昨日、「智恵子抄」系 のオンライン講座と音楽ライブをご紹介しましたので、「智恵子抄」つながりで。
まず、智恵子の故郷・福島県二本松市に隣接する、先月の『広報おおたま』さんから。
奥さんの故郷である大玉村に家を建てたのは2012年のこと。毛利さんにとって故郷と言える場所がなかったため、福島にいる親戚の存在は大きく、震災によって被害を被ってしまった福島への思いが強くなったのがきっかけだそうです。横浜との二拠点生活をしながら、自然豊かな大玉村で農作物を作る楽しさに触れ、もともと好きであったワインを2016年から大玉村で作り始めました。
2.OOtama blue誕生と苦悩
ワインが初めてできたのは2022年。高村光太郎の「智恵子抄」に出てくる有名なフレーズの青い空からブランド名を「OOtama blue」と名付けたそうです。しかし、自然相手には思い通りにいかないことが多く、昨年はハクビシンに実を食べられ、今年は高温障害、病虫害により実が萎縮してしまったそうです。だからこそ、ワインができた時の喜びは大きく、たりがいを感じていると話しています。
3.これからのOOtama blue
現在、約700本のブドウの木を育て、年間1000本のワインボトルを生産することを目標に励まれています。ワインは100%ブドウの果汁からできており、OOtama blueでは大玉村の土地の味(テロワール)ともいえます。OOtama blueが大玉村の特産品となり、大玉村の魅力をさらに幅広く伝えていきたい。そして、村民の方にも大玉村にはOOtama blueがあるよと言ってもらえるようになりたいと話しています。
対談を終えて
毛利さんはよく大玉村が全国的に認知され、大玉村に住んでいることを誇りに思える人が多くなれるようにしたいと話されています。これまでNPOの活動で多くの地域と交流をし、「地域おこし」に関わっている大先輩である毛利さんの言葉には重みがあり、私は常に勉強させられてばっかりです。OOtama blueは桜が咲く頃に出来上がります。ぜひみなさんも生まれ育った大玉村のテロワールを感じてみてください。
【折々のことば・光太郎】
一昨二十四日の午後は此の部落のおつさんはじめ青年達の慰労会があり、数十人の饗宴が田頭さんといふ家に開かれ、小生も招待せられてさされる盃を皆うけてのみ、いささか酒の手並をあらはしました。
花巻郊外旧太田村に移り住んで初めての村民たちとの飲み会。欧米留学中や在京時の文壇画壇の仲間たちとのそれと異なる、単なる近所の人々との飲み会というのも、生涯初だったのではないかと思われます。
まず、智恵子の故郷・福島県二本松市に隣接する、先月の『広報おおたま』さんから。
1.二拠点生活とワイン作り
奥さんの故郷である大玉村に家を建てたのは2012年のこと。毛利さんにとって故郷と言える場所がなかったため、福島にいる親戚の存在は大きく、震災によって被害を被ってしまった福島への思いが強くなったのがきっかけだそうです。横浜との二拠点生活をしながら、自然豊かな大玉村で農作物を作る楽しさに触れ、もともと好きであったワインを2016年から大玉村で作り始めました。
2.OOtama blue誕生と苦悩
ワインが初めてできたのは2022年。高村光太郎の「智恵子抄」に出てくる有名なフレーズの青い空からブランド名を「OOtama blue」と名付けたそうです。しかし、自然相手には思い通りにいかないことが多く、昨年はハクビシンに実を食べられ、今年は高温障害、病虫害により実が萎縮してしまったそうです。だからこそ、ワインができた時の喜びは大きく、たりがいを感じていると話しています。
3.これからのOOtama blue
現在、約700本のブドウの木を育て、年間1000本のワインボトルを生産することを目標に励まれています。ワインは100%ブドウの果汁からできており、OOtama blueでは大玉村の土地の味(テロワール)ともいえます。OOtama blueが大玉村の特産品となり、大玉村の魅力をさらに幅広く伝えていきたい。そして、村民の方にも大玉村にはOOtama blueがあるよと言ってもらえるようになりたいと話しています。
対談を終えて
毛利さんはよく大玉村が全国的に認知され、大玉村に住んでいることを誇りに思える人が多くなれるようにしたいと話されています。これまでNPOの活動で多くの地域と交流をし、「地域おこし」に関わっている大先輩である毛利さんの言葉には重みがあり、私は常に勉強させられてばっかりです。OOtama blueは桜が咲く頃に出来上がります。ぜひみなさんも生まれ育った大玉村のテロワールを感じてみてください。
ワイナリーyy vineyardさんのサイトはこちら。「OOtama blue」についてはこちら。
もう1件、今度は万年筆です。「日本全国お取り寄せ手帖」さんというサイトから。
今回、編集長アッキーが気になったのは、万年筆などの筆記具を中心にノートや便箋、カードなど、ペンとノートのある暮らしを彩る福島の「文房具のお店 Pentonote」。まもなく創業100年という株式会社文化堂 代表取締役社長の中野義久氏に商品の人気の秘密を取材陣がうかがいました。
