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昨日の『朝日新聞』さん、高知版から。 

高知)「客が一人でも上映」 山の中の映画館・大心劇場

 ウグイスのさえずりが里山に響く。周囲1キロに000集落もない。「山の中の映画館」と呼ばれる「大心(だいしん)劇場」(高知県安田町内京坊)を館主の小松秀吉さん(68)は38年間、続けてきた。なぜ、そんな不便な場所で営業を続けるのか。
 ――開館のきっかけは
 父親が約2キロ先の街中で、1954年から映画館を経営していた。テレビの普及で利用客が減り、休館状態となった。当初は取り壊す予定だったが、父親が自宅の敷地内に移築すると決断した。82年に「大心劇場」の名で開館。30歳だった自分が館主となった。
――なぜ移築したのですか
 昭和の映画館を残すのと、映画館が好きな息子の私のためという二つの思いが、父親にあったのだろう。以前の映画館では、3歳のころからステージや客席が遊び場。中学、高校時代は夏、冬休みにアルバイト感覚で、自分でフィルムを借りて上映していた。大阪の大学に進学後も、映画館巡りは欠かさなかった。
 ――よく開館に踏み切った
 最初は、昭和の映画館を体感できる博物館を始めるつもりだった。映写機やスクリーン、昭和の映画のポスターも200枚は集めていたから。旅先でここを知った旅行客に寄ってもらえるかもって。でも、県内で次々と単館の映画館が姿を消すのを見ちゃうとね。設備がそろっているのに、なぜ上映しないのかと、思うようになった。
 ――経営はどうでしたか
 当初は父親の印鑑の営業などを手伝い、上映で赤字が出てもその収入で補?(ほてん)した。10年ぐらい前から黒字になり、次回のフィルム代くらいは出るようになった。
 ――どうやって黒字に
 人とのつながりだ。大学時代に映画館ともう一つ夢中になったのがギターの弾き語り。「豆電球」の名前で地域の秋祭りなどで歌っている。そこで知り合った人に映画館を紹介する。そのうち、来館者が県内外に100人できた。
 家族経営なのでかかるのは電気代やフィルム代。一週間の上映で100人入れば黒字。客が足らないと「あんたが100人目よ」と100人の誰かに連絡すると、本当に来てくれる。
 ――音響がいいと聞きました
 フィルム映写機のドキュメンタリー映画「旅する映写機」で取材を受けた時、音響スタッフが館内のスピーカーや新しいアンプなどを使ってドルビーデジタルサラウンドを出せるよう再構築してくれた。館は木造で音の反響が柔らかい。大音量で音が外に漏れても文句をいう家はない。
 ――新型コロナウイルスの影響で休業3カ月後の今月、再開。最初の上映映画は「上を向いて歩こう」でした
 お客の顔を見ると本当にうれしかった。(坂本)九ちゃんの歌が流れた時は、涙も出たし、これからも上映する覚悟が持てた。知らない者同士が、同じ空間の中で映画から一人ひとり力をもらう。映画館の醍醐(だいご)味やね。(今林弘)
     ◇
 こまつ・しゅうきち 高知県安田町出身。映画館とその隣で喫茶「豆でんきゅう」を経営。大心劇場(0887・38・7062)は、懐かしい日本映画を中心に1作品約1週間の期間で1日2回(午後1時、7時)、月2作品を上映。客席84席。次回上映は6月27日~7月4日の「智恵子抄」。詳細はホームページ(http://wwwc.pikara.ne.jp/mamedenkyu/別ウインドウで開きます)。


5月のこのブログでご紹介
させていただいた、高知県安田町のミニシアター、大心劇場さん。コロナがなければ3月に昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)を上映して下さる予定でした。今月から営業を再開され、最初は昭和37年(1962)の日活映画「上を向いて歩こう」(舛田利雄監督・坂本九さん主演)を上映。続く再開2本目が、延期措置となった「智恵子抄」だそうです。 

昭和の名作。感動の大公開!! 智恵子抄002

期 日 : 2020年6月27日(土)~7月4日(土)
会 場 : 大心劇場 高知県安芸郡安田町内京坊992-1
時 間 : 1回目昼1時より 2回目夜7時より
料 金 : 1,500円

<監督>中村 登 <原作>佐藤 春夫/高村 光太郎
<出演者>岩下 志麻、丹波 哲郎、ほか
<作品紹介>美しく清らかな純愛をうたう感動無限の最高名篇

画像は3月公開予定時のものです。日程ご注意ください。

光太郎役の故・丹波哲郎さんは、ご自分で最も気に入っていた出演作の一つだそうですし、若き日の岩下志麻さん演じる智恵子の鬼気迫る様子、見応えのある作品です。

また、個人的な理由になりますが、おそらく当方自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区でもロケが行われており(冒頭近くの「パンの会」のシーン)、感慨深いものがあります。

それにしても、『朝日新聞』さんの記事を読み、経営されている小松秀吉氏の「意気」に感動しました。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

言葉はまた着物の裂れ地と同じく、聯絡や関係が大切なのであつて、一部分のものではない。前後の関係、時間の関係に依つてその美が生れるのだから、その均衡に対する鋭い感じがないと、たていとばかり利いて横糸の弱いものが出来上つたりしてしまふ。

談話筆記「ことばの美に就いて」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

彫刻家としての造型感覚が、言葉を紡ぐ上でも有効に作用していた光太郎ならではのとらえ方ですね。

まだ新着情報不足がつづいていますので、今日も最近手に入れた古いものシリーズです。

昨日は、光太郎詩「道程」を元にした詩の朗読を含む昭和58年(1983)にリリースされた野口五郎さんのLPレコードをご紹介しましたが、やはりLPレコードをもう一枚。

野口さんのアルバムの前年、昭和57年(1982)、キングレコードさんから発売された「映画音楽・佐藤勝10」。

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平成11年(1999)に亡くなった、作曲家・佐藤勝氏の映画音楽001を集成した10枚組シリーズの1枚です。

佐藤氏といえば、「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」などの黒澤明監督作品、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)公開の「太陽の季節」などの石原裕次郎主演作品、山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」などを手がけた方ですが、それ以外にも「これも佐藤作品か」、「えっ、こんなものまで」というような映画(日本映画史上に残るような)の音楽もたくさん作られています。10枚組シリーズの収録曲一覧、右画像をご覧下さい。

そして、昭和42年(1967)公開の、中村登監督作品「智恵子抄」(松竹)。岩下志麻さんが智恵子、故・丹波哲郎さんで光太郎でした(過日、コロナ禍に関する記事でもこの映画をご紹介しました)。「映画音楽・佐藤勝10」には、この「智恵子抄」の音楽が収録されています。

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当方、この「智恵子抄」は1度拝見しただけですが、各シーンで効果的に使われていた佐藤氏の音楽、印象的でした。

その10年前に製作された原節子さん、山村聰さん主演の「智恵子抄」(東宝)はVHSテープで市販されましたが、松竹の「智恵子抄」は販売用ソフトになっていません。ぜひDVD化を望みます。

ちなみに佐藤氏の作品集成のうち、「智恵子抄」が収められたもの、CD版ではかなり以前に入手しました。アナログレコード版とはまたラインナップの組み方が異なっています。

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今回佐藤氏について改めて調べたところ、当方存じませんでしたが、映画音楽以外にも、有名な「若者たち」や由紀さおりさんの「恋文」なども作曲されているそうで、驚きました。

NHKさんで現在放映中の連続テレビ小説「エール」で、古関裕而、古賀政男山田耕筰らの作曲家に光が当たっていますが、佐藤氏についてももっと知られていいと思います。


【折々のことば・光太郎】

彼は過激を欲しない。彼は律度を欲する。彼は異様を欲しない。彼は正順を欲する。
散文「寸言 ――シヤヷンヌについて――」より
 大正5年(1916) 光太郎34歳

「シヤヷンヌ」は、フランスの画家、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ。印象派の面々と世代的に同じですが、奇を衒わず、しかし守旧に堕することもなく、独自の芸術をつきつめました。そうした部分で光太郎、かなり共鳴する部分があったようです。

この手の評論的な文章での光太郎の常ですが、他の芸術家を好意的に評するとき、それが光太郎芸術の目指すある面を表していることが多くあります。「過激を欲しない」「律度を欲する」「異様を欲しない」「正順を欲する」、たしかに光太郎芸術にも当てはまります。

昨日は青森の『東奥日報』さんから、コロナ禍による十和田湖の現状についての記事を紹介いたしましたが、本日は同様の件で、『高知新聞』さんから。 

コロナなかりせば… 大心劇場(安田町)上映まで歯食いしばる

 新型コロナウイルスの感染拡大により、高知県内でもさまざまなイベントが中止に追い込まれ、活動の自粛を余儀なくされている。コロナ禍がなければ、にぎわっていたであろう「あんな催し」「こんな取り組み」を紹介。次回にかける関係者の思いと共に、随時紹介していく。
 高知県安芸郡安田町内京坊の「大心劇場」は月に1、2本の映画を上映する、山の中の映画館だ。昭和30年代の純愛もの、任侠劇、高知ロケが行われた近作など上映作は多彩。だが、3月初旬から休館を余儀なくされている。
 座った途端、懐かしさでほっとする客席。周囲は、往年の映画ポスターがぐるり囲む。
 「映画の中でしかなかったものが、現実になった。朝起きて、『夢で良かった』じゃない世界になったね」。コロナ禍をこう表現するのは、館主の小松秀吉さん(68)。上映は、国道55号や町内に掲げる名物の手描き看板が知らせてくれるが、今は姿を消している。

 劇場は映画上映だけの場所ではない。併設するステージでは、シンガー・ソングライターとして「豆電球」の名で活動する小松さんが歌ったり、プロの歌手が登壇。2018年10月には、双子の歌手「こまどり姉妹」が30年ぶりに来町。トークと歌声を披露した。
 年号が改まる2019年4月30日夜は常連客ら約30人がカウントダウンイベントに参加。昭和の開館から三つ目の時代の幕開けを祝った。

 今年からは旅行会社のツアーの巡り先にもなっていたという大心劇場。小松さんは「今はじっと我慢するしかない。山の中に映画を見に来てくれるお客さんに力をもらってきた。東部の映画の灯は絶対に守っていく」。山の湧き水で溶いたペンキを手に、上映を待つ映画の看板作りに取り掛かった。(北原省吾)

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(左)上映日が未定の「智恵子抄」(中村登監督)の看板前に立つ小松秀吉さん。「ヒーローじゃなく、マスクが世界を救ってるね、今は」
(右)令和の幕開けを祝う常連客ら(2019年5月1日未明)003

待ち遠しいね~ 安田町のゆるキャラ 安田朗(あんたろう)
 レトロな大心劇場の再開が待ち遠しいね~。町にはほかにも、おいしいごはん屋さんとか、おやつを売りゆう所があるきん、落ち着いたらぜひ遊びにきてよ~。ぼくもまたいろんな所へ安田町のPRしに行くきん、会いにきてね~!

高知県安田町の大心劇場さん。写真のキャプションにあるとおり、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)を、この3月に上映して下さる予定でした。

3月に、このブログでご紹介しようと、途中まで005記事を書きました。ところが、観覧料金が大心さんのHPに記載されていなかったので、電話で問い合わせてみたところ、おそらく記事にある小松さんでしょう、「あー、ホームページはまだ直してないんですけど、新型コロナで無期限延期にしたんですわ」とのことでした。「ありゃま」という感じでした。右は予定されていた上映のポスターです。

まさに見出しの通り「コロナなかりせば」ですね。ちなみに「せ」は助動詞「き」の未然形、そこにプラス助詞「ば」ですから反実仮想の用法です。

油断は禁物ですが、徐々に緊急事態宣言の解除が進むようで、「智恵子抄」の上映も遠くない日に実現して欲しいものです。観覧料金は1,500円だそうです。

こうした大心さんのようなミニシアターが存続の危機、という報道が為されたのは先月くらいだったでしょうか。その後、どうなっているかと調べてみましたところ、クラウドファンディング「ミニシアター・エイド(Mini-Theater AID)基金」なるものが立ち上がり、支援の輪が広がっているようです。

同様に、全国の新刊書店さん、古書店さんを支援する「ブックストア・エイド基金」も展開中です。素晴らしい!

「不要不急」と、とかく後回しにされがちな文化芸術分野ですが、そうしたものが一切無い世界を想像してみて下さい。当方には耐えられません。

466億円もの予算を組んで、「不要不急」どころか「不要」でしかない、しかも利権の匂いのプンプンするものを配るより、こうした部分に予算を廻せ、きちんと制度を整備しろ、と言いたくなりますね。制度と言えば、同じく「不要不急」どころか「不要」でしかない、いや、「有害」な法案は拙速に強行採決されそうな勢いですが……。


【折々のことば・光太郎】

桐葉亭々   短句揮毫  戦後期?

「亭々」は「ていてい」。樹木が葉を繁らせ、高々と聳えるさまです。桐は実は樹木というより草に近いのだそうですが(だから成長が早く、軽いのだそうで)、そろそろ紫の可憐な花があちこちで見られているのではないでしょうか。

「亭々」、寡聞にして当方は存じない言葉でした。明治人にとってはあたりまえの言葉だったのか、それとも光太郎のボキャブラリーが豊富だったのか、どちらなのでしょうか。

 映画監督の大林宣彦さんの訃報が出ました。

『スポーツニッポン』さんの記事から。

映画監督の大林宣彦さんが肺がんで死002去 82歳 「転校生」など“尾道三部作”

 「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の“尾道三部作”などで知られる映画監督の大林宣彦さんが10日夜、肺がんのため死去した。82歳。広島県出身。葬儀・告別式は家族葬を行い、後日お別れの会を開く。

 2016年に肺がんの宣告を受けていたが、闘病しながら撮影した「花筐 HANAGATAMI」は17年12月に公開。昨年11月には東京国際映画祭で特別功労賞を受賞。遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」はくしくも大林さんが亡くなった10日が公開初日となる予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期となっていた。

 1938年(昭和13)1月9日生まれ。CMディレクターを経て、77年「HOUSE」で商業映画監督デビュー。その後「ねらわれた学園」「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」などを発表。92年「青春デンデケデケデケ」で日本アカデミー賞優秀監督賞。98年「SADA 戯作・阿部定の生涯」でベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞受賞。2004年に紫綬褒章、09年に旭日小綬章を受章。


大林監督、平成10年(1998)、日本テレビ系列で放映された「知ってるつもり?!」の「高村智恵子」の回にゲスト出演されました。

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司会は関口宏さん、千野志麻アナウンサー。大林監督以外のゲストは、舞台で智恵子役を演じられた女優の有馬稲子さん、智恵子に関するご著書のある沖縄国際大学教授の黒澤亜里子さん、俳人の黛まどかさん、俳優の榎木孝明さんでした。大林監督、要所要所で的確なコメントをなさっていました。

もう1点。『スポニチ』さんの記事にもある最新作「海辺の映画館―キネマの玉手箱」。昨年からこの映画には注目しておりました。というのは、戦時中の移動演劇隊「桜隊」が描かれると知ったからです。

 


「桜隊」は国威発揚を目的にした移動演劇隊。丸山定夫という俳優がリーダーでした。当時、国策にそぐわない劇団は解散させられ、わずかにこうした活動のみが許されていました。そして、「桜隊」は、慰問に訪れていた広島で被爆、リーダーの丸山は重傷を負い、終戦の翌日、息を引き取りました。最後の言葉は「やっと自由に芝居ができる」だったそうです。


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この「桜隊」を映画で描くにあたり、大林監督、昨夏には病をおして広島平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に手を合わせられたとのこと。

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くわしくは、NHKさんのサイトに載っています。

「桜隊」のリーダーだった丸山定夫は、それ以外に、ラジオ放送での翼賛詩の朗読にもかなり出演していました。光太郎の作品も複数、丸山の朗読でオンエアされています。

国会図書館さんのデジタルデータでは、「最低にして最高の道」が聴けます。詩が作られたのは昭和15年(1940)ですが、ラジオ放送は昭和17年(1942)4月が初回放送で、その後、繰り返し流されました。おそらく初回放送を録音してレコードにし、使い廻したのだと思われます。

