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少し前にもちらっとご紹介しましたが、詳細情報を。

第78回企画展 高村光太郎没後70年「高村光太郎と岩手の人~手紙にみる交流~」

期 日 : 2026年10月14日(水)~2027年2月8日(日)
会 場 : 盛岡てがみ館 盛岡市中ノ橋通一丁目1番10号 プラザおでって6階
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 第二火曜日(祝祭日の場合はその翌日) 年末年始(12月28日(月)~1月3日(日))
料 金 : 一般 300(240)円 高校生 200(160)円 小中学生 100(80)円 ( )内20名以上団体

 高村光太郎(1883~1956)は、昭和20年(1945)、宮沢賢治の実家を頼って現岩手県花巻市に疎開し、上京するまでの7年間をこの地で過ごしました。
 厳しい自然に身を置き「自己流謫」の日々を過ごした一方、光太郎を慕う多くの人と交流を深めました。光太郎の手紙をとおして、岩手の人々との交流を紹介します。
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関連行事
 ギャラリートーク「高村光太郎と岩手の人~手紙にみる交流~」
 ①10月30日(金) ②1月23日(土)
 時間:10:30~11:15
 場所:盛岡てがみ館 展示室
 講師:①主任学芸員 中野千恵子 ②館長 紀修
 料金:入館料が必要です
 定員:各日10名

盛岡てがみ館さん。「先人の書簡(てがみ)を中心に原稿・日記等を収蔵・調査研究・展示する、全国でもユニークな施設」と謳ってらっしゃいます。平成26年(2014)には「第43回企画展 高村光太郎と岩手の人」を開催して下さいましたし、その他、光太郎の名を冠したものでなくとも、光太郎の書簡や原稿を展示する企画展をそれなりの頻度で行って下さっています。
・第48回企画展 宮沢賢治を愛した人々
・第51回企画展 文豪たちの原稿展
・第67回企画展 いわての芸術家の手紙

また、常設展示でも詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)原稿が展示されています。

今回はフライヤーによれば、光太郎もたびたび寄稿した地方紙『新岩手日報』編集部の松本政治、光太郎と学校ぐるみの交流があった岩手県立美術工芸学校の初代校長・森口多里らに宛てた、館蔵品が中心と思われます。ほとんどがペン字ですが、光太郎の筆跡は書簡であっても「書」として味わい深いものです。

館蔵品だけでも光太郎書簡類は数十点お持ちのはずで、『高村光太郎全集』にもれていたものも多数。それらは当方編集の全集補遺的な「光太郎遺珠」でご紹介していますが。また、新収品があるかもしれません。

それから、フライヤー表面には古写真の数々。これらもパネル展示等が為されるのでしょうか。

過日お伝えしました通り、すぐ近くの歩いていける深沢紅子野の花美術館さんでは、開館30周年記念展「深沢紅子と出会いの偉大なる人々 ~高村光太郎~」が開催中です。併せてどうぞ。

【高村光太郎書誌】

詩華集 86 『日本詩人全集 第五巻 大正編(3)』創元文庫A-101

昭和28年(1953)11月30日 創元社 草野心平/金子光晴/藤原定編
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収録作家
 有島武郎 武者小路実篤 千家元麿 佐藤惣之助 深尾賛之亟 高村光太郎 尾崎喜八
 高橋元吉 百田宗治 賀川豊彦 中西悟堂 小畠貞一 中川一政 村山槐多 陶山篤太郎
 林信一 宮沢賢治 宮崎孝政 杉江重英 渡辺渡 国木田虎雄 上田静栄 大鹿卓
 森三千代 
   

光太郎詩は「あらそひ」「われ千たび君を抱かむ」「寂寥」「さびしきみち」「冬の朝のめざめ」「道程」「秋の祈」「雨にうたるるカテドラル」「傷をなめる獅子」「無口な船長」「触知」「もう一つの自転するもの」「地理の書」「山林」「おれの詩」「典型」。特に多いわけでなく、他の人々の作品も同程度採られています。

昨日は墨田区両国の両国シティコアさんに行っておりました。こちらのギャラリーΧ(カイ)さんで開催された「劇舎カナリア・シアター 『書声展』さっちゃんは戦争を知らない ちづちゃんは戦後を知らない 詩人と市井の人びと声なき声の展覧」拝観のためです。
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光太郎と交流のあった岩手出身の詩人・宮静枝の詩集『さっちゃんは戦争を知らない』(平成13年=2001 熊谷印刷出版部)、『山荘 光太郎残影』(平成4年=1992 同)を軸にした朗読劇ふうの公演でした。『山荘 光太郎残影』は、まるまる一冊、昭和26年(1951)に静枝が令甥と子息二人とを伴って花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋(高村山荘)を訪問したことを題材とした詩集で、その年の第33回晩翠賞に輝いた作です。
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受付で配られたフライヤー的なポストカードには、昭和26年(1951)の山小屋前での光太郎、静枝、そして子息の文彦氏の写真。『山荘 光太郎残影』にも同じショットが掲載されています。

会場がホールではなく、ギャラリーとして貸し出されているスペース。中央に大きな柱があり、四囲に椅子を配して聴衆はそこに座るという形。一応、正面は決まっているものの、それにとらわれず演者の皆さんは柱の周りを回りながら、朗読したり歌ったりでした。
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中央の柱、周囲の壁、それから正面に書作品。基本的に静枝の詩句を書いたもので、子息・文彦氏の奥様で、書家であらせられる宮絢子氏の書です。そこで公演タイトルに「書声展」と謳われ、書と声のコラボ、という位置づけでした。

開演前に見て廻って撮影しました。
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PXL_20260713_053716331『山荘 光太郎残影』に収められた詩からも。したがって光太郎の名が。
 
   飾り窓の女

 疎林を透かして
 日毎に静かな落日
 ハンの木の紐花がこぼす金色の花粉

 パリの飾り窓の女の
 遠い記憶の耳飾りを ふと思っている

「疎林」「ハンの木」は、山小屋の周りに現在も群生している榛の木で、地元では「やつか」「やっか」と呼んでいます。

「パリの飾り窓」については、明治末の滞仏体験を静枝に語ったことに由来するのでしょう。光太郎は山小屋周辺がパリのフォンテーヌブローの森と似ている、などとも語ったそうです。

   蟬を彫る

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 無心に蟬を彫る光太郎
 影がかすかに揺れる

 遠くで山鳴りがしている
 ノミを止めてふと思う
    どこから――なにゆえ――
 はるかな時間だったと思う
 きのうのこと とも思う
 放たれた一本の道を来るしかなかった

 いま光太郎は心の遠い風景のなかで
 一匹の蝉を残して去ろうとする
 シー
 心中でしきりに蝉が涕いている

 祖国とは光太郎にして
 一匹の蝉だったのだ
 十七年を地中にひそんでいて
 地上に七日生きる蝉の業と
 光太郎の負った人間の業が重なって重い
 旅は終焉に近い

 やがて山荘は雪の柩となるだろう


作品として発表することはありませんでしたし、現存が確認できていないのですが、山小屋でも光太郎は蝉を彫っていました。複数の目撃証言が残っています。うち一点は帯留めに仕立て、宮沢賢治の実弟・清六の夫人に贈りました。そんな話も静枝との間で為されたのでしょうか。

さて、開演。
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ささいけい子氏という方と寺田明子氏という方がメインで朗読されたり歌ったりでしたが、今回の公演のプロデューサー・山本健翔氏ご自身も出演され、書を書かれた絢子氏も朗読。文彦氏は最後のご挨拶まで喋られませんでしたが、正面の屏風の前で座られていました。その文彦氏視点での部分も多くありました。

先述の通り、静枝の詩集『さっちゃんは戦争を知らない』、『山荘 光太郎残影』を軸に、絢子氏のご両親の書き残されたもの(新潟・村上市の空襲で絢子氏の叔母様が亡くなられたそうで)、特攻兵の書き残した詩なども織り交ぜ、さらに劇作家・加藤道夫(女優の加藤治子氏の夫)のからみも。

全体に反戦を訴える内容で、まさに政治がおかしくなっている2026年の現代に刃を突きつけるような感じでした。

アンチテーゼとして、光太郎の負の遺産・黒歴史である翼賛詩「十二月八日」(昭和17年=1942)、「必死の時」(昭和16年=1941)、戦後になってそれを恥じた「わが詩をよみて人死に就けり」(昭和22年=1947)や「報告(智恵子に)」(同)、さらには「レモン哀歌」(昭和14年=1939)まで取り上げられました。

終演後。
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文彦氏、絢子氏、山本健翔氏、それから客席にいらしていた文彦氏のお兄様の暠成(こうせい)氏とお話をさせていただき、連翹忌の集いへのお誘いを致しました。ここ2年間、生前の光太郎を直接ご存じの方のご参加がありませんで、ぜひいらしていただいて皆様に光太郎の思い出話を賜りたいと存じまして。暠成(こうせい)氏も昭和26年(1951)に光太郎の山小屋を訪れられています。
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ちなみにご一行が光太郎の山小屋を訪れられたのは昭和26年(1951)11月11日。その2日前の11月9日には、後に宮城県歌人協会会長などを務められた佐久間晟氏と、奥様でやはり歌人のすゑ子氏が、花巻温泉の仲居さん・八重樫マサの案内で山小屋を訪れています。
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この際の様子を奥様が歌誌『地中海』平成17年(2005)1月号に短歌と文章で書かれ、たまたまその情報を得ましてお二人に連絡、お二人がお住まいの仙台でお会いし、貴重なお話を伺う事が出来ました。その内容を『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007)に「高村山荘訪問記 佐久間晟・すゑ子夫妻聞き書き」として掲載させていただきました。
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お話を伺った後、それをご存じなかったので、ご夫妻に「2日後に光太郎を訪問された方の詩集です」と、『山荘 光太郎残影』を古書市場で見つけて贈りましたところ、非常に喜ばれました。

75年前、2日違いで光太郎を訪問された佐久間ご夫妻、宮ご兄弟2組のそれぞれからお話を伺え、奇縁を感じております。

以上、レポートを終わります。

【高村光太郎書誌】

選集等(翻訳・部分) 1 『美の本体 芸術に関する101章 ロダンの言葉 ゴッホの手紙 回想のセザンヌ ベートーヴェンの生涯』世界教養全集 12

昭和37年(1962)6月30日 平凡社
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目次
 美の本体 岸田劉生 (詳細略)
  解説 岸田麗子
 芸術に関する一〇一章 アラン 斎藤正二訳(詳細略)
  解説 斎藤正二
 ロダンの言葉 A.ロダン 高村光太郎訳 今泉篤男編
  ギュスターヴ コキヨ筆録 
  ロダン手記
   ヹヌス フランスの自然 ランスの本寺 花について 女の肖像
     若き芸術家達に(遺稿) 断片(『ロダンの言葉』より) 断片(『続ロダンの言葉』より)
  ジュヂト クラデル筆録 ポール グゼル筆録
  解説 今泉篤男
 ゴッホの手紙 V.ゴッホ 三好達治訳(詳細略)
  解説 石原八束
 回想のセザンヌ E.ベルナール 有島生馬訳(詳細略)
  解説 有島生馬
 ベートーヴェンの生涯 ロマン・ロラン 平岡昇訳(詳細略)
  解説 平岡昇

今日からのこの項、光太郎の翻訳を含む複数人による選集ものを扱います。文学全集ものが流行り出すと、海外の作品を集めたものも多く出版されるようになりました。

光太郎の名が載った各地の新聞記事等、今日も3件ご紹介します。

まず『北海道新聞』さん、7月1日(水)の一面コラム。

<卓上四季>日本サッカーの道程016

高村光太郎の詩「道程」には長短ふたつのかたちがある。最初に発表されたのは100行を超える長い作品。小欄で以前に紹介した短いものより、モチーフが明確だ▼<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/道は僕のふみしだいてきた足あとだ/だから/道の最端にいつでも僕は立っている/何という曲りくねり/迷いまよった道だろう>。いろんな困難を乗り越えて、未踏の荒野をひたむきに前へ進んでいく。そんな姿がイメージされる▼思い浮かべるのはサッカーの日本代表チームである。W杯の晴れ舞台で王国ブラジルと対戦した。選手たちの規律と献身が光り、鮮やかに先制する。したたかな相手に翻弄(ほんろう)され、あとわずかなところで敗れたけれど、間違いなくナイスファイトだった。こころから拍手を送りたい▼W杯の初出場から28年。悔しさをばねに一歩ずつ進んで、大会ごとに着実に強くなってきた。思えば遠くへ来たものだ▼試合終了後のピッチで大粒の涙が流された。まずは休んで疲れをいやし、また前を向こう。そして4年後こそは喜びの涙に変えてみよう▼「道程」にはこんな一節もある。<ああ/人類の道程は遠い(略)歩け、歩け/どんなものが出て来ても乗り越して歩け/この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ>。その歩みの先に未来が開けると信じたい。

詩「道程」の「長短ふたつのかたち」。「長」は大正3年(1914)3月の雑誌『美の廃墟』に掲載されたオリジナルの形で、102行もある長詩でした。引用されている詩句はその中からのものです。「短」の方は、同じ年の10月、第一詩集『道程』に収められたもので、オリジナルの形からばっさりと斬り捨て、9行の短い形に書き改められました。広く人口に膾炙しているのはこちらの形で、最終詩型です。

くりかえしこのブログで警告していますが、オリジナルの102行の形がネット上などで「全文」と紹介されることがあります。「全文」ではなく「初出発表形」もしくは「原型」とすべきですね。そうしないと9行に圧縮された「最終詩型」がまるでまがい物という意味になってしまいます。あくまで102行の形は光太郎自身がボツにした形ですし。

同じくスポーツ関連で、『スポーツニッポン』さん、7月4日(土)の記事。

なぜ? ロッテはドーム球場での試合が苦手 この日で5連敗、今季は2勝16敗2分けと大きく負け越し◇パ・リーグ ロッテ2―3ソフトバンク(2026年7月3日 みずほペイペイD)015

 「東京には空がない」――。詩集「智恵子抄」にそうつづったのは詩人の高村光太郎だ。
 ロッテは空がない、もとい空が見えない球場での試合が極端に苦手だ。
 この日のみずほPayPayドームでのソフトバンク戦も1点差で惜敗。これで今季、ドーム球場での試合は2勝16敗2分け。5月10日のソフトバンク戦からは2分けを挟んで5連敗となった。
 屋根がなく、独特の強風で知られる本拠地ZOZOマリンスタジアムでは今季、20勝13敗1分けと大きく勝ち越している。風がなく、プレーがしやすいはずのドーム球場がこれだけ苦手なのは「謎」と言っていい。 

こういう内容の前振りで「あどけない話」(昭和3年=1928)を持ってくるか?と笑いました。しかし、他チームがZOZOマリン独特の強風への対応に手こずるのはうなずけますが、なぜロッテの選手は無風のドーム球場を苦手としているのでしょうか? 風が吹いていないと実力が発揮できないという体質になっているのでしょうか? たしかに謎ですね。

最後に7月4日(土)の『日本経済新聞』さんから。

図書館のすすめ 女優・戸田菜穂

 私の家のそばには図書館がある。集中いや全集中したい時に図書館の二階へ行く。そこはもう私の愛する静けさと、ページをめくる音、ペンの音のみの世界。今もそこにいる。スマホは玄関に置いていく。
 絵本コーナーは小上がりになっていて、お母さんが子供を膝に乗せ読み聞かせをしている。私ももっと読んであげれば良かったと、胸がちくっとする。
 小学生用の机では、児童が宿題をしたり、昆虫図鑑を読んだりしている。ああ懐かしい光景。
 大人の机は人気があり、土日の朝は座席券をもらうために行列になるらしい。私は空いている平日のお昼前後によく行く。
 そういえば中学高校の頃、広島の図書館によく通っていた。あの周りはライバルだらけの逃げ場のない空間に身を置かなければ集中できなかったし、みんなが黙々と勉強する気配が気に入っていた。
 先日、娘の学校の先生に国語の勉強の仕方を聞いたところ、「いつも選ぶ本棚から七歩先の本を手に取って見て下さい」と言われた。大人もまだ知らない世界が山ほどある。大人も勉強しよう、その背中を子供はちゃんと見ているし、そこから国語の世界への興味が広がるのだと理解した。
 すぐに実践、七歩先にあった美術のコーナーで「高村光太郎 美に生きる」という本を手に取る。そこには高村が地方の小学校に贈った書が載っていた。素朴な飾らない字でふり仮名もつけて「正直 親切」と。
 子育てで一番大切な言葉に出合えた! 早速筆ペンで「正直 親切」と書いて、子供部屋の高い所に張っておいた。

『高村光太郎 美に生きる』は、平成10年(1998)に二玄社さんから刊行された、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の編著です。光太郎令甥の写真家、故・髙村規氏撮影になる光太郎作品等の写真図版がふんだんに使われています。
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「正直親切」の書は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)にほど近い、太田小学校山口分教場が昭和26年(1951)に山口小学校に独立昇格した際、校訓として贈った言葉を書いたものです。
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戦後らしく左から右へ、さらに入学したての一年生でも読めるようにと、新仮名遣いでルビまで書きました。ただ、まだ拗音表記のルールが徹底されていなかったようで「よ」は大きなサイズです。ちなみに旧仮名遣いだと「しやうぢきしんせつ」でした。

書自体は花巻高村光太郎記念館さんで所蔵。ここから文字を写した碑が廃校となった山口小学校跡地、光太郎の母校の荒川区立第一日暮里小学校さん、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が教育長を務められていた埼玉県東松山市の新宿小学校さんにそれぞれ建っています。
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それにしても、この言葉に「子育てで一番大切な言葉に出合えた!」とまで感銘を受けられた戸田さん、さすがに「NHK俳句」司会もなさった方だな、と思いました。

明日もまだ新聞記事に光太郎の名、というネタで。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 17 『石川啄木 高村光太郎 宮澤賢治集』現代日本の文学6

