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うまいこと考えるもんだな、と感心しました。

【米津玄師と文学】フェア『LOST CORNER』

期 日 : 2024年10月9日(水)~11月17日(日)
会 場 : 紀伊國屋書店横浜店 横浜市西区高島2-18-1そごう横浜店7F
時 間 : 10:00〜20:00
料 金 : 無料

『LOST CORNER』でまた素晴らしい音楽世界を披露してくれた米津さん。米津作品の大きな魅力の一つである豊かな言葉の世界をより深く理解するためのフェアを始めました!店長+横浜地区の米津ファンスタッフによる熱いPOPとともに展開しています!
入口入って右奥の棚にて。
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フェア書目
新編宮沢賢治詩集 新潮文庫 (改版) 宮沢賢治、天沢退二郎/新潮社
新編 銀河鉄道の夜 新潮文庫 宮沢賢治/新潮社
山椒魚 新潮文庫 井伏鱒二/新潮社
厄除け詩集 講談社文芸文庫 井伏鱒二/講談社
茨木のり子詩集 岩波文庫 茨木のり子、谷川俊太郎/岩波書店
詩のこころを読む 岩波ジュニア新書 茨木のり子/岩波書店
一握の砂/悲しき玩具 ― 石川啄木歌集 新潮文庫 (改版) 
 石川啄木、金田一京助/新潮社
中原中也詩集 新潮文庫 中原中也、吉田熈生/新潮社
二十億光年の孤独―Two Billion Light‐Years of Solitude 集英社文庫 
 谷川俊太郎、ウィリアム・I.エリオット/集英社
山頭火句集 ちくま文庫 種田山頭火、村上護/筑摩書房
三四郎 新潮文庫 夏目漱石/新潮社
パリの砂漠、東京の蜃気楼 集英社文庫 金原ひとみ/集英社
君のクイズ 小川哲/朝日新聞出版
みどりいせき 大田ステファニー歓人/集英社
アンソロジー 死神 角川ソフィア文庫 東雅夫/KADOKAWA
わたしを離さないで ハヤカワepi文庫 カズオ・イシグロ、土屋政雄/早川書房
日々の泡 新潮文庫 ボリス・ヴィアン、曽根元吉/新潮社
うたかたの日々 光文社古典新訳文庫 ボリス・ヴィアン、野崎歓/光文社
ブレーメンの音楽師―グリム童話〈3〉 新潮文庫
 ヤーコプ・グリム、ヴィルヘルム・グリム/新潮社
不思議の国のアリス 新潮文庫 ルイス・キャロル、矢川澄子/新潮社
マザー・グース 〈1〉 講談社文庫 谷川俊太郎、和田誠(イラストレーター)/講談社
デューン 砂の惑星〈上〉〈中〉〈下〉 ハヤカワ文庫SF
 フランク・ハーバート、酒井昭伸/早川書房
海からの贈物 新潮文庫 (改版)
 アン・モロー・リンドバーグ、吉田健一(英文学)/新潮社
風の谷のナウシカ(7巻セット)
 ― トルメキア戦役バージョン アニメージュコミックスワイド版
海獣の子供 〈1〉~〈5〉 IKKI COMIX 五十嵐大介/小学館
うろんな客 エドワード・ゴーリー、柴田元幸/河出書房新社
エドワード・ゴーリーの世界 濱中利信、柴田元幸/河出書房新社
外科室・天守物語 新潮文庫 泉鏡花/新潮社
永遠も半ばを過ぎて 文春文庫 中島らも/文藝春秋
我が愛する詩人の伝記 講談社文芸文庫 室生犀星/講談社
文学部唯野教授 岩波現代文庫 筒井康隆/岩波書店
死について考える 知恵の森文庫 遠藤周作/光文社
歌うクジラ〈上〉〈下〉 講談社文庫 村上龍/講談社
人間の土地 新潮文庫 (改版) サン・テグジュペリ、堀口大学/新潮社
人間の大地 光文社古典新訳文庫 サン・テグジュペリ、渋谷豊/光文社
智恵子抄 新潮文庫 (改版) 高村光太郎/新潮社
ヴァルター・ベンヤミン―闇を歩く批評 岩波新書 柿木伸之/岩波書店
クレーの天使 パウル・クレー、谷川俊太郎/講談社
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ご存じ米津玄師さんが、楽曲のモチーフになさったり、インスパイアの元となったりした作品を含むであろう書籍をまとめて販売するというコンセプト。単体でボンと置いておいてもそれほど売れ筋とは言えないものも、こうすることによって相乗効果と言いましょうか、付加価値と言いましょうか、そういうものが生まれて売れて行く、と。

平成30年(2018)のヒット曲「lemon」がらみで光太郎の『智恵子抄』新潮文庫版も入れていただいています。当初はラインナップに外れていたのですが、先月末に新たに組み込まれました。
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CDリリース前に、音楽チャート・Billboard(ビルボード)の日本公式サイト「Billboard JAPAN」さんに載ったインタビュー

--米津さんは文学もお好きだと思うんですけど、私はタイトルを見たときに梶井基次郎の『檸檬』が頭をよぎりました。
米津玄師:確かに「レモン」って文学的なニュアンスがあるとは思ってて。他にも高村光太郎の『智恵子抄』(「レモン哀歌」)とか。そういうものからレモンが無意識的に自分の頭の中にはあって、そこから出てきたっていう面はあるかもしれないです。

行かれた方のSNS投稿等を見ると、各書籍につけられたポップが素晴らしいとの声多数。

「紙の書籍は売れない」「街の書店が危機」……さんざん聴かされていますが、努力次第でいくらでもこうした工夫が出来るはずですね。

ご紹介が遅れてしまいまして、会期あと僅かですが、ぜひ足をお運びの上、『智恵子抄』、お買い求めください。

【折々のことば・光太郎】

此の間澤田伊四郎さんが突然来訪、懇請されたので「智恵子抄その後」六篇と戦後の雑文とを一冊にまとめて出版することを承諾しました、


昭和25年(1950)5月29日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

52de0e93澤田伊四郎の龍星閣(オリジナル『智恵子抄』版元、前年に戦時の休業から復興)から『智恵子抄その後』が刊行されたのは11月。この年1月の雑誌『新女苑』に載った連作詩「智恵子抄その後」6篇を根幹に、それ以前の智恵子に関する詩「もしも智恵子が」「噴霧的な夢」(新潮文庫版『智恵子抄』にすべて収録)、智恵子に関わる散文をいくつか、あとは智恵子とは無関係な散文、詩で構成されています。函などには「詩集」と印刷されていますが、「詩文集」とすべきものです。

澤田にあてた、同書に関わる光太郎書簡等が澤田の故郷である秋田県小坂町に寄贈されています。

毎年恒例、北鎌倉での展示情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11

期 日 : 2024年10月8日(火)~11月26日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月9日(土) 15:00~
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光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示。すぐ近くに住んでいて、光太郎と深い交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏のご協力もあり、光太郎と尾崎の交流(尾崎の妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘の實子でした)を辿る展示が為されます。光太郎と尾崎それぞれの肉筆や写真、年によっては光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったブロンズの「聖母子像」(ミケランジェロ模刻)も。

一昨年からは関連行事として光太郎と尾崎の詩をとりあげる朗読会も催されています。当方、今年は「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品物をお貸しし、その搬入と会場設営の日に当たってしまいましたので欠礼いたしますが、展示の方は会期中に拝見に伺うつもりで居ります。

皆様も是非どうぞ。朗読者も募集中だそうです。奮ってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

何を表現しても芸術そのものは健康であるべきです。

昭和24年(1949)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、造型にしても文筆にしても、病的な表現は嫌いました。若い頃には彫刻で「妖気」のようなものを表そうとしたこともありましたが、のちにそういうやり口は誤りだったと否定しました。

「山の詩人」といわれた尾崎にもそういう精神は通底していて、それだけに二人が結びついたのだと思われます。

ほぼほぼクローズドのイベントでしたので、このサイトでは事前にご紹介しませんでしたが、昨日、神奈川県逗子市のテルミンミュージアムさんにおいて開催された「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」にお邪魔しておりました。レポートいたします。
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同ミュージアム、電子楽器のテルミン奏者・大西ようこさんが運営なさっています。ミュージアムと云っても、大西さんがお持ちのアパートの一室を改装して作られたスペースです。
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内部はライブということで昨日は客席が用意されていましたが、通常は集められた古今東西のテルミン27台だかがずらりと展示されているのでしょう。それらは壁際などに寄せられていました。
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一部、修理中だそうで。
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奥の壁にはこちらを訪れられた様々な方々のサイン。
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さまぁ~ずさんとテレビ東京の田中瞳アナ。今年7月6日(土)にオンエアのあった「モヤモヤさまぁ~ず2 【逗子・葉山】一心同体!季節外れの90分弱SP」の際のものです。
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NHKさんで不定期に放映されている「フェス・アローン レギュラー番組への道」のディレクター氏。昨年2月でしたが、こちらでのロケと、大西さんはスタジオでハライチのお二人(澤部佑さん、岩井勇気さん)とご共演。
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そして箏曲奏者の元井美智子さん。

元井さん、この日の「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」で大西さんとご共演。
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元井さん、昨年、横浜のイギリス館さんで開催された「元井美智子自作自演コンサート2023」で、箏を弾かれながら「智恵子抄」中の詩を朗読なさいまして、それがご縁で今年の連翹忌の集いにご参加下さいました。そこで連翹忌ご常連の大西さんに捕まり(笑)、今回のコラボライブ。

7月には同様に連翹忌ご常連で朗読の荒井真澄さんとのコラボを花巻仙台でなさっています。以前にも書きましたが、連翹忌は光太郎を偲ぶのが趣旨ですが、こうして人の輪を繋いで行くのも大きな目的の一つでして、その意味では主催者として喜ばしい限りです。
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元井さん、御著書「八橋の虹」のプロモも。江戸時代の八橋検校を主人公とした小説仕立てですが、史料が少ないため評伝には出来ない部分を想像で補われて書かれたものです。以前に頂き、芸道の徒弟制度的な部分では、高橋鳳雲、高村東雲、そして光太郎の父・光雲へと続く木彫界の一派とも通じる部分があるな、と思って拝読しました。Amazonさん等でも扱われています。ぜひお買い求めを。
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この日は横浜で元井さんが演(や)られた「智恵子抄」をダイジェストで、「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」の語りに箏とテルミンの演奏を乗せて。

他に箏曲定番の「春の海」や、光太郎も好きだったドビュッシー、元井さんオリジナルの曲、大西さんが以前にチェロやハープとの合奏のために作曲家の方(お二人、昨日もいらしていました)に書いていただいたものをアレンジした曲など。和と洋、ある意味最先端の電子と古き良き伝統との融合、なかなか不思議な世界観でしたが、心地よいものでした。

大西さん、実に様々な方との二人三脚をこれまでもやられていて(実際に足を縛って走られているわけではありませんが(笑))、中には「ウルトラマン」のスーツアクター(中の人)や「ウルトラセブン」のアマギ隊員役だった古谷敏さんに「智恵子抄」系朗読をお願いして、という企画もありました。

切り絵作家の方の作品に描かれた古谷さんのサイン。
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ウルトラファンには垂涎の的でしょうね。といってもここで涎を垂らされても困るでしょうが(笑)。

来月、逗子で開催される大西さんが一枚噛んだイベントのフライヤー。上記の切り絵の方との連携だそうで。
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今後とも、お二人のご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

「道程」初版は「詩集」といふよりも「詩篇雑綴」といふやうなもので、その頃までの自分の詩をただ制作年代順に並列したものに過ぎません。その頃小生は詩集などといふものをれいれいしく出版する気はありませんでした。


昭和24年(1949)6月26日 檜村淑子/藤田澄枝/肥後道子宛書簡より 光太郎67歳

宛先の3人は、当時女学生の光太郎ファンでした。面識もなかった光太郎に手紙を送り、いろいろ質問をし返事を頂いたとのこと。お三方のうち、肥後さんはかつて連翹忌にもご参加下さり、この書簡の背景などについて語っていただきました。

7月26日(金)、『毎日新聞』さんの神奈川版から。

かながわの書 名碑探訪/17 茅ケ崎・平塚らいてう記念碑 書き出しに意志の強さ /神奈川

 「元始、女性は太陽であった」。女性文芸誌「青鞜」の創刊号、平塚らいてうの言葉である。表紙の装丁は長沼智恵子(のちの高村光太郎の妻)が担当し、与謝野晶子も「山の動く日来る」と賛辞の詩を贈った。
 らいてうは女性保護論争に加わり、市川房枝らとともに新婦人協会を結成。婦人参政権運動を起こした。現代では到底考えられないが、当時女性に参政権がなかったのである。「元始、女性は………」はセンセーショナルな言葉として社会現象となった。1911(明治44)年秋のことであった。
 JR茅ケ崎駅の南口に降り、海に向かって徒歩約8分で「高砂緑地」の看板に出合う。ここは実業家・原安三郎の別荘の土地だったが、今は「松籟(しょうらい)庵」として公開している。地元では憩いの場として夙(つと)に有名である。庭園に入ると高さ160センチの堂々とした碑がある。あまたの松に囲まれ、潮風に満ちた静かな庭だ。
 碑文に目を遣(や)ると、たっぷりと墨を含ませた筆で「元始」と書き進めている。 しっかりと筆を立て、紙に筆圧をかけていることが伺える。書は筆順を追うことができるため、時間推移と共に鑑賞できる数少ない芸術とも言われている。
 本文を3行に分け、行間を広くとり、漢字を大きく仮名を小さめに書き、文字の大小変化をつけている。時間をかけて鑑賞すると、らいてうの息づかいを感じとることができる。また「性・陽・正」の漢字を草書で表現し運筆リズムを作っている。当時の識者はよく草書を使う。筆で手紙を書く時に、早書きの草書が手に馴染んでいたのだろう。小学校の漢字レベルの草書は誰もが読め、常識の範囲だったのだ。
  おそらく当時の女性の筆触としては仮名文字の細線が主流だったはずだ。しかし、らいてうの運筆は全く異なり、書き出しは中国唐時代の顔真卿(がんしんけい)のような肉太のタッチである。明治の女性の意志の強さがそうさせたのだろうか。落款は「らいてう」と「明(はる)」の印を添えている。「明」は本名である。また、「らいてう」の名は雷鳥に由来する。
 「青鞜」はわずか5年間の活動で終焉(しゅうえん)を迎えた。爾来(じらい)113年の歳月が流れたが、その精神は脈々と今日まで受け継がれて来た。先の東京都知事選においても女性の知事が3期目に入るという。まさにらいてうの先見の明の証(あかし)と言えるだろう。 
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記事を書かれたのは県立高校の書道の先生だそうで、なるほど、書体や筆法などにつき的確な評が為されています。

この碑、一度拝見に伺いました。意外と新しく、平成10年(1998)の建立でした。刻まれた文字が書かれたのがいつかまでは分かりませんでしたが。すぐそばには光太郎と縁のあった八木重吉の詩碑も建てられていました。

なぜ茅ヶ崎にらいてうの碑が、というと、らいてうの夫・奥村博史が結核の治療のため、この地にあったサナトリウム・南湖院へ大正4年(1915)に入院、そのためらいてうも翌年には近くに借間を借り、奥村退院後も大正6年(1917)までこの地に住んでいたためでしょう。南湖院の建物の一部は国の登録有形文化財として、元の敷地(高砂緑地から数百㍍)の一角に残されています。八木も昭和の初めに南湖院に入院していましたし、遠く明治時代には国木田独歩も。

ぜひ足をお運びいただき、先人たちの息吹に触れてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

これから又出直して新らしい世代の為に新らしい熱情を以て尽すやうに望みます。いつでも青年を相手にしてゐるのは何よりです。その上農は国民生活の根本ですから、まことにやり甲斐のある仕事です。


昭和23年(1948)10月14日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎66歳

孟彦は光太郎実弟。藤岡家に養子に行き、植物学者となりました。戦前から兵庫県農業試験場に勤務していましたが、この年、茨城県の鯉淵学園に赴任。現在の鯉淵学園農業栄養専門学校です。

キーワード「高村智恵子」でヒットしました。神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙『タウンニュース』さん記事。

