カテゴリ:文学 > 小説等

現在発売中の『週刊新潮』さん1月20日号。巻末近くのグラビア的な記事のページに光太郎の名と写真――という情報を、お世話になっている坂本富江様から御教示いただき、早速買って参りました。
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「没後100年「森鷗外」 文豪の”顔は履歴書”」という3ページの記事で、文京区立森鴎外記念館さんで開催中の特別展「写真の中の鴎外 人生を刻む顔」とリンクしたものです。
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光太郎と鷗外の出会いは、光太郎が東京美術学校在籍中だった明治31年(1898)と推定されます。この年、鷗外が美学の講師として美校の教壇に立ち、光太郎もその講義を受けました。もっとも、鷗外邸と光太郎の実家は指呼の距離でしたので、それ以前に道端ですれ違ったりしていた可能性もありますが……。

光太郎には、軍医総監だった鷗外の講義ぶりなどが権威的に感じられ、あまり親しめなかったようです。後に鷗外が自宅で開いた観潮楼歌会、呼ばれても1度かそこらしか顔を出しませんでした。そして「軍服着せれば鷗外だ」事件

一方の鷗外。明治末、留学から帰った光太郎が徴兵免除になったのは、光雲に頼まれた鷗外が裏で手を回したからという説があります。
 
光太郎は鷗外を尊敬しながらも反発し、しかし頭が上がらず、鷗外は光太郎を「しょうもない奴だ」と苦笑しながらもかわいがる、といった関係でした。

で、『週刊新潮』さんに載った、光太郎も写っている写真。
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場所は上野の精養軒さん、時は明治44年(1911)、光太郎の師・鉄幹与謝野寛の渡欧送別会の席上です。昭和59年(1984)刊行の『新潮日本文学アルバム 高村光太郎』等にも掲載されており、初見ではありませんが、ドンと大きく載っていたので「おお」という感じでした。

前列中央で膝掛けをしているのが鷗外、一人置いて右から二人目が主賓の鉄幹です。光太郎は後列左から4人目(『週刊新潮』さんでは「後の口髭は高村光太郎」と書かれています(笑))。左隣は佐藤春夫、右隣に江南文三、万造寺斉、北原白秋、木下杢太郎と続き、中々錚々たるメンバーです。ちなみにオリジナルはもっと横長の写真で、右端に『野菊の墓』の伊藤左千夫も写っていますが、『週刊新潮』さんではカットされています。

鴎外記念館さんで開催中の特別展「写真の中の鴎外 人生を刻む顔」では、この写真も出品されているのでしょう。

興味のある方、足をお運びいただき、さらに『週刊新潮』さんもお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

院長さんの息進さんと熊谷さん父子来訪、山鳥一羽、カリフラワ、セロリ、砂糖等もらふ、新小屋で談話、夕方学校まで送る、ダツトサンで帰らる、


昭和26年(1951)11月21日の日記より 光太郎69歳

「院長さん」は、花巻病院長・佐藤隆房。光太郎歿後は花巻高村記念会を立ち上げ、永らく会長を務められました。「息進さん」は、隆房の子息にて、花巻病院長、花巻高村記念会長を嗣いだ佐藤進氏です。

今朝の『朝日新聞』さんには、大きく広告が出ていました。
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残照の頂 続・山女日記 

2021年11月10日 湊かなえ著 幻冬舎 定価1,500円+税

「通過したつらい日々は、つらかったと認めればいい。たいへんだったと口に出せばいい。そこを乗り越えた自分を素直にねぎらえばいい。そこから、次の目的地を探せばいい。」(武奈ヶ岳・安達太良山 より)

日々の思いを噛み締めながら、一歩一歩、山を登る女たち。山頂から見える景色は、これから行くべき道を教えてくれる。

後立山連峰 亡き夫に対して後悔を抱く女性と、人生の選択に迷いが生じる会社員。
北アルプス表銀座 失踪した仲間と、ともに登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。
立山・剱岳 娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。
武奈ヶ岳・安達太良山 コロナ禍、三〇年ぶりの登山をかつての山仲間と報告し合う女性たち。
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NHK BSプレミアムさんで放映中の「プレミアムドラマ山女日記3」の原作、ということですが、読んで驚きました。ドラマは工藤夕貴さん演じる山岳ガイド・立花柚月を主人公としていますが、こちらには柚月は登場しません。

4篇のオムニバスがそれぞれ独立しており、登場人物の一部とそれぞれの設定や、描かれるエピソードの一部がドラマでもアレンジされて使われている、という形です。

「続」ではない方の『山女日記』を読んでいないのですが、そちらには「立花柚月」が登場します。ただ、やはりドラマとは設定が異なっているようです。結局、ドラマは柚月を主人公、というより狂言回しにできるよう、脱サラした山岳ガイドと変更し、小説各話のエピソードも、設定を変えながらちりばめているようです。

で、「武奈ヶ岳・安達太良山」。ドラマでは小林綾子さん演じる英子は柚月のOL時代の同僚で、夫の実家である和菓子店を立て直すために、二本松に移り住んだという設定になっていますが、小説の英子は、京都の和菓子店の娘。急逝した兄に替わって、店を継いだということになっています。そして英子が登るのは安達太良山ではなく、滋賀県の武奈ヶ岳。山頂で自分の店の菓子を、そうとは知らない見知らぬ登山者から、これが山頂でのとっておきのルーティーン、的におすそわけとして差し出され、涙ぐむなどのエピソードは、ドラマと同一でした。

では、安達太良山は、というと、英子の旧友の久美が登ります。その中では、「智恵子抄」がらみの話になっていました。ちなみに久美は、福島浜通りに夫と開いたペンションが、東日本大震災の津波で全壊、という設定でした。英子と久美は、それぞれに手紙でそれぞれの登山を報告し会う、往復書簡の形になっています。

帯文にあるとおり、「ここは、再生の場所――。」小説もドラマも、各話の登場人物が、日々の暮らしの中で抱え込んだ重い荷物を、山に捨ててくる(以前も書きましたが、比喩です)という構図は変わりません。そういう意味では、非常にポジティブです。

また、オムニバスですので、どこから読み始めてもOK。当方もまず「武奈ヶ岳・安達太良山」を読み、巻頭に返って「後立山連峰」を読了、現在「北アルプス表銀座」を読んでいるところです。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃起きた時花巻より花巻新報の平野氏来訪、まりつきうたを舞踊にするとの事、

昭和26年(1951)5月20日の日記より 光太郎69歳

016まりつきうた」は、「初夢まりつきうた」。確認できている限り、光太郎がはじめから歌曲等の歌詞として作詞したと思われる最後の作品で、この年1月7日の『花巻新報』に発表されました。

邦楽奏者の杵屋正邦により作曲され、レコード化もされましたが、さらに振りを付けて舞踊にする、ということで、平野なる人物が報告に来たという訳です。

5月28日付の『花巻新報』から。

本社では彫刻家、詩人高村光太郎翁が、本誌新年号のために寄稿された花巻商人“初夢まりつき唄”の舞踊化を図り計画中のところ、水木歌盛さんの協力を得て日本舞踊の泰斗栗島すみ子(水木歌紅)振付、杵屋正邦作曲が完成したので 来たる六月十六日(土曜日)昼及び夜の二回に亘り発表会を開催する予定である、尚当日は高村翁を招待して講演会を開く予定(入場無料)

栗島すみ子、ビッグネームが出てきましたね。

作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。

「時事通信」さん配信記事から。

瀬戸内寂聴さん死去、99歳 純文学から伝記、大衆小説まで 

無題 私小説から伝記、歴史物まで幅広く手掛け、文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市の病院で死去した。99歳だった。葬儀は近親者で行う。後日、東京都内でお別れの会を開く予定。
 1922年、徳島市生まれ。東京女子大在学中に結婚。北京に滞在したが、46年に引き揚げ後、夫の教え子と恋愛関係になり協議離婚した。前後して小説を書き始め、丹羽文雄主宰「文学者」の同人に。57年に新潮社同人雑誌賞を受賞し、初の短編集「白い手袋の記憶」を刊行した。
 続けて発表した短編「花芯」で人妻の不倫を描き、「子宮作家」と呼ばれるなど物議を醸した結果、文芸誌からの執筆依頼が数年途絶えた。その間も雑誌に発表した作品が人気を集め、流行作家に。純文学と大衆小説のジャンルをまたいで活躍し、61年に伝記小説「田村俊子」で田村俊子賞、63年には「夏の終り」で女流文学賞を受賞した。
 明治・大正期の女性解放運動に共感し、伊藤野枝らを題材に「美は乱調にあり」などの伝記小説を次々と発表した。古典文学にも造詣が深く、70歳になる92年から「源氏物語」の現代語訳に取り組み、98年に全10巻を完成。京都府宇治市の源氏物語ミュージアムの名誉館長も務めた。
 多忙を極める中で出家への思いを募らせ、岩手県平泉町の中尊寺で73年に得度(出家)した。旧名「晴美」から法名「寂聴」に改名し、執筆を続けながら、京都市の「寂庵」を拠点に法話活動を展開。岩手県二戸市の天台寺住職も兼ね、孤独や病、家族などに悩む人々に寄り添った。
 政治・社会運動にも関わり、91年の湾岸戦争や2001年の米同時多発テロの際は断食により反戦を訴えた。東日本大震災後も現地の慰問や脱原発運動などに奔走した。
 著書は、谷崎潤一郎賞の「花に問え」、芸術選奨文部大臣賞の「白道」、野間文芸賞の「場所」、泉鏡花文学賞の「風景」のほか、エッセーや対談集など多数。06年に文化勲章を受章した。
 14年に背骨の圧迫骨折、胆のうがん摘出を経験したが、その後回復し、17年に作家としての来歴や闘病を題材にした長編小説「いのち」を刊行するなど、晩年まで精力的に文学活動を続けた。

当方、伝記小説のジャンルで、いろいろ参考にさせていただきました。光太郎智恵子を中心に据えた作品は書かれませんでしたが、その周辺人物たちを描いたもの。
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最近に読んだのは、一番右の『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』(昭和59年=1984)。白秋を主人公とした映画「この道」公開記念に出た文庫の新装版で読みました。中央が『田村俊子』(昭和36年=1961)。上記画像はやはり文庫版ですが、寂聴さんと交流の深かった横尾忠則さんの表紙が鮮烈です。智恵子と最も親しかった作家の田村俊子が主人公です。右は『青鞜』(昭和59年=1984)。平塚らいてうを中心に、尾竹紅吉、伊藤野枝ら『青鞜』メンバーの群像。智恵子も登場します。上記文庫版の表紙でもモチーフになっている、『青鞜』創刊号の表紙のくだり。
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ちなみに当方手持ちの『青鞜』。これも文庫版ですが、寂聴さんサイン入りです。当方が書いてもらったわけではなく、古書店で購入したもので、真筆かどうかよくわかりませんが。
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002これら三冊、いずれも厚冊で、改めて読み返してはいませんが、平成24年(2012)に発行された雑誌『いろは』に載った、瀬戸内さんと森まゆみさんの対談を読み返してみました。題して「青鞜の女たち」。

田村俊子やらいてう、そしてやはり寂聴さんが伝記小説で描かれた岡本かの子(『かの子撩乱』昭和40年=1965)、伊藤野枝(『美は乱調にあり』同)などにも触れられています。野枝あたりと較べれば、らいてうはまだまだ優等生、的なご発言もあったりで、寂聴さんの一種の豪快さも改めて感じました。

『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』でメインだった江口章子なども含め、三浦環や管野須賀子、金子文子など、強烈な女性たちを多く描いてこられた瀬戸内さん。御自身も彼女たちに負けず劣らず、ですね。ぜひ森さんあたりに伝記小説『瀬戸内寂聴』を書いていただきたいものです。

改めて、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午后佐藤隆房氏、宮澤政次郎氏、〃老母同道来訪。熊谷さん運転と見ゆ、もらひものいろいろ。

昭和26年(1951)5月6日の日記より 光太郎69歳

宮澤政次郎氏」は賢治の父、「老母」はその妻・イチです。光太郎は花巻郊外旧太田村の山小屋に移った後も、花巻町中心街に出ると、ほぼ必ず宮沢家に顔を出していましたが、政次郎夫妻が太田村の山小屋を訪れたのは、この時が初めてでした。

自動車が通れる道が光太郎の山小屋から1㌔弱の山口小学校までしか通じておらず、明治7年(1874)生まれの政次郎は足を悪くしていたため、無理だったわけです。

この時期、山小屋の増築工事もあり、道も整備され、この日は佐藤隆房家のダットサンで、政次郎夫妻が念願の光太郎山小屋訪問を果たしました。下記がこの日撮られた写真で、左からイチ、政次郎、光太郎です。

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まず、新刊の小説です。

非愛の海

2021年10月6日 野樹優著 つむぎ書房 定価1,600円+税

反体制という青春があった。 此の国で人を愛するのは偽善で堕落だ。いや腐敗だ。俺たちはインテリではなかったのかと見せかけの自由に苛立つ戦後生まれのかれらが為そうとした希望のテロルとは何か。そして令和のこの時、孫世代が運命のように過酷な現実と出会う。これほど知性の愛を問いかけた文学はあったろうか。反抗は学問なのだ、と孤絶の闇を噛む愛の幻想(かげろう)。
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作者の野樹優氏、「小野寺聰」名義で演劇公演の脚本、演出などもなさっています。小野寺氏というのがご本名なのだと思われます。

一昨年、渋谷で公演のあった「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」の脚本、演出をされていて、終演後には当方自宅兼事務所までお電話を下さいました。そして今回、御著をお送り下さったという訳で、恐縮しております。

物語は、戦後の混乱期、昭和40年代(と思われる時期)、現代を舞台としています。このうち、昭和40年代(と思われる時期)に、ノンセクト(死語ですね(笑))の左翼学生たちが、旧華族の令嬢を誘拐し、身代金ではなく、天皇が自らの戦争責任を表明することを要求する、というくだりがあります。それが上記の「見せかけの自由に苛立つ戦後生まれのかれらが為そうとした希望のテロル」です。誘拐、といっても、誘拐された後の令嬢が、彼らの計画に共鳴し、「共犯者」となることを提案したりと、一筋縄ではいかないのですが……。

その左翼学生たちと令嬢の会話の中に、ちらっと光太郎智恵子。
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あり余る過剰な才能を、光太郎との生活の中で発揮しきれず、心を病んでしまった智恵子。同様に、あり余る過剰な才能を、閉塞する時代の中で発揮しきれなかった学生たち(主人公的な学生は、詩や映画などの方面でその一部を発揮してはいましたが)。結局は挫折してゆくことになっていきます。

新刊紹介ついでにもう一冊。

4月にフランスで刊行された仏訳『智恵子抄』、『Poèmes à Chieko』。その後、紀伊國屋さんで注文可となり、取り寄せてもらいました。
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当方、仏語はほぼほぼお手上げですが、何と、見開きで光太郎の原詩が日本語で載っており、こりゃいいや、という感じでした。
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詩の選択は、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)が底本となっており、戦後の詩篇も含まれています。散文「智恵子の半生」も。しかし、「智恵子の半生」と、それから冒頭20頁ほど、光太郎智恵子の簡略な評伝となっているようですが、そちらは仏語のみでした。散文「九十九里浜の初夏」、同じく「智恵子の切抜絵」は割愛されていました。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

藤間さんの為短文をかく。

昭和26年(1951)4月19日の日記より 光太郎69歳

「藤間さん」は舞踊家の藤間節子(のち、黛節子)。

「智恵子抄」の二次創作として光太郎が唯一許し、光太郎生前に実際に上演されたたのが、藤間による舞踊化のみでした。昭和24年(1949)と翌年のことでした。
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その後の「智恵子抄」がらみでない公演のパンフレットにも、光太郎は短文を寄せ、日記にあるのもそのうちの一篇「山より」です。

コロナ禍も収束に向かいつつあり、さらに芸術の秋、ということで、さまざまなイベントが多く、このブログもそちら方面の紹介に紙幅(紙ではありませんが(笑))を費やして参りました。その分、新刊書籍の紹介が後回しになってまいりましたが、今日からしばらくそのあたりを。

まずは小説です。

明治画鬼草紙

2021年8月15日 伊原勇一著 文芸社 定価800円+税

画鬼と呼ばれた奇想の絵師が四つの怪事件に遭遇。歴史上の人物も巻きこんで、物語は意想外の展開に! 第21回歴史浪漫文学賞・創作部門優秀賞受賞者の渾身作!

