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お父さまが光太郎と面識がおありだったこともあり、連翹忌にもよくご参加下さっている渡辺えりさん率いる劇団「おふぃす3○○(さんじゅうまる)」さんの公演です。
 
2012年、下北沢の座・高円寺での初演以来の再演、今回は全国11ヶ所を巡回します。 
【盛岡】10月19日(日)         盛岡劇場メインホール  14時
【東京】10月23日(木)~28日(火)シアター・トラム
【石巻】11月1日(土)         石巻特設会場  時間未定
【兵庫】11月3日(月・祝)       兵庫県立芸術文化センター・阪急中ホール  17時
【石川】11月5日(水)         北國新聞赤羽ホール   19時
【山口】11月8日(土)・9(日)      山口情報芸術センター 8日(土)14時 / 9日(日)14時
【宮崎】11月11日(火)          三股町立文化会館ホール  19時
【愛知】11月24日(月・休)        長久手市文化の家・森のホール  18時
【福島】11月27日(木)          南相馬市民文化会館  19時
【宮城】11月28日(金)          日立システムズホール仙台・シアターホール 19時
【山形】11月30日(日)          シベールアリーナ 13時/17時
 
作・演出 渡辺えり
 
キャスト 大沢 健 大和田美帆 土屋良太 谷川昭一朗 宇梶剛士 大塚加奈子 有賀太朗 藤本沙紀
      川口龍 十倉彩子 渡辺えり 他
 
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教師時代の宮澤賢治を主人公に、理想と現実のはざまで苦悩・葛藤する姿が描かれています。そんな賢治を温かく見守る弟の清六や妹のトシ、逆に非難・嘲笑する人々、そして賢治を取り巻く「イーハトーヴ」の大自然とのからみなどが、猫の大群を擁した幻想的な賢治童話に乗せて展開されます。渡辺さんは賢治童話「貝の火」に出てくる子ウサギ、宇梶剛士さんはなんと岩手山の役もなさいます(笑)。
 
こちらは一昨年の公演のパンフレットです。
 
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光太郎は登場しませんが、ストーリーの中で何度も「高村光太郎先生」として語られます。
 
山形出身の渡辺さんは、東北への強い思い入れをお持ちのようで、この「天使猫」、そして光太郎を主人公とした「月にぬれた手」を、東北で上演したいと、常々おっしゃっていました。そこで、今回、初日は盛岡ですし、千秋楽は山形。宮城や福島での公演もあります。
 
各会場、盛況となることを祈念いたします。
 
また、「月にぬれた手」の東北公演も実現してほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月3日
 
昭和10年(1935)の今日、中原綾子の詩集『悪魔の貞操』が刊行されました。
 
光太郎が題字と序詩「「悪魔の貞操」に題す」を書きました。002
 
   「悪魔の貞操」に題す
 
 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。
 
原題は「「悪魔の貞操」に寄す」でしたが、のち、雑誌に再録された際に改題されました。
 
はじめ、光太郎は序詩として、『智恵子抄』にも収められた「人生遠視」を中原に送りましたが、中原側からのクレームで変更になりました。
 
   人生遠視
 
 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる
 
たしかにこんな詩を送られても困りますね。
 
この年二月の中原宛の書簡にはこのように記されています。
 
先日お送りした短詩について発表の御心配をうけ、小生まるで気がつかなかつた事なので成程と思ひました、
(略)
智恵子が全快でもしたあとでそれを見たら変なものだらうとも考へました、何となしに懸念のあるものを折角のあなたの詩集のあたまに印刷するのもいかがと思ひますから、此は撤回いたします、 そのうち何かお送りいたします、
 
この時期は、ちょうど智恵子を南品川のゼームス坂病院に入院させた時期で、光太郎は確かに大変な時期でした。智恵子の狂躁状態、それに伴う自分の苦労などを、中原に宛てた複数の書簡に書いています。それにしても、他人の詩集の序詩に「自分の妻が狂気する」はいくらなんでも……と思います。そうした当たり前のことに考えが至らないほど、光太郎も追い詰められていたのかも知れません。

2週間程前に、お茶の水の石川武美記念図書館さんに行って、明治・大正期の少女雑誌を調べて参りました。その際、智恵子の妹、長沼セキ(世喜子)の書いた物語、「忘れずの記」を見つけ、コピーして来ました。こちらは博文館発行の『少女世界』大正元年(1912)9月の第7巻第12号に掲載されていました。
 
事前に、もう一件、目星を付けていたものがありました。金港堂書籍刊行の『少女界』明治43年(1910)9月の第9巻第11号です。幸いこちらも、石川武美記念図書館さんに収蔵されており、コピーをとってきました。
 
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こちらには、「智恵子」署名の物語、「百合の精」が掲載されています。こういうものがある、という情報だけは得ていましたが、現物を見るのは初めてでした。
 
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内容的には、両親を亡くした少女が、それを不憫に思った百合の妖精になぐさめられる、というもので、6ページ程の短編です。ちなみに物語の舞台は飛騨です。
 
作者の姓が書かれておらず、「智恵子」のみのクレジットです。そこで、我らが長沼智恵子の可能性もある、と思って、いろいろ調べているのですが、どうにもよくわりません。
 
明治43年(1910)は、長沼智恵子はまだ光太郎と出会う前。明治40年(1907)に、日本女子大学校を卒業し、郷里に帰らず、太平洋画会研究所に通って、絵の修行をしていた時期です。有名な『青鞜』の表紙絵を描き、光太郎に出会うのは明治44年(1911)です。
 
長沼智恵子の年譜では、この時期に少女雑誌に寄稿していたという記録はありません。しかし、寄稿ではないものの、博文館の『少女世界』には、明治44年(1911)とその翌年の2回にわたり、智恵子の描いた絵が口絵に使われています。
 
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絵ではなく、文筆作品が活字になったのは、確認できているものとしては、明治45年(1912)の『青鞜』に載った「マグダに就て」が最も古いものです(町立福島高等女学校の卒業式答辞が、明治36年(1903)の『福島民友新聞』に載りましたが、「文筆作品」とは言えますまい)。 
 
この頃、他に有名な「智恵子」としては、閑院宮載仁親王妃が智恵子という名前です。明治の元勲・三条実美の娘です。ただ、宮妃が少女雑誌に寄稿するのも考えにくいところです。ざっと調べた中では、智恵子妃がそうした活動をしていたという記録は見あたりませんでした。
 
また、のちの『青鞜』社員の中に、「伊藤智恵」という名前があるのですが、この人についてもよくわかりません。比較的有名な歌人の山中智恵子、ピアニストの原智恵子は、まだ生まれていません。
 
さらに、本名が「とら」とか「かめ」とか言う女性、または女性に限らず「権左右衛門」さんや「捨三」氏が、ペンネームとして「智恵子」と名乗ることも、全くないとはいいきれません。
 
結局、「百合の精」の作者、「智恵子」は謎のままです。
 
情報をお持ちの方は、ご教示いただけると、幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月17日
 
昭和30年(1955)の今日、日記に「連日の猛暑に閉口」と書きました。
 
このブログでも何度かふれましたが、光太郎は体質的に夏の暑さに弱く、冬大好きの人でした。

一昨日、神田の東京古書会館に明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観を観に行きましたが、その足でもう一件、別の用事も済ませてきました。
 
行き先はJRお茶の水駅近くの石川武美記念図書館さん。以前はお茶の水図書館という名称でしたが、昨年4月に名称が変わりました。
 
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こちらは主婦の友社さんの附属施設で、石川武美(「たけよし」と読み、男性です)は同社の創業者です。そうした関係で、こちらの図書館は女性雑誌の収集に力を入れており、当方がよく利用する国会図書館や駒場の日本近代文学館、横浜の神奈川近代文学館等にもない資料があったりします。
 
所蔵和雑誌のリストがこちら。ただしタイトルと所収分の期間だけの記載で、巻号数は実際に足を運ぶか、問い合わせるかしないと判りません。
 
以前にも一度行った事があり、その際には筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』未収録の光太郎作品を見つけました。明治43年(1910)の『婦人くらぶ』第3巻第2号に載った長い散文「美術家の眼より見たる婦人のスタイル」、大正11年(1922)の『主婦之友』第6巻第12号に載ったアンケート「私が一番深く印象された月夜の思出 文芸家三十六氏の回答 紐育の満月」の2篇です。
 
また、作品そのものは知られていながら、初出掲載誌が不詳だった詩「保育」(昭和19年=1944)についても、掲載誌が同年発行の雑誌『保育』の第84号であることも、現物を見て確認できました。
 
さて、一昨日は、明治期の少女雑誌を調べるのが目的でした。
 
まずは博文館刊行の『少女世界』。こちらには明治44年(1911)とその翌年の2回にわたり、智恵子の描いた絵が口絵に使われています。独身時代ですので、クレジットは「長沼」姓です。そちらは以前にコピーや現物が入手できています。今回探したのは、智恵子の2つ違いの妹・セキの書いた児童読み物。それが掲載されているという情報は得ていましたが、現物は未見でした。
 
調べてみたところ、幸いにも掲載号が所収されていました。大正元年(1912)9月の第7巻第12号で、「忘れずの記」という5ページ程の短い物語でした。署名は「長沼世喜子」となっています。智恵子も戸籍上の本名は片仮名で「チヱ」ですが「智恵」と漢字を当て、さらに「子」を付けています。この時代、こうした習慣は一般的だったようです。
 