小田原在住天羽間さん 切り絵の原画展 東口図書館で10日まで

 小田原市曽比在住のイラストレーター天羽間(あまはま)ソラノさん(61)が12月10日(日)まで、小田原駅東口図書館で切り絵イラストの原画展を開催している。
 天羽間さんは洋画家の高村智恵子の切り絵作品に感銘を受けて、2005年から切り絵の創作を開始した。06年にギャラリーコンペで賞を初めて受賞した後、化粧品メーカー「資生堂」の宣伝広告物や本の装幀イラストなどの製作を行ってきた。
 原画展ではこれまで製作してきた作品約30点が展示されている。天羽間さんは「たくさんの人に見に来ていただきたいです」と話している。午前9時から午後6時(最終日は4時)。問い合わせは同館【電話】0465・20・5577。
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展覧会詳細は以下の通り。

天羽間ソラノ 切り絵イラスト原画展

期 日 : 2023年11月28日(火)~12月10日(日)
会 場 : 小田原駅東口図書館 多目的スペース 神奈川県小田原市栄町1-1-15
時 間 : 午前9時~午後6時 最終日は午後4時まで
料 金 : 無料

小田原市在住で、本の装丁イラストなどで活躍中の天羽間ソラノさんの切り絵イラスト原画展を開催します。細密で美しい切り絵をぜひ見に来てください。
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天羽間氏という方、当方寡聞にして存じ上げませんでしたが、各種デザインの多方面で活躍なさっている方だそうです。調べてみましたところ、プロフィール的なページに確かに「2005年 高村智恵子が精神分裂病を発症した後に、切り絵細工を始めた作品に感銘を受け、「折り紙」を使ったシンメトリーの切り絵の創作を開始する。」という記述がありました。

智恵子紙絵からのインスパイアというと、もろに智恵子の紙絵や油絵、『青鞜』の表紙絵などをモチーフとした切り絵等を発表されている谷澤紗和子氏が思い浮かびます。天羽間氏、谷澤氏とは異なり、智恵子作品そのものをモチーフとされているわけではないようですが。

上記画像の作品もおそらくシンメトリーで制作されているようです。その精緻さに舌を巻かされます。

もう会期が明日までとのことですが、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

十月十七日に此村に移転してからまだ分教場(風の又三郎そつくりの学校です)に御厄介になりながら毎日小屋に通つて雑作を自分で作つてゐます。昨日は炉の自在カギをつくりました。今度は井桁にかかります。


昭和20年(1945)11月1日 水野葉舟宛書簡より 光太郎63歳

近くの(といっても1㌔弱離れていますが)分教場に寝泊まりしながら山小屋の造作にかかっていました。嬉々として大工仕事に精を出している様子がうかがえます。この頃詠んだ光太郎の句に「新米のかをり鉋のよく研げて」という吟があります。いい句ですね。
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昨日は北鎌倉に行っておりました。

光太郎の直ぐ下の妹・しづの令孫夫妻がやられているカフェ兼ギャラリー「笛」さんで、「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その10」展示と、関連行事としての朗読会にお邪魔。
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まずは展示を拝見。光太郎、そして光太郎と交流が深く、晩年は笛さんの近くに居住していた尾崎喜八に関わるさまざまです。
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光太郎から尾崎の結婚祝い(新婦は光太郎の親友・水野葉舟息女)に贈られたブロンズの「聖母子像」(ミケランジェロ模刻)も。
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一度火災に遭って、現在は読めなくなってしまった台座裏面の但し書きの画像。
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店名の由来となった世界各国のさまざまな笛。店主の山端氏が集められ、ご自身で演奏もなさいます。
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午後3時、朗読会の開始です。

店主の山端氏は、尾崎のエッセイ「音楽への愛と感謝」から、光太郎との出会いを語る部分を。奥様は光太郎詩「こころに美をもつ」(昭和17年=1942)と「深夜の雪」(大正2年=1913)で。
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ご常連の方、尾崎令孫の石黒敦彦氏、奥様のはとこに当たられる、高村豊周令孫も。
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当方は光太郎が戦後になって「智恵子抄」収録詩を朗読した肉声の入ったCDを持参、皆さんに聴いていただきました。

最後に再び山端氏。光太郎詩「山からの贈物」(昭和24年=1949)。
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その後、歓談タイム。「山からの贈物」ということで、鎌倉の山の方で採れたという巨大なトウガンなどが振る舞われました。
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展示の方は、11月28日(火)までの火・金・土・日曜日に見られます。
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「あじさい寺」として有名な明月院さん(尾崎家の墓所もあるそうで)の裏手です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】19258d8f-s

炭化沈香木 一寸珍に候へば少々進じまゐらせ候 茶にでもお使ひ下さらば幸甚


昭和20年(1945)4月 山端敏夫宛書簡より

「沈香(じんこう)」は香木の一種です。東南アジア原産で、おそらく日本では産出しないものでしょう。木彫の材としても使われます。

その沈香の炭を進呈するよ、茶を点てる時にでも使って下さい、と。宛先は「笛」店主山端氏の奥様の御尊父(光太郎の妹・しづの四男)です。この書簡、今年は出ていませんでしたが、昨年は展示されていました。

なぜ炭? というと、4月13日の空襲で焼けたということでしょう。光太郎、転んでもただでは起きません(笑)。

神奈川県鎌倉市から展示及びイベント情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その10

期 日 : 2023年10月6日(金)~11月28日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月11日(土) 15:00~
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「あじさい寺」として有名な北鎌倉は明月院さんの裏手にあるカフェ兼ギャラリー「笛」さん。
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ご主人の奥様が、光太郎のすぐ下の妹・しづの令孫にあたられ、お宅には光太郎直筆の書や古写真など、さまざまなものが伝わっています。昨年はNHKさんの「鶴瓶の家族に乾杯 市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る」で、笑福亭鶴瓶さんがお店をご訪問なさいました。
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また、すぐご近所に、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏(サイエンス・アート研究者)もお住まいで、そちらには喜八の関連資料、そして光太郎から喜八の結婚祝い(新婦は光太郎の親友・水野葉舟息女)に贈られたブロンズの「聖母子像」も。
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毎年この時期に、こうした品々の展示をなさっています。昨年の様子はこちら。昨年から関連行事として、光太郎・喜八の詩の朗読会も開かれています。

今年も11月11日(土)に朗読会だそうで、当方、その日にお邪魔するつもりです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

校歌作曲は弘田龍太郎氏が適当かと思ひます、同君は本郷区向岡弥生町三番地に居ますが木下小学校から直接におたのみになるなら名刺でも送りませうか。作曲料を予め問合せるといいと思ひます。

昭和15年(1940)5月11日 水野葉舟宛書簡より 光太郎58歳

葉舟作詞の校歌に関わります。

弘田龍太郎」は作曲家。大正年間、鈴木三重吉主宰の『赤い鳥』によって展開された童謡運動に共鳴、北原白秋らの作詞による童謡を同誌に相当数発表しました。今日でも歌い継がれている作品としては「靴が鳴る」(大正8年=1919 清水かつら作詞)、「叱られて」(同9年=1920 同)、「雀の学校」(同11年=1922 同)、「春よ来い」(同12年=1923 相馬御風作詞)などがあります。

また、正確な作曲年は不明で、楽譜が刊行された記録も見あたりませんが、昭和18年(1943)12月に日本コロムビア改め日蓄工業株式会社(戦時中の「敵性語追放」によります)から、光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」に弘田が曲を付けた歌曲のレコードがリリースされています。

木下(きおろし)小学校」は、千葉県印西市に現存し、校歌は葉舟の作詞、弘田の作曲です。一帯は当時木下(きおろし)町。葉舟が居住していた遠山村(現・成田市)と同じ印旛郡に属し、おそらく地域の名士・葉舟に校歌作詞、併せて作曲家を紹介してほしい旨の依頼があり、さらに葉舟から光太郎に適当な作曲家は誰かという問い合わせがあったものと思われます。

横浜から、現代アートの展覧会情報を。既に始まってしまっていますが……。

新・今日の作家展2023 ここにいる―Voice of Place

期 日 : 2023年9月16日(土)~10月9日(月・祝)
会 場 : 横浜市民ギャラリー 横浜市西区宮崎町26番地1
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 「新・今日の作家展」は、横浜市民ギャラリーが開館した1964年から40年にわたり開催した「今日の作家展」を継承した展覧会で、同時代の表現を紹介・考察しています。今年度は「ここにいる―Voice of Place」を副題に2名のアーティストを紹介します。
 来田広大は、土地や場所と人との関係を探るため、山等におけるフィールドワークをひとつの拠点としています。そこから臨む風景を地図と捉え、作品に対峙した際「今ここにいる」という自覚を導く、チョークを用いた制作を中心に行っています。古橋まどかは、自身に関わる地域や場所の中にある自然や人工物の変遷や軌跡に着目します。自らの経験との関係性を掘り下げ、リサーチをもとに立体や映像、収集物を用いたインスタレーションを発表してきました。
 私たちはみな、どこかの場所や土地に関係しながら今ここにいます。対人距離や移動に制限のあったコロナ禍を経た今、2名の作品に相対することは、場や土地が内包する時間、人びとや生物の身体や記憶等に思索を巡らせ、自己や他者に対する内的な気づきをもたらすことでしょう。

[出品作家]
来田広大、古橋まどか

※展覧会にあわせて事前収録した作家2名のインタビュー映像をWebおよび会場で公開の予定です。
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出品作家お二人のうち、来田広大氏。「智恵子抄」インスパイアで、令和2年(2020)には福島県いわき市で「来田広大個展「あどけない空」KITA Kodai Solo Exhibition “Candid Sky”」、同3年には都内で「あどけない空#2 The artless sky #2」を開催。後者は拝見して参りました。

その際に出品された映像作品《東京には空がない (Rooftop Drawing)》が、今回も出ているとのことです。
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YouTube上に予告動画。


来田氏へのインタビューも。12:50頃から「あどけない空」として、光太郎智恵子に触れて下さっています。


ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お電話の趣により、執筆をつづけて居りましたがどうしてもまとまりさうもありません。今度はわざわざ御来訪の上のおたのみだつたのに甚だ不本意ですが右御諒承下さい、 今年十月は智恵子の三回忌になりますので出来ればその頃出させていただければ一番気持が済むやうに思はれます。智恵子に話しかけるやうに書けるかと思ひますから。


昭和15年(1940)4月28日 栗本和夫宛書簡より 光太郎58歳

栗本和夫は『婦人公論』編集者。同誌のこの年12月号に載った随筆「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)に関わります。のち、詩集『智恵子抄』に転載されましたが、いかにも苦しみつつ書き足し書き足ししながら書いたというのがわかる文章です。

コロナ禍前は毎年ご紹介していました。おそらく4年ぶりの本格開催と思われます。しかも記念大祭だそうで。

お三の宮日枝神社御鎮座350年記念大祭~お三の宮秋祭り~

期 日 : 2023年9月15日(金)~17日(日)
会 場 : お三の宮日枝神社 神奈川県横浜市南区山王町5-32
      イセザキ・モール 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町1・2丁目
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 15日(金) 例祭(式典)   午後5時 斎行
 16日(土) 神社大神輿御巡行 午前9時 出御祭
 17日(日) 町内神輿連合渡御 午前9時 出発式
  〜神賑行事〜
 16日(土) 午後5時居合奉納演武(横浜無外会)
 17日(日) 午後5時和太鼓 奉納演奏(ヒビカス横浜)
 両日 日中 お囃子奉納演奏(横浜やっしゃ鯛)
     19時 奉納演芸会(お三の宮奉納演芸委員会)
 終日縁日・献灯

「お三の宮」「おさんさま」として親しまれている日枝神社の例祭で、《かながわのまつり50選》にも選ばれています。横浜随一の大神輿「千貫みこし」による氏子内御巡行は毎年行われ、本祭り(奇数年毎)には大小30〜40基にも及ぶ町内神輿連合渡御が神社からイセザキ町へと練り歩き、市内屈指の規模を誇ります。境内では神賑行事として、奉納演芸会やお囃子・和太鼓・居合演武の奉納などが催され、献灯や縁日で賑わいます。

今年(令和5年)は、御鎮座350年の佳節を迎えます。皆さまと共に奉祝の誠を捧げるべく、御鎮座350年記念大祭を盛大に斎行したいと存じます。
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イセザキモールさんのサイトによれば、光雲が装飾彫刻を担当した「火伏神輿」がモール内に展示されるそうです。

9月15日(金)朝10時~夕方4時ころ007
伊勢佐木町1・2丁目【火伏の神輿】展示(有隣堂ヨコ、神酒所)

1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼を記念し、伊勢佐木町町内会として高村光雲(上野、西郷隆盛像ほか)に制作を依頼しました。ちょうど100年前の1923年9月、完成目前に東京・上野の工房で関東大震災に遭遇。火に包まれる直前に部材をすべて運び出し、震災10日後に無事納められたことから「火伏の神輿」と言われるようになりました。祭礼期間以外は、神奈川県立歴史博物館エントランスにて展示しています。

「火伏神輿」、以前に拝見に伺ったときはかつがれていましたが、今回は展示のみなのでしょうか? また、やはり光雲作の木彫獅子頭一対も併せて展示されていましたが、そのあたりも不明です。
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それにしても、またもや関東大震災がらみか、と、少し驚きました。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

チヱ子には春子さんを附添にたのみました。今日お給料を看護婦会へ払ひました。

昭和12年(1937)1月21日 長沼セン宛書簡より 光太郎55歳

「春子さん」は長沼春子。智恵子実妹にして大正11年(1922)に30歳で早世したミツの遺児です。したがって、智恵子にとっては姪ですが、ミツの死後、智恵子の母・センが養女として届けましたので、戸籍上は妹の扱いでした。戦後、光太郎が間を取り持って茨城取手の詩人・宮崎稔に嫁ぎました。

当時の一等看護婦の資格を持ち、光太郎の依頼で、ゼームス坂病院に入院していた智恵子の付き添い看護にあたることとなりました。

春子の回想「紙絵のおもいで」より。

「昨日血を吐いたのですが大した事もないのですよ。」
とおっしゃって寒々としたソファーに寝ておられた。伯母の病院の地図を書いてくれたり、いろいろと今までの病状を伺い、お暇をした。翌日南品川ゼームス坂病院に行った。病院ではやはり看護服の方が働きよいだろうというので、服をきて行った。
 そうっとドアを開けて、
「伯母さま、御機嫌よう、春子です。」と声をかけた。変り果てた伯母の姿! 私は思わず胸をしめつけられ涙があふれてきた。
 じっと立って見ていた伯母は、
「啓助は死んだの?」
「はい死にました。」
 重ねて「修二は?」と二人の弟たちのことをきかれた。そののち三年あまり看護中身内の者のことを聞いたのはこの時だけであった。
(略)
 私はそれから毎夜のように伯母のかたわらにやすみ、そのやつれはてた姿を見ては泣いた。ただ神に祈った。


三年あまり」は記憶違いで、実際には2年弱でした。春子が付き添いに入った頃、まだ紙絵制作は為されていませんでしたが、千羽鶴や紙灯籠などは作り始めていたそうです。
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新刊です。

