カテゴリ: 連翹忌の集い

一昨日は光太郎忌日、第70回連翹忌でした。当日、『読売新聞』さん夕刊のコラムで触れて下さいました。

よみうり寸評

駅までの道中、川べりの土手で菜の花が咲いていた。その先の桜並木はもう満開。薄紅の花びらによる天然の回廊を道行く人が時折、立ち止まって見上げていた。◆草木の色の共演が楽しい季節になった。黄色の花を鈴なりにつける連翹(れんぎょう)も、街角に春を告げる使者であろう。きょう2日は、この花を好んだ詩人高村光太郎の命日、連翹忌である。今年で没後70年となる◆高村は「手紙に添えて」という詩のなかで、自然の美を生み出すこの世界を〈不思議に満ちた精密機械の仕事場〉と表現し、こう続けている。〈たった一度何かを新しく見てください/あなたの心に美がのりうつると/あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます〉◆心を病んだ妻智恵子を最期まで愛した高村は晩年、岩手県の山小屋で隠遁(いんとん)生活を送った。ひとり自然と向き合い、時間の裏や空間の外に心が飛ぶ経験をしたのかもしれない◆行き過ぎて尚連翹の花明り(中村汀女)。世俗を離れられぬ身なれども自然の美に心震わす感性は持ち続けたいものである。

引用されている「手紙に添へて」は昭和13年(1938)1月の作。全文は以下の通りです。題名を含め『読売』さんでは新仮名遣いで表記していますが、旧仮名遣いで。

   手紙に添へて

 どうして蜜柑は知らぬまに蜜柑なのでせう
 どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
 中にかわいい部屋を揃へてゐるのでせう
 どうして蜜柑は葡萄でなく
 葡萄は蜜柑でないのでせう001
 世界は不思議に満ちた精密機械の仕事場
 あなたの足は未見の美を踏まずには歩けません
 何にも生きる意味の無い時でさへ
 この美はあなたを引き止めるでせう
 たつた一度何かを新しく見てください
 あなたの心に美がのりうつると
 あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます
 どんなに切なく辛(つら)く悲しい日にも
 この美はあなたの味方になります
 仮りの身がしんじつの身に変ります
 チルチルはダイヤモンドを廻します
 あなたの内部のボタンをちよつと押して
 もう一度その蜜柑をよく見て下さい

さて、連翹忌当日、光太郎が戦後の7年間隠棲した花巻郊外旧太田村では、太田地区振興会さん主催で、光太郎を偲ぶ「詩碑前祭」が開催されています。「詩碑」は、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内の「雪白く積めり」碑。以前は5月15日(昭和20年=1945に光太郎が疎開のため東京を発った日)を記念する「高村祭」がこの碑の前で行われていました。昭和33年(1958)、光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金分野の人間国宝となった光太郎実弟の豊周がブロンズパネルに鋳造して作られ、地下には光太郎の遺髯が納められています。

今年、現地は霙(みぞれ)だったそうで、詩碑前ではなくやはり同じ敷地の高村光太郎記念館さんで開催したとのこと。岩手恐るべしで、数年に一度はこの日が雪だったりします。
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地元の皆さんが光太郎詩の朗読をなさって下さっています。中には生前の光太郎をご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

都内で連翹忌を主催している立場上、こちらには伺えませんが、末永く続いて欲しいものですし、5月15日の「高村祭」の復活も心より祈念いたしております。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)8 『青沼彦治翁遺功録』

昭和11年(1936)9月5日 菅原京司編刊
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目次
 青沼彦治翁遺功録序 鎌田三之助
 序 衆議院議員 岡田喜久治
 序 国幣中社志波彦神社塩竃神社宮司 古川左京
 序 高村光太郎
 遺功写真集
 緒言
 青沼家の家系と翁の略譜
 青沼家系図
 翁の経歴
 翁の村葬
 弔詞
 青沼彦治翁の御遺徳を偲びて 青沼幸之助
 遺徳千歳 雲洞庵 新井石龍
 青沼翁の為に聊か無縫塔を描く 壽徳寺住職 熊谷泰壽
 宿植徳本 修禅寺住職 武中文山師
 発菩提心修菩薩行 南浦静夫
 翁の功徳也不朽 龍興院 高塲泰映氏
 神社より見たる翁 斗瑩神社社掌 橋本純氏
 本県酒造組合に対する翁の功績 宮城県酒造組合長 小野惣助
 青沼翁を憶ふ 高清水小学校長従七位勲六等 鎌田謙吉
 所感 古川町長 佐々木君五郎
 青沼彦治君の片影 宮城県古川商業学校長 三原篤治
 翁の報謝生活と其の識見 元古川税務署長 大友喜四郎
 青沼彦治翁を偲ぶ 前大日本体育協会専務理事 佐藤武雄
 所感 株式会社七十七銀行頭取 大庭経之輔氏
 青沼翁を憶ふ 同七十七銀行副頭取 氏家清吉
 我が大崎酒造業界に於ける青沼彦治翁の功績を偲ぶ
 宮城県酒造組合古川支部長 新澤順吉
 青沼彦治翁を追慕して 仙台警察署長 千葉与左衛門
 感想 古川警察署長 舘山久米蔵
 感想 宮城県古川高等女学校長 田中浅次郎
 青沼彦治翁に対する感想 古川裁縫学校長 尾花勇
 故青沼翁を追憶す 元古川中学校長 山下勝太郎
 青沼彦治翁の一面 元志田郡長 下山鉄之助
 偉材青沼彦治翁 遠田郡北浦村長 千葉多利司
 翁の映像 札幌市 農学士 松本精一
 翁を通しての私感 同 医学士 松岡幸七
 青沼彦治翁遺功の片鱗 元荒雄小学校長 川田素助
 荒雄村在郷軍人分会と青沼翁 帝国在郷軍人会荒雄村分会長 工藤観禅
 翁と吾等の団体 荒雄村婦人会長 早坂いし
 翁の功績と感想の一端 荒雄村消防組頭 矢越亥八郎
 所感 仙台市 三神備克
 翁を思ひ出づるがまゝに 赤尾穆如
 翁を偲びて 仙台市七十七銀行塩竃町支店長 鈴木充仁
 所感 玉造郡鳴子温泉 高野善兵衛
 私の翁に私淑せる動気 古川町 佐々木与右衛門
 青沼彦治翁の幼時 小牛田駅前 伊勢忠太郎
 感想 荒雄村役場財務課 竹中明
 郡村分合に就て 荒雄村長濱 高橋悟
 所感 古川町 豊島庄之助
 所感 東京市宮城館主 浅野謙六
 福浦区民鎮守の森に翁の遺徳を偲ぶ事 荒雄村福浦区学務員 佐々木忠之助
 翁の先見 荒雄村字馬寄区学務員 青沼敏夫
 在りし日の翁を慕ひ
 荒雄村馬寄区村会議員兼馬寄耕地整理組合会計 佐々木正衛
 大旦那様と私 青沼商店内 佐藤覚右衛門
 鴻恩に浴せし私の所感 同 菅泉亀治
 感激 同 青沼養蔵
 旦那様と建築 荒雄村字江合大工職 村田吉助
 感想録 古川町 鉄工職 鈴木寛三郞
 青沼彦治翁の芸術感に就いて 古川町川端 表具師 横山豊助
 御主人公御夫妻と成田山 古川町裏町 武力職 石川萬
 所感 樋口光平
 青沼彦治翁と厥郷土 古川町横町電気器具商 大泉良平
 青沼彦治翁の葬儀 荒雄小学校高等二年生 千葉義夫
 故青沼彦治翁に就いて 荒雄小学校高等一年生 青沼常雄
 所感 龍銅院檀頭 早坂与兵衛
 所感 素荒雄村長 相沢琢造
 荒雄村基本財産 現荒雄村助役 高橋勇吉
 村の恩人青沼翁 同助役 高橋勇吉
 青沼彦治翁を憶ふ 荒雄小学校長 土田徹三
 翁の赤誠奉安殿を新築寄付す 同校長 土田徹三
 翁の教育に与せられし厚儀 同校長土田徹三
 青沼彦治翁の至誠と敬神思想 神官 祇園寺大亮
 青沼彦治翁龍洞院に対する功績所感 龍洞院住職 工藤観禅
 信心歓喜を忍ぶ 工藤観禅
 翁を偲びて 荒雄村馬寄排地整理組合長 佐々木与一
 噫青沼翁 荒雄小学校内 三浦利康
 所感 同小泉区 関庸之助
 所感 青沼勇吉
 感想 佐々木壽治
 余録

たぶん函がついていたと思うのですが、手持ちのものには欠けています。

青沼彦治(慶応2年=1866~昭和10年=1935)は宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)で醸造業を営んでいた素封家です。大正14年(1925)、光太郎が父・光雲の代作でその銅像原型を制作しました。像は戦時中の金属供出のため現存せず、台座のみが大崎に残っています。

この書籍は主に地元の人々が青沼の功績を讃える文章等を寄せたものです。光太郎の文章は「序」となっていますが、序文的な内容ではなく、おそらく通常の寄稿者と同様に寄稿したもの。数多い執筆者中の特筆すべき人物ということで巻頭に置き、「序」の扱いとしたかと思われます。全文はこちら。十数年前に見つけたもので、『高村光太郎全集』には漏れていました。青沼像について詳細に述べているのはこの文章のみで、貴重なものです。

下記はこの書籍に載った青沼像の写真の一部です。左下の方には光太郎、光雲、豊周の父子三人も写っています。
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昨日は光太郎忌日・第70回の連翹忌でした。

夕方には光太郎智恵子ゆかりの老舗洋食店・日比谷松本楼さんにて関係の皆様にお集まりいただいての集いを開催いたしましたが、その前にルーティンとして2箇所の墓参。

まず文京区の浄心寺さん。永らく連翹忌の集いを主催されてきた北川太一先生ご夫妻の奥津城があります。「桜のお寺」としてもそこそこ有名です。
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続いて豊島区の染井霊園、光太郎らの眠る髙村家墓所。
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どちらも既に供花が成されていました(髙村家の方はレモンも)が、自宅兼事務所から剪って持参した連翹を追加で。それぞれに「いわずもがなですが、今宵は連翹忌の集いです。お見守り下さい」と祈願。

染井霊園周辺の旧染井村はソメイヨシノの発祥の地ということもあり、見事でした。年によってはもう散ってしまっている場合があるのですが、今年はまだ満開でした。
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正午前、千葉の自宅兼事務所を愛車で出発した際はまだ雨天でしたし、都内に入っても止んでいませんでしたが、午後2時過ぎのこの段階では青空となり、助かりました。

そして集いの会場、千代田区は日比谷松本楼さんへ。

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持参した光太郎遺影(写真家で光太郎令甥の故・髙村規氏撮影)と、連翹。
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配付資料の袋詰め、受付準備等、多くの方にお手伝いいただき、万全の備え完了。感謝に堪えません。

関東一円を中心に、大阪、長野、山梨、岩手、宮城、福島など各地からお集まりいただいたのは総勢65名。年度初めの平日にもかかわらず、この点も感謝感激でした。
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17:30分過ぎ、当方による開会宣言の後、光太郎、そしてこの1年に亡くなった関係の方々にという意味も込めて黙祷。

その後、5名ご参加下さった光太郎親族を代表し、光太郎令甥子息・髙村達氏に献杯の音頭を取っていただきました。
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そしてしばし喉を潤し、腹ごしらえ。着席ビュッフェ形式です。

恒例のスピーチ。

やはり光太郎親族(光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)令孫)の山端加寿子様、ご主人の通和様、そのご近所さんで、光太郎の親友だった水野葉舟令曾孫にして、やはり光太郎と親交の深かった尾崎喜八令孫でもある石黒敦彦氏。
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光太郎と同じ血を引くしづ(静子)が、やはり文才にも恵まれていたのでしょう、味のある俳句をたくさん遺し、その句集を刊行されるそうで、そのあたりを宣伝していただきました。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻の高橋信一郎氏。一昨日付で市立高村光太郎記念館館長の役職に成られた方です。それから同じく花巻のやつかの森LLC・藤原正代表。
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続いて、デザイナーの杉本光志朗氏とフリーアナウンサーの早見英里子氏のご夫妻。お話に聞き入っていたらお二人の写真を取り忘れました。すみません。何と、連翹忌テーブルウェアを制作なさってくださいました。会場内でもご販売。
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ここで、実は大トリにと考えていたのですが、「みんな酔っ払う前にさっさとやらせてよ!」と、ある意味強引な(笑)渡辺えりさんと一色采子さんの女優コンビに光太郎智恵子の詩文朗読をしていただきました。渡辺さんの亡きお父さまは戦時中、戦後と光太郎と交流があり、一色さんのお父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品が複数おありでした。
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大輪の花を添えていただき、ありがとうございました。

智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰に当たられている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん熊谷健一代表、東京青森県人会・山田安秀氏。
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光太郎智恵子がらみの公演を昨年もいろいろやられたテルミン奏者・大西ようこさん、朗読家・荒井真澄さん。お二人プラスご欠席でしたが箏曲奏者の元井美智子さんとのトリオで、昨春に続いて今秋、二本松の智恵子生家で朗読と音楽演奏のコンサートを予定しています。
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「高村光太郎研究会」主宰の野末明氏。それから今回初めてのご参加で、NHKさんの安藤佳祐アナウンサー。安藤アナはお父さまの仁隆氏が高村光太郎研究会会員でして、ご自身も平成25年(2013)に千葉市美術館さんで開催された企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事としての北川太一先生の講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」(当方、「聞き手」でした)をお聴き下さったそうで。
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「きょうの料理」の司会、「あさイチ」のレポーターなどを務められている安藤アナ、女性陣に大人気でした(笑)。
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智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術研究所の坂本富江氏、光太郎と親交のあった高田博厚顕彰のさかんな埼玉県東松山市役所の矢部良明氏。
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矢部氏は昭和58年(1983)、同市の新宿小学校さんに建てられた光太郎碑の除幕の際、児童代表としてご挨拶なさった経験をお持ちです。
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また写真を取り忘れましたが、つい先日もステージを拝聴したソプラノ歌手の黒川京子氏、お仲間のメゾソプラノ清水邦子氏。お二人は昨秋、杉並公会堂さんで開催された「POEM*CONCERTⅣ ほんとうの幸い 宮沢賢治も夢みた世界」にご出演、同じシリーズで今秋には光太郎をメインで扱って下さるそうで、ありがたいところです。
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信州安曇野碌山美術館さんで、一昨日に新館長に就任された平沢重人氏。また4月22日(水)には碌山忌ですぐお会いするのですが(笑)。最後に中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の曽我貢誠氏。
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他にももっとスピーチを賜りたかったのですが、そうもいかず、20:00閉会。実に盛会となりまして、喜びに堪えませんでした。

また、お体の具合が思わしくないとか年度初めの平日で日程が合わないとかで欠席の方々からも、「盛会を祈念いたします」的なメッセージがたくさん寄せられ、ありがたく存じました。

基本、どなたにも門戸を開いております。このような肩の凝らない催しですし、ご興味持たれた方、二の足を踏まれているという方など、来年以降よろしくお願いいたします。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)7 『現代詩三十講』

昭和9年(1934)1月20日再版(初版刊行年月日不明) 四明社 大井清吉編
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目次
 詩の本質・形式 川路柳虹   詩学叙説 外山卯三郎
 西洋詩歌論 西脇順三郎    日本詩歌の発達 土田杏村
 日本歌謡の新研究 藤澤衛彦 
 童謡及民謡論
  童謡論 民謡論 北原白秋   小唄流行時代 西條八十
  現代童謡の鑑賞 濱田廣介   現代民謡の鑑賞 佐藤惣之助
  児童自由詩の問題 百田宗治  童謡・童詩の指導に就て 富原義徳
 仏蘭西近代詩研究 山内義雄   英米新興詩派の研究 阿部知二
 ダダと超現実主義(シユル・レアリスム) 瀧口修造
 純粋詩とフオルマリスム 春山行夫
 詩話十講
  小曲について 生田春月   生きた言葉 高村光太郎
  詩と散文 西條八十     詩と社会性 白鳥省吾
  詩作について 千家元麿   作詩の信條 佐藤惣之助
  詩劇と叙事詩 福田正夫   僕の詩に就て 佐藤春夫
  詩作に就いて 室生犀星   予の詩論の一縦断面 日夏耿之介

光太郎の散文「生きた言葉」が掲載されています。書き下ろしではなく昭和4年(1929)の『時事新報』が初出です。他の執筆者の掲載文について、寡聞にして存じませんが、やはり他からの転載なのでしょうか。

ちなみに「生きた言葉」についてちょっとした発見がありまして、いずれこのブログでご紹介します。

今日、令和8年4月2日(木)は、第70回連翹忌です(「光太郎忌」という呼称は使っておりません)。本日午後には当方は、光太郎らの眠る染井霊園の髙村家墓所に参拝、その後、日比谷松本楼さんで全国から関係の方にお集まりいただき、集いを開催いたします。
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毎年同じようなことを書いていますが、昭和31年(1956)4月2日早暁、季節外れの大雪にすっぽり包まれた中野の中西利雄アトリエで光太郎が没し、ちょうど70年が経過しました。

翌年、同アトリエで記念すべき第一回連翹忌の集いが執り行われました。その際はリンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。席上、春夫は黒い手帳を取り出し、次の短歌を披露しました。
 
  れんげうにかなしみのいろあらたなりきみゆきてよりひととせをへぬ
 
以後、一ツ橋如水会館、銀座資生堂パーラーなどに会場が変遷しつつ集いは連綿と続き(パリでの開催もありました)、平成11年(1999)から日比谷松本楼さんに会場が落ち着いて今日に至っています。 日比谷松本楼さんは、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、現在でも名物の氷菓(アイスクリーム)を食べた店ですし、光太郎も参加した芸術運動「パンの会」会場として使われたこともありました。途中、東日本大震災やコロナ禍により、集いは中止して代表者による染井霊園墓参だけとした年もありましたが、まがりなりにも70回の節目を迎えられたことを喜ばしく存じます。ひとえに皆様方のご協力の賜物と感謝いたしております。

