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まず、信州から開催中の企画展示情報を。

昭和ノスタルジー展

期 日 : 2021年9月18日(土)~12月28日(火)
会 場 : 朝日美術館 長野県東筑摩郡朝日村大字古見1308
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般200円 高校・大学生100円 小中学生50円

あの頃に思いを馳せて…

朝日美術館収蔵品より懐かしい昭和の時代にいざなう品々をご紹介します。

オードリー・ヘプバーン、ソフィア・ローレンなど外国映画の主演女優たちが表紙を飾った『キネマ旬報』74点を初公開するほか、国鉄時代のディスカバー・ジャパン(個人旅行拡大キャンペーン)のため入江泰吉(写真家)らが撮影した迫力ある仏像写真を使った「奈良 大和路」ポスターなどを展示します。 

また、『智恵子抄』や『道程』を著した詩人で彫刻家の高村光太郎研究の第一人者として知られ、2020年に逝去された文芸評論家の北川太一氏が研究の傍らに取り組んだ版画作品16点もご紹介します。

このほか、昭和の時代から活躍されていた作家の絵画・彫刻・書もご覧いただけます。

どうぞノスタルジックな雰囲気をじっくり味わってください。
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当会顧問であらせられ、昨年亡くなった故・北川太一先生が、ご生前、趣味として取り組まれていた版画が展示されています。
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公式サイトにて紹介されているこちらの版画、今年4月刊行の『遺稿「デクノバウ」と「暗愚」 追悼/回想文集』の表紙を飾った作品ですね。

かつて安曇野の碌山美術館さんにお勤めだった千田敬一氏が、北川先生とご懇意で、現在も朝日美術館さんにいらっしゃるのでは、と思われます(違っていたらごめんなさい)。同館では、平成18年(2006)に「北川太一の世界」展として、やはり先生の版画、書などを根幹とした企画展をなさって下さいました。
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もう15年経ったか、と、感慨深いものがあります。

北川先生の版画といえば、当会で会報的に発行している『光太郎資料』。こちらの表紙も北川先生作の木版を写したものです。そもそも北川先生が、昭和35年(1960)に、筑摩書房『高村光太郎全集』の補遺等を旨として始められ、その後、様々な「資料」を掲載、平成5年(1993)、36集までを不定期に発行されていたもので、平成24年(2012)から名跡を引き継がせていただき、当会として年2回発行しております。

今号の内容は、以下の通りです。

・「光太郎遺珠」から 第二十回 音楽・映画・舞台芸術(その二)
筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類を、テーマ、時期別にまとめている中で、音楽・映画・舞台芸術に関する散文、雑纂、書簡等のうち、昭和期のものを集成しました。001
 書簡 太田花子宛 昭和2年(1927)
 アンケート 本年(昭和三年)の計画・希望など
  昭和3年(1928)
 詩 カジノ・フオリイはいいな 昭和5年(1930)
 散文 藻汐帖所感 昭和6年(1931)
 書簡 新井克輔宛 昭和25年(1950)
 雑纂 高村光太郎氏の話 昭和25年(1950)
 書簡 野末亀治宛 昭和27年(1952)頃


・光太郎回想・訪問記  座談会三人の智恵子 水谷八重子 原節子 新珠三千代 武智鉄二
これまであまり知られていない(と思われる)、光太郎回想文を載せているコーナーです。「「光太郎遺珠」から」を「音楽・映画・舞台芸術」としたので、光太郎の歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、「智恵子抄」二次創作が相次いで行われ、その関係者による座談会です。昭和32年(1957)6月1日『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。

司会は武智鉄二。新作能「智恵子抄」の演出を手掛けました。「三人の智恵子」は、初代水谷八重子さん、原節子さん、そして新珠三千代さん。それぞれ、新派の舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた方々です。

・光雲談話筆記集成 牙彫の趣味/聖徳太子御像に就いて 
光太郎の父・高村光雲は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)という長文の回顧録を一冊残していますが、それ以外にもさまざまなメディアに短文の回想を発表しています。それらも集成しておく必要があります。今回は、明治36年(1903)、雑誌『応用美術』第二巻第二十七号所収の「牙彫の趣味」、大正10年(1921)、雑誌『建築図案工芸』第七巻第五号所収の「聖徳太子御像に就いて」。聖徳太子像についてはこちら

昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 草津温泉(群馬県)
確認できている限り、光太郎は三回、草津を訪れています。その辺りの経緯をまとめました。右下の写真は、昭和8年(1933)、最後の草津訪問の際に泊まった望雲閣(建物は建て替わりましたが現存するホテルです)。心を病んだ智恵子の療養のためでした。
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・音楽・レコードに見る光太郎  「鳩」箕作秋吉
詩「鳩」は、明治44年(1911)の作。もともと歌曲の歌詞として作られたものではありませんが、作曲家・箕作秋吉が、昭和7年(1932)にこの詩に作曲し、翌年刊行の『世界音楽全集 第三十九巻 日本新歌曲集』(箕作秋吉編 春秋社)に発表しています。現在確認できている限り、光太郎詩に曲が付けられて発表された最も古い例で、そのあたりをまとめました。
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・高村光太郎初出索引(年代順)

・編集後記


B5判、全47ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(37集以降のバックナンバーも)。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

大村次信氏夫妻及服飾学院生徒15,6人ほど来訪 院長さん宅洋間にて談話。ひる頃まで、

昭和26年1月21日の日記より 光太郎69歳

滞在していた花巻病院長・佐藤隆房宅でのことです。

大村次信は、盛岡で現在も続く「オームラ洋裁教室」の創始者。「女啄木」と呼ばれた歌人・西塔幸子の弟です。

京都からコレクション展情報です。

モダンクラフトクロニクル―京都国立近代美術館コレクションより―

期 日 : 2021年7月9日(金)~8月22日(日)
会 場 : 京都国立近代美術館 京都市左京区岡崎円勝寺町26-1
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日、8月10日(火)*ただし8月9日(月・休)は開館
料 金 : 一般:1,200円(1,000円) 大学生:500円(400円)
      ( )内は20名以上の団体および夜間割引(金曜、土曜 午後5時以降)
       高校生以下・18歳未満は無料

1963年に開館した京都国立近代美術館は活動の柱の一つに工芸を置いており、国内有数の工芸コレクションを形成してきました。加えて、当館は「現代国際陶芸展」、「現代の陶芸―アメリカ・カナダ・メキシコと日本」、「今日の造形〈織〉-ヨーロッパと日本―」、「現代ガラスの美―ヨーロッパと日本―」など、折に触れて日本との比較の中で海外の工芸表現を紹介し、日本の美術・工芸界に大きな刺激を与えてきました。本展では、当館の工芸コレクションを用いて、これまでの当館の展覧会活動の一端を振り返るとともに、近代工芸の展開をご紹介いたします。

第1章 世界と出会う 起点としての京都国立近代美術館
第2章 四耕会、走泥社からクレイワーク、ファイバー・ワークへ
第3章 「美術」としての工芸 第 8回帝展前後から現在まで
第4章 古典の発見と伝統の創出
第5章 新興工芸の萌芽 自己表現としての工芸
第6章 図案の近代化 浅井忠と神坂雪佳を中心に
第7章 手わざの行方

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光太郎の父・光雲、それから実弟で鋳金分野の人間国宝だった髙村豊周の作品が出品されます。

まず、光雲。とういうか、旭玉山、石川光明、大谷光利、香川勝廣、加納鐡哉、加納夏雄、柴田是真との合作で「福禄封侯図飾棚」。光太郎が生まれた明治16年(1883)の作となっています。
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おそらく、上部の木彫部分を光雲が手がけているのでしょう。下の扉、鹿の部分は白いので、象牙。牙彫師の旭玉山によるものと思われます。

豊周の作はこちら。
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「蝋型朧銀筒形花生」。昭和38年(1963)の作です。

他に、光雲、光太郎等と交流の深かった人物の作品も多数。バーナード・リーチ、藤井達吉、津田青楓、山本安曇など。

コロナ感染にはお気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝太田中学校の生徒等箒作りに大挙してくる。中学の教師二人立寄られ、一時間ほど談話。青年教師は東京に二十年もゐた由。又女教師さんは福島須賀川の人 東京にゐて今度岩手にはじめて来られし由。


昭和23年(1948)4月9日の日記より 光太郎66歳

新年度早々、山で箒(ほうき)作りというのが笑えます。先生はともかく、生徒さんの中にはまだご存命の方も多いような気もします。

012先月、南青山の銕仙会能楽研修所さんで、山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見、拝聴しました。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞「新作能 智恵子抄」が抜粋連吟で演じられたもので。

その前後、「新作能 智恵子抄」についていろいろ調べている中で、能楽評論家の堀上謙氏著『能面変妖』(平成4年=1992 朝日新聞社という書籍に、写真が載っているという情報を得、古書店から購入しました。刊行当時の定価で5,100円もした豪華本です。帯が欠けているのと、背ヤケがあり、1,500円ほどで入手できました。

130ページあまりがカラー版で、古典から新作まで、さまざまな能面を種類別に取り上げ、面、それから演目の解説が為されています。工芸としての能面の持つ妖しい魅力に打たれます。

「新作能 智恵子抄」の面の写真、見開き2ページにわたり、ドーンと掲載されていました。分類上は「若女」面になるそうで。
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ボキャブラリーが少ないもので、陳腐な表現になり申し訳ありませんが、「幽玄」感が半端ないですね。

いつ、何処での撮影、というキャプション等がなかったのですが、演者は観世流・梅若晋矢氏。平成9年(1997)7月24日、赤坂日枝神社で行われた「日枝神社薪能」の中で「新作能 智恵子抄」が演じられた記録があり、その際に梅若氏が智恵子役をなさいましたが、本書の刊行はそれより前ですので、他の機会ということになります。
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解説がこちら。平成4年(1992)時点では、能としての上演は初演の昭和32年(1957)のみで、ダイジェスト版の「舞囃子」としてはたびたび上演されていたとのこと。したがって上記写真は、いずれかの機会で舞囃子として演じられた際のもの、ということになります。

「新作能 智恵子抄」制作に際し、多大な影響を与えたのが、古典の「安達ヶ原」(「黒塚」とも)。智恵子故郷の二本松に伝わる鬼女伝説が元となっています。今年4月に、NHK Eテレさんでオンエアされた「にっぽんの芸能 人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」で、面を付けない「素踊り」としての上演が放映されました。で、『能面変妖』。本来の面の写真も。
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まさに「鬼気迫る」ですね。特に完璧モンスターである上の「般若」より、下の「痩女」の方。夢に出て来そうです(笑)。演者はどちらも故・観世栄夫氏。昭和32年(1957)の「新作能 智恵子抄」初演で光太郎を演じた故・観世寿夫氏の実弟です。

こうなると、「安達ヶ原」、それからもちろん「新作能 智恵子抄」も、ちゃんとした形で観てみたいものだと思いました。そうした機会が訪れることを期待します。

今日は、都内六本木の新国立美術館さんにて、書道展「第40回日本教育書道藝術院同人書作展」を拝見して参ります。光太郎詩を書かれた作品が複数出ている、という耳寄りな情報を得ました。明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

今日、大沢温泉にゆかんと思ひしが昨夜の吹雪の為に中止。雪つもれると、まだ降雪中にて電車不便の疑あり。 枕下に雪つもる。


昭和23年(1948)2月2日の日記より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から大沢温泉に行くには、4㌔㍍ほど歩いて、当時走っていた花巻電鉄の二ツ堰駅、または神明前駅から乗車、6㌔㍍ほど山道を揺られる必要がありました。

『読売新聞』さんの和歌山版から。

県立近代美術館50周年 コレクションの名品 <13>江戸の粋 版画にとどめ

002 画面中央に涼しげな表情をした着物姿の女性が立つ。髪に手をやり、鏡の前で身だしなみを整えている姿だろうか。背景には水路沿いの風景が、枠の中に表される。
 タイトルの「よし町」は江戸時代から続く東京の花街のひとつ。本作は、花街の女性と東京の風景を組み合わせた連作「東京十二景」のうち、最初に刊行された作品である。
 この連作は、明治時代に入り江戸の文物が失われゆくなか、浮世絵の伝統の衰退が見るに忍びない、として刊行が企画された。風情ある町に電柱が立ち並ぶ風景は、「江戸」から「東京」への移りかわりを象徴している。
 絵は石井柏亭(はくてい)(1882~1958年)が描くが、木版に起こしたのは、超絶技巧を持つ彫師の伊上(いがみ)凡骨(1875~1933年)。絵師と彫師の共作が作品の質を高めている。版元、つまり刊行を手がけたのは高村光太郎(1883~1956年)が開いた日本最初の画廊、琅玕洞(ろうかんろう)であった。
 描かれた女性は、柏亭と馴染みであった芸妓の「五郎丸」。絵からも凜(りん)とした美しさが伝わる。本作完成後、柏亭は渡欧するが、長く会えなくなる画家に対し、彼女は餞別(せんべつ)としてパレットナイフを贈った。
 画家が日々使う道具であり、ナイフと言いながら「切れない」ものであるから選んだのだという。そんな 艶(つや)やかなエピソードもまた、江戸の粋を示している。
 現在開催中の「もうひとつの世界」展で紹介している。

琅玕洞」は「ろうかんろう」ではなく「ろうかんどう」なのですが、ま、仕方ありますまい。前年に欧米留学から帰朝した光太郎が、明治43年(1910)に、自らの生活のため、また、志を同じくする芸術家仲間の作品を世に知らしめるため、神田淡路町に開いた日本初といわれる本格的画廊です。名前の由来は、アンデルセン作・森鷗外訳『即興詩人』の中に出てくるイタリア・カプリ島の観光名所から。これは現在では「青の洞窟」というのが一般的です。
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琅玕洞では、光太郎と親しかった柳敬助や斎藤与里、浜田葆光などの個展を開催したり、やはり交流のあった与謝野晶子の短冊や、工芸家・藤井達吉の作品などを販売したりましたが、経営的にはまるで成り立たず、わずか1年で画家の大槻弍雄(つぐお)に譲渡されます。光太郎は北海道に渡り、酪農のかたわら、彫刻や絵画を制作する生活を考えました。ただ、実際に札幌郊外の月寒まで行ってみたものの、少しの資本ではどうにもならないと知り、すぐにすごすごと帰京しています。琅玕洞パリ支店、という構想もあったのですが、当然、果たせませんでした。
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光太郎のエッセイ「ヒウザン会とパンの会」(昭和11年=1936)から。

 私が神田の小川町に琅玕洞と言ふギヤラリーを開いたのもその頃のことで、家賃は三十円位、緑色の鮮かな壁紙を貼り、洋画や彫刻や工芸品を陳列したのであるが、一種の権威を持つて、陳列品は総て私の見識によつて充分に吟味したもののみであつた。
 店番は私の弟に任し切りであつたが、店で一番よく売れたのは、当時の文壇、画壇諸名家の短冊で、一枚一円で飛ぶやうな売れ行きであつた。これは総て私たちの飲み代となつた。
 私はこの琅玕洞で気に入つた画家の個展を屡開催した。(勿論手数料も会場費も取らず、売り上げの総ては作家に進呈した。)中でも評判のよかつたのは岸田劉生、柳敬助、正宗得三郎、津田青楓諸氏の個展であつた。

007琅玕洞の出納簿的なものが残っており、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』別巻に、資料として掲載されています。

その中に、記事で紹介されている石井柏亭の版画「東京十二景」に関しても、記述があります。まず明治43年(1910)、柏亭に、「よし町」200枚の仕入れ代金として25円支払ったことから始まり、何枚売れたとか何枚追加で仕入れたとか。木下杢太郎、水野葉舟、柳敬助ら、親しい面々には進呈しています。武者小路実篤は、「進呈」の文字が二重線で消されており、購入してくれたようです。続いて、同じ「東京十二景」中の「柳ばし」に関しても、同様の記述。

「東京十二景」は、この後、柏亭の渡欧によって中断し、大正4年(1915)から再開します。しかし、7点が追加されたところで終わり、「十二景」には届きませんでした。

「よし町」と「柳ばし」、確かに光太郎の琅玕洞で販売されましたが、記事にある「版元」という語はちょっと引っかかるかな、という感じはします。「版元」というと、写楽や歌麿らに対する蔦屋重三郎というイメージで、販売だけでなく、プロデュースも手がけていた感じです。光太郎はそこまでは行わず、単に販売に手を貸した、というだけのように思われます。蔦重のように、「琅玕洞」のロゴを入れることもありませんでしたし。

石井柏亭、光太郎より一つ年長の画家です。芸術運動「パンの会」などを通じ、光太郎とは親しく交流しました。いわゆる「地方色論争」で光太郎とやり合い、その過程で光太郎による「日本初の印象派宣言」とも言われる評論「緑色の太陽」が書かれました。そういう意味では「論敵」ではあったものの、「仇敵」ではありませんでした。柏亭の弟の彫刻家・石井鶴三も、後年まで光太郎と交流を続けています。

「よし町」の彫師、伊上凡骨も、光太郎と親しかった人物です。「パンの会」会場の一つだった、鎧橋のメイゾン鴻乃巣のメニューは、光太郎が絵を描き、凡骨が彫っています。

明治37年(1904)には、柏亭、凡骨、光太郎、その他新詩社の面々で上州赤城山登山。
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左から、大井蒼梧、与謝野鉄幹、凡骨、光太郎、柏亭、平野万里です。また、写真は確認できていませんが、三人は大正10年(1921)の新詩社房州旅行でも同道しています。

さらに言うなら、明治38年(1905)に開催された「第一回新詩社演劇会」で、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演され、柏亭、凡骨ともに出演しています。

ここまで書いて、「あ、詩の中にも柏亭と凡骨が登場したっけな」と思いだし、調べてみました。明治43年(1910)の「PRÉSENTATION」という詩で、「パンの会」の狂騒を描いた作品です。長い詩なので、最初の三分の一ほどのみ引用します。