聞き書き・関東大震災

2023年9月1日 森まゆみ著 亜紀書房 定価2,000円+税

〈 1923年に起きた関東大震災から100年 〉
 著者が地域雑誌『谷根千』を始めたころ、町にはまだ震災を体験した人びとが多く残っていた。それらの声とその界隈に住んでいた寺田寅彦、野上弥生子、宮本百合子、芥川龍之介、宇野浩二、宮武外骨らの日記など、膨大な資料を紐解き、関東大震災を振り返る。
 地震の当日、人々はどのように行動したのか、その後、記憶はどのように受け継がれているのか。小さな声の集積は、大きな歴史では記述されない、もう一つの歴史でもある。そこから何を学ぶことができるのだろうか。
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目次
 ■序言………災害は忘れた頃にやってくる――寺田寅彦
 ■第1章……一九二三年九月一日004
  震災まで
  九月一日、発災当日
  谷中
  上野の美術展、初日
  根津の谷
  千駄木あたり
  本郷に火が迫る
  東京帝国大学構内の火事
  被害の少なかったお邸町
  上野桜木町
  上野の山をめざせ
  尾根沿いに日暮里へ
  田端文士村
 ■第2章……一夜が明けて、九月二日
  九月二日、発災翌日
  自警団
  九月三日朝、池之端焼ける
 コラム 林芙美子 根津神社の野宿
 ■第3章……本所から神田、浅草など
  被害のひどかった本所
  神田周辺005
  佐久間町の奇跡
  下谷区、浅草区
  浅草十二階
  溺死した吉原の遊女たち
  神奈川県の被害――横浜、鎌倉、小田原
 コラム 藤沢清造 小説家のルポルタージュ
 ■第4章……震災に乗じて殺された人びと
  朝鮮人虐殺
  中国人の虐殺
  殺された、間違われた日本人
  社会主義者の拘束
  亀戸事件
  大杉栄・伊藤野枝事件
  虎ノ門事件――摂政官狙撃  
 コラム 宮武外骨
 『震災画報』でいち早く知らせる
 ■第5章……救援――被災者のために
  行政の避難救護と食料配給
  遺体処理
  医療
  教育
  ボランティア
  鉄道輸送
  変わる暮らし
 コラム 宮本百合子 二〇代の作家がつづった関東大震災
 ■第6章……震災で変わった運命
  やってきた人、去っていった人たち
  文学者たち
  震災後に歌われた二つの童謡
  奏楽堂のパイプオルガン
  根岸子規庵の去就
  上野動物園の象
 ■第7章……帝都復興計画
  後藤新平の震災復興
  復興小学校
  復興公園・本郷元町公園
  同潤会アパート
  経済的打撃から昭和恐慌へ
  東京都慰霊堂
 ■第8章……今までの災害に学ぶこと
  江戸時代の地震
  斎藤月岑『安政乙卯江地動之記』
  鯰絵
  不忍池と上野公園の意味
  井戸のある暮らし――谷根千の水環境
  阪神・淡路大地震
  三・一一、東日本大地震
 コラム 永井荷風 江戸と明治の終わり
 ■正しく怖がり適切に備えるために――東京大学平田直名誉教授に聞く
 あとがき


森氏らがかつて発行していた『地域雑誌 谷中根津千駄木』(谷根千)などから、関東大震災に関わる主に谷根千地区の住民の皆さんの証言等を抜き出し、ほぼ時系列順に並べて、新たに解説が付されています。一部、神奈川県での被災の様子も含みます。
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千駄木に居住していた光太郎の名も。元ネタは『谷根千』第51号(平成9年=1997)に載った、画家にして詩人の難波田龍起への聞き書き「駒込林町 高村光太郎のいた頃」。難波田は光太郎住居兼アトリエのすぐそばに住んでいました。他の箇所には光雲の名もちらりと。

光雲と言えば、表紙には光雲が主任となって東京美術学校総出で作られた上野公園の「西郷隆盛像」があしらわれています。こちらの元ネタはジャーナリスト・宮武外骨の『震災画報』。上の方に元絵を載せておきました。

難波田の回想では、光太郎との交流は震災がきっかけだったそうです。

 僕が目白から早稲田の高等学院に入ったのは大正十二年。その年の秋が関東大震災で、自警団ができたときに高村光太郎さんと夜警で会って、初めてあいさつをするようになったんです。久留米絣の筒袖を着て鳥打帽をかむった高村さんがポストに手紙を出しにいくのは子どもの頃からよく見ていたんですが。

自警団」に関しては、光太郎が編集者・龍田秀吉に送った翌年2月22日の書簡に記述があります。

今日はわざわざ来て下さつたのに、昨夜徹宵したのと、今夜の夜警勤務の支度とのため、丁度寝たところで、とてもねむくてねむくて起きられなかったので、知りながら其のまま睡つてしまひ、失敬しました。(略)今夜は此から明朝まで夜警小屋に出るのです。

震災から半年近く経っても、夜警が行われていたのですね。まさか光太郎は道行く人を捕まえて「井戸に毒を投げ入れただろう!「十五円五十銭」と言ってみろ!」などということはやらなかったと思いますが……。

震災後に起こった種々の虐殺事件について、本書では一章を割いています。「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」とほざいた政府高官にぜひ読んでいただきたいところです。蛙の面に小便かもしれませんが。

閑話休題、『聞き書き・関東大震災』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生は明日午后神戸へ急にまゐります、帰国する弟を迎へにゆくのですが、此弟とは十九年も会はないわけです、一時フランスで行衛不明にだつた弟です、どんなに変つてゐるかと思ひます、


昭和10年(1935)8月17日 中原綾子宛書簡より 光太郎53歳

」は、三歳違いのすぐ下の弟・道利。軍人志望や結婚を光雲に反対され、半ば自暴自棄になって渡欧したまま、やがて音信不通になっていました。それがフランスの大使館から慈善病院的な所に入院しているが、送還するので引き取って欲しいという知らせが来、その受け取りでした。

道利の下の弟・豊周の回想に依れば、道利の渡欧は大正10年(1921)頃とのことでしたが、「十九年も会はない」となれば1935-19=1916で、大正5年となります。

その後、道利は昭和20年(1945)、縦穴の防空壕に転落した事故が元で亡くなりました。

全日本合唱連盟さん主催の全日本合唱コンクール。今年は第76回となり、全国大会は10月から11月にかけ、小学校部門で福岡県、中高部門は香川県、大学職場一般部門が新潟県で、それぞれ開催されます。
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7~8月に都道府県大会、9~10月には支部大会(北海道、東北、関東……)があり、それぞれを勝ち抜いて全国への切符が手に入ることになります。
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やはり主催に入っている『朝日新聞』さんの各都道府県版で、都道府県大会の結果等が報じられ続けています。そのうち、神奈川大会高校部門について。

6団体が関東大会へ 県合唱コン、高校A・B /神奈川県

 第66回神奈川県合唱コンクール(県合唱連盟、朝日新聞社など主催)の高校A、B部門が19日、横浜市西区の県立音楽堂であり、計21団体が出場した。
 関東大会常連で全国大会出場全国大会出場を目指す日本女子大付属高校は、課題曲「Salve Regina」、高村光太郎作詩の「亡き人に」を歌った。部長の伊藤優梨愛さん(3年)は「課題曲ではラテン語に挑戦した。巻き舌や母音の時の口の開き方が日本語とは違って、難しかった。」
 金賞、そして関東大会出場権を得たが、「今日の歌は未完成。自由曲の方は、もっとみんなと歌詞の解釈を話し合って、関東大会ではより深みを出したい」と表情を引き締めた。
 高校部門では、系6団体が9月に水戸市で開かれる関東大会への出場を決めた。結果は次の通り(◎は県代表)。
 【高校A】金賞 ◎日本女子大、◎海老名、◎神奈川学園、◎清泉女学院、▽銀賞 多摩、鵠沼、相模女子大、青山学院横浜英和、中央大横浜▽銅賞 相模原中等教育、相模原弥栄、生田、洗足学園、麻生総合、慶応湘南藤沢▽奨励賞 法政二、麻溝台、大船、湘南台
 【高校B】金賞 ◎湘南、◎桐光学園

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画像は高校B部門(出演人数33名以上)金賞の湘南高校さんですが、同A部門(6名以上32名以下)では日本女子大付属高校さんが金賞。自由曲で「高村光太郎作詩の「亡き人に」を歌った」とあります。

「亡き人に」は、おそらく鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための組曲 智恵子抄」と思われますが、違っていたらごめんなさい。この組曲は智恵子の母校・福島高等女学校の後身である県立橘高等学校合唱団さんの委嘱作品です。同団、全3曲のこの組曲から1曲ずつ自由曲として選曲し、平成21年(2009)から3年間、全日本合唱コンクール全国大会に出場し上位入賞しています。また、神奈川の清泉女学院さんも平成26年(2014)の同大会で「亡き人に」を自由曲に選定し出場、金賞を受賞されました。

   亡き人に005

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし 
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処そこにゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

詩は智恵子が亡くなった翌年の昭和14年(1939)、雑誌『新女苑』に発表されました。
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光太郎の手元に残された控えの原稿によれば、制作日は7月16日。7年前の7月15日、智恵子は睡眠薬アダリンの大量服用で自殺未遂を起こしました。「今日が何であるか」はそのあたりに関わるような気もします。

グロキシニヤ」は、光太郎にとって、智恵子との様々な思い出を象徴する花ですね。詩の右に載せた画像は、当方自宅兼事務所のグロキシニア。今年6月に撮影した画像です。残念ながらもう花は散ってしまっています。

さて、合唱コンクール関東大会は茨城県の水戸市民会館さんで9月16日(土)の開催。日本女子大付属高校さんには、ぜひとも全国大会出場を果たしていただきたいものです。『朝日新聞』さん記事には「自由曲の方は、もっとみんなと歌詞の解釈を話し合って、関東大会ではより深みを出したい」とあり、こういう取り組みも大切だと存じます。そして、若い世代にも光太郎智恵子の世界が受け継がれていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

此を書いてゐるうちにもちゑ子は治療の床の中で出たらめの嚀語を絶叫してゐる始末でございます、看護婦を一切寄せつけられぬ事とて一切小生が手当いたし居り殆ど寸暇もなき有様です、御無沙汰の失礼平におゆるし下さい、


昭和9年(1934)12月28日 中原綾子宛書簡より 光太郎52歳

半年あまり預けていた九十九里浜の母と妹夫婦の元から、心を病んだ智恵子を再び連れ戻しました。翌年2月末に南品川ゼームス坂病院に入院させるまで、光太郎にとって(智恵子にとっても?)地獄のような日々が続きます。

昨日は午後から横浜市に行っておりました。

メインの目的は「元井美智子自作自演コンサート2023」。港の見える丘公園内のイギリス館さんでの開催でした。
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そちらは18:30開演で、一旦、会場を通り過ぎ、当初予定通りすぐ近くでよく足を運ぶ神奈川近代文学館さんにまず行きました。
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ただし、展示室の方ではなく閲覧室に(だいたいいつもそうですが)。
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側溝に猫が二匹。最初「死んでるのか?」と思ったのですが、どうやらあまりの暑さに涼をとっているだけのようでした(笑)。
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国会図書館さんのデジタルデータリニューアル
でいろいろ新情報を得ましたが、同データの「館内限定閲覧」扱いのもののうち、何点かはこちらにも所蔵があるので、閲覧。さらにそれとは別個の光太郎について書かれた部分がある現代の書籍で、必要な箇所をコピーして参りました。

閲覧室の利用が17:00までで、その後、早めの夕食を摂りに中華街へ歩きました。考えてみると、コロナ禍が始まって以後、初めてでした。

再び港の見える丘公園へ歩いて戻り、イギリス館さんへ。まだ時間がありましたので、館内を拝観。
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外観の模型。こちらの建物、昭和12年(1937)の竣工だそうで、元は英国総領事の公邸でした。そのあたり、いかにも、という造作です。
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壁や天井など、お約束のコテコテ装飾等は施されていませんで、古建築好きとしてはちょっと物足りないなと思いつつも、却って質素な感じには好感が持てました。

さて、開演時間が迫り、一階ホールへ(ホールといっても、元は大広間)。
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何とまあ、観客は当方一人でした。

元々、あまり大々的に宣伝をなさっていたわけでもなく、また、申し込みがあったものの、この暑さで体調を崩されキャンセル、という方が複数いらしたそうで。

というわけで、なんとも贅沢な一人だけのコンサート(笑)。すぐ目の前で弾いて下さいましたし、至福のひとときとなりました。ただ、配信のための動画撮影はなさっていたので、純粋に当方だけのためというわけではありませんでしたが(笑)。
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まず、「智恵子抄より」。

オリジナルの曲にのせ、元井さんご自身が詩の朗読。「あどけない話」「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」。あくまで「朗読」で、故・米川敏子氏作曲の歌として歌われる「千鳥と遊ぶ智恵子」や、故・小山清茂氏による節回しがつく語りという形式の「樹下の二人」などとは異なっていました。それがかえって自然な感じで良かったと思いました。

ちなみに琴で朗読、というと、故・清水脩氏が昭和34年(1959)に作曲、レコード化されています。しかし、こちらは朗読が主で琴は伴奏、という感じでした。レコードでは故・竹脇無我さんと栗原小巻さんが朗読をなさっていました。
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その点、元井さんのそれは、朗読と琴の一体感、不即不離感という意味では、実に良かったと思いました。

聴きながら、二本松の智恵子生家には智恵子が少女時代に使っていた琴があったっけな、と思い出しました。
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ただ、あまり熱心ではなかったようで、琴に関するこれといったエピソードは残っていませんが。

その後、「茶摘み」「夏は来ぬ」をオリジナルの編曲で。さらに、完全オリジナルの「青女」。「青女」とは、中国の古典に出て来る霜・雪を降らすという女神で、俳句の季語にも使われる語です。「季節外れですけど、猛暑の毎日なので、これを聴いて少しでも涼んでいただきたい」とのことでした。
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アルペジオの部分など、たしかに舞い散る粉雪のような感じ。なるほど、と思いました。

コンサートの前後、途中でもいろいろお話をさせていただきました。何しろ当方一人でしたので(笑)。琴に関する豆知識や、光太郎智恵子についても。元井さん、花巻郊外旧太田村の高村山荘、光太郎記念館にも行かれたそうで、「記念館の解説板を書いた者です」というと、目を丸くなされていました。ぜひ二本松の智恵子生家にも行って下さい的なお話(智恵子の琴の件は言い忘れてしまいましたが)、それから例によって連翹忌の御案内。来年の第68回連翹忌の集いにはいらしていただけるようです。

というわけで、以上、横浜レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

皆さまがおよろこび下さつたので私もこれほどうれしい事はないと思ひました、今度の制作であなたからうけた御親切は到底忘れる事が出来ません、


昭和8年(1933)4月23日 仁科節子宛書簡より 光太郎51歳

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同像は現在も日本女子大学さんの成瀬記念講堂ステージ上に鎮座ましましています。昨日、横浜へ向かう途中、カーナビのテレビでNHK Eテレさんの「宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる (4)あまねく「いのち」を見つめて」が再放送されていて、拝見しながら行ったのですが、賢治の早世した妹・トシも同校卒業生ということで、この像がちらっと映りました。

横浜から能楽の公演情報です。

企画公演「能役者 鵜澤久」

期 日 : 2023年2月5日(日)
会 場 : 横浜能楽堂 神奈川県横浜市西区紅葉ケ丘27-2
時 間 : 14:00~
料 金 : S席7,000円 A席 6,000円 B席 5,000円 全席指定

能役者・鵜澤久。女流という枠にとどまらず、確かな技術と曲に対する深い洞察力で、古典作品の上演だけでなく、現代演劇に参加するなど新しい試みにも積極的に取り組み続ける姿勢は、師である観世寿夫が追及した能役者の在り方というものを大いに感じさせます。本公演では、鵜澤久の身体を通じ、能の表現とは、そして能役者とは何かを問います。

演目
「プラティヤハラ・イヴェント」 鵜澤久 一噌幸弘 藤原道山
ジョン・ケージによってはじめられたチャンス・オペレーションの流れの中で、能の持つ不確定性に着目し、演奏家の「呼吸」の時間が演奏の速度や、間の長さを決めていくかたちで書かれた作品。1963年に一柳慧、高橋悠治、小杉武久、観世寿夫らにより演奏されました。

舞囃子「智恵子抄」
高村光太郎の詩集「智恵子抄」から10編の詩と一首の短歌を製作年代順に配列し、光太郎にとっての永遠の女性像としての智恵子と現実の狂気した智恵子、それを見守る光太郎を描いた新作能。1957年4月に構成・演出:武智鉄二、作曲・作舞:観世寿夫、出演:観世寿夫ほかにより初演され、その後は「千鳥と遊ぶ智恵子」を中心に舞囃子として繰り返し上演されています。
 智恵子:鵜澤光  光太郎:梅若紀彰
 笛:松田弘之  小鼓:田邊恭資  大鼓:佃良太郎
 地謡:山本順之 清水寛二 西村高夫 長山桂三 川口晃平

能「卒都婆小町」(観世流)
高野山に住む僧が都へと向かう途中、一人の老女と出会います。老女が卒都婆に腰を掛けていたため、僧たちはそれを咎め、立ち去らせようとしますが、老女は僧と卒都婆についての問答を交わし、ついには言い負かせてしまいます。実は老女は、小野小町でした。かつては美貌を誇り、歌を詠む優雅な生活を送っていましたが、今は老女となって零落し、物乞いをして歩く毎日。そのようなことを語るうち、小町の声が変わり、「小町のもとに通おう」と言い出します。どうやら、かつて小町に恋をした四位少将の霊が憑依した様子。小町に憑いた少将の霊は、生前、小町のもとに九十九夜まで通い、思いを遂げる百夜を前に死んだ「百夜通い」の有り様を再現します。これも小町の驕慢が生んだ報いなのでした。
 シテ(小野小町)鵜澤久  ワキ(僧)森常好  ワキツレ(従僧)舘田善博
 笛:一噌庸二  小鼓:鵜澤洋太郎  大鼓:國川純
 後見:梅若紀彰 清水寛二 谷本健吾
 地謡:観世銕之丞  観世淳夫  西村高夫  柴田稔  馬野正基  浅見慈一  長山桂三  安藤貴康
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解説にあるとおり、ダイジェスト版の舞囃子として、武智鉄二作の新作能「智恵子抄」が演じられます。

