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またまた二本松ネタです。012
 
二本松市で智恵子顕彰活動を続けられている「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催による「智恵子講座'13」。第5回ということで、以下の日程・内容で行われます。
 
日 時 : 2013年11月17日(日) 午前10時~12時
会 場 : 二本松市市民交流センター
講 師 : 澤正宏氏(福島大学名誉教授)
内 容 : 「与謝野鉄幹と水野葉舟」
参加費 : 1,000円
申 込 : 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん
       tel/fax0243-23-6743
 
講師の澤氏は、『福島県文学全集』(郷土出版社・平成14年=2002)の編集をされた他、平成13年(2001)には翰林書房から『詩の成り立つところ 日本の近代詩、現代詩への接近』というご著書を刊行されています。
 
同書には「与謝野晶子と高村光太郎」という1章がある他、他の章でも光太郎・智恵子に触れています。
 
11月17日、ちょうどこの日は、同じ二本松市交流センター内の大山忠作美術館で開催中の「五星山」展最終日にもあたります。
 
併せて足をお運びいただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月6日

明治42年(1909)の今日、本郷区千駄木町の森鷗外邸・観潮楼で催された観潮楼歌会に出席しました。
 
観潮楼歌会は、光太郎留学中の明治40年(1907)から始められました。一説には歌壇内部の勢力争い的なものを融和しようと考えた鷗外が広く声をかけ、毎月第一土曜日に開催、与謝野晶子、伊藤左千夫、石川啄木、北原白秋、斎藤茂吉等、錚々たるメンバーが集まったとのことです。
 
筑摩書房『高村光太郎全集』別巻の年譜には、「鷗外邸の観潮楼歌会例会に出席するが、つまらなくて一度でやめる。」とあります。与謝野夫妻の新詩社系の歌会にはよく参加していた光太郎ですが、こちらは肌に合わなかったようです。
 
その際の光太郎の詠歌。
 
一力の小てるとわれと酒のめば飯をつぐとて盆を出すひと
 
この夜は「盆」を題詠として行われたそうですが、どうもふざけた作品ですね。

昨日の続きで、福島二本松の大山忠作美術館での「五星山」展、関連行事としての有馬稲子さん・一色采子さんのトークショーについてです。
 
今日の『福島民報』さんに記事が載りました。

女優有馬さん招きトークショー 二本松

 福島県二本松市の大山忠作美術館で開催している「五星山展」を記念した女優有馬稲子さんのトークショーは4日、同美術館がある市民交流センターで開かれた。

 同展PR委員会の主催。同市出身の日本画家、大山忠作氏の長女で女優の采子さん(同展実行委員長)との対談形式で進められた。有馬さんは、同展に出品されている大山氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」の制作秘話を語った。

 モデルになるよう大山氏から熱心に働き掛けられた。舞台公演が重なり多忙な中、30分だけ時間が取れた。貞淑でおとなしい智恵子をイメージして大山氏と向き合った。

 「こんな素晴らしい絵に仕上げてもらい、感謝している。私が死んでも作品はずっと残る。これからもこの絵を愛してほしい」と詰め掛けた観客約180人に語り掛けた。「本当にいい絵ばかり。日本中で開いた方がいい」と展覧会の印象を話した。

 五星山展は17日まで。大山氏をはじめ東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造各氏ら文化勲章受章者5人の作品35点を展示している。
 
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時に昭和51年9月。有馬さんは新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の最中。昼の部は榎本滋民脚本「富貴楼お倉」、夜の部が北條秀司脚本「智恵子抄」でした。
 
昼の部と夜の部の間に衣装を替えたり、食事を取ったりというわけですが、その時間は余り長くなかったそうです。その短い時間でいいから、ということで大山忠作画伯に請われ、劇場舞台裏の廊下で椅子に座り、ポーズをなさったとのこと。大山画伯はものの30分でスケッチをなさり、写真も撮られたそうですが、それがこの「大作になったとのこと。
 
背景は安達太良山、そしてその下に広がるススキ野原ですが、これは舞台の背景というわけではなく、故郷・二本松を思い描いての画伯の心象風景だということです。
 
造型作家の制作過程、ということで、ひとつ興味深いエピソードでした。
 
ちなみに上の画像は「五星山」展図録。トークショー終了後に有馬さんに連翹忌の営業を敢行、どさくさに紛れてサインをいただきました。
 
大山画伯のご長女・一色采子さんにも。
 
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こちらの絵は題して「童女」。モデルは一色さんです。対象を捉える暖かい眼差しが感じられますね。
 
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こちらが図録の表紙です。以前も書きましたが題字は片岡鶴太郎さんの揮毫。「文化勲章受章画伯による心の復興支援」。いいキャッチフレーズですね。
 
「五星山」展は17日(日)まで開催されています。
 
話は変わりますが、東北楽天ゴールデンイーグルスが日本シリーズを制し、みごと日本一に輝きました。闘将・星野監督、試合後のインタビューで「まだまだ被災者の皆さんは苦労し ているので、すずめの涙でも癒やしてあげられたらと思っていた。」とおっしゃっていました。これも立派な「心の復興支援」だったと思います。
 
がんばれ、東北。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月5日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で舞踊家・石井漠の舞踊生活30周年記念公演として、光太郎の詩「地理の書」による新作舞踊が発表されました。
 
作曲・石井五郎、朗読・南部邦彦、合唱・玉川学園合唱隊、石垣蓉子、李彩娥ら10人の踊り手によって演じられたそうです。
 
この時のチラシ、プログラム類を探していますが見つかりません。情報を求めます。

今日は福島二本松の大山忠作美術館に行って参りました。
 
10月12日より、同館にて「五星山展」が開催されています。過日もこのブログでご紹介しましたが、大山忠作氏は二本松出身の日本画家。その歿(平成21年=2009)後にご遺族から多くの作品が二本松市に寄贈され、市では二本松駅前の市民交流センター3階に大山忠作美術館をオープンさせました。
 
「五星山」展は、「文化勲章受章画伯による心の復興支援」というサブタイトルで、東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造、そして大山忠作と、「山」のつく五人の日本画家の作品が集められた企画展です。
 
その関連行事として、今日は女優の有馬稲子さんと一色采子さんのトークショーが行われました。
 
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有馬さんは大山忠作の代表作の一つ、「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルを昭和51年(1976)に務められたということでのご登場。一色さんは大山忠作のお嬢さんです。
 
開場30分前に市民交流センターに着いたら、やはり大女優のお出ましということで、既に長蛇の列でした。笑ったのは、「智恵子に扮する有馬稲子像」を使った顔ハメが設置されていたこと。「ここまでやるか」と思いました。
 
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午後二時、トークショーが始まりました。まずは有馬さんによる智恵子の姪・宮崎春子の回想「紙絵のおもいで」、光太郎詩「あどけない話」「樹下の二人」の朗読から。その後は一色さんが聞き手となり、「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルを務められた時の思い出や、舞台「智恵子抄」で智恵子を演じられた時の思い出などを有馬さんが話されました。
 
その他にも健康法や震災後の復興支援にも話が及び、あっという間の約1時間でした。
 
有馬さんは「五星山」展をぜひ全国巡回で、とおっしゃっていました。確かに二本松だけではもったいない展覧会です。実現してほしいものですね。
 
一色さんのお話では、既に「五星山」展での入館者が1万人を超えたとのこと。同展のキャッチコピーのひとつに「展覧会へ行くという復興支援がある」というものもあります。まさしくその通り。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月4日

昭和17年(1942)の今日、大東亜文学者会議に出席しました。

昨日は福島・川内村に行って参りました。詩人の草野心平を偲ぶ集い「第3回天山・心平の会かえる忌」に参加のためです。昨年に引き続き二度目の参加でした。
 
会場は川内村中心部にある小松屋旅館さん。座敷の囲炉裏を囲んでの集いとなりました。
 
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午後3時に開会。川内村遠藤村長や013かわうち草野心平記念館長・晒名氏のご挨拶の後、心平も好きだった濁酒で乾杯。さらに心平生前の肉声の録音で、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、心平の「ごびらっふの独白」などを聴きました。
 
その後、当方の講演。題は「高村光太郎と草野心平の交流」。光太郎は明治16年(1883)、心平は同36年(1903)の生まれで、ちょうど20歳離れていますが、大正の末頃知り合ってすぐに意気投合、お互いを大いに認め合い、お互いのためにいろいろな仕事をしました。光太郎は心平の詩集や編著(『宮沢賢治全集』など)の序文や装幀をし、心平の編集していた『銅鑼』、『歴程』、『東亜解放』などに寄稿、心平は光太郎についての評論や詩、随想を書きました。また、光太郎は心平の経営する居酒屋に足しげく通い、心平は晩年の光太郎の身の回りの世話をしたりと、実生活の部分でもいろいろと助け合っています。
 
そうした二人の交流を、年譜にまとめて発表させていただきました。
 
特筆すべきは光太郎歿後。心平は昭和32年(1957)の第一回連翹忌で発起人を務めました。そういう意味では当方の大先輩です。
 
その他にも自身の晩年(昭和63年=1988没)まで、ことあるごとに光太郎についての仕事をしています。
 
自身で光太郎の詩集や光太郎に関する書籍を編んで刊行したのをはじめ、いろろな雑誌で光太郎特集を組めば寄稿し、光太郎の石碑ができれば碑文や碑陰記を書き、講演やテレビ番組で光太郎を語り続けました。
 
また、同じ福島県人という事で、心平は智恵子に関する顕彰活動も行いました。
 
「去る者は日々に疎し」と申します。しかし、心平の中では、その歿後も光太郎・智恵子が生き続けていたのでしょう。といっても、なかなかできる事ではありません。
 
今日、まがりなりにも光太郎・智恵子の名がメジャーなものとして伝えられ続けている陰には、心平のこのような努力があったわけで、光太郎顕彰の大先輩として尊敬します。
 
心平は昭和43年の「大いなる手」という文章で次のように書いています。
 
 光太郎は巨人という言葉が実にピッタリの人であった。(略)
 巨人と言われるのにふさわしい人物は世の中に相当いるにはちがいないが、私がじかに接し得た巨人は高村光太郎ひとりだった。

 
対する光太郎も、心平という稀代の詩人の本質を鋭く見抜き、心平の詩集『第百階級』の序(昭和3年=1928)で、次のように評しています。
 
 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々ならざるところに、既に、気笛は鳴つてゐるのである。(略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。

 
今回、心平と光太郎の交流について調べてみて、人と人とのつながり―言い換えれば「絆」―の美しさ、強さ、重要性を改めて感じました。
 
さて、右上の画像は当方講演のレジュメです。光太郎・心平それぞれの、それぞれに対して行ったりしたことについてまとめた年譜が中心です。残部が少しあります。ご希望の方には送料のみでお分けします。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。ただし、モノクロ印刷です。
 
ところで川内村。
 
昨日はカーナビが常磐自動車道の常磐富岡ICで下りろ、と指示してきました。広野IC~常磐富岡ICは震災から2年半経った今も通行止めが続いています。しかたなく広野で下りて、一般道に入りました。福島第二原発のある富岡町を通り、本当にもう少し行けば立ち入り禁止区域、というところまで行って、川内村に入りました。
 
通行可能区間でも、除染のための重機や除染によって出た落ち葉などの廃棄物を詰めてあると思われる巨大なビニール袋などが目につきました。シャッターを下ろした店舗も多数。また、山間部の道路では、未だに崩落し、片側対面通行になっている箇所も複数ありました。かえる忌会場でも地元の方々から、帰還の状況などまだまだであることを伺いました。
 
そんな中、懇親会の席上では、逆に東京から川内村に移り住んだ若者が紹介されたりという明るい話題もありました。しかし、もちろん喜ばしいことですが、一人の若者が移り住んだというだけで大喜びという状況、おかしいとは思いませんか? 美しい紅葉を目にし、新そばや巨大なイワナの塩焼きに舌鼓を打ち「こんなにいい所なのに……」と、思いは複雑でした。
 
当方、来年は川内村で行われる市民講座的なもので、複数回講師を依頼されました。微力ながら少しでも復興支援となればと、お引き受けしました。
 
まだまだ復興途上です。最近は一頃はやった「絆」という合い言葉もあまり聞かれなくなってきました。しかし、「絆」の一語、風化させるにはまだ早いと思います。皆さんもできる範囲での支援をよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月27日

