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芸術の秋となりまして、このブログサイトにて紹介すべき事項がかなりたまって参りました。本日は光太郎第二の故郷・岩手花巻発の情報を5件ほどまとめて。

時系列順に、まず9月12日(月)、IBC岩手放送さんローカルニュース。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

光太郎の海外留学時代の足跡たどる ゆかりの地で企画展/岩手・花巻市

 日本を代表する詩人で彫刻家の高村光太郎の海外留学時代の足跡をたどる企画展が、ゆかりのある岩手県花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は東京美術学校=現在の東京藝術大学を卒業後、1906年からアメリカ、イギリス、フランスの3か国へ留学しています。
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光太郎が晩年を過ごした花巻市にある「高村光太郎記念館」では、企画展「光太郎、海を航る」が開かれていて、初公開となるイタリアから弟に宛てた絵はがきや解説付きのパネルなどが展示されています。
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およそ3年余りの海外生活は光太郎の価値観を大きく変え、旧態依然とした日本美術界に不満を持つようになります。会場にはこのほかにも留学時代を思う直筆の短歌や世界的な視野に立った芸術評論の原稿なども展示されています。
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企画展「光太郎、海を航る」は9月30日まで花巻市の高村光太郎記念館で開かれています。

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続いて9月15日(木)、市発行の『広報はなまき』さん。「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」という連載で花巻高村光太郎記念館さんの収蔵品をご紹介下さいました。
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こちらの書幅は、企画展示「光太郎、海を航る」の方ではなく、常設展示室の方に出品されていたと思います。

同じく9月15日(木)、一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。今月分の画像を送っていただきました。
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すりリンゴ入り蒸しパン、白六穀御飯、鶏肉カレー炒め、茄子の串焼き、大根菜の炒め、かぼちゃサラダ、塩麹卵焼き、きゅうりの糠漬け、フルーツ(ぶどう)だそうです。

メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さん、9月12日(月)には、花巻市の社会教育施設「まなび学園」さんで活動されている「わかくさ女性学級」での出前講座。「高村光太郎の山荘~ハイカラ料理を知ろう」と題し、光太郎が郊外旧太田村の山小屋で蟄居生活を送っていた頃の様子を寸劇にしたり、光太郎の「食」について紹介したりなさったそうです。こちらでも光太郎ゆかりのお弁当。
愛ちゃんの栗拾い
開会あいさつ
光太郎と菅原先生
山の少女朗読
かぼちゃのエピソード
ランチボックス
ランチボックス盛り付け
最後に『読売新聞』さん岩手版の記事。9月17日(土)の掲載でした。

賢治自筆「雨ニモマケズ」…記念館で手帳展示、県内6年ぶり

 花巻市の宮沢賢治記念館で、賢治が代表作の詩「雨ニモマケズ」を書き残した自筆手帳が16日、公開された。県内での展示は6年ぶりで、10日間限定の25日まで。貴重な手帳を一目見ようと多くの人が訪れている。
 手帳の大きさは縦13・1センチ、横7・5センチで、黒革で覆われている。165ページにわたり、文学作品の下書きやメモ、経典などが記され、「雨ニモマケズ」は51ページから60ページに書かれている。
 詩は、賢治が花巻の実家で闘病中だった1931年11月3日に書かれたものと推察されており、2年後の33年9月、賢治は37歳で生涯を閉じた。手帳は賢治の没後、東京都の喫茶店「モナミ」で高村光太郎や草野心平らを中心に開かれた追悼会で、弟・清六氏が持参した賢治愛用のトランクから見つかった。
 同館の牛崎敏哉学芸員は「本来人に見せるものとして書いたわけではない賢治の晩年の願いや祈りが込められている」と指摘する。
 初日の16日は、来館者が手帳に顔を近づけながら鉛筆の文字を観察する姿が見られた。手帳を見るために静岡県藤枝市から訪れた公務員名手小枝さん(55)は「当時この手帳を手にとって詩を書いたと思うと感慨深い。汗などもきっとにじんでいるのでしょう」と話していた。
 19日は、清六氏の孫・宮沢和樹氏による講演も行われる。開館は午前8時半~午後5時(入館は午後4時半まで)。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小・中学生150円。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。
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岩手めんこいテレビさんのローカルニュースでも取り上げられていました。

賢治直筆『雨ニモマケズ』手帳公開 2016年以来2回目の限定公開<岩手・花巻市>

 普段は見ることができない宮沢賢治が手帳に書いた直筆の「雨ニモマケズ」。岩手県花巻市の宮沢賢治記念館では、開館40周年を記念して9月16日からこの手帳が公開されています。

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 2022年で開館40周年を迎えた花巻市の宮沢賢治記念館で、16日から始まった特別展示の目玉は、賢治直筆による『雨ニモマケズ』が書かれた手帳です。この手帳は、賢治生誕120周年にあたる2016年に一度だけ公開されたもので普段はお目にかかる事は出来ません。2021年、東北を中心とした大型観光キャンペーンの期間中に公開される予定でしたが延期となっていました。
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 この他にも貴重な作品が数々展示されていて訪れた人を楽しませていました。
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 大阪から来た人「(雨ニモマケズ)はイメージ残ってるので本物が見れて嬉しいです。直筆よね、貴重な経験だと思います」
 これらの貴重な作品は、9月25日まで展示されています。

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こちらには光太郎の名は出ませんでしたが、手帳の「発見」の現場となった、賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の写真がパネル展示されているのがわかりました。『読売』さん記事はこのあたりを参考になさったのでしょう。光太郎は前列左から4人目です。
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さて、花巻。秋のいい季節となります。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

盛岡大慈寺小学校長さん佐藤氏くる、


昭和29年(1954)1月15日の日記より 光太郎72歳

光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた頃からの知り合いだった、盛岡の小学校長・佐藤憲政が、中野の貸しアトリエを訪問しました。このように、花巻や盛岡の人々が、上京したついでに光太郎の元を訪れるケースはあとを断ちませんでした。それだけ慕われていたということなのでしょう。

テレビ放映情報、2件ご紹介します。

ドラマ 風よあらしよ(3)

NHK BSプレミアム/BS4K 2022年9月18日(日) 22:00〜22:50 
再放送 NHK BSプレミアム 9月21日(水) 23:00~23:50

自由を強く求める野枝と大杉は、“同志”として人生をともに歩む覚悟を決める。そして、平等で公正な社会を作ろうと、“言葉”を武器に理不尽な権力に立ち向かっていくのであった。波乱万丈の人生を更に開花させようとした矢先、関東大震災が勃発。世の中はますます混乱に陥り、野枝や大杉たち無政府主義者にも疑いの目が向けられ…そして、理不尽な暴力が彼女たちを襲ってしまう。

【出演】吉高由里子,永山瑛太,美波,玉置玲央,山下容莉枝,音尾琢真,石橋蓮司
【原作】村山由佳,【脚本】矢島弘一
【音楽】梶浦由記

全3回の最終話です。

9月11日(日)放映の第2話では、主人公の伊藤野枝(吉高由里子さん)、智恵子がその創刊号表紙絵を描いた『青鞜』を、智恵子の先輩で智恵子を『青鞜』に誘った平塚らいてう(松下奈緒さん)から引き継いだものの、ほどなく廃刊となったあたり。年代的には大正初めでした。
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また、光太郎とも交流のあった夫・辻潤(稲垣吾郎さん)との別れ。
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そしてアナキスト・大杉栄の元に走った野枝。
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しかし、「自由恋愛」を標榜する大杉には、妻(山田真歩さん)も、愛人(神近市子=美波さん)も……。
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そしていよいよ最終回となります。

まず、大杉が神近市子に刺される「日蔭茶屋事件」あたりから始まるのでしょう。その後、大杉らの無政府主義運動の興隆と、その衰退。
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この頃、やはりアナキズムに染まっていた当会の祖・草野心平らの関係もあり、光太郎は大杉らの活動を支援しようとしていました。原作の村山由佳さんの小説『風よ あらしよ』には、ブロンズ彫刻の代表作「手」(大正7年=1918)の寄贈を申し出る(史実です)光太郎が登場しますが、おそらくドラマでは割愛されるでしょう。

そして運命の日、大正12年(1923)9月1日。
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関東大震災のドサクサで、大杉、野枝、そして二人の子供と間違われた大杉の甥・橘宗一少年が、憲兵大尉・甘粕正彦(音尾琢真さん)の手にかかり……。
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野枝の加入とほぼ入れ違いに青鞜社を去った智恵子でしたが、まんざら知らない仲だったわけでもなかったと思われます。この年11月の『婦人之友』第17巻第11号に掲載された「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想」と題された智恵子のアンケート回答。

 おはがき延着のためたぶんもう遅れた事と存じますし、また感想をのべるとしては事件の結審までみてからのことです。尤もその刑法上の処罰の如何等のことはさして私の注意をひいてゐる問題ではありません。ただ殺人に関する同胞の心理上のある一点に、大きな疑問をもつてゐるからです。
 もとより、かかる事件の忌はしい事は、法律にもとるからばかりでありますまい。また動機の如何もつまりは打算の問題です。われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。


激しい怒りと嫌悪感が溢れ出ていますね。

同じ号には光太郎の文章も。それ以前から続いていた連載「愛の言葉」で、ロダンやメーテルリンクの短い翻訳を紹介してきていましたが、この号ではロマン・ロランでした。

 凡そ此世で、真摯な精神に遭遇して、其と最も内奥の思想を共にし、又同胞の様な関係を結ぶ幸運を持つた時、此関係は神聖である。試練の時などに此が破棄せらるべきでない。されば吾人の心の上に何の権威もない輿論の横暴な強要に従ふ為、其事を言明するのを臆病にも止める者は卑怯である。

