カテゴリ:文学 > 評論等

光太郎にちらっと言及されている新刊書籍を2冊。

刊行順に、まず小説家の五木寛之氏と元外交官・佐藤優氏の対談です。

一寸先は闇

発行日 : 2026年3月25日
著者等 : 五木寛之 佐藤優
版 元 : 幻冬舎(幻冬舎新書)
定 価 : 940円+税

2025年12月25日——昭和が始まって100年目となった。「激動の昭和」といわれながらも戦後はどこか無自覚な平和(=戦争のない状態)が80年続いた。が、今やルールとパラダイムは完全に変わった。世界情勢は予測不能となり、かつ瞬時に変貌するのだ。その中で、変わらぬもの、変わるべきものは何か。民衆大衆の地から「虫の目」で見上げる五木寛之氏と、歴史を俯瞰する「鳥の目」を持つ佐藤優氏が、縦横無尽に語り合う。とくに「昭和の最初の20年」を追体験でき、日本の限界を知る寄る辺となる多面的歴史篇。希望と激励の書。
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目次
 まえがき
 第一部 戦争と歌
  時代を読み取る「動体視力」
  戦時の社会は秩序正しく引き締まる
  国家と国民の「一体感」があった戦前・戦中
  少年飛行兵や少年戦車兵への憧れ
  強制ではないボランティアとしての「翼賛」
  「民草の平等」が実感できた戦中の社会
  暴力も食事も平等に与えられた軍隊
  「歌」がもたらした一体感
  明治維新は歌と共にやって来た
  人間を高揚させる歌のない時代
  戦後の学生運動にも「歌」があった
  演歌は未組織労働者の『インターナショナル』
  歴史から見落とされてきた「勤労学生」
  音楽フェスティバルを好むプーチン大統領
  歌は時代を映し出す鏡
  マッチングアプリと性的プロレタリアート
  投資や起業が流行り、労働者の誇りは失われた
  新自由主義ですべてが「ビジネス」に
 第二部 知識人の役割
  二・二六事件より黒豹脱走と阿部定事件が注目された戦前
  庶民が切迫感を抱いたのは空襲が始まってから
  軍国主義に便乗した戦中のインテリ
  戦前、戦中、戦後を通してベストセラーを出した田邊元
  西田幾多郎と京都学派
  軽井沢と箱根に移住したエリートは信用できない
  「戦陣訓」に関与した徳富蘇峰と島崎藤村
  西洋思想に抵抗した知識人が大東亜戦争を「聖戦」にした
  京都学派とハイデガー
  沈黙すべきときには沈黙する
  ソ連文学の名作
  内村剛介と瀬島龍三
  日本ペンクラブの果たすべき役割
  問答無用の「論破」が言論を荒らす
  ポストモダニズムと新自由主義
 第三部 沖縄という“外部”領域
  14歳で沖縄戦を経験した母親
  自決のために渡された手榴弾
  「国に騙されないために高等教育を受けろ」
  親に「公務員だけはダメだ」といわれたが
  ソ連で経験した「アウトサイダー」の世界
  なぜ盛岡で冷麺、宇都宮で餃子なのか
  沖縄返還の日に見た「黒い日の丸」
  満州のハルビン学院と上海の同文書院
  政治的差別だけが残った沖縄
  「寺」のない沖縄の宗教
  琉球人を日本人とは「別民族」としたアメリカの報告書
  日本の「5・7・5」、沖縄の「8・8・8・6」
  安室奈美恵と翁長雄志
  沖縄から直木賞が出ない理由とは
  壊れかけた壺から光を取り出す
 第四部 共同幻想の瓦解
  戦前と戦後をつなぐ「満州」
  シンボル不在の平成・令和
  次の1万円札の肖像は大谷翔平?
  平成以降に大きく変わったジェンダー問題
  粗野で下品な国際政治
  アメリカ幻想は完全に崩壊した
  アメリカに依存した「戦後の昭和物語」の終焉
  ウクライナで撤去されるプーシキン像
  楽観に逃げず「一寸先は闇」を覚悟する
  徴兵制の復活もあり得る
  いまの日本は「新しい戦中」への瀬戸際
  日本の潜在能力を生かすも殺すも教育次第
  よくできていた旧日本軍のマニュアル
  「暴走する正義」の恐ろしさ
  すでに「昭和」は消えた
  個人の自己喪失感がファシズムを生む
 あとがき


昭和7年(1932)のお生まれで、ほぼ「昭和」全体を生き抜いてこられた五木氏と、昭和35年(1960)のお生まれの佐藤氏の対談。佐藤氏による「まえがき」は今年の2月19日(木)付になっており、対談自体はその少し前、昨年中だったのでしょう。「まえがき」では2月の衆議院選挙にも触れられていますが、その後の高市政権、首相個人による数々の暴走や迷走、タガの外れた状態や茶番劇、それらに対するデモの勃興、おさまらない物価高騰など国民生活の混乱等については言及されていません。また、国際情勢にも言及があり、ウクライナ問題などは俎上に乗せられていますが、2月末からのアメリカのイラン攻撃には間に合わなかったようです。

「一寸先は闇」というタイトルがそれらを予言しているかのようではあります。その意味では、現在の状況を踏まえてまた続編を出していただきたいところです。もっとも、やはり「一寸先は闇」。1ヶ月後にどんな状況になっているのか予想もつきませんが……。

それにしても色々な部分で示唆に富む書です。

特に終戦時に13歳だった五木氏の戦争体験など。思うに現役の文学者で戦前、戦時中を直接語れる方はもうほとんど残っていないのではないでしょうか。その意味でも、五木氏にはまだまだ頑張っていただかねばならないと思います。

光太郎については、「第一部 戦争と歌」中の「強制ではないボランティアとしての「翼賛」」という項で。昨秋刊行された氏のエッセイ集『昭和の夢は夜ひらく』でもそうでしたが、昭和15年(1940)に光太郎が作詞し、飯田信夫が作曲、徳山璉(たまき)の歌唱でそこそこヒットした歩くうた」について語られています。

佐藤  五木さんのお話をうかがっていると、やはり戦中のリアルな世情は当時のことを知る人から聞く必要があると痛感します。いまの映画やテレビドラマなどでは、庶民はみんな戦争を嫌がっていたかのように描かれますが、決してそんなことはなかった。

五木  そうです。僕たち子どもだけではなく、自分の父親を含めて周囲の大人たちもそうでした。もちろん反戦運動などをやって獄舎(ごくしゃ)につながれた人たちもいたでしょうが、それはごく一部の存在だったでしょうし、そんな話は僕らの目に届くところには出てきません。ですから、子どものころは反戦的な考え方が世の中にあることも、意識しませんでした。
 なにしろ、高村光太郎(1883年~1956年)のような詩人さえ翼賛的(よくさんてき)な歌をつくった時代でしたからね。当時の高村光太郎は、戦後でいうなら谷川俊太郎(1931年~2024年)みたいな存在です。誰もが愛し尊敬する国民詩人ですから、みんな感動しますよ。
 とくに忘れられないのは、高村光太郎が作詞した『歩くうた』(1941年)という歌です。「歩け歩け南へ北へ、歩け歩け東へ西へ」とくり返すだけなんだけど、僕らはそれを口ずさみながら戦意を高揚(こうよう)させていたわけです。

「戦後でいうなら谷川俊太郎(1931年~2024年)みたいな存在」はちょっと持ち上げすぎのように感じますが……。

もう1冊。こちらは小説です。

ビブリア古書堂の事件手帖 Ⅴ~扉子と謎めく夏~

発行日 : 2026年4月25日
著者等 : 三上延
版 元 : KADOKAWA(メディアワークス文庫)
定 価 : 890円+税

実在の本を手がかりに紐解く、“古書と秘密”の物語。ビブリア扉子編5巻!
ビブリア古書堂の娘が開く、謎への扉――。
その夏、不在中の両親に代わり、ビブリア古書堂を任された少女。美しい女店主とよく似た顔立ちで、本への好奇心と洞察力も母親譲り。だが異なるのは表情豊かで物怖じしないその性格。特殊な依頼に首を突っ込まぬよう少女の監視役を任された少年は、持ち込まれた古書に秘められた謎を、少女が鮮やかに解き明かしていく姿を目の当たりにする。戦時中ある男を救った『シャーロック・ホームズの饋還』と、残されたいたずら書き。
真夏の鎌倉を駆ける「探偵と助手」の物語が始まる――。
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目次
 プロローグ
 第一話 『シャーロック・ホームズの歸還』(岩波文庫)
 第二話 森山大道『写真よさようなら』(写真評論社)
 第三話 中原中也『山羊の歌』(文圃堂書店)
 エピローグ

三上延氏の「ビブリア古書堂の事件手帖」シリーズ、平成23年(2011)の「栞子さんと奇妙な客人たち」に始まり、12巻目です。三上氏ご本人曰く「遅筆」だそうですが、息の長いシリーズとなっています。

北鎌倉駅近くにある架空の古書店「ビブリア古書堂」が舞台で、7巻目の「栞子さんと果てない舞台」まではその女店主・篠川栞子が主人公。8巻目「扉子と不思議な客人たち」からはその娘・扉子に主人公がバトンタッチしました。扉子編になって5冊目ということでタイトルに「Ⅴ」と入っています。

この手のシリーズものではあまり例がないのではないのでしょうか、主人公をはじめとした登場人物たちが、執筆年代と共にほぼリアルタイムで年を取っていきます。第1巻で20代だった最初の主人公・栞子がやがて結婚し、娘の扉子が生まれ、その扉子に主人公のたすきが渡されて、扉子は現在高校生で店を手伝っている、というわけです。

栞子・扉子の母娘二代にわたり、本業の古書売買以外に、店に持ち込まれる古書にまつわる様々な奇妙な相談――盗まれた古書のありかをつきとめてほしいとか、故人が古書に書き込んだ書き込みの意味を解いてほしいとか――を解決していくという推理小説仕立てが基本ストーリーです。アシスタントは栞子には店員の五浦大輔(途中で栞子と結婚します)、扉子だと高校の後輩・樋口恭一郎(元々、ビブリア古書堂に持ち込まれた奇妙な相談が縁で)。

栞子・扉子の母娘二代と書きましたが、実は栞子の母にして扉子の祖母・智恵子もそうした依頼を受けていました。ただ、栞子とは考え方の相違などで対立することもあり(対決もありました)、智恵子は別に暮らしています。

さて、最新刊「~扉子と謎めく夏~」。シリーズ12冊目にして初めて光太郎の名が出て来たように思われます。「第三話 中原中也『山羊の歌』(文圃堂書店)」で、光太郎が装幀、題字を揮毫した中原中也の『山羊の歌』が扱われ、中也が光太郎に頼み込んで装幀・揮毫をして貰ったことなどが語られます。「それだけかい!」と云われると「それだけです」ですが(笑)。

ちなみにネタバレになるので詳細は書きませんが、問題の『山羊の歌』は中也から関係の深いある人物に贈られた献呈署名入り……という設定です。

ところで栞子の母にして扉子の祖母・智恵子。名前は我らが智恵子から採ったものと思われますが、今のところ「智恵子抄」がらみのエピソードは出てきていませんし、とにかく謎の多い人物として描かれています。いずれ「智恵子抄」にまつわる話となることを期待しています(平成23年(2011)から新刊が出るたび読み続け、次の巻こそは、と思いつつ12巻目になりました(笑))。
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というわけで、『一寸先は闇』/『ビブリア古書堂の事件手帖 Ⅴ~扉子と謎めく夏~』、それぞれぜひお買い求め下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)33 『ポケット 四季の温泉旅行 作家画家の温泉だより』

昭和31年(1956)9月15日 自由国民社 長谷川国雄編
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目次
 ここで遊び台で泊まる 花卷  彫刻家 高村光太郎
 夜霧にうかぶ湯女  浅虫  画家 野間仁根
 こけしの聖地 鳴子  日本山岳会 渡辺公平
 ろうたけき乙女も空し 上ノ山  歌人 結城哀草果
 山の中の近代ホテル 小原  劇作家 伊馬春部
 筵一枚に雑魚寝する 蒸の湯  作家 伊藤永之介
 混浴のおもしろみ 岳温泉  作家 榊山潤
 時は古りゆく悲しさよ 裏磐梯  作家 中山義秀
 私の生れたところ 日光湯元  随筆家 福田蘭童
 白いお尻に紅葉が一枚 塩原  作家 鹿島孝二
 断崖の湯と平原の湯と 川原湯  評論家 野田宇太郎
 ひとり寝てきく湯もみ唄 草津  評論家 市川為雄
 西洋・日本風を対比 小涌谷  随筆家 渋沢秀雄
 郭公の声・老鶯の囀り 芦の湯  作家 中河与一
 雑木林の自然の匂い 仙石原  作家 北條誠
 迸り出ずる水晶の湯 姥子  画家 高岡徳太郎
 ニースの日本版です 熱海  画家 佐野繁次郎
 蜜柑と沢庵が名物 伊豆山  画家 高畠達四郎
 花の匂いが流れる 伊東 作家 浜本浩
 いまは同じ色になった 古奈長岡  作家 吉行淳之介
 新婚にすすめたい 峰温泉  旅行家 古田保
 故里の湯への祈り 湯ヶ島  作家 井上靖
 野良帰りの一風呂 下賀茂  画家 鈴木信太郎
 湯桧曽・谷川・上牧など 水上  東大助教授 中屋健一
 部屋から見る孫のスキー 赤倉  登山家 黒田初子
 広い道が湖に消える 上諏訪  美術評論家 北川桃雄
 左千夫の歌に惹かれて 浅間  作家 福田清人
 失恋の傷を癒す 岩代熱海  中国文学者 魚返善雄
 発哺・上林などもよい 熊の湯  東洋大学教授 田部重治
 雪の中の温泉に限る 山代山中  作家 深田久弥
 明治の末のものがたり 下呂  作家 江馬修
 自然美の明朗豪快さ 白浜  画家 鍋井克之
 淀君も子供ほしさに 有馬  作家 竹中郁
 湧き上る雲の壮大さ 城崎  作家 村雨退二郎
 砂丘を見物して三朝へ 鳥取  画家 長谷川三千春
 内湯が引けはじめた 道後  作家 北町一郎
 安来節と茶庭づくり 玉造  旅行家 山路ゆう
 遊ぶ湯のさと 芦原  随筆家 渡辺寛
 元湯・新潟・小地獄など 雲仙  画家 野口弥太郎
 太宰府もすぐ近い 二日市  作家 長谷川健
 安上りシステムもある 別府  作家 中村地平
 錦江湾を一望する 霧島  画家 吉井淳二
 二軒で建て増し競争 古里  作家 火野葦平
 口説き落した一節は 登別  作家 寒川光太郎
 高山植物に胸躍らす 層雲峡  日本山岳会 村井米子
 星を売る男もある 定山渓  作家 多田裕計
 ここは函館の奥座敷 湯の川  仏文学者 高橋邦太郎
 春・夏・秋・冬の温泉・早わかり

現代でいうところのムックのような感じです。

光太郎の「ここで遊び台で泊まる 花卷」は、同じ自由国民社からこの年4月20日発行の『旅の手帖』第26号が初出の、光太郎生前最後の談話筆記です。

この『ポケット 四季の温泉旅行』、『旅の手帖』第26号の売れ行きが良かったようで、内容はそのままにムックとして刊行したもののようです。

紹介すべき事項の山積で後回しになっておりましたが、新刊書籍のご紹介も少しずつ。「エッセイ」と銘打っていますが、評論に近いものです。

詩旋律 詩の美 高畑耕治エッセイ集

発行日 : 2026年4月15日
著者等 : 高畑耕治
版 元 : 愛のうたの絵ほん
定 価 : 2,700円+税

「詩の美 高畑耕治エッセイ集」の第1冊目

「詩旋律」では、日本語の詩の美、詩の抒情は言葉の音楽、歌の調べによって生まれてきたこと、生まれることを、優れた作品と、歌論、詩論から浮き彫りにする。

第一章と第五章は、詩と詩作、文学、芸術についてのエッセイ。第二章は口語自由詩をめぐる中原中也、高村光太郎、萩原朔太郎の詩論をとらえなおす。第三章は和歌の調べ。万葉集、和泉式部、式子内親王、藤原定家、永福門院の、美しい心に響く歌の調べを聞きとり、藤原俊成の歌論にもふれる。第四章は俳句の調べ。松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶の句と種田山頭火の自由律俳句には、美しい音楽性が響いていることに耳を澄ませる。
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<目次>
 第一章 詩想
  詩を生むもの 詩が生まれでるふたつのかたち 詩を息づかせるもの なぜ言葉で
  詩だから伝えられるもの 詩のしらべ 詩と詩集についての覚え書 詩と若さ 詩の容姿
  詩って、ほんとはなんだろう 詩想『詩集 こころうた こころ絵ほん』
  詩想『詩集銀河、ふりしきる』 作品が生まれる、時 
 第二章 口語自由詩の韻律
  中原中也の「ゆたりゆたり」 高村光太郎、胸中から迸り出る言葉
  萩原朔太郎
   『月に吠える』序 「自由詩のリズムに就て」 
   『詩の原理』 詩語としての口語論 小倉百人一首の韻律美 『恋愛名歌集』
   歌の韻律美と口語自由詩
 第三章 和歌の調べ
  万葉集、好きな歌 藤原俊成『古来風躰抄』 和泉式部、あくがれる魂の歌
  式子内親王、言魂の韻律美 藤原定家の象徴詩 永福門院、調想不離の美
  伏見天皇宸翰「源氏物語抜書」散らし書きの花
 第四章 俳句の調べ
  書の美。松尾芭蕉と近現代文学者の直筆 変体仮名 俳句の調べ 松尾芭蕉の破調
  与謝蕪村、音の美 小林一茶。見据える目
 種田山頭火の自由律俳句
 第五章 詩想の木魂
  日本語のかそけさ 詩行中の意味のまとまり、息継ぎの間、句切り
  脚韻は詩であるための必須条件ではない 和歌の韻律 言葉の音楽性 詩の創作
  創作意思
 音数律論の偏狭さ 作品宇宙の必然 現代の詩の可能性について
  メロディーの翼
 現代詩の衰弱の主要因 中国詩との個性の違い
  寄物陳思、正述心緒の泉の清流
 日本語生来の資質と美の姿
  詩、定型詩の音数律と韻律のひみつ 
詩歌の韻律と朗読について
  無限諧音詩歌 日本語詩とフランス語詩、英語詩とドイツ語詩
  言葉の発音の変化 詩を愛す。 文語と短詩のこと 「日本詩の押韻」九鬼周造を再読して
  芸術、作品について 文語生まれの音感 現代短歌の文語表現について
  芸術作品の驚きとときめき 芸術家の言葉の棘を 現代短歌と現代詩
  詩と短歌の文語表現
 詩と、芸術表現について 降り注がれ、授けられた詩歌
  現代性と、花鳥風月
 小説と脚本と詩 文学、創作のこと 言葉の生命力
  詩と詩作について
 出典・参照文献

著者の高畑耕治氏、詩人だそうです。そこで実作者としての立場からの詩論、詩作の方法論といった内容が中心です。

興味深かったのは、ご自分がいわゆる「現代詩人」というくくりの埒外に居る、というスタンス。全体に古人へのリスペクトや敬愛に貫かれつつ、いわゆる「現代詩人」たちには容赦がありません。

例えば

言葉の象牙の塔をこねくりあげて、一般の読者にはわからないだろうと仲間うちで持ちあげあう人の知的な言葉の書き連ねを、私は詩とは思えず、いいと感じません。そのような奇抜性をてらい競う言葉遊びは、万葉集にも「無心所着歌(むしんしょじゃくか)」などとしてあったし、いつの時代にもあったけれどつまらないと思います。 (詩と詩集についての覚え書)

詩界(というものが意味あるものならば)、そこでは、現代詩の愛好家が偏狭な詩観、特権を押しつけて、詩を貧しくしていると、私は感じてきました。現代詩人どうしが与えあう仲間うちの賞の受賞作に、私が感動する詩はあまりありません。 (詩って、ほんとうはなんだろう)

私が現代詩より現代短歌に惹かれてしまうのはなぜか。現代詩が高学歴お勉強知識こそ優れているという世俗の常識エリート学歴崇拝社会に侵され、賢い頭で言葉の組み合わせの綾を弄び淫し自嘲しつつそれでも賢くて凄いだろと、高等遊民であると思い込んだ高みから普通の人、「大衆」を馬鹿だと見下げる傲慢さに閉じこもりカチコチに枯れてしまっていて、感情、想い、感性、感受性にこそ詩心(しごころ)が宿ること、美しい、ほんとうの、善くあれるかもしれない、希望、願い、心の響き、音楽、心の絵、色彩やどる詩歌、ポエムが詩であることを、忘れ気づけず衰えているからです。 (現代短歌と現代詩)

なるほど。

しかし、フォローも忘れていません。

ただし、現代詩というくくりは曖昧で、わたしが心から共感する詩を今、書かれている詩人はいらっしゃるので、集団としてすべていっしょくたにしてしまうのは愚かです。詩はあくまで一人きりの個性からの表現ですから。 (詩って、ほんとうはなんだろう)

ここまで含めれば、激しく同意します。

そして近代詩、万葉・古今・新古今などの秀歌、古典俳句などを例に、メインタイトルの「詩旋律」、特に音韻論を中心に論が展開されていきます(ただ、先達の評論家等が既に指摘している論考を抜き書きという部分が多いのですが)。また、関連する音楽や朗読についても言及されています。

近代では、萩原朔太郎を中心に、光太郎や中原中也、宮沢賢治などの作品が敬すべき対象として取り上げられています。光太郎に関しては「高村光太郎、胸中から迸り出る言葉」という項が設けられている他、他の箇所でも論じられています。

全編とにかく詩歌への愛が語られ、その情熱には頭が下がりました。

「ポエム」という語が、揶揄の意味合いで使われるようになって既に久しいと思われます。しかし、詩という形式でしか表せないものは確かにあるわけで、そうである限り「詩」というジャンルが生き延びていかねばならないと感じました。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)32 『天平彫刻』増補版 

昭和29年(1954)11月5日 生活百科刊行会 児島喜久雄編者代表
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目次
 天平彫刻について 上野直昭
 天平時代の仏像に対する断片的考察 木下杢太郎
 天平彫刻の技法について 高村光太郎
 天平彫刻私観 平櫛田中
 天平彫刻雑感 安田靱彦
 素材より見たる奈良彫刻の特性 野間清六
 天平仏像の構造法 新納忠之介
 奈良時代の鋳もの 香取秀真
 東大寺建立と天平の仏像 筒井英俊
 戒壇院四天王像に見る「格」に就て 丸尾彰三郎
 天平時代の彫刻と万葉集との関係 久松潜一
 天平の肖像彫刻 小林剛
 天平彫刻と写真 大口理夫
 天平彫刻と様式問題 児島喜久雄
 須菩提 廣津和郎
 新薬師寺本尊に関する問題 田中倉琅子
 図版解説
 図版目次
 原色版 三月堂 帝釈天図(安田靱彦氏画 明治四十一年写生)
 写真版 
  第一図 東大寺三月堂 不空羂索観音像
  第二・三図 東大寺三月堂 月光菩薩像
  第四図 東大寺三月堂 吉祥天像
  第五図 東大寺三月堂 不空羂索観音像宝冠化仏
  第六図 東大寺三月堂 金剛力士(東方)像
  第七図 東大寺三月堂 金剛力士(西方)像
  第八・九図 東大寺三月堂執金剛神像
  第十図 東大寺戒壇院 持国天像
  第十一図 東大寺戒壇院 増長天像
  第十二図 東大寺戒壇院 廣目天像
  第十三図 東大寺戒壇院 多聞天像
  第十四・十五図 新薬師寺伐折羅大将像
  第十六・十七図 興福寺 阿修羅像
  第十八図 興福寺 羅睺羅像
  第十九図 興福寺 須菩提像
  第二十図 興福寺 富樓那像
  第二十一図 法隆寺夢殿 行信僧都像
  第二十二・二十三図 唐招提寺開山堂 鑑真和上像
  第二十四・二十五図 聖林寺 十一面観音菩薩像
  第二十六・二十七図  東大寺大仏殿前燈籠扉音声菩薩像
  第二十八図 東大寺大仏蓮弁毛彫
  第二十九図 東大寺誕生釈迦仏像
  第三十図 薬師寺金堂 日光菩薩像
  第三十一図 薬師寺金堂 薬師如来像
  第三十二図 唐招提寺金堂 毘蘆舎那仏像

昭和19年(1944)の初版(小山書店)は、製本所が空襲されたため店頭に並ぶ前にほとんどが焼失してしまったそうです。戦後の昭和23年(1948)には同じ小山書店が復刊。さらに増補版と言うことで、版元を変えてこの版が出されました。おそらく、いわゆる「チャタレイ夫人裁判」のからみで小山書店が昭和25年(1950)に倒産したこととも無関係ではないでしょう。

4月2日(木)、光太郎忌日の連翹忌に合わせての発行となる定期刊行物2種、ご紹介します。

まず当方も加盟しております高村光太郎研究会から、『高村光太郎研究(47)』。
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同会では毎年秋に研究発表会を行っておりまして、その際の発表者の方がそれを元に一文を寄せるという慣例になっています。そこで昨秋の第68回研究会の発表者、武蔵野美術大学さんの前田恭二教授が「雑司ヶ谷の季節―フユウザン会前夜を中心に―」。明治末から大正初めの一時期、智恵子も暮らした雑司ヶ谷に集った芸術家たちの人間模様、といった感じです。ちなみに『智恵子抄』所収の光太郎詩「郊外の人に」(大正元年=1912)の「郊外」は雑司ヶ谷です。

