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地方局IBC岩手放送さんのローカルニュース番組から。

まずは花巻市の萬鉄五郎記念美術館さんで明日まで開催される「歌人 小田島孤舟」展に関して。ただ、光太郎から小田島宛の書簡等も展示されていますが、それには触れられていませんでした。

「岩手歌壇の父」小田島孤舟の足跡をたどる ふるさとの花巻市で企画展

 数多くの短歌を作り「岩手歌壇の父」とも称される歌人、小田島孤舟の足跡を紹介する企画展が、岩手県花巻市で行われています。
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 1884年に花巻市東和町に生まれた小田島孤舟、本名・理平治は、画家の萬鉄五郎の同級生です。国語の教師の傍ら歌人としても活躍しました。3800を超える短歌を制作し、石川啄木との交流を始め岩手と中央文壇を結ぶ重要な役割を果たしました。
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 花巻市東和町の萬鉄五郎記念美術館で行われている企画展では、孤舟の足跡をたどる関係資料114点が展示されています。
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 中でも萬が描いた孤舟の肖像画や2人の手紙のやり取り、それに歌集の冊子絵などは、萬と孤舟との生涯にわたる友人関係を分かりやすく伝えています。
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 この企画展は2月26日まで開かれています。
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閉幕間際の紹介ですが、このニュースを見て「そんなのやってるんだ」と初めて知った方が今日明日で行かれるということも有りえますね。

もう1件、これも光太郎とは直接関わりませんが、過日亡くなった松本零士氏と花巻のつながりについて。

漫画家の松本零士さん死去 「銀河鉄道」が縁で交流があった岩手・花巻市でも悼む声

 マンガ家の松本零士さんが急性心不全で13日に亡くなりました。85歳でした。松本さんはかつて、代表作「銀河鉄道999」のヒントになった童話「銀河鉄道の夜」を書いた宮沢賢治のふるさと岩手県花巻市を訪れ、子どもたちと交流していました。
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(松本零士さん)
「未来は無限大。無限大の夢が皆さんにはある。どうか、どうか若い人は頑張ってください」
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 松本さんは2012年、「宇宙」をテーマに子どもたちが体験活動を行う、公益財団法人日本宇宙少年団の花巻分団が花巻市に設立されるにあたり、プレイベントとして開かれた交流会を訪れました。「銀河鉄道の夜」を生んだ宮沢賢治のふるさと、花巻市の訪問をとても喜んでいたといいます。
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  松本さんを招待した佐々木和彦さんはこう振り返ります。

(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「タクシーに乗って走りながら景色を見て、『こういう景色がああいう発想を生むんだな』とおっしゃったんですね。つまり(宮沢)賢治の銀河鉄道というイメージが、こういう環境から出るんだなということをおっしゃったのを覚えています」
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 松本さんが初めて「銀河鉄道の夜」に触れたのはスライドの上映だったそうです。
(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「どうしてこういう発想ができるのか、というのがわからなかったと。こういう素晴らしい世界があるのか、という気持ちを持ったというんですね」
 佐々木さんは天上に向かう銀河鉄道に亡くなった松本さんを重ねて冥福を祈りました。
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(日本宇宙少年団花巻分団 佐々木和彦代表)
「松本先生も自ら銀河鉄道に乗って、これから楽しい旅をつづけるんだろうなと思っていました。悲しくなりますけど、先生にとっては楽しいんじゃないかなと思います」

松本氏、平成28年(2016)の『サライ』6月号に「銀河鉄道の夜」関連の寄稿をなさっていました。
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改めまして、ご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今日は巴里は大層な濃霧で町が夢の様に見えます。今朝丁度ノオトルダム寺院の南塔の鐘を見に行つて高い上から四方を見た時の心持ちたらありませんでした。それにあのゴオゴイス。どうしても中世期頃の魂がどこかあの建築の中に活きて居て僕らをおびやかして居る様でした。尖塔の尖がつたさきについて居る鉄の鶏が今にも鳴きはせぬかと思はれました。塔のテツペンから下を見て居ると何だか飛び下りて見たくなつて思はずぞツとしました。


明治42年(1909)3月11日 南薫造宛書簡より 光太郎27歳

後の長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)にも通じる内容ですね。「ゴオゴイス」は「Gargouille」、ノートルダム大聖堂を飾る伝説の竜で、現在は「ガルグイユ」と表記されることが多く、「雨にうたるる……」でも「ガルグイユ」となっています。

この書簡と似たような「塔のてっぺんから宙を歩けそうだと思った」的な話を、パリ在住の留学生仲間にも語り、彼らは「高村の神懸かり」と、心配したり揶揄したりしたそうです。

昨日開幕の企画展示です。光太郎の書簡が複数展示されています。

第67回企画展「いわての芸術家の手紙」

期 日 : 2023年2月21日(火)~6月12日(月)
会 場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
時 間 : 午前9時から午後6時 まで
休 館 : 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 一般200円(160円) 高校生100円(80円) 中学生以下無料
      ( )内20人以上団体料金

 芸術家の手紙は、彼らが創り出した作品とは違った魅力を持っています。 制作の苦労や喜びがつづられた手紙は、 作品への理解を深める手がかりになります。 また、 芸術家の人となりを知ることのできるユーモラスな内容の手紙や、送り手への気遣いを感じる手紙もあります。

 本展では彫刻家の高村光太郎が県立美術工芸学校校長の森口多里に送った手紙をはじめ、深沢紅子、舟越保武といった岩手ゆかりの芸術家の手紙を通して、その業績や作品を紹介します。
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ギャラリートーク
開催日  令和5年3月21日(火曜日) 、令和5年5月23日(火曜日)
開催時間 午後2時から午後2時45分まで
対象   どなたでも
開催場所 盛岡てがみ館 展示室
内容   当館館長と学芸員が展示解説をします。
申し込み 必要
 令和5年3月21日(火曜日)は令和5年3月11日(土曜日)、令和5年5月23日(火曜日)は令和5年5月10日(水曜日)のいずれも午前10時から、電話(019-604-3302)で先着順に受け付けます。
費用   必要 上記企画展と同じ
定員   8人(新型コロナウイルス感染症の状況に応じて変更する場合あり)

同館、『高村光太郎全集』にもれていた光太郎書簡(同館の御厚意により当方編集の「光太郎遺珠」には所収)、多数所蔵されており、これまでもたびたび展示して下さっています。

盛岡てがみ館、第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」。
東北レポートその4(盛岡編①)。
盛岡てがみ館 第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」。

また、光太郎詩稿も。

盛岡てがみ館 第51回企画展「文豪たちの原稿展」/花巻高村光太郎記念館図録『光太郎 1883―1956』。

今回は石川啄木顕彰に功績のあった吉田孤羊、岩手県立美術工芸学校長だった森口多里に宛てた書簡など。いずれもペン書きの気負わない書体ですが、それだけに光太郎の普段着の人柄がにじみ出るようなものです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

外国に参りてより既に三年。しかも業得る所の多くは埃に似たる末技のみ。自らかへりみて深く之を恥ぢ申候。唯以前よりは稍自らを知り得る様になりたるかと存じ、以て心を慰め居る事に御座候。


明治42年(1909)1月25日 平櫛田中宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学も終盤、この年6月には帰国の途に就きます。「業得る所の多くは埃に似たる末技のみ」、謙遜ではなく、実際それに近い感覚だったと思われます。上っ面だけ学んで全てを会得した気になる軽薄な輩と異なり、自分に厳しい光太郎の一面も、大きな魅力の一つです。

花巻レポートの最終回となります。

2月15日(水)、花巻高村光太郎記念館さんを後に、萬鉄五郎記念美術館さんへと向かう道すがら、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ立ち寄りました。
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インフォメーションスペースに新しいパンフレットが置いてありましたので、ゲットして参りました。
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この日はたまたま15日。月に一度、テナントのミレットキッチン花(フラワー)さんで「光太郎ランチ」が販売される日です。
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夏場ですと千葉の自宅兼事務所まで持って帰るには傷みが心配ですが、この時期なら大丈夫だろうと、この日の夕食用に妻と2人前購入するつもりで参上したところ、メニュー立案等に協力なさっているやつかの森LLCの方がいらして、無料で頂いてしまいました。多謝。

というわけで、妻と二人でいただきました。妻には「わざわざ買ってきたんだぞ」(笑)。
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この日のメニューは、五目御飯に、
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小麦粉焼きパン、
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メインのおかずは鮫のしょうゆ麹竜田揚げ。
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毎月定番の塩麹入り卵焼きも。

さらに、ごぼうの煮付け、切り干し大根の酢の物、白菜の松前和え、たくあん漬け。
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デザート的には干し柿と、光太郎も絶賛した岩手銘菓の豆銀糖。
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妻曰く、「いろいろ入っていて楽しい」「五目御飯がGOOD」「鮫って珍しいね」「干し柿はすごく甘い」「また買ってきて」。

ところで、スマホで撮影しながら食べていると、隙を見て悪い奴が「鮫のしょうゆ麹竜田揚げ」をかっさらって逃亡。「くをらぁ!」と、すぐに奪い返しましたが、いわゆる「イカ耳」状態で「ニャゴニャゴ、ニャー(ずるいぞ、よこせ)」とうるさいので、しかたなく豆粒ほどのひとかけらだけ(笑)。
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結局、二人と一匹でおいしくいただきました(笑)。

その他、道の駅では、当方大好物の林檎を箱買いして自宅兼事務所に発送。こちらは翌日届き、やはりおいしくいただきました。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

先週巴里へ一寸参り、セザンの妙味をはじめて知り申し候。


明治40年(1907)11月13日 雑誌『方寸』宛書簡より 光太郎25歳

ロンドン在住中、碌山荻原守衛の誘いでパリへ小旅行。守衛とは前年にニューヨークで知り合っていましたし、先にパリに移っていた守衛がロンドンの光太郎を訪ねてきたこともありました。

この際、守衛の習作「坑夫」を見せられた光太郎、「これは凄い、ぜひ石膏に取って日本に持ち帰るように」と進言、守衛もそれに従い、そのおかげでこの作品が世に残ることとなりました。
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セザン」は「セザンヌ」。いずこかの美術館か画廊で初めてその作品を見たのでしょう。

花巻レポートの2回目です。

2月15日(水)、宿泊していた大沢温泉さんをあとに、レンタカーを駆って花巻高村光太郎記念館さんへ。この日も天気は上々でした。
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さっそく館内へ。

市立の博物館等5館が統一テーマの元に行う共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」、こちらでは『高村光太郎の「開拓に寄す」』という題で、1月22日(日)まででしたが、パネル等まだ撤去されず、端に寄せられて残っていました。
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宮沢賢治の親友でもあり、戦前から光太郎と交流のあった藤原嘉藤治が、戦後、開拓関連の仕事に従事していたため、光太郎もそれを助け、開拓者を讃える詩を執筆しました。その関連を中心にした構成です。
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当方執筆の説明パネル。
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当方撮影の写真。
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昨年12月、雫石町まで足を伸ばして撮影したものです。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は正規の日程で開催中。
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当方出演の展示解説動画、まだYouTube上で公開中です。

記念館さんを出て、隣接する(100メートルほど離れていますが)高村山荘へ。
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ピークは過ぎたようですが、まだまだ雪深い状態です。
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絵に描いたような氷柱(つらら)。

二重の套屋(カバーの建物)の中に、光太郎が独居自炊の生活を送った粗末な山小屋が保存されています。こんなところで7年間も……と、特にこの季節は胸が締めつけられる思いがします。

大沢温泉さんの駐車場にもありましたが、やはりキツネの足跡。かつて光太郎が見たキツネたちの子孫でしょうか。
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詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)をブロンズパネルにした詩碑。

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まさにこの季節にぴったりの詩です。全文はこちら。詩碑自体は昭和33年(1958)、光太郎自筆の原稿用紙を元に、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周がブロンズパネルに鋳造して作られ、地下には光太郎の遺髯が納められています。コロナ禍前は、毎年5月15日(疎開のため光太郎が東京を発った日)に、この碑の前で花巻高村祭が開催されていました。

再びレンタカーを駆り、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。その辺りは明日レポートします。

その後、花巻市東部の土沢地区へ。こちらにはやはり市立の萬鉄五郎記念美術館さんがあり、共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として「歌人 小田島孤舟」展が開催中です。
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当初、この日は光太郎の足跡の残る釜石方面へ行こうかと考えていたのですが、「歌人 小田島孤舟」展で、光太郎にちらっと触れているという情報があり、急遽、こちらにうかがいました。
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この地出身の萬鉄五郎は、大正元年(1912)に結成されたヒユウザン会(のち「フユウザン会」)で光太郎と共にメンバーだった画家、ここからほど近い旧小山田村生まれの小田島孤舟は石川啄木との関係から『明星』とも関わった歌人で、戦後には光太郎とも交流がありました。この二人、小学校(同館が現在立つ位置)で同級生。長じてからもつながりが続き、小田島が萬に自著の装幀をしてもらったりしていました(そのあたりは存じませんでした)。また、画家になることをめざしていた小田島は、親しい萬の才能に打ちひしがれ、志望を変更したそうです。