光太郎自身の言葉ではありませんが、おそらく智恵子の回答と歩調を合わせています。智恵子が光太郎に合わせたかもしれませんが。

さて、もう1件。当会の祖・草野心平自身が出演します。

NHK特集「ジョバンニの銀河 1983」

NHK BSプレミアム 2022年9月20日(火) 18:10~19:00

詩人・童話作家の宮沢賢治の作品世界を、科学や音楽などさまざまな面から多角的に探る。後半は代表作「銀河鉄道の夜」を、賢治が愛した鉱物写真などを背景に幻想的に描く。

無名のまま亡くなった宮沢賢治だが、没後50年の時にはすでに作品が世界中で翻訳されるまでに人気が高まっていた。故郷の花巻市に開館した宮沢賢治記念館を舞台に、賢治が好んだ科学の実験や作詞作曲した音楽の演奏、各国語による詩や童話の朗読を紹介し、その魅力を探る。詩人の草野心平や入沢康夫も登場。後半の「銀河鉄道の夜」では、朗読に鉱物の結晶写真やパウル・クレーの絵が重なり、不思議な世界がひろがる。

【出演】草野心平,シャスティーン・ヴィデーウス,板谷英紀,入沢康夫,王敏,山内逸郎,斎藤文一,リード・バトラー,ロバート・ホワイト,ミキ・エレナ・戸田,
【朗読】三田和代
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昭和58年(1983)に放映されたもののアーカイブ放送のようです。心平が歿したのは昭和63年(1988)ですから、最晩年の姿ですね。また、平成30年(2018)に亡くなった入沢康夫氏もご出演。

ぞれぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

快晴、 朝九時中西さん宅でお雑煮、子供さん3人、夫人、桑原氏と同席、後写真撮影、 静かにしてゐる、


昭和29年(1954)1月1日の日記より 光太郎72歳

昭和29年(1954)の年が明けました。光太郎の生命の炎、あと2年と少しです。

「中西さん」は起居していた貸しアトリエの大家さん。「桑原氏」は美術評論家の桑原住雄です。

社会教育系イベント、対象が花巻市民等限定ですが……。

新花巻発見探訪ツアー「太田・湯口地区」

 コミュニティ会議の地域振興部会が主催する「新花巻発見探訪ツアー」の参加者を募集します。この事業は花巻市内各地の史跡・名勝や施設等を訪れ、私たちが暮らす花巻の郷土史や風土を学びます。
 今回の訪問地は、高村光太郎が山居7年を過ごした高村山荘や日本三清水と言われる清水寺がある太田地区と、仏教学者として知られる多田等観ゆかりの円万寺がある湯口地区を巡ります。

○期 日   9 月 22 日(木) 小雨決行
○訪問先  花巻市太田、湯口地区
○対象者
 花南地区に在住もしくは勤務する市民で、史跡・名勝に関心があり学ぶ意欲がある方
○集 合   08:30 花南振興センター(受付、体調チェック票提出)
○日 程
  08:45  花南振興センター出発
  09:00  高村光太郎記念館
   高村山荘、智恵子展望台、雪白く積めり詩碑を見学
  11:00  清水寺
   観音堂、山門、千体薬師堂、慈眼水堂を見学
  12:30  花巻市自然休暇村広場(昼食)
  13:30  円万寺
   観音堂、八坂神社、一燈庵を見学
  14:15  山の駅 昭和の学校(施設見学)
  15:20  道の駅 はなまき西南(休憩)
  16:00  花南振興センター到着予定
 ※天候や現地の状況によって日程を変更する場合があります。
○服 装  動きやすい服装、履きなれた靴、帽子
○持ち物  マスク、昼食、飲み物、おやつ、雨具、タオル、敷き物、筆記用具など
○参加料  1,200 円(入館料 3 館分、保険代)
 ※貸切バス代はコミュニティ会議が負担します。
○定 員  25 人(先着順)
○受 付  8 月 22 日(月)午前 9 時から受付開始。花南振興センター窓口へ直接
    もしくは花南地区コミュニティ会議(電話 24-4415、平日の 9 時~17 時)
     へお申込み願います。
 なお、感染症の拡大状況によっては事業を延期もしくは中止することが
 ありますので予めご了承ください。
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光太郎ゆかりの地を巡る史跡探訪ツアー。

まずは昭和20年(1945)秋から丸七年間、光太郎が蟄居生活を送った旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する髙村光太郎記念館さん及びその周辺。

続く清水寺さんは、光太郎が何度か足を運んだ寺院です。円万寺さんは、光太郎と交流のあった僧侶にしてチベット仏教学者の多田等観が堂守を務めていたところ。長い急坂を上った先にありますが、光太郎も上りました。

山の駅 昭和の学校さんにも行かれるのですね。さらには道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんにも。

地元の方々が対象ですが、以外と地元民が地元のことを詳しくは知らないというケースは往々にしてありますね。当方もそうです。ここにこんなものがあると知らなかったとか、存在は知っていてもどんな背景があるのか、細かな見どころ等々。もう3年前になりますが、当方が講師を務めさせていただき、花巻市、それから隣接する北上市をバスで廻った「岩手花巻高村光太郎記念館講座 詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」の際にも、参加者の皆様からそうした声が聞かれました。

残暑も一段落という感じで、ただ、台風等が心配ですが、実りあるツアーとなるよう祈念いたしております。

各地自治体さんの社会教育担当の方々、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

晴れる、 春子さん子供二人つれてくる、モチ ワカサギをもらふ、 NHKの人くる、一月三日詩朗読の由(石黒達也) 「新潮」の野平氏くる、原稿に書き足して渡す(13枚)、 便 創元社の林氏くる、ウエルハーラン詩集出来、三冊持参、印税はマカベ氏宛のことをたのむ、 〈豊周夫妻くる〉

昭和28年(1953)12月26日の日記より 光太郎71歳

001たまたまでしょうが、千客万来(笑)。ただ、この頃、この日ほどではなくとも、起居していた中野の貸しアトリエにはほぼ毎日、誰かしらが訪れていました。

春子さん」は、智恵子の最期を看取った智恵子の姪。「詩朗読」はラジオ放送。俳優の「石黒達也」はたびたび光太郎詩の朗読を担当していました。「原稿」は翌年2月の『新潮』に載った散文「日本芸術院のことについて-アトリエにて1-」。「ウエルハーラン詩集」は、濁点が脱落していまして、『ヴェルハアラン詩集』。戦前に光太郎が訳した、ベルギー詩人・ヴェルハーレンの詩――さまざまな雑誌等に寄稿したもの――を、山形出身の詩人・真壁仁(「マカベ氏」)が編集しました。光太郎、あまり出版に乗り気でなく、印税もいらない、真壁にやってくれ、と、まぁ何とも気前のいいことで(笑)。そして実弟の豊周夫妻も。おそらく豊周が仲介した「倉田雲平胸像」がらみの用件と思われます。

光太郎がその人生の大半を過ごした地・東京市本郷区(現・東京都文京区)。

そちらに本部を置く文京建築会さんで、平成23年(2011)から「文京・見どころ絵はがき大賞」を開催していらっしゃいます。当方、寡聞にして存じませんでした。

まず、過去11年間の優秀作品を展示している受賞作品展が、盛岡市の深沢紅子野の花美術館さんで、先月から開催中です。文京区さんと盛岡市さん、そういえば友好都市的な関係でした。

文京・見どころ絵はがき大賞 2011-2021 受賞作品展

期 日 : 2022年8月6日(土)~9月25日(日)
会 場 : 深沢紅子 野の花 美術館 1階ロビー 盛岡市紺屋町4-8
時 間 : 10:00~17:00 (最終日は15時迄)
休 館 : 月曜日(祝祭日の場合はその翌日)
料 金 : 無料(他展示は有料)

盛岡市と友好都市でつながる東京都文京区で、“あなたが見つけた文京の見どころ”をテーマに毎年開催の人気コンテストです。今回は、その「文京・見どころ絵はがき大賞」(主催:文京・見どころ絵はがき大賞実行委員会)のこれまでの歴代受賞作品を展示。はがきの中に、それぞれの方の思い出が詰まっています。力作多数。入場無料となっております。どうぞお気軽にお立ちよりください。

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今年度の大賞展作品募集も行われています。

第11回 文京・見どころ絵はがき大賞

大募集中です! ふるってご応募ください!

「文京・見どころ絵はがき」を作って送ってください。今回の締め切りは9月30日(金)当日消印有効です。文京区長賞、郵便局長賞、林丈二賞、(友好都市)盛岡市長賞、テーマ賞など様々な賞を予定しております!!

