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というわけで、平成26年(2014)となりました。
 
上記画像にもあるとおり、今年は大正3年(1914)の詩集『道程』刊行、そして光太郎智恵子の結婚披露から数えて100周年です。それらを軸に顕彰活動を展開して参りますので、よろしくお願いいたします。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月1日

昭和25年(1950)の今日、『読売新聞』に詩「この年」が掲載されました。
 
  この年005
 
日の丸の旗を立てようと思ふ。
わたくしの日の丸は原稿紙。
原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
あかいまんまるを描くだけだ。
それをのりで棒のさきにはり、
入口のつもつた雪にさすだけだ。
だがたつた一枚の日の丸で、
パリにもロンドンにもワシントンにも
モスクワにも北京にも来る新年と
はつきり同じ新年がここに来る。
人類がかかげる一つの意慾。
何と烈しい人類の已みがたい意慾が
ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
 
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雪に覆われた光太郎居住の山小屋(高村山荘)
 
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。
 
さて、昨年のこのブログで、365日、【今日は何の日・光太郎】を書き続けました。年月日の特定できる主な事象はあらかた書き尽くしました。
 
とはいうものの、時には大きな出来事が見あたらず、日常の些細な出来事を記したり、光太郎生誕以前や歿後のことを書いたりした日も多くありました。しかし、逆にたまたま年が違う同じ日に重要な事象が重なっている日もあり、その一方は泣く泣く割愛しました。
 
そこで、【今日は何の日・光太郎 補遺】。もう一年、続けてみようと思っています。お楽しみに。

昨日の続きで、福島二本松の大山忠作美術館での「五星山」展、関連行事としての有馬稲子さん・一色采子さんのトークショーについてです。
 
今日の『福島民報』さんに記事が載りました。

女優有馬さん招きトークショー 二本松

 福島県二本松市の大山忠作美術館で開催している「五星山展」を記念した女優有馬稲子さんのトークショーは4日、同美術館がある市民交流センターで開かれた。

 同展PR委員会の主催。同市出身の日本画家、大山忠作氏の長女で女優の采子さん(同展実行委員長)との対談形式で進められた。有馬さんは、同展に出品されている大山氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」の制作秘話を語った。

 モデルになるよう大山氏から熱心に働き掛けられた。舞台公演が重なり多忙な中、30分だけ時間が取れた。貞淑でおとなしい智恵子をイメージして大山氏と向き合った。

 「こんな素晴らしい絵に仕上げてもらい、感謝している。私が死んでも作品はずっと残る。これからもこの絵を愛してほしい」と詰め掛けた観客約180人に語り掛けた。「本当にいい絵ばかり。日本中で開いた方がいい」と展覧会の印象を話した。

 五星山展は17日まで。大山氏をはじめ東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造各氏ら文化勲章受章者5人の作品35点を展示している。
 
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時に昭和51年9月。有馬さんは新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の最中。昼の部は榎本滋民脚本「富貴楼お倉」、夜の部が北條秀司脚本「智恵子抄」でした。
 
昼の部と夜の部の間に衣装を替えたり、食事を取ったりというわけですが、その時間は余り長くなかったそうです。その短い時間でいいから、ということで大山忠作画伯に請われ、劇場舞台裏の廊下で椅子に座り、ポーズをなさったとのこと。大山画伯はものの30分でスケッチをなさり、写真も撮られたそうですが、それがこの「大作になったとのこと。
 
背景は安達太良山、そしてその下に広がるススキ野原ですが、これは舞台の背景というわけではなく、故郷・二本松を思い描いての画伯の心象風景だということです。
 
造型作家の制作過程、ということで、ひとつ興味深いエピソードでした。
 
ちなみに上の画像は「五星山」展図録。トークショー終了後に有馬さんに連翹忌の営業を敢行、どさくさに紛れてサインをいただきました。
 
大山画伯のご長女・一色采子さんにも。
 
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こちらの絵は題して「童女」。モデルは一色さんです。対象を捉える暖かい眼差しが感じられますね。
 
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こちらが図録の表紙です。以前も書きましたが題字は片岡鶴太郎さんの揮毫。「文化勲章受章画伯による心の復興支援」。いいキャッチフレーズですね。
 
「五星山」展は17日(日)まで開催されています。
 
話は変わりますが、東北楽天ゴールデンイーグルスが日本シリーズを制し、みごと日本一に輝きました。闘将・星野監督、試合後のインタビューで「まだまだ被災者の皆さんは苦労し ているので、すずめの涙でも癒やしてあげられたらと思っていた。」とおっしゃっていました。これも立派な「心の復興支援」だったと思います。
 
がんばれ、東北。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月5日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で舞踊家・石井漠の舞踊生活30周年記念公演として、光太郎の詩「地理の書」による新作舞踊が発表されました。
 
作曲・石井五郎、朗読・南部邦彦、合唱・玉川学園合唱隊、石垣蓉子、李彩娥ら10人の踊り手によって演じられたそうです。
 
この時のチラシ、プログラム類を探していますが見つかりません。情報を求めます。

今日は福島二本松の大山忠作美術館に行って参りました。
 
10月12日より、同館にて「五星山展」が開催されています。過日もこのブログでご紹介しましたが、大山忠作氏は二本松出身の日本画家。その歿(平成21年=2009)後にご遺族から多くの作品が二本松市に寄贈され、市では二本松駅前の市民交流センター3階に大山忠作美術館をオープンさせました。
 
「五星山」展は、「文化勲章受章画伯による心の復興支援」というサブタイトルで、東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造、そして大山忠作と、「山」のつく五人の日本画家の作品が集められた企画展です。
 
その関連行事として、今日は女優の有馬稲子さんと一色采子さんのトークショーが行われました。
 
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有馬さんは大山忠作の代表作の一つ、「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルを昭和51年(1976)に務められたということでのご登場。一色さんは大山忠作のお嬢さんです。
 
開場30分前に市民交流センターに着いたら、やはり大女優のお出ましということで、既に長蛇の列でした。笑ったのは、「智恵子に扮する有馬稲子像」を使った顔ハメが設置されていたこと。「ここまでやるか」と思いました。
 
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午後二時、トークショーが始まりました。まずは有馬さんによる智恵子の姪・宮崎春子の回想「紙絵のおもいで」、光太郎詩「あどけない話」「樹下の二人」の朗読から。その後は一色さんが聞き手となり、「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルを務められた時の思い出や、舞台「智恵子抄」で智恵子を演じられた時の思い出などを有馬さんが話されました。
 
その他にも健康法や震災後の復興支援にも話が及び、あっという間の約1時間でした。
 
有馬さんは「五星山」展をぜひ全国巡回で、とおっしゃっていました。確かに二本松だけではもったいない展覧会です。実現してほしいものですね。
 
一色さんのお話では、既に「五星山」展での入館者が1万人を超えたとのこと。同展のキャッチコピーのひとつに「展覧会へ行くという復興支援がある」というものもあります。まさしくその通り。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月4日

昭和17年(1942)の今日、大東亜文学者会議に出席しました。

山梨レポートの2回目です。
 
山梨県立文学館さんの「与謝野晶子展」に行く前に、寄り道をしました。目的地は笛吹市立青楓美術館さん。中央高速を勝沼インターで下り、10分程のところにあります。
 
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津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
 
話は変わりますが、JR東日本さんで運営している「大人の休日倶楽部」という会員組織があります。吉永小百合さんご出演のTVコマーシャルをご記憶の方も多いのではないでしょうか。入会すると期間限定の会員限定割引きっぷなどの特典があります。
 
その「大人の休日倶楽部」の会員向けの雑誌に「大人の休日倶楽部ミドル」「大人の休日倶楽部ジパング」という2種類があるそうです。その2誌共通の連載で「一枚の手紙から」というコラムがあり、毎回、近代の文学者が書いた手紙を一通ずつ紹介しています。ちなみに9月号は樋口一葉から半井桃水宛、10月号は堀辰雄から婚約者の多恵子宛、11月号は有島武郎から木田金次郎宛のものです。
 
そして12月号では、光太郎から津田青楓宛の葉書が扱われることになっています。実物は花巻の高村記念会さんで所蔵しているものです。先日、実際に執筆されるライターさんに、当方自宅兼事務所に来ていただき、その葉書の書かれた背景について取材を受けました。くわしくは12月号が世に出てからまた書きます。
 
青楓宛の書簡類は『高村光太郎全集』に9通掲載されていますが、それ以外にもまだまだありそうです。実際、今度の葉書も『全集』未収録。花巻の記念会では東京の古書店から入手したとのことです。また、数年前には、現在北海道にある葉書の情報を得、当方執筆の「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。
 
そこで、山梨の青楓美術館にも、もしかしたらあるかも知れないと思い、立ち寄った次第です。
 
結果として、そういったものは所蔵されていませんでしたが、青楓の画業の一端に触れることができ、有意義でした。青楓は与謝野晶子とも交流があり、青楓が絵を描き、晶子が短歌を書いた作品や、青楓が装幀を手がけた晶子歌集の装幀原画なども並んでおり、これから与謝野晶子展を観に行く上で予習にもなりました。他にも夏目漱石や本郷新、伊上凡骨など、光太郎と縁のある人物に関わる展示もあり、興味深く拝見しました。
 
今年は、東京芸術大学美術館で開催された「夏目漱石の美術世界展」に所蔵作品を3点ほど貸し出したとのこと。それらの作品にはそういうキャプションが附けられており、さながら凱旋帰国したかのようでした。
 
山梨と言えば富士山。2階の展示室には、世界文化遺産登録を記念して、青楓が富士山を描いた作品を集めていました。
 
ところで、青楓美術館。もともとは青楓と親交のあった当地出身の個人が開設した美術館だそうです。その後、旧一宮町に経営が引き継がれ、市町村合併で笛吹市が誕生し、現在に至っています。その間、閉館の危機にも見舞われたそうですが、入館者数の増加に向けた取り組みが効果を上げ、存続しています。
 