光太郎と萬は同じヒユウザン会のメンバーでしたが、あまり仲良くはなかったようです。昭和11年(1936)の回想「ヒウザン会とパンの会」から。

 琅玕洞を本拠として、多士済々、大体三つのグルウプに分れ、中でも一番勢力のあつたのは岸田劉生及その友人門下生の一団であつて、私も大体に於て岸田のグルウプであつた。その他、川上凉花、真田久吉、萬鉄五郎を中心とする一派、斎藤与里を中心とする一派等に分れてゐた。
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 翌年、第二回を開いたが、間もなく仲間割れでちりぢりに分裂し、私や岸田は新たに生活社を起した。この系統が彼の草土社となつたのである。


小田島は戦後、光太郎に自著『孤舟歌碑』の序文を依頼し、光太郎もそれに応えています。そのあたりを踏まえ、当方、花巻高村光太郎記念館さん内の常設展示説明パネルには小田島についても言及しました。
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萬鉄五郎記念美術館さんの展示でも、『孤舟歌碑』の序文関係が。
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盛岡市先人記念館さん所蔵の、光太郎から小田島宛の葉書2通(ともに昭和22年=1947)。かつて同館の御厚意により、当方編集の「光太郎遺珠」で紹介させていただきました。
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さらに『孤舟歌碑』序文の原稿。全文は『高村光太郎全集』第8巻に収録されていて、写しでしたが、初めて拝見。「ほほぉ」という感じでした。
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「歌人 小田島孤舟」展、2月26日(日)までです。ぜひ足をお運びください。

レンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。

新花巻駅待合室には、大沢温泉さん同様、おひな様。鹿踊りバージョンも。
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明日は、途中、すっ飛ばした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん関連を。

【折々のことば・光太郎】

昨夕引越し申候。 ポリテクニツクの直ぐ側に候へば学校の御帰りがけにても御寄り披下度候。


明治40年(1907)10月19日(推定) 南薫造宛書簡より 光太郎25歳

6月にニューヨークからロンドンに渡った光太郎ですが、ロンドンの中でも転居しています。

ポリテクニツク」は、美術学校ではなく、一般人が通う技芸学校。当初はザ・ロンドン・スクール・オブ・アートという美術学校でデッサン等を学んでいました(ここで陶芸家となるバーナード・リーチと親しくなりました)が、あまり学ぶものがないと考え、ポリテクニックに移りました。

父・光雲の奔走で、農商務省海外実業練習生の資格を得、毎月60円の給与が出るようになった代わりに、家具や室内装飾などの応用美術の調査報告が義務づけられたことも関わるかも知れません。

宛先の南薫造は留学仲間の画家です。
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昨日まで1泊2日で、光太郎の第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

2月14日(火)、東北新幹線新花巻駅に降り立ち、例によってレンタカーを借りて花巻市街へ。晴れていましたし、覚悟していたより雪が少なく、ラッキーでした。この日は宮沢賢治実弟の故・宮沢清六氏令孫の宮沢和樹氏(林風舎代表取締役)との公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でした。主催は光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻市太田地区振興会さん。地元の皆さんも、光太郎と賢治のつながり等、あまり詳しくないので、ぜひそのあたりを知りたい、ということで実現しました。

会場はJR東北本線花巻駅近くのなはんプラザさん。
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もと、「銀河鉄道の夜」のモデルの一つとされる岩手軽便鉄道の駅があったあたりです。

目の前は「いとうや」さん。かつての光太郎御用達の食堂。建物は建て替わっていますが。
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ロビーでは、ご協力下さったやつかの森LLCさんによる出店。
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講師控え室の窓から。始まる頃には雪がちらつき始めました。
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会場内。
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平日ということで、入りを心配していたのですが、ほぼ満席。ありがたし。
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約1時間半、和樹氏と対談。
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和樹氏、これまでもあちこちでご講演をなさっています(当方も一度拝聴しました)ので、手慣れたものです。当方も今回はパワーポイントの操作等もなく、一人でしゃべりっぱではないので楽でした。また、昨年12月、打ち合わせ的に、和樹氏と主催の太田地区振興会の方々、そして当方で「こんな話をしたらいいんじゃないの」という意見調整をしておきましたので、それが功を奏しました。

内容的には賢治と光太郎、お互いの評価や影響、唯一二人が出会った大正15年(1926)12月の話、賢治没後の光太郎や当会の祖・草野心平らによる賢治顕彰の始まり、詩人・永瀬清子も関わる「雨ニモマケズ」の発見、賢治の父にして和樹氏令曾祖父・政次郎の骨折りによる戦時中の光太郎花巻疎開、和樹氏令祖父・清六氏と光太郎の交流、昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲の際のエピソード、戦後の光太郎の旧太田村への移住などなど。

ただ、太田村での話は今回あまり触れないようにという主催者側の要望でした(そのあたりはまた次の機会に、と考えられているとのこと)ので、おおむね戦時中までの話に終始しました。

最後に質問の時間を取りましたが、仕込み無しで多くの方から質問が寄せられ、並々ならぬ興味を持って聴かれていたんだなというのがよくわかりました。深謝。

のちほど動画配信等もあるようです。詳しくは連絡を受けてからご紹介します。

その後、一旦、宿泊先の大沢温泉自炊部さんに行き、チェックイン。
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途中、車を駐めて撮影した夕日。
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昨年12月は満室で泊まれなかったのですが、今回は早めに予約を入れたので大丈夫でした。

チェックインをし、荷物を置いてまたすぐ市街へ出て、慰労会。楽しいひとときでした。

宿に帰って一風呂浴びて就寝。部屋はこんな感じでした。
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翌朝。晴れていたので助かりましたが、外気温は-9℃。温暖な房総に暮らしている身にはこたえました(笑)。
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かつて定宿としていた江戸時代竣工の菊水館さん。現在は宿泊棟としては休業中です。
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フロント隣の休憩スペース的な座敷。桃の節句が近いので、ひな飾り。いい感じですね。
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朝風呂を堪能し、チェックアウト、駐車場へ。

おそらくキツネの足跡でしょう。
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夜の間に軽く降雪。こうなることを見越してワイパーを立てておきました。
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この時期、北国のレンタカーにはブラシが常備されていますのでこの程度の積雪は恐るるに足らず(笑)。

まず花巻高村光太郎記念館さん、そして隣接する高村山荘へ。その辺りは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小生先月上旬英国倫敦に移住仕り相変らず頑健に罷在候間乍憚御休神被下度候。


明治40年(1907)8月9日 加藤景雲宛書簡より 光太郎25歳

1年4ヶ月過ごしたアメリカを後に、ロンドンに移りました。

大西洋を渡る際には、のちにかのタイタニックを就航させるイギリスの船会社、ホワイトスターラインの豪華客船オーシャニックに乗ったことを、10年ほど前に突き止めました。

こちらは昨年入手した令和元年(2019)刊行の洋書です。
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光太郎第二の故郷、岩手県花巻市に来て、現在、光太郎も愛した大沢温泉さんにおります。

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昨日は花巻市街で、宮沢賢治実弟の故・清六氏令孫にあたる宮沢和樹氏と公開対談でした。

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今日は光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する花巻高村光太郎記念館さんなどを訪れるつもりです。

詳しくは帰りましてから。

手前味噌で恐縮ですが……。

高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか

期 日 : 2023年2月14日(火)
会 場 : なはんプラザ COMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(先着200名限定)

高村光太郎が花巻に来て、78年。光太郎生誕140年。そして、「道の駅はなまき西南」が愛称「賢治と光太郎の郷」としてオープンしたこと等をきっかけに、改めて、果たしてなぜ光太郎は花巻に来たのか? 大きな理由は宮沢賢治の育った土地であるから? そのことだけなのか?一体どのような誘引力が働いたのか? おおまかな話は知っているつもりだが、真相は? もう少し掘り下げたイキサツを探ってみたいという地域の皆さん方の素朴な疑問を解明するべく、対談を企画したところです。

講 師 : 宮沢和樹氏 株式会社林風舎代表取締役 宮沢家当主
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
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宮沢家と光太郎のつながりを軸に、賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏と当方で対談を行います。

昨年、事前打ち合わせを行いまして、その後主催の太田地区振興会さんから「こんな項目で」と提示されているのが以下のような感じです。

・賢治と光太郎、そもそもの接点 ・お互いのお互いへの評 ・光太郎の北方志向
・光太郎の「三陸廻り」 ・宮沢政次郎/宮沢清六から見た光太郎
・佐藤隆房/草野心平/黄瀛の役割 ・大正15年、賢治と光太郎最初で最後の会見


細かくシナリオを決めているわけではないので、これらからさらに話があちこちに飛ぶこともあろうかと思われますが、こんな流れです。

現地は雪深い時期、さらに平日ではありますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫塑室と其中に候ひし小生の書斎昨暁全焼いたし、書類は固より筆一本紙一枚も残らず焼け失せ申し候。……父上のも小生のも製作品皆灰燼、未だ初雪も無之内から、ちと大きなる焚火にて候ひき、その夜の凄さ、之も材料に候、

明治35年(1902)12月22日『明星』掲載の書簡より 光太郎20歳

光太郎がまだ実家に居た頃、祖父の隠居所を改装してアトリエとして使っていましたが、木彫制作で出たおが屑や木っ端に、不始末だったストーブの火が燃え移って火事になってしまいました。

この季節、皆様も火の要心を。

光太郎第二の故郷・岩手花巻からの情報を2件。

まず花巻市役所さんから、新たに高村光太郎記念館さんのPR動画を作成したというお知らせを頂きました。

2分足らずの短いもので、早速拝見。
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「山口山の四季」と題されていました。「山口山」は光太郎が蟄居生活を送っていた山小屋(高村山荘)裏手の山です。そこから先が奥羽山脈、まさに「山口」です。

この地で光太郎が書いた詩「案内」(昭和25年=1950)、「山のともだち」(昭和27年=1952)に乗せて、四季折々の画像。
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いい感じですね。

リンクを貼っておきます。ぜひご覧下さい。



もう1件。

去る1月29日(日)に開催された「令和4年度高村光太郎記念館講座 光太郎のそば粉おやつ教室」の画像等も届きました。

人が集まるかな、と心配していたのですが、杞憂に終わったようで、5組の親子12名様がご参加下さったそうです。
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講師を務められたやつかの森LLCさんの方からのメールの一節。

子供達は、材料の計量に慎重な手つきで、お母さんたちが見守ります。粉袋フリフリ、卵、ヨーグルト、コメ油混ぜ混ぜ、それを合わせてモミモミ。カップに絞り、ブルーベリーのトッピング。そば粉の焼パンは、光太郎レシピでおなじみのそば粉にみそ、重曹を入れてフライパンで焼くところを見学し、バターと黒蜜をかけて試食しました。そば粉の香ばしい香り、もちもちした食感と想像を超えたおいしさに皆さん感動した様子でした。これをきっかけに光太郎に興味を持ったというお母さんの言葉に、私たちは嬉しい気持ちでいっぱいになり、まだまだ頑張れる元気をもらいました。

こういうアプローチもありですね。継続しておこなっていただきたいものです。

明日も花巻系の情報をお届けします。

【折々のことば・光太郎】

小生の駄作今更紙面を汚したるを悔みて慙汗とゞめがたく候。


明治37年(1904)10月30日 与謝野寛宛書簡より 光太郎22歳

光太郎の短歌も載った雑誌『明星』の受贈に対する礼状の一節です。4年前の明治33年(1900)から断続的に光太郎短歌が誌面を飾っており、そこで「今更」。

色鉛筆と思われる絵が描かれています。
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こちらも現在、25万円で売りに出ています

光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんより、画像を頂きました。同社でメニュー考案にご協力なさり、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分です。猫の七福神が宝船に乗って、正月らしさを演出していますね(笑)。
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お品書きは、赤飯、白米、焼き鮭、豚肉のトマトケチャップ煮、とろろ芋の酢醤油ブロッコリー添え、赤かぶの酢漬け、塩麹入り卵焼き、デザートはパイナップルの罐詰とリンゴのコンポートだそうです。

赤飯に白米で紅白の彩り。なるほど。豚肉のトマトケチャップ煮には人参と玉葱、もち麦が入っているそうです。

毎月のことですが、光太郎日記からの引用文等を印刷したリーフレットもついています。これで税込み800円とのこと。

毎月のメニューの考案も中々大変だと存じますが、末永く愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】000

ひる頃草野心平氏くる、写真アルバムについての質問いろいろ、今宿屋にかんづめの由、

昭和31年(1956)2月19日の日記より
 光太郎74歳

写真アルバム」は筑摩書房発行の『日本文学アルバム 高村光太郎』。前年から当会の祖・草野心平が編集、解説文の執筆にあたり、光太郎が歿しておよそ2週間後の4月20日に刊行されました。心平、何としても光太郎存命中に仕上げたかったようで、「宿屋にかんづめ」。その甲斐あってか、光太郎が歿する2日前にゲラを見せることができたそうです。