※今年のテーマ部門は「文京の樹」

【応募期間】  ~ 9月30日(金)消印有効
【応募方法】 官製はがき大サイズ(10cm×14.8cm) 
       スケッチ・イラスト・写真など表現は自由
       100字以内の文章をはがきの表または裏にそえてください。
       文京区に興味のある方ならどなたでも年齢を問わず応募できます。
【表彰対象】 文京区内の見どころを発見し、その価値が十分に表現された絵はがき作品
【応募先】  〒112-0003 東京都文京区関口1丁目43番5号B1F
         文京春日郵便局留 文京建築会行
       住所、氏名、年令を明記ください。
【表彰式】  2022年12月17日(土)13:00~16:00
       文京シビックセンター26階 スカイホール
【展覧会】  2022年12月17日(土)~20日(火)10:00~18:00
       文京シビックセンター1階 ギャラリーシビック
       ※最終日は17:00まで
【問合せ先】 文京・見どころ絵はがき大賞実行委員会
       email:ehagaki@bunkyo-arch.org
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残念ながら旧駒込林町光太郎(現・文京区千駄木)にあった光太郎アトリエ兼住居は戦災で焼失してしまいましたが、光太郎実家隣の旧安田楠雄邸など、光太郎がいた当時の俤はまだまだ残っています。

絵心のある方、文京区愛に溢れる方、ぜひご応募を。

【折々のことば・光太郎】

西山勇太郎氏風間氏と同道くる、写真撮影、 椛澤さんくる、 藤島さんくる、廿八日午后五時築地万安にて委員会解散式をやること、会費2000円のこと藤島さんより話、

昭和28年(1953)12月23日の日記より 光太郎71歳

西山勇太郎氏」は詩人。辻潤や萩原朔太郎とも交流がありました。光太郎歿後には光太郎若き日のスケッチ帖『赤城画帖』を編集、『智恵子抄』版元の龍星閣から出版しています。

風間氏」は風間光作。やはり詩人で、光太郎に自著の題字揮毫をしてもらったりした他、光太郎歿後には「高村光太郎詩の会」を立ち上げ、顕彰活動にあたりました。

椛澤さん」は椛沢佳乃子(ふみ子)。茶道家で、戦時中からの光太郎ファン。駒込林町のアトリエ兼住居、戦後の花巻郊外太田村の山小屋などもたびたび訪れていました。

藤島さん」は藤島宇内。当会の祖・草野心平の『歴程』に依った詩人でしたが、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に際し、「在京建設委員」として青森県との交渉役等を精力的にこなしました。「委員会解散式」もこれに関わります。

この日の写真が、風間が発行していた『高村光太郎詩の会会報 第66号』(昭和44年3月)に掲載されています。
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左から椛沢、風間、光太郎、藤島です。

クラシック歌曲系の演奏会情報です。

曽部遼平 増田達斗 リートデュオリサイタル

一関公演
 期 日 : 2022年9月11日(日)
 会 場 : 一関文化センター 中ホール 岩手県一関市大手町2-16
 時 間 : 13時30分開場 14時00分開演
 料 金 : 一般2,000円 高校生以下500円 (全席自由) 一般は当日500円増

豊橋公演
 期 日 : 2022年9月23日(金・祝)
 会 場 : 穂の国とよはし芸術劇場プラット 愛知県豊橋市西小田原町123番地
 時 間 : 18時00分開場 18時30分開演
 料 金 : 一般3,000円 高校生以下2,000円 (全席自由)
 出 演 : 曽部遼平[テノール]  増田達斗[ピアノ]
 曲 目 : F. シューベルト《白鳥の歌》D.957 野ばら D.257
       山田耕作 赤とんぼ  三善晃 秋の風
       増田達斗 あどけない話 (詩 高村光太郎)
       他
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ピアニスト・作曲家の増田達斗 氏という方が作曲された「あどけない話」がプログラムに入っています。

いつも書いていますが、こうした二次創作-音楽でも、文学でも、造形作品でも-光太郎智恵子の作品等に新たな命を吹き込んでいただき、感謝いたしております。

なぜ岩手と愛知? と思ったら、歌唱の曽部氏が岩手、増田氏が愛知のご出身だそうで。ただ、フライヤーには11月に東京公演、12月に埼玉公演とありますが。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

朝十時過車で山口まで、 スルガさんひるめしをつくりくれる、小屋で久しぶりにて飯をくふ、持参のビール一本、古テガミ等入用のものを見つけ出す、 午后四時過車で志戸平にかへる、


昭和28年(1953)11月30日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻ですが、郊外旧太田村山口集落の山小屋には起居せず、大沢温泉さん、志戸平温泉さん(この日も)、花巻温泉さんなどを泊まり歩いていました。

先週のNHK盛岡局さんローカルニュースから。花巻高村光太郎記念館さんで現在開催中の企画展示「光太郎、海を航る」についてです。

高村光太郎 海外留学中に送ったハガキなどを展示 花巻市

 詩人で彫刻家の高村光太郎がアメリカやヨーロッパに留学中に出されたハガキなどを展示する企画展が花巻市で開かれています。
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 高村光太郎は20代の時におよそ3年間、アメリカやイギリスそれにフランスに留学し、彫刻やデッサンなどを学びました。
 花巻市にある高村光太郎記念館で開かれている企画展には、高村光太郎が留学中に家族や知人に送ったはがきや執筆した直筆の原稿など20点が展示されています。
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 このうち明治42年の4月に光太郎の弟、道利にあてた絵はがきは今回、初めて公開され、旅行で訪れたイタリア・ローマの芸術や文化の高さに驚いた様子が記されています。
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 また明治41年1月に、当時パリに住んでいた画家の白瀧幾之助に宛てた絵はがきには、新年のあいさつなどが書かれています。
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 このほか昭和16年の芸術評論「ミケランジェロの彫刻写真に題す」の直筆の原稿4枚なども展示されています。
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 仙台市から訪れた人は「ヨーロッパでの生活の中で、日本を客観的に見ることができたのではないか」と話していました。
 花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐は「欧米で実際に何を見て、聞いて暮らしていたのかを展示を通じて感じてもらいたい」と話していました。
 企画展は来月30日まで開かれています。

少し前ですが、市の『広報はなまき』7月15日号で、道利宛の葉書について紹介されていました。
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ついでに当方によるレポートもご覧下さい。

ニュースで述べられた通り、会期は9月30日(金)までです。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小春日和、映画班の人達四人同道、電車車中の撮影、二ツ堰より山口まで車、村長さん宅着 スルガさん宅エン側にて重次郎さん等と撮影、田圃の中、林間、小屋等撮影、 四時頃小学校行 村人の歓迎会あり、


昭和28年(1953)11月26日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに、花巻郊外旧太田村に帰りました。

半分はブリヂストン美術館の美術映画「高村光太郎」の撮影のためでもありましたが、当初の構想では、冬期には東京中野の貸しアトリエで、気候のいい時期には旧太田村の山小屋と、二重生活を目論んでいたようです。

美術映画「高村光太郎」から。
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光太郎第二の故郷、岩手花巻からの情報を2件。

まず、毎月恒例の光太郎ランチ。一昨年から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当です。

今月分がこちら。
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赤飯、小豆餅、牛すき煮、じゃがいも甘辛煮、鰹フライ、白菜と南瓜の花の酢の物、塩麹卵焼き、お新香、デザートだそうで。酢の物がさっぱりしていて美味しかったそうです。西瓜が夏らしく、また彩りも添えていますね。

3枚目の画像、背景は道の駅のインフォメーションコーナーで開催されている、地元ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画「器と楽しむ光太郎ランチ」です。

花巻からもう1件、日帰りツアー的な案内です。

花巻電鉄の軌跡 廃線跡の今

期 日 : 2022年8月28日(日)
料 金 : 5,000円

【8/28(日)限定!】
JR花巻駅、花巻温泉郷から出発し、現在は廃線の「花巻電鉄」跡を巡るガイド付きツアーです。当時の様子を写真で振り返り、現在の様子を写真に収めていただくフォトツアーです。

【乗車場所】JR花巻駅東口、花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、廣美亭、台温泉バスロータリー、新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、志戸平温泉(ホテル志戸平・游泉志だて)、松倉温泉風の季

【下車場所】JR花巻駅東口、JR新花巻駅西口、花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、廣美亭、台温泉バスロータリー、新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、志戸平温泉(ホテル志戸平・游泉志だて)、松倉温泉風の季

09:20 花巻駅東口
09:40 新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、
     大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、
     志戸平温泉(ホテル志戸平・志だて)、松倉温泉風の季
10:10 花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、
     台温泉バスロータリー、廣美亭
花巻電鉄【花巻温泉駅跡】(15分)
花巻電鉄【花巻温泉線廃線跡スポット】(60分)
源氣屋にて白金豚ランチ(50分)
花巻電鉄【中央花巻駅跡、西花巻駅跡、西公園跡、稲荷前駅跡、馬面電車、花巻駅跡】(100分)
15:00 JR花巻駅東口
15:20 JR新花巻駅西口
15:40 花巻温泉(佳松園・ホテル紅葉館・ホテル花巻・ホテル千秋閣)、
     台温泉バスロータリー、廣美亭
16:10 新鉛温泉愛隣館、鉛温泉バス停前、山の神温泉(優香苑・清流館)、
     大沢温泉山水閣、渡り温泉(ホテルさつき・別邸楓)、
     志戸平温泉(ホテル志戸平・志だて)、松倉温泉風の季
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昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、当時の花巻町および郊外太田村で暮らした光太郎が生活の足として使った花巻電鉄。左上は光太郎も乗ったデハ3型、静態保存されているものです。その廃線跡を廻るツアーとのこと。「廃線」と聴くだけでロマンを感じますね。廃線にならずに済んでいればそれにこしたことはなかったのかもしれませんが……。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后新宿三越にゆき書棚をかふ、


昭和28年(1953)11月3日の日記より 光太郎71歳

およそ1週間前には丸井で本棚を購入しましたが、さらに三越でも(笑)。

どれがどうと特定出来ませんが、このあたりかな、というのが下の画像です。
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光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市で、光太郎の語り部として活動されていた高橋征一さんが亡くなりました。

昭和20年(1945)、空襲で東京駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、5月、花巻の宮沢賢治の実家に疎開。終戦となっても帰京せず、逆に花巻郊外の旧太田村に鉱山の飯場小屋を移築してもらって住み始めます。

