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昨日もちらっとご紹介しましたが、新刊です。

リーチ先生

2016/10/30 原田マハ著 集英社 定価1,800円+税

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版元サイトより
西洋と東洋の芸術を融合し、新しい陶芸の世界を切り拓いたイギリス人陶芸家バーナード・リーチ。日本を愛し日本に愛されたその半生を二代にわたり弟子となった名も無き父子の視点から描く感動長編。      

帯文より
明治42年、22歳で芸術の道を志して来日。柳宗悦、濱田庄司ら若き日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を大きく突き動かしていく。
明治、大正、昭和にわたり東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度の“アートフィクション”

広告より
東洋と西洋の架け橋となった生涯を描く感度のアート小説 !!
明治42年、高村光太郎の勧めで日本を訪れた22歳のリーチ。柳宗悦、濱田庄司ら若き芸術家と出会い、陶芸家の才能を開花させていく。その生涯を陶工父子の視点で描く渾身作。


バーナード・リーチは明治20年(1887)生まれの英国人陶芸家。父の仕事の関係で香港に生まれ、幼少期には京都で暮らしました。

一度は銀行員となるものの、少年期に志した芸術制作への思い棄てがたく、明治41年(1908)、退職してロンドン美術学校に入学、エッチングを学びます。同校で留学中の光太郎と知り合い、さらに小泉八雲の著作などから日本への憧れが昂じ、翌年、来日。光太郎は父・光雲への紹介状を書いてやっています。

はじめ、エッチングを教えることで生計を立てていましたが、陶芸に出会い、これこそ自分の進む道と思い定めます。遅れて帰国した光太郎や白樺派の面々、そして陶芸家の富本憲吉、濱田庄司らと交流、1年半の中国滞在期間を除き、大正9年(1920)まで日本に住みました。大正元年(1912)のヒユウザン会展にも参加しています。

滞日中に結婚した妻(リーチの従姉)への配慮もあり、帰国。その際に濱田庄司が同行、イギリス西部のセント・アイヴスに工房を構え、イギリス伝統の陶芸に日本で身に着けた技術を融合させた新しい陶芸を創出しました。

その後、昭和54年(1979)に亡くなるまで、何度も日本を訪れ、長期の滞在を繰り返し、日本全国の窯元を廻ったり、光太郎らと旧交を温めたりもしています。

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画像は大正4年(1915)のもの。前列左から画家・長原孝太郎、有島生馬、リーチ夫人、梅原龍三郎、美術史家・田中喜作、後列左から美術評論家・坂井犀水、石井柏亭、美術史家・森田亀之助、リーチ、光太郎、柳宗悦、画家・山下新太郎、同じく斎藤豊作、作家の三浦直介です。


さて、『リーチ先生』。平成25年(2013)秋から、『信濃毎日新聞』さんで連載がスタート。少し経ってからそれを知り、信毎さんでの連載が終わったら単行本化されるんだろうな、と思っていましたが、その後、遅れて全国の地方紙6紙でも連載され、最後は昨年秋まで連載されていました。その分、単行本化を今か今かと待っていたものです。

その期待に違わないものでした。

物語は、大正9年(1920)までの滞日中、そして帰国後の3年間、リーチの助手を務めたという設定の、架空の陶芸家・沖亀乃介(上記写真にも写っている森田亀之助がモデルになっている部分もありますが、あくまで原田さんの創作した人物)を主人公とし、彼の存在以外はおおむね史実に添った内容となっています。

明治末、横浜で食堂の給仕をしていた亀乃介少年は、留学のため横浜港を発つ直前の光太郎と食堂で知り合い、光太郎の紹介で駒込林町の光雲の家で住み込みの書生となります。外国人客との対応で自然と英会話を身につけ、彼らからもらう外国雑誌の挿絵などから「芸術」への憧れをいだいていた、という設定です。

そこにやはり光太郎の紹介でリーチが来日、亀乃介は英語力を買われて助手となり、ともに陶芸の道に進んで行くことになります。

ネタバレになりますので、これ以上は購入してお読み下さい(笑)。ここまででも十分ネタバレでしたが(笑)。さらにネタバレ覚悟の方はこちらをご覧下さい。作者・原田マハさんのインタビューです。

とにかく「前向き」な小説です。登場人物全ての、さまざまな困難に直面しながらも決してくじけず、美の発見や創出に魂を傾けるさまが、生き生きと描かれています。光太郎、光雲、光太郎実弟の豊周も登場します。

特にリーチや亀乃介などの、東洋と西洋の架け橋たらんとする生き様は、感涙無しには読めません。そのあたりには、作家になる前、森美術館さんやニューヨーク近代美術館さんに勤務していたという、作者・原田さんの経験も反映されているように推測しました。

また、もともと新聞連載小説だというところで、こうした「前向き」な部分が前面に押し出されているのかな、とも思いました。ある意味、NHKさんの朝ドラにも通じるような。朝から陰々滅々の物語では参ってしまいます(笑)。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

子供らがかきし自由画の我家はいたく曲りて美しきかも
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、近所の千駄木小学校の児童と思わ000れる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

子どもの描く絵は、多視点の絵と言われます。一枚の絵の中に、正面から見た構図と、上からの俯瞰、横からの視点などが平気で混在するというのです。それを意識的に行ったのがピカソやブラックなどのキュビズムですね。

子どもも知恵がついてきたり、大人から教えられたりすると、一点透視や二点透視などの固定された視点からの絵を描くようになります。それはそれでリアルに見えるのですが、子ども本来の自由闊達さは失われます。

そうなっていない、ある意味プリミティブな子どもの絵を見た光太郎、その感動を歌にしています。

プリミティブといえば、上記のバーナード・リーチの作陶なども、良い意味でプリミティブな面を残しています。

オリジナルのステーショナリーグッズなどを製造・販売している「花籠や」さんという企業?があります。

そちらの商品の画像をインスタグラムで見つけ、「おお、これは!」と思い、サイトにたどり着き、商品をいろいろと取り寄せました。

すべて「文豪」というシリーズの商品です。サイトには「おやまあ、教科書で、便覧でみたことあるような顔、顔、顔…!お気に入りはだれですか?」という説明がありますが、個々の名は出ていません。ナントカ権の問題でしょうか。したがって、このブログでも伏せ字を使わせていただきます。


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縦11㌢、横9㌢の台紙。木版画風の絵で、左上が、太○治、2段目、左から、中○○也、○目○石、武者○路○篤、3~4段目に2段抜きで宮○賢○、3段目中央が与謝○○子、右には○川啄○、4段目中央に芥○龍之○、そして右下隅は我らが○村光○郎。


続いて「文豪バッヂ」。

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「新文豪しゐる」にあった宮○賢○の代わりに、正○○規が入っています(右下隅)。当方、苦労して伏せ字「○」を使いましたが、委託販売店?の中には全員の実名を晒している(笑)ところもあったりします(笑)。

こちらはバラ売りで、当方、我らが○村光○郎のみ購入しました。

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さらに「文豪ポストカード」。

これも我らが○村光○郎のみ購入しましたが、「新文豪しゐる」、「文豪バッヂ」の10名全員のバージョンがあります。

我らが○村光○郎バージョン、顔以外に光○郎の木彫、白○鳥もあしらわれています。5枚購入し、1枚は保存用。1枚は既に荒野愛子さんへの連絡に使いました。残り3枚もそのうちに、お仲間のどなたかの所に行くでしょう。届いた方、棄てずにとっておいて下さい(笑)。

「文豪」シリーズ、他にも一筆箋や便箋、ラッピング用の紙などのラインナップがありますが、そちらはどうも光○郎がカットされているようなので、購入しませんでした。

ところが、改めて今日また花籠やさんのサイトを見ると、光○郎もいるマスキングテープもあることに気付きました。これも買わねばなりません(笑)。

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「花籠や」さん、「文豪」シリーズ以外にも、いろいろとおしゃれで面白い商品を取りそろえていらっしゃいます。ネットでも購入可能ですし、店頭販売の取扱店も増加中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

疲れきつて二階の汝の部屋にゆけば童子のごとくものの食べたし

大正13年(1924) 光太郎42歳

「汝」は、おそらく昨日130回目の誕生日を迎えた智恵子でしょう。

今日は智恵子の故郷・二本松にぶらりと行って参ります。

先週の土曜日、横浜神奈川近代文学館に行って参りました。

閲覧室での調べ物が主目的でしたが、開催中の特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、招待券を戴いていたので拝見してきました。 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」

「吾輩は猫である」「坊っちやん」「三四郎」「それから」「心」そして「明暗」…人間の心の孤独とあやうさを描いた夏目漱石の作品は、私たちの生き方へ多くの問題を投げかけ、その一方で、夢や謎、笑いに彩られたイメージの宝庫としても読者を魅了して来ました。
作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、漱石は「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」と述べています。そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、多くの人びとが作品を繰り返し読み、その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。漱石文学は読者にとってまさに「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。
没後100年を記念して開催する本展は、こうした作品世界と、英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料、そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。
会 期  2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日
  月曜日(5月2日は開館)
 間  午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場  神奈川近代文学館第1・2・3展示室
観覧料  一般700円(500円) 65歳以上/20歳未満,学生300円(200円) 
     
( )内は20名以上の団体  高校生100円 中学生以下無料     
     東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
 催  県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
特別協力 岩波書店
協力   東北大学附属図書館
後援   NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
協賛   集英社 京浜急行電鉄 相模鉄道 東京急行電鉄
     神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
広報協力 KAAT 神奈川芸術劇場
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漱石と光太郎には美術を通して接点がありました。大正元年(1912)、漱石の書いた美術評論を光太郎が批判したというものです。当時光太郎は数え30歳。留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と縁を切り、ヒユウザン会に加盟、油絵の制作に力点を置いていた時期でした。

漱石はそうした美術界の新機軸に一定の理解を示していました。一つには漱石山房に出入りしていた画家の津田青楓の影響があったと思われます。津田は後に漱石の著書の装幀を多く手がけます。

光太郎の方は、漱石や森鷗外といった権威的な存在には噛みつかずにはいられない、という感じでした。津田とは欧米留学中に親しくつきあっていましたが、お互いの帰朝後は、漱石にかわいがられた津田と、権威的なものに反抗する光太郎とで、自然と疎遠になったようです。

ちなみに光太郎がまだ東京美術学校に在学中で、本郷Ⅸ駒込林町155番地の実家に住んでいた頃、漱石は明治36年(1903)から約3年間、本郷Ⅸ千駄木町57番地(いわゆる「猫の家」)に住んでおり、近所といえば近所でした。

さて、「100年目に出会う 夏目漱石」。当然ですが文学関連が中心の展示で、漱石の自筆資料等もふんだんに出品されており、息遣いが聞こえてくるようでした。

美術関連では、ヒユウザン会がらみの展示はありませんでしたが、漱石自身の絵画がまとめて展示されていました。ただ、津田青楓などは自身で絵の手ほどきをしながら、その方面での漱石の才能がないことを、敬愛を込めながらも揶揄しています。

 津田が自分の仕事の段落のついた或000る日行つてみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるやうな口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの、俺は日本画の方が面白いよ。」さう云つて、半紙ぐらいの厚ぼつたい紙に塗りたくつた妙な画を出して見せられた。
 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息してゐる。そのまへに一匹の馬がある。先づ馬と仮説するだけなんだが、四ツ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先づ馬に近い――その馬が前脚を一つ折つて、これから草の上で休まうとするやうにも、又これから立ち上がらうとするやうにも見える。馬といひ、人といひ、まるで小学校の生徒の画のやうだ。柳は無風状態で重々しくたれ下つてゐる。全体が濁つた緑でぬりつぶされてゐる。柳の下にはフンドシを干したやうに、一条の川が流れてゐる。その川と柳の幹だけが白くひかつて、あとは濁つた緑。下手な子供くさい画と云つても片付けられる。又鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、云つてもみられる。先生はリヤルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし」「夢十夜」あんな作を絵筆で出さうとしてゐられる。
 漱石先生が「どうだ、見てくれ」と云つて出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は挨拶の代りに大きな口をあいて、
「ワハヽヽヽヽヽ」
 先づ笑つた。
(『漱石と十弟子』)


漱石といえば、文豪中の文豪ですが、こういう人間くさいエピソードには、親しみを感じます。並んでいた絵を見て、クスリとしてしまいました。

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、今月22日までです。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

人あり薫風に似て来り坐す      昭和20年(1945) 光太郎63歳

「薫風のよう」といわれる人間になりたいものです(笑)。

新刊情報です。 

妖怪と小説家

2015年12月15日 野梨原花南著 KADOKAWA(富士見L文庫) 定価560円+税

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帯文より
 ここは東京・吉祥寺。小説家の太宰先生と、その担当編集である水羊の行く手には、なぜか怪異がつきまとう。
 原稿から逃げたり、中原先生や谷崎先生と揉めたり、自分の命を削って原稿を書いたり。
 そんな日々の中で、当たり前のように怪異が起きて、当たり前のように太宰先生と水羊は巻き込まれるけれど―やっぱり良い小説を書くために、懸命で。
「僕、太宰先生といるときだけですしこういうの!」
 東京の町で繰り広げられる、文豪たちの不思議な日々の物語。


昨今、実在の文学者を主人公にしたり、モデルにしたりという小説、漫画が静かなブームです。このブログでも、光太郎智恵子が登場する清家雪子さんの漫画『月に吠えらんねえ』を何度かご紹介しました。

こちらの『妖怪と小説家』、いわゆるライトノベルです。

舞台は現代の東京。小説家の「太宰先生」と担当編集者の「水羊」が、時に異界から現れた物の怪(もののけ)と遭遇したり、異界や幻想の世界に迷い込んだりしながら、不思議な体験をする、といったストーリーです。