本書を彩る様々な登場人物──山岡鉄舟、柴田是真、高村光雲、夜嵐お絹、月岡芳年、中村仲蔵、新門辰五郎、三河町半七、仮名垣魯文、落合芳幾、山田浅右衛門、雲井龍雄、万亭応賀、梅亭金鵞、三遊亭円朝、豊原国周


目次
第一話 御用盗始末  第二話 彰義隊異聞  第三話 牛鍋屋因果  第四話 母子像縁起
混沌(あるいは渾沌)の絵師・河鍋暁斎――あとがきに代えて

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奇想の画家・河鍋暁斎を主人公、というより狂言回しとしたもので、幕末から明治初年の江戸・東京が舞台です。

「第二話 彰義隊異聞」に、若き日の光雲が登場します(ちょい役ですが)。

その他、歴史上の実在の人物(山岡鉄舟など)や、過去の名作に登場した架空の人物(半七親分ほか)などが入り乱れ、あやなす人間模様。ストーリーも、記録に残る実際の出来事や、三遊亭円朝の怪談噺などを下敷きに、虚実取り混ぜて展開されています。

光雲に関しては、元ネタは『光雲懐古談』(昭和4年=1929)中の「上野戦争当時のことなど」。慶応4年(1868)、上野寛永寺に立て籠もった彰義隊と薩長東征軍との戦いのさなか、師匠・東雲の元で年季奉公中の光雲が、砲弾銃弾の飛び交う下を、逃げ遅れているであろう師匠の兄弟弟子のもとに向かったことが記されています。『明治画鬼草紙』では、その途中で暁斎たちと出会う、というシーンが描かれていますが、これは著者の伊原氏の創作のようです。

ちなみに『光雲懐古談』は、復刊された各種の版を含め、索引が付いて居らず、暁斎について言及されている箇所があるかどうか、当方、記憶にありません。ただ、光太郎の回想によれば、光雲は暁斎の絵を高く評価していたようです。

雅邦先生は学校の始めからその後も始終一緒だつたから、時々事がある度に往来してゐて、父は雅邦さんを大変尊敬してゐたけれど、個人的には非常に親しいという程ではなかつた。寧ろ川端玉章先生の方が親しかつたが、それにしても仕事が違ふので大したつきあいといふのでもなかつた。却て工芸家の方に大島如雲さんなどとのつきあひがあつた。是真さんとは往来があつたかどうか私は記憶にないが、父は是真さんの絵を殊にその意匠をひどく買つてゐた。洒落のうまいところなど好きなのである。だから是真さんのものからヒントを得て作つた彫刻は沢山ある。河鍋暁斎の絵も好きであつた。父は自分では全然絵が描けないから、絵が描ければとよく言つて居り、私には絵を習へとよく言つたものだ。
(「回想録」昭和20年=1945)

また、光太郎自身も、明治中期以降になってからのいわゆる大家(たいか)の人々よりも、江戸期から活躍している暁斎らの方に高い芸術性を感じると書いています。

さて、『明治画鬼草紙』、『東京新聞』さんに書評、というか刊行を報じる記事が出ていました。

江戸の浮世絵師テーマに小説執筆 さいたま市・伊原勇一さん 3冊目で初文学賞

無題 埼玉県内で公立高の国語教諭として長年勤め、早期退職後は小説執筆に専念していたさいたま市見沼区の伊原勇一さん(67)が、江戸期の浮世絵師を描いた三冊目の時代小説で文学賞を受賞した。完成まで足掛け五年ほど費やし、受賞後も加筆したという力作だ。「浮世絵師へのリスペクトを込めた。優れた人物がいたことを知り、見直してほしい」と喜びを語る。(前田朋子)
 今年三月、歴史浪漫文学賞(主催・郁朋社、歴史文学振興会)の創作部門優秀賞を受賞したのは「春信あけぼの冊子(そうし)」(出版に際し「鈴木春信あけぼの冊子」と改題)。これまでの二作同様、江戸期の浮世絵師が主人公ながら、今で言う「パパ活」や児童虐待、ストーカーのような現代にも通じる問題をちりばめた連作小説集だ。
 県立大宮東高などで教壇に立った伊原さんは、大学で絵入りの娯楽本「黄表紙(きびょうし)」を卒論に選ぶなど、江戸期の文化に造詣が深かった。市立浦和南高に在職時、学校での市民講座で講師をした際、歌川国芳を題材に選んだことを機に浮世絵への興味が募り、研究を開始。版画技術の高さへの興味に加え、四十歳前後から歴史の表舞台に躍り出る絵師は前半生に謎が多く、創作意欲をそそった。
 浮世絵師の小説一作目で国芳、次に喜多川歌麿を取り上げ、三作目は満を持して浮世絵の創始者と言われる鈴木春信(生年不詳〜一七七〇年)を主役に据えた。春信が画業の傍ら長屋の大家だった史実を使い、店子(たなこ)が春信に相談事を持ち込むなどして物語が展開する。実際に親交のあった平賀源内や、当時の美人として有名だった笠森お仙らも登場する。
 これとは別に、同じく浮世絵師の河鍋暁斎(一八三一〜八九年)の半生を描く長編「明治画鬼草紙」も刊行を控える。のんびりしたペースで進む「あけぼの冊子」と比べ、「画鬼草紙」は波瀾(はらん)万丈で話が次々に展開。伊原さんは「山田風太郎さんの明治ものが好きな方におすすめ」と話す。
 いずれも資料は最大五万冊あったという蔵書でほぼ賄い、足りない部分は東京・神田の古書店で必要な資料に奇跡的に出合えた。「これは私に書けと言ってるのだと感じましたね」と伊原さんは笑う。今後は近代落語の祖・三遊亭円朝や明治の郵便制度に着目した作品を執筆予定。「私にとって、書くことは生きること。読み終えて『楽しかった、勉強になった』と思ってもらえる作品を書き続けられたら」と意気盛んだ。
 問い合わせは、「鈴木春信あけぼの冊子」は郁朋社=電03(3234)8923、「明治画鬼草紙」は文芸社=電03(5369)3060=へ。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

中央公論社の選集の事結局承諾。六巻。300頁300円程度5000部一割。二分は草野君に。

昭和26年(1951)3月22日の日記より 光太郎69歳

選集」は、この年9月から刊行が始まった『高村光太郎選集』。編集実務には当会の祖・草野心平があたりました。

こういう雑誌が刊行されていることを存じませんでした。小学館さん発行の隔月刊誌『小学8年生』。「8年生? 何かの間違いじゃないのか?」と思ったのですが、「時計などに表示されるデジタル数字の「8」は、0~9のどんな数字にも変身します。つまり、2~6年生まで、すべての小学生が、学年にとらわれず楽しく学べる学習雑誌の名前にふさわしい数字なのです。」だそうで、かつて刊行されていた『小学二年生』から『小学六年生』までを統合したものようです(『小学一年生』は健在)。
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「文豪探偵の事件簿」という連載小説があり、現在店頭発売中の2021年10・11月号は、サブタイトルが「山の中の芸術家」。そう、光太郎です。
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全体で8ページ、最終ページが光太郎の人物紹介となっていますが、メインの7ページは、菊池良氏によるジュブナイルです。菊池氏、聞いた名前だな、と思って調べましたところ、ベストセラーになった『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』(平成29年=2017 宝島社)のご著者でした。「なるほど」と合点がいきました。

ストーリーは、古今東西の文豪が住む架空の街「かきものシティ」で、文豪たちから寄せられた相談に乗る「探偵くん」の物語。今号の「文豪」は光太郎なのですが、例外的なパターンのようで、休日だった「探偵くん」が、自分から山中に住む光太郎を訪ねるという話になっています。

ジュブナイルと侮るなかれ。詩「道程」(大正3年=1914)、評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)、そして再び詩の「山のともだち」(昭和27年=1952)を効果的に使い、光太郎の人となりを鮮やかに描き出しています。

   山のともだち003

 山に友だちがいつぱいいる。
 友だちは季節の流れに身をまかせて
 やつて来たり別れたり。
 カツコーも、ホトトギスも、ツツドリも
 もう“さようなら”をしてしまつた。
 セミはまだいる、
 トンボはこれから。
 変らないのはウグイス、キツツキ、
 トンビ、ハヤブサ、ハシブトガラス。
 兎と狐の常連のほか、
 このごろではマムシの家族。
 マムシはいい匂をさせながら
 小屋のまはりにわんさといて、
 わたしが踏んでも怒らない。sho8_2110-11_05
 栗がそろそろよくなると、
 ドングリひろいの熊さんが
 うしろの山から下りてくる。
 恥かしがりやの月の輪は
 つひにわたしを訪問しない。
 角の小さいカモシカは
 かわいそうにも毛皮となつて
 わたしの背中に冬はのる。

「山のともだち」は、雑誌『婦人の友』が初出で、この頃(昭和27年=1952)ともなると、拗音、促音の文字サイズを除き新仮名遣いです。草稿も初め旧仮名遣いで書かれていましたが、新仮名遣いを書き添えてあります。

イラストは徳永明子氏。ある意味、偏屈だった光太郎をかわいらしいおじいちゃんに描いて下さいました。ありがとうございます(笑)。この方、ブックデザインのお仕事をたくさんなさっており、お名前は寡聞にして存じ上げませんでしたが、「ああ、この本も」という感じでした。

特に小学生のお子さん、お孫さんのいる方(そうでない方も)、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

風呂焚。夜に入りてより入浴、初めての風呂使用。月を見ながら湯にひたる。

昭和23年(1948)11月13日の日記より 光太郎66歳

花巻町の宮沢家や、花巻病院長・佐藤隆房、そして蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の村人たちの厚意で贈られた風呂が完成し、初の入浴。

この風呂桶は現存し、平成29年(2017)、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と花巻の湯」で展示されました。しかし、せっかく造ってもらった風呂でしたが、薪を大量に消費せねばならず、結局、あまり使われませんでした。

新刊です。といっても、2ヶ月ほど経ってしまいましたが。

博覧男爵

2021年5月20日 志川節子著 祥伝社 定価1,800円+税

日本に始めて博物館を創り、知の文明開化を成し遂げた挑戦者!

幕末の巴里(パリ)万博で欧米文化の底力を痛感し、武力に頼らないに日本の未来を開拓する男がいた!

日(ひ)の本(もと)にも博物館や動物園のような知の蓄積を揃えたい!

黒船の圧力おびただしい幕末。信州飯田で生まれ育った田中芳男は、巴里(パリ)で行なわれる万国博覧会に幕府の一員として参加する機会を得た。その衝撃は大きく、諸外国に比して近代文化での著しい遅れを痛感する。軍事や産業を中心に明治維新が進む中、日の本が真の文明国になるためには、フランス随一の植物園ジャルダン・デ・プラントのような知の蓄積を創りたい。「己れに与えられた場で、為すべきことをまっとうする」ことを信条とする芳男は、同じ志を持つ町田久成や大久保利通らと挑戦し続け、現代の東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いていく……。
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田中芳男(天保9年=1838~大正5年=1916)は、元々、信州飯田の医師の家に生まれ、本草学を修めました。その後、興味の対象が広がる中で、幕府の蕃書調所に出仕、博物学者として名を成します。

慶応3年(1867)のパリ万博に出張し、彼の地の文化施設、物産等を実地に見て、日本を文化先進国とする大望を抱いて帰国。幕府の瓦解や戊辰戦争、西南戦争など、様々な苦難を乗り越え、日本でも各種の博覧会を開催、そして東京帝室博物館(現・東京国立博物館)などを造り上げました。「政治や軍事、産業の面ばかりに目が向きがちだが、文化面での開化なくして真の文明国とはいえない」という信念が、そこにありました。

その功績が認められ、晩年の大正4年(19815)、男爵位に列せられたため、タイトルが「博覧男爵」となっています。

物語の終盤近く、明治10年(1877)、第一回内国勧業博覧会が上野で開催されるという場面で、出品者を募る中、田中が光太郎の父・光雲の師匠であった高村東雲の工房を訪れるシーンがあります。

「博覧会」と言われても、東雲はじめ、何のことだか分からないという人が殆どでした。そこで田中は、「何も特別なものではなく、普段作っているようなものを出品してくれればいい」と、東雲に告げます。すると東雲、「それでは弟子の光雲に作らせましょう」。田中が「それは困る」と言うと、東雲は「いや、この者の技倆は保証します」。

このあたりのやりとりは、作者・志川さんの創作かな、という気がしますが、いずれにせよ、光雲は東雲の名で白衣観音像を制作し、出品。見事、一等龍門賞に輝きました。

ところで、慶応3年(1867)のパリ万博といえば、かの渋沢栄一(当時・篤太夫)も、徳川慶喜の実弟・徳川昭武の随員として参加しています。そこで、本書でも、ちらっと渋沢が登場しています。

また、渋沢を主人公とするNHKさんの大河ドラマ「青天を衝け」、7月11日(日)の放映がまさにパリ万博の模様でした。
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キャストとして、田中の名はクレジットされていませんでしたが、上の画像の武士団の一人が田中、という感じですかね。

それにしても、現在、双子パンダの誕生に湧く上野動物園さんや、光太郎の母校・東京美術学校(現・東京藝術大学さん)などを含めた上野一帯の各文化施設が、どういう経緯で整備されていったのかなど、非常に興味深く拝読いたしました。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后二時学校増築上棟式に列席。つついて校庭にて宴会。拡声器など使つて唄つたり踊つたり。歌のうまき人数人あり。五時頃けへる。折詰やお祝の餅をもちかへる。

昭和23年(1948)5月24日の日記より 光太郎66歳

「学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近く(といっても500メートルほど離れていますが)の、山口小学校。この年4月、分教場から小学校に昇格しました。

それにしても、のどかですね(笑)。しかし、光太郎が帰った後、「会計に関する事のもつれ」で、村の顔役同士の乱闘騒ぎが起きたそうで(笑)。

まずは『日刊ゲンダイ』さんのデジタル版。紙面にも載ったのでしょうか、未確認ですが。

佐高信「この国の会社」 中村屋のカリーは「恋と革命の味」 そこに込められた“辛い意味”

002 元気がなくなると、新宿の中村屋に行ってカレーならぬカリーライスを食べる。「恋と革命の味」といわれるカリーである。
 中村屋は最初、本郷の東大正門前にあった。1901年に相馬愛蔵、黒光夫妻がそこでパン屋を開いた。クリームパンのヒットをきっかけに新宿に移ったが、相馬夫妻の下、彫刻家の荻原碌山や詩人の高村光太郎らが集まるようになり、文化的サロンの場となった。単なるパン屋ではないということである。
 また、夫妻はインド独立運動の闘士、ラース・ビハーリー・ボースを匿(かくま)う。
 そのボースが伝えたのが純インド式カリーである。ボースは匿われている間に相馬夫妻の娘の俊子と親しくなり、結婚して、哲子が生まれた。しかし、まもなく俊子が亡くなるという悲運に見舞われる。
 それで、「恋と革命の味」と呼ばれるのだが、そこにはかなり辛い意味がこめられている。
  悲願のインド独立を果たすため、ボースはイギリスと戦う日本の軍隊に希望を託し、ナチス・ドイツとの連携を訴えるようにもなった。日本のファシスト、大川周明と親しくなって、全国各地を講演して歩いてもいる。
 中村屋では、日本で初めて、水ようかんの缶詰をつくった。和菓子が夏には売れないので、和菓子職人として有名だった荒井公平を招き、水ようかんの缶詰を開発させたのである。これは現在でも人気商品となっている。
「故(ふる)きのれんに」と始まる現在の社歌ではない旧社歌は1930年に制定された。
 蒼茫かすむ 武蔵野に 見よ朝ぼらけ 紅の
 強き光りに 輝きて 礎ふかく ゆるぎなき
 黒き甍(いらか)の 重く摩す 是ぞ我等が 中村屋
 作詞が阿里信で、作曲がマルクラスだが、阿里は社員の萱場有信のペンネームで、マルクラスはロシア革命で祖国を追われたウクライナ出身のピアニストである。ここにもインターナショナルな中村屋の雰囲気が出ている。

相馬愛蔵。信州穂高(現・安曇野市)生まれの実業家です。妻・黒光ともども、メセナの嚆矢として、光太郎の親友だった同郷の碌山荻原守衛をはじめ、多くの芸術家を援助し、彼等によって「中村屋サロン」が形成されました。その流れから、中村屋サロン美術館さんが開設されました。

光太郎は海外留学からの帰朝後、ほぼ中村屋に起居していた守衛のもとをしばしば訪れたので、上記に名が上がっていますが、明治43年(1910)の守衛の急逝後は、足が遠のいたようです。

サロン美術館さんが3階に入っている「新宿中村屋ビル」の8階がレストラン「Granna」さん、または時期によるようですが、チェーン展開の「新宿中村屋オリーブハウス」さんの浦和店/蒲田店/北千住店/新宿高島屋店/国分寺店/吉祥寺店、それから池袋東武百貨店内の「洋食レストラン新宿中村屋」さんで、記事にある「カリー」がいただけます。
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当方も一度、「Granna」さんでのコース料理として食しましたが、なるほど、「カレー」ではなく「カリー」でした(笑)。ちなみにレトルトの通販も行われているそうです。

中村屋さんといえば、智恵子も訪れています。昭和4年(1929)に開催された「旧青鞜同人のあつまり」という女子会の会場が、新宿中村屋さんでした。
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写真では、野上弥生子の陰に隠れて、顔がよく写っていませんが……。

もう1件、中村屋さんネタで。

相馬愛蔵の妻・黒光の生涯を描いた、故・葉室麟氏の小説『蝶のゆくへ』が文庫化されました。

蝶のゆくへ003

2021年6月18日 葉室麟著 集英社(集英社文庫)
定価836円(税込)


ガールズ、ビー・アンビシャス! 新しい生き方を希求した明治の女性たち──。葉室麟が遺した、今を生きるあなたへのラストメッセージ。

明治28年、旧仙台藩に生まれた星りょうは、自分らしく生きたいと願い、18歳で上京し、明治女学校へ入学する。その利発さから「アンビシャスガール」と呼ばれていたりょうは、新しい生き方を希求する明治の女性たち──校長の妻で『小公子』翻訳家・若松賤子、勝海舟の義娘クララ、作家・樋口一葉らと心を通わせていく。新時代への希望と挫折、喜びと葛藤が胸に迫る、著者からのラストメッセージ。

紛らわしい書き方になっていますが、「明治28年」は、黒光の生年ではなく上京の年です。

光太郎もちらっと登場します。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

<朝ねてゐる時小鼠天井の梁より落つ>


昭和23年(1948) 3月1日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、退治しても退治しても絶滅しない鼠たち、奇妙な「同居人」(「人」ではありませんが(笑))でした。