同館パンフレットの表紙には「ぶどう畑の中にある小さな小さな宝箱!!」のキャッチコピー。ある意味、開き直っていますが(笑)、実際その通りで、大きな街道沿いではなく、小さな路地を入っていったぶどう畑の中に建っています。
 
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しかし「山椒は小粒でぴりりと辛い」。いい所です。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月26日

明治39年(1906)の今日、日本女子大学校で、多くの皇族方を迎え、「秋期文芸会」が催されました。演劇も上演され、舞台の背景(大道具)は智恵子が描いたということです。

このブログに何度もご登場いただいている、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された 坂本富江さんからご案内を戴きました。
 
今度は坂本さんの故郷、山梨県韮崎市の市立図書館で『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の原画展と講演会だそうです。 

追体験! スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 講演会&原画展

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プレ原画展 2013年11月9日(土)~11月9日(土)
原画展・講演会 2013年11月16日(土) 15:15~16:45
場所:韮崎市立図書館
入場無料
定員30名(申し込み先着順) tel 0551-22-4946(韮崎市立図書館)
 
山梨では先に紹介した甲府の山梨県立文学館で「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」を開催しています。
 
また、下記【今日は何の日・光太郎】でふれている「うつくしきものみつ」の碑が甲府の南、富士川町にあります。
 
秋の行楽シーズン、ぜひ山梨にもお出かけ下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 10月14日010

昭和17年(1942)の今日、山梨県南巨摩郡穂積村字上高下(かみたかおり)-現・富士川町の井上くまを訪問しました。
 
この年発足し、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会の事業で、黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「日本の母」を顕彰する運動の一環です。
 
軍人援護会の協力の下、各道府県・植民地の樺太から一人ずつ(東京府のみ2人)「日本の母」が選考され、光太郎をはじめ、当代一流の文学者がそれぞれを訪問、そのレポートが『読売報知新聞』に連載されました。さらに翌年には『日本の母』として一冊にまとめられ、刊行されています。
 
井上くまは、女手一つで2人の息子を育て、うち1人は光太郎が訪ねた時点で既に戦病死、しかしそれを誇りとする、この当時の典型的な『日本の母』でした。
 
光太郎はまた、『読売報知新聞』のレポート以外にも、くまをモデルに詩「山道のをばさん」という詩も書いています。
 
昭和62年(1987)には、光太郎が上高下を訪れたことを記念して、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句を刻んだ碑が建てられました。
 
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最近、ある高名な芸術家のブログで、この碑の文言を「うつくしきもの三つ」と書いていますが誤りです。光太郎は仮名書きで文字を書く際、変体仮名的に「み」を「ミ」と書くことが多く(「おてがミ」など)、これもその例です。「みつ」は「満つ」。「満ちる」の古語ですね。
 
山梨と言えば富士山。この碑のある場所から見える富士山は本当に見事です。特に冬至の前後には「ダイヤモンド富士」といって富士山の山頂部と日の出の太陽が重なる現象が見られるそうです。

日本経済新聞社さんの関連会社・日経BPさん刊行の月刊誌『日経おとなのOFF』。今月発売の11月号に、光太郎智恵子関連の記事がありますのでご紹介します。
 
まず書家・木下真理子さんによる連載「木下真理子の大人の書道塾」。
 
光太郎が戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に暮らしていた頃の書「吾山のうた」を紹介して下さっています。
 
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書かれている文言は短歌です。
 
吾山になかれ無題1
てやまぬ山ミ
つのやミかた
くして道は
ゆくなり
 
わかりやすく表記すると、
 
吾山に 流れてやまぬ 山水の
やみがたくして 道はゆくなり
 
となります。
 
中国の古碑の拓本を愛した光太郎の書は、木下さん曰く「単に文人の書といって片づけられるものではありません。」「彫るような感覚で書作していた」「光と影によって浮き彫りになった「文字という彫刻」を見ていたはずです。」。
 
いちいちごもっともです。
 
戦後の光太郎は十和田湖畔の裸婦像を手がける昭和27年(1952)まで彫刻を封印、その代わり、というわけではありませんが、多くの書作品を残しました。
 
それら戦後の書作品、今回紹介された短歌の揮毫もそうですが、今年5月にリニューアルされた花巻の高村光太郎記念館にたくさん収められています。昨年いただいたリストに依れば毛筆の書作品が40点ほど、ペン書きの草稿等も同じくらい、その他書簡類もあります。一部は記念館で展示されていますが、数が多いため、全ては並んでいません。
 
美術館・文学館等での企画展、今回のようなメディアでの利用など、出来る限り協力して下さるとのこと。「死蔵」にしないためにも、皆さんにどんどん活用していただきたいものです。
 
さて、『日経おとなのOFF』。明日開幕する福島二本松の大山忠作美術館での「五星山展」の紹介記事も載っていました。
 
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ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月11日

明治23年(1890)の今日、光雲が帝室技芸員に任命されました。
 
元々町の仏師だった光雲は、明治維新からしばらくの間は、廃仏毀釈のあおりで注文が激減、その日暮らしを続けていました。光太郎が生まれた明治16年(1883)ころは、最も苦しい時期。それが明治20年(1887)の皇居造営で装飾彫刻を担当した頃から境遇が激変、同22年(1889)には東京美術学校に奉職、そして123年前の今日、帝室技芸員に任ぜられ、「巨匠」への道を歩んでいくこととなります。

福島は二本松から、近々行われるイベント情報の情報を2件紹介します。

五星山展記念しトークショー

10月12日から二本松市の大山忠作美術館で011開かれる5人の文化勲章受章画伯による心の復興支援「五星山展」を記念し、タレントの片岡鶴太郎さんと女優有馬稲子さんのトークショーが開催される。

 片岡さんは10月19日に登場する。画家としても知られる片岡さんは「五星山展」の題字を書いた。公開される5人の巨匠とその作品への思い、自身の創作などについて語る。

 有馬さんは11月4日に出演する。大山氏の代表作「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルとしての制作秘話や高村智恵子を演じた思い出を、大山氏の長女の女優一色采子さんとの対談形式で語る。
 会場は美術館が併設されている市民交流センター1階多目的室。時間はいずれも午後2時から。チケットは2000円(展覧会入館料込み)で各150席限定。主催する「五星山展」PR委員会はチケットを今月24日午前9時半から市民交流センターと事務局の岳温泉観光協会で直接販売する(電話予約は不可)。問い合わせは同協会 電話0243(24)2310へ。

 「五星山展」は日本画壇を代表する大山氏をはじめ東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造各氏(いずれも故人)の作品を一堂に展示する。11月17日まで。入館料は一般400円、高校生以下200円。
(福島民報社)
 
二本松駅前の市民交流センター内にある大山忠作美術館で行われる企画展「五星山展」の関連行事です。
 
昭和51年(1976)、新橋演舞場での公演「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」で、北條秀司作「智恵子抄」の際に智恵子役を演じた有馬稲子さん。二本松出身の大山忠作画伯が、その有馬さんをモデルに「智恵子に扮する有馬稲子像」を描きました。そのあたりのお話が聞けそうです。
 
もう一件。6月に当方が講師を務めさせていただいた「智恵子講座’13」の第4回があります。

智恵子講座’13 「ロダンと荻原碌山」 

日 時  10月14日(月・祝) 10:00~
会 場  二本松市市民交流センター
講 師  久慈伸一さん(福島県立美術館学芸員)
参加費 1,000円
申し込み 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん TEL/FAX 0243-23-6743

 
二本松。町おこし、震災からの復興といった意味合いでもこうしたイベントで盛り上がってほしいものですね。関係者各位のご努力に頭が下がります。
 
 
【今日は何の日・光太郎】 9月25日003

昭和30年(1955)の今日、NHKラジオ放送のため、草野心平との対談「芸術よもやま話」が録音されました。
 
オンエアは10月18日と25日。
 
この時の音源を用いて、平成2年に『NHKカセットブック 肉声できく昭和の証言 作家編6』が発行されました。カセットテープです。
 
光太郎の肉声が聴けるとあって、貴重なものです。光太郎、なかなかいい声です(笑)。
 
こうした録音資料、昭和から平成の初めころには何種類か発行されています。明日はそのあたりを紹介してみようかと思っています。

昨日の続きです。
 
南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その当日まで、光太郎は5ヶ月間、智恵子を見舞いませんでした。
 
この五ヶ月の空白を巡り、昨日紹介したような手厳しい意見があるのはある意味仕方がないでしょう。
 
しかし、光太郎を擁護するわけではありませんが、光太郎自身は次のように述べていますので、ご紹介します。
 
チヱ子をも両三度訪ねましたが、あまり家人に会うのはいけないとお医者さんがいうので面会はなるたけ遠慮しています。
昭和10年(1935)3月12日 中原綾子宛書簡
 
これを裏付けるように、智恵子の付き添い看護にあたった姪の宮崎春子の回想にも次の一節があります。
 
はじめは、身内の看護はかえつていけないからというわけで、試験的につけるということであつたが、たいへん結果が良かつたので、院長先生はじめ伯父も喜んでくれ、「春子さんについてもらつて安心した」と言つてくれた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
要するに病院の方針、というわけです。
 
しかし、五ヶ月はあまりに長い……。
 
結局、答えは見つかりません。
 
この点について先哲諸氏はどう捉えているのか、いくつかご紹介します。
 
五ヶ月もの長い間、光太郎が智恵子を見舞いに訪れなかったのは、理解に苦しむところです。智恵子を興奮させないようにとの配慮からであったのか、それとも心の交流が不可能なほどに智恵子の人格荒廃が進行していたのか、今となっては確かめるすべもありません。
(『智恵子抄の光と影』 上杉省和 平成11年(1999) 大修館書店)
 