昭和46年(1971)10月1日 学習研究社 石川啄木/高村光太郎/宮澤賢治著
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目次
 石川啄木集
  石川啄木文学紀行 啄木の旅 草野心平
  一握の砂 悲しき玩具 あこがれ 呼子と口笛 ローマ字日記
  註解 紅野敏郎 年譜 石川啄木文学アルバム 評伝的解説 久保田正文
 高村光太郎集
  高村光太郎文学紀行 光太郎と一緒の旅を振り出しに 草野心平
  道程 「道程」以後 猛獣篇 「猛獣篇」時代 智恵子抄 典型 「典型」以後
  註解 紅野敏郎 年譜 北川太一 高村光太郎文学アルバム 評伝的解説 北川太一
 宮澤賢治集
  宮澤賢治文学紀行 何度も訪れた花卷 草野心平
  春と修羅 四又の百合 インドラの網 雁の童子 北守将軍と三人兄弟の医者
  註解 紅野敏郎 年譜 宮澤賢治文学アルバム 評伝的解説 天沢退二郎
 月報
  著者を語る 石川啄木 ストライキ 金田一京助 高村光太郎 兄の思出二・三 藤岡孟彦
  宮澤賢治 「修羅の渚」にて 宮澤清六
  石川啄木・高村光太郎・宮澤賢治主要文献一覧 紅野敏郎編
  石川啄木・高村光太郎・宮澤賢治旅行ガイド 湧田佑
  最終回の編集を終えて 編集長 桜田満

岩手ゆかりの三人が一冊にまとめられています。手持ちのものは昭和47年(1942)の再版です。

6月30日(火)、日帰りで京都・大阪に行っておりました。京都では祇園の何必館(かひつかん)さんで「コレクション 近代芸術家の書 展」、大阪は堺で「さかい利晶の杜×文豪とアルケミスト企画展 明キ星ヲ繋グ。」などを拝見。3回に分けてレポートいたします。

まずは京都。

東海道新幹線で京都駅に降り立ち、さらにJR奈良線と京阪本線を乗り継いで祇園四条駅へ。駅を出ると目の前が四条通に面した京都南座さんで「ありゃ、ここかい」という感じでした。最近めったに行かなくなりましたが、昔は年に1、2回は京都に行っており、何度も歩いた場所でした。東へ進み続ければ突き当たりは八坂神社さんです。
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スマホの地図アプリを起動、何必館さんを探すと、八坂神社さん方面に歩くとすぐとのこと。何度も歩いていた場所でしたが、これまで気づかずに通り過ぎていました。
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こちらが何必館さん。敷地面積はそれほどではありませんが、地階から5階までが展示フロアとなっており、総床面積はそれなりに。街なかにある美術館さんなどでよくあるスタイルです。

昭和56年(1981)開館で、日本画の村上華岳の作品を中心に、北大路魯山人、山口薫の洋画などがコレクションの柱だそうです。今回は「近代芸術家の書」ということで、村上、魯山人、そして光太郎、さらに川端康成、棟方志功、梅原龍三郎、平櫛田中、奥村土牛、須田剋太、富本憲吉、会津八一、加藤唐九郎、小倉遊亀、熊谷守一。約60点が展示されていました。なかなかに眼福でした。

公式サイトで光太郎の書は、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で書かれた短歌「山にゆきて何をしてくる山にゆきてみしみしあるき水のんでくる」を書いた幅が紹介されていましたが、他にも出ているだろうと思っていたところ、ビンゴでした。「山にゆきて……」以外に2点が出ていました。

まず横長の紙に「甘酸是人生」と書いたものが額装されて。同じ文言をやはり戦後、親交があった花巻のリンゴ農家の故・阿部博氏に贈っています。「甘酸」はリンゴの味にひっかけているわけで。そちらは現在、花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています(下画像)。
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平成27年(2015)にNHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回 智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」では、この書が大きく取り上げられました。

何必館さんで展示中のものも戦後のものと思われます。撮影不可ということで画像がありませんが。

それから短歌「あゝこれ山 空を劃りて 立てるもの かたらす(ず)おろか さひ(び)てたつもの 」を分かち書きした大きな書。短歌自体は明治37年(1904)、第一期『明星』辰歳第11号に載った「赤城山の歌」19首のうちの一つです。「劃りて」は「かぎりて」、「おろかさひ(び)て」の「さび」は接尾語で名詞に付いて「~のように」といった意味となり、「愚か者のように」あるいはもっと突っ込めば「愚直に」といった意味でしょう。この年、光太郎は断続的に2ヶ月近く赤城山麓に滞在、8月には東京からやって来た与謝野寛、石井柏亭、伊上凡骨らを迎え、共に赤城山に登っています。

揮毫されたのはおそらく昭和戦前ではないかと思いました。明治大正の頃は大きな紙に書を書くことはほとんどやりませんでしたし、戦後の書はもっとかすれの激しい彫刻刀で刻みつけるような書体ですが、こちらは比較的流麗な筆遣いです。また、使われている紙が竹の模様を漉き出したちょっと高級そうな紙で、戦後にはこういった紙は入手不可能だったと思われます。終戦後すぐには粗悪なボール紙を色紙代わりにしていたこともありました。

ちなみに短歌「あゝこれ山」を書いた短冊、「赤城山の歌」に含まれるものだということで、群馬県立土屋文明記念館さんで所蔵され、平成31年(2019)の同館の第103回企画展「文学者の書―筆に込められた思い」で展示されたりもしています。

余談ですが、「甘酸是人生」、「あゝこれ山」共に、サムネイルの小さな画像で見ただけでそれとわかる悪質なニセモノがよく売られています。ご注意を。

何必館さんでは平成23年(2011)にも今回と同じく「近代芸術家の書」展を開催なさいました。その際に刊行された図録的な書籍『近代芸術家の書』が、今回も受付で販売されています。「甘酸是人生」は載っていませんが、短歌「山にゆきて」、同じく「あゝこれ山」は画像が掲載されています。
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それから「山にゆきて」の方は、ポストカードも。ただしバラ売りではなく魯山人や梅原龍三郎らの書のそれとともに8枚セットです。

ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。

明日は「京阪」の「阪」。堺市の「さかい利晶の杜×文豪とアルケミスト企画展 明キ星ヲ繋グ。」についてレポートいたします。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 12 『人生の名著 2 藤村感想集 智恵子とわが青春 私の個人主義』

昭和43年(1968)1月25日 大和書房 島崎藤村/高村光太郎/夏目漱石著
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目次
 藤村感想集 島崎藤村(詳細略)
 智恵子とわが青春 高村光太郎
  1 智恵子の半生 智恵子の切抜絵 新茶の幻想 九十九里浜の初夏
    某月某日
  2 わたしの青銅時代 青春の日 遍歴の日
  3 詩について 生きた言葉 所感
  4 みちのく便り 山の春 山の秋 美と真実の生活
 私の個人主義 夏目漱石
 解説 藤島宇内

 月報
  藤村と私 羽田知都子
  光太郎の詩 小林智子
  現代に必要な漱石の精神 登坂宏
  古い本 新しい本 新庄嘉章訳 『ジイドの日記』 堀秀彦

散文のみを集めています。

ひと頃よりだいぶ規模は小さくなりましたが、それでも日本最大の古書入札市、都内の古書籍商さんの組合・明治古典会さんが主催する「七夕古書大入札会」。出品物を直接手に取ってみられる「下見展観」が開催されます。

七夕古書大入札会下見展観

期 日 : 2026年7月3日(金)・4日(土)
会 場 : 東京古書会館 千代田区神田小川町3-22
時 間 : 3日(金) 午前10時〜午後6時 4日(土) 午前10時〜午後4時
料 金 : 無料

七夕古書大入札会(七夕)とは、明治古典会が開催する国内最大かつ最も歴史あるオークションです。入札形式で行われ、最高値を入札した方に落札されます。入札会の前に東京古書会館で行われる下見展観(プレビュー)は一般のお客様もご入場いただき、出品される貴重な文化資料や美術品をお手に取ってご覧いただけます。
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ほぼ毎年、何らかの光太郎がらみの出品があります。今年は署名本、書簡など。

まず昭和25年(1950)、光太郎生前最後の単行詩集『典型』の識語署名本。
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昭和26年(1951)となっていますし「読売文学賞受賞」という帯が付いていますので、重版と思われますが、見返しに表題作「典型」の一節「小屋にゐるのはひとつの典型 一つの愚劣の典型だ」が毛筆で記されています。ちなみに箱の題字も光太郎自身による木版を基にしています。

書簡が3セット。

年代順に、明治33年(1900)9月25日、父・光雲の高弟だった加藤景雲にあてた墨書のかなり長い封書。都内の古書店さんで数年前から売りに出しているものですが、改めて出品されました。巻物に仕立てられているようです。
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キャプションに「朶木庵発信」とあり、まるで場所のような書き方ですが、「朶木庵」はこの頃光太郎が俳句を投稿する際に使っていたペンネームなので、場所というニュアンスではありません。

それから、中央公論社の編集者だった栗本和夫に宛てた戦前から戦後にかけての書簡群が、封書と葉書に分けて出品されます。
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加藤景雲宛てを含め、全て筑摩書房『高村光太郎全集』に収録されています。

さらに、光太郎の装幀になる吉井勇著『酒ほがひ』(明治43年=1910)。「ほがひ」は古語「ほがふ(寿ふ)」の名詞化。
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表紙と、それから画像にはありませんが裏表紙にペルシャ文字があしらわれたデザインです。この頃、光太郎はペルシャ系にも興味を持っていました。

『高村光太郎全集』別巻(平成10年=1998)所収の、当会顧問であらせられた北川太一先生による「高村光太郎聞き書」(昭和30年=1955~昭和31年=1956)の一節。

――ペルシャには随分関心をもっていらっしゃいますね。

 アメリカのはじめの頃、ペルシャに行ったら帰らないつもりだった。ペルシャ語なんか習ったりして、なんでもいいからあそこに行って生活しようと思った。ニューヨークでは、もう生活できないような気がして、こんなことならメディアの文化の中にとけ込んで生活しようと思い、本当に行きかけた。あの頃は美術を捨ててもいいと思った。それを親父や弟からも反対され、真日毎日そんなことで頭の中がぐらぐらしていた。アメリカが嫌だからじゃなくて、もっといいところがあればそっちに行きたいという気持ち。


「メディア」はこの場合、古代カスピ海沿岸にあったメディア王国を指します。まぁ「中東」といった意味合いでの使用でしょう。そちらの方に行きたいというのがどの程度本気だったのかは何ともいえませんが……。

昭和3年(1928)の雑誌『地上楽園』に載った「紐育より巴里へ」の中にも「其頃はペルシヤのテヘランへ行かうと思つて計画した事もあつた」という一節があります。

ただし『酒ほがひ』装幀に使われたペルシャ文字は、「酒ほがひ」の意味を翻訳したかったらしいのですが、専門家によれば誤字があるとのことです。

とりあえず直接光太郎に関わる出品物は以上です。もう1点、「美ならざるなし」と書かれた戦後と思われる色紙も出品予定でしたが、今朝見たらなぜか出品取り止めになっていました。
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目録を見ていて驚いたのは、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の「百首屏風」が出ていたこと。
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複数の作例があるのですが、これまで市場に出て来たことはほとんど無いのでは、と思われます。基本的には明治44年(1911)、夫・寛の外遊資金を捻出するために書かれ、支援者らに買ってもらったものです。ただ、その際の作ではない晩年のものなども存在するようですが。

下見展観、基本的には出品物を手に取って見ることができます。通常、文学館等では厳重にガラスケースなどに収められているものに触れられる貴重な機会です。入札は加盟している古書店さんを通じて行う形になります。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 7 『現代詩人全集(四) 近代Ⅳ』

昭和36 年(1961)9月10日 角川書店(角川文庫) 著者代表 室生犀星
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目次
 高村光太郎
  失はれたるモナ・リザ 根付の国 食後の酒 寂寥 冬が来る 冬が来た 道程
  秋の祈 わが家 小娘 雨にうたるるカテドラル 落葉を浴びて立つ 鉄を愛す 葱
  後庭のロダン 雷獣 白熊 象の銀行 火星が出てゐる 刃物を研ぐ人 首の座
  ばけもの屋敷 ぼろぼろな駝鳥 上州湯桧曽風景 上州川古「さくさん」風景 似顔
  蝉を彫る もう一つの自転するもの 荻原守衛 郊外の人に 樹下の二人 夜の二人
  あどけない話 同棲同類 山麓の二人
 武者小路実篤 (略)
 千家元麿 (略)
 尾崎喜八 (略)
 高橋元吉 (略)
 片山敏彦 (略)
 中勘助 (略)
 生田春月 (略)
 室生犀星 (略)
 宮崎孝政 (略)
 福士幸次郎 (略)
 百田宗治 (略)
 白鳥省吾 (略)
 富田砕花 (略)
 福田正夫 (略)
 井上康文 (略)
 三野混沌 (略)
 解説 伊藤信吉

手持ちのものは昭和44年(1969)3月30日の第8版です。

ちょっとだけお手伝いさせていただいた企画展示です。

没後七〇年 會津八一とかな書の魅力

期 日 : 2026年7月1日(水)~9月23日(水・祝)
会 場 : 新潟市會津八一記念館 新潟市中央区万代3-1-1
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 毎週月曜日 海の日の7/20は開館、7/21休館、9/21~9/23は開館 
料 金 : 一般 500円 大学生 300円 高校生 200円 小・中学生 100円
      団体は20名以上20は2割引 土・日・祝日は小・中学生は無料
      會津八一誕生日の8月1日(土)は無料 

 今年で没後70年を迎えた歌人、書家、東洋美術史学者の會津八一(1881〜1956)。八一の墨蹟には、自作の歌や俳句を揮毫した「かな書」が残っており、独創的な書風が高く評価されています。
 30代から50代ごろまでの八一は、漢字とひらがなが混在した表記で、連綿体(複数の文字を切れ目なく続けて書く書体)を用いて揮毫していました。ところが歌の音調を大切にしていた八一は、60代以降はひらがなを主体として、しかも放ち書き(文字を続けて書かずに、一文字一文字離して書くこと)を用いて書くようになります。このように、八一のかな書は読みやすさばかりではなく、文字と余白(文字や絵などが配置されていない空間)とのバランスを意識した絶妙な書きぶりとなって完成したのです。
 本展では、鑑賞者の視覚と聴覚に訴える八一の「かな書」の変遷を辿ります。加えて、八一とゆかりのある歌人(良寛、正岡子規、斎藤茂吉、吉野秀雄、相馬御風、吉井勇など)や芸術家(棟方志功、高村光太郎、中川一政など)のかな書も展示し、歌人や芸術家が揮毫したかな書の幅広い表現にも迫ります。
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関連イベント

館長就任記念講演会「會津八一と歌の書」
 講師 角田勝久( 新潟市會津八一記念館館長/新潟大学教授)
 日時 2026年7月20日(月祝) 午後2時~3時半
 会場 日報ホール(新潟日報メディアシップ2階)
 聴講料 500円(事前申込制)
 定員 120名

角田勝久館長による作品解説会
 講師 角田勝久(新潟市會津八一記念館館長)
 日時 2026年7月11日(土) 午前11時~約50分
 会場 当館展示室(申込不要/要当日観覧券)

学芸員による作品解説会
 展示解説を行い、合わせて展示作品に関連した作品をケースなしで展示し、
 作品の扱い方についてもご説明します。
 講師 学芸員
 日時 会期中の第2・4日曜日
 7/12、26:初めて歌碑を建立した奈良・新薬師寺の拓本
 8/ 9、23:いろいろな「無」の書の味わい
 9/13 :自然を詠んだ「村荘雑事」の世界)
 午前11時~約50分
 会場 当館展示室(申込不要/要当日観覧券)

文壇きっての達筆の一人としても知られる秋艸道人と号した會津八一は光太郎より2歳年上。没年は光太郎と同じ昭和31年(1956)でした。それほど親しい交渉はなかったようですが、光太郎は昭和15年(1940)に八一から歌集『鹿鳴集』を贈られています。八一の門人で光太郎と親しいと言っていい間柄だった吉野秀雄に宛てた書簡から。

又先日會津八一博士より歌集をいただき愛読いたして居りますが図らず貴下の校正にかかるものなる事を知り、その上貴下の一文をも拝読、一入懐しく思ひました、

フライヤー裏面に小さい画像がありますが、八一と同時代の人物ということで、光太郎の書も一点展示されます。その手配でちょっとだけお手伝いさせていただきました。
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若干横長の色紙で、短歌が揮毫されています。

吾山になか(が)れてやまぬ山みつ(づ)のやみか(が)たくして道はゆくなり 光太郎

昭和28年(1953)5月9日、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借りていた中野の中西利雄アトリエで、中央公論社の松下英麿、栗本和夫のために書いた短冊を含む何枚かのうちの一つです。

短歌自体は前年まで暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での詠で、昭和24年(1949)頃に「此山にながれてやまぬ山水のやみがたくしてこの道はゆく」と詠んだ歌が初案と推定されています。

他に先述の吉野秀雄をはじめ、良寛、正岡子規、斎藤茂吉、相馬御風、吉井勇、棟方志功、中川一政らの書画が出ます。

ぜひ足をお運びください。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 5 『全詩集大成 現代日本詩人全集 第二巻 三木露風 木下杢太郎 石川啄木 高村光太郎』

昭和30年(1955)3月5日 創元社 著者代表 高村光太郎
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目次
 三木露風
  自伝 廃園 寂しき曙 白き手の猟人 幻の田園 良心 蘆間の幻影
  信仰の曙 (詳細略)
 木下杢太郎
  小伝 食後の唄 木下杢太郎詩集 (詳細略)
 石川啄木
  小伝 あこがれ 啄木遺稿 (詳細略)
 高村光太郎
  自伝
  道程
   一九一〇年
    失はれたるモナ・リザ 生けるもの 根付の国
   一九一一年
    画室の夜 熊の毛皮 人形町 甘栗 庭の小鳥 亡命者 鳩 食後の酒 寂寥 声     
    風 新緑の毒素 頽廃者より 「河内屋与兵衛」 髪を洗ふ女 「心中宵庚申」 夏
    なまけもの 手 金秤 はかなごと めくり暦 地上のモナ・リザ 葛根湯 夜半
    けもの あつき日 父の顔 泥七宝 ビフテキの皿
   一九一二年
    青い葉が出ても 赤鬚さん あをい雨 友の妻 人に(原題「――に」)
    夏の夜の食慾 或る夜のこころ おそれ 犬吠の太郎 さびしきみち カフエにて
    梟の族 冬が来る カフエにて 或る宵 夜 狂者の詩 郊外の人に
    冬の朝のめざめ カフエにて 師走十日 戦闘
   一九一三年
    人に カフエにて 深夜の雪 人類の泉 山 よろこびを告ぐ 現実 冬が来た
    冬の詩 牛 僕等
   一九一四年
    道程 愛の嘆美 群集に 婚姻の栄誦 万物と共に踊る 瀕死の人に与ふ 晩餐
    五月の土壌 淫心 秋の祈
  道程改訂版
   道程以後
          わが家 小娘 無為の白日 海はまろく 雨にうたるるカテドラル 沙漠
    クリスマスの夜 冬の送別 五月のアトリエ ラコツチイ・マアチ
    落葉を浴びて立つ 樹下の二人 鉄を愛す 氷上戯技 珍客 葱 車中のロダン
    後庭のロダン 十大弟子 聖ジヤンヌ
   猛獣篇時代
    清廉 傷をなめる獅子 狂奔する牛 鯰 苛察 雷獣 龍
   編纂者の言葉(三ツ村繁蔵)
  智恵子抄
  高村光太郎詩集(鎌倉書房版)
   Ⅰ
    序曲 米久の晩餐 かがやく朝 無口な船長 火星が出てゐる 触知 晴天に酔ふ
    冷熱 偶作十二 少年を見る 或る墓碑銘 冬の奴 怒 母をおもふ 冬の言葉
    刃物を研ぐ人 花下仙人に遇ふ 街上比興 その詩 首の座
   Ⅱ
    旅に病んで 存在 耳で時報をきく夜 村山槐多 レオン ドウベル 南極
    つゆの夜ふけに 芋銭先生景慕の詩 老耼、道を行く
   Ⅲ
   Ⅳ
    夜の二人 あなたはだんだんきれいになる 同棲同類 美の監禁に手渡す者
    山麓の二人 ばけもの屋敷 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子
    
