあたられます。ご近所には、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八がかつて住んでいて、今も令孫・石黒氏がお住まいです。

この日の午前中に伺うことをお伝えしておいたところ、石黒氏(右)もいらしていました。左は山端氏です。

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後ろの壁の中央に掲げられているのは、大正8年(1919)、雑誌『白樺』10周年記念の会が催された芝公園三縁亭での写真。

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後列左から、尾崎喜八、佐竹弘行、八幡関太郎、新城和一、椿貞雄、バーナード・リーチ、小泉鉄、近藤経一、木下利玄、岸田劉生、志賀直哉、長与義郎、そして光太郎。前列中央が武者小路実篤です。

左右には、肉筆を含む尾崎と光太郎の書。

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書籍類もずらり。

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そして、反対側の壁際には、光太郎ブロンズ「聖母子像」。

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大正13年(1924)、尾崎の結婚祝いに光太郎が贈ったもので、ミケランジェロの模刻です。石膏原型は既に失われ、鋳造もこれ一点しか確認されていない、非常に貴重なものです。毎年催されているこの展示でも、毎年展示されているわけではなく、まさに眼福。

尾崎の妻・實子は、光太郎の親友の作家、水野葉舟の娘。光太郎は實子を我が子のように可愛がっていました。

その他、ロマン・ロランと交流のあった尾崎関連で、ロランからの葉書(複製)、光太郎が装幀、題字を手がけた尾崎訳のロラン著書『花の復活祭』(昭和2年=1927)。

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尾崎や光太郎の肖像写真。

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それから、昭和2年(1927)刊の光太郎による書き下ろし評伝『ロダン』。「それ、サイン入りですよ」とおっしゃるので、確認してみましたら、なんとまぁ、高田博厚宛でした。


このあと、会期は11月6日(火)までの火曜、金曜および10月13日(土)、27日(土)、28日(日)。是非足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

今私の山小屋の外で北西の風が潮騒のやうに鳴つてゐる。ふかい積雪の上にオリヨンが南中を少し越えた。下弦の月はまだ出ない。時計はないが、まづ二十一時前後といふところだらう。丁度あの頃三河島の林家さんか東方亭に彼があらはれた時刻だ。黙つて隣へ坐りさうな気がする。

散文「倉橋弥一さん」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

倉橋弥一は光太郎より一世代あと、明治39年(1906)生まれの詩人です。昭和20年(1945)に、交通事故で死去。その追悼文の末尾の部分です。

「林家」、「東方亭」、ともに光太郎行きつけの飲食店で、倉橋もここによく来ていたとのこと。さりげなく書かれた中にも、深い哀悼の意が伺える名文ですね。

北鎌倉・明月院さん近くにある、光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェ「笛ギャラリー」さんからご案内を頂きました。 

回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その七

期 日 : 2018年10月5日(金)~11月6日(火)
        火、金曜および10月13日(土)、27日(土)、28日(日)
場 所 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215 0467-22-4484
時 間 : 10:00~16:00
料 金 : 無料

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毎年この時期に催されており、ご近所に住まわれている、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒氏との共同開催で、両家に伝わる光太郎・喜八関連の資料を店内に展示なさいます。例年、光太郎や喜八の肉筆資料が展示されていますが、今年はそれプラス、ロマンロラン訳書なども並べるとのこと。

もう7回目で、目新しい物はないと謙遜されていましたが、貴重な資料が並ぶのは間違いありません。

当方、平成26年(2014)、27年(2015)、28年(2016)と、3回お邪魔しました。最初にお邪魔したときには、尾崎喜八のお嬢さんで、さらには光太郎の親友・水野葉舟の令孫でもあった榮子様(上記チラシ左端の少女)がご存命で、店内にいらっしゃり、智恵子に抱っこして貰ったことなど、いろいろ貴重なお話を聞かせていただきました。

今年は来週、参上いたします。皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

もう一つ。此を書くのを忘れてはいけない。尾崎君に「みいちゃん」がついて居ることだ。實子さんは日本のマダムの最も好い手本である。この小父さんは實子さんを知つてゐる事が馬鹿にうれしい。實子さんの事ならいつでも二挺ピストルの役をつとめる気で居る。

散文「「渝らぬ友」――尾崎喜八――」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

喜八に関する評論の末尾の部分です。ここまでの部分で、喜八の人となり、業績などについての讃辞が並び、最後に喜八の妻にして、光太郎の親友・水野葉舟令嬢の實子(上記画像右端)のことを書き添えています。子供の出来なかった光太郎、實子を実の娘のように可愛がっていました。

神奈川から企画展情報です。 

開館30年記念展 中川一政美術館の軌跡

期 日  : 平成30年9月22日(土)~12月23日(日)
場 所  : 真鶴町立中川一政美術館 神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1178-1

時 間  : 9:00~16:30
料 金  : 一般800(700)円 高校生以下 450(350)円 ( )内20名以上の団体 
休館日  : 毎週水曜日

 平成元(1989)年3月に開館した真鶴町立中川一政美術館は、平成30(2018)年度に開館30年を迎えます。開館以来中川一政画伯とご遺族の方々から寄贈を受けた作品の展示や、画伯と交友のあった芸術家とのコラボレーション企画展を通して中川一政の芸術世界について深く掘り下げてきました。
 この度は開館30年記念展覧会として、「開館30年記念展 中川一政美術館の軌跡」を開催いたします。       
 本展は、開館30年を区切りに、中川一政の画家としての原点に立ち返るため、一政の自作と画家の創作活動と人生に多大な刺激と影響を与えた周辺の作家たちの作品を展観するとともに、開館当時の展示の再現を試み、中川一政の画業と美術館30年の軌跡を辿ることを目的としています。また、この展覧会を通じて、「生命いのちの画家」中川一政の全体像について新たな視座を見出だしていきます。

主な出品作家
 中川一政/石井鶴三/梅原龍三郎/岸田劉生/木村荘八/小杉放菴/高村光太郎/椿貞雄/長與善郎/武者小路実篤/萬鉄五郎/山本鼎/ジョルジュ・ルオー/ポール・セザンヌ/フィンセント・ヴァン・ゴッホ 他(順不同)

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中川一政は、光太郎より10歳000年少の画家です。大正10年(1921)、光太郎が翻訳したエリザベット・ゴッホ(フィンセント・ヴァン・ゴッホの妹)著『回想のゴツホ』出版の際に写真を提供するなど、光太郎と交流がありました。

今回の企画展では、光太郎のブロンズ「老人の首」(大正14年=1925)が展示されます。こちらは駒込林町の光太郎アトリエに造花を売りに来る元旗本の老人をモデルにしたもので、同型のものは、上野の東京国立博物館さんに、やはり光太郎と交流のあった思想家・江渡狄嶺の妻ミキからの寄贈品として、さらに信州安曇野碌山美術館さんには新しい鋳造のものが収蔵されています。

中川一政美術館さんのものは、中川自身の旧蔵品だそうで、当方、その存在を存じませんでした。光太郎生前に光太郎自身から購入したか贈られたかしたものなのか、光太郎歿後に入手したものなのか、そこまでは判然としません。

他に、中川自身をはじめ、やはり光太郎と交流のあった作家の作品がたくさん並びます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

どんな自明の事のやうに見える事柄をも、もう一度自分の頭でよく考へ直してみる。どんな思考の単位のやうに見える事柄をも、もう一度分子に分けてよく観察してみる。どんな無縁のやうに見える事柄同志をも、もう一度その相関関係の有無をよくたづねてみる。さういふことの習慣が人にパンセすることを可能にさせる。

散文「ヴァレリイに就いて」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

光太郎の考える「賢者」というものの本質が、端的に表されています。

「パンセ」は仏語のpense(考える)の受動態pensée。パスカルの著書の題名としても用いられました。

毎年ご紹介していますが、横浜伊勢佐木町ににあるお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光太郎の父・高村光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。大正天皇即位記念に製作され、関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。 

日枝神社例大祭(お三の宮 秋まつり)

期   日 : 2018年9月14日(金)~16日(日)
会   場 : イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目

【火伏の神輿行列】9月14日(金)午後1時30分ころ
火伏の神輿は、大正天皇即位記念事業の1っとして企画されたものです。伊勢佐木町は横浜一の神輿を鎮守に奉納したいと当時の帝室技芸員高村光雲先生の助力をお願いしました。設計には東京芸術学校の島田教授、製作主任は神輿造りの第一人者といわれた小川氏、彫刻は光雲先生自らが彫刀をふるわれました。
関東大震災や戦災をまぬがれてことから誰言うとなく苦を散ずる、火を逃れた霊験を讃え"火伏の神輿"といわれるようになったといわれています平成17年から白装束の氏子による行列がおこなわれています。

【大神輿御巡行】 9月16日(日)有隣堂前奉安 午後5時から7時ころ
社宝大神輿は千貫神輿とも呼ばれ、その大きさ、巧緻さ、荘重さ等、横浜随一の大神輿です。以前は、3日にわたり飾り立てた黒牛に引かせていましたが、現在は小型トレーラーで牽引しています。
猿田彦神、祓い神職により先導され、氏子・崇敬者と共に丸一日かけて氏子町内を御巡行致します。

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一度拝見に伺いました。神輿というと勇壮な担ぎ回000しのイメージですが、こちらはしずしずと荘厳な感じです。火伏神輿以外にも、やはり光雲作の獅子頭一対の展示もあり、間近に観られるいい機会です。

獅子頭は14日(金)~16日(日)まで休まず展示されます。

その他、和太鼓の演奏や子供神輿、火伏神輿とは別の町内大神輿の渡御などがあり、多くの人でにぎわいます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩を書く以上は、言葉を大切にして、言葉が今日までどう使はれ、現在どう生きてゐるかに深く思をひそめねばならない。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

光太郎が詩作の際に留意していた事柄の一端がよく表されています。

昨日は、北鎌倉に行っておりました。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」。以前にもご紹介しましたが、ジオラマを造られた品川ご在住の石井彰英氏が、ご自身でジオラマの細部を撮影され、お仲間の皆さんと音楽やナレーションを入れた「高村光太郎ジオラマDVD」が完成し、その上映が行われるということで、行って参りました。

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その前に、同じ北鎌倉にある、笛ギャラリーさんに立ち寄り、昼食を頂きました。光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェです。

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ご近所には、光太郎と交流の深かった
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詩人・尾崎喜八の令孫がお住まいで、笛さんと共同で、毎年10月には「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」という展示をなさっています。

今年も10月5日頃から開催の由、チラシが出来たら送って下さるとのことで、また近くなりましたらご紹介いたします。

その後、北鎌倉・台地区の川上さんというお宅へ。いくつかある棟のうちの一棟を、地域の公民館的な形で開放されているそうで、そちらが上映会の会場です。二間続きの座敷、襖を外してぶち抜き、大型テレビを設置してありました。

逗子にお住まいの、テルミン奏者・大西ようこさんが、ご主人ともどもお見えでした。筋金入りの智恵子ファン(笑)で、「智恵子抄」をテーマにしたコンサート等を何度もなさっている、筋金入りの智恵子ファン(笑)です(しつこい(笑))。



参会の方々は、会場をご提供下さった川上さんはじめ、北鎌倉のナショナルトラスト運動に取り組まれている「北鎌倉湧水ネットワーク」「台峯緑地保全会」の皆さんが中心で(そちらのサイトにも上映会のレポートが)、ジオラマ作者の石井氏が以前に北鎌倉のジオラマも制作されたご縁で、おつきあいが続いているそうです。今回のDVDで、挿入音楽を演奏なさった屋良朝信氏もご参加なさいました。

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光太郎のDVD、北鎌倉のそれと、二本上映されました。開け放した窓から野鳥の鳴き声が聞こえ、DVDに入っている効果音かと聞きまごう状態で、いい感じでした。

光太郎DVDの方は、ナレーション原稿を執筆させていただいたので、以前から何度も拝見していますが、制作者の石井氏の解説入りで観ると、また違ったものでした。

北鎌倉の方は、同地を舞台とした小津安二郎監督・原節子主演作品「麦秋」へのオマージュ的な。原さんといえば、昭和32年(1957)、東宝映画「智恵子抄」で智恵子を演じられていて、不思議なご縁を感じました。

ところで花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」。一昨日、岩手めんこいテレビさんでご紹介下さいました。石井氏のジオラマもばっちり映りました。 

「光太郎と花巻電鉄」 高村 光太郎 企画展

詩人で彫刻家の高村 光太郎と花巻電鉄の関わりなどを紹介する企画展が、岩手・花巻市で開かれています。
これは、高村 光太郎が、花巻で暮らした7年間の日常を紹介しようと企画されました。会場には、光太郎が疎開していたころの花巻の風景を再現した、ジオラマが展示されています。中でも、東北初の電車として知られる「花巻電鉄」は、光太郎が、買い物や療養先の花巻温泉へ出かける際に、生活の足として利用していたものです。このほか、直筆の書や着用した衣服、主治医に宛てた手紙など、光太郎ゆかりの品々が展示されていて、訪れた人たちは、光太郎の足跡に思いをはせていました。この企画展は、11月19日まで開かれています。

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記念館さんで、「高村光太郎ジオラマDVD」が販売されてもいます。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

詩の内容といふのは言葉で言ひあらはされた意味の事ではなくて、詩人がさう書かねばならなかつた気魄なり、感覚なり、詩心の事である。詩を読んで其の意味ばかりにとらはれて此の真の内容に気がつかなければ詩を読んだかひが無い。詩の持つ意味は詩人の心の向けられている方位の如何を示し、肝要なのはそれがどういふ内容に於いて満ちてゐるか、欠落してゐるかといふ事である。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