成人年齢が18歳へと引き下げられたのに伴い、「成人式」という呼称が使われなくなりつつあるようですね。

地方紙『岩手日日』さんから。

感謝と決意胸に 花巻市 20歳のつどい 新たな門出晴れやか

  花巻市の2022年度20歳(はたち)のつどい(市主催)は7日、同市若葉町の市文化会館で開かれた。成人年齢の引き下げを受け、成人式から名称を変更して行われ、スーツや色鮮やかな振り袖に身を包んだ今年度20歳になる市民が、記念撮影をするなどして新たな門出を祝った。
 対象者950人のうち686人(男性360人、女性326人)が出席。式典の部では国歌斉唱と対象者代表4人による市民憲章の朗読に続き、上田東一市長が式辞、藤原伸市議会議長が祝辞を述べた。
 上田市長は式辞で高村光太郎の代表作「道程」の一節「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」を贈り、「一歩一歩進むことで道ができる。新たな未来を切り開く出発点に立つ今、目指す自分を思い描き、信念と決意を持って苦難に負けず、自分の道を進んでほしい」と前途を期待した。
 対象者を代表して2人が決意を述べ、記念事業実行委員会の金野渉真委員長(矢沢中出身)は「今の目標は花巻のために自分自身がプレーヤーとして活躍し、未来を創造すること。目標をかなえるために来年度から岩手の大学に編入し、より実践に近い形で花巻と向き合いたい。そして支えてくれた家族や友人、恩師、花巻に恩返しをしていきたい」と誓った。藤原千咲副委員長(西南中出身)は「実行委員会の活動を通して楽しませる喜び、達成感を知ることができた。この経験から誰かを楽しませたいという人生の目標が見えてきた気がする。一歩踏み出し挑戦すればきっかけをつかめる」と力を込めた。
 式終了後は「咲かせよう~最幸(さいこう)の未来の花巻を~」をテーマに記念行事が行われたほか、出身中学校ごとに記念写真を撮影した。
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おそらく全国でおこなわれた同様の催しに於いて、首長さんなり来賓の方なりのご挨拶等で、「道程」などの光太郎詩の引用が他にもあったのではないかと思われますが、やはり光太郎第二の故郷ともいうべき花巻で、というところに大きな意味があると思います。

上田市長、平成31年(2019)の成人式でもやはり「道程」を引用されてご挨拶なさいましたが、お父さまが光太郎と交流がおありだった方のそれは、ずしりと来るような気がしますね。また、参加された20歳の方々の曾祖父母、祖父母のみなさんの中には、やはり光太郎と交流があったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

何にせよ、これからの花巻を背負って立つ皆さんの門出ですし、全国に目を向ければ、この国の将来を託す皆さんの門出でもあります。

幸多からんことを!

【折々のことば・光太郎】

后「地上」の人くる、丸山義二氏筆記、談話一時間、


昭和31年(1956)1月16日の日記より 光太郎74歳

地上」は雑誌名、「丸山義二」は兵庫県生まれの農民作家です。3月発行の『地上』第10巻第3号に「春を告げるバツケ」の題で、この日の二人の対談が掲載されました。「バツケ」は「バッケ」、岩手の方言でフキノトウのことです。その題の通り、昭和20年(1945)から同27年(1952)までの、花巻郊外旧太田村での独居自炊の生活について語られています。丸山も農民作家だけあって、話の引き出し方が的確でした。

活字になった数ある対談のうち、これが光太郎生涯最後のものとなりました。

期日的には少し先の話ですが、〆切りの日程が迫っておりまして……。

令和4年度高村光太郎記念館講座「光太郎のそば粉おやつ教室」

期 日 : 2022年1月29日(日)
会 場 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時 間 : 午前10時30分から正午 まで
料 金 : 1,000円程度(材料代、保険料)
対 象 : 花巻市在住の小学生とその保護者5組(抽選)
       注)きょうだいなどの場合は1名まで同行できます
締 切 : 1月6日(金)
申 込 : 定員をこえる場合は抽選となります。
      定員に達しない場合は、定員に達するまで引き続き募集いたします。
      次のいずれかの方法でお申し込みください。
      花巻市生涯学習課(0198-41-3587)へお電話ください。
      専用申込フォームへアクセスし、必要事項をご入力のうえ、ご送信ください。

高村光太郎にちなんだおやつを親子で作る講座です。そば粉を使ったカップケーキを作り、光太郎と食について学びます。

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現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の関連行事です。

光太郎が昭和20年(1945)秋から、花巻郊外旧太田村の山小屋で始めた蟄居生活。光太郎は、米よりも入手しやすいそば粉を使ってパンを作ることを思いつきます。味噌を加え、重曹をいれて焼いてふくらませ、もらい物のバターや黒蜜などをつけて食べてみると、なんとも美味しかったようで、繰り返しこれを作って食べていました。

講師はやつかの森LLCの皆さん。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」や、花巻のタウン誌『花巻散歩Machicoco(マチココ)』さんに連載中の「光太郎レシピ」のメニュー考案をなさっている方々です。それらでもそば粉のパンは取り上げられていました。

対象は花巻市内ご在住の方に限るようですが、他の自治体等の皆さん、こういう取り組みもあるよ、ということで、ご参考までに。

明日もグルメ系の話題をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

宮崎丈二氏くる、「花霞」売出しの木版びらを持参、大正十二年のものらし、

昭和30年(1955)11月6日の日記より 光太郎73歳

宮崎丈二」は詩人。この頃、よく光太郎が起居していた貸しアトリエを訪れていました。「「花霞」売出しの木版びら」は、関東大震災直後、光太郎が智恵子の実家の福島長沼酒造から銘酒「花霞」を取り寄せ、にわか酒屋を始めた際に撒かれたものです。

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宮崎がどうやってこんな古いものを入手したのか、そのあたりは謎ですが。

岩手から学会情報です。

岩手大学人文社会科学部【宮沢賢治いわて学センター】第16回研究会

期 日 : 2022年12月22日(木)
会 場 : 岩手大学学生センターA棟1階G19教室 岩手県盛岡市上田3-18-8
       & オンライン(WebExウェビナー使用)
時 間 : 17:00~18:00
料 金 : 無料

講 師 : エリック・ブノワ 氏(ボルドー・モンテーニュ大学教授/フランス文学)
      中里まき子氏(岩手大学人文社会科学部准教授/フランス文学)
演 題 : 高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら

 講師は、本学部と交流協定を結んでいるフランスのボルドー・モンテーニュ大学教授のエリック・ブノワ氏(フランス文学)と本学部准教授の中里まき子氏(フランス文学)です。
 主たるトピックは、昨年中里氏がブノワ氏の協力を得てフランスのボルドー大学出版から上梓なさった、高村光太郎『智恵子抄』の仏訳版 Poèmes à Chieko についてです。まず、中里氏による日本語での講話、次にブノワ氏によるフランス語の講話(通訳は中里氏)という構成となります。
 今回はコロナ禍下ではありますが、講師方のご希望により、対面とオンライン併用のハイフレックス形式での開催となります。会場へ直接お越しいただく場合もオンラインでの申込が必要となりますので、下記、ご確認宜しくお願い申し上げます。皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
 なお、コロナ禍拡大の影響により、オンラインのみの開催となる可能性もあります。その節は速やかに大学および学部HPやML等でお知らせいたします。悪しからずご了解ください。

☞【登録リンク】
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仏訳智恵子抄『 Poèmes à Chieko』は、昨年4月に刊行されました。それを記念して、今回と同じく訳者の中里まき子氏、エリック・ブノワ氏によるご発表「『智恵子抄』仏訳(TAKAMURA Kôtarô, Poèmes à Chieko)の刊行をめぐって」が、日本比較文学会東北支部さんの「第23回比較文学研究会」の中で、昨年7月に行われています。

今回はさらに宮沢賢治もからめてのお話になるとのこと。オンラインでの試聴も可だそうです。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

<夕方モデルさんくる 結婚後はじめて、元気なり、>


昭和30年(1955)8月19日の日記より 光太郎73歳

「モデルさん」は旧姓藤井照子。昭和27年(1952)から翌年にかけ、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のモデルを務めました。結婚を機にモデル業はやめ、品川の方に住んでいたようです。以前から書いていますが、いまだご存命なのかどうか、不明です。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。


昨日のこのブログ、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の件、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の件につきましてご紹介しました。

すると、午後になって、『花巻散歩Machicoco(マチココ)』さんの最新号が届きました。
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平成29年(2017)の創刊以来、「光太郎レシピ」という連載が続いています。「光太郎ランチ」同様、やつかの森LLCさんのご協力で、光太郎の日記や書簡、周辺人物の証言などから、光太郎が食べたメニューを現代風にアレンジして紹介するものです。ちなみに表紙の焼きおにぎりは関係ありません(笑)。

今号はこちら。「カブとインゲンのブルイエとヴァンショー(ホットワイン)」だそうで。
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もう1件、グルメ系で。

今年2月に、通販会社・フェリシモさんから「日本近現代文学の世界に浸る 文学作品イメージティー」が発売されました。〈高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶〉を含む4セット(他に〈中島敦著『山月記』× 虎に還るように色が変化するお茶〉〈室生犀星著『蜜のあわれ』× 燃えている金魚のように赤いお茶〉〈江戸川乱歩著『孤島の鬼』× 宝石より魅力的なチョコレートの紅茶〉)で、申し込むと毎月1セットずつ届く(バラ売りはなく、届く順番もフェリシモさん任せ)というシステムです。

004一般のお店で取り扱いが始まりました。もしかすると複数のお店で販売されているかも知れませんが、当方が情報を得たのは横浜桜木町のSTORY STORY YOKOHAMAさん。JR桜木町駅を出てすぐの「コレットマーレ」さん5階にある、老舗書店の有隣堂さん系列の書店兼雑貨店です。上記4セット以外にも、それ以前からフェリシモさんで出していた「日本近現代文学の世界へ 文学作品イメージティー」の4セット(〈芥川龍之介著「蜘蛛の糸」×蓮が香る紅茶〉〈夏目漱石著「虞美人草」×アイスクリームが香る紅茶〉〈坂口安吾著「桜の森の満開の下」×桜が香る緑茶〉〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉)も販売されています。

過日、都内に出た際に桜木町まで足を伸ばし、〈高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶〉と、〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉を買い込んで参りました。バラで複数ずつ買えるというのがありがたいところです。
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〈高村光太郎 著『智恵子抄』×天のものなるレモンの紅茶〉は以前にもいただきましたが、〈宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」×苹果(りんご)が香る紅茶〉は初。「苹果(りんご)が香る」ということでしたが、フレーバーはきつくなく、爽やかな感じでした。
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複数点ずつ購入して参りまして、ギフトにも使っております。皆様も是非お買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ラジオで日米水泳をきく、

昭和30年(1955)8月6日の日記より 光太郎73歳

「日米水泳」は「第4回日米対抗水上競技大会」。「フジヤマのトビウオ」と称された古橋廣之進らが出場し、神宮水泳場、さらに大阪でも開催されました。

光太郎が戦後7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」、今月販売分の画像が届きました。
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今月のメニューは青豆入り麦飯、白六穀ご飯、チキンステーキ、ロール白菜、いか大根、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、お新香、焼きりんごだそうです。意外とヘルシーな献立かな、という気がしました。

グルメ系でもう1件。

高村山荘と隣接する花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」、今月初めに現地に赴き、展示解説の動画撮影に臨みましたが、先週、公開されました。

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、つくりくふ。-おやつ編-」展示解説①

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、つくりくふ。-おやつ編-」展示解説②

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、つくりくふ。-おやつ編-」展示解説③

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計40分ほどを3本に分割しています。何とまぁ、かなりの手間だったと思いますが、字幕をつけて下さったので、当方の顔より字幕の方をご覧になって下さい(笑)。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は来年3月21日(月)までの開催です。

ところで、同時開催されている花巻市内の他の文化施設4館との共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」について、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さいました。

先人の偉業知って スタンプラリーも 市内5施設共同企画展

 2022年度花巻市共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」は、市内五つの文化施設で開かれている。各施設が花巻ゆかりの先人らを取り上げ、偉業への関心や古里への愛着を育む。期間中はスタンプラリーなどのイベントもある。2023年1月22日まで。

 花巻新渡戸記念館(高松)、萬鉄五郎記念美術館(東和町土沢)、市博物館(高松)、市総合文化財センター(大迫町大迫)、高村光太郎記念館(太田)の5館が連携した企画展。

 花巻新渡戸記念館では十和田市の開拓に貢献した新渡戸稲造の父十次郎、萬鉄五郎記念美術館では石川啄木らとともに活躍し、同級生だった萬とも生涯を通じて交遊があった東和町出身の歌人小田島孤舟、市博物館では杣(そま)やマタギなど山をなりわいの場とした人々、市総合文化財センターでは早池峰山の植物研究に関わってきた先人、高村光太郎記念館では光太郎の詩「開拓に寄す」などを紹介している。