また、こうした戦時中の放送等に関する研究成果である、坪井秀人氏著『声の祝祭 日本近代詩と戦争』(平成9年=1997 名古屋大学出版会)の付録CDには、やはり丸山の朗読による「必死の時」が収録されています。こちらもラジオ放送のためのもので、詩の制作は昭和16年(1941)、放送は昭和17年(1942)でした。

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「桜隊」の追悼法要が、毎年8月6日、目黒の五百羅漢寺さんで開催されています。大林監督、やはり昨年、そちらにも参列なさったそうです。

五百羅漢寺さんといえば、当方、平成29年(2017)に開催された「第2回らかん仏教文化講座 近代彫刻としての仏像」(講師:小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)を拝聴するために伺いました。レポートはこちら。現地に行くまで「桜隊」ゆかりのお寺さんだと存じませんで、講堂的な建物の展示スペースに「桜隊」に関する資料も並んでいるのを観て、驚きました。

映画「海辺の映画館―キネマの玉手箱」では、丸山の役を窪塚俊介さんが演じられます。公式サイトのキャスト欄には、その窪塚さんと並んで、当会会友・渡辺えりさん。丸山と絡む役どころなのでしょうか。


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そういえば、えりさんのお父様は、戦時中、中島飛行機(現・SUBARU)の武蔵野工場で働いていらして、丸山も朗読した光太郎の「必死の時」をそらんじることで、空襲の恐怖におびえる気持をまぎらわせたそうです。上記予告編動画のトップに「“平和への思い”に賛同し豪華キャストが集結!」とありますが、おそらくそんな関係でえりさんもご出演の運びとなったような気がします。そのうちに訊いてみます。

ところで「海辺の映画館―キネマの玉手箱」、新型コロナの影響で、4月10日(金)予定の封切りがまだ為されていません。いつも書いていますが、この騒ぎが早く収束することを祈ります。

何はともあれ、大林監督のご冥福、謹んでお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

マルセル・マルチネ、ロマン・ロラン、又ピエル・ルヴエルヂなど。

アンケート「この人この本」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

アンケートの設問は「会つてみたい人」。「ピエル・ルヴエルヂ」は、現代では「ピエール・ルヴェルディ」と表記します。三人とも、フランスの人道派的な文学者です。

そうした人物たちに会ってみたいと書いていた光太郎が、10年後には「必死の時」……。つくづく時代の流れとは恐ろしいものです。




昨日、映画監督の佐々部清氏が亡くなったというニュースが出ました。

『日刊スポーツ』さん。

映画「陽はまた昇る」「半落ち」佐々部清監督が死去

映画「陽はまた昇る」「半落ち」などで知られる、映画監督の013佐々部清(ささべ・きよし)さんが、3月31日までに山口県下関市で亡くなったことが分かった。62歳。亡くなる2日前まで、SNSを更新していた。

山口県生まれの佐々部さんは、明大文学部演劇科を経て、84年から映画、テレビドラマの助監督を務め、キャリアを積んだ。崔洋一監督、杉田成道監督、降旗康男監督、和泉聖治監督らに師事した。高倉健さん主演の映画「鉄道員」「ホタル」の助監督も務めた。

監督デビュー作、02年「陽は-」で、日刊スポーツ映画大賞石原裕次郎賞、日本アカデミー賞優秀作品賞に選ばれた。04年「半落ち」で2度目の石原裕次郎賞に輝き、日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した。

「シネコンでは中高年が見られる作品が少ない」と、自らプロデューサーを務めて監督した17年「八重子のハミング」では、認知症を発症した妻と支える夫を描いた。資金集めから始め、全国各地での上映会を企画し評判は口コミで広がった。8館でスタートした作品は100館以上の規模で公開された。

映画はほかに「日輪の遺産」「出口のない海」「夕凪の街 桜の国」「ツレがうつになりまして。」など、ドラマ、舞台の演出も手掛けた。

▽俳優佐野史郎(ツイッターで) 1999年、私の初監督映画「カラオケ」ではチーフ助監督を務めてくれ、2012年テレビ朝日の松本清張ドラマスペシャル「波の塔」では監督と俳優として密度の濃い時間を過ごした。本当に優しい、人情に厚い方でした。安らかにお眠りください。

◆佐々部清(ささべ・きよし) 1958年(昭33)1月8日生まれ。明大文学部演劇科を経て、84年から映画、テレビドラマの助監督を務めた。主に崔洋一、杉田成道、降旗康男、和泉聖治ら各監督に師事した。「鉄道員」「ホタル」(ともに高倉健主演)などの助監督を務めた。

記事にある「八重子のハミング」は、平成29年(2017)に全国公開。升毅さん、高橋洋子さん主演で若年性アルツハイマーを発症した夫人(八重子さん)の介護を描き、平成14年(2002)に出版されて「現代の智恵子抄」と称された陽(みなみ)信孝氏著の同名の手記を原作としていました。

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劇中、光太郎の『智恵子抄』もモチーフとして使われています。

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また、つい4日前にもご紹介した、北原白秋を主人公とし、伊嵜充則さん演じる光太郎も登場する「この道」も、佐々部監督作品でした。
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それぞれDVD化されています。
「八重子のハミング」
「この道」


亡くなる2日前まで、SNSを更新していた。」というのが、Twitterで、こちら。

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同じ山口県出身でありながら、「忖度」も「同調圧力」も関係ないのですね。その他、IR問題、マスク転売などへのツイートも。佐々部氏、これまでに手がけられた映画のラインナップを見ても、気骨の映画人だったようです。

『デイリースポーツ』さん。

佐々部清さんが死去、62歳、映画監督…東京五輪に反対

 映画「半落ち」などで知られる映画監督の佐々部清さんが山口県下関市内で死去したことが31日、分かった。62歳。1958年、山口県出身。

 佐々部さんは明治大学文学部演劇科、横浜放送専門学院(現・日本映画大学)を卒業後、フリーの助監督を経て2002年「日はまた昇る」で監督デビュした。同作で日本アカデミー賞優秀作品賞。04年、作家横山秀夫さんのミステリー小説を寺尾聡さん主演で映画化した「半落ち」がヒット。日本アカデミー賞最優秀作品賞、優勝監督賞、優秀脚本賞を受賞した。

 今月11日にブログを更新。「この国から忘れられようとしていることが残念だとずっと思っている。未だに仮設住宅が残っている。ボクが東京五輪にずっと反対だったのもそのせいだ。仙台五輪だったり東北五輪なら、ボランティアで応援したと思うけど...福島の原発だって全然コントロールなんてされていない。もちろん選手達を応援はするけど、東京で五輪を開催する意義が見つけられなかった」などと投稿していた。


志村けんさんの例もあるので、「新型コロナか?」と思ったのですが、そうではないようでした。62歳、まだまだこれからでしたので、残念です。調べてみましたところ、鹿児島を舞台とした「大綱引の恋」という映画を制作中だったそうで、撮影は終わっているとのこと。無事公開までこぎつけてほしいものです。

何はともあれ、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

そんなケチな事を考へた事無し。それよりかもつと働いてもらひたい役者の事を思ひます。

アンケート「引込ませたい役者は?」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

演劇/映画雑誌『テアトル』に掲載されたアンケートです。佐々部監督、「もつと働いてもらひたい」監督でした……。

雑誌『明星』、芸術運動「パンの会」などを通じて、光太郎と朋友であった北原白秋関連の情報です。まずは映画。新型コロナによる延期とか中止という情報は出ていませんので、実施されるのでしょう。

シネマサロン 夢町座 名画上映会「この道」

期 日 : 2020年3月28日(土)~4月4日(土)
会 場 : 夢町座(ミニシアター) 
       静岡県静岡市清水区真砂町2-31 (JR清水駅前銀座入口)
時 間 : 11:00~/15:00~/19:00~
料 金 : 1,000円


上映作品 「この道」 2019年 105分 日本  監督 佐々部清

出演
大森南朋(北原白秋) AKIRA(山田耕筰) 貫地谷しほり(菊子) 松本若菜(松下俊子)
柳沢慎吾(鈴木三重吉)  松重豊(与謝野鉄幹)  羽田美智子(与謝野晶子) 津田寛治(菊池寛)
升毅(秦彦三郎) 近藤フク(石川啄木) 稲葉友(室生犀星) 佐々木一平(萩原朔太郎)
伊嵜充則(高村光太郎) 松本卓也(大手拓次)

清水駅前にある夢町座、今回の名画上映会は、「この道」を上映。大正7年(1918)、北原白秋は新進気鋭の音楽家・山田耕筰と出会う。山田はドイツ留学を経て日本初の交響楽団を結成した男で秀才音楽家と謳われ、一方、北原は、人妻に手を出すなど破天荒で自由奔放な男。だが、独創的な作風で天才詩人と称されていた。当時子どもの歌は、ドイツ童謡を日本語訳にしたものか、日本の伝承のわらべ歌しかなかった時代。二人は、日本の子どものために日本初の童謡の創作に乗り出すのであった。波乱に満ちた北原白秋の人生を、山田耕筰との友情を軸につきあった女性たちとともに描くヒューマンドラマ。監督は、「半落ち」「カーテンコール」など数々の名作を放つ佐々部清。※北原白秋は、昭和2年頃、静岡鉄道の依頼をうけ、静岡に逗留し「チャッキリ節」を作詞。他、清水商業高校校歌も作詞。


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会場の夢町座(ミニシアター)さんは、何と座席数18席。「日本一小さな映画館」などと称されることもあるそうで、営業は月に8日間だけ、「こだわりの一本」を上映するというユニークな館です。

上映される「この道」は、昨年1月に封切られた作品で、白秋を主人公とし、朋友・光太郎も登場します。

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一昨年にはノベライズ、昨年9月にはBlu-rayとDVDも発売されています。

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白秋と、それからもう一人の主人公的な扱いだったのが、EEXILEのAKIRAさん演じる山田耕筰。戦前には白秋とタッグを組んで童謡の名曲をたくさん作りましたが、戦時中には光太郎同様、翼賛活動に邁進しました。陸軍省から将官待遇を得、軍服姿でさまざまな活動。この点は、東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった藤田嗣治にも通じます。

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山田と同じく、戦時に翼賛歌曲を大量に作曲したのが、古関裕而(光太郎や白秋、山田の一世代あとですが)。その古関をモデルにしたのが、来週からNHKさんで始まる連続テレビ小説「エール」。

4月2日(木)に放映される第4回の告知では、白秋の名が。

【連続テレビ小説】エール(4)「初めてのエール」

NHK総合  2020年4月2日(木) 8:00~8:15017
      再放送 12:45~13:00
NHK BSプレミアム  同 7:30~7:45
      再放送 23:00~23:15
         4月4日(土) 10:30~10:45

裕一(石田星空)は小学5年生になり、音楽教育に力を入れる藤堂先生(森山直太朗)が担任になる。ある日、藤堂先生が北原白秋の詩に曲をつける宿題を出す。クラスメートの佐藤久志(山口太幹)は、普段から西洋音楽を聴いている裕一ならきっと作曲できると言う。裕一は母・まさ(菊池桃子)と、川俣にある母の実家を訪ねる。祖父の権藤源蔵(森山周一郎)と祖母の八重(三田和代)、伯父の茂兵衛(風間杜夫)が出迎えるが…。


出演 石田星空 清水香帆 山口太幹 菊池桃子
    光石研 森山直太朗 田中偉登 三田和代
    森山周一郎 風間杜夫 唐沢寿明


のちのち、戦時中の翼賛活動についても描かれるそうで、それならば半年間見てみようと思っております。有名な「露営の歌」(〽勝って来るぞと 勇ましくちかって故郷を 出たからは)は、古関の作曲です。

朝ドラ、なかなか光太郎智恵子自体は登場しませんが、関わりのあった人物が登場したり触れられたりする作品など(「あまちゃん」―宮沢賢治、「花子とアン」―村岡花子、「あさが来た」―広岡浅子平塚らいてう、「とと姉ちゃん」―大橋鎭子平塚らいてう)は見るようにしていましたので。

ちなみに当方手持ちの、光太郎作詞の翼賛歌曲が載った楽譜集を見てみますと、山田や古関の名もバンバン出て来ます。中には白秋作詞のものも。白秋は戦争が激化する前、昭和17年(1942)に歿しましたが、それ以前に既に翼賛歌曲の作詞を手がけていました。

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このあたりを「この道」ではかなり掘り下げて描いていましたが、「エール」ではどうするのか、興味深いところです。

ちなみに古関は智恵子と同じ福島中通り出身ということもあり、その意003味でも興味深く存じます。みなさまもぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

小生、大ていのものはいけますが、タバコだけは生来甚だ不調法で、たまに試るときつと目をまはすか、胸をわるくするといふ次第故残念ながら何も申上げる資格がございません。
アンケート「紫煙問答」全文 
大正14年(1925) 光太郎43歳


大正末、40代初めの段階では、光太郎、喫煙の習慣はなかったようです。しかし、この後、マドロスパイプで刻みタバコをたしなむようになっていきます。普通は逆(若い頃は吸っていて、歳をとったらやめる)ですが……。結核の自覚症状もかなり早くからあったはずですし……。さすがに最晩年になってからはやめたようです。

元映画女優の小林みどりさん(芸名・青山京子さん)の訃報が出ました。

『朝日新聞』さん。 

小林みどりさん死去

 小林みどりさん(こばやし・みどり=元俳優、俳優・歌手小林旭さんの妻)12日、肺がんで死去、84歳。通夜は22日午後6時、葬儀は23日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は夫旭さん。
 52年に青山京子の名でデビューし、「潮騒」(54年)など多くの映画に出演した。67年の結婚を機に引退した。

『共同通信』さん。 

元俳優の青山京子さんが死去 小林旭さんの妻

 歌手で俳優の小林旭さんの妻で、1950~60年代に映画で活躍した元000俳優の青山京子(あおやま・きょうこ、本名小林みどり=こばやし・みどり)さんが12日午後6時45分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。84歳。東京都出身。葬儀・告別式は23日午前10時から東京都品川区西五反田5の32の20、桐ケ谷斎場で。喪主は夫旭(あきら)さん。

 52年に映画「思春期」でデビュー。谷口千吉監督の映画「潮騒」(54年)でヒロインを演じるなど約70本の映画に出演した。67年に旭さんと結婚し、引退した。


『スポーツ報知』さん。 

小林旭の妻、元女優の青山京子さんが肺がんで死去 享年84

 俳優で歌手の小林旭(81)の妻で、元女優の青山京子さんが12日午後6時45分、001肺がんで死去したことが16日、発表された。84歳だった。
 東京・世田谷区出身の青山さんは1952年の映画「思春期」(丸山誠治監督)でデビューし、代表作は54年の映画「潮騒」(谷口千吉監督)。52年から58年まで東宝に在籍し、その後フリーに。東宝時代に約50本、その後の出演を含めると約70本の映画に出演。64年の映画「忍び大名」(佐々木康監督)が最後の出演作となった。67年に小林と結婚し、引退した。
 日活によると、通夜は22日、告別式は23日に、ともに東京・品川区西五反田の桐ケ谷斎場で営まれる。



003芸名の「青山さん」で記述させていただきます。青山さん、光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)に公開された東宝映画「智恵子抄」(熊谷久虎監督)にも出演されていました。智恵子役は故・原節子さん、光太郎役は故・山村聰さん、青山さんは、智恵子の姪にして、看護師の資格を持ち、その最期を看取った長沼春子の役でのご出演でした。ただ、当時は春子がまだ存命だったこともあり、役名は「秋子」となっていましたが。

今年1月2日(木)のこのブログで、青山さんにも触れたばかりですので、驚いております。

「秋子」の登場は、主に物語後半。智恵子が心を病み、そして南品川ゼームス坂病院で歿するという、とかく暗くなりがちな展開の中で、青山さんの若々しい、清新なご様子が、その暗さの中で、救いのように明るさをもたらしていました。

右上の画像もそうですが、当方、東宝映画「智恵子抄」のスチール写真などもをこつこつ集めておりまして、その中の何枚かに青山さんのお姿が。

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まだ智恵子が健康だった頃の、「秋子」初登場(だったと思います)のシーン。

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破産したという報を受け、智恵子が二本松の実家に駆けつけたシーン。中央は智恵子の母・セン(役名は「けい」、故・三好栄子さん)。