値ひがたき智恵子 レモン哀歌 荒涼たる帰宅 亡き人に 梅酒
   覚書(草野心平)
  典型
   序 雪白く積めり 
   暗愚小伝
    家
     土下座 ちよんまげ 郡司大尉 日清戦争 御前彫刻 建艦費 楠公銅像
    転調
     彫刻一途 パリ
    反逆(原題「親不孝」)
     親不孝 デカダン
    蟄居
     美に生きる おそろしい空虚
    二律背反
     協力会議 真珠湾の日 ロマン ロラン 暗愚 終戦
    炉辺
     報告 山林
   「ブランデンブルグ」 脱卻の歌 人体飢餓 東洋的新次元 おれの詩 悪婦
   山荒れる 月にぬれた手 鈍牛の言葉 典型
   田園小詩
    山菜ミヅ 山のひろば 山口部落 かくしねんぶつ クロツグミ クチバミ
    
別天地 岩手の人 山からの贈物 この年
   覚え書(宮崎稔)
  高村光太郎詩集(創元選書版)
   明治四十四年(一九一一)
    侵蝕 失走 縁日 狗ころ 祈祷 或る日の午後 『おもひで』と『夜の舞踏』と
    白昼の空気 恐怖
   明治四十五年(一九一二)
    涙 からくりうた
   大正五年(一九一六)
    わが家
   大正六年(一九一七)
    晴れゆく空 花のひらくやうに 歩いても 湯ぶねに一ぱい
   大正九年(一九二〇)
    丸善工場の女工達
   大正十一年(一九二二)
    真夜中の洗濯
   大正十二年(一九二三)
    Liluli 春駒 とげとげなエピグラム
   大正十三年(一九二四)
    月曜日のスケルツオ
   大正十四年(一九二五)
    白熊
   大正十五年(一九二六)
    象の銀行 滑稽詩 マント狒狒 象 森のゴリラ 北冥の魚 潮を吹く鯨
   昭和二年(一九二七)
    偶作 四篇 北東の風、雨 ミシエル オオクレエルを読む 偉大なるもの
    美を見るもの 「詩」
   昭和三年(一九二八)
    あどけない話 何をまだ指してゐるのだ 二つに裂かれたベエトオフエン
    天文学の話 ぼろぼろな駝鳥 当然事 無限軌道 さういふ友 あの音 夏書十題
   昭和四年(一九二九)
    北島雪山 古事一則 或る日 人生 ひとり酸素を奪つて 焼けない心臓
    或る筆記通話 上州湯桧曽風景 無題 上州川古「さくさん」風景 冬 名所
    昔話 無題
   昭和五年(一九三〇)
    のんきな会話 孤坐
   昭和六年(一九三一)
    似顔 のつぽの奴は黙つてゐる 蝉を彫る
   昭和七年(一九三二)
    非ヨオロツパ的なる 先生山を見る
   昭和十年(一九三五)
    人生遠視 「藤島武二画集」に題す 「悪魔の貞操」に題す
   
昭和十一年(一九三六)
    もう一つの自転するもの 荻原守衛
   昭和十二年(一九三七)
    よしきり鮫 夢に神農となる
   昭和十三年(一九三八)
    一艘の船が二艘になること 地理の書 団十郎像由来 手紙に添へて 子を産む書物
   昭和十四年(一九三九)
    初夏言志 銅像ミキイヰツツに寄す へんな貧
   昭和十五年(一九四〇)
    最低にして最高の道 秋風をおもふ 太子筆を執りたまふ
   
昭和十六年(一九四一)
    青年
   昭和十七年(一九四二)
    与謝野夫人晶子先生を弔ふ 三十年
   昭和十八年(一九四三)
    寒夜読書 救世観音を刻む人
   昭和十九年(一九四四)
    南瓜賦
   昭和二十四年(一九四九)
    若しも智恵子が
   昭和二十五年(一九五〇)
    元素智恵子 メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白 田植急調子
    噴霧的な夢 女医になつた少女 東北の秋
   
昭和二十六年(一九五一)
    大地うるはし 人間拒否の上に立つ
   編纂覚え書(草野心平)

「全詩集大成」のタイトル通り、刊行された詩集を追う形で作品を配置しています。ただし、戦時中の愚にもつかない翼賛詩集三冊『大いなる日に』『をぢさんの詩』『記録』は無視されています。また、『智恵子抄』収録詩篇は他の詩集の項に分散されています。

京都から書道展の情報です。

何必館コレクション 近代芸術家の書 展

期 日 : 2026年6月10日(水)~9月27日(日)
会 場 : 何必館 京都市東山区祇園町北側271
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 月曜日 ( 7/20、9/21は開館 )
料 金 : 一般 1,500円/学生 1,300円

 このたび「何必館コレクション 近代芸術家の書展」を開催いたします。「近代芸術家の書」
は、書家の書とは一線を画し、書壇の約束事にとらわれない自由な表現のなかに作家の研ぎ澄まされた感性が凝縮されています。書は、人間の内面を表現することのできる最短距離の芸術です。書の生命は、筆墨紙が織りなす地平を思索の場とすることにあります。一流の芸術家の書は、書かれた言葉の面白さと、肉筆が伝える書き手の呼吸が、文字の上手下手を越えて観るものの心を強烈に惹きつけます。
 本展では、近代日本を代表する画家、陶芸家、彫刻家、詩人、文学者たち芸術家の卓越した造型性や人間性豊かで自由奔放な書など、個性溢れる「書」の世界を、何必館コレクションより厳選した約60点の作品によって展覧いたします。是非ご高覧下さい。
何必館・京都現代美術館長 梶川芳友
出品作家
 北大路魯山人 川端康成 棟方志功 梅原龍三郎 村上華岳 平櫛田中 高村光太郎
 奥村土牛 須田剋太 富本憲吉 会津八一 加藤唐九郎 小倉遊亀 熊谷守一

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光太郎の書も出ています。公式サイトに画像が出ているのは短歌「山にゆきて何をしてくる山にゆきてみしみしあるき水のんでくる」を書いた幅。短歌自体は制作年不詳ですが、昭和4年(1929)、改造社刊行の『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に載っており、そう離れた時期の詠ではないように思われます。この頃、光太郎は尾崎喜八らと連れ立って主に上州山間の温泉地などをよく歩いていました。

書自体は戦後の筆跡に見えます。まったく同じ歌を書いた幅が駒場の日本近代文学館さんに所蔵されており、こちらは昭和25年(1950)のものと分かっています。令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際にお借りして展示しました。左下がそちらです。
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二つを見比べてみると、ほとんど同一ですね。光太郎は同じ内容の書を同時に複数書くこともよくありました。

ただ、まったく同じというわけではなく、「こっちはこうしてみよう」「いや、やっぱりこうか?」といった試行錯誤の跡が見えます。どちらが先か分かりませんが。具体的には漢字で「何」と書くか平仮名で「なに」とするか、それから2回出てくる「く」で字母の「久」の形を残すか残さないか、2行目の「あるき」の「き」を「支」(左)にするか「幾」(右)にするかなど。

専門の書家でもここまでこだわる例は少ないように思われることが、二つを見比べると分かってきますね。

さて、「何必館コレクション 近代芸術家の書 展」、ぜひ足をお運び下さい。図録も発行されているようですが、どうも平成23年(2011)に開催された同名の展示の際のものをそのまま流用しているようです。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 39 『高村光太郎』少年少女のための日本名詩選集3

昭和61年(1986)9月25日 あすなろ書房 萩原昌好編
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目次
 読者のみなさんへ
 根付の国 父の顔 山 冬が来た 道程 あたり前 鯰 ぼろぼろな駝鳥 秋を待つ
 母をおもう その年私の十六が来た 詩人 冬の言葉 激動するもの 友よ
 最低にして最高の道 独居自炊 樹下の二人 あどけない話 千鳥と遊ぶ智恵子
 値ひがたき智恵子 レモン哀歌 荒涼たる帰宅 案内 クロツグミ 山の少女
 山からの贈物 山のともだち
 
詩人のプロフィール 現場の先生方へ 父母と教師の皆さんへ

学校図書館用を想定して作られたもののようです。手持ちのものは平成9年(1997)の第15刷です。

新刊です。

お気に入りのペンでなぞる 文豪たちの手紙

発行日 : 2026年5月20日
著者等 : 天野慶
版 元 : 幻冬舎
定 価 : 1,800円+税

著名な文豪たちがあふれる思いを託した手紙の数々を、その時代背景や解説とともになぞり書きで楽しむ一冊。芥川龍之介、宮沢賢治、向田邦子……33名が綴った珠玉の手紙を収録。“想い”が宿った一文を、なぞり書きで味わう!

選・著 天野慶 
 歌人。短歌を中心に百人一首や絵本など「ことば」の魅力を伝える活動をしている。『見て楽しむことば図鑑』(みっけ/共著)『百人一首スタートブック』(以上、幻冬舎)、『10代からのいいね! 万葉集』(誠文堂新光社)など著書多数。短歌作品に〈パピルスに初めて書かれた恋文と変わらぬ思いを受信しました〉などがある。

イラスト ネクタイ
 イラストレーター。北海道在住。見た人の心がふわっと楽しくなるような、物語のあるイラストを描く。紙もの雑貨の製作や販売も行っている。
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目次003
 はじめに
 この本の使い方
 芥川龍之介の恋文
 芥川龍之介の友人へのお見舞いの手紙
 芥川龍之介の恋文・続
 太宰治の友人への結婚祝いの手紙
 太宰治の友人への結婚祝いの手紙・続
 中原中也の旅先からの手紙
 宮沢賢治の親友への近況報告の手紙
 梶井基次郎の療養先からの山の手紙
 梶井基次郎の猫の楽しみ方の手紙
 夏目漱石の弟子へのお礼の手紙
 夏目漱石の芥川と久米正雄を励ます手紙
 小林多喜二の恋文
 森鷗外の戦地から家族への手紙
 岡倉天心の愛猫への手紙
 サン=テグジュペリのフライト先からの手紙
 寺田寅彦のベルリンからの手紙
 横光利一のホームシックな手紙
 寺山修司の入院先から恩師への手紙
 堀達雄の入院先からフィアンセへの手紙
 立原道造の藍ばんだ夕ぐれの手紙
 森茉莉の編集者への贅沢貧乏な手紙
 大庭みな子の娘の療養先からの手紙004
 向田邦子のカンヅメになったホテルからの手紙 
 向田邦子の小料理店開店の手紙
 太宰治の芥川賞を懇願する手紙
 武者小路実篤の志賀直哉への友情の手紙
 志賀直哉の新人作家へのアドバイスの手紙
 北原白秋の船の上から息子への手紙
 中島敦の熱帯の島から息子への手紙 
 織田作之助の恋についての手紙
 ビアトリクス・ポターの友人の子への手紙
 高村光太郎の夢の手紙
 太宰治の花の手紙
 太宰治の雨の手紙
 小泉セツの夫の小泉八雲への手紙
 若山牧水の恋人を海へ誘う手紙
 島崎藤村の夏の夜の手紙
 種田山頭火の俳句の入った年賀状
 三島由紀夫のドナルド・キーンへの日本語の手紙
 岡本かの子の息子への返事の手紙
 武者小路実篤の志賀直哉への友情の手紙2
 坂口安吾ののちの恋人への手紙
 中原中也の親友への返事の手紙
 芥川龍之介の手紙のその後の手紙
 手紙の全文・出典・選者による一言コメント
 文豪から学ぶ! 手紙のテクニック
 あてはめればすぐに使える! 季節の書き出し(季節の花と鳥編)
 あてはめればすぐに使える! 季節の書き出し(食べものと行事編)


最近ちょっとしたブームのペン字なぞり書き用のテキスト的な書籍です。本文が17ポイントくらいで薄く印刷されていて、それを好きなペンでなぞって書くという形です。すべてが文豪の手紙からの一節、というところがミソですね。

前半の志賀直哉までは1通につき見開き2ページ、光太郎を含む後半の北原白秋からは同じく1ページずつ割り振られています。

「高村光太郎の夢の手紙」は、大正2年(1913)の1月28日に、結婚前の智恵子へ宛てて書かれた手紙でした。智恵子は日本女子大学校の後輩・旗野スミの新潟にあった家に逗留していました。光太郎の書簡としてはそれなりに有名なもので、あちこちで引用されています。最近では昨年、Gakkenさんから刊行された『マンガで読む 偉人たちの恋文物語 日本編』。全文はこちら。本書巻末にも掲載されています。

そういう意味では取り立てて新しいものではありませんが、他の文豪たちの手紙を興味深く読みました。こういう機会でもないと他の文豪たちのそれはあまり読むこともありませんので。「いかにもこの人らしい」と思わせられるものもあれば、逆に「この人でもこんなことを書くんだ」と意外だったり、「そう来たか」というものもあったり。

ぜひお買い求め下さい。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 27 『高村光太郎資料 第三集』全集補遺Ⅱ

昭和47年(1972)12月5日 文治堂書店 北川太一編
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目次
 対談
  清談を聴く(対談者 伊東圭一郎)  自然と芸術(対談者 神崎清)
  新しき岩手の創造(対談者 国分謙吉)
 座談
  詩と文学(出席者 昇曙夢 川路柳虹 宇野浩二 泉与史朗)
  芸術と生活を語る(出席者 豊島与志雄 岸田国士)
  奉祝展洋画と彫刻(出席者 児島喜久雄 木下杢太郎)
  大東亜文化建設の課題(出席者 下村海南 笠間杲雄 岸本誠二郎)
  美と生活(出席者 菊池一雄 草野心平 佐藤春夫 谷口吉郎)
  詩の生命(出席者 三好達治 草野心平)
  簡素生活と健康(出席者 川島四郎 竹内てるよ)
  南沢座談抄(出席者 羽仁もと子 羽仁吉一)
  湖畔の彫像(出席者 佐藤春夫 辰野隆 豊島与志雄 武者小路実篤)
  敗けた国の文化(出席者 バーナード・リーチ 浜田庄司 柳宗悦 石川欣一)
  現代詩について(出席者 金子光晴 三好豊一郎 伊藤信吉)
  自然の中の芸術(出席者 佐藤春夫 田村剛 谷口吉郎 安倍能成)
 後記

一対一で行われた「対談」は、昭和33年(1958)に刊行された『高村光太郎全集』第11巻に10篇が収録されましたが、その後見つかった3篇を収めてあります。

それから3人以上での「座談」は『高村光太郎全集』で割愛されており(大人の事情がいろいろあったようで)、この時点で初めて一冊にまとめられました。

岩手レポートの2回目です。

2月21日(土)、東北本線花巻駅前のなはんプラザさんで開催されたトークイベント「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」に出演後、レンタカーを新花巻駅で返却し、東北新幹線で盛岡へ。当初、盛岡行きのつもりはなかったため、こうなりました。予定していれば盛岡までレンタカーで行っていました。

盛岡での目的地は鉈屋町のもりおか町家物語館さん。こちらで「岩手ゆかりの近代詩文書作品展」が開催され、光太郎詩の一節等を書かれた書が複数出ているという情報を直前に得たため、急遽向かった次第です。
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現地へは盛岡駅からタクシーで。行ってみるまで詳しく存じませんでしたが、鉈屋町一帯は古い街並みが残り、古民家をリノベーションした店舗なども多く、けっこう観光客の皆さんなどでにぎわっていました。余裕があればぜひ歩いてみたいところでしたが。

やがて到着。これも行ってみて気づいたのですが、複数の建物を使った複合施設でした。
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会場は「大正蔵」という大きな建物で、1階はショップやカフェ、2階がギャラリー。その2階です。
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30点あまりが並んでいます。
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「岩手ゆかり」ということで、石川啄木、宮沢賢治、新渡戸稲造など。

そして我らが光太郎。「岩手出身」とされてしまうと対象外ですが「ゆかり」としていただいているのでありがたいところです。
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言わずと知れた「道程」(大正3年=1914)。
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俳句「熊出ると いふ峠路の あけびかな」。昨今、岩手でも熊の出没情報や痛ましい人身被害の報道などが聞かれますが、この句はまだ光太郎が花巻疎開前の昭和17年(1942)、上州湯ノ小屋温泉で詠まれたもので、若い友人で共に詩人の風間光作、西山勇太郎との旅路の最中でした。この際には宝川温泉さんにも宿泊しています。
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詩「牛」(大正2年=1913)の一節。冒頭の「牛」一字が実にいい感じですね。
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冬を愛した光太郎の真骨頂、詩「冬の言葉」(昭和2年=1927)から。
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同じく「冬が来た」(大正2年=1913)から。
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左は詩「岩手の人」のよく引用される一節。右が『智恵子抄』中の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)全文。

今回で4回目ということで、一昨年の第2回の際には光太郎がらみの報道も為されました。今後も継続されていくことを祈念いたします。

再びタクシーで盛岡駅に戻り、また花巻を通過して帰りました。以上、岩手レポートを終わります。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)53 『ロダンの言葉』 