一昨年には、今回、地謡で出演なさる山本順之氏、清水寛二氏、西村高夫氏がやはり吟じられた「連吟 智恵子抄」を含む「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」がありましたし、さらに清水氏は現代アートのイベント「もやい展2021 東京」中のステージパフォーマンスでも「智恵子抄」朗誦をなさいました。

今回は舞囃子ということで、より原型に近いのではないでしょうか。

ちなみに「智恵子抄」の語が含まれていませんでしたが、『東京新聞』さんに鵜沢久氏の紹介を兼ねた予告記事が出ました。

<土曜訪問>捨て石よりダイヤに 性別超え評価 来月 横浜能楽堂で公演 鵜澤久(うざわ・ひさ)さん(能楽師)

002 長らく「男性の芸能」として発展してきた能の世界で、性差を超えて評価されているのがシテ方観世流(かたかんぜりゅう)の鵜澤久さん(73)だ。女性が初めてプロの能楽師と認められたのは一九四八年。今も女性の能楽師は少なく、「宗家」を継いでいるのは男性だけ。そんな男性中心の能楽界で、二月五日に横浜市で行われる横浜能楽堂企画公演「能役者 鵜澤久」は、「女流という枠にとどまらない」一人の能役者としてスポットライトを当てる。ここに至るまでにどのような日々があったのか、聞きたくなった。
 「能は男の人がやるものという概念が、いっぱいいっぱいいっぱいいっぱいあって、闘うつもりはないけど、精神的には闘わないとやっていけなかったんです」。自宅にある舞台の端に座り、居住まいを正して淡々と語り始めた。
 シテ方は「シテ」と呼ばれる主役のほかツレ(シテに付き従って出てくる役)、地謡、後見、演出、舞台のプロデュースなどを幅広く担う。二十五歳で演能団体「銕仙会(てっせんかい)」に入り「性差は単なる個性の一つ。能という表現芸術に、男性も女性もない」と信じて研さんしてきたが、男性の能楽師がどんどん会の舞台に関わって経験を積むのに対し、自身は初めて研究公演に出るまでに十年以上かかった。「地謡や後見など、シテ方の男性が若い時から当然経験していることも、ずっとできなかった」。それならばと自身で、女性の地謡の会を開いたこともある。
 女性の能楽師を下に見る空気を感じ続け「ふらふらと片足立ちで生きてきたようだった」と振り返るが、目の前の壁を押し続けるつもりで進むうちに、二〇一八年、観世寿夫記念法政大学能楽賞を受賞。外部からの確固たる評価を得て「やっと両足を大地に着けて、能役者ですと言えるようになった」とほほ笑む。
 能に惹(ひ)かれたのは、自分にとって自然な流れだった。父はシテ方観世流の鵜澤雅(まさし)。謡の稽古の声を子守歌に育った。三歳で初舞台を踏み、十三歳で初シテ。父は稽古をつけてくれることもあったが「女なんかだめだ」と能楽師になることに反対し続けた。それでも「逆境ほど力が湧いてくる人間なので」。小学五年の作文で「男になりたい。能楽師になりたいから」と書いた。中学生のころ、父が弟子の発表会に女性能楽師を呼び、黒紋付きで舞台に上がる女性を間近に見た。「いくら反対されたって、憧れないわけないですよ」
 東京芸大邦楽科に進み、大学院も出ると、当時能楽堂を立ち見でいっぱいに埋めていた能楽界の寵児(ちょうじ)、観世寿夫(ひさお)さん(一九二五〜七八年)に習うことを切望。寿夫さんのいる銕仙会に入りたいと、反対する父をかわして何度も会の稽古能を見に行った。あるときいきなり父に襟首をつかまれ、会の中心である観世銕之丞(てつのじょう)家の座敷に連れて行かれた。「こいつを今日から銕仙会に入れますから。ほら、あいさつしろ!」。うれしいよりも、急展開に驚くばかりだった。「そこまでやりたいなら、と父も思ったんじゃないかな」
 そのまま寿夫さんに面接され、かけられた言葉は「能は伝統の厳しい世界。入っても一生舞台に立てないと思いなさい。捨て石になる覚悟でやりなさい」。当時は寿夫さんに習いたい一心で、深く考えずに飛び込んだ。「後になってから、どうせ石ならただの石ころでは終わらない、金剛石(ダイヤモンド)になってやると思いました」
 年を重ねた今、感じるのは、自由な自分だ。「重力にそって力が下に落ちてきて、上の方が自由になったというか」。体に余計な力を入れずに気力を充実させられるようになった。二月の横浜能楽堂では即興的な現代音楽の演奏に全身で挑むほか、高い技術と精神性が必要な「老女物」の一曲「卒塔婆小町(そとわこまち)」を演じる。同じく能楽師として活躍する長女、光(ひかる)も舞囃子(まいばやし)で出演。「光は、私がやらなかった内弟子も経験し、多くの舞台に出ている」と頼もしげなまなざしを送る。根が男性社会であることはそう簡単には変わらないだろうと思うが「秩序を保って良い能をつくる、それだけ考えていればいい」。 

智恵子役の方がお嬢さんなのですね。

というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝おき上り食事、 夕方近く喀血、草野氏、関先生、大気先生 岡本先生くる

昭和31年(1956)3月29日の日記より 光太郎74歳

光太郎の命、あと4日です。

昨日は鎌倉市大船の鎌倉芸術館さんで、「没後35年 高田博厚展」を拝見して参りました。
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夭折した碌山荻原守衛を除き、戦前に光太郎が親しく交わった唯一の彫刻家である高田。晩年に鎌倉の稲村ヶ崎にアトリエを構えていた縁での開催です。

会場に入る前に、既に高田作品。おそらくこちらに常設展示されているものでしょう。
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受付で出品目録を頂きました。
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思っていたより展示点数が多いので、驚きました。

まずは肖像彫刻群。
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武者小路実篤、萩原朔太郎など、光太郎とも交流のあった面々の姿も。

続いて、高田の代名詞ともなっているトルソの数々。
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ともに360°から鑑賞可能。

光太郎胸像は別室で、こちらはガラスケース入りでした。
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昭和35年(1960)の連翹忌で披露されたもので、同型のものは全国に存在します。キャプションに誤字が多いのが残念でしたが……。

何と、高田旧蔵の光太郎ブロンズ作品も展示されていました。大正15年(1926)作の「大倉喜八郎の首」。元々、光雲に木彫による肖像制作の依頼があり、その原型として光太郎が塑造を作ってテラコッタにしたものから、光太郎歿後に実弟の豊周が鋳造し、親しかった人々に配付されたものです。こちらも同型のものが多数存在します。
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その他、高田の素描、ロダンなどの高田旧蔵品、光太郎も写った写真パネルなども。
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なかなか充実した展示でした。

昨夜、NHKさんの首都圏ニュースで開幕が報じられました。

彫刻家 高田博厚 没後35年記念し展示会 鎌倉

 日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家、高田博厚の没後35年を記念した展示会が、晩年を過ごした神奈川県鎌倉市で開かれています。
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 高田博厚は日本とフランスを拠点に創作活動を行った彫刻家で、昭和62年に亡くなるまでのおよそ20年間を鎌倉市で過ごしました。
 鎌倉市の鎌倉芸術館では、高田博厚の没後35年を記念した展示会が開かれ、市に寄贈された肖像や胴体の彫刻作品など、およそ80点が展示されています。
 このうち、代表作の「カテドラル」は、戦争の砲弾で傷ついたフランスの大聖堂を女性の胴体として表現した、高さおよそ55センチの彫刻作品です。
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 また、肖像彫刻には、交友のあったフランスの小説家、ロマン・ロランや、詩人で彫刻家の高村光太郎のブロンズ作品が並び、訪れた人がじっくりと鑑賞していました。
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 訪れた横浜市の70代の男性は、「以前から著作を読んでいた高田さんのすばらしい作品を身近に見ることができてうれしいです。とてもいい時間になりました」と話していました。
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 鎌倉市文化課の竹下歩実さんは、「高田作品を一堂に会して展示していますので、作品のポーズの違いなどさまざまな差異を楽しんでもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、鎌倉芸術館で今月31日まで開かれています。

ちょうど当方が訪れたとき、カメラをセッティングし、撮影のための打ち合わせをなさっているところでした(笑)。

会期があまり長くないのですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

はれる、まだ温、風はやむ、 朝ねてゐる時呼吸はやくなる、左右にねると直る、

昭和31年(1956)3月18日の日記より 光太郎74歳

宿痾の肺結核、とうとう呼吸困難の状態を引き起こしました。翌日から3月25日まで、1週間は日記も書けない状態だったようで、記載がありません。

神奈川県鎌倉市から、企画展情報です。

没後35年 高田博厚展

期 日 : 2023年1月21日(土)~1月31日(火)
会 場 : 鎌倉芸術館 神奈川県鎌倉市大船6-1-2
時 間 : 午前10時から午後5時まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

 本市ゆかりの彫刻家・高田博厚の没後35年を記念し、高田博厚展を鎌倉芸術館において開催します。高田博厚は、昭和41年に鎌倉市に住居とアトリエを構え、昭和62年に亡くなるまで多くの彫刻作品を創作した彫刻家です。
 本展覧会では、多くの優れた作品を生み出した高田博厚の生涯を、3つの時代(渡仏前、パリ時代、東京・鎌倉時代)に分け、それぞれの時代の作品を展示することで、作品の変遷を辿ります。中でも、生涯を通じて多数制作されたトルソを主に、高田の言葉と共に紹介することで、彼のトルソに対する想いや、個々の作品の細やかな違いを楽しめる他、作風に影響を与えたロダン等、他作家の彫刻作品も展示します。
 ロダン、ブールデル、マイヨールらヨーロッパ近代彫刻家についての研究を通じ、彫刻についての思索を深め、高い精神性が込められた作品を数多く残した、高田博厚の世界をぜひお楽しみください。
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早世した碌山荻原守衛を除き、戦前の光太郎が唯一深い交流を持っていた彫刻家・高田博厚。光太郎の援助もあって昭和6年(1931)に渡仏し、以後、光太郎と直接会うことは叶いませんでしたが、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に帰国するや、光太郎顕彰活動の一端を担ってもくれました。

帰国後にアトリエを構えていた鎌倉で開催される歿後35年記念展だそうで、光太郎胸像(昭和34年=1959)も展示される予定です。同型のものは各地に存在しますが。
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『毎日新聞』さんの神奈川版に、予告記事が出ていました。光太郎の名も出して下っています。

高田博厚の世界たどる 没後35年展、鎌倉で21日から 胴体彫刻など50点/神奈川

002 晩年を鎌倉市で過ごした彫刻家、高田博厚(1900~1987年)の没後35年展が21日から鎌倉芸術館ギャラリーで開かれる。生涯を通じて多く制作されたトルソ(胴体彫刻)のほか、西田幾多郎、萩原朔太郎らの頭像、デッサンなど約50点が展示される。
 高田は石川県生まれ。幼いころから、語学に優れ、文学や芸術に親しんだ。18歳で上京後、高村光太郎の勧めで彫刻を学び、31歳でフランスに渡った。作家のロマン・ロランや画家のポール・シニャックらと交流。第二次世界大戦中も帰国せず、新聞記者として活動し、パリ外国人記者協会の要職を勤めた。
 展示では、渡仏前▽パリ時代▽東京・鎌倉時代――の3期に分け、作品の変遷をたどる。胴体部分をクローズアップしたトルソを中心に「君は指で思索する」とロマン・ロランに称賛された高田博厚の世界が楽しめる。31日まで。無料。


ロダンやマイヨールの作も並ぶということですし、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后内田文子さん指圧の女性同伴くる、指圧をうける、


昭和31年(1956)2月8日の日記より 光太郎74歳

昭和30年代、40年代、故・浪越徳治郎氏の「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」の名言と共に展開された普及活動もあって、指圧は民間療法として流行していました。

しかし、余命2ヶ月となった光太郎には焼け石に水だったようです。

昨日は北鎌倉にある、光太郎ご親族経営のカフェ兼ギャラリー・笛さんにお邪魔しておりました。こちらでご所蔵の資料等を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9」が開催中、さらに昨日は関連イベントとしての朗読会がありまして。
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こちらに伺う時は、たいがい自家用車なのですが、駐車スペースはぎりぎり一台分しかなく、昨日はイベントで人が多いだろうと予想し、電車で参りました。

北鎌倉駅から徒歩10数分。明月院さんの裏手です。
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途中には、鎌倉時代のものと思われる「やぐら」(横穴墓)も。あまり観光客も訪れない一角ですので、閑静な感じです。
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昨日は若干蒸し暑く、結構長い坂を歩いて上って汗だくになってしまい、まずはアイスコーヒーを美味しく頂きました。

その後、展示を拝見。こちらに伝わる光太郎関係の品々と、すぐ近くにお住まいの尾崎喜八(光太郎と交流の深かった詩人)令孫のお宅のものと、所狭しと並んでいます。
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ほぼ毎年出して下さっていますが、目玉は光太郎ブロンズの「聖母子像」。
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ミケランジェロ作品の模刻で、大正13年(1924)、尾崎の結婚祝いに光太郎が贈ったもの。石膏原型は既に失われ、鋳造されたものもこれ1点しか確認できていません。尾崎は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子と結婚しました。像の背後の写真は、昭和61年(1986)の写真週刊誌『FOCUS』でこの像が紹介された際の實子です。

尾崎がこの像と共に写っている写真もありました。こちらは当方、初見でした。
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その他の展示。
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駒込林町の光太郎アトリエ兼住居で。後の白いブルーズ姿が光太郎、前列左から尾崎夫妻の長女の故・榮子さん、尾崎、そして實子。当方、榮子さんとは笛さんと、連翹忌の集いの会場とでお会いしましたが、まだ健康だった頃の智恵子に抱っこしてもらったお話などをお聞かせいただきました。

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複製ではない光太郎直筆や、生写真なども。
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福島二本松の智恵子実家・長沼酒造の銘酒の名「花霞」を受け継ぐ地酒(その辺の権利関係、どうなっているのかよく分からないのですが)。のちほど、朗読会のあとにご参集の皆さんに饗されました。

さて、午後3時。この場で朗読会です。
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はじめにおしどり夫婦の店主御夫妻のごあいさつ。奥様は光太郎のすぐ下の妹・しづの令孫にあたられ、お祖母様の思い出等も語られて、興味深く拝聴いたしました。

朗読は、主にお近くにお住まいの常連客的な皆さんだったのでしょう、店主御夫妻を含め、9人の方が光太郎、尾崎の詩を朗読なさいました。最高齢の方は何と、おん年91歳だそうで。

尾崎令孫の石黒敦彦氏(サイエンス・アート研究者)も。
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おおむね1時間弱で終わり、その後、参会の皆さんとしばし歓談させていただきました。また、石黒氏から、杉並区で開催される尾崎喜八展的なものへの協力要請。そんなこんなで夕刻となり、鎌倉をあとにしました。

朗読会は今回初めての試みということでしたが、来年以降も継続してやっていこう、ということだそうです。今回いらっしゃれなかった方、来年以降、ぜひどうぞ。また、展示の方は11月8日(火)までの火・金・土・日曜日にご覧いただけます。こちらもぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃牛越さん七尺像を運送し来る、支払スル、2500運送、1000別に


昭和29年(1954)7月5日の日記より 光太郎72歳

七尺像」は、前年に除幕された生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は東京藝術大学さんに寄贈されていますが、光太郎の手元にあったのですね。

「牛越さん」は牛越誠夫。石膏取り職人で、伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿です。

神奈川県鎌倉市から展示及びイベント情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9

期 日 : 2022年10月9日(日)~11月8日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 10月16日(日) 15:00~
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会場の笛ギャラリーさん。光太郎のすぐ下の妹・しづのお孫さんにあたられる山端御夫妻が経営なさっている、カフェ兼ギャラリーです。