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パンの提灯が酒壺から吹く風に揺れて、
ゆらりと動き、はらりと動く。
バルガモオの匂と、巴旦杏の匂と、
ヘリオトロオプと、ポムペイア。
味噌歯の雛妓(おしやく)が四人(よつたり)、
足を揃へて、声を揃へて、
えい、えい、ええいやさ、
と踊れば、
久菊も、五郎丸も、凡骨も、猿之助も、010
真つ赤になつて酔うたり。
歓楽の鬼や、刺青や、河内屋与兵衛や、
百円の無尽や、
生の種や、
郷土色彩(ロオカルカラア)や、坐せる女や、
綴れの錦か、ゴブランの絨毯か、
織られたり、とんからりと。

すると、これまで気がつかないでスルーしていたのですが、「五郎丸」。柏亭の「よし町」のモデルです。「おお!」という感じでした。

凡骨は「凡骨」、柏亭は「郷土色彩(ロオカルカラア)」。いわゆる「地方色論争」で、柏亭が、絵画では日本固有の色彩(地方色)を使用すべきだ、と論じたことを茶化しての表現です。ちなみに「歓楽の鬼」は長田秀雄、「刺青」は谷崎潤一郎、「河内屋与兵衛」は吉井勇です。

「古き良き時代」という感じですね。

【折々のことば・光太郎】

大正屋にてニンニク等、他にてリユツクサツク(吹張町の洋品店)バケツ等(鍛治町店)など買ひ、二時三十一分西花巻発の電車にてかへる。


昭和23年(1948)1月31日の日記より 光太郎66歳

久しぶりに花巻町中心街に出て、買い物をした記録です。蟄居生活を送っていた郊外太田村では、こんなものもなかなか入手できませんでした。

昨日もちらっとご紹介しましたが、都内北区の田端文士村記念館さんでの展示です。

心豊かな田端の芸術家たち

期 日 : 2021年6月1日(火)~9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日と水曜日が休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土・日曜日の場合は翌週火曜日が休館)
料 金 : 無料

田端は、明治中期より若い芸術家たちが集うようになり、やがて“芸術家村” を形成しました。「創作」と「生活」という二つの環境を共有した芸術家たちの間には、絵画・彫刻など、表現方法の枠を超え、豊かな交流が育まれていきます。
本展では、田端ゆかりの芸術家たちが生み出した作品の数々と、田端での暮らしぶりについてご紹介します。
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田端は、光太郎の住居兼アトリエのあった駒込林町にほど近く、光太郎や父・光雲らゆかりの人物が多数居住していました。そのうち、主に美術方面の人々の交友関係等に着目した展示のようです。

フライヤーの人物相関図にある人々と、光太郎等との関わりを簡略に記すと、以下の通り。

石井柏亭(明15=1882~昭33=1958)
画家。光太郎とは「パンの会」などで親しく交流。明治期、「地方色」のあり方を巡って光太郎と論争、光太郎が「日本初の印象派宣言」と言われる評論「緑色の太陽」(明43=1910)を書くきっかけを作りました。

石井鶴三(明20=1887~昭48=1973)
彫刻家。柏亭の弟。戦後、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れています。信州安曇野の碌山美術館開館に向け、光太郎の協力を仰ぎました。

小穴隆一(明27=1894~昭41=1966)
画家。どういったつながりがあったのか不明なのですが、光太郎から小穴あての書簡(昭和21年=1946)一通が、『高村光太郎全集』に収録されています。その時期、小穴も岩手に疎開していたようです。小穴は芥川龍之介著作の装幀で有名ですが、宮沢賢治著書の挿画も手がけており、あるいはそういった関係かもしれません。

小杉放菴(明14=1881~昭39=1964)
画家。彫刻も行い、大町桂月・武田千代三郎・小笠原耕一の「十和田の三恩人」顕彰のために作られた光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称乙女の像)」(昭27=1952)制作に先立ち、十和田湖に近い蔦沼の薬師堂の本尊薬師如来像(光太郎も拝観)、大町桂月像を制作しました。大正11年(1922)には、大町桂月に伴われて十和田湖周辺を歩いています。

村山槐多(明29=1896~大8=1919)
画家。光太郎はその特異な才能に注目し、「火だるま槐多」と称しました。

山本鼎(明15=1882~昭21=1946)
版画家。村山槐多の従兄。東京美術学校卒。新詩社、パンの会、琅玕洞などで光太郎と縁。母は光太郎の朋友・北原白秋の妹。

南薫造(明16=1883~昭25=1950)
画家。東京美術学校西洋画科卒。明治末、ロンドンで共に留学生仲間だった光太郎と親しく交わりました。

板谷波山(明5=1872~昭38=1963)
陶芸家。東京美術学校彫刻科卒。在学中、光雲に師事しました。

香取秀真(明7=1874~昭29=1954)
鋳金家。光太郎の実弟・豊周の師です。

香取正彦(明32=1899~昭63=1988)
鋳金家。秀真の子息。豊周の盟友。豊周と共に日本鋳金家協会を立ち上げました。

建畠大夢(明13=1880~昭17=1942)
彫刻家。京都市立美術工芸学校を経て東京美術学校彫刻科に編入し、光太郎と面識がありました。

建畠覚造(大8=1919~平18=2006)
彫刻家。大夢の長男。東京美術学校彫刻科卒。昭和47年(1972)、最後の高村光太郎賞を受賞しました。

とりあえず、人物相関図にある人々と光太郎一族の関わりで、思いつくのはこんなところです。精査すればまだあるかもしれませんが。

また、今回は造型美術方面の人々にスポットを当てているので、相関図にはありませんが、室生犀星、萩原朔太郎、平塚らいてうなども田端文士村の一員で、光太郎と関わった面々です。彼等は常設展示等で詳しく紹介されているのでしょう。

東京都の緊急事態宣言、どうも延長の方向だそうで、この展示もどうなるか未定ですが、一応、紹介しておきました。

【折々のことば・光太郎】

夕方弘さんタバコ葉持参、もらふ。


昭和22年(1947)11月2日の日記より 光太郎65歳

「弘さん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入植した青年。「タバコ」は配給でしょうか。あるいは「葉」とあるので、製品化されていない葉っぱでしょうか。そうだとすると違法行為ですが、戦後の混乱期、そういったことがあったかもしれません。

光太郎、喫煙を始めた年齢は早くありませんし(40代?)、最終的にはやめていますので大好きとかヘビースモーカーではありませんでした。それでもキセルやパイプに火を付けているところの写真が残っていたりします。

過日ご紹介しました、青森空港に新たに設置の巨大ステンドグラス「青の森へ」が除幕されました。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」もあしらわれています。

青森の地方紙『東奥日報』さんの記事。

幅11メートル 青森空港に大型ステンドグラス

 日本交通文化協会(東京)と青森空港ビルは、青森市の同ビル1階ロビーに三沢市出身のアートディレクター森本千絵さん(44)=東京都在住=が原画・監修を手掛けた大型ステンドグラス「青の森へ」を設置し24日、現地で完成披露除幕式を開いた。
 完成した作品は縦2.4メートル、横11.4メートル。ガラスは約3200ピースにも及び、85色を使い分け、中でもこだわりの青系統は25色を使った。新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言が発令されていた昨年春、森本さんは約3カ月をかけ、青森ねぶた祭のねぶたやハネト、リンゴ、こけし、十和田湖、奥入瀬の風景など青森県の風物詩を描いた原画を完成させた。
 この原画を基に、静岡県熱海市のクレアーレ熱海ゆがわら工房の職人6人が、昨年5月から半年以上をかけて作品を仕上げた。
 除幕式で三村申吾知事は「(コロナ収束後)いずれ全国、世界から訪れるたくさんの方を出迎えるシンボルとして親しまれれば」とあいさつ。
 森本さんは式典後の取材に「緊急事態宣言のさなか、ねぶたに行けない悲しさから、おはやしやねぶた祭りの動画や音楽をアトリエに響かせ、跳ねながら原画を描いていた。このような状況でなければ、これほど情熱的に絵に思いをぶつけることはなかった」と制作を振り返った。
 地域活性化や観光振興を目的に、地元に縁がある作家のアート作品を空港や駅などに設置する日本交通文化協会の事業の一環。日本宝くじ協会が助成した。森本さんは2019年の第4回東奥文化選奨受賞者。
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同じく『デーリー東北』さん。

青森空港に大型ステンドグラス 三沢出身の森本さん、光とガラスで青森表現

 三沢市出身のアートディレクター森本千絵さんが原画と監修を手掛けた大型ステンドグラス作品「青の森 へ」が24日、青森空港旅客ターミナルビル1階ロビーにお目見えした。作品には奥入瀬渓流の流れや、青森ねぶた祭で躍動するハネトなどが多彩な色彩のガラスで描かれている。森本さんは「季節ごとに変わる光の表情を楽しんで」とPRしている。
 全国の駅や空港、公共施設などでアートの普及を進める日本交通文化協会(本部・東京)が企画し、森本さんに依頼。日本宝くじ協会が助成し、青森空港ビルに作品が寄贈された。
 作品は縦2・4メートル、横11・4メートルの大きさ。森本さんの切り絵を基に、クレアーレ熱海ゆがわら工房(静岡県熱海市)の職人6人が約3200ピースのガラスを使い制作した。
 使われている色は全85色で、森本さんが特にこだわったのは青。微妙に色彩の異なる25色を巧みに使い分け、青森の自然や文化をきめ細やかに表現した。
 除幕式には森本さんをはじめ三村申吾知事、林哲夫青森空港ビル社長らが出席。三村知事は「青森への深い愛情と圧倒的なクオリティーに感激した」と褒めたたえた。
 制作に携わったこの10カ月間、新型コロナウイルスの影響で恒例だった里帰りがかなわなかったという森本さん。望郷の思いも込めた作品について「青森に初めて降り立った人も青森らしさを感じられると思う」と自信をのぞかせた。
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続いて、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

青の彩りお出迎え 青森空港にステンドグラス設置

  青森空港(青森市)のターミナルビルに24日、青森県の祭りや自然をモチーフにした大型ステンドグラス「青の森へ」が設置された。青色だけでも25種類を使い分け、青森ねぶた祭や奥入瀬渓流など青森を代表する風物を繊細な色合いで表現。除幕されると、搭乗客らから歓声が上がった。
 横11・4メートル、縦2・4メートルの大きさで、85色が用いられた。原画作者のアートディレクター森本千絵さん(44)=三沢市出身=は「青森へ行きたくても行けない状況だからこそ、いとしさを込めることができた。春夏秋冬、それぞれの光で変化を楽しんでほしい」と語った。
 三村申吾知事は「青森の空の玄関口が鮮やかに彩られた。訪れる人にとって心地よい場所になるよう願う」と期待した。
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テレビのローカルニュースでも。

NHKさん。

青森空港に大型ステンドグラス

青森空港に、三沢市出身の芸術家が監修した大型のステンドグラスが設置され、24日、完成披露の除幕式が行われました。
このステンドグラスは、新型コロナウイルスの影響が続く中、文化や芸術の面から人々を元気づけようと活動している日本交通文化協会が、日本宝くじ協会の助成を受けて青森空港に寄贈したものです。
24日の完成式典には、三村知事や、ステンドグラスの原画を描いた三沢市出身のアートディレクター森本千絵さんたちが出席し、光をいっぱいに受けたステンドグラスが披露されました。
「青の森へ」と名付けられたこの作品は、縦2.4メートル、横11.4メートルで、静岡県の工房に依頼して制作されました。
ねぶた祭やこけし、奥入瀬渓流など、85種類の色を使ったおよそ3200のガラスピースを組み合わせて青森県の魅力を表現しています。
アートディレクターの森本千絵さんは、「青森県に住んでいる人もそうでない人にも楽しんでもらえると思います。光の入り具合で表情が違うので季節ごとに楽しんでほしいです」と話していました。
岐阜県から受験で青森県を訪れていた18歳の男性は、「とてもきれいです。ひと目見ただけで青森と分かるのでいいと思います」と話していました。
このステンドグラスは、青森空港の1階、国内線のチケットロビーに展示されています。
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RAB青森放送さん。

青森空港に新たなシンボル 名物や景勝地を描いたステンドグラス完成

青森空港に県内の名物や景勝地を描いたステンドグラスのアート作品が完成し24日お披露目されました。
青森空港の1階ロビーに完成したこの鮮やかな作品は三沢市出身の
アートディレクター、森本千絵(もりもと・ちえ)さんが原画と制作を監修した大型ステンドグラス『青の森へ』です。
作品は日本交通文化協会が森本さんに制作を依頼し、青森空港ビルに寄贈しました。縦2・4メートル、横11・4メートルの作品にはねぶたやこけし、りんごや十和田湖など、県内の工芸品や風景などをイメージしたガラスが散りばめられています。森本さんは去年5月から原画となる切り絵を描き、静岡県熱海市の職人たちが仕上げたもので、85種類の色と3200ピースのガラスが使われています。
★利用客は…
「すごく青森っぽくていいなと思いました」
「SNSにアップして使わせてもらおうと思っています」
★アートディレクター 森本千絵 さん
「たぶん春夏秋と表情が違うのでその光の表情を楽しんでもらいたいと同時に、歩いたりして楽しんで見ていただきたいと思います」 
ステンドグラスは青森の空の玄関口の新たなシンボルとして、訪れる人たちを出迎えます。
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あちらにお立ち寄りの際は、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日賢治同志会の当日なり。新聞に余の名も講演題目までつけて広告中にあり、後藤氏のなせる事ならん。不都合なり。余はゆかず。

昭和21年(1946)10月20日の日記より 光太郎64歳

本人の承諾を得ぬまま、勝手に講師として名を出されたそうで……。花巻郊外旧太田村の七年間で、何度かこういうことがあったそうです。

コロナ禍の明けやらぬ中、やはりイベント等の開催が少なく、相変わらずこのブログもネタ不足です。

これまでもこうした際にたびたびそうしてきましたが、またネタが集まるまでの数日間、「最近手に入れた古いもの」をご紹介します。

新刊書籍等と異なり、皆様が同じものを入手しにくいものとは存じますが、「こういうものもあったんだ」ということで。

今日は光太郎の父・光雲がらみの品々を。

まず、こちら。戦前の絵葉書です。
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光雲作の仏像で、現在の韓国ソウルにあった春畝山博文寺(しゅんぽざんはくぶんじ)の本尊・釈迦如来像です。

博文寺は、初代韓国統監で、明治42年(1909)にハルビンで暗殺された伊藤博文の二十三回忌を記念し、昭和7年(1932)に建てられた寺院。山号の「春畝」も伊藤の号です。その本尊の制作を光雲が依頼され、手がけました。完成は翌昭和8年(1933)。光雲が歿する前年です。

下の画像は、かなり前に入手したものですが、上野松坂屋で行われた開眼供養の模様を撮ったキャビネ版の写真。光雲も写っています。
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裏にはリーフレットが貼り付けてありました。
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曰く、

◎博文寺本尊佛開眼式
日鮮融和の大道場として故伊藤博文公に縁故ある官民有志の発起で、昨年十月に京城に落成を見た曹洞宗春畝山博文寺に納められる本尊佛は、過般来斯界の権威高村光雲翁が製作中であつたが、此程漸く等身大に及ぶ釈迦如来像を完成、十七日午前十時より伊藤公記念会主催で上野松坂屋で開眼供養を行つた。
写真は、完成した如来像と参列の高村光雲、今井田朝鮮政務総監、児玉秀雄伯

絵葉書は像を正面から大写しにしたもので、この像の写真として、このアングルのものは見たことがなく、これは貴重だと思い、購入しました。

時折、ネットオークションなどでこれを含む博文寺としての絵葉書セットが出ていますが、セットになると1万円近くの値。当方が入手したのは釈迦如来像の一枚だけ千円ぽっきりで出ていたもので、安く手に入ってラッキーでした。

ところでこの像本体は、現在はどうなっているのか、当方寡聞にして存じません。おそらく現存していないのではないのかと思うのですが、情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

光雲がらみでもう1点。
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おそらく明治後半の錦絵です。題して「東京名所 上野公園雪景」。

雪景がメインですが、ワイプ画面的に西郷隆盛像。言わずもがなですが、東京美術学校として依頼を受け、光雲が主任となって制作されたものです。除幕は明治31年(1898)でした。
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錦絵作者は、左下に「巨泉」の落款があり、大阪出身の川崎巨泉と思われます。

こちらはかなり前に入手したものですが、やはり巨泉による「東京名所 楠公乃銅像 桔梗御門」。やはり光雲が主任となって制作された楠木正成像が描かれています。
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こちらは枠外に「明治三十一年一月一日印刷」とあり、年代がはっきりしています。上記「上野公園雪景」と比べ、「東京名所」の部分のロゴが同一ですし、紙のサイズも同じですので、同じ頃、同じ版元なのではと思われます。

この手の西郷像と楠公像の錦絵の類、10枚程集まりました。詳細は未定ですが、今秋、花巻高村光太郎記念館さんで、昨年も展示された光雲作の「鈿女命」をまた出す計画があり、その際にこれらをお貸しして一緒に並べてもらう予定です。

詳細が決まりましたら、またご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

真壁さんより昨日テカミ来り、切抜絵の複製の見本封入。甚だ不出来にて話にならず、今泉さん等も延期と定め居る由につき同意の返事を出す。

昭和21年(1946)9月16日の日記より 光太郎64歳

戦後になると、智恵子紙絵を画集として出版する計画が持ち上がりました。「真壁さん」は智恵子紙絵を疎開させていた山形の詩人・真壁仁。「今泉さん」は真壁と同郷の美術評論家で、各種美術雑誌の編集に関わっていた今泉篤男です。

智恵子の紙絵、当時の製版・印刷の技術では、光太郎の納得のいくものが出来ず、雑誌に散発的に掲載されたり、展覧会図録に載ったりはしましたが、単独の画集として刊行されたのは光太郎歿後のことでした。

