現在、「春の特別展 実篤の肖像」を開催中の調布市武者小路実篤記念館につき、『東京新聞』さんが大きく取り上げました。光太郎にも触れて下さいました。特別展のレポートと言うよりは、館自体の紹介です。毎月第4木曜に掲載の、「首都圏の文学館を訪ね、作家や作品にゆかりのある場所を巡」る、「本を読もう、街に出よう」という連載です。
「君は君 我(われ)は我也(なり) されど仲よき」
「人見るもよし 人見ざるもよし 我は咲く也」
ひと昔前に旅館や食堂で、そんな言葉とカボチャや可憐(かれん)な花の挿絵が入った色紙をよく見かけた。今月、生誕140年を迎えた武者小路実篤だ。味のある文字と、身近な野菜や植物を題材にした素朴な画風は多くの人に親しまれてきた。
作家として成功する逸材は幼少期に学業優秀であることが多いが、実篤は例外。しかも、作文と図画が苦手だった。ところが10代後半にロシアの文豪、トルストイに影響を受け、夏目漱石を愛読するようになり、「社会に影響力のある作家になろう」と決意した。
絵を描きはじめたのは38歳と遅い。生まれたばかりの長女がかわいく、絵心のある妻が娘をサラサラと描く姿を見て「私も描こう」。スケッチや淡彩画、そして油絵も独学で身に付けた。子や孫に「やりたいことを見つけて、頑張って続けよう」と諭した。それを自ら心掛けていたのだろう。
「理想的社会」と題した評論で、その柱を「長生き」「個性を発揮出来る」「喜びを感じて生きられる」とした。人権の尊重や愛、友情―と人間社会に理想を求めたロマンチストだったようだ。実篤が中心となって創刊した雑誌「白樺(しらかば)」を愛読した作家、芥川龍之介は彼を「道徳的天才」と呼んだ。詩人、高村光太郎は実篤作品に触れると「おのずと明るくなり、人間を肯定しなければならなくなってくる」と話していた。
白樺が成功した実篤は「人間らしく生活できる理想郷」をつくろうとした。1918年、宮崎県木城村(現・木城町)に「新しき村」を開村。出自に関係なく平等に農耕し、芸術や演劇などの活動を通じて自由で文化的な共同体を目指した。自身も6年間暮らし、農作業の傍ら小説を書き、今も版を重ねるロングセラー「友情」を発表。実篤の経済的支援もあって最盛期に村民は50人を超えた。その後、ダム建設で水没することになり、1939年に埼玉県毛呂山町に新設された村に一部の村民が移転。村民は減ったが、今も理念は受け継がれている。
その活動を、白樺の同人だった作家、有島武郎は「失敗にせよ成功にせよあなた方の企ては成功です。それが来るべき新しい時代の礎になる事に於(おい)ては同じです」と評価していた。
実篤の人物像に触れるこんな逸話がある。1939年に発表した「愛と死」で将来を誓い合った2人の悲恋を描いた。同作に取り組んだのはその2年前に日中戦争が勃発し、徴兵されて戦死した多くの若者たちがいたからだ。戦時色が強まる中、実篤は「愛する人を失う人の気持ちを書こう」と机に向かい、気持ちが高ぶっては落涙した。涙の跡がある原稿が今も残っている。
実篤は55年に現在の調布市若葉町に転居し、76年に90歳で亡くなった。邸宅と庭は同市に寄贈されて実篤公園となり、武者小路実篤記念館も建てられた。特別展「実篤の肖像」を開催している同館の学芸員、佐藤杏さんは「ワークライフバランスといった言葉がない時代に実篤は働き方改革を進め、人間性豊かな社会をつくろうとした。前向きに、正直に生きた実篤の作品や名言は、格差や貧困が問題となっている今こそ味わい深い」と話す。
特別展は6月8日まで。原則月曜休館。敷地内の旧実篤邸は週末と祝日に公開。
武者小路実篤 むしゃこうじ・さねあつ
1885年、東京生まれ。華族の家系で2歳の時に父が結核で死去。学習院高等学科を卒業した1906年に東京帝国大哲学科入学。その後中退し、学習院時代の同級生、志賀直哉らと1910年に雑誌「白樺」を創刊。人間賛美を理想とする白樺派の中心人物に。51年、文化勲章受章。代表作に「お目でたき人」「真理先生」「一人の男」など。