すぐお近くに、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫もお住まいで、両家に伝わる光太郎・喜八関係のさまざまな資料等を展示なさいます。昨年の様子はこちら

笛ギャラリーさんといえば、今年5月、NHKさんで放映された「鶴瓶の家族に乾杯 市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る」で、笑福亭鶴瓶さんがお店をご訪問。
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本当にアポ無しだそうで。まずはご主人。
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そこへ奥様も。
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そりゃ、いきなり鶴瓶さんがいらしたら驚きますわな(笑)。
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お世辞でなく、ここのコーヒーは本当に美味です(笑)。

近所の小学生が来店。
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子供たちが帰ったあと、御夫妻のなれそめ的なお話になり、その中で光太郎も。
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照れるご主人がとてもかわらいしく(笑)。
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これは存じませんでした。素敵ですね。

別の日の映像。先ほどの小学生も。
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こうした流れで、今回初めて、光太郎と喜八の詩の朗読会をやってみようということになったそうです。上記の通り、10月16日(日)です。4日前の時点で既に7名の出演申し込みがあったそうで。当日は当方、拝聴に参ります。
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まさにその通り。足を踏み入れるだけでほっこりさせられる空間です。

というわけで、ぜひ足をお運びください。北鎌倉・明月院さんから徒歩365歩です。
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【折々のことば・光太郎】

NHK録音班3人と秋山ちゑ子さんくる、録音、


昭和29年(1954)5月4日の日記より 光太郎72歳

平成28年(2016)に亡くなった、伝説的ラジオパーソナリティーの秋山ちえ子さん。この当時はNHKラジオで「私の見たこと、聞いたこと」という番組を担当なさっていました。どんな話題が出たのか、残念ながら録音が残っていないようで不明です。秋山さんの回想などにこの件が触れられていれば、と思うのですが……。

一昨日、横浜及び都内を歩いておりました。

まず、横浜の日本郵船歴史博物館さん。こちらでは、過日ご紹介した企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」が開催されており、雑誌『海運報国』には光太郎も複数回寄稿していますので、光太郎関連の展示も為されているのではと思って拝見に伺いました。

10年前にもお邪魔し、その際は常設展示のみだったように記憶していましたが、それにしても10年経つか、と、ちょっぴり感慨にひたりました。
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常設展示の一角に、企画展「郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-」のコーナーという形でしたが、残念ながら、光太郎に関する展示はありませんでした。
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『海運報國』は文芸誌的な要素も含んでいました。このころ日本郵船の嘱託だった内田百閒の随筆をはじめ、船旅の思い出、海にまつわる掌編や、新造船披露航海の感想文など、作家や著名人による寄稿が誌面を飾りました。」という触れ込みだったので、そういうことなら光太郎は外せないだろ、と思っていたのですが……。

とりあげられていた文士等は、日本郵船さんの嘱託だった内田百閒をはじめ、宮城道雄、米川正夫、吉屋信子、岩田豊雄、津田青楓、西条八十、林芙美子、鈴木信太郎、辰野隆、小堀杏奴、深尾須磨子、田中貢太郎。それはそれで興味深く拝見しましたが……。

なぜここに光太郎の名がないのか、次のような理由が考えられます。

① 担当された方が光太郎の名を誌面に見つけたものの、「高村光太郎? 誰、それ? 知らん!」とスルー。
② 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけたものの、「こいつは3流だから」とパス。
③ 担当された方が誌面に光太郎の名を見つけられなかった。
④ その他。


①、②であってほしくないものです(笑)。最も考えられるのは③かな、と。

ただ、④の可能性もなきにしもあらず。例えば、光太郎、『海運報国』には確認出来ている限り4回寄稿していますが、そのうち3回、「乏しきに対す」(第3巻第7号  昭18=1943 7/15) 、「決戦時生活の基礎倫理」(第4巻第1号  昭19=1944 1/15)、「神裔国民の品性」(第4巻第2号  昭19=1944 2/15)は、コッテコテの大政翼賛文。おそらく最初の寄稿の「海の思出」(第2巻第10号 昭17=1942 10/15)    は、戦争とはほとんど関係ないものの、日本郵船さんの船名を誤記していることなどが無視された原因かも知れません。

光太郎、明治42年(1909)5月、3年余に及ぶ欧米留学を切り上げ、イギリスのテムズ河口から日本郵船さんの「阿波丸」 に乗り込んで、帰国の途に就きました。当時書かれた文章にはちゃんと「阿波丸」と書かれています。ところが、約30年後に書かれた「海の思出」では「松山丸」と書いてしまいました。日本郵船さんには「松山丸」という船舶もありましたが、欧州航路で使われたものではありません。

ちなみに下記は光太郎が乗った「阿波丸」。最近手に入れた古絵葉書です。
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常設展示の方で、この手の昔の航路について、その歴史や背景などが詳しく説明されており、そちらも興味深く拝見いたしました。

追記、どうも『海運報国』ちがいのようでした。「『海運報国』の件、これは同タイトルの別雑誌と思われます。日本郵船歴史博物館で取り上げていたのは、日本郵船社内にある「郵船海運報国会」が発行した従業員向け機関誌で昭和14年5月創刊、18年3月号で廃刊。高村光太郎の著作が掲載されているのは「日本海運報国団」発行した『海運報国』。日本近代文学館の図書検索で確認したところ、こちらは昭和16年1月に創刊されたとあります。」とのコメントを頂きました。

上記絵葉書等、7月16日(土)から花巻高村光太郎記念館さんで開催される企画展「光太郎 海を航る」(仮称)で展示予定です。同展、今日付の『広報はなまき』で告知されているかな、と思ったのですが、ありませんでした。何だかなぁ……という感じですが……。また詳細が出ましたらご紹介します。

KIMG6381横浜を後に、都内へ。続いて向かったのは、九段下の昭和館さん。こちらは「昭和10年頃から昭和30年頃までの国民生活上の労苦を伝える実物資料を展示」ということで、主に戦時中のいろいろな品々を全国から寄贈を募り、展示している施設です。ただ、現在は映像、図書のみ寄贈を受け付けているそうです。

時間の都合もあり、展示は拝見しませんで、図書室に向かいました。こちらの図書室、なかなかのものです。開架でもかなりの数の図書がありますし、閉架(書庫)の蔵書数もすごいようです。そして、検索システムが素晴らしい!

特に利用者登録も必要なく、自宅兼事務所のPCからアクセスし、「フリーワード」の項に「高村光太郎」と入力、検索をかけると、目次に光太郎の名が記された資料がダーッと出て来ます。それだけなら他の館でもそうなのですが、こちらのシステムは、おのおのの図書の目次が詳細に表示されるのです。さらに「フリーワード」で入力した「高村光太郎」の文字がハイライト表示で、長い目次の中でもすぐに見つけられます。その意味では国会図書館さんの「デジタルコレクション」とよく似ています。ここまでやってくださると、研究者にとっては「ありがたい」の一言です。
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007ただ、国会図書館さんのそれとは異なり、デジタルデータでそのページを閲覧することは出来ませんので、出向いて閲覧するという訳です。そこで、事前に調べた結果、残念ながら『高村光太郎全集』未収録の光太郎本人の文筆作品等は見つかりませんでしたが、光太郎について書かれた諸家の文章等で未知のものがあり、閲覧、さらにコピーを取って参りました。

中には光太郎の似顔絵が入ったものも。昭和16年(1941)ですから、光太郎59歳。当時の光太郎にしては少し髪が多すぎるようにも思えますが(笑)。

昭和館さん、他にも映像・音響室なども充実しているようですし、通常の展示ももちろん拝見しようと思いますので、また機会を見つけて足を運ぼうと思いました。何かお調べになりたいという方、ぜひ当たってみて下さい。

一昨日は、もう1箇所廻ろうかとも思っていたのですが、またじわりとコロナ感染者数が上がってきましたし、加えて殺人的な暑さ。またの機会に致します。

【折々のことば・光太郎】

夜十時頃水谷八重子、草野心平、松竹の人三人くる、「智恵子抄」の事については再考を求める、十二時過辞去、承諾保留、


昭和28年(1953)4月18日の日記より 光太郎71歳

e28cae2a水谷八重子」は初代・水谷八重子。光太郎は遠く大正9年(1920)に、子役時代の水谷が出演した舞台「青い鳥」(メーテルリンク作)を観ています。その後、友人の田村松魚に送った葉書には「チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよいと抱いてやりたい気のする子でした」と書いています。

智恵子抄」は、光太郎とも交流のあった劇作家・北条秀司の脚本。結局、光太郎生前には舞台化は実現せず、初演は光太郎歿後の昭和32年(1957)でした。光太郎、自分が俳優によって演じられるのに難色を示したようです。光太郎訳は新派の大矢市次郎でした。

北条の「智恵子抄」は、水谷/大矢の後、富司純子さん/故・高島忠夫さん有馬稲子さん/故・高橋昌也さんでも公演がなされました。そして昨秋、「朗読劇 智恵子抄」として、一色采子さん、横内正さんでも。

また後ほど詳しくご紹介しますが、「朗読劇 智恵子抄」は、今秋、再演が決定しました。光太郎役は松村雄基さんだそうです。

まだ詳細情報が出ていないのですが、来月中旬の「海の日」に合わせ、花巻高村光太郎記念館さんで企画展示「光太郎 海を航る」(仮称)が開催されます。光太郎が明治末に約3年半の欧米留学をしたことに焦点を当てたもので、同館に寄贈された留学先から日本の家族に送られた絵葉書のお披露目的な意味合いもあります。詳細が出ましたら、またご紹介します。

そこで、光太郎の欧米留学(米英仏伊)、移動に使った船などについて、解説パネルを1週間で書けという依頼(半命令(笑))があり、鋭意執筆中です。10年前に高村光太郎研究会という学会で「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」という発表をさせていただき、翌年刊行の機関誌『高村光太郎研究』に同題の論考を載せていただいたので、そのあたりをベースに、という依頼でした。

10年前のこのブログにも要旨を載せてありますので、ご高覧下さい。

光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-③。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-④。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑤。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑥。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑦。
光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-⑧。


「新発見随筆「海の思出」」というのは、昭和17年(1942)の雑誌『海運報国』に載った比較的長いもので、筑摩書房『高村光太郎全集』には漏れていました。この中で光太郎、幼少期の海にまつわる思い出や、欧米留学時に載った船などについて、様々な事柄を語っています。これにより、それまでに知られていた文章等には記述がなかった様々な事実が明らかになりました。詳細は上記リンクから。

前置きが長くなりましたが(ここまで前置きだったのです(笑))、「光太郎 海を航る」の説明パネルを書くに当たって、またネットでいろいろ調べていましたところ、横浜の日本郵船歴史博物館さんでこんな企画展が先月から開催されていることを知りました。

企画展 郵船文芸譚 -機関誌 『海運報國』をひもとく-

期 日 : 2022年5月21日(土)~9月25日(日)
会 場 : 日本郵船歴史博物館 神奈川県横浜市中区海岸通3-9
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(祝日の場合は開館、翌平日休館)
料 金 : 一般400円 65歳以上・中高生250円 小学生以下無料

『海運報國』は、郵船海運報国会という日本郵船と表裏一体の組織が刊行した機関誌で、現代の社内報と同じ位置づけであったと考えられます。創刊は昭和14(1939)年5月、月一回の発行で毎号100ページ前後にまとめられました。戦時色が深まる中、目次には社会情勢を反映したタイトルが並びます。一方、『海運報國』は文芸誌的な要素も含んでいました。
このころ日本郵船の嘱託だった内田百閒の随筆をはじめ、船旅の思い出、海にまつわる掌編や、新造船披露航海の感想文など、作家や著名人による寄稿が誌面を飾りました。社員による投稿も短歌、俳句、詩、研究論文や趣味の話まで、号を重ねるごとに賑わいを見せました。
本展は『海運報國』の特に文芸誌的な側面に焦点をあて関連資料とともに展観いたします。一見交わることがなさそうな「郵船」と「文芸」、この二つの接点を見出していただければ幸いです。
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船旅の思い出、海にまつわる掌編」には、光太郎の「海の思出」も含まれるわけで、もしかすると執筆者紹介的なコーナーなどで光太郎や「海の思出」に関するパネル展示があるかも知れません。

また、『海運報国』への光太郎の執筆は他にもあります。確認出来ている限りでは、以下の通りで、すべて散文です。

第2巻第10号 昭17(1942)/10/15  「海の思出」
第3巻第7号  昭18(1943)/7/15     「乏しきに対す」
第4巻第1号  昭19(1944)/1/15     「決戦時生活の基礎倫理」
第4巻第2号  昭19(1944)/2/15     「神裔国民の品性」

「海の思出」以外の3篇は、「戦時色が深まる中、目次には社会情勢を反映したタイトルが並びます。」とあるそのものです。

来週というか今週というか、3日後くらいに他にも都内で調査に訪れようと思っている場所がありますので、横浜まで足を延ばして来ようと思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

夕方中西さん宅にスツポン問屋の村上氏料理人をつれてくる、柳沢博士らと会食、生血とキモをのむ、

昭和28年(1953)3月25日の日記より 光太郎71歳

中西さん」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借りていた貸しアトリエの大家で、同じ敷地内でした。

柳沢博士」は柳沢文正。医師で、柳沢成人病研究所の所長でした。「スツポン問屋の村上氏」は、おそらく現在も続く上野の「村上スッポン本舗」さんの関係と思われますが、詳細不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

ちなみに当方、一度だけスッポンの生き血、賞味したことがあります。生き血といっても血液をそのまま呑むのではなく、日本酒に溶かしたものでした。

2週連続の放映で、後編。光太郎の名が出ます。

鶴瓶の家族に乾杯「市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る」

地上波NHK総合 2022年5月16日(月) 19:57〜20:42 

市川猿之助が鎌倉を旅する後編。鎌倉彫の店で地元に詳しい人を紹介してもらい、浄智寺へ。住職に地元でがんばる若い人を紹介してもらう。そこで、住職が着ている作務衣について耳寄りな情報を伺い、それを作る店を訪ねることに。一方、鶴瓶は、北鎌倉の喫茶店を訪ねる。たくさんの笛が展示される店を営むご夫婦に、ロマンチックな出会いについて聞く。さらに、坂道をのぼっていると、坂を駆け降りる女性に遭遇。驚いた鶴瓶は…。

【出演】市川猿之助,【司会】笑福亭鶴瓶,小野文惠,【語り】常盤貴子,三宅民夫
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鶴瓶さんが訪れた「北鎌倉の喫茶店」が、明月院さん近くのカフェ兼ギャラリー「」さん。光太郎のすぐ下の妹・しずのお孫さん夫妻が経営なさっています。
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先週放映分の「前編」予告で、ご夫妻が既に映っていたのですが、きちんとご登場なさるのは「後編」。
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ご主人、オカリナをご披露。さらに「ロマンチックな出会いについて聞く。」だそうで、それは当方も聞いたことがないので、楽しみです(笑)。

ついでというと何ですが、もう1件。

ふるカフェ系 ハルさんの休日 選「福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」

NHK Eテレ 2022年5月19日(木) 22:30~22:55

福島・二本松城の敷地の中に見つけた、ビックリな洋館カフェ。古代ギリシャの建築様式と装飾が見事な部屋に急角度の美しい屋根。おススメのスコーン片手に大満足のハル!

明治初期、戊辰戦争の激戦地と知られた二本松城。広い敷地の中に立つ、謎の洋館付き住宅のカフェ。入ってみれば古代ギリシャの建築と装飾が随所に散りばめられている。アカンサスなど見事な室内装飾と美しいギャンブレラ屋根、そしてドイツ壁。ヨーロッパ中のおしゃれな建築様式を活かしたこの建物、一体、誰が建てたのか?店主からの依頼で、ハルが洋館を調査。果たして、謎は解き明かされるのか?探偵ハルのカフェ探検はいかに?