 14日には、市民ら22人が参加して共同企画展開催の5館を巡るツアーが行われ、各館の企画展担当者による展示解説や調査研究の成果に耳を傾けた。市博物館の松橋香澄学芸調査員は「山をなりわいの場とした人の暮らしや道具を紹介する展示。名前は伝えられていないが、今につながる暮らしをつくった先人たちを知ってほしい」と話していた。

 スタンプラリーは、開催館5館中3館のスタンプを集めると記念品がもらえる。残る2館と協賛館1館のスタンプでさらに記念品が入手できる。協賛館は宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、石鳥谷歴史民俗資料館、早池峰と賢治の展示館。記念品の受け取りは開催館のみ。

 問い合わせは市文化会館=0198(24)6511=へ。

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こちらは来年1月22日(日)までの会期です。

もう現地は雪に包まれる日が多くなっていますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕食は桑原氏紹介の神田淡路町の支那料理「好々」の出張料理、女将来て料理す、北京料理、皿数多くして中西氏宅一同にてくふ、アトリエに桑原氏とくふ、中々美味、

昭和30年(1955)7月24日の日記より 光太郎73歳

4月末からこの月初めまで、宿痾の肺結核のため赤坂山王病院に入院していた光太郎。結局、治癒は難しいとのことで中野の貸しアトリエに戻って療養。食慾は衰えず、この日は中華料理に舌鼓。「中西氏宅」は貸しアトリエの大家、「桑原氏」はそちらと親しかった美術史家・桑原住雄です。

12月3日(土)、花巻高村光太郎記念館さんでの、企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説動画撮影を終え、市街に戻りました。

宿泊先は在来線花巻駅前の商人宿。なんだかんだでここに泊まるのも7、8回目でしょうか。このブログを始めてからも5回目です。
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チェックインし、一休みした後、道路を挟んで向かいのグランシェール花巻さんへ。
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改装中ということで、シートに覆われていました。

来年2月14日(火)、こちらに隣接するなはんプラザさんでのイベントの打ち合わせ。詳細はまた後ほどご紹介いたしますが、主催は太田地区振興会さん。「太田地区」というのは、光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った旧太田村です。宮沢賢治実弟の清六の令孫・和樹氏と当方で、賢治と光太郎の接点、光太郎の花巻疎開の経緯などについて、2時間近くの公開対談。そこで、太田地区振興会の役員の方々、和樹氏も交え、夕食を頂きながら打ち合わせでした。

翌朝チェックアウトし、あいにくの雨の中、レンタカーを北に向けました。目指すは盛岡の西に位置する雫石町です。

花巻高村光太郎記念館さんでは、開催中の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」と並行して、花巻市内の他の文化施設4館との共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」で、『高村光太郎の「開拓に寄す」』と題し、光太郎と開拓農民たちとの交流などをテーマにしたミニ展示を行います。

メイン展示物は、最近寄贈された、昭和25年(1950)に旧太田村で蟄居中だった光太郎が作った詩「開拓に寄す」の光太郎直筆高を精密印刷したもの。光太郎も参加し、盛岡市に於いて開催された岩手県開拓五周年記念の開拓祭で参会者に配付されました。当時としてはなかなかの出来で、直筆と見まごうものです。そこで、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」に、同じものが出たことがあります。依頼人は直筆と信じていたようで……。しかし、印刷ということで1万円ほどでした。また、以前に寄贈されたものは令和元年(2019)から翌年にかけ、花巻市総合文化財センターさんで展示されました。

で、雫石町に、やはり同じ書をブロンズパネルに写して嵌め込んだ石碑があるという情報を得まして、この際だから見ておこうと思った次第です。

東北自動車道を盛岡ICで降り、北西方向へ。目指すは長山地区の開拓記念公苑というところ。岩手山の山麓というか中腹というか、そんな感じです。

途中に有名な小岩井農場さんがありました。そういえば、賢治ゆかりの地です。
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当方、学生時代に訪れたことがあり、懐かしく思いました。もっとも、今回は立ち寄りはしませんでしたが。

このあたりから雨は霙まじりとなりまして、やがて……。
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さらに北上して開拓記念公苑に近づくと完全に雪。それも大雪となりましたが、ともかく到着。
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一帯は民家もほとんどありません。なぜこんなところに公園的なスペースを造ったのか、という感じでした。

公苑内には多くの石碑や石仏が。
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目指す碑は、「戦後開拓50周年記念」という名称でした。
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平成7年(1995)の竣工のようです。

光太郎詩「開拓に寄す」のブロンズパネル。
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「おお」という感じでした。

この詩の中の一節を写した碑は、光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村にも建てられています。前日に撮っておいた写真。
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「太田開拓十周年記念」碑。昭和51年(1976)の建立です。

さて、開拓記念公苑には「拓魂」碑という碑もありまして、昭和45年(1970)にこの碑が造られたのがこの公苑の始まり的な……。こちらは開拓25周年記念だそうで。
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碑の裏面に、やはり光太郎詩「開拓十周年」のブロンズパネル。
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「開拓十周年」は、昭和30年(1955)の作。やはり盛岡で開催された記念式典に寄せて作られた詩で、5周年の「開拓に寄す」同様に光太郎筆跡を写した印刷物が配布されたそうです。そこからさらにこの碑面を作ったのでしょう。

この詩の印刷物は県外の開拓関係者にも配付されたそうで、現在の福島県南相馬市小高地区には、この詩を読んで感激した平田良衛という人物によって、配付されたその年(昭和30年=1955)にこの詩の全文を刻んだ碑が建てられました。ただ、筆跡は地元の書家のもので、おそらく碑に写すことも光太郎の許可を得ていなかったのではないかと思われます。まぁ、それでも光太郎生前に建てられた数少ない光太郎詩碑の一つということにはなるのですが。

二つの詩とも、「開拓」とまでは行かないものの、太田村の山小屋前に畑を開墾し、まがりなりにも農業に取り組んで野菜類はほぼ自給していた光太郎の作だけあって、実体験に基づいた具体的な記述がなされています。光太郎が蟄居生活を始めた後、山小屋近くに開拓地がひらかれ、そこの住民とも親しく接した光太郎は、彼らから聞かされたの体験談も盛り込んだのでしょうし。決して机上で生まれた詩ではないということです。そこで開拓関係者たちの心を揺り動かしたのでしょう。

そういえば、光太郎と親しく交流していた画家の深沢省三・紅子夫妻子息の故・竜一氏が開拓に携わり、昭和25年(1950)の1月には、光太郎が雫石の氏のお宅に2泊しています。その際には好物の牛乳を一升も飲んだそうで(笑)。場所的には旧西山村、この公苑のある長山地区もかぶります。光太郎もこの辺に来たんだなぁ、と、感慨深く思いました。

雪の開拓記念公苑を後に、下山。やはり小岩井農場近くで霙、さらに下ると雨。岩手山、おそるべしでした(笑)。

盛岡駅前でレンタカーを返却、帰途に就きました。
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さて、共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」は12月10日(土)から。並行しての企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」は開催中です。ぜひ、花巻高村光太郎記念館さんまで足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日来食事は中西夫人が作りくれる、 ひるワラサ切身2 ヒジキ、


昭和30年(1955)4月17日の日記より 光太郎73歳

昭和27年(1952)の帰京後も、基本的に自炊していた光太郎ですが、宿痾の肺結核のため、そろそろ自炊も不可能になりつつありました。「中西夫人」は起居していた貸しアトリエの大家さんです。

一昨日、昨日と、一泊二日で岩手に行っておりました。レポートいたします。

12月3日(土)、新花巻駅に正午頃到着。
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待合室兼観光案内スペース。
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花巻東高校出身の大谷翔平選手コーナー。
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午後2時から花巻高村光太郎記念館さんで、現在開催中の企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説をせよ、ということで、駅でレンタカーを借り、市内太田地区方面へ。

まだ時間が早いので、記念館にほど近い道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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産直コーナーの中に、光太郎関連グッズ等のスペース。
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少し離れたところで、先頃発売され始めた新商品「こうたろう&ちえこ ブランデンブルグの森」が販売されていました。それから、「智恵子のレモンキャンディ」も。
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無料休憩スペース的な一角に、今夏、道の駅に隣接して作られたガソリンスタンド「リベルタはなまき西南SS」のオープン記念で、スタンドを経営する冨士見総業さんから寄贈された光太郎賢治関連書籍等のコーナー。
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その脇では、「宮沢賢治と俳句」というミニ展示。
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花巻俳句協会さんの肝煎りのようでした。
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さて、花巻高村光太郎記念館さんへ。

といっても、まずは記念館ではなく、敷地内の高村山荘。光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋です。套屋に覆われたこの山小屋内に光太郎の魂の分霊がいまも居るような気がしていまして、「光太郎先生、また来ました」とご挨拶。今年3回目ですが(笑)。
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既に雪が降ったのですが、まだ根雪になってはいません。
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そして記念館。
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早速、展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」を拝見。
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昨今のこの手の展示で流行ですが、大きなタペストリーが実に効果的です。等身大(より小さいのですが)光太郎パネルも。こちらは以前に作られたものの使い回しです。
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そうこうしているうちに市役所の皆さんがご到着。当方のべしゃくる解説を録画し、YouTubeで配信するそうで、光太郎の生涯を俯瞰しつつ、関連するパネル展示ごとにシナリオを考えて喋りました。

図録、とまではいきませんが無料で配付の冊子。
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前半部分は当方の執筆です。配信動画用に喋った内容もこちらとかぶっています。
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というわけで、「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」、期間が長く来年3月21日(火・祝)まで。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夜新宿天兼といふにて天ぷら夕食、車で往復<天兼といふ家中々上等、>


昭和30年(1955)4月9日の日記より 光太郎73歳

天兼」さん、現在も新宿に健在です。おそらく再訪したいと思ったのでしょうが、残念ながら宿痾の肺結核のため、この日が生涯最後の外食(入院食は除きます)となったようです。

昨日から一泊二日で岩手県花巻市に来ております。

花巻高村光太郎記念館さんで11月23日(水)から開催されている企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説をYouTubeで配信するというので、その収録がメインでした。

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さらに夕方からは、花巻市街で来春行われるイベントの打ち合わせ。

今日は雫石町まで足を伸ばします。詳しくは帰りましてから。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市。市立の博物館等5館が統一テーマの元に行う共同企画展です。コロナ禍により、2年ぶりの開催となります。

令和4年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市博物館、花巻市総合文化財センター、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

期 日 : 2022年12月10日(土)~2023年1月22日(日)

統一テーマ 「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

花巻新渡戸記念館  テーマ「新渡戸稲造の父・十次郎」
 新渡戸稲造の父であり、十和田市の開拓などに貢献するも、若くしてこの世を去った新渡戸十次郎の生涯を紹介します。

萬鉄五郎記念美術館  テーマ「歌人・小田島孤舟展」
 花巻市東和町出身の歌人・小田島孤舟は石川硺木らと共に活躍した「岩手歌壇の父」であり、同級生であった萬鉄五郎とも生涯を通じて交友がありました。本展では、孤舟の作品と生涯を巡るほか、萬鉄五郎との関わりにも焦点を当てて紹介します。

花巻市博物館  テーマ「山の暮らし」
 総面積の半分以上を山林が占める花巻市には、山を生業の場とし、山と暮らしてきた人々がいます。
本展では、その人々が使用した様々な道具やかつての写真などから、花巻での山の暮らしに迫ります。

花巻市総合文化財センター  テーマ「早池峰の花を紹介した人々-早池峰植物研究小史-」
 幕末に植物採集の指導や学術発表を行ったロシア人植物学者マキシモビッチや、その指導を受け早池峰山の植物採集を行った須川長之助など、早池峰山の植物研究に関わってきた先人の足跡をたどります。

高村光太郎記念館  テーマ『高村光太郎の「開拓に寄す」』
 「開拓に寄す」は、高村光太郎が昭和25年に盛岡市で行われた岩手開拓五周年記念開拓祭に寄せた詩です。今回の企画展は寄贈資料「開拓に寄す」とともに、関係資料の展示を行います。

協賛館
宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、
石鳥谷歴史民俗資料館、早池峰と賢治の展示館

ぐるっとまわろう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館すべてといすれかの協賛館1館の計6個スタンプを集めた方には、さらに記念品を差し上げますので、この機会にぜひ足を運んでみてください。

 今回の開催館5館すべてをバスに乗って一日で巡るツアーです。参加料、入館料ともに無料!!(注 昼食代は自己負担)さらに各企画展の担当者が解説をしてくれます。
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高村光太郎記念館さんでは、『高村光太郎の「開拓に寄す」』。

「開拓に寄す」は、昭和25年(1950)、花巻郊外旧太田村に蟄居中だった光太郎が作った詩の題名です。11月9日作で、翌日から3日間の日程で、光太郎も参加し、盛岡市に於いて開催された岩手県開拓五周年記念の開拓祭に寄せて作られた詩です。当時、岩手県開拓者連盟の仕事をしていた紫波町出身の藤原嘉藤治(生前の宮沢賢治の親友)を通じ、光太郎に依頼があったと推定されます。

