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先週土曜日、九段下の玉川堂さんで光太郎短歌の短冊、智恵子の実妹・セキ宛の書簡を拝見した後、九段下から都営新宿線に乗り、次なる目的地、新宿に向かいました。

中村屋サロン美術館さんで開催中の「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」を拝観するのが次の目的でした。

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昨秋、開館の際の記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」、今春の「テーマ展示 柳敬助」に続き、3度目の来訪です。

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斎藤と光太郎の主な接点は以下の通り。明治43年(1910)、光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で個展開催、さらに、大正元年(1912)には、光太郎、斎藤、岸田劉生等が中心となって、アンデパンダンの美術団体「ヒユウザン会」(のちに「フユウザン会」)を結成、といったところです。

それ以前に、斎藤も光太郎もパリ留学経験がありますが、明治41年(1908)、光太郎がロンドンからパリに移るのと同時期に斎藤は帰国。パリでは2人のつながりはなかったようです。その後、光太郎も帰国した明治42年(1909)には、ヒユウザン会展の元になるような会の結成を図る仲間として知り合っています。共通の友人だった碌山荻原守衛が橋渡しをしたと考えられます。斎藤はこの頃、中村屋サロンに出入りしており、もしかするとそこで初めて光太郎と出会ったのかも知れません。

さて、出品目録によれば、40点の斎藤作品が展示されています。

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初期のフォービズムの影響を受けたものから、のちの童画風のものまで、なかなかバリエーション豊富。しかし、一本の筋が通っていると感じました。

大正元年の第一回ヒユウザン会展出品作の「木陰」も展示されており、つい1時間前に玉川堂さんで拝見した書簡がヒユウザン会展がらみのものだったので、不思議な縁を感じました。また、やはり1時間前に拝見した短冊が、斎藤の個展が開催された琅玕洞で販売されていたらしいというところにも。

「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」、来月27日までの開催です。ぜひ足をお運びください。

同展拝観後、同じ中村屋ビルの8階にあるレストラン「Granna」さんで早めの昼食。春に「テーマ展示 柳敬助」を見に行った際には満席&順番待ち行列で断念しましたので、リベンジです。今回は早めに行ったので大丈夫でした。中村屋純印度式カリーのコース3,000円+税のちょっと豪華なランチに舌鼓。その後、次なる目的地、文京区千駄木へ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月25日 

昭和25年(1950)の今日、雑誌『スバル』にアンケート回答「与謝野寛・晶子作中の愛誦歌」を発表しました。

「与謝野寛・与謝野晶子作の短歌中、特に愛誦さるるもの、若しくは御記憶に残れるもの。」という質問に対し、以下のように回答しています。

  大空のちりとはいかがおもふべきあつき涙のながるるものを

先生のこのうたが今頭に出て来ました。
晶子女史のにはむろんたくさんあるのですが今うたの言葉を思ひ出しません。

それぞれ先日ご紹介した、中村屋サロン美術館企画展示「生誕130年年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」東京都美術館「伝説の洋画家たち 二科100年展」につき、先月の『産経新聞』さんが、光太郎に触れつつ紹介しています

斎藤与里 詩情あふれる晩年作、作風の変遷たどる

 大正、昭和にかけて活躍した洋画家、斎藤与里(より)(1885~1959年)の生誕130年を記念する展覧会「斎藤与里のまなざし」が、東京・新宿の中村屋サロン美術館で開かれている。
 斎藤の代表的作品といえば「古都の春」が挙げられるだろう。旅先で訪れた家族を描写した作品。人物や事物が平面的に描出され、どことなくユーモラスで、まるで子供の絵のようだ。背後で咲き誇る桜の花のピンクが、暖かく春らしい。明朗快活な絵だ。
 斎藤は明治39年、20歳でパリに留学。後期印象派のセザンヌや象徴主義のシャヴァンヌ、さらにフォービスムの影響を受けた。明治41年に帰国してからは多くの芸術家が集っていた東京・新宿の中村屋に通い高村光太郎や荻原守衛らと交流。「木陰」などヨーロッパ美術から刺激を受けた作品を制作した。
 西洋美術から脱却したのは戦後になってから。昭和20年、戦禍を逃れ東京から生まれ故郷の埼玉県加須市に疎開。のどかな田園暮らしや農村の人たちとのつきあいで、作品は力が抜けて素朴に。さらに、60代になるとハス池で遊ぶ子供を描いた「少年の頃」など、童画的で詩情あふれる作品に変化していった。
 斎藤は「日本の絵は日本の手で作る以外にないと思います」と文章を残しているが、晩年になって自己の絵画世界を確立した。
 本展は20代から60代まで約30点を展示し、作風の変遷をたどっている。
 9月27日まで、火曜休、一般300円。(電)03・5362・7508。

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【伝説の洋画家たち 二科100年展】(中)萬鉄五郎 斬新…でも親しみ感じる油絵

 「裸体美人」などで知られる萬(よろず)鉄五郎(1885~1927年)は大正から昭和初期に活躍した画家だ。
 萬は大正6年の第4回二科展に2点の油彩画を出品した。注目を集めたのは「もたれて立つ人」。人体は幾何学的な面に解体され、機械のパーツのように組み立てられている。あたかもロボットのように。これが日本のキュービスム絵画の記念碑的作品となった。
 もう1点の「筆立のある静物」は、物の簡略化や複数の視点の描写が試みられキュービスム的傾向が見られるものの、まだ試行錯誤の段階だ。
 萬は当時の美術の本場だったパリに留学し、芸術家たちと交流したわけではない。画集などから刺激を受け、咀嚼(そしゃく)して表現した。
 この2点は二科展で岸田劉生の静物画などとともに展示された。現代から見ればとりたてて新しくはないが、1世紀も前にこんな絵画を制作したことは驚きだ。官展でない在野の二科展はこうした実験的な表現の発表の場でもあった。
 萬は岩手県東和賀郡十二ケ村(現在の花巻市)に生まれた。明治39年、20歳のとき渡米。美術学校で学ぼうとしたが、わずか半年で帰国。40年、東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学し、洋画壇の重鎮だった黒田清輝が主導した白馬会展に出品して活躍。美術学校の卒業制作が、ゴッホやマチスに影響を受けた「裸体美人」だった。半裸で草原に寝そべる女性を太い筆致で荒々しく描出し、日本のフォービスムの先駆的作品となった。
 45年には、岸田劉生や高村光太郎らが結成したフュウザン会に参加して頭角を現した。大正3年に一時岩手に帰郷し、茶褐色を主とした風景作品を制作。自己の目指す絵画を模索し、5年に上京。「もたれて立つ人」と「筆立のある静物」を第4回二科展に出品し、時代の最先端を疾走した。
 萬の描く裸婦は日本髪を結っていて、足は短め。決してプロポーションが良いわけではない。西洋人を好んでモデルにした黒田清輝の作品のように、アカデミックでもなければ洗練されてもいない。茶褐色を主体にした色彩は、土俗的で故郷の土の匂いが漂っているかのようだ。表現は斬新でありながら日本的な油彩だった。そんなところに親近感を感じる人は少なくないだろう。(渋沢和彦)

 「伝説の洋画家たち 二科100年展」は9月6日まで、東京・上野公園の東京都美術館。一般1500円ほか。問い合わせはハローダイヤル(電)03・5777・8600。

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ともに「フユウザン会」の仲間だった斎藤与里、萬鉄五郎。それぞれを紹介する中で光太郎の名が挙げられています。斎藤の記事には記述がありませんが、斎藤も「フユウザン会」のメンバーで、光太郎が「フユウザン会」を代表する作家の一人と認められているためです。こうした評価が今後揺らぐことはないとは思いますが、「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまうと、こうした際に光太郎の名は挙がらなくなるでしょう。そうならないよう、正しく光太郎の業績を次代へと引き継いでいこうと、決意を新たにいたしました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月7日

平成19年(2007)の今日、宮城県美術館で「日本彫刻の近代」展が開幕しました。

明治期から1960年代までの日本近代彫刻の歩みを概観するもので、宮城県美術館、三重県立美術館、東京国立近代美術館の3館を巡回した大規模な展覧会でした。

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とにかく出品点数が多く、さらに普段目にする機会のない珍しい作品も出品されました。

図録を兼ねた書籍『日本彫刻の近代』が淡交社さんから刊行されています。図版が掲載されているのが、光雲作品で、「矮鶏置物」、「老猿」、「鞠に遊ぶ狆」、「魚籃観音立像」、「聖徳太子坐像」、「楠木正成銅像頭部(木型)」、「楠木正成像」、「西郷隆盛像」。光太郎作品で「兎」、「裸婦坐像」、「腕」、「手」、「蓮根」、「桃」、「柘榴」、「鯰」、「うそ鳥」、「白文鳥」。当方、東京展を観に行きましたが、確か、掲載作品のほとんどが出品されていたと思います。

下記は「楠木正成銅像頭部(木型)」。珍しい写真です。

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昨日ご紹介した、東京都美術館さんでの「「伝説の洋画家たち 二科100年展」について、いろいろと報道されていますので、ご紹介します。

まず『日本経済新聞』さん。22日の水曜日、文化面にてカラーで紹介されています。光太郎の名も。

 明治末に高村光太郎が評論「緑色の太陽」で芸術家の表現の自由を高らかに宣言してから4年。二科会では留学帰りの画家らが中心となり、海外で吸収した新しい美術を世に問うた。

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光太郎自身は二科会には所属しませんでしたが、昨日ご紹介したとおり、縁の深い画家・彫刻家が名を連ねています。彼等が光太郎の「緑色の太陽」に触発されたであろうことは想像がつきます。その二科展に対して、光太郎は好意的な展覧会評も書きました。

ちなみに「緑色の太陽」は、明治43年(1910)、『スバル』に発表された日本初の印象派宣言ともいわれるもので、以下のような部分があります。
 
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家のPERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味に於いて、芸術家を一箇の人間として考へたいのである。
 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽として其作の格調を味ひたい。


続いて『産経新聞』さん。21日(火)の記事です 

小倉智昭さん、「二科100年展」を絶賛

 人気キャスター、小倉智昭さん(68)が21日、東京都台東区の東京都美術館で開催中の展覧会「伝説の洋画家たち 二科100年展」を訪れた。東郷青児や岡本太郎ら多くの芸術家が発表の舞台としてきた二科展の作品約120点を鑑賞し、「100年通してみられる機会はそうない。面白い」と絶賛した。
 小倉さんは鑑賞後、岡本太郎の作品「裂けた顔」(昭和35年、川崎市岡本太郎美術館蔵)を前に、「大阪万博の『太陽の塔』は有名だが、その10年前に二科展に出されていたとは。岡本作品はあまり外に出てこないので貴重」と感慨深げだった。
 日本三大公募展の1つ「二科展」は今年9月で100回を迎える。

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産経さんは同展の主催団体に名を連ねており、紙面での紹介にも力を入れているようです。先週には開催告知の大きな記事が出ましたし、一昨日には同展出品作の紹介「【伝説の洋画家たち 二科100年展】(上)岸田劉生 徹底した写実が生む神秘性」という記事も載りました。「(上)」ですので、さらに続きが出るのでしょう。


さて、「伝説の洋画家たち 二科100年展」ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月25日

明治45年(1912)の今日、詩「N――女史に」を執筆しました。

この年(ただし7月30日に大正改元)9月1日発行の雑誌『劇と詩』に発表されました。

   N――女史に000

いやなんです
あなたの往つてしまふのが――

 
あなたがお嫁にゆくなんて
花よりさきに実(み)のなるやうな

種(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな、そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないで居てください
 
私の芸術を見て下すつた方
芸術の悩みを味つた方
それ故、芸術の価値を知りぬいて居る方
それ故、人間の奥底の見える方
そのあなたが、そのあなたが
――ああ、土用にも雪が降りますね――
お嫁にもうぢき行く相な
 
型のやうな旦那さまと
まるい字を書くそのあなたと
かう考へてさへ
なぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で001
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて
 
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
なぜさう容易(たやす)く
さあ何と言ひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
さうです、さうです
あなたは其の身を売るんです
一人の世界から

万人の世界へ
そして、男に負けて子を孕んで
あの醜(みにく)い猿の児を生んで
乳をのませて
おしめを干して
ああ、何という醜悪事でせう
あなたがお嫁にゆくなんて
まるで さう
チシアンの画いた画が
鶴巻町へ買喰ひに出るのです
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
 
私は淋しい、かなしい003
何といふ気はないけれど
恰度あなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見るやうな
私を棄てて腐つて行くのを見るやうな
空を旅してゆく鳥の
ゆくゑをじつと見てゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない、淋しい、焼けつく様な
それでも恋とはちがひます
――そんな怖(こは)いものぢやない――
サンタマリア!
あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい
ちがひます、ちがひます
何がどうとは素より知らねど
いや、いや、いや
いやなんです
あなたの往つてしまふのが――
おまけに
お嫁にゆくなんて
人の男の心のままになるなんて
 
外にはしんしんと雨がふる
男には女の肌を欲しがらせ
女には男こひしくならせるやうな
あの雨が――あをく、くらく、
私を困らせる雨が――

のち、この詩は大正3年(1914)刊行の詩集『道程』に収められた際に「――に」と改題、細部もいろいろと手が入ります。さらに昭和16年(1941)には詩集『智恵子抄』の巻頭を飾ることとなります。その際の題名は「人に」と帰られました。


   人に005

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を

どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な006
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて


詩としての完成度はこちらの方が高いといえます。しかし、原型の「N――女史に」の方が、ある意味、直裁に感情をぶつけている生々しさが感じられます。

改稿の際に削除された「あの醜(みにく)い猿の児を生んで/乳をのませて/おしめを干して」といった部分や、改稿後は単に「サンタマリア」という聖母マリアへの呼びかけだけになっている部分が、「サンタマリア!/あの恐ろしい悪魔から私をお護り下さい」と、恋の妄念、我執に囚われる自らの救済を乞い願う内容だったりと。「あの恐ろしい悪魔」は、智恵子ではありません。念のため(笑)。

東京都美術館さんで開催中の展覧会。主に絵画の分野で光太郎と縁の深かった諸作家の作品が多数展示されています。 題して「二科100年展」。大正3年(1914)に創立され、今年、100回展を迎える在野の美術団体・二科会の回顧展です。

二科会には第6回展から彫刻部が置かれ、光太郎は好意的に紹介していました。

二科の彫刻は数量的に小さい割にしつかりしてゐる。藤川勇造氏、ザツキン氏、渡邊義知氏等は十分研究に値する。二科の絵画部には新感覚の最先端から超現実派の新鋭まで存在するが、彫刻の方ではザツキン氏を除いては、概してハイカラではあるが素朴質実な道を歩いて居る。(「上野の彫刻鑑賞」 昭和4年=1929)

二科の彫刻部は一見渾沌としてゐるやうであるが、そのハイカラ性は現社会の所謂インテリゲンチヤ層の嗅覚に属する基調を持つてゐる。何処かブツキツシユであり、何処か中間的であり、何処か示唆的であり、何処か国際貿易的であり、何処か知的感傷性を持つて居り、また何処かに現社会の謂ふ所のエログロ的感電の萌芽が見える。まだ概して此の部の人達は消極的にしか、或は内部的にしか仕事してゐないからすべて之等の特性も表面に露骨には出てゐない。けれども嗅ぎわければさういふ匂がするのである。此の部がもつと隆盛になり、もつと多種の要素が加はつてその特色の発揮せられるのも遠くないだらうと思はれる処に興味がある。(「上野の彫刻諸相」 昭和5年=1930)


期 日 : 2015年7月18日(土) ~ 9月6日(日)  (すでに始まっています)
場 所 : 東京都美術館 企画棟 企画展示室 東京都台東区上野公園8-36
休館日 : 月曜日
時 間 : 9:30~17:30 (入室は閉室の30分前まで)  金曜日は9:30~21:00
観覧料 : 前売券  一般 1,300円 / 学生 1,000円 / 高校生 600円 / 65歳以上 800円
         当日券  一般 1,500円 / 学生 1,200円 / 高校生 800円 / 65歳以上 1,000円