この五ヶ月の空白を、人は光太郎の愛の在り方を含めて、様々に詮索します。病状は刻々春子から報じられたに違いありません。五月の母の訪問が、智恵子にどんな結果をもたらしたか。光太郎が案じていた智恵子の興奮がどんな風に起こり、どんなふうに続き、それが結核の昂進もふくめて、どんな重篤な症状を引き起こしかねなかったのか。この時期にも医師は近親者の来院を押さえたのか。危篤は突然に起こったのか。実際の病状の変遷が記録されていない以上、恣意な想像は無意味でしかありません。
『智恵子相聞-生涯と紙絵-』 北川太一 平成16年(2004) 蒼史社)
 
結局、無理に答えを見つける必要もないのかもしれません。
 
繰り返しますが、南品川ゼームス坂病院で智恵子が息を引き取ったのは、昭和13年(1938)10月5日。その日の様子を光太郎は次のように記します。
 
百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛隣の情の訴でもある。(略)最後の日其をひとまとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した表情であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。
(「智恵子の半生」 昭和15年(1940))
 
「其をひとまとめに自分で整理して置いたもの」の中に、例の「くだものかご」の紙絵も入っていたわけです。あらためてそれを見た光太郎の胸中はいかばかりか……。
 
そう考えると、「これは何の果物だろう」などと、脳天気に見ることはできない作品なのです。
 
さて、その後、太平洋戦争000が勃発。昭和20年(1945)4月には、駒込林町の光太郎アトリエは空襲で焼け落ち、多くの彫刻作品は灰燼に帰しました。
 
しかし、智恵子の残した紙絵は、そうなることを予想していた光太郎の機転で、花巻、茨城取手、山形の三カ所に分けて疎開させており、無事でした。自身の彫刻は焼けるに任せた光太郎も、智恵子の紙絵は事前に保護策を講じていたのです。そのおかげで、現代の我々も、智恵子遺作の紙絵を実際に見ることができるわけです。
 
こうした点も踏まえ、「五ヶ月の空白」の意味を捉えることも重要なのではないかと思われます。
 
そして、こうした点を踏まえ、皆さんには智恵子の紙絵の本物を見ていただきたいと思います。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、千葉市美術館さんでは8/18(日)まで。8/30(金)から、岡山県井原市田中美術館さん。その後、11月には愛知県碧南市藤井達吉美術館さんへと巡回されます。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月31日

昭和29年(1954)の今日、映画会社・新東宝が『智恵子抄』映画化を光太郎に申し入れましたが、断っています。

昨日、千葉市美術館に行って参りました。「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、三度目の観覧です。6/29(土)、オープン初日、関係者によるオープニングレセプションがあり、一度。7/7(日)、当方も喋った関連行事の講演会があり、一度。そして昨日は講演会の日等にいらっしゃれなかった元群馬県立文学館の学芸員の方がいらっしゃるということで、ご案内いたしました。何度見てもいいものです。
 
昨日は特に智恵子の紙絵をしっかり観ました。先日のこのブログでご紹介しましたが、『日本経済新聞』さんのサイトで今回展示されている紙絵に触れており、自分の中で答えの出ていない問題がクローズアップされてきたためです。
 
『日経』さんで取り上げているのは「くだものかご」と題された紙絵です。
 
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高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。

 
しかし、ある意味、この紙絵は「何の果物かな」と脳天気に見られるものではないのです。
 
ご存じない方のために概略を書きますと、昭和6年(1931)、光太郎が三陸旅行中に智恵子が統合失調症を発症し(もっと早くに発症していたという説もありますが)、翌年には自殺未遂、同9年(1934)には九十九里にいた妹夫婦(智恵子の母・センも身を寄せていました)のもとに転地療養、しかし病状は悪化、同10年(1935)に南品川のゼームス坂病院に入院します。一連の紙絵は入院中、おそらく同12年(1937)から13年(1938)にかけて制作されたようです。そして智恵子の死は13年10月。直接の死因は肺結核でした。
 
さて、果物かごといえば、かつては病気見舞いの定番でした。では、この果物かごは光太郎が持参したものなのでしょうか。しかし、残念ながらどうもそうではないようなのです。
 
毎週一回か二回、かならず伯父さまのいいつけで銀座の千疋屋から季節の果物、それに鉢植えの花を届けられた。化粧籠に盛られたすばらしいゴールデン・デリシヤス、水々しいアレキサンドリア、さまざまな名も知らぬみごとな蘭花、シクラメン、ゼラニユームのいくつもの鉢、ざくろの木、等々。神田の万惣からも西瓜やりんごなど届いた。それを室内に運び入れた時の伯母の嬉しそうな優しい表情がわすれられない。一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。
(「紙絵のおもいで」宮崎春子 『高村光太郎と智恵子』草野心平編所収 昭和34年(1959) 筑摩書房)
 
宮崎春子は智恵子の姪。看護婦資格を持ち、ゼームス坂病院入院後に智恵子の付き添いとなりました。
 
「一番の楽しみはこの伯父さまよりの贈物であつた。」とありますが、一番の楽しみは光太郎本人の見舞いではなく、こうして「届けられた見舞品」だったというのです。
 
光太郎、実はあまりゼームス坂病院に足を向けませんでした。智恵子が亡くなった日には枕元にいましたが、なんとそれが五ヶ月ぶりの来院でした。
 
今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどい様です、 もし万一の場合は電報為替で汽車賃等をお送りしますゆゑ、其節は御上京なし下さい、 うまく又恢復してくれればいいと念じてゐます、 
(智恵子の母・セン宛光太郎書簡)
 
智恵子が九十九里で療養していた頃は、毎週のように見舞いに訪れていた光太郎が、なぜ同じ東京で五ヶ月も智恵子を見舞わなかったのでしょうか。しかも結核は重篤で、五ヶ月ぶりに見舞ったその日に智恵子は亡くなったのです。
 
この点を手厳しく批判する向きもあります。
 
すでに「人間界の切符を持たない」古女房をそう足しげく見舞えという方が無理かもしれない。だが、『智恵子抄』を純愛詩集として読む人は、それが五ヶ月も妻を病院に放ったらかしにしていた男の手になるものだということを忘れないほうがいい。
(『詩人の妻 高村智恵子ノート』 郷原宏 昭和58年(1983) 未来社)
 
智恵子「東京市民よ、集まれ! 今日病院へまゐり五ヶ月ぶりで智恵子にあひましたが、容態あまり良からず、衰弱がひどいさまです……五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました、五ヶ月ぶりで智恵子にあひました。遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類い希なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ!  これは智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! (略) そして五ヶ月ぶりにやってきた光太郎の目の前で智恵子は、すなわち私は死んでいくのであります。けれども、詩人によればこんな私でさえもこんなにも、綺麗に死なせてくれたのであります。
智恵子抄 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白く明るい死の床で (略) 」
(「売り言葉」 『二十一世紀最初の戯曲集』野田秀樹 平成15年(2003) 新潮社)
 
長くなりましたので、続きは明日。すみません。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月30日

昭和26年(1951)の今日、雑誌『日曜日』掲載のため、文学を愛好した精神科医・式場隆三郎と対談しました。

千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」。おかげさまで好評をいただいているようです。
 
新聞各紙などでもご紹介くださっています。
 
『朝日新聞』さんのサイト【朝日新聞デジタル】で、「彫刻家・高村光太郎展」という記事が載っています。ただし、全文を見るには会員登録が必要です。
 
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また、『日本経済新聞』さんのサイトでは、「アートレビュー」というコーナーで「高村智恵子「くだものかご」」という記事が閲覧できます。
 
企画展「生誕130年 彫刻科高村光太郎展」では、智恵子の紙絵の本物が展示されており、それを受けての掲載ですね。
 
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高村智恵子「くだものかご」 二玄社『智恵子紙絵の美術館』より
 
籠の上にあるのは何の果物だろう。スイカ、桃、マクワウリ、メロン…。柔らかで微妙な色合いが想像を膨らませる。1枚の紙からつくられた果物は、丸いフォルムと切り口のシャープさが目を引く。醸し出すのは鮮烈な存在感。一つ一つの果物に注がれた、優しくも鋭い智恵子のまなざしのまなざしまで目に浮かんでくるようだ。さて、あなたはどう見ますか。
 
「あなたはどう見ますか。」と問いかけていますが、『日経』さんではその答えを募集しています。
 
日本経済新聞朝刊「NIKKEI ART REVIEW」に読者の感想や専門家のひのひと言を掲載します。作品の感想は、〒100-8779 日本郵便銀局留め日本経済新聞社 生活情報部「アートレビュー」係、またはart-review@nex.nikkei.co.jpまで、名前、住所、職業、生年月日を記載の上、お寄せください。掲載者には図書カード2000円分を郵送します。応募締め切りは2013年7月22日到着分まで。
 
2000円めあてに当方も応募してみようと思っています(笑)。みなさんもいかがですか?
 
