カテゴリ:彫刻/絵画/アート等 > 絵画

智恵子の故郷・福島二本松市の『広報にほんまつ』今月号。大山忠作美術館さんで開催中の「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が大きく取り上げられています。

まず表紙。
011
大山画伯のご息女にして、都内二本松で上演された「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を演じられた一色采子さん。ギャラリートーク風景ですね。

2ページ目、襖絵そのものの詳細な解説。
012
3ページ目、今回の展示の舞台裏について。
013
自称・無資格キュレーターの当方としては(笑)、興味深く拝読いたしました。

作品の一部をあしらった絵葉書を1年ぶりくらいに引っぱり出してみました。分割民営前の郵政省時代に発行された40円絵葉書10枚セット「みちのくの楓」です。昭和の終わりか平成の初め頃のものと思われます。
014
画伯ご自身の書かれた解説によれば、福島市の高湯温泉の楓だそうですが、日光中禅寺湖半の紅葉の色も印象に残り、反映されているとのこと。

最後に(というかブックレット形式としては最初)には、『広報にほんまつ』でも題名が記されている「智恵子に扮する有馬稲子像」。昭和51年(1976)、「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」中の北條秀司作の「智恵子抄」(一色さんの朗読劇もこちらが元です)で智恵子役だった有馬稲子さんを描いた大作です。
001 002
襖絵展期間中は同じフロアの逆サイドの展示室にて公開中。撮影禁止だったので画像はありませんが、制作風景の写真も並べられています。

『広報にほんまつ』を読んで初めて知りましたが、市内の智恵子生家/智恵子記念館や菊人形展などの入場券を提示すると、入館料割引だそうです。

智恵子生家では二階部分の限定公開が今週末及び文化の日の振替休日である11月4日(月)まで。翌11月5日(火)~17日(日)の期間にはライトアップが為されます。襖絵展も11月17日(日)まで。

併せてご観覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

横手では名物のお酒をいろいろいただいたり、秋田美人といはれる此の雪国の娘さんや奥さま連に囲まれて本式の炉辺でお茶料理をいただいたりして愉快でした。

昭和25年(1950)3月15日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、3月10日から12日にかけ、講演のため秋田県の横手を訪れました。秋田美人に囲まれてウハウハだったようです(笑)。

開催中の展覧会を報じた報道から2件。

まずは上野の東京藝術大学大学美術館さんでの「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」につき、『朝日新聞』さん。

西洋彫刻で見いだす台湾 黄土水展

 台湾出身者で初めて東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学した彫刻家・黄土水(こうどすい)(1895~1930)に焦点を当てた「黄土水とその時代」展が、東京・上野の東京芸術大学大学美術館で開かれている。
 黄土水は、高村光雲に師事して彫刻を学び、計4度の帝展入選を重ねた。将来を期待されたが、病のため35歳で急逝。今展では黄土水の作品群と共に、芸大コレクションの中から黄土水が学んでいた頃の日本の洋画や彫刻なども展示し、当時の美術界の様子を浮かび上がらせている。 展示の目玉は、帝展入選作の一つで、昨年台湾の国宝に指定された大理石彫刻の「甘露水」(1919年)だ。長らく所在が分からなくなっていたが、2021年に見つかった。同美術館の村上敬準教授は「西洋彫刻を学びながらも、自分のルーツである台湾を表現しようとしていた。『甘露水』も、西洋の理想化された身体ではなく、東洋人の体格で作られている」と話す。10月20日まで。
013
続いて、智恵子の故郷・二本松市の大山忠作美術館さんで始まった「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」。KFB福島放送さんのローカルニュースから。

大山忠作さんの襖絵 二本松市に里帰り(福島)

 千葉県の成田山新勝寺で、門外不出とされていた襖絵が、作者である大山忠作さんのふるさとの二本松市に里帰りしました。
 6枚から8枚のふすまを組み合わせて1つの作品となる襖絵。二本松市出身の画家・大山忠作さんが約45年前に手掛けた物で、千葉県の成田山新勝寺に飾られていました。
 「日月春秋」をテーマに描かれた襖絵には、ふるさと福島の自然美も表現されています。
初日の1日はオープニングセレモニーが行われた後、大山さんの長女の采子さんが作品を「戦争で生きるか死ぬかの時に、もし生きて帰ることができたら、自分は絵だけを描いて生きていこう、そういう風に決めて見ていたお日さま。それを父は昇る朝日に置き換えまして、成田山に奉納する襖絵の題材として描きました。」と解説しました。
 訪れた人は「一度見てみたいなと思っていたので、間近に見れて本当に素晴らしいなって。今感動しています。」と話していました。
 この襖絵は、大山忠作美術館の開館15周年を記念して、11月17日まで展示されています。
016
017 018
019 020
021 022
023 024
画伯のお嬢様・一色采子さん。女優としてのお仕事でない時は、ご本名の「大山采子」さんで通されています。談話の中に戦争云々のお話がありますが、画伯、昭和18年(1943)に東京美術学校を繰り上げ卒業となり、熊谷の航空基地に。その後、フィリピン、台湾と転戦されたそうです。
025
026
ある時、一色さんとお話をしていて信州上田の無言館さんの話題となり、「うちの父も、もしかするとあそこに作品が展示されるようになっていたかも」とおっしゃっていました。

そう考えると、朝日を描いた襖絵、地上からの眺めでなく、軍用機のコックピットで観た俯瞰のような気もします。こじつけでしょうか。

さて、両展、是非とも足をお運びいただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

自分ながら変な親爺と思ひますが争ひがたい都会性と野人性との混淆を感じました。

昭和24年(1949)11月8日 濱谷浩宛書簡より 光太郎67歳

写真雑誌『アサヒカメラ』の取材で、光太郎の蟄居する花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた写真家・濱谷から贈られた自らの写真に対する感想です。
028 004
都会性と野人性との混淆」は、遠く明治44年(1911)に書かれた詩「声」で、既に扱われていたテーマです。

神戸から日本画の個展情報です。

山下和也個展「星尘詩(ほしくずのうた)」

期 日 : 2024年9月20日(金)~9月30日(月)
会 場 : Gallery301 神戸市中央区栄町通1丁目1‐9 東方ビル301 
時 間 : 12:00~18:00 最終日のみ17:00まで
休 館 : 9月25日(水) 9月26日(木)
料 金 : 無料

 人は宇宙(そら)をどのような思いで眺めてきたのだろうか?
 宇宙物理学など自然科学の1分野である天文学と考古学との境界領域にある古天文学。 前者は自然界の多様な現象を解明する研究、後者は人間の思想哲学を行為や記録(遺物)から読み解く研究である。 人間の知的好奇心や探求心によって、生まれてきた宇宙観や天文学は、民族や国家、時代の境界を越えて影響を与え、発展してきた。
 たとえば、古代ギリシャの数学者ピタゴラス(紀元前582-紀元前496)は天体の運行が常に音を発しており、宇宙全体が大きなハーモニーを奏でていると考えていた。「天球の音楽」として知られるその思想は、哲学者プラトン(紀元前427-紀元前347)をはじめ二千年後のドイツの天文学者ケプラー(1571-1630)にも影響を与えている。
 自然(宇宙)と人間と芸術。広大な宇宙においては星の屑にも満たない様な人類の歴史やもっと些細な営み。それらを引き合わせて少しずつ手や頭を動かして継ぎ、展覧会を編む。 事物を通じて個々に現れる目には見えないもの、耳には聞こえない音楽を仮にここで詩(うた)と呼び、そのポリフォニーを傾聴しながら私も宇宙(そら)を眺めてみようと思う。
 会期はちょうど仲秋の名月を経て新たな月へと向かう頃。是非会場へ観測にお越しください。
014
015
公式の案内文等に光太郎智恵子の名がありませんが、X(旧ツイッター)上の、見に行かれた方のポストに、以下の記述がありました。

藤原定家の「明月記」を手掛かりに、古天文学をテーマにした展覧会。具体やボイス、高村光太郎と智恵子抄、隕石などを本歌取りや岡崎和郎を想起する見立て、日本画技法を用いて芸術学的宇宙図を形成。鑑賞より観測が相応しい。9/30まで

最初の画像、満月を描いているものでしょうが、よく見るとレモンの皮のようにも見えます。「レモン」とくれば「智恵子抄」中の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。これが「智恵子抄」オマージュの作品なのでは? と思いました。違っていたらごめんなさいですが。

今年の中秋の名月は9月17日(火)でした。陰暦八月十五日の月、ということで、年によって前後します。以前にも書きましたが、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)の中秋の名月は、駒込林町のアトリエ兼住居で智恵子葬儀が行われた10月8日でした。おそらく詩集『智恵子抄』のために書き下ろされ、その日の模様を後に回想して謳った詩「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)の最終行は「外は名月といふ月夜らしい。」でした。何だか智恵子がなよたけのかぐや姫のように、月へ帰っていったようにも思えます。

閑話休題。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今夏は小生妙に夏まけがひどく七月から八月にかけて四度高熱を発し臥床、村の人に食事の世話などされました。

昭和24年(1949)9月2日 八森虎太郎宛書簡より 光太郎67歳

当方手持ちの書簡の一節です。おそらく熱中症でしょう。光太郎の山小屋は奥羽山脈の麓、光太郎自身が「水牢」と呼んだ非常に湿気の多いところで、そうなると気温がさほどでなくても熱中症の危険性が高まります。当方も一度、旧高村記念館内で作業中に眩暈(めまい)を起こしてぶっ倒れそうになりました。
016

智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数遺された文化勲章受章の日本画家、故・大山忠作画伯。女優の一色采子さんのお父さまでもいらっしゃいます。
001
JR東北本線二本松駅前に大山忠作美術館があり、そちらで今秋、同館開館15周年特別企画展「成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が開催されます。

これまで門外不出だった画伯の代表作の一つである成田山新勝寺光輪閣さんの襖絵全28面が初めて他で展示されるということで、注目を集めています。光輪閣さんでも時折公開が行われるのですが、それもいつもというわけでもなく、滅多に見られません。

ちなみに光輪閣さん、今年4月、将棋の名人戦七番勝負の第二局会場となり、藤井聡太七冠と豊島将之九段が激突しました。その際の報道の画像、背景に問題の襖絵が映っています。
002
003
その襖絵展に向けてのクラウドファンディングが進行中です。

大山忠作美術館開館15周年記念特別企画展|襖絵展開催に向けて

【かかる費用の総額】 1,400万円
運搬委託費(展示・保険含む) 建具工事委託費(襖を展示する枠事) 広告宣伝費
人件費  警備費  印刷費 

【クラウドファンディングの使い道】
運搬委託費(展示・保険含む) 建具工事委託費(襖を展示する枠事) 広告宣伝費
人件費  警備費  印刷費 などかかる経費の一部に使わせていただきます。

【目標金額】 1,000,000円
 目標金額を達成した場合のみ、実行者は集まった支援金を受け取ることができます(All-or-Nothing方式)。支援募集は9月12日(木)午後11:00までです。

【リターン】
 大山忠作襖絵展を応援コース
  感謝のメール
   3,000円 5,000円 10,000円
  感謝のメール、ノベルティグッズ
   30,000円 50,000円
  感謝のメール、ノベルティグッズ、大山忠作美術館図録、大山忠作作品のリトグラフ
   100,000円 200,000円
 大山忠作襖絵展を行って応援コース
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚
   5,000円 10,000円
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚、ノベルティグッズ
   30,000円 50,000円
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚、ノベルティグッズ、大山忠作美術館図録、
  大山忠作作品のリトグラフ
   100,000円 200,000円
004
005
昨日の段階で目標金額100万円に対し、支援総額65万5千円。あと34万5千円不足です。上に赤字で書きましたが、目標金額を達成した場合のみ、実行者は集まった支援金を受け取ることができるというシステムだそうで、このままでは成立しません。

当会としても支援を行いましたが、皆様にも是非宜しくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「女性線」の詩は少々変なもので、フロイド学者の材料になりさうなものですが、事実見た夢の通りに書きました。


昭和24年(1949)3月6日 西田大三宛書簡より 光太郎67歳

「「女性線」の詩」は、「噴霧的な夢」。
img_9
   噴霧的な夢

 あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
 ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
 夢といふものは香料のやうに微粒的で
 智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
 ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
 ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)
  のやうに吹き出てゐた。
 その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
 お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
 お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
 智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
 ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
 智恵子はほのぼのと美しく清浄で
 しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。
 あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
 私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
 そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
 昨日までの私の全存在の異和感が消えて
 午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。

まさにフロイト学派が泣いて喜びそうな夢判断が為されそうですね(笑)。

画像は昭和3年(1928)、箱根の大湧谷です。

先月末の『日本経済新聞』さんから、千葉県君津市文化財審議委員・渡邉茂雄氏の玉稿。光太郎にも随所で触れられている氏の御著書『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に関して。

失われた肖像画を求めて 渋沢栄一ら描くも早世、作品は焼失 悲運の画家の功績語り継ぐ 渡辺茂男

 新1万円札に描かれた渋沢栄一と出くわした方も多いだろう。一方で失われてしまい、もう見られない渋沢の肖像画がある。描いたのは千葉県君津市出身の画家、柳敬助(1881~1923年)。熊谷守一や彫刻家・詩人の高村光太郎らと切磋琢磨(せっさたくま)し肖像画の第一人者となったが、42歳で早世。4カ月後の追悼展が関東大震災に遭い、代表作の多くが焼失した。
 23年9月1日は、友人らが日本橋三越で開く追悼展初日だった。柳の作品は約40点。渋沢の肖像などに加え、東京美術学校(現東京芸術大)時代に同居した熊谷の剣道着姿の絵もあった。高村や、同じく同居人だった画家の和田三造、辻永らも作品を寄せた。地震直後に作品は無事で、柳の妻・八重は墓碑銘のみ持ち帰った。ところが夜には火の手が回ってしまう。
 多くの作品が焼失したからこそ、画業を語り継がなければ――。柳と同じ君津生まれで小学校の後輩でもある私は、県立高校の社会科教諭をしながら市史編さんに携わり柳を知った。十数年前に退職した頃から本格的に資料を集めたり、絵が見つかったと聞けば調査に出向いたりし始めた。
 柳の生涯を彩ったのは、そうそうたる人々との交友だ。03年、指導者の黒田清輝の反対を押し切り美校を中退、渡米した。ニューヨークで師事したのは、パリで印象派を学んだロバート・ヘンライだ。「美術作品の価値はひとえに、目の前のものを見る画家の能力にかかっている」。残された柳の作品を見ると、ヘンライの教えを終生大事にしていたと感じる。
 現地で友となったのが彫刻家の荻原守衛(碌山(ろくざん))と高村だ。パリ、ロンドンを経て09年に帰国した柳は碌山の助けで東京・新宿のパン店、中村屋(現新宿中村屋)裏にアトリエを開くことになる。碌山は創業者の相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻と同郷で、店近くにアトリエを構え親密な交際を続けていた。
 だが柳のアトリエ完成とほぼ時を同じくして碌山は死去する。完成を祝おうと柳が君津から持ってきた桜が供花となったという。碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)と中村屋サロン美術館(東京・新宿)に柳の絵がまとまって残るのは、この友情のためだ。
 高村は生涯の友だった。11年、柳は橋本八重と結婚し、その後アトリエも雑司が谷に移す。肖像画家としての充実期が訪れていた。面白くないのが高村だ。精神不安定も重なり「友の妻」という詩で「君の妻を思ふたびに、余の心は忍びがたき嫉妬の為に顫(ふる)へわななく」と、所帯じみた柳を激しい言葉で批判した。
 しかし高村に「智恵子抄」で有名な妻となる長沼智恵子を紹介したのも柳だった。日本女子大学校(現日本女子大)で八重の後輩だった人だ。同校とのつながりは深かったようで、渋沢を描いたのも彼が3代目校長を務めたためだと思われる。
 高村は柳の作品に辛辣な批評を寄せるなど、新たな芸術を目指す同志への愛が強烈だった。かたや柳にはにじみ出すような優しさがあり、同じ田舎の者として共感する。熊谷がスランプに陥った際、柳は交友のある作家・志賀直哉が持つ赤城山の別荘に誘い、共に出掛けた。ここで熊谷が描いた作品「赤城の雪」は、彼の画風変化のきっかけだったとも評される。
 この4月、私は柳の評伝「不運の画家」(東京図書出版)を自費出版した。柳にはキリスト教思想家の新井奥邃(おうすい)や宗教家の西田天香(てんこう)らとの縁もあり、詳述している。不運だったが才能と人に恵まれ、幸せな生涯だっただろうと思う。 (わたなべ・しげお=元高校教諭)
004
関東大震災で代表作の多くが焼失し、渋沢の肖像画もそこに含まれていました。焼失した作品でも写真が残っているものは『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に画像が掲載されていましたが、渋沢像は写真も残っていないようです。残念ですね。