過日ご紹介しました、光太郎智恵子も登場する小説『風よあらしよ』。『朝日新聞』さんの西部版に書評が出ましたのでご紹介します。先月20日の掲載でした。

弾圧に屈せず女性のために 伊藤野枝に光「今こそ必要」

003 婦人解放に取り組み、関東大震災の混乱のさなかに28歳で憲兵に虐殺された女性活動家、伊藤野枝(のえ)に、光があてられている。弾圧や批判に屈せず女性のために論陣を張ったが、奔放な生き様に偏って見られることもあった。森喜朗氏の女性蔑視発言が議論を呼ぶなか、今こそ野枝のような存在が必要という声が上がっている。
 伊藤野枝(1895~1923)は福岡県今宿村(現在の福岡市・今宿)に生を受け、苦学のすえ上野高等女学校に進学。後に平塚らいてうから引き継ぐ雑誌「青鞜」では「新しき女の道」などの文書を発表した。青鞜休刊後も「娘たちは男の妻として準備される教育から解放されなければならない」などと女中、女郎、女工の解放を訴えて活動した。米国のアナーキストでフェミニストのエマ・ゴールドマンの著作の翻訳にも取り組んだ。
004 震災の約2週間後、夫で思想家の大杉栄とおいで6歳の橘宗一とともに、甘粕正彦ら憲兵隊に虐殺され井戸に葬られた。思想が政府に害をなすと見なされた。国に盾突いたとして死後も冷遇され、業績に比べ複数の男性と離縁したことなどが注目されがちだった。
 野枝を題材にした小説「風よあらしよ」(集英社)を2020年9月に出版したのは、直木賞作家の村山由佳さん。「理想とする社会のため自分の幸せを振り捨ててでも行動したところに女性として励まされた」と話す。
 「取材し連載を書いて本が出る3年ほどの間に、政府のあり方やまわりの思考停止が野枝が生きた100年前にぐっと近づいてしまった」。虐殺された当時、甘粕を正当化する声が出るなど野枝が世間に冷遇されたことに触れ「今でもそのままなのはかわいそう。権力者に物が言いにくくなっている今こそ、時代が野枝や大杉を必要としているのではないか」と話す。
 「今の時代に野枝がいたらたたかれまくったと思いますよ。それでも動じず世の中を引っかき回し、考えるための話題を作ってくれる野枝みたいな人005が出てきてほしい」
 福岡市在住の自営業、古瀬かなこさん(42)は数年前から、野枝の生涯についての勉強会を開いている。野枝は日本初の女性社会主義団体に参画した。メーデーに参加した女性が警官に暴行されると、出しゃばるなと言うだろうが婦人はそんな圧力ははね返す、と文章を発表した。古瀬さんは「弾圧の中で女性差別の本質を突いた野枝の言葉に共感する」という。命日となる昨年9月16日には、手作りの野枝のTシャツを着て街頭に立ち、野枝について話をした。
 自分自身、脱原発などの訴えを続けてきたが「女性の権利を求める100年前の野枝に背中を押されてきた」と話す。森氏の女性蔑視発言に「今更驚かないが、ありえない発言。野枝がいたら雑誌で特集を組んだり、街頭で先頭に立って批判したりしたと思う」。没後100年にあたる2023年に、功績を振り返るシンポジウムや記念碑の建立を考えている。
007 野枝のおじで庇護者(ひごしゃ)でもあった代準介(だいじゅんすけ)のひ孫と結婚した福岡市の矢野寛治さん(72)は「男系社会の厳しい環境で、よお頑張ったですよ」と話す。野枝は時の内務大臣後藤新平にも「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」と書いた書簡を送り、ひるまずに持論を展開した。文筆家の矢野さんは12年に家に伝わる代直筆の自叙伝をひもとき「伊藤野枝と代準介」を書き起こした。
 福岡市西区今宿町の山中に、野枝の無銘碑の墓がある。矢野さんによると、無銘碑は代が野枝たちの死後の翌年に生家に近い浜辺に建てたが、追われるように転々として現在の場所に落ち着いたという。
 今は当初あった立派な台座もない。矢野さんは「男が女を下に見る風潮は今も残っている」と話す。「野枝さんはそれを打ち破ろうと一生懸命活動した人。やった仕事をちゃんと見てほしい」と語る。
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昨年の刊行直後にも、いろいろなメディアに書評が出たのでしょうが、このブログでこの書籍をご紹介したのが遅くなりましたので、遡っての引用は割愛させていただきます。

村山さんの談話にある「政府のあり方やまわりの思考停止が野枝が生きた100年前にぐっと近づいてしまった」、まさにそうですね。

それにしても、最後の画像にある野枝の墓、こんな状態なのか、と思いました。

「風よあらしよ」、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩碑の加筆は三日にしたき旨院長さんに伝言をたのむ。

昭和21年(1946)10月29日の日記より 光太郎64歳

008「院長」さんは佐藤隆房、伝言を頼んだ相手は、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋をひょっこり訪れた宮沢清六、「詩碑」は昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑です。

まだ東京にいた最初の揮毫の際、花巻から送られてきた原稿の通りに揮毫したところ、賢治が手帳に書いた通りでなかった箇所が複数ありました。

花巻高村光太郎記念会会長であらせられた故・佐藤進氏著『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(地方公論社 平成5年=1993)から。

 以前よりの懸案ではありましたが、賢治さんの詩碑に脱字があったり誤字があったりしているので、これを改めたいとお願いしたところ、高村先生が詩碑に直接加筆され追刻することになり、その心ぐみでそろそろ寒くなった東北の十一月の一日に山から出かけ、私の家に来ました。
 一日おいた三日の朝です。東北の十一月、既に肌寒く、吐く息が白々と見える冴えた冷い朝でした。高村先生に清六さんと父と私とがお供をして桜の詩碑に行きました。着いてみると、先にこの賢治の詩碑を彫った石工の今藤清六さんが、先に来て、詩碑の前に板をさしわたした簡単な足場を作っておき、そのかたわらで焚火をしていました。
 先生はおもむろに碑を眺め、やがて足場に上り、今、加筆をはじめようとしています。
 万象静寂の中に、人も静まり気動かず、冷気肌をおおい、立ち上る煙のみがその静寂を破っているばかりです。先生は筆を取り、『松ノ』『ソノ』『行ツテ』を加筆し、『バウ』を『ボー』とわきに書き替えました。つづいて裏に父が「昭和二十一年十一月三日追刻」と書き入れました。

「ヒドリ/ヒデリ」の改編については、さる高名な宗教学者の方が、詩碑の揮毫を光太郎がしたから光太郎の仕業だ、と、まったくお門違いの珍説をまことしやかに語っており、それを真に受けた記述がネット上にも氾濫していて、超迷惑です。

光太郎智恵子が登場しているとは存じませんで、新刊、といっても5ヶ月近く経ってしまいましたが……。

風よ あらしよ

2020年9月25日 村山由佳著 集英社 定価2,000円+税

【祝!本の雑誌が選ぶ2020年度ベスト10第1位】

どんな恋愛小説もかなわない不滅の同志愛の物語。いま、蘇る伊藤野枝と大杉栄。震えがとまらない。
姜尚中さん(東京大学名誉教授)

ページが熱を帯びている。火照った肌の匂いがする。二十八年の生涯を疾走した伊藤野枝の、圧倒的な存在感。百年前の女たちの息遣いを、耳元に感じた。
小島慶子さん(エッセイスト)

時を超えて、伊藤野枝たちの情熱が昨日今日のことのように胸に迫り、これはむしろ未来の女たちに必要な物語だと思った。
島本理生さん(作家)

明治・大正を駆け抜けた、アナキストで婦人解放運動家の伊藤野枝。生涯で三人の男と〈結婚〉、七人の子を産み、関東大震災後に憲兵隊の甘粕正彦らの手により虐殺される――。その短くも熱情にあふれた人生が、野枝自身、そして二番目の夫でダダイストの辻潤、三番目の夫でかけがえのない同志・大杉栄、野枝を『青鞜』に招き入れた平塚らいてう、四角関係の果てに大杉を刺した神近市子らの眼差しを通して、鮮やかによみがえる。著者渾身の大作。

[主な登場人物]
伊藤野枝…婦人解放運動家。二十八年の生涯で三度〈結婚〉、七人の子を産む。
辻 潤…翻訳家。教師として野枝と出会い、恋愛関係に。
大杉 栄…アナキスト。妻と恋人がいながら野枝に強く惹かれていく。
平塚らいてう…野枝の手紙に心を動かされ『青鞜』に引き入れる。
神近市子…新聞記者。四角関係の果てに日蔭茶屋で大杉を刺す。
後藤新平…政治家。内務大臣、東京市長などを歴任。
甘粕正彦…憲兵大尉。関東大震災後、大杉・野枝らを捕縛。

【著者略歴】
村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒。会社勤務などを経て作家デビュー。1993年『天使の卵――エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞、2003年『星々の舟』で直木賞、2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞を受賞。
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【目次】
 序  章 天地無情
 第  一  章 野心
 第  二  章 突破口
 第  三  章 初恋
 第  四  章 見えない檻
 第  五  章 出奔
 第  六  章 窮鳥
 第  七  章 山、動く
 第  八  章 動揺
 第  九  章 眼の男
 第  十  章 義憤
 第十一章 裏切り
 第十二章 女ふたり
 第十三章 子棄て
 第十四章 日蔭の茶屋にて
 第十五章 自由あれ
 第十六章 果たし状
 第十七章 革命の歌
 第十八章 婦人の反抗
 第十九章 行方不明
 第二十章 愛国
 終  章 終わらない夏
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『青鞜』社員でもあった、伊藤野枝の評伝小説です。序章は大正12年(1923)9月、関東大震災の場面。その後、第一章からは明治28年(1895)の野枝の誕生以後をほぼ時系列を追って展開します。

野枝はとにかく向学心に燃え、貧しい家庭に生まれながらも周囲を強引に説得し、上野高等女学校に進学、卒業時に無理矢理意に沿わない結婚を強いられるも婚家を飛び出し、女学校の教師だった辻潤と結ばれ、『青鞜』に参加。発起人の平塚らいてうが編集から離れると、それを引き継ぎます。するとアナキスト・大杉栄と知り合い、たちまちその魅力に惹かれ、辻と別れて大杉の元へ。しかし大杉は「自由恋愛」を標榜し、野枝以外にも二人の女性との関係を続けます。そのうちの一人、神近市子に大杉が刺され(いわゆる「日蔭茶屋事件」)、一命を取り留めた大杉とともに無政府主義運動にのめり込む野枝。やがて関東大震災、そして、そのどさくさで大杉もろとも憲兵隊に拘引され……。

何というか、「火の玉」のような女性です。永遠の厨二病的な傾向や、自分もそうされてきたにも関わらず、我が子に対するネグレクト(結局、そういう部分は連鎖するのでしょうか)、そして辻や大杉らとの四角関係、五角関係など、決して手放しでほめられる生き方をしていなかった部分も多いのですが、確かにその生の軌跡には鮮やかな、そして烈しい光芒……。

野枝が『青鞜』に加わったのは、智恵子が『青鞜』から離れたあとで、おそらく直接の面識はないものと思われます。そこで、この小説が出ていたのは存じておりましたが、智恵子は登場しないだろうと思い、購入せずにいました。ところが、そうでないと知り、慌てて購入して読んだ次第です。

第七章 山、動く」で明治44年(1911)の『青鞜』発刊前後も描かれており、数え26歳の智恵子。
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「明」は「はる」と読み、らいてうの本名です。「智恵」が智恵子。智恵子の戸籍名はカタカナで「チヱ」ですが、この頃、多くの女性が勝手に漢字を当てたり、「子」をつけたりした名を自称しています。与謝野晶子も本名は「しよう」。旧仮名遣いですので拗音でも「よ」は大きな「よ」、したがって読み方は「しょう」。そこで「晶」の字をあて、「子」をつけて「晶子」、さらに訓読みにして「あきこ」です。

閑話休題。感心したのは、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏により明らかにされた、智恵子の手になる『青鞜』表紙絵が、ウィーン分離派の作家、ヨーゼフ・エンゲルハルトの寄木細工を模写したものであること、そうした転用が普通であったことがしっかり記されている点。こうした最近の研究成果を取り入れていらっしゃる村山さん、さすがです。どうも「老大家」と称される人々の御著書には、そうした姿勢が欠けています。

第十九章 行方不明」には、光太郎も登場していました。
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当会の祖・草野心平や、親交の深かった彫刻家・高田博厚などの影響もあったのではないでしょうか、光太郎、大正後半から昭和初めにかけては、プロレタリア文学者と言えるような立ち位置にいました。大杉の義弟・近藤憲二の主宰する『労働運動』編集部に、ブロンズの代表作「手」を寄贈しようとしたエピソード。大正10年(1921)の、知る人ぞ知る話です。

光太郎が歿した直後(昭和31年=1956)、近藤は『クロハタ』に「高村光太郎氏のこと」と題する追悼的な一文を寄せ、この時の模様を語っています。当会発行の冊子『光太郎資料43』に載せましたが、全文は以下の通り。
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000村山さん、この文章にも目を通されているようです。光太郎の言った「ぼく、高村光太郎」などの言葉がそのまま引用されていますので(あるいは近藤が他でも同じエピソードを書いているのかも知れませんが)。

おそらく、野枝はじめ他の人物についても、多くの資料を読み込まれて書かれた小説なのでしょう。そういう部分では、非常に好感が持てますね。ただし、本文650ページ超、重量約620㌘。手に持って読むと、軽く筋トレにもなります(笑)。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

西公園駅から二ツ関まで無理な位こんだ電車に乗る。


昭和21年(1946)9月9日の日記より
 光太郎64歳

電車」は花巻電鉄。「二ツ関」は「二ツ堰」の誤記です。「馬面電車」と呼ばれた狭軌の車輌、普通に乗っていても向かいの座席に坐っている人と膝が当たるという状態ですので、座れずに立って乗る人が多数いたらひどい混雑だったでしょう。下の画像、中央で立っているのが光太郎、昭和28年(1953)のものです。
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ハードカバーの文庫化です。今朝の『朝日新聞』さんには大きく広告も出ていました。 

2020年8月7日 伊集院静著 双葉社(双葉文庫) 定価800円+税

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郷里の山口から上京した青年・詩人美。中原中也、高村光太郎などを詩を愛する心優しい青年は、新宿・歌舞伎町で暮らす叔父の無塁のもとに身を寄せた。詩人美は叔父のもとで様々な人と出逢い、恋をしたり、勝負の厳しさを味わったり人として成長していく。伊集院静でなければ描けない極上の青春物語。

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元版は平成30年(2018)に同じ双葉社さんからハードカバーで出ていました。その時点では光太郎がらみとは存じませんで、文庫化されて初めて購入した次第です。

当方、伊集院さんの小説はこれまで読んだことがありませんで、こういう小説を書かれる方なのか、と思いました。ただ、小説ではない、古今の「書」を紹介する『文字に美はありや』(平成30年=2018 文藝春秋)という書籍は拝読しており、その軽妙かつ奥深い内容には僭越ながら感心致しておりました。

さて、双葉社さんのサイトには「極上の青春物語」とありますが、健全な青少年には薦めにくい一冊ですね。主人公の詩人美(しじみ)、18歳で上京し、破天荒な叔父の無累(むーる)の元に身を寄せつつ、競馬、麻雀、丁半博打、競輪等のさまざまなギャンブルや、風俗嬢との恋などを通して成長して行く、というストーリーです。途中、詳細は略されつつ、3年ほどアジア各地を放浪、という設定にもなっています。そういうわけで健全な青少年は決して真似をしないように(笑)、です。ただ、そうした自分では決して歩まないような山あり谷ありの人生を追体験できるというのが、小説を読む醍醐味の一つではありますので、そういう意味ではよろしいか、と。

同じくギャンブル狂の天衣無縫な叔父や周辺人物のセリフにも、人生訓が散りばめられています(かなり強引ですが(笑))。

さて、主人公が詩人美(しじみ)という名前ですので、さまざまな近代詩がモチーフとして現れます。最も多く引用されるのは、中原中也の「ポツカリ月が出ましたら/舟を浮べて出掛けませう。」の「湖上」(昭和5年=1930)。その他、萩原朔太郎や石川啄木、そして光太郎。

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お約束の(笑)「道程」(大正3年=1914)が使われています。

しかし、どうもこの1カ所だけかな、という感じです。ただ、500ページ超の分厚いもので、まだ5分の3ほどしか読了していませんので、終盤にまた出てくるようなことがあったらすみません(笑)。

とにもかくにもお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

私のやうな無風流漢には趣味ある探しものなど、めつたにありません。唯年中探し求めてゐるのはよいもでるです。

散文「探してゐるもの」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

『東京朝日新聞』に載った文章の一節ですが、アンケートに近いものがあるようで、同じ題で吉野作造の文章も掲載されています。また「もでる」と平仮名表記になっているあたり、談話筆記なのかな、という気もします。

で、「もでる」は彫刻のモデルです。大正時代、まだ美術家たちはモデルを雇うのに苦労していました。竹久夢二や伊藤晴雨が使った佐々木カネヨ(お葉)のような職業的なモデルもいましたが、光太郎、そういうモデルには食指が動かなかったようです。そこでモデル募集の新聞広告を出したりもしたのですが、うまく行きませんでした。

新刊、というか、ハードカバーの文庫化です。昨日ご紹介した『山と渓谷』の増刊号同様、1週間ほど前、久々に新刊書店さんに行って目にし、「ああ、これ、文庫になったんだ」と気づいた次第です。 

2020年4月15日 門井慶喜著 講談社001(講談社文庫) 
定価920円+税


第158回直木賞受賞作、待望の文庫化!