【今日は何の日・光太郎】 7月12日

明治22年(1889)の今日、光雲が東京美術学校教諭に昇進しました。
 
それまで「雇(やとい)」だったのが「教諭」に。さらに翌年には「教授」となり、同時に帝室技芸員にも任ぜられます。

昨夜、居住地域から夜行バスに乗って、京都に行って参りました。
 
京都国立近代美術館で開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観るためです。帰りは新幹線を使い、先ほど帰って参りました。
 
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今月初めのこのブログでご紹介しましたが、光太郎の水彩画とされる作品が一点、出品されています。光太郎顕彰の世界ではその存在が知られていなかったものです。
 
芝川照吉(明治4=1871~大正12=1923)は、企画展の副題にもあるとおり、青木繁や岸田劉生を援助した実業家で、そのコレクション総数は1,000点以上だったそうです。しかし、関東大震災や、没後の売り立て(競売)で散逸、最後に残った180点ほどが京都国立近代美術館に寄贈されました。今回の展覧会はそれを中心に、関連作品をまじえて構成されています。
 
絵画以外にも工芸作品が多く、同館自体が京都という土地柄上、工芸の収集、展示に力を入れているということもあり、館としてはうってつけだったようです。
 
さて、光太郎の水彩画。「劇場(歌舞伎座)」と題された八つ切りのあまり大きくないものです。制作年不明とキャプションに書かれています。「印象派風」というと聞こえはいいのですが、はっきりいうと何が何だかさっぱりわからない絵です。かろうじて歌舞伎の定式幕が描かれているのが判然とするので、「歌舞伎座」という副題が納得出来るという程度です。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、画像も送っていただいたのですが、本当に光太郎の作品なのか半信半疑でした。今日、実際に作品を見てもまだ半信半疑でした。

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数年前に大阪の阪急文化財団逸翁美術館でもそれまで知られていなかった光太郎の絵画が出ましたが、こちらは日本画で、与謝野晶子が自作の短歌を書き、絵を光太郎が担当したもの。来歴もはっきりしていましたし、絵も類例があるものなので、即座に間違いないと思いました。
 
しかし、今回の水彩画は、芝川照吉のコレクションという点で来歴は大丈夫だろうと思いつつ、類例がないことが気にかかっていました。
 
そう思いつつ、企画展会場の最後にさしかかると、芝川没後の大正14年(1925)に開かれた売り立て(競売)の目録がパネルに拡大コピーされて展示してありました。「おっ」と思い、詳しく観ると、最後の辺りに今回の水彩画と思われるものもちゃんと載っていました。
 
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上記はその売り立て会を報じた新聞記事です。

これで少なくとも大正末の時点ではこの作品が光太郎作と認定されていたことは間違いないのでしょう。また、売り立ての「後援」に、光太郎と親しかった画家・石井柏亭が名を連ねています。これはこの作品が間違いない一つの証左になりそうです。さらに、他の出品物はやはり岸田劉生やら青木繁やらのもの。いけないものはまざっていないようです。
 
というわけで、今回の水彩画も間違いないものだろうと思いますが、まだ確定はできにくいところがあります。もう少し調べてみるつもりではありますが。
 
明日も京都レポートを。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月23日

大正4年(1915)の今日、浅草山谷八百善で開かれた、北京移住のため離日する陶芸家・バーナード・リーチの送別会に出席しました。
 
今日観てきた芝川コレクションにもリーチの作品が多数含まれていました。

新刊を取り寄せました。3ヶ月ほど前の刊行でしたが。

アートセラピー再考――芸術学と臨床の現場から

甲南大学人間科学研究所叢書 心の危機と臨床の知14 川田都樹子・西欣也編
2013/3/15 平凡社発行
定価 2800円+税
 
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治療法の一分野として幅広く実施されているアートセラピーの、臨床研究の成果のみならず、その歴史学的側面を考察し、高村智恵子やジャクソン・ポロックの事例を含めて、多角的に紹介する。


神戸の甲南大学さんに設置された人間科学研究所スタッフによる編著です。テーマは「アートセラピー」。芸術を媒体に使用する精神療法です。
 
第1部「近代日本のアートとセラピー」中の、「高村智恵子の表現-芸術の境界線(木股知史)」、「「治す」という概念の考古学-近代日本の精神医学(三脇康生)」、「アウトサイダー・アート前史における創作と治癒(服部正)」で、智恵子の紙絵や智恵子の主治医だった斎藤玉男について述べられています。
 
精神を病んだ智恵子は昭和10年(1935)から亡くなる同13年(1938)まで、南品川のゼームス坂病院に入院していましたが、そこの院長だったのが斎藤玉男です。この時代はまだ芸術療法という概念も曖昧で、作業療法に近い位置づけでした。それでもゼームス坂病院の実践は当時としては、ある意味画期的だったとのこと。
 
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とかく智恵子の紙絵やその終焉の様子などは、文学的、ドラマチックに捉えられがちですが、こうした科学の目を通してのアプローチも重要なのではないでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月8日

明治45年(1912)の今日、埼玉県百間村(現・宮代町)の英文学者・作家の島村盛助に宛てて、駒込林町25番地に完成したアトリエへの転居通知を送りました。
 
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本文は自刻木版です。同一の版を使った転居通知は同月6日付で作家の生田葵山にも送られています。
 
日付を特定できませんが、この頃、アトリエが竣工したと言えます。同じく日付を特定できませんが、アトリエの新築祝いに、智恵子がグロキシニアの鉢植えを持って訪れたのもこの頃です。
 
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こんな企画展が開催中です。 

夏目漱石の美術世界展

2013年5月14日(火)~7月7日  東京芸術大学 大学美術館
 
近代日本を代表する文豪、また国民作家として知られる夏目漱石(1867~1916)。この度の展覧会は、その漱石の美術世界に焦点をあてるものです。 漱石が日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていることは多くの研究者が指摘するところですが、実際に関連する美術作品を展示して漱石がもっていたイメージを視覚的に読み解いていく機会はほとんどありませんでした。 この展覧会では、漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めてみることを試みます。 私たちは、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみることになるでしょう。
 
また、漱石の美術世界は自身が好んで描いた南画山水にも表れています。 漢詩の優れた素養を背景に描かれた文字通りの文人画に、彼の理想の境地を探ります。 本展ではさらに、漱石の美術世界をその周辺へと広げ、親交のあった浅井忠、橋口五葉らの作品を紹介するとともに、彼らがかかわった漱石作品の装幀や挿絵なども紹介します。 当時流行したアール・ヌーヴォーが取り入れられたブックデザインは、デザイン史のうえでも見過ごせません。
 
漱石ファン待望の夢の展覧会が、今、現実のものとなります。
(チラシより)

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過日このブログでご紹介した雑誌『芸術新潮』の今月号が、この企画展とリンクしています。
 
「序章 「吾輩」が見た漱石と美術」「第1 章 漱石文学と西洋美術」「第2 章 漱石文学と古美術」「第3 章 文学作品と美術 『草枕』『三四郎』『それから』『門』」「第4章 漱石と同時代美術」「第5 章 親交「」の画家たち」「第6 章 漱石自筆の作品」「第7 章 装幀と挿画」という筋立てで、古今東西のさまざまな作品が並んでいます。
 
光太郎とも縁の深かった作家の作品も数多く出品されています。荻原守衛、岡本一平、南薫造、岸田劉生、斎藤与里、石井柏亭などなど。光太郎の作品が出ていないのは残念です。
 
漱石は自作の中にさまざまな美術作品をモチーフとして効果的に使っていること、また、津田青楓ら同時代の画家と親交があったこと、そして橋口五葉による自作の装丁が非常にすばらしいこと、さらに「文展と芸術」という有名な美術批評を書いていることなど、美術にも造詣が深いというのが定評です。
 
絵画などの漱石自身の作品も残っています。しかしこちらは漱石の孫である夏目房之介氏によれば「相当にレベルが低いといわざるをえない」。『芸術新潮』ではむちゃくちゃな遠近法や、むやみに色を塗って破綻している点などを酷評しています。しかし、そこには孫としての暖かな眼差しもまぶしてありますが。
 
一昨日、NHKEテレで放映された「日曜美術館」も、「絵で読み解く夏目漱石」と題してこの企画展にリンクした内容でした。ちなみに同番組とセットで放映される「アートシーン」では、先月のこのブログでご紹介しました中村好文氏の「小屋においでよ!」展が紹介されました。こちら、明日、行ってくるつもりです。
 
ところで評論「文展と芸術」について、光太郎が承服できかねる旨を発言し、漱石に噛みつきました。今回の企画展でも、『芸術新潮』でも、「日曜美術館」でもその点に触れられていないのが残念でした。明日はその辺りを書いてみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月4日

昭和26年(1951)の今日、銀座資生堂ギャラリーで「高村智恵子紙絵展覧会」が開幕しました。

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東京での初の紙絵展で、この時から「切絵」「切紙絵」などと言われていた智恵子の作品が、光太郎の発案により「紙絵」の呼称で統一されることになりました。

先頃、京都と大阪の堺に行って参りました。京都では大覚寺さんで新たに見つかった光雲の木彫などを観、堺では与謝野晶子の命日・白桜忌のつどいに参加して参りました。
 
ところが、その京都と堺から、また新たな情報が舞い込んできました。
 
まずは京都。
 
京都国立近代美術館さんで開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」に、光太郎の水彩画が出品されているとのこと。

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以下、文化庁さんのサイトから抜粋させていただきます。
 
 芝川照吉という名のコレクターをご存じでしょうか。その人物が,わが国近代美術を代表する青木繁や岸田劉生を世に送り出した張本人だということを知れば,いやが上にも興味がそそがれるにちがいありません。
 そしてこの「芝川コレクション」には,当初1000点を超える作品が集結していましたが,このたび遺族の手元に残された現存する178点が,京都国立近代美術館に一括収蔵の運びとなりました。
 それら貴重な作品群を,関西でははじめて公開する記念の展覧会を開催いたします。
 青木繁が没した翌年(1912年),坂本繁二郎,正宗徳三郎らが中心となって青木繁の遺作展の開催と『青木繁画集』の刊行が計画されました。この時それらの実現に向けて,全面的に資金援助したのが芝川だったのです。そしてこれらの事業を主宰した人たちから,お礼として青木の作品を譲り受け,とりわけ代表作《女の顔》は,芝川家ご遺族の手によって今日まで残された貴重な作品といって過言ではありません。
 さらに本コレクションの核を成す岸田劉生を中心とする草土社の画家たちの作品も見逃せません。岸田劉生が芝川照吉を描いた《S氏の像》(1914年)頃から,ふたりの親密な関係がはじまり,東京国立近代美術館が所蔵する重要文化財の《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年)もコレクションに含まれていたのです。
 