それから光太郎と年の離れた従妹で、令和4年(2022)、105歳までご存命だった故・加藤照さんの子息、加藤千晴氏の「高村光太郎の渡米」。ご自宅に残る資料等を活用されてのものでした。

当方の拙稿が2本。まず1年間で発見した『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品の集成「光太郎遺珠」。散文「『新世界文学全集』推薦文」(昭和15年=1940)、アンケート「こうあってほしい鶏卵肉」(昭和26年=1951)、雑纂で「『詩洋』二十周年記念の会挨拶」(昭和18年=1943)、「詩集『智恵子抄』初版正誤表」、それから書簡が10通ちょっと。戦後、神奈川県の小学校教師だった岩本飛行六に宛てたものが7通まとめて見つかりましたし、斎藤茂吉、木山捷平などビッグネーム宛ても(1通ずつですが)。他に参考資料として、花巻郊外旧太田村に隠棲中の光太郎の訪問記。おそらく武者小路実篤の娘婿・穣の執筆と思われます。光太郎の語った言葉が中心ですが、地の文と分離しにくいので参考資料扱いにしました。昭和22年(1947)のものです。

さらにこのブログの昨年12月末に4回に分けて掲載したものをアレンジして「高村光太郎没後年譜 令和七年(二〇二五)」。

あとは主宰の野末明氏による一年間の「光太郎文献目録」、「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」です。

奥付画像、上の方に貼ってありますので、ご入用の方、そちらまで。

002続いて当会発行の『光太郎資料 65』。手作りの冊子です。印刷のみは印刷屋さんに頼んでいますが。

 「光太郎遺珠」から 岩手にて その三  
 光太郎回想・訪問記  宮本甲治 高村光太郎と出会う 
 光雲談話筆記集成 奈良の彫刻を観て 
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行   九十九里町(千葉県)
 音楽・レコードに見る光太郎
     丘灯至夫作詞「智恵子抄」(その一)
 高村光太郎初出索引 (昭和13年に初出のあったもの)
 編集後記 

「「光太郎遺珠」から」は、上記『高村光太郎研究』に20年ほど載せ続けている「光太郎遺珠」掲載作品をテーマや時期で区切って再掲しています。今回は昭和21年(1946)と翌年のもの。主に花巻郊外旧太田村での隠遁生活にまつわるものです。

「光太郎回想・訪問記」は、やはり太田村でそこに住んでいるのが光太郎とは知らずに偶然訪れたハンターが、後になって、あれは高村光太郎だったんだ、という、特異な回想文です。

「光雲談話筆記集成」は、光太郎の父・光雲の、確認出来ている限り最も古いもの。東京美術学校に奉職した明治22年(1889)の雑誌『国華』に載っていました。

それから、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里浜の紹介、昭和39年(1964)、故・二代目コロムビア・ローズさんの歌唱でヒットした丘灯至夫作詞「智恵子抄」の紹介などとなっています。

ご入用の方はお申し付け下さい。送料実費のみでお頒けします。

また、一金10,000円お支払いいただければ、永続的に年2回(4月と10月)、お送りします。必要であれば第37集以降のバックナンバーも(一部は品切れでコピー)。当会顧問であらせられた北川太一先生編集の第36集までは、手元に1冊ずつしかありませんのでお頒けできませんが。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)10 『マチス』

昭和14年(1939)12月10日 高見澤木版社 上村益郎編
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目次
 画論(1908・マチス) 高村光太郎  たわごと(1937・マチス) 硲伊之介
 マチスの頭のよさ 正宗得三郎     マチスを訪ふ 武者小路実篤
 マチス師のこと 青山義雄       マチス論 トオマス・クラヴン
 マチス伝その他 小野忠重
 年譜
 書誌

光太郎と軽く交流のあった、アンリ・マティスの大判の画集です。光太郎を筆頭に6名の解説文的な文章が掲載されています。

戦後最も早く、さらにまとまった一冊のものとして我が国で初めて光太郎を論じた故・吉本隆明氏関連の新刊を2冊、ご紹介します。

まず評論。

『共同幻想論』に挑む ——家族人類学的考察

発行日 : 2026年3月10日
著者等 : 鹿島茂
版 元 : 筑摩書房
定 価 : 4,600円+税
001

国家の起源にある謎とは?吉本隆明の主著にして難解をもって知られる『共同幻想論』に、鹿島茂が〈遡行読み〉という手法、またE・トッドらの家族人類学の最新の知見を武器に挑む!

国家の成り立ちをめぐって書かれた、戦後最大の思想家・吉本隆明の主著にして難解をもって知られる『共同幻想論』に、博覧強記の仏文学者・批評家が〈遡行読み〉そしてE・トッドらの家族人類学の最新の知見を武器に挑む! ロジックを追うスリルと興奮溢れる、知的刺激に満ちた1500枚に及ぶ圧倒的論考、ここに誕生!!

目次
 Ⅰ 『共同幻想論』はなぜ書かれたか
  1 『共同幻想論』の「わからなさ」――「出所不明の異形の意志」 
  2 日本的「転向」は「家」の問題
  3 高村光太郎と了解可能性/不可能性
  4 日本的「家」の問題――情感/権威のマトリックス
  5 『マチウ書試論』――「家」の問題と対幻想
  6 大衆の原像と国家の共同幻想
  7 「面従腹背」知識人と国家の思想
  8 天皇のために死ねるか?
  9 不問に付された〈天皇(制)〉 
  10 『古事記』の宣長的解釈から、『共同幻想論』へ
 Ⅱ 『共同幻想論』を遡行的に読む
  11 序をどう読むか? 往路の省略
  12  『共同幻想論』を最終章「起源論」から読む
  13 「罪責論」へ遡行、スサノオの解釈
  14 「罪責論」を母系制(サザエさん型家族)から分析する
  15 ヤマトタケル挿話の家族人類学的分析
  16 「母制論」と二つの対幻想
  17 カップルの対幻想と兄弟姉妹の対幻想
  18 対幻想と共同幻想の同致の問題
  19 遠隔対象性と近親婚の禁止
  20 兄弟姉妹の対幻想の空間性の問題――カラアゲ屋「サザエさん」
  21 宗教法人「サザエさん」――吉本は間違っていても凄い
 Ⅲ 家族人類学が明らかにしたこと
  22 進化主義人類学からアメリカ人類学へ――居住規則の浮上
  23 アメリカ人類学の居住規則を再浮上させたエマニュエル・トッドの家族四分類
  24 トッド家族人類学の大転換
  25 居住規則による分類を世界地図にマッピングすると「周縁の保守性原則」が浮上する
  26 父方居住システムの変化
  27 父方居住の起源
  28 父方居住直系家族の誕生
  29 長子相続から直系家族へ
 Ⅳ 蝶番としての「祭儀論」
  30 家族人類学と『共同幻想論』の接続
  31 縄文サイクルと弥生サイクルはいかに交錯したか?
  32 「祭儀論」を家族人類学的に読む
  33 吉本的立場と家族人類学的立場
  34 農耕祭儀の家族人類学的再検討
  35 世襲大嘗祭の家族人類学的分析
  36 「他界論」の死の問題と時間性/空間性
  37 「他界」を空間性と時間性に分割する
 Ⅴ 「巫覡論」「巫女論」「憑人論」「禁制論」が持つ意味
  38 「巫覡論」で「当て馬」として使われた芥川の『歯車』
  39 『共同幻想論』前半のハイライト「いづな使い」
  40 「巫女論」①巫女とは共同幻想を性的対象とする女性である
  41 「巫女論」②シャーマンとは自己幻想を共同幻想に同致できる特殊能力者だ
  42 「憑人論」①自己幻想と共同幻想が逆立しない遠野村という位相
  43 「憑人論」②「遠野物語」の民譚には対幻想という媒介項がない
  44 「禁制論」①フロイト批判から禁制という共同幻想へ
  45 「禁制論」②「遠野物語」の山人譚と既視体験の比較分析
  46 「禁制論」③山人譚の恐怖の共同性の分析
 Ⅵ 『共同幻想論』を順行で読みなおす
  47 順行読み①「禁制論」
  48 順行読み②「憑人論」
  49 順行読み③「巫覡論」と「巫女論」
  50 順行読み④「他界論」
  51 順行読み⑤「祭儀論」①
  52 順行読み⑥「祭儀論」②
  53 順行読み⑦「母制論」①
  54 順行読み⑧「母制論」②
  55 順行読み⑨「対幻想論」①
  56 順行読み⑩「対幻想論」②
  57 順行読み⑪「対幻想論」③+「罪責論」①
  58 順行読み⑫「罪責論」②
  59 順行読み⑬「規範論」①
  60 順行読み⑭「規範論」②
  61 順行読み⑮「起源論」①
  62 順行読み⑯「起源論」②
  63 順行読み⑰「起源論」③
 Ⅶ 『共同幻想論』から見えてくる吉本隆明
  64 番外的考察①
  65 番外的考察②
  66 総括①
  67 総括②
  68 総括③
 あとがき
 人名索引

仏文学者・鹿島茂氏による吉本論です。タイトルの通り、吉本の代表作の一つである『共同幻想論』(昭和43年=1968)を俎上に乗せ、細かな読みを展開。

『共同幻想論』は「禁制論」「憑人論」「巫覡論」「巫女論」「他界論」「祭儀論」「母制論」「対幻想論」「罪責論」「規範論」「起源論」から成り、ざっくり言えば歴史学、民俗学的見地からの考察も盛り込みつつ、この国の成立過程、その後の変遷を論じたものです。

『共同幻想論』に先行して昭和32年(1957)には『高村光太郎』が出版され、そこでの試みが『共同幻想論』にも繋がっていきます。特に15年戦争時に光太郎の直面したこの国のありように対する思い、それ以前からの西欧との齟齬や乖離、さりとてなじめない日本の伝統的家父長制といった問題に対する観点から。そこで本書では「Ⅰ 『共同幻想論』はなぜ書かれたか」中に「3 高村光太郎と了解可能性/不可能性」という項が設けられていますし、他の項でも光太郎の名が散見されます。

『共同幻想論』、高く評価する論者がいる一方、全く価値を認めないとする向きもあり、いまだにその評価は定まっていないという感じです。そこに一石を投じる好著と思われます。

もう一冊。こちらは昨日でしたか、新聞広告で知ったもので、未入手ですが。

吉本隆明全集月報集

発行日 : 2026年3月
著者等 : 晶文社編集部 編
版 元 : 晶文社
定 価 : 2,500円+税

吉本隆明からうけとり 吉本隆明からはじめる 総勢62名が語る、私の吉本隆明
 人と社会の核心にある問題へ向けて、深く垂鉛をおろして考え続けた思想家・詩人の吉本隆明。約11年もの歳月をかけて完結した『吉本隆明全集』の月報には、第一級の執筆陣が吉本隆明の作品や人柄をプライベートなまなざしで綴ったエッセイを寄稿している。破天荒な魅力を湛えた吉本隆明の意外な素顔を活写する全集月報62編。
 晶文社版『吉本隆明全集』の月報を集約し、略年譜(生活史)付す。
002
目次
 産み落とされた日 高橋源一郎
 うつむき加減で、言葉少なの 加藤典洋
 吉本隆明、一本の樹の出発 小林康夫
 吉本と光太郎 北川太一
 『言葉からの触手』に触れながら考えたこと 岡井隆
 違和感からの出発 鹿島茂
 永久に消えない疑問 芹沢俊介
 「東京原人」吉本隆明 磯崎新
 吉本隆明さん随感 中村稔
 吉本さんの三冊の本 石川九楊
 吉本さんと「母性的」なるもの 蓮實重彦
 沈黙の言語 吉増剛造
 「転向」について 芦田宏直
 ある世代の思い出 山根貞男
 文芸評論家から文人へ――書簡集刊行に寄せて 田中和生
 波の下の思想を 宇佐美斉
 気配りのひとの気骨 橋爪大三郎
 『初期歌謡論』 藤井貞和
 吉本隆明の詩・神話・等価 水無田気流
 吉本さんとの出会い 佐々木幹郎
 引き継ぐ課題 三砂ちづる
 詩の時代 荒川洋治
 思考の楽しさ 長谷川宏
 最後の場所 思想詩人吉本隆明 北川透
 新しい世代が受け継ぐべきもの 竹田青嗣
 「吉本隆明」に憧れる 山本かずこ
 「母型」を求め続けた人 安藤礼二
 父の内なる言語 小池昌代
 「軒遊び」と「生命呼吸」のこと 島亨
 「和讃」について 中島岳志
 書く習慣 岩坂恵子
 知識人嫌いの知識人 川本三郎
 ご近所の吉本さん 石森洋
 吉本隆明と言論の不在 先崎彰容
 “終りをまっとうする”批評家 川村湊
 マクロネシアの渚へ 金子遊
 吉本隆明と連合赤軍事件 笠井潔
 石と舟の幻影 今福龍太
 三〇年越しの答え 三上治
 はじめての対談 赤坂憲雄
 吉本隆明さんについて 山崎哲
 がめつい私的所有 菅原則生
 出会いと別れ 末次弘
 吉本隆明が描いた小林秀雄 前田英樹
 単独者の貌 辺見庸
 最後の贈り物 道浦母都子
 「わからなさ」と「しなやかさ」 阿木津英
 二一世紀の大衆 綿野恵太
 吉本隆明との出会い マニュエル・ヤン
 「転向」の自画像 小田原のどか
 一橋新聞編集の青春と吉本さん 大塚融
 ポピュリストへ――吉本隆明について 小峰ひずみ
 託されたバトン 宇田川悟
 吉本隆明からの示唆 夏石番矢
 知の特権性を解体し、傷を修復する 友常勉
 『隆明だもの』の読後に 上村武男
 ひとつの街がありそこで住んでいた 清岡智比古
 越えられない存在 末次エリザベート
 吉本隆明さんのこと 島尾伸三
 思い出の一断片 松崎之貞
 「位相」の出自 大塚英志
 来訪神 ハルノ宵子
 ハルノ宵子への良い質問・悪い質問
 吉本隆明略年譜
 全集収録作品一覧
 執筆者別目次

平成26年(2014)に配本が始まり、昨年完結した『吉本隆明全集』全38巻に附された附録の月報を一冊にまとめたものです。吉本を論じるスタイルもあれば、気のおけないエッセイ的なものもあり、バリエーションに富んでいると思われます。

平成26年(2014)刊行の第5巻の月報に載った、吉本の盟友にして当会顧問であらせられた北川太一先生の「吉本と光太郎」ももちろん掲載されていますし、先述の鹿島茂氏の玉稿も。それからこのブログでお馴染みのお名前も散見されます。石川九楊氏、中村稔氏、高橋源一郎氏などなど。

それぞれぜひお買い求め下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体) 『THE CHIEKO POEMS』

平成19年(2007)6月 Green Integer Books 高村光太郎著 John G.Peters訳
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目次
 Acknowledgments
 A Note on the Text and Translation
 Introduction
 Works Consulted
 人に To someone
 或る夜のこころ Heart of a Night
 涙 Tears
 おそれ Fear
 からくりうた Trickery Song
 或る宵 One Evening
 梟の族 Family of Owls
 郊外の人に To Someone in the Suburbs
 冬の朝の目ざめ A Winter Morning Awakens
 冬が来る Winter Comes
 深夜の雪 Deep Night Snow
 人に(遊びぢやない) To someone(Not to Play)
 人類の泉 Fountain of Humanity
 僕等 Two of Us
 愛の嘆美 In Adoration of Love
 晩餐 Supper
 淫心 Sexual Passion
 樹下の二人 Two beneath the Trees
 狂奔する牛 Cattle Running Wild
 金 Gold
 鯰 Catfish
 夜の二人 Two of the Night
 あなたはだんだんきれいになる You Grow More Lovely
 あどけない話 Innocent Talk
 同棲同類 Same Life Same Kind
 美の監禁に手渡す者 One Who Imprisons Beauty
 人生遠視 Life Perspective
 風にのる智恵子 Chieko Riding theWind
 千鳥と遊ぶ智恵子 Chieko Playing among the Plovers
 値ひがたき智恵子 Invaluable Chieko
 山麓の二人 Two of the Foothills
 或る日の記 Record of One Day
 レモン哀歌 Lemon Dirge
 荒涼たる帰宅 Bleak Homecoming
 亡き人に To One Who Died
 梅酒 Plum Wine
 松庵寺 Shōan Temple
 デカダン Decadence
 美に生きる Living in Beauty
 おそろしい空虚 Frightening Emptiness
 報告(智恵子に) Report(to Chieko)
 噴霧的な夢 Misty Dream
 もしも智恵子が If Chieko
 元素智恵子 Elemental Chieko
 メトロポオル Metropolis
 裸形 Naked Figure
 案内 Guide
 あの頃 Those Times
 吹雪の夜の独白 Night Blizzard Soliloquy
 智恵子と遊ぶ Playing with Chieko
 報告 Report
 うた六首 SixSongs

文庫サイズの『智恵子抄』英訳です。戦後の詩篇を含みます。日本語と英訳とが見開きで印刷されているので、便利です。現在でも紀伊國屋書店さん等で入手可能です。

昨年12月に平凡社さんから刊行されたアンソロジー『パリと日本人 近代文学セレクション』の書評が、先週末の『毎日新聞』さんに掲載されました。作家、仏文学者の堀江敏幸氏によるものです。

堀江敏幸評 『パリと日本人 近代文学セレクション』=和田博文・編、高村光太郎、林芙美子ほか著(平凡社ライブラリー) 戦争、思索、意識を変える場への軌跡001

 和田博文編『パリと日本人 近代文学セレクション』は、四章からなるアンソロジーの構成によって編者の批評的視点を明確に示しながら、読者を飽きさせない読みものにしあがっている。
 日本人と「巴里(パリ)」の関係を、一九一四年の第一次大戦開戦前夜から戦後までの時間の層として示す第一章では、まず与謝野晶子や高村光太郎、島崎藤村らの、芸術への憧れに満ちた都市が描かれるのだが、大戦勃発で状況は一変する。藤村自身、「戦争の空気に包まれたる巴里」からリモージュへ、長谷川昇や森田恒友はロンドンへ移動し、少し遅れてパリに入った吉江喬松(たかまつ)は、ドイツの爆撃機の飛ぶ空を見あげながら文学研究を進めたが、戦争は日常の細部にまで入り込む。
 戦間期のパリに、日本人が再び集う。第二章では、岡本一平の高揚、大杉栄のサンテ刑務所への投獄とそこで覚えた酒の記憶、そして芹沢光治良(こうじろう)の、当時フランスで違法だった堕胎の経験を語る小説など、生活と倫理の交錯が記された文章が並び、人名からは聴き取れない声が伝わってくる。九鬼周造の思索、蕗谷(ふきや)虹児の貧窮、伊藤廉による佐伯祐三の思い出、岡本かの子の日仏「烏(からす)貝」(ムール貝)比較。圧倒的な金子光晴の語りをふくめて、パリは身体的な経験を吸いあげる装置になっていく。
 この通史における戦争の介入は第三章でより明確になる。すでに知っている文章でも、構成のリズムによって感情の色合いが変わって見える。野上弥生子はパリ祭のバスティーユ広場で革命に燃えた歴史よりも哀愁を帯びた庶民を目撃し、久生(ひさお)十蘭は恋愛小説の体裁を借りながら、開戦間もない時期の、いまに通じる国際的な軍事資材の取引の闇に触れた。
 一方で画家の関口俊吾は、ビヤリッツで夜警に捕まったとき、ドイツ語で「私は日本人である」と言って釈放された経験を語り、「同盟国のありがたさを、私はつくづくと感じた」と記した。日独伊の負の歴史は、まだ見えていない。
 第四章は第二次大戦後の思想、価値観、生活の質的転換を示す。街区の美は「表面に過ぎない」とし、内に凝集する人間の形を感じ取った森有正、その後に続いた辻邦生らから、壁新聞の言葉に着目して五月革命の本質を突く開高健、運動が賃金闘争へ収束する現実を観察し、サルトルやボーヴォワールと文楽を見た夜の思い出に触れながら、改革も可能だと自覚した経緯を語る朝吹登水子まで、パリは日本人にとって憧れの都市から思索と歴史の場へ、さらに意識を変える契機の場へと変貌する。
 ここまでの流れを、著名な作家や画家だけでなく、もう少し周縁的な書き手の文章を積極的にとりあげることで、本書はたんなる作品集ではなく、パリという都市に集う日本人の変容を読者が追体験できる絵巻となった。芸術・文学のみならず、戦争、占領、留学生、思想、労働運動までを視野に収め、パリが歴史と政治の舞台でもあった事実が、文庫一冊ほどの規模でみごとに示されているのだ。
 最後に置かれた、編者による補足的なエッセイを読むと、画家たちの言葉をもう一度たどり直したくなるだろう。

すでに知っている文章でも、構成のリズムによって感情の色合いが変わって見える」というのが、この手のアンソロジーの妙ですね。また、同じモチーフを複数人がそれぞれどういう視点や受け止め方で捉えているかの比較、さらには未知の作品との遭遇など。

『パリと日本人 近代文学セレクション』、お読みになっていない方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体) 『智恵子抄』第九十七刷

平成4年(1992)4月25日 新潮社(新潮文庫) 高村光太郎著
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目次
 人に(いやなんです) 或る夜のこころ 涙 おそれ からくりうた 或る宵 梟の族
 郊外の人に 冬の朝のめざめ 深夜の雪 人類の泉 人に(遊びぢやない) 人類の泉 僕等
 愛の嘆美 晩餐 淫心 樹下の二人 狂奔する牛 鯰 金 夜の二人
 あなたはだんだんきれいになる あどけない話 同棲同類 美の監禁に手渡す者 人生遠視
 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子 値ひがたき智恵子 山麓の二人 或る日の記
 レモン哀歌 亡き人に 梅酒 荒涼たる帰宅 松庵寺 報告(智恵子に) 噴霧的な夢
 もしも智恵子が 元素智恵子 メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白
 智恵子と遊ぶ 報告 うた六首 智恵子の半生 九十九里浜の初夏 智恵子の切抜絵
 解説「悲しみは光と化す」 草野心平 覚え書 同 改訂覚え書 同

昨日までで光太郎単独執筆の書籍を紹介し終わったつもりでいましたが、2冊ほど抜けていました。面目ありません。通し番号は後ほど訂正いたします。

そのうち一冊、現在流通している新潮文庫版の『智恵子抄』です。初版が光太郎が没してすぐの昭和31年(1956)5月、その後、収録詩篇の改訂があっての改版が昭和42年(1967)12月。そして内容はそのままに、活字サイズが一回り大きくなっての改版が平成4年(1992)に行われました。カバーデザインも昭和42年版を踏襲しつつ、若干の変更。おそらく新潮文庫全体としてこの時期にこの手の改版が為されたのではないかと思われます。手持ちのものは平成12年(2000)の第百十一刷ですが、令和に入っても増刷が続き、最新版は百三十何刷だかになっているはずです。今後とも絶対に絶版にしないでいただきたいものです。

先月18日、『毎日新聞』さんに詩人の蜂飼耳氏による以下の記事が出ました。令和5年(2023)からおおむね月イチで掲載されている「詩の遊歩道」という連載の先月分です。

詩に身体を差し入れる

005 野村喜和夫の詩集『地面の底のわれわれの顔――わが近未来近代』(思潮社)は「二十世紀日本語詩」を独自の受け止め方と解釈のもとに「書き換え」た作品から成る。
 同時刊行の評論集『萩原VS西脇――二十世紀日本語詩の可能性』(同前)で論じられる萩原朔太郎と西脇順三郎の詩はもとより、蒲原有明、高村光太郎、北原白秋、宮沢賢治、三好達治、中原中也、立原道造など、詩史に鮮烈な足跡を刻む詩人たちの作品に対して、斬新なアプローチが試みられている。
 萩原の「竹」のパロディである「カオカオカオⅠ」は、石に顔を出現させる。「顔があらわれ/石から顔があらわれ/笑みの顔うれいの顔/ときに鼻は欠け眼はつぶれて/だがあらわれつづけ」。パロディだけでなく、原詩にアレンジやサンプリングが施された作も見られる。諧謔(かいぎゃく)もパロディも、野村にふさわしい。取り上げられた詩の多くは各作者の代表作に数えられるもので、詩の読者ならなじみのある作品が多いはずだ。とすれば、ここで野村が行っていることは何か。それは、原詩の言葉に身体的に分け入ることで明らかになる秘密や魅力があるはずだと、信じることだろう。原詩を揺さぶり、刻み、解体し、繋(つな)ぎ 合わせ、謳(うた)う。
 先に触れた評論集では、西脇の重要性について念を押すような言及が繰り返されるが、それと照らし合うかたちで、詩集においても西脇を取り上げた章はとくに鮮明な印象を残す。たとえば、パロディの対象は「雨」。「名づけるとは/むかし雨という/柔らかな女神の行列がそうしたように/寺院や魚や/大地や草を/はこべやははこぐさを/うっすらと濡(ぬ)らすこと/乾いてきたら/また名づけ直さなければならない」
 西脇の「雨」について、評論集では「雨と女神は比喩し比喩される関係において対等であり、相互浸透的であり」と論じられ、一方向の比喩ではない点が強調されている。ランボーの「あけぼの」に書かれる女神と比較する視点も示される。今回の詩集と評論集はそれぞれを独立した一冊と受け取ることもできるが、併読するとき、複層的に見えてくるものがあることは確かだ。
(略)
 詩を書くこと、詩を読むことは、詩の言葉に身体を差し入れることだ。詩は、その性質からして、散文よりもずっと予定調和的な運びを好まないところがある。道なき道を突き進み、未踏の場へ出て、驚愕(きょうがく)の絶景と出会いたいのだ。