当館創設の機をもたらした美術団体展の中でも在野の雄であった二科会。岸田劉生、佐伯祐三、小出楢重、関根正二、古賀春江、藤田嗣治、松本竣介、岡本太郎、東郷青児など、実に様々な作家たちが発表し、海外からはマティスらも参加した二科会の100年の歴史から、20世紀の日本美術史を展観します。

関連行事 : イブニングレクチャー 19:00~19:30  聴講無料
      ただし本展観覧券(半券可)が必要
 7月24日(金)「100回展、そして…」 生方純一(公益社団法人二科会 常務理事)
 7月31日(金)「二科草創期の個性派たち」 川内悟(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月7日(金)  「戦後からの二科会」 松室重親(公益社団法人二科会 常務理事)
 8月14日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)
 8月21日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)
 8月28日(金) 「伝説の洋画家たち 二科100年展」の見どころ
平方正昭(東京都美術館学芸員)

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「光太郎と縁の深かった諸作家」と書きましたが、出品リストで見ると、以下の名前が挙げられます。

有島生馬、石井柏亭、岸田劉生、熊谷守一、坂本繁次郎、津田青楓、中川一政、藤川勇造、藤田嗣治、松本竣介、村山槐多、安井曾太郎、山下新太郎、萬鉄五郎、アンリ・マティス、などなど。


9月~11月には大阪市立美術館、11、12月で福岡の石橋美術館への巡回もあります。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月24日

昭和2年(1927)の今日、長野県小諸の懐古園に島崎藤村の「千曲川旅情の歌」詩碑が除幕されました。

碑面は藤村の自筆原稿から作ったブロンズのパネル。鋳造は光太郎の実弟にして、のちに鋳金分野で人間国宝となる高村豊周です。今でこそブロンズパネルの文学碑は珍しくなくなりましたが、この藤村碑をもってこの技法が確立されました。

当方の30年以上前のアルバムに、懐古園の入場券が貼り付けてありました(笑)。下の写真が藤村碑です。

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各地の美術館等での展覧会情報を調べているうちに、気になる企画展を見つけました。

光雲・光太郎親子が愛した明治の噺家・三遊亭圓朝に関わるものです。 

うらめしや~ 冥途のみやげ展―全生庵・三遊亭圓朝 幽霊画コレクションを中心に―

会 期 : 2015年7月22日(水)~9月13日(日) ※会期中展示替えあり
  前期 :2015年7月22日(水)~8月16日(日)
  後期 :2015年8月18日(火)~9月13日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 地下2階展示室
時 間 : 10:00~17:00(8月11日、21日は19:00まで開館、入館は閉館の30分前まで)
休 館 : 月曜
料 金 : 一般1,100円 高校・大学生700円
      中学生以下
障害者手帳をお持ちの方と介助者1名は無料
主 催 : 東京藝術大学、東京新聞、TBS
後 援 : 台東区
協 力 : 全生庵、下谷観光連盟、圓朝まつり実行委員会、TBSラジオ
問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600

公式サイトより
東京・谷中の全生庵には怪談を得意とした明治の噺家三遊亭圓朝(天保10<1839>-明治33<1900>年)ゆかりの幽霊画50幅が所蔵されています。本展は、この圓朝コレクションを中心として、日本美術史における「うらみ」の表現をたどります。

幽霊には、妖怪と違って、もともと人間でありながら成仏できずに現世に現れるという特徴があります。この展覧会では幽霊画に見られる「怨念」や「心残り」といった人間の底知れぬ感情に注目し、さらに錦絵や近代日本画、能面などに「うらみ」の表現を探っていきます。

円山応挙、長沢蘆雪、曾我蕭白、浮世絵の歌川国芳、葛飾北斎、近代の河鍋暁斎、月岡芳年、上村松園など、美術史に名をはせた画家たちによる「うらみ」の競演、まさにそれは「冥途の土産」となるでしょう。

なお、本展は、当初平成23(2011)年夏に開催を予定しておりましたが、同年3月に発生した東日本大震災の諸影響を鑑み、開催直前にして延期を決定したものです。今回、4年の歳月を経て、思いを新たにしての開催となります。

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三遊亭圓朝(天保10年=1839 ~ 明治33年=1900)は、明治落語界を代表する名人。あまりの話芸の巧みさに、師匠からも疎まれ、彼が演じようとしていた演目を先回りして演じられるなどの嫌がらせも受けたといいます。その結果、自作の演目を次々演じるようになり、そうした中で、新作の人情噺や怪談噺も数多く生み出されました。怪談の代表作が「怪談牡丹灯籠」や「真景累ケ淵」です。

光太郎の父・光雲は圓朝のファンでした。光太郎が書き残したエッセイ「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の部分があります。

 父はよい職人の持つてゐる潔癖性と、律儀さと、物堅さと、仕事への熱情とを持つてゐたが、又一方では職人にあり勝ちな、太つ腹な親分肌もあり、多くの弟子に取りまかれてゐるのが好きであり、おだてに乗つて無理をしたり、いはば派手で陽気で、その思考の深度は世間表面の皮膜より奥には届かなかつた。そして考へるといふやうなことが嫌ひであつた。この世は人生であるよりも娑婆であつた。学問とか芸術とかいふものよりも、芸人の芸や役者の芸の方が身近だつた。梅若の舞台からきこえてくる鼓の音にききほれ、団菊左に傾倒し、圓朝に感服し、後年には中村吉右衛門をひいきにし、加藤清正のひげのモデルになつて喜んだり、奈良の彫刻では興福寺の定慶作といふ仁王をひどく買つてゐて、推古仏は理解しなかつた。

光太郎自身も圓朝の芸を誉めています。美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(昭和28年=1953)から。

九代目団十郎とか講談の圓朝とか、みんな若い時はしようのない、脂つこくて見ていられないほどいやらしいやつだつたらしい。圓朝なんかうしろへそのころないような舞台装置をして講談なんかやつたらしい。それでいやなやつだつて言われていたのが、忽然悟つて、ああいう枯れたものになつて、扇一本で人情ばなしをやるつていうふうになつてね。せんのあくのあつたのがみんな役に立つて、それが一変すると無かつた奴にはできない厚味や深さが出てきてね。


さて、その圓朝が残した幽霊画のコレクションを軸にした企画展です。「第一章 圓朝と怪談」「第二章 圓朝コレクション」「第三章 錦絵による「うらみ」の系譜」「第四章 「うらみ」が美に変わるとき」の四部構成になっています。出品作の中には、光雲と交流のあった日本画家・柴田是真の作や、光太郎もその造型性に深く興味を引かれていた能面なども含まれています。

夏のひととき、「納涼」の意味も含めて、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月8日

昭和15年(1940)の今日、作家・稲垣足穂に葉書を書きました。

拝啓
昨日御著“山風蠱”拝受、繙読をたのしみに存じます、
小生例年の通り夏まけでさんたんたる有様ですが山下風ある卦を得て大に涼爽の気にひたりたいものです、「王侯に事へず其事を高尚にす」とは面白い象です、 とりあゑず御礼まで 艸々
七月八日

稲垣足穂は幻想文学的な方面で有名になった作家。『山風蠱(さんぷうこ)』は前月、昭森社から刊行されました。

題名の「山風蠱」は、易占における卦の一つ。山のふもとに風が吹き荒れ、草木が損なわれている状態を表し、葉書にある「山下風ある卦」がこれにあたります。「王侯に事(つか)へず其事を高尚にす」は、『易経』に記された文言で、「王侯に仕官せず、世を避けるように隠居しながらも、 志を高く清く保って節操を曲げない」といった意味です。

当方、この葉書の実物を所蔵しています。75年前の今日、この葉書が書かれ、投函されたと思いつつ手に取ると、感慨深いものがあります。

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新宿の中村屋サロン美術館さんから、先週末に始まった特別展示の招待状を戴きました。  

生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし

 期 : 2015年7月4日(土)~9月27日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 展示室1・2
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
料 金
 : 300円 高校生以下無料 障害者手帳ご呈示のお客様および同伴者1名は無料

関連イベント
 学芸員によるギャラリートーク 8/8(土) 9/12(土) 14:00~ 約50分
 メールまたは電話で申し込み 2名まで 先着15名 
         
 パリ留学でシャヴァンヌ、ゴッホ、ゴーガンなど、当時最先端の美術を目の当たりにした画家 斎藤与里。帰国後は、彼の地で親友となった彫刻家 荻原守衛(碌山)らと「中村屋サロン」を形成するとともに、大正期には、岸田劉生、高村光太郎らと反アカデミズムのフュウザン会を結成し、日本洋画界に衝撃を与えました。
 本展では与里の生誕130年を記念し、故郷の加須市教育委員会の所蔵作品を中心に、初期から晩年までの作品をご紹介いたします。
 パリで培われた美しい色彩と、時代によって変化する詩情豊かな画風をお楽しみください。

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新宿中村屋の創業者・相馬愛藏、黒光夫妻の元に集まった芸術家が形成した「中村屋サロン」。荻原守衛、光太郎、柳敬助らとともにその主要メンバーの一人だった、画家の斎藤与里にスポットを当てた企画展です。

斎藤は、岸田劉生、木村荘八、そして光太郎らとともに、文部省美術展覧会(文展)など、アカデミックな権威に対する反抗を旗印とした新進気鋭の美術家達の集まり、「フユウザン会」を結成した一人です。

しかし、なかなかまとめて作品を見られる機会は多くなく、貴重な機会です。

常設展示では、光太郎の油絵「自画像」も並んでいるはず。併せてご覧下さい。

7/15追記 光太郎の油絵「自画像」は並んでいないそうです。すみません。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月6日

平成17年(2005)の今日、キングレコードから朗読CD「心の本棚~美しい日本語 日本の詩歌 高村光太郎」がリリースされました。

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中井貴一さんによる25篇の詩の朗読が収められています。

昨日のこのブログで、岡山の地方紙『山陽新聞』さんの一面コラムをご紹介しましたが、同じ『山陽新聞』さんの一昨日の紙面には、こんな記事が載りました。岡山出身の日本画家・小野竹喬(ちっきょう)の子息に関してです。 

小野竹喬長男の戦時中日記を発見

 笠岡市出身の日本画家小野竹喬(1889~1979年)が後継者として期待した長男・春男は43年、太平洋戦争で戦死した。26歳だった。この春男が召集までの1年半、つづった日記が、9日までに京都市の実家で見つかり研究者らを驚かせている。芸術論から婚約者への恋心まで記され、これまで知られていなかった青年画家の実像が読み取れるからだ。
 調査した笠岡市立竹喬美術館(同市六番町)によると、春男直筆の文字資料が確認されるのは初めてという。
 戦後70年を機に春男作品の展示準備を進める同美術館に、遺族から日記発見の一報が入ったのは今年5月のこと。
 日記からは芸術論について、特に強い思いがあったことが分かる。
 「セザンヌをおし進めるとしても、そこに融合せしめなければならぬものがある。それは我々が東洋画に…鉄斎、大雅、法隆寺に感得するものを」。42年5月28日付には、フランスの画家セザンヌや文人画家富岡鉄斎らの名を挙げ、東西芸術の融合に並々ならぬ意欲を示した。
 春男は京都市出身。40年に同市立絵画専門学校(現同市立芸術大)を卒業後、41年5月の第6回京都市美術展で入選。美術雑誌にも名前が挙がる新鋭日本画家だったが、43年12月に戦死する。人物像はこれまで、わずかな作品のほか、近くに住んでいた作家水上勉や絵専の同級生の思い出などから想像するほかなかった。
 日記は1冊で、41年1月から42年7月の陸軍入隊直前まで約120ページ。41年1月3日に「我が形式を見出さねばならない」と、偉大な父を超えようと独自の芸術を目指す決意を記す一方、「今日で三日目。描かれた葉一枚がまだ満足なものではないのだ」(41年9月13日)、「この絵にかゝってから三ケ月目。再び自然を見た時。何んと俺の絵は概念的なのだらう。自然はもっともっと微妙に美くしい」(同年11月16日)など、日々の制作の苦悩を書き残している。
 最後の日付は42年7月3日。婚約者の名を記し「お前との交渉の半年が、君に対する俺の恋情を確固たるものにした。…たしかに愛するといふことは豊かにしてくれる」。まるで予感していたかのように、わずか6日後、召集令状が届き、帰らぬ人となった。
 同時に見つかった「書技帳 昭和十四年」と書かれたノートには、ニーチェ、ルソーら思想家やルノワール、セザンヌ、高村光太郎ら芸術家の言葉、またベートーベン、ワーグナーらの曲名も挙げられ、読書や音楽鑑賞など教養の広さもうかがえる。
 調査にあたった徳山亜希子学芸員は「理想と現実のギャップに悩みながら新しい日本画を求めて模索する青年の素顔が浮かび上がってきた。令状1枚で本人はもちろん家族の希望も断ち切る戦争のむごさも伝わる」と話している。
■春男の死、竹喬芸術にも影響 笠岡市立竹喬美術館の上薗四郎館長の話
 春男の死は父である竹喬にも大きな影響を与えた。戦死の報を受けた竹喬は、『これから二人分の仕事をする』と誓っている。戦後、よく描いた夕焼けや空に春男の魂を感じているような文章があり、息子の死が竹喬芸術をより深めたともいえる。
 ◇
 日記、ノートは作品とともに7月18日から9月6日まで、竹喬美術館の特別陳列「画学生小野春男と父竹喬」で公開される。初日と8月8日はギャラリーコンサートもある。問い合わせは同美術館(0865-63-3967)。


心いたむ記事です。当方の父親の実家近くに、戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんという美術館があります。そちらを想起しました。小野春男はもはや学生ではなかったようですが、前途有為な若者であったという点では同じですね。

今年は戦後70年にあたります。『毎日新聞』さんの連載「数字は証言する データで見る太平洋戦争」によれば、あの戦争での日本人戦死者は約230万人(異論もあり)とのこと。

一人一人の死の裏側に、こうしたドラマがあったわけですが、「永遠のナントカ」などと、それを美談に仕立て、何らの反省も行わないようでは、亡くなっていった人々も浮かばれないのでは、と思います。

小野春男がノートに書き記していた光太郎の言葉というのがどんなものなのか、記事では不明です。芸術論的なものからの抜粋で、小野が画家としてそれを心の支えにしていたというのなら、まだ救われますが、戦時中に大量に書き殴った空虚な戦争詩や散文だったとしたら、やりきれません。

昨日のブログで書いた、「もう一つの大地が私の内側に自転する 」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態が長く続かなかった、というのは、ここにつながります。昭和16年(1941)に『智恵子抄』を上梓した後、詩の世界で智恵子が謳われることはもはやなくなり(戦後まで)、光太郎は全身全霊を空虚な戦争賛美の作品に傾けていきます。

小野がそれをどんな想いで書き記していたのかにいたっては、もはや確かめるすべはありません。そう考えると、このノート、見てみたいような、見るのが恐ろしいような、そんな気分です。

笠岡市竹喬美術館の企画展は以下の通りです。 

平成27年度展覧会 画学生 小野春男と父 竹喬

期 日 : 平成27年7月18日(土曜日)~9月6日(日曜日)
会 場 : 笠岡市竹喬美術館 県笠岡市6番町1-17
時 間 : 9時30分~17時
休館日 : 毎週月曜日(ただし祝日にあたる7月20日は開館し、翌21日は休館します)
入館料 : 一般500円 高校生300円 市外小中学生150円

関連行事:
ギャラリーコンサート
いずれの回も、入場整理券(一般500円、竹喬美術館友の会会員は無料)を竹喬美術館にて6月より配布しますので、事前にお買い求めの上ご来場下さい。入場整理券で当日18時からに限り展覧会もご覧いただけます。
 ◇ソプラノ村上彩子「平和祈念 父・竹喬 息子・春男の目指した道」 平成27年7月18日(土曜日)18時30分開演
 ◇ソプラノ村上彩子「小野春男・葛原守 戦没学生蘇る70年の時」 平成27年8月8日(土曜日)18時30分開演
ギャラリートーク
 7月25日(土曜日)・8月23日(日曜日) 13時30分~14時30分 聴講無料(入館料が必要)、予約不要


こういう若者がまた現れるであろう方向に、この国は再び向かいつつあります。それでいいのでしょうか?


