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3月15日(日)、安達太良山中腹のチーズケーキ工房・カフェ風花&もりのこうぼうさんを後に、智恵子の故郷・二本松の市街に。同市出身の文化勲章受章画家・大山忠作画伯を顕彰する大山忠作美術館さんが最終目的地でした。

同館の入っている市民交流センターさんの駐車場に愛車を駐め、まだ時間に余裕があったので、歩いてJR東北本線二本松駅へ。

コンコース入り口脇、城壁を模した壁に嵌め込まれた光太郎詩碑。
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「あどけない話」の一節「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」が、光太郎のペン字を拡大して刻まれています。昭和51年(1976)に設置されました。

こころもちつけられた角度により、天気がよいと碑面の黒御影石に「ほんとの空」が反射して映えるのですが、この日は多少雲が多く……。

すぐそばに、智恵子像「ほんとの空」。
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二本松にルーツを持ち、光太郎の父・光雲の系譜に連なる彫刻家の故・橋本堅太郎氏の作です。智恵子の指さす先、雲の切れ間にわずかながら「ほんとの空」。

像の背後が大山忠作美術館さんの入っている市民交流センターさんです。
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3階が大山忠作美術館さんで、そのホワイエから見える安達太良山。
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のちほど、名誉館長にして画伯のご息女・一色采子さんによるギャラリートークがあるということで、この時点では展示は拝見せず、1階の多目的室へ。そちらで一色さんのトークイベントです。

昨年12月から照明の抜本的改修工事のため3ヶ月休館していた同館が3月1日(日)を以て再オープン(休館中は「移動美術館」として智恵子モチーフの作品などは智恵子記念館で展示されていました)、さらに昨秋、一色さんが名誉館長にご就任ということもあり、このイベントの開催ということになりました。昔から名誉館長だったと思い込んでいたのですが、そうではありませんでした。
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三保恵一市長から花束贈呈。

この後、スクリーンに画伯の作品を投影しつつ、ご家族としての視点から見た画伯のありのままの姿、それぞれの作品に込められた思いなどといったお話を。「私は学芸員ではないので、専門的なためになるお話はできません」と謙遜なさっていましたが、実は一色さん、女子美短大のご出身ですので、構図のお話などなかなか鋭い視点でのものでした。

この後、3階に移動、一色さんによるギャラリートーク。再オープンに伴う展示替えで「本日は日本画日和」と題された展示になっています。
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000今回は複数ある智恵子を描いた作品のうち、「霧(高村智恵子)」が展示されています。100号超の大きさで平成7年(1995)の日展出品作とのことです。当方、実作を見たのは今回が初めてだったかも知れません。

この作品に関しても、一色さん、鋭いご説明。画伯ご本人もそうおっしゃっていたのかも知れませんが、「失敗作」だそうで。他の作品でもそういう試みをなさっていたとのことですが、風景画と人物画の融合を狙ったものの、それが中途半端に終わってしまっていると。

しかし腐すだけでなく「心を病んで頭の中に「霧」がかかっている智恵子さんの状態はよく表せている」。なるほど、と思いました。

ちなみに画伯のお母さまは生前の智恵子をよく見かけたそうです。いつも綺麗な着物を着ていたそうで。

ショップには「霧」をプリントしたA4判クリアファイル、しっかり並んでいました。
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再オープンに伴い新たに作られたパンフレット。100部いただいて来ましたので、4月2日(木)、当会主催の連翹忌の集いご参加の方には差し上げます。ちなみに連翹忌の集いでは、一色さんと渡辺えりさんが光太郎詩朗読をなさってくださいます。
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目玉作の一つとして(今回は展示されていませんが)、「智恵子に扮する有馬稲子像」も載っています。昭和51年(1976)、「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」中の北條秀司作「智恵子抄」で智恵子役だった有馬稲子さんを描いたものです。
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右上は、ついでですので一色さんと当方(笑)。

そんなこんなの福島レポート、以上で終わります。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)76 『荻原守衛』

平成18年(2006)7月20日 碌山美術館 高村光太郎著
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目次
 死んだ荻原君
 荻原守衛
 荻原守衛―アトリエにて5―

光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野の碌山美術館さんの発行。光太郎文筆作品のうち、守衛をメインにした3篇――エッセイ「死んだ荻原君」(明治43年=1910『方寸』)、詩「荻原守衛」(昭和11年=1396 『詩洋』)、エッセイ「荻原守衛―アトリエにて5―」(昭和29年=1954 『新潮』)を収めた冊子です。

これを光太郎の「本人著作」と言っていいのかどうかという気もしますが、さりとて他のどのカテゴリに分類すればいいのか、ということにもなりますので……。

照明設備の改修工事で昨年12月から今年2月いっぱいまで休館中だった、二本松市の大山忠作美術館さんが再オープンしました。同市出身の文化勲章受章画家にして、繰り返し上演された朗読劇「智恵子抄」で智恵子役を演じられた女優・一色采子さんのお父さまである大山忠作画伯の作品を収蔵・公開なさり、一色さんが名誉館長を務められています。

地元紙『福島民報』さん。

大山忠作美術館が再開館 常設展「本日は日本画日和」開始 9月13日まで 福島県二本松市

 福島県の二本松市大山忠作美術館は改修工事による休館を経て再開館し、第32期常設展「本日は日本画日和」が始まった。同市出身の日本画家で文化勲章を受けた大山忠作さん(1922~2009年)の自然体で「描きたいものを描く」心を映す大作や扇面画などが並び、来館者を楽しませている。9月13日まで。
 LED照明の設置工事に伴い3カ月間休館し、今月1日に再開館した。「荷花」「天壇白日」「霧(高村智恵子)」などの大作をはじめ、春、夏の季節を感じられる作品、わが子の愛らしい姿を描いた「童女」、制作の過程がわかるスケッチや下絵もある。傘寿(80歳)を記念して制作した扇面画は、扇形の画面に清らかな花々や安達太良山が描かれ、「雷神午睡」「風神一服」などユーモアがにじむ作品の魅力も味わえる。展示点数は計70点。
 渡辺陽菜学芸員は、「照明が変わり、画面の鮮やかさが増した。大山家所蔵の初公開資料もあり、当美術館ならではの作品を楽しんでほしい」と来館を呼びかけている。開館時間は午前9時30分~午後5時。観覧料は一般410円、高校生以下210円。月曜休館(祝日の場合は翌日)。問い合わせは大山忠作美術館へ。

■大山采子さん 15日にトークイベント
 大山忠作さんの長女で大山忠作美術館名誉館長の大山采子(俳優・一色采子)さんのトークイベントは15日午後1時30分から二本松市市民交流センターで開かれる。
 美術館の再開館を記念し、楽しいトークを繰り広げる。終了後、美術館に移動してギャラリートークをする。定員120人で参加料は500円(常設展観覧券、ミニプレゼント付き)。申し込み・問い合わせは大山忠作美術館へ。
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000「霧(高村智恵子)」は右画像のもの。品切れになっていなければ、ミュージアムグッズとしてA4クリアファイルやポストカードも販売されています。

画伯には同郷だった智恵子をモチーフとした作品「智恵子抄」、「智恵子に扮する有馬稲子像」などがあり、特に「有馬稲子像」の方はデッサンも複数遺されています。

休館中、「移動美術館」という形で、それらを同市の智恵子記念館さんとにほんまつ城報館さんで公開していました。

リニューアル記念として、名誉館長の一色采子さんによるトークイベントが3月15日(日)に開かれるとのことで、早速申し込みました。

ついでというと何ですが、同じ福島県のいわき市では、市立の草野心平記念文学館さんで企画展「草野心平と川内村」が前日の3月14日(土)から始まるので、そちらも拝観して参ります。

当会の祖・草野心平を名誉村民として下さった川内村と心平の縁にスポットを当てるもので、直接的には光太郎に関わりませんが、フライヤー裏面画像に写る心平の別荘「天山文庫」は、建設委員に光太郎実弟の豊周も名を連ねていますし、豊周子息で写真家の故・規氏も何度も同村を訪れられています。もちろん当方も。
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それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)68 『詩集 道程』復元版 角川文庫リバイバルコレクション

平成元年(1989)6月30日 角川書店(角川文庫) 高村光太郎著
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目次
 一九一〇年
  失はれたるモナ・リザ 生けるもの 根付の国
 一九一一年
  画室の夜 熊の毛皮 人形町 甘栗 庭の小鳥 亡命者 鳩 食後の酒 寂寥 声 風
  新緑の毒素 頽廃者より 「河内屋与兵衛」 髪を洗ふ女 「心中宵庚申」 夏 なまけもの
  手 金秤 はかなごと めくり暦 地上のモナ・リザ 葛根湯 夜半 けもの あつき日
  父の顔 泥七宝 ビフテキの皿
 一九一二年
  青い葉が出ても 赤鬚さん あをい雨 友の妻 ――に 夏の夜の食慾 或る夜のこころ
  おそれ 犬吠の太郎 さびしきみち カフエにて 梟の族 冬が来る カフエにて
  或る宵 夜 狂者の詩 郊外の人に 冬の朝のめざめ カフエにて 師走十日 戦闘
 一九一三年
  人に カフエにて 深夜の雪 人類の泉 山 よろこびを告ぐ 現実 冬が来た 冬の詩
  牛 僕等
 一九一四年
  道程 愛の嘆美 群集に 婚姻の栄誦 万物と共に踊る 瀕死の人に与ふ 晩餐
  五月の土壌 淫心 秋の祈
 注釈
 解説 高村光太郎―人と作品 藤原定
    作品解説 草野心平
 主要参考文献
 年譜

角川文庫40周年記念特別企画ということで、読者アンケートによる限定復刊が為されたうちの一冊です。はさまっていたフライヤーには30冊がラインナップに挙げられていました。近代日本文学系だと、他に『一葉青春日記』(樋口一葉)、『月に吠える』(萩原朔太郎)、『新訂版 石川啄木』(金田一京助)なども。各冊共通の金色のカバーが装着されました。それが第一期で、この後第三期まで、計74作品104冊が復刻出版されたそうです。

『道程』は昭和26年(1951)に角川文庫のラインナップに入り、この版が「改版十刷」でした。

神戸のギャラリーでの個展開催情報です。既に始まっています。

内田太郎 + 小泉孝司 「IMAGINES ! 空想の世界へ」

期 日 : 2026年1月24日(土)~2月8日(日)
会 場 : GALERIE L'OEIL(ギャラリーロイユ) 神戸市中央区北長狭通3−2−10
時 間 : 13:00~18:00
休 館 : 水曜日、木曜日
料 金 : 無料

現実と虚構、その境界を行き来する二人の画家が不思議で思索的な絵画の世界へご案内します。想像力をひらく、二人展です。

アーティスト
内田太郎
佐賀県生まれ。九州産業大学芸術学部美術学科卒業。出鱈目な科学法則が成り立つ夢の中のような世界や、宇宙の外側の空間を思いつつ、写実というスタイルで現実と想像の間の世界を描く。

小泉孝司
同志社大学経済学部卒業。高橋睦郎、横溝正史、松本清張等の挿絵、装画を描きながら、オリジナル作品を制作。絵本 「手のひらのねこ」 文•舟崎靖子 (偕成社) 、画集 「七番目の空」 (光琳社出版)
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内田太郎氏は、最近ちょっと流行りの超写実絵画系に近いのでしょうか。先にグレートーンで印影を描き、後から色を乗せていくグリザイユという手法で描かれているようです。

000小泉孝司氏は、ルネ・マグリットを思わせるシュールな世界観。プロフィールに「高橋睦郎、横溝正史、松本清張等の挿絵、装画」とあるので少し調べたところ、角川書店さんの『野性時代』で'70年代に横溝の「病院坂の首縊りの家」が連載されていた際の挿画が小泉氏によるものでした。また、松本清張の未完の絶筆「神々の乱心」が『週刊文春』さんに'90年代に連載された際も。

その小泉氏の出展作の一つが「ほんとうの空」と題されています。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来と思われます。画廊主氏曰く「空の向こうの「闇」が雲の切れ間から差し込み、草原に立つ1本の木を燃え上がらせる彩墨・棒絵具で描かれた、シュールで幻想的な風景」。なるほど。

ご実家が和紙問屋さんだそうで、この作品も和紙に彩墨や棒絵具で描く独自の技法を駆使されているそうです。

先日、渋谷区で開催された写真展「UNBOUND#2」では、「智恵子抄」からのインスパイアの写真が展示されましたが、この手の二次創作は大歓迎です。もっとも、そこにリスペクトの精神を込めていただかないと困りますが。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)29 『道程』復元版

昭和22年(1947)6月15日 札幌青磁社 高村光太郎著 
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目次
 一九一〇年
  失はれたるモナ・リザ 生けるもの 根付の国
 一九一一年
  画室の夜 熊の毛皮 人形町 甘栗 庭の小鳥 亡命者 鳩 食後の酒 寂寥 声 風
  新緑の毒素 頽廃者より 「河内屋与兵衛」 髪を洗ふ女 「心中宵庚申」 夏 なまけもの
  手 金秤 はかなごと めくり暦 地上のモナ・リザ 葛根湯 夜半 けもの あつき日
  父の顔 泥七宝 ビフテキの皿
 一九一二年
  青い葉が出ても 赤鬚さん あをい雨 友の妻 ――に 夏の夜の食慾 或る夜のこころ
  おそれ 犬吠の太郎 さびしきみち カフエにて 梟の族 冬が来る カフエにて
  或る宵
 夜 狂者の詩 郊外の人に 冬の朝のめざめ カフエにて 師走十日 戦闘
 一九一三年
  人に カフエにて 深夜の雪 人類の泉 山 よろこびを告ぐ 現実 冬が来た 冬の詩
  牛 僕等
 一九一四年
  道程 愛の嘆美 群集に 婚姻の栄誦 万物と共に踊る 瀕死の人に与ふ 晩餐
  五月の土壌 淫心 秋の祈

内容的には大正3年(1914)の初版と同一です。戦時中に「改訂版」「再訂版」が出ましたが、戦後になって旧に復したこの版が出されたわけです。

復興期の物資不足の折、造本は並製、函はなくカバー装です。

昨日は今年初めて上京し、新宿のSOMPO美術館さんで「開館50周年記念 モダンアートの街・新宿」を拝見して参りました。
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ちなみに同館を訪れるのは平成16年(2004)の「高村光太郎展 彫刻、絵画、書――「いのち」の造型」展以来、21年半ぶりでした。
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今回は、近代美術の発信地の一つとして大きな役割を担うこととなった新宿界隈に焦点を当てるもので、そこに文学とのからみも語られ、総合的にとらえようという試みでした。

まずエレベータで5階へ。そこから4階、3階と下る順路となっている、よくあるパターンでした。まずは「ⅰ章 中村彝と中村屋 ルーツとしての新宿」。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の小品2点「灰皿」と「香炉」(撮影禁止)が、いきなり最初にお出迎え。
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その後は守衛同様、中村屋サロンの主要メンバーで新宿にアトリエを構えた中村彝が中心でした。

その流れで「コラム1 文学と美術」。
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白樺派が大きく取り上げられ、ロダンや武者小路実篤、岸田劉生などが語られます。光太郎は中村屋サロンとともに白樺派の一員でもありました。右上は光太郎も寄稿した『白樺』第1巻第8号ロダン号(明治43年=1910)。

ここにフォービズムの影響を色濃く受けた光太郎の自画像(大正2年=1913)。
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同じ新宿の中村屋サロン美術館さんの所蔵で、同館の常設展示(コレクション展)にしょっちゅう出ているのですが、考えてみるとそちらに最近足を運んで居らず、久々に拝見しました。

光太郎とも交流のあった美校の後輩にして歌人の宮柊二の叔父・宮芳平の「歌」(大正4年=1915)。宮は中村彝に師事した画家でした。
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大正3年(1914)、美校在学中の宮は文展に出品するも落選。すると、宮は審査員だった森鷗外の観潮楼(光太郎アトリエ兼住居の近くです)に乗り込んで、なぜ落選だったのかと問い詰めるという暴挙に出ました。結局、鷗外にうまいこと言いくるめられて(笑)矛先を収め、以来、鷗外と個人的に交流するようになるのですが。そのあたり、鷗外の短編小説「天寵」に語られています。ちなみに今回の出品作「歌」も文京区立森鷗外記念館さんからの借り受けです。
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その「天寵」が載った『ARS』の創刊号(大正4年=1915)。光太郎も『ロダンの言葉』の一部を寄稿しています。
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『ARS』といえば、版元の阿蘭陀書房は北原白秋の実弟・鉄雄が社主。まさに「文学と美術」が現出されている一角でした。同様に、光太郎と親しかった岸田劉生による、これまた光太郎の盟友の一人・武者小路実篤の肖像(大正3年=1914)。
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ネットや各種書籍によく画像が載っているのですが、東京都現代美術館さんの所蔵だそうで、そうだったのか、という感じでした。

ⅱ章は「佐伯祐三とパリ/新宿 往還する芸術家」、ⅲ章が「松本竣介と綜合工房 手作りのネットワーク」。松本も光太郎と交流があり、解説パネルにその旨記述がありました。ありがたし。
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そして今回のフライヤーやポスターに使われている目玉作品「立てる像」(昭和17年=1942)。過日ご紹介したパナソニック汐留美術館さんでの「美しいユートピア 理想の地を夢みた近代日本の群像」展では、こちらの下絵がフライヤーに使われています。松本も最近またあちこちで取り上げられる機会が増えてきたように感じています。

最後は現代につながる展示となり、終了。

昨日は開幕して間もない休日ということで、けっこう賑わっていました。皆様もぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)18 『道程』改訂普及版

