一昨日は光太郎忌日、第70回連翹忌でした。当日、『読売新聞』さん夕刊のコラムで触れて下さいました。
引用されている「手紙に添へて」は昭和13年(1938)1月の作。全文は以下の通りです。題名を含め『読売』さんでは新仮名遣いで表記していますが、旧仮名遣いで。
手紙に添へて
どうして蜜柑は知らぬまに蜜柑なのでせう
どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
さて、連翹忌当日、光太郎が戦後の7年間隠棲した花巻郊外旧太田村では、太田地区振興会さん主催で、光太郎を偲ぶ「詩碑前祭」が開催されています。「詩碑」は、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」碑。以前は5月15日(昭和20年=1945に光太郎が疎開のため東京を発った日)を記念する「高村祭」がこの碑の前で行われていました。昭和33年(1958)、光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金分野の人間国宝となった光太郎実弟の豊周がブロンズパネルに鋳造して作られ、地下には光太郎の遺髯が納められています。
今年、現地は霙(みぞれ)だったそうで、詩碑前ではなくやはり同じ敷地の高村光太郎記念館さんで開催したとのこと。岩手恐るべしで、数年に一度はこの日が雪だったりします。
地元の皆さんが光太郎詩の朗読をなさって下さっています。中には生前の光太郎をご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか。
都内で連翹忌を主催している立場上、こちらには伺えませんが、末永く続いて欲しいものですし、5月15日の「高村祭」の復活も心より祈念いたしております。
たぶん函がついていたと思うのですが、手持ちのものには欠けています。
青沼彦治(慶応2年=1866~昭和10年=1935)は宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)で醸造業を営んでいた素封家です。大正14年(1925)、光太郎が父・光雲の代作でその銅像原型を制作しました。像は戦時中の金属供出のため現存せず、台座のみが大崎に残っています。
この書籍は主に地元の人々が青沼の功績を讃える文章等を寄せたものです。光太郎の文章は「序」となっていますが、序文的な内容ではなく、おそらく通常の寄稿者と同様に寄稿したもの。数多い執筆者中の特筆すべき人物ということで巻頭に置き、「序」の扱いとしたかと思われます。全文はこちら。十数年前に見つけたもので、『高村光太郎全集』には漏れていました。青沼像について詳細に述べているのはこの文章のみで、貴重なものです。
下記はこの書籍に載った青沼像の写真の一部です。左下の方には光太郎、光雲、豊周の父子三人も写っています。
駅までの道中、川べりの土手で菜の花が咲いていた。その先の桜並木はもう満開。薄紅の花びらによる天然の回廊を道行く人が時折、立ち止まって見上げていた。◆草木の色の共演が楽しい季節になった。黄色の花を鈴なりにつける連翹(れんぎょう)も、街角に春を告げる使者であろう。きょう2日は、この花を好んだ詩人高村光太郎の命日、連翹忌である。今年で没後70年となる◆高村は「手紙に添えて」という詩のなかで、自然の美を生み出すこの世界を〈不思議に満ちた精密機械の仕事場〉と表現し、こう続けている。〈たった一度何かを新しく見てください/あなたの心に美がのりうつると/あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます〉◆心を病んだ妻智恵子を最期まで愛した高村は晩年、岩手県の山小屋で隠遁(いんとん)生活を送った。ひとり自然と向き合い、時間の裏や空間の外に心が飛ぶ経験をしたのかもしれない◆行き過ぎて尚連翹の花明り(中村汀女)。世俗を離れられぬ身なれども自然の美に心震わす感性は持ち続けたいものである。
引用されている「手紙に添へて」は昭和13年(1938)1月の作。全文は以下の通りです。題名を含め『読売』さんでは新仮名遣いで表記していますが、旧仮名遣いで。
手紙に添へて
どうして蜜柑は知らぬまに蜜柑なのでせう
どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
