カテゴリ: 連翹忌の集い

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第60回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第60回連翹忌御案内

                                        
日 時  平成28年4月2日(土
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)


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第60回連翹忌へのお誘い

 高村光太郎さんを偲ぶ連翹忌も、新しい運営委員会の方々におまかせしてから、瞬く間に10年目が来ようとしています。有能で機動力に富むその絶え間ない努力によって、未知の資料の発掘や回想の集積は、全集に増補の巻を加えなければならないほど充実して来ています。

 戦後高村さんが辿った歴史の歯車が逆転しそうなこんな時期こそ、親しくお目にかかり、お話をお聞きし、今やこれからの沢山の報告もお聞きいただきたく存じます。例年のように楽しい催しもいろいろ用意されるでしょう。

 是非、いつもの日比谷松本楼の一夜にお出かけ下さいますよう、お誘いいたします。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(火)002までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明


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今年は光太郎没後60年の節目の年です。また、閏年の関係で、4/2は土曜日となっています。例年「年度はじめの平日では無理」という方も、ぜひご参加下さい。

過去3年間の様子はこちら。



【折々の歌と句・光太郎】

もちくさをくさもちにして箱につめたのしきものか友のくる日は
大正14年(1925) 光太郎43歳

4月2日の連翹忌にて、志を同じうする全国の皆様とお会いできることを楽しみにしております。

毎年ご紹介していますが、光太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さんで花巻としての連翹忌です。それぞれ報道されていますのでご紹介します。

岩手)高村光太郎60回忌 花巻で詩碑前祭

朝日新聞 岩手版 4月3日
 詩人で彫刻家の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。山荘での生活をうたった「雪白く積めり」など光太郎の詩を、参加者が朗読するなどして故人をしのんだ。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。56年4月2日に亡くなり、今年が60回忌にあたるという。
 詩碑前祭は地元住民でつくる「高村記念会山口支部」が主催。照井康徳支部長は「先生の偉業を後世に伝え、先生が愛した山荘を守ることを肝に銘じていく」と話した。

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光太郎の遺徳しのぶ 60回忌詩碑前祭 児童が「山の広場」朗読

岩手日日 4月3日 002
 花巻ゆかりの詩人で彫刻家・高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた「詩碑前祭」と「連翹(れんぎょう)忌法要」が2日、花巻市内で行われた。第60回忌に当たり、参加者が詩の朗読などを通じて、遺徳をしのんだ。
 「詩碑前祭」は、同市太田の高村山荘敷地内広場で行われた。光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が主催。光太郎が暮らした太田山口地区の住民有志を中心に約50人が参加した。
 照井康徳支部長は「今年は60回忌で、高村先生が太田山口地区に来てから70年目の節目でもある。高村先生と面識のあった人は少なくなっている。われわれが高村先生を後世に伝えていくことが大事になる」とあいさつ。
 光太郎の遺影を飾った詩碑前で、太田小学校の高橋百花さん(2年)と中島流星君(3年)が花を手向けた後、同支部の平賀仁理事が祭文を奏上。上太田子供会、太田区長会、いずれも地元住民の戸来洋子さん、浅沼功さん、高橋新吉さんが光太郎の詩を朗読した。
 このうち、上太田子供会は太田小児童5人が声をそろえて「山の広場」「山口部落」「山からの贈り物」を読み上げた。高橋梨々菜さんと髙橋誉桂さん(ともに6年)は「『山の広場』が好き。この辺の景色を思い出す感じがする」「どうやって詩を作ったのか詳しく知りたい」などと話し、地元に足跡を残した偉人に思いをはせていた。
 光太郎は戦時中の1945(昭和20)年、東京のアトリエを焼失し、宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開した。旧太田村山口の山小屋で7年間、地元住民と交流しながら農耕自炊の生活を営み、多くの詩を生み出した。


また、同じ『岩手日日』さんには、前日に花巻連翹忌会場の松庵寺さんがらみの記事も載りました。 

慰霊と更生祈る 松庵寺 小川住職が盛岡へ行脚

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 花巻市双葉町の松庵寺住職、小川隆英さん(74)は1日、東日本大震災の犠牲者の霊を慰めようと、盛岡市に向け追悼行脚に出発した。教誨(きょうかい)師を務めている縁で、盛岡少年院や盛岡少年刑務所を目指す。約80キロを2日間で踏破する強行軍だが「慰霊と被収容者の更生を祈りながら歩く。こんな私だが、何か一つでも皆さんの心のよりどころになれれば」と願う。
 小川住職は1961年(昭和36年)夏、東京都から本県まで、600キロを超える道のりを托鉢(たくはつ)行脚した経験を持つ。「戦後復興途上の道路は舗装されておらず、ハエや蚊が多く安眠などできなかった。震災で被害を受けた方々の苦しみはよく分かる」と避難生活を深く思いやり、今回の行脚を決めたという。
 同日はあいにくの雨模様だったが、この熱意に感銘を受けた市民約20人が同寺を訪れた。「気を付けて」「無理だけはしないで」などと言葉を掛け、早朝の出発を見送った。
 到着予定の2日は、花巻に大きな足跡を残した詩人・彫刻家の高村光太郎をしのぶ連翹(れんぎょう)忌が行われる日。同寺は市内外から多くの参列者を迎える。小川住職は「法要の時間に合わせ、光太郎の書碑がある同少年刑務所でお勤めしたい。一歩ずつ進めば必ず目的地に着く。前を向いて頑張ってほしい、という気持ちを被収容者、被災者へ伝えるためにも歩き通す」と固く誓う。
 小川住職は追悼行脚のほか、震災犠牲者の供養に役立ててほしいと託された市民からの寄付金を生かすため、慰霊碑の建立も計画している。


光太郎が智恵子や光雲の法要をしてもらっていた頃のご住職が、小川金英師。おそらく記事にある小川住職のお父様でしょう。金英師の光太郎に関する回想など、とても面白いのですが、いずれまた改めてご紹介します。


岩手ではありませんが、同じ東北青森の地方紙『東奥日報』さんは、一面コラムで連翹忌にふれて下さいました。東京日比谷での連翹忌当日、十和田奥入瀬観光ボランティアの会の山本氏がわざわざ持ってきて下さいました。