昭和15年(1940)11月20日 山雅房 高村光太郎著
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目次
 道程
  失はれたるモナ・リザ  明治四十三年十二月十四日
  画室の夜        明治四十四年一月十二日
  寂寥                       明治四十四年三月十三日
  声           明治四十四年五月二十日
  新緑の毒素       明治四十四年六月十一日
  はかなごと
  地上のモナ・リザ    明治四十四年七月六日
  父の顔         明治四十四年七月十二日 
  泥七宝         明治四十四年七月――翌年六月
  ――に         明治四十五年七月二十一日
  或る夜のこころ     大正元年八月十八日
  おそれ
  犬吠の太郎       大正元年九月二十六日
  さびしきみち      大正元年十月八日
  梟の族         大正元年十月二十日
  或る宵         大正元年十月二十三日
  郊外の人に       大正元年十一月二十五日
  冬の朝のめざめ     大正元年11月三十日
  戦闘          大正元年十二月十四日
  人に          大正二年二月十八日
  人類の泉        大正二年三月十五日
  山           大正二年十一月四日
  冬の詩         大正二年十二月六日
  牛           大正二年十二月七日
  僕等          大正二年十二月九日
  道程          大正三年二月九日
  愛の嘆美        大正三年二月十二日
  婚姻の栄誦       大正三年三月六日
  万物と共に踊る     大正三年三月九日
  瀕死の人に与ふ     大正三年三月十四日
  晩餐          大正三年四月二十五日
  五月の土壌       大正三年五月十六日
  秋の祈         大正三年十月八日
 道程 以後
  わが家         大正五年
  小娘          大正六年
  無為の白日
  海はまろく
  雨にうたるるカテドラル 大正十年十月
  沙漠
  クリスマスの夜     大正十一年一月
  冬の送別        大正十一年四月
  五月のアトリエ     大正十一年五月
  ラコツチイ・マアチ   大正十一年十一月
  落葉を浴びて立つ    大正十一年十一月
  樹下の二人       大正十二年三月
  鉄を愛す        大正十二年五月
  氷上戯技
  珍客
  葱
  車中のロダン      大正十四年
  後庭のロダン      大正十四年二月
  十大弟子        大正十五年
  聖ジヤンヌ       大正十五年
 猛獣篇 時代
  清廉          大正十三年十二月
  傷をなめる獅子     大正十四年
  狂奔する牛
  鯰           大正十五年
  苛察          大正十五年
  雷獣          大正十五年六月
  龍           大正十六年
 【編纂者の言葉】 三ツ村繁蔵

奥付では「百五十部限定版」「書店版」と同じく昭和15年(1940)11月20日となっていますが、実際には昭和16年(1941)4月25日に「普及版」が出されました。「書店版」にあった函は廃され、カバー装になりました。以後、版型やカバーデザインを変えつつ昭和18年(1943)までに9刷を重ねました。

手持ちのものは昭和17年(1942)10月20日の8版。カバー無しの裸本ですが、見返しに編集者兼詩人だった小池吉昌宛の献呈署名が書かれています。コレクションの中で唯一の光太郎署名本です。あまり署名や識語の有無にこだわらないのですが、一冊くらいあっても良いかな、と購入しました。

重版の裸本で、蔵書印や書き込みもあり、そうなると市場価値は500円~1,000円というところですが、サイン入りということで、たしか18,000円くらいで入手しました。ほとんどサイン代です(笑)。

光太郎筆の油彩画「自画像」(大正2年=1913)が出ています。

開館50周年記念「モダンアートの街・新宿」

期 日 : 2026年1月10日(土)~2月15日(日)
会 場 : SOMPO美術館 新宿区西新宿1-26-1
時 間 : 10:00~18:00(金曜日は20:00まで)
休 館 : 月曜日、1月13日(火)
料 金 : 一般(26歳以上)1,500円 25歳以下 1,100円 小中高生 無料

 1976年7月、SOMPO美術館は新宿に開館しました。このたび、SOMPO美術館の開館50周年を記念し、新宿をテーマとした展覧会を開催いたします。
 日本の近代美術(モダンアート)の歴史は、新宿という地の存在なくしては語れません。明治時代末期の新宿には新進的な芸術家が集まりました。そして、新宿に生きる芸術家がさらに芸術家を呼び込み、近代美術の大きな拠点の一つとなりました。本展は、中村彝、佐伯祐三から松本竣介、宮脇愛子まで、新宿ゆかりの芸術家たちの約半世紀にわたる軌跡をたどる、新宿の美術館として初めての試みです。

ⅰ章 「中村彝と中村屋 ルーツとしての新宿」
 新宿に創業した中村屋のもとに新進芸術家たちが集い、サロンが生まれました。中村彝(つね)をはじめ、中村屋にゆかりの作家を取り上げます。
コラム1 文学と美術
 1910年に創刊された雑誌『白樺(しらかば)』を中心に、新宿に生きた文学者や画家たちにゆかりの作品を紹介します。

ⅱ章 「佐伯祐三とパリ/新宿 往還する芸術家」
 佐伯祐三は、パリと新宿を行き来しながら活動しました。アトリエの建つ下落合の風景を描いた作品を中心に展示します。
コラム2 描かれた新宿
 1923年に発生した関東大震災からの復興で変貌を遂げた街を描いた版画集『画集新宿』『新東京百景』を中心に、大正から昭和初期の新宿の風景を描いた作品を紹介します。

ⅲ章 「松本竣介と綜合工房 手作りのネットワーク」
 松本竣介(しゅんすけ)は綜合(そうごう)工房を構え、雑誌『雑記帳』を刊行しました。竣介を中心に、二科会や『雑記帳』で活動をともにした作家たちを取り上げます。

ⅳ章 「阿部展也と瀧口修造 美術のジャンルを超えて」
 阿部展也(のぶや)(芳文)のアトリエには、瀧口修造を始めとする芸術家たちが集まりました。彼ら/彼女らの交流は、既存の美術の枠を超えた豊かな作品群を生み出していきました。
エピローグ 新宿と美術の旅はつづく
 新宿に生まれた版画家・清宮質文(せいみやただふみ)。静かな叙情あふれる静謐(せいひつ)な清宮の版画によって、本展の幕をとじます。


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光太郎の「自画像」は、「コラム1 文学と美術」の中で展示されています。
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やはり新宿区の中村屋サロン美術館さんの所蔵で、同館の常設展示(コレクション展)ではほぼ常時出ているものです。

「新宿」といえば、その中村屋サロン、さらに落合文士村。ⅰ章では中村屋サロンがメインで、荻原守衛や斎藤与里ら、光太郎とも縁の深かった面々の作品が並んでいます。その流れで「コラム1 文学と美術」。やはり光太郎と親しかった岸田劉生、有島生馬など。「おっ」と思ったのは宮芳平。シブいところが出ているな、という感じでした。それから、光太郎も寄稿した『白樺』の第1巻第8号(明治43年=1910)と『ARS』の創刊号(大正4年=1915)もこの並びでしょうか。

光太郎、落合系ではメインの佐伯祐三とは直接の関わりはなかったようですが、松本竣介主宰の『雑記帳』には寄稿をしています。また、林芙美子は自著『放浪記』で光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)に触れるなど、かすかな繋がりが。

週末、ぽこっと時間が空きましたので、拝見に伺おうかなと考えております。みなさまもぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)13 『ロダンの言葉』普及版

昭和4年2月28日 叢文閣 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
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目次
 ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
 ロダン手記
  ヹヌス 原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺 本寺別記
  断片(「本寺」、「真のロダン」其他より) 手紙
 ジユヂト クラデル筆録
 ポール グゼル筆録
  肉づけ 芸術に於ける神秘 動静 断片
 カミーユ モークレール筆録
 フレデリク ロートン筆録
  古代芸術の教訓(一)  同(二) 断片
 ロダンの手帳(クラデル編)

正続2冊セットで刊行され、内容的には大正5年(1916)に阿蘭陀書房から出た初版、同10年(1921)の目黒分店版と同一です。それらがハードカバーでしたが、こちらは並製の廉価版で、繰り返し版を重ねました。当方手持ちのものは最終刷となった昭和12年(1937)9月20日の版です。

カバー背の題字は光太郎自身の揮毫、描かれている裸婦像はロダンの素描です。同一の図案は明治43年(1910)、親友の水野葉舟の小説集『おみよ』のカバーにも使いましたが、同書はこのデッサンのために「風俗壊乱」とされて発禁になってしまいました。

佐藤忠良ら光太郎のDNAを受け継ぐ次世代の彫刻家たちはこの並製本を刷りきれるほど読んだようです。

新刊、といっても2ヶ月半経ってしまいましたが……。

印象派の超克 近代日本における西洋美術受容の言説史

発行日 : 2025年10月10日(金)
著者等 : 松本和也
版 元 : 思文閣出版
定 価 : 7,000円+税

モネやルノワールなど、日本人がこよなく愛する印象派は、どのようにして日本の美術界に受け容れられてきたのか?

 明治後期に流れこんだ印象派は、日本の洋画界に新たな波をもたらした。なかでも「日本のモネ」と称された洋画家・山脇信徳は、その絵画表現によって注目を集め、印象派の是非をめぐる論争の渦中に立った。第三回文展で褒賞となった《停車場の朝》や、その数年後に描かれた《夕日》などの山脇作品は、画壇・文壇を横断した二度の大論争を巻き起こす。それは、印象派以降の西洋美術が日本に受容される際に生じる反発や葛藤の、いわば象徴的事例であった。
 本書では、山脇信徳とその絵画表現を結節点として、齋藤輿里、高村光太郎、岸田劉生、そして白樺派など、時代のキーパーソンの言論を丹念に読み解きながら、西洋美術の新潮流が日本にもたらした文化的衝突、そしてそれがしだいに「日本化」され超克されていくさまを明らかにしていく。

★★★編集からのひとこと★★★
 今でこそ多くの日本人に愛される印象派。その独特の重ね塗りは「筆触分割」という技法によるものらしいのですが、それが「醜い」とさえ評されていた時代がありました。何が美しく、何が美しくないのか。あるいは何が芸術とそれ以外とを隔て得るのか。それは現代のアートシーンにも通底する問いであり、その意味で時代は絶えず繰り返されているのかもしれません。
 本書では、明治晩年の日本で、絵画の新技法が反発を招きながらも、次第に受け入れられていった過程を跡付けていきます。その議論を通して、時代を越えて鑑賞者・批評者に突き付けられる問いにも迫る1冊です。
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目次
 はじめに 日本の印象派
 Ⅰ
  第一章 山脇信徳へのアプローチ――洋画史・〝日本のモネ〟・言説史
  第二章 西洋美術の新傾向をめぐる言説史――印象派、ポスト印象派を中心に
  第三章 帰朝する新進洋画家――パイオニアとしての有島生馬・齋藤與里・高村光太郎
 Ⅱ
  第四章 「生の芸術」論争・再考――「DAS LEBEN」/「地方色」からみた山脇信徳《停
   車場の朝》
  第五章 山脇信徳作品展覧会をめぐる「絵画の約束」論争・再考――「自己」か「公衆」
   か
  第六章 山脇信徳「断片」の歴史的意義──フォーヴィスム/エキスプレッショニズムへ
 Ⅲ
  第七章 「自然」と「生活」をめぐる岸田劉生の芸術論――白樺派言説を補助線として
  第八章 ヒュウザン会(フュウザン会)展覧会の同時代評価──印象派以降の展開
  第九章 「心的印象」を象徴的に描くこと──萬鐵五郎の「新しい原始時代」
 結論 印象派の超克
 初出一覧
 あとがき

著者・編者略歴
1974年生。立教大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了、博士(文学)。現在、神奈川大学国際日本学部教授。日本近現代文学・演劇・美術。著書に、『昭和一〇年代の文学場を考える 新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会、2015)、『文学と戦争 言説分析から考える昭和一〇年代の文学場』(ひつじ書房、2021)、『戦時下の〈文化〉を考える──昭和一〇年代〈文化〉の言説分析』(思文閣出版、2023)ほか。論文に、「萱野二十一「道成寺」同時代受容分析」(『国語国文』2024. 9)、「見えにくい世界/新しい景色──宮永愛子のオペレーション」(『人文研究』2024. 9)ほか。

特に絵画に注目し、西洋美術の新潮流がどのように日本に受容されていったのか、それも明治末から大正初めに重きを置いて、印象派やポスト印象派の影響が中心に論じられています。

完全な書き下ろしではなく、『大衆文化』『人文学研究所報』などに掲載された論文をベースにされた章もありますが、「大幅な加筆修正を施してある」そうで、多少、繰り返しになる部分はあるものの、ほぼきちんと一本の流れになっています。300ページ超の労作です。

また、人名索引がきちんとつけられているのがありがたいところですね。
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論じられているのは、ちょうど光太郎が明治39年(1906)から同42年(1909)の3年半に亘る欧米留学から帰朝し、実際に肌で触れてきた新しい芸術を日本に根づかせようと、画廊・琅玕洞やヒユウザン会(のちフユウザン会)などの活動に取り組んでいた時期です。そこで光太郎の名はほぼ初めから終わりまで出ずっぱり。章の題名としては「第三章 帰朝する新進洋画家――パイオニアとしての有島生馬・齋藤與里・高村光太郎」のみですが、他の全ての章にその名が刻まれています。

最も注目されているのが、山脇信徳。現在では一般には忘れられかけている存在ですが、明治42年(1909)の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された「停車場の朝」が物議を醸しました。
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光太郎と親しかった石井柏亭は「こんな色彩は日本の風景には存在しない」。光太郎は「作者がそういう色に見えるならそれは作者の自由だ」。いわゆる「地方色論争」です。そこから有名な光太郎の評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)が生み出されました。

残念ながら「停車場の朝」そのものはモノクロ画像が伝わっているだけですが、同時期の山脇の作品を見れば、ほぼどんな感じだったかは想像がつきます。ちなみに本書のカバーにあしらわれているのは山脇の「夕日」と題する作品。明治43年(1910)のものです。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

人間は根本が間違つてさへゐなければお互に其精神の根を信じて、あとの細々した事はすべてゆるしあひ、いたはりあつてゆく外ありません。


昭和3年(1928)4月4日長沼セン宛書簡より 智恵子43歳

とかく排外主義に陥りがちで不寛容な現代人にこそ贈りたい一節です。

『毎日新聞』さん12月11日(木)夕刊に載った、比較文学・比較芸術ご専門の東京大大学院教授・今橋映子氏の玉稿です。

美の越境 「新美術」を世に送り出す

 明治大正期、洋画の世界では、古美術ではないという意味での「新美術」をいかに世に広め、画家たちが自活でき、そして作品として評価されるか――が、大きな課題となっていた。
 岩村透(1870~1917年)という東京美術学校教授で美術批評家は、「要は食えないという問題をどうするか」を、若い美術家たちのために真剣に考え、新美術を売るための場所や戦略を考えた。
 その一つの解決法が、現代の画廊にあたる「新美術店」(あるいは「画堂」とも称す)の創設である。12(大正元)年開店の「画博堂」は岩村の強い勧めによるものであったという。岩村自身は同世代の工芸家たちとともに、「吾楽殿」(11年)を創始し、そこで最先端の工芸作品を厳しい相互批評で創り、一般市民に販売するという方策も立てた。
  同じく10年に、彫刻家で詩人であったあの高村光太郎も、「琅玕洞(ろうかんどう)」という画堂を開いたことは知られているだろうか。光太郎もまた洋画のみならず版画や工芸まで広くジャンルを越境する作品を展覧しようとしたのである。
 今回、埼玉県立近代美術館で単館開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展(2026年1月18日まで)は、光太郎と同世代、岩村より半世代若い写真家と洋画家、共に埼玉生まれの優れた創作家二人の、それぞれの歩みを堪能できる展覧会である。
 ただそれだけでない。今回は、銀行家の裕福な実家のお陰もあって、その富を画堂の創設や美術家支援に惜しみなく使った野島康三の活動と、彼と協働した斎藤与里の活動にも焦点を当てる、盛りだくさんの展覧会になっている。
 斎藤は野島に油彩画の技法を教えた存在だが、彼らは師弟というより、友人あるいは同志と言うべきだろうか。
 驚くのは野島の「兜屋画堂」(19~20年)、およびその後自邸を画堂とした活動(22~34年ごろ)で取り上げられた「新美術家」の名前である――梅原龍三郎、関根正二、村山槐多(かいた)、中川一政、恩地孝四郎といった洋画家たちのみならず、岡田三郎助を筆頭とする装飾美術家、藤井達吉や富本憲吉、高村豊周(とよちか)といった工芸家たち、あるいは山本鼎(かなえ)の児童画まで、ジャンルを超えた新しい才能が次々と紹介されたのである。
 野島自身は写真史ではいまやよく知られる存在で、岸田劉生の画風を思わせるような重厚なピクトリアリズム写真からスタートし、30年代には日本におけるモダニズム写真の根拠地となった雑誌『光画』(32~33年)の同人(他に中山岩太、木村伊兵衛、伊奈信男)であり、表現者であり、出資者でもあった。ここでもまた、日本の新興写真の支援者であったという見方ができる。
 10年代以降、東京には多くの画堂が開店し、新美術は、文展のような公的展覧とは別のルートを持つことで、社会と繋(つな)がり、顧客を得て、批評や評価の機会を得ることができた。つまり近代のアバンギャルド芸術は、こうした「場」の創始と不可分な関係にあったのだ。
 野島・斎藤の二人展は埼玉を機縁として、深く新美術創出の歴史へと私たちを連れていく。彼らのコラボレーションの熱気にあてられつつ、できるならば将来、吾楽殿、琅玕洞や兜屋画堂で開かれた展覧会そのものの再現展に立ち会えないだろうか――そんなむちゃな空想に浸りつつ、北浦和公園の深まる秋の小径(こみち)をたどった。
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野島康三「チューリップ」(1940年、京都国立近代美術館蔵)
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斎藤与里「秋海棠」(50年、埼玉県加須市蔵)
 
埼玉県立近代美術館さんで開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展をご覧になっての評というか随想というか、です。

光太郎と共にヒユウザン会(のちフユウザン会)を立ち上げた斎藤与里はともかく、野島康三という写真家については、当方、寡聞にして存じませんでした。ただ、野島が経営していたという「兜屋画堂」は、光太郎が開いた琅玕洞ともども日本近代美術史を論じた文献等に時折その名が出てくるので記憶の片隅にありました。

兜屋及び、その後、自邸を画堂とした中での出品作家に、光太郎実弟にして家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ鋳金家の豊周の名が上げられています。そこで、文治堂書店さんから発売された『髙村豊周文集』を繙いてみたところ、第4巻に以下の記述がありました。

