2月も下旬となりましたので、そろそろ3月のイベントも少しずつご紹介していきます。
本日は、新潟県から講演会情報。
本日は、新潟県から講演会情報。
講演会「八一と高村光太郎」
期 日 : 2025年3月2日(日)
会 場 : 新潟日報メディアシップ2F 日報ホール 新潟市中央区万代3丁目1-1
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 500円(入館料込み)
會津八一記念館では、開催中の企画展「八一を知る 八一がわかるー独往の書の秘密ー」の関連イベントとして、文芸講演会と篆刻体験講座を開催いたします。
3月2日の講演会は、岐阜女子大学教授の住川英明先生から、自詠の歌を書で表現した八一のかな書を中心に、八一と同時代の彫刻家・詩人の高村光太郎の書を比較しながら、文学者の書の魅力に迫ります。
3月8日の篆刻講座は、新潟県内の高校の書道担当教諭を講師に、参加者から自分の名前の1文字を実際に石に彫ってもらう体験講座です。
講師の住川教授、ご自身も書家であらせられ、光太郎の書にも深い関心をお持ちで、光太郎の大幅をお持ちです。連翹忌の集いにも複数回ご参加下さいましたし、令和3年(2021)に当会として協力させていただいた富山県水墨美術館さんでの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の図録に「光太郎書とその変遷」という玉稿を賜りました。その際には鳥取大学さんにお務めでしたが、今回は肩書きが「岐阜女子大学教授」。転勤なさっていたとは存じませんでした。
新潟市會津八一記念館さんで開催中の企画展「八一を知る・八一がわかる 独往の書の秘密」の関連行事という位置づけです。企画展自体は昨年12月から始まっています。
光太郎と2歳年長の八一、深い結びつきはなかったようですが、光太郎は八一から自著歌集『鹿鳴集』(昭和15年=1940)を贈られたりといった繋がりはありました。また、八一に師事した吉野秀雄と光太郎はけっこう深い交流がありました。
八一は短歌、光太郎は彫刻と、それぞれに本業を持ちながら「書」の世界にも爪痕を残した同時代の二人ということで、會津八一記念館さんでは平成19年(2007)に「會津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」と題した企画展も開催して下さいました。その際の関連行事の講演は、当会顧問であらせられた北川太一先生。新潟まで馳せ参じて聴講いたしました。もう20年近く経つか、という感じです。
さて、講演会「八一と高村光太郎」、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
リプトン茶などよく入手出来るものと驚きます。しかも青紙のリプトンは珍重です。パルモリーヴのシヤンプウなど思ひがけない限りでした。国旗まで在中、おかげで此の正月には原稿紙の国旗を出さずにすみます。
お歳暮的にいろいろな品を送ってもらった礼状の一節です。リプトンは言わずと知れた紅茶のブランド。「青紙」は高いグレードの品だったのでしょうか。パーモリーブのシャンプーも現在でも売られています。ほぼ禿頭となっていた光太郎には必要なかったようにも思われますが(笑)。
「原稿紙の国旗」は前年に発表された詩「この年」に関わるでしょう。
原稿用紙の日の丸自体は、遡って昭和22年(1947)から使っていましたが、それではあんまりだということで、椛沢がちゃんとした布の旗を贈ったのでしょう。
講師の住川教授、ご自身も書家であらせられ、光太郎の書にも深い関心をお持ちで、光太郎の大幅をお持ちです。連翹忌の集いにも複数回ご参加下さいましたし、令和3年(2021)に当会として協力させていただいた富山県水墨美術館さんでの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の図録に「光太郎書とその変遷」という玉稿を賜りました。その際には鳥取大学さんにお務めでしたが、今回は肩書きが「岐阜女子大学教授」。転勤なさっていたとは存じませんでした。
新潟市會津八一記念館さんで開催中の企画展「八一を知る・八一がわかる 独往の書の秘密」の関連行事という位置づけです。企画展自体は昨年12月から始まっています。

八一は短歌、光太郎は彫刻と、それぞれに本業を持ちながら「書」の世界にも爪痕を残した同時代の二人ということで、會津八一記念館さんでは平成19年(2007)に「會津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」と題した企画展も開催して下さいました。その際の関連行事の講演は、当会顧問であらせられた北川太一先生。新潟まで馳せ参じて聴講いたしました。もう20年近く経つか、という感じです。
さて、講演会「八一と高村光太郎」、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
リプトン茶などよく入手出来るものと驚きます。しかも青紙のリプトンは珍重です。パルモリーヴのシヤンプウなど思ひがけない限りでした。国旗まで在中、おかげで此の正月には原稿紙の国旗を出さずにすみます。
昭和26年(1951)12月19日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳
お歳暮的にいろいろな品を送ってもらった礼状の一節です。リプトンは言わずと知れた紅茶のブランド。「青紙」は高いグレードの品だったのでしょうか。パーモリーブのシャンプーも現在でも売られています。ほぼ禿頭となっていた光太郎には必要なかったようにも思われますが(笑)。
「原稿紙の国旗」は前年に発表された詩「この年」に関わるでしょう。
日の丸の旗を立てようと思ふ。
わたくしの日の丸は原稿紙。
原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
あかいまんまるを描くだけだ。
それをのりで棒のさきにはり、
入口のつもつた雪にさすだけだ。
だがたつた一枚の日の丸で、
パリにもロンドンにもワシントンにも
モスクワにも北京にも来る新年と
はつきり同じ新年がここに来る。
人類がかかげる一つの意慾。
何と烈しい人類の已みがたい意慾が
ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
原稿用紙の日の丸自体は、遡って昭和22年(1947)から使っていましたが、それではあんまりだということで、椛沢がちゃんとした布の旗を贈ったのでしょう。