天才で、ダメ息子な宮沢賢治。その生涯を見守り続けた父が、心に秘めた想いとは。

政次郎の長男・賢治は、適当な理由をつけては金の無心をするような困った息子。
政次郎は厳格な父親であろうと努めるも、賢治のためなら、とつい甘やかしてしまう。
やがて妹の病気を機に、賢治は筆を執るも――。

天才・宮沢賢治の生涯を父の視線を通して活写する、究極の親子愛を描いた傑作。<第一五八回直木賞受賞作>


ハードカバーは平成29年(2017)9月に刊行されています。その後、翌年1月には第158回直木賞を受賞しました。

光太郎がその作品世界を激賞し、その歿後は、当会の祖・草野心平らとともに、作品の普及に尽力した宮沢賢治。主人公は賢治の父、政次郎です。政次郎は、昭和20年(1945)4月の空襲で、駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、疎開させてやった張本人。同8年(1933)に亡くなった賢治の作品を世に知らしめてくれたということで、光太郎に恩義を感じていました。

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前列左端が政次郎、その隣が光太郎です。ついでに書くなら二人の間から顔を出しているのが、花巻空襲で宮沢家が被災した後、光太郎を一時自宅に住まわせてくれた、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌、うしろで立て膝の人物が、賢治実弟の清六、光太郎の右隣が花巻病院長・佐藤隆房、女性陣は左からクニ(賢治妹)、愛子(清六夫人)、イチ(賢治母)、岩田シゲ(賢治妹)です。

『銀河鉄道の父』、戦中戦後の話は出て来ませんので、光太郎本人は登場せず(大正15年=1926の、光太郎と賢治唯一の出会いの場面は描かれていません)、名前が2度ほど出て来る程度ですが、政次郎と賢治の関係が、ある意味、光雲と光太郎の関係を彷彿させられます。

すなわち、政次郎も光雲も、息子の特異な才能に戸惑ったり、うまく立ち回れないところにやきもきしたりしながらも、自慢の息子ととらえていました。しかし息子である賢治も光太郎も、父を「重し」のように感じ、反発することもしばしば。それでいてすねをかじる時には平気でかじり、政次郎も光雲も「しょうがないやつだ」と思いつつ、結局は息子のいいなりになることも……。まぁ、世の多くの父と子が、多かれ少なかれこのようなドラマを演じ続けてきたのかも知れませんが、この二組の父子はまさしく典型例のようです。010

ハードカバーでお読みいただいていない方、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

天地微妙  短句揮毫  戦後期

光太郎が賢治の作品世界を激賞した理由、いろいろと考えられますが、その一つが、賢治の「自然観」にあったのではないでしょうか。

光太郎はこよなく自然(nature)を愛し、そして人間も自然の一部、したがって、自然に対し、自然に(natural)従うべし、といった考えがありました。そうした「自然観」を賢治の作品世界にも見出し、共感を持っていたのではないかと思われます。

「天地微妙」の句にも、大自然が織り成し、かたときも休むことなく、微妙に移り変わりながら美を顕現しているさまへの讃仰が見て取れるような気がします。

新刊情報です。

荻原碌山伝記小説 我がいのち「女」へ

2020年4月22日 田丸めぐみ著 一兎舎 定価1,800円+税

彫刻家荻原碌山没後110年記念

あなたは荻原碌山こと荻原守衛をご存じですか? 彼の絶作の「女」を見たことがありますか? 彼が30歳5か月、本気で、命を懸けて生きて、芸術を全うしたことを知っていますか? 芸術とはいったい何なのか? この本で、その答えを見つけてみませんか?


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著者の田丸様(4月2日(木)開催予定だった第64回連翹忌にいらしていただけるはずでした)から一冊、ご進呈いただきまして、早速拝読しました。光太郎の親友にして、光太郎ともどもロダンに私淑、日本近代彫刻の礎を築いた碌山荻原守衛を主人公とした小説です。もちろん光太郎も登場します。

平成22年(2010)に書かれた「碌山の『女』」を加筆訂正したものだそうですが、小説ならではの特質を生かし、守衛をはじめとした登場人物たちの姿が生き生きと描かれています。史実としてでこういうことが実際にあったと確認できない事柄も、小説としてなら許されるわけで(そういうところに目くじらを立てる愚か者もいて困りますが)、特に題名にもなっている「女」の制作過程を描いた部分、「なるほど、そう描くか」と感心いたしました。

関係の皆様には、当会刊行の『光太郎資料53』などとともに、上記画像のチラシをお送りしています。そちらをご覧の上、田丸様までお申し込み下さい。

ちなみに刊行日の4月22日(水)は、守衛110回目の忌日「碌山忌」で、例年ですと安曇野の碌山美術館さんで集いがもたれるはずでしたが、今年はやはり新型コロナの影響で、中止だそうです(無料開館にはするということでしたが)。こちらも来年以降、元に復してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】000

だんだん類の少くなる天才画家のかけ値の無い作品として、国展に出た梅原龍三郎氏の「静浦風景」。

アンケート「今年の優作を挙げる」全文
 昭和5年(1930) 光太郎48歳

梅原も光太郎の留学仲間、というか、光太郎のパリでのアトリエを帰国に際し引き継いだ経緯があります。もし守衛がこの頃まで存命で制作が続けられていたのであれば、この手のアンケートでは、光太郎は守衛の作品を第一に挙げていたでしょう。

新刊です。 

彼女の知らない空

2020年3月11日 早瀬耕著 小学館(小学館文庫) 定価680円+税

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ぼくは、自分の正義を貫くことができるのか
憲法九条が改正され、自衛隊に交戦権が与えられて初めての冬。航空自衛隊佐官のぼくは、千歳基地に配属され、妻の智恵子と官舎で暮らしている。しかし、智恵子は全く知らない。ぼくが、一万二千キロ彼方のQ国の無人軍用機を遠隔操縦し、反政府組織を攻撃する任務に就いていることを。トリガーを引いたら、ぼくは自衛隊史で初めての殺人者になる。それでも智恵子は、いつものように優しい声で「おかえりなさい」と言ってくれるだろうか――(「彼女の知らない空」)

いつの間にか、私たちは戦争に加担している。

化粧品会社の新素材の軍事転用をめぐり、社員夫婦が抱えてしまった秘密(「思い過ごしの空」)、過重労働で心身を蝕まれていく会社員と老人の邂逅(「東京駅丸の内口、塹壕の中」)他、組織の中で生きる人々のジレンマを描いた7編。

ぼくは、あの日誓った正義を、貫くことができるのだろうか。

『未必のマクベス』著者が、今を生きる私たちの直面する危機について問いかける短編集。

〈 編集者からのおすすめ情報 〉
日々流れてくるニュースに希望が持てない時、働くことに疲れた時、組織の中で自分を無力に感じた時……。手に取っていただきたい1冊です。


目次002
 思い過ごしの空
 彼女の知らない空
 七時のニュース
 閑話 | 北上する戦争は勝てない
 東京駅丸の内口、塹壕の中
 オフィーリアの隠蔽
 彼女の時間
 解説 瀧井朝世


七篇の短編を収めていますが、連作というわけではなく、しかし、別個の内容でもなく、それぞれがゆるやかに繋がっています。舞台は「憲法九条が改正され、自衛隊に交戦権が与えられた」日本。近未来というか、パラレルワールド的な世界というか、そんな感じです。

最初の「思い過ごしの空」で、1ページ目からいきなり光太郎。「智恵子抄」所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)がモチーフとして使われています。

主人公「ぼく」は大手化粧品会社の本社でスタッフ部門、妻は同じ会社の研究・開発部門に勤務しているという設定です。その妻が化粧品用に開発した技術が、軍事技術に転用できることが判明、実際にその技術がステルス爆撃機に使われていることを「ぼく」が知り、しかし、妻は知らない(実は知っていたのですが)という話の流れです。

二篇目にして表題作の「彼女の知らない空」。こちらは航空自衛隊員夫婦の話。夫の三佐は、「集団的自衛権」の行使により、中東の「Q国」の空を飛ぶ無人爆撃機(これに「思い過ごしの空」に出てきた技術が転用されています)を日本から遠隔操縦し、民間人も巻き込むと知りつつ反政府組織の拠点を空爆、それを妻は知らない(今度は本当に知りません)という設定です。妻の名が「智恵子」ですが、こちらでは光太郎の名や「智恵子抄」がらみの記述はありません。しかし、作者の早瀬氏、当然、「空」がらみで意識して付けたネーミングでしょう。

他に、過労死レベルを遙かに超えるサービス残業をアスリートのドーピングにたとえ(成果は上がるが、リスクも大きいということで)、心身をむしばまれていくキャリアウーマンやサラリーマン、そうした「戦い」からドロップアウトしたであろうホームレスの話などをはさみ、最終篇「彼女の時間」では、宇宙飛行士を目指しながら挫折したNSADA職員の話で終わります。ちょい役として最初の「思い過ごしの空」の夫婦が登場し、物語が連環しているわけです。

軍事とは最も遠い、という理由で化粧品会社を就職先に選んだのに、否応なしに自分の開発した技術が戦争に使われたり、何とかしてやらないで済む方法を模索しながらも、結局はミサイルのトリガーを弾かなければならなかったりといった登場人物たちの苦悩や葛藤などの心理描写が実に見事です。また、現実に起こりうる話でもあるというところに、恐ろしさを感じます。

そして、夫婦にまつわる話が多いのも特徴です。そこにはある種の極限状況に置かれても、お互いを気遣う優しさや、反面、相手を冷徹に観察する眼なども描かれ、考えさせられます。

暗い話ばかりではなく、シェイクスピアの「ハムレット」をモチーフに、ウィットに富んだ会話が交わされる「オフィーリアの隠蔽」などは、救いのある話でした。

ちなみに早瀬氏へのインタビューがネット上にアップされています。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

敬愛する詩人も、尊崇する詩人も尠くありません。

アンケート「詩人の好める詩人及び詩風」より
 大正8年(1919) 光太郎37歳


「尠く」は「すくなく」と読みます。

光太郎、造型作家(特に同時代の)に対しては、実名を上げての手厳しい評を厭いませんでしたが、なぜか詩人に対してはそれがほとんど見られません。彫刻を本業と捉えていた矜恃がそうさせていたのかもしれません。

第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた『青鞜』を一つのモチーフとし、福井県を舞台とする谷崎由依氏の小説『遠の眠りの』。じわじわと話題になっているようで、最近、新聞雑誌各紙誌でよく書評を見かけます。

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まず、『毎日新聞』さん。 

今週の本棚 中島京子・評 『遠の眠りの』=谷崎由依・著 因習から逃れる「女という難民」

 大正の終わりごろ、福井の小さな村を舞台に、物語は始まる。本が好きでたまらない貧しい農家の娘、絵子(えこ)は、渡し舟に乗って、裕福な旅館の家の娘、まい子に本を借りに行く。
 主人公の絵子はユニークな少女だ。本に魅せられ、物語に心奪われた彼女は、旧弊な家父長制の軛(くびき)から逃れて町に出る。おりしも「昭和のほんとうにはじまっていく年」、「人絹」工場の女工となるのだ。それから絵子は町に初めてできた百貨店に転職することになる。百貨店の食堂で給仕をしながら、ついには百貨店付属の「少女歌劇団」の、座付き作家になるのである。
 この時代、頭を使って考えること、学問することは男子にしか許されていない。しかし、絵子は本を読むことによって自らを教育し、「文字から成る書物の冷静な思考」を、つまり考えるための言葉を獲得する。
 少女の成長物語のようなやわらかい表情を見せながら、そのじつ、小説は、ある時代を克明に描き出していく。都市生活者、工場労働者が大量に生まれ、正絹が人絹に取って代わられ、人も物も移動するようになり、百貨店が生まれ、都市生活者向け商品が生まれ、大衆が生まれた。労働運動が生まれる時代であり、また、戦争の時代でもあった。
 絵子は工場で知り合ったアクティビストの吉田朝子から、雑誌『青鞜(せいとう)』を教えられ、「すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる」という与謝野晶子による発刊の辞に、心揺さぶられる。
 福井の百貨店に実在したという少女歌劇団に舞台を移すと、物語は大胆に跳躍する。自身も「少女」であるような絵子が脚本係となり、エキゾチックな顔立ちをし、人には性別を隠しながら舞台に立つ妖艶なキヨという「まぼろしの少女」との交流が描かれる。果たして「少女」とはいったい、何者なのか。そして「少女」が成長した先にある「女」とはいったい何者なのか。
 歌劇団の「お話係」である絵子には、女たちの声が響いている。恋する男のために秘密の布を織りあげるまい子や、労働運動に身を投じる朝子だけではなく、歌劇団の少女たち、売られるようにして嫁に行った妹、子どもが生まれないのでいつまでも婚家で居場所を持てない姉、人絹工場の女工たち、ありとあらゆる女たちの声が、まさに糸のように紡がれ撚(よ)り合わさり、「お話」が織り上げられていく。絵子が作ったその「お話」、脚本は、<遠(とお)の眠りの>と名づけられて型破りな演劇となる。それは「女という難民」の物語だと絵子は思う。因習から逃れ出たいと、命からがら逃げてきた、あるいは逃げている女たちの物語だと。
 難民というイメージは、小説の中で別のエピソードから侵入してくる。シベリアからウラジオストク経由で福井の敦賀港にたどり着いたポーランドの孤児難民たちの物語が挿入されるのだ。この史実に基づく話から生まれ出るのが、歌劇団の花形「女優」キヨである。
 「女」の物語であり、「難民」の物語である小説は、大正・昭和という時代設定でありながら、なんと現代に直接響いてくることか。
 芝居の題でもあり、小説のタイトルでもある「遠の眠りの」は、正月によい初夢がみられるようにと、まじないのように唱える回文歌からとられている。「長き夜の、遠の眠りのみな目覚め、波乗り舟の、音のよきかな」。 かつてもいまも、なにかから逃れ出たいと願う女たち(あるいは女ではないものたち)にとって、それはほのかに希望をくれる歌にも聞こえてくる。

続いて、『日本経済新聞』さん。 

遠の眠りの 谷崎由依著 戦争の時代に少女が紡ぐ夢 《評》文芸評論家 井口 時男

 タイトルは宝船とセットでよい初夢を見るためのまじないの歌「長き夜の遠の眠りのみな目覚め波乗り舟の音のよきかな」から。冒頭ちかく、貧しい農家の少女・絵子(えこ)が子守しながら夕霧ただよう小舟の上で口ずさむ。
 長く暗い夜の永遠かと思われるほどの深い眠り、その眠りがなぜか破られ、目覚めるのだが、それでも舟に揺られるようにたゆたう夢見の心地よさはなお続いているかのようだ。しかも上から読んでも下から読んでも同じ回文なので、たしかに終(おわ)りは初めにかえり、夢と目覚めはまたくりかえす。ふしぎな歌だ。
 父親に厳しくしかられて衝動的に家を飛び出した絵子は、人絹工場の低賃金女工になり、次に福井市に開業したばかりの百貨店の店員になり、そこに創設された少女歌劇団の脚本係になる。その意味では、本を読むのが好きで夢想がちな一人の少女の覚醒と自己実現の物語である。だが、作者の工夫はもっと複雑で繊細だ。
 時代は大正末から昭和の敗戦まで。農村の貧困、恐慌、労働運動、さらに戦争の時代へ、といった現実を踏まえながら、作者の筆は、重苦しい現実の中に徐々に夢と幻想の粒子を忍びこませていく。それは緻密に計算された仕掛けであり、知的で清潔な作者の文体にふさわしく、また絵子の心意のあり方にもふさわしい。
 絵子の一見過激な軌跡は、主体的な行動というより、強いられた受動的な選択の結果である。彼女は人絹工場の寮で古雑誌「青鞜」の女性解放の言葉に感動するが、自分にはうす暗い片隅で手織りの絹のうすもののような夢を紡いでいる方が似合うことも知っている。
 恐慌から戦争へと続く過程で、時代そのものが暗い夜の悪夢みたいな様相を呈してくるのにつれて、小説の夢幻的色彩が強くなる。その中心には、正体を隠して少女歌劇団に入団した美しいボーイソプラノの少年がいる。「ボーイソプラノがこんなにも美しいのは、それが消えゆくものだからだ。」
 眠って夢を見るための歌なのになぜ「みな目覚め」なのだろう、という絵子の問いに、少年の兄は、「行って、帰ってくるためだろう」と答えている。ふしぎな歌に対するふしぎな答えだ。