連翹忌が今日であることにちなみ、近い日でということで、明後日、NHKラジオさんが光太郎の肉声を流して下さいます。来週土曜と2週連続の前後編です。

保阪正康が語る昭和人物史 詩人・彫刻家 高村光太郎

NHKラジオ(AM) 2026年4月4日(土)/4月11日(土) ともに12:15-12:45

「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」は2026年4月からタイトルが「保阪正康が語る昭和人物史」になります。放送時間はNHK AM 土曜昼0時15分からです。放送後1週間、らじる★らじる聴き逃し配信でいつでも聴くことができます。

詩人で彫刻家の高村光太郎は、明治16年東京生まれ、東京美術学校を卒業した後、詩集「道程」を発表し注目されます。その後のちに妻となる長沼智恵子と生活を共にし、昭和16年に詩集「智恵子抄」を出版します。昭和27年3月にラジオ第2で放送した「自作朗読」では、光太郎が「千鳥と遊ぶ智恵子」などの詩を朗読。昭和29年1月に文化放送で放送した「彫刻と人生」では、智恵子の思い出や岩手での一人暮らしを語っています。

出演 保阪正康 梯久美子
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ついでというと何ですが(笑)、当会の祖・草野心平編が4月18日(土)と4月25日(土)です。

光太郎編については制作に協力させていただきました。流される肉声のうち、「彫刻と人生」は美術史家で晩年の光太郎に親炙した奥平英雄との対談で、昭和28年(1953)12月27日の録音、翌年1月7日に文化放送さんでオンエアされました。奥平著『晩年の高村光太郎』特装本(瑠璃書房 昭和52年)に対談を収録したカセットテープが附録として付いており、そちらをお貸ししました。NHKラジオさんで光太郎の肉声は、一昨年、昭和24年(1949)に花巻郊外旧太田村での暮らしぶりを語った「朝の訪問」(聞き手は高橋忠アナウンサー)、同じ題で昭和27年(1952)に詩人の真壁仁と対談した録音も平成28年(2016)に使われ、それらNHKさんのアーカイブに残っている以外に何か無いか? というので。

ぜひお聴き下さい。

それから、連翹忌が近いからというわけではないのかもしれませんが、立て続けに新聞各紙に光太郎の名が。

3月31日(火)、『岩手日報』さん一面コラム。

風土計

通り雨が降る午後5時。東京・千駄木の通りで若い女性の工員たちと高村光太郎はすれ違う。その時の情景を詩にしている。〈ああすれちがつた今の女工達/丸善インキ工場の女工達/君達は素直だな〉▼〈さびしさうで賑(にぎ)やかで/つつましさうで快活だ/いろんな心配事がありさうで/又いろんな夢で一ぱいさうだ〉。寂しそうで控えめでも、にぎやかで快活。不安と夢が入り交じる工員たちを詩人は優しく見守る▼年度末の今だからかもしれない。若さへの賛歌であろうこの詩が、新たな一歩を踏み出す人への応援歌に響いてくるのは。あすの入社式に臨む若者たちも、いろんな心配事とともに、いろんな夢でいっぱいだろう▼新入社員だけではない。きょう退職辞令を受け、新しい世界に飛び込む人がいる。継続雇用でも、違う仕事に取り組む人がいる。転勤で新天地に赴く人がいる。不安と夢が入り交じるのは年齢に関係あるまい▼まだ見ぬ未来には、どんな世界が待っているのだろう。詩人は工員たちの姿に想像力を働かせる。〈さびしいが又たのしい世界/遠いやうで又近いやうな世界だ〉と▼入社の後も、退社してからも、人生の道のりは長い。長渕剛さんの「乾杯」から借りれば〈遙(はる)か長い道のりを歩き始めた君に幸せあれ〉。新たな世界で、「いろんな夢」がかないますように。

引用されている詩はずばり「丸善工場の女工達」(大正9年=1920)。

   丸善工場の女工達

 「それでも善い方なのよ003
 傘貸してくれる工場なんか外に無い事よ」
 番傘の相合傘の若い女工の四五人連れ
 午後五時の夕立の中を
 足つま立つて尻はしよりしをらしく
 千駄木の静かな通を帰つてゆく

 ああすれちがつた今の女工達
 丸善インキ工場の女工達
 君たちは素直だな
 さびしさうで賑やかで
 つつましさうで快活だ
 いろんな心配事がありさうで
 又いろんな夢で一ぱいさうだ
 想像もつかない面白い可笑しい夢でね
 有り余る青春に
 ぱつと花開いた君達だ
 君達自身で悟るには勿体ないほどのだ酣酔だ
 八百屋から帰つて来る
 こののつぽのをぢさんを
 君達の一人は見て笑つたね
 をぢさんはその笑が好きなんだ
 いはれも無く可笑しい笑を
 ああ何といふ長い間私は忘れてゐた事ぞ004

 丸善の番傘の中に一かたまり
 若い小さな女工達は
 雨のしぶきに濡れながらいそいそと
 道をひろつて帰つてゆく
 どうやら通り雨らしい土砂降の雨あし
 ふと耳にした女工の言葉に
 不思議な世界は展開する
 さびしいが又たのしい世界
 遠いやうで又近いやうな世界だ
 何処かでもうがちやがちやが啼き出した

丸善インキ工場は、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎アトリエ兼住居の近くにありました。

続いて掲載順は前後しますが、3月30日(月)の『日本経済新聞』さん夕刊。

匂いで読む、大地の予兆 土壌学者・藤井一至

 ここだけの話だが、私には特殊能力が備わっている。そう思っていた。雨が降る直前に気付く。風が匂うのだ。
 残念ながら、私以外にも類似の能力を持つ人々がいる。詩人、高村光太郎もその一人だ。「五月の土壌」には「野に まんまんたる気魄(きはく)はこもる (中略) 一面に沸き立つ生物の匂よ (中略) わが足に通(かよ)つて来る土壌の熱に 我は烈(はげ)しく人間の力を思ふ」という一節がある。土の生命力を讃(たた)えている。私は雨の匂いをエッセーに、高村光太郎は土の匂いを感知して詩に残した。
 まだ5月ではないが、すでに土は匂い始めている。温暖化の影響だろうか、約110年前(大正3年)の東京の5月上旬の気温(16度)と現在の3月下旬の暖かい日の気温は近い。冬のあいだは土の匂いは少ないが、虫が動き出す暦(啓蟄(けいちつ)。今年は3月5日)を前後して土は匂いを増す。生物活動の証(あかし)だ。
 特に、長く乾燥した土に雨が降ると、独特の香りがする。これはペトリコールと呼ばれ、ペトロスは石、イコールは神々の霊液を意味する。厳密には、石ではなく土から、神々の霊液ではなく根や微生物のエキスが出ている。乾燥を耐え抜くために植物や微生物が体内にため込んだ物質、雨によって死んだり増えたりした微生物の代謝産物、すなわちオナラが放出される。ペトリコールは単一の物質ではなく、数十以上の揮発性物質を含む。土の匂いは空気と反応し、雷とともにオゾンも発生させる。私が雨の直前に感知していたのも土の匂いだった。
 雨が続くと「大地の香り」と呼ばれる匂い物質、ゲオスミンが増加する。放線菌(ストレプトマイセス属の細菌)が出すオナラだ。かつて砂漠の町を結ぶシルクロードを旅したラクダのキャラバンが迷子にならなかったのは、オアシスから漂うゲオスミンのおかげだ。細菌の出す匂いがラクダを呼び寄せ、ラクダが土を掘って水にありつくと、胞子が鼻に付着して細菌は労せず胞子を拡散できる。私の特殊能力はラクダの鼻と同じで、多くの人の嗅覚は土の匂いを敏感に感知できることが分かっている。私の特殊能力はラクダの鼻と同じで、多くの人の嗅覚は土の匂いを敏感に感知できることが分かっている。科学はいろいろと面白いことを教えてくれるが、私に現実を直視することを迫る厳しさもある。
 皆が土の匂いを感知できることで落ち込んでいるのは私だけで、社会的にはプラスの面が大きい。土砂崩れが起きる手前、近隣住民から「腐った土の匂いがした」という証言が多数ある。この前兆もゲオスミンだ。酢酸発酵と同じ原理で、湿った土で増加する酢酸を取り込んだ放線菌がゲオスミンを大量に発生させる。伝統的な知恵と先端科学を活かせたならば、事前に避難して命を守る可能性が増す。
 ゲオスミンは魚や水道の泥臭さの原因物質でもあり、私たちは口にする前に鮮度を判断できる。一方で、ゲオスミンはワインの香りに深みを与えることもある物質だ。特殊な匂いに気付くことができるかどうかは、日ごろから匂いを意識しているかどうかにかかっている。例えば、森からは松由来のピネン、広葉樹由来のリモネン(レモンの香り)などがごく微量に含まれている。土の中のあまたの微生物たちが放出している名もなき物質も多く含まれる。季節の香りを楽しむ特殊能力を持つのは私だけではないのだから。 

「土壌」といえば宮沢賢治のような気もしますが(笑)。こちらで引用されているのは「五月の土壌」。内容的には、戦後花巻郊外旧太田村に隠棲し晴耕雨読の生活に入ってからのような感じですが、第一詩集『道程』に収められた大正3年(1914)、初期の詩です。

    五月の土壌

 五月の日輪はゆたかにかがやき
 五月の雨はみどりに降りそそいで
 野に
 まんまんたる気魄はこもる
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 肉体のやうな土壌は
 あたたかに、ふくよかに
 まろく、うづたかく、ひろびろと
 無限の重量を泡だたせて
 盛り上り、もり上り
 遠く地平に波をうねらす

 あらゆる種子をつつみはぐくみ
 虫けらを呼びさまし
 悪きもの善きものの差別をたち
 天然の律にしたがつて
 地中の本能にいきづき
 生くるものの為には滋味と塒とを与へ
 朽ち去るものの為には再生の穏忍を教へ
 永劫に
 無窮の沈黙を守つて
 がつしりと横はり
 且つ堅実の微笑を見する土壌よ
 ああ、五月の土壌よ

 土壌は汚れたものを恐れず
 土壌はあらゆるものを浄め
 土壌は刹那の力をつくして進展する
 見よ
 八反の麦は白緑にそよぎ
 三反の大根は既に分列式の儀容をなし
 其処此処に萌え出る無数の微物は
 青空を見はる嬰児の眼をしてゐる
 ああ、そして
 一面に沸き立つ生物の匂よ
 入り乱れて響く呼吸の音よ
 無邪気な生育の争闘よ

 わが足に通つて来る土壌の熱に
 我は烈しく人間の力を思ふ

なるほど、「一面に沸き立つ生物の匂よ」。ふと思ったのですが、光太郎詩には「におい」「香り」が盛り込まれているのが結構あるような気がします。まんま「にほひ」という題名の詩(明治42年=1909)ともありますし、かの「レモン哀歌」(昭和14年=1939)では「トパアズ色の香気」。他にもあったような……。それを言えば、嗅覚以外にも味覚、触覚、聴覚、そして当然視覚の五感がフル活用されているようにも感じます。「五月の土壌」でも「入り乱れて響く呼吸の音」だの「わが足に通つて来る土壌の熱」だの……。こんなところに着目すれば論文の一本二本、直ぐに書けそうです(笑)。

もう1件、『東京新聞』さん。

〈視点〉「ふるさと」とは何か 福島へのラブレター 前福島特別支局長・片山夏子

 桜、菜の花が一斉に開花し、春の訪れを知らせる。福島市の支局に着任して5年8カ月。4月からは東京本社での勤務になる。
 「ある日突然、住んでいた町から人が消えた。いったいどこに消えたんだろうって不思議な気持ちになる。人の声も、生活の音も、夕飯の香りも」
 原発事故が起きた年の暮れ。福島第1原発で働く福島県浪江町の作業員が、避難で人影が消えた町の写真を見せながらつぶやいた言葉が心に残る。「何年かかっても帰りたい。山があって海があって、何があるってわけじゃないけど何より人がいい。1人でふらりと飲みに行っても親しい飲み仲間ができる。そんな町だった」
 ふるさととは何か。東京で生まれ育った私は「何年たっても故郷に」という記事を書きながら、このとき何もわかっていなかった。原発事故から10年を前に、福島に住むようになってようやく「ふるさと」の意味を実感していく。
 磐梯山、安達太良(あだたら)山、信夫(しのぶ)山…。福島の山は、雄大で険しい山もあるが、やさしい稜線(りょうせん)の山が多い。県内どこを車で走っても、周囲を山々に囲まれ、山に抱かれているような気持ちになる。それを自覚したのは、郡山市から新潟市に避難した人が福島を懐かしむ言葉がきっかけだった。「新潟にも海も山もある。でもここは平地が広く、海も山も遠く感じる」
 避難先の家々を訪ねると、よく「ふるさとに風景が似ているからここにした」と聞いた。その気持ちに胸が痛んだ。
 詩人・高村光太郎の「智恵子抄」に書かれた「ほんとの空」の意味も知った。福島では、朝焼けから夕焼け、星空まで、とにかく空をよく見た。それは日常であり、空を見て地震が来ないか、あすの天気はどうかと地元の人に教えてもらった。いくつの美しい夕日を見ただろう。周辺の山々や紺碧(こんぺき)の海とともに心に残った。
 ふるさとの風景だけではない。避難で地域のつながりが無くなったことは人々を打ちのめした。「車が通れば誰の車かすぐわかった」「雨が降ったら洗濯物を誰かが取り込んでおいてくれた」「野菜も魚ももらったりあげたりだった」「悩んでも、近所でお茶飲みしながら話すうちに気持ちが晴れた」「地域みんなで子育てをし高齢者を手伝うのは当たり前だった」
 言葉の問題もあった。「福島の言葉が聞きたくて」。福島いのちの電話には、県外避難者からそんな電話がかかってくるという。
 福島第1原発に他県から来た作業員から「コンビニでも話しかけてくれる。地元の人と交流するうちに、福島のために役に立ちたいと思うようになった」とよく聞いた。福島のために、と思わせる人間関係や人柄の良さがあった。
 いつの間にか福島は私の帰りたい場所になっていった。そして思う。記者として話を聞き、1人でも心が少し晴れる時間がつくれただろうか。これは6年近く住み、これからも通う福島へのラブレターである。

今年は福島二本松出身の智恵子生誕140周年にもあたります。光太郎没後70年と併せ、各地でそれらを記念してのイベント等が計画(一部は既に実施)されております。

今後ともその灯を絶やすことなく、次の世代へと引き継いでいきたいと存じますので、 さらなるご助力をお願いいたします。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)6 『近代作家論』岩波講座世界文学第九回配本

昭和8年(1933)8月15日 岩波書店 
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目次
 ホヰツトマン 長沼重隆  ボオドレエル 辰野隆
   ヹルハアラン 高村光太郎
 ショオ 石田憲次     ウェデキント 相良守峯  カイザー 武田忠哉

光太郎は敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンについて書きおろしています。

分冊もののペーパーバックで、同じシリーズに光太郎単独執筆の『現代の彫刻』があります。同じ年に出た第7回配本でした。

当会として最大のイベント、高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、忌日である4月2日(木)、下記の通り実行いたします。今年は光太郎没後70周年ということで、節目の第70回連翹忌となります。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

第70回連翹忌

日 時  令和8年4月2日(木) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 2階宴会場 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅 A14 出口
     地下鉄日比谷線・丸ノ内線 霞ヶ関駅 B2 / B1A / B3A 出口 
     JR 山手線・京浜東北線 有楽町駅 日比谷口
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会 費  12,000円(含食事代金)

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(日)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替 郵便局備え付けの払込取扱票にて郵便局よりお願いいたします。
  ATM、窓口にて取り扱い可能です。申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。
   ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
001
  ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(月)までにご連絡頂ければ、
  後日、返金いたします。

  参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
  事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

  複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
  参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

配布物について
  会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
  4月1日(水) 必着で下記までご送付下さい。
  当日、参加の皆様に配付いたし、残部は欠席の方等にお送りいたします。
  公序良俗に反するものでなければ特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
  当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
  書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

  当日、お時間に余裕がおありの方には配付資料の袋詰めのお手伝いをお願いたします。
  早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。
  当方、午後4時頃会場入りしております。会場都合により昨年より1時間遅らせました。

当日備考
     着座ビュッフェ形式にて執り行います。ドレスコードは特に設けておりません。
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当会名簿に名のある方には上記要項及び払込取扱票を今日明日には発送いたします。

基本的にはどなたにも門戸を開放しております。政治活動その他全く関係ない目的での申し込みはご遠慮いただきますが。

このところ毎年ほぼ70名余のご参加をいただいておりますが、概ね下記のような方々です。
 ・高村家御血筋に連なる皆さん
 ・生前の光太郎をご存じの方々(年々減っていますが)
 ・光太郎智恵子と交流のあった人々の御血筋に連なる皆さん
 ・光太郎智恵子と交流のあった人々の顕彰活動等をなさっている方々
 ・全国の文学館さん、美術館さん等にお勤めの方々
 ・出版/教育関係の方々
 ・美術・文学・音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方々
 ・単なる光太郎智恵子ファン(当方もそうです)

コロナ禍中の令和2年(2020)から令和4年(2022)までは、松本楼さんでの集いは中止、当方が代表して染井霊園の光太郎墓所に墓参することで1回とカウントいたしましたが、令和5年(2023)より旧に復し、松本楼さんに戻りました。ちなみに松本楼さんは、明治末に光太郎智恵子が「氷菓」を食し、また光太郎も中心メンバーの一人だった芸術至上主義運動「パンの会」会場としても使われたゆかりのお店です。
参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。よろしくお願いいたします。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)47 『智恵子抄』