 大正八年には装飾美術家協会が結成された。広川君や私などの青年の工芸運動に大先輩が協調してくれた結果を示したのが此の協会だ。岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉といふ先生方が集つた。広川、髙村、西村敏彦、原三郎、その他の若手がみな一緒になつた。築地の精養軒で華々しい旗上げをして、第一回展を神田神保町の兜屋画堂で開いた。これは模範的な最高級画廊として当時の野島康三氏が経営に当たられたものだつた。
(「広川松五郎追憶」 昭和28年=1953)

「広川君」は豊周の盟友にして染織工芸家の広川松五郎です。

その他、兜屋画堂については随所で触れられていました。なるほど、という感じでした。ただ、光太郎と野島には深い関わりはなかったらしく、『高村光太郎全集』には野島の名は出て来ません。

玉稿では、兜屋に先行する光太郎の琅玕洞にも触れて下さいました。文脈としては連載のタイトルにもなっている「美の越境」ということで、「光太郎もまた洋画のみならず版画や工芸まで広くジャンルを越境する作品を展覧しようとしたのである」。

確かに琅玕洞では、斎藤、正宗得三郎、柳敬助、濱田葆光、荻原守衛、岸田劉生、津田青楓らの油彩画、石井柏亭の版画、西洋画の複製などの他、藤井達吉の工芸作品なども並べました。しかしそれらだけでは売り上げは芳しくなく、与謝野夫妻の短冊、父・光雲の伝手で板谷波山の陶器、伝統的な木工作品なども扱っています。そのあたりは経営していくためには、背に腹は替えられぬという判断においてであったようです。それでも経営的にはまるで成り立たず、僅か一年で大槻弍雄(つぐお)に譲渡されてしまいます。

さて、埼玉県立近代美術館で開催されている「野島康三と斎藤与里―美を摑(つか)む手、美を興す眼(め)」展、出品目録にその名はありませんでしたが、光太郎や豊周の名がキャプションに出たりといったことはありそうです。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
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【折々のことば・智恵子】

冬の朝しづかに銀葉の上、一すぢほのかなけむりを見つゝ玉露を飲むはこよない。甘美な刺戟が味覚に浸み、どこか奥底にとゞくとき感情は尽きぬ流れになる。併私達多くは言葉なく感じ、理解し、各々の無言のうちに心充つる静寂にして白熱する朝夕が生活におとづれたのをしる。


散文「画室の冬――ある日の日記――」より 昭和2年(1927) 智恵子42歳

雑誌『婦人之友』第21巻第2号に掲載された長い文章の一節です。公に発表されたものとしては智恵子の最後の文章となりました。

智恵子の故郷・福島県二本松市の大山忠作美術館さん。同市出身の文化勲章受章画家にして、繰り返し上演された朗読劇「智恵子抄」で智恵子役を演じられた女優・一色采子さんのお父さまである大山忠作画伯の作品を収蔵・公開なさっています。

照明設備の改修工事が入るとのことで、今月から来年2月いっぱいまで休館だそうです。そのため、12月10日(水)~1月12日(月)でにほんまつ城報館さん、そして12月18日(木)~2月11日(水・祝)に智恵子記念館さんへ「移動美術館」という形で出開帳が行われます。一部、日程がかぶっていますので、作品を分散しての実施のようです。
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鯉の作品をはじめ、縁起物や高村智恵子に関する作品等の展示」とあり、おそらく智恵子モチーフの作品は智恵子記念館さんに出るのでは、と思われますが、それも複数あるのでにほんまつ城報館さんと分散されるかもしれません。

サムネイルに使われているのは、同館の目玉の一つ、「智恵子に扮する有馬稲子像」(左下)のためのスケッチ。昭和51年(1976)、「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」中の北條秀司作の「智恵子抄」(一色さんの朗読劇もこちらが元です)で智恵子役だった有馬稲子さんを描いたものです。
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右上がスケッチですが、当方手元にはモノクロ画像しかありません。現物を一度、同館で拝見しましたところ、茶色のコンテで描かれているようでした。

ちなみに完成作(左上)に書かれている有馬さんのサインは、平成25年(2013)に同館で行われた有馬さんと一色さんのトークイベントの際に書いていただいたものです。

確認できている限りスケッチはもう1枚残っており(左下)、そちらは完成作と同じ衣裳のもの。今回、そちらの展示もあるかもしれません。
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他にも先述の通り画伯には智恵子モチーフの作品が複数ありますので、いっそそれらを全て出してほしいものです。右上は同館でクリアファイルやポストカードとして販売している「霧」(平成7年=1995)。他にもありますし、さらに画伯は光太郎詩の一節を書かれた書も残されています。ただ、智恵子記念館さんは手狭、画伯の完成作は100号超の大作が多く、なかなか難しいかも知れませんが。

さて、移動美術館の情報は『広報にほんまつ』今月号から拾いましたが、そちらには他の智恵子関連情報も載っていたので併せてご紹介します。

まず同市の合併20周年記念ページ。令和になってからの市のできごとをふりかえる中で、昨日もご紹介した橋本堅太郎氏作の智恵子像「今 ここから」除幕(令和3年=2021)と、今年も行われた智恵子生家ライトアップの初回(令和5年=2023)のスナップ。
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名誉市民の大山画伯と橋本氏の紹介。
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第30回智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」入賞者決定、表彰式実施という件。
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合併20周年という二本松市さん、今後とも「智恵子の故郷」を一つのハイライトとして行っていただけるとありがたいところです。

【折々のことば・智恵子】

苟且(かりそめ)にも恋愛によるならば、一切を投げ出して純真に自然に徹し、自然に傾倒し、そこに殉教的な信仰を持する事によつて、清らかな一途の道が開かれると思ひます。


アンケート「哀憐な美しさを見ます――「心中」の新らしい見方――」より
大正11年(1922) 智恵子37歳

雑誌『女性日本人』第3巻第9号の特集「心中=芝居=大東京」中のアンケート回答から。近松門左衛門の「曽根崎心中」や、その当時も少なくなかった心中事件についてのものです。智恵子の回答は全体に「心中」に対して否定的な見方です。

「自然に傾倒し、そこに殉教的な信仰を持する事」「清らかな一途の道」、ここに光太郎と共に送ろうと考えていた自身の理想的な生活の在り方が表されているように感じます。ただ、生涯の道と定めた絵画は進展せず、子宮後屈症の手術、結核性の肋膜炎、インフルエンザ、盲腸炎などで、健康状態はすぐれない日々が続き、相次ぐ家族の病死もあって、陰鬱な影の立ちこめていた日々でした。

先月のNHKEテレさんの「アートシーン」でも紹介された、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展につき、『朝日新聞』さんが9月16日(火)付夕刊で、光太郎に触れつつ大きく取り上げました。

(美の履歴書:913)「生の記録3」 難波田龍起 燃える青、たちのぼるのは

 難波田(なんばた)作品に特徴的な垂直の線ももはや消え、青のモノクロームの濃淡だけがモヤモヤ漂う。細い筆で点を置いていくように丹念に描かれた筆跡は、密集し拡散する無数の粒子のようだ。「気の遠くなるような行為の集積に、人間の息づかいや念がこもっている」と、東京オペラシティアートギャラリーの福士理シニア・キュレーターは言う。
 この「粒子」感は、若き日の難波田龍起(たつおき)が薫陶を受けた高村光太郎に由来する。詩人で彫刻家の高村は、絵画は視覚だけでなく触覚との結びつきが肝要だと語った。それは画面を触って感じられる画材の質感とは異なり、あくまでイメージとしてたちののってくるマチエール(絵肌)だ。
 高村はもう一つ、芸術には「生命の戦慄」が必須だとも教えた。
命や人間性を重んじる思想と、キュビスム由来の幾何学的抽象の冷たさとの矛盾に悩んだ難波田。やがて、1950年代後半に日本に入ってきたアンフォルメルの「熱い抽象」とも呼ばれるエネルギーに活路を見いだす。
 難波田は、モネの晩年の傑作「睡蓮(すいれん)」をアンフォルメルの先例とみなしていた。88歳で訪れたパリ・オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に触発され、帰国後すぐに描き始めたのが、画業最大にして全4点の「生の記録」だ。
 絵画の物質性に頼り切ることなく、自らの精神によって生命を表現する。その実践の集大成は、まさに難波田自身の「生の記録」でもあった。
 同時に、「龍起個人や人間の存在を越えて、宇宙や生命現象の始まり、劫初(ごうしょ)の光を感じる」と福士さん。
 「難波田ブルー」とも呼ばれる青が、銀河の奥で燃える炎のように見えてくる。

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美の履歴書 913
・名前 生の記録3
・生年 1994年
・体格 舘162.1㌢×横390.9㌢
・生みの親 難波田龍起(1905~97)
・親の経歴 
 北海道・旭川に生まれ、翌年東京へ転居。19歳の頃、隣家に住む高村光太郎を自作の詩を携えて訪ね、以後親交を持つ。高村の勧めで太平洋画会研究所に学ぶがなじめず退所する。初期はギリシャ彫刻や仏像などのモチーフを描いていたが、戦後に抽象へ移行。欧米のアンフォルメルや抽象表現主義の影響を受けつつ、独自の抽象表現を探求した。
・日本にいる兄弟姉妹 東京・世田谷美術館、東京国立近代美術館などに。
・見どころ004
 ❶3枚のパネルを連ねた巨大な画面を埋める緻密(ちみつ)な筆致が、88歳の覇気を物語る。
 ❷青の濃淡や明暗が白っぽい筋をつくる。隣に展示されている、黄色が基調の「生の記録4」と比べても、より繊細な表現だ。

▽「難波田龍起」展は、東京オペラシティアートギャラリーさで10月2日まで。祝日をのぞく月曜と9月16日休館。日本の抽象絵画のパイオニアとして知られるの生誕120年にあわせた、約四半世紀ぶりの回顧展。写真は「昇天」(1976年)。問い合わせはハローダイヤル(050・5541・8600)


ついでですので、光太郎が難波田について描いた文章もご紹介しておきます。

まず昭和17年(1942)、銀座の青樹社で開催された難波田の第一回個展の目録に載った文章。

   難波田龍起の作品について

 難波田龍起君の芸術の中核はその内面性にあるやうに思はれる。初期の頃一時ルドンに熱中してゐた事があつたが、あの魂の共感はいろいろの形で其後にもあらはれてゐる。種々の段階を通つて進んで来たが、ギリシヤの発見以来同君の芸術は急速に或る結成の方向を取つたやうに見える。それはやはり同君の内面的映像への求心性が然らしめたものと推察する。それ故同君の構想には人に知られぬ内面の必然性があつて、互に連絡し交叉しあつてゐる。此の点を見のがしては、今後に於ても同君の芸術の魅力は領解不十分となるであらう。画面上の技術にも珍しく緻密な用意がある。かういふ特質ある画家を十分に育て上げるやうな文化的環境が是非欲しい。同君の未来に私はわれわれ民族の内面形象を大に期待する。


続いて、昭和28年(1953)、やはり難波田の個展の際、会場に置かれた「感想帖」に鉛筆で書き込まれた言葉。

 昔ながらに色がいいと思つた。ギリシヤ時代のあの色がここにも生きてゐて愉快に思つた。Peintureではイロが第一の門だと今でもおもふ。

双方に出てくる「ギリシヤ」云々は、難波田が光太郎のアトリエでギリシャ彫刻の写真などを見せられてその精神性に惹かれ、モチーフとしていたことを指します。まだ抽象画に移行する前の話です。

それにしても、短文であっても本質をずばりと捉える光太郎の評には相変わらず舌を巻かされます。

東京オペラシティアートギャラリーさんでの「難波田龍起」展、10月2日(木)までの開催です。まだ足を運ばれていない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

世界は美しいもので満ちて居ます。それの見える人、眼でばかりで無く、叡智でそれの見える人が実に少ない!


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

難波田は叡智で美を見られる少数派の一人だったのでしょう。

光太郎、のちに頼まれて色紙などに揮毫する際、「美しきもの満つ」とか「世界はうつくし」と書くことが多くありました。その元ネタがこの一節だったようです。
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竹橋の東京国立近代美術館さんで開催され,光太郎著書なども展示されている「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」について。

まずテレビ放映の情報です。

日曜美術館 戦後80年 戦争画と向きあう

NHK Eテレ 2025年9月21日(日) 9:00~9:45  再放送 9月28日(日)  20:00~20:45

戦時中、軍の依頼を受け、画家・藤田嗣治や宮本三郎らが描いた「戦争記録画」。当時、国民の戦意昂揚を図るため描かれたそれらの作品と、今どのように向きあえばいいのか?

戦後80年を機に、東京国立近代美術館では「戦争記録画」二十数点を中心とした展覧会「記録をひらく 記憶をつむぐ」が開催中だ。番組では、祖父・宮本三郎の戦争画について考え続けてきた孫の宮本陽一郎さんをゲストに迎え、展覧会企画者の同館・鈴木勝雄さんとともに、宮本や藤田嗣治らによる戦争記録画の代表作をたどり、今、私たちがそれらの作品を通じて、どのように戦争の記憶を受け継いでいくのか、対話を重ねていく。

【出演】坂本美雨 放送大学特任教授/筑波大学名誉教…宮本陽一郎 千葉工業大学教授…河田明久
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今年は戦後80年ということでテレビ番組でもそれ系のものが多く制作されましたし、これまで同番組とセットの「アートシーン」でも取り上げられていなかったので、まるまる1回費やすかなと思っていたら、ビンゴでした。

同展については、センシティブな内容のためもあり、フライヤーもポスターも図録も制作されていません。その点が却って話題を呼ぶという逆転現象が起きています。

新聞各紙でも取り上げています(どうもある御用新聞は無視しているようですが)。ただ、多くは通常の取り上げ方。そんな中で、『東京新聞』さんは、かなり突っ込んだ紹介をしています。

見開き2ページで少し長いのですが、全文を。

東近美 最大規模の展示でもPR及び腰 戦争画は「センセーショナル」? GHQ接収、なお「貸与」状態 揺れる歴史認識 反発避けた? 派手にあおると「文脈見失う恐れ」

 東京国立近代美術館(東京都千代田区)が、現在開催中の展覧会で宣伝をほぼしないという異例の対応を取っている。展示の中心となるのは、戦時中に旧日本軍の委嘱などにより描かれた「戦争画」。これまで公開の機会が限られ、まとまって展示される機会は貴重なはずだがなぜか。経緯を追った。

ちらしもポスターもなし 来館者「もったいない」
 8月末、「こちら特報部」は展示会場を訪れた。
 マレー半島の浜辺を這(は)って敵陣の鉄条網を突破しようとする日本兵らを描いた「コタ・バル」(中村研一、1942年)や、日本軍守備隊が全滅した戦いを死闘図として描いた「アッツ島玉砕」(藤田嗣治、1943年)。激しい戦闘や果敢な日本兵の姿を題材にした大型絵画の数々が目を引く。戦時中、戦意高揚や戦争の記録のためにつくられた戦争画だ。東近美が管理する153点の戦争画のうち、過去最大規模となる延べ24点が10月26日まで公開される。
   当時のポスターや出版物などをそろえ、メディア環境も再現する。戦後の美術作品や、市民が被爆体験を描いた絵画も並ぶ。東近美は戦後80年を節目に、「美術が戦争をどのように伝えてきたかを検証する」企画だと説明するが――。
 実は今回、東近美は展覧会のちらしやポスターを作っていない。開催を知る方法は、同美術館のウェブサイトやメディアの記事に限られる。図録も作成されていない。
 さらに不思議なのは展覧会のタイトル。「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」と、戦争との関連性がわからない。会場のあいさつ文では「戦争体験を持たない世代がどのように過去に向き合うことができるかが問われている」と掲げるが、なぜ目立たない形で開催するのか。
  東近美側に意図を尋ねると、繰り返したのは「センセーショナルな宣伝をしたくなかった」との言葉だった。広報担当者は「美術館は歴史認識を問う立場ではなく、展示で戦争を扱うときはより丁寧な説明が必要。展示の文脈の意図と異なる切り取られ方をし、言葉が独り歩きすることは避けないといけない」と話す。
 当初は企業などとの共催を検討したが、集客のため「キャッチーな宣伝文句」を使われる恐れがあるとし、館単独で開催する自主展を選択したと説明。予算が限られ、他館からの作品輸送費などを優先し、ちらしや図録制作を断念したという。
 だが、実際に会場に足を運ぶと、幅広い年齢層の美術ファンや外国人旅行客で混雑し、「通常の自主展より多い」(広報担当者)というほど盛況。来場者に感想を聞いた。
   新聞記事で展示を知った大田区のパート女性(64)は「タイトルを見て地味な内容かと思っていたら、貴重な作品ばかり。こんなに迫力と見応えがあるのに、宣伝されないのはもったいない」と残念がる。「当時の人が戦争画に引き込まれた気持ちは分かる気がする」
 三鷹市の西本企良(きよし)さん(74)は「戦前からベトナム戦争まで扱い、アジア諸国への加害にも踏み込み、解説を含めて期待以上に深い内容だった」と驚く。「当時の日本人が戦争賛美に熱狂したことを知り、反省することは大事。もっと多くの人に絵を見てもらえるようにした方がいい」と注文した。

