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またしても年またぎのご紹介となりますが……。

墨 2025年1・2月号

発行日 : 2024年12月27日発売
版 元 : 芸術新聞社
定 価 : 2,700円(税込)

特集 昭和100年記念 時代の書
 1926年に改元され、日本史上最長の元号となった昭和。2025年は昭和100年に当たります。今号は激動の時代、昭和を振り返るとともに昭和書道史を概観します。昭和の書壇で活躍した作家の名品を主要な展覧会の歴史・書道団体成立の系図など、便利な資料とともにお届けします。書を通じて、昭和という時代を回顧してみましょう。

★インタビュー 昭和の書文化と書壇を語る 談/西嶋慎一

視点 私の見た書の昭和
★「読む」から「見る」へ 書が美術へ接近した時代 談/菅原教夫
★激動と秩序の共存していた昭和は身近にいつも書があった 文/比田井和子
★周囲一メートルの昭和 文/桐山正寿
・衝突と賛否両論が多様性を育んだ 談/松原清 

鑑賞  昭和を生きた書人、書と言葉 選/井口尚樹 
 比田井天来 川谷尚亭 中村不折 吉田苞竹 会津八一 鈴木翠軒 高村光太郎
 比田井南谷 川村驥山 津金寉仙 上田桑鳩 大澤雅休 井上有一 尾上柴舟 西川寧
 辻本史邑 豊道春海 上條信山 松本芳翠 安東聖空 深山龍洞 赤羽雲庭 手島右卿
 木村知石 青木香流 日比野五鳳 松井如流 森田竹華 金子鷗亭 森田子龍 村上三島
 西谷卯木 殿村藍田 小坂奇石 柳田泰雲 宇野雪村 桑田笹舟 今井凌雪 青山杉雨
 河井荃廬 石井雙石 中村蘭台二世 山田正平

コラム 昭和の書家のしごと 固形墨の題字
コラム 昭和の書家のしごと 筆墨店の看板文字
資料室 近現代書の人脈
資料室 近現代書 団体の成立と変遷
資料室 墨展覧会リバイバル
第36回毎日書道展/第1回読売書法展/ 第1回サンケイ国際書展
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芸術新聞社さん発行の隔月刊書道雑誌『墨』。新春っぽい表紙です。特集が「昭和100年記念 時代の書」

その中で元同誌編集長の井口尚樹氏が選んだ「鑑賞  昭和を生きた書人、書と言葉」。光太郎を含む昭和を代表する書の達人たちをその作品と共に紹介しています。その数43名。大半が職業的書家ですが、それ以外が4人。すなわち中村不折、会津八一、尾上柴舟、そして光太郎。ここに光太郎を含めて下さったのは誇らしいところです。

光太郎の作品としては、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で揮毫された色紙「うつくしきもの満つ」。さらに書論「書について」(昭和14年=1939)の一節を取り上げて下さっています。
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「うつくしきもの満つ」、光太郎が好んで揮毫した文言です。中には「満つ」を変体仮名的に片仮名で「ミつ」としたものもあります。以前にも書きましたがこの「ミつ」を「三つ」と誤読し、「三つのうち、一つ目が○○、二つ目で××、そして三つ目は……」という噴飯ものの解釈がまかり通っている部分があります。噴飯ものと笑って済ませられるうちはいいのですが、さもそれが定説だと言わんばかりにSNS等でたくさん横行してくると、義憤も感じますね。

閑話休題。『墨』誌、これまでにも光太郎特集を3回組んで下さいました(昭和52年=1977 第8号、昭和60年=1985 第53号、平成12年=2000 第142号)し、般若心経特集の号(平成2年=1990 第83号)などでも光太郎書を取り上げて下さっています。当会顧問であらせられた北川太一先生、その盟友・吉本隆明氏などの玉稿も載り、それぞれ光太郎書を知る上で保存版といっていい濃密な内容です。
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古書市場で入手可、ぜひお買い求めを。それから最新号も。

【折々のことば・光太郎】

先日は雪の中をはるばるおいで下され、御難儀の事恐縮に存じました。山の事とて何のお構ひも出来ず失礼いたしました、ゼンマイ、ワラビの頃又おいであらば中々風情ある事と存じます、

昭和26年(1951)2月26日 八重樫マサ宛書簡より 光太郎69歳

八重樫は花巻温泉の旅館・松雲閣の仲居。たびたび宿泊客を太田村の光太郎山小屋に案内しました。

この年2月21日の日記には、「「せんてつ」の鈴木氏松雲閣の女中八重樫さんと同道来訪」の記述があります。この際の八重樫の体験談及びこの書簡について、佐藤隆房編『高村光太郎 山居七年』(昭和37年=1962 筑摩書房)に詳しく記されています。「鈴木氏」は鈴木肆郎。当時、仙台鉄道局刊行の雑誌『せんてつ』の編輯に当たっていました。

このようにたびたび来訪者を案内してくれることに対し、申し訳なく思ったのでしょうか、光太郎は書を礼代わりに贈りました。これも好んで揮毫した今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたものでした。
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昨日は上京し3件の用件をこなして参りました。

行った順に、
 ・荒川区荒川ふるさと文化館さんで企画展示「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」拝観
 ・上野の東京都美術館さんで「第46回東京書作展」拝観
 ・文京シビックセンターさんで「第67回高村光太郎研究会」に参加
でした。

このうち「第46回東京書作展」が今日までですので、もしかするとこのブログを見て行ってみるか、という方もいらっしゃるかも知れないと思い、時系列を無視してそちらのレポートから。

会場の東京都美術館さんのある上野公園、紅葉に彩られていました。
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この手の書道展はおおむねお世話になっている書家の菊地雪渓氏から招待状を頂いて参上しています。こちらの「東京書作展」は、全国公募のもので、菊地氏、令和元年(2019)の第41回では最高賞である内閣総理大臣賞/東京書作展大賞を受賞なさっています。その後、無鑑査で毎年ご出品。

今年の出品作。
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杜甫の漢詩ですね。あいかわらずお見事です。

そちらを拝見後、他の方々の出品作で、光太郎詩文が書かれた作品を探しました。この手の書道展では宝探し的なそれが大きな楽しみです。

見落としが無ければ3点出ていました。

「特選」入賞作。「手紙に添へて」(昭和13年=1938)。
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002光太郎詩の中ではマイナーな部類のものですが、よくぞ取り上げて下さいました。

  手紙に添へて

 どうして蜜柑は知らぬまに蜜柑なのでせう
 どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
 中にかはいい部屋を揃へているのでせう
 どうして蜜柑は葡萄でなく
 葡萄は蜜柑でないのでせう
 世界は不思議に満ちた精密機械の仕事場
 あなたの足は未見の美を踏まずには歩けません003
 何にも生きる意味の無い時でさへ
 この美はあなたを引きとめるでせう
 たつた一度何かを新しく見てください
 あなたの心に美がのりうつると
 あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます
 どんなに切なく辛(つら)く悲しい日にも
 この美はあなたの味方になります
 仮りの身がしんじつの身に変ります
 チルチルはダイヤモンドを廻します
 あなたの内部のボタンをちよつと押して
 もう一度その蜜柑をよく見て下さい

やはり過去の第40回展(平成30年=2018)で、光太郎詩「冬」(昭和14年=1939)を書かれて東京都知事賞に輝かれた中原麗祥氏。今年は「雪白く積めり」(昭和20年=1945)。
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もう1点、『智恵子抄』から定番の「あどけない話」(昭和3年=1928)を書かれた方も。
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それぞれ、ありがとうございました。

東京都美術館さんで、会期は今日までです。ぜひ足をお運びください。

ところで「今日まで」というと、杉並区の荻窪小劇場さんで、「劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄」も11月21日(木)に開幕し、今日まで。今日はそちらに伺いますが、当日券もあるようです。こちらもお時間のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

木村さんの会には出たいのですが何分遠隔の地にあるので不本意なから欠席します、『魔の宴』も忝く拝受 いろいろの事をおもひ出します、

昭和25年(1950)6月19日 和田豊彦宛書簡より 光太郎68歳

ca6d4a55「木村さん」は木村荘太(艸太)。武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家です。フユウザン会などで光太郎と親しかった画家・木村荘八の実兄でもありました。遠く明治末には、吉原河内楼の娼妓・若太夫をめぐって光太郎と三角関係となり、決闘未遂にまでなりました。

『魔の宴』はその頃を回想した自伝的小説で、この年5月に刊行されました。若太夫をめぐるすったもんだなどにも詳しく触れられています。

木村、大正12年(1923)から、旧遠山村(現・成田市。光太郎の親友・水野葉舟も住んでいました)に移り、旧制成田中学(現・成田高校さん)や図書館などに勤務していましたが、何を思ったか、この刊行直前の4月に、成田山新勝寺内の成田山公園で縊死してしまいました。

3件ご紹介します。

まず、過日ご紹介した浄土宗総本山知恩院秋のライトアップ2024について、11月16日(土)の『読売新聞』さん。

【京の浄土宗・秋】照り映える紅葉心休めて

 古都の山々がようやく、彩りをまとい始めた。
 浄土宗総本山・知恩院(京都市東山区)は、紅葉の名所としても知られる。14日から夜間拝観が始まり、三門や御影堂、大鐘楼などが約800基のライトで照らされる。
 見どころのひとつが、女坂近くの友禅苑。京友禅の祖、宮崎友禅の生誕300年を記念し、1954年に造園された1万2000平方メートルの庭園だ。
 入り口近くの 補陀落池(ふだらくいけ)の中央に高村光雲作の聖観音菩薩立像がたつ。周辺のイロハモミジは色づきが早く、燃えるような紅色が 水面みなも にも照り映える。あでやかさは息をのむほどだ。
 12月1日までの期間中、僧侶から話を聞いたり、念仏をとなえたりする体験などもある。深まりつつある秋に、心を休めるひとときが味わえる。
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画像の美しさが際立っていますね。

彫刻つながりでもう1件、同じく11月16日(土)の『朝日新聞』さん土曜版。イラストレーター・みうらじゅん氏の連載です。

マイ走馬灯 千本日活とヌー銅たち

 「これから京都に行く人にお勧めの場所はどこですか?」
 と今まで何度も聞かれ、その都度、グッとくる仏像のおられるお寺を紹介してきたが、「お寺以外で」と言われると大変困るのだ。
 京都で生まれ育ち、18歳の夏までいたことは確かだけど、僕はみんなが喜びそうな所をほとんど知らない。それでもしつこく聞かれた時は「あくまで僕にとっての思い出深い場所ですよ」と断りを入れてから答えるのが、西陣千本と呼ばれている地帯なのだが、そこにある『千本日活』という映画館にはよくお世話になった。まるで時が止まったようなそのノスタルジックな建物は今でも健在。一見の価値ありと思うのだが、また「それ以外で何か?」と、問われてしまうのがオチだ。
 その路地にひしめく銅像は、右から“サックスを吹くヌー銅”、“ブラウスだけ羽織ったヌー銅”、“十和田湖のツイン・ヌー銅”と、ヌー石“ダビデ像”。そして左右下は映画『少林寺木人拳』の木製のカラクリ人形。そして夕焼け空には、やっぱ『ウルトラセブン』のメトロン星人がよく似合う。

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ヌー銅」、笑えます。

最後は『陸奥新報』さん、11月18日(月)の掲載分。

一流書家の筆の使い方に高校生「すごい」

 日本書道文化協会による書家の高校派遣事業が16日、弘前高校で行われた。現代の言葉を漢字仮名交じりで書く「近代詩文書」の講習が行われ、同校書道部の部員19人が書家の金子大蔵さんら講師に手本を書いてもらい、添削やアドバイスを受けた。
 同事業は日本の書道のユネスコ無形文化遺産登録に向け、若手の育成を目的として同協会が行っている。同校では初めてで、県内で2校目となった。
 金子さんは同協会会員で、日展準役員、毎日展審査会員、創玄展一科審査会員を務めている。今年7月には最年少50歳で第75回毎日書道展文部科学大臣賞を受賞。祖父は「近代詩文書の父」と言われる鷗亭さん、父は毎日芸術賞を受賞した卓義さんと、親子3代にわたって書道に携わっている。
 同日は金子さんの席上揮毫(きごう)から始まった。「持って生まれたものを深くさぐって強く引き出す人」という高村光太郎の詩の一節で、同校の求める人物像でもある言葉をしたため、部員らは一流の書家の揮毫から学びを得ようと熱心に金子さんの手元を見たり、動画を撮ったりした。
 その後2、3年生は金子さん、1年生は助講師で同校OGの今和希子さんにそれぞれ手本を書いてもらって作品制作を行い、金子さんらは部員らが書いた作品の添削や講評を行った。
 部長の小山内実優さん(2年)は「筆の使い方やかすれの出し方がすごかった。言葉の意味に合わせて字の太さや大きさを自在に変えていて、いつもとは違う表現を見ることができた」と語った。
 金子さんは「高校生がどういう言葉を選んで、どう表現したいのか、言葉と対話して一人一人の感性を想像しながら手本を書いた。普段習っている先生とは違う表現に触れることで刺激になって、表現の幅が広がるといいと思う」と期待を寄せた。
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書家の金子大蔵氏、光太郎詩の一節を大書した書を多数展示した「第三回金子大蔵書展-近代詩文書の可能性を探る(高村光太郎の詩を書く)」をやられたこともおありの方です。記事にあるお祖父様の故・金子鷗亭氏も光太郎詩を好んで取り上げられました。

今回、大蔵氏が書かれたのは、「少年に与ふ」(昭和12年=1937)の一節。全文はこちら

今後とも、彫刻に詩に、光雲や光太郎の作品が愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小包拝受、何かしらと思ひましたら好物の食パンだつたので大いによろこびました。それも東京製の本格的な白パンなので早速晩餐に用ゐました、丁度小岩井のバタとオランダのチーズがありましたので、幾年かぶりで本当の洋食をいただきました、


昭和25年(1950)6月5日 小田島喜兵衛宛書簡より 光太郎68歳

「食」がらみの内容なので、昨日ご紹介すべきでした。

10月27日(日)のこのブログで「拝観に行きました」的なことだけは書いておきました高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」。個々の出品作品等について解説させていただきます。
 
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左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
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光太郎、文章でも「どこにでも美は存在する」的なこと繰り返しを書いています。「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」昭和4年=1929)。これは、ネット上などで光太郎の名言の一つとしてよく引用されています。が、孫引きの孫引き、伝言ゲームみたいになっており、「路傍」が「道端」になっていたり、「瓦礫」が「がれき」になっていたりと、無茶苦茶です。引用したいのならあくまで原文の通りでお願いします。

さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。

同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
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「うつくしきもの……」も光太郎が好んで書いた文言で、複数の揮毫例が確認できています。「満」を変体仮名的に片仮名の「ミ」としている例があり、山梨県富士川町に建てられた光太郎文学碑には「ミ」を採用した揮毫が彫りつけられています。
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何度も書きましたが、この「ミ」を漢字の「三」と誤読、「光太郎が讃えたこの地の三つの美しいもの――富士山、柚子、そして人々の心」などという噴飯ものの解説が為されたページもネット上に散見されます。

なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。

この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。

光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。

さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。

 宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。

おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。

おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
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心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。

その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
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右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。

仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
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これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。

最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
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「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
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企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
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他に、常設展示の方でも書がたくさん。
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光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。

書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。

【折々のことば・光太郎】

雪のため電燈は断線で修理の見込つかず、ランプでやつてゐます。

昭和25年(1950)2月11日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎68歳

旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。

光太郎の彫刻、書、光太郎の父・光雲の彫刻が出る展覧会等の情報を3件。やはり取り上げるべき事項が山積しており、3件一気にご紹介いたします。

開催日順にまずは山口県から。「UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)」の一環というか、関連行事というか。