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月12日007

平成23年(2011)の今日、大阪府池田市の逸翁美術館で開催されていた企画展「与謝野晶子と小林一三」が閉幕しました。

小林一三は実業家。阪急電鉄や宝塚劇場などの創業者です。

与謝野鉄幹・晶子夫妻の援助者としても知られ、小林の元には夫妻の書などが大量に遺されました。

その中に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌をしたためた屏風絵が2点あって、この企画展に出品されました。光太郎の絵画としては新発見の物で、非常に驚きました。

晶子の書簡の中に「小林市三氏の画まことによく出来申候(高村氏の筆)」という一節があり、これを指していると考えられます。

ただし、2点とも屏風には仕立てられて居らず、マクリの状態で保存されています。明治44年(1911)の作品です。

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昨日は急遽、東京上野に行って参りました。東京都美術館さんで開催中の、「第103回 日本水彩展」観覧のためです。

光雲の令孫、光太郎の令甥にあたる藤岡光彦氏からご案内をいただきました。氏は光太郎の実弟にして藤岡家に養子に行った故・藤岡孟彦氏の子息。ほぼ毎年、連翹忌にご参加下さっています。

氏は趣味として水彩画に取り組まれていて、このたび、「第103回日本水彩展」入選を果たされ、東京都美術館さんにて展示ということで、招待券を戴いてしまいました。調べてみると、同展は日本水彩画会さんの主催。この会は大正2年(1913)、光太郎と親交のあった石井柏亭や南薫造らの創設した団体でした。「これは行かなきゃなるまい」と思い、行ってきた次第です。今月9日までの会期です。

東京はまだ梅雨入り前、さわやかな天気でした。それに誘われてか、上野の山は多くの人出でした。

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会場は地下でした。案内の矢印を頼りに進むと「日本水彩展」のポスターが。「おお、あそこか」と思って近づくと、隣のポスターは「大調和展」。驚きました。同展は光太郎と親交の深かった武者小路実篤の肝いりで始まったもので、昭和2年(1927)の第一回展、翌年の第二回展に光太郎が彫刻を出品しています。実は現代まで続いているというのを存じませんでした。汗顔の至りです。

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さて、「日本水彩展」。入り口近くに出品者名簿(一人一人の展示場所が書かれています)が貼ってあり、有り難い配慮でした。申し訳ありませんが、この手の公募展は出品点数が多く、全部をじっくり見る余裕がありません。

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藤岡氏のお名前を見つけ、一目散に第16室に向かいます。

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こちらが第16室。氏の作品は、事前に薔薇の絵だと聞いておりましたので、すぐに解りました。

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素晴らしい!

こういう言い方は失礼かも知れませんが、氏は御年90に近いはずなのですが、それを感じさせない若々しい感性に脱帽です。やはり芸術一家高村家のDNAがなせる業でしょうか。

ちなみに氏のお父様、故・藤岡孟彦氏はこちら。

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比較的面長の風貌は、実兄・光太郎とよく似ています。

旧制一高から東大農学部に学び、植物学を修められました。そのころ、明治の文豪・大町桂月の子息で、昆虫学者となった大町文衛とも机を並べています。大町桂月と言えば、光太郎作の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、本来、桂月ら、十和田湖を広く世に紹介したりした三人の顕彰モニュメント。不思議な縁を感じます。

三重高等農林学校講師、兵庫県農業試験場などを経て、戦後には茨城県の鯉淵学園に赴任。こちらは現在も公益財団法人農民教育協会鯉淵学園農業栄養専門学校として続いています。鯉淵学園では、十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した光太郎が、昭和27年(1952)に講演を行っています。この時の筆録は翌年の『農業茨城』という雑誌に掲載されました。

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孟彦は帰京直前の光太郎を花巻郊外太田村に訪ねています。その際に、東京に戻るなら、自分の学校で講演をしてくれるよう依頼したようです。

さて、子息光彦氏の作品を拝観後、東京都美術館さんをあとにしました。企画展「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」が開催中ですが、混んでいそうなのでやめました。「大調和展」も、パーテーションの隙間からちらっと拝見したのみでした。

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そして、近くの東京国立博物館さんへ。

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先週放映された「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」を観て、また藤岡氏のお爺さま、光雲の「老猿」を観たくなったので、上野に来たついでもあり、観て参りました。

約一年ぶりに拝見しましたが、何度観てもいいものです。

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やはり「日曜美術館」の影響でしょうか。「老猿」の周りには黒山の人だかりでした。同じ展示室内の光太郎作の「老人の首」はあまり足を止める人もなく……(涙)。

ところで、「日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」」。今夜8時から、NHKEテレさんで再放送です。ご覧になっていない方、いや、先週ご覧になった方も、もう一度ぜひどうぞ。

こちらでは特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」が開催中ですが、何と3時間待ちだそうで、やはり断念。その代わりと言っては何ですが、「上野に来たついでだ」と思い、やはり光雲の手になる「西郷隆盛像」も観て参りました。

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考えてみると、西郷さんをちゃんと観るのも久しぶりでした。

というわけで、有意義な上野散策でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、中野のアトリエで花巻郊外太田村山口の駿河重次郎に葉書を書きました。

椎茸たくさん送つて下さつてありがたく存じます、東京は毎日雨がふつて居ます、 山の小屋も雨がさかんにもつて居るだらうと思つて居ます、 彫刻の仕事も今型どりを終りかけてゐます、とりあへず御礼まで、

駿河は光太郎が暮らした山小屋周辺の土地を提供してくれた人物で、農作業についても光太郎に懇切丁寧に教えてくれました。光太郎と年も近く、山口地区では最も光太郎が親しく交わった一人でした。めったに他人を呼び捨てにしない光太郎が、親しみを込めて「重次郎」と呼び捨てにしていたそうです。

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こちらは翌年秋、十和田湖畔の裸婦群像完成後、一時的に太田村に帰った時の駿河家でのショットです。

ところで、先日、上記葉書が書かれた光太郎の終焉の地・中野のアトリエを訪問して参りました。明日はそちらをレポートします。

昨日に続き、都内レポートです。007

芝増上寺を後に、次は新宿中村屋サロン美術館さんに行きました。

現在開催中の「テーマ展示 柳敬助」を観るためです。昨秋の開館の時に続き、2度目の訪問となりました。今月2日の第59回連翹忌に、事務の方と学芸員の方、お二人がご参加くださり、招待券も戴いてしまいました。
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柳敬助は光太郎より2歳年長の画家。東京美術学校に学び、明治末、光太郎や荻原守衛と同時期に滞米しており、彼の地で二人と知り合っています(光太郎とは渡米前の東京美術学校で面識程度はあったかも知れませんが)。帰国後は中村屋の裏に守衛の設計監督で建てられたアトリエで1年ほど創作を続け、中村屋サロンの一員となりました。

妻の八重は日本女子大学校卒。同じく小橋三四子とともに、光太郎に智恵子を紹介する労を執りました。そんな縁で、光太郎とは夫婦ぐるみの付き合いが続きます。

しかし、大正12年(1923)、42歳の若さで早世。同年、日本橋三越で開かれた遺作回顧展の初日に関東大震災が起こり、展示された作品は焼失してしまいました。したがって、現存する作品は多くありません。

信州安曇野の碌山美術館さんには柳の作品がある程度まとまって収蔵されており、今回の展示はそちらから10点あまりと、その他、「個人蔵」となっているものでした。

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碌山美術館さん収蔵のものは、同館に毎年行っていますので、何度も観たものですが、その他の「個人蔵」というものは初めて観るものばかりで、興味深く拝見しました。特に、ハガキ大の小さな板に油彩で書かれた「板絵」には「ほう」と思いました。小さな画面に魂が凝縮されている感じでした。


さらに奥のスペースでは、常設展的に「中村屋サロン 通常展」。

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光太郎作品は油彩の「自画像」と、碌山さんから借りているブロンズの「裸婦坐像」。ともに何度見ても素晴らしい作品です。もちろん他の作家のものも。

来月9日、14:00からギャラリートークがあります。ぜひ足をお運び下さい。

最後に受付前のショップを覗くと、当方の知らなかった新刊書籍が置いてあり、早速購入しました。

新宿ベル・エポック

2015/4/20  石川拓治 小学館 定価1,800円+税

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帯文から

芸術と食を生んだ中村屋サロン

インドカリーで有名な中村屋に芸術家たちが集った理由とは? 愛と情熱に溢れた知られざる新宿の良き時代

明治末期から大正、昭和前期にかけて、活況を呈した中村屋サロン。彫刻家・荻原守衛(碌山)、高村光太郎、画家・中村彝…。激動の時代、彼らを支え、世のために尽くした相馬愛蔵・黒光夫妻の物語。


ちょうど受付に、連翹忌においで下さった学芸員の方がいらっしゃいまして、「こんな本が出てるんですね。存じませんでした」と申し上げると、「昨日届いたんです」とのこと。ラッキーでした。

帰りの電車の中で早速読み始めましたが(まだ読了はしていません)、非常にわかりやすくまとまっていて良いと思いました。著者の石川拓治氏はノンフィクション作家。前述の学芸員さんに教えていただいたのですが、「奇跡のリンゴ「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録」という書籍も書かれています。たまたまその題材になったリンゴの無農薬栽培の話は知っていたので、意外といえば意外でしたが、「食」という点で中村屋さんと共通するのかも、と思います。

来週には碌山美術館さんの碌山忌に行って参りますので、それまでに読んで置こうと思っています。

皆様もぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月18日

昭和18年(1943)の今日、連合艦隊司令長官・山本五十六が戦死しました。

それを受けて光太郎は「提督戦死」「山本元帥国葬」という詩を作り、さらに「厳然たる海軍記念日」「われらの死生」という詩でも山本の戦死に触れています(すべて昭和18年=1943)。

今日、平成27年(2015)4月2日は、光太郎の59回目の命日です。午後5時30分から、日比谷公園内の松本楼様において、第59回連翹忌の集いを開催いたします。

参加申し込みは昨年を下回りましたが、生前の光太郎を知る方々が6名、さらに、初めて参加されたり、久しぶりに参加されたりする方々の中に、ビッグな方のお名前もあり、「濃い」連翹忌になりそうです。

レポートは明日以降、執筆いたします。

さて、生前の光太郎を知る方のお一人で、当会顧問にして、第50回までの連翹忌を運営されていた北川太一先生。先月でおん年90歳になられましたが、まだまだお元気で、今日もご参加下さいます。

そんな北川先生の新著が完成しましたのでお知らせします。

ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―

2015年4月2日 文治堂書店刊 定価1,800円+税

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帯文より

明治が大正に変わる1912年、光太郎は斎藤与里の熱意を受け岸田劉生、木村荘八等とともにヒュウザン会を興す。北山清太郎の支援・協力により催された展覧会は「公」に対するアンデパンダンであった。

目次
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Ⅰ プロローグ
Ⅱ さまざまな前景 装飾美術展その他
Ⅲ 展覧会前夜 明治から大正へ
Ⅳ ヒュウザン会始まる 新聞のキャンペーンが成果
Ⅴ さまざまな反響(一) 寅彦と「ツツジ」と漱石
Ⅵ さまざまな反響(二) 光太郎の詩「さびしきみち」
Ⅶ 第二回展に向かって 北山清太郎の功績
Ⅷ 第二回展覧会開催 関如来の展覧会評
Ⅸ ヒュウザン会崩壊 人見東明(清浦青鳥)のエール
Ⅹ ヒユウザン会から生活社へ 尾崎喜八ら、若き詩人との交遊
主要人物生没年
あとがき


元々は、平成14年(2002)~同23年(2011)、高村光太郎研究会発行の雑誌『高村光太郎研究』に連載されたものです。目次を見ればおおよそ見当がつくかと思いますが、明治末から大正初めにかけての、光太郎もその中心にいた画壇、特に公設の文部省美術展覧会(文展)に「対抗」して結成されたヒュウザン会をめぐる光太郎評伝です。「どうやってここまで細かく調べているんだ?」と思うほど、当時の事象が精細に網羅されています。

当方、中身の校閲をさせていただきました。元々の『高村光太郎研究』に載った段階で、きちんと校閲が為されていなかった部分があり、意外と苦労しました。そうしましたところ、「編集協力」ということで名前を載せてくださいましたし、北川先生の「あとがき」でも当方にふれて下さっています。恐縮至極です。

ご注文は、版元の文治堂書店さんまで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月2日001

平成10年(1998)の今日、筑摩書房刊行の増補版『高村光太郎全集』が完結しました。

最初の『高村光太郎全集』は、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)から刊行が開始され、同33年(1958)に全18巻が完結しました。

平成6年(1994)、増補版全21巻+別巻1の刊行が始まり、同10年(1998)の今日、別巻が刊行され、完結しました。

上記の『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』や、当方が刊行している冊子『光太郎資料』もそうですが、光太郎がらみの出版物はやはり連翹忌当日の4月2日を発行日にすることが多くあります。

別巻は、全巻の索引や詳細な年譜が載っているため、当方、毎日のように手に取っています。したがって、もはや表紙はボロボロです。

東京新宿に昨秋開館した中村屋サロン美術館さんで、今週から下記のテーマ展示が始まっています。 

テーマ展示 柳敬助

会 期 : 2015年3月11日(水)~5月31日(日)
会 場 : 中村屋サロン美術館 展示室1・2
 間 : 10:30~19:00(入館は18:40まで)
休館日 : 毎週火曜日(火曜が祝祭日の場合は開館、翌日休館)
入館料 : 200円  ※通常展示と合わせた入館料です。

明治末から大正、昭和初期にかけて、新宿中村屋には多くの芸術家・文化人たちが集いました。
「中村屋サロン」と呼ばれるその集まりには、彫刻家の荻原守衛(碌山)や高村光太郎、画家の中村彝などがいましたが、その中でキラリと光るデッサン力を持っていた画家が柳敬助でした。
本展示ではこの柳敬助に焦点を当て、初期から晩年にかけての油彩画やデッサン約20点をご紹介いたします。写実でありながら創造性に溢れた、柳の作品の魅力をぜひお楽しみください。

【同時開催】 通常展示 中村屋サロン

ギャラリートーク
当館学芸員による、テーマ展示「柳 敬助」のギャラリートークを下記の通り開催いたします。
なお、館内が大変狭いため、事前申込み制とさせていただきます(定員15名。先着順)。ご応募お待ちしております。
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基本情報
日 時 2015年4月11日(土)14:00~ 約50分    5月  9日(土)14:00~ 約50分
場 所 中村屋サロン美術館費用無料(要入館)

参加ご希望の方は、メールまたはお電話にてご応募ください。
メールでご応募の方は、メールの件名を「ギャラリートーク」とし、
①氏名②電話番号③参加人数(2名まで)④参加希望日をご入力のうえ、ご送信ください。
当館職員よりメールまたはお電話にて受付と詳細のご連絡をいたします。
※お申込は先着順とさせていただきます

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柳は東京美術学校西洋画科に学んだ画家です。ニューヨークに留学の経験があり、彼の地で荻原守衛、光太郎と相知ることになり、帰国後も彼等との交流が続きました。

妻の八重は日本女子大学校卒。同じく小橋三四子とともに、光太郎に智恵子を紹介する労を執りました。そんな縁で、光太郎とは夫婦ぐるみの付き合いが続きます。

しかし、大正12年(1923)、42歳の若さで早世。同じ年に日本橋三越で開かれた遺作回顧展は、初日に関東大震災が起こり、展示された作品は焼失してしまいました。したがって、現存する作品は多くありません。