天地人 2015.4.2

<連翹(れんぎょう)のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎>。連翹は黄色の花をいっぱいに咲かせる。色彩は遠目にも実に鮮やかで、花のあと小さな葉が萌(も)え出る。詩人、彫刻家でもあった高村光太郎は連翹の鮮黄色(せんおうしょく)を愛した。1956(昭和31)年4月2日の没。きょうが忌日「連翹忌」である。
  光太郎といえば、詩集「智恵子抄」が真っ先に浮かぶ。最愛の妻、智恵子の最期を綴(つづ)った「レモン哀歌」などを収める。智恵子の死後、世俗を離れ東北の山村にこもるが、彫刻家として最後の一作に渾身(こんしん)の思いを刻む。
  静謐(せいひつ)な湖を背景に、左手を合わせて向かい合う2体の裸像。十和田湖休屋の湖畔に立つ「乙女の像」がその作品だ。光太郎が亡くなる3年前に完成した。
  病弱で華奢(きゃしゃ)だった智恵子とは対照的に、2体の像は豊満で生命力に満ちあふれる。「立つなら幾千年でも立ってろ」。光太郎の言葉通り、建立から60年余を経て十和田湖のシンボルであり続ける。
  十和田湖は「ドル箱観光地」ともてはやされた。新緑から紅葉にかけ湖畔は人であふれた。乙女の像には記念撮影を待つ大きな人垣があった。往時のにぎわいよ、どこへである。八甲田・十和田ゴールドラインがきのう開通したが、今年は定番のJR一番バスの姿はなし。乗客の落ち込みを理由に運行は18日からである。栄枯盛衰、乙女の像は何を思う。

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松庵寺さんの記事でもそうですが、やはり東北、東日本大震災がからみます。津波や原発の直接の被害がなかった地域でも、観光客の落ち込みは深刻なようです。

十和田では乙女の像、花巻では高村山荘・高村光太郎記念館(今月28日にグランドオープンです)。言葉は悪いのですが、少しでも光太郎が「客寄せ」になれば、と念じています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月4日000

昭和3年(1928)の今日、書肆ARSから『ロダン』普及版が刊行されました。

光太郎による気鋭のロダン評伝。前年にはハードカバーで刊行されており、こちらはペーパーバックです。

終末部分には、ロダンのモデルを務めた日本人女優・花子を岐阜に訪問した際の体験が付されています。

昨日は高村光太郎の忌日ということで、日比谷松本楼様におきまして、第59回連翹忌の集いを開催いたしました。

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開会は午後5時半でしたが、当方、その前に、参会者を代表して、駒込染井霊園の高村家墓所に参拝しました。

例年、連翹忌の日は雨です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)の4月2日は前日から季節外れの春の大雪でしたし、その後も雨になる確率が非常に高いのです。昨年も会が終わって外に出るとぽつぽつ雨でしたし、一昨年は春の大嵐でした。しかし、昨日は珍しく快晴。名の由来となった染井、本場のソメイヨシノが見事でした。

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松本楼さんのある日比谷公園も桜が満開、というか少し散り始めており、雨や雪の代わりに桜の花びらが降っていました。「桜吹雪」と云うほどではなく、「桜小雪」の状態でした(笑)。

少し遅れて5時40分、開会。まずは光太郎に、そして、昨年8月に逝去された光太郎の令甥、高村規氏をはじめとする、この一年になくなった関係者の皆さんに、黙祷を捧げました。続いて、当会顧問、北川太一先生のご挨拶、高村規氏令息・高村達氏の御発声による献杯。

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さらに、昨年9月にコンサート もうひとつの智恵子抄」をなさった音楽ユニットPrhymx(ぷらイム)のお二人、テルミン奏者の大西ようこ様(大西様はやはり昨年10月にはotoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』でも演奏なさいました)、ギターの三谷郁夫様による演奏。

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哀愁漂うカッチーニの「アヴェ・マリア」、さらに大西様の演奏に合わせ、三谷様の朗読「Nー女史に」。会に花を添えて下さいました。

その後は会食、歓談しつつ、多くの方にスピーチを戴きました。

今月28日にグランドオープンとなる花巻高村光太郎記念館がらみで、花巻市長・上田様。


過日ご紹介した、光太郎詩「四人の学生」のモデルになった深沢竜一様と、そのお話を聴く際に同道された女優の渡辺えりさん。

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つい最近も福島の地方紙で紹介された、日本画家・大山忠作氏のお嬢さん、女優の一色采子さん。

やはり生前の光太郎を知る、元建設大臣、水野清様。水野様は光太郎の親友・水野葉舟のご子息です。

『歴程』同人の伊武トーマさん

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新宿中村屋サロン美術館の太田様、河野様。太平洋画会の坂本富江様。作曲家の野村朗様。詩人・野沢一の研究者・坂脇秀治様。福島二本松の智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん。山岳雑誌『岳人』編集部の加藤様。信州安曇野碌山美術館の五十嵐館長。北川先生のご著書を出版されている二玄社さん、さらに文治堂書店さん(代理で曽我様)、元かわうち草野心平記念館長・晒名様。

最後の締めを、「連翹忌」の名の由来となった、光太郎の愛した連翹が咲いていた、その終焉の地・中野のアトリエの所有者の中西利一郎様。中西様には高校生だった光太郎終焉の時の思い出を語っていただきました。

今更ながらに、たくさんの人々に愛され続けている光太郎の遺徳を、しみじみと感じました。

ご参会の皆様、さらに資料袋詰めやら受付やら物販等でお世話になった皆様、ありがとうございました。

来年は第60回連翹忌となります。したがって、光太郎歿後60年のメモリアルイヤーとなります(メモリアルイヤーといえば、智恵子生誕130年でもあり、いろいろな企画が進むことを期待します)。さらに閏年の関係で、来年の連翹忌は土曜日です。このところ、年度初めの平日と云うことで、なかなか参加したくても不可能だった方も、来年はよろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月3日

昭和37年(1962)の今日、一ツ橋の如水会館で、第6回連翹忌が開催されました。

この年は、4月2日が日曜日。会場の関係で2日に行えず、3日の月曜日に執り行いました。その後も何度かそういうことがありましたが、会場が松本楼様に移ってからは、曜日に関係なく4月2日に挙行しております。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第59回連翹忌を開催いたします。
 