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ちなみにセキは、智恵子と同じく日本女子大学校に通っており、光太郎と智恵子が愛を誓った(であろう)大正元年の犬吠埼行きの際にも、はじめ、智恵子に同道していました。卒業後は児童学研究の名目で渡米しています。
 
また、たまたま同じ年の別の号(7月5日刊行の第7巻第10号増刊星まつり号)を見ていたところ、同誌主筆の沼田笠峰の書いた「福島より 福島地方少年少女講話会」という記事が目にとまりました。「福島」というのが気になって、記事を読んだところ、驚いたことに「高等女学校の長沼さん」の文字が。
 
 師範学校のお話をしまつて宿に帰りますと、留守中に高等女学校の千葉さん、長沼さん、富田さんがお出でになつてゐました。それから菊池さん、加藤さん、金子さんたちも音づれて下さいました。まる一年お目にかゝらない中(うち)に、皆様は見違へるやうになつていらッしやいます。あゝさうさう、皆様からS子さんによろしくとのことです。
 
 宿へ帰る途々、千葉さん、長沼さん、菊池さん、加藤さん、藪内さん、金子さん、湊さんたちと、さまざまのお話を致しました。S子さん、招来の日本の少女は、どんな覚悟を持たなければならないのでせう? こんなことを語り合ひながら、夕日さす市街(まち)を歩いた光景(さま)を想像して下さい。
 
改元直前の明治45年(1912)ですから、年代的に智恵子やセキではありえませんが、もしかするとさらに下の妹、智恵子と9つ違いのヨシあたりかも知れない、と思いました。ただし、ヨシが福島高等女学校に進んだたどうかは、手持ちの資料を少し調べてみたのですが、わかりませんでした。おわかりの方はご教示いただけると幸いです。

追記 智恵子妹5人中、すぐ下のセキを除く4人(ミツ・ヨシ・セツ・チヨ)は福島高等女学校に通ったことが分かりました。時期的に、上記の「長沼さん」は4女のヨシが該当します。
 
ところで、この「福島より 福島地方少年少女講話会」という記事、全体が「S子さん」にあてた書簡の形式で書かれています。この「S子さん」も正体不明です。ただ、福島高等女学校の長沼さんが「よろしく」と言っていたという点、2ヶ月後に「忘れずの記」を執筆している点などから考えて、「S子さん」=セキ、という仮説も成り立つかな、と思いました。
 
ただ、あまりに手がかりが少なすぎて、何とも言えません。
 
さて、石川武美記念図書館では、もう一種類、ほぼ同時期に金港堂書籍から刊行されていた『少女界』という雑誌も調べて参りました。こちらにも謎の作品が。ただ、長くなりましたので、またの機会に書きます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月6日
 
明治36年(1903)の今日、五代目尾上菊五郎の彫刻に取りかかりました。
 
光太郎数え21歳、前年に東京美術学校彫刻科を卒業し、徴兵猶予の意味もあって、研究科に残っていました。五代目尾上菊五郎はこの年2月に歿し、ファンだった光太郎は衝撃を受けています。
 
作家の山岸荷葉を介して菊五郎の音羽屋一門の知遇を得、写真を借りたりして制作にかかりました。
 
翌日の日記がこちら。
 
○きのふ(三十六年七月六日)啀権太の土型にとり懸りたり。今度は高さ三尺程にて姿勢は素より、衣服、持ち物、鬘、鉢巻その他すべてモデルも使ひ、話もきゝ、見ても貰ひてしつかり十分にやりたき心也。
 
「啀権太」は「いがみのごんた」と読み、菊五郎の当たり役で、「義経千本桜」の登場人物です。
 
この彫刻は完成しましたが、残念ながら現存が確認できていません。もし出てきたら大ニュースですね。

連翹忌ご常連で、詩人の豊岡史朗氏から、氏の主宰する詩誌『虹』の第5号を戴きました。
 
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豊岡氏による評論「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」が掲載されています。
 
題名にある北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』とは、平成21年(2009)に、北川太一先生の教え子の皆さん・北斗会の方々が出版にこぎつけたもので、平成19年(2007)11月、当時の文京区立本郷図書館鷗外記念室で開催された北川先生の講演に加筆修正されたものです。
 
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「観潮楼」というのは鷗外が団子坂上の自宅につけた雅号。ここが文京区立本郷図書館鷗外記念室だったところで、現在は文京区立森鷗外記念館となっています。駒込林町の光太郎アトリエとは指呼の距離です。
 
「一夜」というのは大正6年(1917)10月9日の夜。昨年、このブログの【今日は何の日・光太郎】の10月9日の項に書きましたが、この直前に、光太郎が鷗外の悪口を言いふらしている、という話を聞きつけた鷗外が、光太郎を呼び出したのです。会見の様子については、昨年10月9日の項をご覧下さい。
 
『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』は、この夜の出来事を中心に、光太郎と鷗外の交流を詳細に追っています。詩誌『虹』の「森鷗外と高村光太郎 ―北川太一著『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』を読む―」は、『観潮楼の一夜―鷗外と光太郎―』の紹介、感想を軸に、さらに二人の留学体験、新たに開館した鷗外記念館などにも触れています。
 
ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月22日
 
平成3年(1991)の今日、徳島県立近代美術館で、企画展「日本近代彫刻の一世紀―写実表現から立体造形へ―」が開幕しました。
 
茨城県近代美術館と2館巡回での企画展。光雲の「観音像頭部」(明治28年=1895)、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916)、「手」(大正7年=1918頃)をはじめ、二人と関係する彫刻家の作品から現代彫刻までがずらっと並びました。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月9日006
 
大正12年(1923)の今日、有島武郎が歿しました。
 
光太郎と有島は、同じ白樺派の一員。手紙のやりとりなどもあったのではないかと思われますが、光太郎から有島宛の書簡は見つかっていません(武郎より弟の生馬の方が、より光太郎に近かったのですが、生馬宛も見つかっていません)。
 
右の画像、左が武郎、右が生馬です。
 
逆に武郎から光太郎に宛てた書簡は残っています。この年3月1日付で、光太郎の代表的彫刻の一つ、「手」に関わるものです。この日、光太郎から武郎に「手」が贈られました。
 
 今日は御制作『手』を態々お届け下さいまして有り難う御座いました。拝見して驚きました。手といふものがあんな神秘的な姿を持つてゐるものだとは今まで心付きませんでした。あれは又一箇の群像でもありました。見てゐれば見てゐる程それは不思議です。明日は面会日ですから早速部屋に飾つて見る人を驚かさうと楽しんでゐます。『手』といふ題で感想を書いてみたいと思つてゐます。何しろ本当にありがたう御座いました。永く永く襲蔵して御厚情を記憶します。
 
さらに詩「手」。こちらは3月9日に書かれました。
 
    
 (高村光太郎氏の製作にかかる左手のブロンズを見入りて)
 
孤独な寂しい神秘……
手……一つの手……見つめていると、肉体から、
霊魂から、不思議にも 遊離しはじめる手。
存在の荘厳と虚妄――神か無か。
おゝ見つめていると
凡てのものが手を残して消え失せて、
無辺際(むへんざい)の空間に、
ただ一つ残り在る手。
左の手を見つめろ。
今、おまえ自身の左の手を、これを読む時の光の下に、じっとみつめろ。
五つの指の淋しい群像、
何を彼らは考え、
彼らは何をするのだ。
指さすべき何が……握りしむべき何が………………
…………………………………
手は沈黙にまでもがいてゐる。
 
しかし、その僅か三ヶ月後、武郎は自らの命を絶ってしまったのです。
 
のちに昭和31年(1956)、秋田雨雀が書いた「『ブロンズの手』を中心として」という文章から。
 

 一九二三年(大正十二年)に不幸な出来事007が私たちの周囲にあった。あの自由思想家で、クロポトキンの哲学に強く影響された私たちの尊敬する有島武郎君は恋愛のつまづきのために、あの立派な生涯を終えてしまった。その不幸な出来事の少し前から、彼が彼の机の上で絶えず愛撫していた彫刻が一つあった。それは説明するまでもなく、高村光太郎君の『ブロンズの手』であった。
 有島武郎はこのブロンズの手を『虚空を指す手』と呼んでいた。そして、有島はあの追いせまった、短い生涯に絶えず、このブロンズの手の『人さし指』の『節くれだった』部分をほとんど毎日のように愛撫し、或は『哀撫』していたに相違なかった。
 なぜならば、ブロンズの手の『人さし指』のあの部分だけは、『黄銅色』にかがやいていたからであった。彼の死後、私は『二つの手』という詩を雑誌『泉』に掲載した。それは『一つの手』は机上にとどまり、『一つの手』は虚無に帰したという意味であった。
 私は有島生馬さんから送られたあの『ブロンズの手』と高村光太郎君のあの見事なホイットマンの『自選日記』を胸に懐きながら、あの惨虐無謀な侵略戦争の戦火の中を歯をかみしばりながら生き残って来た。
 
右の画像は、昭和14年(1939)、自作の「手」を見る光太郎です。もしかしたら亡き有島を偲んでいたのかもしれませんね。
 
ちなみにこの辺りの経緯を勘違いしたのか、「手」のモデルは有島武郎の手だ、などと書かれた噴飯ものの論文がまかり通っていますが、あくまでモデルは光太郎自身の左手です。

