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8月9日(土)に宮城県女川町のまちなか交流館さんで開催された第34回女川光太郎祭につき、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんが8月19日(火)に報じて下さいました。

女川で功績しのぶ「光太郎祭」 詩や紀行文を朗読

 1931年に女川町などを旅し、詩や紀行文を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績をしのぶ第34回光太郎祭が9日、女川町まちなか交流館であり、来場した約50人が詩や紀行文の朗読に聞き入った。
 ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)が奏でる旋律に乗せ、11人がそれぞれ詩や紀行文を情感を込めて朗読した。「智恵子は東京に空が無いといふ」で始まる詩「あどけない話」は石巻市万石浦小5年の佐藤結土さんが担当。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」で知られる詩「道程」を女川一中3年平塚功竜さんが読み上げた。
 主催の「女川・光太郎の会」は3月、県から「住みよいみやぎづくり功績賞」を受けた。須田勘太郎会長は「(朗読を聞きながら)光太郎さんが旅した90年以上前の女川を想像してほしい」とあいさつした。
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一読して「あれ、こんだけ?」と思いました。というのは、記者氏に捕まって、これまでのいきさつや光太郎文学碑などについてあれこれ質問を受けたのですが、その内容が反映されていないためです。「ま、他にニュースが多くて紙面を割けなかったんだろう」と思っておりました。

ところがあにはからんや、前日の8月18日(月)、同紙の一面コラムで詳しく紹介されていました。

河北春秋

「牡鹿半島のつけ根のぎゅっとくびれて取れ相(そう)な処(ところ)、その外側の湾内に女川がある」。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が1931年に著した紀行文『三陸廻(めぐ)り』の一節だ▼取材旅行では宮城の石巻、気仙沼、岩手の釜石、宮古などを巡った。立ち寄った宮城県女川町では顕彰活動が続いている。91年には、町民有志が詩などを刻んだ3基の文学碑を海岸に建てた。毎年8月9日、県内外の人が紀行文や詩を朗読する光太郎祭は今年、34回を数えた▼幾多の試練があった。活動の中心だった女川の画家貝広さんは、東日本大震災の津波で亡くなった。碑は流され、一つが見つかっていない▼「町が夜になると急に立ち上がる。ただ海から来た人々への夜の饗宴(きょうえん)の為(ため)にのみあるかと思う程、此(こ)の小さな町が一斉に一個の盛り場となる」「極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」。紀行文は町民にかつての隆盛を思い起こさせ、気概と誇りを与えた▼主催する「女川・光太郎の会」は3月、県の「住みよいみやぎづくり功績賞」を受けた。しかし、会員は年を重ね負担は小さくないという。光太郎は他者を魅了する女川の自然や気風に着目し、広く発信した。後世に手渡していきたい文学イベントである。(2025・8・18)

最後の一節を読み、当会の祖・草野心平が昭和21年(1946)に書いた「一つの韻律」という文章を連想しました。これは岩手花巻で現在も続く宮沢賢忌日の集いである「賢治祭」に初めて参加しての感想を綴ったものです。

その一節。

 文学者に限らず色んな人々の碑や銅像が全国でならば相当の数にのぼるだろうが、毎年休むことなくこうした催しがそれらの前で行われているということは、賢治祭を除いては恐らく一つもないであろうと、しかも参列者は近郷近在ばかりではないのである。村や町の鎮守の祭とかお盆の行事とかいうように、この催しはもう極く自然に続いて行くだろうし、続けられてゆくことを心から私も希わずにはいられなかつた。

昭和21年(1946)当時ではまさにそういう状況だったのでしょう。その後、こうした個人顕彰の催しはどんどん増えていったと思われます。当会主催の連翹忌の集いもその一つですし、女川光太郎祭も。しかし、中には一時華々しく行われていたものの、無くなってしまったというものもあるでしょう。光太郎関連でも、5月15日に花巻郊外旧太田村の光太郎が蟄居していた山小屋の敷地で行われていた「高村祭」などがそうです(「高村祭」は何とか形を変えてでも復活させたいという機運がありますが)。

やはりそれが「村や町の鎮守の祭とかお盆の行事とかいうように、この催しはもう極く自然に続いて」いたのかどうかというところに、残っているか残らなかったか、または復活させようという意見が出るか出ないかの分かれ目があるように感じます。

「河北春秋」にあるとおり、女川光太郎祭は「後世に手渡していきたい」ものだと改めて感じました。

【折々のことば・光太郎】

到る処に違つた時代の傑作がある。……が同じ愛によつて皆一つに寄る。皆結びつけられてゐる。

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

優れた芸術は時代を越えて愛される、ということが言いたいのでしょう。しかし、当会顧問であらせられた北川太一先生曰く「どんなに優れた芸術でも、後の時代の人々が次の世代へと受け継いでいく努力を怠れば、あっという間に歴史の波の中に呑み込まれてしまう」。実際、そういう例も少なからずありますね。そこで当方、光太郎智恵子らの芸術がそうならないよう、語り継ぐ努力を惜しまぬ所存です。

8月9日(土)は、光太郎が昭和6年(1931)に訪れた女川町の中心街で第34回女川光太郎祭でしたが、そちらが始まる前、町内の出島(いづしま)に愛車で踏み入れました。

出島は太平洋に浮かぶ島で、以前はフェリーで渡るしかありませんでした。しかももう一箇所、江島という島も廻るルートで、かなり時間がかかっていました。出島なら泳いで渡れない距離でもありませんが、さすがにそれは……(笑)。
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昨年12月、島民の方々の悲願であった本州との架橋が為され、車で行けるようになりました。女川光太郎祭主催者・女川光太郎の会の須田勘太郎会長が出島にお住まいで、「いいところだよ」というお話を以前から聞いており、一度行ってみようと思いつつなかなか果たせないで居りましたが、車で行けるようになったので良い機会と思った訳です。
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本州側から見たその橋。「出島大橋」と名付けられました。
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町の中心部から20分程です。
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昭和6年(1931)、光太郎は出島には降り立たなかったようですが、女川港から次の目的地・気仙沼へ向かう船上で出島の様子を見、紀行文「三陸廻り」の第七回「気仙沼」に書き残しています。

 女川から気仙沼へ行く気で午後三時の船に乗る。軍港の候補地だといふ女川湾の平和な、澄んだ海を飛びかふ海猫の群団が、網をふせた漁場のまはりにたかり、あの甘つたれた猫そつくりの声で鳴きかはしてゐる風景は珍重に値する。湾外の出嶋(いづしま)の瀬戸にかかるとそこらの小嶋が海猫の群居でまつ白だ。此鳥の蕃殖地としては青森県の蕪嶋(かぶしま)が名高いが、此の辺にもこんなに沢山棲んでゐようとは思はなかつた。彼等はいち早く魚群を見つけて其上に円陣をつくる。彼等と漁船とは相互扶助の間柄だと人がいふ。「名ばかり」といふ礁を通り過ぎて外洋に出ると、船は南方二十余キロの金華山を後ろにして針路一直線に北に向ふ。

橋を渡って島に入り、まずは北側の出島港へ。遠景に出島大橋が見えています。
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昭和8年(1933)の昭和三陸地震の後に建てられたと思われる碑がありました。同じ碑は女川駅前にも残っています。
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この際は、3㍍ほどの津波が女川を襲い、死者1名(宮城県全体では308人)だったとのこと。
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港のすぐそばの高台にある永清寺さんという寺院には、東日本大震災後に「いのちの石碑」が建てられました。震災直後に当時の女川第一中学校さん(現在は統合)に入学した生徒さんたちが授業の中で発案したもので、町内21箇所の津波到達地点より高い場所に避難の目印として建てられました。設置費用をどうするかということになった際、かつて光太郎文学碑が100円募金で建てられたことに倣い、生徒さんたちが募金活動を展開、約1,000万円をあっという間に集め、第1号碑は震災翌年に除幕されました。

活動の中心メンバーの一人、鈴木智博さんは、かつて複数回、女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読をなさって下さっていました。
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永清寺さん。
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本堂向かって右手に「いのちの石碑」。こちらは平成27年(2015)、8番目に建立されたものです。
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表面には、生徒さんたちが授業の中で詠んだ俳句が刻まれています。全21基、ほぼすべて異なる句です。裏面のステンレスのプレートには、英語や中国語などで表の碑文の訳が。

愛車をUターンさせ、南下。当方、古代史、考古学、民俗学等にも興味がありまして、「出島遺跡」を見学。縄文時代から平安時代くらいまでの複合遺跡で、ストーンサークルが残っています。
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ただ、ストーンサークルと言っても、秋田大湯の環状列石のような整然とした配置にはなっていません。それでもかえって古代の人々の力強さを感じましたが。
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さらに南下して、寺間港へ。
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こちらにも「いのちの石碑」が設置されています。永清寺さんの碑に続き、9番目に建てられました。場所は厳島神社さんの鳥居脇。若干わかりにくい場所で、うろうろしてしまいましたがたどり着けました。
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近くにはやはり昭和三陸津波の碑も。
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本殿まで上り、この地の平安、道中安全を祈願。

この後、宿泊先のホテルエル・ファロさんに一旦戻り、昨日レポートいたしました第34回女川光太郎祭に参列というわけです。

以上、女川レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

――何処から始める。――始めは無い。諸君の眼にとまつた所に立ち停りなさい。

光太郎訳「ロダン手記 中世期芸術への入門―原則」より
大正5年(1916)訳 光太郎34歳

東日本大震災後、被災地の皆さんも、とにかく「眼にとまつた所」から復興の第一歩を踏み出したのでしょう。

8月9日(土)、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町での第34回女川光太郎祭に参加して参りました。レポートいたします。

まず午前10時、平成3年(1991)に当時の海岸公園に建てられた光太郎文学碑への献花。当方、センターを務めさせていただき、光太郎に、それから碑の建立やその後の女川光太郎再開催に尽力され、平成23年(2011)の東日本大震災の津波で亡くなった貝(佐々木)廣氏に、そして碑文の一部を揮毫され、かつては毎年光太郎祭で講演をなさっていた当会元顧問・北川太一先生にという思いで、万感の思いを込めて献花いたしました。
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午後からの式典会場・まちなか交流館さんに移動、セッティング。
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会場内には、かつての光太郎祭パンフレットや写真など。
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無理だと思われつつも開催された、震災の年の光太郎祭の様子も。
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北川先生は御健康上の理由でこの頃には欠席なさっていましたが、翌年からまた車椅子でのご参加。その頃から考えると、女川の町の復興もかなり進んだことに感慨深い思いでした。
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今年2月、県から授与された「住みよいみやぎづくり功績賞」の賞状。
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さて、午後1時、開幕。
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まずは黙祷。
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この後、オープニングアクト的に当方の講演。今年は光太郎の彫刻について、ひとくさり語らせていただきました。カーヴィングとかモデリングとか、制作手法についてがメインでした。

その後、いよいよ本番となり、主催者・女川光太郎の会の須田勘太郎会長のご挨拶。
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須田善明女川町長のご祝辞。
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午前中の文学碑への献花の模様を撮影した動画をプロジェクタで投影し、その後、メインアクトの町内外の皆さんによる光太郎詩文朗読。
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海外の方も。
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例年通り、ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏。

朗読して下さった皆さん。
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「献奏」ということで、宮川氏。
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初期のころから毎年いらして歌われていたオペラ歌手・本宮寛子氏は、今年、膝の手術をなさった直後ということで残念ながらご欠席。代わりに、というか、本宮氏の伴奏をなさる予定だった石巻ご在住の田代雅美さんによるピアノ演奏。
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女川光太郎の会事務局で、貝(佐々木)廣の奥様・英子さんによる締めのご挨拶。
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終了後、近くの町中華さんでの打ち上げ。
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生前の貝(佐々木)廣氏と懇意にされていた方が、氏から送られてきた絵手紙などをごっそりお持ち下さり、当方も氏とのさまざまな思い出を胸に拝見し、胸が熱くなりました。

このような気のおけない集まりです。来年以降も末永く続くことを祈念いたしておりますし、これまで以上の多くの皆さんのご参加をお待ち申し上げております。

【折々のことば・光太郎】

もとより、自然は人の眼を避けない。人間は見さへすればよいのである。


光太郎訳「ロダン手記 ヹヌス――「ミロのヹヌスへ」――」より
大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「ヹヌス」はヴィーナス。かの「ミロのヴィーナス」を見てのロダンの感想から。いかに自然を自然に見ることが大切か、光太郎はロダンから学びました。

昨日8月9日は、昭和6年(1931)に新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を出発した日です。それを記念して、立ち寄り地の一つだった宮城県女川町では、地元有志の皆さんが平成初期から「女川光太郎祭」を開催して下さっています。

昨日は第34回。
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詳しくは帰りましてからレポート致します(まだ女川に居りまして)。

一応、画像を何枚か上げておきます。
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現在、女川町はわりと本格的に雨が降っています。運転に気をつけつつ、焦らずゆっくり千葉まで帰ろうと思っております。