004
思潮社さんから出ている野村喜和夫氏の詩集『地面の底のわれわれの顔――わが近未来近代』が紹介されていました。他に七月堂さん刊行の栗原ミライ氏著『未来形で死んでいた』も取り上げられていましたが、ここでは紙幅の都合で(「紙」ではありませんが(笑))割愛しました。

で、『地面の底の……』。「詩史に鮮烈な足跡を刻む詩人たちの作品に対して、斬新なアプローチが試みられている」ということで、その中に光太郎の名も。そんな詩集が出ていたのかと思い、早速購入しました。

地面の底のわれわれの顔―わが近未来近代

発行日 : 2025年11月30日
著者等 : 野村喜和夫
版 元 : 思潮社
定 価 : 3,400円+税

プロジェクトは完了だ、私はもう詩は書かないが、
その沈黙をこのタワーに巻きつけて、黒い繭、
朔太郎の黒い繭としてそびえる、
断乎、そびえるのだ、
(「コクーン市逍遥――朔太郎をサンプリングしながら」)

蒲原有明から吉増剛造まで―20世紀日本語詩の豊饒な可能性を、多彩な書き換え行為によって解き放つ、時間錯誤的・近未来近代的新詩集。
002
目次
 Ⅰ わが近未来近代
  蝶の変容
   ――抒情ペーパー全史
  有明ベース
   智慧の相者は我を見て――現代語訳蒲原有明
   香の渦輪、彩の嵐――アレンジ蒲原有明
  光太郎ベース
   道程崩壊プログラム――カットアップ高村光太郎
   それぞれの道程――パロディ高村光太郎

  白秋ベース
   罌粟ひらく――リミックス北原白秋
   ひとぐるま――パロディ北原白秋
  百年の暮鳥
   ――『聖三稜玻璃』を思い出しながら
  朔太郎ベース
   夜汽車――現代語訳萩原朔太郎
   カオカオカオⅠ――パロディ萩原朔太郎
   カオカオカオⅡ――アレンジ萩原朔太郎
   コクーン市逍遥――朔太郎をサンプリングしながら
  順三郎ベース
   雨――パロディ西脇順三郎
   超越と永遠――アレンジ西脇順三郎
   わが完璧の詩法あるいは秋――パラフレーズ西脇順三郎
   女神VS女神――西脇、ランボーに語りかける
  光晴ベース
   女人大世界――リミックス金子光晴
   水の皮膚――金子光晴へのオマージュ
  賢治ベース
   わたくしといふ現象へのありきたりな註――リミックス宮澤賢治
   七つ森の婚礼の床の上で――アレンジ宮澤賢治
  達治ベース
   あるいは豚小屋――パロディ三好達治
   老年の日――アリュージョン三好達治
  中也ベース
   振るかな、腕なんか、無限の前に――挑発的リミックス中原中也
   ほらほらこれがぼくの骨――アレンジ中原中也
   正午――パロディ中原中也
   朝鮮女――現代語訳中原中也
  道造ベース
   ヒヤシンスハウスまで――立原道造の方へ
   月蝕句会――アリュージョン立原道造
   のちのおもひに――パラフレーズ立原道造
  雪のラプソディ
   ――抒情ペーパー全史続
 Ⅱ わが近未来近代の余白に
  戦後詩ベース
   あの青い空の波の音が聞こえるあたりに――パロディ谷川俊太郎
   赤壁と地面と私たちと――リミックス萩原朔太郎/吉増剛造
   血は流れた――吉岡実を思い出しながら
   都市と歳月と眠りと――入沢康夫を思い出しながら
 あとがき


読んでみると、想像していたものとは違っていました。目次でおわかりかと存じますが、基本、先人たちの作品のパロディです。ただ、それも「リミックス」「アレンジ」「アリュージョン」などとなっているとおり、いろいろな手法を駆使してのもの。

例えば「道程崩壊プログラム――カットアップ高村光太郎」では、詩集『道程』(大正3年=1914)所収のものを中心にした十数篇の詩から特徴的なフレーズをピックアップし(一部改変しつつ)、つなぎ合わせて一篇の詩にしています。そうかと思うと「それぞれの道程」は、「マザコン男子」「AI」「詩人」が「道程」を書いたらどうなるか……といった手法。一時期話題になった神田桂一氏と菊池良氏による『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』を想起しました。

他の詩人たちの作品に対しても、様々な手法でのアプローチ。笑える箇所が多いのですが、さりとてそれだけでなく、考えさせられる部分も。通底しているのは各作者に対するリスペクトやフレンドシップ的な感性です。「嘲笑」とか「痛罵」などとは無縁で、そこがいいと思いました。ただ、元ネタがわかっていないと理解不能の部分もあり、読み手の資質が問われます。当方もなじみのない詩人のパートではそうでした。

ぜひお買い求めを。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)60 『美について』筑摩選書96

昭和42年(1967)10月25日(日) 筑摩書房 高村光太郎著
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目次
 触覚の世界 素材と造型 彫塑総論 彫刻鑑賞の第一歩 MÉDITATIONS SUR LE MAÎTRE
 現代の彫刻 緑色の太陽 黏土と画布 工房雑感 第三回文部省展覧会の最後の一瞥
 日本画に対する感想 蝉の美と造型 木彫地紋の意義 信親と鳴滝 自刻木版の魅力
 カリカチユア 絵における詩精神 自分と詩との関係 美の日本的源泉
 天平彫刻の技法について 本邦肖像彫刻技法の推移 能の彫刻美 仏画賛 書について
 解説 生野幸吉

『美について』は、オリジナルが昭和16年(1941)に道統社から、文庫版が昭和35年(1960)に角川文庫のラインナップで、それぞれ出されていましたが、ソフトカバーの「筑摩選書」の一冊として刊行されました。さまざまな雑誌等に発表された主に美術評論の集成で、オリジナル、文庫版、そして筑摩選書版と、それぞれに収録作品がかなり異なっています。

昨日ご紹介した新潮文庫版『智恵子抄』改版と順番が前後していました。すみません。

始まってしまっている展示ですが……。

新収蔵品展「創作の生まれるところ」

期 日 : 2026年1月31日(土)~3月22日(日)
会 場 : 山梨県立文学館 甲府市貢川1-5-35
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

 2025年に新たに収蔵した資料より、樋口一葉・飯田蛇笏・芥川龍之介・村岡花子・山本周五郎・山崎方代・飯田龍太 などの、原稿や手紙、書画などを展示します。作家の創作の現場を直筆資料から想像してみてはいかがでしょうか。

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開催情報は得ていたものの、公式サイトの案内文等に光太郎の名がなかったので存じませんでしたが、光太郎の書簡が1点出ています。文芸評論家の故・吉田精一氏に宛てた葉書です。

日付は昭和21年(1946)12月8日。花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送っていた時期です。文面は以下の通り。

拝啓 貴著「日本近代詩鑑賞」一部御恵贈下され、ありがたく厚く御礼申上げます。中に小生の詩についても御解明の文あり、小生すら以前の事は忘却の事多き折柄拝読をたのしみに存じ居ります。よき参考と存ぜられます。小生目下辺陬の地に独居、長い一群の詩篇を書き試み居ります。 とりあへず御礼まで 艸々

「長い一群の詩篇」は、自らの半生と戦争責任を省察する連作詩「暗愚小伝」。翌年に雑誌『展望』に発表されました。

「日本近代詩鑑賞」は、天明社からこの年10月に出た『日本近代詩鑑賞 大正篇』。宛先の吉田氏の住所も「天明社気付」となっています。その前後に「明治篇」「昭和篇」が出、三冊セットでした。
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001「高村光太郎篇」として、25ページ。光太郎詩についてのまとまった評論はまだあまり出ていなかった当時、光太郎としても面はゆい気持で読んだのではないかと勝手に想像しております(笑)。

当方、平成2年(1990)に創拓社さんから復刻されたもので読みました。ただ、こちらはオリジナルの「昭和篇」に含まれていた日夏耿之介篇、西條八十篇、芥川龍之介篇、佐藤惣之助篇を含みます。

吉田氏と言えば、当方の学生時代にはまだご存命で、各種著作が大学のテキスト等にも使われ、どうもまだ歴史上の人物という気がいたしません。そこで「氏」をつけさせていただきます。

今回の展示、他にも吉田氏関連が出ているようです。他には下記『朝日新聞』さん報道をご参照下さい。

芥川小説の草稿など70点 新収蔵品展 山梨県立文学館で3月まで

 山梨県立文学館(甲府市貢川)で、新たに収蔵品となった資料を展示する「新収蔵品展 創作の生まれるところ」が始まった。昨年購入したり寄贈や寄託を受けたりした収蔵品の中から約70点を選んで展示している。
 同館が豊富なコレクションを誇る芥川龍之介(1892~1927)関連では、短編小説「お律と子等(こら)」の草稿の冒頭から7ページ目までが新たに加わった。発表された文章と表記に多少の違いはあるが、ほぼ同じ内容だといい、最初のページにはタイトルや署名もはっきりと書かれている。
 従来の収蔵品の中に同じ小説の別バージョンの草稿があり、それらを含む芥川関連のコレクションの充実ぶりを知った所有者から、寄託の申し出があったという。
 ともに山梨県出身の山本周五郎(1903~67)、村岡花子(1893~1968)の新たな資料も展示。山本の「赤ひげ診療譚(たん)」の原稿や、「赤毛のアン」を翻訳して日本に初めて紹介したことで知られる村岡が書いた随筆「わたしの愛読の作家 山本周五郎先生のこと」の原稿など。これらは古書店から購入し、両作家のコレクションに加えた。
 同館学芸課長の中野和子さんは「当館がどういったものを集めて展示しているかが伝わる、わかりやすい内容にしています。気軽に足を運んでいただけるとありがたい」と話す。
 3月22日まで。観覧無料。午前9時~午後5時(入室は4時半まで)。月曜(祝日除く。2月23日は開館)と2月24日は休館。問い合わせは同館(055・235・8080)へ。
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芥川龍之介「お律と子等」の草稿
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左:山本周五郎「赤ひげ診療譚」の原稿 右:村岡花子「わたしの愛読の作家 山本周五郎先生のこと」の原稿

ぜひ足をお運びください。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)58 『山のスケッチ』 

昭和41年(1966)3月5日 中央公論美術出版 高村光太郎著
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目次 なし


光太郎唯一の画集です。戦後、花巻郊外旧太田村に隠棲していた際に描いた山野草などのスケッチ帖から原色版で、さらに関連する文章等を添えています。当会顧問であらせられた故・北川太一先生が解説を執筆なさいました。

このブログ中、昨年の大晦日に書いた記事で少しだけご紹介しておいた新刊書籍ですが、改めて。

「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史 擬態に対峙する詩人たち

発行日 : 2025年12月30日
著者等 : 小関素明著
版 元 : 人文書院
定 価 : 6,800円+税

戦後社会に瀰漫する欺瞞と擬態、その正体を暴く

開戦の報に国民が覚えた高揚感。そして敗戦後、その熱狂をまるで“なかったこと”のように振る舞い始めた国民。この巨大な断絶の深淵には何が横たわっているのか。「大東亜戦争」という呼称が国民に与えた幻想と、戦後の空虚な平和主義の根源にある欺瞞を解き明かし、我々が未だ直視できずにいる「戦争責任」に対峙する。

著者 小関素明
1962年生まれ。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、立命館大学教授。専門は近代日本政治史・近代日本政治思想史。著書に『日本近代主権と「戦争革命」』(日本評論社、2020年)、『日本近代主権と立憲政体構想』(日本評論社、2014年)、『現代国家と市民社会』(共編著、ミネルヴァ書房、2005年)、『新しい公共性』(共編著、有斐閣、2003年)など。
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目次
 はじめに
 序章 情念に分け入る精神史をめざして
  1 本書の問題意識――「戦争協賛」と「戦争責任」の思想化に向けて
  2 本書の分析課題と視座
  3 本書で使用する史料について
 第Ⅰ部 「大東亜戦争」の幻影と煩悶
  第一章 日米開戦の衝撃と翻弄
   1 開戦の衝撃と変貌する詩人たち
   2 「宣戦の詔書」の作用――高揚感の国民的拡がり
   3 「大東亜戦争」の特性と天皇制の関涉
  第二章 表現者の幻覚と煩悶――「真の自己」の渇望と探究
   1 自我と美感の転相――高村光太郎
   2 表現の原郷への帰還と「本当の自己」との葛藤――野口米次郎
   3 言語表現の新境の眺望と天皇
  第三章 「大東亜戦争」道義化の蹉跌
   1 「国民文学」の蹉跌と「大東亜戦争」聖戦化の限界
   2 「メシア国家」の幻影――「近代の超克」論の限界
   3 「戦意高揚」戦略の限界
  第四章 敗戦時における国民の擬態の前景化
   1 心的空白状態の到来
   2 「民主化」受容の屈曲――他動的「国民主権」の到来
   3 死の至近化と言葉の限界効用
 第Ⅱ部 孤塁からの開削
  第五章 「荒地」への収斂
   1 「戦争体験」の特質とその思想化
   2 「紙屑を捨てない」主体性――「何も信じない」ことを原点に
   3 詩作のオントロギー—―「詩の特権性」としての「在らざるものの力」の創造
  第六章 「橋上の人」の写像と射程
   1 「直接性」への懐疑――庶民感覚と兵士の目線への不信
   2 「荒地」という「可能性」――文明の蘇生に向けて
   3 「橋上」からの近代批判
  第七章 戦後社会の擬態の摘発
   1 「深い絶望」の探求
   2 バチルスとしての教説的「平和主義」に抗して――『死の灰詩集』批判
   3 病巣への肉迫
  第八章 戦争責任の実効化と言語表現の新地平
   1 「意味の回復」と愛への覚醒
   2 金子光晴における象徴主義の刷新
   3 表現のアポリアを超えて
   4 孤独の快楽と可能性としての「間隙」への対峙
  終章「大東亜戦争」と「戦争責任」の精神史から見えてくるものは何か
 あとがき
 事項索引
 人名索引

第二章「表現者の幻覚と煩悶――「真の自己」の渇望と探究」中に「1 自我と美感の転相――高村光太郎」という項がありますが、そこ以外にも随所(特に前半)で光太郎に触れられています。

タイトルに「大東亜戦争」の語が使われていますが、右翼がよく「あの戦争は欧米列強の植民地支配から東亜を解放するための聖戦だった」という文脈でその語を使うのとは異なります。著者・小関氏は、「 「大東亜戦争」という呼称は、日米開戦四日後の一九四一年一二月一二日の閣議において定められた呼称であり、日本の戦争目的を粉飾するための独善性が色濃く投影されており、学術用語としてはアジア・太平洋戦争という呼称の方が相応しいのはいうまでもない」としつつ、「しかし、当時の日本国民のほぼすべてが、アジア・太平洋戦争ではなく、「大東亜戦争」という呼称に表象された理念に魅了されて戦争に同調し、協力した。(略)それをアジア・太平洋戦争という学術用語に置き換えたのでは、戦争に同調した国民の心理と情念に肉迫しにくい」というスタンスから、「大東亜戦争」で統一されています。

そして「世界の大国米国と戦端を開くに際して、甚大な犠牲が予想されるにもかかわらず、多くの国民はどのような感覚で開戦を受感し、高揚感にとらわれたのか、敗戦後に自ら戦争目的に雷同し陶酔した直近の過去にどう向き合ったのかということの検証」といった点が本書のテーマと位置づけられています。

そこで前半では、光太郎、三好達治、野口米次郎といった、翼賛詩を数多く書いた詩人たちの作品を俎上に乗せ、作者自身の内面の剔抉、それらの作品の受容状況といったところが語られます。

他に坂口安吾や太宰治、武者小路実篤、火野葦平らの小説家、斎藤茂吉ら歌人等にも言及されますが、メインは詩。これについてはこのように語られています。

 なぜ詩なのか。それは詩の特質ともいうべき言葉の精妙さと関連している。短縮した表現で人間の内面世界を表さなければならない詩は、散文以上に言葉の濃度と旋律に重きが置かれる。読み手は濃密な言葉と旋律に載せられた表現者の内面世界を解凍し、それに共感、心服したり、覚醒させられたりする。それが読み手に影響を与えるためには、詩は読み手にも共通する思いを掬い取るとともに、それを明晰化し、さらには一歩先んじていることが必要である。

そうしてそういう機能を担った光太郎の翼賛詩考察。なかなかに鋭い視点でした。特に光太郎ファンとして心が痛んだのは、「撃つ」という語に関して。

まぁ、「撃ちてし止まん」などとプロパガンダ的スローガンに使われ、当時の流行語のような側面もあったと思いますが、光太郎も複数の翼賛詩で「撃つ」という語を多用しています。しかし小関氏にかかれば「これはさらに露骨にいえば敵を「殺す」ということである」「高村は「殺す」、「みなごろし」という直截な表現を避けながら、事実上敵を「殺す」ということに「この生活の一切をかけ」る決意を「美の世界を守りぬこう」という覚悟に重ね合わせて述べているが、「撃つ」というベールを被せた表現に逆に表現者の苦渋と義務感のうち混じった壮絶さを感じさせる」。

この生活の一切をかけ」「美の世界を守りぬこう」は、詩「決戦の年に志を述ぶ」(昭和18年=1943)の一節です。更にいうなら小関氏曰く「ここに芸術性は何もない」。まったくその通りです。しかし、「こうした詩こそ光太郎の真骨頂」と涙を流して有り難がる愚物が多いのも現状ですが。
無題
平時であれば決して許されない殺人教唆的な物言い、さらにはこうした詩に鼓舞されて戦場へ赴いた多くの前途有為な若者たちが逆に「撃」たれたこと、それらを深く悔いて、戦後の光太郎は花巻郊外旧太田村に7年間の蟄居生活を送ることになります。そこは本書の主旨ではないので、戦後の壮絶な蟄居生活にはほとんど触れられていないのが残念といえば残念ですが。

後半はほとんどの国民が「敗戦後、その熱狂をまるで“なかったこと”のように振る舞い始めた」ことの検証。ここでは天皇制の問題にも触れつつ、鮎川信夫や金子光晴、吉本隆明ら、「荒地派」がメインです。同派は「敗戦後の日本社会の気運がいかに欺瞞に覆われ、それを看過してやり過ごすことがいかに人間の存在を歪めるかということを詩表現のモチーフとして拘りつづけた一群の詩人たち」と位置づけられています。まぁ、それはそうなのでしょう。ただ、金子などは数は少ないながらも戦時中にコテコテの翼賛詩を書いていたことにはほとんど触れられていないようで、その上で論じていただければ、という気はしました。

それにしても戦後80年、そして実にきな臭い状況に陥っているこの国を二度と誤った道に進ませないためにも、こうした問題を考える上で実に示唆に富んだ書籍です。ぜひお買い求めを。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)16 『道程』改訂版 百五十部限定版

昭和15年(1940)11月20日 山雅房 高村光太郎著
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目次
 道程
  失はれたるモナ・リザ  明治四十三年十二月十四日
  画室の夜        明治四十四年一月十二日
  寂寥                       明治四十四年三月十三日
  声           明治四十四年五月二十日
  新緑の毒素       明治四十四年六月十一日
  はかなごと
  地上のモナ・リザ    明治四十四年七月六日
  父の顔         明治四十四年七月十二日 
  泥七宝         明治四十四年七月――翌年六月
  ――に         明治四十五年七月二十一日
  或る夜のこころ     大正元年八月十八日
  おそれ
  犬吠の太郎       大正元年九月二十六日
  さびしきみち      大正元年十月八日
  梟の族         大正元年十月二十日
  或る宵         大正元年十月二十三日
  郊外の人に       大正元年十一月二十五日
  冬の朝のめざめ     大正元年11月三十日
  戦闘          大正元年十二月十四日
  人に          大正二年二月十八日
  人類の泉        大正二年三月十五日
  山           大正二年十一月四日
  冬の詩         大正二年十二月六日
  牛           大正二年十二月七日
  僕等          大正二年十二月九日
  道程          大正三年二月九日
  愛の嘆美        大正三年二月十二日
  婚姻の栄誦       大正三年三月六日
  万物と共に踊る     大正三年三月九日
  瀕死の人に与ふ     大正三年三月十四日
  晩餐          大正三年四月二十五日
  五月の土壌       大正三年五月十六日
  秋の祈         大正三年十月八日
 道程 以後
  わが家         大正五年
  小娘          大正六年
  無為の白日
  海はまろく
  雨にうたるるカテドラル 大正十年十月
  沙漠
  クリスマスの夜     大正十一年一月
  冬の送別        大正十一年四月
  五月のアトリエ     大正十一年五月
  ラコツチイ・マアチ   大正十一年十一月
  落葉を浴びて立つ    大正十一年十一月
  樹下の二人       大正十二年三月
  鉄を愛す        大正十二年五月
  氷上戯技
  珍客
  葱
  車中のロダン      大正十四年
  後庭のロダン      大正十四年二月
  十大弟子        大正十五年
  聖ジヤンヌ       大正十五年
 猛獣篇 時代
  清廉          大正十三年十二月
  傷をなめる獅子     大正十四年
  狂奔する牛
  鯰           大正十五年
  苛察          大正十五年
  雷獣          大正十五年六月
  龍           大正十六年
 【編纂者の言葉】 三ツ村繁蔵

大正3年(1914)刊行のオリジナル『道程』から詩篇を抜粋し、さらにその後の作品を加えて刊行されました。表紙に昭和11年(1936)の雑誌『歴程』初出のペン素描「獅子の首」を金押しであしらっています。

昭和17年(1942)に、この詩集により同16年度の第一回帝国芸術院賞を受賞。出版された昭和15年(1940)には光太郎は大政翼賛会中央協力会議議員にも就任し、上梓や受賞にはそのための箔づけというかご褒美というか、そういう匂いが感じられます。

ご当地フレーム切手を除き、唯一、光太郎肖像が切手デザインに使われた平成12年(2000)の「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集に含まれる80円切手は、この詩集に関わります。これは昭和15年(1940)から同20年(1945)までの題材8種類を1シート10枚構成にしたものでした。
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 DMM GAMESさんから配信されているオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」。光太郎を含む実在の文豪たちをモデルとしたキャラクターが多数登場し、平成28年(2016)の配信開始以来、根強い人気を保っているようです。

いわゆる「2.5次元」ということで演劇にもなり、既に8作品が作られ、来春には9作目「掬ウ者ノ響歌(コンチェルト)」の公演も予定されています。

5月に都内と京都で上演された8作目「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」のBlu-rayとDVDが、今月、発売されました。キャストに松井勇歩さん演じる光太郎が含まれています。

文豪とアルケミスト 紡グ者ノ序曲(プレリュード)

発行日 : 2025年12月10日(水)
著者等 : 舞台「文豪とアルケミスト」8製作委員会
版 元 : TCエンタテインメント
定 価 : Blu-ray ¥10,890 DVD ¥9,790

2025年5月に東京・IMM THEATER/京都・京都劇場にて上演された、舞台「文豪とアルケミスト」第8弾公演「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」が、Blu-ray&DVDとなって2025年12月10日にリリース!

