カテゴリ: 連翹忌の集い

当会として最大のイベント、高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、忌日である4月2日(水)、下記の通り実行いたします。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

                                     

日 時  令和7年4月2日(水) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線・京浜東北線 有楽町駅 日比谷口
     地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅 A14 出口
     地下鉄日比谷線・丸ノ内線 霞ヶ関駅 B2 / B1A / B3A 出口
松本楼地図
会 費  12,000円(含食事代金)

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替 郵便局備え付けの同封の払込取扱票にて郵便局よりお願いいたします。
       ATM、窓口にて取り扱い可能です。
       申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。

       ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(日)までにご連絡頂ければ、
 後日、返金いたします。

 参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
 事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

 複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
 参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
 4月1日(火) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
 残部は欠席の方等にお送りいたします。
 公序良俗に反するものでなければ特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
 当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
 書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

 当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いをお願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。当方、午後3時頃には会場入りしております。

当日備考
    着座ビュッフェ形式にて執り行います。ドレスコードは特に設けておりません。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子にインスパイアされた美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋のまはりはもう一尺ほどつもつた雪で美しい冬景色になり、毎朝小鳥が訪れて来ます。

昭和26年(1951)11月30日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で過ごす最後の冬が始まりました。

昨日は光太郎忌日、第68回の連翹忌でした。『東京新聞』さんで取り上げて下さいました。
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午後5:30から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷公園松本楼さんにて、全国の関係の方々に集まっていただき、集いを催しました。
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その前に、毎年のルーティンですが、晩年の光太郎に親炙し、その歿後は永らく連翹忌を主宰なさっていた故・北川太一先生と奥様の節子先生のお墓に詣でました。文京区の浄心寺さん、桜のお寺として有名です。
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さらに都立染井霊園の髙村家墓所に参拝。それぞれのお墓に連翹の花を手向け、香を焚き、「本日、第68回をやります。」とご報告。
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染井霊園の桜。
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そして日比谷公園。
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集いの開会は午後5:30の予定でしたが、その前に配付資料の袋詰めや参会の皆様のネームプレートなどの準備。多くの方々にお手伝いいただきまして、スムーズに進みました。感謝に堪えません。

光太郎遺影をセット。
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毎年、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏撮影およびプリントの写真を、北川先生から受け継いだ当方が持参して飾っていたのですが、昨日は愛車に積み忘れ、「やべっ」(笑)。それに気づいたのが浄心寺さんで車内から線香をガサガサ探していた時で、慌てて規氏子息の達氏に「面目ありません、遺影を置いてきてしまいましたので、お宅にあれば持ってきて下さい」とメール。幸い、立派な額装のものをお持ち下さいまして、ことなきを得ました。

さて、開会。当方の開会宣言の後、光太郎に、そしてこの一年に亡くなられた関係の皆様に、黙祷。続いて、達氏に音頭を取っていただいて、献杯。
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ビュッフェ形式にて会食。
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お集まりいただいた70余名の皆様の中から、10名ほどにスピーチをお願いいたしました。

トップバッターは女優・一色采子さん。令和3年(2021)同4年(2022)、北條秀司作の「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を務められました。お父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数。采子さんが名誉館長を務められる二本松の大山忠作美術館さんで、画伯渾身の大作・成田山新勝寺さんの襖絵を今秋展示されるということで、その宣伝。
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二本松で活動されている智恵子の顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」熊谷代表。今年度の顕彰活動予定を。
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ちなみに昨日、東北新幹線が工事用車両の故障とかで大幅にダイヤが乱れ(JR東日本さん、最近グッダグダですね。企業体質として何か大きな問題があるのではないでしょうか)、同会の皆さん8名もご参加いただきましたが、在来線で上京なさったとのこと。大変でした。

今年元日の能登半島地震で大きな被害のあった富山県からいらしてくださった、茶山千恵子氏と森寛子氏。茶山氏は今秋、「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうで。
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花巻高村光太郎記念館さんの梅原奈美館長。北東北の皆さんは昼頃復旧した新幹線で来ることができたそうです。
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中国からの留学生の唐昆宇さん。一橋大学さんで光太郎について学ばれているそうで。素晴らしい!

この3月で神奈川県立近代美術館館長を退任なさった水沢勉氏。
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早世した荻原守衛を除き、唯一光太郎が高く評価した同時代の彫刻家・高田博厚を顕彰する活動を進められている埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏。

昨年、中野区で開催された朗読公演「くつろぎの朗読」で「智恵子抄」を朗読して下さった出口佳代氏。それからやはり昨年、横浜で「智恵子抄」を箏曲で演じられた元井美智子氏。
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智恵子や荻原守衛も学んだ太平洋画会(現・太平洋美術会)の坂本富江氏。同会、今年で創立120周年だそうです。
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そして、お父さまが光太郎と交流がおありだった、ご存じ渡辺えりさん。
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えりさんには昨年に引き続き光太郎詩朗読もお願いしておきました。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった中野の中西利雄アトリエ保存運動にも関わっていただいておりますので、その中野のアトリエで作られた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)。やはり中野のアトリエで作られた生涯最後の大作「乙女の像」に寄せた詩です。
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それを受けて、日本詩人クラブの曽我貢誠氏。アトリエ保存運動の中心メンバーで、その件を熱く語って下さいました。あまりに熱き語り口で、写真を撮るのを忘れてしまいました(笑)。
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さらに同じ件で、やはり保存運動に関わられている櫻井美佐氏。光太郎実弟・豊周の令孫です。直接生前の光太郎をご存じのお母さまはご存命ですが、連翹忌にはしばらくいらしていません。

そんなこんなで午後8:00、予定通り閉会。

たくさんの方々のご協力により、つつがなく終えることができました。ありがとうございました。

先日も書きましたが、昨夜は連翹忌史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなりました。そして中野のアトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるところです。

今後とも皆様方のご協力を仰ぎつつ、顕彰活動を進めて参ります。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

東京はもう春になつた由、こちらはまだですが、雪の下からフキの花が出てきました。此辺ではバツケと言ひます。


昭和22年(1947)4月6日 髙村珊子宛書簡より 光太郎65歳

当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、都内の実姪に送った絵手紙の一節です。
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今年も4月2日、光太郎の命日が巡って参りました。

朝鮮戦争による特需景気、その後の神武景気を経て、前年のGDPが戦前の水準を上回り、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言し、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞受賞、「太陽族」の語が流行語となった昭和31年(1956)。その4月2日(月)、不世出の巨人・高村光太郎は天然の素中に還っていきました。

その終焉の地、中野区の中西利雄アトリエの大家(おおや)だった中西夫人、故・富江氏の回想。

 先生が私の家に来られたその翌年の正月、十和田湖の彫刻の仕事に打込んでいられた時のことでしたが、ちようど正月の仕事始めをなさるその日に雪が降りました。「これは縁起がいい」と先生がつぶやかれたのを覚えています。雪の白さに先生は天啓のようなものを感じられたのでしょうか。子どものころ雪が降ると湧きたつたあのうれしさ楽しさ、そんなものを先生はやはり心のどこかにもつていられたに違いありません。
 そして、あの四月二日未明は十何年ぶりとかの春雪にこの地上は祝福されていたのでした。先生のいわれたあの言葉。縁起がいいというあのお言葉のままに、先生は白い清らかな雪に迎えられて、この地上から旅立たれて行かれたのでした。
 あの時、アトリエからのベルに飛び起きました。あまりの衝撃に私は気を失わんばかりでした。膝はガクガクふるえ、羽織を着る手もふるえて手間どつたように思い出されます。廊下から飛び出すようにして雪に包まれた庭を敷石伝いに走りながら「どうかご無事でありますように」と心の中で私は祈り続けました。
 アトリエに入ると、看護婦さんが、私をみるなり「もう駄目ですよ」と言いました。それは暗い暗い深いおとし穴に突き落とされた瞬間でした。
 ベッドにかけつけた時の先生のお痛ましいお姿、前の晩から、よほど苦しかつたとみえて、酸素吸入をしたいとご自分から云い出された先生。吸入器をつけて、ずい分お苦しかったことでしよう。
 かすかな息づかいの中で……あのひと息ごとにうなるようにしていられた声も今は立てられず……それから間もなく本当に静かに、素直に、大きな自然の中へ帰つて行かれたのでした。
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 いよいよ重態になられてからも、看護婦さんや家政婦さんの喰べるものまでも心配されていたことなど、最後まで意識がはつきりしておられた先生のお言葉が未だに私の脳裡をはなれません。
 あれからもう一と月経ちました。高村先生がお好きだつたれんぎようの美しい花もすつかり散り、燃えるような新緑が五月の風にそよいでいます。母屋からアトリエに通ずる庭の石ダタミの道。お元気だつたころは、よく夕方、母屋でお湯を使つてから、タオルと石ケンを片手に、ゆらりゆらりとアトリエに帰つて行かれるその後姿が、まるで昨日のことのように思いおこされます。……その道も今は樹々の緑におおわれて、緑のトンネルのようになつています。私の心の中で、肩を落として背を丸められた丹前姿の先生が小さく……だんだん小さく緑の中に遠ざかつて行きます。
 尾崎喜八さんが弔辞の中でお話しになつたように、もう一度こちらを振返えつて、あの大きなお手をふつて下されば……などと時折考えたりいたしております。
(「中野アトリエの高村先生」 『高村光太郎と智恵子』草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959) 
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胸打たれる文章ですね。

1年後の昭和32年(1957)4月2日(火)、記念すべき第一回連翹忌も、終焉の地・中西利雄アトリエで行われました。以後、いろいろな場所に会場を変え、平成11年(1999)の第43回から、現在と同じ、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんでの開催となっています。

本日も午後5:30開会で、全国から光太郎智恵子を敬愛する方々70名超にお集まりいただき、連翹忌の集いを開催いたします。

昨年、コロナ禍も漸く沈静化し、4年ぶりに第67回連翹忌を開催致しましたが、今年もつつがなく執り行うことができそうで、喜びに堪えません。

今回の連翹忌は、その史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなります。そしてやはり今回、光太郎終焉の地にして記念すべき第1回連翹忌会場となった中野区の中西利雄アトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるのかと考える次第であります。

皆様方におかれましても、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ幸いに存じます。

【折々のことば・光太郎】

もう雪解の季節になりました。今日は猛烈な風で山林が鳴動してゐます。

昭和22年(1947)4月2日 安藤一郎宛書簡より 光太郎65歳

ちょうど亡くなる9年前、当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの発信です。

昨年、コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を4年ぶりに開催いたしましたが、今年も下記の通り実行できる運びとなりました。お誘い合わせの上、ご参加下さい。


日 時  令和6年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線 京浜東北線 有楽町駅  地下鉄日比谷線 千代田線 三田線 日比谷駅下車
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会 費  12,000円(含食事代金)
           諸物価異常高騰の折、申し訳ありませんが改訂させていただきました。

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替
  「払込取扱票」にて郵便局よりお願いいたします。
   ATM、窓口にて取り扱い可能です。申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。
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  ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(土)までにご連絡頂ければ、
  後日、返金いたします。

  参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
  事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

  複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
  参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

  ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

配布物について
  会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
  4月1日(月) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
  残部は欠席の方等にお送りいたします。公序良俗に反するものでなければ
  特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
  当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
  書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

  当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いを
  お願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。
  当方、午後3時頃には会場入りしております。
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着席ビュッフェ形式で行います。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

作品は殆ど失ひましたが小生の内に生きてゐる彫刻はやがて姿をあらはして来るでせう。山に来てから準備はしてゐますがまだ資材が整はないので彫刻の仕事はちつとも進みません。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んでほぼ1年。まだこの時期は山小屋で彫刻制作をするつもりだったようです。しかし、その後、自らの戦争責任を悔悟する中で、自らへの最大の罰として、彫刻制作を封印するに至ります。

昨日は光太郎の忌日、第67回の連翹忌でした。

コロナ禍のため、3年間中止していた日比谷松本楼さんでの集いを4年ぶりに再開。盛会のうちに終えることが出来ました。レポートいたします。

会場入りする前に、まずは当会元顧問で、昭和32年(1957)の第1回連翹忌から会の運営に永らくたずさわられた、故・北川太一先生(令和2年=2020没)と、奥様(同4年=2022没)のお墓に参拝。文京区向丘の浄心寺さんです。
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「4年ぶりにやります」と、ご報告。

続いて都立染井霊園の高村家墓所に。

ソメイヨシノ発祥の地ですが、すでに桜は盛りを過ぎていたものの、まだ咲き残っていました。
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高村家の墓所近くでは、以前は黒猫2匹をよく見かけたのですが、今年はキジトラ系が。
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既にご遺族の方が参拝されたあとだったようで、香華がたむけられていましたが、持参した連翹を追加し、香も。
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こちらでも「4年ぶりにやります」とご報告。

さて、日比谷公園に。こちらの松本楼さんが、集いの会場です。かつて光太郎智恵子が今も饗されている氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」大会の会場としても使われた老舗洋食店です。連翹忌の集いの会場としては、平成11年(1999)から使わせていただいております。
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早く着いてしまったので、近くを散策。桜はやはり盛りを過ぎていましたが、咲いているのが見られる最後の週末でしょう、多くの花見客が。
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松本楼さんエントランスの掲示板、4年ぶりに「連翹忌」の文字。これを見ただけでうるっと来てしまいました。
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泉下の光太郎も喜んでくれていたと信じたいところです。
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5時30分開会でしたが、文書でお願いしたところ、3時頃には、太平洋美術会さんの坂本富江様はじめ、多くの皆さんが駆けつけて下さり、資料の袋詰め等、お手伝い下さいました。中には今回初めてご参加の方も。感謝に堪えませんでした。

