カテゴリ:文学 > 評論等

新刊書籍です。

高村光太郎の戦後

2019年6月3日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税

戦争を賛美した二人の巨人、詩人・彫刻家高村光太郎と歌人斎藤茂吉。
戦後、光太郎が岩手県花巻郊外に独居して書いた『典型』と茂吉が山形県大石田に寓居して書いた『白き山』の定説を覆し、緻密な論証により正当な評価を与え、光太郎の十和田裸婦像の凡庸な所以を新たな観点から解明した卓抜で野心的評論

イメージ 1

【目次】
第一章 高村光太郎独居七年
 (一)  空襲によるアトリエ焼失、花巻疎開、花巻空襲、太田村山口へ
 (二)  山小屋生活の始まり
 (三)  山小屋の生活における高村光太郎の思想と現実
 (四)  高村光太郎の生活を援助した人々
 (五)  一九四五年の生活と「雪白く積めり」
 (六)  一九四六年の生活と「余の詩を読みて人死に就けり」
 (七)  一九四七年の生活
 (八)  「暗愚小伝」その他の詩について
 (九)  一九四八年の生活
 (一〇) 一九四九年の生活
 (一一) 一九五〇年の生活
 (一二) 一九五一年の生活
 (一三) 一九五二年の生活
第二章 高村光太郎『典型』と斎藤茂吉『白き山』
 (一)  はしがき
 (二)  戦争末期の斎藤茂吉(その一)
 (三)  戦争末期の高村光太郎
 (四)  戦争末期の斎藤茂吉(その二)
 (五)  余談・高村光太郎と三輪吉次郎
 (六)  戦争末期から終戦直後の斎藤茂吉
 (七)  『小園』を読む(その一)
 (八)  高村光太郎「おそろしい空虚」と「暗愚」
 (九)  『小園』を読む(その二)
 (一〇) 敗戦直後の斎藤茂吉
 (一一) 大石田移居、『白き山』(その一)
 (一二) 肋膜炎病臥前後
 (一三) 『白き山』(その二)
 (一四) 『白き山』(その三)
 (一五) 『白き山』(その四)
 (一六) 『白き山』と『典型』

第三章 上京後の高村光太郎 十和田裸婦像を中心に

 (一)  帰京
 (二)  十和田裸婦像第一次試作
 (三)  十和田裸婦像第二次試作
 (四)  十和田裸婦像の制作
 (五)  十和田裸婦像の評価とその所以
 (六)  十和田裸婦像以後
あとがき


昨年、同じく青土社さんから刊行された『高村光太郎論』に続く労作です。前著が明治末、光太郎の西欧留学期から晩年までを概観する内容だったのに対し、本著はタイトル通り、戦後の光太郎に焦点を当てる試みです。ただ、第二章はどちらかというと斎藤茂吉論が中心で、当方、そちらはまだ読破しておりません。

第一章、第三章について書きますと、『高村光太郎全集』中の光太郎日記や書簡からの引用が実に多いのが特徴です。やはり当人の証言をしっかり読み込んだ上で論ずるのはいいことですので、この点には感心しました。おそらくそうした作業を行っていないと思われるエラいセンセイ方の論文もどきもよく眼にしますが。

そして概ね戦後の光太郎に対して好意的な筆です。世上から過小評価され、注目されることも少ない戦後の詩に対し、高評価を与えてくださっています。

この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩であるというのが今の私の評価である。弁解が多いとしても、これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない。

この一節は戦後唯一の詩集の表題作ともなった詩「典型」(昭和25年=1950)に対してのものです。

   典型
000
 今日も愚直な雪がふり
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にゐるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ。
 三代を貫く特殊国の
 特殊の倫理に鍛へられて、
 内に反逆の鷲の翼を抱きながら
 いたましい強引の爪をといで
 みづから風切の自力をへし折り、
 六十年の鉄の網に蓋はれて、
 端坐粛服、
 まことをつくして唯一つの倫理に生きた
 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
 今放たれて翼を伸ばし、
 かなしいおのれの真実を見て、
 三列の羽さへ失ひ、
 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
 四方の壁の崩れた廃嘘に
 それでも静かに息をして
 ただ前方の広漠に向ふといふ
 さういふ一つの愚劣の典型。
 典型を容れる山の小屋、
 小屋を埋める愚直な雪、
 雪は降らねばならぬやうに降り、
 一切をかぶせて降りにふる。


それから感心させられたのは、「わからないことはわからないとする」こと。詩句の意味や、光太郎のとった不可解とも思える行動の理由など、苦しい解釈やこじつけで切り抜けず、正直にわからないとしている点に好意がもてます。

ただ、「それはこういうことですよ」と教えてあげたくなった点があるのも事実でした。残念ながら、参考資料の数が多くないのがありありとわかります。本書には「参考文献」の項がありませんが、第一章、第三章に於いては、十指に満たないのではないかと思われました。光太郎本人の日記や書簡をかなり読み込まれているのはいいのですが、周辺人物の証言や回想などで、かなりの部分氷解するはずの疑問が疑問のままに残されたりもしています。

また、光太郎の戦後七年間の花巻郊外旧太田村に於ける山居生活の意味づけ。光太郎本人は「自己流謫」という言葉で表現しました。「流謫」は「流罪」の意です。戦時中、大言壮語的な勇ましい翼賛詩文を大量に書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死地に追いやったという反省、その点を中村氏、前著からのつながりで、認めていません。結局、若い頃から夢想していた自然に包まれての生活を無邪気に実現したに過ぎなかったとしています。

中村氏、前著にも本著にもその記述がないので、おそらく厳冬期の旧太田村、光太郎が暮らした山小屋に足を運ばれたことがないように思われます。メートル単位で雪が積もり、マイナス20℃にもなろうかという中、外界と内部を隔てるのは土壁と障子紙と杉皮葺きの屋根のみ、囲炉裏一つの厳冬期のあの山小屋の過酷すぎる環境は、無邪気な夢想の一言で片付けられるものではありません。

また、山居生活中に彫刻らしい彫刻を一点も残さなかった件についても、誤解があるように思われます。それを小屋の環境の問題や、作っても売れる当てがないといった問題に還元するのはあまりに皮相的な見方でしょう。「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。」(「自分と詩との関係」昭和15年=1940)とまで自負していた光太郎が、「自己流謫」の中で、自らに与えた最大の罰として、彫刻を封印したと見るべきなのではないでしょうか。

ちなみに光太郎、きちんとした「作品」ではありませんが、山居中に手すさびや腕をなまらせないための修練的に、小品は制作しています。その点も中村氏はご存じないようでした。

さらに、第三章で中心に述べられている「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。こちらも「凡庸」「貧しい作」としています。確かに傑作とは言い難く、光太郎自身も「十和田の裸像、あれも名前(注・サイン)が入っていません。はじめ入れたんだけど、よくないんで消してしまった。」(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)としています。しかし、近年、『全集』未収録の光太郎の談話や、像に関わったさざざまな人々の証言が明らかになるに従い、あの像に込められた光太郎の思いが見えてきました。そういったところに目配りが為されて居らず、「凡庸」の一言で片付けられているのが残念です。

ただ、前述の通り、根柢に光太郎に対するリスペクトが通奏低音のように常に流れ、日記や書簡が読み込まれ、無理な解釈やこじつけが見られないといった意味で、好著といえるでしょう。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

芸術界のことにしても既成の一切が気にくはなかつた。芸術界に瀰漫する卑屈な事大主義や、けち臭い派閥主義にうんざりした。芸術界の関心事はただ栄誉と金権のことばかりで、芸術そのものを馬鹿正直に考えてゐる者はむしろ下積みの者の中にたまに居るに過ぎないやうに見えた。

散文「父との関係3 ――アトリエにて4――」より
昭和29年(1954) 光太郎72歳

ここで述べられているのは明治末のことですが、その最晩年まで、こうした見方は続いたようです。

中村稔氏もこうした光太郎の反骨精神は高く評価されています。

『朝日新聞』さんの記事等から。

まず、今月9日の一面コラム「天声人語」。当会の祖・草野心平を取り上げて下さいました。

天声人語 危機の100万種

草野心平は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれた。その小さな生き物になりきるようにして、いくつもの詩をつくった。たとえば「秋の夜の会話」。〈痩せたね/君もずゐぶん痩せたね/どこがこんなに切ないんだらうね……〉▼切ないのは空腹のためだろうか。2匹の会話は続く。〈腹だらうかね/腹とつたら死ぬだらうね/死にたくはないね/さむいね/ああ虫がないてるね〉。やせこけた蛙たちの姿が浮かんでくる▼冬眠の前を描いた詩ではあるが、いまや別の読み方もできるかもしれない。国際的な科学者組織が先日、地球上に800万種いるとされる動植物のうち、100万種が絶滅の危機にあるとの報告書を公表した。なかでも両生類は40%以上が危機に直面している▼主犯は人間である。報告書によると湿地の85%はすでに消滅させられ、陸地も海も大きく影響を受けた。海洋哺乳類の33%以上、昆虫の10%も絶滅の可能性があるという▼農業や工業を通じ、地球をつくり変えながら生きてきたのが人間だが、その地球に頼るのもまた人間である。ハチがいるから農作物が育ち、森林があるから洪水が抑えられる。当たり前のことが改めて浮き彫りになっている。報告書は「今ならまだ間に合う」と各国政府に対策を求める▼草野心平にとっての蛙は、生きとし生けるものの象徴にも見える。〈みんなぼくたち。いっしょだもん。ぼくたち。まるまるそだってゆく〉。おたまじゃくしの詩である。全ての命のことだと読み替えてみたい。

「秋の夜の会話」、さらに言うなら、核戦争後の人類が滅亡した地球を描いているようにも読めます。この詩は昭和3年(1928)の詩集『第百階級』に収められたもので、いまだ核兵器は開発される前のことですが……。

心平といえば、現在、心平の故郷・福島いわき市の市立草野心平記念文学館さんで、企画展「草野心平 蛙の詩」が開催中です。ぜひ足をお運びください。


ついでというとなんですが、同じ『朝日新聞』さんから、光太郎にも言及されている中川越氏著『すごい言い訳!  二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石』の書評。5月11日(土)の掲載でした。

文豪たちの機知に味わい 中川越さん「すごい言い訳!」

 言い訳には「姑息(こそく)」「卑怯(ひきょう)」というイメージがある。だが、この本で取り上げられた文豪たちの言い訳は機知に富んでいて、一味違う。
 例えば中原中也。酒に酔って友人に迷惑をかけた際、詫(わ)び状の文末に署名代わりに「一人でカーニバルをやってた男」と記した。中川さんは「カーニバルの中にいる人は、無礼講に決まっています。その人にとやかく言うのは無粋です。こんなふうにトリッキーに書かれてしまっては、もう許すしかありません」と解説している。
 ほかにも「禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した北原白秋」「二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター林芙美子」「不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない徳冨蘆花」など、思わず読みたくなる項目が並ぶ。森鴎外、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫、太宰治らも次々と登場する。
 文豪たちの言い訳の魅力は何か。
 「辛気くさいものではなく、おしゃれに整えられていて、ユーモアのおまけまで付いている。一方で、いたわりの気持ちが深い味わいになっている」と話す。
 最高峰は夏目漱石だとみている。「返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者」を読むと、いかにも漱石という感じでニヤリとさせられる。「文章の神髄は『そこに詩があるか』だと思うが、漱石がまさにそう。ある言葉が大きな意味合いを放って、心に触れてくる。漱石のすごみです」
 10年前から漱石の手紙2500通を分析し始め、4年前から漱石以外の文豪たちの書簡や資料にも手を広げた。「砂金探しみたいで楽しかった」と振り返る。
 土壇場に追い詰められたとき、気の利いた言い訳をしてみたい人にとって、最適の指南書だ。(文・西秀治、写真・篠塚ようこ)=朝日新聞2019年5月11日掲載

イメージ 1 イメージ 2

評には名前が出ていませんが、光太郎も「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項で取り上げられています。

こちら、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

本号にその文章が掲載されるといふ草野天平さんは若いのに昨年叡山で病死された優秀な詩人である。草野心平さんの実弟だが、詩風も行蔵もまるで違つてゐて、その美は世阿弥あたりの理念から出てゐるやうで、極度の圧搾が目立つ。きちんと坐つたまま一日でもじつとしてゐるやうな人で、此人のものをよむとシテ柱の前に立つたシテの風姿が連想される。

散文「余録」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

心平ならぬ実弟の天平を評した文章の一節です。兄の心平は1分たりとも「じつとしてゐ」られない人でしたので(笑)、たしかに「まるで違つてゐ」たのでしょう。

ちなみに天平、過日亡くなった彫刻家の豊福知徳氏と共に、昭和34年(1959)、第2回高村光太郎賞を受賞しています。故人への授賞だったわけです。

今日、4月2日は光太郎忌日・連翹忌です。午後5時30分からは、光太郎ゆかりの日比谷松本楼さんで、第63回連翹忌の集いを開催いたします。

63年前の今日、昭和31年(1956)4月2日、午前3時45分。中野桃園町の貸しアトリエで、巨星・高村光太郎は息を引き取りました。生涯、「冬」を愛した光太郎の最期を飾るかのように、前日から東京は季節外れの大雪だったそうです。その際に、アトリエの庭に咲いていた連翹、生前の光太郎がアトリエの持ち主の中西夫人に「何という花ですか」と尋ねたとのこと。そして「あれは「連翹」という花ですよ」との答えに「かわいらしい花ですね」。

4月4日、青山斎場で武者小路実篤を葬儀委員長として開かれた葬儀では、光太郎の棺の上に、その連翹の一枝が、愛用のコップに生けられて、置かれました。

イメージ 1

当会の祖・草野心平をはじめ、遺された人々の胸にはその連翹の印象が強く残り、光太郎忌日は「連翹忌」と名付けられました。直接の発案は若い頃から光太郎に親炙していた佐藤春夫だったようです。

心平を助け、途中から連翹忌の運営を引き継いだのが、現・当会顧問の北川太一先生です。北川先生は晩年の光太郎に薫陶を受け、その歿後は『高村光太郎全集』をはじめ、光太郎の業績を後世に伝えるためのさまざまな書籍等を編著なさいました。今日の第63回連翹忌にもご参会下さる予定です。

その北川先生の最新刊、昨日、届きました。

光太郎ルーツそして吉本隆明ほか

2019年3月28日 北川太一著 文治堂書店 定価1,300円

イメージ 2


目次
 光雲抄 ――木彫孤塁000
 光太郎詩の源泉
 鷗外と光太郎 ―巨匠と生の狩人―
 八一と光太郎 ―ひびきあう詩の心―
 心平・規と光太郎
 吉本隆明の『高村光太郎』 ―光太郎凝視―
 究極の願望 吉本隆明(『高村光太郎選集』内容見本より)
 造形世界への探針 北川太一 ( 〃 )
 春秋社版・光太郎選集全六巻別巻一・概要
 対談 高村光太郎と現代『選集』全六巻の刊行にあたって 
         吉本隆明 北川太一
 隆明さんへの感謝
 死なない吉本
 しかも科学はいまだに暗く ――賢治・隆明・光太郎――
 三つの「あとがき」抄
 あとがきのごときもの
 初出誌メモ


帯には北川先生と旧知の中村稔氏の推薦文。

高村光太郎の資料、情報の探索、蒐集、考証に心血を注いできた北川太一さんの文章はつねに含蓄と矜持に富んでいる。思想的立場は違っても、旧く親しい友人吉本隆明を語った文章も感興ふかい。推奨に値する書と言うべきであろう。


各種雑誌や、展覧会図録などに載った文章の再編ですが、初出誌が今では入手困難なものが多く、一冊にまとまっていることにありがたさが感じられます。当方、一部はパソコンで打ち込みをし、また、校閲をやらせていただいたので、今年初めには読みました。「そして吉本隆明」とあるとおり、戦前・戦時中の東京府立化学工業学校、戦後の新制東京工業大学で同窓だった故・吉本隆明氏について書かれた文章も含まれますが、吉本は吉本で日本で初めて光太郎論を一冊の本として上梓した人物。おのずとその筆は光太郎に無関係ではいられません。

いずれamazonさん等にアップされると存じます。また、今日の連翹忌会場で販売しますので、参会の方(おかげさまで75名のみなさんのお申し込みを賜りました)は、ぜひサインを書いていただき、家宝にしてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。

散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

昨日も同じ「智恵子の半生」から引用しましたが、数ある光太郎エッセイの中でも、圧巻の一つゆえ、あしからずご了承ください。

男女の相違はあれど、光太郎を敬愛していた人々――上記にも名前を出した草野心平、佐藤春夫、そして北川先生などなど、みなさん、63年前の今日には、光太郎に対して同じような感懐を抱いたのではないかと存じます。

2019年3月15日 中川越著 新潮社 定価1,600円+税

イメージ 1

浮気を疑われている、生活費が底をついた、原稿が書けない、酒で失敗をやらかした……。窮地を脱するため、追い詰められた文豪たちがしたためた弁明の書簡集。芥川龍之介から太宰治、林芙美子、中原中也、夏目漱石まで、時に苦しく、時に図々しい言い訳の奥義を学ぶ。

目次

 はじめに
 第一章 男と女の恋の言い訳
  フィアンセに二股疑惑をかけられ命がけで否定した 芥川龍之介
  禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した 北原白秋
  下心アリアリのデートの誘いをスマートに断った言い訳の巨匠 樋口一葉
  悲惨な環境にあえぐ恋人を励ますしかなかった無力な 小林多喜二
  自虐的な結婚通知で祝福を勝ち取った 織田作之助
  本妻への送金が滞り愛人との絶縁を誓った罰当たり 直木三十五
  恋人を親友に奪われ精一杯やせ我慢した 寺山修司
  歌の指導にかこつけて若い女性の再訪を願った 萩原朔太郎
  奇妙な謝罪プレーに勤しんだマニア 谷崎潤一郎
  へんな理由を根拠に恋人の写真を欲しがった 八木重吉
  二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター 林芙美子