この前の部分では、絵画も然りと光太郎は書いています。結局、どんな芸術でもそうなのでしょう。

NHK文化センターさんによるカルチャースクール講座で、光太郎の父、高村光雲の師である高村東雲の末裔にあたられる三代高村晴雲氏による彫刻の実技講習です。 

佛像彫刻入門

期 日 : 2018年7月7日(土) ・ 7月21日(土) ・ 8月4日(土) ・ 8月21日(土) 
       9月1日(土) ・ 9月15日(土)

会 場 : NHKカルチャー横浜ランドマーク教室 
       横浜市西区みなとみらい2-2-1ランドマ-クプラザ5F
時 間 : 13:00~17:00
料 金 : 40,435円
講 師 : 高村晴雲氏

彫刻刀の扱い方から、地紋彫り、線彫りの天人像、立体佛へと進みます。各人の進度にあわせてじっくりと指導していきます。

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同じNHKカルチャー横浜ランドマーク教室さんで、同一の講座が4月から6月にかけて、やはり全6回で開講されていましたが、人気が高いのでしょうか、すぐさま次の全6回です。

光雲一派の流れを汲む伝統の木彫、その火が絶えることなく受け継がれていってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

モデルは車屋であつたようだが、制作には卑俗なものが感じられず、人物のよさを正直に出している。こういう初期の草創時代を経て日本の近代彫刻はだんだん発達してきたのである。

散文「長沼守敬 老夫」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

長沼守敬は、安002政4年(1857)の生まれ。光太郎より一世代前の彫刻家です。父・高村光雲を別格とすれば、この世代で唯一、光太郎が認めていた彫刻家でした。ただし、あくまで次世代の自分たちが乗り越えるべき守旧派として、です。長沼以外の同世代の彫刻家は、乗り越えるとか何とか、そういう対象としての認識すらしていません。

「老夫」は明治31年(1898)頃の作。翌年には東京美術学校に塑像科が設けられ、長沼が初代教授に任ぜられています。長沼は明治21年(1888)、開校前の準備期間から彫刻科の臨時職員でした。

モデルの車夫に関しては、光太郎の回想が残っています。昭和30年(1955)の散文「モデルいろいろ」から。

最初に来たモデルは四十歳位の男で、人力車夫といふことであつた。裸になつてモデル台に立つたが、褌をしたままであつた。先生は居らず生徒達には文句をいふ権利がなかつたので、そのまま油土を仕事台にのせて一尺二三寸の塑造をはじめた。どこからどう作ればいいのか指導者が一人も居なかつた。そのうち山田先生が紋付袴でやつて来られて部屋に入るなり、モデルの車夫を叱りとばした。なぜ褌を取らんかといふのである。車夫はお菊婆さんとの約束でこれでいいんだと言ひ張る。先生は、ここは学校だ。そんな我がままは許さん。美術の手本になるのが分からんか、といふやうなことをいつていやおう言はせぬ勢でモデルをやつつけた。車夫も弱つたやうであつたが、ぢや、いよいよお開帳か、と言ひながら褌を取つてモデル台に立つた。(略)この車夫が今日ぎりで、明日は来なくはないかといふ心配が起り、大いに車夫にサービスした。車夫は翌日も来た。それからずつと美術学校のモデルをつづけてゐたやうである。

「山田先生」は山田鬼斎、「お菊婆さん」は、モデルの周旋をしていた老女です。

この人物がモデルと知っていたので、「卑俗なものが感じられず」としたのでしょう。「こういう初期の草創時代を経て日本の近代彫刻はだんだん発達してきた」という、その一端も光太郎が担っていました。その草創期のままにとどまらなかったところが光太郎の光太郎たるゆえんですが。

昨日は横浜で2箇所を廻りました。

横浜ですと、公共交通機関で行くより自家用車の方が手っ取り早いので、昨日もそうしましたが、首都高湾岸線その他がかなりの渋滞で、しかたなく途中から京葉道に入って南下、遠回りになりますがアクアライン経由で行きました。

途中の海ほたるPA。数年ぶりにアクアラインを通りました。ちなみに帰りは普通に湾岸線を使いましたが、やはり大渋滞。それもそのはず、東京港トンネルのど真ん中で、大型トレーラーが故障で停車していました。

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横浜に入り、まずは港の見える丘公園内の神奈川近代文学館さんへ。自宅兼事務所のある千葉の桜は9分咲きといったところでしたが、こちらは満開でした。




晶子の一生を時系列で追う展示が基本で、非常にわかりやすくまとまっていました。「プロローグ 乙女となりし父母の家――故郷の町・堺」、「第一部 『みだれ髪』の歌人――新しい時代を拓く」、「第二部 晶子の「源氏物語」――古典と現代をつなぐ」、「エピローグ 冬の夜の星君なりき――激動の時代の中で」。合間に「スポット 晶子のまなざし(①女性たちへ/②子どもたちへ/③若者たちへ)」、「スポット 旅を詠む/晶子と神奈川」。

個人的には、明治44年(1911)、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を添えた屏風紙二点を、特に興味深く拝見しました。その存在自体は、平成23年(2011)に、大阪の逸翁美術館さんで開催された企画展「与謝野晶子と小林一三」の図録を入手して存じておりましたが、実物を見たのは初めてで、大興奮でした。

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途中で展示替えがあるということで、前期展示期間が4月15日(日)まで、後期展示期間は4月17日(火)~5月13日(日) だそうです。後期になったらまた行くつもりでおります。

図録も充実しています。歌人の尾崎左永子氏、今野寿美氏、さらに連翹忌にもご参加下さったことのある、山梨県立文学館館長・三枝昻之氏(ちなみに山梨県立文学館さんといえば、平成25年(2013)に、「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」が開催され、行って参りました。)などの玉稿が掲載され、図版も豊富です。

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これで600円は、超お買い得(笑)。

皆様もぜひ、足をお運び下さい。

その後、みなとみらいの横浜美術館さんに移動、「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」展を拝見して参りました。そちらのレポートは明日。


【折々のことば・光太郎】

私は生(ラ ヸイ)を欲する。ただ生(ラ ヸイ)を欲する。其の餘の贅疣(ぜいいう)は全く棄てて顧みない。生(ラ ヸイ)はただ一つである。「無くて叶はぬものはただ一つなり」と言つたクリストの心は私の心である。
散文「文展の彫刻」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

造型でも詩でも、光太郎芸術の根幹をなす「生(ラ ヸイ)」が語られています。「生(ラ ヸイ)」は、仏語の「La Vie」。一般に「生命」、「命」と訳されます。

毎月ご紹介しています、日本絵手紙協会さん発行の月刊誌『月刊絵手紙』の4月号が届きました。昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

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今号は大正9年(1920)に書かれた評論、「彫刻鑑賞の第一歩」から、かなり長文で抜粋されています。

過日のこのブログでご紹介いたしました、横浜美術館さんで開催中の「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」展の紹介記事「高村光太郎も尊崇したロダンの彫刻――「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」(横浜美術館)――」が、併せて掲載されています。画像は同展の目玉出品物、ロダン作「接吻」の大理石像です。『月刊絵手紙』さんで、この展覧会を取り上げるとは、意外といえば意外でした。

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後ろの方のページにも、同展の案内が。

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これはもう、「同展を観に行きなさい」という、泉下の光太郎からの啓示と捉え(笑)、今日、観に行って参ります。同じ横浜ですので、神奈川近代文学館さんで開催中の特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」にも、併せて足を運んで参ります。

皆様も、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

何にしろ、もつとしつかりした作品が出来て来なくてはならない。どうも為方がない。画くより外はない。そして画くといふ事について幾度も血の出るまで思ひ返さねばならない。画くといふ事は言ふまでもなく命に外ならないのだから。
散文「光風会の一瞥」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「光風会」は、上野竹之台陳列館で開催された「光風会第二回洋画展覧会」。留学仲間だった有島生馬、山下新太郎、南薫造、柳敬助、津田青楓、師にあたる藤島武二、「パンの会」での盟友・石井柏亭らの作が並び、光太郎は誉めもしていますが、批判もしています。友人知己だからと言って容赦せず、「血の出る」思いを込めて制作した作品でなければ認められないという、光太郎の芸術感がよく表されています。

NHK文化センターさんによるカルチャースクールの情報です。 

佛像彫刻入門

期 日 : 2018年4月7日(土) ・ 4月21日(土) ・ 5月19日(土) ・ 6月2日(土) ・ 6月16日(土)
       ・ 6月30日(土)

会 場 : NHKカルチャー横浜ランドマーク教室
       横浜市西区みなとみらい2-2-1ランドマ-クプラザ5F
時 間 : 13:00~17:00
料 金 : 40,435円
講 師 : 高村晴雲氏

彫刻刀の扱い方から、地紋彫り、線彫りの天人像、立体佛へと進みます。各人の進度にあわせてじっくりと指導していきます。

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講師の高村晴雲氏は、三代目晴雲。光太郎の父、高村光雲の師である高村東雲の末裔にあたられる方です。したがって、江戸から続く高村一派の木彫の正統な系譜を嗣いでいます。ご自宅は鎌倉です。

NHKカルチャーさんの会員限定の講座のようですが、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

私はやつぱり歩んで行かう。何処へ、何処へ。何処へと問ふのは間違つてゐる。歩む事を歩むのだ。

散文「西洋画所見」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

やはり文部省美術展覧会(文展)の評で、『読売新聞』に掲載されました。

『高村光太郎全集』には、11月1日から16日にかけての11回分が掲載されていますが、最終回に当たる第12回(17日掲載)が脱落しており、今回引用したのはその第12回の一節です。

文展等のアカデミズムには与しないという主義主張を再確認する一文です。

昨日開会した企画展です。直接的には光太郎に関わりませんが……。

ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより

期 日 : 2018年3月24日(土)~6月24日(日)
会 場 : 横浜美術館 神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1
時 間 : 10時~18時 *ただし、2018年5月11日(金)、6月8日(金)は、20時30分まで
料 金 : 一般 1,600円(1,500円)   大学・専門学校生 1,200円(1,100円)
         中高生 600円(500円)   
65歳以上 1,500円   ( )内団体料金
休館日 : 木曜日、5月7日(月)*ただし5月3日(木・祝)は開館

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ヌード――人間にとって最も身近といえるこのテーマに、西洋の芸術家たちは絶えず向き合い、挑み続けてきました。美の象徴として、愛の表現として、また内面を映しだす表象として、ヌードはいつの時代においても永遠のテーマとしてあり続け、ときに批判や論争の対象にもなりました。

本展は、世界屈指の西洋近現代美術コレクションを誇る英国テートの所蔵作品により、19世紀後半のヴィクトリア朝の神話画や歴史画から現代の身体表現まで、西洋美術の200年にわたる裸体表現の歴史を紐ときます。フレデリック・ロード・レイトンが神話を題材として描いた理想化された裸体から、ボナールらの室内の親密なヌード、男女の愛を永遠にとどめたロダンの大理石彫刻《接吻》[日本初公開]やシュルレアリスムの裸体表現、人間の真実に肉迫するフランシス・ベーコン、さらにはバークレー・L・ヘンドリックスやシンディ・シャーマンなど、現代における身体の解釈をとおして、ヌードをめぐる表現がいかに時代とともに変化し、また芸術表現としてどのような意味をもちうるのか、絵画、彫刻、版画、写真など約130点でたどります。
2016年のオーストラリアを皮切りにニュージーランド、韓国へと国際巡回する本展。待望の日本上陸です。

本展のみどころ
1. テーマは「ヌード」。西洋の芸術家たちの挑戦の軌跡を追う。
「ヌード」は西洋の芸術家たちが絶えず向き合ってきた永遠のテーマです。しかし、「ヌード」をテーマにした大規模な展覧会は前例が少なく、挑戦的な試みです。本展は、この難しいテーマに意欲的に取り組み、ヴィクトリア朝から現代までのヌードの歴史を辿ります。

2. 近現代美術の殿堂、英国テートからヌードの傑作が集結。
1897年の開館以来、世界屈指の近現代美術コレクションと先進的な活動で常に美術界をリードしてきたテート。その至高の作品群よりヌードを主題とした作品が集結します。ロダンの大理石彫刻《接吻》をはじめ、ターナーが描いた貴重なヌード作品や、マティス、ピカソ、ホックニーなど19 世紀後半から現代まで、それぞれの時代を代表する芸術家たちの作品が出品されます。

3. ロダンの大理石彫刻《接吻》が日本初公開!
ロダンの代表作であり、男女の愛を永遠にとどめた《接吻》。情熱に満ち、惹かれ合うふたりの純粋な姿が、甘美な輝きに包まれています。「恋愛こそ生命の花です」*、こう語るロダンにとって、愛することは生きることそのものであり、また制作の原点であったといえるでしょう。ブロンズ像で広く知られる《接吻》ですが、高さ180センチ余りのスケールで制作された迫力の大理石像は世界にわずか3体限り。そのうちの一体がついに日本初公開です。 *高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』より



光太郎が敬愛したオーギュスト・ロダンの代表作の一つ、「接吻」の大理石像が目玉です。



出品されているのは、英国テート・ギャラリー所蔵の優品からセレクトされたもので、ロダンは「接吻」のみ、あとは、ターナー、ドガ、ルノワール、マチス、ピカソ、ジョルジュ・デ・キリコ、ヒンリ・ムーア、ジャコメッティといったあたりが一般的なところでしょうか。出品目録はこちら