けんかっ早いイラストレーターの「中原先生」、食道楽の「谷崎先生」、皆から尊敬を集める「宮澤先生」などにまじって、カフェギャラリーの女主人にして、自らも絵を描く「長沼さん」が主要登場人物となっています。「長沼さん」は、天才だけれど経済観念のない彫刻家の「高村さん」と離婚して店を開いた、という設定です。

「高村さん」は本編には登場せず、「太宰先生」と「水羊」の迷い込んだ幻想の世界に登場、また、「長沼さん」と「宮澤先生」の会話に語られるのみです。

「長沼さん」に向けて「宮澤先生」曰く、

「反省頻(しき)りの様子ですが、絆(ほだ)されてはいけませんよ。彼はわたしたちにとってはいい男ですが、あなたにとってはいけないひとだ。」

笑えます。

ところで、この小説では、智恵子を含め、太宰、中也、賢治など、比較的早逝した人々を登場人物のモデルとしながら、誰一人死にません。そのあたりに作者・野梨原氏の強い意図が感じられます。

「長沼さん」と「宮澤先生」の間に、こんな会話もありました。

「先生、それでトシ子さんはお元気です?」
「はい。すっかりよくなりまして」
「それはようございました。ほっとしましたわ。」
「……そのことについて、名前は伏せますが酷いことを言われて傷つきました」
(略)
「あの、何を言われたのですか……。おいやなら答えなくても」
「トシが死ねばさぞ美しい詩ができたでしょうね、と」

念のため解説しますが、現実の賢治には、詩「無声慟哭」に謳われた、妹のトシ(大正11年=1922、数え25歳で病没)がいました。

続く「宮澤先生」と「中原先生」の会話。

「作家をなんだと思っているのでしょう。人間だと、全く思っていないのか、それともその人にとっては他の人間はそのようなものなのでしょうか。愛するものが死ねば傑作がかけるのならば、世の中にはもっと傑作が満ちあふれているでしょう」
(略)
「作家が死ねば話題になって本が売れるから死ねばいいと、世の中に思われているのは知っています」
「それについてはどう思われますか」
「お前が死ねと思って聞いてます」
「おや、過激だ」

結局最後はハッピーエンド。この小説自体、早世していった智恵子達に対するオマージュなのだと言って良いでしょう。


こうした入り口からでも、光太郎智恵子の世界に興味を持って下さる若い世代が増えれば、と思いました。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の夜はきりこがらすにきらきらと白きしじまのひかるなりけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

このブログを書いている今、南関東には珍しく粉雪が舞っています。夜ではありませんが。

東京調布市の武者小路実篤記念館さんから、図録を戴いてしまいました。現在開催中の特別展「我が家の実篤作品展」のものです。 

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調布市制施行60周年・武者小路実篤記念館開館30周年・武者小路実篤生誕130周年記念特別展 「我が家の実篤作品展」第2部

会 期 : 2015年12月12日 ~ 2016年1月24日 
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 午前9時から午後5時 
休館日 : 月曜日(祝日のときはその翌日) 年末年始(12月29日から1月3日)
料 金 : 大人 200円   小・中学生 100円

武者小路実篤の絵や書は、独特の暖かい作風と味わい深い言葉で、広く親しまれています。
実は、武者小路実篤の作品は、その多くが美術館などではなく、個人のお手元で大切にされてきました。
実篤は昭和4 年以来毎年のように個展を開き、また、自らが主宰創刊した雑誌『心』では、実篤を含む同人の書画の即売会で発行資金を捻出していたため、こうした機会に作品を求めた方も多くいらっしゃいます。
転居の多かった実篤は、絵に本格的に取り組んだ昭和初期以降でも、小岩・落合・成城・吉祥寺・三鷹牟礼と、あちこち移り住みましたが、その時々に近隣で親しくなった方や世話になったお店に作品を差し上げています。また学校などにたのまれると気軽に筆を執りました。
講演などで各地へ旅することも多く、旅先で請われて原稿や書画をかくことも珍しくありませんでした。また、実篤は筆まめで、手紙も多く書いています。
調布市仙川に移り住んでからは、地元の自治会やお店に作品を差し上げたほか、調布市の福祉祭の景品として毎年色紙を提供していたといい、調布市民にはくじ引きであたってお持ちの方がいらっしゃるとお聞きしています。
こうして個人のお手元に届いた作品には、所蔵者の想い出があり、またそれぞれの家族と共に歴史を刻み、様々な逸話を持っています。
本年、武者小路実篤生誕130 年、調布市武者小路実篤記念館開館30 周年を迎えるのを機会に、これまでわからなかった個人でご所蔵の作品について、情報を収集することといたしました。
武者小路実篤の自筆作品・資料をお持ちの方は、ぜひ情報をお寄せください。
また、この調査の結果を踏まえ、地元調布市近隣でご所蔵の作品を中心に、許可をいただいた作品について、12 月12 日から開催予定の特別展「我が家の実篤作品展」第二部で展示することを企画しています。
普段ご家庭で秘蔵され、所蔵者以外は見ることの出来ない作品を、作品に秘められたエピソードとともに、ご覧いただきたいと存じます。


同じ白樺派ということで、武者と親交のあった光太郎も、武者の作品を手元に置いていました。

今回、そのものは展示されませんが、写真での展示があるようです。いただいた図録に掲載されています。

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また、図録には光太郎も写った集合写真が2葉。

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このあたりは「芸術家たちが愛した実篤作品」というコーナーで、各地の文学館や美術館、著作権継承者の皆さんなどの協力により集められた中のものです。ちなみに「芸術家たち」、例えば志賀直哉、柳宗悦、岸田劉生、芥川龍之介、林芙美子、六代目市川歌右衛門、棟方志功などなど。

もちろん写真より実篤作品が中心です。上記図録表紙は新宿区立林芙美子記念館内部に復元された林芙美子邸の客間だそうです。かけられている武者の絵はレプリカで、本物が今回借りられて展示されているようです。

その他、一般の方から提供を受けた実篤の書画もずらり。


こうした企画の開催、なかなか大変だとは思いますが、美術館、文学館の企画展の新しい形として、一石を投じたような気がします。

光太郎の書なども、各地の文学館、美術館に納まっているはずですし、そしてやはり個人のお宅にはまだまだ未知のものも眠っていそうです。「我が家の光太郎作品展」もありかな、と夢想します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月20日

昭和11年(1936)の今日、初めて結核による喀血の症状を起こしました。

2年後に亡くなる智恵子と、おそらく同根の結核。この後、約20年間の付き合いとなります。

昨日、作家の高田宏氏のご逝去が報じられました。 

作家の高田宏さん死去 「言葉の海へ」で大佛次郎賞

 言語学者として国語の統一に尽力000した大槻文彦の伝記「言葉の海へ」で、78年に大佛次郎賞、亀井勝一郎賞を受賞した作家の高田宏(たかだ・ひろし)さんが、11月24日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。83歳だった。葬儀は近親者で営まれた。喪主は妻喜江子(きえこ)さん。

 エッセー「木に会う」で90年、読売文学賞を受賞。石川県九谷焼美術館の館長や平安女学院大学の学長、将棋ペンクラブの会長なども務めた。
(『朝日新聞』 12月2日)


当方、高田氏のご著書を一冊持っています。

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平成元年(1989)、文化出版局さんから刊行された『もう一度読む』。元々、同社で発行の雑誌『季刊 銀花』に連載されたものの単行本化で、古今東西の名著を「もう一度読む」ことにより、以前には見えてこなかったものが見えてくるという読書体験を綴ったエッセイ集です。

「『智恵子抄』偏読」という章があり、およそ15頁。氏の訃報を受けて、当方も「もう一度読」み返してみました。「偏読」といいつつ、それは韜晦というか、謙遜というか、リスペクトの念に溢れたいい文章でした。

花巻郊外旧太田村の、光太郎が戦後7年間を過ごした山小屋(高村山荘)の話から始まり、戦後の詩篇や日記が引用され、さらに話は戦時中の翼賛詩に及びます。

 昭和十五年に中央協力会議議員になり、昭和十七年には文学報国会詩部会会長に就任した高村光太郎は、第二次大戦のあと、多くの人から非難を受けた。今も光太郎を難ずる人はいる。だが、それらの人々のうち一人でも、あの小屋の老年の日々を送れるものだろうか。

 この詩(注・「琉球決戦」)を書いた詩人は、少なくとも卑劣漢ではない。一途であった。部下の若者に特攻出撃を命じて自分はひそかに安全地帯へ脱出した将軍とはちがう。権力欲や名誉欲や物欲のために戦争にかかわった者ともちがう。ただ一途であった。

さらに『智恵子抄』。氏は「あどけない話」「樹下の二人」などの詩篇もよしとしながら、特に散文「智恵子の半生」に注目しています。

 こういう散文は、高村光太郎ほどの人にしても、めったに書けるものではない。ほとんど偶然の産物と呼びたいようなものである。無技巧と言ってもいい。堂々と言ってもいい。臆面もなく、といっても言い。現実の智恵子がどうであったかは知らないが、光太郎の智恵子像がここに刻み出されている。純度の高い一人の女性が、おそろしいばかりに輝いている。

そして結末。

これだけみごとに「一人の女性の底ぬけの純愛」に執した男が、ただ時流に乗って戦争協力をしたなどとは私には信じられない。

 高村光太郎のあの山小屋の七年間という時間を、私は思わないわけにはいかない。その自己処罰を、また、それをも越える老年の生を、思わないわけにはいかない。


短く、それから残念なことに書き出しの部分で事実関係の勘違い(高村山荘の套屋に関し)があるのですが、それを差し引いても慧眼と言わざるを得ません。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月3日

平成9年(1997)の今日、ビクター伝統文化事業財団から、人間国宝の横笛奏者・寶山左衛門のCD「笛のこころ」がリリースされました。

「智恵子と空」という曲を含みます。しみじみといい曲です。

先週土曜日、九段下の玉川堂さん、新宿の中村屋サロン美術館さんと制覇し、最終目的地、文京区千駄木の区立森鷗外記念館さんに向かいました。

先月からコレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」が始まっており、さらにこの日は、関連行事として東京大学大学院教授の今橋映子氏による講演「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」があったためです。

ただ、最寄りの千駄木駅には早めに着いてしまいました。そこで、団子坂を上り、いったん鷗外記念館前を通り過ぎて、近くのコンビニに。ここは店頭に灰皿が置いてあり、煙草吸いには有り難い配慮です。ちなみに当方、都内のよく歩く範囲では、どこに喫煙所があるか、かなり頭に入っています。シルクロードを旅するキャラバンがオアシスの位置を頭に入れているのと同じです(笑)。

さらに少し行くと、道の右側に瀟洒なマンションが建っています。少し前まではNTTさんのビルだったところですが、こんな案内板が設置されています。

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「「青鞜社」発祥の地」。明治44年(1911)、平塚らいてうを中心に創刊された我が国初の女性だけによる雑誌『青鞜』創刊号―その表紙絵は智恵子の作品―が、ここで編集されました。元々は国文学者・物集高見の屋敷があったところで、物集の娘・和子が青鞜社員だったため、自宅の一室を編集室にしたというわけです。

案内板には光太郎智恵子の名も記され、それを読みつつ、思いを馳せました。

ちなみに光太郎智恵子が暮らしたアトリエ跡や、現在も高村家の方がが住む光雲の旧宅もほど近いのですが、そこまで足をのばす時間もなく、鷗外記念館に戻りました。こちらは元の鷗外邸「観潮楼」のあった場所に建てられています。

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講演会の前に、地下の展示室に。常設の鷗外の展示と、コレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」をじっくり拝見しました。

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鷗外はもちろん、杢太郎も光太郎と縁の深い人物でした。光太郎の方が杢太郎より2歳年長です。

杢太郎は本名・太田正雄。静岡・伊藤の出身です。医学を志し、旧制一高から東京帝国大学に進みましたが、その間、文学に対する熱情も強く、明治40年(1907)頃から鷗外が観潮楼で開いた歌会に参加、明治42年(1909)からは雑誌『スバル』の編集にあたります。この年、欧米留学から帰国した光太郎も『スバル』の主要執筆者の一人となり、二人の交流が始まります。さらに、芸術運動「パンの会」。鎧橋のメイゾン鴻乃巣などで、文学、美術、演劇などに携わる若き芸術家達が酒を飲みながら怪気炎を上げたものですが、光太郎、杢太郎、ともに発起人に名を連ねています。

展示は『スバル』や杢太郎の著書、自筆資料などなど。下に出品目録を載せますが、途中で展示替えがあり、今週から一部変わっているはずです。

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その後、2階の講座室へ。こちらが講演会場です。

講師の今橋映子氏は、比較文化学がご専門。特に明治大正期の日仏両国の文化的なつながりを研究されています。『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があり、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項の第1章が「乖離の様相―高村光太郎」。また、昨秋には明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。

現在、美術史家の岩村透についてのご研究を進められているそうで、数年後には新たなご著書として世に問われるそうです。岩村は、光太郎が在学中、東京美術学校で教鞭を執っており、光太郎に西洋留学を強く勧めた人物です。前任者が鷗外、さらに杢太郎ともつながりがあり、講演では鷗外と杢太郎の関連以外にも、岩村や光太郎にも触れられていて、興味深く拝聴しました。

それにしても、昨日書いた斎藤与里にしてもそうですが、杢太郎も、一般には忘れ去られかけつつある芸術家です。もっともっと光が当てられていいのでは、と思います。

同時に光太郎が「忘れ去られつつある芸術家」とならないよう、もっともっと頑張らねば、と感じました。

以上、3回にわたる都内レポートを終わります。今日は当方の住む千葉県内の、その南端に近い勝浦に行って参ります。勝浦市芸術文化交流センター・キュステさんで開催中の「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」を観て参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月26日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、どら焼きを食べました。

