カテゴリ:文学 > 評論等

新刊です。
2015/07/13 半藤一利著 ポプラ社 定価1,600円+税

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著者の半藤氏は、保守派の論客として知られていますが、靖国神社へのA級戦犯合祀には極めて批判的であったり、昭和天皇の戦争責任についても否定しなかったりなど、幼稚な右翼とは一線を画しています。今年は戦後70年ということで、書店の店頭に関連の特設コーナーなどが設けられていることが多いのですが、『日本のいちばん長い夏』など、氏の著書や編著なども平積みで並んでいます。

さらに氏の奥様は夏目漱石の孫にあたり、『漱石先生ぞな、もし』などの漱石関連の著書も多数あります。本書も七話に分かれているうちの「第三話 漱石『草枕』ことば散歩」がまるまる漱石がらみですし、他の章でも折に触れ、漱石の話が出てきます。

先週の『産経新聞』さんに書評が載りました。

【編集者のおすすめ】85歳の啖呵にしびれる 『老骨の悠々閑々』半藤一利著

 85歳にして、いまなお旺盛な執筆活動を続ける半藤一利氏。その創作の傍らには版画がありました。資料を読んだり原稿を書くことに疲れたりすると、版木に向かい、気持ちをリセットしていたそうです。打ち合わせでご自宅にお伺いしたときに、アトリエから持ってきてくださった秘蔵の版画の数々が実に素晴らしく、多くの方に見ていただきたいと思ったのでした。
 本書は「昭和」を描く作家として知られる氏が、博識と教養を駆使して近代文学、文化についてユーモラスに論じた書き下ろし原稿と単行本未収録の随筆、それに数々の版画が彩りを添えた永久保存版の一冊となりました。
 なんと言っても秀逸なのが、言葉遊び。夏目漱石や芥川龍之介、樋口一葉のあざやかな啖呵(たんか)をひきあいに出し、「語彙を豊かに、バシバシ重ねてやらないと」と喝采を浴びせ、昨今の紋切り型表現の多用や言葉狩りの風潮を風刺します。
 一方で、高村光太郎の詩「根付(ねつけ)の国」をひきつつ、今の日本人を“茶碗のかけら”のようだと評します。「何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけない」といいます。戦後70年、何かときな臭い情勢に、自らを老骨とうそぶく著者の軽やかな言葉が、時に重く響きます。(ポプラ社・1600円+税)
 ポプラ社一般書編集局 木村やえ


というわけで、先週も別件でご紹介した光太郎詩「根付の国」が取り上げられています。

  根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人


これとよく似ているのが、漱石や一葉、芥川が作品中に書いた啖呵や罵詈雑言だというのです。現代の社会通念上、不適切な表現も含みますが、原文を尊重し、そのままとします。

「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこつかぶ)りの、香具師(やし)の、モモンガーの、岡つ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいい」(『坊っちゃん』)

「仕かへしには何時でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰抜けの活地(いくじ)なしめ、」(『たけくらべ』)

「意地わるの、根性まがりの、ひねツこびれの、吃(どんも)りの、歯つかけの、嫌な奴め」(同)

「この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥雑な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだろう。」(『河童』)

たしかに似ています。そして、こうした罵倒の仕方は、古典落語から学んだのではないかとのこと。

「揉みくちゃばばあ、ちり紙ばばあ、反故紙(ほごがみ)ばばあ、浅草紙ばばあ、落とし紙ばばあ、小半紙ばばあの端切らずばばあ、ってえんだ」(「山崎屋」)

光太郎も落語はよく聞いていたと推測できますし、『坊っちゃん』や『たけくらべ』も読んでいたと思われます。特に『坊っちゃん』の一節は、「ももんがあ」がかぶっています。ただ、明治期には「ももんがあ」を悪口に使う例はかなり一般的だったようではあります。

さて、半藤氏の筆は、「根付の国」から次のように展開します。

 この辛辣な批評、そのまま今の日本人に当てはまる。
 今年は戦後七十年、高村光太郎の詩に乗っかって、というわけではないが、猿の様な、狐の様な、自分の国の歴史を知らない日本人がまことに多くなった。大事なことは「過去」というものはそれで終わったものではなく、その過去は実は私たちが向き合っている現在、そして明日の問題であるということなのである。それなのに、何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本人にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけないのである。

その通りですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月26日

昭和24年(1949)の今日、詩人・文芸評論家の野田宇太郎から野田の著書『パンの会』を贈られました。

郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートの記述です。

〔受〕市川二巳氏よりハカキ 菊池暁輝氏よりテカミ(写真同封朗読会) 麻野和子さんといふ人よりハカキ及遺稿集「柊」 野田宇太郎氏より「パンの会」小包

『パンの会』はこの年7月10日、六興出版社から刊行され、光太郎も参加した明治末年の芸術運動、「パンの会」についての詳細を記しています。光太郎はこの労作を高く評価し、対談などでこれに触れています。

2年後に増補版として『日本耽美派の誕生』と改題、刊行されています。

8月5日には野田への礼状を書きました。

新刊です。 
2015/07/30発行  森まゆみ著 晶文社発行 定価1,800円+税 

版元サイトより

地図を使って読み解く「谷根千」
本郷台地の加賀、水戸屋敷は東大へ。坂を下れば、根津の遊廓に。広大な上野・寛永寺は、明治になると上野公園へ。今も辿れる諏方明神の道、岩槻街道、中山道。かつて不忍通りには都電が走り、谷中銀座、安八百屋通りは人で賑わった。
 約25年間地域雑誌「谷根千」をつくってきた著者が、江戸から現代まで、谷根千が描かれた地図を追いながら、この地域の変遷を辿る。
また、上野の博覧会の思い出を語る人、関東大震災、戦災を語る人、たくさんの人が町に暮らしていた。その古老たちが描いた地図、聞き取り地図も多数収録。

【目次】002
1 地図でみる谷根千
   正保年間江戸絵図
    寛文五枚図
    江戸方角安見図鑑
    享保元年分道江戸大絵図  …etc.
2 谷根千手づくり地図
    森鴎外「雁」を歩く
    一葉の住んだ町完全踏査
    芸人と芸術家のまち
    駒込千駄木林町の地図   …etc.
3 家族の地図、なりわいの地図
    商店街の町並み
    大正時代の学校界隈
    母の出会った浅草の空襲   …etc.

地域雑誌『谷中根津千駄木』(以下、『谷根千』)を刊行されていた森まゆみさんの新著です。森さんのご著書は、以前、智恵子がらみで『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』を紹介させていただきました。

今回のものは、『谷根千』編集の際に利用されたさまざまな地図――古地図や絵図、地元の方に描いてもらったものなど――を読み解くことで、この地の成り立ちや、ここで生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトです。

最近、テレビでも「散歩」系の番組などが静かなブームです。その手の番組の元祖ともいえるテレビ東京さんの「出没!アド街ック天国」は根強い人気を誇っていますし、NHKさんの「ブラタモリ」は地誌学的に見ても優れた番組です。

そうした動きを背景にしての刊行でしょうが、これまた労作です。谷根千地域と縁の深い森鷗外、樋口一葉にはそれぞれ一章を割いていますし、千駄木林町にアトリエを構えた光太郎智恵子についても、「芸人と芸術家のまち」「駒込千駄木林町の地図」の章で言及されています。もちろん地図入りで。

そのあたりを読むと、意外な人物がすぐ近くに住んでいたことがわかったり、光太郎の作品に出て来る場所の位置がわかったり、近くに住んでいたことは知っていたものの正確な位置がわからなかった人物の家がわかったりと、実に有益でした。次に千駄木方面に行く際には、この書を片手に歩こうと思いました。


ところでこの書籍、特殊な造本になっています。

普通はカバーを外すと、背表紙がありますが、この書籍にはそれがないのです。

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そのため、広げた時に全体がフラットになります。

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通常の書籍だと、開いた際に「のど」の部分がくぼんでしまいます。その状態でコピー機やスキャナにかけると、中央は影ができたりピンぼけになったりします。

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しかし、この書籍はどのページを開いてもそうならないような造本になっているのです。これはすばらしい! と思いました。

公共図書館の場合、以前はカバー類を全て取り払って納架するところが多くありました。今でも地方の図書館では時々見かけます。その方法を採ると、この書籍は背表紙がないので困ります。老婆心ながら、そういうところはどうするのだろうと思いました。また、最近は、透明フィルムでカバーごと固定するケースも多くあります。これまた老婆心ながら、下手な固定の仕方をして、せっかくの造本法を台無しにしてほしくないものです。


さて、内容的にも、造本法も素晴らしい書籍です。ぜひ、お買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月21日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、北向きの壁を抜いて窓を作りました。

当日の日記です。

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切り抜き、小まいは残す。風のぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風もはいるやうになる。冬には外より丈夫に戸をたてるつもり。此窓なくては小屋の空気こもりて夏は不衛生と思ふ。
(略)
程なく床をとりてねる。十時頃。 北側の窓の為かすずしき風来るやうに感ぜらる。

こちらは『高村光太郎全集』第12巻掲載の、山小屋の図面です。これでいうと、「25」の窓がそれにあたります。

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追記 いったんこの記事を書いてアップロードした後、いろいろネットで検索していたところ、今夜のNHK総合さんの「歌謡コンサート」で光太郎智恵子に触れるという情報を得ましたので紹介します。 

NHK歌謡コンサート「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」

NHK総合 2015/07/21 20時00分~20時43分

テーマ「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」出演:五輪真弓、大竹しのぶ、クリス・ハート、柴田淳、新沼謙治、氷川きよし、増位山太志郎、森進一、八代亜紀.

番組内容
今回は、女優・大竹しのぶの手紙の朗読とともに名曲の数々を紹介。取り上げる手紙は川端康成、寺山修司、マリリン・モンローといった著名人から、戦争で亡くなった夫にあてたラブレターを毎日つづっている94歳の女性まで多岐にわたる。八代亜紀「愛の終着駅」、五輪真弓「恋人よ」、新沼謙治「嫁に来ないか」、氷川きよし「別れのブルース」、柴田淳「あなた」、クリス・ハート「やさしさに包まれたなら」ほか。

出演者 五輪真弓,大竹しのぶ,クリス・ハート,柴田淳,新沼謙治,氷川きよし,増位山太志郎,森進一,八代亜紀,
司会 高山哲哉,
演奏 三原綱木とザ・ニューブリード,東京放送管弦楽団


スタッフさんのブログに以下の記述がありました。

7月21日 手紙で綴る 愛の名曲集
いつもNHK歌謡コンサートをご覧頂き誠にありがとうございます。制作統括の茂山です。7月は文月、23日は ふみの日なので7月23日は「文月ふみの日」という記念日です。今週の歌謡コンサートはそれにちなんで、2月に放送し好評を得た「手紙で綴る愛の名曲集」の第2弾をお届けします。古今東西の有名・無名の恋文をご紹介しながら、愛の歌をお聴きいただきます。朗読は前回と同様、女優の大竹しのぶさんが担当、情感たっぷりに手紙を朗読してくれます。今回ご紹介する恋文は
川端康成から婚約者への手紙
寺山修司から恋人への手紙
マリリン・モンローからジョン・F・ケネディへの手紙
NHKのニュース番組でも取り上げられたことのある亡き夫に送った「70年目の手紙」
南極観測隊員の妻より夫へ送った電文
高村光太郎・智恵子夫妻の作品「恋文」より一部をご紹介
愛を込めた手紙から、愛の歌につながるのか、ご期待下さい。

昨日の『朝日新聞』さんの土曜版に光太郎の名が出ました。

歴史学者・酒井紀美氏の連載「酒井紀美の夢想の歴史学」で、昨日の回のサブタイトルは「漱石の夢十夜 近代日本の迷いを映す」。

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「夢十夜」は明治41年(1908)の作。漱石が、自分の見た十種類の夢の内容を綴るという形で進むオムニバス形式の小説です。特に有名なのが「第六夜」。鎌倉時代の仏師・運慶が、現代(明治)の東京で、仁王像を彫っている場面を見たという夢です。

当方、『朝日新聞』さんは購読しておりますが、紙面を見る前にネットのデジタル版で「高村光太郎」のキーワード検索を掛け、この記事に光太郎の名が出て来ることを知りました。

読み進めると、夢の中の運慶が仁王像を彫る場面が引用されていました。

運慶はまったく何もちゅうちょすることなく悠々と鑿(のみ)と槌(つち)をふるって、仁王の顔のあたりを彫り抜いていく。「能(よ)くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心して独りごとを言うと、隣にいた若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と評した。

ここまで読み、光太郎の木彫に話をつなげるのかな、と思いました。光太郎も昭和2年(1927)、雑誌『大調和』に発表した「偶作十五篇」という連作の中で、次のように謳っています。

木を彫ると心があたたかくなる。
自分が何かの形になるのを、
木は喜んでゐるやうだ。

ところが、さにあらずでした。酒井氏の稿は、阿部昭による岩波文庫版『夢十夜』の解説に言及され、そこに光太郎が出て来ます。

岩波文庫『夢十夜』の「解説」で阿部昭は、「旧時代の重荷を背負いつつも、新しい教養の先頭にいた知識人の一人として、西洋という異質の文化の吸収に追われざるを得なかった」漱石を、「内と外とから追われる人間」「ロンドンの街角で、ふと鏡に映った一寸法師、醜い黄色人種」ととらえた。そして、高村光太郎の詩の「魂をぬかれた様にぽかんとして 自分を知らない、こせこせした 命のやすい 見栄坊な 小さく固まつて、納まり返つた 猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な」という、たたみかけるような表現を引用しながら、明治という時代の不安定な日本人の姿を浮かび上がらせた。

引用されているのは、明治44年(1911)に雑誌『スバル』に発表された「根付の国」です。

   根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

制作は明治43年12月です。前年には米英仏への3年余の留学から帰朝した光太郎。彼地では日本との文化的落差に打ちのめされ、帰ったら帰ったで、我が国の旧態依然の有様に絶望し、さらに手を携えて共に新しい彫刻を日本に根付かせようと考えていた、盟友・荻原守衛を失った時期でした。

漱石にしろ、光太郎にしろ、欧米留学を経験し、帰国後の日本に危機感を覚え、いわば目覚めてしまった者の悲劇を体現したといえるのではないでしょうか。その点は森鷗外にも通じるような気がします。

この点、光太郎と同時期か、やや遅れての留学生の、光太郎からパリのアトリエを引き継ぎ、ルノアールに師事し、ピカソやマチスと親交を深めた梅原龍三郎、「レオナール・フジタ」と称され、活動の場自体を西洋に置いてしまった藤田嗣治(美術学校西洋画科での光太郎の同級生)などとの相違は興味深いところです。ただし、梅原にしても藤田にしても、後にまた違った形での日本回帰がみられるのですが。

酒井氏の稿は、以下のように結ばれます。

夢は自分の外から神仏のメッセージとして届けられるのだとする古い見方や考え方を捨て去って、自分の心の奥深いところで過去の記憶が複雑にからまりあいながら夢が生まれてくるのだと確信できるようになるまで、近代日本の人々は、夜ごとに訪れる夢に対して、不安と混迷をかかえこみながら歩まねばならなかった。

現代のこの国に生きる我々も、近代の人々とは違った不安と混迷を抱えて生きています。また大きな曲がり角にさしかかった気配の昨今、未来に「夢」を持てる国であってほしいものですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月19日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺に「放光塔」の文字を書く約束をしました。