その山小屋近く(といっても1㎞弱)の太田小学校山口分教場(のち山口小学校)に通っていた児童の一人が、高橋さん。昭和25年(1950)の同校学芸会の際に撮られたこの写真で、右から二人目に写っています。
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コロナ禍前の令和元年(2019)5月に、旧太田村で開催されたの第62回高村祭のローカルニュースから。

その前年に開催された第61回高村祭では、他の3人の方々とともに太田村在住時の光太郎の思い出を語って下さいました。聞き手は当方でした。4人のうち、高橋愛子さんも既に亡くなっています。
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高橋さん、平成28年(2016)に花巻市太田地区振興会さんから刊行された『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』の編集にあたられたり、同じ年には花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット『たかしとせいいち ぼくたちが出会った光太郎先生』で、上記写真左端の浅沼隆さんと共に、光太郎の思い出を証言して下さったりも。
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その他、折々の新聞記事などでも、高橋さんの証言が紙面を飾っています。

河北新報「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」。
新聞各紙から。
「とうほく名作散歩 詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」。

さらに昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局発行の『201人の証言 啄木・賢治・光太郎』でも。
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同書から、最上部画像の光太郎サンタについて。
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戦前には、「芸術家あるある」で「俗世間とは極力交わらない」、戦時中には歪んだ愛国意識で国民を鼓舞し死地に追いやった光太郎。戦後、老境に入ってようやく自然に世間と交われるようになった、その頃をご存じの高橋さん……。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

夕方リーチ、石川欣一氏等くる、リーチとアトリエで一寸話、明日出発して東北旅行の由、
昭和28年(1953)10月3日の日記より 光太郎71歳

「リーチ」は陶芸家のバーナード・リーチ。明治41年(1908)、英国留学中の光太郎と知り合ったのがきっかけで、来日。戦前は日本、イギリス、そして中国などを行ったり来たりしていましたが、昭和10年(1935)に帰国後はしばらく母国にとどまり、この年、久しぶりに来日し、光太郎らと雑誌で座談を行ったりもしました。そしてこの日が、光太郎とリーチ、今生の別れとなりました。

7月15日(金)、花巻高村光太郎記念館さん、そして高村山荘を後に、再び花巻市街へ。今回は、宿泊する大沢温泉さんにチェックインする前に、少し調べ物を、という計画を立てておりました(直前になってそう決めたのですが)。

そこで、花巻市立図書館さんへ。
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まず「郷土資料室」という部屋があり、光太郎関連で目新しい発見がないか、チェック。残念ながら、コピーを取る必要のあるものは発見出来ませんでした。

続いて「新聞資料室」。戦中・戦後の光太郎が花巻町及び郊外旧太田村にいた時期の新聞で、『高村光太郎全集』に洩れている光太郎の談話や講演筆記などが載っていないか、というわけです。ところが、光太郎がいた時期の新聞はあまりありませんでした。最も調べたいと思っていた『花巻新報』(題字揮毫、光太郎)は、光太郎帰京後の昭和30年代からのものしか所蔵されていません。それでも光太郎関係の記事は散見されるのですが、それらは既知。

しかし『岩手日報』は、昭和28年(1953)からのものが所蔵されており、そちらを拝見。光太郎、昭和27年(1952)には、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京していますが、昭和28年(1953)11月から12月にかけ、一時的に郊外旧太田村に帰っていますので、その頃の記事を調べました。

すると……
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まず光太郎が太田村に帰ってくると聞きつけた記者が、東京中野の貸しアトリエを訪問しての記事。光太郎を「六十九歳」としているのは誤りで、この時、満で70歳、数えで71歳です。光太郎の談話が笑えますね(笑)。1年ちょっとぶりに太田村に帰るということで、ウキウキしていたのかもしれません。

そして、花巻駅に下り立ったという記事。
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続いて太田村の山小屋に帰って。この時の記事が一番面積を取っていました。
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さらに、再上京についても。
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光太郎の言葉と、地の文と、もっと明確に分けて書けよ、と突っ込みを入れたくなりましたが、貴重な記録ではあります。

意外だったのは、「十和田湖畔の裸婦群像」を「みちのく」と表記していること。「乙女の像」という通称も既に使われていましたが(当初は通称というより、「仁王像」「騎馬像」のようなカテゴリを表す普通名詞でしたが、その後、「乙女の像」といえば十和田湖、となっていった感じです)、「みちのく」という愛称も既に広く使われていたのは発見でした。

それにしても、一芸術家が帰村したのしないの、また上京してしまったのと、いちいち大きく取り上げるあたり、時代背景というものもありましょうが、いかに花巻や太田村の人々に光太郎が愛されていたかの証左だな、とも感じました。また、光太郎の談話からは、逆に光太郎がどれだけ花巻や太田村を愛していたのかも読み取れますね。

この日は(というか、この日も)、花巻南温泉峡・大沢温泉さんに宿泊。
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直近2回(昨年12月今年3月)は、一人旅ではなかったため、ちょっと高級な山水閣さんに泊まりましたが、今回はホームグラウンド的な自炊部さんに。
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ちょっと高級な山水閣さんは、それはそれでいいのですが、やはり自炊部さんのこの狭さ風情がたまりません(笑)。

現代の『岩手日報』さん。花巻東高校出身の大谷翔平選手が一面トップ(笑)。
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現代の岩手人はとにかく大谷ラブなのでしょう。

そして露天風呂。
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KIMG6508何らのしがらみも無ければ、ここ(自炊部)で暮らしたいくらいです(笑)。

ちなみに廊下には、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」のポスターを貼って下さっていました。ありがたし。

翌日、レンタカーを新花巻駅前の営業所に返し、新幹線で盛岡へ。盛岡駅前の営業所返却にすればよかったかなとも思いましたが、今回はなかなか旅の行程を決めるのに手間取り、そうなってしまいました。

盛岡では岩手県立図書館さんへ。昨日に続き、郷土資料や昔の新聞で調査です。花巻市立図書館さんには揃っていなかった『花巻新報』もこちらではコンプリートされており、昨日同様、昭和28年(1953)の光太郎帰村前後を調べました(それ以前の号は一昨年に調査済み)。

すると、花巻市立図書館さんでコピーを取った『岩手日報』同様、やはり帰村の件が記事になっていました。
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「来春六月にはまた帰るよ」といって、再上京した光太郎。他の文献等でも、この時期、東京と岩手での二重生活を目論んでいたことが記されていましたが、それが裏付けられました。しかし、その念願は叶わず、結局は東京で療養生活を送ることになってしまい、再び岩手の土を踏むことはありませんでした。

「九州に建てる胸像」は、未完成のまま絶作となった「倉田雲平胸像」です。

また、同じく昭和28年(1953)9月の、宮沢賢治を追悼する賢治祭の記事。
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太田村在住中には、ほぼ欠かさず出席し、講話や講演を行っていた光太郎ですが、この年は上京していたため欠席。しかし、当会の祖・草野心平にメッセージの原稿を預け、心平が代読していました。『花巻新報』にこれが載っていたという情報は得ていませんでしたので、こりゃ新発見だろう、と期待しましたが、帰ってから調べましたところ、『高村光太郎全集』第8巻に「一言」の題名で載っていました。どうも心平が原稿を保存していて、全集編集に当たった当会顧問であらせられた故・北川太一先生に渡したようです。『花巻新報』に載っていたのがわかった、という意味では新事実と言える事柄ですが。

それから、岩手で出版された書籍等から、光太郎関連のいろいろな記述等を見つけました。高橋峯次郎関係、宮静枝関係など。

また、光太郎作の彫像「大倉喜八郎の首」についても、当方の知らなかった事実(とおぼしき事柄)が判明しました。
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この像、大正15年(1926)の作ですが、しばらく光太郎の手許を離れていて、昭和24年(1949)、盛岡在住だった彫刻家、堀江赳から光太郎に返却されました。なぜ堀江が持っていたのか、その経緯を当方は知らなかったのですが、『北の文学』という地方同人誌の第3号(昭和32年=1957)に、そのいきさつが記されていました。古館勝一という人物の書いた「高村光太郎ノート」という随筆とも評論ともつかない文章でしたが、それによれば堀江が戦時中に駒込林町の光太郎住居兼アトリエを訪れた際、空襲を危惧していた光太郎が、何か作品を預かってくれと言うので、堀江が「では、これを」と預かったそうです。

上記画像はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の一コマ。太田村の山小屋で光太郎が「大倉喜八郎の首」を手に取っているシーンです。昭和28年(1953)の帰村は、この映画の撮影のためという側面もありました。

上記『岩手日報』記事中の光太郎談話に「山口部落の人々には驚いた。残して行った作物を留守中ちゃんと置いてある。誰も持って行かない。」とあります。「作物」は「さくもつ」と読めば「農作物」ということになりますが、それでは意味が通じません。「さくぶつ」と読んで、小屋に置きっぱにしていった「大倉喜八郎の首」や、書の作品、と読めば意味が解ります。そういうことなのではないでしょうか。

さて、こうした図書館等での調査、当方は3~4時間が限界です。それ以上続けると、集中力が途切れ、大事な記述等を見落とします。集中に優れた人は丸一日でも大丈夫なのでしょうが(笑)。そこでこの日も正午過ぎに調査終了。まだ『新岩手日報』やら、当たるべき資料が結構あるので、またの機会と致します。