関連行事も色々充実しています。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は私の狂疾である。私にとつて、世の中で一番魂の誘惑者となるものは彫刻である。私の眼には、彫刻は、諸芸術の中でも、最も神秘的に見え、最も魅力に富んで見え、最も作者の全人格の内秘を語り出すもののやうに見える。
散文「彫刻に関する二三の感想」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

おそらく、ロダンにとってもそうだったのではないでしょうか。

まずは、今週末から始まる企画展情報です。 

特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」

期 日 : 2018年3月17日(土)~5月13日(日)
会 場 : 神奈川近代文学館 第2・3展示室 横浜市中区山手町110 港の見える丘公園内
時 間 : 午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
料 金 : 一般600円(400円) 65歳以上/20歳未満及び学生300円(200円) 高校生100円
      中学生以下無料 *( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日(4月30日は開館)

2018年は、歌人・与謝野晶子(1878~1942)の生誕140年にあたります。20世紀の幕開けの年、22歳の晶子が高らかに恋愛を謳いあげた第一歌集『みだれ髪』は、近代日本の文学界に大きな衝撃を与え、新しい詩歌の時代を切り拓きました。文学史上に燦然と耀くその魅力は、今なお褪せることはありません。本展では、現在も多くの読者に親しまれている晶子の2作品-『みだれ髪』と、晶子訳「源氏物語」を軸に、さまざまな晶子の貌を紹介します。
師であった与謝野鉄幹への恋を貫き、情熱の歌人として知られる晶子は、5男6女を育てた母親でもありました。一家の家計は晶子の筆が支えていたこともあり、歌人としてのみならず、詩、評論、小説、童話、古典研究など、さまざまなジャンルで幅広い執筆活動を行っています。明治、大正、昭和にいたる激動の時代のなか、文学者として、また一人の女性として、常に先駆的な立場で生き抜いた人生は、現代の私たちにも強いメッセージを投げかけています。
本展は、堺市博物館・さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館をはじめ、多くのご関係の方々、団体にご協力を仰ぎながら、数々の貴重資料とともに、晶子の波瀾の人生を辿ります。

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関連行事

生誕140年 与謝野晶子展 記念イベント
 4月 7日(土) 講演会Ⅰ「『恋衣』そして晶子と古典」 講師:尾崎左永子
 4月21日(土) 講演会Ⅱ 「近代を創る―鉄幹晶子の五十年」 講師:三枝昻之
 5月 5日(土・祝) 講演会Ⅲ 「『みだれ髪』―もうひとつの読み方」  講師:今野寿美
 4月14日(土) 朗読会 与謝野晶子「新訳源氏物語」から「桐壺」「若紫」  出演:竹下景子

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ギャラリートーク
 会期中毎週金曜日 各日14:00~ 参加無料・申込不要(要展示観覧料)
 会場=展示館1階エントランスホール


光太郎に関わる展示や、関連行事の講演等でも光太郎がらみのお話などがあるかと存じます。ぜひ足をお運びください。


いろいろ紹介すべき事項が重なっておりまして、もう少し。続いてはラジオ放送の情報です。 

NHKカルチャーラジオ 文学の世界 「詩と出会う 詩と生きる」  【今を生きる詩~高村光太郎と柳宗悦のまなざし】

NHKラジオ第2放送003
 2018年3月15日(木) 午後8:30~午後9:00(30分)
 再放送3月22日(木) 午前10時00分~ 午前10時30分

講師 : 若松英輔

彫刻家・高村光太郎(1883~1956)は言葉によって生気を写し取ろうとした詩人だといえるかも知れません。戦後7年間、岩手県花巻の郊外で独居生活中、彫刻を作りません。彼は触覚を超えるものと静かな対話を続けたのでしょう。一方、民芸運動を率いた柳宗悦(1889~1961)は優れた宗教哲学者でもありました。彼は詩人の作品に刺激されながら詩作を独特に進化させます。


テキストが既に発売されており、過日のこのブログでご紹介しました。

批評家・随筆家の若松英輔氏による「詩と出会う 詩と生きる」。毎回一つのテーマで近現代の「詩人」の作品を取り上げ、その背景に迫ります。

若松氏の定義では、「詩人」の幅が広く、今回光太郎とともに取り上げられる柳宗悦などは、通常、詩人の範疇に入りませんが、「広い意味での「詩」の作品を残している人々」だそうです。


続いて、訃報を1件。

国文学者の平岡敏夫氏死去

 平岡 敏夫氏(ひらおか・としお=国文学者、詩人)5日午後0時27分、肺不全のため東京都内の病院で死去、88歳。
 香川県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻豊子(とよこ)さん、長男可奈之(かなし)氏。
 筑波大教授、群馬県立女子大学長などを歴任。北村透谷や夏目漱石をはじめとする日本近代文学研究で知られ、著書に「日露戦後文学の研究」「佐幕派の文学史」など。詩集も多く残した。


かつて至文堂さんから発行されていた雑誌『国文学解釈と鑑賞』の第41巻第6号(昭和51年=1976)「―特集 高村光太郎その精神と核―」に「国家と天皇と父と」、第63巻第8号(平成10年=1998)「特集 高村光太郎の世界」には「作品の世界『智恵子抄』」という論考を発表されるなど、光太郎に関するご著作もありました。平成27年(2015)に思潮社さんから刊行された『平岡敏夫詩集』にも、光太郎論が掲載されていました。


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連翹忌にも、5回ほどご参加下さっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ。力が内にこもつてゐて騒がないのがいいと思ふ。悪筆は大抵余計な努力をしてゐる。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のやうな立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興つて悪筆天下に満ちるの観があるので自戒のため此を書きつけて置く。

散文「書について」より 
昭和14年(1939) 光太郎57歳

昨日と同じ文章から、今日は末尾の部分です。通常、このコーナーでは同一作品から2箇所以上採ることはしていないのですが、今回は例外。書の世界でも大きな足跡を残した光太郎の書論が非常に鮮明に表されていますので。

神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙『タウンニュース』さんの記事から。

文豪の世界に触れる 永田地区センター 講座でゆかりの和菓子も

 高村光太郎、室生犀星、夏目漱石といった文豪の作品解説と3人の作家が好んだ和菓子を食べて楽しむ講座が1月29日、2月5日、26日に永田地区センターで行われる。時間はいずれも午前10時から11時30分。

 講師に一般財団法人出版文化産業振興財団の読書アドバイザー、城所律子さんを招く。城所さんは図書館での読み聞かせや年齢に応じた本の選び方、読み方のアドバイスをしている。今回は作品の紹介だけではなく、作家たちの人となりや時代背景などが分かりやすく解説される予定。

 参加費は全3回で1人1200円。回ごとに取り上げる作家が変わる。全回に参加できなくても申し込みは可能。対象は成人先着12人。申し込みは1月11日から、費用を添えて直接施設へ。申し込み、問い合わせは同地区センター【電話】045・714・9751。


というわけで、調べてみました。会場の永田地区センターさんのサイトから。 

文豪と和菓子

期   日 : 2018年1月29日(月)、2月5日(月)、2月26日(月)
会   場 : 横浜市永田地区センター 横浜市南区永田台45-1
時   間 : 10:00~11:30
料   金 : 1,200円 (要予約 費用を添えて直接施設へ。)
定   員 : 12名(先着順)

高村光太郎・室生犀星・夏目漱石それぞれのゆかりの和菓子をいただきながら、作品を楽しんでいただきます。

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横浜市南区さんの広報紙『広報みなみ』にも案内が出ていました。

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ところで、どちらも和菓子の具体的な品名が出ていません。

光太郎と和菓子というと、当方、真っ先に思い浮かぶのは光太郎の実家や智恵子と暮らしたアトリエにほど近い、団子坂下の「菊見せんべい」さん。

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光太郎最晩年、昭和29年(1954)の『中央公論』に載った談話筆記「わたしの青銅時代」に、光太郎十代、東京美術学校在学中に、通学路の途中にあるその店の看板娘が気になって、そこを通るたび「胸がドキドキして顔がほてつて困つた」という部分があります。ただ、せんべいそのものについてはうまいともまずいとも発言していませんでしたが(笑)。

それから、昭和20年(1945)に岩手花巻、更に花巻郊外の旧太田村に移り住んでから親しんだ、南部せんべいや豆銀糖。以前にもご紹介しましたが、昭和24年(1949)の対談「朝の訪問」に以下の発言があります。

岩手はね、その、庶民階級がいいんです。それが僕は好きなんです。だから人によく話すけど、八戸煎餅ですね。それと豆銀糖と。ああいうものに実にいい、うまいものがある。で、殿様が食べるようなものは別にない。

詳しく調べれば、まだあるかもしれませんし、今回の講座ではどんな和菓子が取り上げられるのか、気になるところです。また、光太郎と共に取り上げられる犀星や漱石はどんな和菓子が好きだったのか、それも気になるところです。漱石はほっておくとジャムをひと瓶舐めてしまうという甘党だったそうですが(笑)。

こういう部分に着目すると、それぞれの身近に感じられるもので、そういう意味では今回の講座、おもしろい取り組みだと思います。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

丸いものを唯丸く薄いものを唯薄く現はすだけのところに彫刻は無い。彫刻家であるならば、厚いものを拵へて薄く見せ、四角に作つて丸く見せるといつた様なこつ――造形的感性――を身体の中に持つてゐるわけで、その人が写生をすれば、それは自づと彫刻になるのである。

談話筆記「写生の二面」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

こうした意味では、光太郎、最近流行の「超絶技巧」的な実物そっくりの牙彫などは認めていませんでした。実際、光太郎の木彫「蝉」は、薄いはずの羽を分厚く作っていて、しかし何の違和感もありません。芸術とは難しいものですね。

昨日始まった企画展です。いろいろありまして、事前にはご紹介しませんでしたが(理由は後述します)、 早速、昨日、見に行って参りました。

所蔵作品による"なんだろう"展+新収蔵品

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年2月25日(日)
会 場 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
時 間 : 9:30 ~ 17:00(入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日(1/8、2/12 は開館)、1/9 日(火)、年末年始(12/29~1/3)
料 金 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円  ( ) 内は20 名以上の団体料金

"なんだろう"展は、鑑賞する皆さんが主役です。何が描かれているか想像し、感じたことや作家への質問を書いてみましょう。また、昨年度新たに収蔵された作品も展示します。併せてお楽しみください。

 今回の“なんだろう” 展には、ふだん作品に付されている題名や作者名、解説文もありません。およそ30 点の作品は、幻想的だったり、どこか思わせぶりだったり、楽しくなったり、不思議な気持ちになるものばかりです。作品を見ることに正解はありません。それぞれの作家がつくった作品を見て、感じ、なにが描かれているのか想像してみましょう。そして感じたことを実際にかたわらに書いてみましょう。ほかの来館者が書いてくれた言葉も読んでみるとイメージがふくらむかもしれません。また、加藤芳信、山本直彰、岡村桂三郎、中ザワヒデキの作品についての質問を来館者から募集します。そして会期後半にみなさんの“なんだろう”に対する作家の「答え」を掲出します。さあ、深呼吸してリラックスして、立ち止まったり座ったり、“なんだろう” と考えてみましょう。どうしても気になった作品は、チラシの裏側にリストがあるので見てください。
 なお、同時開催として、福田美蘭《見返り美人鏡面群像図》をはじめ、昨年度、新たに収蔵された作品約40 点を展示しますので、併せてお楽しみください。

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「新収所蔵品展」の方で、光太郎の油絵が1点、出ています。大正3年に描かれた静物画です。「瓶とコップ」という題で展示されています。

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この年、光太郎は油絵の頒布会である「高村光太郎画会」を行いました。「画会」といっても展覧会ではなく、注文を取って油絵を描くためのシステムです。雑誌『現代の洋画』に広告が掲載されています。

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これにより、数点の油絵が制作された、そのうちの1点と思われます。

昭和48年(1973)に春秋社さんから刊行された『高村光太郎選集』別巻の、『高村光太郎 造型』には、その時点で確認されていた光太郎の彫刻、絵画、装幀作品がすべてリストアップされており、当時入手可能だった写真も掲載されています。この絵はそちらには掲載されておらず、その後に「発見」されたものでした。

リストといえば、筑摩書房『高村光太郎全集』別巻(平成10年=1998)にも造形作品の目録が掲載されており、そちらが現在最新かつ最も信頼のできるものです。そのリストでは「洋酒瓶二本」となっているものだと思われます。(こちらは画像が掲載されていません)。

昭和62年(1987)に小田急グランドギャラリーさんで開催された「光太郎智恵子の世界展」に出品されており、その頃見つかったものと思われます。平成2年(1990)、呉市立美術館さん、三重県立美術館さん、茨城県近代美術館さんを巡回した「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展にも出品されています。それぞれ「静物(洋酒瓶)」という題名で出品されました。ただ、双方の図録とも「大正2年」となっていました。よく見ると絵の中に「1914 光」とサインがあるので、大正3年です。

で、今回、平塚市美術館さんで、「大正3年の静物画「瓶とコップ」が出る」というので、もしかして新発見かと思い、見に行った次第です。事前にご紹介しませんでしたが、それはガセだったら困ると思ったからでした。意外とガセがあります。「これが光太郎作品と言い切れるのか」というものが、光太郎の名で出品される展覧会等。この夏にも関東のある県で開催された企画展で、ありました。そちらは彫刻でした。小さな私設美術館などで、とても光太郎のものと思えない作風の絵が、光太郎のクレジットで常設されているところもあります。

