まずは訃報。光太郎の師・与謝野夫妻研究の第一人者であらせられた逸見久美氏が一昨日、亡くなられました。
『朝日新聞』さん。
『朝日新聞』さん。
逸見久美さん(いつみ・くみ=日本近代文学研究者・歌人)3日、急性心筋梗塞(こうそく)で死去、99歳。葬儀は近親者で営む。喪主は長男で青林書院社長慎一さん。
与謝野鉄幹・晶子研究の第一人者で知られ、著書に「評伝与謝野寛晶子」(明治篇、大正篇、昭和篇)、編著に「与謝野寛晶子書簡集成」、編集代表として関わった「鉄幹晶子全集」など。作家・ジャーナリストの翁久允(おきな・きゅういん)の三女。
昨日、明星研究会を主宰されている松平盟子氏からメールを頂き、その中でご逝去に触れられていて知った次第ですが、その際、急いでネットで調べたところ、KNB北日本放送さんのローカルニュースで既に取り上げられていました。
昨日、明星研究会を主宰されている松平盟子氏からメールを頂き、その中でご逝去に触れられていて知った次第ですが、その際、急いでネットで調べたところ、KNB北日本放送さんのローカルニュースで既に取り上げられていました。
立山町出身の作家・ジャーナリスト翁久允の娘で与謝野鉄幹・晶子研究の第一人者として知られる、国文学者の逸見久美さんが、きのう亡くなりました。99歳でした。
逸見さんは1926年、翁久允の三女として生まれ、早稲田大学大学院を卒業後、実践女子大学大学院で第1号となる文学博士の博士号を取得しました。
そして、歌人である与謝野鉄幹・晶子夫妻の研究で多数の書籍を執筆した、日本近代文学の女性研究者の草分け的存在でした。
また、父の翁久允が主宰した富山の郷土研究雑誌「高志人」にも寄稿を重ねました。高志の国文学館館長で俳優の室井滋さんは、逸見さんの遠縁にあたります。逸見さんは、きのう99歳で亡くなりました。葬儀などは親族だけでとり行う予定だということです。
ここ数年、お加減があまりよろしくないと聞いており、疎遠になっていましたが、かつていろいろとお世話になりました。
初めてお会いしたのは平成24年(2012)、神保町の東京堂書店さんで開催された氏の講演会「晶子没後70年記念出版『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念公演 与謝野夫妻の評伝を書き終えて -収集した二五〇〇通の書簡と全集・全釈編纂から-」を拝聴した折でした。それ以前から氏の編著にして『高村光太郎全集』にもれていた光太郎短歌を収めた『与謝野寛晶子宛書簡集成』を拝読させていただいており、聴きに行かずば、というわけでした。
以後、何度か、大阪の晶子忌日・白桜忌や明星研究会さんの研究発表会などでご一緒し、さらに当会主催の連翹忌にもご参加下さいました。
平成27年(2015)には、NHK Eテレさんで放映された生涯学習の番組「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の第2回放送「愛と情熱の歌人 夫のための百首 与謝野晶子×与謝野鉄幹」にご出演。同じ番組の第5回が「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」で、NHKさんに制作協力者として当方を紹介して下さいました。
さらに平成28年(2016)には、お父さまの翁久允と竹久夢二との交流についてまとめられた『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』を刊行され、これまた『高村光太郎全集』にもれていた光太郎からお父さま宛の書簡が載っているということで、御恵贈下さいました。
こちらには、氏が幼き日に夢二が描いたお姉様とのスケッチも掲載されています。左が氏で、右はお姉様です。
夢二に描かれた、というお話を伺った時には実に驚いた記憶がございます。
最後にお会いしたのはコロナ禍前の令和元年(2019)でした。その後、御元気でいらっしゃるかと気にかけてはいたのですが……。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
もう1件、こちらは朗報です。平成9年(1997)、講談社さんから出版され、翌年、芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれた智恵子が主人公の小説『智恵子飛ぶ』の作者・津村節子氏が今年度の旭日中綬章を受賞されました。
『朝日新聞』さん。残念ながら『智恵子飛ぶ』には触れられていませんでしたが。
ここ数年、お加減があまりよろしくないと聞いており、疎遠になっていましたが、かつていろいろとお世話になりました。
初めてお会いしたのは平成24年(2012)、神保町の東京堂書店さんで開催された氏の講演会「晶子没後70年記念出版『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念公演 与謝野夫妻の評伝を書き終えて -収集した二五〇〇通の書簡と全集・全釈編纂から-」を拝聴した折でした。それ以前から氏の編著にして『高村光太郎全集』にもれていた光太郎短歌を収めた『与謝野寛晶子宛書簡集成』を拝読させていただいており、聴きに行かずば、というわけでした。
以後、何度か、大阪の晶子忌日・白桜忌や明星研究会さんの研究発表会などでご一緒し、さらに当会主催の連翹忌にもご参加下さいました。
平成27年(2015)には、NHK Eテレさんで放映された生涯学習の番組「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の第2回放送「愛と情熱の歌人 夫のための百首 与謝野晶子×与謝野鉄幹」にご出演。同じ番組の第5回が「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」で、NHKさんに制作協力者として当方を紹介して下さいました。