2021年追記 「手」に関わる新発見がありまして、以下もご覧下さい。

ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-①。
ブロンズ彫刻「手」に関わる新発見 その2-②。

作家の渡辺淳一さんの訃報が出ました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

作家の渡辺淳一さん死去=ベストセラー「失楽園」―80歳

 ベストセラー「失楽園」や「愛の流刑地」など恋愛小説の名手として知られた作家の渡辺淳一(わたなべ・じゅんいち)さんが4月30日午後11時42分、前立腺がんのため東京都内の自宅で亡くなったことが5日、分かった。80歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻敏子(としこ)さん。後日お別れの会を開く。
 北海道上砂川町出身。札幌医科大学卒業後、同大で整形外科の講師などを務める傍ら小説を執筆。1968年に同大で行われた心臓移植事件を題材にした「小説・心臓移植」(後に「白い宴(うたげ)」に改題)を書いたことをきっかけに同大を退職し、執筆活動に専念した。
 デビュー直後は主に医療をテーマにした作品を発表していたが、恋愛物や歴史物のジャンルにも進出。70年には、西南戦争で負傷した2人の軍人のその後を描いた「光と影」で直木賞を受賞した。97年に出版された「失楽園」は大胆な性愛描写が話題となり、250万部を超える大ベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、タイトルが流行語となるなど、社会現象を巻き起こした。このほかの代表作に「阿寒に果つ」「遠き落日」「女優」など。「鈍感力」のような軽妙なエッセーでも腕を振るった。
 2003年には紫綬褒章を受章。直木賞や吉川英治文学賞などの選考委員も務めた。
 出版社の担当編集者によると、渡辺さんは数年前から前立腺がんを患い、治療を続けていた。昨年末に体調を崩し、自宅で静養中だったという。
 
以前にも書きましたが、渡辺さんには光太郎智恵子にも触れたご著書があります。平成14年(2002)、小学館さん刊行の『キッスキッスキッス』。
 
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同社サイトから。
 
明治から大正・昭和へ、かつての文豪・才人たちが綴った十九通のラヴレター
太宰治、谷崎純一郎、平塚らいてう、高村光太郎等が綴った熱情あふれる十九通のラヴレターを素材に、恋愛小説の名手・渡辺淳一氏が読み解く。谷崎などの高名な文人以外にも、山本五十六のような軍人がきわめて素直に、ありのままの恋心を綴った手紙を、その時代背景とともに渡辺氏が考察を加えるもので、不倫関係であったり、戦時下での極限の恋であったりと赤裸々に思いの丈をぶつけたラヴレターは実に感動的である。明治・大正から昭和にかけての時代史としても貴重な資料であり、また、昨今見直されている日本語の魅力も再発見できよう。著者自らの若き日のラヴレターも収録!
 
光太郎のラヴレターというのは、大正2年(1913)の1月28日、結婚前に智恵子に宛てて書かれたものです。こちらに全文を載せてあります。
 
その手紙を巡って、渡辺さんは『キッスキッスキッス』中で、このように述べられています。
 
 まさしく智恵子の一生は、光太郎という偉大な芸術家に憧れ、愛され、自らも深く愛しながら、自分本来の才能を開花させることができず、むしろ萎れていく。その愛の喜びと自分の才能への絶望と、二つのジレンマの中で傷つき、精神まで傷め、狂い死にしたともいえる。
(略)
 いま二人のあいだに残された唯一通のラヴレターを見るとき、そこにすでに、光太郎の詩人としての才能と、そんな詩人と接して、先に埋もれていく智恵子の運命を予言しているかのようでもある。
 
「化身」「失楽園」「愛の流刑地」などで、男女の愛の形を追い求め続けた渡辺さんならではの恋愛観のつまった一冊です。
 
新刊書店で追悼フェアなどが催されると思います。もしこの『キッスキッスキッス』が並んでいたら、お買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月6日

明治38年(1905)の今日、彫刻調査のため奈良興福寺に向けて東京を発ちました。
 
中旬まで百花園に滞在しながら、興福寺の諸堂に通い、調査にあたりました。

繰り返し書いていますが、今年、平成26年(2014)年は、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。
 
100年前というと大正3年(1914)。
 
「道程」に関しては、2月9日に今知られている詩型の原型となる長大な詩を執筆、それが3月5日に雑誌『美の廃墟』に発表され、10月25日には詩集『道程』が出版されています。この時点でオリジナルの102行あった「道程」はわずか9行に圧縮されました。
 
光太郎智恵子の結婚披露は12月22日。上野精養軒で行われました。ただし、事実婚の状態はその前からだったようですし、披露後も入籍はせず、事実婚の状態が続きました。入籍は実に昭和8年(1933)8月23日。これは、統合失調症が昂進した智恵子の身分保障―光太郎にもしものことがあった時の財産分与―のためと言われています。
 
というわけで、今年は光太郎智恵子にとって重要な節目の出来事が2件、100周年です。そんなわけで、当方、「100周年」という語には敏感な今日この頃です。
 
それでは、それ以外に今年「100周年」を迎える(迎えた)出来事というと……。
 
夏目漱石「こころ」発表
昨日から『朝日新聞』さんで、漱石の「こころ」が復刻連載されています。昨日は大きく特集記事も組まれました。
 
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ちょうど100年前の昨日から、『朝日新聞』紙上に「こころ」の連載が始まったとのことです。
 
ちなみに光太郎は漱石にかみついたこともあります。
 
宝塚歌劇初演
やはり大正3年、阪急電鉄の小林一三の発案により、宝塚新温泉の余興として、少女たちによる歌劇の初演が行われたそうです。今月初めにはいろいろと記念イベントもあり、報道されていました。
 
昨年、福島二本松の大山忠作美術館で、日本画家、故・大山忠作の「智恵子に扮する有馬稲子像」に関し、トークショーをなさった有馬稲子さん。今年の連翹忌のご案内を差し上げたのですが、宝塚100周年のイベントご出席のため、連翹忌は無理、と、直接お電話を頂きました。有馬さんも元タカラジェンヌです。
 
ちなみに小林一三は、光太郎と縁の深い与謝野夫妻の援助者としても有名です。数年前、小林のコレクションの中から、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を記した屏風絵2枚が出てきて、驚きました。
 
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東京駅開業
こちらも大正3年の竣工で、いろいろと記念事業が進行中です。話題性としては手強い相手です(笑)。
 
 
第一次世界大戦勃発
負の記憶として、これも外せない「100周年」です。
 
 
そう考えると、ほんとうにいろいろあった大正3年、1914年ですが、もっともっと、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年が話題になってほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月21日

平成12年(2000)の今日、「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集が発行されました。
 
「20世紀デザイン切手」シリーズ、20世紀末の平成11年(1999)から翌年にかけ、全17集が発行されました。やはり20世紀のクロニクル的な記念切手です。
 
第9集は「「杉原千畝副領事がビザ発給」から」の副題で、昭和15年(1940)~同20年(1945)までの出来事を扱っています。
 
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光太郎も80円切手になりました。<高村光太郎が詩集「道程」で第1回芸術院賞>という題です。
 
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大正3年(1914)の初版刊行でなく、この時期の出来事として扱うか? と首をかしげましたが、まあよしとしましょう。光太郎肖像が使われている唯一の切手ですので。
 
切手になっていない台紙というか余白というか、シート右下には智恵子の紙絵があしらわれています。詩集『智恵子抄』の刊行が昭和16年(1941)だったためです。
 
ちなみに大正3年(1914)前後を扱った第3集はやはり東京駅開業や第一次世界大戦をモチーフにしています。

4月2日(水)、光太郎命日の集い・第58回連翹忌を開催いたします。
 
そろそろお申し込み〆切といたしますが、今のところ、昨年とほぼ同じ約70名ほどの方からお申し込みがありました。ありがたいことです。
 
ご案内を差し上げた方の中には、いろいろなご都合でご欠席という方もいらっしゃいますが、中にはご丁寧にお手紙やメールなどで、ご欠席のご連絡を下さる方もいらっしゃいます。
 
そんなお一人が、芥川賞作家の津村節子さん。000
 
平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行なさり、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞、片岡京子さん主演で舞台化もされました。そんなご縁で過去の連翹忌にもご参加いただいています。
 
今年も連翹忌のご案内をお送りしましたところ、過日、丁重なお葉書を頂きました。
 
曰く、
 
ご案内いただき有り難うございました。北川太一様によろしくお伝え下さいませ
「智恵子飛ぶ」は私の代表作の一つになり その節は大変お世話になり有り難うございました 花巻に講演に行ったことを思い出します
次々に仕事に追われ 現在三・一一の大津波の関係で三陸へ往復しております 吉村昭の文学碑のある田野畑村に津波資料館が出来るので田野畑通いです
 
解説いたしますと、津村さんのご主人は、やはり作家の故・吉村昭氏。平成18年(2006)にご逝去されています。氏には『三陸海岸大津波』というご著書があります。こちらは昭和45年(1970)に刊行されたもので、岩手県の田野畑村を襲った明治29年(1896)と昭和8年(1933)の大津波の証言・記録集です。
 
田野畑村では三年前の東日本大震災の折、やはり津波被害で約30名の尊い命が犠牲になっています。
 
『三陸海岸大津波』、氏の作品の中ではあまり有名なものではなかったそうですが、東日本大震災直後から注目が集まり、文春文庫に入っていたものが緊急増刷されました。
 
他にも氏には田野畑村を舞台とした作品がいくつかあり、そうした関係で同村には氏の文学碑、さらに津村さんの詩碑も建立され、村のHPにはご夫妻と村の関わりについての記述もあります。