未来の「表現」考える契機「試み今後も積み重ねて」
 日本の戦争画の歴史は複雑な経過をたどってきた。 日中戦争から太平洋戦争にかけて、軍の委嘱を受けるなどし、多くの画家が戦地へ渡った。作品を発表した各地の展覧会は盛況だったとされる。終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が戦利品として多くの戦争画を接収。1970年にようやく「無期限貸与」の形で返還され、東近美に管理が委ねられた。
 返還後は修復を経て、1977年に同美術館で企画展が計画されたが、直前に中止に。日本に侵略されたアジア諸国や、自作だと認めたがらなかった画家らへの配慮があったなどといわれる。その後、同美術館は数点程度の展示にとどめてきた。 今回まとめて展示されたことに、一括展示の必要性を訴えてきた美術批評家の椹木野衣(さわらぎ・のい)氏は「返還後、最大規模の展示という点で画期的で、大きな前進」と捉える。
 一方、戦争画は国威発揚のプロパガンダに利用された点だけではなく、美術史の観点で捉えることも重要と説く。「描いたのは当時の日本の画壇のホープたち。日本の油彩画の歴史は浅く、歴史画や戦争画が主流の西洋美術を乗り越える千載一遇のチャンスとし、自ら進んでいった側面がある」とし、展示では「そうした歴史的位置付けはなされていない」と付け加えた。
 ようやく大規模展示に踏み切りつつ、宣伝に及び腰な東近美の姿勢に対し、美術ジャーナリストの永田晶子氏は「鑑賞者の立場に立っていない。国民の美的感性の育成も国立美術館の使命の一つだが、見てもらう積極性に欠ける」と指摘する。慎重な姿勢の背景を「歴史認識の問題が考えられる」とみる。「侵略か自衛かなどと、歴史認識は揺れている。アジア諸国の受け止めへの不安もあり、ハレーションを避けたかったのでは」 もっとも、東近美がちらし作成などをしなかった事情に予算上の問題を挙げたように、国立美術館の財政状況が厳しいのは確かだ。収入の多くを占める国の運営費交付金は、年々減少傾向にある。永田氏は「そうとはいえ、展覧会の周知が必要と考えたならある程度の予算調整はできたのではないか」と疑問視する。
 先の椹木氏は「米国からの無期限貸与の状態のままになっていることに縛られているのでは。今後、日本の『所蔵』に戻せるよう、国や米国への働きかけが必要になる」と述べた。 
 一方、戦争画に詳しい愛知県美術館長の平瀬礼太氏は、「派手であおるような宣伝は避けた方がいい」と理解を示す。宣伝や告知自体は必要としつつ、「ストーリーを作りすぎると、見る側が作品の文脈を見失う恐れがある」と強調する。
 写真と違って戦争画は場面を「創造」し、画家の戦争への関わり方も一様ではない。そのため、宣伝も展示説明も工夫が不可欠だという。「戦争の時代の美術は一つの解釈で語れるものではない。展示するからには、丁寧に背景を説明し、冷静に見てもらう仕組みが求められる」
 展示を巡る課題は多いが、現代の人々にとって戦争画と向き合う意義は何か。 ◇「戦争画は表現の多面性を教えてくれる」
 平瀬氏は「戦時下に画家がどう活動し、見る側がどう受け止めたのかを知ることは重要。これからの社会を見据えて表現はどうあるべきか、見る側も作る側も考えるきっかけになる。今回の試みを一過性のものとせず、新たな要素を加えながら積み重ねていくことが大切だ」と話す。
 永田氏は「現代美術では過去の出来事を批評的に捉え、自らの表現を生み出す作家は珍しくない」とし、こう期待した。「美術は見る人が生きている時代や社会、個人の価値観、作品が制作された歴史的背景や状況を知っているかどうかで見方が変わる。戦争画はそうした表現の多面性を教えてくれる」

デスクメモ
 冒頭の「コタ・バル」を鑑賞した太田記者は、鉄条網の合間から鋭く視線を送る日本兵と目が合い引き込まれたという。文化の力がプロパガンダに利用される普遍的な危うさを戦争画から見つめてみたい。抑制的なPRのために貴重な展示に触れる機会を失ってしまうとすれば残念だ。
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識者の意見がメインですが、フライヤーや図録を作らず、宣伝も余りしていないことについての鋭い突っ込み。言いたいことはよくわかります。ただ、館側の「派手にあおると文脈見失う恐れ」という言い分も首肯できますし、キュレーター的な仕事も行っている身としては、「むべなるかな」とも「やんぬるかな」とも感じますが……。

それにしても、「自作だと認めたがらなかった画家」が居たというのは初耳でした。文学方面ではそれに近いケースは結構ありましたが、美術方面でも「ブルータス、お前もか」。それ、いったい誰だ? と、興味深いところです。

同展、10月26日(日)までの会期です。まだご覧になっていない方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

立体的理法は物の主眼であつて外観ではありません。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

この一節のみ、全体に傍点が附されています。クラデルの原著がそうなのか、光太郎が訳した際にそうしたのか不明ですが。

一昨日、拝見して参りました。光太郎の薫陶を受けて芸術の道を志した難波田龍起作品の展示です。

生誕120年 難波田龍起展

期 日 : 2025年9月3日(水)~9月20日(土)
会 場 : ギャラリーときの忘れもの 文京区本駒込5-4-1
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 日・月・祝日休廊
料 金 : 無料

 難波田龍起(1905~1997)は戦前戦後の前衛美術運動の中で誠実に己の道を歩み、形象の詩人に相応しい澄んだ色彩、連続したモティーフと曲線による生命感あふれる独自の画風を築かれました。
 私たちが難波田先生に初めて銅版画制作を依頼したのは1977年、画家として同じ道を歩んでいたご子息二人を相次いで亡くされた2年後のことでした。
 ご傷心の中にもかかわらず温かく迎え入れてくださり、私たちが持ち込んだ銅版に夢中で取り組まれ、次々に名作を生みだされました。
 1995年にときの忘れものは南青山に開廊しましたが、第一回の展覧会は「白と黒の線刻 銅版画セレクション1」(出品作家:長谷川潔、難波田龍起、瑛九、駒井哲郎)でした。
 当時現存の作家で私たちの画廊で初めて展示してくださったのが難波田先生でした。
 同年刊行したときの忘れものの最初のエディションも『難波田龍起銅版画集 古代を想う』で、約20年の間に、版元として多くの版画誕生に立ち会うことができました。
 今回の生誕120年記念展では、ご遺族のご協力を得て、油彩、水彩、版画を17点出品いたします。
現在、東京オペラシティ アートギャラリーで難波田龍起先生の大規模な回顧展が開催されています(10/2まで)。合わせてご覧いただければ幸いです。
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画廊主の綿貫ご夫妻は、ほぼ毎年、当会主催の連翹の集いにご参加下さっていて、今回の展示もご案内を頂きましたし、1ヶ月前には新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんでの「難波田龍起」展を拝見しましたので、併せて観ておこうと思い、お邪魔いたしました。
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ぜいたくなことに、直接難波田をご存じの綿貫氏によるギャラリートークを拝聴しながら拝観させていただきました。
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東京オペラシティアートギャラリーさんの方は大作が多く、圧倒される感じでしたが、こちらは愛らしい小品が中心で、また違った感じでした。綿貫氏曰く「小さな作品でも決して手を抜いていない」。なるほど。
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制作法も、油彩あり、エッチングあり、パステル+水彩ありと、バリエーションに富み、抽象が中心ですが、街の風景のようなかなり具象っぽいもの(それでもシュールな感じ)もありました。
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フライヤー的な案内ハガキに使われたこちらの作品、版画に手彩色だそうで、そういうやり方もしていたのか、という感じでした。

それから、やはり光太郎と交流の深かった舟越保武の石彫も。
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この日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存会の会合で、そちらに向かう途中に寄らせていただいたのですが、その中西アトリエで撮られた難波田と子息、光太郎の写真。
難波田
東京オペラシティアートギャラリーさんで展示されており、「どこかで見た記憶があるんだよな」と思っておりましたが、昭和62年(1987)に竹橋の東京国立近代美術館さんで開催された「今日の作家 難波田龍起展」の図録でした。ただ、キャプションが誤っており、正しくは昭和29年(1954)のようです。

その中西アトリエの方は、残念ながら現地での保存は断念、現在、移設先を探しているところです。54坪ほどのあまり大きくない建造物、手を挙げていただける自治体さん、法人さん、個人の方でも、ご連絡いただければ幸いです。

さて、ときの忘れものさんでの「難波田龍起展」、9月20日(土)まで。9月13日(土)には、写真にも写られている難波田子息の武男氏と、東京オペラシティアートギャラリーさんのキュレーター・福士理氏の対談形式のギャラリートークも予定されているとのことです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

石に一滴一滴と喰ひ込む水の遅(のろ)い静かな力を持たねばなりません。そして到着点を人間の耐忍力にとつて余り遠すぎると考へてはなりません。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

おそらく難波田もこの一節が載った光太郎訳『ロダンの言葉』を読んだのではないでしょうか。

ちなみにときの忘れものさんのサイト内に、光太郎との関わりを綴った難波田のエッセイがアップされています。お読み下さい。

8月16日(土)、御茶ノ水で「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」を拝聴する前、竹橋の東京国立近代美術館さんに立ち寄りました。こちらで先月から開催されている企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」に光太郎がらみの出品物があると、SNSで知ったためです。
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同館公式サイトでは「戦争記録画を含む当館のコレクションを中心に他機関からの借用を加えた計280点の作品・資料で構成される本展覧会」と謳われています。
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お盆中でもなかなかの入りでした。
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基本的には絵画がメイン。
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「アッツ島玉砕」など、以前にも特集展示的な感じで複数並べられた、東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生だった藤田嗣治作品がやはり目をひきました。
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他に梅原龍三郎、猪熊弦一郎など光太郎と交流のあった面々の作品も。
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かの丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」も。
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それらをただ並べてあるだけでなく、いろいろと工夫も。たとえば従軍画家として作曲家の古関裕而と共にミャンマー入りした向井潤吉の場合、戦争画と有名な戦後の民家シリーズの作品とを並べ、一つの文脈で捉えるなど。
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こんな作品も。一見、単なる婦人像に見えますが、よく見ると縫っているのは千人針です。
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その他、プロパガンダ系のポスターなど。
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「現在でも自民党本部に貼ってあるんじゃないの?」というようなものも。ここまでは上の方に画像を貼っておいた出品目録に掲載されているものです。

これら以外に、展示ケースをふんだんに使い、出版物等の展示も充実。昨年、同館で開催された「ハニワと土偶の近代」展と似たような感じだなと思いました。美術館としてこういう展示の方法は、なかなか勇気の要ることだと思います。
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この流れの中に、光太郎の翼賛詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)が展示されていました。
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過日もご紹介した「十二月八日」のページを開いての展示でした。
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同じ並びには日本放送協会(現・NHK)編の『愛国詩集』、大政翼賛会編の『翼賛詩歌』第一輯。共に光太郎の翼賛詩が収められたアンソロジーです。前者には「彼等を撃つ」(昭和17年=1942)「シンガポール陥落」(同)後者には「必死の時」(昭和16年=1941)が掲載されています。
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戦後の出版物も。やはり「ハニワと土偶の近代」展同様、サブカルチャー的なものも積極的に。

水木しげるの『総員玉砕せよ!!』。
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中沢啓治「はだしのゲン」。単行本ではなく、初出掲載誌の『週刊少年ジャンプ』、『市民』が展示され、より生々しい感じです。
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圧倒される展示でした。

続いて階上の常設展示的な「所蔵作品展 MOMATコレクション」。光太郎のブロンズ「手」などがよく出ているのですが、現在は光太郎作品はお休み中でした。

光太郎の親友・碌山荻原守衛の「女」は出ていました。
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その他、いろいろ名品が並ぶ中、階下の「記録をひらく 記憶をつむぐ」とリンクさせる意図もあるのでしょうか、やはり戦争画的なものも多かったように感じました。
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光太郎智恵子と交流のあった津田青楓の「叛逆者」。これなども「記録をひらく 記憶をつむぐ」と併せて見ることで、違った見え方になるような気がしました。
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館を出て、「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」までまだ余裕がありましたので、近くの戦争遺跡を見に。元々、時間があればそうするつもりでした。北の丸公園に、皇居防衛のために設置された「九八式高射関砲」の台座が遺されています。下記画像は国民公園協会さんのサイトから。
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スマホの地図アプリと連動した「道案内」的なサイトが用意されていまして、その通りに歩きました。都心のさらにど真ん中とは思えないような緑陰で、実にいい感じでした。
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しかし、そのサイトが超頓珍漢でして、全然何もない場所に案内されてしまいました。近くをさんざん探しましたが、ありません。慌てて他のサイトに当たってみると、正しくは全く離れた場所だということがわかりました。この手の道案内アプリ、時々こういうことがあるんですが、なぜなのでしょう?

結局断念し、御茶ノ水に向かいました。残念でした。

代わりというと何ですが、さらに前日に足を運んだ戦争遺跡の画像を。場所は当会事務所兼自宅のある千葉県香取市に隣接する旭市です。同市には千葉県立図書館の分館があり、そちらで調べもののついでに立ち寄りました。
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戦時中に香取海軍航空隊の基地があった場所で、空襲などの際に敵機から自機を隠すための掩体壕(えんたいごう)です。
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鎌数伊勢大神宮さんという神社の近く。同社の第二駐車場から徒歩数分です。先月、花巻で見た戦争遺跡同様、粛然とした気持にさせられました。

この手の掩体壕はさらに南の匝瑳市や、北に位置する茨城県鹿嶋市にも現存しています。鹿嶋市のものは以前に行きましたが、特攻兵器・桜花を収納するためのもので、桜花のレプリカも展示されていました。

終戦から80年。こういうものがまた必要になる時代に二度としてはならない、と、改めて思います。

【折々のことば・光太郎】

彫刻に於ける、あらゆる側面からの描形(デツサン)。此が魂を石に下降させ得る呪(まじなひ)である。


光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

不謹慎のような気がしないでもありませんが、上記掩体壕のコンクリートの造型を見て、彫刻的な美しさを感じてしまいました。

智恵子の故郷、福島県二本松市が主催です。

第30回智恵子のふるさと小学生紙絵コンクールの作品を募集します

 高村智恵子のふるさとである二本松市では、「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を実施し、福島県内および岩手県花巻市の小学生による紙絵作品を募集します。
 子どもたちの美意識と創造性・独創性の一層の育成を図るとともに、二本松市が生んだ芸術家「高村智恵子」をさらに顕彰していただき、あわせて地域の文化振興に寄与することを目的とします。
 今年度、本コンクールは開催第30回目の節目を迎えることから、特別賞「特別智恵子大賞」を設けます。

募集対象 福島県内および岩手県花巻市の各小学校に在学中の児童 
     ※義務教育学校を含みます。
募集部門 小学1年生の部から6年生の部まで6部門
応募規定 応募点数 ひとり1点とします。
作品規格 「画用紙」四ツ切サイズ(380ミリメートル×540ミリメートル)。
     ※規格外の作品は、審査の対象となりません。
表現・作成方法 テーマは自由です。
紙(材質・種類・色などは自由)を切り取り(ハサミ・カッター・ちぎり取るなど何でも自由)、ノリで上記の画用紙等に貼り付けてください。貼り付けてからの絵の具などでの着色も構いません。縦横は自由とします。
(注)次の作品は受け付けられませんので、お送りにならないようお願いいたします。
 ・作品規格に合わない作品
 ・輸送途中に形態が変わったり、紙が剥がれてしまう作品
応募期間 令和7年8月22日から9月5日まで※必着
応募方法
・「応募票」をダウンロードし、必要事項を記入の上、作品裏面の左下に貼付してください。また、作品を所属する学校単位でまとめ、「応募一覧表」をダウンロードし、必要事項を記入の上、ともに下記の送付先に送付してください。
・原則、学校単位での募集としますが、学校にて取りまとめができず個人での応募となる場合は、「応募票」をダウンロードし、必要事項を記入の上、作品裏面の左下に貼付後、下記の送付先に送付してください。応募者の氏名等の間違いがないようご確認ください。詳細は、下部のチラシをご覧ください。

送付先 〒964-8601二本松市金色403-1 二本松市教育委員会文化課 小学生紙絵コンクール係

その他
応募作品は、 他のコンクール等に出品していない作品、かつ著作権、商標権、肖像権等第三者の権利を侵害しないものに限ります。
入賞作品も含めて、応募いただいた作品は返却いたします。
入賞作品の使用権は 、主催者に帰属します。
入賞作品は、展覧会・報道・ 広報 ・ 市ウェブサイト等にて作品、氏名 、学校名、学年を公表させていただきます 。
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たまたま展示が為されている時期に二本松に行く機会があった場合に、入賞作品群を拝見したことが何度かありました。
 第23回(平成30年=2018)  第24回(令和元年=2019)  第27回(令和4年=2022)

ちぎり絵がほとんどでしたが、時折、智恵子同様、ハサミで紙を切っての切り絵的な手法での作品も入賞しています。

006ちなみに「紙絵」という呼称は光太郎の提唱によって定着しました。昭和26年(1951)6月4日~10日、銀座の資生堂ギャラリーで開催された「高村智恵子紙絵展覧会」の際からで、それまでは「切抜絵」などと称していました。詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)に収められた散文(昭和14年=1939)のタイトルも「智恵子の切抜絵」でした。

「高村智恵子紙絵展覧会」の簡易図録に収められた美術評論家・土方定一の後書き的な文章。

 この展覧会を催すことになつたとき、これらの作品を切抜き絵とするかどうか話しあつた。折よく中央公論社の松下さんが高村さんのところに行かれるときであつたので聞いてもらつたところ、紙絵というジャンルが油絵というようにあつていいだろう、ということであつた。それで紙絵展とした。

なるほど。

さて、紙絵コンクール。これが児童の皆さんに光太郎智恵子へ興味を持つ一つのきっかけとなってもあらえれば、と存じます。また、応募対象が限定されていますが、たくさんのふるっての応募を期待したいところです。今回は30回記念で「特別智恵子大賞」が授与されるそうですし。

【折々のことば・光太郎】

人間の天才力は穹窿の創造に勝ち誇つてゐる。何処から此の穹窿は来たのだらう。虹から、多分。

光太郎訳ロダン「本寺別記」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「穹窿」は「きゅうりゅう」と読み、本来は大空の意ですが、ここでは本寺(ノートルダム大聖堂)内部のヴォールト(アーチを平行に押し出したかまぼこ型の形状を特徴とする天井様式)を指します。

本当に美しい造型を見た時の舌を巻くような感覚、また、それを感受出来る感性を持つことの大切さ、そういったことを教えてくれる一節ですね。

昨日は上京しておりました。

メインの目的は上野の東京文化会館さんでの「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」の拝聴でしたが、その前に新宿まで足を伸ばし、東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展を拝見。