2枚組のBlu-ray&DVDには本編映像のほかに「メイキング」「キャスト座談会」「アンサンブル座談会」「オープニング全景映像」「アフターイベント映像(全5回)」と、貴重な特典映像の数々を、別ディスクに大ボリュームで収録。さらに、初回生産分限定で「オリジナルステッカー」「ブックレット」の特典も封入となっている。

あらすじ
太宰治らと共に帝國図書館を救い絶筆した北原白秋。転生を選ばず、再び復活を遂げようとする悪しきアルケミストを葬る術を見出すため、負の感情が充満する生と死の狭間に留まっている。一方、石川啄木、高村光太郎そして小泉八雲は、北原白秋を転生させるべく目論み、また久米正雄と直木三十五は、深い親交のある文豪を探し求めていた。そんな折、アルケミスト・ファウストと出会った文豪たちは、「かつて文学で世界を救おうとした青年」について聞かされる。終わらない侵蝕を食い止めるため己の文学を信じ、文豪たちは戦いへと赴く。

キャスト
北原白秋:佐藤永典 石川啄木:櫻井圭登 高村光太郎:松井勇歩 久米正雄:安里勇哉
直木三十五:北村健人 小泉八雲:林光哲 ファウスト:原貴和 青年:松村龍之介
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もう1点、書籍です。

「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた

発行日 : 2025年11月28日(金)
著者等 : 梅澤亜由美・大木志門・掛野剛史・山岸郁子編
版 元 : ひつじ書房
定 価 : 2,700円+税

2016年に配信開始され、これまで各界に影響を与えてきた人気ゲーム「文豪とアルケミスト」とそのメディアミックス作品を日本文学・文化研究者がそれぞれの専門分野から本格的に検証した論文集。全14本の論文からなり、ゲーム、アニメ、舞台、ノベライズ、朗読、さらにファンの受容、文学館や研究・教育現場との関わりなど多彩な側面からの論考を収録。執筆者:梅沢亜由美、大木志門、掛野剛史、山岸郁子、赤井紀美、今井瞳良、大島丈志、小澤純、影山亮、金子亜由美、構大樹、上牧瀬香、島村輝、芳賀祥子

編者紹介
梅澤亜由美(うめざわ あゆみ)大正大学文学部教授
大木志門(おおき しもん)東海大学文学部教授
掛野剛史(かけの たけし)武蔵野大学教授
山岸郁子(やまぎし いくこ)日本大学経済学部教授
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【目次】
 はじめに なぜ「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみたのか 大木志門
 第1部 キャラクター・関係性・二・五次元文化
 「尾崎一門」の息子(ライバル)たち――「文豪とアルケミスト」における「泉鏡花」と「徳田
  秋声」の「関係性」 金子亜由美
 「文豪」を媒介とした「文豪とアルケミスト」の私小説的受容――志賀直哉を例として 梅澤
  亜由美
 キャラクターを通して文学に相渉るとは何の謂ぞ――「二・五次元文化」の中の「文豪とア
  ルケミスト」 大木志門
 第2部 文アニ・ノベライズ・読書行為
 「物語なき世界」にたむろする――テレビアニメ「文豪とアルケミスト」の理と視聴者 今井
  瞳良
 芥川龍之介と太宰治を結び直す――アニメ版・ノベライズ版『文豪とアルケミスト~審判ノ
  歯車~』の世界観 小澤純
 「文豪」を育てるということ――「おやすみ、カムパネルラ」からのアプローチ 大島丈志
 ノベライズ『君に勧む杯』の文豪たち――現実と空想の間に生きる井伏鱒二・横光利一・佐
  藤春夫 掛野剛史
 第3部 アダプテーション・文劇・朗読
 多喜二転生――あるプロレタリア文学者をめぐるアダプテーション 島村輝
 演じられた文学者――近代文学と演劇が織り成す世界 赤井紀美
 「文豪とアルケミスト」における「朗読」の可能性――横光利一「春は馬車に乗って」を聴く
  という経験 芳賀祥子
 第4部 文学館・学校・公共性
 「文豪とアルケミスト」と文学館・記念館とのタイアップにみる〈関係性〉 影山亮
 〈「文アル」×文学館〉の行方 上牧瀬香
 新美南吉記念館特別展「南吉と読書」と「文豪とアルケミスト」 山岸郁子
 「文豪とアルケミスト」で近代文学の授業を押し拡げる――文学教育を「文豪コンテンツ」で
  支えるために 構大樹

いわゆるタイアップ企画ではなく、独自に編まれたものです。

内容の分析は元より、この手のコンテンツの受容がどのように為され、各方面にどういった影響が及んでいるか、先行する類似企画との比較、今後の展望などなど、多岐に亘る論考の集成です。リアルタイムでの文化史考察という意味でも特異な内容ながら優れたものといえるでしょう。

大御所のエラいセンセイ方は、「こんなものを真面目に論ずるのは大衆への迎合」とお考えなのでしょうか、はなから完全無視、またはそもそもその存在すら眼中にないと思われますが、本書で述べられている通り、現実に各地の文学館等で入場者数に影響を与えたり、取り上げられた文豪の著書や関連書籍の売り上げを左右したり、演劇や朗読など様々な分野に派生したりという現象が起きていますので、無関心でいていいものではありません。

光太郎に関しては、上記「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」にも触れられた赤井紀美氏の「演じられた文学者――近代文学と演劇が織り成す世界」、花巻高村光太郎記念館さんとのコラボ企画等の関係で上牧瀬香氏による「〈「文アル」×文学館〉の行方」の項などでちょろっと触れられている程度ですが、非常に興味深く拝読いたしました(まだ読了していませんが(笑))。提灯記事的な稿の羅列でなく、批判すべき点はきちんと批判するというスタンスにも感心しました。

編者のお一人、大木志門氏は田畑書店さん刊行の『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』を編まれ、神田の古書肆・八木書店さんでの講座「活字をはみだすもの(第25回)◆高村光太郎「独居自炊」の思想 ―宮崎稔宛書簡から」も担当されました。余談ですが、このブログに誘導するためにX(旧ツィッター)に投稿し続けている当会ポストを毎日リポストして下さっています。ありがたし。

というわけで、「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」のBlu-rayかDVD、『「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた』、それぞれご興味おありの方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

だんだん身内のものがあの世へ旅だつてしまふのは淋しいものですね しかしわれわれもやがてみなそこへゆくのですから さう思つてこの世に居るうちはこの世の事に出来るだけつくしませうね それが人間のつとめでせう


大正14年(1925)10月10日 長沼セン宛書簡より 智恵子40歳

大正7年(1918)には智恵子の父・今朝吉、翌年に末の妹(六女)・チヨ、同10年(1921)には祖母のノシ、同11年(1922)だと三女のミツ、そしてこの年9月光太郎の母・わかが相次いで歿しています。さらに言うなら、2年後にはやはり智恵子妹で四女のヨシも。特に若い妹たちの相次ぐ死は、自らも健康不安を抱えていた智恵子に暗い影を落としたことでしょう。

7月30日(水)にAmazonさんに注文したところ、届いたのが8月25日(月)でした。時々こういうことがあるんですが何なんでしょうね? 

閑話休題。土曜美術出版さん発行の月刊誌『詩と思想』の8月号です。
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目次的には以下の通り。

 【巻頭言】石川逸子:詩の仕事
 特集 敗戦の記憶・現在の戦争
 【インタビュー】
  河津聖恵×佐川亜紀:河津聖恵さんに聞く
 【アンソロジー】
  金時鐘:在日朝鮮人  八重洋一郎:おお マイ・ブルースカイ  石川逸子:黒い橋
  龍秀美:寓話  堀場清子:影  栗原貞子:ヒロシマというとき
  柴田三吉:ちょうせんじんが、さんまんにん  うえじょう晶:骨笛
  冨岡悦子:忘却にあらがう  河野俊一:今もなお
 【評論】
  高良勉:沖縄戦の記憶と被植民地状況
  中島悦子:高村光太郎の戦後/戦後の谷川俊太郎
  金正勲:李石城の平和への眼差し
  中村純:軍隊と性暴力
  丁章:無国籍在日サラム詩人を生きる―戦後100年をめざして
  岡和田晃:アイヌに対する「文化戦争」、「共生」という包摂、「北方領土」の欺瞞
  永井ますみ:「問天」入力で学んだこと
  佐川亜紀:「戦後」ではなく「敗戦のたいせつさ」―特集について
 【詩作品】38篇
 【詩人論】美濃千鶴:石垣りんを読みかえす
 【連載】郷原宏:歌と禁欲―現代詩論史論 第15回
 【連載】清水茂遺稿集6 場の記憶について
 【この土地に生きて】中原秀雪:詩人丸山薫が現代に遺したもの
 【艀船を泊めて】徐載坤:〈詩の国〉から〈伝統詩歌の国〉への発信
 【私の好きな詩と詩人】江田つばき:実感
 【わが詩の源流】川井麻希/柊月めぐみ/安藤一宏
 【詩人の眼】川島洋:加速する社会と詩
 【バイリンガル・ポエム】苗村吉昭:単線の神さま
 【詩誌評】清水善樹:画像添えの詩は反則か①
 【詩書評】北原千代:白熱した批評
 【研究会だより】中井ひさ子
 【追悼 愛敬浩一】石毛拓郎
 【特別書評】愛敬浩一
 【読者投稿欄】小島きみ子/加藤思何理
 【新刊review】
 【読者投稿作品】
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 他

戦後80年ということもあり、特集が「敗戦の記憶・現在の戦争」と題されています。その中で詩人・中島悦子氏による「高村光太郎の戦後/戦後の谷川俊太郎」が6ページ。前半では光太郎が書いた翼賛詩、戦後の詩、それから詩ではなく文章「詩の朗読について」(昭和16年=1941)、「戦争と詩」(昭和19年=1944)から引用しつつ、論じられています。

曰く「高村が戦意高揚の詩を詩を書く背景には、もうひとつ日本語への賛美もあった」「日本語を世界の最上と位置づけ」「詩を書くことが武器をもって戦う事と同一視」。確かに光太郎は日本語をこよなく愛し、日常の口語に内包される機微の美しさといった点についても繰り返し論じていました。それらはへたな国語学者らの論説などよりも胸にストンと落ちるもので、バックボーンとしてきちんとした理論を持った上で詩作に当たっていたことがわかるものです。

それだけに、再び中島氏曰く「それだからこそ自信にあふれた戦争賛美を堂々と書くことができたのだろうか」。たしかにそういう一面はあるでしょう。

そして戦後。連作詩「暗愚小伝」から引用しつつ、戦時中の行動に対する光太郎の真摯な悔恨、反省を高く評価しています。三たび中島氏曰く「その個人の内省は文学史上記憶に値する」。

そして後半では、光太郎とも交流のあった故・谷川俊太郎氏について。昭和6年(1931)生まれの谷川氏が、180度転換した敗戦時の社会、特に学校教育をどのようにとらえていたかなど。

他に「アンソロジー」として、金時鐘氏、栗原貞子などの主に終戦に関わる詩が紹介されています。「おや?」と思ったのが、女性史研究家として名高かった故・堀場清子氏の詩が収められていたこと。「影」と題されたもので、原爆投下直後の広島の様子が謳われていました。氏に被爆体験がおありだったことを失念していました。

その他、ずっと後の方のページで、詩人の愛敬浩一氏の追悼記事(今年5月に亡くなったそうです)が出ており、驚きました。直接存じ上げていた訳ではありませんが、いろいろお世話になっている文治堂書店さんを通じ、氏が主宰されていた同人誌『季刊 詩的現代』の第4号(平成25年=2013)、「特集『道程』からの百年」の載った号をいただきましたので。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『詩と思想』8月号。既に9月号が出ているようで、最新号ではありませんが、何とか入手するなり図書館等で閲覧するなりしていただければと存じます。

【折々のことば・光太郎】

自然は決してやり損はない。自然はいつでも傑作を作る。此こそわれわれの大きな唯一の何につけてもの学校だ。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

こうした一節を読むにつけ、いかにロダンの思想が光太郎の血肉となっているか、という気にさせられます。

決して忘れていたわけではないのですが、紹介すべき事項の山積に伴い後回しにして来た結果、発行から一ヶ月以上経ってしまいしました。年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』の最新号です。
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いつもぼやいていますが(笑)、同人にしてくれと頼んだ覚えが一切ないのに、当方の「連翹忌通信」が連載されています。

今年はNHKさんの大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、吉原が物語の一つの舞台として扱われていまして、便乗しました。題して「モナ・リザその後」。「モナ・リザ」は、光太郎第一詩集『道程』(大正3年=1914)の巻頭を飾った詩「失はれたるモナ・リザ」の「モナ・リザ」です。

   モナ・リザは歩み去れり

 かの不思議なる微笑に銀の如き顫音(せんおん)を加へて
 「よき人になれかし」と
 とほく、はかなく、かなしげに
 また、凱旋の将軍の夫人が偸(ぬす)視(みみ)の如き
 冷かにしてあたたかなる
 銀の如き顫音を加へて
 しづやかに、つつましやかに
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 深く被はれたる煤色(すすいろ)の仮漆(エルニ)こそ
 はれやかに解かれたれ
 ながく画堂の壁に閉ぢられたる
 額ぶちこそは除かれたれ
 敬虔の涙をたたへて
 画布(トワアル)にむかひたる
 迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
 ああ、画家こそははかなけれ
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 心弱く、痛ましけれど
 手に権謀の力つよき
 昼みれば淡緑に
 夜みれば真紅(しんく)なる
 かのアレキサンドルの青(せい)玉(ぎよく)の如き
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 我が魂を脅し
 我が生の燃焼に油をそそぎし
 モナ・リザの唇はなほ微笑せり
 ねたましきかな
 モナ・リザは涙をながさず
 ただ東洋の真珠の如き
 うるみある淡(うす)碧(あを)の歯をみせて微笑せり
 額ぶちを離れたる
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 かつてその不可思議に心をののき
 逃亡を企てし我なれど
 ああ、あやしきかな
 歩み去るその後(うしろ)かげの慕はしさよ
 幻の如く、又阿片を燔(や)く烟の如く
 消えなば、いかに悲しからむ
 ああ、記念すべき霜月の末の日よ
 モナ・リザは歩み去れり

その正体は吉原河内楼の娼妓・若太夫。その日本人離れした目鼻立ちに、光太郎はひそかに「モナ・リザ」の面影を見、名付けました。

 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷まげに結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、ということになった。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(略)
 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)
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明治42年(1909)の『新よし原細見』には「若太夫 愛知県名古屋 真野しま 廿二」とあり、若太夫の本名は真野しま、名古屋の出身で、サバを読んでいなければ光太郎と知り合った明治43年(1910)には23歳でした。ただし、後述の木村荘太の『魔の宴』では「25歳」となっていました。

翌年には年季が明けるということで、光太郎と夫婦約束まで交わしたそうです。しかし、この恋はあえなく破れます。光太郎が若太夫に入れあげていることをかぎつけた、光太郎より六つ年下の作家・木村荘太が若太夫の元に通うようになりました。木村は後に武者小路実篤の「新しき村」にも参加しますが、この頃はやはり「パンの会」に顔を出し、雑誌『新思潮』に作品を発表していたもののさほど注目されていたわけでもなく、また、帝室技芸員の御曹司たる光太郎への嫉妬(木村は牛鍋屋チェーンの妾腹に生まれています)などもあったのでしょう。さらに若太夫は、気難しい光太郎よりも遊び慣れていた木村を採りました。そして書かれたのが、「失はれたるモナ・リザ」でした。

しかし木村は、年季が明け「若太夫」から「しま」に戻っても妻にするでもなく、しまは故郷の名古屋に帰っていきました。木村にしてみれば単なる鞘当てに過ぎなかったようです。その後すぐ、吉原では五社英雄監督の東映映画「吉原炎上」のモデルとなった大火が起こり、様子を見に上京して来たしまと会いましたが、それもそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950 朝日新聞社)に語られています。

光太郎は、再上京したしまについても詩にしています。その際に会ったのかどうかは不明なのですが。

   地上のモナ・リザ

 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
 石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
 世の人人のみにくさよ
 モナ・リザは山青く水白き
 かの夢のごときロムバルヂアの背景に
 やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
 ただ半身をのみあらはせかし
 思慮ふかき古への各画聖もかくは描きたりき
 現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ

 われはモナ・リザを恐る
 地上に放たれ
 ちまたに語り
 汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
 モナ・リザの不可思議は
 仮象に入りて美しく輝き
 咫尺に現じて痛ましく貴し
 選択の運命はすでにすでに余を棄てたり
 余は今もただ頭をたれて
 モナ・リザの美しき力を夢む
 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザは永しへに地を步むことなかれ

光太郎にとっても、もう終わった恋だから、今さら現れるな、モナ・リザよ、ということでしょう。

その後のしまについては、杳として消息が知れませんでした。ところがそれがある程度つかめました。国立国会図書館さんのデジタルデータの活用によってです。同データには、何と職業別電話帳(現在の「タウンページ」)まで掲載されていて、しまの故郷・愛知県のそれの中で2件、しまの名を見つけました。

まず大正11年(1922)。
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こちらは「席貸業」となっています。「席貸業」は「遊興又は慰安の用に供するため」のものということで、おそらく遊郭でしょう。住所は「伝馬」で、この地名は現在も名古屋市熱田区に残っています。明治43年(1910)にここにあった公認の遊郭街が他の地区に移転したと記録にありましたが、非公認のいわゆる「青線」のような形で残った店もあったと思われます。

大正11年(1922)は、しまの吉原河内楼での年季が明けて12年後。しまは30代半ばから後半だった計算になります。いきなりそうした店の女主人となれるはずもなく、結局、名古屋に戻ってもその道に入り、それを終えて女主人に収まったのではないでしょうか。

それからさらに13年後の昭和10年(1935)にも。ただ、「席貸業」ではなく「料理店」の項でした。この頃にはまっとうな料理屋になっていたのかも知れません。
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ちなみに少し後に「太田ひさ」の名。これは確認出来ている限り日本人で唯一ロダンのモデルを務め、その件で光太郎のインタヴューも受けた元女優「花子」の本名です。ひさも引退後は料理店関係の仕事をしていましたが、ただ、住所が一致しません。同姓同名の別人でしょうか。

突き止められた「若太夫」こと、しまの消息はここまでですが、光太郎同様に戦後まで生き延び、不幸ではない晩年を送ったと思いたいところです。そして彫刻家・詩人として名を成した、かつての恋人・光太郎を遠くから見守っていたとも。

そんなこんなを『とんぼ』の今号に書きました。奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

お医者さんや皆さんの相談で今日退院することになり、夕方出かけるでせう。

昭和30年(1955)7月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎73歳

宿痾の肺結核のため、4月から赤坂山王病院に入院していましたが、結局は手の施しようがなく、再び中野のアトリエでの療養生活に入ります。

宮沢賢治関連を中心に据えた文芸同人誌『ワルトラワラ』、第54号を頂きました。

ちなみに令和2年(2020)には第45号を頂いています。
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今回、下さったのは、賢治の故郷・花巻で「宮沢賢治・花巻市民の会」の活動をなさるかたわら、賢治生家近くに昨年「カフェ羅須」をオープンされた泉沢善雄氏。氏の玉稿「●生活者の視点で伝記的現場を歩く⑥〈宮沢賢治雑記帳〉 増谷文雄と大原外光そして……」が掲載されていて、当方の名も出て来るため送って下さったようです。多謝。

戦前、まだ賢治がマイナーだった頃、各種雑誌に賢治作品が掲載された経緯についての考察ですが、当方、賢治にはそれほど詳しい訳ではなく、タイトルにある「増谷文雄」「大原外光」ともに全く存じ上げない名でした。

増谷は光太郎もたびたび寄稿していた雑誌『青年』、同じく『真理』に関係し、そして賢治の親友だった藤原嘉藤治と親しかったようです。そこで、『青年』、『真理』に賢治作品が掲載された際(賢治没後の昭和14年=1939)に関わっているのではないかというお話。作品は童話「虔十公園林」ですが、なぜか「虔十の林」という題で掲載されているそうで、ちなみに挿画は光太郎とも親しかった深沢省三とのこと。

石川啄木に関する著書もある大原は増谷と親しく、『真理』の方で賢治を取り上げた記事を書いている人物とのこと。となると、『真理』への賢治作品の掲載に何らかの役割を果たしていたかもしれないそうで。

それから大原は、出版社東雲堂の西村陽吉とも繋がっていたそうです。このあたりでまた光太郎の影。光太郎は東雲堂発行の雑誌『朱欒』『創作』に深く関わっていますし、西村とも個人的に一緒に旅をする間柄だったことがわかりました。『高村光太郎全集』に名が出て来ず、これまで光太郎との個人的な繋がりがどの程度だったのかよく分かりませんでしたが、昨年、兵庫県たつの市の霞城館(かじょうかん)さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」展に、西村と光太郎の連名で三木露風に埼玉から送った『全集』未収録の絵葉書(大正4年)が展示され、一緒に旅する程度の仲だったことが分かりました。

三木露風も『春と修羅』を賞讃する手紙を賢治に送っています。露風と言えば『赤い鳥』。『赤い鳥』には、大正13年(1924)に賢治の『注文の多い料理店』の広告が出ました。これは同誌に挿画を描いていた深沢省三の仲介という説が強いようですが、光太郎、西村、露風らからの働きかけもあったかも、などと素人考えですが……。

さらに当会の祖・草野心平。心平も賢治作品に惚れ込み、心平自身やその人脈に連なる土方定一などの人々も賢治作品の紹介に骨折っています。泉沢氏曰く「賢治周辺の人脈はかなり広くなりそうな気がします。必ずしも深い交友でなくても影響し合っているのでしょう」。なるほど。

今年の冬には花巻の光太郎記念館さんで「賢治全集が出来るまで」的な展示をやるとのことで、関連行事として賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏、嘉藤治顕彰の瀬川正子氏、そして自分とで来春に公開対談が予定されています。参考にさせていただきます。

さて、『ワルトラワラ』、泉沢氏のカフェ羅須さんの記事も出ています。また、奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

現金書留でお送りしますが、東京では時々ぬすまれるさうですが、田舎では大丈夫でせうか。

昭和30年(1955)3月1日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

未亡人となった智恵子の姪・春子への援助です。現金書留の盗難などもあったのですね。

少し前、昭和24年(1949)には、北海道から花巻郊外旧太田村の山小屋に送られたはずの麦が届かず、「おそらくは途中で、誰かの食料となつたのかも知れません、かうした世の中ですから」と書簡に認(したた)めたこともありました。

昨日は上京しておりました。行き先は神田神保町の古書店、八木書店さん。目的は、こちらが主催の近代文学特別講座「活字をはみだすもの 第25回 高村光太郎「独居自炊」の思想―宮崎稔宛書簡から」拝聴でした。
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それぞれ別の方が講師を務められる全4回の講座の最終回で、この回の講師は東海大学さん文学部日本文学科教授であらせられる大木志門氏。
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副題が「「独居自炊」の思想―宮崎稔宛書簡から」ということで、茨城取手在住だった光太郎の姻族・宮崎稔(明34=1901~昭28=1953)にスポットが当てられてのお話でした。

まず驚いたのが、光太郎から宮崎、それから「鯉軒」とも号した宮崎の父・仁十郎、そして宮崎の妻にして智恵子の姪・春子宛書簡がズドンと200通ほど積み上げられていたこと。
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大木氏のコレクションかと思ったら、八木書店さんでお持ちのものだそうで、となると、いわば商品ですね。

光太郎からの宮崎家関係のこの手の書簡類、献呈本、書などはおそらくその全てが売却されてしまい、現在でも特に書簡類はよく市場にでるのですが、八木書店さんでこんなにたくさんお持ちだったというのは存じませんで、びっくりしました。

幸い、書簡類はおそらくその全てが『高村光太郎全集』に収録されています。ただ、細かい部分では『全集』で活字になっているものと齟齬があるようです。実際、昨日手にとらせていただいて拝見した一通は、『全集』では稔宛となっているものの、現物は春子宛でした。

ちなみに大木氏もご指摘されていましたが、表書きというか宛先というかが「取手町 宮崎○○様」で届いてしまっています。地区名や番地なしです。取手で「宮崎」といえばこの家、というほどの素封家だったことがわかります。仁十郎は日本画家・小川芋銭のパトロンでもありました。

光太郎と宮崎家との交流は戦前に遡ります。

仁十郎が檀家総代だった長禅寺さん境内に、「小川芋銭先生景慕之碑」が建てられたのが昭和14年(1939)。光太郎はその題字を揮毫しました。芋銭は前年に亡くなっています。
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太平洋戦争中の昭和19年(1944)には、やはり長禅寺さんで光太郎が講演。
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長禅寺さんといえば、戦後の昭和23年(1948)に山門前の石段脇に建てられた「開闡郷土」碑も光太郎が題字を揮毫しています。

取手で揮毫と言えば、旧取手町長・中村金左右衞門の子息二人(共に戦死)の墓碑の揮毫も光太郎。こちらは長禅寺ではなく、町外れの明星院さんという寺院近くの共同墓地に佇んでいます。

それら全て、宮崎家が仲介したり何だりで行われた事柄です。

稔は光太郎の手助けをいろいろ。最も大きかったのは、昭和20年(1945)5月の光太郎花巻疎開に際して。老年にさしかかり、健康も害していた光太郎に花巻まで同行したり、荷物の運送の手筈を調えたりしてやりました。その直前には、智恵子紙絵の約3分の1の疎開も引き受けています。

そんなわけで、光太郎は当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付き添いを務めてくれ、その最期を看取った智恵子の姪・春子を稔に紹介、二人は昭和20年(1945)の暮れに結婚しました。そして姻族となったわけです。

そこで、非常に近しい間柄だった宮崎家の人々に宛てた光太郎書簡は膨大なものになりました。その書簡群から垣間見える、特に戦中・戦後の光太郎について、大木氏が熱弁。
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レジュメの一部です。
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なるほど、たしかに量が多いだけに、さらに懇意にしていて踏み込んだ話もされることから、宮崎家宛ての書簡を概観するだけで、光太郎の動向やその時その時の心情がかなりわかるもんだな、と思いました。

ただ、光太郎にしてみれば困った点も。稔が光太郎の意志に反し、「やめてくれ」というのを振り切って、歌集『白斧』(昭和22年=1947)、書簡集『みちのくの手紙』(昭和28年=1953)を強引に出版してしまったことなどです。

それを受けて、『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜では、当会顧問であらせられた北川太一先生、昭和28年(1953)4月の項に「二十七日、何かと光太郎の身辺を案じ、一面では光太郎の心労の一因でもあった宮崎稔が胃潰瘍による吐血の末、四十三歳で没した」と書きました。実際、光太郎としては悼む気持も当然ありつつ、胸をなで下ろした部分もあったと思われます。

そしておそらく昭和63年(1988)に春子が没してからと思われますが、宮崎家関係の書簡類、献呈本、書などのおそらく全てが売却されてしまいました。先述の通り、そのうちの書簡200通ほどが八木書店さんに保管されています。八木さんとしては「これ、どうしよう」という部分もおありのようです。花巻高村光太郎記念館さんや駒場の日本近代文学館さんなどに寄贈していただければありがたいのですが、数百万円にはなるであろう市場価値を考えると、簡単に寄贈してくれ、とも言えません。さりとて予算の少ない公立の館で買い取る算段が付くか、というとそれも疑問です……。