当日の日記です。

夕方神武男氏他一名来訪、白い酒一升もらひ、その場でのむ。浅沼宮蔵とかいふ人の葬式だつた由。昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、

昌歓寺は時折光太郎も足を運んでいた寺院で、前年には、毎年、花巻町の松庵寺で行っていた光雲・智恵子の法要を、その年だけ昌歓寺に頼んでいます。昨年、光太郎に関する文書が出て来て驚きました。神武男は当時の住職です。

この「放光塔」の文字がこの後どうなったか不明です。次に花巻に行く際には、そのあたりも調べてみようと思っております。

詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号と、毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

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今号では「<高村光太郎論> 晩年」。昭和20年(1945)から7年間の、岩手花巻郊外太田村の山小屋での生活、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために再上京して以後、歿するまでの中野のアトリエでの生活に関してです。

「晩年の光太郎の精神生活は、自身と一体化した智恵子夫人との対話の日々だった」「いのちと世界を賛美し、清と濁をあわせもつ矛盾にみちた人間存在を、最終的に肯定」等々、首肯させられるものでした。

この手の文芸同人誌、よくいただきます。

毎号のように光太郎がらみの文章などが載っているのは、福島の渡辺元蔵氏からは、『現代詩研究』。詩人の間島康子様からの『群系』。同じく宮尾壽里子様からで『青い花』。

送っていただければ、光太郎にからむものはこのブログにてご紹介しますし、毎年の連翹忌には「1年間でこんなものが刊行されました」ということで展示いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月4日

昭和24年(1949)の今日、詩「山の少女」を執筆しました。

原題は「鎌を持つ少女」。雑誌『少女の友』に発表され、のち、詩文集『智恵子抄その後』にも収められました。

  山の少女

山の少女はりすのやうに
夜明けといつしよにとび出して000
籠にいつばい栗をとる。
どこか知らない林の奥で
あけびをもぎつて甘露をすする。
やまなしの実をがりがりかじる。
山の少女は霧にかくれて
金茸銀茸むらさきしめぢ、
どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
さういふ少女も秋十月は野良に出て
紺のサルペに白手拭、
手に研ぎたての鎌を持つて
母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
稗を刈つたり粟を刈る。
山の少女は山を恋ふ。
きらりと光る鎌を引いて
遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
ときどきそつと見たくなる。

モデルは先頃このブログでご紹介した高橋愛子さんだという説があります。

地元の少年少女にとって、光太郎は、大人達が「とても偉い人だ」と言っているからそうなんだ、と思うだけで、単なる優しい物知りなお爺さんだったとのことです。

光太郎も地元の少年少女を愛してやみませんでした。

新刊です。 
2015/4/30  わたなべじゅんこ著 邑書林発行 定価2,000円+税  わたなべじゅんこ著

版元サイトより
 「出会うために歩くのか 歩くから出会うのか」  竹久夢二から寺山修司まで、みんなみんな俳人だった!
主に、俳句以外で名を成した方々の俳人としての姿を追いかける事で、 俳句って何なんだろう? という根本の問に迫ります。

 登場の人々は 竹久夢二  中村吉右衛門  永田青嵐  富田木歩  寺田寅彦  久米正雄
 内田百閒 野田別天楼  室生犀星  高村光太郎  津田青楓  矢野勘治  三木露風  
 瀧井孝作  寺山修司

 特に青嵐、木歩、寅彦あたりでは、関東大震災と俳句について語られていて、胸に迫るものがあります。 多くの方の手に届けたい一冊、宜しくお願いします。 装は、石原ユキオさんの描き下ろしです。

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著者のわたなべさんは俳人。関西の大学で非常勤講師をされるかたわら、『神戸新聞』さんの読者文芸欄で俳句の選者を務められているそうです。

余談になりますが、『神戸新聞』さんは一面コラム「正平調」でよく光太郎に言及して下さっています。

閑話休題。

本書で取り上げられている人々は、版元サイトにあるとおり、専門の俳人ではありません。しかし、それぞれに独自の境地を開いた人々。まずはそういった面々の俳句を論じて一冊にまとめていることに敬意を表します。

この手の伝統文化系は、それ専門の人物でないとなかなか取り上げない傾向を感じています。いい例が光太郎の短歌や俳句で、それなりに数も遺され、いい作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での光太郎特集というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。以前にも書きましたが、いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥の匂いがぷんぷん漂っており、いけません。

そうした意味で、俳句専門の方が専業俳人以外の人々をまとめて論じていらっしゃる姿勢に好感を覚えました。

さて、光太郎の章。主に『高村光太郎全集』第19巻(補遺1)に掲載されている句を中心に、23ページにわたって展開されています。寺田寅彦とならび、もっとも多いページ数を費やして下さっていて、ありがたいかぎりです。他の人物で、9ページしかない章もあります。長さが第一ではありませんが。

長さだけでなく、その内容も秀逸。やはり専門の俳人の方が読むと違った視点になるのだな、と思いました。具体的には、光太郎の句の時期による変遷。

そもそも光太郎の文筆作品の中で、手製の回覧雑誌や、東京美術学校の校友会誌を除き、初めて公のメディアに掲載されたのが、俳句です。明治33年(1900)の『読売新聞』、角田竹冷選「俳句はがき便」に、以下の二句が載りました。

武者一騎大童なり野路の梅
自転車を下りて尿すや朧月

同じ年には『ホトトギス』にも句が掲載されています。ただ、その後、光太郎は与謝野夫妻の新詩社に身を投じ、俳句より短歌に傾倒するようになります。しかし、公にされない句作も続けていました。

わたなべさん、この時期の句は生硬なものとして、あまり評価していません。わたなべさんが転機とするのは、明治39年(1906)からの欧米留学。その終盤の同42年(1909)、旅行先のイタリアから画家の津田青楓にあてて書かれた書簡に、多数の俳句がしたためられています。

例えば、

寺に入れば石の寒さや春の雨
春雨やダンテが曾て住みし家
ドナテロの騎馬像青し春の風

こうした一連の句を、わたなべさんは高く評価しています。

曰く、

……どうしたことか。日本での初期作品よりずっとずっと俳句らしいではないか。頭の中でこねくり回していたのがウソのように、すっきりとした句風である。

それにしても、この句風の変化はいったいどうなのだろう。外国にいるから、一人旅であるから、だから自分の思いに素直になるのか。奇を衒うのをやめるのか。いや、初めて見るものが多くて、あっさりとした作風で仕上がってしまうのか。日本で作られたものと比べてこのイタリアでの句群はわかりやすい。情景も描ける。これは何だと考える必要を感じない。もともと美術家である光太郎の眼は見る力には恵まれていただろう。だから見たものを言語化するときに、どういうバイアスを掛けるのか、そこが言語作家としての腕ということになる。日本的なものに囲まれていたとき(つまり日本にいた頃)には悶々としていた言葉が、こうもオープンに、明るく、そして優しく(易しく)出てきたのは、日本文化という重しがとれたせいなのか。

慧眼ですね。やはり俳句専門の方が読むと、的確に表して下さいます。

ただ、一つ残念なのが、どうも勘違いをされたようで、『高村光太郎全集』第11巻を参照されていないこと。わたなべさんが参照された第19巻は補遺巻です。それでも現在確認できている光太郎の俳句の約半数は掲載されていますが、残り半数は第11巻におさめられています。

そこで、老婆心ながら、出版社気付で第11巻の当該部分、さらに第19巻刊行(平成8年=1996)以降に見つかった句が載ったものなどをコピーして送付しました。改めて光太郎の句について論じてくださる場合があるとしたら、参照していただきたいものです。

ともあれ、良い本です。ぜひお買い求めを。


竹久夢二へのオマージュとなっている装幀もなかなか素晴らしいと思います。手がけられた石橋ユキオ商店さんのブログがこちら


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月17日

昭和12年(1937)の今日、九十九里浜に暮らす智恵子の母・センに宛てて現金書留を送りました。

同封書簡の一節です。

昨今はうつとうしいお天気ですがお変りありませんか、小生はまだ何となく疲れがあつてとうとう今月は病院へ行かずにお会計を為替で送りました。チヱ子も時候のため興奮状態の様子で心配してゐます

翌年に歿する統合失調症の智恵子は南品川のゼームス坂病院に入院中。この年はじめには姪の春子が付き添い看護にあたるようになり、だいぶ落ち着いたそうです。ところが夏になると狂躁状態になるのが常で、この年のこの時期は前年から始めていた紙絵制作も途絶えていたそうです。

光太郎やセンが見舞いに行くと、さらに興奮状態が昂進、光太郎の足が遠のきました。世のジェンダー論者はこうした点から光太郎鬼畜説を唱えていますが、余人にはうかがい知れぬ深い苦悩があったのは間違いないと思います……。

新刊情報です。  
2015年3月20日 公益財団法人日本近代文学館発行 江種満子編 定価1,020円

エッセイ
   三浦雅士 世界遺産と文学館
  松浦寿輝   音楽を聴く作家たち
  荻野アンナ ケチの話
  藤沢周     基次郎という兄貴
  間宮幹彦   吉本さんが「あなた」と言うとき
  西川祐子   日本近代文学館で出会う偶然と必然
     
論考
 小林幸夫  <軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎
 有元伸子  岡田(永代)美知代研究の現況と可能性 ―〈家事労働〉表象を例に―
 山口徹     作家太宰治の揺籃期  ―中学・高校時代のノートに見る映画との関わり
 吉川豊子  文学館所蔵 佐佐木信綱宛大塚楠緒子書簡(補遺)―洋楽鑑賞と新体詩集『青葉集』をめぐって―
 江種満子 高群逸枝・村上信彦の戦後16年間の往復書簡をめぐって

資料紹介  
 加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・宮西郁実     村上信彦・高群逸枝往復書簡


上智大学教授の小林幸夫氏の論考「<軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎 」が17ページにわたって掲載されています。

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先月、発行元の日本近代文学館さんのサイトに情報が出、入手しなければ、と思っているうちに、小林氏からコピーが届きました。有り難いやら申し訳ないやらです。

氏の論考は、一昨年、同館で開催された講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」中の「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」を元にしたもので、鷗外と光太郎、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子をたどるものです。詳細は上記リンクをご参照下さい。

終末部分を引用させていただきます。

 川路柳虹との対談のなかで(光太郎は)次のように言っている。

 どうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありましたなあ。けれども先生の「即興詩人」など暗記したくらゐですし、先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました。何としても忘れることの出来ない大先輩ですよ。

 談話や書き物によっては同一の事柄に対しても、鷗外をいいと言ったり悪いと言ったり偏差はあるが、総体としての鷗外に対する光太郎の思いは、この言説が代表しているものに思われる。鷗外と光太郎との関係は、「「先生」といふ変な結ばり」を意識してしまふ光太郎に、まさにその「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避に胚胎した、というべきである。


「即興詩人」は、童話で有名なアンデルセンの小説で、鷗外の邦訳が明治35年(1902)に刊行されています。この中で、イタリアカプリ島の観光名所「青の洞窟」を「琅玕洞」と訳していますが、光太郎は欧米留学から帰朝後の明治43年(1910)、神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」の店名を、ここから採りました。こうした点からも「先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました」という光太郎の言が裏付けられます。

しかし、軍医総監、東京美術学校講師といった鷗外のオーソリティーへの反発も確かにあり、「「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避」というお説はその通りだと思います。

お申し込みは日本近代文学館さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月20日

昭和17年(1942)の今日、詩集『大いなる日に』を刊行しました。

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オリジナルの詩集としては、前年刊行の『智恵子抄』に続く第3詩集ですが、内容は一転、ほぼ全篇が戦争協力詩です。収録詩篇は以下の通り。

秋風辞 夢に神農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 若葉 地理の書 その時朝は来る 群長訓練 正直一途なお正月 初夏到来 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年にあたりて へんな貧 源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道 無血開城 式典の日に 太子筆を執りたまふ われら持てり 強力の磊塊たれ 事変はもう四年を越す 百合がにほふ 新穀感謝の歌 必死の時 危急の日に 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 シンガポール陥落 夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す

今月2日、第59回連翹忌の日に刊行された雑誌です。 

高村光太郎研究(36)

2015/04/02 高村光太郎研究会 税込1,000円

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当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

高村光太郎・最後の年 1月(2)   北川 太一
高村光太郎と雑誌『創作』 ―自選短歌作品を中心に 山田吉郎
詩人野澤一という人 ―そして高村光太郎との関係性― 坂本富江
光太郎遺珠⑩ 平成二十七年   小山 弘明
高村光太郎没後年譜 平成二十六年(二〇一四年)一月~十二月/未来事項  小山 弘明
高村光太郎文献目録         野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介     野末  明

北川太一先生の「高村光太郎・最後の年 1月(2)」は、光太郎日記以外に、これまで公表されていない、主として金銭出納を記録した「おぼえ帖」、書簡等の授受を記した「通信事項」も使いながら、昭和31年(1956)の光太郎を追う連載です。ご自身の光太郎訪問記も記され、貴重な記録です。

山田氏の論考は、昨秋の第59回高村光太郎研究会でのご発表を元にしたものです。

坂本富江さんは、光太郎と交流のあった詩人・野澤一、そして野澤、坂本さんの故郷・山梨県と光太郎の関連について述べられています。坂本さんは太平洋美術会会員でもあり、自筆のスケッチも掲載されています。

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拙稿「光太郎遺珠⑩」、「高村光太郎歿後年譜」についてはこちら

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。

ところで「連翹忌の日に刊行」といえば、連翹忌での配付資料等。当方刊行の冊子『光太郎資料』、各種チラシ・パンフレット類など、以前はクロネコヤマトの「メール便」で、ご欠席の方などにすぐ発送していました。ところが「メール便」が3月いっぱいで終了、新たに「DM便」に移行しました。その結果、利用者登録が必要となり、申請中です。いましばらくお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月9日

昭和21年(1946)の今日、詩人の寺田弘に葉書を書きました。

拝啓 御無沙汰しましたが、「虎座」や詩壇消息の雑誌など拝受して、貴下の撓まぬ御努力をありがたい事と存じました。
四月十三日がまた廻りくるにつれ、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬ御助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮澤家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。幸に小生健康、貴下の御健勝、お仕事の進展を念じ上げます。

四月十三日」云々は、前年に駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、すぐ近くに住んでいた寺田が駆けつけてくれたことを指します。

この折の寺田の回想が、平成24年(2012)に刊002行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。元々は平成21年(2009)に同題のラジオ番組でオンエアされたものです。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。

芥川龍之介の「地獄変」を思わせるエピソードですね。

少し前にご紹介しました書籍が刊行され、届きましたのでレポートします。 

少女は本を読んで大人になる

2015/3/12 クラブヒルサイド+スティルウォーター編 現代企画室発行 定価1500円+税

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序文から
 人は本を読んで未知の世界を知る。
 新しい経験への扉を開く、かつて読んだ本、
 読みそこなってしまった本、いつかは読みたい本。
 少女が大人になる過程で読んでほしい十冊の古典的名作を、
 さまざまに人生を切りひらいてきた
 十人の女性たちと共に読んだ読書会の記録。

