京都府の書画骨董店・思文閣さん。代表取締役の田中大氏は、テレビ東京系「開運! なんでも鑑定団」鑑定士のお一人としてご活躍中です。
年に数回、「大入札会」と銘打ち、「下見会」として展示を行った上でのオークション形式での販売にも力を入れられています。昨年は光太郎の父・光雲の木彫「聖徳太子像」や光雲の書なども出品されました。
当方、だいぶ以前にオークション形式でない出品物(楠公銅像の錦絵――一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。)を一度購入、それから同社刊行の書籍を3回程購入しました。平成8年(1996)に思文閣美術館さんで開催され、観に行けなかった智恵子抄展の図録、同じく平成23年(2011)に大阪の逸翁美術館さんでの「与謝野晶子と小林一三」展の図録。後者は平成30年(2018)に神奈川近代文学館さんで開催された特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」にも出品された光太郎と晶子のコラボによる屏風絵2種が載っており、亡き北川太一先生に頼まれて2冊買いました(どちらもまだ在庫があるかも知れません)。
その程度の購入歴なのですが、思文閣さん、律儀に毎回目録を送って下さっています。オークション形式でない通常の販売品の目録も。恐縮です。
で、今月開催の大入札会の目録も。
手元に届く前にネット上の情報で知り、仰天していたのですが、今回、光太郎の書が2点出ています。
2点とも色紙ですが、まず短歌「吾(われ)山に流れてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり」。
もう一点は詩、というか七五調四句の今様スタイル。
「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。
どちらも「中原綾子旧蔵」のキャプション。中原綾子といえば、つい先だって、令孫から光太郎の中原宛書簡がごっそり花巻市に寄贈されました。その際に、「書は寄贈されませんでしたか」と問い合わせたところ、「それはなかった」とのことでした。なぜそんな質問をしたかというと、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)に、光太郎の書が2点、口絵として使われていたためです。
1点は「不可避」と書いたもの。
そしてもう1点が、今回、思文閣さんで出品している「観自在こそ」です。
これが出て来たので、仰天した次第です。
「不可避」は思文閣さんの出品に含まれず、逆に思文閣さんで出している「吾山に」の書は中原の著書に使われていません。
ちなみに「吾山に」「観自在こそ」「不可避」、それぞれ光太郎が戦後に好んで書き、複数の揮毫が知られています。その意味では新発見ではありませんが。
さて、冒頭近くに書いた通り、下見会が昨日から開催中です。
それから、先回りしておきますが、光太郎書を落札された方、死蔵にならないよう、依頼があれば快く貸し出すといった対応をしていただければと存じます。
当会の祖・心平らは、花巻郊外旧太田村での光太郎のある意味凄惨な蟄居生活を見て、何よりその身体を心配し、再三、上京を促しました。
この頃には後に光太郎が借りる中野のアトリエ(現在、保存運動を行っております)が貸し出され始めたと思われますが、そういうシステムはおそらくそれまでに無く、心平も光太郎も気づかなかったのではないでしょうか。
年に数回、「大入札会」と銘打ち、「下見会」として展示を行った上でのオークション形式での販売にも力を入れられています。昨年は光太郎の父・光雲の木彫「聖徳太子像」や光雲の書なども出品されました。
当方、だいぶ以前にオークション形式でない出品物(楠公銅像の錦絵――一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。)を一度購入、それから同社刊行の書籍を3回程購入しました。平成8年(1996)に思文閣美術館さんで開催され、観に行けなかった智恵子抄展の図録、同じく平成23年(2011)に大阪の逸翁美術館さんでの「与謝野晶子と小林一三」展の図録。後者は平成30年(2018)に神奈川近代文学館さんで開催された特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」にも出品された光太郎と晶子のコラボによる屏風絵2種が載っており、亡き北川太一先生に頼まれて2冊買いました(どちらもまだ在庫があるかも知れません)。
その程度の購入歴なのですが、思文閣さん、律儀に毎回目録を送って下さっています。オークション形式でない通常の販売品の目録も。恐縮です。
で、今月開催の大入札会の目録も。
手元に届く前にネット上の情報で知り、仰天していたのですが、今回、光太郎の書が2点出ています。
2点とも色紙ですが、まず短歌「吾(われ)山に流れてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり」。
もう一点は詩、というか七五調四句の今様スタイル。
「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。
どちらも「中原綾子旧蔵」のキャプション。中原綾子といえば、つい先だって、令孫から光太郎の中原宛書簡がごっそり花巻市に寄贈されました。その際に、「書は寄贈されませんでしたか」と問い合わせたところ、「それはなかった」とのことでした。なぜそんな質問をしたかというと、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)に、光太郎の書が2点、口絵として使われていたためです。
1点は「不可避」と書いたもの。
そしてもう1点が、今回、思文閣さんで出品している「観自在こそ」です。
これが出て来たので、仰天した次第です。
「不可避」は思文閣さんの出品に含まれず、逆に思文閣さんで出している「吾山に」の書は中原の著書に使われていません。
ちなみに「吾山に」「観自在こそ」「不可避」、それぞれ光太郎が戦後に好んで書き、複数の揮毫が知られています。その意味では新発見ではありませんが。
さて、冒頭近くに書いた通り、下見会が昨日から開催中です。
期 日 : 2024年9月9日(月)~9月15日(日)
会 場 : ぎゃらりい思文閣 京都市東山区古門前通大和大路東入ル元町386
時 間 : 10:00~18:00 最終日は17:00まで
ぜひ足をお運び下さい。それから、先回りしておきますが、光太郎書を落札された方、死蔵にならないよう、依頼があれば快く貸し出すといった対応をしていただければと存じます。
【折々のことば・光太郎】
其後真剣に考へてみましたが、東京へ行つてアトリエを建てる金がまづありません。アトリエが無いとしたら、東京に居ても此処に居ても同じことです。 原稿でわづかに金をとるとしても彫刻ではとても取れないでせう。従来とても彫刻では殆ど金をとつてゐなかつた次第です。
昭和24年(1949)6月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳
当会の祖・心平らは、花巻郊外旧太田村での光太郎のある意味凄惨な蟄居生活を見て、何よりその身体を心配し、再三、上京を促しました。
この頃には後に光太郎が借りる中野のアトリエ(現在、保存運動を行っております)が貸し出され始めたと思われますが、そういうシステムはおそらくそれまでに無く、心平も光太郎も気づかなかったのではないでしょうか。