昨夜から光太郎ゆかりの地、宮城県女川町に愛車を駆って来ております。
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午後10時頃到着。もう少し早く着く予定でしたが、夕食は石巻の寿司屋さんでいただくのがルーティンとなっており昨夜も立ち寄りましたところ、激混みで1時間以上待ちとなったため、到着が遅くなりました。
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今日は女川まちなか交流館さんで第34回女川光太郎祭です。

朝のうちに散歩。

宿泊させていただいているエル・ファロさん。東日本大震災後に程なく開業したトレーラーハウスのホテルです。
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女川駅。
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町役場前の震災慰霊碑。
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港まで出て、光太郎文学碑。
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この時点でまだ5時台でしたが、土曜日ということもあるのでしょう、既に親子連れの釣り客の皆さんで賑わっていました。
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光太郎祭、文学碑への献花が10時、式典(当方の講演、町内外の方々の光太郎詩文朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんらのアトラクション献奏など)が午後1時です。

詳細は明日、レポート致します。

昭和6年(1931)、光太郎は三陸沿岸各地を約1ヶ月旅し、宮城県牡鹿郡女川町にも逗留しました。それを記念して毎年開催されている女川光太郎祭、今年も開催されます。

地元紙『石巻かほく』さんに予告記事が出ています。

高村光太郎の足跡しのぶ 講演や朗読、献奏も 女川・来月9日

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第34回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が8月9日午後1時から、女川町まちなか交流館で開かれる。入場無料。
 戦前に女川を訪れ、詩や紀行文を記した光太郎の足跡に触れる。高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が講演するほか、町内外の12人が自ら選んだ光太郎の作品を朗読する。ギタリスト宮川菊佳さん、オペラ歌手本宮寛子さんによる献奏、献歌もある。
 光太郎は1931年夏、女川や石巻市、気仙沼市など三陸沿岸を巡り、多くの詩文を残した。女川湾に面した海岸広場には文学碑が建立されている。
 光太郎祭は地元の有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開催してきた。事務局のメンバーは「光太郎が残した文化や祭りの存在を次の世代の人たちにつなげていきたい」と話す。
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詳しい案内文書等が来ていないのですが、例年通りという連絡があり、おおむね以下のような感じのはずです。ただ、式典等の部が昨年までは14:00からでしたが、『石巻かほく』さんには13:00からと予告されていますので、そうなのでしょう。

女川光太郎祭

期 日 : 2025年8月9日(土)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 13:00~
料 金 : 無料

10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
13:00~ 式典等
 黙祷
 記念講演 「高村光太郎の彫刻(その1)」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 ご挨拶 女川光太郎の会
 献花の模様動画投影
 光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
 祝辞
 アトラクション演奏 
ギタリスト宮川菊佳さん、オペラ歌手本宮寛子さん
18:00頃~
 懇親会

午前中に行われる、平成3年(1991)に当時の海岸公園に建てられた光太郎文学碑への献花は関係者で。見たい、という方はご覧下さって結構ですが。碑の建立を機に、翌年から光太郎祭が開催されるようになりました。碑は平成23年(2011)の東日本大震災で倒壊しましたが、令和2年(2020)に再建されています。

碑の建立や光太郎祭の運営に奔走された貝(佐々木)廣氏は震災で津波に呑まれて亡くなり、碑文の一部を揮毫されたり、永らく光太郎祭で記念公演を毎年されたりなさっていた、元当会顧問の北川太一先生も鬼籍に入られました。光太郎をはじめ、それらの皆さんへの思いこめての献花です。

午後の部、メインは町内外の方々(今年は12名だそうで)による光太郎詩文の朗読ですが、前座として当方の講演。最初は北川先生との対談形式で行い、その後10年ほど、光太郎と女川との繋がり、連作詩「暗愚小伝」に基づいて光太郎の生涯を紹介し、それも終わって、昨年は智恵子の生涯について語らせていただいています。今年以降、どうしようかと考えましたが、いつも話の枕として「光太郎は色々な分野に足跡を残した総合的な芸術家だった」ということを語っていることに思い至り、それならその「色々な分野」を一個ずつ取り上げていけばまた10年くらい何とかなるかと考えています。そこで今年と来年は「彫刻」。一般の方にもわかりやすいようにかみ砕いて、光太郎彫刻の成り立ちを語ります。

終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、それが一つの楽しみです。

今年は土曜日の開催ですし、ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生昨年と今年とは療養のため多く臥床、来年はそろそろ又仕事にかかりたいと思つて居ります、

昭和30年(1955)11月28日 野見山朱鳥宛書簡より 光太郎73歳

余命約4ヶ月、もはや病状は彫刻制作にかかることを許さないほど悪化していたのですが、気持としてはやる気に溢れていたようです。あるいは日記等にも書かれているように、彫刻より「書」をイメージしていたのかもしれません。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れ、紀行文「三陸廻り」で紹介した宮城県女川町で、永く光太郎顕彰活動を続けられているの女川光太郎の会さん。このたび県から表彰されたそうです。

地元紙『石巻かほく』さん記事。

住みよいみやぎづくり功績賞 「女川・光太郎の会」が受賞、地域活性と文化振興

 地域社会づくりに貢献した個人や団体を県が表彰する本年度の「住みよいみやぎづくり功績賞」に、女川町民有志で組織する「女川・光太郎の会」が選ばれた。町に紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績を伝え、地域の活性化や文化振興に貢献していることが評価された。
 女川・光太郎の会は、戦前に町を訪れた光太郎の功績を後世に伝えるため1992年に発足。同年夏、女川湾の近くに三つの文学碑を建立した。
 文学碑は東日本大震災の津波で流出するも、2020年に再建を果たした。紀行文や詩の朗読などを行う「光太郎祭」も、光太郎が三陸に向けて東京を出発した8月9日に合わせて毎年開催している。
 伝達式が17日、石巻市あゆみ野5丁目の県石巻合同庁舎であった。県東部地方振興事務所の石川佳洋所長が「会の活動は全国から女川を訪れるきっかけになっている。若い世代にも伝承の思いが伝わっているのがすばらしい」とたたえ、須田勘太郎会長(84)に表彰状を手渡した。
 須田会長は「光太郎祭は震災を乗り越えて今年で34回になるが、会員の高齢化が課題になっている。表彰は団体を知ってもらう機会になり、存続させていくための力になる」と話した。
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「住みよいみやぎづくり功労賞」は、昭和45年(1970)に開始された「感謝のことば」という県民の隠れた善行や小さな善意に対して知事が表彰するという事業を引き継いだ事業で、平成18年(2006)度から表彰対象に「安全・安心まちづくり」等を加え、通常の表彰ではなかなか推薦対象とならないようなより広い範囲の地域社会への貢献に対し、知事の感謝状を贈呈するというものだそうです。

女川光太郎の会さん、「文化芸術の振興に尽くした者――地域の伝統芸能等を伝承している町内会等,子どもを対象にした演劇,音楽等の活動で地域に貢献しているもの等」という項目での認定なのでしょう。

記事に誤りがありますが、女川町に光太郎文学碑が建立されたのは平成3年(1991)。女川在住で画家でもあった貝(佐々木)廣氏が中心となり「高村光太郎文学碑建立実行委員会」を立ち上げ、実現しました。光太郎は紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)で自筆の挿画を添えて女川町を紹介しました。また、のちに昭和12年(1937)になってから、女川港で見た水揚げの記憶を元に詩「よしきり鮫」も執筆しています。それらを受けて「光太郎ほどの偉人がこの女川を様々な形で取り上げてくれたのに、そのことを語り継がないでどうする」ということだったそうです。
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碑は三基(数え方によっては四基)、同時に建てられました。中央にメインの碑。5面のプレートを持ち、光太郎短歌「海にして……」(明治42年=1909の作で、女川とは直接の関係はありませんが「海」つながりで)自筆揮毫を中心に、紀行文「三陸廻り」の一節(当会顧問であらせられた北川太一先生揮毫)が2面、それが『時事新報』に載った際の光太郎自筆挿画が2面。
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「海にして……」の揮毫が変体仮名等で読みづらいという配慮で、真下には活字に起こした小さな碑も。これを一つと数えるかどうかで、先述の三基か四基かが分かれます。
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挿画の方の上画像は除幕された頃、当方が撮影したものですが、当初はこのように金色のプレートでした。現在は後述する東日本大震災による被害、その後の風雪などでくすんだ色に変わってしまっていますが……。

左右には詩「よしきり鮫」と「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、こちらは光太郎自筆原稿が拡大して刻まれました。下画像はやはり震災前に当方が撮ったものです。
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除幕された平成3年(1991)には、それを記念して仙道作三氏作曲、山本鉱太郎氏脚本によるオペラ「智恵子抄」公演も女川で行われました。
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当初の「高村光太郎文学碑建立実行委員会」が、翌平成4年(1992)から女川光太郎の会となり、第1回女川光太郎祭を開催。光太郎詩文の朗読や音楽演奏、北川太一氏を講師に招き、講演(現在は当方が引き継いでおります)など。

その後、女川光太郎祭は、コロナ禍での中止はあったものの、東日本大震災のあった平成23年(2011)にも開催され、続いています。大震災時には貝(佐々木)氏が津波に呑まれて亡くなり、文学碑も倒壊、「よしきり鮫」碑と短歌を活字で刻んだ碑は行方不明となりました。残った二基の碑は半分水没していましたが、会の皆さんの御尽力や町の協力もあり、令和2年(2020)に再建されました。
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上画像は震災翌年の平成24年(2012)、下画像は再建後です。
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震災、石碑、といえば、女川町では震災後、津波到達地点より高い場所に避難の際の目印として建てられた「いのちの石碑」全21基。建立費用はかつて光太郎文学碑でそうしたことに倣い、全額寄付で集められました。このプロジェクトを立ち上げた、震災直後に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちの企画書に明記されました。
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津波で還らぬ人となった貝(佐々木)氏の精神が受け継がれたわけで……。

そんなこんなで女川光太郎の会さんが、「住みよいみやぎづくり功績賞」受賞。喜ばしい限りです。

光太郎忌日の4月2日(水)には、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで光太郎を偲ぶ第69回連翹忌の集いを開催いたします。女川光太郎の会さんからは、亡くなった貝(佐々木)氏に代わって運営の中心となられている奥さまの英子さんと笠松弘二氏、「オペラ智恵子抄」の智恵子役で、毎年女川光太郎祭に参加され、アトラクション演奏もなさっている本宮寛子氏、さらに作曲された仙道氏も久しぶりにご参加下さいます。今回の受賞について、英子さんにスピーチしていただくつもりです。

女川での光太郎顕彰、今後のますますの発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

先日のオハガキで天平さん逝去の事を知り、いたましい事に思ひました、からださへよければまだうんとのびる人だつたと思ひます、


昭和27年(1952)5月23日 草野心平宛書簡より光太郎70歳

「天平さん」は当会の祖・草野心平の実弟にして、心平同様に詩の道へ進んだ草野天平。この年、数え43歳で病没しました。

下って光太郎も歿した後の昭和33年(1958)、『定本草野天平詩集』が刊行され、それに対し故人であるにもかかわらず第2回高村光太郎賞が授与されました。粋な計らいでした。

今回の女川光太郎の会さんの受賞も、亡き貝(佐々木氏)も共に表彰されたと考えたいところです。

過日、光太郎の父・光雲作の木彫が出ている栃木の那須野が原博物館さんの「開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原」をご紹介しましたが、同様に光雲の木彫が出ている企画展示がもう1件開催中でした。

東北大学総合知デジタルアーカイブ公開記念展示「チベット仏教の精華」

期 日 : 2024年11月18日(月)~12月13日(金)
会 場 : 東北大学附属図書館 宮城県仙台市青葉区川内27-1
時 間 : 10:00~16:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

東北大学では、附属図書館所蔵の貴重資料であるデルゲ版チベット大蔵経のデジタル画像化事業を継続して行なっております。今回は本学デジタルアーカイブToUDAの公開を記念し、このチベット大蔵経に加え、文学研究科所蔵の河口慧海がチベットから日本に持ち帰った仏教美術や工芸品などの名品を紹介する展覧会を開催いたします。
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公式サイトにそうした記述や出品目録がありませんで気がつきませんでしたが、X(旧ツイッター)の東北大学総合学術博物館さんの投稿で、光雲木彫が出ていることをつかみました。
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画像を拡大させていただきます。
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僧侶にしてチベット仏教学者だった河口慧海旧蔵、というか光雲に依頼して作ってもらった釈迦如来座像(大正11年=1922)。

慧海は、光雲・光太郎父子の住まいがあった本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)に近い本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。

その慧海旧蔵の光雲作品、散逸してしまった感じなのでしょうか、あちこちで異なるものが収蔵/展示されています。

 京都/堺・新着情報(その2)。
 河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」。
 仙台市博物館 特集展示「福島美術館の優品」。
 都内レポート その3 東京国立博物館「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」。