今回のものはまちがいなく真作です。題名が以前に出品された時と異なるのは、ある意味仕方がないでしょう。個人からの寄託品だそうで、同じ方から寄託された木村荘八や萬鉄五郎の絵も、今回並んでいました。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

今日、多くの人は油絵といふものは迚も所謂日本趣味と調和しない様に考へてゐる様ですが、此は習慣性と無識とかから、至極漠然とさう感じてゐるに過ぎないので、実際試みた上の話は少ない様です。私の考へでは、茶室の懸床(かけどこ)などにでも油絵をかけて、立派に調和させることが出来ると思つてゐます。
散文「油絵の懸け方」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

上記でご紹介した静物画などもですが、ここに述べられているような「茶室の懸床(かけどこ)などにでも」「立派に調和させることが出来る」油絵を、光太郎は目指していたようです。

甲信レポートを書いていた前後にも、新聞各紙に光太郎の名が出ています。3件、ご紹介します。

まず、先週ご紹介した『朝日新聞』さんの「彫刻家高田博厚の遺品、東松山市に寄贈へ」の続報的な神奈川版の記事です。

神奈川)彫刻家・高田博厚アトリエ閉鎖 知人らお別れ会

 文豪ロマン・ロランや詩人ジャン・コクトーらと親交があり、晩年は神奈川県鎌倉市のアトリエで制作活動をした世界的彫刻家・高田博厚(1900~87)のアトリエが閉鎖され、知人らが集まって2日、お別れ会が開かれた。遺品は交流のあった埼玉県東松山市に寄贈される。
 1931年に渡仏して57年に帰国。66年から86歳で亡くなるまで拠点とした鎌倉市稲村ガ崎のアトリエには同日、親交のあった知人や関係者ら約30人が集まり、お茶を飲みながらピアノ演奏を聞くなど和やかな雰囲気の中、高田の思い出に花を咲かせた。
 洋画家で文化勲章受章者の東京芸大名誉教授・野見山暁治さん(96)は留学時代の53年、パリのカフェで初めて高田に会った時の思い出を語り、「君は日本人かと話しかけられ、『そうか、日本人が外国へ来るようになったのか』と感慨深げだった」としのんだ。
 東松山市に寄贈されるのは彫刻や絵画などの作品のほか書物や家具など数千点。同市の元教育長が高田と親交があった関係で「高田博厚彫刻展」を開いたり、高田の作品を通りで展示したりしている縁で贈られることになった。
 同市の森田光一市長は「遺品をいただけるのは名誉なこと。2020年を目途に何らかの施設を造り、すばらしい芸術家を顕彰していきたい」と話した。
 「死後30年」を機に今回の寄贈を決めた高田の義理の娘の大野慶子さん(80)は「父は『彫刻は触ってみるもの』と言って、東松山市の展示を大変喜んでいたので、今回のことも喜んでくれていると思います。多くの方にみていただき、特に子どもたちに親しんでもらえれば」と話した。
 高田は石川県生まれ。上京して詩人で彫刻家の高村光太郎らと知り合い、31歳で渡仏。彫刻を学び、「指で思索する彫刻家」と称賛された。死後、鎌倉市には主要な作品や絵画など約300点が寄贈されている。(菅尾保)

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同じ件は『東京新聞』さん、NHKさんなどでも紹介されましたが、そちらでは光太郎の名が出なかったので、割愛します。


続いて、『読売新聞』さんの高知版。

詩人・岡本弥太功績たたえ ◇香南で一絃琴演奏、朗読も

 「南海の宮沢賢治」と評され、1942年12月2日に43歳の若さで亡くなった香南市香我美町出身の詩人、岡本弥太の没後75年を記念した「岡本弥太祭」が2日、同町の峯本神社で営まれた。
 弥太は20歳の頃から詩を書き始め、地元で教べんをとりながら創作活動。1932年には、生前唯一の詩集で中央詩壇から高く評価された「瀧」を刊行した。没後の48年、詩人の高村光太郎の書による詩碑「白牡丹図」が同神社に建てられた。
 この日の祭には地元住民らが参列。弥太の孫に当たる岡本龍太さん(59)が「弥太は『自分で二度と詠みたくない詩は、詩ではない』と話していた」などのエピソードを披露した後、市立香我美小の児童有志が、弥太の詩に曲を付けた「わが涙」を一絃琴で演奏した。県立城山高校の生徒ら4人も弥太の詩4編を朗読し、弥太の功績をたたえた。
 実行委員長の猪原陸さん(77)は「年々輪が広がりつつあり、弥太も喜んでくれていると思う。次代に引き継いでいくことが大事で、来年も続けていきたい」と話していた。


岡本弥太は、光太郎より16歳年下、明治32年(1899)の生まれ。終生、高知で小学校教員を務めながら詩人として活動していたようです。歿したのは昭和17年(1942)、やはり結核でした。年代といい、地方で活動していたことといい、結核で早世したことといい、光太郎との関わりといい、昨日ご紹介した野澤一を彷彿とさせられます。

生前に上梓した詩集は『瀧』(昭和7年=1932)一冊のみ。翌年に親しかった間野捷魯編集で刊行された『瀧批評集録』に、光太郎からの『瀧』受贈の礼状が掲載されています。

啓。貴著詩集「瀧」及御てがみ忝くおうけとりしました。丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました為めお礼のてがみさへ遅れて失礼しました。詩集はもつとよく落ちついてから精読したいと思つておりますから、その上何か申上げたいと存じます。此事御諒承願ひます。畧儀ながら御礼まで。

素っ気ない気がしますが、仕方がありません。光太郎の弁護を致しますと、智恵子の心の病が昂じ、自殺未遂をやらかした後だったので、それが「丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました」なのです。

戦後になって、高知で岡本の詩碑建立が決まり、イラストレーターの依光隆、光太郎と親交のあった島崎曙海らを介して、光太郎に碑文の揮毫が依頼され、実現しました。昭和22年(1947)、23年(1948)の光太郎日記、依光(旧姓川島)や島崎に宛てた書簡にその辺りの経緯が記されています。それによると、光太郎、驚くべきことに揮毫の礼として送られた小為替1,000円分を、建碑の足しに、と、そっくりそのまま送り返しています。「やるなぁ」という感じでした(笑)。

当方、この碑を見るために、20数年前に高知まで飛びました。

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当時は携帯電話など持っていませんでしたので(今ならナビ機能が使えます)、迷いながらもたどり着き、光太郎独特の味のある字を見て、旧友に再会したような感覚にとらわれました。

刻まれているのは『瀧』に収められた「白牡丹図」。

 白い牡丹の花を
 捧げるもの
 剣を差して急ぐもの
 日の光青くはてなく
 このみちを
 たれもかへらぬ


調べてみましたところ、岡本に関しては他にも顕彰の機運が盛り上がりつつあるようで、また改めてご紹介します。


最後に、先週の『河北新報』さん夕刊のコラム。

河北抄 2017年11月29日水曜日

 師走を前に寒さが駆け足になりつつある。仙台は初雪が降るとともに最低気温が氷点下になる日もあり、繁華街ではコート姿の人たちを多く見掛ける。
 冬の季語に「セーター」や「カーディガン」がある。家はもちろん、職場でも背広を脱いで装う人は結構いるだろう。
 頭の中のたんすにしまい込んだ記憶がある。1994年の今頃、現大リーガーのイチロー外野手(44)は当時所属するプロ野球オリックスと、年俸800万円から10倍増の8千万円(金額はいずれも推定)で来季契約を結んだ。「大金を何に使いますか」と記者に尋ねられると、「いいセーターを買います」と答えた。
 車でなく、家でなく、貯金でもない。毛糸の編み物。背伸びをせず肩肘張らずに自然体で生きているという青年の実像に触れたようで、とても好感を持った。
 球界は今、シーズンオフ。イチロー選手のような話題に出合うと、うれしくなる。こんなとき、高村光太郎の詩『冬が来た』の一節を思い出す。<冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ>。セーターのような詩である。


まさしく「冬が来た」今日この頃。皆様も風邪など召されませんよう、ご自愛下さい。


【折々のことば・光太郎】

本統に絵や彫刻を愛したり、味はうとする人がないと言ふのは、一面から考へれば人々に芸術を鑑賞する力がないからだとも言へるし、又一方から見れば、人々を引き付けるチヤームが芸術に無いからだとも言へる。其の何れにしても兎に角嬉しいことではない。

談話筆記「芸術を見る眼」より 治44年(1911) 光太郎29歳

2年前の帰国当初、欧米で実際に触れてきた新しい芸術を日本にも伝えるため、啓蒙の意欲に燃えていた光太郎ですが、この頃になると、もはや日本全体を変えるのは不可能、という一種のあきらめにたどりつきます。

俗世間とは縁を切って、個の鍛冶、自らの芸術精進という方向性の企図です。この後、主に絵画の方面ではヒユウザン会、生活社などで同志と言える存在に恵まれますが、彫刻では、前年に荻原守衛が夭折し、孤軍奮闘となってゆきます。

昨日は、テルミン奏者大西ようこさんと、ギターの三谷郁夫さんによるユニット「ぷらイム」さん、ユニット結成10周年記念コンサート「テルミンと語りで紡ぐ愛の物語り 智恵子抄」を拝聴して参りました。

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会場は横浜美術館さん。平成26年(2014)に開催された「ヨコハマトリエンナーレ2014」以来でした。

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来週がハロウィンということで、前庭ではそれにからめた子供さん向けのイベントが行われていました。ハロウィンモードのアンパンマンに遭遇(笑)。

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コンサートが開催される美術館内のレクチャーホールへ。

ちょうどリハ中でした。


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開演は午後3時。その前に、受付で渡されたパンフ、チラシ類に混じって、「ぷらイム10周年智恵子抄クイズ」なる紙が。

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005ロビーに展示されている昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』初版第一刷と、同18年の第十一刷り、それぞれの重さをあててくださいとのこと。最も近い解答の方に、特製マグカッププレゼントだそうで、面白いことを考えるものです(笑)。

のちほど発表された正解は、第一刷が144グラム、第十一刷が257グラムだそうでした。戦時中ということもあり、手に入る用紙の種類がバラバラだったため、このような現象が起きています。特に第一刷は奥付によれば「表紙ハ特漉西ノ内 見返ハ手漉鳥ノ子紙 本文ハ奉書紙生漉」。要するに高級な和紙なのですが、逆に問屋に高級な紙しか残っていなかったというのです。

画像は当方手持ちの第一刷りの奥付です。この本、一昨年、NHKさんで放映された「歴史秘話ヒストリア第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」の際にお貸しし、テレビ出演を果たしました(笑)。

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珍しい、という「愛読者カード」も付いています。これの有る無しで古書価としてはかなり変わるそうで。

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閑話休題。会場もほぼ満席となり、いよいよ開演。

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2部構成で、当初、第一部が、女優の水沢有美さんを交えての『智恵子抄』、第二部がぷらイムのお二人のみの演奏という予定でしたが、逆転し、先にぷらイムのお二人。

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こちらでも、曲間に「智恵子抄」がらみのMCが入りました(そちらの方が演奏時間より長かったような(笑))。肝心の演奏も、相変わらずすばらしいものでしたが。

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003上記は、大西さんの「研究」成果。x軸が光太郎の詩が発表された年、y軸が試作品の発表数。『道程』期の明治末と、戦時中に発表数が多くなり、しかし、『智恵子抄』所収の作品は戦時にはない、という話です。

休憩後、第二部。水沢さんを交えての『智恵子抄』。予想していたよりも「攻め」の演出でした。水沢さんは一ヶ所にとどまらず、ほぼ常に動きながらの語り。演劇に近い動きでした。

三谷さんとの掛け合いもあり、光太郎作品の引用以外のセリフ的な部分もあり、歌あり、ダンス的な動きもあり。語り口も、絶叫や、心を病んだ智恵子の独白などもあって、バリエーションが実に豊かでした。お客さんも食い入るように引き込まれていました。


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終演後のロビー。

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例によって、水沢さんには連翹忌の宣伝をしておきました。

今後とも、光太郎智恵子の世界を広めるのに、一役買っていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

蝮(クチバミ)がとぐろをまいておれを見る。 それはあんまりきれいな敵意で けだかく、さとく、思慮ぶかく、 どうもおれには手出しができない。
詩「クチバミ」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

「クチバミ」はマムシの古名です。蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋周辺には、うようよ生息していたということで、珍しいものではなかったようですが、ここにはある種の「畏怖」の感情が見て取れます。マタギ猟師の人々が、山の神への敬虔な気持ちを忘れないような。

千葉と言っても田舎で、里山を背負った当方自宅兼事務所近辺でも、よくマムシやヤマカガシ、ジムグリ、アオダイショウを見かけます。一昨日も愛犬の散歩中にジムグリに遭遇しました。当方は畏怖より恐怖が先に立ちますが(笑)。