昭和27年(1952)の今日、紀尾井町福田屋で、詩人の竹内てるよ、栄養学者の川島四郎との座談「高村光太郎先生に簡素生活と栄養の体験を聞く」を行いました。

光太郎の詩に自作の曲を付けて歌われているシャンソン歌手・モンデンモモさん情報です。
 
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「モモの智恵子抄2013秋」ということで、福島と東京、3カ所のツアーが予定されています。
 
2013/11/16(土) 二本松コンサートホール 18:00~ 1500円 問 0243-24-2830 鈴木
2013/11/17(日) 福島市古関裕而記念館  19:00~ 2000円 問 090-4476-0223 白川
2013/11/19(火) 原宿アコスタディオ 19:00~ 3000円 問 080-6772-3746 モンデンビューロ
 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月23日

大正12年(1923)の今日、柳八重に手紙を書きました。
 
柳八重は日本女子大学校での智恵子の先輩。その夫・敬助は画家で、光太郎とは留学中から親交がありました。そうした関係もあり、明治44年(1911)の光太郎と智恵子の出会いをお膳立てしたのが八重です。
 
敬助はこの年5月に病没、9月から遺作展が日本橋三越で始まりましたが、その初日に関東大震災が起こり、三越は炎上、多くの作品が灰燼に帰しました。
 
そのことに対してのお悔やみの手紙が、90年前の今日、書かれたというわけです。光太郎の痛恨の意が良く表されています。
 
 暫く御無沙汰しました。
 今度の災厄については市民一同いづれも悲痛な経験を負はされましたが、私自身として、柳君の遺作の事ほど切実に悲しまされた事はありません。身に近く、苦しい気がします。
 あなたの御心持を推察する事は更に強い圧迫です。
 けれど事実は二度とあともどりしない事を思へばどう考へてもどう為ようもなく又どう言ひやうもありません。
 せめて友人間にまだ散らばつてゐる遺作をあなたの許に集め寄せる事が出来れば一つの慰めになるかと思ひました。
 それで柳君帰朝後間もなく(〇九年)かかれた画で私の大事にしてゐた人物画(十号)を柳君にお返し為ようと思つて今日持参しました。此は柳君の精神的一面をよくあらはした好い画で私の愛好措かないものです。どうかアトリエにお置き下さい。額ぶちが手許に無いので額ぶち無しで持参しました。
 いづれ又おめにかかつた時、
   十月二十三日                                     高村光太郎
  柳八重子様
 
敬助の作品は、やはり交流のあった荻原守衛の個人美術館である信州安曇野の碌山美術館などで見ることができます。

昨日、智恵子の故郷、二本松に行って参りました。数えてみたら今年に入って5回目でした。5回目にして初めてといっていいくらいの快晴で、安達太良山がよく見えました。
 
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まずは二本松駅前の市民交流センターでの「智恵子講座'13」の第4回。6月の第3回では当方が講師を務めましたが、昨日は受講の方に回りました。
 
昨日の講師は福島県立美術館・主任学芸員の久慈伸一氏。今年は講座全体のテーマが「高村光太郎に影響を与えた人々」という題で、昨日はロダンと荻原守衛についてのお話でした。
 
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その後、天気が良かったので、車は交流センターにおいたまま歩いて霞ヶ城(二本松城)まで行きました。有名な「二本松の菊人形」が開催されていたからです。
 
今年は地元・福島も舞台にしていたNHK大河ドラマ「八重の桜」がメインで、多くの観光客でにぎわっていました。
 
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綾瀬はるかさん演じる山本八重の人形、顔が綾瀬さんそっくりに作ってありました。
 
その後、市民交流センターまで戻りました。センター3階には二本松出身の日本画家・大山忠作の作品を集めた「大山忠作美術館」があります。「智恵子に扮する有馬稲子像」「霧(高村智恵子)」など、智恵子をモチーフにした絵も複数あり、以前にも何度か訪れたことがあります。
 
こちらでは先週の土曜日から企画展「五星山」展が開催されています。
 
「五星山」とは、東魁夷・高辰雄・平郁夫・加又造・大忠作。すべて文化勲章を受章した日本画家です(全て故人)。
 
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以下、同館のサイトから、大山忠作長女の大山采子さん(女優・一色采子さん)のメッセージです。
 
2011年3月11日、私達は日本人は未曾有の災害にみまわれました。
 
殊に福島県はあってはならない原発事故により、12市町村が生まれ育った郷里を追われ避難を余儀なくされました。
 
福島県にある人口約6万人の二本松市に建てられた小さな美術館も地震の被害を受け、その美術館が含まれている市民交流センターも被災者の一時避難場所となり、 今なお二本松市は浪江町をはじめ多くの方々の受け入れ地となっております。
 
この小さな美術館に”山”のつく現代の巨匠達の作品を一同に介し、それを被災された方々、福島の方々、そして日本の方々に見ていただくことが出来たら どんなに素敵だろうという夢を抱いて立ち上がった企画が、この「五星山展」です。
 
時代・団体を超えて小さな田舎の美術館に集まった作品は、まさに日本人としての「絆」の象徴であり、日本国から最高の栄を浴された先生方のお作品を 一同に味わえるこの幸せは、被災された方々また多くの日本の方々に強い感動と日本人としての誇りと希望を抱いていただけるものと確信しております。
 
どうかこの小さな田舎町から発信する想いにご賛同戴き、是非ともご支援・ご協力を賜りたく、伏してお願い申し上げる次第でございます。
                         「五星山展」実行委員会委員長 大山采子

関連行事として、以下の通りになっています。
 
記念講演会 「大山忠作と戦後日本画の巨星たち」
開催日時:平成25年10月27日(日) 午後2時~
講師:福島県立美術館館長 早川博明氏
 
トークショーⅠ
片岡鶴太郎トークショー「流れのままに」
平成25年10月19日(土) 午後2時~
 
トークショーⅡ
有馬稲子トークショー 「私と《智恵子に扮する有馬稲子像》」
平成25年11月4日(月・祝) 午後2時~

問い合わせ先 「五星山展」PR委員会二本松事務局(岳温泉観光協会) TEL:0243-24-2310
 
鶴太郎さんは上記チラシにも使われている「五星山」の題字を揮毫されました。有馬さんは昭和51年(1976)に新橋演舞場での公演「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」で、北條秀司作「智恵子抄」の際に智恵子役を演じ、同館の目玉作品の一つで今回も展示されている「智恵子に扮する有馬稲子像」はこの際に描かれたものです。
トークショーは有馬さんと一色さんの豪華共演です。
 
当方、11/4のトークショーのチケットを手に入れ、そちらにうかがいます。そこで、昨日はオープン直後で人も多かったし、展覧会自体も11/4にゆっくり見ようと思っていたのですが、思いがけず昨日も一色さんがいらっしゃり、しかも一色さんによるギャラリートークがあるというので、予定を変更して拝見して参りました。
 
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一色さん曰く、「一粒で五度おいしい」。それぞれの画家の特色がよく表されている作が集められていること、同じモチーフ(富士山や牡丹)をどのように描きわけているかの比較ができることなどを指しています。そのとおりでした。全体の点数はあまり多くないものの、これだけのビッグネームの作品を一度に(しかも400円で(笑))観られるのはたしかにめったにない機会です。
 
しかし、一色さん、さすが女優さんです。人前で話すことには慣れていらっしゃいまして、ギャラリートークも非常にわかりやすく、面白く、さらにさすが大山画伯のお嬢さん、造詣の深さにも感心しました。
 
当方、ギャラリートーク終了後には、あつかましくも一色さんを呼び止め、いつものように連翹忌の営業をして参りました。
 
今年に入ってからも以下の方々に営業活動を行いましたが、来年の連翹忌で何人釣れるでしょうか(笑)。
フルート奏者の吉川久子さん宇宙飛行士の山崎直子さんNHKの伊東敏恵アナシンガーソングライターの北村隼兎さんなどなど。
 
ところで、「五星山展」。キャッチコピーは「心の復興支援」。経済的な部分だけでなく、と謳っているのが素晴らしいと思います。日展、院展、創画会と、会派も違う五人の巨匠の作品を集めるのにはいろいろ面倒な問題もあったと思いますが、出品作家それぞれのご遺族なども、「そういうことなら」と、こころよくご協力して下さったそうです。
 
「五星山展」PRサイトのキャッチコピーは「展覧会に行くという復興支援がある」。実際、昨日も二本松の街を歩いていて、まだまだ復興途上というのを痛感しました。
 
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 皆さんもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月15日

大正元年(1912)の今日、読売新聞社三階で第一回ヒユウザン会展覧会が開かれました。
 
光太郎は「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」の油絵四点を出品しました。智恵子の出品も予定されていましたが、実現しませんでした。一説によるとふさわしい額縁が入手できなかったとのこと。
 
同人には岸田劉生、木村荘八、万鉄五郎、斎藤与里らがおり、彼ら自身はあまり意識していなかったようですが、メディアでは「反文展美術家の大同団結」と騒がれました。結果的には、アカデミズムに依らない新しい美術の潮流を作ったという意味で美術史上重要な展覧会でした。

そろそろ次のネタに行010こうと思っていたのですが、レモン忌ネタがもう一つ入りましたのですみません。
 
調べ物があったので、午前中、隣町・成田の市立図書館に行って参りました。
 
とりあえず調査が終了し、帰りがけ。ふと出入り口のドアを見ると貼り紙が。福島県の避難者支援事業の一環として、福島の地方紙『福島民報』さんと『福島民友』さんのバックナンバーを置き始めたとのこと。 
 
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そこで、10月6日のレモン忌の記事が載っているかと思い、館内に引き返し、ページをめくってみました。
 
すると、7日付の『福島民友』さんの方に右の記事が載っていました。
 
ネット検索では見つからなかったのですが、ちゃんと記事になっていたのですね。ありがたいことです。
 
それにしても、関東の普通の図書館で福島の新聞を置くというアイディアは素晴らしいと思いました。
 
福島からこちらの方に避難している方に向けてという配慮がメインなのでしょうが、被災地の現状をご存じない方に対しての情報発信という意味でも、意義深いことだと思いました。これも立派な復興支援ですね。
 
こうした取り組みが全国でどの程度行われているのか存じませんが、未実施の各自治体の方々、ご一考を。
 
話は変わりますが、昨日、NHK『日曜美術館』担当ディレクター氏から、同じ10月6日オンエア分のDVDが届きました。あたりまえですが、家庭で録画したものより格段に画質が良く、ありがたいかぎりでした。
 
お見逃しの方、13日の夜に再放送があります。ぜひご覧下さい。 

日曜美術館「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」

2013年10月13日(日)  20時00分~20時45分 NHKEテレ

番組内容

『智恵子抄』で知られる高村光太郎。今回は、日本の近代彫刻を切り拓いた偉大な彫刻家としての人生に注目する。傑作誕生の陰には、妻・智恵子との知られざる物語があった。
まっすぐに天をさす人差し指。一瞬の動きを見事に捉えたブロンズ彫刻「手」。日本近代彫刻のれい明期を告げる作品の作者は、「智恵子抄」で知られる高村光太郎だ。明治彫刻界の巨人・高村光雲の長男として生まれ、フランス留学をきっかけに独自の彫刻を模索。そんな光太郎を支えたのが妻・智恵子の存在だった。最晩年の大作など傑作の数々を紹介しながら、生涯を智恵子の面影と共に生きた、彫刻家・高村光太郎の実像に迫る。

出演者

  • 出演 芥川賞作家…平野啓一郎 
  • 司会 井浦新 伊東敏恵
また、担当デレクター氏から、番組に寄せられた感想について教えていただきました。内部情報にあたる部分もあり、詳しくはご紹介できませんが、おおむね好意的なご意見が寄せられていました(少し手厳しいご意見もあったようですが)。ネット上のいろいろな方のブログ等でも同様です。
 
ただ、一般の方々の持つ光太郎のイメージは、やはり「『智恵子抄』の詩人」というのが第一なのだな、と改めて知りました。光太郎自身は「私は何を措いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとひ善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。」(「自分と詩との関係」昭和十五年)と述べています。もちろん「詩人」としての光太郎も魅力的ですが、もっともっと「彫刻家」としての光太郎にもスポットが当てられるべきだと思います。
 