そんな中でも、信州安曇野の碌山美術館さんでは、柳の作品がまとまった数、収蔵、展示されています。今回の中村屋さんでは、碌山さんの収蔵作品の他、約20点が並んでいます。

また、通常展示も開催中で、そちらには光太郎の油絵「自画像」が展示されているはずです。

ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月14日

大正11年(1922)の今日、詩人・歌人の正富汪洋に、自身の略年譜を書き送りました。

○生年月 明治十六年三月 ○東京美術学校彫刻科卒業、明治三十六年 ○明治三十九年二月アメリカに行き、四十年英国に渡り四十一年巴里に移り、四十二年夏帰国 ○詩集「道程」は大正三年出版

おそらく正富が主宰していた雑誌『新進詩人』のためのものと推定されますが、掲載誌が確認できていません。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

去る1日の日曜日、光太郎の名がちらりと出た新聞記事が2本ありましたのでご紹介します。

まずは『朝日新聞』さんの神奈川版。

神奈川)97歳の女性画家、9年ぶり油絵展 30点展示

97歳の現役画家・井上寛子さん=6c2092aa横浜市神奈川区=の9年ぶりの油絵展「色彩を求めて97年」が同市中区の洋館、山手234番館で開催中だ。一昨年の横浜美術協会展で朝日新聞社賞を受けるなど90歳を超えても精力的に制作する井上さん。ここ10年ほどの作品約30点を展示している。

 井上さんは東京生まれ。23歳で文部省美術展(現・日展)に入選する。絵画の師の紹介で詩人高村光太郎を訪ねたり、同じ学校に娘が通う彫刻家北村西望宅に遊びに行ったり、芸術と触れあう青春を送った。

 1943年に結婚した夫の故・信道さんは横浜駅西口地下街入り口の女性像など各地に作品が残る彫刻家。出産直前に横浜大空襲にあい、戦後は一時病床にふせるなど多難な時期もあったが、夫や長女の大野静子さんともども精力的に展覧会を開いてきた。

 「印象派の絵を見て日本とは違うと思った。光は物理的、生理的、心理的と三つに分けて考えられる。その研究に時間をかけて絵をやり抜いた」と振り返る。

 「絵を続けられるか、続けられないか、ひとつの岐路。たやすいことはいえない」と心境を語りながらも「気に入った構図に色彩がうまくはまった時はうれしい」と笑った。

 3日まで。井上さん夫妻の作品はインターネット(http://www.kanagawarc.org/inoue/)で見られる。(2015年3月1日 山本真男)

井上寛子さんという方、『高村光太郎全集』にはお名前が見えませんが、井上さんの年譜によれば、昭和16年(1941)に、「高村光太郎氏より詩と絵画の精神を学ぶ」とあります。

97歳にして個展の開催、頭が下がります。ただ、既に閉幕しており、残念です。


次いで『読売新聞』さんの読書面。書評です。 

記者が選ぶ 時代(とき)を刻んだ貌(かお) 田沼武能著

 勤労動員で生き抜く術(すべ)を学んだ中学時代。東京大空襲では下町を逃げまどう。生活の場で戦争の悲惨さを知った田沼武能(86)は、人間の生き様を表現する世界に導かれた。1949年、名取洋之助や木村伊兵衛ら錚々(そうそう)たる写真家たちが所蔵する写真通信社に入社。木村に師事し人脈も得る。文化、芸術誌とも嘱託契約を結び、撮影依頼を次々と受けた。59年からはフリーの写真家に。師匠木村は田沼に「おれのマネをしていてもダメだ」と忠告した。
 孫のような若手写真家に見せる、昭和を創りあげた大家240人の諭すような表情が見事だ。高村光太郎、永井荷風ら教科書でおなじみの顔もいることに驚く。当時貴重だった電話で仕事を取り付け、個人著作権のネガを蓄積してきたフリーランスの秘蔵写真集。(クレヴィス、3000円)


田沼氏は評にある通り、木村伊兵衛門下の写真家。したがって、昨夏逝去された光太郎の令甥、故・高村規氏の兄弟子にあたります。そういうわけで、髙村規氏のご葬儀では、弔辞を述べられました。

一昨年、銀座のノエビア銀座本社ビルギャラリーで開催された個展「アトリエの16人」では、やはり光太郎のスナップも出展されていました。

さて、『時代を刻んだ貌』という書籍、版元サイトにリンクを張っておきますのでご覧下さい。表紙は佐藤春夫ですね。サムネイルが数葉出ますが、黒柳徹子さんや梅原龍三郎などで、残念ながら光太郎は出ません。


井上寛子さんにしても、田沼武能氏にしても、生前の光太郎を知る皆さん、まだまだ頑張っていただきたいものです。詳細は未定ですが、今月下旬にやはりそうした生前の光太郎を知る方にお会いし、お話を聴く予定です。レポートをお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】  3月4日

昭和29年(1954)の今日、20数年ぶりに自作の木彫「魴鮄(ほうぼう)」を手に取りました。

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当日の日記から。

午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、

この「魴鮄」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展などに出品されたりもしました。

その後、買い手がついたようで光太郎の手許を離れましたが、昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。

私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。

平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。

その「魴鮄」と奇跡的に再会を果たしたのが61年前の今日でした。

持ち込んだ宮崎丈二は光太郎と交流のあった詩人。昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。

    蘭と魴鮄
000
花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない

魴鮄はその面魂(つらだましい)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて

22日、日曜日の『読売新聞』さん翌23日月曜日の『日本経済新聞』さんに、光太郎の名が出ました。といっても、それぞれちらりとで、光太郎がメインではありませんが。

まず『読売新聞』さんでは、日曜版の「名言巡礼」という連載で、光太郎と深い縁のあった詩人、尾崎喜八がメインに取り上げられた中で、喜八の紹介文の中に光太郎の名が。

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曰く、

尾崎喜八 1892~1974年。東京生まれ、京華商業学校卒。会社員、銀行員を経て、高村光太郎の影響のもと、20代から主に雑誌「白樺」で文学活動を開始した。1922年、初の詩集「空と樹木」を発表。ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケなど欧州の作家の詩文の翻訳も手がけた。46年、長野県富士見村(現富士見町)に移住し、52年、東京に戻った。58年以降、それまでの作品を集大成した「尾崎喜八詩文集」(全10巻)を刊行した。富士見時代の作品を収めた詩集「花咲ける孤独」(55年)は、代表作とされる。

タイトルにある「名言」は以下の通り。

静かに賢く老いるということは満ちてくつろいだ願わしい境地だ(『春愁』より)

元になったのは、昭和30年代前半に書かれた「春愁(ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)」という詩の冒頭部分です。

   春愁 
    (ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)000
 静かに賢く老いるということは
 満ちてくつろいだ願わしい境地だ、
 今日しも春がはじまったという
 木々の芽立ちと若草の岡のなぞえに
 赤々と光りたゆたう夕日のように。
 だが自分にもあった青春の
 燃える愛や衝動や仕事への奮闘、
 その得意と蹉跌の年々に
 この賢さ、この澄み晴れた成熟の
 ついに間に合わなかったことが悔やまれる。
 ふたたび春のはじまる時、
 もう梅の田舎の夕日の色や
 暫しを照らす谷間の宵の明星に
 遠く来た人生とおのが青春を惜しむということ、
 これをしもまた一つの春愁というべきであろうか。


記事は喜八が戦後の7年間を過ごした(光太郎同様、戦争協力への反省です)長野県の富士見町を中心に書かれています。画像は八木です。

お嬢さんの榮子さん、お孫さんの石黒敦彦さんの談話なども。榮子さんは幼い頃、駒込林町の光太郎アトリエで智恵子にだっこして貰った記憶があるという方です。

当方、昨秋、鎌倉の光太郎縁戚の方が経営されている笛ギャラリーさんで、お二人にお会いしましたので、「ほう」と思いました。

ちなみにこの連載「名言巡礼」では、昨秋、光太郎をメインに扱って下さいました。

続いて、月曜日の『日本経済新聞』さん。

こちらはやはり光太郎と縁のあった画家、村山槐多を取り上げた記事です。

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光太郎の詩「村山槐多」(昭和10年=1935)からの引用があります。

   村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。001
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。それが「くしやくしやの紙」で、歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

記事にメインで紹介されている絵は、「尿(いばり)する裸僧」と題されたもので、村山の代表作の一つ。長野県上田市の信濃デッサン館に収蔵されています。


また、3年前には和歌山県田辺市立美術館で開催された「詩人たちの絵画」展に出品され、その時にも観て参りました。


先日も書きましたが、こうした新聞記事、公共図書館等で閲覧が可能です。ご利用下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月25日

昭和23年(1948)の今日、十字屋書店から歌集『白斧』が刊行されました。

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左は特製限定本(850部)、右は通常版です。明治期から戦後の光太郎短歌268首を収めています。編者は光太郎と交流があり、この時点では縁戚だった宮崎稔です。光太郎が取り持って、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚していました。

奥付では前年11月刊行となっていますが、光太郎はこの歌集の刊行に同意せず、刊行がずれこみました。明治期の作品は鉄幹の添削ががっつり入っているので、自作と言い難いという光太郎の認識がそこにあります。

そこで、編者宮崎による「覚え書」を新たに印刷して巻末に貼り付け、漸く刊行にこぎ着けました。

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一昨日、東京本郷のフォーレスト本郷さんにて、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきましたが、少し早めに自宅兼事務所を出て、界隈を歩きました。
 
昨年からそうしていますが、この界隈には光太郎智恵子光雲の故地、ゆかりの人物に関する記念館等が多く、毎年のこの機会には、そうした場所を少しずつ見て歩こうと思っています。昨年は、明治期に太平洋画会で智恵子の師であった中村不折がらみで、台東区立書道博物館を訪れました。
 
今年は、東京国立博物館黒田記念館の耐震改修工事が終わり、リニューアルオープンしましたので、まずそちらに行きました。
 
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東京美術学校西洋画科で、光太郎の師で006あった黒田が、大正13年(1924)に亡くなる際、遺産の一部を美術奨励事業に活用するようにとの遺言を残し、それを受けて昭和3年(1928)に建てられました。設計は美術学校で教鞭を執っていた建築家・岡田信一郎です。
 
永らく美術研究所(現・東京文化財研究所)の庁舎として使用されていましたが、新庁舎が近くに建てられ、この建物は東京国立博物館に移管、黒田の作品を中心に展示されてきました。
 
その後、東日本大震災を受けて、平成24年(2012)から改修が始まり、このたびリニューアルオープンの運びとなりました。
 
新たに「特別室」が設けられ、黒田の代表作品の数々が一気に観られる、ということで、かなりにぎわっていました。入場は無料です。ありがたいのですが、もったいない気がします。
 
館内に入り、これまた重厚な感じの階段を上がって二階に。左手が特別室、右手が黒田記念室です。黒田記念室入り口には光太郎作の黒田清輝胸像が展示されており、それを観るのが最大の目的でしたが、黒田に敬意を表し、まずは特別室に。
 
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「湖畔」 (重要文化財) 明治30年(1897)
 
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三部作「智・感・情」 明治32年(1899)
 
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「舞妓」 明治26年(1893)      「読書」 明治24年(1891)
 
すべて撮影可でした。これらを一度に観られるというのは、贅沢ですね。ただし、特別室は年3回の公開だそうで、今回の公開は今日まで。次回は3月23日(月)~4月5日(日)だそうです。
 
続いて黒田記念室へ。
 
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上の画像は入り口上部、欄間のような部分です。わかりにくいのですが、中村不折の揮毫で「黒田子爵記念室」と書かれています。
 
そして入り口左には、光太郎作の「黒田清輝胸像」。まるで黒田本人が「ようこそ」と言いながら迎えてくれているような感じです。

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一昨年の「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来、久しぶりに拝見しました。
 
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記念室内部は、完成作だけでなく、スケッチ、デッサン、下絵、さらには黒田の遺品なども展示されています。また、室内は創建当初の内装。天窓からの採光が温かく、いい感じです。
 
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特別室は年3回のみの公開ですが、記念室は常時公開です(月曜休館)。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月12日011
 
平成4年(1992)の今日、双葉社から関川夏央・谷口ジロー『『坊ちゃん』の時代 第三部 啄木日録 かの蒼空に』が刊行されました。
 
漱石と、同時代の文学者達を描いた五部作の三作目です。この巻は明治42年(1909)4月から6月の東京を舞台とし、主人公は石川啄木です。
 
光太郎はこの年7月に欧米留学から帰朝するため、登場はしませんが、「パンの会」のシーンで、「近々帰ってくるそうだ」と噂されています。
 
光太郎は登場しませんが、智恵子が登場します。
 
市電の中で、啄木が平塚らいてうと智恵子に偶然出くわし、らいてうに向かって無遠慮に、前年、漱石門下の森田草平と起こした心中未遂について尋ねるというくだりです。
 
智恵子はらいてうをかばいます。 
 
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しかし、なおも食い下がる啄木、すると、堪忍袋の緒を切らせた智恵子のビンタ炸裂(笑)。
 
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関川氏の創作ですが、こういうエピソードがあったとしても、不思議ではないでしょう。

来年1月―といっても、もう来週から1月ですが―の光太郎関連イベント等も、少しずつご紹介していきます。
 
タイトルの通り、上野の東京国立博物館内―正確には道をはさんで西隣―にある黒田記念館さんが、1月2日(金)、リニューアルオープンします。しばらくの間、耐震工事ということで休館中でした。
 
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「黒田」は黒田清輝。国の重要文化財の「湖畔」(光雲の「老猿」と同時に指定されました)などで有名で、「近代洋画の父」といわれる洋画家です。東京美術学校西洋画科で教鞭を執り、明治38年(1905)から翌年にかけ、欧米留学前の光太郎が同科に再入学していた際に、指導にあたりました。光太郎は同校彫刻家を明治35年(1902)に卒業、研究科に残っていたのですが、西洋美術を根底から勉強し直そうと、西洋画科に再入学したのです。
 
この時、黒田の同僚には藤島武二、光太郎の同級生には藤田嗣治、岡本一平(岡本太郎の父)、望月桂らがいました。教える方も教わる方も、錚々たるメンバーですね。
 
そんな縁もあり、光太郎は昭和7年(1932)、黒田の胸像を制作しました。同館にはその像が現存しています。この像は、ここと、東京芸術大学大学美術館さんと、二点だけしか鋳造されていないのではないかと思います。昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展では、芸大さんのものをお借りしました。
 
さて、リニューアルオープンですが、以下の日程になっています。
 
2015年1月2日(金) ~ 2015年2月1日(日) 開館時間:9:30~17:00 
休館日:月曜日(祝日・休日の場合は開館、翌火曜日休館)
 
 
館内には「湖畔」が展示されている「特別室」があり、こちらは常時公開ではなく、以下の日程でオープンです。
 
第1回:2015年1月2日(金)~1月12日(月・祝)
第2回:2015年3月23日(月)~4月5日(日)
第3回:2015年10月27日(火)~11月8日(日)
 
 
また、先述の光太郎作「黒田清輝胸像」は「黒田記念室」の入り口に常時展示されます。室内は黒田作品で、6週間ごとに展示替えだそうです。
 
観覧料は無料です。ぜひ足をお運びください。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月27日
 
昭和28年(1953)の今日、ラジオ放送のため、美術史家・奥平英雄との対談「芸術と生活」(原題「彫刻と人生」)が録音されました。
 
オンエアは翌年1月7日。文化放送でした。
 
以前にも書きましたが、かつてはカセットテープで市販されていました。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうかわかりませんが、数え71歳の光太郎、十和田湖畔の裸婦群像(通称乙女の像)の除幕を終え、今後の展望を比較的元気に語っています。