氏の地元・千葉県君津市さんの『広報きみつ』7月号に、以下の記事も載りました。
003
柳敬助、もっともっと知られていていい画家と思います。記事にある安曇野の碌山美術館さん等にに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

小生もいつか此の山中のどこかで一人で死んで発見されるでせう。部屋の中か野外か、その時次第です。死ねばあとはどうでもいいです。草木の肥料となるのが一番いいでせう。


昭和23年(1948)12月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎66歳

この予想は当たらず、7年余りのち、都内で亡くなることになります。

死ねばあとはどうでもいい」。本人はそれでいいのかも知れませんが、周りとしてはそうもいかないわけで……。逆に自分の生きた証しを必死で残そうとする(生前に自分の銅像を作らせるとか)よりは潔いのかも知れませんが……。

当方としては、光太郎本人に「死ねばあとはどうでもいい」と言われても、その鮮烈な生の軌跡の全体像を出来うる限り明らかにしていく作業は止められません(笑)。

光太郎と交流のあった鬼才の画家・村山槐多をモチーフとし、昨年封切られたた映画「火だるま槐多よ」タイトルは光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)で使われている句です。公式パンフには詩の全文が掲載されていました。
f1380aa7-s
今月、Blu-rayディスクの販売が始まり、早速購入しました。

火だるま槐多よ

2024年7月3日 
発売・販売元 : 渋谷プロダクション/スタンス・カンパニー
販売代理 : オデッサ・エンタテインメント
定 価 : 4,800円+税
<Blu-ray仕様> カラー/本編102分+特典映像/アメリカンビスタ/音声:日本語/DTS-HDマスターオーディオ5.1ch/25GB


★監督・佐藤寿保&脚本・夢野史郎のゴールデンコンビ最新作!
天才“村山槐多”に取り憑かれた若者たちを描くエンタテインメント作品!
本作は、22歳で夭逝した天才画家であり詩人の村山槐多(1896~1919)の作品に魅せられ取り憑かれた現代の若者たちが、槐多の作品を彼ら独自の解釈で表現し再生させ、時代の突破を試みるアヴァンギャルド・エンタテインメント。タイトルの由来は、槐多の友人・高村光太郎の詩「強くて悲しい火だるま槐多」である。


CAST 遊屋慎太郎 佐藤里穂 工藤景 涼田麗乃 八田拳 佐月絵美 佐野史郎
001
002
昨年暮れに劇場公開を観てから、約半年ぶりに拝見。
005
随所に槐多の絵や詩が効果的に使われています。
003
007
ラストには光太郎詩「村山槐多」も一部引用。
006
背景は雑司ヶ谷霊園にある槐多の墓です。

ちなみに本編ではない特典映像中のメイキング部分には、クランクイン前に佐藤監督らが墓参をした様子なども。

というわけで、Blu-rayディスク、ぜひお買い求め下さい。また、U-NEXTさんでの配信も始まっていますので、どうぞ。

ただし「アヴァンギャルド・エンタテインメント」と謳われている通り、R指定はないものの、それに近い内容です。ご試聴には十分注意なさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

学校の校規等今日拝受、興味ふかき事に存じ、学校のよき進展を心から望んで居ります。小生美の世界に於いても岩手の人々に期待する事大です。

昭和23年(1948)4月15日 佐々木一郎宛て書簡より 光太郎66歳

「学校」はこの年開校となった岩手県立美術工芸学校。光太郎は名誉教授に就任して欲しいという要請は断りましたが、何度も足を運んで講演をしたり、作品展を観たりといった援助は惜しみませんでした。

光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村で開催中の「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」につき、一昨日、NHK盛岡放送局さんが県内向けのローカルニュースでご紹介下さいました。

疎開先の花巻で描く 高村光太郎の草花のスケッチ展示

 詩人で彫刻家の高村光太郎が、疎開先の花巻で描いた花などのスケッチが、花巻市にある「高村光太郎記念館」で展示されています。
001
002
 高村光太郎は1945年、62歳の時に東京のアトリエが空襲で焼け、花巻に疎開して7年間を過ごしました。
003
 今回の企画展には光太郎が疎開中に描いた身近な草花のスケッチやスケッチしている最中の写真などが展示されています。
004
005
 このうち湯治に訪れた西鉛温泉で描いたスケッチは、山菜のミズを描いています。昭和20年6月20日という日付ともに、「丈1尺5寸」などと観察したミズの大きさなどもつづっています。
006
 今回の展示では「七月一日」と題された散文の直筆の原稿が初めて公開されました。この文章では山菜のミズを朝食のみそ汁に入れて食べたとし、珍味だと記しています。
007
008
 秋田県横手市から訪れたという男性は「緻密な中にもほのぼのとしたスケッチを初めて見ました。自然を愛する心が表れているように思えました」と話していました。
009
 東京から訪れたという女性は「光太郎が山野草をスケッチしているのに驚きました。精密に描かれていて感動しました」と話していました。
010
 この企画展「山のスケッチ」は「高村光太郎記念館」で来月7日まで、開かれています。
011
会期末に近くなってきましたが、かえってこのタイミングで紹介していただくと、「ああ、そんなのやってるんだ。あれ、もうすぐ終わりか、では行ってみよう」というニーズを掘り起こすことになりますので、ありがたいところです。

展覧会詳細情報はこちら

まだ行かれていない方(既に行かれた方もリピーターとして)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「花と実」は今年はものになるかと思ひますが「至上律」誌上の印刷では随分ひどい成績でしたが、果して印刷が出来るものでせうか。せめて鉛筆単色でも、その感じが印刷で出ればいいのですが。「花と実」はあくまでたのしい詩集に、「猛獣篇」はきびしい詩集にしたいと思つてゐます。


昭和23年(1948)2月19日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎66歳

「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」に展示されている山野草のスケッチを添えた詩集『花と実』、そして戦前から書きためていた連作詩「猛獣篇」をまとめ、鎌田の経営していた白玉書房から出版する計画がありましたが、いずれも実現しませんでした。

6月15日(土)のことですが、千葉県匝瑳(そうさ)市にある松山庭園美術館さんに行って参りました。

そもそもは先月末の地元のタウン紙に載った紹介記事。
0004
「第21回猫ねこ展」だそうで、こちらを拝読し、猫好きの妻を連れて行こうと考えました。

ちなみに妻に溺愛されているのはこいつです。子猫の時に娘が拾ってきて、今月で8歳になりました。
PXL_20240615_115456436[1]
あくまで溺愛しているのは妻であって、当方ではありません(笑)。

閑話休題。同館について調べてみると、光太郎とゆかりの作家達の作品も複数点が収蔵展示されていることが分かり、これは行かねば、と思った次第です。

自宅兼事務所から1時間弱。
PXL_20240615_011806973
「庭園美術館」と謳うだけあって、なるほど、里山的な環境を取り入れた庭園。新緑がいい感じでした。
PXL_20240615_012013227
PXL_20240615_012130015
楓の木が多いので、紅葉シーズンは見事でしょう。館のパンフレットも紅葉をあしらっていました。
001
002
元々はアート作家・此木三紅大(このきみくお)氏がご自身のアトリエを美術館に改修されたそうで、開館25周年だそうです。

此木氏、猫好きなのでしょう。猫をモチーフとした氏の作品がお出迎え。
PXL_20240615_011832121
PXL_20240615_012559568
PXL_20240615_012617518 PXL_20240615_012649891
氏の作品に混じって、氏が集められたと思われる年代物の猫アート、猫オブジェもあちこちに。
PXL_20240615_011822431
PXL_20240615_012325108 PXL_20240615_012728426
PXL_20240615_012227814
既に「猫だらけ」(笑)。

さて、第一目的の常設展示室へ。
PXL_20240615_013016553
まずは、何はなくともこれが観たかった、光太郎曰く「火だるま槐多」こと村山槐多のデッサン。4月に信州で見逃しましたので。
PXL_20240615_012916010
右側に槐多自身の詩が書き込まれています。

われもし盲せば/この語程かなしく辛きはあらず、/われには更に二十年の艶麗なる視覚世界のまてるに、/大丈夫 天は俺を愛して居るぞ

いいですね。

他にも光太郎人脈。

光太郎が東京美術学校彫刻科を卒業してから入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二。ちなみにその際の同級生には藤田嗣治、岡本一平などがいました。ただし光太郎、そちらは卒業せず、中退の形で欧米留学に出ました。そこで卒業生名簿の西洋画科の項には名が無く、藤田や岡本と同級生だったことは意外と知られていないようです。
PXL_20240615_013131747
大正初め、ヒユウザン会(のち、フユウザン会)で光太郎と一緒だった萬鉄五郎。
PXL_20240615_013121158
主宰する雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いだ松本竣介。
PXL_20240615_013040070
他に三岸好太郎、長谷川利行などのビッグネームも。
PXL_20240615_013107343.MP
これらを堪能したところで、第二目的の「猫ねこ展」。猫好きの妻は既にそちらに(笑)。
PXL_20240615_011901667 0005 0006
プロアマ問わずの公募展で、何と350名、500点ほどの「猫」。絵画あり、彫刻あり、写真あり、クラフト系あり、モチーフ的にも写実にとどまらず、パロディあり、オマージュあり……。とにかく「猫づくし」です(笑)。
PXL_20240615_013213656
PXL_20240615_013221174.MP
PXL_20240615_012842344 PXL_20240615_014851619 PXL_20240615_014024696.MP
PXL_20240615_014109973 PXL_20240615_014936540
PXL_20240615_014744855 PXL_20240615_014813764 PXL_20240615_015559015
PXL_20240615_015541849 PXL_20240615_015550672
PXL_20240615_015733583 PXL_20240615_020151570
PXL_20240615_014144388 PXL_20240615_015722321
PXL_20240615_015631888 PXL_20240615_020130126
右上の縦に2枚並んでいる絵は、お笑い芸人コンビ・U字工事さんのお二人の作。6月5日(水)にオンエアのあったBS-TBSさんの番組「ねこ自慢」で、お二人が同館をご訪問、「猫ねこ展」紹介の後、お二人も猫絵に挑戦、というコンセプトで描かれたものでした。
004 003
005 007
ちなみに、観覧者を対象に展示作品の人気投票があり、当方が選んだのはこちら。
PXL_20240615_013631316
PXL_20240615_013637495
こうしたメッセージ性もアートの重要な要素ですから。

展示室にはリアル猫も(笑)。
PXL_20240615_013335471
同館、10匹の猫がいて、気ままに過ごしています。

「ねこ自慢」から。
006
この日はこのうち7~8匹程と遭遇できました。

まず既に入場する前から。
PXL_20240615_011741442
同一の個体かどうか、のちほどバックヤードでご飯中の黒猫も(笑)。
PXL_20240615_015208074.MP
下の画像の子は我々が到着してから帰るまで、ずっとこうでした(笑)。
PXL_20240615_020412383
PXL_20240615_020426549
オッドアイの子も。
PXL_20240615_012429374
PXL_20240615_012441170
まだまだ居ます(笑)。
PXL_20240615_021834210
PXL_20240615_021914119 PXL_20240615_022031817
PXL_20240615_015041158.MP
まさに「猫まみれ」(笑)。

「第21回猫ねこ展」、7月28日(日)までの開催です。ただし、金土日および祝日のみの開館ですのでご注意下さい。

帰途、回り道をして、隣接する旭市の「道の駅 季楽里(きらり)あさひ」さんに立ち寄りました。
PXL_20240615_033558433
花卉の販売コーナーが充実しており、「あるかな?」と思って入ったところ、ありました。
PXL_20240615_053922776
グロキシニアです。通常の花屋さんなどだとほとんど見かけません。明治45年(1912)5月末か6月初頭、竣工成った駒込林町の光太郎アトリエ兼住居の新築祝いとして、前年に知り合った智恵子が持参した花です。その後光太郎は、くりかえしこの花を詩文に謳い込みました。

かつて二本松でいただいたもの一昨年購入したものは枯れてしまい、またぜひ入手したいと思っていましたので、タイムリーでした。

というわけで、松山庭園美術館さん、道の駅 季楽里(きらり)あさひさん、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

鎌田さんから数日前に「智恵子抄」の再出版の見本を送つて来ましたが、貴下のおてがみによると、澤田さんと十分の諒解が無かつたことが分り、その当時澤田さんの許諾をうけたやうに申された鎌田さんの言を信じてゐた小生としては、何だかみんなイヤになりました。又当分出版に関係するのは止めようかと考へてゐます。


昭和23年(1948)1月11日 森谷均宛書簡より 光太郎66歳

オリジナル『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に澤田伊四郎の龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまっていました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田敬止が『智恵子抄』復刊を企図し、澤田から許諾を得たので、と光太郎に打診。光太郎もGOサインを出し、さらに戦後の詩「松庵寺」「報告」を追加して前年に刊行されました。

しかし、澤田が「鎌田に許諾した覚えはない」と言いだし(このあたり、真相は闇の中です)、昭和25年(1950)に龍星閣が復興すると、翌年から『智恵子抄』の再刊を始めます。

ここまでいかずとも似たようなトラブルが他にもあり、光太郎にとって受難の時期でした。

ギャラリーでの展示を2件、ご紹介します。

まず、光太郎の父・光雲の木彫。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月8日(水)~5月14日(火)
会 場 : そごう大宮店 七階美術画廊 埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-6-2
時 間 : 10:00~20:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

明治以降の彫刻界の発展に大きく貢献した彫刻家・高村光雲、平櫛田中を始め、現在活躍中の大仏師・松本明慶などの木彫作品30余点を展観いたします。

004
005
高村光雲「太子像」W13.5×D11.5×H17.5cm 共箱

そごうさんではあちこちの支店で同様の展示即売会を行っています。今回と同じ大宮店さんで、全く同じ「太子像」が出た「近代木彫・工芸逸品展」が一昨年に開催されていますし、令和2年(2020)には千葉店さんで「近代秀作木彫展」があり、この際には光雲作品が3点、そして光雲の師・髙村東雲の孫の髙村晴雲の作も出ました。

続いて大阪から現代アート系。こちらは先週から始まっています。

『ARTる 檸 展』

期 日 : 2024年5月2日(木)~5月12日(日)
会 場 : galleryそら 大阪市中央区谷町6丁目4-28
時 間 : 13:00〜19:00
休 廊 : 5月7日(火)・8日(水)
料 金 : 無料

出展作家
 下元直美 / かまのなおみ / ヨシカワノリコ / 虹帆 / Q-enta / An / 稲富尊人 / 古川美香 /
 TELA / somen_ / Hanon

色を感じて想いを物語る「檸」

「檸」は、檸檬のような明るい緑が混じった黄色

001
002
こちらではこれまでに一つの「色」を統一テーマにした展示を行われてきたそうで、「紅・墨・翠」に続く第4弾・最終組だそうです。
007
「檸」といえば「檸檬」。「檸檬」といえば「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。「レモン哀歌」といえば「智恵子抄」。

出展作家のうち、somen_さんという方が「与えられたテーマが「檸(レモン色)」だったので、5月だし、黄色だし、レモンだし、P30+F30でどデカいたっきー先生の智恵子抄を描きました。」だそうです。
003
P30」「F30」はともにキャンバスの規格で、前者は約910×652mm、後者は約910×727mm。「」とあるので約910×1.379mmでしょうか。たしかに「どデカい」ものですね。