昭和31年(1956)7月15日 新潮社(新潮文庫) 高村光太郎著
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目次
 ――に 
或る夜のこころ おそれ 或る宵 郊外の人に 冬の朝のめざめ 深夜の雪
 人類の泉 人に 僕等 愛の嘆美 晩餐 樹下の二人 狂奔する牛 鯰 金 夜の二人
 あなたはだんだんきれいになる あどけない話 同棲同類 美の監禁に手渡す者 人生遠視
 風に乗る智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子 値ひがたき智恵子 山麓の二人 レモン哀歌
 亡き人に 梅酒 荒涼たる帰宅 松庵寺 報告(智恵子に) 若しも智恵子が 元素智恵子
 メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白 噴霧的な夢 智恵子と遊ぶ 報告
 うた六首 智恵子の半生 九十九里浜の初夏 智恵子の切抜絵
 「悲しみは光と化す」 草野心平 覚え書 仝

昭和16年(1941)、龍星閣から出されたオリジナルの内容に、同時期の詩でありながら省いていたもの、さらに戦後の白玉書房版『智恵子抄』、『智恵子抄その後』所収のものなどを加えるなどの再編が為されています。

光太郎が没する直前の2月23日、新潮社の佐野英夫が光太郎の元を訪れ、文庫化の話を持ちかけました。光太郎としてはもはや自分で編むことは不可能と判断し、当会の祖・草野心平に託しました。

2度の改版を経て、現在でも版を重ねています。既に120版ぐらいは行っているようです。

正確にどの版からというのを解明していないのですが、昭和35年(1960)頃の版からカラー印刷のカバーがかけられるようになりました。
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カバーのデザインは昭和42年(1967)12月15日の第43刷での改版に伴い、智恵子紙絵画像が使われるようになります。

昨日は第69回連翹忌でした。光太郎智恵子ゆかりのお店、日比谷松本楼さんにおきまして、全国から関係の方々等がお集まりくださり、光太郎を偲ぶ集いを持たせていただきました。

そちらが夕方5時30分から。その前に例年のルーティンですが、まずは光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)から半世紀以上連翹忌の運営に携われられた北川太一先生ご夫妻の墓参。桜のお寺としてひそかに有名な文京区の浄心寺さんです。
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続いて都立染井霊園、光太郎を含む髙村家墓所へ。
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それぞれ既にお花が手向けられていましたが、自宅兼事務所から持参した連翹を追加させていただきました。右上はおまけ(笑)。なぜか髙村家墓所の近くでは毎回といっていいくらい猫の姿を見かけます。

集いの会場、日比谷公園松本楼さん。こちらでもまだ桜が散らずに残っています。
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遺影、一年間で刊行された主な書籍など会場のセッティング。
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配付資料の袋詰めや、連翹の花生け、受付など、多くの方が手伝って下さいました。ありがたし。

そして午後5:30、開会。

ざっとご挨拶をさせていただき、献杯。音頭は光太郎実弟・豊周令孫の櫻井美佐様にとっていただきました。
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着席ビュッフェ形式で、会食。
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一段落ついたところで、恒例となっています参会の方々によるスピーチ。

まずは今回初めてご参加下さった、宮沢賢治実弟・清六令孫の和樹氏。花巻で2度公開対談を一緒にさせていただいたりで、当方としては仲良しになったという感覚でして。先方はそう思われていないかも知れませんが(笑)。
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同じ花巻ということで花巻市役所の光太郎記念館担当の方に寄贈された中原綾子関連の資料等について、光太郎顕彰活動を進められているやつかの森LLCさんの藤原代表、それから昨年度岩手県の「食の匠(たくみ)」に認定された新渕和子さん(右上画像)。新渕さんは昨日、手作りのご当地スイーツ「きりせんしょ」や大福など、たくさんお持ち下さいました。

やはり昨年度、「住みよいみやぎづくり功績賞」を受賞された女川光太郎の会・佐々木英子様。
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その女川で、平成3年(1991)に光太郎文学碑除幕記念として公演された「オペラ智恵子抄」を作曲された仙道作三氏。10年ぶりくらいのご参会でした。

一旦、スピーチを打ち切り、料理を食べきっていただいて、参会者の皆様同士で懇談の後、再開。ご存命であれば100歳になられた北川先生が都立高校教諭であらせられた頃の教え子の皆さんの会「北斗会」を代表して池上徹様、尾崎喜八令孫にして水野葉舟令曾孫・石黒敦彦様(左下)、昨年絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』を刊行された太平洋美術会の坂本富江様(右下)。かつて智恵子も所属した同会も120周年だそうで。
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やはり昨年、光太郎の彫刻刀修繕に触れた『瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家』を刊行された土田昇氏。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連で十和田市企業誘致サポーター・山田安秀氏。

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山田氏もご加盟いただいている光太郎終焉の地・中西利雄アトリエ保存会世話役の曽我貢誠氏、今月中旬から智恵子紙絵展を開催して下さる信州安曇野碌山美術館・武井敏学芸員、光太郎オマージュの作品を作曲中のフルート奏者・吉川久子様、今月27日(日)、二本松の智恵子生家で当方プロデュースの公演をなさる「連翹三人娘」(朗読の荒井真澄さん、箏曲の元井美智子さん、電子楽器テルミンの大西ようこさん)。
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最後の締めに、朗読家・出口佳代様、フリーアナウンサー・早見英里子様による光太郎詩「僕等」(大正2年=1913)、「元素智恵子」(昭和24年=1949)朗読。
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ソロで読まれる部分と、お二人で声を合わせて読まれる部分と、実に工夫されていて、参会の皆様からも「素晴らしい」のお声が多数。

盛会の内に終えることができました。ご協力いただきました全ての皆様に、この場で御礼申し上げます。

来年は記念すべき第70回の連翹忌となります。さらに多くの皆様がご参加下さることを期待しております。参加資格は唯一つ。「健全な精神で高村光太郎を敬愛すること」のみです。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の東京行はただ仕事の為のみで仕事が終つたら又山へ帰つてくるつもりで居ります。東京へ行つても多分アトリエに籠居して、銀座あたりへは行かないでせう。(十月中旬上京)中野桃園は貴下の旧アドレスだつたのでゆかりのふかいところと思ひました。


昭和27年(1952)8月13日 奥平英雄宛書簡より 光太郎70歳

「乙女の像」制作終了後は、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に帰るつもりで居た光太郎。実際、像の除幕後に10日間ほど一時帰村しますが、宿痾の肺結核のため、過酷な寒村での暮らしに耐えられる状態ではありませんでした。次善の策として、厳冬期には中野、それ以外は太田村と、二重生活も目論みますがそれも不可能。結局は中野の貸しアトリエでその生涯を閉じることになります。69年前の昨日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分でした。前日から東京は季節外れの大雪に見舞われました。それは光太郎を敬愛して止まなかった岩手の人々の餞(はなむけ)、或いは先に逝った最愛の妻・智恵子からの贈り物、はたまた「冬」を愛した光太郎が終生追い求めた「自然」からの祝福だったのかもしれません。

本日4月2日は、光太郎忌日・連翹忌です。光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)、中野の中西利雄アトリエで第1回連翹忌の集いが開催され、今年で69回目となります(東日本大震災とコロナ禍で、集い自体は中止とした年もありましたが、それぞれ当方が代表して墓参を行い、それを以て1回とカウントさせていただきました)。
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本日も午後、まず墓参を済ませ、午後5時から光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんにて、全国から関係の方々にお集まりいただいて集いを催します。1年ぶりにお会いする方も多く、久闊を叙するのが楽しみです。

このところ数年間、4月2日のこのブログは光太郎が亡くなった当時の関係者の回想文等をご紹介しています。令和3年(2021)翌年(2022)は当会の祖・草野心平、同5年(2023)で光太郎と親しかった美術評論家・奥平英雄、昨年(2024)が中西利雄夫人にして光太郎の最期を看取った中西富江。

今年は、4月4日に青山斎場で執り行われた光太郎葬儀の様子を、光太郎と交流のあった詩人・岩瀬正雄の回想から。

 高村さんが亡くなってから、今日でもう二週間になる。高村さんの死なれたときの草野心平氏の詩に、アトリエの屋根に雪が降り積もることが書いてあったが、昨日、賀茂神社のお祭りに出掛けてみると、いつの間にか桜が咲いて、散つたのか知らなかつた。しかし、日が経つにつれ、先生を失つた私の心の中の穴が、次第に大きくなつてゆくのを覚えるのであつた。そのうつろな穴は、生身の高村さんと私の文学的な、人間的な絆が断れたというだけでなく、高い精神の典型的な明治の人との袂別をいたく感じせしめるのであつた。
 先生の死を、新聞社から電話できいたとき、わたしはどんなことがあつても、お葬式にはおまいりしようと思つた。それは、十九年前、智恵子夫人が痛ましい病で亡くなられる前に、先生から、夫人をいたわる涙のあふれた手紙をいただき、その葬儀には、是非御焼香さしていただこうとしていたのだつたが、それが出来なかつたので、あの顔の小さい、いろの白い智恵子夫人とあわせて弔いたいと考えたからであつた。
 四月四日の東京は、はだ寒い薄曇りの日であつた。品川で国電に乗りかえ、渋谷で降りた。それから青山一丁目まで都電で行き、青山斎場まで歩いた。急ぎ足できたのだつたがもう一時を少し過ぎていた。入口をはいつた建物のそとに新潮社はじめ出版社の大きな花環が目についた。左手の幕のところに中年の人がひとり見えるだけで人影がない。まだ早いのかと思つて近寄つてみると、幕の内が受付になつていて、幾人かの人が、署名帳を前にして、受付をしていた。私は、豊橋から来たことを告げ署名した。
 式場では、もう読経がはじまつていた。私はいちばんうしろに立つた。正面の白木の棺の上に先生の写真が一つ。ちやんちやんこを着た写真。いま先生の葬式だ。全身的に私の体を貫くものがある。私は腰をかける気がしない。右手が遺族席になつて居た。谷口吉郎氏が立つて配置について説明される。八曲白無地の屏風のバツク、写真の前にコツプが一つ。これは先生が、いつもビールを飲んだコツプである。そのコツプに、黄ない連翹の花が一枝。臨終のアトリエの庭に咲いた花であつた。それ以外祭壇にはなにものもない。まことに清流のような簡潔な美しさである。
 棺の下に拡声器が置かれ、そこから先生の詩がきこえてきた。「千鳥と遊ぶ智恵子」・ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――と、発音する先生の口もとが目にうかぶ。次に「梅酒」。姿は見えないが、高村さんがそこに居られるような気がしてきた。
 主治医が病状について話される。岩手から帰られて、苦痛をうつたえられるようになり、病院で診察したときには、もう肺に大きな空洞ができていて、かなり病気は昻じていた。度々喀血されるようになり、医者としての手当ては少しでも先生の苦痛を和らげることしか施しようがなかつた。つぎに右手の葬儀委員席に並んでいた梅原龍三郎氏から弔辞がはじまる。石井鶴三氏の言葉は、紙に書かれたものを持つて述べられるのであつたが、嗚咽でききとれなかつた。十和田湖の裸像の関係のある青森県知事、尾崎喜八氏、草野心平氏の詩、最後に委員長の武者小路実篤氏の言葉があつた。大きな手を振つて、先生は川の向うへ行つてしまつた。もう先生は帰つて来ない。尾崎氏が声をしぼつて述べたとき、熱いものが胸の中でじんじん煮立つた。弔電が読まれ、北海道や、九州や、日本各地から寄せられたなかに、丸山薫氏のものもあつた。
 おまいりがはじまつて、遺族の人のあとに参列者がつづいた。私は志賀直哉、三好達治、伊藤整氏のあとに伊藤信吉氏の手から金盞花と、こでまりの花束を受け取り、棺の前に進み瞑目してささげた。高村さんと縁の深い百名近い人々が花をささげた。著名な人のなかに、ゴム長をはいた東北地方の百姓の人もまじつていた。
 式が終り廊下で私は山形県の真壁仁氏に逢つた。真壁氏は高村さんの詩をうけつぐもつとも近い詩人である。三十年近くも文通しているのだつたが逢うのははじめてであつた。挨拶のあとに言う言葉がでず、これからお互いにしつかりやりましようと手を握りあつた。式場の扉が開かれ、おまいりする人が、あとから、あとからつづいていた。私は荷物を受取りひとりで斎場を出た。
 はりつめていた、切ないおもいを果たすことはできたが、もう、東京には頼りにする人がなくなつてしまつた。

林苑 10(5)(104)岩瀬(明40=1907~平15=2003)は静岡出身の詩人。そこで「黄ない連翹の花」はあちらの方の方言のようです。昭和初期から光太郎と交流があり、花巻郊外旧太田村の山小屋や中野の中西利雄アトリエも訪れています。

この文章は光太郎が歿した翌月に雑誌『林苑』に発表されたもので「連翹の花」と題されています。昭和27年(1952)9月7日、岩瀬が花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた際の光太郎写真も掲載されていました。

会場内のレイアウトなどは他の人物の回想にも書かれていますが、棺の下の拡声器から光太郎の肉声が流されたというのはこれを読むまで存じませんでした。昭和27年(1952)の奇しくも4月2日、花巻温泉松雲閣でNHKラジオのため詩人の真壁仁との対談を録音した後、光太郎自身の提案でこれもテープに残されたものです。

それにしても岩瀬の書きぶり、光太郎の死を受け入れられず、まだ呆然としてしまっている感じですね。

棺と連翹はこちら。
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連翹
左上は中西利雄アトリエの庭です。これを一枝剪って、愛用のビールのコップに。これが「連翹忌」命名の由来となりました。ちなみに一番上の画像に写っている連翹は、回りまわってのこの連翹の子孫です。

さて、本日の第69回の集い、恙なくかつ有意義に執り行えるよう、光太郎遺影に祈念いたしております。皆様方におかれましても、それぞれの地で光太郎に思いを馳せて下さい。

【折々のことば・光太郎】

珊子さんがあんなに大きくなつたのですから規君、美津枝さんの成人ぶりは大したものと思つてゐます、

昭和27年(1952)8月13日 髙村規宛書簡より 光太郎70歳

7月31日に、実弟の豊周夫妻と息女「珊子さん」の三人が、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための上京についての打ち合わせを兼ね、訪ねてきました。昭和20年(1945)3月に豊周一家が信州に疎開して以来、7年半ぶりでした。豊周夫妻はともかく、若い珊子は見違えるように大人に。そのきょうだいの「規君、美津枝さん」は今回同行しませんでしたが、十月には再会することになります。

このうち美津枝さんはご存命。ご高齢ということもあり連翹忌の集いにはこのところご参加いただいていませんが。

当会として最大のイベント、高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、忌日である4月2日(水)、下記の通り実行いたします。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

                                     

日 時  令和7年4月2日(水) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線・京浜東北線 有楽町駅 日比谷口
     地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅 A14 出口
     地下鉄日比谷線・丸ノ内線 霞ヶ関駅 B2 / B1A / B3A 出口
松本楼地図
会 費  12,000円(含食事代金)

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替 郵便局備え付けの同封の払込取扱票にて郵便局よりお願いいたします。
       ATM、窓口にて取り扱い可能です。
       申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。

       ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(日)までにご連絡頂ければ、
 後日、返金いたします。

 参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
 事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

 複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
 参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
 4月1日(火) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
 残部は欠席の方等にお送りいたします。
 公序良俗に反するものでなければ特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
 当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
 書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

 当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いをお願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。当方、午後3時頃には会場入りしております。

当日備考
    着座ビュッフェ形式にて執り行います。ドレスコードは特に設けておりません。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子にインスパイアされた美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋のまはりはもう一尺ほどつもつた雪で美しい冬景色になり、毎朝小鳥が訪れて来ます。

昭和26年(1951)11月30日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で過ごす最後の冬が始まりました。

昨日は光太郎忌日、第68回の連翹忌でした。『東京新聞』さんで取り上げて下さいました。
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午後5:30から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷公園松本楼さんにて、全国の関係の方々に集まっていただき、集いを催しました。
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その前に、毎年のルーティンですが、晩年の光太郎に親炙し、その歿後は永らく連翹忌を主宰なさっていた故・北川太一先生と奥様の節子先生のお墓に詣でました。文京区の浄心寺さん、桜のお寺として有名です。
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さらに都立染井霊園の髙村家墓所に参拝。それぞれのお墓に連翹の花を手向け、香を焚き、「本日、第68回をやります。」とご報告。
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染井霊園の桜。
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そして日比谷公園。
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集いの開会は午後5:30の予定でしたが、その前に配付資料の袋詰めや参会の皆様のネームプレートなどの準備。多くの方々にお手伝いいただきまして、スムーズに進みました。感謝に堪えません。

光太郎遺影をセット。
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毎年、光太郎令甥で写真家であらせられた故・髙村規氏撮影およびプリントの写真を、北川先生から受け継いだ当方が持参して飾っていたのですが、昨日は愛車に積み忘れ、「やべっ」(笑)。それに気づいたのが浄心寺さんで車内から線香をガサガサ探していた時で、慌てて規氏子息の達氏に「面目ありません、遺影を置いてきてしまいましたので、お宅にあれば持ってきて下さい」とメール。幸い、立派な額装のものをお持ち下さいまして、ことなきを得ました。

さて、開会。当方の開会宣言の後、光太郎に、そしてこの一年に亡くなられた関係の皆様に、黙祷。続いて、達氏に音頭を取っていただいて、献杯。
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ビュッフェ形式にて会食。
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お集まりいただいた70余名の皆様の中から、10名ほどにスピーチをお願いいたしました。

トップバッターは女優・一色采子さん。令和3年(2021)同4年(2022)、北條秀司作の「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を務められました。お父さまの故・大山忠作画伯は智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数。采子さんが名誉館長を務められる二本松の大山忠作美術館さんで、画伯渾身の大作・成田山新勝寺さんの襖絵を今秋展示されるということで、その宣伝。
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二本松で活動されている智恵子の顕彰団体「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」熊谷代表。今年度の顕彰活動予定を。
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ちなみに昨日、東北新幹線が工事用車両の故障とかで大幅にダイヤが乱れ(JR東日本さん、最近グッダグダですね。企業体質として何か大きな問題があるのではないでしょうか)、同会の皆さん8名もご参加いただきましたが、在来線で上京なさったとのこと。大変でした。

今年元日の能登半島地震で大きな被害のあった富山県からいらしてくださった、茶山千恵子氏と森寛子氏。茶山氏は今秋、「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうで。
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花巻高村光太郎記念館さんの梅原奈美館長。北東北の皆さんは昼頃復旧した新幹線で来ることができたそうです。
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中国からの留学生の唐昆宇さん。一橋大学さんで光太郎について学ばれているそうで。素晴らしい!

