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広島からコレクション展情報です。光太郎の留学仲間で画家の南薫造が中心です。 

期 日 : 2020年7月4日(土)~8月23日(日)
会 場 : 呉市美術館 広島県呉市幸町入船山公園内
時 間 : 10時~17時
休 館 : 火曜日
料 金 : 一般300(240)円 高校生180(140)円 小中生120(90)円 ( )内団体料金

 南薫造は、1883(明治16)念に広島県賀茂郡内海町(現・呉市安浦町)に生まれました。東京美術学校を卒業後、イギリスやフランスで西洋画の研究を深めた南は、人物や自然を、穏やかで滋味深いまなざしで捉え、「日本の印象派」と評されました。東京美術学校教授、帝国芸術院会員、帝室技芸員などを歴任し、日本の近代洋画史に大きな足跡を残すとともに、呉や広島野の美術の振興に貢献しました。また南は作風同様に人柄も温厚で、画家仲間や教え子など多くの人々から慕われ、尊敬されました。
 2020年は南の没後70年にあたります。
本展では当館の所蔵する南薫造の油彩画、 水彩画、版画、素描を一堂に展示するほか、南と交流のあった画家たちの作品を交えて、南の画業や生きた時代をたどります。

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出品目録はこちら。

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004交流があったということで、光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)が並んでいます。同館の所蔵で、たましん美術館さん、千葉県立美術館さん、花巻高村光太郎記念館さん同様、新しい鋳造のものですが、同館ではこうして時折展示して下さっています。

光太郎との交流が始まったのは、おそらく本格的には明治40年(1907)、ともに留学でロンドン滞在中でした。ただ、光太郎は明治30年(1897)、南は同35年(1902)に美校に入学していますので、ロンドン以前にも面識はあったのではないかと思われます。ロンドンではもう一人、画家の白瀧幾之助も交え、つるんでいました(笑)。禿頭で大男の白瀧は「入道」、小柄な南は「アンファン(仏語「enfant」=「子供」)」と呼ばれていたそうです。

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新型コロナには十分ご注意の上、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】002

その詩格の立派さに感動・根拠の深さ感動のはるかさを感受 高村光太郎

雑纂「梶浦正之詩集『梶浦正之詩抄』」全文
昭和15年(1940) 光太郎58歳


梶浦正之は光太郎より20歳若い、愛知出身の詩人です。おそらく梶浦宛の書簡等からの抜粋だと思われますが、『梶浦正之詩抄』の扉に、西條八十、野口米次郎、川路柳虹の短評と共に掲載されました。

こうした場合の常ですが、良い点として挙げている「詩格の立派さ」、「根拠の深さ」、「感動のはるかさ」など、光太郎自身の目指す詩のあり方にも通じるような気がします。

一昨日の『日本経済新聞』さんから。 

絵の具手作り、変わらない色を届けて3代100年 銀座の画材店「月光荘」、大正文化に恩返し 日比康造

東京・銀座8丁目の雑居ビルの中に月光荘はある000。創業は大正6年(1917年)。絵の具、絵筆、パレットからそれらを持ち運ぶバッグまですべてを自社で製造し販売する。100年を超える老舗は私で3代目となる。創業者は祖父の橋本兵蔵だ。もともと、絵が好きでたまらないから始めた店ではない。運命を変えたのは偶然の出会いだ。

祖父は富山で生まれ育ち、18歳で上京。郵便局員や運転手などをしながら暮らしていた。あるとき住み込みで働いていた家の向かいに、歌人の与謝野鉄幹、晶子夫妻が住んでいることを知った。夫妻の本を愛読していた祖父は、大胆にも家を訪ねた。親切に招き入れられ、「いつでも来なさい」と言われた。

そこでは素晴らしい出会いが待っていた。夫妻の家には北原白秋、石川啄木、高村光太郎などの詩人、藤島武二、梅原龍三郎、有島生馬などの画家など当時の文化人が集まっていた。交流を通し、祖父は芸術という世界の素晴らしさに心奪われるようになる。画材店を始めたのは、画家たちが絵の具に不満を持っているのを知ったからだ。

店名の月光荘は、鉄幹がフランスのヴェルレーヌの詩「月光と人」から引用して名付けてくれた。店のトレードマークのホルンは与謝野夫妻と交遊があった芥川龍之介らが考案してくれたもの。音を奏でて多くの人に集まってもらうという願いが込められている。

当時、店は銀座ではなく新宿にあった。銀座に移るのは戦争で新宿の店が焼け落ちたあとのことだ。建築設計は画家の藤田嗣治によるもので、パリにあるような当時としては珍しい造りだった。店にはカフェも併設されており、数多くの文化人が集まるサロンのような場所となっていった。

芸術の世界を教えてくれた人たちに恩返しをすることが祖父の願いだった。1940年に誕生した純国産絵の具第1号のコバルトブルーもそうした思いから生まれた。当時、絵の具はフランス頼りで、船便で到着までに2カ月はかかった。戦争が始まると外国からの輸入も途絶えた。

コバルトは特殊鋼の製造に使われるため、政府が各大学の研究室に開発を命じていたが、完成に至っていなかった。祖父は、専門書を読みあさり、原料の鉱物の焼成温度や時間を試行錯誤しながら執念で完成させた。軍からは供出の命令がきたが、絵の具以外の用途では決して首を縦に振らなかった。猪熊弦一郎、梅原龍三郎ら著名な画家も月光荘の絵の具をひいきにしてくれた。

私が知る祖父は晩年の姿だ。6歳の1年間、一緒に暮らした。明治の男らしく、寡黙で余計なことは言わず、背中で語る人だった。自分のやるべきことを黙々とやる姿に大きな影響を受けた。商売人というより、職人のような人だった。

時代が変わった今も、祖父のときのまま、絵の具はすべて手作りだ。顔料をバインダーと呼ぶ糊(のり)状のものとローラーで練り合わせる。作るのに8時間以上かかる色もあり、職人がつきっきりで作る。季節によっても色は変わってしまう。配合のレシピはあっても、同じ色にはならない。最後はやはり経験がものをいう。いつまでも変わらない同じ色を届ける。使ってくれる方々との約束を守るために、若い職人の育成にも力を注いでいる。

「色感は人生の宝物」。祖父は生前そう言っていた。素晴らしい色との出会いは人生を豊かにしてくれる。その思いを次の時代にも届けることが自分の使命と考えている。

(ひび・こうぞう=月光荘画材店店主)


月光荘画材店さん創業者の橋本兵蔵に関しては、与謝野夫妻を中心とした文献だったか、美術史を扱った文献だったかで読んだ記憶がありました。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が見えませんが。コバルトの軍への供出を拒んだというエピソード、いいですね。

名前といえば、この記事に出て来る面々、殆どすべて、光太郎となにがしかのつながりのあった人々です。

こういう人物の業績にも、もっともっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

人間の不自由なんてものは、やっぱり一つの欲ですから、あの、欲、捨てっちまえば何でもない。
対談「朝の訪問」より 昭和24年(1949) 光太郎67歳

この年11月にNHK盛岡放送局で収録された対談の一節です。花巻郊外旧太田村での蟄居生活について。聞き手は同局アナウンサーと思われますが、詳細は不明。12月2日にラジオで放送予定だったのですが、なぜかお蔵入りとなりました。平成16年(2004)にNHKラジオセンターでそのオープンリールテープが発見され、カセットテープにダビングされたものが、故・北川太一先生経由で当方の元に。「文字起こしをしてくれ」とのことで。

10分ほどの長さだったと記憶していますが、結構大変でした。カセットデッキで再生 → 一時停止 → 鉛筆で筆記、の繰り返し。不明瞭な所は何度も巻き戻して(「巻き戻す」というのが、今の若い人にはもう通じないそうですが(笑))再生し、前後のつながりから「ああ、そういうことか」という場合もありました。光太郎、数え67歳のくせに(笑)結構早口でしたし。今となってはいい思い出です。

『毎日新聞』さん。「文化の森 Bunka no mori」欄に、「今よみがえる森鷗外」という連載が為されています。「2022年に没後100年を迎える森鴎外。毎回筆者とテーマを変えて、作品に現代の光を当て読み解きます。」というコンセプトだそうで。

6月14日(日)の第15回は、島根県立石見美術館専門学芸員・川西由里氏による「美術界に残した足跡 一歩退き冷静に見つめ」でした。

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ご覧の通り長いので、全文は引用しませんが、東京美術学校で鷗外の「美学」の講義を受けた光太郎に関わる部分のみ。

 また鷗外は、大正六年発表の「観潮楼閑話」において、彫刻家、高村光太郎と交わした議論の一部を次のように記した。
 「君は多く捨てて少く取り、わたくしはこれに反しているだけである。それゆえ君の目から見れば、わたくしは泛(はん)なるが如(ごと)くに見ゆるであらう。君の愛する所の『全か無か』の如きは、わたくしと雖(いえども)又愛する」、「併(しか)し人の製作品を鑑賞することとなると、一歩退いて看(み)なくてはならない。そうでないと展覧会などは成立しない」。
 宮も高村も、大正期の新思潮の中で新しい表現を模索した、鷗外から見れば次の世代だ。かつて原田とともに、血気盛んに論戦に挑んだ経験があるからこそ、若者たちの苛立(いらだ)ちも理解できたのだろう。表現者として、美術家への共感も
示されている。
 その一方、「M君」に語った台詞(せりふ)からは、若い芸術家を育てようとする気持ちと、自分の判断に対する謙虚な姿勢がうかがえる。そして高村に向けた言葉からは、審査委員という立場で
芸術振興を担う者としては、 たとえ生ぬるいと思われたとしても、寛容を旨として作品と向き合う姿勢が読みとれる。
 こうした心構えが、展覧会運営や作品批評にとって重要であることは、今
も変わりない。 感情的、反射的な批判が飛び交い、「全か無か」を迫られがちな現代こそ、「一歩退いて看」る鷗外の態度に学ぶところは大きいのではないだろうか。


高村光太郎と交わした議論」は、大正6年003(1917)、元々は光太郎が自分の悪口を言いふらしている、と聞いた鷗外が、光太郎を呼びつけたことに始まります。時に光太郎数え35歳、血気盛んな青年でした。対する鷗外は同じく56歳、晩年にさしかかる頃です。

」、「M君」は宮芳平。光太郎とも交流のあった画家です。光太郎に関する部分の前に、宮と鷗外の関わりが述べられており、ざっくり要約すれば、鷗外が審査員を務めていた文展で、宮が落選となり、納得行かなかった宮が観潮楼に乗り込んだという件に関してです。宮は光太郎より10歳年下でした。

そういえば、偶然ですが、このブログで一昨日、昨日とご紹介した信州安曇野の豊科近代美術館さん、宮の作品を多数所蔵、常設展示で出しています。宮は永らく信州諏訪で美術教師を務めていました。下の方に同館パンフからスキャンしたものを載せておきます。

ところで鷗外、光太郎が私淑したロダンにも興味を持ち、ロダンが唯一モデルにした日本人・花子(太田ひさ)をめぐる短編小説「花子」(明治43年=1910)も書いています。光太郎は評伝『ロダン』(昭和2年=1927)執筆のため、花子に会いに岐阜へ行きました。今後の「今よみがえる森鷗外」の中で、そのあたりにも触れていただければ幸いなのですが……。

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【折々のことば・光太郎】

人から助けられるのがきらい、自分のことは自分でやる、出来ないことはやらないまでだ。

談話筆記「おめでとう記者訪問」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での発言です。村人の様々な援助、「ありがた迷惑だからほっといてくれ」というより「申し訳ないから遠慮します」というニュアンスです。「身の丈にあったことさえできればいいので」的な。

もっとも、少しは「ありがた迷惑だからほっといてくれ」も無きにしもあらず。村人が光太郎にアトリエを寄贈する、などという不確かな話が新聞に載ったりしましたので。

それにしても、「出来ないことはやらないまでだ」という開き直り、若者がこうでは困りますが、齢(よわい)69歳ともなると、深い一言ですね。

平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介である「光太郎遺珠」を連載させていただいている、高村光太郎研究会さん発行の雑誌『高村光太郎研究(41)』。執筆に際しお世話になった方々にお送りしたところ、そのうちのお一人、兵庫ご在住の池田辰彦氏からメールが届きました。光太郎、それから太平洋画会で智恵子とも交流のあった画家・挿絵画家・漫画家、池田永治のご子息です。

お世話になっております。
「高村光太郎研究(41)」をお送りいただきましてありがとうございます。読ませていただきました。
ご逝去後七十年近くなりますが、ご研究のかたはししも分からぬ私にも高村光太郎先生のご功績の大きさと深さが伝わる気持ちがいたします。
お礼を申し上げるのが遅れましてたいへん申し訳ございません。

このたび、WEB版『画家池田永治の記録』を作ってみました。本の中の誤りを直したり、「作品一覧」に引用写真を増やしたりしました。
何の役にも立たぬすさびごとですが、お暇な折にご笑覧ください。


辰彦氏、父君に関するサイト「画家池田永治の記録」を立ち上げられたとのことで、早速拝見してみました。作品(洋画、俳画、漫画、挿絵、商業美術等)、年譜、写真、交流のあった人々からの書簡など、豊富な画像とともに紹介されており、クオリティの高いものです。

「光太郎遺珠」で紹介させていただいた、光太郎揮毫のチョッキ(昭和20年=1945)に関しても大きく取り上げられています。また、太平洋画会で智恵子と共に学んだことも年譜の中に記されています。

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おおむね、昨年刊行された書籍『画家 池田永治の記録―その作品と年譜―』とかぶる内容で、おそらくご出版に際しデータ化したものを使われているのだと思われます。紙媒体の書籍として残すことも大切ですが、ネット上で広く発信することも重要だと、改めて感じました。

当方、辰彦氏への返信メールには、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が折に触れておっしゃっていた「どんなにすばらしい芸術家でも作品でも、放っておいてその業績が自然と残ることはない。次の世代の人々が、その業績を正しく理解し、さらに次の世代へと語り継ぐ努力をしなければ、あっという間に歴史の波に呑み込まれ、忘れ去られてしまう」というお言葉を引かせていただきました。


もう1件、昨日、散歩中にシャンソン系歌手にして、「智恵子抄」などの光太郎詩にオリジナルのメロディーをつけて歌われているモンデンモモさんから、スマホにショートメール。

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youtubeに動画を上げた、ということでしたので、こちらも早速拝見。




第1弾は光太郎智恵子に関係ない歌でしたが、今後、「智恵子抄」系もアップされるそうで。

こうした音楽も、CD等に残すことも大切ですが、やはりネット上で広く発信することも重要だと、改めて感じました。

当ブログサイトもそうした考えのもと、今後も継続していくつもりで居りますので、よろしくお願いいたします。


【折々のことば・光太郎】

著者は曾て印象派を讃美した。今は通過した。

雑纂『印象主義の思想と芸術』初版序」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

『印象主義の思想と芸術』は、光太郎初の評論集として出版されました。マネ、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌらについて詳述しています。

光太郎自身も明治末から大正初めにかけては油絵をかなり描きましたが、どちらかというとポスト・インプレッショニズム(「後期印象派」と訳されますが、「後期」というより「後継」です)的なフォービズムの影響を受けているようです。

日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。先月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていましたが、それも終わってしまいました。ところが年間購読の手続きをしていましたので、まだ届きました。しかし、「うーん、連載は終わってるんだがなぁ」と思ってページを繰ると、これまでに同誌の特集等で取り上げたさまざまな芸術家30名ほどの紹介的な記事があり、光太郎も紹介されていました。

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確かに同誌では、かつて何度も光太郎智恵子の特集などを組んで下さいました。

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No.53  2000年5月号   特集 高村光太郎の世界   No.81  2002年9月号   特集 智恵子紙絵


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No.90  2003年6月号 特集  高村光太郎 山のスケッチと手紙  No.103  2004年7月号  彫る・高村光太郎


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No.118  2005年10月号   特集 高村光太郎の絶筆  No.142  2007年10月号   特集 高村光太郎の書


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No.158  2009年2月号   特集 岩手県・花巻に高村山荘を訪ねて 高村光太郎の絶筆
No.219  2014年3月号   特集 高村光太郎詩と不即不離60年の道 松尾ちゑ子


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No.257  2017年5月号   視る 高村光太郎の書  No.258  2007年6月号~   連載 高村光太郎のことば


ありがたいかぎりです。連載「高村光太郎のことば」は終わってしまいましたが、今後も折に触れて光太郎特集などを組んでいただければ幸いに存じます。


ちなみに今号で、もう1本、光太郎智恵子がの名はありませんでしたが、こんな記事も。

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実践レッスン「レモン」をかこう」だそうで。なるほど、と思いました。

今号も含め、上記アーカイブも在庫が残っていればバックナンバーとして注文可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。

アンケート「名士と食物」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

智恵子はレモンを好みましたが、光太郎も柑橘系が好きだったのですね。それにしても「一晩に一箱」(笑)。蜜柑に含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。詳細は明日のブログにて。