中にかわいい部屋を揃へてゐるのでせう
どうして蜜柑は葡萄でなく
世界は不思議に満ちた精密機械の仕事場
あなたの足は未見の美を踏まずには歩けません
何にも生きる意味の無い時でさへ
この美はあなたを引き止めるでせう
たつた一度何かを新しく見てください
あなたの心に美がのりうつると
あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます
どんなに切なく辛(つら)く悲しい日にも
この美はあなたの味方になります
仮りの身がしんじつの身に変ります
チルチルはダイヤモンドを廻します
あなたの内部のボタンをちよつと押して
もう一度その蜜柑をよく見て下さい
さて、連翹忌当日、光太郎が戦後の7年間隠棲した花巻郊外旧太田村では、太田地区振興会さん主催で、光太郎を偲ぶ「詩碑前祭」が開催されています。「詩碑」は、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」碑。以前は5月15日(昭和20年=1945に光太郎が疎開のため東京を発った日)を記念する「高村祭」がこの碑の前で行われていました。昭和33年(1958)、光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金分野の人間国宝となった光太郎実弟の豊周がブロンズパネルに鋳造して作られ、地下には光太郎の遺髯が納められています。
今年、現地は霙(みぞれ)だったそうで、詩碑前ではなくやはり同じ敷地の高村光太郎記念館さんで開催したとのこと。岩手恐るべしで、数年に一度はこの日が雪だったりします。
地元の皆さんが光太郎詩の朗読をなさって下さっています。中には生前の光太郎をご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか。
都内で連翹忌を主催している立場上、こちらには伺えませんが、末永く続いて欲しいものですし、5月15日の「高村祭」の復活も心より祈念いたしております。
【高村光太郎書誌】
本人著作(部分)8 『青沼彦治翁遺功録』
昭和11年(1936)9月5日 菅原京司編刊
目次
目次
青沼彦治翁遺功録序 鎌田三之助
序 衆議院議員 岡田喜久治
序 国幣中社志波彦神社塩竃神社宮司 古川左京
序 高村光太郎
遺功写真集
緒言
青沼家の家系と翁の略譜
青沼家系図
翁の経歴
翁の村葬
弔詞
青沼彦治翁の御遺徳を偲びて 青沼幸之助
遺徳千歳 雲洞庵 新井石龍
青沼翁の為に聊か無縫塔を描く 壽徳寺住職 熊谷泰壽
宿植徳本 修禅寺住職 武中文山師
発菩提心修菩薩行 南浦静夫
翁の功徳也不朽 龍興院 高塲泰映氏
神社より見たる翁 斗瑩神社社掌 橋本純氏
本県酒造組合に対する翁の功績 宮城県酒造組合長 小野惣助
青沼翁を憶ふ 高清水小学校長従七位勲六等 鎌田謙吉
所感 古川町長 佐々木君五郎
青沼彦治君の片影 宮城県古川商業学校長 三原篤治
翁の報謝生活と其の識見 元古川税務署長 大友喜四郎
青沼彦治翁を偲ぶ 前大日本体育協会専務理事 佐藤武雄
所感 株式会社七十七銀行頭取 大庭経之輔氏
青沼翁を憶ふ 同七十七銀行副頭取 氏家清吉
我が大崎酒造業界に於ける青沼彦治翁の功績を偲ぶ
宮城県酒造組合古川支部長 新澤順吉
青沼彦治翁を追慕して 仙台警察署長 千葉与左衛門
感想 古川警察署長 舘山久米蔵
感想 宮城県古川高等女学校長 田中浅次郎
青沼彦治翁に対する感想 古川裁縫学校長 尾花勇
故青沼翁を追憶す 元古川中学校長 山下勝太郎
青沼彦治翁の一面 元志田郡長 下山鉄之助
偉材青沼彦治翁 遠田郡北浦村長 千葉多利司
翁の映像 札幌市 農学士 松本精一
翁を通しての私感 同 医学士 松岡幸七
青沼彦治翁遺功の片鱗 元荒雄小学校長 川田素助
荒雄村在郷軍人分会と青沼翁 帝国在郷軍人会荒雄村分会長 工藤観禅
翁と吾等の団体 荒雄村婦人会長 早坂いし
翁の功績と感想の一端 荒雄村消防組頭 矢越亥八郎
所感 仙台市 三神備克
翁を思ひ出づるがまゝに 赤尾穆如
翁を偲びて 仙台市七十七銀行塩竃町支店長 鈴木充仁
所感 玉造郡鳴子温泉 高野善兵衛
私の翁に私淑せる動気 古川町 佐々木与右衛門
青沼彦治翁の幼時 小牛田駅前 伊勢忠太郎
感想 荒雄村役場財務課 竹中明
郡村分合に就て 荒雄村長濱 高橋悟
所感 古川町 豊島庄之助