そういう意味では今回の「日曜美術館」、そして開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」、非常によい企画だと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月10日

昭和9年(1934)の今日、光雲が胃癌のため歿しました。享年満82歳でした。
 
智恵子は九十九里で自らも千鳥となっていた時期です。光雲の遺産はその後の智恵子の療養費に充てられました。
 
光太郎が若い頃には留学の費用、画廊・琅玕洞の開店費用、詩集『道程』の出版費用などを全て出してくれた光雲。自らの歿後には、その遺産で智恵子の療養費をまかなってくれました。こうした経済的な部分だけでなく、本当にさまざまな面で光太郎智恵子を支え続けた一生でした。

もう1日、レモン忌関連のネタで行かせていただきます。
 
10/6の第19回レモン忌、来賓として智恵子の母校である二本松市立油井小学校の伊藤校長先生がご参会、同校での智恵子顕彰に関する取り組みをご紹介なさいました。
 
以下、レモン忌にていただいた学校便り「油井っ子」から。
 
まず、9/13に行われたモンデンモモさんを招いての活動
 
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9/15には「第5回智恵子純愛通り記念碑建立祭」への参加。

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9/24には油井小学校さんの主催で「第7回智恵子記念マーチングパレード」が行われたそうです。

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光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんでは、光太郎顕彰活動に取り組まれているそうです。また、5月15日の花巻光太郎祭では、山荘近くにあった山口小学校の後身・太田小学校さんや、同じく太田中学校の後身・西南中学校さんの児童生徒の皆さんが、詩の朗読や合唱、合奏で花を添えてくれています。
 
このように、小さな頃から自然と顕彰活動に取り組むことで、子供たちに自然と光太郎智恵子への敬愛の念が育ってゆくのではないでしょうか。
 
今後も継続的に取り組んでいっていただきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月9日

大正6年(1917)の今日、森鷗外に自宅に呼びつけられ、鷗外について陰口を叩いていることについて釈明させられました。
 
鷗外曰く、
 高村光太郎君がいつか「誰にでも軍服を着せてサアベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」と書いたことがあるやうだ。
(「観潮楼閑話」 大正6年10月)
 
 閑話は今一つ奇なる事件を生じた。それは高村光太郎さんが閑話中に引かれたことを人に聞いてわたくしに書をよせた事である。閑話に引いた高村光太郎氏の語は自ら記したものではなく、多分新聞記者の聞書などであつただらうと云ふことである。
(略)
 わたくしは高村氏に答へて、何時にても面会して、こちらの思ふところを告げようと云つた。とうとうわたくしは一夜高村氏を引見して語つた。
(略)
 高村氏はかう云ふ。自分は君を先輩として尊敬してゐる。唯君と自分とは芸術上行道を異にしてゐるだけだと云ふ。わたくしは答へた。果して芸術上行道を異にしてゐるなら、よしや先輩と云ふとも、それがよそよそしい関係になるであらう。わたくしの思ふには、君とわたくしとは行道を異にしてはをらぬやうである。
(略)
 高村氏は私の言を聞いてこれに反対すべきものをも見出さなかつた。
(同 大正7年1月)
 
光太郎曰く(川路柳虹との対談)、
川路 いつか高村さんが先生のことを皮肉つて「立ちん坊にサーベルをさせばみんな森鷗外になる」といつたといふので、とてもおこつて居られたことがありましたなあ。(笑声)
高村 いやあれは僕がしやべつたのでも書いたのでもないんですよ。
川路 僕も先生に、まさか高村さんが……と言ふと、先生は「いや、わしは雑誌に書いてあるのをたしかに見た」とそれは大変な権幕でしたよ。(笑声)
高村 あとで僕もその記事を見ましてね、あれは「新潮」か何かのゴシツプ欄でしたよ。或は僕のことだから酔つぱらつた序に、先生の事をカルカチユアルにしやべつたかも知れない。それを聞いてゐる連中が(多分中村武羅夫さんぢやないかと思ふんだが)あんなゴシツプにしちやつたんでせう。それで先生には手紙であやまつたり、御宅へあがつて弁解したりしたのですが、何しろ先生のあの調子で「いや君はかねてわしに対して文句があるのぢやらう」といふわけでしかりつけられました。(笑)
(「鷗外先生の思出」昭和13年=1938)
 
何だか現代の若者がネットに悪口を書き込んだとか書き込まないとかのトラブルの話のようです。さすがに暴力行為には発展しませんでしたが。
 
ところで、この鷗外と光太郎が見たという「「新潮」か何かのゴシツプ欄」というのが確認できていません。当時の「新潮」はすべてあたったのですが発見できず、他の雑誌等だったと思われます。情報をお持ちの方、出典を教えていただければ幸いです。

一昨日・10/5は智恵子命日「レモンの日」でしたが、昨日・10/6、智恵子の故郷福島県二本松市に於いて、智恵子を偲ぶ集い「第19回レモン忌」が開催され、行って参りました。
 
会場は智恵子生家に近い「ラポートあだち」さん。JAさんの施設です。参加された方の大半は地元の方でしたが、今年は青森は十和田から、社団法人十和田湖国立公園協会の方、十和田市役所の方をはじめ、現地で観光ボランティアをされている方など、総勢22名の皆さんが貸し切りバスで駆けつけられました。いろいろ貴重な情報等戴きましたが、スペースの都合上、明日、ご紹介します。
 
さて、午前10時半、開会のことばに続き、智恵子への献花・献果。献花はよく聞きますが、「献果」というのは珍しいですね。「果」は「果実」。ではなんの果実かというと、そう、レモンです。
 
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さらに参会者全員で光太郎詩「風に乗る智恵子」を朗読(群読)。その後、主催されているレモン会の会長・渡辺秀雄氏のご挨拶、二本松市の教育長さんなどの来賓祝辞と続きました。
 
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そして記念講演。昨年、『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された坂本富江さんによる講演「~旅のエピソード そして紙絵からのメッセージ……」がありました。
 
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御著書を書かれるにあたって訪れられた光太郎智恵子ゆかりの地での思い出などを、時に感動的に、時にユーモラスに語られ、皆さん非常に興味深そうに聴き入っていました。
 
ちなみに坂本さんになりかわり宣伝いたしますが、呼ばれればどちらででも講演なさいますのでお声がけ下さい(笑)。こちらに連絡いただければ仲介致します。
 
ところで、坂本さんはかつて智恵子が通っていた太平洋画会の会員でいらっしゃり、そこで太平洋画会さんで発行した智恵子素描2点の複製をお土産に持参され、参会者全員に配布されました。レアなものをいただけて、サプライズでした。この素描は平成11年(1999)、九州のやはり太平洋画会会員だった方の遺品の中からひょっこり見つかったものです(このニュースも衝撃的でした)。太平洋画会さんで複製を発行しているというのも存じませんでした。
 
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その後は会食しながらのスピーチ。先述の十和田の方々、地元二本松で智恵子生家の復元にあたった方、二本松市教委が発行した『アルバム高村智恵子』製作に当たられた方、智恵子母校の油井小学校校長先生など、いろいろ興味深いお話が聞けました。当方も喋って参りました。
 
さらにアトラクションとして、シンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんによるギター弾き語り。「あどけない話」「レモン哀歌」にオリジナルの曲を附けて熱唱されました。当方と腐れ縁、もとい縁の深いシャンソン歌手・モンデンモモさんも光太郎詩に自作の曲を附けて歌われていますが、モモさんの「智恵子抄」とはまたちがった素晴らしさがありました。
 
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失礼ながらこういう方がいらっしゃるとは存じませんで、もっけの幸い、瓢箪から駒、棚からぼた餅、連翹忌にお誘いして参りました。西新井在住だそうで、日比谷にはそう遠くありません。いずれ連翹忌でも演奏していただきたいものです。ちなみに北村さん、光太郎以外にも宮澤賢治や中原中也などの詩に曲を附けて歌われているそうです。
 
先日の劇団空感エンジンさんにしてもそうですが、若い方々が光太郎智恵子の世界を取り上げてくださるのが非常に嬉しい限りです。そうしてさらに次の世代、その次の世代と、100年、200年、いや、永久に光太郎智恵子の世界が語り継がれていってほしいものです。
 
最後は十和田の皆さんによる「湖畔の乙女」(十和田湖畔の裸婦像へのオマージュとして、その建立に関わった詩人・佐藤春夫が作詞した歌です。後に本間千代子さんの歌唱でレコード化されました)、会場全員による二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」斉唱で幕を閉じました。
 
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いつもいつも同じことを書いていますが、こうした地域の取り組みには本当に頭が下がります。連翹忌同様、レモン忌も末永く続けていっていただきたいものです。
 
千葉の自宅に帰ってから、録画しておいたNHK Eテレさんの「日曜美術館」を観ました。ある意味手前味噌になってすみませんが、こちらも改めて素晴らしいと思いました。Vは先日渋谷の放送センターさんで見せていただいたとおりでしたが、何度観てもいいものだと思いました。スタジオでの伊東敏恵アナ・ARATA改め井浦新さん、ゲストの作家・平野啓一郎氏のトークもよかったです。
 
ただ、平野氏ご自身、ツイッターでつぶやかれていますが、スタジオ収録の段階では今日のオンエアの3倍位話されていまして、それが3分の1に編集されているのが残念です。45分という枠があるので仕方がないのですが……。それはVでも同様です。二本松や九十九里などの映像が入りませんでしたし。もう、それをいいだしたらきりがありませんね。
 
昨日の放送を見逃した方、次の日曜日(10/13)、午後8:00~やはりNHK Eテレさんで再放送があります。お見逃しなく。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月7日

昭和23年(1948)の今日、『新岩手日報』に、石川啄木と高等小学校・盛岡中学校で同級生だった伊東圭一郎と光太郎の対談「清談を聴く」の後編が掲載されました。

福島は二本松から、近々行われるイベント情報の情報を2件紹介します。

五星山展記念しトークショー

10月12日から二本松市の大山忠作美術館で011開かれる5人の文化勲章受章画伯による心の復興支援「五星山展」を記念し、タレントの片岡鶴太郎さんと女優有馬稲子さんのトークショーが開催される。

 片岡さんは10月19日に登場する。画家としても知られる片岡さんは「五星山展」の題字を書いた。公開される5人の巨匠とその作品への思い、自身の創作などについて語る。

 有馬さんは11月4日に出演する。大山氏の代表作「智恵子に扮する有馬稲子像」のモデルとしての制作秘話や高村智恵子を演じた思い出を、大山氏の長女の女優一色采子さんとの対談形式で語る。
 会場は美術館が併設されている市民交流センター1階多目的室。時間はいずれも午後2時から。チケットは2000円(展覧会入館料込み)で各150席限定。主催する「五星山展」PR委員会はチケットを今月24日午前9時半から市民交流センターと事務局の岳温泉観光協会で直接販売する(電話予約は不可)。問い合わせは同協会 電話0243(24)2310へ。

 「五星山展」は日本画壇を代表する大山氏をはじめ東山魁夷、高山辰雄、平山郁夫、加山又造各氏(いずれも故人)の作品を一堂に展示する。11月17日まで。入館料は一般400円、高校生以下200円。
(福島民報社)
 
二本松駅前の市民交流センター内にある大山忠作美術館で行われる企画展「五星山展」の関連行事です。
 
昭和51年(1976)、新橋演舞場での公演「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」で、北條秀司作「智恵子抄」の際に智恵子役を演じた有馬稲子さん。二本松出身の大山忠作画伯が、その有馬さんをモデルに「智恵子に扮する有馬稲子像」を描きました。そのあたりのお話が聞けそうです。
 
もう一件。6月に当方が講師を務めさせていただいた「智恵子講座’13」の第4回があります。

智恵子講座’13 「ロダンと荻原碌山」 

日 時  10月14日(月・祝) 10:00~
会 場  二本松市市民交流センター
講 師  久慈伸一さん(福島県立美術館学芸員)
参加費 1,000円
申し込み 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん TEL/FAX 0243-23-6743