この3月で神奈川県立近代美術館館長を退任なさった水沢勉氏。
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早世した荻原守衛を除き、唯一光太郎が高く評価した同時代の彫刻家・高田博厚を顕彰する活動を進められている埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏。

昨年、中野区で開催された朗読公演「くつろぎの朗読」で「智恵子抄」を朗読して下さった出口佳代氏。それからやはり昨年、横浜で「智恵子抄」を箏曲で演じられた元井美智子氏。
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智恵子や荻原守衛も学んだ太平洋画会(現・太平洋美術会)の坂本富江氏。同会、今年で創立120周年だそうです。
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そして、お父さまが光太郎と交流がおありだった、ご存じ渡辺えりさん。
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えりさんには昨年に引き続き光太郎詩朗読もお願いしておきました。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった中野の中西利雄アトリエ保存運動にも関わっていただいておりますので、その中野のアトリエで作られた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)。やはり中野のアトリエで作られた生涯最後の大作「乙女の像」に寄せた詩です。
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それを受けて、日本詩人クラブの曽我貢誠氏。アトリエ保存運動の中心メンバーで、その件を熱く語って下さいました。あまりに熱き語り口で、写真を撮るのを忘れてしまいました(笑)。
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さらに同じ件で、やはり保存運動に関わられている櫻井美佐氏。光太郎実弟・豊周の令孫です。直接生前の光太郎をご存じのお母さまはご存命ですが、連翹忌にはしばらくいらしていません。

そんなこんなで午後8:00、予定通り閉会。

たくさんの方々のご協力により、つつがなく終えることができました。ありがとうございました。

先日も書きましたが、昨夜は連翹忌史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなりました。そして中野のアトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるところです。

今後とも皆様方のご協力を仰ぎつつ、顕彰活動を進めて参ります。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

東京はもう春になつた由、こちらはまだですが、雪の下からフキの花が出てきました。此辺ではバツケと言ひます。


昭和22年(1947)4月6日 髙村珊子宛書簡より 光太郎65歳

当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、都内の実姪に送った絵手紙の一節です。
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今年も4月2日、光太郎の命日が巡って参りました。

朝鮮戦争による特需景気、その後の神武景気を経て、前年のGDPが戦前の水準を上回り、政府が経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言し、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞受賞、「太陽族」の語が流行語となった昭和31年(1956)。その4月2日(月)、不世出の巨人・高村光太郎は天然の素中に還っていきました。

その終焉の地、中野区の中西利雄アトリエの大家(おおや)だった中西夫人、故・富江氏の回想。

 先生が私の家に来られたその翌年の正月、十和田湖の彫刻の仕事に打込んでいられた時のことでしたが、ちようど正月の仕事始めをなさるその日に雪が降りました。「これは縁起がいい」と先生がつぶやかれたのを覚えています。雪の白さに先生は天啓のようなものを感じられたのでしょうか。子どものころ雪が降ると湧きたつたあのうれしさ楽しさ、そんなものを先生はやはり心のどこかにもつていられたに違いありません。
 そして、あの四月二日未明は十何年ぶりとかの春雪にこの地上は祝福されていたのでした。先生のいわれたあの言葉。縁起がいいというあのお言葉のままに、先生は白い清らかな雪に迎えられて、この地上から旅立たれて行かれたのでした。
 あの時、アトリエからのベルに飛び起きました。あまりの衝撃に私は気を失わんばかりでした。膝はガクガクふるえ、羽織を着る手もふるえて手間どつたように思い出されます。廊下から飛び出すようにして雪に包まれた庭を敷石伝いに走りながら「どうかご無事でありますように」と心の中で私は祈り続けました。
 アトリエに入ると、看護婦さんが、私をみるなり「もう駄目ですよ」と言いました。それは暗い暗い深いおとし穴に突き落とされた瞬間でした。
 ベッドにかけつけた時の先生のお痛ましいお姿、前の晩から、よほど苦しかつたとみえて、酸素吸入をしたいとご自分から云い出された先生。吸入器をつけて、ずい分お苦しかったことでしよう。
 かすかな息づかいの中で……あのひと息ごとにうなるようにしていられた声も今は立てられず……それから間もなく本当に静かに、素直に、大きな自然の中へ帰つて行かれたのでした。
(略)
 いよいよ重態になられてからも、看護婦さんや家政婦さんの喰べるものまでも心配されていたことなど、最後まで意識がはつきりしておられた先生のお言葉が未だに私の脳裡をはなれません。
 あれからもう一と月経ちました。高村先生がお好きだつたれんぎようの美しい花もすつかり散り、燃えるような新緑が五月の風にそよいでいます。母屋からアトリエに通ずる庭の石ダタミの道。お元気だつたころは、よく夕方、母屋でお湯を使つてから、タオルと石ケンを片手に、ゆらりゆらりとアトリエに帰つて行かれるその後姿が、まるで昨日のことのように思いおこされます。……その道も今は樹々の緑におおわれて、緑のトンネルのようになつています。私の心の中で、肩を落として背を丸められた丹前姿の先生が小さく……だんだん小さく緑の中に遠ざかつて行きます。
 尾崎喜八さんが弔辞の中でお話しになつたように、もう一度こちらを振返えつて、あの大きなお手をふつて下されば……などと時折考えたりいたしております。
(「中野アトリエの高村先生」 『高村光太郎と智恵子』草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959) 
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胸打たれる文章ですね。

1年後の昭和32年(1957)4月2日(火)、記念すべき第一回連翹忌も、終焉の地・中西利雄アトリエで行われました。以後、いろいろな場所に会場を変え、平成11年(1999)の第43回から、現在と同じ、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんでの開催となっています。

本日も午後5:30開会で、全国から光太郎智恵子を敬愛する方々70名超にお集まりいただき、連翹忌の集いを開催いたします。

昨年、コロナ禍も漸く沈静化し、4年ぶりに第67回連翹忌を開催致しましたが、今年もつつがなく執り行うことができそうで、喜びに堪えません。

今回の連翹忌は、その史上初めて、生前の光太郎を直接知る方のご参加のないものとなります。そしてやはり今回、光太郎終焉の地にして記念すべき第1回連翹忌会場となった中野区の中西利雄アトリエ保存運動のためのご協力を皆様に仰ぐ機会とも成りました。そういった意味では、光太郎顕彰活動も一つの新たな局面を迎えつつあるのかと考える次第であります。

皆様方におかれましても、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ幸いに存じます。

【折々のことば・光太郎】

もう雪解の季節になりました。今日は猛烈な風で山林が鳴動してゐます。

昭和22年(1947)4月2日 安藤一郎宛書簡より 光太郎65歳

ちょうど亡くなる9年前、当時暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋からの発信です。

昨年、コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を4年ぶりに開催いたしましたが、今年も下記の通り実行できる運びとなりました。お誘い合わせの上、ご参加下さい。


日 時  令和6年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線 京浜東北線 有楽町駅  地下鉄日比谷線 千代田線 三田線 日比谷駅下車
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会 費  12,000円(含食事代金)
           諸物価異常高騰の折、申し訳ありませんが改訂させていただきました。

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替
  「払込取扱票」にて郵便局よりお願いいたします。
   ATM、窓口にて取り扱い可能です。申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。
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  ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(土)までにご連絡頂ければ、
  後日、返金いたします。

  参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
  事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

  複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
  参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

  ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

配布物について
  会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
  4月1日(月) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
  残部は欠席の方等にお送りいたします。公序良俗に反するものでなければ
  特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
  当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
  書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

  当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いを
  お願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。
  当方、午後3時頃には会場入りしております。
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着席ビュッフェ形式で行います。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

作品は殆ど失ひましたが小生の内に生きてゐる彫刻はやがて姿をあらはして来るでせう。山に来てから準備はしてゐますがまだ資材が整はないので彫刻の仕事はちつとも進みません。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んでほぼ1年。まだこの時期は山小屋で彫刻制作をするつもりだったようです。しかし、その後、自らの戦争責任を悔悟する中で、自らへの最大の罰として、彫刻制作を封印するに至ります。

昨日は光太郎の忌日、第67回の連翹忌でした。

コロナ禍のため、3年間中止していた日比谷松本楼さんでの集いを4年ぶりに再開。盛会のうちに終えることが出来ました。レポートいたします。

会場入りする前に、まずは当会元顧問で、昭和32年(1957)の第1回連翹忌から会の運営に永らくたずさわられた、故・北川太一先生(令和2年=2020没)と、奥様(同4年=2022没)のお墓に参拝。文京区向丘の浄心寺さんです。
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「4年ぶりにやります」と、ご報告。

続いて都立染井霊園の高村家墓所に。

ソメイヨシノ発祥の地ですが、すでに桜は盛りを過ぎていたものの、まだ咲き残っていました。
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高村家の墓所近くでは、以前は黒猫2匹をよく見かけたのですが、今年はキジトラ系が。
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既にご遺族の方が参拝されたあとだったようで、香華がたむけられていましたが、持参した連翹を追加し、香も。
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こちらでも「4年ぶりにやります」とご報告。

さて、日比谷公園に。こちらの松本楼さんが、集いの会場です。かつて光太郎智恵子が今も饗されている氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」大会の会場としても使われた老舗洋食店です。連翹忌の集いの会場としては、平成11年(1999)から使わせていただいております。
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早く着いてしまったので、近くを散策。桜はやはり盛りを過ぎていましたが、咲いているのが見られる最後の週末でしょう、多くの花見客が。
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松本楼さんエントランスの掲示板、4年ぶりに「連翹忌」の文字。これを見ただけでうるっと来てしまいました。
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泉下の光太郎も喜んでくれていたと信じたいところです。
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5時30分開会でしたが、文書でお願いしたところ、3時頃には、太平洋美術会さんの坂本富江様はじめ、多くの皆さんが駆けつけて下さり、資料の袋詰め等、お手伝い下さいました。中には今回初めてご参加の方も。感謝に堪えませんでした。

さて、開会。

光太郎、そして、4年の間に亡くなった関係の方々へ、ということで黙祷。続いて高村家ご当主にして、光太郎実弟・豊周の令孫の髙村達様の御発声で献杯。

2月に告知をした段階では、4年ぶり、さらにコロナ禍もまだ完全に終わったわけでもないということもあって、どれだけ集まって下さるか心配していたのですが、蓋を開ければコロナ禍前と同様、70名超の皆さんがお集まり下さいました。
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ただ、直前になって御家族にコロナ感染が出たということでキャンセルされた方、ご高齢のため出て来られないという方もけっこういらっしゃいましたし、何より、北川先生御夫妻をはじめ、この4年の間に亡くなったご常連の方々も多く、その点が残念でした。

その後、ビュッフェ形式で会食をしつつ、歓談。合間に何人かの方にスピーチを賜りました。

北川先生令息・光彦氏、女川光太郎の会の佐々木英子様(今年は8月の女川光太郎祭も復活するそうです)、光太郎第二の故郷たる花巻市の松田副市長、同じく花巻で活動されているやつかの森LLCの藤原代表(オリジナルフレーム切手「高村光太郎と花巻」の件等、お話しいただきました)、今回唯一生前の光太郎をご存じの深澤様(画家の深沢省三・紅子夫妻令息の故・竜一氏夫人。代理でご令嬢にエピソードを語っていただきました)。
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光太郎の親友・水野葉舟令曾孫にして、やはり光太郎と親しかった尾崎喜八令孫の石黒敦彦氏、光太郎の影響で彫刻家となった高田博厚の顕彰に埼玉県東松山市で当たられている同市教委の柳沢様、日本詩人クラブの曽我様、詩人・吉野弘ご令嬢の久保田奈々子様、当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館の元学芸員・小野様碌山美術館長・幅谷様、そして富山県で演劇や朗読等で光太郎智恵子の世界を広めて下さっている茶山千恵子様。

それから、劇作家・女優の渡辺えりさん。戦時中から戦後にかけ、光太郎と交流のあったお父さまのエピソードを語られ、さらに光太郎詩の朗読をお願いしておりましたので、熱演して下さいました。
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バックでピアノ演奏を、作曲家の朝岡真木子様にお願いしました。過日、えりさんから突然電話がかかってきて「朗読だけじゃさびしいから、誰か、ピアノをポロロロンって弾ける人、いない?」。無茶振りです(笑)。無茶を承知で朝岡様に電話したところ、快く引き受けて下さいました。多謝。

元々、朝岡様には、メゾソプラノの清水邦子様に朝岡様作曲の「組曲 智惠子抄」から抜粋で歌っていただく伴奏をお願いしていまして、「ついでというと何ですが……」とお願いした次第です。

その清水様、朝岡様の演奏。「組曲 智惠子抄」から「人に」。さらに今回ご参加いただいた詩人の柏木隆雄氏作詞の曲も。柏木氏、たまたまですが、ご実家が当方自宅兼事務所近くの最中屋さんです。
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名残惜しいところでしたが、これにて閉会とさせていただきました。

4年ぶりということで至らぬ点も多々あり、申し訳なく感じる次第ですが、皆様方のお力添えで、4年ぶりの集いを開催することができ、感無量でした。

コロナ禍の日々は、当たり前の日常が当たり前に続くとは限らないということを知らしめたという意味では意義のあった日々だと存じます。以前は「さて来年もがんばろう」と、当然のように翌年も出来ると決めてかかっていましたが、今年は「来年もまたつつがなく開催できますように」と、切に願うばかりです。

以上、第67回連翹忌レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

自分の感情をごまかしてしまふのは随分いやだから何でも積極的にやらうと今は思つてゐる。

明治45年(1912)2月12日 津田青楓宛書簡より 光太郎30歳

などと言いつつ、1ヶ月半前に初めて会って、好感情を抱いた智恵子に対しては、「自分の感情をごまかしてしまふ」部分が多々ありました。新しい芸術をこの国に根付かせるため、父・光雲の関係する範囲から距離を置くことで、苦労することになるのが目に見えている自分の生活に智恵子を巻き込みたくないと、それはそれで無責任な言動ではないので評価されるべきでしょうが。

今日、4月2日(日)は第67回連翹忌です。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受けた中野の貸しアトリエで、宿痾の肺結核のため光太郎が亡くなったのは、昭和31年(1956)4月2日の早暁。前日から都内は季節外れの大雪にすっぽりと包まれていました。
光太郎肖像
戦時中から光太郎と親しかった美術史家・奥平英雄の回想「晩年の高村光太郎」から。

 次の土曜日、すなわち三月二十四日の午後、私はいつものように勤めの帰りに彼を見舞った。すると令弟高村豊周夫婦をはじめ草野氏、岡本・関両医師、駒込病院長などが詰めていて、アトリエの様子が一変していた。聞くと光太郎は十九日の夕方喀血して容態遽かにあらたまったとのことだった。病室には見なれぬ看護婦がいて光太郎の脚をさすっていた。私が光太郎に顔を近づけると、「ぼくの心臓は強いんだそうだ。弱いんだと三、四分で楽になれるんだけどなあ」と低い声でいった。私が悄然と立ちすくんでいると、彼は昏々と眠りに入ったようだったが、また目をさまし私の姿を見つけると、「ああ、まだそこにいたの」といった。そしてこれが私に遺した光太郎の最後の言葉となった。
 それから後、アトリエをとりまく様子がにわかに変った。医師たちの手であらゆる治療の手がつくされると同時に、重態と聞いてかけつける人が多くなった。私も連日のように、訪ねるか電話で問い合わせたりしていたが、今日は遠来の見舞客で病人もひどく疲れているとか、われわれは遠慮して病室にいくのは控えようという声を聞いては、病室にはいっていく勇気も失ってしまった。そして中西家の母屋にいて、中庭をへだてたアトリエを望みながら、私は終始いらいらしていた。その当時の日記を開いてみると、いいいよ絶望ということを聞き、私は次のような走り書きをしている。「昨夜、先生ノコト気ニカカリ眠ラレズ。先生ノ最後ガ見トリタイ、一日一分デモ先生ヲ見タイ、先生ノ最後ノ姿ガ見タイ、ソノ声ガ聴キタイ……」
 喀血は一時やんだかに見えたが、四月一日にふたたび大喀血が起こり、二日の午前三時四十五分、四月の雪の激しく降る中を彼はついにこの世を去った。中西家の知らせで駆けつけた私は、ひっそりと静まり返ったアトリエの中にはいっていった。そして光太郎の顔から白い布をとったとき、私はその詩の顔を実に静かな美しい顔だと思った。生前あれほど彼を苦しめた胸の痛みからも、苦しみの連続だと語った人間の生涯からも、いまやっと彼は死んで解放されたのだと思った。
 私がこれまでしばしば見てきた光太郎の顔は、魂の底に深い孤独の影をたたえたような、謹厳な中にも悲愴のにじんだ顔であった。私はそうした彼の顔に惹かれてきたが、いまここに見る光太郎の安らかな死顔は、生前の顔とはまた別な、実におだやかな美しさをたたえていた。私はいまこそ高村光太郎は、平安な天に還っていったのだと思った。そう思って彼の前に掌(て)を合わせた。


1年後の昭和32年(1957)4月2日、草野心平や、当会顧問であらせられた北川太一先生らの呼びかけで、その終焉の地となった貸しアトリエを会場に、第1回連翹忌の集いが開催されました。

以後、集いはその会場や形態を変遷しつつ連綿と続き、平成11年(1999)の第43回から、会場を日比谷松本楼さん(光太郎智恵子が名物の氷菓を賞味し、光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」会場にもなった老舗洋食店です)に移しました。

平成23年(2011)には東日本大震災直後だったため、集いは中止。そして令和2年(2020)から昨年までは、コロナ禍のためやはり集いの開催を見送りました。集いは中止としても、当方が代表して墓参したりで、カウントは続け、本日が第67回連翹忌です。今年は4年ぶり、令和に入って初めての開催となります(2019年は改元直前で平成31年でしたので)。光太郎生誕140年という節目の年に、4年ぶりに志を同じくする人々が集まり、光太郎を偲ぶことが出来るのを、無上の喜びと存じます。ステイホームの日々は、志を同じくする人々があたりまえのように集えることが、実はあたりまえでなどでなく特別なことなのだと、思い知らされた日々でもありました。

しかし残念なのは、この4年の間に、北川太一先生御夫妻をはじめ、関係の方々の訃報が相次いだこと。詳しくはこのブログの「お悔やみ」カテゴリーをご覧下さい。今日の集いは、そうした方々への追悼の意味も込めた特別な集いと位置づけたいと存じます。

集いの様子については、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

Je suis Japonais. Et, j'ai commencé d'aimer profondément votre art dès que j'ai trouvé dans vos ouvrages en l'exposition du Salon d'Automne en 1908 (C'était la première fois que je voyais vos toiles et bronzes) quelque chose si précieuse, si essentielle, que je ne pouvais pas trouver dans toutes les écoles des arts contemporaines en l'Europe.
 Mais, je n'avais pas le courage d'oser vous visiter, pendant ma séjour à Paris.
 Maintenant, je suis si loin de la France et je ne peux plus voir votre ouvrages.
 J'envie de recueillir les reproductions des vos tableaux et statuettes, et je vous prie que vous voulez bien m'informer le photographe chez qui je les pourrais acquérir.