今回展示されているものは、東北大学総合学術博物館さんで収蔵しているものだそうです。

他にも慧海がチベットから持ち帰った品々なども展示されていますし、さらにもう一人、慧海と同じくチベットに足を運んだ多田等観がらみの展示も為されている由。等観は戦後、光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村の隣村・旧湯口村の円万寺観音堂で堂守を務めていた時期があり、光太郎の知遇を得てお互いに行き来していました。

khb東日本放送さんのローカルニュース。

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会 東北大学附属図書館

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会が、東北大学附属図書館で開催されています。
チベット仏教は、インド仏教の教えを直接受け継いでいます。
展示されているのは、その教えを求め約120年前にチベットに入国した河口慧海が持ち帰った資料など37点です。
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約300年前に刷られたデルゲ版チベット大蔵経は、日本人で最初に正式なチベット仏教僧となった多田等観がダライ・ラマ13世から贈られました。
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東北大学文学研究科杉本欣久教授「資料、お経を持って帰るのは多大な熱意があったはずです。是非ご覧いただきながら感じ取っていただければ」
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展示会は12月13日まで、仙台市青葉区の東北大学附属図書館で開催されています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変な御苦労であつたことと身につまされて思ひます、しかしこれで「草の葉」も日本に初めて正しく伝へられるわけで貴下に対する感謝の念は絶大です。

昭和25年(1950)8月28日 長沼重隆宛書簡より 光太郎68歳

長沼は英文学者。アメリカのウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』翻訳を上下二巻で刊行しました。

ホイットマンの訳にはかつて光太郎も取り組み、大正10年(1921)には『自選日記』訳を刊行するなど、ホイットマンのファンでした。

2件ご紹介します。

まず、『北海道新聞』さん、10月31日(木)の一面コラム。

<卓上四季>女川原発の再稼働

詩人・彫刻家の高村光太郎は東北の三陸地方を旅行している。1936年のことだ。石巻を起点に、金華山、牡鹿(おしか)半島、女川(おながわ)を船でめぐった。切り立った断崖が続き、白い波がきらめく。リアス海岸がつくる風景は<鮮やかであり、またその故にとめどなく寂しい>▼この旅から90年近くたつ。陸路であれば、つづら折りの険しい道を抜けて、光太郎の描写さながらの景色を目にする。いや、彼の目に触れなかった巨大施設が牡鹿半島にある。東北電力の女川原発だ▼13年前の東日本大震災で絶体絶命の危機に追い込まれた。高さ13メートルの津波に襲われ、外部電源5回線のうち4回線を失う。2号機は浸水で非常用ディーゼル発電機2基が止まる。まかり間違えば、福島第1原発と同じ過酷事故が起きていた▼2号機が被災原発として初めて再稼働した。6千億円に迫る巨費を投じ、高さ29メートルの防潮堤を新設するなど安全対策を講じた。だが巨大地震と大津波に何度も見舞われてきた土地だ。心配は消えない▼なにより避難の問題が手付かずのままだ。半島は避難路が乏しい。自然災害と原発事故が同時発生したらどうするのか▼原発の30キロ圏内に暮らす人は18万8千人弱。陸路と海路がいずれも閉ざされ、どこにも逃げ道がなくなる―。想像したくないが、能登半島地震の惨状が教えていないか。
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まず断っておくと、「1936年」は誤りで、正しくは「1931年」です。1931年は昭和6年で、この「6」を混入させてしまったのではないでしょうか。

それはともかく、紀行文「三陸廻り」執筆のため訪れた宮城県女川町の女川原発。反対派の声も大きなものがあったのですが、とうとう再稼働してしまいました。そうかと思ったら、あっという間にトラブルで停止。「やめろ」という天の声ではないですかね。

ところで、先の衆議院選挙。原発はほとんど争点にもなりませんでしたが、現政権の裏金問題・旧統一教会問題だけでなく、原発回帰を強硬に押し進める点に対しても「No」を突きつけるつもりで投票した方も少なからず存在するのでは、と思います。少なくとも当方はそうです。

その衆議院選挙がらみで、11月3日(日)の『山口新聞』さん一面コラム。

四季風 冬の向き合い方

日増しに風が冷たく感じるようになってきた。冬の到来を告げる立冬も近く、やがて紅葉が終わると木枯らしの吹く時季を迎える▼「きっぱりと冬が来た」で始まる詩がある。彫刻家で詩人、高村光太郎の「冬が来た」で、教科書にも載っていたこともあり、ご存じの方もいるだろう▼前後を省略するが「人にいやがれる冬 草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た 冬よ僕に来い、僕に来い 僕は冬の力 冬は僕の餌食だ」とある▼木枯らしが吹きイチョウも落葉し、誰もが嫌うような厳しい冬。それを自ら受け止め力に変えて成長していく精神が描かれていると解釈するが、どうも先の衆院選が浮かんでくる ▼「おごり」という党内論理に終始し国民の支持離れを招き、冬のような厳しい審判を受け過半数割れした与党。これから、その冬とどう向き合うかにある▼特別国会の首相指名選挙で、石破茂首相が再選出されたとしても厳しい国会運営は避けられない。石破首相は「選挙で示された民意を厳粛、謙虚に受け止め、丁寧にこれからの政権運営にあたっていく」とする、今後を見極めたい。詩の最後は「刃物のや(よ)うな冬が来た」とある。15年前の下野を忘れないためにも。
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ただ、まだ今後の政局がどうなっていくか、不透明ですね。注意して見ていきたいところです。

【折々のことば・光太郎】003

東京はもう春のやうですがこちらはまだ雪が残つてゐて山ハンノキの花がぶらさがつてゐる程度です。それでも例年より春が早く来さうです。


昭和25年(1950)3月29日 髙村規宛書簡より
 光太郎68歳

令甥の故・髙村規氏宛のイラスト入り葉書から。

「きつぱりと冬が来た」と、冬を礼讃した光太郎も、さすがにマイナス20℃にもなる岩手の冬はこたえたようで、春が待ち遠しい心境にもなったのでしょう。

仙台市から演奏会情報です。

サロンコンサート《 いざなう月の琴》 vol.32 ~古典調律で楽しむ, 小さなお部屋コンサート『 ひとり シューマンと智恵子抄 』クララ・シューマンの生誕日に寄せて~

期 日 : 2024年9月13日(金)
会 場 : アクテデュース 宮城県仙台市大町1-1-15
時 間 : 19:00~
料 金 : 3,000円

出 演 : 齋藤卓子

クラシックピアノの名曲はもちろん、初めて触れるかもしれない耳馴染みない楽曲も、親しみ易く、お話を交えて御案内していきます。街中の隠れ家のような気が置けない温かな空間で、ゆったりと音楽に浸ってみませんか?興味をお寄せ頂けましたら是非お出掛け下さい。

開催の9月13日は、ドイツ・ロマン派の作曲家ロベルト・シューマン最愛の妻にしてピアニストのクララ・ヴィーク=シューマンの生誕日に当たります。それに因み、今回は高村光太郎の『智恵子抄』に寄せて選んだロベルト・シューマンの作品を、詩の朗読と共にお楽しみ頂きたいと思います。

この演目は2019年にも取り上げていますが、「文学と音楽の融合」という試みとしてだけでなく、様々な要素が思い掛けない照応を見せ、お客様方にもその化学反応を楽しんで頂けました。この度また向き合うことで私自身にも新たな発見があると胸を躍らせています。「どうして智恵子抄とシューマン???」なのかは演奏会でのお楽しみに。9月13日の晩、会場にてお待ちしております。

尚、御用意できるお席に限りがあるため御予約をお願い致します。恐れ入りますが、前もってお問合せ下さいませ。アクテデュース 022-265-5350
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ピアニスト齋藤卓子 (さいとうつなこ) さん、案内文にある通り、令和元年(2019)にも同じ会場で「高村光太郎『智恵子抄』と共に」としてサロンコンサートをなさいました。

また、平成24年(2012)にはやはり仙台市のその頃長町にあったびすた~りさんで「ピアノ演奏と朗読で綴る愛の世界 シューマンと智恵子抄 Part2.高村智恵子誕生の日に」。この際は朗読の荒井真澄さん、墨絵の一関恵美さんとのコラボでした。
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さらに平成25年(2013)の第57回連翹忌では、齋藤さんのピアノに乗せて一関さんのライブペインティングを御披露いただきました。
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今回はお一人でピアノと朗読をなさるのだと思われます。

サブタイトルに「古典調律で楽しむ」とあり、現代で一般的な平均律ではないセッティングだそうで。聴く人が聴けば明らかに違うのでしょうね。当方、聴き分ける自信は全くありませんが(笑)。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

龍星閣の活動をはじめられたる趣、大慶に存じます

昭和24年(1949)5月10日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳

龍星閣」は昭和16年(1941)に初版が刊行された『智恵子抄』の版元。戦時中には他の光太郎著書も複数刊行しました。『智恵子抄』は戦時にも関わらず昭和19年(1944)の13刷まで版を重ねましたが、戦争の激化に伴い、龍星閣は休業。

この年、社主の澤田が出版業を再び始め、翌年には『智恵子抄その後』、さらに2年後には『智恵子抄』の復元版(共に赤いクロス装のもの)を刊行します。

8月9日(金)に光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された第33回女川光太郎祭につき、報道が為されました。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎の生涯に思い 宮城・女川で詩の朗読や講演イベント、県内外のファン集う

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)があった。県内外のファンら約30人が、詩の朗読や演奏を通して光太郎の生涯に思いを巡らせた。
 同町まちなか交流館で9日にあったイベントでは、町内外の8人が朗読。光太郎が女川の風景を見て「新興の気があふれていた」とつづった紀行文や「よしきり鮫(さめ)」といった詩を情感込めて読み上げた。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表は講演で、福島県二本松市出身の妻智恵子の生涯を解説した。光太郎が晩年、東京都内のアトリエで制作した彫像「乙女の像」にも触れ「彫像の顔は最愛の智恵子だった。そのアトリエの所有者が亡くなり、今存続が危ぶまれている。後世に残すため、思いを同じくする多くの声が必要だ」と話した。
 光太郎は1931年に三陸沿岸を巡った。光太郎祭は92年から開かれている。光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎が女川を題材に刻んだ足跡を後世に残そうと立ち上がった町内の人々の苦労や思いを受け継ぎ、語り継ぎたい」と話した。
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続いて、同紙の別刷りで牡鹿方面に折り込まれる『石巻かほく』さん。

高村光太郎しのぶ 女川にファン集い、朗読や講演会

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」が9日、町まちなか交流館で開かれた。県内外のファンら約30人が集まり、紀行文、詩碑、詩の朗読を通して光太郎の思いに触れた。
 「女川・光太郎の会」が主催した。町民や東京の中学生ら8人が詩を朗読。女川での体験を基に書かれたと言われる「よしきり鮫(さめ)」や「霧の中の決意」といった詩をギターの演奏に合わせて読み上げた。
 講演もあり、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が光太郎の妻智恵子の生涯を解説。結婚生活や病気療養中につくった紙絵などを紹介した。
 小山代表は光太郎が晩年、制作に当たったアトリエが東京にあることに触れ「所有者が亡くなり、存続が危ぶまれている。後世に残すために多くの声が必要になっている」と話した。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「祭りを続け、光太郎の足跡を多くの人に語り継いでいく」と話した。
 光太郎は1931年に三陸地方を旅した。女川を題材にした紀行文や詩を残し、91年に文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。近年は新型コロナウイルスの影響で中止もあったが、昨年再開した。
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光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存運動につき、講演で触れさせていただいたところ、記事の中にも取り上げて下さいました。ありがたし。NHK仙台放送局さんでも6月にご紹介下さいましたが、東北の方々にもそういう話があるんだというのをもっと知っていただきたいと常々思っておりますので。

ところで、女川光太郎祭の講演でアトリエ保存の話をいたしましたところ、その後の女川町長・須田善明氏の祝辞でそこに食いついたお話。同町としては、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑の再建に力をお貸し下さいまして、そのあたりなど。碑の再建方法には女川光太郎の会の方々の意向が全て反映されたわけではありませんでした。それでも町の所有物でないものに対し、税金を投入して支援を行って下さった苦労話には、「なるほど」と思わされました。

ちなみに劇作家・女優の渡辺えりさんに代表をお願いしている保存する会としてのホームページが、現在、鋭意製作中。そのあたりに長(た)けた方がご協力下さっています。公開が始まりましたらまたお知らせいたします。

【折々のことば・光太郎】

「山脈」も落手、山に居てかういふものを作られる御努力を推察しました。小生も山林にまゐり居り、農家、樵夫ともいろいろ近づきになり、今では都会へかへる気はなくなりました。「山脈」の文字を書きましたので、ともかくも同封いたします。よい紙がないので甚だ粗末でしたが。