講談社さんから10月に刊行された、池川玲子さん著『ヌードと愛国』。明治期に智恵子の描いたヌードデッサンなどについて触れています。
 
早々に『日本経済新聞』さんに書評が載りましたし、その後、『読売新聞』さん、『朝日新聞』さんでも紹介されました。
 
さらに『産経新聞』さんにも載りましたので、ご紹介します。 

フォト・ライター野寺夕子が読む『ヌードと愛国』池川玲子著

■まとわない体がまとう歴史000
 
 著者池川は研究者だ。近現代女性史を専門とする。時々刑事コロンボに変身する。読者に惜しげもなく資料のヌードを見せてくれる。そして鮮やかに謎解きをしてみせる。しつこい。コロンボだから。ねばり強いのに、文は潔い。
 
 「一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた『日本』をまとった七体のヌードの謎を解く」という(七体それぞれに手掛かりの写真や絵が加わるから、本の中にはヌードがいっぱいだ)。別々に創られたヌードだが、時系列に並べてみると近現代史の見慣れた語句とつながり、生き物みたいに動き出す。帝国主義とか移民政策とか民族主義とか資本主義とか。大陸の花嫁、婦人解放と婦人警官、安保、ウーマン・リブ、大量消費…。ヌードは裸体だが「はだか」ではない。まとっていないようで、まとっている。見えない衣を見ようとしてきた先達がいて池川が自論を重ねていく。著者自身が、謎解きをする自分に刺激されてきたろう。
 
 智恵子抄の智恵子が描いた百年前のリアルすぎる男性デッサンから第一章が始まる。輸出用映画しかも官製(しかも真珠湾攻撃の年)の宣伝映画に映るヌード。女性初の映画監督がいて、異端児・武智鉄二監督がいる。第七章で凝視するのは「裸を見るな。裸になれ。」-70年代のパルコのポスターだ。アートディレクター石岡瑛子のヌードへの執着を池川は丹念に追う。70年代の女性像。70年代の東洋と西洋の色。石岡の見せた誇り(プライド)と隠した怒りを、書く。その肯定的な書き方が、新鮮だった。
 
 この章に続くあとがきに、写真集『臨月』が出てくる。百人の臨月の女性を白黒で、自然光だけで撮ったドキュメントヌード。私の本だ。1996年度の太陽賞(平凡社主催)の審査では、荒木経惟らとともに石岡瑛子も選考委員を務めた。池川の描く石岡像を読んで、20年近くも経(た)ってこの人にやっと出会った、という気がしている。
 
 あとがきで「今の女子学生が気にするヌード」を挙げたことで、池川は、さあて、またここから、と動き出すだろう。現代史家はタフだね。(講談社現代新書・800円+税)
 
 
だいぶ注目されているようですし、実際、かなりの力作です。ぜひお読み下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月26日

昭和25年(1950)の今日、詩「遠い地平」を執筆しました。
 
  遠い地平
 001
なかなか危ない新年が
平気な顔してやつてくる。
不発か時限か、
ぶきみなものが
そこらあたりにころがつて
太平楽をゆるさない。
人の命のやりとりが
今も近くでたけなはだ。
日本の脊骨岩手の肩に
どんな重いものがのるかのらぬか。
都会は無力な飯くらひ、
それを養ふ田舎の中の田舎の岩手。
新年は花やかに訪れても
岩手はじつくりうけとめて、
その眼が見るのは遠い地平だ。 
 
翌年元日の『新岩手日報』のために書いた詩です。
 
人の命のやりとりが/今も近くでたけなはだ。」は、朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争あたりを指していると考えられます。東京には見切りを付け、花巻郊外太田村という辺境にいながら、光太郎は世界を見つめています。
 
ところで、先の総選挙では自公が圧勝。第三次安倍政権の陣容が発表されました。改憲に意欲を示す安倍総理ですが、くれぐれも「人の命のやりとり」を「たけなは」にできる国にしてほしくないものです。しかし、どうなることやら、ですね。そういう意味でも、もうすぐやってくる平成27年(2015)も、「ぶきみなものが/そこらあたりにころがつて/太平楽をゆるさない」「平気な顔してやつてくる」、「なかなか危ない新年」だと思います。

昨日のこのブログにて、近々放映されるテレビ番組の情報を載せました。記事を書いたのが午前中。午後になって、ふとテレビをつけると、地上波TBSさんで、内田康夫さん原作の浅見光彦~最終章~ 最終話 草津・軽井沢編というドラマの再放送が放映中でした。平成21年(2009)に連ドラとして放映されたもので、光太郎彫刻の贋作を巡る事件という設定の「「首の女」殺人事件」を原作としているものです。
 
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この「蝉」は美術さんの作品と思われますが、なかなか良くできていますね。
 
浅見光彦役は沢村一樹さん。お母さんの雪江役は佐久間良子さん。
 
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ちなみに佐久間さんは平成3年(1991)11月9日にNHK総合で放映された単発のドラマ「極北の愛 智恵子と光太郎」(脚本・寺内小春)で智恵子役を演じられました。光太郎役は小林薫さんでした。
 
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昨日の「浅見光彦~最終章~」、ネットのテレビ情報欄で「光太郎」のキーワード検索にヒットしなかったため、この放送が昨日あったことを事前に気づかず、紹介しませんでした。「やっちまった」感でいっぱいです。
 
まあ、何度か再放送されていますので、また放映があるでしょうし、DVDも発売されています。
 
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ちなみにDVDには、よくある「特典映像」としてメイキング風景が収められており、第1話「恐山・十和田・弘前編」の関係で、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)が紹介されています(ただし第1話本編にはこの像は出てこなかったと記憶しています)。
 
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ぜひお買い求め下さい。
 
 
閑話休題。
 
日曜日の『読売新聞』さんに、智恵子について触れた池川玲子さん著『ヌードと愛国』の書評が載りましたのでご紹介します。

『ヌードと愛国』 池川玲子著 投影される深い意味

「ヌードは意味を着ている」000
 たしかにそうだ。ヌードは服を着ていないが故にヌードであるが、だからと言って服を着ることによってまとうような意味が欠落しているわけではない。
 時に、服を着ていないが故に深い意味が投影される。高尚な芸術作品にも下劣なわいせつ物にも。近代の先端にも前近代の残余にも。たくましく魅力的にも弱々しく貧相にも。
 本書は1900年代から70年代まで、その時々の社会で注目された七つのヌード作品をとりあげながら、そこにいかなる意味があるのか分析していく。ヌードとの関係で論じられる対象は竹久夢二、外国人観光客誘致映画、満州移民プロパガンダ映画など、一見脈絡がなく多様に見える。ただ、一本の筋も通っている。そこでは近代化の中で現れる日本と西洋、女性と男性の間にある緊張の変化が追われているのだ。
 例えば、高村光太郎『智恵子抄』で有名な高村智恵子が描いたヌードについて論じた章がある。智恵子は男性ヌードのデッサンの際に「おかしいほどリアル」に股間を描くと、同じ時に美術を学ぶ男子学生の回想に書かれていた。しかし、調べてみれば、実際に智恵子が描いたとされるデッサンはそのようなものではない。では、なぜ……。
 結論を言えば、このエピソードの背景には、当時の西洋の先端的な美術のあり方を知る智恵子の姿、あるいは、社会における女性への「良妻賢母」的な役割の変化などが存在する。ただ、この結論自体はそれほど重要ではない。本書の面白みは、この結論を論証するプロセスにほかならない。謎解き形式で進む文体はとても読みやすく、他の様々な事例も含めて読み通すことで、幅広い社会史・美術史の知見を得ることができるだろう。
 ページをめくるごとに明かされる、何気ない作品の細部に隠された重要な意味。それを何重にもみせる著者の力量に驚かされ続けた。
 
 
なかなか的確な書評です。実際、非常に読みごたえのある書籍でした。こちらもぜひお買い求めを。
 
 
ところで、ヌードといえば、またつい最近、芸術か猥褻物か、ということで、ある作家さんの作品が問題になっていますね。
 
上記に画像を載せた十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)もヌードですが、まったく猥褻感がありません。現在、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで発刊予定の『乙女の像のものがたり』に寄せた拙稿を校正中です。その中の年少者向けに書いた稿で、「裸婦像」の語注として「人間の肉体の美しさを表現するため、はだかの女の人を作った彫刻」と書きました。「乙女の像」、ひいては芸術表現としての「ヌード」は、そういうものだと思います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月17日
 
昭和24年(1949)の今日、詩人の中原綾子、歌人の館山一子に、それぞれが主宰する雑誌の題字を揮毫したものを送りました。
 
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中原には「すばる」、館山には「郷土」。それぞれ、翌年からの号で、光太郎の揮毫が表紙を飾りました。

一昨日、新宿文化センターにて、中村屋サロン美術館開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」を拝聴して参りましたが、その後、同じ新宿区の神楽坂に寄ってから帰りました。
 
神楽坂というと、「一見さんお断り」の高級料亭、というイメージですが(笑)、そういう分野ではなく、ギャラリーです。以下の展覧会が催されています。

えがく展 7人の絵描きと10冊の本

会 期 : 2014年11月29日(土)~12月14日(日)
会 場 : ギャラリー「ondo kagurazaka」
       新宿区矢来町123 第一矢来ビル1階かもめブックス
時 間 : 月~土 10:00~22:00  日 11:00~20:00
 
11月29日(土)に開店をむかえる「かもめブックス」の中に開かれるギャラリー「ondo kagurazaka」。
そのこけら落とし展として開催される本展示は、大阪・東京から7名の作家が参加し、本の中に眠る美しい文章からインスピレーションを受け、絵で表現します。
テーマとなった文章は「石川啄木・宮城道雄・夏目漱石・高村光太郎・島崎藤村・夢野久作・上村松園・種田山頭火・田山花袋・太宰治」の本から選びました。
 
参加作家
 東京より……松園量介・竹谷満・日笠隼人
 大阪より……wassa・三尾あすか あづち・山内庸資
 
12月6日(土)、7日(日)の2日間、参加作家によるライブペイントや似顔絵など、かもめブックス店内でアートイベントを開催します。
 
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というわけで、行って参りました。
 
東京メトロ東西線神楽坂駅2番出口(矢来口)を出て、左折。かもめブックスさんという書店兼カフェがあり、その奥がギャラリー「ondo kagurazaka」さんです。「一見さんお断り」の高級料亭ではありませんが、実におしゃれです。さすが神楽坂。
 
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先週、麻布十番で観てきた「装幀画展Ⅱ~文学とアートの出逢い~」は、「装幀」として描かれ、本の選択も各作家さんにまかされていましたが、こちらはブックデザインというわけではなく、それぞれの本からのインスパイアというか、オマージュというか、そういったイラストでした。本の選択はギャラリーさんの指定だそうで、10冊の本に対し、7人のイラストレーターの皆さん(20~30代の若手)が1枚ずつ出品しています。即売も行っています。
 
光太郎に関しては、『智恵子抄』。さらにその中に収められている詩「あなたはだんだんきれいになる」がお題でした。
 
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会場内にはお題に出された書籍も並んでいました。
 
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『智恵子抄』を選んでいただいて、ありがたい限りです。
 
日曜を除き、夜10時までオープンしています。一つのフロアに書店とカフェとギャラリーが同居していて、珈琲でも飲もうかと思ったのですが、帰りの高速バスの時間の関係で、ゆっくりできなかったのが残念でした。ぜひ足をお運びいただき、当方の代わりにゆっくり珈琲でもご堪能下さい(笑)。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月3日001
 
昭和12年(1937)の今日、山形の銀行家・長谷川吉三郎にはがきを書きました。
 
文面は以下の通りです。
 
拝復 昨日見事な林檎たくさんいただきありがたく存じ上げました。今日おてがミ及書留小包にて軸其他たしかに落手、先日の色紙が立派に表装せられたのに驚きました、 おてがミの趣は承知いたしました、不日お手許に御返送申上る心組で居ります、 とりあへず御返事まで 艸々
 
「色紙」は、この少し前に丑年生まれの長谷川の依頼でかいた右の画像のものです。それを長谷川が表具屋さんに軸装してもらい、さらに光太郎に箱書きを依頼した、その返答が上記の葉書です。
 
ちなみに長谷川は牛の彫刻も光太郎に依頼しましたが、光太郎、そちらは断っています。翌年に歿する智恵子がゼームス坂病院に入院中で、創作意欲を欠いている部分があったようです。
 
牛の色紙軸装は「長谷川コレクション」の代表作の一つとして、山形美術館に現存し、時折、他館の企画展に貸し出しています。

全国の皆様から、いろいろと光太郎智恵子がらみの品々をいただいております。三回に分けてご紹介します。
 
まずは、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』という書籍をお書きになった、板橋区職員の坂本富江さんから、少し前に『都政新報』の10月17日号をいただきました。
 
以前にも玉稿の載った『都政新報』をいただきました。東京の自治体専門紙だそうです。
 
さて、今回のものは以下の通り。やはり坂本さんの玉稿が紙面を飾っていました。
 
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名文ですので引用させていただきます。決して手抜きではありません(笑)。  

人生はいつも始発駅 福島で自作の紙芝居を実演 いたばし観光センター 坂本富江

紙芝居を作るきっかけ
 
 人生には思いもかけない転機が訪れるものである。 
 自作の紙芝居を福島で演じることになった。多少の絵心は持ち合わせているが、まさか偉大な人の一生を紙芝居にするとは……。初めての挑戦である。
 事のきっかけは、昨年の10月に講演をさせていただいた福島県二本松市での高村智恵子をしのぶ第19回「レモン忌」であった。そこに列席されていた智恵子の母校、二本松市立油井小学校の伊藤雅裕校長先生の一言だ。
 「あの本の中の絵の感じで、小学校4年生が先輩・高村智恵子さんの生涯を理解できるような紙芝居か絵本があるといいんですが……」
 あの本とは、2年前に出版した自著『スケッチで訪ねる智恵子抄の旅』である。
 私の人生、こういう時、不思議と高村光太郎の詩『道程』が頭を出すのである。
 僕の前に道はない
 僕の後に道はできる
 
 そして一世を風靡した「今でしょ!」が不安を払拭させ、紙芝居作成という未知への挑戦が始まったのである。
 私は長いこと保育園に勤務していたので、紙芝居は教材として活用させていただいた。けれど、作るという知識・知恵とも全く乏しかったので、まずは本物の紙芝居を研究しながら、絵と文章を同時進行させることにした。
 未来を築く小学生へのメッセージとして、何が良いだろうか。一般的に語られている智恵子論ではなく、自著でもこだわったように、時々を精いっぱい生き抜いた輝きの姿や志を貫いた強固な精神、人間性あふれるエピソード等、人が人として生きていく根源の有り様を智恵子の生涯を通して書いた。
 明治―大正―昭和の時代背景や風俗などぶつかる壁も多く、その都度、図書館に駆け込む日々でもあった。私の故郷、山梨が舞台であったNHKの朝ドラ『花子とアン』は時代背景が重なり、とても参考になった。
 4月から作業を始め、9月中旬で一応のめどが附き、友人たちの助けを借りて、原画と文章のコピーを台紙に貼る作業が終了した。34枚の大作を前に、皆で「万歳!」と爆笑の渦であった。
 昨年の秋、登山経験のない私が、もがきながら登った安達太良山の山頂に立った時の心地と同じ爽やかさであった。
 