 
二本松。町おこし、震災からの復興といった意味合いでもこうしたイベントで盛り上がってほしいものですね。関係者各位のご努力に頭が下がります。
 
 
【今日は何の日・光太郎】 9月25日003

昭和30年(1955)の今日、NHKラジオ放送のため、草野心平との対談「芸術よもやま話」が録音されました。
 
オンエアは10月18日と25日。
 
この時の音源を用いて、平成2年に『NHKカセットブック 肉声できく昭和の証言 作家編6』が発行されました。カセットテープです。
 
光太郎の肉声が聴けるとあって、貴重なものです。光太郎、なかなかいい声です(笑)。
 
こうした録音資料、昭和から平成の初めころには何種類か発行されています。明日はそのあたりを紹介してみようかと思っています。

来月5日は智恵子の命日ですが、それに合わせて智恵子の故郷、福島・二本松にて智恵子を偲ぶ集い・レモン忌が開かれます。  

第19回レモン忌

日 時  10月6日(日) 10:30~15:00
会 場  ラポートあだち 福島県二本松市油井濡石16
会 費  3,000円
主 催  智恵子の里レモン会
 
記念講演:坂本富江先生「―智恵子抄を訪ねて―旅のエピソード……そして紙絵からのメッセージ」
 
申込先:〒969-1404 二本松市油井漆原34 戸田屋商店  FAX 0243-23-4858
 
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毎年、講演が行われていますが、今回の講師は昨年『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行された坂本富江先生です。
 
この日は先日のブログでご紹介したNHK Eテレさんの「日曜美術館」放映の日なのですが、そちらは録画予約し、こちらに行こうと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月19日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『労農』の編集顧問に就任しました。
 
『労農』というと戦前に山川均や荒畑寒村等によって刊行されていたアナーキズム系の雑誌が有名ですが、そちらではなく、詩人・森英介が中心になって山形で刊行された雑誌です。

福島発のイベント情報です。 

【募集中】智恵子さんの故郷/福島で「ほんとの星空」、体験できます。

標高1,575メートル。一般公開されている天文台の中では、日本で最も星空に近いのが浄土平天文台(福島市)。「智恵子は東京に空がないという。ほんとの空が見たいという」(あどけない話/高村光太郎)。智恵子さんの故郷/福島で「ほんとの星空」、体験できます。
 
浄土平秋の星空観察バスツアー(お弁当付き)は9月27日(金)18:00出発です。お申し込みは9月20日(金)まで!お一人様3,800円、募集定員は40名様(^_^)
詳しくはこちらから!
≪旅*東北イベント情報≫
 
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【今日は何の日・光太郎】 9月18日

平成9年(1997)の今日、講談社から津村節子著『智恵子飛ぶ』が刊行されました。
 
津村さんは芥川賞作家。夫はやはり作家の故・吉村昭氏。一昨年、吉村氏の闘病の日々を綴ったノンフィクション小説『紅梅』が話題となりました。
 
『智恵子飛ぶ』は、講談社の雑誌『本』に平成7年(1995)から連載されていた長編小説で、智恵子を主人公としています。光太郎智恵子と同じく芸術家夫婦であった津村さん独自の視点が随所に見え、すぐれた作品です。
 
刊行翌年の平成10年(1998)にはこの小説で芸術選奨文部大臣賞受賞、同12年(2000)には新橋演舞場で片岡京子さん(智恵子)、平幹次郎さん(光太郎)主演で舞台化されています。
 
この時の智恵子役は、当初、大物女優のMでしたが、身内の薬物事件で初日1週間前に降板を発表、もともと妹セキの役だった片岡さんが急遽智恵子役に抜擢され、見事に演じきりました。
 
舞台『智恵子飛ぶ』は同13年(2001)には京都南座で京都公演も行われました。智恵子役は同じく片岡京子さん、光太郎役は近藤正臣さんでした。
 
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智恵子役の片岡さん、セキ役は渡辺多美子さん、ともに1週間で仕上げてしまうのですからプロはすごいものです。右下は当時のスポーツ紙の記事です。
 
ちなみに以前も書きましたが、片岡017さんのお父さん、仁左衛門さんは「片岡孝夫」時代の昭和48年(1973)にNHKの銀河テレビ小説「生きて愛して」で光太郎役を演じられました。当方、この番組は記憶に残っていません。「片岡孝夫」というと「眠狂四郎」のイメージです……。
 
津村節子さんの『智恵子飛ぶ』、その後、平成12年(2000)には講談社文庫に入り、さらに平成17年(2005)から刊行が始まった岩波書店の『津村節子自選作品集』にも収められています。
 
文庫化の際にはハードカバーの内容を一カ所訂正したそうです。時代考証的に事実と合わないところがあったとのこと。
 
その経緯は津村さんのエッセイ「筆を執るまで」(『似ない者夫婦』平成15年=2003河出書房新社所収)に書かれていますが、曰く「小説といえども、あり得ぬことは書きたくない」。すばらしい。
 
津村さん、以前は光太郎忌日の連翹忌の集いにもご参加いただいていましたし、今もこちらから何かお送りするとご丁寧にお礼状を返して下さいます。これもすばらしい。
 
『智恵子飛ぶ』、『似ない者夫婦』、ぜひお読み下さい。

昨日に続き、福島レポートの2回目です。
 
午前中、智恵子の母校・油井小学校での音楽集会を見せていただいた後、安達太良山の麓を通り、岳温泉郷を越え、土湯温泉方面に向かいました。先月29日に全焼した不動湯温泉をの様子をこの目で見るためです。
 
昭和8年、統合失調症の進んだ智恵子の療養のため、光太郎と智恵子は福島・栃木の温泉巡りをし、その際に不動湯にも滞在しました。「二人が宿泊した旅館」というだけなら他にもたくさんあるのですが、不動湯の場合、二人が泊まった部屋が特定でき、さらにそのまま残っていたこと、それからおそらく確認できているものとしては唯一、光太郎が書いた宿帳が残っていたという点で貴重でした。それらが灰燼に帰してしまったわけです。
 
さて、土湯の温泉街からさらに数キロ入った山の中に不動湯温泉がありました。当方、約10年ぶりに現地に立ちました。10年前は自分の運転ではなかったのですが、今回、自分で運転して行ってみて、あらためてとんでもない山の中だというのを再確認しました(そのため消火作業がはかどらなかったそうです)。
 
現地に着き、まず目に飛び込んできたのは、道沿いにあった母屋から離れた車庫でした。
 
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そこから山の斜面を下りていくと、かつて母屋のあった場所につきました。火災から2週間経っていましたが、まだ焦げ臭いにおいが立ちこめていたのには驚きました。
 
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建物は跡形もなく焼け落ち、周りの森の立木まで真っ黒に焼けています。さらに下を見ると、渓流沿いの露天風呂に通じる階段の跡。この階段も不動湯名物の一つでした。
 
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かつて玄関だった辺りだと思いますが、花が供えられていました。従業員の方が一人、亡くなっていますので、そのためでしょう。当方も手を合わせ、ご冥福をお祈りして参りました。
 
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おそらく帳場があった辺りには、燃え残った書籍類や食器などが見て取れました。
 
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例の光太郎が書いた宿帳は燃え残っていないかと探してみました。それより新しいと思われる宿帳―それもほとんど黒焦げの状態でした―は見つかりましたが、光太郎が書いたものは見つかりませんでした。

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迷ったのですが、このままここで土に帰るよりはと思い、見つけた宿帳の切れ端を持って帰ることにしました。「土湯村」の文字が見えるので、これも相当古いものでしょう。保管して不動湯を偲ぶよすがとしたいと思います。
 
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以下、火災から2日後の『福島民報』さんの記事です。

秘湯、消火作業阻む 温泉街から4キロ、険しい道、水利悪く鎮火に7時間

 福島市土湯温泉町の「不動湯温泉 白雲荘」で29日夜に起きた火災は、焼け跡から一人が遺体で見つかる惨事となった。旅館は大正6年創業の老舗で、詩人高村光太郎・智恵子夫妻が宿泊したことで知られる秘湯。険しい山道と水利の悪さが消火作業を阻んだ。「浴衣のまま、はだしで逃げた」。30日に無事が確認された男性宿泊客は福島民報社の取材に対し、出火当時の緊迫した様子を語った。

 土湯温泉街から山道を約4キロ上った先にあった秘湯。一軒宿で周辺は水利が悪い上、狭い道がつづら折れになっていた。大型水槽を備えたタンク車が火災現場まで入れず、消火作業は難航を極めた。
 消防署12隊、消防団12隊の合わせて約120人が駆け付けた。地元消防団員の先導で小さな沢などを探し、土湯温泉街近くまで小型動力ポンプを運び、ホースを何本もつないで中継放水した。
 鎮火したのは、日付が変わった30日午前4時40分。火災発生から約7時間がたっていた。

 県消防保安課によると、昨年6月に福島市消防本部が同旅館に立ち入り検査した際、自動火災報知器や誘導灯、消火器などの安全を確認していた。旅館の延べ床面積は666平方メートルで、消防法で定めるスプリンクラーの設置義務はなかったという。

■無事確認の男性宿泊客 迫る炎、はだしで避難
 30日に無事が確認された神奈川県鎌倉市の男性客(46)は、旅館から着の身着のまま逃げた状況を生々しく振り返った。
 「もう駄目だ、逃げろ」。消火活動をしていた男性従業員の叫び声が響き渡った。出張で福島市を訪れていた男性は29日夕、宿泊の手続きを済ませ、名湯に漬かり、晩酌を楽しんでいた。午後9時半ごろ、「赤い明かりが見える」と切迫した大おかみの声が聞こえた。男性が廊下につながるふすまを開けると、白い煙と真っ赤な炎が辺りを包んでいた。惨事を予感し、浴衣姿のまま、はだしで車に駆け込んだ。
 秘湯を後にし、市内の飲食店駐車場で一夜を明かした。「二度とこんな経験はしたくない」。男性の表情に疲れの色が見えた。
 大おかみの阿部美千子さん(77)は、客の誘導中に旅館内が瞬く間に炎に包まれていくのを目撃した。「どうにもできなかった」と、力なく振り返った。

■老舗旅館惜しむ声 原発事故後も人気「貴重な存在」
 土湯温泉では、東日本大震災で被災し、廃業に追い込まれる旅館もあったが、大正時代に建築された白雲荘の本体は震災に耐えた。
 破損した約80段の外階段を4月から6月にかけて県の補助金で補修したばかり。9月から11月にかけて秘湯と歴史を満喫してもらうモニターツアーを企画し、参加者を募集中だった。おかみが大正時代から続く同旅館の歴史を「語り部」として説明する時間も設けていた。
 土湯温泉観光協会事務局長の池田和也さん(55)は「秘湯と歴史で、全国の温泉通の間で人気が高く、原発事故後も県外からお客を呼べる貴重な存在だった」と惜しんだ。

■智恵子の宿帳、焼失か
 白雲荘には高村光太郎、智恵子夫妻が昭和8年9月に宿泊し、その筆跡が残る宿泊者名簿も焼失したとみられる。
 智恵子の研究を続ける二本松市文化財保護審議会委員の根本豊徳さん(62)は「光太郎と智恵子の最後の旅行の行程を裏付ける貴重な証拠だっただけに、大きな損失だ」と嘆いた。
 
色即是空、諸行無常と申しますが、それにしても……です。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月15日

昭和26年(1951)の今日、「創元選書」の一冊として、『高村光太郎詩集』が刊行されました。編集に当たったのは草野心平でした。

昨日は福島二本松方面に行って参りました。2回に分けてレポートします。
 
まずは午前中、智恵子の母校である二本松市立油井小学校さんにお邪魔しました。
 
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3年生以上の児童さんが参加しての音楽集会的な活動で、「智恵子抄」にオリジナルの曲を付けて歌われているモンデンモモさんがご参加なさいました。
 
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約1時間の中で、モモさん作曲の「智恵子抄」をはじめ、いろいろな曲を演奏。ただ歌って聴かせるだけでなく、子供たちと一緒に動きを入れながらだったので、子供たちも飽きることなく参加していました。
 
最後には子供たちが、ご当地ソング・二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」を演奏しました。
 
油井小学校さん、他にも智恵子の顕彰活動をいろいろとすすめられてきたようで、職員室前の廊下には智恵子コーナーなどもあり、感心させられました。また、敷地内には明治6年(1873)の開校時に植えられた松の木をはじめ、智恵子在学中から植わっている木が3本あったりもします。
 