昭和23年(1948)12月27日 三上秀吉宛書簡より 光太郎66歳

三上は戦前には『婦人之友』編集に当たっていた人物。戦後、九州で文芸誌『山脈』を主宰したりしました。

その『山脈』の題字揮毫が光太郎に依頼され、書いて送ったよ、というわけです。ところがこの光太郎揮毫の題字が使われた号が未見です。使われずにお蔵入りになった可能性もありますが。情報をお持ちの方、ご教示下されば幸いです。

8月10日(土)、前日に第33回女川光太郎祭が行われた宮城県女川町をあとに、帰途に就きました。その途中、女川町に隣接する石巻市に寄り道。石巻市博物館さんで開催中の第9回特別展「移動美術館 佐藤忠良展 宮城県美術館コレクションから」拝観のためです。

佐藤忠良は新制作派の彫刻家で、同じく舟越保武らとともに、光太郎のDNAを最も色濃く受け継いだ一人。昭和35年(1960)には第3回高村光太郎賞を受賞しています。仙台市の宮城県美術館さんに作品がまとまって収蔵されていますが、同館が改修工事に伴い休館中とあって、出開帳。
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これは観ておこうと思い、寄り道した次第です。

会場は石巻市博物館さん。けっこう郊外にあり、「マルホンまきあーとテラス」という新しい施設内で、データが古い愛車のカーナビには入っていませんでした。周辺の道路も少し前とはかなり様相が異なっているようで、ナビ頼みだとえらい遠回りを強いられました。
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ありがたいことに写真撮影可。その代わり、「SNSで発信して下さい」だそうで(笑)。
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「略歴」のボードには第3回高村光太郎賞受賞も書かれていました。ありがたし。

会場内はこんな感じ。
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フライヤーにも使われている代表作の一つ、「帽子」。
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こちらも代表作の一つ、「群馬の人」。
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光太郎や荻原守衛、高田博厚などを見慣れている当方、やはりこうした具象彫刻は安心して見られます。ただ、具象なら何でもいいというわけでもなく、ただの立体写真じゃん、というものはパスしたいところ。その違いは何なんだ、と云われてもうまく言葉で表現出来ませんが、やはり纏っているオーラとでも云いましょうか、光太郎曰くの「生(ラ・ヴィ)」ですね。佐藤の作品からもそれがびんびん伝わってきます。

お嬢さんの佐藤オリエさんをモデルとした作品。
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オリエさんは昭和45年(1970)にTBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎は故・木村功さん)。忠良はその際のオリエさんをモデルに「智恵子抄のオリエ」という作品も残しています。それがあるかと期待していたのですが、残念ながら展示されていませんでした。
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以前に仙台の宮城県美術館さん自体で「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を拝見した際にもこれは出ていませんで、もしかすると収蔵されていないのかもしれません。

その他、彫刻以外での佐藤の大きな仕事の絵本関連の展示も充実していました。
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驚いたことに、佐藤以外に、石巻出身の高橋英吉の作品も2点。高橋は東京美術学校で木彫を学んだ彫刻家で、光太郎の後輩、さらに関野聖雲に師事したということで、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たります。

木彫の「少女像」(昭和11年=1936)。薄く彩色が施されています。
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ブロンズの「男の首」(昭和14年=1939)。
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今年4月に信州上田の戦没画学生慰霊美術館 無言館さんに伺った際にも思いがけず高橋の作品が展示されていて驚きましたが、今回も驚きました。
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パネル最後にある通り、高橋は若くして戦没。数え32歳の昭和17年(1942)、太平洋戦争激戦地の一つ、ガダルカナル島でのことでした。そこで無言館さんに作品や遺品が展示されているわけです。

ちなみに無言館さんといえば、今週土曜日、地上波テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で無言館さんがメインで取り上げられます。系列のBSテレ東さんでは来週でしょう。

新美の巨人たち Artで願う平和の旅② 戦没画学生慰霊美術館「無言館」×内田有紀

地上波テレビ東京 2024年8月17日(土) 22:00~22:30

【沈黙の絵の真実とは】戦没画学生慰霊美術館「無言館」
長野県上田市。戦没画学生たちが遺した見果てぬ夢の数々。内田有紀 さんと訪れます。
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おそらく番組内では高橋より下の世代、もろに学徒動員等で在学中に召集されて戦死した画学生たちが大きく取り上げられると思われますが、ぜひご覧下さい。

それから、石巻市博物館の展示についての詳細情報。

第9回特別展「移動美術館 佐藤忠良展 宮城県美術館コレクションから」

期 日 : 2024年8月3日(土)~9月29日(日)
会 場 : 石巻市博物館企画展示室 宮城県石巻市開成1-8 マルホンまきあーとテラス内
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 祝日の場合は翌日
料 金 : 無料

宮城県を代表する彫刻家 佐藤忠良の名作が石巻に集合します
 佐藤忠良(1912年生、2011年没)は、宮城県黒川郡落合村舞野(現・大和町)出身の彫刻家です。はじめは画家を志望していましたが、オーギュスト・ロダンなどのフランス近代彫刻に触れたことで、彫刻家としての道を歩み始めます。
 その後は太平洋戦争の出征とシベリア抑留を経て彫刻制作を再開、一貫して具象彫刻の制作を続けました。
 愚直な制作態度から生まれる慎ましく清らかな作風が評価され、69歳の時には、国立ロダン美術館から依頼を受けた個展が開催されています。
 この展覧会では、佐藤忠良記念館を有する宮城県美術館のコレクションから、代表作《群馬の人》や《帽子・夏》、石巻(旧・桃生郡鹿又村)出身の母をモデルにした《母の顔》等の29点のブロンズ彫刻を展示します。
 加えて、佐藤忠良が挿絵を手掛けた『おおきなかぶ』等の絵本や紙芝居も35点展示し、画家としての活躍にも注目します。
 展示室内には『おおきなかぶ』のフォトスポットやキッズコーナーを設けており、ご家族で楽しみながら作品を鑑賞することができます。
 加えて、宮城県美術館の教育普及部による参加体験プログラムも開催することで、様々な世代の方々が佐藤忠良作品に親しむ機会を提供します。
 なお、この展覧会は、宮城県美術館の長期休館にともなうアウトリーチ事業です。
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関連企画 講演会「宮城ゆかりの彫刻家  佐藤忠良と高橋英吉 」
 日時 8月24日 土曜日 13時30分から15時まで (13時開場)
 場所 マルホンまきあーとテラス 小ホール
 講師 宮城県美術館 学芸員 土生和彦
 予約不要・参加無料

講演をなさる土生和彦氏、以前、愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんにお勤めのころ、同館も巡回された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」でお世話になりました。無沙汰を重ねていますが、ご活躍の由、嬉しく存じます。

それから、詳細情報が出ていませんが、佐藤忠良展入口前ではこんな展示も。
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高橋由一や速見御舟、そして光太郎の留学仲間の一人、安井曾太郎らの絵画です。ただし高精細複製。
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なるほど。

ついでですので、地元紙『河北新報』さんの別刷『石巻かほく』さんから、佐藤忠良展報道。

彫刻に宿る愛、佐藤忠良の世界 石巻市博物館で県美収蔵品展示 来月29日まで

 石巻市開成の市博物館(マルホンまきあーとテラス内)で、第9回特別展「移動美術館 佐藤忠良展 宮城県美術館コレクションから」が開かれている。9月29日まで。市博物館と県美術館主催で、宮城出身の彫刻家・佐藤忠良さん(1912~2011年)の記念館を所有する県美術館のコレクションから展示している。
 三つの章から成り、第1章は代表作「群馬の人」や「母の顔」などのブロンズ彫刻14点を紹介する「佐藤忠良の世界」。第2章は友人の子どもや孫をモデルにしたブロンズ彫刻15点を展示する「子どもたちへのまなざし」。第3章「絵本の仕事」では佐藤さんが挿絵を描いた絵本「おおきなかぶ」や紙芝居など35点も公開している。「おおきなかぶ」のフォトスポットやキッズコーナーもある。
 福島県南相馬市から訪れた公務員堀耕平さん(65)は「作者の名前は知っていたが詳しくはなかったので、作風の経過を見ることができて良かった。子どもの彫刻や絵本からは子どもたちへの愛を感じた」と話した。
 黒川郡落合村舞野(現大和町)出身の佐藤さんは画家を志したが、フランス近代彫刻に影響を受けて彫刻家の道へ転向。太平洋戦争やシベリア抑留を経験した後も一貫して制作に取り組んだ。
 17日は県美術館教育普及部の参加体験プログラムが開かれる。自由に絵描きや木工作ができるオープンアトリエは午前10時から午後3時半まで。小学生以下と家族対象のシルエットクイズと紙製スタンド作りは午前10時から同11時半まで。16歳以上対象の彫刻作品やテーマに関するポーズ作りは午後2時から午後3時半までで全身を使ったアート体験ができる。
 このほか24日に講演会「宮城ゆかりの彫刻家 佐藤忠良と高橋英吉」、9月7日には実際に展示作品を見ながら質疑応答などができるギャラリートークがある。いずれも講師は県美術館学芸員の土生和彦氏で、予約不要。参加無料。
 連絡先は市博物館0225(98)4831。
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というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

博物館で小生の彫刻を見られた由、皆ひどい旧作なので気がひけます。あの少女裸像は智恵子像ではなく智恵子像ではありません。あのモデルはヨコハマのチャブ屋の少女でした。随分昔の作です。智恵子の裸体をモデルにしたトルソは焼けてしまひました。智恵子の首も焼失。却つてよかつたかも知れません。

昭和23年(1948)12月13日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

「少女裸像」はこちら。大正6年(1917)の作です。
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それから「智恵子の首」。複数の作例の写真が残っています。
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「智恵子の裸体をモデルにしたトルソ」は残念ながら画像も確認出来ていません。

どうも光太郎、作品を作り上げるととたんに興味を無くしてしまう傾向にあったようで、旧作を自画自賛するということはほとんどありませんでした。自分に厳しい、といえばそうなのでしょうが。

一昨日、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で第33回女川光太郎祭が開催されまして、その模様を昨日ご紹介しましたが、その前後や途中に女川の街中をぶらぶら歩きましたレポートを。

光太郎祭の前夜、8月8日(木)、女川に到着。毎年泊めていただいている女川駅裏にあるトレーラーハウス式のホテルエル・ファロさんに今年も宿泊。
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ユニットバスが付いているのですが、駅舎内に天然温泉ゆぽっぽさんがあり、毎年こちらに入らせていただいております。
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長距離運転の疲れを癒やし、ホテルに戻ってぐっすり就寝。

千葉の自宅兼事務所ですと、毎朝、午前5時にこいつが起こしに来ます。「朝ごはんよこせ!」と(笑)。
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そのため旅先でも絶対に午前5時に目が覚めてしまうようになってしまいました(笑)。

そこでぶらぶら街歩き。

まずは港の光太郎文学碑に。ちょうど日の出でした。
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昭和6年(1931)8月、光太郎がこの地を訪れたことを記念して、平成3年(1991)に建てられたもので、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧されました。

ただ、元々4基あったうちの2基は津波で流され行方不明。建立に奔走した女川光太郎の会の貝(佐々木)廣氏も還らぬ人に……。

町役場に建立された東日本大震災の慰霊碑。貝(佐々木)氏の名も。
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それぞれの碑に手を合わせて参りました。

震災直後、当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちが、震災の教訓を後世に残す活動の一環として、津波到達地点より高い場所に目印となるように石碑を建てることを発案。費用はかつて光太郎文学碑がそうしたことに倣い、全額募金で賄うことにしました。「いのちの石碑」です。
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そうして10年あまりかけて、町内の海岸21箇所に碑が建てられました。

震災から2年後の平成25年(2013)、中心メンバーの生徒さんたちが通っていた旧女川中学校に建てられた第1号碑。久しぶりに拝見に伺いました。
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女川光太郎祭会場のまちなみ交流館さん内に展示されているパネルから、その除幕の様子。ここに映っている生徒さんの中には、かつて女川光太郎祭で光太郎詩文の朗読を複数回やって下さった方も。
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そして震災から10年後の令和3年(2021)、移転して小中一貫校となった女川小中学校さんに最後の第21号碑が竣工。
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女川の中心街を見守るように立っています。
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現在、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が発令されています。ちょうど今年、碑を建てた中心メンバーのお二人が、南海トラフ地震での被害が予想される高知県の中学校さんで、ご自身の体験などをご講演なさいました。何ともタイムリーなタイミングでした。
「いのちの石碑」関連 in 高知。
「いのちの石碑」関連 in 高知 その2。

大きな被害が出ない程度に地震のエネルギーが分散し、終息することを望みます。

一旦ホテルに帰り、朝食を摂ったりのあと、午前10時に再び文学碑へ。献花です。
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もちろん光太郎に、それからかつて碑の建立に奔走された貝(佐々木)氏に、そして碑文の一部を揮毫された亡き北川太一先生に、万感の思いを込めさせていただきました。