先週末、当方が花巻に行っている間に開催されたイベントが報道されていますので、ご紹介します。

まずは『神奈川新聞』さんから、 「横浜日枝神社例大祭」に関して。 

修復神輿お披露目 横浜、「火伏行列」練り歩き

 お三の宮として親しまれている日枝神社(横浜市南区)例大祭のメイン行事の一つ「火伏(ひぶせ)神輿(みこし)行列」が15日、同市中区のイセザキ・モールで行われた。約90年ぶりに神輿の修復を済ませてからは初めての行列で、塗り直された極彩色の彫刻などが披露された。
  烏帽子(えぼし)と白装束姿の氏子約30人が神輿を担ぎ、「エイサー、エイサー」の掛け声でゆっくりと練り歩いた。
  神輿は大正天皇即位記念事業の一つとして伊勢佐木町の商店主らが企画。当時の帝室技芸員・高村光雲らが1923年に製作した。関東大震災と横浜大空襲の2度の火難を逃れたことから火伏神輿と呼ばれるようになった。
  2016年の修復の世話人を務め、祖父が製作時の世話人だった渡辺洋三さん(65)は「高村光雲の木彫りがひときわ美しくなった。火伏神輿は地域の宝であり文化財。大切に残していきたい」と語った。

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続いて、光太郎詩「あどけない話」の一節「ほんとの空」を冠した、「ふくしま ほんとの空プログラム」について、『福島民報』さんから。 

鮫川の自然満喫 児童らピザ作り「ふくしま ほんとの空プログラム」

 子どもの好奇心と探究心を育む原体験活動「ふくしま ほんとの空プログラム」は16日、鮫川村赤坂東野字葉貫のあぶくまエヌエスネットで始まった。県内外の児童、保護者ら25人が日帰りで里山の自然を満喫した。
 子どもたちがウオールクライミングや広場で野球をして体を動かしたほか、小川で水生生物をつかまえたり、ヤギと触れ合ったりして、ゆったりとした時間を過ごした。昼食には石窯を使ったピザ作りも体験。自ら生地を広げて、野菜などをトッピングした。福島市の新田樹君(9つ)=清水小3年=は「鮫川村に来たのは初めて。いろいろな自然がある」と話し、木工遊びなどを楽しんだ。
 福島民報社の主催、JTB東北法人営業仙台支店の企画・実施、NPO法人あぶくまエヌエスネットの協力、鮫川村の後援。王子製紙、オーデン、花王、常磐興産、大王製紙、テーブルマーク、東北エールマーケット、日本シビックコンサルタントの協賛。
 今後のプログラムは30日と10月22日に同様の日帰りを、10月28、29の両日に1泊2日の宿泊体験を実施する。日帰りは時間がともに午前10時~午後3時半。小学生3000円、保護者1500円。宿泊体験は小学生7000円、保護者5000円。
 参加希望者は、はがきに(1)参加希望プログラム(2)参加者氏名(ふりがな)(3)生年月日(4)学年または年齢(5)性別(6)学校名(7)郵便番号(8)住所(9)日中連絡がつきやすい電話番号(10)アレルギーや投薬など運営団体への連絡事項を記入し、郵便番号980-0804 仙台市青葉区大町1の4の1 明治安田生命仙台ビル4階 JTB東北法人営業仙台支店「ふくしま ほんとの空プログラム」係へ。プログラムに関する問い合わせは福島民報社東京支社 電話03(6226)1001(平日午前10時~午後5時)へ。旅行内容に関する問い合わせはJTB東北法人営業仙台支店 電話022(263)6712(平日午前9時半~午後5時半)へ。

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「ほんとの空」の語を冠したイベント、別件で来週にも行われます。明日、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

おのれの暗愚をいやほど見たので、 自分の業績のどんな評価をも快く容れ、 自分に鞭する千の非難をも素直にきく。 それが社会の約束ならば よし極刑とても甘受しよう。

連作詩「暗愚小伝」中の「山林」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

連作詩「暗愚小伝」終末の一篇です。全20篇を書き上げ、自らの戦争責任と、そこに到るこれまでの生涯を振り返り、到った境地がここでした。

戦時中、ほとんどの文学者が光太郎同様、翼賛作品を書いていました。一般には戦争反対の立場を貫いたとされる文学者もいますが、翼賛作品が隠蔽されているに過ぎず、なにをかいわんや、です。そして、戦後、ここまでの反省を公にした文学者は、ほぼ光太郎のみと言っていいと思います。歌人のSなどは過ちを認めず、かたくなに天皇崇拝、神国日本讃仰をやめませんでした。左翼系詩人のTなどは、戦時中に自らも翼賛詩を書いていたことを棚に上げ、戦犯糾弾の急先鋒となりました。そしてほとんどの文学者は、民社主義による明るい未来の到来を信じて疑わず、楽天的な作品を書きました。

無論、「暗愚小伝」による光太郎の反省とて、言い訳がましさ、他への責任転嫁的な部分も見られ、十分とは言い難いものではあります。しかし、その後に展開された光太郎の詩業、そして実生活は、その反省をさらに押し進め、揺るぎないヒューマニズムに根ざしたものとなっていきます。

横浜伊勢佐木町ににあるお三の宮日枝神社さんのお祭りです。たくさんの神輿が出る中で、光太郎の父・高村光雲の手になる彫刻が施された「火伏神輿」も出ます。大正天皇即位記念に製作され、関東大震災と、横浜大空襲の2回の火難をくぐり抜けたということで、「火伏」の名が冠されています。

昨年は滋賀県甲賀市のMIHO MUSEUMさんで開催された企画展「かざり -信仰と祭りのエネルギー」に出品された後、本格的な修復に入ったため、この時期の例大祭には出ませんでした。その後、11月には修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目されました。

というわけで、今年は2年ぶりに火伏神輿の巡幸があります。 

日枝神社例大祭(お三の宮 秋まつり)

期   日 : 2017年9月15日(金)~17日(日)
会   場 : イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目
日   程 : 9月15日(金) 13:30~ 火伏神輿行列

雅楽の生演奏を先導に、白装束の担ぎ手約30人が厳かに行列します。高村光雲作の神輿。関東大震災・横浜大空襲と、2度の苦難を乗り越えたことから、誰呼ぶともなく、「火伏(ひぶせ)の神輿」との名が付き、災難よけの神輿として崇められています。

 16日(土) 13:00~ 和太鼓演奏   17:00~19:00 千貫神輿奉安
社宝大神輿は千貫神輿とも呼ばれ、その大きさ、巧緻さ、荘重さ等、横浜随一の大神輿です。以前は、3日にわたり飾り立てた黒牛に引かせていましたが、現在は小型トレーラーで牽引しています。
猿田彦神、祓い神職により先導され、氏子・崇敬者と共に丸一日かけて氏子町内を御巡行致します。

  17日(日) 12:00~ 氏子町内神輿連合渡御   13:00~ 和太鼓演奏
奇数年毎の本祭りでは、神社からイセザキモールへと40基にも及ぶ大小の町内神輿が威勢良く練り歩き、大勢の祭り好き、神輿好きが集まります。

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会期中、火伏神輿と同時期の、やはり光雲作である獅子頭も、イセザキ・モール内有隣堂書店さんの前に並びます。
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当方、平成26年(2014)に拝見に伺いましたが、火伏神輿、獅子頭ともに、見事な作でした。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

リンゴばたけに雨ふりて 銀のみどりのけむる時 リンゴたわわに枝おもく 沈々として紅きかな

詩「(リンゴばたけに)」全文 昭和22年(1947) 光太郎65歳

きちんと題名を付けて原稿用紙に書かれたものでなく、まずは手帖に記し、のち、画仙紙に揮毫したものです。

リンゴの生産。青森、長野ほどではありませんが、それに次いで山形と並び岩手でも盛んです。光太郎が蟄居していた旧太田村近辺にも、リンゴ畑が広がっています。

光太郎、リンゴは彫刻のモチーフにはならないと言っていましたが、食べる方では非常に好んだようです。

ピアニストの荒野(こうの)愛子さん。これまで『智恵子抄』からのインスパイア的なオリジナル曲を作られ、CDをリリースなさったり、コンサートで取り上げて下さったりしている方です。

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昨年も横浜戸塚で「Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート」を開催され、当方も拝聴して参りました。その際は、クラリネットの新實紗季さん、ヴァイオリンで藤田有希とのコラボで、光太郎と中原中也の詩へのオマージュ的なプログラムでした。

最近は老舗ジャズライブハウス・横濱エアジンさんにもご出演。4月にはヴォーカル・鈴木典子さん、ヴァイオリンの西田けんたろうさんとのセッション「plays SONGS, sings SCENES」で、中也作品を取り上げられました。これまでと違い、インストゥルメンタルではなく、さまざまな方向性をさぐってらっしゃるようです。


来月初めにも、同じ横濱エアジンさんのライブにご出演されます。

~ヨーロピアンジャズ~◆高村光太郎と中原中也に寄せて 

期  日 : 2017年7月2日(日)
時  間 : 19:30~
場  所 : 横濱エアジン 横浜市中区住吉町5-60
出  演 : 荒野愛子 Piano, Composition   鴻野暁司 Bass   吉島智仁 Drums

今回はまたインストで、ほぼほぼ純粋にジャズ系のようですが、どのようなコンポジションになるのか、興味深いところです。日程的に都合がつけば参上するつもりでおります。

昨今、静かに「文豪」ブームでして、こういう切り口からも「文豪」の世界がひろがることを期待します。


【折々のことば・光太郎】

君は見るだらう 僕が逆境の友を多く持ち順境の友をどしどし失ふのを なぜだらう 逆風の時に持つてゐた魂を順風と共に棄てる人間が多いからだ

詩「友よ」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

順風の時だけお互い利用し合い、逆風が吹き始めると手のひらを返してばっさり切り捨てる、真逆の人が多いですね。特に永田町界隈に(笑)。

静岡の地方紙『伊豆新聞』さんに載った記事です。長いので換骨奪胎します。

川端康成邸から書画など70件発見 牧水ら伊豆ゆかり多数

 ノーベル文学賞を受賞した文豪・川端康成(1899~1972年)の神奈川県鎌倉市の自宅から6日までに、明治、大正、昭和初期に活躍した作家らを中心に総数約70件の書画などが見つかった。歌人・若山牧水が伊豆・湯ケ島で詠んだ有名な「山桜の歌」、昨年没後100年、今年生誕150年を迎える夏目漱石の五言絶句の漢詩のほか、島崎藤村、高浜虚子、尾崎紅葉、斎藤茂吉、横光利一、島木健作らそうそうたる顔ぶれ。小説「伊豆の踊子」の名場面の絵画などもあり、伊豆と関係の深い人々の作品が目立つ。ノーベル賞の賞金で現地スウェーデンで衝動買いしたという椅子4脚も含まれる。(森野宏尚記者)

 川端の死後、川端文学の継承を目的に発足した財団法人・川端康成記念会(川端香男里理事長、初代理事長は井上靖)の関係者が書斎や書庫を整理していて発見した。
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特集=川端康成が収集 島崎藤村や尾崎紅葉の書
 ■盟友、横光に思い馳せる
 若山牧水、夏目漱石のほか見つかったのは島崎藤村の書、若菜集の宮城野より抜粋▽高浜虚子の虚子像、虚子句▽横光利一の書「蟻 臺の上に 月高し」など▽尾崎紅葉の書▽徳田秋声の書「古き伝統と新しき生命」▽斎藤茂吉の書「蓮花寺小吟三首」▽田山花袋の七言絶句▽高村光太郎の書(扇面)智恵子抄より▽林芙美子の書▽岡本かの子の書▽武者小路実篤の書「伊香保風景」▽久米正雄の書「初芝居」▽吉野秀雄の書「伊豆大仁望嶽詩」▽富岡鉄斎の書簡▽室生犀星の書簡など。多くは鎌倉の古書店で購入したようだ。
 また醍醐寺の如意輪観音(鎌倉時代)▽藤原定家の懐絵▽大燈国師(南北時代の禅僧)自筆録抄▽寂室元光の一行書▽雪村周継(室町時代の画僧)の風濤図、池大雅の書なども含まれる。
 林芙美子の書には「硯[すずり]冷えて 銭もなき 冬の日暮れかな」と書かれ、水原園博さんは「貧乏時代の彼女そのもので、放浪記で一躍有名になったものの作家仲間からは疎んぜられていた芙美子に、同情を寄せる川端の視線を彷彿とさせる」、新感覚派の旗手で川端とは真の盟友として心通わせた横光利一の「蟻 臺(台)上に 月高し」について、水原さんは「横光は急死し、川端の喪失感はいかばかりだったか。蟻 臺上に…の一文にどう思いを馳せたか」としみじみ語った。

 ■川端邸 一般公開も視野 審美眼、育てた美術品
 川端康成は生前、国宝2点や日本画家・安田靫彦[ゆきひこ]、東山魁夷など多くの美術品を収集していた。無名の若い画家にも着目し、作品を進んで購入した。草間弥生などはその代表格だ。

 川端記念会は川端没後30年の2002(平成14)年から、所蔵品を「川端コレクション展」として全国28美術館で開催してきた。4月から川端が好んだ洋画家・古賀春江の生誕地、福岡県の久留米市美術館(旧石橋美術館)での開催も決まっている。
 川端香男里・川端記念会理事長は「(これまで何度も発見があるので)また出てきたかという思いだが、新発見の品々の何点かは久留米でも披露されるだろう。今後は川端の愛した美術品などに触れる機会を増やすため、川端邸の一般公開も考えていきたい」と展望を語った。
 川端康成学会・常任理事の平山三男さん(69)は「川端の美意識、審美眼は多くの美術品などを通して養われ、作品にも投影されている」とし、今回、先輩、同世代作家の書画が多く出てきたことについては「美を追い求めた川端の憧れや親しみ、その人を深く知りたいなどの思いがあるのではないか」と分析した。


