今月12日に開幕した和歌山県立近代美術館さんの「佐藤春夫の美術愛」展について、光太郎がらみで報道が為されていますのでご紹介いたします。
まずNHKさんのローカルニュース。
まずNHKさんのローカルニュース。
新宮市出身の佐藤春夫は、小説「田園の憂鬱」などの作品で知られ、大正から昭和にかけての文壇を代表する小説家や詩人として活躍しました。
和歌山市の県立近代美術館では、今月(4月)から佐藤春夫が所蔵していたおよそ150点の美術作品が展示されています。
このうち、詩人で彫刻家の高村光太郎が描いた「佐藤春夫像」は、文学を志して上京したものの思うような作品が残せず、行き詰まった若き日の春夫が描かれています。
また、川上澄生の版画「絵ノ上ノ静物」は、佐藤春夫と編集者との間で交わされた手紙に出てくることが知られていましたが、展示会を前に春夫の孫から寄贈されたことで実際に所有していたことが確認されたということです。
企画した宮本久宣 主任学芸員は「佐藤春夫が所有していた美術作品を見ることのできる初めての機会です。文学に関心がある人だけではなく、多くの人に楽しんでもらいたいです」と話していました。
この展示会、「佐藤春夫の美術愛」は、6月29日まで和歌山県立近代美術館で開かれています。
続いて『読売新聞』さん。
続いて『読売新聞』さん。
和歌山で企画展
新宮市出身の作家で詩人の佐藤春夫(1892~1964年)が所蔵していた美術作品を紹介する企画展「佐藤春夫の美術愛」が、県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。文学で大きな功績を残しながら、美術への関心を持ち続けた作家の一面がうかがえる。
作家仲間や自筆の絵、版画略法
春夫の親族から昨年度に絵画などの寄贈を受けたことを記念して開催。生前交流を持った作家の版画や春夫自ら描いた油彩画など、41作家の150点をまとめて見てもらうことにした。
春夫は医師の父・豊太郎らの影響で新しい文化芸術に触れ、文学を志して上京するが、思うような評価が得られずに行き詰まる。この頃、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)と出会い、絵画制作に目覚めたという。
光太郎が描いた肖像画「佐藤春夫像」(1914年)には、そんな苦悩を抱く若き日の春夫が垣間見える。春夫はその数年後、小説「田園の 憂鬱ゆううつ 」を発表し、流行作家に仲間入りするが、その前に二科展で入選した経験もある。油彩画「花」を見ると、その確かな実力がわかる。
作家としての地位を確立した後も、画家との交流は続いた。川上澄生(1895~1972年)は春夫がほれ込んだ版画家の一人で、作品を多く手元に集めていた。澄生は春夫の詩集「魔女」の挿画も担当し、ほうきにまたがり空を飛ぶ和装の女性をキャッチーに描いている。
版画家の谷中安規(1897~1946年)との関係も特別だった。ロボットや妖怪が登場する幻想的な世界観を得意とし、春夫が熱心に支援。制作に打ち込む自身の脳内をイメージしたような「画想」(1932年頃)など、どこかユーモラスな作品が多い。

作家としての地位を確立した後も、画家との交流は続いた。川上澄生(1895~1972年)は春夫がほれ込んだ版画家の一人で、作品を多く手元に集めていた。澄生は春夫の詩集「魔女」の挿画も担当し、ほうきにまたがり空を飛ぶ和装の女性をキャッチーに描いている。
版画家の谷中安規(1897~1946年)との関係も特別だった。ロボットや妖怪が登場する幻想的な世界観を得意とし、春夫が熱心に支援。制作に打ち込む自身の脳内をイメージしたような「画想」(1932年頃)など、どこかユーモラスな作品が多い。