それまで気がつかなかったのですが、碑の近くにはスケートボードパーク的な施設も出来ていまして、子供たちが練習中。
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ちょうどパリ五輪開催中ですが、ここからオリンピアンが巣立つようなことがあれば素晴らしいですね。

これも碑の近く、津波で横倒しになった鉄筋コンクリート造りの旧女川交番。震災遺構として保存されています。
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こうした建物被害などは防げないのかも知れませんが、人的被害は防げるはず。女川の様々な教訓を各地で生かして欲しいものだと思いました。

昼食は光太郎祭会場のまちなみ交流館さん向かいのお店で、海鮮釜飯(1,380円)。美味でした。一帯の商店街・シーパルピア女川さんは既存の施設があとからそのまま道の駅となった珍しいケースです。
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最後に光太郎祭のあと、懇親会が始まる前の夕刻の海。
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こんな女川町です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今年はサンマがたくさん出廻ったので先月あたりはサンマを例年よりも多くたべました。今はカジキマグロが時々出廻って入手出来、去年よりも栄養はいい方です。学校のそばの開拓事務所で魚類を時々取次いで売るので便利になりました。

昭和23年(1948)12月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区には、おそらく一軒も商店がありませんでした。村の中心部まで行けば多少はあったようですが、それも数㌔先。開拓事務所(これとて山小屋から1㌔近く離れていましたが)で魚の移動販売が始まったのはありがたかったでしょう。たぶん三陸の魚がメインだったと思われます。

昨日、宮城県女川町において光太郎を偲ぶ第33回女川光太郎祭が執り行われました。

まずは午前10時、女川港の光太郎文学碑に献花。当方、おそれながらセンターを務めさせていただきました。
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午後、近くのまちなか交流館さんを会場に、式典等。
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まずは黙祷。

続けて当方の記念講演。
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今年は光太郎ではなく智恵子をメインに語らせていただきました。

関係の方々のごあいさつ、祝辞等。女川光太郎の会・須田勘太郎会長、女川町長・須田善明氏、そして髙村家当主・髙村達氏。
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午前中の献花の様子をプロジェクタで投影。
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町内外の皆さんによる光太郎詩文の朗読。
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今年で33回と言うことで、コロナ禍での中断もありましたが、それでもこうして朗読して下さった方はのべ300人を超えるだろうとのこと。まさに継続は力なりですね。

アトラクション的に音楽演奏。朗読の際にバックも務められたギタリスト・宮川菊佳氏のソロ。
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オペラ歌手・本宮寛子氏の歌唱。
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最後に運営の世話役・佐々木英子さんのごあいさつ。
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終了後、近くの中華料理店・金華楼さんにて懇親会(これがメインという説も(笑))。
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つつがなく終わり、安心しております。

また、来年以降も末永く続くことを願ってやみません。

本日開催される女川光太郎祭のため、昨夜から宮城県女川町に来ております。
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昭和6年(1931)の今日、新聞「時事新報」の依頼で紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎は東京を発ちました。おそらく芝浦港から三陸汽船の船で、塩竈港へ。その後、約一ヶ月かけ、宮城と岩手の太平洋沿岸を主に船で廻りました。

平成のはじめ、それを記念して女川町の貝(佐々木)廣氏が中心となって、当時の女川海浜公園に光太郎文学碑が建立され、その後、毎年8月9日に女川光太郎祭が開催されるようになりました。
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平成23年(2011)、東日本大震災の津波で町中心部は壊滅、この碑は倒壊し、貝(佐々木)氏も帰らぬ人となってしまいました。
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光太郎祭の運営はその後、奥さまの英子さんが引き継ぎ、コロナ禍での中断を経て、昨年から旧に復して開催されています。

町内外の方々による光太郎詩文の朗読、アトラクションの音楽演奏、おまけで当方の記念講演など。

つつがなく終わることを祈念いたしております。

昭和6年(1931)8月から9月にかけ、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために三陸海岸一帯を船で訪れたことを記念して行われている「女川光太郎祭」。昨年、コロナ禍明けで4年ぶりに通常開催され、今年も行われます。

女川光太郎祭

期 日 : 2024年8月9日(金)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

詳しい文書等来ていないのですが、ほぼほぼ例年通りという連絡が入っておりまして、概ね下記のような流れでしょう。多少の順番の変更等はあるかも知れません。

10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
14:00~ 式典等
 黙祷
 第33回記念講演 「智恵子、その生涯」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 ご挨拶 女川光太郎の会
 献花の模様動画投影
 光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
 祝辞
 アトラクション演奏

18:00頃~
 懇親会

午前中には、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧された光太郎文学碑(津波でなくなった貝(佐々木)廣氏が平成のはじめに建立に奔走)への献花。おそらく当方も関係者代表の一人としてでやらせていただきます。午後の式典の中でその模様の動画を投影するはずです。
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震災前は式典が碑の前で行われており碑に直接献花、震災後しばらくはかつての健在だった頃の碑の写真に会場内で献花していましたが、昨年から上記のような流れになりました。

式典では、亡き北川太一先生のあとを受けまして、当方、毎年記念講演をさせていただいております。昨年までは光太郎の生涯を時期に分けて紹介して参りました。智恵子の生き様についても聴いてみたいという要望が昨年寄せられ、今年は「智恵子、その生涯」と題してやらせていただきます。
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その後、町内外の方々による光太郎詩文の朗読。おそらくギタリスト・宮川菊佳氏の伴奏に乗せて行われます。

昨年の模様。
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さらに宮川氏、それからオペラ歌手の本宮寛子氏のアトラクション的演奏。本宮氏は平成3年(1991)、女川町で「オペラ智恵子抄」(山本鉱太郎氏脚本、仙道作三氏作曲)が上演された際に智恵子役を演じられ、それ以来女川町に通い続けていらっしゃいます。

終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、当方としては今から楽しみです。

ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も仕事は七十歳からと信念致しまして、目下心身の涵養につとめて居ります。

昭和23年(1948)10月21日 宮崎仁十郎宛書簡より光太郎66歳

仕事」は彫刻。花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしの中で、発表する作品としての彫刻制作は完全に封印したことが語られています。少し前までは今年こそ少しずつやります、的な感じだったのですが。

1泊2日で仙台に行っておりました初日の7月22日(月)、仙台市内をぶらぶらしました。

まずは仙台駅近くの青葉区本町にある島川美術館さん。以前は蔵王山麓の遠刈田温泉にあり、その頃の名称が「エール蔵王 島川記念館」でした。それが令和元年(2019)に仙台市内に移転、「島川美術館」と改称されました。

健康食品販売メーカー「ジャパンヘルスサミット」という会社の島川隆哉社長のコレクションが根幹で、主に国内の近代美術作家の作品、1,000点ほどが収蔵されています。一部、海外のものも。
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光太郎の父・光雲作の木彫「聖観音像」もあるということで、お邪魔しました。「エール蔵王 島川記念館」時代から収蔵されており、平成29年(2017)にやはり蔵王の青根温泉不忘閣さんに宿泊した際、すぐ近くを通っていながらその頃はそれを存じませんで、通り過ぎていました。そこで、現在「聖観音像」も常設展示されているという情報を得、今回、お邪魔した次第です。

失礼ながら、「え、こんなところに?」という立地でした。広瀬通り、勾当台通り、定禅寺通りといった大通りから入っていく細い道沿いで、いかにも、という佇まいではないごく普通のビルでした。
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c3a12284こちらの2階から5階が展示フロアで、受付の方曰く、まず5階までエレベータで上がり、順繰りに階下に降りて行くのがしきたりだそうでした。

云われた通り5階に上がりますと、まずは現代美術がメインのフロア。続いて4階に降りたところ、入口付近に「聖観音像」が鎮座ましましていらっしゃいました。「鎮座」というか、立像ですが(笑)。

昭和3年(1928)、光雲数え77歳の作だそうで、そろそろ晩年、もはや刀技は円熟の境地に入っています。ことによると弟子の手が入り、仕上げのみ光雲という工房作かもしれませんが、そうでない可能性の方が高いかな、という見事な作でした。

若い頃、「生涯に百体の観音像を彫りたい」という目標を持った光雲ですが、昭和7年(1932)に記録された談話では「今日では二百体であるか三百体であるか一寸数え切れない程観音様を作つて居ります」と語っていて、もうこの頃には眼をつぶっていても出来てしまうんじゃないか、という感じですね(笑)。といっても「粗製濫造」という言葉は全く当てはまりません。

それでも「逃げるべきところはきちんと逃げている」というのが確認できました。

ポイントは、持物(じぶつ)の蓮華や衣など。
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赤丸を附けた部分、垂れ下がった衣や紐が身体や台座とくっついています。蓮華も正面からだと分かりませんが、横から見ると、肩に触れているのです。このくっついている部分を切り離して作るとなると、細く彫り出した部分が折れてしまう危険性が非常に高くなりますが、それをくっつけて彫ることによって、その危険度が軽減しますし、手間もかなり省けます。結局、「穴」をあけることになるわけで。

よくよく注意して見ないと気づかない点で、おそらく受けとった注文主などもそんなことは全く気にしないでしょうし、それが気にならないように自然にやっているわけですね。いい意味での「手抜き」といえるのではないでしょうか。そういう工夫をしなければ量産は不可能でしょう。

この持物等が身体にくっついている件、光雲令孫から花巻市さんに寄贈された「天鈿女命」像と、そのための原図を見ていて気づきました。
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005原図では身体から離れている榊の枝が、完成作では後頭部にくっついています。

「聖観音像」でも同じようなことをやっていたんだなというのが確認できました。

ふむふむ、と思いながら3階に降りたところ、やはり入口付近でびっくりしました。「え、あなた、なぜここに居るの?」。といっても人ではなく、右図の光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)中型試作」です。

ブロンズの像は同一の型から鋳造したものが複数存在し、この像も花巻高村光太郎記念館さんはじめ、二本松の智恵子記念館さん、信州安曇野碌山美術館さん、千葉県立美術館さん、大阪の御堂筋彫刻ストリートなどにあるのですが、島川さんでも持っているというのは存じませんでした。

ちなみに隣には「乙女の像」のDNAを受け継ぐ秋田田沢湖の「たつこ像」(舟越保武作)も仲良く並んでいました。

その他、光雲・光太郎と交流のあった美術家の作がずらり。横山大観、岸田劉生、梅原龍三郎、安井曾太郎、板谷波山など。

それから、意外と珍しい田中一村や鴨居玲などの作品もあり、まさに眼福でした。

帰りがけ、A4変形版150ページ近い図録を購入。「聖観音像」も載っています。「エール蔵王 島川記念館」時代に刷られたもので、「収蔵作品選」と題されていました。この厚さでほぼオールカラーですので「2,500円くらいだろう」と予想したのですが、何とたったの1,000円。
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ついでに云うなら、入館時、拝観料1,000円を払ったところで、クリアファイルとポストカード3枚組も頂いてしまいました。何と良心的な館なのだろう、と感じ入りました。

というわけで、島川美術館さん、仙台にお出での際はぜひお立ち寄り下さい。

【折々のことば・光太郎】

記念碑の写真おうけとりしました。碑はきれいに彫れたやうに見うけます。


昭和23年(1948)9月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

「記念碑」は宮崎の父・仁十郎が檀家総代を務めていた茨城取手の長禅寺に建てられた「開闡郷土」碑。光太郎がその題字を揮毫しました。
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碑は長禅寺参道石段の右手に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。

一昨日、昨日と、1泊2日で仙台に行って参りました。レポートいたします。

メインの目的が宮城野区鉄砲町のAntique & Cafe TiTiさんで開催された、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さん、箏曲奏者の元井美智子さんのお二人のコラボ公演「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」の拝聴でした。
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今年の連翹忌で知り合われて意気投合されたお二人が、花巻と仙台で計3公演を行われ、その最後です。

まず公演前夜、セッティングの際にお邪魔しました。
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外見からはそうとは分かりにくいのですが、築100年ほどの蔵を秋田の横手から移築したという店舗で、カフェ以外にアンティークショップも兼ねています。店内至るところに置かれている品々は売り物。いい感じですね。
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こちらは売り物ではなく(笑)、元井さんの箏。
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これを車に積まれて各地を転々となさっているわけで、いや、大変だな、と思いました。箏自体が大きいものですし、しっかりした板で作られている台の重いこと重いこと。終演後に元井さんの車まで運んだのですが、筋トレになりました(笑)。

さて、翌朝。平日午前中にもかかわらず、多くのお客様。
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キャパが20弱で、あっという間に予約でいっぱいになったということで、先週、追加公演を別の会場でなさったそうです。