彫刻世界 かたち・つくり・ひらく

期 日 : 2024年10月18日(金)~12月15日(日)
会 場 : ときわ湖水ホール 山口県宇部市大字沖宇部254
時 間 : 10:00〜16:00
休 館 : 火曜日
料 金 : 無料

 彫刻がすぐそばにあると世界はまるで別のものに感じられます。
 すぐれた作品であればあるほど、そのかたちとそれを包む世界との対話と交流が生まれ、世界も彫刻もおたがいに豊かで汲み尽くせない一体状態になるのです。それは彫刻と世界が不可分になったことの証しです。
 本展タイトルの「彫刻世界」という四文字は、その現れを表現しようとするものです。空間のなかの「かたち」である立体としての彫刻は、ひとの手が「つくり」、そこから未体験の世界が生まれる=「ひらく」ことになる。「彫刻世界」が立ち現れるのです。
 暮らしのなかにはひとの手によって作られたかたちは無数に存在しています。そうした三次元の立体は、機能が目的としっかり結びつけば、具体的にコップであったり、椅子であったり、ロケットであったりします。でも、目的との結びつきが失われると、名前は消えただの適当な「もの」のように感じられ、逆に「彫刻世界」が誕生するきっかけとなります。
 彫刻のかたちは、それを包む空間と不可分であり、そこに揺らぎが潜んでいる。堂々たる不滅の記念碑と見えても、世界との関わりではじつはどこかで微妙に揺れている。手のひらのうえの小石も、巨大な石積みの古代のピラミッドも、絶え間なく変化する「彫刻世界」のなかにあるのです。
 本展は、「彫刻世界」を「かたち つくる ひらく」ことに取り組んで、ギネス世界記録 ™️認定された宇部市の彫刻コレクションの素晴らしさを紹介するものです。
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光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が出ます。ただし、新しい鋳造のものです。他に光太郎の親友・荻原守衛の絶作「女」(明治43年=1910)、光太郎と交流のあったところでは中原悌二郎、木内克、柳原義達らの作品。さらに、昨年亡くなられた澄川喜一氏のものも。

続いては光雲木彫。石川県から。

令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく

期 日 : 2024年10月19日(土)~11月17日(日)
会 場 : 石川県立歴史博物館 石川県金沢市出羽町3-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般800(640)円 大学生・専門学校生640(510)円 *高校生以下無料
      ( )内は20名以上の団体料金 65歳以上の方は団体料金


 能登地区唯一の総合美術館である石川県七尾美術館は、平成7年(1995)の開館から約30年、能登の文化活動の拠点施設として広く親しまれてきました。
 しかしながら、当館は令和6年1月1日の能登半島地震により建物・設備に被害を受けて臨時休館中となっています。
 本展は当館が石川県立歴史博物館と共同で企画するもので、七尾美術館の所蔵品および寄託品を3つのテーマで広く紹介します。
 七尾美術館が地域との関わりの中で大切に守り伝えてきた作品群が、金沢で一堂に展示されるのは初めてのこととなります。
 その魅力に触れ、能登の豊かな歴史・文化を再確認する機会となれば幸いです。
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七尾市の七尾美術館さん。今年元日の能登半島地震で大きな被害を受け、休館中なのですね。存じませんでした。

ちょうど地震のあった時は、「彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜」展が開催中でしたが、途中で打ちきりとなったのでしょう。

そちらで展示されていた光雲作の「聖観音像」(昭和6年=1931)、光太郎と縁の深かった高田博厚の「うずくまる女」(昭和50年=1975)などが出品されます。
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最後に、都内から光太郎の書。展示即売会です。

五十五周年記念 特別展 【 粋 II 近代巨匠名品展】

期 日 : 2024年10月18日(金)~10月27日(日)
会 場 : 黒田陶苑 渋谷区渋谷1-16-14 メトロプラザ1F
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 木曜日
料 金 : 無料

 この度、開苑五十五周年を記念しまして「粋 II」を開催する運びとなりました。
東京美術倶楽部の第二十二回東美特別展の当苑のブースでは富本憲吉先生の三十糎を超える白磁大壷二点と師弟関係のあっ た加守田章二先生、栗木達介先生の晩年の貴重な作品、京都陶芸界の次世代として認めていた八木一夫先生の作品を展示い
たします。
 京橋の魯卿あんでは北大路魯山人先生の里帰りの作品や、某芸術家旧蔵の名作二点を中心に先生の偉業をご紹介いたしま す。しぶや黒田陶苑では内容を広げまして川喜田半泥子先生や加藤唐九郎先生の名碗、加藤土師萌先生が文化庁に納められ た黄地紅彩の姉妹品などの近現代の工藝から、俳優の神山繁さんが何よりも愛されていたジョルジュ・ルオーの小品、山口 薫先生が描かれた愛犬のクマや愛猫のクロの二枚の絵、村上華岳先生が自らのために残されていたと言われる美しい仏画などの書画を含め、名作三十二点を一堂に並べさせていただきます。
 
三年に一度の「粋」のそれぞれを三つの会場にてお楽しみくださいますようお願いいたします。
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軸装の光太郎色紙が出ます。
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No.32 天極をさす Hanging scroll, Calligraphy "天極をさす(pointing the celestial pole)”

 箱Box 北川太一識
 with box signed by KITAGAWA Taichi
 サイズ Size27.0 / 24.0cm 軸寸 / Scroll size: 109.0 / 43.0cm
 ¥2,750,000 (税込/including tax)

 高村光太郎先生は上野の西郷隆盛像や重要文化財の「老猿」を作った高村光雲先生の子である。叙情的で生命が宿る木彫の「鯰」や「蝉」、「柘榴」などの彫刻家として、また「道程」「智恵子抄」などの詩人としても知られている。
 本作は「いくらまはされても針は天極をさす」と揮毫している。昭和2年4月に作られ6月号の『手帖』に発表された詩「詩人」の一部である。「いくら目隠をされても己は向く方へ向く。いくら廻されても針は天極をさす。」指針にしたい美しい言葉である。

この文言、光太郎が好んで揮毫し、複数の作例が存在します。表装にも手が込んでいるのでしょう。価格は強気の設定です。懐に余裕のある方、ぜひどうぞ。

以上、それぞれ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩に書いた通り原稿紙にポスター・カラアで描いた日の丸の旗を積雪の上に立てました。

昭和25年(1950)1月11日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

「詩」は『読売新聞』に発表された以下のものです。
田村茂現代日本の百人
   この年
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

若き日には、西洋諸国とのあまりの文化的落差に絶望し、「根付の国」(明治44年=1911)などの詩でさんざんにこきおろした日本。老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」と讃えねばならなかった日本。そうした一切の軛(くびき)から解き放たれ、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみやたらと否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本に過ぎないのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。もっとも、原稿用紙の日の丸自体は、遡って昭和22年(1947)から行っていましたが。

小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの新蒐品目録『書架』147号。先々週くらいに届きました。
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同店、肉筆系に力を入れられていて、時折、光太郎のそれも出るのですが、今号では3点も収録されていました。
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画像右上、表装されていないマクリの書で、短歌「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」が書かれています。「天然の湯に入ったら、あなたの身も心もその湯に溶け出して、さながら美しい白玉に似た輝きを放ったことでしょう」といった意でしょうか。

ちなみにえびな書店さん、「湯」を「畑」としていますが、「畑」では意味が通りませんね(笑)。

さらに「人におくれる」の詞書(ことばがき)。「人」は新潟佐渡の素封家にして、与謝野夫妻の新詩社に依った歌人でもあった渡辺湖畔です。湖畔は光太郎に幼くして亡くなった娘の肖像画(大正7年=1918)を書いてもらったり、蟬の木彫を依頼したり、自身の歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀・装画を頼んだりしました。

短歌「天然の……」は大正9年(1920)3月の湖畔宛書簡に認(したた)められた四首のうちの一つで、伊豆の修善寺温泉に行ったという湖畔からの書簡への返歌です。

他の三首は以下の通り。

 いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は涌きてあふるる
 天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君はおもふか
 天然の湯をしおもはむしばらくは魂とびて夢のこゝちする


書簡には「修善寺においでありし由、湯の好きな小生それをききしだけにて恍惚といたし候」とあります。くれぐれも「畑」ではありませんのでよろしく(笑)。

この書自体は、湖畔ではなく、他の人物のために書かれたのではないかと推定されます。「他の人に贈った短歌だけど……」という意味で「人におくれる」の詞書が添えられたのでしょう。

その左に色紙で「満目蕭条(まんもくしょうじょう)の美」。「満目蕭条」は光太郎が好んで揮毫した熟語です。見渡すかぎりのもの全てが物寂しい様子である、の意味。戦後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺のことかな、とも思ったのですが、やはり「満目蕭条」と書いた戦後の書はもっと崩しが激しく為されており、戦前の筆跡のように思われます。色紙も凝ったものですし、昭和7年(1932)には東京に居ながらにして「満目蕭条の美」という題名の散文も書いていますし。

もう一点、短冊も出ていました。
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やはり短歌で「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」。

欧米留学から帰った明治42年(1909)、『スバル』に「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」の総題で発表された二十五首のうちの一つです。「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」はイタリア語で「祖国歌」というほどの意味。

他の二十四首の中には、帰国して改めて接した日本人女性への幻滅が歌われているものが多く含まれます。

 ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや
 弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
 何事か重き科ありうつくしき少女を吾等あたへられざり
 この中の少女のひとり妻とせよ斯く人いはば涙ながれむ
 女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
 海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
 太ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと
 仏蘭西の髭の生えたる女をもあしく思はずこの国みれば


これでもか、これでもかと日本の女の醜さを嘆いています。

圧巻は以下の二首。 

 顔つくる術(すべ)も知らぬをふるさとの女はほこるさびしからずや
 少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし


「メイクもきちんとできず奇妙な化粧をした顔をさらしているその風貌を、ふるさとの女は却って誇りに思っている。それでいいのか?」「少女たちよ、眉墨をきちんと引きなさい。それができないと、この世界にこれほどに醜いものはないぞ」といったところでしょうか。特に眉墨云々は、某党の総裁候補だったあの人に贈りたい言葉です(笑)。「少女」ではありませんが(笑)。
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逆に留学中に懇ろになった西洋の女性(詳細は不明です)を讃える歌も。

 ふるさとはいともなつかしかのひとのかのふるさとはさらになつかし
 ふるさとの少女を一のたのみとし火の唇はすて来しものを
 きらきらと暗き夜半にも汝が耳の耳環の玉は近く光りき

この流れで、短冊に書かれている「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」です。

おそらくニューヨークやロンドンではなく、パリでのことと思われますが、「火の唇」を持ち、「きらきら」の「耳環」を着けていた「あたたかくふくよかなりし君」と、どんなロマンスがあったのか……というところです。

当方、この手の肉筆物は、よほどの事がないと購入しません。財力が保(も)ちませんから。ところがつい先日、「よほどの事」が出来(しゅったい)しました。

京都の思文閣さんで売りに出した、歌人・中原綾子旧蔵の光太郎色紙

中原令孫から花巻市に光太郎書簡等がごっそり寄贈され、来年以降、花巻高村光太郎記念館さんで展示されることとなりそうです。また、市では寄贈資料を図版入りで紹介する書籍を刊行することを検討されている由。予算が通れば当方が解説等執筆します。

そこへ来て、中原旧蔵の書ですから、これは一緒に展示されるべきものです。市で購入して下さればそれで済むのですが、そんな予算は組んでいないわけで、こちらで手に入れました。2点出ていたのですが、そのうち、今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたもので、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)で口絵として使われていたものです。

オークション形式で、開始価格では落とせないだろうと思い、色を付けて入札しました。それでも無理かな、とも思ったのですが、落とせまして、先日、届きました。
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当時のものと思われるタトウにくるまれていました。
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中原の直筆なのでしょう。「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりりたるもの。 綾子誌す」の但し書き。調べてみましたところ、昭和26年(1951)9月15日の日記に確かに「十二時頃中原さんくる。午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。」の記述がありました。

色紙裏面には中原の蔵印も捺されていました。
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表(おもて)面は「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。「観自在」は観音菩薩。そこで、無理くり現代語訳してみると、こんな感じでしょうか。「観音菩薩は何ととうといのだろう(「こそ」+已然形「けれ」で強調の係り結びです)。眼を開いて今日改めてそのお姿を見てみると、この世にある平凡ないつものお姿で、我が身を離れずに寄り添って下さっている」。

若干、意味不明です。どうやって観音様のお姿を見るのでしょうか。手元に観音像があった時期もありました。しかし、異論もありましょうが、当方はこう読みます。「観音菩薩」=「亡き智恵子」。

光太郎の感覚としては、「我が身を離れずに寄り添って下さっている」のは、亡き智恵子でした。

  亡き人に

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし 
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処そこにゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ


   元素智恵子 

 智恵子はすでに元素にかへった。
 わたくしは心霊独存の理を信じない。
 智恵子はしかも実存する。
 智恵子はわたくしの肉に居る。
 智恵子はわたくしに密着し、
 わたくしの細胞に燐火を燃やし、
 わたくしと戯れ、
 わたくしをたたき、
 わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
 精神とは肉体の別の名だ、
 わたくしの肉に居る智恵子は、
 そのままわたくしの精神の極北。
 智恵子はこよなき審判者であり、
 うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
 耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
 智恵子はただ嬉々としてとびはね、
 わたくしの全存在をかけめぐる。
 元素智恵子は今でもなほ
 わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

光太郎は敬虔な仏教徒だったわけでもなく、あながち牽強付会とも言えないような気がするのですが……。

ただ、そうだとすると、死してなおそこまで「聖女」化された智恵子は、ある意味、可哀想だったようにも思えますが……。

閑話休題、上記えびなさんの出品物、収まるべき所に収まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

お手紙拝見しましたが「智恵子抄」以後には一冊になるほどの数量がありません、これはまづものにならないと思ひます、


昭和24年(1949)12月20日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳

澤田は昭和16年(1941)、オリジナルの『智恵子抄』を上梓した版元・龍星閣主です。龍星閣は戦時中に休業し、この年ふたたび出版業を始めました。そこで、『智恵子抄』の続篇的なものを出したい、という懇願に対する返答の一節です。

結局、翌年の元日に雑誌『新女苑』に発表した連作詩「智恵子抄その後」(「元素智恵子」も含みます)を根幹とした詩文集『智恵子抄その後』が出版されることにはなるのですが、題名とは裏腹に、智恵子とは全く無関係の随筆も多く含みます。

当会発行の冊子『光太郎資料』62集、完成しました。関係各所には先週末に発送いたしまして、そろそろお手元に届いていることかと存じます。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、光太郎や周辺人物に関するさまざまな「資料」を紹介する目的で不定期に発行されていたものです。その名跡をお譲りいただき、現在は4月2日の連翹忌と10月5日のレモンの日に合わせ(その差がほぼ半年ですので)年2回の刊行としております。

「刊行」と言っても印刷のみ地元の印刷やさんにお願いし、丁合、ホチキス留めは手作業。手作りの冊子です。

今号の内容は以下の通り。

・「光太郎遺珠」から 装幀・題字
平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後も、続々と見つかり続けている光太郎作品の紹介を、「光太郎遺珠」の題名で『高村光太郎研究』という雑誌に連載させていただいておりますが、そちらをテーマ別に再編。今回は光太郎が手がけた装幀と書籍題字など。

『高村光太郎全集』別巻に光太郎が手がけた装幀と書籍題字のリストが掲載されていますが、やはりもれがありまして、その辺を画像入りで。

いくつか例を。
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左が昭和5年11月25日発行、竹内てるよ著「曙の手紙」表紙。光太郎は昭和7年(1932)刊行の『第二曙の手紙』など、他にも複数の竹内著書の題字揮毫を手がけていますが、それらのうち最も古いものでした。

中央は昭和13年(1938)11月28日、東京農業大学農友会文芸部発行の部誌『土』。昭和16年1(1941)1月25日発行第31号の筆跡の異なる題字は知られていましたが、それ以前の号でも光太郎が筆を揮っていました。「土」一文字、単純な字だけに難しいと思うのですが、味のある字ですし、何よりバランスが絶妙だと思います。