昨年の第58回連翹忌の様子はこちら

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。

3月30日追記 申し込みは締め切らせていただきました。

詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第59回連翹忌の御案内                     

記                                                        

                                       
日 時  平成27年4月2日(木
) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円


御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(日)までにご送金下さい。
会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

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申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場入りしております。


当会顧問にて、高村光太郎記念会事務局長、北川太一先生の玉稿も戴いております。


ご 挨 拶

 草野心平さんが「この日を連翹忌と名づけて今後ひきつづき高村さんの思い出を語りあいたいと存じます。」と最初の案内状に書いてから、今年はもう五十九回目になります。

 その間にたくさんの出来事がありましたが、高村さんや智恵子さんを敬愛する皆さんに支えられて、私たちの心の中のお二人の姿は、ますます強く、ますます大きく生き続けてきました。

 荒々しい自然現象や、異常な世界情勢のなかで、様々な困難を乗りこえて実現し、いまも企てられつつある出来事の詳細は、今年もそれぞれ親しく報告されるでしょう。

 お元気でお目にかかれるのを楽しみにしております。

平成二十七年 春
                                        高村光太郎記念会 事務局長 北川太一

以上、よろしくお願い致します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月14日

昭和29年(1954)の今日、新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵が歿しました。

愛蔵は明治34年(1901)に、東大赤門前にてパン屋の中村屋を創業、のち、本店を新宿に構えます。同郷の彫刻家・荻原守衛を援助し、守衛を中心に光太郎を含む若き芸術家達が中村屋に集い、中村屋サロンが形成されました。

一昨日、4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催しましたが、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。

岩手)高村光太郎の命日 花巻で住民らがしのぶ

 彫刻家で詩人の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で「詩碑前祭」があり、地元の児童らが光太郎の詩を朗読した。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。その後東京に戻り、56年に死去。翌年から地元の住民らが毎年、山荘で集まりを持っている。
 この日は山荘近くにある詩碑の前に住民ら約70人が集まった。詩碑には、山荘での生活をうたった「雪白く積めり」が刻まれており、住民はこの詩など8編を朗読し、故人をしのんだ。
(朝日新聞)
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“先生”の教え心に 高村光太郎命日に詩碑前祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた詩碑前祭と連翹忌(れんぎょうき)法要が2日、59回忌に当たる今年も花巻市内で行われ、参加者が花巻ゆかりの偉人をしのんだ。

 詩碑前祭は、同市太田山口地区の住民らで組織する高村記念会山口支部が毎年主催。同地区の高村山荘敷地内広場で催され、約50人が参加した。

 照井康徳支部長は「来年は高村先生が花巻に来てから70周年で、60回忌の節目を迎える。この機会に先生をしのんでもらいたい」とあいさつ。高橋百花さん(太田小学校1年)と小原律君(同2年)が詩碑に献花し、新渕澄副支部長が祭文奏上した。

 詩の朗読も行われ、上太田子供会が「山の広場」を読み上げたのを皮切りに、花巻高村光太郎記念会の駿河いく子さん、山口支部理事の本館文男さんと高橋新吉さん、太田の区長会が発表。詩碑には光太郎の遺影が掲げられ、参加者が線香を上げて静かに手を合わせた。

 光太郎は1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失。翌月に宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、稗貫郡太田村山口の山荘で7年間暮らした。

 上太田子供会の安倍依織莉さん(同6年)は「山の良いところがたくさん書かれている詩『山からの贈り物』が好き。高村先生は誰にでも優しい人だったと思う。地元にいたことに誇りを持ちたい」と話していた。
(岩手日日新聞)
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連翹忌法要にファンら集う

 連翹忌法要は、光太郎の顕彰活動を続けている花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)が毎年開催。光太郎が花巻で暮らしていた際に妻・智恵子や父母の法要を行った同市双葉町の松庵寺で営まれ、約40人が参列し焼香した。

 小川隆英住職は法話で、子供の頃に見た光太郎の姿を「いつもリュックサックを背負い、どた靴を履いて寺に来た。背が高く手足も大きく、風格があった」と振り返った。ほかに光太郎の随筆「顔」を取り上げて「高村先生は『思無邪』の顔、邪のない心を持った人の顔が一番美しいと言っておられる」と、人のあるべき生き方を説いた。

 献茶をした倉金和子さん(78)=同市下似内=は「高村先生は素晴らしい人。世知辛い世の中になってしまったが、豊かな心や思いやりを大事にしたい」と話していた。

 法要に続いて追悼座談会が開かれ、参加者が光太郎の思い出や作品の感想などを語り合った。
(岩手日日新聞)
 
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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月4日

明治45年(1912)の今日、「光雲還暦記念胸像」の贈呈式が行われました。
 
「光雲還暦記念胸像」。光雲の弟子たち000が発願し、海外留学から帰ってきた光太郎に依頼しました。多分に光太郎の腕試し的な意味合いが強かったようです。
 
それに対し光太郎は見事に応えました。
 
おそらく同じ時期におそらく習作として造った「光雲の首」は現存しており、昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも出品されましたが、「還暦記念胸像」自体は残念ながら現存が確認できておりません。
 
時折、この二つの彫刻を混同している記述があり、困っています。
 
写真は贈呈式の模様。右が光雲、左は光雲の妻にして光太郎の母・わかです。
 

昨日は光太郎の58回目の命日。東京日比谷松本楼様に於きまして、第58回連翹忌を開催いたしました。
 
と、その前に、当方は駒込染井霊園の高村家のお墓にお参りをしました。染井はソメイヨシノの名前の由来となった地だけに、霊園内の桜も見事でした。
 
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さて、5時30分、第58回連翹忌を開会しました。今年も昨年を上回る76名ものご参加を頂きました。
 
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はじめに、光太郎、そして今日までの一年間に亡くなられた関係者の皆様に対して黙祷を捧げました。続いて、永らく連翹忌の運営をされてきた、高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問の北川太一先生のご挨拶。さらに、光太郎の令甥にあたられる高村光太郎記念会理事長・高村規様のご発声により、献杯。
 
その後はビュッフェ形式で料理を堪能していただき、並行してスピーチやアトラクション演奏。
 
まず、日本画家の故・大山忠作氏ご息女にして女優の大山采子さん(芸名・一色采子さん)にスピーチをお願いしました。大山さん、他にご用がおありのところ、駆けつけてくださり、途中までのご参加でした。
 