たっきー先生」は故・滝口幸広さんでしょう。「智恵子抄」は中村龍介さん、三上真史さんらと行った朗読劇「僕等の図書室」と思われます。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤さんなどはまづさしあたり時間の規律などが教育でせう。授乳にしても入浴にしてもその他なるべくきちようめんにする事です。でたらめ、行きあたりばつたりの生活に慣らすとあとで困ります。 子供のウソツキも大抵は親が教へるやうなものです。


昭和22年(1947)8月27日 宮崎春子宛書簡より 光太郎65歳

今日は「こどもの日」ということで、ちょっと過激な物言いですが。

状況をわかりやすくするために、まずは『盛岡経済新聞』さん記事から。

盛岡市先人記念館で池田龍甫展 没後50年に合わせ、作品や遺品を展示

 盛岡市先人記念館(盛岡市本宮)で現在、収蔵資料展「没後五十年 池田龍甫(りゅうほ)展」が開かれている。
 池田龍甫は盛岡出身の日本画家で、今年没後50年を迎える。大正から昭和にかけて女性や花鳥図を描いて活躍したほか、1948(昭和23)年に開校した岩手県立美術工芸学校の設立に尽力し、同校の教授も務めるなど後進の指導を行っていた。
 同館で池田龍甫のみを取り上げる展示は今回が初めてだという。学芸員の中浜聖美さんは「龍甫は岩手の美術専門教育に長く携わってきた人と言える。美しい作品と共に、指導者としての側面も知ってもらいたい」と話す。
 展示は龍甫の若い頃から晩年までを順に追って紹介。「歌垣人々」や「天女図」「初夏」などの作品のほか、スケッチブックや下絵などの遺品が並ぶ。スケッチの中には、明治時代に盛岡で発生した洪水の被害を描いたものもある。東京美術学校卒業後、盛岡に戻った龍甫について解説するパネルでは、日本画を学ぶ女学生たちを指導し、そのうちの一人が後の深沢紅子であることを紹介している。
 展示後半では指導者としての龍甫や岩手の画家との交流に焦点を当て、岩手県立美術工芸学校の教授を命じる辞令や、盛岡短期大学美術工芸科長を命じる辞令、高村光太郎を囲む食事会への案内状、市民の集まりで毛筆画の講師をしていた時の案内状と絵の手本などを展示する。
 晩年、龍甫は「岩手山とキジを描きたい」と話していたという。展示作品には山とキジを描いた未完の作品もある。併せて、日本画画材の質の低下についても嘆いていたという。展示資料の一つには龍甫が使った画材道具類がある。「日本画に使う岩絵の具は鉱物を砕いて作るのでとても高価。材料についても紹介しているので、観察してみて」と中浜さん。「最後まで絵筆を捨てることなく、生涯を日本画にささげた人。岩手最後の本格的な日本画家と呼ばれた龍甫の作品や歩みをじっくり見てもらいたい」と呼びかける。
 開館時間は9時~17時(入館は16時30分まで)。月曜・最終火曜休館(月曜が祝日の場合は翌平日)。入館料は一般=300円、高校生=200円、小・中学生=100円。6月2日まで。
001

同展詳細はこちら。

没後五十年 池田龍甫展

期 日 : 2024年3月23日(土)~6月2日(日)
会 場 : 盛岡市先人記念館 盛岡市本宮字蛇屋敷2-2
時 間 : 9時から17時
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合は翌平日) 毎月最終火曜日 
料 金 : 個人:一般300円、高校生200円、小・中学生100円
      団体:一般240円、高校生160円、小・中学生80円(30人以上~)

令和6年(2024)に没後50年を迎える日本画家・池田龍甫の絵画作品や遺品を展示します。

000
『盛岡経済新聞』さんの記事にあるとおり、池田は岩手県立美術工芸学校開校時(昭和23年=1948)の教授でした。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が出て来ませんが。
001
校長の森口多里は、この名簿に光太郎の名も名誉教授として載せたく、説得に当たりましたが、光太郎は固辞。戦犯の公職追放が為されていた時期ですので、光太郎は自らにその措置を課したのだと思われます。

その代わり、同校には何度も足を運び、式典の際に祝辞を述べたり、生徒対象に講演を行ったり、作品展を見たりしています。また、式典に呼ばれても参加できない時は、祝辞を書いて郵送したり、祝電を送ったりもしました。そちらは生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)以後も続きました。
005
004
002
003
盛岡市先人記念館さんには、そうした光太郎からの祝電、校長の森口宛の書簡などが保存されています。その中に、記事にある「高村光太郎を囲む食事会への案内状」も。
003
発起人として名が記されているのはやはり美術工芸校の教授だった画家・深沢省三、彫刻家・堀江赳、そして盛岡市でオームラ洋裁学校を経営していた大村次信の三人でした。

ちなみに会食会の名称は「豚の頭を食う会」。昭和25年(1950)1月18日(水)、盛岡の菊屋旅館(現在の北ホテルさん)での開催でした。詳細はこちら
002
旧華族・南部の殿様の末裔やら市長やら警察署長、文学方面で佐伯郁郎やら、森荘已池やら、錚々たるメンバーが集まったそうですが、美術工芸校の教授・助教授陣も。そこで、池田もここに写っているのではと思われます。

池田の絵画がメインの展覧会ですが、こうした背景もあるんだよ、ということで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

いつもお願するもの健康上不可欠のものですが暑熱の季節には郵送不可能ではないかと存じ御遠慮いたして居りました。郵送する方法があるものでせうか。溶けて流れ出しはしないでせうか。其辺の事おきかせ願へれば幸甚に存じます。

昭和22年(1947)7月21日 佐々木一郎宛書簡より 光太郎65歳

佐々木はやはり美術工芸校で洋画科の講師を務めていた画家です。「いつもお願するもの」はバターでした。盛岡ではこうした光太郎のグルメぶりが知られていたため、「豚の頭を食う会」の開催につながった部分もあるようです。

先週末に開幕しましたが、昨日になって市のHPに情報が出ました。

令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」

期 日 : 2024年4月27日(土)~7月7日(日)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、昭和二十年の空襲で東京のアトリエを失い、同年五月に賢治の実家を頼って花巻に疎開しました。東京からの疎開後に滞在した先々で目にした岩手の初夏の光景に感動した光太郎は、花や山菜などをスケッチして残しました。
また、山口集落(現 花巻市太田)での自然に囲まれた暮らしの中で接した植物もスケッチに残されており、自然を題材にした詩集の構想がうまれました。
 結局詩集は未刊に終わったものの、光太郎が山の暮らしの中で詠んだ詩や散文、スケッチは文芸誌や雑誌、詩集『智恵子抄 その後』に掲載され、世に知られることとなりました。
 今回のテーマ展『山のスケッチ』では、光太郎が花巻で過ごした七年間で描いたスケッチを中心に紹介し、自然を題材にした散文の原稿などの資料を展示します。

展示資料
 散文『七月一日』直筆原稿(初公開資料)4枚
 素描集『山のスケッチ』より鉛筆画および精密複製10点
 他、山のスケッチに登場する草花写真パネル

展示の見どころ
 散文『七月一日』直筆原稿は今回が初公開の資料です。本作は昭和21年に執筆され、昭和25年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載されました。文中では当地で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓にあがる様子が山菜の描写と共に詳細に記されています。東京在住時代に刊行された最初の「智恵子抄」は有名ですが、花巻在住当時に刊行された「智恵子抄 その後」の存在は広く知られてはいません。現在刊行されている「智恵子抄」の原型となった詩集で詠まれた花巻の自然を、今回の展示を通じて知っていただければ幸いです。
000
無題2
展示風景の画像を市役所さんから送っていただいています。
展示風景 (1) 展示風景 (2)
展示風景 (3) 展示風景 (4)
7月1日原稿写真1 7月1日原稿写真2
風薫る5月となり、同館や隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)周辺にも山野草が色とりどりの花を付けたり、新緑が萌え立ったりしていると思われます。ぜひ足をお運びの上、展示と共に自然美もご堪能下さい。

【折々のことば・光太郎】

海草でヤギといふ彫刻材ある由、小生始めて聞く事でまるで此迄知らず、むろん彫つた経験がありません。根付材になりのかと想像しますが、使つてみたいと存じますので、あまり面倒でなかつたら小さいのでいいですから御送り下さいませんか。苟も彫刻に関する事は何でもやつてみたいと存じます。


昭和22年(1947)7月13日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

「ヤギ」は「海草」というより珊瑚の一種です。東は三重県在住。あちらの方の海で産出していたのでしょうか。

花巻郊外旧太田村の山小屋在住中、作品としての彫刻は一点も発表しなかった光太郎ですが、技倆を鈍らせないための鍛錬などのために彫刻刀をふるっていました。現存が確認できていませんが、宮沢賢治実弟・清六の妻に木彫(?)の帯留めも贈りましたし、「蟬」を彫っていたという目撃談も複数存在します。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関係で、昨日も上京しておりました。

行き先は「三岸アトリエ/アトリエM」さん。画家の三岸好太郎(明36=1903~昭9=1934)・節子(明38=1905~平11=1999)夫妻のアトリエで、不定期に開催される一般公開の日に当たっていました。先日、中西アトリエ保存意見交換会の第3回会合がやはり中野区で行われ、その席上で話題に上り、光太郎と三岸夫妻の直接の交流は確認できていませんが、同じ中野区ということもあり、足を運んだ次第です。
PXL_20240424_093807795[1]
現地は鷺宮の住宅街で、カーナビは新青梅街道から信号のない交差点を右に入って数十㍍と指示。「えっ、こんなとこ入ってくの?」というような狭い路地でした。駐車スペースはなく、アトリエ前を通り過ぎて突き当たりを左折、数百㍍行ったところに三井のリパークを見つけて愛車を置き、歩きました。立地条件的には中西アトリエと似たような感じです。
PXL_20240429_015340138
PXL_20240429_022743133
PXL_20240429_022752763
PXL_20240429_015350974
建物は昭和9年(1934)竣工、設計は山脇巌。山脇はドイツのバウハウスで学んだ建築家です。現在の外観は戦時中の空襲による被害の修理で手が入っていますので、一見するとバウハウス感があまりないのですが、古写真を見ると竣工当時はコッテコテのバウハウス風ですね。昭和9年(1934)当時、かなり目をひいたのではないでしょうか。
007
005 009
PXL_20240429_015358985
早速、内部へ。三岸夫妻の令孫に当たられる山本愛子様が対応して下さいました。
002
入口を入ると、まず応接スペースとして使われていたエントランス。
PXL_20240429_022504051
PXL_20240429_022515507
節子の写真も。
PXL_20240429_022510522
左手の小部屋を通り抜けると、広々としたアトリエです。
PXL_20240429_020334941
PXL_20240429_020356158
PXL_20240429_020347362
まず驚いたのが、窓が南面していること。通常、アトリエは北から採光するものです。南からの陽光は時刻によってかなり変わってしまうので。なぜこうなっているのか、山本様もよくわからないとのことでした。
PXL_20240429_021556993 PXL_20240429_020634711
PXL_20240429_020433204
PXL_20240429_020401148
PXL_20240429_020407622
節子と好太郎、波乱に充ちた二人の生涯にしばし思いを馳せました。節子の方はつい先月、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられましたし。

エントランスとの間の小部屋、螺旋階段を上がった二階部分の座敷、廊下、中庭等も拝見。
PXL_20240429_021641205
PXL_20240429_020451238 PXL_20240429_020712655
PXL_20240429_021854383.MP PXL_20240429_021841493
アトリエ内の古写真。上でご紹介した外観同様、無料でいただけるポストカードです。
006
010 011
気になるこのアトリエの活用法について、山本様に伺いました。この手の建築、単に保存するだけでなく、どう活用するかが肝心です。

すると、「三岸アトリエ/アトリエM」というのがこちらの正式名称で、レンタルス多ジオ的な活用が為されているとのこと。
004
ここで撮影が行われた写真が載っているというファッション誌を拝見。なるほど、いい感じでした。現代の写真スタジオでは醸し出しようのない、有機的な空気感というか何というか、そういうものが感じられる写真が掲載されていました。その点、南面の窓から差し込む光がいい方向に作用しているようです。

それから、さらに驚いたのが、映画の撮影でも使われたというお話。吉高由里子さん、横浜流星さん主演の「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)でした。
012
008
2月にやはり吉高さん主演の映画「風よ あらしよ 劇場版」を拝見したばかりでしたので、なおさら驚きました。

いわゆる「聖地巡礼」でこちらを訪れる方もいらっしゃるそうで、それも驚きでした。

それ以外にもギャラリーや講演会の会場、さらに予約制ながらカフェとしても活用されているとのこと。維持管理していくランニングコストという部分を考えると、ご苦労が覗えました。国の登録有形文化財指定は受けているものの、それによる経済的なメリットはないとのことでしたし。

光太郎の使った中西アトリエ、保存が為されたとしても、どのように活用していくべきなのか、ほんとに大きな課題だな、と感じました。

火のない所に煙は立てるわけにもいかないので、かつては中西アトリエの保存にからめた記述は避けてきましたが、当方、各地の「○○生家」や古建築を使った「××記念館」などを数十個所廻りましたその裏側には、それらがどのような経過でそこに存在しているのか、維持管理運営などをいかにして行っているのか、その母体は、原資は、などといった点からの興味もありました。いずれ中西アトリエでもそうした動きが起こるかも、という推測の元に、でした。

現実にアトリエ保存運動が起きて一枚噛ませていただくことになり、そうした点への興味・関心がますますつのっております。

今後は特に光太郎智恵子・光雲らとの縁故はあまり考えず、そうしたスポットを折に触れて見て回ろうと思っております。「ぜひここは見ておいた方がいいよ」という場所がありましたら、ご教示いただけると幸いです。

それから「三岸アトリエ/アトリエM」の公開、5月5日(日)と5月11日(土)にも開催されるそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日開墾にゐる復員者の青年から配給の蚊帳を譲つてもらひました。青年は二帳持つてゐるので不用との事でした。六尺-八尺の一人用白蚊帳で中々よろしく、代金二百六十円。今日としてはやすいと思ひます。


昭和22年(1947)7月16日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、山裾ですので湿気が多く、ボウフラもかなりわいていたのでは、と思われます。

それにしても、今さらながらにこの小屋が光太郎没後に村人達や花巻病院長・佐藤隆房(初代花巻高村記念会理事長)、宮沢家などの尽力によって保存されるにいたり、現代まで残されていることに感慨深い思いです。

ほぼほぼ一気読みしました。

不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯

2024年4月29日 渡邉茂男著 東京図書出版 定価1,800円+税

敬助没後百年──芸術家は死んでも、またその作品が多く失われても、その画業は私たちの心に残っている。敬助が見た未知の世界に私たちも旅立ちませんか。
関東大震災で不幸にも多くの代表作を失った。
柳敬助は東京美術学校西洋画科に学び、アメリカ・フランス・イギリス留学を経て帰国、人物画に秀でていた。荻原守衛・高村光太郎・岸田劉生・青木繁などと同時代の画家である。
001
目次
 はじめに
  関東大震災に遭遇
  柳敬助との出会い  
 第一章 幼少期の柳敬助
  敬助の誕生  敬助とその家族  佐藤校長との出会い  
 第二章 千葉中学校へ
  千葉中学校への進学  堀江正章との出会い  
 第三章 東京美術学校へ
  西洋画科へ  入谷の五人男  美校生活の一コマ  アメリカ留学準備  
 第四章 渡米時代
  アメリカ留学  シアトルからセントルイスへ  セントルイス万国博覧会  
  ニューヨークへ  ヘンライとの出会い  荻原守衛や高村光太郎らとの出会い  
  ヨーロッパに向かう敬助  
 第五章 帰国と様々な出会い
  生家へ  新宿中村屋  荻原守衛の死  信州穂高へ  『白樺』派との付き合い  
  中村屋裏のアトリエ  橋本八重との出会い  パンの会  新井奥邃との出会い  
 第六章 結婚へ――充実した作家活動
  八重と結婚へ  光太郎へ智恵子紹介  画家仲間との交流  
  アトリエ完成(雑司ヶ谷)
  高村光太郎と『読書読』  山を愛した敬助
  