次はどんな挑戦が待っているか
 
 待ちに待った福島入りは快晴の9月。新幹線が郡山を過ぎ、本宮に差し掛かる頃には安達太良山の上に青く澄んだ「ほんとの空」がまるで両手を広げて迎えてくれているようだった。隣席のおばあちゃんが「土地が喜んでいるんだよ」。この言葉に勇気をもらった。
 初日は地元二本松市の「智恵子のまち夢くらぶ」主催の智恵子純愛通り記念碑第6回建立祭で紙芝居を実演した。周囲は収穫期を迎える黄金の田んぼが広がり、コスモスが風に揺れる大自然の中であった。
 2日目、いよいよ油井小学校の4年生の総合学習授業に参加した。創立141年の歴史を誇るかのように、「始学の松」、しだれ桜、プラタナスの巨樹が空に高くそびえながら迎えてくれた。
 さて、私は二つの宝物を持参した。一つははるか昔、小学4年の時、私が書いた書道。二つ目は、小学3年の5月にやはり自分で作った新聞。何と「青空新聞」と命名されている。
 この宝物が生徒さん達との距離をぐーんと縮めてくれ、元4年生は年を忘れて紙芝居を読むことが出来たのである。大切に保管してくれた両親(健在)に感謝。また、後日、長時間じっと見てくれた生徒さんたち一人ひとりからのお手紙が届き、感動である。
 このような貴重な体験へ導いて下さった伊藤校長先生、智恵子のまち夢くらぶ代表の熊谷健一氏、紙芝居制作に快く協力してくれた友人達や職場の仲間にも感謝いっぱいである。
 紙芝居は小学校に寄贈した。「本校の宝物にします」と伊藤校長先生がおっしゃってくれた。
 今年は『道程』の詩が世に出て100年。光太郎、智恵子が結婚して100年。来月11月26日にはNHKの特別企画で、この2人が放映されるとのこと、大いに楽しみである。
 私にとって人生はいつも始発駅。さて、今度はどんな挑戦が待っているか今からワクワクである。
 
 
素晴らしい文章ですね。
 
ちなみに坂本さん、「多少の絵心は持ち合わせているが」とありますが、多少どころではなく、智恵子と同じ太平洋画会(現・太平洋美術会)に所属され、100号の油絵を描かれています。
 
こうした活動を通し、若い世代が光太郎智恵子の世界にどんどん興味を持って欲しいものです。坂本さんもそういうことを考えられての「挑戦」でしょう。ありがたいことです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月29日
 
昭和27年(1952)の今日、夕食に浅草米久の牛鍋を食べました。
 
米久さんは、浅草で今も続く牛鍋屋の老舗。大正11年(1922)に光太郎は「米久の晩餐」という詩を書いて、絶賛しました。嵐山光三郎氏の『文士の料理店(レストラン)』 (新潮文庫)などに詳細が書かれています。
 
十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、岩手太田村から上京したのがこの年の10月。その米久さんを久しぶりに訪れました。
 
しかし、前日には同じ米久さんの新宿支店で牛鍋を食べています。数え70歳にしてのこの健啖ぶり、ある意味尊敬に値します(笑)。

本日も新刊紹介です。 
池川玲子著 2014/10/20 講談社(講談社現代新書) 定価800円+税
 
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版元サイトから
 
一九〇〇年代から一九七〇年代に創られた、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解く。推理のポイントは時代と作り手の動機。時系列に並べたヌードから浮かび上がってくる歴史とは? ヌードで読み解く近現代史。
 
 歴史とはそもそもミステリーと相性の良いものだと思います(もしくは、ミステリーそのものと言えるかもしれません)が、本書は、「日本」をまとった七体のヌードの謎を解くことで、知られざる近現代史が浮かび上がってくる、いっそう贅沢なミステリー仕立ての歴史読みものとなっています。
 著者の池川玲子さんの専門は、日本近現代女性史。ヌードをめぐる芸術作品、美術史と女性学が交錯することで、いままで気にも留めなかった歴史の一部分がこんなにも面白くクローズアップされるのか、と原稿をいただくたびに実感し、それは嬉しい驚きの連続でした。
 本書は、一九〇〇~一九七〇年代の七体のヌードの謎をめぐる全七章の構成になっていますが、たとえば第二章では、竹久夢二が描いた「夢二式美人」がなぜ脱ぐことになったのか、というミステリーの背景として、第一次世界大戦が挙げられています(それがなぜかはぜひ本書をお読みください)。
 とりわけ、私が思わず、池川さんに、「先生! これ、スクープ・ヌードなんじゃないですか!?」と詰め寄り、鼻息を荒くしてしまったのは、第三章の「そして海女もいなくなった」です(実際に、かつて、池川さんのもとには、某通信社の記者さんから取材の申し込みがあったとか)。本章では、現存する日本映画最古のヌードが発掘されているだけでなく、なんと、それは、真珠湾攻撃のほんの数年前、日本の国際観光局が「日本宣伝映画」をつくるにあたり、よりによってハリウッドからもたらされたシナリオに端を発する、いわくつきのヌードだったという事情も詳しく述べられています(「海女もいなくなった」の意味など、ぜひ本書で)。
 第七章の「七〇年代パルコの『手ブラ』ポスター」では、あまりにも意外な事物のポスターまでもがパルコの「手ブラ」に追従した事実が、図版とともに紹介されており、驚きのあまり苦笑いしてしまうことになるでしょう(それが何のポスターかは、本書でお確かめください)。
 ……と、やはり全七章すべてが極上ミステリーのため、ネタバレを避けて紹介文も思わせぶりな内容とならざるをえません。刊行前に読んだ社内の人間からも大好評の本書、ここはぜひ、ご自分のお手に取ってお楽しみくださいませ。(編集担当:IM)
 
第一章 デッサン館の秘密 智恵子の「リアルすぎるヌード」伝説
第二章 Yの悲劇 「夢二式美人」はなぜ脱いだのか?
第三章 そして海女もいなくなった 日本宣伝映画に仕組まれたヌード
第四章 男には向かない?職業 満洲移民プロパガンダ映画と「乳房」
第五章 ミニスカどころじゃないポリス 占領と婦人警察官のヌード
第六章 智恵子少々 冷戦下の反米民族主義ヌード
第七章 資本の国のアリス 七〇年代パルコの「手ブラ」ポスター
 
こちらでは、著者の池川さんによるこの書籍に関してのエッセイも読めます。
 
タイトルに「愛国」という語が入っていますが、ヘイトスピーチ大好きの幼稚な右翼の常套句、「大東亜戦争は侵略戦争ではなかったのだ」的な馬鹿げた内容ではありません(そういう内容を期待して買わないで下さい)。逆に芸術表現としてのヌードが、しばしば反体制の表象として使われることに注目し、逆説的に「愛国」の語が使われています。
 
 
第一章では、光太郎と邂逅する前の智恵子の、太平洋画会研究所で描いたデッサンをメインに取り上げています。
 
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これはおそらく明治40年(1907)、智恵子22歳頃に描かれたものです。智恵子と同じ太平洋画会の事務監督兼助教授だった福岡県大牟田市の佐々貴義雄の遺品から、もう1枚の石膏デッサンとともに、平成11年(1999)に見つかりました。
 
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『ヌードと愛国』の第一章では、やはり太平洋画会に通っていた水木伸一の回想にからめ、智恵子を論じています。
 
さらに、当時の黒田清輝の白馬会と、明治美術会の流れをくむ中村不折の太平洋画会との対比……「白馬会-官-新派-外光派-ラファエル・コランの流れ」、「太平洋画会-民-旧派-写実重視-ジャン・ポール・ローランスの流れ」といったところまで考察が進みます。
 
そこに「歴史画」の問題、モデルの問題、そして警察による「風俗取り締まり」による裸体画の「特別室」行きなどといった問題までも盛り込まれ、非常に読みごたえのある章でした。
 
 
さらに第六章「智恵子少々」(もちろん「智恵子抄」のパロディーです)。
 
こちらのメインは昭和40年(1965)の武智鉄次監督の日活映画「黒い雪」。同年、わいせつ図画の公然陳列の容疑で起訴された(判決は無罪)作品です。背景には日米安保体制下のベトナム戦争拡大への危機感、基地問題があります。
 
武智は、昭和32年に観世寿夫と組んで新作能「智恵子抄」を作りました。その際の智恵子のイメージが、この「黒い雪」に投影されていることが、シナリオのト書きから読み取れる、というのです。ただし、それと判らない程度のインスパイアであり、そこで章の題名「智恵子少々」というわけです。
 
この章での論は、その他、光太郎と智恵子の結婚生活や、十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)、「智恵子抄」受容の歴史などにも及んでいます。
 
感心したのは、昭和32年(1957)の『婦人公論』に載った「座談会三人の智恵子」というかなりマニアックな記事まで参照していること。こちらは武智が司会を務め、それぞれ舞台、映画、テレビドラマで智恵子役を演じた水谷八重子、原節子、新珠三千代が参加した座談会の記録です。
 
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過日、『日本経済新聞』さんに書評が載りました。
 
長沼智恵子が描いたリアルなデッサン、服を脱いだ竹久夢二の美人画、わいせつ罪に問われた武智鉄二の映画、大胆に露出したパルコのポスター。女性史を専門とする著者が1900年代~70年代に世に現れたヌードを時代状況と照らしながら時系列で読み解く。どんな「裸」も重い日本を背負っているとわかる異色の近現代史論考だ。
 
ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月17日
 
昭和27年(1952)の今日、新しくオープンした中央公論社画廊で「高村光太郎小品展」が開幕しました。
 
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光太郎生前最初の、そして最後の彫刻個展です。
 
大正年代にはアメリカでの個展を構想し、その費用の捻出のため、彫刻頒布会を作った光太郎ですが、その計画はあえなく頓挫。以後、彫刻の個展の構想はありませんでした。
 
この展覧会にしても、光太郎自身はあまり乗り気ではなく、『高村光太郎選集』全六巻を刊行してくれた中央公論社への義理立てのような意味合いが強かったといいます。
 
しかし、さらにこの後の最晩年には、彫刻でなく書の個展を開くことを考えていました。
 
光太郎、つくづく大いなる矛盾を抱えた人物です。

昨日、NHK Eテレさんの「日曜美術館 野の花のように描き続ける ~画家・宮芳平」を見ました。光太郎とも交流のあった無名の画家、宮芳平についてでした。宮に関しては、ほとんど知識がなかったこともあり、非常に興味深いものでした。
 
残念ながら、光太郎の名は出ませんでしたが、森鷗外との関わりが比較的大きく取り上げられていました。以前にも書きましたが、鷗外の短編小説「天寵」の主人公が宮をモデルとしています。
 
宮は、鷗外が審査委員長をしていた文展(文部省美術展覧会)に応募、しかし、渾身の作だったにもかかわらず落選。そこで、宮はなんと、鷗外の自宅に乗り込んで、なぜ落選なのかと問い詰めたそうです。さすがに鷗外は大人です。宮の絵はいい絵だと褒めました。大衆や審査員におもねるような絵ではない、と。結局、そういう絵ではないから入選しない、ということなのでしょうか。
 
当方、同じように、文展に渾身の作で応募しながら落選した智恵子を重ねて見ました。ほんの一握りを除いて、多くの画家(画家志望者)が、同じような道をたどったのではないかという気がします。審査委員長の自宅に押しかけたのは、他にいなかったと思いますが……。
 
その後、鷗外は宮を気に入り、作品を購入してやったり、「見聞を広めるように」と、知り合いの文化人の名刺を渡したりしたそうで、おそらく、そこで光太郎も紹介されたのではないかと推測しました。
 
その後、生活上の理由もあり、宮は信州に美術教師として赴任していき、そこで生徒に絵を教える中で、自身の作風も変化していきました。番組サブタイトルの「野の花のように描き続ける」は、このあたりからの作風を表しています。
 
さて、「日曜美術館 野の花のように描き続ける ~画家・宮芳平」。8月10日(日)  20時00分~20時45分に再放送があります。見逃した方はご覧下さい。
 
関連する展覧会がこちら。
期 日 : 平成26年 7月19日(土)~9月7日(日)
会 場 : 豊科近代美術館
休館日 
 7月22日 28日 8月4日 11日 18日 25日 9月1日
   9:00~17:00 (入館受付は16:30まで)
   一般600円(500円) 高校大学生400円(300円) 中学生以下無料
    
  ※( )内は20名以上の団体
主催  安曇野市豊科近代美術館 (公財)安曇野文化財団 読売新聞社 美術館連絡協議会
共催 TSBテレビ信州
 
当館の主要収蔵作家のひとり、画家・宮芳平(1893-1971)の生誕120年を記念した展覧会を開催します。これは茅野市美術館、練馬区立美術館、島根県立石見美術館、新潟県立近代美術館、そして当館へと巡回する宮にとって生前・没後をあわせて最大級の展覧会です。
1893年、新潟県で生まれた宮芳平は旧制柏崎中学を卒業後、父の許しを得て、1913年、東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)に入学します。1914年、あらん限りの力をふりしぼって描いた《椿》が文展に落選し、落選の理由を聞きに文展の審査委員であった森鷗外を訪ねた縁で知遇を得ます。その後、森鷗外は宮を主人公のモデルとした短編小説『天寵』を執筆しています。同じころ、実業家であった父の死や、学生結婚、出産などで生活は困窮し、東京美術学校を退学します。貧困の生活の中、東京から柏崎、平塚へと住処を移しますが、師事をしていた洋画家・中村彝の紹介で、1923年、長野県諏訪で美術教師の職に就きます。そして、諏訪で35年間の教師生活を送ります。裕福とは言えない生活の中で、宮の家族や諏訪の自然、学校生活や個人通信誌『AYUMI』による教え子など関係した人々との心の対話が宮の画家としての歩みを支え続けました。退職後は教え子や知人からアトリエ兼住居を贈られ、終の住処を得ます。本展では、初期のロマンティシズムにあふれる作品から、諏訪の生活の中で生まれた風景や人物等の作品、さらに、晩年のローマ、エルサレム等をまわる聖地巡礼の旅により生まれた「聖地巡礼シリーズ」や「太陽シリーズ」までを展示します。油彩画に加え、素描、銅版画、ペン画を通して、純粋、誠実に芸術を求め、一心に生きた画家・宮芳平の歩みをみつめます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月4日
 
昭和28年(1953)の今日、彫刻「大町桂月記念メダル」の制作を始めました。
 
十和田湖畔の裸婦群像除幕式(同年10月21日)の際、記念として、関係者一同に配布された、光太郎制作になるブロンズのメダルです。このメダルには十和田の三恩人―大町桂月、武田千代三郎、小笠原耕一―の名が刻まれ、さらに桂月の肖像をレリーフにしてあります。百五十個が鋳造されました。

この年の光太郎日記には、八月に制作を始め、翌月には完成したこと、アトリエを訪れた桂月の子息が「亡父によく似ている」と語ったことなどが記されています。この後に取りかかった「倉田雲平胸像」は未完のまま絶作となったため、完成した彫刻としては、このメダルが光太郎最後の作品です。

現在、石膏原型は高村家に残り、各種企画展にはこちらが出品されています。鋳造されたメダルは、十和田市の奥入瀬渓流館、青森市の青森近代文学館で見ることができます。

追記 奥入瀬渓流館のものは、その後、十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」に移されました。

テレビ放映情報です。

日曜美術館 「野の花のように描き続ける ~画家・宮芳平~」

NHK Eテレ 2014年8月3日(日) 9時00分~9時45分 
        再放送 8月10日(日)20時00分~20時45分
 
去年、生誕120年を記念した展覧会が開かれたのを機に注目された画家、宮芳平。知られざる魅力に迫る。
 
司 会  井浦新,伊東敏恵
ゲスト   ドリアン助川
 
 いま、一人の無名の画家の絵が、人々の共感を集めている。長野の高校で美術を教えながら、生涯で数千枚に及ぶ油絵を残した宮芳平(みや・よしへい 1893~1971)。
生誕120年を記念して去年から始まった初めての大規模な回顧展が全国を巡回。すると「澄んだ魂から生まれたような絵」「自然、植物への愛情の深さを感じた」「これまででいちばん心にしみる絵画」といった感動の声が無数に寄せられ、都内で開かれた展覧会をアートシーンで紹介すると、「作品をじっくり見たい」「画家のことが知りたい」といった声が番組宛にも届いた。
宮が描いたのは、鮮やかな色と抽象的な形がおりなす長野の自然風景。優しさに満ちた母子の肖像。そして深い精神性を感じさせる、聖書を題材にした聖地巡礼のシリーズ。こうした絵の背景には、若き宮を愛した文豪・森鴎外との交流。教師と画家の狭間で揺れながら、独自の表現へと至る苦悩の日々が秘められていた。家族や教え子の証言、画家自身の言葉から知られざる実像に迫る。
 