目次
 アンネ・フランク著 『アンネの日記』を読む 小林エリカ(マンガ家・作家)
 L・M・モンゴメリ著 『赤毛のアン』を読む 森本千絵(コミュニケーションディレクター)
 フランソワーズ・サガン著 『悲しみよ こんにちは』を読む 阿川佐和子(作家、エッセイスト)
 エミリー・ブロンテ著 『嵐が丘』を読む 鴻巣友季子(翻訳家)
 尾崎翠著 『第七官界彷徨』を読む 角田光代(小説家)
 林芙美子著 『放浪記』を読む 湯山玲子(著述家・ディレクター)
 高村光太郎著 『智恵子抄』を読む 末盛千枝子(編集者)
 エーヴ・キュリー著 『キュリー夫人伝』を読む 中村桂子(生命誌研究者)
 石牟礼道子著 『苦海浄土』を読む 竹下景子(俳優)
 伊丹十三著 『女たちよ』を読む 平松洋子(エッセイスト)
 読書会とサンドウィッチ


東京・代官山クラブヒルサイドにて、一昨年の5月からおよそ1年、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたものです。

編集者で絵本作家の末盛千枝子さんによる「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」は、2013年12月に開催され、当方も拝聴しました。

彫刻家の舟越保武の長女として生まれ、光太郎に「千枝子」という名を付けて貰い、それに対する複雑な思い、それをようやく素直に受け入れられるようになったこと、光太郎智恵子の愛の形などなどで、26ページです。光太郎詩「レモン哀歌」からインスピレーションを得て作られたレモンの皮入りサンドウィッチのレシピ付きです。

amazonなどで購入可能です。ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月24日000

昭和22年(1947)の今日、総合花巻病院長佐藤隆房に宛てた葉書に、俳句をしたためました。

坐りだこ囲炉裏に痛し稗の飯

硬い床であぐらをかき続けると、くるぶしなどに出来るのが「すわりだこ」です。

詩や短歌に比べると、あまり数は多くありませんが、光太郎は折にふれ、俳句も詠みました。確認できているものは、生涯でおよそ150句ほどです。

新刊です。以前にもご紹介しましたが、入手しましたので改めて。 

近代文学草稿・原稿研究事典

日本近代文学館編/編集委員:安藤宏・栗原敦・紅野謙介・十重田裕一・中島国彦・宗像和重
八木書店発行  定価12,000円+税   A5判・上製本・カバー装 383+20頁

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第一部が「総論」ということで、「初学者が原稿を前にしてどのように研究を始めるのか、またどのような点に注意して研究を進めるか、対象となる原稿はどこに行けば見ることができるのか、などについての解説編」(序文より)、第二部が「近代文学史上の主だった作家の原稿を使った研究の具体例」(同)となっています。

第二部で、光太郎も4ページにわたって紹介されています。執筆は群馬県立女子大学教授、杉本優氏。

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基本的に光太郎は、自分の手元に自作の詩を書いた原稿用紙を一括して保存していました。散文や短歌などについてはそういうことはして居らず、詩だけです。さらに、最初に雑誌等に発表した後、単行詩集などに再録する際に詩句の訂正を行うことがしばしばあり、その変遷がきちんと記録されています(全てではありませんが)。この一事をとっても、詩というものが、光太郎の内部で並々ならぬ位置を占めていたことが窺えます。ただし、発表された全ての詩の草稿が残っているかというと、そうでもありませんが。

まず大正5年(1916)作の「わが家」から昭和20年(1945)4月作の「琉球決戦」まで。「琉球決戦」を書き終えた後、駒込林町のアトリエが空襲で全焼しますが、その際には詩稿をまとめて防空壕に投げ入れ、焼失を免れました。アトリエ隣家の植木屋さんが見つけて戦後もそれを保管してくれており、昭和29年(1954)になって、再び光太郎の手元に戻りました。

続いて昭和20年(1945)5月の花巻疎開から歿するまでのもの。これはずっと光太郎の手元にありました。

この2種は、昭和42年(1967)に二玄社から『高村光太郎全詩稿』として一篇ごとに写真版と北川太一先生の詳細な解説を付け、上下二分冊で刊行されています。

それ以外に、出版社に送られた浄書稿も残っています。特に近年発見された詩集『道程』(大正3年=1914)所収の10篇38枚は、『道程』版元の編集者・内藤鋠策旧蔵とされています。

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また、昭和22年(1947)、雑誌『展望』に発表された20篇から成る連作詩「暗愚小伝」も、出版社に送った浄書稿が残っており、それについては平成18年(2006)、やはり二玄社から『詩稿「暗愚小伝」』ということで、全ページの写真版、北川太一先生の詳細な解説付きで刊行されています。

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『近代文学草稿・原稿研究事典』では、このあたりについての解説、原稿用紙の種類、初出形から最終形への変化などについて述べられています。

ただ、あくまで「事典」で、光太郎の項も4ページしかありませんので、概略に留まっています。杉本氏にはこれをさらに長く、一冊の研究書にでもしていただきたいものです。

それにしても、改めて光太郎の草稿が載った上記の書籍類を見てみますと、その時々の光太郎の息づかいまで聞こえてきそうな気がし、これは活字では感じられないものです。こういういわば原典にあたるのも、大切なことですね。

さて、『近代文学草稿・原稿研究事典』。定価12,000円+税と、少し高めですが、版元の八木書店さんに直接出向いて購入すると、1割引です。店舗は神田神保町古書街、三省堂ビルさんの近くです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月18日

昭和7年(1932)の今日、文京区向丘の曹洞宗金龍山大圓寺で、光雲を囲む座談会が行われました。

大圓寺は光雲に依頼してたくさんの仏像を作ってもらった寺院です。いずれ行ってみようと思っています。

出席者は光雲の他、光雲高弟の山本瑞雲、大圓寺の住職・服部太元、講釈師・大島伯鶴、天台宗の僧侶で書家の豊道慶中、陸軍中将・堀内文次郎、海軍中将・小笠原長生。

これを機に、小笠原と光雲は意気投合し、同じ海軍の東郷平八郎元帥を光雲に引き合わせたりします。

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こちらは同じ年の9月、東郷邸にて。左から服部太元、光雲、東郷平八郎、小笠原長生です。

新刊、というより復刊書籍の情報です。 

人権からみた文学の世界【大正篇】

2015/2/6 ゴマブックス   川端俊英著   定価1,200円+税

森鴎外「雁」、夏目漱石「こゝろ」、宮本百合子「貧しき人々の群」……。
大正期につむぎだされた名作のなかから人権に関わる問題に着目し、その時代の断面を検証。
現代を生きる私たちの自己点検にもつながる問いを投げかける良書。著者の慧眼が光る解説も味わい深い。無題

目次
まえがき――大正期と高村光太郎
第一章 森鴎外「雁」の世界
第二章 夏目漱石「こゝろ」の世界
第三章 宮本百合子「貧しき人々の群」の世界
第四章 吉田絃二郎「清作の妻」の世界
第五章 岩野泡鳴「部落の娘」の世界
第六章 永井荷風「花火」の世界
第七章 芥川龍之介「侏儒の言葉」の世界
第八章 秋田雨雀「骸骨の舞跳」の世界
あとがき
大正期略年表

というわけで、光太郎を含め、9人の文学者の作品から、大正時代の人権意識にスポットを当てた論考です。光太郎は「まえがき」で扱われていますが、他の作家と違い、ある特定の作品を取り上げての論ではなく、「道程」や「牛」、「ぼろぼろな駝鳥」といった複数の詩からのアプローチなので、そうなっているという感じです。そして光太郎論を枕に、「大正」という時代の光芒を追う展開です。

白樺派の人道主義、プロレタリヤ文学対ファシズム、ドメスティックな問題、同和問題などからの観点で、非常に読みごたえがあります。

もともとは平成10年(1998)に、部落問題研究所から刊行されたもので、版元をゴマブックスさんに移し、さらにオンデマンド(注文を受けてから印刷、製本するシステム)での復刊です。といっても、注文して翌日には届きます。ただ、造本としてはどうしてもペーパーバックになるようです。変にかさばらない、価格が安いという点では、ハードカバーより良いと思います。

ゴマブックスさん、前身のごま書房時代には新書版の「ごまブックス」が売りだったと記憶していますが、最近は電子書籍系に力を入れているようで、その延長でオンデマンドも手がけているように感じます。

今後、こういう形がどんどん広がっていきそうな気がします。特にこういう埋もれた名著的なものは、大手の出版社がどんどん版権を手に入れ、復刊させていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月12日008

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、編集者・野末亀治に宛てて葉書を書きました。

 小包を又々頂戴、オレンヂをたくさんありがたく存じました。その中にヅボンを発見、これ又大いに役立ちますので大喜びです。今冬は厳寒が続きましたので先年いただいた台湾のキヨウとかいふ獣の毛皮をチヤンチヤンコの下に着るやうにしましたら大変凌ぎ易く感じました。
 小生今冬は栄養状態去年よりもよろしく、雪を冒して温泉にも二三度まゐりました。
 御礼まで。

「台湾のキヨウとかいふ獣」は、おそらく鹿の一種の「キョン」です。光太郎は他にも村人に貰ったカモシカの毛皮などを愛用していました。

猟銃でも持たせれば、マタギのようですね(笑)。とても日本を代表する彫刻家・詩人には見えません(笑)。

近刊情報です。

東京代官山のクラブヒルサイドさんからメールでお知らせ戴きました。

一昨年にクラブヒルサイドさんで行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」を書籍化されるそうです。

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以下、添付のPDFファイルから。 

読書会から生まれた本『少女は本を読んで大人になる』が発売されます。

~魅力的な10人の女性たちと共に読む、少女が大人になる過程で読んでほしい10冊の古典的名作~
東京・代官山クラブヒルサイドにて、2013年の5月からおよそ1年続いた読書会「少女は本を読んで大人になる」は少女が大人になる過程で読んでほしい世界・日本の古典的名作を、多彩なゲストと共に読んでいくというもの。この読書会を1冊の本にまとめました。

ご自身の人生とも重ね合わせながら読み進めていく名作は、作品の魅力にぐっと迫りながら、ゲストの人柄も楽しめる内容になっています。また、読書会に合わせてオリジナルで作った作品にちなんだサンドウィッチレシピも収録。豪華な一冊になりました。

 
本編は、各ゲストが1冊の本を読み解いていくという形で構成されています。

 少女の頃繰り返し読んでいた作品。思い出の作品。人生に影響を与えてくれた大切な作品など。どんな風にその物語を解釈して、読み進めていったのか、ゲストによってその捉え方はさまざまに異なることがわかってきます。発見がちりばめられている本編をお楽しみください。

ゲストと共に読んだ名作10点004
平松洋子・『女たちよ!』(伊丹十三)
阿川佐和子・『悲しみよこんにちは』(フランソワーズ・サガン)
角田光代・『第七官界彷徨』(尾崎翠)
鴻巣友季子・『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)
末盛千枝子・『智恵子抄』(高村光太郎)
中村桂子・『キュリー夫人伝』(エーヴ・キュリー)
小林エリカ・『アンネの日記』(アンネ・フランク)
竹下景子・『苦海浄土』(石牟礼道子)
湯山玲子・森本千絵・『赤毛のアン』(L.M.モンゴメリ)『放浪記』(林芙美子)

サンドウィッチレシピを紹介
読書会では、毎回作品とゲストにちなんだオリジナルサンドウィッチを作りました。作品とゲストの印象から、発想したサンドウィッチです。
すべてのサンドウィッチのレシピが、収録されています。サンドウィッチを片手に読書なんて、いかがでしょう。

読書会が本になりました
全10回開催された読書会は毎回2時間、参加者のみなさんもゲストが選ぶ本を片手に、共に読み進めていきました。
会の流れはゲストによってさまざまで、朗読するときもあれば、グループディスカッションをして話し合うときもあり。その空気感が丸ごと収録され、書き起こされた一冊です。

森本千絵さんによる表紙絵
ゲストの一人である、コミュニケーションディレクターの森本千絵さんによる作品を、表紙の絵に使わせていただきました。この作品は「赤毛のアン」をイメージして描かれたもので、一人の少女が明日に向かって歩みはじめるような印象が、本書のテーマに重なります。


書名:少女は本を読んで大人になる価格:1,500円(税別)
編集者:クラブヒルサイド・スティルウォーター
ブックデザイン:大西隆介(direcIonQ)
サンドウィッチイラスト:山口潤(direcIonQ)
発行日:2015年3月12日(木)
販売場所:全国書店にて
出版元:現代企画室

クラブヒルサイド 
〒150-0033 東京都渋谷区猿楽町30--‐2 ヒルサイドテラスアネックスB棟2F クラブヒルサイドサロン内
担当:菊池・西村  
info@clubhillside.jp phone:03-5489-1267


光太郎と交流のあった彫刻家の故・舟越保武氏のお嬢さんで、「千枝子」さんというお名前は、光太郎が名付け親だという編集者・絵本作家の末盛千枝子さんによる「智恵子抄」がラインナップに入っています。

末盛さん、その後、新潮社さんで発行している『波』というPR誌に、光太郎も絡むエッセイ「父と母の娘」を連載中ですし、昨年は5月15日の花巻高村祭でご講演くださいました(ちなみに今年は当方が講演をいたします)。

購入ご希望の方は、上記までお問い合わせ下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻町の、宮澤賢治の姻戚・関登久也邸で開かれた歌会に出席しました。

関は尾山篤二郎に師事した歌人。この時期の光太郎には、花巻郊外太田村での生活に題を採った短歌の秀作がけっこうあり、こうした機会に詠まれたものと推定されます。

ちなみにこの歌会は午前中。午後には賢治の弟・宮澤清六とともに映画を観に行きました。その件は昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】に書きました。

一昨日の『産経新聞』さんに、以下の記事が載りました。 

【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】吉本隆明 政治に流されない感受性

■東日本国際大教授・先崎彰容

 昭和43年のことである。

 一冊の書物が世間を震撼(しんかん)させた。

 吉本隆明『共同幻想論』である。国家の成りたちの起源を『古事記』と『遠野物語』を徹底的に読むことで明らかにしたこの書は、熱狂的な歓迎を受けた。たしかに難解である、でも読まざるをえない、理解できなくても読んだと言わざるをえない、そんな雰囲気が学生を中心に漂っていたのだった。

 だが忘れてはいけない、吉本隆明はそれ以前、まずは「詩人」として文壇に現れたことを。高村光太郎について、言語にとって美とは何かについて考えると同時に、共同体とは何か、私たちにとって国家とは何かが問われた。こうして『共同幻想論』は世にでたのである。

 これらの問題意識は、一点から始まっている。それは戦争の「あの瞬間」からである。戦争体験、これが吉本を詩人にし、かつまた国家を問い続けることを強いたのである。

 たとえば戦争中、少年吉本は、自分の全てを動員して今回の戦争とは何かを考えつづけていた。結論は出た、今回の戦争は正しいものであり、自分はそのために死ぬべきであると思った。

 だが敗戦のあの日以来、世間はガラリと変わってしまう。戦争は誤りであり悪であり間違っていたというのだ。だとすれば、あの時自分の全てを賭けて出した結論は不正解だったことになる。どれだけ真剣に真面目に出した結論であっても、人間は間違う可能性があるのだ。

 8月15日を境に、世間の価値観は百八十度転換した。にもかかわらず、人びとは何事もなかったかのように生きているではないか。戦後に配給された価値観になんら疑いをもたず飛びつき生きている。この事実を吉本は理解できなかった。昨日まで骨の髄まで正しいと思っていたことが崩壊する。なのに、人はなぜ傷つかないのか、つまずかないのか。