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昨年、二本松の大山忠作美術館で開催された「五星山」展についてお話下さいました。
 
連翹忌ということで、鮮やかな黄色のお召し物。さすがです。なぜかシャンソン歌手・モンデンモモさんとのツーショット。
 
続いて、吉川久子様によるフルート演奏。吉川様は昨年、横浜で「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」という演奏会を開かれました。今回はそのダイジェスト版をお願いしました。
 
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伴奏は海老原真二さん、三浦肇さん。
 
演奏だけでなく、朗読、さらに光太郎智恵子に対する思いのトークも入り、皆さん、聴き入っていました。
 
その後、時間の許す限り、いろいろな方にスピーチをいただきました。
 
昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関係で、愛知碧南市藤井達吉現代美術館長・木本文平様。
 
昨秋、同館で記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさった、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏。
 
美術館つながりで、信州安曇野碌山美術館・五十嵐久雄理事。
 
昨秋、光太郎も関わる「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催された山梨県立文学館長・三枝昻之氏。
 
光太郎と交流のあった詩人、野澤一関連の書籍『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』を編集なされた坂脇秀治様。
 
与謝野晶子研究の第一人者、逸見久美先生。逸見先生は、昨年の連翹忌にご参加の予定でしたが、その当日に急遽御入院。その後、恢復なされ、一年越しのご参加でした。
 
さらに花巻高村記念会の高橋卓也氏、光太郎の血縁・山端通和様加寿子様御夫妻、詩人の間島康子様、福島二本松智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん、同じく福島川内村草野心平記念館長・晒名昇氏……。
 
スピーチの中に、いろいろ新しい情報もあり、追ってご紹介します。
 
本当はもっとたくさんの方にスピーチを頂きたかったのですが、そうもいかず、残念でした。
 
また、荷物運び、資料の袋詰め、受付、物品販売等で、たくさんの方々にお手伝いいただき、非常に助かりました。
 
泉下の光太郎も、きっと喜んでくれたことと思います。
 
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また、昨日は花巻松庵寺でも花巻としての連翹忌が開催されています。そちらも情報が入り次第、ご紹介します。
 
とにもかくにも、皆様、ありがとうございました。003
 
来年以降も連翹忌の集いは続けられるだけ続けます。新たな方々のご参加もお待ちしております。よろしくお願い申し上げます。
 
また、当会名簿に記載されている方で、昨日ご欠席の方には、配付資料を後ほど郵送します。お待ち下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月3日

昭和59年(1984)の今日、近藤富枝著『愛 一通の手紙 炎の作家15人の愛の書簡集』が刊行されました。
 
版元は主婦の友社。「高村光太郎と妻・智恵子――芸術家の妻の幸と不幸」で光太郎智恵子にふれています。

昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】では、昭和31年(1956)に光太郎が歿したことを書きました。というわけで、今日は光太郎の命日です。光太郎の故郷、東京では日比谷松本楼様で「第58回連翹忌」、戦中戦後の足かけ8年を過ごした岩手・花巻の松庵寺様でも、花巻としての連翹忌の集いが開催されます。
 
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全国の光太郎ファンの皆様、特に今日は、光太郎に思いを馳せていただきたく存じます。
 
日比谷松本楼様での第58回連翹忌については、明日以降、詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月2日
昭和32年(1957)の今日、光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエで第1回連翹忌が開催されました。
 
「連翹忌」の名付け親は、光太郎と親しかった000佐藤春夫、草野心平といった顔ぶれと思われます。昭和31年7月に脱稿した佐藤春夫の『小説高村光太郎像』は、次の一節で終わります。
 
 智恵子のものをもしレモン忌と呼ぶならば光太郎のそれは連翹忌といふべきでもあらうか。二つとも共通にあざやかにすがすがしい黄色なのも一奇である。
 思ふにかの仙女とこの詩人とは、今ころ素中にあつて固く相抱いてゐるであらう。わたくしはこの間、彼等がしばらく同類としてそこに住んでゐた工房の墟を訪れてみたが、そこには壮年の頃の面顔を持つて晩年の口調で語る光太郎を見ただけで智恵子は終に見られなかつた。
 おそらく九十九里の朝あけか、安達原二本松の梢、阿多多羅山や阿武隈川のほとり、往年、光太郎が智恵子の生家を智恵子と並んで見たあたり遠い世の松風の薄みどりに吹かれ漂ふ夕雲の色がレモンにも連翹にも似たものを見出したならばそれが相抱く素中の光太郎智恵子なのであらう。それとも上高地徳本峠の山ふところの桂の木の霜葉の荘厳なもののそよぎのなかにかくれてゐるのでもあらうか。
 
その佐藤も列席して、光太郎が息を引き取った中野のアトリエで、第1回の連翹忌が開催されました。
 
出席者は以下の通り。
 
高村豊周 高村君江 高村規 高村珊子 高村武次 高村美津枝 宮崎春子 宮崎丈二 竹間吾勝 奥平英雄 岡本圭三 小坂圭二 細田藤明 桑原住雄 伊藤信吉 佐藤春夫 草野心平 今泉篤男 関覚二郎 大気寿郎 土井一正 井上達三 海老沢利彦 庫田叕 本郷新 尾崎喜八 尾崎実子 難波田龍起 吉田千代 松下英麿 谷口吉郎 長谷川亮輔 椛澤佳乃子 菊池一雄 黛節子 松方三郎 伊東忠雄 中原綾子 土方定一 知念栄喜 小林梅 北川太一 藤島宇内 中西富江 川口師孝 大柴正彦 沼本効子
 
この中で、58回連翹忌に参加されるのは、光太郎の令甥・高村規氏と、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生のお二人だけです。おそらく他の方々はほとんど鬼籍に入られていると思われます。ただ、その方々の縁者の皆さんのご参加もあり、そういう意味では第1回の連翹忌の魂は連綿と受け継がれています。
 
さて、第58回連翹忌、つつがなく、そして盛会の中に執り行えることを念じつつ……。

今年も光太郎忌日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第58回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には郵送いたしましたので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。
 
第58回連翹忌の御案内
 

                                       
日 時  平成26年4月2日(水
) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  日比谷松本楼
     〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 
 