昭和34年(1959)7月25日 新潮社(新潮文庫) 高村光太郎訳著
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目次
 凡例
 ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
 ロダン手記
  ヹヌス 中世期芸術への入門―原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺
  本寺別記 断片 手紙
 ジユヂト クラデル筆録
 ポール グゼル筆録
  肉づけ 芸術に於ける神秘 芸術に於ける動静 断片
 カミーユ モークレール筆録
 フレデリク ロートン筆録
  古代芸術の教訓(一) 古代芸術の教訓(二) 断片
 ロダンの手帳(クラデル編)
  昔の仕事場と今日の学校 構造と肉付け 古代芸術の伝統的法則
 解説 尾崎喜八

大正5年(1916)に阿蘭陀書房から出た初版に準ずる内容です。新たに収められた解説は光太郎と交流の深かった尾崎喜八でした。

手持ちのものは昭和39年(1964)6月30日の第4刷です。

今日明日と、1泊2日で今年初の岩手行です。

明日、現在花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」の関連イベントとして、賢治実弟・清六の令孫にして㈱林風舎さん代表取締役の宮沢和樹氏、賢治の親友だった藤原嘉藤治の顕彰に当たられている瀬川正子氏とのトークイベントに出演いたします。
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午前中の開催ですので、今日から前乗りし、例によって大沢温泉さんに宿泊します。

また、午前中の開催ですので、イベント終了後に昼食が用意されています。メニュー的には、花巻で主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが光太郎日記などを元に、実際に光太郎が作ったメニューなどを参考に組み立て、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんが毎月15日に限定10食で出品している弁当「光太郎ランチ」だそうで。15日ではありませんが、特別にということで、ありがたし。

今月分がこちら。
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「サメの煮付」「鶏竜田揚げ」「牛蒡と胡桃の甘辛煮」「ポテトサラダ」「ちらし寿司」「チーズ入り蒸しパン」「干し柿と黄桃のゼリー」「漬物」だそうで。

そちらをいただきましたら、盛岡まで足を伸ばすつもりで下ります。つい先日、以下のイベントが開催されていることに気づきまして。

岩手ゆかりの近代詩文書作品展

期 日 : 2026年2月14日(土)~3月8日(日)
会 場 : もりおか町家物語館 岩手県盛岡市鉈屋町10-8
時 間 : 9:00~19:00 最終日は16:00まで
休 館 : 2月24日(火)
料 金 : 無料

今回で4回目の開催です。岩手にゆかりのある近代詩文を題材にした、公募で集まった書道作品を展示します。是非ご覧ください。

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花巻を第二の故郷とした光太郎の詩句を書かれた作品も複数展示されているとのことでして。
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「今回で4回目の開催」だそうですが、一昨年に行われた際にはIBC岩手放送さんのローカルニュースで取り上げられ、このブログで紹介させていただきました。そちらは第2回だったようです。

というわけで、行って参ります。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)51 『赤城画帖』特装版

昭和31年(1956)9月5日 龍星閣 高村光太郎著 西山勇太郎編
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目次
 赤城画帖 第一図~第二十八図  赤城相聞歌  赤城山の歌

昨日、内容的には同一の通常版をご紹介しましたが、こちらは百部限定の特装版。二重函で、表紙は羊皮です。

何度か取引させていただいた小金井市の美術専門古書店・えびな書店さんから新しい在庫目録が届きました。
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「一、新蒐品」のページには直接光太郎に関わる品はありませんでしたが、交流のあった人々の絵画作品や書作品、書簡、草稿なども多く、興味深く拝見しました。親友だった水野葉舟、柏亭・鶴三の石井兄弟、留学仲間の津田青楓や有島生馬、光太郎を敬愛していた少し年下の宮崎丈二・岸田劉生、姉貴分・与謝野晶子、智恵子の方でも平塚らいてうなどなど。

それら、他店と比較すると価格設定が明らかに良心的なのですが、さらに驚いたのが「二、精選在庫品」のページ。「開店44周年記念」というよくわからない理由で(笑)、全品2割引とのこと。

こちらには光太郎の書作品が3点出ていました。
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左上が「源にかへるもの力あり」。元ネタは昭和17年(1942)作の翼賛詩「みなもとに帰るもの」の一節のアレンジです。右下で「太田村 やまぐちやまの 山かげに ひえをくらひて 蟬彫る吾は」。花巻郊外旧太田村の山小屋で隠棲中に詠んだ短歌が認(したた)められているマクリです。最後に左下はフランスのことわざ「盃と口とは遠し」を書いた戦前と思われる色紙。「源に……」と「盃と……」は令和3年(2021)9月、「太田村……」は同年12月の目録に初登場でした。

ちなみに一緒に画像が並んでいる小杉放庵(未醒)も光太郎とわずかながら交流がありました。

後の方のページには、色紙「詩とは不可避なり」、詩人の中野秀人に宛てた書簡(昭和2年=1927)、それから光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった豊周の作も。色紙は令和2年(2020)6月、中野宛書簡は同年(2020)10月に売りに出ていました。ちなみにそれぞれの際も2割引フェア中でした。
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「二、精選在庫品」のページでは光太郎作品は5点のみですが、表紙には「在庫品全点2割引」とあります。上記以外にも「高村光太郎」で検索すると、以下の通り。
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金に糸目をつけない生活ができていれば、すべて入手したいところですが(笑)。

「二、精選在庫品」にも光太郎智恵子と交流のあった人々の作品等がずらっと出ています。2割引フェアがいつまでかは明記されていませんが、余裕のある方、ぜひどうぞ。できればその後、各種展覧会等への貸与もやぶさかでないよ、という方に買われてほしいものですが。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)49 『詩集 典型以後』

昭和31年(1956)9月5日 中央公論社 高村光太郎著
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目次
 東北の秋        昭和二十五年十一月「婦人の友」
 開拓に寄す              昭和二十五年十一月“岩手県開拓五周年祭”
 大地うるはし      昭和二十六年一月「婦人公論」
 人間拒否の上に立つ   昭和二十六年一月「心」
 明瞭に見よ       昭和二十六年一月「出版ニュース」
 船沈まず        昭和二十六年元旦「中部日本新聞」「西日本新聞」「北海道新聞」
 智恵子と遊ぶ      昭和二十七年一月「新女苑」
 山のともだち      昭和二十七年九月「婦人之友」
 ばた屋         昭和二十七年十月「中央公論」
 餓鬼            〃
 報告          昭和二十八年一月「いづみ」
 お正月に        昭和二十八年元旦「朝日新聞」
 東京悲歌        昭和二十八年四月「心」
 十和田湖畔の裸像に与ふ 昭和二十九年一月「婦人公論」
 かんかんたる君子    昭和二十九年元旦「毎日新聞」
 記者図                      昭和二十九年一月十四日「新聞協会報」
 弦楽四重奏       昭和二十九年三月「婦人之友」
 新しい天の火      昭和三十年元旦「読売新聞」
 開拓十周年       昭和三十年十月“岩手県開拓十周年”
 追悼          昭和三十年十二月「婦人之友」
 開びやく以来の新年   昭和三十一年元旦「中部日本新聞」「西日本新聞」「北海道新聞」
 お正月の不思議     昭和三十一年元旦NHK第二放送「季節のしおり」
 生命の大河       昭和三十一年元旦「読売新聞」
 あとがき  高村豊周

題名の通り、昭和25年(1950)刊行の詩集『典型』の後に書かれた詩の集成です。この年4月に没した光太郎にはこれらをまとめて出版する意図は無かったと思われますが、「あとがき」を執筆した実弟・豊周、当会の祖・草野心平、そして版元の中央公論社の強い希望があったと思われます。

地方紙『岩手日報』さん、昨日の記事から。

書で迫る高村光太郎 県高校教員展 盛岡

 県高校教員書道展(県高校教育研究会書道部主催)は12日まで、盛岡市盛岡駅西通のキオクシアアイーナで開かれている。墨痕鮮やかな力作が来場者の目を引きつける。
 書道教育に携わる28人の約80点を展示。「高村光太郎に寄せて」の共通テーマに沿って詩文をつづったり、好きな言葉や思いなどをしたためたりして、内容も形式も自由で個性が光る作品が並ぶ。
 事務局を務める盛岡市立の伊藤聖子教諭(43)は「教員の研さんの場であり、訪れる方との交流の機会にもなっている。好きな作品を見つけ、書を身近に感じて欲しい」と願う。
 午前9時~午後5時(最終日は同4時)。各日先着10人に色紙などのプレゼントがある。入場無料。
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この書道展についてはまったく存じませんでした。会場のキオクシアアイーナさんのサイトには先月の時点で予告が出ていましたが、「岩手県高等学校で書道を教えている教員による、地域交流を目的とした楽しい書作展です。」というだけで「高村光太郎」の文字が入っていませんで……。

調べたところ、テレビ岩手さんのローカルワイド「5きげんテレビ」でもちらっと紹介されていました。こちらでも「県内の高校で書道を教えている教員たちのバラエティ豊かな作品が並ぶ教員書道展。毎日先着10名様に今年の干支「午」にちなんだ作品のプレゼントもあります。もしかしたら知っている先生の作品もあるかもしれませんよ。」ということで、光太郎の名が出ていませんでした。
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会期は3日間だけで今日までだそうです。もう少し長くてもいいような気がしますね。それならば光太郎がらみの作品だけでも、花巻の高村光太郎記念館さんか、道の駅はなまき西南さんあたりに巡回して下さるとありがたいのですが……。記事に添えられた写真では、左から2点目の幅が光太郎の書論「黄山谷について」(昭和30年=1955)の一節です。曰く「何よりも黄山谷の書は内にこもつた中心からの気魄に満ちてゐて、しかもそれが変な見てくれになつてゐない。強引さがない」。黄山谷(黄庭堅)は中国北宋時代の書家で、自身も独自の書を残した光太郎がことに愛した一人です。

ちなみに花巻高村光太郎記念館さんでは、現在、花巻南高校さんで芸術書道を選択なさった生徒さんたちの光太郎詩文の書が展示されています。先月伺った際、ちょうどその展示が始まるところでした。同校サイトでも紹介されています。
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光太郎自身は自らを「書家」と定義したことはありませんが、独特の優れた書を多く残し、またその書論も同時代では抜きんでた炯眼によって書かれたものでした。今後とも光太郎と書について、掘りさげられた企画が為されることを切に望みます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)12 『ロダン』 アルス美術叢書普及版

昭和3年(1928)4月4日 アルス 高村光太郎著
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目次
 一、一個の全球
 二、親ゆづり
 三、善い姉さんと腹の出た家と
 四、始まり
 五、実地修行
 六、修道院
 七、下働きと仕立女工
 八、総決算と新時代
 九、苦境と愉楽と
 十、振出しへ返る事
 十一、自己の道
 十二、「歩む人」と「地獄の門」と
 十三、胸像群
 十四、記念像群及「バルザツク」の彫刻的意義
 十五、一九〇〇年以後
 十六、晩年、死、死
 十七、「小さい花子」

昨日ご紹介した、前年刊行の通常版と本文の紙型は同一で、ハードカバーではなくペーパーバックとして出されたものです。

群馬県から企画展情報です。

第127回企画展「愛の手紙-友人・師弟篇-」

期 日 : 2025年10月25日(土)~2026年1月18日(日)
会 場 : 群馬県立土屋文明記念文学館 群馬県高崎市保渡田町2000
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 火曜日 10月28日(群馬県民の日)は開館(10月29日(水)休館)
料 金 : 一般500(400)円、大高生250(200)円 ( )内は20名以上の団体割引料金
      中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料
      10月28日(火・群馬県民の日)は無料


 手紙は、もともと公表を前提としておらず、特定の個人に宛てて書かれたものです。そのため、文学者の素顔や本音に接することができる資料といえます。本展では、日本近代文学館所蔵の資料を中心に、近代文学者の書簡をエピソードとともに紹介します。
 夏目漱石や川端康成ら文学者たちが友人や師弟に贈った言葉に触れることで、彼らの人柄や生活、作品背景等を感じてください。また、こおりやま文学の森資料館所蔵の、久米正雄が撮影した芥川龍之介の動画を常時放映します。こちらもぜひご覧ください。

出展作家
 二葉亭四迷 夏目漱石  高浜虚子  与謝野晶子  斎藤茂吉  高村光太郎
 柳原白蓮  谷崎潤一郎 萩原朔太郎 大手拓次   菊地寛   芥川龍之介
 横光利一  川端康成  三好達治  土屋文明

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関連行事

 記念講演会 「文豪たちの友情往来:手紙で辿る心の絆」
  11月1日(土) 14:00~15:30   講師:石井千湖 氏(書評家・ライター)
  【先着】 150名(4名様まで申込可) 要事前申込・要企画展観覧券
  近代文学者の友情や交流をテーマにお話しいただきます。

 ワークショップ
  Ⅰ「文学館でタイムカプセル」  11月23日(日・祝) 14:00~15:00
   【先着】 30名(4名様まで申込可) 要事前申込・無料
   ※小学2年生以下は要保護者同伴
   ふみの日に合わせて、手紙の書き方を学び、3年後の自分や大切な人宛てに
    手紙を書くイベントです。
   書いていただいたお手紙は当館で大切に保管し、3年後に投函させていただきます。
   講師:当館職員
  Ⅱ「草木染和紙でオリジナルカードをつくろう」
   12月7日(日) ①13:00~14:30 ②15:00~16:00
   【抽選】 各回15名(4名様まで申込可) 要事前申込・要企画展観覧券
   ※申込締切11月25日(火)必着 ※小学2年生以下は要保護者同伴
   草木染の和紙に模様をつけて、オリジナルカードを作ります。
   講師:山崎梢 氏(草木屋 草木染伝習所)
  Ⅲ「高校生によるお茶席教室」  1月12日(月・祝) 14:00~15:30
   【抽選】 20名(4名様まで申込可)要事前申込・無料
   ※申込締切12月25日(木)必着 ※小学2年生以下は要保護者同伴
   高校生と一緒に、参加者ご自身がお茶を点てる体験型イベントです。
   協力:群馬県立渋川女子高等学校茶道部

各文豪の直筆文字の美しさ(美しくない文豪もいるかも知れませんが(笑))も味わっていただきたいと思い「書作品」カテゴリに入れました。やはり活字で見るのと直筆の文字で見るのとでは大違いでしょう。漱石に関しては愛用の万年筆が出ますし、また、芥川の書簡は河童のイラスト入りだったりします。

芥川と言えば、「こおりやま文学の森資料館所蔵の、久米正雄が撮影した芥川龍之介の動画を常時放映」とのこと。少し前にニュースになりましたね。

『福島民友』さん記事。

文豪の交流、貴重な映像 久米正雄撮影フィルム修復完了、郡山市活用検討へ

 福島県郡山市と横浜市立大が2020年から進めてきた、同市ゆかりの作家久米正雄撮影の映像フィルムの修復作業が完了した。映像には「蒲団」などの作品で知られる作家田山花袋ら当時の文豪たちの様子が映っており、専門家は「大正期の作家らのプライベート空間を写した貴重な映像」としている。
 修復したのは久米が大正末期~昭和初期に撮影し、「こおりやま文学の森資料館」に所蔵していたフィルム12本で、うち8本で映像が確認された。
 中でも1924年4月に多摩川周辺で撮影されたフィルムには、初めて映像が確認された田山や、宇野浩二、里見弴(とん)、岡本一平(岡本太郎の父)ら10人以上の作家が和やかに交流する様子が映されている。また、詳細は不明だが芥川龍之介と菊池寛が座敷で過ごす映像も記録されていた。
 11日、郡山市役所で成果報告会が行われ、市の担当者や専門家らがフィルムの概要を説明した。横浜市立大の庄司達也教授は「写真では確認できていた作家たちが映像として姿を現した。われわれが知らなかった文壇のつながりが分かる」と映像の意義を語った。
 小沢純慶応志木高教諭は「びっくりするぐらい、いろいろな派閥の作家らが仲良く談笑している」と指摘。日大経済学部の山岸郁子教授も「文学史からだけでは読み取ることのできない作家たちの私的な空間、『作家らしさ』を映像に残そうという久米の態度がうかがえる」と述べた。
 市は映像の公開や活用法について検討する方針。
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追記 残念ながら記事にある動画は上映されていませんでした。

出典作家には光太郎の名も。おそらく同館所蔵のものでしょうが、同館では群馬出身で同館初代館長だった伊藤信吉宛の書簡など、結構な量の光太郎書簡を所蔵なさっています。出品目録がネット上に出ていないので詳細は不明ですが。

お隣栃木県の栃木市立文学館さんでは、「『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武」が開催中でして、自宅兼事務所のある千葉からは同じ方角ですので、併せて行ってみようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

私は博覧会の頃仕事してゐる日本の芸術家達を見てゐた事があります。折々、客が彼等を急がせて本当に出来切らないものを持つてゆかうとして、其の代価の金を出しては仕事してゐる者を誘惑するのです。けれども彼等は断りました。金は失つても、彼等が見て、出来きらないものを自分の手から離す事は許しませんでした。此が本当の芸術的精神です。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

昔の日本人にはこういう美徳が美徳ともいえないほど当たり前だったわけで……。

京都の書画骨董店・新古美術わたなべさんから新しい目録が届きました。同店には、令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際に随分とお世話になりました。
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光太郎の色紙揮毫が掲載されています。書かれている文言は「美ならざるなし」。「この世界には美しくないものは存在しない」「この世界の全てのものが美を包摂している」といった意味合いですね。美術評論家でもあった光太郎のポリシーを端的に表現しています。

昭和26、27年(1951、52)頃書かれた評論の題名にもなっています。その一節。

自然に醜はない。人間をも含めた自然の中に醜なるものは存在しない。悉く美である。醜は人工の中にある。
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光太郎が好んで揮毫した文言の一つで、複数の作例が確認出来ています。おそらくすべて、ほぼ同時期のものと思われます。

花巻高村光太郎記念館さん所蔵のもの。
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生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の昭和27年(1952)、雑誌の対談の会場となった料亭・紀尾井町の福田家に贈ったもの。
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ここの女将は、光太郎が花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた頃、まったく面識がないにもかかわらず「高村先生、大変でしょう」と、大量の食糧を送ってくれました。たまたま対談の会場がその女将の店とわかり、この書を書いて持参したわけです。