夜は会場を二本松駅前の二本松市市民交流センターに移し、「福モモプロジェクト・復興支援コンサート」。二本松ロータリークラブさんの主催でした。
 
モモさん以外にも地元の音楽家の方々、トランペット・Nobyさん、メゾソプラノ・紺野由香里さん、ピアノ・本多裕子さんを交えてのコンサートで、こちらも様々に趣向を凝らしたコンサートでした。
 
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最後には会場の皆さんと共に、復興支援ソング「花は咲く」を大合唱しました。
 
モモさんは11月にも福島でいろいろとステージをなさいます。近くなりましたら、またお伝えします。
 

さらに今回共演されたメゾソプラノの紺野由香里さんとトランペットのNobyさんは、明日、二本松安達地区の「智恵子純愛通り記念碑 5周年記念式典」にもご参加なさるそうです。
 
さて、午前中が油井小学校、夜が市民交流センター。午後は何をしていたかと申しますと、先頃ニュースで痛ましい全焼火災が報じられた不動湯温泉に行っておりました。明日はそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月14日017

昭和61年(1986)の今日、山梨県清春白樺美術館で開催されていた「生誕100年記念 高村智恵子紙絵展」が閉幕しました。
 
清春白樺美術館さんは昭和58年(1983)、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった「幻の美術館」を実現させようと作られたものです。
 
同館では現在3点しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの1点「樟」を所蔵しています。

福島の現代詩研究会様より、同人誌『現代詩研究』71号をいただきました。
 
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二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」代表の熊谷健一氏が書かれた「智恵子光太郎婚約の地を訪ねて ―智恵子のまち夢くらぶ 第九回研修の旅―」が2ページにわたり掲載されています。
 
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夢くらぶさんでは毎年、光太郎智恵子ゆかりの地への研修旅行を行っており、今年は信州上高地、安曇野へ行かれた由。
 
同人誌の刊行にしても、研修旅行にしても、それから過日ご紹介したモンデンモモさんのように音楽を通しての顕彰活動。こうした地道な取り組みには本当に頭が下がります。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月10日

大正14年(1925)の今日、光太郎の母・わかが大腸カタルのため歿しました。
 
わかは数え68歳でした。昨日は光太郎の姉・咲の命日。今日は母・わかの命日。こういうこともあるんですね。
 
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井原市立田中美術館での「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の開会式が行われ、そちらに出席、先ほど、帰って参りました。そちらのレポートは明日以降書きます。
 
開会式が終わり、展示を観て、コインロッカーから荷物を出し、携帯を見ると、花巻の高村記念会様から着信が入っていました。折り返し電話してみると、「不動湯温泉が全焼したのをご存じですか?」とのこと。
 
実は開会式の後で、参加されていた方の一人が「そういえばニュースで光太郎ゆかりの旅館で火事だったそうですよ」とおっしゃっていて、「まさか不動湯じゃないだろうな」と思っていました。他の旅館ならいい、というわけではありませんが……。
 

旅館火災、2人不明 高村光太郎夫妻も宿泊の老舗 福島

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 29日午後9時半ごろ、福島市土湯温泉町大笹の老舗旅館「不動湯温泉」で火災があり、旅館がほぼ全焼した。市消防本部によると、宿泊客や旅館の従業員ら計9人のうち7人の無事が確認されたが、男性客と旅館関係者の女性で、いずれも50代の2人の行方が分からなくなっているという。
 旅館のホームページによると1917(大正6)年創業で、宿泊者名簿には療養のため訪れたとみられる詩人の高村光太郎、智恵子夫妻の名前も残る。大正時代に建築されたという旧館も焼失したという。
 土湯温泉街から山道を約4キロ入った、秘湯として知られる一軒宿。
(『朝日新聞』)
 
 その後、NHK福島放送局さんからも携帯に電話が入り、不動湯温泉と光太郎智恵子について質問されましたのでお答えしましたが、できればこのような報道に対してではなければ……との思いでした。
 
 結局、夕方の続報では、従業員とみられる方、一人の死亡が確認されたとのこと。謹んでご冥福をお祈りいたします。 

福島「不動湯温泉」火災で1遺体が見つかる

 29日午後9時30分ごろ、福島市土湯温泉町、不動湯温泉「白雲荘」=阿部久雄社長(80)=から出火、温泉旅館の木造2階、地下1階建て本館と棟続きの旧館約667平方メートル、隣接する木造平屋の物置約33平方メートルを全焼した。市消防本部によると、出火当時、旅館には宿泊客、従業員合わせて9人がいたが、焼け跡から1人の遺体が見つかった。所在が分からない従業員の50代女性とみられる。8人は逃げて無事だった。
 その後の調べで、阿部社長がけがを負っていたことが分かった。
(『福島民友新聞』)
 
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(『テレビ朝日』)
 
【今日は何の日・光太郎】 8月30日008

昭和40年(1965)の今日、社会思想社から現代教養文庫の一冊として『紙絵と詩 智恵子抄』が刊行されました。
 
不動湯を訪れた直後に回った裏磐梯での作、「山麓の二人」も含みます。

最近、新刊書店で「現代教養文庫」を見かけないな、と思って調べてみましたところ、平成14年(2002)に同社は事業停止だそうでした。なかなか硬派の出版社が生き残れない時代なのですね……。

9/1追記 不動湯温泉全焼のため、当該番組は内容差し替えとなりました。
 
つい先日、昭和8年(1933)に光太郎・智恵子が立ち寄った福島の不動湯温泉をこのブログで紹介しましたが、タイムリーなことにテレビで放映されます  

湯のまち放浪記「福島県~天空の秘湯をめぐる 土湯温泉、ぬる湯温泉、高湯温泉」

BS-TBS 2013年9月3日(火)  22時00分~22時54分
 
番組内容
今宵の放浪は、福島県土湯温泉、ぬる湯温泉、高湯温泉。高村光太郎と智恵子が立ち寄ったという秘湯や、ビックリするくらいぬるい「ぬる湯温泉」に宿泊したりと、智恵子の云う「ほんとうの空」のもと、ゆったりと温泉を楽しみます。

出演者 温泉バガボンド 清水国明 湯のまちパートナー 矢野直美

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今も残る光太郎智恵子の泊まった部屋、光太郎直筆の宿帳などが映るといいのですが……。ぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎】 8月28日

大正4年(1915)の今日、光雲が農商務省より第三回図案及応用作品展覧会審査委員を嘱託されました。

【今日は何の日・光太郎】 8月24日

昭和8年(1933)の今日、智恵子とともに、東北・北関東の温泉巡りの旅に出ました。
 
同じ年の昨日、入籍を果たした光太郎と智恵子。進行する智恵子の統合失調症を恢復させようと、智恵子の故郷、安達(現・二本松市)にある長沼家菩提寺満福寺に墓参、その後、川上温泉、青根温泉、土湯温泉不動湯、塩原温泉などを巡り歩きました。また、その途中に通った裏磐梯での体験を元に作ったのが、「わたしもうぢき駄目になる」のリフレインで有名な詩、「山麓の二人」です。
 
結局、翌月に東京に帰った時には、智恵子の症状はさらに進行していました。
 
さて、その福島土湯温泉からタイムリーなニュースです。 

歴史ある秘湯楽しんで 土湯温泉でモニターツアー

福島民報 8月23日(金)9時50分配信
 
 福島県の土湯温泉観光まちづくり協議会は東日本大震災からの復興事業の一環として「土湯秘湯と大正の宿ロマンモニターツアー」を9月から11月までの週末を中心に実施する。
 日帰りと1泊2日の2コースを用意。大正6年創業の老舗旅館・不動湯温泉で温泉を楽しみ、高村光太郎、智恵子夫妻も宿泊したという長い歴史を誇る同旅館や土湯温泉についての話を聞く。さらに、ガイド付きで土湯温泉の源泉を訪れ、噴気や、バイナリー発電計画地を見学する。

 料金は日帰りコースが大人2000円(最低催行人員5人)、1泊2日コースが大人1万1000円(同1人)。申し込みは開催日の10日前まで。問い合わせは同協議会 電話024(595)2217へ。
 
 
不動湯さんは、土湯温泉の中心街から山深く入っていった所にある一件宿です。まさに「秘湯」の名にふさわしい場所です。
 
光太郎智恵子が訪れた当時の部屋が残り、さらに光太郎が書いた宿帳も奇跡的に保存されています。

追記・平成25年(2013)8月の火災で、建物、宿帳とも焼失しました。その後、焼け残った露天風呂を使って日帰り温泉施設としてリニューアルオープンしました。
 
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温泉大好きの皆さん、いかがでしょうか?

テレビ放映情報です。 

きらり!えん旅~日野美歌 福島・二本松市

NHKBSプレミアム 2013年8月22日(木)  19時30分~20時00分

歌手・日野美歌さんが福島県二本松市を訪れ、リンゴ農家が震災後初めて取り組んだリンゴ酒、44回目のロードレース大会、仮設工房で復活した隣町浪江町の焼物を楽しんだ。

番組内容
歌手・日野美歌さんが福島県二本松市を訪れた。震災後ほとんど売れずに廃棄していたリンゴを生かせないかと農家が挑戦した発泡リンゴ酒を味わう。7月7日、44回目のロードレース大会が開かれた。地元の果物などが並ぶ給水所が参加者に人気。隣町浪江町からの避難者たちが仮設の工房で復活させた大堀相馬焼を楽しむ。旅の最後に日野美歌さんはコンサートを開き、被災者を思い自ら作詞した「桜空」などを心を込めて熱唱した。

出演 日野美歌
語り 冨永みーな


この番組は震災の復興支援のため、東北を中心に被災地からいろいろと情報が発信されています。昨年は同じ二本松を由紀さおりさんが訪れ、智恵子生家の裏山にある光太郎詩碑の丘でロケが行われ、地元の「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷氏がご出演されました。
 
今回は智恵子がらみのネタがあるかどうかわかりませんが、番組の最後で流れる日野さんのコンサートで流れる「桜空」。「歌凛」のペンネームで日野さん自身が作詞された曲です。動画サイトで聴いてみましたが、「さよなら告げず 空の彼方あなたは帰らない」など、ぐっとくる歌詞のてんこ盛りです。福島で「空」といえば智恵子の愛した「ほんとの空」。そのあたりで智恵子がらみの話になることを期待します。
 
ちなみに「きらりえん旅!」、9月5日のオンエアは、八神純子さんで女川です。
 
もう一点、今日8月20日オンエアのテレビ東京系、「開運!なんでも鑑定団」。新聞の番組欄はこうなっていました。
 
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同番組の公式サイトで予告動画を見ると、詳しくは出ませんでしたが、どうやら光雲、またはの弟子の誰かの作品が出るようです。
 
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【今日は何の日・光太郎】 8月20日

昭和16年(1941)の今日、龍星閣から詩集『智恵子抄』が刊行されました。
 
その後、現代までに様々な版が出版されましたが、オリジナルの『智恵子抄』が出たのが72年前の今日です。 
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8月10日、女川光太郎祭の翌日。北川太一先生の教え子の皆さんである北斗会の方々がチャーターされたマイクロバスに便乗して帰って参りました。
 
北斗会の方々は、北川先生のご講演があるということもありますし、多くの方が女川光太郎の会の中心だった故・貝(佐々木)廣さんと面識がおありで、そのため昨年・今年と多数女川光太郎祭にいらしていただいています。
 
バスに乗せていただく代わりに、帰りに二本松に寄り、いろいろとご案内しました。智恵子の生家、智恵子記念館、「樹下の二人」詩碑、大山忠作美術館など。
 
智恵子生家・記念館に着いて、地元で智恵子顕彰活動をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一さんの携帯に電話、すると熊谷さん、お仕事の合間に来て下さり、展示の詳しいご説明等なさってくださいました。1013
 
その中で、当方も初めて知ったのですが、智恵子の肖像写真として最も有名な右のショットについて、興味深いお話を伺いました。
 
ちなみにこの写真の初出は明治45年(1912)6月5日の『読売新聞』。「新しい女(一七)長沼智恵子」という記事に使われました。その後、同じ年10月の雑誌『新婦人』に口絵として大きく載りました(当方、こちらは持っています)。この時智恵子、数え27歳、前年暮れに光太郎と出会っています。
 