申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
 当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。
 


ごあいさつ

 この一年は、オリンピックなどの世界をつなごうとする人々の真摯な努力もありましたが、猛暑や豪雪など荒々しい天候や、心痛む世情も続きました。いつも連翹忌にお出かけ下さる皆さん、ことにみちのくの被災者の皆さんには、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいましたか。

 その間にも各地で光太郎生誕百三十年を記念するメモリアルな展覧会が開かれ、十和田裸婦像建立から六十年になるという年にも遭遇して、たくさんの彫刻や智恵子の紙絵が展示されました。じかに二人の作品にふれることによって、心うつ創作、新しい感想や解釈も次々に寄せられています。        

 歴史がもういちど反転しそうな今こそ、その命の軌跡をかえりみ、繰り返し語り合い、語りつぐひと時を、思いを同じくするみなさんと一緒に過ごしたいと存じます。

 今年は更に加えて、最初の詩集『道程』が刊行され、光太郎智恵子が共に棲み始めた大正三年から百年になります。

 運営委員諸君の努力によって、たのしい試みやご報告もたくさんあることでしょう。

 春の一夜を今年も是非お目にかかりたく、お誘い申し上げます。

平成二十六年 春
                                        高村光太郎記念会 事務局長 北川太一


 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月21日001

昭和28年(1953)の今日、詩人・編集者の池田克己の逝去に際し送る弔電のために短歌を詠みました。
 
ワガ ヤマニライカヲモチテイチハヤクタヅ ネコシカレトカタリシコトゴ ト
 
(我が山に ライカを持ちて いち早く 訪ね来し彼と 語ることごと)
 
池田は昭和22年(1947)に、高見順、菊岡久利らと詩誌『日本未来派』を創刊しました。早くから光太郎を敬愛し、昭和19年(1944)に刊行された池田の詩集『上海雑草原』では光太郎に序文を依頼し、戦後は花巻郊外太田村の山小屋を訪れたりもしました。
 
「ライカ」云々は、昭和23年(1948)7月の『小説新潮』グラビアに載った池田撮影の光太郎ポートレートに関わると思われます。

4/2は東京だけでなく、光太郎の第二の002故郷ともいえる岩手・花巻でも連翹忌が催されています。場所は、光太郎ゆかりの寺院・松庵寺さん。

晩年の光太郎が足かけ8年過ごした地ということもあり、花巻にはまだ当時の光太郎を知る方もかなりご存命、花巻の財団法人高村記念会様を中心に、そういう方々の手で花巻連翹忌が続けられています。
 
今年の「天声人語」は別として、東京の連翹忌の様子はなかなか報道されませんが(在京各紙にご案内を出したのですが……)、花巻の連翹忌は地方紙に取り上げられています。
 
『岩手日報』さんの「風土計」。『朝日新聞』さんの「天声人語」にあたる欄でしょうか。 

風土計 2013.4.2

「さあさ田植だ、田植だ田植だ」。高村光太郎の「田植急調子」は1947年に書かれた。花巻・山口で山中独居を始めて2年目の春
▼村の老若男女のにぎやかな農作業を花巻弁で活写する。「のんでくって うんとねて、みりみりかせいで あははと笑へぢや」。きょうは光太郎命日の連翹(れんぎょう)忌。花巻市出身の朗読家谷口秀子さん(東京)から頂いた朗読CDを聴いてみる
▼詩ができた当時、粗末な山小屋で光太郎は自省の日々を送る。戦争賛美の作品を世に送り続けた自らを「暗愚」と呼び「醜を天日の下に曝(さら)すほかない」とまで記した。だが、描いた田植え風景に陰りはなく、喜びと明るさに満ちている
▼光太郎が他界する前年の55年、家族付き合いがあった谷口さんは母と東京の病床を見舞った。その時、朗読を頼まれたのが「田植急調子」だった。読み終えると光太郎は「方言はこれでいいですか」と尋ねたという
▼陽光降り注ぐ花巻の春に深い思いがあったに違いない。「手植えや小昼(こびる)の情景が鮮やかに浮かぶ」と谷口さん。朗読ではカッコウの声も楽しい。沈思の中で生まれた詩は働くことの賛歌、働く者への応援歌に聞こえる
▼各職場に配属された新人の皆さんは緊張に身を硬くしていることだろう。でも大丈夫、「みりみりかせいで あははと笑ふ」日は遠からず来るから。
 
 
『岩手日日新聞』さんでは、連翹忌と、それに先立つ高村山荘敷地内での詩碑前祭も記事にして下さいました。  

「光太郎先生」の足跡回想 花巻で法要、追悼座談会も (04/03)

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせ2日、花巻市双葉町の松庵寺(小川隆英住職)で「連翹忌(れんぎょうき)法要」が行われた。市民ら約30人が参列して遺影に手を合わせ、花巻の地に大きな足跡を残した偉人を回想。終了後は同寺で追悼座談会も開かれ、ゆかりの市民や熱心なファンが、思い思いに故人をしのんだ。

 連翹忌は今回で58回目。光太郎がかつて生活した山小屋=同市太田=の管理などに当たっている高村記念会の主催。法要では一人ひとりが焼香し、法話に耳を傾けた。

 小川住職は「光太郎先生は詩『松庵寺』で、戦禍に遭ったこの寺に触れておられる。『すっかり焼けた松庵寺は 物置小屋に須弥壇(しゅみだん)をつくった二畳敷のお堂でした』という部分は、焼けた寺に残された小屋に作られたお堂」などと、同寺と光太郎の縁を紹介。花巻で質素な生活を送った約7年間については「光太郎先生は、あの山小屋生活で最高の芸術と感動を手にしたのではないか」などと分析した。

 終了後は追悼座談会が開かれ、それぞれが記憶するエピソードや思い出話を披露。「光太郎さんの近所に住んでいた友人が配給米を届けたら、小屋脇のクリの木に『登って(実を)採っていきなさい』と言ってくれた」「宮沢賢治さんの童話劇などに取り組んでいた児童たちに『賢治子供の会』と、名前を付けてくれたのが光太郎さんだった」などの逸話が、次々と飛び出していた。

 光太郎は1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失。同年5月に花巻の宮沢清六さん(賢治の弟)方へ身を寄せ、11月から約7年にわたり山小屋で生活した。  