洋画家・難波田龍起(明38=1905~平9=1997)は旧本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)にあった光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住み、光太郎の影響で芸術の道に入った人物です。はじめ詩作を志し、大正末には光太郎に詩稿を見てもらうなどしたものの、どうもそちらはものにならなかったようで(後々まで続けますが)、後に画家として立つことになります。智恵子も通っていた太平洋画会に一時加入しました。画の分野では川島理一郎、松本竣介、詩の方面では宮崎丈二など、その交友圏は光太郎とかなりの部分で重なっていました。光太郎との交流は光太郎最晩年まで続き、中野のアトリエを足繁く訪れた他、昭和28年(1953)に光太郎が花巻郊外旧太田村に一時帰村した際には同行しています。

そこで、「難波田龍起」展、「光太郎と交流の深かった画家」という点が前面に押し出されています。ただ、光太郎自身の作品等は展示されないということで、このブログでもご紹介せずにいました。
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出品リストが以下の通り。
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会場内。撮影可でした。
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初期の頃はそれほど特徴がない感じに見えましたが、戦後になって抽象の度合いが色濃くなると、豊かな個性の発露が感じられました。
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サイケなガシャガシャしたイメージではなく、静謐さも湛えているように見えるのは、色調が抑えられているせいかと思いました。

展示の終わり近くにスナップ写真などがケース内に並んでおり、光太郎も。見たことがあるような無いような写真でした。
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キャプションには「1953年」とありますが、光太郎日記を参照してみますと、どうも昭和29年(1954)1月5日のようです。

一月五日 火
晴温 終日在宅、難波田龍起氏子供さん3人同道来訪、リンゴ進呈、

一月十四日 木
晴、くもり、 ひる頃難波田さんくる、先日子供さんのとつた写真数枚もらふ、よくとれてゐる、

展覧会詳細は以下の通り。

難波田龍起

期 日 : 2025年7月11日(金)~10月2日(木)
会 場 : 東京オペラシティアートギャラリー 新宿区西新宿3-20-2
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 月曜日 (8月11日、9月15日は開館)
      月曜祝休日の翌火曜日(8月12日、9月16日) 8月3日[日](全館休館日)
料 金 : 一般1,600円[1,400円]/大・高生1,000円[800円] 中学生以下無料

 難波田龍起(1905-1997)は、戦前から画業を始め、戦後はわが国における抽象絵画のパイオニアとして大きな足跡を残しました。大正末期に詩と哲学に関心をもつ青年として高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで画家を志した難波田は、身近な風景やいにしえの時代への憧れを描くことで画業を開始します。戦後になると抽象へと大きく制作を進め、海外から流入する最新の動向を咀嚼しながらも情報に流されず、また特定の運動に属することもなく、独自の道を歩みました。その作品は、わが国における抽象絵画のひとつの到達点として高く評価されています。
 東京オペラシティアートギャラリー収蔵品の寄贈者である寺田小太郎氏が本格的な蒐集活動にのりだし、さらにコレクションを導くコンセプトのひとつである「東洋的抽象」を立てたのも、孤高の画家難波田龍起の作品との出会いがきっかけでした。難波田が東京オペラシティアートギャラリーの所蔵する寺田コレクションの中心作家となっていることは言うまでもありません。
 本展は難波田龍起の生誕120年を機に、当館収蔵品はもとより、国内の美術館の所蔵品、また個人蔵の作品などもまじえ、難波田の画業の全貌を四半世紀ぶりに紹介し、今日的な視点から検証するものです。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変突然ですが 御預り願つておりました智恵子の紙絵を御送附いただきたく思います 手許で見たくなりましたので…永い間、御預りいただいてゐましたこと深謝にたへません。鉄道便箱づめにして御送り下さい。同封の送料で何卒よろしくお願いします。

昭和31年3月27日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎74歳

亡くなる6日前のもので、現存が確認できている光太郎最後の書簡です。『高村光太郎全集』には脱漏していましたが、現物が花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されており、展示されたことも。

この時点では長い文面を自ら書き記す力はほとんど残っていなかったようで、借りていた貸しアトリエの大家である中西富江に代筆して貰っています。ただし、翌日には喀血・血痰が一旦治まり、散文「焼失作品おぼえ書」の最後の一枚を自ら書き、周囲を驚かせました。

生涯最後の書簡が最愛の妻・智恵子や第二の故郷・花巻(佐藤は光太郎を花巻に招いた一人)であることに、何やら象徴的なものを感じます。

紹介すべき事項が山積しておりまして、雑誌や新聞に掲載された複数案件を。

まずは雑誌『月刊絵手紙』さん5月号。平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていて、その頃は定期購読していたのですが、連載が終了してから疎遠になっていました。現在は手紙文化研究家・中川越氏の「手紙のヒント あの人に学ぶ親愛の伝え方」という連載が為されていて、近現代の芸術家の手紙等が紹介されています。その中で5月号は光太郎の水彩素描2点を元に「高村光太郎――山のスケッチに対抗して街のスケッチ」というタイトルで書かれています。
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素描は昭和20年(1945)から7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村山口地区を描いたものと、居住していた山小屋周辺の草花を描いたスケッチ帖から。

山口地区を描いたものの原画は花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されており、時折、展示されています
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草花の方はチゴユリ。こちらも同館で複製スケッチと描かれた植物の写真とを並べて展示されたりもしました。

中川氏、昨秋、中野区のなかのZEROさんで開催され、当方もスタッフとして毎日詰めていたた中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にいらして下さり、いろいろお話をさせていただきました。今回以外にも同じ連載などで光太郎に触れて下さっているようで、バックナンバーを探してみます。

中野と言えば……ということで、『読売新聞』さんに6月12日(木)に載った記事。

高村光太郎が晩年を過ごしたアトリエをめぐる文人たちの作品朗読会…7月6日に中野区で開催

 詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年を過ごした東京都中野区のアトリエにゆかりのある文人たちの作品を紹介する「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」が7月6日(日)に中野区産業振興センター大会議室(中野区中野2-13−4)で開かれる。
 同区内の住宅街にある築80年近くの「中西アトリエ」は、水彩画の革命者と言われた洋画家の中西利雄(1900~48年)が終戦後間もなく建てたアトリエで、高村光太郎は56年4月に亡くなるまでの3年半をここで過ごし、青森県十和田湖畔に立つ代表作「乙女の像」の塑像を制作した。
 朗読会では、高村をはじめ、創作活動を通じて交流のあった佐藤春夫や草野心平、太宰治などの詩人、小説家6人の作品を、13人の発表者が紹介する。
 アトリエの保存活動を行っている有志の会の主催で入場は無料。定員は80人で、定員になり次第締め切る。申し込みと問い合わせは曽我貢誠さん(090・4422・1534)まで。メールは sogakousei@mva.biglobe.ne.jp
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高村光太郎ゆかりのアトリエ(東京都中野区で)

当方も所属しています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」主催で来月行われるイベントの予告記事です。
朗読会案内① 朗読会案内②
また追ってご案内いたしますが、女優の一色采子さん、今年の連翹忌の集いで朗読を披露していただいたフリーアナウンサーの早見英里子さんと朗読家の出口佳代さんのコンビには朗読を、フルート奏者の吉川久子さんにはお仲間の方の朗読に乗せて演奏をお願いしてあります。また、詩人で朗読にも取り組まれている方々もそれとは別に。司会は当方です。

ついでですので、もう1件。

直接的には光太郎に関わりませんが、光太郎が終生敬愛していたロダンがらみで、時事通信さん配信記事。

ロダンの「複製」の大理石像、実は本物 1.4億円で落札 フランス

【AFP=時事】フランス人彫刻家オーギュスト・ロダンの複製と思われていた大理石の像が本物と認定され、オークションで86万ユーロ(約1億4000万円)で落札された。主催者が9日、発表した。
 オークション主催者のエメリック・ルイラック氏によると、この像は「Le Desepsoir(絶望)」と題されたロダンの1892年の作品で、1906年のオークションで落札された後、所在が分からなくなっていた。
 ルイラック氏によると、週末に行われたオークションでのスタート価格は50万ユーロ(約8200万円)で、最終的には86万ユーロで落札された。
 像は高さ28.5センチで、女性が片足を両手で持って座っている。
 所有していた家族は長年、複製だと思い込み、ピアノの上の隅に置いていたという。
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平成29年(2017)にも同じようなことが、ただしアメリカでありました。その際は大理石のナポレオン像で、今回のものより高額の「400万~1200万ドル」。おそらく大きさの違いもあるのではないかと思われます。

光太郎と同じく、ロダンを敬愛し、というか、弟子とも言える碌山荻原守衛にも「Le Desepsoir(デスペア)」と題する作品があります。光太郎は詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)に登場させています。
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当然、ロダンからのインスパイア、ロダンへのオマージュがあったのでしょう。

ロダン作品に戻りますが、長年、ピアノの上に置いてあった……驚きですね。当方自宅兼事務所を隅々まで探してもそんな凄いものは置きっぱにはなっていないでしょう(笑)。

最後にもう1件、荻原守衛関連です。信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第45号が届きました。ありがたし。
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昨年の第114回碌山忌の際の関連行事「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」の、「びじゅチューン」でおなじみ井上涼氏と同館学芸員・濱田卓史氏による対談が文字起こしされています。光太郎にも触れられていました。

他には以下の目次の通り。
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同館サイトから全文が読めますが、紙媒体で手許に欲しいという方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】049

創元社から「ヴエルハアラン詩集」を届けられました。思つたよりはきれいに出来ました。貴下のお骨折によるものとてありがたく存じました。これらの詩を夢中になつて訳してゐた青年の頃を思ひ出します。

昭和29年(1954)1月10日 
真壁仁宛書簡より 光太郎72歳

「ヴエルハアラン詩集」は、光太郎が青年時代に翻訳し、さまざまな雑誌に発表したり、単行書として刊行された『天上の炎』から抜粋したりで編まれました。奥付は前年12月25日の発行となっています。編集に当たったのが真壁で、真壁は「あとがき」も執筆しています。

最近の地方紙、全国紙から光太郎の名が載った一面コラム等を。

まず『静岡新聞』さん、6月8日(日)掲載分。

大自在(6月8日)杢太郎はどこから来たのか

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。長い名前の絵画で知られるポール・ゴーギャン(1848~1903年)は昨日、6月7日にパリで生まれた。県立美術館で開催中のコレクション展に、別の作品が出ている▼178回目の誕生日、彼の「家畜番の少女」の前に立った。発色のいい黄、緑、青。光あふれる画面だが神秘的な雰囲気も漂う。都会の退廃を嫌ったゴーギャンはフランス北西部のブルターニュ地方をたびたび訪れ、牧歌的風景を描いた。「家畜番-」も成果の一つだ▼日本で早くから彼を取り上げた美術評論家の一人が、医師、詩人の顔も持つ伊東市出身の木下杢太郎(1885~1945年)である。明治時代末期、欧州帰りの詩人高村光太郎に教わったようだ。セザンヌ、ゴッホらとともに「新印象派」の画家として記述し、10年の詩「異国情調」には名前を引用した▼杢太郎は45年6月上旬、最後の随筆「すかんぽ」を執筆した。すかんぽとはタデ科の植物「スイバ」のこと。「郷里ではととぐさと呼んだ」そうだ▼この年の夏以降、都内で入退院を繰り返し、10月15日に亡くなった。絶筆は原稿用紙16枚足らず。野生のすかんぽを食べた幼少期の回想を起点に、半生を振り返っている▼ふと、思う。80年前のちょうど今頃、杢太郎の頭にはゴーギャンの長い作品名があったのではないか。随筆は自分がどこから来た、何者だったかを確認しているように読める。死期を悟った彼は、自分が「どこへ行くのか」もお見通しだったろう。

雑誌『スバル』や、その寄稿者も数多く参加した芸術運動「パンの会」で光太郎と親しかった木下杢太郎がメインです。日本で早い時期にゴーギャンに注目、それが光太郎の影響だったのだろう、と。あり得る話です、というか、それで正解でしょう。

光太郎のゴーギャン紹介は、木下が編集にあたっていた『スバル』に発表され、日本初の印象派宣言とも称される評論「緑色の太陽」(明治43年)に遡ります。いわゆる「地方色」論争の中で書かれたもので、その国や地域特有の色彩感覚があるのだから、それにのっとって絵を描くべしという石井柏亭らの説に光太郎は真っ向から反対、画家は自分のセンシビリティに従って描かなければいけないし、そうすることで自然と「地方色」が現れるもので、格別意識するものでもない、大事なのは個々の感性だ、というわけです。

 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従って、芸術家の PERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。
(略)
 僕は生れて日本人である。魚(さかな)が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙つて居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚(さかな)が水に濡れてゐるのを意識してゐない如く、僕は日本人だといふ事を自分で意識してゐない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。
(略)
 僕の製作時の心理状態は、従つて、一箇の人間があるのみである。日本などといふ考へは更に無い。自分の思ふまま見たまま、感じたままを構はずに行(や)るばかりである。後(のち)に見てその作品が所謂日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あつても、なくても、僕といふ作家にとつては些少の差支もない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零(ゼロ)になるのである。

その流れの中で、

 GAUGUINは TAHITIへまで行つて非仏蘭西的な色彩を残したが、彼の作は考へて見ると、TAHITI 式ではなくして矢張り巴里子式である。

なるほど、ですね。

紹介すべき事項が山積していますので、この辺で次に。一昨日の『毎日新聞』さん。

余録

半熟の生梅を灰汁(あく)で洗い、古酒、白砂糖と合わせてかめに入れる。年を経たものが最も良い。梅を取り、酒を取りしてどちらも用いる――。江戸時代の博物書「本朝食鑑」が記す梅酒のレシピである▲砂糖が貴重だった時代。庶民には高根の花だっただろう。江戸後期に商品作物としての梅の栽培が盛んになり、徐々に広まったという。今の主流である焼酎を使った梅酒は明治以降に誕生したらしい▲スーパーの青果売り場に青梅が山積みになっていた。氷砂糖と焼酎もそばに置いてある。梅の実が熟す入梅の時期。毎年、梅酒を造る家庭も多いのだろう。物価高騰の折、安価な「キズあり」も問題なく使えるというのはうれしい▲もっとも酒税法の壁はある。アルコール度数20%以上の酒を使って自家消費することが条件。63年前の法改正で、この条件付き容認が明確化されるまでは家庭での梅酒造りは「もぐり」扱いだったという▲「厨(くりや)(台所)に見つけたこの梅酒の芳(かお)りある甘さをわたしはしずかにしずかに味わう」。彫刻家で詩人の高村光太郎は「智恵子抄」の最後に記した。愛妻が残した手作りの味は特別だったのだろう▲本朝食鑑は「食を進め、毒を解す」と効能を記す。クエン酸を含み、疲労回復や血行促進の効果があるらしい。健康志向もあり、メーカー物の高級梅酒はインバウンド客に好評という。温暖化の影響でこのところ猛暑の年が続く。伝統の味を夏バテ予防にも生かしたい。<とろとろと梅酒の琥珀(こはく)澄み来(きた)る/石塚友二>
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関東も梅雨入りが宣言されました。諸説ありますが、「梅の実が熟す頃の長雨の時期」という意味で「梅」の字が使われているというのが一般的ですね。そこでこの時期、今回も引用されている光太郎詩「梅酒」(昭和15年=1940)が時折取り上げられます。

一昨年にはやはり梅酒造りを報じたSBS静岡放送さんのローカルニュースでも。このブログでのその紹介の際、昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が収録され、「梅酒」を含む自作詩朗読も録音された件にも触れましたが、その録音に立ち会ったNHKの熊谷幸博アナウンサーの回想を最近見つけました。

 対談の録音は翌朝行なった。この中で高村さんは芸術とエネルギーの話をし、これからの日本人の食物と体質、体力について論じられた。
 さらに私どもは詩の朗読の録音もお願いした。これも快く承諾されて、智恵子抄の中から“千鳥と遊ぶ智恵子”“梅酒”“風にのる智恵子”の三編を朗読された。梅酒のくだりではちょっと涙ぐんで朗読がとぎれた。この感動が伝わって私も涙ぐんだ。

(『日本放送史 下』昭和40年=1965 日本放送協会放送史編集室編 日本放送協会)

実際にNHKさんに残っている音源を聴くと、光太郎、「梅酒」の途中で洟をすすっています。この録音を元に「泣いている」と表現されることがあり、そうであれば非常にドラマチックですが、確証はなかったのでそう断じるのは危険、「風邪でもひいてたのかもしれない」と思っていたのですが、やはり光太郎、涙ぐんでいたとのこと。いい話ですね。

最後に『朝日新聞』さん。6月8日(日)の教育面で、2月2日(日)の一面コラム「天声人語」を問題文に使って漢字の問題。
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最後に解答が上下反転で書いてありますが、問題文をよく読まない慌てんぼうさんには「こうしん」あたりはパッと「甲信」と出てきませんね(笑)。

さて、一面コラム以外にも光太郎がらみの記事が出ていますので、明日はそのあたりを。

【折々のことば・光太郎】

来年はもうあまり、のんだりたべたりに外出しない事にしました故失礼することもあると思ひますがあしからず、

昭和28年(1953)12月26日 風間光作宛書簡より 光太郎71歳

風間は詩人。前年に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため中野の貸しアトリエに入って以来、光太郎を呑みに連れ出すことがままありました。しかし翌昭和29年(1954)になったら、外食は自粛、というより、宿痾の肺結核のため、それがもはや厳しいというわけです。

こうして昭和28年(1953)が暮れて行きました。

昨日は上京し、都内をふらふらしておりました。今日明日と、2日に分けてレポートいたします。

まず向かったのは六本木の国立新美術館さん。
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こちらでは、明治末から大正初めにかけて智恵子が所属していた太平洋画会の後身・太平洋美術会さんの「第120回記念 2025年太平洋展」が開催されています。
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智恵子が加入していた太平洋画会は、前身の明治美術会が明治22年(1889)の創設で、明治35年(1902)に太平洋画会と改称、第1回展が開かれました。そして120年前の明治38年(1905)に谷中清水町から谷中真島町に移り、本格的に活動開始だそうです。その年からまだ日本女子大学校在学中だった智恵子が同会に通い始め、正式に加入したのは同校を卒業した明治40年(1907)と推定されています。いずれも日本女子大学校で美術を教えていた松井昇の手引きと思われます。
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今回が第120回記念展ということで、そのあたりの歴史に関する展示が為されており、その拝見が大きな目的でした。
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幟(のぼり)や看板なども。さらに光太郎と交流の深かった石井柏亭の名も。
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ただ、谷中真島町も戦時中の空襲でやられ、現在の西日暮里に移転したためでしょう、戦前の資料などはあまり遺っていないようでした。以前に一度お邪魔して、智恵子の名の載った(「千恵子」と誤記されていましたが)名簿などを見せていただきましたが。