さて、開会。

光太郎、そして、4年の間に亡くなった関係の方々へ、ということで黙祷。続いて高村家ご当主にして、光太郎実弟・豊周の令孫の髙村達様の御発声で献杯。

2月に告知をした段階では、4年ぶり、さらにコロナ禍もまだ完全に終わったわけでもないということもあって、どれだけ集まって下さるか心配していたのですが、蓋を開ければコロナ禍前と同様、70名超の皆さんがお集まり下さいました。
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ただ、直前になって御家族にコロナ感染が出たということでキャンセルされた方、ご高齢のため出て来られないという方もけっこういらっしゃいましたし、何より、北川先生御夫妻をはじめ、この4年の間に亡くなったご常連の方々も多く、その点が残念でした。

その後、ビュッフェ形式で会食をしつつ、歓談。合間に何人かの方にスピーチを賜りました。

北川先生令息・光彦氏、女川光太郎の会の佐々木英子様(今年は8月の女川光太郎祭も復活するそうです)、光太郎第二の故郷たる花巻市の松田副市長、同じく花巻で活動されているやつかの森LLCの藤原代表(オリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」の件等、お話しいただきました)、今回唯一生前の光太郎をご存じの深澤様(画家の深沢省三・紅子夫妻令息の故・竜一氏夫人。代理でご令嬢にエピソードを語っていただきました)。
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光太郎の親友・水野葉舟令曾孫にして、やはり光太郎と親しかった尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏、光太郎の影響で彫刻家となった高田博厚の顕彰に埼玉県東松山市で当たられている同市教委の柳沢様、日本詩人クラブの曽我様、詩人・吉野弘ご令嬢の久保田奈々子様、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館の元学芸員・小野様碌山美術館長・幅谷様、そして富山県で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子様。

それから、劇作家・女優の渡辺えりさん。戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流のあったお父さまのエピソードを語られ、さらに光太郎詩の朗読をお願いしておりましたので、熱演して下さいました。
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バックでピアノ演奏を、作曲家の朝岡真木子様にお願いしました。過日、えりさんから突然電話がかかってきて「朗読だけじゃさびしいから、誰か、ピアノをポロロロンって弾ける人、いない?」。無茶振りです(笑)。無茶を承知で朝岡様に電話したところ、快く引き受けて下さいました。多謝。

元々、朝岡様には、メゾソプラノの清水邦子様に朝岡様作曲の「組曲 智惠子抄」から抜粋で歌っていただく伴奏をお願いしていまして、「ついでというと何ですが……」とお願いした次第です。

その清水様、朝岡様の演奏。「組曲 智惠子抄」から「人に」。さらに今回ご参加いただいた詩人の柏木隆雄氏作詞の曲も。柏木氏、たまたまですが、ご実家が当方自宅兼事務所近くの最中屋さんです。
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名残惜しいところでしたが、これにて閉会とさせていただきました。

4年ぶりということで至らぬ点も多々あり、申し訳なく感じる次第ですが、皆様方のお力添えで、4年ぶりの集いを開催することができ、感無量でした。

コロナ禍の日々は、当たり前の日常が当たり前に続くとは限らないということを知らしめたという意味では意義のあった日々だと存じます。以前は「さて来年もがんばろう」と、当然のように翌年も出来ると決めてかかっていましたが、今年は「来年もまたつつがなく開催できますように」と、切に願うばかりです。

以上、第67回連翹忌レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

自分の感情をごまかしてしまふのは随分いやだから何でも積極的にやらうと今は思つてゐる。

明治45年(1912)2月12日 津田青楓宛書簡より 光太郎30歳

などと言いつつ、1ヶ月半前に初めて会って、好感情を抱いた智恵子に対しては、「自分の感情をごまかしてしまふ」部分が多々ありました。新しい芸術をこの国に根付かせるため、父・光雲の関係する範囲から距離を置くことで、苦労することになるのが目に見えている自分の生活に智恵子を巻き込みたくないと、それはそれで無責任な言動ではないので評価されるべきでしょうが。

今日、4月2日(日)は第67回連翹忌です。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受けた中野の貸しアトリエで、宿痾の肺結核のため光太郎が亡くなったのは、昭和31年(1956)4月2日の早暁。前日から都内は季節外れの大雪にすっぽりと包まれていました。
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戦時中から光太郎と親しかった美術史家・奥平英雄の回想「晩年の高村光太郎」から。

 次の土曜日、すなわち三月二十四日の午後、私はいつものように勤めの帰りに彼を見舞った。すると令弟高村豊周夫婦をはじめ草野氏、岡本・関両医師、駒込病院長などが詰めていて、アトリエの様子が一変していた。聞くと光太郎は十九日の夕方喀血して容態遽かにあらたまったとのことだった。病室には見なれぬ看護婦がいて光太郎の脚をさすっていた。私が光太郎に顔を近づけると、「ぼくの心臓は強いんだそうだ。弱いんだと三、四分で楽になれるんだけどなあ」と低い声でいった。私が悄然と立ちすくんでいると、彼は昏々と眠りに入ったようだったが、また目をさまし私の姿を見つけると、「ああ、まだそこにいたの」といった。そしてこれが私に遺した光太郎の最後の言葉となった。
 それから後、アトリエをとりまく様子がにわかに変った。医師たちの手であらゆる治療の手がつくされると同時に、重態と聞いてかけつける人が多くなった。私も連日のように、訪ねるか電話で問い合わせたりしていたが、今日は遠来の見舞客で病人もひどく疲れているとか、われわれは遠慮して病室にいくのは控えようという声を聞いては、病室にはいっていく勇気も失ってしまった。そして中西家の母屋にいて、中庭をへだてたアトリエを望みながら、私は終始いらいらしていた。その当時の日記を開いてみると、いいいよ絶望ということを聞き、私は次のような走り書きをしている。「昨夜、先生ノコト気ニカカリ眠ラレズ。先生ノ最後ガ見トリタイ、一日一分デモ先生ヲ見タイ、先生ノ最後ノ姿ガ見タイ、ソノ声ガ聴キタイ……」
 喀血は一時やんだかに見えたが、四月一日にふたたび大喀血が起こり、二日の午前三時四十五分、四月の雪の激しく降る中を彼はついにこの世を去った。中西家の知らせで駆けつけた私は、ひっそりと静まり返ったアトリエの中にはいっていった。そして光太郎の顔から白い布をとったとき、私はその詩の顔を実に静かな美しい顔だと思った。生前あれほど彼を苦しめた胸の痛みからも、苦しみの連続だと語った人間の生涯からも、いまやっと彼は死んで解放されたのだと思った。
 私がこれまでしばしば見てきた光太郎の顔は、魂の底に深い孤独の影をたたえたような、謹厳な中にも悲愴のにじんだ顔であった。私はそうした彼の顔に惹かれてきたが、いまここに見る光太郎の安らかな死顔は、生前の顔とはまた別な、実におだやかな美しさをたたえていた。私はいまこそ高村光太郎は、平安な天に還っていったのだと思った。そう思って彼の前に掌(て)を合わせた。


1年後の昭和32年(1957)4月2日、草野心平や、当会顧問であらせられた北川太一先生らの呼びかけで、その終焉の地となった貸しアトリエを会場に、第1回連翹忌の集いが開催されました。

以後、集いはその会場や形態を変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)の第43回から、会場を日比谷松本楼さん(光太郎智恵子が名物の氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」会場にもなった老舗洋食店です)に移しました。

平成23年(2011)には東日本大震災直後だったため、集いは中止。そして令和2年(2020)から昨年までは、コロナ禍のためやはり集いの開催を見送りました。集いは中止としても、当方が代表して墓参したりで、カウントは続け、本日が第67回連翹忌です。今年は4年ぶり、令和に入って初めての開催となります(2019年は改元直前で平成31年でしたので)。光太郎生誕140年という節目の年に、4年ぶりに志を同じくする人々が集まり、光太郎を偲ぶことが出来るのを、無上の喜びと存じます。ステイホームの日々は、志を同じくする人々があたりまえのように集えることが、実はあたりまえでなどでなく特別なことなのだと、思い知らされた日々でもありました。

しかし残念なのは、この4年の間に、北川太一先生御夫妻をはじめ、関係の方々の訃報が相次いだこと。詳しくはこのブログの「お悔やみ」カテゴリーをご覧下さい。今日の集いは、そうした方々への追悼の意味も込めた特別な集いと位置づけたいと存じます。

集いの様子については、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

Je suis Japonais. Et, j'ai commencé d'aimer profondément votre art dès que j'ai trouvé dans vos ouvrages en l'exposition du Salon d'Automne en 1908 (C'était la première fois que je voyais vos toiles et bronzes) quelque chose si précieuse, si essentielle, que je ne pouvais pas trouver dans toutes les écoles des arts contemporaines en l'Europe.
 Mais, je n'avais pas le courage d'oser vous visiter, pendant ma séjour à Paris.
 Maintenant, je suis si loin de la France et je ne peux plus voir votre ouvrages.
 J'envie de recueillir les reproductions des vos tableaux et statuettes, et je vous prie que vous voulez bien m'informer le photographe chez qui je les pourrais acquérir.

明治45年(1912)1月10日 アンリ・マティス宛書簡より 光太郎30歳

邦訳は以下の通り。

私は日本人です。そして1908年のサロン・ドートンヌの展覧会におけるあなたの作品に(私があなたの絵とブロンズ彫刻を拝見したのはその時が最初でした)、ヨーロッパの同時代芸術のいかなる流派にも見いだすことができないような、何かとても貴重で、とても本質的なものを見出した時以来、あなたの芸術を深く愛し始めました。
しかしパリ滞在の折には、あなたをお訪ねする勇気がありませんでした。
現在、フランスからかくも遠く離れて、私にはもはやあなたの作品を見ることが叶いません。
私はあなたの絵や小彫刻の複製を集めたいと思っています。そこで、あなたの作品の複製を手に入れることのできる写真家をご教示いただければ幸いです。

光太郎の要請に対し、マティスからは作品の写真が贈られ、翌年の雑誌『白樺』の口絵に使われました。

コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、感染対策を施した上で4年ぶりに下記の通り開催致します。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログコメント欄等までご連絡下さい。郵送いたします。コメント非公開希望の方はその旨お書き添え下さい。

                                     
                                        
日 時  令和5年4月2日(日) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
            JR山手線・京浜東北線 有楽町駅 地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅下車

松本楼地図
会 費  11,000円(含食事代金)

御参加申し込みについて

 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
 基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

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 ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。
 申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 ご送金後、急な御都合でご欠席の場合、3月30日(木)までにご連絡下さい。
 後日、返金致します。
 当日、会場でも参加受付を致しますが、座席等確保のため、事前のお申し込みをお願い致します。
 当日お申し込みの場合も、名簿等作成の都合上、事前に連絡いただきたく存じます。
 事前連絡があれば会費納入は当日に現金でも結構です。
  
 複数名の方で御参加の場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、参加なさる方のご氏名をあらかじめお知らせ頂ければ幸いです。


配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配布をご希望の方は、150部ほどご用意頂き、3月31日(金)必着にて下記までご送付下さい。当日、皆様に配布致します。残部は当日欠席の関係各位に送付いたします。特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構ですが、公序良俗に反するもの、配付する価値を認めがたいもの等はお断りいたします。当日、御持参頂く場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。

 〒100-0012東京都千代田区日比谷公園1-2日比谷松本楼 連翹忌宛 (必ず明記) tel 03-3503-1451

当日、お時間に余裕のある方には配付資料袋詰め等をして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場に入って居ります。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

また、中止としておりました間、当会顧問であらせられた北川太一先生御夫妻をはじめ、多くの関係の方々の訃報が相次ぎました。それらの方々の追悼も兼ねた催しとさせていただきます。

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

前にボーグラム先生より今年の成績の賞として、七十五弗をもらひ候間、旅費は早速出来候。


明治40年(1907)5月(推定) 東京美術学校校友会宛書簡より
光太郎25歳

昨日のこの項でご紹介しましたが、ニューヨークの美術学校「アート・ステューデント・リーグ」で翌年度の授業料免除の特待生に選ばれた光太郎。しかし、次なる目的地、ロンドンへ渡ることにしており、授業料免除の特典が無駄に。すると、同校で教鞭を執り、かつて光太郎を助手に雇ってくれた彫刻家・ガッツオン・ボーグラムが、免除分を現金で支給するという配慮をしてくれました。そのため大西洋を渡る船賃が出来、渡英することとなります。

昨日は光太郎忌日・連翹忌。かつて日比谷松本楼さんで開催していた集いは、コロナ禍のため、3年連続の中止と致しましたが、それに代わり、皆様方を代表して当方が都立染井霊園の光太郎奥津城に墓参して参りました。

ここ数年、4月2日は平日だったのですが、昨日は土曜日。そこで、霊園の駐車場はいっぱいで、仕方なく少し離れた有料駐車場に愛車を駐めて、霊園まで歩いて戻りました。
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この地はソメイヨシノ発祥の地、さらに今年は昨年あたりと比べると開花の時期が遅かったため、満開の状態でしたので、花見的に訪れている方も多いようでした。
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髙村家墓所。以前にもお見かけしたのですが、近くにお住まいの方々のようで、ご高齢の方々のグループがお参りなさっていました。さらに草むしり等なさってくださっていました。
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当方も香華を手向けて参りました。花は、自宅兼事務所の庭に咲く、66年前に光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の「子孫」です。
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「先祖」の連翹は、昭和31年(1956)4月4日、青山斎場で行われた光太郎葬儀の際、愛用のビールのコップに一枝挿され、供えられました。
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毎年のように書いていますが、来年こそは、日比谷松本楼さんでの集いを復活させ、皆様方と久闊を叙し、共に光太郎やゆかりの方々を偲びたいものです。そうかと思うと、またぞろコロナ感染者数、無気味にじわりと増加中とのこと……。やれやれ……といった感じです。