前半は元井さんのソロ。定番の「春の海」、オリジナル曲、そして「花は咲く」。
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休憩時間。ご自分でも音楽活動をなさっているというお客様が多く、皆さん、興味津々で箏の周りに。元井さん、質問攻めにあっていました(笑)。
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後半は、荒井さんによる「智恵子抄」系詩篇の朗読。元井さんのアドリブ演奏にのせて。
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思い起こせば荒井さんの朗読は10年以上前から何度も聴いていますが、何度聴いてもいいものです。運命の人・智恵子と出会ってから晩年の花巻郊外旧太田村までの、光太郎の生涯に思いを馳せながら拝聴しました。
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元井さんの箏は、うるさすぎず、それでいて勘どころはしっかりと押さえ、お二人の息もぴったり。光太郎詩の世界観が存分に表され、これが相乗効果というものかと感じ入りました。

最後は1曲だけ、荒井さんの歌で宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりの歌」。もちろん箏の伴奏で。これもナイスでした。

合間に当方のべしゃくりも少し。花巻の高村山荘/光太郎記念館さん、二本松の智恵子生家/智恵子記念館さんのパンフレットやフライヤーをお配りしましたので、ぜひ足を運んで下さい的な。それから例によって、光太郎終焉の地・中野アトリエの保存運動のための署名について。皆様、快くご協力下さいました。多謝。

荒井さん、元井さん、ともに今後もさまざまな公演を控えてらっしゃいます。光太郎智恵子系ではありませんが。
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お二方のさらなるご活躍を祈念いたします。無題

【折々のことば・光太郎】

今朝花巻新報の揮毫をいたしましたので、上出来とはゆきませんが同封いたします。

昭和23年(1948)8月25日 佐藤隆房宛書簡より
 光太郎66歳

『花巻新報』は、『岩手自由新聞』『岩手大衆新聞』『読む岩手』を統合して誕生した地方紙ですが、戦前にあった『花巻新報』の名を踏襲しました。復刊はこの年11月7日でした。

佐藤隆房は賢治の主治医でもあった総合花巻病院長でしたが、同紙の運営にも関わり、その題字の揮毫を光太郎に依頼しました。光太郎筆の題字、昭和35年(1960)の終刊号まで使われました。

昨日から一泊で仙台に来ております。

メインの目的が、朗読の荒井真澄さんと箏曲の元井美智子さんのコラボ「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」の拝聴です。

会場が宮城野区のAntique & Cafe TiTiさん。秋田の横手から移築した蔵だそうで、実にいい感じです。
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早めに会場入りしまして、配布物の丁合いなどを終えました。もうすぐ開場。ワクワクしております。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

今日はこれから1泊2日の日程で宮城県仙台市に行って参ります。

メインの目的は明日、宮城野区鉄砲町のAntique & Cafe TiTiさんで開催される、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さん、箏曲奏者の元井美智子さんのお二人がコラボなさる公演「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」の拝聴。今年の連翹忌で知り合われ意気投合されたお二人が、花巻と仙台で計3公演を行われ、その最後です。
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下記は7月18日(木)、花巻の賢治の広場ハナマルカフェさんで開催された初日の公演の模様。当会同様、後援に入られているやつかの森LLCさんの方から画像が送られてきました。
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プログラム的には同じような感じかな、と思われます。箏の音色に乗せて、光太郎や宮沢賢治作品の朗読等。やつかの森LLCさんの方は絶賛なさっていました。

そちらが明日の午前10時半開場ということで、それに間に合わせるため今日から仙台入りします。今日は市内で美術館や古書店等をぶらぶら覗いてみようかな、というところです。

詳細は帰りましてから。

【折々のことば・光太郎】

婦人之友の写真をごらんになつた由のおたよりいただきました。親爺に似てゐるとは恐ろしい因縁だと思ひます。同雑誌にあるシユヷイツエルの写真を見ると自分などは生ぬるいと思ひました。

昭和23年(1948)8月13日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

婦人之友の写真」は、この年7月号の同誌に載った光太郎のエッセイ「一刻を争ふ(のち、「季節のきびしさ」と改題)」に添えられたものです。これを見た宮崎が「光雲さんに似てきましたね」的なことを書き送ったのでしょう。
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「シユヷイツエル」は、アフリカで献身的な医療奉仕活動を行っていたアルベルト・シュヴァイツァー。その近況が右上写真と共に同誌に載り、光太郎は自分ごときはまだまだだと感じたというわけですね。

東北レポート、最終回です。6月8日(土)、花巻に行く前に立ち寄った仙台をレポートいたします。

午前11時前、仙台駅に到着。
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駅前のデッキ、何やら人やまの黒だかり、しかもみんな空を見上げています。「何事?」と思ったところ、轟音と共に現れたのが……
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空自さんのブルーインパルスでした。この日は「東北絆まつり」だったそうで、その関係で飛んでいたようです。

その後、地下鉄南北線で台原駅まで。そこから台原森林公園を突っ切って、仙台文学館さんを目指しました。

公園入口にはブロンズ像。仙台と言えば佐藤忠良かな、と思ったのですが、佐藤と親しかった舟越保武の作品でした。そういえば田沢湖のたつこ像にも似ています。
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舟越にしても佐藤にしても、光太郎の影響で彫刻の道に進み、光太郎と直接の交流を持ち、さらに光太郎のDNAを受け継いだと言っていい存在です。

森林公園内はかなりの山道。都会の人はこういう道を「いいなあ」と感じるのでしょうが、千葉の自宅兼事務所周辺もこんな風景なので、当方にとっては今更感(笑)。
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文学館さんには裏口から入ることになりました。PXL_20240608_025256594

こちらでは、開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」が開催中です。

石川は明治34年(1901)、仙台の生まれ。光太郎より18歳下の詩人です。昭和7年(1932)に不慮の事故により満31歳の若さで亡くなりました。生前に詩集が刊行されることはありませんでしたが、歿後の昭和11年(1936)に友人たちの手で、『亜寒帯』が刊行されました。序文は光太郎。石川は光太郎とも交流があり、その関係です。

『高村光太郎全集』では、その序文以外の箇所に石川の名が出て来ません。そこで、光太郎と石川の間にどんな交流があったのか、今一つ分からなかったのですが、今回の展示で出品された、石川から詩人の郡山弘史に宛てた書簡に、光太郎、石川、そしてやはり詩人の小森盛で酒を呑み、その帰途、泥酔して小森と共に谷中警察署に一晩拘留されたことなどが記されていました。昭和4年(1929)のことでした。

光太郎による『亜寒帯』の序には、石川が草野心平の経営していた焼鳥屋「いわき」に来ていた様子が記され、心平繋がりで光太郎と石川が出会ったのかな、と思っていたのですが、展示の説明パネルによれば、二人を結びつけたのは小森らしいとのこと。いずれにしても小森も心平人脈の一角にいた人物です。

図録、出品目録がこちら。
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図録の「善助の交友」、最初に光太郎の項。
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最後の部分、「光太郎から座敷童子の話を聞いた」とあり、これも存じませんでした。

国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、やはり石川歿後の昭和8年(1933)に刊行されたエッセイ集『鴉射亭随筆』巻頭の「寂莫紀」に、以下の記述がありました。

いつか高村氏のお話に、階下のアトリヱで、ひどく巫山戯る子供らしい物音を深夜きいたといふのを私はうかがつたことがある。

国会図書館さんのデジタルデータは細かく当たっているのですが、これは見落としていました。「高村光太郎氏」となっていれば気づいたのですが、「高村氏」としか書かれていないのが原因です。この箇所に「座敷童子」の語はありませんが、この前の部分で、宮沢賢治から聞いた座敷童子の話などが紹介されており、その流れです。

そして賢治。石川は生前の賢治と会ったことがある数少ない詩人の一人。そこで賢治関連の展示もありましたし、前述の小森盛、心平、さらに尾形亀之助、天江富弥など、やはり光太郎とも交流のあった面々に関しても。
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右上は図録とは別に無料配付されていた冊子。『亜寒帯』の復刻版を出されたあるきみ屋さんの制作です。マンガのページがあり、残念ながら光太郎は登場しませんが、賢治と石川の出会いは描かれています。

石川善助、もっともっと注目されていい詩人ですね。そういう意味では今回の展示が一つの契機となればと存じます。

常設展的な区画には、ぼのぼのも居ました(笑)。作者のいがらしみきお氏が仙台ご在住ですので。こちらは撮影可。
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ロビーでは、石川善助展を報じる新聞記事。
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さらにこんなものも。
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開館25周年ということで、これまでに開催された企画展示の図録等です。
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平成18年(2006)に開催された「高村光太郎・智恵子展 -その芸術と愛の過程-」のそれも。

当時のフライヤー等。
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当方、同館を訪れたのはこの時が初めてでした。もう20年近く経つのか、という感じです。

この際には光太郎令甥・髙村規氏、それから当会顧問であらせられた北川太一先生のご講演が関連行事として行われました。お二人とも既に虹の橋を渡られてしまいましたが……。

正午過ぎ、同館を後に、路線バスで仙台駅に。花巻に向かう東北新幹線下りホームに行くと、見慣れない紅白の車輌が停車していました。
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当方、鉄道マニアではないので詳しくありません。「何じゃ、こりゃ?」でした。見ると、車体側面に「East i」のロゴ。スマホで調べてみると、JR東日本さんの保守点検用の車輌でした。JR東海さんの「ドクターイエロー」のようなものなのでしょう。「ドクターイエロー」は11年前に名古屋で行き会いましたが、こちらは初めて見ました。ブルーインパルスといい、珍しいものに遭遇する日でした(笑)。

この後、やまびこ号に乗り込み、新花巻駅へ。昨日のブログ、そして一昨日のブログに続きます。

以上、東北レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今年は去年よりも寒気が弱いやうですが、早朝は零下十五、六度を上下してゐます。起きて囲炉裏に火を焚いて暖をとるのはたのしみです。まづ湯を沸してから一切の生活がはじまるわけです。雪かきはおもしろく、今に雪の彫刻をつくる気です。


昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

「雪の彫刻」に関しては、翌年、「人体飢餓」という詩に現れます。雪女の姿を雪で作るという夢想です。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。

「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

このブログサイトでたびたび取り上げさせていただいている、宮城県女川町の「いのちの石碑」。避難の際の目印となるようにと、東日本大震災時の津波到達地点より高い場所、全21箇所に設置されたものです。中学生たちが、同じ女川町の光太郎文学碑を参考に、「100円募金」で建てました。

過日、そのプロジェクトの中心メンバーのうちお三方が、母校の後輩たちに特別授業を行った件が地方紙『石巻日日新聞』さんで報じられましたが、同じ件をミヤギテレビさんでも大きく取り上げていました。

女川中の中学生が建てた「いのちの石碑」卒業生が後輩に伝えたことは

 東日本大震災から13年を迎えた今月11日。3人の卒業生が母校を訪れた。
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 海を臨む高台に4年前に開校した女川小中学校。震災当時小学6年生だった3人は後輩たちに向けてあの日の体験を話した。
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卒業生・阿部由季さん
「震災当日は食料もない、寒い。みんなで大きいペットボトルを回し飲みしたり。 先生が小学校からカーテンを持ってきてくれて。 3月11日は雪が降ってすごく寒い。みんなでカーテンにくるまって過ごしました」
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続いて伝えたのは中学生ながらに考えた町の復興について。

卒業生・鈴木美亜さん
「当時はまだ復興していなくて茶色い土。いまからどういう町にしたいかっていうのを中学生ながらに考えて、それを模型にして女川町長に実際プレゼンをしてこういう町にしたいと考えた」
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当時、生徒たちが取り組んだことは…

  鈴木美亜さん(当時中学生)
「千年後の命を守るために津波の最高到達地点に石碑を建てようと考えていて子ども募金よろしくお願いします」
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津波の記憶と避難の教訓を後世に残そうと女川町のそれぞれの浜の津波より高い場所に避難の目印となる「いのちの石碑」を建てた。
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 中学校卒業もみんなで集まり子どもたちに防災の教訓を伝える「いのちの教科書」作りなどを続けてきた。
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 いまの中学生は震災の記憶がほとんどない世代だ。

 女川中の2年生
「難しい質問になると思うが避難所とか今もそうだと思うんですが人の心を温められることはどんなことだと思いますか?」
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卒業生・伊藤唯さん
「難しい質問ですけど私個人の話なんですけど、東京でダンスの仕事しているんですけど、ダンサーって仕事ね、震災前からやっていて。震災前からの夢ではあったが震災後、笑顔が失われみんな暗い表情をしている中で、中学3年生の時かな女川のサンマ収穫祭、いまもあるよね?サンマ収穫祭でステージに立たせてもらった時に友達とか知らないおじいちゃん おばあちゃんが拍手してくれたのが嬉しくて、この夢絶対かなえて『人の心に寄り添える人になろう』と思って、 いまこの仕事につけているのですごく幸せなんだけど。たぶん人の心を温めることって 難しいけど、だれにでも出来ること。」
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女川中の生徒たちは防災への意識を新たに―

