一昨日、昨日と、新聞報道について書きましたので、今日もその流れで。
光雲、光太郎の名がちらっと出た記事をご紹介します。
まず、『産経新聞』さん。
22日の文化面、「【自作再訪】 澄川喜一さん「そりのあるかたち」 錦帯橋の美しさに惚れ込んで」という記事。
元東京芸術大学学長で東京スカイツリーのデザイン監修者として知られる彫刻家、澄川喜一さん(84)。47歳のときに誕生した代表作「そりのあるかたち」は、ライフワークとして取り組んできたシリーズだ。反った曲線が特徴の抽象彫刻は、どこか懐かしく親しみがある。代表作誕生の背景には、日本の伝統文化が深く関わっている。
と始まり、昭和53年(1978)、平櫛田中賞を受賞した抽象彫刻「そりのあるかたち」についての話、さらに岩国の錦帯橋、法隆寺の五重塔、東京スカイツリーなどの古今の造型に触れています。
その中で、光雲が主任となって原型が作られた、上野の西郷隆盛像にも言及されました。
公共の場には、周囲の環境に合った作品を創らなければなりません。多くの人が目にするのですから、ひとりよがりの彫刻では駄目なんです。高村光雲は、東京の上野公園の西郷隆盛像を創りました。戦後、軍国主義を一掃するために軍人の銅像がことごとく撤去される中で、西郷さんは残りました。造形もさることながら着流しで犬を連れた庶民的な姿にしたアイデアも良かった。後世に残るものもあれば消えてしまうものもあります。彫刻家の社会に対する責任は重大です。
最後の一文、まさしくその通りですね。
『産経新聞』さん、翌日の教育面には、光太郎の名が。
インテリアデザイナーの小坂竜氏と、お父さんの彫刻家、故・小坂圭二氏を紹介する「父の教え 創作への情熱教わった師匠」という記事です。
故・小坂圭二氏は、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作に際し、光太郎の助手を務めた彫刻家です。
その圭二氏の紹介文で、光太郎が引き合いに出されています。
【プロフィル】小坂圭二
こさか・けいじ 大正7年、青森県生まれ。中国と南太平洋のラバウルで兵役に服す。昭和25年に東京芸術大彫刻科卒業。青山学院中等部の美術教師をしながら彫刻家として活躍。阿部合成や柳原義達らに師事し、高村光太郎の助手を務めた。74歳で死去。
同じくプロフィールの紹介で、光太郎を引き合いにしたのが、『京都新聞』さんの先週の記事。陶芸家バーナード・リーチに関連する記事でした。
東西陶工の縁、百年越え 京都・宇治の一族、リーチ工房に
20世紀を代表する陶芸家の1人、バーナード・リーチ(1887〜1979年)の母国・英国の工房で登り窯を造った京都・宇治の陶工の一族がこの春、リーチの工房で新たな作陶に挑んだ。近代陶芸の礎を築いた巨匠の工房で、約100年の時を経て再び生み出された東西の美の結晶が27日から京都市内で展示される。
英国で陶芸に取り組んだのは、宇治で代々続く窯元「朝日焼」の次期当主、松林佑典さん(34)。リーチの工房を支えた陶工松林靏(つる)之助(1894〜1932年)は、13代当主だった曽祖父の弟にあたる。
靏之助は京都市立陶磁器試験場付属伝習所(現・京都市産業技術研究所)で、後の人間国宝、濱田庄司らに師事。1922年、28歳で英国留学した。リーチと濱田は英南西部セントアイブスで工房を開いたが窯が壊れ、靏之助に窯の築造を依頼した。靏之助は半年がかりで日本式登り窯を造り、京都の陶芸の知識をリーチの弟子たちに教えた。窯は半世紀にわたり使われ、世界で評価される多数の作品が生まれた。
靏之助は25年に帰国後、38歳の若さで亡くなり、ほぼ無名の陶工だった。京都女子大の前?信也准教授(日本工芸史)が大英博物館で靏之助の茶碗を発見したことから、近年に研究が進んだ。前?准教授は「靏之助がいなければ、今日、私たちの知るリーチはなかった」と高く評価する。
今年3〜4月の約1カ月間、リーチの工房に滞在した佑典さんは、今も工房の道具が日本由来だったり、釉薬(ゆうやく)の名前が日本語だったりして驚いたという。100年前の姿が残る石造りの工房で、宇治と英国の土を混ぜ、地層や年輪のような味わいのある茶碗など30点を制作した。「異質なものが混ざり合って多様なハーモニーが生まれる。東洋と西洋が交わる普遍的な美を目指した」と話す。
展示は京都市中京区衣棚通三条上ルの「ちおん舎」で、29日まで。入場無料。28日午後4時半から、前?准教授の講演会もある。朝日焼TEL0774(23)2511。
■バーナード・リーチ 英国の陶芸家。幼少期を日本で過ごし、英国に留学中の詩人高村光太郎と出会い、20代で版画家として再来日した。日用品に美を見いだす民芸運動を提唱した柳宗悦と親交が深く、在日中に陶芸にのめり込んだ。東西の美や哲学を融合した作品を発表した。
小坂圭二にせよ、バーナード・リーチにせよ、その紹介に縁の深かった光太郎が引き合いに出され、ありがたいかぎりです。「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうはいきません。そうならないように、光太郎の名を後世に残す活動に取り組み続けたいと思っています。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月29日
昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋を訪れた歌人の伊藤岩太郎の持参した画帖に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と揮毫しました。
伊藤は当時、岩手郡大更村(現・八幡平市)に住んでいました。その後、盛岡に居を構え、自宅の庭に先達の偉業を偲ぶとともに、自分の50年に及ぶ歌道精神の総決算の意味で石川啄木、若山牧水、長塚節、斎藤茂吉、木下利玄、北原白秋の歌碑を建立しました。
伊藤と光太郎のかかわりは、この日の日記にしか確認できませんが、もう少しいろいろあったように思われます。画帖の現物も確認できていません。今後の宿題とします。
「悠々たる……」はこの年に書かれた連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」にある「悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の変形。漢文調に語順を変え、送りがなを廃したバージョンの揮毫も複数存在します。
昭和23年(1948)、光太郎と交流のあった彫刻家・笹村草家人を介し、神田小川町の汁粉屋主人・有賀剛に贈ったと推定されるもの。
同じ頃、隣村に疎開していたチベット仏教学者・多田等観に贈ったもの。