所感 東京市宮城館主 浅野謙六
福浦区民鎮守の森に翁の遺徳を偲ぶ事 荒雄村福浦区学務員 佐々木忠之助
翁の先見 荒雄村字馬寄区学務員 青沼敏夫
在りし日の翁を慕ひ
荒雄村馬寄区村会議員兼馬寄耕地整理組合会計 佐々木正衛
大旦那様と私 青沼商店内 佐藤覚右衛門
鴻恩に浴せし私の所感 同 菅泉亀治
感激 同 青沼養蔵
旦那様と建築 荒雄村字江合大工職 村田吉助
感想録 古川町 鉄工職 鈴木寛三郞
青沼彦治翁の芸術感に就いて 古川町川端 表具師 横山豊助
御主人公御夫妻と成田山 古川町裏町 武力職 石川萬
所感 樋口光平
青沼彦治翁と厥郷土 古川町横町電気器具商 大泉良平
青沼彦治翁の葬儀 荒雄小学校高等二年生 千葉義夫
故青沼彦治翁に就いて 荒雄小学校高等一年生 青沼常雄
所感 龍銅院檀頭 早坂与兵衛
所感 素荒雄村長 相沢琢造
荒雄村基本財産 現荒雄村助役 高橋勇吉
村の恩人青沼翁 同助役 高橋勇吉
青沼彦治翁を憶ふ 荒雄小学校長 土田徹三
翁の赤誠奉安殿を新築寄付す 同校長 土田徹三
翁の教育に与せられし厚儀 同校長土田徹三
青沼彦治翁の至誠と敬神思想 神官 祇園寺大亮
青沼彦治翁龍洞院に対する功績所感 龍洞院住職 工藤観禅
信心歓喜を忍ぶ 工藤観禅
翁を偲びて 荒雄村馬寄排地整理組合長 佐々木与一
噫青沼翁 荒雄小学校内 三浦利康
所感 同小泉区 関庸之助
所感 青沼勇吉
感想 佐々木壽治
余録
たぶん函がついていたと思うのですが、手持ちのものには欠けています。
青沼彦治(慶応2年=1866~昭和10年=1935)は宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)で醸造業を営んでいた素封家です。大正14年(1925)、光太郎が父・光雲の代作でその銅像原型を制作しました。像は戦時中の金属供出のため現存せず、台座のみが大崎に残っています。
この書籍は主に地元の人々が青沼の功績を讃える文章等を寄せたものです。光太郎の文章は「序」となっていますが、序文的な内容ではなく、おそらく通常の寄稿者と同様に寄稿したもの。数多い執筆者中の特筆すべき人物ということで巻頭に置き、「序」の扱いとしたかと思われます。全文はこちら。十数年前に見つけたもので、『高村光太郎全集』には漏れていました。青沼像について詳細に述べているのはこの文章のみで、貴重なものです。
下記はこの書籍に載った青沼像の写真の一部です。左下の方には光太郎、光雲、豊周の父子三人も写っています。














































































































































































註・二度目に電話したのは水道橋のグリルトミーからだった。私は当時現代詩人会の幹事長をしていたので、この日のH氏賞の決定の詮衡(せんこう)と引続いて年一回の総会にはどうしても出席しなければならなかった。H氏賞は鳥見迅彦の『けものみち』に決り(その題字は高村さんがかいたもの)総会もすんだ。それから懇親会に移ったが、折を見て中西さんへ電話すると酸素吸入をしているとのことでビックリした。
写真アルバムについての「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」この言葉を、高村さんがいつ言われたのだったか、私の記憶はぼんやりしているが、この言葉は高村さんの話し方で書かれているから、その晩に言われた言葉だったことはたしかである。















新型コロナウイルスの影響で、午後5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの



















































1883~1956年)の命日である2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で「詩碑前祭」が催され、今年も太田山口地区の住民ら約50人が地元に教えを残した光太郎の遺徳をしのんだ。