染井霊園を後に、文京区の浄心寺さんに愛車を向けました。一昨年来、ルーティーンとなっておりますが、一昨年一月に亡くなった、当会顧問であらせられた、北川太一先生の墓参のためです。
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浄心寺さん、別名を「桜寺」といいます。ただ、ソメイヨシノではなく、もう少し早く咲く種類の桜がメインです。昨年はほぼ散ってしまっていましたが、今年はまだ咲き残っていました。

散った花びらは絨毯のようでした。
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この少し前くらいだったと思うのですが、光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋敷地内の光太郎詩碑(地下に光太郎の遺髯が埋納されています)では、地元の方々(生前の光太郎をご存じの方も含まれます)が手を合わせてくださいました。

現地からの画像がこちら。
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以前ですとこの後、午後には花巻市中心部の光太郎ゆかりの寺院・松庵寺さんで連翹忌法要でしたが、そちらもこの3年間、コロナ禍のため執り行われていません。

本当に、来年こそは、と、願わざるを得ませんでした。

この後、上野の東京藝術大学大学美術館さんにて、「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」を拝観いたしましたが、また後ほどレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

弘さんの犬かへり去らず、夜に至る、


昭和27年(1952)9月20日の日記より 光太郎70歳

「弘さん」は、光太郎の山小屋近くの開拓地に入植した青年。この日、光太郎の山小屋を訪れ、光太郎に頼まれていた卵を届けて帰りましたが、その飼い犬がなぜか飼い主について帰らず居座ったとのこと。微笑ましいエピソードですね。

本日、4月2日(土)は、第66回連翹忌です。宿痾の肺結核のため光太郎が歿したのは、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分。東京は季節外れの大雪でした。翌年に第1回の連翹忌の集いが、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエで開催されました。そこから数えて、今年は66回目の忌日です。

光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催を続けていた連翹忌の集いは、平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、一昨年の第64回、昨年の第65回とコロナ禍のため、それぞれ中止。今年こそはと思っていたのですが、結局、コロナ感染収まらず、またしても中止といたしました。来年以降もどうなることやら……と思っております。安心して皆様にお集まりいただける状況にならない限り、再開は不可能と存じますので……。

昨年の今日のこのブログでは、当会の祖・草野心平の「終焉日記」をご紹介しました。昭和31年4月1日(日)、4月2日(月)の、光太郎最期の様子が記されています。

今年は、同じく心平が、4月3日(火)の『朝日新聞』に寄せた詩をご紹介します。

   高村光太郎死す

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをかぶつて淡い灯をうけ夜は更けます。
 フラスコの中であわだつ酸素。002

   「そろそろ死に近づいているんだね。」
   それからしばらくして。
   「アダリンを飲もう。」

 ガラス窓の曇りをこすると。
 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。

 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April Snow の夜に。

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智恵子さんの裸像」は、生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに寄贈されています。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている、66年前、中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。それから、ついでに、というと語弊がありますが、染井霊園と遠くない文京区の
浄心寺さんに、当会顧問であらせられた北川太一先生のお墓にも参らせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎、そして北川先生をご存じの方は、北川先生に、思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

十時頃高橋雅郎氏来る、一緒に太田診療所の婦人会へゆく。男性女性十五六人集まり、御馳走になる、夕方五時頃タキシにて送られかへる、


昭和27年(1952)9月14日の日記より 光太郎70歳

高橋雅郎氏」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の元村長。この日の集まりは、「乙女の像」制作のため、約1ヶ月後に帰京する光太郎の壮行会的な意味合いもありました。おそらくこの日の集まりと思われる、光太郎と村人たちの会話の記録が残っていたのが見つかり、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には間に合いませんでしたが、その後、北川先生と当方の共編で刊行した『光太郎遺珠』に掲載しました。
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誠に遺憾ながら、本年4月2日(土)に予定しておりました、第66回連翹忌の集い、今回も中止とさせていただきます。

昨秋から年末にかけ、新型コロナ新規感染者数がほぼゼロとなり、今年こそは、と思っていたのですが……。その後、オミクロン変異株による感染爆発が起こり、本日現在、その収束が見通せない状況が続いています。
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「ピークアウトはしたのではないか」という見方がある一方、新規感染者数が激減するということもなく、頼みの3回目ワクチン接種も遅々として進んでいません。

また、会場とすることを予定していた日比谷松本楼さんが、感染の最も多い東京都内であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動が必要な方々もいらっしゃることなど、不安要素は尽きません。さりとて会食を伴わない形での開催も趣旨になじまないでしょう。

あまり考えたくはありませんが、来年以降も、皆様が安心して集まれる状況にならないかぎり、開催を見送り続けるしかないのかな、と思っております。そうならないことを切に祈念いたしておりますが……。

既に昨年12月、文治堂書店さん発行のPR誌『とんぼ』第13号で開催案内を出していただき、早々にお申し込み下さった方もいらっしゃいまして、申し訳ありませんが、来年の第67回分の参加費ということで、プールさせていただきます。

一昨年昨年同様、4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

本日、4月2日(金)は、高村光太郎65回目の命日、連翹忌です。

今から65年前、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分、不世出の巨星・高村光太郎は、東京中野桃園町の貸しアトリエ(昭和23年=1948に急逝した水彩画家・中西利雄が建てたもの)で、宿痾の肺結核のため、天然の素中に還りました。

当会の祖・草野心平による「終焉日記」から。挿入されている「註」の部分は、『わが光太郎』(昭和44年=1969)掲載時に補われた部分、(注)は当方が書きました。

四月一日
 十二時中西宅へ電話。コップ一杯またはいた由。二時半電話。呼吸苦しき由、岡本先生、関先生(注・ともに医師)来診の由。二時半からトミーで現代詩人会総会、また幹事長にさせられる。八時頃中西宅へ電話、サンソ吸入ときき、現代詩人会の懇親会をこっそりぬけてかけつける。雪。ななめ、クリーナア(注・車のワイパー)、
 高村さん鼻にゴム管サンソキュウニュウ、(午后七時十五分頃から)八時二十五分に小生到着。今日より看護婦二人、看護婦と堀川さん(注・光太郎が雇っていた家政婦さん)と中西夫人とボクの五人。雪ふりつづける。苦しそう。高村豊周(注・光太郎実弟)夫妻と令息たち、鋳金の伊藤(注・十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の鋳造を担当した伊藤忠雄)、奥平(注・美術史家・奥平英雄)、難波田氏(注・画家・難波田龍起)など見えた由。
 朝、今日は気持ちがよいから早くたべたいとスパゲティとスープとウヰンナアソーセーヂ、木の芽あえをたべたいと言ったが、それを用意して持って行ったら、喀血、その前にスワンのブリのスープ、これは毎日お茶代りにのんでいた。夜はすしとサンドウヰッチを食べる予定だったが、結局朝から夜までスープだけしかのどを入らない。
 豊周氏に今日は苦しいから話ししないと言われた由、
 これを書いているの九時。三十分ほどだが、ずいぶん永い時間の気がする(酸素吸入は、自分でしたいと言われた由)
 アトリエの台所で私独りだけ、しずかにのむ。写真アルバム(注・
前日にはそのゲラを見た筑摩書房刊行『日本文学アルバム19高村光太郎』)「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」
 看護婦(加藤( )さん(注・( )内空欄)、小野瀬鈴子さん)
 十時、電気をくらくする。「そこにいるの草野君?」と看護婦にきく、そうですというと、「今日一日胸が苦しくってね」という「苦しいでしょう。」というと「うん。」
 十時半、「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」眠り薬をのまる。
009註・二度目に電話したのは水道橋のグリルトミーからだった。私は当時現代詩人会の幹事長をしていたので、この日のH氏賞の決定の詮衡(せんこう)と引続いて年一回の総会にはどうしても出席しなければならなかった。H氏賞は鳥見迅彦の『けものみち』に決り(その題字は高村さんがかいたもの)総会もすんだ。それから懇親会に移ったが、折を見て中西さんへ電話すると酸素吸入をしているとのことでビックリした。
 この日はひるまから雪だったが、夜になってもやまなかった。大きな牡丹雪だった。
 運転台のガラス窓にふきかかる雪が、どうしたことか私に思いもよらない聯想を呼びおこさした。ゴッホの最晩年の「鴉のいる麦畑」の、あのむらがる鴉なのだ。そのむらがりをクリーナーが左右にはじく、むらがる、はじく。私はただなんとなくクリーナーだけを信ずるような気持ちだった。
 アトリエのなかは薄暗かった。電気になにかをかぶせたのか普通よりずっと薄暗かった。両方の鼻の穴から二本のゴムのくだがのびフラスコのなかはブクブク泡立っていた。吐く息も吸う息も苦しそうだった。安楽死、ふとそんなことがあたまをかすめた。看護婦が一人ふえているのが無気味だった。元からいた看護婦が冷蔵庫から玉ずし(注・アトリエ近くの寿司屋の折り詰め)を台所に持ってきて
「もう今晩はとてもあがれませんから、あがって下さい。」
 と私に手渡した。私は一つだけつまんだ。
020 写真アルバムについての「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」この言葉を、高村さんがいつ言われたのだったか、私の記憶はぼんやりしているが、この言葉は高村さんの話し方で書かれているから、その晩に言われた言葉だったことはたしかである。
 私は時たま、台所からアトリエをのぞいた。看護婦が椅子にかけてうしろの方に近づくと、その気配で察したのか、
「そこにいるの草野君?」
 と高村さんが看護婦にきいた。
 看護婦がそうですと答えると、高村さんは「今日一日胸が苦しくってね」と喘ぎながら言われた。苦しいでしょうと、私がいうと「うん。」といわれたまま、それっきりまた喘ぎがつづいた。私は二十分ほどつったっていたが、
「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」
 と私に言うとも誰に言うとも独り言とも思えるように言われた。私はギョウ然としたまま何も言えなかった。それからまた十分ほどして「あだりんを飲もう」といわれた。睡眠剤は、どんな場合にも適量以上にはのまれなかったそうである。その時も普通の意味での「アダリン」だったと思うのだが――。けれどもそれから以後、高村さんの口からはなんの言葉も洩れなかった。高村さんが薬をのまれてから私は無言のまま台所にもどり、しばらくいた。そしてしずかにドアをあけて雪のなかにでた。

四月二日
 3時半頃起こされる 中西家の令息たちに、あぶないから――
 3時45分永眠、まにあわず高村豊周夫妻、4時かけつける、関先生岡本先生。
註・夜中の三時半頃ドンドンドアを叩かれた。ハッと思った。起きてみると案の定中西さんの二人の令息がたっている。その頃はもう雪はやんでいたと思う。待たしてある自動車にのって桃園町にかけつけた。
 たばこ屋の角を曲ると、中西家の前に自動車が一台とまっていて、ドアがあくところだった。すぐ高村豊周氏夫妻であることが分った。中西家は母屋からアトリエのドアまで明けっぱなしになっていた。私のすぐ前を豊周氏夫妻がアトリエにはいった。つづいて私。関先生と岡本先生がぼんやりたっていた。誰も最後には間に合わなかった。


感情を表す語を極力廃し、淡々と事実のみを記述していますが、それでも溢れ出る哀惜の念を隠しきれないところが、光太郎に対する草野心平です。

この時、貸しアトリエの庭には連翹の花が咲き誇っていました。まだ少し元気だった頃の光太郎、「連翹」という名を知らず、アトリエの大家だった中西夫人に、「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。
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4月4日、青山斎場で執り行われた葬儀の際は、その連翹が一枝、光太郎愛用のビールのコップに挿され、棺の上に飾られました。
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そこからの発想で、光太郎忌日を「連翹忌」と命名したのは、心平と同じく、光太郎と親しかった佐藤春夫。第一回連翹忌は、光太郎の亡くなった中野のアトリエで行われ、光太郎を偲ぶ人々が集い、以後、何度か会場を変えながら、平成11年(1999)から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんに会場が落ち着きまして、現在に至ります。

平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、昨年の第64回はコロナ禍のため、それぞれ集いは中止。そして今年もコロナ禍明けやらず、2年続けての中止といたしました。残念です。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている中野アトリエの連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それを以て第65回連翹忌とさせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

朝食前部落の青年達多勢来てヤトヂをとり除き、萱を背負ひかへる。六時のサイレンが鳴る。茶を出す。前の田で萱の大焚火をたく。


昭和22年(1947)5月3日の日記より 光太郎65歳

「ヤトヂ」は雪よけのため家屋の回りに巡らす萱(かや)の束です。花巻郊外旧太田村、5月はじめまでそれが必要だったのですね。
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これを燃やせば確かに「大焚火」でしょう。

まことに残念ながら、今年も、です。

来たる4月2日(金)、開催予定でした光太郎忌日・第65回連翹忌の集い、やはりコロナ禍のため、開催を見送ります。

会場となるべき東京都を含む地域で緊急事態宣言解除の見通しがまだ立たないこと、一般の方々に対するワクチン接種のタイムテーブルも不透明であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動を求めざるをえないことなど、不安要素は尽きません。

以前のような、会食を伴う形以外での開催も検討いたしました。ホール等を使い、密にならないよう配慮した上で、講演・シンポジウム等をメインとした形態、Zoom等を利用してのオンラインでの開催など。しかし、いずれもこれまでの連翹忌の集いの趣旨とはなじまないと判断いたしました。また、そうした形で無理矢理開催したところで、果たしてどれだけの参加が見込めるか、というご意見もありました。