さらに平成28年(2016)には、お父さまの翁久允と竹久夢二との交流についてまとめられた『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』を刊行され、これまた『高村光太郎全集』にもれていた光太郎からお父さま宛の書簡が載っているということで、御恵贈下さいました。
こちらには、氏が幼き日に夢二が描いたお姉様とのスケッチも掲載されています。左が氏で、右はお姉様です。

最後にお会いしたのはコロナ禍前の令和元年(2019)でした。その後、御元気でいらっしゃるかと気にかけてはいたのですが……。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
もう1件、こちらは朗報です。平成9年(1997)、講談社さんから出版され、翌年、芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれた智恵子が主人公の小説『智恵子飛ぶ』の作者・津村節子氏が今年度の旭日中綬章を受賞されました。
『朝日新聞』さん。残念ながら『智恵子飛ぶ』には触れられていませんでしたが。
夫で小説家の故・吉村昭と知り合った文芸誌に参加してから70年余。長く書き続けられた理由に編集者たちの存在をあげる。ある短編を新潮社に届けたところ、自社では載せにくいからと文芸春秋に持っていくように勧められた。それが1965年の芥川賞「玩具」になった。「商売敵に渡すなんて、えらい編集者がいるもんだと驚いた」
おしどり夫婦として知られた吉村を06年に亡くしたときもそう。小説が書けなくなり、お遍路に出てからしばらくして、「そろそろいいのではないか」と背中を押してくれた。先立たれた者の痛切な思いが伝わる私小説「遍路みち」「紅梅」を書けたのも編集者がいてこそだった。
人生のモットーは「転んでもただじゃ起きない」。いまでも背筋をピンと伸ばし、60年前から続けているヨガの教室に週1回、歩いて通う。
「もう日常の随想しか書けないけれど、少しでも読者の参考になればいいですね」
吉村昭氏との夫婦同業ぶりは、光太郎智恵子にも通じる部分があり、津村氏ご自身、そういう思いで書かれたようです。そして吉村氏に先立たれ、あたかも逆智恵子抄的な感じになったところも。編集者の方が背中を押して下さり、再び描く意欲が……というエピソードには、光太郎に『智恵子抄』出版を強く勧めた龍星閣の澤田伊四郎を連想させられました。
『智恵子飛ぶ』は、平成12年(2000)には新橋演舞場、翌年には京都南座で舞台化されました。智恵子役は共に片岡京子さん、光太郎役は、東京公演が故・平幹二朗さん、京都公演で近藤正臣さんでした。
片岡さんのお父さま・仁左衛門氏は先頃文化勲章を受章されましたが、津村氏は平成28年(2016)には文化功労者に選ばれています。それに続いての旭日中綬章、まことにおめでとうございます。
97歳とのことですが、まだまだお元気で、と祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
かぶりついて仕事せよ。
この一節、後に『智恵子抄』にも収められた光太郎短歌「ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子」(大正13年=1924)の源流を見るような気がしています。
津村氏、そして亡くなった逸見氏、共に「かぶりついて仕事」なさってきたこれまでのような気もします。
おしどり夫婦として知られた吉村を06年に亡くしたときもそう。小説が書けなくなり、お遍路に出てからしばらくして、「そろそろいいのではないか」と背中を押してくれた。先立たれた者の痛切な思いが伝わる私小説「遍路みち」「紅梅」を書けたのも編集者がいてこそだった。
人生のモットーは「転んでもただじゃ起きない」。いまでも背筋をピンと伸ばし、60年前から続けているヨガの教室に週1回、歩いて通う。
「もう日常の随想しか書けないけれど、少しでも読者の参考になればいいですね」
吉村昭氏との夫婦同業ぶりは、光太郎智恵子にも通じる部分があり、津村氏ご自身、そういう思いで書かれたようです。そして吉村氏に先立たれ、あたかも逆智恵子抄的な感じになったところも。編集者の方が背中を押して下さり、再び描く意欲が……というエピソードには、光太郎に『智恵子抄』出版を強く勧めた龍星閣の澤田伊四郎を連想させられました。
『智恵子飛ぶ』は、平成12年(2000)には新橋演舞場、翌年には京都南座で舞台化されました。智恵子役は共に片岡京子さん、光太郎役は、東京公演が故・平幹二朗さん、京都公演で近藤正臣さんでした。
片岡さんのお父さま・仁左衛門氏は先頃文化勲章を受章されましたが、津村氏は平成28年(2016)には文化功労者に選ばれています。それに続いての旭日中綬章、まことにおめでとうございます。
97歳とのことですが、まだまだお元気で、と祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
かぶりついて仕事せよ。
光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃
この一節、後に『智恵子抄』にも収められた光太郎短歌「ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子」(大正13年=1924)の源流を見るような気がしています。
津村氏、そして亡くなった逸見氏、共に「かぶりついて仕事」なさってきたこれまでのような気もします。





































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今年で没後100年になる文豪、森鷗外(1862~1922)あての書簡約400点が、まとまった形で見つかった。出身地の島根県津和野町にある町立森鷗外記念館が4日発表した。差出人は夏目漱石や与謝野晶子、石川啄木、岡倉天心ら、明治・大正期に活躍したそうそうたる面々。鷗外の交友関係の幅広さを物語る貴重な発見という。