もう1点。これも最近売りに出たもので、都内の美術専門古書店・えびな書店さんが扱われています。
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以上四点、すべて色紙揮毫ですが、花巻高村光太郎記念館さんでは、色紙ではない幅のもの、さらにやはり色紙ですが、「義にして」とつけたものも所蔵しています。
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他の揮毫でも、平仮名の「し」をやたら長く書くのが光太郎書の一つの特徴。この「し」の書体が真贋を見極める一つのポイントです。もっとも、贋作作者もそれをわかっていて似せようとするのでしょうが。

そういう人をだまくらかそうとする人間の営みこそ「醜」ですね。

【折々のことば・光太郎】

ギリシヤの彫像には生命そのものが、脈うつ筋肉を活かし、暖めてゐるのに官学派芸術のだらしのない人形は死んで氷のやうです。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

アカデミズム彫刻は、「自然」を写そうとしても観察が不十分でそれが出来ておらず、「死んで氷のやう」な「人形」だと、辛辣です。

光太郎も留学からの帰朝後、日本のアカデミズム彫刻系には同様の評を下しています。

光太郎の名が出た新聞記事、3件ご紹介します。

まず、『朝日新聞』さんの読者投書ページ「声」欄。8月27日(水)掲載分。21歳のお名前を見るかぎりおそらく女性の投稿です。

自由で専門的な学び、就活で困難

 大学生活といえば、社会に出る前のモラトリアム(猶予期間)と言われるが、それは昔の話だ。今の大学生の多くは、1年生から就職に向けて動くことを催促され、翌年には早くもインターンシップ。2年生の終わりには企業分析をしておかないと手遅れになるとせっつかれる。大学生活の開始から、ずっと就職活動の4文字を聞き続けている。
 3年生の私は今夏、計4社のインターンシップに参加している。その予定が先にあって、合間に自分のやりたいことを選ばざるを得ない。
 この現状に強い不満と憤りを覚えている。中学時代から高村光太郎が好きで、日本の近代文学やその研究手法を学ぼうと今の大学に進んだ。時間にとらわれず、自由に文学に触れながら、専門性の高い学問を学びたいのに、かなわない。
 大学生活を自分の思う通りに過ごしたいという願いは、決して過ぎたわがままではないはずだ。

「売り手市場」「働き手不足」と言われながら、現状はこうなのですね。いや、「売り手市場」「働き手不足」だからこそ、企業側が必死に「囲い込み」や「青田買い」に汲々としているのかも知れません。インターンシップの仕組み事態は悪いこととは思いません。入社してから「こんなはずじゃなかった」というのを少しでも防ぐことにつながるでしょうし、いわゆるブラック企業かどうかの判断材料にもなるでしょうし。しかし、投稿にあるようなそれに追われてしまう現状は、たしかにいかがなものかという気はします。そうならないように「防波堤」の役割を務めるのが大学側の責務のように感じます。

投稿者さん、忙しい毎日に流されることなく、「高村光太郎が好きで」という気持を忘れずに頑張ってほしいものです。

続いて『岩手日報』さん。昨日の掲載でやはり教育に関わる内容です。

支局日誌 【二戸】学ぶ姿勢で地域取材

 取材で小学校に足を運ぶと、大人になっても大切にするべきことはこの頃に既に教わっていたのだと、ふと気付く。また、子どもたちから気付かされることも少なくない。
 8月27日、横浜国立大教育学部付属鎌倉小(神奈川県鎌倉市)の児童が一戸町を訪れ、県指定無形民俗文化財の根反鹿踊りを体験した。保存会の大人に交じって踊っていたのは一戸南小の根反鹿踊り伝承クラブの子どもたちだ。
 「自信を持って踊れるように練習してきた」。同じ小学生の前で堂々と披露する姿からは、地域の伝統をつなぐ強い意志が感じられ、こちらまで誇らしい気持ちになる。胸を張れるようになるまで取り組むのは難しいことだ。
 一方で鎌倉小の子どもたちは地元にこのような郷土芸能はないといい、すぐに興味を示して素直に動きを倣っていた。物おじせずにチャレンジし、純粋な疑問を投げかける様子からは学ぶことへの真っすぐな意欲も感じられた。
 子どもたちの姿を見て、自分の母校の太田小(花巻市)で教わった高村光太郎の言葉を思い出した。「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」。カシオペア地域を担当してこの秋で3年目に突入する。改めて学ぶ姿勢で地域と向き合っていきたい。 

「カシオペア地域」というのは、県最北部の(二戸市、軽米町、九戸村、一戸町、旧浄法寺町)だそうです。

「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」。光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の太田中学校に贈った言葉です。
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光太郎自身、この言葉が気に入ったようで、後に盛岡少年刑務所さんには前半部分の「心はいつでも新しく」のみを贈りました。
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記者氏の母校・太田小さんでは現在でも「光太郎先生学習」として、総合的な学習の時間に地域の偉人としての光太郎についての学習活動などが為されています。記者氏の記憶に光太郎の言葉が残っていて、こうした機会に取り上げて下さるのは嬉しいことです。

ついでですのでもう1件。『日本経済新聞』さんの8月31日(日)の記事。見開き2ページの長い記事なので、部分的に。元日銀理事の清水季子氏を紹介するものです。

元日銀理事から起業の道へ 清水季子さんは偏見を超え、未来を変える 着物愛「深川芸者の粋に憧れ」

015しみず・ときこ 東京都出身。東京大学工学部で都市工学を学び、卒業後の1987年に日銀に入行。金融市場の調節を担う部局などでキャリアを積んだ。那覇・高松・名古屋の各支店のほかロンドン駐在も経験。2020年からは女性初となる日銀理事を4年間務め、100回以上の国際会議へ世界を飛び回った。退任後は24年に豊田自動織機の取締役に就き、同年、人材開発を手がけるEmEcoを創業した。運動が趣味でゴルフや水泳を続けている。

 30代の頃は着物を買うために仕事をしていたほどの着物好き。華やかな色合いより、茶色や若草色といった渋い色が好みだ。20代の時に職場の同僚から着付けを教えてもらい習得した。
 「姉御肌できっぷがいい深川芸者の粋に憧れる」と笑い、「着物を着ると本来の自分に戻れる。穏やかに過ごせる」という。「フォーマルは着物」と決め、海外駐在中は晩さん会に呼ばれると必ず着物に袖を通した。すごく喜ばれたそうだ。
 今も月に1度は着物で人形浄瑠璃文楽や能、歌舞伎を鑑賞する(上の写真)。一番好きなのが文楽で、人形遣いで人間国宝だった吉田玉男(初代)の生前最後の舞台も観劇した。高松支店長時代には能の謡も習った。
書道で感性を研ぎ澄ます
 日銀の理事に就任した際、当時の麻生太郎財務相から達筆な書状をもらった。それをきっかけに「自分も書状で返せるようになりたい」と、それまで一度も習ったことのなかった書道を2021年から始めた。海外出張の合間に教室に熱心に通い、2年で師範となった。
 雅号は「清水景風」。最近書いた作品は高村光太郎の詩「救世観音を刻む人」から(下の写真)。今回は「ひらがなが交じった作品に挑戦したかった」という。余白のバランスを意識しながら長さ2メートルほどの半紙に30分ほどで書き上げた。表題が大きく、力強い筆致で描かれているのが印象的だ。
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 探究心が強く、ものごとを突き詰めようとする性格も書道に向いていると感じる。「瞬間芸のような感じ。この年齢でここまで集中することはない。感性を磨き続けることも大事だ」と魅力を語る。指導者からも「書いている最中の集中力が尋常じゃない」と評された。海外で暮らす友達に自分の作品をプレゼントするといった粋な計らいも楽しみの一つになっている。
 30年来、日本のテレビドラマのファンで年間に100本は視聴する。「泣いたり笑ったり怒ったり。心が動くことが楽しい。女性エンジニアが主人公のドラマ制作に取り組もうと思い、今、脚本の勉強をしている」。その好奇心は尽きることがない。

清水氏、昨年の第46回東京書作展で入選なさっていました。ただ、入選作は光太郎詩を書かれたものではありませんでしたが。
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割愛した部分では、日銀理事という要職を務められながらもさまざまなことにチャレンジなさっていたことが書かれていますし、ご退任後も人材開発のスタートアップ起業だそうで、実に素晴らしいと感じました。

ここで最初の『朝日新聞』さん投稿に戻りますが、投稿者の大学生の方に、「こういう女性もいらっしゃるんだよ」と伝えたいところですね。「学ぶ」意慾さえあれば、忙しさなどのおおかたの困難は乗り越えられる、ということで。そしてそのことは「自戒」ともしたいと思います。

【折々のことば・光太郎】

芸術には突飛な努力があつてはなりません。自然にさういふものは無い。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

ロダンも光太郎も、「突飛な努力」を排除したいわば「王道」を進もうとしました。光太郎はピカソのような変化球的な進み方を、それはそれとして認めつつも、やがては袋小路に入るものだとしていました。

毎年ご紹介してきたのですが、今年は完全に忘れていました。都内の古書籍商さんの組合・明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼して入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。入札が7月6日(日)、出品物を手に取って見られる下見展観が7月4日(金)、7月5日(土)の2日間で行われていました。

以前は「日本最大の古書市」という触れ込みで、確かに文学系においては珍しい出品物が多く、しかも現物を見られるということで、ほぼ毎年、下見展観に足を運んでいましたが、特にコロナ禍以後は規模が縮小し(目録が最盛期の4分の1くらいの厚さに)、光太郎に関しては目新しい出品物もなく、足が遠のいておりました。また、今月初め頃は「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」の準備等でバタバタしており、完全に忘れていました。

今年。やはり出品点数は少なかったものの、光太郎関連で「へー」というものが出ていました。3点で、すべて短歌がらみでした。

目録番号順に、まずは歌幅。
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短歌「おほきなるちからとあつきなくさめとわれにくたかきそらをみるとき(おほきなる力とあつきなぐさめと我に来たかき空を見る時)」が認(したため)められています。短歌自体は明治39年(1906)、欧米留学のため横浜港から乗った貨客船アセニアンで外洋に漕ぎ出した際に詠んだもの。翌年の雑誌『明星』に発表されました。

ただ、揮毫は大正期と思われます。令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際にお借りした大正7年(1918)揮毫の歌幅2点が、その書きぶり等、非常によく似ています。
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ちなみに左の二幅はそれぞれ「さどかしまあらきなみちにまもられてわかたましひはとこひさにゆく(佐渡島荒き波路に守られて吾が魂は常久にいく)」、「こしのうみなみはあらしとひとはいへとわかのるふねにつつかあらめやも(越の海波は荒しと人は言へど吾が乗る船につつがあらめやも)」と読みます。

まぁ、同一人物の筆跡ですから何とも云えませんが、次に掲げるような戦後の書とは明らかに違う感じで。かなりの部分が変体仮名的な用字になっています。

その戦後の書。
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揮毫例が複数存在する短歌で「太田村やまくちやまの山かけにひえをくらひて蟬彫る吾は(太田村山口山の山蔭に稗を食らひて蟬彫る吾は)」。戦後の物資欠乏時らしく、有り合わせの紙に書いた感がありますね。

そして書簡が一通。
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斎藤茂吉に宛てたもので、茂吉の歌文集『高千穂峰』と歌集『暁紅』(共に昭和15年=1940)を贈られた礼状です。

拝啓 改造社版の“高千穂峰”を拝受ありがたく存居りしところつづいて岩波版の“暁紅”をいただき御礼の申上げやうもございません
“高千穂”の方は未踏の地とて地図をひろげながら拝読いたしました
“暁紅”の方は今夏こよなきたのしみに存じます いつもいただくのみにて恐縮に存じますが 謹んで御厚情を感謝いたします
   七月八日   高村光太郎
 斎藤茂吉様
     御座下

茂吉宛の書簡はこれまで確認出来ておらず(あっただろうという推理は出来ていましたが)、これが一番驚きました。

この書簡、落札した業者の方が早速ヤフオクに出品しています(7月22日(火)終了)。
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「七夕古書大入札会」、ほとんど一般の方はご存じないかと思われまし、入札システムも複雑ですので、ネットオークションに出れば入手しやすいということは言えるでしょう。

収まるべきところに収まってほしいものですが。

【折々のことば・光太郎】

昨日御来訪の趣をききましたが折から肋間神経痛発作のため臥床中でありましたため失礼いたしました、あしからず御了承下さい、その節はいただきものいたし感謝いたしました、雑誌はたのしくよんで居ります、

昭和30年(1955)9月27日 上田静栄宛書簡より 光太郎73歳

上田は智恵子の親友だった田村俊子に師事した人物。遠く大正3年(1914)の光太郎智恵子結婚披露直後くらいには俊子に連れられて駒込林町の光太郎宅を訪れ、当時としては珍しかったレモネードをご馳走になったりしています。

またしても年またぎのご紹介となりますが……。

墨 2025年1・2月号

発行日 : 2024年12月27日発売
版 元 : 芸術新聞社
定 価 : 2,700円(税込)

特集 昭和100年記念 時代の書
 1926年に改元され、日本史上最長の元号となった昭和。2025年は昭和100年に当たります。今号は激動の時代、昭和を振り返るとともに昭和書道史を概観します。昭和の書壇で活躍した作家の名品を主要な展覧会の歴史・書道団体成立の系図など、便利な資料とともにお届けします。書を通じて、昭和という時代を回顧してみましょう。

★インタビュー 昭和の書文化と書壇を語る 談/西嶋慎一

視点 私の見た書の昭和
★「読む」から「見る」へ 書が美術へ接近した時代 談/菅原教夫
★激動と秩序の共存していた昭和は身近にいつも書があった 文/比田井和子
★周囲一メートルの昭和 文/桐山正寿
・衝突と賛否両論が多様性を育んだ 談/松原清 

鑑賞  昭和を生きた書人、書と言葉 選/井口尚樹 
 比田井天来 川谷尚亭 中村不折 吉田苞竹 会津八一 鈴木翠軒 高村光太郎
 比田井南谷 川村驥山 津金寉仙 上田桑鳩 大澤雅休 井上有一 尾上柴舟 西川寧
 辻本史邑 豊道春海 上條信山 松本芳翠 安東聖空 深山龍洞 赤羽雲庭 手島右卿
 木村知石 青木香流 日比野五鳳 松井如流 森田竹華 金子鷗亭 森田子龍 村上三島
 西谷卯木 殿村藍田 小坂奇石 柳田泰雲 宇野雪村 桑田笹舟 今井凌雪 青山杉雨
 河井荃廬 石井雙石 中村蘭台二世 山田正平

コラム 昭和の書家のしごと 固形墨の題字
コラム 昭和の書家のしごと 筆墨店の看板文字
資料室 近現代書の人脈
資料室 近現代書 団体の成立と変遷
資料室 墨展覧会リバイバル
第36回毎日書道展/第1回読売書法展/ 第1回サンケイ国際書展
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芸術新聞社さん発行の隔月刊書道雑誌『墨』。新春っぽい表紙です。特集が「昭和100年記念 時代の書」。

その中で元同誌編集長の井口尚樹氏が選んだ「鑑賞  昭和を生きた書人、書と言葉」。光太郎を含む昭和を代表する書の達人たちをその作品と共に紹介しています。その数43名。大半が職業的書家ですが、それ以外が4人。すなわち中村不折、会津八一、尾上柴舟、そして光太郎。ここに光太郎を含めて下さったのは誇らしいところです。

光太郎の作品としては、戦後の花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で揮毫された色紙「うつくしきもの満つ」。さらに書論「書について」(昭和14年=1939)の一節を取り上げて下さっています。
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「うつくしきもの満つ」、光太郎が好んで揮毫した文言です。中には「満つ」を変体仮名的に片仮名で「ミつ」としたものもあります。以前にも書きましたがこの「ミつ」を「三つ」と誤読し、「三つのうち、一つ目が○○、二つ目で××、そして三つ目は……」という噴飯ものの解釈がまかり通っている部分があります。噴飯ものと笑って済ませられるうちはいいのですが、さもそれが定説だと言わんばかりにSNS等でたくさん横行してくると、義憤も感じますね。

閑話休題。『墨』誌、これまでにも光太郎特集を3回組んで下さいました(昭和52年=1977 第8号、昭和60年=1985 第53号、平成12年=2000 第142号)し、般若心経特集の号(平成2年=1990 第83号)などでも光太郎書を取り上げて下さっています。当会顧問であらせられた北川太一先生、その盟友・吉本隆明氏などの玉稿も載り、それぞれ光太郎書を知る上で保存版といっていい濃密な内容です。
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古書市場で入手可、ぜひお買い求めを。それから最新号も。

【折々のことば・光太郎】

先日は雪の中をはるばるおいで下され、御難儀の事恐縮に存じました。山の事とて何のお構ひも出来ず失礼いたしました、ゼンマイ、ワラビの頃又おいであらば中々風情ある事と存じます、

昭和26年(1951)2月26日 八重樫マサ宛書簡より 光太郎69歳

八重樫は花巻温泉の旅館・松雲閣の仲居。たびたび宿泊客を太田村の光太郎山小屋に案内しました。

この年2月21日の日記には、「「せんてつ」の鈴木氏松雲閣の女中八重樫さんと同道来訪」の記述があります。この際の八重樫の体験談及びこの書簡について、佐藤隆房編『高村光太郎 山居七年』(昭和37年=1962 筑摩書房)に詳しく記されています。「鈴木氏」は鈴木肆郎。当時、仙台鉄道局刊行の雑誌『せんてつ』の編輯に当たっていました。

このようにたびたび来訪者を案内してくれることに対し、申し訳なく思ったのでしょうか、光太郎は書を礼代わりに贈りました。これも好んで揮毫した今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたものでした。
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昨日は上京し3件の用件をこなして参りました。

行った順に、
 ・荒川区荒川ふるさと文化館さんで企画展示「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」拝観
 ・上野の東京都美術館さんで「第46回東京書作展」拝観
 ・文京シビックセンターさんで「第67回高村光太郎研究会」に参加
でした。

このうち「第46回東京書作展」が今日までですので、もしかするとこのブログを見て行ってみるか、という方もいらっしゃるかも知れないと思い、時系列を無視してそちらのレポートから。

会場の東京都美術館さんのある上野公園、紅葉に彩られていました。
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この手の書道展はおおむねお世話になっている書家の菊地雪渓氏から招待状を頂いて参上しています。こちらの「東京書作展」は、全国公募のもので、菊地氏、令和元年(2019)の第41回では最高賞である内閣総理大臣賞/東京書作展大賞を受賞なさっています。その後、無鑑査で毎年ご出品。

今年の出品作。
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杜甫の漢詩ですね。あいかわらずお見事です。