日本女子大学と成瀬仁蔵   西田天香との出会い  
 第七章 死に向かいて
  充実した作家活動  穂高再訪  最後の旅路  死に向かいて  追悼展に向けて  
 第八章 おわりに
 参考文献
 柳敬助年譜

著者プロフィール
 渡邉茂男  (ワヤナベシゲオ)  (著/文)
1950年生まれ。学習院大学文学部哲学科卒業。卒業後、千葉県内の公立高校教員を務める傍ら、地方史の研究に従事。退職後、君津地方社会教育委員連絡協議会会長を経て、現在君津市文化財審議会委員、千葉県文書館古文書調査員。主な著書・論文に以下のものがある。
『学校が兵舎になったとき』(分担執筆 青木書店 1996年)、『君津市史 通史』(分担執筆 君津市 2001年)、『御明細録―上総久留里藩主黒田氏の記録―』(編修代表 上総古文書の会 2006年)、『房総の仙客 日高誠實』(三省堂書店/創英社 2017年)など。

光太郎と深い交流のあった画家・柳敬助(明14=1881~大12=1923)の評伝です。これまで柳に関するまとまった評伝は無く、いわばパイオニアです。

昨秋、千葉の木更津で開催された「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」で講師を務められた渡邉茂男氏の労作で、同講座を拝聴に伺い、本書出版に向けて最終準備中、的なお話で、心待ちにしておりました。

まず驚いたのが、豊富に図版が挿入されているのですが、古写真等を除き大半がカラー印刷である点。版元の東京図書出版さん、自費出版系の書肆ですが、かなりコストが掛かったのでは? と思いました。やはりカラー画像はインパクトが違います。モノクロ画像だけで油絵画家の色調がどうの、筆致がどうのと論じられてもイメージが湧きにくいのですが、こちらはそのあたりが原色で確認できます。

ただ、柳の作品うちのかなりの点数、しかも優品が、大正12年(1912)の関東大震災で焼失しており、それらは画像があってもモノクロなので、その点が返す返す残念です。

柳が歿したのが震災の年の5月。胃ガンでした。そして9月1日から日本橋三越で遺作展が開催されるはずが、ちょうどその日に震災が起こり、集められた作品群が全て灰燼に帰してしまったわけです。

行年数えで43歳と若くして亡くなり、さらに作品の多くが焼失したことにより、柳の業績は忘れられつつあるのですが、それでも現存する作品も少なからずあり、それらにスポットを当てつつ、柳という人物を後世に伝えていこうという強い意志が感じられる一冊でした。

柳の交流の幅の広さにも、改めて驚かされました。光太郎や荻原守衛をはじめとする美術家はもちろん、井口喜源治、江渡狄嶺成瀬仁蔵、新井奥邃、西田天香ら思想家的な人々との交流が目立ち、それが柳という人物の大きなバックボーンを形成している、と、渡邉氏。なるほど、と思いました。その点は光太郎にも言えることかな、という気はしましたが。

そして柳の妻・八重は日本女子大学校の一期生。柳ともども明治44年(1911)に光太郎と智恵子を引き合わせる労を執ってくれました。ところが結婚した柳夫妻に対し、光太郎は「この頃付き合い悪くなったじゃん」的な詩「友の妻」を書いています。智恵子との結婚後は、光太郎、さらに光太郎よりも智恵子が、周囲との付き合いが悪くなるのですが(笑)。

それから、荻原守衛。現存する柳の絵画のうち、かなりの点数が信州安曇野の碌山美術館さんに所蔵されています(遺族からの寄贈がほとんどのようです)。柳と守衛との交流の深さを物語っています。明日、明後日と碌山忌等のため同館に行って参りますので、改めて柳作品、しっかり見て来ようと思いました。ちなみに柳の絵は、同館の第1展示棟で光太郎ブロンズとともに並んでいます。

さて、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日師範校の学生さん五人連にて半日遊んでゆきましたが、お弁当にあの胡瓜の生と塩とをさし上げて大変よろこばれました。五人連には坂上のポラーノの広場を案内、皆々大喜びでした。若い人達は元気でうれしくなります。


昭和22年(1947)6月26日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

キュウリとか塩とかは、宮沢家からの差し入れでしょう。「ポラーノの広場」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋裏手、現在「智恵子展望台」と呼ばれている高台と思われます。

光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関わり、急遽出版された書籍です。

中野・中西家と光太郎

2024年4月2日 勝畑耕一 著  小山弘明 監修  文治堂書店 定価400円+税

目次001
 中西利雄と水彩画
  一 明治期の水彩画について
  二 真野紀太郎との出会い
  三 二人の小山を知る
  四 牛込区水道町界隈
  五 東京美術学校に入学
  六 震災後に中野区・桃園へ
  七 「白山丸」でマルセイユへ
  八 渡欧の四年間
  九 『優駿出場』が帝展特選に
  一〇 結婚・作品集の刊行
  一一 戦争が始まる
  一二 絵を描く喜びを再び
  一三 襲い来る病魔
 光太郎とアトリエ
  一四 昭和二十年の光太郎
  一五 花巻での宮沢家・佐藤家との関り
  一六 賢治没後の清六、心平、光太郎の絆
  一七 山荘での七年間
  一八 十和田湖「乙女の像」制作
  一九 中西家との交友
  二〇 雪の日にアトリエで逝去


当方、「監修」とクレジットされています。とりあえず校正をした程度ですが。

前半は中野のアトリエを建てた新制作派の水彩画家・中西利雄(明33=1900~昭23=1948)の評伝。当方、中西についてはそれほど詳しくはなかったので、「なるほど、こういう人物だったのか」という感じでした。日本に於ける水彩画の普及・発展に果たした役割は大きなものがありました。惜しむらくは数え49歳での早世。戦後となり、これから戦時中の空白を取りもどそう、という時期でしたし。

その結果、主なき新築のアトリエが遺され、貸しアトリエとなったわけで、イサム・ノグチ、そして光太郎が店子(たなこ)となりました。

後半は中西アトリエでの光太郎、というか、そこに入るに至る経緯を含めて終戦の年・昭和20年(1945)からの光太郎についてです。

全44ページと厚いものではありませんが、見開き2ページの片側には必ず中西作品の写真や当時の古写真、古地図等の図版が入り、理解の手助けとなっていて、内容は濃い感じです。

4月2日(火)、日比谷松本楼さんでの第68回連翹忌の集いの際、参会の皆様には配付されたようです(当方、主催者でありながら資料の袋詰めは他の皆さんにほとんどやっていただき、詳しく把握していません)。他に30部程頂いて帰りまして(現物支給が「監修」ギャラです(笑))、その後、連翹忌の欠席者や全国の文学館・美術館さん等のうち、関わりが深そうなところへは、他の配付資料ともども発送している最中です。

ご入用の方、文治堂書店さんへお申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

五月十五日は小生が花巻にはじめて疎開して来た記念日なので、宮沢邸に御礼言上の為花巻に出で、数日間滞在、やつと山へ帰つて来ました。


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

東京を離れてまる二年が経過、というわけです。

昨日も上京しておりました。

目的地は2箇所、まずは上野桜木町の旧平櫛田中邸。山手線だと鶯谷駅か日暮里駅からの方が近いのですが、せっかくの桜のシーズンですので、上野駅から歩きました。

トーハクさん前。
PXL_20240406_025249146
藝大さん前。
PXL_20240406_025553893.MP
寛永寺さん。
PXL_20240406_030052845
谷中霊園入り口的な。
PXL_20240406_030524514
と、桜を見つつ歩いて目的地、旧平櫛田中邸へ。木原萌花さんという方による舞踊の公演「旧平櫛田中邸 de タコダンス」を拝見。
PXL_20240406_030640054 PXL_20240406_030629456
001
公演も勿論ですが、この建物がどう活用されているのか、という部分に非常に興味がありまして。昨年から、光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動に一枚かませていただいており、その関係です。
005
邸宅は住居兼アトリエ。大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。

平櫛田中は光太郎の父・光雲の高弟の一人ですし、ここは一度見ておきたいと前々から思っていたのですが、イベントがある場合のみ公開されるということで、何もない時に行っても見られません。するとちょうどいいタイミングで今回の公演があったというわけです。
003
こちらは保存に関わられた「たいとう歴史都市研究会」さんのパンフレット。他にも古建築の保存に当たられています。同会の方がいらっしゃればお話を伺おうと思っていたのですが、昨日は不在でした。

外観。
PXL_20240406_030659695
PXL_20240406_030710371
PXL_20240406_032629279
細々したパーツなども実にいい感じです。
PXL_20240406_032654594
PXL_20240406_032702766
PXL_20240406_032602971
大正8年(1919)に竣工、昭和45年(1970)に平櫛が小平市に移るまで使われました。その間に部分的には少し手が入れられているかな、という感じでしたが、全般的には竣工時のままでしょう。
PXL_20240406_031353805 PXL_20240406_032811446
住居部分内部。「おばあちゃんの家」みたいな懐かしさを感じます。
PXL_20240406_031150729
あちこちに田中グッズ。
PXL_20240406_031202915
PXL_20240406_031214745
PXL_20240406_031248999 PXL_20240406_031446862
PXL_20240406_031236243.MP PXL_20240406_031403137
PXL_20240406_031424391
PXL_20240406_031457676
アトリエ部分。
PXL_20240406_031623912
PXL_20240406_033024077
ここが公演会場で、バイアスのないフラットな床面でどうお客さんに観(み)せるのかと思っていましたが、カーペットやクッションなどを活用していました。もちろん椅子も。
PXL_20240406_033329299
キャパ的には詰め込んで30くらいでしょうか。昨日は20名程でした。

中野のアトリエも、保存活用が為されるようになったあかつきには、こういった公演等での活用も考えられ、その意味では非常に参考になりました。

さて、開幕。
002
上演時間は約60分。あえて分類すればコンテンポラリーダンスに入るのでしょうが、通常のダンスというイメージはほとんど無く、能楽やバレエのような動作もあり、激しい動きとゆるやかなそれと予想のつかない緩急、そうかと思うといきなり不可思議な「語り」も入り、後半では一度引っ込んでから黒い大きなゴミ袋を纏って再登場したりと、異界に迷い込んでしまったような感覚を味わわされました。
000
将来的に中野のアトリエが活用されるようになったら、ぜひそちらでも演じていただきたいものだと思いました。

終演後、原宿の「デザイン&ギャラリー装丁夜話」さんへ。こちらでは水彩画の個展「ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日」が開催中です。
PXL_20240406_060344307 PXL_20240406_060408363
先月開催された「星センセイと一郎くんと珈琲」の際にもお邪魔しまして、2回目です。偶然でしょうが、光太郎智恵子に関わる個展が短期間に開かれ、ありがたいかぎりでした。

今回は光太郎、中原中也、芥川龍之介の作品からインスパイアを受けたという水彩画の展示。作者のASAKO(井出朝子)氏もご在廊でした。
004
006
PXL_20240406_061148737
「智恵子抄」系。
PXL_20240406_060613096
PXL_20240406_060713689
PXL_20240406_060651627 PXL_20240406_060643608
智恵子肖像は売約済みになっていました。

中也/芥川系。
PXL_20240406_060659032
PXL_20240406_060633348
PXL_20240406_060746575
PXL_20240406_060621130
それぞれの作品と、元ネタの詩文を併せて掲載した画集『琥珀糖』が販売されていて、ゲットしました。装丁夜話さんのオンラインショップでも購入出来ます。
003
「星センセイと一郎くんと珈琲」の際の山口一郎氏の作品と画集もまだ置いてありました。
PXL_20240406_061830907
こちらもオンラインショップで注文可。

今日は開廊、その後、来週4月12日(金)~14日(日)の開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

四五日あたたかだつたので畑をはじめたら、昨夜猛烈な嵐が来て小屋が飛ぶかと思ふほどでしたが、今日はアラレ交りの雪がふつてゐます。


昭和22年(1947)4月22日 小森盛宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。4月下旬でも降雪が普通にある、厳しい環境でした。

都内から個展の情報です。

ASAKO展 春、在りし日、過ぎし日

期 日 : 2024年4月5日(金)~7日(日)、4月12日(金)~14日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

墨画、水彩画などの絵で活動し、たくさんの人に絵画を教えるASAKOさんは今回が初個展。高村光太郎や中原中也の詩を元に作品集を作りました。

ASAKOさんメッセージ
中原中也、高村光太郎、芥川龍之介の詩に、絵を添えた作品集と原画を準備致しました。在廊しております。桜、お花見のついでにお寄りくださいませ。
004
今月、「レモン哀歌」もモチーフとして使われた「星センセイと一郎くんと珈琲」展を開催して下さった、ギャラリー装丁夜話さんで、またしても光太郎インスパイアの作品が出ます。おそらくたまたまなのでしょうが、それだけ現代の作家さんの中にも光太郎オマージュの精神が浸透しているということなのかなと存じ、ありがたいかぎりです。

ASAKO氏、ご本名と思われる「井出朝子」クレジットで『琥珀糖』という画集も出される由、その出版記念的な要素もある個展なのでしょうか。
003
おそらく会場で販売されるのではないでしょうか。

当方、昨日ご紹介した「旧平櫛田中邸 de タコダンス」と併せてお伺いする予定です。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】001

今日は三月十三日、いかにも誕生日らしく、連日の雪がはれて今朝は朝日が雪の上にまばゆく輝き三尺もある軒のツララが日にとけて落ちる音がしてゐます。

昭和22年(1947)3月13日
椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

満65歳となった日の書簡です。便箋代わりに原稿用紙を使っていますが、その上部余白には氷柱の絵。ほんとうに天性の芸術家だったんだな、と改めて思わせられます。

昨日、『毎日新聞』さんの現代アート作家谷澤紗和子紹介記事を引用し、「谷澤氏に限らず現代アートの作家さんたちの中には、智恵子オマージュの作品等をご発表されている方が少なからずいらっしゃいます」と書きましたが、書いてるそばから都内で個展(三人展?)です。

星センセイと一郎くんと珈琲

期 日 : 2024年3月1日(金)~3日(日)、3月8日(金)~10日(日)
会 場 : デザイン&ギャラリー装丁夜話
       東京都渋谷区神宮前1-2-9 原宿木多マンション103
時 間 : 12:00~19:00
料 金 : 無料

星信郎センセイ: デッサン 山口一郎くん: ドローイング 元明健二さん: 珈琲焙煎

東京渋谷区神宮前のギャラリー『 装丁夜話 』にて セツモードセミナー時代の先生 星先生と 山口一郎の絵の展示(販売)が始まります
星先生はデッサン 山口はレモンの絵(A5サイズ額装)です
星先生のデッサンのポストカードブック 山口一郎の、詩人 高村光太郎のレモン哀歌の詩の
装丁夜話オリジナルのポストカードブックの販売もあります
3月の同じ日に生まれた星先生と山口一郎の絵の展示です
セツ モード セミナーの皆さん 興味のある方 ぜひ見に来てください
初日 3月1日(金)星先生 山口一郎 在廊しています(山口は午後3時ごろ、1時間少し打ち合わせで居なくなります)

 ●星信郎 水彩画家 1934年 福島県会津生まれ 春日部たすく・長沢節・穂積和夫に学ぶ
元セツ・モードセミナー講師

●山口一郎 静岡出身。セツ・モードセミナー卒。卒業後、イラストレーターとして雑誌広告の仕事を始める。 1999年、チョイス展 入選、第6回CLSビジュアル・アート展 大賞
JACA展 入選、第5回ART・BOX展 入選、タンカレージン イラストデザイン 入選
2007より、東京青山DEE’S HALLにて定期的に個展を開催。
2011年、香川県人権問題ポスター・CMに作品「コルク人形」が採用される。
同年、香川県の保育所にて芸術士として活動。香川県在住。

●元明健二(がんみょうけんじ) 1955年宮崎県出身、所沢市在住
セツ・モードセミナー美術科研究科卒、ゲリラ
受賞歴-シェル美術賞入選、ターナーアワード大賞
SCAJ(The Specialty Coffee Association of Japan)コーヒーマイスター。
2016年リメナスコーヒー(Limenas Coffee)創業

008
011 013
レモン、一枚一枚異なるようです。

来週、また中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、その際に立ち寄ってみようかと思っております。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此処にアトリエを建築、正式に御招待して彫刻に花を生けていただくやうな日がいつになるか、それは日本の社会事情の恢復次第と存ぜられます。


昭和21年(1946)10月11日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んで約一年。もう少し経つと、彫刻は完全に封印してしまいますが、この頃はまだ彼の地にきちんとしたアトリエを建設するつもりがまだあったようです。

光太郎智恵子と交流のあった画家・津田青楓の評伝です。

津田青楓 近代日本を生き抜いた画家

2023年12月5日 大塚信一著 作品社 定価2,700円+税

洋画・日本画・書の作家、図案家・装幀家、俳人・歌人・随筆家――明治・大正・昭和の激動の時代を必死に生き抜いた多面的な芸術家の生き方を描く、初の本格的評伝!