 激しい人間不信が、吉本を襲ってきた。社会全体は嘘で塗り固められている。しかも自分もまた、いくら真剣に考えてもその嘘にだまされてしまう。私たちはなんとつまらない存在なのだ-だから吉本は、人間を生への根源的違和感を抱えたもの、こう定義した。もっと分かりやすく言おう、つまずいて生きている不器用な人間にとって、人生は、吐き気を感じるような面倒くさい営みなのだ。

 だから吉本は詩を書いた。言葉を紡ぐことで、どうにかして世間に流されないようにしたかった。戦後民主主義はもちろん、政治的な自由を絶叫するスターリン的マルクス主義も、私は絶対に信じない。なぜなら彼らは、繊細な個人の心を全て政治運動にささげよ、こう言ってくるからだ。

 なぜ彼らはそんなに政治が好きなのか。スローガンに流されるのか。言葉が政治に敗れていることに気づかないのか。

 ある日、吹く風に顔を上げ春の到来を知り、生きようと思う。そんな感受性を棄(す)ててまで、政治活動にささげる自由を私は信じない-「元個人(げんこじん)とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうかとか政治的な立場など一切関係ない。生まれや育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を、自分にとって本当だとする以外にない」(『「反原発」異論』)。

 この感受性に注目すべきだ。

 小林秀雄と江藤淳さらには福田恆存(つねあり)、そう、わが国で批評家になるための必要条件は、この繊細で弾力ある感性の系譜にあった。政治的な左右は、批評家にとって重要ではない。批評家になったつもりで一家をなせば、そこにまた他者との比較、批判、排除がおきている。党派をなして、人を罵(ののし)る。これはもう立派な政治ではないか。

 感性とは不断の自己点検、自分が政治的になることへの警戒である。晩年まで主張した吉本の反原発批判も、こうした感性から読まれるべきなのである。


 次回「高坂正堯(まさたか)」は3月5日に掲載します。


 ■知るための3冊

 ▼『共同幻想論』(角川ソフィア文庫) 刊行当時、熱狂的な支持をもって迎えられたこの書は、一方で難解であることでも知られる。吉本が「詩人」として出発したことを念頭に序文を精読すれば、この書の問題意識が見えてくるはずだ。
 ▼『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫) 吉本が詩人として出発したことは、くれぐれも忘れてはならない。「エリアンの手記と詩」「固有時との対話」「転位のための十篇」など初期吉本を語るうえで欠かせない詩を全て収める。
 ▼『「反原発」異論』(論創社) 東日本大震災以前から、吉本は一貫して反核運動に批判的な立場をとり物議をかもした。本書は震災直後からのインタビュー記事などを含む、最晩年の遺著的著作。


【プロフィル】吉本隆明
 よしもと・たかあき 大正13(1924)年、東京生まれ。東京工業大卒業。工場勤務のかたわら私家版の詩集などを発表し、昭和30年代に本格的に評論活動を開始。既成左翼を批判しつつ、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』など独自の思索を発表、全共闘世代から熱烈な支持を得る。バブル期には大衆消費社会を肯定して注目された。平成24年、死去。


【プロフィル】先崎彰容
 せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』など。


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吉本氏が亡くなってもうすぐ3年。新たに全集の刊行も始まり、このところ、「結局、吉本とは何だったのか」という検証が活発になってきました。NHKさんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち」で取り上げられたりもしています。

その思想的源流の一つとなった、戦時中の光太郎についての検証。吉本を考える際に併せて考えていただきたい問題だと思いますし、吉本が出し切れなかった答えは、後の我々に託されたのだと考えたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月7日004

大正15年(1926)の今日、詩「象の銀行」を執筆しました。

   象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツバンク)にちやりんと入れる。

時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ、
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。

印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。


明治39年(1906)から翌年にかけての、ニューヨーク留学中の記憶を元にした詩です。のちのロンドンやパリではそういうこともなかったようですが、最初に滞在したニューヨークでは、かなりあからさまな人種差別にあった光太郎、同じアジア産の動物園の象に、自らの姿を仮託しています。

以前にも書きましたが、この「象の銀行」、光太郎の詩の中では比較的有名な一篇であるにもかかわらず、初出誌が不明です。昭和4年(1929)に改造社から刊行された、いわゆる「円本」の「現代日本文学全集」第37篇『現代日本詩集/現代日本漢詩集』に収められていますが、それ以前にどこかの雑誌などに発表されているはずです。しかし、どこに発表されたのかが判っていません。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

新刊、といっても昨年12月の刊行です。
株式会社金曜日刊 発売日 2014/12/11 著者:  辺見庸・佐高信  定価:  1500円+税

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版元サイトより

「人間はここまでおとしめられ、見棄てられ、軽蔑すべき存在でなければならないのか」――辺見庸

侵略という歴史の無化。軍事国家の爆走と迫りくる戦争。人間が侮辱される社会・・・。二人の思索者が日本ファシズムの精神を遡り、未来の破局を透視。誰かが今、しきりに世界を根こそぎ壊している。日本では平和憲法を破棄しようとする者が大手を振っている。
喉元に匕首を突きつけて私たちは互いに問うた。なぜなのだ?あなたならどうする?呻きにも似た、さしあたりの答えが本書である。

目次
第1章 戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ
コンピュータ化と人間身体/資本と安倍ファシズム/もはや「どつきあい」は避けられない/スムーズに消してゆく装置/サブスタンスはあったのか/死ぬ気でやるのか

第2章 「心」と言い出す知識人とファシズムの到来
ジャーナリストのパッション/ジャーナリストとは、ゆすり、たかり、強盗/「心」と「美しい国」と同じ/どちらにも展望はない/ファシズムの情動的基盤

第3章 「根生い」のファシストに、個として闘えるか?
知性の劣化/訴えられる覚悟/共産党も巻き込んだ「祖国防衛論争」/なかったふりをするな/「禁中」と天皇利用主義者/決断を迫られる時がくる

 
第4章 日本浪曼派の復活とファシズムの源流
老いと夜/日本浪漫派の血脈/慰安婦問題を身体的なこととしてとらえる/日本思想史の中の免罪の歴史/実時間の表現

第5章 ジャーナリズムと恥
クーデター、三島由紀夫と安倍晋三/偽なるものの力能/書くことと自己嫌悪/特定秘密保護法とジャーナリズムの恥

第6章 とるに足らない者の反逆
魯迅のアナキズム/中国という圧倒的事実/とるに足らないものからの発想/絶望の深みから

第7章 歴史の転覆を前にして徹底的な抵抗ができるか?
これから何が起きないかはわかる/歴史の転覆/否定的思惟がなくなった/徹底的な抵抗の弾け方/権力こそが非合法

第8章 絶望という抵抗
真実の不確定性、記憶のうごめき/自己申告する歴史と、見られた歴史/年寄りが鉄パイプを持って突撃する/身体を担保した抵抗

ジャーナリスト・辺見庸氏と、評論家・佐高信氏の対談集です。元々は雑誌『週刊金曜日』の連載でしたが、さらにそれをふくらませたものです。ともに左派の論客として知られるお二人だけに、今をときめく人々をバッサバッサと斬りまくっています。

斬られている主な人々は以下の通り。敬称は略します。

まず、安倍晋三、麻生太郎、百田尚樹、籾井勝人、曾野綾子、田母神俊雄、長谷川三千子、小松一郎といった右寄り(極右?)の人々。それでいて、元産経新聞社長の住田良能などには高い評価。そうかと思えば、御厨貴、池上彰、姜尚中、古舘伊知郎、五木寛之、吉本隆明、大江健三郎といった人々もバッサバッサ。そういう意味ではバランスは取れています。

その対象は歴史的な人々にも及び、保田與重郎、石原莞爾、三島由紀夫、渡辺一夫、唐牛健太郎、斎藤茂吉らもメッタ斬りです。

光太郎も俎上に登っていますが、好意的に扱われています。

佐高 藤沢周平を思い出しました。一見すると穏やかな人ですが、珍しく講演で、同郷の歌人である斎藤茂吉を痛罵しているんです。その際、斎藤茂吉に高村光太郎を対置している。高村光太郎は戦中に戦争協力詩を書いたことを自己否定し、戦後しばらく花巻に隠棲する。それにくらべて斎藤茂吉は何の反省もしていない、と。(略)自己批判というものがなかった戦後日本の風景の中では、高村光太郎の自己否定には胸を打つものがありますよね。
辺見 そうですね。吉本(隆明)さんも高村光太郎の自己否定から出発しているところがあると思います。光太郎の反省の深さはおっしゃるとおり、「個」として過ちを引きうけている点でこの国では例外的ではないでしょうか。

ただし、おさえるところはきちんとおさえています。

辺見 でもぼくは、高村が自己否定に至るまでに相当の戦争協力詩を書いていることを決して見逃したくないんです。高村にかぎらず、たいていの詩人や作家がそうなんですが、戦争詩となると呆れるほど下手になるのですよ。なぜか。一つは、結局プロパガンダにすぎないからです。もう一つは、個人として十五年戦争の根っこと未来を見通す知性がなかったからです。それは日本の誰一人としてなかったと思う。これは無惨なことですよ。

逆に光太郎の戦争詩だけをことさらに取り上げて、「これぞ大和魂」などともちあげる愚昧なヘイトスピーカー、ヘイト出版社がありますが、そういう輩にこそ、この書を読んでほしいですね。

しかし、惜しむらくは出版のスピードが、世の中のスピードに追いつかないという点。昨年暮れの大義なき抜き打ち解散総選挙や、昨今のイスラム国の問題などはこの出版に間に合っていません。そういう意味でも続編を期待します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月6日

大正5年(1916)の今日、雑誌『美術週報』に、智恵子のエッセイ「女流作家の美術観」が掲載されました。

 批評は要らない、是非の批評はすべての004専門家にある、たゞ私には、なくて叶はぬものとしてある、この芸術を、考へるさへ、身にあまる幸福を感じられる。
 さまざまな時代に、まことの芸術家達が、それぞれ自身の生命を掘り下げて行つた。その作品は、いきていまも、私達の前に息づく、それ等のものは、魂をめざめさせる、恰も自然が私達をめぐむ恵のやうに、清らかに力強く、押迫つて透徹する、私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、又は崇拝してゐる。
 ロダンはあらゆる時代の魂の積畳であつて、又海山の自然の反映であるとおもはれる。暁のやうなその作品は、暗い魂に、鋭い光りと優しい温味とを、ほのぼのと投げかける。ロダンをおもふことは私の、栄光である。セザンヌもまた、親しく自分のいまの生活に、糧となつて輝いてゐる、たくさんの星のなかで、この二人をかぞへて、今は、うらみとはしまい、その一つも、どれ程大きなことであらう。古くから、又それぞれの世に、光りは輝くのだ。私は愛念をもつて、それ等を仰ぎみて、よろこびにあふれる。
 そして近くこの日本の芸術にも、私はそれ等の美しい魂を見ることの出来る幸をものべておかう。

明らかに光太郎の影響が見とれる文章です。

近刊です。 

近代文学草稿・原稿研究事典

日本近代文学館編/編集委員:安藤宏・栗原敦・紅野謙介・十重田裕一・中島国彦・宗像和重
八木書店発行
予価(本体予価12,000円+税)
A5判・上製本・カバー装 420頁
 
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完成された作品では分からない、近代文学研究に不可欠な作品の生成過程を明らかに
 
<内容説明>
 第一部から第三部では、作家の原稿に接する楽しさ、原稿用紙・筆記用具の変遷、原稿から印刷出版に於ける様々な過程、代作・検閲などの実態、古書店による発掘・流通などについての論考を収める。
 第四部では、65人の作家の事例を具体的に取り上げた。原稿の残存状況、所蔵機関、使用原稿用紙の変遷などを記し、多数の原稿図版を掲出した。原稿用紙に加除訂正をはじめとする様々な情報から、活字化された本文では見えてこない創作時に於ける作家の状況を解読し、新たな作品研究の可能性を示した。
 また、文芸編集者や古典研究者など自筆物と関連の深い分野からのコラムを掲げるほか、原稿草稿の所蔵機関とその閲覧の手引きとなる資料を付録として付す。 
 
<目次>
第一部 草稿研究入門
原稿・草稿を読む楽しみ(中島国彦)、原稿用紙とはなにか(宗像和重)、筆記用具の痕跡(安藤宏)
 
第二部 草稿から出版へ
草稿から出版へ(十重田裕一)、組版印刷から見えるもの(栗原敦)、検閲と伏字(浅岡邦雄)
 
第三部 草稿をどう生かすか
自筆原稿からの本文作成の問題点(秋山豊)、代作・代筆問題(小林修)、草稿・原稿が持つ可能性(十川信介)、草稿・原稿は流通する(紅野謙介)
 
第四部 作家的事例
芥川龍之介(庄司達也)・有島武郎(内田真木)・石川啄木(太田登)・泉鏡花(吉田昌志)・伊藤整(飯島洋)・井上ひさし(今村忠純)・井伏鱒二(東郷克美)・宇野浩二(宗像和重)・宇野千代(尾形明子)・江戸川乱歩(浜田雄介)・遠藤周作(藤田尚子)・大岡昇平(花﨑育代)・岡本かの子(宮内淳子)・小川未明(小埜裕二)・尾崎紅葉(須田千里)・織田作之助(日高昭二)・梶井基次郎(河野龍也)・川端康成(片山倫太郎)・菊池寛(片山宏行)・北原白秋(中島国彦)・北村透谷(尾西康充)・久保田万太郎(石川巧)・久米正雄(山岸郁子)・幸田露伴(出口智之)・小林多喜二(島村輝)・小林秀雄(権田和士)・斎藤茂吉(品田悦一)・坂口安吾(大原祐治)・佐多稲子(長谷川啓)・里見弴(武藤康史)・島崎藤村(高橋昌子)・高見順(竹内栄美子)・高村光太郎(杉本優)・武田泰淳(井上隆史)・太宰治(安藤宏)・谷崎潤一郎(千葉俊二)・田村俊子(小平麻衣子)・田山花袋(小林修)・坪内逍遙(梅沢宣夫)・徳田秋聲(大木志門)・富永太郎(杉浦静)・永井荷風(真銅正宏)・中上健次(辻本雄一)・中里介山(紅野謙介)・中島敦(山下真史)・中野重治(林淑美)・中原中也(中原豊)・中村真一郎(池内輝雄)・夏目漱石(十川信介)・萩原朔太郎(阿毛久芳)・林芙美子(今川英子)・樋口一葉(戸松泉)・二葉亭四迷(高橋修)・堀辰雄(渡部麻実)・牧野信一(柳沢孝子)・正岡子規(金井景子)・正宗白鳥(中丸宣明)・三島由紀夫(佐藤秀明)・宮沢賢治(栗原敦)・向田邦子(嶋田直哉)・武者小路実篤(寺澤浩樹)・室生犀星(大橋毅彦)・森?外(須田喜代次)・山田美妙(山田俊二)・横光利一(十重田裕一)
 
コラム:文芸編集者の立場から(藤田三男)・記憶に残る原稿(東原武文)・近世文学研究と自筆資料(木越治)・外国文学の研究との違いについて(松澤和宏)・文学館活動における原稿に関する法律問題について(中村稔)
付  録: 主要原稿所蔵館一覧・ 複製原稿刊行リスト・ 全国文学館一覧・他
 