光太郎実弟にして鋳金の人間国宝となった髙村豊周関連です。

まず、『中日新聞』さんの記事。

家持歌碑 高岡市に保管依頼 尾竹睦子さんの遺志継ぐ 長男・正達さん「肩の荷が下りた」

 万葉集を編さんしたとされる歌人大伴家持を顕彰して戦前に高岡市伏木で結成された「伏木家持会」が建立した歌碑の碑文銅板が、同市万葉歴史館で保存展示されることになった。万葉集愛好家の故尾竹睦子さんが保管していたが、長男正達さん(68)=同市宝町=が遺志を引き継ぎたいと10日、市に保管を依頼した。 (武田寛史)
 銅板は、太平洋戦争の金属供出を恐れ、建立を予定していた石雲寺喜笛庵(きてきあん)の縁側に隠し、1963年に銅板をはめ込んだ歌碑が完成した。しかし、風化した歌碑が倒れる恐れが生じ、会員だった万葉集研究家の田辺武松氏の三女睦子さんが銅板を家で保管していた。
 銅板は縦108センチ、横68センチで、揮毫(きごう)者は金沢市出身の国文学者(歌人)の尾山篤二郎。木彫家・高村光雲の三男で、詩人・高村光太郎の弟の鋳金家・高村豊周(とよちか)が制作した。
 碑文の歌は、家持が越中国守として赴任し伏木の地で詠んだ「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ」(訳・海に行くなら水に漬かる屍となり、山に行くなら草の生える屍となっても天皇の側で死ぬならば後悔はしない)。
 奈良時代に聖武天皇が大伴氏に期待する言葉に感動した家持が詠んだ長歌の一節。これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた。
 正達さんは「肩の荷が下りた」と安堵(あんど)。高橋正樹市長は「銅板を大事にされたことに感謝したい」と話した。
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この記事で、元の制作年が書かれていなかったため、調べたところ、『北日本新聞』さん、『北国新聞』さん、さらに『富山新聞』さんに載った記事(すべて同一のようです)も見つけました。

家持の歌碑 万葉歴史館に 高岡・伏木で詠まれた「海ゆかば」 尾竹さんが保管依頼

  高岡市伏木国分の石雲寺に設置されていた昭和初期の「万葉歌碑」銅板が市万葉歴史館で保管されることになった。大伴家持(おおとものやかもち)が伏木で詠んだ「海ゆかば」で始まる長歌が記され、自宅で大切に保管していた市内の万葉愛好家が「碑を通じ家持が地元で詠んだ歌を広く知ってほしい」と望んでいた歌碑だ。10日に市役所で引き渡され、愛好家の願いがかなった。
 歌碑銅板を保管していた尾竹正達(まさたつ)さん(68)=宝町=が市役所に高橋正樹市長を訪ね、歌碑を引き渡した。縦108センチ、横68センチの銅板で、家持の「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草むす屍 大君の辺(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ」が記されている。
 1940(昭和15)年、石雲寺の住職らが中心となり結成した「伏木家持会」が、地域住民の寄付を募って制作した。鋳金家の高村豊周(とよちか)が蝋(ろう)型鋳造で手掛け、歌人の尾山篤二郎(とくじろう)が碑文を揮毫(きごう)した。戦時中は寺の縁の下に隠されていたが、63(昭和38)年に境内に建立された。
 2015年に亡くなった尾竹さんの母・睦子さんが万葉集の普及に尽力しており、歌碑の劣化により倒壊の恐れがあったため、銅板を設置場所から取り外し、自宅で保管していた。長男の正達さんが受け継ぎ、歌碑の存在を知らしめたいとの生前の睦子さんの思いに応えるため、市に管理を依頼した。寄付者名を記した名板や伏木家持会の趣意綱領も引き渡された。
 歌碑銅板は10日から21日まで万葉歴史館で展示される。尾竹さんは「伏木で誕生した有名な万葉歌をあらためて知ってもらうきっかけにしたい」と話した。
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こちらの記事で、制作年が昭和15年(1940)だったとわかりました。

しかし、文治堂書店さんから刊行された『髙村豊周文集』全5巻に、この碑に関する記述が見当たりません。どうも記事にあるように戦時中は隠匿されていたということで、制作したことを大っぴらにできなかったということなのだと思われます。

碑文の揮毫をした尾山篤二郎は、光太郎より6歳年下の歌人。前田夕暮が創刊した『詩歌』に参加し、短歌に親炙していた豊周と親しかったようです。

『詩歌
』には光太郎も、明治末から昭和初めにかけてかなりの寄稿をしており、この頃から光太郎と尾山も面識があったのではないかと思われます。『高村光太郎全集』には、尾山に宛てた光太郎の書簡が一通掲載されています。昭和20年(1945)8月29日付です。

おはがき忝く拝見、先日は図らず異郷にてお目にかかり一種の感慨を覚え申候。廿六日朝には硯其他御持参下されし由、小生等早朝の出発と相成り失礼仕候、貴台には降雪前御引上の予定とのこと、小生未だ当地方の人情風俗に通ぜず、ともかくも越年可致候、

先日は図らず異郷にてお目にかかり」は、8月25日、盛岡市の県庁内公会堂多賀大食堂で開催された「ものを聴く会」の席上。光太郎が講演をし、盛岡に疎開していた尾山がそれを聴きに駆けつけたことを指します。

揮毫された文字を蠟型鋳金でブロンズパネルにする手法は、豊周が工夫して編み出しました。最初の例は昭和2年(1927)、信州小諸の懐古園に建立された島崎藤村の詩碑。のちに光太郎詩碑の幾つかも、この手法で豊周やその弟子、西大由によって制作されています。

家持の「海ゆかば」。『中日新聞』さんの記事に「これに曲を付けた「海行かば」が戦争中に戦意高揚のために歌われた」とありますが、作曲者は信時潔。光太郎作詞の岩波書店店歌「われら文化を」(昭和17年=1942)、戦時歌謡的(というより式典歌)な「新穀感謝の歌」(同16年=1941)の作曲も手がけています。

こうして見ると、いろいろな人物がそれぞれの人生を生き抜く中で、交錯し、繰り返し関わり合っているのだな、という感があります。

それにしても、この銅板、よくぞ保存しておいて下さっていた、という気がします。そして戦時の馬鹿げた金属供出……。そのせいでどれだけの貴重な作品が失われたことか……。二度とこんな時代に戻してはいけないと、改めて思いました。

【折々のことば・光太郎】002

夜風北窓より入りて涼し。 夜はれ渡る。月を見る。 此位の月なり。

昭和21年(1946)7月23日の日記より 光太郎64歳

この日の日記はイラスト入りでした。

「北窓」は、昨日のこの項でご紹介した、壁を自分で刳り抜いた窓です。

facebookを開いていたところ、気になる広告が。
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地図柄ケースが続々登場! 全国1000都市からあなたの街を探してみよう!」だそうで。

展開しているのはクロスフィールドデザインさんという会社で、商品名は「Crossfield(クロスフィールド)」。

普段は情報ツールとして接している「地図」。そこには暮らす人や旅した人の様々な思い出が交差して詰まっています。人それぞれ、好きな街や懐かしい街への思いを身近なグッズとして近くに感じてほしい。そんな気持ちからクロスフィールドはラインアップを広げていきます。」ということで、日本全国の主要都市約1,000の地図をあしらったスマホケースだそうです。
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光太郎智恵子ゆかりの地について、探してみたところ、ありました、ありました(笑)。
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光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市。それから智恵子のふるさと、福島県二本松市

花巻疎開前に光太郎のアトリエ兼住居があった文京区千駄木。23区内はかなり細かい区割りになっています。
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それから古地図も(右上)。1860年の江戸だそうで、安政7年、途中で改元があって万延元年です。光太郎の父・光雲は嘉永5年(1852)の生まれですから、その頃ですね。

千葉県では、大正元年(1912)、光太郎智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼を含む銚子市。昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養した九十九里
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光太郎最後の大作「十和田湖湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖はないかと思って探しましたが、残念ながら十和田は市街のみが印刷されていて、郊外の十和田湖までは範囲に入っていませんでした。

ぜひご自分の街、気になる街をお探し下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后畑仕事。 ジヤガイモ六うねばかりいける。紅丸。人糞をほどこしたものの上へわらや木の葉まじりの土をかぶせその上へ中くらいのイモは丸のまま、大なるは半切にして置き、土をかぶせる。灰を少しかけて置く。

昭和21年(1946)4月28日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋生活、いよいよ本格的に農作業の始まりです。

1月22日(金)の『日本経済新聞』さん。光太郎と交流のあった道具鍛冶・千代鶴是秀(ちよづる・これひで)を取り上げて下さっています 

大工道具、芸術の域へと高めた名工を追って 千代鶴是秀、常識覆すデザインの足跡 土田昇

 大工や職人が使うノミやカンナ、ノコギリなどの木工道具にも、名工とされる作り手がいた。研ぐと刃がすれていく消耗品なので、使い心地のよい名品はあまり残されない運命にある。
 東京・三軒茶屋の大工道具店3代目の私は、父を継いで古い木工手道具数千点を集め、道具を芸術の域へ高めたとされる千代鶴是秀(ちよづるこれひで)(1874~1957)ら名工の仕事や生涯を調べてきた。
 父、土田一郎が東京・目黒の是秀を訪ねたのは1939年だった。刃物や金具を作る鍛冶として名高かったが、戦争が迫って細々と仕事をしていたそうだ。職人には珍しく道具の歴史や技術に精通し、12歳の少年の父を客として遇してくれた。父は週2~3回、外回りの合間などで入りびたるようになった。
 私は是秀の没後に生まれ、高校を出た80年、刃物の販売・整備を営む家業の土田刃物店に入った。職人気質の父のもとで摩耗したノコギリの目立て、ノミやカンナの研ぎを身につけた。しかし熟練大工がいなくても木造住宅が建つ時代になり、この業界の先行きは危ぶまれていた。
 仕入れ先で跡継ぎのいない高齢の道具職人らは皆、優しかった。世間話ついでに惜しみなく技術やノウハウを教えてくれた。名品や名工に話が及ぶこともあり、数々の破天荒な逸話が面白くて仕方ない。自然と父が是秀から口伝えられた知識の値打ちが分かってきた。
 刃物にかかわる人の中に、是秀は不世出の工人という評価や神話めいた信奉もあるが、私には幻想と思われる。人間の力量に大した差があるわけではなく、精進すればおそらく誰でも名工になれるはずだ。しかし実際、是秀に肩を並べる鍛冶屋を探すと見当たらない。
 およそ2万点を是秀は制作したとされるが、私は約300点を研いだことがある。直角ひとつとってもきわめて精度が高く、刃は研ぎやすく、とても扱いやすかった。使い手のことを考え、一切手を抜かずに作ったことが分かるのだ。
 是秀は祖父が米沢藩上杉家のお抱え刀工だった鍛冶の名家に生まれた。しかし世の中の変化で刀の仕事はなく、大工道具や小刀に活路を見いだした。20代半ばになった明治中期、政府高官の西郷家の出入り大工の棟梁に認められ、道具鍛冶として名が売れた。
 東洋のロダンと呼ばれた彫刻家、朝倉文夫らと親交ができた大正期に作風が変わる。機能美に加え、持ち手を魚のようにするなどデザイン性も高い小刀を作り、富裕層にも愛用者が広がった。
 ただ是秀は、新たに開発された研磨機などの機械を使わず、手仕事を守り続けた。晩年には1本のノミを3年がかりで作るなど時間をかけている。ひとつひとつの作品は幾分高く売れたのだが、量産できずに貧しさから抜け出せず、弟子も育たなかった。こうした研究成果は折に触れて本にまとめてきた。
 自らも鍛冶を手がけたくなり、約20年前に山梨に作業場を設け、毎月のように通い続けている。あくまで趣味だが、手作業で鋼をたたいて鍛えると、さまざまな感覚が磨かれてくる。研磨機では5分の作業でも、自ら作った刃物を半日がかりで研ぐと、鋼の硬さやもろさ、粘りなどの性質を深く理解できる。
 もちろん便利な機械を使うのを否定しようというわけではない。しかし利便性や経済性を優先すると失うものがあることには自覚的になったほうがいいと思う。
 鍛冶としての目標は是秀だが、なかなか及びそうもない。
(つちだ・のぼる=大工道具店経営)
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名工・千代鶴是秀が晩年に作ったノミ

今回の記事を書かれた土田氏、平成29年(2017)には『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を書き下ろされています。同書で、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏取りをした牛越誠夫が是秀の娘婿と知りました。是秀自身も光太郎と戦前(または戦時中)から交流があり、「乙女の像」制作中の光太郎を、中野のアトリエにひょっこり訪ねたりもしています。光太郎は遡って終戦直後、是秀に身の回りの道具類の制作をお願いしたいという旨の書簡を送っています。ただ、それが実現したかどうかは不明です。また、これも確認できていないのですが、是秀作の彫刻刀類を光太郎が使っていた可能性もあります。

追記 やはりありました!

是秀については、下記のリンクもご覧下さい。
信親、正次、是秀。
『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』書評/「美の巨人たち 平櫛田中 鏡獅子」。
台東区立朝倉彫塑館 特別展「彫刻家の眼―コレクションにみる朝倉流哲学」。
都内レポート 太平洋美術会研究所/台東区立朝倉彫塑館。

ちなみに、平成30年(2018)放映のテレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」に、是秀作の鉋が出品され、120万円の鑑定額でした。担当した鑑定士は土田氏。
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これ以後、「是秀作」と称するニセモノがかなり出回るようになったとか……。なげかわしいことです。

たまたまこの回は拝見していましたが、調べてみましたところ、平成26年(2014)にも是秀の作が出ていました。長谷川幸三郎の玄翁とセットで200万。切り出しだけだと150万だそうで……。
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光太郎と是秀の交流について、詳しいところがまだ不明です。何とかして調べようとは思っているのですが……。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

鴬しきりに啼いてゐる
昭和21年(1946)4月22日の日記より 光太郎64歳

少し前に蛙の合唱の件を書きましたが、ウグイスも田舎あるあるです。温暖な当地(千葉県)でも、今年はまだ聞こえていませんが。

まず地方紙『東奥日報』さんの記事から

巨大ステンドグラス 制作大詰め/2月下旬、青森空港に設置 原画・森本さん(三沢出身)出来栄え絶賛

  青森県三沢市出身のアートディレクター森本千絵さん(44)=東京都=が原画・監修を担当した大型ステンドグラス「青の森へ」が来月、青森空港に設置される。制作が大詰めを迎えた19日、森本さんは静岡県熱海市のクレアーレ熱海ゆがわら工房を訪れ、出来栄えを確認した。取材に対し「すごくきれい。想像を超えるクオリティー」と絶賛した。
 ステンドグラスは縦2.4メートル、横11.4メートル。森本さんは、切り絵の原画に、青森ねぶた祭のねぶたやハネト、太陽のように赤いリンゴ、十和田湖や奥入瀬、白神山地といった青森県の風景を描いた。
 原画を基に工房の職人6人が昨年5月、制作に着手。使用したガラスは約3200ピースにも及び、色は85種類を使い分け、中でもこだわった青系統は25種類を使用した。
 森本さんはこの日、十和田湖畔にある高村光太郎制作の「乙女の像」を描いた部分を自然光で確認し、形を整えるなどした。「毎年、青森に行っているが、昨年はねぶた祭りに行けず悔しい思いをした。作品は青森の方へのラブレターのつもり。この絵を通し新たなつながりが生まれたらうれしい」と話した。
 ステンドグラスは青森空港の公共スペースに2月下旬に設置される予定。今回の設置は、パブリックアート普及や、地元に縁のある作家の作品による地域活性化を目指し、全国の公共施設にアート作品を設置する日本交通文化協会(東京)の事業の一環。森本さんは第4回東奥文化選奨受賞者。
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010当方、森本さんが表紙を描かれた書籍を一冊持っております。平成27年(2015)刊行の『少女は本を読んで大人になる』(クラブヒルサイド・スティルウォーター編・現代企画室刊)。東京・代官山クラブヒルサイドさんにて、平成25年(2013)から翌年にかけ、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたものです。

光太郎と交流のあった彫刻家舟越保武のご息女・末盛千枝子さんによる「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」が掲載されており、そのお話そのものも拝聴に伺いました。

森本さんも同じ講座の別の回で「赤毛のアン」を担当され、その筆録も収録されています。

調べてみましたところ、昨年11月にも『東奥日報』さんに今回のステンドグラス「青の森へ」制作の予告的な記事が出ていましたが、その折には「乙女の像」の語が含まれていなかったため、当方の検索網には引っかかりませんでした。

「青の森へ」、パブリックアート制作集団「クレアーレ熱海ゆがわら工房」さんのお仕事だそうです。公益法人日本交通文化協会さんのサイトで、「青の森へ」についての詳細な情報を発見しました

青森空港に大型パブリックアート作品設置 青森出身のアートディレクター森本千絵氏 原画・監修 ステンドグラス「青の森へ」 2021年2月完成予定

 当協会と青森空港ビル株式会社(青森県青森市、代表取締役社長:林哲夫)は、一般財団法人日本宝くじ協会の「社会貢献広報事業」の助成を受け、青森空港旅客ターミナルビル1階チケットロビーに大型ステンドグラス「青の森へ」を設置することが決定しました。2021年2月に完成を予定しています。
 青森空港は、毎年夏に開催される青森ねぶた祭や、青森県立美術館や十和田市現代美術館などへのアート鑑賞、世界遺産の白神山地をはじめとした自然などを目的に国内外から訪れる多くの観光客や、青森県民にとって重要な玄関口となっています。昨年旅客ターミナルビルの大規模リニューアル工事が完了し新しく生まれ変わった青森空港に本パブリックアート作品を設置し、訪れる人々を幻想的な青の光でお迎えします。
 この作品の原画・監修を務めるのは、青森県三沢市出身で、アートディレクターとして企業の広告制作やミュージシャンのアートワークを手掛けるなど多方面で活躍している森本千絵氏。青森県が誇る青森ねぶた祭のねぶたや跳人(ハネト)と呼ばれる踊り手、太陽のような赤いりんご、十和田湖や奥入瀬や白神山地など、人々を魅了してやまない青森の風物風景が表現されています。そして、森本氏が青森空港のために特別に制作した切り絵をもとに、「クレアーレ熱海ゆがわら工房」(静岡県熱海市)で6人のステンドグラス職人が製作します。
 本作品を空港利用者の大半が利用する場所に設置することで、多くの利用者に青森の風情を鮮烈に印象づけ、より一層の賑わいや心地よさをご提供できると考えています。設置後には、青森空港にて完成披露除幕式を行う予定です。