 第二章 お金にまつわる苦しい言い訳
  借金を申し込むときもわがままだった 武者小路実篤
  ギャラの交渉に苦心惨憺した生真面目な 佐藤春夫
  脅迫しながら学費の援助を求めたしたたかな 若山牧水
  ビッグマウスで留学の援助を申し出た愉快な 菊池寛
  作り話で親友に借金を申し込んだ嘘つき 石川啄木
  相手の不安を小さくするキーワードを使って前借りを頼んだ 太宰治
  父親に遊学の費用をおねだりした甘えん坊 宮沢賢治

 第三章 手紙の無作法を詫びる言い訳
  それほど失礼ではない手紙をていねいに詫びた律儀な 吉川英治
  親友に返信できなかった訳をツールのせいにした 中原中也
  手紙の失礼を体調のせいにしてお茶を濁した 太宰治
  譲れないこだわりを反省の言葉にこめた 室生犀星
  先輩作家への擦り寄り疑惑を執拗に否定した 横光利一
  親バカな招待状を親バカを自覚して書いた 福沢諭吉
  手紙の無作法を先回りして詫びた用心深い 芥川龍之介

 第四章 依頼を断るときの上手い言い訳
  裁判所からの出頭要請を痛快に断った無頼派 坂口安吾
  序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎
  弟からの結婚相談に困り果てた気の毒な兄 谷崎潤一郎
  もてはやされることを遠慮した慎重居士 藤沢周平
  独自の偲び方を盾に追悼文の依頼を断った 島崎藤村
  意外に書が弱点で揮毫を断った文武の傑物 森鴎外

 第五章 やらかした失礼・失態を乗り切る言い訳
  共犯者をかばうつもりが逆効果になった粗忽者 山田風太郎
  息子の粗相を半分近所の子供のせいにした親バカ 阿川弘之
  先輩の逆鱗に触れ反省に反論を潜ませた 新美南吉
  深酒で失言して言い訳の横綱を利用した 北原白秋
  友人の絵を無断で美術展に応募して巧みに詫びた 有島武郎
  酒で親友に迷惑をかけてトリッキーに詫びた 中原中也
  無沙汰の理由を開き直って説明した憎めない怠け者 若山牧水
  物心の支援者への無沙汰を斬新に詫びた 石川啄木
  礼状が催促のサインと思われないか心配した 尾崎紅葉
  怒れる友人に自分の非を認め詫びた素直な 太宰治
  批判はブーメランと気づいて釈明を準備した 寺田寅彦

 第六章 「文豪あるある」の言い訳
  原稿を催促され詩的に恐縮し怠惰を詫びた 川端康成
  原稿を催促され美文で説き伏せた 泉鏡花
  カンペキな理由で原稿が書けないと言い逃れた大御所 志賀直哉
  川端康成に序文をもらいお礼する際に失礼を犯した 三島由紀夫
  遠慮深く挑発し論争を仕掛けた万年書生 江戸川乱歩
  深刻な状況なのに滑稽な前置きで同情を買うことに成功した 正岡子規
  信と疑の間で悩み原稿の送付をためらった 太宰治
  不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない 徳冨蘆花
  友人に原稿の持ち込みを頼まれ注意深く引き受けた 北杜夫
  紹介した知人の人品を見誤っていたと猛省した 志賀直哉
  先輩に面会を願うために自殺まで仄めかした物騒な 小林秀雄
  謝りたいけど謝る理由を忘れたと書いたシュールな 中勘助

 第七章 エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳
  納税を誤魔化そうと企んで叱られシュンとした 夏目漱石
  返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者 夏目漱石
  妻に文句を言うときいつになく優しかった病床の 夏目漱石
  未知の人の面会依頼をへっぴり腰で受け入れた 夏目漱石
  失礼な詫び方で信愛を表現したテクニシャン 夏目漱石
  宛名の誤記の失礼を別の失礼でうまく隠したズルい 夏目漱石
  預かった手紙を盗まれ反省の範囲を面白く限定した 夏目漱石
  句会から投稿を催促され神様を持ち出したズルい 夏目漱石
  不当な苦情に対して巧みに猛烈な反駁を盛り込んだ 夏目漱石

 参考・引用文献一覧
 おわりに


さまざまな文豪たちの書簡にしたためられた「言い訳」の数々が紹介され、どういったシチュエーションでそれが用いられたのかの解説、そして分析。各段4ページ前後ですので、全体的には250ページほど。読了するにそれほどかかりません。

まず、紹介されている文豪たちの信条というか、人間性というか、そういったものがその背後に見え、興味深く感じました。「いかにも誰々らしい」と感じる部分と、「誰々はこういう一面もあったのか」という部分もありました。

非常に面白いと共に、実用的でもあります。「こういう場合にはこんな言い訳をすればよいのか」、「なるほど、これも一つの手だな」といった感じで。また、「言い訳」というより、相手をかわす方法や、時には逆襲するパターンも語られています。そして、これが大事だと思ったのは、肝心の一文に到るまでのプロセス。いきなり謝罪や言い訳、駄目出しや拒絶に行かず、ひとまず相手を持ち上げて置いたり、自分でへりくだったりして見せ、それから本題に入ったり、あるいは「猫だまし」的に意表を突く内容から始めたり……。ところが、それが全てうまく行っているかというと、そうでもないというあたりが、ユーモラスだったりもしました。

光太郎に関しては、かわす方法。菊池正という詩人が書いた詩集の序文執筆を頼まれ、それに対しての断りです。まずは詩集自体を褒め、しかし、ある意味論点をずらし、そもそも一般論として自著に他者の序文が必要なのか、と問いかけます。『道程』をはじめ、自分は他者に序文を書いてもらったことはない、と、光太郎自身を引き合いに出し、相手にぐうの音も言わせない高度なテクニックです。

とは言え、著者の中川氏も指摘されていますが、光太郎はこれ以前に菊池の別の詩集には序文を書いてやっていますし、他の詩人の詩集にも少なからず序跋文を寄せています。数えてみましたところ、散文集、翻訳書などを含めれば、確認できている限りその数は60篇ほどにもなります。ただ、あまり交流の深くなかった人物の著書に対しては一度限りという感じで、どうも二匹目のドジョウを狙う依頼に対しては、上記のような手を使ってかわすこともあったのでしょう。単に面倒くさかっただけかもしれません。

他の文豪たちの「言い訳」も、さすがに言葉のプロフェッショナルたちだけあって、海千山千(死語ですね(笑))、酸いも甘いもかみ分けた(これも死語ですね(笑))、その手練手管(この際、もはや死語にこだわります(笑))には感心させられました。

しかし、最も感心させられるのは、やはり誠意を持ってわびるパターン。意外や意外、そういった方向性とは最も無縁なような太宰治がそうやっています。曰く「私も、思いちがいをしていたところあったように思われます」。太宰を少し見直しましたし、我が身を振り返り、かくあるべきだなと反省しました。「誤解を与えたとすれば、撤回します」というパターンを流行らせている永田町界隈の魑魅魍魎どもにも見習ってほしいものです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

素人は仕事の恐ろしさを知らず、従つて全身的の責任を感じない。思ひつきと頓智とは素人に豊富だが、それを全体との正しい関係に於いて生かすといふ遠近の展望を持たない。素人の仕事は多く一個人的であつて普遍の道理を内蔵しない。それゆゑ伝統の力と修行の重要性とを軽んずる傾があり、ただむやみに己の好むところに凝る、時として外見上甚だ熱があるやうに見える事もあるが、それは多く透徹した叡智を欠いた偏執であるに過ぎない。

散文「素人玄人」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

彫刻と詩で二股をかけ、それぞれに多作とは言えなかった(詩の方はこの後、翼賛詩を乱発するようになりますが)光太郎に対し、「素人彫刻家」、「素人詩人」という評が出され、それに対する反駁として書かれた文章の一節です。主に彫刻の分野を念頭に置いての話だと思いますが、自分はこういう「素人」ではないと宣言しています。確かに光太郎、父・光雲に叩き込まれた江戸以来の仏師の技をバックボーンに持ち、「伝統の力と修行の重要性」を身を以て理解していました。

昨日の午後にはインターネットの検索サイトトップページに報じられまして、「ありゃりゃりゃりゃ」という感じでした。

今朝の『朝日新聞』さんから。 

日本文学研究者のドナルド・キーンさん死去 96歳

 日本の古003典から現代文学まで通じ、世界に日本の文化と文学を広めた、日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーンさんが24日、心不全で死去した。96歳だった。葬儀は親族のみで営む。喪主は養子で浄瑠璃三味線奏者のキーン誠己(せいき)さん。
 1922年、米ニューヨーク生まれ。コロンビア大在学中に「源氏物語」と出会う。日米開戦に伴い42年、米海軍日本語学校に入学。語学将校としてハワイや沖縄で従軍、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をした。沖縄の前線ではスピーカーで日本兵に投降を呼びかけた。戦後、ハーバード大、ケンブリッジ大で日本文学の研究を続け、53年から京都大に留学。英訳「日本文学選集」を編集し、米国の出版社から刊行、日本文学の海外紹介のきっかけを作った。
 谷崎潤一郎や川端康成、安部公房、三島由紀夫、司馬遼太郎ら日本を代表する作家との交遊が文学研究を豊かにした。「徒然草」「おくのほそ道」などの古典や安部、三島ら現代作家の作品を英訳。「明治天皇」「正岡子規」「石川啄木」など評伝にも力をそそぎ、作家の生涯を通して日本人の精神を浮かび上がらせてきた。
 62年、菊池寛賞を受賞。82~92年に朝日新聞の客員編集委員を務め、平安から江戸期の日記文学を論じた「百代(はくたい)の過客(かかく)」(84年、読売文学賞)などを連載した。83年に山片蟠桃賞。86年には、コロンビア大に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立。92年コロンビア大名誉教授。97年に「日本文学の歴史」(全18巻)を完結し、同年度の朝日賞を受賞した。2008年に文化勲章。
 日米を行き来していたが、11年の東日本大震災後、日本への永住を決めて日本国籍を取得。講演などで被災地を励ました。13年には、キーンさんが復活を支援した古浄瑠璃の縁から新潟県柏崎市に「ドナルド・キーン・センター柏崎」が開館、蔵書や資料を寄贈していた。半世紀を超える研究や作品を収めた「ドナルド・キーン著作集」(全15巻)は今春、別巻を出して完結する予定だった。


NHKさんのニュースから。 

ドナルド・キーンさん死去 96歳

イメージ 2 イメージ 3 イメージ 4

文化勲章を受章した日本文学の研究者で、東日本大震災をきっかけに日本国籍を取得したことでも知られるドナルド・キーンさんが、24日朝、心不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。96歳でした。
ドナルド・キーンさんは、1922年にニューヨークで生まれ、アメリカ海軍の学校で日本語を学びました。
戦後、京都大学に留学したあとアメリカ・コロンビア大学の教授を務めるなどして、半世紀以上にわたって日本文学の研究を続けてきました。
平安時代から現代までの日本人が書いた日記について解説した「百代の過客」や「日本文学史」など、数々の著作を通じて独自の日本文学論を展開したほか、能や歌舞伎といった日本の古典芸能の評論にも活動の幅を広げ、日本文化について鋭い批評を加えました。
また、近松門左衛門や太宰治、三島由紀夫など、古典から現代の作家まで数々の作品を英語に翻訳し、日本文学を広く世界に紹介しました。
谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫といった日本の文壇の重鎮とも親しく、ノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーに対して日本文学についての助言を行ったことでも知られています。
こうした功績で日本の文学評論に関する多くの賞を受賞し、平成20年には文化勲章を受章しています。


イメージ 5 イメージ 6

キーンさんは、ニューヨークのコロンビア大学で日本文学の指導にあたりながら、日本とアメリカを行き来していましたが、平成23年の東日本大震災のあと「私の日本に対する信念を見せたい」などとして長年愛着のある日本に移住することを決め、翌年の3月に日本国籍を取得しました。
90歳をすぎても活動を続け、平成28年に歌人、石川啄木の研究書を出版したほか、雑誌のインタビューや対談などにも応じていました。
キーンさんの代理人によりますと、体調が悪化したため去年秋から入退院を繰り返し、24日午前6時すぎ、心不全のために東京都内の病院で亡くなりました。

養子の誠己さん「幸せな一生だった」
ドナルド・キーンさんの養子のキーン誠己さんは「父は苦しむこともなく、穏やかに永遠の眠りにつきました。みずから選んだ母国で日本人として、日本人の家族を持ち、日本に感謝の気持ちをささげつつ、幸せに最後の時を迎えました。日本文学に生涯をささげ、日本人として日本の土となることが父の
長年の夢でしたから、この上なく幸せな一生だったと確信しています」とコメントしています。

イメージ 7 イメージ 8
瀬戸内寂聴さん「ぼう然」
ドナルド・キーンさんが亡くなったことについて、同じ大正11年、1922年生まれで数々の対談を重ねてきた作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは「キーンさんとは心が通い合い、親類づきあいのような親しさが生まれていた。会えば何時間も話し込んでしまう仲になっていた。私もキーンさんも、年をとっても仕事をやめず、人にあきれられていたが、キーンさんはいくつになってもアメリカへ行き来するし、海外旅行も平気でされる。こんなことになってぼう然としている」というコメントを発表しました。

後日 お別れの会を予定
代理人によりますと、ドナルド・キーンさんの葬儀と告別式は親族のみで行い、後日、お別れの会が開かれるということです。


日本文学の流れを網羅的、体系的に研究されていたキーンさん。光太郎についても言及されていました。『朝日新聞』さんの記事にもある『日本文学の歴史』(中央公論社)の第17巻近代・現代篇8。明治・大正・昭和の詩についての巻です。光太郎の項は約40ページ。簡にして要、の感があります。

イメージ 9 イメージ 10

曰く、

いわゆる現代的で複雑な詩に困惑した読者は、心から発せられた感動的な作品として光太郎の詩を好んだ。高村光太郎はこれからも、このような詩の作者として人々の記憶に残るに違いない。


また、昨年、求龍堂さんから刊行された大野芳(かおる)氏著 『ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ』に、キーンさんが登場なさいます。唯一、ロダンの彫刻モデルを務め、光太郎とも交流があった日本人女優・花子に関する考察です。明治43年(1910)に森鷗外が花子をモチーフにして書いた短編小説「花子」を英訳したキーンさんが、昭和34年(1959)、岐阜に住む花子の遺族の元を訪れたエピソードが紹介されています。この際、キーンさんは、光太郎から花子に宛てた書簡を見せてもらったとのこと。
イメージ 11

ラフな服装で訪問し、気さくな、しかし、日本文学への熱意を存分に感じさせるキーンさんの真摯な人柄に、花子の遺族が感激されたそうです。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

此の彫りかけの鯉が自分で納得できるやうに仕上がる時が来たら、私の彫刻も相当に進んだ事になるであらう。いつの事やら。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

新潟の実業家・松木喜之七が、光太郎に鯉の木彫を依頼、大枚
500円をおいていきました。光太郎は早速制作にとりかかりますが、何度作っても自分で納得が行きません。鱗の処理が出来ない、というのです。鱗をリアルに彫ってしまうと俗な置物のようになるし、彫らずば鯉にならないし……というわけで、結局、完成しませんでした。光太郎、代わりにと「鯰」を進呈しています。現在、愛知小牧のメナード美術館さんに収蔵されている作品です。

確認されている、光太郎が木彫に取り組んでいるところを撮った唯一のスナップ、土門拳による昭和15年(1940)の写真に、「鯉」が写っています。

イメージ 12

その後、松木は召集されて、軍服姿で光太郎の元を訪れ出征の挨拶。しかし、南方戦線で還らぬ人となってしまいました。

ところで、ドナルド・キーンさん、そもそも本格的に日本文学に興味を持った一つのきっかけは、語学将校としてハワイや沖縄で従軍し、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をしたことだそうで、不思議な縁を感じます。

第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

先週、H氏賞詩人で宮沢賢治の研究家としても知られる入沢康夫さんの訃報が出ています。 

入沢康夫さん死去 詩人・宮沢賢治研究

 実験的001な作風で1960年代以降の現代詩をリードした詩人で、宮沢賢治研究の第一人者としても知られた入沢康夫(いりさわ・やすお)さんが10月15日に亡くなった。86歳だった。
 松江市出身。仏文学者で明治大教授を務めた。55年に詩集「倖せそれとも不倖せ」を発表。68年の詩集「わが出雲・わが鎮魂」では、古事記などを踏まえた神話的世界を先鋭的な表現で作り出し、60年代以降の現代詩を代表する存在の一人となった。同作で読売文学賞を受賞。82年の詩集「死者たちの群がる風景」で高見順賞、94年の「漂ふ舟」で現代詩花椿賞など受賞多数。98年に紫綬褒章、2008年に日本芸術院会員。
 宮沢賢治の研究では「新校本宮澤賢治全集」の編集委員を務めた。宮沢賢治学会イーハトーブセンターの代表理事を務め、宮沢賢治賞も受けた。
(『朝日新聞』2018/11/30)


光太郎と交流のあった賢治の研究家ということで、平成11年(1999)の『賢治研究』に掲載された「賢治の光太郎訪問」など、二人の交流についても論考を残されています。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

此の多くの無惨の死者が、若し平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかつたら、どう為よう。

散文「小倉豊文著「絶後の記録」序」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

小倉豊文は明治32年(1899)生まれの元広島大学名誉教授。千葉県生まれですが(千葉には小倉姓、意外と多くあります)、旧制広島文理科大学卒業後、同校助教授だった昭和20年(1945)8月6日に、原爆投下に遭いました。奥様はその後、原爆症で亡くなり、その経緯を綴ったのが『絶後の記録』です。

小倉は『宮沢賢治の手帳研究』(昭和27年=1952)を著すなど賢治研究でも知られ、入沢氏と同じく宮沢賢治賞を受賞しました。おそらく二人は面識があったと思われます。