 
昨秋、版元の八木書店さんから内容見本が送られてきました。そちらには「2014年12月20日刊行予定」とありましたが、予定は未定にして決定にあらず、2月までずれこむようです。やはりこれだけの労作、かなり大変なのでしょう。
 
第四部の光太郎の項は、群馬県立女子大学教授、杉本優氏のご執筆です。氏は高村光太郎研究会員、連翹忌にも時折ご参加いただいております。
 
光太郎以外にも、光太郎智恵子と関わりの深い作家がラインナップに入っています。奮発して購入しようと思っております。
 
皆様もぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月6日

平成7年(1995)の今日、銀座和光六階ホールに於いて、高村規写真展「木彫・高村光雲―没後六十年記念―」が開幕しました。
 
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昨年亡くなった、光太郎の令甥、高村規氏の写真展です。全国に散在する光雲作品の写真撮影に3年余を費やされ、さらにこの後、平成11年(1999)に刊行された『木彫 高村光雲―高村規全撮影』(中教出版)に繋がるお仕事でした。
 
同展図録から、規氏のお言葉。
 
光雲の作品は動感のなかに艶を感じさせます。作品に対峙したとき自然に伝はる熱い思いが作品の息吹、詩魂と共に表現され、真髄に迫ることが出来たかどうか皆様の御批評を賜れば望外の喜びです。

『吉本隆明全集5[1957‐1959]』。注文しておいたのが、届きました。
 
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昭和32年(1957)、吉本最初の単行本、『高村光太郎』ほか、光太郎や同時代の詩人たちを論じた評論が多数収められています。
 
『高村光太郎』は、3回ほど読みましたが、また改めて読み返してみたいと思います。他の短めの評論の中には未読のものが多く、こうしてまとめていただけると、非常に有り難く感じます。
 
 
そして月報。高村光太郎記念会事務局長にて、吉本の同窓、北川太一先生の玉稿『吉本と光太郎』が掲載されています。まずこの月報から読みましたが、感動しました。人と人との出会い、絆、そういったものの不思議さ、素晴らしさを存分に感じさせる名文です。
 
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戦前の初めての出会い、戦後すぐの再会、その時点でお二人とも、光太郎を読み解くことなくして、あの時代を生きる方向性がつかめない、と考えられていたそうです。やがて光太郎没後、北川先生の編集で、昭和32年(1957)から刊行が始まった『高村光太郎全集』の月報に載った、吉本の「『出さずにしまつた手紙の一束』のこと」のお話、お二人で編んだ昭和56年(1981)の春秋社版『高村光太郎選集』増訂版のお話などなど……。
 
『吉本隆明全集5[1957‐1959]』。定価6400円+税と、値段は張りますが、それだけの価値は十分にあります。当方、自分へのクリスマスプレゼントとします(笑)。
 
 
さて、過日もちらっとご紹介しましたが、NHK Eテレさんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち」の詳細情報が公表されました。「第5回 吉本隆明」ということで、後半4回のトップが吉本です。

日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち 第5回 吉本隆明

 来年の戦後70 年を前に、3年がかりで取り組む「戦後史証言プロジェクト」の第5~8回を、1月10日から放送する。
 敗戦から占領下の民主化、高度経済成長...時代の分岐点で、著名な知識人は何を考え、どのような未来を思い描いたのか。関係者を幅広くインタビューし、今につながる戦後日本の課題を考えていく。
 
第5回 吉本隆明 1月10日(土) 午後11:00~午前0:30 放送
 戦後の言論界を走り続け てきた思想家・吉本隆明。膨大な仕事は、文学から政治、宗教、社会思想、そしてサブカルチャーに至るまで 幅広い。六〇年安保では学生達の先頭となり国会に突入、六八年の 大学紛争時には、 代表作『共同幻想論』を発表、個としての思考の自立を説き、大学生たちの圧倒的な支持を得た 。高度消費社会を前向きにとらえ、大衆の行動に意味を見出した。同時に、常に常識を疑い、権威と闘い、時には物議を醸す発言もした。社会学者・西部邁さん、上野千鶴子 さん、橋爪大. 三郎さん、作家・高橋源一郎さん、ミュージシャン遠藤ミチロウさん、 幅広い層からの証言で紡いでいく。
 
北川先生のところにも取材が入ったそうですので、上記の「」に、北川先生も含まれるのではないかと思われます。当方、ちょうどこの日に、北川先生を囲む新年会に参加予定でして、なにか不思議な感覚です。
 
ちなみに同番組、第6回以降は、石牟礼道子、三島由紀夫、手塚治虫というラインナップになっています。
 
ぜひご覧下さい。
 
 
吉本といえば、昨日の『朝日新聞』さんの読書欄に、筑摩書房の『吉本隆明〈未収録〉講演集』刊行開始の記事が載りました。

『吉本隆明〈未収録〉講演集』

 『吉本隆明〈未収録〉講演集』(筑摩書房、宮下和夫編)の刊行が始まった。1957年の「明治大正の詩」から2009年の「孤立の技法」までの124講演をテーマ別に、第1巻『日本的なものとはなにか』(2052円)から『芸術言語論』までの全12巻。単著に収められていなかったもののほか、新たに音源が発見された8講演を含む。第1巻には付録として「全講演リスト」がつく。今後あらたに音源が見つかった場合は、第13巻を刊行したいという。
 
全12巻(もしくは13巻)中には、光太郎がらみの講演も含まれるかも知れません。詳細が分かり次第、お知らせします。
 
 
昨日の『朝日新聞』さんの読書欄といえば、このブログでご紹介した、智恵子に触れた池川玲子著『ヌードと愛国』の書評も載りました。 『日本経済新聞』さんには早々に書評が載りましたし、先週は『読売新聞』さんにも載りました。かなり注目を浴びているようですね。 

聖火リレー池川玲子著『ヌードと愛国』

 絵画や映画、写真などで表現されてきたあまたのヌードを近現代日本文化史という視点で眺めてみると、そこには、「『日本』をまとったヌード」という系譜が現れてくるという。明治期に長沼智恵子が描いたリアルすぎるヌードから、70年代のパルコの「手ブラ」ポスターまで、7体のヌードの謎を解き、日本近現代を「はだか」にする試み。(講談社現代新書・864円)
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月22日

昭和4年(1929)の今日、雑誌『いとし児』にアンケート「児童と映画」が掲載されました。
 
質問は三項目。以下の通りでした。000
 
一、お子様に映画をお見せになりますや、否や、その理由。
二、月に何回ぐらゐ。
三、種類の御選択は。
 
それに対する光太郎の回答は、ずばり一言のみ。
 
私には子供がありません。
 
このアンケート、光太郎を含む77名の回答が載っていますが、出版社も子供がいるかいないかくらい調べてから依頼しろと言いたくなりますね。さらにこの光太郎の回答をボツにせず、そのまま載せるというのも何だかなあ、という感じです。
 
ちなみに昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎】に載せましたが、今日は光太郎智恵子、大正3年(1914)、上野精養軒での結婚披露100周年です。金金婚式ですね(笑)。
 
しかし、入籍は実に昭和8年(1933)。智恵子の統合失調症が進み、光太郎も健康に不安を抱え、自分に万一の事があった場合の遺産相続等を考えての光太郎の決断でした。
 
二人にはとうとう子供はできませんでした。その理由について、いろいろな憶測がなされていますが、結局は謎です。

昨日、晶文社さんから刊行中の『吉本隆明全集』全38巻+別巻1のうち、評論「高村光太郎」が掲載予定の第5巻をご紹介しました。
 
その記事を書くために調べていたところ、既刊の第7巻(第2回配本)と第4巻(第3回配本)にも光太郎がらみの文章が載っていることに気づきましたので、ご紹介します。 
2014年6月24日 晶文社 定価6300円+税無題
 
【目次】
Ⅰ丸山真男論
1 序論/2 「日本政治思想史研究」/3 総論

社会主義リアリズム/戦後文学の転換/日本のナショナリズムについて/近代精神の詩的展開/戦後文学の現実性/情況に対する問い/情況における詩/“終焉”以後/詩的乾こう(ママ)/“対偶”的原理について/反安保闘争の悪煽動について/戦後文学論の思想/「政治と文学」なんてものはない/非行としての戦争/模写と鏡/「政治文学」への挽歌/いま文学に何が必要かⅠ/戦後思想の価値転換とは何か/性についての断章/いま文学に何が必要かⅡ/「近代文学」派の問題/いま文学に何が必要かⅢ

日本のナショナリズム/過去についての自註

死者の埋められた砦/佃渡しで/沈黙のための言葉/信頼/われわれはいま――

詩のなかの女/江藤淳『小林秀雄』/斎藤茂吉/本多秋五/埴谷雄高の軌跡と夢想/埴谷雄高氏への公開状/埴谷雄高『垂鉛と弾機』/渋澤龍彦『神聖受胎』/清岡卓行論/啄木詩について/折口学と柳田学/「東方の門」私感/ルソオ『懺悔録』/高村光太郎鑑賞/中野重治/壺井繁治/金子光晴/倉橋顕吉論/無方法の方法/本多秋五『戦時戦後の先行者たち』/『花田清輝著作集Ⅱ』

「思想の科学」のプラスとマイナス/『ナショナリズム』編集・解説関連/宍戸恭一『現代史の視点』/中村卓美『最初の機械屋』/「言語にとって美とはなにか」連載第三回註記/『擬制の終焉』あとがき/『吉本隆明詩集(思潮社版)』註記/「丸山真男論」連載最終回附記/『丸山真男論(増補改稿版)』後註/『模写と鏡』あとがき/「試行」第3~12号後記/三たび直接購読者を求める/「報告」
解題〈間宮幹彦〉 
2014年10月9日 晶文社 定価6400円+税000
 
【目次】

固有時との対話/転位のための十篇

蹉跌の季節/昏い冬/ぼくが罪を忘れないうちに/涙が涸れる/控訴/破滅的な時代へ与へる歌/少年期/きみの影を救うために/異数の世界へおりてゆく/挽歌――服部達を惜しむ――/少女/悲歌/反祈禱歌/戦いの手記/明日になつたら/日没/崩壊と再生/贋アヴアンギヤルド/恋唄/恋唄/二月革命/首都へ/恋唄

アラゴンへの一視点/現代への発言 詩/労働組合運動の初歩的な段階から/日本の現代詩史論をどうかくか/マチウ書試論――反逆の倫理――
/蕪村詩のイデオロギイ/前世代の詩人たち――壺井・岡本の評価について――/一九五五年詩壇 小雑言集/「民主主義文学」批判――二段階転向論――/不毛な論争/戦後詩人論/挫折することなく成長を/文学者の戦争責任/民主主義文学者の謬見/現代詩の問題/現代詩批評の問/現代詩の発展のために/鮎川信夫論/「出さずにしまつた手紙一束」のこと/昭和17年から19年のこと/日本の詩と外国の詩/前衛的な問題/定型と非定型――岡井隆に応える――/番犬の尻尾――再び岡井隆に応える――/戦後文学は何処へ行ったか/芸術運動とはなにか/西行小論/短歌命数論/日本近代詩の源流

ルカーチ『実存主義かマルクス主義か』/善意と現実/新風への道/関根弘『狼がきた』/『浜田知章詩集』/三谷晃一詩集『蝶の記憶』/奥野健男『太宰治論』/谷川雁詩集『天山』/服部達『われらにとって美は存在するか』/島尾敏雄『夢の中での日常』 井上光晴『書かれざる一章』/平野謙『政治と文学の間』/野間宏『地の翼』上巻/山田清三郎『転向記』/埴谷雄高『鞭と独楽』『濠渠と風車』/堀田善衛『記念碑』『奇妙な青春』批判/中村光夫『自分で考える』/『大菩薩峠』/『純愛物語』

戦後のアヴァンギャルド芸術をどう考えるか/〈現代詩の情況〉[断片]/北村透谷小論[断片Ⅰ]/北村透谷小論[断片Ⅱ]/一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題
解題〈間宮幹彦〉
 
 
今回の晶文社さんの全集は、編年体による編集であるため、複数巻にまたがって光太郎論が掲載されることとなります。上記目次のうち、色つきにしたものが、光太郎に詳しく言及している評論です。他にも短く光太郎を扱っている評論も含まれているかも知れませんが、わかりかねます。申し訳ありません。
 
さて、話は変わりますが、NHK Eテレ(旧教育テレビ)さんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか」で、来月、吉本が取り上げられます。今年度は「知の巨人たち」というサブタイトルで、前半4本が7月に放映され、後半4本を来月放送予定だそうです。まだ詳細な情報が出ていないのですが、後半4本の中に吉本が入ります。
 
ちなみに7月に放映された前半4本では湯川秀樹とその共同研究者・武谷三男、鶴見俊輔、丸山眞男、司馬遼太郎が取り上げられました。そして吉本他3名(誰になるか、まだ情報を得ていません)が後半のラインナップです。先月には吉本の盟友で、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生のところに取材が入ったそうです。詳細が判明しましたら、またご紹介します。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月9日
 
明治39年(1906)の今日、東京市本所区須崎町(現・墨田区向島5丁目)に、光雲が原型制作主任を務めた西村勝三銅像が除幕されました。
 
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西村は明治期の実業家。像は西郷隆盛像や楠正成像同様、東京美術学校としての制作でした。残念ながら戦時中の金属供出により、現存しません。

近刊です。  
2014年12月16日刊行予定 晶文社 定価6400円+税
 
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長く深い時間の射程で考えつづけた思想家の全貌と軌跡がここにある。
第5巻には、最初の単行本である代表的作家論『高村光太郎』と、初期の重要な評論「芸術的抵抗と挫折」「転向論」、および花田・吉本論争の諸篇を収録する。そのほか、新たに1篇の単行本未収録原稿を収める。
月報は、北川太一氏・・ハルノ宵子氏が執筆!
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【目次】

高村光太郎/『道程』前期/『道程』論/『智恵子抄』論/詩の註解/戦争期/敗戦期/戦後期/年譜/参考文献目録

「戦旗」派の理論的動向/文学の上部構造性/宗祇論/抵抗詩/くだらぬ提言はくだらぬ意見を誘発する――加藤周一に――/三種の詩器/「四季」派の本質――三好達治を中心に――/芸術的抵抗と挫折/街のなかの近代/情勢論/今月の作品から/芥川龍之介の死/転向論/中野重治「歌のわかれ」

死の国の世代へ――闘争開始宣言――

不許芸人入山門――花田清輝老への買いコトバ――/「乞食論語」執筆をお奨めする/アクシスの問題/芸術大衆化論の否定/近代批評の展開/天皇制をどうみるか/橋川文三への返信/高村光太郎の世界/戦争中の現代詩――ある典型たち――/詩人の戦争責任論――文献的な類型化――/異端と正系/十四年目の八月十五日/現代詩のむつかしさ/海老すきと小魚すき/転向ファシストの詭弁

内的な屈折のはらむ意味――『井之川巨・浅田石二・城戸昇 詩集』――/堀田善衞『乱世の文学者』/阿部知二他編『講座現代芸術Ⅲ芸術を担う人々』/草野心平編『宮沢賢治研究』/戦後学生像の根――戦中・戦後の手記を読んで――/江藤淳『作家は行動する』/武田泰淳『貴族の階段』/久野収・鶴見俊輔・藤田省三『戦後日本の思想』/阿部知二『日月の窓』

『風前の灯』
『夜の牙』
『大菩薩峠』(完結篇)