さらには吉村さんの蔵書を元にした「吉村文庫」も同村に作られましたが、こちらは東日本大震災の津波で流されてしまいました。
 
さて、昨年発表された「東日本大震災田野畑村災害復興計画」によれば、来年開館予定で「津波資料館」を建設するそうです。
 
津村さんからのお手紙によれば、そちらへのご協力で、田野畑によく行かれていて、お忙しいとのこと。ちなみに津村さんは三鷹にお住まいです。
 
失礼とは存じますが、津村さん、昭和3年(1928)のお生まれで、おん年85歳。頭の下がる思いです。また、先述の吉村さんの『三陸海岸大津波』増刷分の印税、すっかり被災地に寄附されたそうです。かつて、光太郎が昭和26年(1951)に詩集『典型』で第2回読売文学賞を受賞した際、賞金を、当時住んでいた花巻郊外太田村にそっくり寄附したエピソードを彷彿とさせられました。
 
津村さんと田野畑村の活動、今後、001注意して行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月23日

昭和17年(1942)の今日、群馬前橋の岩佐直次の遺族を訪問しました。
 
岩佐直次は海軍中佐。この前年の真珠湾攻撃で特殊潜行艇による作戦を敢行して戦死、いわゆる「九軍神」の一人として称えられました。
 
光太郎は前日から日本少国民文化協会主催の講演会のために前橋に入っていました。翌月の『読売新聞』に「天川原の朝」と題して、岩佐家訪問の様子を発表しています。
 
「天川原の朝」、『高村光太郎全集』の第20巻に収録されており、解題では、雑誌『画報躍進之日本』第7巻第6号(昭和17年=1942 5月31日)を初出としていますが、そちらは転載で、同年4月6日の『読売新聞』が初出でした。

3/8、9東北紀行レポートの3回目です。
 
3/9(日)、仙台から東北新幹線に乗り、北上で在来の東北本線に乗り換えました。この日最初の目的地は、岩手県紫波郡紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」さんです。
 
最寄り駅は「日詰」。花巻と盛岡の中間ぐらいでしょうか。
 
ホームに降り立ち、乗っていた列車が発車して行ってしまうと、実に意外な音、というか声が聞こえてきました。何と、白鳥の声です。
 
ホームから見える田んぼに、ざっと百羽以上の白鳥の群れ。
 
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湖などでなく、こういう形で白鳥を見たのは初めてで、感動しました。
 
駅前には宮澤賢治の短歌が記された碑がありました。
 

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曰く、
 
 さくらばな 日詰の駅のさくらばな かぜに高鳴り こゝろみだれぬ
 
大正6年(1917)、盛岡高等農林学校在学中の作品だそうです。
 
ところで野村胡堂・あらえびす記念館さんケータイの地図アプリで見てみると、日詰駅から約3.5㎞。路線バスは見あたらず、タクシーもいません。仕方なく、歩くことにしました。まぁ、毎日犬の散歩で5~6㎞歩くことはざらですので、さほど苦にはなりません。ただ、一泊分の大荷物を担いでなのが大変でした。

野村胡堂は光太郎より一つ年長。ここ、紫波町の出身で、「銭形平次」シリーズの著者として有名です。また「あらえびす」の筆名で音楽評論家としても活躍しました。
 
そして胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
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野村胡堂・ハナ夫妻
 
というわけで、光太郎智恵子関連の収蔵品があるかも知れないと思い、行ってみることにしました。
 
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途中の北上川に掛かる橋の欄干です。さすが「銭形平次」の里。ところで平次の恋女房・お静には、愛妻・ハナのイメージが投影されているそうです。当方、テレビ時代劇の「銭形平次」-最初の大川橋蔵さん主演の-での香山美子さんのイメージが鮮烈に残っています。「お前さん、いっといで」と切り火を切って送り出すような。
 
記念館の少し手前に、野村胡堂の生家も残っていました。

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立派な日本家屋ですが、驚いたことに、まだ「野村さん」がお住まいです。帰ってから調べてみたところ、住まわれているのは胡堂の弟のご子孫だそうです。
 
さて、記念館につきました。

003

 
入口では胡堂の胸像が出迎えてくれます。
 
 
さらに館内に入ると、北大路欣也さん主演のシリーズで実際に使われた平次の衣装が出迎えてくれます。が、ここからは撮影禁止。そこでパンフレットの画像を載せさせていただきます。
 
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展示スペース、それほど広いわけではありませんが、導線がしっかりしているうえに壁の使い方が特徴的で、面白いと思いました。当方、花巻の光太郎記念館改修などに関わっているので、そういうところに目が行ってしまいます。
 
胡堂本人の資料ももちろん、島崎藤村の書や手紙などが多く展示されていました。他に江戸川乱歩やサトウハチローなどからの書簡も。
 
残念ながら光太郎智恵子に直接関わる展示物はなかったのですが、胡堂の生涯を紹介するビデオでは、先述の結婚披露宴介添えの話で、智恵子に触れていました。
 
それから音楽評論家「あらえびす」としてのレコードコレクションもものすごいのですが、こちらはリスト作成中とのこと。もしかすると光太郎作詞の戦時歌謡などの類も含まれているかも知れません。今後に期待します。
 
さて、意外とじっくり観たので、時間がおしてしまいました。次なる目的地、盛岡てがみ館に午後2時には入らないといけませんし、その前に昼食も取りたいところです。また日詰駅まで大荷物を抱えて3.5㎞、さらに在来の各停で盛岡、そして盛岡駅からてがみ館までも約2㎞……というのも大変だと思い、奮発してタクシーを使うことにしました。
 
盛岡編はまた後日。
 
今日はまた都内に出かけて参ります。用件は二つ。まずは福岡を拠点に活動されている女優の玄海椿さんの舞台を三鷹まで見に行きます。玄海さんの舞台は一昨年、「智恵子抄」が演目だった時に福岡まで観に行きました。今回は東京公演で、「黒田官兵衛」だそうです。
 
それから表参道のギャラリー山陽堂さんにて、「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」とトークイベント
 
明日のこのブログは東北レポートを一旦休止してそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月14日

平成5年(1993)の今日、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)御崎の海岸公園に、光太郎歌碑が除幕されました。
 
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女川同様、昭和6年(1931)の「三陸廻り」で光太郎が訪れた記念です。
 
刻まれているのは短歌。
 
黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり

ブログ記事のカテゴリは東北岩手としていますが、東京日野でのイベント情報です。  ネット検索で見つけました。

賢治の教え子シリーズその7「クラムボン」 上映会

日 時 : 2013年12月13日(金) 10時~
会 場 : conomiya-cafe 東京都日野市 日野本町 4-22-7-2
問い合わせ:東京賢治シュタイナー学校(担当:竹内様)電話042-523-7112
 
立川にある、幼稚園から高校までの東京賢治シュタイナー学校さんの主催だと思われます。
 
同校にて1990年代に作成されたDVD「宮沢賢治の教え子インタビュー映画」(全8巻+別巻2+総集編1)というものがあります。
 
そのうちの第7巻「クラムボン」(90分)の上映が、上記、日野のカフェで行われる、ということでしょう。
 
さて、その内容なのですが、同校のサイトから抜粋します。

その7「クラムボン」

1999年 90 分
北上川に浮かぶ小舟に乗った宮沢先生と教え子の照井謹二郎さん。その川面にリンゴを落として遊ぶ先生。水面に広がる輪が光を受けて輝く。「きれいだー」と感動し何度もくり返す先生。照井さんは、よく先生に連れられて、山や川に行き、そんな姿を見ていました。その後、幼稚園の園長となった照井さんは、約50年間賢治の童話劇を子どもたちと共に取り組んでいくことになりました。また、浅沼政規さんは詩人高村光太郎や宮沢先生との出会いを語り、「雨ニモマケズ」の詩中の「ヒドリ」をめぐって語ってくれます。
 
故・照井謹二郎氏、故・浅沼政規氏、ともに花巻の方ですが、光太郎とも交流のあった方々です。
 
照井氏は、登久子夫人と共に昭和21年(1946)に子供達による劇団「花巻賢治子供の会」を結成、賢治童話を上演し続けました。そもそもの始まりは、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に独居していた光太郎を慰安する目的だったようですが、光太郎に激賞され、本格的に公演を行うようになったそうです。
 
浅沼氏は山荘近くの太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。
 
ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。今年10月に放映されたNHKの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」中の花巻ロケにご出演、生前の光太郎について語って下さいました。
 
そのお二人の出演されたDVDということで、興味深いものがあります。ただ、当方、日程が合わず行けません。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月3日

昭和23年(1958)の今日、花巻郊外太田村の山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格、開校式が行われ、詩「お祝いのことば」を朗読しました。
 
  お祝いのことば
 
あのかはいらしい分教場が急に育つて
たうとう山口にも小学校ができました。007
教室二つの分教場が大講堂にかはり、
別に新しい教室が三つもでき上りました。
部落の人々と開拓の人々が力を合せて
こんなに早く学校を建てました。
みんなが時間と資材と労力と、
もつと大きい熱情といふものを持ち寄つて
この夢の実現を果しました。
陽春四月の雪解ごろから
夏のあつい日盛りや秋のとり入れの忙がしい中を
汗水流して材木運びや地均しをした人達の群がりが
今ブルーゲルの画のやうに眼に浮びます。
損得を超越して成就を期した棟梁の人、
骨身を惜しまず仕事にいそしんだ大工さん左官屋さん、
みんな物を作り上げるといふ第一等の喜びを知つてゐる人のやうです。
あの製板の器械のうなり、
あの夜おそくまで私の小屋に聞えてきた槌の音、
まるできのふのやうになつかしく耳に残つてゐます。
山口小学校は名実ともに立派にでき上がりました。
西山の太田村山関といふ小さな人間集団が
これで世間並の教育機関を持つのです。
小学校の教育は大学の教育よりも大切です。
本当の人間の根源をつくるからです。
部落の人も開拓の人もそれをよく知つてゐると思ひます。
異常な熱意がこの西山の一寒村にたぎつてゐます。
狐やまむしの跳梁する山関部落が
世界の山関部落とならないとはいへません。
私は大きな夢をたのしみます。
かはいい山口小学校の生徒さん達の上に
私の夢は大きくのびて遊びます。
あめでたうございます。
一歩前進、
いよいよ山口小学校ができました。
 