当日の日記の一節です。

曇、少々むしあつし。 朝、抹茶、濱田先生に昨日もら(っ)たドラ焼を甘味とす。

別に、どら焼きを食べるのは不思議でも何でもないのですが、問題はその量です。前日の日記の一節にはこうあります。

学校にて郵便物授受。 濱田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。(略)濱田氏よりドラ焼20数個もらふ。

まさか20数個全部を光太郎一人で食べたとも考えにくいのですが、「おすそ分けをした」的な記述が日記には見あたりません(笑)。

昨日の『朝日新聞』さんの土曜版に光太郎の名が出ました。

歴史学者・酒井紀美氏の連載「酒井紀美の夢想の歴史学」で、昨日の回のサブタイトルは「漱石の夢十夜 近代日本の迷いを映す」。

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「夢十夜」は明治41年(1908)の作。漱石が、自分の見た十種類の夢の内容を綴るという形で進むオムニバス形式の小説です。特に有名なのが「第六夜」。鎌倉時代の仏師・運慶が、現代(明治)の東京で、仁王像を彫っている場面を見たという夢です。

当方、『朝日新聞』さんは購読しておりますが、紙面を見る前にネットのデジタル版で「高村光太郎」のキーワード検索を掛け、この記事に光太郎の名が出て来ることを知りました。

読み進めると、夢の中の運慶が仁王像を彫る場面が引用されていました。

運慶はまったく何もちゅうちょすることなく悠々と鑿(のみ)と槌(つち)をふるって、仁王の顔のあたりを彫り抜いていく。「能(よ)くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心して独りごとを言うと、隣にいた若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と評した。

ここまで読み、光太郎の木彫に話をつなげるのかな、と思いました。光太郎も昭和2年(1927)、雑誌『大調和』に発表した「偶作十五篇」という連作の中で、次のように謳っています。

木を彫ると心があたたかくなる。
自分が何かの形になるのを、
木は喜んでゐるやうだ。

ところが、さにあらずでした。酒井氏の稿は、阿部昭による岩波文庫版『夢十夜』の解説に言及され、そこに光太郎が出て来ます。

岩波文庫『夢十夜』の「解説」で阿部昭は、「旧時代の重荷を背負いつつも、新しい教養の先頭にいた知識人の一人として、西洋という異質の文化の吸収に追われざるを得なかった」漱石を、「内と外とから追われる人間」「ロンドンの街角で、ふと鏡に映った一寸法師、醜い黄色人種」ととらえた。そして、高村光太郎の詩の「魂をぬかれた様にぽかんとして 自分を知らない、こせこせした 命のやすい 見栄坊な 小さく固まつて、納まり返つた 猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な」という、たたみかけるような表現を引用しながら、明治という時代の不安定な日本人の姿を浮かび上がらせた。

引用されているのは、明治44年(1911)に雑誌『スバル』に発表された「根付の国」です。

   根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

制作は明治43年12月です。前年には米英仏への3年余の留学から帰朝した光太郎。彼地では日本との文化的落差に打ちのめされ、帰ったら帰ったで、我が国の旧態依然の有様に絶望し、さらに手を携えて共に新しい彫刻を日本に根付かせようと考えていた、盟友・荻原守衛を失った時期でした。

漱石にしろ、光太郎にしろ、欧米留学を経験し、帰国後の日本に危機感を覚え、いわば目覚めてしまった者の悲劇を体現したといえるのではないでしょうか。その点は森鷗外にも通じるような気がします。

この点、光太郎と同時期か、やや遅れての留学生の、光太郎からパリのアトリエを引き継ぎ、ルノアールに師事し、ピカソやマチスと親交を深めた梅原龍三郎、「レオナール・フジタ」と称され、活動の場自体を西洋に置いてしまった藤田嗣治(美術学校西洋画科での光太郎の同級生)などとの相違は興味深いところです。ただし、梅原にしても藤田にしても、後にまた違った形での日本回帰がみられるのですが。

酒井氏の稿は、以下のように結ばれます。

夢は自分の外から神仏のメッセージとして届けられるのだとする古い見方や考え方を捨て去って、自分の心の奥深いところで過去の記憶が複雑にからまりあいながら夢が生まれてくるのだと確信できるようになるまで、近代日本の人々は、夜ごとに訪れる夢に対して、不安と混迷をかかえこみながら歩まねばならなかった。

現代のこの国に生きる我々も、近代の人々とは違った不安と混迷を抱えて生きています。また大きな曲がり角にさしかかった気配の昨今、未来に「夢」を持てる国であってほしいものですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月19日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺に「放光塔」の文字を書く約束をしました。

当日の日記です。

夕方神武男氏他一名来訪、白い酒一升もらひ、その場でのむ。浅沼宮蔵とかいふ人の葬式だつた由。昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、

昌歓寺は時折光太郎も足を運んでいた寺院で、前年には、毎年、花巻町の松庵寺で行っていた光雲・智恵子の法要を、その年だけ昌歓寺に頼んでいます。昨年、光太郎に関する文書が出て来て驚きました。神武男は当時の住職です。

この「放光塔」の文字がこの後どうなったか不明です。次に花巻に行く際には、そのあたりも調べてみようと思っております。

新刊情報です。  
2015年3月20日 公益財団法人日本近代文学館発行 江種満子編 定価1,020円

エッセイ
   三浦雅士 世界遺産と文学館
  松浦寿輝   音楽を聴く作家たち
  荻野アンナ ケチの話
  藤沢周     基次郎という兄貴
  間宮幹彦   吉本さんが「あなた」と言うとき
  西川祐子   日本近代文学館で出会う偶然と必然
     
論考
 小林幸夫  <軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎
 有元伸子  岡田(永代)美知代研究の現況と可能性 ―〈家事労働〉表象を例に―
 山口徹     作家太宰治の揺籃期  ―中学・高校時代のノートに見る映画との関わり
 吉川豊子  文学館所蔵 佐佐木信綱宛大塚楠緒子書簡(補遺)―洋楽鑑賞と新体詩集『青葉集』をめぐって―
 江種満子 高群逸枝・村上信彦の戦後16年間の往復書簡をめぐって

資料紹介  
 加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・宮西郁実     村上信彦・高群逸枝往復書簡


上智大学教授の小林幸夫氏の論考「<軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎 」が17ページにわたって掲載されています。

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先月、発行元の日本近代文学館さんのサイトに情報が出、入手しなければ、と思っているうちに、小林氏からコピーが届きました。有り難いやら申し訳ないやらです。

氏の論考は、一昨年、同館で開催された講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」中の「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」を元にしたもので、鷗外と光太郎、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子をたどるものです。詳細は上記リンクをご参照下さい。

終末部分を引用させていただきます。

 川路柳虹との対談のなかで(光太郎は)次のように言っている。

 どうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありましたなあ。けれども先生の「即興詩人」など暗記したくらゐですし、先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました。何としても忘れることの出来ない大先輩ですよ。

 談話や書き物によっては同一の事柄に対しても、鷗外をいいと言ったり悪いと言ったり偏差はあるが、総体としての鷗外に対する光太郎の思いは、この言説が代表しているものに思われる。鷗外と光太郎との関係は、「「先生」といふ変な結ばり」を意識してしまふ光太郎に、まさにその「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避に胚胎した、というべきである。


「即興詩人」は、童話で有名なアンデルセンの小説で、鷗外の邦訳が明治35年(1902)に刊行されています。この中で、イタリアカプリ島の観光名所「青の洞窟」を「琅玕洞」と訳していますが、光太郎は欧米留学から帰朝後の明治43年(1910)、神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」の店名を、ここから採りました。こうした点からも「先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました」という光太郎の言が裏付けられます。

しかし、軍医総監、東京美術学校講師といった鷗外のオーソリティーへの反発も確かにあり、「「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避」というお説はその通りだと思います。

お申し込みは日本近代文学館さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月20日

昭和17年(1942)の今日、詩集『大いなる日に』を刊行しました。

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オリジナルの詩集としては、前年刊行の『智恵子抄』に続く第3詩集ですが、内容は一転、ほぼ全篇が戦争協力詩です。収録詩篇は以下の通り。

秋風辞 夢に神農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 若葉 地理の書 その時朝は来る 群長訓練 正直一途なお正月 初夏到来 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年にあたりて へんな貧 源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道 無血開城 式典の日に 太子筆を執りたまふ われら持てり 強力の磊塊たれ 事変はもう四年を越す 百合がにほふ 新穀感謝の歌 必死の時 危急の日に 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 シンガポール陥落 夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す

まずは新刊紹介です。

YAMAKEI CREATIVE SELECTION Frontier Books 山小町 -恋-

やぎた 晴著   山と渓谷社刊   発売日:2014年12月19日   定価 1,900円+税

版元サイトより

雄大な山に抱かれて成長するひとりの女性の姿を描く山岳小説。

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京都在住の保母にして山ガール・佳子と、安曇野出身で現在は東京でサラリーマン生活を始めた春生。ともに思い立って単独行に入った北アルプスで出会い、恋に落ちるというストーリーです。

台風の接近に伴う暴風雨に見舞われ、ハラハラドキドキの展開になります。このあたり、「タイタニック」を髣髴とさせますが、貴族の娘とプータロー、大惨事といったケレン味はなく、あくまで現実にありそうな話です。

また、明記されてはいませんが、昭和40年代が舞台のようで、レトロ感もあふれています。「歌声喫茶」「ラッパズボン」「おさげ髪」etc。

上高地も舞台の一つとなります。そこで、大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で上高地に1ヶ月程をともにしたことに、少しだけ触れられています。

ところで驚いたのは、オンデマンド出版であること。デジタル版と紙媒体があり、紙媒体の方は注文を受けてから製本、発送するというシステムになっています。楽譜などは以前からそういう形態で販売されていますが、通常の書籍もこうなってきたか、という感じです。

ところで「上高地」ということでもう1件。005

『山小町―恋―』版元の山と渓谷社刊行の雑誌『山と渓谷』と並ぶ有名な山岳雑誌に『岳人』があります。来月発行の3月号で、「言葉の山旅 山を詠う―上高地・北アルプス編―」という特集が組まれます。

今月号に載った次号予告には、「山を想えば人恋し、人を想えば山を恋し」。山々は時代を問わず人の心をひきつけてやまない。山を詠い、人を詠い、自らの心を詠う。詩人たちが綴る言葉の世界に導かれ、山へ思いを馳せてみませんか。」とあります。

この中で、光太郎智恵子も扱われます。実は、岩手花巻の㈶ 高村光太郎記念会さんを通じ、当方に執筆依頼がありました。光太郎詩文と拙稿とで8ページ程になります。

光太郎智恵子以外には、若山牧水を取り上げるそうです。

発売は2月14日。大きな書店なら店頭に並びますし、アウトドア用品メーカーのモンベルのショップにも並びます。また、ネット通販でも入手可能。ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月29日

大正5年(1916)の今日、美術評論家の坂井犀水の慰労会に出席、彫刻「ラスキン胸像」を贈りました。

下記は当時の『読売新聞』です。

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「ラスキン胸像」は、ニューヨークで光太郎が師事したガットソン・ボーグラムの模刻です。

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新刊です。  

空の走者たち

増山実著 2014/12/08 角川春樹事務所  定価 1600円+税
 
2020年4月18日――。通信社の若手記者・田嶋庸介は興奮していた。陸運から発表された東京オリンピック女子マラソン日本代表3名の中に、円谷ひとみの名があったからだ。田嶋が7年前にこの少女と出会ったのは、福島県須賀川市。そこは、1964年の東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉と、ウルトラマンの生みの親・円谷英二の故郷であった。当時の円谷ひとみは、陸上をやめ、自分のやりたいことが見えずに暗中模索中の高校2年生。なぜ彼女は、日本を代表するランナーへと成長できたのか。その陰には、東京オリンピックと「あどけない青空」によって結ばれた、不思議な出会いがあった……。須賀川、宝塚、東京、ハンガリー。どんなに雨が降り続こうとも、いつか必ず見えるはずの青空を思い、それぞれの空の下を懸命に駆け抜けた走者たちの物語。
 
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主な舞台は福島県須賀川市。光太郎の「智恵子抄」に収められた「あどけない話」が重要なモチーフになっています。
 
昭和39年(1964)の東京五輪・男子マラソン銅メダリスト円谷幸吉、「特撮の神様」・円谷英二。ともに須賀川の出身で、親戚だそうです。さらに『おくのほそ道』の旅で須賀川を訪れた松尾芭蕉や、東日本大震災で被災した架空の少女たちが織りなす物語。クライマックスは平成32年(2020)の2度目の東京五輪。平成25年(2013)、昭和40年(1965)、そして元禄2年(1689)。それぞれの須賀川をつなぐキーワードが「空」。さらにはマルセル・プルースト『失われた時を求めて』、坂本九、ゴジラ、ザ・ビートルズ、銭湯、大阪万博……。
 
スポ根的要素、SF的要素、昭和懐古的要素、震災復興支援的要素と、てんこ盛りの一冊です。
 
ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月8日

昭和28年(1953)の今日、終の棲家となった中野のアトリエで、煙突掃除をしました。
 
十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を制作していた時期で、この日は午前中に手の試作を仕上げています。夕方から、詩人の藤島宇内に手伝ってもらって、煙突掃除。これはストーブからつながっていたものでした。
 
最近は、レンガ造りのイミテーションを除き、一般家庭で「煙突」という物体を見ることがほぼなくなりましたね。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月18日
 