というわけで、そのコレクションの中に、光太郎の水彩画が含まれていたわけです。題名は「劇場(歌舞伎座)」。制作年は不明、23.5×35.4センチの小さな絵です。
 
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当方、つてを頼って画像データを入手しました(さすがにこのブログでは転載できませんが)。不思議な絵です。これだけがポッと出てきて「光太郎作の水彩画だ」と言われても、信用できません。しかし、芝川コレクション自体の来歴がしっかりしているので、信用できると思います。
 
この芝川コレクション、国立国会図書館のデジタルデータに当時の図録が納められており、光太郎の名も目次に載っています。ところが光太郎の作品が載っているページが欠損しており、どんなものか以前から気になっていました。
 
ただ、芝川コレクション全体は膨大なものだったようなので、今回の水彩画以外にも光太郎作品が入っていた可能性もあります。しかし、大正12年(1923)の関東大震災などで失われてしまったものも多いとのこと。残念です。
 
さて、今回の「芝川照吉コレクション展」。光太郎の水彩画以外にも、光太郎の近くにいた作家の作品が数多く含まれています(出品リスト)。岸田劉生、柳敬助(光太郎の親友・妻、八重を介して智恵子が光太郎に紹介されました)、石井鶴三、高村豊周(下記参照)、富本憲吉、石井柏亭、奥村博(平塚らいてうの「若いツバメ」)、清宮彬、バーナード・リーチなどなど。会期は6月30日まで。
 
これはまた京都に行かなければならないなと思っています。
 
さらに大阪・堺からも新着情報が。明日、紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月2日

昭和47年(1972)の今日、光太郎の弟で、鋳金の道に進み、人間国宝に認定された高村豊周(とよちか)が歿しました。
 
ほとんどの光太郎塑像の鋳造を担当し、光太郎没後は連翹忌などその顕彰活動に奔走しました。また、光太郎に関するたくさんの回想録は、すぐ身近にいた立場からのもので、非常に貴重なものです。光太郎同様、文才にも恵まれ、歌会始の召人に任ぜられた他、四冊の歌集を遺しました。

新刊雑誌です。昨日、買ってきました。

『芸術新潮』2013年6月号「特集夏目漱石の眼」

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〈年譜〉芸術と歩んだ49年
 
〈一〉名作をいろどる絵画たち
絵で読み解く漱石の理想の女性像と芸術 【文】古田亮
〈再録〉 文展と芸術(抄) 
“門外漢”の美術時評 大正元年(1912)第六回文展評「文展と芸術」より
〈コラム〉イメージの連鎖 漱石から宮崎駿へ 【文】古田亮
 
〈二〉漱石とゆく、ぶらり明治の東京散歩
路線図でたどる文豪の足跡
漱石の目に映る、変りゆく都市東京 【文】黒川創
 
〈三〉
技あり「漱石本」総覧
漱石本を解剖する 【文】岩切信一郎
 
〈四〉
お手並拝見 先生の書画
趣味の効用 【文】夏目房之介
 
「漱石」といえば「文豪」の代名詞ですが、美術批評でも活躍していました。特に目次にもある大正元年(1912)の文展(文部省美術展覧会)の評は有名です。これに光太郎がかみついて、不興を買ったことも知られています(この件に関しては項を改めて書きます)。
 
また、そういうわけで美術にも造詣が深く、書画も制作していますし、自作の小説の中に古今東西のさまざまな名画が登場します。
 
そのあたりにスポットをあてた特集です。かなり読み応えがありそうで(他用が多くまだよく読んでいません)、熟読するのが楽しみです。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月26日

昭和17年(1942)の今日、丸の内産業組合会館で行われた日本文学報国会の創立総会に出席、詩部会会長に就任しました。
 
「報告」でなく「報国」。戦時の国家総動員に関わる文学者の統制団体です。

今日も上京、2件用事を片付けてきました。001
 
1件目は乃木坂の国立新美術館で開催中の第109回太平洋展を観ること、もう1件は原宿アコスタディオさんで開催されたモンデンモモさんのライブに出演することです。2件の場所が近かったので、まとめました。
 
今日はまず太平洋展のレポートを。
 
「一般社団法人太平洋美術会」さんの団体展で、この団体は明治末に日本女子大学校を卒業した智恵子が所属していた「太平洋画会」の後身です。高村光太郎研究会に所属され、連翹忌などのイベントに欠かさずご参加くださる坂本富江様がこちらの会員で、坂本様の作品も並ぶとのことで、見に行って参りました。
 
当方、美術館にはよく足を運びますが、ほとんどは個人作家、それも光太郎と縁のあった作家-したがって少し前の時代の作家-の企画展です。考えてみると、団体展、それも現代の、となると初めて観ました。
 
油絵、水彩画、版画、染織作品、彫刻の五部門が一堂に会し、とんでもない点数の作品が並んでいました。
 
絵画が中心でしたが、ほとんどが100号前後の大きなもの。圧倒されました。圧倒はされましたが、不快なものではありませんでした。意外とわかりやすい具象の作品が多かったせいだと思います。
 
また、版画や染織の作品にも非常に好感が持てました。002
 
さて、坂本様の作品。これも100号の大きな絵です。
 
題して「智恵子抄の里(二本松市)」。桜と針葉樹のある野の道、その向こうに安達太良山、その上には「ほんとの空」。昨年、坂本様の出版なさった「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」と同一のモチーフです。
 
100号もあって自宅に飾るのは不可能ですが、先週リニューアル成った花巻の高村光太郎記念館や、今日、このあとに行ったモンデンモモさんのライブ、それからもちろん連翹忌などでこうしたものが飾られるといい感じだな、と思いました。
 
しかし、「美」を生み出そうとする人間のエネルギーというか、意欲というか、そういうものを非常に感じた展覧会でした。自分も絵心があれば、挑戦してみたいと思うのですが……。
 
会期は5/27(月)までです。
 
明日のブログでは、この後行った、原宿でのモンデンモモさんのライブについてレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎】5月19日

明治26年(1893)の今日、智恵子の両親斎藤今朝吉・セン夫妻が、センの養父長沼次助と夫婦で養子縁組、数え8歳だった智恵子も斎藤姓から長沼姓になりました。
 

先日、日暮里での野村朗氏のリサイタルに行った際、やはりご来場の『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者、坂本富江様からご案内をいただきました。
 
日本女子大学校卒業後の智恵子が在籍した太平洋画会の後身、太平洋美術会の定期展です。

河北抄第109回 太平洋展

開催期間   2013年05月15日(水)~2013年05月27日(月)
        10:00~18:00 【最終日は午前10時~午後3時30分】
展示会場  六本木 国立新美術館 港区六本木7-22-2
巡回展   福岡・大阪・名古屋・神奈川・千葉
 
 
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坂本様の作品も展示されるとのこと。やはり智恵子をモチーフとした作品だそうです。
 
当方、来週、花巻に行きますので、その帰り道に寄ってみようかなと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】5月10日003

明治33年(1900)の今日、上野公園竹の台五号館で始まった彫塑会第一回展覧会に、塑像「観月」を出品しました。
 
この「観月」、確認されているものとしては一番目か二番目に古い塑像です。残念ながら現存確認できていません。
 
光太郎曰く、「坊さんが月を見上げて感慨に耽ってゐるところ」(「美術学校時代」 昭和17年)。
 
さらに同じ「美術学校時代」では、こうも述べています。
 
彫刻をするについても非常に文学的に考へてゐたので」「それが当時の彫刻会では新しかつた。後にかういふことが間違つた新しい彫刻運動のもとになつたりした。
 
要するに、謎めいた題名やいわくありげなポーズに頼る文学的な彫刻、ということです。後に光太郎はこういう方向性を否定し、彫刻には純粋に造形美のみを求めるようになっていきます。

昨日、日暮里での野村朗氏作品リサイタル002に行く前に、東京駅丸の内北口の東京ステーションギャラリーさんに寄りました。 

現在、「東京ステーションギャラリー再開記念 生誕120年 木村荘八展」を開催中です。
 
木村荘八(しょうはち)は明治26年(1893))生まれ。光太郎より10歳年下です。岸田劉生と交流を深め、西欧のポスト印象派や岸田の影響を受けつつもそこからの脱却をはかり、東京の景物をモチーフにした絵で独自の境地を開きました。
 
大正元年(1912)、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒユウザン会(のちにフユウザン会)の結成に参加、やはり同人として参加した光太郎と知り合います。
 
大正2年(1913)には、雑誌『近代の洋画』第17号として、光太郎、劉生と3人で、「後期印象派」を刊行しています。
 
また、挿絵画家としても活躍、朝日新聞に連載された永井荷風の「濹東綺譚」などの挿絵を担当しました。今回の展覧会では、この「濹東綺譚」の挿絵原画がたくさん出品されています。
 
荘八はもともと牛肉屋「いろは」の息子です。異腹を含め、きょうだいが多く、兄たちも光太郎と関わっています。
 
四男で作家の荘太(『四』の字を嫌って四画の『太』の字を付けたそうです)は、吉原の娼妓、若太夫を巡って光太郎と争いました。その経緯は荘太の自伝的小説『魔の宴』に詳述されています。
 
五男、荘五は武者小路実篤が「新しき村」の出版部門として大正9年(1920)、池袋に近い長崎村に作った出版社、曠野社にいて、たびたび光太郎作品を掲載した雑誌『生長する星の群』などを刊行していた関係で、光太郎とも親しかったようです。
 