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九十九里浜でのシーン。ただし、実際の春子は九十九里浜では智恵子の付き添いには当たっていませんでした。このあたりは史実と異なります。

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九十九里浜の家に、智恵子の弟・啓助(役名は「光夫」、演じられたのは太刀川洋一さん)が訪ねてきたシーン。

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ゼームス坂病院でのシーン。

そして、智恵子昇天のシーン。
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ところで、青山さんが亡くなったのは、何とまあ、当会顧問・北川太一先生と同じ、1月12日(日)だそうで、奇縁を感じます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

真情によつて書かれた此書は多くの人を啓発する事と信じます。

散文「仲村久慈著『湯地丈雄』」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

「真情によつて書かれた」。光太郎詩もそうですね。だからこそ「多くの人を啓発」し続けているのでしょう。


今日から、一泊二日で花巻に行って参ります。大沢温泉さんをベースに、市内5つの文化施設が「令和元年度共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」を統一テーマに行っている企画展示のうち、花巻高村光太郎記念館さんの「光太郎からの手紙」、花巻市総合文化財センターさんで「ぶどう作りにかけた人々」を、それぞれ拝見して参ります。

今年1月に公開された映画「この道」ブルーレイとDVDが発売されました。

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光太郎の朋友・北原白秋(大森南朋さん)を主人公とし、山田耕筰(EXILEのAKIRAさん)との交流を軸に、白秋の後半生を追いながら、日本に童謡が築き上げられた経緯などが描かれています。

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われらが光太郎、2つのシーンで登場。

まずは蕎麦屋の座敷で行われた詩人仲間の会合―というより「パンの会」の流れ、的な―。参加者は白秋、萩原朔太郎、室生犀星、石川啄木、そして光太郎。

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演じるのは伊㟢充則さん。光太郎の雰囲気が見事に出ています。白秋の詩を「色が匂う」と評し、その的確な表現に一同、納得。

続いて、白秋詩集『思ひ出』出版記念会のシーン。史実では神田の都亭というレストランだったのですが、箱根の富士屋ホテルさんでロケが行われました。

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光太郎、司会の大役を仰せつかっていました。

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他に、光太郎の師・与謝野夫妻。松重豊さんと羽田美智子さんがそれぞれ演じられました。

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関東大震災、泥沼の戦争と、登場人物達をとりまく社会は混沌。

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光太郎のそれは描かれませんでしたが、白秋や晶子、山田耕筰(将官待遇となり軍服姿です)も時代の波に抗えません。かつて白秋の近所に住んでいた子供が青年となり、出征するシーン。涙無しには見られません。

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映画からは離れますが、山田に関しては、戦後になって、光太郎と同じく戦時中の翼賛活動がかなり問題視されました。戦争画を少なからず描いた藤田嗣治、「露営の歌」を作曲した古関裕而なども同様です。ちなみにNHKさんの来年の朝ドラ「エール」は古関を主人公とするそうで、そのあたり、どう描かれるか気になります。

その点、太平洋戦争が激化する前に生涯を閉じた白秋、晶子、それから萩原朔太郎(奇しくも3人とも昭和17年=1942に没しています)などは、良い言い方ではありませんが、或る意味良い時期に亡くなったという見方もできます。「生き残ってしまった」光太郎らの犯した過ちをさほど経験せずに済んだわけで……(白秋、晶子、朔太郎も翼賛活動に手を染めていますが、その期間が短くて済んだわけです)。

閑話休題。「この道」ブルーレイまたはDVD、ぜひお買い求め下さい。それから昨年には映画のノベライズも出版されていますので、あわせてどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

血を吐きがたきわがこころよ 汝はつねに詛はれて 人のためにふみにじらる されど、かなしきこころは我がせめてものたからなり

詩「かなしきこころ」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

のちに時代の波に翻弄される自身の姿を予言しているかのような文言ですね。

昨日公開の000映画「この道」、早速、拝見して参りました。

昨年末に小学館さんから刊行された大石直紀氏著『この道』、ほぼその通りのストーリーで(映画のノベライズと謳っていますので当然ですが)、北原白秋と山田耕筰を軸に、物語が進んでいきます。

前半は、隣家の人妻にして、後に白秋の妻となる俊子ともども姦通罪で逮捕されたり、入水自殺を企てるも結局は勇気が無く思いとどまったりといった、ダメ人間・白秋(笑)が描かれます。白秋役は大森南朋さん。

やがて白秋は、EXILEのAKIRAさん演じる山田耕筰とタッグを組み(最初の出会いは乱闘に発展)、関東大震災で力を落とす人々を、白秋の詩と山田の音楽を融合させた童謡で力づけていく、という展開。

その後、日中戦争勃発後は、否応なしに戦時体制に組み込まれてゆく二人……。幼い頃に白秋の家によく遊びに来ていた男の子がが立派な青年となり、兵士として出征してゆくシーンには、じーんと来ました。そして、やがて来るであろう、自由に歌が作れる時代を夢見ながら、白秋は先立ち、残された山田が白秋の分までその思いを背負って生きていく、というストーリーです。

『明星』の与謝野寛・晶子夫妻や、光太郎、萩原朔太郎、石川啄木、鈴木三重吉なども登場します。光太郎のそれには触れられませんでしたが、晶子に関しては、やはり大政翼賛の方向に行かざるを得なかった苦悩が描かれていました。

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関連するテレビ番組が、明日、放映されます。昨年5月に初回放映があったものの再放送ですが。 

昭和偉人伝 「山田耕筰・北原白秋」

BS朝日 2019年1月13日(日) 11時00分~11時55分

国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。

2018年で童謡が生まれて100年。番組では、今も愛される童謡の名曲を数多く生んだ、詩人・北原白秋と作曲家・山田耕筰の足跡をたどり、日本人の心に残る原風景を探る!

「からたちの花」「この道」など、今も愛される童謡の名曲を生んだ、詩人・北原白秋と作曲家・山田耕筰。今回は偉大な芸術家2人の足跡を童謡を中心にたどり、日本人の心に残る原風景を探る。白秋と耕筰は、日本語が持つ美しさを生かした音楽を作り、子どもはもちろん、大人たちにも豊かな心を育んでほしいと願っていた。1918年に鈴木三重吉が「赤い鳥」を創刊し、童謡が生まれて100年以上。詩を読み、旋律にじっと耳を傾ければ、無心で遊んだ幼い頃の気持ちがよみがえるだろう。誰もが持つ“日本心の情景"を探る。

語り 國村隼

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白秋、山田、それぞれの人物像のアウトラインが紹介され……

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映画「この道」の映像も。

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山田耕筰を演じたAKIRAさんや、歌手の秋川雅史さんがゲスト出演。

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ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の首ほど微妙なものはない。よく見てゐるとまるで深淵にのぞんでゐる様な気がする。其人をまる出しにしてゐるとも思はれるし、又秘密のかたまりの様にも見える。さうして結局其人の極印だなと思はせられる。

散文「人の首」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

性格やその時々の精神状態など、顔に表れる情報は隠そうにも隠しきれないということなのでしょう。ある意味、恐ろしいことです。

昨年、全国公開されたドキュメンタリー映画「映画「一陽来復 Life Goes On」。一昨年、岩手、宮城、福島の3県を中心にロケが行われ、東日本大震災からの復興の様子を追ったものでした。

昨年11月に、DVDが発売されまして、先月入手しました。もう少し早くご紹介するつもりが、他にも色々書くべきことが多く、今日になってしまいました。 

一陽来復 Life Goes On

2018/11/16 TBSサービス 定価 3,800円+税

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昨年5月に映画館で拝見して参りましたが、その本編には未収録の未公開映像も入っています。

当会の祖・草野心平が愛し、心平を名誉村民として下さり、今も心平を偲ぶ「天山祭」を開催して下さっている、福島県川内村がメインの舞台の一つとなっています。震災後しばらくは、福島第一原発のメルトダウンにより、全村非難を強いられた村です。

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原発事故にもめげず、無農薬のお米を作り続ける秋元美誉(よしたか)さん。川内村編は、秋元さんのさまざまなご苦労がメインの内容です。

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秋元さんと昵懇の、村商工会長・井出茂さん。かつては心平を偲ぶ「かえる忌」を、経営なさっている小松屋旅館さんで開催なさっていました。

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上記は、震災後、川内村で栽培が進んだブドウ畑です。ブドウは土壌や大気中の放射線を吸収しないそうで。

遠藤雄幸川内村長、婦人会の皆さんなど、天山祭やかえる忌でお世話になった面々もご出演。

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天山祭会場にして、心平の別荘であった天山文庫もちらっと映りました。

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川内村以外では、北から行くと、岩手県釜石市。地域にコミュニティーとしての神社や祭りの様子、震災後、いち早く再開した居酒屋さんなど。

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宮城県では、南三陸町。自らも津波の被害を受けながら、避難所や、その後も地域のさまざまな活動の拠点として建物を提供なさっているホテル観洋さん。右下は従業員の方による「語り部」活動です。

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こちらを会場に開催されている、そろばん教室で学ぶ5歳の女の子(映画のポスター等にも大きく使われました)とそのお母さん。お父さんは、津波の犠牲になりました……。

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同じ宮城県の石巻。

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3人のお子さんを津波で亡くしたご夫婦がメインです。木工職人であるご主人は、震災後、地域の集会所的な建物を作ったり、小学校に寄贈する本棚を作ったりなさっています。

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その本棚に入る本は、アメリカ人ご夫婦からの寄贈。

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ご夫婦のお嬢さんは、石巻の小中学校でALT(アシスタント・ランゲージ・ティーチャー=外国語指導助手)として働いていましたが、やはり津波に呑み込まれ、亡くなっています。はじめは日本に来るのがつらかったというご夫妻も、同様の思いをなさった方同士、石巻の皆さんとすっかり仲良しに。


福島では、南相馬。ご自宅の敷地が、浪江町との境界線上にある牧牛家の方。

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国の殺処分の指示に抵抗し、牛を育て続けています。どうも、震災の翌年公開の園子温監督映画「希望の国」で、故・夏八木勲さんが演じられた主人公は、この方もモデルの一人なのかな、と思われました。当方、一度、この牧場の前を通りました


釜石や石巻には光太郎の足跡も残っていますし、石巻に隣接する女川町では、毎年、女川光太郎祭が開催されており、他人事とは思えませんでした。


ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし又製作する者は殆ど毎日新らしく蘇ります。「皮を脱がない蛇は死ぬ」とニイチエの申した通り、毎日がいつも新しい毎日であります為、この長い年月が更に古い気を起こさせません。

散文「故成瀬校長の胸像に就て一言」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

大正8年(1919)に、智恵子の母校・日本女子大学校に依頼された、同校創業者の成瀬仁蔵胸像が、なかなか完成しないことへの釈明の文章から。その長い間にも、自分は進化し続けているので、待ってほしい、という趣旨です。結局、像の完成は昭和8年(1933)でした。

「一陽来復 Life Goes On」に出演された震災被災者の皆さんも、意味は違えど、「毎日新らしく蘇り」、「毎日がいつも新しい毎日であり」、一歩一歩進んでこられたのでしょう。その歩みを応援し続けたいと思います。

光太郎と交流があった北原白秋を主人公とする来春公開の映画「この道」のノベライズです。光太郎も登場します。ちょい役ですが(笑)。 

この道

2018/12/03 大石直紀著 小学館 定価1700円+税

童謡誕生100年に制作された映画『この道』の脚本から生まれたオリジナル小説。稀代の詩人・北原白秋と天才音楽家・山田耕筰の交流を通して人間味溢れる表現者たちの人生を描く。さらに映画の原点となった長編小説『ここ過ぎて 白秋と三人の妻』の著者である瀬戸内寂聴と北原白秋を演じた大森南朋、山田耕筰を演じたAKIRA、瀬戸内寂聴の秘書・瀬尾まなほによる『この道』スペシャル座談会、瀬戸内寂聴と主題歌を歌うEXILE ATSUSHIとAKIRAのスペシャル鼎談も収録。EXILE ATSUSHIが歌う主題歌「この道」CD付き。001

目次
プロローグ
第一章 三人の妻
 俊子(としこ) / 章子(あやこ) / 菊子(きくこ)
第二章 童謡の創作
 山田耕筰との出会い / 軍靴(ぐんか)の足音
エピローグ
「この道」スペシャル座談会
  瀬戸内寂聴 大森南朋 AKIRA 
瀬尾まなほ
「この道」スペシャル鼎談
  瀬戸内寂聴
ATSUSHI AKIRA


映画は未公開ですが、おそらくほぼ小説版の内容どおりだろうと思われます。この際ですから映画版もご紹介します。

この道

公 開 : 2019年1月11日(金) 全国ロードショー
上 映 : TOHOシネマズ日比谷ほか
出 演 : 大森南朋(北原白秋)  EXILE AKIRA(山田耕筰)  貫地谷しほり(北原菊子) 
      松本若菜(北原俊子)
 柳沢慎吾(鈴木三重吉) 羽田美智子(与謝野晶子)
      松重豊(与謝野寛) ほか
監 督 : 佐々部清
脚 本 : 坂口理子
音 楽 : 和田薫
配 給 : HIGH BROW CINEMA

 自由奔放な天才詩人・北原白秋と、西洋音楽を日本に導入した秀才音楽家・山田耕筰。この二人の友情から日本の「歌」が生まれた。もし彼らが居なかったら、日本の音楽シーンは全く違っていたかもしれない。童謡誕生100年の今年、白秋の波乱に満ちた半生を、耕筰との友情とともに、笑いと涙で描き出す映画『この道』。今、日本歌謡誕生の瞬間に立ち会うことができる。
 日本の子供たちの心を表す新しい童話や童謡を作りだそうと、文学者・鈴木三重吉は「赤い鳥」を1918年に創刊した。童謡もこの児童文芸誌の誕生とともに生まれたことになる。白秋と耕筰もここを舞台に名曲「からたちの花」や「この道」などを発表した。それまで、日本の子どもたちの歌は、各地に伝承されてきた「わらべ歌」か、ドイツから入ったメロディーに日本語の歌詞を乗せた「ドイツ童謡」しかなかった。日本人による日本人のための新しい歌が、白秋・耕筰コンビらによって生まれたのだ。
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監督が佐々部清氏と知り、驚きました。平成28年(2016)、光002太郎の『智恵子抄』もモチーフとして使われた「八重子のハミング」監督だったからです。ちなみに「八重子のハミング」で主演されていた升毅さんも、軍人の役でご出演されます。

先述の通り、光太郎はちょい役ですが、明治44年(1911)に開催された白秋詩集『思ひ出』出版記念会のシーンで登場します。そちら、史実では神田の都亭というレストランだったのですが、小説、映画では箱根の富士屋ホテルとなっていました。演じる役者さんは伊㟢充則さんという方だそうです。

与謝野夫妻が重要な登場人物で、寛を松重豊さん、晶子を羽田美智子さんが演じられます。羽田さん、平成27年(2015)、NHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」に出演され、その際には、いずれぜひ智恵子の役を演じてみたいとおっしゃっていましたが、姉貴分の晶子役です。美人すぎる晶子のような気がしますが(笑)。

それから、童謡歌手という設定で、安田祥子さん、由紀さおりさん姉妹もご出演。なかなか豪華なキャストです。

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小説版では終盤、戦争の激化と共に、白秋、晶子、そして山田耕筰が翼賛詩歌を作らざるを得なくなるという話になります。この辺り、光太郎の歩みと関連し、興味深く拝読しました。それぞれの人物が戦争協力に際し、仕方がなかったのだ、という描き方でした。

その点、光太郎は、荒廃した人心を救いたいという意図はあったものの、智恵子を亡くした心の空白を埋めるかのような積極的な戦争協力で、戦後は多くの若者を鼓舞して戦地に送ったことを恥じ、「自己流謫」――自分で自分を流罪に処する――に入ります。

そういえば明後日、12月8日(土)は太平洋戦争開戦の日ですね。毎年の事ですが、自称「愛国者」「憂国の士」が、ネット上で光太郎自身が戦後に全否定した翼賛詩を紹介してありがたがる憂鬱な日です。