智恵子は明治45年(1912)の第10回展に「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品。
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ちなみに隣に名のある池田永治は、駒込林町の光太郎アトリエ兼住宅の近くに住み、昭和20年(1945)5月14日(光太郎が花巻に疎開のため出発する前日)、その時着ていたチョッキに光太郎の揮毫を貰った人物です。
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智恵子や池田に直接関わる展示物は見あたりませんでしたが。

その後、通常の入選作等の拝見。

「先輩」智恵子の顕彰を様々な方面から行われている坂本富江氏。「会員秀作賞」だそうで、素晴らしい。
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能登の桜だそうで、「ほおお」という感じでした。

それから、以前にお邪魔した際お世話になった、同会事務局のお仕事もなさり、同会のX(旧ツイッター)アカウントの「中の人」・松本昌和氏。こちらは「記念賞」とのこと。
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西日暮里にある現在の同会研究所の向かいに鎮座まします諏方神社さんが描かれています。

たまたまでしょうが、彫刻の部では「道程」と題された作も。
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その他、染織や版画の作品も。

東京展は5月26日(月)まで、その後、福岡、大阪、名古屋に巡回だそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日は老人医学の大家である尼子博士に身体検査をしてもらひ、肋間神経痛の治療にかかりました。二三日うちにレントゲン検査をしてもらふことになつてゐます。中々山口に帰れないので困ります。


昭和28年(1953)6月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

「山口」は前年まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は帰るつもりで、ほとんどの家財道具や住民票は残したままでした。

尼子博士」は尼子富士郎。現在の浴風会病院さんの前身である浴風園の医長(のち、院長)でした。かつては駒込千駄木町に住み、その父・四郎は夏目漱石と交流があって、『吾輩は猫である』に「甘木先生」として登場します。富士郎も漱石に中学受験の際に英語の家庭教師をして貰いました。

結局、富士郎の診断は「重度の肺結核」。光太郎の余命、あと2年半余りです。

埼玉県東松山市からの情報を2件。

まずは市民講座です。

文化芸術講座(高坂彫刻プロムナード)

期 日 : 2025年5月16日(金)
会 場 : 高坂丘陵市民活動センター 埼玉県東松山市松風台8-2
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
対 象 : 市内在住・在勤・在学の人

高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚氏と東松山市の関係についてご紹介します。なぜ、高田博厚の作品が東松山市に集まるのか? 彫刻家・高村光太郎とも関係がある? 
講師 生涯学習部長 柳沢知孝

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東武東上線高坂駅前から伸びる「高坂彫刻プロムナード」の関係です。

「高坂彫刻プロムナード」は、光太郎と交流があり、光太郎が親友で早世した荻原守衛を除き、ほとんど唯一、高い評価を与えていた彫刻家・高田博厚の作品が約1㌔㍍にわたる道の両側に32体、野外展示されています。
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光太郎を作った胸像も含まれます。
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何度も書きましたが、同市の元教育長だった故・田口弘氏が戦時中から光太郎と交流があり、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで高田と出会って意気投合、プロムナードの建設につながりました。他にも同市では高田の顕彰活動さまざまに取り組んでいます。そんなこんなのお話が為されるのでしょう。講師は同市職員の柳沢知孝氏。連翹忌の集いのご常連です。

ただ、対象が同市在住・在勤・在学の人に限られていて、少し残念です。改めてフルオープンで聴講を募る機会があるといいかと思われます。

ついでというと何ですが、同市にある原爆の図 丸木美術館さんでの企画展示もご紹介しておきます。

望月桂 自由を扶くひと

期 日 : 2025年4月5日(土)~7月6日(日)
会 場 : 原爆の図 丸木美術館 埼玉県東松山市下唐子1401
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 
料 金 : 一般 900円、中学生・高校生・18歳未満 600円、小学生 400円、60歳以上 800円

 望月桂(1886-1975)は、日本でもっとも早いアンデパンダン展のひとつとされる黒耀会を結成した芸術家です。黒耀会は、社会の革命と芸術の革命は自由獲得を標榜する点において不可分であると主張した芸術団体です。美術に限らず、文学や音楽、演劇など、さまざまな領域の表現者や労働運動家が参加して1919年に結成されました。参加者の顔ぶれは、アナキズム運動の中心人物であった大杉栄や、社会主義運動の指導者となる堺利彦、民俗学者の橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊など、類例のない多彩さでした。表現はあくまで個人のもので他人の評価を前提としないという考えのもと、無審査で誰もが参加できる自由度の高さも重要な特徴でした。1922年頃に解散するまで4度の展覧会を開催し、プロレタリア美術運動の草分けとして評価されています。
 しかし望月の活動はそれだけではありません。黒耀会結成前には一膳飯屋を営み、社会運動家や労働者の集う場を形成していました。1920年代後半には犀川凡太郎の筆名で読売新聞に漫画を描き、その後に平凡社の百科事典の挿絵も手がけました。1938年から39年までは漫画雑誌『バクショー』を主宰し、漫画家の小野佐世男や、東京美術学校で望月の同級生だった藤田嗣治も参加しています。1945年に長野県東筑摩郡中川手村(現・安曇野市)に帰郷後は、地主の立場でありながら戦後の農地改革を先導し、農民運動に尽力しつつ、信州の自然を題材に数多くの風景画を残しました。
 本展は、こうした幅広い活動と、その活動に貫かれた自由と扶助の精神を紹介するものです。開催にあたっては、長年望月を研究してきた二松学舎大学准教授の足立元(美術史・社会史)の呼びかけにより、美術館学芸員や地元地域の関係者、美術・文学・社会運動などの研究者、アーキビスト、ジャーナリスト、編集者らによる「望月桂調査団」が組織され、ご遺族の厚意のもと、3年前から資料調査を進めてきました。特筆されるのは、かねてより望月を敬してやまない風間サチコ、卯城竜太、松田修といった現代アーティストも調査団に参加し、本展のタイトルやロゴマークの考案、展示監修、映像制作といった役割を担うことです。こうした職業的立場を超えた連携による展覧会の立ち上がり方も、黒耀会の精神を今日的な視点から読みなおすための重要な導線となるでしょう。
 望月の掲げる問題意識は、閉塞した日常を生きる私たちにも通じるものです。本展では、油彩画、水墨画をはじめ、デッサンや漫画、さまざまな関連資料など約120点を展示し、その足跡をたどります。
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望月桂は、東京美術学校(現・東京藝術大学)で光太郎と同級生でした。ただし、その期間は短かったのですが。というのは、光太郎は美校の彫刻科を明治35年(1902)に卒業→同研究科に残り→同38年(1905)9月に西洋画科に再入学→同39年(1906)2月に欧米留学に出発、という流れ。望月は西洋画科に光太郎と同じ明治38年(1905)入学。従って、光太郎と机を並べていた期間は半年足らずでした。ちなみに他の同級生には藤田嗣治、岡本一平らが居ましたし、教授陣には黒田清輝、藤島武二らでした。何とも錚々たるメンバーですね。

会場内にはそのクラスの卒業記念集合写真(明治43年=1910)なども出ているそうです。ただ、中退扱いの光太郎は当然写っていませんが。

卒業後、望月はプロレタリア芸術運動に傾倒することになり、光太郎智恵子と関わりのあった大杉栄・伊藤野枝夫妻らとも深く交流を持ちます。そこで望月が大杉を描いた絵なども展示されています。また、望月が原型制作に協力したと考えられる彫刻家・横江嘉純作の大杉像も。横江は高田博厚ほどではありませんが、光太郎が好意的に評した彫刻家です。

ちなみにこの企画展、共催に信州の安曇野市教育委員会さんが入っています。望月の出身地が東筑摩郡中川手村、現在の安曇野市に含まれる区域だからです。安曇野と言えば光太郎の親友・碌山荻原守衛。中川手村は守衛の出身地・東穂高村とは隣り合わせの場所。そうした部分も興味深いところです。

というわけで、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

中西さんの画集の予約のお金をお送り下され、感謝しました、お金は中西夫人にお渡ししました、大変よい画集が出来さうです、


昭和28年(1953)3月10日 宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「中西さん」は中西利雄。光太郎が借りていた中野の貸しアトリエを建てた水彩画家です。戦時中に建物強制疎開で取り壊されたアトリエを昭和23年(1948)に立て直したものの、その年に満48歳で急逝。以後、貸しアトリエとして夫人が運用していました。

中西の画集がこの年5月に刊行されることになり、その予約受付に光太郎も一役買ったようです。発行人は夫人の富江となっており、編集には光太郎とも交流があり、中西と同じ新制作協会を率いていた猪熊弦一郎らが編集に当たっていました。この頃になると終戦直後の極度の物資不足も解消されていたようで、原色版の図版を多く含む豪華な画集でした。定価が3,000円。大卒初任給6,000円くらいの時代です。それをポンと出す賢治実弟・宮沢清六もなかなかの傑物ですが(笑)。
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先月12日に開幕した和歌山県立近代美術館さんの「佐藤春夫の美術愛」展。佐藤が所蔵していた美術作品、61件148点の寄贈を受けて開催されています。

開幕前の準備段階で、そのうちの光太郎に関わる出品物について照会があり、分かる範囲でお答えいたしました。すると、その御礼というわけでしょう、同展図録及び招待券等が届きまして、恐縮している次第です。
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図録は正確には「パンフレット」と銘打たれており、A5判並製の簡易的なものです。それでもオールカラー30ページ、解説も充実しており、いい出来です。

以前にも書きましたが、光太郎作品が2点。油彩の「佐藤春夫像」(大正3年=1914 以前からの寄託品)と、ブロンズの「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)です。光太郎と交流のあった石井柏亭や川西英の作品も含まれ、他に川上澄生、谷中安規、恩地孝四郎、ゴヤ、ビゴーなどのビッグネーム。そして佐藤自身が描いた日本画や油絵。興味深く拝読しました。

同展についてはNHKさん、『読売新聞』さんの報道をご紹介しましたが、『朝日新聞』さんでも光太郎に触れつつ記事にして下さいました。

佐藤春夫ゆかりの版画や絵画を展示 和歌山県立近代美術館

 明治から昭和にかけ、小説や詩などで大きな足跡を残した和歌山県新宮市出身の佐藤春夫(1892~1964)ゆかりの版画や絵画など美術作品を紹介する展覧会「佐藤春夫の美術愛」が、県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。6月29日まで。
 主に文学の世界で活躍した春夫だが、「二十のころの希望は文学と美術との二つに分かれていた」と若き日のことを回想している。上京後には高村光太郎と親交を結び、自ら絵筆をとって二科展で連続入選を果たしたこともある。
 同館は昨年度に春夫の遺族から美術作品148点の寄贈を受けたことがきっかけで、初めて企画展を開催した。会場には、高村が描いた春夫の肖像画や、春夫自身が筆をとった油彩画「花」などを展示。春夫と親交が深かった版画家・谷中安規(たになかやすのり)の作品なども並ぶ。
 開館時間は午前9時半から午後5時(入場は4時半まで)。休館日は月曜日(5月5日は開館)と5月7日。観覧料は一般600円、大学生330円。高校生以下、65歳以上、障害のある人は無料。
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佐藤春夫が描いた「花」、版画家・谷中安規の作品「文豪 佐藤春夫」、高村光太郎が描いた「佐藤春夫像」

同展、6月29日(日)までです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日は日曜なので少しゆつくりいたしました、なるべく外出もせず、人にもあはぬやうにしてゐます、


昭和28年(1953)2月8日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎71歳

佐藤が青森県と光太郎を仲介し、実現を見ることとなった生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関わります。光太郎にとっては「月月火水木金金、土曜日曜あるものか」でしょうが、雇っていたモデルに対してはそうもいかないようで、この日は制作を休みました。その分、溜まっていた来翰への返信をたくさん書いています。

今月12日に開幕した和歌山県立近代美術館さんの「佐藤春夫の美術愛」展について、光太郎がらみで報道が為されていますのでご紹介いたします。

まずNHKさんのローカルニュース。

佐藤春夫が愛した美術作品を展示 和歌山県立近代美術館

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近代文学を代表する和歌山県出身の作家、佐藤春夫が所蔵していた絵画などの美術作品を集めた展示会が和歌山市の県立近代美術館で開かれています。
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新宮市出身の佐藤春夫は、小説「田園の憂鬱」などの作品で知られ、大正から昭和にかけての文壇を代表する小説家や詩人として活躍しました。
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和歌山市の県立近代美術館では、今月(4月)から佐藤春夫が所蔵していたおよそ150点の美術作品が展示されています。

このうち、詩人で彫刻家の高村光太郎が描いた「佐藤春夫像」は、文学を志して上京したものの思うような作品が残せず、行き詰まった若き日の春夫が描かれています。
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また、川上澄生の版画「絵ノ上ノ静物」は、佐藤春夫と編集者との間で交わされた手紙に出てくることが知られていましたが、展示会を前に春夫の孫から寄贈されたことで実際に所有していたことが確認されたということです。
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企画した宮本久宣 主任学芸員は「佐藤春夫が所有していた美術作品を見ることのできる初めての機会です。文学に関心がある人だけではなく、多くの人に楽しんでもらいたいです」と話していました。
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この展示会、「佐藤春夫の美術愛」は、6月29日まで和歌山県立近代美術館で開かれています。
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続いて『読売新聞』さん。

佐藤春夫 愛した美術品

和歌山で企画展
 新宮市出身の作家で詩人の佐藤春夫(1892~1964年)が所蔵していた美術作品を紹介する企画展「佐藤春夫の美術愛」が、県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。文学で大きな功績を残しながら、美術への関心を持ち続けた作家の一面がうかがえる。
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作家仲間や自筆の絵、版画略法
 春夫の親族から昨年度に絵画などの寄贈を受けたことを記念して開催。生前交流を持った作家の版画や春夫自ら描いた油彩画など、41作家の150点をまとめて見てもらうことにした。
 春夫は医師の父・豊太郎らの影響で新しい文化芸術に触れ、文学を志して上京するが、思うような評価が得られずに行き詰まる。この頃、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)と出会い、絵画制作に目覚めたという。

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 光太郎が描いた肖像画「佐藤春夫像」(1914年)には、そんな苦悩を抱く若き日の春夫が垣間見える。春夫はその数年後、小説「田園の 憂鬱ゆううつ 」を発表し、流行作家に仲間入りするが、その前に二科展で入選した経験もある。油彩画「花」を見ると、その確かな実力がわかる。
 作家としての地位を確立した後も、画家との交流は続いた。川上澄生(1895~1972年)は春夫がほれ込んだ版画家の一人で、作品を多く手元に集めていた。澄生は春夫の詩集「魔女」の挿画も担当し、ほうきにまたがり空を飛ぶ和装の女性をキャッチーに描いている。
 版画家の谷中安規(1897~1946年)との関係も特別だった。ロボットや妖怪が登場する幻想的な世界観を得意とし、春夫が熱心に支援。制作に打ち込む自身の脳内をイメージしたような「画想」(1932年頃)など、どこかユーモラスな作品が多い。
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 春夫と安規は出版社を通じて知り合い、書籍の装画などを通じて関係を深めた。春夫が安規に絵を催促する手紙も展示。自らを「カンシャク先生」と名乗ったり、「シツカリ致セコノ野郎」とせかしたり、気心の知れた関係性が示唆される。
 同館の宮本久宣・主任学芸員は「貴重な版画が多く、日本の美術史を語る上で意義深い作品群だ」と評価。「絵を描いたり、画家と交流したりすることが、執筆活動にも良い影響を与えただろう。春夫が画家だったかもしれないと想像するのも面白いのでは」と語る。29日と5月6日の午後2~3時、学芸員による展示解説がある。会期は6月29日まで。問い合わせは同館(073・436・8690)。

どちらも光太郎の描いた佐藤の肖像画について紹介して下さいました。同館ではことあるごとに出品して下さっている作品ですが、今回も目玉の一つであることは確かです。

描かれたのは大正3年(1914)。光太郎が第一詩集『道程』を刊行し、長沼智恵子と結婚披露を行った年です。この頃の光太郎は彫刻よりも油絵の方に軸足を置いており、油絵の頒布会も行っていました。その広告が雑誌『現代の洋画』や『我等』に掲載され、佐藤は後者の編集に携わっていた萬造寺斉の勧めもあって、自らの肖像画を描いてもらったそうです。
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佐藤はそれ以前から与謝野夫妻の新詩社で光太郎とは顔見知りでしたが、肖像画を描いて貰うために駒込林町の光太郎アトリエに通うようになり、9歳年上の光太郎と親しく交わるようになりました。そのあたり、光太郎没後に佐藤が書いた『小説高村光太郎像』に詳しく述べられています。

その佐藤が戦後になって、当時の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)から十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念モニュメント制作の件を相談され、即座にその作者として光太郎を推挙し、「乙女の像」として結実したわけで、人の縁(えにし)というものの大切さに思いを馳せております。光太郎の名を挙げた人物は他にも複数存在しましたが、それらの人々を代表し、佐藤は「あの美しい十和田湖に貴下の作品以外のろくでもないものがたてられることはありえない」的な説得の手紙を光太郎に書き、光太郎も激しく心を動かされました。

閑話休題、「佐藤春夫の美術愛」展、6月29日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小型エスキスを終り、二体石膏型にとり、その組み合せをすませ、今度は建築家の谷口さんと台石の設計について協議をいたすまでになりました、次は中型の彫刻にかかる次第です。