右は大正15年(1926)7月25日発行の雑誌『デツサン』第三輯。題字は光太郎の筆跡とは異なるものですが、絵は光太郎で「光 1916」のサインが入っています。古いデッサンを編集者が懇願して使わせて貰ったそうです。

光太郎回想・訪問記 都会情景 カフエー譚
同時代の人々による光太郎回想等のうち、光太郎研究書等で紹介されていないものを取り上げています。今号は大正3年(1914)1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号に載った「都会情景 カフエー譚」。「木像生」の署名がありますが執筆者の詳細は不明です。

光太郎の名は2回程しか出て来ないのですが、明治末から大正初めにかけての東京のカフェ事情が詳しく記されています。このうち、光太郎も足繁く通い、詩文にその名が登場する「よか楼」「ライオン」「プランタン」「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」等についての部分。

これについては、調べていくうちにちょっとした発見がありまして、明日また詳しくご紹介します。

・光雲談話筆記集成 『書道』より
光太郎の父・光雲の談話筆記はさまざまな雑誌等に載ったのですが、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』以外にはまとめられていません。今号では昭和7年(1932)、泰東書道院出版部発行の雑誌『書道』に掲載された「大圓寺感話集」「鶴」の2篇を収めました。いずれも彫刻制作に関する内容です。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 犬吠埼その二
前号に続き、大正元年(1912)に光太郎智恵子が滞在し、愛を確かめ合った千葉銚子犬吠埼関連。手持ちの古絵葉書画像と共に、二人の泊まった宿、二人が歩いた場所などをご紹介しました。
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・音楽・レコードに見る光太郎 清水脩作品
光太郎生前の昭和30年(1955)に一部が作曲、初演された「歌曲集 智恵子抄」をはじめ、清水脩作曲の光太郎詩に曲を付けたりしたさまざまな音楽の紹介です。

・高村光太郎初出索引
さまざまな光太郎文筆作品等を索引にしていますが、昭和5年(1930)、6年(1931)に初出のあったものを掲載誌順にご紹介しています。

・第六十八回連翹忌報告
今年4月2日(火)の日比谷松本楼さんでの連翹忌の集いの記録です。

ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。申し訳ありませんが手数料はご負担下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

盛岡では寸暇もなく引つぱりまはされて弱りましたが、小生の昔作つた大倉喜八郎の小さな首の彫刻を再入手する事が出来てよかつたと思ひました。盛岡の彫刻家が預かつてゐてくれたのでした。


昭和24年(1949)11月22日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

日記が失われていて詳細不明ですが、11月17日から一週間程、盛岡に滞在。県立美術工芸学校、盛岡公会堂で講演などを行いました。

経緯は不明ですが、工芸学校で教鞭を執っていた堀江赳がテラコッタ「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)を保管していて、光太郎の手元に戻りました。

昨日開幕の企画展示です。

令和6年度高村光太郎記念館企画展「高村光太郎 書の世界」

期 日 : 2024年10月5日(土)~11月30日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を送り、彫刻制作を一切封印します。山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、大小さまざまな「書」を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では光太郎による晩年に執筆された芸術評論『書についての漫談』を紹介しながら、彫刻・文芸と並び、光太郎第三の芸術とも言われる「書」を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

展示構成
 書額および書軸等 8点
 直筆原稿 7点
 拓本(縮小複製)      1点
 資料合計 16点(参考 常設展示の書は大小各種合わせて18点)

展示の見どころ
 出品する書額及び書軸はすべて実物で、光太郎の肉筆を間近でご覧いただけます。
『書額 乾坤美にみつ』『色紙幅 義にして美ならざるなし』『画賛幅 うつきしきもの満つ』の三作は旧展示施設の高村記念館を通じて、当地では初公開の作品です。
 また、最晩年に執筆された『書についての漫談』からは、光太郎幼少時代の書との出会いから、著名人の作風を例示しての批評など、光太郎の「書」についての考え方を窺い知ることができます。
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同館での同様の展示は、平成29年(2017)12月~翌年2月令和元年(2019)9月~11月に続き、これで3回目になります。所蔵している光太郎書の数が多く、常設展でもかなりの数を出していますが、それでも展示しきれないのでこうして普段は所蔵庫にしまわれているものを出しています。今回が初展示という作品も出ています。

それにしても、市から詳細情報が出たのが開会前日の午後。もう少し早く告知できませんかと常々申し上げているのですが、無視されている状態です。何だかなぁ、という感じですが……。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生自然の中に包まれてゐるやうな生活をしてゐますが、東洋の先輩賢哲の例にはならはぬ気で居ります。小生の彫刻製作をはばむものはもつと現世的な諸条件であり卻つて深刻な感があります。


昭和24年11月21日 森荘已池宛書簡より 光太郎67歳

東洋の先輩賢哲」は、俗世間との交わりを絶って山に隠遁していた中国の竹林の七賢、我が国の兼好法師あたりをイメージしているのでしょうか。彼等とは異なり、自らの戦争責任に対する処罰を自ら行っているという感覚が見て取れます。

京都府の書画骨董店・思文閣さん。代表取締役の田中大氏は、テレビ東京系「開運! なんでも鑑定団」鑑定士のお一人としてご活躍中です。

年に数回、「大入札会」と銘打ち、「下見会」として展示を行った上でのオークション形式での販売にも力を入れられています。昨年は光太郎の父・光雲の木彫「聖徳太子像」や光雲の書なども出品されました。
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当方、だいぶ以前にオークション形式でない出品物(楠公銅像の錦絵――一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。)を一度購入、それから同社刊行の書籍を3回程購入しました。平成8年(1996)に思文閣美術館さんで開催され、観に行けなかった智恵子抄展の図録、同じく平成23年(2011)に大阪の逸翁美術館さんでの「与謝野晶子と小林一三」展の図録。後者は平成30年(2018)に神奈川近代文学館さんで開催された特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」にも出品された光太郎と晶子のコラボによる屏風絵2種が載っており、亡き北川太一先生に頼まれて2冊買いました(どちらもまだ在庫があるかも知れません)。
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その程度の購入歴なのですが、思文閣さん、律儀に毎回目録を送って下さっています。オークション形式でない通常の販売品の目録も。恐縮です。

で、今月開催の大入札会の目録も。
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手元に届く前にネット上の情報で知り、仰天していたのですが、今回、光太郎の書が2点出ています。

2点とも色紙ですが、まず短歌「吾(われ)山に流れてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり」。
吾山に
もう一点は詩、というか七五調四句の今様スタイル。
観自在
「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。

どちらも「中原綾子旧蔵」のキャプション。中原綾子といえば、つい先だって、令孫から光太郎の中原宛書簡がごっそり花巻市に寄贈されました。その際に、「書は寄贈されませんでしたか」と問い合わせたところ、「それはなかった」とのことでした。なぜそんな質問をしたかというと、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)に、光太郎の書が2点、口絵として使われていたためです。

1点は「不可避」と書いたもの。
灰の詩 不可避
そしてもう1点が、今回、思文閣さんで出品している「観自在こそ」です。
灰の詩 観自在
これが出て来たので、仰天した次第です。

「不可避」は思文閣さんの出品に含まれず、逆に思文閣さんで出している「吾山に」の書は中原の著書に使われていません。

ちなみに「吾山に」「観自在こそ」「不可避」、それぞれ光太郎が戦後に好んで書き、複数の揮毫が知られています。その意味では新発見ではありませんが。

さて、冒頭近くに書いた通り、下見会が昨日から開催中です。

令和6年9月 思文閣大入札会 下見会

期 日 : 2024年9月9日(月)~9月15日(日)
会 場 : ぎゃらりい思文閣 京都市東山区古門前通大和大路東入ル元町386
時 間 : 10:00~18:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

光太郎以外も逸品ぞろいで、目録を見ただけでクラクラするレベルです。

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ぜひ足をお運び下さい。

それから、先回りしておきますが、光太郎書を落札された方、死蔵にならないよう、依頼があれば快く貸し出すといった対応をしていただければと存じます。

 【折々のことば・光太郎】

其後真剣に考へてみましたが、東京へ行つてアトリエを建てる金がまづありません。アトリエが無いとしたら、東京に居ても此処に居ても同じことです。 原稿でわづかに金をとるとしても彫刻ではとても取れないでせう。従来とても彫刻では殆ど金をとつてゐなかつた次第です。

昭和24年(1949)6月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳

当会の祖・心平らは、花巻郊外旧太田村での光太郎のある意味凄惨な蟄居生活を見て、何よりその身体を心配し、再三、上京を促しました。

この頃には後に光太郎が借りる中野のアトリエ(現在、保存運動を行っております)が貸し出され始めたと思われますが、そういうシステムはおそらくそれまでに無く、心平も光太郎も気づかなかったのではないでしょうか。

まずは地方紙『室蘭民報』さん記事から。

近代詩文書、見事な筆遣い 故佐々木寒湖氏の書展

 だて歴史文化ミュージアムの企画展「佐々木寒湖の書展」が伊達市梅本町の同ミュージアムで行われている。市に寄贈があった近代詩文書15点の見事な筆遣いが来館者の目を引いている。9月23日まで。
 故佐々木寒湖(本名・清)氏は増毛町出身。1945年から56年まで伊達高校(現在の伊達開来高校)で教壇に立ち、市の書道文化の礎づくりに尽力した。
 今回の企画展は同氏の生誕110年に合わせて実施。初日には同ミュージアムの蝦名未来学芸員が来館者に作品の鑑賞ポイントを伝えるイベントを行った。力強い筆痕が特徴の「梅雨くらく」では「余白が少なく『怒涛(どとう)』という文字を中心に置くことで迫力を感じる」と説明した。このほか、詩人三好達治や木下杢太郎の詩を引用した作品もある。
 蝦名学芸員は「かな文字と漢字が交ざり、読みやすいのが近代詩文書。書道文化に触れて」と来館を呼びかけている。観覧無料。
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記事本文に光太郎の名がありませんが、画像の一番右の作品が光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を書いたものです。
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展覧会詳細は以下の通り。

「佐々木寒湖の書」展

期 日 : 2024年8月10日(土)~9月23日(月・祝)
会 場 : だて歴史文化ミュージアム 北海道伊達市梅本町57番地1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 月曜が祝日の場合は、翌火曜日休館
料 金 : 無料

旧伊達高校(現伊達開来高校)で教鞭をとっていた故佐々木寒湖氏の作品を展示します。書道作品の観覧ポイントについても解説します。

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故・佐々木寒湖氏という方、記憶にある名だなと思って調べたところ、このブログで平成30年(2018)に伊達市内の別の施設で行われた同様の展覧会を紹介していました。

近代詩文の書で光太郎の詩の一節等が取り上げられる機会は少なくないのですが、書家の皆さん、書道団体の方々、お知らせいただければ出来る限り紹介いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

青根温泉へのお誘ひ忝く存じました。青根温泉へは小生も先年智恵子と一緒に一週間ばかり滞在したことがあります。あの正面の大きな宿でしたからたぶんその大佐藤といふ家だつたでせう。実にいい温泉だと思ひました。再遊もしたいけれどその頃にならないと都合が分りません。


昭和24年(1949)3月18日 徳江儀正宛書簡より 光太郎67歳

青根温泉は蔵王山腹の温泉地。昭和8年(1933)、心の病の昂進した智恵子の湯治のため、東北や北関東の温泉巡りをした際にここにも滞在しました。「大佐藤」は現在の湯元不忘閣さん。
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徳江は宮城在住だった人物で、光太郎に素晴らしい温泉があるので湯治に来ませんか、的な誘いをかけたのだと思われます。ただ、結局、青根再訪は実現しませんでした。

7月26日(金)、『毎日新聞』さんの神奈川版から。

かながわの書 名碑探訪/17 茅ケ崎・平塚らいてう記念碑 書き出しに意志の強さ /神奈川

 「元始、女性は太陽であった」。女性文芸誌「青鞜」の創刊号、平塚らいてうの言葉である。表紙の装丁は長沼智恵子(のちの高村光太郎の妻)が担当し、与謝野晶子も「山の動く日来る」と賛辞の詩を贈った。
 らいてうは女性保護論争に加わり、市川房枝らとともに新婦人協会を結成。婦人参政権運動を起こした。現代では到底考えられないが、当時女性に参政権がなかったのである。「元始、女性は………」はセンセーショナルな言葉として社会現象となった。1911(明治44)年秋のことであった。
 JR茅ケ崎駅の南口に降り、海に向かって徒歩約8分で「高砂緑地」の看板に出合う。ここは実業家・原安三郎の別荘の土地だったが、今は「松籟(しょうらい)庵」として公開している。地元では憩いの場として夙(つと)に有名である。庭園に入ると高さ160センチの堂々とした碑がある。あまたの松に囲まれ、潮風に満ちた静かな庭だ。
 碑文に目を遣(や)ると、たっぷりと墨を含ませた筆で「元始」と書き進めている。 しっかりと筆を立て、紙に筆圧をかけていることが伺える。書は筆順を追うことができるため、時間推移と共に鑑賞できる数少ない芸術とも言われている。
 本文を3行に分け、行間を広くとり、漢字を大きく仮名を小さめに書き、文字の大小変化をつけている。時間をかけて鑑賞すると、らいてうの息づかいを感じとることができる。また「性・陽・正」の漢字を草書で表現し運筆リズムを作っている。当時の識者はよく草書を使う。筆で手紙を書く時に、早書きの草書が手に馴染んでいたのだろう。小学校の漢字レベルの草書は誰もが読め、常識の範囲だったのだ。
  おそらく当時の女性の筆触としては仮名文字の細線が主流だったはずだ。しかし、らいてうの運筆は全く異なり、書き出しは中国唐時代の顔真卿(がんしんけい)のような肉太のタッチである。明治の女性の意志の強さがそうさせたのだろうか。落款は「らいてう」と「明(はる)」の印を添えている。「明」は本名である。また、「らいてう」の名は雷鳥に由来する。
 「青鞜」はわずか5年間の活動で終焉(しゅうえん)を迎えた。爾来(じらい)113年の歳月が流れたが、その精神は脈々と今日まで受け継がれて来た。先の東京都知事選においても女性の知事が3期目に入るという。まさにらいてうの先見の明の証(あかし)と言えるだろう。 
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記事を書かれたのは県立高校の書道の先生だそうで、なるほど、書体や筆法などにつき的確な評が為されています。

この碑、一度拝見に伺いました。意外と新しく、平成10年(1998)の建立でした。刻まれた文字が書かれたのがいつかまでは分かりませんでしたが。すぐそばには光太郎と縁のあった八木重吉の詩碑も建てられていました。

なぜ茅ヶ崎にらいてうの碑が、というと、らいてうの夫・奥村博史が結核の治療のため、この地にあったサナトリウム・南湖院へ大正4年(1915)に入院、そのためらいてうも翌年には近くに借間を借り、奥村退院後も大正6年(1917)までこの地に住んでいたためでしょう。南湖院の建物の一部は国の登録有形文化財として、元の敷地(高砂緑地から数百㍍)の一角に残されています。八木も昭和の初めに南湖院に入院していましたし、遠く明治時代には国木田独歩も。

ぜひ足をお運びいただき、先人たちの息吹に触れてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

これから又出直して新らしい世代の為に新らしい熱情を以て尽すやうに望みます。いつでも青年を相手にしてゐるのは何よりです。その上農は国民生活の根本ですから、まことにやり甲斐のある仕事です。


昭和23年(1948)10月14日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎66歳

孟彦は光太郎実弟。藤岡家に養子に行き、植物学者となりました。戦前から兵庫県農業試験場に勤務していましたが、この年、茨城県の鯉淵学園に赴任。現在の鯉淵学園農業栄養専門学校です。