小説版の特別付録、「スペシャル座談会」で、瀬戸内寂聴さんが発言なさっています。

それ(白秋や山田耕筰のような人であっても戦争に翻弄されてしまう)が戦争なの。それがあの時代なの。戦争はすべてのものを奪っていくのです。今、日本はいつまた戦争になるかわからない状態です。映画でも戦争前夜を描いていますが、それと似た嫌な空気になっている。戦争は絶対あっちゃいけません。私は明日死ぬ命ですが、若い人たちには未来がある。それなのに戦争になったら、真っ先に戦場に連れて行かれるのは若い人たちなのです。映画を作った人が、そこまで考えていたかわかりませんが、これは「反戦」の映画でもあるのです。だから、若い人にこそ観てほしい。

その通りですね。

明日も「この道」関連で。


【折々のことば・光太郎】

日本を出でしは二月の霙ふる頃なりしを、今は早や青葉に樹々は埋もれ候。此間に為したる事、感じたる事、考へたる事、小生にとりてはまことに尠からず、此頃やうやく静かに眼をあげて世の有様を見るを得る様になり申し候。殆ど此れ迄に経験なき感情の中に幾月かを費やし候。

散文「紐育より 一」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

与謝野夫妻の『明星』に掲載された、おそらく寛宛の書簡そのままの一節です。初めて海外に出、見るもの聞くものすべて新しい経験に、戸惑いつつも希望に胸ふくらませる若き光太郎の姿が見て取れます。

昨日ご紹介した、横浜の日枝神社さん例大祭同様、毎年ご紹介していますが、智恵子の故郷・福島二本松に隣接する本宮市でのイベントです。

本宮を舞台とし、東宝さんの配給で、1965(昭和40)年に自主制作された吉村公三郎監督、故・山岡久乃さん主演映画「こころの山脈」が上映されます。劇中で「智恵子抄」が一つのモチーフとして使われています。

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第6回カナリヤ映画祭

期 日 : 2018年9月15日(土)・16日(日)
会 場 : サンライズもとみや 福島県本宮市矢来39-1
料 金 : 無料
日 程 :
 9月15日(土) 
  11:00 本宮駅前集合 本宮映画劇場見学
  13:00 第2回GCL 国際ジュニア映画祭in 本宮
  14:10 美術科教育学会リサーチフォーラム
  15:40 「こころの山脈」 上映時間90分 
 9月16(日)
  9:40  開場
  10:25  「人生フルーツ」 2016年作品 伏原任建之監督 上映時間91分
  《昼休憩60分程》
  13:00 「ココロの欠片(カケラ)」 2018年作品 本宮高校製作 上映時間10分
  13:20 「秋祭り 私の視点」 2015年作品 ハンナ・ノイフェルト製作 上映時間20分
  14:05 「ケニアン~あなたでよかった~」 2015年作品 鈴木浩介監督 上映時間34分
  16:30 「しゃぼん玉」 2017年作品 東中児監督 上映時間108分
  18:30 終了

主催 : カナリヤ映画祭実行委員会 NPO法人本宮の映画文化を継承する会

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初日に「こころの山脈」の上映があり、さらにその日は「2018年度 美術科教育学会リサーチフォーラムin 福島」の発表を兼ねているようです。

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ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

私は概して利口な詩よりも真摯な詩形で深さを持つものを多く選んだやうである。詩の発足はさういふところから為べきだと思つたからである。いかなる場合にも真実を離れて詩は存在しない。幼稚はかまはない。狡知は詩を低くする。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

3年間務めた雑誌『新女苑』の投稿応募詩選者を退任する、その最終回の末尾部分です。

狡知は詩を低くする」――詩に限らず、そうですね。

一昨日、上野の東京藝術大学大学美術館さんで、「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」」展を拝見したあと、京浜東北線で大森に向かいました。

その前に、「西郷どん」展を拝見したので、銅像の「西郷どん」にもご挨拶。それから、「西郷どん」展を見る前でしたが、最近、ロダンがらみで横浜美術館さんで開催中の「ヌード NUDE  ―英国テート・コレクションより」や、DVD「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」を拝見したりしましたので、国立西洋美術館前の「地獄の門」も。

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特に「接吻」の部分を、しみじみと観て参りました。

さて、大森。東口から歩いてすぐの西友大森店さん5階の映画館・キネカ大森さんに参りました。こちらで一昨日、映画「一陽来復 Life Goes On」の上映が始まりました。もっとはやく他館で観るつもりでいましたが、何やかやで一昨日になってしまいました。

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東日本大震災の被災から立ち直ろうとする人々を描いたドキュメンタリーで、益田祐美子プロデューサー、尹美亜監督など、平成28年(2016)に封切られた同様の映画「サンマとカタール~女川つながる人々」とスタッフがかなり重複しています。いわば姉妹編といったところでしょうか。

「サンマとカタール」は、光太郎が昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文執筆のために訪れ、それを記念する文学碑が建てられ、そして「女川光太郎祭」を毎年開いて下さっている宮城県女川町が舞台でしたが、「一陽来復Life Goes On」は、岩手、宮城、福島で5ヶ所の被災地を取り上げています。すなわち、岩手県釜石市、宮城県の南三陸町と石巻市、福島県では浪江町、そして川内村。

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基本、これら5ヶ所の人々の、最近の様子のレポートです。

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このうち福島の川内村は、いわき出身の当会の祖・草野心平が生前にたびたび訪れ、名誉村民に指定して下さっています。そこで、夏には心平を偲ぶ「天山祭」、秋には「かえる忌」(昨年は中止となりましたが)が行われ、「かえる忌」では当方、心平と光太郎の交流について、講話をさせていただいたことものあります。

川内村で米作りを続けられている秋元さん夫妻、それから「かえる忌」を主催なさっている天山心平の会会長にして、川内村商工会長の井出茂氏がご出演。

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消防団の訓練に秋元さんの作った米を使ったおにぎりを差し入れる婦人会の皆さんの中にも、「かえる忌」で見知った顔がありました。それから遠藤川内村長もちらっとご登場。ちなみにナレーションは藤原紀香さんと山寺宏一さんですが、画面には一般の方しか出てきません。

他の地域の登場人物の皆さんも、それぞれの事情や想いをかかえつつ、ときにくじけそうになりながらも、前を向いて歩く姿が描かれていました。


上記動画で流れますが、テーマソングは松任谷由実さん作曲の「春よ、来い」。この映画のための井内竜次氏によるヴォカリーズアレンジバージョンです。ラストシーン、満開の桜のドローン撮影をバックにこれが流れ、思わずうるっと来てしまいました。号泣しているお客さんもいらっしゃいました(笑)。

終演後、大森での初日ということで、尹美亜監督と、出演なさっていた南三陸のホテル観洋さんの女将・阿部憲子さんによる舞台挨拶。舞台挨拶はこれが最後とのことでした。

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全国での上映、じつはほぼ終わってしまっているのですが、キネカ大森さんをはじめ、まだところどころで公開がありますし、「サンマとカタール」同様、テレビ放映やDVD化されることを期待しております。


【折々のことば・光太郎】

ミケランジエロは何をおいても美に生きた。彼ほど美の力を深く感じ、美が人間を救ふものだと信じてゐた者はあまりなかつたやうに思へる。

散文「ミケランジエロ ブオナローテイ」より
昭和25年(1950) 光太郎68歳

光太郎自身も、「美が人間を救う」と信じ、手探りを続けた生涯だったように思われます。

注文しておいた書籍が届きました。 

美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道


2018年2月26日  春日太一著  文藝春秋  定価1,750円+税

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2018年が女優生活60周年となる岩下志麻さんが自らが出演してきた数々の作品について詳細に語り下ろしました。岩下さんほど多彩なフィルモグラフィーを持つ女優はなかなかいません。60年代前半は巨匠・小津安二郎監督の「秋刀魚の味」に主演し、「古都」「雪国」など川端康成原作の作品では可憐な演技を見せて松竹の清純派看板女優として活躍。順風満帆の女優生活でしたが、67年、篠田正浩監督と当時タブーとされていた主演女優を続けながらの結婚に踏み切り、独立プロ「表現社」を立ち上げて新たな道を切り拓きました。「結婚したからダメになったと言われたくない」との思いを抱いて篠田監督と二人三脚で「心中天網島」「はなれ瞽女おりん」といった名作を生み出します。74年に出産から復帰すると松竹を退社、「鬼畜」「疑惑」といった松本清張原作・野村芳太郎監督の一連の作品で情念の女を演じ、新たな一面を披露します。80年代~90年代はなんといっても「極道の女たち」シリーズ。こうした作品についてはもちろん、「五瓣の椿」「卑弥呼」「悪霊島」「鬼龍院花子の生涯」「瀬戸内少年野球団」といった記憶に残る作品、さらに大河ドラマ「草燃える」「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」に関する秘話も満載です。今でこそ「大女優」のイメージが強いですが、岩下さんは、主演女優をつとめながらの結婚、出産、独立プロでの映画製作などタブーの打破、新しいことへの挑戦を続けてきた反骨の人です。また「普通の人の役はやりたくない」と言い、悪女、狂女でこそ輝きを発揮してきました。インタビュー・構成は「あかんやつら」「天才 勝新太郎」など映画愛溢れる作品でお馴染みの春日太一さん。岩下さんの言葉から、医者志望で女優に興味がなかった高校生が、徐々に女優という仕事に憑りつかれていく様子を浮かびあがらせます。女優の年代記であり、仕事論であり、同時に美の下に隠す狂気を語った濃厚な一冊です。

というわけで、映画史研究家の春日太一氏による、岩下さ002んへのインタビューで構成されている書籍です。インタビューは毎回2時間、全11回。1年間にわたって行われたそうです。

岩下さんがご出演なさった50本ほどの映画やテレビドラマについて、それぞれの思い出などが語られ、岩下さんの来し方がまとめられています。

その中で、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(中村登監督作品)についても語られています。

それによれば、当時、川端康成原作の「古都」「雪国」、有吉佐和子原作の「紀ノ川」など、いわゆる「文芸映画」に出演されていた岩下さんから、ぜひ智恵子を演じたいと申し出て実現したとのこと。光太郎役は故・丹波哲郎さんでした。

また、岩下さんは、役作りに懸命に取り組むために研鑽を積まれるそうで、「はなれ瞽女おりん」の際には、本物の瞽女さんに取材したり、盲学校の見学に行かれたりしたとのことですし、「智恵子抄」の際には、精神科病院にも行かれたそうです。

当方、「智恵子抄」は一度拝見しましたが、岩下さんの鬼気迫る演技の背景には、そういうことがあったのかと思い当たりました。

岩下さん、その後も「桜の森の満開の下」、「卑弥呼」などで魔性の美女を演じられたり、「鬼畜」や「婉という女」などでも心の闇を抱えた女性を演じられたりしています。具体的な記述はありませんでしたが、そうした役柄の原点に「智恵子抄」があるような気もしました。そこで、本書の題名が「美しく、狂おしく」なのだなと納得いたしました。

本書以外にも、岩下さん、昭和63年(1988)刊行の雑誌『彷書月刊』第4巻第10号「特集 高村智恵子」や、平成23年(2011)の『朝日新聞』さん福島版の連載「「ほんとの空」を探して」でも「智恵子抄」に言及なさっています。思い入れの強い作品の一つ、ということなのでしょう。本書も、200本ほどもある出演作の中から50本ほどを特にセレクトしてのインタビューでした。その中に「智恵子抄」が入っているわけです。

しかし、残念ながらDVD、ブルーレイ等、販売用のソフト化がされていません。これを機に、ぜひお願いしたいところです。

ちなみにこちらは「智恵子抄」のスチール写真。20種類あまりこつこつ集めましたが、そのうち1枚、岩下さんのサイン入りが含まれています。ニセモノでないことを祈ります(笑)。

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【折々のことば・光太郎】

それは最早金銅では出ない木彫独自の刻みの美であり、創りであり、温かい素材精神の生かし方であり、植物体質への清純な愛であり、湿潤な日本風土から生れる自然随順的帰依の深厚な心法である。

散文「技法について」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

日本の仏像の変遷を説いた評論の一節です。飛鳥、白鳳、天平を経て、徐々に大陸将来の金銅仏の影響を脱し、平安期には木彫仏の傑作が次々生まれたあたりを指しています。

仏像ではありませんが、光太郎が目指した木彫の在るべき姿も、こういうことなのでしょう。

昨日の『京都新聞』さんの一面コラムです。 

凡語:大学入試終盤へ

アニメの巨匠・押井守監督は大学受験で苦い経験を持つ。学生運動に目覚めた東京の高校時代、親の干渉から逃れるため、京都市立芸術大を受験する▼かつて得意だった絵のことを思い出し、付け焼き刃でアトリエに通ったが、実技試験で打ちのめされる。課題はニワトリのデッサン。他の受験生の絵に愕(がく)然とし、腹痛にも襲われて会場から担ぎ出された(「他力本願」)▼受験の思い出は人それぞれ、喜びより悔しさが勝る人も多かろう。そんな大学入試が大きく変わる。センター試験に代わり、2020年度から「大学入学共通テスト」が始まる▼思考力を重視し、国語と数学で記述式問題も加わるよう。昨秋の試行調査では高校生から戸惑いの声が漏れたとか。入試改革は改めて、高校・大学での学びの意味を問いかける▼昨日から国公立大の2次試験が始まり、私立大では合格発表も相次ぐ。数学者の故森毅さんはこの時期、大学進学が何の役にたつかと問われ、こう記す。「役にたたすのは本人のカイショの問題。このことについては入試に通ろうが落ちようが、考えねばならない」▼与えられた環境をどう生かすか。押井監督はその後、東京の大学で絵をあきらめ映画を作り始める。すべては自分次第。高村光太郎の詩ではないが、道は後ろにできる。


もうすぐ3月。そろそろ卒業、そして新生活スタートのシーズンです。この時期、光太郎の「道程」が、各種の式辞などでも広く使われますね。
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  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため


大正3年(1914)の作ですから、既に100年以上が経過していますが、とてもそうは思えない新鮮さをもって、心の琴線に触れる詩だと思います。

以前にもご紹介しましたが、この詩は元々、同じ年3月の雑誌『美の廃墟』に発表された段階では、102行もある長大なものでした。それが10月刊行の詩集『道程』に収録された際、現行の9行の形に改変されています。

原型はこちら。

 どこかに通じてゐる大道を僕は歩いているのぢやない
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 道は僕のふみしだいて来た足あとだ
 だから
 道の最端にいつでも僕は立つてゐるimg_1
 何といふ曲りくねり
 迷ひまよつた道だらう
 自堕落に消え滅びかけたあの道
 絶望に閉ぢ込められたあの道
 幼い苦悩にもみつぶされたあの道
 ふり返つてみると
 自分の道は戦慄に値ひする
 支離滅裂な
 又むざんな此の光景を見て
 誰がこれを
 生命(いのち)の道と信ずるだらう
 それだのに
 やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
 そして僕は此処まで来てしまつた
 このさんたんたる自分の道を見て
 僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
 あのやくざに見えた道の中から
 生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
 僕をひき廻しては眼をはぢき
 もう此処と思ふところで
 さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
 これこそ厳格な父の愛だ
 子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
 どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
 とうとう自分をつかまへたのだ
 恰度その時事態は一変した
 俄かに眼前にあるものは光りを放射し
 空も地面も沸く様に動き出した
 そのまに
 自然は微笑をのこして僕の手から004
 永遠の地平線へ姿をかくした
 そして其の気魄が宇宙に充ちみちた
 驚いてゐる僕の魂は
 いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
 僕は武者ぶるひをした
 僕は子供の使命を全身に感じた
 子供の使命!
 僕の肩は重くなっつた
 そして僕はもうたよる手が無くなつた
 無意識にたよつてゐた手が無くなつた
 ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
 自分の全身をなげうつのだ
 僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
 かなり長い間
 冷たい油の汗を流しながら
 一つところに立ちつくして居た
 僕は心を集めて父の胸にふれた
 すると
 僕の足はひとりでに動き出した
 不思議に僕は或る自憑の境を得た
 僕はどう行かうとも思はない
 どの道をとらうとも思はない
 僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
 その間に花が咲き水が流れてゐる
 石があり絶壁がある
 それがみないきいきとしてゐる
 僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
 しかし四方は気味の悪い程静かだ
 恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
 寂しさはつんぼのやうに苦しいものだ
 僕はその時又父にいのる
 父はその風景の間に僅ながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
 同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
 声をあげて祝福を伝へる
 そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
 僕の眼が開けるに従つて
 四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
 生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや匍ひまはつて居るのも見える
 彼等も僕も004
 大きな人類といふものの一部分だ
  しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
 人間は鮭の卵だ
 千万人の中で百人も残れば
 人類は永久に絶えやしない
 棄て腐らすのを見越して
 自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
 腐るものは腐れ
 自然に背いたものはみな腐る
 僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
 もつとこの風景に養はれ育(はぐく)まれて
 自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
 子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
 ああ
 人類の道程は遠い
 そして其の大道はない
 自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
 歩け、歩け
 どんなものが出て来ても乗り越して歩け
 この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 ああ、父よ
 僕を一人立ちにさせた父よ
 僕から目を離さないで守る事をせよ
 常に父の気魄を僕に充たせよ
 この遠い道程の為め

