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新刊です

歌人番外列伝|異色歌人逍遥

2020年11月16日 塩川治子著 短歌研究社 定価2,500円+税

「この一集は塩川さんのウィットに富む眼差しにより、信濃はもとより日本の歴史、文化をより豊かに語り伝える才筆の一集である」(春日真木子・序)

他分野で名を成すとともに、独自の歌境を切り拓いた二十世紀の「番外歌人」たち。
歴史上の人物が残した歌を辿る「異色歌人逍遥」。
多くの文化人が集った軽井沢に居を構えて四十余年、数々の交流の思い出も交えつつ、歌集を繙いてゆく────
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目次003

序 春日真木子
【歌人番外列伝】
 一 回生の人──鶴見和子
 二 越しびと──片山廣子
 三 孤涯の人──小林昇
 四 琉球の女──久志富佐子
 五 不知火の人──石牟礼道子
 六 博士の面影──河上肇
 七 歌あらば──二人の死刑囚
 八 剣に代ふる──尾崎咢堂
 九 歌の孤立者──大熊信行
 十 白斧の人──高村光太郎
 十一 涙の歌人──堀口大学
 十二 夢のうたびと──福永武彦
 十三 政塵の人──井出一太郎004
 十四 科学者の憂い──湯川秀樹
 十五 土佐の女──大原富枝
 十六 理論と詩──石原純
 十七 ラケットをもった貴婦人──朝吹磯子
 十八 知の巨人の愛──加藤周一
 十九 ざんげ歌の哀しみ──小原保
 二十 実りのひとつ──宮沢賢治
 二十一 農民とともに──若月俊一
 二十二 太陽でありたかった女──平塚らいてう
 二十三 この世の外──大伴道子
 二十四 火の国の女──高群逸枝
 二十五 忍ぶ女ひと ──津田治子
 二十六 ロマンの人──中河与一
 二十七 叫ばむとして──宇佐見英治
 二十八 残夢──徳富蘇峰
 二十九 斜陽の女──太田静子005
 三十 草雲雀の人──立原道造
【異色歌人逍遥】
 一 紫式部
 二 源実朝
 三 樋口一葉
 四 只野真葛
 五 本居宣長
 六 高井鴻山
 七 賀茂真淵
 八 上田秋成
 九 道元
 十 良寛
あとがき

光太郎を始め、いわゆる専門の「歌人」ではない人々の短歌を紹介し、論評を加えています。元々雑誌『雅歌』に連載されていたもののようですが、存じませんでした。

光太郎の項は「白斧の人──高村光太郎」という小題。「白斧」は、昭和23年(1943)に刊行された光太郎歌集の題名です。上記目次脇にスペースが出来てしまったので画像を載せておきました。上は通常版、下は特製限定本(850部)です。特製限定本には光太郎の揮毫を写真製版したページが4ページ。一番下の画像がそのうちの1ページで、明治39年(1906)、留学のため渡米する船中で詠んだ「地を去りて七日十二支六宮のあひだにものの威を思ひ居り」が書かれています。

『白斧』という題名は、明治37年(1904)の『明星』にに載った短歌35首の総題から採られました。総題を付けたのはおそらく鉄幹与謝野寛ですが、元としたのは「刻むべき利器か死ぬべき凶器(まがもの)か斧の白刃(しらは)に涙ながれぬ」。

さて、「白斧の人──高村光太郎」。この「刻むべき……」に始まり、明治末から晩年までの20首ほどを取り上げつつ、光太郎の歩みを簡略に紹介しています。短歌はその名の通り短いので、それらを引きつつ生涯を俯瞰するというのは、紙幅もそれほど取らずにすむので、なるほどと思いました。これが詩ですとそうはいかないでしょう。

特に目新しいことは書かれていなかったのですが、ただ、引用されている短歌に、『高村光太郎全集』等にみあたらないものが1首。

いたづらに世にながらへて何かせむこの詩ひとつに如かずわが歌

というものですが、当方、存じませんでした。出典や初出掲載紙といった情報が書かれておらず、何かご存じの方はご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

午前六時24分花巻駅発盛岡行。細雨。


昭和20年(1945)8月25日の日記より 光太郎63歳

終戦からまだ10日ですが、早くも講演を頼まれ、初めて盛岡に行きました。この際に見た岩手山の印象が、詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に反映されているのではないかと思われます。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さんのPR誌、第11号が届きました。
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これまでカタカナで「トンボ」だった題名が、ひらがなで「とんぼ」に変更。題字揮毫は堀津節子さん。月刊書道誌『不二』、『ペンの力』で手本を書かれているそうです。ご主人の故・堀津省二氏は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の教え子で、東大図書館さんにお勤めでした。当方が刊行を引き継がせていただいた『光太郎資料』の初期の頃、掲載記事の一部をご執筆なさったり、ガリ版印刷のガリ切りをなさったりした方です。

題字下の装画は、北川太一先生がご趣味として取り組まれていた版画。かつて先生は版画の個展も開かれていました。

内容的には、「特集 賢治童話と詩について」だそうで、宮沢賢治が大きく取り上げられています。
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賢治は光太郎とも交流があり、光太郎は戦時には宮沢家を頼って花巻に疎開した経緯もあり、北川先生のご子息・光彦氏は「宮沢賢治『雨ニモマケズ』と高村光太郎」という一文を寄せられています。
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さらに前号が北川先生追悼特集だったため、その感想等。
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当方も拙文「連翹忌通信」を連載させていただいております。ただ、当方は気まま勝手な内容で(笑)。今号は4月のこのブログでご紹介した、ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見について。美術史上、大変な発見ですので、少しでも機会があれば広めねば、と思ってこの件を書きました。
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ご入用の方は、文治堂書店さんまでご連絡下さい。一応、頒価500円+税ということになっています。

【折々のことば・光太郎】

日本の衣食住の今日の吾人の生活状態及心理状態に対して如何にも不合理なのを強く感じた。社会一般が皆不安定に見えるのも、日々此矛盾を各個人が忍んでゐるからだ。知らずに忍んでゐるのだ。人が物事を「間に合せて我慢」してゐる間は日本の真の文明は期し難い。


明治43年(1910)9月14日の日記より 光太郎28歳

いわゆる大逆事件での幸徳秋水や管野スガらの不当検挙、韓国併合などを念頭に置いての発言と思われますが、何だかコロナ禍の現代のことを言っているようにも読めます。

この年4月には、共に手を携えて日本に新しい彫刻を根付かせようと約していた、碌山荻原守衛が急逝したりもしています。

昨日に引き続き、少し前に出た書籍を

140字の文豪たち

2020年7月20日 川島幸希著 秀明大学出版会 定価909円+税

漱石、鏡花、谷崎、芥川、太宰など文豪の魅力を、史実にもとづく知られざる言葉やエピソードによって紹介するツイッターの人気アカウント「初版道」。
その文学ツイートを作家別に再構成し、解説を書き加えた。巻頭には珍しい自筆原稿や署名本のカラー画像16ページを収録する。  
近代文学研究者で古書コレクターの著者にしか書けない空前の本。
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目次
 まえがき 太宰治ツイート 中原中也・宮沢賢治ツイート 梶井基次郎・川端康成ツイート
 芥川龍之介ツイート 佐藤春夫・菊池寛ツイート 萩原朔太郎・室生犀星ツイート
 志賀直哉・武者小路実篤ツイート 谷崎潤一郎・永井荷風ツイート 泉鏡花ツイート
 夏目漱石ツイート その他の文豪ツイート 文豪のいないツイート

川島氏は千葉県八千代市にある秀明大学さんの学長。近代文学初版本のコレクターとして知られ、『日本古書通信』さんに連載をお持ちだったり、こうして初版本などに関するご著書を出されたりしています。

また、かつては同大の学祭「飛翔祭」で、ご自慢のコレクションを公開。平成26年(2014)には『道程』の特装本が展示され、拝見して参りました。その後、同大近代文学展示館が開館、そちらでもコレクションの一部が閲覧可能です。

ツイッター上では「初版道」というアカウントを展開中で、本書はそちらに掲載されたツイートを再編したもので、最近、静かなブームの各種「文豪もの」とはまた異なる趣の内容です。

「初版道」では、時折光太郎に関するツイートがあり、本書にも載っているだろうと推理して購入したところ、「その他の文豪ツイート」で、やはり光太郎を取り上げて下さっていました。
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三好達治ともども、「イタ過ぎる」翼賛詩について。まさにお説ごもっともですね。
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『道程』について。ちなみに以前にも書いた記憶がありますが、国会図書館さんのデジタルデータに登録されている『道程』は、ここにある残部の改装版です。初版は大正3年(1914)ですが、国会図書館さんのものはその翌年。奥付にその旨が記載されていないので、そうと知らなければこれが初版と思いこんでしまうかもしれません。実際、ネット上などで『道程』の発行年を「大正4年(1915)」としてしまっている記述も眼にしたことがあります。注意が必要ですね。下の画像、左は当方手持ちの初版、右は国会図書館さんのものです。
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それにしても、賢治の『注文の多い料理店』が運動会の景品だったというのは驚きでした(笑)。

『道程』に関しては、巻頭のグラビアに画像も。
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表紙に「道程」の文字が見えないのでわかりにくいのですが、上から二段目、左から四冊目の、装画のない本がそれです。ちなみに一番手前の中原中也『山羊の歌』題字は光太郎揮毫です。

他の文豪の第一詩歌集ともども、「たとえ思想的に、あるいは技巧的に未熟であっても、その1冊に青春のすべてを賭けた著者の思いが、読者の胸に響く」。けだし、その通りでしょう。

その他、光太郎と交流の深かった文学者に関する「ツイート」がてんこ盛りで、興味深く拝読。目次にない「その他の文豪」の中には、光太郎の姉貴分・与謝野晶子や、盟友・北原白秋も取り上げられています。

オンライン書店で販売中。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

又、彫刻其のものよりも彫刻した図題そのものを貴ぶ様な傾きある今日の日本彫刻界の有様から考へてみると、其の自然に対する態度に於いて学ぶべき所がありはせぬかと思はれる。


雑纂「翻訳「ロダンといふ人(JUDITH CLADEL)」前書き」より
明治43年(1910) 光太郎28歳

原典は、ロダンの秘書を務めたジュディト・クラデルによる『Auguste Rodin : l'oeuvre et l'Homme』で、明治41年(1908)にベルギーのブリュッセルで刊行されています。

ロダン語録という点では、のちの『ロダンの言葉』(大正5年=1916)に通じますが、なぜかこの訳は『ロダンの言葉』、『続ロダンの言葉』(大正9年=1920)に組み込まれませんでした。

テレビ再放送の情報です

先人たちの底力 知恵泉「新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」

NHK Eテレ 2020年9月29日(火) 12時00分~12時45分

明治・大正・昭和の日本で、先駆的な活躍をした女性を2週にわたって紹介。今回は平塚らいてう。男に支配されない、新しい女の生き方を世に問い、闘い続けた知恵と勇気とは。

「元始、女性は太陽であった」と宣言した女性解放運動の先駆者、平塚らいてう。自由な恋愛、結婚、男に支配されない“新しい女”の生き方を世に問い、「国家は母親を保護しその生活を保障すべき」と訴えた。これに与謝野晶子が「経済的に自立していない女は子どもを産むな」と反論。現代にも通じる「母性保護論争」を繰り広げ、性差を考える大きなきっかけとなった。挫折を乗り越え、闘い続けた平塚らいてうの知恵と勇気に学ぶ。

出演 働き方改革コンサルティング企業代表・小室淑恵
   熊谷真実
   日本女子大学非常勤講師・差波亜紀子
司会 新井秀和

本放送が9月22日(火)にあり、拝見しました。
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ご出演は、働き方改革コンサルティング企業代表・小室淑恵さん、女優の熊谷真実さん、日本女子大学非常勤講師・差波亜紀子さん、ビデオ出演ではNPO法人・平塚らいてうの会代表の米田佐代子さん。
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平塚らいてうを中心に据えていましたので、まず、らいてうの生涯が簡略に。
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日本女子大学校を卒業後、森田草平との心中未遂事件を経て、『青鞜』創刊。創刊号の表紙絵は智恵子に依頼しましたが、残念ながら番組では智恵子の名が出て来ませんでした。
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『青鞜』誌上でさまざまな女性問題を取り上げる中で、らいてう自身も母となり、さらに様々な困難に直面します。そうした折りにスウェーデンの社旗学者エレン・ケイの思想に共感し、社会保障的に国家が母親を支援すべしと表明。それに真っ向から異を唱えたのが、光太郎の姉貴分・与謝野晶子でした。
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らいてうも黙ってはいません。そしていわゆる「母性保護論争」が勃発。
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さらに山川菊栄も加わり……。
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このあたり、非常にわかりやすくまとめられていました。
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その後、らいてうは新婦人協会を設立。
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やがて、女性にも普通選挙権が認められ、まがりなりにも男女雇用機会均等法などが成立するわけですが、しかしいまだに女性が女性であるゆえの苦労は尽きないわけで……。

出演者の皆さん、そのあたりについても、本音トーク。
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黒一点(笑)、司会の新井秀和アナも、これにはたじたじでした(笑)。

もう1件。

こちらは9/18にあった本放送を見逃したのですが、やはりNHK Eテレさんの「にほんごであそぼ」

にほんごであそぼ「道程」

NHK Eテレ 2020年10月2日(金)  6時35分~6時45分/17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。今日は…「道程」、文楽/小謡~浄瑠璃風~「釣女」より、童謡「村祭」、はんじえ/すずめ→だいこん、名文を言ってみよう!/寿限無、うた「シェイクスピアのうた」

出演
美輪明宏 竹本織太夫 鶴澤清介 三世桐竹勘十郎 おおたか静流 池田鉄洋 中尾隆聖ほか

この回以外にも、9月23日(水)の「過ちて…」の回でも「道程」が取り上げられていまして、こちらも再放送があるかと思いますが、詳細日程が出ましたらまたお伝えします。

それぞれぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

英語もラジオ放送の小川さんは、新しいものをやっているのでたいへんいいです。僕も復習のつもりできいています。語学は使わないでいるとだめになります。きくと思い出します。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一二」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に光太郎が蟄居していた頃は、まだテレビ放送は始まっていませんで、しかし、光太郎、ラジオ放送はよく聴いていたようです。まあ、それも村人の厚意で小屋に電気が通るようになった昭和24年(1949)以降のことですが。

「小川さん」は小川芳男。当時、東京外国語大学助教授で、ラジオの「基礎英語」を担当していました。

マザータングの日本語プラス、英仏二語もペラペラのトライリンガルだった光太郎ですが、やはり日常的に耳にしたりしゃべったりしないと忘れてしまうということで、「基礎英語」を聴いていたのですね。素晴らしいと思います。

『毎日新聞』さん、今月2日の夕刊文化面に掲載された記事です。 

大岡信と戦後日本/28 折々のうた 詩歌の喜びと驚きを示す

003 大岡信のコラム「折々のうた」は、1979年1月から2007年3月まで朝日新聞に連載された。古今の短歌、俳句、詩や歌謡の一節を掲げ、鑑賞を180字の短文でつづるという前例のない企画だった。何度かの休載期間を挟みながら足かけ29年、休刊日を除く毎日続き、計6762回に及んだ(『新 折々のうた9』07年)。
 「折々のうた」といえば朝刊1面のイメージだが、スタート時は最終面に載っていた。同紙創刊100周年の79年1月25日朝刊から曽野綾子氏の連載小説「神の汚れた手」が始まるが、「折々のうた」はその左横の小さなスペースに置かれた。「現代の万葉集」とも呼ばれた大アンソロジーの出発はささやかだった。
  第1回は高村光太郎(1883~1956年)の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。解説する大岡の文章の一部を引く。
 <美校生だった彼が、明治三十九年二月、 彫刻修業のため渡米したとき、船中で作ったもの。(中略)高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える>
  美校は東京美術学校(現・東京芸術大)。詩集『道程』『智恵子抄』で名高い詩人の、 わざわざ若き日の短歌を初回に出したところに並々ならぬ意欲がうかがえる。翌日以降は江戸中期の俳人、加舎白雄(かやしらお)の俳句、上田秋成(江戸中期の文人)の短歌、白居易(唐代の詩人)の漢詩と続く。時代もジャンルも実に多様だ。
 当時の同紙編集幹部が最終面の扱いを「もったいない」と考え、3カ月余り後の5月から1面に移す。これで話題となり、翌80年に菊池寛賞を受賞する。また1年分を加筆・修正してまとめ、岩波新書で刊行する形を取ったことも読者を広げた(総索引を含めシリーズ計21冊)。
 ところで、「折々のうた」が始まった時、記者は高校2年。その頃同紙を読んでいたが、存在を意識したのは1面に移った3年の時だった。 詩の魅力が、わずか2行の引用で表現されているのに目を見張った。
 例えば宮沢賢治(1896~1933年)の「海だべがど おら おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」(「高原」)。大岡は、「ホウ/髪毛(かみけ)風吹けば/鹿(しし)踊りだぢやい」と続くことを紹介したうえで、こう記す。<詩全体は、海かなと思ったが、やっぱり光る山だったぞ、風が吹けば、鹿踊りにかぶる面の髪みたいに、髪が踊るぞ、という意味だろう。(中略)この方言詩は生きている>(新書版『折々のうた』)。
 詩のリズム感とともに、凝縮された解説文から読者は「生きている」詩の脈動を感じ取ることができる。同様に、このコラムを窓として詩の世界の豊かさを見た人々は多くいただろう。 詩人の蜂飼耳さん(46)は小学生の頃、既にあったこの欄に、自然になじんでいたという。「『折々のうた』は、ジャンルの垣根を取り払い、時代や言語を超えて詩歌の『喜び』と『驚き』が併存することを可能にした方法そのものだった」。確かに欧米その他の翻訳詩も取り上げられた。
 大岡自身は出発時点の思いを「『日本詩歌の常識づくり』。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫」と述べていた(同書あとがき)。それが長く人々を引き付けたのは、彼が「硬直しない感受性の持ち主」で「言葉と詩の関係を、先入観なく根本から考えることのできる人」(蜂飼さん)だったからだろう。
 連載が終わった後、作家の丸谷才一(25~12年)は毎日新聞に、新書シリーズ全巻を対象とする書評を寄せ、「コラムの成功」を勅撰(ちょくせん) 和歌集になぞらえた。「共同体が詞華集(アンソロジー)によって詩情を教える風習は、明治維新によって残念ながら断絶された。大岡信の『折々のうた』は(中略)長きにわたるわが短詩形文学の富を誇っている」(07年12月2日朝刊)
 その「成功」は新聞界に広く影響を及ぼし、 ヒントにした欄が各紙に登場した。では、「折々のうた」はどんな時代に、いかなる問題意識によって取り組まれたのか。