今まで、この写真がどこで撮影されたかなど、まったく考えたこともありませんでしたが、熊谷氏曰く、バックの障子や柱、壁の感じから、どうやら生家の縁側で撮られたものと考えられる、とのこと。実際にその場所でこのアングルから見ると、たしかにそのように見えました。
 
となると、他にも長沼一家が写った写真は複数あり、それらを含めて、地元の写真技師が撮影したということなので、原板的なものがどこかに残っていないかなどと思いました。情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご一報いただけると幸いです。
 
さて、智恵子生家のすぐ近くに戸田屋さんという商店があります。食料品から日用雑貨、土産物まで売っているお店です。今回同行された文治堂書店の勝畑耕一氏が気づいたのですが、その店内に、女川光太郎の会の故・貝(佐々木)廣氏の筆跡が残っていました。

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智恵子を顕彰する集いとし000て毎年10月に行われている「レモン忌」の第一回が平成6年に行われた(この年は10月ではなく9月)際の寄せ書きで、戸田屋さん店内の壁、高いところに貼ってありました。
 
当方、戸田屋さんは何度も訪れていますが、全く気づいていませんでした。
 
その上、戸田屋さんのおかみさんが貝さんのことをよく覚えていらっしゃり、我々一行が女川からの帰りであると知って、驚いていました。
 
人と人とのつながり、というのは本当に不思議なものです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月14日

明治42年(1909)の今日、徴兵検査を受けました。結果は「咀嚼に耐えず」との理由で不合格でした。
 
軍医総監だった森鷗外が裏で手を回してくれたらしい、とのことです。
 

昨日、福島から帰ってきたら届いていました。  

にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島

昨年12月28日、福島県文化センターで開催された「にほんごであそぼ 元気コンサート in 福島」の模様で、今年1月6日にテレビ放映されたもののDVD化です。
 
【収録内容】000
●オープニング
 ♪小さき者へ
 ♪ええじゃないか日本
●オペレッタ「セロ弾きのゴーシュ」
●みんなでじゅげむ
●にほんご名文組曲
 ♪こころよ
 ♪すずめのこ
 ♪雲
 ♪やせがえる
 ♪でんでらりゅうば
 ♪なせばなる
 ♪私と小鳥と鈴と
 ♪道程
●みんなでうたう四季の歌
 ♪朧月夜
 ♪茶摘み
 ♪旅愁
 ♪冬景色
●もちづくし
 侭田亀治郎「糯尽」より
 狂言「業平餅」より
 井上ひさし「薮原検校」より
●元気でいこう! ごもじもじ
●エンディング
 ♪小さき者へ
 ♪さよなら

【出演】
コニちゃん、野村萬斎、神田山陽、おおたか静流、うなりやベベン、子どもたち、ほか

【ゲスト】
坂本龍一、藤原道山、福島大学附属小学校合唱部のみなさん

【演奏】
松田拓之、大宮臨太?、坂口弦太郎、山内俊輔(以上、NHK交響楽団より)、高橋希(ピアノ)

【特典映像】
振り付けのラッキィ池田によるコンサート前説 + 坂本龍一の事前レコーディング風景
 
先週土曜のブログでご紹介した坂本龍一さん作曲の「道程」も収められています。
 
それ以外にも、冒頭部分ではおそらく二本松の智恵子の杜公園展望台から撮った映像と、安達太良山の麓で撮った映像に乗せ、光太郎の「あどけない話」の一節が紹介される他、「特典映像」では坂本龍一さんによるピアノ/キーボード伴奏の収録風景も。ここでは「道程」が中心に扱われており、伴奏だけ聴いていると、3拍子の曲ながら、ジャズナンバーのようです。
 
やはり子供向け、と侮るなかれですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月23日

昭和4年(1929)の今日、朝日新聞社において開催されたミスコンテスト「現代女性美」審査会に審査員として参加しました。
 
これは『アサヒグラフ』誌上の企画でした。この時代、ミスコンテストといいながら写真審査のみ。下の画像が選考風景ですが、光太郎、真剣に写真に見入っています。
 
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審査終了後の座談会の模様がこの年8月7日発行の『アサヒグラフ』に載っており、「光太郎遺珠」⑤に収めてあります。8名の「女性美代表」のうち3名の写真も出ていますが、画像が粗くてよくわかりません。
 
ただ、その一人が、のち歌人として名が知られる斎藤史(ふみ)。右はその後しばらくたってからの写真ですが、確かに美人ですね。
 
ちなみに日本初のミスコンは明治41年(1908)。なんと、この時の審査員には光雲も名を連ねています。
 
この時の賞品はダイヤモンドの指輪だったそうです。一等賞は九州出身の末弘ヒロ子。お姉さんのお孫さんはジャズピアニストの山下洋輔さんです。
 
義兄が勝手に応募したとのことで、今でもよく聞く話ですね。しかし、ヒロ子嬢、これがもとで通っていた学習院女学部を退学させられます。そういう時代だったのですね。

昨日、朝一番で花巻に向かい、継続中だった調査を完了させ、大沢温泉さんに一泊、今朝、福島に向かいました。福島市公会堂で開催の、「宇宙飛行士山崎直子氏講演会 ~将来への夢と希望の実現に向けて~」のためです。
 
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000昨日のブログにも書きましたが、山崎さんがかつて光太郎の詩「道程」に支えられたという縁で、「道程」など光太郎の詩に曲を付けて歌われているシャンソン歌手(なぜか今日は『シンガーソングライター』と紹介されていました)のモンデンモモさんがオープニングセレモニーにご出演。共にオリジナル曲の「道程」と「花見山」を歌われました。
 
「花見山」は福島市にある公園の名前です。当方、実際に行ったことはありませんが旅番組で取り上げられているのを見たことがあります。約5ヘクタールの小高い山に、桜をはじめ様々な花が植えられていて、福島を代表する花の名所だそうです。驚くのは、そこが個人の土地であり、所有者の方が善意で一般に無料開放なさっているということ。すばらしいことですね。
 
で、モモさん、その花見山を訪れての感動を曲にしたというわけです。
 
その後、山崎さんのご講演。スクリーンに宇宙での貴重な画像を映しつつお話をなさり、非常にわかりやすい内容でした。地元の小中学生が学校単位で多数聴きに来ていたので、その子供たちにもわかりやすいように、というご配慮が随所に感じられました。おかげで理数系オンチの当方も興味深く聴くことが出来ました。
 
光太郎のお話も出ました。中学2,3年生の時の担任の先生が「道程」を黒板に書いて、熱く語られたこと。その時はあまり心に響くものはなかったそうですが、後に実際に宇宙に行かれるまでの苦しい訓練の時期(実に10年以上)などに、この詩が支えになったことなど。
 
山崎さん以外にも、この詩に多かれ少なかれ影響を受けたという人は多いのではないでしょうか。およそ100年前(正確には99年前。したがって来年は「道程」100周年です)に書かれた詩が、今も多くの人を支えているということに、あらためて光太郎のすごさを感じます。
 
終了後、緞帳をおろしたステージでの記念撮影。中央が山崎さん。後列にはモモさんとピアノの砂原さんもいらっしゃいます。

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その後、山崎さんと、連翹忌のことなどお話しさせていただきました。お渡しした名刺にこのブログのURLも書いてありますので、ご覧いただけるのではないかと期待しております。
 
ところで、今日は福島ではいろいろな動きがありました。やけに警察車両が目立つな、と思っていたら、天皇皇后両陛下が来県、飯舘村の居住制限区域を視察なさって、今夜は飯坂温泉に泊まられるそうです。それからいわき市ではプロ野球のオールスターゲーム第3戦が開催されています。
 
東北は、まだまだ復興途上です。ぜひこの夏休みには足を運んでいただき、復興支援をお願いしたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月22日

昭和27年(1952)の今日、山形・米沢に建てられた詩人・森英介の墓標の文字を揮毫しました。
 
森英介(大6=1917~昭26=1951)は米沢出身の詩人。生前に(正確にはぎりぎり間に合わずなくなりましたが)刊行された唯一の詩集『火の聖女』には、光太郎が序文を寄せています。この詩集は活字工として働いていた森が自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、森はその直後に胃穿孔で急逝してしまいました。
 
翌年に建てられることになった墓標の文字を依頼された光太郎は、哀惜の意を込めて正面に刻まれた「森英介之墓」、向かって左側面の「智応院正行日重居士」(戒名)を揮毫しました。
 
当方、10年ほど前に開通間もない山形新幹線に乗ってこの墓標を見に行きました。市内相生町の善立寺というお寺にひっそりと佇んでいました。今もそのまま残っているのではないかと思います。おそらく地元の方もほとんど光太郎の文字がここにあるというのはご存じないのではないでしょうか。

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昨日までのブログで福島・川内村天山祭りについて書きましたが、川内村に行く前に、同じ福島の小野町にある「丘灯至夫(としお)記念館」さんに行きました。
 
川内村と同じく、磐越自動車道の小野ICで下り(川内村は、本来、常磐自動車道の常磐富岡ICで下りるのが早いのですが、原発事故のため常磐自動車道は事故から2年以上たった今も広野IC~常磐富岡IC間が通行止めです)、車で5分ほどの場所です。
 
「記念館」という名称ですが、正確には「小野町ふるさと文化の館」の一角で、町立図書館さんの二階です。
 
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故・丘灯至夫氏は小野町出身の作詞家。代表作は舟木一夫さんの歌う「高校三年生」。「あーかーいーゆうーひがー校舎をそーめーてー」です。メロディーがぱっと浮かぶ人はある程度の年齢でしょうね。ちなみにこの曲のリリースの時点では当方は生まれていません。したがって、当方としては同じ丘氏の作品でも、「ハクション大魔王」や「昆虫物語 みなしごハッチ」のテーマソングの方が身近に感じられます。これらも十分古いのですが(笑)。
 
さて、それ以外の丘氏の代表作に、二代目コロムビア・ローズさんが歌った「智恵子抄」があります。昭和39年(1964)のリリースで、ローズさんはこの年の「紅白歌合戦」にこの曲で出場しています。そのあたりは昨年、このブログに書きましたのでご参照下さい。


 
で、作詞の丘氏の記念館が出身地の小野町にできたわけです。落成は平成5年(1993)。丘氏はまだご存命でした。その後、小野町名誉町民となられたのが同13年(2001)、亡くなったのは同21年(2009)。そして翌年に展示スペースを増設して、記念館がリニューアルされました。
 
展示パネル類。やはりご当地ソングということで、「智恵子抄」が大きく扱われています。
 
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二本松出身の日本画家・大山忠作氏の描かれた安達太良山の絵との合作です。ちなみに大山氏も「智恵子抄」がらみの絵をたくさん描いていて、二本松駅前にはそれらを展示する大山忠作美術館ができています。
 
館内には丘氏の代表作がBGMとして流れていましたが、「智恵子抄」もしっかり流れていました。「東京の空 灰色の空 ほんとの空が見たいという……」。丘氏も、大山氏も既に空の上に行ってしまいました。昨日までこのブログで扱っていた草野心平も。そして、もちろん智恵子も。みなさん、空の上から福島を見守って下さっていることでしょう。しかし、その空が原発事故のために「ほんとの空」ではなくなってしまいました……。
 
話は飛びますが、もうすぐ参議院議員選挙。憲法改正やらTPPやらが取りざたされていますが、被災地復興が今ひとつ選挙の争点になっていないような気がします。かたや未だに福島第一原発では汚染水の処理がうまくいかない現状。福島の空の上から、丘氏や智恵子たちは、どんな思いでそれを見ているのでしょうか……。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月17日

昭和23年(1948)の今日、高知県香我美町(現・香南市)岸本で、光太郎が揮毫した岡本弥太詩碑「白牡丹図」が除幕されました。
 
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上記画像、20年近く前に高知まで行って撮ってきました。

そろそろ次のネタに行こうかと思っていましたが、ニュース検索を見ていたところ、先日の川内村天山祭りについて報道がありましたのでご紹介します。  

帰還2年目「天山祭り」 川内で開催、喜びかみしめ

 川内村名誉村民で「カエルの詩人」として知られる草野心平を顕彰する村恒例行事第48回「天山祭り」は13日、同村で開かれ、参加者が心平をしのぶとともに、原発事故前と同様に村で行事を行えることへの喜びをかみしめた。
 原発事故後、実行委主催の同祭り開催は昨年に続き2回目。同祭りは心平の蔵書が収蔵される「天山文庫」での開催が恒例だが、今回は雨天のため、いわなの郷体験交流館で開かれた。
 村民をはじめ、県内外から集まった心平ファンら約200人が来場。「高田島神楽舞」が村の伝統芸能の神楽舞、村婦人会が川内甚句などを披露した。
 心平自身による詩の朗読が収録されたCDも流され、参加者はあらためて心平の詩の魅力に触れた。
(2013年7月14日 福島民友ニュース)
 