※このパブリックアートは、一般財団法人日本宝くじ協会の「社会貢献広報事業」の助成を受けて整備されています。

○当事業の目的
①アートディレクター・森本 千絵氏の切り絵をもとにしたステンドグラス作品により、パブリックアートの普及を促進
②パブリックアートを通じて気軽に芸術に慣れ親しむことで、人々の心を和ませ、元気づける空間を創出
③青森県に縁のある作家の作品によって地域の活性化、観光開発に貢献

○題名 「青の森へ」
○原画・監修 森本 千絵氏
○設置場所 青森空港旅客ターミナルビル1階チケットロビー
○規模と仕様 縦2.4m×横11.4m
○ステンドグラス製作
クレアーレ熱海ゆがわら工房(静岡県熱海市泉230-1)
建築家・隈研吾氏の設計によるクレアーレ熱海ゆがわら工房はステンドグラススタジオ、釉薬研究施設、焼成サンプル室、ショールームなども完備され、数多くのアーティストとのコラボレーションが展開される第一級のパブリックアートの創造拠点です。
○作家プロフィール 森本 千絵(もりもと・ちえ)
アートディレクター・コミュニケーションディレクター・武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科客員教授
1976年青森県三沢市で生まれ、東京で育つ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科を経て博報堂入社。2007年、もっとイノチに近いデザインもしていきたいと考え「出会いを発見する。夢をカタチにし、人をつなげる」をモットーに株式会社goen°(ゴエン)を設立。現在、広告の企画、演出、商品開発、ミュージシャンのアートワーク、本の装丁、映画・舞台の美術や、動物園や保育園の空間ディレクションを手がけるなど活動は多岐にわたる。ニューヨークADC賞、東京ADC賞グランプリ、伊丹十三賞、日本建築学会賞など多数受賞。

「青の森へ」の原画も掲載されていました。
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上記『東奥日報』さん記事ではよく判らなかったのですが、かなり横長の作品なのですね。そしてほぼ中央に「乙女の像」。ありがたいことです。

当方、青森へも時々足を運びますが、いつも新幹線です。今度はこれを観るために空路を使ってみようかな、などと思いました。ただ、あまり飛行機に搭乗するのは好きではありませんで……(笑)。「あんな重たいものが空を飛ぶはずがない」などと非科学的なことは言いませんが、着陸態勢に入った際のツンツンツンと少しずつ高度を下げていくあの感覚が気持ち悪いのです。20年以上前になりますが、北海道に飛んだ際、濃霧のため新千歳空港になかなか着陸出来ず、1時間程も上空を旋回したことがあり、その際は酔いそうでした(笑)。

さて、続報に注意していたいと思います。

【折々のことば・光太郎】

〈(前の水田で蛙がしきりに啼く。美しき声なり。)〉〈夕方蝙蝠一匹軒をとぶ〉

昭和21年(1946)4月9日の日記より 光太郎64歳

田舎あるあるですね(笑)。当方も、以前、古い友人から夏の夜に電話がかかってきた際、受話器を通しても友人の耳には蛙の声が凄かったそうで「お前、どんな所に住んでるんだ?」と言われました。こちらは蛙の合唱など、慣れてしまってまったく気にならなかったのですが(笑)。

ついでに言うなら、コウモリも時折見かけます(笑)。

新刊です

分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生

2020年10月20日 田路貴浩編 京都大学学術出版会 定価4,400円+税

内容紹介
我々は起つ。/過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために——東京帝国大学工学部建築学科を卒業した石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、山田守、矢田茂の6人は、「分離派建築会」を結成、様式に目をむけてきた建築界に抗って、彼らは建築における「芸術」を目指した。自由な芸術を求めた彼らがふたたび様式に美を見出すまでの過程を、32の論考であらゆる角度から描き出す。

目次
はじめに [田路貴浩]
I Secessionから分離派建築会へ
 分離派の誕生——ミュンヘン、ベルリンそしてウィーン[池田祐子]
 オットー・ヴァーグナーの時代の建築芸術——被覆とラウム、そして、生活へ[河田智成]
 分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに[水沢 勉]
 はじめに
 1 『青鞜』創刊号表紙絵の基本データ
 2 イメージ・ソース
 3 もう一つの「湖水の女」の表紙絵
 おわりに
 青島とドイツ表現主義[長谷川 章]
II 結成、または建築「創作」の誕生
 分離派建築会と建築「創作」の誕生[田路貴浩]
 一九一〇年前後の美術における「創作」意識[南明日香]
 分離派建築会の「建築・芸術の思想」とその思想史的背景
——和辻哲郎との照応関係から[飯嶋裕治]
 分離派への道程——世代間の制作理念からの再考─足立裕司
III 〈構造〉対〈意匠〉?
 日本における初期鉄筋コンクリート建築の諸問題[堀 勇良]
 分離派登場の背景としての東京帝国大学[加藤耕一]
 東京帝国大学における建築教育の再読——学生時代における建築受容の様相[角田真弓]
 「構造」と「意匠」および建築家の職能の分離[宮谷慶一]
IV 大衆消費社会のなかでの「創作」
 ゼツェッシオン(分離派)の導入[河東義之]
 博覧会における建築様式——分離派建築会の前後[天内大樹]
 「文化住宅」にみる住宅デザインの多様性の意味[内田青蔵]
 大大阪モダニズムと分離派——街に浸透する美意識[橋爪節也]
V 建築における「田園的なもの」
 「田園」をめぐる思想の見取り図─杉山真魚
 瀧澤眞弓と中世主義——《日本農民美術研究所》の設計を通して─菊地 潤
 堀口捨己の田園へのまなざし─田路貴浩
 堀口捨己と民藝——常滑陶芸研究所と民藝館を糸口に─鞍田 崇
VI 彫刻へのまなざし
 大正〜昭和前期の彫刻家にとっての建築[田中修二]
 「リズム」から構想された建築造形[天内大樹]
 山田守の創作法——東京中央電信局および聖橋の放物線の出現とその意味[大宮司勝弘]
 石本喜久治の渡欧と創作——あるいは二〇世紀芸術と建築の接近[菊地 潤]
VII 「構成」への転回
 創作活動の展開[蔵田周忠]
 分離派建築会から型而工房へ[岡山理香]
 創造・構成・実践——山口文象と創宇社建築会の意識について[佐藤美弥]
 「新しき社会技術」の獲得へ向けて
——山口文象の渡独とその背景をめぐって[田所辰之助]
 表現から構成へ——川喜田煉七郎におけるリアリティの行方[梅宮弘光]
VIII 散開、そして「様式」再考
 古典建築の探究から様式の超克へ——森田慶一のウィトルウィウス論をとおして[市川秀和]
 オットー・ワグナー十年祭と岸田日出刀の様式再考
——「歴史的構造派」という視座をめぐって [勝原基貴]
 堀口捨己による様式への問いと茶室への遡行 [近藤康子]
 自由無礙なる様式の発見——板垣鷹穂・堀口捨己・西川一草亭 [本橋 仁]
おわりに
 分離派建築会以後——「創作主体」の行方[田所辰之助]
あとがき
索引
001
「分離派」は、19世紀末、ミュンヘン、ウィーン、ベルリンをそれぞれ拠点として起こった芸術運動です。フランスのアール・ヌーボーやアンデパンダンの影響を受け、保守的なミュンヘン芸術家組合からの「分離」を図った芸術家たちがまずミュンヘンでその動きを興し、それがウィーン、ベルリンに波及しました。最も有名なのがウィーン分離派。かのグスタフ・クリムトや、エゴン・シーレがその中心でした。

分野としては、絵画、工芸、建築などと多岐に亘ります。ジャポニスムの影響も夙に指摘されていますが、逆に日本に与えた影響はあまり大きくなかったというのが定説のようです。

ただ、建築の方面では、大正9年(1920)、東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築学科卒の建築家たちが、ウィーン分離派の動向に感銘を受けて建築の芸術性を標榜し、「分離派建築会」を結成しました。メンバーは堀口以外に石本喜久治、瀧澤眞弓、森田慶一、山田守、矢田茂ら。

本書はその「分離派建築会」についてのもので、現在、パナソニック汐留美術館さんで開催中の「分離派建築会100年展建築は芸術か?」とリンクしている部分もあるのかな、という感じです。

その分離派建築会の話に入る前段で、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏がウィーン分離派と日本との数少ない関連の例として、智恵子による雑誌『青鞜』表紙絵について玉稿を寄せられています。題して「分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに」。氏と連絡を取ったところ、贈って下さいまして、恐縮の至りです。

平成29年(2017)に水沢氏、智恵子による女神像的な『青鞜』創刊号の表紙絵(中央下画像)、ウィーン分離派のヨーゼフ・エンゲルハルトという画家の寄木細工作品(左下画像)を模写したものであることを突き止められました。詳しくはこちら
009 008 007
その件を中心に、さらに同じ『青鞜』で同一の図題ながら、若干の変更が見られるバージョン(右上画像・『青鞜』第2巻第8号 大正元年=1912)についても言及されています。

また、エンゲルハルトの寄木細工は、元々、セントルイス万博(明治37年=1904)に出品されたものですが、昭和18年(1943)に書かれたエンゲルハルトの回想文には、「いまニューヨークのある邸宅に飾られています」とのこと。未だ現存しているとすれば、是非見てみたいものです。

010その他、相模女子大学教授・南明日香氏の「一九一〇年前後の美術における「創作」意識」では、日本に於ける文芸・美術雑誌が分離派建築会に与えた影響といった観点から『早稲田文学』、『方寸』、『白樺』などに注目、それらに寄稿していた光太郎に触れられています。

これも寡聞にして存じませんで、汗顔の至りでしたが、『早稲田文学』の明治43年(1910)8月号に、神田淡路町に光太郎が開いた画廊・琅玕洞の内部を描いた正宗得三郎の挿画が載っていた由。また、左上の人物は光太郎と思われます。

ちなみに南氏、従来不明だった光太郎のさまざまな翻訳の原典を、多数突き止められている方です。

さて、『分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生』。なかなか高価な書籍ですが、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

私の行く道は寂しいけれども、清らかで、恍惚と栄光とに満ちてゐます。


散文「手紙」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

今年発見した、ブロンズ彫刻「手」についての新発見の文章から。

大正8年(1919)といえば、智恵子もまだ健康を害しておらず、光太郎自身、彫刻家として脂ののった時期。そこで「恍惚と栄光とに満ちてゐます」。ただ、智恵子と二人、俗世間とは極力交渉を断とうとしていた時期でもあり、「寂しいけれども」なのでしょう。

大正元年(1912)の『第一回ヒユウザン会展覧会目録』に発表された詩「さびしきみち」を彷彿とさせられます。

  さびしきみち

かぎりなくさびしけれども
われは
すぎこしみちをすてて011
まことにこよなきちからのみちをすてて
いまだしらざるつちをふみ
かなしくもすすむなり

―― そはわがこころのおきてにして
またわがこころのよろこびのいづみなれば

わがめにみゆるものみなくしくして
わがてにふるるものみなたへがたくいたし
されどきのふはあぢきなくもすがたをかくし
かつてありしわれはいつしかにきえさりたり
くしくしてあやしけれど
またいたくしてなやましけれども
わがこころにうつるもの
いまはこのほかになければ
これこそはわがあたらしきちからならめ
かぎりなくさびしけれども
われはただひたすらにこれをおもふ

―― そはわがこころのさけびにして
またわがこころのなぐさめのいづみなれば

みしらぬわれのかなしく
あたらしきみちはしろみわたれり
さびしきはひとのよのことにして
かなしきはたましひのふるさと
こころよわがこころよ
ものおぢするわがこころよ
おのれのすがたこそずいゐちなれ
さびしさにわうごんのひびきをきき
かなしさにあまきもつやくのにほひをあぢはへかし

―― そはわがこころのちちははにして
またわがこころのちからのいづみなれば

全編かな書き。これは一字一句を自らの内部に刻みつけるように書いたから、とする説が有力です。

花巻高村光太郎記念館さんで、企画展「高村光太郎とホームスパン-山居の夢-」が開催されていますが、その関連で2件。

まず、11月5日(木)付けで地元紙『岩手日日』さんが報じて下さいました

光太郎の思い触れ 23日まで企画展

 高村光太郎記念館の企画展「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」は、花巻市太田の同館で開かれている。2016年に発見された、光太郎と妻の智恵子にとって思い入れの深いホームスパンの毛布をメインに展示。光太郎とホームスパンを巡る物語を伝えている。23日まで。
 光太郎は1945年、花巻に疎開。終戦後に暮らした現在の同市太田山口(旧太田村山口)を「手仕事で豊かにしたい」との思いから、同村をホームスパンの産地にしたいと考えていたという。
 智恵子は結婚後、芸術的センスを磨くとともに、生活を支えるために機織りや草木染めに取り組んでいた。
 今展では、智恵子が昭和初期ごろに東京で開催されたイギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952年)の作品展を観覧した際に気に入り、光太郎にねだって購入してもらった毛布を公開。智恵子が愛用し、妻亡き後は光太郎が使用していた。
 毛布は1㍍64㌢×1㍍76㌢。茶色の地に、植物で染めた青や赤、黄色の横しまがデザインされており、浮き織りや平織りなどを組み合わせている。
 会場では、本県のホームスパンの活動も紹介しているほか、同市東和町のホームスパン作家、山本実紀さんが毛布と同じように織った布や製作道具なども並べている。
 佐々木正晴館長は「光太郎のこの地への思いに触れていただければ幸いだ」と来館を呼び掛ける。
 入館料は一般350円、高校・大学生250円、小学生150円。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

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もう1件、光太郎とは直接の関連はありませんが、やはりホームスパンに関し、お隣北上市で開催される予定のイベントを

『homespunと手しごと』 vol.27

期 日 : 2020年11月20日(金)~11月29日(日)
会 場 : 展勝地レストハウス 岩手県北上市立花14地割21−1
時 間 : 午前10時~午後5時
休 館 : 11月24日(火)
料 金 : 無料

毎回大好評の『homespunと手しごと』 の第27弾を開催いたします。

1945(昭和20)年5月、花巻へ疎開した光太郎は、戦後7年間を稗貫郡太田村山口(現・花巻市太田山口)で過ごしました。この頃光太郎は知人への手紙にこの地で「日本最高文化の集落」を10年計画で建設すると記しており、その後、夢の実現として「太田村をホームスパンの産地にしたい、青年たちには陶芸づくりをさせる、娘たちには羊を飼わせ植物染料・手紡ぎ・手織りの本格ホームスパンを作らせる」と語ったとされています。

光太郎にはホームスパンの大切な想い出がありました。大正末か昭和初めに、東京でイギリスの著名な染織家エセル・メレの作品展が催されたとき、智恵子にこの1点だけは何としても欲しいと懇願され、ホームスパンの毛布を購入したという話です。光太郎は亡くなるまで智恵子の想い出とともにこの毛布を大切にしたといいます。

光太郎は、太田村山口をホームスパンの産地にしたいと望むと同時に、自身が身に着けるものとしてオーダーメイドでホームスパン製の猟人服を作っています。背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。(高村光太郎記念館で常設展示しています)

現在、県内では様々な形で「ホームスパン」という技術が受け継がれ伝承されています。光太郎のまいたホームスパンという夢の種は山口では花開かなかったものの、少しずつ岩手の地に広がっていったように感じます。
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県内各地のホームスパン工房の作品展なのでしょう。

光太郎とホームスパンには、不思議な機縁を感じます。

大正末か昭和初め、たまたま智恵子にせがまれて購入した毛布が英国製のホームスパンだったことにはじまり、その毛布が東京と花巻と2回の戦火をくぐり抜けて残り、たまたまホームスパン作家でもあった及川全三の弟子が太田村の山小屋近くに住んでいて、その製作過程を見、自分でもホームスパンの服を作ってもらって愛用……。

その岩手のホームスパンの伝統が脈々と受け継がれていることにも感動を覚えます。この灯を絶やさないようにしていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】003

われらのすべてに満ちあふるゝものあれ


短句揮毫 昭和27年(1952) 光太郎70歳

昭和27年(1952)3月、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)の卒業式に際して揮毫した色紙より。同校は光太郎とも交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が出版していた雑誌『婦人之友』に感銘を受けた仲間が集まり、良き家庭を築く生活の知恵を学ぶ場としてスタートしたといいます。

同校では光太郎の薦めでホームスパン製作をカリキュラムに取り入れ、それが受け継がれているそうです。

大正3年(1914)に書かれた詩「晩餐」には、よく似た「われらのすべてに溢(あふ)れこぼるるものあれ われらつねにみちよ」 という一節があります。

全国の新聞各紙から、掲載順に4件。

まず『岩手日報』さん。10月28日(水)の掲載でした。

光太郎夫妻 思い出の毛布公開 花巻でホームスパン展

 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は、2016年11月に見つかったホームスパンの毛布を企画展で展示している。光太郎(1883~1956年)が妻智恵子に懇願されて購入し、妻亡き後も愛用していた。2人の大切な思い出も包み込まれた毛布に、来場者はぬくもりを感じ取っている。
 11月23日まで。会期中無休。午前8時半~午後4時半。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。
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10/5に始まった、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」に関してです。

光太郎遺品の中から見つかった、光太郎智恵子愛用の毛布が、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査の結果、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認され、その毛布を中心にした展示です。

会期半分ほど終わったところでこうして記事を出していただけると、これまで知らなかった皆さんが「こんなのやっていたのか」と足を運んで下さるケースがあるそうで、ありがたいところです。

続いて仙台に本社を置く『河北新報』さん。同じく10月28日(水)、短歌に関するコラムです

うたの泉(1391)

東京に<ほんとの空>はないといふ 今はほんとの夜ももうない/矢澤靖江(やざわ・やすえ)(1941年~)

 東京には<ほんとの空>がないといったのは高村智恵子。詩人高村光太郎の妻です。『智恵子抄』の中にある詩「あどけない話」を踏まえた一首は、「今はほんとの夜ももうない」と切々と歌います。コンビニエンスストアの24時間営業をはじめ、東京に限らず、全国各地から静かで真っ暗な「夜」がなくなってしまいました。便利な世の中にはなりましたが、何か大切なものを失ってしまったような気がします。歌集『音惑星』より。
(本田一弘)