偉人の思いに心重ね 詩碑前祭〜地元児童が作品朗読

 高村光太郎をしのぶ連翹忌法要に先立ち2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で、詩碑前祭が開かれた。参加者が遺影が置かれた詩碑前で線香を上げたほか、地元児童が光太郎が残した詩を朗読。花巻ゆかりの詩人、彫刻家の遺徳をしのんだ。

 地元子供会のメンバー11人をはじめ、高村記念会山口支部員ら約70人が参加。照井康徳支部長が「きょうは光太郎先生の58回忌。先生がこの地の7年間で残したものを花巻、太田に伝え、引き継いでいきたい」とあいさつした。

 続いて子供たちが「山のひろば」「案内」「山からの贈物」などを朗読。「うしろの山つづきが毒が森。そこにはカモシカも来るし熊も出ます。智恵さんこういうところ好きでしょう」(案内)ほか、光太郎独特の感性と妻・智恵子へ寄せる愛情があふれる作品が、参加者の感動を誘っていた。

 花巻市立太田小学校の高橋妃香瑠さん(6年)は「上手に朗読できた」とにっこり。佐藤陽さん(同)は「『案内』という詩が好き。展望台から見える風景のように描いている所がすごいと思う」と話し、光太郎の作品からイメージを広げている様子だった。

 同詩碑前では、光太郎が花巻に疎開した5月15日に「高村祭」が開かれる。
 
当方、立場上、花巻の連翹忌には参加できませんが、こちらも末永く続けてほしいものです。
 
5月15日の高村祭の件も書いてありますが、今年は翌16日に女優の渡辺えりさんの講演会が花巻で開かれるとのこと。渡辺さんと云えば、お父様が光太郎と交流があり、東京の連翹忌のご常連です。今年は朝ドラの「あまちゃん」の撮影でお忙しかったのか、ご参加いただけませんでしたが……。
 
詳細が入り次第、お伝えします。もちろん当方、高村祭ともどもお邪魔いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月6日

大正8年(1919)の今日、詩話会編『日本詩集』の出版記念会に出席しました。

第57回連翹忌、会の様子は昨日のブログにてアップしました。ご高覧下さい。
 
いろいろな方々にいろいろと語っていただいたりしていただくのと別に、会場内に展示スペースを設けました。展示したものは主に二種類。
 
まずは光太郎直筆のもの。2月のブログで御紹介した短冊、それから新たに見つけた草稿や書簡の類を並べました。新発見の方は、この日刊行になった『高村光太郎研究(34)』中の「光太郎遺珠⑧」で詳細に紹介しております。

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また、現物は手に入らなかったものの、画像を入手できたものはコピーを展示しました。
 
それからもう一種類、この一年で世に出た光太郎智恵子関連の書籍や楽譜(先週髙山佳子様から届けていただいた合唱曲「ほんとの空」など)、CD、DVD、新聞記事、それからさまざまな講演や公演、イベントや展覧会のチラシ、パンフレットの類も展示しました。主にこのブログでその都度御紹介してきたものです。
 
一年間に発行されたものだけで、結構な量になりました。それだけ光太郎智恵子への関心が高いということがわかります。この状態を維持、いや、発展させていきたいと思っています。光太郎智恵子を誰も取り上げないという事態にはならないようにしていきたいものです。
 
ちょっと変わり種として、青森在住の彫刻家、田村進様の制作されたレリーフの巨大画像も展示しました。田村様から送られてきたプリントアウトしたものを両面テープで貼り合わせ、パネルに入れました。
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原画は昭和25年(1950)の1月に雑誌『アサヒカメラ』に載った濱谷浩撮影の光太郎肖像写真です。田村氏はこれをもとにブロンズのレリーフを作成なさったとのこと。

 
繰り返しになりますが、いろいろな分野の方が光太郎智恵子を取り上げて下さっている現状、これをもっともっと発展させていきたいと思っております。ご協力、よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月5日

明治25年(1892)の今日、智恵子の妹、ミツが誕生しました。

智恵子の最期を看取った姪・春子の母にあたります。

4/2は光太郎の命日、連翹忌でした。東京日比谷松本楼様では、午後5時半開会で、第57回連翹忌の集いを開催しました。
 
開会宣言のあと、黙祷を捧げました。もちろん光太郎に。そして東日本大震災で亡くなられた方に、という意味も込めました。連翹忌の関係者で、震災によって亡くなった方もいらっしゃいますので。それから当方の勝手な判断ですが、この一年に震災とは関係なく亡くなった連翹忌関係者の方もいらっしゃったので、そういう方への追悼の意味も込めさせていただきました。
 
続いて、高村光太郎記念会事務局長、北川太一先生のご挨拶。
 
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続いて高村光太郎の令甥で、現在の高村家当主にして高村光太郎記念会理事長の高村規氏による乾杯のご発声。その後、しばしの歓談の時間を取りました。
 
続いて、東北を中心に活動なさっている水墨画家の一関恵美様、ピアニストの齋藤卓子様による、光太郎智恵子をイメージしてのアクションペインティングをご披露していただきました。
 
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斎藤様の奏でるベートーヴェン「月光」、ドビュッシー「月の光」に乗せ、一関様がその場で描かれました。会場からは大きな拍手が。
 
お二人とは昨年知り合ったのですが、早速、今回の連翹忌で大きなお仕事をお願いしてしまいました。快くお引き受け下さり、ありがたい限りでした。
 
その後は恒例のスピーチを何人かの方にお願いしました。主にこの一年間で光太郎智恵子がらみのイベントや出版をなさった方、これからなさる方にお願いしました。
 
名古屋の作曲家で、連作歌曲「智恵子抄」を発表なさった野村朗様。
 

今年、全国3つの美術館巡回で行われる「彫刻家・高村光太郎展」に関し、碧南市藤井達吉現代美術館の木本館長。
 
4/21~22、光太郎の親友だった荻原守衛の碌山忌関連で、信州安曇野碌山美術館長の所賛太氏。
後ほどまた御紹介しますが、4/21には高村規氏のご講演があります。
 
花巻の高村記念館リニューアルに関して、花巻高村記念会の高橋卓也氏。
 
光太郎の詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

 
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福島県川内村で、原発事故にもめげず草野心平関連の顕彰活動を続けられているかわうち草野心平記念館長・晒名昇氏。
 