都内の古書籍商の皆さんで作る明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼、入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。「日本最大の古書市」という触れ込みで長年続いています。今年で第59回だそうです。

出品物を手にとって見られる「一般下見展観」が下記の要領で行われます。

令和6年 第59回 七夕古書大入札会一般下見展観

期 日 : 2024年7月5日(金)・7月6日(土)
会 場 : 東京古書会館 東京都千代田区神田小川町3-22
時 間 : 7/5 10:00~18:00  7/6 10:00~17:00
料 金 : 無料
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コロナ禍前までは確かに「日本最大の古書市」というに相応しい活況でした。令和2年(2020)にパンデミック対応で中止、翌年には大幅に規模を縮小して再開、令和4年(2022)からシステム的には旧に復したのですが、その年と昨年と、出品点数はコロナ禍前から比べると半減に近くなりました。今年もそれに近いようです。

光太郎がらみの出品物は、2点。かつては5~6点は必ず出ていた感じでしたが。まぁ、昨年はゼロでしたので、それに比べれば……とは思います。

戦後の色紙揮毫が1点。
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短歌で「吾山になか(が)れてやまぬ山みつ(づ)のやみかたくして道はゆくなり」。昭和24年(1949)前後のもので、複数の揮毫例が確認できているものです。「ま」を「万」、「み」を「ミ」と変体仮名的な文字の選択にする、光太郎書の特徴がよく表れています。

余談ですが、「み」を「ミ」と書くため、「美しきものミつ」と書かれた短句を「美しきもの三つ」と誤読し、「三つとは、第一に○○、二番目に××で……」と噴飯ものの解釈が為されていたりして困っています。

書簡五通が一括で。
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姻戚となった詩人の宮崎稔に宛てたもの。おそらく『高村光太郎全集』既収のものです。文面が短い葉書ではなく、封書ですので、これはこれで額装したり、或いは思い切って軸装したりすると味のあるものになりそうな気はしますが。

完全に光太郎のものは以上2点。あとは「おやっ」と思ったのがこちら。
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光太郎が詩部会長を務めていた、戦時中の日本文学報国会関係の印刷物。精査するといろいろ解るような気がしないでもありません。

他に様々な文豪らの肉筆ものや稀覯本のたぐい等々。

一般下見展観では、普段はガラスケース越しにしか目に出来ないこれらを、手に取って見ることが出来ます(色紙は壁に掛けられていて無理かも知れませんが)。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

来年の冬はことによつたら一月から三月一ぱいの三ヶ月間、大沢温泉に下宿しようかと今日考へつきました。温泉でも追々設備が整ふでせうし、それまでには小生にも経済上の余裕がいくらか出来るかと思つてゐます。さうすれば皆さんに御心配をかける事も少く、小生も温泉に温まつて越冬出来れば風邪もまづひかぬでせう。仕事も却つて出来るでせう。電燈もあるし、食事も賄つてもらへば時間が出来ます。四月に小屋へかへつて来て、畑にかかればいいと思ひます。配給品は学校か村の人にたのんで時々とりに来ればいいわけです。


昭和23年(1948)3月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

大沢温泉さんでの冬籠もり、なかなかいい思いつきのようでしたが、実現には至りませんでした。自炊部ではなく食事付きで、となるとやはり経済的に難しかったようです。ただ、昭和26年(1951)には2週間近く滞在したことはありました。

当方も家のことや経済的な部分などまったく考えなくていいのなら、自炊部でいいので大沢温泉さんで暮らしたいと思ったりもしています(笑)。

このところ上京する機会が多いのですが、今週末も。

まずは六本木の国立新美術館さんで6月26日(水)に開幕した「日本教育書道芸術院 第43回同人書作展」を拝見しました。お世話になっている書家の菊地雪渓氏から「ぜひ足をお運びください」というご案内を頂きまして。
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菊地氏の出展作。杜甫の漢詩ですね。
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その菊地氏、師に当たられる方が光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)を書かれたとのことで、見に来てくれというお話。そういえば昨年、氏を通して「詩の文言はこれでいいのか?」的なレファレンス依頼があったことを思い出しました。「ああ、あの時の……」というわけで。

で、こちらが当該作。
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力強い光太郎詩そのままに雄渾な筆遣いの堂々たる大作でした。

他にも光太郎詩を書いて下さった方が複数。ありがたし。

「葱」(大正15年=1926)。
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光太郎詩の中ではマイナーな作なので、少し解説しますと、立川農事試験場の場長・佐藤信哉から贈られた葱の美しさを題材にした詩です。

佐藤の妻、すみ子(スミ 旧姓・旗野)は、智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在し、スキーや水泳に興じたりました。

「智恵子抄」から「樹下の二人」(大正12年=1923)。
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かなりの長詩ですので抜粋ですね。

詩集『道程』収録作「なまけもの」(明治44年=1911)。
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智恵子と知り合う半年程前、浅草雷門前のカフェよか楼の女給・お梅に入れあげ、通い詰めていた頃の日常が描かれています。

そして云わずと知れた「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。
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ありがとうございました。

古いものでは明治末から、もっとも新しいものでもこの「レモン哀歌」。100年前後経っています。1世紀を経てもまだ光太郎詩が現代人の琴線に触れていると思うと、嬉しい限りです。

7月7日(日)迄の会期です。ぜひ足をお運びください。

明日は阿佐谷の「名曲喫茶ヴィオロン」さんでの「ノスタルジックな世界 ライブ 朗読&JAZZ演奏」の模様をレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

お茶たくさんと和紙、きざみなどいろいろ細かいお心づくしのもの忝く、たのしくいただきました。和紙は昔の雅邦紙のやうに見えるもの、どんな工合のものか、今度筆を染めるのがたのしみです。純粋な半紙も珍重です。


昭和23年(1948)3月6日 多田政介宛書簡より 光太郎66歳

光太郎自身もこの時期、彫刻封印の代わりといっては何ですが、書に強い関心を持ち、数々の優品を生み出しました。

戦後2年半ほど経ち、そろそろ物資不足も解消しつつあったようで、それなりの紙が贈られてきました。「雅邦紙」はその名の通り、画家の橋本雅邦(光太郎の父・光雲と東京美術学校で同僚でした)が愛用した種類の紙です。

戦後間もない頃には揮毫を頼まれてもちゃんとした紙が無く、粗悪なボール紙のようなものを色紙代わりにしていたこともありました。

新刊です。

えんぴつで心ときめく名作詩

2024年3月11日 書 大迫閑歩 イラスト イオクサツキ ポプラ社刊 定価1,400円+税

1日10分であなたの毎日をリフレッシュ! 珠玉の名作詩をなぞって朗読することで、心を整えてみませんか。

金子みすゞ、宮澤賢治、高村光太郎など、名作詩30篇をセレクト。書家による書き下ろしで、美文字レッスンの習慣を。えんぴつの柔らかな書き心地で、心を整え脳活効果も! 作品の背景、作家の生涯など、プチ文学講座として。
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【目次】
はじめに
1章 恋する思い
 島崎藤村「初恋」 立原道造「夢みたものは……」  竹久夢二「宵待ち草」 
 北原白秋「初恋」 横光利一「愛」 中原中也「湖上」      
2章 旅にあこがれて
 山村暮鳥「雲」  石川啄木「飛行機」  丸山薫「汽車に乗って」 村山槐多「二月」
 島崎藤村「小諸なる古城のほとり」 北原白秋「落葉松」 萩原朔太郎 「旅上」
3章 自然のなかで
 山村暮鳥「風景 純銀もざいく」 三好達治「雪」 萩原朔太郎「竹」
 木下杢太郎「梟」 佐藤惣之助「犯罪地帯」 田中冬二「青い夜道」 八木重吉「太陽」
4章 いのちの喜び
 金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」 千家元麿「秘密」 立原道造「眠りの誘ひ」
 堀辰雄「帆前船」 八木重吉「皎皎とのぼつてゆきたい」
5章 生を慈しむ
 中原中也「汚れっちまった悲しみに」 室生犀星「小景異情(その二)」
 高村光太郎「あどけない話」 宮澤賢治「永訣の朝」 
 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
おわりに
参考文献

【著者略歴】
大迫閑歩(おおさこ・かんぽ)
1960年鹿児島県生まれ。本名・大迫正一。筑波大学芸術専門学群卒業。同大学院修士課程修了。九州女子大学共通教育機構准教授を経て、現在安田女子大学文学部書道学科教授。漢字の古い書体を中心にした研究、作品制作を続け、後進の指導にあたっている。
著書に『えんぴつで奥の細道』『えんぴつで方丈記』『えんぴつで論語』などがある。

001B5のやや大きめの判、よくある「なぞって書こう」的な。類書として昨年ご紹介した『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』(コスミック出版)など。

なぞられるべき薄く印刷されている詩句が活字ではなく、書家の大迫閑歩氏が書かれているというところが一つのポイントです。

近代詩30篇が取り上げられ、光太郎詩は『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)を入れて下さいました。ありがたし。他に島崎藤村、北原白秋、八木重吉、中原中也、山村暮鳥、立原道造は2篇ずつ。村山槐多が入っていたのには「へー」でした。

キーボードやスマホ画面等でなく、やはり自分の手で文字を書くことによって、詩句が脳内に入って来るプロセスがより鮮烈となる気がします。そういう意味では電子書籍では成り立たない出版ですね。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のは真宗の和讃の中の文句「清浄光明」と「平等施一切」とを書きました。当地の農家は皆熱心な真宗の信者なのです。あとは半切に「牛はのろのろと歩く」、「満目蕭條」と書きました。


昭和22年(1947)1月15日 宮崎丈二宛宛書簡より 光太郎65歳

この年1月2日に行った書き初めに関わります。書いたものは世話になっている土地の人々にあげたりすることが多かったようです。

このうち「平等施一切」と「満目蕭條」の書は現存が確認出来ています。
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展示系の情報を2件、始まってしまっているものと、もうすぐ開幕のものと。

まず始まってしまっているのが、書道の作品展。

岩手ゆかりの近代詩文書作品展

期 日 : 2024年2月23日(金)~3月17日(日)
会 場 : もりおか町家物語館 岩手県盛岡市鉈屋町10-8
時 間 : 午前9時から午後7時
料 金 : 無料

岩手ゆかりの近代詩文を題材とした書道作品の公募展です。併せて、岩手にゆかりのある書道家の作品も展示します。


先月、地上波IBC岩手放送さんのローカルニュースで取り上げられていました。

啄木、賢治の作品やオリジナルの歌を書に 岩手ゆかりの近代詩文書作品展始まる 盛岡市

  岩手にゆかりのある短歌や詩を書道作品で表現した展示会が、盛岡市で開かれています。
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 もりおか町家物語館で23日始まったのは、「岩手ゆかりの近代詩文書作品展」です。会場には、盛岡市と石川啄木記念館が所蔵するものと、一般公募で集められた書道作品合わせて36点が展示されています。
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 作品の多くが歌人・石川啄木の歌や詩人で童話作家の宮沢賢治の詩が個性豊かに書かれたものですが、滝沢市に住む書家・戸島魯休さんは自ら詠んだ歌を書にしたためたものを出品しています。造り酒屋の跡地に整備されたもりおか町家物語館を訪れた際、蔵の造りと資料展示を見て感じたイメージが筆で力強く表現されています。

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 この企画展は3月17日まで開かれています。
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「岩手ゆかり」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、花巻町と郊外旧太田村とに足かけ8年暮らした光太郎の詩句も。
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昭和4年(1929)の詩「人生」の一節。ただし「重いものを」の「を」が抜けていますが。

ところでこのフレーズ、フェイスブックやX(旧ツィッター)上で、光太郎の名言としてよく引用されています。それはそれで有り難いのですが、しかし「棄てると」が「捨てると」と誤記されているケースがほとんどでして、閉口しております。

他に啄木や賢治の詩句等を書いたものがずらっと。「女啄木」と称された西塔幸子の短歌もあって、「ほう」と思いました。幸子の実弟・大村次信は盛岡で「オームラ洋裁学校」を創設し、光太郎とも交流のあった人物です。

続いて今週末から始まる展示。福島は郡山です。

第7回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト作品展

期 日 : 2024年3月16日(土)~5月26日(日)
会 場 : 郡山市ふれあい科学館スペースパーク 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
時 間 : 平日 10:00~16:15 金曜 10:00~19:45 土・日・祝 10:00~17:45
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

コンテスト選出作品40点を展示いたします。 "ほんとの空"のある、福島の素晴らしい星・月の風景をお楽しみください。
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昨秋、約3年ぶりに作品募集のあった「第7回 ふくしま星・月の風景 フォトコンテスト」。審査結果が先月発表され、入選作が展示されます。フライヤー等に大きく出ているのが大賞に輝いた「蕎麦畑に白虹」。埼玉県の方が会津の下郷町で撮影されたものだそうです。日光が霧に当たって出来る「白虹」、当方、見たことがありません。一度見てみたいものですが。

その他、PDFで入選作が見られますが、サムネイル的な小さな画像でも、力作ぞろいというのがよくわかります。残念ながら智恵子の愛した安達太良山の風景はなかったようです。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

屋根の雪は一度学校の先生がおろしてくれました。寒さは雪の割にゆるく、まだ零下十度にもなりません。去年は〇下二十度になりましたが。


昭和21年(1946)12月30日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入って二度目の冬。このシーズンは雪が多かったそうですが、気温的にはそれほど冷え込まなかったようで、年明けには摂氏9℃とかになって驚いたとのこと。それにしても土壁一枚のあばら屋でしたから……。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんで、書道展「東京書作展選抜作家展2024」を拝観。書家の菊地雪渓氏からご案内を頂いていたのですが、最終日前日となってしまいました。
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その菊地氏の作。
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杜甫の漢詩を書かれたものだそうで。相変わらず雄渾な筆遣いです。

この手の書道展、必ずといっていいほど、光太郎詩文を題材に書かれる方がいらっしゃり、今回も存じ上げない方でしたが、2点。ありがたし。

詩としての光太郎代表作の一つ、「道程」(大正3年=1914)。
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詩「潮を吹く鯨」(昭和12年=1937)。こちらは大幅でした。
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昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を執筆するため船で訪れた三陸海岸での体験を元にした詩です。
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昭和14年(1939)、河出書房刊行の『現代詩集』に掲載されましたが、それが初出かどうか不明です。

その他、以前に光太郎詩文を書かれた皆さんの作なども拝見。眼福でした。

六本木を後に、中野に向かいました。次なる目的地は西武新宿線沼袋駅近くの新井区民活動センターさん。
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光太郎終焉の地・旧中野桃園町の貸しアトリエの保存運動が起きており、その会合に呼ばれて参上いたしました。
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戦後、水彩画家の中西利雄が建てたものの中西が急死し、貸しアトリエとなっていた建造物で、光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、昭和27年(1952)にここに入りました。像の完成後はまた花巻郊外旧太田村に帰るつもりで、実際に像の除幕後に一時帰村したのですが、健康状態がもはや山村での独居自炊に耐えられず、結局は再々上京、ここで亡くなりました。

利雄の子息・利一郎氏が昨年亡くなり、なるべくご遺族の負担にならないようにするにはどうすれば……というわけで、利一郎氏と交流の深かった文治堂書店さん社主・勝畑耕一氏、日本詩人クラブの曽我貢誠氏らが中心となって始まりました。文治堂書店さんサイト内に企画書リンクが貼ってあります。

お二人以外に他に利一郎氏と親しかった方、建築家の方、中野たてもの応援団の方などがご参加。
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やはり利一郎氏と親しく、アトリエにも足を運ばれた渡辺えりさんも。
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現状の報告と、今後、どうすれば八方丸く収まるのかについての意見交換など。

会場の使用時刻を過ぎてからは近くの喫茶店に移り、そちらでも。
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こういった件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールが以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

来月にも会合を持つこととなりました。また追ってご報告いたします。

【折々のことば・光太郎】

まつたくあなたの言はれる通り、戦争中は彫刻を護るために詩が安全弁乃至防壁になり過ぎたと思ひます。決していい加減ではなかつたのですが。この事はいまに書かうと思つてゐます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