以前のように会食を伴う形態でも、やってできないことはないとは存じますが、皆様に真に安心してご参加いただけるかというと、それは不可能です。言い換えれば、皆様が何らの心配もなくお集まりいただけるようになるまで、開催は見送るべきかと存じました。

光太郎、それから当会の祖・草野心平、そして昨年1月に亡くなられた当会顧問・北川太一先生も、きっと理解を示して下さるでしょう。
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4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第65回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

昨年も「来年こそは」と願っていたのですが、それが果たせず断腸の思いです。しかし、これで連翹忌の灯を絶やすことなく、またしても「来年こそは」と願わずにいられません。「来年こそは」よろしくお願い申し上げます。

新型コロナウイルスの影響で、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で例年執り行っておりおりました集いは中止といたしましたが、昨日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日でした。

集いに代えて、運営委員会代表ということで、当方が染井霊園・光太郎の墓にお参りさせていただきました。例年も松本楼様での集いの前に、墓参しているのですが、昨日は集いを中止にした関係上、例年よりじっくりと頭(こうべ)を垂れて参りました。

例年、この時期は花見、というか、散策に訪れている方が多い染井霊園ですが、昨日はさすがに閑散としていました。ただ、例年ですといっぱいの無料駐車場に車を駐められたのはラッキーでした。

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早くに咲いてしまった、この地原産のソメイヨシノも、まだ保(も)っていました。

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高村家墓所には、昨年は無かった、光雲・光太郎・智恵子を紹介する説明板が新設されていました。ここは光太郎一人の墓ではなく、高村家の墓所ですので、三人の紹介となっています。


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自宅兼事務所から剪(き)って持参した連翹を花立てに。

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光太郎が歿した際、その終焉の地・中野の貸しアトリエの庭に咲き、葬儀の折には愛用のビールのコップに生けられた連翹から株分けされたものです。こちらも桜同様、今年は早く花が咲き、葉も出始めています。

線香に火をともし「今年は皆さんで集まることが出来なくなってしまいましたが、それぞれの場所できっと光太郎さんを偲んで下さることと思います。来年こそはまた皆さんで集まれるよう、お力添えを」と、心の中で語りかけて参りました。

続いて、松本楼様に行かねばなりません。集いの席上で配付予定だったチラシ、招待券の類、毎年、最初の案内で松本楼様にお送りいただくようお願いしております関係上、今年も何種類か届いているとのことで、その受け取りです。

偶然なのか必然なのか、染井霊園から日比谷公園に車を進めますと、途中で、今年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生の菩提寺・浄心寺さんの前を通ることになります。同寺は先生のお通夜・葬儀の会場でもありました。

これは寄らざるをえまい、と思い、車を駐めて北川先生の墓参もさせていただきました。

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浄心寺さんは、別名「さくら寺」。1月のお通夜・葬儀の際には底冷えしていましたが、昨日はおだやかな陽気に桜が満開で、いい感じでした。

そして日比谷松本楼様。日比谷公園の桜も見事でした。しかし、やはり例年とは異なり、花見客は皆無……。

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松本楼様も、午前11時頃に着いたのですが、普段ですと行列が出来ている時間帯なのに、閑古鳥……。

留め置いていただいていたチラシ類を受け取り、さらに、いつもお世話になっているスタッフの方と立ち話させていただきました。やはりとてつもなく厳しい状況とのこと。お互いに「来年こそは」、「ええ、来年こそは」と、約して松本楼様をあとにしました。

受け取ってきたチラシ類、また、自宅兼事務所に届いたチラシ、招待券、書籍類、それから当会発行の『光太郎資料53』等、参会予定だった皆様などに、順次発送させていただきます。今しばらくお待ち下さい。


【折々のことば・光太郎】

斯ういふインスチチユウシヨンが出来たり消えたりしながら総体的に進んでゆく社会の波動に活発な力を感じます。

アンケート「詩話会解散に対する感想」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

「インスチチユウシヨン」は英語の「institution」。「公共団体」、「協会」といった意味合いです。「詩話会」は、光太郎と親しかった川路柳虹らの旗振りで、大正6年(1917)に結成された詩人の会。年刊『日本詩集』、雑誌『日本詩人』などを発行し、会員に名を連ねていた光太郎もそれらに寄稿しました。

このアンケートが書かれた大正15年(1926)、いわゆる民衆詩派(白鳥省吾、福田正夫、富田砕花ら)といわゆる芸術派(北原白秋、日夏耿之介、西条八十ら)との対立から、解散となりました。

光太郎はどちらに与するわけでもなく、アンケート回答にあるように、こうして世の中が進んで行くのだ、と、達観していたようです。

無理くりですが、昨日、都心を車で走りつつ、報道で見るゴーストタウンのようなパリや、野戦病院のようなニューヨークの惨状との違いに、「活発な力」を感じました。総体的に少ないものの、人も車も普通に動き(それが感染拡大につながっているといえばそれまでですが)、おそらく、今年、色々なことを断念せざるを得なかった人々も、「来年こそは」と、心に期しているのではないかとも思いました。

連翹忌の集いも、「来年こそは」です!

1007新型コロナウイルスの影響で、午後5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で予定しておりました集いは中止といたしましたが、今日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日です。

例年、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻でも、詩碑前祭と連翹忌法要を挙行して下さっていますが、そちらも中止。

追記 「詩碑前祭」は行ってくださったそうです。

当方、皆様を代表して、駒込染井霊園の光太郎奥津城に墓参(公共交通機関は使わず、自家用車にて行って参ります)、それをもちまして第64回連翹忌とさせていただきます。皆様もそれぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければと存じます。

ちなみにその終焉の地・中野の貸しアトリエで、光太郎が息を引き取ったのは、2日の未明、午前3時45分ですので、大半の方はお休みになっている時刻かと存じます。東日本大震災のように午後2時46分に黙祷、というわけにはいきませんが、それぞれお好きな時刻に光太郎を偲んでいただければ幸いです。

ところで、連翹忌につき、先週、長野県の松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんが、一面コラムでご紹介下さいました。   

2020.3.29 みすず野

 冬の上高地を初めて歩いたのは20年近く前だ。膝まで埋まる雪をつぼ足で踏み、徳沢の冬期小屋にたどり着いた。迎えてくれた火炉と小屋番の温かさを忘れない。静寂と景色にすっかり魅了され、翌年も翌々年も釜トンネルをくぐった◆高村光太郎の詩集『智恵子抄』にある「狂奔する牛」は大正2(1913)年夏の思い出だとか。徳沢に牧場があった。智恵子が牛の群れを怖がったのだろう。光太郎は〈今日はもう画くのを止して/この人跡たえた神苑をけがさぬほどに/又好きな焚火をしませう〉と声を掛ける◆徳沢の徳澤園に社長の上條敏昭さん(70)を訪ね、冬期小屋が5年前に閉じられたと聞いたのは昨夏だった。「気ままに文学散歩」の取材で井上靖の『氷壁』にまつわる話を伺った。その時草稿を見せてもらった『徳澤園135年史』が完成した。牧場時代からの歩みである◆絵の道具を持った智恵子が上高地にやって来る。光太郎は徳本峠を越えて岩魚止で迎えた。二人は翌年結婚する。〈智恵子は東京に空が無いといふ/ほんとの空が見たいといふ〉4月2日は光太郎が好んだというレンギョウの花にちなんで連翹忌。

一面コラムといえば、一昨日の『日本農業新聞』さんの一面コラム「四季」でも、光太郎に触れて下さいました。   

四季 2020年03月31日

 きょうは一つの区切り、年度末である。令和元年度を振り返れば、新型コロナを筆頭に重大事が相次ぐ▼小欄が担う1面コラムは新聞にとり特別な存在である。いやが応でも目に付く場所に位置する。最重要記事を掲げる1面は顔と同じ。コラムは人に例えれば口に当たる。その日のニュースが明るい暗いで口元が上下し複雑な感情を抱えながらの筆運びに。だが、志村けんさんの突然の悲報にはどんな追悼をささげればいいのか言葉を失う▼先達の力も借り切り開いてきた道を歩む。しかし、この先は自らつくらないと前に進めない。〈僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の『道程』冒頭の珠玉の言葉を思う。いや、昭和の歌姫・美空ひばりさんの名曲「川の流れのように」がふさわしい。〈地図さえない それもまた人生〉と胸に刻みながら▼伝説の名コラムニストで深代惇郎が浮かぶ。深い洞察力と縦横無尽の筆遣い。豊かな表現と語彙(ごい)の多さ。喜怒哀楽に深みと軽やかさが備わる。コラム書きなら必ず、その著書に目を通し味わいある作品に深く沈み込む。そして自らの筆力のなさを思い知る▼ただ、非力ならではの味わいは出ないか。小欄はタイトル同様に<四季>の彩りを感じ、朝の食卓に吹く快い“そよ風”でありたい。

両紙ともに、これまでも時折、光太郎に触れて下さっていて、ありがたく存じます。

それにしても、新たな年度となりましたが、このような形で迎える新年度、未知の領域といわざるを得ません。そういう意味では、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」でもあります。力を合わせ、新型コロナの脅威に立ち向かって行く道を作るべきかと存じます。


【折々のことば・光太郎】

かかる時代に生きる者は、心の悩を当然の事として立つ可きです。心の悩むことを忌避するのは卑怯になります。朗らかなる可きは霊魂です。霊魂は人倫を絶したものにつながつてゐます。此のみはいかなる時にも天空の清さを持つてゐます。

アンケート「懊悩と清朗」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

発表されたのは昭和2年(1927)元日発行の、智恵子の母校・日本女子大学校同窓会である桜楓会機関誌『家庭週報』ですが、執筆は前年12月と推定され、大正天皇崩御の直前、金融恐慌の気配が漂いつつあった時期です。掲載紙の「年頭言」では、同紙記者がこのアンケートの趣旨として、次のように述べています。

新しき年を重ねるに当りまして、悲しみは悲しみとして、お互に何等かの向上を希むることゝ存じます。(略)このもの騒がしい世界に面接して、自分たちは外界をどう支配して行かうか、どうしたらややもすれば引きずられ勝ちな生活を抜け切つて朗らかな心地よい生活に歩み入る事が出来るか、かういふ問題について考へますことは、どなたもが望まれることであらうと存じまして、先見の方々のお話を承り、左に掲げることに致しました。

それに対し、光太郎は上記の通り、悩むことをおそれるな、と回答したわけです。

新型コロナの脅威に対する恐怖、それはそれとして受け入れ、なおかつ朗らかなるべき魂を涵養すること、そういったことが重要なのかもしれませんね。

先週、日比谷公園松本楼様で、光太郎を偲ぶ第63回連翹忌を開催いたしました。その際に参会者の皆さんにお配りした資料等をご紹介します。

013まず、手前味噌ですが、当会発行の『光太郎資料51』。B5判ホチキス留め、手作りの小冊子ですが、内容は濃いと自負しております。元々、当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として不定期に発行されていたもので、その名跡を譲り受けました。4月の連翹忌にかぶせて1回、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて1回と、年2回刊行しております。当方編集になって15冊目です。

今号は、以下の内容です。

・ 「光太郎遺珠」から 第十五回 智恵子(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、智恵子歿後の智恵子に関する光太郎作品をまとめました。

・ 光太郎回想・訪問記  「高村光太郎の思い出」 富士正晴/「高村光太郎 温かく大きな手」    遠山 孝
これまであまり知られていない(と思われる)、戦前、戦中の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の見世物(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第二巻第十号(昭和3年=1928)。光太郎の父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十五回  法師温泉
見つけるとついつい購入してしまう、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は、大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んだ群馬県の法師温泉。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられ、話題となりました。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「真珠港特別攻撃隊」(その一)
昭和17年(1942)、箏曲家の今井慶松の依頼で書かれ、翌年、今井の作曲で演奏された「真珠港特別攻撃隊」についてです。

・ 高村光太郎初出索引(十五)
『高村光太郎全集』等収録の、生前に公表されなかったと思われる光太郎詩文をリストアップしました。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
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015続いて、『尾崎喜八資料 特別号(第17号)』。光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八(上記法師温泉にも同道しています)の令孫・石黒敦彦氏主宰の尾崎喜八研究会さん刊行の冊子です。連翹忌会場でもスピーチでご紹介いただきましたが、いったん休刊されたものを今回、特別に再刊。

当会顧問の北川太一先生の未発表だった玉稿2篇が掲載されています。「「愛と創作」その詩と真実」、「ロランと光太郎をめぐる人々」の2篇です。休刊前に寄稿されていながらお蔵入りだったものとのこと。喜八やその周辺人物と光太郎との交流につき、当方も存じ上げなかった事柄がこれでもかとてんこ盛りです。

過日ご紹介した北川先生の新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』にしてもそうですが、先生の幅広い視点からの御考察には脱帽です。

残部は当会名簿にある連翹忌ご欠席の方々等に発送いたしましたが、ご入用の方は仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。

016配付されたわけではありませんで、ギャラ代わりの執筆者割り当てでいただいたものですが、『高村光太郎研究50』。高村光太郎研究会からの刊行です。

こちらにも北川先生の玉稿が巻頭に。平成20年(2008)、宮城県女川町で開催された第17回女川光太郎祭での講演筆録「再びもう一度考えてみたいこと――平成二十年八月九日、女川高村祭談話――」。

それから昨秋、都内で開催された高村光太郎研究会でのご発表を元にされた佛教大学総合研究所特別研究員の田所弘基氏の、「高村光太郎「夏の夜の食慾」の解釈」。昨年『高村光太郎小考集』を刊行された西浦基氏の「虎落笛―長沼智恵子の母親おセンの生涯―高橋秀紀著を読む」。