同紙では昨年から月イチ005の連載で「大岡信と戦後日本」が掲載されており、その第28回。氏の業績の一つ、『朝日新聞』さんに連載された伝説のコラム「折々のうた」が取り上げられています。他紙のコラムについてその意義を実に好意的に評していて、『毎日』さんの懐の深さといいますが、そういうものを感じますね。

その「折々のうた」、記念すべき第一回で大岡氏が取り上げたのが、光太郎短歌「海にして……」。この歌、光太郎短歌の中では代表作の一つといっていい詠です。

それが大岡氏の没後、単に「高村光太郎の代表的短歌」というだけでなく、「大岡信氏が「折々のうた」連載の第一回で取り上げた歌」という新たな評が付け加わったような感もあります。

今後とも、大岡氏の業績と共に、語り継がれていって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

口語歌は既に成り立つてゐると思ふ。在来の歌と両立してゆくのに何の不思議も無い。生活内容と感じ方とモチヴとが互に相違してゐるだけの事で、どちらが抹殺せられる事も出来ない時代に僕たちは生きてゐる。

アンケート「口語歌をどう見るか(批判)」全文
大正14年(1925) 光太郎43歳

明治39年(1906)詠の「海にして……」はまだ文語歌ですが、大正に入ると光太郎も口語歌を量産するようになります。ほとんどは雑誌『明星』(第二次)に寄せたものでした。

このブログの平成28年(2016)の1年間、大岡氏の「折々のうた」のパクリで【折々の歌と句・光太郎】と題し、366(閏年でしたので)の光太郎短歌・俳句・川柳などの定型作品を毎日1つずつ紹介しました。暇な時にでもお目通し下さい。

静岡は伊東で発行されている同人誌的な総合文芸誌『岩漿』の第28号を戴きました。深謝。

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主宰の小山修一氏によるエッセイ「高村光太郎と木下杢太郎」が掲載されており、興味深く拝読しました。

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木下杢太郎は本名・太田正雄。光太郎より2歳年少で、伊東の生まれ。医学博士として大学で教鞭をとりつつ、文学や美術で幅広く活躍しました。光太郎同様、その活動の出発点は雑誌『明星』でしたので、近年、明星研究会さんでは杢太郎もよく取り上げられています。さらに文芸運動「パンの会」の中心メンバーでもあり、光太郎との交流は『明星』や「パンの会」を通してのものでした。

それから、智恵子とも交流があったようで、神奈川近代文学館さんには、明治45年(1912)、智恵子が作家の田村俊子と共に開催した「あねさまとうちわ絵」展の、杢太郎に宛てた案内状が所蔵されています。ちなみに同館には光太郎から杢太郎宛の書簡も多数所蔵があります。

さて、小山氏の稿。杢太郎が、評論家で光太郎とも交流があった野田宇太郎に対して語った「高村君は戦争詩ばかり書かされているようだね。もつと本当の詩があるはずだ。それを書かせようではないか」という発言を引く所から始まります。時に太平洋戦争末期、実際、光太郎は愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っていました。昔からの心ある友人は、こうした光太郎に眉を顰めるというか、真剣に心配していたのでしょう。

しかし、そういう杢太郎自身も、光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会編の翼賛詩集である『辻詩集』(昭和18年=1943)に寄稿しています。ただ、目立った翼賛文学活動はこれだけのようですが。もっとも、既に杢太郎は文学界の第一線からは身を引き、本業の医学者としての活動の方がメインでした。

その杢太郎、終戦直後に病死しています。そこで小山氏、「真の自由への人間解放や人間の尊厳確立、古典研究による教養の獲得などによる人間愛を追求していたユマニテ思想の杢太郎と、厳格に個人主義を標榜していた光太郎。意に反する軍国主義の激動時代を生きた二人が戦後に再会していたなら互いに影響しあい、現代の文化に多大な功績を残したに違いないと思う。」と結ばれています。おそらくその通りですね。

さて、『岩漿』。上記リンクよりお求めいただけると存じます。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。

散文「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」より
昭和18年(1943) 光太郎61歳

上記「愚にも付かない翼賛詩文を大量に書き殴っ」ていたうちの一篇(こうした作品こそ光太郎文学の真骨頂だ、と、涙を流して有り難がる愚物がいて困るのですが)ですが、部分的には首肯できる部分もあるにはあります。それにしてもキナ臭い匂いがしますが……。

昨今流行の「文豪」ものの新刊です。 

2020年8月20日 板野博行著 三笠書房(王様文庫) 定価780円+税

いくら天才作家だからって、ここまでやっていいものか――? 
誰もが知る文豪の「やばすぎる素顔」に迫る本。

酒も女も、挫折も借金も……全部、「小説のネタ」だった!?
「あの名作」は、こうして生まれた!

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目次
 はじめに――酒も女も、挫折も借金も……全部「小説のネタ」だった!?
 1章 「天才」って、ホントつらいんですよ……「ブッ飛んだ感性&行状」にもほどがある!
  ハチャメチャな生き方で女にもてまくり! 太宰治
  滅びの美学を表明! 「憂国」の天才作家 三島由紀夫
  ギョロ目のノーベル賞作家はちょっとロリコン
!? 川端康成
  「狂気」に飲み込まれる前に死んでしまいたい 芥川龍之介
  ケンカ上等
!! 神童、かくして悪童になる 中原中也
  知の巨人は「痴の巨人」でもあった? 森鷗外
  元祖ニート! 結婚後も親にたかりまくる 萩原朔太郎
  ソドム(背徳)の徒が仕込んだ「檸檬」爆弾 梶井基次郎
 2章 「愛欲生活」すなわち「文章修業」
!?
……先生方、それはちょっとハッチャケすぎでは
  性的倒錯のめくるめく世界へ! 谷崎潤一郎
  ストリップ劇場と私娼街に通い詰めた男 永井荷風
  あつすぎる血潮! ブッ飛んだ情熱歌人 与謝野晶子
  姦通罪で「名声ドボン!」のエキゾチック詩人 北原白秋
  女弟子の「蒲団」の残り香を涙ながらに嗅ぐ男 田山花袋
  「家族計画」ゼロ! 血縁の呪縛に懊悩した 島崎藤村
  「純愛一筋」から「火宅の人」に大豹変! 檀一雄
  ブッ飛びの「お嬢様ワールド」全開! 岡本かの子
 3章 「金の苦労」があの名作を生んだ! 
……「追い詰められる」ほどに冴えわたる才能!?
  なぞの自信で短歌連発! 天才的たかり魔 石川啄木
  金の使い道の最善は「女へやる事」と豪語 直木三十五
  「東大教授の椅子」を蹴った理由は年俸額 夏目漱石
  匹婦の腹に生まれた「ザ・苦労人」 室生犀星
  生活力なし! ヒロポン中毒の大阪人 織田作之助
  十七歳で一家の大黒柱!「薄幸の天才」 樋口一葉
  酒びたり放浪生活で「パンクな句」を連発! 種田山頭火
 4章 「ピュアすぎる」のも考えもの……どうしても“突き詰めず”にはいられない!
  ハンサムが台無し! 心中して腐乱死体で発見 有島武郎
  日本酒すら煮立てて飲む「潔癖症」 泉鏡花
  智恵子との「ピュアピュア♡」な関係 高村光太郎
  ゴッホ同様、生前まったく売れず! 宮沢賢治
  お目出たき人人すぎる「上流階級の坊っちゃん」 武者小路実篤
  「知識人の懊悩」に精通した大秀才 中島敦
  「生きよ、墜ちよ」と煽った文壇の寵児 坂口安吾
 5章 「変人たちのボス」はやっぱり変人
……「君臨する」気持ちよさって、癖になっちゃう!
  文壇のドンは日本一の食道楽 尾崎紅葉
  「文春砲」を作った男 菊池寛
  「小説の神様」は「情事も神業」 志賀直哉
  谷崎から妻を譲り受けた「門弟三千人」の男 佐藤春夫
  生きるために「猛烈に食った」男 正岡子規
  「伝説の劇団」を主宰! 言葉の錬金術師 寺山修司
 コラム 作家の子供たち/キラキラネームの元祖!?/文士と薬物
     国木田独歩と有島武郎/言文一致運動

特に目新しいことが書いてあるわけではないのですが、肩のこらない「文豪」たちの入門編としてはなかなかよくできています。

光太郎の項は、智恵子との生活が中心(戦中戦後、そして最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作にも触れられています)。

その中で、室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』(昭和33年=1958)からエピソードが引かれています。すなわち、「裸の光太郎の背中の上に、同じく裸の智恵子が乗って、「お馬どうどう、ほら行けどうどうと、アトリエの板の間をぐるぐる廻って歩いた」というもの。たしかに犀星、このように書き残していますが、これが事実なのかどうか、眉唾の部分もあります。犀星は話の出所を明記していませんし、当方、寡聞にしてこれ以外にこのエピソードが書かれたものを知りません。演劇などではこのシーンを使う場合がありますが。

しかし、板野氏による「小さなアトリエの中は二人だけの世界であり、一つの宇宙だった。世間から遮断されたその生活は、貧しくとも芸術のために捧げられた美しさがあった」という指摘はその通りだと思いました。

他に光太郎と交流の深かった面々もいろいろと紹介されています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

家屋なるものは衣食住の住のみを以て能事終れりとしては居られない。只住むといふ以外に何等か求むる処がなければならぬと云ふ事が感付かれる。

散文「曽遊紀念帖」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『旅行』に載った散文で、留学で滞在したパリ市内の建築や公園などの様子が紹介されています。

半年経っていますので、「新刊」と言っていいものかどうか……。過日、都内に出た際に新刊書店で入手しました。 

2019年11月30日 週刊朝日編集部編 朝日新聞出版 定価1,500円+税

週刊朝日の人気連載(2017年11月〜2019年5月まで)だった「文豪の湯宿」を再編集して収録。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、森鴎外ら文豪が宿泊した温泉宿を、当時のエピソードとともに見開きで紹介する。温泉ガイドとしての情報も満載なのでこれからの温泉シーズンにぴったり。

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目次
 小林一茶 湯田中湯本(長野県・湯田中温泉)門弟が営む宿で酒をおねだり
 森鷗外 緑霞山宿 藤井荘(長野県・山田温泉)購入を持ちかけて断られた宿
 正岡子規 鷹泉閣 岩松旅館(宮城県・作並温泉)疲れ切ってたどり着いたら長階段の湯
 国木田独歩 上会津屋(栃木県・塩原温泉)若き独歩が恋人と逃避行した宿
 高浜虚子 ふなや(愛媛県・道後温泉)供されたステーキに馴染めなかった虚子
 泉鏡花 まつさき(石川県・辰口温泉)愛する叔母に会うための宿
 幸田露伴 満寿家(栃木県・塩原温泉)暑い夏を避け、生涯何度も訪れた定宿
 夏目漱石 湯回廊 菊屋(静岡県・修善寺温泉)「修善寺の大患」大吐血の舞台
 志賀直哉 三木屋(兵庫県・城崎温泉)列車事故の傷を癒やした城崎の宿
 久米正雄 旅館 花屋(長野県・別所温泉)支払いを忘れて、仲間とともに放蕩
 宇野浩二  聴泉閣 かめや(長野県・下諏訪温泉)思い焦がれた芸者に会うために通った宿
 室生犀星 香嶽楼(新潟県・赤倉温泉)友・朔太郎と小競り合いした思い出
 若山牧水 ゆじゅく金田屋(群馬県・湯宿温泉)鮎料理を“お代わり”して大いに飲食
 田山花袋 依山楼 岩崎(鳥取県・三朝温泉)小声で歌って湯でリラックス
 有島武郎 ゆとうや旅館(兵庫県・城崎温泉)心中の1カ月前に訪れた温泉場
 吉川英治 越後屋旅館(長野県・角間温泉)全財産を投じて籠もった修業の地
 葛西善蔵 湯元板屋(栃木県・奥日光湯元温泉)悲惨な生活から遁走した宿
 川端康成 湯本館(静岡県・湯ヶ島温泉)10年間、ツケ払いで暮らした伊豆の宿
 芥川龍之介 新井旅館(静岡県・修善寺温泉)風呂嫌いで有名な文人も喜んだ湯
 武者小路実篤 いづみ荘(静岡県・伊豆長岡温泉)初めて絵を描いた記念の宿
 谷崎潤一郎 陶泉 御所坊(兵庫県・有馬温泉)原稿料の前払いを求めた書簡の残る贅の宿
 林芙美子 塵表閣本店(長野・上林温泉)子供を預けて執筆した疎開の宿
 井伏鱒二 古湯坊源泉舘(山梨県・下部温泉)神経痛を養生した釣りの基点
 直木三十五 岸権旅館(群馬県・伊香保温泉)謎の戯れ歌を残した雨の伊香保旅
 小林多喜二 福元館(神奈川県・七沢温泉)特高から身を隠した宿
 コラム 文豪たちが残した書画
 与謝野晶子 大丸旅館(大分県・長湯温泉)「旅かせぎ」で訪れた人気の炭酸泉
 高村光太郎 柏屋旅館(栃木県・塩原温泉 塩の湯)智恵子と最後の2人旅をした宿
 斎藤茂吉 わかまつや(山形県・蔵王温泉)書の“三無い”をすべて破った宿
 坂口安吾 あさま苑(長野県・奈良原温泉)肺病の親友とともに長期滞在した秘湯
 横光利一 瀧の屋(山形県・あつみ温泉)夫婦水入らずの“あて”が外れた宿
 尾崎一雄 上高地温泉ホテル(長野県・上高地温泉)オフシーズンに格安で連泊
 山岡荘八 和泉屋旅館(栃木県・塩原温泉郷福渡温泉)宿主と義兄弟の契りを交わした宿
 石坂洋次郎 今井荘(静岡県・今井浜温泉)健康づくりの拠点にした宿
 太宰治 旅館 明治(山梨県・湯村温泉)毎日必ず袴を着け執筆した宿
 獅子文六 松坂屋本店(神奈川県・箱根芦之湯温泉)名作の“ネタ元”となった宿
 佐藤春夫 佐久ホテル(長野県・旭湯温泉)帰京を勧められても断った疎開中の縁
 火野葦平 葉隠館(熊本県・杖立温泉)“戦犯作家”の汚名を返上した復活の原点
 高見順 仙郷楼(神奈川県・箱根仙石原温泉)画を描いて心身を癒やした箱根の宿
 吉村昭 北温泉旅館(栃木県・北温泉)大病から生き延びた自分を見つめた宿
 田宮虎彦 藤三旅館(岩手県・花巻温泉郷鉛温泉)スランプ脱出のきっかけをつくった宿
 井上靖 白壁荘(静岡県・伊豆天城湯ヶ島温泉)命名の約束を果たせなかった故郷の宿
 丹羽文雄 積善館(群馬県・四万温泉)同人仲間と楽しく騒いだ四万の夜
 石川達三 強羅環翠楼(神奈川県・強羅温泉)親睦会で無邪気に遊んだ社会派作家
 内田百閒 皆美館(島根県・松江しんじ湖温泉)“乗り鉄”がたどりついた宍道湖の名宿
 山本周五郎 湯元不忘閣(宮城県・青根温泉)名作のヒントをつかんだ一本の木
 新田次郎 旅館二階堂(福島県・微温湯温泉)名物の“ぬる湯”を沸かして入った
 松本清張 ゑびす屋(京都府・木津温泉)『Dの複合』執筆のため2ヵ月過ごした宿
 開高健 環湖荘(群馬県・丸沼温泉)掃除の従業員も断り籠もった宿
 草野心平 神泉亭(福島県・高野鉱泉)いつまでも庭を眺めた「僕の部屋」
 小林秀雄 みなとや旅館(長野県・下諏訪温泉)“先生”が何度も満室で断られた名宿
 あとがき

版元の紹介文にあるとおり、『週刊朝日』さんで為されていた連載「文豪の湯宿」を再編集したものです。

光太郎の項は、同誌平成31年(2019)2月22日号に「高村光太郎・智恵子×栃木県・塩原温泉塩の湯 柏屋旅館」として載りました。塩原は顕在化した心の病がどんどん進行し、自殺未遂まで起こした智恵子を連れ、恢復への一縷の望みを託して東北から北関東で湯治旅行をした最後の投宿地です。

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その他、光太郎以外の人物の項で、光太郎も泊まった宿が何ヶ所か。花巻の鉛温泉藤三旅館さん、四万温泉積善館さん、蔵王青根温泉・湯元不忘閣さんなど。

それから、光太郎と交流の深かった人物の項も充実。当会の祖・草野心平、光太郎の姉貴分・与謝野晶子、東京美術学校での「恩師」・森鷗外、『白樺』での盟友・有島武郎や武者小路実篤など。

このブログで『週刊朝日』さんの連載を紹介した際、「ぜひ単行本化していただきたいものですね。」と書いたのですが、単行本化されていました。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

次には大正二年信州上高地にて相愛の女性と共に山岳写生に送りし一夏。

アンケート「山と海」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

設問は「山の思ひ出・水の思ひ出」。

智恵子との最後の旅が塩原を含む湯治行脚でしたが、最初の旅は、ここに言う大正2年(1913)の上高地でした。その前年、光太郎が滞在していた千葉銚子犬吠埼に、智恵子があとを追って押しかけたことがありますが、これはしめしあわせてのことではなかったので除外します。

新刊書籍です。 

2020年6月20日 渡邊毅著 ナカニシヤ出版 定価3,000円+税

道徳教育の教材として偉人伝を用いることの効果は大で、その証を渉猟するなかで、道徳教育思想史を併進して眺めることとなる。
本書人名索引に登場する数、研究者を除いて850余名。各々とその関係者である。道徳教材として偉人から学ぶ教育的効用を述べることが本義であることは勿論、その歴史資料渉猟の結果を眺めるだけで道徳教育思想史が学べる。