そちらを拝見後、他の方々の出品作で、光太郎詩文が書かれた作品を探しました。この手の書道展では宝探し的なそれが大きな楽しみです。

見落としが無ければ3点出ていました。

「特選」入賞作。「手紙に添へて」(昭和13年=1938)。
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002光太郎詩の中ではマイナーな部類のものですが、よくぞ取り上げて下さいました。

  手紙に添へて

 どうして蜜柑は知らぬまに蜜柑なのでせう
 どうして蜜柑の実がひつそりとつつましく
 中にかはいい部屋を揃へているのでせう
 どうして蜜柑は葡萄でなく
 葡萄は蜜柑でないのでせう
 世界は不思議に満ちた精密機械の仕事場
 あなたの足は未見の美を踏まずには歩けません003
 何にも生きる意味の無い時でさへ
 この美はあなたを引きとめるでせう
 たつた一度何かを新しく見てください
 あなたの心に美がのりうつると
 あなたの眼は時間の裏空間の外をも見ます
 どんなに切なく辛(つら)く悲しい日にも
 この美はあなたの味方になります
 仮りの身がしんじつの身に変ります
 チルチルはダイヤモンドを廻します
 あなたの内部のボタンをちよつと押して
 もう一度その蜜柑をよく見て下さい

やはり過去の第40回展(平成30年=2018)で、光太郎詩「冬」(昭和14年=1939)を書かれて東京都知事賞に輝かれた中原麗祥氏。今年は「雪白く積めり」(昭和20年=1945)。
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もう1点、『智恵子抄』から定番の「あどけない話」(昭和3年=1928)を書かれた方も。
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それぞれ、ありがとうございました。

東京都美術館さんで、会期は今日までです。ぜひ足をお運びください。

ところで「今日まで」というと、杉並区の荻窪小劇場さんで、「劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄」も11月21日(木)に開幕し、今日まで。今日はそちらに伺いますが、当日券もあるようです。こちらもお時間のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

木村さんの会には出たいのですが何分遠隔の地にあるので不本意なから欠席します、『魔の宴』も忝く拝受 いろいろの事をおもひ出します、

昭和25年(1950)6月19日 和田豊彦宛書簡より 光太郎68歳

ca6d4a55「木村さん」は木村荘太(艸太)。武者小路実篤の「新しき村」などに参加した作家です。フユウザン会などで光太郎と親しかった画家・木村荘八の実兄でもありました。遠く明治末には、吉原河内楼の娼妓・若太夫をめぐって光太郎と三角関係となり、決闘未遂にまでなりました。

『魔の宴』はその頃を回想した自伝的小説で、この年5月に刊行されました。若太夫をめぐるすったもんだなどにも詳しく触れられています。

木村、大正12年(1923)から、旧遠山村(現・成田市。光太郎の親友・水野葉舟も住んでいました)に移り、旧制成田中学(現・成田高校さん)や図書館などに勤務していましたが、何を思ったか、この刊行直前の4月に、成田山新勝寺内の成田山公園で縊死してしまいました。

3件ご紹介します。

まず、過日ご紹介した浄土宗総本山知恩院秋のライトアップ2024について、11月16日(土)の『読売新聞』さん。

【京の浄土宗・秋】照り映える紅葉心休めて

 古都の山々がようやく、彩りをまとい始めた。
 浄土宗総本山・知恩院(京都市東山区)は、紅葉の名所としても知られる。14日から夜間拝観が始まり、三門や御影堂、大鐘楼などが約800基のライトで照らされる。
 見どころのひとつが、女坂近くの友禅苑。京友禅の祖、宮崎友禅の生誕300年を記念し、1954年に造園された1万2000平方メートルの庭園だ。
 入り口近くの 補陀落池(ふだらくいけ)の中央に高村光雲作の聖観音菩薩立像がたつ。周辺のイロハモミジは色づきが早く、燃えるような紅色が 水面みなも にも照り映える。あでやかさは息をのむほどだ。
 12月1日までの期間中、僧侶から話を聞いたり、念仏をとなえたりする体験などもある。深まりつつある秋に、心を休めるひとときが味わえる。
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画像の美しさが際立っていますね。

彫刻つながりでもう1件、同じく11月16日(土)の『朝日新聞』さん土曜版。イラストレーター・みうらじゅん氏の連載です。

マイ走馬灯 千本日活とヌー銅たち

 「これから京都に行く人にお勧めの場所はどこですか?」
 と今まで何度も聞かれ、その都度、グッとくる仏像のおられるお寺を紹介してきたが、「お寺以外で」と言われると大変困るのだ。
 京都で生まれ育ち、18歳の夏までいたことは確かだけど、僕はみんなが喜びそうな所をほとんど知らない。それでもしつこく聞かれた時は「あくまで僕にとっての思い出深い場所ですよ」と断りを入れてから答えるのが、西陣千本と呼ばれている地帯なのだが、そこにある『千本日活』という映画館にはよくお世話になった。まるで時が止まったようなそのノスタルジックな建物は今でも健在。一見の価値ありと思うのだが、また「それ以外で何か?」と、問われてしまうのがオチだ。
 その路地にひしめく銅像は、右から“サックスを吹くヌー銅”、“ブラウスだけ羽織ったヌー銅”、“十和田湖のツイン・ヌー銅”と、ヌー石“ダビデ像”。そして左右下は映画『少林寺木人拳』の木製のカラクリ人形。そして夕焼け空には、やっぱ『ウルトラセブン』のメトロン星人がよく似合う。

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「ヌー銅」、笑えます。

最後は『陸奥新報』さん、11月18日(月)の掲載分。

一流書家の筆の使い方に高校生「すごい」

 日本書道文化協会による書家の高校派遣事業が16日、弘前高校で行われた。現代の言葉を漢字仮名交じりで書く「近代詩文書」の講習が行われ、同校書道部の部員19人が書家の金子大蔵さんら講師に手本を書いてもらい、添削やアドバイスを受けた。
 同事業は日本の書道のユネスコ無形文化遺産登録に向け、若手の育成を目的として同協会が行っている。同校では初めてで、県内で2校目となった。
 金子さんは同協会会員で、日展準役員、毎日展審査会員、創玄展一科審査会員を務めている。今年7月には最年少50歳で第75回毎日書道展文部科学大臣賞を受賞。祖父は「近代詩文書の父」と言われる鷗亭さん、父は毎日芸術賞を受賞した卓義さんと、親子3代にわたって書道に携わっている。
 同日は金子さんの席上揮毫(きごう)から始まった。「持って生まれたものを深くさぐって強く引き出す人」という高村光太郎の詩の一節で、同校の求める人物像でもある言葉をしたため、部員らは一流の書家の揮毫から学びを得ようと熱心に金子さんの手元を見たり、動画を撮ったりした。
 その後2、3年生は金子さん、1年生は助講師で同校OGの今和希子さんにそれぞれ手本を書いてもらって作品制作を行い、金子さんらは部員らが書いた作品の添削や講評を行った。
 部長の小山内実優さん(2年)は「筆の使い方やかすれの出し方がすごかった。言葉の意味に合わせて字の太さや大きさを自在に変えていて、いつもとは違う表現を見ることができた」と語った。
 金子さんは「高校生がどういう言葉を選んで、どう表現したいのか、言葉と対話して一人一人の感性を想像しながら手本を書いた。普段習っている先生とは違う表現に触れることで刺激になって、表現の幅が広がるといいと思う」と期待を寄せた。
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書家の金子大蔵氏、光太郎詩の一節を大書した書を多数展示した「第三回金子大蔵書展-近代詩文書の可能性を探る(高村光太郎の詩を書く)」をやられたこともおありの方です。記事にあるお祖父様の故・金子鷗亭氏も光太郎詩を好んで取り上げられました。

今回、大蔵氏が書かれたのは、「少年に与ふ」(昭和12年=1937)の一節。全文はこちら。

今後とも、彫刻に詩に、光雲や光太郎の作品が愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小包拝受、何かしらと思ひましたら好物の食パンだつたので大いによろこびました。それも東京製の本格的な白パンなので早速晩餐に用ゐました、丁度小岩井のバタとオランダのチーズがありましたので、幾年かぶりで本当の洋食をいただきました、


昭和25年(1950)6月5日 小田島喜兵衛宛書簡より 光太郎68歳

「食」がらみの内容なので、昨日ご紹介すべきでした。

10月27日(日)のこのブログで「拝観に行きました」的なことだけは書いておきました高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」。個々の出品作品等について解説させていただきます。
 
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左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
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光太郎、文章でも「どこにでも美は存在する」的なこと繰り返しを書いています。「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」昭和4年=1929)。これは、ネット上などで光太郎の名言の一つとしてよく引用されています。が、孫引きの孫引き、伝言ゲームみたいになっており、「路傍」が「道端」になっていたり、「瓦礫」が「がれき」になっていたりと、無茶苦茶です。引用したいのならあくまで原文の通りでお願いします。

さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。

同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
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「うつくしきもの……」も光太郎が好んで書いた文言で、複数の揮毫例が確認できています。「満」を変体仮名的に片仮名の「ミ」としている例があり、山梨県富士川町に建てられた光太郎文学碑には「ミ」を採用した揮毫が彫りつけられています。
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何度も書きましたが、この「ミ」を漢字の「三」と誤読、「光太郎が讃えたこの地の三つの美しいもの――富士山、柚子、そして人々の心」などという噴飯ものの解説が為されたページもネット上に散見されます。

なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。

この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。

光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。

さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。

 宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。

おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。

おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
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「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。

その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
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右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。

仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
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これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。

最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
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「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
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企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
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他に、常設展示の方でも書がたくさん。
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光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。

書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。

【折々のことば・光太郎】

雪のため電燈は断線で修理の見込つかず、ランプでやつてゐます。

昭和25年(1950)2月11日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎68歳

旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。

光太郎の彫刻、書、光太郎の父・光雲の彫刻が出る展覧会等の情報を3件。やはり取り上げるべき事項が山積しており、3件一気にご紹介いたします。

開催日順にまずは山口県から。「UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)」の一環というか、関連行事というか。

彫刻世界 かたち・つくり・ひらく

期 日 : 2024年10月18日(金)~12月15日(日)
会 場 : ときわ湖水ホール 山口県宇部市大字沖宇部254
時 間 : 10:00〜16:00
休 館 : 火曜日
料 金 : 無料

 彫刻がすぐそばにあると世界はまるで別のものに感じられます。
 すぐれた作品であればあるほど、そのかたちとそれを包む世界との対話と交流が生まれ、世界も彫刻もおたがいに豊かで汲み尽くせない一体状態になるのです。それは彫刻と世界が不可分になったことの証しです。
 本展タイトルの「彫刻世界」という四文字は、その現れを表現しようとするものです。空間のなかの「かたち」である立体としての彫刻は、ひとの手が「つくり」、そこから未体験の世界が生まれる=「ひらく」ことになる。「彫刻世界」が立ち現れるのです。
 暮らしのなかにはひとの手によって作られたかたちは無数に存在しています。そうした三次元の立体は、機能が目的としっかり結びつけば、具体的にコップであったり、椅子であったり、ロケットであったりします。でも、目的との結びつきが失われると、名前は消えただの適当な「もの」のように感じられ、逆に「彫刻世界」が誕生するきっかけとなります。
 彫刻のかたちは、それを包む空間と不可分であり、そこに揺らぎが潜んでいる。堂々たる不滅の記念碑と見えても、世界との関わりではじつはどこかで微妙に揺れている。手のひらのうえの小石も、巨大な石積みの古代のピラミッドも、絶え間なく変化する「彫刻世界」のなかにあるのです。
 本展は、「彫刻世界」を「かたち つくる ひらく」ことに取り組んで、ギネス世界記録 ™️認定された宇部市の彫刻コレクションの素晴らしさを紹介するものです。
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光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)が出ます。ただし、新しい鋳造のものです。他に光太郎の親友・荻原守衛の絶作「女」(明治43年=1910)、光太郎と交流のあったところでは中原悌二郎、木内克、柳原義達らの作品。さらに、昨年亡くなられた澄川喜一氏のものも。

続いては光雲木彫。石川県から。

令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく

期 日 : 2024年10月19日(土)~11月17日(日)
会 場 : 石川県立歴史博物館 石川県金沢市出羽町3-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般800(640)円 大学生・専門学校生640(510)円 *高校生以下無料
      ( )内は20名以上の団体料金 65歳以上の方は団体料金


 能登地区唯一の総合美術館である石川県七尾美術館は、平成7年(1995)の開館から約30年、能登の文化活動の拠点施設として広く親しまれてきました。
 しかしながら、当館は令和6年1月1日の能登半島地震により建物・設備に被害を受けて臨時休館中となっています。
 本展は当館が石川県立歴史博物館と共同で企画するもので、七尾美術館の所蔵品および寄託品を3つのテーマで広く紹介します。
 七尾美術館が地域との関わりの中で大切に守り伝えてきた作品群が、金沢で一堂に展示されるのは初めてのこととなります。
 その魅力に触れ、能登の豊かな歴史・文化を再確認する機会となれば幸いです。
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七尾市の七尾美術館さん。今年元日の能登半島地震で大きな被害を受け、休館中なのですね。存じませんでした。

ちょうど地震のあった時は、「彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜」展が開催中でしたが、途中で打ちきりとなったのでしょう。

そちらで展示されていた光雲作の「聖観音像」(昭和6年=1931)、光太郎と縁の深かった高田博厚の「うずくまる女」(昭和50年=1975)などが出品されます。
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最後に、都内から光太郎の書。展示即売会です。

五十五周年記念 特別展 【 粋 II 近代巨匠名品展】

期 日 : 2024年10月18日(金)~10月27日(日)
会 場 : 黒田陶苑 渋谷区渋谷1-16-14 メトロプラザ1F
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 木曜日
料 金 : 無料

 この度、開苑五十五周年を記念しまして「粋 II」を開催する運びとなりました。
東京美術倶楽部の第二十二回東美特別展の当苑のブースでは富本憲吉先生の三十糎を超える白磁大壷二点と師弟関係のあっ た加守田章二先生、栗木達介先生の晩年の貴重な作品、京都陶芸界の次世代として認めていた八木一夫先生の作品を展示い
たします。
 京橋の魯卿あんでは北大路魯山人先生の里帰りの作品や、某芸術家旧蔵の名作二点を中心に先生の偉業をご紹介いたしま す。しぶや黒田陶苑では内容を広げまして川喜田半泥子先生や加藤唐九郎先生の名碗、加藤土師萌先生が文化庁に納められ た黄地紅彩の姉妹品などの近現代の工藝から、俳優の神山繁さんが何よりも愛されていたジョルジュ・ルオーの小品、山口 薫先生が描かれた愛犬のクマや愛猫のクロの二枚の絵、村上華岳先生が自らのために残されていたと言われる美しい仏画などの書画を含め、名作三十二点を一堂に並べさせていただきます。
 
三年に一度の「粋」のそれぞれを三つの会場にてお楽しみくださいますようお願いいたします。
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軸装の光太郎色紙が出ます。
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No.32 天極をさす Hanging scroll, Calligraphy "天極をさす(pointing the celestial pole)”

 箱Box 北川太一識
 with box signed by KITAGAWA Taichi
 サイズ Size27.0 / 24.0cm 軸寸 / Scroll size: 109.0 / 43.0cm
 ¥2,750,000 (税込/including tax)

 高村光太郎先生は上野の西郷隆盛像や重要文化財の「老猿」を作った高村光雲先生の子である。叙情的で生命が宿る木彫の「鯰」や「蝉」、「柘榴」などの彫刻家として、また「道程」「智恵子抄」などの詩人としても知られている。
 本作は「いくらまはされても針は天極をさす」と揮毫している。昭和2年4月に作られ6月号の『手帖』に発表された詩「詩人」の一部である。「いくら目隠をされても己は向く方へ向く。いくら廻されても針は天極をさす。」指針にしたい美しい言葉である。

この文言、光太郎が好んで揮毫し、複数の作例が存在します。表装にも手が込んでいるのでしょう。価格は強気の設定です。懐に余裕のある方、ぜひどうぞ。

以上、それぞれ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩に書いた通り原稿紙にポスター・カラアで描いた日の丸の旗を積雪の上に立てました。

昭和25年(1950)1月11日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

「詩」は『読売新聞』に発表された以下のものです。
田村茂現代日本の百人
   この年
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

若き日には、西洋諸国とのあまりの文化的落差に絶望し、「根付の国」(明治44年=1911)などの詩でさんざんにこきおろした日本。老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」と讃えねばならなかった日本。そうした一切の軛(くびき)から解き放たれ、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみやたらと否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本に過ぎないのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。もっとも、原稿用紙の日の丸自体は、遡って昭和22年(1947)から行っていましたが。

小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの新蒐品目録『書架』147号。先々週くらいに届きました。
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同店、肉筆系に力を入れられていて、時折、光太郎のそれも出るのですが、今号では3点も収録されていました。
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画像右上、表装されていないマクリの書で、短歌「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」が書かれています。「天然の湯に入ったら、あなたの身も心もその湯に溶け出して、さながら美しい白玉に似た輝きを放ったことでしょう」といった意でしょうか。

ちなみにえびな書店さん、「湯」を「畑」としていますが、「畑」では意味が通りませんね(笑)。

さらに「人におくれる」の詞書(ことばがき)。「人」は新潟佐渡の素封家にして、与謝野夫妻の新詩社に依った歌人でもあった渡辺湖畔です。湖畔は光太郎に幼くして亡くなった娘の肖像画(大正7年=1918)を書いてもらったり、蟬の木彫を依頼したり、自身の歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀・装画を頼んだりしました。

短歌「天然の……」は大正9年(1920)3月の湖畔宛書簡に認(したた)められた四首のうちの一つで、伊豆の修善寺温泉に行ったという湖畔からの書簡への返歌です。

他の三首は以下の通り。

 いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は涌きてあふるる
 天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君はおもふか
 天然の湯をしおもはむしばらくは魂とびて夢のこゝちする


書簡には「修善寺においでありし由、湯の好きな小生それをききしだけにて恍惚といたし候」とあります。くれぐれも「畑」ではありませんのでよろしく(笑)。

この書自体は、湖畔ではなく、他の人物のために書かれたのではないかと推定されます。「他の人に贈った短歌だけど……」という意味で「人におくれる」の詞書が添えられたのでしょう。