さらに共同通信さんの配信により、物語の舞台の福井県の『福井新聞』など、複数の地方紙に載った評。 

『遠の眠りの』谷崎由依著 女という難民たちの苦難

 女はずっと難民だったのだと、この小説を読んで気づいた。ひとりの人間としてまともに扱われず、歴史の中に埋もれていった女たちの嘆き、憤り、諦め。その重みを背負い、引き受けて、この小説は在る。女たちの悲しみの布を織り継ぐように。女という難民が乗る小舟を漕ぐように。
 医学部入試における女性差別問題や、性暴力加害者への相次ぐ無罪判決、就活女子学生に対するセクシュアルハラスメント…。現代日本で起きているこうした出来事に接するたび、女の苦難は連綿と続いているのだと思い知る。本書は「いま」につながっているのだ。
 谷崎由依の小説『遠の眠りの』の舞台は、大正期から昭和20年にかけての福井。冒頭、主人公の絵子が、幼い妹を負ぶって狐川の水辺に立つ。絵子は対岸へ行くため、おばちゃんが漕ぐ渡し舟に乗る。
 対岸の家に住むのは、友人のまい子だ。2人が会う部屋には古い手織機がある。まい子の家は旅籠屋だが、まい子自身は手機(てばた)の織り子になりたいと思っている。
 川と舟と織物。この小説の重要なモチーフが、最初のシーンに盛り込まれている。そして、なぜだかとても、懐かしい場面でもある。
 絵子は貧しい農家の生まれだが、本を読むのが大好きな少女である。しかし家には本がないし、貸本屋から借りるお金もない。それで絵子は、小学校で同じ組だったまい子に本を借りるようになった。
 だが繁忙期の農家の娘には、本を読む時間はない。なぜ弟ばかりが魚が与えられ、勉強させてもらえるのか。どうして女は好きな本を自由に読むことさえ許されないのか。「女は、男の子を産んで育てて、その子の将来に託すようにしか夢を描くことを許されない。そのようにしてしか生きることができない」。そう気づいた絵子は両親に逆らう。
 父親に殴られ、家を追い出される絵子。謝って許しを請えば戻れたかもしれない。だが絵子はそうしなかった。絵子のはるかなる“旅”がスタートする。
 まい子の家に転がり込んだ後、人絹工場の寮に住み、「女工」として働き始める。賃金を得るようになった絵子は本を買う。イプセン、トルストイ、ゾラ…。さらに同じ女工の朝子から雑誌を手渡される。『青鞜』という名のそれは既に廃刊していたが、絵子には十分、新鮮だった。絵子はイプセンに、平塚らいてうや与謝野晶子に、そして何より、朝子に感化されてゆく。
 やがて、街で開業した百貨店「えびす屋」(「だるま屋」がモデルだろう)に雇われ、えびす屋専属の少女歌劇団の「お話係」となる。歌劇団では舞台に立つのは少女ばかりだが、その中でひときわ輝き、美声を誇るキヨは、実は少年だった。絵子はキヨに強く惹かれるようになってゆく。
 『遠の眠りの』とは、絵子が少女歌劇団のために書き下ろした演劇のタイトルでもある。それは女たちの物語だ。人として扱われず、影となって働いてきた女。夫の暴力を受けてきた女。子を産めなかった女。女工だった女。そんな女たちが小舟に乗り、逃げようとしている。「難民船に、それはそっくりだった。女という難民たちだった」
 絵子も、まい子も、朝子も、みな難民だった。それぞれ闘い、ぼろぼろになっていた。
 終盤、朝子が絵子に「生き延びましょう」と言う。「生き延びて、逃げ切りましょう。―わたしたちが、わたしたちのようでいられる世のなかが訪れるまで」
 いま、そうした世の中になっているだろうか。おそらく、まだだ。だから谷崎は読者に呼びかける。「生き延びましょう」と。
(集英社 1800円+税)=田村文


最後に『週刊新潮』さん。 

世の中の何かがおかしいという違和感をうまく言葉にできない人へ

 逃亡奴隷の少女の不思議な冒険を描いたピュリッツァー賞受賞作『地下鉄道』の翻訳者としても知られる谷崎由依。『遠の眠りの』は、昭和初期の福井を舞台にした長編小説だ。地元で親しまれている百貨店に宝塚のような少女歌劇団があったという実話が着想のきっかけ。タイトルの由来は〈長き夜の、遠の眠りのみな目覚め、波乗り舟の、音のよきかな〉。よい初夢が見られるおまじないで、回文になっている。

 主人公の絵子は貧しい農家に生まれた。家に本は一冊もないが、友達に借りて読むことを楽しみにしている。ある日、女の子だからという理由で読書の時間を奪われた絵子は、溜まりに溜まった不満を爆発させて父の怒りを買い、村を出る羽目に陥ってしまう。そして中心街にある人絹工場で働くことになる。そこでも女工の賃金が誤魔化されていることを発見して社長の逆鱗に触れた絵子が〈木枠を組んだ糸巻きみたいにあっけない、人間の命運をつかさどっているのは、機械仕掛けの動力なのだ〉と思うくだりは印象深い。つまり、自分の意志ではなく社会のシステムによって、苦しい境遇に追い込まれていることに気づくのだ。

 やがて絵子は新しく開業した百貨店に食堂の給仕兼「少女歌劇団」のお話係として雇われる。劇団の看板女優キヨは、女のふりをした少年だった。舞台という空間にしか存在しない〈まぼろしの少女〉であるキヨだからこそ演じられる芝居を絵子が書き上げるところがいい。婚家で不自由な暮らしを強いられながらも優しかった姉、好きな布を手で織ることを夢見ていた幼なじみ、「青鞜」を愛読し理想を行動に移す女工仲間、文字を教えてくれた近所のお婆……システムによって抑え込まれた女たちの声から紡ぎ出された物語。絵子と同じように、世の中の何かがおかしいという違和感をうまく言葉にできず〈一緒に考えてくれる本〉を求めている人に届いてほしい。

[レビュアー]石井千湖(書評家)

他にも、月刊誌の『新潮』さん、『群像』さんにも評が出ているようですが、割愛します。

各評にある通り、物語は大正の終わりから始まります。『青鞜』が、すでに廃刊となっていたにも関わらず、何人かの登場人物の心の支えとなったという設定です。平成28年(2016)、NHKさんで放映された連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の、高畑充希さんが演じた主人公のモデルとなった大橋鎭子などは、ほぼリアルタイムで『青鞜』の影響を受けたようですが、地方では遅れて『青鞜』に刺激された女性達も実際に多かったようです。

さて、『遠の眠りの』、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

喜びと悲しみ、意欲と望とが常に相剋してゐるこの世の生活では、永久に若々しい魂の情熱を失はない人々の道は、決して静かな滑らかな、平坦なものではありません。

散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

「永久に若々しい魂の情熱を失はない人々」は、直接的には与謝野夫妻を指します。同時に光太郎自身もそうでありたい、そうであるべき、という意図が見え隠れします。たとえその道が「滑らかな、平坦なもの」ではないとしても。

強引ですが、上記『遠の眠りの』のヒロイン、絵子などもそのような人物として描かれています。

瀬戸内寂聴さん。昨年公開された映画「この道」の原案の一つとなった『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』、智恵子の親友・田村俊子を主人公とする『田村俊子』、智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』をめぐる人々の群像ドラマ『青鞜』など、光太郎智恵子と交流の深かった人々を描いた作品を書かれています。

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その寂聴さんの故郷、徳島でのイベントです。キーワード検索「青鞜」で引っかかりました。地方紙『徳島新聞』さん、1月4日(土)の記事から。 

寂聴さん作品で感想文 徳島県立文学書道館がコンクール

 今年5月に98歳の誕生日を迎える徳島市出身の作家で僧000侶の瀬戸内寂聴さん(97)。小説、随筆、ルポ、評伝、「源氏物語」の現代語訳、童話、少女小説など、これまでに400冊以上の本を出版してきた。今も文芸誌に連載を続ける現役最高齢作家の全著作の中から、思い出に残る一作について作文を募る「わたしの好きな寂聴作品感想文コンクール」(徳島県立文学書道館主催)が実施されている。寂聴文学の人気の秘密に迫る試みだ。
 寂聴さんの最初の本は、出家前の1957年に34歳で出した短編集「白い手袋の記憶」。翌年に発表した「花芯」はポルノだと酷評され、文壇から冷遇された時期もあったが、61年「田村俊子」で田村俊子賞を受け復活。63年には「夏の終り」で女流文学賞を受賞し、作家としての地位を確立した。
 伝記小説でも脚光を浴びた。歌人岡本かの子の生きざまを描いた「かの子撩乱」(65年)、「青鞜」の女性解放運動家伊藤野枝を主人公にした「美は乱調にあり」(66年)などを発表し、自我に目覚める近代日本の女性を描いた。
 幅広い文学活動の後、51歳だった73年、中尊寺で出家得度、本名晴美を改め、寂聴を名乗った。その後も精力的に執筆を続け、良寛を題材にした「手毬」(91年)、一遍上人の生涯を描いた「花に問え」(92年)、西行法師を取り上げた「白道」(95年)の仏教3部作を発表し、97年に文化功労者に選ばれた。
 10年がかりで「源氏物語」現代語訳全10巻を刊行したのは98年。古里の眉山など思い出の地を巡った「場所」(2001年)で野間文芸賞を受賞した。
 長年の作家活動により06年、県人で初の文化勲章を受章した。
 随筆では「放浪について」(72年)「寂聴巡礼」(82年)をはじめ、19年001にも「命あれば」「寂聴九十七歳の遺言」を出版するなど、執筆意欲は衰えることがない。
 県立文学書道館は今年4月9日~5月24日、特別展「いのち―90代の寂聴文学」を開く予定で、感想文コンクールは関連イベントの一環。
 応募は小学生以上が対象。400字詰め原稿用紙3枚以内で未発表の作品。題名、選んだ作品名、住所、氏名、年齢、職業(学生は学校名と学年)、電話番号を明記する。締め切りは2月29日(必着)。最優秀賞1点、優秀賞数点を寂聴さんが委員長を務める選考会が決め、4月に発表する。
 宛先は〒770―0807 徳島市中前川町2丁目22―1、県立文学書道館「寂聴作品感想文コンクール」係。問い合わせは同館<電088(625)7485>=新年は5日から開館。




徳島県立文学書道館
さんのサイトから。 

わたしの好きな寂聴作品 感想文コンクール

2020年度 文学特別展「いのち-90代の寂聴文学」(2020年4月9日~5月24日)の関連事業として、「わたしの好きな寂聴作品 感想文コンクール」を実施します。
瀬戸内寂聴(または瀬戸内晴美)のすべての作品から、あなたが好きな、思い出に残る一作を選び、ご応募ください(応募締切2020年2月29日 必着)。
詳しい応募要項は下のチラシでご確認ください。


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腕に覚えのある方(この場合「筆に」でしょうか(笑))、ぜひどうぞ。


ところで、寂聴さんといえば、先月、「桂信子賞」を受賞されたことでも話題になりました。共同通信さんの配信記事から。 

瀬戸内寂聴さんらに桂信子賞 優れた女性俳人を表彰

 俳諧に関する資料を所蔵、展示する兵庫県伊丹市の柿衛文庫は25日までに、句作や評論で優れた活動をした女性俳人を表彰する第11回桂信子賞に作家の瀬戸内寂聴さん(97)と、俳人の神野紗希さん(36)を選んだ。
 寂聴さんは、旺盛な執筆活動の傍ら、2017年に故人への思いや自らの孤独を詠んだ初めての句集「ひとり」を刊行。柿衛文庫は「高齢でこのような多様な活動ができることは驚異的。高齢者たちの励みになる」としている。
 神野さんは句集「星の地図」など句作のほか、テレビの俳句番組の司会を務めるなど幅広く活躍。「若者たちのリーダー的存在」と評価された。賞金は各10万円。


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失礼ながらおん歳97歳の、しかもこれまでにさまざまな業績を残されてきたか方に、改めてこうした賞を授与なさるとは、粋な計らいだなと感じました。

寂聴さん、まだまだお元気でご活躍いただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

内に確然たるものがあつて、外に淡々たる詞章を綴るのが先生の特質であり、そこには怒号はもとより、色を作す趣すらも見えず、しかも不思議に読後の心に銘ぜられて消え去らない詩が多い。

散文「河井酔茗詩集『真賢木』」を読む」より
昭和19年(1944) 光太郎62歳

河井は光太郎より9歳年長の明治7年(1874)生まれ。この時期、ほぼ唯一生き延びていた光太郎の「先輩」詩人です(島崎藤村は昭和18年=1943に歿しました)。

大正から昭和初期の「猛獣篇」の連作や、戦時の翼賛詩などで、ある意味「怒号」を詩にしてしまった光太郎、その点に対する自省の意が垣間見える、といったら深読みしすぎでしょうか。

智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた『青鞜』をめぐる演劇「二兎社公演43 私たちは何も知らない」。『朝日新聞』さんに、二回にわたって紹介されました。

まず、12月5日(木)。 

(評・舞台)二兎社「私たちは何も知らない」 女性の権利、現状に思いはせ

 ラップの音楽に乗り、ジーンズ、スニーカー姿で走る。女権に目覚めた大正の若い女性たちが、弾むような足取りで新鮮に蘇(よみがえ)る。雑誌『青鞜』に拠(よ)った平塚らいてう(朝倉あき)らパイオニアの活動家たちを、永井愛が評伝風な群像劇に書き、演出した。

 『青鞜』が発刊された翌年の1912年から廃刊までの日々が、編集室を主舞台に展開される。志あり、恋あり、家族をめぐる厳しい現実あり。理想を目指しながら、滑稽で悲惨な日々を送る若き女性たちの群像は、人間味が濃い。
 演目名の「私たちは何も知らない」には、今の人は先覚者を知らない、の意味がある。同時に女性や世界をめぐる状況が、時が経ってもこんなに劣化しているなんて知らなかったという『青鞜』人の怒りと嘆き節も聞こえるようだ。
 永井は過去を、今の視点、現実の社会から見直す。背景の巨大なギロチンの刃(大田創美術)が、徐々に下りる。『青鞜』発刊が幸徳秋水らの処刑の直後。廃刊7年後に、編集者の伊藤野枝(藤野涼子)と大杉栄らが虐殺された甘粕事件が起きる。ギロチンは、きなくさい現代への予兆だ。第2次大戦を翼賛した平塚への辛い目線もある。
 朝倉と、保持研を演じる富山えり子とのからみが笑わせ、しんみりさせて傑作。藤野とボーイッシュな紅吉役の夏子が、軽やかに絡んで面白い。
 ラスト。平塚が廃刊時に、その後の甘粕事件や第2次大戦を幻視する。スリリングだ。ただ平塚は国家権力の謀略に関心が薄かった。このあたりの平塚像は、さらに踏み込みたい。それにしても女性による性にまつわる論争は、ネット時代の性をも考えさせる。(山本健一・演劇評論家)
 22日まで、東京・池袋の東京芸術劇場。


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12月13日(金)にも「「青鞜」を舞台化、自由求め 初の女性文芸誌、現代の女性差別を想起 永井愛が描く」と題して評が載っています。

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同じく12月13日(金)には、全く別の記事でも『青鞜』主幹・平塚らいてうに触れられていました。

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らいてうの先駆性、恐るべしというべきか、『青鞜』発刊から100年以上を経ても変わらない世の中を嘆くべきか、というところですね。


続いて、やはり『青鞜』がモチーフに使われている小説をご紹介します。 

遠の眠りの

2019年12月10日 谷崎由依著 集英社 定価1,800円+税

大正末期、貧しい農家に生まれた少女・絵子は、農作業の合間に本を読むのが生きがいだったが、女学校に進むことは到底叶わず、家を追い出されて女工として働いていた。
ある日、市内に初めて開業した百貨店「えびす屋」に足を踏み入れ、ひょんなことから支配人と出会う。えびす屋では付属の劇場のため「少女歌劇団」の団員を募集していて、絵子は「お話係」として雇ってもらうことになった。ひときわ輝くキヨという娘役と仲良くなるが、実は、彼女は男の子であることを隠していて――。
福井市にかつて実在した百貨店の「少女歌劇部」に着想を得て、一途に生きる少女の成長と、戦争に傾く時代を描く長編小説。


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福井を舞台に、貧しい農村で生まれ育った少女が、人絹工場、百貨店の「少女歌劇団」などで働きつつ、さまざまな出会いと別れを経験し、時代に翻弄されてゆく物語です。大正期から太平洋戦争敗戦までが描かれていますが、当時の地方都市はこんな感じだったのかと、新鮮でした。

版元である集英社さんのPR紙『青春と読書』に、森まゆみさんによる書評が出ています。 

森まゆみ 『遠の眠りの』谷崎由依 著

野に咲くスミレのような……
 大正、そして昭和の戦前、女性に選挙権がない時代、父に、夫に、息子に従って生きるのが当たり前だった時代に、自分で自分の人生を切り開いた少女がいた。
 この小説は、大正の初め、福井の農村に生まれた絵子(えこ)が主人公である。姉や妹は早くとつがされる。嫁にやる側から言えば、「口減らし」、嫁を取る側から言えば「労働力の確保」。それに従わず、絵子は村を出て人絹を織る工女となる。
 ひどい搾取も受けたけれど、農村にいては出会えない知識や文化に触れる。中でも意識の高い先輩・吉田朝子から貸してもらった「青鞜(せいとう)」という古い雑誌、それに絵子は目を見開かされる。
「青鞜」は明治44年9月に東京は本郷で創刊された、初めての「女性の、女性による、女性のための」雑誌である。主宰者の平塚らいてうらは日本女子大学の卒業生で、女学校も行けず、地方の工場で働いていた絵子とは境遇が違う。創刊号は1000部のこの雑誌が福井の少女のもとに届き、その人生を変えてゆく。
 大正の初め、ノルウェイの作家イプセンの「人形の家」が東京で上演された。主人公を演じたのは松井須磨子、これをめぐって、「青鞜」誌上では「可愛がられる人形のような妻として人生を終わるのがいいのか」という論争が起きて、同人たちは己が人生を変えてゆく。「新しい女」は酒を飲む、タバコを吸う、吉原に登楼する、とバッシングされ、「青鞜」は風俗壊乱を理由に何度も発禁になった。それでも彼女たちは「習俗打破」を旗印に前へ前へと突き進んだ。
 それが地方の少女を励ましたのだ。親の言うがままに生きる「白い羊」であることをやめ、絵子は一人「黒い羊」であり続ける。そして福井に初めてできた百貨店に転職し、そこで催される少女歌劇の脚本係になっていく。
 昭和18年3月18日に福井駅前の繁華街で大火事があり、佐佳枝(さかえ)劇場、だるま屋百貨店が焼けた。私が福井を訪ねた時、「フェニックス都市」という言葉を聞いた。台風、洪水、大火、空襲。その度にこの町は力強くたち上がってきた。決して大勢に順応しない絵子の姿が、その淡い恋が清冽な筆致で描かれる。よく調べられた時代背景が小説を支え、久しぶりに爽やかな読後感を味わった。


ちなみに、森さんによる労作『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』が「参考文献」の項に挙げられていました。

同書は上記の「二兎社公演43 私たちは何も知らない」を書かれた永井愛さんも参考にされている由。まだお読みになっていない方は、ぜひどうぞ。現在は文庫版で手に入ります。

もちろん『遠の眠りの』も、です。


【折々のことば・光太郎】

その詩にみる重量、深さといつたものも、萩原君の「語感」の鋭さの、いかに強く、すぐれたものであつたかを意味してゐる。実際、ことばの感覚といふものの鋭さは、これまでに、萩原君をおいては、その比をみることが出来ないと思ふのである。

談話筆記「語感の詩人――故萩原朔太郎君の霊前に――」より
昭和17年(1942) 光太郎60歳


ともに口語自由詩の確立を成し遂げた、いわば「戦友」、朔太郎への追悼の辞です。

本日発売です。

リーチ先生

2019年6月21日 原田マハ著 集英社(集英社文庫) 定価880円+税

日本の美を愛した英国人陶芸家の生涯。アート小説の旗手が贈る感動の物語! 