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目次
 はじめに
 凡例
 第一章 道徳教育における人物伝教材の有効性
  はしがき
  第一節 先行研究の検討
  第二節 人物伝教材による教育的効果
  第三節 活用の歴史から検証する人物伝教材の有効性
  第四節 江戸時代の人物伝教材とその教育
  第五節 戦前期の人物伝教材とその教育
  むすび
 第二章 国定修身教科書における人物伝教材
  はしがき
  第一節 〝共通の価値〟を示す郷土の偉業 宮古島の人々 「博愛」(第四、第五期)
  第二節 工藤少年の〝手本〟 工藤俊作と上村彦之丞 「博愛」(第二~第四期)
  第三節 一夜の感動が大著を生む 本居宣長 「松阪の一夜」(第五期)
  第四節 徳望と度量を備えた英雄 西郷隆盛 「度量」(第三、第四期)
  第五節 「忠誠心」は普遍的道徳的価値 楠木正成 「忠孝」(第二、第三期)
  第六節 慈愛と権威とを有する天使 昭憲皇太后 「皇后陛下」(第二期)
  第七節 師への敬愛を教える 上杉鷹山と細井平洲 「先生をうやまへ」(第四期)
  第八節 摂生を心がけ学問に励む 伴信友 「身體」(第二~第四期)
  第九節 下言容れ採用 松平定信 「きそくをまもれ」(第四期)
  第十節 近世万葉学の金字塔 鹿持雅澄 「雅澄の研究」(第五期)
  第十一節 国家維新作用をなした作品 北畠親房 「日本は神の国」(第五期)
  第十二節 世界で注目を集める報徳思想 二宮尊徳 「学問」「勤勉」「孝行」他
       (第一~第五期)
  むすび
 第三章 偉人に学び生きた偉人たちの群像
  はしがき
  第一節 天下万民のために忠節を尽くす ―諸葛孔明と管仲・楽毅
  第二節 義のため直言をはばからず ―韓退之と孔子
  第三節 正気によって苦境を乗り越える ―藤田東湖と文天祥
  第四節 偉人の志をわが志としてなされた世界的発明 ―御木本幸吉と二宮尊徳
  第五節 永遠に後世に伝えられる二人の偉人物語  ―ヘレン・ケラーと塙保己一
  第六節 古人の求めたる所を求めよ ―松尾芭蕉と西行
  第七節 僕の後ろに道は出来る ―高村光太郎とオーギュスト・ロダン
  第八節 風に立つライオンたち ―柴田絋一郎とアルベルト・シュバイツァー
  むすび
 第四章 人物伝教育を推進する学校
  はしがき
  第一節 毎朝校舎に響く賀茂真淵の教え 静岡県浜松市立県居小学校
  第二節 橋本左内の生き方に倣い〝立志〟を教える 福井県福井市明道中学校
  第三節 師弟とともに吉田松陰に学び合う学校 山口県萩市立明倫小学校
  第四節 三百数十年のときをへて「藤樹学」を教える 滋賀県高島市立青柳小学校
  第五節 「先人教育」を推進する町、そしてその学校  岐阜県恵那市立岩邑小学校
  第六節 「われらのてほん 尊徳先生」と教える学校 神奈川県小田原市立桜井小学校
  第七節 地域の偉人たちに興味を持つ園児たち 水天宮保育園(福岡県久留米市)
  むすび
 あとがき
 初出一覧
 註
 索引

著者の渡邊毅氏は、元中学校教諭にして現皇學館大学教育学部教育学科准教授。「現場」でのご経験から、「徳育の王道は、人物伝による教育である」(「はじめに」)という結論を得たそうで(異論もありましょうが)、そのため、人物伝教育の歴史や、光太郎やロダンを含む取りあげるべき偉人の例などをまとめた書籍です。

ちなみに義務教育に於ける「道徳」は、「特別の教科」として、小学校では平成30年度から,中学校では平成31年度から位置づけられるようになりました。それ以前は、「各教科、道徳、特別活動」という枠組みで、「道徳」は「教科」には入っていませんでした。それが「教科」に含まれることとなり、評価の対象にもなっています。ただ、「特別の」ですので、通常の教科のような3段階、5段階の評価ではないようですが。

それに伴って、以前は「副読本」という位置づけだったテキストが、「教科書」となり、そうなると、各学校や教員が独自の教材を使用することは難しくなっているのでは、という気もします(特に教育界が保守的な都道府県――昔は「西のA県、東のC県」と言われていましたが、今はどうなのでしょうか――では)。

ところで、光太郎、「副読本」の時代から取りあげられていましたし、現行の「教科書」でも題材になっているようです。


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『道徳教育における……』でもそうですが、明治末から大正初め、ロダンの薫陶を受け、この国に近代彫刻を根付かせるため、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と意気込んで奮闘した頃の光太郎が取りあげられます。

たしかにこの時期の光太郎の姿は、若い世代に共感を持って受け入れられる部分はあるでしょう。しかし、光太郎の真価は果たしてそこなのでしょうか? 仮に当方が中学校で光太郎を扱う道徳の授業をやれ、といわれたら、そこではなく、戦時中、ズブズブの翼賛活動に身を投じて多くの前途有為な若者を死に追いやり、しかし、戦後になってそれをきちんと懺悔した、という部分を扱いたいと思います。

ま、この国の公教育では、こうした部分はある種のタブーとなっているようですので、ほぼほぼ無理でしょうが……。

閑話休題、『道徳教育における……』、ネット通販で入手可です。是非お買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

新しい人が現はれるたびに詩は必ず一つの冒険を行ふ。

散文「島田正詩集『結婚』序」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

島田は北海道出身と思われる詩人ですが、詳細がよく分かりません。光太郎歿後に光太郎の序文なるものを載せた詩集も刊行していますが、そちらはどうも眉唾ものの序文のようでして……。

詳しい経歴等、ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

雑誌の新刊です。 

2020年6月5日 鹿砦社 税込定価600円

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 新型コロナ禍のなかで爆発した検察庁法改正案。時の内閣が検察の人事をコントロールするものだとして批判が集まり、コメント数一千万、数百万人ともいわれる人々が参加したツイッターデモの影響もあって法案は見送りとなりましたが、この騒動はあらためて総括する必要がありそうです。まず確認しておきたいのは、2014年に創設された「内閣人事局」にみられるような、内閣が行政トップの人事権を握るやり方が、すでに安倍政権の常套手段となっていること。本誌2月号の「天木直人×木村三浩対談」でも指摘されていますので、ぜひお読みください。
 
 そして、公訴権を一手に握る検察という組織そのものについても、彼らがただ政権に翻弄される存在ではないことを、強調しておきたいと思います。黒川弘務元東京高検検事長の賭け麻雀問題は、検察の現実の一端を見る良い機会だったとすら言えます。実際、検察はこれまでたびたび暴走してきました。最も有名なのが2009年の郵便不正事件。主任検事らの証拠捏造により村木厚子・元厚生労働省局長が冤罪逮捕されましたが、これを主導し、逮捕された大坪弘道氏は、本誌発行元の出版社・鹿砦社への、いわゆる出版弾圧事件の中心になった検事でした。大手パチンコ企業等を批判する書籍が名誉棄損にあたるとして、鹿砦社代表が逮捕。すでに出版されている本の内容が問題、つまり証拠隠滅や逃亡のしようがないにもかかわらず逮捕という、検察の弾圧目的が垣間見える事件でした。その詳細は、5月号(本誌15周年記念号)の特集にまとめています。起訴する権利を一手に握るということは、冤罪が起きれば責任が問われるべきですが、検察組織をチェックするようなシステムはありません。また、いま政治の不正として検察の動向が伺われるのが、自民党の河合案里参院議員の選挙違反事件ですが、仮に逮捕までいったとしても、今回の騒動が片付いたように見せるためのスケープゴートにすぎないのかもしれません。
 
 前号に引き続き、「新型コロナと安倍失政」特集第3弾としました。特に「専門家会議」に焦点を当てています。5月末には「メンバーの了解」のもと、議事録が作成されていなかったことが明らかになりましたが、検証を阻害する点で政府を批判すべきである以上に、再現性を無視する態度はとても専門家のものとは思えません。本誌では、彼ら「感染症専門家」(と政府・マスコミ)のそもそもの誤りを指摘しています。さらに、尾身茂副座長の要請により加えられた「経済専門家」メンバーについても、5月号に続き再登場いただいた藤井聡・京都大学大学院教授(元内閣官房参与)が分析しています。
 
 さらに、コロナ禍を7月の選挙に向けてのアピールとした小池百合子東京都知事、なぜか人気の吉村洋文大阪府知事についても論考を掲載しました。とくに大阪の「医療崩壊」に維新政治があることは、決してスルーしてはならない事実です。詳細にわたりレポートしています。ぜひご一読をお願いいたします。  

「紙の爆弾」編集長 中川志大

目次
 検察庁法改正案「見送り」の舞台裏 黒川“賭けマージャン”直撃 自民党ガタガタ内情
 特集第3弾 「新型コロナ危機」と安倍失政
 政府・専門家会議・マスコミ 素人たちが専門家を僭称して
 経済専門家会議にみる政府の中小企業切り捨て
 コロナ禍利用し“事前運動”小池百合子と東京都知事選
 吉村洋文知事に騙されるな 維新が招いた大阪・医療崩壊
 「感染対策に“緊急事態条項”必要」という改憲勢力の嘘
 「自粛」から「強制」へ 進行する監視社会
 誰がPCR検査を妨害したのか 隠された数万人「肺炎死」
 日本を包み込む「東京五輪バイアス」
 東京五輪「延期」でさらに泥沼 「東京ビッグサイト」使用停止が生む巨額損失
「ロックダウン」と「解除後」 マレーシアから見た日本の“異常” 
 日米安保60年と安倍無責任政権 検察庁法改正案の語られざる「本質」 
 前立腺がん患者をモルモットに 滋賀医大病院事件「疑惑の判決」
 ビートたけし・岡村隆史・手越祐也 本当に自粛すべきはこの芸能人たち
 永田町アンタッチャブル アベ・カポネを嗤う
〈連載〉
 あの人の家   NEWS レスQ   
コイツらのゼニ儲け 西田健  
 「格差」を読む 中川淳一郎
 ニュースノワール 岡本萬尋   シアワセのイイ気持ち道講座 東陽片岡
 村田らむ キラメキ★東京漂流記   マッド・アマノの裏から世界を見てみよう
 権力者たちのバトルロイヤル 西本頑司   広島拘置所より… 上田美由紀
 元公安・現イスラム教徒西道弘はこう考える   まけへんで!! 今月の西宮冷蔵


精神科医・評論家の野田正彰氏による「政府・専門家会議・マスコミ 素人たちが専門家を僭称して」という稿の終末部分、光太郎の名が。

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新型コロナウイルス感染症が発生して以来、国の取ってきた対応のまずさを、これでもかと列挙しています。特に、現場の医療機関には必要な情報がおりて来ず、それぞれが手探りで対処するしかなかったという現状。なるほど、そうだったのか、と、いろいろ腑に落ちました。

そして、青少年にとって、この現状が社会を認識するための格好の教材になりうる、という提言。戦時下の大本営発表を鵜呑みにしていた光太郎らの愚を繰り返すまじ、ということでしょうか。

その他の記事を読んでも、なかなか気骨のある雑誌です。「タブーなきラディカルスキャンダルマガジン」と謳っているのもうなずけます。

オンラインで入手可。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

列車の上の大立廻りなどは痛快で面白いけれども、その根柢に何物もないので、私は常に遺憾に思つて居る。

散文「外国映画と思想の輸入」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

この部分、アメリカ映画に対しての批判です。100年前からそうだったのですね(笑)。

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講談社さんから発行されている総合文芸誌『群像』の今月号を入手しました。  2020年7月1日(6月7日発売) 講談社 税込定価1,300円

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 〈創作〉
  とんこつQ&A  今村夏子
  膨張  井戸川射子  
 〈第63回群像新人文学賞発表〉
  〈優秀作〉四月の岸辺  湯浅真尋
   受賞の言葉 選評 柴崎友香、高橋源一郎、多和田葉子、野崎歓、松浦理英子
 〈批評総特集〉「論」の遠近法
  考えることを守る  東浩紀
  井筒俊彦――ディオニュソス的人間の肖像  安藤礼二  
  ふたたび世界へと戻ってくるために――崔実『pray human』論  江南亜美子
  非人間  大澤信亮
  彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎から回路をひらく  小田原のどか
  自分が死ぬとはどういうことか?――の変遷  樫村晴香
  コロナウイルスと古井由吉  柄谷行人 
  戦争の「現在形」――七〇年代生まれの作家たちの戦争小説  高原到
  ポシブル、パサブル――ある空間とその言葉  福尾匠
  ばば抜きのゴッサム・シティ  古川日出男
  パラサイト――やがて来る食客論のために  星野太
  ぶかぶかの風景――乗代雄介「最高の任務」  町屋良平
  ピンカーさん、ところで、幸せってなんですか?  綿野恵太
 〈連載評論〉ショットとは何か〈2〉  蓮實重彦
 〈ノンフィクション〉 2011―2021 視えない線の上で   石戸諭
 〈短期集中ルポ〉ガザ・西岸地区・アンマン⑤
   「国境なき医師団」を見に行くいとうせいこう
  〈追悼 井波律子〉 破壊と創造の女神  三浦雅士
 〈連載〉
  ゴッホの犬と耳とひまわり〔7〕  長野まゆみ
  鉄の胡蝶は夢に記憶に歳月に彫るか〔23〕  保坂和志
  二月のつぎに七月が〔28〕  堀江敏幸
  ブロークン・ブリテンに聞け Listen to Broken Britain〔29〕  ブレイディみかこ
  ハロー、ユーラシア〔2〕  福嶋亮大
  薄れゆく境界線 現代アメリカ小説探訪〔2〕  諏訪部浩一
  「近過去」としての平成〔4〕  武田砂鉄
  「ヤッター」の雰囲気〔4〕  星野概念
  星占い的思考〔4〕  石井ゆかり
  所有について〔5〕  鷲田清一
  辺境図書館〔5〕  皆川博子
  LA・フード・ダイアリー〔10〕  三浦哲哉
  現代短歌ノート〔122〕  穂村 弘
  私の文芸文庫〔7〕  綿矢りさ
  極私的雑誌デザイン考〔6〕  川名潤
 〈随筆〉
  変なTシャツを着ている  imdkm
  腰田低男氏の人生 上野誠
  さよりとこより 長田杏奈
  彼女の本も旅にでる 清水チナツ
  確率を上げる(鷺ノ山)  長谷川新
  かさぶたは、時おり剥がれる  堀江栞
 〈書評〉
  このパパを見よ!(『パパいや、めろん』海猫沢めろん 6月22日頃刊行)  野崎歓
  異人に向かう優しい眼差し(『よそ者たちの愛』テレツィア・モーラ)  池田信雄
  知と戯れる「物理の聖典」(『帝国』花村萬月)  豊﨑由美 


彫刻家・小田原のどか氏の評論「彫刻の問題――加藤典洋、吉本隆明、高村光太郎から回路を開く―」が14ページにわたって掲載されています。

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加藤典洋氏は、昨年亡くなった文芸評論家。『敗戦後論』(平成9年=1997)が特に有名ですね。思想的な系譜としては、当会顧問であらせられた故北川太一先生の盟友・吉本隆明のそれを受け継いでいるとってもいいでしょう。

そして吉本が初めて著した作家論が『高村光太郎』(昭和32年=1957)。吉本は戦時中、光太郎の翼賛詩文に多大な影響を受け、戦後になってからは、光太郎を通じて「あの戦争は何だったのか」という思索の道に入っていきました。

そして戦時中、大政翼賛会中央協力会議議員や、日本文学報国会詩部会長などを務めた光太郎。他の彫刻家とは異なり、「爆弾三勇士」的な愚劣な彫刻は作りませんでしたが、詩文では最も翼賛活動に資する役割を果たしました。

小田原氏、一昨年に編刊された『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』でも、戦争と彫刻の関わり、特に彫刻の持つモニュメンタルな部分について、様々な論者の方々と論じられていましたが、今回のものもその一連の流れに沿うものです。

特に興味深かったのは、光太郎最後の大作(ちなみに小田原氏は「絶作」としていましたが、それは誤りです)「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を、戦後の平和主義の敷衍に伴う、さまざまな場所に建てられた裸婦像の流れの中で捉えていること。

ただ、そうした有象無象の裸婦像は人々の記憶から薄れ、極論すれば光太郎の「乙女の像」のみが「生き残って」いるように感じるのですが。

さて、『群像』。大きめの書店さんでしたら店頭に並んでいるでしょうし、オンラインでも入手可です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

今日の所ではこつちにゐたくないな、どうも。彫刻のためにこつちへ来たんだから……。あつちでは畑をやるが、畑をやるといふことは、僕の彫刻だ。

座談会筆録「湖畔の彫像」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「彫刻」は「乙女の像」、「こつち」は東京、「あつち」が花巻郊外旧太田村です。

以前にも書きましたが、この年、「乙女の像」制作のため帰京したものの、完成後にはまた太田村に帰るつもりでいた光太郎、住民票はそのままでした。実際、像の除幕式(昭和28年=1953)の後、一時的に太田村に帰りましたが、もはや健康状態が過酷な寒村での生活に耐えられず、三度(たび)、東京の人となり、そのまま亡くなりました。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書をはじめ、光太郎智恵子に関する書籍を多数出版して下さっている文治堂書店さん。そのPR誌的な『トンボ』の第10号が届きました。


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表紙に大きく書かれているとおり、今号は北川先生の追悼特集です。


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様々な皆さんが、北川先生への追悼詩文を書かれています。

「追悼 北川太一」と括られた部分で、花巻高村光太郎記念会長・大島俊克氏、劇作家・女優の渡辺えりさん、北川先生の菩提寺・浄心寺さんのご住職の佐藤雅彦和尚、光太郎と交流のあった詩人・野澤一ご子息・野澤俊之氏、詩人の服部剛氏、同じく曽我貢誠氏と市川恵子氏、アーティストの前木久里子氏。