大正15年(1926)の今日、駒込林町のアトリエを、宮澤賢治が訪れました。
 
20日という説もあるそうですが、賢治と光太郎、二人の天才の、最初で最後の出会いでした。
 
光太郎の談話筆記「宮澤さんの印象」(昭和21年=1946 『ポラーノの広場』)、全文です。
 
 宮澤さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。
 夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。
 僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。
 あとで聞いたら、尾崎喜八氏の所にも寄られたさうで、何でも音楽のことで上京されたらしく、新響の誰とかにチエロを習ふ目的だつたやうです。十日間で完成するつもりだと言つてをられたさうです。
 あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会へないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが……。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。
 
ちなみに上野の聚楽で光太郎と賢治が会食をした、という伝聞がまことしやかに伝えられていた時期がありましたが、どうも眉唾もののようです。

二人を結びつけたのは草野心平でした。
 
心平と光太郎の出会いは、大正14年(1925)。心平は、中国の嶺南大学留学中に知り合った詩人・黄瀛(こうえい)に連れられて、駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、以後、足繁く通うようになります。
 
心平が前年に刊行された賢治の詩集『春と修羅』を光太郎に紹介、光太郎はその詩的世界を激賞しました。また、光太郎は黄瀛からやはり同じ年に刊行された童話集『注文の多い料理店』を借り、その素晴らしさを広めるため、さらに水野葉舟に又貸しするなどしています。
 
光太郎の賢治評です。
 
内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。彼の謂ふところのイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであつた。
(「コスモスの所持者宮澤賢治」 昭和8年=1933 『宮澤賢治追悼』)
 
 宮澤賢治の全貌がだんだんはつきり分つて来てみると、日本の文学家の中で、彼ほど独逸語で謂ふ所の「詩人(デヒテル)」といふ風格を多分に持つた者は少いやうに思はれる。往年草野心平君の注意によつて彼の詩集「春と修羅」一巻を読み、その詩魂の厖大で親密で源泉的で、まつたく、わきめもふらぬ一宇宙的存在である事を知つて驚いたのであるが、彼の死後、いろいろの詩稿を目にし、又その日常の行蔵を耳にすると、その詩篇の由来する所が遙かに遠く深い事を痛感する。
(略)
彼こそ、僅かにポエムを書く故にポエトである類の詩人ではない。そして斯かる人種をこそ、われわれは長い間日本から生れる事を望んでゐたのである。
(「宮澤賢治に就いて」 昭和9年=1934 『宮澤賢治全集内容見本』)
 
他にも繰り返し、光太郎は賢治を激賞しています。
 
さらに三回にわたる『宮澤賢治全集』の発刊に関わり、花巻に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしたりもした光太郎を、宮澤家でも恩人として遇し、昭和20年(1945)、空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を花巻に呼び寄せたことはあまりにも有名です。その結果、賢治の父・政次郎や賢治の弟・清六とは、年齢差を越えた深い交流が生まれました。
 
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こちらは先程も名前の出て来た尾崎喜八撮影の写真。左から光太郎、心平、清六、そして賢治の甥の幸三郎です。昭和9年(1934)、駒込林町のアトリエ前です。ここで賢治と光太郎も出会いました。
 
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こちらは花巻郊外太田村山口の山小屋。政次郎・イチ夫妻と光太郎です。
  
光太郎と賢治、実は、二人が出会うチャンスはもう一度ありました。それは昭和6年(1931)夏、賢治は東北砕石工場技師を務めるかたわら、童話「風の又三郎」を書いていた時期です。光太郎は『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、女川を含む宮城、岩手の三陸海岸を旅しています。その際に賢治は光太郎が花巻に寄ってくれることを望んでいたそうですが、実現しませんでした。
 
細かな事情は不明なのですが、光太郎が旅している間に、東京では智恵子の統合失調症の症状が顕著となったということで、もしかするとその知らせを受けた光太郎、急ぎ帰宅したのかも知れません。

追記 どうも船の関係のような気もしてきました。光太郎、東京―三陸間も船で移動した可能性があり、そうすると、船の便が月2本しかなかったのです。

それにしても、賢治と光太郎、たとえ一度でも実際に出会っていることの意味は大きいでしょう。光太郎にしても、賢治と出会わずじまいであれば、どんなに書かれたものを読んで感心したとしても、あれほど激賞することはなかったのではないかと思います。 
 
この二人の最初で最後の出会いが、88年前の今日。感慨深いものがあります。
 
実は当方、賢治が書いたり発言したりした光太郎評については不分明です。詳しい方、はこちらまでご教示いただければ幸いです。

一昨日、六本木東京ミッドタウン内のFUJIFILM SQUAREさんにある写真歴史博物館さんにて、企画写真展 「土門拳 二つの視点」第二部「風貌」を観たあと、目黒区駒場東大前の日本近代文学館さんに行きました。
 
閲覧室での調べ物が主でしたが、調べ物終了後、複写をお願いしている間に、2階の展示ホールで行われている以下の展示も観て参りました。 

近代文学の名作・大正

期 日 : 2014年11月29日(土)~2015年3月28日(土)
時 間 : 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
料 金 : 一般 100円 団体割引はありません
休館日  
: 日・月曜 年末年始(12/26~1/5) 第4木曜(1/22、2/26、3/26)
       特別整理期間(2/17~21)

 
日本近代文学館では春・秋2回の特別展の他に、主に複製資料から構成し、日本近代文学の代表的な作家や作品を通史的に紹介する通常展を年2回開催しています。
わが国の近代史上、元号「大正」はわずか15年の短い期間でしたが、明治維新以降に始まった急速な西欧化が実を結び、一挙に花開いた時代でした。
大正期の文学は、夏目漱石や森鷗外ら明治作家の作風の完成期であるとともに、雑誌「白樺」を中心に個人主義・人格主義を基にした文学が展開された時期でもありました。さらに、大正デモクラシーや労働運動が起こり、その中でプロレタリア派・新感覚派など新しい文学が芽生えました。
通常展示「近代文学の名作・大正」は、この日本近代文学の発展期である大正時代の文学の諸相や代表的な作家たちの功績を、当館所蔵の複製原稿・書簡、書籍・雑誌等で紹介するものです。
主な出品資料
<原稿・草稿(すべて複製)>
夏目漱石「こゝろ」 森鷗外「北条霞亭」 谷崎潤一郎「痴人の愛」   
有島武郎「生れ出る悩み」 室生犀星「小景異情」 葛西善蔵「暗い部屋にて」   
広津和郎「志賀さんと私」 宇野浩二「苦の世界」 菊池寛「受難華」   
芥川龍之介 「蜘蛛の糸」「侏儒の言葉」「歯車」
宮沢賢治「雨ニモマケズ」「セロ弾きのゴーシュ」
 
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残念なことに、光太郎個人の草稿や著書は展示されていませんでしたが、光太郎が寄稿していた『白樺』や、森鷗外、宮澤賢治、佐藤春夫など、光太郎関連の深い作家にまつわる品々が並んでいました。
 
ところで、日本近代文学館さんと同じ駒場公園内に、旧前田侯爵邸があります。一昨日は天気もよく、紅葉が実に見事でした。もう師走なのですが、まだまだ都内は紅葉が見られます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月5日
 
昭和17年(1942)の今日、NHKラジオで光太郎の詩「軍神につゞけ」「山道のをばさん」が朗読されました。
 
「軍神につゞけ」は午前7:00~の「愛国詩」という番組で、朗読は俳優の故・岩田直二。JOBK(大阪放送局)の制作でした。なお、この詩はのちに「みなもとに帰るもの」と改題され、詩集『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)に収録されました。
 
「山道のをばさん」は午後9:00~の「詩の朗読」という番組で、JOAK(東京放送局)から和田放送員の朗読でオンエアされました。この詩は前月に日本文学報国会の事業で「日本の母」として顕彰された山梨県穂積村の井上くまを謳った詩です。
 
この時期、太平洋戦争開戦一周年が近づき、大本営や大政翼賛会は、光太郎らの戦争詩をプロパガンダとして国民の戦意昂揚に活用していました。

お父さまが光太郎と面識がおありだったこともあり、連翹忌にもよくご参加下さっている渡辺えりさん率いる劇団「おふぃす3○○(さんじゅうまる)」さんの公演です。
 
2012年、下北沢の座・高円寺での初演以来の再演、今回は全国11ヶ所を巡回します。 
【盛岡】10月19日(日)         盛岡劇場メインホール  14時
【東京】10月23日(木)~28日(火)シアター・トラム
【石巻】11月1日(土)         石巻特設会場  時間未定
【兵庫】11月3日(月・祝)       兵庫県立芸術文化センター・阪急中ホール  17時
【石川】11月5日(水)         北國新聞赤羽ホール   19時
【山口】11月8日(土)・9(日)      山口情報芸術センター 8日(土)14時 / 9日(日)14時
【宮崎】11月11日(火)          三股町立文化会館ホール  19時
【愛知】11月24日(月・休)        長久手市文化の家・森のホール  18時
【福島】11月27日(木)          南相馬市民文化会館  19時
【宮城】11月28日(金)          日立システムズホール仙台・シアターホール 19時
【山形】11月30日(日)          シベールアリーナ 13時/17時
 
作・演出 渡辺えり
 
キャスト 大沢 健 大和田美帆 土屋良太 谷川昭一朗 宇梶剛士 大塚加奈子 有賀太朗 藤本沙紀
      川口龍 十倉彩子 渡辺えり 他
 
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教師時代の宮澤賢治を主人公に、理想と現実のはざまで苦悩・葛藤する姿が描かれています。そんな賢治を温かく見守る弟の清六や妹のトシ、逆に非難・嘲笑する人々、そして賢治を取り巻く「イーハトーヴ」の大自然とのからみなどが、猫の大群を擁した幻想的な賢治童話に乗せて展開されます。渡辺さんは賢治童話「貝の火」に出てくる子ウサギ、宇梶剛士さんはなんと岩手山の役もなさいます(笑)。
 
こちらは一昨年の公演のパンフレットです。
 
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光太郎は登場しませんが、ストーリーの中で何度も「高村光太郎先生」として語られます。
 
山形出身の渡辺さんは、東北への強い思い入れをお持ちのようで、この「天使猫」、そして光太郎を主人公とした「月にぬれた手」を、東北で上演したいと、常々おっしゃっていました。そこで、今回、初日は盛岡ですし、千秋楽は山形。宮城や福島での公演もあります。
 
各会場、盛況となることを祈念いたします。
 
また、「月にぬれた手」の東北公演も実現してほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月3日
 
昭和10年(1935)の今日、中原綾子の詩集『悪魔の貞操』が刊行されました。
 
光太郎が題字と序詩「「悪魔の貞操」に題す」を書きました。002
 
   「悪魔の貞操」に題す
 
 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。
 
原題は「「悪魔の貞操」に寄す」でしたが、のち、雑誌に再録された際に改題されました。
 
はじめ、光太郎は序詩として、『智恵子抄』にも収められた「人生遠視」を中原に送りましたが、中原側からのクレームで変更になりました。
 
   人生遠視
 
 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる
 
たしかにこんな詩を送られても困りますね。
 
この年二月の中原宛の書簡にはこのように記されています。
 
先日お送りした短詩について発表の御心配をうけ、小生まるで気がつかなかつた事なので成程と思ひました、
(略)
智恵子が全快でもしたあとでそれを見たら変なものだらうとも考へました、何となしに懸念のあるものを折角のあなたの詩集のあたまに印刷するのもいかがと思ひますから、此は撤回いたします、 そのうち何かお送りいたします、
 
この時期は、ちょうど智恵子を南品川のゼームス坂病院に入院させた時期で、光太郎は確かに大変な時期でした。智恵子の狂躁状態、それに伴う自分の苦労などを、中原に宛てた複数の書簡に書いています。それにしても、他人の詩集の序詩に「自分の妻が狂気する」はいくらなんでも……と思います。そうした当たり前のことに考えが至らないほど、光太郎も追い詰められていたのかも知れません。

2週間程前に、お茶の水の石川武美記念図書館さんに行って、明治・大正期の少女雑誌を調べて参りました。その際、智恵子の妹、長沼セキ(世喜子)の書いた物語、「忘れずの記」を見つけ、コピーして来ました。こちらは博文館発行の『少女世界』大正元年(1912)9月の第7巻第12号に掲載されていました。
 
事前に、もう一件、目星を付けていたものがありました。金港堂書籍刊行の『少女界』明治43年(1910)9月の第9巻第11号です。幸いこちらも、石川武美記念図書館さんに収蔵されており、コピーをとってきました。
 
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こちらには、「智恵子」署名の物語、「百合の精」が掲載されています。こういうものがある、という情報だけは得ていましたが、現物を見るのは初めてでした。
 
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内容的には、両親を亡くした少女が、それを不憫に思った百合の妖精になぐさめられる、というもので、6ページ程の短編です。ちなみに物語の舞台は飛騨です。
 
作者の姓が書かれておらず、「智恵子」のみのクレジットです。そこで、我らが長沼智恵子の可能性もある、と思って、いろいろ調べているのですが、どうにもよくわりません。
 
明治43年(1910)は、長沼智恵子はまだ光太郎と出会う前。明治40年(1907)に、日本女子大学校を卒業し、郷里に帰らず、太平洋画会研究所に通って、絵の修行をしていた時期です。有名な『青鞜』の表紙絵を描き、光太郎に出会うのは明治44年(1911)です。
 
長沼智恵子の年譜では、この時期に少女雑誌に寄稿していたという記録はありません。しかし、寄稿ではないものの、博文館の『少女世界』には、明治44年(1911)とその翌年の2回にわたり、智恵子の描いた絵が口絵に使われています。
 
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絵ではなく、文筆作品が活字になったのは、確認できているものとしては、明治45年(1912)の『青鞜』に載った「マグダに就て」が最も古いものです(町立福島高等女学校の卒業式答辞が、明治36年(1903)の『福島民友新聞』に載りましたが、「文筆作品」とは言えますまい)。 
 