当方、昨年、荘五宛の光太郎書簡を二通、入手しました。
 
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さて、「生誕120年 木村荘八展」。5/19(日)まで東京ステーションギャラリーさんで、その後、5/25~7/7に豊橋市美術博物館さん、7/13~8/25で栃木の小杉放菴記念日光美術館さんを巡回します。
 
光太郎も愛したある意味エキゾチックな江戸情調があますところなく表現されています。是非ご覧ください。
 
【今日は何の日・光太郎】5月5日

昭和57年(1982)の今日、盛岡市川徳デパートで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

川徳さんでは昭和25年(1950)、智恵子の紙絵展覧会が開催されています。

たびたび御紹介しております昨年刊行された『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』
 
著者の坂本富江様から『都政新報』という地方紙の2/26日号が届きました。東京の自治体専門紙だそうです。その中に坂本様のお書きになった「私と智恵子」という記事が。これは「ブログに載せなさい」ということだと思いますので、載せます(笑)。
 
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智恵子に対する熱い思いが伝わってくるいい文章です。
 
コピー等ご入用の方は坂本様まで。こちらにご連絡いただければ仲介は致します。また、都政新報社様から現物が購入可能かも知れません。
 
坂本様、今度は3/15に、光太郎の母校である第一日暮里小学校(旧・日暮里尋常小学校)で6年生対象にお話をされるそうです。ご活躍の由、何よりです。
 
【今日は何の日・光太郎】3月2日

昭和6年(1931)の今日、光太郎が表紙の文字を書いた雑誌『詩之家』第7年第3号が発行されました。
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「La maison de la poesie」。仏語で雑誌名の『詩之家』を表したものです。
 
と、ここまで書いて、「今日は2日だったか」と思いました。光太郎忌日・連翹忌まであと1ヶ月ということになったわけです。おかげさまでご参加お申し込み、たくさんいただいておりますが、とにかく裾野を広げたいので、新規のお申し込みもお待ちしております。詳しくはこちらをご参照下さい。

一昨日、昨日に引き続き、あちこちの美術館、文学館等での企画展で光太郎作品が展示されているものをご紹介します。  

佐々木一郎展~岩手の雪に魅せられて~

期 日 : 平成25年1月26日(水)~3月24日(日)
会 場 : もりおか 啄木・賢治青春館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-25
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 毎月第2火曜日 ただし、第2火曜日が祝祭日の場合は開館
料 金 : 無料

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盛岡出身の画家、佐々木一郎(大正3年=1914~平成21年=2009)の展覧会で、同館でシリーズとして行っている企画展「発掘・盛岡ゆかりの画家シリーズ」の一環です。

佐々木は、岩手大学教授や岩手美術協議会会長等を歴任、戦後、花巻郊外太田村在住の頃の光太郎と交流がありました。その関係で、光太郎日記(『高村光太郎全集』第12巻・13巻)に名前がよく出てくるほか、光太郎からの書簡も数多く残っており、『高村光太郎全集』第21巻に収録されています。
 
この企画展では、佐々木の作品以外にそうした光太郎からの書簡、光太郎が書いた岩手県立盛岡美術工芸学校開校式祝辞などが展示されているようです。
 
と、一昨日から3連発で各地の企画展で光太郎作品も展示されているものを御紹介しましたが、まだまだこの手のものはあるかも知れません、光太郎がメインでないと、なかなか情報を得るのが困難です。今後開催予定のものを含め、情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。

 
【今日は何の日・光太郎】2月23日

昭和28年(1953)の今日、芝・伊皿子の松で、雑誌『中央公論』掲載のための座談「敗けた国の文化」(『高村光太郎資料』第三集)を行いました。

他の出席者はバーナード・リーチ、柳宗悦、濱田庄司、石川欣一でした。

昨日に引き続き、あちこちの美術館、文学館等での企画展で光太郎作品が展示されているものをご紹介します。   

期 日 : 平成25年1月26日(土)~3月24日(日)
会 場 : 神奈川県立近代美術館葉山館 神奈川県三浦郡葉山町一色2208-1
時 間 : 午前9時30分から午後5時
休 館 : 月曜日(ただし祝日および振替休日の場合は開館)
料 金 : 一般 900円(団体800円)20歳未満・学生 750円(団体650円)65歳以上 450円
      高校生 100円


「保存、修復という作品の知られざる部分に光をあてることによって、近代日本美術の問題点を探り、新たなる発見を浮かび上がらせようとする展覧会」だそうで、岸田劉生、藤田嗣治、松本竣介などを中心に明治期から昭和前期までの約60名による油彩画、水彩画、約170点が並んでいるそうです。
 
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光太郎の作品は大正2年の油絵「上高地風景」1点。また、約60名ということで、光太郎と交流のあった画家の作品も数多く展示されています。黒田清輝、岸田劉生、藤田嗣治ら有名どころもいれば、あまり観る機会の多くない村山槐多、柳敬助、南薫造らの作品も並んでいるそうです。
 
別件ですが「上高地」ということで、先月のブログで御紹介したBSフジのテレビ番組「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」、再放送があります。2013/03/01(金)22:00~22:55 です。見逃した方はぜひご覧下さい。光太郎・智恵子のエピソードが約3分間あります。
 
【今日は何の日・光太郎】2月22日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋に、村人の好意で初めて電灯がともりました。
 
光太郎がこの小屋に入ったのが昭和20年(1945)の秋ですから、約3年半、電気のない生活を送っていたのです。

昨日のブログで御紹介しました坂本富江さんの 『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』 原画展と講演会が、『産経新聞』さんの城北版下町版に報道されました。 

板橋区職員が自費出版した「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」の講演会開催

~智恵子の足跡を訪ね歩いた17年を語る~

高村光太郎の妻・智恵子ゆかりの地を自ら訪ね、感じた様子を文章と絵でつづった書籍「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を自費出版した板橋区職員の坂本富江さん(63)。2月9日、その著書にまつわる講演会が、板橋区立赤塚図書館(赤塚6丁目)で開催された。
坂本さんは、中学生の時に高村光太郎の詩「道程」に感動し、「智恵子抄」を読み、智恵子の人物像にひかれ、休日や休暇を利用しては、智恵子の故郷の福島県安達町(現:二本松市)や、縁のある地である青森、岩手、千葉、長野、山梨、東京など30箇所以上を約17年に渡り訪ねた。水彩画や油絵で現地の様子を描き、訪れて感じた智恵子への思いを書きつづった原稿用紙は約500枚、スケッチブックで16冊に及び、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を自費出版。
講演では、出版の経緯や智恵子の人物像やエピソードの紹介、縁の地を訪れた感想や旅でのハプニングを語り、スライドショーでは、旅先で撮影した数々の写真とともに、その時の様子なども紹介した。
板橋区在住の坂本さんは、板橋区に勤務し、保育園園長で定年退職。現在は、くらしと観光課いたばし観光センターで再任用職員として勤務している。
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【今日は何の日・光太郎】2月11日

明治44年(1911)の今日、光太郎が経営していた神田淡路町の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、画家・濱田葆光(しげみつ)の個展が開幕しました。

昨日、板橋区の赤塚図書館に行って参りました。昨年刊行された『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者、坂本富江さんによる同書の原画展と、講演会が目的でした。
 
原画展は2/7から同館の視聴覚室で開催され、昨日の正午まででした。中央のテーブルにはスケッチブックが置かれ、自由に手に取ってみることが出来ました。たった2日半の開催ではもったいない気がしました。もっと多くの皆さんに見ていただきたいと思います。
 
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書籍としてた印刷されたものを見るのもいいのですが、やはり自筆のものだと作者の筆遣いや息吹、その場の空気などが感じられ、また違った良さがありました。
 
原画展は正午で閉幕、同じ会場に椅子を並べて午後2時から坂本さんの講演会が始まりました。定員30名で募集したのですが、申し込みが多く、40名に殖えていました。

訪れた地でのエピソードや、昔、光太郎智恵子がそこでどうしたのかといったお話があり、会場の聴衆は熱心に聴き入っていました。
 
坂本さん、始まる前は「緊張しちゃって、どうしましょ」とおろおろされていましたが、どうしてどうしてなかなか堂に入ったお話ぶりで、感心しました。
 
後半はコンピュータのスライドショーをスクリーンに映してのご説明。やはり訪れた地の画像が写されました。当方もほぼ同じ場所を訪れていますので、その意味では懐かしく拝見しました。
 
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ついでに例によって4/2・連翹忌の宣伝をさせていただきました。営業も大事な仕事です。
 
こういうと失礼かも知れませんが、意外と手軽に出来る感じですので、各地で光太郎智恵子顕彰を行っている皆様、イベントの際には坂本さんにお声がけなさるのもよいかと思います。
 
別件です。ブログの閲覧数が9,000件を突破しました。ありがとうございます。
 
昨日、光太郎と縁があったかも知れない蒸気機関車C61-20号機、「おいでよ銚子&佐原号」について書きましたところ、昨日だけで500件以上の閲覧がありました。普段の10倍以上です。
 
暮れに光太郎が送った鉄道荷札、光太郎も乗った花巻電鉄について書いた時も閲覧数が跳ね上がりました。やはり鉄道ネタは強し、です。
 
【今日は何の日・光太郎】2月10日

明治35年(1902)の今日、雑誌『白虹』に、現在確認されているもっとも古い詩「なやみ」が掲載されました。

昨年のブログで御紹介した、坂本富江さんのお書きになった『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』
 
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その原画展と坂本さんの講演会が開催されます。
 
以下、会場の板橋区立赤塚図書館さんHPから。

<スケッチで訪ねる《智恵子抄》の旅 原画展と講演会> 

日時:原画展 2013年2月7日(木)午前11時から午後5時
          2013年2月8日(金)午前11時から午後5時
          2013年2月9日(土)午前10時から12時
    講演会及びスライドショー
          2013年2月9日(土)午後2時から午後3時30分
場所:視聴覚室
講師:坂本 富江 (板橋区くらしと観光課 観光センター職員)
講演会定員:30名(申込先着順・入場無料)
お申込:1月19日(土)より、カウンターまたはお電話にて承ります。
 