明治末、光太郎と留学仲間だった画家・津田青楓の大規模回顧展が開催中です。

3月14日(土)の『日本経済新聞』さん。

漱石「道草」を彩った画家、津田青楓の自由な精神 東京・練馬区立美術館で没後初の本格的回顧展

夏目漱石晩年の長編「道草」「明暗」の装丁を手がけた011画家、津田青楓(せいふう)は、1978年に97歳の長寿を全うした。東京・練馬区立美術館で開催中の「背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和」展は、この画家の曲折に富む生涯をたどる没後初の本格的回顧展だ。その多面的な仕事は、近代日本の変転の歴史を映し出す。

津田青楓の名で多くの人が思い浮かべるのは、漱石門下の画家としての活動ではなかろうか。漱石と寺田寅彦、小宮豊隆ら漱石宅に集う弟子たちを描いた俳画風の作品は漱石の評伝などにたびたび掲載されてきたし、橋口五葉の後を受けて担当した漱石の著作の装丁では、「道草」や「明暗」などに風合い豊かなデザインを施している。
漱石の書簡集に親しんだ人にとっていっそう印象深いのは、13歳年下の青楓に宛てた漱石晩年の手紙の数々だろう。大の美術好きだった漱石にとって青楓は心安い画友だった。漱石は自分が描いた絵の批評を仰いだり、ともに展覧会に出かけたりと交遊を続けながら、時々の心境を腹蔵なくこの弟子に明かしている。
青楓生誕140年を記念する今展は、漱石との交遊の軌跡を、装丁本やスケッチ、青楓宛ての漱石の書簡などから丁寧に跡づけている。ただ、生前の漱石と青楓の交流は5年間余りにすぎない。それだけでは語り尽くせない青楓の仕事の多面性に今展は光を当てる。


青楓は、京都市中の生け花の師匠の家に生まれ、16歳ごろ歴史画で名014を成した谷口香嶠に入門。京都市立染織学校を経て、京都高島屋図案部に勤めながら浅井忠らが主宰する関西美術院で洋画のデッサンを学んだ。

この10代末から20代にかけての仕事で印象的なのは、モダンで清新な図案の数々だ。染色や織物などの工房が多い京都では当時、豪華な図案集が多く出版され、その新たな担い手として、若い青楓は世に出た。1903年刊の図案集「うづら衣」所収の図案は、円山四条派以来の写生の伝統の上に、アールヌーヴォーなどの新しい西洋美術の動向をも摂取した革新性がある。商業用途で培ったデザインセンスは、後の漱石はじめ鈴木三重吉ら多くの著述家の本の装丁に生かされたのである。

20代後半には農商務省海外実業練習生としてフランスに3年間留学、安井曽太郎、荻原守衛、高村光太郎といった画家や彫刻家と交遊し、本格的に洋画家としての道を歩み出す。しかし、同じ関西美術院出身の安井や梅原龍三郎が洋画壇の中心的な存在になったのに対し、二科会の創立メンバーでもあった青楓の油彩画の全貌は今なお、とらえがたい。人物画や静物に、物質感を的確につかむ確かな技量を示す作品があるが、本格的な研究はこれからだろう。

漱石の死後、関東大震災を経て、青楓は自らの画塾を京都で起013こし、マルクス経済学者、河上肇の感化を受ける。その社会問題への強い意識が「犠牲者」といった油彩画の代表作に結びつく。
「犠牲者」は作家の小林多喜二が獄死した33年(昭和8年)の作で、拷問を受けた運動家の姿を十字架のキリスト像を意識しながら描いた作品だが、これを制作中に青楓は、警察に踏み込まれ、一時拘留された。青楓はプロレタリア運動と関係を断つことを表明、洋画もやめ、二科会からも脱会する。しかし、この作品は、戦後50~60年代以降、思想弾圧に対する告発をこめた作品として評価されてきた。
長い兵役や貧乏を体験し、美術が暮らしの糧となった青楓は、他の漱石門下のエリートたちとは、異なる社会観を抱かざるを得なかったのだろう。

その中で、大正期から長く描き続けた文人画風の日本画は、青楓の画業の真価を今に伝える。何ものにも縛られない自由な境地は、生活に追われたこの画家にとって、おのずと湧き上がる憧れの世界でもあったろう。大正期の新南画の流れをくむ18年の「お茶の水風景」や37年の「山高水長画巻」は、詩書画に通じた画家の筆墨から、生動する気韻が伝わる作品だ。
この画境は、人間のエゴイズムを書き続けながら絵や書に救いを求めた晩年の漱石の心境と通い合う。文豪が愛した脱俗の天地が、愛(まな)弟子の画面に生き生きと表れているのを見るのは、何とも心地がいい。4月12日まで。

開催要項等、以下の通りです。

生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和

期 日 : 2020年2月21日(金)~4月12日(日)
会 場 : 
練馬区立美術館 東京都練馬区貫井1-36-16
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 1,000円 高大生・65~74歳 800円 中学生以下・75歳以上 無料

1880年に京都市中京区に生まれた津田青楓は、1896年に生活の糧として図案制作をはじめたことから画家人生の第一歩を踏み出します。歴史画家谷口香嶠に師事し日本画を学び、関西美術院では浅井忠らにデッサンを学んで、1907年(明治40)に安井曾太郎とともに渡仏。アカデミー・ジュリアンで修行します。帰国後の1914年(大正3)には二科会の創立メンバーになるなど洋画の世界で活躍し、後に洋画を離れ、文人画風ののびやかで滋味豊かな作品世界を展開していきました。

青楓は文豪夏目漱石に愛され、彼に絵を教えた画家であり、漱石らの本の装幀も数多く手がけました。また、写生にもとづく創造的な図案の試みや、随筆や画論など多岐にわたる文筆活動、それに良寛研究とその成果ともいえる書作品など、幅広い交流と旺盛な制作活動で知られています。しかし、さまざまな分野で足跡を残した青楓ですが、これまでまとまったかたちで作品やその生涯を紹介する回顧展は開催されていません。

青楓は、長生でもありました。青年時代には日露戦争に従軍し、203高地の激戦に居合わせ、その凄惨な体験を赤裸々に文芸雑誌『白樺』に発表しています。昭和初頭には、二科展に社会思想を背景とした作品を発表し、物議をかもしました。自由を求めて時代に対峙しつづけた青楓の作品は、その時代を知るための歴史資料としての側面も持ち合わせているでしょう。

本展では、交友のあった夏目漱石と経済学者河上肇、それに私淑する良寛和尚と、青楓がもっとも影響を受けた3人を軸にしながら、作品や関連資料約250点を通して、明治・大正・昭和の時代を生きた画家津田青楓の生涯を振り返ります。


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昨日、NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットで放映される「アートシーン」で取り上げられていました。

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漱石著書の装幀。

河上肇との交流から、左翼思想へ。しかし自らも逮捕・拘留され、転向を条件に釈放。

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その後は文人画へ。

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これまでに青楓の大規模展が無かったというのは、意外でした。確かに当方も、山梨県笛吹市の青楓美術館さん、同じく釈迦堂遺跡博物館さんでまとめて作品を拝見したことはありましたが、それ以外は、東京ステーションギャラリーさんでの「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」など、複数作家の作品を集めた展覧会で観た程度でした。

青楓と言えば、最初に書いた通り、パリで留学仲間として光太郎と交流がありました。明治42年(1909)、留学も最終段階となった光太郎は、スイス経由でイタリア旅行に出かけましたが、その行く先々で青楓に俳句入りの書簡をしたためています。現在確認できている光太郎の俳句のうち、かなりの数がこれです。

両者帰国後も交流は続きましたが、青楓が京都在住だったため、顔を合わす機会は減ったようです。また、青楓が漱石と近づき、一方の光太郎は漱石を敬遠していましたので、そのあたりも疎遠になった理由の一つかも知れません。

ところで青楓は、智恵子とも交流がありました。智恵子の言葉としてよく使われる「世の中の習慣なんて……」は、青楓が書き残したものです。

昭和23年(1948)に津田が書いた「漱石と十弟子」の一節で、なぜか智恵子は「美代子」という仮名になっています。

 午後から長沼美代子さんがくる。一緒に鬼子母神の方へ写生に出る。美代子さんは女子大の寄宿舎にゐる。学校を卒業したのやら、しないのやら知らない。ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着てゐる。その裾は下駄をはいた白い足に蓋ひかぶさるやうだ。それだけでも女子大の生徒と伍してゐれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一、二寸もちらつかせてゐるから、道を歩いてゐると人が振り返つて必ず見てゆく。しかもそろりそろりとお能がかりのやうに歩かれるのだから、たまらない。美代子さんの話ぶりは物静かで多くを言はない。時々因習に拘泥する人々を呪うやうに嘲笑する。自分は只驚く。彼女は真綿の中に爆弾をつつんで、ふところにしのばせてゐるんぢやないか。
 彼女は言つた。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

具体的な年月日は記されていないのですが、この後の部分でやはり留学仲間の荻原守衛の死にふれていますので、おそらく明治43年(1910)のことと思われます。ということは、書かれたのが昭和23年(1948)ですから、40年近く経っての回想です。

さて、会期は残り僅かですが、青楓展、時間を見て行ってこようと思っております。レポートは後ほど。


【折々のことば・光太郎】

鉄腕ある者よ、出てくれ。
アンケート「アメリカ趣味の流入を防げ
――帝都復興に対する民間からの要求――」より
大正12年(1923) 光太郎41歳

「帝都復興」は、関東大震災で東京が壊滅状態におちいったことにかかわります。再建されるべき東京の街並みを、「質素で確かで優美な都」としたい、そのためにしっかりした方向性を示せる人物――鉄腕ある者――が出てきて欲しい、というのです。

新型コロナ問題、幸いに欧州各地のようなひどい事態にはなっていませんが、どうにも我が国では対応のちぐはぐさが目立ちます。だからと言って、信用のおけない人物に、わけのわからない「鉄腕」をふるわれても困るのですが……。

追記 新型コロナウイルス対策のため、本展示は延期(令和2年度中には開催予定)となったそうです。

埼玉県から展覧会情報です。 

斎藤与里没後60年特別展

期 日 : 2020年3月6日(金)~8日(日)
会 場 : 
加須文化・学習センターパストラルかぞ  埼玉県加須市上三俣2255
時 間 : 9:30~16:00(最終日は15:00まで)
料 金 : 無料

今年度修復を行った100号の大作「合奏」を初公開します。また、令和元年11月に販売されたオリジナルフレーム切手「斎藤与里の世界ー加須が生んだ日本近代洋画界の旗手ー」に掲載絵画も展示します。ぜひ、この機会にご鑑賞ください。

斎藤与里(1885 年(M18)~1959 年(S34)) 洋画家 北埼玉郡樋遣川村(現加須市)に生まれる。 1905 年(M38)京都にて浅井忠、鹿子木孟郎に学ぶ。鹿 子木孟郎とともに渡仏し、パリのアカデミー・ジュリア ンで学び帰国。帰国後は、岸田劉生、高村光太郎らとフ ュウザン会を結成し、明治末から大正期の日本洋画の進 展に大きな役割を果たす。 1915 年(T4)第 9 回文展にて「朝」が初入選し、翌年の 第 10 回文展に出品した「収穫」が特選となる。 1959 年(S34)に日展評議員、加須市名誉市民第 1 号とな り画業と人格をたたえられる。 「加須の偉人」の一人。


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光太郎同様、明治末にパリに留学した斎藤与里。パリでは光太郎と入れ違いでしたが、光太郎の親友・碌山荻原守衛と交流しました。また、帰国した光太郎ともどもヒユウザン会(のちフユウザン会)の立ち上げに加わり、我が国の絵画革新に功績のあった一人です。

当方、信州安曇野碌山美術館さん、新宿中村屋サロン美術館さん、それからやはり与里の地元・加須市のサトヱ21世紀美術館さんなどで、与里作品を拝見しました。

案内文に「修復」云々の話がありますが、加須市のHPに以下の記事がありますのでご参照下さい。 

斎藤与里絵画の修復

■ 事業の目的・概要 令和元年 12 月に、加須市出身の個人(匿名)の方から斎藤与里絵画の修復のため、 1,000 万円の寄附がありました。そこで、この寄附を活用し、多くの方に斎藤与里の 絵画をご覧いただけるよう、修復計画の前倒しを行い、令和 2 年度に本市所蔵の斎藤 与里の絵画の中から、傷み具合などを考慮した上で、以下の 3 点の修復を行います。 
 
■ 修復する絵画 ①「北畠風景」(10 号) ②「静物二」( 10 号) ③「ハトと少女」( 10 号) ※修復した絵画は、順次当該絵画を中心に「斎藤与里展」を開催し、一般公開する
 
☆ 令和2年度予算額  1,522千円【市費】 偉人顕彰事業  1,522 千円


斎藤与里展の開催

令和元年度は、「加須の偉人」である斎藤与里没後60年にあたり、特別展を開催 します。今回の特別展は、令和2年2月末修復完了予定の100号の大作「合奏」の お披露目も兼ねています。
 
1 期 間 令和2年3月6日(金)~8日(日)の3日間        9時30分~16時00分(最終日は15時まで)
2 会 場 加須文化・学習センター パストラルかぞ 展示室
3 入場料 無 料



なんとまあ、匿名の個人の方が、与里絵画の修復のため1,000 万円の寄附をなさったそうです。なかなかできることではありませんね。今回公開される「合奏」という作品は、寄附以前から修復作業にかかっていたもののようですが。

斎藤与里、もっと知られていい画家だと思います。ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

生活上の強みは私達夫婦が最低の衣食でも平気で居られる性情を持つてゐる事であつた。当座の米がなくなればジヤガイモで生きてゐた。しかし此のなが年の窮乏生活と、其とまるで反対な亡父の嗣子であるといふ世間からの取扱との間に挟つて、智恵子がその神経を陰性にいためた事も大きかつたに違ひない。此は確に智恵子の後年の狂気の原因の一部を成してゐよう。

散文「某月某日(自分の生活の事を)」より
 昭和11年(1936) 光太郎54歳

同じ文章の冒頭では、光雲の内弟子の一人、光太郎の兄弟弟子的な人物から、「生活を顧みないで、取れる金を取ろうとせずに「武士は喰わねど高楊枝」的な姿勢を貫いているのは喜劇だ」的な内容の手紙を受け取ったことが記されています。

その手紙は、光太郎を非難したり揶揄したりするものではなく、忠告の類だったのでしょうが、結果的にはその通りだったわけで、しかし、光太郎には自分を曲げてまで金を稼ぐことは出来ませんでした。

兵庫県のギャラリーでの展示情報です。 

井上よう子展 ―言葉がくれたもの―

期 日 : 2019年12月7日(土)~12月18日(水)
会 場 : 
ギャラリー島田 神戸市中央区山本通2-4-24リランズゲートB1F・1F
時 間 : 11:00-18:00 ※最終日は16:00まで
料 金 : 無料


小学時代「アンネの日記」に衝撃を受け、中3での姉の死から大きな喪失感を抱えた高校時代は、石川啄木「一握の砂」「悲しき玩具」、高村光太郎「智恵子抄」に、失われゆく自己・存在・命への愛おしさ、激しくはない静かな言葉にこそ宿る深淵な哀しみを共感していた。描き続けてきた絵には、そんな言葉達から受けた物が少なからず影響していると思う。
近年「言葉」に寄り添う依頼が重なり、不思議な気持ちでいる。
白石一文さんの小説への挿絵、後藤正治先生の「節義のために」「言葉を旅する」の装幀画…他。今年は村上春樹展や装幀画展、図書館での展示依頼。
変わらずブルーに塗れ、光を追いながら、言葉と共に…の展を構想しています。
井上よう子

30年前に出会い、すでに画ける人だった。そのころから青を基調にしていたが、誠実極まりない表現者としての深化を伴走できたことはこの上ない喜びだ。命あるものは必ず逝く。その哀切を抱きながら人は生きる。死や別離の降り積もる体験が抒情を削ぎ落とし、近作では荘厳の気配に満ちながら射し落ちる光が背筋を正す。日常でも画作においても「生きること」を飽まず問い続ける姿勢は、恩師、三尾公三の「完成度、インパクト、発想の斬新性、格調」の教えへのまっすぐな応答である。
島田誠

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『毎日新聞』さんの兵庫版に紹介記事が出ています。 

言葉の力、絵に添えて 西宮の井上さん個展 神戸・18日まで /兵庫

 青を基調にした風景画や室内画に取り組んできた西宮市在住の画家、井上よう子さん(61)の個展が、神戸市中央区山本通2のギャラリー島田で開かれている。18日まで。今回は「言葉がくれたもの」というテーマを掲げた。青の陰影や光の描写が深化した絵画40点が並ぶ2会場には、小説や随筆の一節が、所々に小さく掲示されている。学生時代に好きだったという高村光太郎の「智恵子抄」、青に言及される村山由佳の「ヘヴンリー・ブルー」……。 井上さんは「作家の陳舜臣さんのエッセーや白石一文さんの新聞小説の挿絵など、近年は言葉に引き寄せられる仕事に恵まれましました。振り返ると、学生時代からさまざまな言葉に有形無形に刺激を受けてきたので、展示に加えてみました。散文詩的に楽しんでもらえたら」と話す。
 入場無料。ギャラリー島田(078・262・8058)。