この頃、他に有名な「智恵子」としては、閑院宮載仁親王妃が智恵子という名前です。明治の元勲・三条実美の娘です。ただ、宮妃が少女雑誌に寄稿するのも考えにくいところです。ざっと調べた中では、智恵子妃がそうした活動をしていたという記録は見あたりませんでした。
 
また、のちの『青鞜』社員の中に、「伊藤智恵」という名前があるのですが、この人についてもよくわかりません。比較的有名な歌人の山中智恵子、ピアニストの原智恵子は、まだ生まれていません。
 
さらに、本名が「とら」とか「かめ」とか言う女性、または女性に限らず「権左右衛門」さんや「捨三」氏が、ペンネームとして「智恵子」と名乗ることも、全くないとはいいきれません。
 
結局、「百合の精」の作者、「智恵子」は謎のままです。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただけると、幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月17日
 
昭和30年(1955)の今日、日記に「連日の猛暑に閉口」と書きました。
 
このブログでも何度かふれましたが、光太郎は体質的に夏の暑さに弱く、冬大好きの人でした。

一昨日、神田の東京古書会館に明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観を観に行きましたが、その足でもう一件、別の用事も済ませてきました。
 
行き先はJRお茶の水駅近くの石川武美記念図書館さん。以前はお茶の水図書館という名称でしたが、昨年4月に名称が変わりました。
 
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こちらは主婦の友社さんの附属施設で、石川武美(「たけよし」と読み、男性です)は同社の創業者です。そうした関係で、こちらの図書館は女性雑誌の収集に力を入れており、当方がよく利用する国会図書館や駒場の日本近代文学館、横浜の神奈川近代文学館等にもない資料があったりします。
 
所蔵和雑誌のリストがこちら。ただしタイトルと所収分の期間だけの記載で、巻号数は実際に足を運ぶか、問い合わせるかしないと判りません。
 
以前にも一度行った事があり、その際には筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品を見つけました。明治43年(1910)の『婦人くらぶ』第3巻第2号に載った長い散文「美術家の眼より見たる婦人のスタイル」、大正11年(1922)の『主婦之友』第6巻第12号に載ったアンケート「私が一番深く印象された月夜の思出 文芸家三十六氏の回答 紐育の満月」の2篇です。
 
また、作品そのものは知られていながら、初出掲載誌が不詳だった詩「保育」(昭和19年=1944)についても、掲載誌が同年発行の雑誌『保育』の第84号であることも、現物を見て確認できました。
 
さて、一昨日は、明治期の少女雑誌を調べるのが目的でした。
 
まずは博文館刊行の『少女世界』。こちらには明治44年(1911)とその翌年の2回にわたり、智恵子の描いた絵が口絵に使われています。独身時代ですので、クレジットは「長沼」姓です。そちらは以前にコピーや現物が入手できています。今回探したのは、智恵子の2つ違いの妹・セキの書いた児童読み物。それが掲載されているという情報は得ていましたが、現物は未見でした。
 
調べてみたところ、幸いにも掲載号が所収されていました。大正元年(1912)9月の第7巻第12号で、「忘れずの記」という5ページ程の短い物語でした。署名は「長沼世喜子」となっています。智恵子も戸籍上の本名は片仮名で「チヱ」ですが「智恵」と漢字を当て、さらに「子」を付けています。この時代、こうした習慣は一般的だったようです。
 
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ちなみにセキは、智恵子と同じく日本女子大学校に通っており、光太郎と智恵子が愛を誓った(であろう)大正元年の犬吠埼行きの際にも、はじめ、智恵子に同道していました。卒業後は児童学研究の名目で渡米しています。
 
また、たまたま同じ年の別の号(7月5日刊行の第7巻第10号増刊星まつり号)を見ていたところ、同誌主筆の沼田笠峰の書いた「福島より 福島地方少年少女講話会」という記事が目にとまりました。「福島」というのが気になって、記事を読んだところ、驚いたことに「高等女学校の長沼さん」の文字が。
 
 師範学校のお話をしまつて宿に帰りますと、留守中に高等女学校の千葉さん、長沼さん、富田さんがお出でになつてゐました。それから菊池さん、加藤さん、金子さんたちも音づれて下さいました。まる一年お目にかゝらない中(うち)に、皆様は見違へるやうになつていらッしやいます。あゝさうさう、皆様からS子さんによろしくとのことです。
 
 宿へ帰る途々、千葉さん、長沼さん、菊池さん、加藤さん、藪内さん、金子さん、湊さんたちと、さまざまのお話を致しました。S子さん、招来の日本の少女は、どんな覚悟を持たなければならないのでせう? こんなことを語り合ひながら、夕日さす市街(まち)を歩いた光景(さま)を想像して下さい。
 
改元直前の明治45年(1912)ですから、年代的に智恵子やセキではありえませんが、もしかするとさらに下の妹、智恵子と9つ違いのヨシあたりかも知れない、と思いました。ただし、ヨシが福島高等女学校に進んだたどうかは、手持ちの資料を少し調べてみたのですが、わかりませんでした。おわかりの方はご教示いただけると幸いです。

追記 智恵子妹5人中、すぐ下のセキを除く4人(ミツ・ヨシ・セツ・チヨ)は福島高等女学校に通ったことが分かりました。時期的に、上記の「長沼さん」は4女のヨシが該当します。
 
ところで、この「福島より 福島地方少年少女講話会」という記事、全体が「S子さん」にあてた書簡の形式で書かれています。この「S子さん」も正体不明です。ただ、福島高等女学校の長沼さんが「よろしく」と言っていたという点、2ヶ月後に「忘れずの記」を執筆している点などから考えて、「S子さん」=セキ、という仮説も成り立つかな、と思いました。
 
ただ、あまりに手がかりが少なすぎて、何とも言えません。
 
さて、石川武美記念図書館では、もう一種類、ほぼ同時期に金港堂書籍から刊行されていた『少女界』という雑誌も調べて参りました。こちらにも謎の作品が。ただ、長くなりましたので、またの機会に書きます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月6日
 
明治36年(1903)の今日、五代目尾上菊五郎の彫刻に取りかかりました。
 
光太郎数え21歳、前年に東京美術学校彫刻科を卒業し、徴兵猶予の意味もあって、研究科に残っていました。五代目尾上菊五郎はこの年2月に歿し、ファンだった光太郎は衝撃を受けています。
 
作家の山岸荷葉を介して菊五郎の音羽屋一門の知遇を得、写真を借りたりして制作にかかりました。
 
翌日の日記がこちら。
 
○きのふ(三十六年七月六日)啀権太の土型にとり懸りたり。今度は高さ三尺程にて姿勢は素より、衣服、持ち物、鬘、鉢巻その他すべてモデルも使ひ、話もきゝ、見ても貰ひてしつかり十分にやりたき心也。
 
「啀権太」は「いがみのごんた」と読み、菊五郎の当たり役で、「義経千本桜」の登場人物です。
 
この彫刻は完成しましたが、残念ながら現存が確認できていません。もし出てきたら大ニュースですね。

連翹忌ご常連で、詩人の豊岡史朗氏から、氏の主宰する詩誌『虹』の第5号を戴きました。
 
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豊岡氏による評論「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」が掲載されています。
 
題名にある北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』とは、平成21年(2009)に、北川太一先生の教え子の皆さん・北斗会の方々が出版にこぎつけたもので、平成19年(2007)11月、当時の文京区立本郷図書館鷗外記念室で開催された北川先生の講演に加筆修正されたものです。
 
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「観潮楼」というのは鷗外が団子坂上の自宅につけた雅号。ここが文京区立本郷図書館鷗外記念室だったところで、現在は文京区立森鷗外記念館となっています。駒込林町の光太郎アトリエとは指呼の距離です。
 
「一夜」というのは大正6年(1917)10月9日の夜。昨年、このブログの【今日は何の日・光太郎】の10月9日の項に書きましたが、この直前に、光太郎が鷗外の悪口を言いふらしている、という話を聞きつけた鷗外が、光太郎を呼び出したのです。会見の様子については、昨年10月9日の項をご覧下さい。
 
『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』は、この夜の出来事を中心に、光太郎と鷗外の交流を詳細に追っています。詩誌『虹』の「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」は、『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』の紹介、感想を軸に、さらに二人の留学体験、新たに開館した鷗外記念館などにも触れています。
 
ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月22日
 
平成3年(1991)の今日、徳島県立近代美術館で、企画展「日本近代彫刻の一世紀―写実表現から立体造形へ―」が開幕しました。
 
茨城県近代美術館と2館巡回での企画展。光雲の「観音像頭部」(明治28年=1895)、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916)、「手」(大正7年=1918頃)をはじめ、二人と関係する彫刻家の作品から現代彫刻までがずらっと並びました。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月9日006
 
大正12年(1923)の今日、有島武郎が歿しました。
 
光太郎と有島は、同じ白樺派の一員。手紙のやりとりなどもあったのではないかと思われますが、光太郎から有島宛の書簡は見つかっていません(武郎より弟の生馬の方が、より光太郎に近かったのですが、生馬宛も見つかっていません)。
 
右の画像、左が武郎、右が生馬です。
 
逆に武郎から光太郎に宛てた書簡は残っています。この年3月1日付で、光太郎の代表的彫刻の一つ、「手」に関わるものです。この日、光太郎から武郎に「手」が贈られました。
 
 今日は御制作「手」を態々お届け下さいまして難有う御座いました。拝見して驚きました。手といふものがあんな神秘的な姿を持つてゐるものだとは今まで心付きませんでした。あれは又一箇の群像でもありました。見てゐれば見てゐる程それは不思議です。明日は面会日ですから早速部屋にかざつて見る人を驚かさうと楽しんでゐます。「手」といふ題で感想を書いて見たいと思つてゐます。何しろ本当にありがたう御座いました。永く永く襲蔵して御厚情を記憶します。不取敢御礼迄。
 
さらに詩「手」。こちらは3月9日に書かれました。
 
    
 (高村光太郎氏の製作にかかる左手のブロンズを見入りて)
 
孤独な寂しい神秘……
手……一つの手……見つめていると、肉体から、
霊魂から、不思議にも 遊離しはじめる手。
存在の荘厳と虚妄――神か無か。
おゝ見つめていると
凡てのものが手を残して消え失せて、
無辺際(むへんざい)の空間に、
ただ一つ残り在る手。
左の手を見つめろ。
今、おまえ自身の左の手を、これを読む時の光の下に、じっとみつめろ。
五つの指の淋しい群像、
何を彼らは考え、
彼らは何をするのだ。
指さすべき何が……握りしむべき何が………………
…………………………………
手は沈黙にまでもがいてゐる。
 
しかし、その僅か三ヶ月後、武郎は自らの命を絶ってしまったのです。
 
のちに昭和31年(1956)、秋田雨雀が書いた「『ブロンズの手』を中心として」という文章から。
 

 一九二三年(大正十二年)に不幸な出来事007が私たちの周囲にあった。あの自由思想家で、クロポトキンの哲学に強く影響された私たちの尊敬する有島武郎君は恋愛のつまづきのために、あの立派な生涯を終えてしまった。その不幸な出来事の少し前から、彼が彼の机の上で絶えず愛撫していた彫刻が一つあった。それは説明するまでもなく、高村光太郎君の『ブロンズの手』であった。
 有島武郎はこのブロンズの手を『虚空を指す手』と呼んでいた。そして、有島はあの追いせまった、短い生涯に絶えず、このブロンズの手の『人さし指』の『節くれだった』部分をほとんど毎日のように愛撫し、或は『哀撫』していたに相違なかった。
 なぜならば、ブロンズの手の『人さし指』のあの部分だけは、『黄銅色』にかがやいていたからであった。彼の死後、私は『二つの手』という詩を雑誌『泉』に掲載した。それは『一つの手』は机上にとどまり、『一つの手』は虚無に帰したという意味であった。
 私は有島生馬さんから送られたあの『ブロンズの手』と高村光太郎君のあの見事なホイットマンの『自選日記』を胸に懐きながら、あの惨虐無謀な侵略戦争の戦火の中を歯をかみしばりながら生き残って来た。
 
右の画像は、昭和14年(1939)、自作の「手」を見る光太郎です。もしかしたら亡き有島を偲んでいたのかもしれませんね。
 
ちなみにこの辺りの経緯を勘違いしたのか、「手」のモデルは有島武郎の手だ、などと書かれた噴飯ものの修士論文だか博士論文だかがネットに公開されてまかり通っていますが、あくまでモデルは光太郎自身の左手です。橋爪健というマイナーな作家が書いた『文壇残酷物語』という、有島や光太郎を含む数人の作家のゴシップ的な評伝集に、「手」のモデルが自分の手だと有島が語った場面があり、「噴飯マン」センセイはそれを真に受けたのかも知れません(笑)。

2021年追記 「手」に関わる新発見がありまして、以下もご覧下さい。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。

作家の渡辺淳一さんの訃報が出ました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

作家の渡辺淳一さん死去=ベストセラー「失楽園」―80歳

 ベストセラー「失楽園」や「愛の流刑地」など恋愛小説の名手として知られた作家の渡辺淳一(わたなべ・じゅんいち)さんが4月30日午後11時42分、前立腺がんのため東京都内の自宅で亡くなったことが5日、分かった。80歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻敏子(としこ)さん。後日お別れの会を開く。
 北海道上砂川町出身。札幌医科大学卒業後、同大で整形外科の講師などを務める傍ら小説を執筆。1968年に同大で行われた心臓移植事件を題材にした「小説・心臓移植」(後に「白い宴(うたげ)」に改題)を書いたことをきっかけに同大を退職し、執筆活動に専念した。
 デビュー直後は主に医療をテーマにした作品を発表していたが、恋愛物や歴史物のジャンルにも進出。70年には、西南戦争で負傷した2人の軍人のその後を描いた「光と影」で直木賞を受賞した。97年に出版された「失楽園」は大胆な性愛描写が話題となり、250万部を超える大ベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、タイトルが流行語となるなど、社会現象を巻き起こした。このほかの代表作に「阿寒に果つ」「遠き落日」「女優」など。「鈍感力」のような軽妙なエッセーでも腕を振るった。
 2003年には紫綬褒章を受章。直木賞や吉川英治文学賞などの選考委員も務めた。
 出版社の担当編集者によると、渡辺さんは数年前から前立腺がんを患い、治療を続けていた。昨年末に体調を崩し、自宅で静養中だったという。
 
以前にも書きましたが、渡辺さんには光太郎智恵子にも触れたご著書があります。平成14年(2002)、小学館さん刊行の『キッスキッスキッス』。
 
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同社サイトから。
 
明治から大正・昭和へ、かつての文豪・才人たちが綴った十九通のラヴレター
太宰治、谷崎純一郎、平塚らいてう、高村光太郎等が綴った熱情あふれる十九通のラヴレターを素材に、恋愛小説の名手・渡辺淳一氏が読み解く。谷崎などの高名な文人以外にも、山本五十六のような軍人がきわめて素直に、ありのままの恋心を綴った手紙を、その時代背景とともに渡辺氏が考察を加えるもので、不倫関係であったり、戦時下での極限の恋であったりと赤裸々に思いの丈をぶつけたラヴレターは実に感動的である。明治・大正から昭和にかけての時代史としても貴重な資料であり、また、昨今見直されている日本語の魅力も再発見できよう。著者自らの若き日のラヴレターも収録!
 