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宮芳平は新潟生まれ、東京美術学校卒の画家。歌人の001宮柊二の叔父にあたるそうです。森鷗外の短編小説「天寵」の主人公としても知られています。
 
光太郎とも縁がありました。
 
宮芳平自伝』に、まだ学生の宮が、大正8年(1919)、腸チフスで駒込病院に入院していた光太郎を見舞ったという記述があります。また、宮の遺品の中から、この頃と推定される、光太郎からの葉書も見つかっています。
 
此間はだしぬけにお目にかかつたので却つて大変よろこびを感じました。
お葉書で今のあなたの生活をうらやましいほどにおもひます。 秋頃になつたら一度行つて遊びたくおもつてゐます。 砂の上をころがり廻らない事もう二年余になります。皆さんによろしく
 
そして昭和9年(1934)、信州諏訪で開かれた宮の個展の発起人に、光太郎も名を連ねました。
 
さらに、のちに宮の妻となる駒谷エンが、光太郎彫刻のモデルを務めたこともあるということです。
 
はっきりいって、マイナーな画家でしたが、昨年が生誕120年にあたり、各地で企画展「生誕120年 宮芳平展-野の花として生くる。」が巡回中で、ここにきてスポットがあたっています。同展は長野茅野市美術館、練馬区立美術館、島根県立石見美術館、新潟県立近代美術館と廻り、現在は安曇野市豊科近代美術館さんで開催中です(また稿を改めて書きたいと思っています)。
 
さて、「日曜美術館」。宮と光太郎とのかかわりが、少しでも紹介されればいいのですが……。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月29日
 
昭和6年(1931)の今日、智恵子が母・センに宛てて長い手紙を書きました。
 
智恵子の実家、長沼酒造は昭和4年(1929)に破産、一家は離散しています。僅かに残った山林の所有権をめぐり、セン、智恵子、弟の啓助の間に内容証明郵便が行き交い、骨肉の争いとなっていました。
 
この頃、センは、中野にあった智恵子の妹セツの嫁ぎ先、齋藤新吉の住まいに、のちに智恵子を看取る智恵子の姪・春子とともに身を寄せていました。しかし、智恵子はこのことを光太郎には秘密にしていたそうです。
 
直後に光太郎は『時事新報』の依頼で、紀行文執筆のため約1ヶ月の三陸旅行に出ます。その間に駒込林町のアトリエを訪ねてきたセンとセツが、智恵子の「異状」に気づきます。
 
この手紙も、文脈はおかしくないものの、非常に追い詰められている様子がうかがえます。
 
母上様
 きのふは二人とも悲くわんしましたね。しかし決して決して世の中の運命にまけてはなりません。われわれは死んではならない。いきなければ、どこ迄もどこ迄も生きる努力をしませう。皆で力をあはせて皆が死力をつくしてやりませう。心配しないでぶつ倒れるまで働きませう。生きてゆく仕事にそれぞれとつかゝりませう。私もこの夏やります。やります。そしていつでも満足して死ねる程毎日仕事をやりぬいて、それで金も取れる道をひらきます。かあさん決して決して悲しく考へてはなりません。私は勇気が百倍しましたよ。やつてやつて、汗みどろになつて一夏仕事をまとめて世の中へ出します。悲しい処ではない。そしてそれが自分の為であり、かあさん達の為にもなるのです。
(中略) 
 力を出しませう。私、不幸な母さんの為に働きますよ 死力をつくしてやります。金をとります。いま少しまつてゐて下さい。決して不自由かけません。もしまとめて金がとれるやうになつたら、みんなかあさんの貯金にしてあげますよ。決して悲観して(は)なりません。けふは百倍の力が出てきました。それではまた。

 
のちにセンともども、齋藤一家は九十九里に転居。昭和9年(1934)には、智恵子がここに転地療養することになります。

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂きました。
 
その中のお一人、詩人の間島康子さんから、文芸誌『群系』の昨年12月に刊行された第32号をいただきました。
 
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間島様の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」11ページが掲載されています。
 
「好い時代」とは、佐藤春夫が『わが龍之介像』で使った言葉。大正時代(広い意味で明治末を含む)を指します。文芸界全体でも、光太郎自身も、たしかに大正時代は充実していた時期です。
 
その「好い時代」の光太郎を追った論考で、失礼ながら、非常に感心いたしました。
 
『群系』さんホームページはこちら間島様の論考もウェブ上で閲覧できます。ぜひお読み下さい。
 
それから、連翹忌にはご欠席でしたが、イラストレーターの河合美穂さんから、事前にご丁寧にご欠席のご連絡をいただきました。河合さんは今年1月に、個展「線とわたし」を開催され、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品も展示されました。
 
その「梅酒」をポストカードにしたものをいただいてしまいました。ありがたいかぎりです。
 
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あたたかい絵ですね。しかし、もったいなくて使えません(笑)。
  
連翹忌、そして光太郎智恵子を通じて人の輪が広がっています。素晴らしいことだと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月6日

昭和56年(1981)の今日、銀座和光ホールで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

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東北レポートの最終回です。

3/9(日)、盛岡てがみ館さんでの企画展「高村光太郎と岩手の人」を見終わり、最後の目的地に向かいました。
 
てがみ館のほど近く、同じ中津川沿いにある「深沢紅子野の花美術館」です。

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深沢紅子(明治36=1903~平成5=1993)は、盛岡出身の画家。夫の省三ともども、盛岡での美術教育にも力を注ぎ、後進の育成に功績があり、やはり省三ともども、光太郎と交流がありました。
 
野の花美術館、こちらは直接光太郎と関わる展示はないのですが、数年前に立ち寄った際に、非常にいい感じだったので、リピーターとして行ってきました。
 
紅子は生涯野の花を描き続け、そちらの展示がメインです。下の画像は買ってきたポストカード。当方、柄にもなく花々が大好きです。
 
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さらに企画展として「深沢省三 童画原画展」が開催されていました。
 
本当に小さな美術館ですが、味わい深い作品の数々に出会えます。ぜひ足をお運びください。
 
その後、盛岡駅まで歩きました。歩いてみると、いろいろ思いがけない発見があるものです。
 
こちらは岩手県公会堂。昭和27年(1952)に光太郎がここで講演をしています。おそらく当時のままの建物でしょう。
 
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 盛岡市街、この手の古い建物が結構残っています。左下は「もりおか啄木・賢治青春館」。もと第九十銀行だった建物を転用しています。こちらは今回、前を通っただけで中はパスしたのですが、いずれよく観てみようと思っています。
 
街角には啄木もいました(笑)。
 
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 その後、盛岡駅から東北新幹線で帰りました。今回も充実した東北紀行でした。
 
これを読んで行ってみようという気になられる方がいらっしゃったり、あちらの方面に行かれる方のご参考になったりすれば幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月17日

大正4年(1915)の今日、上野精養軒で開かれた作家・歌人の平出修の追悼会に出席しました。
 
平出は与謝野鉄幹の新詩社同人。弁護士資格も持ち、幸徳秋水や管野スガなどのいわゆる「大逆事件」の弁護も務めました。前年のこの日に若くして亡くなっています。
 
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前列左から二人目が平出、後列左から二人目が光太郎、前列右端が鉄幹。明治37年(1904)の撮影です。

昨日は3.11。東日本大震災からまる3年が経ちました。
 
少し前から、各地で行われたイベントや、その報道などで光太郎智恵子に関わるものがあります。
 
当方は、銀座永井画廊さんで開催中の「高村智恵子紙絵展」に行って参りました。
 
永井画廊さんでは2012年以後、毎年3月に「被災地への祈りのメッセージ展」を開催していて、その一環です。更に昨日は関連行事として、光太郎の弟で鋳金の人間国宝・高村豊周の孫・朋美女史と、高村光太郎研究会員で、かつて群馬県立土屋文明記念文学館の学芸員だった佐藤浩美さんによるトークショーが行われました。

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トークショーの後、午後2時46分には、参会者による黙祷が捧げられました。
 
さて、一昨日のものですが、各地の地方紙の報道をご紹介します。 

東北と岐阜つながれ 岐阜市でイベント、黙とうも

 2014年03月10日 岐阜新聞
 東日本大震災をきっかけに、人とのつながり、支え合いを大切にしようと企画されたイベント「みんな友達!tunagari fes.2014」が9日、岐阜市金町の金公園で開かれ、大勢の人たちが触れ合いを楽しんだ。
 実行委員会(はやしちさこ代表)が開催し、5回目。手作りのお菓子や手芸品などの約120ブースが並び、家族連れらが出店者との会話を楽しみながら買い求めた。
 ステージイベントもあり、8グループが出演。関市のユニット「梅弦」は、震災で津波に流された松で作ったギターの演奏に合わせ、詩集「智恵子抄」を朗読した。
 地震発生時刻の2時46分には、来場者が黙とうをささげた。
 
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もう故郷に戻らない 「なみえ焼そば」店主決意

2014年3月10日 東京新聞
 東京電力福島第一原発事故のため全町避難を強いられている福島県浪江町。ご当地グルメ「なみえ焼そば」が全国的に脚光を浴びる中、町を離れて同県二本松市で営業を再開した「杉乃家」店主、芹川輝男さん(64)は、もう浪江町には戻らないと心に決めた。震災から三年。古里に帰らない選択をする被災者が、増えている。 (谷悠己)
 うどんのような極太麺にたっぷりのもやし、豚バラが中華鍋で「ジュジュッ」と音を立て、甘口の濃厚ソースと絡み合う。
 「浪江の人は年取ってても結構、大盛りを注文するんだ」。鍋を自在に操る芹川さんが話す。浪江町の仮役場がある二本松市は二千五百人の町民が暮らし、店は社交場となっている。
 芹川さんは原発事故後、家族で福島県内の避難所などを転々。釣り仲間だった二本松市の男性が空き店舗を探し、震災の四カ月後に店を再開できた。なみえ焼そばを作る店は町内に約二十店舗あったが、再開したのは杉乃家のみだ。
 以前の店では、東電社員や原発作業員も多かった。「町はずいぶん東電の世話になっていた。事故の賠償はしっかりしてほしいが、東電だけ責める気には今もなれない」。むしろ事故直後、関東の市民が「福島から電気が送られていたと初めて知った」と話していたことが悲しかった。
 浪江町の自宅兼店舗には盆や正月に一時帰宅する。室内のネズミが芹川さんと目線を合わせた後、一斉に姿を消す。部屋中が荒らされ、臭いがひどい。「あれを見たら、もう帰る気なくなるよ。悔しいけど、諦めがついた」。ずっと「浪江に帰りたい」と言っていた義父も二〇一二年六月に肺炎で亡くなった。
 昨年末に愛知県豊川市で開かれたB級グルメの祭典「B-1グランプリ」で、浪江の町おこし団体が作った焼きそばが優勝。それ以降、市外からも大勢の客が訪れる。「全てを失った後の再出発だから、今の方が楽しいかも。まだ仕事が見つからない避難者の人には言いづらいんだけど」
 店内には「がんばろう!浪江 ありがとう二本松」と書いた青地の横断幕を掲げる。青色は、美しかった浪江の海の色。そして、詩人・高村光太郎の妻智恵子が、二本松の生家から眺めて愛した安達太良(あだたら)山の空の色を重ね合わせた「故郷を離れた俺にとって、この街で長く店を続けることが生きる希望だからね」
 
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ちなみにこの店は、大山忠作美術館さんが入っている二本松駅前の市民交流センター1階にあり、当方もよく行く店です。
 
避難生活を続けられている方々はまだ26万人。事故を起こした福島第1原発はとても「コントロールされている」状態ではありません。大震災の記憶、まだまだ風化させるわけにはいきません。「被災」はいまだに続いています。
 
明日からまた東北レポートに戻ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月12日

文久3年(1863)の今日(旧暦ですが)、光太郎の曾祖父・中島富五郎が歿しました。
 
富五郎の父、長兵衛までは鳥取藩士だったとされています。富五郎の代から町人となり、浅草で魚屋などをやっており、富本節の素人名人だったとのこと。ところがその技倆を妬まれ、毒を盛られて半身不随に。それからは子供向けの玩具などを木工で作って生活していたそうです。光雲や光太郎に伝わる手先の器用さがここに見て取れます。

東京銀座からイベント情報です。

高村智恵子紙絵展

会 期 : 2014年3月3日(月)~20日(木) 日曜休廊
会 場 : 永井画廊 東京都中央区銀座4-10-6

出品作品
高村智恵子紙絵15点
「シンメトリー」「花」「はな」「魚」「魚」「洋梨」「柿とみかん」「鍋と小鉢」「のり筒」「くだものかご」「さつまいも」「ロールケーキ」「クリームケーキ」「スプーン」「教会(思い出のアトリエ)」
※いずれも昭和12年(1937)~同13年(1938) 「生誕130年彫刻家高村光太郎展」出品作
 
他に紙絵複製画40点
 
関連イベント
日 時 : 2014年3月11日(火)
 13:30~14:30 トークショー「智恵子を語る」
  高村朋美(高村規氏長女) 佐藤浩美(高村光太郎研究会)
 14:46~ 来場者とともに被災者へ黙祷
 15:00~ フォルクローレ演奏 ソンコ・マージュ
       高村智恵子へのオマージュ 祈りのメッセージ 等
 
 
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昨年、全国3館巡回で行われた「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」に並んだ智恵子の紙絵のうち、15点が再び展示されます。永井画廊さんは、2012年以後、毎年3月に被災地への祈りのメッセージ展を開催していて、その一環です。そこで、3・11に関連イベント、というわけですね。
 
ちなみに永井画廊代表取締役の永井龍之介氏は、テレビ東京系「開運!なんでも鑑定団」に、洋画系の鑑定士としてご出演なさっています。

 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月27日

昭和12年(1937)の今日、麹町のレストラン・ツクバで開催された親友・水野葉舟の小品集「村の無名氏」出版記念会発起人に名を連ねました。

昨日は、茨城は笠間に行って参りました。笠間といえば茨城県の中央部、笠間稲荷神社と陶芸の笠間焼で有名な街です。
 
一番の目的は映画鑑賞でした。他にも日動美術館というところに行って参りましたが、そちらは明日書きます。
 
当方が観てきた映画は、昨年、岡倉天心を主人公として製作され、全国各地で順次公開されている「天心」という映画です。ただ、大手配給会社によるものではないので、どこでも観られるわけではなく、当方生活圏内では公開されていません。昨年のうちに都内か横浜あたりで観ようと思っていたのですが、なかなか日程が合わず、昨日になってしまいました。
 
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岡倉天心といえば、明治新政府の文明開化政策の一環としての廃仏毀釈、西洋化による日本伝統文化の衰退を憂い、アーネスト・フェノロサともども仏教美術の保存に尽力した人物です。また、東京美術学校開設に奔走し、光雲を美校に招聘したほか、光太郎在学中には校長も務めていました。
 
昨年、福島二本松「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子講座’13」で講師を務めさせていただき、その辺りに関して講義をいたしましたので、ぜひ観たいと思っておりました。
 
天心は美校辞職(罷免)後、日本美術院を創立、日本伝統美術の保護とさらなる進化に取り組みます。しかし、天心とその薫陶を受けた画家たち―横山大観ら―の新しい試みは「朦朧体」と揶揄されなかなか受け入れられず、現在の北茨城市五浦(いづら)に「都落ち」し、苦闘の日々を送りました。
 
その天心を主人公とした映画、というわけです。公式サイトはこちら
 
キャストは天心役が竹中直人さん、横山大観に中村獅童さん、菱田春草の平山浩行さん、下村観山で木下ほうかさん、木村武山を橋本一郎さん、狩野芳崖には温水洋一さんなど。
 
美術学校時代のシーンで、光太郎や光雲が登場するかと期待していたのですが、残念ながらそれはありませんでした。美校時代のエピソードは少なく、五浦に移ってからの苦闘の日々がメインだったので、いたしかたありません。
 
ところでこの映画、「復興支援映画」と謳っています。東日本大震災では、天心が建てた五浦の六角堂が津波に呑まれてしまうなど、茨城県にもかなりの被害がありました。同作品公式サイト内には以下の記述があります。
 