矢澤靖江氏、現在もご活躍中の歌人です。解説を書かれた本多氏は佐佐木幸綱に師事された歌人だそうです。

真っ暗な「夜」」、たしかに街中では無くなりました。しかしまだまだ田舎では一歩街から外れると、まだ健在のように思われますが……。現に自宅兼事務所周辺がそうでして(笑)。

ちなみにこのコーナー、昨年は他の方の選により、光太郎本人の短歌もご紹介下さいました。

お次は全国紙で『読売新聞』さん。やはり10月28日(水)、夕刊の一面コラムです

よみうり寸評

都会を離れるか否か。葛藤する胸で二つの声がぶつかる。一方は<平原に来い>と呼びかけてくる。<透きとほつた空気の味を食べてみろ/そして静かに人間の生活といふものを考へろ>◆他方がいう。<絵に画いた牛や馬は綺麗だが/生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ/命の糧は地面からばかり出るのぢやない>。高村光太郎の「声」という詩である◆東京でこの3か月、転出者数が転入者数を上回る転出超過が続いている。地方の呼び声がやっと人々の胸に響き始めたようにも映る◆とはいえ、転出先には東京近県や他の大都市が目立つ。「コロナの影響で移動が減り、出ていく人が少なくなっている状況」とは島根県の担当者の分析だ。牛馬に親しむ暮らしを選ぶ人が増えたという話ではないらしい◆とはいえ、と再び書かせていただく。転出入を巡る2013年の調査からこの春まで、東京の転出超過は一度もなかった。一極集中是正のまたとない好機に今があるのは疑いなかろう。そこかしこで葛藤が始まるといい。

引用されている「声」は、明治44年(1911)の作。世界最先端の芸術を目の当たりにして、3年半に亘る欧米留学から帰朝、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界に絶望し、絶縁することを考え、北海道移住を企てたことに関わる詩です。全文はこちら。経緯についてはこちら

光太郎はこの時点では北海道まで実際に渡ったものの、少しの資本では牧畜など出来ないと悟り、また、頻発していた大火にも追い立てられ、すごすごと帰京しています。以後、昭和20年(1945)の空襲でアトリエ兼自宅を失うまで、東京暮らしでした。そして花巻に疎開、戦後は戦時中の翼賛活動への反省から、花巻郊外旧太田村で7年間の蟄居生活を送ります。

最晩年は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京、完成除幕後に短期間太田村に帰ったものの、宿痾の肺結核は山村での生活を許さず、また上京。そして、中野の貸しアトリエでその一生を終えました。結局、光太郎のトポス、アイデンティティーといったものは、いったいどこにあったのだろうと思わされます。

最後に『宮崎日日新聞』さん。こちらも一面コラムで、コロナがらみです

くろしお 正月休みの分散取得 2020年10月30日

 「冬の詩人」といわれた高村光太郎の作品に「冬が来た」というのがある。その書き出しはこうだ。「きっぱりと冬が来た」―。厳しい冬が訪れたさまを「きっぱり」という言葉が、見事に言い表している。
 冬も比較的暖かい本県は「きっぱり来る」という感じではない。ただ、年の瀬の到来はおそらくいずこも同じで「日々の生活に追われていたら、いつの間にかもうそこまで来ていた」といった具合ではないか。きのう、年賀はがきが発売され、改めてそう感じた。
 1年の大半を新型コロナウイルスの感染拡大という非常時の中で過ごした2020年。当然、年末や来年の年始も例年とは違う。西村康稔経済再生担当相が先日、年始の休暇を1月11日まで延ばすよう企業や自治体に要請すると表明。人の移動を分散させる措置だという。
 当初は「休暇の延長」と受け取られ、経済界には期待の一方で困惑の声も上がった。通常国会の召集時期など政治日程に影響するため、足元の自民党にも動揺が広がった。結果、党は火消しに走り、西村大臣は「休みを機械的に11日までとせず分散して取ってほしいということ」と釈明する事態に。
 この問題は、これで幕引きとなるのか。突然出てきた政策が二転三転するのはコロナ禍の中のデジャビュ(既視感)だ。正月休みがどういう形になるかで、予定が大きく変わる人は多かろう。「こういう方針です」と、初めから示すべきだった。きっぱりと。

これからの季節、「冬が来た」(大正3年=1914発表)などの光太郎の冬に題材を採った詩がいろいろ引用されるように思われます。というか、引用して下さい(笑)。

【折々のことば・光太郎】

われわれは彼にこそ日本に於ける預言者的詩人の風骨を見るのである。

散文「預言者的詩人 野口米次郎氏」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳

野口米次郎は光太郎より8歳年長の詩人。慶應義塾大学で英米文学を学び、明治26年(1893)、中退して渡米、英語で詩作品を発表。イギリスを経て同37年(1904)に帰国後は、慶応義塾で教鞭を執りました。彫刻家のイサム・ノグチは滞米中に現地の女性との間に出来た子供で、光太郎が借りる前に、中野の貸しアトリエを借りていました。

無理くりですが、当方など、光太郎にこそ「預言者的詩人」という姿を見ます。「預言者」はキリスト教などで神の言葉を人々に伝える者。ノストラダムスなどの「予言者」ではありません。

10月14日(水)、東京藝術大学さんで「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」を拝観後、上野駅から東北新幹線に乗り、一路、花卷へ。

午後2時半過ぎ、北上駅で新幹線を降り、レンタカーを借りて今宵の宿にして光太郎もたびたび宿泊した大沢温泉さんへ。
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湯治屋(自炊部)で、六畳一間。
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部屋の中になぜかコンロ。ガスの自販機付きです。炊事場にあるのは知っていましたが、これまで泊まった部屋にはありませんでした。
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窓を開けると豊沢川の清流。
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早速ひとっ風呂浴び、腰に手を当ててコーヒー牛乳の一気飲み。正しい「温泉あるある」です(笑)。

その後、8月にオープンした「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんへ。
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テナントに入っている焼肉店「味楽苑」さんで、花巻高村光太郎記念館の皆さんと夕食。
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1ヵ月分くらいの肉を賞味しました(笑)。

宿に帰り、また温泉に浸かってぐっすり就寝。翌朝も暗いうち、起床と同時に露天風呂。命の洗濯です(笑)。
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売店で買い込んでおいたパンで朝食を済ませ、チェックアウト。花巻高村光太郎記念館さんを目指しました。
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先週から企画展示「高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-」が始まっています。花巻市総合文化財センターさんにお勤めの佐藤幸泰氏が中心となって構成されています。

光太郎遺品の中から見つかった、光太郎智恵子愛用の毛布が、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査の結果、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認され、その毛布を中心にした展示です。
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昨年、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示されましたが、こちらでは初公開です。

光太郎生前の写真でこの毛布が写っているものがあり、提供しました。中央の横長2枚です。
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大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買い、2度の戦火(東京駒込林町、花卷宮沢家)をくぐり抜けて奇跡的に残った逸品です。

その他、直接光太郎に関わるものとしては、岩手ホームスパンの父、及川全三に贈った鎌倉書房『高村光太郎詩集』新装版(昭和26年=1951)。
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及川の弟子で、太田村山口出身の戸来幸子(正しくはサツ子)あての光太郎葉書(昭和25年=1950)。
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無事御帰国のおハガキを先日拝見しました、父上からもお便りをいただき恐縮に存じます、
御健康と存じますが、小生も相変らず元気でゐます。
この辺でももう田植がはじまりかかつてゐます、皆忙がしさうです。
ホームスパンを立派に織れるやうになつた技術は今後もすてずに大成されるやうに念じ上げます、御両親によろしく、

戸来は光太郎に山小屋の土地を提供した駿河家の血縁。光太郎の山小屋に再三届け物などで訪れ、光太郎の日記にその名が頻出します。駿河家でホームスパン製作や講習に取り組んでいましたが、戸来は北海道に嫁ぎ、旧太田村ではホームスパンが根付かなかった一因となったように思われます。

智恵子と織物に関しても触れて下さっていました。
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岩手は元々ホームスパンの産地として名高く、その伝統は現代まで受け継がれており、その辺りに関する展示も充実していました。
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ミュージアムショップでも関連商品。上の方の画像で一筆箋とポストカードのものがありますが、それも販売されています。
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展示は11月23日(月)まで。ぜひ足をお運びください。
無題
その後、道の駅はなまき西南さんでのイベント(「光太郎ランチ」お披露目)に参加しましたが、その前に時間がありましたので、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)とその周辺を散策。
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「雪白く積めり」詩碑。この地下には光太郎の遺骨ならぬ遺髯(ひげ)が埋まっています。

裏手の智恵子展望台。
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柱には生々しい熊の爪痕。
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そちこちに、光太郎が愛したキノコや栗。自然が豊かだというのがよく分かりますね。
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そうこうしているうちに時間となり、道の駅へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

やはり知ることが根本になります。どしどし取り入れて見ききを広くしなければなりません。見るといっても、それはただ上っ面を見るだけでなく、もっと深く掘りさげて、そのなかにある根本をつかむことです。

談話筆記「高村光太郎先生説話 三二」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

なるほど。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示です

高村光太郎とホームスパン-山居に見た夢-

期 日 : 2020年10月5日(月)~11月23日(月・祝)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体

「ホームスパン」 とは、 「家」 と 「紡ぐ」 の英単語からなる言葉で、日本では、羊毛を手紡ぎ ・ 手織りした織物がホームスパンと呼ばれています。
太平洋戦争で花巻へ疎開した高村光太郎の日記や手紙には 「ホームスパン」 という言葉が散見されます。また、山口集落でホームスパン作りの手伝いをした際に「ホームスパンは手の先で始まり、最後の仕上げまで手先でやるのが特徴だ、染色も化学染料でなく天然産のものを用いるがよい」 と、語った逸話も残されています。
平成28年11月、高村光太郎の遺品の中から、色鮮やかなホームスパンの毛布が見つかりました。近年の調査で英国の著名な染織家であるエセル ・ メレの毛布と分かり、これを機に高村光太郎とホームスパンの物語も少しずつ分かってきました。
高村光太郎記念館では、見つかった毛布とともに、これまで注目されなかった光太郎とホームスパンにスポットを当てた企画展を行います。高村光太郎とホームスパンの優しくて温かい物語をご覧ください。

1 光太郎と智恵子とホームスパン
高村が生きた時代とともに、バーナード・リーチとの交友関係、智恵子と織物などのエピソードを紹介します。

2 山口での試み
戦後、太田村山口に移り住んだ高村は「日本最高文化の集落」を10年計画で太田村山口に作ろうとし、「青年たちには陶芸作りをさせる、娘たちには羊を飼わせ植物染料、手紬、手織りの本格的なホームスパンを作らせる」と語ります。高村が山口に見た夢と試みについて、ホームスパンを中心に紹介します。

3 夢の行方
高村が愛用した猟人服の製作に関する物語や盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)との関わりなど、試みのその後について紹介します。
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メインは、光太郎遺品の中にあった毛布。光太郎の日記の中に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、岩手県立大学さんの菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)本人か、その工房の作と確認されました。

現物は昨秋、2日間限定で、盛岡市の赤レンガ伝統工芸館にて展示され、拝見して参りました。まぁ、それ以前にも光太郎記念館さんで手にとって見せていただいたりしていたのですが。

また、光太郎記念館さんの別館的な「森のギャラリー」では、紙に印刷した複製を展示したりもしていました。

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大正末か昭和初め、メレの作品展(バーナード・リーチらとの共同展)が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたという証言が残っています。

昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。東京では、事前に布団類は防空壕に入れておいたとのことで、その中にこれも含まれていたのでしょう。

昭和27年(1952)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外旧太田村の山小屋から再上京した光太郎ですが、この毛布も持って行くか、送るかしまして、中野の貸しアトリエで撮られた写真に写っています。
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光太郎歿後、他の遺品の一部と共に、花巻光太郎記念会に寄贈され、長い間倉庫に眠っていたのが、平成28年(2016)になって、日の目を見たというわけです。

光太郎とも交流のあった柳宗悦によって提唱された民芸運動の一環として、岩手では元々、ホームスパン制作が盛んで、現代にもその伝統が継承されています。その作家で、やはり光太郎と交流のあった及川全三やその弟子筋、さらに光太郎記念館で常設展示されているホームスパンによる光太郎の猟人服などについても展示が為されるそうです。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

岩手の人はおっとりしています。気長ですが、お終いには必ずやってのけます。岩手からきっといいのがでるように思います。

談話筆記「高村光太郎先生説話 一五」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

頼んだホームスパンの制作がなかなか出来なかったことなどを念頭に置いての発言でしょう。しかし、待たされて待たされて、やっと出来上がったその出来栄えは予想していた以上に素晴らしいということで、「お終いには必ずやってのけます」と言ったわけです。

『読売新聞』さん、8月11日(火)に「文化財の受難 破壊、略奪続く 「人類の遺産」 問われる国際協力」という記事が掲載されました。

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戦後75年に関してのもので、まずは太平洋戦争により、日本国内で破壊された文化財の紹介から。原爆投下により倒壊した当時の国宝・広島城天守と共に、空襲で焼失した芝増上寺さんの「台徳院殿霊廟」について触れられています。2代将軍秀忠を祀ったもので、後の日光東照宮の原型となったとも云われていました。
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現存していれば、都心で「世界遺産」が見られたかも知れない、という紹介が為されていました。

記事に使われていた写真は、明治43年(1910)、光太郎の父・光雲らの監修によって、東京美術学校で制作された模型。英王室に献上されていましたが、平成26年(2014)に里帰りし、現在は増上寺さんの宝物展示室に収められています。

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記事本体には記述がありませんでしたが、キャプションには光雲の名が記されていました。

さらに「文化財の受難 破壊、略奪続く」という見出しの通り、カンボジアのアンコール遺跡、アフガニスタンのバーミヤン遺跡、さらにシリアのパルミラ遺跡などについても言及されています。ついでに言うなら、かつて日本軍が破壊したアジアの文化財についても記述があれば、とは思いましたが。

戦災で、というわけではありませんが、実にばかばかしい「金属供出」によって喪われた光雲・光太郎作品も少なくありません。光雲だと「長岡護全銅像」「西村勝三像」、「坂本東嶽像」「活人剣の碑」など。光太郎作は「浅見与一右衛門銅像」「青沼彦治像」「赤星朝暉胸像」。同時代の彫刻家のさまざまな作品も、供出の憂き目にあっています。

当然、こうした「モノ」だけでなく「人」もたくさん喪われているわけで、つくづく、戦争はいかんと思います。


【折々のことば・光太郎】

私はやつぱり歩んで行かう。何処へ、何処へ。何処へと問ふのは間違つてゐる。歩む事を歩むのだ。

散文「西洋画所見 十二」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

『読売新聞』に連載された「西洋画所見」。「一」から「十一」までは筑摩書房『高村光太郎全集』第六巻に掲載されていましたが、最終回に当たる「十二」が脱漏していました。

11月23日(土)、午後2時からの第64回高村光太郎研究会に行く前に、白金台の東京都庭園美術館さんで開催されている「アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」」展を拝見して参りました。

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同館の本館は昭和8年(1933)竣工の旧朝香宮邸で、アール・デコ様式の装飾が随所に施され、レトロ建築大好きな当方にとっては実にいい感じでした。

展示は三部構成。第一部が「アジアへの再帰」ということで、雲崗などを描いた杉山寧や川端龍子の日本画、中国的なものをモチーフとした岸田劉生や安井曾太郎(ともに光太郎の朋友)らの油彩画、やはり光太郎と親しかったバーナード・リーチの絵皿などが出品されていました。

第二部「古典復興」は、陶磁器、青銅器などの工芸がメイン。古代中国の作品と、そこからインスパイアされた近代日本の作品を並べて展示するという、面白い構成になっていました。

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さらに第三部は「幻想のアジア」をテーマにした現代アートでした。

拝観メインの目的は、光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった、髙村豊周の作品を観ること。意外と豊周作品を観られる機会は多くありません。

今回、豊周作品は4点、出品されていました。


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左上は「朧銀杵形花器」(昭和36年=1961)、その隣が「青銅斜交文花瓶」(昭和3年=1928)。下段左で「鼎」(昭和30年=1955)、そして右下に「提梁花瓶」(昭和21年=1946)。それぞれ実に見事な作でした。

特に「青銅斜交文花瓶」などにはアール・デコの影響も色濃く見られるのですが、それだけでなく、やはり古代中国の青銅器の形態や様式を取り入れ、しかし大胆に用途を変更するといった工夫も見られます。鼎(かなえ)は元々は調理器具ですが、豊周の手にかかると花器に変貌しています。

豊周も若い頃は中国古銅器を手本とすることを忌避し010、モダニズム的な方向性が顕著だったのですが、のち、エスプリ・ヌーボーと伝統的な価値観の融合を目指すようになりました。そこには桂離宮などを絶賛した建築家、ル・コルビジェなどの影響もあったそうです。

右は、大正15年(1926)、豊周37歳の作「挿花のための構成」。若い頃の代表作の一つと見なされている作品です。画像は昭和58年(1983)、東京国立近代美術館工芸館さんで開催された「モダニズムの工芸家たち―金工を中心として―」展の図録の表紙です。特に戦後の作品と比べると、その違いは明らかですね。

帰りがけ、今回の展覧会の図録的な書籍『アジアン・インパクト 日本近代美術の「東洋憧憬」』(樋田豊治郎監修 東京都庭園美術館編 東京美術刊行)を購入。佐倉市立美術館さんの本橋浩介氏による「金工モダニズムと古代青銅器」という論考が載っており、興味深く拝読しました。本橋氏、やはり「挿花のための構成」を引き合いに出されていて、考えることは
同じだな、と思いました(笑)。

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ところで、東京都庭園美術館さんということで、広大な庭園も付帯しています。

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が、行った当日、豪雨というほどではなかったものの、それなりの雨でして、ほとんど見ずに撤収。紅葉は少し見られましたが、残念でした。また日を改めて訪れたいものです。

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「アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」」展は、来年1月13日(月・祝)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は現今の多くの日本の油画を油画といふよりはむしろよく発達した密陀絵に近いと思つてゐる。昔の密陀絵の延長であつて、材料こそ便利な泰西の絵具を使へ、実は何等油画と関係の無い仕事の方が多いと見てゐる。