明治42年、来日したバーナード・リーチ。柳宗悦、濱田庄司ら日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を突き動かしていく。

第36回新田次郎文学賞受賞作。


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『リーチ先生』、平成25年(2013)から、『信濃毎日新聞』さん等に連載され、上製の単行本としては平成28年(2016)にやはり集英社さんから刊行されました。単行本刊行時に出た書評がこちら。そろそろ文庫化されるだろうと待ちかまえておりました(笑)。

架空の(モチーフは存在しますが)陶芸家・沖亀乃介を語り手とし、「先生」である英国人陶芸家バーナード・リーチの美を追い求める姿が生き生きと描かれています。

リーチは光太郎より4つ年少の明治20年(1887)、香港の生まれです。幼少期に京都で暮らしていたこともあり、長じて日本文化に興味を持ち、明治41年(1908)、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、来日の意志を固めました。そして日本で出会った陶芸を生涯の道と定め、白樺派の面々らの協力の下、日本と母国を行き来しながら、英国伝統の陶器・スリップウェアの伝承などに力を注ぎました。

そこで小説には光太郎、父・光雲、実弟・豊周も登場します。おおむね史実に沿った内容です。

作者の原田さん、この『リーチ先生』で、平成29年(2017)には第36回新田次郎文学賞を受賞されています。また、『リーチ先生』ではありませんが、近作『美しき愚かものたちのタブロー』で、次回直木賞候補にエントリーされています。

ちなみに『リーチ先生』、平成30年度の埼玉県公立高等学校入試の問題文にも採用されました。ちょうど光太郎も登場するシーンでした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

是は白耳義詩人ヹルハアランの愛詩である。あの男性的な詩人にとつて恋愛は宗教であつた。崇高な心の飛揚であつた。不可知への没入であつた。心の深さがあらゆる美しい詩句の背後に響いてゐる。

雑纂「訳書広告 ヹルハアラン詩集「明るい時」」より
 大正10年(1921) 光太郎39歳

010ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンは、画家であった妻マルト・マッサンとの愛の日々を、詩集『明るい時』(明治29年=1896)、『午後の時』(明治38年=1905)、『夕べの時』(明治44年=1911)の三部作にまとめ、刊行しました。光太郎はこのうち『明るい時』と『午後の時』を翻訳、前者は単行書として刊行、後者は昭和16年(1941)の『仏蘭西詩集』、同18年(1943)の『続仏蘭西詩集』に、他の訳者の作品とともに寄稿しています。

いわば『智恵子抄』ベルギー版。こちらの方が先ですが。おそらく折に触れて智恵子に関する詩篇を書き続けた光太郎、ヴェルハーレンの「時」三部作を念頭に置いていたと考えられます。上記ヴェルハーレン評も、そのまま光太郎自身のことのように感じます。

いわゆるライトノベル系です。

本屋のワラシさま

2019年5月25日 霜月りつ著 早川書房(ハヤカワ文庫JA) 定価760円+税

元書店員の啓(ひらく)は、ある事件がきっかけで“本が読めなくなってしまう”。が、入院した伯父の代わりに、彼が営む書店の店長をすることに。その初日、店内の座敷童子(ワラシ)人形がいきなり動き、あれこれ書店繁盛の教育的指導をしてきた!啓はワラシとぶつかりつつ、子どもへの贈物ですれちがう夫婦の悩みや、何年も取り置きされたままの“赤毛のアン”の謎など、お客様の問題を解決し……出逢いとドラマが山積みのマチナカ書店物語。

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人間関係のトラブルからのトラウマで本が読めなくなり、それまで務めていた大手書店を退職した主人公。伯父の入院に伴い、代理で伯父の小さな書店を任されます。すると、店内に飾られていた市松人形が座敷ワラシと化して上から目線で(笑)しゃべりはじめます。江戸時代の貸本屋の頃から「いい本がある書店」に代々受け継がれてきた「本屋の守り神」だそうで。ワラシのアドバイスに従い、書店を訪れる客たちの心の傷に寄り添う中で、主人公の心の痛みもやがて癒され……。

実在の様々な書籍が効果的に使われています。帯で紹介されているのは以下の通りです。

 『書店猫ハムレットの休日』、〈氷と炎の歌〉シリーズ、『大聖堂』、『だるまちゃんとてんぐちゃん』、『超辛口先生の俳句教室』、『認知症は治せる』、『アンの想い出の日々』、〈ペリー・ローダン〉シリーズ、『三幕の殺人』、『東京バンドワゴン』、『高村光太郎詩集』(「智恵子抄」)、『おさるのジョージ』、『星の陣』、『書店主フィクリーものがたり』

『高村光太郎詩集』は、岩波文庫版です。物語の終盤、主人公の「本が読めない」という症状が治るきっかけの一つとなり、恢復したあと初めて読んだ本、という設定。(「智恵子抄」)となっているのは、主人公が小学生時代、父親の本棚にあった『智恵子抄』(新潮文庫版?)を手に取り、全ては理解できなかったものの「レモン哀歌」に感動し、それが本好きになった一つの源流、的なエピソードもあるからです。

詩集でモチーフになっているのは光太郎詩集だけで、朔太郎でもなく賢治でもなく中也でもなく、よくぞ光太郎にしてくれた、と感謝しました。

それにしても、作者・霜月さんの「本」や、街の小さな個人経営の「本屋さん」に対する深い愛情的なものが溢れている一篇です。こんな本屋さんが実際にあればいいな、と思わせられます。座敷ワラシには遭遇したくありませんが(笑)。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

或る芸術上の用途の為め、近々に少し纏まつた金圓が入要になりましたので、あまり好みませんが画会と言ふものをつくりました

雑纂「高村光太郎画会」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

油絵頒布会の広告的な。50号の100円が最高額、以下30号で50円、25号は35円、12号に20円、8号を10円、そしてサイズは明記されていない「スケツチ板」が4円とのこと。前金で3分の1ほど、完成後に残金を支払うというシステムです。父・光雲の勧める東京美術学校教授のポストや銅像会社設立などをすべて断り、智恵子との結婚生活に入ることとなって、自分で稼がなければならず、こういったこともやりました。

実際、ぽつぽつ注文があり、作品も残っています。下は福島の素封家で、中村彝と深い交流のあった伊藤隆三郎が購入したもの。

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下記は、新潟の素封家で、『明星』同人でもあった渡辺湖畔の注文で描いた「日光晩秋」に関して。

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しかし、光太郎自身「あまり好みませんが」と書いたとおり、積極的に芸術を換金することに対しては常に抵抗があったようで、画廊の琅玕洞同様、事業としてはものになりませんでした。

一昨日、文京区立森鷗外記念館さんで特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」を拝見した後、歩いて北東方向へ。

少しだけ回り道をして、明治44年(1911)、平塚らいてうが雑誌『青鞜』を世に送り出した「「青鞜社」発祥の地」(現在はマンション)へ。『青鞜』発起人の一人、物集和子の旧宅があった場所で、智恵子が表紙絵を描いたその創刊号の頃は、ここが発行所の住所となっていました。区の建てた案内板には光太郎智恵子の名も。

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それから裏通りに入って、光太郎実家跡(現在建て替え工事中)、保健所通り(銀行通り)に出て、光太郎アトリエ跡(現在は個人宅)前を過ぎ、道坂上まで出て、右折。田端方面へと歩を進めました。

めざすは田端駅近くの、田端文士村記念館さん。

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こちらでは、今年の2月から「恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~」展が開催されています。

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同館は、(公財)北区文化振興財団さんの運営になるもので、田端で活躍した文士・芸術家の功績を通じて「田端文士芸術家村」という歴史を、後世に継承して行くことを目的として平成5年(1993)に設立。メインは芥川龍之介ですが、光太郎智恵子、そして光太郎の父・光雲、光太郎実弟・豊周らと関わりのあった人々も多く含みます。

日本女子大学校での智恵子の一級上の先輩で、テニス仲間だった平塚らいてうもその一人。大正7年(1918)から同12年(1923)まで、同館近くに一家で住んでいました。既に「若いツバメ」奥村博史と結婚(入籍は昭和16年=1941までせず)、長女・曙生(あけみ)、長男・敦史(あつふみ)を授かり、苦しいながらも充実した生活を送っていた時期です。『青鞜』はすでに休刊、この頃は市川房枝らと「新婦人協会」の活動に当たっていました。

さて、「恋からはじまる物語~作家たちの恋愛事情~」。やはりメインは芥川とその妻・文でしたが、らいてうと博もかなり大きく取り上げられていました。

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とても気丈な女性だったというイメージのらいてうが、こと博史との恋愛に関しては、純情乙女的になってしまっていた感があり、ほほえましく思われました。この夫婦は博史が亡くなる昭和39年(1964)まで仲睦まじかったというイメージなので、そう思えるのかも知れませんが。

ちなみに改めてらいてうの年譜を調べていたら、昭和35年(1960)、博史と二人で安達太良山麓の岳温泉を訪れ、さらに既に人手に渡っていた智恵子の生家も訪れていたことがわかり、驚きました。その際、二人でどういう話をしたのかなど、興味深いところです。ちなみにこの時らいてう満74歳、博史は68歳でした。

その他、東京美術学校で光太郎の父・光雲に木彫を学んでから陶芸に転身した板谷波山とその妻・まる。この夫妻もなかなかドラマチックです。平成16年(2004)には、映画「HAZAN」(榎木孝明さん、南果歩さん主演)にもなりました。ちなみに「HAZAN」、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でもロケが行われたはずです。

さらに佐多稲子、窪川鶴次郎、竹久夢二など、回り回って光太郎智恵子と関わる人物も取り上げられていました。

同展は5月6日(月)まで。ありがたいことに入館無料です。ぜひ足をお運び下さい。

この後、田端駅から山手線で渋谷へ。渋谷区文化総合センター大和田内の渋谷伝承ホールさんで、「長編詩劇・高村光太郎の生涯 愛炎の荒野。雪が舞う、」。を拝見して参りました。明日はそちらをレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

自著の書籍を送つて返事の無いのをひどく気にするのは他人の都合を無視して自己の人情にのみ執する事である。丁度その時急病人のあることもあらうし、仕事に夢中になつてゐることもあらう。ともかく自分の書籍を人に贈ることは人の生活の中へ割りこむことである。

散文「某月某日」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

と言いつつ、光太郎はかなりまめに送られてきた書物への礼状をしたためています。しかし、自分が書物を贈った場合には、その礼状等を期待しないというのです。読んでいただくのだから、というわけで、同じ文章には「丁寧な礼状などをもらふと、其はあべこべですと述べたくなる」と書いています。

昨日は都内3ヶ所を廻っておりました。

まず、千駄木の文京区立森鷗外記念館さん。こちらで特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」を拝見。

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左は団子坂からではなく区立第八中学校さんの方から上がっていった正面玄関。敷石部分は戦災で消失する前からあった鷗外旧宅「観潮楼」時代のもの。右は館入り口の扉です。

与謝野晶子は、新詩社における光太郎の師ともいえる姉貴分。『青鞜』の表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてうは日本女子大学校での智恵子の一学年先輩にしてテニス仲間。早逝した樋口一葉は光太郎智恵子と直接の関わりはなかったようですが、光太郎は同じく早逝した実姉・さく(咲子)の風貌が一葉に似ていたと回想しています。

そして森鷗外は、東京美術学校で教壇に立っていたこともあり、光太郎は美学の授業を受けました。その後も観潮楼歌会に参加していますが、どうも近所に住んでいながら敬して遠ざけるという面があったようです。しかし鷗外の方では、「しょうがない奴だ」と思いつつも光太郎の才を認め、かわいがっていた部分があります。

その鷗外は、一葉、晶子、らいてうそれぞれも高く評価していました。

樋口一葉さんが亡くなつてから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。晶子さんは何事にも人真似をしない。(略)晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(「与謝野晶子さんに就いて」 『中央公論』第27年第6号 明治45年=1912)

「明子」はらいてうの本名「明(はる)」から。

そこで今回の展示は、彼女たちの代表的な業績を象徴する品々や、鷗外やその周辺人物と三女性とのかかわりに関する資料などが並んでいました。

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光太郎智恵子に関わる展示物も複数。興味深く拝見しました。

図録が作成されており、購入。税込み860円とお買い得です。尾形明子氏(文芸評論家)、出口智之氏(東京大学准教授)、三枝昂之氏(歌人・山梨県立文学館館長)など、執筆陣も豪華です。三枝氏と尾形氏は、この後、同展の関連行事として講演をなさいます。

 講師:三枝昻之氏(歌人・山梨県立文学館館長)   
 日時:62日(日)14時~1530

講演会2「森鷗外と新しい女たち」
 講師:尾形明子氏(文芸評論家)  
 日時:68日(土)14001530

また、関連行事の扱いにはなっていないようですが、以下も予定されています。

 講師:倉本幸弘氏(森鴎外記念会常任理事)  
 日時:5月30日(木)10時30分~14時

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それぞれ申し込みは同館まで。ぜひどうぞ。

この後、田端方面へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

思ひつきばかりの自己流は案外脆いし、叡智の欠けた継承は生命を捉へ得ない。
散文「某月某日」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

この年、東京府美術館で開催された「皇太子殿下御誕辰記念日本近代美術館建設明治美術名作大展示会」を見ての感想です。

というわけで造形美術に関する発言ですが、文学、音楽等、あらゆる芸術に当てはまるような気もします。

企画展情報です。

特別展「一葉、晶子、らいてう―鷗外と女性文学者たち」

期  日 : 2019年4月6日(土) ~6月30日(日)
会  場 : 文京区立森鷗外記念館  東京都文京区千駄木1-23-4
時  間 : 10:00〜18:00
料  金 : 一般 500円  20名以上の団体は400円  中学生以下無料
休  館 : 5月28日(火)、6月25日(火)

小説家・樋口一葉(18721896)、歌人・与謝野晶子(18781942)、評論家・平塚らいてう(18861971)―明治・大正期を代表する女性文学者三人を、森鴎外(18621922)は「女流のすぐれた人」(『与謝野晶子さんに就いて』)と高く評価しています。現在は文学者の性別が意識されることも少なくなりましたが、明治・大正期の女性文学者は「閨秀(けいしゅう)作家」「女流作家」などと呼ばれ、男性中心の文学者たちの中で区別されてきました。一葉、晶子、らいてうもそうした環境で自身の表現を模索し、小説や詩歌、評論を以て時代と向き合いました。
三人が世に出た事情や時期は異なり、表現の手段もさまざまです。鷗外は女性文学者たちが表現することを好意的にとらえ、常に変わらず見守ってきました。鷗外が彼女たちに向けた眼差しは、鷗外の評論や日記、書簡、そして彼女たちの証言からも知ることができます。
本展では、一葉、晶子、らいてうと鷗外の交流や接点を交えながら、活躍の場となった雑誌、受けた教育、人物交流などの視点をとおして、三人の文業や周辺の女性文学者を展覧します。明治・大正期に花開いた女性文学者たちと、彼女たちを見つめた鷗外が織りなす近代文学史を紹介します。

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関連行事

 講師:三枝昻之氏(歌人・山梨県立文学館館長)    日時:62日(日)14時~1530
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室        定員:50名(事前申込制)
 料金:無料(参加票と本展鑑賞券(半券可)が必要) 申込締切:517日(金)必着

講演会2「森鷗外と新しい女たち」
 講師:尾形明子氏(文芸評論家)          日時:68日(土)14001530
 会場:文京区立森鴎外記念館 2階講座室        定員:50名(事前申込制)
 料金:無料(参加票と本展鑑賞券(半券可)が必要) 申込締切:5月24日(金)必着

ギャラリートーク  展示室にて当館学芸員が展示解説を行います。
 4月17日、5月15日、6月12日 いずれも(水)14時~(30分程度)
  申込不要、展示観覧券が必要です。
 
中学生・高校生向けギャラリートーク
 教科書にも登場する、一葉、晶子、らいてう、そして鷗外についてお話します。
 6月23日(日)14時~(30分程度)  申込不要、高校生以上の方は展示観覧券が必要です。


与謝野晶子は、新詩社における光太郎の師。平塚らいてうは日本女子大学校での智恵子の先輩にしてテニス仲間。『青鞜』の表紙絵を智恵子に依頼しました(智恵子の手になる表紙があしらわれた創刊号(明治44年=1911)も展示されるようです)。そして森鷗外は、東京美術学校で教壇に立っていたこともあり、光太郎は美学の授業を受けました。その後も観潮楼歌会に何度か参加しています。