光太郎の詩稿を写真製版し、凸版印刷にしたものが参会者に配付され、光太郎生前には全文が活字になった記録が見あたりませんが、光太郎没後の昭和31年(1956)、光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、後に鋳金分野の人間国宝となった豊周(とよちか)の編集になる詩集『典型以後』に収められました。

その凸版印刷にしたものは、令和元年(2019)に花巻市総合文化財センターさんで展示されましたが、また新たに寄贈され、それを中心に、他の開拓関係資料等も出すとのこと。例によって当方が説明パネルを執筆させていただきました。

高村光太郎記念館さんでは、11月23日(水)から他の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」も開催されており、今回の『高村光太郎の「開拓に寄す」』は、それほどスペースを使わず、常設展示室の一角で行うのではないかと思われます。

今日から1泊2日で、当方、花巻に赴きます。「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の展示解説を動画配信するというので、その収録です。ついでに開拓関係で、雫石町まで足を伸ばして調査をして参ります。既に花巻でも初雪が観測されており、気合いを入れていかねばなりません(笑)。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ラジオ東京の人くる、KRの今夕の智恵子抄放送のこと、夕方奥平さんくる、七時辞去、 ストーブ、 七時20分放送をきく 便 <放送は東山千栄子、可不可なし、>

昭和30年(1955)4月4日の日記より 光太郎73歳

「ラジオ東京」「KR」は、現在のTBSラジオさんです。女優の故・東山千栄子さんの「智恵子抄」朗読があったとのこと。

昨日に続いて、花巻グルメ系。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」、昨日販売分の画像をいただきました。
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新米ご飯、麦飯、牛カツ、鮭ポテト、根菜の肉味噌かけ、大根とわかめのバター炒め、塩麹入り卵焼き、白菜の塩漬け、サツマイモとりんごの甘煮だそうで。肉食系男子の当方としては(笑)、牛カツや肉味噌かけがうれしいところですし、鮭ポテトというのもどんなものだろうと気になります。サツマイモとりんご、これも共に好物でして、それがコラボされているというのもいいですね。

もう1件。「光太郎ランチ」メニューの考案に当たられているやつかの森LLCさんが商品開発に関わられたお菓子。少し前に現物が送られてきました。ありがたし。
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クッキー3種の詰め合わせです。
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上から順に、まずチョコ味。
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控えめな甘さとカカオのほろ苦さ、練り込まれたアーモンドの風味がいい感じです。

続いてチーズ味。
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チーズ感はそれほど強くなく、チーズは苦手という方でも、チーズ味と云われなければ分からないかも知れません。非常に香ばしい風味でした。

色鮮やかなストロベリー味。
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昔のカルメ焼きのような食感です。製法的にも共通するのでしょう。イチゴの香りがふわっと広がります。

袋から出した画像。盛ったのはクリムトの絵皿ですが、心霊写真のようになってしまいました(笑)。
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すると、かたわらのマッサージチェアでぷーすか眠っていた怪獣が目を覚まし……
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「おやつニャ!」とチーズ味をくわえてさっとテーブルの下に。油断も隙もありゃしません(笑)。
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猫にチョコ味は禁物ですし、ストロベリーもフレーバーがきつい感じで、「まあこれならいいか」と、割って小指の先ほど与えました。

ところで商品名は「こうたろう&ちえこ ブランデンブルグの森」。箱に入っていた栞にその由来が。
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「ブランデンブルグ」はJ.S.バッハの有名な曲ですね。光太郎はこの曲が好きで、ずばり「「ブランデンブルグ」」という長い詩(昭和23年=1948)も書きました。

さらに、帰京後の昭和27年(1952)11月に行った講演「南沢座談」から。

ある時山を歩いていたら、見晴らしの方から、ブランデンブルグの曲のあのくり返しのところがきこえて来るのです。開拓のどこかで、すばらしい蓄音機を買つたな、と思つて暫らく耳を傾けていたのですが、そのあとで開拓の人に会つたとき、「開拓じや、だれかすばらしい蓄音機の盤を買つたな」というと、誰もそんなものは買わないという。つまりわたしの幻聴だつたのです。砂漠を歩いている人が水をほしがつていると、本当に水が湧いているようにみえるのと同じことなのでしよう。わたしは気味がわるくなつて、ぞつとしました。それからすぐに花巻の宮沢さんの親戚の清六さんという人の家に行つて、そこにすつかりそろつているブランデンブルグをかけてもらいました。それをきいていると、まるでのどがかわいているとき水をのむように、音楽が身体中にしみわたつてゆくのです。音楽がこんなにも心理的に人間を左右するものだということを発見しておどろきました。それは耳できいているのでなく、皮膚から空気の振動を通してきいているというような感じです。盲目の人が物にふれ、指の先から触覚を通して音をきくというのと同じことです。わたしは人間にこれほど音楽が必要だということをはじめて知つたのです。

正確な筆録はされていないようで、賢治実弟の清六を「親戚」とするなどしていますが、おおむね光太郎の語った通りでしょう。「音楽」というものの本質を、さらっと語る光太郎。さすがです。

ところで「ブランデンブルグ」は、ドイツの地名ですが、そこそのものより、ベルリンの「ブランデンブルグ門」からベルリン動物園の間に広がる広大な森が有名です。光太郎、ドイツには足を踏み入れていませんが、バッハの曲からの連想でしょう、蟄居生活を送っていた太田村の山小屋周辺の森を「ブランデンブルグの森」と呼ぶこともあったようです。

さて、「こうたろう&ちえこ ブランデンブルグの森」、おそらく道の駅はなまき西南さんなどで販売されているのだと思われます。花巻土産の定番の一つとなってほしいもので、ぜひ皆様、お買い上げを。

ついでというと何ですが、先月、智恵子の故郷・福島二本松に行った際に購入したレモンケーキ。
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こちらも道の駅(道の駅「安達」智恵子の里さん)で販売されています。

【折々のことば・光太郎】

のどかに晴、 九時頃中西夫人宅にて皆と一緒にお雑煮を祝ふ、桑原さんが記念撮影、 来訪者なし、 平熱、 風なくよき日和なり、


昭和30年(1955)1月1日の日記より 光太郎73歳

昭和30年(1955)の年明けです。光太郎の生命の炎、あと1年3ヶ月。まだ差し迫ってどうこうという状況ではありませんでした。

中西夫人宅」は、起居していた貸しアトリエの母屋、「桑原さん」は美術評論家の桑原住雄です。

光太郎が戦後の七年間、蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんでの企画展です。

企画展「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」

期 日 : 2022年11月23日(水・祝)~2023年3月21日(火・祝)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 12月28日(水)~2023年1月3日(火)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円

彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、戦後、62歳の時に太田村山口(現花巻市)へ移住し、約7年間の独居自炊の生活を送りました。山小屋での光太郎の食事内容は日記等に残されており、野菜等は自給でしたが、村人や友人たちの援助、そして光太郎の工夫により豊かな食生活を送っていたことがわかります。

この企画展では、光太郎の「食」をテーマに、手作りのおやつや好きな飲み物に焦点をあて、光太郎風のハイカラな食の楽しみ方を紹介します。
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同館では、以前にも企画展示「光太郎の食卓」が行われました。その際は光太郎の「食」全般についてのものでしたが、今回は特に「おやつ」に着目しての展示となります。

花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さんで連載中の「光太郎レシピ」や、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」などの考案、調理等に当たられているやつかの森LLCさんの協力で、岩手時代の光太郎日記等から、光太郎が食したであろう「おやつ」を再現した写真パネル、光太郎に食の援助を行った人物の紹介パネルなどの展示になるそうです。

図録、とまではいきませんが、関連する内容をまとめた冊子を無料配付するとのことで、その半分ほどでしょうか、当方が執筆しました。また、そのあたりを元に、オンライン講座の形で当方が講師として語る動画が来月には公開予定です。その収録等のため、来月初めに現地に行って参ります。

もう1件。今年7月、道の駅はなまき西南さんで開催された「器と楽しむ光太郎ランチ」展の巡回が行われています。

器と楽しむ光太郎ランチ

期 日 : 2022年10月20日(木)~11月21日(月)
会 場 : 土沢カフェくるみ 岩手県花巻市東和町土沢8区115
時 間 : 10:00~17:00
休 業 : 火・水曜日
料 金 : 無料
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花巻ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画で、道の駅はなまき西南さんで販売されている「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品。それから実際に「光太郎ランチ」に添えられたメニュー表(光太郎の日記等も引用されています)もセットになっています。

また、MICHINOさんの絵本『器と楽しむ光太郎ランチ』も販売されているようです。
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それぞれ、ぜひ足をお運びください。

明日も花巻グルメ系の話題で。

【折々のことば・光太郎】

神経痛は相かはらずいたむ、動くのがおつくう、(略)ラジオなどきいてゐる、 明朝は九時頃中西夫人の方にて雑煮を祝ふこと、


昭和29年(1954)12月31日の日記より 光太郎72歳

神経痛」は結核性の肋間神経痛です。「中西夫人の方」は、起居していた貸しアトリエの母屋。昭和29年(1954)が暮れて行きます。

一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに入っているテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。今月分の画像を送っていただきました。
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今月のメニューは、新米御飯、石垣団子、チキンソテーきのこソース、鱈と牛蒡の煮込み、りんごと胡桃のサラダ、葡萄ジュース寒天、シュークルート、塩麹入り卵焼き。「収穫の秋」ですので、新米や、りんごなども採れたてのものを使われているのでしょう。

思えば「光太郎ランチ」、お披露目会が行われたのが一昨年の10月でしたので、まる二年となったわけですね。メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さん、これ以外にも『花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さんで連載中の「光太郎レシピ」も担当されていて、なかなかに大変だと存じます。どちらも末永く続いてほしいものです。

ところで、まだ詳細が発表されていませんが、来月末から開催される花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示で、次回は光太郎の食、特に「おやつ」系に絞ったものが計画されています。以前には「食」全体についての企画展示が為されましたが、次回は「おやつ」だそうで、実際にお菓子作りの講座等も企画されています。

当方も資料作成等、協力させていただいているところです。詳細が公表されましたらまたご紹介いたします。

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新潮の佐野英夫氏くる、ブドウ、桃もらふ、「天上の炎」文庫本のこと


昭和29年(1954)7月9日の日記より 光太郎72歳

佐野英夫氏」は、新潮社の編集者。『天上の炎』は、光太郎が敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。光太郎訳の元版は大正14年(1925)に新しき村出版部から刊行されました。その後、昭和26年(1951)には白玉書房から復刊。さらに昭和27年(1952)には、創元文庫のラインナップに入りました。そして新潮文庫。こちらは翌昭和30年(1955)に出ました。解説は創元文庫と同一の、金子光晴によるものでした。

ゲームとのタイアップ企画です。

宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー(「賢治フェスティバル×文豪とアルケミスト」タイアップ)

期 日 : 2022年10月1日(土)~10月30日(日)
会 場 : 
 宮沢賢治童話村(メイン会場) 花巻市高松26-19
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後4時30分
  (ライトアップ開催日は「賢治の学校」の閉館時間を7時まで延長します)
  料  金 : 一般350円 高校生・学生250円 小中学生150円

 宮沢賢治記念館 花巻市矢沢1-1-36
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後5時(最終入館4時30分)
  料  金 : 一般350円 高校生・学生250円 小中学生150円

 宮沢賢治イーハトーブ館 花巻市高松第1地割1-1
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後5時(最終入館4時30分)
  料  金 : 無料

 高村光太郎記念館 花巻市太田3-85-1
  開館時間 : 午前8時30分 ~ 午後4時30分
  料  金 : 一般350円 高校生・学生250円 小中学生150円

「文豪とアルケミスト」のキャラクターとして宮沢賢治・高村光太郎が登場している縁で、賢治フェスティバルと「文豪とアルケミスト」のタイアップ企画が実現。宮沢賢治関連施設と高村光太郎記念館を巡って、描き下ろしポストカードと童話村の森ライトアップ缶バッジをゲットしよう! 各館には等身大スタンディも!ぜひ全館巡ってみてください。スタンプラリーを通して、賢治と光太郎の郷「花巻」を再発見してみませんか?
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【企画1】宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー

(1)はじめに入館した施設の受付でスタンプカードを入手
(2)対象4館のうち、メイン会場「宮沢賢治童話村」と、サブ会場3館のうち2館のスタンプを集めて景品と交換
(3)残り1館も回って、スタンプカードを完成させよう!