それ以外の部分でも、文治堂社主の勝畑耕一氏、服部氏はさらに追悼詩、北川先生ご子息の北川光彦氏、それから当方も書かせていただいております。

若き日の先生のお写真も。

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皆さんの北川先生に対する思いの丈に接し、心打たれるとともに、先生の業績の偉大さ、そして人間的な懐の深さなどを改めて痛感いたしました。同時に、その先生を喪った深い悲しみがまたぞろ思い起こされ、複雑な心境です。

当会にて10月発行予定の『光太郎資料』(北川先生より名跡をお譲りいただいたものですが)をお申し込みいただいている方には、併せてお送りしますが、それ以外の方、それからすぐに読みたいという方は、文治堂書店さんまでお申し込み下さい。一応、定価500円+税ということになっています。


【折々のことば・光太郎】

とにかく、十和田湖というふうな大自然の中へ、大胆に放り出されちやうのだから、そして十和田湖自身が、日本だけのものではなくてスイツツルやイタリアの、僕たちの頭にある湖の風景とくらべて遜色ない、いまに世界的の観光地になるにきまつているから、いい加減なくだらないものは置かれない。相当の覚悟がいるのです。僕は死んだつて構わないという覚悟でやる気なんです。

座談会筆録「美と生活」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見に訪れた十和田湖の、宿泊した東湖館で為された座談会から。その同じ夜、座談会終了後に、ぼそっと「智恵子を作ろう」と呟いたそうです。

昨日はいわき市の草野心平記念文学館さん他に行っておりましたが、そちらのレポートに行く前に、自宅兼事務所に戻りましたところ葉書で訃報が届いておりましたので、そちらを。

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國學院大學名誉教授の傳馬義澄氏。近代文学ご専攻で、『思索と抒情――近代詩文論――』(審美社 平成12年=2000)などのご著書があるほか、お住まいだった埼玉で、「埼玉文芸賞」、それから今年の「第24回全国高校生創作コンテスト」などの審査員も務められていました。

平成24年(2012)には、第57回高村光太郎研究会で「高村光太郎『智恵子抄』再読」と題されてご発表、その後、連翹忌にもおいで下さいました。昨秋も第64回高村光太郎研究会にお越し下さり、当方、それが氏とお会いした最後となりました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あなたの著書「雪明りの路」をいただいてからもう二三度読み返しました。その度に或る名状し難い深いパテチツクな感情に満たされました。チエホフの感がありますね。この詩集そのものもどこかチエホフの響がありますね。

雑纂「「雪明りの路」の著者へ――伊藤整詩集――」全文
昭和2年(1927) 光太郎45歳

伊藤整は明治38年(1905)の生まれ。光太郎の一世代後の詩人です。

「パテチツク」は仏語で「pathétique」。「感傷的な」「哀れな」「悲愴な」といった意味です。

昨秋、八重洲ブックセンターさんで手に入れた書籍です。最新刊、というわけではないのでご紹介していませんでした。 

平成28年(2016)4月1日 荒井とみよ著 編集工房ノア刊 定価2,200円+税

敗戦の中でことばはどのように立ち上がったか。与謝野晶子、高村光太郎、三好達治、横光利一、臼井吉見、高見順、宮本百合子の戦争敗戦の文学について考察する。同人誌『水路』掲載を書籍化。

目次
 「歌は歌に候」――与謝野晶子
 後日ノート――晶子の手紙
 「わが詩をよみて人死に就けり」――高村光太郎
 後日ノート――『智恵子抄』をめぐる物語
 「なつかしい日本」――三好達治
 「夜汽車が木枯の中を」――横光利一『夜の靴』
 「常念岳を見よ」――臼井吉見『安曇野』
 「私の日記は腐ってもいい」――高見順『敗戦日記』
 「歴史はその巨大なページを音なくめくった」――宮本百合子『播州平野』
 後日ノート――百合子の手紙
 あとがき


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4年前の刊行で、光太郎について2章も割いている書籍に気づかなかったというのも情けない話ですが、言い訳させていただけるなら、版元の編集工房ノアさん、大阪で「社主の涸沢純平さんが奥様とお二人でやっているミニ出版社。関西で活動を行っている作家、詩人にとって方舟のような存在。活動を開始して35年を超えるが、いまだに家内制出版を守る。」(はてなキーワードより)だそうで、自前のHPもなく、大がかりな宣伝もしていないようでして……。

閑話休題。著者の荒井とみよさんという方、昭和14年(1939)のお生まれで、元大谷大学さんの教授だそうです。そういうわけで、本書は分類すれば評論なのでしょうが、一般的な評論というより、エッセイの要素も強い感じがしました。タイトルが示す通り、文学者たち(「詩人」というのは広義の意味ですね)が、どのように戦争に向き合ってきたかというところに主眼が置かれなかなか鋭い着眼も随所に見られます。

光太郎に関しては、『智恵子抄』所収の詩篇と、大量に書き殴られた愚にもつかない翼賛詩が平行して書かれていた矛盾、そして戦後になってそれをどう総括したのか、的な進め方です。戦時中に関しては、柿本人麻呂になぞらえていらっしゃり、「なるほど」と思わせられました。戦後に関しては、書簡や日記、さらに花巻病院長・佐藤隆房による『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962)に紹介されたエピソードなどをひきつつ、考察されています。

章題に使われている「わが詩をよみて人死に就けり」は、連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれ、自らボツにした作品。光太郎の戦争観を考える上で、多くの論者が参考にしているものです。

   わが詩をよみて人死に就けり1009

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。


以前にも書きましたが、「必死の時」は、昭和16年(1941)の詩。


    必死の時

 必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、002
 その時こころ洋洋としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。
 
 人は死をいそがねど
 死は前方から迫る。
 死を滅すの道ただ必死あるのみ。
 必死は絶体絶命にして
 そこに生死を絶つ。
 必死は狡知の醜をふみにじつて
 素朴にして当然なる大道をひらく。
 天体は必死の理によって分秒をたがえず、
 窓前の茶の花は葉かげに白く、
 卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
 天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
 安きを偸むものにまどひあり、
 死を免れんとするものに虚勢あり。
 一切を必死に委(ゐ)するもの、
 一切を現有に於て見ざるもの、
 一歩は一歩をすてて003
 つひに無窮にいたるもの、
 かくの如きもの大なり。
 生れて必死の世にあふはよきかな、
 人その鍛錬によつて死に勝ち、
 人その極限の日常によつてまことに生く。
 未練を捨てよ、
 おもはくを恥ぢよ、
 皮肉と駄々をやめよ。
 そはすべて閑日月なり。
 われら現実の歴史に呼吸するもの、
 今必死のときにあひて、
 生死の区区たる我慾に生きんや。
 心空しきもの満ち、
 思い専らなるもの精緻なり。
 必死の境に美はあまねく、
 烈々として芳しきもの、
 しずもりて光をたたふるもの
 その境にただよふ。
 
 ああ必死にあり。
 その時人きよくしてつよく、
 その時こころ洋々としてゆたかなのは
 われら民族のならひである。



昭和16年(1941)といえば、太平洋戦争は12月に始まったばかり。そこで、「わが詩をよみて人死に就けり」で、爆弾が落ちる中、この「必死の時」を書いたというのはおかしいじゃないかと、エラいセンセイ方が指摘しています。「光太郎はこの詩を自分でいつ作ったのか忘れている、けしからん」と。こういうのを浅い読み方、といいます。光太郎は「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」と書いていますが「「必死の時」を必死になつて私は作つた。」とは書いていません。

詩の右に載せた画像は、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、政治学者・富田容甫に宛てた昭和18年(1943)の書簡ですが、「必死の時」の一節が書かれています。「「必死の時」を必死になつて私は書いた。」は、こういうことを指しているのだと考えれば、何らの不思議もありません。

残念ながら、荒井とみよさんも「自分史として正確でない」としているのは、この点だと思われます。また、他にも事実に反する記述(残っている光太郎日記は昭和21年(1946)以降、としていますが、昭和20年(1945)のもの、さらに言うなら断片的には明治期のものも残っています)があったり、ある市民講座での参加者の頓珍漢な発言(智恵子が入院していたゼームス坂病院で格子が嵌められた部屋に閉じこめた的な)を訂正せず(ゼームス坂病院は当時としては画期的な開放病棟が採用されていました)に引用したりと、いろいろ問題があるのですが、そういう点を差し引いても、なかなかの好著だとは思いました。

光太郎以外の章、与謝野晶子はじめ、取り上げられている人物すべて、光太郎と交流のあった面々ですので、興味深く拝読しました。臼井吉見(光太郎の『暗愚小伝』掲載時の筑摩書房『展望』編集者)の章では、光太郎に触れられています。

Amazonさん等で、入手可能。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

不可避の道  短句揮毫 戦後期  光太郎70歳頃

いろいろ見方はあるかと存じますが、光太郎にとって、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活は、「不可避の道」だったように思われます。

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仕方がないことではありますが、これだけイベント等の自粛やら延期やら中止やらが続くと、このブログで取りあげるネタに困ります。

まず、紹介するべきイベントが行われないのでその紹介が書けませんし、それからイベントに行けばレポートが書け、新聞・テレビなどが取り上げて下さればそれも使えるのですが、それもできません。

そこで苦肉の策としまして、「古いもの」を紹介します。

このブログでは、光太郎智恵子、光雲らに関する「新着情報」を中心に紹介しています。例えば新刊書籍、雑誌類は紹介して、版元等のリンクを貼っておけば、ブログを読んで下さった皆さんもお買い求め頂けるわけで。

ところが「古いもの」ですと、入手困難。そういうものを紹介するのも何だかなぁ、と思い、ほとんど取り上げてきませんでした。

しかし、冒頭に書いた通りのネタ不足。背に腹は代えられません(笑)。そこで、しつこいようですが「苦肉の策」。ネタのない時には最近入手した「古いもの」をご紹介します。

ただ、今回は「古くて新しいもの」というべきでしょうか。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』、さらにその補遺として当方がまとめ続けている「光太郎遺珠」に漏れていた、言わば新発見です。しかも、なかなかに驚くべき内容で。

光太郎ブロンズ彫刻の代表作の一つ、「手」(左下の画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです)に関してです。

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右上は、つい先頃入手した大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』(東京市本郷区根津宮永町十八番地 芸術公論社 編輯兼発行人石川勝治)第3巻第1号です。

ここに、「手紙」と題する光太郎の文章が載っていました。以下に全文を転記します。

手紙
 口村君。
 僕の近作の写真を送れといふ君の依頼によつて、素人が撮影したので甚だ不鮮明なものだが、「手」の習作を一枚送ります。此は今年の夏作つたものです。大きさは自然大の一倍半位。鋳金で黒い色に仕上つてゐます。甚だ貧しいものではあるけれども、しかしいい加減な作でないだけの自信はあります。此は自分の左の手ですが、手を作りながらいろんな事を感じました。
 自分の手をじつと見てゐると自分の手が実におそろしい程不思議に思はれました。何だか自分の手でないやうな気がしました。何か大きなものの見えない手が不意に形を現はしたかのやうに感じました。さうして自分の手の美しいのにひどく打たれました。私は自分の手を仮に仏像にある「施無畏」の印相に似た形にしてみました。私は又自分の手の威厳に打たれました。ふだん自分の手にこんな霊光のある事を感じてゐなかつた事に気付きました。私は此をどうかして自分に出来るだけの力で自分の能力一ぱいに再現したいといふ気に駆られたいのです。
 人間の手といふ者は何といふ無駄の無い、必然な者でせう。手のつけ根から五本の指の先に至るまで全く連鎖して寸分の隙もありません。五本の指を見ても人さし指のまつすぐに余り凸凹無しに直立してゐる力や、中指の根強く岩畳なのや、薬指の思慮深く沈黙したやうなのや、小指の愛らしく又敏捷な趣や、それから其四本に対して唯一本で向つてゐる親指の厚ぼつたい、重みのある気魄は全く考へさせられます。手の甲や掌の肉の起伏、骨の隠顕の微妙さも驚くばかりです。そして其の全体を支配する生きものの熱は殆ど神秘を感じさせます。
 こんな事を考へてゐると、自分の習作の「手」が自然の前にあつて如何にも貧しいのを恥かしく思はれてなりません。しかし私の身上は身上です。今日此だけしか出来ないのを無暗と悲しみはしません。今日此だけなら明日は此以上に出来ます。どこまでも出ぬけます。そして出来る限り此の無尽蔵の自然の美を汲みませう。此の手を作りながら私は奈良にある仏達の手の二三を考へ出した事がありますが、日本にもあれ程の真と美とを把握した作家があつたのだといふ事を非常に力強く思ひました。そして静かに、世間の根帯無き動揺の外に立つて、たとひ貧乏に追はれても、一足づゝ確かに歩むより外自分の行く道は無いのを感じました。私の行く道は寂しいけれども、清らかで、恍惚と栄光とに満ちてゐます。濁流の渦巻くやうな文展芸術の波は、私の足の先をも洗ひません。汚せません。此点君は私を喜んで下さる事と信じます。いづれ又後便で。

「口」は「くち」です。四角やカタカナの「ロ」ではありません。したがって、「口村君」は「くちむらくん」でしょう。珍しい苗字のように思われますが、地方によってほそうでもないのでしょうか? 同誌に翻訳「ダビデ王の一世」、随筆「予が創造芸術」の二本の記事を執筆している「口村龍皚」と思われますが、詳しい経歴等不明です。『高村光太郎全集』第21巻所収の山川丙三郎宛書簡二三九〇に、翻訳家・口村佶郎の名が記されていて、あるいは同一人物かと思われますが、不明です。情報をお持ちの方、このブログサイトコメント欄等よりご教示いただければ幸いです。

追記 明治45年(1912)3月、精神学院発行の雑誌『心の友』第8巻第3号に口村の文章が掲載されており、目次では「佶郎」、本文は「龍皚」となっており、同一人物であることが判明しました。

さて、どうもその口村龍皚に送った手紙そのまま、または多少の換骨奪胎があるかも知れませんが、それにしても大幅に書き換えられていることはないと思われます。

実は彫刻「手」については、光太郎本人が書き残したものは多くありません。そのため、これまで、正確な制作年代すら不明でした。さまざまな状況証拠から、大正7年(1918)だろうと推測は出来ていましたが、確証がありませんでした。そこで、当方も関わった、千葉市美術館さん他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」(平成25年=2013)の図録やキャプションでは、「1918 大正7年頃」となっていました。

それが、この文章により「今年の夏」とあるので、掲載誌の発行された大正8年(1919)1月から逆算し、やはり大正7年(1918)だったことがほぼ断定できることになりました。さすがに一年以上前の手紙を一年以上経ってから掲載するということもあまり考えにくいと思います。そうした例がないわけではありませんが、光太郎の「近作」を紹介するという趣旨での掲載のようですので、おそらく間違いないでしょう。

既知の光太郎の文章等で、「手」に触れていたのは以下くらいのものでした。

今わたくしの部屋に観世音の手が置いてある。施無畏の印相といへばどんなむづかしい、いかめしい印相かと思ふと、それはただ平らかに静かに前の方へ開いた手に過ぎない。平らに開いた手が施無畏である為にはどんな体内の生きた尺度が必要なのか。
(昭和9年=1934 散文「黄瀛詩集「瑞枝」序」より)

あの手は二つ作つたが僕のはロダンの習作と違つて制作なんだ。施無畏印相の手の形を逆にした構想で、東洋的な技法で近代的な感覚を表わした。あの人さし指は真すぐ天をつらぬいているんだ。
(昭和26年=1951 談話筆記「高村光太郎の生活」より)

雅郎 先生の「手」の彫刻はいつ頃ですか。
先生 よほど前です。
太田 先生御自身の手ですか。
先生 そうです。
(昭和27年=1952 座談会筆録「高村先生を囲んで」より)

いずれも制作からかなり年月が経ってのものでした。また、戦後の日記や書簡で、新たに「手」を鋳造することになって、その関係で事務的に触れていますが、それは割愛します。

で、今回見つけた「手紙」は、もろにリアルタイム。制作当時、光太郎がどのように考えていたのか、かなりはっきりしました。今後、「手」について論考等を書かれる方は、これを参考にしていただきたく存じます。というか、これを参考にしなければ「手」を語れませんね。

ただ、気になる点もいくつか。まず「習作」と書いていること。昭和26年(1951)には「ロダンの習作と違つて制作なんだ」と語っているのに、制作当時は「習作」と位置づけていたのか、と。しかし、ブロンズに鋳造しているということは、全くの「習作」というわけでもなさそうですし、「これから先、こういったものをどんどん作るぞ」という意味での「習作」なのかもしれません。実際、おそらくこの後、「腕」、「ピアノを弾く手」、「足」(現存確認できず)など人体パーツをモチーフとした塑造彫刻を制作しています。

ちなみに繰り返し出て来る「施無畏」は、観音像などの右手によく使われる形で、「何も畏(おそ)れることは無い」と諭す印形だそうです。観音像ではありませんが、奈良の大仏様の右手もこの形です。通常、右手で作る印形を左手として作ったので、上記「高村光太郎の生活」では「逆にした構想」と語っているのだと思われます。

ところで、『芸術公論』に載った「手」の写真がこちら。裏焼きなどのミスがないとすれば、小指側から撮った写真のようです。

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元々が光太郎の書いた通り「甚だ不鮮明」だった上に、当時の印刷技術ではこの程度が限界だったのでしょう。もう少し鮮明であれば良かったのですが、しかし、これまた現存が確認できている「手」の最古の写真、ということになるわけで、貴重なものではあります。

この写真についても気になる点が。台座の木彫部分は取り付けられているのかいないのか、何とも不明です。手首のあたりに微妙に写っているようにも見えますが。そのためなのでしょうか、通常、最初の髙村規氏撮影の画像のように立っているべき手が横になっています。このあたり、おそらくこの記事自体に光太郎の検閲は入っていないために起こったことなのかもしれません。

いずれにせよ、なかなかすごい文章が見つかったものだと思います。こういう宝探し的要素があるので、中々やめられません(笑)。

追記 下記もご高覧下さい。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。

【折々のことば・光太郎】

鎖国政策を望むやうな日本論には私は賛成出来ませんが(私は国民性をもつと強いものに思つてゐます)日本人としての本気な生活を建設することについては同志の一人です。最も熱心な。

雑纂「「胞珠帯」より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「日本人としての本気な生活を建設すること」。新型コロナ禍の中、こうした点が、今、われわれに問われているような気がします。

新刊情報です。 2020年4月10日 日本近代文学館編 勉誠出版 定価2,800円+税

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文豪たちが愛した東京!

夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、泉鏡花…。
日本を代表する文豪たちは、東京のどこに住み、どんな生活を送っていたのか。
彼ら・彼女らの生活の場、創作の源泉としての東京を浮かびあがらせる。東京を舞台とした作品の紹介のほか、古写真やイラスト、新聞・雑誌の記事や地図など当時の貴重な資料と、原稿や挿絵、文豪たちの愛用品まで100枚を超える写真も掲載。現在につながる、文豪たちの生きた東京を探す。
都内にある8箇所の文学館ガイドも掲載! アクセス方法、代表的な収蔵品など、写真付きで紹介。


目次

 刊行にあたって 坂上弘
 はじめに―東京文学を歩く  池内輝雄

 生活を支えた本郷菊坂の質店―樋口一葉と伊勢屋  山崎一穎
 千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎  小林幸夫
 漱石作品における「東京」の位置―「山の手」と「下町」の視点から  中島国彦
 女性たちの東京―泉鏡花と永井荷風  持田叙子
 近代医学へのまなざし―斎藤茂吉と青山脳病院  小泉博明
 作家たちの避暑地―芥川龍之介の軽井沢体験など  池内輝雄
 伏字の話から始まって―弴・万太郎・瀧太郎  武藤康史
 林芙美子の東京―雌伏期の雑司ヶ谷、道玄坂、白山上南天堂喫茶部  江種満子
 遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草  宮内淳子


[文学館記念館紹介]
 一葉記念館/武者小路実篤記念館/田端文士村記念館/世田谷文学館/太宰治文学サロン/
 森鷗外記念館/漱石山房記念館/日本近代文学館



平成25年(2013)と同28年(2016)、駒場の日本近代文学館さんを会場に、同館主宰で開催された文学講座「資料は語る―資料で読む東京文学誌」を元にしているようです。

光太郎に関しては、上智大学教授・小林幸夫氏による「千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎」。平成25年(2013)に開催された講座の第1回、「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」の内容をさらにふくらませているものでした。

中心になるのは、小林氏が『日本近代文学館年誌―資料探索 第10号』(平成27年=2015)にも書かれていた、「軍服着せれば鷗外だ」事件。事件そのものは大正6年(1917)ですが、のちに昭和に入ってから、光太郎が川路柳虹との対談で、詳細を語っています。

川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)
(「鷗外先生の思出」昭和13年=1938)

「立ちん坊」は、急な坂の下で重そうな荷車を待ちかまえ、押してやってお金をもらう商売です。「軍服」云々は鷗外の言から引きましょう。

高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。
(「観潮楼閑話」 大正6年=1917)

それで怒った鷗外が、光太郎を呼びつけたというわけです。さすがにボコボコにはしませんでしたが(笑)。数ある光太郎の笑えるエピソードの中でも、これはかなりランキング上位です(笑)。

これを紹介する小林氏の本論考書き出しの部分もまた、笑えます。

高村光太郎は走った、と思われる。自宅からの道を団子坂に向って。何故か。その坂の上にひとりの高名な文学者が住んでいて、怒っていたからである。その文学者とは森鷗外。

どうも権威的なものには反抗しないと気が済まない我らが光太郎(笑)、東京美術学校在学中の明治31年(1898)、美学の講師として美校の教壇に立った軍医総監の鷗外にも、だいぶ反発を感じていたようで、それがすべての大元になったようです。

しかし、反発するだけでなく、鷗外が顧問格だった『スバル』では中心メンバーの一人となりましたし、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた画廊の店名は、鷗外の訳書から採った「琅玕洞」。鷗外は鷗外で、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったりもしています。

何とも不思議な、二人の関係です。

『ビジュアル資料でたどる 文豪たちの東京』、他に帝塚山学院大学教授・宮内淳子氏による「遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草」でも、光太郎に触れられています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

一、国史眼、史記、八犬伝等。
二、物語もの、万葉集、八代集等。
三、ロダン、ホヰツトマン、ヹルハアラン等。
四、ベルグソン、ロマン・ロラン、ヷレリイ等。
五、座右に書籍乏しく、手当たり次第。
六、聖書、仏典、ロダン等。

アンケート「私の愛読書」全文 昭和24年(1949) 光太郎67歳

設問は以下の通り。

一、二十歳以前(少年時代)には
二、二十代(青年時代)には
三、三十代には
四、四十代には
五、現在は
六、各年代を通じての座右の書は


こうして見ると、光太郎という人物を構成した要素がかなりの部分、表されているような気がします。





新刊、というか、旧刊のバージョンアップです。

孤独なる彫刻 造形への道標(みちしるべ)

2020年4月1日 柳原義達著 アルテヴァン発行 定価1,300円+税

舟越保武、佐藤忠良とともに戦後の日本具象彫刻を代表する彫刻家・柳原義達。2020年4月18日から平塚市美術館、同年6月14日から足利市立美術館にて柳原の業績を顕彰する「柳原義達展」が開催されるのにあわせ、生前、優れた美術批評家として知られた柳原のロダンやブールデル、ヘンリー・ムーア、ジャコメッティ、高村光太郎論に加え、自身の制作への思いなどを綴ったエッセイ集。一歩すすんだ彫刻鑑賞の楽しみ方に触れることのできる1冊。ジャコメッティのモデルをつとめた矢内原伊作との対談も特別収載。

目次005

 オーギュスト・ロダン
 アントワーヌ・ブールデル
 ヘンリー・ムーア
 アルベルト・ジャコメッティ
 マリーニ、ファッチーニ、グレコ
 エミリオ・グレコ
 ジャコモ・マンズー
 マリノ・マリーニ
 高村光太郎
 土方定一
 パリ=ローマ24時間
 鳩によせて
 カラス
 孤独なる彫刻
 戦後の私の彫刻観
 私と彫刻

 無題(『読売・現代彫刻10人展』図録より)
 生命の動勢《ブーシェ》
 孤独な芸術家・舟越
 孤独に生きる
 心の安らぎ大和

 対談 柳原義達 vs. 矢内原伊作
   「宇宙の中のバランス 存在するものの位置」
柳原義達年譜/出典一覧/刊行にあたって

著者の柳原義達は、明治43年(1910)生まれの彫刻家。東京美術学校彫刻科に学び、昭和33年(1958)、栄えある第一回高村光太郎賞(造型部門)を受賞しました。平成16年(2004)に歿しています。

元版は昭和60年(1985)に筑摩書房さんから刊行された『孤独なる彫刻 柳原義達美術論集』。上記目次の「Ⅰ」の部分がそれにあたり、「Ⅱ」以降が増補されているようです。

美校在学中から影響を受けていたという光太郎について、「Ⅰ」に「高村光太郎」の項を設定して論じている他、ロダンの項、「私と彫刻」の項などで光太郎に触れています。

意外だったのは、「私と彫刻」中の、光太郎との交流について書かれた箇所。『高村光太郎全集』には、柳原の名が出てこないため、当方、これまで光太郎と柳原は直接の交流が無かったものと思い込んでいました。しかし、さにあらず。昭和13年(1938)頃、柳原が自作の彫刻「仔山羊」を光太郎に見せたところ、これで頒布会をやったらいい、とアドヴァイスを受けたというのです。さらにそのための推薦文も書いてもらったとのこと。当然、この推薦文は『高村光太郎全集』に載っていません。

本書巻末の年譜は略年譜で、そのあたりの記述がありません。そこで、気になって調べたところ、三重県立美術館さんのサイトに柳原の詳細な年譜が載っており、昭和14年(1939)の出来事として、「4月 第14回国画会展に《山羊》を出品し、国画会賞を受賞する。高村光太郎の勧めでこの作品の頒布会をおこなう。」とありました。ということは、光太郎の「推薦文」も活字になったのではないかと思われます。

光太郎のこういうケースは意外と多く、同じ昭和14年(1939)には、南洋パラオに暮らした彫刻家・杉浦佐助の個展に推薦文を書いていますし、前後して水野葉舟(書)や高田博厚、難波田龍起の作品頒布会や個展にも推薦文を寄せています。その他、宅野田夫、松原友規、片岡環といった、現代ではほとんど忘れられかけている(失礼かもしれませんが)といった造形作家たちの頒布会等の推薦文も手がけています。

というわけで、柳原の頒布会のパンフレット的なもの、ぜひとも見つけようと思いました。で、いきなり人に頼るのも何ですが(笑)、情報をお持ちの方、ブログコメント欄、フェイスブックtwitter(始めました)等からお知らせいただければ幸いです。

ちなみに柳原は「高村先生の詩的推薦文は出来上がり、美しい字は、私の心をとらえた」と記しています。「「詩的推薦文」、どんなものだろう?」と気になって仕方ありません(笑)。


【折々のことば・光太郎】

午後、夜、暇あれば散歩す。散歩といふよりも疾歩に近し。心神整調によしと思ふ。

アンケート「散歩と寸言」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

当方も毎日、愛犬と共に朝夕1時間弱くらいずつ散歩しています。田舎ですから人混みもなく、相棒はもう16歳の老犬ですのでゆっくりとです。歩きながらいろいろ考えると、意外と良さげなアイディアが浮かんだりで、原稿を頼まれたりした場合、歩きながら頭の中で半分は出来上がる、といった感じです。

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昨日、高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究(41)』についてご紹介しました。

今日は同誌の連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」について。こちらは当方のライフワークでして、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介です。

面白いものが多数見つかりました。

まず、評論「教育圏外から観た現時の小学校」。大正5年(1916)、『初等教育雑誌 小学校』に掲載された長いもので、手本を丸写しにさせる図画教育のありかたを徹底批判したり、子供特有の物体の捉え方(キュビスム的な)を尊重すべしといった論が展開されたりしています。面白いのは、駒込林町の光太郎住居兼アトリエの石段をめぐるエピソード。近所の子供達の格好の遊び場となっていたそうで、さすがに泥がおちて困るので「遊んだら掃除してくれ」的な張り紙と箒を用意したところ、こまっしゃくれたガキが「これは、ここで遊ぶなという意味なんだ」と、曲解したそうです。このようなひねくれた裏読みをする子供を育てる学校教育はけしからん、だそうで(笑)。

こちらは国会図書館さんのデジタルデータに新たにアップされたもので、同データの日進月歩ぶりもありがたいかぎりです。

それから、昭和20年(1945)の終戦直後、盛岡で開催された「物を聴く会」の談話筆記。これまで、そういう会があったことは知られていましたが、どんな話をしたのかは不明でした。それが地方紙『新岩手日報』に掲載されていたのを見つけました。終戦直後、花巻郊外太田村の山小屋に移る直前の光太郎の心境がよくわかります。


談話筆記としては、他に昭和28年(1953)、芸術院会員に推されたのを辞退した際のもの、同年、東京中野から一時的に花巻郊外旧太田村に帰ったときのものなど、それぞれ短いものですが、節目節目の重要な時期のものです。


また散文に戻りますが、戦時中のものも2篇。こちらはやはり「痛い」内容で……。

昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦の日に予定されていた、大政翼賛会第二回中央協力会議での提案の骨子、「工場に“美”を吹込め」。こちらはまだ前向きな提言ではありますが、敗色濃厚となった昭和19年(1944)の「母」になると、いけません。「まことに母の尊さはかぎり知れない。母の愛こそ一切の子たるものの故巣(ふるす)である。」、と、まあ、このあたりは首肯できますが、「されば皇国の人の子は皇国の母のまことの愛によつて皇国の民たる道を無言の中にしつけられる。」となると、「何だかなぁ」という感じですね……。もっとも、翌年に書かれた「皇国日本の母」という既知の散文では「死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極である」とまで書いていて、それに較べれば、まだしもですが……。

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書簡類も多数。昨年から今年の初めにかけ、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎からの手紙」に出品された、当時中学生だった女性からの「ファンレター」への返信(昭和25年=1950)、亡くなる6日前の、現在確認できている光太郎最後の書簡(ただし代筆ですが)など。

さらに短句揮毫。昨年このブログでご紹介した、智恵子とも旧知の画家・漫画家、池田永治に贈った「美もつともつよし」。昭和20年(1945)5月14日、疎開のため花巻に発つ前日、おそらく池田の着ていたチョッキの背に書いたものです。また、昭和27年(1952)、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)の卒業式に際して揮毫した色紙。「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」。このあたりは、書作品としても貴重なものです。

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他にもいろいろありますが、割愛します。

こちらの載った『高村光太郎研究(41)』、頒価1,000円です。ご入用の方、仲介は致しますので、ブログコメント欄からご連絡下さい。非表示設定も可能です。

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【折々のことば・光太郎】

思ひ出せばいろいろの場合にさう感じたことが沢山ありますが、初めてアメリカに渡つて苦学してゐる頃、時たま母から届いたカナクギ流の手紙ほど私の心を慰め、勇気を出させてくれたものはありません。

アンケート「カナクギ流の母の手紙――私がほんたうに有り難く思つたこと――」より  昭和6年(1931) 光太郎49歳


光太郎の母・わかは、大正14年(1925)、数え69歳で歿しました。わかは、決して光太郎に「死ねと教へる」ような「皇国の母」ではなかったはずだと思います。

当方も加入しております高村光太郎研究会発行の、機関誌的な年刊誌『高村光太郎研究』の41号が届きました。

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内容的には上記画像の通りですが、一応、文字に起こします。

高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「生命(いのち)」とは―画竜点睛、造型に命が宿るとき― 北川光彦
高村光太郎の書について「普遍と寛容」 菊地雪渓
光太郎遺珠⑮ 令和元年 小山弘明
高村光太郎没後年譜 平成31年1月~令和元年12月  〃
高村光太郎文献目録 平成31年1月~令和元年12月 野末明
研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき  〃

北川氏、菊地氏の稿は、昨秋開催された第64回高村光太郎研究会でのご発表を元にされたもの。

北川氏は、当会顧問であらせられた故・北川太一先生のご子息で、ご本業は理系の技術者です。そうした観点から、光太郎の「生命」に対する捉え方が、芸術的な要素のみにとどまらず、科学、哲学、宗教的見地といった様々な背景を包摂するものであるといった内容となっています。いわば彫刻、詩、書など、総合的芸術家であった光太郎のバックボーン、「思想家」としての光太郎に光を当てるといった意味合いもあるように感じました。

菊地氏は、昨年の「東京書作展」で大賞にあたる内閣総理大臣賞を受賞なさったりしていらっしゃる書家。光太郎詩文も多く書かれている方です。図版を多用し、光太郎書の特徴を的確に論じられています。光太郎の書はこれまでも高い評価を得ていますが、ただ「味がある」とかではなく、どこがどういいのか、それが技法的な面からも詳細に語られ、眼を開かれる思いでした。当方、富山県水墨美術館さんで開催予定の企画展「画壇の三筆 熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に関わらせていただいているため、特に興味深く拝読しました。

拙稿2本のうち、「光太郎遺珠」は当方のライフワーク。平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介です。詳細は長くなりますので、明日、紹介します。「没後年譜」は、このブログで昨年末に「回顧2019年」として4回にわたってまとめたのを骨子としています。

研究会主宰の野末氏による、「文献目録」はこの1年間に刊行された書籍、雑誌等の紹介、「研究会記録」は昨秋の第64回高村光太郎研究会に関わります。

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介は致しますので、ブログコメント欄からご連絡下さい。非表示設定も可能です。


【折々のことば・光太郎】

小生は歌を日本ソネツトと目してゐます。従つてその形式を尊重します。

アンケート「新年に当り歌壇に与ふる言葉」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

「歌」は短歌です。「ソネツト」は「ソネット」、14行で書かれる欧州の伝統的定型詩です。短歌でも独特の秀作をかなり残した光太郎。古臭いものとして排除しなかった裏には、こうした考えがありました。

一昨日、昨日に続き新刊紹介です。 

谷根千のイロハ

2020年2月19日 森まゆみ著 亜紀書房 定価1,300円+税

なつかしい街並みが残る谷根千を、古代から現代まで通して語る地域の歴史

現在も路地や商店街が続き、外国からの観光客にも人気が高い谷中・根津・千駄木。
弥生式土器が発掘された弥生町、江戸将軍家の菩提寺・寛永寺と上野、加賀の屋敷跡が東京大学になった千駄木、遊郭があった根津と権現様……。

幸田露伴、森鴎外、夏目漱石、岡倉天心、高村光太郎、三遊亭圓朝といったゆかりある著名人も取り上げながら、谷根千を歩いて語る。

本を片手に谷根千を歩いてみたくなる一冊!

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目次
 序文 次の世代に伝える
 (1) 古代から江戸時代までの谷根千
 (2) 明治時代の谷根千
 (3) 大正時代の谷根千
 (4) 昭和の谷根千
 あとがきにかえて

かつて地域雑誌『谷中根津千駄木』を刊行されていた森まゆみさんの新著です。一昨年、千駄木のKLASSさんで開催された森さんの連続講義を元にされているようです。

「(3) 大正時代の谷根千」の章に「高村光太郎」という項がある他、「(2) 明治時代の谷根千」の章には「高村光雲と平櫛田中」という項があります。また、「団子坂不同舎と太平洋美術会」では智恵子に触れられ、さらに「「パンの会」「方寸」の人々」、「千駄木で『青鞜』創刊」、「林町の住人たち」といった項もあります。

同じ森さん著の『「谷根千」地図で時間旅行』、『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』などと併せて読まれることをお勧めします。

「あとがきにかえて」に拠れば、「町について学び、町の声に耳をすませてきた地域の暮らしの歴史を、次の世代に伝えることができたら、これに過ぎる喜びはありません」とのことで、なるほど、その通りですね。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

何といつても世の中でいちばんうまい飲み物は、山へ行つて崖から湧き出る石清水をのむ時のうれしさだ。ビールなど足もとへもおよばない。実際水ほどうまい物はまたとなからう。

散文「ビールの味」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

好物の一つだったビールについて、自己の留学時の体験などを延々と書いてきて、最後にどんでん返し(笑)。身も蓋もありません(笑)。しかし、ほぼほぼアルコールを飲まなくなった当方としては、実に納得の行く言葉です。

新刊です

レジェンド文豪のありえない話

2020年1月1日 株式会社ダイアプレス 定価891円+税

総勢六十余名の神をも恐れぬご乱痴気!
酒癖、絡み症、女癖、我執…。文壇の先生方は一癖二癖、三癖が普通。そのくせ弱くて「死にたい…」とぽつり。そんな先生方の哀しくも過激でおもしろすぎるアンビリーバブルな言行録!!