ネット上などで時折誤った記述を見かけるのですが、これは「原型」もしくは「発表形」であって、「全文」というわけではありません。また、「末尾の部分だけを切り取った」というのも誤りです。原型の「ああ、父よ」が「ああ、自然よ/父よ」と、「自然よ」が書き加えられた上で2行に分けられ、それに伴って次の行の「父よ」の前に「広大な」の一言が挿入されています。また、最終行も「為め」が仮名書きに変わり、さらにリフレインされています。

機会があれば、こちらの原型の方も広くご紹介いただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

あはれな片ぼかしや、つけ立て流や、思ひつき派は亡びるがいい。

散文「仏画賛」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

鎌倉時代の恵心僧都筆筆と003される「阿弥陀聖衆来迎図」を取り上げ、絶賛する文章の一節です。これは極彩色の大きな作品で、日本画特有の「幽玄」とか「枯淡」、「わびさび」、「余韻」といった感覚からは外れたもの。しかし、そういうものでなければ西洋の「最後の晩餐」や、ルオーの宗教画などに対抗できないのだ、という言です。

そして光太郎の矛先は、小手先の技巧(「片ぼかし」「つけ立て」など)を重視し、量感や力感に乏しい日本画に向かいます。「現代日本画の展観をローマのまん中でしてみたら、それに感心するのは現代日本画家だけであらう」と。

その論旨の是非については諸説ありましょうが、上記「道程」原型の「腐るものは腐れ/自然に背いたものはみな腐る」に通じているようにも思えます。

今年も3.11が近づいて参りました。そういうわけで、東日本大震災からの復興を描いたドキュメンタリー映画をご紹介いたします。 

一陽来復 Life Goes On

公  開  日 : 2018年3月3日(土)より 全国ロードショー
上映会場 : ヒューマントラストシネマ有楽町名古屋ミッドランドスクエアシネマ ほか
監  督 : 尹美亜 
制  作 : 平成プロジェクト
製  作 : 心の復興映画製作委員会
上映時間 : 81分

ナレーション  : 藤原紀香/山寺宏一

一陽来復の春、すべての人に知ってもらいたい鎮魂と再生の物語

季節は移り、景色も変わる。人々の暮らしも変わった。
6年間の日常の積み重ねから発せられる言葉と、明日に向けられたそれぞれの笑顔。
2011年3月11日の東日本大震災から6年あまり。震災によって甚大な被害を受けた宮城県石巻市・南三陸町、岩手県釜石市、福島県川内村・浪江町の各地では、多くの人が喪失感や葛藤を抱えながら、新しい一歩を踏み出している。

3人の子供を失った場所に、仲間のための集会スペースを作った夫婦。津波の後にもたらされた海の恵みに気づき、以前とは異なる養殖を始めたカキ漁師。震災を風化させないために語り部となったホテルマン。写真の中で生き続けるパパと、そろばんが大好きな5歳の少女。全村非難の村で田んぼを耕し続けた農家。電力会社との対話をあきらめない商工会会長。被爆した牛の世話を続ける牛飼い。
カメラは「復興」という一言では括ることのできない、一人ひとりの確かな歩みを自然豊かな風景とともに映し出す。

東北の各地で生まれている小さな希望と幸せ

本作品では、岩手・宮城・福島の被災3県で生きる市井の人々の姿を通じて東北、引いては日本の現在を包括的に捉えた初のドキュメンタリー。多岐にわたる登場人物やストーリーの根底には生命の賛歌が流れている。
監督は、NHKドキュメンタリー番組制作や『サンマとカタール 女川つながる人々』などのプロヂューサーを経て、本作が初監督となるユンミヤ。「東日本大震災の衝撃と悲しみは世界中の人々に伝播したが、その後生まれたたくさんの小さな希望や幸せを伝えたい」という一心で東北の各地に通い、取材を続けた。また、東北に縁が深く、継続的な復興支援活動で知られる藤原紀香と山寺宏一がナレーションを務める。

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映画『一陽来復 Life Goes On』予告篇【2018年3月3日(土)劇場公開】



映画『一陽来復 Life Goes On』オープニング映像(本編冒頭2分半)特別公開!



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光太郎智恵子とは関わりませんが、当会の祖・草野心平を名誉村民に認定していただき、心平を偲ぶ「かえる忌」を開催して下さっている福島県川内村も舞台の一つとなっています。

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そして、「かえる忌」主宰の、天山心平の会会長にして、川内村商工会長の井出茂氏がご出演。

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さらに、プロデューサーの益田祐美子氏は、同じく被災地の復興を描いた一昨年公開の映画「サンマとカタール」でもプロデューサーを務められていましたし、監督の尹美亜氏は制作プロデューサーでした。「サンマとカタール」は、光太郎が昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文執筆のために訪れ、それを記念する高村光太郎文学碑が建てられ、そして「女川光太郎祭」を毎年開いて下さっている宮城県女川町が舞台でした。


震災からもうすぐ7年。現地では、着実に復興への歩みは進んでいますが、まだまだ復興完了にはほど遠い状態です。しかし、記憶の風化との闘いという新たな問題も。

こうした現状を知るためにも、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

およそ本源に立つ者の直接性は人を仮借しない。一撃の下に人を捉へる。

散文「本面について」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「仮借」はこの場合、「許す、見逃す」の意。ここでは能面の逸品が持つおそろしいまでの造形性を例えての言です。

被災地に生き、復興への歩みを進める人々も「本源に立つ者」と言えるのではないでしょうか。

東京三鷹市から、映画の上映情報です。

CINEMA SPECIAL三回忌・原節子 『智恵子抄』

期   日 : 2018年2月17日(土)
会   場 : 三鷹市芸術文化センター星のホール 東京都三鷹市上連雀6-12-14
時   間 : 昼の部 13:15~14:53  夜の部 18:05~19:53
料   金 : 一般1,000円 学生800円 全席指定
申   込 : 0422-47-5122(三鷹市芸術文化センターチケットカウンター)

平成二十七年九月五日。
多くの人々の、女優・原節子への再会の願いを叶えること無く、一人の女性として、会田昌江は、静かに、その生涯を閉じる。享年、九十五歳。それはまるで、ただの一度も引退の言葉を口にすることなく、四十二歳の若さで銀幕を去った、あの時のように。静かに。
三回忌、原節子。もう一度、会いたい。

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というわけで、平成27年(2015)に亡くなった原節子さん追悼の作品上映が、三鷹市芸術文化センターさんで昨年から始まっています。


2/17(土)は、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」、それから同33年(1958)の同じく東宝映画「女であること」が上映されます。

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特に原さんが亡くなってから、全国あちこちで年に数回は上映がありますが、それにしてもそうそう多いわけではありません。

お近くの方、この機会にぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

芸術精神とは、国民各自の外界に存在するものでなくて、国民各自の中に在つて、毎日の目前的生活処理そのものを即刻即座に非目前的に自己みづから立ち上つて観じ味ふことの出来るやうにさせる精神力なのである。

散文「美の影響力」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いよいよ太平洋戦争開戦の年の2月に発表された散文です。「国民」という語の使用などにキナ臭さが感じられますね。どんな事物にも「美」を見いだそうとする姿勢そのものは、光太郎の昔からの持論ではありますが。

先週のこのブログでご紹介したばかりの、「現代の智恵子抄」と称された映画「八重子のハミング」にご出演なさっていた、女優の上月左知子さんの訃報が出ました。 

女優の上月左知子さん死去=87歳、NHK大河「春日局」など

 上月 左知子さん(こうづき・さちこ、本名小池みき子=こいけ・みきこ=女優)24日、心不全のため東京都江戸川区の自宅で死去、87歳。

 神戸市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男健朗(けんろう)氏。後日、お別れの会を開く予定。

 49年宝塚歌劇団入団。上月あきらの名で男役、左知子に改名後は娘役を演じた。退団後は映画「瀬戸内少年野球団」「八重子のハミング」、NHK大河ドラマ「春日局」などに出演した。
(時事通信 2018/01/30)

宝塚出身女優・上月左知子さん死去、87歳 大河や特撮でも活躍「前日まで元気…」

 女優の上月左知子さんが24日、心不全のため亡くなったことが30日、発表された。87歳だった。上月さんは宝塚時代は上月あきらとして活躍、57年に退団してからは上月左知子として活動していた。通夜、告別式は家族葬で執り行うとし、後日、お別れの会を開催予定。

 上月さんは1930年10月9日兵庫県生まれ。49年に宝塚歌劇団に36期生として入団、上月あきらの名前で活躍し、「南の哀愁」で初舞台を踏む。1957年に退団すると、上月左知子として活動し、映画「陽暉楼」「瀬戸内少年野球団」「空海」などに出演。テレビドラマもNHK大河「春日局」や、「花嫁のれん」の第1シリーズなどにも出演していた。また特撮ファンには「流星人間ゾーン」や、「ミラーマン」の母親役などでも知られていた。

 上月さんの長女で、元タカラジェンヌの女優・嘉月絵理は29日に更新したブログで「朝電話しても出ないので家まで行ってみたら、亡くなっていました。前日まで元気だったんですが…。でもピンピンコロリが理想だったので良かったのではないかと思います」と気丈に亡くなった時の様子を明かし「天使のような母の笑顔を思い出して冥福を祈って頂ければと思います」とつづっていた。
(デイリースポーツ 2018/01/30)


「八重子のハミング」では、升毅さん演じる主人公・石崎誠吾の母・みつ役でした。

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物語冒頭近く、誠吾が親友の榎木医師(梅沢富美男さん)から、がんの告知を受けたと告白されるシーン。
取り乱すことなく気丈に振る舞い、さらに息子を励まします。「あんたの運命と思って、あんたがしっかりせんと」と。

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そんな母親を見て、短歌が趣味の誠吾が一首。

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ところが誠吾の妻、八重子(高橋洋子さん)は、動揺を隠しきれず、さらに夫の看病の心労が極限に達し、それも原因となって、若年性アルツハイマーに……。

それを、がんの手術が成功して退院した誠吾が家族に打ち明けるシーン。ここでも上月さんは息子を叱咤激励します。

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「誠吾、あんたの命を助けるために、八重子さんが病気になったんよ」。言い換えれば、「今度はあんたが八重子さんの面倒をしっかり見なさい」ということでしょう。

といって、非協力的というわけではありません。夢幻界の住人となった八重子を温かく見守るシーン。

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直後のシーンでは、共に教員だった誠吾・八重子共通の昔の教え子(月影瞳さん)が、八重子の介護を申し出てくれます。息子夫婦のおこなってきた教育の成果が、思いがけないところで実を結んだと、感極まる上月さん。

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しかし、結局は、八重子の最期を看取ることに……。

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息子には凜として道義を説き、一方で徐々に壊れてゆく嫁を温かく見守る姑、実に難しい役どころですが、上月さん、みごとに演じられていました。

どうもこの作品がご遺作となられたようです。上月さん、最後にすばらしい役に巡り会えたことを喜ばれているのではないでしょうか。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

人面の中に彫刻を見、その内面から充溢する彫刻生の美を、その個人的特殊性の下に把握するのが彫刻家である。

散文「彫刻性について」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

シナリオの中に演じる人物の人間性を見、自分という個人的特殊性を通してそれを充溢させられるのが、上月さんのような名優というものでしょう。

昨年、全国公開された映画「八重子のハミング」のDVDが発売されまして、早速、購入いたしました。ブルーレイディスクも同時発売でした。 

八重子のハミング

2018年1月13日  発売・販売元 GAGA★  
定価 ブルーレイ 4,800円+税 DVD 3,800円+税

山口県のとあるホール。「やさしさの心って何?」と題された講演。妻・八重子の介護を通して経験したこと、感じたことを語る白髪の老人、石崎誠吾。「妻を介護したのは12年間です。その12年間は、ただただ妻が記憶をなくしていく時間やからちょっと辛かったですいねぇ。でもある時、こう思うたんです。妻は時間を掛けてゆっくりと僕に お別れをしよるんやと。やったら僕も、妻が記憶を無くしていくことを、しっかりと僕の思い出にしようかと…。」誠吾の口から、在りし日の妻・八重子との思い出が語られる。教員時代に巡り会い結婚した頃のこと、八重子の好きだった歌のこと、アルツハイマーを発症してからのこと…。かつて音楽の教師だった八重子は、徐々に記憶を無くしつつも、大好きな歌を口ずさめば、笑顔を取り戻すことも。家族の協力もあり、夫婦の思い出をしっかりと力強く歩んでいく誠吾。山口県・萩市を舞台に描く、夫婦の純愛と家族の愛情にあふれた12年の物語。

【CAST】  升毅/高橋洋子/梅沢富美男/中村優一/文音/安倍萌生/二宮慶多/井上順
【STAFF】 監督・脚本:佐々部清/原作:陽信孝「八重子のハミング」(小学館)

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原作は、小学館さんから平成14年(2002)にハードカバーで刊行され、その後、文庫化されています。「現代の智恵子抄」というコピーが用いられ、原作中にも、原作者の陽(みなみ)氏が、ご自身の介護体験を「智恵子抄」に重ねる記述がありました。

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映画の中でも、升毅さん演じる主人公が、アルツハイマーとなった妻・八重子が寝静まった後、龍星閣戦後版、赤い表紙の『智恵子抄』をひもとくシーンがありました。

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原作でも引用されている、「値ひがたき智恵子」(昭
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和12年=1937)が升さんのナレーションで流れ、それに合わせ、八重子のいろいろな姿がオーバーラップします。

   値ひがたき智恵子

 智恵子は見ないものを見、
 聞こえないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを為る。
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 智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

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ちなみに、劇場公開の際には無かった、特典映像では、テレビ
山口さん制作のメイキング的な番組も収録されています。そちらでは、実際の陽氏と在りし日の八重子さんの姿も。

さまざまな意味で、考えさせられる作品です。ぜひご購入下さい。



【折々のことば・光太郎】

美の無いところに文化は無い。

散文「美意識について」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

「簡にして要」の一言です。

昨日に引き続き、新刊情報です。 

文豪文士が愛した映画たち ─昭和の作家映画論コレクション

2018年1月11日 根本隆一郎編 筑摩書房(ちくま文庫) 定価950円+税

モンローを川端康成が語り ヒッチコックを江戸川乱歩が論じる シネマに魅せられ、熱く語った作家たち

谷崎、荷風、乱歩・・・映画に魅せられた昭和を代表する作家二十数名の映画に関する文章を編む。読めば映画が見たくなる極上シネマ・アンソロジー。

昭和を代表する作家が新聞や雑誌を中心に寄稿した映画に関する文章を集める懐かしく魅力的なシネマ・ガイド。“映画を見ていなくても楽しめる”オリジナル・アンソロジー。「映画黄金時代」の名作、傑作を中心に作品を選定。