さて、終了後、大木氏から氏の編集なさった下記書籍をいただいてしましました(と言いつつ、いただけるだろうなと姑息な予想をしておりまして(笑)、購入せずにいたものです)。
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田畑書店さん刊行の『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』。文庫サイズです。

てっきり一冊の書籍だと思い込んでいたのですが、袋から出してびっくり。何と、全9冊に分かれていました。「アンソロジー」ということで、光太郎作品群が8冊。
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それから大木氏の解説が書かれた「チュートリアルブック」が一冊。
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直接大木氏に伺ったのですが、『道程』や『智恵子抄』などのメジャーどころは敢えて外したとのこと。

表紙(というかカバー)がこうなっているのは、光太郎も登場するオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画であるためだそうで。同ゲーム、「文アル」と略され、朗読CD演劇などでも光太郎がらみになったことがありますし、花巻高村光太郎記念館さんとのコラボ企画もありました。こういうところを入口に、若い皆さんが興味を持って下さるのは大歓迎です。

ちなみに大木氏の「チュートリアルブック」中には清家雪子氏の漫画『月に吠えらんねえ』にも言及がありました。

多謝。

というわけで、田畑書店さんサイトからご注文下さい(都内の一部の新刊書店などでも扱いが始まったようですが)。

【折々のことば・光太郎】

小生は今安静中でお医者が三、四人見にきます、 外出しないので此手紙発送も中西夫人にお願します、


昭和29年(1954)6月3日 宮崎春子宛書簡より 光太郎72歳

これも春子宛の書簡です。

光太郎の結核悪化を心配した周囲の人物が、それぞれ懇意にしている医師を紹介。そこで「お医者が三、四人」です。医師達も心得たもので、「チーム・バチスタ」ならぬ「チーム・光太郎」を組んで、中野のアトリエへの往診や治療に当たってくれました。

文芸評論家の桶谷秀昭氏ご逝去が報じられました。

共同通信さん配信記事。

桶谷秀昭氏が死去 文芸評論家000

 桶谷 秀昭氏(おけたに・ひであき=文芸評論家)3月27日、心不全のため死去、93歳。葬儀は近親者で行った。喪主は長男、省吾さん。
 専門は近代日本文学・思想。1992年に「昭和精神史」で毎日出版文化賞。99年紫綬褒章、2005年瑞宝中綬章。著書に「保田与重郎」「伊藤整」など。

氏は昭和47年(1972)、青土社さん発行の雑誌『ユリイカ』第4巻第8号の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」に「「自然」理念の変遷について――高村光太郎ノート」という論考をご発表。当方、卒論執筆の際には大いに参考にさせていただきました。
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同じ文章は昭和54年(1979)、河出書房新社さんから出された『文芸読本 高村光太郎』にも転載されています。
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非常に力の入った論考で『ユリイカ』、『文芸読本 高村光太郎』ともに10ページにわたっています。光太郎に対する確かなリスペクトに立脚してさまざまな作品にあたり、しかし批判すべき点には容赦なく大なたを振るう、教科書通りの文芸評論です。

一部抜粋します。

 高村光太郎は自分の本職は彫刻家で、詩を書くのは、彫刻から文学性という不純物を排除するための作業だといった。だが、高村光太郎は彼が書く詩からさえ、不純な――と呼ぼうと呼ぶまいと――文学性を排除したようにみえる。


 のちに高村光太郎は、智恵子が自分をあてどないデカダンスの泥沼から救ったというふうな回想を、詩や散文に書いているが、彼を浄化したのは、智恵子ではない、彼が徹底的な献身の理想としてみずから抱いた「自然」による自己浄化にほかならない。彼の「自然」への献身の捲き添えをくった智恵子こそ、いい面の皮だったかもしれぬが、実状はそうではなくて、この女のもっている或る異常性こそが、そういう捲き添えをくらうに打ってつけであった、そういう意味では光太郎は選択をあやまらなかったので、智恵子が自分を浄化したと信じていい根拠はたしかにあったのだといわねばならない。

 荷風が戦争に一貫して非協力であったのは、社会との倫理的な関係を結ぶ意志を徹底的に放棄していたからである。戦争であれ平常時であれ、社会の外側に孤立してひややかに眺めていたからである。荷風は世に働きかけなかったかわりに、世から動かされることもなかった。
 光太郎の純粋な倫理は荷風の対極にあるようにみえる。しかしよくみると、その倫理性は、世にもぐりこむのではなく、倫理的意志は不動のまま世を超越した。戦争が破局的様相を呈するにつれ、彼の超越的な倫理が、戦争の異常と一体化を強めていったのはそのためである。彼が戦争に近づいたのではなく、戦争が彼の方へやってきたのである。


全てに諸手を挙げて賛同できるわけではありませんが、なかなかに鋭い考察でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】006

「みちのくの手紙」は中央公論社からもらひました、文句なし。

昭和28年(1953)2月17日
宮崎稔宛書簡より 光太郎71歳

『みちのくの手紙』は姻戚であった宮崎の編集になる光太郎書簡集。昭和20年(1940)から同24年(1949)に至る、花巻郊外旧太田村から発信された、宮崎、宮崎の父・仁十郎、宮崎の妻・春子(智恵子の姪)にあてた光太郎書簡をまとめたものです。

「文句なし」といいつつ、光太郎はこの書籍の出版に同意はしていませんでした。歌集『白斧』(昭和22年=1947)にしてもそうですが、宮崎は強引に光太郎の書籍を刊行することがあり、光太郎の悩みの種の一つでした。

横浜の神奈川近代文学館さんで先月から開催されている特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」の公式図録です。

大岡信 言葉を生きる、言葉を生かす

発行日 : 2025年3月20日
著者等 : 県立神奈川近代文学館/公益財団法人神奈川文学振興会編
版 元 : 港の人
定 価 : 2,420円(税込)

特別展「大岡信 言葉を生きる、言葉を生かす」県立神奈川近代文学館[2025年3月20日―5月18日]公式図録。「折々のうた」をはじめ、詩歌の魅力を伝えた大岡信。おおらかな感性の詩人・大岡信の生涯をおいながら、詩人が紡いだ豊かな言葉の世界に迫る。大岡家ほかから文学館に寄贈された、大岡が遺した書、詩稿ノート、創作メモなど貴重な資料を多数収録。

装丁 須山悠里
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目次
 巻頭詩 神話は今日の中にしかない 大岡 信
 寄稿 日本詩歌の豊穣――『折々のうた』の射程 三浦雅士
 序章 舞い、あらわす
 第一章 生まれ、生きる
  軍国の田におんまれなすつた
  「鬼の詞」(ことば)/わがうた ここにはじまる――
 第二章 出で、立つ
  感受性の祝祭――批評家から詩人へ
  クローズアップ 詩友・谷川俊太郎
  大岡かね子=深瀬サキとともに
  クローズアップ 「春のために」
 第三章 和し、合す
  戯曲、シナリオ
  連句の可能性
  「櫂」連詩、国際連詩へ
  故郷・静岡での継続的連詩の試み
  SPOT 大岡信ってどんなひと
 第四章 うつし、つなぐ
  古典探究
  アンソロジー「折々のうた」
  詩歌の面白さ
 終章 伝え、結ぶ
 詩篇・評論
  初秋午前五時白い器の前にたたずみ谷川俊太郎を思つてうたふ述懐の唄  大岡 信
  微醺をおびて  谷川俊太郎
  大岡信 架橋する精神  宇佐美圭司
 寄稿 大岡信の背中、そしてこれから
  『あなたに語る日本文学史』を読む  五味文彦
  連詩の楽しみ、苦しみ  高橋順子
  大岡信の外国での活動――六〇、七〇年代、そして私の回想  越智淳子
  大岡信と「しずおか連詩」  野村喜和夫
  共鳴が始まる  蜂飼耳
  「折々のうた」に思うこと  永田 紅
  断片と波動 大岡信の歌仙  長谷川 櫂
 大岡信略年譜
 主な出品資料
 執筆者一覧
 出品・協力者一覧

最近流行りの公式図録でありながら一般書店等にも流通させているタイプです。

『毎日新聞』さんに書評が出ました。

渡邊十絲子・評 『大岡信 言葉を生きる、言葉を生かす』=県立神奈川近代文学館、公益財団法人神奈川文学振興会編(港の人・2420円) 鋭敏な感覚と熟成した「出会い」

 もっとも多くの日本人に知られた大岡信の仕事は、朝日新聞連載のコラム「折々のうた」であろう。毎日、詩歌ひとつを紹介するというのは、口で言うほどかんたんなことではない。
 まず、膨大な詩歌作品をあらかじめ知っている必要がある。新しい出会いはもちろんあるにしても、詩歌との出会いは瞬間になされるものではなく、時間をかけて熟成されてはじめて「出会った」といえる状態になることが多いからだ。また、引用は二行、解説は一八〇字という制約のなかで詩歌の魅力を伝えるのは至難のわざである。しかし大岡は、途中休載期間をはさみながら、足かけ二九年にわたりこの難業をなしとげた。
 この本は、県立神奈川近代文学館の特別展「大岡信展」(五月一八日まで)の公式図録として編まれたものだ(独立した書籍として一般書店で入手できる)。巻頭に置かれた三浦雅士氏の寄稿「日本詩歌の豊穣(ほうじょう)――『折々のうた』の射程」を読んで大岡の仕事を改めて振り返り、その大きさを実感した。大岡の詩も『折々のうた』も批評も書もひとつの地平のうちに描き出したこの寄稿に心を揺さぶられたので、今回ぜひともこの本を紹介したいと思った。
  のちに岩波新書としてまとめられた『折々のうた』巻頭第一首は、志貴皇子(しきのみこ)「石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも」。出発にふさわしい清新な歌だ。しかしじつは、新聞連載の第一回は高村光太郎の「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」という歌だった。厳しい冬のさなか、当時は「男子一生の大事業」に近かった洋行に際し、船中で作られた歌だという。それがコラム連載初回の一月二五日という季節とも、詩歌の大海原に漕(こ)ぎ出す大岡の武者震いとも、ぴたりと合っていた。しかしあえて「さ蕨の萌え出づる春」にとりかえたのは、詞華集は春夏秋冬の順序で進むものという約束事が尊重されたのと、<少なくとも日本語においては、季節がなかば身体の事柄としてあること>(三浦氏)のためである。それが誰であれ、出発する身体は春を生きているのだ。日本人の身体に深くしみこんだ「季節を生きる、季節として生きる」作法を、大岡は個人の事情に優先させたのである。 
 身体感覚の共有と同期。その鋭い感覚が、たとえば「ぬばたまの」という意味のわからない枕詞(まくらことば)をとらえにかかり、『ぬばたまの夜、天の掃除機せまつてくる』(大岡の詩集タイトル)に結実させる。説明的な言語のレベルでは意味がわからないと言うしかなくても、身体感覚が「ぬ」という暗く不穏な音と「夜」の体感とをとりもつことによって、大岡はこの単語を自分の手から読者へと手渡せる。わからない言葉を、わからないままに使えるのである。巻頭寄稿は、このあたりの機微を明らかにした評論である。 わたしは詩を、言語では説明できないものに言語をもって接近する試みだと思っている。とりわけ日本の現代詩はその方向に先鋭化してきた。そのなかで大岡が武器とした鋭敏な身体感覚は、非言語と無名性に支えられたものである。自分という閉じた存在をひらいて、大いなる存在に溶け込んでいく勇気。それは自分を信じる心と表裏一体のものなのだと思う。

「第四章 うつし、つなぐ」中の「アンソロジー「折々のうた」」の部分に着目されています。昭和54年(1979)1月に『朝日新聞』さんで始まった連載は、書評にある通り、光太郎短歌「海にして……」が記念すべき第一回でした。

展示でも図録でもその第一回については大きく取り上げられています。大岡氏の生原稿、当該短歌を光太郎が揮毫した色紙など。
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当方、展示は3月26日(水)に拝見に伺いました。その際、既に受付等で販売されていたのかどうか、気づきませんでした。図録と言ってもよくあるA4サイズ等の大判ではなく、先述の通り一般書店等にも流通させているタイプでA5判です。うっかり見逃していたかも知れません。『毎日新聞』さんに書評が出て、「えっ? 出てたのか」と、慌てて取り寄せた次第です。

展示は5月18日(日)まで。ぜひ足をお運びの上、図録もお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生もまづ健康よろしく、仕事の方も順調に運びまして、もう小型の石膏型を二本作りました。次に中型のを作るところ。暮も正月もない次第です。


昭和27年(1952)12月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の試作制作にかかり切りで、この年は暮れて行きました。以前から常々「70になったら本当の仕事をする」とうそぶいていた通りになった感じです。

第69回連翹忌の日に発行の扱いの雑誌等、2件ご紹介します。

で、まずは高村光太郎研究会刊『高村光太郎研究 46』。
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基本的に、前年秋に行われた学会としての「高村光太郎研究会」での発表者が、発表内容を元に原稿を書くというものです。そこで今号は昨年11月23日(日)に開催の第67回高村光太郎研究会で発表された大島裕子氏の「長沼智恵子、縁談話の真実」、熊谷健一氏の「智恵子と光太郎の人間学~美の求道者の生涯に思う~」など。

それから当方、連載を持たせていただいておりまして、一年間で発掘した『高村光太郎全集』等に漏れていた作品の集成「光太郎遺珠」と昨年一年間の関係の動向をまとめた「高村光太郎没後年譜」。

「光太郎遺珠」の方は、短歌一首、談話筆記を含む散文が4篇、アンケート回答で1篇、出版物広告に掲載された短評その他の雑纂4篇、それから今回は書簡が多く、これまで部分的に活字になっていたものの追補や原文が英文でその訳のみ見つけたものを含め、25通。
日本近代文学図録
画像は雑纂のうち、光太郎自筆の年譜です。明治39年(1906)から大正3年(1914)にいたる期間が書かれていますが、いつ、何のために書かれたものかが不明です。

「高村光太郎没後年譜」は、このブログ昨年12月末に載せた記事を根幹としています。
回顧2024年 1~3月。 回顧2024年 4~6月。 回顧2024年 7~9月。 回顧2024年10~12月。

上の方に奥付画像を貼っておきました。ご入用の方、そちらをご参照し注文なさって下さい。

もう1点、当会刊行の『光太郎資料63』。

故・北川太一先生が刊行されていたものを引き継がせていただいて、連翹忌の4月2日、智恵子忌日・レモンの日の10月5日と年2回出しています手作りの冊子です。002

  「光太郎遺珠」から 岩手にて その一
 光太郎回想・訪問記 『非常の時』より 佐藤隆房
 光雲談話筆記集成
  高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 三里塚御料牧場(千葉県)
 音楽・レコードに見る光太郎 佐藤春夫作詞「湖畔の乙女」
 高村光太郎初出索引 昭和8年~10年

個人的な推しは光太郎の父・光雲の「高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機」。宮城県松島の瑞巌寺さんに納められている巨大な聖観音像の落成法要の際に配付された『松島聖観世音奉安趣意書』を入手しまして、そこに載っていたものです。同像がオーダーメイドではなかったことや、像高が一丈二尺(約3.64㍍)であること、制作の助手が高弟の山本瑞雲、その弟子の阿井瑞岑、塗漆(としつ)は福田作太郎、彩色は萩原兵助であったことなど、これまで未知の事柄でした。
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福田と萩原はやはり光雲高弟の関野聖雲が手がけた京都浄瑠璃寺の吉祥天女立像模刻に際しても腕を揮っています。

こちらはご入用の方、お申し付け下さい。

【折々のことば・光太郎】

この夏花巻を訪れ、宮沢さんの実家を見舞つたり、詩碑に詣つたりされたのは大変よかつたと思ひました、お心に多くの滋養を与へる事になるでせう、阿多多羅山や阿武隈川をも見られたとの事、なつかしく思ひます、


昭和27年(1952)9月2日 栗原克丸宛書簡より 光太郎70歳

栗原克丸は埼玉県比企郡福田村(現・滑川町)在住で、同郷の元東松山市教育長の故・田口弘氏と親しい間柄でした。光太郎の山小屋は訪れなかったようですが、宮沢家や光太郎が揮毫した賢治詩碑、智恵子の故郷・福島二本松などを周遊したようです。

過日の第69回連翹忌の折にゲットしました。

高村光太郎と尾崎喜八

発行日 : 2025年4月2日
著者等 : 北川太一 著  石黒敦彦 編  山室眞二 装丁
版 元 : 蒼史社
定 価 : 2,500円+税

北川太一氏が尾崎喜八研究会の「尾崎喜八研究」誌に書かれた尾崎喜八と高村光太郎についての文章を集めた第一部と、シンジュサン工房から刊行されたツマキ文庫の『配達された「五月のウナ電」』(二〇〇四年)全文、それを捕捉する尾崎喜八の高村光太郎と星見表についての短文「光太郎向学」を加えた第二部によって構成した。……「書物はそれ自身の運命を持つ」 この一冊が、北川さんの「高村光太郎ノート」シリーズ(蒼史社および文治堂書店)とともに、未来に向けて読み継がれていくことを願っている。
(「はじめに」より)

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目次
 はじめに
 第一部 高村光太郎と尾崎喜八005
  島津謙太郎のこと
  尾崎さんと高村さん―『聖母子像』をめぐって
   一 砂川の土蔵
   二 聖母子像
   三 三月二十日
   四 みいちゃん
   五 『私たちの本』
  愛と創作 その詩と真実
   Ⅰ 雑誌『エゴ』
   Ⅱ 「愛と創作」
   Ⅲ 「ジャン・クリストフ」
   Ⅳ 「出会い」の時
  ロランと光太郎をめぐる人々
   Ⅰ アトリエにて
   Ⅱ 音楽への誘い
   Ⅲ ロダンとベルリオーズ
   Ⅳ 誌への出発高田博厚
   Ⅴ 最初の詩集
   Ⅵ 結婚前後
   Ⅶ ロランと光太郎をめぐる人々
  各章の主要事項解説 石黒敦彦
 第二部 配達された「五月のウナ電」
  配達された「五月のウナ電」
  五月のウナ電 北川太一
  解説 北川太一
  制作覚書 山室眞二
  捕捉『光太郎向学』 尾崎喜八
  北川太一略歴


尾崎喜八は、当会の祖・草野心平と並んで、光太郎と最も深く交流のあった詩人と言えるでしょう。心平とはまた違う方向からのアプローチで光太郎と親しくなり、目次からも概観できますが「ロマン・ロラン」や「音楽」が二人を結びつけるキーワードでした。さらに尾崎の妻・實子(みいちゃん)は、光太郎の親友だった水野葉舟の息女で、幼い頃から光太郎にかわいがられていました。尾崎と實子の長女の故・栄子さんは智恵子に抱っこされたこともありますし、のちに智恵子が心を病んでから手がける「紙絵」を、まだ健康だった頃の智恵子に作ってもらってもいます。折り紙を折りたたんで切り込みを入れ、拡げて出来るシンメトリーのタイプです。そうした家族ぐるみの交流は、心平との間にはあまりありませんでした。
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左上画像は戦前の本郷区駒込林町光太郎アトリエ兼住居前。左から栄子さん、光太郎、尾崎、實子。右上画像は尾崎夫妻の結婚記念に光太郎から贈られたミケランジェロ模刻の「聖母子像」です。

永らく連翹忌の運営その他、光太郎顕彰活動に当たられた北川太一先生は尾崎一家とも親しく、尾崎の歿後に立ち上げられた「尾崎喜八研究会」にご協力。機関誌『尾崎喜八研究』などに玉稿を度々寄せられました。そのあたりが本書の「第一部」です。

「第二部」は、光太郎詩「五月のウナ電」(昭和7年=1932)がらみ。北川先生が解説を書かれ、染織家の志村ふくみ氏、版画や装丁を手がけられている山室眞二氏が組んで小さな本を作られ、それに関わります。

今年が北川先生生誕100年ということで、栄子さん令息の石黒敦彦氏が、それらを一冊にまとめて刊行されたというわけです。まだ斜め読みですが、久々に先生の文章をまとめて読める幸せに心躍らせております。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

薬サルフオルありがたくお受けとりしました。今までは売薬のモスキトンなど使つてゐましたが、この薬は上等のやうです。丁度今はツナギなどといふ兇猛なアブが出てゐるので大助かりです。

昭和27年(1952)8月18日 森荘已池宛書簡より 光太郎70歳

「サルフオル」は合成抗菌薬のサルファ剤。9月13日の日記に「左ももに田虫様のもの出来いたむ、サルフアをつける」の記述があります。「モスキトン」は虫除け、虫刺されの薬として販売されていた商標名です。
無題

昨日に引き続き、新刊紹介です。

荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日

発行日 : 2025年3月10日
著者等 : 西川清史
版 元 : 講談社
定 価 : 1,900円+税

■八十年前のあの夜、東京で何が起こっていたのか? 圧巻のドキュメント
保阪正康氏推薦!「戦争を体験し、思索し、表現する文士たちの言葉は第一級の証言である」
■荷風が、谷崎が、向田邦子が目撃した「戦争」の姿が生々しく蘇る
■一夜にして十万五四〇〇人が失われた惨劇! 僕は巨大なB29が目を圧して迫まってくるのを見た。銀色の機体は、地上の火焔を受けて、酔っぱらいの巨人の顔のように、まっ赤に染まっていた。
──江戸川乱歩
■彼らの著述によって東京大空襲の惨劇を再構成するこの労作から、私たちは戦争の非人間性を改めて知らされることになる──保阪正康(歴史家)
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目次
 昭和20年、東京に住んでいた作家たち(地図)
 はじめに
 Ⅰ 焼尽
   永井荷風は電信柱の影に隠れて焼け落ちる偏奇館をいつまでも見つめていた。
   歴史探偵、半藤一利は十四歳だった。火に追われ逃げまどい、危うく川で溺れ死にそう
    になった。
   下町の中心部に住む中田耕治と関根弘は頭上から降り注ぐ焼夷弾から必死で逃げまどっ
    た。
   燃え盛る下町を遠望しながら、堀田義衛は「ひとりの親しい女」の身の上を案じてい
    た。
 Ⅱ 劫火
  「東京が燃えている」。震撼した作家たちはその衝撃をつぶさに日記に刻みつけていた。
  船橋に住む豊田正子は思わず見入った。血を浴びたように赤黒く染まった建物群を。
  B29は美しいと書いている作家が少なくない。機体は銀色の鮎の群れのように光り輝いて
   いた。
  向田邦子の父は悲壮な顔で言い出した。「みんなでうまいものを食べて死のうじゃない
   か」
 Ⅲ 空爆
  米軍の機密文書「作戦任務報告書」で明らかになった東京大空襲の一部始終。
  日本列島焼土化作戦を強力に指揮した男、C・E・ルメイ少将は「鉄のロバ」と呼ばれた。
 Ⅳ 地獄
  東京が焼け野原となったと知って谷崎潤一郎は矢も楯もたまらず東京に向かった。
  医学生、山田風太郎は何もない焼け野原を見て「こうまでしたか、奴ら!」と激昂した。
  鬼哭啾々、想像を絶する風景だったのだろう。多くの文士が本所、深川、浅草の地獄につ
   いて書く。
  B29が大挙して飛来した四月十三日の空襲で江戸川乱歩も澁澤龍彦も飯沢匡も炎に囲まれ
   た。
  隅田川にかかる言問橋や浅草寺には今も東京大空襲の傷痕がくっきりと残っている。
 Ⅴ 日記
  古川ロッパの日記から見えてくる空襲にあけくれるストレスフルな東京の日常。
  B29が飛来するとみんな慌てて飛び込んだ防空壕とはどのようなものだったのか。
  徳川夢声の戦中日記。内容は悲惨なのにそこはかとなく愉快なのはなぜなのだろうか。
 Ⅵ 鏖殺(おうさつ)
  五月二十五日の空襲は東京の息の根を止めた。有馬頼義は落下傘で舞い降りた米兵を捕縛
   した。
  三月十日、吾妻橋で焼け出された中田耕治は五月二十五日の空襲でも九死に一生を得た。
  小泉信三はメラメラと炎を上げる外套を着たまま燃え盛る自宅の中から現れ、昏倒した。
  収集した十数万冊の本は真っ白な灰となり大内兵衛は呆然として立ち尽くしていた。
  靖国神社に逃れるのを嫌った吉行淳之介は千鳥ヶ淵の小さな公園に逃げ込み眠ってしまっ
   た。
  「青山脳病院」が火柱をあげて燃え盛るのを見て、斎藤茂太と北杜夫は青山墓地に逃げ込
   んだ。
  宗左近は炎の海の中に倒れた母を見捨てて逃げた。生涯、その負い目から逃れることはで
   きなかった。
 Ⅶ 戦慄
  米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。
  尾崎一雄はグラマンから機銃掃射を浴びた。植木の幹に弾が当たると、ブスッという音が
   した。
  空襲で母と妹を失った高木敏子の目前で父は機銃掃射でこめかみを射貫かれて即死した。
  八月に入って世の中が騒然としてくる中、我が子を殺すことを考えた徳川夢声と海野十
   三。
 Ⅷ 終結
  偏奇館を失った永井荷風はその後も心の失調をともなうほどの危機に幾度も瀕していた。
  深川まで親しい女に別れを告げに行ったその日堀田義衛は思いがけない光景に身が凍っ
   た。
  B29の大編隊は宮城の上に至って方向を変えた。天皇は見上げもせず、静かに花に水を
   やり続けた。
 あとがき
 参考文献