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「智恵子抄」からインスパイアされた作品も並んでいるとのことで、ありがたく存じます。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

北原白秋さんの「邪宗門」が出版された時にはまつたく驚いた。日本語がこんなにも自由に、又こんなにも豊麗に使へるのかと思つた。

散文「あの頃――白秋の印象と思ひ出009――」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳


『邪宗門』は光太郎が欧米留学から帰国した明治42年(1909)に易風社から上梓されました。その後の光太郎詩にも大きく影響を与えていると言えるでしょう。

2年後の同44年(1911)には、版元を東雲堂書店に移し、第二版が刊行。光太郎が装丁、表紙絵を担当しました。

上記井上さんは青を基調としていますが、赤を効果的に使った光太郎の装幀も美しいですね。

11月2日(土)、3日(日)と、1泊2日で福島と岩手を廻っておりました。

まずは智恵子の故郷・福島二本松。先月、二本松で開催された智恵子を偲ぶ「第25回レモン忌」にお邪魔した際、智恵子と同郷の日本画家の故・大山忠作画伯を顕彰する大山忠作美術館さんで開催中の「新五星山展」の招待状を、大山画伯のご息女で女優の一色采子さんから頂きまして、立ち寄ることに致しました。

ちなみに今回も公共交通機関で行きました。午前4時半に千葉の自宅兼事務所を出まして、二本松着が9時でした。この日は素晴らしい秋晴れ。二本松駅前の「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節を刻んだ光太郎詩碑にも、まさしく「ほんとの空」が映っていました。
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光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家・橋本堅太郎氏の手になる智恵子像。「ほんとの空」の題名です。まさしく「ほんとの空」が背景に広がっていました。この像を写真に撮るには、朝の時間帯がいいようです。
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その背後にあるのが大山忠作美術館さん。
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この日の午後、一色さんと、福島県立美術館長の早川博明氏によるトークショーがあり、そちらも拝聴したかったのですが、次なる目的地・盛岡に行かねばならず、そちらは断念。また、当方が着いた時は開館時間前で、一色さんもまだお見えになっていませんでした。

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館のロビーから見た安達太良山。
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近くの小高い丘は紅葉に色づいていました。

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この奥が霞ヶ城。菊人形の会場です。

さて、開館時間となりました。
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「新五星山展」。名前に「山」のつく日本画の巨匠五人の作品を集めた展覧会です。五人すなわち横山大観、山口蓬春、杉山寧、横山操、そして大山画伯。「今回は」というのは、前回があったわけで、「新」がつかない「五星山展」が(東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造、大山忠作)平成25年(2013)に開催されています。

このうち、横山大観は東京美術学校で光雲や光太郎とも関わりがありました。『高村光太郎全集』にも、大観の名がたびたび表れます。

こちらが展示目録。
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大山画伯には智恵子をモチーフとした作品も複数有りますが、今回は展示されておらず(安達太良山を描いた「安達太良山(残照)」という作品はありました)、そちらは少し残念でしたが、日本画の大作をまとめてみるのは久々で新鮮でした。また、五人それぞれに近代の新しい日本画を創出しようという意気込みが感じられました。
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下記は、ミュージアムショップで購入した一筆箋とはがき箋。新商品のようで、初めて見ましたし、館のサイトにも掲載されていません。一筆箋の方は光太郎智恵子の後ろ姿、はがき箋は4種類のデザインのうち、智恵子生家をあしらったものもあります。早速使わせていただいています。

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「新五星山展」、今月17日までです。ぜひ足をお運び下さい。

この後、次なる目的地、岩手盛岡を目指し、再び電車に乗り込みました。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】007 (2)

あれのアイデアというのは真正面から見ると二等辺三角形になつている。三角形の先端は空中に伸びていて向き合つた二人の乙女の像の真中辺に空間がある。この空間の面白さが群像の面白さで、何となしにわかる人は、そういうところを見ているからです。

講演筆録「視角で変る群像」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

智恵子の顔をもつ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関し、その除幕式の二日後に青森市の野脇中学校で行われた講演で語った一節です。

同じ講演では、「三角形という形は何か無限性と関係があるようです」などとも述べています。



明治から昭和にかけて活躍した画家・挿絵画家・漫画家、池田永治(いけだえいじ)。光太郎より6歳年下の明治22年(1889)、京都の生まれです。亡くなったのは光太郎より早く、昭和25年(1950)。歴史上の人物ということで、申し訳ありませんが呼び捨てにさせていただきます。

今年の夏、子息の辰彦氏からご連絡を頂きました。永治が光太郎に書いて貰った「書」が現存するのだが、どんなものだろうか、というお話でした。そこで、メールで画像を送っていただき、拝見。驚愕しました。他に類例のない大珍品だったためです。

他の人物等に光太郎が書いてあげた書は、現存数、決して少なくありません。各地にかなり残っています。そのほとんどがそうした場合の通例である色紙や著書の見返しなどに書かれたもの。しかし、件(くだん)の「書」は、なんとチョッキの背部に書かれたものだったのです。

文言は、「美もつともつよし」、無理くり書き003下せば「美最も強し」。為書(ためがき)的に「池田永一治画伯に献ず 光太郎」。「永一治」は、昭和3年(1928)以後の池田の号です。早世した妹の死を悼み、奮起しようと「永」と「治」の間に「一」を挿入し、「一つ増やす」という意味を込めたそうです。ただ、読み方は「えいじ」のままだったとのことですが。筆跡は間違いなく光太郎のもの。文言の「美最も強し」も、いかにも光太郎という感じです。同趣旨の「美ならざるなし」とか「美しきもの満つ」といった文言の書は複数現存していますが、「美最も強し」という文言は初めて見ました。

そして、揮毫の日付を見て、二度驚愕。「昭和二十年五月十四日」と書かれています。なんとまあ、光太郎が疎開のために岩手花巻の宮澤賢治の実家に発つ前日です。4月13日の空襲で、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎アトリエ兼住居は全焼、しばらくは近所にあって消失を免れた妹・喜子の婚家に身を寄せていた光太郎ですが、以前から賢治の父・政次郎や賢治の主治医・佐藤隆房らから、花巻への疎開を勧められており、5月15日には上野駅から花巻に向かいました。

池田も昭和12年(1937)から駒込林町に住んでいたそうで、古地図で調べてみましたところ、直線距離で200㍍ほどの、本当に近所でした。さらに光太郎アトリエ兼住居と池田邸のちょうど中間あたりが光太郎実家の現髙村家(旧光雲邸)でした。『高村光太郎全集』には池田の名は記されていませんが、おそらく以前から交流があったか、少なくとも顔見知り程度ではあったと思われます。

ちなみにやはり近所の森鷗外邸(観潮楼)は、それ以前にやはり空襲で焼けています。近くでありながら旧光雲邸は焼けず、池田邸も無事でした。しかし、あちこちで火がくすぶっていた極限状況下で書かれた「書」。どこでどういうシチュエーションで書かれたのか詳細は分からないそうですが、おそらく光太郎が「明日、花巻へ発つ」という話を池田にし、池田が「ではお別れに何か書いて下さい」となり、といっても色紙など用意できようはずもなく、着ていたチョッキの背に書いて貰ったと推定できます。そして同じく「美」に携わる者同士、がんばろう、ということで「美もつともつよし」と書いたのではないでしょうか。凄いドラマだと思います。

で、子息の辰彦氏から、4冊の書籍を頂きました。

左上から、チョッキの写真も載っている『画家 池田永治の記録―その作品と年譜―』、池田は俳句、俳画も多く残したということで、『俳画家 池田永一治俳句集』、『新理念 俳画の技法 復刻版』、そして昭和5年(1930)から翌年にかけ、『読売新聞』に連載されたという『こども漫画 ピチベ 第二版』。すべて神戸新聞総合出版センターさんから辰彦氏らご遺族の私刊という形で、今月刊行されたものです。永治の業績をまとめておこうという意図だそうで、頭が下がります。

これらを拝読し、またまた驚愕(笑)。

まず、池田が太平洋画会の中心メンバーだったということ。当方、存じませんでした。太平洋画会といえば、光太郎と結婚披露前の智恵子が、日本女子大学校卒業後に通っていました。そこで調べてみましたところ……

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明治45年(1912)の同会第10回展で、智恵子と池田の作品が並んで出品されていました。当然、池田と智恵子、交流があったでしょうし、のちに光太郎と池田の間でも、智恵子の話題になったでしょう。これにも本当に驚きました。

それから、池田は同じく挿絵画家・漫画家だった岡本一平とも交流がありました。一平は岡本太郎の父。妻のかの子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』メンバーでしたし、一平自身、東京美術学校西洋画科で、彫刻科を卒(お)えて再入学した光太郎と同級生でした。

また、これも当方存じませんでしたが、中原中也に「ピチベの哲学」という詩があるそうで、これは上記の『こども漫画 ピチベ 』からのインスパイアではないかという説があるそうです。中也といえば、当会の祖・草野心平を介して光太郎と知り合い、その第一詩集『山羊の歌』の装幀、題字を光太郎が手がけました。

現在と異なり、芸術界が狭かった時代ではありますが、こういう部分であやなされる人間関係には、実に驚かされます。

さて、池田永治、明治大正昭和の文化史の、貴重な一面を担った人物であると改めて感じ入りました。これを機に、もっと光が当たっていいように思われます。


【折々のことば・光太郎】

そして自分の作らうとする胸像に、若し此の内から迸出する活発な内面生活の発露がなかつたら、其は無意味な製作に終る事を痛感しました。思想を持ち、信念を持ち、愛を持つ人格が出なかつたら、それきりだと思ひました。
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散文「成瀬先生胸像の製作に従事して」より
大正9年(1920) 光太郎38歳

「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者にして初代校長の成瀬仁蔵です。歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。

2件ほど。

日曜美術館「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」

NHKEテレ 2019年10月6日(日)  20時00分~20時45分

フランスの印象派に憧れた大正時代の画壇で、ひとりデューラー風の肖像画を描き続けた異端児がいた。岸田劉生。現代画家の会田誠さんが<意識高い系>画家・劉生を語る。

日本美術史上、最も有名な少女・麗子。岸田劉生が何度も描いた愛娘7歳の肖像「麗子微笑」は、謎のほほえみを浮かべている。また静物画では、果物の配置や色つやに、ただならぬ気配が漂う。そして何の変哲もない“坂道”は、今にもこちらに迫ってきそうな迫力。岸田劉生が描くと、いつも何かがヘン。劉生は日本の洋画家の中で飛びぬけて<意識が高い><理想が高い>と語る現代画家の会田誠さんとともに、劉生の真の姿に迫る。

【司 会】小野正嗣 柴田祐規子
【ゲスト】会田誠(現代美術家)  田中晴子(東京ステーションギャラリー 学芸室長)
【出 演】山内崇嗣(アーティスト) 土師広(修復家)
     都築千重子(東京国立近代美術館 主任研究員)
 塩谷亮(画家)

本放送が9月29日(日)にありまして、拝見しました。東京ステーションギャラリーさんで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」にスポットを当てています。

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同時代の画家の中で、光太郎が最も高く評価していた一人である岸田劉生。なぜ光太郎が劉生を認めていたのか、その理由が分かったような気がしました。というか、彫刻と絵画、ジャンルは違えど光太郎との共通点のようなものが随所に垣間見えたというか。

まず、写実に軸足を置きながらも、単なる細密描写的な写実にとどまらず、深い精神性をも表現しようとしていたこと。


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そのバックボーンにあった、「自然」への賛美。

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そして細かな話ですが、岸田は「岸田の首狩り」と称されるほど、友人たちを捕まえてはその肖像画のモデルにしていました。下記は光太郎とも共通の友人だったバーナード・リーチ

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光太郎も同様に友人知己を片っ端から彫刻のモデルにしていた時期がありました。

それから、それぞれ自分の妻をモデルにしていたという点も共通項です。


そして西洋と東洋の融合。

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結論としては、この時代としては劉生の意識の高さが目立つ、という方向でした。

上記番組説明欄では<意識高い系>となっていますが、「系」がつくと揶揄するニュアンスを含みます。すなわち「意識高い」だけだとプラスの意味、「意識高い系」はマイナスの意味です。本放送を見る前に「おやっ」と気づき、劉生をディスるのかな、と思っていましたが、ちゃんと番組の中でコメンテーターの方が劉生は「系」ではないと否定して下さっていました。説明欄を執筆した方は、その違いをご存じなかったのでしょう。


ところで、9月24日(火)に放映されたBS日テレさんの「ぶらぶら美術・博物館」でも、同じく東京ステーションギャラリーさんで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」を取り上げていましたが、こちらは気がつかず、見逃してしまいました。

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失敗しました。


さて、もう1件。

びじゅチューン!「指揮者が手」

NHKEテレ 2019年10月9日(水)  19時50分~19時55分
        10月14日(月) 5時55分~6時00分  24:50~24:55


古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館所蔵)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

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昨年、最初の放映がありました。笑えます。しかし、ただ笑えるだけでなく、よく光太郎について調べていると感心もさせられます。

それぞれぜひ御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

偽らざる感情の発露は凡て真であつて、同時に美だと思ひます。僕だつて人間ですから、嬉しい時には笑ひもし、癇癪の起つた時には随分怒鳴り散らす事もあります。其前に何の遠慮も会釈もないのです。それと同じ事で画でも矢張書き度くつて書き度くつて耐まらない時がある、さう云ふ時こそ本当のものが出来るのです。

散文「真は美に等し」より 大正2年(1913) 光太郎31歳 

「記者」と「主人」による戯曲風のスタイルで書かれています。上記部分は「主人」のセリフから。

同じ作品の中で「岸田君や木村君の様な人が、もつと沢山現はれて来なければ駄目だと思ひます」とも記されています。

3件ほど。

まず、東京ステーションギャラリーさんで開催中の「没後90年記念 岸田劉生展」関連です。

日曜美術館「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」

NHK Eテレ 2019年9月29日(日)  9時00分~9時45分
再放送 10月6日(日) 20時00分~20時45分

フランスの印象派に憧れた大正時代の画壇で、ひとりデューラー風の肖像画を描き続けた異端児がいた。岸田劉生。現代画家の会田誠さんが<意識高い系>画家・劉生を語る。

日本美術史上、最も有名な少女・麗子。岸田劉生が何度も描いた愛娘7歳の肖像「麗子微笑」は、謎のほほえみを浮かべている。また静物画では、果物の配置や色つやに、ただならぬ気配が漂う。そして何の変哲もない“坂道”は、今にもこちらに迫ってきそうな迫力。岸田劉生が描くと、いつも何かがヘン。劉生は日本の洋画家の中で飛びぬけて<意識が高い><理想が高い>と語る現代画家の会田誠さんとともに、劉生の真の姿に迫る。

【司 会】小野正嗣 柴田祐規子
【ゲスト】会田誠(現代美術家)  田中晴子(東京ステーションギャラリー 学芸室長)
【出 演】山内崇嗣(アーティスト)土師広(修復家)都築千重子(東京国立近代美術館 主任研究員)
     塩谷亮(画家)

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ちなみに「没後90年記念 岸田劉生展」に関しては、先週の『日本経済新聞』さんで大きく取り上げられています。

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長いので全文の引用はしませんが、光太郎に触れた箇所を。

38歳で急逝した劉生を厳しい批評家でもあった髙村光太郎は「時代を乗り越えた純美の深い探求者であつた」と偲(しの)び、「神秘の扉はしまつてしまつた。彼にかはる者は無い」と言い切っている(「岸田兄の死を悼む」)。


続いて、智恵子関連で。

昼の特選ドラマ劇場 おかしな刑事~居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査

BS朝日 2019年9月30日(月) 12時00分~13時55分

「東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」▽テレビ朝日系列で2011年に放送された第8シリーズ。篤志家の社長が刺された!その背後には、30年前、東京タワーの下で起きた誘拐事件の影が…!?

出演者  伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 (他)

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年に数回、再放送が繰り返されています。今年6月にも再放送がありました。二本松の智恵子の生家、その裏山の光太郎詩碑、安達太良山の光太郎詩碑などが舞台となっています。


もう1件。

朝の!さんぽ道 【長野市編】旅人:渡辺正行

テレビ東京 2019年10月3日(木) 7時35分~8時00分

今話題になっている街を訪ね、様々な人にふれあいながらブラブラ街を散歩します。「あっ!」と驚いたり、「へ~!」と感心したり、思わず声に出したくなるような不思議なモノや人を探していきます。さらに、途中で出会った人に「あ~よかったな!」と思った“幸せエピソード”も聞いていきます。もちろんご当地ならではのグルメ情報も満載!騒がしい朝に飽きた人に、1日の始まりを楽しくする!ほんわか散歩番組です。

今週は、芸術の秋に食欲の秋…秋に行きたい街をテーマに、一足先に様々な秋の風景を探して歩きます。ご当地グルメや温泉が登場!