以上、長々書きましたが、岩手レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

岩手の佐藤ひろしさん椛澤佳乃子さんくる、一緒に新宿、火の車、吾妻橋ビヤホール、江戸ツ子天ぷらにゆき東京駅で別れる、


昭和28年(1953)7月12日の日記より 光太郎71歳

佐藤ひろしさん」は、旧太田村の光太郎の山小屋近くの開拓地に入植していた青年で、かつては光太郎の山小屋を毎日のように訪れ、光太郎のパシリ的なこともやっていました(笑)。口さがない人々は「金魚のフン」と蔑んでいましたが、光太郎はこの青年を随分とかわいがっていました。

誤解を招く書き方ですが「岩手の」が修飾しているのは「佐藤弘さん」のみで、「椛澤佳乃子さん」は東京在住。ただ、旧太田村の山小屋もたびたび訪れていましたので、佐藤青年とも顔なじみだったようです。

7月15日(金)、道の駅はなまき西南さんを後に、車で10分ほどの花巻高村光太郎記念館さんへ。
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玄関前には、花巻農業高校生徒さん、保護者の皆さんにより寄贈されたベゴニアのプランター。ありがたし。
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こちらでは、7月16日(土)から企画展「光太郎、海を航る」が始まるということで、前日ですが、準備は終了していたため拝見して参りました。

メインは一昨年、都内の方から寄贈された、光太郎から3歳下の実弟・道利に宛てた絵葉書。明治42年(1909)、留学の最後に敢行したイタリア旅行中、ローマで投函されたものです。

今伊太利旅行中。今日羅馬に来りたり。古羅馬の偉大なりしを想見して驚かざるを得ず。

 四月四日  羅馬にて  高村光太郎          光

最後の「光」はサインです。
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解説パネルは、例によって当方が書かせていただきました。

同時期のもの、ということで、当方手持ちの絵葉書もお貸ししました。
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明治41年(1908)、当時滞在していたロンドンから、パリにいた留学中間で画家の白瀧幾之介に送ったものです。共通の友人として、碌山荻原守衛や、後に妻の八重ともども、光太郎と智恵子を結びつけた画家の柳敬助の名も記されています。

新年の御慶申納候 僕の処へも荻原君から手がみがあつた。柳君の最近の手がみにある番地は矢張り618w.114stとある。此でいいのだらう。  二日 光太郎

さらに、館蔵の書幅。
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戦後の筆跡ですが、明治39年(1909)、海外留学へと旅立った船上で詠んだ短歌「海にして太古の民の驚きをわれふたたびす大空のもと」が書かれています。枯淡というか、深奥というか、戦後に光太郎がたどり着いた境地がにじみ出ている書だと思います。

肉筆物では、草稿も。
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「ミケランヂエロの彫刻写真に題す」。昭和16年(1941)8月20日(龍星閣版『智恵子抄』初版と同日)アトリヱ社刊、天田文雄編の写真集『ミケランヂエロ MICHAEL ANGELO』のために書かれたものです。

当方手持ちの同書をお貸ししまして、ガラスケースに展示。
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左は『世界美術全集17 ルネサンスⅡ 西洋十六世紀』(昭和26年=1951 3月25日、平凡社刊。下中彌三郎編)。旧太田村の山小屋(記念館さんの敷地内)で、光太郎により執筆された「ミケランヂェロ・ブオナローティ」を収める他、ミケランジエロ作品の写真版17葉の解説も、かつてイタリア各地でそれらを実際に見た光太郎が執筆しました。
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ガラスケースは一つだけ。何やら展示の準備を始めたところ、もう一つ使う予定だったケースにカビが発生していたそうで……。そこで壁面での展示が中心です。解説パネルも文字が多く、一般の方には取っつきにくいように感じます。上記『世界美術全集17』の図版などもパネルにしてくれと頼んだのですが……。
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その他、もう一つのガラスケースに入れるはずだった、留学に関わる土地や船舶の古絵葉書などは、ディスプレイで投影。
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全体にはちょっと地味というか、寂しいというか……。もう一つガラスケースを何とか手配して、展示品を増やして下さいとお願いしてきましたが、どうなることやら、です。

隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋)へ。
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北東北はまだ梅雨明けと発表されておらず、千葉の自宅兼事務所ではとっくに終わった紫陽花も咲いていました。
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山小屋内部。
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何十回目かの訪問ですが、来るたびに粛然とした気持にさせられます。

この後、市街に戻り、花巻市立図書館さんへ。光太郎が居た当時の新聞などの資料を渉猟して参りました。続きは、また明日。

【折々のことば・光太郎】

午前静子くる、ジユバン、アメなどもらふ、染井墓まゐりにゆく由、


昭和28年(1953)7月10日の日記より 光太郎71歳

静子」は光太郎のすぐ下の妹。上記の道利とは双子でした。道利は昭和20年(1945)、光太郎実家の庭に掘った防空壕に転落した事故が元で死亡。既に染井霊園の高村家墓所に入っていました。

昨日まで、1泊2日で岩手県に行っておりました。レポートいたします。

1日目、7月15日(金)。東北新幹線新花巻駅に降り立ち、例によってレンタカーを借りました。まず向かったのは、「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん。北東北はまだ梅雨明けが発表されていないということで(関東も「戻り梅雨」的様相ですが)、この日も結構降っていました。
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こちらのインフォメーションコーナー的な一角。
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過日、近くにガソリンスタンドをオープンさせた冨士見総業さんが、光太郎賢治関連書籍などをごそっと寄贈なさいました。なかなかできることではありませんね。
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書棚が3つ、約470冊、10万円相当だそうで。書棚にはガラスの戸が付いており、夜間は施錠するそうですが、日中は自由に取り出して読めるようになっています。

光太郎関連。
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図書館さんのように貸し出しをするわけではないので、ここで読むにはどうなのかな、というものもありますが、図版の多い書籍なども含まれ、いいのではないでしょうか。
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書棚の隙間には、光太郎を描いたイラストも(写真を撮り忘れましたが、賢治も)。
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こちらの元ネタは、この写真です。
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宮沢賢治関連の書籍。光太郎関連よりも賢治関連の方が、さまざまな書籍等が出ていますので、やはりスペース的に光太郎関連の倍以上。
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シリーズ物で、光太郎・賢治関連もラインナップに入っているものなども。
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これから学校さんは夏休みに入っていきますし、ぜひ小中学生さんたちにも活用していただきたいものです。

その隣では、地元ご在住のMICHINOさんという方の色鉛筆画で「器と楽しむ光太郎ランチ」。こちらの道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品です。
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食欲をそそられます(笑)。

実物の写真等も。
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この日は15日で、「光太郎ランチ」の販売日でした。そこで、一つ、確保していただいておりました。
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この日のメニューは、「ごま飯・おにぎり」、「赤魚塩麹焼き」・「ズッキーニグラタン」、「野菜サラダ」、「スナップエンドウの卵とじ」、「塩麹卵焼き」、「お新香」、「茹でトウモロコシ」、「梅干し寒」。彩りも鮮やかですし、栄養バランスもしっかり考えられていますね。

と、まぁ、「賢治と光太郎の郷」という愛称通りに、さまざまな取り組みをなさっている道の駅はなまき西南さん。今後も地元の皆さん、さらに市外の方々にも愛されていってほしいものだと思いました。

この後、近くの花巻高村光太郎記念館さん、そして光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)へ。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】

鶴千代是秀翁くる、 藤島さんくる、 澤田伊四郎氏土方氏くる、土方氏の出版の序文の事、転載承諾、


昭和28年(1953)7月8日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成し、ほっと一息、と思いきや、千客万来です(笑)。

鶴千代是秀」は「千代鶴是秀」の誤りです。伝説的道具鍛冶で、光太郎とは戦前からの付き合い。かつて光太郎も是秀作の彫刻刀を使っていまして、昨年、東京藝術大学さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展に出品されました。
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是秀の娘婿・牛越誠夫は石膏取り職人で、「乙女の像」の石膏取りを行っています。

藤島さん」は詩人の藤島宇内。再上京後の光太郎の身の回りの世話等をよくしてくれました。

澤田伊四郎氏」は、『智恵子抄』版元・龍星閣主。「土方氏」は彫刻家・土方久功。「転載」は、この年1月の『朝日新聞』に光太郎が寄せた土方の個展評「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」を、龍星閣から出版する土方の著書『文化の果てにて』の序文として転用するということです。

昨日から
の日程で花巻に来ております。

本日から始まる花巻高村光太郎記念館さんの企画展示「光太郎、海を航る」の展示内容確認がメインです。開会前でしたが、昨日の内に確認して参りました。

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その前後、道の駅はなまき西南さん、花巻市立図書館さんにも足を運び、宿泊はいつものように大沢温泉♨さん。

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今日は盛岡まで足を伸ばして、調べものをして帰ります。

詳しくは帰りましてから。

昨日の地方紙『岩手日日』さんから。

道の駅利用者に役立てて 市へ書籍470冊寄贈 賢治、光太郎関連など 市へ書籍470冊寄贈 冨士見総業・GSオープン記念

 冨士見総業(本社青森県弘前市、福士誠代表取締役社長)は4日、花巻市轟木に整備したガソリンスタンド「リベルタはなまき西南SS」のオープンを記念し、宮沢賢治の童話や高村光太郎などに関連した書籍470冊(100万円相当)を同市に寄贈した。
 ガソリンスタンドは、県道盛岡和賀線沿いにある道の駅はなまき西南の北側にオープン。関係者ら約50人が出席し、神事に続き、記念品の贈呈、テープカットを行い開所を祝った。
 書籍は、道の駅の愛称「賢治と光太郎の郷(さと)」にちなみ、道の駅利用者に花巻の先人を知ってもらおうと寄贈。同社の福士悟代表取締役会長と書棚を提供した藤正建設の照井正樹代表取締役がそれぞれ上田東一市長に目録を手渡した。
 寄贈された書籍は「道の駅文庫」として同道の駅情報スペースに配置。福士代表取締役社長は「今後も寄贈を続け、一人でも多くの人に手に取ってもらえたらうれしい」と話す。
 上田市長は「西南地区は店が少なく、道の駅、隣接するコンビニエンスストア、ガソリンスタンドは地域の悲願だった。交通量も多く道の駅は通行する人の憩いの場にもなっている」と寄贈に感謝した。