さらに、またまた手前味噌ですが、当方編の「光太郎遺珠⑭」と「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」。

「光太郎遺珠⑭」は、この1年間で新たに見つけた、『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品集です。

短めの散文が3篇。昭和17年(1942)の『美術文化新聞』第59号に載った「工場の美化運動」、同18年『読売新聞』掲載の「預言者的詩人 野口米次郎氏」、そして『新岩手日報』に同22年(1947)掲載の「人間的な詩人」(「きよう”賢治 十五回忌” 盛岡・花巻で盛んな記念集会」と題する記事に付された談話)。

それから、しばらく前から少しずつ掲載させていただいている「高村光太郎先生説話」。浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995、ひまわり社)よりの転載で、戦後、花巻郊外太田村で蟄居中の光太郎が、山小屋近くの山口小学校などで語った談話の筆録です。今回は昭和26年(1951)のもの。

さらに翻訳で「ロダンといふ人」。原著者はロダンの秘書だったジュディト・クラデル。明治43年(1910)、雑誌『秀才文壇』に3回にわたって連載され、3回目のみが『高村光太郎全集』に収められていましたが、1、2回目が中々見つからずにいたものを、昨秋、智恵子がかつて絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんからご提供を受けました。

そして、書簡。平成29年(2017)、『智恵子抄』版元の龍星閣現社主・澤田大太郎氏から、創業者で父の故・伊四郎の遺した厖大な資料のうち、光太郎、棟方志功他の関連が、伊四郎の故郷・秋田県小坂町に寄贈されました。そのうち、澤田に宛てた光太郎書簡で『高村光太郎全集』未収録の32通を載せさせていただきました。

「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」は、このブログの昨年暮れの記事を元にしています。

こちらもご入用の方は仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


最後に、第63回連翹忌にて「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他の音楽演奏をなさってくださった、ジオラマ作家兼ミュージシャンの石井彰英氏から、当日の演奏をyoutubeにアップしたというご連絡がありましたので、載せておきます。最後に演奏された「ずっとこのまま」のみですが。




【折々のことば・光太郎】

私はこれからもなほ若い人々を激励し、若い人々の進歩するのと一緒になつて真剣に日本の彫刻を育て、今まで世界に存在しなかつた新鮮な日本の美を作り出してゆきたいと願つてゐる。自分はすでに老境に近づき年齢からいへば過去に属する人間であるかもしれない。しかし自分にあたへられた本当の仕事はこれからであると信じてゐる。

談話筆記「子供の頃」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎にとって「本当の仕事」は、彫刻をはじめとする芸術の発展。当方にとっては「光太郎の生の軌跡を語り継ぐこと」。やはり「これから」です。

昨日は、平成最後の光太郎忌日・第63回連翹忌でした。光太郎ゆかりの日比谷松本楼様で、午後5時30分よりその集いを開催いたし、盛会のうちに終えることができました。関係各位に改めて御礼申し上げます。

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順を追ってレポートいたします。

千葉の自宅兼事務所から、愛車に光太郎遺影、配布物、展示資料(この1年間に発行された光太郎智恵子光雲関連の書籍・雑誌等々)、連翹の花(光太郎終焉の地・中野アトリエに咲いていたも木から株分けしたしたもの)などを積み込み、都内へ。

まずは品川区大井町に向かいました。今回の連翹忌で音楽演奏をお願いした、ミュージシャンにしてジオラマ作家の石井彰英氏のご自宅兼スタジオ兼ジオラマ工房、サロン・ルーフトップで、楽器や譜面台等を積み込むためです。

予想より早く高速を抜けられたので、途中、同じ大井町のゼームス坂に立ち寄りました。智恵子の終焉の地・ゼームス坂病院跡地に立つ光太郎詩「レモン哀歌」の碑を久しぶりに見ておこうと思いまして。

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建立されたのは昭和63年(1988)。当方、実は最後に訪れたのが20年前くらいで、その意味では懐かしさでいっぱいでした。地元の皆さんでしょうか、レモンが供えられ、清掃も行き届いており、ありがたく感じました。

その後、石井氏の元で機材を積み込み、連翹忌会場の日比谷公園へ。地下駐車場に車を駐め、都営地下鉄三田線で巣鴨へ。この後参会される皆様を代表し、染井霊園にある光太郎ら高村家の人々の眠る奥津城に墓参。
ソメイヨシノ発祥の地だけあって、満開のそれは見事でした。

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巣鴨駅前で遅めの昼食をかき込み、再び日比谷へ。地下から車を松本楼さんの玄関脇へ。

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すでに配布物の袋詰め等をお手伝い下さる皆さんがいらしていて、ありがたく存じました。その方々は受付もやって下さり、本当に助かっております。

そのうちに続々参加の方がお見えになり、最終的には当方を含め、77名。70名を超えれば、「よし、今年はけっこう集まった」と思えるラインです。毎年そうなのですが、ぎりぎりになってのお申し込みが多く、1週間前くらいの時点では「今年は人が集まるんだろうか」と気をもまされていましたが、杞憂に終わりました。

さて、5時30分、開会。まずは光太郎本人、そして花巻の高橋愛子さんなど、残念ながらこの1年に亡くなった関係の方々への黙祷。

続いて、当会顧問・北川太一先生のご挨拶。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった故・髙村豊周令孫の髙村達氏(写真家)の音頭で、献杯。

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しばしビュッフェ形式で料理を味わっていただき、アトラクションへ。先述の石井彰英氏と、お仲間の堀晃枝さん、松元邦子さんによる演奏。ゼームス坂近くにお住まいの石井氏の作詞作曲による「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他、全3曲を演奏して下さいました。

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その後、恒例のスピーチ。まずは、2年ぶりにご参会の、渡辺えりさん。このブログで何度もご紹介していますが、お父様が光太郎と交流がおありで、その影響で光太郎を主人公とした脚本なども書かれています。今回、意外とそのお話をご存じない方が多く、お父様と光太郎のご縁など、語ってくださいました。また、「あまちゃん」で共演されたのんさん(能年玲奈さん)もご出演される8月からの新作舞台「私の恋人」の宣伝もしていただきました。

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次に、書家の菊地雪渓氏。昨年、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれた作品をお持ちいただき、紹介されました。

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菊地氏、この他にもやはり昨年、「第40回東京書作展」でも光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)で臨まれ、「特選」を受賞されました。

詩人の佐相憲一氏。出版社・コールサック社さん関係の方で、昨年、同社から刊行の、光太郎と交流のあった野澤一の詩集『木葉童子詩經』復刻版を編集されました。

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同じく、光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏。喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の娘ですので、石黒氏、葉舟の曾孫にもあたられます。

さらに当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館・小野浩氏。光太郎が認めた彫刻家・高田博厚の顕彰を進める埼玉県東松山市の教育長・中村幸一氏、光太郎詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

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最後に、明星研究会の松平盟子氏(歌人)にもお願いしました。光太郎と与謝野晶子のつながり、明星研究会の活動のご様子、光太郎にも触れて下さった昨年刊行の『真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ』などについてなど。

本当はもう少し多くの方々に語っていただきたかったのですが、皆さん、なかなか弁の立つ方々で(渡辺えりさんは20分くらいしゃべってました(笑))、時間の都合もあり、締めに移行。

昨年、智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんと、お仲間の上田あゆみさん、吉浦康さんに、朗読をお願いしました。

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単なる朗読ではなく、何度か宮尾さんが公演された形式からの再編で、光太郎詩「レモン哀歌」の朗読に始まり、その後は光太郎評論「緑色の太陽」、確認されている智恵子唯一の詩「無題録」などの朗読を織り交ぜつつ、光太郎智恵子の生の軌跡を語る物語となっていました。BGMにはテルミン奏者・大西ようこさんのCDを使わせていただきました。


そして、名残を惜しみつつ、来年、令和2年となる第64回連翹忌での再会を期して、閉会。

来年も広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子をモチーフに美術・文学などの実作者の方、同じく音楽・芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終はるだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れたことはきつと何かみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。

散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「木つ葉童子」とは、上記でもご紹介しましたが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一です。「愛の書簡」はラブレターという意味ではなく、野澤が光太郎に送った300通余りの書簡。光太郎より21歳年下にもかかわらず、野澤は時に光太郎を叱咤激励するような内容もしたためました。最愛の智恵子を失って落ち込んでいた光太郎にとって、それはありがたい部分もあったようです。

昨日の第63回連翹忌、光太郎と交流のあった人々ゆかりの皆さんが多数参加され、改めてその人脈の広さ、そしてその人々に支えられ、また光太郎自身も支え、そうして広がっていった人の輪というものを感じました。そうした精神が脈々と受け継がれている連翹忌。今更ながら、さらに手前味噌ながら、すばらしいと感じています。その運営を引き受けて8年になりますが、今後もその灯をともし続けていかねばならない、と、責任の重大さを再確認いたしております。

今後とも、ご協力よろしくお願いいたします。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第63回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。郵送いたします。
 

第63回連翹忌御案内


                                       
 日 時  平成31年4月2日(火
) 午後5時30分~午後8時
 
 会 費  10,000円 (ビュッフェ形式での食事代を含みます)

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
       tel 03-3503-1451(代)

 内 容  高村光太郎およびこの1年に亡くなった関係各位への黙祷
      アトラクション(音楽演奏・朗読)/スピーチ
      この1年間に発行された高村光太郎/光雲/智恵子関係資料等展示
      他      

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  ごあいさつ

 今年も第六十三回、平成最後の連翹忌が間もなくやって参ります。

 あしたどんなことが起こるかわからない一年がまたたく間に過ぎようとしていますが、いつものように、日比谷公園松本楼の階上で、運営委員の皆さんのご努力により、たくさんのご報告や催しが予定されております由、お忙しい日々でしょうが、お目にかかれればうれしく存じます。

 わたくしは、この三月で満九十四才になります。

平成三十一年 二月
連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて

会費を下記の方法にて3月22日(木)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、できるだけ事前にお支払い下さい。


今年の連翹忌は火曜日です。新年度となって間もない平日ということで、なかなかお忙しい折とは存じますが、万障お繰り合わせの上、ご参加お待ち申し上げております。

過去6年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

昨4月2日は光太郎忌日ということで、第62回連翹002忌の集いを、例年通り、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催いたしました。

それに先立ち、これも例年通りに、参会者を代表して、染井霊園の高村家墓所に参拝。

毎年、当方が行く前に香華を手向けて下さっている方々がいらっしゃり、どなただろうと思っておりましたが、今年はその方々とばったり行き会いました。智恵子の故郷、福島の方が中心になってお声がけ下さって、10名ほどの方々が墓参にいらしていました。ありがたや。

その後、松本楼さんのある日比谷公園へ。例年ですと桜が満開なのですが、今年はもう盛りを過ぎてしまっていました。



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配付資料や受付の準備などをし(太平洋美術会研究所の坂本富江様はじめ、いろいろな方にお手伝いいただきました。ありがとうございました)、午後5時半、開会。

まずは、62年前に亡くなった光太郎本人に、そして、この一年間に亡くなった関係の方々をご紹介し、黙祷。

続いて当会顧問、北川太一先生にご挨拶を賜りました。生前の光太郎をご存じの北川先生、今年に入って白内障の手術をされたそうですし、少しおみ足が弱られていますが、93歳になられてもまだまだお元気です。100歳までは頑張るぞ、と宣言して下さいました。

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その後、献杯。このところ、音頭は光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった故・髙村豊周氏令孫の髙村達氏にお願いしていたのですが、達氏、日本写真家協会の集まりで遅れるとのことで、お姉様の朋美様にお願いしました。

しばしの間、ビュッフェ形式での会食。

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例年行っておりますアトラクション003、今年は、朗読家の山田典子様にお願いいたしました。題して 「智恵子から光太郎さんへ」。昨年の2月に、千葉県柏で山田様がご出演なさった朗読系の演劇公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」を拝見・拝聴し、ぜひ連翹忌でも、とお願いしたところ、快く引き受けて下さいました。

柏での公演では、山田様が智恵子に扮して朗読、オペラ歌手・大久保光哉さんが青木省三氏作曲の歌で光太郎役をなさるという構成でしたが、今回の光太郎役は……。

当方、たまたま昨年の連翹忌に和装で臨みましたところ、山田様、それを見てひらめいたそうで……。まぁ、光太郎役といっても、ほぼ座っているだけでしたので、よかったのですが(笑)。

その後、食事を頂きながら恒例のスピーチをお願いしました。

高村光太郎研究会員・西浦基氏。参会の皆様に無料で配布して下さったご著書を紹介していただきました。埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏には、1月にオープンした同市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」のご紹介を。

智恵子の故郷、福島二本松の熊谷健一氏(智恵子のまち夢くらぶ会長)には、11月に開催予定の全国智恵子抄朗読大会の件など。さらに遠く青森十和田からご参加下さった佐藤やえ様、久しぶりにご参加の、碌山美術館理事・仁科惇様にもスピーチをお願いしました。そして、遅れてご到着の髙村達氏。

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さらに『明星』関連で、明星研究会の小清水裕子さん、いわき市立草野心平記念文学館の渡辺芳一氏、山梨県立文学館の伊藤夏穂様、愛知碧南市藤井達吉現代美術館・木元文平館長、碌山美術館・武井敏学芸員。今後、それぞれの会や館で、光太郎にも関わる企画があります。近くなりましたらこのブログにてご紹介いたします。

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トリは、光太郎第二の故郷・岩手花巻高村光太郎記念会事務局長の高橋邦広氏。氏は横笛の達人でもあり、光太郎が暮らした花巻太田地区に伝わる神楽の曲などの演奏を披露して下さいました。