上の画像はありし日の旧山口小学校校舎です。残念ながら昭和45年に廃校となり、さらに歴史民俗資料館として活用されていた校舎も老朽化のために取り壊されてしまいました。
 
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この写真は、昭和24年(1949)の今日、開校から1008周年の学芸会の日の一コマです。サンタクロースに扮する光太郎。この写真を見ると涙が出そうになります。どういう思いでこの寒村に7年も一人で暮らしていたのか……。
 
ちなみに後ろに写っている「山口小学校」の看板は光太郎の揮毫、その右の窓から顔を出している少年が、浅沼政規氏ご子息・隆氏だそうです。

過日、目黒区駒場の日本近代文学館さんに行って参りました。
 
現在、2階の展示室では秋の「特別展 新収蔵資料展」が開催されています(11/23まで)。
 
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並んでいるのは2010年以降に同館で新しく収蔵した資料の中から選りすぐりの特色のある品々。
 
以下、出品リストです。
 
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まさに宝の山、という感じでした。
 
夏目漱石の「猫の死亡通知」、太宰治の学生時代のノート、三島由紀夫自筆の屏風、江戸川乱歩の草稿、室生犀星の自筆訂正本……。第二展示室では同時開催で川端康成限定のコーナーもありました。近代文学マニアにはたまらないと思います。
 
光太郎に関しても、親交のあった作家・田村松魚に宛てた葉書が4通並んでいました。こういう機会にいつも思うのですが、たくさん並んでいる展示品の中から光太郎の筆跡を見つけると、ふと旧友と再会したような気分になります。
 
ある意味驚いたのは、吉本隆明や干刈あがたの草稿。たしかに故人ですが、過去の文豪たちと同じところに並ぶことで、もう「歴史」の一部になっているのか、という感覚でした。
 
2階の展示を見る前に、1階の閲覧室を利用させていただきました。実はこちらの方がメインの目的でした。
 
やはり新収資料(だと思います。以前にネットで蔵書検索をかけた時にはヒットしませんでしたので)の、大正時代の短歌同人誌『芸術と自由』が目当てでした。同誌の第1巻第8号(大正15年=1926)に、『高村光太郎全集』等に未収録の作品が載っているという情報だけは得ており、確かめようと思ったわけです。
 
すると、「口語歌をどう見るか(批判)」というアンケートでした。短い文章ですが、『高村光太郎全集』等に未収録ですので、貴重な発見です。来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
先の展示にしてもそうですが、同館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からの寄贈によるものだそうです。こうして公の目に触れる形で残されるというのはすばらしいことですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月18日

昭和26年(1951)の今日、光太郎危篤というデマが流れ、東京本社から電話を受けた読売新聞の支局の記者が、花巻郊外太田村山口の山小屋に確認に来ました。
 
笑えるような笑えないようなエピソードですね。光太郎、どんな顔をして記者に会ったのでしょうか。

目黒区駒場にある日本近代文学館でのイベント情報です。 

「秋の特別展 新収蔵資料展」


期 日 : 2013年9月28日(土)~11月23日(土)
会 場 : 日本近代文学館  東京都目黒区駒場4-3-55
時 間 : 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
休 館 : 日・月曜日、第4木曜日(10月24日)
料 金 : 一般 200円 (20名以上の団体 100円、維持会・友の会会員 無料)
監 修 : 池内輝雄
 
日本近代文学館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からのご寄贈によるもので、その貴重な資料を展示・公開する新収蔵資料展を定期的に開催しています。
 
本展覧会では、2010年以降に新しく収蔵した資料のなかから、特色のある品々をご紹介いたします。
この3年間で新たに加わった「内村鑑三研究所文庫」「紅野敏郎文庫」「齋藤磯雄文庫」の資料をはじめ、本年春に寄贈を受け話題となった太宰治の学生時代のノート・教科書類や、夏目漱石が門下生の鈴木三重吉に「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の死を通知した「猫の死亡通知」など、貴重な資料を多数展示いたします。
 
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」(明治41年9月14日)
鈴木三重吉宛夏目漱石(明治41年9月14日)
「猫の死亡通知」
また、三島由紀夫が自死する直前の1970年11月に池袋の東武百貨店で開催された「三島由紀夫展」のために揮毫した屏風は、同展以来の公開となります。
 
主な出品資料
太宰治の学生時代のノートや教科書、およびそれらを保管していた信玄袋
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」
村上浪六・信彦資料より 浪六画「赤裸ニ窺天下」
中野重治原稿「『平和革命』と文化ということ」
中村真一郎日記
内村鑑三研究所文庫の蔵書
齋藤磯雄文庫より 齋藤著「ピモダン館」原稿
紅野敏郎文庫より 谷崎潤一郎「近松秋江『黒髪』序文」原稿
登張竹風・正実資料より 竹風宛泉鏡花書簡
田村松魚資料より 松魚宛高村光太郎書簡
北村孟徳資料より 孟徳宛内田百閒書簡
楠山正雄資料より 『新訳イソップ物語』初版本
香西昇旧蔵直木三十五資料より 直木「大阪落城」原稿
寺崎浩資料より 「ゴルキー通りの女」原稿
芥川賞・直木賞コレクション新規収蔵原稿
 
同時開催 川端康成記念室 「モダニズムと浅草」

田村松魚(しょうぎょ)は幸田露伴門下の作家。昭和4年(1929)に刊行された光雲の『光雲懐古談』主要部分の聞き書きをするなどしています。妻も作家の田村俊子、智恵子の数少ない親友の一人でした。
 
光太郎・智恵子夫妻もかなり独特の夫婦でしたが、輪をかけてドラマチックだったのが松魚・俊子夫妻(後に離婚)でした。
 
高村夫婦との交流を含め、詳細は以下の書籍等でわかります。
 
 

 ところで問題の書簡は、平成17年にその存在が報じられました。その数なんと55通。翌年には笠間書院さんから『高村光太郎進出書簡 大正期 田村松魚宛』田村松魚研究会間宮厚司編が刊行され、その全貌が明らかにされました。
 
『高村光太郎全集』補遺作品集として当方が手がけている「光太郎遺珠」には、最初に発表された6通のみ掲載させていただきました。残りは数が多すぎるので、いまだ収録していません。いずれ、第3次の『高村光太郎全集』が出るとしたら、組み込ませていただきたいと考えています。
 
この55通はその後、同22年に日本近代文学館さんに寄贈されています。今回の展示ではその中から出品されるのでしょう。何通ならぶのかは不明です。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月23日

大正10年(1921)の今日、光太郎が設計した府下高井戸村の可愛御堂が落成、献堂式に出席しました。
 
可愛御堂は光太郎とのちのちまで交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)が開いた百姓愛道場内に建てられました。建立の趣旨は、その趣意書によれば、子を失った親たちのために一つの庵を建て、天上の子供らの霊が睦み遊んでいるように、地上の親兄弟姉妹もここで一つになって睦み合うようにとのことでした。元々はやはり愛児を失った江渡がその遺骨を寺に預けるに忍びず、百姓愛道場内に祀っていたことに始まるそうです。
 
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光太郎、駒込林町のアトリエも自分で設計しましたが、建築設計にもその才を発揮していました。舌を巻くマルチさの一端が見て取れます。

東京日野市での市民講座的なものの案内をネットで見つけました。
 
主催は公益財団法人社会教育協会さんです。 

こんなに面白い 近代文学入門コース 宮沢賢治と昭和の作家たち

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2013年秋季 宮沢賢治と昭和の作家たち
2013年 9/26 10/10・24 11/14・28 12/12 (全6回)
第②・④木曜日 10:00~12:00
講 師 青木登(紀行作家)
場 所 公益財団法人社会教育協会ゆうりか 日野市多摩平1-2-26 シンデレラビル
参加費 10,710円 教材費1,200円別途
 
宮沢賢治 は明29年、岩手県花巻市に生まれ、岩手県に理想郷ドリームランド・イーハトヴを建設しようとた。しかし、冷害や旱魃に見まわれ、世界恐慌に直面して挫折し、傷つき倒れた。
しかし賢治が夢みた理想の世界は賢治が残した童話や詩によって、私たちの胸に生き、限りない感動を与える。
取り上げる童話は、「どんぐりと山猫」「注文の多い料理 料理店」「なめとこ山の熊」「雪渡り」「セロ弾きゴーシュ」「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「おきなぐさ」「よだかの星」「二十六夜」「銀河鉄道の夜」。
詩集「春と修羅」から妹の死を悲しんで詠んだ「無声慟哭」三部作、「岩手山」「小岩井農場」「岩手軽便鉄道」「雨ニモマケズ」「もうはたらくな」「原体剣舞連」。
 
賢治の生前に賢治の作品を評価した著名人の高村光太郎。光太郎は昭和20年に賢治の弟宮沢清六の招きで花巻に疎開し、花巻郊外の山小屋で農耕自炊生活をした。高村光太郎から取り上げる作品は、「智恵子抄」「典型」「智恵子抄その後」。
 