翌年に雑誌『展望』へ発表した、幼少期から戦後までの半生を振り返る連作詩「暗愚小伝」全20篇の構想にかかっており、それを指すと思われます。

過日、概要をお伝えした岩手県花巻市立の記念館さんが「イーハトーブの先人たち~」の統一テーマで行う企画展示「ぐるっと花巻再発見!」。今日開幕です。

高村光太郎記念館さんでは「光太郎からの手紙」と題し、光太郎が諸家に送った書簡12通を中心にした展示です。詳細な情報、展示風景の画像等が花巻市役所さんからもたらされましたのでご紹介します。

まずフライヤー。
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プレスリリースから。

・展示主旨および概要
 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻町へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎の消息を外部に知らせる手段は手紙が中心でした。
 光太郎からの手紙は事務連絡的なものから、日々の生活や心境を語るものまで多岐にわたります。特に、太田村山口集落への移住にかかわっては、建設準備から食生活、初めての越冬など日記のように詳細に記されています。
 この企画展では昭和20年の戦災による疎開直前から昭和31年に東京のアトリエで没するまでの間に、花巻の医師・佐藤隆房とやり取りされた手紙を中心に展示し、山居七年から最晩年に至る光太郎の足跡をたどります。
 また、女優の渡辺えり氏より寄贈された、渡辺正治宛に光太郎から差し出された葉書をあわせて展示します。(渡辺正治氏は渡辺えり氏の実父、令和4年5月逝去)

・展示の見どころ
昭和21年に渡辺正治宛に差し出された葉書は初公開の資料です。
展示室内には昭和20年から27年までの間に高村光太郎から佐藤隆房宛に差し出された手紙を中心に展示しており、『山居七年エピソードパネル』と併せて見ることで、手紙の内容の背景を詳しく知ることができます。

渡辺正治宛葉書 昭和21年11月30日付
佐藤隆房宛葉書 昭和20年10月18日付
昭和21年10月23日付
昭和21年11月6日付
昭和23年11月29日付
昭和23年12月28日付
昭和26年5月9日付
昭和27年7月19日付 2通
昭和27年10月29日付
佐藤雪江宛葉書(隆房の妻) 昭和22年5月11日付
加藤房子宛葉書(隆房の娘) 昭和24年2月19日付
資料合計12点

展示風景画像。
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展示ケースは使わず、額に入れた光太郎書簡を壁面に吊しての展示です。
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すべてペン書きと思われますが、独特の味わい深い筆跡は「書作品」としても一級のものといえるでしょう。

以前に開催された企画展示の使い回しかも知れませんが、それぞれの書簡と関連する事項の説明パネル。佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの抜粋です。
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古写真もパネルで。
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書簡の大半は、宮沢賢治の主治医にして、総合花巻病院長だった佐藤隆房に宛てたもの。佐藤は光太郎歿後には花巻に高村記念会を興し、初代理事長を永らく務めました。

佐藤に送った書簡は『高村光太郎全集』に66通収録されていますが、今回、それに含まれていないものも1通出ています。以前にも66通以外のもの(昭和31年=1956 3月27日付、確認できている光太郎生涯最後の書簡)が展示されたことがありました。今回のものはそれとはまた別の書簡です。『全集』所収の66通も大半は「岩手日報」に佐藤が発表したものからの採録で、いろいろ大人の事情があったようです。

他に佐藤の妻・雪江と息女の房子にあてたものが一通ずつ。そして渡辺えりさんの亡きお父さま、渡辺正治氏に宛てたものが一通。
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平成28年(2016)に寄贈を受けたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。「この手」というのは、『月刊絵手紙』さんの平成15年(2003)6月号通巻90号や、えりさんの舞台「月にぬれた手」の公式パンフレットに画像入りで紹介されたほか、平成24年(2012)にはえりさんが出演なさった「徹子の部屋」で御披露なさいましたので、「この手」です。当方は平成12年(2000)頃の連翹忌の集いで、正治氏が御持参下さったものを手に取って拝見しました。

会期は2月18日(日)まで。当方、来月中旬に伺う予定ですが、皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

右の手掌手術の為下山、目下佐藤院長先生宅に滞在毎日病院に通ひつつあり。

昭和21年(1946)5月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り、生まれて初めての農作業にチャレンジし始めたところ、てのひらにできたマメが潰れてひどく化膿、佐藤隆房の執刀で手術を受けました。木彫の彫刻刀と農作業の鍬とでは、やはり勝手が違ったようです。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市。市立の博物館等が統一テーマの元に行う共同企画展です。

令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館の3館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

期 日 : 2022年1月20日(土)~2023年2月18日(日)

統一テーマ 「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

花巻新渡戸記念館 テーマ「須美子工房~春を彩る貝雛の世界~」
 須美子工房の貝のお雛様は、日本古来の佳き風習を受け継ぎつつ、海と山の幸と日本の文化をつなぎ、「未来への希望をつなぐ」ものとなることを願い、「愛海雛(めぐみびな)」と名を付けました。故・西村須美子さんが製作した貝雛(かいびな)と、夫の故・文夫さんの書と併せて、貝雛の世界を紹介します。

萬鉄五郎記念美術館 テーマ「師岡和彦 早池峰山伏神楽 写真展」
 山形県高畠町出身の師岡和彦(1926-2012)は、1982年、大迫町の岳神楽との出会いをきっかけに、早池峰山伏神楽に魅せられ、以後20年近くに亘り、早池峰山伏神楽を撮影し続けました。数年後には、岳神楽の流れを汲む東和町の石鳩岡神楽にも注目し、数多くの写真を残しています。本展では、師岡がファインダー越しに捉えた、早池峰山伏神楽の躍動する姿を中心に、大迫町、東和町の懐かしい情景を振り返ります。

高村光太郎記念館 テーマ「「光太郎からの手紙」
 昭和20年5月に花巻へ疎開した高村光太郎は、昭和27年10月に彫刻制作で帰京するまでの間に数多くの手紙のやり取りで自身の消息を伝えるだけでなく、文筆から彫刻まで様々な創作活動に関わるやりとりも行っていました。この企画展では光太郎からの手紙を通じて太田村在住当時の様子、創作活動に関わる光太郎周辺の人々との関わり合いをたどります。

協賛館
花巻博物館、花巻市総合文化財センター、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、早池峰と賢治の展示館
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 今回の開催館3館すべてをバスに乗って一日で巡るツアーです。参加料、入館料ともに無料!!(注 昼食代は自己負担)さらに各企画展の担当者が解説をしてくれます。

ぐるっとまわろう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館3館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。さらに、開催館3館すべてといすれかの協賛館3館の計6個スタンプを集めた方には、さらに記念品を差し上げますので、この機会にぜひ足を運んでみてください。
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昨年度、コロナ禍がほぼ終息ということで2年ぶりに復活し、5館が参加して開催されました。どうしたわけか今年度は3館のみ、期間もあまり長くありませんが。

旧太田村の高村光太郎記念館さんでは、「光太郎からの手紙」。同館では一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんで購入したり寄贈を受けたりした光太郎の書簡を多数所蔵しています。種別としてもハガキあり封書あり巻紙に毛筆で書かれたものもありイラストの入ったものありと、バリエーションに富んでいます。それらは常設展示では出品しきれないため、この機会に、ということでしょう。

ペン書きのものであっても、光太郎の筆跡は実に味わい深く、「書」としての価値も高いものです。色紙や条幅などに気負って書いたものとはまた異なるリラックスして書かれたものである点にも面白味が感じられます。

また、送られた相手も多岐に亘っています。以前に伺った話ですと、女優・劇作家の渡辺えりさんのお父さま・故渡辺正治氏から平成28年(2016)に寄贈を受けたハガキなどもまだ展示していないので、機会があれば、というお話でした。
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おそらくこれも出るんではないかと思われますが、違ったらごめんなさい。

また詳しい情報が入りましたらご紹介します。厳冬期ということでなかなか大変ですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

随分雪の多いところで昨日も終日降つてゐました。開墾が出来ないので何かがすべて遅れます。

昭和21年(1946)4月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

4月に入ってもまだ雪のため畑仕事にかかれなかったそうで、岩手、おそるべしですね。

お世話になっている書家の菊地雪渓氏から招待状を頂き、「第45回東京書作展」を拝見して参りました。

会場は上野の東京都美術館さん。
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昨年はそれが無かったようなので欠礼しましたが、今年は上位入賞作に光太郎詩を書かれた作品があるとのことで。

こちらがその作品。
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光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居席活を始めた直後の昭和20年(1945)に書かれた詩「雪白く積めり」の一節です。高田月魁氏という方、これではない作の方が最高賞に当たる内閣総理大臣賞/東京書作展大賞に選ばれていました。

その他の入選作でも光太郎詩文を書かれた方が複数いらっしゃり、有り難く存じました。

散文「満目蕭条の美」(昭和7年=1932)から。
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詩「平和時代」(昭和3年=1928)全文。
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詩「芋銭先生景慕の詩」(昭和14年=1939)より。「芋銭」は日本画家・小川芋銭です。
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見落としがなければ光太郎詩文を題材にしたものは以上でした。

「あれっ」と思ったのが、こちら。
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光太郎の親友・荻原守衛の書簡(片岡当宛・年月日不明)の一節が書かれています。文学系で光太郎と交遊のあった人物の作品から題を採ったものは多く見かけます(今回も北原白秋やら与謝野晶子やらが目立ちました)が、書道展で守衛の名に接する機会は今まで無かったような気がします。

しかし、いい文言です。

蕾ニシテ凋落センモ亦面白シ 天ノ命ナレバ之又セン術ナシ 唯人事ノ限リ尽シテ待タンノミ 事業ノ如何ニアラズ心事ノ高潔ナリ 涙ノ多量ナリ以テ満足ス可キナリ

満30歳で夭折した守衛晩年の書簡と思われますが、自身の運命を予言しているかのような……。

招待券を下さった菊池氏の作。
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菊地氏も令和元年(2019)の同展で内閣総理大臣賞/東京書作展大賞に輝かれています。

同展、昨日開幕で、11月24日(金)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

毎日花巻の地理踏査、先日は詩碑に詣でました、清六さんが写真をとつてくれましたがまだ出来ません、警戒警報頻発、昨夜も十二時頃サイレンに起されました、

昭和20年(1945)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

5月16日に花巻の宮沢家に疎開、翌日から結核性の肺炎で約1ヶ月臥床した光太郎ですが、この頃には本復。賢治実弟・清六の案内で、自らが昭和11年(1936)に揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑を初めて見に行きました。除幕の際は智恵子が南品川ゼームス坂病院に入院中ということもあり、訪れませんでした。

書道関連でいろいろとご紹介させていただきます。

まず、光太郎直筆の書作品が出ている/出されるもの。

トピック展「岸田劉生とその時代」

期 日 : 2023年9月28日(木)~12月26日(火)
会 場 : 似鳥美術館 北海道小樽市色内1丁目3-1
時 間 :  [5~10月] 9:30〜17:00  [11~4月] 10:00~16:00
休 館 : 毎週水曜日
料 金 : 一般1,500円 大学生1,000円 高校生700円 中学生500円 小学生300円

当館の収蔵作品を紹介する小さな企画展「トピック展」。似鳥美術館3階展示室では、「岸田劉生とその時代」を開催いたします。

大正から昭和にかけて活躍した洋画家、岸田劉生。本展では当館が収蔵する劉生作品のうち、初期の自画像や晩年の文人画風の日本画など4点をご紹介します。あわせて、劉生と同時代に活動した萬鉄五郎、高村光太郎の未公開作品も展示。本フロアの常設作品とともに、岸田劉生とその時代を彩った作品の数々をお楽しみください。
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010メインは岸田劉生ですが、光太郎の彫刻と書も。彫刻「十和田湖畔の裸婦像のための手」は、まさにその通りのもので、十和田湖の「乙女の像」の左手部分の習作です。「制作年不詳」となっていますが、昭和27年(1952)です。同型のブロンズ鋳造はあちこちにあり、当方、千葉県立美術館さん、八戸クリニック街かどミュージアムさんなどで拝見しました。

書の方は、短句「山巓の気」、それから短歌「爪きれば指にふき入る秋風のいとたへがたし朝のおばしま」。短歌の方は、繰り返し同じ歌を揮毫したようで、共に短冊でしたが、七夕古書入札市の一般下見展観で見たことがありますし、美術品オークションにも出品されたことがあります。そのどちらかの時のものかどうか、画像が出ていないので分かりませんが……。

似鳥美術館さん、これ以外にも、光太郎の父・光雲とその一派の作を大量に収蔵なさっていて、常設展示で出ています。一度伺いたいと思いつつ、果たせないでいるのですが……。

もう1件。

京都非公開文化財特別公開(一念寺)

期 日 : 2023年11月12日(日)~11月20日(月)
会 場 : 一念寺 京都市下京区柳町324
時 間 : 午前9時~午後4時
料 金 : 大人 1,000円  中高生 500円

 「京都非公開文化財特別公開」は昭和40年にはじまった文化財愛護の普及啓発事業で、文化財を公開することにより、市民あるいは広く国民的な活用に資し、且つそれに基づいて文化財愛護の関心を高めるという趣旨のもと、社寺や文化財所有者の協力を得て実施してまいりました。
この秋は京都市内15か所の文化財を公開します。公開場所によって公開期間や時間が異なりますので、ご来場いただく前に当ホームページ等にて事前にご確認をお願いします。
  皆様から頂戴しました拝観料は、貴重な文化財を未来に伝えるため、保存修理・維持管理等に役立てられます。
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京都市内15の寺院が参加しての事業で、毎年違った寺宝を出す、ということのようです。

このうち、下京区柳町の一念寺さんという寺院で、光太郎直筆の書を出すと予告されています。『朝日新聞』さん記事から抜粋で。

西本願寺の門前町、三つの寺が堂内初披露 幕末の大火後に再建・移転

 浄土真宗本願寺派の本山・西本願寺(京都市下京区)の東側に、いくつもの寺や仏具店が軒を連ねる門前町がある。開祖・親鸞(しんらん、1173~1262)の生誕850年を記念し、門前の三つの寺が、秋の「京都非公開文化財特別公開」(京都古文化保存協会主催、朝日新聞社特別協力)で堂内を初披露する。
 門前町は、時が穏やかに流れる。西本願寺との間を幹線道路の堀川通が貫くが、その騒々しさがここにはない。東西300メートル、南北700メートル。碁盤目状の町割りに、約20の寺が点在する。
 起源は、豊臣秀吉による京都改造で、西本願寺がこの地に移ってきたことにさかのぼる。江戸時代になると、広大な境内に80を超す寺院が並び、幕府の力も及ばない独自の自治を行う寺内町をつくった。しかし、幕末に起きた蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)による大火で焼け野原に。現在の町並みは、その後再建された。

一念寺 「新選組」に対した重鎮ゆかり
 同じ通りの一念寺は、明治維新の頃に門前町の別の場所から移ってきた。幕末期には西本願寺の重鎮・富島頼母(たのも)の屋敷があった。富島は、西本願寺に屯所(とんしょ)を構えた新選組の退去に努めたことで知られる。
 本堂は、法輪寺と同じ座敷御堂。縁側のような入り口から内陣が見える。文化人との交流が深く、収集品も多い。特別公開では芥川龍之介や高村光太郎、泉鏡花らの書画を展示する。
 「文学や芸術への寺の功績を知ってもらえたら」。町歩きの案内もする谷治暁雲(ぎょううん)住職(50)は話す。
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こちらで所蔵されているという光太郎の書、当方、寡聞にして存じませんが、とりあえず。

その他、「芸術の秋」ということもあるのでしょう、この時期、全国各地で現代の書家の方々による書道展等もたくさん開催されており、中には光太郎詩文を題材にされたものも出品されたりしています。既に終わってしまったものも含め、記録のためご紹介しておきます。