明治45年(1912)1月10日 アンリ・マティス宛書簡より 光太郎30歳

邦訳は以下の通り。

私は日本人です。そして1908年のサロン・ドートンヌの展覧会におけるあなたの作品に(私があなたの絵とブロンズ彫刻を拝見したのはその時が最初でした)、ヨーロッパの同時代芸術のいかなる流派にも見いだすことができないような、何かとても貴重で、とても本質的なものを見出した時以来、あなたの芸術を深く愛し始めました。
しかしパリ滞在の折には、あなたをお訪ねする勇気がありませんでした。
現在、フランスからかくも遠く離れて、私にはもはやあなたの作品を見ることが叶いません。
私はあなたの絵や小彫刻の複製を集めたいと思っています。そこで、あなたの作品の複製を手に入れることのできる写真家をご教示いただければ幸いです。

光太郎の要請に対し、マティスからは作品の写真が贈られ、翌年の雑誌『白樺』の口絵に使われました。

コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、感染対策を施した上で4年ぶりに下記の通り開催致します。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログコメント欄等までご連絡下さい。郵送いたします。コメント非公開希望の方はその旨お書き添え下さい。

                                     
                                        
日 時  令和5年4月2日(日) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451(代)
            JR山手線・京浜東北線 有楽町駅 地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅下車

松本楼地図
会 費  11,000円(含食事代金)

御参加申し込みについて

 ご出席の方は、会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。
 会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
 基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。

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 ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。
 申し訳ございませんが、振込手数料はご負担下さい。
 ご送金後、急な御都合でご欠席の場合、3月30日(木)までにご連絡下さい。
 後日、返金致します。
 当日、会場でも参加受付を致しますが、座席等確保のため、事前のお申し込みをお願い致します。
 当日お申し込みの場合も、名簿等作成の都合上、事前に連絡いただきたく存じます。
 事前連絡があれば会費納入は当日に現金でも結構です。
  
 複数名の方で御参加の場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、参加なさる方のご氏名をあらかじめお知らせ頂ければ幸いです。


配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配布をご希望の方は、150部ほどご用意頂き、3月31日(金)必着にて下記までご送付下さい。当日、皆様に配布致します。残部は当日欠席の関係各位に送付いたします。特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構ですが、公序良俗に反するもの、配付する価値を認めがたいもの等はお断りいたします。当日、御持参頂く場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。

 〒100-0012東京都千代田区日比谷公園1-2日比谷松本楼 連翹忌宛 (必ず明記) tel 03-3503-1451

当日、お時間に余裕のある方には配付資料袋詰め等をして頂きたく存じます。早めにお越し頂き、ご協力の程、よろしくお願い致します。当方、3時頃には会場に入って居ります。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

また、中止としておりました間、当会顧問であらせられた北川太一先生御夫妻をはじめ、多くの関係の方々の訃報が相次ぎました。それらの方々の追悼も兼ねた催しとさせていただきます。

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

前にボーグラム先生より今年の成績の賞として、七十五弗をもらひ候間、旅費は早速出来候。


明治40年(1907)5月(推定) 東京美術学校校友会宛書簡より
光太郎25歳

昨日のこの項でご紹介しましたが、ニューヨークの美術学校「アート・ステューデント・リーグ」で翌年度の授業料免除の特待生に選ばれた光太郎。しかし、次なる目的地、ロンドンへ渡ることにしており、授業料免除の特典が無駄に。すると、同校で教鞭を執り、かつて光太郎を助手に雇ってくれた彫刻家・ガッツオン・ボーグラムが、免除分を現金で支給するという配慮をしてくれました。そのため大西洋を渡る船賃が出来、渡英することとなります。

昨日は光太郎忌日・連翹忌。かつて日比谷松本楼さんで開催していた集いは、コロナ禍のため、3年連続の中止と致しましたが、それに代わり、皆様方を代表して当方が都立染井霊園の光太郎奥津城に墓参して参りました。

ここ数年、4月2日は平日だったのですが、昨日は土曜日。そこで、霊園の駐車場はいっぱいで、仕方なく少し離れた有料駐車場に愛車を駐めて、霊園まで歩いて戻りました。
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この地はソメイヨシノ発祥の地、さらに今年は昨年あたりと比べると開花の時期が遅かったため、満開の状態でしたので、花見的に訪れている方も多いようでした。
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髙村家墓所。以前にもお見かけしたのですが、近くにお住まいの方々のようで、ご高齢の方々のグループがお参りなさっていました。さらに草むしり等なさってくださっていました。
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当方も香華を手向けて参りました。花は、自宅兼事務所の庭に咲く、66年前に光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の「子孫」です。
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「先祖」の連翹は、昭和31年(1956)4月4日、青山斎場で行われた光太郎葬儀の際、愛用のビールのコップに一枝挿され、供えられました。
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毎年のように書いていますが、来年こそは、日比谷松本楼さんでの集いを復活させ、皆様方と久闊を叙し、共に光太郎やゆかりの方々を偲びたいものです。そうかと思うと、またぞろコロナ感染者数、無気味にじわりと増加中とのこと……。やれやれ……といった感じです。

染井霊園を後に、文京区の浄心寺さんに愛車を向けました。一昨年来、ルーティーンとなっておりますが、一昨年一月に亡くなった、当会顧問であらせられた、北川太一先生の墓参のためです。
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浄心寺さん、別名を「桜寺」といいます。ただ、ソメイヨシノではなく、もう少し早く咲く種類の桜がメインです。昨年はほぼ散ってしまっていましたが、今年はまだ咲き残っていました。

散った花びらは絨毯のようでした。
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この少し前くらいだったと思うのですが、光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋敷地内の光太郎詩碑(地下に光太郎の遺髯が埋納されています)では、地元の方々(生前の光太郎をご存じの方も含まれます)が手を合わせてくださいました。

現地からの画像がこちら。
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以前ですとこの後、午後には花巻市中心部の光太郎ゆかりの寺院・松庵寺さんで連翹忌法要でしたが、そちらもこの3年間、コロナ禍のため執り行われていません。

本当に、来年こそは、と、願わざるを得ませんでした。

この後、上野の東京藝術大学大学美術館さんにて、「藝大コレクション展 2022 春の名品探訪 天平の誘惑」を拝観いたしましたが、また後ほどレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

弘さんの犬かへり去らず、夜に至る、


昭和27年(1952)9月20日の日記より 光太郎70歳

「弘さん」は、光太郎の山小屋近くの開拓地に入植した青年。この日、光太郎の山小屋を訪れ、光太郎に頼まれていた卵を届けて帰りましたが、その飼い犬がなぜか飼い主について帰らず居座ったとのこと。微笑ましいエピソードですね。

本日、4月2日(土)は、第66回連翹忌です。宿痾の肺結核のため光太郎が歿したのは、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分。東京は季節外れの大雪でした。翌年に第1回の連翹忌の集いが、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエで開催されました。そこから数えて、今年は66回目の忌日です。

光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催を続けていた連翹忌の集いは、平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、一昨年の第64回、昨年の第65回とコロナ禍のため、それぞれ中止。今年こそはと思っていたのですが、結局、コロナ感染収まらず、またしても中止といたしました。来年以降もどうなることやら……と思っております。安心して皆様にお集まりいただける状況にならない限り、再開は不可能と存じますので……。

昨年の今日のこのブログでは、当会の祖・草野心平の「終焉日記」をご紹介しました。昭和31年4月1日(日)、4月2日(月)の、光太郎最期の様子が記されています。

今年は、同じく心平が、4月3日(火)の『朝日新聞』に寄せた詩をご紹介します。

   高村光太郎死す

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをかぶつて淡い灯をうけ夜は更けます。
 フラスコの中であわだつ酸素。002

   「そろそろ死に近づいているんだね。」
   それからしばらくして。
   「アダリンを飲もう。」

 ガラス窓の曇りをこすると。
 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。

 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April Snow の夜に。

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智恵子さんの裸像」は、生涯最後の大作となった「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型です。現在は光太郎の母校・東京藝術大学さんに寄贈されています。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている、66年前、中野の貸しアトリエに咲いていた連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。それから、ついでに、というと語弊がありますが、染井霊園と遠くない文京区の
浄心寺さんに、当会顧問であらせられた北川太一先生のお墓にも参らせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎、そして北川先生をご存じの方は、北川先生に、思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

十時頃高橋雅郎氏来る、一緒に太田診療所の婦人会へゆく。男性女性十五六人集まり、御馳走になる、夕方五時頃タキシにて送られかへる、


昭和27年(1952)9月14日の日記より 光太郎70歳

高橋雅郎氏」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の元村長。この日の集まりは、「乙女の像」制作のため、約1ヶ月後に帰京する光太郎の壮行会的な意味合いもありました。おそらくこの日の集まりと思われる、光太郎と村人たちの会話の記録が残っていたのが見つかり、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には間に合いませんでしたが、その後、北川先生と当方の共編で刊行した『光太郎遺珠』に掲載しました。
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誠に遺憾ながら、本年4月2日(土)に予定しておりました、第66回連翹忌の集い、今回も中止とさせていただきます。

昨秋から年末にかけ、新型コロナ新規感染者数がほぼゼロとなり、今年こそは、と思っていたのですが……。その後、オミクロン変異株による感染爆発が起こり、本日現在、その収束が見通せない状況が続いています。
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「ピークアウトはしたのではないか」という見方がある一方、新規感染者数が激減するということもなく、頼みの3回目ワクチン接種も遅々として進んでいません。

また、会場とすることを予定していた日比谷松本楼さんが、感染の最も多い東京都内であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動が必要な方々もいらっしゃることなど、不安要素は尽きません。さりとて会食を伴わない形での開催も趣旨になじまないでしょう。

あまり考えたくはありませんが、来年以降も、皆様が安心して集まれる状況にならないかぎり、開催を見送り続けるしかないのかな、と思っております。そうならないことを切に祈念いたしておりますが……。

既に昨年12月、文治堂書店さん発行のPR誌『とんぼ』第13号で開催案内を出していただき、早々にお申し込み下さった方もいらっしゃいまして、申し訳ありませんが、来年の第67回分の参加費ということで、プールさせていただきます。

一昨年昨年同様、4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第66回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

本日、4月2日(金)は、高村光太郎65回目の命日、連翹忌です。

今から65年前、昭和31年(1956)4月2日(月)午前3時45分、不世出の巨星・高村光太郎は、東京中野桃園町の貸しアトリエ(昭和23年=1948に急逝した水彩画家・中西利雄が建てたもの)で、宿痾の肺結核のため、天然の素中に還りました。

当会の祖・草野心平による「終焉日記」から。挿入されている「註」の部分は、『わが光太郎』(昭和44年=1969)掲載時に補われた部分、(注)は当方が書きました。

四月一日
 十二時中西宅へ電話。コップ一杯またはいた由。二時半電話。呼吸苦しき由、岡本先生、関先生(注・ともに医師)来診の由。二時半からトミーで現代詩人会総会、また幹事長にさせられる。八時頃中西宅へ電話、サンソ吸入ときき、現代詩人会の懇親会をこっそりぬけてかけつける。雪。ななめ、クリーナア(注・車のワイパー)、
 高村さん鼻にゴム管サンソキュウニュウ、(午后七時十五分頃から)八時二十五分に小生到着。今日より看護婦二人、看護婦と堀川さん(注・光太郎が雇っていた家政婦さん)と中西夫人とボクの五人。雪ふりつづける。苦しそう。高村豊周(注・光太郎実弟)夫妻と令息たち、鋳金の伊藤(注・十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の鋳造を担当した伊藤忠雄)、奥平(注・美術史家・奥平英雄)、難波田氏(注・画家・難波田龍起)など見えた由。
 朝、今日は気持ちがよいから早くたべたいとスパゲティとスープとウヰンナアソーセーヂ、木の芽あえをたべたいと言ったが、それを用意して持って行ったら、喀血、その前にスワンのブリのスープ、これは毎日お茶代りにのんでいた。夜はすしとサンドウヰッチを食べる予定だったが、結局朝から夜までスープだけしかのどを入らない。
 豊周氏に今日は苦しいから話ししないと言われた由、
 これを書いているの九時。三十分ほどだが、ずいぶん永い時間の気がする(酸素吸入は、自分でしたいと言われた由)
 アトリエの台所で私独りだけ、しずかにのむ。写真アルバム(注・
前日にはそのゲラを見た筑摩書房刊行『日本文学アルバム19高村光太郎』)「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」
 看護婦(加藤( )さん(注・( )内空欄)、小野瀬鈴子さん)
 十時、電気をくらくする。「そこにいるの草野君?」と看護婦にきく、そうですというと、「今日一日胸が苦しくってね」という「苦しいでしょう。」というと「うん。」
 十時半、「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」眠り薬をのまる。
009註・二度目に電話したのは水道橋のグリルトミーからだった。私は当時現代詩人会の幹事長をしていたので、この日のH氏賞の決定の詮衡(せんこう)と引続いて年一回の総会にはどうしても出席しなければならなかった。H氏賞は鳥見迅彦の『けものみち』に決り(その題字は高村さんがかいたもの)総会もすんだ。それから懇親会に移ったが、折を見て中西さんへ電話すると酸素吸入をしているとのことでビックリした。
 この日はひるまから雪だったが、夜になってもやまなかった。大きな牡丹雪だった。
 運転台のガラス窓にふきかかる雪が、どうしたことか私に思いもよらない聯想を呼びおこさした。ゴッホの最晩年の「鴉のいる麦畑」の、あのむらがる鴉なのだ。そのむらがりをクリーナーが左右にはじく、むらがる、はじく。私はただなんとなくクリーナーだけを信ずるような気持ちだった。
 アトリエのなかは薄暗かった。電気になにかをかぶせたのか普通よりずっと薄暗かった。両方の鼻の穴から二本のゴムのくだがのびフラスコのなかはブクブク泡立っていた。吐く息も吸う息も苦しそうだった。安楽死、ふとそんなことがあたまをかすめた。看護婦が一人ふえているのが無気味だった。元からいた看護婦が冷蔵庫から玉ずし(注・アトリエ近くの寿司屋の折り詰め)を台所に持ってきて
「もう今晩はとてもあがれませんから、あがって下さい。」
 と私に手渡した。私は一つだけつまんだ。
020 写真アルバムについての「どうでもいいよ、一生があればっかりかと思ったら、でも面白いね。」この言葉を、高村さんがいつ言われたのだったか、私の記憶はぼんやりしているが、この言葉は高村さんの話し方で書かれているから、その晩に言われた言葉だったことはたしかである。
 私は時たま、台所からアトリエをのぞいた。看護婦が椅子にかけてうしろの方に近づくと、その気配で察したのか、
「そこにいるの草野君?」
 と高村さんが看護婦にきいた。
 看護婦がそうですと答えると、高村さんは「今日一日胸が苦しくってね」と喘ぎながら言われた。苦しいでしょうと、私がいうと「うん。」といわれたまま、それっきりまた喘ぎがつづいた。私は二十分ほどつったっていたが、
「僕もそろそろ死に近づいているんだね。」
 と私に言うとも誰に言うとも独り言とも思えるように言われた。私はギョウ然としたまま何も言えなかった。それからまた十分ほどして「あだりんを飲もう」といわれた。睡眠剤は、どんな場合にも適量以上にはのまれなかったそうである。その時も普通の意味での「アダリン」だったと思うのだが――。けれどもそれから以後、高村さんの口からはなんの言葉も洩れなかった。高村さんが薬をのまれてから私は無言のまま台所にもどり、しばらくいた。そしてしずかにドアをあけて雪のなかにでた。

四月二日
 3時半頃起こされる 中西家の令息たちに、あぶないから――
 3時45分永眠、まにあわず高村豊周夫妻、4時かけつける、関先生岡本先生。
註・夜中の三時半頃ドンドンドアを叩かれた。ハッと思った。起きてみると案の定中西さんの二人の令息がたっている。その頃はもう雪はやんでいたと思う。待たしてある自動車にのって桃園町にかけつけた。
 たばこ屋の角を曲ると、中西家の前に自動車が一台とまっていて、ドアがあくところだった。すぐ高村豊周氏夫妻であることが分った。中西家は母屋からアトリエのドアまで明けっぱなしになっていた。私のすぐ前を豊周氏夫妻がアトリエにはいった。つづいて私。関先生と岡本先生がぼんやりたっていた。誰も最後には間に合わなかった。