というわけで、川端康成の旧宅から名だたる文豪たちの書画などが大量に見つかり、光太郎の書も含まれていたとするものです。

ネットに載った記事では、残念ながら「光太郎の書」の画像は含まれていませんでした。したがって、真贋のほどは何ともいえませんが、生前、多くの美術品などを購入していたという川端ですので、まず間違いはないのでは、と思います。

いずれ目にできる機会が来ることを期待しております。


【折々のことば・光太郎】

いやなんです あなたのいつてしまふのが―― 

001詩「人に」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『劇と詩』に初出の段階では、「N――女史に」という題名でした。「N」は長沼智恵子の「N」です。詩の冒頭及び途中、末尾と3回リフレインされています。

大正3年(1914)には詩集『道程』に収められ、「――に」と題名が変わり、内容も大幅に改訂されています。そして昭和16年(1941)、詩集『智恵子抄』では、さらに「人に」と改題されて、その巻頭を飾りました。

改訂が行われても、このリフレインは変更されていません。それだけ光太郎にとって思い入れのある詩句だったのではないでしょうか。

おそらくこの詩を読んだ智恵子も決心し、晴れて光太郎と結ばれることとなります。

光太郎の父・光雲が彫刻を手がけた、横浜南区山王町に伝わるお三の宮日枝神社さん「火伏神輿」。その名の由来は、関東大震災と太平洋戦争の空襲をくぐりぬけたことです。

毎年9月、日枝神社さんの例大祭で、伊勢佐木町のイセザキ・モールを巡行するのですが、今年は修復作業に入っていたため、出ませんでした。そのため、今年はこのブログでも日枝神社さんの例大祭をご紹介しませんでした。

このたび、その修復が終わり、イセザキ・モールさんでお披露目が始まったそうです。

横浜・伊勢佐木町繁栄の象徴 「火伏神輿」

◆90年の歴史で初の修復作業
 横浜・伊勢佐木町の繁栄の象徴で、関東大震災と横浜大空襲を免れた神輿(みこし)「火伏(ひぶせ)神輿」が90年余りの歴史で初めての修復作業を終えた。28日にJRAエクセル伊勢佐木(神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1丁目)でお色直しを済ませたばかりの神輿が披露された。
 1923年に完成した神輿は日枝神社例大祭などで担がれてきたため、彫刻や金具が欠けたり、塗りが剥がれたりするなどの傷みが目立っていた。
 そのため、東京都内の文化財修復専門工房に運ばれて、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)が手掛けた彫刻を復元。奈良・法隆寺の七堂伽藍(がらん)に施されたものと同じ極彩色の染料を塗り直し、鮮やかによみがえった。
 今年3月から「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展に貸し出した際、学芸員から「大正期の名工が古代御輿の粋を極めた貴重なもの。豪華な装飾を含めて文化財級」と高い評価を受けたこともあり、今回、本格的に修復を行うことにした。
 神輿がガラスケースに無事に収められると、伊勢佐木町1丁目の婦人用品店4代目店主、津田武司さん(77)は大きな拍手を送った。「神輿が戻ってきてうれしいの一言。世代を超えて大切にしたい」
 吉田新田の完成350周年を迎える来年9月の日枝神社例大祭でイセザキ・モールを練り歩くことにしている。
◆火伏神輿 伊勢佐木町の町内会が1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、高村光雲に制作を依頼した。23年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたと伝えられている。
(2016/11/29 『神奈川新聞』)

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記事にある「「MIHO MUSEUM」(滋賀県甲賀市)で開かれた特別展」はこちら

 
『東京新聞』さんの神奈川版にも記事が出ました。

よみがえった火伏神輿 修復終わり、イセザキ・モールで展示

 明治時代の彫刻家・高村光雲(一八五二~一九三四年)らが制作した「火伏神輿(ひぶせみこし)」の修復が終わり、二十八日、神輿を所有するイセザキ・モール(横浜市中区)にあるJRAエクセル伊勢佐木一階ホールで展示が始まった。観覧無料。
 神輿は大正天皇の即位を記念し、伊勢佐木町の町内会が高村光雲に制作依頼。高村や東京美術学校(現・東京芸術大)の教授らが一九二一年に東京都内で制作を始めた。二三年九月の完成直前に発生した関東大震災や、四五年五月の横浜大空襲などの火災を免れたことから、火災を防ぐ「火伏神輿」と呼ばれるようになった。高さ一・八メートルで幅一・四メートル、担ぎ棒を含む長さは二・九メートル。
 大掛かりな修復は初めてで、六月から東京都狛江市で文化財修復工房を営む桜庭裕介さん(63)が手掛けた。色がはげた部分はエックス線で表面を分析し、制作当時と同じ顔料で補修。特殊な樹脂を染み込ませて今後の色あせを防ぎつつ、約一世紀の歴史を感じさせる退色はそのままにした。木彫の欠損は木の粉や漆などを混ぜたもので補った。
 来年は、これまで通り九月の地元の祭りで担がれる予定。祖父が制作時の世話人で、宝石店経営を受け継ぐ渡辺洋三さん(64)は「祭りでは乱暴に扱うこともあった」と苦笑しながら「町の人に、素晴らしい神輿だと再認識してほしい」と願った。(梅野光春)


今回いつまで展示されるのか、記事からは不明ですが、以前は祭りの時以外は神奈川県立歴史博物館さんで展示されていたので、今後もそうなるのではないかと思われます。

さらに同時期に光雲によって作られた獅子頭もセットです。

ぜひきれいになった神輿をご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夕ぐれの雁におもはず窓あけてまたたき多き星を見しかな
明治33年(1900) 光太郎18歳

冬が近づき、空気がキインと澄んでいるため、星がきれいに見えます。当方自宅兼事務所のあるあたりは千葉でも田舎の方でして、夜間の光害が少なく、星の観察にはもってこいです。

昨日は鎌倉および都内に行っておりました。

光太郎の妹の令孫に当たる山端夫妻が営むギャラリー兼カフェ「笛ギャラリー」さんでの展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」のためです。

普段こちらにお邪魔する時は、自家用車で北から山を下りてお伺いしていましたが、昨日は公共交通機関を利用、JR北鎌倉駅から歩き、普段とは逆に南から山を登る形でした。

あじさい寺で有名な明月院さんを横目に坂を登っていきます。

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昨日は気持ちよい秋晴れ、しかし紅葉には早く、楓もまだ青々としています。

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明月院さんのすぐ近くに看板が出ています。ここから365歩、だそうで。

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道の傍らに苔むした石仏・石塔。古都情緒がにじみ出ています。こういう風情は歩いてこそのものですね。

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笛さんもその情調の中にぴったり収まるたたずまいです。

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店主の山端氏、今年の連翹忌にはご欠席なさいましたので、ほぼ一年ぶりにお会いしまして、久闊を叙し、早速展示を拝見。

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光太郎智恵子、そして近所に住んでいた光太郎と縁の深かった詩人の尾崎喜八に関するさまざまが並んでいます。古写真、書簡、草稿、著書、関係書籍などなど。

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光太郎書簡。ここに住まれていた妹に宛てたものです。

その妹・しづは、俳句に親炙していたそうで、句稿や句帖も展示されていました。

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尾崎喜八草稿(コピー)。草野心平編、筑摩書房『高村光太郎と智恵子』(昭和34年=1959)に掲載された光太郎智恵子回想です。

喜八の妻・實子は、光001太郎の親友・水野葉舟の娘。二人の結婚を祝し、光太郎はミケランジェロの作品を模刻したブロンズの「聖母子像」を贈っています。右は「聖母子像」を手にした實子の写真。かつて雑誌『FOCUS』に掲載されたものです。

そうこうしているうちに、喜八・實子夫妻の令孫で、武蔵野美術大講師の石黒敦彦氏がご来店。特に当方と約束していたわけではないのですが、ご常連ということでよくいらっしゃるそうです。展示されている資料の中には、氏の所蔵されているものも含まれています。

氏とは一昨年もこちらでお会いしました。その際にはご一緒に来店されていたご母堂・榮子様(喜八・實子の息女)が、今年の3月に亡くなられましたので、まずはお悔やみを述べ、一緒に山端氏の淹れて下さった珈琲に舌鼓を打ちつつ(恐縮ながら無料で戴いてしまいました)、カウンターの中の山端氏も交え、いろいろお話をさせていただきました。

石黒氏は、武蔵美さんの芸術文化学科、空間演出デザイン学科で講義をされているとのことで、いわば展示の関連がご専門。また、「湘南福祉アート・デザイン協議会運営委員」という肩書きもお持ちで、メンタルヘルスとアートを関連させるご活動もなさっている由。そういうわけで智恵子にも深く関心を持たれており、ゆくゆくは智恵子に関する企画展示をなさりたいとのことでした。

その後、再会を約し、笛さんを後に、そして石黒氏に連れられて、すぐ近くにある「ギャラリー青騎士」さんへ。この秋オープンしたばかりのギャラリーで、蔵書票を専門に扱うという、いっぷう変わったところです。

こちらの代表の金森大輔氏は、現在新築工事のため休館中のブリヂストン美術館さんにお勤めだった方です。ブリヂストン美術館さんといえば、昭和28年(1953)、美術映画「高村光太郎」を制作しました。この年に除幕された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景、その除幕後、花巻郊外太田村に一時帰村した光太郎の様子などが記録されています。下はその撮影クルーと光太郎。場所は中野のアトリエです。

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光太郎以外に「梅原龍三郎」、「坂本繁次郎」など20本ほど作成された「美術映画シリーズ」のフィルム、館の美術講座的な催しで上映されていたとのことですが、昭和40年代以降それもなくなり、しばらくフィルムの存在自体忘れ去られていたところ、ブリヂストン本社から「こんなものが見つかった」と金森氏に連絡があって、再び日の目を見ることになりました。

「高村光太郎」は現在、花巻高村光太郎記念館や十和田湖畔の観光交流センターぷらっとに行けば常時上映されています。また、この夏の碌山美術館さんでの「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」など、光太郎がらみの企画展で上映されることもよくあります。

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それも金森氏らのお骨折りでデジタルデータになっているおかけです。当方の手元にもあり、改めて御礼を申し上げておきました。それにしても、はからずもそういう方にお会いするという不思議な偶然に驚きました。

石黒氏、金森氏とはここで別れ、駒場の日本近代文学館さんに寄って、調べ物をして帰りました。

さて、笛ギャラリーさんでの「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」、来月1日(火)まで。ただし毎週月・水・木と10/30(日)はお休みだそうですので、お気を付け下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

行くにわれ見るにわれなる一人子や大和山城青空つづく
明治34年(1901) 光太郎19歳

古都つながりで奈良、京都に遊んだ際の歌を一首。この年9月末から、東京美術学校の修学旅行で奈良、京都を訪れています。その期間、なんと2週間。物見遊山ではなく、いにしえの仏像などをしっかり研究するための、まさしく修学旅行でした。

そいうえば修学旅行シーズンですので、鎌倉もそれらしい中高生で賑わっていました。

3ヶ月前にちらっとご紹介しましたが、神奈川県鎌倉市の川喜多映画記念館さんで、故・原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)の上映があります 

智惠子抄(98分/1957年/東宝/白黒/35mm)

上 映 : 7月8日(金)10:30/14:00、7月9日(土)、7月10日(日)14:00
監 督 : 熊谷久虎
出 演 : 原節子、山村聰、青山京子、三津田健、柳永二郎、三好栄子 他
料 金 :  一般:1000円 小・中学生:500円   6月18日(土)より発売
原 作 : 高村光太郎

詩人、彫刻家として知られる高村光太郎が愛妻智惠子の名を冠して発表した詩集をもとに、二人の出会いから妻の死までを描く。原節子の義兄として公私を支えてきた熊谷久虎による映画化作品。


こちらは3月から同館で開催されている特別展「鎌倉の映画人 映画女優 原節子」の一環です。

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期間中に13本の原さん主演映画が上映され、「智恵子抄」はその大トリです。特別展の方も、「智恵子抄」千秋楽の7月10日(日)まで。「智恵子抄」ポスターなども展示されています。

併せてご覧下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

雨ふればしとしとふれば紙の戸の糊さへかびて我がこころ冷ゆ
明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半に及ぶ欧米留学からの帰国後の作です。

じめっとした日本の空気感が、自然現象としてのそれだけでなく、旧弊な社会全般の閉塞感の象徴としても表されているように読み取れます。

先週、ご案内を頂きましたが、その後岩手に行っておりまして、ご紹介が遅れました。

Aiko Kono Ensemble Sala MASAKA × PETROF 特別コンサート

夜明けの湖を照らす淡い光のように 音楽は静かに語りかける
ピアニスト・作曲家 荒野愛子による室内アンサンブルコンサート
音楽環境に優れたホールでチェコの名器PETROFの響きとともに

期  日 : 2016年6月4日(土)
時  間 : 開場14:30  開演15:00
会  場 : Sala MASAKA 神奈川県横浜市戸塚区品濃町514-13
料  金 : 前売り:3,500円  当日:4,000円
申し込み: cafecatsmusic@gmail.com 

主  催 : Cafecats Music
協  力 : 株式会社ピアノプレップ

出  演 : Aiko Kono Ensemble
野愛子 Aiko Kono(ピアノ・作曲)
国立音楽大学卒業。在学中よりクラシックを学ぶ傍ら、ジャズ、ポップス、ブラジル音楽等に親しむ。卒業後、演奏活動と同時に作曲を始める。特に文学作品に影響を受けて作曲されたものが多く、朗読や演劇との共演も多数。
2007年にはオリジナル作品を収録した初のピアノソロアルバム「オトヒトシズク」(Cafecats Music)を発表。
2013年には高村光太郎の詩集にインスパイヤされ制作したアルバム「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットのための小曲集」(Cafecats Music)を発表。
ピアノを中心とした自由な形態のアンサンブル、クラシックとその他の音楽を融合したジャンルの限定されない音楽を目指す。 