今回は、江戸時代に「一生に一度は善光寺詣り」と謳われた観光名所、善光寺からスタート◆参道で発見!おやきに次ぐ新名物「じゃがバタまん」とは?&200年続く老舗和菓子店がプロデュース!信州産リンゴをたっぷり使ったアップルパイに舌鼓◆8代続く!門前蕎麦の老舗で信州名物のクルミ蕎麦に大満足◆信州のリンゴがぷかぷか浮くリンゴ温泉でほっこり


今年、開眼百周年を迎える、光太郎の父・高村光雲と、その高弟・米原雲海による仁王像などが納められている信州善光寺さんからスタートするそうです。仁王門も取り上げていただきたいところです。


それぞれ、ぜひ御覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

五月の空は水を含んで晴れ、 五月の空はブランダルジヤン。 光り満ちて若く、 木々の新緑大気をよろこぶ。

詩「風かをる」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いったん作られた後、「四月の馬場」と改題、内容も大幅に変えられて発表された詩の原型から。

ブランダルジャンは「blanc d'argent」。仏語で「銀白色」の意です。

先週始まった企画展です。

時代の転換と美術「大正」とその前後

期 日 : 2019年9月18日(水)~10月20日(日)
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9:30~17:00
料 金 : 一般510(410)円、大学生300(250)円
       消費税率変更に伴い10月1日より:一般520(410)円、大学生300(260)円
       ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 月曜日(ただし9月23日、10月14日は開館)、9月24日(火)、10月15日(火)

当館では和歌山県ゆかりの人物を軸に、大正時代に活躍した作家やグループに関わる展覧会を継続して開催してきました。それらの展覧会を通して作品や資料の収集が進んだことにより、大正時代とその前後にわたる時期の充実したコレクションが形成されつつあります。この展覧会では、そのコレクションの中から洋画と版画を中心とした作品を、同時期の社会と人に関わるテーマを通して紹介いたします。

大正は、1912年7月から1926年12月までの14年あまり、大正天皇が在位していた期間の元号です。過去のある連続した時間のまとまりを、文明や社会、政治体制など、特定の観点によって区切ったものが時代ですが、一世一元の制が定着した近代以降の日本においては、元号がそのまま時代区分として機能してきました。

元号が改まったからといって、ある日を境に人や社会が激変する訳でないことは、私たちが身をもって体験したばかりです。しかし、大正時代を中心にその前後を見渡してみれば、大逆事件、第一次世界大戦、本格的な政党内閣の成立、関東大震災、普通選挙法と治安維持法の公布、満州事変など、国際的にも国内的にも、見方によっては時代の転換点と言えるような出来事が続きました。

美術作品が人間の作り出すものである以上、ある時に起こった大きな出来事や、社会的、文化的な流行などが、その表現やテーマに影響を与えることはしばしばあります。もちろん作品の特徴を時代と結びつけるのは一面的な見方ではありますが、作り手の意図する/しないに関わらず、作品からは当時の人や社会のあり方、またそれらが変化する様子を読み取ることもできるでしょう。

元号が改められた本年、美術作品を通しておよそ100年前を振り返ることで、近代から現代に至る時代のつながりと変化を、改めて見つめ直したいと思います。

展示構成

1 自己意識の高まり –自己主張する若者たち–
 この時代の美術作品からは、自己意識を高めた若者たちの姿がうかがえます。自分とは何か、
 自分はどう生きるのか、その答えを探すかのように生まれた表現をご覧いただきます。
2 うつりかわる都市 –たち上がる帝都東京–
 新たに現れた都市の風景は、さまざまな画題を提供しています。江戸から東京への移行、関
 東大震災による崩壊から再び帝都としてたち上がる東京の姿を中心にご紹介します。
3 欧米との距離 –モダニズムの成熟–
 1918年に第一次世界大戦が終結すると、多くの日本人がヨーロッパに向かいます。西欧で新
 しい表現に目覚めた画家たちと、日本で自己の表現を深めた画家たちの作品を紹介します。
4 風景の意味 –日本を見つめる、東アジアを描く–
 交通手段、そしてメディアの発達は、見たことのない、あるいは見てみたい場所に画家たち
 を誘います。日本、そして東アジアの風景から、風景が描かれた意味を探ります。

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関連行事

◇フロアレクチャー(学芸員による展示解説)
  9月22日(日)、10月6日(日) 14時から 展示室にて(要観覧券)
◇こども美術館部「かわるがわるかわるとわかる」(小学生対象の作品鑑賞会)
  10月5日(土) 11 時から12 時 展示室にて
  (小学生は無料、同伴される保護者は要観覧券)
  *2 日前までに電話(073-436-8690)かメール(bijutsukanbu@gmail.com)で。
◇だれでも美術館部(みんなでお話しをしながら作品を楽しむ鑑賞会)
  10月5日(土) 14時から 展示室にて(要観覧券)


光太郎の油絵「佐藤春夫像」(大正3年=1914)が出て000います。若き日の佐藤が光太郎に依頼し、描いてもらったもので、これを機に、佐藤は光太郎との交流を深めていきます。

描いてもらった経緯などは、佐藤の『小説髙村光太郎像』(昭和31年=1956)などに詳細が語られています。

この絵、平成28年(2016)に、東京ステーションギャラリーさんを皮切りに、今回と同じ和歌山県立近代美術館さん、下関市立美術館さんを巡回した「動き出す!絵画 ペール北山の夢―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」展にも出品されました。

というか、今回の展覧会、「動き出す!絵画……」と、コンセプト的にも共通するものがあり、ヒユウザン会(のちフユウザン会)関係など、出品作もけっこうかぶっているようです。

他に、光太郎と交流のあった作家たちの作もかなり出ています。梅原龍三郎、有島生馬、石井柏亭、岸田劉生、戸張孤雁、木村荘八、石井鶴三、藤島武二などなど。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

怒は人間を浄める。 怒は人類の向きをただす。 腹が立つのをおそれない。

詩「或日の日記より」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

のち、「怒」と改題され、内容も大幅に改訂されて詩集『道程改訂版』に収められました。

たしかに怒るべき時には怒るべきですね。

昨日は都内に出、美術館を三館、ハシゴして参りました(うち一館はミュージアムショップだけでしたが)。2回に分けてレポートいたします。

まずは東京駅丸の内口の東京ステーションギャラリーさん。こちらでは、大正末のヒユウザン会(のちフユウザン会)などで光太郎と親しかった、岸田劉生の大規模な展覧会「没後90年記念 岸田劉生展」が開催中です。

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これまでにも、あちこちの美術館さんなどで劉生作品は一点、二点と拝見して参りましたが、劉生してまとめて観るのは実は初めてでした。

初期の頃の水彩画に始まり、光太郎が開いた日本初の画廊・琅玕洞での初の個展出品作、光太郎らと結成したヒユウザン会(のちフユウザン会)や生活社の展覧会に出品した絵などが続きます。

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その中には、光太郎・劉生共通の仲間であった斎藤与里木村荘八バーナード・リーチ、武者小路実篤、椿貞雄らの肖像も。何だかある種の同窓会みたいだと思いました(笑)。ちなみに劉生は光太郎の肖像画も描いたという記録があるのですが、当方、寡聞にして画像でも見たことがありません。現存が確認できていない作品なのでしょうか。ご存じの方はご教示いただけると幸いです。

その後、有名な「代々木附近」などを含む草土社時代等の作品などなど。

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さらにはあまりに有名な「麗子」の諸作など。

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それから、恥ずかしながら、当方、劉生が本格的に日本画にも取り組んでいたというのを存じませんでした。日本画でありながらいかにも劉生らしい作品群、興味深く拝見しました。

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展示の最後には、おそらく劉生旧蔵のアルバムや写真も。以前にもご紹介した、光太郎と共に写っている雑誌『白樺』十周年記念の会で撮影されたものもありました。

拝観後、ミュージアムショップで下記の図録を購入。

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300ページ超の厚冊です。それだけに2,500円也と高価ですが、充実の内容です。特に、京都市美術館さんの学芸員であらせられる山田諭氏による「岸田劉生活動記録」という項が、100ページ近くあり、舌を巻く詳細さでした。のちほど熟読させていただきます。

同展、東京ステーションギャラリーさんでは10月20日(日)まで。その後、11月2日(土)~12月22日(日)で山口県立美術館さん、来年1月8日(水)3月1日(日)に名古屋市美術館さんを巡回します。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

今の嵐と戦つた君達は 此から又恐ろしい颱風と戦はねばならない 君達は疲れてゐる 君達は力を出し切つた 此の暫くのまに眠りたまへ 心を落ちつけてやすやすと眠りたまへ

詩「無為の白日」初出形より 大正6年(1917) 光太郎35歳

「君達」は船員です。台風に遭遇し波に揉まれた船が台風の目に入り、ぱたりと風が止み、嘘のような晴天になったというシチュエーションです。

いつのことを謳ったのかよくわからない詩なのですが、ことによると、明治39年(1906)、留学のため横浜からカナダのバンクーバーまで太平洋を横断した時のことかもしれません。

このブログでも触れてきましたが、台風15号による千葉大停電、当方自宅兼事務所周辺は3日目に復旧しましたが、同じ市内でもまだの所があります。停電以外にも暴風による被害もそこそこありました。

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近くのアパート。ベランダ部分が落ちています。

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裏山の神社。桜の古木が根こそぎ倒れています。

これを書いている現在はまったく爽やかな秋晴れなのですが、何だか今夜も熱帯低気圧が直撃するそうで、弱り目にたたり目ですが、何とかなるでしょう。

大正末のヒユウザン会(のちフユウザン会)などで光太郎と親しかった、岸田劉生の大規模な展覧会です。

没後90年記念 岸田劉生展

期    日 : [前期]2019年8月31日~9月23日、[後期]2019年9月25日~10月20日
時    間 : 10:00~18:00(金~20:00)
会    場 : 東京ステーションギャラリー 東京都千代田区丸の内1-9-1
料    金 : 一般 1100円 / 高校・大学生 900円 / 中学生以下無料   
休 館 日  : 月(9月16日、9月23日、10月14日は開館)、9月17日、9月24日

日本近代絵画史上に輝く天才画家。満を持して登場!

画家・岸田劉生(1891-1929)は、日本の近代美術の歴史において最も独創的な絵画の道を歩んだ孤高の存在です。明治の先覚者・岸田吟香を父として東京・銀座に生まれ、父の死後はキリスト教会の牧師を志しますが、独学で水彩画を制作するなかで、画家になることを勧められ、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に油彩画を学びます。そして、雑誌『白樺』が紹介する「後期印象派」の画家たち(ゴッホ、ゴーギャン、マティスら)を知り、大きな衝撃を受けます。1912年には、斎藤与里、高村光太郎、萬鐡五郎らとともにヒユウザン会を結成、強烈な色彩と筆致による油彩画を発表します。しかし、画家としての自己の道を探究するために、徹底した細密描写による写実表現を突きつめ、その先にミケランジェロやデューラーら西洋古典絵画を発見、独創的な画風を確立します。1915年には、木村荘八、椿貞雄らとともに草土社を結成、若い画家たちに圧倒的な影響を与えました。また、最愛の娘・麗子の誕生を契機に、自己のなかの究極の写実による油彩画を志します。その後は、素描や水彩画、日本画にも真剣に取り組み、再び油彩画に「新しい道」を探究しはじめた1929年、満洲旅行から帰国直後に体調を崩して、山口県の徳山において客死しました。享年38歳でした。
本展では、岸田劉生の絵画の道において、道標となる作品を選び、会期中150点以上の作品を基本的に制作年代順に展示することで、その変転を繰り返した人生の歩みとともに、岸田劉生の芸術を顕彰しようとするものです。このたび没後90年を迎えて、一堂に名品が揃います。この機会をどうぞご堪能ください。
*会期中、一部展示替えがあります(前期=8/31~9/23、後期=9/25~10/20)。


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光太郎の岸田評。

まずは岸田生前のそれから。

芸術の品は何にも換へがたい貴重なものであるが此を口で言ひ現はす事は到底出来ない。如何に真摯に、巧妙に、奥深さうに、物ありげであつても、又如何に厭味なく淡々としてゐても、眩い程光彩陸離としてゐても、此第一根源は偽はれない。作家の真生活は悉く作品に暴露せられて、精々明々毫髪も蔽はずである。手段となつた舂簸篩揀は此所で何の役にも立たぬ。もう此稿を終らねばならなくなつたが、今述べた品といふものを本当に知りたかつたら今年の二科会へ足を運んで、岸田劉生氏の作画をよく見られるのが捷径だと思ふ。(「芸術雑話」より 大正6年=1917)

岸田君の芸術には不思議な権威が備はつてゐる。此の権威が自然と見る人に伝はつて来て、文句無しに其人を感動せしめる。いきなり打つ。眼に見てゐるものは画であるが、心に感じて来るものは普通画を見た時の心理以上のものである。こつちに少しでもつまらない厭な心持の浮いた時には、正視するのが心に疚しく感じられる。何だか澄んだ光つた眼がこつちを見てゐるやうな気のする画だ。その画を見ると動揺してゐる心がぴたりと沈黙させられる。烈々としたものを受ける。静かだけれども動いてゐる。しかも恐ろしい静寂が湧いて来る。(「岸田君の芸術の事」より 大正10年=1921)

そして、昭和4年(1929)の劉生の死に際して。

岸田劉生の死ほど最近私の心を痛打したものは無い。(略)岸田劉生を親しく知る者は天才といふ言葉を信じないわけにゆかなかつた。生れつき常人以上に優秀な人間があるといふ事を打消す事が出来なかつた。どんな詭弁を用ゐようともその事実があまり明瞭であり過ぎたからである。(「岸田兄の死を悼む」より 昭和5年=1930)


さらにその没後しばらく経ってからは……。

草土社時代以後の岸田氏の画業は実にめざましいものであつて、描写力をこれほど本格的に油絵具に持たしめ得た画家は日本に曾て類例が無かつた。日本の油画はあの厳密世界を通つたので稍倚りかかる脊梁を得たといつていゝ。(「寸言――岸田劉生十周忌回顧展覧会――」より 昭和13年=1938)


岸田劉生は黒田清輝以後、日本の画界で最も意味ふかい仕事をした天賦ゆたかな画家であつたが、その創立した草土社の運動は一見時代錯誤のやうな外貌を備へて神がかり式な古典的油絵を日本で猛烈に唱道した。此の運動の真意義を大局的に観察すると、結局従来の日本に於ける油絵への懐疑、油絵そのものの根帯の探求、油絵といふもの本来の意味と伝統との真摯な検討といふ重大な契機を持つてゐたのであつて、岸田劉生はまるで駆け足のやうな速さで西欧の古典の種々相を身を以て経験し、油絵具の描写力とそれにつながる造型的要素の機能とを試み、翻つて東洋的画趣と油画との関係に思を潜めるに至つた時、まだ壮年の齢をも越えぬ年で急死した。(「素材と造型」より 昭和15年=1940)

これほど光太郎が絶賛した画家は、他にはあまりいないように思われます。

それから、評ではなく個人的な感懐ですが、こちらも。

今夜は本当に悲しい。寝耳に水だ。昭和四年十二月二十日、朝の新聞で、岸田劉生の危篤の報道を読み、程経て既に彼が午前零時半に死んだのだといふ事を知つた。つい此間、ブルデルの死を聞いて遺憾やる方無い思をしたが、その「死」がこんなにつけつけと物凄く吾等の身近の天才の上にまで侵入して来ようとはまさか思ひも寄らなかつた。(略)今夜「読売」に頼まれて此一文を書かうとしても、唯徒らに取りとめもなくさまざまの思ひが湧き起るのみだ。(「岸田劉生の死」より 昭和4年=1929)

画像は大正8年(1919)、雑誌『白樺』十周年記念の会で撮影されたもの。後列右端が光太郎、二人置いて劉生です。

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光太郎をしてここまで言わしめた劉生の展覧会、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山に春がきて、ぼくの住んでいた小屋の前で、チーチクチーチクと鳴いた鳥の声が、こうして東京のアトリエにいながらも、聞えてくるような気がする。きせきれい、せぐろ、こま、るり、うそ、やまがら、やまばと、ひばり、それからほおじろだ。

対談「春をつげるバツケ」より 昭和31年(1956) 光太郎74歳

没する三ヶ月前、活字になったものとしては最後の対談です。かなうことなら帰りたかった、花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしを偲んでいます。