飯塚書店版『高村光太郎』あとがき/『芸術的抵抗と挫折』あとがき/『抒情の論理』あとがき
解題〈間宮幹彦〉
 
 
一昨年亡くなった思想家・吉本隆明の全集です。晶文社さんが、今年3月から刊行を始め、全38巻・別巻1の予定で刊行中のものの、第4回配本です。
 
上記目次の通り、評論「高村光太郎」が収録されます。こちらは我々光太郎研究者にとってのバイブルに等しいものの一つです。吉本氏の盟友・北川太一先生の書かれた「死なない吉本」(『春秋』539号 平成24年=2012 5月)から、この評論についての部分を抜粋させていただきます。
 
工大の特別研究生として再び一緒になったのは昭和二十四年になってからだった。彼の研究室は同じ階にあった。二年間のその第一期を終わって吉本は東洋インキ製造に入社、二十七年には詩集『固有時との対話』が出来て、それを届けてくれた時、日本の明治以後の詩史を広く見通すための資料が見たいという希望が添えられていた。お花茶屋や駒込坂下町の吉本の家を訪ねたり、時に日本橋の我が家に来てくれたりが続いたけれど、昭和三十年に吉本が『現代詩』に『高村光太郎』を発表し始めたことは、僕を興奮させた。年譜を補充するために光太郎の聞き書きを取り始めていた僕は、すぐその雑誌を死の前年の光太郎に見せて、わが友吉本隆明について語ったのを覚えている。
 
それをふまえ、単行書『高村光太郎』。
 
吉本によって高村光太郎についてのこの国で最初の単行書が鶴岡政男の装丁で飯塚書店から刊行されたのは、昭和三十二年七月のことであった。自らの青春と重ねて、戦争期の光太郎の二重性の意味をつきとめようとするところから始めたこの仕事は、五月書房(昭和三十三年 改稿版)、春秋社(昭和四十一年 決定版)と増補されつつ進化し続けた。
 
評論「高村光太郎」は、その他、勁草書房の『吉本隆明全著作集8』(昭和48年=1973 絶版)、講談社文芸文庫『高村光太郎』(平成3年=1991)にも収められました。特に勁草書房版は、光太郎に関する他の小論、講演も収めており、便利です。ただし絶版です。
 
それが今回、また収録されるということですし、目次を見ると他にも光太郎がらみの評論が収められているようです。また、月報には北川先生の玉稿が載ります。ぜひお買い求めを。
 
明日も吉本関連で。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月8日
 
昭和20年(1945)の今日、日本共産党が神田共立講堂で「戦争犯罪人追及人民大会」を開催しました。
 
以下の決議文をGHQに提出しています。
 
日本の人民大衆をして彼の恐るべき強盗侵略戦争に駆り立てゝ惨虐極まる犠牲の血を流さしめたる犯罪人に対する厳重処罰は日本勤労民衆の総意が切に希望する所であり且又、吾が日本共産党がポツダム宣言の精神に立脚し不断に強調しつゝある所である。天皇制支配機構に於ける一切の指導的分子即ち天皇を始め重臣、軍閥、行政司法の官僚、財閥戦争協力地主、貴族院衆議院議員、反動団体のゴロツキ等が犯罪的侵略戦争の指導者、組織者であることは全く疑いなき事実である。今回梨本宮、平沼を始め五十九名に対する連合軍最高司令部の逮捕命令は戦争犯罪人の牙城に対する鉄鎚として全日本の人民大衆に深い感銘を与える所である。吾が党第四回全国大会は連合軍の今回の措置を全面的に支持すると共に今日尚日本の政治経済機構に深く巣喰つている多数の戦争犯罪人に対する厳正処断が日本の民主化のための根本前提として急速になされることを茲に熱望して止まないものである。
右決議す
 
同時に昭和天皇をはじめとする1,000名の「戦争犯罪人名簿」を発表、その中には光太郎の名も記されていました。
 
この時党員として糾弾する側に廻っていた詩人の壺井繁治などは、自身も戦時中にはこんな詩を書いていました。
 
   鉄瓶に寄せる歌
 
 お前を古道具屋の片隅で始めて見つけた時、錆だらけだつた。
 俺は暇ある毎に、お前を磨いた。
 磨くにつれて、俺の愛情はお前の肌に浸み通つて行つた。
 お前はどんなに親しい友達よりも、俺の親しい友達となつた。

 お前は至つて頑固で、無口であるが、
 真赤な炭火で尻を温められると、唄を歌ひ出す。
 ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過したこと、幾歳だらう。
 だが、時代は更に厳しさを加へ来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞えて来た。

 お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
 俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
 さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
 あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

 そして新しく熔かされ、叩き直されて、
 われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
 お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!
 
先述の吉本隆明も、こうした壺井の変節には怒り心頭です。
 
もしこういう詩人が、民主主義的であるなら、第一に感ずるのは、真暗な日本人民の運命である。
(『抒情の論理』 未来社 昭和34年=1959)

だからと言って、全詩作の約4分の1、実に200篇近くに及ぶ光太郎の戦争詩が許されるか、というとそうではありませんが……。

石川は金沢の室生犀星記念館でのイベント(講座)の情報です。

『我が愛する詩人の伝記』を読む 第2回『高村光太郎』

期 日 : 2014年11月29日(土)  
時 間 : 午前10時~11時
会 場 : 室生犀星記念館 石川県金沢市千日町3-22
講 師 : 上田正行氏(同館館長)
 
※お電話でお申し込みください(室生犀星記念館:076-245-1108) 入館料が必要です。
 
 
『我が愛する詩人の伝記』は、昭和33年(1958)に雑誌無題『婦人公論』に連載され、同年単行本化された室生犀星の著書です。詩人としての犀星が間近に見た詩人達の、「伝記」というより「印象記」「回想」に近いものです。
 
取り上げられたのは12人。『婦人公論』掲載順に、北原白秋、光太郎、萩原朔太郎、釈迢空(折口信夫)、佐藤惣之助、島崎藤村、堀辰雄、立原道造、津村信夫、山村暮鳥、百田宗治、千家元麿です。
 
貴重な回想を含み、さらに犀星自身、そう書いているように「詩人の伝記を書いてゐるが、どうもすぐ自分のことを書いてしまふ」というわけで、犀星本人の人間像も浮き彫りになっている一冊です。
 
したがって、この書自体が研究の対象となることも多く、今回の講座でもそういうわけで取り上げるのだと思われます。ちなみに全6回の予定だそうで、白秋を扱った初回の講座は先月終了。今後、光太郎、朔太郎、釈迢空、立原道造と佐藤惣之助、藤村と千家元麿というラインナップになっています。
 
ちなみに今回の講座とは関係ないとは思うのですが、『我000が愛する詩人の伝記にみる室生犀星』(葉山修平著 龍書房 平成12年=2000)という書籍も刊行されています。
 
さて、『我が愛する詩人の伝記』の中で、光太郎がどう描かれているか、少し紹介しておきます。中心になっているのは、青年期の回想です。
 
犀星は光太郎より6つ年下の明治22年(1889)の生まれ。中央の詩壇にデビューするのも大正に入ってからと、光太郎のそれより後のことです。そこで、すでに名声を得ている先輩に対するやっかみのような、シニカルな見方が垣間見えます。
 
千駄木の桜の並木のある広いこの通りに光太郎のアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れ、白いカーテンの時は西洋葵の鉢が置かれて、花は往来のはうに向いてゐた。あきらかにその窓のかざりは往来の人の眼を計算にいれたある矜(ほこり)と美しさを暗示したものである。千九百十年前後の私はその窓を見上げて、ふざけてゐやがるといふ高飛車(たかびしや)な冷たい言葉さへ、持ち合すことのできないほど貧窮であつた。かういふアトリエに住んでみたい希(のぞ)みを持つたくらゐだ。四畳半の下宿住ひと、このアトリエの大きい図体の中にをさまり返つて、沢庵と米一升を買ふことを詩にうたひ込む大胆不敵さが、小面憎かつた。
 
また、そのアトリエをおとなったものの、実に三回にわたり、智恵子に追い返されたエピソードも語られています。
その時の智恵子を「夫には忠実でほかの者にはくそくらへといふ目附」と評しています。ちなみにまだこの時点では犀星と光太郎はお互い相知らぬ時期だったそうです。
 
しかし、何も光太郎智恵子をけちょんけちょんにけなしている訳ではありません。
 
光太郎の死は巨星墜つといふことばどほりのものを、私に感じさせた。巨星墜つといふばかばかしいことばが、やはりかれの場合ふさはしく、それだけ私は依然距たりをおぼえてゐたのだ。
 
ここだけ取り上げても伝わりにくいのですが、「距たり」といっても、「敬遠」とか「拒絶」ではなく、「脱帽」に近い感覚です。
 
このほかの部分にも、光太郎に対する敬愛の情がしっかり伝わってきます。また、遺された光太郎から犀星宛の書簡を見ると、光太郎の母が亡くなった際には犀星から心のこもった手紙が来たことや、逆に犀星の母(義母)の逝去に際しても、光太郎は衷心から哀悼の意を表しています。
 
先に挙げたシニカルな見方も、犀星が自らを偽悪家として韜晦する一面を見せているように思われます。そうした部分が、この書物自体、研究の対象として重要視されている一因でしょう。
 
『我が愛する詩人の伝記』、光太郎の回の最後はこんなふうに終わっています。
 
智恵子さん曰く、四十何年か前に見た人がまたいやなことを書いてゐるわね、なんてしつこい厭な奴!
 
 
さて、犀星記念館の講座。お近くの方、ぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月22日
 
昭和2年(1927)の今日、詩人の尾崎喜八に絵葉書を送りました。
 
この時期の光太郎は、自作の彫刻を写真に撮り、絵葉001書にして使っています。この葉書もそうで、この時開催されていた大調和展覧会に出品していた塑像「某夫人の像」をプリントしています。
 
「某夫人」=智恵子です。文面は以下の通り。
 
 この間の夜は急用があつたので失敬しました。二三日前 大調和展へも来られたといふ事を千家君にききましたが その日も遅く行つたので会へないで残念でした。
 此の彫刻は誰も本当には認めませんが自分では信用してゐます。多くの芽を持つてゐると思ひます。
 
光太郎はこの他にも智恵子像を作っていますが、それらすべて、現存が確認できていません。ほとんど昭和20年(1945)の空襲で燃えてしまったと推定されています。
 
どこかからひょっこり出てこないかと期待しているのですが……。
 

芸術の秋、文化の秋、ということで、このところ光太郎に関連するイベントが盛りだくさんです。このブログ、それらの紹介と、足を運んでのレポートで、かなりネタを稼がせていただきました。今月に限っても、まだ三つ四つ、把握しているイベントがあるのですが、一旦そちらから離れます。
 
予定では今日から4回、新刊書籍をご紹介します。イベントの記事と比べると、速報性の意味であまり重要でないかなと思い、後回しにしていましたが、いつまでも紹介しないと「新刊」と言えなくなりますし、「こういう本が出ているのに気づいていないのか」と思われるのも癪ですので。

山に遊ぶ 山を思う

正津勉著  2014/9/30 茗渓堂  定価 1,800円+税
 
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著者の正津氏は詩人。山岳愛好家でもあります。その正津氏がこの十年ほどの間に歩いた全国の山々の紀行です。基本、白山書房刊行の雑誌『山の本』に「山の声」の題で連載されていたものに加筆訂正を加えたものだそうです。
 
単なる山岳紀行ではなく、それぞれの山と縁の深い文学者のエピソード、作品を紹介しながらというスタイルです。
 
さて、光太郎。
 
第12章の「詩人逍遥 赤城山――萩原朔太郎・高村光太郎」で扱われています。
 
光太郎は赤城山を非常に愛し、生涯に何度も訪れています。明治37年(1904)には、5月から6月にかけてと、7月から8月にかけての2回、計40日ほどを赤城に過ごしており、あとから合流した与謝野鉄幹ら新詩社同人のガイド役も買って出ています。また、昭和4年(1929)にも、草野心平らを引き連れて登っています。この時同行した詩人の岡本潤の回想に拠れば、光太郎は下駄履きで登っていったとのこと。ちなみに前橋駅で落ち合った朔太郎は登らなかったそうです。
 
こうしたエピソードや、赤城山に関わる光太郎の短歌などが紹介されています。
 
他にも宮澤賢治、更科源蔵、川路柳虹、竹内てるよ、大町桂月、尾崎喜八、風間光作、真壁仁といった、光太郎と縁の深い文学者のエピソードが盛りだくさんです。
 
先頃、『日刊ゲンダイ』さんに書評が載りました。
 
 北は北海道の離島に位置する利尻山から、南は薩摩半島の南端の開聞岳まで、日本全国30カ所の山々を歩いた詩人による山岳紀行。スポーツとしての登山ではなく、都会の喧騒から離れることで俗世間の煩わしさを忘れ、自然の中で心を豊かに遊ばせる山行きの楽しさを感じさせてくれる。
  特筆すべきなのは、それぞれの山にちなんだ詩歌や言葉など、先人の文学をあらかじめ下調べした上で山に向かっている点。たとえば、津軽富士と呼ばれる岩木山の章では、太宰治の「津軽」や河東碧梧桐の「三千里」、今官一の「岩木山」などの一節が紹介されているほか、地元詩人の方言詩などにも触れていく。
  群馬県の赤城山の章では、萩原朔太郎の「月に吠える」「蝶を夢む」「青猫」や、高村光太郎の「明星」、さらに草野心平や金子光晴の名も登場。自らの山行きを悠久の時を超えた先人の言葉と重ね合わせながら、より深く楽しんでいる姿が何とも味わい深い。

 
「高村光太郎の「明星」」には「おいおい!」と思いましたが、よく書けています。
 
ちなみに著者の正津氏には、他にも光太郎にふれたご著書がありますので、紹介しておきます。

人はなぜ山を詠うのか001

平成16年 アーツアンドクラフツ 定価2,000円+税  版元サイトはこちら
 
こちらも山と文学者の関わりについて述べたもの。第一章が「私は山だ……高村光太郎」。こちらでは上高地、安達太良山、磐梯山、そして花巻郊外太田村の山口山といった、光太郎が足を運んだり、作品でふれたりした山を追っています。

小説尾形亀之助 窮死詩人伝

平成19年(2007) 河出書房新社 定価2,200円+税   000版元サイトはこちら
 
光太郎と交流のあったマイナー詩人・尾形亀之助の評伝です。光太郎も登場します。帯には光太郎の亀之助評も。

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合わせてお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月16日
 
昭和20年(1945)の今日、光太郎の住む花巻郊外太田村の山小屋を、編集者の鎌田敬止が訪れました。
 
鎌田は岩波書店を振り出しに、北原白秋の弟・鉄雄が経営していたアルス、平凡社など、光太郎とも縁のある出版社を渡り歩き、昭和14年(1939)には八雲書林を創立しました。八雲書林は、戦時中に他の出版社と統合して青磁社となり、この時は青磁社の所属でした。さらに同24年(1949)頃に白玉書房を設立。休業中の龍星閣に代わって、『智恵子抄』を復刊しました。