  女川中の生徒会長
「多分、その時、自分が被災してやろうとなったら、やりたいとは思うけど、いざ行動に移してみるのは難しいと思うので、行動に移し途中で途絶えもせず 続けている先輩方は本当に素晴らしい活動をしてると思いました。」
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 13年前、がれきとなってしまった故郷を目の当たりにしながらも未来の命を救いたいと考えた当時の中学生たちの思いはしっかり、伝わっていた。
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彼らの取り組み、単なる「美談」として終わらせるのではなく、この国全体に「防災」の意識を高める契機となればと存じます。

【折々のことば・光太郎】

映画も見ました。「うたかたの恋」といふ変な日本名のフランス物でしたが、久しぶりにボワイエやダリユーのフランス語をきき、なつかしく思ひました。言葉の妙味は尽きません。


昭和22年(1947)2月22日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から久しぶりに花巻町中心街に出て、宮沢賢治実弟の清六らとともに映画鑑賞。「うたかたの恋」は原題「Mayerling」(オーストリアの地名)、昭和11年(1936)の作品です。「ボワイエ」は『ガス燈』で有名なシャルル・ボワイエ、「ダリユー」はのちに『チャタレイ夫人の恋』に出演するダニエル・ダリュー。
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昭和32年(1957)になってアメリカでテレビ映画としてリメイクされ、その際のヒロインはオードリー・ヘップバーンでした。

今年ももうすぐ3.11、あの日から13年ですね。

智恵子の故郷、福島二本松の南、郡山でのイベントです。

光太郎智恵子に直接関わるものではないようですが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語を冠して下さっていますので、ご紹介します。

3.11ふくしま集会 原発事故は終わっていない

期 日 : 2024年3月10日(日)
会 場 : 郡山市労働福祉会館大ホール 福島県郡山市虎丸町7-7
時 間 : 13:30~
料 金 : 無料

2024年3月11日(月)、「3.11ふくしま集会 原発事故は終わっていない」を開催します。ほんとの空の下で語られる本当の声を聴きに来てください。

講演 「福島原発事故は人々に何をもたらしたのか」
 講師  関礼子さん(立数大学社会学部教授)

パネルディスカッション 「原発事故から13年を語る」
 コーディネーター 関礼子さん
 パネラー 
  ふるさとを返せ津島原発所訟原告団、子ども脱被ばく裁判原告団、福島原発被害井護団

女川原発差し止め訴訟からの報告

福島の取り組みからの報告
 福島原発事故被害から暮らしと健康を守る会
 市民立法「チェルノブイリ法日本版」をつくる郡山の会
 小児甲状腺がん支援グループ あじさいの会
 請戸テントひろば
 汚染水の海洋投棄を止める運動連絡会

お問い合わせ
 3.11原発いらない福島実行委員会 080-6220-0996(藤井)
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13年が経ちますが、いまだに複数町村で「帰還困難区域」が存在する現状。これで「原発事故はもう終わった話」とは言わせないぞ、と思います。
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また、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町の原発再稼働に関しても議題に。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

遠くから見てゐると東京では随分無駄な動きに人々が喘いでゐるやうです。


昭和21年(1946)10月28日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移住してからまる一年、花巻町疎開から数えれば約1年半。すっかり地方からの視点になっています。

「めぐみネット 共同通信アグリラボ」というサイトに出ていた記事です。共同通信さんの関係なので、全国の地方紙いくつかには掲載されたのではないでしょうか。ご執筆は日本離島センター専務理事・小島愛之助氏。 

よんななエコノミー 震災からの復興と離島振興 宮城県女川町

013 元日に能登半島地震が起きると、宮城県女川町は6日、備蓄していたアルファ米や野菜ジュース、ポリタンク、非常用飲料水袋など生活物資を被災した石川県志賀町に提供し、その3日後には副町長ら職員4人を現地に派遣した。女川町は、東日本大震災の復興支援で志賀町から2015年度に事務員、19年度に保健師の派遣を受けており、同じ被災地として手を携えていこうとしている。
 その東日本大震災によって女川町も壊滅的な被害を受けたが、「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ。START! ONAGAWA」をスローガンに、急ピッチで復興まちづくりを行ってきた。その効果もあって、女川駅や駅前商店街(シーパルピア女川)を中心として、かつてのにぎわいが戻ってきている。また、大震災の被害を千年後まで伝え、命を守りたいという思いから、町内21カ所には「いのちの石碑」が建っている。この石碑は、大震災の年に中学校に入学した子どもたちがプロジェクトを立ち上げ、建設資金の調達や石碑のデザインなどを行ったものである。
 女川町には、人口が50人足らずの江島と約90人の出島の二つの有人離島があるが、このうち出島を今回は紹介したい。出島は、女川町の沿岸から一番近いところで300メートルほどしか離れていない。そのため、本土と島を結ぶ全長364メートルの橋を建設する出島架橋の整備事業が17年からスタートし、昨年11月に橋の中央部分が設置された。今後、道路の整備などが進められ、ことし12月に開通する予定である。
 出島への交通アクセスは、シーパル女川汽船の「しまなぎ」で女川港から20分。出島架橋が開通すれば、女川の市街地から車で15分に短縮されるという。時間・距離の短縮はもちろんのこと、病気やけがなどの緊急時にすぐ搬送できないという問題が解消し、住民の安心な生活につながるという点も大きい。一大漁業基地であり、釣り客のメッカでもある島と本土が陸路でつながることで、島の産業が継続的に営まれていくというメリットも多大である。
 出島には縄文時代の配石遺構があり、「出島ストーンサークル探検ツアー」の実施主体となっている「一般社団法人 女川未来会議出島プロジェクト」は、架橋後の町施設の管理をはじめとして、島の観光など各種事業の発展と創出に関わる支援を行うことにあるという。
 同プロジェクトの代表理事を務める高野信さんは福島県郡山市出身の元教員。定年後に教員時代の上司の故郷である出島に半ば移住した。架橋の効果も相まって、離島観光が女川町の復興に大きく寄与することを期待したい。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れ詩文を残したゆかりの町として「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町。東日本大震災では甚大な被害でしたが、その後、記事にあるとおり、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、10年以上かけて町内の海岸沿いの高台等に全21基の「いのちの石碑」が建てられました。
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そういう女川町さんですので他人事ではないと、能登半島地震に被災地に対しての素早い支援。記事は先月のものですので「6日」とあるのは地震発生から5日後の1月6日(土)です。素晴らしい。

その背景には、東日本大震災の折に、今回大きな被害のあった志賀町さんから支援を受けていたお返し的な要素もあるとのこと。まさに「情けは人のためならず」。ちなみにこのことわざ、「他人に情けをかけるとそのひとが甘えてしまって結局はその人のためにならないから控えるべきだ」という意味だと誤用されることが多いそうですが、正しくは「常日頃から他人に情けをかけておけば、いざ自分が困った時にそれが返ってくる」という意味ですね。だからといってそれを期待して「常日頃から他人に情けをかけておこう」というのでもなく、逆に考えれば「常日頃から他人に反感を買いまくっている輩はいざという時にも助けてもらえないよ」ということになるのかもしれません。

その他にも東日本大震災の被災地から、今回の能登半島地震の被災地への支援が続々という報道をよく目にします。まだまだこの国も捨てたもんじゃないなと思う今日この頃です。

記事内容に戻りまして、女川町の友人離島の一つ、出島(いずしま)。こちらには女川光太郎祭を主催されている「女川光太郎の会」の須田勘太郎会長がお住まいです。一度渡ってみようと思いつつなかなか果たせないでいるのですが、記事にある今年開通するという橋が完成すればすぐに行ける感じになりますね。ちなみに出島にも「いのちの石碑」が建立されています。
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3.11もあと1ヶ月ほど。13年経ちますが、福島の原発周辺など、いまだに復興の進まない地域もありますし、その後も今回の能登半島や熊本など地震の被害は後を絶ちません。それでもその都度、過去の教訓を生かしてやっていくしかないのだろうなと思います。

【折々のことば・光太郎】

どうか十分に治療を尽してください。牛乳などは三里塚の事だからたくさんあるのだらうと思つてゐますが、あびる程のんでください。日本には以前から牛乳が少くて一般人の健康にかなり影響してゐたと思ひます。岩手地方はすべて酪農にするといいと考へてゐます。


昭和21年(1946)8月24日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

千葉成田の三里塚に居た親友・水野葉舟宛書簡から。葉舟は結核性の肋膜炎で翌年には没します。光太郎、この頃から食と健康に関する発言が目立つようになります。家庭菜園に毛が生えた程度とはいえ、まがりなりにも農業に従事するようになったことが大きいのでしょう。

宮城レポートの最終回です。

8月10日(木)、2泊した女川町を後に、千葉の自宅兼事務所に戻る前、松島町に立ち寄りました。

松島湾。
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目的地は瑞巌寺さん。こちらの宝物館で、先月から「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催されています。一関さんには、10年前の連翹忌の集いでアクションペインティングをお願いいたしました。
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まずは本堂に礼拝。
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さらに庫裡へ。
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こちらには、光太郎の父・光雲の手になる彩色聖観音像が納められています。
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元々は、昭和2年(1927)に宮城電鉄が松島まで延伸された際、無事故等を祈願し当初は瑞巌寺さんではなく、松島海岸駅近くのお堂に奉納しましたが、その後、太平洋戦争の影響で同社が消滅、像もこちらへ移されました。当方、こちらを拝観するのは3回目でしたが、何度観ても神々しいお姿です。

続いて宝物殿。こちらで「一関恵美 墨画展〈千貫乃風 sengan no kaze〉」が開催中です。
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フライヤーには先述の聖観音像。その作品も展示されていました。下記は一関さんサイトより。
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その他、花鳥風月、伊達政宗公などなど。
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ロビーに展示されていた七夕飾りのみ、撮影可でした。
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こちらは10月1日(日)までの開催。ぜひ足をお運び下さい。

以上、宮城レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

いつてみたいのは年来の事ですが、去年の夏以来ちゑ子の病気がわるくて此頃では小生一日も外出する事不可能になりました、 ちゑ子の恢復するまでは小生禁足の状態です、


昭和8年(1933)12月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎51歳

釧路在住の詩人・更科からの北海道に来ませんかという誘いに対しての返答です。年が明けると智恵子の病状も少し快方に向かいますが、この頃はかなりひどかったようです。

宮城レポートの2回目です。

8月9日(水)、第32回女川光太郎祭が行われ、その様子は昨日レポートいたしましたが、そちらが始まる前、さらに午前中の光太郎文学碑への献花と午後の式典の間などに、会場周辺をうろうろしました。

見ておこうと思ったのは、光太郎文学碑の精神を受け継ぎ、「100円募金」で建てられた「いのちの石碑」。避難の際の目印となるよう、東日本大震災の津波到達地点より高い場所に設置され続け、一昨年、予定の全21基がすべて完成しました。

以前にも拝見したのですが、港の東、山祇神社さん境内に建てられた碑。
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この碑を発案した、震災当時の中学生たちが作った碑ごとに異なる俳句、それから全碑共通の避難マニュアル的な文章などが刻まれています。これも全碑共通の右肩が上がったシルエットは町内の遺跡から発掘された鎌倉時代の板碑をモチーフとし、供養塔の意味合いも込められているとのこと。

1号碑が建てられたのは、平成25年(2013)。
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女川光太郎祭会場のまちなか交流館さんや、光太郎文学碑と隣接する震災遺構・旧女川交番などに設置されたパネルに、その際の様子が記されています。

それから毎年のように少しずつ碑が建てられ続け、最後の一基が建ったのが一昨年。その最後の碑は、新設された女川小中学校内に設置され、まちなか交流館さんからも見えました。
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高台に建てられたそれは、まるで町中心街を見守る守護神のようにも見えました。これからも、その役割を果たし続けてほしいものです。

8月10日(木)、女川町を後に、松島町に向かいました。そのあたりは、明日。

【折々のことば・光太郎】

今ちゑ子は殆ど癡呆状態をつづけてゐます、此は体質に潜んでゐた精神病の素質が出て来たのではないかと心配してゐます、遺伝梅毒の懸念を持つて血液検査をしてもらひましたところ此方は痕跡無しといふ事です、 年齢上の更年期に来る強い神経衰弱かとも思ひますがそれにしては少し度が強過ぎます、

昭和8年(1933)11月6日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

8月から9月にかけ、東北と北関東の温泉廻りをした後、智恵子の心の病状は却って悪化していました。そこで脳梅毒の検査をしてもらったところ陰性だったとのこと。わざわざ陽性だったものを陰性だったと虚偽の記述をしないでしょうから、これは真実でしょう。

しかし、ネット上などではまことしやかに「智恵子は脳梅毒だった、若い頃の光太郎が女遊びにうつつをぬかしていたせいだ」と、エビデンスも明記せず面白おかしく書いている輩が多く、閉口しています。