8月17日(土)、信州上田市のサントミューゼ上田市立美術館さんに「没後100年村山槐多展」を拝見に行きましたが、その前後のレポートを。

盆明けのUターンラッシュの時期ということで、それを避けるため未明のうちに千葉の自宅兼事務所を出ました。2時間ほど愛車を走らせたところで、休憩兼仮眠。そして早朝のうちに長野県に入りました。

上田に行く前に、思い立って上信越道を小諸で下車。有名な懐古園を目指しました。こちらには、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝となった、髙村豊周の手になる島崎藤村詩碑があります。詩は「小諸なる古城のほとり」(明治38年=1905)です。

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約35年ぶりに拝見。さすがに35年前より苔むしているようで、傍らの標柱的な碑に刻まれた豊周の名も判読しにくくなっていました。

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建立は昭和2年(1927)。豊周が母校・東京美術学校の鋳金科で教壇に立っていた頃の作です。

豊周の回想『自画像』(中央公論美術出版・昭和43年=1968)に拠れば、有島生馬を通じて依頼があり、藤村ファンでもあった豊周、快く引き受けたとのこと。今でこそ珍しくなくなりましたが、ブロンズに蠟型鋳金で鋳造した詩碑というのは、日本初だったということです。有島はせっかくの藤村碑、ありきたりのものにしたくないとの思いから、豊周の鋳金技術に白羽の矢を立てたそうで。

除幕式には有島や、この詩に曲を付けた作曲家の弘田龍太郎、さらに村山槐多の従兄・山本鼎らも出席したそうです。

その後、一般道で上田市へ。

ところで、帰ってきてから、「しまった」と思いました。「小諸」、「豊周」といえば、「疎開」というのを失念しておりまして。豊周の一家、昭和20年(1945)に、現在の長野県中野市に疎開しましたが、中野に落ち着く前の半月ほど、小諸にいたのです。それをすっかり忘れていました。

調べてみましたところ、豊周一家が滞在していたのは「粂屋」という旅館とのこと。何と、健在でした。しかも、江戸時代に脇本陣だった昔の建物をリノベーションしたシャレオツな宿として、実にいい感じに残っています。またあちら方面に行く機会もあろうかと思いますので、その際には見てこようと思いました。

さて、上田。まだサントミューゼさんは開館前の時間でしたので、郊外の塩田平方面に愛車を向けました。こちらには、疎遠になってしまいましたが、父親の実家があります。申し訳ありませんがそちらには寄らず、祖父母・伯父・叔母らの眠る墓に参りました。平成25年(2013)以来、6年ぶりでした。

その後、ほど近い別所温泉へ。

子供の頃からよく入った共同浴場・石湯さん。入湯料たったの150円です。長距離運転の疲れを癒しました。

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池波正太郎の『真田太平記』に何度か登場し、かの真田幸村公がここで「男」になったという設定になっています。

上田電鉄別所線・別所温泉駅。レトロ感あふれるいい感じです。

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静態保存されている車両・モハ5250。

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この丸窓が特徴です。

昭和2年(1927)建造の車両ということですが、この年、光太郎も別所温泉に来ています(宿泊先等は不明)。もしかするとこの車両に乗ったかもしれません。また、昭和2年というと、当方の父はまだ生まれていませんが、祖父母・曾祖父母あたりがもしかすると光太郎と遭遇しているかも知れないな、などと想像をふくらませました(笑)。


その後、塩田平に戻り、父親の実家にほど近い無言館さんへ。


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かつて近くにあって、村山槐多の作品などを展示していた信濃デッサン館さんの姉妹館で、こちらは太平洋戦争で亡くなった戦没画学生の遺作・遺品等が展示されています。

信濃デッサン館さんにはやはり6年前に参りましたが、こちらは約15年ぶりでした。

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遺作が展示されている戦没画学生、多くは東京美術学校西洋画科の出身でした。光太郎も留学前の一時期、彫刻科卒業後に西洋画科に入り直していますので、その意味では光太郎の後輩達です。また、西洋画科以外でも、もろに光太郎の後輩となる彫刻科、さらに豊周の教え子になるであろう鋳金科出身の人々の作品も展示されていました。中には光太郎の書いた翼賛詩文を読んで奮い立った学生や、ことによると出征前に光太郎のアトリエに挨拶に来たなどという学生もいたかも知れません。

画学生というわけでは有りませんでしたが、元埼玉県東松山市の教育長だった故・田口弘氏もそうでした。田口氏はバシー海峡で乗っていた輸送船が撃沈され、九死に一生を得たそうですが、出征前に光太郎に書いて貰った書や署名本などは海の藻屑となったそうです。田口氏は何とか無事に復員されましたが、無言館さんに作品が展示されている人々は、帰って来られなかったわけで……。キャプションを見ると、田口氏と同じようにバシー海峡で船を沈められ、亡くなったという画学生もいました。

東松山と言えば、これらの作品の収集等には、館長の窪島誠一郎氏の他、昨年、東松山でお話を伺った野見山暁治氏が深く関わられています。東京美術学校を繰り上げ卒業で学徒出陣なさった野見山氏の同級生なども含まれているのではないでしょうか。

まだ美術家の卵の時期に戦地に送られ、そのまま帰ってこなかった画学生達。卵ですのでまだまだ技巧的には稚拙だったりするものもあるのですが、そうしたことを超え、訴えかけてくるものがあります。粛然とした思いにさせられました。

この時期だったからでしょうか、意外に多くの来場者がいらしていて、驚きました。中には若い方々も。その方々も熱心に展示をご覧になっていて、まだまだこの国も捨てたものではないと感じました。


その後、市街へ戻り、サントミューゼ上田市立美術館さんへ。昨日のレポートにつながります。

村山槐多展拝観後は、さらに上田に隣接する東御市の健康センターさんで日帰り入浴・仮眠。何とか高速道路の大渋滞も避けながら帰りました。

こうやって呑気に出歩いたりレポートを書いたりしていると、紹介すべき事項がどんどんたまります(笑)。明日以降、また新着情報の紹介に戻ります。

【折々のことば・光太郎】

山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入つているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。
対談「心境を語る」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村での蟄居生活についてです。「悪いこと」=大量の翼賛詩文を書いたこと、です。

昨日は信州上田方面に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

まず、メインの目的である、「没後100年 村山槐多展」。光太郎と交流のあった村山槐多は、大正8年(1919)数え24歳で夭折した鬼才の画家です。今年が没後100年、さらに近年、100点以上の作品が新たに見つかるなどし、また注目を集めています。


会場は上田市のサントミューゼ上田市立美術館さん。

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圧倒されました。

ほぼ生涯を追っての展示構成で、初めは最近見つかった少年時代のパステル画がメイン。その頃暮らしていた京都の風景が中心で、穏健な作風ながら天才の片鱗がまざまざと感じられました。

青年期になるとその才が一気に爆発/炸裂したかのようで、生き急ぎ、死に急いだ強烈な個性が咲かせた狂い咲きのあだ花、という感がありました。槐多の作品自体は以前にも見たことが何度かありましたが、まとめて多数の作品を見たのは初めてで、打ちのめされました。

こちらは図録というわけではないのですが、ときどきある「公式ガイドブック」という位置づけで刊行されている書籍。著者は、本展開催に尽力なさったおかざき世界子ども美術博物館副館長代行・村松和明氏です。

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光太郎にも触れて下さっています。

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ただ、光太郎と槐多の交流がどのようなものだったのか、実はよく分かりません。

槐多の年譜には、大正3年(1914)の事項として、「この頃、高村光太郎の工房に出入りする」とあるのですが、光太郎側の資料としては、詩「村山槐多」(昭和10年=1935)、槐多没後に刊行された槐多詩集『槐多の歌へる』の推薦文、それから岸田劉生の追悼文の中で槐多に少し触れている程度です。今後の課題としておきます。


槐多展を見終わって、昼食を摂ろうとロビーに降りたところ、驚いたことに、渡辺えりさんが。といっても、ご本人でなく等身大パネルでしたが(笑)。


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まったく存じ上げていなかったのですが、同じサントミューゼさん内の大ホールその他を会場に、「日本劇作家大会」というイベントが開催中でした。渡辺さん、一般社団法人日本劇作家協会の会長さんだそうで。

いらしているのならご挨拶せねばと思い(笑)、スタッフの方に訊いたところ、今日はいらっしゃらないとのこと。渡されたチラシを見ると、19日(月)、ご講演でお見えになるそうでした。

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そういえば、槐多展会場でいただいたサントミューゼさんのフリーペーパーにも渡辺さんが載っていて、おやっと思ったのですが、そういうことだったのかと納得しました。

こういうこともあるのですね。えりさんには槐多展、お時間ありましたらご覧下さいとメールしておきました。

明日は周辺でのいろいろをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

指導理念といふことが言はれてゐますが、さういふものは美術家自身、つまり現にそれをやつてゐる人が自分で樹てるべきで、政府から方針を樹てて貰ふといふやうなことは、抑々間違つてゐると思ひます。

対談「東亜新文化と美術の問題」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

戦時中の光太郎、詩や文章では大政翼賛の方向にどっぷりでしたが、美術方面では美術報国会にも入らず(実弟の豊周が事務局長でしたが)、いわゆる戦争画や兵士を題材にした彫刻などには批判的でした。この差異には興味深いものがあります。

紙面にも載ったのかどうか存じませんが、『産経新聞』さんのサイトに、長野県上田市で開催中の「没後100年 村山槐多展」に関する記事が出ました。光太郎に触れて下さっています。 

没後100年 村山槐多展 新発見作含む創作の軌跡 「火だるま」が表現したかったものとは

 100年前、22歳の若さで世を去った詩人画家、村山槐多(かいた)(1896~1919年)。夭折(ようせつ)ゆえに現存作品は多くなく、画業の全貌は謎に包まれていたが、このほど油彩11点を含む140点以上が新たに確認された。長野県の上田市立美術館で開催中の「没後100年 村山槐多展」で公開されており、知られざる創作の軌跡が見えてくる。(黒沢綾子)
 槐多の未公開作品を多数確認したと、おかざき世界こども美術博物館(愛知県岡崎市)が発表したのは今年4月。槐多研究で知られる同館副館長代行の村松和明(やすはる)さんが、長年調査する中で存在が判明したものという。
 村松さんによれば、これまで槐
多の現存する油彩は30点弱とされてきたが、新たに11点が加わった。パステル画に水彩画、そしてデッサンなど小品や習作も含めると、未公開作品は140点を優に超える。
 その大半は少年期に描かれたもので、槐多の母校、旧制京都府立一中の同級生らの家で所蔵されてきたという。岡崎と上田で没後100年の記念展を開くにあたり、ようやく公開に至り、代表作の「尿(いばり)する裸僧」「バラと少女」などとともに並べられている。
                   ◇
 詩人の高村光太郎(1883~1956年)が「火だるま槐多」と表したように、烈火のごとく絵を描き詩をよみ、短い命を燃やし尽くした激しいイメージが槐多にはつきまとう。血のようなガランス(あかね色)の絵の具を塗り込めた「尿する裸僧」の、野性味あふれる僧の姿に、ありし日の画家を重ねる人も多いだろう。しかし初公開の作品群を見ると、それは画家の一側面に過ぎないのでは、と思えてくる。
 槐多は岡崎生まれ。
教師だった父の転勤で高知や京都に移り住み、やがて画家を志し18歳で上京した。
 槐多の画才にいち早く気付き、14歳の彼に油絵具一式を与えたのは、いとこの洋画家、山本鼎(かなえ)(1882~1946年)だ。その頃描いた「雲湧(わ)く山」(明治44年、初公開)は、大胆な構図といい、魅力的な絵肌といい、油彩に取り組み始めた少年の絵とは思えない早熟ぶりを示している。
 地元・京都の神社仏閣や近郊の山、水
辺を写実的に描いたパステル画も数多く展示。龍安寺の石庭をいろんな角度から、細部を含めて描写したスケッチも見応えがある。「槐多は授業中も絶えず手を動かし、絵の虫だったと級友らは生前語っていたそうです」と村松さん。繊細さと天真爛漫(らんまん)さを感じさせる初公開の作品群は、槐多が本格的に画家として突っ走る前の“助走”の部分を伝える。
 上京後、画業の挫折や失恋などを経て二十歳前後になった槐多は「アニマリズム」を標榜(ひょうぼう)。フォービスム(野獣派)など欧州の美術動向を意識しつつ、荒々しい筆致で内なる野生を表現し、充実期を迎えた。が、運命は過酷だ。結核性肺炎を宣告され、絶望のため酒浸りに。しかし最期まで、表現することをやめなかった。最後の詩「いのり」に痛切な願いを綴(つづ)っている。
 〈生きて居れば空が見られ木がみられ/画が描ける/あすもあの写生をつづけられる〉
 「彼が生涯を通じて描きたかったのは、自然への畏敬と、そこに生きる生命の賛歌でした」と村松さんは力説する。絶頂期に描かれた油彩の風景画「房州風景」(大正6年、初公開)は、画家の精神的な到達点を見せてくれる。
                   ◇
 9月1日まで。第1期(~8月12日)
と第2期(8月14日~9月1日)で作品を一部入れ替える。火曜休。一般500円。問い合わせは0268・27・2300。


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当方、盆休み中に行ってこようと思っております。夜中に移動すればそれほど道路も混んでいないと思いますのでそうします。


【折々のことば・光太郎】

悠々たる無一物に、荒涼の美を満喫せん    短句揮毫 戦後

昭和22年(1947)に発表された、自己の生涯をふりかえっての連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」に、「いま悠々たる無一物に/私は荒涼の美を満喫する。」という一節があり、そのアレンジです。後にご紹介しますが、別のバージョンで、漢文風に漢字のみとした揮毫も存在します。

智恵子も、アトリエ兼住居も、過去の彫刻作品も、彫刻の出来る環境も、そして名声も、その全てを失い、文字通り裸一貫での蟄居生活。しかし、そこにも「荒涼の美」も見いだし、さらにそれを満喫しようというわけです。

過日ご紹介した、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰を続けられている智恵子のまち夢くらぶさんの山梨、静岡方面への研修旅行がつつがなく終わったそうで、同行された太平洋美術会の坂本富江さんから、静岡の地元紙『沼津朝日』さんのコピーが届きました。

高村夫妻顕彰団体が一小を訪問 智恵子の絵画作品に登場の木を見学

 詩人で彫刻家の高村光太郎の妻として知られる高村智恵子の足跡をたどって、智恵子の出身地、福島県二本松市の市民団体が17日、一小を訪れた。
 画家として活動していた智恵子は、光太郎と婚約した年の1913年、沼津にあった親友宅に滞在し「樟(くす)」と題する油絵を描いた。これは3点しか現存しない智恵子の作品の一つで、現在は山梨県北杜市の清春白樺美術館に収蔵されている。
 二本松市で智恵子・光太郎夫妻の顕彰活動を行っている団体「智恵子のまち夢くらぶ」は、毎年開催している夫妻の足跡をたどる旅の一環として、今年は智恵子ゆかりの沼津を選んだ。
 会員13人が山梨県で「樟」の実物を鑑賞した後、絵のモデルとなった木を見るため、一小を訪れた。同校校庭には江戸時代初期の沼津藩主大久保忠佐の墓である道喜塚(どうきづか)があり、その隣の大木が絵のモデルとなった。
 夢くらぶの熊谷健一代表はモデルの木を見学した感想として「美術館で見た原画は、図録で見るよりもはるかに良かった。モデルの木は大火でも生き残っただけあって、たくましい生命力を感じる。この木を智恵子が描いた意味合いを感じ取れた」と話す。
 今年の訪問先として「樟」ゆかりの地を提案した菅野ミチ子さんは、夢くらぶの会員になった理由として、「以前、観光客に智恵子のことを訪ねられたことがあったが、答えられませんでした。地元のことなのに勉強不足だと思い、学ぶために参加しました。」と話す。
 智恵子の生涯を研究している画家でエッセイストの坂本富江さん(東京都板橋区在住)の著書が今回の旅のきっかけとなった。『スケッチで訪ねる「智恵子抄」の旅 高村智恵子52年間の足跡』という題で、2015年に発売された増補改訂版では「樟」のモデル探しの旅が新たに付け加えられた。今回の来訪に案内人として付き添った坂本さんは「本がつないだ縁だと思っています。この機会を通して沼津も知ってもらえて嬉しい」と話している。

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「一小」というのは、沼津市立第一小学校さんです。

以前にも書きましたが、坂本さん、記事にあるとおり、現存が確認できている3点しかない智恵子の油絵のうちの1点「樟」に描かれている木が沼津一小さんに現存することをつきとめられました。

智恵子の福島高等女学校時代の親友・上野(旧姓・大熊)ヤスが沼津に転居しており、大正2年(1913)、そちらを訪れて描きました。ヤス自身は沼津で結婚後、夫の転勤で外地に渡ったそうですが、その頃、智恵子のすぐ下の妹で、智恵子と同じ日本女子大学校、さらに東京女子高等師範学校を卒業したセキが、漱石門下の小宮豊隆と不倫の関係となり、小宮の子を沼津のヤスの家で出産。ヤスの母親が親身になって世話をしてくれました。智恵子の沼津訪問もその関係です。その後、セキは渡米、生まれた子は里子に出されました。