昭和27年(1952)12月19日 奥平英雄宛書簡より 光太郎70歳

「小型エスキス」「中型の彫刻」は「乙女の像」のための試作。「組み合せ」は二体の位置関係。当初から全体の構図が三角形になるようにと考えていました。
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昨日は東京都中野区で、講演会「中西利雄 人と作品」を拝聴致しました。中西利雄は明治33年(1900)生まれの水彩画家。昭和23年(1948)、自身のため、建築家の山口文象に設計を依頼し、中野に建てたアトリエの竣工間際に急逝しました。せっかく建てられたアトリエは、遺族の手によって貸しアトリエとして運用され、昭和27年(1952)10月から光太郎もここを借り、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をここで制作、昭和31年(1956)にここで歿しました。翌年の第一回連翹忌もここで執り行われました。

そのアトリエの元々の施主だった、中西利雄をメインに据えた講演会でした。会場は中野区産業振興センターさん。
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講師は茨城県近代美術館首席学芸員・山口和子氏。
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定員60名ということで聴講者を募ったのですが、飛び込みで来られた方も多く、また、我々スタッフは別枠でしたので、キャパ100ほどの会場がほぼ満席でした。
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昨年11月に近くのなかのZEROさんで開催した「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事として行った講演会のうち、近代建築史家・内田青蔵氏と建築家の伊郷吉信氏による「水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」の際にもそうでしたが、当方、中西や我が国水彩画の歴史についてはそれほど詳しくなく、「なるほど、そうだったのか」の連続でした。

まず、中西以前。短命に終わった明治期の工部美術学校、その後の東京美術学校などでの水彩画の取り組み。
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元々の出発点が、油彩を描くための下書き的に水彩、さらに東京美術学校ではその過程もすっ飛ばして木炭デッサンからいきなり油彩という手順が主流となり、水彩画があまり定着しなかったそうで、きちんとした作品としての水彩画を描く画家が少なかったというようなお話。

その流れもあって、現代でも水彩は油彩より一段下に見られ続けているわけですが、考えてみれば素材や手法によって作品の価値が判断されるというのもおかしな話ではありますね。油彩だろうが水彩だろうが、いいものはいいわけですし、油彩だからというだけでありがたがるというのも変な話です。

そうした中で、水彩でもいいものが描けると頑張ったのが、中西ら。
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特に中西は不透明水彩(グヮッシュ)を活用するなどし、「水彩画の革新者」と称されるようになったそうで。その中西のパリ留学中の話、公設展への反撥から新制作派を旗揚げしたいきさつなども、非常に興味深い内容でした。
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そして、今日最初に書いた、中西歿後に光太郎がアトリエを借りた件についても。

当方も幹事となり、アトリエの保存運動を展開しておりますが、元々の施主・中西についてももっともっとその功績が世に知られてほしいものだと、今さらながらに感じさせられました。

皆様方に置かれましても、改めましてご協力いただけますようお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今年の初雪がやつて来て二尺近くつもりました。まだ降つてゐます。雪の中から白菜やキヤベツを掘り出して囲ふやら穴蔵の始末で大忙がしです。


昭和26年(1951)11月26日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。この年は雪の降り始めが早く、11月中に既に大雪。ただ、12月に入ると逆にあまり降雪は多くなかったようです。

1年後の冬は東京中野で迎えることになるとは、この時点の光太郎には思いもよらなかったでしょう。

当方も幹事を務めさせていただいている「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が協力して行う講演会です。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄について。当然、光太郎やアトリエの保存運動にも関わる内容となるでしょう。主催は中野たてもの応援団さんです。

講演会「中西利雄 人と作品」

期 日 : 2025年2月15日(土)
会 場 : 中野区産業振興センター 東京都中野区中野 2-13-14
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料
講 師 : 茨城県近代美術館首席学芸員 山口和子氏

昨年11月10日から11月18日まで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」展示会&講演会には多くの皆様にご参加いただきました。その後、中西アトリエの施主であった画家中西利雄についてもっと知りたいというリクエストにより、講演会を開催することになりました。皆さまのご参加をお待ちしております。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエが残されています。これは第二次大戦中の建物疎開でアトリエを壊された中西利雄が、その再建のため着工させたものです。しかし中西は病のためアトリエの完成直前に死去。後に高村光太郎が制作の場としました。関東大震災後当地に住み、水彩画の革新者といわれた中西利雄についてご紹介いただきます。
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アトリエの保存運動に関しては、以下をご覧下さい。

 「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
 都内レポート 東京書作展選抜作家展2024/中野アトリエ保存委員会。
 「光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵」。
 『中野・中西家と光太郎』。
 中野アトリエ保存運動関連、署名をお願いいたします。
 文治堂書店『とんぼ』第十八号 その2 中西利雄アトリエ保存。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会ホームページ開設。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
 「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。
 『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。

皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。

【折々のことば・光太郎】

道程初版の「志」「し」の仮名遣ひは内藤鋠策君の趣味によるもので、行の頭に来るものはすべて「志」を使ひ、下に来るものは「し」を使つたのです。下らぬ好みですから、どちらでもいいです。


昭和26年(1951)8月20日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

中央公論社版『高村光太郎選集』の編集に当たっていた、当会の祖・心平からのレファレンス依頼への返答です。

明治・大正の頃は、活字の場合でも変体仮名的に使う場合がありました。「し」を「志」、「こ」を「古」などで。光太郎自身も書き癖で「み」を片仮名の「ミ」とすることが多くありました。書の場合には「お」が「於」、「ひ」に「比」をあてる場合なども。

初版『道程』(大正3年=1914)での「志」、該当箇所はこんな感じです。
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智恵子の故郷・福島二本松市の『広報にほんまつ』今月号。大山忠作美術館さんで開催中の「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が大きく取り上げられています。

まず表紙。
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大山画伯のご息女にして、都内二本松で上演された「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を演じられた一色采子さん。ギャラリートーク風景ですね。

2ページ目、襖絵そのものの詳細な解説。
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3ページ目、今回の展示の舞台裏について。
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自称・無資格キュレーターの当方としては(笑)、興味深く拝読いたしました。

作品の一部をあしらった絵葉書を1年ぶりくらいに引っぱり出してみました。分割民営前の郵政省時代に発行された40円絵葉書10枚セット「みちのくの楓」です。昭和の終わりか平成の初め頃のものと思われます。
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画伯ご自身の書かれた解説によれば、福島市の高湯温泉の楓だそうですが、日光中禅寺湖半の紅葉の色も印象に残り、反映されているとのこと。

最後に(というかブックレット形式としては最初)には、『広報にほんまつ』でも題名が記されている「智恵子に扮する有馬稲子像」。昭和51年(1976)、「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」中の北條秀司作の「智恵子抄」(一色さんの朗読劇もこちらが元です)で智恵子役だった有馬稲子さんを描いた大作です。
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襖絵展期間中は同じフロアの逆サイドの展示室にて公開中。撮影禁止だったので画像はありませんが、制作風景の写真も並べられています。

『広報にほんまつ』を読んで初めて知りましたが、市内の智恵子生家/智恵子記念館や菊人形展などの入場券を提示すると、入館料割引だそうです。

智恵子生家では二階部分の限定公開が今週末及び文化の日の振替休日である11月4日(月)まで。翌11月5日(火)~17日(日)の期間にはライトアップが為されます。襖絵展も11月17日(日)まで。

併せてご観覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

横手では名物のお酒をいろいろいただいたり、秋田美人といはれる此の雪国の娘さんや奥さま連に囲まれて本式の炉辺でお茶料理をいただいたりして愉快でした。

昭和25年(1950)3月15日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、3月10日から12日にかけ、講演のため秋田県の横手を訪れました。秋田美人に囲まれてウハウハだったようです(笑)。

開催中の展覧会を報じた報道から2件。

まずは上野の東京藝術大学大学美術館さんでの「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」につき、『朝日新聞』さん。

西洋彫刻で見いだす台湾 黄土水展

 台湾出身者で初めて東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学した彫刻家・黄土水(こうどすい)(1895~1930)に焦点を当てた「黄土水とその時代」展が、東京・上野の東京芸術大学大学美術館で開かれている。
 黄土水は、高村光雲に師事して彫刻を学び、計4度の帝展入選を重ねた。将来を期待されたが、病のため35歳で急逝。今展では黄土水の作品群と共に、芸大コレクションの中から黄土水が学んでいた頃の日本の洋画や彫刻なども展示し、当時の美術界の様子を浮かび上がらせている。 展示の目玉は、帝展入選作の一つで、昨年台湾の国宝に指定された大理石彫刻の「甘露水」(1919年)だ。長らく所在が分からなくなっていたが、2021年に見つかった。同美術館の村上敬準教授は「西洋彫刻を学びながらも、自分のルーツである台湾を表現しようとしていた。『甘露水』も、西洋の理想化された身体ではなく、東洋人の体格で作られている」と話す。10月20日まで。
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続いて、智恵子の故郷・二本松市の大山忠作美術館さんで始まった「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」。KFB福島放送さんのローカルニュースから。

大山忠作さんの襖絵 二本松市に里帰り(福島)

 千葉県の成田山新勝寺で、門外不出とされていた襖絵が、作者である大山忠作さんのふるさとの二本松市に里帰りしました。
 6枚から8枚のふすまを組み合わせて1つの作品となる襖絵。二本松市出身の画家・大山忠作さんが約45年前に手掛けた物で、千葉県の成田山新勝寺に飾られていました。
 「日月春秋」をテーマに描かれた襖絵には、ふるさと福島の自然美も表現されています。
初日の1日はオープニングセレモニーが行われた後、大山さんの長女の采子さんが作品を「戦争で生きるか死ぬかの時に、もし生きて帰ることができたら、自分は絵だけを描いて生きていこう、そういう風に決めて見ていたお日さま。それを父は昇る朝日に置き換えまして、成田山に奉納する襖絵の題材として描きました。」と解説しました。
 訪れた人は「一度見てみたいなと思っていたので、間近に見れて本当に素晴らしいなって。今感動しています。」と話していました。
 この襖絵は、大山忠作美術館の開館15周年を記念して、11月17日まで展示されています。
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画伯のお嬢様・一色采子さん。女優としてのお仕事でない時は、ご本名の「大山采子」さんで通されています。談話の中に戦争云々のお話がありますが、画伯、昭和18年(1943)に東京美術学校を繰り上げ卒業となり、熊谷の航空基地に。その後、フィリピン、台湾と転戦されたそうです。
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ある時、一色さんとお話をしていて信州上田の無言館さんの話題となり、「うちの父も、もしかするとあそこに作品が展示されるようになっていたかも」とおっしゃっていました。

そう考えると、朝日を描いた襖絵、地上からの眺めでなく、軍用機のコックピットで観た俯瞰のような気もします。こじつけでしょうか。

さて、両展、是非とも足をお運びいただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

自分ながら変な親爺と思ひますが争ひがたい都会性と野人性との混淆を感じました。

昭和24年(1949)11月8日 濱谷浩宛書簡より 光太郎67歳

写真雑誌『アサヒカメラ』の取材で、光太郎の蟄居する花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた写真家・濱谷から贈られた自らの写真に対する感想です。
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都会性と野人性との混淆」は、遠く明治44年(1911)に書かれた詩「声」で、既に扱われていたテーマです。

神戸から日本画の個展情報です。

山下和也個展「星尘詩(ほしくずのうた)」

期 日 : 2024年9月20日(金)~9月30日(月)
会 場 : Gallery301 神戸市中央区栄町通1丁目1‐9 東方ビル301 
時 間 : 12:00~18:00 最終日のみ17:00まで
休 館 : 9月25日(水) 9月26日(木)
料 金 : 無料

 人は宇宙(そら)をどのような思いで眺めてきたのだろうか?
 宇宙物理学など自然科学の1分野である天文学と考古学との境界領域にある古天文学。 前者は自然界の多様な現象を解明する研究、後者は人間の思想哲学を行為や記録(遺物)から読み解く研究である。 人間の知的好奇心や探求心によって、生まれてきた宇宙観や天文学は、民族や国家、時代の境界を越えて影響を与え、発展してきた。
 たとえば、古代ギリシャの数学者ピタゴラス(紀元前582-紀元前496)は天体の運行が常に音を発しており、宇宙全体が大きなハーモニーを奏でていると考えていた。「天球の音楽」として知られるその思想は、哲学者プラトン(紀元前427-紀元前347)をはじめ二千年後のドイツの天文学者ケプラー(1571-1630)にも影響を与えている。
 自然(宇宙)と人間と芸術。広大な宇宙においては星の屑にも満たない様な人類の歴史やもっと些細な営み。それらを引き合わせて少しずつ手や頭を動かして継ぎ、展覧会を編む。 事物を通じて個々に現れる目には見えないもの、耳には聞こえない音楽を仮にここで詩(うた)と呼び、そのポリフォニーを傾聴しながら私も宇宙(そら)を眺めてみようと思う。
 会期はちょうど仲秋の名月を経て新たな月へと向かう頃。是非会場へ観測にお越しください。
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公式の案内文等に光太郎智恵子の名がありませんが、X(旧ツイッター)上の、見に行かれた方のポストに、以下の記述がありました。

藤原定家の「明月記」を手掛かりに、古天文学をテーマにした展覧会。具体やボイス、高村光太郎と智恵子抄、隕石などを本歌取りや岡崎和郎を想起する見立て、日本画技法を用いて芸術学的宇宙図を形成。鑑賞より観測が相応しい。9/30まで

最初の画像、満月を描いているものでしょうが、よく見るとレモンの皮のようにも見えます。「レモン」とくれば「智恵子抄」中の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。これが「智恵子抄」オマージュの作品なのでは? と思いました。違っていたらごめんなさいですが。

今年の中秋の名月は9月17日(火)でした。陰暦八月十五日の月、ということで、年によって前後します。以前にも書きましたが、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)の中秋の名月は、駒込林町のアトリエ兼住居で智恵子葬儀が行われた10月8日でした。おそらく詩集『智恵子抄』のために書き下ろされ、その日の模様を後に回想して謳った詩「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)の最終行は「外は名月といふ月夜らしい。」でした。何だか智恵子がなよたけのかぐや姫のように、月へ帰っていったようにも思えます。

閑話休題。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今夏は小生妙に夏まけがひどく七月から八月にかけて四度高熱を発し臥床、村の人に食事の世話などされました。

昭和24年(1949)9月2日 八森虎太郎宛書簡より 光太郎67歳

当方手持ちの書簡の一節です。おそらく熱中症でしょう。光太郎の山小屋は奥羽山脈の麓、光太郎自身が「水牢」と呼んだ非常に湿気の多いところで、そうなると気温がさほどでなくても熱中症の危険性が高まります。当方も一度、旧高村記念館内で作業中に眩暈(めまい)を起こしてぶっ倒れそうになりました。
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智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数遺された文化勲章受章の日本画家、故・大山忠作画伯。女優の一色采子さんのお父さまでもいらっしゃいます。
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JR東北本線二本松駅前に大山忠作美術館があり、そちらで今秋、同館開館15周年特別企画展「成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が開催されます。

これまで門外不出だった画伯の代表作の一つである成田山新勝寺光輪閣さんの襖絵全28面が初めて他で展示されるということで、注目を集めています。光輪閣さんでも時折公開が行われるのですが、それもいつもというわけでもなく、滅多に見られません。

ちなみに光輪閣さん、今年4月、将棋の名人戦七番勝負の第二局会場となり、藤井聡太七冠と豊島将之九段が激突しました。その際の報道の画像、背景に問題の襖絵が映っています。
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その襖絵展に向けてのクラウドファンディングが進行中です。

大山忠作美術館開館15周年記念特別企画展|襖絵展開催に向けて

【かかる費用の総額】 1,400万円
運搬委託費(展示・保険含む) 建具工事委託費(襖を展示する枠事) 広告宣伝費
人件費  警備費  印刷費 

【クラウドファンディングの使い道】
運搬委託費(展示・保険含む) 建具工事委託費(襖を展示する枠事) 広告宣伝費
人件費  警備費  印刷費 などかかる経費の一部に使わせていただきます。

【目標金額】 1,000,000円
 目標金額を達成した場合のみ、実行者は集まった支援金を受け取ることができます(All-or-Nothing方式)。支援募集は9月12日(木)午後11:00までです。

【リターン】
 大山忠作襖絵展を応援コース
  感謝のメール
   3,000円 5,000円 10,000円
  感謝のメール、ノベルティグッズ
   30,000円 50,000円
  感謝のメール、ノベルティグッズ、大山忠作美術館図録、大山忠作作品のリトグラフ
   100,000円 200,000円
 大山忠作襖絵展を行って応援コース
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚
   5,000円 10,000円
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚、ノベルティグッズ
   30,000円 50,000円
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚、ノベルティグッズ、大山忠作美術館図録、
  大山忠作作品のリトグラフ
   100,000円 200,000円
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昨日の段階で目標金額100万円に対し、支援総額65万5千円。あと34万5千円不足です。上に赤字で書きましたが、目標金額を達成した場合のみ、実行者は集まった支援金を受け取ることができるというシステムだそうで、このままでは成立しません。

当会としても支援を行いましたが、皆様にも是非宜しくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「女性線」の詩は少々変なもので、フロイド学者の材料になりさうなものですが、事実見た夢の通りに書きました。


昭和24年(1949)3月6日 西田大三宛書簡より 光太郎67歳

「「女性線」の詩」は、「噴霧的な夢」。
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   噴霧的な夢

 あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
 ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
 夢といふものは香料のやうに微粒的で
 智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
 ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
 ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)
  のやうに吹き出てゐた。
 その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
 お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
 お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
 智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
 ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
 智恵子はほのぼのと美しく清浄で
 しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。
 あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
 私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
 そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
 昨日までの私の全存在の異和感が消えて
 午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。

まさにフロイト学派が泣いて喜びそうな夢判断が為されそうですね(笑)。

画像は昭和3年(1928)、箱根の大湧谷です。

先月末の『日本経済新聞』さんから、千葉県君津市文化財審議委員・渡邉茂雄氏の玉稿。光太郎にも随所で触れられている氏の御著書『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に関して。