  注)高村光太郎記念館には、公共交通機関で行くことはできません。
  往復タクシー&光太郎記念館入館券セットのお得なプランで、目指せコンプリート!
  申込先 花巻観光協会(電話:0198-29-4522)
  料金 6.000円

・花巻市内の温泉施設や花巻駅周辺にお泊まりの方は、観光タクシープラン「どんぐりとやまねこ号」午前コースのご利用もおすすめです。

・スタンプカードは、宮沢賢治童話村「賢治の学校」・宮沢賢治記念館・高村光太郎記念館ではチケット購入の際、受付にてお渡しいたします。イーハトーブ館は入館料無料のため、売店に申し出てください。
・景品の交換も各館の受付(イーハトーブ館は売店)にて行います。
・景品交換には、宮沢賢治童話村のスタンプが必須となります。童話村を除いた3館のみのスタンプでは景品交換の対象となりませんのでご注意ください。
・景品の在庫が無くなった場合は、住所・氏名をお伺いし、後日郵送いたします。
・各館ごとに検温・記帳をお願いしております。ご協力をお願いいたします。
・新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、会場・内容・期間等が変更となる可能性があります。

【企画2】「文豪とアルケミスト」パネル展
スタンプラリーのメイン会場「宮沢賢治童話村」では文豪とアルケミストのパネル展を行います。スタンプラリーと合わせてお楽しみください。

【企画3】「文豪とアルケミスト」描き下ろしクリアファイル販売
賢治フェスティバル×文豪とアルケミストのタイアップを記念して、描き下ろしイラストを使用したオリジナルクリアファイルを販売します!
賢治と光太郎が童話村の森ライトアップを楽しんでいる描き下ろしイラストは、文アルファンの方だけでなく、童話村の森ライトアップのお土産品としてもぴったりです。ぜひお買い求めください!

販売場所 宮沢賢治童話村「賢治の学校」、高村光太郎記念館
価格:400円 (1人5枚まで)

というわけで、ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画です。

これまでも全国の文学館さん等で同様の企画がありました。こういうと何ですが、花巻市さんは意外と保守的で、この手のイベントにはあまり乗り気ではないだろうと感じておりました(そこで当方もお勧めはしてきませんでした)が、実現しました。

メイン企画はスタンプラリー。賢治系の3館はほぼかたまって存在していますので、その気になれば東北新幹線新花巻駅から歩いてでも廻れます。
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ただ、高村光太郎記念館さんだけは、3館とは市街地を挟んで真逆の位置。かつてあった路線バスも途中までしか行けなくなってしまいましたし、本数も多くありません。だからといって、賢治系3館のみではなく、光太郎記念館にもぜひ足を運んでいただきたいところです。
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最寄りのバス停は岩手県交通さん「太田線」の「清風支援学校前」。ここから光太郎記念館まで徒歩1時間位です(笑)。しかも1日2往復、さらに土日・祝日は運行なし(笑)。まぁ、何と言っても旧太田村、光太郎が戦時中の翼賛活動を反省して蟄居のため自らを幽閉した場所ですから。
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または同じく岩手県交通さんの「湯口線」(昔の花巻電鉄の名残です)。「神明前」か「クレー射撃場前」が最寄りで、記念館までは徒歩1時間ほど。平日土日休日でダイヤが異なります。こちらの方が太田線より本数はありますが、歩く距離は長いような気がします。
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いずれも在来の東北本線花巻駅発。東北新幹線の新花巻駅ではありませんのでご注意を。新花巻から花巻までは、JR釜石線(こちらも本数が少ないのですが)でつながっています。

また、各バス停から歩くとしたら、熊に注意です(笑)。冗談ではありません。

ちなみに花巻駅から光太郎記念館までは、通常のタクシーだと片道3,000円台だったような記憶があります。そう考えると上記のタクシープランの方がお得ですね。

当方はほとんどレンタカーです(1度だけ自家用車で千葉から行ったことがありましたし、時折、地元のお世話になっている皆さんに泣きついて車を出していただいたり、公務の際には花巻市さんで車を出して下さったりすることもありますが)。レンタカー営業所は東北新幹線新花巻駅前に、ニッポンレンタカーさんとトヨタレンタリースさんがあります(在来線花巻駅周辺にはありません)。「私、ペーパードライバーで運転が怖い」という方もいらっしゃるかも知れませんが、花巻は大都会のように車も走っていませんので(笑)大丈夫です(別に花巻をディスっているわけではありませんのでよろしく)。

というわけで、ぜひ足をお運びください。また、スタンプラリーのポイントにはなっていませんが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんなどにもお立ち寄り下さると、なお幸いです。

【折々のことば・光太郎】

盛岡の美校卒業式に祝電を送る、「岩手の美世界の美となれ」


昭和29年(1954)3月5日の日記より 光太郎72歳

「盛岡の美校」は岩手県立美術工芸学校。校長の森口多里をはじめ、深沢省三・紅子夫妻舟越保武など、旧知の面々が教員として在籍していたため、旧太田村の山小屋に蟄居中(昭和20年=1945~昭和27年=1952)は、実際に時折訪れて生徒に講話をしたりしていました。光太郎自身も名誉教授就任を打診されましたが断っています。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京後も、節目節目には祝電等を寄せました。前年の祝電についてはこちら

光太郎第二の故郷・岩手花巻がらみで、光太郎に関わる雑誌記事を2件ご紹介します。

まず、『日本古書通信』さん9月号。稀覯本コレクターにして秀明大学さん学長であらせられる、川島幸希氏の寄稿『近代作家の資料⑦ 宮沢賢治の詩稿付特製本』が掲載されています。
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題名にある「宮沢賢治の詩稿付特製本」は、宮城県で開かれた古書入札会に出たもので、昭和14年(1934)刊行の十字屋書店版『宮沢賢治全集』第三巻。それに先立つ昭和9年(1934)に文圃堂から出た最初の『宮沢賢治全集』(光太郎も編者の一人として名を連ねました)の紙型を転用したものです。題字も文圃堂版のために書かれた光太郎の揮毫が使い廻されています。
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こちらの見返しに、賢治の草稿の一部が貼り付けてあるというのです。そして、全集編纂に協力したという菊池暁輝宛の献呈署名。賢治は既に歿しており、実弟の清六の筆跡です。
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表紙には宮沢家の家紋。奥付には「宮沢家蔵版」と印刷され、検印の下には「特製第9号」の文字とゴム印。

川島氏、以前に同じ本の中島健蔵宛、やはり賢治の草稿が貼られたものをご覧になったことがあったそうです。また、谷川徹三(谷川俊太郎氏父君)宛のものも存在したとのこと。中島、谷川とも『宮沢賢治全集』編纂者です。そこで、これらの特製本は全集完成の礼として、清六が編纂者等に贈ったものではないか、というわけです。

編纂者としてクレジットされているのは中島、谷川以外に、清六、当会の祖・草野心平、光太郎、賢治の親友・藤原嘉藤治、森荘已池、横光利一の計8人。第1~8号はそれらの人びとに贈られ、菊池は編纂者ではありませんが、協力者ということで、「第9号」という推理です。有り得ますね。

その通りだとすれば、光太郎の手許にもあったはずなのですが、たとえそうだったとしても、昭和20年(1945)4月13日の空襲で、光太郎自宅兼アトリエと共に灰燼に帰してしまった可能性が高いように思われます。もし残っているとすれば、とんでもないものですが……。光太郎が誰かに貸し、その人物がいわゆる「借りパク」でもしていたら、残っているかもしれませんが……。光太郎の周辺で、一番借りパクをしそうなのは当会の祖・心平ですが(笑)、心平にも同じものが贈られたのであれば、その必要はありませんし。

しかし、ロマンのある話です。

もう1件。今年から季刊になった(以前は隔月刊)『花巻まち散歩マガジン machicoco(マチココ)』さん。通巻第32号です。
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平成29年(2017)の創刊号以来の連載「光太郎レシピ」。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」同様、メニューの考案、調理等に当たられているのはやつかの森LLCさんです。

今号は「そば粉のガレットロール」。
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料理好きな方、ぜひ挑戦してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后宮崎丈二氏くる、「魴鮄」の木彫持参、現存のこと分る、友人の道具屋所有の由、

昭和29年(1954)3月4日の日記より 光太郎72歳

この木彫「魴鮄(ほうぼう)」は大正13年(1924)の作。昭和2年(1927)の大調和美術展、昭和4年(1929)の荻生会主催美術展覧会に出品されたりもしました。その後、買い手がついて光太郎の手から離れました。

昭和20年(1945)の「回想録」に以下の記述があります。

私の乏しい作品も方々に散つて、今は所在の解らないものが多い。『魴鮄』など相当に彫つてあるので、時々見たいと思ふけれども行方不明である。何か寄附する会があつて、そこに寄附して、その会に関係のある人が買つたといふ話だつたが、その後平尾賛平さんが買つたといふ事も聞いたが、どうなつたか分からない。

平尾賛平はレート化粧品を商標とした平尾賛平商店の主。おそらく二代目で、東京美術学校に奉職する前の光雲に援助などもしていました。

その「魴鮄」を持ち込んだ宮崎丈二は、光太郎と交流のあった詩人。光太郎歿後の昭和37年(1962)に、この「魴鮄」を謳った詩を発表しています。

  蘭と魴鮄

花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める010
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない

魴鮄はその面魂(つらだましひ)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて

宮崎と親しく、光太郎アトリエにも出入りしていた北海道の材木商・浅野直也がこの後、「魴鮄」を入手、光太郎歿後の各種展覧会に出品されました。しかし、昭和41年(1966)、西武百貨店SSSホールで開催された「高村光太郎と智恵子展――詩情に生きる〈美と愛〉」以後、出品の記録が見あたりません。未だ現存しているのでしょうか。そうとすればぜひ見てみたいものです。

芸術の秋となりまして、このブログサイトにて紹介すべき事項がかなりたまって参りました。本日は光太郎第二の故郷・岩手花巻発の情報を5件ほどまとめて。

時系列順に、まず9月12日(月)、IBC岩手放送さんローカルニュース。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

光太郎の海外留学時代の足跡たどる ゆかりの地で企画展/岩手・花巻市

 日本を代表する詩人で彫刻家の高村光太郎の海外留学時代の足跡をたどる企画展が、ゆかりのある岩手県花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は東京美術学校=現在の東京藝術大学を卒業後、1906年からアメリカ、イギリス、フランスの3か国へ留学しています。
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光太郎が晩年を過ごした花巻市にある「高村光太郎記念館」では、企画展「光太郎、海を航る」が開かれていて、初公開となるイタリアから弟に宛てた絵はがきや解説付きのパネルなどが展示されています。
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およそ3年余りの海外生活は光太郎の価値観を大きく変え、旧態依然とした日本美術界に不満を持つようになります。会場にはこのほかにも留学時代を思う直筆の短歌や世界的な視野に立った芸術評論の原稿なども展示されています。
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企画展「光太郎、海を航る」は9月30日まで花巻市の高村光太郎記念館で開かれています。

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続いて9月15日(木)、市発行の『広報はなまき』さん。「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」という連載で花巻高村光太郎記念館さんの収蔵品をご紹介下さいました。
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こちらの書幅は、企画展示「光太郎、海を航る」の方ではなく、常設展示室の方に出品されていたと思います。

同じく9月15日(木)、一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。今月分の画像を送っていただきました。
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すりリンゴ入り蒸しパン、白六穀御飯、鶏肉カレー炒め、茄子の串焼き、大根菜の炒め、かぼちゃサラダ、塩麹卵焼き、きゅうりの糠漬け、フルーツ(ぶどう)だそうです。

メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さん、9月12日(月)には、花巻市の社会教育施設「まなび学園」さんで活動されている「わかくさ女性学級」での出前講座。「高村光太郎の山荘~ハイカラ料理を知ろう」と題し、光太郎が郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送っていた頃の様子を寸劇にしたり、光太郎の「食」について紹介したりなさったそうです。こちらでも光太郎ゆかりのお弁当。
愛ちゃんの栗拾い
開会あいさつ
光太郎と菅原先生
山の少女朗読
かぼちゃのエピソード
ランチボックス
ランチボックス盛り付け
最後に『読売新聞』さん岩手版の記事。9月17日(土)の掲載でした。

賢治自筆「雨ニモマケズ」…記念館で手帳展示、県内6年ぶり

 花巻市の宮沢賢治記念館で、賢治が代表作の詩「雨ニモマケズ」を書き残した自筆手帳が16日、公開された。県内での展示は6年ぶりで、10日間限定の25日まで。貴重な手帳を一目見ようと多くの人が訪れている。
 手帳の大きさは縦13・1センチ、横7・5センチで、黒革で覆われている。165ページにわたり、文学作品の下書きやメモ、経典などが記され、「雨ニモマケズ」は51ページから60ページに書かれている。
 詩は、賢治が花巻の実家で闘病中だった1931年11月3日に書かれたものと推察されており、2年後の33年9月、賢治は37歳で生涯を閉じた。手帳は賢治の没後、東京都の喫茶店「モナミ」で高村光太郎や草野心平らを中心に開かれた追悼会で、弟・清六氏が持参した賢治愛用のトランクから見つかった。
 同館の牛崎敏哉学芸員は「本来人に見せるものとして書いたわけではない賢治の晩年の願いや祈りが込められている」と指摘する。
 初日の16日は、来館者が手帳に顔を近づけながら鉛筆の文字を観察する姿が見られた。手帳を見るために静岡県藤枝市から訪れた公務員名手小枝さん(55)は「当時この手帳を手にとって詩を書いたと思うと感慨深い。汗などもきっとにじんでいるのでしょう」と話していた。
 19日は、清六氏の孫・宮沢和樹氏による講演も行われる。開館は午前8時半~午後5時(入館は午後4時半まで)。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小・中学生150円。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。
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岩手めんこいテレビさんのローカルニュースでも取り上げられていました。