宮城県女川町で、津波の被害にもめげず女川光太郎祭を続けられている佐々木英子様。

 群馬県立土屋文明記念文学館から、県立高校に異動になったという高村光太郎研究会の佐藤浩美さん。
 
そして、今回、新たに連翹忌にご参加いただいた方を代表し、岩手紫波町からお越しの畠山宏樹氏。お母様が「町の小さな文化館」というコンセプトで、「権三ほーる」という施設を運営なさっているそうです。畠山氏には、晩年の光太郎と縁のあった藤原嘉藤治について語っていただきました。
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ご参会の方全員に光太郎智恵子に対する思いを語っていただきたいのですが、そうもいかず、午後8時、閉会となりました。
 
来年以降も同じく松本楼様で連翹忌のつどいを執り行います。もっともっと、光太郎智恵子を敬愛する皆さんの輪を広げていきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月4日

昭和31年(1956)の今日、東京青山斎場にて光太郎の葬儀が執り行われました。

棺の上には生前の光太郎が愛した連翹の花が一枝。これが「連翹忌」命名の由来となりました。

昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第57回連翹忌の集いを開催しました。ご参会の皆様に助けられ、つつがなく終える事が出来ました。ありがとうございました。
 
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詳しくは明日以降、レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月3日

昭和40年(1965)の今日、銀座資生堂ギャラリーで開かれていた高村光太郎賞受賞者と選考委員による展覧会、「第三回連翹会展」が閉幕しました。

【今日は何の日・光太郎】4月2日

昭和31年(1956)の今日、高村光太郎が数え74歳の生涯を閉じました。
 
というわけで、今日、4月2日は第57回連翹忌です。
 
光太郎の故郷、東京では日比谷の松本楼様で、第二の故郷とも言える岩手・花巻では松庵寺様で、それぞれ光太郎を偲ぶ集いが開かれます。
 
東京では昨年を上回る70名程のご参加申し込みがありました。詳しい様子は明日以降レポートいたします。
 
別件の用事やお体の都合によりご参加できない方も含め、光太郎を敬愛する皆さん、それぞれの場所で光太郎に思いを馳せて下さい。よろしくお願いいたします。
 
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今朝の朝日新聞さんの「天声人語」。新装成った歌舞伎座のこけら落としにからめ、連翹忌の話題を枕に使っています。朝、新聞を開いて驚きました。この記念すべき日に、ありがたいかぎりです。
 
 春を彩る黄色い花、レンギョウの名をもらった「連翹忌(れんぎょうき)」はきょう、高村光太郎の命日をいう。彫刻家で詩人の光太郎は九代目市川団十郎にほれ込んでいた。「明治の劇聖」と呼ばれた人で、東京の歌舞伎座をゆるがぬ存在にした立役者である▼「団十郎は決して力まない。力まないで大きい」と光太郎は称賛した。若い頃、団十郎の舞台に入りびたったというから、初代の歌舞伎座に通ったのかもしれない。時は流れて、五代目となる歌舞伎座がきょう、こけら落としの幕を開ける。光太郎も喜んでいよう▼ 

昨日のブログにて、今年4月2日(火)の第57回連翹忌のご案内を掲載しました。
 
そもそも「連翹忌」とは何ぞや? 歴史をひもといてみます。
 
高村光太郎は、昭和31年(1956)4月2日、東京中野の中西利雄のアトリエで亡くなりました。青森県から委嘱された十和田湖畔の裸婦像制作のため、花巻郊外太田村山口の山小屋から上京したのが昭和27年(1952)秋。裸婦像完成後はまた山に帰るつもりでしたが、健康状態がそれを許さず、ごく短期間、山に帰った以外、(そうした際に少し前のブログに書きましたSL・C-61 20号機を利用した可能性があります)結局は中野のアトリエが終の棲家となりました。
 
葬儀は4月4日、青山斎場に於いて行われました。白屏風の前に置かれた棺の上に、光太郎の甥で写真家・高村規氏撮影の肖像写真と、コップに挿した連翹の花が並べられた簡素な祭壇は、十和田湖畔の裸婦像台座を設計した建築家、谷口吉郎の意匠でした。梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、武者小路実篤、そして草野心平が弔辞を読み、同日、落合火葬場にて荼毘に付されました。
 
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弔辞を読む草野心平
 
光太郎葬儀(棺の上の連翹)
なぜ、連翹の花なのか。生前の光太郎が中西家アトリエの窓の下に咲く連翹を見て、中西夫人に「あの黄色い花は何て言う花なんですか」と問い、夫人が「あれは連翹という花ですよ」と教えたところ、「かわいらしい花ですね」と言ったとのこと。
 
まさに3月末から4月はじめに咲き始める花です。我が家の庭の連翹(かつての連翹忌で光太郎の親友だった水野葉舟のご子息、元建設大臣の水野清氏が御持参されたものを持ち帰り、庭に挿しておいたら根付きました)は、昨年、3月下旬になっても咲かず、やきもきしていましたが3月31日に咲きました。2日には剪って、まず駒込染井霊園の高村家の墓に供え、残りを連翹忌会場・日比谷松本楼に飾らせていただきました。
 
さて、翌昭和32年(1957)4月2日、一周忌の法要を中野のアトリエで執り行うこととなりました。草野心平の書いた案内状が現存しています。
 
  連翹忌 御案内          
 
今年もまた連翹の咲く季節が巡つてきました。四月二日は故高村光太郎の一周忌ですが、この日を連翹忌となづけ、今後ひきつづいて高村さんの思ひ出を語りあひたいと存じます。その第一回の会合に是非御出席願ひあげます。
 場所 中野区桃園町四八 中西家アトリエ(電話 38 七四〇二)
 時  一九五七年四月二日午後五時半
 会費 三百円(当日御持参乞ふ)
  (高村豊周家から色々御寄付があります)
右 発起人一同
 