早逝した樋口一葉は光太郎智恵子と直接の関わりはなかったようですが、光太郎は同じく早逝した実姉・さく(咲子)の風貌が一葉に似ていたと回想しています。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の記憶や表現の半分以上は間違であるかも知れない。間違いと否との百分率が取れたら随分意外の思をすることだらうと考へられる。間違ふことを神経質に嫌つてゐたら何を考へることも表現することも出来なくなるであらうし、さうかといつてそれを構はずに居たら何の進捗発展もないことにならう。
散文「間違のこと」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

言葉の部分では、一度こうと思いこむと、それが誤りと知らずに使い続けてしまう例はよくありますね。熟語の読み方、意味、漢字の送り仮名、字形、書き順、それから歌の歌詞などなど。光太郎も同じ文章で、長い間「獺祭(だっさい)」を「らいさい」だと思いこんでいて、恥をかいたという経験を披瀝しています。某国営放送のアナウンサー嬢は、本番中にニュース原稿の「喫緊」が読めず、「きんきつ」などと読み、同時に出演していた男性アナウンサーに「きっきん! きっきん!」と何度も横から小声で指摘され、それでも「え? え???」とパニックになっていたことがありました。

言葉の部分では、当人が困るだけという面がありますが、事実関係の誤認などを、ある程度権威のある人が影響力の強いメディアなどで平気で書いたりしゃべったりされると、それを真に受けた人がさらに流布することにもなり、やがて誤った内容が定説としなってしまうこともなきにしもあらず。当方も(権威はありませんが(笑))気をつけようと思います。

新刊書籍です。 

川端康成と書―文人たちの墨跡

2019年2月27日 水原園博 求龍堂 定価3,000円+税

川端生誕120年 川端が愛蔵した書、一挙公開 ― 生命(いのち)を宿した文人たちの書 ―

文豪川端康成が美術品の大コレクターであったことは、近年知られるところとなった。しかしその全貌は完璧に把握されていない。 2016年、膨大な書が発見された。 晩年、書に魅入られた川端康成は、自ら多くの書を書き残している。同時に、かつての大家たち(一山一寧、隠元隆琦、池大雅、高橋泥舟など)、同時代の文豪たち(夏目漱石、高浜虚子、田山花袋、林芙美子、横光利一、高村光太郎、齋藤茂吉、生方たつゑなど)の書を蒐集し、愛眼してきた。
本書は、書、その書についての川端の言葉、その作家と川端との交流など、多方面からの解説がついた川端康成の書のコレクション本。

目次

 まえがき 001

 第一章 歴史に名を残す名筆家の書
   如意輪観音像 伝・藤原定家 一山一寧 宗峰妙超
   寂室元光 隠元隆琦 石渓 池大雅 良寛 高橋泥舟

 第二章 文豪たちの書
   夏目漱石 尾崎紅葉 高浜虚子 芥川龍之介 
   永井荷風 若山牧水 田山花袋 本因坊秀哉
   岡本かの子 北原白秋 与謝野晶子 島崎藤村
   徳田秋声 島木健作 横光利一 林芙美子
   武者小路実篤 高村光太郎 斎藤茂吉 久米正雄
   吉井勇 久保田万太郎 室生犀星 吉野秀雄 辰野隆
   中谷宇吉郎 宗般玄芳 保田與重郎 草野心平
   生方たつゑ 遊記山人

 第三章 川端康成の書

 第四章 川端康成宛の書簡
   菊池寛 太宰治 坂口安吾 谷崎潤一郎 三島由紀夫
   
 あとがき



一昨年、その発見が報じられ、大きな話題となった川端のコレクションおよび、川端自身の書を、ほぼ全ページオールカラーで紹介するものです。

著者の水原園博氏は、公益財団法人川端康成記念会理事。雑誌『中央公論』さんに連載されていたものの単行本化かと思っていましたが、あにはからんや、書き下ろしでした。

光太郎の書は、扇面に揮毫された『智恵子抄』中の「樹下の二人」(大正12年=1923)でリフレインされる「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。これを含めた新発見のほとんどが、やはり一昨年、岩手県立美術館さんで開催された「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」に出品され、拝見して参りました

ところで、「あとがき」によれば、水原氏、最後まで判読に苦しんだのが、当会の祖・草野心平の書だったそうです(笑)。心平一流、独特の書体であることも一因のようですが、書かれた文言が琉球古典舞踊の一節という特殊なものだったためとのことでした。

錚々たる面々の書跡の数々、見応えがあります。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

今の世上の彫刻家と称するものは殆ど悉く立体写真の職人に過ぎない。彫刻的解釈と彫刻的感覚とを持たない立体像の氾濫を見よ。彼等作るところの人物像と、資生堂作るところの立体写真と何処に根本的の相違がある。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

それを一概に否定できるものではありませんが、現在でも「立体写真」といわれる技術が残っています。少し前までは新聞などでも広告を見かけました。多方面から通常の写真を撮影し、それを元に立体化する技術で、それにより比較的容易に銅像が作れるというものです。いわば3Dプリンタ的な。その最初期には、かの資生堂さんがそれを事業化していました。

そういうものだと割り切ってしまえばそういうものですが、光太郎にとって、それは「彫刻」の範疇に入らざるもの。そして、世上の多くの彫刻家が普通に作る肖像彫刻も、それと何ら変わらない魂のこもっていないものだ、というわけです。

ちなみに光太郎の書にも、彫刻的感覚が溢れている、というのが大方の評価です。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

昨日は都内に出ておりました。メインの目的は永田町の国立国会図書館さんで調べ物でしたが、その終了後、三鷹市に廻りました。同市の三鷹図書館さんで開催中の「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展拝見のためです。

ともに小説家の故・吉村昭氏と、奥様の津村節子氏。夫婦同業、もっとも身近にライバルがいるというある意味過酷な状況で、互いに切磋琢磨してそれぞれベストセラーをものにしました。津村氏は、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に、その自らの体験を仮託されています。

昨年から今年の初めにかけ、吉村氏の故郷・荒川区の吉村昭記念文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展 津村節子展 生きること、書くこと」、及び、「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が、同館と「おしどり文学館協定」を結ぶ、津村さんの故郷の福井県ふるさと文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されましたが、今回は、ご夫妻で長く住まわれ、津村氏が現在もお住まいの三鷹市での開催です。

会場の三鷹図書館さんは、JR三鷹駅から路線バスに乗り、約10分。

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こちらの2階の一角が会場でした。

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先週まで、同市の井の頭コミュニティセンターさんで前期展示が行われ、そちらは参りませんでしたが、「巡回」と謳われているのでほぼ同一の内容だと思われます。

こういった展示向けに作成されたのでしょう、『智恵子飛ぶ』の原稿レプリカが展示されていました。講談社さんの雑誌『本』に初出時の第一回「輝く車輪」、第二回「みちのくの新風」、そして最終回「荒涼たる帰宅」の、それぞれ冒頭の部分。このうち第一回「輝く車輪」は、明治末、日本女子大学校の校庭で、智恵子が同校名物の自転車を颯爽と操っているシーンです。

 陽が長くなってきていた。
 運動場を囲む樹々は、夕陽を透して葉先から緑の色素がしたたり落ちるばかりに鮮やかであった。
 午後の授業が終り、学生たちはそれぞれ家や寮舎に帰ってしまったらしく、人影はない。
 智恵子は、磨き上げた婦人乗りの自転車に乗り、勢いよくペダルを踏んでいた。前髪をふくらませた庇髪(ひさしがみ)の鬢(びん)がほつれて、上気した頬に幾筋かかかっている。智恵子はそれを小指でかき上げながら、少し首をかしげたポーズで風を切って走る。練習し始めて数日しか経っていないのに、もう片手が離せるのが得意な気分であった。
 智恵子の乗った自転車は、銀色の車輪を輝かせて幾廻りも運動場を廻る。何という気持ちのよさだろう。どうして誰も乗ろうとしないのか、智恵子は不思議だ。

昭和3年(1928)生まれの津村氏の女学校時代は、太平洋戦争真っ最中。青春を謳歌するという時代ではありませんでした。そうした体験から来る一種の羨望も感じられる書き出しです。

他に、故吉村氏、津村氏それぞれ、それからご夫妻で共通の、様々な資料が展示されています。会期は今月24日(日)まで。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

スケツチしながら思ふのは、自然の持つ調和力だ。人工と人工とは衝突する。自然と人工とは衝突といへない程一方が大きい。僅少の叡智(アンテリジヤンス)を以てすれば人工はさう容易に自然を犯すものでない。

散文「三陸廻り 九 釜石港」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

自然破壊とか環境問題などといった意識が世の中にほとんど無かったこの時代にこういう発言をしている光太郎の先見性には舌を巻かされます。

また、「自然と人工とは衝突といへない程一方が大きい。」には、80年後に彼の地を巨大津波が呑み込んだことが予言されているようにも思われます。

そういえば、吉村昭氏には、釜石からそう遠くない田野畑村を舞台とした『三陸海岸大津波』(昭和45年=1970)という小説があり、津村氏は東日本大震災後も田野畑村によく行かれていたそうでした。

東京都三鷹市より、企画展示の情報です。智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)で芸術選奨文部大臣賞を受賞され、2016年には文化功労者にも選ばれた津村節子さんに関わるものです。 

「吉村昭と津村節子・井の頭に暮らして」展

期 日 : 前期 2019年1月12日(土)〜2月2日(土)   後期 2月5日(火)~2月24日(日)
会 場 : 前期 井の頭コミュニティ・センター図書室  三鷹市井の頭二丁目32番30号
          後期 三鷹図書館(本館)  三鷹市上連雀八丁目3番3号
時 間 : 前期 正午~20時(土曜は10時から 日曜日は10時~16時30分 最終日は15時まで)
          後期 9時30分~20時(土曜、日曜・祝日は17時まで)
料 金 : 無料
休 館 : 前期 月曜日・祝日  後期 月曜日・第3水曜日(2月20日)

三鷹市ゆかりの文学者顕彰事業の一環として、ともに作家であり、夫婦でもある吉村昭と津村節子を取り上げ、市内2ヵ所で巡回展示を開催します。
両者が作家として築き上げてきた文学の世界を多彩な著作から紹介しつつ、二人が夫婦として長年暮らした三鷹とのゆかりを紹介します。
本展では、初版本や、自筆原稿、色紙など数々の資料をご覧いただけます。展示内容に違いもありますので、お時間のある方は両施設にぜひ足をお運びください。

展示予定資料
 吉村昭・津村節子 自筆色紙
 吉村昭 自筆原稿「わがふるさと三鷹 文学散歩」
 津村節子 自筆原稿「私の青春・二十歳で洋裁店のマダムだったが」ほか

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『朝日新聞』さんの東京版に紹介記事が出ました。  

東京)吉村昭さん津村節子さんに迫る 三鷹で巡回展

 東京都三鷹市で1~2月、巡回展「吉村昭と津村節子――井の頭に暮らして――」がある。ともに作家で夫婦の吉村さん(1927~2006)と津村さん(1928~)は長年、市内で暮らした。資料の展示などを通じ、2人の文学や市とのゆかりを紹介する。
 現在の東京都荒川区で生まれた吉村さんは、学習院大学を中退後、1953年に同人仲間だった津村さんと結婚。66年に「星への旅」で太宰治賞を受賞し、同年の「戦艦武蔵」で記録文学に新境地をひらいた。「ふぉん・しいほるとの娘」「冷い夏、熱い夏」「破獄」「天狗(てんぐ)争乱」などを発表。数多くの文学賞を受けた。
 福井市出身の津村さんは学習院短大卒。65年に「玩具」で芥川賞を受賞した。自伝的小説や歴史小説、エッセーなどで幅広く活躍。代表作には「智恵子飛ぶ」「流星雨」「異郷」などがある。
 三鷹市スポーツと文化財団などによると、2人は69年、「都心に近く、自然も残り、創作に理想的だ」などとして市内に転居。都立井の頭公園近くに居を構えた。吉村さんは最晩年、膵臓(すいぞう)がんの手術を受けて、自宅で療養。没後の2006年夏、津村さんはお別れの会で、「ヒグラシが鳴いて井の頭公園の風が吹いてくるのを喜んでいた」と吉村さんについて振り返っている。
 巡回展では「戦艦武蔵」や「玩具」の初版本、2人の色紙や写真などを展示。財団学芸員の三浦穂高さんは「2人にとって、作家としても夫婦生活を送るうえでも、三鷹は大事な場所だったのだろう」と話す。
 巡回展は1月12日~2月2日が井の頭コミュニティ・センター図書室(井の頭2丁目)、2月5~24日が市立三鷹図書館(上連雀8丁目)。2カ所で内容が一部異なる。ともに無料。開館時間や休館日の問い合わせは山本有三記念館(0422・42・6233)へ。(河井健)


津村さんに関しては、昨秋、吉村氏の故郷・荒川区の吉村昭記念文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展 津村節子展 生きること、書くこと」、及び、「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が、同館と「おしどり文学館協定」を結ぶ、津村さんの故郷の福井県ふるさと文学館さんで「おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されましたが、今回は、ご夫妻で長く住まわれ、津村氏が現在もお住まいの三鷹市での開催です。

『智恵子飛ぶ』に関する展示もあるかと存じますので、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】000

すばらしい大きな雷が一つ、角の牛肉屋の旗竿にお下(くだ)りになつた後、やうやく雨の降りやむ迄の一二時間、裸でみんなの前に坐つてゐるおぢいさんの、確信のあるそのちよん髷頭が、どんなに私の力となつたらう。雷が鳴るといつでも、あの時のおぢいさんが眼に見える。

散文「雷の思出」より 
大正15年(1926) 光太郎44歳

子供の頃から、そしていい大人になった後も、光太郎は雷が大嫌いでした。子供の頃は、同居していた祖父の兼松が、雷が鳴ると直撃を避けるおまじない的なことをしてくれ、それが心強かったというのです。

上記のエピソードは明治16年(1883)生まれの光太郎の幼少時ですから、明治10年代終わりか、20年代初めでしょう。断髪令が出たのが明治4年(1871)、そんなことはお構いなしにまだ髷を結っていた兼松。この頑固さは、光太郎にも遺伝しているようです。

昨日、来春封切りの映画「この道」と、そのノベライズ『この道』をご紹介しましたが、関連書籍をもう一冊。 

ここ過ぎて 白秋と三人の妻

2018/11/11 瀬戸内寂聴著 小学館(小学館文庫) 定価980円+税

北原白秋をめぐる三人の妻を描いた長編小説
国民的詩人・北原白秋が没して四年後の一九四六年暮れ、大分県香々地の座敷牢で一人の女性がひっそりと息を引き取った。歌人であり詩人であったその才女の名は江口章子。白秋の二番目の妻でもあった。詩集『邪宗門』をはじめ、数多くの詩歌を残し、膨大な数の童謡や校歌などの作詞も手掛ける一方で、姦通罪による逮捕など様々なスキャンダルにまみれた稀代の天才の陰には、俊子、章子、菊子という三人の妻の存在があった。丹念な取材を元に瀬戸内寂聴が一九八四年に発表した渾身の長編小説に著者の書き下ろし「あとがき」を収録。白秋の生涯を描いた2019年1月11日公開の映画『この道』の原点。

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元版は昭和59年(1984)に、新潮社さんからハードカバーで刊行されました。その後、昭和62年(1987)、上下二分冊で新潮文庫のラインナップにも入りましたが、絶版。それが小学館さんから復刊されたわけです。

最初に、一般書店の店頭で平積みになっているのを見たとき、「便乗商法か? 小学館さんもあざといな」と思いましたが、さにあらず。昨日ご紹介した書籍「この道」を読むと、映画「この道」はこの小説が原作というわけではないものの、ここからのインスパイアであるとの、映画のプロデューサー氏の発言がありました。そこで、書籍『この道』特別付録の座談会や鼎談に寂聴さんがご出席されているわけです。

ただ、「ここ過ぎて」は、副題の「白秋と三人の妻」の通り、白秋と妻たちとの関わり、それぞれの妻の生い立ちやその後を描くことに力点が置かれており、童謡の件や山田耕筰との関わりなどは割愛されています。光太郎は白秋との関わりで、ところどころにその名が出て来ます。

白秋やその妻たちについては、当方、概略は頭に入っていましたが、ここまで細かく書いた書籍を読んだことがなかったので、「なるほど、そういうことだったのか」という点が非常に多く、興味深く拝読。そして、勝手な感想ですが、白秋二番目の妻の章子と、智恵子がオーバーラップするように感じました。ともに『青鞜』に関わったのは偶然としても、地方の素封家の娘としての生い立ち、ある種の破天荒・天衣無縫さ、結婚当初は夫と良好な関係で、実に平穏な、しかし貧しい生活を送ったこと、そこそこ才能(章子は文学、智恵子は美術)がありながら「偉大な」夫の前ではそれが霞んでしまったこと、そのことが精神のバランスを失う一つのきっかけとなったこと、などなど。ただ、智恵子はまがりなりにも光太郎に看取られて逝きましたが、章子の晩年はみじめなものでした。その点は、智恵子というより、ロダンの愛人だったカミーユ・クローデルを彷彿とさせられました。

この手の寂聴さんの「小説」は、『青鞜』や『田村俊子』などもそうですが、「小説」というより評伝と取材のルポルタージュが混ざった形式のような感じで、読み慣れない人には読みづらいかも知れません。ただし、なかなかの読み応えです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自ら信ずる者は出版するに何の躊躇をか要し候べき。自ら不可とする者が「オツキアヒ」の為め出版する必要も亦無かる可く候。

散文「紐育より 二」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

『明星』誌上に、光太郎の歌集出版の計画が、本人のあずかり知らぬところで書かれていたことに対する苦言です。それまでに『明星』に掲載された光太郎の短歌は、与謝野寛の添削が激しく入っており、自分のものとは言えないという感覚でした。