感情を表す語を極力廃し、淡々と事実のみを記述していますが、それでも溢れ出る哀惜の念を隠しきれないところが、光太郎に対する草野心平です。

この時、貸しアトリエの庭には連翹の花が咲き誇っていました。まだ少し元気だった頃の光太郎、「連翹」という名を知らず、アトリエの大家だった中西夫人に、「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。
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4月4日、青山斎場で執り行われた葬儀の際は、その連翹が一枝、光太郎愛用のビールのコップに挿され、棺の上に飾られました。
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そこからの発想で、光太郎忌日を「連翹忌」と命名したのは、心平と同じく、光太郎と親しかった佐藤春夫。第一回連翹忌は、光太郎の亡くなった中野のアトリエで行われ、光太郎を偲ぶ人々が集い、以後、何度か会場を変えながら、平成11年(1999)から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんに会場が落ち着きまして、現在に至ります。

平成23年(2011)の第55回は東日本大震災のため、昨年の第64回はコロナ禍のため、それぞれ集いは中止。そして今年もコロナ禍明けやらず、2年続けての中止といたしました。残念です。

今日は、当方自宅兼事務所に咲いている中野アトリエの連翹の子孫を剪って、駒込染井霊園の髙村家奥津城に手向けて参り、それを以て第65回連翹忌とさせていただきます。
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皆様におかれましては、それぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

朝食前部落の青年達多勢来てヤトヂをとり除き、萱を背負ひかへる。六時のサイレンが鳴る。茶を出す。前の田で萱の大焚火をたく。


昭和22年(1947)5月3日の日記より 光太郎65歳

「ヤトヂ」は雪よけのため家屋の回りに巡らす萱(かや)の束です。花巻郊外旧太田村、5月はじめまでそれが必要だったのですね。
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これを燃やせば確かに「大焚火」でしょう。

まことに残念ながら、今年も、です。

来たる4月2日(金)、開催予定でした光太郎忌日・第65回連翹忌の集い、やはりコロナ禍のため、開催を見送ります。

会場となるべき東京都を含む地域で緊急事態宣言解除の見通しがまだ立たないこと、一般の方々に対するワクチン接種のタイムテーブルも不透明であること、全国規模の催しであるため長距離・長時間の移動を求めざるをえないことなど、不安要素は尽きません。

以前のような、会食を伴う形以外での開催も検討いたしました。ホール等を使い、密にならないよう配慮した上で、講演・シンポジウム等をメインとした形態、Zoom等を利用してのオンラインでの開催など。しかし、いずれもこれまでの連翹忌の集いの趣旨とはなじまないと判断いたしました。また、そうした形で無理矢理開催したところで、果たしてどれだけの参加が見込めるか、というご意見もありました。

以前のように会食を伴う形態でも、やってできないことはないとは存じますが、皆様に真に安心してご参加いただけるかというと、それは不可能です。言い換えれば、皆様が何らの心配もなくお集まりいただけるようになるまで、開催は見送るべきかと存じました。

光太郎、それから当会の祖・草野心平、そして昨年1月に亡くなられた当会顧問・北川太一先生も、きっと理解を示して下さるでしょう。
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4月2日当日は、正午頃、当方が代表して駒込染井霊園の光太郎奥津城に香華を手向け、それをもって第65回連翹忌とさせていただきます。屋外であっても密の状態は避けたく存じますので、皆様方におかれましては、それぞれの場所にて、光太郎を偲んでいただければと存じます。

昨年も「来年こそは」と願っていたのですが、それが果たせず断腸の思いです。しかし、これで連翹忌の灯を絶やすことなく、またしても「来年こそは」と願わずにいられません。「来年こそは」よろしくお願い申し上げます。

新型コロナウイルスの影響で、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で例年執り行っておりおりました集いは中止といたしましたが、昨日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日でした。

集いに代えて、運営委員会代表ということで、当方が染井霊園・光太郎の墓にお参りさせていただきました。例年も松本楼様での集いの前に、墓参しているのですが、昨日は集いを中止にした関係上、例年よりじっくりと頭(こうべ)を垂れて参りました。

例年、この時期は花見、というか、散策に訪れている方が多い染井霊園ですが、昨日はさすがに閑散としていました。ただ、例年ですといっぱいの無料駐車場に車を駐められたのはラッキーでした。

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早くに咲いてしまった、この地原産のソメイヨシノも、まだ保(も)っていました。

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高村家墓所には、昨年は無かった、光雲・光太郎・智恵子を紹介する説明板が新設されていました。ここは光太郎一人の墓ではなく、高村家の墓所ですので、三人の紹介となっています。


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自宅兼事務所から剪(き)って持参した連翹を花立てに。

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光太郎が歿した際、その終焉の地・中野の貸しアトリエの庭に咲き、葬儀の折には愛用のビールのコップに生けられた連翹から株分けされたものです。こちらも桜同様、今年は早く花が咲き、葉も出始めています。

線香に火をともし「今年は皆さんで集まることが出来なくなってしまいましたが、それぞれの場所できっと光太郎さんを偲んで下さることと思います。来年こそはまた皆さんで集まれるよう、お力添えを」と、心の中で語りかけて参りました。

続いて、松本楼様に行かねばなりません。集いの席上で配付予定だったチラシ、招待券の類、毎年、最初の案内で松本楼様にお送りいただくようお願いしております関係上、今年も何種類か届いているとのことで、その受け取りです。

偶然なのか必然なのか、染井霊園から日比谷公園に車を進めますと、途中で、今年1月に亡くなられた、当会顧問であらせられた北川太一先生の菩提寺・浄心寺さんの前を通ることになります。同寺は先生のお通夜・葬儀の会場でもありました。

これは寄らざるをえまい、と思い、車を駐めて北川先生の墓参もさせていただきました。

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浄心寺さんは、別名「さくら寺」。1月のお通夜・葬儀の際には底冷えしていましたが、昨日はおだやかな陽気に桜が満開で、いい感じでした。

そして日比谷松本楼様。日比谷公園の桜も見事でした。しかし、やはり例年とは異なり、花見客は皆無……。

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松本楼様も、午前11時頃に着いたのですが、普段ですと行列が出来ている時間帯なのに、閑古鳥……。

留め置いていただいていたチラシ類を受け取り、さらに、いつもお世話になっているスタッフの方と立ち話させていただきました。やはりとてつもなく厳しい状況とのこと。お互いに「来年こそは」、「ええ、来年こそは」と、約して松本楼様をあとにしました。

受け取ってきたチラシ類、また、自宅兼事務所に届いたチラシ、招待券、書籍類、それから当会発行の『光太郎資料53』等、参会予定だった皆様などに、順次発送させていただきます。今しばらくお待ち下さい。


【折々のことば・光太郎】

斯ういふインスチチユウシヨンが出来たり消えたりしながら総体的に進んでゆく社会の波動に活発な力を感じます。

アンケート「詩話会解散に対する感想」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

「インスチチユウシヨン」は英語の「institution」。「公共団体」、「協会」といった意味合いです。「詩話会」は、光太郎と親しかった川路柳虹らの旗振りで、大正6年(1917)に結成された詩人の会。年刊『日本詩集』、雑誌『日本詩人』などを発行し、会員に名を連ねていた光太郎もそれらに寄稿しました。

このアンケートが書かれた大正15年(1926)、いわゆる民衆詩派(白鳥省吾、福田正夫、富田砕花ら)といわゆる芸術派(北原白秋、日夏耿之介、西条八十ら)との対立から、解散となりました。

光太郎はどちらに与するわけでもなく、アンケート回答にあるように、こうして世の中が進んで行くのだ、と、達観していたようです。

無理くりですが、昨日、都心を車で走りつつ、報道で見るゴーストタウンのようなパリや、野戦病院のようなニューヨークの惨状との違いに、「活発な力」を感じました。総体的に少ないものの、人も車も普通に動き(それが感染拡大につながっているといえばそれまでですが)、おそらく、今年、色々なことを断念せざるを得なかった人々も、「来年こそは」と、心に期しているのではないかとも思いました。

連翹忌の集いも、「来年こそは」です!

1007新型コロナウイルスの影響で、午後5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼様で予定しておりました集いは中止といたしましたが、今日、4月2日は、昭和31年(1956)に歿した光太郎64回目の命日です。

例年、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手花巻でも、詩碑前祭と連翹忌法要を挙行して下さっていますが、そちらも中止。

追記 「詩碑前祭」は行ってくださったそうです。

当方、皆様を代表して、駒込染井霊園の光太郎奥津城に墓参(公共交通機関は使わず、自家用車にて行って参ります)、それをもちまして第64回連翹忌とさせていただきます。皆様もそれぞれの場所で、光太郎に思いを馳せていただければと存じます。

ちなみにその終焉の地・中野の貸しアトリエで、光太郎が息を引き取ったのは、2日の未明、午前3時45分ですので、大半の方はお休みになっている時刻かと存じます。東日本大震災のように午後2時46分に黙祷、というわけにはいきませんが、それぞれお好きな時刻に光太郎を偲んでいただければ幸いです。

ところで、連翹忌につき、先週、長野県の松本平地区で発行されている地方紙『市民タイムス』さんが、一面コラムでご紹介下さいました。   

2020.3.29 みすず野

 冬の上高地を初めて歩いたのは20年近く前だ。膝まで埋まる雪をつぼ足で踏み、徳沢の冬期小屋にたどり着いた。迎えてくれた火炉と小屋番の温かさを忘れない。静寂と景色にすっかり魅了され、翌年も翌々年も釜トンネルをくぐった◆高村光太郎の詩集『智恵子抄』にある「狂奔する牛」は大正2(1913)年夏の思い出だとか。徳沢に牧場があった。智恵子が牛の群れを怖がったのだろう。光太郎は〈今日はもう画くのを止して/この人跡たえた神苑をけがさぬほどに/又好きな焚火をしませう〉と声を掛ける◆徳沢の徳澤園に社長の上條敏昭さん(70)を訪ね、冬期小屋が5年前に閉じられたと聞いたのは昨夏だった。「気ままに文学散歩」の取材で井上靖の『氷壁』にまつわる話を伺った。その時草稿を見せてもらった『徳澤園135年史』が完成した。牧場時代からの歩みである◆絵の道具を持った智恵子が上高地にやって来る。光太郎は徳本峠を越えて岩魚止で迎えた。二人は翌年結婚する。〈智恵子は東京に空が無いといふ/ほんとの空が見たいといふ〉4月2日は光太郎が好んだというレンギョウの花にちなんで連翹忌。

一面コラムといえば、一昨日の『日本農業新聞』さんの一面コラム「四季」でも、光太郎に触れて下さいました。   

四季 2020年03月31日

 きょうは一つの区切り、年度末である。令和元年度を振り返れば、新型コロナを筆頭に重大事が相次ぐ▼小欄が担う1面コラムは新聞にとり特別な存在である。いやが応でも目に付く場所に位置する。最重要記事を掲げる1面は顔と同じ。コラムは人に例えれば口に当たる。その日のニュースが明るい暗いで口元が上下し複雑な感情を抱えながらの筆運びに。だが、志村けんさんの突然の悲報にはどんな追悼をささげればいいのか言葉を失う▼先達の力も借り切り開いてきた道を歩む。しかし、この先は自らつくらないと前に進めない。〈僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る〉。高村光太郎の『道程』冒頭の珠玉の言葉を思う。いや、昭和の歌姫・美空ひばりさんの名曲「川の流れのように」がふさわしい。〈地図さえない それもまた人生〉と胸に刻みながら▼伝説の名コラムニストで深代惇郎が浮かぶ。深い洞察力と縦横無尽の筆遣い。豊かな表現と語彙(ごい)の多さ。喜怒哀楽に深みと軽やかさが備わる。コラム書きなら必ず、その著書に目を通し味わいある作品に深く沈み込む。そして自らの筆力のなさを思い知る▼ただ、非力ならではの味わいは出ないか。小欄はタイトル同様に<四季>の彩りを感じ、朝の食卓に吹く快い“そよ風”でありたい。

両紙ともに、これまでも時折、光太郎に触れて下さっていて、ありがたく存じます。

それにしても、新たな年度となりましたが、このような形で迎える新年度、未知の領域といわざるを得ません。そういう意味では、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」でもあります。力を合わせ、新型コロナの脅威に立ち向かって行く道を作るべきかと存じます。


【折々のことば・光太郎】

かかる時代に生きる者は、心の悩を当然の事として立つ可きです。心の悩むことを忌避するのは卑怯になります。朗らかなる可きは霊魂です。霊魂は人倫を絶したものにつながつてゐます。此のみはいかなる時にも天空の清さを持つてゐます。

アンケート「懊悩と清朗」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

発表されたのは昭和2年(1927)元日発行の、智恵子の母校・日本女子大学校同窓会である桜楓会機関誌『家庭週報』ですが、執筆は前年12月と推定され、大正天皇崩御の直前、金融恐慌の気配が漂いつつあった時期です。掲載紙の「年頭言」では、同紙記者がこのアンケートの趣旨として、次のように述べています。

新しき年を重ねるに当りまして、悲しみは悲しみとして、お互に何等かの向上を希むることゝ存じます。(略)このもの騒がしい世界に面接して、自分たちは外界をどう支配して行かうか、どうしたらややもすれば引きずられ勝ちな生活を抜け切つて朗らかな心地よい生活に歩み入る事が出来るか、かういふ問題について考へますことは、どなたもが望まれることであらうと存じまして、先見の方々のお話を承り、左に掲げることに致しました。

それに対し、光太郎は上記の通り、悩むことをおそれるな、と回答したわけです。

新型コロナの脅威に対する恐怖、それはそれとして受け入れ、なおかつ朗らかなるべき魂を涵養すること、そういったことが重要なのかもしれませんね。

先週、日比谷公園松本楼様で、光太郎を偲ぶ第63回連翹忌を開催いたしました。その際に参会者の皆さんにお配りした資料等をご紹介します。

013まず、手前味噌ですが、当会発行の『光太郎資料51』。B5判ホチキス留め、手作りの小冊子ですが、内容は濃いと自負しております。元々、当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』等の補遺を旨として不定期に発行されていたもので、その名跡を譲り受けました。4月の連翹忌にかぶせて1回、10月の智恵子忌日・レモンの日に合わせて1回と、年2回刊行しております。当方編集になって15冊目です。

今号は、以下の内容です。

・ 「光太郎遺珠」から 第十五回 智恵子(二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、智恵子歿後の智恵子に関する光太郎作品をまとめました。

・ 光太郎回想・訪問記  「高村光太郎の思い出」 富士正晴/「高村光太郎 温かく大きな手」    遠山 孝
これまであまり知られていない(と思われる)、戦前、戦中の光太郎回想文。短めのものを2篇載せました。

・ 光雲談話筆記集成  『大江戸座談会』より 江戸の見世物(その二)
原本は江戸時代文化研究会発行の雑誌『江戸文化』第二巻第十号(昭和3年=1928)。光太郎の父・光雲を含む各界の著名人による座談会筆録から。

・ 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第十五回  法師温泉
見つけるとついつい購入してしまう、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書を用い、それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は、大正末から昭和初めにかけて、光太郎が4回ほど足を運んだ群馬県の法師温泉。明治28年(1895)に建築された、フランス風の飾り窓を持つ建築です。昭和56年(1981)には、当時の国鉄が発売した「フルムーンパス」のポスターやCMで、上原謙さんと高峰三枝子さんが熟年夫婦を演じられ、話題となりました。

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・ 音楽・レコードに見る光太郎 「真珠港特別攻撃隊」(その一)
昭和17年(1942)、箏曲家の今井慶松の依頼で書かれ、翌年、今井の作曲で演奏された「真珠港特別攻撃隊」についてです。

・ 高村光太郎初出索引(十五)
『高村光太郎全集』等収録の、生前に公表されなかったと思われる光太郎詩文をリストアップしました。

ご入用の方にはお頒けいたします(37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明
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015続いて、『尾崎喜八資料 特別号(第17号)』。光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八(上記法師温泉にも同道しています)の令孫・石黒敦彦氏主宰の尾崎喜八研究会さん刊行の冊子です。連翹忌会場でもスピーチでご紹介いただきましたが、いったん休刊されたものを今回、特別に再刊。

当会顧問の北川太一先生の未発表だった玉稿2篇が掲載されています。「「愛と創作」その詩と真実」、「ロランと光太郎をめぐる人々」の2篇です。休刊前に寄稿されていながらお蔵入りだったものとのこと。喜八やその周辺人物と光太郎との交流につき、当方も存じ上げなかった事柄がこれでもかとてんこ盛りです。

過日ご紹介した北川先生の新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』にしてもそうですが、先生の幅広い視点からの御考察には脱帽です。

残部は当会名簿にある連翹忌ご欠席の方々等に発送いたしましたが、ご入用の方は仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。

016配付されたわけではありませんで、ギャラ代わりの執筆者割り当てでいただいたものですが、『高村光太郎研究50』。高村光太郎研究会からの刊行です。

こちらにも北川先生の玉稿が巻頭に。平成20年(2008)、宮城県女川町で開催された第17回女川光太郎祭での講演筆録「再びもう一度考えてみたいこと――平成二十年八月九日、女川高村祭談話――」。

それから昨秋、都内で開催された高村光太郎研究会でのご発表を元にされた佛教大学総合研究所特別研究員の田所弘基氏の、「高村光太郎「夏の夜の食慾」の解釈」。昨年『高村光太郎小考集』を刊行された西浦基氏の「虎落笛―長沼智恵子の母親おセンの生涯―高橋秀紀著を読む」。

さらに、またまた手前味噌ですが、当方編の「光太郎遺珠⑭」と「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」。

「光太郎遺珠⑭」は、この1年間で新たに見つけた、『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品集です。

短めの散文が3篇。昭和17年(1942)の『美術文化新聞』第59号に載った「工場の美化運動」、同18年『読売新聞』掲載の「預言者的詩人 野口米次郎氏」、そして『新岩手日報』に同22年(1947)掲載の「人間的な詩人」(「きよう”賢治 十五回忌” 盛岡・花巻で盛んな記念集会」と題する記事に付された談話)。