2泊3日の旅で、宮城県に行って参りました。レポートいたします。

8月8日(火)、自宅兼事務所から愛車を北に向け、出発。途中、石巻のお寿司屋さんで2年半ぶりにがっつり寿司を食べ、牡鹿郡女川町へ。
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こちらも2年半ぶりに、トレーラーハウスのホテル・エルファロさんに宿泊。
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翌8月9日(水)が、第32回女川光太郎祭でした。昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月三陸沿岸を旅した中で、女川にも立ち寄ったということで、平成4年(1992)から光太郎を顕彰するために開催されているイベントです。コロナ禍のため、4年ぶりの通常開催となりました。

午前10時、平成3年(1991)に建立され、翌年からの女川光太郎祭開催のきっかけとなった、光太郎文学碑へ献花。
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平成23年(2011)の東日本大震災ではこの碑も倒壊し、碑の建立に奔走された貝(佐々木廣)氏も津波に呑まれて亡くなりました。

震災後、約10年間、倒れたままの状態でしたが、令和2年(2020)には再建。しかし、碑面には津波の傷跡が生々しく残っています。
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刻まれている短歌(海にして……)と詩「霧の中の決意」は、光太郎の筆跡を使いましたが、紀行文「三陸廻り」は光太郎の自筆稿がが残っていなかったので、当会顧問であらせられた北川太一先生が書かれました。
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その北川先生も、碑の再建を見ることなく亡くなられました。

そこで、光太郎本人、貝(佐々木)廣氏、北川先生と、それぞれに思いを馳せながら、献花させていただきました。

ちなみに碑と同じ敷地内には、津波で横倒しになった旧女川交番が震災遺構として保存されています。
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そちらの説明パネルには、かつての女川町を描いた貝(佐々木)廣氏のスケッチも。
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さて、午後2時、文学碑近くのまちなか交流館さんで、式典。
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前座として当方の記念講演。コロナ禍前から、光太郎の生涯を少しずつご紹介していたのですが、今回は最晩年の話をさせていただきました。

続いて主催の女川光太郎の会・須田勘太郎会長のご挨拶。さらに先程の献花の様子を動画で投影いたしました。
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メインアクトは、町内外の方々による、光太郎詩文の朗読。
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ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏を務められ、北川先生が高校教諭でいらした頃の教え子の方も朗読をなさいました。
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オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクション演奏。
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須田善明町長、そして貝(佐々木)廣氏の奥様・英子さんのご挨拶。
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仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さっています。

 4年ぶりに光太郎祭 朗読や生演奏、ファンらがしのぶ 宮城・女川

 戦前に宮城県女川町で紀行文や詩を残した詩人の彫刻家高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、同町まちなか交流館であった。新型コロナウイルスの影響で中止が続き、4年ぶりの開催。県内外からファンら約30人が参加した。
 県内や秋田県、東京の中学生から大人まで10人が朗読。ギターの生演奏に合わせ、二本松市出身の妻智恵子への愛をうたった「レモンの哀歌」や「あどけない話」などを感情を込めて披露した。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が講演し、作家太宰治の実兄で青森県知事だった津島文治が光太郎に制作を依頼したという彫像「乙女の像」について解説。「制作時、肺結核になったが、助手の力を借りて完成させた。多くの人に愛される作家として最期を迎えた」と話した。
 光太郎は1931年に女川を訪れ、数々の詩歌などを残した。光太郎祭は地元有志らが92年から開催している。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「毎年8月9日に集い、先人の思いをつないでいきたい」と語った。
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無事閉会し、近くの中華料理店で打ち上げ。
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志を同じゅうする人々が集えることのありがたさを噛みしめました。4月の連翹忌碌山忌などもそうでしたが。

こちらの催しも、末永く続くことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

先日訃報をいただいた時は実に驚きました、生前宮沢賢治さんとゆつくりお話をし合ふ機会もなく過ぎてゐましたが此の天才といふに値する人を今失ふ事は小生等にとつて云ひやうもなく残念な事でした、


昭和8年(1933)9月29日 宮沢清六宛書簡より 光太郎51歳

生前に一度だけ会った、しかしその才能を高く評価していた宮沢賢治が没したのは9月21日。光太郎の13歳年下でしたので、数え38歳での早世でした。

その2年前、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯に来るということで、賢治は光太郎に花巻へも立ち寄って、再会したいと希望していましたが、それは果たせませんでした。おそらく光太郎は三陸への行き帰りも月に一便だけの東京~三陸間の汽船を使ったと思われ、その都合もあったのではないかと思われますし、光太郎の三陸旅行中に智恵子の心の病が顕在化し、早く帰ってこいと云う連絡でもあったのではないでしょうか。

女川光太郎祭を昨日無事に終え、千葉に帰る途中で松島瑞巌寺さんに立ち寄りました。
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光太郎の父・光雲作の木彫観音像を拝観、さらにそれを描かれた作品も含まれる墨画家・一関恵美さんの個展〈千貫之風 sengan no kaze〉を拝見。
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詳しくは帰りましてから。

昨夜から宮城県牡鹿郡女川町に来ております。
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『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を訪れたのが昭和6年(1931)。それを記念しての「女川光太郎祭」が、今日、4年ぶりに通常開催されます。
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詳しくは帰りましてから。

地方紙記事から3件。

まず、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム。

2023.8.4 みすず野

東京美術学校の草創期だから明治半ばだろう。岡倉天心校長が学生を飲みに誘う。集まったのは下村観山、菱田春草、横山大観...橋本雅邦先生もいた。後に名を成す大家の修業時代とはいえ、すごい顔ぶれの飲み会があったものだ(『作家と酒』平凡社)◆こちらは詩人の交流。草野心平は若い頃、屋台の焼き鳥屋を開く。素人商売だから翌日の酒を仕入れる金が残らない。心配して友達の高村光太郎がたびたび様子を見に来た。2人は―詩誌で心を通わせ合った―宮澤賢治の葬儀に駆け付け、遺稿の詰まったトランクの中から〈雨ニモマケズ〉の手帳を手に取る◆こうした逸話は―互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さにあらためて気付かせてくれる。同僚は自分を高みへと導く〝春草〟かもしれない。一別以来はがきも出していない友は〝賢治〟でなかろうか◆前掲書からもう一つ。村上春樹さんが〈小澤征爾さんがうちに遊びに見えたとき〉と書いている。マエストロは米国ビール〈ブルー・リボン〉を懐かしがり、くいくい飲んだ。ニューヨークでの助手時代は収入がほとんどなく、安い銘柄しか飲めなかったという。

一昨年発行のアンソロジー『作家と酒』から。ただ、「宮澤賢治の葬儀」は誤りで、正しくは没した翌年に新宿で開かれた追悼会ですが……。

互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さ」。そのとおりですね。

続いて『信濃毎日新聞』さん。

「震災を自分事に」 松川高ボランティア部、4年ぶり東日本大震災の被災地訪問 石巻市と女川町

 松川高校(松川町)ボランティア部の生徒7人が4日、東日本大震災で被災した宮城県沿岸部の石巻市と女川町を訪ねた。震災直後から続く被災地訪問は、新型コロナウイルス感染症の影響で途絶えていたため4年ぶり。被災地に寄り添う取り組みを次代につなげた。
 ボランティア部は町特産のリンゴを石巻市に届けたり、現地でがれきの撤去を手伝ったりしてきた。同市の避難所で咲いていたペチュニアの種を譲り受け、生徒や松川町民が育てて「お里帰り」させる取り組みもしている。
 この日は、子どもが中心となって建てた女川町の「女川いのちの石碑」を見学し、石巻市の「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に移動。解説員から地震や津波の規模、身を守るすべについて教わった。
 津波で児童74人、教職員10人が亡くなった石巻市の大川小学校跡地の震災遺構では、次女を失った大川伝承の会共同代表の鈴木典行さん(58)が当時の生々しい状況を説明。「津波の教訓は、逃げたら戻らないということ。戻ったら流される」と訴えた。
 松川高2年の関根諒さん(16)は東京電力福島第1原発事故を受け、4歳の時に福島県大熊町から駒ケ根市に移り住んだ。「東北には『戻る』というより『行く』という感覚。大川小で悲惨な話を聞き、震災を自分事として考えられた」と話した。部長の3年小田切彩風(あやか)さん(18)は「学んだことを後輩たちに伝えたい」と言葉に力を込めた。
 現地訪問は3~5日の日程。3日は宮城県内の小中学校や高校で児童生徒と交流した。5日は福島県双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館を見学する。
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いのちの石碑」は、東日本大震災による大津波で甚大な被害を受けた宮城県女川町に建てられたもの。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として津波到達地点より高い場所に設置を続けました。かつて「100円募金」で建てられた女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われました。
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今日はその女川町に参ります。明日、光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」ですので。

同祭につき、仙台に本社を置く『河北新報』さん系の『石巻かほく』さんが予告記事を出して下さいました。

光太郎の思いに触れて 女川で祭り、4年ぶり 朗読や講演 9日

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第32回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日午後2時から、同町まちなか交流館ホールで開かれる。
 光太郎がのこした紀行文や詩の朗読などを通して光太郎の思いに触れる。記念講演では高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎 その生の軌跡 最晩年」と題して講演する。朗読には同町を含む東北と東京から計10人が参加する予定。ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)、オペラ歌手本宮寛子さんの献奏、献歌もある。
 光太郎は1931年8月に三陸沿岸を巡る旅の途中に女川を訪れ、数々の詩や散文などの作品をのこした。光太郎祭は、地元有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開いてきた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で2020年から中止が続き、4年ぶりの開催。誰でも参加できる。
 連絡先は事務局の佐々木さん090(6686)7811。

光太郎祭の通常開催は4年ぶり。当方は東日本大震災からちょうど10年だった一昨年の3.11に訪れて以来の女川です。長かったような、短かったような……。

【折々のことば・光太郎】

しばらく方々を歩いてゐましたが先日帰宅しました、 秋になりましたがお変りありませんか、

昭和8年9月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養のため、東北、北関東の温泉を約半月廻りました。

この葉書は塩原で撮った写真を絵葉書にし、送りました。確認できている限り、智恵子生前最後の写真です。
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最近、白黒写真をカラー化できるアプリ的なものが出回っており、やってみました。やっぱり雰囲気が少し変わりますね。しかし、AI、もうちょっとがんばれよ、という感じですが。

4年ぶりの通常開催です。

女川光太郎祭

期 日 : 2023年8月9日(水)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月、三陸沿岸を旅しました。

そこで、偉人が訪れた町である、ということで、女川町に四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)、地元ご在住の貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力された、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。
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その後、同様の形式で女川光太郎祭が連綿と続きました。北川先生のご講演も毎年恒例となり、おみ足を悪くされ、外出が困難となった平成21年(2009)まで続けられました。

平成23年(2011)3月11日、東日本大震災。女川町は20㍍もの津波に襲われ、中心部は壊滅。その津波に呑まれ、貝(佐々木)氏も還らぬ人となりました。四基あった光太郎文学碑も二基は流失、メインの碑は倒壊し、永らく倒れたままとなりました。

その年は光太郎祭どころではないだろう、と思っていたのですが、津波の被害を免れた小学校を会場に開催。貝(佐々木)氏の奥様・英子さんが遺志を継がれてのことでした。

平成24年(2012)からは仮設住宅内コミュニティスペース仮設商店街内集会所などと会場を転々としつつも続き、北川先生もまた訪れられるようになり、さすがに以前のように長いご講演は無理となったものの、当方との対談形式や、短めのご講話といった形でお話下さいました。平成25年(2013)からは当方が講演をさせていただいておりました。

ところがコロナ禍。令和元年(2019)を最後に通常開催は見送られることとなり、関係者の方々による文学碑への献花のみが行われ続けました。この間に、倒壊した文学碑の復旧が済み、当方は東日本大震災10周年の令和3年(2021)3月11日、碑の拝見町主催の追悼式へ出席のため、行って参りました。
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そして、今年。女川光太郎祭、四年ぶりの通常開催となります。

午前10時から復旧した文学碑への献花。碑が倒れていた10年間は光太郎祭会場で碑の写真に献花していましたが、碑そのものへの献花となります。

午後2時からは碑近くのまちなか交流館さんで式典系。町内外の方々による光太郎詩文の朗読(「風にのる智恵子」「牛」「あどけない話」「レモン哀歌」「火星が出てゐる」「あの頃」「人に」「三陸廻り(抄)」)、おそらくアトラクション的に音楽演奏、それから当方の講演も復活します。今年は光太郎の最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、そして逝去あたりの話をさせていただきます。

ご興味のおありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子はどうも頭が悪くて一寸心配です、神経を痛めてゐるのでまづ気ながに療養する外ありません、年齢から来る症状かとも思ひます、


昭和8年(1933)7月5日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

昭和6年(1931)の光太郎三陸廻り中に、誰の目にも顕在化した智恵子の心の病。光太郎、この時点ではまだ更年期障害の昂進、程度の認識で居たようです。

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