支部蘭蹊~書は言葉なり 言葉は心なり~展

期 日 : 2023年10月14日(土)~10月18日(水)
会 場 : 釜石市民ホールTETTO ギャラリー

『釜石新聞』さんから。

釜石応援ふるさと大使 書家・支部蘭蹊さん TETTOで初個展 復興支援で結ばれた絆強く

 「釜石応援ふるさと大使」を務める宮城県仙台市在住の書家、支部蘭蹊(はせべらんけい=本名・一郎)さん(72)が14日から18日まで、釜石市大町の市民ホールTETTOで個展を開いた。中学、高校時代を釜石市で過ごした支部さんは、東日本大震災後、同期生らと古里へのさまざまな支援活動を展開。被災者らに自らの筆で心を癒やす言葉を贈るなど、明日への希望をつないできた。今回は、被災後に新設された同ホールでの初めての個展。これまでの支援活動で支部さんの作品に魅了されてきた人たちをはじめ、多くの鑑賞者が訪れた。
 「書は言葉なり、言葉は心なり」と題した展示会には100点余りが出品された。支部さんの作品は書道を身近に感じられるよう、日常生活で目にできる形に仕上げているのが特徴。額入りや掛け軸のほか、帯地を利用したタペストリー、硯石に刻字した置物、写真に言葉を添えた作品などさまざまな趣向が凝らされている。書かれているのは心を潤す四文字熟語のほか、宮沢賢治や高村光太郎、金子みすゞらの詩、自由律俳句で有名な種田山頭火の句など。支部さん自らが紡いだ文言の作品もある。
(略)
 今回の個展は、昨年就任した同ふるさと大使としての役割を「活動で示したい」と開催した。年齢を重ねていく中で、自分がやってきたことを次につないでいければとの思いもあった。支部さんは「いろいろな人との出会いが私たちの人生を支える。ここに来て会話をしたり、何か気付きを得て帰ってもらう。そういう場を今後も作っていきたい」と、個展の継続開催に意欲を見せた。

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第21回書道 五月女紫映 社中展

期 日 : 2023年10月15日(日)~10月21日(土)
会 場 : 東京交通会館2Fギャラリー

『産経新聞』さん記事。

第21回「書道 五月女紫映 社中展」が有楽町の東京交通会館で開催

 第21回「書道 五月女紫映 社中展」が有楽町の東京交通会館2Fギャラリーで開催されている。
 五月女主宰は、村野四郎詩「鹿」を出品、生き生きとして抒情を誘う。刻字作品「ありがとう」は、ひらがなと漢字の「日々平凡」を組み合わせ、思いが籠る。会員は、漢字、近代詩文書、臨書、小品の書画と多彩な作品を出陳。漢字作品では、冨永香代子さんの白居易「長恨歌」が、師匠譲りの躍動感あふれる筆致で秀逸だ。淡墨で白居易「仙遊寺獨宿」を変化ある三行にまとめた石向竹霞さんの作品も面白い。近代詩文書は、坂本勝彦さんの高村光太郎「冬が来る」、藤井優子さんの金子みすゞ「私と小鳥とすずと」、福田世英さんの自作「思うがままに」などが印象に残る。いずれも衒いのない平明な作品だが、作者の心が伝わってくる。服部弘さんの黄庭堅「松風閣詩巻」は、やや細身だがしっかりとした臨書で好ましい。多士済々、64作が展示され楽しめる。10月21日まで。
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第8回海游舎書展

期 日 : 2023年10月17日(火)~10月22日(日)
会 場 : 埼玉県立近代美術館

やはり『産経新聞』さんより。

「第8回海游舎書展」が埼玉県立近代美術館で開催

 「第8回海游舎書展」(山下海堂会長=産経国際書会最高顧問)が10月17日から22日(午後3時)まで、さいたま市浦和区(JR北浦和駅下車)の埼玉県立近代美術館で開催されている。書道研究海游舎は、山下会長が柴田侑堂門下より独立して創設、以来埼玉県下の社中を糾合し産経国際書会の有力な団体に成長している。
 山下会長は、雄渾な「和気致祥」、「修羅」などを出品。高木撫松さんは情感漂う「中川一郎の詩」など、青木錦舟さんは花吹雪の情景を切り取る意欲作「花がふってくると思う…」ほか、本橋春景さんは直線的な構成で見せ場を作る高村光太郎詩などを出品。他に布施夏翠さん等、漢字、かな、現代詩文など多彩な作品約100点が展示され見ごたえがあった。会長賞を、行草単体で孟浩然の「洛陽訪才子…」を書した大平美侑さん、若山牧水歌「いく山河…」を淡墨で縦二段に散らした大毛青舟さんが受賞。特別賞を、盛田理泉さん、松井遊舟さん、小西桜吟さん、産経新聞社賞を岩本京子さんがそれぞれ受賞した。
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以上3件、終わってしまったものですが(ご紹介が遅れてすみません)、これから開催されるものも。

第10回 日本美術展覧会

期 日 : 2023年11月3日(金・祝)~11月26日(日)
会 場 : 国立新美術館 東京都港区六本木7-22-2
時 間 : 午前10時~午後6時
休 館 : 毎週火曜日
料 金 : 前売券 1,200円 当日券 1,400円 大学生以下無料
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入選者の名簿がネット上に出ていまして、明らかに題名で光太郎詩を書いて下さったのがわかる作が4点(見落としがあったらすみません)。
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この手の公募展で、もう一つ、書家の菊地雪渓氏によれば、11月18日(土) ~ 11月24日(金)、 東京都美術館さんで開催される「第45回東京書作展」の第3次審査まで残った作に光太郎詩「雪白く積めり」を書いた作品が入ったそうです。第4次(最終)審査に進出上位10作品には残らなかったようですが、展示されるのは間違いないでしょう。詳細がわかりましたらまたご紹介します。
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最後に、ちょっと変わったものが出品されている書道展。

特別企画展 郷土の書人・画人・教育者 上田桑鳩展~上田家・飛雲会寄贈品~

期 日 : 2023年10月14日(土)~11月26日(日)
会 場 : 堀光美術館 兵庫県三木市上の丸町4番5号
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日 11月24日(金)
料 金 : 一般500円 大学/高校生250円

日本経済新聞の題字を手がけたことでも知られる三木市吉川町出身の書道家上田桑鳩(うえだそうきゅう)の特別企画展

上田錦谷時代(大正後期)から最晩年に至る多彩な桑鳩芸術の全容を公開 ※錦谷(きんこく)とは桑鳩を名乗る以前の雅号

令和3年度に上田啓之氏から寄贈いただいた書作品、スケッチブック、教科書などと令和2年度に飛雲会より寄贈いただいた作品を中心に展示します
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前衛書家として名を成した上田ですが、書作品以外に旧蔵品が出品されており、その中で光太郎の書を集めた『高村光太郎書』(昭和34年=1959 二玄社)も。
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見返しに上田による同書の感想がびっしり書き込まれているそうです。「彫込し如き筆の痕」「深く大きく宇宙刻めり」といった文言が見えます。光太郎の書によほど感銘を受けたのでしょう。

同書、ハードカバーの初版が昭和34年(1959)の刊行。美術史家の奥平英雄、当会顧問であらせられた北川太一先生の編集になる大判の書作品集です。昭和51年(1976)にはソフトカバーの改訂新版も出ていますが、上田の没年が昭和43年(1968)ですので、初版の方でしょう。

手にとって見られるよう、複製したものも展示しているとのこと。面白い試みですね。

ところで、光太郎書といえば、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展示「光太郎と吉田幾世」にも、初公開のものを含む書が出ていますし、同館では常設でも光太郎書を多数展示しています。
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ちなみに当方、明日から2泊3日で花巻です。同展関連行事の市民講座の講師、さらに宮沢賢治イーハトーブ館さんでのシンポジウム的な「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」でコーディネーターを務めさせていただきます。

以上、実にいろいろご紹介しましたが、開催中のもの、これから始まるものについては、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生は疎開しません、地方に親戚もなく、又彫刻の仕事は道具類の関係上このままの方がよいと思つてゐます、どんな危険な時でも小生は平気でやつてゐる気です。


昭和19年(1944)3月29日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎62歳

米軍による本土空襲は既に始まっています。結局、翌年4月13日の空襲で、光太郎自宅兼アトリエは灰燼に帰す事になります。

001当会発行の冊子『光太郎資料』60集、完成しました。今日明日で関係各所に発送いたします。

元は当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められたものです。その後、様々な「資料」を掲載、36集まで不定期に発行されていました。平成24年(2012)から誌名を引き継がせていただき、当会として会報的に年2回発行しております。1回は光太郎忌日・連翹忌に合わせ4月、1回は明日の智恵子忌日「レモンの日」に合わせた日付としています。

北川先生の時代には、末期はワープロによる原稿作成になりましたが、初期は鉄筆ガリ版刷り、手作り感あふれるものでした。「こちらから勝手に必要と思われる人、団体に送る」というコンセプトだったそうで、その点は引き継がせていただいております。表紙の題字は、かつて北川先生が木版で作られたものから採っています。

今号の目次は以下の通り。
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・「光太郎遺珠」から 第二十四回 書(その一)
平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後も、続々と見つかり続けている光太郎作品の紹介を、「光太郎遺珠」の題名で『高村光太郎研究』という雑誌に連載させていただいておりますが、そちらをテーマ別に再編。今号と次号で「書」に絞って紹介します。

光太郎自身は「書家」を名乗ったことはないのですが、早くから書の優品を数多く残し、日本書道史上に得意な存在感を放っています。今号では戦前、戦時中に書かれた書。昭和17年(1942)、前年の真珠湾攻撃の際に戦功を立てて戦死した「九軍神」の隊長格・岩佐直治中佐の遺族に贈った書(これまで未確認)、詩人・高祖保や漫画家・池田永ー治(永治)に贈った書など。

光太郎回想・訪問記 わが文学半生記 より 江口渙
光太郎と交流のあった人物による光太郎回想。光太郎自身が書き残さなかったエピソードがあったり、記録はあるものの詳細が不明だった事柄の捕捉になったりと、貴重な証言です。

今号では、芥川龍之介と親しかった江口渙の回想。智恵子の印象や、光太郎の書を巡る江口と芥川とのバトルなどが描かれています。

・光雲談話筆記集成 大黒天鋳造苦心談
昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』以外に、様々な雑誌や書籍に発表された光太郎の父・光雲の談話筆記もまとめています。「大黒天鋳造苦心談」は、明治43年(1910)『みつこしタイムス』第8巻第5号より。同誌は日本橋三越呉服店のPR誌です。この年、同店常務取締役の藤村喜七の勤続50年表彰が行われ、その際に同店から藤村に贈られた光雲作の純金製大黒天像に関わります。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第二十四回  取手(茨城県)
見つけるとついつい購入してしまう(最近はこの項を書くため積極的に探していますが)、光太郎智恵子ゆかりの地の古絵葉書。それぞれの地と光太郎智恵子との関わりを追っています。今回は光太郎の筆跡が刻まれた石碑等が複数残る、茨城取手
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・音楽・レコードに見る光太郎  第二十四回  舞踊「智恵子抄」藤間節子/小村三千三
昭和24年(1949)、光太郎と交流のあった舞踊家・藤間節子による舞踊「智恵子抄」公演があり、その後、何度か再演されています。劇伴作曲が「歌の町」(よい子が住んでるよい町は……)などの作曲でも知られている小村三千三。そのあたりについてまとめました。
009
・高村光太郎初出索引
現在把握できている公表された光太郎文筆作品、挿画、装幀作品、題字揮毫等を、初出掲載誌によりソート・抽出し掲載しています。 掲載順は発表誌の最も古い号が発行された年月日順によります。以前は掲載紙タイトルの50音順での索引を掲載しましたが、年代順にソートし直して掲載しています。今号では昭和2年(1927)に初出があったものを掲載しました。この年、一気に寄稿先が増えています。

・第六十七回連翹忌報告
コロナ禍により3回連続で中止としていた4月2日の連翹忌の集いを今年再開させましたので、そのレポートも復活しました。
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ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。申し訳ありませんが手数料はご負担下さい。

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ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】013

右の親指がまだ少し不自由なので字がいく分平常と違つてゐるでせう、


昭和15年(1940)11月5日
 更科源蔵宛書簡より 光太郎58歳

更科の詩集『凍原の歌』の題字を揮毫したことに関わります。この頃、右手の親指に腫れ物ができ、各種執筆に不自由を来していました。確かにこの種の光太郎揮毫としては、あまり上手くない文字です。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の広報誌『広報はなまき』、9月15日号に光太郎が2箇所。

最終ページの連載「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」では、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の光太郎書「大地麗」が取り上げられています。
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記事にあるとおり、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隠棲中の昭和25年(1950)、村役場の新築落成記念に贈られた書です。

ただし「快諾」とは行かなかったようで……。以下、佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』から当時の村長・高橋雅郎の談話を元にした一節。

 いよいよ落成したので、先生に何か記念の額を書いていただきたいと思ったのでしたが、役場のできたのは十一月の末の頃の相当寒い時で、先生はすでに筆をおさめて、今年中は何も書かないという時でした。山口小学校の校長さんの浅沼さんなどが行ってたのんでも到底書いてもらえまいし、村長が自身行ってもおおよそことわられるだろう、結局この使は線のやさしいそして先生が気楽にものを考えられるであろう女の人がよいではないかとなりました。
 村長さんは、奥さんのアサヨさんに「書いてもらう使は、しょっちゅう先生のところへ出入りして気のおけないお前がいいよ。お前にいってもらうことだな。うまく引き受けてくれればいいし、ことわるにもお前だら先生も気楽だろう。」ということで、アサヨさんが使に行きました。間もなく帰ってき、「承知しました。」という返事に村長さんは飛上がるほど喜びました。


その後、光太郎、翌年1月の『婦人公論』に、この書に関する詩を寄稿しました。
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   大地うるはし

 村役場の五十畳敷に
 新築祝の額を書く。
 「大地麗(だいちうるはし)」、太い最低音部(バス)。
 書いてみると急にあたりの山林が、
 刈つたあとの萱原が、
 まだ一二寸の麦畑のうねうねが、
 遠い和賀仙人の山山が
 目をさまして起き上がる。
 半分晴れた天上から
 今日は初雪の粉粉が
 あそびあそびじやれてくる。
 冬のはじめの寒くてどこか暖い
 大地のぬくもりがたそがれる。012
 大地麗(だいちうるはし)と書いた私の最低音部(バス)に
 世界が音程を合せるのだ。
 大地無境界と書ける日は
 烏有先生の世であるか、
 筆を投げてわたくしは考へる。


「烏有先生」は、漢の司馬相如「子虚賦」に登場する架空の人物。「烏有」は訓読すれば「烏 ( いづ ) くんぞ有らむや」、反語で「どうして有るだろうか、いや、有るはずがない」の意。大地に国境が無くなることは現実にはあり得ないのだろうか、ということになります。

『広報はなまき』にも記述のある役場の落成式典で撮られた写真がこちら。

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ところで、写真と言えば、『広報はなまき』に載った写真。
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光太郎、先述の高橋雅郎村長、そして当時の村議会議長。現在、花巻で宮沢賢治の顕彰活動等にも取り組まれている泉沢善雄氏の大伯父さま(お祖父様のお兄様)だそうで、驚きました。
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さて、『広報はなまき』。光太郎の名がもう1件出て参りますが、長くなりましたので、明日。

【折々のことば・光太郎】

今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく恢復してくれればいいと念じてゐます、


昭和13年(1938)10月5日 長沼セン宛書簡より 光太郎56歳

千葉九十九里浜に移り住んでいた、智恵子の実母・セン宛書簡から。「うまく恢復してくれればいい」との願い空しく、宿痾の粟粒性肺結核のため、この日の夜遅く、智恵子は亡くなりました。