新刊書籍です。 

一九四〇年代の〈東北〉表象 文学・文化運動・地方雑誌

2018/10/10 高橋秀太郎 森岡卓司編 東北大学出版会 定価5,000円+税

イメージ 1

一九四〇年代、東北に疎開した文学者、新聞・雑誌などのローカルメディア、そして各地に展開された文化運動が、それぞれに照射した「地方」の姿を追う。
 
《目 次》
序  地方文学研究と近代日本における〈東北〉表象 森岡卓司
1章 島木健作の「地方」表象 山﨑義光
2章 戦時下のモダニズムと〈郷土〉ー雑誌『意匠』・沢渡恒における「東北」 仁平政人 
3章 『文学報国』『月刊東北』における地方/東北表象の消長 高橋秀太郎
  [コラム1] 金木文化会と太宰治 仁平政人
4章 提喩としての東北ー吉本隆明の宮沢賢治体験 森岡卓司
5章 〈脱卻〉の帰趨ー高村光太郎に於ける引き延ばされた疎開 佐藤伸宏
6章 更科源蔵と『至上律』における地方文化 野口哲也
  [コラム2] 石井桃子と「やま」の生活ー宮城県鶯沢での開墾の日々 河内聡子
7章 皇族の東北訪問とその表象ー宮城県公文書館所蔵史料にみるイメージの生成 茂木謙之介
8章 「北日本」という文化圏ー雑誌『北日本文化』をめぐって 大原祐治
あとがき 高橋秀太郎


主に東北地方の大学で教鞭を執られている研究者の方々による共著です。

光太郎に関しては、東北大学文学研究科教授の佐藤伸宏氏による「5章 〈脱卻〉の帰趨ー高村光太郎に於ける引き延ばされた疎開」で、戦後の花巻郊外旧太田村に逼塞した時期が論じられています。意外とこの時期の詩作品に関する論考等は少なく、しかし、人間光太郎の完成型を見るためには外せない時期と思われ、貴重な論考です。

5章でのさらに詳細な目次は以下の通り。

一 高村光太郎の疎開/二 詩「「ブランデンブルグ」」の成立/三 戦争詩と大地性/
四 光太郎に於ける詩の「転轍」――「脱卻」の帰趨

さらに「6章 更科源蔵と『至上律』における地方文化」(都留文科大学文学部教授・野口哲也氏)でも、更科と交流の深かった光太郎についてかなり詳しく言及されています。

是非お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

もつと野暮な、もつと骨のあるもの、文学はほんとはその骨髄にそれがなけりやならぬ。さういふことをこれからも誰かやらなきやならないけれど、もう果してさういふ人が出てくるかどうか……。

談話筆記「「夜明け前」雑感」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

谷崎潤一郎の「細雪」と対比し、藤村の「夜明け前」には、そうしたエッセンスがあった、と光太郎は言っています。

新刊情報です。 

文豪たちのラブレター

2018/09/21 別冊宝島編集部編 宝島社 定価1,380円+税

イメージ 1

芥川龍之介が後の妻・文に送ったラブレターの一節は、思わず赤面してしまうくらい恥ずかしく、それでいて恋する心情が伝わってくる「生っぽい」文章です。かの文豪たちも、ラブレターともなると、その人自身のパーソナリティが色濃く反映されてしまうもの。本書は、中島敦、太宰治、谷崎潤一郎、夏目漱石、森鴎外など、あの文豪たちが実際に書いたラブレターを、当時の状況の解説とともに掲載した一冊です。

目次

 はじめに

 第一集 君のことを愛しています。——愛する手紙
  芥川龍之介からのちの妻、塚本 文へ
  樋口一葉から師、半井桃水へ
  国木田独歩からのちの妻、佐々城信子へ
  坂口安吾から恋人、矢田津世子へ
  高村光太郎からのちの妻、長沼智恵子へ

 第二集 君のためなら何でもする。——赤裸々な手紙
  佐藤春夫からのちの妻、谷崎千代(潤一郎妻)へ
  谷崎潤一郎からのちの二番目の妻、古川丁未子、のちの三番目の妻、根津松子へ
  若山牧水から片想いの石井貞子、のちの妻、太田喜志子へ
  倉田百三から恋人、山本久子(仮名)へ
  島村抱月から愛人、松井須磨子へ

 第三集 あなたを、好きになれてよかった。——切ない手紙
  太宰 治から愛人、太田静子へ
  小林多喜二から恋人、田口タキへ
  有島武郎から「お仲よし」唐澤秀子、愛人、波多野秋子へ
  石川啄木から恋人、菅原芳子へ
  北原白秋からのちの妻、福島俊子へ

 第四集 お前は、私の妻であればよい。——想う手紙
  夏目漱石から妻、夏目鏡子へ
  森 鷗外から妻、森志げへ
  堀 辰雄からのちの妻、加藤多恵子へ
  中島 敦からのちの妻、橋本たかへ

手紙の出典・参考文献一覧


というわけで、結婚前に光太郎から智恵子に宛てた、大正2年(1913)の1月28日の書簡が紹介されています。

この年9月、信州上高地で婚約する二人ですが、この時智恵子は、新潟にあった日本女子大学校時代の友人・旗野スミ(澄子)の実家に滞在し、スキーに興じたりしていましたその智恵子に送った「ラブレター」です。

手紙画像はこちら。現物は当会顧問・北川太一先生がお持ちです。

 イメージ 3 イメージ 2

イメージ 4 イメージ 5

全文翻刻はこちら。

光太郎から智恵子に宛てた手紙は、現在、4通しか現存が確認できていません。そのうち、ラブレター的なものはこの1通のみ。そういうわけで、時折、取り上げられます。平成14年(2002)には、故・渡辺淳一氏著『キッス キッス キッス』で、同25年には、NHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で。


他に、光太郎と交流のあった石川啄木、北原白秋、佐藤春夫、森鷗外らの「ラブレター」も紹介されており、興味深く拝読(かえって、内容を知らなかったそちらの方が……)。

何はともあれ、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然が或る人間を特に人生の為に役立てようと思ふ時、其の使ひ方の決定的な巧妙さは驚くばかりだ。丁度或る時に丁度或る場所に丁度或る環境を与へて丁度或る強さの人間を生まれさせる。どうする事も出来ない。無自覚的にも自覚的にも、其の人間全体が一つの使命となる。その力は恐ろしい。

散文「ホヰツトマンのこと」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

歴史上、そういう人物はいろいろいると思います。日本でいえば、源義経、織田信長、西郷隆盛などに其れを感じますし、世界的にはチンギス・ハーンやロダンなどがそうでしょうか。光太郎はこの文章で、アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンがそうであると言っています。

口語自由詩の確立や、近代彫刻の輸入といった部分では、光太郎もそうでしょう。

まずいただきもの。

詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』の第90号をいただきました。これまでも宮尾様や他の同人の方が、光太郎に関わる寄稿をなさっていて、その場合にはこちらのブログでご紹介させていただいております。


イメージ 1 イメージ 2

今回も宮尾様の玉稿で、書評です(全6ページ)。取り上げられているのは2冊。まず、西浦基氏の『高村光太郎小考集』、それから中村稔氏の『高村光太郎論』。いずれも好意的にご紹介なさっています。

また、合間に歌人の松平盟子氏と当方のコラボで行った公開講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の評も入れて下さっています。ありがたや。

ご入用の方、仲介いたしますので、こちらまでご連絡ください。 


もう1冊、定期購読しております日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。

イメージ 3 イメージ 4

花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

今号は、昭和35年(1960)、智恵子の故郷・福島二本松の二本松城跡に建てられた光太郎詩碑の拓本から。詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の有名なフレーズ「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」です。

碑は当会の祖・草野心平らが中心となって建てられました。光太郎の筆跡を、光太郎や智恵子とも面識のあった二本松の彫刻家・斎藤芳也が木彫に写し、それを原型にしてブロンズに鋳造したパネルがはめ込まれています。この碑も建立から60年近く経つかと思うと、感慨深いものがあります。

『月刊絵手紙』、版元のサイトから購入可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

すべて透徹したものには一つの美が生ずる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

「透徹」。いい言葉ですね。

雑誌系新刊2冊、ご紹介します。 

虹 第9号

2018年7月7日  虹の会発行 非売


イメージ 1 イメージ 2

詩人で同誌主宰の豊岡史朗氏による論考「高村光太郎 詩集『道程』」31ページが掲載されています。なかなか読み応えのあるものです。

ご入用の方、仲介いたしますので、こちらまでご連絡ください。 

月刊絵手紙 2018年8月号

2018年8月1日  日本絵手紙協会  定価762円+税

イメージ 3 イメージ 4

花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

今号は、花巻郊外太田村在住時の昭和27年(1952)に書かれた詩「山のともだち」。登場する「ともだち」は、カッコー、ホトトギス、ツツドリ、セミ、トンボ、ウグイス、キツツキ、トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス、兎、狐、マムシ、熊、カモシカ。いかに豊かな自然に囲まれての生活だったかがわかります。ただ、裏を返せば過酷な生活だったことにもつながりますが……。

昭和22年(1947)、雑誌『至上律』に口絵として載った太田村の水彩スケッチ(現物が花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています)画像も掲載されています。

こちらから購入可です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

僕は詩人ぢや無い。只自分の思つて居る事を詩や画に現はすに過ぎないんだ。
談話筆記「詩壇の進歩」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

……だ、そうです。

まずは一昨日の『朝日新聞』さんの夕刊から。昨年亡くなった詩人・評論家の大岡信さんを偲ぶ連載の8回目です。

大岡信をたどって 6762回の「折々のうた」003

 詩人・批評家の大岡信は1979年1月25日、詩歌コラム「折々のうた」の連載を朝日新聞で始めた。
 依頼は前年秋。その段階から引用を含め200字程度という字数制限があったようだ。難色を示す大岡との「交渉」には、編集局次長で後に社長となる旧制一高の元同級生・中江利忠(88)も加わった。一高では農耕サークル・耕す会で、便所から肥だめにふんにょうを運び込む苦労を分かち合った仲という。
 妻かね子(87)は「当初は新聞小説の後ろの空白を埋めるためと言われた。でも字数制限でかえってやる気が出たみたい」と振り返る。第1回の東京の紙面を調べると、曽野綾子の小説「神の汚れた手」の後ろにくっつくように、24面に掲載されていた。
 〈海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと〉。彫刻家で詩人の高村光太郎が1906年、彫刻修業のために渡米した際に船中で作った短歌。大岡は、「高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える」と評した。
 連載は評判を呼び、編集局長となった中江の決断もあり79年5月には1面に移った。中断もあったが2007年まで6762回を数え、「万葉集」を超える詩歌選集となった。中江は米紙ニューヨーク・タイムズ幹部に「恋の歌が1面に載っているのは世界でも朝日新聞だけだ」と言われたとうれしそうに振り返る。
 約1年分を掲載した岩波新書は19冊を数える。同書に載せた引用詩歌の作者略歴の作成で協力した詩人の高橋順子(73)が今も覚えているのは〈看護婦の妻とボイラー技士のわれ定休日重なり海を見ている〉という歌。「有名な人の作品でなくても、生活感があって心に訴える作品を大岡さんは選んだ」
 「折々のうた」は海も越えた。日本文学研究の第一人者ドナルド・キーンの弟子で、大東文化大名誉教授のジャニーン・バイチマン(75)が英訳を手がけた。約10年間、朝日新聞の英字新聞の日曜版に載り、本にもなった。引用する詩歌の解釈などをめぐってバイチマンは大岡とファクシミリで対話を重ねた。
 〈白壁を隔てて病めるをとめらの或(あ)る時は脈をとりあふ声す〉。肺結核で30歳で夭折(ようせつ)した歌人・相良宏(さがらひろし)の歌を翻訳した際は、約24時間でやりとりが5回ほどに及んだ。
 バイチマンが一つの言葉を選ぶに至った理由を書くと、「いい解決を見つけましたね!」。一方、大岡は訳文の語順の変更を提案。理由を尋ねるバイチマンに、この歌の魅力は療養所の隣の部屋の女性たちを思う、歌人の孤独だが大変優しい心情だと書いた。
 「大岡さんは心を砕いて詩歌を選び、深く読み込んでいた。詩人たちに尊敬を抱いていた」とバイチマンはいう。そして「折々のうた」を「古今東西の詩人が集う巨大な円卓」にたとえる。「歌人や俳人、詩人たちが無名有名の区別なく座っていて、円卓を作った大岡さんも笑顔で座っているんです」=文中敬称略(赤田康和)


昭和54年(1979)に始まった、朝日さんの伝説的ともいえるコラム「折々のうた」。その記念すべき第1回に、光太郎の短歌を取り上げて下さったことが記されています。

後半に紹介されている、ジャニーン・バイチマン氏。。昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」にご参加なさっていて、終了後の懇親会でお話しさせていただきました。お写真を見て、「あれま」と思った次第です。寡聞にして大岡氏との交流について、存じませんでした(汗)。


続いて、少し前ですが、先月末の『東奥日報』さん。先月、青土社さんから刊行された中村稔氏著『高村光太郎論』の書評が出ています。 

高村光太郎論 中村稔著 巨人の近代を照らす

 「高村光太郎はまことに夢想家であった」。91歳の詩人中村稔は幾たびもこのように語る。同時に「高村光太郎は、たんに彫刻家、詩人というより、ひろく文明一般に関心のある人物」であり、それが彼の「創作活動の特徴」であるとする。
 中村はこの近代の巨人を深く愛しており、500ページ超の大著の全篇で、光太郎の前のめりの近代性を厳父のごとく叱る。同時にその仕事の核を浮かび上がらせてゆく。
 留学を終え帰国した光太郎は日本の前近代性に激しい焦燥を抱く。日本の彫刻界の匠(たくみ)であった父、高村光雲が望んだのは、「新鮮な彫刻技術」であったろうが光太郎が学んだのは「技術でなく、芸術」であった。
 例えばロダンから学んだのは、「愛は自然と同義であり、自然の摂理にしたがい、愛をもって社会と立ち向かっていく」ことであった。
 この時「自然」は人工と対立する哲学であるが、後年それは光太郎のなかで「おのずから」の意味に変容し、陰の部分を形づくる。
 一つは妻、智恵子との関係である。その身体に抱え込んだ凶暴なエネルギーをひとりよがりに放出したことが、妻を狂気に追いやったのではないかという。しかし智恵子を巡る作品は「愛というものの一方通行的性質」を捉えており、尋常とはいえないほどの愛を背景としていたともみる。
 もう一つは第2次大戦への動きを「とどめ得ない大地の運行」「歴史的必然」とする誤謬(ごびゅう)である。戦中に書かれたおびただしい戦意昂揚の詩が「将兵を励まし、死に赴かせた」ことを光太郎は戦後も反省した形跡は認められないと指摘。それゆえ、花巻の7年間も「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとする。
 中村のまなざしは終始、現実主義の側から巨人の近代が何であったか断罪しつつ照らし出す。それは次第に日本近代の自画像にも見えてくる。この厳しい自画像を描くことが、詩人中村稔を完成することであるかのように。(川野里子・歌人)

イメージ 2

この記事の載った『東奥日報』さん。GWに秋田小坂青森十和田湖を回った際に東京駅から乗った東北新幹線はやぶさ号で、当方が座った座席前のネットに、車内誌『トランヴェール』などとともに入っていました。青森方面から載った前のお客さんが置いていったのでしょう。通常、係員の方が清掃点検の際に片付けるので、始発駅の東京駅から乗って、こういうことはまずないのですが、そのおかげでこの記事の掲載を知ることができました。不思議な縁を感じました。



東北新幹線といえば、明後日からまた同線に乗り、今度は岩手花巻に行って参ります。花巻郊外旧太田村、中村氏が「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとする(当方は断じてそうは思いませんが)、7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)での第61回高村祭のためです。また同じようなことがあるかな、と期待しましたが、こういうことが重なると、逆にかえって怖いですね(笑)。


【折々のことば・光太郎】

材料がまはつて来ないといふやうな愚痴ばかり並べて、紆余曲折の工夫を為ない頭脳は頼りにならない。さういふ頭脳は一旦材料が潤沢にまはつて来るやうな日が来ても又何とか不足を見つけてよく運転しないであらう。

散文「戦時の文化」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

同じような言を、最近、何かのテレビ番組で聴いて、「なるほど」と思いました。「「時間がないからできない」という人は、時間があってもやらない」、「「資金が足りないからできない」という人は、資金ができてもやらない」といった感じだったように記憶しています。一面で、真理を突いていますね。

昨日、そして今日と、またぞろふらふら歩き回っております。生活圏の千葉銚子を皮切りに、夕方に千葉を発って岩手盛岡まで駒を進めて宿泊。今朝、盛岡からレンタカーを駆って秋田小坂町、青森十和田湖を回りました。現在、帰りの新幹線🚄車中です。
昨日、今日のレポートは明日以降書くこととし、今日は新刊書籍のご紹介を。

江戸のいちばん長い日 彰義隊始末記

2018年4月20日 安藤優一郎著 文藝春秋(文春新書) 定価860円+税

イメージ 1


わずか半日の戦争が、日本の近代史を変えた!