名残は尽きねど、時間となりまして、午後8時、来年以降の再会を約し、お開きとさせていただきました。

今年は新年度最初の月曜日ということで、昨年、一昨年より参会者が減少しましたが、今回初めてご参加下さり、来年以降も必ず来ます、とおっしゃって下さった方もいらっしゃいました。

参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。とにかくこの輪を広げてゆきたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。

    高村光太郎死す002

                   草野心平

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをか
  ぶつて淡い灯をうけ夜は更けます
 フラスコのなかであわだつ酸素。
                   
  《僕もそろそろ死に近づいているね》

    《アダリンを飲もう》
                   

 ガラス窓の曇りをこすると。
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 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   「智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。」
 
 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April fool の雪の夜に。





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今日、4月2日は、光太郎忌日「連翹忌」です。

前日から季節外れの大雪に包まれていた62年前の昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分、東京中野のアトリエで、不世出の巨人・高村光太郎は、宿痾の肺結核のため世を去りました。

上記は当会の祖・草野心平が、翌日の『朝日新聞』さんに寄せた詩です。揮毫は当会顧問・北川太一先生の所蔵で、5日に書かれたものです。冒頭の活字の部分は、昭和41年(1966)刊行の心平詩集『マンモスの牙』から採りました。したがって、揮毫と一致していない箇所があります。


さて、繰り返しご案内申し上げていますとおり、本日午后5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの老舗西洋料理店・日比谷松本楼さんで、関係の方々にお集まりいただいての「第62回連翹忌」の集いを執り行います。

また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第62回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第62回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成30年4月2日(月
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第62回連翹忌へのお誘い

 自然現象にも、世界の情勢にも、この数年は、思いがけぬ出来事が続きましたが、お変りなく、お元気でおすごしのことと存じます。委員会の御努力により、連翹忌も今度で六十二回目、またお目にかかれるのが、奇蹟のような気がします。これも皆さんと高村さんの限りない敬愛に外なりません。
 今年も、いつもの日にいつものところで、いつものようにお目にかかり、たくさんのお話を伺えれば幸いに存じます。是非お出かけ下さい。
 私事ですが、私は一月末に、両眼白内障を手術、連翹忌が終ったら、逆さまつげの手術をします。もうすこし仕事もしたく、皆さんともお目にかかりたく、勝手に生存年令を百歳と決めました!

平成三十年 一月末
連翹忌運営委員会顧問 北川太一


御参加申し込みについて

会費を下記の方法にて3月22日(木)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は月曜日です。新年度最初の平日ということで、なかなかお忙しい折とは存じますが、万障お繰り合わせの上、ご参加お待ち申し上げております。


過去5年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

昨日、東京日比谷松本楼様におきまして、61回目となる光太郎の忌日・連翹忌の集いをつつがなく執り行いました。

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会の始まる前、参会の皆様を代表し、駒込染井霊園にある光太郎の(というか高村家の)墓所に参拝。

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どなたがお供えくださったのか、光太郎が大好きだったビール、智恵子の好物だったレモン、色とりどりのお花が。手前のレンギョウは、当方自宅兼事務所に咲く、かつて光太郎が愛した中野アトリエの庭に咲いていたレンギョウから株分けしたものです。

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いつも書いていますが、ソメイヨシノ発祥の地で、見事に咲いていました。

そして日比谷公園に。こちらも見事な桜。

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午後3時頃から準備を始めました。配付資料等の袋詰め、受付などなど、いろいろな方にお手伝いいただき、助かりました。

午後5時30分を回ったところで、開会。最初に光太郎、そしてこの一年に亡くなった関係者の皆様に、黙祷。その後、当会顧問にして生前の光太郎をご存じの、北川太一先生のご挨拶。

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光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった、故・髙村豊周の令孫・達氏にご発声をお願いし、献杯。

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達氏は、お爺さまの豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏の元から、光太郎ブロンズの代表作「手」の型を受け取ったとのことで、ご持参くださいました。興味深く拝見しました。

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アトラクションは、ともに光太郎智恵子を敬愛する、テルミン奏者・大西ようこ様、朗読家・荒井真澄様による「智恵子抄より」。花を添えてくださいました。

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その後、ビュッフェ形式で料理を堪能しつつ、恒例のスピーチ。

トップバッターは、お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさん。昨年は6月に盛岡の啄木祭、7月に山梨県立文学館さんの「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」の関連行事でそれぞれ光太郎に触れるご講演をなさったり、お父様が光太郎から贈られたサイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)や書簡を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈なさったりということがありました。

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続いて、青森テレビアナウンサーだった川口浩一氏。昨年末に当方も出演させていただいた特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」を作られ、それを最後にご退職なさったそうです。

盛岡からいらした加藤千晴氏。光太郎のいとこ・加藤照さんのご子息です。お母様には昨年お会いさせていただきましたが、満100歳でご健在です。未発表の光太郎書簡情報をご提供くださいました。

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花巻郊外旧太田村で、隠棲中の光太郎をご存じの佐藤定様。当時の思い出と、最近の高村山荘周辺の整備状況などをお話くださいました。

詩人の曽我貢誠氏。曽我氏もご参加くださった、女川光太郎祭、それについて当方が書いた雑文を掲載していただいた文治堂書店さん発行の文芸同人誌『トンボ』などのお話を賜りました。

さらには、福島川内村で、当会の祖・草野心平を偲ぶ「かえる忌」を主催されている井出茂様、いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩様、参加者全員に館報をご寄贈くださった信州安曇野碌山美術館五十嵐久雄館長、太田村の山小屋に隠棲中の光太郎に突撃取材をされた遠藤道子様、高村光太郎研究会の大島裕子様。

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今回初めて連翹忌にご参加いただいた方々にも、スピーチをお願いいたしました。今年2月に、千葉県柏で、朗読と歌曲による公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」をなさった山田典子さん。

このブログを通じてお申し込みいただいた方にもスピーチをお願いしました。お友達の方と3名でいらっしゃり、光太郎智恵子、そして北川先生ファンということで、北川先生にお会いでき、感激されていました。

他にもスピーチはいただきませんでしたが、全国から70余名の皆さんにお集まりいただき、盛会となりました。

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名残を惜しみつつ、8時過ぎに閉会。

当日までの準備やら、司会進行やらで、決して楽な仕事ではありませんが、志を同じくする皆様と、いちどきにお会いできる貴重な機会、当方も楽しませていただきました。盛会となったことを、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。

健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、来年以降もよろしくお願いいたします。

今日、4月2日は、光太郎の命日・連翹忌です。今年で61回目となります。

宿痾の肺結核により、光太郎が歿したのが、昭和31年(1956)の今日、午前3時45分。結局、終の棲家となった中野のアトリエでのことでした。昨日も書きましたが、前日から東京は季節外れの雪でした。

葬儀は4月4日、青山斎場で執り行われました。彫刻家光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む一帯の設計を担当した建築家・谷口吉郎の意匠になる祭壇に棺が置かれ、その上にはコップに挿した連翹の一枝。これは中野のアトリエの庭に咲いていた生前の光太郎が好きだった花で、アトリエの家主だった故・中西富江さんの回想に記されています。遺影は光太郎の令甥・故髙村規氏の撮影したものです。焼き増しした同じ写真を、現在も使わせていただいています。

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葬儀委員長は武者小路実篤。武者の他に梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、そして草野心平が弔辞を読みました。


そして、一年後の昭和32年(1957)には第一回連翹忌。会場は光太郎が亡くなった中野のアトリエで、リンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。

以後、途切れることなく連翹忌は連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼さんに会場が落ち着いて、今日に至っています。日比谷松本楼さんは、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べたり、光太郎も参加した「パンの会」が開かれたりしたゆかりの西洋料理店です。

今年の参加者は、予定では73名。61回目となっても、未だに生前の光太郎をご存じの方がいらっしゃってくださり、ありがたい限りです。当会顧問の北川太一先生、戦後の7年間を隠棲していた花巻郊外旧太田村の方々、その太田村の山小屋に光太郎を突撃訪問したという、その頃女学生だった方、赤ん坊の頃、光太郎の膝の上に乗ったという血縁の方などなど。

それから、光太郎と交流のあった人物ゆかりの方々も多くご参加くださいます。お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさんも、2年ぶりのご参加。スピーチをお願いしておきました。

さらに、今年はこのブログでしつこく宣伝した甲斐があったようで、ネットを通じて初のお申し込みをいただいた方が、5名ばかりいらっしゃいます。健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、ありがたいところです。


また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】019

ソクラテスが死ぬ時、何といつた。 鶏一羽が彼の生涯の急回転。 又人生批評のくさび。 偉大なるものが何処にあるかときかれたら、 あの見すぼらしい電信柱を指ささう。

詩「偉大なるもの」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

哲学者ソクラテスの有名な遺言、「クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽おそなえしなければならなかった。その責を果たしてくれ。きっと忘れないように。」を下敷きにしています。

61年前の今日、亡くなった光太郎。その最後の言葉は不詳ですが、亡くなる3日前、草野心平が持参した心平編集になる、写真をふんだんに使った光太郎の伝記的書籍『日本文学アルバム 高村光太郎』(筑摩書房)のゲラを確認し、「That's the endか。人の一生なんか妙なもんだな」と言ったそうです。迫り来る死を冷静に受け止めたその一言、見事といえば見事ですね。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第61回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第61回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成29年4月2日(日
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第61回連翹忌へのお誘い                       
                                        
 もう新しい連翹忌の季節がまいりました。このところ世界中で生まれて初めてのような出来事が毎日のように続きますので、余計そんな気がするのでしょうか。考えて見ますと、高村さんと一緒に生きてきた昭和の初めから三十年代まで、いつも同じような時代が続いていたような気がします。
 
 そんな歴史が急に逆転の速度を速めてきたように見える時こそ、改めて高村さんの生涯を考え、世界の今日と明日、御近況のあれこれなどをお話し合いいただければ、どんなに力強く、意味深いことかと存じます。
 
 運営委員会からのさまざまな御報告や、たのしい催しものも用意してあります。
 
 今年の連翹忌は日曜日にあたりますが、いつものように日比谷公園松本楼の階上でお待ちしております。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて002

会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は日曜日です。来年以降、しばらく平日となります。「年度はじめの平日では無理」という方、この機会をお見逃しなく。

過去4年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

忘れかけてゐた日の光が、窓かけを明けると、まばゆい強さに、 斜めに幅びろに機嫌よく流れ込んで、 白いシイツにつきあたる。 手にうけて握りたいほど、 活発に飛びはねるまるで生きものだ。

詩「かがやく朝」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

「光の春」と称される2月も気がつけば後半です。「一陽来復」と言うには少し遅くなりました。朝の日の光も日に日に力強さを増しています。それを「手にうけて握りたい」と、触覚でとらえようとするあたり、彫刻家としての鋭敏な感覚が表されています。

そして春たけなわの頃には連翹忌。ご参加をお待ち申し上げております。

4月2日、東京では日比谷公園松本楼さまで、第60回連翹忌の集いを開催いたしました。

同日、光太郎が戦中戦後の足かけ8年を過ごした岩手花巻でも、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後から光太郎ゆかりの花巻市街にある松庵寺さんで、花巻としての連翹忌が開催されました。

東京の方はなかなか報道されませんが、岩手の方は報道されていますのでご紹介します。 

光太郎に思いはせる 詩碑前祭 小中学生が詩を朗読

 花巻ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(0011883~1956年)の命日である2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で「詩碑前祭」が催され、今年も太田山口地区の住民ら約50人が地元に教えを残した光太郎の遺徳をしのんだ。
 山関、上太田両行政区全94戸で組織し、光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が毎年主催。照井康徳支部長、来賓で花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長のあいさつに続き、太田小学校の高橋百花さん(3年)、中島絢星君(1年)が光太郎の詩「雪白く積めり」が刻まれた石碑と遺影に献花した。
 同支部の平賀仁理事が「厳しき自然の中に先生は7年間住まわれ、自然をたたえ、詩にうたい、地方の私たちに数々の教えを注いでくださった」と祭文を読み上げて光太郎に感謝を伝え、地元の上太田子供会、戸来園子さん、高橋新吉さん、太田区長会が「山の広場」「岩手の人」など光太郎の詩を高らかに朗読した。
 光太郎は1945年、東京のアトリエを空襲で焼失し、詩人で童話作家の宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開。旧太田村山口の山小屋で7年間、農耕自炊の生活を営みながら住民と交流し、多くの詩作品を生み出した。
 高村山荘の近くにある高村光太郎記念館は、老朽化のため全面改修され、2015年4月にリニューアルオープンし、多数の入場者を迎えている。
 照井支部長は「少子高齢化の影響で地区の子供も減っており、今年は詩の朗読に小学生だけでなく中学生も加わってもらった。高村先生を覚えている人も減っている。リニューアルした記念館とともに行事を通じて先生のことを伝えていきたい」と話していた。
『岩手日日新聞』 2016/04/03
 

”高村光太郎の命日”で法要

 詩人で彫刻家、高村光太郎の命日の2日、光太郎が太平洋戦争の時に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
 高村光太郎は、昭和20年の空襲で東京のアトリエを失ったあと、知人を頼って花巻市に疎開し、その後、7年間を過ごしました。
 光太郎の命日の2日、花巻市双葉町の松庵寺で光太郎が好きだったというレンギョウの花の名前をとって「連翹忌」と呼ばれる法要が営まれました。
 法要には、光太郎ファンの市民などおよそ20人が集まり、松庵寺の小川隆英住職が、お経を読みあげたあと、光太郎の詩、「松庵寺」を紹介しました。
 小川住職は、この詩について、「若くして亡くした妻、智恵子への愛情が込められている」などと説明していました。
 出席した70代の女性は、「光太郎の妻への愛情が身にしみてわかりました」と話していました。
 また、2日は、光太郎が過ごした山荘近くにある石碑の前でも、市民や子どもたちおよそ40人が集まり詩を朗読して光太郎をしのんでいました。
「NHKオンライン 岩手」 2016/04/02