光太郎のラヴレターというのは、大正2年(1913)の1月28日、結婚前に智恵子に宛てて書かれたものです。こちらに全文を載せてあります。
 
その手紙を巡って、渡辺さんは『キッスキッスキッス』中で、このように述べられています。
 
 まさしく智恵子の一生は、光太郎という偉大な芸術家に憧れ、愛され、自らも深く愛しながら、自分本来の才能を開花させることができず、むしろ萎れていく。その愛の喜びと自分の才能への絶望と、二つのジレンマの中で傷つき、精神まで傷め、狂い死にしたともいえる。
(略)
 いま二人のあいだに残された唯一通のラヴレターを見るとき、そこにすでに、光太郎の詩人としての才能と、そんな詩人と接して、先に埋もれていく智恵子の運命を予言しているかのようでもある。
 
「化身」「失楽園」「愛の流刑地」などで、男女の愛の形を追い求め続けた渡辺さんならではの恋愛観のつまった一冊です。
 
新刊書店で追悼フェアなどが催されると思います。もしこの『キッスキッスキッス』が並んでいたら、お買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月6日

明治38年(1905)の今日、彫刻調査のため奈良興福寺に向けて東京を発ちました。
 
中旬まで百花園に滞在しながら、興福寺の諸堂に通い、調査にあたりました。

繰り返し書いていますが、今年、平成26年(2014)年は、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。
 
100年前というと大正3年(1914)。
 
「道程」に関しては、2月9日に今知られている詩型の原型となる長大な詩を執筆、それが3月5日に雑誌『美の廃墟』に発表され、10月25日には詩集『道程』が出版されています。この時点でオリジナルの102行あった「道程」はわずか9行に圧縮されました。
 
光太郎智恵子の結婚披露は12月22日。上野精養軒で行われました。ただし、事実婚の状態はその前からだったようですし、披露後も入籍はせず、事実婚の状態が続きました。入籍は実に昭和8年(1933)8月23日。これは、統合失調症が昂進した智恵子の身分保障―光太郎にもしものことがあった時の財産分与―のためと言われています。
 
というわけで、今年は光太郎智恵子にとって重要な節目の出来事が2件、100周年です。そんなわけで、当方、「100周年」という語には敏感な今日この頃です。
 
それでは、それ以外に今年「100周年」を迎える(迎えた)出来事というと……。
 
夏目漱石「こころ」発表
昨日から『朝日新聞』さんで、漱石の「こころ」が復刻連載されています。昨日は大きく特集記事も組まれました。
 
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ちょうど100年前の昨日から、『朝日新聞』紙上に「こころ」の連載が始まったとのことです。
 
ちなみに光太郎は漱石にかみついたこともあります。
 
宝塚歌劇初演
やはり大正3年、阪急電鉄の小林一三の発案により、宝塚新温泉の余興として、少女たちによる歌劇の初演が行われたそうです。今月初めにはいろいろと記念イベントもあり、報道されていました。
 
昨年、福島二本松の大山忠作美術館で、日本画家、故・大山忠作の「智恵子に扮する有馬稲子像」に関し、トークショーをなさった有馬稲子さん。今年の連翹忌のご案内を差し上げたのですが、宝塚100周年のイベントご出席のため、連翹忌は無理、と、直接お電話を頂きました。有馬さんも元タカラジェンヌです。
 
ちなみに小林一三は、光太郎と縁の深い与謝野夫妻の援助者としても有名です。数年前、小林のコレクションの中から、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を記した屏風絵2枚が出てきて、驚きました。
 
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東京駅開業
こちらも大正3年の竣工で、いろいろと記念事業が進行中です。話題性としては手強い相手です(笑)。
 
 
第一次世界大戦勃発
負の記憶として、これも外せない「100周年」です。
 
 
そう考えると、ほんとうにいろいろあった大正3年、1914年ですが、もっともっと、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年が話題になってほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月21日

平成12年(2000)の今日、「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集が発行されました。
 
「20世紀デザイン切手」シリーズ、20世紀末の平成11年(1999)から翌年にかけ、全17集が発行されました。やはり20世紀のクロニクル的な記念切手です。
 
第9集は「「杉原千畝副領事がビザ発給」から」の副題で、昭和15年(1940)~同20年(1945)までの出来事を扱っています。
 
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光太郎も80円切手になりました。<高村光太郎が詩集「道程」で第1回芸術院賞>という題です。
 
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大正3年(1914)の初版刊行でなく、この時期の出来事として扱うか? と首をかしげましたが、まあよしとしましょう。光太郎肖像が使われている唯一の切手ですので。
 
切手になっていない台紙というか余白というか、シート右下には智恵子の紙絵があしらわれています。詩集『智恵子抄』の刊行が昭和16年(1941)だったためです。
 
ちなみに大正3年(1914)前後を扱った第3集はやはり東京駅開業や第一次世界大戦をモチーフにしています。

4月2日(水)、光太郎命日の集い・第58回連翹忌を開催いたします。
 
そろそろお申し込み〆切といたしますが、今のところ、昨年とほぼ同じ約70名ほどの方からお申し込みがありました。ありがたいことです。
 
ご案内を差し上げた方の中には、いろいろなご都合でご欠席という方もいらっしゃいますが、中にはご丁寧にお手紙やメールなどで、ご欠席のご連絡を下さる方もいらっしゃいます。
 
そんなお一人が、芥川賞作家の津村節子さん。000
 
平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行なさり、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞、片岡京子さん主演で舞台化もされました。そんなご縁で過去の連翹忌にもご参加いただいています。
 
今年も連翹忌のご案内をお送りしましたところ、過日、丁重なお葉書を頂きました。
 
曰く、
 
ご案内いただき有り難うございました。北川太一様によろしくお伝え下さいませ
「智恵子飛ぶ」は私の代表作の一つになり その節は大変お世話になり有り難うございました 花巻に講演に行ったことを思い出します
次々に仕事に追われ 現在三・一一の大津波の関係で三陸へ往復しております 吉村昭の文学碑のある田野畑村に津波資料館が出来るので田野畑通いです
 
解説いたしますと、津村さんのご主人は、やはり作家の故・吉村昭氏。平成18年(2006)にご逝去されています。氏には『三陸海岸大津波』というご著書があります。こちらは昭和45年(1970)に刊行されたもので、岩手県の田野畑村を襲った明治29年(1896)と昭和8年(1933)の大津波の証言・記録集です。
 
田野畑村では三年前の東日本大震災の折、やはり津波被害で約30名の尊い命が犠牲になっています。
 
『三陸海岸大津波』、氏の作品の中ではあまり有名なものではなかったそうですが、東日本大震災直後から注目が集まり、文春文庫に入っていたものが緊急増刷されました。
 
他にも氏には田野畑村を舞台とした作品がいくつかあり、そうした関係で同村には氏の文学碑、さらに津村さんの詩碑も建立され、村のHPにはご夫妻と村の関わりについての記述もあります。

さらには吉村さんの蔵書を元にした「吉村文庫」も同村に作られましたが、こちらは東日本大震災の津波で流されてしまいました。
 
さて、昨年発表された「東日本大震災田野畑村災害復興計画」によれば、来年開館予定で「津波資料館」を建設するそうです。
 
津村さんからのお手紙によれば、そちらへのご協力で、田野畑によく行かれていて、お忙しいとのこと。ちなみに津村さんは三鷹にお住まいです。
 
失礼とは存じますが、津村さん、昭和3年(1928)のお生まれで、おん年85歳。頭の下がる思いです。また、先述の吉村さんの『三陸海岸大津波』増刷分の印税、すっかり被災地に寄附されたそうです。かつて、光太郎が昭和26年(1951)に詩集『典型』で第2回読売文学賞を受賞した際、賞金を、当時住んでいた花巻郊外太田村にそっくり寄附したエピソードを彷彿とさせられました。
 
津村さんと田野畑村の活動、今後、001注意して行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月23日

昭和17年(1942)の今日、群馬前橋の岩佐直次の遺族を訪問しました。
 
岩佐直次は海軍中佐。この前年の真珠湾攻撃で特殊潜行艇による作戦を敢行して戦死、いわゆる「九軍神」の一人として称えられました。
 
光太郎は前日から日本少国民文化協会主催の講演会のために前橋に入っていました。翌月の『読売新聞』に「天川原の朝」と題して、岩佐家訪問の様子を発表しています。
 
「天川原の朝」、『高村光太郎全集』の第20巻に収録されており、解題では、雑誌『画報躍進之日本』第7巻第6号(昭和17年=1942 5月31日)を初出としていますが、そちらは転載で、同年4月6日の『読売新聞』が初出でした。

3/8、9東北紀行レポートの3回目です。
 
3/9(日)、仙台から東北新幹線に乗り、北上で在来の東北本線に乗り換えました。この日最初の目的地は、岩手県紫波郡紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」さんです。
 
最寄り駅は「日詰」。花巻と盛岡の中間ぐらいでしょうか。
 
ホームに降り立ち、乗っていた列車が発車して行ってしまうと、実に意外な音、というか声が聞こえてきました。何と、白鳥の声です。
 
ホームから見える田んぼに、ざっと百羽以上の白鳥の群れ。
 
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湖などでなく、こういう形で白鳥を見たのは初めてで、感動しました。
 
駅前には宮澤賢治の短歌が記された碑がありました。
 

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曰く、
 
 さくらばな 日詰の駅のさくらばな かぜに高鳴り こゝろみだれぬ
 
大正6年(1917)、盛岡高等農林学校在学中の作品だそうです。
 
ところで野村胡堂・あらえびす記念館さんケータイの地図アプリで見てみると、日詰駅から約3.5㎞。路線バスは見あたらず、タクシーもいません。仕方なく、歩くことにしました。まぁ、毎日犬の散歩で5~6㎞歩くことはざらですので、さほど苦にはなりません。ただ、一泊分の大荷物を担いでなのが大変でした。

野村胡堂は光太郎より一つ年長。ここ、紫波町の出身で、「銭形平次」シリーズの著者として有名です。また「あらえびす」の筆名で音楽評論家としても活躍しました。
 
そして胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
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野村胡堂・ハナ夫妻
 
というわけで、光太郎智恵子関連の収蔵品があるかも知れないと思い、行ってみることにしました。
 
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途中の北上川に掛かる橋の欄干です。さすが「銭形平次」の里。ところで平次の恋女房・お静には、愛妻・ハナのイメージが投影されているそうです。当方、テレビ時代劇の「銭形平次」-最初の大川橋蔵さん主演の-での香山美子さんのイメージが鮮烈に残っています。「お前さん、いっといで」と切り火を切って送り出すような。
 
記念館の少し手前に、野村胡堂の生家も残っていました。

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立派な日本家屋ですが、驚いたことに、まだ「野村さん」がお住まいです。帰ってから調べてみたところ、住まわれているのは胡堂の弟のご子孫だそうです。
 
さて、記念館につきました。

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入口では胡堂の胸像が出迎えてくれます。
 
 
さらに館内に入ると、北大路欣也さん主演のシリーズで実際に使われた平次の衣装が出迎えてくれます。が、ここからは撮影禁止。そこでパンフレットの画像を載せさせていただきます。
 
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展示スペース、それほど広いわけではありませんが、導線がしっかりしているうえに壁の使い方が特徴的で、面白いと思いました。当方、花巻の光太郎記念館改修などに関わっているので、そういうところに目が行ってしまいます。
 
胡堂本人の資料ももちろん、島崎藤村の書や手紙などが多く展示されていました。他に江戸川乱歩やサトウハチローなどからの書簡も。
 
残念ながら光太郎智恵子に直接関わる展示物はなかったのですが、胡堂の生涯を紹介するビデオでは、先述の結婚披露宴介添えの話で、智恵子に触れていました。
 
それから音楽評論家「あらえびす」としてのレコードコレクションもものすごいのですが、こちらはリスト作成中とのこと。もしかすると光太郎作詞の戦時歌謡などの類も含まれているかも知れません。今後に期待します。
 