それから、しばらく前から少しずつ掲載させていただいている「高村光太郎先生説話」。浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995、ひまわり社)よりの転載で、戦後、花巻郊外太田村で蟄居中の光太郎が、山小屋近くの山口小学校などで語った談話の筆録です。今回は昭和26年(1951)のもの。

さらに翻訳で「ロダンといふ人」。原著者はロダンの秘書だったジュディト・クラデル。明治43年(1910)、雑誌『秀才文壇』に3回にわたって連載され、3回目のみが『高村光太郎全集』に収められていましたが、1、2回目が中々見つからずにいたものを、昨秋、智恵子がかつて絵を学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんからご提供を受けました。

そして、書簡。平成29年(2017)、『智恵子抄』版元の龍星閣現社主・澤田大太郎氏から、創業者で父の故・伊四郎の遺した厖大な資料のうち、光太郎、棟方志功他の関連が、伊四郎の故郷・秋田県小坂町に寄贈されました。そのうち、澤田に宛てた光太郎書簡で『高村光太郎全集』未収録の32通を載せさせていただきました。

「高村光太郎没後年譜 平成29年12月~30年12月」は、このブログの昨年暮れの記事を元にしています。

こちらもご入用の方は仲介いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


最後に、第63回連翹忌にて「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他の音楽演奏をなさってくださった、ジオラマ作家兼ミュージシャンの石井彰英氏から、当日の演奏をyoutubeにアップしたというご連絡がありましたので、載せておきます。最後に演奏された「ずっとこのまま」のみですが。




【折々のことば・光太郎】

私はこれからもなほ若い人々を激励し、若い人々の進歩するのと一緒になつて真剣に日本の彫刻を育て、今まで世界に存在しなかつた新鮮な日本の美を作り出してゆきたいと願つてゐる。自分はすでに老境に近づき年齢からいへば過去に属する人間であるかもしれない。しかし自分にあたへられた本当の仕事はこれからであると信じてゐる。

談話筆記「子供の頃」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎にとって「本当の仕事」は、彫刻をはじめとする芸術の発展。当方にとっては「光太郎の生の軌跡を語り継ぐこと」。やはり「これから」です。

昨日は、平成最後の光太郎忌日・第63回連翹忌でした。光太郎ゆかりの日比谷松本楼様で、午後5時30分よりその集いを開催いたし、盛会のうちに終えることができました。関係各位に改めて御礼申し上げます。

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順を追ってレポートいたします。

千葉の自宅兼事務所から、愛車に光太郎遺影、配布物、展示資料(この1年間に発行された光太郎智恵子光雲関連の書籍・雑誌等々)、連翹の花(光太郎終焉の地・中野アトリエに咲いていたも木から株分けしたしたもの)などを積み込み、都内へ。

まずは品川区大井町に向かいました。今回の連翹忌で音楽演奏をお願いした、ミュージシャンにしてジオラマ作家の石井彰英氏のご自宅兼スタジオ兼ジオラマ工房、サロン・ルーフトップで、楽器や譜面台等を積み込むためです。

予想より早く高速を抜けられたので、途中、同じ大井町のゼームス坂に立ち寄りました。智恵子の終焉の地・ゼームス坂病院跡地に立つ光太郎詩「レモン哀歌」の碑を久しぶりに見ておこうと思いまして。

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建立されたのは昭和63年(1988)。当方、実は最後に訪れたのが20年前くらいで、その意味では懐かしさでいっぱいでした。地元の皆さんでしょうか、レモンが供えられ、清掃も行き届いており、ありがたく感じました。

その後、石井氏の元で機材を積み込み、連翹忌会場の日比谷公園へ。地下駐車場に車を駐め、都営地下鉄三田線で巣鴨へ。この後参会される皆様を代表し、染井霊園にある光太郎ら高村家の人々の眠る奥津城に墓参。
ソメイヨシノ発祥の地だけあって、満開のそれは見事でした。

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巣鴨駅前で遅めの昼食をかき込み、再び日比谷へ。地下から車を松本楼さんの玄関脇へ。

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すでに配布物の袋詰め等をお手伝い下さる皆さんがいらしていて、ありがたく存じました。その方々は受付もやって下さり、本当に助かっております。

そのうちに続々参加の方がお見えになり、最終的には当方を含め、77名。70名を超えれば、「よし、今年はけっこう集まった」と思えるラインです。毎年そうなのですが、ぎりぎりになってのお申し込みが多く、1週間前くらいの時点では「今年は人が集まるんだろうか」と気をもまされていましたが、杞憂に終わりました。

さて、5時30分、開会。まずは光太郎本人、そして花巻の高橋愛子さんなど、残念ながらこの1年に亡くなった関係の方々への黙祷。

続いて、当会顧問・北川太一先生のご挨拶。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった故・髙村豊周令孫の髙村達氏(写真家)の音頭で、献杯。

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しばしビュッフェ形式で料理を味わっていただき、アトラクションへ。先述の石井彰英氏と、お仲間の堀晃枝さん、松元邦子さんによる演奏。ゼームス坂近くにお住まいの石井氏の作詞作曲による「トパーズ 高村智恵子に捧ぐ」他、全3曲を演奏して下さいました。

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その後、恒例のスピーチ。まずは、2年ぶりにご参会の、渡辺えりさん。このブログで何度もご紹介していますが、お父様が光太郎と交流がおありで、その影響で光太郎を主人公とした脚本なども書かれています。今回、意外とそのお話をご存じない方が多く、お父様と光太郎のご縁など、語ってくださいました。また、「あまちゃん」で共演されたのんさん(能年玲奈さん)もご出演される8月からの新作舞台「私の恋人」の宣伝もしていただきました。

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次に、書家の菊地雪渓氏。昨年、「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれた作品をお持ちいただき、紹介されました。

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菊地氏、この他にもやはり昨年、「第40回東京書作展」でも光太郎詩「東北の秋」(昭和25年=1950)で臨まれ、「特選」を受賞されました。

詩人の佐相憲一氏。出版社・コールサック社さん関係の方で、昨年、同社から刊行の、光太郎と交流のあった野澤一の詩集『木葉童子詩經』復刻版を編集されました。

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同じく、光太郎と交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏。喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の娘ですので、石黒氏、葉舟の曾孫にもあたられます。

さらに当会の祖・草野心平を祀るいわき市立草野心平記念文学館・小野浩氏。光太郎が認めた彫刻家・高田博厚の顕彰を進める埼玉県東松山市の教育長・中村幸一氏、光太郎詩に自作の曲をつけて歌われているシャンソン歌手のモンデンモモさん。

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最後に、明星研究会の松平盟子氏(歌人)にもお願いしました。光太郎と与謝野晶子のつながり、明星研究会の活動のご様子、光太郎にも触れて下さった昨年刊行の『真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ』などについてなど。

本当はもう少し多くの方々に語っていただきたかったのですが、皆さん、なかなか弁の立つ方々で(渡辺えりさんは20分くらいしゃべってました(笑))、時間の都合もあり、締めに移行。

昨年、智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝いた宮尾壽里子さんと、お仲間の上田あゆみさん、吉浦康さんに、朗読をお願いしました。

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単なる朗読ではなく、何度か宮尾さんが公演された形式からの再編で、光太郎詩「レモン哀歌」の朗読に始まり、その後は光太郎評論「緑色の太陽」、確認されている智恵子唯一の詩「無題録」などの朗読を織り交ぜつつ、光太郎智恵子の生の軌跡を語る物語となっていました。BGMにはテルミン奏者・大西ようこさんのCDを使わせていただきました。


そして、名残を惜しみつつ、来年、令和2年となる第64回連翹忌での再会を期して、閉会。

来年も広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子をモチーフに美術・文学などの実作者の方、同じく音楽・芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

私は此の愛の書簡に値しないやうにも思ふが、しかし又斯かる稀有の愛を感じ得る心のまだ滅びないのを自ら知つて仕合せだと思ふ。私は結局一箇の私として終はるだらうが、この木つ葉童子の天来の息吹に触れたことはきつと何かみのり多いものとなつて私の心の滋味を培ふだらう。

散文「某月某日」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「木つ葉童子」とは、上記でもご紹介しましたが、光太郎を敬愛していた詩人・野澤一です。「愛の書簡」はラブレターという意味ではなく、野澤が光太郎に送った300通余りの書簡。光太郎より21歳年下にもかかわらず、野澤は時に光太郎を叱咤激励するような内容もしたためました。最愛の智恵子を失って落ち込んでいた光太郎にとって、それはありがたい部分もあったようです。

昨日の第63回連翹忌、光太郎と交流のあった人々ゆかりの皆さんが多数参加され、改めてその人脈の広さ、そしてその人々に支えられ、また光太郎自身も支え、そうして広がっていった人の輪というものを感じました。そうした精神が脈々と受け継がれている連翹忌。今更ながら、さらに手前味噌ながら、すばらしいと感じています。その運営を引き受けて8年になりますが、今後もその灯をともし続けていかねばならない、と、責任の重大さを再確認いたしております。

今後とも、ご協力よろしくお願いいたします。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第63回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。郵送いたします。
 

第63回連翹忌御案内


                                       
 日 時  平成31年4月2日(火
) 午後5時30分~午後8時
 
 会 費  10,000円 (ビュッフェ形式での食事代を含みます)

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
       tel 03-3503-1451(代)

 内 容  高村光太郎およびこの1年に亡くなった関係各位への黙祷
      アトラクション(音楽演奏・朗読)/スピーチ
      この1年間に発行された高村光太郎/光雲/智恵子関係資料等展示
      他      

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  ごあいさつ

 今年も第六十三回、平成最後の連翹忌が間もなくやって参ります。

 あしたどんなことが起こるかわからない一年がまたたく間に過ぎようとしていますが、いつものように、日比谷公園松本楼の階上で、運営委員の皆さんのご努力により、たくさんのご報告や催しが予定されております由、お忙しい日々でしょうが、お目にかかれればうれしく存じます。

 わたくしは、この三月で満九十四才になります。

平成三十一年 二月
連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて

会費を下記の方法にて3月22日(木)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、できるだけ事前にお支払い下さい。


今年の連翹忌は火曜日です。新年度となって間もない平日ということで、なかなかお忙しい折とは存じますが、万障お繰り合わせの上、ご参加お待ち申し上げております。

過去6年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

昨4月2日は光太郎忌日ということで、第62回連翹002忌の集いを、例年通り、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで開催いたしました。

それに先立ち、これも例年通りに、参会者を代表して、染井霊園の高村家墓所に参拝。

毎年、当方が行く前に香華を手向けて下さっている方々がいらっしゃり、どなただろうと思っておりましたが、今年はその方々とばったり行き会いました。智恵子の故郷、福島の方が中心になってお声がけ下さって、10名ほどの方々が墓参にいらしていました。ありがたや。

その後、松本楼さんのある日比谷公園へ。例年ですと桜が満開なのですが、今年はもう盛りを過ぎてしまっていました。



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配付資料や受付の準備などをし(太平洋美術会研究所の坂本富江様はじめ、いろいろな方にお手伝いいただきました。ありがとうございました)、午後5時半、開会。

まずは、62年前に亡くなった光太郎本人に、そして、この一年間に亡くなった関係の方々をご紹介し、黙祷。

続いて当会顧問、北川太一先生にご挨拶を賜りました。生前の光太郎をご存じの北川先生、今年に入って白内障の手術をされたそうですし、少しおみ足が弱られていますが、93歳になられてもまだまだお元気です。100歳までは頑張るぞ、と宣言して下さいました。

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その後、献杯。このところ、音頭は光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった故・髙村豊周氏令孫の髙村達氏にお願いしていたのですが、達氏、日本写真家協会の集まりで遅れるとのことで、お姉様の朋美様にお願いしました。

しばしの間、ビュッフェ形式での会食。

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例年行っておりますアトラクション003、今年は、朗読家の山田典子様にお願いいたしました。題して 「智恵子から光太郎さんへ」。昨年の2月に、千葉県柏で山田様がご出演なさった朗読系の演劇公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」を拝見・拝聴し、ぜひ連翹忌でも、とお願いしたところ、快く引き受けて下さいました。

柏での公演では、山田様が智恵子に扮して朗読、オペラ歌手・大久保光哉さんが青木省三氏作曲の歌で光太郎役をなさるという構成でしたが、今回の光太郎役は……。

当方、たまたま昨年の連翹忌に和装で臨みましたところ、山田様、それを見てひらめいたそうで……。まぁ、光太郎役といっても、ほぼ座っているだけでしたので、よかったのですが(笑)。

その後、食事を頂きながら恒例のスピーチをお願いしました。

高村光太郎研究会員・西浦基氏。参会の皆様に無料で配布して下さったご著書を紹介していただきました。埼玉県東松山市教育委員会の柳沢知孝氏には、1月にオープンした同市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」のご紹介を。

智恵子の故郷、福島二本松の熊谷健一氏(智恵子のまち夢くらぶ会長)には、11月に開催予定の全国智恵子抄朗読大会の件など。さらに遠く青森十和田からご参加下さった佐藤やえ様、久しぶりにご参加の、碌山美術館理事・仁科惇様にもスピーチをお願いしました。そして、遅れてご到着の髙村達氏。

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さらに『明星』関連で、明星研究会の小清水裕子さん、いわき市立草野心平記念文学館の渡辺芳一氏、山梨県立文学館の伊藤夏穂様、愛知碧南市藤井達吉現代美術館・木元文平館長、碌山美術館・武井敏学芸員。今後、それぞれの会や館で、光太郎にも関わる企画があります。近くなりましたらこのブログにてご紹介いたします。

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トリは、光太郎第二の故郷・岩手花巻高村光太郎記念会事務局長の高橋邦広氏。氏は横笛の達人でもあり、光太郎が暮らした花巻太田地区に伝わる神楽の曲などの演奏を披露して下さいました。

名残は尽きねど、時間となりまして、午後8時、来年以降の再会を約し、お開きとさせていただきました。

今年は新年度最初の月曜日ということで、昨年、一昨年より参会者が減少しましたが、今回初めてご参加下さり、来年以降も必ず来ます、とおっしゃって下さった方もいらっしゃいました。

参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。とにかくこの輪を広げてゆきたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。

    高村光太郎死す002

                   草野心平

 アトリエの屋根に雪が。
 ししししししししふりつもり。
 七尺五寸の智恵子さんの裸像がビニールをか
  ぶつて淡い灯をうけ夜は更けます
 フラスコのなかであわだつ酸素。
                   
  《僕もそろそろ死に近づいているね》

    《アダリンを飲もう》
                   

 ガラス窓の曇りをこすると。
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 紺がすりの雪。
 そしてもう。
 それからあとは言葉はなかつた。
 
   「智恵子の裸形をこの世にのこして。
   わたくしはやがて天然の素中に帰ろう。」
 
 裸像のわきのベッドから。
 青い炎の棒になつて高村さんは。
 天然の素中に帰つてゆかれた。
 四月の雪の夜に。
 しんしん冷たい April fool の雪の夜に。





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今日、4月2日は、光太郎忌日「連翹忌」です。

前日から季節外れの大雪に包まれていた62年前の昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分、東京中野のアトリエで、不世出の巨人・高村光太郎は、宿痾の肺結核のため世を去りました。

上記は当会の祖・草野心平が、翌日の『朝日新聞』さんに寄せた詩です。揮毫は当会顧問・北川太一先生の所蔵で、5日に書かれたものです。冒頭の活字の部分は、昭和41年(1966)刊行の心平詩集『マンモスの牙』から採りました。したがって、揮毫と一致していない箇所があります。


さて、繰り返しご案内申し上げていますとおり、本日午后5時30分から、光太郎智恵子ゆかりの老舗西洋料理店・日比谷松本楼さんで、関係の方々にお集まりいただいての「第62回連翹忌」の集いを執り行います。

また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第62回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第62回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成30年4月2日(月
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第62回連翹忌へのお誘い

 自然現象にも、世界の情勢にも、この数年は、思いがけぬ出来事が続きましたが、お変りなく、お元気でおすごしのことと存じます。委員会の御努力により、連翹忌も今度で六十二回目、またお目にかかれるのが、奇蹟のような気がします。これも皆さんと高村さんの限りない敬愛に外なりません。
 今年も、いつもの日にいつものところで、いつものようにお目にかかり、たくさんのお話を伺えれば幸いに存じます。是非お出かけ下さい。
 私事ですが、私は一月末に、両眼白内障を手術、連翹忌が終ったら、逆さまつげの手術をします。もうすこし仕事もしたく、皆さんともお目にかかりたく、勝手に生存年令を百歳と決めました!