この時から「連翹忌」の名称が使われ始め、これが第一回「連翹忌」ということになりました。記録によれば参加者47名。今にして見れば錚々たるメンバーです。

高村豊周 高村君江 高村規 高村珊子 高村武次 高村美津枝 宮崎春子 宮崎丈二 竹間吾勝 奥平英雄 岡本圭三 小坂圭二 細田藤明 桑原住雄 伊藤信吉 佐藤春夫 草野心平 今泉篤男 関覚二郎 大気寿郎 土井一正 井上達三 海老沢利彦 庫田叕 本郷新 尾崎喜八 尾崎実子 難波田龍起 吉田千代 松下英麿 谷口吉郎 長谷川亮輔 椛澤佳乃子 菊池一雄 黛節子 松方三郎 伊東忠雄 中原綾子 土方定一 知念栄喜 小林梅 北川太一 藤島宇内 中西富江 川口師孝 大柴正彦 沼本効子

席上、詩人の佐藤春夫が黒い手帳を取り出し、次の短歌を披露しました。
 
れんげうにかなしみのいろあらたなり きみゆきてよりひととせをへぬ
 
以後、一ツ橋如水会館、銀座資生堂パーラーなどに会場が変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼に会場が落ち着き、今日に至っています。日比谷松本楼は、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べた店です。
 
一昨年は東日本大震災直後ということもあり、東北方面からの参加が不可能、計画停電等の心配もあり、集まりは中止となりました。しかし、募った参加費のうち一部を東北への義援金として回し、それをもって第55回連翹忌としました。また、特に声かけはありませんでしたが、足が確保できる人は三々五々、駒込染井霊園に墓参に行きました。当方も連翹の花を供えに行きました。
 
昨年は2年ぶりの集まりとなり、57名が参加。2年ぶりということで、久闊を序する姿が会場のあちこちで見受けられました。
 
光太郎へ、そして女川光太郎の会事務局長であった故・貝廣氏をはじめとする東日本大震災で亡くなられた方々へ黙禱を捧げ、義援金の報告等が行われました。その後、高村光太郎記念会事務局長・北川太一氏の御挨拶、同理事長の高村規氏の発声による乾杯と続きました。
 
その後、しばしの歓談の後、一昨年、昨年と、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」の公演をなさった渡辺えり様率いる劇団「おふぃす三○○」の皆様による光太郎詩「旅にやんで」「葱」「月にぬれた手」の朗読の後、恒例のスピーチをお願い致しました。
 
まずは震災の関係もあり、東北の皆様にそれぞれの地の現状等を語っていただきました。
 
さらに一昨年に開催された光太郎関連行事のご報告ということで、鎌倉笛ギャラリーの山端通和様には「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情」展について、群馬県立土屋文明記念文学館の佐藤浩美様には、企画展「『智恵子抄』という詩集」についてご報告いただき、光太郎・智恵子に関する著書を新たに刊行された(刊行される)方々にも一言いただきました。
 
また、生前の光太郎を知る、鋳金家で人間国宝の斎藤明様には、光太郎に関する貴重な思い出をご披露いただきました。
 
今後も、光太郎・智恵子を敬愛する皆様のネットワークの総本山として、連翹忌を続けて参ります。新たな方々の御参加もお待ちしております。皆様方のお力で、光太郎・智恵子を敬愛する人々のネットワークをさらに拡げていただきたいものです。ご参加お申し込み、お待ちしております。
 
【今日は何の日・光太郎】2月13日

昭和54年(1979)の今日、十和田湖畔の裸婦像台座や光太郎葬儀の祭壇を設計した建築家・谷口吉郎の葬儀が、光太郎と同じ青山斎場で行われました。

今年も光太郎忌日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第57回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には郵送いたしましたので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。
 



第57回連翹忌の御案内
 

                                       
日 時  平成25年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山弘明
 
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 申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
 当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。
 

ごあいさつ

 新しい年度の連翹忌も、もう間近になりました。この一年を顧みても随分沢山の出来事が、世界のあちこちで起こりました。世情の混迷のみならず、自然現象の異常も数え切れないほどです。いつもお目にかかる皆さんの身辺にお変わりのないことを、心からお祈りしております。

 しかしそんな時でも、今年で生誕百三十年を数える高村さんへの関心はますます強く深く、昂まっております。この集まりを推進する委員の人々の新資料発掘や研究会の研究誌続刊の努力は勿論、次々に公刊される印刷物や音楽などの公演、展覧会の開催等々はこれからも続くでしょう。花巻の高村記念会は新しい再生を迎えようとし、青森の彫刻家田村進氏によって力ある光太郎像も誕生するはずです。

 これは私ごとですが、あの東日本大震災の三月を含めて未だに運動不自由ななか、初めて女川に運んで下さった仲間の皆さんに感謝します。その私も数え年で八十九歳です。四月二日には是非お目にかかって、たくさんのお話をお聞きするのが楽しみです。

平成二十五年二月吉日
                               北川太一

【今日は何の日・光太郎】2月12日

明治44年(1911)の今日、浅草「よか楼」で開かれた「パンの会」に出席しました。
 
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平成24年(2012)4月2日、東京日比谷の松本楼において、第56回連翹忌が行われました。昨年は震災の影響で集まりは中止、こうして皆さんとお会いするのは2年ぶりとなりました。
 
まず、一昨年の連翹忌まで、毎回元気に参加なさっていた宮城・女川光太郎の会の貝廣さんをはじめ、震災で犠牲になられた方々への黙祷。
 
乾杯のあとは、各地で活躍される方々からスピーチをいただきました。
 
高村光太郎記念会事務局長にして当会顧問をお願いいたしました、北川太一先生
女川光太郎の会の笠松さん、佐々木さん
岩手・高村記念会の高橋さん
光太郎・智恵子を主人公とした舞台「月にぬれた手」を上演される女優の渡辺えりさんとお仲間のみなさん
長野・碌山美術館の武井さん
昨年、「北川太一とその仲間達」を上梓された文治堂書店さん
やはり昨年、文治堂書店さんより力作「高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥」を刊行された高木馨さん
今年、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を刊行される坂本富江さん
光太郎のご親族で、鎌倉でギャラリー笛を開かれている山端ご夫妻
生前の光太郎を知る鋳金家・人間国宝の斎藤明先生
オペラ「智恵子抄」等でご活躍の歌手・本宮寛子さん
福島・智恵子のまち夢くらぶ熊谷さん
 
他にも大勢の方にスピーチをいただきました。ありがとうございました。
 
来年の第57回連翹忌も、どうぞよろしくお願いします。

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