―会社の沿革を教えてください。
中野 創業は1926年、会社設立は1953年です。父が他界し、私が代表になったのは2010年11月ですが、就任して4ヶ月後に東日本大震災がありました。当時、建物の被害はあまりなかったのですが、去年の3月の地震で建物が被災し、現在取り壊して再建中です。2回の大きな地震には耐えましたが、3回目でとうとう駄目になってしまいました。
再建にあたってクラウドファンディングを行いました。今、街中ではないところに仮店舗として営業しています。これまでは商店街に属していましたが、現在は郊外で営業しているため、わざわざ足を運んでもらう理由が必要でした。そこでベーグル屋を立ち上げ、ベーグル目的のお客さんが店舗にも来ていただくことを目指しました。ベーグルは2ヶ月前ぐらいからオンラインでも販売しています。
―創業から100年、会社として変わらない思いはございますか。
中野 老舗と言われますが、今の時代、商売として老舗が有利ということはありません。ただ、100年築いてきた信用はあります。その信用を伸ばしていくことは大事だと考えています。
―万年筆はどういった方が購入されていますか。
中野 50年くらい前は営業マンが万年筆を持ち歩いて販売することもあるくらいメジャーでしたが、今は万年筆を好きな人だけが使うようになりました。手書き離れが進んだ後に、あらためて手書きの良さが再認識され、ブームとまではいかないですが、万年筆が好きな人たちが増えています。購入される年代で多いのは30~40代の女性です。青やピンクなどたくさんの色のインクを出したことで興味を持っていただくことが増えました。
―今回発売された「ほんとの星空。「紡ぐ」万年筆」はどういった商品ですか。
中野 地元・福島の星空をイメージしています。吾妻山の浄土平からは「ほんとの星空。」が見えます。夜も終わり、朝が漂い始める頃、黒が薄まり青になっていく、その時の空のインクを作ってみようと思いできたのが「ほんとの星空。」です。福島の美しい景色を多くの方に届けたいという思いを込めました。低重心タイプで、重心が下にあるとその重さで力を入れないで書くことができるのも特徴です。万年筆は5万円ぐらいまでは小刻みに構造にグレードがあります。5万円を超えてくると、装飾へのこだわりで価格が変わってくるので、この商品の構造のグレードは最高級です。
―どういった方に使っていただきたいですか。
中野 こちらはヘビーユーザー向けの商品です。普通の万年筆を使っていた人がよりよい書き心地を求めて購入されることを想定しています。
―今後のビジョン、展望などをお聞かせください。
中野 メーカーとしてオリジナル商品を作っていきたいと考えています。Webサイトやインスタを運営していると、オリジナル商品の強みを感じます。一方、福島へのこだわりはあまり考えておらず、文房具としての機能性とデザイン性、個性を重視した商品を構想中です。
実店舗では、来年の5月に新しい建物が完成します。県庁通り商店街にあるので商店街のイベントや弊社のイベントができるよう、1階部分は半分ぐらいイベントスペースとして設けています。街や商店街の盛り上がりをイベントスペースを通じて、作っていければと思っています。
ECに関しては、商品の使い方や詳しい説明など、お客様が知りたいことをブログ記事にしています。最近はYouTubeも始めたので、お客様の層を広げていきたいと考えています。
―貴重なお話をありがとうございました。
サイトを覗いてみましたところ、万年筆以外に も「ほんとの星空。」ブランドで販売されていました。
ワインといい、万年筆といい、なかなかシャレオツですね。こういったもののお好きな方、ぜひお買い求め下さい。「ほんとの星空。「紡ぐ」万年筆」
価格:¥55,000(税込)
店名:文房具のお店 Pentonote
電話:024-573-1590(10:00~17:00 土日祝除く)
定休日:インターネットでのご注文は24時間365日受付
商品URL:
オンラインショップ:
※紹介した商品・店舗情報はすべて、WEB掲載時の情報です。変更もしくは販売が終了していることもあります。
<Guest’s profile>
中野義久(株式会社文化堂 代表取締役)
1979年生まれ、福島県福島市出身。株式会社文化堂 代表取締役
県庁通商店街振興組合 理事長 株式会社建堂工業 代表取締役 趣味:ゴルフ・麻雀・筋トレ
サイトを覗いてみましたところ、万年筆以外に も「ほんとの星空。」ブランドで販売されていました。
【折々のことば・光太郎】
一昨二十四日の午後は此の部落のおつさんはじめ青年達の慰労会があり、数十人の饗宴が田頭さんといふ家に開かれ、小生も招待せられてさされる盃を皆うけてのみ、いささか酒の手並をあらはしました。
昭和21年(1946)6月26日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳
花巻郊外旧太田村に移り住んで初めての村民たちとの飲み会。欧米留学中や在京時の文壇画壇の仲間たちとのそれと異なる、単なる近所の人々との飲み会というのも、生涯初だったのではないかと思われます。