 明治・大正・昭和と、正に日本近代を必死に生き抜いたのが津田青楓であった。彼が逆境の中でどのように自らの道を開拓していったか、日本近代の激動の歴史に翻弄されつつもそれらといかに対峙していったか、その軌跡はまことに類稀れなものである。芸術は彼にそのための手段を与えた。彼は存分にそれらを活用して、可能な全てのことを行い、時に挫折し、時には成功したのであった。
 私は、津田青楓という一人の芸術家の生き方を辿ることによって、日本近代の光と影に新しい景色を加えることができれば、と願っている。
(本書「プロローグ」より)
001
目次002
 プロローグ
 第一章 京都に生まれて――芸術家の誕生
 第二章 軍隊と戦争の体験
 第三章 結婚と留学
 第四章 漱石との親交
 第五章 続・漱石との親交
 第六章 三重吉と寅彦
 第七章 苦悩する青楓
 第八章 開花する才能
 第九章 河上肇との交流
 第一〇章 続・河上肇との交流、そして挫折?
 第一一章 日本画家としての成熟
 第一二章 青楓にとっての良寛
 エピローグ
 あとがき
 作品図版一覧/人名索引


『朝日新聞』さんの広告で見つけ、購入しました。「初の本格評伝」とあり、言われてみれば津田の評伝って見たことないな、というわけで。

津田は光太郎より3歳年長の明治13年(1880)生まれ。光太郎とは留学仲間で、津田は明治40年(1907)から同43年(1910)にかけ、農商務省の海外実業練習生としてパリに。一方の光太郎は明治41年(1908)にロンドンからパリに移り、そこで知り合ったと考えられます。

光太郎、そして津田も俳句が好きだったようで、光太郎は明治42年(1909)、留学の最後に約1ヶ月旅したイタリア各地からパリの津田宛にせっせと絵葉書を送りましたが、そこには旅の吟がびっしり。現在確認できている光太郎の俳句100句あまりのうち、半分以上がそれです。光太郎から津田宛の書簡はかなり散逸してしまっており、『高村光太郎全集』完結後にもその中の1枚が見つかったり、両者帰国後の明治44年(1911)、光太郎が神田淡路町に開いた画廊「琅玕洞」をたたんで北海道に渡る旨を知らせる葉書が見つかったりもしています。他の書簡もまだどこかに人知れず眠っているような気がします。
無題 d20e7047
琅玕洞では津田の個展も開いています。光太郎は自分の画廊の展評を『読売新聞』に寄稿しました。題して「津田青楓君へ-琅玕洞展覧会所見-」(明治44年=1911)。その中で「友人といふので口の利き易い所から、感じた儘を無遠慮に書いた」とし、確かに歯に衣着せぬ評をしています。曰く「少し失望したよ。君が思ひの外、油絵具にこき使はれてゐるからさ」「君のいつもの熱は何処へ行つたのだらう。あべこべに顔料に追はれて居る様に見えるのは、製作時に於ける此の熱の不足から来たのぢやないかと思はれる」など。たとえ親しい間柄でも、このあたり、光太郎は妥協しませんでした。

津田は智恵子とも交流がありました。

おそらく明治43年(1910)のことと思われますが、後に津田が書いた『老画家の一生』という書籍(昭和38年=1963)に次の記述があります。

 亀吉の陋屋にも、人の出入りが次第に多くなつた。
 目白駅に通じる大通りには、成瀬仁蔵といふ人の創立した女子大学があつた。自然画好きの女学生もやつてきた。
 近所にはアメリカ帰りの柳敬助といふ画家がゐた。その奥さんは女子大出身で、後には柳君の家庭とも往来するやうになつた。
 巴里時代知り合ひだつた斎藤与里君も、程近い処に住んでゐたので、散歩の行きか帰りにしばしば訪れた。その横町の足袋屋の二階には相馬御風君がゐた。彼は早稲田出で、当時『早稲田文学』の編輯をやつてゐた。
 亀吉の町内に小川未明君がゐた。彼は東北出身で、言葉に特別な訛りがあつた。我儘で短気者だつた。
 往来してゐる者はすべて地方出身の野武士で、亀吉のやうな京都そだちはあたりに居なかつた。
 すこしあとになつてからのことかもしれないが、長沼智恵子(後の高村光太郎氏夫人)といふ、女子大の生徒もきた。家では教へなかつた。彼女が画架を据ゑて描いてゐる所へ行つて助言したり、雑司ヶ谷にある彼女の住居へも出かけて行つたことがある。彼女は艶といふか色つぽいといふか、いつも裾の方に長襦袢の赤いものを少しのぞかせて、ぞろぞろ歩きだつた。カチカチの女子大には珍らしい存在だつた。


「亀吉」は本名「亀治郎」の津田自身です。

また、同じ頃の回想で、津田の最初の妻でやはり画家の山脇敏子もこう書いています。

 その頃夫の友人で色々の人々と交際していた。先ず女の人では青鞜社の物集和子、平塚雷鳥、杉本正生、長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)、文士では寺田寅彦、鈴木三重吉、内田百閒、小宮豊隆、森田草平、小川未明、茅野蕭々、滝田樗蔭、島中健作、秋山光夫、阿部次郎、安倍能成、それと先生の夏目漱石の諸氏が私の記憶に残つている。

そして再び津田。昭和23年(1948)に発行された『漱石と十弟子』の一節で、「美代子」という仮名になっていますが、やはり智恵子が登場。

 午後から長沼美代子さんがくる。一緒に鬼子母神の方へ写生に出る。美代子さんは女子大の寄宿舎にゐる。学校を卒業したのやら、しないのやら知らない。ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着てゐる。その裾は下駄をはいた白い足に蓋ひかぶさるやうだ。それだけでも女子大の生徒と伍してゐれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一、二寸もちらつかせてゐるから、道を歩いてゐると人が振り返つて必ず見てゆく。しかもそろりそろりとお能がかりのやうに歩かれるのだから、たまらない。美代子さんの話ぶりは物静かで多くを言はない。時々因習に拘泥する人々を呪うやうに嘲笑する。自分は只驚く。彼女は真綿の中に爆弾をつつんで、ふところにしのばせてゐるんぢやないか。
 彼女は言つた。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

最後の智恵子のせりふは、智恵子評伝や二次創作などの中でよく使われるものです。当方も使いました(笑)。

そんな津田の「初の本格的評伝」だそうで、まだ精読していないのですが、おいおい読んでいきたいと存じます。ただ、光太郎に関わる箇所をざっと見たのみでも誤植などが目立つのが残念ですが……。

ともあれ、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

資材不足には小生も閉口してゐます。絵具が無くなつてはお困りでせうが当分は鉛筆だけでも勉強する外ありません。小生もまだ彫刻には本当に取りかかれずにゐますが、野山のものを写生しながらますます自然の美の深さにうたれます。

昭和21年(1946)8月2日 小林治良宛書簡より 光太郎64歳

戦後になっても物資不足がすぐ解消したわけではなく、特に画家は絵の具の入手に困難を極めていたようです。

新作映画の情報です。

火だるま槐多よ

上 映 : 東京都  K’s cinema    12/23(土)~
      神奈川県 横浜シネマリン  2/10(土)~
      栃木県  宇都宮ヒカリ座  1/26(金)~2/1(木)
      長野県  千石劇場     1/5(金)~1/18(木)
           上田映劇     2/16(金)~
      愛知県  シネマスコーレ  時期調整中
      大阪府  第七藝術劇場   1/6(土)~
      京都府  アップリンク京都 1/19(金)~
出 演 : 遊屋慎太郎 佐藤里穂 工藤景 涼田麗乃 八田拳 佐月絵美 田中飄 佐野史郎
監 督 : 佐藤寿保

映画『火だるま槐多よ』は、22 歳で夭逝した天才画家であり詩人の村山槐多(1896~1919)の作品に魅せられ取り憑かれた現代の若者たちが、槐多の作品を彼ら独自の解釈で表現し再生させ、時代の突破を試みるアヴァンギャルド・エンタテインメント。タイトルの由来は、槐多の友人・高村光太郎の詩「強くて悲しい火だるま槐多」である。

あらすじ
 大正時代の画家・村山槐多の「尿する裸僧」という絵画に魅入られた法月薊(のりづき・あざみ)が、街頭で道行く人々に「村山槐多を知っていますか?」とインタビューしていると、「私がカイタだ」と答える謎の男に出会う。その男、槌宮朔(つちみや・さく)は、特殊な音域を聴き取る力があり、ある日、過去から村山槐多が語り掛ける声を聴き、度重なる槐多の声に神経を侵食された彼は、自らが槐多だと思いこむようになっていたのだった。
 朔が加工する音は、朔と同様に特殊な能力を持つ者にしか聴きとれないものだが、それぞれ予知能力、透視能力、念写能力、念動力を有する若者4人のパフォーマンス集団がそれに感応。彼らは、その能力ゆえに家族や世間から異分子扱いされ、ある研究施設で”普通”に近づくよう実験台にされていたが、施設を脱走して、街頭でパフォーマンスを繰り広げていた。研究所の職員である亜納芯(あのう・しん)は、彼らの一部始終を観察していた。
 朔がノイズを発信する改造車を作った廃車工場の男・式部鋭(しきぶ・さとし)は、自分を実験材料にした父親を殺そうとした朔の怒りを閉じ込めるために朔のデスマスクを作っていた。薊は、それは何故か村山槐多に似ていたと知り…

村山槐多(むらやま・かいた)
 1896~1919大正時代の日本の画家で、詩人、作家でもある。
 従兄の山本鼎(画家)に感化され画家を志し、中学生(旧制)の頃より美術、文学に異彩を発揮。ガランス(深紅色)を多用した独特の生命力に溢れた絵画は、二科展、日本美術院展などに入選し、異色作家として注目されたが、破滅的な放浪生活の末、流行性感冒で1919年2月20日死去。
 絵画の主要作に「カンナと少女」「湖水と女」「尿する裸僧」など。詩集に「槐多の歌へる」(遺稿集)など。小説に「悪魔の舌」など
001
002
光太郎と交流のあった鬼才の画家・村山槐多をモチーフとした作品です。ただし、槐多自身を主人公としているわけではなく、槐多の精神に感応した現代の若者がさまざまな事件に巻き込まれ……というストーリーのようです。

したがって、光太郎も登場しないと思います。ただ、過去に槐多が見た風景、的なシーンがあればそこに光太郎の姿があるかもしれませんが。





タイトル「火だるま槐多よ」は、光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)から。

   村山槐多

 槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。
 又がたがた下駄をぬぐと、
 今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
 風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
 黒チョオクの「令嬢と乞食」。

 いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
 五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
 強くて悲しい火だるま槐多
 無限に渇したインポテンツ。

 「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
 「居るよ。」
 「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

 眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
 自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

昭和10年(1935)というと、大正8年(1919)の槐多死去から15年以上経っています。光太郎、翌年にはやはり数十年前に亡くなった碌山荻原守衛をテーマにした詩「荻原守衛」を書きました。なぜこの時期に相次いで古い友人たちを唐突とも思えるタイミングで詩に謳ったのか、不思議です。

ところで、X(旧ツイッター)上で、「火だるま」がトレンド入りしていました。
004
てっきりこの映画のからみかと思い、「おお!」という感じでしたが、さにあらず。実はこういう件で、笑いました。
003
笑っている場合ではないのかもしれませんが(笑)。

X(旧ツイッター)といえば、当会アカウント、「映画「火だるま槐多よ」公式」さんがフォローして下さいました。ありがとうございます。
005
というか、さっさとブログで紹介しろよ、ということでしょうか(笑)。

閑話休題。多くないのが残念ですが、ぜひお近くの上映館にてご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の戦時中の詩について摘発云々の事はいささかも驚きません。先方の解釈次第にて如何やうにでも取扱はれるがいいと思つてゐます。小生の詩は多く戦争によつて触発された人間美をうたつたものですが此際解明などしたくもありません。


昭和20年(1945)12月23日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎63歳

この年12月8日、日本共産党が開いた「戦争犯罪人追及人民大会」で、光太郎もリストアップされたことに関わると思われます。結局、光太郎は公的には戦犯として訴追されることはありませんでした。しかし、自分の詩を読んで戦場で散華していった多くの前途有為な若者たちがいたことを知るにつけ、私的に自らを罰する方向に梶を切っていきます。そうなるまでまだ少し時間を要しますが。

11月2日(木)、岩手花巻から帰りましたが、席の暖まる暇もなく吹っ飛び歩いております(笑)。このブログで紹介すべき事項が山積しておりまして、2件分、レポートいたします。

11月4日(土)、銀座王子ホールさんで「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」を拝聴。
ed92180e-s PXL_20231104_043602009
001
ソプラノ歌手・福成紀美子氏のリサイタルですが、プログラムはすべて朝岡真木子氏作曲の歌曲。
002
ピアノ伴奏(最近は「伴奏」という言い方もあまりしなくなってきているのですが)もすべて朝岡氏。さらに第2部では福成氏が師とあがめるテノールの下野昇氏も加わられました。
003
下野氏、何とおん歳87歳だそうでした。とてもそう思えない若々しい、しかし若造には出せない円熟味のあるお声での歌唱でした。

ほぼほぼ現代の詩人の皆さんの詩に曲をつけられたものでしたが、野上彰の詩や与謝野晶子の短歌もテキストに使われ、そして第1部のトリが光太郎の「冬が来た」(初演)。

つぱりと冬がた 八つ手の白い花もえ 公孫樹のも箒(はう)になつた」と、「き」を多用して冬の硬質な空気感を表現しようとした光太郎。朝岡氏の曲も僅か数秒のピアノの鋭い前奏でその感じがよく表されていましたし、その後の展開にも光太郎の世界観が滲み出ていました。ある種、行進曲風な部分などもあり、本郷区駒込林町団子坂上の木枯らし吹きすさぶ冬の街路を大股に闊歩する光太郎の姿が浮かんでくるような……。また、福成氏の歌唱も「きつぱり」感満載でした。

他の曲では、構成の妙を感じました。第1部だと「冬が来た」を含め、「四季折々」的に組んだ箇所、第2部では楽しい「食べ物シリーズ」。一人の詩人によるものでなくても充分にこういうことが可能なんだ、と思いました。

終演後。
PXL_20231104_070137373
全て終わった後のホワイエ。
PXL_20231104_071038684
今後も光太郎詩に曲を付け続けていっていただきたいものです。

ちなみに朝岡氏の組曲「智恵子抄」を歌われ、CD(手前味噌で恐縮ですが当方がライナーノートの一部を書かせていただきました)もリリースされた清水邦子氏もいらしていましたし、別宮貞雄氏作曲の歌曲集「智恵子抄」を、ご自身のリサイタルを含め複数の演奏会で積極的に演目に入れられたり、CDをリリースされたりなさっているテノールの紀野洋孝氏もいらっしゃいました。というか、何と当方のすぐ後のお席に座られていました。清水氏が気がつかれて、「紀野さんがいらしてますよ」。「ありゃま」でした(笑)。

