森鷗外の新資料相次ぎ発見 自筆の「渋江抽斎」や広告文

『朝日新聞』さん。8月5日(金)掲載分です。
鷗外へ、各界書簡400点 漱石・啄木・与謝野晶子・岡倉天心・西園寺公望…広い交友示す発見
今年で没後100年になる文豪、森鷗外(1862~1922)あての書簡約400点が、まとまった形で見つかった。出身地の島根県津和野町にある町立森鷗外記念館が4日発表した。差出人は夏目漱石や与謝野晶子、石川啄木、岡倉天心ら、明治・大正期に活躍したそうそうたる面々。鷗外の交友関係の幅広さを物語る貴重な発見という。鷗外の娘婿で仏文学者だった山田珠樹(たまき)さんらが保存していたのを遺族が見つけた。差出人には文学・演劇・美術界で名をはせていた人たちだけでなく、山県有朋や西園寺公望ら政治家の名前もあった。少なくとも60人以上から送られた書簡という。1896~1922年の日付が確認できたが、日付のないものも多い。現在、漱石や啄木からの書簡は専門家が調査中だが、内容がはっきりしたものの中から4点を報道陣に公開した。
夏目漱石の妻・鏡子からの書簡は、漱石が伊豆・修善寺で大量に吐血した「修善寺の大患」(1910年)の際、軍医でもあった鷗外が部下を遣わして見舞ったことへの礼状。漱石の日記にのみ記されている内容だった。
与謝野晶子からの書簡は、晶子が夫の鉄幹を追って1912年にパリに渡ったときのもの。旅費の工面を鷗外が手助けしたことが裏付けられるという。
鷗外の研究者で、町立森鷗外記念館の館長を務める山崎一穎(かずひで)・跡見学園理事長は「これだけの量の書簡がまとまって出てきたことがまず驚きだ。鷗外の面倒見の良さや気配りがうかがえる手紙で、著名な差出人の方の研究も一層進むことになるだろう」と話す。
同記念館は年度内に翻刻(活字化)の作業を終え、内容や背景を分析、精査したうえで、成果を書簡集として出版する予定という。

鴎外の書簡400点見つかる 差出人は夏目漱石や与謝野晶子など著名人ぞろい
光太郎から鷗外宛の書簡は、これまで5通しか確認できていません。鷗外は東京美術学校で光太郎在学中に「美学」の講義を受け持って教壇に立ち、光太郎は美校卒業後、鷗外が顧問格だった雑誌『スバル』で中心メンバーの一人となりました。また、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた画廊「琅玕洞」の店名は、鷗外の訳書から採ったものです。この時期、軍医総監だった鷗外は、裏で手を回して光太郎の徴兵を免除してやったりもしています。
そうかと思うと、「軍服着せれば鷗外だ」事件。どうも当方と同じで権威的なものには反発しないでは気が済まない光太郎、うっかり漏らした鷗外を茶化す発言が鷗外の耳に入り、鷗外は光太郎を自宅に呼びつけて「何か文句あんのか? 」的なオラオラ状態(笑)。さすがにボコッたり、文壇から抹殺したりといった大人げない対応はしませんでしたが(笑)。
追記 まさにこの事件に関わる書簡でした。驚きました。
どうも光太郎は鷗外を敬して遠ざけ(鷗外主催の観潮楼歌会も何のかんのと理由を付けて逃げました)、一方の鷗外は光太郎を「しょうもないやつだ」と苦笑しながらもその才を認めてかわいがっていた、という感じのようです。
今回見つかった書簡群でまた、知られざる二人の関係がわかるかもしれません。来春出版される予定とのことで、今から楽しみです。
【折々のことば・光太郎】
神経痛まだ痛む、 夜新宿にて夕食、丸井にて本棚をかふ、
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式のため訪れた青森から帰り、しばらくは大人しくしていました。
「丸井」は現在の「新宿マルイ」さんでしょう。戦前の創業で、戦争を挟んで昭和23年(1948)には新宿駅前店、昭和25年(1950)には新宿三光町店が開業しています。















光太郎、喫煙を始めたのは意外と遅かったようです。大正14年(1925)、数え43歳の時に回答したアンケート「紫煙問答」では、以下のように書いています。






























元気がなくなると、新宿の中村屋に行ってカレーならぬカリーライスを食べる。「恋と革命の味」といわれるカリーである。














村山さん、この文章にも目を通されているようです。光太郎の言った「ぼく、高村光太郎」などの言葉がそのまま引用されていますので(あるいは近藤が他でも同じエピソードを書いているのかも知れませんが)。

















侶の瀬戸内寂聴さん(97)。小説、随筆、ルポ、評伝、「源氏物語」の現代語訳、童話、少女小説など、これまでに400冊以上の本を出版してきた。今も文芸誌に連載を続ける現役最高齢作家の全著作の中から、思い出に残る一作について作文を募る「わたしの好きな寂聴作品感想文コンクール」(徳島県立文学書道館主催)が実施されている。寂聴文学の人気の秘密に迫る試みだ。









ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンは、画家であった妻マルト・マッサンとの愛の日々を、詩集『明るい時』(明治29年=1896)、『午後の時』(明治38年=1905)、『夕べの時』(明治44年=1911)の三部作にまとめ、刊行しました。光太郎はこのうち『明るい時』と『午後の時』を翻訳、前者は単行書として刊行、後者は昭和16年(1941)の『仏蘭西詩集』、同18年(1943)の『続仏蘭西詩集』に、他の訳者の作品とともに寄稿しています。