散文「宮坂君について」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

上記だけ読むと、そうした傾向を批判しているように読めますが、そういうわけでもなく、同じ文章では「私は素より此を非難しない。日本人が東洋の画法にしたがふのに何の不思議もないのである。」としています。今回の展覧会のコンセプトにつながるような発言ですね。

ただ、凡ての画家がそこで終わるのではなく、西洋的感覚を十分に我がものとした画家も出て欲しい、とも。

宮坂君は、宮坂勝。長野県出身の画家で、光太郎がそうした期待をかけた一人でした。

都内から展覧会情報です。他の展覧会と混同しておりまして、始まってしまっています。 

アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」

期 日 : 2019年10月12日(土)~2020年1月13日(月・祝)
会 場 : 東京都庭園美術館 東京都港区白金台5-21-9
時 間 : 10:00~18:00
                11/22(金) 23(土・祝) 29(金) 30(土)12/6(金) 7(土)は
       夜間開館のため夜20:00まで開館
料 金 : 一般1,000円 大学生等800円 中高生・65歳以上500円
休 館 : 第2・第4水曜日(10/23、11/13、11/27、12/11、12/25、1/8)、年末年始

およそ1910~60年頃にかけてのことですが、日本の知識人、美術愛好家、美術作家たちがアジアの古典美術に憧れた時期がありました。唐物趣味は日本の伝統だとはいえ、このときのアジア熱は別格でした。
朝鮮半島や中国から、考古遺物や古美術が日本に輸入されると、それらは実業家たちによって競うように蒐集されました。平壌では漢代の楽浪漆器が発掘され、河北省では磁州窯や定窯が調査されます。そして息を呑むような伝世品(殷の青銅器、唐三彩・宋磁・元の染付・明の赤絵、煎茶で愛好された籐籠、李朝白磁など)が輸入されました。それらを目の当たりにした画家や工芸家たちは、創造の翼をアジアへと羽ばたかせます。
さらに画家たちは、大同で雲岡石仏を見て、飛鳥仏との繋がりに想いを馳せました。流行のチャイナドレスにも目を留め、アジアの新しい息吹も掬(すく)いとりました。
アジアへの憧れは、1960年頃に表舞台からフェードアウトしますが、その後どのように深化されているのでしょうか。新館ギャラリーでは、3人の現代作家に表現していただきました。

展覧会の構成(展示総数は約100点)
Ⅰ アジアへの再帰
 雲岡石仏との遭遇(川端龍子、杉山寧)
 チャイナドレスの婦人(岡田謙三、藤島武二、安井曾太郎)
 静物画のなかのアジア(岸田劉生、前田青邨、バーナード・リーチ)
Ⅱ 古典復興
 古代青銅器と工芸モダニズム(岡部嶺男、香取秀眞、高村豊周、豊田勝秋、津田信夫)
 生きのびる中国陶磁器(石黒宗麿、北大路魯山人、富本憲吉)
 (1)黒釉褐彩 (2)白地黒花 (3)五彩
 籐籠と竹籠(飯塚琅?齋)
 李朝白磁と民藝運動(河井寛次郎)
 文様から装飾芸術へ (髙野松山、増田三男、松田権六、石黒宗麿、北原千鹿)
 (1)走獣文 (2)唐三彩と斑文 (3)魚文
Ⅲ 幻想のアジア
 岡村桂三郎(画家)  田中信行(漆芸家)  山縣良和(デザイナー)


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光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わり、髙村家を継いだ光雲三男、鋳金分野の人間国宝、髙村豊周の作品が展示されています。

豊周の作品は、今月初めまで群馬県立近代美術館さんで開催されていた「没後70年 森村酉三とその時代」展にも出ていましたが、意外としっかり観られる機会は多くありません。

他に光太郎と交流のあった藤島武二、安井曾太郎(有名な「金蓉」)、岸田劉生、バーナード・リーチ、豊周の師・津田信夫らの作品も並んでいます。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

それ故、氏の彫刻には、ただ見た眼に好ましいとか、流麗であるとか、典雅であるとか、手馴れてゐるとかいふやうな効果だけを追つて満足してゐる様子は見えず、絶えず求めるものを実質的に追求してゐる態度が見えた。

散文「彫刻家建畠大夢」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳



建畠大夢は、東京美術学校彫刻科での光太郎の後輩に当たります。年齢的には光太郎の方が3歳年下でしたが、建畠は大阪医学校や京都市立美術工芸学校などを経てからの編入学でしたので、そうなりました。


子息の建畠覚三も彫刻の道に進み、昭和42年(1967)、最後の高村光太郎賞を受賞しています。

ただ見た眼に好ましいとか、流麗であるとか、典雅であるとか、手馴れてゐるとかいふやうな効果だけを追つて満足してゐる様子は見えず」あたりには、光太郎が目指す彫刻の一つのありかたが示されているように思われます。

智恵子の故郷・福島二本松を後に、次なる目的地、岩手盛岡に向かいました。昭和20年(1945)以後、花巻町およびその郊外旧太田村に足かけ8年暮らしていた光太郎がたびたび訪れた街です。

盛岡駅から路線バスに乗り、たどりついたは中の橋の岩手銀行赤レンガ館さん。旧岩手銀行中ノ橋支店を改装して、各種展示やコンサートなどに使えるイベントスペースとしたものです。東京駅なども手がけた辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司による設計で、国指定重要文化財。明治44年(1911)の竣工ですので、たびたび来盛した光太郎も眼にしているはずの建物です。

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こちらでは、11月2日(土)、3日(日)の2日間、「IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)」が開催されていました。

基本、岩手の伝統産業の一つであるホームスパンの、現代作家の方々による展示、即売、製作実演などでした。


建物の趣と相まって、まるで日本ではなくどこか外国のバザールとかマルシェとか、そういった雰囲気でした。

出展されていた工房さんの中には、ともに光太郎と交流のあったホームスパン作家・及川全三やその高弟・福田ハレの流れを汲むところも。


ちなみに一昨日の夜、車を運転中に何の気なしにカーナビテレビのチャンネルをNHK Eテレさんに合わせたところ、生涯教育的な番組「趣味どきっ」が放映中で、何とみちのくあかね会さんが取り上げられていました。自宅兼事務所に帰って調べましたところ現在放映の月曜シリーズが「暮らしにいかすにっぽんの布」ということで、今日も午前中に総合テレビさんでオンエアがありまして、録画予約しておきました。

余談になりますが、この番組では書道を扱った平成27年(2015)の「女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」で光太郎智恵子を取り上げて下さり、少しだけ番組製作のお手伝いをさせていただきました。


閑話休題。で、赤レンガ館さんの一角に、特別展示として、光太郎の遺品である毛布が展示されていました。戦後の光太郎日記に何度か「メーレー夫人の毛布」として記述があり、その方面の専門家であらせられる岩手県立大学盛岡短期大学部の菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織工芸家、エセル・メレの作であることが確認された(ただ、メレ本人のみの作か、弟子の手が入った工房としての作かまでは不明とのこと)ものです。戦前、智恵子にせがまれて購入したと光太郎に聞いた、という証言が残っています。

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以前に一度、所蔵する花巻高村光太郎記念館さんで拝見し、今回は二度めです。

今年2月に、岩手県立大学さんの公開講座として、先述の菊池教授による「高村光太郎のホームスパン」があり、拝聴、また、菊池教授の研究報告「「高村光太郎記念館」所蔵のホームスパンに関わる調査」を拝読、わずかながらご調査に協力させていただき、自分でもいろいろ調べたので、感慨ひとしおでした。

その後、赤レンガ館さんの向かいにある「プラザおでって」さんに移動。こちらで菊池教授の特別講演「高村光太郎のホームスパンを探る!」を拝聴するためです。

おでってさんから見た赤レンガ館さん。いかにも辰野建築です。

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大筋では、2月の講座と同一でしたが、その後、他KIMG3363の専門家の方が現物を見ての感想などが新たに加わり、また、前回は60分だったのが今回は90分と、その分、ボリュームアップしていました。

他の専門家の方、というのがこちら。毛織物作家の大久保芙由子さん。NHKさんで放映中の「鑑賞マニュアル 美の壺」にもご出演された方です。また、本場英国への留学のご経験がおありだそうで、光太郎毛布の作者、エセル・メレとはお会いできなかったそうですが、その流れを汲む作家の人々と交流されたそうです。

今回のレジュメには大久保さんから菊池教授に送られた光太郎毛布の分析的な報告も附されていました。実際にこういったものの制作に従事されている方の視点はさすがと思わせられるものでした。

まとめ的な部分で曰く、

エセル・メイリの作品が、高村光太郎・智恵子夫妻によって選ばれ、長い間身辺に置かれて慈しまれ、彼らの美意識にかない、彼らの生活の一部となりえた貴重なものとして尊重したいと思う。

なるほど。

ところで、「メイリ」とあるのは、「Ethel Mairet」のカタカナ表記が日本では確定していないためです。文献によって「メレ」「メーレ」「メーレー」「メイリ」「メアリー」など、さまざまだそうで。

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当方としては、こうした真に「いいもの」を見極め、身辺に置いて愛用した智恵子や光太郎の審美眼的な部分にも感銘を覚えます。

ちなみに、以前にもこのブログに掲載しましたが、この毛布(と思われるもの)を膝に掛けている光太郎の写真。

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おそらく昭和28年(1953)で、場所は光太郎終焉の地、中野の貸しアトリエです。背後に最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が写っています。菊池教授、今回のご講演ではこの画像もスクリーンに投影してくださいました。

その後、再び赤レンガ館さんへ。菊池教授、大久保さんもいらっしゃり、現物を見ながら「この部分がこうなっている」「この色は××を使って染めている」的な解説を拝聴。ありがたく存じました。


続いて、すぐ近くのニッポンレンタカーさんの営業所で車を借りました。ここから翌日までレンタカーでの移動です。

宿泊は花巻でしたが、その前に、盛岡市内の岩手県立美術館さんへ。現在開催中の「紅子と省三 ―絵かき夫婦の70年―」を拝見。

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共に盛岡出身の画家、深澤省三・紅子夫妻の画業をたどる回顧展です。夕方6時まで開館しているということで、ラッキーでした。

夫妻は共に戦後に開校した岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教壇に立ち、同校にオブザーバーとして関わった光太郎と交流がありました。

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こちらは昭和25年(1950)、盛岡の菊屋旅館(現・北ホテルさん)で開催された光太郎を囲む会食会「豚の頭を食う会」。深澤夫妻も写っているはずです。

この翌日から、雫石にあった夫妻の家に、光太郎はおそらく2泊逗留しました。当方、平成27年(2015)、夫妻のご長男、故・竜一氏のお宅にお邪魔し、その際に光太郎に書いてもらったという宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節を揮毫した書を拝見しました。

さらにその折に詳しくお話を伺ったのですが、竜一氏は東京美術学校彫刻科に在籍されていた昭和18年(1943)、学徒出陣に際し、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を、三人の先輩方と共に訪れ、激励の言葉をもらったそうです。光太郎はその際の様子を、同年、詩「四人の学生」に綴りました。

海軍で各地を転々とされた竜一氏、最終的には人間魚雷「海龍」を擁する特攻隊に配属されたそうですが、出撃命令が出る直前に終戦となり、無事、復員。花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を訪ねられたりもしたそうです。雫石のお宅では、光太郎、好物の一つだった牛乳を一升ほどもがぶ飲みいていたとのこと(笑)。

さらに、紅子の父・四戸慈文は、盛岡で指折りの仕立て職人だったそうで、のちのちまで光太郎が愛用したホームスパンの猟人服(花巻高村光太郎記念館さんで常設展示中)も四戸の仕立てでした。

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さて、夫妻の絵を拝見。

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同じく盛岡の深沢紅子野の花美術館さんを二度訪れたことがあり、夫妻の絵はそちらでも拝見していましたが、油絵の大作をまとめて見るのは初めてでした。

ステレオタイプの表現をするな、と、ジェンダー論者のコワい方々に突っ込まれそうですが(笑)、男性的で雄渾な省三の絵、女性的で細やかな紅子の絵、それぞれに眼福でした。特に紅子の一見油絵に見えない水彩風の優しいタッチで描かれた大きな絵画群が印象に残りました。日本画的な要素も強いな、と感じていましたところ、年譜を見ると紅子は女子美術学校ではじめ日本画に取り組んでいたそうで、なるほど、と思いました。

光太郎との関わりが展示の説明の中に一切無く、その点は残念でしたが、いいものを見せてもらった、という感じでした。

その後、レンタカーを南に向け、花巻へ。以下、明日。


【折々のことば・光太郎】

静かに坐りこんだやうな彫刻作品に対しても、こちらもじつと坐りこんで静かに呼吸すると、呼吸の微動によつて、向ふの彫刻も肩なり胸なりで微かに呼吸してゐるやうに感じる。

散文「埃及彫刻の話」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

特に具象の優れた造型作品に接すると、確かにこう感じますね。絵画でもそうですが、やはり彫刻の方が、3Dである分、この傾向は強いように思われます。

岩手盛岡からイベント情報です。

 IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)

期 日 : 2019年11月2日(土)・3日(日)
時 間 : 10:00~16:00
会 場 : 
岩手銀行赤レンガ館 岩手県盛岡市中ノ橋通一丁目2番20号
料 金 : 無料

岩手には漆器や南部鉄器、ホームスパンなど多くの優れた伝統工芸品があります。本イベントはその 展示や紹介を国の重要文化財である赤レンガ館で開催することによって、伝統工芸品のさらなる認知度の拡大を図るとともに、工芸品を製造・販売する事業者の皆さまの販路拡大の機会としていただくことを趣旨として開催するものです。
入場無料のイベントですので、お気軽に赤レンガ館に足をお運びいただき、歴史ある建築物と岩手が誇る優れた伝統工芸品とのコラボレーションをご堪能くださいますよう、お願い申しあげます。

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特別展示 エセル・メレ工房製作 「高村智恵子が愛した毛布」

高村光太郎の妻・ 智恵子が大切にしたホームスパンの毛布を特別展示。イギリスのエセ ル・メレ工房にて約100年前に作られた作品です。

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特別講演


蟻川喜久子氏(蟻川工房)  11:00-12:00 「使い継ぐ民藝・ホームスパン」
民藝の精神を受け継ぎ、「羊毛の本質を活かす」仕事を続ける蟻川工房。使ってこそのホームスパンと実用の美しさについて伺います。

菊池直子氏(岩手県立大学盛岡短期大学部教授)  13:30-15:00
「高村光太郎のホームスパンを探る!」
特別展示のエセル・メレによるホームスパン、高村光太郎愛用のホームスパンについての調査結果を報告。文献を読み解いて掘り下げます。



花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、光太郎の遺品の中から見つかったホームスパン(羊毛を使った手織り)の毛布。戦後の光太郎日記にも「メーレー夫人の毛布」として何度か記述があります。その方面の専門家であらせられる岩手県立大学盛岡短期大学部の菊池直子教授らの調査により、イギリスの染織工芸家、エセル・メレの作であることが確認されました(ただ、メレ本人のみの作か、弟子の手が入った工房としての作かまでは不明とのこと)。戦前、智恵子にせがまれて購入したと光太郎に聞いた、という証言が残っています。

今年の3月に盛岡で開催された「岩手県立大学盛岡短期大学部 アイーナキャンパス公開講座」の中で、菊池教授が「高村光太郎のホームスパン」という講座をなさり、さらに同大の研究紀要で詳細をご記述。当方、講座を拝聴に伺いました

講座を受講された方などから、ぜひ現物を見たいという声が上がり、今回の特別展示につながったようです。当方、一昨年くらいに現物を手に取って拝見しましたが、非常にしっかりした作りで、保存状態も良く、よくぞ残っていたものだと感じました。

その菊池教授、さらに現花巻市の旧東和町でホームスパン制作に携わり、光太郎と交流のあった及川全三の流れを汲む、蟻川喜久子氏による講演も予定されています。

会場の岩手銀行赤レンガ館さんは、旧岩手銀行中ノ橋支店を改装して各種展示やコンサートなどに使えるイベントスペースとしたものです。明治44年(1911)の竣工、東京駅なども手がけた辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司による設計で、国指定重要文化財です。

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ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

夭折して今は居ない或る若い彫刻の学生が曾て私に心事を語つた。「世の中に立てませんから帝展へはどうにかして出します。其れには帝展の人達がいくら口で否定しても事実として存在する帝展風の彫刻といふものを作ります。さうして特選になます。推薦になるまで辛抱します。推薦になつてしまつたら、思ふ存分自分の為事をやります。どうか長い目で見てゐて下さい」。此れをきいて私は暗然とした。この若者の死んだ事を聞いた時私は涙を催した。

散文「帝展の彫刻について 四」より 大正14年(1925) 光太郎43歳


当時のアカデミックな公設展覧会のありようが象徴的に示されています。現在ではこういうこともないのでしょうが……。


光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周の作品が出ます。

没後70年 森村酉三とその時代

期 日 : 2019年9月21日(土)~11月10日(日)
会 場 : 群馬県立近代美術館 群馬県高崎市綿貫町992-1 群馬の森公園内
時 間 : 午前9:30~午後5:00
料 金 : 一般:820(650)円、大高生:410(320)円 
       (  )内は20名以上の団体割引料金
       中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料
       県民の日(10/28)に観覧される方は無料
休館日 : 月曜日(9月23日、10月14日、28日、11月4日は開館)、
      9月24日、10月15日、11月5日

 群馬県出身の鋳金工芸家、森村酉三(1897-1949)は、東京美術学校で学んだ技術を生かし、植物文や花で飾られた花瓶を制作、鳥や動物をモチーフとしたモダンな作品で帝展や文展に入選を重ねる傍ら、人物の胸像では、穏やかな写実表現により、モデルの在りし日の姿が偲ばれる作品を多く制作しました。また、高崎の白衣大観音像の原型を手がけたことでも知られています。戦時中の供出により失われた大型作品や、終戦後まもなく病に倒れて亡くなってから時が経過し、所在がわからなくなった作品も多くあります。本展では、森村の作品をできる限り集め、東京美術学校の師・津田信夫や先輩・高村豊周など同時代に工芸の革新を目指した鋳金家たちの活動とともに紹介することで、美術史の中にその足跡を位置付けることを試みます。