賢治直筆『雨ニモマケズ』手帳公開 2016年以来2回目の限定公開<岩手・花巻市>

 普段は見ることができない宮沢賢治が手帳に書いた直筆の「雨ニモマケズ」。岩手県花巻市の宮沢賢治記念館では、開館40周年を記念して9月16日からこの手帳が公開されています。

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 2022年で開館40周年を迎えた花巻市の宮沢賢治記念館で、16日から始まった特別展示の目玉は、賢治直筆による『雨ニモマケズ』が書かれた手帳です。この手帳は、賢治生誕120周年にあたる2016年に一度だけ公開されたもので普段はお目にかかる事は出来ません。2021年、東北を中心とした大型観光キャンペーンの期間中に公開される予定でしたが延期となっていました。
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 この他にも貴重な作品が数々展示されていて訪れた人を楽しませていました。
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 大阪から来た人「(雨ニモマケズ)はイメージ残ってるので本物が見れて嬉しいです。直筆よね、貴重な経験だと思います」
 これらの貴重な作品は、9月25日まで展示されています。

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こちらには光太郎の名は出ませんでしたが、手帳の「発見」の現場となった、賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の写真がパネル展示されているのがわかりました。『読売』さん記事はこのあたりを参考になさったのでしょう。光太郎は前列左から4人目です。
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さて、花巻。秋のいい季節となります。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

盛岡大慈寺小学校長さん佐藤氏くる、


昭和29年(1954)1月15日の日記より 光太郎72歳

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた頃からの知り合いだった、盛岡の小学校長・佐藤憲政が、中野の貸しアトリエを訪問しました。このように、花巻や盛岡の人々が、上京したついでに光太郎の元を訪れるケースはあとを断ちませんでした。それだけ慕われていたということなのでしょう。

テレビ放映情報、2件ご紹介します。

ドラマ 風よあらしよ(3)

NHK BSプレミアム/BS4K 2022年9月18日(日) 22:00〜22:50 
再放送 NHK BSプレミアム 9月21日(水) 23:00~23:50

自由を強く求める野枝と大杉は、“同志”として人生をともに歩む覚悟を決める。そして、平等で公正な社会を作ろうと、“言葉”を武器に理不尽な権力に立ち向かっていくのであった。波乱万丈の人生を更に開花させようとした矢先、関東大震災が勃発。世の中はますます混乱に陥り、野枝や大杉たち無政府主義者にも疑いの目が向けられ…そして、理不尽な暴力が彼女たちを襲ってしまう。

【出演】吉高由里子,永山瑛太,美波,玉置玲央,山下容莉枝,音尾琢真,石橋蓮司
【原作】村山由佳,【脚本】矢島弘一
【音楽】梶浦由記

全3回の最終話です。

9月11日(日)放映の第2話では、主人公の伊藤野枝(吉高由里子さん)、智恵子がその創刊号表紙絵を描いた『青鞜』を、智恵子の先輩で智恵子を『青鞜』に誘った平塚らいてう(松下奈緒さん)から引き継いだものの、ほどなく廃刊となったあたり。年代的には大正初めでした。
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また、光太郎とも交流のあった夫・辻潤(稲垣吾郎さん)との別れ。
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そしてアナキスト・大杉栄の元に走った野枝。
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しかし、「自由恋愛」を標榜する大杉には、妻(山田真歩さん)も、愛人(神近市子=美波さん)も……。
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そしていよいよ最終回となります。

まず、大杉が神近市子に刺される「日蔭茶屋事件」あたりから始まるのでしょう。その後、大杉らの無政府主義運動の興隆と、その衰退。
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この頃、やはりアナキズムに染まっていた当会の祖・草野心平らの関係もあり、光太郎は大杉らの活動を支援しようとしていました。原作の村山由佳さんの小説『風よ あらしよ』には、ブロンズ彫刻の代表作「手」(大正7年=1918)の寄贈を申し出る(史実です)光太郎が登場しますが、おそらくドラマでは割愛されるでしょう。

そして運命の日、大正12年(1923)9月1日。
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関東大震災のドサクサで、大杉、野枝、そして二人の子供と間違われた大杉の甥・橘宗一少年が、憲兵大尉・甘粕正彦(音尾琢真さん)の手にかかり……。
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野枝の加入とほぼ入れ違いに青鞜社を去った智恵子でしたが、まんざら知らない仲だったわけでもなかったと思われます。この年11月の『婦人之友』第17巻第11号に掲載された「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想」と題された智恵子のアンケート回答。

 おはがき延着のためたぶんもう遅れた事と存じますし、また感想をのべるとしては事件の結審までみてからのことです。尤もその刑法上の処罰の如何等のことはさして私の注意をひいてゐる問題ではありません。ただ殺人に関する同胞の心理上のある一点に、大きな疑問をもつてゐるからです。
 もとより、かかる事件の忌はしい事は、法律にもとるからばかりでありますまい。また動機の如何もつまりは打算の問題です。われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。


激しい怒りと嫌悪感が溢れ出ていますね。

同じ号には光太郎の文章も。それ以前から続いていた連載「愛の言葉」で、ロダンやメーテルリンクの短い翻訳を紹介してきていましたが、この号ではロマン・ロランでした。

 凡そ此世で、真摯な精神に遭遇して、其と最も内奥の思想を共にし、又同胞の様な関係を結ぶ幸運を持つた時、此関係は神聖である。試練の時などに此が破棄せらるべきでない。されば吾人の心の上に何の権威もない輿論の横暴な強要に従ふ為、其事を言明するのを臆病にも止める者は卑怯である。

光太郎自身の言葉ではありませんが、おそらく智恵子の回答と歩調を合わせています。智恵子が光太郎に合わせたかもしれませんが。

さて、もう1件。当会の祖・草野心平自身が出演します。

NHK特集「ジョバンニの銀河 1983」

NHK BSプレミアム 2022年9月20日(火) 18:10~19:00

詩人・童話作家の宮沢賢治の作品世界を、科学や音楽などさまざまな面から多角的に探る。後半は代表作「銀河鉄道の夜」を、賢治が愛した鉱物写真などを背景に幻想的に描く。

無名のまま亡くなった宮沢賢治だが、没後50年の時にはすでに作品が世界中で翻訳されるまでに人気が高まっていた。故郷の花巻市に開館した宮沢賢治記念館を舞台に、賢治が好んだ科学の実験や作詞作曲した音楽の演奏、各国語による詩や童話の朗読を紹介し、その魅力を探る。詩人の草野心平や入沢康夫も登場。後半の「銀河鉄道の夜」では、朗読に鉱物の結晶写真やパウル・クレーの絵が重なり、不思議な世界がひろがる。

【出演】草野心平,シャスティーン・ヴィデーウス,板谷英紀,入沢康夫,王敏,山内逸郎,斎藤文一,リード・バトラー,ロバート・ホワイト,ミキ・エレナ・戸田,
【朗読】三田和代
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昭和58年(1983)に放映されたもののアーカイブ放送のようです。心平が歿したのは昭和63年(1988)ですから、最晩年の姿ですね。また、平成30年(2018)に亡くなった入沢康夫氏もご出演。

ぞれぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

快晴、 朝九時中西さん宅でお雑煮、子供さん3人、夫人、桑原氏と同席、後写真撮影、 静かにしてゐる、


昭和29年(1954)1月1日の日記より 光太郎72歳

昭和29年(1954)の年が明けました。光太郎の生命の炎、あと2年と少しです。

「中西さん」は起居していた貸しアトリエの大家さん。「桑原氏」は美術評論家の桑原住雄です。

社会教育系イベント、対象が花巻市民等限定ですが……。

新花巻発見探訪ツアー「太田・湯口地区」

 コミュニティ会議の地域振興部会が主催する「新花巻発見探訪ツアー」の参加者を募集します。この事業は花巻市内各地の史跡・名勝や施設等を訪れ、私たちが暮らす花巻の郷土史や風土を学びます。
 今回の訪問地は、高村光太郎が山居7年を過ごした高村山荘や日本三清水と言われる清水寺がある太田地区と、仏教学者として知られる多田等観ゆかりの円万寺がある湯口地区を巡ります。

○期 日   9 月 22 日(木) 小雨決行
○訪問先  花巻市太田、湯口地区
○対象者
 花南地区に在住もしくは勤務する市民で、史跡・名勝に関心があり学ぶ意欲がある方
○集 合   08:30 花南振興センター(受付、体調チェック票提出)
○日 程
  08:45  花南振興センター出発
  09:00  高村光太郎記念館
   高村山荘、智恵子展望台、雪白く積めり詩碑を見学
  11:00  清水寺
   観音堂、山門、千体薬師堂、慈眼水堂を見学
  12:30  花巻市自然休暇村広場(昼食)
  13:30  円万寺
   観音堂、八坂神社、一燈庵を見学
  14:15  山の駅 昭和の学校(施設見学)
  15:20  道の駅 はなまき西南(休憩)
  16:00  花南振興センター到着予定
 ※天候や現地の状況によって日程を変更する場合があります。
○服 装  動きやすい服装、履きなれた靴、帽子
○持ち物  マスク、昼食、飲み物、おやつ、雨具、タオル、敷き物、筆記用具など
○参加料  1,200 円(入館料 3 館分、保険代)
 ※貸切バス代はコミュニティ会議が負担します。
○定 員  25 人(先着順)
○受 付  8 月 22 日(月)午前 9 時から受付開始。花南振興センター窓口へ直接
    もしくは花南地区コミュニティ会議(電話 24-4415、平日の 9 時~17 時)
     へお申込み願います。
 なお、感染症の拡大状況によっては事業を延期もしくは中止することが
 ありますので予めご了承ください。
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光太郎ゆかりの地を巡る史跡探訪ツアー。

まずは昭和20年(1945)秋から丸七年間、光太郎が蟄居生活を送った旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する髙村光太郎記念館さん及びその周辺。

続く清水寺さんは、光太郎が何度か足を運んだ寺院です。円万寺さんは、光太郎と交流のあった僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観が堂守を務めていたところ。長い急坂を上った先にありますが、光太郎も上りました。

山の駅 昭和の学校さんにも行かれるのですね。さらには道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんにも。

地元の方々が対象ですが、以外と地元民が地元のことを詳しくは知らないというケースは往々にしてありますね。当方もそうです。ここにこんなものがあると知らなかったとか、存在は知っていてもどんな背景があるのか、細かな見どころ等々。もう3年前になりますが、当方が講師を務めさせていただき、花巻市、それから隣接する北上市をバスで廻った「岩手花巻高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の際にも、参加者の皆様からそうした声が聞かれました。

残暑も一段落という感じで、ただ、台風等が心配ですが、実りあるツアーとなるよう祈念いたしております。

各地自治体さんの社会教育担当の方々、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

晴れる、 春子さん子供二人つれてくる、モチ ワカサギをもらふ、 NHKの人くる、一月三日詩朗読の由(石黒達也) 「新潮」の野平氏くる、原稿に書き足して渡す(13枚)、 便 創元社の林氏くる、ウエルハーラン詩集出来、三冊持参、印税はマカベ氏宛のことをたのむ、 〈豊周夫妻くる〉

昭和28年(1953)12月26日の日記より 光太郎71歳

001たまたまでしょうが、千客万来(笑)。ただ、この頃、この日ほどではなくとも、起居していた中野の貸しアトリエにはほぼ毎日、誰かしらが訪れていました。

春子さん」は、智恵子の最期を看取った智恵子の姪。「詩朗読」はラジオ放送。俳優の「石黒達也」はたびたび光太郎詩の朗読を担当していました。「原稿」は翌年2月の『新潮』に載った散文「日本芸術院のことについて-アトリエにて1-」。「ウエルハーラン詩集」は、濁点が脱落していまして、『ヴェルハアラン詩集』。戦前に光太郎が訳した、ベルギー詩人・ヴェルハーレンの詩――さまざまな雑誌等に寄稿したもの――を、山形出身の詩人・真壁仁(「マカベ氏」)が編集しました。光太郎、あまり出版に乗り気でなく、印税もいらない、真壁にやってくれ、と、まぁ何とも気前のいいことで(笑)。そして実弟の豊周夫妻も。おそらく豊周が仲介した「倉田雲平胸像」がらみの用件と思われます。

光太郎がその人生の大半を過ごした地・東京市本郷区(現・東京都文京区)。

そちらに本部を置く文京建築会さんで、平成23年(2011)から「文京・見どころ絵はがき大賞」を開催していらっしゃいます。当方、寡聞にして存じませんでした。

まず、過去11年間の優秀作品を展示している受賞作品展が、盛岡市の深沢紅子野の花美術館さんで、先月から開催中です。文京区さんと盛岡市さん、そういえば友好都市的な関係でした。

文京・見どころ絵はがき大賞 2011-2021 受賞作品展

期 日 : 2022年8月6日(土)~9月25日(日)
会 場 : 深沢紅子 野の花 美術館 1階ロビー 盛岡市紺屋町4-8
時 間 : 10:00~17:00 (最終日は15時迄)
休 館 : 月曜日(祝祭日の場合はその翌日)
料 金 : 無料(他展示は有料)

盛岡市と友好都市でつながる東京都文京区で、“あなたが見つけた文京の見どころ”をテーマに毎年開催の人気コンテストです。今回は、その「文京・見どころ絵はがき大賞」(主催:文京・見どころ絵はがき大賞実行委員会)のこれまでの歴代受賞作品を展示。はがきの中に、それぞれの方の思い出が詰まっています。力作多数。入場無料となっております。どうぞお気軽にお立ちよりください。

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今年度の大賞展作品募集も行われています。

第11回 文京・見どころ絵はがき大賞

大募集中です! ふるってご応募ください!