この書簡が書かれた直後、かの「レモン哀歌」に描かれた情景が実際にあったのだと思われます。

    レモン哀歌
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう

昨日、光太郎自身の書について書きましたが、光太郎詩を書いて下さった作品も含まれる現代の書の展覧会が長野県で開催中でした。気づくのが遅れ、明日までです。

表具師北岡芳仙洞 創作箔アートパネル展

期 日 : 2023年9月2日(土)~9月11日(月)
会 場 : かんてんぱぱガーデン 長野県伊那市西春近広域農道沿い
時 間 : 9:00〜17:00 最終日は13:00まで
料 金 : 無料

染めた和紙と織物に金銀箔をあしらった屏風やパネルなど200点以上。

和紙と織物を染め、金銀箔をあしらった唯一無二の作品を展示販売いたします。新作六曲一双屏風や新作パネル・行燈・花掛・置時計など多種多様です。表具師古来の糊と技法を生かした新しい表現の数々。全ホール使用の展覧会は二回目となります。みなさまのご清遊を心よりお待ち申し上げております。

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長野県北部の中野市にお店を構えられている芳仙洞さんという老舗表具店さんの主催。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を書家の方が書かれた作品も展示されているそうです。
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長野市の書家、久保皐泉さんとの共作。高村光太郎の「道程」。墨染、絹、銅箔。何度も書き直したという久保さん。久保さんの作品の中でも異色ですが、とてもシックな仕上がりではないかと。広い会場でその雰囲気を是非、感じて頂けたらと思います。

横長の作品ですが、なるほど、マクリの状態ではなく、きれいに表装されているようです。茶色っぽい部分が銅の箔なのですね。へーっと思いました。

書の方は詩の内容が内容だけに雄渾な感じで、てっきり男性の作品かと思い込んでいましたが、久保さんという方、女流の書家だそうです。意外といえば意外でした。そういう決めつけがジェンダー平等に反するのかも知れません。

書家の皆さんには、光太郎詩文、どんどん取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日は岡倉先生の珍しき写真一葉お貸し下され難有存じます。團十郎製作後に天心像を作りたく、その時の参考に暫く拝借いたします、


昭和12年3月31日 松下英麿宛書簡より 光太郎55歳

「岡倉先生」は岡倉天心、「団十郎」は九代目市川團十郎。南品川ゼームス坂病院に智恵子を入院させたことによって、彫刻制作の時間が取れるようになりました。しかし團十郎像は九分通り出来上がったものの、未完。天心像は着手したのかどうかも確認できていません。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん、一昨日の一面コラムで光太郎をメインに取り上げて下さいました。

河北春秋(9/7):「いくらまはされても針は天極をさす」。

「いくらまはされても針は天極をさす」。花巻市の高村光太郎記念館に展示される高村光太郎(1883~1956年)の書は言葉の雄大さ故、全懐紙ほどの実物以上に大きい印象を与える。地元の山口小(現太田小)の校訓を揮毫(きごう)した「正直親切」は達筆というより誠実そのもの。児童が書いたようですらある▼光太郎は「書はあたり前と見えるのがよいと思ふ。無理と無駄との無いのがいいと思ふ」とつづった。太平洋戦争中に戦意高揚の詩を作ったことを悔いた光太郎は戦後、最後の作品である十和田湖畔の『乙女の像』(53年)まで彫刻の制作には慎重だった。その分、従前に増して書に意欲を見せた▼光太郎の書を「実に味わいがあり、まさに見ていて飽きない」と愛するのが仙台市の作家伊集院静さん。書にまつわるエッセー集『文字に美はありや。』は、書に伝わる「人の哀しみ」に美を見いだす▼第70回河北書道展があす開幕する。戦争の傷跡がまだ残る54年に産声を上げた。東日本大震災、新型コロナウイルス禍に直面しても中止せず、喜怒哀楽を伝えてきた▼光太郎はこうも記している。「直接書いた人にあふやうな気がしていつでも新らしい」。古希を迎える書の杜で、困難にも辛抱強く、ぶれずに生きる東北の人々に会いたい。(2023・9・7)

花巻の高村光太郎記念館さんで展示されている光太郎書を取り上げて下さいました。その評もなかなか的確ですね。

言葉の雄大さ故、全懐紙ほどの実物以上に大きい印象」という「いくらまはされても針は天極をさす」。戦後の花巻郊外旧太田村蟄居時代に書いた色紙です。
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「ぶれない自分」というものを表象しようとしたものでしょう。世の中が戦時に突入すると、ぶれる、というか、豹変した光太郎ですが。

この語は揮毫等で好んで使いました。おそらく初出は昭和2年(1927)に書いたたった2行の詩「詩人」。

いくら目隠をされても己は向く方へ向く。 いくら廻されても針は天極をさす。
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おそらくそう離れていない時期に、この語を刻んだ木皿も残されています。

木皿は光太郎実弟の鋳金家・豊周により、ブロンズに鋳造されて、戦後の高村光太郎賞牌として受賞者に授与されました。
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また、同じ趣旨の「針は北をさす」と揮毫された書が、岩手県奥州市の人首文庫さんに現存します。

達筆というより誠実そのもの」「児童が書いたようですらある」と評された「正直親切」はこちら。
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昭和23年(1948)に、蟄居していた山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格し、光太郎が校訓として贈ったものです。横書きで現代風に左から右、一年生の児童にも読めるようにと新仮名遣いでルビも書き込みました(拗音を一回り小さいサイズで書くというルールはまだ定着していなかったようです)。

この文字を刻んだ碑が、確認出来ている限り全国に三基。花巻の山口小学校跡地、埼玉県東松山市の新宿小学校さん(同市元教育長の故・田口弘氏肝煎り)、荒川区立第一日暮里小学校さん(光太郎母校)です。
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三基のみならず、日本中の全ての小学校さんに設置していただきたいものです(笑)。あるいは永田町の衆参本会議場とか議員会館とかにも(笑)。

『河北新報』さんん、伊集院静氏の『文字に美はありや。』にもふれられています。こちらでも光太郎書が取り上げられています。

さて、秋となりました。「芸術の秋」とうことで、各地で書道展なども多くなってくることでしょう。今回の『河北新報』さんコラムも同社主催の「河北書道展」にからめての光太郎紹介でした。同展、「近代詩文」部門もあり、光太郎詩を書いた作品が入賞しているかな、と思いましたが、残念ながらネット上で見られる上位入賞作品にはありませんでした。おそらく各種書道展で、光太郎詩文を書いて下さるかたが少なからずいらっしゃると存じますが、ぜひとも光太郎曰くの「あたり前と見える」「無理と無駄との無い」書でお願いしたいところです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子も春子さんの看護になつてから前よりもよい様に見うけられます。しきりと手芸をやつて居る様です。


昭和12年(1937)2月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎55歳

「手芸」は、奇跡と言われた紙絵の制作と思われます。智恵子の生命、あと1年半あまりですが、その間に千数百点の紙絵を作りました。
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2ヶ月近く経ってしまいましたが、新刊です。

ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界

2023年6月18日 佐藤広野編 コスミック出版 定価1,500円+税

 美しいイラストで彩られたガラスペンを愉しむためのなぞり書きBOOK
 
実際にインクで描かれた挿絵で鮮やかに彩られたページでお送りする、ガラスペンとインクを心ゆくまで愉しめる一冊です。宮沢賢治からアンデルセン童話まで、魅力的な文学を幅広く収録。後半ページには本文イラストを使用した&カードつき。切り離してお楽しみいただけます。
 
用紙が途中で変わる仕様となっており、さらっと、ざらっと、つるっと、3種類の用紙が愉しめます。
インク馴染みの良い、書き心地を重視した用紙をセレクトしました。
 
▽イラストレーター
惠/シーナケイ  定岡恵  ハコペン  模様デザイナーmaya
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目次
 本書の使い方
 第一章 星と夜空の文学
  銀河鉄道の夜 宮沢賢治
  夢十夜 夏目漱石
  あのときの王子くん アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
  星とピエロ 中原中也
  湖上 中原中也
  山月記 中島敦
  春夜 萩原朔太郎
 第二章 花と果実の文学
  一握の砂 石川啄木
  桜の樹の下には 梶井基次郎
  桜の森の満開の下 坂口安吾
  檸檬 梶井基次郎
  蜜柑 芥川龍之介
  或阿呆の一生 芥川龍之介
  たけくらべ 樋口一葉
 第三章 恋と罪の文学
  初恋 島崎藤村
  舞姫 森鷗外  
  女生徒 太宰治
  こころ 夏目漱石
  駆け込み訴え 太宰治
  蜜のあはれ 室生犀星
  人に 高村光太郎
  レモン哀歌 高村光太郎

  春琴抄 谷崎潤一郎
 第四章 海の向こうの文学
  赤ずきん グリム兄弟
  幸福の王子 オスカー・ワイルド
  はつ恋 イワン・ツルゲーネフ
  ロミオとジュリエット ウィリアム・シェークスピア
  人魚の姫 ハンス・クリスチャン・アンデルセン
  不思議の国のアリス ルイス・キャロル
  白雪姫 グリム兄弟
 レター&カード 切り離し付録
 作家紹介


最近流行りのガラスペン――その名の通り、ペン先(多くは本体も)がガラスで出来ているペンです。毛細管現象を利用する漬ペンという意味では、万年筆と似ていますが、ペン先が金属ではなくガラスなので、独特の風合いが醸し出されます。日本発祥で意外と歴史は古く、明治35年(1902)に風鈴職人・佐々木定次郎が発明したとされています。

本書は有名な文学作品の一節を、ガラスペンでなぞって書いてみよう、というコンセプトで、上記作品が1~2ページずつ引用され、薄く印刷されています。ちなみにそのフォントもいろいろです。バックの枠的なイラスト部分も、4人の作家さんがガラスペンで描いたものとのこと。
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光太郎詩が二篇、「人に」(大正元年=1912)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。

X(旧ツィッター)上で、この手の文学作品等の一節(多くは青空文庫さんで公開されているもの)を様々な筆記具で書いて投稿する、という「#○○書写」というハッシュタグが存在し、時折、光太郎作品、光雲作品が取り上げられています。なかなかの力作もあり、「いいね」を押させていただいております。

「書道」とまではいかないのかもしれませんが、新しい「書字」の一つの潮流として、かなり定着しているようですし、こうした流れにも敏感な書家の石川九楊先生あたり、「#○○書写」論を展開していただきたいところです。

さて、『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさん少々ぼんやりしてゐましたがひどく悪くなくて喜びました。あの筆にはまつたく驚きました。かういふところは全く天才的だと思ひます。それだけまた頭のくるふ事もあるのだとおもはれます。ちゑさんの天才を十分に発揮する事ができたら素晴らしいでせう。


昭和9年(1934)7月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心を病んだ智恵子を預かって貰っている、九十九里の智恵子実母宛。「あの筆にはまつたく驚きました」は、智恵子がまた絵でも描いたのかと思ったのですが、『高村光太郎全集』の解題に依れば、黒松の芽で筆を作ったのだそうです。それが驚くような出来だったということでしょう。

「ちゑさんの天才を十分に発揮する事」。まだこの時期の智恵子は有名な「紙絵」は作っていません。

昨日開幕の企画展示です。光太郎の書簡が複数展示されています。

第67回企画展「いわての芸術家の手紙」

期 日 : 2023年2月21日(火)~6月12日(月)
会 場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
時 間 : 午前9時から午後6時 まで
休 館 : 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 一般200円(160円) 高校生100円(80円) 中学生以下無料
      ( )内20人以上団体料金

 芸術家の手紙は、彼らが創り出した作品とは違った魅力を持っています。 制作の苦労や喜びがつづられた手紙は、 作品への理解を深める手がかりになります。 また、 芸術家の人となりを知ることのできるユーモラスな内容の手紙や、送り手への気遣いを感じる手紙もあります。

 本展では彫刻家の高村光太郎が県立美術工芸学校校長の森口多里に送った手紙をはじめ、深沢紅子、舟越保武といった岩手ゆかりの芸術家の手紙を通して、その業績や作品を紹介します。
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ギャラリートーク
開催日  令和5年3月21日(火曜日) 、令和5年5月23日(火曜日)
開催時間 午後2時から午後2時45分まで
対象   どなたでも
開催場所 盛岡てがみ館 展示室
内容   当館館長と学芸員が展示解説をします。
申し込み 必要
 令和5年3月21日(火曜日)は令和5年3月11日(土曜日)、令和5年5月23日(火曜日)は令和5年5月10日(水曜日)のいずれも午前10時から、電話(019-604-3302)で先着順に受け付けます。
費用   必要 上記企画展と同じ
定員   8人(新型コロナウイルス感染症の状況に応じて変更する場合あり)

同館、『高村光太郎全集』にもれていた光太郎書簡(同館の御厚意により当方編集の「光太郎遺珠」には所収)、多数所蔵されており、これまでもたびたび展示して下さっています。

盛岡てがみ館、第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」。
東北レポートその4(盛岡編①)。
盛岡てがみ館 第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」。

また、光太郎詩稿も。

盛岡てがみ館 第51回企画展「文豪たちの原稿展」/花巻高村光太郎記念館図録『光太郎 1883―1956』。

今回は石川啄木顕彰に功績のあった吉田孤羊、岩手県立美術工芸学校長だった森口多里に宛てた書簡など。いずれもペン書きの気負わない書体ですが、それだけに光太郎の普段着の人柄がにじみ出るようなものです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

外国に参りてより既に三年。しかも業得る所の多くは埃に似たる末技のみ。自らかへりみて深く之を恥ぢ申候。唯以前よりは稍自らを知り得る様になりたるかと存じ、以て心を慰め居る事に御座候。


明治42年(1909)1月25日 平櫛田中宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学も終盤、この年6月には帰国の途に就きます。「業得る所の多くは埃に似たる末技のみ」、謙遜ではなく、実際それに近い感覚だったと思われます。上っ面だけ学んで全てを会得した気になる軽薄な輩と異なり、自分に厳しい光太郎の一面も、大きな魅力の一つです。

昨日は都内に出ておりました。

まずは六本木の国立新美術館さんへ。お世話になっている書家の菊地雪渓氏が出品なさっていた「東京書作展 選抜作家展2023」を拝見に。
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いろいろバタバタしていまして、最終日の観覧となってしまいました。
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菊地氏、たびたび光太郎詩を題材にされた作品を書かれ、各種展覧会で内閣総理大臣賞等を獲得なさったりしています。


今回の作は光太郎ではなく、漢詩。蘇軾の「漁父」だそうで。
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相変わらずお見事でした。

直接存じ上げない方ですが、「智恵子抄」所収の光太郎詩「梅酒」(昭和15年=1940)を書かれて出品なさった方も。
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ありがたし。

続いて、品川区大井町へ。

平成30年(2018)に開催された、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻電鉄」に際し、光太郎が彼の地にいた頃のジオラマ制作をお願いした石井彰英氏がミュージシャンでもあらせられ、お仲間の方々とご自宅でコンサートを開かれるということで参上しました。

ジオラマは花巻高村光太郎記念館さんで現在も展示中。
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氏のご自宅に伺う前、寄り道を。

大井町といえば、智恵子終焉の地、ゼームス坂病院があった場所。跡地には「レモン哀歌」(昭和14年=1939)詩碑が建っています。当方、何度も訪れた場所ですが、久しぶりに行ってみました。
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大井町駅方面からゼームス坂を下り、下りきる少し前を左に。
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ゼームス坂の由来を記した碑。

そしてその向かいに「レモン哀歌」詩碑。23区内では唯一の光太郎詩碑です。
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いつもレモンが供えられています。多謝。
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この碑、智恵子の推定身長と同じ高さ(150㌢ほど)だそうで。
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右上は、過日発見した光太郎智恵子の立ち姿写真です。智恵子が小柄だったことがよくわかります。

その後、石井氏邸に向かう道すがら、「お江戸鎧せんべい岩本米菓」さんへ。こちらでは智恵子にちなみ、「品川浪漫 レモン愛菓」というおかきを製造販売して下さっていますので、それをゲットしようと思いまして。
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しかし、残念ながら日曜定休でした。
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いずれリベンジを、と心に誓いました(笑)。

ちなみにすぐ近くでは、早咲きの桜もちらほら。
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つい4日前、マイナス9℃の世界にいたのが嘘のようで(笑)。

そして石井氏邸に到着、コンサートを拝聴。
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石井氏が制作された「高村光太郎ジオラマDVD」で、音楽やナレーションを担当なさった方々も多数ご出演。
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石井氏、人脈の広い方で、かの長嶋茂雄氏やファイティング原田氏などともご昵懇ですし、この日聴きにいらした方々も、一流レストランのシェフ氏、国民的アイドルのお母さま、「モンスター」と称されているボクシング選手の関係者の方などなど、実に多士済々でした。

最初の書道展の件を含め、皆様方の今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

About what you write in your leter on life, I understand quite clealy. Yes, one must conquer oneself first, as you say. But after conquered, one must put oneself at large. Like water, and like wind, free yet not disordered, ruled yet spontaneous, one must be. One must learn everything in life or in Art., and must forget everything. One must go up to the top of the mountain, and must go down again, One must see the sky when one look at the sea.