申し込み等は以下のリンクを参照して下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月27日

明治42年(1909)の今日、上州磯部温泉、赤城山などへの旅から帰京しました。
 
この年7月には3年半にわたる欧米留学から帰国しています。赤城山は光太郎が自分の中の日本の原風景と位置づけていたようで、留学前から何度も訪れ、そして帰国早々また訪れています。
 
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一昨日、神田の古書会館に行ったついでに、千駄木の森鷗外記念館にも足を伸ばしました。
 
現在、同館では企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」を開催中です。その中の「ミニ企画」として「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」というコーナーが設けられています。
 
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鷗外はあくまで小説家ですが、若い頃にはドイツ留学中に触れたゲーテなどの詩を翻訳したり、千駄木団子坂上の自宅・観潮楼(光太郎アトリエは目と鼻の先です)で歌会を催したりするなど、詩歌にも親しんでいました。観潮楼歌会には、伊藤左千夫や石川啄木、そして光太郎も参加しています。
 
鷗外の作もなかなかのもので、朴訥な中にも厳めしさが漂う、まさに鷗外その人のような歌風です。そういった関連の展示物が並ぶ中に、ミニ企画・「駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」。以下、リーフレットから引用させていただきます(図録は刊行されていませんでした)。
 
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特に目新しいものは並んでいませんでしたが、光太郎から鷗外宛の葉書は肉筆ものですのでかなり貴重です。「おやっ」と思ったのは鉄幹与謝野寛から鷗外宛の書簡。明治42年に留学から戻った光太郎の帰朝歓迎会の案内で、与謝野寛が呼びかけたというのは存じませんでした。この会には招きに応じ、鷗外も参加しています。
 
ちなみに下の画像は展示されたものと同じ雑誌『スバル』明治42年10月号の裏表紙。たまたま当方の手元にも一冊在ります。光太郎の描いた戯画で、「観潮楼安置大威徳明王」と題されていますが、鷗外を茶化したものです。大威徳明王は不動明王と同じく五大明王の一人で、仏法を守護する闘神。たしかに鷗外のイメージにぴったりといえばそうですが、光太郎、大先輩をこんなふうにいじるとは、とんでもありませんね……(笑)。
 
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企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」(含「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」)は9月8日まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今日はいよいよ千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」です。当方はあくまでサブで、メインは北川太一先生ですので気楽ですが、頑張ります!
 
【今日は何の日・光太郎】 7月7日

明治37年(1904)の今日、この年2回目の赤城山登山ををしました。後に与謝野寛、伊上凡骨ら新詩社同人も赤城を訪れ、合流しています。

昨日のブログでご紹介しましたが、かの夏目漱石は美術に006も造詣の深い作家でした。
 
まとまった展覧会評としては唯一のものだそうですが、大正元年(1912)の『東京朝日新聞』に、12回にわたって「文展と芸術」という評論を書きました。「文展」とは「文部省美術展覧会」。いわゆるアカデミズム系の展覧会で、正統派の美術家はここでの入選を至上の目標にしていたと言えます。第一部・日本画、第二部・西洋画、第三部・彫刻の部立てで、上野公園竹之台陳列館で開催されていました。大正元年で6回めの開催でした。

さて、漱石の「文展と芸術」。その第一回の書き出しはこうです。
 
芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。
 
注・当時は送り仮名のルールがまだ確立されていませんので、「はじまって」は「始まつて」ではなく「始つて」、「おわる」も「終わる」でなく「終る」と表記されています。
 
この漱石の言に光太郎が噛みつきました。
 
『読売新聞』にやはり12回にわたって連載された光太郎の文展評「西洋画所見」の第8回で、光太郎はこう書きます。
 
この頃よく人から芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく。此は夏目漱石氏が此の展覧会について近頃書かれた感想文に流行の 源(みなもと)を有してゐるのだといふ事である。
  (中略)
私の考へでは此一句はかなり不明瞭だとも思へるし、又曖昧だとも思へる。殊に芸術作家の側から言ふと不満でもある。
 
光太郎の論旨は、芸術作品に自己が投影されるのは当然のことであり、ことさら「自己を表現しよう」と思って制作を始めたことはなく、漱石の「自己の表現に始つて」という言には承服できないということです。
 
ただし、光太郎は「文展と芸術」を熟読していなかったようで、「西洋画所見」中には
 
私はつい其(注・「文展と芸術」)を読過する機会がなかつたので、此に加へた説明と條件とを全く知らないでゐる。
 
という一節もあります。
 
こうした光太郎の態度に漱石は不快感を隠しません。十一月十四日付の津田青楓宛て書簡から。
 
 高村君の批評の出てゐる読売新聞もありがたう 一寸あけて見たら芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ小生の言を曖昧だといつてゐます、夫から陳腐だと断言してゐます、其癖まだ読まないと明言してゐます。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました夫(それ)であとを読む気になりません新聞は其儘たゝんで置きました。然し送つて下さつた事に対してはあつく御礼を申上ます
 
実は漱石の言は、芸術は何を表現するのか、芸術は誰のためにあるのかという問いに対する謂で、間接的に文展出品作の没個性や権威主義を批判するものであり、よく読めば光太郎は反論どころか共鳴するはずだという説が強いのです(竹長吉正『若き日の漱石』平成七年 右文書院 他)。
 
結局、漱石の方では黙殺という形を取り、論争には発展しませんでしたが、「文展と芸術」をよく読まず噛みついた光太郎に非があるのは明白です。
 
漱石は度量の広いところもありました。この年、時を同じくする十月十五日から十一月三日まで、読売新聞社三階で、光太郎、岸田劉生、木村荘八らによるヒユウザン会(のち「フユウザン会」と改称)第一回展覧会が開催され、反文展の会と話題を呼びました。光太郎は油絵「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」を出品。このうち「つつじ」は漱石と一緒に会場を訪れた寺田寅彦に買われたそうです。一緒にいた漱石は別に寺田を咎めたりはしていません。
 
ちなみに智恵子の出品も予告されたが実現しませんでした。
 
こうしたバトルについて、現在開催中の「夏目漱石の美術世界展」、それにリンクした雑誌『芸術新潮』の今月号、NHK制作の「日曜美術館」等で取り上げてくれれば、と残念です。
 
テレビで取り上げる、といえば、昨夜放映されたBS朝日の番組「にほん風景遺産「会津・二本松 二つの城物語」」で、光太郎の詩「あどけない話」「樹下の二人」が紹介されました。ありがたいことです。

 
【今日は何の日・光太郎】 6月5日

昭和8年(1933)の今日、岩波書店から「岩波講座 世界文学」第七回配本として、光太郎著『現代の彫刻』が刊行されました。
 
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当時の世界の彫刻界について、非常にわかりやすく書かれています。
 
当方、昔、神田の古書店で200円で購入しました。確かにペーパーバックの薄い書籍ですが、それにしても200円は光太郎に失礼だろう、と憤慨しつつ買いました。安く手に入ったのはいいのですが(笑)……。

こんな企画展が開催中です。 

夏目漱石の美術世界展

2013年5月14日(火)~7月7日  東京芸術大学 大学美術館
 
近代日本を代表する文豪、また国民作家として知られる夏目漱石(1867~1916)。この度の展覧会は、その漱石の美術世界に焦点をあてるものです。 漱石が日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていることは多くの研究者が指摘するところですが、実際に関連する美術作品を展示して漱石がもっていたイメージを視覚的に読み解いていく機会はほとんどありませんでした。 この展覧会では、漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めてみることを試みます。 私たちは、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみることになるでしょう。
 
また、漱石の美術世界は自身が好んで描いた南画山水にも表れています。 漢詩の優れた素養を背景に描かれた文字通りの文人画に、彼の理想の境地を探ります。 本展ではさらに、漱石の美術世界をその周辺へと広げ、親交のあった浅井忠、橋口五葉らの作品を紹介するとともに、彼らがかかわった漱石作品の装幀や挿絵なども紹介します。 当時流行したアール・ヌーヴォーが取り入れられたブックデザインは、デザイン史のうえでも見過ごせません。
 
漱石ファン待望の夢の展覧会が、今、現実のものとなります。
(チラシより)

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過日このブログでご紹介した雑誌『芸術新潮』の今月号が、この企画展とリンクしています。
 
「序章 「吾輩」が見た漱石と美術」「第1 章 漱石文学と西洋美術」「第2 章 漱石文学と古美術」「第3 章 文学作品と美術 『草枕』『三四郎』『それから』『門』」「第4章 漱石と同時代美術」「第5 章 親交「」の画家たち」「第6 章 漱石自筆の作品」「第7 章 装幀と挿画」という筋立てで、古今東西のさまざまな作品が並んでいます。
 
光太郎とも縁の深かった作家の作品も数多く出品されています。荻原守衛、岡本一平、南薫造、岸田劉生、斎藤与里、石井柏亭などなど。光太郎の作品が出ていないのは残念です。
 
漱石は自作の中にさまざまな美術作品をモチーフとして効果的に使っていること、また、津田青楓ら同時代の画家と親交があったこと、そして橋口五葉による自作の装丁が非常にすばらしいこと、さらに「文展と芸術」という有名な美術批評を書いていることなど、美術にも造詣が深いというのが定評です。
 
絵画などの漱石自身の作品も残っています。しかしこちらは漱石の孫である夏目房之介氏によれば「相当にレベルが低いといわざるをえない」。『芸術新潮』ではむちゃくちゃな遠近法や、むやみに色を塗って破綻している点などを酷評しています。しかし、そこには孫としての暖かな眼差しもまぶしてありますが。
 