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前列右端が智恵子、後列右から2人目がヤスです。

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「樟」の絵。以前は欅(けやき)と思われていました。

上記『沼津朝日』さんに載った写真を拡大すると……。

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たしかにこの木なのでしょう。

今後も枯れることなく、健在でいてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

健康の大切な事を真実に知る事。女学生時代に過度の運動をせぬ事。如何なる境遇にあつても自己の健康を護る事に本気になる事。旧時代の女性が健康を気にする程度の消極的な事でなく、もつと積極的、内面的、叡智的に。

アンケート「新時代の女性に望む資格のいろいろ」より
 大正15年(1926) 光太郎44歳

大正8年(1919)には、智恵子が順天堂病院に入院。これは子宮後屈症の手術のためでした。どうもこの際に、女学生時代の乗馬が原因と診断されたらしく、そのことが念頭に置かれた発言に思われます。

その他にも結婚後、常に健康を害していた智恵子。後屈症の手術直後には湿性肋膜炎(おそらく結核性)で入院していますし、大正11年(1922)には盲腸炎にも罹患しています。

ちなみにまた稿を改めてご紹介しますが、同じ「新時代の女性に望む資格のいろいろ」というアンケートには、智恵子も回答を寄せています。

昨日、NHK Eテレさんで放映された日曜美術館「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」を拝見しました。

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先般、未公開作品100余点が発見され、また脚光を浴び始めてい夭折の天才画家・村山槐多(明治29年=1896~大正8年=1919)。その早すぎる晩年に光太郎と交流がありました。番組サブタイトルの「火だるま槐多」は、光太郎が彼に捧げた詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から採られ、その説明もありました。

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コメンテーターとしてビデオ出演なさり、さらに槐多の詩の朗読も披露された詩人の高橋睦郎氏は……。

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ちょっとカチンときましたが(笑)、まぁ、たしかにそうとも言えますね。

そして槐多絵画の代表作や、新たに見つかった作品などが、彼の詩と共にいろいろ紹介されました。

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知っているようでよく知らなかった、槐多の短い生涯もうまくまとめられており、非常にわかりやすく見応えもありました。

次の日曜の夜、再放送があります。

日曜美術館 「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」

NHK Eテレ 2019年6月30日 20:00~20:45

自由奔放な絵を描き、22歳の若さで夭折した村山槐多。没後100年にあたる今年、展覧会開催を機に新発見の作品も相次いでいる。村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
火だるまのような色、ガランス(暗赤色)こそ槐多の絵の最大の特徴である。『自画像』や『カンナと少女』。そして赤いオーラを放ちながら裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』。今年は槐多が亡くなって丁度(ちょうど)100年。展覧会の開催を機に新発見の作品も相次いでいる。番組では、新たな作品の紹介をまじえながら、村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく

【ゲスト】美術史家…村松和明
【出演】世田谷美術館館長…酒井忠康 詩人…高橋睦郎
【司会】小野正嗣 柴田祐規子


再放送といえば、地上波テレビ東京さんで、今年4月に放映された「開運!なんでも鑑定団」。ゲスト秋川雅史さんが、光雲作の木彫の名品「寿老舞」をお持ちになった回。

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系列のBSテレ東さんで放映があります。

開運!なんでも鑑定団【秋川雅史のお宝がスゴイ&日本のゴッホ(秘)絵画】

BSテレ東 2019年6月27日(木)  19時55分~20時55分

歌手・秋川雅史のお宝に衝撃の鑑定結果!さらに秋川の意外な趣味とは?▽母が70万円で購入した妖しい輝きを放つ大きな水晶球は本物?▽“日本のゴッホ”山下清の貴重絵も!

MC 今田耕司 福澤朗  ゲスト 秋川雅史  アシスタント 片渕茜(テレビ東京アナウンサー)
出張リポーター 松尾伴内(出張鑑定in 茨城県五霞町)  ナレーター 銀河万丈、冨永みーな


それぞれ見逃されている方、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一、肌の凍る様な冬が好き。
二、空気の透きとほつた山が好き。

アンケート「どちらが好きか」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

一は「夏と冬と」、二は「山と海と」という設問に対しての回答です。生涯冬を愛し、晩年には岩手の山中に独居自炊の生活を送った光太郎らしい回答です。

またテレビ放映情報です。

光太郎と交流のあった夭折の天才画家・村山槐多(明治29年=1896~大正8年=1919)。先般、その未公開作品100余点が発見され、また脚光を浴び始めています。それらを展示している愛知県岡崎市のおかざき世界子ども美術博物館さんの「没後100年 岡崎が生んだ天才 村山槐多展」でのロケを中心にしています。

日曜美術館 「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」

NHK Eテレ 2019年6月23日(日) 9:00~9:45  再放送 2019年6月30日 20:00~20:45

自由奔放な絵を描き、22歳の若さで夭折した村山槐多。没後100年にあたる今年、展覧会開催を機に新発見の作品も相次いでいる。村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく
火だるまのような色、ガランス(暗赤色)こそ槐多の絵の最大の特徴である。『自画像』や『カンナと少女』。そして赤いオーラを放ちながら裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』。今年は槐多が亡くなって丁度(ちょうど)100年。展覧会の開催を機に新発見の作品も相次いでいる。番組では、新たな作品の紹介をまじえながら、村山槐多の絵を詩の朗読とともに見ていく

【ゲスト】美術史家…村松和明
【出演】世田谷美術館館長…酒井忠康 詩人…高橋睦郎
【司会】小野正嗣 柴田祐規子

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サブタイトルの「火だるま槐多」は、光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から採って下さいました。

    村山槐多

 槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
 又がたがた下駄をぬぐと、
 今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
 風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
 黒チョオクの「令嬢と乞食」。

 いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
 五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
 強くて悲しい火だるま槐多
 無限に渇したインポテンツ。

 「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
 「居るよ。」
 「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

 眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
 自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


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以前にも書きましたが、槐多は詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版され、光太郎も推薦文を寄せています。番組紹介で「詩の朗読とともに」とあるのは、おそらく槐多の詩でしょうが、光太郎の「村山槐多」もぜひ取り上げていただきたいものです。

詩「村山槐多」は、槐多の死後17年も経ってからの作です。同様に、翌年には歿後26年経った親友の碌山荻原守衛を偲ぶ「荻原守衛」という詩も書いています。双方、根柢には先に逝ってしまった敬愛すべき親しい芸術家への哀悼の意がこめられ、似たような読後感を受けます。なぜこの時期に、という疑問が残りますが。

ちなみに、来月末から、長野県上田市でも槐多の作品展が開催されます。残念ながら休館となってしまった信濃デッサン館さん、それからこちらは現在も健在の戦没画学生慰霊美術館・無言館さん館長の窪島誠一郎氏が槐多に惚れ込み、かつては信濃デッサン館さんで描いた作品を多数展示されるなどしていた縁ですね。関連行事として窪島氏とおかざき世界子ども美術博物館副館長代行・村松和明氏の対談も予定されています。


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さらにちなみに、美術図書出版の老舗・求龍堂さんから、『真実の眼ーガランスの夢 村山塊多全作品集』というカタログレゾンネ的な書籍も出版されました。編著は村松氏です。

他紙は存じませんが、『朝日新聞』さんでは広告も出ました。ただ、求龍堂さん自体のサイトにはまだ情報が出ていないようです。

当方、上田の展覧会には参ずるつもりです。関連する情報等出ましたら、またご紹介します。

さて、「日曜美術館」さん、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンの彫刻や素画は近代が有し得た天才性の一分水嶺である。一均衡である。此巨大な芸術家の暗示する未だ目覚めざる美が東洋に在る事を信ずる私達は、先づ此古代的近代人の閲歴から生れた言葉を深く味ひたいと思ふ。

雑纂「訳書広告「続ロダンの言葉」」全文 大正9年(1920) 光太郎38歳

この年刊行された光太郎訳『続ロダンの言葉』の広告から。

いったいに光太郎は、自己の芸術を推し進めるだけでなく、先人(ロダンやミケランジェロその他)や同時代の芸術家(槐多や守衛など)にも学び、いいものはいいと評価する姿勢を崩しませんでした。

論語に曰くの「学而不思則罔 思而不学則殆」ですね。先人などに学ぶだけで自分なりの考えを持たなければ真の理解にはたどり着かず、自分だけの考えに頼って広く他から学ぶことをおろそかにすれば、独断に陥って危険だ、といったところでしょうか。光太郎はこのあたりのバランスが絶妙だったように思われます。

直接、光太郎智恵子には関わりませんが……。

まず、昨日朝のNHKさんの「ニュース おはよう日本」。愛犬の散歩を終え、リビングで新聞のテレビ欄に目を落とすと……。

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「上皇ご夫妻・約60年前の秘蔵フィルム」。「これは!」と思い、急いでテレビをつけましたが、時既に遅く、天気予報が始まったところでした。なぜ「これは!」と思ったかというと、4月に信州安曇野の碌山美術館さんにお邪魔した際、そういうお話を伺っていたからです。

その後、ネットで調べましたところ、やはり碌山美術館さんがらみでした。

上皇ご夫妻・約60年前の秘蔵フィルム

4月に退位された上皇さまと上皇后さま。
約60年前の姿を修めたとされる16ミリフィルムが長野県安曇野市・碌山美術館に残されていた。
美術館には日本近代彫刻の父・荻原碌山の作品などが展示されている。
碌山美術館・濱田卓二は「上皇ご夫妻が美術館にご来館されたことがあり、そのときの記録フィルムと伝わっている」と話す。
昭和36年3月、穂高町報には当時皇太子ご夫妻だったお二人が長野県内での視察の途中に美術館に立ち寄られたという記録が残っている。
民間人がビデオカメラを持っていること自体が珍しかった時代、地元の中学校教師が撮影したものを寄贈した。
しかし美術館には再生機がなく、中身が確かめられたことはなかった。
専門業者に再生を依頼したところ、3月の雪の中の上皇ご夫妻の様子が1分40秒間うつされていた。
お二人はこの訪問の2年前にご結婚し、翌年には長男になる天皇陛下がお生まれになっていた。
成城大学非常勤講師・瀬畑源は「ご夫妻で全国に行きはじめる初期の時代の映像。美智子妃はまだ地方視察に行くことがほとんどなかったと思う。国民との関係をどう作るのか、自分たちがどう理解しないといけないのかということを実際に実地で学んでいったという時期」と話す。
当時美術館でご夫妻を迎えた彫刻家・荻原碌山の親族・荻原義重は「わずか数メートル前で皇太子ご夫妻をお迎えできることは昔はなかった。皇室と一般の人たちの垣根が取り払われた感じがした」という。



民間人がビデオカメラを持っていること自体が珍しかった時代」という部分がおかしいのですが(ビデオカメラという物自体おそらく存在しませんで、当時は16ミリカメラです)、現今の若い人々にはそのあたりの区別が付かないのでしょう。

ご成婚が昭和34年(1959)、それからほどなく碌山美術館さんを訪れられたそうで、まだ個人美術館というものが珍しかった時代、おそらくお二人での最初の個人美術館ご訪問だったのでは、というお話でした。現在では碌山荻原守衛の作品以外に、親友だった光太郎の作品も複数展示して下さっている同館ですが、当時はまだ光太郎作品の展示はなかったように思われます。

その後のご訪問はないということで、館の方では、また改めてゆっくりいらしていただきたいというようなお話をされていました。実現してほしいものです。


テレビ系の話題を出しましたので、ついでというと何ですが、光太郎智恵子ゆかりの地や光太郎周辺人物に関わる近々放映の番組をご紹介します。

まず、大正元年(1912)、結婚前の光太郎智恵子が愛を確かめ合った、千葉銚子犬吠埼。

ブラタモリ#136 「銚子~銚子はなぜ日本一の漁港になった?~」

NHK総合 2019年6月8日(土) 19:30~20:15

水揚げ量8年連続日本一!千葉県・銚子漁港に全国の漁船が集まる秘密をタモリさんが解き明かす!▽“トンガリ”地形が生んだ奇跡の漁場▽しょうゆマネーが漁港を生んだ!?
「ブラタモリ#136」で訪れたのは千葉県・銚子市▽銚子はむかし島だった?犬吠埼で1億2000万年前の地層を手がかりに、太平洋に突き出したトンガリ地形の秘密を探る▽坂道の上に広がる台地で生まれた高級品とは?▽銚子電鉄・緑のトンネルに「鉄道大好き」タモリさんも大興奮!▽江戸時代の銚子にばく大な利益をもたらした「しょうゆ」にかくされた秘密とは!?▽マイナス35度!巨大冷凍工場が日本一の銚子漁港を支えた!

出演 タモリ 林田理沙  語り 草彅剛

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この番組では、一昨年、「#81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~」が放映され 、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を2秒間(笑)映して下さいました。ちなみに先週の放送は、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市でした。


続いて、光太郎の姉貴分・与謝野晶子がらみ。

百年名家 「金沢八景に残る明治の薫り~旧伊藤博文金沢別邸と旅館 喜多屋~」

BS朝日 2019年6月9日(日) 12時00分~12時55分

今回訪ねるのは、景勝地・金沢八景。すっかりと様変わりしてしまった町並みの中、与謝野晶子が愛した料亭旅館と伊藤博文が建てた海浜別荘には、明治の薫りが残っていた。

出演 八嶋智人、牧瀬里穂   案内人 水沼淑子(関東学院大学教授)


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この番組では、平成24年(2012)に、東京千駄木の光太郎実家に隣接する旧安田楠雄邸が取り上げられたことがあります。


さらに、NHK Eテレさんの「日曜美術館」。連翹忌にも何度かご参加下さった、神奈川県立近代美術館の水沢勉館長がゲスト出演。

日曜美術館 「エロスと死の香り~近代ウィーンの芸術 光と影~」

NHK Eテレ 2019年6月9日(日)  8:00~8:45
      再放送 6月16日(日) 20:00~20:45

120年前のウィーンで人間のエロスを描き出したクリムト。一方で老いや死のモチーフにも臨んでいた。クリムトに影響を受けたシーレも含めウィーンの芸術の光と影を描く。
19世紀半ばからの都市改造で町並みが生まれ変わったウィーン。その公共建築物の絵画の仕事を請け負ったのがグスタフ・クリムト。当初は伝統的な絵画を描いていたが、飽き足らずウィーン分離派を結成。人間のエロスを奔放に描き、批判も受けた。更に建築、工芸などあらゆるジャンルを融合させる総合芸術を目指した。エゴン・シーレは、若くして父親を亡くし、死の恐怖を感じながら自我を見つめるように自画像を描き続けた。

ゲスト 神奈川県立近代美術館館長…水沢勉 藤原紀香  司会 小野正嗣 柴田祐規子


現在、東京都美術館さんで開催中の「クリムト展 ウイーンと日本1900」にからめた内容です。ウィーン分離派を代表するグスタフ・クリムトとエゴン・シーレにスポットが当たります。水沢館長、広い守備範囲の中でもウィーン分離派には一家言お持ちで、関連する御著書も多数。そして、クリムトやシーレと同じウィーン分離派の作家であるヨーゼフ・エンゲルハルトが明治37年(1904)のセントルイス万博のために制作した寄木細工「Merlinsage」が、明治44年(1911)に、智恵子が描いた雑誌『青鞜』の、有名な表紙絵の元ネタであることをつきとめられたりもなさっています。そのあたりのお話がちょっとでも出るといいのですが……。

それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

こつちがのん気に構えていれば、向うものん気で、明けつぱなしで話が出来る。まつたく花巻はいい温泉である。

談話筆記「花巻温泉」より 昭和31年(1956) 光太郎74歳

光太郎最後の談話筆記です。かつて足かけ8年を過ごした花巻周辺の温泉郷中の、大澤温泉、鉛温泉、花巻温泉、台温泉などについて、実地に訪れた経験を元に語っています。そして最後にそれらを総称して、上記の発言。他の有名な温泉地と異なり、こすっからい対応をする宿などどこにもなかったと褒めています。

明治末に智恵子が西洋画を学んでいた太平洋画会の後身・太平洋美術会研究所さんに所属されている坂本富江さんから情報をいただきました。坂本さんの故郷・山梨県韮崎市にある韮崎大村美術館さんがらみです。

まず企画展。3月から既に始まっているそうで。

企画展 「花と実り」

期  日 : 2019年3月9日(土)~5月26日(日)
会  場 : 韮崎大村美術館 山梨県韮崎市神山町鍋山1830-1
時  間 : 10:00-18:00
料  金 : 一般・大学生 500(420)円  小中高生 200(160)円 
                      ( )内は20名以上の団体料金
休  館  日 : 水曜日