新刊です。 
2014/10/1 東京大学國語國文学会編 明治書院発行 定価1,143円+税
 
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國語と國文學』。古典から近現代まで幅広く扱う雑誌です。巻末に「投稿規定」が載っていて、それによれば「本誌は広く国語国文学研究者の発表機関としてこれを開放し、大方のご投稿を歓迎します。」とあり、原稿依頼ではなく投稿で成り立っているようです。そういう意味では書けば載る大学の研究紀要などとは違い、載せてもらうためのハードルが高そうです。ただ、今号の目次、巻頭の「前号要目」「次号予告」等を見ると、大半が国文学の論文で、国語学に関するものはほとんど無いようです。
 
さて、今号には駿河台大学准教授、長尾健氏の論考「高村光太郎『道程』前期論――巻頭三作品の解釈を中心に――」が掲載されています。
 
今年、刊行100年を迎える詩集『道程』。明治43年(1910)から大正3年(1914)までの詩、76篇が載っています。内容的に、明治44年(1911)の「泥七宝」あたりを境に、前半と後半に分けて読み取るのが一般的です。前半は欧米留学から帰朝し、北原白秋、吉井勇らと「パンの会」の狂躁に身を投じたり、吉原の娼妓・若太夫や浅草のカフェの女給・お梅に入れ込んだりしていたデカダン生活の時期のもの。後半は智恵子との邂逅を経て、頽廃生活からの脱却、『白樺』的な人道主義の影響も見て取れる、表題作「道程」を含む作品群、といった区分けです。
 
長尾氏の論考は、前半、特に冒頭の三作品「失はれたるモナ・リザ」「生けるもの」「根付の国」を中心に展開されています。キーワードは「普遍的な美」「西洋でも日本でもないある絶対的な場所」「ナショナル・アイデンティティ」などなど。
 
雑誌専門の通販サイトfujisan.co.jpから購入できます。ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 9月19日
 
昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、栗ご飯を炊いて食べました。
 
「秋の味覚」、ですね。この日の日記に以下の記述があります。
 
四時過ぎ小屋にかへる、 栗をひろふ。 夜食、炊飯(栗めし)初めてなり。
 
この前後、光太郎が7年間暮らした太田村の山小屋周辺には栗の木がたくさん自生しており、時には音を立てて屋根に栗の実が落ち、拾い放題でした。村人もよく小屋の近くに拾いに来ていたそうです。
 
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日記はさらにこう続きます。
 
南瓜一個とり。煮る、美味とはいへず。
 
自分で栽培していたカボチャは今ひとつだったようです(笑)。

詩人の間島康子様から、このほど刊行された文芸同人誌『群系』の第33号「<特集>昭和戦前・戦中の文学」をいただきました。
 
間島様の論考「高村光太郎 ―のっぽの奴は黙っている」が、10ページにわたり掲載されています。
 
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以前にいただいた第32号掲載の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」もそうでしたが、卓見です。
 
「のっぽの奴は黙つてゐる」は、昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表された光太郎の詩。その2年前に東京会舘で開催された光雲喜寿の祝賀会での一コマをうたったものです。
 
ただ、間島様の論は、この詩の解釈が中心ではなく、様々な場面で「黙つてゐる」光太郎についてといった趣です。巨匠として世俗的名声を得た父に対しての思い、戦時には意に添わぬ戦争協力詩を書かされている思い、戦後にはそれらを書かされていたことに対する思いなどなど。
 
自己に厳しい光太郎は、そうした思いのうち、自分の暗愚に対しては発言するものの、他に責任を転嫁しません。その結果が、花巻郊外太田村での「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流刑」の意味です。
 
そうした光太郎の「自虐」「孤独」に注目した間島様の論考、卓見です。『群系』さんのサイトから入手可能です。
 
ところで間島様、今年の連翹忌にご参加下さいました。その折の話や、その折に配布した資料などからも引用なさっています。運営している甲斐がある、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月31日
 
昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、実弟の豊周・君江夫妻、姪の珊子が訪ねてきました。
 
兄弟6年半ぶりの対面です。十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、秋には上京することが決まっており、そのための打ち合わせ的な来訪でした。
 
豊周一家は昭和20年(1945)3月に、信州小諸に疎開。光太郎は「東京に天子様がいらっしゃる間は動かない」と、残ります。結果、4月には空襲でアトリエが全焼、やむなく5月には宮澤賢治の父・政次郎らの招きで花巻に移ります。
 
豊周の『定本光太郎回想』(昭和47年=1972 有信堂)の、この来訪時の記述が、笑えます。
 
 僕と家内と娘とが太田村の山小屋をたずねたのは、兄がいよいよ帰京するすこし前のことで、はじめ兄は、
「手紙で用が足りるから、わざわざ来なくてもいい。殊に君江さんの足では無理だ。」
と言って来ていたが、それでもこの頃開通したという自動車の地図など書いてある。口ではなんとか言っていても、内心は、一度連絡に来てもらいたかったのだ。
 
微笑ましいですね。

連翹忌ご常連で、詩人の豊岡史朗氏から、氏の主宰する詩誌『虹』の第5号を戴きました。
 
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豊岡氏による評論「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」が掲載されています。
 
題名にある北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』とは、平成21年(2009)に、北川太一先生の教え子の皆さん・北斗会の方々が出版にこぎつけたもので、平成19年(2007)11月、当時の文京区立本郷図書館鷗外記念室で開催された北川先生の講演に加筆修正されたものです。
 
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「観潮楼」というのは鷗外が団子坂上の自宅につけた雅号。ここが文京区立本郷図書館鷗外記念室だったところで、現在は文京区立森鷗外記念館となっています。駒込林町の光太郎アトリエとは指呼の距離です。
 
「一夜」というのは大正6年(1917)10月9日の夜。昨年、このブログの【今日は何の日・光太郎】の10月9日の項に書きましたが、この直前に、光太郎が鷗外の悪口を言いふらしている、という話を聞きつけた鷗外が、光太郎を呼び出したのです。会見の様子については、昨年10月9日の項をご覧下さい。
 
『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』は、この夜の出来事を中心に、光太郎と鷗外の交流を詳細に追っています。詩誌『虹』の「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」は、『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』の紹介、感想を軸に、さらに二人の留学体験、新たに開館した鷗外記念館などにも触れています。
 
ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月22日
 
平成3年(1991)の今日、徳島県立近代美術館で、企画展「日本近代彫刻の一世紀―写実表現から立体造形へ―」が開幕しました。
 
茨城県近代美術館と2館巡回での企画展。光雲の「観音像頭部」(明治28年=1895)、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916)、「手」(大正7年=1918頃)をはじめ、二人と関係する彫刻家の作品から現代彫刻までがずらっと並びました。

このブログでご紹介した阿部公彦氏著 『詩的思考のめざめ』厚香苗氏著『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』が新聞各紙の書評欄でも取り上げられていますので、ご紹介します。  

『詩的思考のめざめ』 阿部公彦著  

 かつて詩人は、黒いハンドバッグから現れた。
 
 地下鉄のベンチ、眠たい膝枕にことばが降る。やがてレールの削れる音がして、悲しい海底は消える。すぐそばで、見ているみたいだったね。人間の声にもどった母は、詩集を閉じ、子どもの手をひき、まぶしい電車に乗りこんだ。
 
 十年がひとむかしだったころは、そんなふうだった。ひとむかしがふた月ほどのいま、ハンドバッグには電話機がある。肉声は遠くなり、降水確率や星占いの画面を頼りにしている。
 
 阿部公彦さんは、詩の読解入門ではなく、むしろ門の外に誘うために、この本を書かれた。
 
 遠いありがたい「詩」の世界に一生懸命入っていかなくても、ふだんの日常の中に詩のタネは隠されている。
 
 だれかと抱きあうより、じぶんでじぶんを撫なでさすって、はやく安心したい。感じるより知りたい。美しいより正しいがえらい。読書に正解を求めるほど、詩とひとの通いあいは消える。
 
 けれども墓に追いやるには、詩はあまりに人間そのもの。詩というかこいの外にさえ、あたりまえにいる。阿部さんは、いまと昔のどちらにも中立に、ことばの外苑を案内していく。
 
 詩のことばは名を持たず、恥じらい、はずみ、反復し、連呼し、ときに隠れて黙りこむ。
 
 金子光晴、高村光太郎、宮沢賢治、萩原朔太郎、石垣りん、伊藤比呂美、田原でんげん、谷川俊太郎。
 
 詩人が刻む光陰に、どんなふうに腕をのばし、触れれば、めざめの扉を見つけられるでしょう。
 
 詩人と読者、ふたりきり。道行きを案内する阿部さんは、古い時計をなおすように、一語一句を分解し、作品のメカニズムをもみほぐす。
 
 礎だった詩はふたたび動き、新しい詩は朗らかな通訳者を得た。そして、この本を読むひとは、内容を解読しようとするこころの回路を切り、あどけない詩的身体を取りもどす。
 
 うごめくことばに触れてみる。張りつく熱と重い骨、耳もとの詩人の息を抱きしめる。
 
 ◇あべ・まさひこ=1966年、横浜市生まれ。東大准教授(現代英米詩)。著書に『文学を〈凝視する〉』。
 東京大学出版会 2500円
『読売新聞』
 
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『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』厚香苗〈著〉

◇洗練された相互扶助のシステム

 神社の縁日などで露店を連ね、綿あめやタコ焼きを売る「テキヤさん」。わくわくするようなムードを運んできてくれる、お祭りには欠かせない存在である。
 
 かれらはいったい、どこからお祭りにやってくるのか。映画『男はつらいよ』の主人公・寅さんもテキヤさんで、全国を旅している。そのイメージもあり、お祭りを追って旅から旅の毎日を送っているのかなと思っていたのだが、実はかれらは、基本的には近所(十二、三キロ圏内)から来ていたのだ!
 
 著者は実際にテキヤに同行し、関係者に取材をして、テキヤの縄張りやしきたりを調査する。また、近世・近代の文献や絵画を調べ、テキヤのあいだにどういう信仰や言い伝えがあるのかひもといていく。外部からはなかなか見えにくく、明文化されにくい、テキヤの日常や風習に見事に迫った一冊だ。
 
 縁日で、神社の境内のどこにどんな露店を配置するかを、だれが指示しているのか。縄張り以外の場所へ行って商売するときは、地元のテキヤにどう挨拶し、どこに泊まればいいのか。非常に洗練された、テキヤ間の相互扶助的なシステムが構築されていることがわかる。西国、東国、沖縄とで、それぞれ微妙にテキヤの慣習がちがうらしいというのも、興味深い。いろんな地域の縁日に行って、ちがいを見わけられるか試みたくなってくる(素人にはむずかしそうだが)。
 
 露店は家族経営で、女性も一緒になって働く。テキヤ界で、女性がどういう立ち位置にあるのかに光を当てたのも、本書の非常に重要な部分だろう。著者は取材対象者との距離感が適切で、それゆえに相手から信頼され、公正で充実した研究として結実したのだと思う。
 
 テキヤさんの生活や伝統を知ることができ、その存在にますます魅力を感じた。今年の夏祭りが楽しみだ。

 評・三浦しをん(作家)
     
 光文社新書・821円/あつ・かなえ 75年生まれ。文学博士。慶応大学、立教大学非常勤講師など。
 『朝日新聞』
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書評にはその文字が入っていませんが、光雲(というかその父=光太郎祖父でテキヤだった中島兼吉)についての記述があります。
 
ぜひお読み下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月19日
 
平成17年(2005)の今日、前橋市民文化会館小ホールで箏曲奏者・下野戸亜弓のリサイタルが開催されました。
 
光太郎詩に小山清茂が曲を附けた「樹下の二人」が演奏されました。同年、ライブ録音がCD化され、発売されました。
 
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新潟から企画展情報です。

ドナルド・キーンの直筆原稿が語る『日本文学を読む』

会 場 : ドナルド・キーンセンター柏崎 新潟県柏崎市諏訪町10-17
会 期 : 前期 2014年3月10日(月)~7月21日(月)
    : 後期  同 7月25日(金)~12月25日(水) 
 間 : 10時~17時 月曜休館
料 金 : 大人500円 中高生200円 小学生100円
 
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ドナルド・キーンの直筆原稿『日本文学を読む』と直筆の手紙を、連載された雑誌「波」(新潮社)とともに一堂に展示。ドナルド・キーンが伝えたいと願う日本文学の素晴らしさ、面白さを評論で実感していただきたいと思います。
厖大な原稿が埋める展示空間やドナルド・キーンの直筆日本語に圧倒されることでしょう。
そして、直筆原稿が語りかけてくる言葉に眼を向け、耳を澄ませて近現代の日本文学の世界に浸っていただき、さらに、明治、大正、昭和に生きた各作家たちの素顔に触れ、日本文学の素晴らしさ、面白さに思いを巡らせてほしいと思います。
 
雑誌『波』に連載され、昭和52年(1977)に新潮社から単行書として刊行された『日本文学を読む』の草稿を展示するというものです。一回につき6~7枚だったそうです。
  
前後期に分かれ、前期では「高村光太郎」が含まれています。他の作家に関しては上記チラシをご覧下さい。
 
 
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キーン氏といえば、元はアメリカ人(平成24年=2012に帰化)ですが、元々の日本人以上に日本文学に精通されています。おん年91歳(今月で92歳)、まだまだお元気のようで何よりです。
 
今回の展示に関わる『日本文学を読む』は、当方、読んでいませんが、平成9年(1997)に中央公論社から刊行された『日本文学の歴史 17 近代・現代篇8』を持っています。四六判は品切れの可能性がありますが、現在は中公文庫版も発売されています。
 
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画像の帯文でもお分かりになるかと思いますが、近現代詩を扱った巻です。「高村光太郎」の項が約40ページ。図版も豊富で理解の助けになります。ぜひお買い求めを。
 
ところで、この企画展、先頃訪れた成田山書道美術館さんでたまたまチラシを発見し、知りました。ネットでは光太郎をキーワードに検索してもひっかかりません。こういうケースがあるので、怖いですね。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月7日006
 
平成20年(2008)の今日、大阪のいずみホールで開催された関西合唱団創立60周年記念・第73回定期演奏会で、西村朗作曲「混声合唱とピアノのための組曲 レモン哀歌」が委嘱初演されました。
 
全3曲で、第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、第2曲「山麓の二人」、第3曲「レモン哀歌」です。
 
指揮は守谷博之氏、ピアノ伴奏は門万沙子氏でした。
 
楽譜は全音楽譜出版社から刊行されています(右記画像)。販売用CD等にはなっていないようで、CD化が待たれます。
 

先月の第58回連翹忌にご参加下さった、詩人の宮尾壽里子様から、詩誌『青い花』第75号~77号の3冊を戴きました。
 
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当方、寡聞にしてその存在を存じませんで000したが、埼玉で刊行されている同人誌、年三回の発行のようです。同人には見知ったお名前があり、「ほう」と思いました。
 
昭和48年(1973)、東宣出版から『智恵子と光太郎 高村光太郎試論』を上梓された平田好輝氏、それから以前にこのブログでご紹介した、東日本大震災復興支援の合唱曲「ほんとの空」(高山佳子氏作曲)の作詞をされた後藤基宗子氏。後藤氏のショートエッセイでは合唱曲「ほんとの空」に触れられていました。
 
宮尾氏は昨年7月に刊行された第75号から、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイを連載なさっています。
 
先月、最新刊の第77号(2014/3)のみ送っていただいたのですが、そちらが連載の3回目だったので、第75号、76号も欲しいとお伝えしたところ、送って下さいました。ありがたいかぎりです。
 
題名の通り、昭和16年(1941)の初版『智恵子抄』刊行の経緯から、その後の諸々の版、智恵子の人となり、さらには紙絵や十和田湖畔の裸婦像にも触れられ、非常に読み応えがありました。
 
第77号にも「完」の文字が入っていないので、まだ連載が続くだろうと期待しています。
 
よく調べているな、と失礼ながら感心しましたが、それもそのはず、最近、大学院で修士論文を書かれている由。これまた失礼ながら、還暦を過ぎてからの取り組みだそうで、頭が下がります。ご健筆を祈念いたします。
 
やはり今年の連翹忌にご参加いただいた間島康子様から、評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」の載った文学同人誌「群系」を戴きましたが、こうした刊行物にはなかなか目が行き届きません。こういうものもあるよ、という情報があればお寄せいただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月7日004
 
昭和15年(1940)の今日、詩人・宮崎丈二を通じて中国の篆刻家・斉白石に「光」一字の石印の製作を依頼しました。
 
出来上がった印がこちら。光太郎は晩年まで自著奥付の検印などに愛用し続けました。

ニセモノ専門の悪質業者などは、この印まで偽造しようとしているようですが、なかなかうまくいかないようで(笑)。

新刊です。といっても、2ヶ月程経っていますが……。 

詩的思考のめざめ

2014年2月20日 阿部公彦著 東京大学出版会刊行 定価2,500円+税
 
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内容紹介
名前をつける,数え上げる,恥じる,などの切り口から日常に詩のタネを探してみよう.萩原朔太郎,伊藤比呂美,谷川俊太郎といった教科書の詩人のここを読んでみよう.詩的な声に耳を澄ませば,私たちと世界の関係がちがったふうに見えてくる.言葉の感性を磨くレッスン.