昨11月5日(日)、千葉県木更津市へ。同市中央公民館で開催された「第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯」を拝聴して参りました。同市に隣接する君津市出身の画家で、家族ぐるみで光太郎夫妻と交流の深かった柳敬助を取り上げる講座でした。
PXL_20231105_041255713 004
講師は渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)。
PXL_20231105_045859193.MP
PXL_20231105_043748424
柳の生涯に関しては、アウトライン的なところは頭に入っていましたが、詳しくは存じませんで、「へー、なるほど」の連続でした。光太郎智恵子と知り合う以前の話や、熊谷守一や新井奥邃など、光太郎とも関わりのあった人物とやはり交流があったという件など。

光太郎智恵子にも随所で触れて下さいました。
PXL_20231105_053030736
PXL_20231105_055751844
PXL_20231105_060840797
PXL_20231105_061044325
PXL_20231105_060543813
日本女子大学校での智恵子の先輩・橋本八重と結婚し、付き合いが悪くなった(?)柳を非難するというか、揶揄するというか、そんな詩「友の妻」も光太郎は発表しました。執筆は明治45年(1912)7月21日、『スバル』への寄稿は大正に改元された後の8月でした。
PXL_20231105_060318194
光太郎はこの時点では既に柳夫妻から智恵子を紹介されていました。しかし、父・光雲の庇護下を離れて独立独歩でやっていこうと決意したころなので、貧窮するに決まっている生活に智恵子を巻き込む気にはならず、結婚までは考えていなかったと思われます。それが変わるのは、8月末から9月頭、銚子犬吠埼に写生旅行に来ていた光太郎を智恵子が急襲(笑)してからです。その意味では、「友の妻」は、「俺は柳みたいに結婚してデレデレしないぞ」という意思表明だったかもしれません。ちなみに同じく明治45年(1912)に書かれた小品「泥七宝」の中にも「妻もつ友よ/われを骨董のごとく見たまふことなかれ/ひとりみなりとて」という一節があります。これも柳にあてたものでしょう。

その他、柳・光太郎共通の親友、碌山荻原守衛についてもかなり詳しく。
PXL_20231105_054934854
PXL_20231105_055228776
PXL_20231105_061832931
なかなかに充実した内容でした。

柳自身は、大正12年(1923)に若くして病死。その年に日本橋三越で開催された回顧展の開幕日が関東大震災と重なり、多くの作品が焼失しました。そのためもあり、現在では忘れ去られつつある画家の一人です。

講師の渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)、来春『不運の人ー柳敬助の評伝ー』という書籍を刊行なさるそうです。まとまった柳の評伝はこれまで一冊もないとのことで(確かに見かけた記憶がありません)、これはぜひゲットしなければ、と思っております。

さて、関係の皆様の今後の活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

静かな駒込林町も今日は空襲の主戦場となり四辺姿をあらためるほどの状態となりました。それにつけ所持のいろいろのものを諸方の友人知人の許に分散いたしたく近日のうちに智恵子の切抜絵を貴下にお贈りして御所有願ひたく御迷惑ながら御承引願上げます。自宅に置いて煙にしてしまふのも心無きわざと思ひますので此事切にお願いたします。


昭和20年(1945)3月10日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

3月10日といえば、いわゆる東京大空襲の日です。この日の空襲では駒込林町は大きな被害を逃れましたが、その後も空襲は断続的に続き、光太郎自宅兼アトリエは4月13日の空襲で灰燼に帰します。

そうなる前にと、智恵子の紙絵、光雲遺作、そして自分の作品も一部、郊外に住むほうぼうの友人知己のもとに疎開させることにしました。結果的には正しい判断でした。

画家・柳敬助。光太郎より2歳年上で、東京美術学校の西洋画科、さらに黒田清輝の白馬塾に学びました。アメリカ留学中に光太郎、さらに荻原守衛と親しくなり、帰国後も交流が続きました。光太郎とは留学前から面識があった可能性がありますが、親交を持つようになったのはニューヨークでのことです。
001
さらに柳の妻・八重は日本女子大学校での智恵子の先輩。そこで、明治44年(1911)、光太郎智恵子の最初の出会いの際には八重も同席していました。

そこで、光太郎を扱った映画や演劇、小説などでは、光太郎と智恵子を結びつけた重要な役どころとして柳夫妻が登場することが多く、当方執筆のジュブナイル「乙女の像ものがたり」でもそうさせていただきました。



動画は、一昨年、「乙女の像ものがたり」を「おもしろい」と言って下さった朗読家・北原久仁香さんによるものです。

その柳敬助、今年が没後100年にあたります。関東大震災のあった大正12年(1923)の5月、病のため数え43歳の若さでなくなっています。没後に日本橋三越で開催された遺作展は、ちょうど関東大震災当日が初日で、多くの作品が灰燼に帰してしまいました。

没後100年を記念して柳の出身地・千葉県上総地域で偲ぶイベントが、2件ヒットしました。

第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯

期 日 : 2023年11月5日(日)
会 場 : 木更津市中央公民館 千葉県木更津市富士見1丁目2番1号
時 間 : 14:00~15:20
料 金 : 400円

講 師 : 渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)

本年は、君津市泉出身の著名な洋画家、柳敬助の没後100年にあたります。わが国の西洋画黎明期に活躍した柳敬助の生涯や生き方を、房総や京都などに残された新出絵画などを含めて、高村光太郎、荻原碌山、新宿中村屋夫妻などとの出会いの中でお話しします。

地方紙『新千葉新聞』さんに予告記事。

房総の地域文化講座 講師は渡邉茂男氏

 房総の地域文化を学ぷ会(会長・篠田芳夫、元君津地方公民館運営審議会委員連絡協議会会長)主催、「第116回房総の地域文化講座」が、11月5日(日)午後2時から3時20分まで(受付開始は午後1時30分)、木更津市中央公民館(JR木更津駅西口前「スパークルシティ木更津」6階)の第7会議室で開かれる。
 テーマは『没後100年、画家・柳敬助の生涯』。講師は渡邉茂男氏(君津市文化財審議会委員)。
 今年は、君津市泉出身の著名な洋画家、柳敬助の没後100年にあたる。
わが国の西洋画黎明期に活躍した朷敬助の生涯や生き方を、房総や京都などに残された新出絵画などを含めて、高村光太郎、荻原碌山、新宿中村屋夫妻などとの出会いの中で話す。
 会員でなくても受講できる。受講料(中学生以上)は非会員のみ400円、会員は無料。非会員は事前申し込みが必要。
 なお、同公民館には駐車場がないが、近くの成就寺境内の市借用無料駐車場が利用できる(周辺に有料駐車場もあり)。またマスク着用など、コロナ感染防止策に協力を求めている。
 参加申し込み・問い合わせは筑紫敏夫(つくしとしお)幹事長までメールか電話で。
 ℡090-3431-9483(留守電に伝言メッセージを入れてください。折り返し連絡します)。
 メールアドレス toshi-551223@kzh.biglobe.ne.jp
000
また、木更津市に隣接する君津市小糸地区(ピンポイントで柳の出身地の近くだそうで)では、柳の作品展示。「第52回小糸地区文化祭」の一環ということで、明日、明後日です。
007
008
009
010
お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

何しろかういふ時ですから全力を出して自分の為すべき事を為すのみです、正しい美の世界を日本からまづ生み出してゆかねばなりません、その地ならしをするだけでも果し得れば本懐と思つてゐます、


昭和19年(1944)3月15日 伊藤海彦宛書簡より 光太郎62歳

昭和19年(1944)となり、戦争も末期に入ってきました。相変わらず様々な翼賛運動に関わっていた光太郎ですが、その根底にはこういう心境、そして人心を荒廃から護るという使命感のようなものがあったようです。

一方で、遠く明治末、柳と共に過ごしたアメリカで受けた人種差別に対する遺恨というか、意趣返しというか、そういう一面も確かにありました。

光太郎の盟友の一人、岸田劉生について、一昨日の『朝日新聞』さん夕刊の週一連載「美の履歴書」で大きく取り上げられました。現在、六本木の泉屋博古館東京さんで開催中の「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」出品作「塘芽帖」の紹介で、ちらりと光太郎の名も。

美の履歴書:814「塘芽帖」岸田劉生 秋の日、思い巡らすのは

 濃厚でグロテスクな麗子像で知られる、画家の作品とは思えない。ささっとした筆致で、肩の力を抜いて描いたような印象だ。舞台は、作者の岸田劉生が鎌倉に構えた画室「塘芽庵」。秋の日、ほおづえをつき、物思いにふける自身の姿を描いている。
 季節の移ろいに心境を託して作られたこの画帖(がじょう)には、南画風のツバキやタケノコ、ナスなどの絵もある。「塘芽」とは、中国画(唐画)を収集した劉生の雅号だ。
 本作は孤独や憂愁がにじみながら、自然に囲まれた静謐(せいひつ)な環境での思案に穏やかさも感じる。「冬臥(とうが)山人」(冬に寝てばかりいる)「冬瓜(とうがん)山人」(冬瓜ばかり描いている)と、言葉遊びをしながら、自らを揶揄(やゆ)。さらに「飽画(ほうが)山人」とまで書いている。
 つまりは、「絵に飽きた」。ただ、泉屋博古館東京の野地耕一郎館長は「描く意欲はまだまだ持ち続けていたのでは。巻き返しを図ろうとしていた時代の産物だと思う」と話す。
 関東大震災で被災し、京都へ移った劉生は、美術作品を買いあさり、茶屋遊びにおぼれ、生活や制作に支障をきたす。そんな状況を一新して再起を図るため、1926年に引っ越したのが鎌倉だった。野地さんは、冬臥山人などと自身を笑っているところについても、「自分を外側から冷たく見ている。劉生の成長や成熟、酸いも甘いもかみわけ始めたところを感じます」。
 これは28年ごろの作品とみられる。翌29年に中国東北部を訪れ、意欲的に創作した油彩の風景画は温かみがある。新たな境地へ、何かをつかみかけていた時期だったのだろう。だが同年、体調を崩していた劉生は、帰国して急逝する。38歳だった。

005
美の履歴書
・名前 塘芽帖
・生年 1928年ごろ
・体格 縦33.3㌢×横48.1㌢
・素材 紙本墨画着色
・生みの親 岸田劉生(1891~1929)
・親の経歴 東京・銀座生まれ。独学で水彩画を描き始め、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に洋画を学ぶ。雑誌「白樺(しらかば)」で紹介されたゴッホらポスト印象派の作品に衝撃を受ける。1912年に高村光太郎らとヒュウザン会を設立した。15年には木村荘八や椿貞雄らとともに草土社を結成。春陽会にも名を連ねた。デューラーや北方ルネサンスの写実的な作品に傾倒したり、浮世絵や中国絵画に学んで東洋的な油彩画や日本画を手がけたりと、画風が変遷。娘の麗子をモデルに描いた。中国東北部への旅行から帰国後、山口県で死去。
・日本にいる兄弟姉妹 東京国立近代美術館や京都国立近代美術館などに。
・見どころ 「冬瓜山人」とあるように、劉生はトウガンをモチーフにした静物画をいくつも描いた。実際、円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真がある。


紹介されている作品は令和元年(2019)、東京駅構内の東京ステーションギャラリーさん他を巡回した「没後90年記念 岸田劉生展」に出品されて拝見しました。それまで劉生の日本画についてはほとんど存じませんで、ああ、こんな絵も描いていたんだ、という感じでした。

記事にある「トウガンをモチーフにした静物画」はこちらなど。
001
劉生というと、ポスト印象派風の「道路と土手と塀(切通之写生)」や、なぜか題名が「智恵子抄」だと勘違いされている「麗子」シリーズなどが有名ですが、これはこれで劉生の一境地ですね。
009 010
円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真」はこちら。
002
『朝日』さんの「美の履歴書」、取り上げられるのはマイナーな作家や「作者不明」というものも多く、劉生クラスのメジャーどころだと今回のようなあまり有名ではない作品にスポットが当てられるケースがほとんどです。ぜひとも光太郎や父・光雲、実弟・豊周なども取り上げていただきたいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ拝見して驚きました。二三日考へてゐましたがどうも弱りました、此は当然横山大観氏あたりが引きうけるものではないでせうか、もう一度お考へ下さい、

昭和14年(1939)1月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎57歳

茨城取手の長禅寺に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」題字揮毫に関わります。碑の揮毫というと、既に昭和11年(1936)、花巻に建てられた宮沢賢治(ちなみに今日が命日)の「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしていますが、芋銭とはおそらく面識も無かったのではないかと思われ、一旦は固辞しました。しかし結局は三顧の礼を尽くされて引き受け、この年6月には除幕となりました。
ib21 003
004
cd316680-s
光太郎の揮毫は題字のみです。

「絵手紙」の創始者、小池邦夫氏が先月末に亡くなりました。今月初めには訃報が出たようですが、気づきませんでした。今朝の『朝日新聞』さん一面コラム「天声人語」に氏が亡くなったことが書かれていて知った次第です。

共同通信さん配信記事。

書家の小池邦夫さん死去 絵手紙を普及、82歳021

 手がきの素朴な絵と文字で心情を伝える絵手紙の普及に努めた書家の小池邦夫(こいけ・くにお)さんが8月31日午後3時57分、胃がんのため東京都狛江市の自宅で死去した。82歳。松山市出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は妻恭子(きょうこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。
 東京学芸大書道科で学び、1985年に日本絵手紙協会を設立。「ヘタでいい、ヘタがいい」を合言葉に絵手紙の普及に励み、初心者の指導にも力を入れた。2021年に文化庁長官表彰。著書に「小池邦夫絵手紙50年」など。

小池氏故郷のテレビ愛媛さん。

絵手紙の創始者 松山出身の小池邦夫さん 胃がんのため死去 葬儀は近親者で

絵手紙の創始者で松山市出身の小池邦夫さんが、8月末に亡くなっていたことが5日までに分かりました。82歳でした。
014
小池さんは8月31日に胃がんのため都内の自宅で亡くなりました。82歳でした。葬儀は近親者のみで執り行われる予定です。
015
小池さんは松山市生まれで松山東高校から東京学芸大学へ進学。19歳から絵手紙を描き始め1985年に日本絵手紙協会を設立し、テレビなどによる発信で全国に文化を広げました。
016
また2021年には文化の振興に貢献したとして文化庁長官表彰を、去年は松山市文化スポーツ栄誉賞を受賞していました。
017
小池さんの絵手紙はその時々に感じた感動を素直に表現。思いがそのまま相手に伝わるのが特徴でした。
018
日本絵手紙協会は「故人の遺志を引き継ぎ、絵手紙の普及活動に取り組む」としています。

氏が主宰されていた日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。氏が光太郎ファンだったようで、繰り返し光太郎特集を組んで下さいましたし、平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていました。
PXL_20230917_220947999 PXL_20230917_221001855
また、氏の編著等でも、光太郎の絵手紙をご紹介下さったりも。

『心を贈る絵手紙入門』(平成11年=1999 日本放送協会出版)。当時のNHK教育テレビで放映されていた「趣味悠々」のテキストです。
002 004
『芸術家・文士の絵手紙』(平成16年=2004 二玄社)。
001 005
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

智恵子葬儀も無事終了、明日は早や三七日となりました、明日は春子と一緒に墓参をいたします、


昭和13年(1938)10月24日 長沼セン宛書簡より 光太郎57歳

智恵子実母に宛てた書簡から。「春子」は智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付き添いを務めた長沼春子です。

葬儀は10月8日、駒込林町のアトリエ兼住居で執り行われました。その様子を謳った詩。約3年後、詩集『智恵子抄』刊行に際し、書き下ろされました。
.trashed-1687696072-FB_IMG_1685102844863_color-1
   荒涼たる帰宅

 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

画像は最近流行りのモノクロ画像をカラー化するアプリで作ってみました。

9月10日(日)、京橋のアーティゾン美術館さんを後に、地下鉄を乗り継いで千代田区の半蔵門ミュージアムさんへ。こちらでは「堅山南風《大震災実写図巻》と近代の画家 大観・玉堂・青邨・蓬春」展が11月5日(日)まで開催中です。
PXL_20230910_030419691 PXL_20230910_022901119
日本画家・堅山南風が関東大震災を描いた「大震災実写図巻」全3巻を中心に、横山大観、棟方志功ら同時代の作家の作品(そちらは震災とは無関係)が展示されています。
002
南風は震災当時巣鴨に住んでいましたが、翌日から紙と矢立を手に東京市内、特に被害の大きかった下町方面を中心にスケッチをして廻り、二年後に31葉の絵を全3巻の絵巻として完成させました。ただし今回の展示、31葉全てが見られるように広げられているわけではありませんでした。