冬の厳しい寒さがやわらいでくると、草木が開花し、目に見える風景が色鮮やかに変化していきます。そして穏やかな陽気の中、色とりどりに咲いた花たちは、やがて実りの時を迎え、再び花を咲かせるための種子を育てていきます。
このように春夏秋冬を通して変化していく自然の様を、古くから画家たちはそれぞれの視点で感じ取り、多くの芸術作品に残してきました。
本展では「花」と「実」という2つのモチーフに焦点をあて、四季折々に見られる自然の姿をご紹介します。はじまりの春ともいえるこの季節に、一つ一つの作品に潜む季節感を味わうと共に、めぐる生命の姿を感じていただければ幸いです。

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太平洋画会で智恵子と共に学んでいた亀高文子の作品(上記チラシ1枚目画像の左上)が展示されているそうです。

日本画家の渡辺豊洲の娘である亀高文子は、智恵子と同年の明治19年(1886)、横浜の生まれ。女子美術学校を経て太平洋画会に入り、智恵子と出会います。明治42年(1909)に、やはりここで学んでいた宮崎与平と結婚しましたが、与平は同45年(1912)に早世、のち大正7年(1918)に東洋汽船の船長・亀高五市と再婚し、亀高姓となりました。

ちなみに智恵子は与平に淡い恋心を抱いていたという証言もあり、逆に文子は光太郎を慕っていたという説もあります。また、歌人の会津八一が文子にプロポーズしたものの、断られたというエピソードも。

文子は女性洋画家の草分け的存在の一人ですが、現在ではその名が忘れかけられています。その作品が展示されている美術館さんもあまりないようで、貴重な機会かと存じます。

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韮崎大村美術館さんは、平成27年(2015)にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智博士のコレクションを中心にしていますが、大村博士の審美眼にかなったということなのでしょう。

同展では、他に光太郎と交流が深かった梅原龍三郎、安井曾太郎、さらに坂本さんの作品も展示されているそうです。大村博士、坂本さんと同郷、さらに年度は違いますが、同じ韮崎高校さんのご出身で、以前からお知り合いだとのことで。その関係で当方も博士に一度お目にかかりました

また、企画展示「花と実り」以外の常設展示では、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されているそうです。新しく鋳造された同型のものは全国各地の美術館さん、文学館さん等で展示されていますが、こちらのものは岸田劉生旧蔵のものらしく、そうなると数少ない大正期の鋳造ということになります。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

近ごろの道徳はだまし合いで、だました方が勝で、だまされた方が負け、これでは正しいことが否定されるようで淋しい。官吏なぞは善悪の判断さえ忘れたようですね。露見すれば悪くて露見しなければ悪くないと思っているらしい。
談話筆記「新春雑談」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

さらに最近は、官吏のみならず、議員や官邸まで、露見しても居直れば済むという風潮が蔓延していますね。道義的に明らかにおかしい場合でも、「法的に問題はない」などと。さすがに「復興以上に大事なのは高橋さんだ」「首相や副総理が言えないので私が忖度(そんたく)しました」はアウトでしたが(笑)。

光太郎と交流のあった造形作家について、2件。

まず、画家の村山槐多。4月24日(水)、『中日新聞』さんの記事から。

村山槐多、未公開作128点初公開 岡崎生まれの画家

015 愛知県岡崎市生まれの詩人画家、村山槐多(かいた)(一八九六~一九一九年)の油彩画やパステル画などの未公開作品計百二十八点が京都府内の恩師や同級生宅などから新たに見つかった。おかざき世界子ども美術博物館(岡崎市)で六月一日から開かれる槐多没後百年を記念する展覧会で初公開される。
 槐多は日本美術院賞を受けるなど大正時代に活躍。画家横山大観に実力を認められ、死後には詩人高村光太郎が「強くて悲しい火だるま槐多」と詩に残して哀悼した。ただ槐多は二十二歳の若さで早世し、画家としての活動期間はわずか五年。このため作品は希少な上、これまでに約二百五十点しか確認されていなかった。
 今回新たに見つかったのは、槐多が絵に取り組み始めた小中学生時代の初期作品をはじめ最盛期の二十代の作品で、風景画など油彩十点とパステルや水彩など百十八点。同館の学芸員村松和明(やすはる)さん(56)によると、初期作品はこれまでほとんど見つかっておらず、特に油彩作品は槐多が十八歳で上京した後の二十七点しか確認されていなかった。
 油彩で注目されるのは、槐多がいとこの画家山本鼎(かなえ)(一八八二~一九四六年)から油彩道具一式をもらって絵を真剣に描き始めたとされる十四歳ごろの作品。連なる山々を濃い緑色で描き、湧き立つ白い雲がかぶさる様子を表現している。
 代表作の水彩「カンナと少女」に登場する花のカンナを、単独で描いた油彩「カンナ」も見つかった。両作品とも同時期に描かれており、村松さんは「槐多が水彩から油彩に活動の中心を移していく転換点ではないか」と推測する。
 パステルの全作品は上京前に描かれており、寺の山門やかやぶき屋根の家などの建造物、森や川などの自然を題材にした作品が多かった。今回発見された晩年の油彩作品も、千葉県房総半島の大自然を繊細なタッチで表現していた。これらの作品は、代表作の油彩画「尿(いばり)する裸僧」のように荒々しい作風とは全く異なり「今回公表する絵を見比べれば、槐多へのイメージは一変する」と力を込める。
 作品の多くは旧制京都府立第一中学校(現在の洛北高校)に通っていた槐多の同級生や先生らの家から見つかった。村松さんは槐多研究を三十年以上続け、持ち主に作品公開の交渉を進めていた。今回は槐多の没後百年にちなんで特別に貸し出しを受けた。
 (鎌田旭昇)
 <村山槐多(むらやま・かいた)> 4歳で京都府に移り住む。府立第一中学校に在学中、いとこの画家山本鼎に画才を見いだされた。卒業後、画家を目指して上京を決意。途中、長野県にある鼎の父親宅に2カ月間滞在し、田園風景を描く。上京後は感情を表に出す激しい筆致と色使いの作品を多く残した。小説や詩も書き続けながら、酒浸りの退廃的な生活を重ね、結核性肺炎で1919年に急逝した。翌年、詩集「槐多の歌へる」が刊行された。



村山槐多は、光太郎より13歳年下の明治29年(1896)生まれ。宮沢賢治と同年です。大正8年(1919)に、数え24歳で結核のため夭折。その晩年、光太郎と交流があり、光太郎はそのままずばり「村山槐多」(昭和10年=1935)という詩も書いています。

  村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。000

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

夭折の画家だけに遺された作品数は少なく、それが今回100点超の未発表作品が出て来たというのは驚きでした。


続いて、彫刻家の柳原義達。一昨日の『岩手日日』さんから。

彫刻に満ちる命 岩手県立美術館 柳原義達 特別展示始まる

016 裸婦、鴉、鳩像…県立美術館の特別展示「柳原義達―三重県立美術館所蔵作品による」が26日、盛岡市本宮の同館で始まった。裸婦像や鴉(からす)像、鳩(はと)像で知られる柳原義達(1910~2004年)は、本県出身の作家舟越保武らと共に戦後日本の具象彫刻界を牽引(けんいん)した彫刻家の一人。素朴で生命力あふれる柳原作品の魅力を紹介している。
 柳原は神戸市出身で、東京美術学校(現東京芸術大)彫刻科で学び、在学中には高村光太郎の影響を受けた。戦後は仏現代彫刻に魅せられ、彫刻を一から学び直すため43歳で渡仏。4年余りにわたって研鑚(けんさん)を積み、帰国した後はアカデミズムから離れ独自の彫刻世界を確立した。
 裸婦像のうち、北海道釧路市の幣舞(ぬさまい)橋に設置されている橋上彫刻「道東の四季の像・秋」は、舟越、佐藤忠良、本郷新と共に手掛けた作品。舟越の春の像は同館玄関ロータリーの前庭に建つ。舟越とは2歳年上の先輩で東京美術学校彫刻科、国画会、新制作派協会と同じ道をたどり、切磋琢磨(せっさたくま)し合った仲だという。
 作品の中でもよく知られているのが、鴉や鳩を主題とした「道標(どうひょう)」シリーズ。動物愛護協会からの制作依頼を機に鳥に関心を抱き、自宅でも飼育するようになり、鳩や鴉の像を制作した。
 また彫刻家としての空間認識が分かる素描作品や、陸前高田市博物館近くの屋外に設置され東日本大震災津波で損傷したものの応急処置が施されて公開されているブロンズ像「岩頭の女(ひと)」なども並ぶ。
 同館学芸普及課長の吉田尊子さんは「柳原は舟越と関連のある作家だが、舟越とは違う個性がある。初期から晩年までの作品を楽しんでいただけるので足を運んでほしい」と話す。
 特別展示は10月20日まで。関連イベントとして5月25日には三重県立美術館顧問の毛利伊知郎氏による記念講演「柳原義達、舟越保武と戦後日本彫刻」もある。
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柳原義達は明治43年(1910)生まれの彫刻家。東京美術学校彫刻科を出ていますので、光太郎の後輩です。その際、朝倉文夫に師事していますが、直接指導を仰いだわけではない光太郎に影響されたと語っています。記事にも出てくる舟越保武と親しく、舟越は光太郎と直接関わっていました。

柳原は、光太郎歿後の昭和33年(1958)から、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』の印税を光太郎の業績を記念する適当な事業に充てたいという、光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の希望で10年間限定で実施された「高村光太郎賞」の、栄えある第1回受賞者となっています。ちなみに舟越は昭和37年(1962)、第5回の受賞です。

上記に画像を載せた「道東の四季の像」は、「四季の乙女の像」とも称され、光太郎のDNAを受け継ぐ4人の彫刻家の競演となっています。

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左から、「春」が舟越、「夏」は佐藤忠良、「秋」を柳原、そして「冬」で本郷新。それぞれ高村光太郎賞の受賞者だったり、審査員だったりします。


さて、村山、柳原、それぞれの展示についての詳細は割愛しますが、お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此の季節による植物生活の規則正しさは恐ろしいほどで殆と一日を争ひ、一日を争ひ、その又一刻を争ふ。山に棲んでみてはじめて私は一年三百六十五日の日々の意味をはつきり知つた。

散文「季節のきびしさ」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

老年に入ってから、このように大きく人生観の転換を強いられることもあるわけで、それは光太郎にとって大きな財産ともなったと思われます。

光太郎関連の書籍を何点も出版して下さっている文治堂書店さんが出している、PR誌、文芸同人誌的な『トンボ』。以前も同名のものが出されていましたが、平成28年(2016)から「第二次」ということで、年2回発行されています。

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  第二次創刊号(2016/1)     第二号(2016/7)    第三号(2017/1)     


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当会顧問、北川太一先生の玉稿も載り、当方も第四号から「連翹忌通信」という連載を持たせていただいております。

その各号の表紙絵、それから挿画を描かれている、成川雄一氏の個展が、昨日、始まりました。 

成川雄一近作展

期   日  : 平成30年11月8日(木)~13日(火)
場   所  : 画廊ジュライ 千葉市中央区中央4-5-1 きぼーる2F
時   間  : 11:00~18:00 (最終日 ~17:00)

料   金  : 無料

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文治堂さんから案内を頂き、同じ千葉県内ですし、拙稿のページにも見事な挿画を描いて下さって、拙稿の拙さをカバーして下さっている方ですので、早速、馳せ参じて参りました。

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ご本人がいらしていました。初めてお会いしましたが、画風の通りの温厚そうな方でした。拙稿のページに見事な挿画を描いて下さって、拙稿の拙さをカバーして下さっている件に、厚く御礼を申し上げておきました。

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『トンボ』も並んでいました。

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許可を得て、展示作品を撮らせていただきました。

千葉県といえば、九十九里浜。昭和9年(1934)、智恵子が療養した地でもあります。

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さらに、案内ハガキにも使われた鳥の画の連作。

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桜を描いた水彩画なども。

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成川氏、昭和12年(1937)のお生まれだそうで、御年81歳になられます。失礼ながら、そうは思えない若々しい画風――特に色遣い――に感心させられました。まだまだお元気でご活躍の程、祈念いたします。

というわけで、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

この象徴の森にわたくしが理解よりもさきに先づ感受したものは、人生の深みに激動するものの微妙な寂かさである。それは叙説を絶つ。

散文「田中信造詩集「古き幻想の詩」序」より
 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「寂かさ」は「しずかさ」。

同じ文章に依れば、田中信造は山形県米沢出身。光太郎智恵子と遠い姻族だそうで、そうした縁から智恵子遺作紙絵を詩集の装幀に使用しています。

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昨日から、智恵子の故郷・福島県二本松に来ております。「ほんとの空」の広がる安達太良山の中腹にある岳温泉♨さんに泊まり、宿屋でこれを書いています。
昨日は、智恵子生家に近いラポートあだちさんで、智恵子追悼忌「第24 回レモン忌」が開催されました。同地の「智恵子の里レモン会」さんの主催です。

第一部が10時開会。

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智恵子肖像画に献花・献果。

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参加者全員で光太郎詩「亡き人に」の朗読。

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レモン会渡辺会長のご挨拶。このあと来賓祝辞やら集合写真撮影やらで第一部終了。

第二部は、智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会の坂本富江さんによる記念講演。

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パワーポイントの操作は当方でした。

主に智恵子が太平洋画会で学んでいたころの話で、松井昇や中村不折などとの関わりにも触れられました。

第三部は昼食を兼ねての懇親会。

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連翹忌スタイルで、色々な方のスピーチが入りました。

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左から、岩手花巻の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)のある太田地区振興会・佐藤定会長。平成の初めに智恵子生家の修復工事を担当された八代勝也氏。テルミン奏者の大西ようこさん。

来年の再会を約して散会となりました。

このあと、当方は大西さんと一緒に智恵子生家に。

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こちらでは、坂本さんの個展が開催されています。
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智恵子にまつわる油絵、ご著書『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』原画、智恵子の生涯を紹介する紙芝居などなど。

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多くの方々で賑わっていました。

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説明なさる坂本さん(帽子の方)。

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大西さんも感心しきり。

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このあと、神奈川のご自宅へ帰られる大西さんを郡山までお送りし、当方は岳温泉へ。
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今日は二本松の市民交流センターで開催される「智恵子検定」会場に顔を出したら、山形まで足を伸ばします。

長くなりました(スマホでの入力は疲れます(笑))、この辺で。

神奈川から企画展情報です。 

開館30年記念展 中川一政美術館の軌跡

期 日  : 平成30年9月22日(土)~12月23日(日)
場 所  : 真鶴町立中川一政美術館 神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1178-1

時 間  : 9:00~16:30
料 金  : 一般800(700)円 高校生以下 450(350)円 ( )内20名以上の団体 
休館日  : 毎週水曜日

 平成元(1989)年3月に開館した真鶴町立中川一政美術館は、平成30(2018)年度に開館30年を迎えます。開館以来中川一政画伯とご遺族の方々から寄贈を受けた作品の展示や、画伯と交友のあった芸術家とのコラボレーション企画展を通して中川一政の芸術世界について深く掘り下げてきました。
 この度は開館30年記念展覧会として、「開館30年記念展 中川一政美術館の軌跡」を開催いたします。       
 本展は、開館30年を区切りに、中川一政の画家としての原点に立ち返るため、一政の自作と画家の創作活動と人生に多大な刺激と影響を与えた周辺の作家たちの作品を展観するとともに、開館当時の展示の再現を試み、中川一政の画業と美術館30年の軌跡を辿ることを目的としています。また、この展覧会を通じて、「生命いのちの画家」中川一政の全体像について新たな視座を見出だしていきます。

主な出品作家
 中川一政/石井鶴三/梅原龍三郎/岸田劉生/木村荘八/小杉放菴/高村光太郎/椿貞雄/長與善郎/武者小路実篤/萬鉄五郎/山本鼎/ジョルジュ・ルオー/ポール・セザンヌ/フィンセント・ヴァン・ゴッホ 他(順不同)

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中川一政は、光太郎より10歳000年少の画家です。大正10年(1921)、光太郎が翻訳したエリザベット・ゴッホ(フィンセント・ヴァン・ゴッホの妹)著『回想のゴツホ』出版の際に写真を提供するなど、光太郎と交流がありました。

今回の企画展では、光太郎のブロンズ「老人の首」(大正14年=1925)が展示されます。こちらは駒込林町の光太郎アトリエに造花を売りに来る元旗本の老人をモデルにしたもので、同型のものは、上野の東京国立博物館さんに、やはり光太郎と交流のあった思想家・江渡狄嶺の妻ミキからの寄贈品として、さらに信州安曇野碌山美術館さんには新しい鋳造のものが収蔵されています。

中川一政美術館さんのものは、中川自身の旧蔵品だそうで、当方、その存在を存じませんでした。光太郎生前に光太郎自身から購入したか贈られたかしたものなのか、光太郎歿後に入手したものなのか、そこまでは判然としません。