主要目次
はじめに――詩の「香り」にだまされないために
I 日常に詩は“起きている”――生活篇
第1章 名前をつける――阿久悠「ペッパー警部」,金子光晴「おっとせい」,川崎洋「海」,梶井基次郎「檸檬」ほか
第2章 声が聞こえてくる――宮沢賢治「なめとこ山の熊」,大江健三郎『洪水はわが魂に及び』,宗左近「来歴」
第3章 言葉をならべる――新川和江「土へのオード」,西脇順三郎『失われた時』,石垣りん「くらし」
第4章 黙る――高村光太郎「牛」
第5章 恥じる――荒川洋治『詩とことば』,山之口貘「牛とまじない」,高橋睦郎「この家は」
II 書かれた詩はどのようにふるまうか――実践編
第6章 品詞が動く――萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」
第7章 身だしなみが変わる――伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」
第8章 私がいない――西脇順三郎「眼」
第9章 型から始まる――田原「夢の中の木」ほか
第10章 世界に尋ねる――谷川俊太郎「おならうた」「心のスケッチA」「夕焼け」ほか
読書案内
おわりに――詩の出口を見つける
 
著者の阿部氏は東大文学部准教授。「東大」というブランドをありがたがるわけではありませんが、なかなかおもしろい論考集です。
 
上記目次で目立つようにしましたが、光太郎詩「牛」が扱われています。章の題が「黙る」。これはどういうことでしょうか。実際に引用してみます。
 
人は大きい声を出すことで、強く言おうとする。しかし、より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある。「牛」という作品はその境地を目指したものと思えます。牛が体現しているような黙ることの強さを、詩の中に何とか表そうとしている。
 
「牛」という詩は、大正2年(1913)の作。光太郎の詩の中では有名な部類に入りますので、、ご存知の方も多いのではないでしょうか。全部で115行もある長大な詩です。で、115行、「牛はのろのろと歩く」に始まり、最終行の「牛は平凡な大地を歩く」まで、とにかく農耕用の牛の描写に徹しています。
 
   

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まつすぐに行く000
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない005
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く

何処までも歩く
自然を信じ切つて

自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ003
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも

十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける

牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
 
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。
 
いわば、声高な作者の主義主張は語られていません。しかし、それがかえって効果をもたらしています。愚鈍にゆっくりと歩み続ける牛の姿に、光太郎の姿がオーバーラップします。当方、阿部氏はそうした点を「より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある」と解釈しているのだと読み取りました。
 
是非お買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月26日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋周辺で、野草をスケッチしました。
 
太田村時代、スケッチはこの日に限らずよくやっていたのですが、とりあえず「今日」のできごとということで……。
 
こうしたスケッチは後に昭和41年(1966)、中央公論美術出版から『山のスケッチ』として刊行されました。
 
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都立高校教諭の野末明氏が主宰する「高村光太000郎研究会」という会があります。機関誌的に雑誌『高村光太郎研究』を発行しています。
 
過日、その35集が刊行されました。
 
目次は以下の通り。
 
高村光太郎・最後の年 1月(1) 北川 太一
高村光太郎考――直哉と光太郎 大島 龍彦
光太郎遺珠⑨ 平成二十六年  小山 弘明
高村光太郎没後年譜・未来事項 大島 裕子
高村光太郎文献目録      野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介   野末  明
 
論考二本、読み応えがあります。
 
それから当方の連載「光太郎遺珠」。新しく見つけた『高村光太郎全集』未収録の文筆作品等を紹介しています。内容細目は、脱稿した際のブログに書きました。
 
頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月10日
 
昭和20年(1945)の今日、駒込林町のアトリエを、渡辺正治氏が訪れました。
 
氏は女優・渡辺えりさんのお父さまで、今もご健在です。
 
戦時中に15歳で山形から上京、現・武蔵野市にあった中島飛行機の工場で働いていたそうです。
 
工場の先輩に、光太郎と手紙のやりとりをしていたという人がいて、都心方面の空襲のひどさから光太郎の身を案じ、光太郎の元に渡辺氏を遣わしたとのこと。
 
この際には光太郎もアトリエも無事で、氏は光太郎から署名入りの『道程 再訂版』をもらったそうです。
 
ところがその3日後の空襲でアトリエは炎上してしまいました。
 
戦後になっても氏と光太郎の交流は続き、そうした縁で渡辺えりさんも光太郎ファンに。画像は渡辺さん作の、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」のパンフレットです。

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4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂きました。
 
その中のお一人、詩人の間島康子さんから、文芸誌『群系』の昨年12月に刊行された第32号をいただきました。
 
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間島様の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」11ページが掲載されています。
 
「好い時代」とは、佐藤春夫が『わが龍之介像』で使った言葉。大正時代(広い意味で明治末を含む)を指します。文芸界全体でも、光太郎自身も、たしかに大正時代は充実していた時期です。
 
その「好い時代」の光太郎を追った論考で、失礼ながら、非常に感心いたしました。
 
『群系』さんホームページはこちら間島様の論考もウェブ上で閲覧できます。ぜひお読み下さい。
 
それから、連翹忌にはご欠席でしたが、イラストレーターの河合美穂さんから、事前にご丁寧にご欠席のご連絡をいただきました。河合さんは今年1月に、個展「線とわたし」を開催され、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品も展示されました。
 
その「梅酒」をポストカードにしたものをいただいてしまいました。ありがたいかぎりです。
 
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あたたかい絵ですね。しかし、もったいなくて使えません(笑)。
  
連翹忌、そして光太郎智恵子を通じて人の輪が広がっています。素晴らしいことだと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月6日

昭和56年(1981)の今日、銀座和光ホールで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

新刊です。

覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻

 2014年1月30日 ブックワークス響発行   中島悠子編   定価 1,400円+税

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詩人・八木重吉の妻であり、のちに歌人・吉野秀雄と再婚した、「登美子」という一人の女性の人生を辿る本。高村光太郎に才能を見いだされながらも、数え年30という若さで世を去った八木重吉。會津八一の門人として生涯を歌に捧げた吉野秀雄。この二人の芸術家に愛された女はどのような人であっただろう、と興味を抱いた装幀家・編集者の中島悠子さんが、彼らの遺した作品や書簡を手がかりに研究を重ねてまとめられました。そこで明らかになったのは、あらゆる人生の不幸にもかかわらず、よく歌いよく働いた、たくましい女性の姿でした。余分な虚飾を排し、現存するテキストにのみ忠実でありながら、苦しい時代を生き抜いた登美子の実像をありありと浮かび上がらせる構成は、見事というほかありません。彼女への敬愛の念にあふれた美しい一冊、ぜひお手に取って清らかな生のあり方に触れてください。(恵文社一乗寺店さんサイトより)
 
吉野登美子。上記解説文にある通り、初め、詩人・八木重吉と結婚しました。しかし八木は昭和2年(1927)、数え29歳の若さで病没。のち、戦後になってから同様に妻を亡くした歌人・吉野秀雄と再婚します。
 
登美子の偉いところは、戦時中も亡夫・八木の遺稿をバスケットに詰めて持ち歩き、守り通したこと。さらに、ただ守っただけでなく、詩集として刊行したこと。頓挫した計画を含め、光太郎も尽力しています。
 
八木の没後間もない昭和3年(1928)には、雑誌『野菊』に「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」を発表して絶賛し、同11年(1936)には、雑誌『詩人時代』に「八木重吉の詩について」を発表しました。これは同17年(1942)に山雅房から刊行された『八木重吉詩集』の序文にも転用されていますし、この刊行自体、光太郎の口利きが大きかったようです。翌年には新たな八木の詩集のために改めて序文と題字を執筆しました。ただし、こちらは戦争の激化などのため、お蔵入りとなってしまいました。
 
戦争が終わり、吉野と再婚してからも、登美子は八木の詩集刊行に力を注ぎます。そして吉野もそれに協力。これはなかなかできることではないと思います。
 
さて、横浜にある神奈川近代文学館に、吉野夫妻の遺品数千点が寄贈されています。その中に光太郎からの書簡が16通、昭和18年(1943)刊行予定が幻に終わった八木の詩集のために光太郎が書いた題字が2種類(「麗日」「花がふつてくると思ふ」)含まれています。この題字については従来知られていなかったものでしたし、書簡の中にも『高村光太郎全集』に漏れていたものがあり、10年近く前に調査に行きました。
 
そんなわけで、『覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻』刊行の情報を得て、すぐに購入いたしました。先程届いたばかりで、まだ斜め読みしただけですが、しっかり光太郎にも言及されており、熟読するのが楽しみです。
 
皆様もぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月1日

昭和60年(1985)の今日、芸術新聞社発行の書道雑誌『墨』第53号が発行されました。
 
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「高村光太郎 書とその造型」という70ページ超の特集が組まれました。豪華な執筆陣で、内容的に非常に充実していますし、写真図版も非常に多く、お薦めの一冊です。時折古書市場で見かけます。

当方も会員に名を連ねております「高村光太郎研究会」という団体があります。
 
「研究」と名が付いておりますので、とりあえず光太郎やその周辺についての研究を志す人々の集まりです。といって、堅苦しいものではなく、参加資格も特にありません。特に職業として研究職についていないメンバーも多数在籍しています。高村光太郎記念会の北川太一先生に顧問をお願いしており、じかに北川先生の薫陶を受けることができるのが大きな魅力です。
 
年に1回、研究発表会を行っております。昨年は当方が発表を行いました。
 
今年の案内が参りましたので、ご紹介します。

第58回高村光太郎研究会 

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日 時 : 2013年11月23日(土) 14時
会 場 : アカデミー音羽 文京区大塚5-40-5
参加費 : 500円
発 表 : 
  「高村光太郎小考-直哉と光太郎-」 大島龍彦氏
  「光太郎と野澤一との関係性について/智恵子抄を訪ねる旅から学んだこと」坂本富江氏
 
会に入らず、当日の発表を聞くだけの参加も可能です。特に申し込みも必要ありません。
 
会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
興味のある方はぜひ11/23の研究発表会にお越し下さい。おそらく北川太一先生もお見えになると思われます。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月24日

大正2年(1913)の今日、『時事新報』に評論「文展の彫刻」の連載を始めました。
 
「文展」は「文部省美術展覧会」。彫刻部門は光雲を頂点とする当時の正統派の彫刻家達によるアカデミックな展覧会でした。
 
明治末に3年あまりの海外留学を経験し、本物の芸術に触れて帰ってきた光太郎にとって、そこに並ぶ彫刻はどれもこれも満足の行くものではなく、出品作一つ一つについてこれでもかこれでもかと容赦なく厳しい評を与えています。
 
盟友・荻原守衛の存命中は、彼の彫刻のみ絶賛していましたが、明治43年(1910)に守衛が歿した後は、褒めるべき彫刻が見つからないという状態だったようです。あくまで光太郎の感覚で、ということですが。
 
光太郎自身は決して文展に出品しませんでした。自信がなかったわけではなく、自身の進むべき道とは全く違う世界と捉えていたようです。

新刊です。少し前に『朝日新聞』さんに載った書評を読んで購入しようと思い、取り寄せました。 
佐滝剛弘著 平成25年6月20日 勁草書房刊 定価2400円+税
 
明治41年。日本で最初に発刊された日本史の辞典には、実に1万を超える人々の予約が入っていた。文人、政治家、実業家、教育者、市井の人々……。彼らはなぜ初任給よりも高価な本を購入しようとしたのか? それらは今どこに、どのように眠っているのか? 老舗旅館の蔵で見つかった「予約者芳名録」が紡ぐ、知られざる本の熱い物語。(勁草書房さんサイトより)

 
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『国史大辞典』とは、明治41年(1909)に刊行された2冊組の辞書で、その名の通り歴史上の人物や項目が五十音順に配された、当時としては斬新かつ豪華なものでした。版元は現在も続く歴史関係出版社の吉川弘文館。戦後にはさらに全17巻で刊行されました。
 
発行前には各種新聞等に広告が大きく出、「予約購入」という手法がとられたとのこと。
 
著者の佐滝氏、群馬県のとある旅館に泊まった際に、この『国史大辞典』の「予約者芳名録」という冊子をみせてもらったそうです。後に分かるのですが、この「予約者芳名録」自体が非常に珍しいもので、ほとんど現存が確認できないとのことです。
 
「予約者芳名録」。刊行は本冊刊行の前年、明治40年(1908)です。そこには道府県別に10,000人ほどの名がずらりと並んでおり、さながら当時の文化人一覧のように、よく知られた名が綺羅星のごとく並んでいるそうです。
 
その中で、著者が最初に見つけた「有名人」は与謝野晶子。続いて2番目が光雲だったそうです。
 
この頃、光太郎は外遊中。光雲は東京美術学校に奉職していました。したがって、光太郎の需めではなく、光雲自身が購入したくて予約したのでしょう。しかし、光雲はもともと江戸の仏師出身で、活字には縁遠い生活を送っていたはずです。それがどうしてこんな大冊を購入したのか、ということになります。おそらく、全2冊のうちの別冊「挿絵及年表」の方が、有職故実的なものから地図、建築の図面など豊富に図版を収めているため、彫刻制作の参考にしようとしたのではないかと考えられます。
 
以下、『国史大辞典を予約した人々』は、「こんな人もいる」「こんな名前もあった」と、次々紹介していきます。個人だけでなく様々な団体、有名人ではなくその血縁者も含まれます。そして名前の羅列に終わらず、それぞれ簡単にですが紹介がなされ、当時の日本の文化的曼荼羅といった感があります。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月4日

大正3年(1914)の今日、銀座のカフェ・ライオンで第一回我等談話会が開催され、出席しました。
 
『我等』はこの年刊行された雑誌で、光太郎は詩「冬が来た」や「牛」など代表作のいくつかをここに発表しています。

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