今年は明治維新から150年。ということは江戸城の無血開城から150年。
すなわち、1868年の旧暦5月15日、江戸で行われた最初で最後の戦争、彰義隊の戦い(上野戦争)から150年ということなのです。

「勝海舟と西郷隆盛の頂上会談により江戸城総攻撃が回避された」
明治維新といえば巷間、そう伝えられています。しかし実際は江戸城が炎上しても不思議ではありませんでした。
くすぶる幕臣の不満、深まる新政府と幕府側の対立、勝海舟と息づまる西郷の駆け引き……。

幕臣の不満分子が、それぞれの思惑を抱きつつ彰義隊を結成。
江戸っ子も彼らを支持しました。
そして東京・上野の寛永寺で、彰義隊と新政府が激突。戦場はじつに悲惨なものでした。

わずか半日で勝負はつきましたが、ここで新政府が武力を見せつけたことで、徳川家の静岡移封が実現するなど、その影響は多大なものでした。

慶喜が大阪から逃げ返ったときから始まり、敗れた隊士の後半生までを、資料や同時代を生きた渋沢栄一や高村光雲などの目を通して、生き生きと描きます。


というわけで、慶応四年(1868)の彰義隊と薩長軍との上野戦争について、そこに至る経緯からその終末までを語る労作です。

紹介文にある通り、光太郎の父・光雲の回想が引かれています。昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』からの引用です。上野戦争当時、光雲はまだ独立する前で、師匠の高村東雲の下で徒弟修行中でした。

光雲の証言部分以外も、西郷隆盛や勝海舟らの思惑などの考察等、非常に読みごたえのあるものでした。

是非お買い求めを。

新刊です。

作家のまんぷく帖

2018年4月13日  大本泉著  平凡社(平凡社新書)  定価 840円+税

イメージ 1

食を語ることが、人生を語ることにつながっていく! 
極度の潔癖症で食べるのがこわかった泉鏡花、マクロビの先駆者だった平塚らいてう。赤貝がのどに貼りついて絶命した久保田万太郎、揚げ物の火加減に厳格なこだわりを見せた獅子文六、胃痛を抱えながら、酒と薬が手放せなかった坂口安吾など、食べることから垣間見える、作家という生き物の素顔に迫る。
樋口一葉、内田百閒、武田百合子、藤沢周平など総勢22人を紹介!

目次
 はじめに
 ◎樋口一葉 ── お汁粉の記憶 
   樋口家の事情/半井桃水との邂逅/ごちそうするのが好きだった一葉/お汁粉の記憶
 ◎泉鏡花 ── 食べるのがこわい
   生い立ち/潔癖症だった鏡花/酒も煮沸消毒/ハイカラだった鏡花
 ◎斎藤茂吉 ── 「俺はえやすでなっす」
   二足の草鞋/病気と食事/鰻と茂吉
 ◎高村光太郎 ── 食から生まれる芸術 
   「食」の「青銅期」/智恵子との「愛」そして「食」/
   「第一等と最下等」の料理を知る/「食」から芸術へ

 ◎北大路魯山人 ── 美食の先駆者 
   美の原初体験/「欧米に美味いものなし」/当時の星岡茶寮/山椒魚の食べ方/
   魯山人の死の謎
 ◎平塚らいてう ── 玄米食の実践者
   女性解放運動の先導者/平塚明の生涯/奥村博史との食生活/玄米食の実践/
   ゴマじるこの作り方/おふくろの味
 ◎石川啄木 ── いちごのジャムへの思い
   夭折の詩人・歌人/社会生活無能者?/啄木の好物/いちごのジャムへの思い
 ◎内田百閒 ── 片道切符の「阿房列車」
   スキダカラスキダ、イヤダカライヤダ/酒肴のこだわり/苦くすっぱいスイーツ?/
   三鞭酒で乾杯
 ◎久保田万太郎 ── 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 
   下町に生きる/苦手なものと好きなもの/下町にある通った店/
   絶命のきっかけとなった赤貝
 ☆コラム◉作家の通った店 江戸料理の「はち巻岡田」
 ◎佐藤春夫 ── 佐藤家の御馳走
   早熟な文壇デビュー/学生時代/奥さんあげます、もらいます/「秋刀魚の歌」/
   アンチ美食家きどり/  
   佐藤家の御馳走
 ☆コラム◉作家の通った店 銀座のカフェ「カフェーパウリスタ」
 ◎獅子文六 ── 「わが酒史」の人生 
   大食漢の作家「獅子文六」の誕生/家での獅子文六/グルメのいろいろ/
   「わが酒史」こそ人生
 ◎江戸川乱歩 ── うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと 
   作家江戸川乱歩の誕生/転居、転職の達人/描かれた〈食〉/ソトとウチとの〈食〉
 ☆コラム◉作家の通った店 「てんぷら はちまき」
 ◎宇野千代 ── 手作りがごちそう 
   恋に「生きて行く私」/凝った食生活/手作りに凝る/長生きの秘訣
 ◎稲垣足穂 ── 「残り物」が一番 
   足穂ワールド/明石の食べもの/「残り物」が一番/「おかず」より酒・煙草/
   観音菩薩
 ◎小林秀雄 ── 最高最上のものを探し求めて
   評論家小林秀雄の誕生/「思想」と「実生活」/
   妹から見た小林秀雄/酒と煙草のエピソード/
   江戸っ子の舌/最高最上のものを探し求めて
 ◎森茉莉 ── おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
   聖俗兼ね備えた少女のようなおばあさん/古い記憶にある味/
   おひとりさまの贅沢貧乏暮らし
 ☆コラム◉作家の通った店 「邪宗門」
 ◎幸田文 ── 台所の音をつくる 
   「もの書きの誕生」/幸田文の好物/食べるタイミングの大切さ/
   台所道具へのこだわり/心をつぐ酒/
台所の音をつくる
 ◎坂口安吾 ── 酒と薬の日々
   作家坂口安吾の誕生/好物と苦手なもの/酒と薬の日々/安吾と浅草/桐生時代
 ◎中原中也 ── 「聖なる無頼」派詩人
   詩人中原中也の誕生/子供そのものだった中也/葱とみつば/銀杏の味/最期の煙草
 ◎武田百合子 ── 「食」の記憶 
   作家武田百合子の「生」/『富士日記』より/〈食〉の記憶
 ◎山口瞳 ── 〈食〉へのこだわり
   サラリーマンから専門作家へ/アンチグルメの〈食〉へのこだわり/
   山口瞳が通った店/家庭での食生活
 ◎藤沢周平 ── 〈カタムチョ〉の舌
   作家藤沢周平の誕生/〈海坂藩〉そして庄内地方の〈食〉/父としての藤沢周平
 おわりに
 主な参考文献


著者の大本泉氏は、仙台白百合女子大の教授だそうです。

光太郎に関しては、散文、詩、日記を引き、その幼少期から最晩年までの食生活等を追っています。引用されている詩文は以下の通り。

 散文「わたしの青銅時代」  『改造』 第35巻第5号 昭29(1954)/5/1
 対談「芸術よもやま話」    昭30(1955)/9/25談 10/25放送
 散文「ビールの味」     『ホーム・ライフ』 第2巻第8号 昭11(1936)/7/1
 詩「夏の夜の食慾」       『抒情詩』 第1巻第1号 大元(1912)/10/1
 散文「三陸廻り」      『時事新報』 昭6(1931)/10/13
 詩「晩餐」         『我等』 第1年第5号 大3(1914)/5/1
 詩「へんな貧」         『文芸』 第8巻第1号 昭15(1940)/1/1
 日記              昭31(1956)/3
 詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」『婦人公論』 第38巻第1号 昭29(1954)/1/1

一読して、多くの資料を読み込んでいらっしゃるな、と感じました。ひところ、その時々にもてはやされていた「文芸評論家」のエラいセンセイ方が、その人の著作なら売れるとふんだ出版社からの要請で書いたであろうもので、たしかにもてはやされるだけあって鋭い見方が随所に表れているものの、明らかに読んだ資料の数が少ないな、と思えるものが目立ちましたが(現在も散見されます)、大本氏、かなりマイナーな散文にまで目を通されているようで、感心しました。

光太郎以外にも、光太郎智恵子と交流のあった平塚らいてう、佐藤春夫、中原中也などが取り上げられており、興味深く拝読。しかし、定番の夏目漱石や与謝野晶子、宮沢賢治などがいないと思ったら、平成26年(2014)、同じ平凡社新書で出ていた『作家のごちそう帖』ですでに取り上げられていました。

賢治といえば、光太郎、その精神や芸術的軌跡には共鳴しつつも、「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」の部分は承伏できない、としています。特に戦後は、酪農や肉食を勧め、体格から欧米人に負けないように、的な発言も見られました。

光太郎と「食」に関しては、花巻高村光太郎記念館さんで、そのテーマによる企画展等も計画中だそうで、楽しみにしております。

さて、『作家のまんぷく帖』、ぜひお買い求め下さい。


花巻といえば、別件ですが、昨日ご紹介した4月2日の花巻での光太郎を偲ぶ詩碑前祭、昨日発行の『広報はなまき』にも記事が出ましたので、ご紹介します。

イメージ 2


【折々のことば・光太郎】

恐らく日本画は、いはゆる西洋画家によつて救はれるであらう。恐らく木彫は、いはゆる木彫家なる専門家によつてではなく、却つてその専門家の軽蔑する、思ひもかけぬ真の彫刻家の手によつて救はれるであらう。文章を救ふものは文章家ではなく、詩を救ふものはいはゆる詩人ではないであらう。これは逆説ともなりかねる程明白な目前の事実である。

散文「遠藤順治氏のつづれ織」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

その道の専門家は、専門性ゆえに固定観念に囚われ、新機軸を打ち出せないことが多いということに対しての警句でしょう。逆にしがらみを感じることのない門外漢が、新風を吹き込むことも確かにありますね。

遠藤順治は虚籟と号した綴織作家ですが、元々は智恵子と同じ太平洋画会に学んだ画家でした。光太郎はその織物作品に対し、まだ不十分なところがあるとしながらも高い期待を寄せ、遠藤のパトロンであった小沢佐助に木彫「鯰」を贈るなどして援助しています。

旧刊の復刊です。

人と作品 高村光太郎

2018年4月11日  堀江信男著 清水書院 
定価1,296円(税込み)

詩人としても彫刻家としても一流だった高村光太郎。西洋の生活を経験し独自の近代的自我を確立するが、封建的な制度や道徳を残す日本では彼は異端な存在であった。自我を生きようとする彼の妥協することなき偉大な生涯を描く。

目次002
 第一編 高村光太郎の生涯
  宿命
  ヨーロッパ留学
  美に生きる
  智恵子の死
  モニュマン
 第二編 作品と解説
  詩人光太郎の誕生
  道程
  雨にうたるるカテドラル
  猛獣篇
  智恵子抄
  典型
 年譜
 参考文献
 さくいん
 


元版は、同じ清水書院さんから昭和41年(1966)に刊行されています。目次を見る限り、同一の内容のようです。

著者の堀江信男氏は、現在、茨城キリスト教大学名誉教授。003

前半は簡潔な光太郎評伝。後半は詩集や、詩集のない時代には代表的な詩を中心とした作品鑑賞、という構成になっています。入門編としては好著です。

人と作品」というシリーズものの一冊で、シリーズ全体は、文芸評論家の故・福田清人氏の責任編集です。

光太郎以外の既刊は、有島武郎、菊池寛、国木田独歩、林芙美子、徳富蘆花、高浜虚子、坪内逍遙、二葉亭四迷、武者小路実篤、正岡子規、夏目漱石、北原白秋、斎藤茂吉、横光利一、田山花袋、永井荷風、堀辰雄、島崎藤村、泉鏡花、与謝野晶子、宮沢賢治、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、川端康成、志賀直哉、石川啄木、谷崎潤一郎。

当方の持っている昭和60年代の判に載っている巻末の広告では、佐藤春夫、萩原朔太郎、岡本かの子らもラインナップに入っていましたし、中原中也、三島由紀夫、井上靖などが刊行予定となっていました。今後も続刊されるのではないかと思われます。

それぞれ復刊であれば、最新の研究成果が反映されているわけではないと思いますが、入門編としてはよいのではないでしょうか。ただ、怖いのは、既に否定されている過去の定説がそのまま載ること。その点は注意が必要ですね。


【折々のことば・光太郎】

絵具や筆などといふ材料(メヂアム)を駆使するに二様ある。一つは多年の工夫と錬磨とで、材料の極微な性質までも承知してしまつて、按摩が浮世話をしながら肩を揉む程な熟練の域に到るのと、一つは、生(なま)な材料、初対面の材料にでも自分の熱い息を吹きかけて、たちどころに其を自分の勢力の下に屈服させて駆使するのとである。

散文「津田清楓君へ――琅玕洞展覧会所見――」より
 
明治44年(1911) 光太郎29歳

津田清楓は、光太郎の留学仲間でもあった画家です。その頃の津田を回想し、賞賛したあと、現在の津田にはあの頃の燃えるような情熱が感じられないとしています。そして展開される絵画論が上記の一節です。津田はそのどちらにもたどり着いていない、というのでしょう。

琅玕洞は、前年に光太郎が神田淡路町に拓いた画廊ですが、ちょうど一年で手放し、画家の大槻弍雄に譲られていました。

今月2日、第62回連翹忌の日に刊行された雑誌です。

高村光太郎研究(39)

2018年4月2日 高村光太郎研究会 税込1,000円

イメージ 1

当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

 いまもう一度云っておきたいことがある―平成十九年八月九日、女川光太郎祭談話要旨―
   北川 太一
 「吉本隆明「高村光太郎」再訪」  赤﨑学
 『をぢさんの詩』について(五) ―詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置―  岡田年正
 光太郎遺珠⑬ 平成三十年   小山弘明
 高村光太郎没後年譜 平成29年1月~12月  小山弘明
 高村光太郎文献目録         野末  明
 研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき     野末  明


当会顧問にして、生前の光太郎をご存じの北川太一先生は、このところ、「高村光太郎・最後の年」と題する連載を寄せられていましたが、今年は白内障の手術灯をなさり、書き下ろしができないとのことで、平成19年(2007)、宮城県女川町での女川光太郎祭におけるご講演をまとめられたものを寄稿なさいました。

それから、昨秋、アカデミー向丘で開催された第62回高村光太郎研究会で発表されたお二方が、それぞれの発表に関連する論考を寄せられています。

当方は2本、連載をさせていただいています。筑摩書房『高村光太郎全集』完結後に見つかり続ける光太郎文筆作品の紹介「光太郎遺珠」、それから昨年1年間の光太郎をめぐるさまざまな動きを記録した「高村光太郎歿後年譜」です。

「光太郎遺珠」は、短歌が一首(明治末と推定)、談話筆記で昭和26年(1951)、当時光太郎が暮らしていた花巻郊外太田村の山口小学校長・浅沼政規が筆録したもの、長短併せて7篇、書簡が23通。

比較的長命だったうえ、筆まめだった光太郎ゆえ、書簡はあ
002
とからあとからたくさん出てきます。現在、秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館で開催されている、「平成29年度新収蔵資料展」に出品されている、『智恵子抄』版元の龍星閣主・澤田伊四郎宛の書簡のうち、『全集』未収録のもの、2月に現地に行って筆写して参りましたが、今回の〆切には間に合わず、次号に廻します。

それでも23通。うち、何通かは実際に入手しました。

そのうちの1通。昭和5年12月17日付で、市川忠男というマイナーな詩人に送った絵葉書で、なぜか鵜飼いの鵜の写真です。この頃、光太郎が岐阜方面に行ったという記録はありません。

文面は以下の通り。

拝啓 貴著詩集“静なる草舎”をいただき、感謝します、
心静かな日にしづかによみたいと思つて居ります、
御礼まで一筆、
十二月十七日
 高村光太郎
003

『静なる草舎』という詩集については確認できませんでした。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

いつも同じようなことを書いていますが、光太郎の筆跡、味のあるいい字ですね。当方、光太郎独特の崩し方にもだいぶ慣れてきました。

「高村光太郎歿後年譜」は、このブログの昨年末に書いた「回顧2017年」全4回を基にしています。


頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

人体を一つの物質と見て、何等の余分な甘味をも加へず、モデルを唯モデルとして彫刻しても其処に立派な芸術が成立つ筈である。ノイエ ザツハリヒカイトの彫刻の如しだ。その為には強盛な造形的意欲がいる。強盛な造形的意欲無しには物質自然の機微に迫る事覚束ない。

散文「」彫刻新人展評 文部省美術展覧会」より
 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「ノイエ ザツハリヒカイト」は、独語で「Neue Sachlichkeit」。「新即物主義」と訳され、第一次大戦後に興った芸術運動です。モデルのポーズや表情などにより何かを物語らせる「表現主義」の対極に位置し、徹底したリアリズムに立脚しています。どうも光太郎、自身の肖像制作などで、この方面に興味を抱いていたように思われます。

新刊情報です。

2018年4月1日 中村稔著 青土社 定価2,800円+税

日本近代芸術の扉を開いた巨人の生涯に迫る

西欧留学体験、『智恵子抄』には描かれなかった智恵子との壮絶な愛、太平洋戦争とその後の独居生活…。その魂の軌跡をとおして生涯と作品に迫る、画期的にして、決定的な高村光太郎論。

目次

第一章 西欧体験
第二章 疾風怒濤期――「寂寥」まで
第三章 『智恵子抄』の時代(その前期)
第四章 「猛獣篇」(第一期)の時代
第五章 『智恵子抄』(その後期)と「猛獣篇」(第二期)
第六章 アジア太平洋戦争の時代
第七章 「自己流謫」七年
あとがき


詩人として、昭和42年(1967)、詩集『鵜原抄』で高村光太郎賞を受賞され、弁護士としては、不幸にして起こった光太郎作品をめぐる著作権裁判で原告側代理人を務められた中村稔氏の書き下ろし最新刊です。
明治末、光太郎20代の海外留学期から、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活までを追った評伝で、全534ページの大作です。根底には光太郎への限りないリスペクトを持ちつつも、批判すべき点は批判し、その上一貫してブレない光太郎観が展開されていて、534ページですが、当方、ほぼ一気に読み通しました。そのすべてに首肯できるわけではありません(戦後、花巻郊外太田村の粗末な山小屋で送った7年間の蟄居生活を「彼の若いころからの夢想を現実化したもの」にすぎないとしている点など)が、「なるほど」と思わせる部分が多い好著です。

特徴として、氏自身も本書中で言及されていますが、光太郎詩文の引用部分が多いことが挙げられます。引用の切り貼りだけではどうにもなりませんが、どういった作品を引用するかの適切な判断と、引用部分に対する的確な評において、本書は成功しています。