日本画ならではの墨が効果的に使われ、恐ろしいまでの臨場感でした。浅草凌雲閣(通称・十二階)が倒壊する様子(空中に投げ出された人まで描き込んでありました)などは伝聞や想像を元に描かれたものでしょうが、大半は自身の見た惨状。ドサクサに紛れて追い剥ぎをする人物なども描かれ、人間の暗部も描かれています。しかし、上中下と巻が進むにつれ、助け合って復興に向かう人々や、市外からの支援の様子なども題材となり、最後は犠牲者への鎮魂の祈りを込めた仏画で締めくくられています。

図録は刊行されていませんでしたが、4枚だけポストカードが販売されていました。

時系列順に。
007
006
001
000
残念ながらポストカードになっていませんでしたが、目当てはフライヤーにも使われていた中巻の「貼札ヲ着タ銅像」。光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校総出で作られた上野公園の西郷隆盛像が描かれています。

現物は撮影禁止だったものの、エントランスの大看板にほぼ実物大の画像があしらわれていて、そちらを撮りました。
PXL_20230910_024804225
PXL_20230910_024813286 PXL_20230910_024817781
この西郷像の姿、当時の動画にも収められていたり、現代でも森まゆみ氏の新著『聞き書き・関東大震災』では表紙に使われていたりと、いわば関東大震災を象徴するアイコンともいえるような感じですね。

再び地下鉄を乗り継いで、上野へ。

100年後のリアル西郷さん。
PXL_20230910_033942083
PXL_20230910_033949702 PXL_20230910_034004523
こちらが目的で上野に行ったわけではなく、「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」を拝観するため東京国立博物館さんに行くのが目的でしたが、ちょうど通り道だったもので。

というわけで、明日はトーハクさんをレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

今年のお初穂の餅は殊におめでたく早速亡父の霊前にもお供へいたしました 父光雲はすべてのたなつものの類に敬虔の念を持つて居りました 又納豆は小生の好物とて是又ありがたく頂戴いたしました


昭和12年(1937)11月6日 長谷川吉三郎宛書簡より 光太郎55歳

一昨日のこの項でご紹介した色紙二点の礼として、山形の銀行家・長谷川から餅と納豆を贈られた礼状の一節です。

「たなつもの」は穀物。「納豆は小生の好物」だったのですね。そういえば、花巻高村光太郎記念館さん前の「詩の森」さんで出していた「光太郎そば」には、「光太郎の好物だった」ということで納豆がトッピングされていました。「ほんとかよ?」と思っていたら本当でした(笑)。

ちなみに「詩の森」さん、先月末で閉店とのこと。残念です。しかし、キッチンカーで移動販売をなさっている方が「光太郎そば」を受け継ぐと言うお話もあるようです。

宮城レポートの最終回です。

8月10日(木)、2泊した女川町を後に、千葉の自宅兼事務所に戻る前、松島町に立ち寄りました。

松島湾。
PXL_20230810_005801927.MP
PXL_20230810_005811640
目的地は瑞巌寺さん。こちらの宝物館で、先月から「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催されています。一関さんには、10年前の連翹忌の集いでアクションペインティングをお願いいたしました。
PXL_20230810_005322127 PXL_20230810_004315095
まずは本堂に礼拝。
PXL_20230810_003911714
さらに庫裡へ。
PXL_20230810_003959006
こちらには、光太郎の父・光雲の手になる彩色聖観音像が納められています。
12fb5960 6444060b
元々は、昭和2年(1927)に宮城電鉄が松島まで延伸された際、無事故等を祈願して同社が発願。当初は瑞巌寺さんではなく、松島海岸駅近くのお堂に納められていましたが、その後、こちらへ移されました。当方、こちらを拝観するのは3回目でしたが、何度観ても神々しいお姿です。

続いて宝物殿。こちらで「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催中です。
PXL_20230810_005127399
002
003
フライヤーには先述の聖観音像。その作品も展示されていました。下記は一関さんサイトより。
無題
その他、花鳥風月、伊達政宗公などなど。
001
ロビーに展示されていた七夕飾りのみ、撮影可でした。
PXL_20230810_005012525
PXL_20230810_005027740 PXL_20230810_005020687
PXL_20230810_005036229
こちらは10月1日(日)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

以上、宮城レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

いつてみたいのは年来の事ですが、去年の夏以来ちゑ子の病気がわるくて此頃では小生一日も外出する事不可能になりました、 ちゑ子の恢復するまでは小生禁足の状態です、


昭和8年(1933)12月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎51歳

釧路在住の詩人・更科からの北海道に来ませんかという誘いに対しての返答です。年が明けると智恵子の病状も少し快方に向かいますが、この頃はかなりひどかったようです。

都内の画廊で開催中、及び明日からの展示を2件。

まずは地方紙『福島民報』さんの記事から。

安達太良高原の自然生かした作品注目集める 15日まで都内で作品展 福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん

 福島県の安達太良高原の自然光や風景、音をアートにした作品展「MIND LIGHTNESS」が東京・銀座のギャラリー「巷房」で開かれ、注目を集めている。福島市出身の照明デザイナー・東海林弘靖さん(65)=東京・LIGHTDESIGN社長=が二本松市に建設した光の研究観測施設「あだたらキャビン」からライブ配信される映像のインスタレーション(空間芸術)と、東海林さんが現地で受けた印象を描いたクレヨン画50点を展示している。15日まで。
 ライブ映像にはあだたらキャビンから見える安達太良山の空の変化が映し出され、風や森のざわめき、野鳥のさえずりや虫の音が響く。作品名を「ほんとの空/Watch inside yourself」と名付けた。画面を薄い紙で覆い、幻想的な効果を演出する一方、鮮明な自然の音で想像力を刺激。都会と本県の雄大な自然を結び、来場者を魅了している。
 クレヨン画はさまざまな色の空や山、街の明かりなどを「光のかけら」として10センチ角のキャンバスに抽象的に表現した。世界各地を旅して浴びた光の印象を描いた作品もある。
 東海林さんは「東京で感じ、発信する安達太良山の力は一層大きく感じる」と語る。2025年大阪・関西万博の会場デザインプロデューサー補佐・照明デザインディレクターを務めており、あだたらキャビンで得られた光と照明の研究成果を生かす考えだ。
007
008
照明デザイナー・東海林弘靖氏。やはり『福島民報』さんで今年2月、「ほんとの空」がらみで紹介されていました。

で、東海林氏の個展。

東海林弘靖展 MIND LIGHTNESS  REAL NATURE - SUPER NATURE

期 日 : 2023年7月3日(月)~7月15日(土)
会 場 : 巷房 東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル3F+B1F
時 間 : 12:00 - 19:00 / final day 17:00
料 金 : 無料

 コロナ禍で人々が孤立し、自然豊かな場所に回帰していく流れに、東海林はこれからの光の在り方を問いました。そして、太陽が生み出す豊かなフルスペクトルの波長と、赤外域のあたたかさが、人間の心を包む光の原点ではないかと考えるに至りました。
 東海林は、人工的な照明によって自然光を模倣するのを嫌い、むしろ、その場を訪れた人が自らの内にある、記憶の中の光景をみつけに行くためのトリガーとして、光の要素をデザインしていくことで、自然光、人工光を問わず人間の心を包む光に到達できないだろうかと考えています。
 本展覧会では、照明デザイナーである東海林弘靖が光をデザインする立場から離れ、光と人との新しい関係を考えるインスタレーションを行います。
 人間の五官の情報能力のうち、視覚が87%、聴覚が7%とされています。約9割を占める視覚は、光の刺激を受けることで生じる感覚です。
 3階巷房では、視覚にはやや曖昧な情報、聴覚にはクリアで臨場感溢れる情報、感覚比率の逆転した実験を提示します。地下1階では、東海林が採取した光の断片を展示します。この時、人は目から入る情報を補うために、時に聴覚情報を頼りに記憶の中の光を探しにいくのか?
 多くの皆様に体験いただけますと幸いです。
009
もう1件。東京藝術大学さんの院生、学部生の皆さんによる絵画の展示。

『うたの心—絵筆に託す—展』Vol.2

期 日 : 2023年7月14日(金)~7月20日(木)
会 場 : 東京九段耀画廊 東京都千代田区三番町7-1-105 (朝日三番町プラザ1F)
時 間 : 12:00〜19:00 (最終日 〜17:00) ※会期中無休
料 金 : 無料

 人にはそれぞれ大切にしている歌があります。悲しい時ふと思い出す歌、嬉しい時つい口ずさむ歌、そして愛する人を思い出したい時の歌などいろいろとあります。
 本展の『うたの心』展では、第一回と同様に参加の作家の皆さんが大切にしている歌を思い出して、「うたの心」を想い音符ではなく絵筆で表出して頂く展示であります。

出品作家
東京藝術大学大学院:原澤亨輔(二年)、陳天逸(二年)
東京藝術大学:四年生:今野沙知子、三年生:伊勢菜々美、中川理裟、中原玲奈
       二年生:伊東彩那、金井玲、竹石楓、新沼緑、日野樹来
010
011
日本画を詩歌からのインスパイアで、ということなのでしょう。

「出品作家」欄に名のある竹石楓さんという方がツイッターに「高村光太郎の詩から2篇選んで制作しました。🌙🐕 是非お越しください!」と投稿していらっしゃいました。ありがたし。

「東海林弘靖展 MIND LIGHTNESS  REAL NATURE - SUPER NATURE」の方は、気づくのが遅れ、明日までとなってしまっていますが、それぞれ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

瀧波さんに彫つてもらつた印を捺す為に色紙など書いたら皆画きそこないました。さういふ事を考へてかかるとやつぱりいけません。


昭和3年(1928)3月13日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎46歳

瀧波さん」は瀧波善雅、篆刻家です。「彫つてもらつた印」は、おそらく左下画像のもの。この年刊行された評伝『ロダン』のペーパーバック普及版奥付の検印紙です。同じ『ロダン』でも前年に出たオリジナルのハードカバーの検印紙(右下)に捺されていたのは何だか三文判のような……。
003
新しい印を捺したいばかりに色紙に何か描いたところ、そんな不埒な考えで描くとやっぱりだめだったと云うわけで、笑えますね。

ちなみに後に愛用するようになる斉白石制作の印も、宮崎を通じて作ってもらっています。

本日開幕です。

一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉

期 日 : 2023年7月13日(木)~10月1日(日)
会 場 : 瑞巌寺宝物館 宮城県宮城郡松島町松島字町内九十一番地
時 間 : 8:30~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 大人700円 小中学生400円

墨画は水と墨と紙から生まれる無限の濃淡と、滲みと調和から表現される作品です。この度瑞巌寺宝物館では、仙台在住で墨画家として活動されている一関恵美氏の墨画展を開催いたします。皆さまの心に恵風が吹き渡りますように。関連企画として墨色七夕の展示・制作実演・墨画体験ワークショップなどもございます。(瑞巌寺さんサイトより)

伊達政宗公の菩提寺 国宝 瑞巌寺にて 松島湾から青龍山をつなぐ杉の参道 禅寺の静寂 神秘的な風吹く松島の地 墨画の世界 心をこめて墨を磨り 濃淡やあわいにじみで表現した墨画を展示致します。 瑞巌寺の夏から秋にかけて 季節のうつろい 木々や花々の変化も愛でながら 「千貫乃風」ご高覧頂きたくご案内申し上げます。(一関さんサイトより)
007
墨画家の一関恵美さん。光太郎作品の朗読にも取り組んで下さった朗読家の荒井真澄さん、光太郎がらみのコンサートを開かれたピアニスト・斎藤卓子さんとともに「シューマンと智恵子抄」(平成24年=2012)、「楽園の月」(平成25年=2013)等に作品を寄せられた方です。日比谷松本楼さんでの第57回連翹忌の集いでは、斎藤さんのピアノにのせてアクションペインティングをご披露下さいました。

昨夜、荒井さんから画像が届きまして、それがこちら。今日現在、こちらのフライヤーの画像がネット上に見つけられませんで、そのまま載せます。
006
左上が一関さんが描かれた聖観音像。光太郎の父・光雲作の大きな像で、瑞巌寺さんの庫裡に納められているものです。こちらの絵も展示されるということでしょう。ありがたし。

10月1日(日)までと、会期が長いのもありがたいところです。今年は4年ぶりに女川光太郎祭が元の規模で開催されますので、その帰りに立ち寄ってみようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

君の葉書にある通り晴朗こそ欲しい。しかし其は言葉で書かれた晴朗では役に立たない。晴朗が言葉にあらはれたのでなければ意味を持たず、又人を決して打たない。内なる世界が晴朗である時のみ晴朗なものが生きてあらはれる。僕も晴朗を自分に望んでゐるが、まだ中々晴朗なものは及びもつかない。ウソの晴朗を書いて死んだものを作るよりは、むしろ自己のなりのままをさらけ出して人に訴へるものを書く気でゐる。さうして心を鍛へてゆけばおのづから晴朗な内奥の自己に到達すると信じてゐる。


昭和3年(1928)2月25日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

ポジティブですね。しかし、そのポジティブさが脳天気なそれではないところが、光太郎の光太郎たる所以の一つです。

テレビ番組の再放送系、2件ご紹介します。

日曜美術館「クォ・ヴァディス」の秘密〜シュルレアリスム画家北脇昇の戦争

地上波NHK総合 2023年7月9日(日) 20:00~20:45

ゴーギャンと並んで教科書にも登場した「クォ・ヴァディス」。題は聖書の引用「何処へ行くのか?」。前衛画家の終戦直後の作だが作者の意図は謎だった。今意外な真実が明らかに。

シュルレアリスム画家・北脇昇が終戦後、死の直前に残した「クォ・ヴァディス」。画家の意図は謎に包まれてきた。後姿の復員兵らしき男は何処へ行こうとしているのか? シュルレアリスムが日本にもたらされたのは戦時下。画家たちは抑圧の中で絵を描き終戦を迎えた。その心情の反映なのか?過去の評論家は行き暮れた男の姿に作者の挫折を重ね、戦争でシュルレアリスムが結実しなかったことを嘆いた。だが、近年の研究で意外な秘密が。

出演者
【出演】東京国立近代美術館副館長…大谷省吾
【キャスター】小野正嗣 柴田祐規子


シュルレアリスム画家・北脇昇を中心に取り上げたもので、本放送は7月2日(日)でした。
014
同番組、光太郎智恵子や光太郎の父・光雲らと関わらないと思われる作家を取り上げる際などは、拝見しないことがあります。今回がそうでした。ところが、放映終了後、お仲間の一人からメールで「光太郎が紹介されたよ」。「ありゃま」と思い、見逃し配信のNHKプラスさんで拝見。

すると、戦時中や終戦直後、当時の芸術家等が戦争や敗戦とどう向き合ったのか、という中で光太郎が紹介されていました。
008
007
009
010
011
013
012
他に金子光晴など。例によって金子に関しては、光太郎同様戦時中にコテコテの翼賛詩も書いていたことには触れられず、「反戦の詩人」と云った扱いでしたが。金子に対してはもはやそういう評価がほぼ定着してしまっていますね。別に金子をディスるつもりもありませんが、翼賛詩は書かなかったことにしてしまおう、という本人あるいは取り巻きの策謀が功を奏しているようです。

閑話休題、もう1件。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2023年7月11日(火) 17:58~19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

楽曲1
「東京アンナ」大津美子  「ダイナ」ディック・ミネ  「ダイアナ」鈴木ヤスシ
「硝子のジョニー」谷龍介  「傷だらけのローラ」高道(狩人)  
「シェリー」九重佑三子、田辺靖雄  「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス
「メリー・ジェーン」つのだ☆ひろ
楽曲2
「サチコ」ニック・ニューサ  「ひとみちゃん」神戸一郎
「そんな夕子にほれました」増位山太志郎  「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「お吉物語」天津羽衣  「おーい中村君」若原一郎
「ハチのムサシは死んだのさ」セルスターズ  「姿三四郎」姿憲子  「与三さん」照菊