【出演】渡部豪太
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初回放映が昨年6月。光太郎智恵子には触れられませんでしたが、智恵子の故郷・二本松の築100年という「8月カフェ」さんが取り上げられました。もしかすると、光太郎智恵子が眼にした可能性もある建物です。

併せてぜひご覧下さい。

ところで、一昨日、たまたまテレビでNHKさんをつけていたところ、光太郎智恵子の名が出て来ました。「ニッポンぶらり鉄道旅」という番組でした。
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サブタイトルが「東京メトロ丸ノ内線 熱中人生」。尺八奏者の辻本好美さんが、丸ノ内線沿線をぶらり旅。
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すると、番組後半、荻窪ご在住の切り絵作家・福井利佐さんがご登場。
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福井さん、平成30年(2018)に、二本松の智恵子生家も会場の一つとなった現代アートのインスタレーション「福島ビエンナーレ 重陽の芸術祭 2018」で、智恵子生家に作品を展示なさいました。

その際の作品が取り上げられました。
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この作品、のちに平成31年(2019)に開催された「E.O展 ~多摩美出身作家~ vol.3」にも出品されたものです。

事前にまったく把握していなかったので録画しませんでしたが、NHKさんの見逃し配信サイト「NHKプラス」でしばらくの間視聴可能です。ぜひご覧下さい。ただし、利用者登録が必要ですし、ブラウザも限定されていますが。

【折々のことば・光太郎】

四時過ぎ、藤島さんと出かけ浅草米久にて夕食、八時頃かへる、


昭和27年(1952)11月29日の日記より 光太郎70歳

前日には同じ米久さんの新宿支店に行きましたが、この日は浅草の本店へ。こちらは戦前によく訪れた牛鍋屋で、「米久の晩餐」(大正10年=1921)という詩も書いています。

情報を得るのが遅れまして、今夜の放映ですが……。

鶴瓶の家族に乾杯 神奈川県鎌倉市の旅 前編▽市川猿之助が鎌倉の旅へ!偉人の名が続々登場!職人技に感動!

地上波NHK総合 2022年5月9日(月) 19:57〜20:42 再放送5月16日(月) 14:0514:50

歌舞伎俳優の市川猿之助が神奈川県鎌倉市へ。北鎌倉で旅を始めた二人は、何気なく目にした看板を頼りにアトリエを訪ねるが、師匠が世界的有名デザイナーと聞き、仰天する。さらに、猿之助のファンという男性に出会い、話を伺うと、近くに北大路魯山人を世に出した人の家があると聞かされる。驚いた猿之助は、お宅を訪ねることに。一方、鶴瓶は、焼き物の窯を営む男性と偶然出会う。そこで、窯を継いだ意外ないきさつを聞き、驚く。


【出演】市川猿之助,【司会】笑福亭鶴瓶,小野文惠,【語り】常盤貴子,三宅民夫

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舞台は鎌倉、ゲストは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、文覚上人役で出演されている市川猿之助さん。
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サブタイトルに「偉人の名が続々登場!」とあります。そのうち、NHKさんの出した上記予告文に、北大路魯山人の名が出ています。
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さらに予告文にある「世界的有名デザイナー」は、ジャンニ・ヴェルサーチ。
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そして、われらが光太郎。
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予告動画では「高村光太郎の」しか出ていませんが、血縁の方がご出演なさいます。

北鎌倉の明月院さん近くでカフェ兼ギャラリー「笛」をなさっている、山端ご夫妻。奥様が、光太郎の妹・しずのお孫さんにあたられます。
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ほぼ毎年、お宅に伝わる品々、それからお近くにお住まいの尾崎喜八(光太郎と深い交流のあった詩人)のお孫さんと共同で「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情」という展示をなさっています(年によっては尾崎をからめず「想い出高村光太郎 」としてやられることも)。

そのあたりのお話が出るのではないかと予想しております。ただ、ご夫妻からは来週の「後編」の方がご夫妻出演のシーンとなるのでは、というお話もありました。

どうもそのようで、「後編」の予告がこちら。

鶴瓶の家族に乾杯 神奈川県鎌倉市の旅 後編▽市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る

地上波NHK総合 2022年5月16日(月) 19:57〜20:42 再放送5月23日(月) 14:05〜14:50

市川猿之助が鎌倉を旅する後編。鎌倉彫の店で地元に詳しい人を紹介してもらい、浄智寺へ。住職に地元でがんばる若い人を紹介してもらう。そこで、住職が着ている作務衣について耳寄りな情報を伺い、それを作る店を訪ねることに。一方、鶴瓶は、北鎌倉の喫茶店を訪ねる。たくさんの笛が展示される店を営むご夫婦に、ロマンチックな出会いについて聞く。さらに、坂道をのぼっていると、坂を駆け降りる女性に遭遇。驚いた鶴瓶は…。


【出演】市川猿之助,【司会】笑福亭鶴瓶,小野文惠,【語り】常盤貴子,三宅民夫

とりあえず本日の「前編」からご覧下さい。

もう1件、鎌倉がらみで。

ぶらぶら美術・博物館▽いざ、鎌倉!古刹のお宝仏像めぐり 建長寺&長谷寺〜初夏のアート旅

BS日テレ 2022年5月10日(火) 20:00〜20:54

誰もが一度は目にしたことがある古今東西の名画・彫刻・文化財を、時空を超えた“ライブなお散歩感覚”で体験します。作品の背景・エピソードを知れば、美術博物は身近で楽しいものに!名解説者・山田五郎、おぎやはぎと一緒にぶらぶらしよう!

大河ドラマでも話題の鎌倉へ。北条氏ゆかり、鎌倉五山第一位建長寺で国宝・重文ざんまい。あじさいで有名な長谷寺では、造立1300年 高さ9mの十一面観音に対面。

出演者 山田五郎 おぎやはぎ(小木博明、矢作兼) 高橋マリ子
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建長寺さんということで、もしかすると三門楼上の五百羅漢像(光太郎の父・光雲の師匠筋に当たる髙橋鳳雲作)にも触れて下さるかもしれません。

ただ、予告文には「国宝・重文ざんまい」とあり、五百羅漢像は鎌倉市の文化財には指定されていますが、国の指定は受けていませんので、微妙なところですが……。

それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后三越にゆき、豊周個展を見る、豊周夫妻らにあふ、 法隆寺展をも見てかへる、


昭和27年(1952)11月23日の日記より 光太郎70歳

「豊周」は光太郎実弟にして、のちの鋳金分野人間国宝です。少し前にも書きましたが、この頃、東京駅前の丸ビルでは光太郎自身の個展も開催されていましたが、そちらを見に行ったという記述がありません。自分の個展は見に行かず、豊周の個展や法隆寺展(おそらく上野でしょう)は見たというのが、興味深いところです。

先週も行ったのですが、昨日も鎌倉に行っておりました。

北鎌倉の建長寺さんで「三門楼上五百羅漢特別展」が始まり、先週行った時には会期前だったため、昨日、改めて伺った次第です。我ながらフットワークが軽いな、と思いますが、人間も軽いもので(笑)。

午前中は都内永田町の国立国会図書館さんで調べ物。そちらで昼食を摂ってから、鎌倉へと向かいました。北鎌倉駅から徒歩。
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昨日は暑くもなく寒くもなく、この時間帯には雨も降っていなかったので、ラッキーでした。

拝観料500円也をお納めして、山内へ。
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三解脱門、略して「三門」。国指定重要文化財です。
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こちらの楼上に、光太郎の父・光雲の師匠であった髙村東雲のさらにそのまた師・髙橋鳳雲が原型を制作した鋳銅の五百羅漢像が納められています。普段は非公開ですが、この中から一部を運び出しての特別展示。
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会場は得月楼という堂宇でした。
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こんな感じです。
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数えてみましたところ、およそ50体ちょっと。幕末のものですが、いずれも保存状態が良く、かといってつい最近作られたようなぎらつきもなく、いい感じに経年による風合いが備わっていました。そして50体ちょっとのそれぞれが違ったお顔で、ポージングや持物もバリエーションに富み、見応えがありました。中には象に乗ったり犬を連れていたりの羅漢様もいらっしゃり、微笑ましくもありました。

こちらはポストカード(100円)。
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三門楼上ではこのような形で配置されているわけですね。

それから、図録、ではないのですが、図録のような調査報告書(3,000円)が販売されていましたので、そちらも購入。
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ちょっと前のもので、平成15年(2003)の刊行でした。このさらに少し前に、三門の大修理が行われた際、羅漢像他を他に移し、一体一体の細かい調査が行われ、その報告書的なものです。論考二本とすべての像の写真、さらに「台帳」として、大きさや鋳造の際に打たれた刻銘の銘文、像の特徴などなど、詳細に記されています。

ナンバーも振られており、それによれば全514体。光雲の回想では700体ほど、ということでした。ナンバリングでは、一つの台座に複数体の羅漢様が配されているものも一つと数えていますので、それをどう数えるか、というあたりにそのズレの一因があるようです。ただ、それでも700までは行かないようで、光雲、話を盛ったな、という感じですね(笑)。あるいは、あまり考えたくありませんが、流出してしまったものも皆無とはいいきれないでしょう。

報告書を見て、「おやっ」と思ったのは、意外と同じポージングの像が多いこと。結跏趺坐だったり、座って合掌していたりというお像はけっこうたくさんありました。それでも衣の様子や顔立ちはそれぞれに異なっていますし、「同一の型から鋳造されたものは無かった」と記述されていました。

報告の中では、やはり光雲の回想が重要な資料として引用されたりしていました。また、それ以外の文献や、明治期の新聞記事なども引かれ、興味深く拝読いたしました。

それによると、光雲の回想にはなかったのですが、原型制作には光雲の師・東雲もあたっていたとのこと。まぁ、あり得る話ですし、実際、以前に見たことがある東雲作の僧形の像の中には、こちらの羅漢像とよく似た作もありました。

また、光雲は「村田整珉の鋳造」「整珉没後に弟子の木村渡雲と栗原貞乗がその仕事を引き継いだ」的なことを書き残しましたが、実際には村田整珉の銘が入った像はなく、ほとんどに栗原貞乗の銘が入っているとのことでした。

それにしても、見事。ただ、やはり、三門楼上に納められている状態も拝見したいものだな、と思いました。いずれそういう機会が訪れることを期待しております。

さて、「三門楼上五百羅漢特別展」、5月5日(木)までの会期です。ちょっと短いのが残念ですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

午后日比谷公会堂にデユアメルのコンフエランスをききにゆく、片山敏彦、田内静三、今井氏等にあふ、


昭和27年(1952)11月13日の日記より 光太郎70歳

デユアメル」は、フランスの作家、ジョルジュ・デュアメル。この年、読売新聞の招待で来日しています。

コンフエランス」は仏語の「conférence」で、英語風に読んだ外来語としては「カンファレンス」。直訳すれば「会議」ですが、「講演」的な意味で用いたのではないかと思われます。

片山敏彦」と「今井氏」(今井武郎)は、戦前、光太郎と共に「ロマン・ロラン友の会」のメンバーでした。大正15年(1926)、友の会の招聘で来日した シャルル・ヴィルドラックは、デュアメルの姻戚です。
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田内静三」は詩人。やはり光太郎とは旧知の仲でした。

昨日は鎌倉に行っておりました。妻が「大河ドラマ館を見たい」といいだしまして、連休に入ってしまうとかなりの混雑が見込まれるので、その前に、というわけでした。

事前に、せっかく鎌倉に行くのなら、他に光太郎智恵子や光太郎の父・光雲がらみで何かないか(長勝寺さんの光雲原型日蓮像、東慶寺さんの智恵子親友・田村俊子碑などは以前に拝見したので、それ以外)と探しました。

真っ先に思いついたのが、建長寺さん。こちらの三門(山門)楼上には、光雲の師・髙村東雲のさらに師・髙橋鳳雲の手になる五百羅漢像が納められていて、時折、公開が為されています。

そこでネットで調べてみましたところ、「五百羅漢特別展」。「よっしゃ!」と思ったのもつかの間、会期が明後日・4月29日(金)からでした。また来週あたり、行って参ります(笑)。

三門楼上五百羅漢特別展

期 日 : 2022年4月29日(金)~5月5日(木)
会 場 : 建長寺得月楼  神奈川県鎌倉市山ノ内8
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料 別途拝観料(高校生以上500円、小中学生200円)

普段は三門楼上にお祀りされ、非公開になっている『五百羅漢像』。その一部を特設会場にて展示させて頂きます。また期間限定の特別御朱印もご用意しております。是非お越し下さい。
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フライヤーには「高橋鳳雲と弟子高村東雲(高村光太郎の父)」とありますが誤りで、東雲は先述の通り、光太郎の父・光雲の師匠です。似たような名前なので混乱が生じることはしばしばあります。
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幕末に、伊勢屋嘉右衛門という豪商が発願し、鳳雲に五百羅漢の制作を依頼しました。さらに木像のままだと火災等が恐ろしいというので、当時の鋳金の名人・村田整珉に鋳造を依頼。整珉没後はその弟子・木村渡雲と栗原貞乗がその仕事を引き継ぎました。「五百羅漢」といいつつ、鳳雲は七百体ほど作ったそうです。鳳雲は、七百もの羅漢像を一気呵成に彫り上げたわけではなく、他の仕事の合間に少しずつ制作したとのこと。そういう契約だったようです。そしてできた端から整珉が鋳造していったというわけです。鋳金の方は建長寺さんに納められ、木彫原型はしばらく伊勢屋が自宅に置いていたのですが、徳川幕府瓦解と共に伊勢屋は破産し、甲州の身延山久遠寺さんに納められました(その際に東雲と光雲が修繕を行ったそうです。破産しても羅漢像を道具屋等に売り払わなかった伊勢屋を光雲は絶賛しています)。ところが伊勢屋が心配した通り、その後、久遠寺さんの火災で焼失してしまっています。

一昨年、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で、建長寺さんを含む「鎌倉五山」の回がありまして、その中でこの羅漢像が取り上げられ(ナビゲーター・近藤サトさん)、興味深く拝見しました。まず番組冒頭近く、予告編的に。
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番組後半に入ると、詳細を紹介。
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いやぁ、実に見事です。

光雲による評。

是はモウ私も聊か彫刻は致しますが、口でこそ五百羅漢と言ひますが、ナカナカ大変なもので、十体か十五体はどうか、斯うか図が纏まるものでありますが、五百体の羅漢が皆坊主頭で被て居るものは袈裟と法衣、是が五百体が五百体ながら同一の図が出来ぬやうに色々と変化の有るやうに拵へるといふことは、ナカナカ容易な苦心では無い。
(「光雲懐古談」昭和4年=1929)


さもありなん、ですね。しかも、少しずつ作っていって出来た端から鋳造に廻したわけで、それでも最初の頃に作ったもののポージング等、しっかり記憶に残していてかぶらないようにしていたということなのでしょうから、舌を巻かされます。

さて、明後日からの展示は、三門楼上での公開ではなく、得月殿という堂宇に羅漢像の一部(選抜チームでしょうか(笑))を移しての展示だそうです。ぜひ足をお運び下さい。

おまけで、昨日の鎌倉レポートを。

鎌倉の大河ドラマ館
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市川猿之助さん演じる文覚。光太郎の親友だった碌山荻原守衛が彫刻のモチーフにしています。元は北面の武士・遠藤盛遠でしたが、懸想していた人妻・袈裟御前を誤って殺してしまい、出家したという伝説があります。守衛は自身と、中村屋創業者相馬愛蔵の妻・黒光をそこに重ねていたふしがあります。

ところで大河ドラマ館、新たに建造物が建てられたわけではなく、鶴岡八幡宮境内の鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムさんでの展示が、現在、大河ドラマ関連というわけです。

同館、平成28年(2016)までは、神奈川県立近代美術館・鎌倉館でした。土地貸借契約等の関係で鶴岡八幡さんに返却され、一時は取り壊しの話もありましたが、鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムとして再生、コルビジェの弟子・坂倉準三設計のその建物は一昨年、重要文化財指定を受けています。

昭和26年(1951)に開館、光太郎と交流の深かった美術評論家にして詩人でもあった土方定一が2代目館長を務め、光太郎が歿した昭和31年(1956)には、初の「高村光太郎・智恵子展」が開催されました。また、最後の企画展示「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」でも光太郎作品を並べて下さり、拝見に伺いました。中に入ったのはそれ以来でしたが、懐かしさに胸がいっぱいでした。
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その後、鶴岡八幡宮さんを皮切りに、御朱印マニアの妻とともに、源氏や御家人たちゆかりの寺社巡り。
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八幡宮境内、源氏池の中の旗上弁天社さん。
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段葛。
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比企氏ゆかりの妙本寺さん。
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上はシャガの花。下は妙本寺さんの幼稚園。
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千葉氏ゆかりの妙隆寺さん。ただし無人で御朱印はいただけず。
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北条氏ゆかりの寶戒寺さん。
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御本尊の地蔵菩薩様以外にも、閻魔大王様もいらっしゃり、「後々お世話になります」と、手を合わせて参りました(笑)。

昨日も雨。過日、福島に三春滝桜を見に行った際もそうでしたが、どうも妻も雨女のようで(笑)。まぁ、雨の鎌倉も風情がありましたが。

閑話休題。建長寺さんの五百羅漢特別展示、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ニユートーキヨー社長より生ビール6本届けくる、

昭和27年(1952)10月31日の日記より 光太郎70歳


「ニユートーキヨー」は老舗のビアホール。光太郎がビール好きを公言、周囲にもビールを勧めたりしていたため、その感謝の意を込めての進呈だったようです。この後もメーカーや店からビールを贈られることが相次ぎました。

神奈川県から演奏会情報です。

午後の音楽会 第136回プレミアムコンサート 宮本益光×加藤昌則 デュオリサイタル

期 日 : 2022年2月24日(木)
会 場 : 横浜市栄区民文化センター リリスホール 神奈川県横浜市栄区小菅ケ谷1-2-1
時 間 : 13:15開場 14:00開演
料 金 : 全席指定 2,500円
出 演 : 宮本益光(Bar) 
加藤昌則(Pf)
曲 目 : 
 加藤昌則/宮本益光 詩:もしも歌がなかったら 
詩がある 桜の背丈を追い越して
 加藤昌則/高村光太郎 詩:レモン哀歌
 加藤昌則/たかはしけいすけ 詩:ぼくの空 他

月に1度、特別な時間をお届けする「午後の音楽会」シリーズ。平日の午後に、いつもより少しだけおしゃれをして、コンサートに出かけてみませんか?