〇明治の困った文豪たち
・坪内逍遥 ・夏目漱石 ・正岡子規 ・森鴎外 ・幸田露伴 ・広津柳浪 ・尾崎紅葉
・国木田独歩 ・樋口一葉 ・島村藤村 ・田山花袋 ・徳田秋声 ・泉鏡花 ・与謝野晶子

〇大正の小粋な文豪たち
・有島武郎 ・永井荷風 ・石川啄木 ・萩原朔太郎 ・芥川龍之介 ・谷崎潤一郎
・直木三十五 ・菊池寛 ・武者小路実篤 ・志賀直哉 ・内田百閒 ・室生犀星
・岡本かの子 ・佐藤春夫

〇昭和の微妙な文豪たち
・宮沢賢治 ・井伏鱒二 ・横山利一 ・江戸川乱歩 ・夢野久作 ・川端康成 
・梶井基次郎 ・小林多喜二 ・林芙美子 ・堀辰雄 ・中原中也 ・中島敦 ・ 坂口安吾
・檀一雄 ・太宰治 ・幸田文 ・大岡昇平 ・織田作之助 ・埴谷雄高 ・安部公房
・三島由紀夫


〇コラム
・明治文豪相関図 ・大正文豪相関図 ・昭和文豪相関図 ・文豪たちがしたためた恋文
・文豪たちのエロ妄想 ・文学と性表現 ・文豪たちのこだわり ・戦後小説と文壇の流れ

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「文豪」たちの、どちらかというと人間くさいエピソードの数々を、一般向けに堅苦しくなく紹介するものです。光太郎は目次の大項目に入っていませんが、コラム「文豪たちがしたためた恋文」で、大正2年(1913)、結婚前の智恵子に宛てた光太郎からの書簡が紹介されています。また、佐藤春夫ら、交流のあった「文豪」の項で名前が挙げられていたり、「相関図」に組み込まれていたりします。

肩のこらない書きっぷりですが、どうしてどうして意外と鋭い指摘(光太郎に関しては「狂気を孕んだ愛」の一言)や、ある種のタブーへの挑戦的な部分(狂信的ファンの間では神格化されている宮沢賢治が、実は春画コレクターだったことの紹介など)もあり、一種の「文春砲」のような(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

恋愛だけには人工的な理性が加はらない。昔からたつた一つ、人間の姿が生き生きして出て来るものは恋愛である。恋愛と云ふものは罪悪だとか、人間の精力をつぶして了ふとか、危険なものだとか、盲目なものだとか云ふ風に解釈するのは皆功利的な解釈の仕方である。

談話筆記「恋愛――結婚の話――」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

こう語った頃、光太郎は智恵子との恋愛の真っ最中で、密かに上高地への婚前旅行を共謀していた時期でした。

雑誌の新刊です。といっても、1ヶ月経ってしまいましたが

花美術館 Vol.68

2019年12月20日 蒼海出版 定価1,200円+税

特集 オーギュスト・ロダン 人体こそ魂の鏡  

監修・髙橋幸次(国際ファッション専門職大学教授)
 ロダンの生涯―いのちを注ぎ込んだ綜合  髙橋幸次
 ロダン作品の特徴―自然と生命を拠り所に  髙橋幸次
 日本とロダン  髙橋幸次
 「ロダンの言葉」について―彫刻理解の基礎、大前提  髙橋幸次
 日本のロダニズム―荻原守衛を中心に  武井敏(碌山美術館学芸員)
 カミーユ・クローデルとロダン  南美幸(静岡県立美術館上席学芸員)
 他


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花美術館』さん。隔月刊の美術雑誌で、A4版200ページ近くでオールカラーの豪華なものです。平成23年(2011)のVol18では、光太郎智恵子の特集「詩魂が宿る芸術 光太郎、智恵子」を組んで下さいました(監修は故・北川太一先生でした)し、その後もぽつりぽつりと光太郎に関わる内容がありました。

で、今号はロダン。監修、さらにご執筆もなさっている髙橋幸次氏、以前は日本大学さん芸術学部教授であらせられましたが、昨年開校した国際ファッション専門職大学に移られたそうです。当方、いろいろお世話になっております。氏が三元社さんから昨年上梓された『「ロダンの言葉」とは何か』をベースにされた部分もあり、ロダンを崇敬した光太郎についての記述がふんだんに為されています。

図版が多く、理解の手助けとなります。晩年のカミーユ・クローデルの写真の存在など、当方、寡聞にして初めて知りました。

氏からの年賀状で今号の内容を知り、早速、Amazonさんで注文したのですが、さんざん待たされたあげく、結局品切れとメールが来、改めて他店で注文し直し、漸く入手した次第です。

また、こちらもお世話になっている、碌山美術館さんの学芸員であらせられる武井敏氏による「日本のロダニズム―荻原守衛を中心に」でも、光太郎に触れて下さっています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

山を画きたい欲望は随分前からあつたので、今度山の中にはいつたら堪らないと思ふ。私は今大変な時に居る。二三日したら山へ行く。山を画く。

散文「〔消息〕――『生活』に――2」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「山」は信州上高地です。ここでは秘匿していますが、すでに話ができあがっていたようで、智恵子も光太郎の後を追って上高地入りし、二人は婚約を果たします。光雲の息のかかった旧態依然の日本彫刻界とは訣別し、ヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社など、新進気鋭の若手の集まりに軸足を置くようになって、さらに智恵子との婚約。確かに「今大変な時に居」ました。その高揚感が文章からも伝わってきます。

詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様005から、文芸同人誌『青い花』の最新号が届きました。

これまでも光太郎智恵子に関するエッセイや論考等を同誌にたびたび寄稿なさっていて、その都度お送りいただいております。恐縮です。

『青い花』-「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」。
『青い花』第78号。
文芸同人誌『青い花』第79号。
文芸同人誌『青い花』第81号。
文芸同人誌『青い花』第90号/『月刊絵手紙』2018年9月号。

宮尾様、一昨年に智恵子の故郷・二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」で大賞に輝くなど、朗読系の活動も広く為されています。昨年は連翹忌にても朗読をご披露いただきました。

「2016年 フルムーン朗読サロン IN 汐留」レポート。 
第5回 春うららの朗読会。 
朗読会「響きあう詩と朗読」。 
高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会レポート。 
第63回連翹忌レポート。 

さて、今回の『青い花』、宮尾様によるエッセイ「巴里 パリ PARIS(一)」が掲載されています。

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006昨年の6月、フランスにお一人で行かれたそうで、そのレポートです。パリ以外にもモンサンミッシェルについても記述があります。

宮尾様がドゴール空港に降り立たれたのが、6月11日。明治41年(1908)、光太郎が留学の最終目的地と定めたパリに着いた同じ日です。

ちなみに、数年前に発見した『高村光太郎全集』未収録の随筆「海の思出」により、パリ以前に滞在していたイギリスからは、ニューへブン(英)――ディエップ(仏)間の航路を使って海峡を渡ったことが初めて確認できました。

宮尾様、パリでは光太郎が暮らしたモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエ跡を訪れられたそうで、うらやましい限りです。当方もいずれは、と思っておりますが。

それから、パリに行かれるというので、事前に、これも数年前に発見した『高村光太郎全集』未収録の「曽遊紀念帖」という光太郎のパリレポートのコピーをお送りしましたところ、そちらに掲載されているメディシス(メヂチ)の噴水(Fontaine de Medicis)などにも足を運ばれm感慨にひたられたとのこと。テルミン奏者の大西ようこさんが渡仏された際もそうでしたが、お役に立てて幸いでした。

『青い花』、ご入用の方は下記まで。

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【折々のことば・光太郎】

僕の画室へは月が大窓から室一ぱいにさし込んで来る。遠くの方を馬車の馬の蹄の音がきこえる許りで今夜は至つて静かだ。かういふ晩には僕はいつも地球の廻転する音が聞える様に感じてならない。

散文「仏蘭西だより――水野葉舟への手紙――」より
明治42年(1909) 光太郎27歳

パリのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエでの感懐を、親友・水野葉舟に書き送った文章の一節です。

新刊紹介です。 

恥ずかしながら、詩歌が好きです 近現代詩を味わい、学ぶ

2019年11月30日 長山靖生著 光文社(光文社新書) 定価940円+税

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今どき「詩歌が好きです」と告白するのはかなり恥ずかしい。勇気がいります。殊におじさんにとってはカミングアウトに近い。しかし、詩を口ずさみたくなるのは若者だけではないのです。歳を重ねているからこそ、若々しい詩も、達観した歌も、共にわがこととして胸に沁みるのではないか――。
評論家として数々の受賞歴もある著者が、ついに詩歌好きをカミングアウト。近現代詩歌を時代順に引きながら、喜びや悲しみを、詩人たちの実人生と共にしみじみと味わいます。現代日本語や時代を作ってきた詩人たちの心のやりとり、生き様に注目!


長山靖生(ながやまやすお)
1962年茨城県生まれ。評論家。歯学博士。鶴見大学歯学部卒業。歯科医のかたわら、執筆活動を行なう。主に明治から戦前までの文芸作品や科学者などの著作を、新たな視点で読み直す論評を一貫して行なっている。1996年、『偽史冒険世界』(筑摩書房)で第10回大衆文学研究賞受賞。2010年、『日本SF精神史』(河出ブックス)で第41回星雲賞、第31回日本SF大賞を受賞。2019年、『日本SF精神史【完全版】』(河出書房新社)で第72回日本推理作家協会賞(評論・研究部門)受賞。主な著書に『「人間嫌い」の言い分』『不勉強が身にしみる』(以上、光文社新書)、『人はなぜ歴史を偽造するのか』(光文社知恵の森文庫)、『鷗外のオカルト、漱石の科学』(新潮社)、『「吾輩は猫である」の謎』(文春新書)、『若者はなぜ「決められない」か』(ちくま新書)、『千里眼事件』(平凡社新書)など多数。


目次


 はじめに
 第一章 大食いは師友の絆
   ――正岡子規、伊藤左千夫、長塚節――
 第二章 日清・日露の戦争詩
   ――与謝野鉄幹、夏目漱石、森鷗外、大塚楠緒子、与謝野晶子、乃木希典――
 第三章 江戸趣味と西洋憧憬
   ――上田敏、北原白秋、木下杢太郎、佐藤春夫、萩原朔太郎――
 第四章 酒のつまみは何ですか
   ――吉井勇、若山牧水、中村憲吉、萩原朔太郎、中原中也――
 第五章 詩歌と革命
   ――石川啄木、百田宗治、萩原恭次郎、小熊秀雄――
 第六章 恋する詩人たち
   ――与謝野鉄幹、与謝野晶子、北原白秋、片山廣子、芥川龍之介――
 第七章 犯罪幻想(ミステリ)と宇宙記号(SF)の世界
   ――萩原朔太郎、高村光太郎、山村暮鳥、千家元麿、三好達治、佐藤惣之助――

 第八章 抒情派の季節、あるいはロマネスクすぎる詩人たち
   ――中原中也、立原道造、堀辰雄――
 第九章 直情の戦争詩歌、哀切の追悼詩歌
   ――北原白秋、三好達治、高村光太郎、折口信夫――

 第十章 戦中戦後食糧事情 
   ――斎藤茂吉、山之口貘、片山廣子――
 あとがき


一般向けの近代詩歌史概論です。平易な語り口で書かれ、読みやすいのが特徴ですが、押さえるべきポイントはしっかり押さえられ、また、「流れ」として明治―大正―昭和戦後を捉えるかたわら、時に時系列を超えて謳われている対象によっての概括を図ったりもし、工夫に富んでいます。取り上げられている詩歌人が、一般には有名どころばかりでないのも好感が持てるところです。また、上記目次には名がありませんが、宮澤賢治、安斎冬衛、日夏耿之介、田山花袋らにも触れられています。さらに、目次に光太郎の名がない章にも、光太郎が登場します。

光太郎が大きく取り上げられているのは、まず「第七章 犯罪幻想(ミステリ)と宇宙記号(SF)の世界」。生涯最後の詩の一つ「生命の大河」(昭和30年=1955)が引用されています。翌年元日の『読売新聞』に発表された長詩ですが、原子力の平和利用的な部分もある詩で、長山氏、その部分に注目されています。

007 (2) 科学ほ後退をゆるさない。
 科学は危険に突入する。
 科学は危険をのりこえる。
 放射能の故にうしろを向かない。
 放射能の克服と
 放射能の善用とに
 科学は万全をかける。
 原子力の解放は
 やがて人類の一切を変え
 想像しがたい生活図の世紀が来る。


この一節に関しての長山氏の評が以下のとおり。

 原発問題で「けっきょく金だろ」みたいな下品な本音を露呈するエライ人は心を入れ替え、せめてこれくらいの品位ある言葉を使って、正々堂々と「科学が拓く未来」を語って欲しいものです。
 原発は反対派・推進派の双方がこれらの詩句に学んで、礼節と品格と機知のある言葉で応酬してくれれば、少なくとも耳の生活環境は向上します。だからといって両者が理解し合えることは、ないのかもしれませんが(光太郎の詩はアイロニーです。念のため)。

「生命の大河」が「アイロニー」とする部分には疑念を感じます。同時期の他の詩を併せて読むと、ある意味、光太郎、原子力による明るい未来、的な部分を信じていたふしがあります(無邪気に、というわけでもなかったようですが)。これは当時の世相がそうだったわけで(だから「鉄腕アトム」ですし、アトムの妹は「ウラン」ちゃんです)、一人光太郎をのみ批判するには当たらないとは思いますが、それにしても光太郎の社会認識の不得手さ(戦時にしてもそうでしたが、安易に流される部分)が見て取れます。

しかし、「品位ある言葉」云々は、その通りですね。ところが、今年発覚したF県T町と電力会社のズブズブの癒着問題などにふれると、やはり「原子力ムラ」の連中には「正々堂々と「科学が拓く未来」を語」ることはできないのでは、と思わされます。長山氏もそうした思いから「両者が理解し合えることは、ないのかもしれませんが」としているような気がします(違っていたらごめんなさい)。

逆に当方が心配するのは、「原子力村」の連中が「生命の大河」の上記の一節を持ち出し、「かの高村光太郎もこう語っているから、原発を推進しよう」と、プロパガンダに悪用しないかということです。まるで戦時中の翼賛詩のように、です。もっとも、品格に欠ける輩は、詩歌など読みませんか(笑)。

「翼賛詩」といえば、本書の「第九章 直情の戦争詩歌、哀切の追悼詩歌」で、やはり光太郎詩が取り上げられています。

取り上げられている翼賛詩は、昭和16年(1941)の「十二月八日」、「新しき日に」、翌年の「沈思せよ蒋先生」、「」シンガポール陥落」、「夜を寝ざりし暁に書く」、「特別攻撃隊の方々に」、同18年(1943)の「ぼくも飛ぶ」。

長山氏、公平公正な観点から当時の光太郎を評して下さっています。曰く、

 高村光太郎は、この戦争は東アジア太平洋地域を欧米の植民地支配から解放する聖戦だというスローガンを単純に信じたのでした。
 いや、単純ではなかったのかも知れませんが、自身、留学中の差別体験があり、疑いながらも、「信じる」ことが心情にもかなっていたのでしょう。現に戦いが始まってしまっている以上、それ以外の選択肢はありませんし。
(略)
 それでも高村光太郎は、品性を重んじ、美を讃え続けました。彼の目には死地に赴(おもむ)く人々の決意、虜囚(りょしゅう)の辱めを受けずに自決して果てる人々の姿勢が、とても高潔なものと映っていたのでした。おそらくこれは本当だと思います。戦地に行き死んでいった人々を、どうして無駄死になどと言えるでしょう。讃えねばならぬ、彼らの尊厳を守るために、彼らを讃えねばならぬ……。


さらに戦後の光太郎に触れられます。連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)の構想段階で書かれ、しかし結局ボツにした「わが詩をよみて人死に就けり」を引いて、「戦後になると、自身の「戦争協力」を深く悔いることになります。そしてその想いもまた、詩になる。それが詩人の業というものです。」と結ばれます。

本書を購入する前、光太郎の翼賛詩が取り上げられている情報を得ていまして、それを「これぞ大和魂の顕現」と涙を流してありがたがる内容の書籍だったら困るな、と思っていたのですが、杞憂でした。

ぜひ、お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

恐らく尾崎君は寸時も孤独に堪へられない本性を持つてゐて、其が尾崎君に人間への強い愛慕の心を与へ、従つて否応なしに、「人間を信じ」させるのであらう。

散文「「渝らぬ友」――尾崎喜八――」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

「渝らぬ」は「かわらぬ」と読みます。

尾崎喜八は光太郎と家族ぐるみで交流のあった詩人です。光太郎より12歳年少でした。

光太郎自身は「孤独が何で珍しい」(昭和4年=1929)などという詩も書き、その後半生、智恵子亡き後は独居自炊のある意味孤独な生活を続けましたが、しかし、深層心理では「寸時も孤独に堪へられない本性」をやはり持っていたのではないと思われます。それが誤った方向に作用し、世の中と積極的に関わろうとして、大量の翼賛詩を書き殴ることにもつながったような……。それとて「人間への強い愛慕」が背景にあったのでしょうが……。

1泊2日の行程を終え、東北から帰って参りましたが、そちらのレポート(最低3日はかかりそうなので)の前に、新刊情報を。

『詩と思想』2019年11月号 特集 詩人・作家の死生観

2019年11月1日 土曜美術出版社 定価1,300円+税


かつて文芸同人誌『虹』を主宰され、連翹忌にもたびたびご参加下さっている豊岡史朗氏からいただきました。

『虹』については以下。残念ながら、現在は休刊中だそうですが。
詩誌『虹』。   いただきもの。   詩誌『虹』―鷗外と光太郎。  文芸同人誌『虹』第6号。
文芸同人誌『虹』第8号。    文芸同人誌『虹』第9号/『月刊絵手紙』2018年8月号。