さて、意外とじっくり観たので、時間がおしてしまいました。次なる目的地、盛岡てがみ館に午後2時には入らないといけませんし、その前に昼食も取りたいところです。また日詰駅まで大荷物を抱えて3.5㎞、さらに在来の各停で盛岡、そして盛岡駅からてがみ館までも約2㎞……というのも大変だと思い、奮発してタクシーを使うことにしました。
 
盛岡編はまた後日。
 
今日はまた都内に出かけて参ります。用件は二つ。まずは福岡を拠点に活動されている女優の玄海椿さんの舞台を三鷹まで見に行きます。玄海さんの舞台は一昨年、「智恵子抄」が演目だった時に福岡まで観に行きました。今回は東京公演で、「黒田官兵衛」だそうです。
 
それから表参道のギャラリー山陽堂さんにて、「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」とトークイベント
 
明日のこのブログは東北レポートを一旦休止してそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月14日

平成5年(1993)の今日、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)御崎の海岸公園に、光太郎歌碑が除幕されました。
 
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女川同様、昭和6年(1931)の「三陸廻り」で光太郎が訪れた記念です。
 
刻まれているのは短歌。
 
黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり

ブログ記事のカテゴリは東北岩手としていますが、東京日野でのイベント情報です。  ネット検索で見つけました。

賢治の教え子シリーズその7「クラムボン」 上映会

日 時 : 2013年12月13日(金) 10時~
会 場 : conomiya-cafe 東京都日野市 日野本町 4-22-7-2
問い合わせ:東京賢治シュタイナー学校(担当:竹内様)電話042-523-7112
 
立川にある、幼稚園から高校までの東京賢治シュタイナー学校さんの主催だと思われます。
 
同校にて1990年代に作成されたDVD「宮沢賢治の教え子インタビュー映画」(全8巻+別巻2+総集編1)というものがあります。
 
そのうちの第7巻「クラムボン」(90分)の上映が、上記、日野のカフェで行われる、ということでしょう。
 
さて、その内容なのですが、同校のサイトから抜粋します。

その7「クラムボン」

1999年 90 分
北上川に浮かぶ小舟に乗った宮沢先生と教え子の照井謹二郎さん。その川面にリンゴを落として遊ぶ先生。水面に広がる輪が光を受けて輝く。「きれいだー」と感動し何度もくり返す先生。照井さんは、よく先生に連れられて、山や川に行き、そんな姿を見ていました。その後、幼稚園の園長となった照井さんは、約50年間賢治の童話劇を子どもたちと共に取り組んでいくことになりました。また、浅沼政規さんは詩人高村光太郎や宮沢先生との出会いを語り、「雨ニモマケズ」の詩中の「ヒドリ」をめぐって語ってくれます。
 
故・照井謹二郎氏、故・浅沼政規氏、ともに花巻の方ですが、光太郎とも交流のあった方々です。
 
照井氏は、登久子夫人と共に昭和21年(1946)に子供達による劇団「花巻賢治子供の会」を結成、賢治童話を上演し続けました。そもそもの始まりは、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に独居していた光太郎を慰安する目的だったようですが、光太郎に激賞され、本格的に公演を行うようになったそうです。
 
浅沼氏は山荘近くの太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。
 
ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。今年10月に放映されたNHKの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」中の花巻ロケにご出演、生前の光太郎について語って下さいました。
 
そのお二人の出演されたDVDということで、興味深いものがあります。ただ、当方、日程が合わず行けません。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月3日

昭和23年(1958)の今日、花巻郊外太田村の山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格、開校式が行われ、詩「お祝いのことば」を朗読しました。
 
  お祝いのことば
 
あのかはいらしい分教場が急に育つて
たうとう山口にも小学校ができました。007
教室二つの分教場が大講堂にかはり、
別に新しい教室が三つもでき上りました。
部落の人々と開拓の人々が力を合せて
こんなに早く学校を建てました。
みんなが時間と資材と労力と、
もつと大きい熱情といふものを持ち寄つて
この夢の実現を果しました。
陽春四月の雪解ごろから
夏のあつい日盛りや秋のとり入れの忙がしい中を
汗水流して材木運びや地均しをした人達の群がりが
今ブルーゲルの画のやうに眼に浮びます。
損得を超越して成就を期した棟梁の人、
骨身を惜しまず仕事にいそしんだ大工さん左官屋さん、
みんな物を作り上げるといふ第一等の喜びを知つてゐる人のやうです。
あの製板の器械のうなり、
あの夜おそくまで私の小屋に聞えてきた槌の音、
まるできのふのやうになつかしく耳に残つてゐます。
山口小学校は名実ともに立派にでき上がりました。
西山の太田村山関といふ小さな人間集団が
これで世間並の教育機関を持つのです。
小学校の教育は大学の教育よりも大切です。
本当の人間の根源をつくるからです。
部落の人も開拓の人もそれをよく知つてゐると思ひます。
異常な熱意がこの西山の一寒村にたぎつてゐます。
狐やまむしの跳梁する山関部落が
世界の山関部落とならないとはいへません。
私は大きな夢をたのしみます。
かはいい山口小学校の生徒さん達の上に
私の夢は大きくのびて遊びます。
あめでたうございます。
一歩前進、
いよいよ山口小学校ができました。
 
上の画像はありし日の旧山口小学校校舎です。残念ながら昭和45年に廃校となり、さらに歴史民俗資料館として活用されていた校舎も老朽化のために取り壊されてしまいました。
 
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この写真は、昭和24年(1949)の今日、開校から1008周年の学芸会の日の一コマです。サンタクロースに扮する光太郎。この写真を見ると涙が出そうになります。どういう思いでこの寒村に7年も一人で暮らしていたのか……。
 
ちなみに後ろに写っている「山口小学校」の看板は光太郎の揮毫、その右の窓から顔を出している少年が、浅沼政規氏ご子息・隆氏だそうです。

過日、目黒区駒場の日本近代文学館さんに行って参りました。
 
現在、2階の展示室では秋の「特別展 新収蔵資料展」が開催されています(11/23まで)。
 
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並んでいるのは2010年以降に同館で新しく収蔵した資料の中から選りすぐりの特色のある品々。
 
以下、出品リストです。
 
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まさに宝の山、という感じでした。
 
夏目漱石の「猫の死亡通知」、太宰治の学生時代のノート、三島由紀夫自筆の屏風、江戸川乱歩の草稿、室生犀星の自筆訂正本……。第二展示室では同時開催で川端康成限定のコーナーもありました。近代文学マニアにはたまらないと思います。
 
光太郎に関しても、親交のあった作家・田村松魚に宛てた葉書が4通並んでいました。こういう機会にいつも思うのですが、たくさん並んでいる展示品の中から光太郎の筆跡を見つけると、ふと旧友と再会したような気分になります。
 
ある意味驚いたのは、吉本隆明や干刈あがたの草稿。たしかに故人ですが、過去の文豪たちと同じところに並ぶことで、もう「歴史」の一部になっているのか、という感覚でした。
 
2階の展示を見る前に、1階の閲覧室を利用させていただきました。実はこちらの方がメインの目的でした。
 
やはり新収資料(だと思います。以前にネットで蔵書検索をかけた時にはヒットしませんでしたので)の、大正時代の短歌同人誌『芸術と自由』が目当てでした。同誌の第1巻第8号(大正15年=1926)に、『高村光太郎全集』等に未収録の作品が載っているという情報だけは得ており、確かめようと思ったわけです。
 
すると、「口語歌をどう見るか(批判)」というアンケートでした。短い文章ですが、『高村光太郎全集』等に未収録ですので、貴重な発見です。来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
先の展示にしてもそうですが、同館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からの寄贈によるものだそうです。こうして公の目に触れる形で残されるというのはすばらしいことですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月18日

昭和26年(1951)の今日、光太郎危篤というデマが流れ、東京本社から電話を受けた読売新聞の支局の記者が、花巻郊外太田村山口の山小屋に確認に来ました。
 
笑えるような笑えないようなエピソードですね。光太郎、どんな顔をして記者に会ったのでしょうか。

目黒区駒場にある日本近代文学館でのイベント情報です。 

「秋の特別展 新収蔵資料展」


期 日 : 2013年9月28日(土)~11月23日(土)
会 場 : 日本近代文学館  東京都目黒区駒場4-3-55
時 間 : 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
休 館 : 日・月曜日、第4木曜日(10月24日)
料 金 : 一般 200円 (20名以上の団体 100円、維持会・友の会会員 無料)
監 修 : 池内輝雄
 
日本近代文学館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からのご寄贈によるもので、その貴重な資料を展示・公開する新収蔵資料展を定期的に開催しています。
 
本展覧会では、2010年以降に新しく収蔵した資料のなかから、特色のある品々をご紹介いたします。
この3年間で新たに加わった「内村鑑三研究所文庫」「紅野敏郎文庫」「齋藤磯雄文庫」の資料をはじめ、本年春に寄贈を受け話題となった太宰治の学生時代のノート・教科書類や、夏目漱石が門下生の鈴木三重吉に「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の死を通知した「猫の死亡通知」など、貴重な資料を多数展示いたします。
 
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」(明治41年9月14日)
鈴木三重吉宛夏目漱石(明治41年9月14日)
「猫の死亡通知」
また、三島由紀夫が自死する直前の1970年11月に池袋の東武百貨店で開催された「三島由紀夫展」のために揮毫した屏風は、同展以来の公開となります。
 
主な出品資料
太宰治の学生時代のノートや教科書、およびそれらを保管していた信玄袋
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」
村上浪六・信彦資料より 浪六画「赤裸ニ窺天下」
中野重治原稿「『平和革命』と文化ということ」
中村真一郎日記
内村鑑三研究所文庫の蔵書
齋藤磯雄文庫より 齋藤著「ピモダン館」原稿
紅野敏郎文庫より 谷崎潤一郎「近松秋江『黒髪』序文」原稿
登張竹風・正実資料より 竹風宛泉鏡花書簡
田村松魚資料より 松魚宛高村光太郎書簡
北村孟徳資料より 孟徳宛内田百閒書簡
楠山正雄資料より 『新訳イソップ物語』初版本
香西昇旧蔵直木三十五資料より 直木「大阪落城」原稿
寺崎浩資料より 「ゴルキー通りの女」原稿
芥川賞・直木賞コレクション新規収蔵原稿
 
同時開催 川端康成記念室 「モダニズムと浅草」

田村松魚(しょうぎょ)は幸田露伴門下の作家。昭和4年(1929)に刊行された光雲の『光雲懐古談』主要部分の聞き書きをするなどしています。妻も作家の田村俊子、智恵子の数少ない親友の一人でした。
 
光太郎・智恵子夫妻もかなり独特の夫婦でしたが、輪をかけてドラマチックだったのが松魚・俊子夫妻(後に離婚)でした。
 
高村夫婦との交流を含め、詳細は以下の書籍等でわかります。
 
 

 ところで問題の書簡は、平成17年にその存在が報じられました。その数なんと55通。翌年には笠間書院さんから『高村光太郎進出書簡 大正期 田村松魚宛』田村松魚研究会間宮厚司編が刊行され、その全貌が明らかにされました。
 
『高村光太郎全集』補遺作品集として当方が手がけている「光太郎遺珠」には、最初に発表された6通のみ掲載させていただきました。残りは数が多すぎるので、いまだ収録していません。いずれ、第3次の『高村光太郎全集』が出るとしたら、組み込ませていただきたいと考えています。
 
この55通はその後、同22年に日本近代文学館さんに寄贈されています。今回の展示ではその中から出品されるのでしょう。何通ならぶのかは不明です。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月23日

大正10年(1921)の今日、光太郎が設計した府下高井戸村の可愛御堂が落成、献堂式に出席しました。
 
可愛御堂は光太郎とのちのちまで交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)が開いた百姓愛道場内に建てられました。建立の趣旨は、その趣意書によれば、子を失った親たちのために一つの庵を建て、天上の子供らの霊が睦み遊んでいるように、地上の親兄弟姉妹もここで一つになって睦み合うようにとのことでした。元々はやはり愛児を失った江渡がその遺骨を寺に預けるに忍びず、百姓愛道場内に祀っていたことに始まるそうです。
 
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光太郎、駒込林町のアトリエも自分で設計しましたが、建築設計にもその才を発揮していました。舌を巻くマルチさの一端が見て取れます。

東京日野市での市民講座的なものの案内をネットで見つけました。
 
主催は公益財団法人社会教育協会さんです。 

こんなに面白い 近代文学入門コース 宮沢賢治と昭和の作家たち

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2013年秋季 宮沢賢治と昭和の作家たち
2013年 9/26 10/10・24 11/14・28 12/12 (全6回)
第②・④木曜日 10:00~12:00
講 師 青木登(紀行作家)
場 所 公益財団法人社会教育協会ゆうりか 日野市多摩平1-2-26 シンデレラビル
参加費 10,710円 教材費1,200円別途
 
宮沢賢治 は明29年、岩手県花巻市に生まれ、岩手県に理想郷ドリームランド・イーハトヴを建設しようとた。しかし、冷害や旱魃に見まわれ、世界恐慌に直面して挫折し、傷つき倒れた。
しかし賢治が夢みた理想の世界は賢治が残した童話や詩によって、私たちの胸に生き、限りない感動を与える。
取り上げる童話は、「どんぐりと山猫」「注文の多い料理 料理店」「なめとこ山の熊」「雪渡り」「セロ弾きゴーシュ」「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「おきなぐさ」「よだかの星」「二十六夜」「銀河鉄道の夜」。
詩集「春と修羅」から妹の死を悲しんで詠んだ「無声慟哭」三部作、「岩手山」「小岩井農場」「岩手軽便鉄道」「雨ニモマケズ」「もうはたらくな」「原体剣舞連」。
 
賢治の生前に賢治の作品を評価した著名人の高村光太郎。光太郎は昭和20年に賢治の弟宮沢清六の招きで花巻に疎開し、花巻郊外の山小屋で農耕自炊生活をした。高村光太郎から取り上げる作品は、「智恵子抄」「典型」「智恵子抄その後」。
 