オペラ界のスター宮本益光とクラシック講座でお馴染み加藤昌則が「午後の音楽会」シリーズに登場
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加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」がプログラムに入っています。ピアノは加藤氏ご自身。同曲、令和元年(2019)に目黒で開催された「4人のバリトンコンサート ハンサムなメロディー」、福岡と豊洲で公演のあった「加耒徹バリトンリサイタル2019 〜歌道Ⅱ」で、それぞれ演奏されました。加藤氏曰く「その死への美しすぎる情感を、敢えて後年に浄化したものとして捉えて書いた」。

コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前宮城県白石町より紙布製造の人佐藤忠太郎といふ老人来訪、片倉小十郎時代よりの紙布の話をきく、見本をもらふ、


昭和27年(1952)3月22日の日記より 光太郎70歳

佐藤忠太郎は明治34年(1901)、白石の生まれ。すると、この時点で50歳ちょっとのはずで、「老人」というには当たらないような気がしますが、紙布(しふ)織りに取り組んでいた人物、ということで間違いないでしょう。その工房は現在も続いています。

昨日は北鎌倉に行っておりました。

目的地はあじさい寺として有名な明月院さんの近く(徒歩365歩だそうで)、「笛」さんというカフェ兼ギャラリー。光太郎のすぐ下の妹の令孫夫妻が経営なさっています。
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毎年この時期、こちらに伝わる光太郎遺品や、すぐ近くにお住まいの、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫のお宅所蔵の喜八遺品などを展示しています。ただ、喜八をからめず「想い出 高村光太郎」とした年もあり、二人に関わる「詩と友情」展としては3年ぶり8回目です。
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山小屋風のこぢんまりした店内に、ずらりといろいろな展示。
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肉筆、複製、拓本が混在していますが、二人の筆跡。
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喜八の代表作の一つ、「田舎のモーツァルト」。
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 中学の音楽室でピアノが鳴っている。
 生徒たちは、男も女も
 両手を膝に、目をすえて、
 きらめくような、流れるような、
 音の造形に聴き入っている。
 そとは秋晴れの安曇平(あずみだいら)。
 青い常念と黄ばんだアカシヤ。
 自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
 新任の若い女の先生が孜々(しし)として
 モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。

舞台は信州安曇野の碌山美術館さんに隣接する穂高中学校さん。こちらではこの詩にちなみ「田舎のモーツァルト音楽祭」というイベントも開催されています。同校にはこの詩の詩碑も現存。さらにいうなら、昭和30年(1955)に光太郎が題字を揮毫した碌山荻原守衛のブロンズ「坑夫」も設置されています。こんなところにも喜八と光太郎の縁があったんだなと思って拝見しました。

この詩は昭和41年(1966)、同名の詩集に収められました。その詩集『田舎のモーツァルト』の草稿ノート。
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喜八は、光太郎の親友だった水野葉舟の息女で、光太郎が実の娘のようにかわいがっていた實子と結婚。尾崎一家と光太郎の写真も展示されていました。
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左から尾崎夫妻の息女・榮子(まだご健在だったころ、智恵子にだっこされたこともある、というお話をご本人からお聞きしました)、光太郎、喜八、そして實子。場所は駒込林町の光太郎アトリエです。

写真といえば、大正8年(1919)、雑誌『白樺』10周年記念の会が催された芝公園三縁亭での写真。
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後列左端に喜八、同じく右端に光太郎。

展示の目玉がこちら。光太郎作の「聖母子像」。
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ミケランジェロ作品の模刻ですが、大正13年(1924)、尾崎の結婚祝いに光太郎が贈ったもので、石膏原型は既に失われ、鋳造はこれ1点しか確認できていません。「手」(大正8年=1919)などは日本全国に何十点あるんだ?という感じですが……。
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右が實子です。

その他、光太郎、喜八それぞれの著書や関連書籍類。
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「ついでにこれも」と、富山県水墨美術館さんで始まった「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の図録を進呈して参りました。

一通り撮影させていただいた後は、美味しいアイスコーヒーを頂きつつ、オーナーご夫妻と光太郎智恵子、喜八についていろいろとお話させていただきました。

ちなみに昨日10月10日は、昭和9年(1934)に亡くなった、光太郎の父・光雲の命日でした。狙っていた訳ではありませんが、その日に光雲の曾孫に当たる方とお話しできたのも奇縁かな、と思いました。

会期は11月23日(火・祝)まで。ただし、火・金・土日のみの開店です。コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

澤田伊四郎氏来訪、中食、夜食を共にし、夜まで談話、智恵子抄の事、随筆集の事。

昭和26年(1951)1月19日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に移る直前の昭和20年(1945)、1ヵ月暮らしていた花巻町の佐藤隆房宅に滞在中のことでした。

澤田伊四郎は、『智恵子抄』版元の龍星閣主。戦時中には休業を余儀なくされましたが、前年に業務を再開し、『智恵子抄その後』を刊行しました。続いて、『智恵子抄』の戦後新版、さらに光太郎のエッセイ集『独居自炊』を刊行したい、という相談のために来花したようです。

昨日は神奈川の箱根と静岡の熱海に行っておりました。

メインの目的は、熱海で開催された、潮見佳世乃さんの「歌物語×JAZZ」コンサートでしたが、他にもいろいろと廻りました。レポートいたします。

まず愛車を向けたのは、箱根。県は違えど熱海と意外と近く、芦ノ湖畔の成川美術館さんで、ちょうど「齋正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~」が開催中ですので、そちらを拝見しておこうと思った次第です。

首都高がまったく渋滞もなくスカスカで、午前中には到着。
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駐車場からの芦ノ湖。

長いエスカレーターで登って、入り口へ。
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入るとすぐ、光太郎と交流の深かった舟越保武のブロンズがお出迎え。以前にも書きましたが、作者名を見ずとも「ああ、舟越だ」という感じで、これが個性というものなのでしょう。
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館内から見た芦ノ湖。高台にあるので眺望がいい感じです。晴れていればもっと良かったのでしょうが、当方、究極の雨男・光太郎の魂を背負って歩いているので仕方がありません(笑)。
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「齋正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~」は、二階の展示室でした。
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同館所蔵のもののコレクション展的な位置づけだったようです。同時開催的に別の展示室では「齋正機 コドモシリーズ~女の子~」も。
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分類上は日本画なので、鉱物顔料で描かれているはずなのですが、色遣いやタッチはパステル画のようで、こういう描き方ができるんだ、という感じでした。
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観ていて思い出しました。だいぶ以前、安達太良山麓の岳温泉さんに泊まった際、フロントに無料で置いてあった会津あたりの雪景を描いたポストカードをもらってきたのですが、どうも齋氏の絵だったようです。探したのですがみつかりませんで、どなたかに絵葉書として送ったようです。

風景画の方は、基本、齋氏の故郷・福島のもの。下記は花見山です。
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同展の開催を報じた『福島民報』さんの記事に、「古里の秋を表現した「ほんとの空」などの新作」とあったので、「ほんとの空」という作品を探しましたが、ありませんでした。

どうやら、こちらのことを言っていたようですが、題名は「ほんとの空」ではなく「トンボノ空ニ」。
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昨年、『福島民報』さんで為されている齋氏の連載「福島鉄道物語」で、この絵が「ほんとの空」という題のエッセイと共に掲載されたため、混乱が生じたのだと思われます。

キャプション的に、「ほんとの空」全文がパネルに印刷されていました。
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途中でオチが予想できてしまいましたが、予定調和的にうるっときました。やはりこういうご経験が、作品創出の一つの契機ともなるのでしょう。そして、夕暮れの町を「コハク色」と捉える感性なども。

ミュージアムショップで、この絵のポストカード等がないか探しましたが、新作ということもあるのでしょう、ありませんでした。

その他、平山郁夫のシルクロード系がまとめて展示されていましたし、東山魁夷、加山又造といった大御所の絵も出ていまして、眼福でした。

ところで箱根といえば、光太郎、確認できている限り、4回程は足を運んでいます。

まず明治33年(1900)、「箱根山蘆のみづうみ雪にみて叔父の翁と詩のこと語る」という短歌があります。「叔父」は両親の弟(兄なら「伯父」)。光雲の弟・牧蔵は光太郎出生前に夭折していますので、母方の叔父なのでしょうが、詳細は不明です。

続いて昭和2年(1927)夏、智恵子を伴って。この際に撮ったのが、このブログのトップに出てくる写真です。撮影場所は大湧谷でした。
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翌年には、智恵子と、智恵子の母・センも連れて訪れています。

さらに智恵子が歿した昭和13年(1938)、南品川ゼームス坂病院で付き添いの看護婦として智恵子を看取った智恵子の姪・春子の慰労のために。この際には伊豆大島にも足を伸ばしました。

調べれば、もう1回2回、訪れたことがあるかも知れません。

それから箱根といえば、彫刻の森美術館さん。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の同型の作が「みちのく」の題で野外展示されていますし、絶作「倉田運平胸像」(未完)も所蔵されています。

大湧谷や彫刻の森美術館さんも廻ろうかとも考えましたが、次の予定がありますし、またの機会にと思い、愛車を熱海方面に向けました。以後、明日。

【折々のことば・光太郎】

野末氏よりオレンジの小包、大半ぬきとらる。


昭和22年(1947)4月13日の日記より 光太郎65歳

野末氏」は編集者の野末亀治。花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた光太郎に、たびたび食糧等を送ってくれていました。「大半ぬきとらる」、まだまだ食糧不足のこの頃、郵便事情はこういうことだったのでしょうか……。

この年、東京地方裁判所の山口良忠判事(当時34歳)が、栄養失調で死亡しました。法律違反の闇市で食糧を手に入れることを拒否し、正式な配給の食糧だけで生きようとしたためでした。

光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からインスパイアされた作品が展示されている展覧会をご紹介します。

齋正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~

期 日 : 2021年3月11日(木)~7月14日(水)
会 場 : 成川美術館 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根570番
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 無休
料 金 : 一般 1,300円(1,100円) 大学生・高校生 900円(700円)
      中学生・小学生 600円(500円) 幼児 無料 ( )内は団体(10名以上)

現代の日本画に新たな風を吹き込む齋正機の展覧会。ローカル鉄道や田園風景、何気ない暮らしの情景を描いた作品は、懐かしい記憶や思い出を呼び起こす心温まる優しい世界です。本展のために作家が特別に制作したオイルパステル作品も会場限定で販売いたします。

Masaki sai 1966~
福島県生まれ。東京藝術大学日本画専攻卒業、同大学院修了。2003年洋画の登竜門として知られる昭和会賞(日動画廊)を日本画家として初めて受賞。明るく柔らかな作風で、機関士だった父の思い出である鉄道や、郷愁を感じさせる里山などをモチーフに、詩情溢れる日常の情景を描き続けている。

地方紙『福島民報』さんで、この展覧会について報じていました。

福島県内の風景画並ぶ 7月14日まで斎正機さん企画展 箱根

 福島市出身の日本画家斎正機さんの企画展「斎正機展 新世代の日本画~やさしく、あたたかな絵~」は十六日までに神奈川県箱根町の箱根・芦ノ湖成川美術館で始まった。七月十四日まで。柔らかい雰囲気の作品が来場者の目を引いている。
 古里の秋を表現した「ほんとの空」などの新作を含め、日本画とオイルパステル画約三十点が並んでいる。県内の風景を描いた作品が多い。
 入館料は大人千三百円、高校生九百円、小中学生六百円でいずれも税込み。開館時間は午前九時から午後五時。
 斎さんは福島民報で「福島鉄道物語」を連載している。
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同紙には、記事にある「福島鉄道物語」の連載で、昨年、「ほんとの空」という作品が掲載されました。
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背景の山は、「ほんとの空」だけに、安達太良山でしょう。温かみのある絵ですね。これが今回展示されているものかどうか不明なのですが、別物だとしても、こんな感じの作品と思われます。

齋氏、『福島民報』さんでの連載以外にも、地元の地銀・東邦銀行さんのカレンダーなどにも作品が採用されているそうです。ちなみに同行のカレンダーには智恵子の紙絵が使われたこともありました。

氏のオフィシャルサイトはこちら

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

分教場にて田頭さんの演説会に余出場の事を遠慮すべき旨、勝治さんより田頭さんに伝へるやうたのむ。よくさん会詩部会長其他の経歴該当すと思ふ。

昭和22年(1947)3月29日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の村長選挙に関わります。山小屋のあった山口地区の高橋雅郎が立候補、その応援演説を頼まれたものの、戦時中の肩書きを理由に遠慮したというのです。「田頭」は屋号です。

「よくさん会詩部会長」は、正確には日本文学報国会詩部会長。「其他」は、中央協力会議議員や、大東亜文学者会議議員などを指します。

高橋は光太郎の応援演説が無くとも当選しました。そのお嬢さん、高橋愛子さん(平成30年=2018にご逝去)は、光太郎詩「山の少女」のモデルとなり、永らく光太郎の語り部として活躍されました。