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草野心平の業績 川内で学びたい●ひ孫のスペイン人来訪

 川内村で13日、詩人の草野心平(1903~88年)をしのぶ「天山祭り」が開かれ、心平のひ孫のスペイン人女性(31)が初めて出席した。会場に飾られた心平の写真に「おじいちゃんそっくりな顔」と語った。
 スペイン南部のセビリアに住むマリアデルカルメンさん。今年5月に来日した。祖母にあたる、心平の長男の妻が東京・神楽坂で開いているバーを「メリー草野」の名前で手伝っている。フラメンコダンサーだった、心平の長男の娘がスペイン人男性と結婚して生まれたのがメリーさんだ。
 来日は5回目だが、福島で原発事故が起き、「日本にいる親類たちが大丈夫なのか、ものすごい不安だった」という。心平の出身地であるいわき市と、心平ゆかりの川内村を間近で見て「不安は減ったが、まだ状況を理解できない」と話す。
 心平は、川内村の寺の住職の招きでモリアオガエルの平伏(へ・ぶす)沼を訪れたのがきっかけで、1年のうち数カ月を川内で過ごしていた。天山祭りは村民やファンとの交流行事として始まり、心平の死後も続き、今年で48回目。集まった約200人にメリーさんは紹介された。
 祭りでは心平の詩が朗読された。メリーさんは「母親から昔、『草野心平』について名前を聞かされたが、どんな人物かまでは知らなかった。これだけの人たちが今も集まるのに驚いた。心平の業績をこれから学んでいきたい」と語った。   (岡本進)
 
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メリーさん、この後、村内の小松屋旅館さんで開かれた懇親会にもご参加下さいました。どさくさに紛れて千葉市美術館の「彫刻家 高村光太郎展」のチラシを差し上げてきました。
 
記事の中で「おじいちゃん」とあるのは心平の長男・故草野雷(らい)氏。「長男の妻」とあるのは、草野智恵子さん。奇しくも「智恵子」さんです。智恵子さんもメリーさんともども今回川内にいらっしゃいました。
 
心平や、ついでに(笑)光太郎が国境を越えて世界の人々にもっと知られる橋渡しになっていただければと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月16日

昭和23年(1948)の今日、岩手花巻で「花巻賢治子供の会」を主宰、賢治の童話劇を上演していた照井登久子が作成した光太郎点字詩集の表紙を揮毫しました。

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一昨日、福島県川内村の草野心平を偲ぶイベント「天山祭り」に行って参りました。今日も川内村ネタで行きます。
 
もともと草野心平と川内村の縁は、蛙。蛙をモチーフにした詩をたくさん書いた心平が、樹上に産卵するというモリアオガエルに興味を持ち、その生息地である川内村を訪れたことに始まります。
 
先日の天山祭りでは、心平の肉声の録音による詩の朗読が流されました。宮沢賢治の「永訣の朝」「雨ニモマケズ」、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、そして心平自身の詩「ごびらっふの独白」。「蛙語」で書かれています。
 
  ごびらっふの独白 001

 

るてえる びる もれとりり がいく。

ぐう であとびん むはありんく るてえる。

けえる さみんだ げらげれんで。

くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。

なみかんた りんり。

なみかんたい りんり もろうふ ける げんげ しらすてえる。

けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。

きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。

じゅろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。 002

ぷう せりを てる。

ぼろびいろ てる。

ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりあ ろとうる

ける ありたぶりあ。

ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。

ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。

いい げるせいた。

でるけ ぷりむ かににん りんり。

おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。

びる さりを とうかんてりを。

いい びりやん げるせえた。

ばらあら ばらあ。
 
この詩は昭和23年(1948)に刊行された心平の詩集『定本蛙』に収められていますが、その扉は光太郎の揮毫です。
 
まず光太郎には書けない詩ですね。光太郎は自分にはない心平のこの種の才能を高く評価していました。
 
この詩には「日本語訳」もついています。003
 
幸福といふものはたわいなくつていいものだ。
おれはいま土のなかの靄のやうな幸福につつまれてゐる。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
みんなの孤独が通じあふたしかな存在をほのぼの意識し。 
うつらうつらの日をすごすことは幸福である。
この設計は神に通ずるわれわれの。
侏羅紀の先祖がやつてくれた。
考へることをしないこと。
率直なこと。
夢をみること。
地上の動物の中でもつとも永い歴史をわれわれがもつてゐるといふことは 平凡であるが偉大である。
とおれは思ふ。
悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
言わば即ち天である。
美しい虹だ。
ばらあら ばらあ。
 
さて、一昨日。天山祭りとその後の懇親会の間が一時間以上空いていましたので、村有数のモリアオガエル繁殖地である平伏沼(へぶすぬま)に行ってみました。
 
蕭々と降る雨の中、村の中心部から7~8㎞はあったでしょうか、延々と続く山道を「ほんとにこの道でいいのかな」と思いつつ運転しました。これ以上車で行けない、というところに駐車し、熊でも出そうな森の中をさらに200㍍ほど歩きました。
 
やがて眼前に沼が。意外だったのは、沼といいつつ水が無いことです。
 
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木の下に発泡スチロールの容器が100個ほども置いてあるでしょうか。中を見ると……。
 
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これがモリアオガエルのオタマジャクシなんですね。心平の魂を受け継ぎ(笑)、元気に育ってほしいものです。
 
親ガエルは盛んに鳴いていましたが、その姿は見えませんでした。また、特徴的な樹上の卵胞も、それらしきものは見えましたが、よくわかりませんでした。雨も降っていましたし、もう日暮れが近づいていましたので。
 
モリアオガエルの繁殖地として国の天然記念物に指定されているのは、ここと、岩手県にもう一カ所だけだそうです。原発事故に右往左往する我々人間を見て、蛙たちは、そしてあの世の心平や光太郎は、どう思っているのでしょうか……。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月15日

昭和7年(1932)の今日、智恵子が大量の睡眠薬を服用しての自殺未遂がありました。
 

昨日は、第48回天山祭りにお招きいた002だき、福島川内村に行って参りました。川内には昨秋の心平忌日「かえる忌」でお邪魔しましたが、天山祭りへの参加は今回が初めてでした。
 
原発事故による全村避難は昨年解除され、帰村宣言が出されましたが、まだ帰れない村民の皆さんも多く、また、村へ向かう道路もまだ復旧工事中の箇所もありました。ただ、復興への歩みはゆっくりながらも進んでいるようです。
 
天山祭りとは、川内村名誉村民にして、隣接するいわき市出身の詩人・草野心平の遺徳を偲ぶ集いです。元々は心平が蔵書3,000冊を寄贈して出来た「天山文庫」、その落成記念に始まったもののようですが、生前の心平自身がこの祭りに参加、お酒やイワナ、山菜などに舌鼓を打ったとのこと。
 
心平没後はその遺徳を偲ぶ集いとなりましたが、堅苦しいものではなく、心平自身が参加していた当時と同じように、郷土芸能などの披露が続けられています。
 
昨日は福島浜通りは終日雨のため、本来の会場である天山文庫前でなく、少し離れた「いわなの郷体験交流館」という施設で行われました。参加者100名以上だったと思います。
 
話は変わりますが、光太郎は稀代の雨男。生前から何かあるときは必ず雨(冬場は雪)でした。亡くなった4月2日も、4月にも関わらず季節外れの大雪を降らせました。今もその神通力は健在。4月2日の連翹忌は雨が多いことで有名です(もちろん今年も)。
 
というわけで、昨日は当方が光太郎を連れて行ってしまったための雨かな、などと思っております。すみませんでした(笑)。
 
さて、昨日の式次第は以下の通りでした。
 
開祭の言葉(川内村教育長 秋本正氏)003
実行委員長挨拶(石井芳信氏)
村長挨拶(遠藤雄幸氏)
かわうち草野心平記念館館長挨拶(晒名昇氏)
来賓紹介
郷土芸能披露(高田島神楽舞)
献花
草野心平肉声CDによる朗読
詩の朗読(いわき市立草野心平記念文学館長 粟津則雄氏/『歴程』同人 松尾真由美氏)
鏡開き・献杯
懇親会
アトラクション
おひらき
 
その後、村内の小松屋旅館様で懇親会。心平のご遺族を含む30名ほどが集まり、それぞれに心平への思いなどを語りました。当方、生前の光太郎がお世話になった御礼等申し述べました。
 
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川内村では天山祭り以外にも、秋には心平の忌日の集いとして「かえる忌」が行われています。今年は10/26(土)の開催だそうです(当方、講演を依頼されました)。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月14日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに電気冷蔵庫が届きました。
 
これも心平の配慮です。心平が筑摩書房にかけあって、未払いの印税をもぎとって来て(笑)購入しました。以下、心平著『わが光太郎』より。
 
話のついでに牛乳がかわりやすくて弱るということを言われたので、冷蔵庫を買われるんですね、とすすめると、毎日アトリエのなかに氷を入れにはいられるのはたまらない、とのことなので、
「じゃ電気冷蔵庫ですね。」
「電気の方はたかいだろうな。」
「筑摩の印税、あれを前借りすればいいじゃないですか。」
「前借はぼくはきらいだ。」
「前借っていったって、もう本(注・『現代日本文学全集第二十四巻 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集』)は出たんでしょう。」
「出るには出たけど。」
「とも角ぼくにまかして下さい。」
「そうねエ。」
 その「そうねエ。」は一オクターヴ低く、不満げな不承不承の返事だった。
 翌る日私はイギリス製のアストラルを品定めして筑摩のオヤジ(注・古田晁)にあいにいった。オヤジはすぐ出してくれた。
 
白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」といわれるようになるのはもう少し後の話です。

各地からいろいろご案内やら図書のご寄贈やらが続いております。ありがたいことです。順次ご紹介していきます。

まずは、福島・川内村からのご案内。高村光太郎と親交のあつかった詩人、草野心平を偲ぶイベント「天山祭り」です。 

天山祭り2013

川内村には、過去から現在まで、さまざまな催しがおこなわれています。2011年3月の原発事故以来、催しの開催には困難が多くはございますが、川内村を愛していただいてる皆さん、村のみんなとともに、再び楽しい時間を持てるよう、今後も適時、イベント開催をしていく予定です。ご期待ください。 

今年も、天山祭りの日取りが近づいてきました。草野心平先生を偲ぶ川内村ならではのお祭りです。
48回目の、天山祭りとなります。
 
 時 : 平成25年7月13日(土) 
      午後2時開祭(終了時間午後4時30分)
 所 : 天山文庫前庭(雨天の場合はいわなの郷「体験交流館」)
 催 : 天山祭り実行委員会000
 催 : 川内村観光協会
 援 : 福島民報社・福島民友新聞社
 賛 : 行政区長会・婦人会
参加費 : 一人 500円
 
祭り次第(案)
(1)開祭の言葉
(2)実行委員長挨拶
(3)村長挨拶
(4)かわうち草野心平記念館館長挨拶
(5)献花
(6)詩の朗読・心平さんCDによる朗読
(7)鏡開き・献杯
(8)懇親会
(9)アトラクション
   子どもじゃんがら念仏踊り
    (いわき市小川町)
(10)おひらき
 