埴輪の持つ素朴で原始的な美を「明るく、清らかで、単純で、惑うところのないこの美」と述べ、文芸の分野でも自らも同人に近い位置にいた白樺派が台頭した頃、「埴輪的性格がまだもどつて来た」とし、「武者さんが現われたからであり、武者さんは埴輪の美を、造型ではなく身につけたものとして我が国に現われたのである。我が国本来の姿が、ここに始めて立還つたと言つても過言ではなかつたのである」と続けています。その後、『東京新聞』さんに引用された箇所を含む次の一節。
武者さんから沁み出るものを感取していると、人は自ずと明るくなり、人間を肯定しなければならなくなって来る。大きな考えでものを包み込んでしまうから、武者さんには小さないざこざが起らないのである。
その後も延々と武者を手放しで賞讃しています。
光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居中も、山小屋に武者の色紙を飾っていました。
いずれの写真にも左上に写っています。
ついでというと何ですが、武者からの光太郎評も。
高村光太郎君が日本に居てくれることは何となく嬉しい。滅多に逢はないし、作品も彫刻の方は暫く見ない。しかし高村君が居ることは何となく信頼が出来る感じだ。
個人としてはこの頃少しも逢はない。訪問したい気はあるのだが、遠いのと、何かと用があつて、時間が足りないので、高村君の所までゆく閑がないが、しかしいくら逢はないでも、生きてゐてくれるだけで嬉しいのだ。珍らしい存在である。
(略)
僕は高村君の木彫に一番愛着をもつてゐる。
(略)
しかしそれ等以上に、人間が好きだと言つていゝと思ふ。要領を得ない感じがよく、何んでも言つて、わかつてもらへさうな気がする。実に気らくに本気な話の出来る人である。又常に夢みてゐる人で、その夢が実に面白い。
高村君が当時の日本の彫刻界の事を実に痛快に罵倒した評論を読み、胸のすく思ひをしたのは事実で、あんな痛快な批評はなかつたと思つてゐます。荻原碌山だけは認めて居たと思ひますが。それが痛快すぎて、たうとう高村君は彫刻の方では芸術院会員になれなくなつたのではないかと僕は思つてゐるのですが、事実かどうかは知りません。何しろ痛快なものでした。
白樺でロダン号を出す時、勿論高村君に原稿をたのみ、承諾を得ていゝ原稿をもらつて喜びました。
当時僕はよく高村君のアトリエを訪問しました。高村君は作品を見せようと自分の方からはしない人なので、僕は勝手に許しを得てまいてある布をほどいて見たものです。それが僕の特権でもあるやうに思つて、言ひたい事を言つて、仕事を大いにするやうにすゝめたと思ひます。
長期間にわたって頻繁に会っていたというわけではない二人ですが、お互いにお互いを信頼し、敬愛していたのがよく分かりますね。
そんなわけで、調布市武者小路実篤記念館さん、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
高藤は雑誌『言語生活』主幹。その原稿依頼に対する断りの返信です。若い頃からの夏場は電池切れになる性向(笑)は、最晩年まで続いたようです。
1885年、東京生まれ。華族の家系で2歳の時に父が結核で死去。学習院高等学科を卒業した1906年に東京帝国大哲学科入学。その後中退し、学習院時代の同級生、志賀直哉らと1910年に雑誌「白樺」を創刊。人間賛美を理想とする白樺派の中心人物に。51年、文化勲章受章。代表作に「お目でたき人」「真理先生」「一人の男」など。
左:武者小路実篤 右:ロビーに展示されている実篤の手形のレリーフ
自伝小説「一人の男」の自筆原稿も展示
緑豊かな実篤公園にある武者小路実篤の銅像
展示されている武者小路実篤の書画
晩年を過ごした邸宅の隣接地にある武者小路実篤記念館
引用されている光太郎の武者評は、光太郎最晩年の昭和30年(1955)、雑誌『文芸』第12巻第12号に載った「埴輪の美と武者小路氏」の一節です。ちなみに『文芸』のこの号は、昨年、竹橋の東京国立近代美術館さんで開催された「ハニワと土偶の近代」で、そのページを拡げて展示されました。

武者さんから沁み出るものを感取していると、人は自ずと明るくなり、人間を肯定しなければならなくなって来る。大きな考えでものを包み込んでしまうから、武者さんには小さないざこざが起らないのである。
その後も延々と武者を手放しで賞讃しています。
光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居中も、山小屋に武者の色紙を飾っていました。

ついでというと何ですが、武者からの光太郎評も。
高村光太郎君が日本に居てくれることは何となく嬉しい。滅多に逢はないし、作品も彫刻の方は暫く見ない。しかし高村君が居ることは何となく信頼が出来る感じだ。
個人としてはこの頃少しも逢はない。訪問したい気はあるのだが、遠いのと、何かと用があつて、時間が足りないので、高村君の所までゆく閑がないが、しかしいくら逢はないでも、生きてゐてくれるだけで嬉しいのだ。珍らしい存在である。
(略)
僕は高村君の木彫に一番愛着をもつてゐる。
(略)
しかしそれ等以上に、人間が好きだと言つていゝと思ふ。要領を得ない感じがよく、何んでも言つて、わかつてもらへさうな気がする。実に気らくに本気な話の出来る人である。又常に夢みてゐる人で、その夢が実に面白い。
(「高村光太郎君に就て」 昭和16年=1941 雑誌『道統』第4巻第9号)
高村君が当時の日本の彫刻界の事を実に痛快に罵倒した評論を読み、胸のすく思ひをしたのは事実で、あんな痛快な批評はなかつたと思つてゐます。荻原碌山だけは認めて居たと思ひますが。それが痛快すぎて、たうとう高村君は彫刻の方では芸術院会員になれなくなつたのではないかと僕は思つてゐるのですが、事実かどうかは知りません。何しろ痛快なものでした。
白樺でロダン号を出す時、勿論高村君に原稿をたのみ、承諾を得ていゝ原稿をもらつて喜びました。
当時僕はよく高村君のアトリエを訪問しました。高村君は作品を見せようと自分の方からはしない人なので、僕は勝手に許しを得てまいてある布をほどいて見たものです。それが僕の特権でもあるやうに思つて、言ひたい事を言つて、仕事を大いにするやうにすゝめたと思ひます。
(「白樺と高村君」 昭和31年=1956 雑誌『文芸』臨時増刊号『高村光太郎読本』)

そんなわけで、調布市武者小路実篤記念館さん、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
おハガキいただきましたがやはり秋冷の頃までは覚束なく、まるでダメとお思ひください。今、暑さで閉口、とても出来さうもありません。
昭和28年(1953)7月28日 高藤武馬宛書簡より 光太郎71歳
高藤は雑誌『言語生活』主幹。その原稿依頼に対する断りの返信です。若い頃からの夏場は電池切れになる性向(笑)は、最晩年まで続いたようです。