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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。当方、東京での連翹忌を仕切らねばなりませんので、こちらには参加できません。ただ、来月15日、昭和20年(1945)に光太郎が疎開のため東京を発って花巻に向かった日には、やはり高村山荘敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されます。こちらには例年通り参加させていただきます。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や赤き袴(ジユボン)と黒き傘  明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作。「ジュボン」=「ズボン」に「袴」の漢字を当てる辺りがにくいですね。赤と黒の対比がいかにも南欧の鮮やかな風景を演出しています。

日本では菜種梅雨、というところでしょうか。今日もかなり雨が降っています。2日の連翹忌の日も、朝、そして帰途に就いている途中も激しい雨でした。

光太郎は生前から何か節目の時には必ず雨か雪(連翹忌の日に最終回を迎えたNHKさんの「あさが来た」の新次郎さんみたいですね)。亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、東京では季節外れの大雪が積もっていたそうです。没後も雨や雪を降らせる神通力は健在。連翹忌当日は、絶対といっていいほど、雨が降ります。

昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。

まずは昼頃、駒込染井霊園の高村家墓所に、代表して香華を手向けに参りました。昨日が連翹忌というのが、意外と知られているようで、当方が着いた際に、一般の方々が10名程、お参りして下さっていました。ありがたいかぎりです。他にも夕方からの日比谷松本楼さんでの集まりに行く前に、墓参をされた方が複数いらっしゃいました。

さすがは発祥の地、ソメイヨシノがみごとでした。

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その後、日比谷松本楼さんへ。午後5時30分から、連翹忌の集いです。当方は2時30分過ぎには会場入りし、準備。多くの皆さんが、配付資料の袋詰めや名札の準備、受付などでお手伝い下さり、助かりました。ありがとうございました。

午後5時30分、開会。まずは光太郎に、そしてこの1年に亡くなった関係者の皆様に、ということで黙祷を捧げました。つい先だって、光太郎の親友だった作家の水野葉舟のお孫さんで、さらには光太郎に私淑した詩人・尾崎喜八のお嬢さんにあたる尾崎榮子様が亡くなったそうで、昨日、初めて知りました。一昨年に鎌倉でお会いしたのが最後になりました。生前の智恵子を知る方でした。残念です。

晩年の光太郎に親しく接した当会顧問の北川太一先生のご挨拶。最近、フランスで実物が確認されたアンリ・マチスと光太郎の往復書簡についてお話下さいました。

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続いては、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝だった高村豊周のお孫さんにして、現在の高村家当主・達氏の御発声により、献杯。

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その後はビュッフェ形式で料理を戴きつつ、アトラクションとしての音楽家の皆さんの演奏と、全国からお集まりの皆さんからスピーチを賜りました。

演奏は毎年ひと組の方にお願いしていたのですが、今年は是非にというお申し出もありましたし、60回の節目だから盛大にいこうと、3組の皆さんにお願いしました。

バリトン歌手・森山孝光氏と、ピアノの康子様ご夫妻による歌曲「千鳥と遊ぶ智恵子」「案内」。

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作曲された野村朗氏もいらしていて、スピーチをお願いしました。

その後はスピーチをいろいろな方に。

遠く花巻からいらした市の生涯学習交流課長・高村光太郎記念館長の市川清志様。

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智恵子の故郷・二本松の観光大使をなさっている女優の一色采子001さん。お父様は二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏です。智恵子をモチーフにした作品も多く描かれました。「二本松さくら展」などについてお話しいただきました。

九段下の書道用品店・玉川堂さんは、明治末と推定される光太郎直筆の短冊を持ってきて下さり、そのお話を。

詩人の曽我貢誠氏、碌山美術館学芸員の武井敏氏。

太平洋美術会の坂本富江さんと沼津第一小学校長・斎藤匡洋先生には、智恵子が描いた油絵「樟」についてお話しいただきました。

出版社、コールサック社の鈴木比佐夫様、鋳金家の後藤信夫様。

女川光太郎の会の佐々木英子さん。震災から5年の現状を語って下さいました。先頃、天皇皇后両陛下が女川をご訪問された際のお話なども。

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そしてシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんのギター弾き語り。曲目は「レモン哀歌」「十和田湖畔の裸像に与ふ」。3年前の智恵子命日の集い「レモン忌」で演奏を聴かせていただき、ぜひ連翹忌でも、とお誘いし続けていましたところ、今年、とうとう実現しました。

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熱の籠もった歌声に、会場も感動。

仙台からいらした朗読家の荒井真澄さんには、急遽、「あどけない話」の朗読をお願いしました。突然の無茶ぶりにも快く応じて下さいました。

さらにシャンソン系のモンデンモモトリオ。モモさんに歌っていただくのは5年ぶりくらいです。

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チェロの伊藤耕司さん、ギターの田嶌道生さんの伴奏で、「オーロードコレクトミー」「樹下の二人」「道程~冬が来た」。いつもながらに素晴らしい演奏でした。

ご参会の方全てに光太郎智恵子への思いを語っていただきたかったのですが、そういうわけにもいかず、盛会のうちに、閉幕。充実した会でした。

来年以降も4月2日には、日比谷松本楼さんで連翹忌の集いを行います。ご興味のある方は、ぜひぜひご参加下さい。参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。


【折々の歌と句・光太郎】

桜狩り桜をめでて日をめでて暮れてかへるに君か要(い)るべき
明治38年(1905) 光太郎23歳

駒込染井霊園、そして日比谷公園も桜が満開でした。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部はまだ2~3分咲き。今月は信州などにも出かけますので、満開の桜が長い間見られます。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第60回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第60回連翹忌御案内

                                        
日 時  平成28年4月2日(土
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)


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第60回連翹忌へのお誘い

 高村光太郎さんを偲ぶ連翹忌も、新しい運営委員会の方々におまかせしてから、瞬く間に10年目が来ようとしています。有能で機動力に富むその絶え間ない努力によって、未知の資料の発掘や回想の集積は、全集に増補の巻を加えなければならないほど充実して来ています。

 戦後高村さんが辿った歴史の歯車が逆転しそうなこんな時期こそ、親しくお目にかかり、お話をお聞きし、今やこれからの沢山の報告もお聞きいただきたく存じます。例年のように楽しい催しもいろいろ用意されるでしょう。

 是非、いつもの日比谷松本楼の一夜にお出かけ下さいますよう、お誘いいたします。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(火)002までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明


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今年は光太郎没後60年の節目の年です。また、閏年の関係で、4/2は土曜日となっています。例年「年度はじめの平日では無理」という方も、ぜひご参加下さい。

過去3年間の様子はこちら。



【折々の歌と句・光太郎】

もちくさをくさもちにして箱につめたのしきものか友のくる日は
大正14年(1925) 光太郎43歳

4月2日の連翹忌にて、志を同じうする全国の皆様とお会いできることを楽しみにしております。

毎年ご紹介していますが、光太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さんで花巻としての連翹忌です。それぞれ報道されていますのでご紹介します。

岩手)高村光太郎60回忌 花巻で詩碑前祭

朝日新聞 岩手版 4月3日
 詩人で彫刻家の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。山荘での生活をうたった「雪白く積めり」など光太郎の詩を、参加者が朗読するなどして故人をしのんだ。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。56年4月2日に亡くなり、今年が60回忌にあたるという。
 詩碑前祭は地元住民でつくる「高村記念会山口支部」が主催。照井康徳支部長は「先生の偉業を後世に伝え、先生が愛した山荘を守ることを肝に銘じていく」と話した。

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光太郎の遺徳しのぶ 60回忌詩碑前祭 児童が「山の広場」朗読

岩手日日 4月3日 002
 花巻ゆかりの詩人で彫刻家・高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた「詩碑前祭」と「連翹(れんぎょう)忌法要」が2日、花巻市内で行われた。第60回忌に当たり、参加者が詩の朗読などを通じて、遺徳をしのんだ。
 「詩碑前祭」は、同市太田の高村山荘敷地内広場で行われた。光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が主催。光太郎が暮らした太田山口地区の住民有志を中心に約50人が参加した。
 照井康徳支部長は「今年は60回忌で、高村先生が太田山口地区に来てから70年目の節目でもある。高村先生と面識のあった人は少なくなっている。われわれが高村先生を後世に伝えていくことが大事になる」とあいさつ。
 光太郎の遺影を飾った詩碑前で、太田小学校の高橋百花さん(2年)と中島流星君(3年)が花を手向けた後、同支部の平賀仁理事が祭文を奏上。上太田子供会、太田区長会、いずれも地元住民の戸来洋子さん、浅沼功さん、高橋新吉さんが光太郎の詩を朗読した。
 このうち、上太田子供会は太田小児童5人が声をそろえて「山の広場」「山口部落」「山からの贈り物」を読み上げた。高橋梨々菜さんと髙橋誉桂さん(ともに6年)は「『山の広場』が好き。この辺の景色を思い出す感じがする」「どうやって詩を作ったのか詳しく知りたい」などと話し、地元に足跡を残した偉人に思いをはせていた。
 光太郎は戦時中の1945(昭和20)年、東京のアトリエを焼失し、宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開した。旧太田村山口の山小屋で7年間、地元住民と交流しながら農耕自炊の生活を営み、多くの詩を生み出した。


また、同じ『岩手日日』さんには、前日に花巻連翹忌会場の松庵寺さんがらみの記事も載りました。 

慰霊と更生祈る 松庵寺 小川住職が盛岡へ行脚

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 花巻市双葉町の松庵寺住職、小川隆英さん(74)は1日、東日本大震災の犠牲者の霊を慰めようと、盛岡市に向け追悼行脚に出発した。教誨(きょうかい)師を務めている縁で、盛岡少年院や盛岡少年刑務所を目指す。約80キロを2日間で踏破する強行軍だが「慰霊と被収容者の更生を祈りながら歩く。こんな私だが、何か一つでも皆さんの心のよりどころになれれば」と願う。
 小川住職は1961年(昭和36年)夏、東京都から本県まで、600キロを超える道のりを托鉢(たくはつ)行脚した経験を持つ。「戦後復興途上の道路は舗装されておらず、ハエや蚊が多く安眠などできなかった。震災で被害を受けた方々の苦しみはよく分かる」と避難生活を深く思いやり、今回の行脚を決めたという。
 同日はあいにくの雨模様だったが、この熱意に感銘を受けた市民約20人が同寺を訪れた。「気を付けて」「無理だけはしないで」などと言葉を掛け、早朝の出発を見送った。
 到着予定の2日は、花巻に大きな足跡を残した詩人・彫刻家の高村光太郎をしのぶ連翹(れんぎょう)忌が行われる日。同寺は市内外から多くの参列者を迎える。小川住職は「法要の時間に合わせ、光太郎の書碑がある同少年刑務所でお勤めしたい。一歩ずつ進めば必ず目的地に着く。前を向いて頑張ってほしい、という気持ちを被収容者、被災者へ伝えるためにも歩き通す」と固く誓う。
 小川住職は追悼行脚のほか、震災犠牲者の供養に役立ててほしいと託された市民からの寄付金を生かすため、慰霊碑の建立も計画している。


光太郎が智恵子や光雲の法要をしてもらっていた頃のご住職が、小川金英師。おそらく記事にある小川住職のお父様でしょう。金英師の光太郎に関する回想など、とても面白いのですが、いずれまた改めてご紹介します。


岩手ではありませんが、同じ東北青森の地方紙『東奥日報』さんは、一面コラムで連翹忌にふれて下さいました。東京日比谷での連翹忌当日、十和田奥入瀬観光ボランティアの会の山本氏がわざわざ持ってきて下さいました。

天地人 2015.4.2

<連翹(れんぎょう)のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎>。連翹は黄色の花をいっぱいに咲かせる。色彩は遠目にも実に鮮やかで、花のあと小さな葉が萌(も)え出る。詩人、彫刻家でもあった高村光太郎は連翹の鮮黄色(せんおうしょく)を愛した。1956(昭和31)年4月2日の没。きょうが忌日「連翹忌」である。
  光太郎といえば、詩集「智恵子抄」が真っ先に浮かぶ。最愛の妻、智恵子の最期を綴(つづ)った「レモン哀歌」などを収める。智恵子の死後、世俗を離れ東北の山村にこもるが、彫刻家として最後の一作に渾身(こんしん)の思いを刻む。
  静謐(せいひつ)な湖を背景に、左手を合わせて向かい合う2体の裸像。十和田湖休屋の湖畔に立つ「乙女の像」がその作品だ。光太郎が亡くなる3年前に完成した。
  病弱で華奢(きゃしゃ)だった智恵子とは対照的に、2体の像は豊満で生命力に満ちあふれる。「立つなら幾千年でも立ってろ」。光太郎の言葉通り、建立から60年余を経て十和田湖のシンボルであり続ける。
  十和田湖は「ドル箱観光地」ともてはやされた。新緑から紅葉にかけ湖畔は人であふれた。乙女の像には記念撮影を待つ大きな人垣があった。往時のにぎわいよ、どこへである。八甲田・十和田ゴールドラインがきのう開通したが、今年は定番のJR一番バスの姿はなし。乗客の落ち込みを理由に運行は18日からである。栄枯盛衰、乙女の像は何を思う。

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松庵寺さんの記事でもそうですが、やはり東北、東日本大震災がからみます。津波や原発の直接の被害がなかった地域でも、観光客の落ち込みは深刻なようです。

