千葉県立美術館さんでは「移動美術館」と称し、所蔵品の出開帳を毎年行っています。毎回異なるコンセプトでテーマを決めています(光太郎をメインテーマにして下さった回もありました)が、そのテーマに縛られない名品も別に展示し、その中にはほぼ毎回光太郎ブロンズも含まれます。
今回も。
期 日 : 2024年9月15日(日)~10月8日(火)
会 場 : 多古町コミュニティプラザ 千葉県香取郡多古町多古2855
時 間 : 9時~16時
休 館 : 月曜日 ※9月16日、23日は開館
料 金 : 無料
他に光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝となった豊周の師・津田信夫の鋳金作品も。
制作年が昭和16年(1941)~同18年(1943)ということで、大正期に作られた光太郎の木彫「鯰」からのインスパイアなのでしょうか?
それからメインテーマの「田んぼの美」。ちなみに会場の多古町はブランド米「多古米」の産地で、町のゆるキャラ「ふっくらたまこ」もお米由来です。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
去年十月に理髪したきりゆかないので髪はのび放題で俊寛さまのやうな事になりました。
「俊寛さま」は平安時代末、鹿ヶ谷で平家政権転覆を目論む会合を開いたかどで薩摩の鬼界ヶ島に流された僧侶。のちに共に流された二人は恩赦で帰京しましたが、俊寛はその対象とならず、島に残されました。「平家物語」の有名な一場面ですし、歌舞伎の演目にもなっていますね。
右上は翌年の写真ですが、なるほど、ボサボサの頭が俊寛感を醸し出しています(笑)。
光太郎、自らの山小屋生活を「自己流謫」と名づけました。「流謫」は「流罪」と同義。公的には戦犯として訴追されることはありませんでしたが、自らを罰したわけです。その意味では俊寛にシンパシーを感じるところもあったのでしょうか。
県立美術館では、より多くの方に作品鑑賞の機会を提供し、芸術に触れ親しんでいただくため、県内各地で収蔵作品を展示する「千葉県移動美術館」を昭和52年から開催しています。
48回目となる今回は、多古町合併70周年を記念し「多古町コミュニティプラザ」を会場として、「田んぼ」をテーマに開催します。地域の歴史と稲作が密接に結びついてきたこの地で、私たちの暮らしと田んぼ、そして美術の間にある深い関係性を探ります。
千葉県と光太郎の縁も意外と深い(銚子犬吠埼で智恵子と愛を誓ったり、九十九里浜で智恵子が療養していたり、成田三里塚の親友水野葉舟をたびたび訪ねたり)ということで、同館では光太郎ブロンズを8点(すべて没後鋳造ですが)収蔵してくださっていて、花巻高村光太郎記念館さん、信州安曇野碌山美術館さんにつぐコレクションです。同館コレクションとしても一つの目玉となっているため、そこからも選ぶというわけでしょう。
主な展示作品
・堀江正章《耕地整理図》1901-02年
・浅井忠《農家風俗画手塩皿》1902-07年
・津田信夫《鯰》1941-43年
光太郎はフライヤーに名があるものの出品作品名が明記されておらず、問い合わせたところ、ブロンズの代表作「手」を出すとのことでした。ギャラリートーク
県立美術館の担当学芸員が作品の見どころなどを解説します。(事前申込不要)
9月22日(日)11時~ 9月28日(土)13時30分~ 料金 無 料
千葉県と光太郎の縁も意外と深い(銚子犬吠埼で智恵子と愛を誓ったり、九十九里浜で智恵子が療養していたり、成田三里塚の親友水野葉舟をたびたび訪ねたり)ということで、同館では光太郎ブロンズを8点(すべて没後鋳造ですが)収蔵してくださっていて、花巻高村光太郎記念館さん、信州安曇野碌山美術館さんにつぐコレクションです。同館コレクションとしても一つの目玉となっているため、そこからも選ぶというわけでしょう。
他に光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝となった豊周の師・津田信夫の鋳金作品も。
制作年が昭和16年(1941)~同18年(1943)ということで、大正期に作られた光太郎の木彫「鯰」からのインスパイアなのでしょうか?
それからメインテーマの「田んぼの美」。ちなみに会場の多古町はブランド米「多古米」の産地で、町のゆるキャラ「ふっくらたまこ」もお米由来です。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
去年十月に理髪したきりゆかないので髪はのび放題で俊寛さまのやうな事になりました。
昭和24年(1949)6月2日 宮崎稔宛書簡より光太郎67歳
「俊寛さま」は平安時代末、鹿ヶ谷で平家政権転覆を目論む会合を開いたかどで薩摩の鬼界ヶ島に流された僧侶。のちに共に流された二人は恩赦で帰京しましたが、俊寛はその対象とならず、島に残されました。「平家物語」の有名な一場面ですし、歌舞伎の演目にもなっていますね。
光太郎、自らの山小屋生活を「自己流謫」と名づけました。「流謫」は「流罪」と同義。公的には戦犯として訴追されることはありませんでしたが、自らを罰したわけです。その意味では俊寛にシンパシーを感じるところもあったのでしょうか。