平成三十年 一月末
連翹忌運営委員会顧問 北川太一


御参加申し込みについて

会費を下記の方法にて3月22日(木)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は月曜日です。新年度最初の平日ということで、なかなかお忙しい折とは存じますが、万障お繰り合わせの上、ご参加お待ち申し上げております。


過去5年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

昨日、東京日比谷松本楼様におきまして、61回目となる光太郎の忌日・連翹忌の集いをつつがなく執り行いました。

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会の始まる前、参会の皆様を代表し、駒込染井霊園にある光太郎の(というか高村家の)墓所に参拝。

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どなたがお供えくださったのか、光太郎が大好きだったビール、智恵子の好物だったレモン、色とりどりのお花が。手前のレンギョウは、当方自宅兼事務所に咲く、かつて光太郎が愛した中野アトリエの庭に咲いていたレンギョウから株分けしたものです。

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いつも書いていますが、ソメイヨシノ発祥の地で、見事に咲いていました。

そして日比谷公園に。こちらも見事な桜。

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午後3時頃から準備を始めました。配付資料等の袋詰め、受付などなど、いろいろな方にお手伝いいただき、助かりました。

午後5時30分を回ったところで、開会。最初に光太郎、そしてこの一年に亡くなった関係者の皆様に、黙祷。その後、当会顧問にして生前の光太郎をご存じの、北川太一先生のご挨拶。

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光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった、故・髙村豊周の令孫・達氏にご発声をお願いし、献杯。

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達氏は、お爺さまの豊周の弟子筋に当たり、光太郎作品の鋳造を多く手がけ、やはり人間国宝だった故・斎藤明氏の元から、光太郎ブロンズの代表作「手」の型を受け取ったとのことで、ご持参くださいました。興味深く拝見しました。

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アトラクションは、ともに光太郎智恵子を敬愛する、テルミン奏者・大西ようこ様、朗読家・荒井真澄様による「智恵子抄より」。花を添えてくださいました。

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その後、ビュッフェ形式で料理を堪能しつつ、恒例のスピーチ。

トップバッターは、お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさん。昨年は6月に盛岡の啄木祭、7月に山梨県立文学館さんの「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」の関連行事でそれぞれ光太郎に触れるご講演をなさったり、お父様が光太郎から贈られたサイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)や書簡を、花巻高村光太郎記念館さんにご寄贈なさったりということがありました。

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続いて、青森テレビアナウンサーだった川口浩一氏。昨年末に当方も出演させていただいた特別番組「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」を作られ、それを最後にご退職なさったそうです。

盛岡からいらした加藤千晴氏。光太郎のいとこ・加藤照さんのご子息です。お母様には昨年お会いさせていただきましたが、満100歳でご健在です。未発表の光太郎書簡情報をご提供くださいました。

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花巻郊外旧太田村で、隠棲中の光太郎をご存じの佐藤定様。当時の思い出と、最近の高村山荘周辺の整備状況などをお話くださいました。

詩人の曽我貢誠氏。曽我氏もご参加くださった、女川光太郎祭、それについて当方が書いた雑文を掲載していただいた文治堂書店さん発行の文芸同人誌『トンボ』などのお話を賜りました。

さらには、福島川内村で、当会の祖・草野心平を偲ぶ「かえる忌」を主催されている井出茂様、いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩様、参加者全員に館報をご寄贈くださった信州安曇野碌山美術館五十嵐久雄館長、太田村の山小屋に隠棲中の光太郎に突撃取材をされた遠藤道子様、高村光太郎研究会の大島裕子様。

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今回初めて連翹忌にご参加いただいた方々にも、スピーチをお願いいたしました。今年2月に、千葉県柏で、朗読と歌曲による公演「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」をなさった山田典子さん。

このブログを通じてお申し込みいただいた方にもスピーチをお願いしました。お友達の方と3名でいらっしゃり、光太郎智恵子、そして北川先生ファンということで、北川先生にお会いでき、感激されていました。

他にもスピーチはいただきませんでしたが、全国から70余名の皆さんにお集まりいただき、盛会となりました。

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名残を惜しみつつ、8時過ぎに閉会。

当日までの準備やら、司会進行やらで、決して楽な仕事ではありませんが、志を同じくする皆様と、いちどきにお会いできる貴重な機会、当方も楽しませていただきました。盛会となったことを、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。

健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、来年以降もよろしくお願いいたします。

今日、4月2日は、光太郎の命日・連翹忌です。今年で61回目となります。

宿痾の肺結核により、光太郎が歿したのが、昭和31年(1956)の今日、午前3時45分。結局、終の棲家となった中野のアトリエでのことでした。昨日も書きましたが、前日から東京は季節外れの雪でした。

葬儀は4月4日、青山斎場で執り行われました。彫刻家光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を含む一帯の設計を担当した建築家・谷口吉郎の意匠になる祭壇に棺が置かれ、その上にはコップに挿した連翹の一枝。これは中野のアトリエの庭に咲いていた生前の光太郎が好きだった花で、アトリエの家主だった故・中西富江さんの回想に記されています。遺影は光太郎の令甥・故髙村規氏の撮影したものです。焼き増しした同じ写真を、現在も使わせていただいています。

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葬儀委員長は武者小路実篤。武者の他に梅原龍三郎、石井鶴三、尾崎喜八、そして草野心平が弔辞を読みました。


そして、一年後の昭和32年(1957)には第一回連翹忌。会場は光太郎が亡くなった中野のアトリエで、リンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。

以後、途切れることなく連翹忌は連綿と続き、平成11年(1999)から日比谷松本楼さんに会場が落ち着いて、今日に至っています。日比谷松本楼さんは、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、名物の氷菓(アイスクリーム)を食べたり、光太郎も参加した「パンの会」が開かれたりしたゆかりの西洋料理店です。

今年の参加者は、予定では73名。61回目となっても、未だに生前の光太郎をご存じの方がいらっしゃってくださり、ありがたい限りです。当会顧問の北川太一先生、戦後の7年間を隠棲していた花巻郊外旧太田村の方々、その太田村の山小屋に光太郎を突撃訪問したという、その頃女学生だった方、赤ん坊の頃、光太郎の膝の上に乗ったという血縁の方などなど。

それから、光太郎と交流のあった人物ゆかりの方々も多くご参加くださいます。お父様が光太郎と交流があった、女優の渡辺えりさんも、2年ぶりのご参加。スピーチをお願いしておきました。

さらに、今年はこのブログでしつこく宣伝した甲斐があったようで、ネットを通じて初のお申し込みをいただいた方が、5名ばかりいらっしゃいます。健全な精神で光太郎智恵子を敬愛されている方には、どなたにも門戸を開いており、どんどんネットワークを広げていきたいと考えておりますので、ありがたいところです。


また、光太郎第二の故郷とも言うべき花巻でも、花巻としての連翹忌等が開催されます。そちらにご参会くださる方々にも、この場を借りて御礼申し上げます。


それぞれ盛会となる事を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】019

ソクラテスが死ぬ時、何といつた。 鶏一羽が彼の生涯の急回転。 又人生批評のくさび。 偉大なるものが何処にあるかときかれたら、 あの見すぼらしい電信柱を指ささう。

詩「偉大なるもの」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

哲学者ソクラテスの有名な遺言、「クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽おそなえしなければならなかった。その責を果たしてくれ。きっと忘れないように。」を下敷きにしています。

61年前の今日、亡くなった光太郎。その最後の言葉は不詳ですが、亡くなる3日前、草野心平が持参した心平編集になる、写真をふんだんに使った光太郎の伝記的書籍『日本文学アルバム 高村光太郎』(筑摩書房)のゲラを確認し、「That's the endか。人の一生なんか妙なもんだな」と言ったそうです。迫り来る死を冷静に受け止めたその一言、見事といえば見事ですね。

今年も4月2日の光太郎命日、連翹忌が近づいて参りました。以下の要領で、第61回連翹忌を開催いたします。
 
当会名簿にお名前のある方には、要項を順次郵送いたしますので、近日中に届くかと思われます。
 
また、広く参加者を募ります。参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ということのみです。
 
下記の要領で、お申し込み下さい。詳細な案内文書等必要な方は、こちらまでご連絡下さい。郵送いたします。
 

第61回連翹忌御案内


                                       
日 時  平成29年4月2日(日
) 午後5時30分~午後8時
 
会 費  10,000円

 会 場  日比谷松本楼  〒100-0012 東京都千代田区日比谷公園1-2
      tel 03-3503-1451(代)

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第61回連翹忌へのお誘い                       
                                        
 もう新しい連翹忌の季節がまいりました。このところ世界中で生まれて初めてのような出来事が毎日のように続きますので、余計そんな気がするのでしょうか。考えて見ますと、高村さんと一緒に生きてきた昭和の初めから三十年代まで、いつも同じような時代が続いていたような気がします。
 
 そんな歴史が急に逆転の速度を速めてきたように見える時こそ、改めて高村さんの生涯を考え、世界の今日と明日、御近況のあれこれなどをお話し合いいただければ、どんなに力強く、意味深いことかと存じます。
 
 運営委員会からのさまざまな御報告や、たのしい催しものも用意してあります。
 
 今年の連翹忌は日曜日にあたりますが、いつものように日比谷公園松本楼の階上でお待ちしております。

連翹忌運営委員会顧問 北川太一

御参加申し込みについて002

会費を下記の方法にて3月22日(水)までにご送金下さい。会費ご送金を以て出席確認とさせて頂きます。
 
ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

基本的に郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願い致します。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネームがわかるよう、ご手配下さい。

会費お支払いは当日でもけっこうですが、事前にお申し込み下さい。
〒287-0041 千葉県香取市玉造3-5-13 高村光太郎連翹忌運営委員会


今年の連翹忌は日曜日です。来年以降、しばらく平日となります。「年度はじめの平日では無理」という方、この機会をお見逃しなく。

過去4年間の様子はこちら。


ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、芸能関連で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。どなたにも門戸を開放しております。

繰り返しますが、参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

忘れかけてゐた日の光が、窓かけを明けると、まばゆい強さに、 斜めに幅びろに機嫌よく流れ込んで、 白いシイツにつきあたる。 手にうけて握りたいほど、 活発に飛びはねるまるで生きものだ。

詩「かがやく朝」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

「光の春」と称される2月も気がつけば後半です。「一陽来復」と言うには少し遅くなりました。朝の日の光も日に日に力強さを増しています。それを「手にうけて握りたい」と、触覚でとらえようとするあたり、彫刻家としての鋭敏な感覚が表されています。

そして春たけなわの頃には連翹忌。ご参加をお待ち申し上げております。

4月2日、東京では日比谷公園松本楼さまで、第60回連翹忌の集いを開催いたしました。

同日、光太郎が戦中戦後の足かけ8年を過ごした岩手花巻でも、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後から光太郎ゆかりの花巻市街にある松庵寺さんで、花巻としての連翹忌が開催されました。

東京の方はなかなか報道されませんが、岩手の方は報道されていますのでご紹介します。 

光太郎に思いはせる 詩碑前祭 小中学生が詩を朗読

 花巻ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(0011883~1956年)の命日である2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で「詩碑前祭」が催され、今年も太田山口地区の住民ら約50人が地元に教えを残した光太郎の遺徳をしのんだ。
 山関、上太田両行政区全94戸で組織し、光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が毎年主催。照井康徳支部長、来賓で花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長のあいさつに続き、太田小学校の高橋百花さん(3年)、中島絢星君(1年)が光太郎の詩「雪白く積めり」が刻まれた石碑と遺影に献花した。
 同支部の平賀仁理事が「厳しき自然の中に先生は7年間住まわれ、自然をたたえ、詩にうたい、地方の私たちに数々の教えを注いでくださった」と祭文を読み上げて光太郎に感謝を伝え、地元の上太田子供会、戸来園子さん、高橋新吉さん、太田区長会が「山の広場」「岩手の人」など光太郎の詩を高らかに朗読した。
 光太郎は1945年、東京のアトリエを空襲で焼失し、詩人で童話作家の宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開。旧太田村山口の山小屋で7年間、農耕自炊の生活を営みながら住民と交流し、多くの詩作品を生み出した。
 高村山荘の近くにある高村光太郎記念館は、老朽化のため全面改修され、2015年4月にリニューアルオープンし、多数の入場者を迎えている。
 照井支部長は「少子高齢化の影響で地区の子供も減っており、今年は詩の朗読に小学生だけでなく中学生も加わってもらった。高村先生を覚えている人も減っている。リニューアルした記念館とともに行事を通じて先生のことを伝えていきたい」と話していた。
『岩手日日新聞』 2016/04/03
 

”高村光太郎の命日”で法要

 詩人で彫刻家、高村光太郎の命日の2日、光太郎が太平洋戦争の時に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
 高村光太郎は、昭和20年の空襲で東京のアトリエを失ったあと、知人を頼って花巻市に疎開し、その後、7年間を過ごしました。
 光太郎の命日の2日、花巻市双葉町の松庵寺で光太郎が好きだったというレンギョウの花の名前をとって「連翹忌」と呼ばれる法要が営まれました。
 法要には、光太郎ファンの市民などおよそ20人が集まり、松庵寺の小川隆英住職が、お経を読みあげたあと、光太郎の詩、「松庵寺」を紹介しました。
 小川住職は、この詩について、「若くして亡くした妻、智恵子への愛情が込められている」などと説明していました。
 出席した70代の女性は、「光太郎の妻への愛情が身にしみてわかりました」と話していました。
 また、2日は、光太郎が過ごした山荘近くにある石碑の前でも、市民や子どもたちおよそ40人が集まり詩を朗読して光太郎をしのんでいました。
「NHKオンライン 岩手」 2016/04/02

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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。当方、東京での連翹忌を仕切らねばなりませんので、こちらには参加できません。ただ、来月15日、昭和20年(1945)に光太郎が疎開のため東京を発って花巻に向かった日には、やはり高村山荘敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されます。こちらには例年通り参加させていただきます。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や赤き袴(ジユボン)と黒き傘  明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作。「ジュボン」=「ズボン」に「袴」の漢字を当てる辺りがにくいですね。赤と黒の対比がいかにも南欧の鮮やかな風景を演出しています。

日本では菜種梅雨、というところでしょうか。今日もかなり雨が降っています。2日の連翹忌の日も、朝、そして帰途に就いている途中も激しい雨でした。

光太郎は生前から何か節目の時には必ず雨か雪(連翹忌の日に最終回を迎えたNHKさんの「あさが来た」の新次郎さんみたいですね)。亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、東京では季節外れの大雪が積もっていたそうです。没後も雨や雪を降らせる神通力は健在。連翹忌当日は、絶対といっていいほど、雨が降ります。

昨日は光太郎の命日、連翹忌でした。

まずは昼頃、駒込染井霊園の高村家墓所に、代表して香華を手向けに参りました。昨日が連翹忌というのが、意外と知られているようで、当方が着いた際に、一般の方々が10名程、お参りして下さっていました。ありがたいかぎりです。他にも夕方からの日比谷松本楼さんでの集まりに行く前に、墓参をされた方が複数いらっしゃいました。

さすがは発祥の地、ソメイヨシノがみごとでした。

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その後、日比谷松本楼さんへ。午後5時30分から、連翹忌の集いです。当方は2時30分過ぎには会場入りし、準備。多くの皆さんが、配付資料の袋詰めや名札の準備、受付などでお手伝い下さり、助かりました。ありがとうございました。

午後5時30分、開会。まずは光太郎に、そしてこの1年に亡くなった関係者の皆様に、ということで黙祷を捧げました。つい先だって、光太郎の親友だった作家の水野葉舟のお孫さんで、さらには光太郎に私淑した詩人・尾崎喜八のお嬢さんにあたる尾崎榮子様が亡くなったそうで、昨日、初めて知りました。一昨年に鎌倉でお会いしたのが最後になりました。生前の智恵子を知る方でした。残念です。

晩年の光太郎に親しく接した当会顧問の北川太一先生のご挨拶。最近、フランスで実物が確認されたアンリ・マチスと光太郎の往復書簡についてお話下さいました。

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続いては、光太郎の実弟で鋳金の人間国宝だった高村豊周のお孫さんにして、現在の高村家当主・達氏の御発声により、献杯。

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その後はビュッフェ形式で料理を戴きつつ、アトラクションとしての音楽家の皆さんの演奏と、全国からお集まりの皆さんからスピーチを賜りました。

演奏は毎年ひと組の方にお願いしていたのですが、今年は是非にというお申し出もありましたし、60回の節目だから盛大にいこうと、3組の皆さんにお願いしました。

バリトン歌手・森山孝光氏と、ピアノの康子様ご夫妻による歌曲「千鳥と遊ぶ智恵子」「案内」。

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作曲された野村朗氏もいらしていて、スピーチをお願いしました。

その後はスピーチをいろいろな方に。

遠く花巻からいらした市の生涯学習交流課長・高村光太郎記念館長の市川清志様。

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智恵子の故郷・二本松の観光大使をなさっている女優の一色采子001さん。お父様は二本松出身の日本画家、故・大山忠作氏です。智恵子をモチーフにした作品も多く描かれました。「二本松さくら展」などについてお話しいただきました。

九段下の書道用品店・玉川堂さんは、明治末と推定される光太郎直筆の短冊を持ってきて下さり、そのお話を。

詩人の曽我貢誠氏、碌山美術館学芸員の武井敏氏。

太平洋美術会の坂本富江さんと沼津第一小学校長・斎藤匡洋先生には、智恵子が描いた油絵「樟」についてお話しいただきました。

出版社、コールサック社の鈴木比佐夫様、鋳金家の後藤信夫様。

女川光太郎の会の佐々木英子さん。震災から5年の現状を語って下さいました。先頃、天皇皇后両陛下が女川をご訪問された際のお話なども。

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そしてシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんのギター弾き語り。曲目は「レモン哀歌」「十和田湖畔の裸像に与ふ」。3年前の智恵子命日の集い「レモン忌」で演奏を聴かせていただき、ぜひ連翹忌でも、とお誘いし続けていましたところ、今年、とうとう実現しました。

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熱の籠もった歌声に、会場も感動。

仙台からいらした朗読家の荒井真澄さんには、急遽、「あどけない話」の朗読をお願いしました。突然の無茶ぶりにも快く応じて下さいました。

さらにシャンソン系のモンデンモモトリオ。モモさんに歌っていただくのは5年ぶりくらいです。

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チェロの伊藤耕司さん、ギターの田嶌道生さんの伴奏で、「オーロードコレクトミー」「樹下の二人」「道程~冬が来た」。いつもながらに素晴らしい演奏でした。

ご参会の方全てに光太郎智恵子への思いを語っていただきたかったのですが、そういうわけにもいかず、盛会のうちに、閉幕。充実した会でした。

来年以降も4月2日には、日比谷松本楼さんで連翹忌の集いを行います。ご興味のある方は、ぜひぜひご参加下さい。参加資格はただ一つ、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです。


【折々の歌と句・光太郎】

桜狩り桜をめでて日をめでて暮れてかへるに君か要(い)るべき
明治38年(1905) 光太郎23歳

駒込染井霊園、そして日比谷公園も桜が満開でした。当方自宅兼事務所のある千葉県北東部はまだ2~3分咲き。今月は信州などにも出かけますので、満開の桜が長い間見られます。

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