他に、中川自身をはじめ、やはり光太郎と交流のあった作家の作品がたくさん並びます。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

どんな自明の事のやうに見える事柄をも、もう一度自分の頭でよく考へ直してみる。どんな思考の単位のやうに見える事柄をも、もう一度分子に分けてよく観察してみる。どんな無縁のやうに見える事柄同志をも、もう一度その相関関係の有無をよくたづねてみる。さういふことの習慣が人にパンセすることを可能にさせる。

散文「ヴァレリイに就いて」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

光太郎の考える「賢者」というものの本質が、端的に表されています。

「パンセ」は仏語のpense(考える)の受動態pensée。パスカルの著書の題名としても用いられました。

まずは『毎日新聞』さん千葉版の記事から。

成田・二人でひとつの展覧会 /千葉

 17~22日、上町500、なごみの米屋總本店2階、成田生涯学習市民ギャラリー。
 成田市の絵手紙講師、大泉さと子さんと、同市で一閑張りのバッグなどを制作する佐藤信子さんによる2人展。
 大泉さんは宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」をダルマの絵とともに書いた作品や、三里塚記念公園にある高村光太郎の文学碑「春駒」の拓本、墨で書いた自身の「春駒」のほか、丸い形のはがきなど遊び心あふれる約100点を並べる。大泉さんは「絵手紙は相手を思って描き、心を伝えることができる」と話す。
 佐藤さんは福島第1原発事故によって、福島県南相馬市小高区から成田市に移り住んで6年になる。事故前は籠やざるに和紙を張り、その上から柿渋を何度も塗り重ねて作る一閑張りと絵手紙制作を南相馬で教えていた。今回はバッグや籠、ざるなど新作約100点を展示する。
 2012年に佐藤さんの個展で知り合い、交流が続いている2人は「絵手紙と一閑張りのコラボレーションは初の試み。ぬくもりを感じる展覧会にしたい。多くの人に見てほしい」と来場を呼びかけている。
 ギャラリー(0476・22・2266)は10~16時(最終日15時まで)。【渡辺洋子】

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というわけで、隣町ですので早速行って参りました。

会場は成田駅から成田山新勝寺へと向かう参道沿いです。車では時々通る道ですが、久しぶりに歩きました。

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なかなかレトロで良い感じの通りです。外国の方もちらほら。

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こちらが米屋さん。地域では羊羹があまりにも有名ですが、全国区なのでしょうか。こちらの2階が生涯学習市民ギャラリーとなっています。これは存じませんでした。最近流行のメセナ(企業の社会貢献)でしょう。

開場前に着いてしまい、店裏の喫煙コーナーで一服。こちらのレトロな洋館は「成田羊羹資料館」。やはり米屋さんの施設です。洒落が効いています(笑)。

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10時になりましたので、いざ、会場へ。

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成田の三里塚ご在住の大泉さと子さんという方が、地元の三里塚記念公園に建つ詩碑に刻まれている光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)を書いた作品などが展示されています。

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温かみのある作品ですね。

三里塚記念公園は、元々、宮内庁の御料牧場があったところでした。その近くに移り住んだ親友の作家・水野葉舟を訪ね、光太郎も何度か足を運んでいます。最近はやんごとなき方々用の防空壕も公開されています。

詩碑の拓本も展示されていました。

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大泉さん、絵手紙講師ということで、昨年の6月号から「高村光太郎のことば」を連載して下さっている『月刊絵手紙』さん主宰の小池邦夫氏の弟子筋に当たられるそうです。小池氏からの絵手紙も展示されていました。

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となると、『月刊絵手紙』さんで紹介があるかも知れないなと思いました。今月号がそろそろ届く頃です。

それから、光太郎と縁の深い宮澤賢治の「雨ニモマケズ」。良い感じです。

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「二人でひとつの展覧会」ということで、もうお一方は佐藤信子さん。「一閑張(いっかんばり)」の作品を展示されていました。竹や木で作った骨組みに和紙を貼り、柿渋で固めるという伝統工芸です。

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こちらも味のあるものでした。

上記『毎日新聞』さんの記事によれば、佐藤さんは震災後、福島県南相馬市小高区から移り住まれたとのこと。こちらにも光太郎詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)が刻まれた碑があり、不思議な縁を感じました。


会期は22日(土)まで。成田山新勝寺に参拝がてら、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

予期して居る通りに書かれたものは、僕等に取つては充(つま)らない。僕等の考へて居るのは、自然が自分の胸を打つて来た時に直ちにパレツトなり泥なりを取つて、其の刹那の感興を製作の上に映す。其の結果が何うなるか、それは分らない。

談話筆記「純一な芸術が欲しい」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

造形芸術にしても、文学にしてもそうだと言います。あらかじめ綿密な計算を施した上での制作、それはそれでいいのでしょうが、やはり興の赴くまま、持てる力を展開させていくという制作手法を光太郎は良しとしていたようです。確かに小説などで、いかにも、という伏線の張り方を眼にすると、興ざめの感がぬぐえないことがよくありますね。

紙面にも載ったのかどうか不明なのですが、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんのサイトに、昨日アップされた記事から。長野県上田市でのイベント情報です。

芸術の自由さ触れて 上田で二つの催し企画

 上田市を中心に詩の創作活動な003どに取り組み、同人詩誌「樹氷」を発行する「『樹氷』の会」が、市民が広く芸術に触れる機会にしてもらおうと二つの催しを企画している。20日は同市天神のサントミューゼで、戦没画学生慰霊美術館「無言館」(上田市古安曽)館主の窪島誠一郎さんの講演会を開催。8月5日には集まった参加者と共にマイクロバスで同館を訪れ、絵画を鑑賞する。同会はそれぞれ参加者を募っている。

 同会代表の小林光子さん(75)=緑が丘=が、夭折(ようせつ)の画家・村山槐多(かいた)(1896〜1919年)についてのエッセーを、別の同人詩誌に寄稿。執筆の際に目にした槐多の短歌に感銘を受け、槐多の作品を多く所蔵、展示してきた同市の「信濃デッサン館」(3月閉館)の館主でもある窪島さんに依頼し、催しを企画した。

 20日の講演会は2部構成で、前段は槐多の絵画、短歌などの芸術作品や、詩人・彫刻家の高村光太郎や洋画家・版画家山本鼎(かなえ)との関係について説明する。後段は座談会形式で、槐多や信濃デッサン館の今後について参加者と語り合う場にする。

 8月5日の絵画鑑賞は、無言館に展示されている戦没画学生の作品を見学し、学生たちの生涯について触れながら、平和と芸術について考える機会にしたいという。

 催しはともに市のわがまち魅力アップ応援事業を活用している。小林さんは「信濃デッサン館は上田市だけでなく、長野県の大事な財産」と存続を願う一人。また、槐多を「自分自身の思いや情緒をストレートに表現している」と評し、企画を通じて参加者には「芸術は心の中を自由に表現していいものだと伝えたい」と話している。

 20日は午後1時半〜4時。入場無料。8月5日は午前9時〜午後1時。先着50人まで。参加費は無料だが、無言館への入館料は自己負担。ともに中学生以上が対象。申し込みなどの問い合わせは小林さん(電話0268・24・3176)へ。


今のところ、ネット上にイベント自体の情報が見あたりませんで、上記記事から読み解くしかありませんが、同市の交流文化芸術センター・サントミューゼにおいて、やはり同市塩田地区にある戦没画学生慰霊美術館・無言館さん館長の窪島誠一郎氏によるご講演があるとのこと。無言館さんの姉妹館で、やはり窪島氏が館長の信濃デッサン館さんに作品が多数収蔵されている夭折の天才画家・村山槐多についてがメインで、槐多と交流のあった光太郎にも触れられるようです。

ところで、信濃デッサン館さん、今年3月をもって無期限休館――事実上、閉館――となったそうです。この件は存じませんでしたので、驚いております。今後は無言館さんの運営に集中されるとのことですが、やはり残念です。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

女性はますます美しかれ。ますますやさしかれ。ますますうるほひあれ。ますます此世の母性たれ。戦う男子の支柱たれ。男子の心は剛直にして折れ易い。すさび易い。その時、女性の美はこれを救ふ。

散文「扉のことば」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

少女雑誌『新女苑』に発表された文章の一節です。銃後の少女たちに呼び掛けるこの文言、女性を讃美しつつも、一種のモラハラ的な要素を含むでしょう。裏を返せば戦場へ赴く兵士達をしっかり送り出せ、ということにもなりましょうし。

こうして送り出された中には、無言館さんに作品が収められている、戦場で露と消えた画学生達も含まれていたわけです。東京美術学校の学生の中には、大先輩・光太郎のアトリエを訪れ、激励してもらったという、今年亡くなられた深沢竜一氏(光太郎詩「四人の学生」のモデル)のような方もいらっしゃいました。深沢氏は無事復員されましたが、帰って来られなかった学生も多くいたのではないでしょうか。もしかすると、無言館さんに作品が展示されている戦没画学生の中にも、光太郎の元を訪れたという学生もいたかもしれません。

自由人の当方はあまりいつもと変わらないのですが、世間的にはゴールデンウィークだそうで、記事の題名を「GWレポート」とさせていただきます。特に深い意図はないのですが、これまでこの手のレポートの際には「都内レポート」「東北レポート」などと行った先の地名を使用することが多かったところ、そうした地方の枠を超えて動き回っておりますので、そうします。

まずは一昨日の日曜日、生活圏の千葉銚子。市街の飯沼山圓福寺(飯沼観音)さんの本堂で開催された「仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展」、それから「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り「犬吠の太郎」」を拝見して参りました。

土屋氏は、銚子や、当方自宅兼事務所のある香取市に隣接する旭市ご在住の版画家です。

たまたま今月、当方趣味の音楽活動の関係で、旭市の東総文化会館さんに行きましたところ、大ホールの巨大な緞帳のデザインも、土屋氏の版画でした。

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それから、当方自宅兼事務所のある香取市での個展もなさっています。会場は旧市街の与倉屋大土蔵。光太郎詩「雨に打たるるカテドラル」が使われた映画「FOUJITA]などのロケにも使われている、土蔵としてはおそらく日本一の大きさであろうという土蔵です。

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全国を飛び回っている当方ですが、逆に地元の情報に疎い部分があり、土屋氏の作品、ちゃんと拝見するのは今回が初めてでした。

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会場の飯沼観音さん。中央が本堂で、階段の下に入り口があり、そこから入ります。

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いきなり「犬吠の太郎」がお出迎え。

太郎は本名・阿部清助。光太郎詩「犬吠の太郎」のモデルとして有名になりました。大正元年(1912)、銚子の犬吠埼を訪れた光太郎智恵子が逗留していた暁鶏館(現・ぎょうけい館)で下働きをしていた人物です。旧会津藩士の子だというのですが、銚子の長崎地区出身という説と、銚子を訪れた曲馬団にくっついて来て銚子に定住するようになったという説と、二通りあります。ちなみに長崎地区には太郎の墓が現存しています。

お寺さんでの開催ということで、仏画的なモチーフが多かったのですが(ちなみに土屋氏、元は仏師志望だったそうです)、太郎系、それからやはり犬吠を訪れ、「宵待草」を詠んだた竹久夢二系で、犬吠などの風景を取り上げたものも多くありました。

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黒いのは、版木です。こちら、おそらく、ぎょうけい館さんにも飾られていたと記憶しています。

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最近、取り入れられたそうですが、刷った後に紙をくしゃくしゃにしてまた伸ばすという技法が使われているものも。すると不思議な陰影や立体感が生まれ、面白い試みだな、と思いました。

ちなみに版画展に関しては、先週、NHKさんのローカルニュースで取り上げられました。 

復興の願いを作品に込め 版画家が展示会 千葉 銚子

東日本大震災による津波で、大きな被害が出た千葉県旭市に住む版画家が、復興への願いを込めて制作した作品などを集めた展示会が、隣の銚子市で始まりました。

会場の銚子市にある飯沼観音の本堂には、旭市の版画家、土屋金司さん(63)の作品、およそ70点が展示されています。
旭市では、東日本大震災による津波で15人が犠牲になり、中には、復興への願いを込めて十一面観音や地蔵の姿を刷り上げた作品があります。
また、詩人の高村光太郎が銚子を訪れた際に作った詩、「犬吠の太郎」の一場面を表現し、びょうぶのように仕立てた作品も展示されています。
土屋さんは「震災で被災した人たちにも元気と癒やしを感じてもらえれば」と話していました。
展示会は29日まで開かれ、最終日には土屋さんの作品の前で、地元の人による「語り」の上演が行われることになっています。


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旭市の飯岡地区では、東日本大震災の本震から3時間近く経った午後5時26分に津波が押し寄せ、15名の尊い命が犠牲となりました。その追悼、復興祈念も兼ねているとのことです。


版画展会場の一角で、「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り「犬吠の太郎」」が行われますが、その会場の正面には六曲一隻というか、二曲三隻というか、大きな屏風。こちらも太郎系です。

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力強い作品です。聞けば、最初に太郎をモチーフとされた35年ほど前の作品だそうです。女性は太郎が惚れていた曲馬団のヒロイン・お染さん。

さて、時間となりまして、「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り「犬吠の太郎」」。

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銚子浪漫ぷろじぇくと」さんというのは、「銚子が保有する近代の文化的な遺産を掘り起こし、多くの人に銚子の魅力を知ってもらいたい」という思いで活動されている、地域おこしの団体さんのようです。

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今回は、そちらに所属されている関根真弓さんという女性による一人芝居的な感じでした。知的障害があった太郎が、曲馬団の花形・お染に優しくされ、淡い恋心を抱きます。しかしお染は興行師と駆け落ちし、太郎は淋しく残されるというストーリーです。光太郎が詩「犬吠の太郎」を書いたことで、銚子では有名な話として語り継がれています。一人芝居でしたが、バックの効果音、バナナのたたき売りやサーカスの呼び込み、南京玉すだれなどの声は、銚子浪漫ぷろじぇくとのみなさん総出だそうです。

終演後の関根さんと、土屋氏。

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公演の前後にそれぞれとお話をさせていただき、今後も光太郎を取り上げて下さいとお願いしておきましたが、実現してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

自分等の生活の時々刻々こそ貴い意味の流れである。自分等を通じてあらはれる至上のものの意志である。姿である。それが積もりつもつて個人としての一生、社会としての世紀がずつしり重く築かれるのである。

散文「日常の瑣事にいのちあれ」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

津波被害により、貴い生活の時々刻々、日常の瑣事を奪われた方々に、謹んで哀悼の意を表します。

昨日は都内2箇所(というか3箇所というか)を廻っておりました。3回に分けてレポートします。

まずは新宿。都庁近くのヒルトン東京さんにあるヒルトピアアートスクエアで開催中の「『智恵子抄』に魅せられて そして~今~ 坂本富江個展」を拝見して参りました。

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会場前の看板的な。智恵子の故郷、福島二本松特産の上川崎和紙だそうです。

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早速、拝見。

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坂本さん、明治末に智恵子が学んだ太平洋画会の後身である太平洋美術会の会員であらせられますが、美大等で専門の美術教育を受けられたわけではありません。いい意味で、そういう部分でのアクの強くない素人っぽさが魅力の一つです。描く対象に真摯に向き合い、自己表現というよりは、対象の美しさを画面に込めようとしているのがよく分かります。

先日、山梨で開催されたご講演の際にも駆けつけられた、ノーベル生理学・医学賞ご受賞の大村智博士も初日にお見えだったそうで、さっそく売約の札が。

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油絵以外にも、ご著書『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』の原画も。その一角は、智恵子と二本松のコーナーのような感じにもなっていました。

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福島ご出身の方などが御覧になったら、喜ばれるのではないかと思いました。

「画廊での個展」というと、気取った堅苦しい感じに受け止められがちですが、坂本さんのお人柄がよく表れたアットホームな感じ、こういうと何ですが、ある意味、高校の文化祭のような、そんな肩の凝らない感じでした。

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これらは、山梨でのご講演の際、当方がパワーポイントのスライドショーを作成しまして、そのために送信されてきたデータです。これらの作品も展示されています。

会期は24日(火)まで。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

画家が或る対象に憑かれるといふ事は、その対象の等価体としての画面に憑かれることを意味する。しかし画面に憑かれたもの、必ずしも逆に或る対象に憑かれたものとは言ひ難い。自然の対象はいつも画面の等価を無視してゐるからである。画面にのみ憑かれた画家は程なく枯れる。

散文「庫田叕君の画を見て」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

画家はある対象を見て、それに感動してそれを描くものでしょう。しかし、いつの間にか主客が逆転し、描いている対象よりも、描かれた自己の作品に酔い、対象へのリスペクトが薄れ、アクの強い自己主張ばかりの作品となることが往々にしてあるよ、ということでしょうか。坂本さんの作品には、そういう過剰な自己愛的なものが感じられませんでした。

洋画家・庫田叕は、光太郎とも交流のあった『歴程』同人の詩人・馬渕美意子の夫でした。

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