明治41年(1908)7月20日 バーナード・リーチ宛書簡より 光太郎26歳

ロンドンで知り合い、この後、来日して陶芸家となるバーナード・リーチ宛書簡から。

『高村光太郎全集』でのこの部分の翻訳は以下の通りです。

人生について君が手紙に書いていることは、僕にもよくわかる。そう、君の言う通り人はまず自分に勝たなければならない。でもその後で自分を解放することが必要です。水のように、風のように、自由でしかし乱れず、理法の支配は受けるが、しかし自然でなければなりません。あらゆることを人生において、芸術を学び、そしてすべてを忘れること。頂に登り詰めたら、またもう一度山を下るのです。海をながめるときには、空も見なければならないのです。僕はそう信じます。

英文の方は、歌詞にでもできそうな一節ですね。

既知のものですが、光太郎書簡が展示されます。

茨城大学五浦美術文化研究所所員企画展2022 「つなぐ人 つなぐ文―手紙に「見る」そのひとらしさ―」

期 日 : 2022年11月8日(火)~11月21日(月)
会 場 : 茨城大学図書館本館1階展示室 茨城県水戸市文京2-1-1
時 間 : 10:00~16:45
休 館 : 11月13日(日) 11月19日(土) 11月20日(日)
料 金 : 無料

その人らしさが表れる手紙。手紙は当事者間でやり取りするものですから、本来なら本人以外は見ることができないものです。本展は、横山大観、木村武山など五浦ゆかりの画家や大観が認めた小川芋銭、高村光太郎などの手紙に表れる「そのひとらしさ」に触れてみようという企画です。彼らの手紙は草書や変体仮名が使われ、しかも筆を走らせているため、知識がないと「読めない」です。でも、「線」や「書きぶり」を見ることはできます。太さ、細さ、強さ…様々な表現に感じられる「そのひとらしさ」を体験して「読まない」鑑賞をしてみませんか。

ぜひお誘いあわせの上、ご来場ください。

※事前予約が必要です。入場申込 からお申し込みください。)。
※新型コロナウイルス感染症の影響を鑑み、例年より規模を縮小しての開催といたします。
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関連企画

「つなぐ人 つなぐ文―手紙に「見る」そのひとらしさ―」記念講演会
 会  場 : 茨城大学 図書館 本館3階 ライブラリーホール
 会  期 : 令和4年11月12日(土)
 開演時間 : 13:25~15:50
 講演1 「小川芋銭の芸術」 小泉晋弥(茨城大学名誉教授・美術評論家)
  大観はなぜ、芋銭を日本美術院同人に推挙したのか、
  その問いから、明治から大正にかけての日本画の展開を考えてみます。
 講演2 「光太郎と宮崎稔」 安裕明(茨城県立多賀高等学校講師)
  高村光太郎と小川芋銭を繋いだ宮崎稔。取手の宮崎仁十郎、稔父子を通じ、
  芋銭と光太郎の交流についてお話しします。

  ※開場は13:10~となります
  ※事前予約が必要です。参加申込 からお申し込みください。
  ※先着順となりますので、予めご了承ください。

展示される光太郎書簡は、昭和17年(1942)2月28日付のもの。茨城取手の詩人・宮崎稔に送られた葉書です。宮崎は戦後、光太郎の仲介で、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚しています。
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光太郎が落款等に愛用していた、齋白石制作の印について述べられており、興味深い内容です。また、内容のみならず、味わい深いその文字も魅力的ですね。

関連企画の講演会でも、宮崎と光太郎について触れられるようです。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

麻布中学生20人相模湖にて遭難のラジオ、


昭和29年(1954)10月8日の日記より

この頃の光太郎日記には、ほとんど社会情勢などに関する記述がないのですが、この日は別でした。後に「内郷丸遭難事件」と呼ばれるようになる事故で、新制麻布中学校の生徒22名が、相模湖で載っていた遊覧船の沈没により亡くなったという痛ましいものです。前途有為な少年たちの死ということで、よほど印象に残ったのでしょう。

大阪から書道展の情報です。

第28回游心会書道展-智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界

期 日 : 2022年10月25日(火)~10月30日(日)
会 場 : 日本民家集落博物館 大阪府豊中市服部緑地1-2
時 間 : 9:30 ~ 17:00 
休 館 : 会期中無休
料 金 : 博物館としての入館料 大人500円 高校生300円 小・中学生200円

恒例の書道作品を中心とした展覧会。今年のテーマは「智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」。
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会場の日本民家集落博物館さんは、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示するために昭和31年(1956)に、日本で最初に設置された野外博物館だそうです。
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この中の4棟を使って、地元の書道会・游心会さんの方々の作品展で、軸装を中心に約50点だそうです。代表の畑中弄石氏は、毎日書道展審査会員を務められているとのこと。

各人、てんでバラバラに書題を選ぶのでなく、会として「智恵子抄を中心に-高村光太郎の世界」だそうで、なるほど、そういうやり方もあるんだな、と感心しました。同会、過去には宮沢賢治や石川啄木の詩歌文などで同様の試みをやられているそうです。

古民家を会場にというのもいいですね。

是非足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

終日ベッド上、 近所の電気屋さん来てベッドと中西さん宅とに呼鈴をつける、

昭和29年(1954)7月13日の日記より 光太郎72歳

「中西さん」は、光太郎終の棲家となった中野の貸しアトリエと同じ敷地内の大家(おおや)さんです。今で言うナースコールのようなものでしょう。

戦前には雑誌『白樺』、戦後には同じく『心』等を通じての、光太郎の盟友であった武者小路実篤を顕彰する調布市武者小路実篤記念館さんでの企画展示です。

秋季展「作家の筆跡(ひっせき)」所蔵原稿名品展

期 日 : 2022年9月3日(土)~10月10日(月・祝)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜が祝日の場合は直後の平日)
料 金 : 大人 200円 小中学生 100円

当館が所蔵する500点近い原稿資料。本や雑誌に載せられた作品とは違い、残された作家の筆跡、推敲の跡からは、執筆時の悩みがありありと伝わってきます。本展覧会では実篤の代表作と言われる作品の原稿をはじめ、当館が所蔵する実篤以外の作家や画家の原稿も展示します。使われた用紙や、作家本人・編集者からの書込み、作家ごとの字の違いなど、原稿ならではの魅力をお楽しみください。


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実篤以外の作家たちの作品も出展されており、われらが光太郎の書も1点出ています。

短冊で「鐘の鳴るのをきゝに ロオマに行きたい」。光太郎が訳した『ロダンの言葉』の一節です。大正期書かれたもの。関西の方で行われた書の頒布会的な催しのために書かれたと推定されます。

昨年、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示させていただきました。美しく軸装されています。
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さらに光太郎の書ではありませんが、実篤の書いた光太郎追悼文(昭和31年=1956)の原稿も出ているとのこと。実篤は光太郎の逝去に際し、複数の追悼文を頼まれて各紙誌に発表しており、そのうち河出書房刊行の『文藝 臨時増刊 高村光太郎読本』に寄せたものです。掲載紙でのタイトルは「白樺と高村君」と成っていますが、草稿では「高村光太郎君」だそうで。

他にもいろいろ逸品が並んでいることと存じます。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝雪ふる、 車で送られ花巻駅、温泉の重役等、花巻、山口の人等他数見送り、十時半の「みちのく」にて帰京、 夜八時半上野着、直ちにタキシにてアトリエに帰り、後近所にて夜食をとる、


昭和28年(1953)12月5日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻でしたが、11日間の滞在でした。

他数」は「多数」の誤りですね。
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「来春六月にはまた帰るよ」と言い残して岩手を後にした光太郎。リップサービスではなく、実際に寒い時期には東京中野の貸しアトリエで、季候が良くなったら花巻郊外旧太田村の山小屋で、と、二重生活を目論んでいました。しかし、健康状態がそれを許さず、結局、この後東京を離れることはありませんでした。

「九州に建てる胸像」は、未完のまま絶作となった「倉田雲平像」です。

7月9日(土)、神楽坂の矢来能楽堂さんで開催された「癒しの響き 鐘シンフォニーへの誘い CD発売記念コンサート in矢来能楽堂」に向かう前、久々に神田の古書街を歩きました。

まず向かったのは東京古書会館さん。こちらでは7月8日(金)、9日(土)の二日間、明治古典会さん主催の「七夕古書大入札会一般下見展観」が開催されていました。
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国内最大規模の古書市で、出品物を手にとって観ることができる催しです。コロナ禍のため、一昨年は中止、昨年は勝手に「今年も中止だろう」と思いこんでいたら、実は規模を大幅に縮小して開催されていました。そんなわけで、3年ぶりでした。

今年も昨年並みに縮小しての開催だったようです。以前は4フロアぐらい使って出品物を所狭しと並べていたのですが、今年は2フロアのみ。「文学」カテゴリと「美術」カテゴリ(一部)が同じフロアという、以前では考えられない寂しさでした。昨年もこんな感じだったのでしょう。目録も昨年同様、以前の半分以下の薄さでした。

今回は光太郎メインの出品物はなし。目録掲載品以外の「追加出品」があった年もあり、会場の方に訊いてみましたが、今年はそれも無し。

間接的に光太郎智恵子に関わるものとして、光太郎が題字を揮毫した中原中也の『山羊の歌』(昭和9年=1934)、篠田桃紅さんの書で松竹映画「智恵子抄」の題字等。
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『山羊の歌』はガラスケースに入っていました。係の方にお願いすればケースの鍵を開けて出して下さるのですが、まぁいいや、と思い、ケースの外から拝観。

篠田さんの書は、額に入って壁に掛けられていました。入札最低価格が80万円、ネームバリューの割に安いな、と思っていたのですが、見て納得。ちょっと状態が良くありませんでした。それでも大きな書で、いかにも篠田さんという素晴らしい墨痕。軸装にでもして、二本松の智恵子記念館さんあたりに収蔵展示されればいいのにな、と思いました。

その他、大正から昭和初期のマイナーな映画雑誌などがまとめて出ており、もしかすると光太郎の寄稿があるかも、と、一冊ずつ目次を確認しましたが、残念ながら有りませんでした。

余談になりますが、昨年の七夕古書大入札会で出品された、光太郎から和歌山の編集者・東正巳という人物に送られた葉書21通、個人の収集家ではなく、業者さんが落札したようです。
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そしてその業者さん、ネットオークションで1通ずつ小出しにして分売しています。光太郎の直筆葉書なら欲しい、しかし個人では数十万円で数十通という出品物には手が出ない、という方々のニーズに合致しているようで、一通数万円程度で落札されているようです。昨年の入札最低価格は20万円、それでは落ちなかったと思いますが、そのでもこのように分売して1通数万円で売り続けられれば、業者さんは大もうけでしょう。参考までに。ちなみに当方、『高村光太郎全集』等に掲載済みで、内容が分かっているものは入手しない方針でいます。

古書会館さんを後に、靖国通りの古書街へ。
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光太郎をメインに扱った書籍はほとんど入手済みですし、そうでないものも図書館さん、文学館さん等でデジタル資料なり紙の実物なりをコピーして、必要な部分を入手するのが主流となっており、以前より足を向けなくなっていましたが、時折、面白いものが手に入ります。

この日、入手したのは下記の2冊。

まずは『《挨拶》草野天平の手紙』(昭和44年=1969 弥生書房)。
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当会の祖・草野心平の実弟にして、やはり詩人だったものの、数え43歳で早世した草野天平の書簡集です。大部分は心平ら家族・親族、当方の知らなかった友人宛のものでしたが、戦後、光太郎に宛てた書簡も3通掲載されていました。うち1通(昭和22年=1947)は巻頭口絵として画像も。
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この時期の光太郎への来翰は、ほぼすべて当会顧問であらせられた故・北川太一先生が保管されていたはず、と思っておりましたところ、案の定、後記的な箇所に、北川先生から提供を受けて掲載した旨の記述がありました。

天平、兄の心平よりマトモな人物(笑)というイメージでしたし、実際そうだったのでしょうが、意外と歯に衣着せぬ物言いもしていたんだな、という感じでした。特に光太郎が自らの戦争責任を自省して書かれた連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)への感想など、光太郎を思う余り、かなり手厳しい文言も。曰く「先生、何故このやうな詩をお書きになつたのですか。あれは詩ではありません。」「戦争中、皆立派ではありませんでした。たとへ先生がどんなことを戦争中に書かれたにしろ、戦争中にこの国の米を食つたものは、又はこの地に足をつけてゐた者は、一言たりとも何も言へない筈です」云々。

その他、心平や、天平の妻・梅乃による回想等もなかなか興味深く、これは一冊丸ごと読んでもいいなと思い、購入いたしました。

さらにこちら。
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山梨県立文学館さんで、平成4年(1992)に開催された企画展「与謝野晶子と「明星」」の図録です。同館では晶子メインで平成25年(2013)にも「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催していまして、拝見して参りましたが、それ以前にも晶子展をやっていたとは存じませんでした。

「「明星」の人々」ということで、光太郎に関しても出品物があり、図録でも5ページ、光太郎に割いて下さっていました。特に目新しいものは有りませんでしたが、一点だけ、「おっ」と思ったのが、明治33年(1900)、光太郎数え18歳のスケッチ。父・光雲を描いたものです。
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『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 春秋社)に、小さくモノクロの画像が載っていましたが、こちらはそれより大きく、細かな部分が観察出来ます。

北川先生による『高村光太郎 造型』の解題から。

 明治三十三年五月の日付を含むスケッチブックが現存する。表紙裏を含めて一二〇頁ほどのものだが、主として鉛筆、時に墨、色鉛筆、水彩着色等で、人物、風景、フランス語の断片等が書き込まれている。数え年十八歳、美術学校二年、まさに歌人砕雨が誕生するあたりの習作

砕雨」(さいう)は、『明星』に短歌を寄稿の際、光太郎が使った号です。

このスケッチブックは、平成2年(1990)、茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光太郎・智恵子 その造型世界」展に出品され、一部は拝見しましたが、全貌は当方も未見です。他にも光太郎のスケッチ類はいろいろ残っており、全体を複製して出版するなり、スケッチや絵画に特化した企画展なりが開催されてもいいような気もします。

この手のちょっとした掘り出しものがあるので、やはり神田古書街あなどりがたし、ですね。

この日はさらに、神田古書街へ向かう前に谷中霊園を訪れました。そちらについては、明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小雨つつく、 奥平さんくる、午前石膏屋さん2人くる、


昭和28年(1953)6月7日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏による型取りが始まりました。「奥平さん」は親しくしていた美術史家の奥平英雄です。見物というか見学というかに来たのでしょう。

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