その左に色紙で「満目蕭条(まんもくしょうじょう)の美」。「満目蕭条」は光太郎が好んで揮毫した熟語です。見渡すかぎりのもの全てが物寂しい様子である、の意味。戦後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺のことかな、とも思ったのですが、やはり「満目蕭条」と書いた戦後の書はもっと崩しが激しく為されており、戦前の筆跡のように思われます。色紙も凝ったものですし、昭和7年(1932)には東京に居ながらにして「満目蕭条の美」という題名の散文も書いていますし。

もう一点、短冊も出ていました。
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やはり短歌で「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」。

欧米留学から帰った明治42年(1909)、『スバル』に「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」の総題で発表された二十五首のうちの一つです。「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」はイタリア語で「祖国歌」というほどの意味。

他の二十四首の中には、帰国して改めて接した日本人女性への幻滅が歌われているものが多く含まれます。

 ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや
 弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
 何事か重き科ありうつくしき少女を吾等あたへられざり
 この中の少女のひとり妻とせよ斯く人いはば涙ながれむ
 女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
 海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
 太ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと
 仏蘭西の髭の生えたる女をもあしく思はずこの国みれば


これでもか、これでもかと日本の女の醜さを嘆いています。

圧巻は以下の二首。 

 顔つくる術(すべ)も知らぬをふるさとの女はほこるさびしからずや
 少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし


「メイクもきちんとできず奇妙な化粧をした顔をさらしているその風貌を、ふるさとの女は却って誇りに思っている。それでいいのか?」「少女たちよ、眉墨をきちんと引きなさい。それができないと、この世界にこれほどに醜いものはないぞ」といったところでしょうか。特に眉墨云々は、某党の総裁候補だったあの人に贈りたい言葉です(笑)。「少女」ではありませんが(笑)。
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逆に留学中に懇ろになった西洋の女性(詳細は不明です)を讃える歌も。

 ふるさとはいともなつかしかのひとのかのふるさとはさらになつかし
 ふるさとの少女を一のたのみとし火の唇はすて来しものを
 きらきらと暗き夜半にも汝が耳の耳環の玉は近く光りき

この流れで、短冊に書かれている「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」です。

おそらくニューヨークやロンドンではなく、パリでのことと思われますが、「火の唇」を持ち、「きらきら」の「耳環」を着けていた「あたたかくふくよかなりし君」と、どんなロマンスがあったのか……というところです。

当方、この手の肉筆物は、よほどの事がないと購入しません。財力が保(も)ちませんから。ところがつい先日、「よほどの事」が出来(しゅったい)しました。

京都の思文閣さんで売りに出した、歌人・中原綾子旧蔵の光太郎色紙。

中原令孫から花巻市に光太郎書簡等がごっそり寄贈され、来年以降、花巻高村光太郎記念館さんで展示されることとなりそうです。また、市では寄贈資料を図版入りで紹介する書籍を刊行することを検討されている由。予算が通れば当方が解説等執筆します。

そこへ来て、中原旧蔵の書ですから、これは一緒に展示されるべきものです。市で購入して下さればそれで済むのですが、そんな予算は組んでいないわけで、こちらで手に入れました。2点出ていたのですが、そのうち、今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたもので、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)で口絵として使われていたものです。

オークション形式で、開始価格では落とせないだろうと思い、色を付けて入札しました。それでも無理かな、とも思ったのですが、落とせまして、先日、届きました。
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当時のものと思われるタトウにくるまれていました。
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中原の直筆なのでしょう。「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりりたるもの。 綾子誌す」の但し書き。調べてみましたところ、昭和26年(1951)9月15日の日記に確かに「十二時頃中原さんくる。午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。」の記述がありました。

色紙裏面には中原の蔵印も捺されていました。
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表(おもて)面は「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。「観自在」は観音菩薩。そこで、無理くり現代語訳してみると、こんな感じでしょうか。「観音菩薩は何ととうといのだろう(「こそ」+已然形「けれ」で強調の係り結びです)。眼を開いて今日改めてそのお姿を見てみると、この世にある平凡ないつものお姿で、我が身を離れずに寄り添って下さっている」。

若干、意味不明です。どうやって観音様のお姿を見るのでしょうか。手元に観音像があった時期もありました。しかし、異論もありましょうが、当方はこう読みます。「観音菩薩」=「亡き智恵子」。

光太郎の感覚としては、「我が身を離れずに寄り添って下さっている」のは、亡き智恵子でした。

  亡き人に

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし 
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処そこにゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ


   元素智恵子 

 智恵子はすでに元素にかへった。
 わたくしは心霊独存の理を信じない。
 智恵子はしかも実存する。
 智恵子はわたくしの肉に居る。
 智恵子はわたくしに密着し、
 わたくしの細胞に燐火を燃やし、
 わたくしと戯れ、
 わたくしをたたき、
 わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
 精神とは肉体の別の名だ、
 わたくしの肉に居る智恵子は、
 そのままわたくしの精神の極北。
 智恵子はこよなき審判者であり、
 うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
 耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
 智恵子はただ嬉々としてとびはね、
 わたくしの全存在をかけめぐる。
 元素智恵子は今でもなほ
 わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

光太郎は敬虔な仏教徒だったわけでもなく、あながち牽強付会とも言えないような気がするのですが……。

ただ、そうだとすると、死してなおそこまで「聖女」化された智恵子は、ある意味、可哀想だったようにも思えますが……。

閑話休題、上記えびなさんの出品物、収まるべき所に収まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

お手紙拝見しましたが「智恵子抄」以後には一冊になるほどの数量がありません、これはまづものにならないと思ひます、


昭和24年(1949)12月20日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳

澤田は昭和16年(1941)、オリジナルの『智恵子抄』を上梓した版元・龍星閣主です。龍星閣は戦時中に休業し、この年ふたたび出版業を始めました。そこで、『智恵子抄』の続篇的なものを出したい、という懇願に対する返答の一節です。

結局、翌年の元日に雑誌『新女苑』に発表した連作詩「智恵子抄その後」(「元素智恵子」も含みます)を根幹とした詩文集『智恵子抄その後』が出版されることにはなるのですが、題名とは裏腹に、智恵子とは全く無関係の随筆も多く含みます。

当会発行の冊子『光太郎資料』62集、完成しました。関係各所には先週末に発送いたしまして、そろそろお手元に届いていることかと存じます。

元々、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、光太郎や周辺人物に関するさまざまな「資料」を紹介する目的で不定期に発行されていたものです。その名跡をお譲りいただき、現在は4月2日の連翹忌と10月5日のレモンの日に合わせ(その差がほぼ半年ですので)年2回の刊行としております。

「刊行」と言っても印刷のみ地元の印刷やさんにお願いし、丁合、ホチキス留めは手作業。手作りの冊子です。

今号の内容は以下の通り。

・「光太郎遺珠」から 装幀・題字
平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後も、続々と見つかり続けている光太郎作品の紹介を、「光太郎遺珠」の題名で『高村光太郎研究』という雑誌に連載させていただいておりますが、そちらをテーマ別に再編。今回は光太郎が手がけた装幀と書籍題字など。

『高村光太郎全集』別巻に光太郎が手がけた装幀と書籍題字のリストが掲載されていますが、やはりもれがありまして、その辺を画像入りで。

いくつか例を。
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左が昭和5年11月25日発行、竹内てるよ著「曙の手紙」表紙。光太郎は昭和7年(1932)刊行の『第二曙の手紙』など、他にも複数の竹内著書の題字揮毫を手がけていますが、それらのうち最も古いものでした。

中央は昭和13年(1938)11月28日、東京農業大学農友会文芸部発行の部誌『土』。昭和16年1(1941)1月25日発行第31号の筆跡の異なる題字は知られていましたが、それ以前の号でも光太郎が筆を揮っていました。「土」一文字、単純な字だけに難しいと思うのですが、味のある字ですし、何よりバランスが絶妙だと思います。

右は大正15年(1926)7月25日発行の雑誌『デツサン』第三輯。題字は光太郎の筆跡とは異なるものですが、絵は光太郎で「光 1916」のサインが入っています。古いデッサンを編集者が懇願して使わせて貰ったそうです。

・光太郎回想・訪問記 都会情景 カフエー譚
同時代の人々による光太郎回想等のうち、光太郎研究書等で紹介されていないものを取り上げています。今号は大正3年(1914)1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号に載った「都会情景 カフエー譚」。「木像生」の署名がありますが執筆者の詳細は不明です。

光太郎の名は2回程しか出て来ないのですが、明治末から大正初めにかけての東京のカフェ事情が詳しく記されています。このうち、光太郎も足繁く通い、詩文にその名が登場する「よか楼」「ライオン」「プランタン」「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」等についての部分。

これについては、調べていくうちにちょっとした発見がありまして、明日また詳しくご紹介します。

・光雲談話筆記集成 『書道』より
光太郎の父・光雲の談話筆記はさまざまな雑誌等に載ったのですが、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』以外にはまとめられていません。今号では昭和7年(1932)、泰東書道院出版部発行の雑誌『書道』に掲載された「大圓寺感話集」「鶴」の2篇を収めました。いずれも彫刻制作に関する内容です。

・昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 犬吠埼その二
前号に続き、大正元年(1912)に光太郎智恵子が滞在し、愛を確かめ合った千葉銚子犬吠埼関連。手持ちの古絵葉書画像と共に、二人の泊まった宿、二人が歩いた場所などをご紹介しました。
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・音楽・レコードに見る光太郎 清水脩作品
光太郎生前の昭和30年(1955)に一部が作曲、初演された「歌曲集 智恵子抄」をはじめ、清水脩作曲の光太郎詩に曲を付けたりしたさまざまな音楽の紹介です。

・高村光太郎初出索引
さまざまな光太郎文筆作品等を索引にしていますが、昭和5年(1930)、6年(1931)に初出のあったものを掲載誌順にご紹介しています。

・第六十八回連翹忌報告
今年4月2日(火)の日比谷松本楼さんでの連翹忌の集いの記録です。

ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーで、品切れとなっていない号も)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。申し訳ありませんが手数料はご負担下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

盛岡では寸暇もなく引つぱりまはされて弱りましたが、小生の昔作つた大倉喜八郎の小さな首の彫刻を再入手する事が出来てよかつたと思ひました。盛岡の彫刻家が預かつてゐてくれたのでした。


昭和24年(1949)11月22日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

日記が失われていて詳細不明ですが、11月17日から一週間程、盛岡に滞在。県立美術工芸学校、盛岡公会堂で講演などを行いました。

経緯は不明ですが、工芸学校で教鞭を執っていた堀江赳がテラコッタ「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)を保管していて、光太郎の手元に戻りました。

昨日開幕の企画展示です。

令和6年度高村光太郎記念館企画展「高村光太郎 書の世界」

期 日 : 2024年10月5日(土)~11月30日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を送り、彫刻制作を一切封印します。山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、大小さまざまな「書」を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では光太郎による晩年に執筆された芸術評論『書についての漫談』を紹介しながら、彫刻・文芸と並び、光太郎第三の芸術とも言われる「書」を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

展示構成
 書額および書軸等 8点
 直筆原稿 7点
 拓本(縮小複製)      1点
 資料合計 16点(参考 常設展示の書は大小各種合わせて18点)

展示の見どころ
 出品する書額及び書軸はすべて実物で、光太郎の肉筆を間近でご覧いただけます。
『書額 乾坤美にみつ』『色紙幅 義にして美ならざるなし』『画賛幅 うつきしきもの満つ』の三作は旧展示施設の高村記念館を通じて、当地では初公開の作品です。
 また、最晩年に執筆された『書についての漫談』からは、光太郎幼少時代の書との出会いから、著名人の作風を例示しての批評など、光太郎の「書」についての考え方を窺い知ることができます。
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同館での同様の展示は、平成29年(2017)12月~翌年2月、令和元年(2019)9月~11月に続き、これで3回目になります。所蔵している光太郎書の数が多く、常設展でもかなりの数を出していますが、それでも展示しきれないのでこうして普段は所蔵庫にしまわれているものを出しています。今回が初展示という作品も出ています。

それにしても、市から詳細情報が出たのが開会前日の午後。もう少し早く告知できませんかと常々申し上げているのですが、無視されている状態です。何だかなぁ、という感じですが……。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生自然の中に包まれてゐるやうな生活をしてゐますが、東洋の先輩賢哲の例にはならはぬ気で居ります。小生の彫刻製作をはばむものはもつと現世的な諸条件であり卻つて深刻な感があります。


昭和24年11月21日 森荘已池宛書簡より 光太郎67歳

「東洋の先輩賢哲」は、俗世間との交わりを絶って山に隠遁していた中国の竹林の七賢、我が国の兼好法師あたりをイメージしているのでしょうか。彼等とは異なり、自らの戦争責任に対する処罰を自ら行っているという感覚が見て取れます。

京都府の書画骨董店・思文閣さん。代表取締役の田中大氏は、テレビ東京系「開運! なんでも鑑定団」鑑定士のお一人としてご活躍中です。

年に数回、「大入札会」と銘打ち、「下見会」として展示を行った上でのオークション形式での販売にも力を入れられています。昨年は光太郎の父・光雲の木彫「聖徳太子像」や光雲の書なども出品されました。
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当方、だいぶ以前にオークション形式でない出品物(楠公銅像の錦絵――一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。)を一度購入、それから同社刊行の書籍を3回程購入しました。平成8年(1996)に思文閣美術館さんで開催され、観に行けなかった智恵子抄展の図録、同じく平成23年(2011)に大阪の逸翁美術館さんでの「与謝野晶子と小林一三」展の図録。後者は平成30年(2018)に神奈川近代文学館さんで開催された特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」にも出品された光太郎と晶子のコラボによる屏風絵2種が載っており、亡き北川太一先生に頼まれて2冊買いました(どちらもまだ在庫があるかも知れません)。
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その程度の購入歴なのですが、思文閣さん、律儀に毎回目録を送って下さっています。オークション形式でない通常の販売品の目録も。恐縮です。

で、今月開催の大入札会の目録も。
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手元に届く前にネット上の情報で知り、仰天していたのですが、今回、光太郎の書が2点出ています。

2点とも色紙ですが、まず短歌「吾(われ)山に流れてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり」。
吾山に
もう一点は詩、というか七五調四句の今様スタイル。
観自在
「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。

どちらも「中原綾子旧蔵」のキャプション。中原綾子といえば、つい先だって、令孫から光太郎の中原宛書簡がごっそり花巻市に寄贈されました。その際に、「書は寄贈されませんでしたか」と問い合わせたところ、「それはなかった」とのことでした。なぜそんな質問をしたかというと、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)に、光太郎の書が2点、口絵として使われていたためです。

1点は「不可避」と書いたもの。
灰の詩 不可避
そしてもう1点が、今回、思文閣さんで出品している「観自在こそ」です。
灰の詩 観自在
これが出て来たので、仰天した次第です。

「不可避」は思文閣さんの出品に含まれず、逆に思文閣さんで出している「吾山に」の書は中原の著書に使われていません。

ちなみに「吾山に」「観自在こそ」「不可避」、それぞれ光太郎が戦後に好んで書き、複数の揮毫が知られています。その意味では新発見ではありませんが。

さて、冒頭近くに書いた通り、下見会が昨日から開催中です。

令和6年9月 思文閣大入札会 下見会

期 日 : 2024年9月9日(月)~9月15日(日)
会 場 : ぎゃらりい思文閣 京都市東山区古門前通大和大路東入ル元町386
時 間 : 10:00~18:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

光太郎以外も逸品ぞろいで、目録を見ただけでクラクラするレベルです。

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ぜひ足をお運び下さい。

それから、先回りしておきますが、光太郎書を落札された方、死蔵にならないよう、依頼があれば快く貸し出すといった対応をしていただければと存じます。

 【折々のことば・光太郎】

其後真剣に考へてみましたが、東京へ行つてアトリエを建てる金がまづありません。アトリエが無いとしたら、東京に居ても此処に居ても同じことです。 原稿でわづかに金をとるとしても彫刻ではとても取れないでせう。従来とても彫刻では殆ど金をとつてゐなかつた次第です。

昭和24年(1949)6月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳

当会の祖・心平らは、花巻郊外旧太田村での光太郎のある意味凄惨な蟄居生活を見て、何よりその身体を心配し、再三、上京を促しました。

この頃には後に光太郎が借りる中野のアトリエ(現在、保存運動を行っております)が貸し出され始めたと思われますが、そういうシステムはおそらくそれまでに無く、心平も光太郎も気づかなかったのではないでしょうか。

まずは地方紙『室蘭民報』さん記事から。

近代詩文書、見事な筆遣い 故佐々木寒湖氏の書展

 だて歴史文化ミュージアムの企画展「佐々木寒湖の書展」が伊達市梅本町の同ミュージアムで行われている。市に寄贈があった近代詩文書15点の見事な筆遣いが来館者の目を引いている。9月23日まで。
 故佐々木寒湖(本名・清)氏は増毛町出身。1945年から56年まで伊達高校(現在の伊達開来高校)で教壇に立ち、市の書道文化の礎づくりに尽力した。
 今回の企画展は同氏の生誕110年に合わせて実施。初日には同ミュージアムの蝦名未来学芸員が来館者に作品の鑑賞ポイントを伝えるイベントを行った。力強い筆痕が特徴の「梅雨くらく」では「余白が少なく『怒涛(どとう)』という文字を中心に置くことで迫力を感じる」と説明した。このほか、詩人三好達治や木下杢太郎の詩を引用した作品もある。
 蝦名学芸員は「かな文字と漢字が交ざり、読みやすいのが近代詩文書。書道文化に触れて」と来館を呼びかけている。観覧無料。
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記事本文に光太郎の名がありませんが、画像の一番右の作品が光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を書いたものです。
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展覧会詳細は以下の通り。

「佐々木寒湖の書」展

期 日 : 2024年8月10日(土)~9月23日(月・祝)
会 場 : だて歴史文化ミュージアム 北海道伊達市梅本町57番地1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 月曜が祝日の場合は、翌火曜日休館
料 金 : 無料

旧伊達高校(現伊達開来高校)で教鞭をとっていた故佐々木寒湖氏の作品を展示します。書道作品の観覧ポイントについても解説します。

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故・佐々木寒湖氏という方、記憶にある名だなと思って調べたところ、このブログで平成30年(2018)に伊達市内の別の施設で行われた同様の展覧会を紹介していました。

近代詩文の書で光太郎の詩の一節等が取り上げられる機会は少なくないのですが、書家の皆さん、書道団体の方々、お知らせいただければ出来る限り紹介いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