高村光太郎の妻・智恵子ゆかりの地を訪ね、長年にわたり描き続けたスケッチや油絵の作品を展示いたします。
最終日には著者の坂本富江さんによる講演会及びスライドショーを開催します。

板橋区立赤塚図書館は、東武東上線下赤塚駅北口下車、徒歩15分 または、東武東上線成増駅下車、北口から赤羽駅西口行バス「赤塚庁舎」下車 だそうです。
当方、早速申し込みを致しました。皆様もふるってご参加ください。

【今日は何の日・光太郎】1月22日

明治32年(1899)の今日、前日から一泊で、弟の道利と共に横須賀に軍艦見物に行っています。

昨日から引き続き、上高地での光太郎智恵子を追いかけます。
 
智恵子没後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた「智恵子の半生」(『高村光太郎全集』第9巻)から。
 
大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴイナス 倶楽部で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止を経て徳本峠を越えたもので、かなりの道のりであつた。その夏同宿には窪田空穂氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入つてから彼女が画の道具を持つて私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎えに行つた。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登つて来た。山の人もその健脚に驚いてゐた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかつた。
 
テレビ放送「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」で、俳優の小野寺昭さん一行も苦労していた約20㎞の山道を、智恵子は身軽に登って来たそうです。「恋」する女のパワーでしょうか。
 
それから毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまはつた。彼女は其の頃肋膜を少し痛めているらしかつたが山に居る間はどうやら大した事にもならなかつた。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白からうと思つた。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目を悉く画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年病臥中でも見てゐた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問はれた。友達ですと答へたら苦笑してゐた。
 
「ウエストン」はウォルター・ウェストン。イギリス人宣教師で、「趣味としての登山」という概念を日本にもたらした人です。上高地にある彼のレリーフをご存じの方も多いでしょう。
 
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光太郎画 木立と山(上高地風景) 大正2年(1913)
 
光太郎と智恵子が上高地で夢のような日々を送っていた時、下界ではちょっとした騒ぎが巻き起こりました。写真週刊誌ならぬ『東京日日新聞』に、次の記事が載ったのです。
 
美くしい山上の恋 洋画家連口アングリ
 
信州鎗ヶ岳の麓の上高地温泉、此附近には文士の窪田空穂氏や美術学校の生徒などがゐる、或日の事此美術家の群が遊びにいつて麓の道を見下してゐると一人の美人が二人の強力に荷物を背負はせ乍ら登つてくる、其姿がいかにもいたいけである、どこからどこへこの美人はゆくのであらう、近くなつたら手を引いてやつて山中には珍らしい美人から感謝の言葉を戴かうと思つてゐると今度は山上から一人の青年が強力を連れてとぼとぼと下りてくる、と下から美人、上から青年、ハタと視線が合うと握手して手を引き乍ら俄に元気づいて温泉の方へ向つて上つていつた。美術家連は唖然として狐につまゝれたよう、此男女こそは誰あらう彫刻家の泰斗高村光雲氏の息高村光太郎氏と青鞜社員で女流洋画家の長沼智恵子である。二人が相愛の仲は久しいもので今では「別居結婚」をしてゐる仲ぢやもの、二人して日本アルプスの大景に接し乍ら文展の製作を急がうと、その企てから智恵子が早く滞在してゐる、光太郎氏を訪ふたものと知れた――と岡焼からの便りがあつた。

寄稿したのは、上高地清水屋旅館で同宿だった歌人・窪田空穂と推定されています。窪田、自分で「文士の窪田空穂氏や美術学校の生徒などがゐる」などと書き、執筆者がわからないような細工をしましたが。

光太郎は「智恵子の半生」で次のように書きます。
 
当時東京の或新聞に「山上の恋」といふ見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであらう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。(中略)
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思った。父や母の夢は皆破れた。 所謂 (いはゆる ) 洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰はず、まるで了見が分らない事になつてしまつた。実にすまないと思つたが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらうように両親に申出た。両親も許してくれた。
 
結局はこの記事が決め手の一つになり、二人は結婚するわけで、何が功を奏するかわかりませんね。
 
この上高地での記憶は、光太郎にとって忘れがたいものだったようで、後々まで詩の中にくり返し謳われます。明日はそのあたりを。
 
【今日は何の日・光太郎】1月13日

明治17年(1884)の今日、光太郎の祖母、すぎが歿しています。

今朝の朝日新聞に、以下の記事が載りました。智恵子が表紙の絵を描いた雑誌『青鞜』に関するものです。 

雑誌「青鞜」の原本49冊、都内の古書店で発見

朝日新聞デジタル 1月9日(水)18時22分配信
 
【杉原里美】女性運動家の平塚らいてう(1886~1971)が1911年に創刊した雑誌「青鞜(せいとう)」の原本49冊が東京都内の古書店で見つかった。原形をとどめた原本が大量に見つかったのは初めてという。

 「元始、女性は太陽であった」で有名な「青鞜」は、与謝野晶子や伊藤野枝など当時の女性文化人が参画した文芸誌。1916年までに計52冊刊行された。

 創刊号は1千部が発行され、最盛期は3千部にのぼったが、完全な形の原本はなく、ほかの号も隅を裁断して合本したり、穴が開いたりした原本しか見つかっていなかった。NPO法人「平塚らいてうの会」が調査したところ、女性関連の雑誌を収集する都内の古書店で発見し、購入した。2010年にあった古書の入札会に出品されていたものを同店が落札したという。
 
ネット配信のものは抜粋でして、記事そのものはこちらです。
 
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記事中にあるNPO法人「平塚らいてうの会」の折井美耶子氏からいただいた年賀状に、この件が書かれていました。「復刻とは違う味わいがあります」とのこと。その通りでしょう。
 
それにしても『青鞜』ほどの有名な雑誌でさえ、ほぼ完全な形で残っていたものが今まで見つかっていなかったというのは少し意外でした。
 
NPO法人「平塚らいてうの会」は、長野県上田市で「らいてうの家」という記念館を運営なさっています。当方、一昨年にお伺いし、大変お世話になりました。そのあたり、明日、書いてみようかなと思っています。
 
ちなみに朝日新聞、今回の記事の隣には与謝野晶子の、全集等未収録を含む短歌103首の直筆原稿の発見の記事が載っています。数日前には夏目漱石の全集等未収録作品の発見も報じられました。漱石、晶子レベルでもまだ埋もれていた作品が見つかるのですね。
 
光太郎に関しても、当方、最近また埋もれていた書簡をけっこうたくさん入手しました。いずれ「光太郎遺珠」にて公表いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】1月10日

昭和54年(1979)の今日、講談社から津村節子、高村規編『智恵子から光太郎へ』が講談社文庫ATの一冊として刊行されました。

智恵子晩年の紙絵写真50余葉、津村氏による智恵子評伝が掲載されています。
 
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今日は和歌山県の田辺市立美術館に行000って参りました。9/17、9/27のブログで御紹介しました企画展「詩人たちの絵画」展を観るためです。ついでに獲れたて海鮮のお寿司を食べ、南紀白浜温泉にもゆっくり浸かって参りましたが、そちらはあくまでついでです。念のため(笑)。 
 
会期は11/4(日)までということで、本当はもう少し早く行ってレポートし、宣伝しようと思っていたのですが、いろいろ都合が付かず今日になってしまいました。
 
いい意味で、シンプルな企画展でした。時折、特に大資本を背景に持つ私設の美術館等で出くわすのですが、「これでもか、これでもか」という出品点数の多さで、見終わって食傷気味になるような企画展があります。ところが田辺の企画展は良い意味で、非常にすっきりしていたな、という感じです。
 
学芸員の三谷氏曰く「金がたりない、人手がたりない、時間も足りない、で、この程度しかできないんです」とのことでしたが、いやいやどうして、押さえるべきところはきちんと押さえ、落ちついてゆったりと観られる企画展でした。
 
光太郎の作品は油絵と素描が二点ずつ、そして彫刻の「手」。いずれも初めて見るものではありませんでしたが、何度見てもいいものです。特に油絵二点は以前にも見ているはずですし、手持ちの資料で画像としてはよく見ているはずなのに、改めて見ると「ああ、こんな感じだったんだ」と思いました。やはり画像ではわからない筆致がよくわかったりとか、あたりまえですが実物大で見るとまた違って見えたりとか、新たな発見でした。
 
「詩人たち」ということで、他にも10人の作品が展示されています。下の画像は図録の裏表紙に印刷された出品作家の肖像写真。左上から片山敏彦、立原道造、難波田龍起、村山槐多、木下杢太郎、光太郎、西脇順三郎、小熊秀雄、佐藤春夫、中川一政、富永太郎です。

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このうち半分以上は光太郎とも縁の深かった人で、実は当方、そういう人々の作品を実物で見るのはほとんど初めてで、ある意味、光太郎作品より興味深いものでした。
 
再び三谷氏曰く、11人に絞らざるを得なかったということですが、手を広げすぎでごちゃごちゃになるよりずっとよかったと思います。しかし、「誰々がラインナップに入っていないのはけしからん」などという声もあったそうです。そんな話を伺いながら「それなら、すぐには無理でも何年後かにまたやったらいいじゃないですか」と申し上げたところ、既にそのおつもりでいるとのこと。佐藤春夫のお膝元、和歌山ということで、「文学関係にも強い美術館」というコンセプトでやっていきたいそうです。頼もしい限りです。
 
