南薫造は、1883(明治16)念に広島県賀茂郡内海町(現・呉市安浦町)に生まれました。東京美術学校を卒業後、イギリスやフランスで西洋画の研究を深めた南は、人物や自然を、穏やかで滋味深いまなざしで捉え、「日本の印象派」と評されました。東京美術学校教授、帝国芸術院会員、帝室技芸員などを歴任し、日本の近代洋画史に大きな足跡を残すとともに、呉や広島野の美術の振興に貢献しました。また南は作風同様に人柄も温厚で、画家仲間や教え子など多くの人々から慕われ、尊敬されました。
2020年は南の没後70年にあたります。本展では当館の所蔵する南薫造の油彩画、 水彩画、版画、素描を一堂に展示するほか、南と交流のあった画家たちの作品を交えて、南の画業や生きた時代をたどります。
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光太郎との交流が始まったのは、おそらく本格的には明治40年(1907)、ともに留学でロンドン滞在中でした。ただ、光太郎は明治30年(1897)、南は同35年(1902)に美校に入学していますので、ロンドン以前にも面識はあったのではないかと思われます。ロンドンではもう一人、画家の白瀧幾之助も交え、つるんでいました(笑)。禿頭で大男の白瀧は「入道」、小柄な南は「アンファン(仏語「enfant」=「子供」)」と呼ばれていたそうです。

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【折々のことば・光太郎】

その詩格の立派さに感動・根拠の深さ感動のはるかさを感受 高村光太郎
昭和15年(1940) 光太郎58歳
こうした場合の常ですが、良い点として挙げている「詩格の立派さ」、「根拠の深さ」、「感動のはるかさ」など、光太郎自身の目指す詩のあり方にも通じるような気がします。