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目次
第1章 アメリカ映画を読む
 福永武彦   「怒りの葡萄」とアメリカ的楽天主義    
 高見順     「陽のあたる場所」を見る              
 井上靖     ピクニックを観る                      
 柴田錬三郎 必死の逃亡者                          
 高見順     「チャップリンの独裁者」を見る        
 ◆ヒッチコックと乱歩
  江戸川乱歩 ヒチコック技法の集大成――見知らぬ乗客
  江戸川乱歩 ヒチコックの異色作――ダイヤルMを廻せ
  江戸川乱歩 恐怖の生む滑稽――ハリーの災難   
  江戸川乱歩 ヒッチコックのエロチック・ハラア                                  
第2章 ヨーロッパ映画を読む         
 林芙美子  「女だけの都」への所感             
 開高健   日本脱出の夢                       
 林芙美子  情婦マノンを観て                   
 伊藤整   映画チャタレイ夫人の恋人           
 三島由紀夫 ジャン・コクトオへの手紙――悲恋について 
 大岡昇平  “美女と野獣について”             
 池波正太郎 『ブルグ劇場』封切りのころ
 福永武彦  映画の限界と映画批評の限界         
 壇一雄   人間万歳=デ・シーカの眼           
 高見順   「恐怖の報酬」                     
 寺山修司  円環的な袋小路                     
 遠藤周作  あたらしい純粋映画 ――“5時から7時までのクレオ”
 吉行淳之介 心理のロマネスク ――ルネ・クレマンの「居酒屋」
 佐藤春夫  「ホフマン物語」を観る
 ◆オリンピック映画の傑作 
   高見順   映画の感動に就いて――オリンピア第一部
  高村光太郎 「美の祭典」
第3章 憧れの映画スタア/映画人
 ◆チャールズ・チャップリン
  藤本義一  ペーソスとペースト
  井上ひさし 無国籍語の意味
  大岡昇平  チャプリンの復活
 ◆ジャン・コクトオ
  林芙美子  コクトオ
  三島由紀夫 稽古場のコクトオ
 ◆マリリン・モンロー
  安部公房  モンローの逆説
  川端康成  大女優の異常
 ◆ルイ・ジュヴェ 
    岸田国士  ルイ・ジュヴェの魅力
 ◆ピーター・ローレ
  色川武大  故国喪失の個性――ピーター・ローレ
 ◆ジェームス・ディーン
  寺山修二  ぼくはジェームス・ディーンのことを思い出すのが好きだ
第4章 文豪文士と映画
 ◆「カリガリ博士」を巡って
  谷崎潤一郎 「カリガリ博士」を観る
  佐藤春夫  「カリガリ博士」
 ◆映画界を斬る
  柴田錬三郎 映画は「芸術」にあらず
  五味康祐  西方の音――映画「ドン・ジョバンニ」
  池波正太郎 映画人は専門家の物知らずになってはいないか?
 ◆映画を巡って
  川端康成  頻々たる文芸作品の映画化に就いての感想――映画的批評眼を
  阿川弘之  志賀さんと映画
  井上ひさし ある地方都市のハリー・ライム
  松本清張  スリラー映画
  獅子文六  映画に現れたユーモア
  今日出海  この映画と私――「戦場にかける橋」
第5章 文豪文士、映画を語る
  関千恵子  太宰治先生訪問記
  永井荷風  永井荷風先生 映画「ゾラ」の『女優ナナ』を語る
  司馬遼太郎 「映画革命」に関する対話
編者あとがき


最近はやりのアンソロジー系です。

光太郎の散文「美の祭典」(昭和15年=1940)が収録されています。巻末の出典一覧では、同年の『キネマ旬報』1940年最終特別号となっていました。同じ筑摩書房さんの『高村光太郎全集』では、アンケートとして「「美の祭典」を観る」の題名で、第20巻に掲載されています。そちらの解題では、初出は雑誌『科学知識』第20巻第12号(昭和15年=1940 12月1日発行)となっています。他に東郷青児、中川一政ら12名も回答しているとのこと。おそらくこれが『キネマ旬報』に転載されたのではないかと思われますが、逆もあるかも知れません。日本近代文学館さんの書誌情報では、該当の『キネマ旬報』も同じ日の発行日になっています。2冊をつきあわせて調べてみればわかりそうですが、『科学知識』の該当号は、当方のよく利用する日本近代文学館さん、国立国会図書館さん、神奈川近代文学館さんに所蔵がありません。

ところで、この文章、かなり以前に全文をこのブログでご紹介していました。「美の祭典」という映画が、昭和11年(1936)のベルリンオリンピックの記録映画で、このブログを始めた平成24年(2012)がロンドンオリンピックだったものですから、そのからみです。それから他の対談でも「美の祭典」の話題になり、それもご紹介しています。

光太郎、通常の映画もよく観ていました。今日ご紹介した『文豪文士が愛した映画たち』が、主に昭和期前半の作品を集めているのに対し、光太郎は既に大正期に映画評論をいくつか発表しています。純粋な映画雑誌としては大正8年(1919)の『活動旬報』では、「辞書を喰ふ女優」と題し、「奇跡の薔薇」に出演したアラ・ナジモヴァを紹介していますし、翌年の『活動倶楽部』には「外国映画と思想の輸入」(目次では「外国活動写真と思想の輸入」)と題する長文を寄せています。こちらでは、メアリー・ガーデン、ジョーゼット・ルブランなどが紹介されています。ちなみにどちらも『高村光太郎全集』未収録ですが、当会顧問の北川太一先生と当方で共編した厚冊の『光太郎遺珠』(平成19年=2007)に収めてあります。

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少し前にご紹介した「七つの芸術」(昭和7年=1932)という散文では、彫刻や絵画とともに、映画も「七つ」に入れて論じていました。こういうことを考え出すと、「光太郎と映画」という論文が一本書けそうです(笑)。

さて、『文豪文士が愛した映画たち』、ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

彫刻の根柢を成す者は触覚感であるが、これは物に立体的に触れてゆく感覚で、直接の接触の外、眼で触れる視覚の触覚感ともいふべき彫刻独自の領域がある。
散文「彫刻」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

この伝で行けば、光太郎、映画なども「触覚的に」観ていたのでしょうか。世界初4Dの映画鑑賞ですね(笑)。

11/26(日)、都内を歩き回っておりましたレポートの最終回です。

今回、時系列に逆らって書いておりまして、この日、最初に訪れたのが新宿三丁目駅近くの映画館、新宿ピカデリーさんでした。こちらでは、フランス映画「ロダン カミーユと永遠のアトリエ」が公開中です。朝8時20分からの回を拝見しました。

朝っぱらから見るには重たい内容でしたが(笑)、実に感動いたしました。下記は公式サイトから。

1880年パリ。彫刻家オーギュスト・ロダンは40歳にしてようやく国から注文を受ける。そのとき制作したのが、後に《接吻》や《考える人》と並び彼の代表作となる《地獄の門》である。その頃、内妻ローズと暮らしていたオーギュストは、弟子入りを願う若いカミーユ・クローデルと出会う。
才能溢れるカミーユに魅せられた彼は、すぐに彼女を自分の助手とし、そして愛人とした。その後10年に渡って、二人は情熱的に愛し合い、お互いを尊敬しつつも複雑な関係が続く。二人の関係が破局を迎えると、ロダンは創作活動にのめり込んでいく。感覚的欲望を呼び起こす彼の作品には賛否両論が巻き起こり…。

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ロダン役のヴァンサン・ランドン、カミーユを演じたイジア・イジュラン、風貌もそっくりでした。人物像としては万人の持つ二人のイメージを、さらに誇張して描いていたように思われます。作品制作のためには自分自身の内的衝動に正直に随い、結果、いろいろなことを犠牲にしてはばからないという点では似たもの同士。世の中の常識や、倫理観といったものも、二人の前では意味を失うといった描写が繰り返されました。

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その結果、平坦な道のりではないにせよ、巨匠としてのしあがっていくロダン。一方のカミーユは、「ロダンの弟子」というフィルターを通してしか評価されず、愛人という曖昧な立場にも苦しみます……。

また、カミーユと知り合う前からロダンを支えていた内妻(最晩年に入籍)のローズ・ブーレ。かなり嫉妬深い女として描かれていました。ここは当方の持っていたイメージとは少し異なりました。

ちなみに光太郎は滞仏中、ロダン本人は展覧会の会場で見かけたくらいで、直接会話はしていません。ただ、親友の荻原守衛が、書簡の中で自分の親友としてロダンに紹介してはいます。さらに2回ほど、ロダンのアトリエを訪れましたが、ともにロダンは不在。代わりに応対したローズに、ロダンの厖大なデッサンを見せられ、圧倒されたとのことです。

008閑話休題。結果、カミーユは精神崩壊を来たし、実に30年の入院(かなり劣悪な環境だったそうです)を経て、恢復することなく、1943年に歿しました。その悲惨なカミーユの姿は、映画では描かれませんでした。象徴的に使われていたのが、カミーユの彫刻「分別盛り」の一部、「嘆願する女」。物語の終盤、ロダンが画廊でこれを見るシーンで、二人の関係の修復不可能な破綻、その後のカミーユの運命が暗示されました。心憎い演出でした。

光太郎は終生ロダンを敬愛してやみませんでしたが、実は、どちらかというとその傾倒は若い頃。壮年期以降は、かえってロダン以前のミケランジェロに言及することが多くなっていった感があります。下司(げす)の勘ぐりかも知れませんが、智恵子の悲劇がカミーユのそれとリンクする感覚があったのかもしれません。

しかし、光太郎とロダンの決定的な違いは、ロダンはカミーユ以外にも片っ端から若いモデル女性と関係を持ち、自分の肥やしとしていたところ。このあたりのエロティックな描写も、朝っぱらから見るには適当ではなかったように思いました(笑)。眼福ではありましたが(笑)。すると、ロダンが人でなし、極悪人、獣のような設定かというとそうではなく(フェミニズム論者には許せないかも知れませんが)、芸術の創造のためには必要だったという描き方でした。

その他、映画では、それぞれちょい役的な扱いでしたが、光太郎が訳した『ロダンの言葉』の原典の一部を書いたオクターヴ・ミルボー、カミーユと同じくロダンの弟子で、動物彫刻で名を馳せたフランソワ・ポンポン(光太郎の評論にも名が出ています)、それとは知らず光太郎と同じ建物に住んでいた、ロダンの秘書的なこともやった詩人のリルケ、さらにはモネやセザンヌ(智恵子が最も敬愛していました)なども登場し、当方、そのたび「おお」と言っていました(笑)。

そして光太郎が書き下ろした評伝『ロダン』(昭和2年=1927)の中で特に一章を割き、実際に岐阜まで会いに行ってロダンのモデルを務めた話を聞いた日本人女優・花子も、最後に登場しました。また、日本関連では、物語のラストシーンが、箱根彫刻の森美術館でのロケ。ロダン晩年の大作にして、物語の後半で大きくクローズアップされた「バルザック記念像」が展示されているためです。日本人の子供たちが「バルザック記念像」を使って「だるまさんがころんだ」で遊んでいました。100年経った遠い極東の島国でも、ロダン作品が愛されているという意図でしょうか。または、日本公開を前提とし、日本企業からのスポンサー料を見こしての大人の事情でしょうか(笑)。

「バルザック記念像」以外にも、「地獄の門」、「考える人」、「接吻」、「影」、「青銅時代」、「カレーの市民」などのロダン作品、それからカミーユの「ワルツ」なども、人間に劣らず存在感を示す「登場人物」的に続々登場。その意味でも大満足でした。

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美術史に詳しくない方でも、人間ドラマとして鑑賞できるすばらしい作品です。公開館が少ないのが残念ですが、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

しかし、君の様に全(まる)で違つた職業にゐながら美術の解つた人等が殖えて来なくては可けないのさ。小説の読者が小説家に限り、詩歌の読者が詩歌の作者に限り、絵画の真の鑑賞者がパレツトを持つた人に限つてゐるやうでは実に心細い次第なんだ。料理を味はふのが料理番ばかりぢや困るからね。
散文「銀行家と画家との問答」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

およそ100年前のこの警句から、この国の事態は好転したのかどうか……。たしかに人気の展覧会には長蛇の列が出来たりはしますが、相変わらず「腹の足しにもならん」という考え方も根強いように思われます。

一昨年に亡くなった、原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」の上映があります。今年亡くなった、土屋嘉男さんもご出演なさっていました。

市民名画劇場 智恵子抄

期   日 : 2017年10月12日(木)
時   間 : 午前10時から、午後1時30分から(開場は30分前)
会   場 : 豊川市ジオスペース館 愛知県豊川市諏訪1丁目63番地
定   員 : 100名(先着順)
申   込 : 当日会場まで
料   金 : 無料

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豊川市図書館さんの主催のようです。

同館では、定期的にこうした名画系の上映をなさっているとのこと。

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地元の方にとっては、ありがたいでしょうね。こうした動きがもっと各自治体に広まってほしいものです。

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【折々のことば・光太郎】

おれは草かげの湧き水で シヤベルやマンガを洗ひながら 「セルボーンの博物誌」をおもひ出す。 二百年も昔のイギリスの片田舎で 一人の牧師が書きとめた あのヨタカがそこにゐる。

詩「ヨタカ」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

ヨタカはその名の通り、夜行性の鳥。宮沢賢治も童話「よだかの星」で取り上げていますね。

『セルボーンの博物誌』は、18世紀後半、イギリスの片田舎セルボーンに住んでいた牧師、ギルバート・ホワイトの著書。その分野の古典として、今日でも読み継がれています。

「マンガ」は「馬鍬」ともいい、基本的には牛馬に引かせて田の代掻きなどを行う農機具ですが、人間用の「備中鍬」を「マンガ」と呼ぶ場合もあり、三畝の畑しかなかった光太郎が牛馬を使うはずもなく、おそらく後者でしょう。

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左が「馬鍬」、右が「備中鍬」です。

智恵子の故郷・二本松に隣接する福島県本宮市で、平成25年(2013)から「カナリヤ映画祭」というイベントが開かれています。主催はNPO法人「本宮の映画文化を継承する会」さん。本宮は、東宝さんの配給で、1965(昭和40)年に自主制作された映画「こころの山脈」(吉村公三郎監督、故・山岡久乃さん主演)の舞台となった街。それを記念してのイベントです。

元々、本宮では地元の映画館の協力で、小学生が授業の一環として映画を鑑賞、感想文や感想画を書くといった取り組みがなされていました。これを「本宮映画教室」と称したそうです。戴いた資料によれば、昭和32年(1957)から同39年(1964)までに、実に173本もの映画が「本宮映画教室」で上映されていました。しかし、子供たちに安心して見せられる良質な映画が少なくなり、それならば自分たちで作ってしまえというわけで、カンパで資金を集め作られたのが「こころの山脈」です。

安達太良山の麓、という土地柄、「智恵子抄」が一つのモチーフとして取り上げられています。ただ、興行的にはあまり成功したとは言えず、忘れられた名作といった感じです。

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そこで、地元の本宮で、この「こころの山脈」を見直そうと始まったのが、「カナリヤ映画祭」。2日間に分け「こころの山脈」他、良質な映画を何と無料で上映ということで、すばらしい取り組みです。当方、一昨年の第3回にお邪魔いたしまして、初めて「こころの山脈」を拝見しました。その際のレポートがこちら

ところが、昨年は「こころの山脈」の上映がなく、このブログではご紹介しませんでした。その後、NPO法人「本宮の映画文化を継承する会」さんの方にお会いしてうかがったところ、今後「こころの山脈」は隔年で上映という方向、とおっしゃっていました。

というわけで、今年の第5回では、「こころの山脈」の上映があります。

第5回カナリヤ映画祭

期 日 : 2017年9月16日(土)・17日(日)
会 場 : サンライズもとみや 福島県本宮市矢来39-1
日 程 :
 9月16日(土) 本宮方式映画教室の復活
   13:30 本宮駅前集合 映画の町ツアー開始
                         本宮映画劇場を見学後映画撮影場所などを訪ねる
   14:30 サンライズもとみや着  映画の町ツアー終了
   14:30 本宮方式映画教室開場 児童向け短編映画上映
        「きたかぜとたいよう」 「ザ ゴッサマー」 「五井先生と太郎」
        「眠れない夜の月」 「MARCH」
  16:30 「こころの山脈」 
 9月17日(日)
  9:20  開場
  9:40  開演
  9:50  「この世界の片隅に」 2016年作品 片渕須直監督 上映時間128分 託児所開設
  《昼休憩45分程》
  13:00 「花韮(ハナニラ)」 2017年作品 本宮高校製作 上映時間20分
  13:20 「MARCH」 2017年作品 MARCH製作委員会製作 上映時間35分
  14:15 「紬織」 2015年作品 文化庁製作 上映時間34分
  15:20 「湯を沸かすほどの熱い愛」 2016年作品 中野量太監督 上映時間125分
  17:50 「この世界の片隅に」 2016年作品 片渕須直監督 上映時間128分
  20:00 終了