一昨日、NHKEテレで放映された「日曜美術館」も、「絵で読み解く夏目漱石」と題してこの企画展にリンクした内容でした。ちなみに同番組とセットで放映される「アートシーン」では、先月のこのブログでご紹介しました中村好文氏の「小屋においでよ!」展が紹介されました。こちら、明日、行ってくるつもりです。
 
ところで評論「文展と芸術」について、光太郎が承服できかねる旨を発言し、漱石に噛みつきました。今回の企画展でも、『芸術新潮』でも、「日曜美術館」でもその点に触れられていないのが残念でした。明日はその辺りを書いてみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月4日

昭和26年(1951)の今日、銀座資生堂ギャラリーで「高村智恵子紙絵展覧会」が開幕しました。

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東京での初の紙絵展で、この時から「切絵」「切紙絵」などと言われていた智恵子の作品が、光太郎の発案により「紙絵」の呼称で統一されることになりました。

新刊雑誌です。昨日、買ってきました。

『芸術新潮』2013年6月号「特集夏目漱石の眼」

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〈年譜〉芸術と歩んだ49年
 
〈一〉名作をいろどる絵画たち
絵で読み解く漱石の理想の女性像と芸術 【文】古田亮
〈再録〉 文展と芸術(抄) 
“門外漢”の美術時評 大正元年(1912)第六回文展評「文展と芸術」より
〈コラム〉イメージの連鎖 漱石から宮崎駿へ 【文】古田亮
 
〈二〉漱石とゆく、ぶらり明治の東京散歩
路線図でたどる文豪の足跡
漱石の目に映る、変りゆく都市東京 【文】黒川創
 
〈三〉
技あり「漱石本」総覧
漱石本を解剖する 【文】岩切信一郎
 
〈四〉
お手並拝見 先生の書画
趣味の効用 【文】夏目房之介
 
「漱石」といえば「文豪」の代名詞ですが、美術批評でも活躍していました。特に目次にもある大正元年(1912)の文展(文部省美術展覧会)の評は有名です。これに光太郎がかみついて、不興を買ったことも知られています(この件に関しては項を改めて書きます)。
 
また、そういうわけで美術にも造詣が深く、書画も制作していますし、自作の小説の中に古今東西のさまざまな名画が登場します。
 
そのあたりにスポットをあてた特集です。かなり読み応えがありそうで(他用が多くまだよく読んでいません)、熟読するのが楽しみです。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月26日

昭和17年(1942)の今日、丸の内産業組合会館で行われた日本文学報国会の創立総会に出席、詩部会会長に就任しました。
 
「報告」でなく「報国」。戦時の国家総動員に関わる文学者の統制団体です。

今日の新聞に、推理作家の佐野洋さんの訃報が載っていました。

佐野洋氏死去 推理小説界の重鎮

2013.4.28 00:58  
 名物批評コラム「推理日記」の連載などで知られた、作家で推理小説界の重鎮、佐野洋(さの・よう、本名・丸山一郎=まるやま・いちろう)氏が27日午後9時25分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。84歳。葬儀・告別式は故人の遺志で行わない。後日、お別れの会を開く。
 「短編の名手」といわれ、読売新聞記者時代の昭和33年、推理作家デビュー。39年、「華麗なる醜聞」で日本推理作家協会賞。48年から月刊誌「小説推理」に名物批評コラム「推理日記」を39年間連載し、日本推理作家協会理事長も務めた。
 平成9年、日本ミステリー文学大賞。21年に菊池寛賞受賞。代表作に「事件の年輪」など。
 
当方、佐野氏の著書を一冊持っています。光文社文庫の「歩け、歩け」(2007/1/20)。
 
裏表紙の紹介文から。007
 
娘が着メロに入れてくれた昔の唱歌「歩くうた」が、老父との思い出を甦らせた。
ふとしたことで知った、子供時代の父の身に起きた事件とは?(表題作)
読後、深く心に残る人生の機微。単行本未収録作9編を収録。
 
モチーフに使われている「歩くうた」が、昭和15年(1940)に作られた光太郎作詞の国民歌謡です。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月29日

昭和23年(1948)の今日、新たに作られた盛岡美術工芸学校の開校式への祝辞を書きました。

昨日、目黒区駒場の日本近代文学館に行って参りました。
 
先月ご紹介した同館で開催している講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」を聴講するためです。
 
全6回の講座の1回目で、題は「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」。講師は上智大学教授の小林幸夫先生でした。光太郎、鷗外、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子を語られ、非常に興味深い講座でした。
 
親子ほど年の違う二人の交流、主に二つの出来事が扱われました。
 
まず、光太郎が東京美術学校在学中だった明治末の話。鷗外が非常勤の講師として美術学校の「美学」の授業を担当しました。どうも若き光太郎、「権威」には反発したがる癖があったようで、偉そうな鷗外に親しめませんでした。その最後の講義の日、頓狂な質問をした級友がこっぴどく怒られたエピソードを、光太郎は後々まで繰り返し語っています。
 
さらに大正に入ってから、やはり権威的だった鷗外を揶揄し、「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、光太郎を自宅に呼びつけて叱責したとのこと。鷗外はこの件を雑誌『帝国文学』に載った「観潮楼閑話」という文章に書いています。光太郎も後に高見順や川路柳虹との対談などで回想しています。
 
といって、光太郎は鷗外を嫌悪していたわけではなく、それなりに尊敬していましたし、鷗外は鷗外で、つっかかってくる光太郎を「仕方のないやつだ」と思いつつもかわいがっていた節があります。
 
今回の講座ではそういう話は出ませんでしたが、光太郎が明治末に徴兵検査を受けた際、身長180センチくらいの頑健な光太郎が徴兵免除となりました。理由は「咀嚼(そしゃく)に耐えず」。確かに光太郎、歯は悪かったのですが、それにしても物が噛めないというほどではありません。これはどうしたことかと思っていたら、帰り際に係官の軍人が「森閣下によろしく」とのたまったとのこと。軍医総監だった鷗外が、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったらしいのです。
 
微笑ましいといえば微笑ましい交流ですね。
 
小林先生もおっしゃっていましたが、「文豪」たちのこうした人間的な側面が垣間見えるところに、文学のある種のおもしろさがあるような気がします。
 
同館では、講座とは別に企画展も開催中です。題して「花々の詩歌」。

 
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「文豪」たちの「花」を題材にしたさまざまな作品-主に自筆資料-が並んでいます。夏目漱石が相思相愛だったとも伝えられる大塚楠緒子の死に際して詠んだ有名な句「あるほどの菊なげ入れよ棺のなか」の短冊や、有島武郎が心中の直前に作った短歌「明日知らぬ命の際に思ふこと色に出つらむあじさいの花」の短冊など、見応えのあるものばかりです。
 
それらにまじって、大正期に第二次『明星』のために光太郎が描いた花々のカットも4点展示されています。チラシの右上に載っています。
 
会期は6/8(土)まで。



今日、明日と、信州安曇野の碌山美術館に行って参ります。光太郎の親友だった彫刻家碌山荻原守衛の命日、碌山忌と、記念講演で光太郎の令甥、高村規氏の「伯父 高村光太郎の思い出」があります。
 


【今日は何の日・光太郎】4月21日

明治45年(1912)の今日、上野竹の台陳列館において第10回太平洋画会展覧会が開幕しました。智恵子が油絵「雪の日」「紙ひなと団扇絵」を出品しました。
 
どちらの作品も現存が確認されていません。どこかから出てこないものでしょうかね……。

光太郎関連の書籍をよく出版されている杉並の文治堂書店さんから、4/1付けで書籍『二本松と智恵子』が刊行されます。
 
著者の勝畑耕一氏から戴きました。
 
「ふるさと文学散歩シリーズ」と銘打たれていますので、今後、シリーズ化して行かれるのでしょうか。さらに副題は「曖昧をゆるさず妥協を卑しんだ智恵子五十二年の生涯」となっています。
 
 
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20ページ程の薄い書籍ですが、平明な文章で簡潔に、しかし要点はしっかり押さえて智恵子の生涯を追っています。のぞゑのぶひさ氏の挿絵もいい感じです。定価300円です。
 
文治堂さんのHPにはまだ掲載されていませんが、今後載るのではないでしょうか。是非お買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】3月30日

昭和23年(1948)の今日、鎌倉書房から草野心平編『高村光太郎詩集』が、鎌倉選書2として再刊されました。

光太郎に関わる各種の講座が開かれますので御紹介します。 

日本近代文学館 講座「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」

2013年4月20日(土)14:00~15:30
駒場東大前 日本近代文学館ホール
青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎
講師:小林幸夫(上智大学教授)
大正6年10月9日、34歳の高村光太郎は、55歳の鷗外に呼ばれて観潮楼の門を潜った。
その折の事が「観潮楼閑話」に記されている。
それを原稿で読みながら二人の議論を考察し、あわせて『青年』に描かれた観潮楼付近に触れる。
 
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全6回の講座の1回目です。他の5回は「電車が作る物語-田山花袋と夏目漱石」「女性たちの東京-永井荷風と泉鏡花」「モダンな盛り場―浅草 川端康成・堀辰雄など」「震災と復興――銀座 水上瀧太郎・久保田万太郎・里見弴など」「太宰治―中央線時代の文学と恋。甲府の石原美知子~御茶ノ水の山崎富栄」。4月~11月まで、月1回の開講です。
 
参加費は6回で10,000円、1回のみで2,000円とのこと。当方、1回目のみ申し込みました。皆様もぜひどうぞ。

 
【今日は何の日・光太郎】3月16日

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村山口地区の屋号「田頭」高橋家で村人3,40人との酒宴に招かれました。