田辺市立美術館、和歌山県下では唯一の市立美術館だそうです。いろいろ大変だとは思いますが、頑張って欲しいものです。というと失礼ですね。頑張っているので、それを継続して欲しい、というべきですか。
 
さて、「詩人たちの絵画」、11/4(日)までです。お近くの方、是非足をお運び下さい。また、お近くでなくとも、実は羽田から隣町の南紀白浜空港まではわずか1時間のフライトです。当方、今日も日帰りでした。東日本の方もぜひお越しください。

昨日のブログで引用した光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。続きを載せます。
 
 中には、夫婦の間で、いつもそんなに争ひや波瀾が起つてゐるやうでは何にも仕事ができなくて困るだらう、とお考へになる方があるかも知れません。しかし、与謝野先生御夫婦は、あの多勢のお子さんの上に、人一倍沢山の仕事を世に出してゐらつしやる。それでお子さんに対しての心遣ひなども実によく行き届いてゐて、あれでいけなければ子供の方がよくないのだと思ふくらゐです。或人はいひます。与謝野さんたちくらゐの体格と健康とを持つてゐれば、あの盛んな生活力も精神力も不思議ではないと。けれども私はそれを逆にほんたうに強い精神力が、あの若々しい健康を保つてゐるのだといひます。その證拠には、以前の晶子さんは随分弱々しい病身な人でしたから。大概の夫婦は五十の声を聞くとすつかり、もう年寄りぶつて、ほんとの茶のみ友達になつて納つてしまふのが普通です。さういふ東洋風な淡白さ、例へば大雅堂の夫婦のやうに、主人が旅から帰つて自分の奥さんをすつかり忘れてしまつて、改まつて挨拶したといふやうなのも勿論面白いと思ひますが、生涯を通じて夫婦の愛に対する情熱、その魂の情熱を失はないといふことは、何かといへば早くから老い込み勝ちな日本の人々に、殊に望みたいと思ひます。
 
逸見久美先生のご講演にもありましたが、とかく与謝野夫婦にはいろいろとゴシップ的な文章が残されています。しかし、近い立ち位置から見た光太郎のこの文章、夫妻の姿をよく捉えていると思います。

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さて、このところ与謝野夫妻がらみの光太郎新資料をいくつか見つけています(逸見先生の御著書に助けられました)。それらは「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介し続けています。どんなものがあるかというと……
 
・光太郎画、晶子短歌揮毫の屏風絵2点(明治44年=1911)
・寛書簡に記された光太郎短歌3首(大正8年=1919)
・光太郎も連名の第二期『明星』発刊案内(大正10年=1921) 
・光太郎から晶子への書簡(大正13年=1924)
・光太郎、与謝野夫妻他連名の木版師伊上凡骨遺作展案内(昭和9年=1934)
 
などです。
 
また、つい最近になって、国立情報学研究所さんのデータベースで、明治39年(1906)に刊行された晶子作品を含む歌集の装幀が光太郎であると登録されていることを知りました。こちらで把握していないもので、鋭意調査中です。もし本当なら、光太郎が装幀を手がけたもののうち、最も古いものということになります。ただ、出版の経緯等、いろいろ問題のある書籍でして、調査が難航しそうです。
 
いずれまとまりましたらご報告いたします。

9/17のブログで御紹介した和歌山県田辺市立美術館の「詩人たちの絵画」展。
 
連翹忌に御参加くださっている学芸員の三谷氏から、図録、チラシ、招待券まで戴いてしまいました。誠に恐縮です。

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図録
 
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 チラシ
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図録に関しては「稚拙なものでお恥ずかしい」などとお手紙にありましたが、どうしてどうして美しい出来です。信濃デッサン館長の窪島誠一郎氏の巻頭言も読みごたえがありますし、全体にコンパクトながら要所要所がよくまとまっています。
 
出品されているのは以下の人々の作品です。
 
高村光太郎   木下杢太郎  佐藤春夫 中川一政 西脇順三郎 村山槐多 片山敏彦 富永太郎 小熊秀雄 難波田龍起 立原道造 
 
光太郎作品は、「庭」(油絵・明治43年=1910)、「室内」(同・明治末)、十和田湖畔の裸婦像のためのデッサン(昭和27年=1952)、そして彫刻の「手」(大正7年=1918)です。

光太郎は明治42年(1909)に海外留学から帰ってしばらくの間、父・光雲を中心とする旧態依然の彫刻界との対立から、彫刻制作より絵画の方に情熱を傾けていました。「庭」「室内」ともにその時期の作品です。彫刻制作から離れての代償行為とか余技といったレベルではなく、西洋で学んだ美の表現の在り方がきちんと反映されており、いい絵だと思います。
 
他の出品作家の作品も、図録で見て、それぞれに個性的で面白いと思いました。村山槐多や難波田龍起は絵画が本職ですので当然ですが、西脇順三郎や立原道造が、ここまで玄人はだしの絵を描いているとは知りませんでした。
 
お近くの方、是非お越しください。
 
当方、今回はパスするつもりでしたが、今、予定表を見ながら、かつて紀伊田辺駅前で食べたマグロ海鮮丼を思い出し、非常に心が動いています(笑)。

二本松ネタで2~3日まかなおうと思っていましたが、新着情報がいろいろありますので、そちらを。
 
ニュース検索結果から。 

日枝神社例大祭:「火伏の神輿」伊勢佐木町を練り歩く /神奈川

毎日新聞 9月16日(日)13時22分配信
 「お三さま」と呼ばれ親しまれる日枝神社(横浜市南区山王町)の例大祭が15日、横浜市中区のイセザキ・モールなどで始まった。16日まで。
 初日は、西郷隆盛像などで知られる高村光雲氏(1852~1934年)が彫刻を施した「火伏(ひぶせ)の神輿(みこし)」を、白装束の氏子たちが担いでイセザキ・モールを練り歩いた。関東大震災と横浜大空襲で被害をまぬがれたことから「火伏の神輿」と呼ばれ、普段は県立歴史博物館に展示されている。
 16日はいずれもイセザキ・モールで、町会が所有する「平成神輿」を担いで練り歩く「町内大神輿渡御」(午後1時)、高さ約3・7メートルの「千貫神輿」をトレーラーでけん引する「大神輿奉安」(同5時)などが予定されている。
 伊勢佐木町1・2丁目商和会副理事長の津田武司さん(73)は「(平成神輿は)150~200人の担ぎ手を必要とする。それだけの迫力があるので、ぜひ見てほしい」と話している。【山下俊輔】

9/13のブログで紹介した光雲作の神輿についてですね。
 

「詩人たちの絵画」展:高村光太郎作品など60点--田辺 /和歌山

毎日新聞 9月16日(日)15時16分配信
 田辺市立美術館(田辺市たきない町)で15日から「詩人たちの絵画」展が始まった。文学と美術の双方に才能を発揮した近代日本の詩人11人の作品約60点を展示。11月4日まで。
 高村光太郎「庭」(油彩、1910年)▽木下杢太郎「自画像」(水彩、11年)▽佐藤春夫「下里風景」(油彩、制作年不詳)▽小熊秀雄「夕陽の立教大学」(油彩、35年)▽西脇順三郎「伊太利旅行(イタリーの麦畑)」(油彩、60年代)--などを展示。明治から昭和にかけての近代日本の文学と美術の結びつき、絵画表現の豊かな広がりが展望できる。10月20日午後2時からは、同館学芸員や市立図書館司書による「詩の朗読会」も開かれる。
 月曜(9月17日、10月8日を除く)と9月18日、10月9日は休館。観覧料600円(学生と18歳未満は無料)。問い合わせは同館(0739・24・3770)。【野原隆】
 
同館は平成20年(2008)、企画展「智恵子抄 光太郎・智恵子と佐藤春夫」を開催しました。そのご縁で学芸員の方には連翹忌にご参加いただいております。

 
それから、たまたまネットサーフィン(死語?)中に見つけたのですが、福岡で舞台公演があります。
★第一部『愛ガ咲ク コンサート』
  第二部『智恵子抄』(高村光太郎への愛を一生貫き、罵り、叫び、崩れていった、女の半世)
●一般¥3000 学生¥2000 (全席指定)
 ★10/7(日)14時/18時 ふくふくホール(福岡市中央区荒戸3-3-39)
 ★10/13(土)14時 E ternity (福岡市博多区中洲3-7-7 ロックハリウッドビル)

 
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当方、10/13のチケットを購入しました。福岡まで行ってきます。
 
成田からANAで福岡空港まで飛びますので、実は意外に早く着きます。平成20年(2008)に和歌山田辺の企画展「智恵子抄 光太郎・智恵子と佐藤春夫」を見に行った時も、羽田から南紀白浜に飛んだので、十分日帰り可能でした。
 
当方、福岡は初めてです。学生時代に関門海峡まで車で行き、対岸を観て「あれが福岡か、いつか行くぞ」と思っていたのが、約30年ぶりに果たせます。 

7月に刊行された『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』。
 
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お書きになった坂本富江さんから、「あちこちの新聞などで御紹介いただいています」というお知らせがありましたので、「それならブログで紹介しますので、コピーでもお送り下さい」と申しましたところ、昨日、届きました。各紙とも、非常に好意的に紹介しています。
 
6/24(?) 陸奥新報     
6/30  岩手日報
7/10  福島民報
7/26  山梨日日新聞
8/7   都政新聞
8/11  読売新聞(都民版)
8/28  東京新聞(夕刊)
 
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その他にも、ネット上でもいろいろ報じられています。
 
智恵子の足跡のある所をくまなく扱われているので、地方紙も積極的に取り上げて下さっているようです。無論、書籍として素晴らしいものであるという前提条件がありますが。
 
是非、お買い求めを。
 
また、他の近刊などで「ここにこんな風に紹介されてるよ」という情報が有れば、ご提供いただければ幸いです。

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