十和田では乙女の像、花巻では高村山荘・高村光太郎記念館(今月28日にグランドオープンです)。言葉は悪いのですが、少しでも光太郎が「客寄せ」になれば、と念じています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月4日000

昭和3年(1928)の今日、書肆ARSから『ロダン』普及版が刊行されました。

光太郎による気鋭のロダン評伝。前年にはハードカバーで刊行されており、こちらはペーパーバックです。

終末部分には、ロダンのモデルを務めた日本人女優・花子を岐阜に訪問した際の体験が付されています。

昨日は高村光太郎の忌日ということで、日比谷松本楼様におきまして、第59回連翹忌の集いを開催いたしました。

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開会は午後5時半でしたが、当方、その前に、参会者を代表して、駒込染井霊園の高村家墓所に参拝しました。

例年、連翹忌の日は雨です。光太郎が亡くなった昭和31年(1956)の4月2日は前日から季節外れの春の大雪でしたし、その後も雨になる確率が非常に高いのです。昨年も会が終わって外に出るとぽつぽつ雨でしたし、一昨年は春の大嵐でした。しかし、昨日は珍しく快晴。名の由来となった染井、本場のソメイヨシノが見事でした。

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松本楼さんのある日比谷公園も桜が満開、というか少し散り始めており、雨や雪の代わりに桜の花びらが降っていました。「桜吹雪」と云うほどではなく、「桜小雪」の状態でした(笑)。

少し遅れて5時40分、開会。まずは光太郎に、そして、昨年8月に逝去された光太郎の令甥、高村規氏をはじめとする、この一年になくなった関係者の皆さんに、黙祷を捧げました。続いて、当会顧問、北川太一先生のご挨拶、高村規氏令息・高村達氏の御発声による献杯。

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さらに、昨年9月にコンサート もうひとつの智恵子抄」をなさった音楽ユニットPrhymx(ぷらイム)のお二人、テルミン奏者の大西ようこ様(大西様はやはり昨年10月にはotoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』でも演奏なさいました)、ギターの三谷郁夫様による演奏。

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哀愁漂うカッチーニの「アヴェ・マリア」、さらに大西様の演奏に合わせ、三谷様の朗読「Nー女史に」。会に花を添えて下さいました。

その後は会食、歓談しつつ、多くの方にスピーチを戴きました。

今月28日にグランドオープンとなる花巻高村光太郎記念館がらみで、花巻市長・上田様。


過日ご紹介した、光太郎詩「四人の学生」のモデルになった深沢竜一様と、そのお話を聴く際に同道された女優の渡辺えりさん。

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つい最近も福島の地方紙で紹介された、日本画家・大山忠作氏のお嬢さん、女優の一色采子さん。

やはり生前の光太郎を知る、元建設大臣、水野清様。水野様は光太郎の親友・水野葉舟のご子息です。

『歴程』同人の伊武トーマさん

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新宿中村屋サロン美術館の太田様、河野様。太平洋画会の坂本富江様。作曲家の野村朗様。詩人・野沢一の研究者・坂脇秀治様。福島二本松の智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん。山岳雑誌『岳人』編集部の加藤様。信州安曇野碌山美術館の五十嵐館長。北川先生のご著書を出版されている二玄社さん、さらに文治堂書店さん(代理で曽我様)、元かわうち草野心平記念館長・晒名様。

最後の締めを、「連翹忌」の名の由来となった、光太郎の愛した連翹が咲いていた、その終焉の地・中野のアトリエの所有者の中西利一郎様。中西様には高校生だった光太郎終焉の時の思い出を語っていただきました。

今更ながらに、たくさんの人々に愛され続けている光太郎の遺徳を、しみじみと感じました。

ご参会の皆様、さらに資料袋詰めやら受付やら物販等でお世話になった皆様、ありがとうございました。

来年は第60回連翹忌となります。したがって、光太郎歿後60年のメモリアルイヤーとなります(メモリアルイヤーといえば、智恵子生誕130年でもあり、いろいろな企画が進むことを期待します)。さらに閏年の関係で、来年の連翹忌は土曜日です。このところ、年度初めの平日と云うことで、なかなか参加したくても不可能だった方も、来年はよろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月3日

昭和37年(1962)の今日、一ツ橋の如水会館で、第6回連翹忌が開催されました。

この年は、4月2日が日曜日。会場の関係で2日に行えず、3日の月曜日に執り行いました。その後も何度かそういうことがありましたが、会場が松本楼様に移ってからは、曜日に関係なく4月2日に挙行しております。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第59回連翹忌を開催いたします。
 
昨年の第58回連翹忌の様子はこちら

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。

3月30日追記 申し込みは締め切らせていただきました。

詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。 

第59回連翹忌の御案内                     

記                                                        

                                       
日 時  平成27年4月2日(木
) 午後5時30分~午後8時
 
会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)
 
会 費  10,000円


御参加申し込みについて
 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(日)までにご送金下さい。
会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
 郵便振替 郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。
              口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

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申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 
当日、お時間に余裕のある方には参加者に配付する資料の袋詰めをして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、 ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場入りしております。


当会顧問にて、高村光太郎記念会事務局長、北川太一先生の玉稿も戴いております。


ご 挨 拶

 草野心平さんが「この日を連翹忌と名づけて今後ひきつづき高村さんの思い出を語りあいたいと存じます。」と最初の案内状に書いてから、今年はもう五十九回目になります。

 その間にたくさんの出来事がありましたが、高村さんや智恵子さんを敬愛する皆さんに支えられて、私たちの心の中のお二人の姿は、ますます強く、ますます大きく生き続けてきました。

 荒々しい自然現象や、異常な世界情勢のなかで、様々な困難を乗りこえて実現し、いまも企てられつつある出来事の詳細は、今年もそれぞれ親しく報告されるでしょう。

 お元気でお目にかかれるのを楽しみにしております。

平成二十七年 春
                                        高村光太郎記念会 事務局長 北川太一

以上、よろしくお願い致します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月14日

昭和29年(1954)の今日、新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵が歿しました。

愛蔵は明治34年(1901)に、東大赤門前にてパン屋の中村屋を創業、のち、本店を新宿に構えます。同郷の彫刻家・荻原守衛を援助し、守衛を中心に光太郎を含む若き芸術家達が中村屋に集い、中村屋サロンが形成されました。

一昨日、4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催しましたが、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。

岩手)高村光太郎の命日 花巻で住民らがしのぶ

 彫刻家で詩人の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で「詩碑前祭」があり、地元の児童らが光太郎の詩を朗読した。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。その後東京に戻り、56年に死去。翌年から地元の住民らが毎年、山荘で集まりを持っている。
 この日は山荘近くにある詩碑の前に住民ら約70人が集まった。詩碑には、山荘での生活をうたった「雪白く積めり」が刻まれており、住民はこの詩など8編を朗読し、故人をしのんだ。
(朝日新聞)
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“先生”の教え心に 高村光太郎命日に詩碑前祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた詩碑前祭と連翹忌(れんぎょうき)法要が2日、59回忌に当たる今年も花巻市内で行われ、参加者が花巻ゆかりの偉人をしのんだ。

 詩碑前祭は、同市太田山口地区の住民らで組織する高村記念会山口支部が毎年主催。同地区の高村山荘敷地内広場で催され、約50人が参加した。

 照井康徳支部長は「来年は高村先生が花巻に来てから70周年で、60回忌の節目を迎える。この機会に先生をしのんでもらいたい」とあいさつ。高橋百花さん(太田小学校1年)と小原律君(同2年)が詩碑に献花し、新渕澄副支部長が祭文奏上した。

 詩の朗読も行われ、上太田子供会が「山の広場」を読み上げたのを皮切りに、花巻高村光太郎記念会の駿河いく子さん、山口支部理事の本館文男さんと高橋新吉さん、太田の区長会が発表。詩碑には光太郎の遺影が掲げられ、参加者が線香を上げて静かに手を合わせた。

 光太郎は1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失。翌月に宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、稗貫郡太田村山口の山荘で7年間暮らした。

 上太田子供会の安倍依織莉さん(同6年)は「山の良いところがたくさん書かれている詩『山からの贈り物』が好き。高村先生は誰にでも優しい人だったと思う。地元にいたことに誇りを持ちたい」と話していた。
(岩手日日新聞)
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連翹忌法要にファンら集う

 連翹忌法要は、光太郎の顕彰活動を続けている花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)が毎年開催。光太郎が花巻で暮らしていた際に妻・智恵子や父母の法要を行った同市双葉町の松庵寺で営まれ、約40人が参列し焼香した。

 小川隆英住職は法話で、子供の頃に見た光太郎の姿を「いつもリュックサックを背負い、どた靴を履いて寺に来た。背が高く手足も大きく、風格があった」と振り返った。ほかに光太郎の随筆「顔」を取り上げて「高村先生は『思無邪』の顔、邪のない心を持った人の顔が一番美しいと言っておられる」と、人のあるべき生き方を説いた。

 献茶をした倉金和子さん(78)=同市下似内=は「高村先生は素晴らしい人。世知辛い世の中になってしまったが、豊かな心や思いやりを大事にしたい」と話していた。

 法要に続いて追悼座談会が開かれ、参加者が光太郎の思い出や作品の感想などを語り合った。
(岩手日日新聞)
 
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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月4日

明治45年(1912)の今日、「光雲還暦記念胸像」の贈呈式が行われました。
 
「光雲還暦記念胸像」。光雲の弟子たち000が発願し、海外留学から帰ってきた光太郎に依頼しました。多分に光太郎の腕試し的な意味合いが強かったようです。
 
それに対し光太郎は見事に応えました。
 
おそらく同じ時期におそらく習作として造った「光雲の首」は現存しており、昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも出品されましたが、「還暦記念胸像」自体は残念ながら現存が確認できておりません。
 
時折、この二つの彫刻を混同している記述があり、困っています。
 
写真は贈呈式の模様。右が光雲、左は光雲の妻にして光太郎の母・わかです。
 

昨日は光太郎の58回目の命日。東京日比谷松本楼様に於きまして、第58回連翹忌を開催いたしました。
 
と、その前に、当方は駒込染井霊園の高村家のお墓にお参りをしました。染井はソメイヨシノの名前の由来となった地だけに、霊園内の桜も見事でした。
 
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さて、5時30分、第58回連翹忌を開会しました。今年も昨年を上回る76名ものご参加を頂きました。
 
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はじめに、光太郎、そして今日までの一年間に亡くなられた関係者の皆様に対して黙祷を捧げました。続いて、永らく連翹忌の運営をされてきた、高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問の北川太一先生のご挨拶。さらに、光太郎の令甥にあたられる高村光太郎記念会理事長・高村規様のご発声により、献杯。
 
その後はビュッフェ形式で料理を堪能していただき、並行してスピーチやアトラクション演奏。
 
まず、日本画家の故・大山忠作氏ご息女にして女優の大山采子さん(芸名・一色采子さん)にスピーチをお願いしました。大山さん、他にご用がおありのところ、駆けつけてくださり、途中までのご参加でした。
 
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昨年、二本松の大山忠作美術館で開催された「五星山」展についてお話下さいました。
 
連翹忌ということで、鮮やかな黄色のお召し物。さすがです。なぜかシャンソン歌手・モンデンモモさんとのツーショット。
 
続いて、吉川久子様によるフルート演奏。吉川様は昨年、横浜で「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」という演奏会を開かれました。今回はそのダイジェスト版をお願いしました。
 
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伴奏は海老原真二さん、三浦肇さん。
 
演奏だけでなく、朗読、さらに光太郎智恵子に対する思いのトークも入り、皆さん、聴き入っていました。
 
その後、時間の許す限り、いろいろな方にスピーチをいただきました。
 
昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関係で、愛知碧南市藤井達吉現代美術館長・木本文平様。
 
昨秋、同館で記念講演「高村光太郎 造型に宿る生命の極性」をなさった、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏。
 
美術館つながりで、信州安曇野碌山美術館・五十嵐久雄理事。
 
昨秋、光太郎も関わる「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催された山梨県立文学館長・三枝昻之氏。
 
光太郎と交流のあった詩人、野澤一関連の書籍『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』を編集なされた坂脇秀治様。
 
与謝野晶子研究の第一人者、逸見久美先生。逸見先生は、昨年の連翹忌にご参加の予定でしたが、その当日に急遽御入院。その後、恢復なされ、一年越しのご参加でした。
 
さらに花巻高村記念会の高橋卓也氏、光太郎の血縁・山端通和様加寿子様御夫妻、詩人の間島康子様、福島二本松智恵子のまち夢くらぶの熊谷健一さん、同じく福島川内村草野心平記念館長・晒名昇氏……。
 
スピーチの中に、いろいろ新しい情報もあり、追ってご紹介します。
 
本当はもっとたくさんの方にスピーチを頂きたかったのですが、そうもいかず、残念でした。
 
また、荷物運び、資料の袋詰め、受付、物品販売等で、たくさんの方々にお手伝いいただき、非常に助かりました。
 
泉下の光太郎も、きっと喜んでくれたことと思います。
 
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また、昨日は花巻松庵寺でも花巻としての連翹忌が開催されています。そちらも情報が入り次第、ご紹介します。
 
とにもかくにも、皆様、ありがとうございました。003
 
来年以降も連翹忌の集いは続けられるだけ続けます。新たな方々のご参加もお待ちしております。よろしくお願い申し上げます。
 
また、当会名簿に記載されている方で、昨日ご欠席の方には、配付資料を後ほど郵送します。お待ち下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月3日

昭和59年(1984)の今日、近藤富枝著『愛 一通の手紙 炎の作家15人の愛の書簡集』が刊行されました。
 
版元は主婦の友社。「高村光太郎と妻・智恵子――芸術家の妻の幸と不幸」で光太郎智恵子にふれています。

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