昨日は護国寺で「第63回高村光太郎研究会」、今日は日比谷で「第12回明星研究会 シンポジウム与謝野晶子の天皇観~明治・大正・昭和を貫いたもの」ということで、2日連続で都内に出ねばならず、それぞれ午後からなので、この際、ついでにいろいろ片付けてしまおう、と、都内あちこち歩き回っております。

昨日は、まず、駒場の日本近代文学館さん。来年1月に埼玉県東松山市で、光太郎と、同市に縁の深い彫刻家・高田博厚、さらに同市元教育長で、昨年逝去された田口弘氏の三人の交流について市民講座を持つことになり、そのための調べ物でした。


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「津村節子展」の方は、平成11年(1999)、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子さんのご主人、故・吉村昭氏の文学館ということで、津村さんの故郷・福井県ふるさと文学館さんとの共同開催となっています。

津村さんのこれまでを回顧するコンセプトで、幼少期の通信簿や日記、長じて文学活動を始めてからの作品掲載誌、原稿、御著書、取材メモ、その他身の回りの品々など、様々な展示品が並んでいました。『智恵子飛ぶ』関連も。

図録が発行されており、購入して参りました。B5判63ページ、カラー画像も多く、津村さんご本人や、吉村氏、さらに加賀乙彦氏の文章が掲載されており、それがなんとたったの350円。超お買い得でした。


トピック展示の方は、9月に「前期」を拝見して参りましたが、先週から「後期」ということになっており、若干の展示替えがありました。

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特に興味を引いたのが『智恵子飛ぶ』のための取材メモ。曰く、

 昭和十六年私が女学校に入学した年の十二月八日太平洋戦争 智恵子抄を読んだのはその二年ほどあと 私は昭和三年に生れ 満州事変、日中戦争、太平洋戦争
 個人の自由はない 目的は一億一身勝利のみ 人間らしい感情を持つことは罪悪だった。
 世俗に背を向け尊敬と信頼と愛を抱き合いお互いの芸術の道に精進し共に伸びて行こうとする共棲生活に憧れ強い印象を受ける。
(略)
 しかし、なぜこのような理想的な二人の生活が破局に至ったのか。

その問いに、津村さんなりの答を出したのが、『智恵子飛ぶ』だったわけですね。

これからも、ご健筆を祈念いたします。

ところで、昨日は関連行事として、竹下景子さんによる『智恵子飛ぶ』の朗読会があったのですが、先述の通り、第63回高村光太郎研究会とかぶっていましたので、申し込みもしませんでした。その点は非常に残念でした。

「津村節子展」は12月19日(水)まで、トピック展示は来年1月16日(水)までです。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

自然は極微の細胞にすら宇宙の大と威厳とを示顕してゐることを思へば、心を空しくして詩に斯の如く精進するものの必ず到るべき天地はおのづから開かれるであらう。

散文「菊池正詩集「北方詩集」序」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

『北方詩集』、元版は樺太在住の著者による非売私家版の詩集です。のちに内地でも刊行されましたが、そちらも稀覯書籍です。

昨日ご紹介した、東京都荒川区の吉村昭記念文学館さん。平成18年(2006)に亡くなった、荒川区ご出身の作家・吉村昭氏の顕彰施設ですが、氏の奥様、津村節子氏の郷里・福井の福井県ふるさと文学館さんと昨年、「おしどり文学館協定」を締結、このたび、合同企画展が開催されています。小説『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)で芸術選奨文部大臣賞を受賞され、一昨年には文化功労者にも選ばれた津村さんにスポットをあてたものです。  

おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」

期   日  : 平成30年10月26日(金)~31年1月23日(水)
場   所  : 福井県ふるさと文学館 福井県福井市下馬町51-11 福井県立図書館内
時   間  : [火~金]9:00~19:00  [土・日・祝]9:00~18:00
料   金  : 無料 
休 館 日 : 月曜日(祝日の場合は翌日) 11/22 12/20 12/29~1/3 

 県ふるさと文学館では、文壇のおしどり夫婦といわれた吉村昭氏と本県出身の津村節子氏のそれぞれの出身地に建つご縁に基づき、昨年11月に荒川区立ゆいの森あらかわ吉村昭記念文学館と全国初の「おしどり文学館協定」を締結しました。
 1周年を記念し、福井県と荒川区において、合同企画展と記念講演会をそれぞれ行います。
 

関連イベント

記念講演会「津村・吉村文学の魅力」
 日 時:平成30年10月28日(日)14:00~15:30
 会 場:福井県立図書館多目的ホール
 講 師:出久根達郎氏(直木賞作家)
 定 員:150名(申込順、参加無料)
 申 込:電話、FAX、メールにて、または直接ふるさと文学館窓口
      TEL:0776-33-8866 FAX:0776-33-8861
      E-mail:
bungakukan@pref.fukui.lg.jp
 その他:手話通訳、音声の文字表示を行います。

津村節子氏撮り下ろしインタビュー特別上映会
 表 題:「津村節子氏人生を語る~これまでの歩み そして明日への思い~」
 日 時:平成30年10月26日(金)~10月28日(日) 
     各日10:00~、13:00~、15:30~(約20分)
 会 場:福井県ふるさと文学館 映像ルーム
 定 員:各回40名(当日受付、参加無料)

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ところで、「おしどり文学館」ということであれば、花巻高村光太郎記念館さんと、二本松市智恵子記念館さんも、そのような協定を結べば、それで一つの宣伝にもなりますし、展示の共同開催、資料の相互貸借などなど、いろいろ便利だと思うのですが、どうも行政がからむと、そうした部分、腰が重いのが現状です。

閑話休題、福井展、お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩とは決して別の世界があつて、その世界に我々を誘ひ出すものでなく、事実の中の事実が正しい言葉に具体された時、それが即ち詩なのだといふ確信を終に失ひ得ない自分は、此等の諸篇の中に立派な詩を見出して喜ぶ。

散文「更科源蔵詩集「種薯」感想」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

北海道弟子屈で開拓にあたりながら詩を書いた更科源蔵の詩集への讃辞です。

他者への評でありながら、光太郎詩論が端的に語られています。

第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」が開催中の荒川区ゆいの森あらかわ内の吉村昭記念文学館さんで、それとは別個の展示が始まっています。  

おしどり文学館協定締結1周年記念 荒川区・福井県合同企画展「津村節子展 生きること、書くこと」

期   日  : 平成30年10月20日(土曜)~12月19日(水曜)
場   所  : 吉村昭記念文学館 東京都荒川区荒川二丁目50番1号 ゆいの森あらかわ内
時   間  : 午前9時30分から午後8時30分まで
料   金  : 無料 
休 館 日 : 11月15日(木) 12月7日(金)

平成29年11月5日に、吉村昭記念文学館と福井県ふるさと文学館はおしどり文学館協定を締結しました。荒川区出身の作家、吉村昭氏と、妻で福井県出身の作家、津村節子氏の「おしどり夫婦」になぞらえ、両館が協力して相互に魅力を高めていくため、締結したものです。協定の締結1周年を記念して、福井県と合同で企画展を開催します。

昭和40年に「玩具」で芥川賞を受賞して以来、力強く生きる女性の姿を書き続けてきた作家、津村節子。今年で90歳を迎え、現在も精力的に執筆活動を行う津村氏の約60年に及ぶ創作活動を、自筆原稿や取材メモ、愛用品などを通して紹介します。

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関連イベント

◆記念講演会「果てなき往復書簡―一編集者から見た吉村昭・津村節子」
 日程:11月4日(日曜)14時~16時(開場は13時30分)
 講師:山口昭男氏(岩波書店前代表取締役社長)
 参加費:無料   定員:100名※申込順   会場:ゆいの森あらかわ1階ゆいの森ホール

◆朗読会「智恵子飛ぶ」
 日程:11月23日(金曜・祝)14時~15時30分(開場は13時30分)
 出演:竹下景子氏(俳優)
 参加費:無料   会場:ゆいの森あらかわ1階ゆいの森ホール
 定員:100名(応募多数の場合は抽選。11月4日(日曜)までにお申込下さい。当選者のみ、11月17日(土曜)までに葉書でお知らせします。)

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◆文学館学芸員による展示解説
 日 時  :11月3日(土曜)15時~ 15時30分  12月5日(水曜)15時~15時30分
参加費:無料  定 員  : 15名※申込順   会 場  :ゆいの森あらかわ3階企画展示室

イベント申込方法
ゆいの森あらかわホームページ(イベント予約)、ゆいの森あらかわ1階総合カウンター、FAX(03-3802-4350)でお申込み下さい。
イベント名(展示解説の場合は、参加希望日)・参加者の氏名(2人まで)・代表者の住所と電話番号を、ゆいの森あらかわへ。

なんとまあ、竹下景子さんが、津村さんの代表作の一つである『智恵子飛ぶ』から朗読をなさるそうです。



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上記会場は、荒川区の吉村昭記念文学館さん。平成18年(2006)に亡くなった、荒川区ご出身の作家・吉村昭氏の顕彰施設です。亡くなる直前、吉村氏は、区の財政負担を考慮し、単独の文学館ではなく図書館等の施設と併設することを条件に文学館の設置を承諾なさったということで、ゆいの森あらかわさんの中にオープンしました。

そして奥様の津村節子さんの出身地・福井の福井県ふるさと文学館さん。おしどり夫婦それぞれゆかりの文学館ということで、昨年、「おしどり文学館協定」を締結、展示の共同開催、資料の相互貸借を行うそうで、今回もその一環です。

荒川区・福井県合同企画展ということで、もう一方の福井県ふるさと文学館さんでも「津村節子~これまでの歩み、そして明日への思い~」が開催されます。明日はそちらをご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

此の北地に闘つてゐる人のまぎれのない声は、どんなジヤスチフイケイシヨンがあらうとも結局まだ中途に立つてゐる私などの腹わたに強くこたへる。私は其をまともに受ける。かういふ強さは、ひねくれた強さでないから、痛打を受ける事が既に身になる。

散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

猪狩満直は、福島いわき出身の詩人。同郷の草野心平の詩誌『銅鑼』同人でした。『移住民』は、前年に北海道阿寒に移っての開墾生活を題材としています。

明治末に、やはり北海道移住を志した光太郎。あまりの無計画で、ひと月ですごすご逃げ帰りました。そうした負い目が読み取れますね。

新刊情報です。 
2018/09/13  髙橋秀紀著 歴史春秋社 定価1,800円+税

智恵子の母親「セン」は、私生児として貧しい母子家庭に生まれ、子守や女中をしながら成長して結婚し、やがて母と養父が始めた造り酒屋を相続し二代目となった。酒屋は繁盛して豪商となり、「セン」は八人もの子宝に恵まれ、子供達には高等教育をして、なに不自由ない極楽のような生活ができた。だが、養父や夫が亡くなり息子の代になると、世間の不景気もあって酒屋が倒産した。(あとがきより)
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目次 
 第1章 父なし子 
 第2章 結婚 
 第3章 成長する酒造店 
 第4章 人生の天国 
 第5章 繁栄の中で 
 第6章 忍び寄る暗い影 
 第7章 酒造店の倒産 
 第8章 流浪の身 
 第9章 人生の地獄 
 第10章 六道の世を生きて 

智恵子の母・長沼セン(明治元年=1868~昭和24年=1949)を主人公とした小説です。

これまでに智恵子を主人公とした小説は複数刊行されていますが、センを主人公としたものはおそらく初めてではないでしょうか。

過日、小平市平櫛田中彫刻美術館さんでの企画展「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」の拝観、吉村昭記念文学館さんでの「第2回 トピック展示「津村節子『智恵子飛ぶ』の世界~高村智恵子と夫・光太郎の愛と懊悩~」の拝観のため上京した折、行き帰り、それから移動中の車内で一気に読み終えました。

おおむね史実に基づき(あえて史実と反する内容にした箇所も見られますが)、センとセンを取り巻く人々が実に生き生きと描かれています。ある意味、智恵子実家の長沼酒造興亡史とも言えます。

評伝の形式で智恵子の生涯にスポットを当てた、松島光秋氏著『高村智恵子―その若き日―』(永田書房 昭和52年=1977)、佐々木隆嘉氏著『ふるさとの智恵子』(桜楓社 昭和53年=1978)、伊藤昭氏著『愛に生きて 智恵子と光太郎』(歴史春秋社 平成7年=1995)などが先行しますが、小説の形式で描くことで、その時々の人々の思いがより鮮明に浮き彫りにされ、なるほど、これが小説の強みだなと思わせられる箇所が多くありました。

特に最終章で、追われるように後にした油井村(現・二本松市)を久しぶりに訪れ、長沼酒造の破産や智恵子をはじめとする子供たちの不遇な死を嘆くセンを、菩提寺である満福寺の住職が諭し、それによって救われた気持ちになれるシーンなど。

先週、『福島民報』さんに紹介記事が出ています。

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ちなみに、昭和3年(1928)、箱根で撮られた光太郎智恵子夫妻とセンの写真。
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版元サイトから注文可能です。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

同君が人をやつつける時は、人をマイナスにするのでなくて、プラスにしようとあせつてゐるのがよく見えた。私の祖父は生粋の江戸人であつたが、自分の可愛がる人間を殊に口ぎたなく罵つたものである。「てめえのやうな役に立たずが……」などと人によく言つてゐた。

散文「大藤君」 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「大藤君」は大藤治郎。大正15年(1926)に歿した詩人です。

可愛がる相手だからこそ、奮起を促すためにあえて厳しい叱責を与える、そういうことはよくあります。それも度を過ぎると昨今あちこちで問題になっているパワハラということになってしまうのでしょうが。

9/27(木)、小平市平櫛田中彫刻美術館さんで企画展「明治150年記念特別展 彫刻コトハジメ」を拝観したあと、西武線、JR、東京メトロ、さらに都電荒川線と乗り継ぎ、ゆいの森あらかわ内の吉村昭記念文学館さんへ。

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平成9年(1997)、講談社さんから出版され、翌年、芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれた、吉村昭夫人で芥川賞作家・津村節子さんの代表作の一つ、智恵子を主人公とした『智恵子飛ぶ』(平成9年=1997)に関する展示が為されています。

特に撮影禁止という表記がなかったので、画像に収めて参りました。

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『智恵子飛ぶ』生原稿。

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主人公、智恵子についての解説。

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智恵子に関する取材風景等のスナップなど。

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他に、龍星閣『智恵子抄』初版(昭和16年=1941)や、智恵子に関する書籍、津村さんのスクラップブックなどが展示されていました。パネル展示では『智恵子抄』に寄せる津村さんの思いや、智恵子紙絵の解説等々。

昭和3年(1928)生まれの津村さん、高等女学校生であらせられた戦時中、勤労動員に駆り出されつつ『智恵子抄』を読まれ、世俗に背を向け芸術の道に精進しようとする光太郎智恵子夫婦の生き様に感動されたとのこと。

戦後、昭和28年(1953)に吉村昭氏とご結婚。光太郎智恵子のように「夫婦同業」となり、その意味では色々大変だったようです。

『智恵子飛ぶ』の「あとがき」には、こんな一節があります。

 二人の力が拮抗していれば、最も身近にライヴァルを置くことになる。不均衡であれば、力ある者は無意識のうちに力弱き者を圧してしまう。
 才薄き者は、相手の才能に敬意を抱けば抱くほど、自分の能力に対する絶望や屈辱感が深まり、充し得ない創作の意欲は、重く心に貯めこまれてゆく。

まさしく光太郎智恵子は不均衡だったのでしょう。その他にも、相次ぐ家族の死、実家である長沼酒造の破産、家族の離散、自身に子供がいなかったこと、元々内向的で友人も少なかったこと、早くから結核性の病に冒されていた自身の健康状態への不安、そして光太郎からの一種のモラハラ(「武士は食わねど高楊枝」的な生活の強制的な)などが重なり、智恵子は壊れてしまいました。

幸い、不均衡ではなかった吉村・津村夫妻はどちらも壊れることはありませんでしたが、「二人の力が拮抗していれば、最も身近にライヴァルを置くことになる」という意味での葛藤はあったことと思われます。先に売れっ子になったのは津村さんの方でしたし。

そういう似たような境遇から智恵子を捉えた『智恵子飛ぶ』が、傑作と称されるのはある意味、当然の帰結かもしれません。

展示は前後期に分かれ、前期が11月14日(水)まで、後期が来年1月16日(水)まで。一部、展示替えがあるそうです。後期に関しては、まだ具体的に展示内容を決めていないとのことではありました。

『智恵子飛ぶ』は、平成12年(2000)には新橋演舞場、翌年には京都南座で舞台化されました。智恵子役は共に片岡京子さん、光太郎役は、東京公演が故・平幹二朗さん、京都公演で近藤正臣さんでした。

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こういうチラシ等を並べると一般受けするのですが、どうなりますやら。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

啄木といひ、賢治といひ、皆誠実な、うその無い、つきつめた性格の人でした。
散文「啄木と賢治」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「借金大魔王の啄木が誠実であったわけがない」、「賢治を神格化するのは馬鹿げている」などといった異論があろうかとも思いますが、光太郎の認識はこうでした。

そして光太郎自身も「誠実な、うその無い、つきつめた性格」だったように感じます。戦時中、翼賛詩を乱発したことも、それはその時代に於けるある種の「誠実さ」だったのではないでしょうか。

結局、「誠実な、うその無い、つきつめた性格」の者は、啄木や賢治のように早世するか、智恵子のように壊れるか、戦後すぐの光太郎のようにひどいバッシングを受けるか、少なくとも幸福に長寿を全うすることは出来なかったようにも思われます。

当方はちゃらんぽらんに長寿を全うしたいものです(笑)。

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