で、『詩と思想』。「詩人・画家の死生観」という特集を組んでいまして、豊岡氏の「高村光太郎の自然観と死生観」という玉稿も6ページにわたり掲載されています。

『虹』掲載のものもそうでしたが、氏の論考は安心して読めます。奇を衒わないリスペクトに基づく明快な論旨、完結で歯切れのいい文体等々、かくあるべしというお手本のようです。

他に、宮澤賢治、八木重吉、ミケランジェロなど、光太郎と関連する人々についての論考も掲載されています。


もう1件。 注文してはありますが、まだ届いていません。ネット上にも画像が掲載されていませんで、画像はなしです。

ビジュアル資料でたどる 文豪たちの東京

2019年11月 日本近代文学館編 勉誠出版刊 定価2,800円+税

夏目漱石、森鷗外、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、泉鏡花…。
日本を代表する文豪たちは、東京のどこに住み、どんな生活を送っていたのか。
彼ら・彼女らの生活の場、創作の源泉としての東京を浮かびあがらせる。東京を舞台とした作品の紹介のほか、古写真やイラスト、新聞・雑誌の記事や地図など当時の貴重な資料と、原稿や挿絵、文豪たちの愛用品まで100枚を超える写真も掲載。現在につながる、文豪たちの生きた東京を探す。
都内にある8箇所の文学館ガイドも掲載! アクセス方法、代表的な収蔵品など、写真付きで紹介。

目次
 刊行にあたって 坂上弘
 はじめに―東京文学を歩く 池内輝雄

 生活を支えた本郷菊坂の質店―樋口一葉と伊勢屋 山崎一穎
 千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎 小林幸夫
 漱石作品における「東京」の位置―「山の手」と「下町」の視点から 中島国彦
 女性たちの東京―泉鏡花と永井荷風 持田叙子
 近代医学へのまなざし―斎藤茂吉と青山脳病院 小泉博明
 作家たちの避暑地―芥川龍之介の軽井沢体験など 池内輝雄
 伏字の話から始まって―弴・万太郎・瀧太郎 武藤康史
 林芙美子の東京―雌伏期の雑司ヶ谷、道玄坂、白山上南天堂喫茶部 江種満子
 遊び、働き、住むところ―川端康成・佐多稲子たち、それぞれの浅草 宮内淳子


 [文学館記念館紹介]
 一葉記念館/武者小路実篤記念館/田端文士村記念館/世田谷文学館/太宰治文学サロン/
 森鷗外記念館/漱石山房記念館/日本近代文学館


上智大学教授で鷗外研究者の小林幸夫氏による「千駄木・団子坂:確執と親和の青春―森鷗外と高村光太郎・木下杢太郎」という項が含まれています。

小林氏、日本近代文学館さんで平成25年(2013)に開催された講座「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」で「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」をご担当、当方、拝聴させていただき、そのご縁で連翹忌にもご参加下さいました。その際の内容は『日本近代文学館年誌―資料探索』第10号に掲載されています。今回は、そこに木下杢太郎が関わっています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

出来た結果は思の半分にも及ばないが、毎日懐に入れて持つて歩いた。飯屋でも其を出して見ながら飯をくつた。まだ健康だつた頃の智恵子が私にも持たせてくれとせがんだ。

散文「木彫ウソを作つた時」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

自作の木彫「うそ」(大正14年=1925)は下の画像。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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雑誌系、2件ご紹介します。

花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)  vol.16

2019年10月20日 Office風屋 定価500円(税込)
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一昨年の創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「光太郎レシピ」という連載が続いています。今号は、「宮沢家の精進料理」。

花巻町(当時)や郊外太田村の山小屋で暮らしていた昭和20年(1945)から昭和27年(1952)にかけ、光太郎は賢治忌の9月や、町なかの松庵寺さん(上記右画像、「光太郎レシピ」撮影場所も松庵寺さんです)で両親・智恵子の法要を営んでもらった10月には、ほぼ欠かさず宮沢家を訪れ、いろいろとご馳走になっていました。そのあたりの再現メニューです。したがって、今号は光太郎が作った料理ではありません。

メインは「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」だそうで、いかにも秋ですね。

ネット上で注文可能です(「よせ豆腐と椎茸の吸い物と舞茸と芋の子の胡桃ソースかけ」が、ではなく、『Machicoco(マチココ)』 さんが、です。念のため(笑))


もう1件。

季論21 2019秋 第46号

2019年10月20日 本の泉社 定価909円+税
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歌人・内野光子氏の「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして」が17ページにわたり掲載されています。

サブタイトルの通り、中村稔氏の近著『高村光太郎の戦後』からのインスパイアだそうで、特に昭和22年(1947)の雑誌『展望』に掲載された連作詩「暗愚小伝」、さらにそれを含む詩集『典型』(昭和25年=1950)等での、光太郎の戦後の「自省」が甘いのではないか、という論旨のようです(どうも当方の暗愚な脳味噌ではよくわからないのですが)。

傍証としてあげられているのは、詩集『典型』や、戦後に刊行された各種の選詩集などに、戦時中の翼賛詩が納められていないこと。しかし、その実体はまだ不明瞭ではありますが、昭和27年(1952)までGHQによる検閲があったわけで、その時代に戦時中の翼賛詩を再び活字にすることなど出来ようはずもないのですが……。

まあ、それをいいことに、戦時中に翼賛詩歌を書いたことを無かったことにしてしまおうという文学者も確かに存在したようです。そのあたりは内野氏も参考にされている櫻本富雄氏の『日本文学報国会 大東戦争下の文学者たち』(平成7年=1995 青木書店)などに詳しく書かれています。

しかし、光太郎は「無かったことにしてしまおう」と考えていたわけではなく、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのだと思うのですが、どうでしょうか。「無かったことにしてしまおう」と考えた文学者は、自分が翼賛詩歌を書いていたことに、戦後は言及しませんでした。言及したとしても、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたもので、本意ではなかった」的な。まあ、光太郎も「軍や大政翼賛会の言うことを信じ切っていた自分は暗愚だった」と、似たような発言をしていますが。それにしても、「無かったことにしてしまおう」とか「本意ではなかった」というスタンスではありませんでした。ちなみに光太郎、連作詩「暗愚小伝」中の「ロマン ロラン」という詩では、翼賛詩を「私はむきに書いた」と表現しています。

それを、戦後の選詩集等に翼賛詩を収めなかったからといって、隠蔽しようとしていたと談ずるのはどうでしょうか。繰り返しますが、GHQによる検閲があった時期には絶対に不可能でしたし、講和条約締結後の検閲がなくなってからも、戦後復興の時期にあえてまた翼賛詩を活字にする必要はなかったはずです。というか、その時期に翼賛詩をまた引っ張り出していたとしたら、「暗愚」どころの騒ぎではなく、「愚の骨頂」です(ところが、現代に於いては光太郎の翼賛詩を「これこそ光太郎詩の真骨頂」と涙を流さんばかりに有り難がる愚か者がいて困るのですが)。

これも繰り返しますが、翼賛詩を「無かったことにしてしまおう」と考えていたのか、「後世に残すべき作品ではない」と考えていたのか。光太郎は後者だと思います。

それにしても、内野氏の論を読んでいて感じたのですが、確かに戦時中の光太郎の活動については、一般にはあまり知られていないようです。我々としましては、それを隠蔽しようという意図はなく、さりとてその時期の光太郎の活動が真骨頂ではあり得ないので、ことさらにその時期を大きく取り上げることはしません。

しかしやはり「無かったこと」にはできませんから、光太郎の歩んだ道程、生の軌跡の一部として、光太郎が何を思い、何を目指していたのか、そういったことに思いを馳せる必要がありますね。というのは、当会顧問・北川太一先生の受け売りですが(笑)。

ともあれ、考えさせられる一論でした。版元サイト、それからAmazonさんでも購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

見たところ東京でやつている人の方が地元作家のものより見ばえがするがむしろこの逆になるよう勉強してもらいたいものだ。

散文「山形県総合美術展彫刻評」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

戦後の花巻郊外旧太田村での暮らしの中で、「東京一極集中」への疑念、「地方創成」への意識などが光太郎の内部に根づいたことも、大きな意味があるように思われます。

台風19号、列島各地に大きな爪痕を残しました。亡くなられた方には深く哀悼の意を表させていただきます。

千葉県北東部に位置する自宅兼事務所周辺、先月の台風15号の際と比べ、風雨は強くありませんでしたし、停電にもなりませんでした(先月の停電は54時間続きました)ので、胸をなで下ろしましたが、市内を流れる利根川が氾濫危険水域を超えたということで、予断を許しません。ただ、自宅兼事務所は利根川から数キロ離れている高台ですので、とりあえず大丈夫だろうとは思っています。

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光太郎・智恵子・光雲ゆかりの全国各地を廻っている身としては、被害報道に接し、「ああ、あの場所ら辺、こないだ通ったよな」「えっ、あそこの近くのあんなところもか」「うわー、××川もか」という感じです。

しかし、我々は繰り返される災害を乗り越えてきた国民です。昨夜、我々を勇気づけてくれる素晴らしい闘いを見せてくれ、W杯決勝トーナメント進出を決めたラグビー日本代表のように、がんばりましょう。


さて、新刊書籍をご紹介します。

危険な「美学」

2019年10月12日 津上英輔著 集英社(インターナショナル新書) 定価820円+税

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「美」を感じる感性そのものに潜む危険

芸術が政治に利用されるという話は数多くありますが、本書は人間にとっての三大価値である真・善・美の「美」そのものに実は危険が潜むことについて著者独自の理論で指摘した、画期的な一冊です。
 高村光太郎の戦意高揚の詩やジブリアニメの「風立ちぬ」で描かれた「美しい飛行機作り」という行為に潜む危険。トーマス・マンの『魔の山』における結核患者の描写や、特攻隊の「散華」を例に、イメージを負から正へ転換させてしまう感性の驚くべき反転作用について解説します。
 「美」を感じるとはどういうことなのか? 誰もが有する「感性」がもたらす危険を解き明かします。


目次

 まえがき
  序章 美と感性についての基礎理論
   第一節 真善美の思想
   第二節 「十大」ならざる「三大」
   第三節 「一大」ならざる「三大」
   第四節 真・善・美と知性・理性・感性
   第五節 美と芸術の自律性
   第六節 美とは何か
   第七節 美の恵みと危険
 第一部 美は眩惑する
  
第一章 「美に生きる」(高村光太郎)ことの危険
   第一節 戦争賛美の詩「必死の時」
   第二節 詩の分析
   第三節 光太郎の戦後
   第四節 「美に生きる」こと
   第五節 「悪かつたら直せばいい」
   第六節 光太郎を越えて
   第七節 眩惑作用がもたらす美への閉じこもり
   第八節 高村山荘
   第九節 光太郎の戦争賛美と智恵子

  第二章 アニメ『風立ちぬ』の「美しい飛行機」
   第一節 『風立ちぬ』における「美しい」の用法
   第二節 美の働き
   第三節 戦闘機と美
   第四節 夢
   第五節 「美しい夢」の危険
   第六節 美の眩惑作用
 第二部 感性は悪を美にする
  第三章 結核の美的表象
   第一節 健康と美
   第二節 非健康の感性化
   第三節 小説『魔の山』
   第四節 文豪が描いた結核患者像
   第五節 隠喩理論
   第六節 美的カテゴリー論
   第七節 感性の統合反転作用理論
   第八節 感性の特異な働き
   第九節 感性の危険
  第四章 「散華」の比喩と軍歌〈同期の桜〉
   第一節 「散華」の比喩
   第二節 美化と美的変貌
   第三節 特攻と「散華」
   第四節 軍歌〈同期の桜〉
   第五節 自ら歌うということ
   第六節 音楽は他人ごとを我がこととする
   第七節 「散華」と感性の統合反転作用
   第八節 メコネサンス理論
   第九節 美と感性の危険性
 あとがき
 参考文献


著者の津上氏は、成城大学さんで教授をお務めの美学者。目次を概観すればある程度の方向性が見えると思いますが、特に戦時に於ける「美」が、利用されるだけでなく、自ら暴走を始める危ういものであることを、光太郎を含め、さまざま例を挙げながら実証しようとする試みです。

まだ「まえがき」と、光太郎の章しか読んでいないのですが、他の章との関連性も踏まえないといけない感じですので、なるべく早く読了しようと思っております。

その光太郎の章、メインで取り上げられているのは詩「必死の時」(昭和16年=1941)。津上氏、「文学には疎い」と謙遜されつつも、その他の詩や講演等を含め、丁寧にかつ説得力溢れるおおむね妥当な分析が為されています。どうでもいい枝葉末節に拘泥しない姿勢、それから光太郎に対するリスペクトがきちんと表明されており、好感が持てます。何より美学者として、「美」とは何かという命題への挑戦が根底にあり、そういった部分ではなるほど、と唸らせられました。

後半、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)及び隣接する高村光太郎記念館さんを訪れられてのレポート的な内容にもなっています。津上氏、何度も訪問されたそうで、ありがとうございます。光太郎を語る上で、あの地を実際に見ていないというのは、その資格を放棄しているようなものだと思うのですが、そう考えないエラいセンセイもいるようで(というか、いるんです(笑))、堂々と「私はまだ彼の地を訪れていないが」と臆面もなく断った上で机上の空論を展開している人もいます。

津上氏、山荘の保存のために建設された套屋について、この地の先人の思いなど、正しく考察されています。ただ、ちょっと勘違いがありましたので、指摘させていただきます。套屋内部の説明パネルについてです。「光太郎がこの地にたどり着いた経緯が説明されていない」と、まぁ、その通りなのですが、あのパネルは元々同じ花巻市内の宮澤賢治記念館さんで、10年ほど前でしたでしょうか、光太郎展的なものを開催した際の説明パネルを終了後に貰ってきたものでして、山荘そのものの説明パネルとして作ったものではないのです。その光太郎展で山荘に入った経緯があまり語られなかったという瑕疵はありますが。ちなみにそちらの展示には当方、関わっておりません。

そう思っておりましたところ、さらに読み進めると、バリバリ当方が書いた高村光太郎記念館さんの展示説明パネルにも言及(笑)。「戦時の光太郎についての追求が甘い」とのことで。この点は「その通りです」としか言いようがありません。まぁ、はっきり言うと、当方、「忖度」しました。右翼の街宣車に押しかけられても困りますし、先般の「表現の不自由展」のような事態は避けたかったので。それを甘いと云われればその通りです。

それにしても、一般の方のブログ等では拝見したことがありましたが、きちんとした書籍であの説明パネルについて言及されたのはおそらく初めてで、驚きました。

さて、『危険な「美学」』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

芸術心と云ふものは物を味はふ所からはじまるので、物を味はひ生活を味はひ――と云ふことは何かと云ふとどんな物の中からでも良さを見付け出してどんな詰まらない所からでも意味を見付け出し、美しさを見付け出す、そこが芸術と云ふものが人の考へて居る程唯付け足りの装飾や見て呉ればかりでない根本の力となる性質だらうと思ふのであります。

談話筆記「現下芸術政策の根本目標並当面の緊急事項等に就いて」より
                   昭和15年(1940) 光太郎58歳


この年開催された、大政翼賛会臨時中央協力会議第四委員会での発言速記から。

正論ではありますが、実にきな臭い。こういう所にも、津上氏の指摘する「危険」さが表れています。

昨日に引き続き、新刊情報です。

詩と出会う 詩と生きる

2019年7月25日 若松英輔著 NHK出版 定価1,700円+税

言葉とこころを結びなおす
言葉と人は、どのような関係にあるのか。詩に込められた想いを知ることで、何を得ることができるのか。困ったとき、苦しいとき、悲しいとき──私たちを守ってくれる言葉を携えておくために。文学・哲学・宗教・芸術──あらゆる分野の言葉を「詩」と捉え、身近に感じ、それと共に生きる意味を探す。

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目次
 はじめに 言葉は心の糧
 第1章 「詩」とは何か 岡倉天心と内なる詩人
 第2章 かなしみの詩 中原中也が詠う「おもい」
 第3章 和歌という「詩」 亡き人へ送る手紙
 第4章 俳句という「詩」 正岡子規が求めた言葉
 第5章 つながりの詩 吉野秀雄を支えた存在
 第6章 さびしみの詩 宮澤賢治が信じた世界
 第7章 心を見つめる詩 八木重吉が刻んだ無音の響き
 第8章 いのちの詩 岩崎航がつかんだ人生の光
 第9章 生きがいの詩 神谷美恵子が問うた生きる意味
 第10章 語りえない詩 須賀敦子が描いた言葉の厚み
 第11章 今を生きる詩 高村光太郎が捉えた「気」
 第12章 言葉を贈る詩 リルケが見た「見えない世界」
 第13章 自分だけの詩 大手拓次が開いた詩の扉
 第14章 「詩」という民藝 柳宗悦がふれたコトバの深み
 第15章 全力でつむぐ詩 永瀬清子が伝える言葉への態度
 おわりに 「異邦人」たちの詩歌
 詩と出会うためのブックガイド

010昨年、NHKラジオ第2放送さんで放送のあった「NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる」のために書き下ろされたテキストを大幅に加筆、さらに新章を加えての出版です。

テキストでは柳宗悦と光太郎で一つの章でしたが、光太郎と柳、それぞれで独立した章に分割、分量はそれぞれ2倍ほどに膨らんでいます。内容構成の骨組み的にはほぼ同じようですが。

新章としては、光太郎と深かった永瀬清子などが新たに加わりました。その他、テキストの頃から取り上げられていた、岡倉天心中原中也吉野秀雄宮沢賢治八木重吉などが光太郎と関わった人物です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

最近村の人達が木を切つて電柱をつくり、会社にたのんで、小生の小屋に電燈をひいてくれました。谷川を越えてはるばる電線をひいて来ました。反つてゐる電柱が立つてゐます。おかげで夜が明るくなり、仕事に甚だ好都合です。
雑纂「消息」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

昭和20年(1945)の秋に、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に入った光太郎でしたが、昭和24年(1949)まで3年以上、電気のないランプ生活を送っていたわけです。

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昨年の花巻高村祭で、電線を引く工事を手伝ったという、藤原秀盛さんのお話を聞くことができました。

 新刊です。

まなの本棚

2019年7月23日 芦田愛菜著 小学館 定価1,400円+税

運命の1冊に出逢うためのヒントに! 「本の出逢いは人との出逢いと同じ」 年間100冊以上も読み、本について語り出したら止まらない芦田愛菜が本当は教えたくない“秘密の約100冊"をご紹介。世代を超えて全ての人が手に取ってみたくなる考える力をつけたい親御さんと子供たちにも必読の書です。

 Q 本の魅力にとりつかれた初めての1冊は?
 Q 一体、いつ読んでいるの?
 Q どんなジャンルの本を読むの?
 Q 本を好きになるにはどうしたらいい?
 Q 好きな登場人物は?