申し込み等は以下のリンクを参照して下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月27日

明治42年(1909)の今日、上州磯部温泉、赤城山などへの旅から帰京しました。
 
この年7月には3年半にわたる欧米留学から帰国しています。赤城山は光太郎が自分の中の日本の原風景と位置づけていたようで、留学前から何度も訪れ、そして帰国早々また訪れています。
 
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一昨日、神田の古書会館に行ったついでに、千駄木の森鷗外記念館にも足を伸ばしました。
 
現在、同館では企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」を開催中です。その中の「ミニ企画」として「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」というコーナーが設けられています。
 
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鷗外はあくまで小説家ですが、若い頃にはドイツ留学中に触れたゲーテなどの詩を翻訳したり、千駄木団子坂上の自宅・観潮楼(光太郎アトリエは目と鼻の先です)で歌会を催したりするなど、詩歌にも親しんでいました。観潮楼歌会には、伊藤左千夫や石川啄木、そして光太郎も参加しています。
 
鷗外の作もなかなかのもので、朴訥な中にも厳めしさが漂う、まさに鷗外その人のような歌風です。そういった関連の展示物が並ぶ中に、ミニ企画・「駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」。以下、リーフレットから引用させていただきます(図録は刊行されていませんでした)。
 
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特に目新しいものは並んでいませんでしたが、光太郎から鷗外宛の葉書は肉筆ものですのでかなり貴重です。「おやっ」と思ったのは鉄幹与謝野寛から鷗外宛の書簡。明治42年に留学から戻った光太郎の帰朝歓迎会の案内で、与謝野寛が呼びかけたというのは存じませんでした。この会には招きに応じ、鷗外も参加しています。
 
ちなみに下の画像は展示されたものと同じ雑誌『スバル』明治42年10月号の裏表紙。たまたま当方の手元にも一冊在ります。光太郎の描いた戯画で、「観潮楼安置大威徳明王」と題されていますが、鷗外を茶化したものです。大威徳明王は不動明王と同じく五大明王の一人で、仏法を守護する闘神。たしかに鷗外のイメージにぴったりといえばそうですが、光太郎、大先輩をこんなふうにいじるとは、とんでもありませんね……(笑)。
 
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企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」(含「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」)は9月8日まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今日はいよいよ千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」です。当方はあくまでサブで、メインは北川太一先生ですので気楽ですが、頑張ります!
 
【今日は何の日・光太郎】 7月7日

明治37年(1904)の今日、この年2回目の赤城山登山ををしました。後に与謝野寛、伊上凡骨ら新詩社同人も赤城を訪れ、合流しています。

昨日のブログでご紹介しましたが、かの夏目漱石は美術に006も造詣の深い作家でした。
 
まとまった展覧会評としては唯一のものだそうですが、大正元年(1912)の『東京朝日新聞』に、12回にわたって「文展と芸術」という評論を書きました。「文展」とは「文部省美術展覧会」。いわゆるアカデミズム系の展覧会で、正統派の美術家はここでの入選を至上の目標にしていたと言えます。第一部・日本画、第二部・西洋画、第三部・彫刻の部立てで、上野公園竹之台陳列館で開催されていました。大正元年で6回めの開催でした。

さて、漱石の「文展と芸術」。その第一回の書き出しはこうです。
 
芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。
 
注・当時は送り仮名のルールがまだ確立されていませんので、「はじまって」は「始まつて」ではなく「始つて」、「おわる」も「終わる」でなく「終る」と表記されています。
 
この漱石の言に光太郎が噛みつきました。
 
『読売新聞』にやはり12回にわたって連載された光太郎の文展評「西洋画所見」の第8回で、光太郎はこう書きます。
 
この頃よく人から芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく。此は夏目漱石氏が此の展覧会について近頃書かれた感想文に流行の 源(みなもと)を有してゐるのだといふ事である。
  (中略)
私の考へでは此一句はかなり不明瞭だとも思へるし、又曖昧だとも思へる。殊に芸術作家の側から言ふと不満でもある。
 
光太郎の論旨は、芸術作品に自己が投影されるのは当然のことであり、ことさら「自己を表現しよう」と思って制作を始めたことはなく、漱石の「自己の表現に始つて」という言には承服できないということです。
 
ただし、光太郎は「文展と芸術」を熟読していなかったようで、「西洋画所見」中には
 
私はつい其(注・「文展と芸術」)を読過する機会がなかつたので、此に加へた説明と條件とを全く知らないでゐる。
 
という一節もあります。
 
こうした光太郎の態度に漱石は不快感を隠しません。十一月十四日付の津田青楓宛て書簡から。
 
 高村君の批評の出てゐる読売新聞もありがたう 一寸あけて見たら芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ小生の言を曖昧だといつてゐます、夫から陳腐だと断言してゐます、其癖まだ読まないと明言してゐます。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました夫(それ)であとを読む気になりません新聞は其儘たゝんで置きました。然し送つて下さつた事に対してはあつく御礼を申上ます
 
実は漱石の言は、芸術は何を表現するのか、芸術は誰のためにあるのかという問いに対する謂で、間接的に文展出品作の没個性や権威主義を批判するものであり、よく読めば光太郎は反論どころか共鳴するはずだという説が強いのです(竹長吉正『若き日の漱石』平成七年 右文書院 他)。
 
結局、漱石の方では黙殺という形を取り、論争には発展しませんでしたが、「文展と芸術」をよく読まず噛みついた光太郎に非があるのは明白です。
 
漱石は度量の広いところもありました。この年、時を同じくする十月十五日から十一月三日まで、読売新聞社三階で、光太郎、岸田劉生、木村荘八らによるヒユウザン会(のち「フユウザン会」と改称)第一回展覧会が開催され、反文展の会と話題を呼びました。光太郎は油絵「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」を出品。このうち「つつじ」は漱石と一緒に会場を訪れた寺田寅彦に買われたそうです。一緒にいた漱石は別に寺田を咎めたりはしていません。
 
ちなみに智恵子の出品も予告されたが実現しませんでした。
 
こうしたバトルについて、現在開催中の「夏目漱石の美術世界展」、それにリンクした雑誌『芸術新潮』の今月号、NHK制作の「日曜美術館」等で取り上げてくれれば、と残念です。
 
テレビで取り上げる、といえば、昨夜放映されたBS朝日の番組「にほん風景遺産「会津・二本松 二つの城物語」」で、光太郎の詩「あどけない話」「樹下の二人」が紹介されました。ありがたいことです。

 
【今日は何の日・光太郎】 6月5日

昭和8年(1933)の今日、岩波書店から「岩波講座 世界文学」第七回配本として、光太郎著『現代の彫刻』が刊行されました。
 
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当時の世界の彫刻界について、非常にわかりやすく書かれています。
 
当方、昔、神田の古書店で200円で購入しました。確かにペーパーバックの薄い書籍ですが、それにしても200円は光太郎に失礼だろう、と憤慨しつつ買いました。安く手に入ったのはいいのですが(笑)……。

こんな企画展が開催中です。 

夏目漱石の美術世界展

2013年5月14日(火)~7月7日  東京芸術大学 大学美術館
 
近代日本を代表する文豪、また国民作家として知られる夏目漱石(1867~1916)。この度の展覧会は、その漱石の美術世界に焦点をあてるものです。 漱石が日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていることは多くの研究者が指摘するところですが、実際に関連する美術作品を展示して漱石がもっていたイメージを視覚的に読み解いていく機会はほとんどありませんでした。 この展覧会では、漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めてみることを試みます。 私たちは、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみることになるでしょう。
 
また、漱石の美術世界は自身が好んで描いた南画山水にも表れています。 漢詩の優れた素養を背景に描かれた文字通りの文人画に、彼の理想の境地を探ります。 本展ではさらに、漱石の美術世界をその周辺へと広げ、親交のあった浅井忠、橋口五葉らの作品を紹介するとともに、彼らがかかわった漱石作品の装幀や挿絵なども紹介します。 当時流行したアール・ヌーヴォーが取り入れられたブックデザインは、デザイン史のうえでも見過ごせません。
 
漱石ファン待望の夢の展覧会が、今、現実のものとなります。
(チラシより)

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過日このブログでご紹介した雑誌『芸術新潮』の今月号が、この企画展とリンクしています。
 
「序章 「吾輩」が見た漱石と美術」「第1 章 漱石文学と西洋美術」「第2 章 漱石文学と古美術」「第3 章 文学作品と美術 『草枕』『三四郎』『それから』『門』」「第4章 漱石と同時代美術」「第5 章 親交「」の画家たち」「第6 章 漱石自筆の作品」「第7 章 装幀と挿画」という筋立てで、古今東西のさまざまな作品が並んでいます。
 
光太郎とも縁の深かった作家の作品も数多く出品されています。荻原守衛、岡本一平、南薫造、岸田劉生、斎藤与里、石井柏亭などなど。光太郎の作品が出ていないのは残念です。
 
漱石は自作の中にさまざまな美術作品をモチーフとして効果的に使っていること、また、津田青楓ら同時代の画家と親交があったこと、そして橋口五葉による自作の装丁が非常にすばらしいこと、さらに「文展と芸術」という有名な美術批評を書いていることなど、美術にも造詣が深いというのが定評です。
 
絵画などの漱石自身の作品も残っています。しかしこちらは漱石の孫である夏目房之介氏によれば「相当にレベルが低いといわざるをえない」。『芸術新潮』ではむちゃくちゃな遠近法や、むやみに色を塗って破綻している点などを酷評しています。しかし、そこには孫としての暖かな眼差しもまぶしてありますが。
 
一昨日、NHKEテレで放映された「日曜美術館」も、「絵で読み解く夏目漱石」と題してこの企画展にリンクした内容でした。ちなみに同番組とセットで放映される「アートシーン」では、先月のこのブログでご紹介しました中村好文氏の「小屋においでよ!」展が紹介されました。こちら、明日、行ってくるつもりです。
 
ところで評論「文展と芸術」について、光太郎が承服できかねる旨を発言し、漱石に噛みつきました。今回の企画展でも、『芸術新潮』でも、「日曜美術館」でもその点に触れられていないのが残念でした。明日はその辺りを書いてみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月4日

昭和26年(1951)の今日、銀座資生堂ギャラリーで「高村智恵子紙絵展覧会」が開幕しました。

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東京での初の紙絵展で、この時から「切絵」「切紙絵」などと言われていた智恵子の作品が、光太郎の発案により「紙絵」の呼称で統一されることになりました。

新刊雑誌です。昨日、買ってきました。

『芸術新潮』2013年6月号「特集夏目漱石の眼」

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〈年譜〉芸術と歩んだ49年
 
〈一〉名作をいろどる絵画たち
絵で読み解く漱石の理想の女性像と芸術 【文】古田亮
〈再録〉 文展と芸術(抄) 
“門外漢”の美術時評 大正元年(1912)第六回文展評「文展と芸術」より
〈コラム〉イメージの連鎖 漱石から宮崎駿へ 【文】古田亮
 
〈二〉漱石とゆく、ぶらり明治の東京散歩
路線図でたどる文豪の足跡
漱石の目に映る、変りゆく都市東京 【文】黒川創
 
〈三〉
技あり「漱石本」総覧
漱石本を解剖する 【文】岩切信一郎
 
〈四〉
お手並拝見 先生の書画
趣味の効用 【文】夏目房之介
 
「漱石」といえば「文豪」の代名詞ですが、美術批評でも活躍していました。特に目次にもある大正元年(1912)の文展(文部省美術展覧会)の評は有名です。これに光太郎がかみついて、不興を買ったことも知られています(この件に関しては項を改めて書きます)。
 
また、そういうわけで美術にも造詣が深く、書画も制作していますし、自作の小説の中に古今東西のさまざまな名画が登場します。
 
そのあたりにスポットをあてた特集です。かなり読み応えがありそうで(他用が多くまだよく読んでいません)、熟読するのが楽しみです。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月26日

昭和17年(1942)の今日、丸の内産業組合会館で行われた日本文学報国会の創立総会に出席、詩部会会長に就任しました。
 
「報告」でなく「報国」。戦時の国家総動員に関わる文学者の統制団体です。

今日の新聞に、推理作家の佐野洋さんの訃報が載っていました。

佐野洋氏死去 推理小説界の重鎮

2013.4.28 00:58  
 名物批評コラム「推理日記」の連載などで知られた、作家で推理小説界の重鎮、佐野洋(さの・よう、本名・丸山一郎=まるやま・いちろう)氏が27日午後9時25分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。84歳。葬儀・告別式は故人の遺志で行わない。後日、お別れの会を開く。
 「短編の名手」といわれ、読売新聞記者時代の昭和33年、推理作家デビュー。39年、「華麗なる醜聞」で日本推理作家協会賞。48年から月刊誌「小説推理」に名物批評コラム「推理日記」を39年間連載し、日本推理作家協会理事長も務めた。
 平成9年、日本ミステリー文学大賞。21年に菊池寛賞受賞。代表作に「事件の年輪」など。
 
当方、佐野氏の著書を一冊持っています。光文社文庫の「歩け、歩け」(2007/1/20)。
 
裏表紙の紹介文から。007
 
娘が着メロに入れてくれた昔の唱歌「歩くうた」が、老父との思い出を甦らせた。
ふとしたことで知った、子供時代の父の身に起きた事件とは?(表題作)
読後、深く心に残る人生の機微。単行本未収録作9編を収録。
 
モチーフに使われている「歩くうた」が、昭和15年(1940)に作られた光太郎作詞の国民歌謡です。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月29日

昭和23年(1948)の今日、新たに作られた盛岡美術工芸学校の開校式への祝辞を書きました。

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