藤田有希  Yuki Fujita(ヴァイオリン)
2歳よりヴァイオリンを始める。第53回全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門小学生の部第2位、東京都教育委員会から表彰される。2000年、東京芸術劇場大ホールにて東京交響楽団主催の演奏会でソリストとしてデビュー。新宿文化センター主催、第一回ニューイヤー名曲ファミリーコンサートで東京交響楽団と共演。2006年までソリストとして招かれた他、飯盛範親、山下一史、本名徹二、時任康文の著名な指揮者と共演。また、フィンランド国営放送コンサートミストレスとして出演。日本、フィンランドで多数のソロリサイタルを開催。
これまでにヴァイオリンを原田幸一郎、竹澤恭子、富重祐、友永優子、ペトリ・アールニオの各氏に師事。
桐朋女子高等学校音楽科を卒業後、シベリウスアカデミー(フィンランド)に留学。2014年春、シベリウス・アカデミー修士課程を修了し、現在日本とフィンランドを拠点に活動中。


新實紗季 Saki Niinomi(クラリネット)
愛知県出身。13歳よりクラリネットを始める。国立音楽大学卒業。同大学卒業 演奏会に出演の他、各種新人演奏会やサロンコンサート等で演奏を重ねる。
2005年大阪市芸術家支援制度<大阪AIS>オーディションに合格し、大阪にてソロリサイタル、ジョイントリイタルなど多数出演。ソロだけでなく室内楽の分野においても演奏活動をしている。

曲  目 :『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集/中原中也の追想 第一集/他

荒野さんサイトより

今回、兼ねてからコンサートで弾きたいと思っていたチェコのピアノPetrofを使用させていただきます。場所は、東戸塚にある素敵なプライベートホールです。クラシックコンサート仕様に設計されたとても音の良いホールです。
そして一緒に演奏するメンバーも素晴らしいので、本当に楽しみです。
全曲荒野愛子オリジナルを演奏します。
ぜひお越しください!


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というわけで、ピアニスト・作曲家の荒野愛子さんを中心とするサロンコンサートです。

プロフィールにあるとおり、荒野さん、「『智恵子抄』による ピアノとクラリネットための小曲集」というCDを平成25年(2013)にリリースされています。その際にはリリース記念のコンサートにお誘いいただきましたが、当方の講演の日程ともろかぶりで欠礼いたしました。

今回のコンサートにも出演される新實さんも参加されています。

また、ファーストアルバム「オトヒトシズク」にも、「レモン哀歌」というナンバーが収録されています。

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やはり荒野さんのプロフィールにあるとおり、「ピアノを中心とした自由な形態のアンサンブル、クラシックとその他の音楽を融合したジャンルの限定されい音楽」、そういう感じです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

野ははるか夢ながるるにかくるるに青葉の森の暗き過ぎずや
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日の記事を書くにあたって、荒野さんのCDを流していました。「青葉の森」を歩いているような感覚にとらわれました。

画像は当方自宅兼事務所の裏山に広がる森です。
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先週の土曜日、横浜神奈川近代文学館に行って参りました。

閲覧室での調べ物が主目的でしたが、開催中の特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、招待券を戴いていたので拝見してきました。 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」

「吾輩は猫である」「坊っちやん」「三四郎」「それから」「心」そして「明暗」…人間の心の孤独とあやうさを描いた夏目漱石の作品は、私たちの生き方へ多くの問題を投げかけ、その一方で、夢や謎、笑いに彩られたイメージの宝庫としても読者を魅了して来ました。
作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、漱石は「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」と述べています。そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、多くの人びとが作品を繰り返し読み、その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。漱石文学は読者にとってまさに「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。
没後100年を記念して開催する本展は、こうした作品世界と、英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料、そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。
会 期  2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日
  月曜日(5月2日は開館)
 間  午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場  神奈川近代文学館第1・2・3展示室
観覧料  一般700円(500円) 65歳以上/20歳未満,学生300円(200円) 
     
( )内は20名以上の団体  高校生100円 中学生以下無料     
     東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
 催  県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
特別協力 岩波書店
協力   東北大学附属図書館
後援   NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
協賛   集英社 京浜急行電鉄 相模鉄道 東京急行電鉄
     神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
広報協力 KAAT 神奈川芸術劇場
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漱石と光太郎には美術を通して接点がありました。大正元年(1912)、漱石の書いた美術評論を光太郎が批判したというものです。当時光太郎は数え30歳。留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と縁を切り、ヒユウザン会に加盟、油絵の制作に力点を置いていた時期でした。

漱石はそうした美術界の新機軸に一定の理解を示していました。一つには漱石山房に出入りしていた画家の津田青楓の影響があったと思われます。津田は後に漱石の著書の装幀を多く手がけます。

光太郎の方は、漱石や森鷗外といった権威的な存在には噛みつかずにはいられない、という感じでした。津田とは欧米留学中に親しくつきあっていましたが、お互いの帰朝後は、漱石にかわいがられた津田と、権威的なものに反抗する光太郎とで、自然と疎遠になったようです。

ちなみに光太郎がまだ東京美術学校に在学中で、本郷Ⅸ駒込林町155番地の実家に住んでいた頃、漱石は明治36年(1903)から約3年間、本郷Ⅸ千駄木町57番地(いわゆる「猫の家」)に住んでおり、近所といえば近所でした。

さて、「100年目に出会う 夏目漱石」。当然ですが文学関連が中心の展示で、漱石の自筆資料等もふんだんに出品されており、息遣いが聞こえてくるようでした。

美術関連では、ヒユウザン会がらみの展示はありませんでしたが、漱石自身の絵画がまとめて展示されていました。ただ、津田青楓などは自身で絵の手ほどきをしながら、その方面での漱石の才能がないことを、敬愛を込めながらも揶揄しています。

 津田が自分の仕事の段落のついた或000る日行つてみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるやうな口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの、俺は日本画の方が面白いよ。」さう云つて、半紙ぐらいの厚ぼつたい紙に塗りたくつた妙な画を出して見せられた。
 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息してゐる。そのまへに一匹の馬がある。先づ馬と仮説するだけなんだが、四ツ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先づ馬に近い――その馬が前脚を一つ折つて、これから草の上で休まうとするやうにも、又これから立ち上がらうとするやうにも見える。馬といひ、人といひ、まるで小学校の生徒の画のやうだ。柳は無風状態で重々しくたれ下つてゐる。全体が濁つた緑でぬりつぶされてゐる。柳の下にはフンドシを干したやうに、一条の川が流れてゐる。その川と柳の幹だけが白くひかつて、あとは濁つた緑。下手な子供くさい画と云つても片付けられる。又鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、云つてもみられる。先生はリヤルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし」「夢十夜」あんな作を絵筆で出さうとしてゐられる。
 漱石先生が「どうだ、見てくれ」と云つて出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は挨拶の代りに大きな口をあいて、
「ワハヽヽヽヽヽ」
 先づ笑つた。
(『漱石と十弟子』)


漱石といえば、文豪中の文豪ですが、こういう人間くさいエピソードには、親しみを感じます。並んでいた絵を見て、クスリとしてしまいました。

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、今月22日までです。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

人あり薫風に似て来り坐す      昭和20年(1945) 光太郎63歳

「薫風のよう」といわれる人間になりたいものです(笑)。

昨日は神奈川県鎌倉市に行っておりました。昨日始まった、鎌倉市川喜多映画記念館さんの「特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子」を拝見して参りました 

特別展:鎌倉の映画人 映画女優 原節子

期  日 : 2016年3月18日(金)~7月10日(日)
会  場 : 鎌倉市川喜多映画記念館 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目2番地12号
時  間 : 9:00〜17:00(入館は16:30まで)
料  金 : 一般300円(210)円 小・中学生150円(105)円 ( )内は団体20名以上

〜 美しき微笑と佇まい、スクリーンに輝いた大スターを偲んで 〜
戦前から戦後にかけて日本映画の黄金期に活躍し、こつ然と銀幕を去った後、鎌倉で終生を過ごした原節子。昨年、その訃報が届き、多くの人々が偉大な映画女優の逝去に深い追悼の意を表しました。小津安二郎監督による『晩春』『麦秋』『東京物語』で演じた「紀子」の品性に満ちた美しさや、成瀬巳喜男監督、黒澤明監督などの作品で演じた女性像は、映画を愛する人々の心に永遠に刻まれていることでしょう。
本企画展では、公私ともに親交の深かった写真家・秋山庄太郎による他では見る機会の少ない貴重なポートレートの数々を展示いたします。また、日独合作映画『新しき土』のドイツ公開にあわせて渡欧した際の写真アルバムや特別映像もご覧いただきます。関連作品の上映では、鎌倉文士の永井龍男、今日出海原作の映画化作品の上映もございます。鎌倉における本企画展にて、映画女優・原節子を偲び、皆様の思いを馳せていただく機会になれば幸いです。

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昨秋亡くなった伝説の映画女優・原節子さん。昭和32年(1957)には、熊谷久虎監督の東宝映画「智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。この際には、福島二本松の、智恵子の生家や二本松霞ヶ城などでもロケが行われました。

「智恵子抄」関連の展示があるかどうか、実際に行って見てみないとわからないので、半分賭けでしたが、時間もあったので、鎌倉まで車を走らせました。

川喜多映画記念館さんは、鶴岡八幡宮にほど近いところにあります。鎌倉駅からですと、小町通りを北上し、八幡宮に出る直前を左折するとすぐ見えてきます。当方は八幡宮近くに車を駐め、八幡宮の前を通って行きました。

先日閉館した「カマキン」こと神奈川県立近代美術館・鎌倉館さん。当初は閉館に伴って建物も取り壊される予定でしたが、ル・コルビジェに師事した建築家・坂倉準三の設計で、モダニズム建築の逸品ということで、遺されることになりました。

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さて、川喜多映画記念館さん。

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当方、中に入るのは初めてです。

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受付で入館料300円也を払い、左手の展示室へ。

早速、「智恵子抄」の立看用のポスターが壁面に飾られているのに気付きました。「来た甲斐があった」と胸をなで下ろしました。

その後、順路に従って拝観。原さんの年譜や故・秋山庄太郎氏撮影のポートレート、当時の雑誌、出演作品に関する資料などなど。

原さんの出演作品は少なくなく、代表作の「東京物語」や「青い山脈」などは大きく取り上げられていました。反対に、初期の頃などのあまり有名でない作品は簡単な説明。「智恵子抄」はその中間といった扱いで、最初に見た立看用の縦長のポスター以外にも、通常サイズ(B2判)のポスターやスチール写真などが展示されていました。

当方、原さんの「智恵子抄」ポスターは10種類近く所蔵しています。最初に目に付いた立看用のものは同じものを持っていますが、通常サイズ(B2判)のものはまだ入手できていません。今回展示されているものとは異なるバージョンは持っています。今回のものも、いずれは入手したいものです。

こちらには上映室も完備されており、以前にも「智恵子抄」の上映がありました。来月から、「智恵子抄」を含む原さん主演の映画、計12本が順次上映されます。また近くなりましたら改めてご紹介しますが、「智恵子抄」は最後、7月の上映です。

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ぜひ足をお運びください。

ところで当方、原さんの「智恵子抄」がらみの資料をコツコツ集め続け、気付いたらかなりの量になっています。ポスター、チラシ、パンフレット、スチール写真、撮影風景のスナップ写真、カメラテスト用に撮られたと思われるポートレート、当時の雑誌などなど。「原節子と映画「智恵子抄」」という企画展が出来る程度の量です。この際に、どこかでやっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

寺に入れば石の寒さや春の雨     明治42年(1909) 光太郎27歳

やはり欧米留学中のイタリア旅行での作ですので、「寺」は仏教寺院ではなくキリスト教の教会、修道院の類です。ただ、日本の風景としてイメージしても通用する句ですね。

一昨日拝観した、神奈川県立県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」レポートの2回目です。

水沢勉館長のトークを聞き終え、いよいよ展示を拝見しました。

光太郎作品は2点。

2階の第一展示室に入ってすぐ、油絵の「上高地風景」(大正2年=1913)。下記はNHKさんの「日曜美術館」から採らせていただきました。左端が「上高地風景」です。

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智恵子との婚約を果たした信州上高地での作品です。昨年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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「こんなに大きな絵だったっけか?」というのが正直な感想でした。この絵の実物を見るのは4度目くらいのはずですが、過去3回は他の光太郎絵画と共に展示されたのを見ており、この絵だけの印象はあまり残っていませんでした。

改めてよく観てみますと、フォービズム風の荒い筆触、色遣いの中にも繊細な神経が行き届いており、さらにやはり画面の大きさからくる迫力に圧倒されました。


続いてブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。光太郎が敬愛したロダンの「花子の首」と同じコーナーに並んでいました。光太郎メインの企画展で、ロダン作品を参考出品することはよくありますが、それとは違った主旨で2人の作品が同じコーナーに並んでいることに感慨を覚えました。しかも、モデルの女優・花子はロダンのモデルを務めたほとんど唯一の日本人ということで、光太郎は昭和2年(1927)、郷里の岐阜に花子を訪ね、その模様を評伝『ロダン』に書き残しています。