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こういう取り組みには、本当に頭が下がります。

そういえば光太郎も、花巻郊外旧太田村に蟄居中、出版社から送られてきた雑誌や書籍を村の青年会や学校などに寄贈して、「高村文庫」として利用されていたっけ、と思い出しました。

同じ「道の駅はなまき西南」さんの情報スペースで、光太郎がらみのミニ展示が予定されているそうです。MICHINOさんという方の色鉛筆画で「器と楽しむ光太郎ランチ」。こちらの道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品とのこと。7月9日(土)からだそうです。

来週末、花巻高村光太郎記念館さんの企画展「光太郎、海を航る」の関係であちらに行って参りますので、寄贈書籍、「器と楽しむ光太郎ランチ」、それぞれ拝見して参ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

午后日比谷行、ニユートーキヨー、ピカデリーで「越境者」日劇でストリップ、新宿ビヤホール、ドレスデン、よしの、十時半かへる、 ドレスデンでアブサン一ぱいのむ 一ぱい220円なり、

昭和28年(1953)5月17日の日記より 光太郎71歳

越境者」は昭和25年(1950)公開のイタリア映画。続いてまたしてもストリップ鑑賞、さらに呑み歩いています。「ドレスデン」はひらがなの「どれすでん」として、新宿に現在も健在です。

前年にはこんな詩も発表している光太郎ですが、がっつり東京の夜を満喫しちゃっています(笑)。

   報告002

 あなたのきらひな東京へ
 山からこんど来てみると
 生れ故郷の東京が
 文化のがらくたに埋もれて
 足のふみ場もないやうです。
 ひと皮かぶせたアスフアルトに
 無用のタキシが充満して
 人は南にゆかうとすると
 結局北にゆかされます。
 空には爆音、
 地にはラウドスピーカー。
 鼓膜を鋼で張りつめて
 意志のない不生産的生きものが
 他国のチリンチリン的敗物を
 がつがつ食べて得意です。
 あなたのきらひな東京が
 わたくしもきらひになりました。
 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
 あの清潔なモラルの天地で
 も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。

ちょいちょい話題にしておりました花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」。市のHPで詳細が公開されましたので、ご紹介します。

令和4年度高村光太郎記念館企画展「光太郎、海を航る」

期 日 : 2022年7月16日(土)~9月30日(金)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一 般 350円/高校生・学生 250円/小・中学生 150円

彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、明治39(1906)年から明治42(1909)年にかけてアメリカ、イギリス、フランスに留学しました。留学中、光太郎は現地の美術学校で彫刻やデッサンを学ぶ一方、農商務省の海外実業練習生として欧米の様々な応用芸術を調査していました。

本企画展では、留学中に差し出された手紙や執筆した散文を中心に紹介し、渡航で乗船した貨客船など、当時の海外渡航事情に関連した資料を併せて展示します。
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フライヤー裏面に紹介されている絵葉書は、一昨年、都内の方から寄贈されたものです。寄贈受け渡しの際には当方も同席、現物を拝見しましたが、驚きました。

まず、明治42年(1909)のものですから、100年以上経っている訳で、その点が一つ。そして何と言っても、宛先。光太郎実弟・道利宛なのですが、確認出来ている限り、道利宛の書簡はこれが初めての発見でした。

道利は光太郎のすぐ下の弟。高村家次男です。三女・しづと双子でした。光太郎より3歳年下の明治19年(1886)生まれなので、智恵子と同年です。
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左画像では、左から道利、しづ、光雲、光雲に抱かれているのは三男・豊周、そして光太郎。右画像は道利です。

光太郎もかなり変わった人物でしたが、道利は光太郎以上の変人と言われていました。東京外語学校を卒業したのですが、軍人になることを志望。しかし、父・光雲に反対されます。明治42年(1909)、留学から帰朝した光太郎が見るに見かね、翌年、神田淡路町に開設した画廊・琅玕洞の名目上の店主に据え、店番をやらせます。ところが道利は商売に対する熱意はまるでなく、あまっさえ、訪れた客に「あなたにこの絵の価値は分かりませんよ」などと言ったり、閉店時間になれば客がいようがいまいが照明を落としてしまったりしていました。そんなことも一因で、琅玕洞は経営が行き詰まり、わずか一年で譲渡されることになってしまいます。

さらに道利は、ドイツ語の個人教授をしていた近所に住む歌手・関鑑子と結婚したいと申し出ますが、これも光雲に却下されます。すると、半ば自暴自棄となり、大正10年(1921)頃、ふいっと渡欧してしまいました。しばらくは手紙が届いていたそうですが、やがて音信不通に。それが、光雲没後の昭和10年(1935)になって、フランスの日本大使館から、慈善病院のようなところに入院しているが、日本に送還するので引き取って欲しい、と高村家に連絡があり、光太郎が神戸まで迎えに行ったそうです。帰国後は豊周が家督を継いだ光太郎実家に住み、豊周から頼まれた翻訳などをしていたのですが、昭和20年(1945)、自宅敷地内に作った防空壕に誤って転落、それが元で亡くなりました。

寄贈された光太郎からの絵葉書。光太郎が欧米留学の最後に、ミケランジェロやダ・ヴィンチなどの作品を見ておこうと、約1ヶ月歩いたイタリア旅行中のものです。写真は、ローマのフォロ・ディ・トライアーノ。西暦紀元112年建設の公共広場です。

道利の住所は「横須賀要塞砲兵第二聯隊第三中隊四給養班」となっています。従来、道利が軍隊にいたという記録は確認できていません。徴兵されていたか、また「給養班」は将兵の食事を作る部署で、アルバイト的にここで働いていたのかも知れません。そういうことが可能だったのかどうか、当時の軍制に詳しい方、御教示いただければ幸いです。

寄贈されたこの絵葉書のお披露目が中心の企画展ですが、その他にも光太郎の海外留学等に関する資料がならびます。「そちらの所蔵品のうち、これこれを展示したらどうですか」という提案をさせていただきましたし、「こんなものを持っていますからご自由にお使い下さい」と、当方手持ちの資料もお送りしました。どの程度それが並ぶかわかりませんが、開幕の頃、行って観て参ります。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

余の作ピアノの手の鋳金持参の人あり、八王子の人といふ、余の作と確認す。誰かにかしたもの也。

昭和28年(1953)4月22日の日記より 光太郎71歳

問題のブロンズはこちらです。
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大正7年(1918)の作。ブロンズの代表作「手」と同時期のものです。

昨日に続き、花巻ネタです。

一昨日のNHKさん盛岡放送局のローカルニュースから。

街にベゴニアを 花巻農業高校の生徒と親が飾り付け

  まちを訪れる人を花で迎えようと、花巻農業高校の生徒と親などがベゴニアの花を駅や観光スポットに飾りました。
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花巻農業高校はこの取り組みを毎年、この時期に行っていて、まちの名物にもなっています。平成5年から始まり、ことしで30回目となりました。
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高校ではことしも3年生と親などあわせて50人余りが集まり、赤や白、ピンクの花をつけたベゴニアおよそ500株をプランターに植え、トラックに積み込んで市内の駅や観光スポットなどに運びました。
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ベゴニアは生徒たちが育てたもので、180個余りのプランターに植えられて市内の観光スポット13か所に飾られました。
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このうち「高村光太郎記念館」では、入り口にある案内板の下に並べられました。
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また観光客が多く利用するJR新花巻駅にも飾られました。花はこのあと11月はじめごろまで咲いて観光客を迎えます。
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3年生の女子生徒は「2月に種をまき、丁寧に育ててきた花を見て観光客が興味をもってもらえればと思います」と話していました。
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参加した父親の1人は「今まではコロナで外出を控える人も多かったですが、これから少しずつ外に出る機会が増えると思います。生徒が一生懸命、育てた花なので、きれいだなと思ってくれるとうれしいです」と話していました。
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頭が下がります。

花巻農業高校さんといえば、宮沢賢治が奉職していた花巻農学校の後身。そうした意味では賢治の没我利他的精神が根付いているのかも知れません。

また、コロナ禍前は、旧太田村で毎年5月15日(昭和20年=1945、光太郎が疎開のため花巻に向けて東京を発った日)に行われていた高村祭で、同校鹿踊り部の生徒さんたちが勇壮な舞を披露して下さっていました。
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またよろしくお願いしたいものです。

【折々のことば・光太郎】

盛岡の学校に祝電

昭和28年(1953)3月13日の日記より 光太郎71歳

盛岡の学校」は、岩手県立美術工芸学校。現在の岩手大学さん、岩手県立大学盛岡短期大学部さんなどにその流れが受け継がれています。光太郎と親交のあった美術史家・森口多里が校長を務め、同じく光太郎と親交のあった舟越保武、深沢省三・紅子夫妻などを教授陣に迎え(光太郎を名誉教授に、という話もありましたが光太郎自身が辞退しました)、岩手の美術教育振興に多大な足跡を残しました。

花巻郊外旧太田村在住時代の光太郎、たびたび同校を訪れて講演等を行ったり、都合が許せば卒業式などにも列席したりしていました。再上京後もそのつながりは続き、この日は卒業式へのメッセージの電報を送信しました。