春夫と安規は出版社を通じて知り合い、書籍の装画などを通じて関係を深めた。春夫が安規に絵を催促する手紙も展示。自らを「カンシャク先生」と名乗ったり、「シツカリ致セコノ野郎」とせかしたり、気心の知れた関係性が示唆される。
同館の宮本久宣・主任学芸員は「貴重な版画が多く、日本の美術史を語る上で意義深い作品群だ」と評価。「絵を描いたり、画家と交流したりすることが、執筆活動にも良い影響を与えただろう。春夫が画家だったかもしれないと想像するのも面白いのでは」と語る。29日と5月6日の午後2~3時、学芸員による展示解説がある。会期は6月29日まで。問い合わせは同館(073・436・8690)。
どちらも光太郎の描いた佐藤の肖像画について紹介して下さいました。同館ではことあるごとに出品して下さっている作品ですが、今回も目玉の一つであることは確かです。
描かれたのは大正3年(1914)。光太郎が第一詩集『道程』を刊行し、長沼智恵子と結婚披露を行った年です。この頃の光太郎は彫刻よりも油絵の方に軸足を置いており、油絵の頒布会も行っていました。その広告が雑誌『現代の洋画』や『我等』に掲載され、佐藤は後者の編集に携わっていた萬造寺斉の勧めもあって、自らの肖像画を描いてもらったそうです。
佐藤はそれ以前から与謝野夫妻の新詩社で光太郎とは顔見知りでしたが、肖像画を描いて貰うために駒込林町の光太郎アトリエに通うようになり、9歳年上の光太郎と親しく交わるようになりました。そのあたり、光太郎没後に佐藤が書いた『小説高村光太郎像』に詳しく述べられています。
その佐藤が戦後になって、当時の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)から十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念モニュメント制作の件を相談され、即座にその作者として光太郎を推挙し、「乙女の像」として結実したわけで、人の縁(えにし)というものの大切さに思いを馳せております。光太郎の名を挙げた人物は他にも複数存在しましたが、それらの人々を代表し、佐藤は「あの美しい十和田湖に貴下の作品以外のろくでもないものがたてられることはありえない」的な説得の手紙を光太郎に書き、光太郎も激しく心を動かされました。
閑話休題、「佐藤春夫の美術愛」展、6月29日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
小型エスキスを終り、二体石膏型にとり、その組み合せをすませ、今度は建築家の谷口さんと台石の設計について協議をいたすまでになりました、次は中型の彫刻にかかる次第です。
「小型エスキス」「中型の彫刻」は「乙女の像」のための試作。「組み合せ」は二体の位置関係。当初から全体の構図が三角形になるようにと考えていました。

どちらも光太郎の描いた佐藤の肖像画について紹介して下さいました。同館ではことあるごとに出品して下さっている作品ですが、今回も目玉の一つであることは確かです。
描かれたのは大正3年(1914)。光太郎が第一詩集『道程』を刊行し、長沼智恵子と結婚披露を行った年です。この頃の光太郎は彫刻よりも油絵の方に軸足を置いており、油絵の頒布会も行っていました。その広告が雑誌『現代の洋画』や『我等』に掲載され、佐藤は後者の編集に携わっていた萬造寺斉の勧めもあって、自らの肖像画を描いてもらったそうです。

その佐藤が戦後になって、当時の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)から十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念モニュメント制作の件を相談され、即座にその作者として光太郎を推挙し、「乙女の像」として結実したわけで、人の縁(えにし)というものの大切さに思いを馳せております。光太郎の名を挙げた人物は他にも複数存在しましたが、それらの人々を代表し、佐藤は「あの美しい十和田湖に貴下の作品以外のろくでもないものがたてられることはありえない」的な説得の手紙を光太郎に書き、光太郎も激しく心を動かされました。
閑話休題、「佐藤春夫の美術愛」展、6月29日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
小型エスキスを終り、二体石膏型にとり、その組み合せをすませ、今度は建築家の谷口さんと台石の設計について協議をいたすまでになりました、次は中型の彫刻にかかる次第です。
昭和27年(1952)12月19日 奥平英雄宛書簡より 光太郎70歳
「小型エスキス」「中型の彫刻」は「乙女の像」のための試作。「組み合せ」は二体の位置関係。当初から全体の構図が三角形になるようにと考えていました。