青根温泉へのお誘ひ忝く存じました。青根温泉へは小生も先年智恵子と一緒に一週間ばかり滞在したことがあります。あの正面の大きな宿でしたからたぶんその大佐藤といふ家だつたでせう。実にいい温泉だと思ひました。再遊もしたいけれどその頃にならないと都合が分りません。


昭和24年(1949)3月18日 徳江儀正宛書簡より 光太郎67歳

青根温泉は蔵王山腹の温泉地。昭和8年(1933)、心の病の昂進した智恵子の湯治のため、東北や北関東の温泉巡りをした際にここにも滞在しました。「大佐藤」は現在の湯元不忘閣さん。
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徳江は宮城在住だった人物で、光太郎に素晴らしい温泉があるので湯治に来ませんか、的な誘いをかけたのだと思われます。ただ、結局、青根再訪は実現しませんでした。

7月26日(金)、『毎日新聞』さんの神奈川版から。

かながわの書 名碑探訪/17 茅ケ崎・平塚らいてう記念碑 書き出しに意志の強さ /神奈川

 「元始、女性は太陽であった」。女性文芸誌「青鞜」の創刊号、平塚らいてうの言葉である。表紙の装丁は長沼智恵子(のちの高村光太郎の妻)が担当し、与謝野晶子も「山の動く日来る」と賛辞の詩を贈った。
 らいてうは女性保護論争に加わり、市川房枝らとともに新婦人協会を結成。婦人参政権運動を起こした。現代では到底考えられないが、当時女性に参政権がなかったのである。「元始、女性は………」はセンセーショナルな言葉として社会現象となった。1911(明治44)年秋のことであった。
 JR茅ケ崎駅の南口に降り、海に向かって徒歩約8分で「高砂緑地」の看板に出合う。ここは実業家・原安三郎の別荘の土地だったが、今は「松籟(しょうらい)庵」として公開している。地元では憩いの場として夙(つと)に有名である。庭園に入ると高さ160センチの堂々とした碑がある。あまたの松に囲まれ、潮風に満ちた静かな庭だ。
 碑文に目を遣(や)ると、たっぷりと墨を含ませた筆で「元始」と書き進めている。 しっかりと筆を立て、紙に筆圧をかけていることが伺える。書は筆順を追うことができるため、時間推移と共に鑑賞できる数少ない芸術とも言われている。
 本文を3行に分け、行間を広くとり、漢字を大きく仮名を小さめに書き、文字の大小変化をつけている。時間をかけて鑑賞すると、らいてうの息づかいを感じとることができる。また「性・陽・正」の漢字を草書で表現し運筆リズムを作っている。当時の識者はよく草書を使う。筆で手紙を書く時に、早書きの草書が手に馴染んでいたのだろう。小学校の漢字レベルの草書は誰もが読め、常識の範囲だったのだ。
  おそらく当時の女性の筆触としては仮名文字の細線が主流だったはずだ。しかし、らいてうの運筆は全く異なり、書き出しは中国唐時代の顔真卿(がんしんけい)のような肉太のタッチである。明治の女性の意志の強さがそうさせたのだろうか。落款は「らいてう」と「明(はる)」の印を添えている。「明」は本名である。また、「らいてう」の名は雷鳥に由来する。
 「青鞜」はわずか5年間の活動で終焉(しゅうえん)を迎えた。爾来(じらい)113年の歳月が流れたが、その精神は脈々と今日まで受け継がれて来た。先の東京都知事選においても女性の知事が3期目に入るという。まさにらいてうの先見の明の証(あかし)と言えるだろう。 
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記事を書かれたのは県立高校の書道の先生だそうで、なるほど、書体や筆法などにつき的確な評が為されています。

この碑、一度拝見に伺いました。意外と新しく、平成10年(1998)の建立でした。刻まれた文字が書かれたのがいつかまでは分かりませんでしたが。すぐそばには光太郎と縁のあった八木重吉の詩碑も建てられていました。

なぜ茅ヶ崎にらいてうの碑が、というと、らいてうの夫・奥村博史が結核の治療のため、この地にあったサナトリウム・南湖院へ大正4年(1915)に入院、そのためらいてうも翌年には近くに借間を借り、奥村退院後も大正6年(1917)までこの地に住んでいたためでしょう。南湖院の建物の一部は国の登録有形文化財として、元の敷地(高砂緑地から数百㍍)の一角に残されています。八木も昭和の初めに南湖院に入院していましたし、遠く明治時代には国木田独歩も。

ぜひ足をお運びいただき、先人たちの息吹に触れてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

これから又出直して新らしい世代の為に新らしい熱情を以て尽すやうに望みます。いつでも青年を相手にしてゐるのは何よりです。その上農は国民生活の根本ですから、まことにやり甲斐のある仕事です。


昭和23年(1948)10月14日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎66歳

孟彦は光太郎実弟。藤岡家に養子に行き、植物学者となりました。戦前から兵庫県農業試験場に勤務していましたが、この年、茨城県の鯉淵学園に赴任。現在の鯉淵学園農業栄養専門学校です。

都内の古書籍商の皆さんで作る明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼、入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。「日本最大の古書市」という触れ込みで長年続いています。今年で第59回だそうです。

出品物を手にとって見られる「一般下見展観」が下記の要領で行われます。

令和6年 第59回 七夕古書大入札会一般下見展観

期 日 : 2024年7月5日(金)・7月6日(土)
会 場 : 東京古書会館 東京都千代田区神田小川町3-22
時 間 : 7/5 10:00~18:00  7/6 10:00~17:00
料 金 : 無料
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コロナ禍前までは確かに「日本最大の古書市」というに相応しい活況でした。令和2年(2020)にパンデミック対応で中止、翌年には大幅に規模を縮小して再開、令和4年(2022)からシステム的には旧に復したのですが、その年と昨年と、出品点数はコロナ禍前から比べると半減に近くなりました。今年もそれに近いようです。

光太郎がらみの出品物は、2点。かつては5~6点は必ず出ていた感じでしたが。まぁ、昨年はゼロでしたので、それに比べれば……とは思います。

戦後の色紙揮毫が1点。
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短歌で「吾山になか(が)れてやまぬ山みつ(づ)のやみかたくして道はゆくなり」。昭和24年(1949)前後のもので、複数の揮毫例が確認できているものです。「ま」を「万」、「み」を「ミ」と変体仮名的な文字の選択にする、光太郎書の特徴がよく表れています。

余談ですが、「み」を「ミ」と書くため、「美しきものミつ」と書かれた短句を「美しきもの三つ」と誤読し、「三つとは、第一に○○、二番目に××で……」と噴飯ものの解釈が為されていたりして困っています。

書簡五通が一括で。
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姻戚となった詩人の宮崎稔に宛てたもの。おそらく『高村光太郎全集』既収のものです。文面が短い葉書ではなく、封書ですので、これはこれで額装したり、或いは思い切って軸装したりすると味のあるものになりそうな気はしますが。

完全に光太郎のものは以上2点。あとは「おやっ」と思ったのがこちら。
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光太郎が詩部会長を務めていた、戦時中の日本文学報国会関係の印刷物。精査するといろいろ解るような気がしないでもありません。

他に様々な文豪らの肉筆ものや稀覯本のたぐい等々。

一般下見展観では、普段はガラスケース越しにしか目に出来ないこれらを、手に取って見ることが出来ます(色紙は壁に掛けられていて無理かも知れませんが)。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

来年の冬はことによつたら一月から三月一ぱいの三ヶ月間、大沢温泉に下宿しようかと今日考へつきました。温泉でも追々設備が整ふでせうし、それまでには小生にも経済上の余裕がいくらか出来るかと思つてゐます。さうすれば皆さんに御心配をかける事も少く、小生も温泉に温まつて越冬出来れば風邪もまづひかぬでせう。仕事も却つて出来るでせう。電燈もあるし、食事も賄つてもらへば時間が出来ます。四月に小屋へかへつて来て、畑にかかればいいと思ひます。配給品は学校か村の人にたのんで時々とりに来ればいいわけです。


昭和23年(1948)3月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

大沢温泉さんでの冬籠もり、なかなかいい思いつきのようでしたが、実現には至りませんでした。自炊部ではなく食事付きで、となるとやはり経済的に難しかったようです。ただ、昭和26年(1951)には2週間近く滞在したことはありました。

当方も家のことや経済的な部分などまったく考えなくていいのなら、自炊部でいいので大沢温泉さんで暮らしたいと思ったりもしています(笑)。

このところ上京する機会が多いのですが、今週末も。

まずは六本木の国立新美術館さんで6月26日(水)に開幕した「日本教育書道芸術院 第43回同人書作展」を拝見しました。お世話になっている書家の菊地雪渓氏から「ぜひ足をお運びください」というご案内を頂きまして。
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菊地氏の出展作。杜甫の漢詩ですね。
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その菊地氏、師に当たられる方が光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)を書かれたとのことで、見に来てくれというお話。そういえば昨年、氏を通して「詩の文言はこれでいいのか?」的なレファレンス依頼があったことを思い出しました。「ああ、あの時の……」というわけで。

で、こちらが当該作。
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力強い光太郎詩そのままに雄渾な筆遣いの堂々たる大作でした。

他にも光太郎詩を書いて下さった方が複数。ありがたし。

「葱」(大正15年=1926)。
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光太郎詩の中ではマイナーな作なので、少し解説しますと、立川農事試験場の場長・佐藤信哉から贈られた葱の美しさを題材にした詩です。

佐藤の妻、すみ子(スミ 旧姓・旗野)は、智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在し、スキーや水泳に興じたりました。

「智恵子抄」から「樹下の二人」(大正12年=1923)。
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かなりの長詩ですので抜粋ですね。

詩集『道程』収録作「なまけもの」(明治44年=1911)。
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智恵子と知り合う半年程前、浅草雷門前のカフェよか楼の女給・お梅に入れあげ、通い詰めていた頃の日常が描かれています。

そして云わずと知れた「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。
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ありがとうございました。

古いものでは明治末から、もっとも新しいものでもこの「レモン哀歌」。100年前後経っています。1世紀を経てもまだ光太郎詩が現代人の琴線に触れていると思うと、嬉しい限りです。

7月7日(日)迄の会期です。ぜひ足をお運びください。

明日は阿佐谷の「名曲喫茶ヴィオロン」さんでの「ノスタルジックな世界 ライブ 朗読&JAZZ演奏」の模様をレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

お茶たくさんと和紙、きざみなどいろいろ細かいお心づくしのもの忝く、たのしくいただきました。和紙は昔の雅邦紙のやうに見えるもの、どんな工合のものか、今度筆を染めるのがたのしみです。純粋な半紙も珍重です。


昭和23年(1948)3月6日 多田政介宛書簡より 光太郎66歳

光太郎自身もこの時期、彫刻封印の代わりといっては何ですが、書に強い関心を持ち、数々の優品を生み出しました。

戦後2年半ほど経ち、そろそろ物資不足も解消しつつあったようで、それなりの紙が贈られてきました。「雅邦紙」はその名の通り、画家の橋本雅邦(光太郎の父・光雲と東京美術学校で同僚でした)が愛用した種類の紙です。

戦後間もない頃には揮毫を頼まれてもちゃんとした紙が無く、粗悪なボール紙のようなものを色紙代わりにしていたこともありました。

新刊です。

えんぴつで心ときめく名作詩

2024年3月11日 書 大迫閑歩 イラスト イオクサツキ ポプラ社刊 定価1,400円+税

1日10分であなたの毎日をリフレッシュ! 珠玉の名作詩をなぞって朗読することで、心を整えてみませんか。

金子みすゞ、宮澤賢治、高村光太郎など、名作詩30篇をセレクト。書家による書き下ろしで、美文字レッスンの習慣を。えんぴつの柔らかな書き心地で、心を整え脳活効果も! 作品の背景、作家の生涯など、プチ文学講座として。
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【目次】
はじめに
1章 恋する思い
 島崎藤村「初恋」 立原道造「夢みたものは……」  竹久夢二「宵待ち草」 
 北原白秋「初恋」 横光利一「愛」 中原中也「湖上」      
2章 旅にあこがれて
 山村暮鳥「雲」  石川啄木「飛行機」  丸山薫「汽車に乗って」 村山槐多「二月」
 島崎藤村「小諸なる古城のほとり」 北原白秋「落葉松」 萩原朔太郎 「旅上」
3章 自然のなかで
 山村暮鳥「風景 純銀もざいく」 三好達治「雪」 萩原朔太郎「竹」
 木下杢太郎「梟」 佐藤惣之助「犯罪地帯」 田中冬二「青い夜道」 八木重吉「太陽」
4章 いのちの喜び
 金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」 千家元麿「秘密」 立原道造「眠りの誘ひ」
 堀辰雄「帆前船」 八木重吉「皎皎とのぼつてゆきたい」
5章 生を慈しむ
 中原中也「汚れっちまった悲しみに」 室生犀星「小景異情(その二)」
 高村光太郎「あどけない話」 宮澤賢治「永訣の朝」 
 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
おわりに
参考文献

【著者略歴】
大迫閑歩(おおさこ・かんぽ)
1960年鹿児島県生まれ。本名・大迫正一。筑波大学芸術専門学群卒業。同大学院修士課程修了。九州女子大学共通教育機構准教授を経て、現在安田女子大学文学部書道学科教授。漢字の古い書体を中心にした研究、作品制作を続け、後進の指導にあたっている。
著書に『えんぴつで奥の細道』『えんぴつで方丈記』『えんぴつで論語』などがある。

001B5のやや大きめの判、よくある「なぞって書こう」的な。類書として昨年ご紹介した『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』(コスミック出版)など。

なぞられるべき薄く印刷されている詩句が活字ではなく、書家の大迫閑歩氏が書かれているというところが一つのポイントです。

近代詩30篇が取り上げられ、光太郎詩は『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)を入れて下さいました。ありがたし。他に島崎藤村、北原白秋、八木重吉、中原中也、山村暮鳥、立原道造は2篇ずつ。村山槐多が入っていたのには「へー」でした。

キーボードやスマホ画面等でなく、やはり自分の手で文字を書くことによって、詩句が脳内に入って来るプロセスがより鮮烈となる気がします。そういう意味では電子書籍では成り立たない出版ですね。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のは真宗の和讃の中の文句「清浄光明」と「平等施一切」とを書きました。当地の農家は皆熱心な真宗の信者なのです。あとは半切に「牛はのろのろと歩く」、「満目蕭條」と書きました。


昭和22年(1947)1月15日 宮崎丈二宛宛書簡より 光太郎65歳

この年1月2日に行った書き初めに関わります。書いたものは世話になっている土地の人々にあげたりすることが多かったようです。

このうち「平等施一切」と「満目蕭條」の書は現存が確認出来ています。
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展示系の情報を2件、始まってしまっているものと、もうすぐ開幕のものと。

まず始まってしまっているのが、書道の作品展。

岩手ゆかりの近代詩文書作品展

期 日 : 2024年2月23日(金)~3月17日(日)
会 場 : もりおか町家物語館 岩手県盛岡市鉈屋町10-8
時 間 : 午前9時から午後7時
料 金 : 無料

岩手ゆかりの近代詩文を題材とした書道作品の公募展です。併せて、岩手にゆかりのある書道家の作品も展示します。


先月、地上波IBC岩手放送さんのローカルニュースで取り上げられていました。

啄木、賢治の作品やオリジナルの歌を書に 岩手ゆかりの近代詩文書作品展始まる 盛岡市

  岩手にゆかりのある短歌や詩を書道作品で表現した展示会が、盛岡市で開かれています。
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 もりおか町家物語館で23日始まったのは、「岩手ゆかりの近代詩文書作品展」です。会場には、盛岡市と石川啄木記念館が所蔵するものと、一般公募で集められた書道作品合わせて36点が展示されています。
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 作品の多くが歌人・石川啄木の歌や詩人で童話作家の宮沢賢治の詩が個性豊かに書かれたものですが、滝沢市に住む書家・戸島魯休さんは自ら詠んだ歌を書にしたためたものを出品しています。造り酒屋の跡地に整備されたもりおか町家物語館を訪れた際、蔵の造りと資料展示を見て感じたイメージが筆で力強く表現されています。

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 この企画展は3月17日まで開かれています。
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「岩手ゆかり」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、花巻町と郊外旧太田村とに足かけ8年暮らした光太郎の詩句も。
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昭和4年(1929)の詩「人生」の一節。ただし「重いものを」の「を」が抜けていますが。

ところでこのフレーズ、フェイスブックやX(旧ツィッター)上で、光太郎の名言としてよく引用されています。それはそれで有り難いのですが、しかし「棄てると」が「捨てると」と誤記されているケースがほとんどでして、閉口しております。

他に啄木や賢治の詩句等を書いたものがずらっと。「女啄木」と称された西塔幸子の短歌もあって、「ほう」と思いました。幸子の実弟・大村次信は盛岡で「オームラ洋裁学校」を創設し、光太郎とも交流のあった人物です。

続いて今週末から始まる展示。福島は郡山です。

第7回ふくしま星・月の風景フォトコンテスト作品展

期 日 : 2024年3月16日(土)~5月26日(日)
会 場 : 郡山市ふれあい科学館スペースパーク 福島県郡山市駅前二丁目11番1号
時 間 : 平日 10:00~16:15 金曜 10:00~19:45 土・日・祝 10:00~17:45
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

コンテスト選出作品40点を展示いたします。 "ほんとの空"のある、福島の素晴らしい星・月の風景をお楽しみください。
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昨秋、約3年ぶりに作品募集のあった「第7回 ふくしま星・月の風景 フォトコンテスト」。審査結果が先月発表され、入選作が展示されます。フライヤー等に大きく出ているのが大賞に輝いた「蕎麦畑に白虹」。埼玉県の方が会津の下郷町で撮影されたものだそうです。日光が霧に当たって出来る「白虹」、当方、見たことがありません。一度見てみたいものですが。

その他、PDFで入選作が見られますが、サムネイル的な小さな画像でも、力作ぞろいというのがよくわかります。残念ながら智恵子の愛した安達太良山の風景はなかったようです。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

屋根の雪は一度学校の先生がおろしてくれました。寒さは雪の割にゆるく、まだ零下十度にもなりません。去年は〇下二十度になりましたが。


昭和21年(1946)12月30日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に入って二度目の冬。このシーズンは雪が多かったそうですが、気温的にはそれほど冷え込まなかったようで、年明けには摂氏9℃とかになって驚いたとのこと。それにしても土壁一枚のあばら屋でしたから……。

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