現物が残っています。
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定期購読させていただいている『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』の第31号が届きました。前号で5周年となったのを機に、今号からいろいろと変更が。

まず、判型。これまでA5判だったものが、一回り大きくなりました。下の画像、左が今号、右が前号です。
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それから、これまで隔月刊で年6回発行だったものが、年4回となるそうで、いわば季刊への変更ということでしょう。今号はタイトル(ロゴも変更され、サブタイトルも「花巻まち散歩マガジン」から「花巻散歩」になりました)の下に「2022.SUMMER」とあります。総ページ数は32ページ、これまでと変わりません。定価も500円で据え置きです。
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特集1は賢治関係、特集2は、先頃NHKさんの「ふるカフェ系 ハルさんの休日▽岩手・花巻〜宮沢賢治が愛した花壇をめでるカフェ」で紹介された、茶寮かだんさんです。
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創刊号から連載されてきた「光太郎レシピ」も健在。昭和20年(1945)から堂27年(1952)にかけて、光太郎が花巻及び郊外旧太田村に住んでいた間の日記や書簡、周辺人物の証言等から、光太郎が作ったメニューを割り出し、現代風にアレンジするというコンセプトです。

今号は「花わさびのおむすびとわらびと山菜の天ぷら」。
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天ぷらのレシピがこちら。
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天ぷらはこの季節、夏バテ予防にもいいかもしれませんね。

メニューの考案、調理等に当たられているやつかの森LLCさんは、同様に光太郎日記等からのアレンジで手がけられているのが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」。道の駅テナントのミレットキッチン花(フラワー)さんの商品です。

今月分はこちら。
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ニラ炒飯、豆ご飯、豚肉とみず(山菜)の煮込み、鮭の昆布巻き、じゅんさい、塩麹卵焼き、抹茶饅頭、お新香だそうで。

少し前にはくり返しラジオ番組で取り上げて下さっていました。さらにテレビ等の取材も入るとありがたいところですね。

さて、『マチココ』さん、花巻市内各所の協力事業所等で販売されている他、最近は盛岡市、北上市の書店さんなどでも取り扱っているようですし、オンラインで年間購読申し込みもできます。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

朝北川太一氏余の誕生祝とてイセエビ3尾持参、


昭和28年(1953)3月12日の日記より 光太郎71歳

光太郎誕生日は明治16年(1883)3月13日。満70歳となりましたが、この項、慣例により数え年で表記し、年齢加算もその年の元日としています。そこで「光太郎71歳」です。

当会顧問であらせられた、故・北川太一先生、伊勢海老3尾とは豪勢な(笑)。グッジョブですね(笑)。

光太郎と交流の深かった彫刻家・舟越保武の関連です。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。先月下旬の掲載でした。

パリから75年ぶり帰郷 彫刻家・舟越保武さん作品「女の顔」 「作家生活の岐路となった石像」 岩手県立美術館で公開

  岩手県一戸町出身の彫刻家、舟越保武さん(1912~2002年)が盛岡市で制作後、長く所在不明となっていた胸像「女の顔」が同市の県立美術館の新収蔵作品展で公開されている。昨年、パリで見つかって同美術館に渡り、75年ぶりの「帰郷」を果たした。
  大理石の「女の顔」は家族で盛岡市に疎開していた1947年の作品。長男の誕生を祝って作られたとされる。フランスの近代彫刻の影響を受け、女性のあでやかな表情が表現されている。
 東京の展覧会で当時の駐日フランス大使が称賛して買い上げた後、所在不明となっていた。昨夏、パリ在住の日本人がオークションに出品。現地の画廊が落札し、昨年12月に県立美術館が購入した。
 学芸普及課の吉田尊子課長は「舟越さんは『女の顔』が芸術の本場に渡ったことで自信を持ち、東京での制作活動再開を決心している。作家生活の岐路となった石像で、盛岡に戻ってきたことは非常にうれしい」と話した。
 舟越さんは高村光太郎賞をはじめ数々の賞を受賞した日本を代表する具象彫刻家。処刑された宣教師らの像「長崎26殉教者記念像」や、島原の乱から着想を得た「原の城」などで知られる。
 新収蔵作品展は7月24日まで。午前9時半~午後6時。月曜休館。一般410円、学生310円、高校生以下無料。「女の顔」は作品展終了後も常設展示される。連絡先は019(658)1711。
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後追い、同じ件で『朝日新聞』さん岩手版。

舟越保武の幻の「女の顔」 75年ぶりに里帰り 県立美術館に収蔵

 彫刻家の舟越保武(1912〜2002)が終戦直後に盛岡で制作し、長く所在が分からなくなっていた大理石の胸像「女の顔」が見つかり、岩手県立美術館で展示されている。75年ぶりに故郷へ戻り、家族は再会を喜んでいる。
 舟越は岩手県一戸町で生まれ、幼少期から東京美術学校(現東京芸術大学)に進学するまで、盛岡で過ごした。処刑されたカトリック信者を描いた「長崎26殉教者記念像」など、キリスト教の信仰をテーマにした作品で知られ、秋田県の田沢湖畔に立つ「たつこ像」も制作している。
 「女の顔」は、戦争末期に疎開して以来、盛岡で暮らしていた舟越が1947年、長男の誕生を祝って制作した。東京の展覧会に出品され、駐日フランス大使が買い上げて本国に持ち帰ったあと、所在が分からなくなっていた。
 ところが昨夏、作品がパリのオークションに出品されたことが判明。落札したパリの画廊から、東京の画廊関係者を経て、舟越の作品を収蔵している県立美術館が購入した。購入にあたって、パリに住む三女の茉莉(まり)さん(76)の協力を得たという。
 長女で岩手県八幡平市に住む末盛千枝子さん(81)は75年ぶりに作品と対面。父が戦後の混乱期に、穏やかな表情から静けさが伝わる作品をつくったことに改めて感銘を受けた。
 舟越は、高村光太郎が訳した「ロダンの言葉」を読んで彫刻家を志した。ロダンを生んだ国の大使に評価されたことに特別な意味があったという。
 「もう一度彫刻でやっていこうという時期に大使に買い上げていただき、どれほどうれしかったことか」と振り返る。
 次女で東京都内で暮らす苗子さん(79)も「父が若いころにあこがれていた芸術の街パリに父の作品が長い間あったこと、父の故郷・盛岡に帰ってきたことが、夢のように思えます」と話している。
 妻・道子さんの著書「青い湖」によると、舟越は大使の評価に力づけられ、制作活動を本格的に再開するため再び上京した。
 一方、作品をつくった翌年、長男が生後8カ月で病死。それをきっかけに洗礼を受け、キリスト教関係の美術に向かっていく。
 県立美術館の吉田尊子(たかこ)・学芸普及課長は「女の顔」について、舟越の人生において分岐点にある作品と指摘。「ほほえみの中に女性のつややかさがある。同時に、舟越作品の特徴である静かで内省的なものが感じられる」と話す。
 「女の顔」は7月24日まで開かれている新収蔵作品展で展示され、その後も常設展示される予定。
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003光太郎に名付け親になってもらった編集者・末盛千枝子さんの談話も載っていて、興味深いところでした。

舟越の「女の顔」、実にきれいな彫刻ですね。舟越が光太郎訳『ロダンの言葉』を通じて親しんだ、ロダンの「パンセ」(右画像)などを彷彿とさせられます。

それにしても、このように光太郎彫刻が海外でひょっこり見つかることもあるかな、という気もしました。ただ、光太郎の場合、生前に個展らしい個展は晩年の昭和27年(1952)に一度やったきりで、それも即売は行わなかったはずですので、可能性は低そうです。

木彫「栄螺」が、大阪の高島屋百貨店で昭和5年(1930)に開催された「木耀会木彫展覧会」という合同展兼即売会に出されて売れ、平成14年(2002)に約70年ぶりに見つかったことはありましたが。

【折々のことば・光太郎】

此頃少しやせたので、なるべく多くたべるやうに努める、出京以来食事の量不足せしかと思ふ、自炊時間不規則のためなり、


昭和28年(1953)1月10日の日記より 光太郎71歳

この時期の日記はかなり簡略になっていて、その日の出来事や訪問者等の事務的な記録がほとんどなのですが、この日には珍しくこういった記述がありました。

「帰京」ではなく「出京」としているところも興味深いところです。軸足は花巻郊外旧太田村に残しているよ、という感覚だったのでしょう。実際、住民票は昭和30年(1955)まで移しませんでした。

毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻市の「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さん内の「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで販売されています。

今月分がこちら。メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから画像を送りいただきました。
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「のり巻き寿司」、「竹の子ご飯」、「ほっけ焼き」、「わらびのお浸し」、「うるいと豚肉の炒め」、「ヨモギの天ぷら」、「塩麹卵焼き」、「ヨモギ白玉フルーツぜんざい」、「お新香」だそうです。

お買い求め下さった方の感想。

うるいは酢みそではなく、炒めてたべるのもいいし、ヨモギは天ぷらもいいですね。
手間を惜しまず、光太郎への愛情も感じられますね。

なるほど。

末永く愛されていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

夕方笹村草家人氏くる、碌山館の話をきく、

昭和27年(1952)12月12日の日記より 光太郎70歳

笹村草家人」は彫刻家。信州安曇野の碌山美術館建設に奔走しました。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の作品は、まず守衛没後の明治44年(1911)、新宿中村屋の敷地内に守衛のアトリエを移築し、「碌山館」と名付けて一般に公開されました。その後、大正5年(1916)、安曇野の守衛生家に新たに10坪の建物を新築、そちらを「碌山館」としました。