主催 : カナリヤ映画祭実行委員会 NPO法人本宮の映画文化を継承する会

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「こころの山脈」以外にも、すばらしい作品が上映されます。

あまちゃん」の能年玲奈改めのんさんが声優を務め、話題となった「この世界の片隅に」。



東日本大震災の復興支援を目的とし、Jリーグが後援に入っている「MARCH」。原発事故で甚大な被害をうけた南相馬市のマーチングバンド「Seeds+」の奮闘を描いています。


宮沢りえさん主演の「湯を沸かすほどの熱い愛」。「とと姉ちゃん」に出演されていた杉咲花さんや、映画「FOUJITA」主演のオダギリジョーさんもご出演。


これらが無料で見られるというのですから、すばらしい。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

フランスがフランスを超えて存在する この底なしの世界の都の一隅にゐて、 私は時に国籍を忘れた。 故郷は遠く小さくけちくさく、 うるさい田舎のやうだつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「パリ」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

明治41年(1908)から翌年にかけてのパリ生活を題材にしています。真の芸術の有りように開眼すると同時に、その方面での後進国であった日本との比べようもない落差を感じ、父・光雲をピラミッドの頂点とする日本彫刻界との訣別が決意されました。

今日の『朝日新聞』さん朝刊に、俳優の土屋嘉男さんの訃報が出ていました。

土屋嘉男さん死去 「七人の侍」など出演

 「七人の侍」など多くの黒澤映画で脇を固めた俳優の土屋嘉男(つちや・よしお)さんが、2月8日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。89歳だった。
 俳優座養成所を経て東宝入社。54年、黒澤明監督の「七人の侍」で、愛妻を野武士に奪われて苦しむ若い農民の利吉を演じて注目を集めた。以降、55年の「生きものの記録」から65年の「赤ひげ」まで、黒澤映画の脇役として欠かせない存在となった。
 東宝では、ほかに「ゴジラの逆襲」「ガス人間第一号」などの特撮もの、「黒い画集 ある遭難」「乱れ雲」など、幅広い作品に出演した。

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土屋さん、若き日にやはり東宝の、原節子さん主演「智恵子抄」(昭和32年=1957)にも出演なさっていました。光太郎の若い友人である詩人の「小山」という役で、モデルは尾崎喜八と草野心平でした。

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小山の登場シーンは2回(シナリオではもう1回ありましたが、映画本編では2回でした)。

まずは、大正末から昭和初め頃という設定で、森啓子さん(のち森今日子と改名)演じる妻と、生まれたばかりの女の子を連れて、光太郎智恵子の暮らすアトリエを訪ねるシーン。下の画像はスチール写真です。

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実際の映画から。

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そろそろ精神的に不安定になりつつあった、原節子さん演じる智恵子が、赤ちゃんをまるで引ったくるように自室に連れて行ってしまうという流れでした。

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尾崎喜八がよく妻子(妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘である実子)を連れて光太郎アトリエを訪問しており、お嬢さんの榮子さんは昨年までご健在で、智恵子に抱っこされた思い出をうかがったことがあります。映画ではそのあたりを脚色したようです。

それから、草野心平とのエピソードも使われていました。智恵子がゼームス坂病院に入院したあと、という設定で、山村聰さん演じる光太郎が「小山」を場末の酒場に呼び出し、くだをまくシーンです。

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どういった事情があったのか、土屋さん、訃報は今日の新聞に載っていましたが、亡くなったのは2月だそうです。ちなみに昨日は、原節子さんのご命日で、今年は三回忌となり、不思議なご縁を感じます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

いつのことだか忘れたが、 私と話すつもりで来た啄木も、 彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに すつかりあきらめて帰つていつた。 日露戦争の勝敗よりも ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「彫刻一途」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「ロヂン」は「ロダン(Rodin)」の英語風の読み方です。東京美術学校に入学後、ロダンの名もまだ日本では知られていなかった頃、海外の雑誌で作品の写真を見て、いち早くその新しい美に打たれた光太郎。社会主義にもかぶれていた啄木が訪ねてきても、話が噛み合わなかったということです。

忠君愛国の精神で育て上げられてきた光太郎、遅まきながらの自我の目覚めは、ロダンとともにやってきました。

若年性アルツハイマーを発症した夫人(八重子さん)の介護を描き、平成14年(2002)に出版されて「現代の智恵子抄」と称された陽(みなみ)信孝氏著『八重子のハミング』。昨秋、映画化され、物語の舞台の山口県での先行公開を経て、先月、全国で封切られました。

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生活圏ではありませんが、車で1時間ほどの佐倉市で上映されているので、そちらで拝見して参りました。考えさせられる映画でした。

八重子さん役の高橋洋子さんの鬼気迫る演技、とまどいつつも八重子さんを支える、陽氏をモデルとした誠吾役の升毅さんはじめ、周囲の人々の役作りなどなど、再現でなくドキュメントと見まごうほどでした。

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徐々に認知機能を失い、お嬢さんの結婚披露宴だというのに、状況が把握できず、しかし美しい花束には素直に喜ぶ八重子さん。

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お孫さんよりも幼くなってしまっている八重子さん。そしてかいがいしく食事の世話をするお孫さん。

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実際の八重子さんが好きだったという、萩市笠山の椿の群生林。

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そのシーンの画像が手に入れられませんでしたが、八重子さんが寝静まった深更、誠吾が龍星閣戦後版、赤い表紙の『智恵子抄』を手に取る場面がありました。そこで誠吾の目にとまっていたのは、「値ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)。

   値ひがたき智恵子000

智恵子は見ないものを見、
聞こえないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為る。

智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。001

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。


統合失調症の智恵子と、若年性アルツハイマーの八重子さん、それぞれ進行してからの病状は異なりますが、初期の頃はたしかにかぶります。002

しかし、光太郎がある意味「智恵子はもう人間界の切符を持たない」と切り捨てたのに対し、誠吾(陽氏)の場合、最期まで奥様の尊厳を認め、護ろうとしたことに感動しました。

娘さんが「お母さん、しっかりしてよ!」と、ぐだぐだになってしまった八重子さんにくってかかると、誠吾は娘さんを平手打ちにし、「俺を責めるのはいい。だが、母さんを侮辱するのは許さん」と、毅然として言い放つシーンがありました。

時代や家族構成など、いろいろな差異はあり003ますが、こういう点で光太郎は智恵子や周囲に対し、どうに対応していたのだろうかと、改めて思いました。

もっとも、自分がその立場になったら、ましてや、そうされる立場に……というのは、想像できません……。それではいけないのでしょうが……。


帰宅後、購入してきた公式パンフレットで、佐々部清監督の書かれた部分読み、さらに感動させられました。

当初はビッグネームの監督と脚本家で大手映画会社が映画化に向けて動いていたものの、撤退。それなら俺がやろうと、出来上がった脚本を持って他の会社やテレビ局の映画部などを回ったものの「地味すぎる」「中高年が主役では若い人が観に来ない」などの理由で相手にされず……。しかし、地元自治体、企業などを説き伏せて制作費を捻出。通常と比べれば遙かに低予算だったものの、心意気に賛同した役者さんやスタッフさんが手弁当に近い状態で集まってくれ(特に榎木医師役の梅沢富美男さんはご自分から出させてくれ、とおっしゃって来たそうです)、実現したとのこと。

「これって「本宮方式」じゃん」と思いました。「本宮方式」――昭和40年(1965)、吉村公三郎監督作品「こころの山脈」で採用された、資金集めやエキストラなどで地域が撮影に協力する「フィルムコミッション」の先駆けといわれたやり方です。この「こころの山脈」、安達太良山の麓、福島県本宮町(現・本宮市)を舞台とし、やはり劇中に「智恵子抄」が使われました。


奇縁を感じました。


さて、「八重子のハミング」、上映館はこちら。ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

重いものをみんな棄てると 風のやうに歩けさうです。

詩「人生」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

高橋洋子さん演じる、症状がかなり進行してしまってからの八重子さんの姿をスクリーンで観て、このフレーズを実感しました。

といっても、棄ててしまったそれまでの記憶、歩んできた道が無意味だったというわけではありませんが……。

ところで、この「人生」という詩、従来は光太郎詩の中ではほとんど注目されていなかった小品ですが、なぜかこのフレーズが数年前からネット上などで、光太郎の名言としてよく取り上げられています。

それはそれでありがたいのですが、表記を変えないでいただきたいと感じています。歴史的仮名遣いを現代仮名遣いにするのはともかく、「棄」の字を「捨」としたり、ひらがなにしたり……。この点は、他の光太郎作品を取りあげて下さっている朗読サイト的なHPなどでも多く見られます。ひどいものになると、まるまる1行抜けているとか……。

引用には出来るだけ注意を払い、勝手に改変しないというのがルールです。自分のPCの変換ルールと原文との相違から、意外とやっちまいがちで、当方も気づかずにやらかしている場合があるかも知れませんが……。

先日、下記書籍を購入、拝読いたしました。

八重子のハミング

2005/7/1 陽信孝著 小学館(小学館文庫) 定価476円+税

自らはがんを発病、4度の手術から生還し、アルツハイマーの妻を11年間介護した夫。思いもよらなかった夫婦同時発病、これは4000日余りにも及んだ老老介護の軌跡である。迫り来る死の影に怯むことなく闘病、介護を続けながらも夫婦愛を浮き彫りにしている。彼が詠んだ約80首の短歌と共に綴り、現代の「智恵子抄」とも評された話題の単行本、待望の文庫化。単行本発売数か月後に他界した、愛妻の想い出を偲んで文庫用に加筆。

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元版は、同じ小学館さんから平成14年(2002)にハードカバーで刊行されています。平成17年(2005)に文庫化、当方が過日購入したのは昨年暮れの第8刷でした。以前から「現代の智恵子抄」というコピーが用いられていたので、その存在は存じていましたが、これまで読んだことがありませんでした。

後述しますが、昨秋映画化されてまた脚光を浴び、最近は上記画像の帯がつけられて、一般書店で平積みになっています。そこで購入した次第です。

著者の陽(みなみ)氏は、公立の小中学校の校長先生や、山口県萩市の教育長を務められた方で、神社の神主さんも兼ねられています。52歳だった平成3年(1991)に胃ガンの宣告を受け、胃の摘出手術。陽氏はその際の精神的ショックが引き金だったろうと推定されていますが、2歳年上の奥様、八重子さんが、その頃から若年性アルツハイマー病を発症しました。以後、ご自身の闘病と並行しながら奥様の介護を続けられた、11年間の記録です。

題名の「ハミング」は、ほとんどの記憶を失ってしまった奥様が、なぜかさまざまな音楽の旋律だけは忘れずにいて、よくハミングで歌われていたところからつけられています。奥様は元々音楽教師だったということもあるのでしょうが、音楽というもののもつ不思議な力も考えさせられました。

徐々に進行してゆく奥様の病状、試行錯誤しながらそれに対処してゆく様子が克明に記録され、興味深く拝読しました。残された断片的な記録と照合すると、智恵子の病状とも一致する部分がかなりあり、そのあたりが「現代の智恵子抄」と評されるゆえんでしょう。陽氏も光太郎の詩「値ひがたき智恵子」や「千鳥と遊ぶ智恵子」を引いて、自らの境遇に重ねている部分がありました。また、各章のはじめに、陽氏が読まれた短歌が配されており、「三十一文字のラブレター」というコピーも使われています。この点も「現代の智恵子抄」とされるゆえんでしょう。

ただ、アルツハイマーの場合、進行すると身体各部を自分の意志で自由に動かすことも出来なくなっていくそうで、その点は、発症後しばらくたってから「紙絵」制作を始めた智恵子とは異なっています。やはりあくまで智恵子は若年性アルツハイマーではなく、統合失調症だったのでしょう。珍しい症例だそうですが。

それにしても、驚異だったのは、陽氏が約11年もの長きにわたり、奥様を自宅介護で看取られたことです。時代が違うと言えばそれまでかも知れませんが、この点は光太郎と大きく異なります。

智恵子の統合失調症が顕在化したのは昭和6年(1931)夏と言われています(それ以前のかなり早い段階から、異様な行動やつじつまの合わない発言が見られていたことが、深尾須磨子の回想に記されていますが)。翌年には睡眠薬を大量に摂取しての自殺未遂。さらにその翌年(同8年=1933)には、光太郎が各地の温泉巡りに連れ歩きますが、帰ってきたときにはさらに病状が進行していました。同9年(1934)には、九十九里浜に転居していた智恵子の母・センと、妹・セツ家族の元に智恵子を預けます。その年の暮れには再び駒込林町のアトリエに連れ帰り(セツの幼い子供への配慮だそうです)、翌10年(1935)の2月には、南品川ゼームス坂病院に入院させています。病院には、看護師資格を持っていた智恵子の姪の長沼春子が付き添いで入りました。

以後、智恵子は病院を出ることなく、病院で制作した千数百枚の「紙絵」を遺し、昭和13年(1938)10月、直接の死因は肺結核で亡くなりました。

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結局、光太郎が自宅で介護に当たっていたのは3年あまり(これとて決して短い期間ではありませんが……)。また、智恵子が亡くなった当日まで、なんと5ヶ月間も見舞いに行かなかったという事実があり、アンチ光太郎の人々からやり玉に挙げられています(以下参照、「五ヶ月の空白①。」「五ヶ月の空白②。」)。

その点、陽氏は約11年間、自宅介護を続けられました。これには娘さんたち、そのパートナー、お孫さんたち、そして93歳で亡くなった陽氏のご母堂、さらには陽氏の親友の医師など、たくさんの方々の支援がありました。光太郎智恵子には、そうした存在が少なかったのかもしれません。また、やはり時代の違い――心の病に対する偏見は現代の比ではなかったようです……。それにしても、陽氏の介護のさまには驚かされました。


『八重子のハミング』、先述の通り、昨秋、映画化されました。


主演は升毅さん、高橋洋子さん。

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実際に物語の舞台だった山口県でロケが行われ、同地では昨秋、先行上映がありました。全国でも順次公開が始まっています。


原作、映画、それぞれご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一人のかたくなな彫刻家は 万象をおのれ自身の指で触つてみる。 水を裂いて中をのぞき、 天を割つて入りこまうとする。

詩「触知」より 昭和3年(1928) 光太郎46歳

――と言っていた光太郎も、本当の意味では、智恵子の心の中にまでは、入り込めなかったようです……。

東京阿佐ヶ谷から、映画の上映情報です。

芳醇:東宝文芸映画へのいざない 智恵子抄

日 程 : 2017年5月10日(水) 〜16日(火)
場 所 : ラピュタ阿佐ケ谷 東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21
時 間 : 5/10(水)~13(土) 17:00~  5/14(日)~16(火) 12:50~
料 金 : 一般1,200円 シニア・学生1,000円 会員:800円 3回券:2,700円
       水曜サービスデー
1,000円
       午前10時15分より当日の全回分の整理番号付き入場券を発売します。
       定員48名になり次第、
切らせていただきます。

智惠子抄 1957年(S32)/東宝/白黒/98分006

監督:熊谷久虎/原作:高村光太郎/脚本:八住利雄
撮影:小原譲治/美術:清水喜代志/音楽:團伊玖磨

出演:原節子、山村聰、青山京子、太刀川洋一、三津田健、
    柳永二郎、三好栄子、津山路子、賀原夏子 他

詩人・高村光太郎は智惠子との出会いで、生きる喜びを見出していく。しかし、ふたりの美しい愛の生活は長くは続かず、智惠子は精神に変調をきたしていく──。「愛のバイブル」と讃えられた名詩集を原節子主演で映画化。


芳醇:東宝文芸映画へのいざない」として、「智恵子抄」以外に、「夫婦善哉」、「潮騒」、「めし」、「多甚古村」、「赤頭巾ちゃん気をつけて」、「江分利満氏の優雅な生活」などがラインナップに入っています。