本作品は、明治にあって日本の美を「再発見」し、新しい美を生み出そうと苦闘する天心と 若き画家たち - 横山大観・菱田春草・下村観山・木村武山 - らとの葛藤と師弟愛をテーマとして描くべく、今から3年ほど前に企画がスタートいたしました。
 
そして忘れもしない 2011年3月11日14時46分18秒「東日本大震災」が発生。千年に一度とされる大地震と津波は、多くの方々の「家」や「命」を奪い去りました。
 
茨城県でも沿岸部を中心に甚大な被害を受け、天心が思索に耽った北茨城市・五浦海岸の景勝地にある貴重な文化遺産の「六角堂」も流出、海中に消失しました。
 
主なロケ地である茨城県の被災に、本作品も一時は映画化を危ぶまれましたが、一日も早い 復興を願う県内の行政・大学・企業・美術界・市民団体などで構成される「天心」映画実行委員会 が発足し、本作品映画化のプロジェクトが再始動いたしました。
 
2013年には生誕150年・没後100年を迎える岡倉天心が終生愛した茨城の美しい自然を織り込んだ 映画「天心」は、茨城を日本をそして世界を「元気」にすることをめざします。
 
そんなわけで、渡辺裕之さん(九鬼隆一)、本田博太郎さん(船頭)、キタキマユさん(菱田春草の妻)など、茨城出身の俳優さんが多く出演なさっています。他には神楽坂恵さん、石黒賢さんなどなど。

当方が観に行ったのは、笠間市のショッピングセンター内の「ポレポレホール」。笠間は木村武山の故郷です。現在、関東で公開されているのはここだけのようで、ロビーには映画で実際に使われた小道具類が並んでいました。
 
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忘れ去られつつある伝統を継承しつつ、さらに新しい美を生み出そうと苦闘する登場人物たちの描写には感銘を受けました。特に肺を病んでの病床で「仁王捉鬼図」「悲母観音」を描き続けた狩野芳崖、失明の不安を抱え、さらに生活の困窮にさらされながら「賢首菩薩」の制作に取り組んだ菱田春草のエピソード。それぞれを演じた温水洋一さん、平山浩行さんの鬼気迫る演技は白眉でした。
 
そういう意味では光雲や光太郎も苦闘の時代が長く、相通じるものがあるように思いました。
 
少し不満だったのは、春草の「黒き猫」や「落葉」といった当方の大好きな作品が扱われなかったこと、それからなぜか天心の盟友として日本美術院創設に関わり、春草や大観の直接の師だった橋本雅邦がまったく登場しなかったこと。まぁ、いろいろ権利の問題等も絡むのかも知れませんが。
 
映画「天心」、大規模ではありませんが、全国で公開が続きます。ぜひご覧下さい。
 
明日は同じ笠間の日動美術館をレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月27日

昭和27年(1952)の今日、『毎日新聞』で評論「日本詩歌の特質」の連載が始まりました。

昨日は都内に出かけました。
 
まずは、上野の東京国立博物館平成館で15日に始まった「日本美術の祭典 人間国宝展―生み出された美、伝えゆくわざ―」を観て参りました。
 
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同館の資料館には調べ物で時々行くのですが、展示を見に行ったのは久しぶりでした。
 
ちなみに平成館のある一角は、大正6年(1917)から同11年(1922)まで、帝室博物館総長だった森鷗外の執務室があった区画だと言うことで、説明板があります。
 
さて、展示ですが、いわゆる「人間国宝」、正しくは重要無形文化財保持者のうち、工芸技術分野の歴代150余人の作品がずらっと並びました。どの作品をとっても、舌を巻くような技術、そして技術のみならず、この日本という国にはぐくまれた芸術性を感じさせるものばかりで、非常に見応えがありました。
 
光太郎の弟で、鋳金家だった豊周も人間国宝の一人、「鼎」が展示されていました。そしてその豊周の工房で主任を務めていた斎藤明氏の「蠟型吹分広口花器「北辛」」も。斎藤氏は連翹忌ご常連でしたが、昨秋に亡くなられました

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昨年の連翹忌にて、氏より「こんなものがあるんですが……」と、渡されたのが、平成9年(1997)に花巻で行われた第40回高村祭の記念講演「高村光太郎先生のブロンズ鋳造作品づくり」の講演筆録。各地に残る光太郎ブロンズ作品を実際に鋳造された経験が記されていました。一読して、美術史上、大変に貴重なものであると確信し、昨年10月に刊行した『光太郎資料40』に掲載させていただきました。
 
その直後に氏の訃報に接し、残念な思いでいっぱいでした。今回の展示も、存命作家の作品を集めたコーナーに並び、氏が昨秋亡くなった由、キャプションが追加されていました。
 
ちなみに氏の作品は、銅と真鍮、異なる金属を使っての鋳金です。その境界(といっても、継いであるわけではないのですが)の部分の微妙な味わいは、不可言の美を生み出しています。
 
画像は図録から採らせていただきました。この図録、2,300円もしましたが、300頁余で、近現代の日本工芸の粋がぎっしり詰まっており、観ていて飽きません。
 
実際の展示を観ながらもそう思ったのですが、光太郎と関連のあった人物で言えば、陶芸の濱田庄司、富本憲吉など、「この人も人間国宝だったんだ」という発見(当方の寡聞ぶりの表出ですが)もいろいろありました。
 
ところで人間国宝の制度ができて60年だそうで、もっと早くこの制度があったら、光雲やその門下の何人かは間違いなく選ばれていたでしょう。
 
光雲といえば、東京国立博物館には光雲の代表作の一つ、「老猿」も収蔵されています。ただ、展示替えがあるので常設展示ではなく、昨日は並んでいるかなと思い、本館にも寄りましたが、残念ながら並んでいませんでした。
 
そういうわけで国立博物館を後にし、その後、池袋に向かいました。過日のブログでご紹介したイラストレーターの河合美穂さんの個展「線とわたし」を観るためです。

こちらの会場は要町のマルプギャラリー。普通の民家と見まごう建物で、すぐに見つかりませんでした。
 
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中に入ると、やはり普通の民家を改装007してギャラリーにしてある風で、玄関で靴を脱いであがる様式でした。展示スペースは5坪ほどでしょうか、ペンと水彩を中心にしたかわいらしい作品が20点ほど掛かっていました。
 
宮澤賢治や中原中也へのオマージュ的なイラストに混じって、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品が一点。琥珀色の梅酒で満たされたガラス瓶の周りに微妙な色のグラデーションで描かれた梅の実が三つ。詩の中の「早春の夜ふけの寒いとき」のイメージでしょうか、背景の一部に使われた群青色もいい感じでした。
 
受付に賢治の「銀河鉄道の夜」による作品のポストカード的なものがあり、一枚、頂戴して参りました。これもあたたかみのあるいい絵ですね。「梅酒」のイラストもポストカード的なものにしてくださってあればなおよかったのですが……。
 
さて、賢治、光太郎と来れば花巻。今日から1泊2日で花巻方面に行って参ります。途中で福島市に寄り、調べ物。午后には花巻に入り、花巻市立博物館の企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」を観て参ります。
 
それからもちろん、この冬から通年開館となった郊外旧太田村の新装高村光太郎記念館にも行きます。この季節に訪れるのは初めてで、どれほど厳しい環境なのか、確かめて参ります。
 
定宿の大沢温泉さんがとれず、今回はさらに奥地で、やはり光太郎が何度か訪れた鉛温泉さんに宿を取りました。詳しくは帰ってからレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補008遺】 1月18日

平成16年(2004)の今日、角川春樹事務所刊行の「ハルキ文庫」の一冊として「高村光太郎詩集」が上梓されました。
 
解説は詩人の瀬尾育生さん。歌人の道浦母都子さんのエッセイ「七.五坪の光と影」も収録されています。「七.五坪」とは、旧太田村の光太郎が七年暮らした山小屋ですね。
 
最近は売れっ子作家の小説などが文庫書き下ろしで続々刊行されていますが、こうした古典的な作品も、文庫のラインナップとして残していって欲しいものです。
 
帯には「道程」の一節が印刷されていますね。しつこいようですが、今年は「道程」執筆100周年、詩集『道程』刊行100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。

たまたまネット検索で見つけました。 イラストレーターの方の個展です。

「線とわたし」 河合美穂展007

場所:マルプギャラリー 東京都豊島区池袋3-18-5

2014年1月6日(月)〜31日(金) 10:00~19:00
※初日、14:00より。※最終日は、17:00まで。
休廊日:土、日、祝日
 
特別開廊日
11日(土) 13:00~17:00(お茶会)
19日(日) 13:00~17:00 25日(土)  同
 
作者のメッセージ
 
憧れのマルプギャラリーで、イラストレーターになってから初めての個展をさせて頂きます。
お茶会はささやかな飲み物などをご用意させて頂く予定ですので、どなた様もお気軽にいらして下さい。どうぞよろしくお願い致します。
 
今回の展示では、智恵子抄の一節を絵にしたものがあります。実は私、大の光太郎と智恵子ファン。
智恵子抄は、初版本と智恵子の記念館近くで買った絶版と3冊も持っている位で、智恵子の紙絵も大好きで4~5冊はあるでしょうか。私の中の究極の愛の形です。
 
また、今回宮沢賢治を題材としたものが多くありますが、高村光太郎と宮沢賢治は深い関係があったようで、私も嬉しくなりました。
ギャラリーでかけて頂く音楽は、銀河鉄道の夜のアニメで使われた細野晴臣さんの素晴らしいサントラです。
 寒い季節ですが、皆様どうぞお出かけ下さいませ。

 
このブログで同じことをよく書いていますが、いろいろな方が様々な分野で光太郎智恵子の世界を取り上げて下さっています。こうした絵画などの造型作品、演劇、音楽、朗読、文筆作品、書、などなど。非常にありがたいかぎりです。
 
時間を見つけて行ってみたいと思っております。みなさんもどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月10日

昭和51年(1976)の今日、高村光太郎研究会が発足しました。
 
前身は光太郎と交流のあった詩人、故・風間光作氏が立ち上げた「高村光太郎詩の会」。
 
その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、斯界の権威、北川太一先生を顧問に頂き、年に一度、研究発表会を行っている他、雑誌『高村光太郎研究』を年刊で出しています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏です。当方も加入しております。
 
光太郎・智恵子について研究したい、という方は是非ご参加ください。ご連絡いただければ仲介いたします。

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というわけで、平成26年(2014)となりました。
 
上記画像にもあるとおり、今年は大正3年(1914)の詩集『道程』刊行、そして光太郎智恵子の結婚披露から数えて100周年です。それらを軸に顕彰活動を展開して参りますので、よろしくお願いいたします。
 

【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月1日

昭和25年(1950)の今日、『読売新聞』に詩「この年」が掲載されました。
 
  この年005
 
日の丸の旗を立てようと思ふ。
わたくしの日の丸は原稿紙。
原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
あかいまんまるを描くだけだ。
それをのりで棒のさきにはり、
入口のつもつた雪にさすだけだ。
だがたつた一枚の日の丸で、
パリにもロンドンにもワシントンにも
モスクワにも北京にも来る新年と
はつきり同じ新年がここに来る。
人類がかかげる一つの意慾。
何と烈しい人類の已みがたい意慾が
ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。
 
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雪に覆われた光太郎居住の山小屋(高村山荘)
 
その若き日には、西洋諸国とのあまりの落差に絶望し、「根付の国」などの詩でさんざんにこきおろした日本。
 
老境に入ってからは15年戦争の嵐の中で、「神の国」とたたえねばならなかった日本。
 
そうした一切のくびきから解放され、真に自由な心境に至った光太郎にとって、この国はむやみに否定すべきものでもなく、過剰に肯定すべきものでもなく、もはや世界の中の日本なのです。
 
素直な心持ちで「原稿紙」の「日の丸」を雪の中に掲げる光太郎。激動の生涯、その終わり近くになって到達した境地です。
 
さて、昨年のこのブログで、365日、【今日は何の日・光太郎】を書き続けました。年月日の特定できる主な事象はあらかた書き尽くしました。
 
とはいうものの、時には大きな出来事が見あたらず、日常の些細な出来事を記したり、光太郎生誕以前や歿後のことを書いたりした日も多くありました。しかし、逆にたまたま年が違う同じ日に重要な事象が重なっている日もあり、その一方は泣く泣く割愛しました。
 
そこで、【今日は何の日・光太郎 補遺】。もう一年、続けてみようと思っています。お楽しみに。

昨日の続きで、福島二本松の大山忠作美術館での「五星山」展、関連行事としての有馬稲子さん・一色采子さんのトークショーについてです。
 
今日の『福島民報』さんに記事が載りました。

女優有馬さん招きトークショー 二本松

 福島県二本松市の大山忠作美術館で開催している「五星山展」を記念した女優有馬稲子さんのトークショーは4日、同美術館がある市民交流センターで開かれた。

 同展PR委員会の主催。同市出身の日本画家、大山忠作氏の長女で女優の采子さん(同展実行委員長)との対談形式で進められた。有馬さんは、同展に出品されている大山氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」の制作秘話を語った。

 モデルになるよう大山氏から熱心に働き掛けられた。舞台公演が重なり多忙な中、30分だけ時間が取れた。貞淑でおとなしい智恵子をイメージして大山氏と向き合った。

 「こんな素晴らしい絵に仕上げてもらい、感謝している。私が死んでも作品はずっと残る。これからもこの絵を愛してほしい」と詰め掛けた観客約180人に語り掛けた。「本当にいい絵ばかり。日本中で開いた方がいい」と展覧会の印象を話した。

 五星山展は17日まで。大山氏をはじめ東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造各氏ら文化勲章受章者5人の作品35点を展示している。
 
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時に昭和51年9月。有馬さんは新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の最中。昼の部は榎本滋民脚本「富貴楼お倉」、夜の部が北條秀司脚本「智恵子抄」でした。
 
昼の部と夜の部の間に衣装を替えたり、食事を取ったりというわけですが、その時間は余り長くなかったそうです。その短い時間でいいから、ということで大山忠作画伯に請われ、劇場舞台裏の廊下で椅子に座り、ポーズをなさったとのこと。大山画伯はものの30分でスケッチをなさり、写真も撮られたそうですが、それがこの「大作になったとのこと。
 
背景は安達太良山、そしてその下に広がるススキ野原ですが、これは舞台の背景というわけではなく、故郷・二本松を思い描いての画伯の心象風景だということです。
 
造型作家の制作過程、ということで、ひとつ興味深いエピソードでした。
 
ちなみに上の画像は「五星山」展図録。トークショー終了後に有馬さんに連翹忌の営業を敢行、どさくさに紛れてサインをいただきました。
 
大山画伯のご長女・一色采子さんにも。
 
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こちらの絵は題して「童女」。モデルは一色さんです。対象を捉える暖かい眼差しが感じられますね。
 
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こちらが図録の表紙です。以前も書きましたが題字は片岡鶴太郎さんの揮毫。「文化勲章受章画伯による心の復興支援」。いいキャッチフレーズですね。
 
「五星山」展は17日(日)まで開催されています。
 
話は変わりますが、東北楽天ゴールデンイーグルスが日本シリーズを制し、みごと日本一に輝きました。闘将・星野監督、試合後のインタビューで「まだまだ被災者の皆さんは苦労し ているので、すずめの涙でも癒やしてあげられたらと思っていた。」とおっしゃっていました。これも立派な「心の復興支援」だったと思います。
 
がんばれ、東北。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月5日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で舞踊家・石井漠の舞踊生活30周年記念公演として、光太郎の詩「地理の書」による新作舞踊が発表されました。
 
作曲・石井五郎、朗読・南部邦彦、合唱・玉川学園合唱隊、石垣蓉子、李彩娥ら10人の踊り手によって演じられたそうです。
 
この時のチラシ、プログラム類を探していますが見つかりません。情報を求めます。

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