「文京・見どころ絵はがき」を作って送ってください。今回の締め切りは9月30日(金)当日消印有効です。文京区長賞、郵便局長賞、林丈二賞、(友好都市)盛岡市長賞、テーマ賞など様々な賞を予定しております!!

※今年のテーマ部門は「文京の樹」

【応募期間】  ~ 9月30日(金)消印有効
【応募方法】 官製はがき大サイズ(10cm×14.8cm) 
       スケッチ・イラスト・写真など表現は自由
       100字以内の文章をはがきの表または裏にそえてください。
       文京区に興味のある方ならどなたでも年齢を問わず応募できます。
【表彰対象】 文京区内の見どころを発見し、その価値が十分に表現された絵はがき作品
【応募先】  〒112-0003 東京都文京区関口1丁目43番5号B1F
         文京春日郵便局留 文京建築会行
       住所、氏名、年令を明記ください。
【表彰式】  2022年12月17日(土)13:00~16:00
       文京シビックセンター26階 スカイホール
【展覧会】  2022年12月17日(土)~20日(火)10:00~18:00
       文京シビックセンター1階 ギャラリーシビック
       ※最終日は17:00まで
【問合せ先】 文京・見どころ絵はがき大賞実行委員会
       email:ehagaki@bunkyo-arch.org
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残念ながら旧駒込林町光太郎(現・文京区千駄木)にあった光太郎アトリエ兼住居は戦災で焼失してしまいましたが、光太郎実家隣の旧安田楠雄邸など、光太郎がいた当時の俤はまだまだ残っています。

絵心のある方、文京区愛に溢れる方、ぜひご応募を。

【折々のことば・光太郎】

西山勇太郎氏風間氏と同道くる、写真撮影、 椛澤さんくる、 藤島さんくる、廿八日午后五時築地万安にて委員会解散式をやること、会費2000円のこと藤島さんより話、

昭和28年(1953)12月23日の日記より 光太郎71歳

西山勇太郎氏」は詩人。辻潤や萩原朔太郎とも交流がありました。光太郎歿後には光太郎若き日のスケッチ帖『赤城画帖』を編集、『智恵子抄』版元の龍星閣から出版しています。

風間氏」は風間光作。やはり詩人で、光太郎に自著の題字揮毫をしてもらったりした他、光太郎歿後には「高村光太郎詩の会」を立ち上げ、顕彰活動にあたりました。

椛澤さん」は椛沢佳乃子(ふみ子)。茶道家で、戦時中からの光太郎ファン。駒込林町のアトリエ兼住居、戦後の花巻郊外太田村の山小屋などもたびたび訪れていました。

藤島さん」は藤島宇内。当会の祖・草野心平の『歴程』に依った詩人でしたが、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に際し、「在京建設委員」として青森県との交渉役等を精力的にこなしました。「委員会解散式」もこれに関わります。

この日の写真が、風間が発行していた『高村光太郎詩の会会報 第66号』(昭和44年3月)に掲載されています。
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左から椛沢、風間、光太郎、藤島です。

クラシック歌曲系の演奏会情報です。

曽部遼平 増田達斗 リートデュオリサイタル

一関公演
 期 日 : 2022年9月11日(日)
 会 場 : 一関文化センター 中ホール 岩手県一関市大手町2-16
 時 間 : 13時30分開場 14時00分開演
 料 金 : 一般2,000円 高校生以下500円 (全席自由) 一般は当日500円増

豊橋公演
 期 日 : 2022年9月23日(金・祝)
 会 場 : 穂の国とよはし芸術劇場プラット 愛知県豊橋市西小田原町123番地
 時 間 : 18時00分開場 18時30分開演
 料 金 : 一般3,000円 高校生以下2,000円 (全席自由)
 出 演 : 曽部遼平[テノール]  増田達斗[ピアノ]
 曲 目 : F. シューベルト《白鳥の歌》D.957 野ばら D.257
       山田耕作 赤とんぼ  三善晃 秋の風
       増田達斗 あどけない話 (詩 高村光太郎)
       他
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ピアニスト・作曲家の増田達斗 氏という方が作曲された「あどけない話」がプログラムに入っています。

いつも書いていますが、こうした二次創作-音楽でも、文学でも、造形作品でも-光太郎智恵子の作品等に新たな命を吹き込んでいただき、感謝いたしております。

なぜ岩手と愛知? と思ったら、歌唱の曽部氏が岩手、増田氏が愛知のご出身だそうで。ただ、フライヤーには11月に東京公演、12月に埼玉公演とありますが。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝十時過車で山口まで、 スルガさんひるめしをつくりくれる、小屋で久しぶりにて飯をくふ、持参のビール一本、古テガミ等入用のものを見つけ出す、 午后四時過車で志戸平にかへる、


昭和28年(1953)11月30日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻ですが、郊外旧太田村山口集落の山小屋には起居せず、大沢温泉さん、志戸平温泉さん(この日も)、花巻温泉さんなどを泊まり歩いていました。

先週のNHK盛岡局さんローカルニュースから。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

高村光太郎 海外留学中に送ったハガキなどを展示 花巻市

 詩人で彫刻家の高村光太郎がアメリカやヨーロッパに留学中に出されたハガキなどを展示する企画展が花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は20代の時におよそ3年間、アメリカやイギリスそれにフランスに留学し、彫刻やデッサンなどを学びました。
 花巻市にある高村光太郎記念館で開かれている企画展には、高村光太郎が留学中に家族や知人に送ったはがきや執筆した直筆の原稿など20点が展示されています。
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 このうち明治42年の4月に光太郎の弟、道利にあてた絵はがきは今回、初めて公開され、旅行で訪れたイタリア・ローマの芸術や文化の高さに驚いた様子が記されています。
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 また明治41年1月に、当時パリに住んでいた画家の白瀧幾之助に宛てた絵はがきには、新年のあいさつなどが書かれています。
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 このほか昭和16年の芸術評論「ミケランジェロの彫刻写真に題す」の直筆の原稿4枚なども展示されています。
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 仙台市から訪れた人は「ヨーロッパでの生活の中で、日本を客観的に見ることができたのではないか」と話していました。
 花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐は「欧米で実際に何を見て、聞いて暮らしていたのかを展示を通じて感じてもらいたい」と話していました。
 企画展は来月30日まで開かれています。

少し前ですが、市の『広報はなまき』7月15日号で、道利宛の葉書について紹介されていました。
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ついでに当方によるレポートもご覧下さい。

ニュースで述べられた通り、会期は9月30日(金)までです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小春日和、映画班の人達四人同道、電車車中の撮影、二ツ堰より山口まで車、村長さん宅着 スルガさん宅エン側にて重次郎さん等と撮影、田圃の中、林間、小屋等撮影、 四時頃小学校行 村人の歓迎会あり、


昭和28年(1953)11月26日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに、花巻郊外旧太田村に帰りました。

半分はブリヂストン美術館の美術映画「高村光太郎」の撮影のためでもありましたが、当初の構想では、冬期には東京中野の貸しアトリエで、気候のいい時期には旧太田村の山小屋と、二重生活を目論んでいたようです。

美術映画「高村光太郎」から。
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光太郎第二の故郷、岩手花巻からの情報を2件。

まず、毎月恒例の光太郎ランチ。一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当です。

今月分がこちら。
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赤飯、小豆餅、牛すき煮、じゃがいも甘辛煮、鰹フライ、白菜と南瓜の花の酢の物、塩麹卵焼き、お新香、デザートだそうで。酢の物がさっぱりしていて美味しかったそうです。西瓜が夏らしく、また彩りも添えていますね。

3枚目の画像、背景は道の駅のインフォメーションコーナーで開催されている、地元ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画「器と楽しむ光太郎ランチ」です。

花巻からもう1件、日帰りツアー的な案内です。

花巻電鉄の軌跡 廃線跡の今

期 日 : 2022年8月28日(日)
料 金 : 5,000円

【8/28(日)限定!】
JR花巻駅、花巻温泉郷から出発し、現在は廃線の「花巻電鉄」跡を巡るガイド付きツアーです。当時の様子を写真で振り返り、現在の様子を写真に収めていただくフォトツアーです。

【乗車場所】JR花巻駅東口、花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、廣美亭、台温泉バスロータリー、新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、志戸平温泉(ホテル志戸平・游泉志だて)、松倉温泉風の季

【下車場所】JR花巻駅東口、JR新花巻駅西口、花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、廣美亭、台温泉バスロータリー、新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、志戸平温泉(ホテル志戸平・游泉志だて)、松倉温泉風の季

09:20 花巻駅東口
09:40 新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、
     大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、
     志戸平温泉(ホテル志戸平・志だて)、松倉温泉風の季
10:10 花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、
     台温泉バスロータリー、廣美亭
花巻電鉄【花巻温泉駅跡】(15分)
花巻電鉄【花巻温泉線廃線跡スポット】(60分)
源氣屋にて白金豚ランチ(50分)
花巻電鉄【中央花巻駅跡、西花巻駅跡、西公園跡、稲荷前駅跡、馬面電車、花巻駅跡】(100分)
15:00 JR花巻駅東口
15:20 JR新花巻駅西口
15:40 花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、
     台温泉バスロータリー、廣美亭
16:10 新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、
     大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、
     志戸平温泉(ホテル志戸平・志だて)、松倉温泉風の季
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昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、当時の花巻町および郊外太田村で暮らした光太郎が生活の足として使った花巻電鉄。左上は光太郎も乗ったデハ3型、静態保存されているものです。その廃線跡を廻るツアーとのこと。「廃線」と聴くだけでロマンを感じますね。廃線にならずに済んでいればそれにこしたことはなかったのかもしれませんが……。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后新宿三越にゆき書棚をかふ、


昭和28年(1953)11月3日の日記より 光太郎71歳

およそ1週間前には丸井で本棚を購入しましたが、さらに三越でも(笑)。

どれがどうと特定出来ませんが、このあたりかな、というのが下の画像です。
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光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市で、光太郎の語り部として活動されていた高橋征一さんが亡くなりました。

昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、5月、花巻の宮沢賢治の実家に疎開。終戦となっても帰京せず、逆に花巻郊外の旧太田村に鉱山の飯場小屋を移築してもらって住み始めます。

その山小屋近く(といっても1㎞弱)の太田小学校山口分教場(のち山口小学校)に通っていた児童の一人が、高橋さん。昭和25年(1950)の同校学芸会の際に撮られたこの写真で、右から二人目に写っています。
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コロナ禍前の令和元年(2019)5月に、旧太田村で開催されたの第62回高村祭のローカルニュースから。

その前年に開催された第61回高村祭では、他の3人の方々とともに太田村在住時の光太郎の思い出を語って下さいました。聞き手は当方でした。4人のうち、高橋愛子さんも既に亡くなっています。
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高橋さん、平成28年(2016)に花巻市太田地区振興会さんから刊行された『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』の編集にあたられたり、同じ年には花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット『たかしとせいいち ぼくたちが出会った光太郎先生』で、上記写真左端の浅沼隆さんと共に、光太郎の思い出を証言して下さったりも。
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その他、折々の新聞記事などでも、高橋さんの証言が紙面を飾っています。

河北新報「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」。
新聞各紙から。
「とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」。

さらに昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局発行の『201人の証言 啄木・賢治・光太郎』でも。
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同書から、最上部画像の光太郎サンタについて。
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戦前には、「芸術家あるある」で「俗世間とは極力交わらない」、戦時中には歪んだ愛国意識で国民を鼓舞し死地に追いやった光太郎。戦後、老境に入ってようやく自然に世間と交われるようになった、その頃をご存じの高橋さん……。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

夕方リーチ、石川欣一氏等くる、リーチとアトリエで一寸話、明日出発して東北旅行の由、
昭和28年(1953)10月3日の日記より 光太郎71歳

「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治41年(1908)、英国留学中の光太郎と知り合ったのがきっかけで、来日。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この年、久しぶりに来日し、光太郎らと雑誌で座談を行ったりもしました。そしてこの日が、光太郎とリーチ、今生の別れとなりました。

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