目次だけでもショッキングな内容の連続です。

光太郎を中心に据えた項が、「Ⅶ 戦慄」中の「米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。」。

光太郎が、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の智恵子と過ごした思い出深い自宅兼アトリエを焼かれたのは、4月13日の空襲でのことでした。最も有名な3月10日の空襲では無事だったのですが、その後も空襲は繰り返されたわけで。

著者の西川氏、二篇の光太郎作品を引いています。まず、さらに遡って昭和17年(1942)4月18日、東京が初めて空襲されたいわゆる「ドゥーリットル空襲」を題材にした詩「帝都初空襲」。それから、戦後の昭和30年(1955)に高見順と行った対談「わが生涯」。

妙な所が戦場になつちやつて、ぼくらの近所はひどかつたですよ。電信柱に足がぶら下つてたりね、往来に靴が落つこつてる、見ると中身があるんだ。気味が悪くつてね。ぼくもいつやられるか、と思つてね。

004この電信柱の足については、光太郎自身がお蔵入りにした詩「わが詩をよみて人死に就けり」(昭和22年=1947)でも語られています。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の太腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向つた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

光太郎にとっては忘れられない記憶となったのでしょう。

ちなみに本書では引用されていませんでしたが、光太郎には「罹災の記」(昭和20年=1945)という文章があって、自宅兼アトリエの焼け落ちた際のことが細かく書かれています。その部分を書き出しましょう。

 私は四月十三日廿三時の空襲による火事で類焼した。敵機編隊来襲の終りに近く、三、四軒目の隣家両三軒に焼夷弾が十数発落下して火災発生、折からの東南風で火の粉をかぶつたが、それは私一人の火叩きで消せる程度のものであつた。そのうち火は隣組の家々を横へ燃えひろがり、私の家は火に取り残された形となつたので或は助かるかも知れないと思つたが、家伝ひに羽目から羽目へと移る火焔がだんだん猛烈となり、つひに裏隣りの家さへ危くなつた。その家の主人が「もう駄目です」といつて荷物を背負つて避難されてからは、まつたく私一人でバケツの水を自宅裏の羽目板にかけてゐたが、警防団員である妹の主人がかけつけて来て台所の内側からも防火に努めてくれた。此時私はバケツの水の威力を初めて知つた。火焔は猛烈でも火の根に水をかけるとバケツ一杯の水でも火力はちよつと衰へる。それを間断なく続ける事が出来れば火はきつと消えるのである。此時は既に数個の水槽の水も大鉢の水も尽き、一人で車井戸の水を汲み上げてそれをバケツにあけて火に向ふ外なかつたので、火の手は急にもり返して面もむけられないほど空気が熱くなつた。せめて五、六人の人がゐたらこの火は消せたのである。力尽きて避難に取りかかつた。かねて用意の蒲団袋や、米袋を近くの疎開道路の壕へ運んでもらひ、自分は御真影をも収蔵してある大切な道具箱二個と、彫刻用の貴重な砥石二面とをかつぎ出した。これさへ出せばほかの物はどうでもいいと思つてあせらなかつた。家は居抜きのまま敵の兵火に渡してやらうと肚をきめて悠々と行動した。父の作品二点ばかりと、友人に此日もらつたコーヒー罐一つとを風呂敷に包んで立退き、十四、五間ばかり離れた空地から焼け落ちるアトリエの美しい姿に見とれてゐた。爆弾の音もしてゐたが落ちるなら勝手に落ちろと思つて平気だつた。

持ち出せたものは蒲団袋、道具箱二個、砥石二つ、光雲の作品二点、少しばかりの食料。この蒲団袋の中に、大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買ったイギリスの染織工芸家、エセル・メレ作のホームスパン毛布が入っていたと考えられます。また、戦後になって、防空壕に戦前から光太郎が書きためていた詩稿の控えの束が残っていて、自宅兼アトリエの土地を貸していた大家さんから渡されました。詩稿の束を持ち出したことは、同様のもう少し短い回想「仕事はこれから」に書かれていました。

自宅兼アトリエの燃えるさまを「美しい」。これについては、直後に駆けつけてくれた詩人の寺田弘の回想にも書かれています。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。
(『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』 平成24年=2012 TBSサービス)

極限状態に追い込まれると、こうなるのかもしれません。

焼け出された光太郎、1ヶ月ほど近くで焼失を免れた妹の婚家に身を寄せていましたが、宮沢賢治の実家からの誘いを受け、花巻に疎開することになります。その賢治の実家も8月10日の花巻空襲で全焼してしまうのですが。

さて、『荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日』。この手の書籍の常で、まず光太郎中心の章や項を読んでから、他の部分を読みます。ところが書かれている内容が余りに悲惨で、なかなか読み進められません。しかし、こうした事柄から眼をそらしてはいけませんので、少しずつ読んでいこうと思っています。

ちなみに最上部に書影画像を載せましたが、帯を取るとその下に昭和20年(1945)頃の光太郎の顔。
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このイラストは微笑ましい感じですが、さらにカバーを取った表紙はこう。
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空襲の悲惨さが象徴されているようです。

皆様もぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

十和田湖、八甲田山一帯の景観はまつたく予想以上の美しさにて、御依頼のモニユマン製作についても、小生快く承諾の腹をきめることができました。 かくも美しき自然に対して自己の全力を傾け得る事の幸を一造形家として感ぜざるを得ず、この夏中に構想を練り、エスキスを試み、秋頃より諸般の便宜多き東京にて原型製作にとりかかり、明年完成の予定で居ります。


昭和27年(1952)6月28日 津島文治宛て書簡より 光太郎70歳

岩手に移って7年余り、敗戦当初は山間に文化集落を造るという無邪気な夢想、青年時代から憧れていた辺境の地での自由な生活といった意味合いが強かったのですが、徐々に自らの戦争責任を痛感せざるを得なくなり、自らを罰する「自己流謫(るたく)」へと変貌しました。「流謫」は「流罪」に同じです。そのため自らへの最大の罰として、彫刻製作も封印。しかし、余命あと僅かという自覚もあり、青森県からの依頼を好機と考え、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を決意します。

2ヶ月半経ってしまいましたが、新刊です。

都市空間を歩く 日本近代文学と東京

発行日 : 2025年1月8日
著者等 : 佐藤義雄・松下浩幸・長沼秀明[著]
版 元 : 翰林書房
定 価 : 2,800円+税

場所と言葉を往還しつつ、〈 地霊(ゲニウス・ロキ) 〉を復原する。文学鑑賞の醍醐味を再認識するための実践的な提案。
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目次
 はじめに 松下浩幸
 一  樋口一葉「日記」「別れ霜」 ― 東京図書館・お茶の水橋・万世橋 松下浩幸
 二  夏目漱石『それから』 ― 神楽坂・小石川・青山 松下浩幸
 三  森鷗外「百物語」 ― 向島 松下浩幸
 四  高村光太郎『智恵子抄』 ― 千駄木・日暮里 松下浩幸
 五  江戸川乱歩「目羅博士」 ― 上野・丸の内 松下浩幸
 六  長谷川時雨『旧聞日本橋』 ― 日本橋 長沼秀明
 七  徳冨蘆花『不如帰』 ― 赤坂氷川町 長沼秀明
 八  田山花袋『田舎教師』 ― 上野公園 長沼秀明
 九  久保田万太郎「春泥」 ― 日暮里 長沼秀明
 十  藤村「並木」と芥川「毛利先生」 ― 日比谷・大手町・神田 佐藤義雄
 十一 永井荷風「紅茶の後」 ― 銀座 佐藤義雄
 十二 三島由紀夫「詩を書く少年」 ― 目白・学習院 佐藤義雄
 講座一覧
 あとがき 佐藤義雄
 初出一覧

目次に「講座一覧」とあるように、元は明治大学さんの「リバティアカデミー」という市民講座中の一つで「都市空間を歩く」が開設され、その報告書的なブックレットからの修正加筆が中心のようです(一部は書き下ろし)。

著者のお三方とも明治大学さんで教壇に立たれている皆さん。お三方で100回余りの講座を受け持たれたそうで、鷗外や漱石、芥川などは繰り返し取り上げられていました。逆に宮沢賢治、萩原朔太郎など本書に収録されなかった作家も多数。で、お三方がご自分の担当講座から数篇ずつを選んで本書が構成されています。

光太郎智恵子に関しては松下浩幸氏によるもの。100回余の講座中、光太郎智恵子を中心に据えたのはこの一回のみだったようで、それを本書に収録してくださったのはありがたいところです。元は平成28年(2016)3月のブックレットに「〈狂気〉と〈純愛〉――高村光太郎『智恵子抄』と千駄木・日暮里」の題で収められていましたので、約10年前ですね。

従って、最新の情報が盛り込まれていません。既に取り壊されてしまった光太郎の実家(旧駒込林町155番地)が写真入りで紹介されていますし、明治45年(1912)に智恵子と福島の医師との間に縁談があったという件は、大島裕子氏の調査で否定されています(相手とされてきた医師は既に妻帯・子持ちだったと判明)が、反映されていません。

まぁ、そうした点はさておき、『智恵子抄』詩篇を読み解きつつ、「恋愛は何よりも近代的な人間であることの証であり、個人の意思を尊重する「ヒユウマニテイ」(人間性)としての行いを実践するという意味を持っていた」「近代的恋愛とは「人類」の普遍的な意志であり、個人が成長していくために必須の思想的実践であった」といった指摘には「なるほど」と思わされました。

まだ手元に届いたばかりで、光太郎智恵子の項と、光太郎といろいろ交流のあった長谷川時雨の項しか精読していませんが、全体に図版や地図も多く、これを片手に文学散歩としゃれ込むのにいいなと思いました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生にとりて東京は好ましき土地ではございませんが、この製作完成までは特に滞在、仮アトリエに蟄居の覚悟を定めました。


昭和27年(1952)6月28日 津島文治宛書簡より 光太郎70歳

津島文治は太宰治の実兄にして当時の青森県知事。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の仕掛人です。

大戦末期の昭和20年(1945)5月から足かけ8年に亘る岩手での暮らしで浄化された光太郎の眼には、伝え聞く戦後の雑駁とした東京の様子は忌避すべきものだったようですが、像の制作のためには仕方ありませんでした。「完成までは特に滞在」とあるように、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に戻るつもりで、住民票やほとんどの家財道具は残したまま上京します。

新刊です。

継続する植民地主義の思想史

発行日 : 2024年11月20日
著者等 : 中野敏男
版 元 : 青土社
定 価 : 3,600円+税

過去の歴史を引き受け、未来の歴史をつくりだすために
「戦後八〇年」を迎える現在、いまもなお植民地主義は継続している――。近代から戦前―戦後を結ぶ独自の思想史を描き、暴力の歴史を掘り起こす。日本と東アジアの現在地を問う著者の集大成。
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目次
 序章 継続する植民地主義を問題とする視角
  はじめに――植民地主義の継続という問題
  一 暴力の世紀――「冷戦」という語りが隠したもの
  二 「戦後」に継続する植民地主義――日本の暴力の世紀
  三 植民地主義の様態変化とそれを通した継続――思想史への問い
 第一部 植民地主義の総力戦体制と合理性/主体性―合理主義と主体形成の隘路
  第一章 植民地主義の変容と合理主義の行方―合理主義に拠る参与と抵抗の罠
   はじめに――システム合理性への志向と植民地主義の変容
   一 産業の合理化と植民地経済の計画――「満州国」という経験
   二 総力戦体制の合理的編成と革新官僚
   三 参与する合理的な社会科学
  第二章 植民地帝国の総力戦体制と主体性希求の隘路―三木清の弁証法と主体
   はじめに――植民地主義の総力戦体制と「転向」という思想問題
   一 方向転換と知識人の主体性
   二 有機体説批判と主体の弁証法
   三 ヒューマニズムから時務の論理へ
   四 帝国の主体というファンタジー
 第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続
  第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程
   はじめに――近代詩人=高村光太郎の「暗愚」
   一 「自然」による救済の原構成――第一の危機と「智恵子」の聖化
   二 神話を要求するモダニティ――第二の危機と「日本」の聖化
   三 「暗愚」という悔恨とモダニズムの救済――第三の危機と「生命」の聖化
   小括

  第四章 戦後文化運動・サークル詩運動に継続する戦時経験―近藤東のモダニズム
   はじめに――継続する詩運動のリーダー近藤東の記憶
   一 戦後詩の場を開示する戦中詩
   二 「勤労詩」という愛国の形
   三 「戦後」への詩歌曲翼賛
   四 排除/隠蔽されていくもの
   小括
 第三部 「戦後言論」の生成と植民地主義の継続―岐路を精査する
  第五章 戦後言説空間の生成と封印される植民地支配の記憶
   はじめに――「国全体の価値の一八〇度転換」?
   一 敗戦国への「反省」、総力戦体制の遺産
   二 ポツダム宣言の条件と天皇制民主主義という思想
   三 「八月革命」という神話――構成された断絶
   四 加害の記憶の封印、民族の被害意識の再覚醒
   五 「自由なる主体」と「ドレイ」――主体と反主体
  第六章 戦後経済政策思想の合理主義と複合化する植民地主義
   はじめに――有沢広巳の戦後の始動
   一 「植民地帝国の敗戦後」という経済問題
   二 戦後経済政策の始動と自立経済への課題
   三 「もはや戦後ではない」という危機感とその解決――賠償特需
   四 「開発独裁」と連携する植民地主義
   五 技術革新の生産力と国際分業の植民地主義
   六 原子力という袋小路――植民地主義に依存する経済成長主義の帰結   
 第四部 戦後革命の挫折/「アジア」への視座の罠
  第七章 自閉していく戦後革命路線と植民地主義の忘却
   はじめに――日本共産党の「戦後」を総括すること
   一 金斗鎔の国際主義と日本共産党の責務
   二 戦後革命路線の生成と帝国主義・植民地主義との対決回避
   三 五五年の分かれ
   四 正当化された「被害」の立場/忘却される植民地主義
  第八章 「方法としてのアジア」の陥穽/主体を割るという対抗
   はじめに――「アジア」への関心へ
   一 「戦後」をいかに引きうけるか
   二 アジア主義という陥穽
   三 主体を割るという対抗
 第五部 植民地主義を超克する道への模索
  第九章 植民地主義を超克する民衆の出逢いを求めて
   はじめに――「反復帰」という思想経験に学ぶ
   一 「反復帰」という対決の形
   二 共生の可能性を求めて――「集団自決」の経験から
   三 植民地主義の記憶の分断に抗して――「重層する戦場と占領と復興」への視野
   四 民衆における異集団との接触の経験
   五 沖縄の移動と出会いの経験に別の可能性を見る
  結章
   一 合理性と主体性という罠
   二 植民地主義の様態変化と資本主義・社会主義の行方
   三 植民地主義の「継続」を問う意味。「小さな民」の視点
 あとがき
 文献目録
 索引


「文献目録」「索引」まで含めると500ページほどの労作です。

過日ご紹介した辻田真佐憲氏著『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』(中央公論新社)にしてもそうですが、来年で第二次大戦終結80年、ついでにいうなら昭和100年ということもあり、あの時代への考察が今後とも流行りとなるような気がします。

ただし、「あの時代」と区切ってしまうのではなく、戦後、そして現在へと継続して通底する何かが存在するわけで、本書ではそのうちタイトルにもある「植民地主義」にスポットをあてています。

一部の書き下ろし部分を除き、大半は90年代末から一昨年までのものの集成。したがって、現在も泥沼化しているウクライナ問題への言及はほぼありませんが、逆に忘れ去られかけている(しかし解決したとは言い難い)諸問題への言及も多く、いろいろ考えさせられます。

「第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続」中の「第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程」30ページ超がまるっと光太郎がらみ。元は平成8年(1996)に柏書房さんから刊行された『ナショナリティの脱構築』という書籍に収められたものだそうですが、存じませんでした。

青年期に「根付の国」(明治44年=1911)などでさんざんに日本をこきおろしていた光太郎が、十五年戦争時には一転して翼賛に走ったことに対し、そこに到るまでをつぶさに辿りつつ、ある種の必然性を見出しています。ちち・光雲や妻・智恵子との生活史、そして精神史の変遷を抜きに語れない、そしてそれは「豹変」ではなかった、的な。この読み方には好感を覚えました。ある人間の、「それまで」をあまり考えず、「その時」だけに着目したところで、正しく考察出来るわけがありませんから。

そして戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活を、連作詩「暗愚小伝」を元に読み解き、さらに最晩年、開拓や原子力へ期待を寄せる詩文を書いていたことに触れ、それとて形を変えた「翼賛」だったと、かなり手厳しい評。曰く「「悔恨」の陥穽に落ちて総括されずに残った、戦中と戦後との連続の一例」。なるほど、そういわれても仕方がありません。しかし、「悔恨」すらしなかった多くの文学者、美術家たちと比較し、光太郎はとにもかくにも「悔恨」を形にした数少ない例であることは声を大にして言いたいところですが。

というわけで、ぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

このやうな記念碑が温泉に出来て、今日はその除幕式でした。秋晴れのいい天気で一ぱいやつてきました。


昭和25年(1950)10月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳
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「記念碑」はグループ企業としての花巻温泉社長だった故・金田一国士の業績を称える碑で、碑文の詩「金田一国士頌」を光太郎がこのために作りました。光太郎生前唯一の、オフィシャルな光太郎詩碑です。ただし、書は光太郎の筆跡ではなく金田一の腹心でもあった太田孝太郎の手になるもの。太田は盛岡銀行の常務などを務めるかたわら、書家としても活動していました。

下は除幕式の集合写真です。
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年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』。最新号の第十九号が届きました。
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いつも書いていますが、同人にしてくれと頼んだ覚えは一切ありませんが、「連翹忌通信」という連載を持っています。評論ともエッセイともつかない駄文ですが(笑)。

前号に引き続き、キーワードは「佐佐野旅夫」。当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、明治45年(1912)の雑誌『スバル』に載った「佐佐野旅夫」署名の戯曲「地獄へ落つる人々」を、光太郎の変名によるものではないかと推理され、「参考作品」として『高村光太郎全集』の別巻に掲載された件について。

残念ながら北川先生の推理は外れで、「佐佐野旅夫」は佐々木好母という人物が使っていたペンネームだと判明した件を前号に書きましたが、佐々木は明治末から戦後にかけて(途中、疎遠になっていた時期もあったようですが)光太郎と交流があり、そんなわけで北川先生が光太郎作品と見まごうような戯曲を書いていたのだ、的なことを今号には書きました。さらに佐々木の経歴、光太郎やその親友・水野葉舟との交流などについても。

ちなみに戯曲「地獄へ落つる人々」、『スバル』本誌では「佐佐野旅夫」クレジットでしたが、他誌に載った広告では本名の「佐々木好母」で紹介されていました。
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詳しくは奥付画像を載せておきますので、御注文の上『とんぼ』をお読み下さい。
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拙稿の件を先にご紹介して申し訳なかったのですが、目次は以下の通り。
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編集に当たられている曽我貢誠氏が、当方も幹事に名を連ねています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の世話役、版元の文治堂書店さんの社主・勝畑耕一氏も同会メンバーで、随所に保存運動の件も書かれています。

他に北川先生の御子息・光彦氏、朗読のイベントなどでお世話になっている服部剛氏などの玉稿も。

頒価は600円だそうです。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「典型」の表紙、見返し、扉、外函の装幀原図がやつと決定しましたので、宮崎さん宛送ります。書留にするには集配人をつかまへるのが一苦労です。


昭和25年(1950)8月23日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』。おそらく自分でも生涯最後の詩集とするつもりだったようで、装幀は気合いを入れて自分で行い、題字も自分で刻んだ木版でした。
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無題
典型
扉の案のうち、左の二つはボツにしたもの、一番右を採用しました。いわずもがなですが文字も自筆です。

晩年の光太郎に親炙し、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著作をはじめ、光太郎関連の書籍を多数刊行なさっている文治堂書店さん。PR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』を年に2回発行しています。

その第十八号が届きました。
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手前味噌で恐縮ですが、連載を持たせていただいております。題して「連翹忌通信」。光太郎に関わるもろもろを徒然なるままに綴っております。そうそうネタもないので、大半はこのブログにも書いたことを再編することが多い感じです。

ただ、今号ではそうでなく、ほぼオリジナルの内容で書いてみました。キーワードは「佐佐野旅夫」。国立国会図書館さんのデジタルデータで閲覧できる資料が飛躍的に増えたことによって為された、ある意味、「残念な」発見です。

昭和59年(1984)4月3日、『読売新聞』さんの夕刊に「だれか佐佐野旅夫を知らないか」という記事が載りました。故・北川太一先生のご執筆です。要約しますと、その頃北川先生が入手された、雑誌『スバル』第四年第三号(明治45年=1912 3月)に、「地獄へ落つる人々」という戯曲が載っていました。作者は「佐佐野旅夫」。北川先生もご存じない名だったそうです。実際、グーグル等の検索では「佐佐野旅夫」の名は引っかかりませんし、『スバル』への寄稿はこの一篇のみで、同時代の他の主要な雑誌等にもその名が見えません。

「地獄へ落つる人々」、光太郎の親友で、明治43年(1910)に早世した彫刻家・荻原守衛を明らかにモデルにしたと思われる「山の井」という彫刻家や、守衛と親しかった画家・柳敬助を彷彿とさせる「海野」という画家などが登場します。ただし、「山の井」は既に亡くなっているという設定で、それでもその「亡霊」が登場したりします。そして「山の井」の遺作展会場や、「海野」のアトリエを訪れた人々が、「美」に取り憑かれ、次第に正気を失ったりしていく、という筋です。そこでタイトルが「地獄へ落つる人々」というわけです。

北川先生が入手された『スバル』の旧蔵者は、光太郎とも交流が深かった堀口大学。すると、「佐佐野旅夫」の名の脇に堀口によると思われる「高村」の書き込みがあったそうで、北川先生、「佐佐野旅夫」は光太郎の偽名なのでは? と推理されました。傍証が他にもいろいろありまして。

光太郎は既に明治38年(1905)の第一期『明星』巳歳第四号に、「青年画家」と題する戯曲を発表しています。こちらはきちんと光太郎の名で出ています。そして「地獄へ落つる人々」といくつかの共通点が。まず若い芸術家を主人公とし、その周辺人物との関わりを追っている点、すったもんだの末のカタストロフ的な結末などなど。さらに「地獄へ落つる人々」には、主人公のパリ体験が描かれ、北川先生曰く「画家の米欧体験や、幻想の中でのパリの娼婦が歌う小曲、天上する火炎に終わる幕切れなど、いずれも高村さんの介在を想像させる」。

 そこで北川先生、平成10年(1998)発行の『高村光太郎全集』別巻に、「参考作品」として「地獄へ落つる人々」を掲載なさいました。その「解題」に曰く「この題材で、この戯曲を、『スバル』寄稿者では他の誰が書き得ただろうか」。ほぼ「佐佐野旅夫」=「高村光太郎」と確信なさっていたという感じですね。
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「誰か佐佐野旅夫を知らないか」は、先述の通り『読売新聞』に掲載された後、平成3年(1991)に文治堂書店さんから刊行れた北川先生の著作集『高村光太郎ノート』に収められました。

それを読んだ当方、何とか「佐佐野旅夫」=「高村光太郎」を証明できないかと、新たな資料の発見に努めました。しかし、何らの情報も得られませんでした。

そこへ来て、先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアル。通常のネット検索ではヒットしない情報もかなり得られます。そこでキーワード「佐佐野旅夫」で検索してみると、意外にも多数ヒットしました。「佐佐野旅夫」は『少年世界』、『幼年世界』、『女子文壇』、『地球』という、それぞれ博文館刊行の雑誌に寄稿していたのです。いずれも「地獄へ落つる人々」と同じく明治から大正に改元された1912年のものでした。博文館刊行の雑誌はどれも稀覯の範疇に入り、なかなか北川先生に目には留まらなかったようです。
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北川先生の推理通り、「佐佐野旅夫」が光太郎の偽名だとすると、偽名でこんなに寄稿するものだろうかと疑問に思い、更に調べ続けたところ、決定的な資料を見つけました。 大正2年(1913)、「第一高等学校寄宿寮編纂」とクレジットのある『向陵誌』という書籍です。旧制の第一高等学校は東京帝国大学の予科で、『向陵誌』は、その自治寮と、同校の部活動の沿革が記された書籍でした。

そして文芸部の略史の中に「佐佐野旅夫」の名が。同部発行の文芸誌『文のその』(後に『文園』と改題)について述べられている箇所で「二百一号には佐々野旅夫氏(好母氏の匿名なり)の巧妙なる「蟇」の歌見るべく」とありました。「好母」は、すぐ前の部分に「佐々木好母」という名が挙げられており、その人物でしょう。これが「佐佐野旅夫」の正体と思ってまず間違いありますまい。

佐々木好母(このも)は、光太郎より五歳年少の明治21年(1888)生まれ。この時期の『スバル』に本名での寄稿も見られます。ただ、一高から帝大に進み、さらに医師となって文筆からは遠ざかったようです。そして佐々木について調べてみると、共に『スバル』寄稿者であったという以外にも、光太郎との繋がりが……。