失われた肖像画を求めて 渋沢栄一ら描くも早世、作品は焼失 悲運の画家の功績語り継ぐ 渡辺茂男

 新1万円札に描かれた渋沢栄一と出くわした方も多いだろう。一方で失われてしまい、もう見られない渋沢の肖像画がある。描いたのは千葉県君津市出身の画家、柳敬助(1881~1923年)。熊谷守一や彫刻家・詩人の高村光太郎らと切磋琢磨(せっさたくま)し肖像画の第一人者となったが、42歳で早世。4カ月後の追悼展が関東大震災に遭い、代表作の多くが焼失した。
 23年9月1日は、友人らが日本橋三越で開く追悼展初日だった。柳の作品は約40点。渋沢の肖像などに加え、東京美術学校(現東京芸術大)時代に同居した熊谷の剣道着姿の絵もあった。高村や、同じく同居人だった画家の和田三造、辻永らも作品を寄せた。地震直後に作品は無事で、柳の妻・八重は墓碑銘のみ持ち帰った。ところが夜には火の手が回ってしまう。
 多くの作品が焼失したからこそ、画業を語り継がなければ――。柳と同じ君津生まれで小学校の後輩でもある私は、県立高校の社会科教諭をしながら市史編さんに携わり柳を知った。十数年前に退職した頃から本格的に資料を集めたり、絵が見つかったと聞けば調査に出向いたりし始めた。
 柳の生涯を彩ったのは、そうそうたる人々との交友だ。03年、指導者の黒田清輝の反対を押し切り美校を中退、渡米した。ニューヨークで師事したのは、パリで印象派を学んだロバート・ヘンライだ。「美術作品の価値はひとえに、目の前のものを見る画家の能力にかかっている」。残された柳の作品を見ると、ヘンライの教えを終生大事にしていたと感じる。
 現地で友となったのが彫刻家の荻原守衛(碌山(ろくざん))と高村だ。パリ、ロンドンを経て09年に帰国した柳は碌山の助けで東京・新宿のパン店、中村屋(現新宿中村屋)裏にアトリエを開くことになる。碌山は創業者の相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻と同郷で、店近くにアトリエを構え親密な交際を続けていた。
 だが柳のアトリエ完成とほぼ時を同じくして碌山は死去する。完成を祝おうと柳が君津から持ってきた桜が供花となったという。碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)と中村屋サロン美術館(東京・新宿)に柳の絵がまとまって残るのは、この友情のためだ。
 高村は生涯の友だった。11年、柳は橋本八重と結婚し、その後アトリエも雑司が谷に移す。肖像画家としての充実期が訪れていた。面白くないのが高村だ。精神不安定も重なり「友の妻」という詩で「君の妻を思ふたびに、余の心は忍びがたき嫉妬の為に顫(ふる)へわななく」と、所帯じみた柳を激しい言葉で批判した。
 しかし高村に「智恵子抄」で有名な妻となる長沼智恵子を紹介したのも柳だった。日本女子大学校(現日本女子大)で八重の後輩だった人だ。同校とのつながりは深かったようで、渋沢を描いたのも彼が3代目校長を務めたためだと思われる。
 高村は柳の作品に辛辣な批評を寄せるなど、新たな芸術を目指す同志への愛が強烈だった。かたや柳にはにじみ出すような優しさがあり、同じ田舎の者として共感する。熊谷がスランプに陥った際、柳は交友のある作家・志賀直哉が持つ赤城山の別荘に誘い、共に出掛けた。ここで熊谷が描いた作品「赤城の雪」は、彼の画風変化のきっかけだったとも評される。
 この4月、私は柳の評伝「不運の画家」(東京図書出版)を自費出版した。柳にはキリスト教思想家の新井奥邃(おうすい)や宗教家の西田天香(てんこう)らとの縁もあり、詳述している。不運だったが才能と人に恵まれ、幸せな生涯だっただろうと思う。 (わたなべ・しげお=元高校教諭)
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関東大震災で代表作の多くが焼失し、渋沢の肖像画もそこに含まれていました。焼失した作品でも写真が残っているものは『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に画像が掲載されていましたが、渋沢像は写真も残っていないようです。残念ですね。

氏の地元・千葉県君津市さんの『広報きみつ』7月号に、以下の記事も載りました。
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柳敬助、もっともっと知られていていい画家と思います。記事にある安曇野の碌山美術館さん等にに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

小生もいつか此の山中のどこかで一人で死んで発見されるでせう。部屋の中か野外か、その時次第です。死ねばあとはどうでもいいです。草木の肥料となるのが一番いいでせう。


昭和23年(1948)12月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎66歳

この予想は当たらず、7年余りのち、都内で亡くなることになります。

死ねばあとはどうでもいい」。本人はそれでいいのかも知れませんが、周りとしてはそうもいかないわけで……。逆に自分の生きた証しを必死で残そうとする(生前に自分の銅像を作らせるとか)よりは潔いのかも知れませんが……。

当方としては、光太郎本人に「死ねばあとはどうでもいい」と言われても、その鮮烈な生の軌跡の全体像を出来うる限り明らかにしていく作業は止められません(笑)。

光太郎と交流のあった鬼才の画家・村山槐多をモチーフとし、昨年封切られたた映画「火だるま槐多よ」タイトルは光太郎詩「村山槐多」(昭和10年=1935)で使われている句です。公式パンフには詩の全文が掲載されていました。
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今月、Blu-rayディスクの販売が始まり、早速購入しました。

火だるま槐多よ

2024年7月3日 
発売・販売元 : 渋谷プロダクション/スタンス・カンパニー
販売代理 : オデッサ・エンタテインメント
定 価 : 4,800円+税
<Blu-ray仕様> カラー/本編102分+特典映像/アメリカンビスタ/音声:日本語/DTS-HDマスターオーディオ5.1ch/25GB


★監督・佐藤寿保&脚本・夢野史郎のゴールデンコンビ最新作!
天才“村山槐多”に取り憑かれた若者たちを描くエンタテインメント作品!
本作は、22歳で夭逝した天才画家であり詩人の村山槐多(1896~1919)の作品に魅せられ取り憑かれた現代の若者たちが、槐多の作品を彼ら独自の解釈で表現し再生させ、時代の突破を試みるアヴァンギャルド・エンタテインメント。タイトルの由来は、槐多の友人・高村光太郎の詩「強くて悲しい火だるま槐多」である。


CAST 遊屋慎太郎 佐藤里穂 工藤景 涼田麗乃 八田拳 佐月絵美 佐野史郎
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昨年暮れに劇場公開を観てから、約半年ぶりに拝見。
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随所に槐多の絵や詩が効果的に使われています。
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ラストには光太郎詩「村山槐多」も一部引用。
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背景は雑司ヶ谷霊園にある槐多の墓です。

ちなみに本編ではない特典映像中のメイキング部分には、クランクイン前に佐藤監督らが墓参をした様子なども。

というわけで、Blu-rayディスク、ぜひお買い求め下さい。また、U-NEXTさんでの配信も始まっていますので、どうぞ。

ただし「アヴァンギャルド・エンタテインメント」と謳われている通り、R指定はないものの、それに近い内容です。ご試聴には十分注意なさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

学校の校規等今日拝受、興味ふかき事に存じ、学校のよき進展を心から望んで居ります。小生美の世界に於いても岩手の人々に期待する事大です。

昭和23年(1948)4月15日 佐々木一郎宛て書簡より 光太郎66歳

「学校」はこの年開校となった岩手県立美術工芸学校。光太郎は名誉教授に就任して欲しいという要請は断りましたが、何度も足を運んで講演をしたり、作品展を観たりといった援助は惜しみませんでした。

光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村で開催中の「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」につき、一昨日、NHK盛岡放送局さんが県内向けのローカルニュースでご紹介下さいました。

疎開先の花巻で描く 高村光太郎の草花のスケッチ展示

 詩人で彫刻家の高村光太郎が、疎開先の花巻で描いた花などのスケッチが、花巻市にある「高村光太郎記念館」で展示されています。
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 高村光太郎は1945年、62歳の時に東京のアトリエが空襲で焼け、花巻に疎開して7年間を過ごしました。
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 今回の企画展には光太郎が疎開中に描いた身近な草花のスケッチやスケッチしている最中の写真などが展示されています。
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 このうち湯治に訪れた西鉛温泉で描いたスケッチは、山菜のミズを描いています。昭和20年6月20日という日付ともに、「丈1尺5寸」などと観察したミズの大きさなどもつづっています。
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 今回の展示では「七月一日」と題された散文の直筆の原稿が初めて公開されました。この文章では山菜のミズを朝食のみそ汁に入れて食べたとし、珍味だと記しています。
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 秋田県横手市から訪れたという男性は「緻密な中にもほのぼのとしたスケッチを初めて見ました。自然を愛する心が表れているように思えました」と話していました。
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 東京から訪れたという女性は「光太郎が山野草をスケッチしているのに驚きました。精密に描かれていて感動しました」と話していました。
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 この企画展「山のスケッチ」は「高村光太郎記念館」で来月7日まで、開かれています。
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会期末に近くなってきましたが、かえってこのタイミングで紹介していただくと、「ああ、そんなのやってるんだ。あれ、もうすぐ終わりか、では行ってみよう」というニーズを掘り起こすことになりますので、ありがたいところです。

展覧会詳細情報はこちら

まだ行かれていない方(既に行かれた方もリピーターとして)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「花と実」は今年はものになるかと思ひますが「至上律」誌上の印刷では随分ひどい成績でしたが、果して印刷が出来るものでせうか。せめて鉛筆単色でも、その感じが印刷で出ればいいのですが。「花と実」はあくまでたのしい詩集に、「猛獣篇」はきびしい詩集にしたいと思つてゐます。


昭和23年(1948)2月19日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎66歳

「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」に展示されている山野草のスケッチを添えた詩集『花と実』、そして戦前から書きためていた連作詩「猛獣篇」をまとめ、鎌田の経営していた白玉書房から出版する計画がありましたが、いずれも実現しませんでした。

6月15日(土)のことですが、千葉県匝瑳(そうさ)市にある松山庭園美術館さんに行って参りました。

そもそもは先月末の地元のタウン紙に載った紹介記事。
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「第21回猫ねこ展」だそうで、こちらを拝読し、猫好きの妻を連れて行こうと考えました。

ちなみに妻に溺愛されているのはこいつです。子猫の時に娘が拾ってきて、今月で8歳になりました。
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あくまで溺愛しているのは妻であって、当方ではありません(笑)。

閑話休題。同館について調べてみると、光太郎とゆかりの作家達の作品も複数点が収蔵展示されていることが分かり、これは行かねば、と思った次第です。

自宅兼事務所から1時間弱。
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「庭園美術館」と謳うだけあって、なるほど、里山的な環境を取り入れた庭園。新緑がいい感じでした。
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楓の木が多いので、紅葉シーズンは見事でしょう。館のパンフレットも紅葉をあしらっていました。
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元々はアート作家・此木三紅大(このきみくお)氏がご自身のアトリエを美術館に改修されたそうで、開館25周年だそうです。

此木氏、猫好きなのでしょう。猫をモチーフとした氏の作品がお出迎え。
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氏の作品に混じって、氏が集められたと思われる年代物の猫アート、猫オブジェもあちこちに。
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既に「猫だらけ」(笑)。

さて、第一目的の常設展示室へ。
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まずは、何はなくともこれが観たかった、光太郎曰く「火だるま槐多」こと村山槐多のデッサン。4月に信州で見逃しましたので。
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右側に槐多自身の詩が書き込まれています。

われもし盲せば/この語程かなしく辛きはあらず、/われには更に二十年の艶麗なる視覚世界のまてるに、/大丈夫 天は俺を愛して居るぞ

いいですね。

他にも光太郎人脈。

光太郎が東京美術学校彫刻科を卒業してから入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二。ちなみにその際の同級生には藤田嗣治、岡本一平などがいました。ただし光太郎、そちらは卒業せず、中退の形で欧米留学に出ました。そこで卒業生名簿の西洋画科の項には名が無く、藤田や岡本と同級生だったことは意外と知られていないようです。
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大正初め、ヒユウザン会(のち、フユウザン会)で光太郎と一緒だった萬鉄五郎。
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主宰する雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いだ松本竣介。
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他に三岸好太郎、長谷川利行などのビッグネームも。
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これらを堪能したところで、第二目的の「猫ねこ展」。猫好きの妻は既にそちらに(笑)。
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プロアマ問わずの公募展で、何と350名、500点ほどの「猫」。絵画あり、彫刻あり、写真あり、クラフト系あり、モチーフ的にも写実にとどまらず、パロディあり、オマージュあり……。とにかく「猫づくし」です(笑)。
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右上の縦に2枚並んでいる絵は、お笑い芸人コンビ・U字工事さんのお二人の作。6月5日(水)にオンエアのあったBS-TBSさんの番組「ねこ自慢」で、お二人が同館をご訪問、「猫ねこ展」紹介の後、お二人も猫絵に挑戦、というコンセプトで描かれたものでした。
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ちなみに、観覧者を対象に展示作品の人気投票があり、当方が選んだのはこちら。
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こうしたメッセージ性もアートの重要な要素ですから。

展示室にはリアル猫も(笑)。
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同館、10匹の猫がいて、気ままに過ごしています。

「ねこ自慢」から。
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この日はこのうち7~8匹程と遭遇できました。

まず既に入場する前から。
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同一の個体かどうか、のちほどバックヤードでご飯中の黒猫も(笑)。
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下の画像の子は我々が到着してから帰るまで、ずっとこうでした(笑)。
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オッドアイの子も。
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まだまだ居ます(笑)。
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まさに「猫まみれ」(笑)。

「第21回猫ねこ展」、7月28日(日)までの開催です。ただし、金土日および祝日のみの開館ですのでご注意下さい。

帰途、回り道をして、隣接する旭市の「道の駅 季楽里(きらり)あさひ」さんに立ち寄りました。
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花卉の販売コーナーが充実しており、「あるかな?」と思って入ったところ、ありました。
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グロキシニアです。通常の花屋さんなどだとほとんど見かけません。明治45年(1912)5月末か6月初頭、竣工成った駒込林町の光太郎アトリエ兼住居の新築祝いとして、前年に知り合った智恵子が持参した花です。その後光太郎は、くりかえしこの花を詩文に謳い込みました。

かつて二本松でいただいたもの一昨年購入したものは枯れてしまい、またぜひ入手したいと思っていましたので、タイムリーでした。

というわけで、松山庭園美術館さん、道の駅 季楽里(きらり)あさひさん、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

鎌田さんから数日前に「智恵子抄」の再出版の見本を送つて来ましたが、貴下のおてがみによると、澤田さんと十分の諒解が無かつたことが分り、その当時澤田さんの許諾をうけたやうに申された鎌田さんの言を信じてゐた小生としては、何だかみんなイヤになりました。又当分出版に関係するのは止めようかと考へてゐます。


昭和23年(1948)1月11日 森谷均宛書簡より 光太郎66歳

オリジナル『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に澤田伊四郎の龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまっていました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田敬止が『智恵子抄』復刊を企図し、澤田から許諾を得たので、と光太郎に打診。光太郎もGOサインを出し、さらに戦後の詩「松庵寺」「報告」を追加して前年に刊行されました。

しかし、澤田が「鎌田に許諾した覚えはない」と言いだし(このあたり、真相は闇の中です)、昭和25年(1950)に龍星閣が復興すると、翌年から『智恵子抄』の再刊を始めます。

ここまでいかずとも似たようなトラブルが他にもあり、光太郎にとって受難の時期でした。

ギャラリーでの展示を2件、ご紹介します。

まず、光太郎の父・光雲の木彫。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月8日(水)~5月14日(火)
会 場 : そごう大宮店 七階美術画廊 埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-6-2
時 間 : 10:00~20:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

明治以降の彫刻界の発展に大きく貢献した彫刻家・高村光雲、平櫛田中を始め、現在活躍中の大仏師・松本明慶などの木彫作品30余点を展観いたします。

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高村光雲「太子像」W13.5×D11.5×H17.5cm 共箱

そごうさんではあちこちの支店で同様の展示即売会を行っています。今回と同じ大宮店さんで、全く同じ「太子像」が出た「近代木彫・工芸逸品展」が一昨年に開催されていますし、令和2年(2020)には千葉店さんで「近代秀作木彫展」があり、この際には光雲作品が3点、そして光雲の師・髙村東雲の孫の髙村晴雲の作も出ました。

続いて大阪から現代アート系。こちらは先週から始まっています。

『ARTる 檸 展』

期 日 : 2024年5月2日(木)~5月12日(日)
会 場 : galleryそら 大阪市中央区谷町6丁目4-28
時 間 : 13:00〜19:00
休 廊 : 5月7日(火)・8日(水)
料 金 : 無料

出展作家
 下元直美 / かまのなおみ / ヨシカワノリコ / 虹帆 / Q-enta / An / 稲富尊人 / 古川美香 /
 TELA / somen_ / Hanon

色を感じて想いを物語る「檸」

「檸」は、檸檬のような明るい緑が混じった黄色

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こちらではこれまでに一つの「色」を統一テーマにした展示を行われてきたそうで、「紅・墨・翠」に続く第4弾・最終組だそうです。
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「檸」といえば「檸檬」。「檸檬」といえば「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。「レモン哀歌」といえば「智恵子抄」。

出展作家のうち、somen_さんという方が「与えられたテーマが「檸(レモン色)」だったので、5月だし、黄色だし、レモンだし、P30+F30でどデカいたっきー先生の智恵子抄を描きました。」だそうです。
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P30」「F30」はともにキャンバスの規格で、前者は約910×652mm、後者は約910×727mm。「」とあるので約910×1.379mmでしょうか。たしかに「どデカい」ものですね。

たっきー先生」は故・滝口幸広さんでしょう。「智恵子抄」は中村龍介さん、三上真史さんらと行った朗読劇「僕等の図書室」と思われます。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤さんなどはまづさしあたり時間の規律などが教育でせう。授乳にしても入浴にしてもその他なるべくきちようめんにする事です。でたらめ、行きあたりばつたりの生活に慣らすとあとで困ります。 子供のウソツキも大抵は親が教へるやうなものです。


昭和22年(1947)8月27日 宮崎春子宛書簡より 光太郎65歳

今日は「こどもの日」ということで、ちょっと過激な物言いですが。

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