 
昨年のポスターです。          
 
会場の天山文庫は、以下のようなところです。川内村HPより引用させていただきます。
 
人間の誇り得る所産「天山文庫」
「蛙の詩」で知られる詩人・故草野心平氏「モリアオガエルの生息地があれば教えて欲しい」と、ある新聞に投書したのが、昭和25年のこと。それに応えて、長福寺の先代住職、故矢内俊晃和尚が早速招聘の手紙を送りました。
そして昭和28年8月、先生は川内村を初めて訪れました。以来、先生と村民との親交は深まり、先生の蔵書3000冊を村に寄贈されたのを機に文庫建設の話がもちあがりました。
そして村民一木一草を持ち寄り村あげての労働奉仕によって建てられたのが、今の天山文庫です。
天山文庫の名は中央アジアを越えて、東洋と西洋を結ぶ「シルクロード」にそびえる天山山脈になぞらえ、みちのくと中央の交流、人と人との出会いを大切にしたいという熱意を込めて、先生が命名したものです。
昭和35年、川内村名誉村民に推載された心平先生。85年という生涯を全うした今、そしてこれからも、先生の遺業は村民の心から消えることなく、語り継がれていくことでしょう。
昭和41年7月16日の文庫落成を記念して、毎年行われる天山祭り。この日は、村内はもとより、県内外から心平先生を偲んで多くの人々が集まってきます。
心平先生の写真を囲みながら青竹を二つに割った器に、色とりどりの山菜料理、今朝つりあげたばかりのいわなの焼魚を肴に盃を傾けます。
村の伝統芸能である獅子舞、浦安の舞、神楽舞が披露され、笛や太鼓で川内甚句も飛び出します。
 
足を運ぶのも復興支援。当方も行って参ります。みなさんもぜひお越し下さい。
 
ぜひお越し下さい、といえば今日から千葉市美術館において「彫刻家高村光太郎展」です。こちらもぜひお越しください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月29日

昭和32年(1957)の今日、東宝映画『智恵子抄』が封切られました。熊谷久虎監督、主演は原節子さん、故・山村聰さんでした。

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一昨日から昨日にかけ、京都に行って参りました。無題1
 
目的は京都国立近代美術館さんで開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」の拝観でしたが、少しだけ観光もしてきました。
 
当方の乗った夜行バス、京都着は午前6時過ぎ。この時間ではさすがに美術館は開いていませんので、館の空く9時半までの時間をつぶさなければなりません。
 
さて、光太郎といえば智恵子。智恵子といえば福島。福島といえば今年は「八重の桜」。というわけで(強引ですが)、それ関係の場所を巡りました。
 
まず、現在「八重の桜」で展開中の戊辰戦争が終わり、明治になってから八重が暮らした新島邸
 
京都御所の裏にたたずんでいます。
 
こちらも内部の拝観には時間が早かったので、門の外から見ただけでしたが、趣のある建物でした。
 
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鴨川べりに出て、コンビニでパンとコーヒーを買って朝食。その後、まだ時間が早いので下鴨神社さんまで足を伸ばしました。ここは福島や光太郎との縁はないとは思うのですが、一度行ってみたかったので。
 
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さらに、京都国立近代美術館さんに近い金戒光明寺さんに行きました。ここは以前にも行ったことがあるのですが、幕末に京都守護職・会津藩本陣が置かれたところです。

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以前のブログにも書きましたが、「八重の桜」での金戒光明寺でのシーン(外観)は、当方の暮らす千葉県香取市にある観福寺さんというところで撮影されました。さすがに本家(笑)の方が立派です。
 
本堂に上がると、参拝者が自由に書くノー000トが。見ると、その前の日の日付で「福島から来ました。最後まで諦めなかった会津様を見習い、諦めずにがんばろうと思います」という書き込み。日本全体では被災の記憶が薄れつつあるようで、閣僚のトンデモ発言なども飛び出していますが、まだまだ被災地での被災は続いています。ほんとうにがんばってほしいものです。
 
金戒光明寺さんでは、以前に行ったときには足を踏み入れなかった会津藩士の墓所にも行きました。本堂でもここでも、手を合わせつつ心の中で「福島の復興を見守っていてください」とお願いして参りました。
 
ちょうど9時半くらいになったので、京都国立近代美術館さんに行き、「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観ました。
 
昨日書き忘れましたが、光太郎以外にも岸田劉生、清宮彬、バーナード・リーチ、石井柏亭・鶴三兄弟、硲伊之助、柳敬助、高村豊周など、光太郎の周辺にいた人物の作品も多く、興味深く拝見しました。
 
長谷川昇という画家の作品も一点。こちらは東京美術学校で彫刻科を卒業したあと西洋画科に再入学した光太郎の、西洋画科での同級生で、会津出身です。
 
というわけで、今回の京都行は、京都にいながら福島を偲ぶ旅でもありました。また近いうちに福島にも行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月24日

昭和14年(1939)の今日、銀座三昧堂ギャラリーで開催されていた、南洋パラオで暮らしていた異端の彫刻家・杉浦佐助の個展が閉幕しました。

光太郎は図録に推薦文を書いています。

一昨日、「智恵子講座’13」のため福島・二本松に行きました。はるばる大阪から高村光太郎研究会所属の西浦基氏もおいでくださいました。
 
午前中でそちらが終わり、午後、西浦氏が二本松は初めてだというので、当方の車にて二本松の光太郎・智恵子ゆかりの地をざっとご案内しました。
 
これから二本松方面に光太郎・智恵子探訪に行かれる方、参考になさってください。
 
まずは「智恵子講座」会場の二本松市交流センターに近い二本松駅前からスタートしました。
 
平成21年に建てられた銅像「ほんとの空」。智恵子がイメージされています。すぐ近くには、昭和51年に作られた「あどけない話」の一節「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」を刻んだ詩碑。
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その後、車で北上、二本松城址へ。ここには昭和35年に建立された詩碑があります。
 
もともとあった「牛石」という大きな石にブロンズのパネルがはめ込んであり、1枚は「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」、もう1枚に駅前の詩碑と同じ「あどけない話」のワンフレーズ。さらに草野心平の筆になる碑陰記もついています。
 
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その近くには、蓮の花が咲く池があり、ほとりには立派な藤棚があります(もう藤は散ってしまっていますが)。説明版によれば、この藤は智恵子の生家の庭にあったものを移植したとのこと。
 
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ちなみに、この日のNHK大河ドラマ「八重の桜」。帰ってから録画で見ましたが、サブタイトルが「二本松少年隊の悲劇」。史実かどうかわかりませんが、綾瀬はるかの八重がかつて射撃を教えた二本松藩士の子供たちによる二本松少年隊が薩長軍に撃破されるというストーリーでした。
 
そうした戊辰の頃にも思いをはせながら、二本松城址を後にし、旧安達町エリアへ。
 
こちらでは智恵子の生家、智恵子記念館、裏手にある智恵子の筆跡を刻んだ「熊野大神」碑、さらに裏手にある「樹下の二人」碑、そして長沼家菩提寺の満福寺にある長沼家の墓所などを廻りました。

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この辺りの画像は、以前に訪れたときのものです。
 
そして西浦氏が宿を取られた安達太良山中腹の岳温泉へ。当方も日帰り入浴させていただき、帰途につきました。
 
二本松、何度行ってもいい場所です。是非、足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月18日

明治34年(1901)の今日、智恵子の妹・セツが誕生しました。
 
昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が身を寄せたのが、九十九里に住んでいたセツのもとでした。

昨日は福島県二本松市、二本松市民交流センターにおいて行われた「智恵子講座’13」の第3回で、講師を務めて参りました。
 
今年度は年間テーマが「高村光太郎に影響を与えた人達」ということで、昨日の第3回で、当方が与えられたテーマが「岡倉天心と東京美術学校」でした。質疑応答を含め、2時間ほどしゃべって参りました。
 
岡倉天心は東京美術学校校長として、一介の町の仏師であった光雲を教員として取り立てたり、横山大観ら後進を育てたり、その運営に大きく貢献した人物です。
 
天心以外にも、光太郎在学前後の東京美術学校は多士済々。教員や学生で、名をなした人々がたくさんいます。アーネスト・フェロノサ、橋本雅邦、菱田春草、後藤貞行、石川光明、板谷波山、本山白雲、長沼守敬、黒田清輝、藤島武二、藤田嗣治、岡本一平……。もちろん、光雲、光太郎親子。美術家以外でも、森鷗外も専任外教員として教壇に立っていました。
 
昨日はノートパソコンとプロジェクタを持ち込み、それらの人々の作品などを紹介し、併せて美術学校在学中の光太郎についての概略を説明いたしました。はからずも、明治中期から末期の日本美術界の概要、という感じになりました。ただ、少し前にそういう発表はすまい、などと書いておきながら、スクリーンに映した画像頼みの内容になってしまったいたのではないかな、と反省しきりです。

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聴きに来てくださった方は、約30名。ありがたいことです。
 
「智恵子講座’13」は、以下の通り今年度、あと4回の開講です。1回ごとの申し込みも出来るそうですので、よろしくお願いいたします。連絡先は二本松市油井八軒町の熊谷さん 0243-23-6743です。
 
10/14 (月・祝)10:00~ 「ロダンと荻原碌山」 久慈伸一氏(福島県立美術館学芸員)
11/17(日) 10:00~ 「与謝野鉄幹と水野葉舟」 澤正宏氏(福島大名誉教授)
12/15(日) 10:00~ 「草野心平と宮沢賢治」 小野浩氏(いわき市くらしの伝承郷館長)
  〃     13:00~ 「高村光太郎を語るつどい」 閉講式 文集配布
 
【今日は何の日・光太郎】 6月17日

昭和62年(1987)の今日、光太郎に私淑した彫刻家・高田博厚が歿しました。

『朝日新聞』さん。昨日の「天声人語」で安達太良山と「あどけない話」を取り上げてくださいましたが、今日はそれを受けて投書欄に以下の投稿が。
 
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山開きが19日の日曜だったのですね。当方、中腹のスキー場には行ったことがありますが、山頂まで登ったことはまだありません。標高約1,700㍍。一度登ってみようかと思いました。
 
それにしても、「少し楽しめそう」という題名。「少し」という副詞が無くなる日が早く来てほしいものです。
 
ついでに、光太郎・智恵子には関わらないかもしれませんが、来週のテレビ放映で二本松が取り上げられますので一応ご紹介します。 

にほん風景遺産「会津・二本松 二つの城物語」

BS朝日1 2013年6月4日(火)  21時00分~21時54分 
 
大河ドラマの舞台として注目される福島県会津地方。戊辰戦争で落城した二本松城跡や、鶴ヶ城とその城下町を風景案内人 加藤千洋さんが歩き、歴史と人々の暮らしに触れる。

番組内容
大河ドラマ「八重の桜」人気でにぎわう会津若松。まず加藤さんは新島八重生誕の碑に足を運ぶ。七日町通りでは、会津漆器の店や郷土料理の店を訪ね、大正浪漫あふれるレトロな町並みを散策。桜満開の鶴ヶ城では、戊辰戦争時にこの城が置かれたいきさつや、会津藩の歴史をたどる。天守閣からは眼下に広がる会津若松市内の景色を楽しみ、白虎隊ゆかりの地・飯盛山も訪れた。さらに、かつて丹羽氏の居城だった二本松城(霞ヶ城)。戊辰戦争で命を落とした隊士たちをしのぶ「二本松少年隊像」や箕輪門など、城内各所を巡る。激動の歴史と伝統工芸が息づく会津若松、二本松の物語をたどる。

出演者 風景案内人 加藤千洋(同志社大学大学院教授)
ナレーション  下平さやか(テレビ朝日アナウンサー)


【今日は何の日・光太郎】 5月28日

大正9年(1920)の今日、光太郎編訳『続ロダンの言葉』が叢文閣から刊行されました。
 
同5年(1916)に005行された正編と合わせ、美術を学ぶ学生にとってはバイブルに等しいものとして受け入れられたそうです。
 
ところで、画像は表紙です。金の箔押しで題字と花のイラストが描かれています。
 
「彫刻家・高村光太郎展」にからんで、千葉市美術館の学芸員さんから質問されたのですが、この装丁が誰の手によるものかわかりません。
 
原書にはクレジットが入っていませんし、光太郎に関する基本的な文献にも記述がありません。
 
千葉市美術館の学芸員さん曰く「岸田劉生風の絵」。確かにそうです。
 
手がかりは花の茎の左に描かれたサイン? のようなもの。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
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変にスペースが余ってしまったのでもう一言。
 
今夜、居住地域から夜行バスに乗り、明朝、京都に着きます。京都は嵯峨の大覚寺さんで新たに見つかった光雲作の木彫三点を観てきます。
 
その後、大阪・堺に移動、与謝野晶子の忌日・白桜忌に参加してきます。
 
帰ったらレポートします。

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