スペシャル対談 ・山中伸弥さん(京都大学iPS細胞研究所所長 教授) ・辻村深月さん(作家)も収録!

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目次
 プロローグ 宝探しみたいに本の世界へ入っていきます
 第1章 語り出したら止まらない! 芦田愛菜の読書愛
  いちばん最初の読書の記憶
  村上春樹さんに私、ハマってしまったみたい!
  読書はお風呂や歯磨きと同じ生活の一部
  3~4冊を同時並行で読むことも
  背表紙がキラリと光って見えるんです
  本の感想に“正解”はなくていいのかも
  紙の本の手触りが好き
  4コマまんが ちょっとの間にも読んでいます・読むのをがまんしてる時は
 第2章 本好きへの扉を開いた6冊
  『おしいれのぼうけん』
  『不思議の国のアリス』
  『都会のトム&ソーヤ』
  『ツナグ』
  『言えないコトバ』
  『高瀬舟』
 第3章
  まなの本棚から84冊リスト
  ここからスタート!の絵本 『もこ もこもこ』 『ぐりとぐら』
  小学生で夢中になった児童書 『天と地の方程式』 『若おかみは小学生!』
   『魔女の宅急便』『怪盗クイー
ン』 『怪人二十面相』
  次々と読破したシリーズもの 『落語絵本』シリーズ
   『ストーリーで楽しむ日本の古典』シリーズ 『小学館版
学習まんが人物館』シリーズ
  世界を広げた海外児童文学 『赤毛のアン』 『あしながおじさん』
   『ハリー・ポッター』シリーズ
  興味がつきない体の不思議 『学習まんが ドラえもん からだシリーズ』
  気になったらすぐに開く図鑑 『花火の図鑑』 小学館の図鑑NEO『星と星座』
   『宇宙』『岩石・鉱物・化石』
  ゾワッとするSF小説 『ボッコちゃん』 『声の網』
   対談 山中伸弥先生×芦田愛菜 科学はどこまで進歩していいのでしょうか
  歴史がもっと知りたくなる 『平安女子の楽しい!生活』 『空色勾玉』 『白狐魔記』
  熱い友情や“スポ根”大好き 『夜のピクニック』 『バッテリー』 『よろこびの歌』
  『風が強く吹いている』 『リズ
ム』
  限界へ!自分との闘い 『DIVE!!』
  嫉妬やコンプレックス 『反撃』 『ふたり』
  きょうだいや家族への思い 『一人っ子同盟』 『西の魔女が死んだ』 『本を読む女』
  日本語って奥深い! 『舟を編む』 『ふしぎ日本語ゼミナール』
  言葉や伝えるということ 『きよしこ』 『ぼくのメジャースプーン』
  辻村ワールドにハマるきっかけに 『かがみの孤独』
   対談 辻村美月さん×芦田愛菜
      「小説は一人では成り立たない」ってそういうことなんですね!
  止まらなくなる!海外ミステリー 『シャーロック・ホームス』シリーズ
   『モルグ街の殺人』 『Xの悲劇』 『そし
誰もいなくなった』
  日本文学〈~平安時代〉神話や貴族の生活 『古事記』 『日本書紀』 『風土記』
   『源氏物語』
  日本文学〈江戸時代〉エンタメ充実!  『曽根崎心中』 『雨月物語』
   『南総里見八犬伝』『東海道中膝栗毛』
  日本文学〈明治時代~〉人生や恋に悩んだり  『福翁自伝』 『舞姫』
   『吾輩は猫である』『坊っちゃん』 『ここ
ろ』 『小僧の神様』 『たけくらべ』
   『友情』 『伊豆の踊子』『雪国』 『細雪』『智恵子抄』 『一握の砂』
   『雨ニ
マケズ』 『高野聖』 『破戒』 『夜明け前』
  太宰治より私は芥川龍之介派! 『蜘蛛の糸』
  戦争について考えるきっかけに 『ガラスのうさぎ』 『永遠の0』
  海外文学 答えは一つじゃないはず 『賢者の贈り物』 『変身』 『レ・ミゼラブル』
  そしてこれからも 『海辺
カフカ』
 コラム 好きな登場人物
  男性編 湯川学『探偵ガリレオ』 内藤内人『都会のトム&ソーヤ』
   片山義太郎『三毛猫ホームズの推理』 
玄之介『あかんべえ』 堂上篤『図書館戦争』
   松本朔太郎『世界の中心で、愛をさけぶ』
  女性編 有科香屋子『ハケンアニメ!』 スカーレット・オハラ『風と共に去りぬ』
   ジョー・マーチ『若草物語』 
赤羽環『スロウハイツの神様』 林香具矢『舟を編む』
 エピローグ 本がつないでくれるコミュニケーションや出逢い

現在、中学3年生、15歳の芦田愛菜さん。読書好きというのは以前から公言なさっていたようで、今回の出版につながったようです。これまでに読んだ本の中から約100冊を紹介するというコンセプトで、この年で約100冊が紹介できるというのも驚きです。しかもラインナップを見ると、古今東西、かなり幅広く網羅されており、感心します。

013光太郎の『智恵子抄』を取り上げて下さいました。ただ、紹介はほんのちょっとですが(笑)。それから、シリーズとして、『小学館版学習まんが人物館』シリーズ。村野守美さんという方の作画、当会顧問・北川太一先生の監修で、「高村光太郎・智恵子 変わらぬ愛をつらぬいた二つの魂」がラインナップに入っています。

芦田さん、光太郎が尋常小学校の課程を卒業した、荒川区立第一日暮里小学校さんのご出身です。

同校では、「先輩光太郎に学ぶ」ということで、様々な取り組みをして下さっています。特に6年生は、総合的な学習の時間等で、光太郎に関する調べ学習などを1年間にわたり行っています。当方、芦田さんの次の学年の児童さん達が6年生だった年度に、授業を拝見したり、ゲストティーチャーに招かれたりしました。

そこで芦田さん、6年生の時に(或いはもっと以前に?)これらを読まれたのでしょう。

また、同校では図書館教育にも力を入れ、それが評価されて、平成27年(2015)には、当時のケネディ駐日大使が学校訪問に来られたことも。学校としての図書館教育の充実も、芦田さんの本好き、そして、本書に書かれた芦田さんの「読書観」(なかなか核心を突いた鋭いものの見方です)にも関わっているのかも知れません。

さて、夏休みとなり、定番の読書感想文の宿題に悩まれている小中高生の皆さん、親御さんも多いかと存じます。『まなの本棚』、そういう方々向けのブックガイドとしても好著です。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

翻訳は共同の性質を持つ。気のついた人が訂正するやうな慣はしにしたい。

雑纂「誤訳です」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

大正5年(1916)に刊行した訳書『ロダンの言葉』につき、中野重治が訳文に疑念を呈し、それを読んだ光太郎が調べ直してみるとその通りだったとのこと。すぐさまその誤りを雑誌『新潮』に発表したわけです。

後の翼賛詩→連作詩「暗愚小伝」の問題についてもそうですが、光太郎の偉いところの一つは、自らの誤りを謙虚に認め、訂正できることだと思います。

新刊……といっても2ヶ月近く経ってしまっていますが……昨日、たまたま行った新刊書店で見つけました。

泥酔文学読本

2019年5月30日 七北数人著 春陽堂 定価2,400円+税

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酒と文学はよく似ているーー 陶酔を誘う文学と酒は、ともに摂取した者を別世界へ連れて行ってくれる。 酒も文学も、その世界の心地よさにハマってしまうと、抜け出せなくなる。 だから、読み続けるしかない、飲みつづけるしかない…… 古今東西の文学作品に描かれてきた、様々なる酒と多様なる酔い方を紹介。 すべての文学と酒愛好家に送る珠玉のエッセイ!!

【登場する作家たち】※五十音順
赤江瀑、赤塚不二夫、亜樹直、芥川龍之介、阿刀田高、アポリネール、アンダソン(シャーウッド)、アンデルセン、アンブローズ・ビアス、飯田蛇笏句、池澤夏樹、石川桂郎、石田波郷、色川武大、ヴァーリイ(ジョン)、ヴァレリー、宇能鴻一郎、大藪春彦、岡本かの子、小川未明、開高健、甲斐一敏、梶井基次郎、片岡義男、香山滋、北方謙三、北原白秋、グリーン(グレアム)、ゲーテ、源氏鶏太、古今亭志ん生、小酒井不木、コッパード、小松左京、コルタサル(フリオ)、坂口安吾、坂口綱男、佐藤垢石、沢木耕太郎、サン=テグジュペリ、司馬遼太郎、澁澤龍彥、杉浦日向子、スティーブンソン(R・L)、ダール(ロアルド) 、高村光太郎、太宰治、田中康夫、谷崎潤一郎、種田山頭火、チュツオーラ(エイモス)、筒井康隆、デフォー(ダニエル)、中井英夫、中里介山、中島らも、中原中也、中村彰彦、ニエミ(ミカエル)、萩原朔太郎、原田禹雄、火野葦平、フィニイ(ジャック)、藤枝静男、藤本義一、ブラウン(フレドリック)、ブラッドベリ(レイ)、プルースト、古谷三敏、ヘンリー(O)、星新一、牧野信一、三浦哲郎、水谷準、宮沢賢治、宮本百合子、村上春樹、莫言、森鴎外、山川健一、山川方夫、山本昌代、夢枕獏、吉田秋生 吉田健一、吉行淳之介、四方屋本太郎、ロート(ヨーゼフ)、若山牧水

目次
はじめに 陶酔の月ジュース
I 泥酔する作家たち
 坂口安吾の酒 べらんめえ文学論 青春のように悲しいビール 電気ブラン今昔
 酒中花と水中花 ダダイスト辻潤の放蕩 スペインの酒袋 宿酔日和 酒の音色
 末期の水 風狂の吹き溜まり 生きいそぎの記 妄想の酒場 バーボンにはピスタチオを
II 物語のなかのアルコール
 村上春樹の酒 サバイバルはラム酒で ヤシ酒が飲みたい! 夕焼け色のワイン
 シャンパン・バブル オハイオ州ワイン町 マッコリこわい 不老不死の酒
 シャンパンと三鞭酒 雪見酒 鶴血酒 珠玉探求 ウイスキーボンボン XYZは最期の酒
III 泥酔の文学誌
 聖なる酔っぱらいの伝説 楽園へのいざない バーは異界への入口 魔人のいる店
 カフェ・カクテール 悪魔の酒 少年と酒とロック おそるべき中国文学
 壺の中のユートピア 猩々ども! 酔わせて倒せ! 酔って候 骨酒ヒレ酒スルメ酒
 シネフィルの呪文 別れに乾杯! テイスティングは超能力か 白酒と青酎
 ウイスキー坊主 硬派なナンパ本
IV 酩酊のその先へ……
 付喪神の戯れ 酒器愛玩 酒虫の秘技 菊の精の契り 鏡のある酒場 人魚は酒が好き
 髑髏盃 海も川も酔っぱらう 人を呑んだ話 恐怖の宴会芸 河童の酒宴 赤い酒の霊力
 終わりの日々を…… α次元にいる智恵子
あとがき
作家・作品名一覧

010酒文化研究所さんという団体が発行の『月刊酒文化』という会員誌に連載中のものの既発表分だそうです。古今東西の文学作品等から、「酒」にまつわる一節を書き出し、そこから広がる酒談義・作家論・人生論といった趣です。

光太郎が名誉ある大トリです(笑)。「α次元にいる智恵子」という項で、メインは詩「梅酒」(昭和15年=1940)の一節。それプラス『智恵子抄』や『智恵子抄その後』から、「亡き人に」(昭和14年=1939)、「元素智恵子」(昭和25年=1950)、「案内」(同)、「智恵子と遊ぶ」(昭和27年=1952)から詩句が引用され、戦後の花巻郊外旧太田村での山小屋生活、それを切り上げて取り組んだ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作などに触れられています。

また、この項以外でも「サバイバルはラム酒で」という項で、やはり旧太田村での蟄居生活に筆が及んでいます。この項、メインはR・L・スティーブンソンの『宝島』なのですが。

その他、光太郎智恵子と交流のあった面々――岡本かの子、北原白秋、中原中也、萩原朔太郎、宮沢賢治、森鷗外など――も登場します。

「パンの会」の盟友だった白秋はともかく、ストイシズムのかたまりのような(笑)賢治は、酒と関係ないのでは……と思ったら、童話「やまなし」の最後で、川に落ちた梨が発酵して酒が出来るという話(「海も川も酔っぱらう」)や、同じく童話「雪渡り」の、狐の幻灯会で「お酒をのむべからず」という話が出て来た件(「雪見酒」)でした。

ぜひお買い求めください。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月生 東京美術学校出身 彫刻自営

雑纂「略歴」全文 昭和16年(1941) 光太郎60歳

詩集『智恵子抄』に載せた略歴です。

昨日ご紹介した「高村光太郎自伝」も短いものでしたが、こちらはさらに上を行く短さ(笑)。いったいに光太郎、ある時期まで自らの来し方には興味があまりない、というスタンスだったように思われます。

昨日の『朝日新聞』さんの読書面に、先月刊行された中村稔氏著 『高村光太郎の戦後』の書評が大きく出ました。

『高村光太郎の戦後』 中村稔〈著〉  ■自らの「愚」究明する表現人の責任

 19世紀ドイツの法学者ギールケは、普仏戦争開戦直前の首都ベルリンで、「共同体の精神が、原始の力で、ほとんど官能的な形象を伴ってわれわれの前に発現し、……我々の個としての存在を感じさせなくなる」経験をしたという。同種の体験が日本では、共同体精神の特権的な表現人であった天皇を、表象として用いて語られる。
 たとえば、真珠湾攻撃の一報をきいた体験を、詩人・高村光太郎は次のように回想している。「この容易ならぬ瞬間に/……昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/……私の耳は祖先の声でみたされ、/陛下が、陛下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」(「暗愚小伝」から)
 以降の高村は、共同体精神の卓越した表現人として、戦争を鼓舞する詩を書いた。少なからぬ若者がそれに励まされて死地に赴いた。そうした「世代」の文芸的精神の中に、いいだもも、村松剛の如(ごと)き左右両極の批評家、最高裁判事を務めた大野正男、そして本書の著者・中村稔もいたのである。
 戦後派としての彼らがそれぞれに格闘した「日本」という問題は、しかし、時局への加担者として「二律背反」に苦しんだ高村によっても、真摯(しんし)な反省の対象となっていた。自らを「愚劣の

典型
」とみて、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたか」を究明した、高村の「致命点摘発」の作業は、「暗愚小伝」を含む詩集『典型』に結実した。
 中村稔は、詩人としても法律家としても、そうした高村に一貫して拘(こだわ)ってきた。その文学人生の最終盤に、高村の「戦後」といま一度腰を据えて取り組んだのが本書である。この重みを踏まえなければ、岩手・花巻郊外の言葉も通じない山中で、高村が独居生活した戦後の7年間を、何故「冗漫に耐えて」執拗(しつよう)に追体験しようとしているのかは、理解できない。
 しかも感動的なのは、そうした地道な作業の結果、齢(よわい)92歳の著者が、近著『高村光太郎論』でも披瀝(ひれき)された若き日からの持論を「あさはかな批評」と断じて、自ら改めるに至ったという事実である。
 かねて評価した歌人
斎藤茂吉の中に、中村は、「社会的存在としての人間の生」の視点の欠落を発見し、そうした他者を想定せずには成立しない「責任」の観念の蒸発が、戦争を賛美した過去に向き合う「知識人の責務」の欠如をもたらしていることに失望する。そして、これとの対比から、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建した実例を、かつて弁明のみ目についた『典型』に、慥(たし)かに見出(みいだ)すに至ったのである。
 評・石川健治(東京大学教授・憲法学)

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評を書かれた東大の石川健治教授の光太郎観がかなり反映された評にも読めますが、「自らの「愚」究明する表現人の責任」というタイトルが、我が意を得たりという感じです。途中にいろいろ名が挙げられている人々の中に、吉本隆明が入っていれば、さらによかったのですが。

多くの前途有為な若者を死地に追い立てた戦時中の詩文に対し、光太郎は「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり、」(連作詩「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」より)としましたが、「誤解を与えたとすれば撤回します」的な発言はしていません。そしてしっかりその責任を取るため、自らを流刑に処する「自己流謫(るたく)」の7年間を、花巻郊外旧太田村のあばら屋に送りました(この「自己流謫」に就いての中村氏の解釈はかなり手厳しいのですが)。

『高村光太郎の戦後』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月、東京下谷に生る。東京美術学校彫刻科卒業。与謝野寛先生の新詩社に入りて短歌を学ぶ。一九〇六年より一九〇九年夏まで、紐育、倫敦、巴里等に滞在す。真に詩を書く心を得しは一九一〇年(明治四十三年)以後の事なり。一九一四年詩集「道程」出版。以後詩集無し。以上。

雑纂「高村光太郎自伝」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

この年新潮社から刊行された『現代詩人全集第九巻 高村光太郎 室生犀星 萩原朔太郎集』に寄せたものです。『智恵子抄』刊行前ですので、『道程』以後、詩集無しということになっています。

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簡にして要、というか、ある意味そっけないというか……。同じ巻に収められた犀星、朔太郎のそれの約半分です。

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