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関連事業

シンポジウム「高崎白衣大観音の謎に迫る」 開催日時:9月29日(日)  
 登壇者:手島仁(森村酉三、寿々研究者・前橋学センター長)
     塚越透(井上保三郎、房一郎研究者・元井上工業社員)
     田口正美(群馬歴史散歩の会編集委員・元小学校長)
     神尾玲子(当館学芸員)
 
講演会「鋳物師か?鋳金家か?-彫像作品制作をめぐって」 開催日時:10月6日(日)
 講師:本橋浩介(佐倉市立美術館副主幹・学芸員)
 
講演会「森村酉三の生きた時代-津田信夫と依嘱制作」 開催日時:10月14日(月・祝)
 講師:中松れい(千葉県立美術館学芸課長)  

※各日とも14:00~15:30 当館2階講堂 申込不要・聴講無料(先着200名)

学芸員による作品解説会 開催日時:10月23日(水)、11月2日(土)14:00~15:00 
 会 場:展示室1  申込不要、要観覧料


森村酉三は明治30年(1897)生まれ。東京美術学校鋳金科に学びました。鋳金だけでなく彫刻も手がけ、高崎白衣大観音像の原型制作者としても知られています。

豊周は森村の7歳年上。美校鋳金科の先輩にあたります。ただ、豊周は森村の作品をあまり高く買っていなかったようで、『髙村豊周文集』(文治堂書店)には、けっこう手厳しい評が載っています。

豊周の作品については、こちら

豊周以外に、豊周の師でもある津田信夫、豊周の助手を務めたこともある丸山不忘、豊周と共に光太郎の盟友・碌山荻原守衛の絶作「女」の鋳造に携わった山本安曇など、関連作家の作品も並びます。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ああ此の我家 根の高い四角な重たい我家 小さい出窓のまつ赤にひかる我家 夏の朝の力にひそむ我家 貧しい我家のたまらなく貴い朝だ

詩「我家」初出形より 大正5年(1916) 光太郎34歳

初出は雑誌『感情』でしたが、昭和6年(1931)春陽堂刊行の『明治大正文学全集第三十六巻 詩篇』に収められた際、大幅に改訂され、上記部分を含む第二連がばっさりカットされました。

智恵子との結婚披露から約2年、貧しくも充実した日々を送っていた頃の「我家」。のち、『詩篇』が刊行された昭和6年(1931)には智恵子の心の病が顕在化し、上記部分などは自身で読むに堪えないという感覚だったのでしょうか。

本日発売です。

リーチ先生

2019年6月21日 原田マハ著 集英社(集英社文庫) 定価880円+税

日本の美を愛した英国人陶芸家の生涯。アート小説の旗手が贈る感動の物語! 

明治42年、来日したバーナード・リーチ。柳宗悦、濱田庄司ら日本人芸術家との邂逅と友情が彼の人生を突き動かしていく。

第36回新田次郎文学賞受賞作。


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『リーチ先生』、平成25年(2013)から、『信濃毎日新聞』さん等に連載され、上製の単行本としては平成28年(2016)にやはり集英社さんから刊行されました。単行本刊行時に出た書評がこちら。そろそろ文庫化されるだろうと待ちかまえておりました(笑)。

架空の(モチーフは存在しますが)陶芸家・沖亀乃介を語り手とし、「先生」である英国人陶芸家バーナード・リーチの美を追い求める姿が生き生きと描かれています。

リーチは光太郎より4つ年少の明治20年(1887)、香港の生まれです。幼少期に京都で暮らしていたこともあり、長じて日本文化に興味を持ち、明治41年(1908)、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、来日の意志を固めました。そして日本で出会った陶芸を生涯の道と定め、白樺派の面々らの協力の下、日本と母国を行き来しながら、英国伝統の陶器・スリップウェアの伝承などに力を注ぎました。

そこで小説には光太郎、父・光雲、実弟・豊周も登場します。おおむね史実に沿った内容です。

作者の原田さん、この『リーチ先生』で、平成29年(2017)には第36回新田次郎文学賞を受賞されています。また、『リーチ先生』ではありませんが、近作『美しき愚かものたちのタブロー』で、次回直木賞候補にエントリーされています。

ちなみに『リーチ先生』、平成30年度の埼玉県公立高等学校入試の問題文にも採用されました。ちょうど光太郎も登場するシーンでした。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

是は白耳義詩人ヹルハアランの愛詩である。あの男性的な詩人にとつて恋愛は宗教であつた。崇高な心の飛揚であつた。不可知への没入であつた。心の深さがあらゆる美しい詩句の背後に響いてゐる。

雑纂「訳書広告 ヹルハアラン詩集「明るい時」」より
 大正10年(1921) 光太郎39歳

010ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンは、画家であった妻マルト・マッサンとの愛の日々を、詩集『明るい時』(明治29年=1896)、『午後の時』(明治38年=1905)、『夕べの時』(明治44年=1911)の三部作にまとめ、刊行しました。光太郎はこのうち『明るい時』と『午後の時』を翻訳、前者は単行書として刊行、後者は昭和16年(1941)の『仏蘭西詩集』、同18年(1943)の『続仏蘭西詩集』に、他の訳者の作品とともに寄稿しています。

いわば『智恵子抄』ベルギー版。こちらの方が先ですが。おそらく折に触れて智恵子に関する詩篇を書き続けた光太郎、ヴェルハーレンの「時」三部作を念頭に置いていたと考えられます。上記ヴェルハーレン評も、そのまま光太郎自身のことのように感じます。

アートオークション大手の毎日オークションさん。時折、光太郎や光太郎の父・光雲関連が出品されます。

6月8日(土)開催の「第608回毎日オークション 絵画・版画・彫刻」では、光雲の作が出ます。 

第608回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

日  程 : 2019年6月8日(土) 10:30~
下 見 会  : 2019年6月6日(木)・6月7日(金) ともに10:00~18:00


光雲の作、まずは木彫の「恵比寿・大黒天」。

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弟子の手が入った工房作ではないようですし、2体一組ということもあり、予想落札価格がかなりの額になっています。


同じく木彫で、「大聖像」。

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同一図題の作品が昨年も出品されましたが、別物のようです。「大聖」は孔子のことで、光雲が好んで彫ったモチーフでもあり、各地の美術館さんにも類似作が収められています。


続いて、木彫原型から抜いたブロンズ。まずは「慈母観音」。

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光雲と縁の深かった、東京駒込の金龍山大圓寺さんに、よく似た木彫の慈母観音像が寄進されています。類似作から型を取って鋳造したもののようです。光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった髙村豊周による鋳造とのこと。

先月、智恵子の故郷、福島二本松に行った折、この手の作品をお持ちだという方に写真を見せていただきました。そちらは「養蚕天女」でした。木彫のものは大小2種、宮内庁三の丸尚蔵館さんに納められていますが、ブロンズのものが流通していたりするのですね。


さらに、やはりブロンズの「恵比寿大黒天」。

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こちらは誰の鋳造ともわからず、欠損部分もあるようなので、あまり高い値段は付かなそうです。


いつも書いていますが、然るべき所に収まって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

モデルを眼の前に見ながら、それがどうしても分らない。いはば徹底的にモデルの中に飛びこめない。一体になれない。自分の彫刻とモデルとの間の関係がどうしても冷たい。ロダンの彫刻にあるような、あの熱烈な一体性が得られない。動物園の虎の顔をいくら凝視しても虎の気持ちが分らないやうに、モデルの内面が分らない。

散文「モデルいろいろ2 ――アトリエにて7――」より
 昭和30年(1955) 光太郎73歳

遠く明治末、パリでの体験の回想です。

留学前、日本では彫刻のモデルは職業として確立して居らず、周旋屋のような老婆が手当たり次第に金銭的に困っている人などをスカウトして美術学校へ派遣していました。したがって、体格も貧弱だったり、途中で勝手に来なくなってしまったりと、さんざんだったようです。

その点、留学先、特にパリでは、さまざまな美しい職業モデルと接することができました。しかし、畢竟するに、生きて来た文化的背景の違いから、西洋人の内面を真に理解することは不可能という思いにとらわれます。モデルの指の動き一つとっても、どういう意味があるかさっぱり分からないとか……。光太郎のフランス語会話力には問題ありませんでしたし、コミュ障的な部分があったわけでもありませんでしたが……。ただ、逆に言うと、表面的なつきあいのみで、西洋人を真に理解したつもりでいた輩よりは真摯な悩みだったといえるでしょう。光太郎、結局、10年の留学予定を3年半ほどに縮め、帰国の途につきます。

ディスるわけではありませんが、光雲ら、光太郎より前の世代の彫刻家たちには、光太郎のこうした悩みそのものが理解不可能だったことでしょう。

5月15日(水)、第62回高村祭に出席のため、光太郎第二の故郷ともいうべき花巻郊外旧太田村に行って参りまして、ついでというと何ですが、高村光太郎記念館さんの別館的な森のギャラリーで開催中の「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」を拝見して参りました。

まずは5月14日(火)、記念館さんの職員の方にご案内いただき拝見、さらに翌日、高村祭に出演なさったシャンソン系歌手・モンデンモモさんと舞踊家の増田真也さんをご案内。

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森のギャラリーは、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館です。現・高村光太郎記念館さんの方で展示しきれない収蔵品や、地元の方々の作品等の展示、時にはワークショップ的な活動、市民講座等でも活用されています。

で、現在は地元ご在住、多田民雄氏のポスター作品、安部勝衛氏の陶芸・書作品の展示がメインです。看板的な書も安部氏が揮毫。

「美しきものみつ」というのは、光太郎が好んで揮毫した短句。「この世界には美しいものが満ちている」的なニュアンスです。「み」を変体仮名的にカタカナの「ミ」とした揮毫もあり、それを漢字の「三」と誤読、「美しきもの三つ」と勘違いし、「三つのうちの一つは○○、次は××……」と、むちゃくちゃな解釈がされる場合があり困っているのですが……。

多田氏のポスター作品。最近の作品なのですがレトロ感が溢れています。

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展示作品を元にしたポストカードも作成されていました。記念館さんで販売中です。

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モチーフは、戦後の7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)です。正確に言うと、その套屋(カバーの建物)で、農家の納屋風のこの建物の中に、光太郎の山小屋が保存されています。イメージとしては中尊寺金色堂のような保存法です。

安部氏の書。光太郎の詩句等から言葉を選んで書いて下さっています。下の方には陶芸作品も。

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過日、その存在が報道された、光太郎遺品のホームスパン毛布。世界的に有名なイギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)の作と確認された逸品。ただし現物ではなく、画像をロール紙にプリントアウトしたものです。目に入った瞬間は本物かと見まがいましたが。

以前にも書きましたが、大正末か昭和初め、メレの作品展が日本で開催された際、智恵子にせがまれで購入したと、この地でホームスパン制作に従事していた女性が光太郎から聴いたとのことです。

昭和20年(1945)、東京(4月13日)と花巻(8月10日)で2回の空襲に遭った光太郎ですが、この毛布、奇跡的にその難を回避しました。

ちなみに下の方は、記念館スタッフの方のご自宅にあったという糸車と糸。直接光太郎に関わるものではありませんが、このあたりでこうしたものが使われていたということでの展示です。

来年度あたり、記念館さんの方で、こちらにまつわる企画展示を行うという計画が進行しているようです。ぜひ実現してほしいものです。

記念館さんの企画展といえば、昨年開催された「光太郎と花巻電鉄」の際に、品川在住のジオラマ作家・石井彰英氏に制作していただいた、昭和20年代花巻町とその周辺のジオラマ。現在も記念館さんで展示中です。

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モンデンモモさんと増田真也さんをご案内して登った智恵子展望台。山荘裏手です。ここから光太郎が夜な夜な「チエコー」と叫んでいたという伝説が残っています。

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いちめんの新緑と、赤いのはツツジ。「山青くして花然(も)えんと欲す」ですね。この日はあいにくの雨模様でしたが、晴れた日には抜群の展望でしょう。


森のギャラリーでの「美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―」は、5月26日(日)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

あれは智恵子といふ純真な女性に接したいろいろな時期にまつたく唯夢中で書いたもので、それを愛の精神とおよみ下すつた事をありがたく思ひます。ほんとに高い愛といふものこそ此の厳しい人生に真に人間を人間たらしめるものでございませう。

ラジオ放送「たのしい手紙」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

文京区在住だった松林忠という人物(詳細が不明です)からの書簡に対しての返信が、おそらくそのままラジオで放送されまして、その一節です。

「あれ」は『智恵子抄』。光太郎自身、智恵子に対する愛情がそうだったとは書いていませんし、光太郎が実践できていたかもあやしいのですが、「ほんとに高い愛」……言い換えれば「無私の愛」とでもいうことになるのでしょうか。

世間的には明日から10連休だそうで。ゴールデンウィーク中に始まるイベントを一つ。 

美しきものみつ―光太郎と智恵子の息吹―

期 日 : 2019年5月3日(金・祝)~5月26日(日) 期間中無休
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 森のギャラリー  岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 10:00~15:00 
料 金 : 大人200円(150円)学生・生徒・児童150円(100円)
         高村光太郎記念館は別途料金

光太郎はこの地を文化の発信地にしようとしていました。自分を取り巻く自然すべてのものが美に満ちていると語っています。
新緑の季節、光太郎さんぽ道で草花を愛でながら、光太郎と智恵子の息吹を感じてみませんか?
≪展示内容≫ 多田民雄 ポスター作品、安部勝衛 陶芸・書作品

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光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)の傍らに建つ花巻郊外旧太田村の「森のギャラリー」は、昭和41年(1966)竣工の旧高村記念館の建物です。こちらは平成25年(2013)に、近くの歴史民俗資料館だった建物が新たな高村光太郎記念館として仮オープングランドオープンは平成27年=2015)するまで、展示に使用されていました。

その後しばらく倉庫として使われていましたが、一昨年から記念館の別館のような扱いで、記念館に展示しきれないものの展示や、地元の皆さんの作品展、市民講座やワークショップなど、幅広く活用されています。

今回は、地元の画家・多田民雄氏と、陶芸家の安部勝衛氏の作品が展示されます。

多田氏は昨年、旧太田村にほど近い花巻市円万寺地区のギャラリーBunさんでポスター展を開かれています。その際は高村光太郎記念館をモチーフにした作品も出品されたとのこと。今回も、高村山荘が描かれている作品などが出るようです。

また近くなりましたら改めてご紹介しますが、5月15日(水)には、高村山荘敷地内で、毎年恒例の「高村祭」が開催されます。当方、その際にお邪魔するつもりで居ります。

皆様も、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

子供の頃たべつけた物はいつまでもなつかしく、今日でも飲屋などで畳み鰯を焼いてくれると心がしんみりする。

散文「子供の頃の食事など」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この項、しばらく前から花巻郊外旧太田村の山小屋で書かれた戦後の作品を紹介してきましたが、今日のみ戦前の作品に戻ります。

この項、筑摩書房版『高村光太郎全集』を底本に、その掲載順に言葉を拾っています。同全集は、詩、評論、随筆、日記、書簡、翻訳などにわけ、ほぼ年代順に並べるスタイルですが、昭和30年代の初版刊行時に執筆時期が不明だった作品もあり、あるべき場所でないところに置かれている作品もあり、これもその一つです。

先月、盛岡市で岩手県立大学さんの短期大学部・菊池直子教授による公開講座「高村光太郎のホームスパン」拝聴して参りましたが、その発表の元となった内容が、同大の『研究論集第21号』に掲載され、菊池氏がその抜き刷りを送って下さいました。

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先月のご発表にても紹介されたとおり、光太郎とホームスパン(羊毛による手織りの織物)との関わり、主に2点についての調査結果がまとめられています。

まず1点。花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されている、光太郎の遺品である大判の毛布が、世界的に有名な染織家であるエセル・メレ(あるいはその工房)の作だとほぼ断定できるということ。光太郎の日記に「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回あり、また、実際にそれを見せられた岩手のホームスパン作家・福田ハレの回想にもその旨の記述があります。福田は及川全三という名人の弟子でした。

先月の発表ではその画像がなかったように記憶しておりますが、日本国内に残る他のメレ作品との比較が為されており、なるほど、よく似ています。左が光太郎遺品、右がアサヒビール大山崎山荘美術館さんに収められているものです。

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単にデザイン的な部分だけでなく、折り方の特徴などからも、メレ(あるいはその工房)の作とみて間違いないそうです。

過日も書きましたが、大正末から昭和初めに日本で開催されたメレの作品展の際、智恵子にせがまれて光太郎が購入したと語っていたと、福田の回想にあります。昭和20年(1945)の空襲の際には、事前に防空壕に入れておいて無事だったようです。

ちなみに光太郎がこの毛布(と思われるもの)を掛けている写真を見つけました。

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おそらく昭和28年(1953)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、借りていた中野のアトリエで撮られた1枚。昭和31年(1956)に筑摩書房さんから刊行された『日本文学アルバム 高村光太郎』に掲載されています。モノクロなので色がわかりませんが、柄からみて間違いないでしょう。


もう1点。昭和25年(1950)にオーダーメイドされた、光太郎愛用の猟服(光太郎の記述では「猟人服」)について。こちらは花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。やはりホ-ムスパン地で、織りは福田、仕立ては光太郎と交流の深かった画家の深沢紅子の父・四戸慈文。四戸は盛岡で仕立屋を営んでいました。

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光太郎がこれを着て写っている写真はけっこうあります。

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左は宮沢賢治の親友だった藤原嘉藤治(中央)も写っています。右は昭和27年(1952)に再上京した上野駅で。当方、国民服的なものだと思いこんでいましたが。

この服についても詳細な考察が為されています。以前にも書きましたが、背中一面に巨大なポケットが付いていて、スケッチブックも入れられるという優れものです。

それから、現存が確認できていないのですが、光太郎は外套も注文しています。下の画像は昭和26年(1951)、当会の祖・草野心平と撮った写真。時期的に見て、これがそうなのかな、という気がします。

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岩手では現在も、及川や福田の系譜に連なる方々がホームスパン制作に取り組んでいます。いずれ花巻高村光太郎記念館さんあたりで、光太郎とホームスパンに関わる企画展示など、開催してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。
散文「智恵子の半生」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