と、まぁ、今回の『とんぼ』では概ねこの辺りまで書きました。次号に佐々木と光太郎の繋がり、さらに佐々木が「地獄へ落つる人々」を書くに至った経緯といった点を書いてみようと思っております。

さて、『とんぼ』、編集は光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の中心人物、曽我貢誠氏です。そこで版元の文治堂書店さんも保存運動に一枚噛み、いろいろなさっています。そんなわけで今号では、保存運動に関する内容も。そのあたりを明日、ご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生も今年は洋服を都合しなければ、着衣がなくなるわけなので、今ホームスパンを織つてもらふことにしてゐます。原料が相当にかかるやうです。


昭和23年(1948)1月6日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

オーダーメイドの猟人服、花巻町郊土沢在住だったホームスパン作家・及川全三の知遇を得、及川の弟子筋に生地を、仕立ては盛岡在住の四戸慈文(画家・深沢紅子の父)に頼みました。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。
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ガタイのでかい光太郎ですし、ポケットをたくさんつけてほしいという要望で、その分、原料の羊毛が大量に必要になったようです。

『朝日新聞』さんで、弁護士にして詩人、文芸評論家でもあらせられる中村稔氏が大きく取り上げられました。

寂しさと、生へのいとおしさと 中村稔さん最新詩集、「月の雫」 97歳 人生の喜び 貴い未来に 詩人で弁護士 言葉は明瞭で不可解

002 詩人・中村稔さんの最新詩集「月の雫」(青土社)に収録される1編1編の詩は短い。けれど、人生の喜びや人情の機微が詰まっている。中村さんにとって、初めての試みだった。
 「僕がいつも書く詩は寂しいんですよ。どうしたって寂しい。でも一生に一度くらい、誰にでもわかりやすく、おもしろく、楽しく読めるものを書いてみたいと思ったんです」。ドウダンツツジの枯れ枝の間に落ちる、月の光に慰められる老人。お年玉をもらった翌日、駄菓子屋で全て使い切ってしまった少年。互いに思い合いながらもプロポーズできずにいる男女。ミサイルにおびえ、差し込む月の光に気づかないロシアとウクライナの兵士。収録される20編の詩それぞれで登場人物が、生きることの尊さ、恋愛のはかなさと喜び、戦争の不条理さと向き合う。
 「これは本当に詩なのか? と自分でも疑問に思っています。小説の筋書きと言われても仕方ない」。これまで詩を書くときには避けてきた言葉もあえて使った。誰しもに分け隔てなく注ぐ月の雫(しずく)を描いた詩は、こう締めくくられる。
 〈寝つけない老人に月の雫は、生きよ、と囁くだろう。まだ到来しない/貴い未来に生きよ、と囁くのを、老人は確かに聞くだろう。〉
 「『貴い未来に』という説明的、教訓的な表現は、いつもは使いません。でも、この詩に共感してくださる方が多かったですね。自分に向けて書いているところも、もちろんあります」
 1月に97歳を迎えた。「僕のいつもの詩が寂しいのは、死が間近いことを自覚しているから。国際情勢を見ていても、あんまり楽しいことはないでしょう」。一方で、「だからこそ貴重な時間、生きている時間をいとおしむ気持ちもある。二つがない交ぜになって生きているんですね。だからこういう楽しい詩もあっていいんじゃないかと思った。今まで書いてきたなかでも愛着のある作品です」。
 詩集に加え、宮沢賢治、中原中也、高村光太郎らの評論や、自身の半生を振り返りながら昭和史を見
つめた「私の昭和史」といった大部の著作も手がけてきた。だが、本業は弁護士だ。東京・丸の内で弁護士として働きながら「余技に詩や評論を書いてきたんです。詩人であることが本業にプラスになるこ001とはありません。中原中也みたいにだらしないと思われたら困るでしょう」。 一見、正反対にあるように思える詩人と弁護士だが、言葉への尽きない関心が生まれる源泉でもあった。「僕は弁護士だから、言葉が定義されている世界を見てきた。言葉に対する明晰(めいせき)さを求めながら、一方で言葉は実に不可解なものだと感じて詩を書いてきた。言葉があわせもつ両面を見てきたから、言葉への関心はずっとあります」

記事では触れられていませんが、中村氏、本業の弁護士として最高裁まで争われた「智恵子抄裁判」に取り組まれました。著作権に関わるものの中で、エポックな凡例として語り継がれています。

その関係もあり、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは刎頸の交わりでした。連翹忌の集いにご参加下さいましたし、北川先生のご著書の帯に推薦文を寄せられたこともおありでした。
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そして光太郎をメインに論じたご著書。ともに青土社さんから平成30年(2018)に『高村光太郎論』、翌年には『高村光太郎の戦後』。どちらも500ページ前後の大著、労作です。その他、エッセイ集や雑誌等での光太郎に関する文章も多数。

もう97歳になられたか、というのがまず驚きでした。そして失礼ながらそのお年で新刊詩集を上梓なさるとは、という驚きも。

ちなみに『日本経済新聞』さんには、かつて「中村稔89歳 燃える執筆意欲」(平成28年=2016)、「中村稔 曇りなく歴史を見つめる」(令和元年=2019)という記事が載りました。それぞれその時点で「そのお年で……」という驚きが込められていましたが、今回、改めて「そのお年で……」ですね。

今回の記事にある詩集『月の雫』はこちら。やはり青土社さんから刊行されています。

【折々のことば・光太郎】

「ロヂン」は明治の頃、先輩が皆ロダンの事をロヂンと発音してゐたので、さう書きました。Rodinの英語読みです。ロヂンといふので時代色が出るわけです。


昭和22年(1947)9月8日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

この年、雑誌『展望』に寄稿した自らの生涯を振り返る連作詩「暗愚小伝」の註解です。仏語で「in」が「アン」となることを知らなかった明治期の学生が「Rodin」を英語風に「ロヂン」だと思っていたというくだり。「彫刻一途」という一篇の一節です。

 いつのことだか忘れたが、
 私と話すつもりで来た啄木も、
 彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに
 すつかりあきらめて帰つていつた。
 日露戦争の勝敗よりも
 ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた

バカだな、と思うかも知れませんが、同じ理屈で『青い鳥』の「Maeterlinck」は「メテルランク」と読まれるべきなのに、未だに日本では「メーテルリンク」で通ってしまっていますね。さすがに「Lupin」は「ルパン」と正しく読まれていますが(笑)。

本日も新刊紹介です。

じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代

2024年4月25日 森まゆみ著 婦人之友社 定価3,000円+税

 2021~2024年まで雑誌『婦人之友』に好評連載の「羽仁もと子とその時代」が、ついに1冊に。近代女性史に大きな足跡を残したもと子の姿が、明治・大正・昭和の時代の中で、鮮やかに浮かび上がります。
 「じょっぱり」はもと子の故郷・青森では、信じたことをやり通す強さをいう言葉。よいことは必ずできると信じて、多くの人を巻き込みながら突き進んだ、もと子そのものです。
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目次
 まえがき
 第1部 青森の少女、新聞記者になる
  1 八戸に生まれて
  2 上京を追って
  3 自由民権とキリスト教002
  4 明治女学校へ
  5 最初の恋愛、結婚、離婚
  6 女性記者となる
  7 岡山孤児院と西有穆山、そして再婚
  8 『家庭之友』創刊
  9 中産階級の視点
  10 日露戦争と家計簿
  11 次女凉子の死
  12 『婦人之友』への統合
  13 『婦人之友』の船出
  14 明治が終わる
  15 大正デモクラシーと第一次世界大戦
  16 『子供之友』と『新少女』
 第2部 火の玉のように、教育者、事業家へ
  17 自由学園創立
  18 洋服の時代
  19 関東大震災
  20 震災後の救援
  21 読者組合の組織化、著作集発行
  22 消費組合の結成
  23 「友の会」の誕生
  24 ただ一度の外遊
  25 羽仁五郎の受難
  26 木を植える男−羽仁吉一と男子部設立
  27 東北の大凶作とセツルメント
  28 戦争への道
  29 北京生活学校
  30 幼児生活団と生活合理化と
  31 那須農場開拓と戦争の犠牲
  32 敗戦から立ち上がる
  33 引揚援護活動
  34 二人手を携えて
 あとがき

夫・吉一と共に、現代でも続く雑誌『婦人之友』を創刊し、都内に自由学園を創立した羽仁もと子の評伝です。同誌には光太郎・智恵子もたびたび寄稿しましたし、同校を光太郎が訪れたこともありました。
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昨年、花巻高村光太郎記念館さんで企画展「光太郎と吉田幾世」が開催され、いろいろと協力させていただきましたが、盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した吉田幾世は、自由学園の卒業生で、羽仁夫妻の薫陶を受けた人物でした。

その吉田や光太郎にも言及されています。ただ、二人に関する部分がもうちょっとあってもよかったなという感じではありました。まだ全て読み終わっていませんが、智恵子に関しては記述がないようです。それから、相馬黒光、巌本善治、平塚らいてう、竹久夢二、与謝野晶子ら、光太郎智恵子らと交流のあった人物も数多く登場します。

それにしても、羽仁もと子という人物のバイタリティーはすごいものだな、と、読み進めながら思っております。上記の目次を概観するだけでもそれが窺えるのではないでしょうか。森氏も「あとがき」で、「今まで私ほどよく働く女はいないのではないかと思っていた。しかし本書に取りかかって、羽仁もと子には負けた。」と語られています。

ところで当方、昨年、企画展「光太郎と吉田幾世」の関係で国会図書館さんに出向き、昭和30年代までの『婦人之友』で光太郎智恵子に触れられている記事を全てプリントアウトして参りました。

もと子自身の書いた記事の中に、光太郎の名が書かれているものもありました。第18巻第5号(大正13年=1924 5月)の「身辺雑記」というエッセイです。その年の自由学園の入学式などについて書かれています。抜粋します。

 あくる日のお昼前、また桜の樹の下に見なれない人が来る。素朴に見ゆる和服を着た大きな人――私はそれは高村光太郎さんだと思つた。ほんとにさうだつた。私たちは高村さんの書いて下さるものを心から愛読してゐる。編輯局の人たちから、またいつでも高村さんのことを聞いて、どうか一度学校を見て頂きたいと、早くから希つてゐたから嬉しかつた。
 
また、こんな記事も。昭和20年(1945)4月の第39巻第4号、「編輯室日記」。

四月十七日(火)去る十三日の空襲は石渡荘太郎氏、湯澤三千男氏、佐野、真島、大槻博士、高村光太郎氏など、日頃婦人之友や自由学園に御縁故の深い方々のお家をも焼いてしまつた。せめて季節の青いものでもお目にかけてお慰めしたいと、南沢の野菜を自転車に積んで、それぞれ手分けして焼け跡をお訪ねする。三月号の表紙に、詩やカツトを描いて下さつた高村光太郎氏には、丁度印刷出来たばかりの婦人之友をもお届けしたが、大変喜ばれてブロツクの一片に次のやうな御言葉をかいて下さつた。
 「わざわざお使でお見舞下され忝く存じます、今焼跡でお話しいたして居るところです、御丹精の青いもの筍など何よりありがたく、又雑誌も拝受、お礼までいただき恐縮しました。乱筆のまゝ 四月十七日 高村光太郎」

 
光太郎、アトリエ兼住居が全焼ということで、手元に紙もなく、何とまあ焼け跡に落ちていたコンクリートブロックの破片に上記の文面を書いて(筆記用具は持っていたのか、借りたかしたのでしょう)、使者に託しました。この現物が現残していたら不謹慎かも知れませんが実に面白いと思います。

光太郎の同誌への確認できている寄稿等は、以下の通り。
無題
これだけ多くの寄稿をした雑誌は他にあまりありません。また、明治末から最晩年までの長期にわたってというのも異例です。

智恵子の寄稿は3件確認出来ています。
智恵子
これ以外にも、光太郎智恵子、それぞれに取材した記事や、吉田幾世による盛岡生活学校のレポートに光太郎が登場する記事などもあります。

光太郎の最後の寄稿は、昭和30年(1955)、羽仁吉一の逝去に伴う詩「追悼」。こちらは婦人之友社さんで制作したCDに女優・柳川慶子さんの朗読が収められています。
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森まゆみ氏曰く、「この簡潔な詩句になにも継ぎ足す言葉はない。

それにしても、森氏、戦時中のもと子についても剔抉されています。光太郎にしてもそうでしたが、もと子もかなりの翼賛活動を行いました。森氏曰く「私は伝記作者として、対象人物の過去の間違いを看過、もしくは隠蔽することはできない」。正論ですね。

そうでない伝記作者の何と多いことか。あまっさえ、翼賛活動を擁護するどころか「これぞ皇国臣民の鑑」とばかりに大絶賛している歴史修正主義者、レイシストの輩が存在するのが現状です。なげかわしい。

何はともあれ『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「婦人之友」の盛岡生活学校の生徒さんや先生方が四十人ばかり来ましたので、分教場で話をしました。画家の深沢紅子さんも先生の一人として来ました。バタとパンをもらつたのでよろこびました。


昭和22年(1947)8月14日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

引率していた一人が吉田幾世です。吉田はこの日の模様のレポートを『婦人之友』に寄稿しました。

盛岡の吉田幾世さんから友の会生活学校の一行四十名が稗貫郡太田村に高村光太郎氏をお訪ねした時の様子を知らせてきた。「高村先生は若い人に会うのは愉快だと、茅ぶきの分教場に心から嬉しそうに迎えて下さり、詩のことから建築、服飾とお話は深く広くひろがり、いつしか一同の心は果しない美の世界へ引込まれてゆきました。食後若い人達の未熟なコーラスを音楽飢餓がいやされると喜んできいて下さいました。疎開先の花卷で戦災にあわれた先生を、山から一本づつ木を伐り出して来て、山の根に小さな家を建てて村へ迎え入れた部落民の素朴な真心ととけ合つたこの頃の先生の御生活、電灯もなくラジオもなく、新聞も一日おくれしか手に入らないとのことです。その中で『婦人之友はいつも端から端まで大へん面白く読んでいます。料理や園芸の記事も全く参考になりますよ』といつておられたのもうれしいことでした。」(第41巻第10号 昭和22年=1947 10月)

関西でこぢんまりと刊行されている雑誌です。

『B面の歌を聞け』4号

2024年4月20日 夜学舎 定価990円(税込み)

特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」

夜学舎の最新刊です。「自分のことば」を獲得するとはどういうことか、について考えます。
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目次
 はじめに 太田明日香
 インタビュー
  創作と言葉 趣味でも仕事でもなく小説を書いて雑誌を作ること
 るるるるんメンバー(かとうひろみ、UNI、3月クララ)
  アートとことば アートを通じて社会をほぐす 
谷澤紗和子さんのアートと「ことば」 谷澤紗和子
 特集「ことばへの扉を開いてくれたもの」
  権力とことば 自分の言葉を獲得する 舟之川聖子
  子どもとことば 「あらない」の神秘 鼈宮谷千尋
  文化とことば 幼い密輸 むらたえりか
  ことばのDIY B面の言語学習 石井晋平(イム書房)
  声、体ということば 俺は言葉に毒されていたか 服部健太郎(ほんの入り口)
 シリーズ 地方で本を作るとは?
  持続可能な個人出版のあり方を模索して (大阪府・犬と街灯店主 谷脇栗太)
 編集後記・次号予告


智恵子紙絵作品へのオマージュともなっている切り絵を継続的に制作されている現代アート作家・谷澤紗和子氏へのインタビューが7ページにわたって掲載されています。
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単純に「智恵子の紙絵っていいな」からのインスパイアではなく、ジェンダー論にからめての制作を続けられている谷澤氏のひと言ひと言、重みがあります。

また、谷澤氏は文字を切り絵にするという手法も採られているため、「言葉」と「アート」との往復、相互作用といった部分にも話が及びます。というか、そのあたりがメインなのでしょう。おそらくインタビュアーは同誌を編集・発行なさっている太田明日香氏と思われますが、単なる情報伝達の手段や、物書きが生きるたつきとして扱う道具にとどまらない、「言葉」の可能性といった部分を考えられてのもののようです。他の記事でもそういう側面が見て取れました。

光太郎も造型作家でありながら「言葉」の問題については、人一倍敏感でした。「言葉」を論じた評論やエッセイも数多く書き残し、それらはいちいち頷けるものです。詩にしても、鋭敏すぎる感性を詩として発露せざるを得ないという感じで書かれ続けたのでしょう。元々の詩作の出発点が、「彫刻の範囲を逸した表現上の欲望」によって、彫刻が「多分に文学的になり、何かを物語」ることを避けるため、もしくは「彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため」だったわけで(「 」内は評論『自分と詩との関係』昭和15年=1940)。

似たようなことは繰り返し述べました。

青年期になるに及んでやみ難い抒情感の強い衝動に駆られて、自分の作る彫刻が皆文学的になる傾向があつた。ひどく浪曼派風の作ばかりで一時はむしろ其を自分で喜んでゐたが、後彫刻の真義に気づいて来ると、今度は逆に我ながら自分の文学過剰の彫刻に嫌悪を感じ、どうかして其から逃れようと思ひ悩んだ。それで自分の文学的要求の方は直接に言葉によつて表現し、彫刻の方面では造形的純粋性を保つやうに為ようと努めた。いはば歌は彫刻を護る一種の安全弁の役目を果した。(「詩の勉強」昭和14年=1939)

自分の中には彫刻的分子と同時に文学的分子も相当にあつて、これが内面をこんぐらからせるので、彫刻的分子の純粋性をまもる必要から、すでに学生時代から、文学的分子のはけ口を文学方面にみつけて、文学で彫刻を毒さないようにつとめてきた。『明星』時代に短歌を書いたり、その後詩を書きつづけてきたのもそういういわれがあつたのである。(「自伝」昭和30年=1955)

しかし、特に晩年になって「書」への傾倒を深めた光太郎、自らは意識していなかったのかも知れませんが、詩によって言葉のあやなす美と、彫刻によって純粋造型とを究めようとしてきた道程を、「書」によって融合させようとしていたとも考えられます。

書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合つて、不可分のやうにも見え、又全然相関関係がないやうにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。(「書の深淵」昭和28年=1953)

そう考えると、谷澤氏の一連の作品にも、そういう要素があるのかもしれません。

何はともあれ、『B面の歌を聞け』4号、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】d8ac5c36

今年は母の廿三回忌の由、花巻でも法要を営みたいので戒名をおしらせ願ひたし。忘れました。

昭和22年(1947)9月8日
高村豊周宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の母・わかは大正14年(1925)、大腸カタルのため亡くなりました。行年68歳でした。

髙村家では、これを機に代々の墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。

いわき市立草野心平記念文学館名誉館長の粟津則雄氏が亡くなりました。

『いわき民報』さん。

粟津則雄さん死去 ランボー研究の第一人者 草野心平記念文学館の初代館長も

000 フランスの詩人ランボーの研究などで知られる文芸評論家・仏文学者で、市立草野心平記念文学館の初代館長を務め、その後も名誉館長として事業運営の相談を受けるなど、小川出身の詩人草野心平を通じ、いわき市の文化発展に多大な功績を残してきた、粟津則雄(あわづ・のりお)さんが、心筋梗塞のため東京都練馬区の施設で19日に死去した。
 96歳。葬儀は近親者などで行い、喪主は弟庸雄(つねお)さんが務めた。粟津さんの著作集を刊行している、思潮社(本社・東京都)が後日、しのぶ会を催す予定。
 1927(昭和2)年8月15日、現在の愛知県西尾市生まれ。東京大文学部フランス文学科を卒業後、学習院大で講師を務める傍ら、57年6月の総合芸術誌「ユリイカ」に評論「ボードレールの近代性」を寄稿して注目を集めた。
 1960年刊行のフランス文学全集第12巻(東西五月社版)では、ランボーの「地獄の一季節」そのほかを初めて訳した。ランボーの翻訳と研究の第一人者として名をはせ、長篇評論の第1巻「少年ランボオ」(思潮社)、「ランボオ全詩」(同)など多くの著書を残した。
 また1970年に第8回藤村記念歴程賞、82年に「正岡子規」(朝日新聞社)で第14回亀井勝一郎賞を受賞。1993(平成5)年には紫綬褒章を受章し、2010年、83歳で刊行した「粟津則雄著作集」(第1次全7巻)は第1回鮎川信夫賞特別賞を受賞した。
 市立草野心平記念文学館が開館した1998年7月から館長を務め、2019年4月に名誉館長に就任。同館によると、同館に最後に来館したのは、同年11月3日の記念講演会「草野心平と粟津則雄」だった。

草野心平記念文学館さんの初代館長を務められていた平成15年(2003)、同館で「高村光太郎・智恵子展」を開催して下さいました。
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その際の図録には館長としてのご挨拶の他、「光太郎と心平」と題する論考をご発表。

他にも光太郎がらみの玉稿が複数おありでした。

現在も版を重ねている集英社文庫『レモン哀歌 高村光太郎詩集』(平成3年=1991)巻末の「解説――剛直な明治人」。
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他に、雑誌の光太郎特集号等で。

『国文學 解釈と教材の研究』第18巻第14号(學燈社 昭和48年=1973)で「特集 詩的近代の成立 萩原朔太郎と高村光太郎」を組んだ際に、「近代芸術家意識-高村光太郎と萩原朔太郎」をご寄稿。

『みづゑ』第856号(美術出版社 昭和51年=1976)の「没後20年記念 高村光太郎 その芸術+智恵子の紙絵」という特集では「高村光太郎の矛盾と超克:ある近代日本精神の道程」。
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『歴程』第282号(歴程社 昭和57年=1982)の「特集 高村光太郎生誕百年」には「「道程」寸感」。

いずれも光太郎へのリスペクト溢れるものでした。

それから間接的な関わりですが、詩人の宮静枝が昭和27年(1952)に花巻郊外旧太田村の光太郎を訪問した際の体験をまとめた『詩集 山荘 光太郎残影』(平成4年=1992)が、その年の第33回晩翠賞に選ばれた際、選考委員のお一人が粟津氏でした。
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翌年刊行された『詩集 山荘 117人の感想録』には、宗左近、吉野弘と選考委員三人の連名で出された「選評」が掲載されています。

他にも、氏のご著作の中で光太郎に言及されているものもいくつか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「光太郎詩集」は鎌倉書房から五冊届きました。一冊署名して別封小包でお送りしました。誤植は十三個所ありました。印税を果してよこすかどうかと思つてゐます。知らない本屋はあてになりません。

昭和22年(1947)7月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

鎌倉書房版『高村光太郎詩集』は、戦前戦後通じて初の光太郎選詩集として、草野心平の編集で刊行されました。

豪放な一面のあった心平は、細かいことにはあまりこだわらない部分があり、心平編集の光太郎関連には誤植が目立ちました。光太郎没後の昭和37年(1962)に刊行された光太郎詩集『猛獣篇』は、心平が鉄筆を執り、ガリ版で刷られたものですが、こちらでも誤字が散見されます。心平のことなので「印税を果してよこすかどうか」と光太郎も半ばあきらめていました。

亡くなった粟津氏、心平とは深いご交流がおありで、そのため心平記念文学館初代館長に就任されたわけですが、令和元年(2019)から翌年にかけ、同館ではお二人の交流に的を絞った「草野心平と粟津則雄」という企画展まで開催されました。
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当方、粟津氏から直接伺った話で最も印象に残っているのは、こちらの図録でも触れられていますが、心平からの電話のエピソード。ある日の真夜中に突然心平から粟津氏に電話があり、寝ぼけまなこの粟津氏が電話口に出ると「粟津君、ゴーギャンの赤って、あれ、哀しみの色だね」。氏が「そうですね」と答えると、心平は満足そうに笑って、それでガチャン(笑)。こんな心平とのつきあい、さぞ大変だったのではないかと推察いたしました。

しかし、それを補って余りある「優しさ」的なものを心平から受けられました。氏が飼われていたコリーの「権太」が死ぬと、心平はすぐさま詩「権太」を書いたというエピソードも印象的です。

一昨日の第68回連翹忌席上にて、参会の方々が「お土産です」的に書籍等を下さいました。

まず一般社団法人日本詩人クラブの宮尾壽里子氏から同会刊行の『評論・エッセイ 詩界論叢2023』通巻第1集創刊号。500ページ近い厚冊です。
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公式サイトには目次の詳細が出ておらず、こちらの検索網に引っかかりませんでしたが、宮尾氏が「愛と芸術に生きようとした女性~智恵子の場合~『智恵子抄』「智恵子の半生」より」と題する論考を寄せていらっしゃいます。

目次画像は以下の通り。
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ご入用の方、上記リンクをご参照下さい。Amazonさん等でも取り扱いがあります。

続いて当方も加入している高村光太郎研究会ご所属の佐藤浩美氏から文芸同人誌『四人』第107号。
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佐藤氏、光太郎の親友だった作家・水野葉舟の小品「かたくり」をご紹介なさっています。
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奥付画像を載せておきます。
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高村光太郎研究会からは『高村光太郎研究(45)』。
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昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」での発表を元に、当会顧問であらせられた北川太一先生のご子息・北川光彦氏が「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」を、武蔵野美術大学さんの教授・前田恭二氏で「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」。それから当方も「智恵子、新たな横顔」を寄稿しました。