評伝というもの、やはり、本人の言にあたるのが一番です。しかし、それをそのまま文字通りに鵜呑みにするのでなく、行間を読み、裏側を読むことも必要です。また、本人の言だけでなく、周辺人物のそれにも目を向ける必要もあります。中村氏は、光太郎実弟・豊周や、太田村に光太郎を呼び寄せた佐藤勝治らの回想も効果的に引きつつ、論を展開されています。

驚くべきは、中村氏、失礼ながら昭和2年(1927)のお生まれで、御年91歳。それでいて、同じ青土社さんから、一昨年には『萩原朔太郎論』(548ページ)、『西鶴を読む』(313ページ)、昨年には『石川啄木論』(528ページ)、『故旧哀傷: 私が出会った人々』(286ページ)と、次々に新刊を刊行されています。おそらくこれらも書き下ろしでしょう。

一昨年、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の関連行事として、記念講演をさせていただいたのですが、その日に中村氏が同館にいらっしゃいまして、お話をさせていただきました。

その際にも今回の光太郎論を含む新著をご執筆中で、一気に刊行なさるというお話でした。失礼ながら、「無理でしょう」と心の中で呟いていたのですが、本当に実現されてしまいました。脱帽です。

さらに驚くべきは、「あとがき」によれば、第7章の部分はもっと長かったのを、他の章との均衡を図るため圧縮、さらに本書に収録されなかった、光太郎最晩年の再上京後についても既に書き上げられていて、本書とは別に刊行するおつもりだということ。

そちらにも期待したいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。
散文「書の深淵」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

昭和20年(1945)から7年間の、花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、光太郎は彫刻らしい彫刻は作りませんでした。その代わりに(ただし、「代償行動」という意味に非ず)書を多く書きました。もともと能筆だった光太郎の書が、太田村での7年間でさらに進化を遂げ、書家の石川九楊氏に「「精神」や「意思」だけが直裁に化成しているような姿は、他に類例なく孤絶している。」「高村光太郎の書は、単なる文士が毛筆で書いた水準をはるかに超えた、もはや見事な彫刻である。」と言わしめました。

思うに光太郎にとっての書とは、詩歌によって追い求めてきた言語の美としての部分と、彫刻によって成し遂げんとした造形美の部分とを併せ持つ、究極の芸術だったのかもしれません。

大阪在住、高村光太郎研究会員の西浦基氏から新著が届きました。 

高村光太郎小考集

2018年1月28日  西浦基著  発行 牧歌舎  発売 星雲社  定価1,800円+税

イメージ 1

帯文より
高村光太郎の作品と人生に独自の視点から迫る労作

彫刻家であり、詩人である高村光太郎。かの『智恵子抄』の作者でもある光太郎の一連の作品の紹介に加え、寡黙であるが故に強そうに見えて優柔不断なところもあるその人生を余すところなく探求する。
後半部ではロダンやミケランジェロの見聞など、著者のヨーロッパ旅行記も掲載。

目次
第Ⅰ部 高村光太郎小考集
はじめに  自伝・略歴
第一章  高村光太郎の詩:「レモン哀歌」、他
根付の国 レモン哀歌 『暗愚小伝』二十篇の中の「二律背反」から:協力会議
第二章  高村光太郎の選択 流された選択・迷った選択・断固たる選択
第三章  彫刻に燃える ロダンとロダンに師事した荻原守衛とロダンに私淑した高村光太郎と
1 美しい二つのロダン美術館  2 ロダンの紹介  3 ロダンの出世作と女と艶裸体 
4 バルザック 
 5 ロダンの対人関係  6 ロダンの欲と創意工夫
7 ロダンに魅了された人々
  8 ロダンが下彫り職人、鋳造職人に厳しく指示した訳
追悼文その1 追悼文その2
第四章  高村光太郎の「伊太利亜遍歴」を見る
1 清浄なるスイスから  2 「ヹネチアの旅人」と随筆「伊太利遍歴」と絵ハガキと
3 著者個人の旅行の模様  4 琅玕洞(グロック・アズーラ)  5 ポンペイ
第五章  一枚の写真
碌山の恋
第六章  あぁ! わが青春の『智恵子抄』
1 詩集『智恵子抄』から見る描写の変遷  2 詩集『智恵子抄』誕生の経緯
3 詩集『智恵子抄』と随筆「智恵子の半生」の矛盾
第七章  高村光太郎の「AB HOC ET AB HAC」から 明治43年『スバル』に発表
第八章  『画論(アンリイ・マテイス)』高村光太郎訳(一九〇八年(明治四十一年)十二月)
1 マチスとの関わり  2 上から目線の光太郎  3 『画論(アンリイ・マテイス)』
4 荻原守衛との交誼とマチスから受けた影響を考える  
5 高村光太郎の模刻する技術力の高さを見る
6 高村光太郎の「彫塑総論」と「彫刻十個條」(全集四巻)
7 高村光太郎の贅肉についての文章を見る  8 『十和田湖畔の裸婦群像』を見て
9 智恵子をイメージできたかどうかについての、光太郎の芸術家としての脳内を考える
10 『十和田湖畔の裸婦群像』制作の頃
11 完成頃の関係者との会食時の挨拶メモ  12 制作
13 像建設の経緯について  14 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の違いを見る
15 ロダンと荻原守衛と高村光太郎の作品に就いて  16 ある共同討議での事
17 『十和田湖畔の裸婦群像』の中型試作通称「みちのく」の顔は誰に似ているのだろうか?
18 『画論(アンリイ・マテイス)』と『十和田湖畔の裸婦群像』  19 総括として
第Ⅱ部 楽の断片
第一章 旅愁のパリ(フランス:二〇〇九年七月)
詩と恋愛 パリの夕暮れ 考える人を見る ロダンの恋 ジベルニー近郊のセーヌ川の朝
エトルタの海岸
  絶景エトルタの機転(クールベとモネ) サラサラ サラ 
初夏の青空(オンフルール) 旅愁(オンフルール)
年表
第二章 怒濤の嵐、船内のジャズ(イギリス:二〇一〇)年秋
『ロダンの言葉』ポール・グゼル筆録・高村光太郎訳 カレーの市民 ドーバー海峡
二〇一一年(卯年)春
 (献句) 犬句 犬柳 犬歌 沈まぬ夕陽
第三章 哀の六根 楽の六根 官能のシックスセンス
(晩八句) 高村光太郎に思いを馳せる・楽のひと時 (晩歌)平成二十四年七月三十一日
晩歌(母の死を悼む)  生を一考 お葬式 旅愁(マッターホルン) 哀の六根 楽の六官
官能のシックスセンス
第四章 歴史のひとこま―ガリレオ
概要 科学と宗教 異端審問所はガリレオを拷問にかけたか
第五章 美しき国ドイツ:二〇一一年秋
ケルン 妖精の生まれる国(デュッセルドルフ) ベルリン(ウンター・デン・リンデン)
マイセン
  ドレスデンの朝 アルテ・マイスター プラハ
第六章 清浄なるスイスとリヨン:二〇一二年十月
参考文献


一昨日届いたばかりで、まだ読んでおりませんが、とり急ぎ、ご紹介しておきます。


【折々のことば・光太郎】

美とは決してただ奇麗な、飾られたものに在るのではない。事物ありのままの中に美は存するのである。美は向うにあるのではなく、こちらにあるのである。

散文「美」より  昭和14年(1939) 光太郎57歳

この頃から光太郎は、頼まれて筆を執る色紙などの揮毫に「美しきもの満つ」「美ならざるなし」といった言葉を好んで書くようになります。

昨日に引き続き、最近の頂き物から。昨日ご紹介した『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』を書かれた逸見久美先生の弟子筋に当たられる、小清水裕子氏(今年の連翹忌にご参加下さいました)の御著書です。 

歌人 古宇田清平の研究――与謝野寛・晶子との関わり――

2014年6月30日 小清水裕子著 鼎書房 定価6,500円+税

新資料となる、清平宛与謝野寛・晶子の書簡を翻刻。書簡から第二次「明星」「冬柏」の発刊意義を考察する。

目次
 序 古宇田清平の研究にあたって
 第一章 古宇田清平その人物像と与謝野寛・ 晶子との関係
  作歌活動一覧 清平略年譜 清平宛 寛・晶子書簡一覧
  清平農業関係論文・著書一覧
 第二章 清平の投稿時代(大正三年~大正十年十月)
  第一節 投稿時代とその作品
  第二節 第二次『明 星』復活に向けて
 第三章 清平の第二次『明星』時代(大正十年十一月~昭和
四年)
  第一節 第二次『明星』発刊意義
  第二節 第二次『明星』での清平
  第三節 第二次『明星』時代とその作品
   一、清平歌集出版に向けて
   二、盛岡時代
   三、野の人の生活・山形県戸沢村時代
    ①寛・晶子の十和田吟行
    ②第二次『明星』終刊から『冬柏』へ
 第四章 清平の『冬柏』時代(昭和五年~昭和十年)
  第一節 『冬柏』発刊意義
  第二節 『冬柏』時代とその作品
   一、山形県豊里村時代
   二、青森へ
 結 本研究の意義と今後の課題
 参考文献 
 資 料
  清平詠歌集
   一、『摘英三千首 與謝野晶子撰』(大正六年十月二十日)
   二、第二次『明星』(大正十年十一月~昭和二年四月)
   三、『冬柏』(昭和五年四月~昭和十年一月)
  清平宛 寛・晶子書簡集
 引用・参考文献
 あとがき
010

古宇田清平(明治26年=1893 ~ 平成2年=1990)は、第二次『明星』、『冬柏』に依った歌人ですが、いわゆる専門の歌人ではなく、九州や東北で農業技師として働きながら作歌に励みました。ある意味、宮沢賢治を彷彿とさせられましたが、古宇田は盛岡高等農林学校の出身で、賢治の先輩に当たります。その実生活に根ざした歌の数々が鉄幹・晶子の目に止まり、新詩社の主要な同人として迎えられています。ただ、地方歌人という先入観もあったのでしょう、かつては注目されることのほとんどなかった人物です。当方も存じませんでした。

その古宇田の評伝をメインとしつつ、こうした地方歌人が重用された第二次『明星』、『冬柏』の位置づけに言及する労作です。

第二次『明星』の創刊(復刊)は、大正10年(1921)。光太郎外遊中の明治41年(1908)に第一次『明星』が廃刊してから13年の時を経てのことでした。古宇田に宛てた復刊当時の鉄幹・晶子の書簡などによれば、同人に自由に作品を発表してもらう、総合文芸誌的な方向性でした。第一次の頃から新詩社の秘蔵っ子だった光太郎も、その復刊第一号に寄せた有名な詩「雨にうたるるカテドラル」をはじめ、実にさまざまなジャンルの作品を発表しています。短歌、詩、エッセイ、評論、翻訳(戯曲、詩、散文)、果ては絵画まで。

ただ、同誌は店頭販売ではなく申し込みによる直接購読を主としたことや、鉄幹・晶子が『日本古典全集』など他の仕事にも多忙を極めたことなどから、昭和2年(1927)に休刊(事実上の廃刊)となりました。しかし、『明星』復活への希望は抑えがたく、それまでのつなぎとして、総合文化誌の体裁ではなく詩歌方面に内容を限定した『冬柏』が創刊されたとのこと。当方、その辺りの事情には暗かったので、なるほど『明星』時代にはさまざまなジャンルの作品を寄せていた光太郎も、『冬柏』になるとそれがぐっと減ったのはそういうわけか、と膝を打ちました。

そしてメインの古宇田の歌。第二次『明星』、『冬柏』時代のものはほぼすべて網羅され、しかも一首ごとに細かく評釈がなされていて、理解の手助けとなりました。中には戦後の花巻時代の光太郎がたびたび逗留し、当方も定宿としている大沢温泉さんでの作などもありました。他にも技師として赴任した盛岡や山形での作には、やはり彼の地の厳しい冬を読んだものが多く、光太郎の詩との類似点を感じました。

もっと注目されていい歌人だというのはその通りだと思いました。


もう1点、同じ小清水氏から、日本文学風土学会さんの紀要『日本文学風土学会紀事』第41号の抜き刷りもいただきました。題して「与謝野寛・晶子の渡欧」。

イメージ 2 イメージ 3

奥付等が無いのですが、今年3月発行の『碌山美術館館報』第37号を参照されたとのことですので、つい最近のものでしょう。

参照された点は、外交資料館さんに残されている「外国旅券下附表」の記載。パスポートの申請に際し、「旅行目的」という項目も報告することになっており、荻原守衛は「修学」、光太郎は「美術研究」、では、明治44年(1911)に渡欧した鉄幹、翌年にそれを追った晶子は、ということで、調べられたとのこと。それによれば鉄幹は「芸術研究ノ為」、晶子は「漫遊ノ為」だそうです。

第一次『明星』廃刊後、スランプに陥っていた鉄幹に、見聞を広め、新たな創作の動機づけとしてほしいとの思いから、晶子が「百首屏風」などを作って金策にかけずり回り、鉄幹を欧州へと送り出しました。渡航後の鉄幹は、ぜひ晶子にも彼の地の風物を見て欲しいと、晶子を呼び寄せます。鉄幹は船旅でしたが、晶子はシベリア鉄道を使っての欧州行となり、鉄幹は晶子宛の書簡で、できれば欧州の事情に通じている光太郎を連れてくるよう指示しました。結局、光太郎の同行はかないませんでしたが、それなら経由地から送る電報の文面は光太郎に書いてもらっておけという指示も、鉄幹が出しています。いかに夫妻が「秘蔵っ子」光太郎を頼りにしていたかがわかるエピソードです。

このあたり、当方、逸見先生編の『与謝野寛・晶子書簡集成』(八木書店)で読んでいるはずなのですが、もう一度当たってみようと思いました。

与謝野夫妻、パリでは光太郎からアトリエを引き継いだ梅原龍三郎の世話になったり、ロダンを訪ねていたりもしています。この辺も興味深いところです。


こうした、寄稿した雑誌や周辺人物との絡みなどから見えてくる光太郎の姿、また違った一面が見えてくるものだな、と実感させられました。

また近々、他の方から頂き物が届く手はずになっており、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

活人剣即殺人剣だ。
散文「味ふ人」より 大正10年(1921) 光太郎39歳

雑誌『現代之美術』第4巻第3号「女性と芸術」号に寄せた文章です。まだ送りがなのルールが確定していない時代ですので「味ふ」で「あじわう」と読みます。

埃及以来数千年間に女流の美術家が出なかつたからといつて、今後数千年間にやはりでないだらうとは云へない。しかし今日迄然うであつた「事実」の底には何か執拗な自然の理法があるやうに思ふ。」と始まるこの文章、決して女性は駄目だ、と言っているわけではなく、女性が芸術家として大成するためには、男性以上にさまざまなことを犠牲にせねばならないという点に主眼があります。そこで、「活人剣即殺人剣だ」というわけです。

光太郎が想起していたのは、男女の分担が可能な家事労働という部分ではなく(光太郎はかなり家事も行っていました)、決して男性には担えない出産、育児という部分でしょう。育児は違うだろう、と突っ込まれるかもしれませんが、「イクメン」であっても、母乳は出せません。

そこで、同じ文章には「其を思ふと、女性で美術家にならうとする人を痛ましくさへ感ずる。悲壮な感じを受ける。むろん普通の女性としての一生を犠牲にしてかからねばならない事で中々なまやさしい甘つたるい事ではあるまいと思ふ。」とも書かれています。「出産を放棄する」=「普通の女性としての一生を犠牲にする」、つまり、「産まない」という選択は普通ではない、という考え方ですね。たしかにすべての女性が「産まない」という選択をしてしまったら、人類は滅びてしまうわけですが……。

このあたりで止めておけばよいものを、こんなことも書いています。

女性は偉大な男性の文芸家を生み、育て、教訓し、又激励した事の方で、今日まで人類に貢献してゐた。」「私が一番女性に望むのは、美術をほんとに深く「味ふ」人になつてもらいたい事だ。受け入れて「味ふ」能力は或は一般の男性よりも多いかと思ふ。元来「受け入れる本能」と「創造する本能」とは根本から違つてゐて、女性は前者の本能に富んでゐるやうに作られたかと思はれる位だ。

画家としてその力を発揮できぬまま心を病んだ智恵子も、この文章を読んだ可能性が高いと思います。結局、光太郎は自分の画を認めてくれないと悟った智恵子の衝撃はいかほどのものだったのでしょうか。

余談になりますが、「智恵子は光太郎に潰された」的な要旨のいわゆるジェンダー論者の論考を時折眼にします。そうした論者がこの文章を読んだら、「それ見たことか」と、鬼の首でも取ったように扱いそうな内容なのですが、従来、ほとんどといっていいほどこの文章は注目されていません。不思議なものです。

少し前に刊行されたものですが、最近戴いた書籍をご紹介します。 

夢二と久允 二人の渡米とその明暗

2016年4月30日 逸見久美著 風間書房 定価2000円+税

著者の父・作家翁久允は竹久夢二の再起をかけて同伴渡米を決行する。久允の奔走、邦字新聞「日米」争議、夢二との訣別―。日記や自伝をふまえ、二人の運命の軌跡を辿る。

目次
 一 ふとした機縁から001
 二 落ちぶれた夢二の再起をはかる久允
 三 翁久允とは
 四 夢二との初対面の印象
 五 夢二画への憧れ
 六 榛名山の夢二の小屋からアメリカ行き
 七 夢二と久允の世界漫遊の旅と夢二フアン
 八 久允の『移植樹』と『宇宙人は語る』
           ・『道なき道』の出版
 九 久允の朝日時代
一〇 いよいよアメリカへ向かう前後の二人
一一 「世界漫遊」に於ける報道のさまざま
一二 夢二にとって初の世界漫遊の船旅
一三 ハワイへ向かう船中の二人とハワイの人々
一四 ホノルルに於ける夢二と久允の記事の数々
一五 いよいよアメリカ本土へ
一六 「沿岸太平記」―「世界漫遊」の顛末
一七 年譜にみる夢二の一生
一八 渡米を巡っての夢二日記
 あとがき