この年の『婦人公論』に発表(原題「彼女の半生――亡き妻の思ひ出――」)され、翌年の詩集『智恵子抄』にも収められました。そもそも詩集『智恵子抄』の成立は、この文章を読んで心を打たれた出版社龍星閣主・沢田伊四郎が、智恵子に関する詩文を集めて一冊の本にしたい、と提案したことに始まります。

まだ太平洋戦争開戦前ですが、それにしても、「大君の愛」と「一人の女性の底ぬけの純愛」を同列に扱うとは、大胆です。不敬罪でしょっぴかれたり、発禁になったりしても不思議ではありません。そうならなかった裏には、光太郎と交流があり、敬愛していた詩人の佐伯郁郎が内務省警保局の検閲官だったことがあるような気がしています。


明日、4月2日は、光太郎63回目の命日・連翹忌です。光太郎第二の故郷・花巻では午前中に光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内で詩碑前祭、午後から市街の松庵寺さんで連翹忌法要。そして東京日比谷公園松本朗様では、午後5:30から当会主催の連翹忌の集いが開催されます。光太郎智恵子、そして二人に関わった全ての人々に思いをはせる日としたいものです。

先ほど、盛岡から帰って参りました。

岩手県立大学さんの公開講座「高村光太郎のホームスパン」を拝聴しましたので、レポートいたします。

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会場は盛岡駅前の複合施設・いわて県民情報交流センター アイーナ内の同大アイーナキャンパス。

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いい天気でしたが、盛岡市民の皆さんのソウルマウンテン・岩手山は少し雲がかかっていました。

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講師は同大教授の菊池直子先生。何と、日本女子大学家政学部のご出身だそうで、もろに智恵子の後輩に当たられます。

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同大の研究紀要に論文としてご発表なさる(近日中に刊行)そうですが、昨日はその骨子となる2点について、ご発表されました。

ホームスパンとは、現在も岩手で継承されている羊毛を使った織物で、光太郎とホームスパンの関わりが2点あり、服飾の専門家としてのお立場から、それぞれを丁寧にご説明下さいました。

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まず1点。「ホームスパンの毛布」。

戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までの丸7年間、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に逼塞していた光太郎、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京しました。翌28年(1953)、像の完成序幕後、一時的に村に帰ったものの、宿痾の肺結核でもはや身体はボロボロ、東京で療養せざるを得なくなり、結局、同31年(1956)に中野の貸しアトリエで亡くなりました。

光太郎歿後、中野にあった遺品の大半が花巻高村光太郎記念会さんに寄贈され、その中に、ホームスパンらしき毛布というか、膝掛けというか、大きな布が1枚、含まれていました。永らく箱に入ったまま収蔵庫にしまわれていて、その存在に気づいたのが平成28年(2016)。これはホームスパンではないか、ということで、当時の光太郎日記などを当たってみると、「メーレー夫人の毛布」という記述が複数回ありました。

「メーレー夫人」というのは、イギリスの染織家エセル・メレ(1872~1952)。ファーストネームの「エセル」は統一されていますが、ファミリーネームの方は文献によって「メレー」「メーレ」「メイレ」「メーレー」「メレ」「メアリー」など、さまざまです。外国語を無理矢理カタカナにする際、よくある話です。

メレは世界的に有名な染織家だったそうで、伝統的な手工芸が滅びつつあることに危機感を抱き、いわゆるアーツ・アンド・クラフツ運動にも関わったとのこと。そして、陶芸の分野でアーツ・アンド・クラフツを進めていたバーナード・リーチ、さらにリーチ経由で日本の民芸運動の濱田庄司とも交流があったそうです。リーチといえば、明治40年(1907)に、ロンドン留学中の光太郎と知り合い、それがきっかけで来日した人物です。濱田も光太郎とつながっています。

そしてメレは、リーチとのつながりから、来日はしなかったものの、大正15年(1926)と昭和3年(1928)の2回、日本で作品展を開きました(1回目はリーチとの2人展)。そのいずれかの折に、会場の鳩居堂画廊を訪れた光太郎が、メレの作品を購入したと、岩手でホームスパン制作に携わっていた福田ハレという女性が光太郎本人から聞いたと回想文に書いています。しかも、それは一緒に見に行った智恵子が欲しがったため、とのこと。

こちらがその毛布(というか膝掛けというか)。

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当方も以前に実物を見せていただいたのですが、モダンなデザインの中にも温かみが感じられ、しっかりした作りでしかも大きく、いろいろ使いでがありそうだと思いました。

菊池先生、そしてメレに関するご著書もある染色工芸家の寺村祐子氏が鑑定した結果、メレ作品の特徴が随所に表れており、メレ本人、或いは弟子がたくさんいたとのことで、メレ工房の作と断定していいだろう、ということだそうです。

昭和20年(1945)、空襲で亡き智恵子と過ごした光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰しましたが、その前に布団類などは防空壕に入れていたと、光太郎の随筆に記述があり、おそらくこれもその中に入っていたのだろうと思われます。ものがいいものであるということと、智恵子が欲しがって買ったという話が事実なら、智恵子との思い出の品、という部分もあるわけですね。

現在、日本国内には確認できているメレの作品というのは数点しかないそうで、そういう意味でも実に貴重なものです。


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もう1点は、現在も花巻高村光太郎記念館さんに常設展示されている光太郎愛用の服。こちらは来歴もはっきりしており、やはり花巻郊外旧東和町でホームスパン制作に携わっていた、及川全三の弟子だった福田ハレが織ったホームスパンで、仕立ては盛岡の名テーラー・四戸慈文です。ちなみに四戸は、光太郎と交流の深かった画家・深沢紅子の父だそうです。光太郎が「猟人服」を作ってくれ、と頼んだそうで、その際、とにかくポケットをたくさんつけてくれという注文だったとのこと。それは昭和37年(1962)に筑摩書房から刊行された佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』という、花巻周辺の人物の証言集的な書籍に記述があります。

光太郎曰く「この服を着ればカバンも要らず風呂敷も要らず、大きなスケッチブックも入れば文具箱も入り、手さげ鞄に入れる位はみなおさまる服にしてもらいたい」。さすがにスケッチブックは無理だろう、と思っていたのですが、菊池先生がこの服を調べてみると、何とまあ、後ろ身頃が巨大なポケットになっていて、本当にスケッチブックが入るというのです。これには驚きました。

光太郎は山小屋のあった太田村の村おこし的なことも常々考えており、その一環として、ホームスパン制作を村に根付かせようと、あれこれ画策したそうです。その甲斐あって、一時はホームスパン制作が行われましたが、残念ながら技術を学んだ娘さんが北海道に転居してしまったりで、太田地区のホームスパンは途絶えてしまいました。

しかし、及川の系譜の人々が盛岡や旧東和町などに健在で、岩手県としては今でもホームスパン制作が続いています。

話は戻りますが、そういう土地で、世界的に有名なメレ夫人の作が新たに発見されたということの意義も大きいですね。

いずれ、花巻高村光太郎記念館さんの方で現物の公開が期待されるところです。

そういうわけで、実に興味深い講座でした。

今日も今日とて公開講座に行って参ります(笑)。いわき市立草野心平記念文学館さんの「冬の企画展 草野心平の居酒屋『火の車』もゆる夢の炎」の関連行事で、「居酒屋「火の車」一日開店」。料理研究家の中野由貴さんが講師です。「衣・食・住」のうち、昨日は「衣」、今日は「食」です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。

散文「智恵子の切抜絵」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

心を病んだ智恵子が、入院先のゼームス坂病院で作った紙絵(「紙絵」と光太郎が命名するのは戦後)は、メレ夫人の毛布のように防空壕に入れて置いたのではなく、茨城、山形、そして花巻の3ヶ所に疎開させ、それで無事に残りました。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

岩手盛岡から、市民講座の情報です。
会 場 : 岩手県立大学アイーナキャンパス学習室4
      いわて県民情報交流センター(アイーナ)7階 
盛岡市盛岡駅西通1丁目7-1
時 間 : 11:00~15:30
料 金 : 無料

内 容 : 
①11:00~12:00 文化の講座民藝運動と昭和恐慌期の東北農村社会:ある知的交差の素描
  講師 :三須田 善暢(国際文化学科)
②13:00~14:00 生活の講座Ⅰ「高村光太郎のホームスパン」
  講師 :菊池 直子(生活科学科 生活デザイン専攻)
③14:30~15:30 生活の講座Ⅱ「嚥下が困難な人の食事 とろみ材とゼリー材の利用も含めて」
  講師 :加藤 哲子(生活科学科 食物栄養学専攻)

定  員 : 各30名 事前申し込みが必要です。
        申込期間は平成31年2月8日(金)~3月8日(金)(定員に達し次第終了)

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「ホームスパン」とは、明治時代に日本に入ってきた羊毛を使った織物。イギリスが発祥の地です。コートやジャケットなどの生地として、主に東北や北海道などの寒冷地で作られるようになりました。柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、濱田庄司などの白樺派の面々がこよなく愛したそうです。

岩手では、花巻郊外旧東和町(現・花巻市東和町)に居を構えた及川全三という人物が、ホームスパンの普及に努め、現在も盛岡などで及川の流れをくむ人々がその灯を守っています。及川は上京していた昭和の初めに、やはり光太郎と交流のあった柳宗悦の影響で、民芸運動、そしてホームスパンの魅力にとりつかれ、教職を辞してこの道へ進んだそうです。

光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村にも、及川の指導でホームスパンを作っていた村民がいて、村の振興にも関心を寄せていた光太郎が興味を示し、その技術を広める手助けをしようとしたり、実際に服を作ってもらったり、及川の工房を訪ねたりしました。

下の画像は、花巻高村光太郎記念館で展示されている、ホームスパンによる光太郎の服。オーダーメイドです。
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このあたりのお話は出るでしょう。

それから、光太郎とホームスパンのつながりは、もう1点。その件についてもいろいろ情報を得ているのですが、今回の講座でどの程度その話が出るかというところでして、あまり詳しく書くとフライングだと怒られそうですので、また講座終了後にレポートします。

というわけで、他の用件もあり、久々に(といっても半年ぶりくらいですが)盛岡、そして花巻に行って参ります。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

丁度イタチを彫刻に木彫にしようかと思つて居たので、よく注意して観察したが、彫刻にはテンの方がいいと思つた。イタチではまだ丸すぎる。カハウソのやうな短い圓い口もとは愛嬌があるが、どうも少し中途はんぱで、ずばぬけた霊気に乏しい。

散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

駒込林町のアトリエ件住居の庭に現れたつがいのイタチを見ての感想です。光太郎によれば、桃は彫刻になるがリンゴはだめで、蝉も彫刻になるけれどカマキリはならない、とのことです。同様に、テンはよくてもイタチは不可。どういう基準なのか、実際に実作に当たっている造形作家の方の意見を訊いてみたいものです。

ちなみに当方自宅兼事務所の近所でも時々イタチを見かけます。たいがい愛犬との散歩中で、U字溝のコンクリート製のふたとふたの間、台形の隙間から現れて、当方と犬に気づくとまた戻っていきます。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら

一昨年、日本橋の三井記念美術館さんで始まり、岐阜県現代陶芸美術館さん、山口県立美術館さん、富山県水墨美術館さんを巡回した展覧会の最後の開催地、大阪での開催です。うっかりご紹介するのを失念しており、始まってしまっています。

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これまでの巡回各館同様、光太郎の父・高村光雲の木彫「布袋像」が出品されています。他の出展作はこちら。七宝の並河靖之・濤川惣助のダブルナミカワ、牙彫には安藤緑山、陶芸に宮川香山、木彫では光雲の朋友・石川光明など、人気作家がズラリ。さらに現代作家による超絶技巧の作も多数。  

驚異の超絶技巧! 明治工芸から現代アートへ

期 日 : 2019年1月26日(土)~4月14日(日) 
会 場 : あべのハルカス美術館  大阪市阿倍野区阿倍野筋1-1-43 あべのハルカス16階
時 間 : 火~金 10:00~20:00   月土日祝 10:00~18:00
料 金 : 一般 1,300(1,100)円  大学・高校生 900(700)円
      中学・小学生 500(300)円 ( )内団体料金
休 館 : 2月18日(月)、3月4日(月)、18日(月)

本物と見まがう野菜や果物、自在に動く動物や昆虫、精緻な装飾や細かなパーツで表現された器やオブジェ…。近年注目の高まる明治工芸と、そのDNAを受け継ぐ現代の作家たちによる超絶技巧の競演をご覧いただきます。人間の手が生み出す奇跡のような技術に加え、洗練された造形センスと機知に富んだ、驚異の美の世界をお楽しみください。

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関連行事

超絶!フォトジェニック・ナイト 2月16日(土)・3月16日(土) 各日 18:00~20:00

閉館後の展示室内で自由に写真撮影ができます。気に入った作品とコラボした超絶フォトで、狙おう、インスタ映え!  ※本展観覧券が必要です。ストロボ、三脚や自撮り棒などのご使用はご遠慮ください。
  

ハルカス大学連携講座「金属に託す瞬間の美 超絶技巧への挑戦」 2月17日(日)14:00~15:00

本展出品作家で、蒲公英(たんぽぽ)や桜などの繊細で儚い自然を金工で表現する、若き超絶技巧の担い手、鈴木祥太さん。制作にかける想いと、技の秘密を語っていただきます。 
 講 師  鈴木 祥太氏(本展出品作家、金工)
 会 場 あべのハルカス23階 セミナールーム
 定 員  40名(事前申込制、先着順)
 聴講は無料ですが、本展観覧券(半券可)が必要です。
お申し込みは、ハルカス大学webサイト(
http://harudai.jp/)、お電話(06-6622-4815)、もしくはハルカス大学受付(あべのハルカス23階キャンパスフロア)にて承ります。定員になり次第締め切ります。
 

スペシャル・トーク「日本美術応援団 驚異の超絶技巧を応援する! in 大阪」 2月17日(日)14:00~15:30

本展監修者で「日本美術応援団」団長の山下雄二氏と、団員の山口晃氏(美術家、本展チラシ挿画担当)が、熱き超絶技巧愛を語る!展覧会が100倍面白くなる対談です。
 出 演 山下裕二氏(本展監修者、明治大学教授)  山口晃氏(美術家)
 会 場 あべのハルカス25階 会議室   定 員 270名
 聴講料 1,500円(一般観覧券とオリジナルポストカード付き・税込)
※トークチケットは、11月16日(金)~1月25日(金)まで、下記にて販売します。定員に達し次第終了。ポストカードは当日会場にてお渡しします。【チケット販売所】ローソンチケット(Lコード:53513)

 
この他に、2月6日(水)には出展作の多くを所蔵されている清水三年坂美術館さんの村田理如氏の講演もありました。


「超絶技巧」系、数年前から人気のジャンルで、またいずれ同様の企画が組まれるような気がしますが、今回のものはこの大阪展が最後となります。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

私は緑色を好む。それで紺青の空と海とに挟まれた陸上の濃緑色の展望を見て喜ぶ。
散文「三陸廻り 十 宮古行」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

十回にわたって『時事新報』に連載された「三陸廻り」の最終回から。釜石の先にあるオイデ崎付近の海上を行く船から、リアス海岸の岸壁に密生する広葉樹の原生林を見ての感懐です。

若き日の智恵子がエメラルドグリーンを好んだのは比較的有名な話ですが、光太郎も緑色が好みだったのは意外といえば意外でした。もっとも、ここで言う緑色は、色としての緑というより、大自然の象徴としての樹木という意味なのかもしれません。

たまたまネットで見つけまして、早速購入しました。来年のカレンダーです。

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手すき和紙 MINOGAMI きよこハウス」さんという工房の製品で、「前向きことばーやる気が出る名言ー」というタイトルです。

手漉きの美濃紙製で、縦ほぼ47㌢、横おおむね15㌢。手漉きということで、1枚の大きさが微妙に異なっていまして、味わいを感じます。留め具は木製で、そこがまた温かみを醸し出しています。

1ヶ月1枚プラス表紙の13枚。毎月、「やる気が出る名言」が一篇。

いきなり1月が、光太郎の「道程」(大正3年=1914)から、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」です。

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絵の部分、それから文字も原画が切り絵だそうで、これもまたほっこり系ですね。

2月以降は以下の通り。ちなみにそれぞれ英訳がついています。

 2月  夢見ることをやめたときその人の青春は終わるのである  倉田百三
 3月  なんでもやってみなはれ やらなわからしまへんで
鳥井信治郎(サントリー創業者)
 4月  いいことがある ますますよくなる きっとよくなる かならずよくなる
中村天風(実業家)
 5月  無理をするな 素直であれ  種田山頭火
 6月  雨ダレ石ヲウガツ  ことわざ
 7月  あの黒雲の後ろには太陽が輝いている  新渡戸稲造
 8月  夢中で日をすごしておればいつかはわかる時が来る  坂本龍馬
 9月  かれはかれ われはわれ でいこうよ  大久保利通
 10月  捨てる神あれば 拾う神あり  ことわざ
 11月  笑われて 笑われて つよくなる  太宰治
 12月  ふまれても ふまれても 青空を見て微笑むなり 我はおきあがるなり
 星は我に光をあたえ給うなり  武者小路実篤


1部3,456円(税込)、送料290円です。きよこハウスさんサイトに注文方法が記されています。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

同君の郷土に対する熱情はなみなみでなく、深く郷土の地霊を思ひ、郷土の天然、郷土の人事、郷土の祭祀、郷土の暦日、ことごとく同君の最も大切な心の奥のいつきの宮となつてゐる。

散文「真壁仁詩集「青猪の歌」序」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

真壁仁は山形出身の詩人。早くから光太郎と交流がありましたが、さらにこの詩集『青猪』序文を光太郎が書いたことが契機となり、亡き智恵子の紙絵の約3分の1を山形の真壁の元に疎開させることとなりました。ちなみに「青猪」はカモシカの異名です。

光太郎自身、およそ一年後に東京を焼け出され、花巻郊外太田村で農耕自炊生活に入り、北の大地を郷土とするような詩を書き始めるとは、思ってもいなかったことでしょう。

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