さらに当方は、この1年間で新たに見つけた『高村光太郎全集』未収の光太郎文筆作品の集成「光太郎遺珠⑱」、昨年1年間の光太郎智恵子、光雲に関わる「高村光太郎没後年譜」も。そして主宰の野末明氏による「高村光太郎文献目録」、「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

こちらも奥付画像を載せておきます。
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もう1冊、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存運動にからんで、文治堂書店主・勝畑耕一氏が『中野・中西家と光太郎』という書籍を上梓なさいました。当方、「監修」ということになっております。
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こちらについてはまた改めて詳細をご紹介いたします。

以上、いただきもの等。

001逆に当会から参会の皆様にお配りしましたのが、『光太郎資料61』。北川太一先生が発行されていたものの名跡をお譲りいただき、当会にて年2回発行しております。印刷のみ印刷屋さんに頼み、丁合、綴じ込みは手作業の手作りの冊子です。

目次
 「光太郎遺珠」から 第二十五回 書(二)
 光太郎回想・訪問記  高村光太郎と出会った頃 田口弘
 光雲談話筆記集成 牙彫の趣味/「さび」と渋みと
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  犬吠埼(千葉県)その一
 音楽・レコードに見る光太郎
  箏曲「千鳥と遊ぶ智恵子」/「地上のモナリザ」
 高村光太郎初出索引
 編集後記

ご入用の方はコメント欄等から当方まで。

書籍類等はこんなところです。

他に、やはり第68回連翹忌ご参会の方々のうち、わざわざ「お土産です」と食品類をお持ち下さったり、「4月2日はお世話になります」と直前に宅配便でお送り下さったりという方が多数いらっしゃいました。多謝。

和洋のスイーツやら中華まんやら漬物やら珈琲/紅茶やら(笑)。2枚目画像は宅配便で宮城県の「女川光太郎の会」さんから届いた笹蒲鉾です。
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妻曰く「実にありがたいんだけど、あんた、いったい何者だと思われてるの?」(笑)。

何者だと思われているんでしょうかね?(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」は今でもかなり読みたがつてゐる人があるやうで、時々人から質問される事がありますから、今日出版するのも無意味ではないやうに思はれます。


昭和22年(1947)4月11日 鎌田敬止宛書簡より

a詩集『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまいました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田が『智恵子抄』復刊を企図し、龍星閣の澤田伊四郎から許諾を得たのでお願いします、的な申し入れを光太郎に。その返答の一部です。

そして白玉書房版『智恵子抄』が、この年11月に刊行されました。ところが刊行されてから、澤田の方では「許諾した覚えはない」。この時期、この手のトラブルがいろいろありました。

光太郎智恵子、光雲に掠(かす)った小説を2冊、ご紹介します。

火口に立つ。

2024年2月3日 松本薫 著 小説「生田長江」を出版する会 刊 定価1,800円+税

たぎる時代を果敢に生きた生田長江と一人の女性の物語。

主人公・律の目を通して描かれる、日野町出身の文学者・生田長江と彼を取り巻く人々。『青鞜』の創刊、大正デモクラシー、関東大震災――沸騰し、揺れる時代の中、誰もが火口に立っていた。

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目次
 一章 坂の上の家    明治四十四年(一九一一)春――
 二章 『青鞜』の女たち 明治四十四年(一九一一)春――大正元年(一九一二)冬
 三章 デモクラシーの旗 大正二年(一九一三)春――大正四年(一九一五)春
 四章 自立という名の嵐 大正四年(一九一五)夏――大正六年(一九一七)夏
 五章 デモクラシーの波 大正七年(一九一八)夏――大正八年(一九一九)夏
 六章 資本と労働    大正八年(一九一九)夏――大正九年(一九一〇)夏
 七章 揺らぐ大地    大正十二年(一九二三)夏――大正十四年(一九二五)冬
 八章 ここを超えて   昭和三年(一九二八)春――昭和十二年(一九三七)夏
 終章          昭和三十三年(一九五八)秋

評論家・翻訳家の生田長江の家に女中(コンプライアンス的に問題のある表現ですが当時の用語をそのまま使わせていただきます)として勤めていた南原律という架空の人物を主人公にした小説です。

高等教育も受けていなかった律が、長江やその周辺の人物らの感化・薫陶を受けて社会運動に強い関心を持ち、大それたことはできないものの、自分なりに社会変革に取り組んでいくというストーリー。

生田長江は光太郎より一つ年上で明治15年(1882)、鳥取県の生まれ。智恵子がその創刊号の表紙を描いた『青鞜』の名付け親です。青鞜社主催の講演会で共に壇上に立ったり、与謝野家での歌会に同席したりと、光太郎とも面識がありました。小説ではそのあたりのシーンが描かれておらず、残念ながら光太郎の名は全編通して出て来ませんでした。智恵子は表紙絵の関係で3回ほど触れられましたが登場はしませんでした。

ただ、『青鞜』主宰の平塚らいてうをはじめ、光太郎智恵子と交流のあった人々がたくさん登場します。与謝野夫妻、佐藤春夫、生田春月、馬場孤蝶、森鷗外、尾竹紅吉、有島武郎、中村武羅夫、足助素一、そして映画「風よ あらしよ」などで再び脚光を浴びている大杉栄と伊藤野枝などなど。

目次を見ると、長江がどの時期にどういった活動に取り組んでいたかが概観できますね。長江は大杉らほどの過激な主張はしませんでしたが、社会変革に対する意識は高く持ち続けました。また、ハンセン病に罹患していたこともあり、その方面での差別等との闘いも、本書の大きな流れを形作っています。

作者の松本薫氏は鳥取ご出身で、地域密着の小説等を書かれている方。版元は「小説「生田長江」を出版する会」さん。長江の地元・鳥取県日野郡日野町で長江の顕彰に当たられている団体のようです。素晴らしい取り組みだと思いました。

もう一冊。

時ひらく

2024年2月10日 辻村深月/伊坂幸太郎/阿川佐和子/恩田陸/柚木麻子/東野圭吾 著
文藝春秋(文春文庫) 定価700円+税

創業350年の老舗デパート『三越』をめぐる物語

楽しいときも、悲しいときも いつでも、むかえてくれる場所
物語の名手たちが奏でる6つのデパートアンソロジー 文庫オリジナル!

制服の採寸に訪れて感じたある予感。ライオンに跨る必勝祈願の言い伝えを試して見えたもの。老いた継母の買い物に付き合ってはぐれてしまった娘。命を宿した物たちが始めた会話。友達とプレゼントを買いに訪れて繋がった時間。亡くなった男が最後に買った土産。歴史あるデパートを舞台に、人気作家6人が紡ぐ心揺さぶる物語。
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目次
 「思い出エレベーター」 辻村深月
   階下を見下ろしている泣きそうな顔の子どもがもし、いたら。
 「Have a nice day!」 伊坂幸太郎
   三越のライオン、知ってる? あれに跨ると夢が叶うんだって。
 「雨あがりに」 阿川佐和子
   三越でしか買い物をしないなんて、どこかのお嬢様のすることだ。
 「アニバーサリー」 恩田陸
   ざわざわするというか、ウキウキするというか。
 「七階から愛をこめて」 柚木麻子
   私の本当の願いはね。これから先の未来を見ることなの。
 「重命(かさな)る」 東野圭吾
   草薙は思わず声をあげて笑った。「いいねえ、湯川教授の人生相談か」

昨年から今年にかけての、雑誌『オール読物』さんでのリレー連載でした。

キーワードはずばり「三越」。前身の越後屋呉服店創業から数えて350年ということでの記念企画の一環です。そこで表紙も三越さんの包装紙がモチーフ。素晴らしいと思いました。「この手があったか」とも。書店で平積みになっていると、ひときわ目立ちます。
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ちなみにこの包装紙、デザインは新制作派の画家で光太郎とも交流のあった猪熊弦一郎。ちゃんと「華ひらく」というタイトルがついた作品です。モチーフは大正元年(1912)、光太郎智恵子が訪れ、愛を確かめ合った千葉銚子犬吠埼海岸付近の石だそうです。
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そして「mitsukoshi」のロゴは故・やなせたかし氏の筆跡。氏はメジャーになる以前、三越さんに勤務されていました。

さて、『時ひらく』。心温まる小説あり、ハラハラドキドキのスペクタクルあり、ファンタジーあり、推理小説(東野圭吾氏の「ガリレオ」シリーズ最新作)あり、ウクライナ問題への言及ありの6篇です。

6篇すべてに三越さんが登場。4篇は日本橋本店さん、1篇は仙台店さんが物語の主要な舞台です。1篇だけは日本橋本店さんのデパ地下がちらっと舞台に。日本橋本店さんでは、もはや「アイコン」ともいうべき店内のさまざまな名物が描かれます。光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる佐藤玄玄(朝山)作の巨大彫刻「天女( まごころ)像」、その足下にいくつも見られる大理石中のアンモナイト化石、同じく中央ホールのパイプオルガン、さらに三越劇場、そして三越さんのシンボル・ライオン像……。なんと1篇はそれらのアイコンたちが主人公(笑)。それぞれが見つめてきた歴史などが語られます。

日本橋本店さんのアイコンといえば、屋上・三囲神社さんに鎮座まします光雲作の「活動大黒天」も外せないような気がします。そこで、それも登場するかと期待しつつ頁を繰りましたが、残念ながら出て来ませんでした。まぁ、通常非公開の像なので、仕方がありませんか……。

以前も書きましたが、当方、学生時代、毎年お歳暮の時期に三越さんの配送で長期のアルバイトをしておりました。店舗の方ではなく江東区木場の再送品センターが主な勤務地でしたが。バブル前夜でかなりの日給でした。そこで三越さんには特別な思い入れがあり、ついつい熱く語ってしまいました(笑)。

さて、『火口に立つ。』/『時ひらく』、それぞれぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

スケツチは何かお送り出来るかと思ひます。色彩が印刷でよく出るかどうか疑はれますから、極く淡くか又は黒と白とだけで描くべきでせう。


昭和22年(1947)3月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

この年、更科によって北海道で発刊された雑誌『至上律』への執筆等依頼への返信の一節です。「スケツチ」は11月の第2輯にカラー印刷で掲載されました。奇跡的に現物が残っており、花巻郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。
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1年以上前の刊行ですが、つい最近入手しました。

世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか

2022年11月16日 鈴木宣弘著 講談社(講談社+α新書) 定価900円+税

いまそこに迫る世界食糧危機、そして最初に飢えるのは日本、国民の6割が餓死するという衝撃の予測……アメリカも中国も助けてくれない。国産農業を再興し、安全な国民生活を維持するための具体的施策とは?
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目次002
 まえがき
 序章 「クワトロ・ショック」が日本を襲う
  「飢餓」が現実になる日
  「大惨事が迫っている」国際機関の警告
  コロナで止まった「種・エサ・ヒナ」
  ウクライナ戦争で破壊された「シードバンク」
  世界で起こっている「食料・肥料争奪戦」
  「バイオ燃料」が引き起こした食糧危機
  一日三食「イモ」の時代がやってくる
  日本には「食料安全保障」が存在しない
  「市場戦争」と「自己責任」が食糧危機を招いた
  なぜ「食料増産」をしないのか
 第一章 世界を襲う「食の10大リスク」
  穀倉地帯を直撃した「ウクライナ戦争」
  国力低下の日本を直撃「中国の爆買い」
  人手不足を悪化させた「コロナショック」
  もはや当たり前になった「異常気象」
  「原油価格高騰」で農家がつぶれる
  世界の食を牛耳る「多国籍企業」
  食を軽視する「経産省・財務省」 
  「今だけ、カネだけ、自分だけ」の「新自由主義者」が農業を破壊する
  「農業生産の限界」が近付いている
 第二章 最初に飢えるのは日本
  日本の食料自給率はなぜ下がったのか
  コメ中心の食を壊滅させた「洋食推進運動」
  食料は武器であり、標的は日本
  コメ中心の食生活がもたらす「10のメリット」
  有事にはだれも助けてくれない
  「食料はお金で買える」時代は終わった
  「食料の収益性」を挙げても危機は回避できない
  「食料自給率を上げたい人人はバカ」の問題点
 第三章 日本人が知らない「危険な輸入食品」
  台湾で「アメリカ産豚肉の輸入反対デモ」が起きたワケ
  「成長ホルモン牛肉」の処分地にされる日本
  「輸入小麦は危険」の理由
  「日米レモン戦争」とポストハーベスト農業の真実
  ポテトチップスに使われる「遺伝子組み換えジャガイモ」
  輸入食品の危険性は報じられない
  世界を震撼させた「モンサントペーパー」
  「遺伝子組み換え表示」が実際に無理になったワケ
  表示の無効化に負けなかったアメリカの消費者
 第四章 食料危機は「人災」で起こる
  世界中で「土」が失われている
  化学肥料農業を脅かす「リン枯渇問題」と「窒素問題」
  農薬が効かない「耐性雑草」の恐ろしさ
  世界に広がる「デッドゾーン」
  多国籍企業が推進する「第二の緑の革命」
  「アメリカだけが利益を得られる仕組み」が食料危機をもたらす
  「牛乳余り問題」という人災
  「買いたくても買えない」人には人道的支援を
  あってはならない「酪農家の連鎖倒産」
 第五章 農業再興戦略
  「日本の農業は過保護」というウソ
  日本農業の「三つの虚構」
  農業の大規模化はムリ
  有機農業で中国にも遅れをとる
  「農業への補助金」実は大したコストではない
  「みどりの食料システム改革」
  「GAFAの農業参入」という悪夢
  「三方よし」こそ真の農業
  給食で有機作物を
  「ローカルフード法」は日本を変えるか
  日本のお金が「中抜き」される理由
  「ミュニシパリズム」とは何か
  「新しい食料システム」の取り組み
  「有機農業&自然農法」は普及できるか
 あとがき

著者の鈴木宣弘氏は東京大学大学院農学生命科学研究科教授。食糧問題に関する提言をされる中で、光太郎の言葉を引用されています。当方が最初に気づいたのは一昨年3月の地方紙『長周新聞』さんに載った「【緊急寄稿】日本は独立国たりえているか―ウクライナ危機が突きつける食料問題」という記事で、光太郎最晩年の詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)の一節、「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」が引用されていました。その後(その前からも)、鈴木氏、ことあるごとにこの一節を紹介されています。そして今回ご紹介する『世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか』でも。

それにしても目次を見ただけでもショッキングな言葉が並んでいますね。しかし、陰謀論者の強引な牽強付会とは一線を画し、きちんとしたエビデンスに基づいて理路整然と論が展開しています。

こういう問題についつい目を背けがちなのは、国民はバカでいてほしいと願う、壺の大好きな為政者たちの思う壺なのかも知れません。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

貴下に頂いた南瓜も成り、真壁さんにいただいた帯紫茄子も種子から育てて大成績をあげ、既に毎朝新鮮なのを賞味して居ります。


昭和21年(1946)9月5日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村でまがりなりにも三畝の畑を開墾し、野菜類はほぼ自給していた光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。
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3月に刊行された書籍ですが、光太郎に関する記述が含まれていることを最近知り、慌てて購入しました。

反戦川柳人 鶴彬の獄死

2023年3月22日 佐高真著 集英社刊(集英社新書) 定価980円+税

 サラリーマン川柳のように、現代では風刺や批判をユーモラスに表現するものとして親しまれている川柳。しかし、「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」といった川柳を通じて、昭和初期、軍国主義に走る政府を真正面から批判し反戦を訴え続けた作家がいた。
 鶴彬、享年二十九。官憲に捕らえられ、獄中でなお抵抗を続けて憤死した”川柳界の小林多喜二”と称される鶴彬とはどのような人物だったのか。戦後約八十年、再び戦争の空気が漂い始めた今の日本に、反骨の評論家・佐高信が、鶴の生きた時代とその短い生涯、精神を突き付ける!
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目次
 はじめに――同じ年の明暗
 一 鶴彬を後世に遺そうとした三人004
  1 一叩人こと命尾小太郎の執念
  2 澤地久枝の彫心鏤骨
  3 伝達者、坂本幸四郎
 二 師父、井上剣花坊
  井上剣花坊、政治から文学へ
  「社会党ラッパ節」の添田唖蟬坊
  『日本』新聞で川柳に出会う
  伝統川柳と革新川柳
  井上信子と鶴彬
  田辺聖子は鶴彬をどう見たか
 三 兄事した田中五呂八との別れ
  鶴の兄弟子・田中五呂八
  現実主義と神秘主義に分裂する柳壇
  田中五呂八の死と鶴の追悼文
  木村半文銭への罵倒
 四 鶴彬の二十九年
  大逆事件と鶴の生きた時代
  剣花坊の娘・鶴子
  軍隊内での鶴彬
  鶴の最期
 五 石川啄木と鶴彬
  石川啄木をどう見ていたか
  「性急な思想」の波
  徳富蘆花の「謀反論」
 補章 短歌と俳句の戦争責任
  藤沢周平の斎藤茂吉批判
  高浜虚子の戦争責任
 おわりに
 参考文献


明治42年(1909)生まれの川柳作家・鶴彬(つるあきら)の評伝兼研究史です。

鶴は本書の帯にも印刷されている「万歳とあげて行つた手を大陸においてきた」などの強烈な反戦川柳を数多く詠み、そのため特高によって逮捕、最期は29歳の若さで獄死しました。

004平成11年(1999)、皓星社さんから刊行された井之川巨氏著『君は反戦詩を知ってるか 反戦詩・反戦川柳ノート』という書籍に「鶴彬-反戦川柳のはげしさとやさしさ」という20ページ程の項があり(ちなみに同書には「高村光太郎 戦争詩と自己批判」という項もあります)、鶴のアウトラインは存じていましたが、今回、『反戦川柳人 鶴彬の獄死』を読んでその生涯等をさらに詳しく知り、唸らされました。

川柳というと、ほのぼの、ユーモアといったイメージもありますが、鶴の作品はそういったものとは無縁です。まぁ、ユーモアと言えばブラックユーモアですが。

 屍のいないニュース映画で勇ましい
 出征の門標があってがらんどうの小店
 タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう
 手と足をもいだ丸太にしてかへし
 華やかに名を売り故郷へ骨が着き


太平洋戦争開戦前でしたが、既に日中戦争が始まっていた昭和12年(1937)、こういった作品が元で鶴は検挙され、翌年に獄死します。直接の死因は赤痢でしたが、それも赤痢菌を注射されての人体実験だったのではないかという説もあるそうです。

本書では更に、鶴の師匠や兄弟子らにも言及され、当時の川柳界の史的位置づけが為されていますし、戦後になってから鶴を顕彰し、その作品の埋没を防いだ人々(ノンフィクション作家・澤地久枝氏もその一翼を担っていたとは存じませんでした)の努力にも筆が及んでいます。

そして川柳同様、定形文学たる歌壇と俳壇の戦時中の動向。その中で翼賛歌を作り続けた斎藤茂吉に関する項で、光太郎との比較といった話になっています。歴史作家の藤沢周平が平成元年(1989)に行った講演からの引用がメインですが。

この講演の中で藤沢は同郷の茂吉が戦後になっても皇国史観から抜け出せず、戦時中の馬鹿げた翼賛歌への反省もしなかったことを手厳しく批判しています。それに対し、光太郎はきちんと自らを検証し、花巻郊外旧太田村の山小屋で自らを罰した、その違いは何なんだ……というわけです。

ちなみに藤沢の講演、平成23年(2011)に大月書店さんから刊行された澤田勝雄氏編『藤沢周平とっておき十話』に収録されていますし、佐高氏、平成26年(2014)に株式会社金曜日さんから刊行された辺見庸氏との対談集『絶望という抵抗』でも藤沢が茂吉と光太郎を論じたことに触れられています。
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さて、『反戦川柳人 鶴彬の獄死』をはじめ、本日ご紹介した書籍いろいろ、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

この辺は旧暦なのでまだ正月にはなりませんが、小生は二日吉例の書初をいたしました。天下和順日月清明と無料寿経の中の文句を書きました。

昭和21年(1946)1月18日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

終戦から4ヶ月あまり、藤沢周平が実地に見てそのみすぼらしさにショックを受けたという山小屋で「天下和順」と書き初めを書いた光太郎、その心境はいかばかりだったのでしょうか。

文藝春秋さん発行の月刊文芸誌「文學界」。同社の公式サイトにはまだ情報が出ていませんが、最新の2023年11月号、評論家・近現代史研究者の辻田真佐憲氏による連載「煽情の考古学」が「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」となっています。
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同連載、日本各地、さらには海外まで含め、戦争遺跡などを実地に歩かれてのレポート。今号で第22回だそうです。

「高村光太郎の戦争詩碑」は、花巻市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社さんにある「一億の号泣」詩碑です。

以前にも書きましたが、詩「一億の号泣」は、終戦二日後の昭和20年(1945)8月17日、『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されたもので、8月15日の玉音放送を鳥谷崎神社社務所で聴いた時の感懐を謳ったものです。
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  一億の号泣

 綸言一たび出でて一億号泣す
 昭和二十年八月十五日正午
 われ岩手花巻町の鎮守
 鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
 天上はるかに流れ来(きた)る
 玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
 五体わななきてとどめあへず
 玉音ひびき終りて又音なし
 この時無声の号泣国土に起り
 普天の一億ひとしく
 宸極に向つてひれ伏せるを知る
 微臣恐惶ほとんど失語す
 ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
 荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
 鋼鉄の武器を失へる時
 精神の武器おのずから強からんとす
 真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
 必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん

戦時中の翼賛詩の流れを汲み、文語体。敗けた悔しさが滲み出ています。

この詩を刻んだ石碑、光太郎没後の昭和35年(1960)、当時の花巻観光協会が光太郎自筆揮毫を石に刻み、鳥谷崎神社に建立しました。ところがその建立を巡っては、すったもんだがいろいろありました。光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・豊周は、一度はこの碑の建立を許可したのですが、当会の祖・草野心平が「この詩はマズい」。すると豊周も「なるほど、その通りだ」。ところが観光協会では既に碑を作ってしまった後でした。結局、碑は正式に除幕されることなく、昭和39年(1964)には一旦撤去され、神社の床下に格納されました。ゴタゴタがあった中で、碑文を削り、碑ではなくすという案もあったようですが、そうはなりませんでした。

ところがどうしたわけか、昭和57年(1982)頃に床下から出され、再び建立されました。豊周が没したのは昭和47年(1972)、心平は同63年(1988)。無関係ではないような気もします。

「煽情の考古学」では、この碑を巡る経緯、さらには福島二本松の智恵子記念館レポートも。そうした中で、「光太郎の屈折」として、翼賛詩を巡る問題を提起しています。

ちなみに大沢温泉山水閣さんには、宮沢賢治や光太郎などに関わる展示コーナーがあり、この碑の拓本も展示されています。
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ところで、豊周はこの詩を巡り、興味深い回想を残しています。長野県に疎開していた終戦前日のことです。

 八月十四日のこと、座敷で寝ころんでいると、朝日新聞の長野支局から記者が訪ねて来た。私に何の用があって来たのかさっぱりわからないので「何の用か」と聞くと、「実はまだ絶対秘密なのだが戦争が終る」と言うのだ。
 「明日の昼、天皇陛下がラジオの放送でそのことを国民にお告げになることになった。」
 私は本当にびっくりして飛び起きた。
 「それで先生に明後日の新聞に詩を書いてもらいたいのです。」
 おかしいなと私は思ったが先方は、
 「一億号泣という詩を作ってもらいたい、明後日の新聞に出すから、すぐ作って渡してもらえないでしょうか。」
 兄と私を間違えたらしい。
 「俺は高村光太郎じゃないよ。光太郎の弟だよ。」
 「えっ、光太郎先生じゃないんですか。これは困ったな。光太郎先生は何処に居るんです。すぐ行って来ます。」
 「いや、ここにはいないんだ。すぐ行くと言ってもちょっくら行かれはしないよ。」
 「何処なんです。」
 「岩手県の花巻の在にいるよ。」
 記者は慌てて帰って行ったが、さすがは新聞社で、その日のうちに兄に通じて、どうやら用は間に合ったらしい。兄としても考える時間もないし、非常に迷惑千万なことだったろうと思う。しかし戦争の詩といえば高村光太郎と決っていたから、最後のお務めと思って、曲がりなりにも詩を作って間に合わせたものだろう。だが、光太郎の詩としては決していいものでなく、私は好きでない。のみならずその詩が後で攻撃の材料になり、兄も自分で不覚を感じていた。

(『自画像』昭和43年=1968 中央公論美術出版)

おおむねこの通りだったのでしょう。新聞社の方で既に「一億号泣」というタイトルまで指定していたとは驚きでしたが。

光太郎自身は、のちに昭和23年(1948)、戦後の一時期住まわせてもらった佐藤隆房に宛てた書簡にこう記しています。

あの時は一途の心から一億の号泣と書きましたが、其後の国民の行動を見てゐますと、あの時涙をしんに流したものが果して一億の幾パーセントあつたのか、甚だこれは小生の思ひ過ごしであつたやうに感ぜられます。

鳥谷崎神社に行かれる方、あくまで「負の遺産」として、この碑を見ていただきたいと存じます。

というわけで、『文學界』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

十二月八日以来たてつづけにいろいろの当面の用事に従つて居りますにつけ、ますますわれわれが美の内面世界を深く探り進まねばならぬ事を痛感します、われわれ東方の美をどういふ風に世界像として造型すべきか、猛然とした気持になります、


昭和16年(1941)12月22日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎59歳

ひるがえって開戦直後には、このような感懐を抱いていました。

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