著者の逸見久美先生は、与謝野鉄幹晶子研究の泰斗。連翹忌にもご参加いただいております。光太郎が『明星』出身ということもありますが、お父様の翁久允(おきなきゅういん)と光太郎に交流があったあったためでもあります。

翁は明治40年(1907)から大正13年(1924)まで、シアトルとその周辺に移民として滞在、現地の邦字紙などの編集や小説などの創作にあたっていました。帰国後、東京朝日新聞に入社、『アサヒグラフ』や『週刊朝日』の編集者として活躍します。そして、『週刊朝日』に掲載するため、それまでの文部省美術展覧会(文展)から改称された帝国美術院展覧会(002帝展)の評を光太郎に依頼しています。『夢二と久允』巻末に、光太郎からの返答が紹介されています。

御てがみ拝見、
ホヰツトマンの引合はせと思ふと、
大ていの事は御承諾したいのですが、昔から毎年荷厄介にしてゐる帝展の批評感想だけは、おまけに十六日開会で十七日に書いてお届けするといふやうな早業ときたら、とても私には出来ない仕事ですよ。
私ののろくさと来たらあなたがびツくりしますよ。
此だけは誰かに振りかへて下さい、
   翁久允様 六日夜 高村光太郎

封筒が欠落しており、便箋のみ翁遺品のスクラップ帳に貼り付けてあったとのことで、消印が確認できないため、年が特定できません。

3年ほど前、逸見先生から「うちにこんなものが有りますよ」と、情報をご提供いただいた際、「帝展」「十六日開会」というキーワードで調べれば、何年のものか特定できるだろう、とたかをくくっていましたが、いざ調べてみると、翁が『週刊朝日』編集長を務めていた時期の帝展は、昭和2年(1927)の第8回展から同6年(1931)の12回展までがすべて10月16日開会で、この間としか特定できませんでした。

同書には他に三木露風、今井邦子、宇野千代、堀口大学、吉屋信子、吉井勇、横光利一、鈴木三重吉、中原綾子、吉川英治らからの書簡の画像も掲載されています。翁の顔の広さが偲ばれますが、本文を読むと、さらに田村松魚・俊子夫妻、田山花袋、菊池寛、北原白秋、西條八十、堺利彦、直木三十五、相馬御風、岸田劉生、川端康成、有島生馬ら、綺羅星の如き名が並んでいます。

そして竹久夢二とは、大正15年(1936)が初対面でした。当方、夢二には(特にその晩年)、あまり詳しくないので意外といえば意外でしたが、この頃になると夢二式美人画のブームが過ぎ、落魄の身だったそうです。翁はそんな夢二をもう一度世に押し出そうと、世話を焼いたそうです。

イメージ 3

こちらは同書に掲載されている、たびたび翁家を訪れていた夢二がが描いたスケッチ。描かれているのは逸見先生とお姉様です。逸見先生、「少しこわい小父さん」というイメージで夢二を記憶されているとのこと。しかし、生前の夢二をご存じというと、「歴史の生き証人」的な感覚になってしまいますが、失礼でしょうか(笑)。

お父様はかなり豪快な方だったようで、もう一度夢二を陽の当たる場所に、という思いから、朝日新聞社を退職、その退職金をつぎ込んで、夢二を世界漫遊の旅に連れ出しました。昭和6年(1931)のことです。行く先々で夢二が絵を描き、展覧会を開いてそれを売り歩くという、興行的な目論見もあったとのこと。

しかし、ある意味性格破綻者であった夢二との同行二人はうまくいくはずもなく、旅の途中で二人は決裂してしまいました。夢二は昭和8年(1933)に帰国しましたが、翌年、結核のため淋しく歿しています。


ちなみに、遠く明治末の頃、ごく短期間、太平洋画会に出入りしたという夢二は、そこで智恵子と面識があったようです。明治43年(1910)の夢二の日記に智恵子の名(旧姓の長沼で)が現れます。8月21日の日付です。

家庭の巻頭画の長沼さんの画いたスケツチが出てゐる、実に乱暴な筆で影の日向をつけてある、まるで油のした絵のよふなものだ、女の人がこうした荒い描き方をする気がしれない、ラツフ、印象的な、この頃 外国で試みられてゐるあの筆法に自信をはげまされたのであろうけれど、外国の人々のやる荒い乱暴に見える描き方と この女作家のとは出発点と態度が違ふよふにおもはれる、やはり謙遜な純な心で自然を見てその時のデリケートな或はサブライムな感じをそのまゝ出せばあゝした印象風なフレツシユなものが出来るのだとおもふ、はじめつから、一つ描いてやろうといふ考へでやつたつてもだめではないかしら。

「家庭」は智恵子の母校、日本女子大学校の同窓会である桜楓会の機関誌。署名等がないので巻号が特定できませんが、智恵子がたびたび挿画やカットを寄せました。

さらに前月14日には、神田淡路町に光太郎が開き、この頃には大槻弍雄に譲られていた画廊・琅玕洞の名も。

隈川氏来る。共に琅玕洞へゆく。柳氏の作品を見る。下らないものばかり。更に感心せず。

「柳氏」は光太郎の親友・柳敬助。妻の八重は智恵子の女子大学校での先輩で、光太郎と智恵子を結びつけました。

智恵子や柳の作風と、夢二のそれとでは相容れないものがあるのはわかりますが、けちょんけちょんですね(笑)。こうした部分にも夢二という人物が表れているような気がするのは、智恵子・柳に対する身びいきでしょうか。


閑話休題。『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』。実に読み応えがあります。また、その名が忘れ去られかけている翁久允の伝記としても、興味深いものです。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

彫刻を見て、主題の状態を第一に考へる人は極めて幼稚な鑑賞者です。又さういふ処をねらつて製作する彫刻家は幼稚な作家です。

散文「彫刻鑑賞の第一歩」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

彫刻作品を見る際、「主題の状態」つまり「5W1H」に気を取られてはならない、ということです。同じ文章の中で、ミケランジェロのダビデ像を例に、「ダビデがゴライヤスを撃たんとして石を手にしてねらつてゐる所」というのは、「此の彫刻の一時的価値の中には這入りません」としています。また、両腕の欠損してしまっているミロのヴィーナスのように「何をしている所といふ事が殆ど問題にならない程人の心を動かすものが善いのです」とも。

光太郎自身、留学前は「5W1H」に囚われた愚劣な彫刻を作っていた、と反省しています。「滑稽な主題と構想」「俄芝居じみた姿態」というふうに。

当方も加入しております団体、高村光太郎研究会の年に一度の研究発表会です。

第62回高村光太郎研究会

期   日 : 2017年11月18日(土)
時   間 : 午後2時から5時
会   場 : アカデミー向丘 東京都文京区向丘1-20-8
参 加 費 : 500円
問い合わせ : 03-5966-8383 (野末)

研究発表 :
 「吉本隆明「高村光太郎」再訪」      赤崎  学氏
 「詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置」  岡田 年正氏

イメージ 1


当会顧問にして、晩年の光太郎に親炙した北川太一先生が、例年、ご意見番としてご参加下さっていますが、今年は夏頃からお加減がよろしくないとのことで、どうなりますことやら、です。

組織としての研究会には入会せず、発表のみ聴くことも可能です。入会すると年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付され、そちらへの寄稿が可能です。

研究発表会への事前の参加申し込み等は必要ありません。直接、会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。終了後には懇親会も予定されています(別途料金)。
 

【折々のことば・光太郎】

大地無境界と書ける日は 烏有先生の世であるか、 筆を投げてわたくしは考へる。

詩「大地うるはし」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた、花巻郊外太田村役場の新築落成記念に贈った「大地麗」の書に寄せた詩です。

イメージ 2


「烏有先生」は、漢の司馬相如「子虚賦」に登場する架空の人物。「烏有」は訓読すれば「烏 ( いづ ) くんぞ有らむや」、反語で「どうして有るだろうか、有るはずがない」の意。

つまり、大地に国境などの境界がなくなることは、現実にはあり得ないのだろうか、ということになります。この詩が書かれた昭和25年(1950)と言えば、朝鮮戦争。国内でもそのあおりで、自衛隊の前身である警察予備隊が創設されるなどしています。

全国に47の教室を展開するNHK文化センターさんの講座で、光太郎が取り上げられます。ともに東北で、仙台といわきです

東北ゆかりの作家たち

会 場 : NHK文化センター仙台教室006
       仙台市青葉区立町27-21
        仙台橋本ビルヂング2F
期 日 : 2017/10/3~12/19の第1・3火曜 (全6回)
時 間 : 15:30~17:00
講 師 : 宮城教育大学名誉教授 渡辺善雄
料 金 : 受講料(税込み)16,848円
       資料がある場合は別途コピー代

太宰治、石川啄木、斎藤茂吉らは東北出身です。島崎藤村は教師として仙台に赴任し、高村光太郎は花巻に疎開しました。東北の風土を背景に、どのような文学が形成されたのか考えます。

宮澤賢治の世界 交友編

会   場 : NHK文化センターいわき教室012
        いわき市平字小太郎町3-4
         NHKいわき放送会館
期   日 : 2017/10/16(月)・11/13(月)・12/11(月)
         (全3回)
時   間 : 13:00~14:30
講   師 : いわき賢治の会会長/賢治学会会員 小野浩
料   金 : 会員 6,091円  一般(入会不要) 6,739円
         資料代別途

賢治の生涯は37年間でしたが、生前、詩人・童話作家として評価されず、中央で活躍する場はありませんでした。当時、賢治の才能を絶賛していたのが草野心平でした。
さらに心平の詩友・黄瀛(こう・えい)、そして高村光太郎。賢治と3人の交友を学びます。


小野氏は連翹忌ご常連。いわき市立草野心平記念文学館にお勤めで、昨日ご紹介した二本松市の「智恵子講座」でも講師を務められたことがあります。その他、あちこちのイベントでご一緒させていただいております。



それぞれ残席がまだあるとのこと、お近くの方、ぜひどうぞ。


ちなみに、賢治といえば、明日のテレビ放映で賢治や光太郎が愛した花巻の大沢温泉さんが取り上げられます。

朝だ! 生です旅サラダ013


地上波テレビ朝日 2017年9月30日(土)
                                   8時00分~9時30分

◇内容I ゲストの旅
 和歌山出身の田中理恵さんが念願の白浜へ!海と温泉のリゾート地・白浜で、初めての白良浜&(秘)グルメ&パワースポットを楽しんだ後、海と一体に見えるお風呂の絶景に感激!さらに、レジャーランドで人気のパンダ&イルカを満喫…そして感涙!?
◇内容Ⅱ 海外の旅
 様々なルーツを持つ人々が暮らす多民族国家・シンガポールで、世界の文化を楽しみます!カラフルで可愛い“プラナカン"文化やアラブ街、インド街を巡ります。また、夜だけ営業するナイトサファリを体験!ヒョウ、ライオンなど、夜行性の動物たちが活発に動く姿に感激!
◇内容Ⅲ 俺のひとっ風呂
 「宮沢賢治の愛した湯治宿」を目指します!カッパ伝説の町・遠野からスタートし、カッパ釣りに挑戦!?ミネラル分の豊富な水を与えられて育つブランドポークを味わい、目的の湯治宿へ!川のせせらぎを聞きながら、宮沢賢治も浸かったという露天風呂を楽しみます。
◇内容Ⅳ ヒロドが行く!日本縦断コレうまの旅
 “くいだおれの街"大阪の最終回!今回は、夜の街でコレうま探し!美食家が集まる大人の隠れ家に、ヒロド驚愕!繁華街・北新地なども巡り、プレゼントに選んだのは!?
◇内容Ⅴ 生中継のコーナー
 ラッシャー板前が、福井県・越前町からリポート!「太アナゴ&越前さかなまつり」をご紹介!

出演者 神田正輝 向井亜紀 勝俣州和 三船美佳 ラッシャー板前 森川侑美(旅サラダガールズ)
      ヒロド歩美(ABCアナウンサー) 田中理恵(体操・元日本代表)

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

東洋の美はやがて人類の上に雨と注ぎ、 東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。 夏の雲のやうに冬の星のやうに、 朝の食卓の白パンのやうに、 夜の饗宴のナイフのやうにフオクのやうに。

詩「東洋的新次元」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

戦時中、翼賛詩として「西洋」に対峙する「東洋」を礼賛していた光太郎ですが、自らの戦争責任にいたいする深い反省を経たあとは、よりグローバルな視点から「東洋」の発展を願う方向に転じています。

新刊です。勇ましい題名ですが、いわゆる「愛国者」が期待するような内容ではありません。しかし、本当はそういう人々にこそ読んで欲しいものですが、まあ、無理でしょう。

飛行機の戦争1914-1945 総力体制への道

2017年7月20日  一ノ瀬俊也著 講談社(講談社現代新書) 定価920円+税

イメージ 1

なぜ国民は飛行機に夢を託し、人、金、物を提供したのか――。

貧しい人びとの出世の手段としての航空兵。
国民一人一人がお金を出しあって飛行機をつくる軍用機献納運動。
博覧会や女性誌・少年誌で描かれる「空」への憧れ。
防空演習ですり込まれる空襲の恐怖と、空中国防の必要性。
松根油の採取、工場への学徒動員。
学校、親への「説得」を通して行われる未成年の航空兵「志願」……

巨大戦艦による戦争が古い〈軍の戦争〉であるとすれば、飛行機は新しい〈国民の戦争〉だった! 日本軍=大艦巨砲主義という通説をくつがえし、総力戦の象徴としての飛行機に焦点をあて、膨大な軍事啓蒙書などを手がかりに、戦前、戦中の現実を描き出す一冊。

 第一章 飛行機の衝撃――大正~昭和初期の陸海軍航空
   1 飛行機の優劣が勝敗を分ける――航空軍備の建設
   2 飛行機と戦艦
   3 墜落と殉職――人びとの飛行機観
 第二章 満洲事変後の航空軍備思想
   1 軍用機献納運動
   2 海軍と民間の対国民宣伝――「平和維持」と「経済」
   3 空襲への恐怖と立身出世
 第三章 日中戦争下の航空宣伝戦
   1 「南京大空襲」――高揚する国民
   2 飛行機に魅せられて――葬儀・教育・観覧飛行
 第四章 太平洋戦争下の航空戦と国民
   1 太平洋戦争の勃発――対米強硬論と大艦巨砲主義批判
   2 航空総力戦と銃後

日中戦争・太平洋戦争における旧日本軍の敗因の一つとして、いわゆる「大艦巨砲主義」に拘泥するあまり、機動性に優れた航空機による戦闘へのシフトがうまくいかなかったといわれています。当方も漠然とそう思っていましたし、本書では戦後の検証論文等でのそうした記述の実例が複数挙げられています。たしかに「大和」「武蔵」に代表される巨大戦艦を擁しながら、それらがほとんど戦果を挙げられなかったという一面は否定できません。

しかし、陸海軍ともに、かなり早い時期から航空戦の重要性を認識し、実際の戦闘ではそれが中心だったこと、そのために国民への啓蒙、そして協力の強制がなされていたことが、図版等も使いながら豊富な実例をもとに検証されています。

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4


そうした中で、民間から拠金を募っての「軍用機献納運動」が広く行われたことも、紹介されています。「戦艦献納運動」も同時に行われていましたが、艦艇は一隻あたりの建造費が巨額となり、その点、航空機であれば割り当てが少額で済みます。そこで、道府県や市町村単位で募金が集められ、献納された機体には「愛国○○号(○○は地名など)」が付けられて、各地で献納式などが行われました。また、人的な面でも、少年航空兵の募集などが必要でした。

こうした運動を推し進めるため、既に太平洋戦争開戦前から、これからの戦争は航空機が中心という考え方が広く国民に知らされており、決して「大艦巨砲主義」に拘っていたわけではないはずだ、というのです。

たしかに膨大な量が書かれた光太郎の翼賛詩の中にも、こうした動きを助けるためのものとおぼしき作品も散見されます。題名のみでそれと分かるものが「少年飛行兵」「ぼくも飛ぶ」「おほぞらのうた」「第五次ブーゲンビル島沖航空戦」「少年飛行兵の夢」など。散文でも「飛行機の美」「神風」など。

本書では、光太郎の「黒潮は何が好き」(昭和19年=1944)という詩を引用しています。初出は同年の『写真週報』です。

    黒潮は何が好き

 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。
 空母、戦艦、巡洋艦、003
 駆艦、潜艇、輸送船、
 「世界最大最強」を
 頂戴したいと待つてゐる。
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 来い、空母、
 来れ、戦艦、
 「世界最大最強」の
 メリケン製の全艦隊。
 色は紺染め、
 白波たてて、
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。


著者の一ノ瀬氏によれば、「異様な戦意高揚の詩」「戦時下対国民宣伝のもっとも陳腐な事例」「単に願望をつぶやいただけの空疎な詩」と、さんざんな評ですが、まったくもって、そう言われても仕方のない作品です。

ただ、実際に猛威を振るった「空母」が、無用の長物に近かった「戦艦」より前に位置づけられていることが、当時の戦闘の実態をちゃんと反映しているとも評されています。そこで一ノ瀬氏曰く「海軍は詩人に「空母を戦艦の前に置いて作詩してくれ」とわざわざ頼んだのであろうか」。そういうこともありえますね。それだけ航空機の重要性を国民に訴えたいということです。

しかし、彼我の生産力は如何ともしがたく、「皇軍」は壊滅するわけですが、戦後になって、先述の通り、その敗因は「大艦巨砲主義」にあったという論がまかり通ることになります。

一ノ瀬氏、明言は避けていますが、どうやら国民に多大な犠牲を強いた航空機献納運動、少年飛行兵の募集などを無かったことにするため、と考えられます。

現代においても、特にごく一部の「愛国者」と称する輩が、過去の我が国の過ちの数々を無かったことにしようとする動きが顕著ですね。そうしたことを論じるだけで、「反日」「偏向」「工作員」「パヨク」「左巻き」(笑)。