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前列中央が「裸婦坐像」、左端が「花子の首」です。その間にはブールデル、後列には中原悌次郎など、やはりロダン、光太郎と縁の深い作者の作が並んでいます。


その他、柳敬助、梅原龍三郎、松本竣介、難波田龍起といった、光太郎と縁の深かった人々の作品なども興味深く拝見しました。


再び1階に下りました。館長トークの間に、こんなコーナーがあったのに気付いていて、そちらを拝見しました。

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来館者の皆さんが、自由にメッセージを書き込み、それが掲示されています。

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「日曜美術館」にもそういう部分がありましたが、スタッフ以外にもこの館に対する深い思い入れを持つ方が、非常にたくさんいらっしゃるようです。

こんな書き込みも。「裸婦坐像」についてでしょう。

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企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」、1/31(日)までです。そして最終日には閉館を迎えます。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】無題

少女子は兎の族(やから)ま裸になりてきよとんと坐りたるかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

「少女子」は「おとめご」。時期的に少しずれていますが、「裸婦坐像」制作に関わるかもしれません。

詩人の真壁仁による「高村先生の彫刻」(昭和27年=1952)には次のように記されています。

「裸婦」はよく夫人をモデルにした作と思われているが、実際は百合子という横浜のチャブ屋の女である。チャブ屋の生活を嫌ってその女が逃げ出してきたとき、先生は一時かくまってあげた。そのとき、モデルになるかと言ったら、なるというので、先生は彫刻にこさえ、夫人は油絵に描いた。そんな商売の女と思えないほどいいからだだったそうである。

昨日は鎌倉に行っておりました。

今月いっぱいで閉館する神奈川県立近代美術館・鎌倉館さんの最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」」を見て参りました。

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同館は昭和26年(1951)開館、日本で最初の公立近代美術館、世界で3番目の近代美術館という歴史ある館です。2代目館長の土方定一は、文学趣味もあり、草野心平主宰の『歴程』同人で、その縁もあって、光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の在京建設委員に名を連ねるなど、光太郎と縁が深かった人物です。

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その関係もあって、光太郎が歿した昭和31年(1956)、「高村光太郎智恵子展」が初めて開催されたのがこちらです。

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もう少し早く行きたかったのですが、いろいろあり、また、昨日は午後2時から水沢勉館長のトークがあるということで、昨日に致しました。

鎌倉に着いたのは午後1時過ぎ。運良く八幡宮西側の、最も近い有料駐車場に車を入れることが出来ました。昼食は門前で蕎麦でも、と思っていましたので、途中で食べませんでした。昼食の前に券だけ買っておこうと思い、受付を目指すと、なんとまあ、長蛇の列でした。並ぶこと30分くらい。結局、昼食は後回しにしました。

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長年、この鎌倉の地で親しまれてきた館ですので、別れを惜しむ人々の来訪が絶えないのでしょう。また、元々休日でしたし、さらに、企画展も光太郎を含め、内外の有名作家の作品がたくさん出ており、それに加えて水沢館長のトークもあるということで、こうなったと思われます。

それから、先月にはNHKさんの「日曜美術館」で、「さよなら、わたしの美術館~“カマキン”の65年~」の放映があり、それがまたいい内容でしたので、それも大きいのではないでしょうか。

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番組では水沢館長、今回の企画展を担当された主任学芸員の長門佐季さん、そして、かつてこの館にスタッフとして関わられた皆さんの思いが語られました。

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館の建物自体が、ル・コルビジェに師事した建築家・坂倉準三の設計で、モダニズム建築の逸品です。そこでともに写真撮影が趣味だという、伊藤敏恵アナと共に司会を務める俳優の井浦新さん、ゲストで鎌倉出身・女優の鶴田真由さんが、館内外で入魂の写真撮影。

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当初は、閉館後は取り壊される予定でしたが、建築史的に貴重ということで、保存されることになりました。


さて、中に入って、展示の観覧は後ほどにし、まず水沢館長のトークが行われる中庭へ。こちらは光太郎とも縁のあったイサム・ノグチの作品です。

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定刻の2時少し前、水沢館長がご登場。トークが始まるまでの間、お話をさせていただきました。水沢館長は、平成25年(2013)に、「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展の愛知碧南会場・藤井達吉現代美術館さんで記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさり、当方、それを拝聴、さらに帰りの新幹線でご一緒させていただきました。その後も長門さんともども、一昨年の連翹忌にご参加下さいました。

まだ先の話ですが、今回閉館する鎌倉館とは別の鎌倉別館で、平成31年(2019)かその翌年に、光太郎智恵子展をやりたいとのことです。別館も近々大がかりな改修工事が入るそうで、それが終わってからのことになります。ありがたいことです。
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水沢館長のトーク、黒山の人だかりとなりました。

鶴岡八幡宮の一角に、回廊(ピロティ)のようなスタイルで造られたこの館、まるで絵馬堂のようだというお話。さらに光太郎とも縁の深かった村山槐多やイサム・ノグチのお話。示唆に溢れるものでした。


その後、実際に展示を拝見しましたが、長くなりましたので、また明日。


【折々の歌と句・光太郎】

なびき行く野火の烟を指さして星なき宵よ友と別れし
明治34年(1901) 光太郎19歳

この年1月3日、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社の集まりが鎌倉で行われ、由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうで、その際の作です。

水沢館長他、近代美術館鎌倉館に関わった人々の思いは「友と別れ」るようなものなのではないでしょうか。

神奈川県鎌倉市、鶴岡八幡宮の境内に神奈川県立近代美術館の鎌倉館があります。昭和26年(1951)開館、建物自体もル・コルビジェに師事した板倉準三の設計によるもので、非常に高い評価を受けています。

ちなみに光太郎が歿した昭和31年(1956)、「高村光太郎智恵子展」が初めて開催されたのがこちらです。

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こちらが来年1月をもって、閉館することになりました。土地の貸借、建物の耐震性の問題などがその理由だそうです。

すぐ近くに鎌倉別館があるので、こちらの機能は別館に移転、建物も歴史的に貴重ということで、耐震補強の上、保存される見通しだそうです。

そこで、鎌倉館としての最後の企画展が始まりました。光太郎作品も2点、並んでいます。光太郎作品が並んでいるという情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。申し訳ありません。 

鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」

期  日 : 2015年10月17日(土)~2016年1月31日(日)
第一会場 : 鎌倉館   
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-53 Tel. 0467-22-5000
第二会場 : 鎌倉別館 「鎌倉からはじまった。1951-2016 工芸と現代美術」
          神奈川県鎌倉市雪ノ下2-8-11 Tel. 0467-22-7718
休 館 日  : 月曜日(ただし11月23日、1月11日は開館)、 12月29日(火)-1月3日(日)
開館時間 :  午前9時30分-午後5時(入館は午後4時30分まで)
観 覧 料  : 一般1,000円(900円) 20歳未満と学生850円(750円) 65歳以上500円
       高校生100円 
( )内は20名以上の団体料金

※鎌倉館の観覧券で、当日に限り鎌倉別館を無料でご観覧いただけます。

※中学生以下、障害者手帳をお持ちの方は無料。その他の割引につきましてはお問い合わせください。

※ファミリー・コミュニケーションの日:
毎月第1日曜日(今回は11月1日、12月6日)は、18歳未満のお子様連れのご家族は、優待料金(65歳以上の方を除く)でご観覧いただけます。

※11月3日(火・祝)「文化の日」は、開催中の展覧会を無料でご覧いただけます。


1951年11月17日、日本で最初の公立近代美術館として鎌倉の鶴岡八幡宮境内に誕生した神奈川県立近代美術館は、このたび2016年1月末をもって鎌倉館での展覧会活動を終了することになりました。
2015年度は、「鎌倉からはじまった。1951-2016」と題し、これまでの鎌倉での活動を三期に分けて紹介してまいりましたが、いよいよ本展が最後となります。
これまで鎌倉館に足を運んでくださった多くの皆様に感謝いたしますとともに、2016年4月以降は、葉山館と鎌倉別館の二館体制で活動してまいりますので、今後ともご理解とご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

「カマキン」最後の展覧会
「鎌倉近代美術館(略称:カマキン)」として長く皆様に愛されてまいりました鎌倉館での最後の展覧会となるPART3では、1951年の美術館誕生から1965年までの15年を取り上げます。草創期の当館では、戦前、戦中の文化的空白を埋めるべく、佐伯祐三、萬鉄五郎、古賀春江、松本竣介などの、小規模ながらも充実した展覧会が開催されました。そうした調査と研究を重視した展覧会のあり方は、美術館の礎として受け継がれてきました。本展では、この時期に取り上げた作家による作品を所蔵品から選んで展示すると同時に、美術館の活動に伴って改修が重ねられてきた坂倉準三設計による鎌倉館の変遷を、図面や写真、映像資料で紹介します。なお、鎌倉別館では「工芸と現代美術」と題して、所蔵品のなかから工芸・デザインとその現代美術への展開を追います。ぜひご高覧ください。

関連企画
1 建築トーク 講師:青木淳氏(建築家) 11月1日(日)午後2時-3時30分
*要申込(先着30名)、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

2 トヨダヒトシ氏(写真家)によるスライドショー(ライブ・パフォーマンス)
10月24日(土)午後5時-6時 「白い月」(2010-15年、35mmフィルム、サイレント)
  ニューヨーク、春から冬へと向かう日々を綴った映像日記。
10月25日(日)午後5時-6時 「ツバメー吉村弘に捧ぐ(仮)」(2015年、35mmフィルム)
  サウンド・アーティスト吉村弘が残した写真をもとに構成したスライドショー作品。
*上映開始後の入場はできませんので、4時30分までにご入場ください。展示室は5時で閉場します。
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

3 小杉武久氏、和泉希洋志氏によるコンサート 11月8日(日)午後3時-
*午後1時より整理券を配付します。(混雑状況により入場を制限する場合がございます。)
*参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

4 石田尚志氏(画家/映像作家)による映像インスタレーション上映
11月28日(土)、11月29日(日)各日午後5時-
*4時30分までにご入場ください。上映開始後の入場はできません。展示室は5時で閉場します。
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

5 担当学芸員によるギャラリー・トーク 12月5日(土)午後2時-2時30分
*申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

6 館長トーク 話し手:水沢勉(当館館長)
12月12日(土)、2016年1月24日(日)各日午後2時-3時
申込不要、参加無料。(ただし高校生以上は展覧会の当日観覧券が必要です。)

7 連続講演会「近代美術館とわたし」(県立機関活用講座)
第1回 10月17日(土)講師:荻野アンナ氏(作家/慶應義塾大学教授)
第2回 10月31日(土)講師:李 禹煥氏(美術家)
第3回 11月14日(土)講師:高階秀爾氏(大原美術館館長)
第4回 11月15日(日)講師:藤森照信氏(建築史家/建築家)
第5回 11月22日(日)講師:池内 紀氏(ドイツ文学者/エッセイスト)
各回午後2時-4時 *要申込(先着120名)
会場:鎌倉商工会議所会館 地下ホール
受講料:各回1,000円(任意の回数で申込み可能)
*1,7の申込方法:次の事項を明記し、fax、往復はがき、当館ホームページの問い合わせフォームのいずれ
かでお申し込みください。
1)企画名 2)氏名〔ふりがな〕 3)郵便番号、住所、電話番号、fax番号、メールアドレス 4)参加希望人数〔同伴者の氏名、ふりがな〕
*申込先:神奈川県立近代美術館 鎌倉 fax. 0467-23-2464


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さて、光太郎作品ですが、2点展示されています。

まずは大正2年(1913)、智恵子と婚約を果たした信州上高地で描かれた油絵「上高地風景」。この年の生活社主催油絵展覧会に出品されたものです。生活社は、フユウザン会分裂後、光太郎や岸田劉生らが興した団体でした。

今年3月、山岳雑誌『岳人』さんの特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」の一部を執筆させていただきましたが、その中でこの絵も紹介しました。この際には、同館からポジをお借りして誌面を飾らせていただきました。

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この油絵、光太郎の親友だった水野葉舟に贈られ、水野家で保管されていましたが、現在は同館に寄託されているそうです。

現在、平塚市美術館さんで開催中の企画展「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」に並ぶかな、と思っていたのが展示されず、残念に思っておりましたが、こちらに出すためだったのですね。


もう1点、ブロンズの「裸婦坐像」(大正6年=1917)。無題よく智恵子がモデルと勘違いされますが、違います。

光太郎は、横浜で夜の商売についていた「百合子」という若い女性を一時かくまってやったことがあり、その礼にと、モデルを務めてくれたそうです。智恵子も彼女をモデルに絵を描いたとのこと。


「裸婦坐像」は同型のものが日本各地に存在し、よく眼にしますが、「上高地風景」は油絵なので一点ものです。この機会に御覧下さい。


他の出品作は以下の通りです。

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光太郎と交流の深かった作家の作品もいろいろラインナップに入っています。絵画でいうと、柳敬助、中村彝、梅原龍三郎、松本竣介……。彫刻ではロダン、佐藤忠良、舟越保武、戸張孤雁などなど。

ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月23日

昭和58年(1983)の今日、福島県安達町(現・二本松市)の智恵子の生家裏山に「樹下の二人」詩碑が除幕されました。

「あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川」で始まる、「智恵子抄」中の絶唱の一つです。

この裏山は鞍石山と呼ばれ、幼少時や帰省した智恵子がよく歩いていたり、智恵子の実家を訪れた光太郎を案内して二人で歩いたりした場所です。近くには展望台も設けられています。

晴れた日には碑に「ほんとの空」が映ります。

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