今日はモンデンモモさんプロデュースのミュージカルを観に、杉並公会堂に行って参りました。演目はドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの「モモ」。「時間」に追われる忙しい日々の中で、心の余裕を失ってしまった近代人を批判する内容です。
 
今年から光太郎顕彰活動に専念するようになり、「時間」に追い回されることはあまりなくなりましたが、かつて、毎日4時半に起床し、日の出前に出勤していた当時を思うと、あの頃はああだったんだなあ、とつくづく思いました。
 
杉並は午後からで、午前中は千駄木に寄り道しました。お目当ては、先月、リニューアルオープンした文京区立森鷗外記念館です。
 
東京メトロ千代田線の千駄木駅で降りると団子坂です。
 
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この坂を登り切って、右に曲がると光太郎のアトリエがありました。曲がらずに直進すると道の左側に森鷗外記念館です。ここはかつて鷗外の住んでいた「観潮楼」のあった場所。光太郎のアトリエとは指呼の距離です。光太郎アトリエ同様、昭和20年に空襲で焼失してしまいました。
 
戦後、焼け跡は児童公園となりましたが、昭和37年(1962)には区立本郷図書館、平成18年(2006)からは鷗外記念室となりました。そして今年、鷗外生誕150年を記念して建物を建て替え、先月、森鷗外記念館としてリニューアルオープンしたというわけです。
 
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地上二階、地下一階で、地下が展示スペースとなっており、鷗外の一生をコンパクトに紹介するようになっていました。タッチパネルを使ったモニターなど、「ほう」と思わせるものがあります。館内撮影禁止なので、画像をお見せできないのが残念です。
 
光太郎と鷗外、単にご近所というだけでなく、浅からぬ縁があります。光太郎在学中の東京美術学校(現・東京芸術大学)で鷗外が教鞭を執っていた時期もありますし、鷗外が顧問格だった雑誌『スバル』に光太郎はたびたび寄稿していました。その他にもいろいろと。
 
しかし、どうも光太郎の方で鷗外を敬遠していたらしいのです。忌み嫌っていたわけではないのですが、文字通り「敬して遠ざける」という感じでした。そのあたり、いずれまた書きます。
 
そのためか、期待していたほど光太郎に関わる資料の展示がありませんでした。だいたい、確認されている光太郎から鷗外宛の書簡も5通だけですし(うち4通は同館所蔵)、内容的にも観潮楼での歌会への誘いを断るものなどです(歌会に積極的だった石川啄木などは展示で大きく取り上げられていました)。
 
しかし、光太郎と鷗外、いろいろと面白いエピソードがありますので、先述の通り、いずれ書きますのでよろしく。

先日、久しぶりに新刊書店に行きました。長距離の移動中、車内で読むための書籍を買うのが目的でした。
 
そういうための書籍としては、光太郎関連から離れた推理小説、時代小説、そして歴史小説を選びます。今回は歴史小説、北方謙三氏の『岳飛伝』第二巻を買いました。中国の通俗小説『水滸伝』を元にした北方氏の連作「大水滸伝シリーズ」の最新刊です。

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この連作は、90年代末に『小説すばる』で連載が始まった『水滸伝』全19巻、その続編の『楊令伝』全15巻、そしてその続編として『岳飛伝』が現在も連載中で、つい最近単行本の2巻目が発売されました。さらに言うなら、流行の言い方を使ってシーズンゼロ(メインの話の前史)的な『楊家将』全2巻、『血涙』全2巻もあり、膨大な量になっています。このシリーズが実に面白い。カビの生えた言い方ですが「血湧き肉躍る」という表現がぴったりします。
 
当方、その他の歴史小説としては、新選組もの、武田家や真田家に関するものなどが好きで、よく読んでいます。共通点としては、「群像ドラマ」であるということ。これがどういうことかというと、一人のカリスマ的なヒーローを描いたものではないということです。もちろん、中心になる人物はいるのですが、その周囲に実に多彩な人々が集まって、すごい人物相関図が出来上がっているというパターンが好きなのです。
 
新選組で言えば、局長・近藤勇の元に、土方歳三、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、井上源三郎、藤堂平助、原田左之助、島田魁、山崎蒸……武田家で言えば、武田信玄の元に、山本勘助、真田幸隆、真田昌幸、馬場信春、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、武田信繁、高坂昌信、武田勝頼…… 。
 
そうした意味での圧巻は北方氏の描く『水滸伝』の連作です。腐りきった北宋を倒すため、城塞・梁山泊に集まった108人の英雄、豪傑が描かれます。武術に長けた者、用兵を得意とする者、知略で勝負する者、諜報活動に命をかける者、その他一芸に秀でた者……。武に長けた者たちも、槍、剣、弓、棒、戟、体術、斧など、それぞれ得意とする武器が異なったり、一芸に秀でた者たちは、物流、造船、鍛冶、土木工事、医術、建築、馬の飼育、はては書や印鑑製作、料理など、実に多彩な分野でそれぞれの得意技を生かして活躍したりています。まさに多士済々ですね。
 
さて、長々こんな話を書いてきましたが、その意図はもうお判りでしょうか。当方が言いたいのは、「すぐれた人間の元には、すぐれた人間が集まる」ということで、これは光太郎の世界にも当てはまります。
 
光太郎がリーダーとか統領という訳ではありませんでしたが、光太郎の周囲にも、きら星の如く実に様々な分野の人々が集まりました(光太郎自身がマルチな才能の持ち主だったこともあるのですが)。
 
彫刻の荻原守衛・高田博厚、詩人の草野心平・宮澤賢治、画家の岸田劉生・梅原龍三郎、小説家では森鷗外・武者小路実篤、歌人では与謝野夫妻・石川啄木、脚本家に小山内薫・岸田国士、編集者の松下英麿・前田晁、美術史家である今泉篤男・奥平英雄、女優の花子・水谷八重子。その他にも版画彫師の伊上凡骨、チベット仏教の河口慧海、歌舞伎役者の市川左団次、舞踊家の藤間節子、大倉財閥の大倉喜八郎、歌手の関種子、建築家の谷口吉郎、青森県知事津島文治(太宰治の実兄)、朗読の照井瓔三、日本女子大を創設した成瀬仁蔵、バーナード・リーチや詩人の黄瀛(こうえい)など、外国人も。そういう意味では智恵子もそうですし、北川太一先生もそうです。『高村光太郎全集』の「人名索引」を眺めれば、さながら梁山泊の面々のようです。
 
かえりみるに、現在、連翹忌に関わっていただいている皆さんも多士済々。北川太一先生の元にやはりきら星の如く、色々な分野の方々に集まっていただいております。実は、連翹忌の参加者名簿を繙く都合がありまして、見てみたところ、そのように感じました。ここもさながら梁山泊だな、と思ったわけです。
 
しかし、まだまだ世の中には独自に光太郎・智恵子・光雲を追究してらっしゃる方もいらっしゃるでしょうし、これからこの世界に入りたいという方もいらっしゃるでしょう。そういう方々のネットワーク作りに貢献できれば、と思っております。

今日はこれから放送される光太郎関連のテレビ番組から。

土曜ワイド「浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎」 

2012年5月19日(土) 15時30分~17時30分 地上波フジテレビ系

内田康夫原作の人気シリーズの第22弾。 福島と島根で起こった2つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 光太郎彫刻の贋作を巡り、思わぬ展開を見せる事件の真相は?
 
キャスト
浅見光彦……中村俊介  野沢光子…… 紫吹淳   真杉伸子……姿晴香   橋田刑事……菅原大吉
宮田治夫……冨家規政  真杉民秋……中谷彰宏  柴山亮吾……新藤栄作  浅見陽一郎……榎木孝明
浅見雪江……野際陽子  ほか
 
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もともとは平成18年(2006)2月24日に金曜プレステージの枠で放映された2時間ドラマの再放送です。

原作は内田康夫著『「首の女」殺人事件』(昭和61年=1986 8月31日 トクマノベルス)。この年5/6~6/1に東京セントラル美術館で実際に開かれた「the光太郎・智恵子展」が事件の発端になっています。
 
当方、学生時代にこの展覧会も見に行きました。光太郎・智恵子の企画展を見たのはこれが初めてで、印象に残っています。そしてその展覧会をモチーフにした作品ということで、『「首の女」殺人事件』も購入、その後、内田氏の浅見光彦シリーズにけっこうはまり、文庫や新書になった作品はすべて読みました。
 
この2時間ドラマも平成18年(2006)の本放送で見ました。花巻の光太郎記念館や岳温泉でのロケが行われ、意外と良くできていて感心しました。本放送をご覧になっていない方、ぜひご覧下さい。
 
ちなみにテレビの浅見光彦シリーズは、フジテレビ系の中村俊介主演のものと、TBS系の沢村一樹主演のものがあり、沢村一樹主演の方でも、平成21年1(2009)2月16日に「「首の女」殺人事件」がオンエアされました。この時は全9回の連ドラ枠で「浅見光彦~最終章~」という題名。サブタイトルは「最終話 草津・軽井沢編」でした。原作での物語の舞台に草津や軽井沢は出てこないのですが、なぜか草津・軽井沢となっていました。こちらはDVD-BOXとして販売されています。
 
フジテレビの中村俊介主演のシリーズはDVD化されていないので、残念です。
 
他にも光太郎・智恵子がらみのテレビ番組、映画等でDVD化してほしいものがたくさんあるのですが、なかなか難しいようですね。今後に期待しますが。

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