あったことは無かったことにできません。光太郎が戦後になって悔いた、プロパガンダ詩からもう一篇紹介しましょう。上記に題名を挙げた「少年飛行兵」(昭和18年=1943)。初出は同年の少年向け雑誌『週刊小国民』です。右の画像は、やはり光太郎詩「神州護持」(昭和19年=1944)が載った雑誌『主婦之友』に掲載された、航空機献納への募金呼び掛け広告です。

   少年飛行兵004

 「少年飛行兵は強い」と或人がいふ。
 わたくしもさう思ふ。
 少年の純真さは大人の比でない。
 少年はおのづからわき目もふらない。
 大人が修養で得るところを
 少年は天然に持つてゐる。
 それほど少年は未生前に近い。
 思ひつめたが最後
 きつとやりとげるといふ気迫を
 少年はみな持つてゐる。
 これを規律ある訓練で仕上げれば
 なるほどすぐれた飛行兵になるわけだ。
 その上神経反応の速度は
 十四歳でいちばん敏感になるのだ相(さう)だ。
 反応時のはやさは勝敗の鍵となる。
 航空戦に大人をしのぐ
 少年飛行兵のあることは当然だ。
 純なるものはここでも無敵だ。


航空戦に大人をしのぐ/少年飛行兵のあることは当然」という世の中に、再びしてはならないと、断じて思います。


【折々のことば・光太郎】

無謀の軍をおこして 清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。 国民軍を信じて軍に殺さる。 われらの不明われらに返るを奈何にせん。

詩「国民まさに餓ゑんとす」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

こういう反省も必要ない世の中であり続けてほしいものです。

花巻での刊行物2点、ご紹介します。

まず、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』第3号。創刊号第2号同様、裏表紙に花巻高村光太郎記念館さんの協力により「光太郎のレシピ」が連載されています。

イメージ 1  イメージ 2

今回はカレーを中心に、付け合わせの漬物系。昭和21年(1946)の光太郎に日記には、カボチャの花や間引きした白菜(茎でしょうか)などを酢であえてみた的な記述があり、それを再現したようです。なかなか面白いアイディアですね。

オンラインで年間購読の手続きができます。隔月刊、年6回配本。送料込みで3,840円です。ぜひどうぞ。


続いて、盛岡ご在住、光太郎の従妹・加藤照さんの子息・加藤千晴氏による冊子『光太郎と女神たち』。

イメージ 3

加藤氏、昨年5月の花巻高村祭でご講演をされ、その後、当方、ご自宅にお伺いし、照さんにもお目にかかりました。その際に、加藤家に伝わる光太郎書簡や古写真、光太郎の姉・さくが描いたという扇子(表紙に使われています)などを拝見しました。

それらの資料の紹介と共に、加藤家と光雲、光太郎らのつながりについてまとめられたものです。

こちらは非売品の扱いですが、お問い合わせは花巻高村光太郎記念館さんまで。


【折々のことば・光太郎】

少女立つて天を仰ぐは まことに聖なるものの凜たる像だ。

詩「少女立像」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

雑誌『少女の友』に掲載されました。もともと光太郎には婦人誌や少女誌からの原稿依頼が多く、他にも老境に入り、次代を担う若者達へのメッセージが目立つようになります。

詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号第6号と、ほぼ毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

イメージ 1

イメージ 2


今号では「<高村光太郎論> 光太郎とパリ」。光太郎が明治41年(1908)から翌年にかけ、3年余に及ぶ欧米留学の最後に滞在したパリとの関わりを述べられています。

パリ時代を回想して作られた詩文がかなり網羅されており、短い稿の中ですっきりまとまっています。連作詩「暗愚小伝」中の「パリ」(昭和22年=1947)、随筆「遍歴の日」(同26年=1951)、長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)、談話筆記「パリの祭」(明治42年=1909)、翌年のやはり談話筆記で「フランスから帰つて」、随筆「出さずにしまつた手紙の一束」(同43年=1910)、同じく「よろこびの歌」(昭和14年=1939)、さらには光太郎の実弟・豊周の回想も引かれています。

また、巻末の「パリの思い出」でも光太郎に触れられている箇所がありました。

当方は未だパリには行けずにおります。いずれ光太郎の辿った道のり、ニューヨーク、ロンドン、パリ、そしてスイスとイタリアの諸都市を廻ろうとは考えておりますが、いつになることやら(笑)。

パリといえば、親しくさせていただいているテルミン奏者の大西ようこさんが、先週、フランスのエクス=アン=プロヴァンスでコンサートをなされ、パリにも廻るとのことで、ぜひ光太郎が住んでいたカンパーニュ・プルミエル通り17番地界隈に行ってみて下さいと、資料をお渡し、画像を撮ってきて下さいとお願いもしました。そろそろ帰国されると思いますので、期待しております。

過日は、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方から、ロンドンの光太郎ゆかりの場所を廻って来られたということで、多くの画像がメールで届きました。そちらも併せてご紹介しようと思っております。

ご期待下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間商売さらりとやめて もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の うしろ姿がぽつんと見える。

詩「千鳥と遊ぶ智恵子」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

舞台は3年前、智恵子の母・センと、妹・セツの一家が移り住んでおり、それを頼って心を病んだ智恵子が半年ほど預けられた、千葉の九十九里浜です。「智恵子抄」中の絶唱の一つとして、広く人口に膾炙している詩ですね。

ところが、「智恵子抄」に収められてしまうとそれが見えないのですが、この年の雑誌『改造』に初出発表された段階では、「詩五篇」の総題で連作詩のような形を取っていました。他の四篇は、やはり「智恵子抄」に収められた「値(あ)ひがたき智恵子」(明日、ご紹介します)、一昨日と昨日ご紹介した「よしきり鮫」、「マント狒狒」、そして割愛しますが「象」。後三篇は連作詩「猛獣篇」に含まれるものです。

「人間商売さらりとやめ」た智恵子は、もはや「猛獣」に近いものと認識されていたのかもしれません。ただし、光太郎曰くの「猛獣」は、獰猛な獣ということではなく、妖怪やら鯰やら駝鳥やらを含み、人間界に箴言、警句を発する者として捉えられています。

とすると、智恵子の発する箴言や警句は、そこまで智恵子を追い込んだ光太郎に対して向けられていると言えるのではないでしょうか。それを受けて光太郎は、それまでの世間との交わりを極力経っての芸術三昧的な生き方から、積極的に世の人々と交わる方向に舵を切ります。その世の中がどんどん泥沼の戦時体制に入っていったのが、光太郎にとっての悲劇でした。

先日、主に北海道の文学に注目する北方文学研究会さん発行の同人誌『北方人』の第27号を頂きましたが、その中で、釧路で発行されている文芸同人誌『河太郎』第43号が紹介されていました。光太郎に触れる論考が掲載されているとのことで、関係先(web上にアップロード作業をされている同誌サポーターの奈良久氏)に連絡をとったところ、無料で頂いてしまいました。恐縮です。

イメージ 7

光太郎に触れる論考は、『釧路新聞』記者の横澤一夫氏による「原始の詩人たちの時代 『 至上律 』 『 北緯五十度 』 『 大熊座 』」。

イメージ 6

昭和初期に北海道で発行されていた詩誌 『至上律』、『北緯五十度』、『大熊座』に関するもので、それぞれ弟子屈で開拓に当たりながら詩作を続けた更科源蔵を中核とした雑誌です。

このうち、『至上律』は光太郎の命名。他に発表したものからの転載が多いのですが、ヴェルハーレンの訳詩などを多数寄稿しています。この雑誌は戦後まで続き、隠遁生活を送っていた花巻郊外太田村のスケッチなども寄せました。

イメージ 5

イメージ 4

『大熊座』は、昭和13年の刊行。一号で終わってしまいましたが、詩「夢に神農となる」、「高村光太郎作木彫小品・色紙・短冊頒布」の広告を寄せています。

イメージ 2  イメージ 3

『北緯五十度』には光太郎の寄稿は確認できていません。

これら三誌をめぐり、更科と光太郎以外にも、さまざまな人物が関わっています。伊藤整、尾崎喜八、猪狩満直、草野心平、真壁仁、森川勇作……いずれも光太郎と因縁浅からぬ面々です。それらの織りなす人間模様について詳しく述べられ、興味深く拝読致しました。

さらに昨日ご紹介しましたが、今年の明治古典会七夕古書大入札会に、光太郎のものを含む、更科の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿類が出品されており、奇縁を感じました。

先述の通り、web上にアップロードされています。是非お読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

――原始、 ――還元、 ――岩石への郷愁、 ――燃える火の素朴性。

詩「荻原守衛」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

亡き友を偲ぶ詩です。守衛が(そして自らも)目指した彫刻のあるべき姿が端的に表されています。

この年刊行された相馬黒光による守衛回想、『黙移』に触発されての作と思われます。現在、夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」が開催中の信州安曇野碌山美術館さんに、この詩を刻んだ詩碑が建てられています。

イメージ 1

主に北海道の文学に注目する北方文学研究会さん発行の同人誌『北方人』の第27号を頂きました。いつも送って下さっていて、恐縮です。

イメージ 1

さらに恐縮なことに、当会発行の『光太郎資料47』をご紹介下さっています。

イメージ 2

また、当方も寄稿している文治堂書店さん発行の同人誌、「トンボ」第3号の紹介も。ありがたいことです。

それから、釧路で発行されている同人誌『河太郎(かたろう)』の紹介の中に、光太郎の名が。

イメージ 3

光太郎と交流のあった更科源蔵、猪狩満直といった詩人が北海道出身だったり移住したりしていた関係、北海道で発行されていた雑誌に光太郎の寄稿がたびたびあったためですね。とりあえずネットで発行元らしきところを見つけ、送って下さるよう頼んでみました。届きましたらまたご紹介します。


その『トンボ』の第4号も届きました。

イメージ 4

3名の方々による、先頃亡くなった同社創業者の渡辺文治氏の追悼文が掲載されており、当会顧問・北川太一先生の玉稿も含まれています。

イメージ 5

その他、半ば強引に2ページ分の連載を持たされてしまい(笑)、今年で61回目を迎えた連翹忌の歴史と現況について書け、という指示でしたので書きました。

イメージ 6

掲載誌をごそっと送られていますので、ご入用の方はこちらまで。


【折々のことば・光太郎】

足もとから鳥がたつ 自分の妻が狂気する 自分の着物がぼろになる

詩「人生遠視」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

光太郎にとっては不意打ちのようだった智恵子の心の病の顕在化、それにより智恵子が夢幻界へと飛び立ってしまったこと、それに伴う喪失感などが、見事に表現されています。

しかし、病が顕在化したとされる昭和6年(1931)夏から3年半経って、その間に智恵子の自殺未遂、青根温泉などへの湯治旅行、九十九里浜での転地療養などを経、南品川ゼームス坂病院へ入院させる頃に書いた詩です。

0044月に亡くなった詩人の大岡信氏。『朝日新聞』に連載されていたコラム「折々のうた」などで、光太郎に触れて下さっていました。


005


















静岡三島の大岡信ことば館さん、大岡さんが永らく勤務されていた明治大学さん、そして大岡信研究会さんの主催で、追悼の集いが開催されます。

ご家族での密葬は既に終えられ、一般弔問者対象だということです。

大岡信さんを送る会

期 日 : 2017年6月28日(水)
時 間 : 18:00-20:00 (献花17:00~)
会 場 : 明治大学アカデミーホール(アカデミーコモン内3階)
       千代田区神田駿河台1-1

プログラム
 司会 桜井洋子(アナウンサー)
 1.開会の辞:西川敏晴(各主催者を代表して大岡信研究会会長による挨拶)
 2.弔辞
   弔辞① 粟津則雄(文芸評論家、フランス文学者、いわき市立草野心平記念文学館長)
   弔辞② 菅野昭正(世田谷文学館館長、フランス文学者)
   弔辞③ 谷川俊太郎(詩人)
 3.在りし日の大岡信さん(映像)
 4.ピアノ演奏:一柳慧(作曲家 ピアニスト)
 5.大岡信の詩の朗読:白石加代子(女優)
 6.ジュリエット・グレコの歌(映像)
 7.「大岡信さんと明治大学」:土屋恵一郎(明治大学学長)
  8.お礼のことば:大岡かね子

一般のお客様もご参加いただけます。
参加ご希望の方は、平服でお越しください。会費はいただきません。
また供花、供物、御香典はすべてご辞退させていただきます。


谷川俊太郎さんをはじめ、錚々たるメンバーですね。大岡氏の功徳のほどが偲ばれます。かくありたいものです。


【折々のことば・光太郎】

腹をきめて時代の曝しものになつたのつぽの奴は黙つてゐる。 往来に立つて夜更けの大熊星をみてゐる。 別の事を考へてゐる。

詩「のつぽの奴は黙つてゐる」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

「のつぽの奴」は、身長180㌢超の光太郎です。詩の冒頭近くにも使われています。

親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか、何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。(略)いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。

舞台は昭和3年(1928)4月16日、東京会館で行われた光太郎の父・高村光雲の喜寿祝賀会です。口さがない参会者のひそひそ話(だいぶ「盛っている」ような気がしますが)を引用しているという設定です。

光太郎にしてみれば、世間並みの栄達など、縁もなければ興味もありません。しかし、世間的にはそれでは通用しないわけで、確かにある種の「曝しもの」ですね。しかし、祝賀会からの帰り道、天極に輝く大熊座(北斗七星)を見上げ、その立ち位置を甘んじて受けようと覚悟を語っています。

大岡信さん曰く、

昭和の四、五年頃に「詩・現実」という雑誌に高村が詩を発表しているんです。あれは一種同伴者的な雑誌ですけど、あの中でこの種の高村の詩を見ると、むしろ一番急進的で左翼的なんです。迫力があります。断言のいさぎよさみたいなので、他の人のはインテリ的な口振りがつきまとうから、マルクス主義について言っても、アナーキズムについて言っても、どことなく間接的なんですけど、高村の詩が出てくると非常に強烈ですね。
(「討議 超越性に向かう詩人の方法 その生涯をつらぬいたもの」 『現代詩読本 高村光太郎』 昭和53年=1978 思潮社)

なるほど。

イメージ 3  イメージ 4

イメージ 5

新刊情報です。

イメージ 3

近代日本人は聖書のメッセージをどう受け止めたのか? 日本キリスト教史の泰斗が深い共感を持って描く!

時代を超えて日本社会に大きな影響を与えるベストセラー、聖書。近現代に活躍した30人が汲み上げたメッセージとは?

【内容紹介】
日本聖書協会季刊誌SOWERの人気連載「人物と聖書」待望の単行本化。近代日本の各方面で活躍した日本人が、キリスト信徒であるなしに関わらず、聖書とどう向き合い、生き方にどのような影響を受けたのか。日本キリスト教史の第一人者鈴木範久氏が探る、近代日本キリスト教史人物伝。『学燈』(1999年)に掲載された「鈴木大拙の聖書」も収録。

 <収録人物>
夏目漱石、鈴木大拙、田中正造、萩野吟子、内村鑑三、石井亮一、太宰治、井口喜源治、高村光太郎、市川栄之助、川端康成、山室軍平、倉田百三、新島襄、石坂洋次郎、新渡戸稲造、芥川龍之介、西田幾多郎、長谷川保、吉野作造、中勘助、野村胡堂、坂田祐、賀川豊彦、音吉、堀辰雄、山本五十六、萩原朔太郎、斎藤勇、八木重吉

 【著者紹介】
1935年生まれ、専攻は宗教学宗教史学、現在立教大学名誉教授。
 著書に「明治宗教思想の研究」(東京大学出版会)、「内村鑑三日録」全12巻(教文館)、聖書の日本語(岩波書店)など多数。



購入、拝読するまで気づかなかったのです000が、同じ日本聖書協会さんが刊行している雑誌『SOWER』に連載されていたものの単行本化でした。光太郎の項「高村光太郎と聖書」は、平成16年(2004)の第23号に掲載されており、既読でした。

サブタイトルは「美のうしろにあるものを表現しようとした詩人・彫刻家」。

まず、詩「クリスマスの夜」(大正10年=1921)からイエス・キリストについての部分が紹介されています。この詩は親友の作家・水野葉舟の家で行われたクリスマスの集いからの帰途を謳ったものです。葉舟は、日本のキリスト教教会の形成に大きな役割を果たした植村正久から洗礼を受けていました。

東京美術学校彫刻科を卒業し、研究生として残っていた明治38年(1905)、光太郎は葉舟に連れられて植村の下を訪ねますが、入信には至りませんでした。そのあたりにも言及されています。

また、特異なキリスト者・新井奥邃との関わりや、昭和24年(1949)の雑誌『表現』に載ったアンケート「私の愛読書」で、「各年代を通じての座右の書は」という設問に「聖書、仏典、ロダン等。」と答えていることなどが紹介されています。

さらに、今年2月に亡くなっ001た、元埼玉県東松山市教育長で、光太郎と交流のあった田口弘氏についても触れられています。光太郎が敬虔なキリスト教徒だった田口氏に贈った数々の書の中には、聖書の文言を揮毫したものも含まれ、その関係です。

しかし、結局光太郎は入信せずじまいでした。そのあたりの心境は、『聖書を読んだ30人』には取り上げられていないアンケート「名士の信仰」(大正8年=1919、『東京日日新聞』)にも語られています。

私はいろいろの境地をだんだんに通つて来て、今では、吾々人間以上の或る大きな精神が此世に厳存する事を、理屈無しに信じ切るやうになりました。それがキリスト教の神とはまだぴつたり合ひません。私は此から進む処に居るのですから、自分の信仰がどういふ具体的の形になつて来るかは自分でもわかりません。此以上確な事を言ふと嘘になります。

また、光太郎と仏教の関係にも似た点があります。

『聖書を読んだ30人』によれば、光太郎のように、受洗はせずとも
聖書やキリスト教の教えに影響を受けた文化人は多かったようです。上記目次にある人々の多くがそうでした。中には山本五十六など、こんな人まで、と思うような人物も含まれ、興味深く拝読しました。