福岡に本社を置く『西日本新聞』さん、先週掲載された記事です

「焦らず、恐れず」ステイする気魄を コロナ禍で求められる極意とは

000 木と木の間に張ったベルトの上を悠々と渡っていく。曹洞宗僧侶の藤田一照(いっしょう)さん(66)は、ベルト渡りが日課のひとつ。緊張と弛緩(しかん)の絶妙なバランス感覚は宙に浮いているかのようだ。「うまく乗ろうと思わず、力みを抜いて、ただ乗せてもらう」ことが極意らしい。
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 一照さんが実践しているのは仏教で言う「不放逸(ふほういつ)」の状態。力まず、しかし意識が隅々まで行き渡っているこの自然体こそ坐禅(ざぜん)でも目指す姿勢で、仏教の智慧の形なのだという。
 「くつろぎながらも目覚めていて、その時々で何が起こっているかを認識する。この平常心こそ、今求められる感性であり、知性だと思います」
 感染症の拡大で先行きが見えない今、藤田さんはあらためて「動じない自分の軸と足元の確かさ」の必要性を、オンラインのトークも介して呼びかけている。
 一照さんは愛媛県で生まれ、東大大学院で発達心理学を研究中に禅の道に出合った。兵庫県の修行道場安泰寺で6年間修行し、33歳で渡米してマサチューセッツ州の禅堂で17年半、住持を務めた。帰国後は寺や檀家(だんか)は持たず、神奈川県葉山町で別荘の管理人をしながら坐禅を指南している。
 2013年に刊行した僧侶の山下良道さんとの共著「アップデートする仏教」(幻冬舎)は世に一石を投じた。葬式や法要に象徴される世俗化した仏教や、近年「マインドフルネス」として流行している自己啓発のための仏教を超えた、現代人にとって本当に意味のある仏教の形を探求している。コロナ禍は、その課題を切実にした。
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 戦後日本の仏教のもろさをあらわにしたのは、1990年代のオウム事件だった。極端な教義を説く教団が悩みや焦りを抱えた若者たちの受け皿になり、修行の名のもとに破壊行動に至った。当時修行中だった一照さんも衝撃を受けた。
 「一生懸命修行した結果がああなるのかと、すごくショックを受けました。僕らの世代が起こした事件で、他人ごとではなかった」
 ブッダが最後に残した有名な言葉がある。「怠らず修行を完成させなさい」。「怠らず」は原語のパーリ語では「アッパマダー」と表現し、「パマダー=酩酊(めいてい)状態」の否定語で、「目覚めている」を意味する。
 「一生懸命頑張るだけでなく、自分の行動に自覚的であること。攻撃的でも逃避でもないアッパマダー、つまり『不放逸』の態度こそ、ブッダが伝える修行の姿だったと思います」
 オウム事件の後、日本社会は一時宗教へのアレルギー反応を見せたが、東日本大震災では弔いのための宗教が求められた。今回のコロナ禍では法事や伝道、祭りなど各種行事が自粛に追い込まれ、宗教は事実上、不要不急と見なされている。一照さんは「コロナは医療や経済だけではなく、宗教問題」だと強調する。
 「身過ぎ世過ぎの問題だけでは済まされない。生きる意味を問い、人生の方向性が定まらないと、ただ生きているだけ。祭りなどエネルギーを発散し、神仏と交流するハレの場がなくなることも、じわりと影響を及ぼしてくるはずです」
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 今回の感染拡大で定着した「ステイホーム」という言葉にも、一照さんは生きる本質を見ている。仏教では「家」を「畢竟帰処(ひっきょうきしょ)」と呼び、最終的な拠(よ)り所(どころ)を指す。それは「本来の自己」であり、そこにステイする(居る)ためには生きる底力である「気魄(きはく)」が不可欠だという。
 一照さんは今年、高村光太郎の詩「道程」を何度も読み返した。
 <僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ 父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため>
 自然から気魄を授かり、前人未到の道を歩く覚悟に燃える詩に、一照さんは初心の心構えを読み取る。
 「感染症によってすべての人が未曽有の状況に投げ込まれている今、一人一人が柔軟でオープンな初心に戻り、『感じる知性』を磨いて自分の足で前に歩んでいく覚悟が必要です」
 焦らず、恐れず。不慣れで不確実で、不確定な毎日が続く今、一照さんのベルト渡りは一歩一歩が無心で、いつも新しい、「初心のススメ」なのだ。

確かにこういう時代こそ、耽美的、芸術至上的な詩より、ある意味無骨で述志的、しかしポジティブな光太郎の詩、と思います。

【折々のことば・光太郎】

太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。

昭和20年(1945)8月21日の日記より 光太郎63歳

この年秋から7年間を過ごす花巻郊外太田村山口地区に、初めて足を踏み入れた記述です。この時点で既に移住の決意は固く、山小屋を建てる場所もある程度決め、土地の所有者で、地区のまとめ役でもあった駿河重次郎宅に挨拶に行っています。

「校長先生」は、この時、宮沢家を焼け出された光太郎を住まわせてくれていた、元旧制花巻中学校長・佐藤昌です。

新たに光太郎智恵子ゆかりの建造物が2件、重要文化財に指定される運びとなりました。

先週の『朝日新聞』さん記事から

京都・八坂神社本殿が国宝へ 重文に16件 文化審答申

 文化審議会は16日、京都市の八坂(やさか)神社本殿を国宝に、旧神奈川県立近代美術館(同県鎌倉市)など16件の建造物を新たに重要文化財に指定するよう文部科学相に答申した。

 八坂神社は疫病退散を祈願する祇園(ぎおん)信仰の総本社。今の本殿は1654年に、江戸幕府の4代将軍徳川家綱によって建てられた。通常、神社では参拝者が本殿の外からお参りするが、八坂神社は本殿の中に参拝者が礼拝する「礼堂」があり、供え物を置く棚もある。文化庁によると、この構造は鎌倉時代の資料や室町時代の図面にも記され、中世の信仰儀礼と建物の関係を示している。屋根の三方にはひさしが付いており、これは建物の面積を広げる平安時代の工法だという。同庁の担当者は「祇園祭を担う京都の人々が積極的に費用を出し維持に関わってきた点にも、文化史的意義がある」と話す。

 重要文化財に答申された旧神奈川県立近代美術館は、鶴岡八幡宮の境内にあり、日本初の公立近代美術館として1951年に建設された。モダニズム建築の巨匠・ル・コルビュジエに師事した坂倉準三(1901~69)が設計し、「日本の戦後モダニズム建築の出発点」として評価される。
 2016年の閉館後は存続が危ぶまれたが、土地を所有する八幡宮が改修し、昨年「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として開館した。保存のめどが立ち、答申となった。
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 北太平洋航路のための最初の灯台となった犬吠埼(いぬぼうさき)灯台(千葉県銚子市)など明治初めに建てられた4カ所の灯台も、重要文化財(重文)に指定される見通しになった。海上保安庁が管理する現役灯台では初めて。2018年の文化財保護法改正で、修理手続きなどが一部緩和されたことが後押しとなったという。

 重文の新規・追加指定は次の通り。文化審議会は、重要伝統的建造物群保存地区の選定も答申した。

 【重要文化財】旧札幌控訴院庁舎(札幌市)▽犬吠埼灯台(千葉県銚子市)▽明治神宮(東京都渋谷区)▽旧神奈川県立近代美術館(神奈川県鎌倉市)▽旧山岸家住宅(石川県白山市)▽旧中村家住宅(長野県塩尻市)▽坂戸橋(同県中川村)▽八勝館(名古屋市)▽紅葉谷川庭園砂防施設(広島県廿日市市)▽六連島灯台(山口県下関市)▽角島灯台(同)▽犬伏家住宅(徳島県藍住町)▽部埼灯台(北九州市)▽旧伊藤家住宅(福岡県飯塚市)▽西海橋(長崎県佐世保市、西海市)▽旧綱ノ瀬橋梁(きょうりょう)及び第三五ケ瀬川橋梁(宮崎県延岡市、日之影町)◇追加指定として八坂神社の疫神社本殿など(京都市)、遠山家住宅の米蔵など(京都府亀岡市)

 【重要伝統的建造物群保存地区】高岡市吉久伝統的建造物群保存地区(富山県)▽津山市城西伝統的建造物群保存地区(岡山県)▽矢掛町矢掛宿伝統的建造物群保存地区(同)


まず、鎌倉の旧神奈川県立近代美術館。
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昭和26年(1951)に開館、光太郎と交流の深かった土方定一が2代目館長を務め、光太郎が歿した昭和31年(1956)には、初の「高村光太郎・智恵子展」が開催されました。

永らく「カマキン」の愛称で親しまれましたが、平成28年(2016)に惜しまれつつ閉館。最後の企画展「鎌倉からはじまった。1951-2016 PART 3:1951-1965 「鎌倉近代美術館」誕生」では、光太郎作品も複数展示して下さいました。

コルビジェに師事した板倉準三設計のモダニズム建築ながら、土地の使用権の問題などもあったため、一時は建物の存続も危ぶまれていたのですが、無事、残ることとなりました。喜ばしいかぎりです。現在は鶴岡八幡宮さんに所有が戻り、「鎌倉文華館鶴岡ミュージアム」として運用されています。

『毎日新聞』さんの神奈川版から

近代建築の出発点 「旧県立近代美術館」国重文に 鎌倉・鶴岡八幡宮境内 撤去の危機乗り越え /神奈川

 鎌倉市の鶴岡八幡宮境内にある「旧県立近代美術館」が国の重要文化財(建造物)に指定される。設計は近代建築の巨匠、ル・コルビュジエに師事した坂倉準三(1901~69年)。撤去の計画もあったが、美術ファンらの要望で当地に残され、現在は「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として公開されている。モダニズム建築の傑作は撤去の危機を乗り越え、新たな歴史を刻む。【因幡健悦】

 旧県立近代美術館は日本初の公立近代美術館として51年11月に鶴岡八幡宮境内の一角に建設された。白い箱を柱で持ち上げたような外観が特徴で、59年に開館したコルビュジエ設計の世界遺産、国立西洋美術館(東京・上野)にも影響を与えたとされる。展示企画にも意欲的で、ムンクやクレーを紹介し人気を集めたが、県立近代美術館の葉山町移転などに伴い、2016年の閉館が決まった。敷地が境内にあるため、美術館としての役割を終えた後は、更地にして鶴岡八幡宮に返却される予定だった。 
 しかし、美術ファンや県民から存続を求める声が相次ぎ、鶴岡八幡宮が建物を引き取り、耐震補強など必要な工事を進めることになった。 工事は17年秋に始まり、坂倉のオリジナルデザインの再現を基本に進められた。モノトーンが流行した91年の大規模改修で、グレー主体に塗り替えられていた柱や扉はオリジナルに近い66年当時の茶色に戻されている。
 国の文化審議会では「戦後モダニズム建築の出発点となる建物として重要」と、その意匠が評価された。鎌倉市の国指定重文(建造物、国宝含む)はこれで23 件目となるが、近代建築の指定は初めて。

もう1件、大正元年(1912)に光太郎智恵子が訪れ、愛を誓った千葉銚子の犬吠埼に聳える犬吠埼灯台も指定される見通しですが、そちらについては明日。


【折々のことば・光太郎】018

何時頃出来上るか……それは同じ大きさのもので三ヶ年かゝるものもあれば一月(ひとつき)位で出来るものもあり、まだ、其んな事は一切考へてゐません。

談話筆記「(成瀬先生の)」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳

「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者の瀬仁蔵。その胸像の制作依頼を学校から受けた際の談話の一節です。

像は光太郎自身が納得のいくものがなかなかできず、作っては壊し、造っては毀し、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。

10月4日(日)、北鎌倉の笛さんに伺う前、同じ鎌倉市内の川喜多映画記念館さんで「【特別展】生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優- 原節子と山口淑子」を拝見しました。
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原節子さんは、昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)で、智恵子役を演じられました。光太郎役は山村聰さんでした。

山口淑子さんは、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエを光太郎の前に借りていた彫刻家イサム・ノグチの妻。戦後、大陸で日本に協力した中国人・李香蘭として処罰されそうになった際、日本人であることを証明して助命に寄与したのが、当時、中国国民党の将校だった黄瀛。中国人の父と日本人の母を持ち、光太郎や草野心平、宮澤賢治と親しかった詩人でもありました。また、光太郎自身も、写真で見た山口さんの風貌に、彫刻を作りたいと感じていたそうです。

そのお二人の企画展ということで、興味深く拝見。

原さんの「智恵子抄」に関しては、縦に二枚つなげる立看用のポスターが展示されていました。展示の撮影は禁止だったので、下の画像、当方手持ちの同じものです。
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南品川ゼームス坂病院で紙絵を制作する智恵子です。そういえば昨日は智恵子忌日・レモンの日でした。

ちなみに自宅兼事務所には、これ以外にもポスター、プレスリリース、チラシ、シナリオ、パンフレット、スチール写真、当時の雑誌など、小規模な「原節子と「智恵子抄」展」が開催できるくらいの数があります。やるというならお貸ししますので、関係の方、ご検討下さい。

「智恵子抄」は、同館で今月末から来月はじめにかけ、上映されます。
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ところで、原さんといえば、現在NHKさんで放映中の連続テレビ小説「エール」。昨日の放映分に原さんの名前が出て来ました。

昭和18年(1943)、作曲家・古関裕而をモデルとする主人公・古山裕一(窪田正孝さん)の元へ、映画プロデューサーが訪ねてきまして、映画の主題歌を作曲してほしいと要請。
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この映画、実在のもので、原さんがご出演なさっています。監督は渡辺邦夫。配給は東宝でした。
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内容的にはざっくり言うと、上記プロデューサーのセリフ通りです。

で、主題歌が「若鷲の歌」。下記画像はおそらく明日か明後日の放映分の「エール」。先月の番宣番組から採りました。
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「エール」については、また改めて光太郎の翼賛詩文とのからみで記事を書きたいと思っております。

川喜多映画記念館さんでの展示では、残念ながらこの「決戦の大空へ」についてはほとんど触れられていませんでした。ただ、原さんにとっての「黒歴史」だから隠蔽、というわけではなく、同様の国策映画「新しき土」(昭和12年=1942)、「ハワイ・マレー沖海戦」(昭和17年=1942)については詳しく扱われていました。

山口淑子さんの「李香蘭」時代の活動を含め、国策映画、恐ろしいものだと感じました……。

ところで、先週の「エール」には、こんなシーンもありました。
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二階堂ふみさん演じるヒロインが、軍需工場などの慰問演奏を行う「音楽挺身隊」に参加し、しかし呑気に考えていたところ、投げつけられたセリフです。

音楽、それから映画、そして詩歌や小説、さらには絵画彫刻などの造形芸術も、「軍需品」だったわけで……。そういう時代に戻してはならないと、改めて感じました。

さて、川喜多映画記念館さんでの展示、12月13日(日)までです。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

僕は個人に寄付するのは好みません。特定の人にだしたくないのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二二」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

詩集『典型』が読売文学賞に選ばれ、その賞金10万円をまるまる寄付してしまった光太郎。ただし、個人に対しては行わず、山小屋近くの山口小学校、地元青年会などに寄付しました。

昨日は神奈川県鎌倉市に行っておりました。

メインの目的地は、北鎌倉。「あじさい寺」として有名な名月院さん近く(「徒歩365歩」だそうです(笑))のカフェ兼ギャラリー・笛さん。光太郎のすぐ下の妹・しづの婚家で、令孫の山端夫妻が経営されています。
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こちらでは、毎年この時期に、光太郎に関わる展示をなさってくださっています。昨年は当方がバタバタしており伺えなかったのですが、今年はご案内もいただきまして、昨日の初日にお邪魔して参りました。
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近くに、光太郎と親交の深かった詩人の尾崎喜八が住んでいて、その尾崎の結婚(妻は光太郎の親友だった水野葉舟の娘・實子)祝いに光太郎が贈ったブロンズ(大正13年=1924)です。ミケランジェロの「聖母子像」の模刻ですが、石膏原型は既に喪われ、鋳造もこれ一点しか確認できていない貴重なものです。

平成26年(2014)にお邪魔した時には、尾崎夫妻ご息女の故・榮子様がご健在で、ちょうどいらしていて、子供の頃、智恵子に抱っこされた思い出など、貴重なお話を伺うことができました。ちなみに今日、10月5日は智恵子命日「レモンの日」です。

その他、複製が中心ですが、智恵子の紙絵や光太郎デッサンなどなど。書(色紙)は複製でない光太郎肉筆のものが一点飾られていました。
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また、展示されていなかった古写真も拝見。
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昭和18年(1943)、「笛」オーナーの山端夫妻のご両親である敏夫氏(しづ四男)・静江様ご結婚の折の記念写真だそうです。

光太郎も写っています。珍しく(笑)ネクタイ姿です。
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最後列一番右が光太郎(長男)、その前に実弟・豊周(三男)夫妻、豊周の右隣は藤岡家に養子に行った孟彦(四男)と思われます。次男・道利はなぜか写っていないようです。

こんなものも展示されていました。
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東大地震研究所さんで作った光太郎木彫「鯰」のレプリカ。昭和45年(1970)、同所の創立45周年の記念品です。言わずもがなですが、「地震」で「鯰」、洒落が利いています。当方は5年後に作られた同50周年記念のものを持っていますが、そちらは樹脂で周りを固めたペーパーウェイトになっています。
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さて、「笛」さんでの展示、11月22日(日)までです。ただし、火・金・土・日のみですので、ご注意を。

「笛」さんにお邪魔する前、同じ鎌倉の川喜多映画記念館さんで、「【特別展】生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優- 原節子と山口淑子」を拝見しました。明日はそのあたりを。


【折々のことば・光太郎】

僕は上等な料理よりも栄養のある料理のほうがいいのです。上等な料理は体裁がよくても、栄養がないということが多いのです。臓物や尾などの捨てるところに栄養があるのです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 二一」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

光太郎、当時は精肉店などで捨てられていた牛のシッポを貰ってきて、オックステールスープを自作していたそうで……。

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