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原節子さんの「智恵子抄」は、今月14日に調布でも上映があります。こうした動きがさらに広まっていってほしいものですね。


【折々のことば・光太郎】007 (2)

人間よ、 もう止せ、こんな事は。

詩「ぼろぼろな駝鳥」より 
昭和3年(1928) 光太郎46歳

「ぼろぼろな駝鳥」。光太郎詩代表作の一つですね。右は戦前と思われる絵はがき。上野動物園の駝鳥です。以前にもご紹介しましたが。この詩のモデルかも知れませんし、そうでないかも知れません。

「こんな事」は、野生動物を閉じこめて飼うような、権利の侵害、自由の剥奪、言論の統制、あるべきものをあるべき場所に置かないこと、さまざまな管理、不当な処罰、監視、抑圧、弾圧、強制、強要、迫害、排除、差別、ヘイト……いろいろと考えられますね。

「もう止せ」と言いたくなることがまかり通り、さらに後から後から追加されていく世の中です。何とかならないものですかね……。

「ぼろぼろな駝鳥」、以前は小学校の教科書にも載っていましたが、最近は削除されているようです。こういう動きも或る意味不気味ですね。

昨日は東京調布での、昭和32年(1957)公開の東宝映画「智恵子抄」(故・原節子さん主演)上映情報をご紹介しましたが、10年後の同42年(1967)に封切られた松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん主演)の上映情報です。

特別企画 中村登監督特集 60年代松竹映画を代表する監督・中村登の特集 「智恵子抄」 

日 程 : 2017年5月17日(水)14:00002
        21日(日)14:00  27日(土)11:00
場 所 : 福岡市映像図書館ホールシネラ
       福岡市早良区百道浜3丁目7番1号
料 金 : 600円 (大人) 
      500円 (大学生・高校生)     
      400円 (中学生・小学生) すべて当日券

高村光太郎は画学生の智恵子と見合いし、結婚する。油絵に没頭する智恵子だが、文展に出した絵は落選する。火事のため田舎に住む智恵子の父親が死亡、また実家が倒産したとの知らせが届く。苦しむ智恵子は自殺を図る。高村光太郎の詩集「智恵子抄」と佐藤春夫の「小説智恵子抄」を原作とした映画。「智恵子抄」の詩を効果的に使いながら二人の純愛を描く。アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。

監督:中村登    出演:岩下志麻 丹波哲郎 他 
1967年/35ミリ/カラー/125分/松竹


当方、一度拝見しましたが、鬼気迫る岩下さんの智恵子、重厚な丹波さんの光太郎、それぞれすばらしい演技でした。

丹波さんもそうですが、脇を固める俳優陣の皆さんにも既に亡くなった方が多く、その意味では懐かしさにひたれます。智恵子の親友・和子役の南田洋子さん、その夫は岡田英次さん(柳敬助夫妻がモデルです)、光太郎の親友・石井柏亭で平幹二朗さん、犬吠の太郎に石立鉄男さん、智恵子の両親が加藤嘉さんと宝生あや子さん、智恵子の主治医を内藤武敏さんなどなど。

「中村登監督特集」としては、「智恵子抄」以外に、「我が家は楽し」、「土砂降り」、「集金旅行」、「危険旅行」、「いろはにほへと」、「古都」、「夜の片鱗」、「二十一歳の父」、「暖春」、「紀ノ川」、「惜春」が上映されるそうです。

お近くの方、ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

木を彫ると心があたたかくなる。 自分が何かの形になるのを、 木は喜んでゐるやうだ。
詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

造形芸術のカテゴリーとして一口に「彫刻」といいますが、正確には「彫塑」というべきです。木や石などを彫ったり削ったりして作る「彫」と、粘土などを積み重ねて作る「塑」、ある意味真逆です。「彫」は余分なものをそぎ落とすマイナス、「塑」はゼロからどんどん足してゆくプラスの製法です。光太郎はどちらもこなしました。

長じてから、ミケランジェロやロダンを範とした「塑」に取り組む際には、ある意味身構えて臨むことが多かったようですが、幼い頃から自然と身につけた「彫」の場合は、時に遊び心を抱きながら取り組んでいたようにも思えます。

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東京調布から、映画の上映情報です。
場   所 : 文化会館たづくり 10階 1002学習室
         東京都調布市小島町2-33-1
時   間 : 開場 13:15  開演 13:00  終了 16:30
料   金 : 300円/人(資料・茶菓代)
問い合わせ : 沖田さん 090-3439-3223

映画を観ながら、音楽を聴きながら、お茶と皆さんの語らいを
楽しむサロンを開いています。
映画と音楽をこよなく愛しておられる方、新たなコミニュケーションの場を広げませんか?お待ちしております。


プログラム 『智恵子抄』(原作:高村光太郎) ~映画の中の日本文学(戦前昭和の文学)~

 詩人であり彫刻家でもある高村光太郎002が智恵子を知り、彼女の清純な、童女の如き純愛に強く心をうたれ過去の荒んだ生活を清算し、彼女と新しい生活を営む。この新しい生活から、彼の智恵子との愛の喜びを謳いあげた詩は限りなく生れ出た。「智恵子抄」は智恵子との出会いから死別、そして追憶までを抒情的に歌い上げた愛の詩集であり、またヒューマンドキュメントとして稀有な詩集です。
 『智恵子抄』はこの詩集をもとに、八住利雄が脚本を執筆、熊谷久虎監督が映画化、山村聡が高村光太郎、原節子が智恵子を演じ、美しい夫婦の愛情を描いた。
 智恵子の純真な愛に出会い、光太郎は生きる喜び、愛の幸せに包まれるが、仕事と家庭の板ばさみから、やがて智恵子は心を病んでいき・・・。原節子が愛と狂気に揺れる智恵子を演じ切った感動作。


一昨年に亡くなった、伝説の映画女優・原節子さん主演の「智恵子抄」(昭和32年=1957・東宝)が上映されます。原さんのご逝去後、智恵子の故郷・二本松や、原さんがお住まいだった鎌倉をはじめ、追悼的に各地で上映される機会が増えましたが、まだその流れが途切れていないようです。

実は「智恵子抄」は、原さんの出演作品の中で、相対評価的にはあまり高くない作品です(最近はそういう評価だったということも忘れられている感があります)。たしかに何度か拝見して、その意見に首肯せざるをえない部分もありました。しかし、絶対評価としてみると、決して駄作というわけではありません。

今後とも、各地での上映が続いてほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

真の自由の来ない限り、 人間は幾億年でも怒るがいい。

詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

大正14年(1925)には治安維持法が公布されています。昭和3年(1928)には、最高刑が死刑に引き上げられたり、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」にまで処罰の対象が広げられたりしました。このあたりは国会で審議未了だったにもかかわらず、勅命の形で改訂が強行されたとのこと。そうしたきな臭い世相を背景にしています。

「真の自由」。難しい言葉ですね。よく言われることですが、「自由」には「責任」がつきものですし、日本国憲法にも「公共の福祉に反しない」という条件が付されています。

だからといって、治安維持法の復活は許されることではありませんね。

九州福岡から、昭和32年(1957)に封切られた熊谷久虎監督、原節子さん主演の東宝映画「智恵子抄」上映情報です。 

特別企画 原節子特集

  期 : 平成28年11月2日(水)〜11月27日(日)  ※休館日・休映日除く
会  場 : 福岡市総合図書館映像ホールシネラ  福岡市早良区百道浜3丁目7番1号
料  金 : 600円(大人) 500円(大学生・高校生) 400円(中学生・小学生)
※定員制。各回入替制。
※チケットはすべて当日券。前売り券はありません。
※障がい者の方及び福岡市在住の65歳以上の方は300円。(手帳や保険証などの提示が必要です。)

昨年亡くなった日本映画を代表する女優・原節子の特集。追悼1周忌企画。

009上映作品 :
「青い山脈」 「河内山宗俊」 「お嬢さん乾杯」 「晩春」 「麦秋」「山の音」 「東京物語」 「安城家の舞踏会」 「白痴」 「めし」 「智恵子抄」 「驟雨」 「秋日和

「智恵子抄」

11月9日(水)14:00   12日(土)11:00   17日(木)11:00
1957年 35ミリ モノクロ 98分 東宝

詩人・高村光太郎は知人から智恵子を紹介される。詩を読み、油絵を描く智恵子に光太郎は惹かれ二人は結婚する。貧しくとも幸せな生活だったが、智恵子の絵はなかなか評価されなかった。絵が評価されず主婦の仕事もできない智恵子は悩み、次第に精神を病んでいく。本作は二人が出会って智恵子が亡くなるまでを描いている。原節子自身が映画化を望んだと言われており、美しい夫婦愛の物語となった。


一周忌を迎えた原節子さんの追悼特集ということで、今年はあちこちで「智恵子抄」の上映がありました。1月に池袋と川崎5月でやはり福岡小倉7月は鎌倉8月から9月にかけて神保町、そして映画の舞台でもあり、ロケも行われた福島二本松で9月に。そちらは拝見して参りました

お近くの方、ぜひどうぞ。

また、二本松市歴史資料館さんで現在開催中の「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」展では、当方手持ちの原節子さん「智恵子抄」関連資料の中から、10数点を展示していただいております。

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こちらは11月27日(日)まで。よろしくお願いいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

廃園の三千坪を人買ひて塀などつくり秋たけにけり
大正13年(1924) 光太郎42歳

舞台は光太郎アトリエのあった駒込林町。「廃園の三千坪」は、現在の須藤公園の辺りです。下の画像で「この辺原っぱだった」と丸で囲まれている一角です。光太郎アトリエは左上、実家はそのやや左下、左下隅には青鞜社も入っています。出典は森まゆみさん『「谷根千」地図で時間旅行』。

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同じ「廃園の三千坪」を舞台とした「落葉を浴びて立つ」という長い詩も書かれました。


   落葉を浴びて立つ

どこかで伽羅(きやら)のくゆつてゐるやうな日本の秋の
なまめかしくも清浄な一天晴れたお日和さまよ。鳥かげさへ縦横にあたたかい十一月の消息をちらつかせ、
思ひがけない大きなドンといつしよに、010

一斉に叫をあげる遠い田舎の工場の汽笛が
ひとしきり
空に無邪気な喜の輪をえがいてゐる。
そんな時です、私が
無用の者入るべからずの立札に止まつてゐる赤蜻蛉に挨拶しながら、
三千坪の廃園の桜林にもぐり込んで、
黙つて落葉を浴びて立つのは。

ああ、有り余る事のよさよ、ありがたさよ、尊さよ、
この天然の無駄づかひのうれしさよ、
ざくざくと積もつて落ち散る鏽(さ)びた桜のもみぢ葉よ。
惜しげもない粗相らしいお前の姿にせめて私を酔はせてくれ、
勿体らしい、いぢいぢした世界には住みきれない私である、011
せめてお前に身をまかせて、
くゆり立つ秋の日向ぼつこに、
世もぶちまけた、投げ出した、有り放題な、ふんだんの美に
身も魂もねむくなるまで浸させてくれ。

手ざはり荒い不器用な太い幹が、
いつの間にかすんなり腕をのばして、
俵屋好みのゆるい曲線に千万の枝を咲かせ、

微妙な網を天井にかけ渡す桜林の昼のテムポは、
うらうらとして移るともないが、

暗く又あかるい梢から絶間もなく、
小さな手を離しては、
ぱらぱらと落ち来る金の葉や瑪瑙の葉。012

どんな狸毛で描いた密画の葉も、
天然の心ゆたかな無雑作さに、
散るよ、落ちるよ、雨と降るよ、
林いちめん、
ざくざくとつもるよ。
その中を私は林の魑魅(ちみ)となり、魍魎(まうりゃう)となり、
浅瀬をわたる心にさざなみ立てて歩きまはり、
若木をゆさぶり、ながながとねそべり、
又立つて老木のぬくもりある肌に寄りかかる。

――棄ててかへり見ぬはよきかな、
あふれてとどめあへぬはよろしきかな、
程を破りて流れ満つるはたふときかな、
さあらぬ陰に埋(うづ)もれて天然の素中に入るはたのしきかな――
落ち葉よ、落ち葉よ、落ち葉よ、
私の心に時じくも降りつもる数かぎりない金いろの落葉よ、
散れよ、落ちよ、雨と降れよ、
魂の森林にあつく敷かれ、
ふくよかに積みくさり、 やがてしつとりやはらかい腐葉土となつて私の心をあたためてくれ。
光明は天から来る、
お前は楽しく土にかへるか。
今は小さい、育ちののろいこの森林が、世にきらびやかな花園のいくたびか荒れ果てる頃、
鬱蒼としげる蔭となつて鳥を宿し、獣(けもの)を宿し、人を宿し、
オゾンに満ちたきよらかに荒い空気の源となり、
流れてやまぬ生きた泉の母胎となるまで。

林の果の枯草なびく原を超えて、
割に大きく人並らしい顔をしてゐる吾家の屋根が
まつさをな空を照りかへし、
人なつこい目くばせに、
ぴかりと光つて私を呼んでゐるが、
ああ、私はまだかへれない。
前も、うしろも、上も、下も、
こんな落葉のもてなしではないか、
日の微笑ではないか、
実に日本の秋ではないか。
私はもう少しこの深い天然のふところに落ち込んで、
雀をまねるあの百舌(もず)のおしやべりを聞きながら、
心に豊繞(ほうねう)な麻酔を取らう、
有りあまるものの美に埋もれよう。


秋たけなわとなり、当方自宅兼事務所――三千坪はありませんが(笑)――の木々も色づいてきています。また、裏山の坂道に聳えるイチョウの巨木も。

光太郎ゆかりの地として、毎年「女川光太郎祭」が開催されている宮城県女川町がらみで2件。

まずは東日本大震災で大きな被害を受けた女川町の復興の軌跡を描いたドキュメンタリー映画「サンマとカタール~女川つながる人々」のDVDが発売されます。  

サンマとカタール~女川つながる人々

【発売日】 2016年11月9日(水)※レンタル同時リリース
【発売元】 TBSサービス
【価  格】 3,000円+税
【販売元・お問合せ先】
TCエンタテインメント(株)商品サポートセンター TEL:03-3513-9090
(受付時間:月〜金 10時〜13時/14時〜17時 ※土日祝日を除く)

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当方、映画館での上映テレビ放映を拝見しましたが、何度観ても熱い思いにさせられます。

直接、光太郎に関わる内容にはなっていませんが、ぜひお買い求め下さい。


もう1件、テレビ放映情報です

小さな旅 心に花を~宮城県女川町

NHK総合 2016年10月30日(日)  8時00分~8時25分
      再放送 11月5
日(土) 5:15~5:40 (地方によって異なります)

宮城県女川町は水産業のさかんな港町。震災後の復興をめざし、若者を中心とした町づくりが進んでいます。実は女川は、600種類以上の山野草が自生する、植物の宝庫。ふるさとの風景や大切なものを失った人々が、身近にある自然に心を癒やされています。震災前と変わらずに山の草花に出会う人、花を育てることで励まされ、生きてきた夫婦など、自然に勇気づけられながら、復興に向かう人たちと出会います。

語り 山田敦子

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こちらも直接光太郎に関わる内容にはならないかとは思いますが、ご覧下さい。

東日本大震災から5年半。いつしか「復興のトップランナー」と言われるようになった女川町。行政も積極的に動いていますが、行政任せにせず、住民が自分たちで知恵を出し合い、動いています。

その後も各地で大雨や大地震による被害が出ています。そういった地域のモデルケースともなるのではないでしょうか。

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【折々の歌と句・光太郎】

一心に絵具をぬれば自由画のわが家の屋根に太陽がのる

大正15年(1926) 光太郎44歳

一昨日からご紹介している、近所の千駄木小学校の児童と思われる子どもたちが描いた光太郎アトリエの絵についてです。

小さな子どもの描く風景画には、赤い太陽がつきものですね。しかし、そうした風習が根付いたのはいつ頃のことなのかと、ふと思いました。「太陽は赤い」という概念は世界共通ではありません。

日本画の世界では赤い太陽も早い時期から描かれており、その影響なのでしょうか。

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