ぜひお読み下さい。


【折々のことば・光太郎】

おれはまだうごかぬ うごくときはしぬとき

詩「或る筆記通話」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

詩「或る筆記通話」前文は以下の通り。

おほかみのお――レントゲンのれ――はやぶさのは――まむしのま――駝鳥のだ――うしうまのう――ゴリラのご――河童のか――ヌルミのぬ――うしうまのう――ゴリラのご――くじらのく――とかげのと――きりんのき――はやぶさのは――獅子のし――ヌルミのぬ――とかげのと――きりんのき――をはり

「――」の直前の一字をつなげれば、「おれはまだうごかぬ うごくときはしぬとき」となる仕組みです。ある意味、ふざけた詩ですね(笑)。「詩」というものの概念を破壊しようともしていたふしの見える、年少の友人・草野心平あたりの影響もあるかもしれません。

狼やら隼やら、光太郎が好んだ「猛獣」的なものが羅列されています。実際、駝鳥、ゴリラ、鯨、獅子と、連作詩「猛獣篇」のモチーフになった鳥獣も含まれています。

しかし、異質なものが二つ。「レントゲン」と「ヌルミ」。「レントゲン」はX線照射の機械というより、X線の発見者であるドイツの物理学者、ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンでしょう。「ヌルミ」はフィンランドの陸上選手、パーヴォ・ヌルミです。

なぜ鳥獣に混じって人名が、という気がしますが、以外と単純な理由なのではないでしょうか。すなわち「れ」と「ぬ」で始まる鳥獣が思いつかなかったということでしょう。「羚羊(れいよう)」や「ヌー」は、まだ日本では知られていなかったように思われます。

しかし「鵼(ぬえ)」を光太郎が知らなかった、あるいは思いつかなかったとは思えません。「鵼」は猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇という(諸説あり)妖怪です。「鵼のぬ」でもいいような気がしますが、「鵼」は採用しませんでした。おそらく、「鵼」は政財界の黒幕的な、よくわからない怪しいもの、それも腹黒、邪悪、下劣というイメージ(現在の政権やら官僚中枢やらナントカ学園やらナントカ会議にうようよしているようですが)をともなうためではないでしょうか。

「河童」はよくても「鵼」はだめ。勝手な想像ですが(笑)光太郎の美意識が見えます。同時に、これはやはり敬虔なキリスト者の発想ではないでしょう。

余談ですが、「ヌルミのぬ」の部分は、しばらくの間、「ヌカルミのぬ」と誤植され続けていました。陸上のヌルミは五輪金メダル9つの英雄だったのですが、泥濘……(笑)。

昨日の『朝日新聞』さんで、先月亡くなった詩人の大岡信氏について、まるまる1ページ、大きく取り上げられました。「大岡信さん、織りあげた宇宙 心に残る、折々のうた」の総題で、氏が昭和54年(1979)から平成19年(2007)にかけ、同紙に連載されていたコラム「折々のうた」がメインでした。

イメージ 1


国立文学研究資料館館長のロバート・キャンベルさんの談話が掲載されていますが、そちらは割愛します。下記は「折々のうた」の紹介的な内容。

29年、6762回 「世界文学としての詩歌選集」

 「折々のうた」は、朝日新聞創刊100周年記念日の1979年1月25日に始まった。引用作品は2行程度で、大岡さんが約200字の鑑賞文を添えた。掲載は休載期間を含めて2007年3月31日まで29年間、万葉集の収録和歌数約4500を超える6762回に上った。
 初回は高村光太郎、最終回は江戸期の俳人田上菊舎(たがみきくしゃ)。大岡さんは「精力の9割」を作品の選定と配列に割いていると述べ、「2年くらいたつとストックは全くなくなって、勉強しなくてはいけなくなった」とも語っていたが、紹介した詩歌は実に多彩だ。
 阿倍仲麻呂、紀貫之から、アングラ演劇で活躍した寺山修司、詩人・谷川俊太郎まで時代は様々。内容的にも、正岡子規の絶筆「糸瓜(へちま)咲(さい)て痰(たん)のつまりし仏かな」から、金子光晴の孫娘への愛情を歌った「来年になったら海へゆこう。そしてじいちゃんもいっしょに貝になろう。」まで重いものも明るいものもある。
 俳人の長谷川櫂(かい)さんは「この詩歌の国で世界文学として初めて誕生した詩歌選集」。歌人の俵万智さんは自作が紹介された時、駅で新聞を何部も買い、「会う人ごとに話しかけたいような気分」で「心から励まされた」。いずれも童話屋が刊行した「折々のうた」のあとがきで書いている。


イメージ 2

というわけで、記念すべき第一回が、光太郎の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)。そちらが当時の紙面から引用されています。

イメージ 3

本職の歌人ではない光太郎の作を、記念すべき連載第一回に、よくぞ取り上げて下さったという感がします。


その他、「折々のうた」の書籍、三島市の大岡信ことば館さんも紹介されています。

本になった「折々のうた」手元に

 岩波新書の「折々のうた」(002全10冊)と「新折々のうた」(全9冊)は、1980年から続々と刊行されてきたシリーズだ。ただほとんどが品切れ重版未定で、古書でなければ入手は難しい。1冊目の1980年刊の「折々のうた」は42万部のロングセラーで入手可能。岩波書店刊「折々のうた 三六五日」は大岡さんが365日それぞれにふさわしい詩歌を選んで編んだ愛蔵版だ。
 季節ごとの詩歌をまとめた4分冊「折々のうた 春夏秋冬」(童話屋)は昨年、刊行された。谷川俊太郎さんが代表を務める「折々のうたを読み伝える会」が編集。引用された作品の作者の略歴や用語説明も付け加えている。


最後に書かれている童話屋さん版の、「冬」編に、上記「海にして……」の短歌、大正3年(1914)の詩「僕等」の一節が掲載されています。

作品や横顔、深く知るには…

 大岡さんが生まれた静岡県三島市には、作品や横顔を紹介する「大岡信ことば館」(JR三島駅徒歩1分)がある。造形家の岩本圭司さんが館長を務め、常設展のほか、追悼特別展を9月から開く予定。
 「大岡信研究会」(西川敏晴会長)では評論家三浦雅士さんら有識者が大岡作品を読み解き、論じてきた。今月28日午後2時、明治大学リバティタワー研究棟で、大岡さんの教え子の松下浩幸・明治大教授が「大岡信と夏目漱石」と題して講演(参加費は会員外1千円)。研究会は一般の人も入会可。問い合わせは事務局(花神社内、03・3291・6569)へ。


そして、来月行われる「送る会」についても。

送る会 来月28日、明治大学で

 大岡さんを送る会が6月28日午後6時から、東京都千代田区の明治大学アカデミーホールで開かれる。開場は午後5時。詩人谷川俊太郎さんが詩を朗読。作曲家一柳慧さんがピアノ演奏、俳優白石加代子さんが大岡さんの詩を朗読する予定。一般の人も参加可で「平服でお越し下さい」と主催の大岡信研究会(事務局は花神社、03・3291・6569)。


あらためて、ご冥福を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。 その詩は雑然と並んでもゐる。 その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。

詩「その詩」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

昨日もご紹介した詩「その詩」から。

やはり光太郎詩の「原理」が、色濃く、端的に表されています。

勝手な想像ですが、大岡さんなども、詩のあり方として「そうそう」とうなずいて下さるような気がします。

新刊情報です。

宮沢賢治と森荘已池の絆

2017年4月23日 森三紗著 コールサック社 定価1800円+税

イメージ 2

父は賢治との十年にわたる交友の証である書簡二十一通はことにも大切にしていた。幸いなことに、戦火に会うことも免れて貴重な文化的遺産として、父が生命の次に大切だという賢治からの書簡を目にする機会にも恵まれたのだ。(あとがきより)

目次

春谷暁臥        宮沢 賢治 
Ⅰ 宮沢賢治と森荘已池の絆
 1 タミと佐一と賢治 ―梶原多見枝詩集『草いちご』復刻版解説文  
 2 森荘已池展・賢治研究の先駆者たち②・企画展資料集より 
  《森荘已池(佐一)の幼年時代》 
  《文学の夢ふくらむ》― 佐一の盛岡中学時代― 
  《あなたが北小路幻なら尊敬します》― 佐一『春と修羅』に感動 ― 
  《佐一と賢治の交流》― 店頭での出会い ― 
  《『貌』をめぐって》― 佐一と賢治の交友開始 ―  
  《「春谷暁臥」の書かれた日》― 佐一と賢治交友深まる ― 
  《宮沢賢治から森佐一(惣一)に宛てた書簡》 
  《石川善助をめぐって》― 佐一と賢治 ― 
  《賢治の推薦で「銅鑼」同人となる》 
  《賢治没後の評価》― 岩手日報「宮沢賢治」追悼号 ― 
  ― 岩手日報の佐一と賢治の関連記事 ―  
  《十字屋版『宮澤賢治全集』の編集》 
  《宮沢家での聞書き》― 「宮沢賢治氏聴書きノート」― 
  《宮沢賢治の伝記について》 
  《宮沢賢治の短歌について》― 『宮澤賢治歌集』刊行 ― 
  《芥川賞候補、直木賞受賞について》 
  《森荘已池(惣一)の宮沢賢治研究の足跡(1)》 
  《森荘已池の宮沢賢治研究の足跡(2)》 
  《森荘已池の文芸活動(著作)》 
  《賢治から荘已池(佐一)への遺品》 
  《森荘已池と随筆》― 宮澤賢治をめぐる「ふれあいの人々」―
  《光をあてた人々》 
 3 森佐一が森荘已池になるまで ―森荘已池詩集『山村食料記録』解説・解題 
 4 宮沢賢治の短歌が世に出るまで ―『宮澤賢治歌集 森荘已池校註』新版解説文
 5 森荘已池と「風大哥」考 
 6 石川啄木と宮沢賢治と森荘已池 ―『一握の砂』発刊百年に思う
 7 『ふれあいの人々 宮澤賢治』新装再刊 ―「森荘已池ノート」解説文

Ⅱ 賢治文学の深層
 1 宮澤賢治の宗教と民間伝承の融合 ―世界観の再検討 童話〔祭の晩〕考 
 2 文語詩「選挙」考 ―『宮沢賢治 文語詩の森 第三集より』 
 3 宮澤賢治がロシア文学から影響された共存共栄の概念 ―作品の見直し 
 4 高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿
 5 宮沢賢治と同人雑誌(第一回)―「アザリア」「反情」「女性岩手」 
 6 宮沢賢治と同人雑誌(第二回)「貌」① ― 森佐一(荘已池)と生出桃星と宮沢賢治
 7 クーボー博士とブドリ 「凶作に関する研究」と実践(一)  

Ⅲ 賢治研究の歴史とその後の詩人たち
 1 昭和二十年までの賢治評価―「岩手日報」を中心として
 2 宮沢賢治の会(盛岡)七十年の歩み ―機関誌「イーハトーヴォ」を中心として 
 3 第三回宮沢賢治国際研究大会成功裡に終る―「賢治さんの想像力ときたら、大したもんだ!」
 4 イーハトーブの詩の系譜

初出一覧 
宮沢賢治と森荘已池(佐一)交流略年譜
あとがき 
著者略歴 


森荘已池(そういち)は、明治40年(1907)、盛岡出身の直木賞作家です。詩も書いており、在学期間はかぶりませんが、旧制盛岡中学校の先輩であった宮沢賢治と深い交流を持っていました。光太郎とも賢治つながりで縁があり、戦後の光太郎の日記や書簡にその名が頻出します。著者、三紗氏は荘已池の息女です。

『高村光太郎全集』には、光太郎から森宛の書簡が2通掲載されていますが、いずれも佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの転載でした。すると、平成21年(2009)、森の遺品の中からその2通を含む8通の光太郎書簡が発見され、岩手ではニュースになりました。その後、三紗氏ともお会いする機会があり、その話もしたのですが、これまでその内容が不分明でした。

今回出版された『宮沢賢治と森荘已池の絆』中に、「高村光太郎と宮沢賢治と森荘已池 ―二〇〇八年七月十九日 宮沢賢治の会講演改稿」という項があり、そこに当該書簡も全文が掲載されていました。同項は平成21年(2009)の雑誌『コールサック』が初出だったとのことでしたが、それは存じませんでした。全集既掲載のもの以外は、昭和26年(1951)から翌27年(1952)にかけ、花巻郊外太田村の山小屋から送られたものが5通、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後のものが1通。

とりわけ最後のものは、面白い内容でした。森から届いたリンゴ一箱の礼状で、「東京へ来てみると岩手のリンゴのうまさがよく分かります。東京の果物屋の店頭にさらされてゐるリンゴはまつたくダメです。近所の人にもわけて喜ばれました。」とあります。また、現在、花巻高村光太郎記念館の企画展「光太郎と花巻の湯」で展示中の、光太郎が使っていた浴槽にも触れています「てつぽう風呂の事は笑止でした。」ただ、どうして笑止なのかなど、詳しいことはわかりません。

その他、当方、森の詳しい人となり等、存じませんでしたので、興味深く拝読しました。光太郎もからむ各種『宮沢賢治全集』出版に森も大きく関わっており、読んでいてパズルのピースが埋まってゆくような感覚でした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

――私は口をむすんで粘土をいぢる。 ――智恵子はトンカラ機(はた)を織る。
詩「同棲同類」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

今日は智恵子131回目の誕生日です。

20代の頃、雑誌『青鞜』の表紙絵などでならした智恵子ですが、昭和に入って40代ともなるとると、もはや油絵制作には行き詰まり、光太郎の手ほどきで彫刻をはじめたり、草木染めに挑戦したり、そしてこの詩にあるように機織りにも取り組んだりしました。機織り機は郷里から取り寄せたとのこと。光太郎が亡くなるまで愛用していたちゃんちゃんこは智恵子の織った布で作られたものです。

イメージ 1

しかし、この年には実家は破産寸前、智恵子の心にぽっかり空いた空洞は、彫刻でも草木染めでも、機織りでも埋められることはありませんでした。

明日まで展示「検閲官 ―戦前の出版検閲を担った人々の横顔」が開催されている、千代田区立千代田図書館さんでの次の展示です。 

展示 10分で出会う吉本隆明展 ~晶文社『吉本隆明全集』によせて~

期 日 : 2017年4月25日(火)~7月22日(土)
場 所 : 千代田区立千代田図書館9階 展示ウォール 
       千代田区九段南1-2-1千代田区役所9階・10階
時 間 : 月~金 午前10時~午後10時 土 午前10時~午後7時  日・祝 午前10時~午後5時
休館日 : 第4日曜日
料 金 : 無料
主 催 : 千代田区立千代田図書館 晶文社

吉本隆明さんを知っていますか?
吉本さんは、思想家であり、文学者でもあります。若い方々には、「吉本ばななのお父さん」としてより広く知られているかもしれません。化学の専門教育を受けるいっぽう、詩人として世に出た彼は、会社勤めをしながら詩作や評論活動をつづけ、詩情と合理性をあわせもった思想家として、時代時代の世論や知識人に影響をあたえました。
吉本さんが「戦後最大の思想家」と呼ばれるほどのゆるぎない思想を、戦後の混沌とした価値観の中で打ち立てることができたのは、なぜなのでしょうか。さまざまな価値観がリアルタイムで共有される、「正解」のない現代、吉本さんの、何者にもよりかからない「自立」の力が、より魅力的に感じられます。
今年は平成24年の死去から5年、本展では吉本さんの人生と膨大な業績を、パネル・著書や関連書籍(一部を除き貸出可)・愛用品・書斎の写真などで紹介します。

イメージ 1

戦後、この国で初めて光太郎を真っ正面から取り上げた故・吉本隆明。当会顧問・北川太一先生とは、東京工業大学等でご同窓、光太郎がらみで終生、交流を続けられました。

その没後、晶文社さんから『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の刊行が始まり、これまでに刊行された第5巻(月報に北川先生玉稿掲載)、第4巻、第7巻第10巻第12巻などで、光太郎に言及した文筆作品が所収されています。

その『吉本隆明全集』が第Ⅱ期刊行に入るということで、いろいろ行われている記念イベントの一環としての展示です。

先週には同じく記念イベントの一環、「糸井重里さん×ハルノ宵子さんトークイベント「はじめての吉本隆明」が開催されました。当方、申し込んだのですが、すでに先着順で定員に達しており、聴けませんでした。残念。

今回は関連行事として講演会が予定されています。 

講演会「ビジネスに活かす「吉本隆明」」

期 日 : 2017年5月24日(水曜日)
場 所 : 千代田区立千代田図書館9階=特設イベントスペース 
時 間 :  午後7時~8時30分
料 金 : 無料 定員50名 申し込み不要 先着順
講 師 : 山本哲士さん(文化科学高等研究院ジェネラル・ディレクター)

イメージ 2

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

こほろぎの声をきくと、 物の哀れどころか、あべこべに、 十悪業が目をさます。 こんな男にかかつては、 詩も歌もおしまひです。

詩「殺風景」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳  

「十悪業」は「じゅうあくごう」と読み、仏教用語です。「十悪業道」とも。

 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』によれば、(1) 殺生,(2) 盗み,(3) 邪淫,(4) いつわり (妄語) ,(5) 中傷 (両舌) ,(6) ののしり (悪口) ,(7) ざれ口 (綺語) ,(8) 貪り,(9) 怒り,(10) 誤った考え (邪見) の 10種。 (1) ~ (3) が身体動作に関するもの,(4) ~ (7) が言語表現に関するもの,(8) ~ (10) が心理作用に関するもの。

「殺生」や「盗み」はともかく、社会矛盾に対し痛烈な「怒り」を覚えていた光太郎、詩歌の中で「両舌」やら「悪口」やら「綺語」やらは、確かに開陳していました。光太郎にとっての詩歌は「花鳥諷詠」たり得ない、ということなのでしょう。

↑このページのトップヘ