<司会>合田道人
001
物故者を含め、過去の歌唱映像の再編で構成されている番組。令和2年(2020)に亡くなった二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(昭和39年=1964)も流れます。亡くなって以来、何度かこの手の番組で取り上げられ続けています。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

「大調和」が予想にたがはず、内容豊富で、又体裁も奇麗なので喜びました。あなたの労苦も思ひやられました。お金も思ひがけなく沢山もらつて大よろこびです。早速出しにゆきます。講演会のお礼には本当に恐縮しました。

昭和2年(1927)3月23日 笹本寅宛書簡より 光太郎45歳

この年創刊された「大調和」は武者小路実篤主宰の雑誌。笹本はその編集者で、後に小説家としても名を馳せます。

3月17日にはその「創刊記念文芸講演会」が催され、光太郎も登壇、「五分間」と題して講演をしました。また、創刊号には光太郎の評論「ホヰツトマンの事」も載りました。そのあたりのもろもろで振り込みがあったようで、「沢山もらつて大よろこび」「早速出しにゆきます」(笑)。

今日の朝刊を広げて「ああ……」という感じでした。

野見山暁治さん死去 戦没画学生の遺作に光、美術界を先導 102歳

 抽象性の高い伸びやかな画風で戦後の美術界を先導し、戦没画学生の遺作に光を当てたことでも知られる文化勲章受章者の画家、野見山暁治(のみやま・ぎょうじ)さんが22日、心不全のため福岡市の病院で死去した。102歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、東京と福岡でお別れの会を開く予定。
 福岡県の炭鉱地帯、嘉穂郡穂波村(現飯塚市)で生まれた。1943年に東京美術学校(現東京芸術大)油画科を繰り上げ卒業し、中国東北部へ出征。病気で内地送還され、終戦を迎えた。
 戦後、自由美術家協会に参加(64年退会)。52年に渡仏し、64年までパリなどで制作した。58年に「岩上の人」で具象画家の登竜門だった第2回安井賞を受賞。渡仏中に水墨画など東洋の美への関心をもち、風景などをもとに、色と形が溶け合うような抽象性の高い画風へと変化した。
 帰国後、自宅のある東京のほか、福岡の海沿いにアトリエをもち、空や海、風など、うつろう自然と向き合って制作を続けた。東京国立近代美術館など、各地の美術館で大規模個展が何度も開かれた。
 戦争体験から、戦没画学生の遺族を回って遺作を集めた画集「祈りの画集 戦没画学生の記録」(共著)を77年に刊行。その遺作を展示する美術館「無言館」(長野県上田市)の設立に、作家の窪島誠一郎さんとともに尽力した。
 東京芸術大教授などとして多くの後進を育てた。東京芸大名誉教授。00年に文化功労者、14年に文化勲章。
 日本エッセイスト・クラブ賞の「四百字のデッサン」(78年)や自伝的エッセー「いつも今日」(05年)などを出し、名文家としても知られた。
 体調を崩し、今月8日から入院していた。

■■評伝
 飄逸(ひょういつ)かつ朗らかに語り、画風も生き生きとした筆が魅力だった。しかしそこに潜む、鈍さ、重さ。102歳の人生をまっとうした野見山暁治さんは「近代」を背負い続けた画家だった。
 日本の産業化を支えた産炭地に生まれ、「すべて人工の中」で育った。美術学校を繰り上げ卒業させられ中国の戦地に向かったものの、病のため終戦は内地で迎えた。
 戦後は故郷のボタ山を描いたこともある。その後、華やかなパリで過ごし、伸びやかなタッチを獲得し、実際の風景や写真から心象とも抽象ともいえる画風を確立した。
 絵が売れることや名声には関心がなく、教員時代は多くの学生から慕われた。「無言館」に結実する戦没画学生への思いは強く、文化勲章を受けた後も「友人は戦争で亡くなったのに後ろめたい」と語った。
 晩年まで福岡県のアトリエ近くの海に潜り、活力に満ちた筆の伸びは永遠に元気なのではと思わせるほど最晩年まで衰えを見せなかった。「生き残った」身体をフルに動かした跡であり、100歳にして、絵を描くことは「こんなに楽しいものか」という境地を語っていた。
 産業化で富を生む一方、戦いや多くの矛盾を抱えた近代という時代。野見山さんは、その光と影を身をもって、色と形が溶け合う表現で示した人だった。

■■野見山暁治さんの歩み
1920年 福岡県穂波村(現・飯塚市)生まれ018
 38年 東京美術学校予科入学
 43年 同校油画科を繰り上げ卒業
 48年 自由美術家協会賞
 52年 私費留学生として渡仏(64年まで)
 58年 安井賞
 72年 東京芸術大教授に
 96年 毎日芸術賞
2000年 文化功労者に
 03年 東京国立近代美術館などで個展
 14年 文化勲章
 20年 東京メトロ・青山一丁目駅にステンドグラス
(『朝日新聞』)

直接、光太郎に関わられた方ではないのですが、当方、一度お会いしてお話を伺いました。氏は早世した荻原守衛を除いてほぼ唯一、光太郎が高く評価した彫刻家・高田博厚とパリで親しくなられ、昭和32年(1957)、高田の帰国に伴い、高田が使っていたアトリエを引き継いだ方です。そのため、高田の顕彰に力を入れている埼玉県東松山市に招かれ、平成30年(2018)に作家の堀江敏幸氏と公開対談をなさいました。その際にはおん年97歳。ジーパン姿でいらっしゃり、それがよく似合っていて舌を巻かされたのもいい思い出です。
003
その前年に、鎌倉の高田のアトリエ閉鎖に伴い、そちらにあった作品や遺品類等が東松山市に譲渡されることとなり、その際にも一肌脱がれています。そこで、翌年の公開対談に繋がったようです。遺品類の中には、光太郎に関わる品も含まれていました。

また、記事にある通り、長野県上田市に開設された戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんの設立にもご協力。この件は、昨年、日本テレビさん系で放映された「24時間テレビ45スペシャルドラマ 無言館」で描かれ、興味深く拝見しました。野見山氏の役は寺尾聰さんでした。
016
017
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

この間母のなくなりました時はおこころのこもつた御てがみをいただいてあの時大変に慰められました。


大正14年(1925)10月6日 室生犀星宛書簡より 光太郎43歳

前月、光太郎の母・わかが68歳で大腸カタルのため亡くなりました。髙村家(光雲は健在)では、これを機に墓所を浅草の寺院から染井霊園に移し、墓石を新しく建立しました。これが現在も残っているものです。

昨日の段階ではネット上にはフライヤー等が出ていないのですが、一応、花巻観光協会さんのサイト、それから『広報はなまき』に情報が出ました。

テーマ展『山のスケッチ』

期 日 : 2023年6月17日(土)~8月31日(木)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金

 東京から花巻へ疎開した高村光太郎は、滞在した先々で目にした初夏の光景に感動し、花や野菜などをスケッチして残しました。
 その後移住した山口集落では暮らしの中で接した植物などがスケッチに残されており、自然を題材にした詩集の構想もうまれました。
 詩集は未完に終わったものの、山の暮らしの中で詠んだ詩やスケッチは当時の文芸誌や雑誌に掲載され、世に知られることとなりました。
 この展示では、光太郎が太田村(現花巻市)で過ごした自然をテーマとして、草花のスケッチや詩稿などの資料を紹介します。

展示資料
 ・散文『山菜ミヅ』原稿           1点
 ・詩『花はなにとて』原稿          1点
 ・鉛筆淡彩『山口集落』           1点
 ・草花素描集『山のスケッチ』より精密複製  6点
 ・光太郎写真(昭和26年9月撮影)     2点
  他、草花写真パネル

展示の見どころ 
 詩『花はなにとて』草稿は今回が初公開の資料です。光太郎全集や回想録などで作品の存在は知られていましたが、直筆原稿の公開は初めてです。
 散文『山菜ミヅ』は、鉛筆淡彩による山菜のスケッチとともに雑誌『婦人公論』昭和22年6月号で発表された作品です。東京出身の人として知られていた光太郎が、岩手の自然の中で生活を送っていることを世に知らせた資料であると言えるでしょう。

000
005
006
スケッチに関しては、複製での展示。現物は三冊、現存が確認できていますが、おそらく髙村家の所蔵のはずです。

それらの中から十数葉を原色版で複製し、中央公論美術出版さんから『山のスケッチ』という画集が昭和41年(1966)に出ています。光太郎の画集としては唯一の出版です。
002 003
001
004 005
007 006
「らんまん」に出てきそうな(笑)。

これらを描くため、というわけではないのですが、光太郎、牧野富太郎の著書を都内在住の人々に手に入れてくれと依頼し、実際、光太郎の山小屋には牧野の『植物集説』上下、『植物分類研究』上下、『続植物記』が遺されていました。戦前のものも含まれていますが、依頼されたうちの一人、筑摩書房編集者の竹之内静雄が何とか見つけてくれたようです。

「らんまん」で植物が静かなブームですので、タイムリーな企画ではないでしょうか。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

明日久しぶりの短歌会に参上いたしたいのも山々ながら、留守中つもつて居ります緊急の用事を先づ片つけねばならず、残念ながら多分まゐれない事と存じます。来会諸士によろしく。


大正13年(1924)11月27日 与謝野晶子宛書簡より 光太郎42歳

確認できている晶子宛唯一の書簡です。二人の関係を考えればかなりの数が送られているはずなのですが……。晶子の夫・寛宛は十数通確認できています。

この書簡も、晶子の著書『女子作文新講 巻二』に画像入りで紹介されているため、確認できた次第です。

004

昨日に続き、11月20日(日)の『日本経済新聞』さんに掲載された「美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視」という記事の後半をご紹介します。

美の粋 パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視 西洋の精神に加え父譲りの木彫技術

 「生の芸術」論争を見ても、様々な意見を持った芸術家たちが会する「パンの会」が談論風発な集まりであったことは想像に難くない。高村光太郎の創作に、そうした仲間たちとの交流が刺激を与えたのは間違いない。
 さらに大きな影響を与えた人物が身近に2人いた。1人目が木彫の大家で東京美術学校教授を務めた父・高村光雲(1852~1934年)、2人目が妻の高村(旧姓・長沼)智恵子(1886~1938年)である。
 「私が父の彫刻の仕事を承(う)けついでやるということは、誰も口に出して言わないうちに決って了(しま)っていたことだ」
 光太郎は「回想録」(「昭和文学全集」第4巻に所収)でそう記す。小学生の時に彫刻刀を譲られたことで、父・光雲の意志を感じたという。
 1897年(明治30年)、14歳のときに東京美術学校予備ノ課程に入学。日蓮をモチーフとした木彫「獅子吼(ししく)」は卒業制作、学校の展覧会では注目されたようだが、本人は「その頃は、何かそう言った風な文学的な意図のものでなければ承知出来なかった」(「回想録」)と記し、やむにやまれぬ思いだったと明かしている。
 教授や父の勧めで米欧に留学。その経験が帰国後に「芸術界の絶対の自由」を求めた評論「緑色の太陽」につながる。それは日本の美術界、彫刻界への挑戦状であり、対抗する相手には父・光雲も含まれていた。
 光太郎は雑誌で辛辣な美術評論を執筆するとともに、洋画家の斎藤与里、岸田劉生、萬鉄五郎、木村荘八らと美術団体「ヒュウザン会(後のフュウザン会)」を結成した。
009 006
 油彩画「自画像」はこの頃に描かれた。「彫刻を作っても発表する場がない」として絵に力を入れていた時期という。光太郎は米国で知り合った荻原守衛に連れられ、東京・新宿のパン店、中村屋に出入りしていた。鋭い視線でこちらを見つめる男の表情は、旧態依然とした日本の彫刻界、美術界への怒りを示しているのかもしれない。
 彫刻では代表作「手」を発表して以来、6年ほどのブランクを経て発表したのは、「鯰(なまず)」「蟬(せみ)」などの木彫だった。「塑造は(粘土を重ねるという)足していく彫刻であるのに対し、木彫は削っていく彫刻。光太郎の木彫作品には父親譲りの刀のキレが感じられます」と藁谷収氏は話す。
 ロダンをはじめ西洋の精神を生かして日本の彫刻界に斬り込んだ光太郎。しかし、ブロンズの「手」に日本の伝統が見いだされるように、父・光雲から学んだ木彫の技術は、独自の彫刻を生み出すに至ったのだ。
008
 一方、智恵子との出会いについて、光太郎自身は次のように記す。若太夫に振られた後も、東京・浅草の「よか楼」の女給・「お梅さん」に入れあげていたときのことだ。「私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである」(「ヒウザン会とパンの会」)
 日本女子大学校(現・日本女子大学)卒で、1911年に平塚らいてうらが創刊した雑誌「青鞜」の表紙絵を描いた智恵子の登場で、光太郎の放蕩(ほうとう)は終わりを告げる。
 13年(大正2年)、光太郎は智恵子と婚約し、妻をモデルにして彫刻の勉強をする。しかし、幸せな日々は長くは続かない。31年(昭和6年)には智恵子の精神変調が明らかになり、翌年自殺未遂を起こす。38年、彼女は多くの紙絵を残し、52歳で亡くなる。
 終戦近い45年4月には東京のアトリエが空襲で炎上し、作品原型の多くを失う。同年10月からは現在の岩手県花巻市太田の小屋に移り、農耕自炊の生活を送る。
 「木彫作品をつくる材料は用意しながら、彫刻刀を振るおうとはしませんでした。戦争責任を感じていたからでしょう」と花巻高村光太郎記念会事務局長補佐の高橋卓也さんは語る。そこには戦時中、戦意高揚の詩を書いたことへの深い自省の念があった。
 再び彫刻制作に挑んだのが青森県から依頼を受けた「十和田湖畔裸婦像」だ。2人の女性が向き合うが、その顔は智恵子をモデルにしている。やはり彼女は光太郎のミューズだったのだ。
 明治末期から大正期に生まれた「パンの会」などのグループは海外からもたらされた芸術思潮が刺激となった。大切にされたのは作家の主観。「僕の後ろに道はできる」(「道程」)と詠んだ光太郎はその申し子といえる。

KEYWORD 高村山荘
 高村光太郎が晩年の七年間を過ごした岩手県花巻市太田の小屋。彼は詩人で童話作家の宮沢賢治が1933年に37歳で死去した後、全集や詩碑の建立に尽力した。その縁もあり、45年4月に東京のアトリエを焼け出された際は花巻市の宮沢家に疎開する。しかし、そこも空襲で焼失、移住した先が太田だった。
 小屋は木造平屋で板の間と土間だけの質素な作り。独居自炊の生活の中で、詩作や書の制作に専念した。「近くの小学校を訪れ、子供たちと交流しました。英字新聞も取り寄せており、地方にあっても世界とつながっていたのでしょう」と花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん。敷地内には高村光太郎記念館があり、彫刻や書などが展示されている。


前半に続き、限られた紙幅の中で、光太郎造型について要所要所のポイントを抑えた紹介をしていただきました。自称「研究者」の書くわけのわからない独断と事実誤認だらけの文章等とは比ぶべくもありません(笑)。『日経』さん読者の方の中には、この記事で「高村光太郎って、こういう人だったんだ」と初めて知られたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

記事にある「藁谷氏」は、昨日ご紹介した前半部分で光太郎彫刻の解説をなさって下さった、岩手県立美術館館長・藁谷収氏です。

ちなみに最後に紹介されている花巻高村光太郎記念館さんでは、先週から企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」が始まっています。その設営作業の様子、展示に協力なさったやつかの森LLCさんのサイトから。
013 012
011 010
今週末には当方、現地におもむき、展示解説のオンライン配信の収録に行って参ります。

【折々のことば・光太郎】

春暖の如し、 中西夫人にたのみ、吸入器をかふ、

昭和30年(1955)3月3日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核は呼吸困難も引き起こしていたようです。「中西夫人」は、起居していた貸しアトリエの大家。「吸入器」は、上記花巻高村光太郎記念館さんに、他の遺品と共に展示されているものではないかと思われます。

↑このページのトップヘ