この時点では鋳造されていない石膏原型のものが多かったのですが、昭和28年(1953)、笹村が顧問格となり荻原碌山研究委員会(のち碌山作品保存会)が発足。作品の保存修復、鋳造が進められていきます。おそらくこの日の笹村訪問はそのあたりでのアドバイスを受ける意味合いだったのでしょう。

昭和30年(1955)には、穂高中学校に守衛作のブロンズ「坑夫」(明治40年=1907、パリ時代に光太郎が絶賛し、ぜひ石膏に取って持ち帰るようにと進言した作品)が設置され、その台座題字を光太郎が揮毫しています。
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穂高中学校に隣接する敷地に碌山美術館が建立されたのは、さらにその後、光太郎が歿してからの昭和33年(1958)のことでした。

『日刊スポーツ』さん、一昨日の記事から。

「なぜ岩手から?」雄星、大谷、朗希、麟太郎…大物次々誕生の理由「1世代遅い」“ルネサンス”

001 ロッテ佐々木朗希投手(20)は日本で、エンゼルス大谷翔平投手(27)は米国で、世界の野球ファンをわかせる活躍が続く。ブルージェイズ菊池雄星投手(30)やすでに高校通算60発超の花巻東・佐々木麟太郎内野手(2年)も含め、いずれも岩手県出身だ。この十数年間で野球の大物が次々に登場し「なぜ岩手から?」の注目が増す。岩手の近代史に詳しい新渡戸基金・藤井茂理事長(72)らの証言を元に、海外からも注目される謎に「潜入」する。
    ◇    ◇    ◇
 藤井氏は「岩手は人物が出るのが遅いです。ちょうど1世代分」と証言し、主に2つの理由を挙げる。
 <1>気候的問題 同氏は江戸時代の旅行家の作品を挙げた。「江戸から北上し、秋田ではのどかな農村が描かれる。それが青森で折り返すと、岩手では人が倒れている描写があります」。三陸沿岸からの冷たい季節風「やませ」が内陸の凶作にも影響し「当時は食べていくのに一生懸命な土地だったようですね」。
 <2>政治的問題 今の岩手広域にあたる南部藩は戊辰戦争で敗れ、明治政府の中枢に入れなかった。「南部の連中は外交官、軍人、新聞記者、教育者…の方向へ進みました。貧しい出自の人は学費がゼロのところへ。明治や大正の第1世代は、スポーツや芸術の世界に進めなかったんです。食べていくために」。
 <1><2>を背景とした環境から、先人の努力や反骨心があって今の輝きがある。藤井氏の言う1世代分とは「30年くらいですかね」。30年前の岩手県はどんな時世だったか。昭和後期に大きな出来事があった。
 82年(昭57)に東北新幹線が大宮-盛岡間で開通。「日本のチベット」とも呼ばれた岩手から首都圏へのアクセスが劇的に改善し、人やモノ、文化の往来が活発になり始めた。四国に匹敵するほど広い県域の交通網も発達。大物たちの親世代が少年少女あるいは思春期かといった頃が、ちょうど新幹線開通で岩手が勢いづいた10年後…今から30年前の時代にあたる。
 昭和から平成へ。子どもがスポーツに打ち込める環境もどんどん整う。指導者や指導法の世代交代も複合的に作用。花巻東・佐々木洋監督(46)らは象徴的存在になる。佐々木朗を高校で指導した国保陽平氏(35)もアメリカの独立リーグでプレーし、支援学級での講師経験もある。他地域との交流試合は学童野球でも活発に。県内野球界のアップデートは、多くの関係者が証言するところだ。
 そんな時代に登場した大谷や佐々木朗には「早寝効果」なども推測されるが、それ以上に個々の努力も大きいところ。ただ、大物の相次ぐ輩出は岩手県の土壌でもあるようだ。藤井氏は「奥ゆかしい藩民性、県民性です」と言い、岩手出身の人物の気質が表現された言葉を2つ挙げた。
 「沈深牛の如し。至誠沈勇の人。2つとも『沈』が入っていますよね。どっしりとして、動かざるということ。大谷翔平さんもどっしりしていますよね」。
 隣県の青森では、ねぶた祭で初対面の男女が一緒に“はねる”(=踊る)こともある。「岩手はそこは違う。じわりじわり、ゆっくり仲良くなって」。コロナ禍でも最後に陽性者が確認された県だった。「全体的に派手なのが苦手で、飛び抜けた頑張りと忍耐強さがある。そこは信頼されるし、その中でずぬけた人物は一気に世に出るんです」。
 「なぜ岩手から?」は初めての事象ではない。明治初頭、原敬や新渡戸稲造らがこぞって上京し、大正で日本の中枢に上り詰めた。その1世代後、明治30年代に石川啄木、金田一京助ら盛岡中学OBが続々と名を上げ“盛岡中ルネサンス”と呼ばれた。
 「その10年後には宮沢賢治も出た。岩手はいったん出ると一気に出る。我々でも大丈夫だ、と。出るまではモジモジだけど」
 歴史は繰り返す。雄星、大谷、朗希、麟太郎-。21世紀のルネサンスは、まだ続きそうだ。
○…平均身長が全国平均以下の岩手県で、佐々木朗や大谷らは高身長だ。要因の1つに「早寝」が推測され、佐々木朗も認めるところ。00年代に県内教育界やスポーツ界に「22時と23時半に成長ホルモンが多く出る」とうわさが広がった。子どもの背を伸ばすなら21時には就寝を-。佐々木朗の母陽子さんがこれを実行に移し、狙い通りになった。寝具の老舗・西川株式会社は「早寝だと成長ホルモンが抑制されにくくなると考えられます」と見解を示す。また、大谷は同社と睡眠コンディショニングサポート契約を結んでおり、良質な睡眠を心がけている。

◆菊池雄星と佐々木麟太郎の今 
 菊池雄星 3月にマリナーズからブルージェイズに移籍。今季5戦目の登板となった4日(日本時間5日)ヤンキース戦で新天地初勝利を挙げた。11連勝中だったヤ軍を6回3安打1失点に抑える好投だった。
 佐々木麟太郎 昨年12月に両肩の胸郭出口症候群の手術を受けた影響で、今春センバツでは無安打。チームも1回戦で敗退した。高校通算本塁打は清原和博(PL学園)に並ぶ64本(5月7日時点、公式戦12本、練習試合52本)。
◆沈深牛の如し 明治時代の詩人・高村光太郎が自身の作品「岩手の人」の中で「沈深牛の如し」と表現。ゆっくり、慌てずに目標を達成するという意味。
◆至誠沈勇の人 盛岡出身の第37代内閣総理大臣・米内光政の銅像の石碑に、当時の慶応義塾長・小泉信三が寄せた言葉。「体格は偉大、声は静かで太い」が第一印象だったという。
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同様の考察はこれまでにもあり、佐々木朗希投手のプロ入り前、『日刊ゲンダイ』さんに載っていました。そちらでも光太郎の詩句「沈深牛の如し」が引用されていました。同様に『岩手日報』さんの一面コラムでも大谷選手の二刀流にからめてやはりこの詩、さらに「牛」(大正2年=1913)を引用して下さっています。

光太郎は岩手出身ではありませんが、戦時中から戦後にかけての7年半、岩手に住みました。しかも若い頃の「芸術家あるある」-俗世間とは極力交渉を絶つ-スタイルは廃し、積極的に、さらに自然に、地域社会にとけ込みました。そうした眼で見た岩手の人々の印象が「岩手の人沈深牛の如し」。

この詩を贈られた岩手の人々は、これを最大級の賛辞ととらえ、現代でも様々な機会で引き合いに出して下っています。

さて、四選手の今後のさらなる活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

夕方奥平さんくる、序文かく事たのまれる、尚四日に夕食によばれる、


昭和27年(1952)11月27日の日記より 光太郎70歳

「奥平さん」は奥平英雄。当時、東京国立博物館に勤務していた美術史家で、のちに岩波文庫版『高村光太郎詩集』の編纂に当たったり、『晩年の高村光太郎』という貴重な回想を残したりしました。

「序文」は、翌月刊行された奥平の著書『絵の歴史 日本・1 上古――室町時代』のためのもの。
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さらに翌年刊行された続編にも序文を寄せています。あまり親しくない相手からの序文執筆依頼は、何のかんのと言って断るのですが(笑)。
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令和2年(2020)、光太郎が戦後の七年間を過ごした花巻郊外旧太田村に建設された「道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)」さんでのネタを2件、ご紹介します。

まず、道の駅内のテナント、ミレットキッチン花(フラワー)」さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。光太郎の日記や書簡、周辺人物の回想文などから、光太郎が作った料理を現代風にアレンジして詰め合わせたものです。

今月販売分がこちら。
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内容は、ヨモギご飯、カレーチャーハン、豆腐ステーキ蕗味噌、大根と鯖の醤油煮、のびるの酢味噌がけ、じゃが芋バター炒め、塩麹卵焼き、抹茶白玉小豆添え、お新香だそうです。

NHKさんがローカルラジオ番組「ゴジだっちゃ!」、さらに全国放送のラジオ番組「マイあさ!」で紹介して下さったためか、今月は事前の予約注文が多く入ったそうです。ありがたいことです。

さらに4月22日が「道の駅の日」だそうで、この前後、全国の道の駅で関連イベント等が行われるところがあるとのこと。道の駅はなまき西南さんでは、4月16日(土)、4月17日(日)に、キッチンカーや屋台等がずらっと出て、賑やかに販売会が行われたそうです。

「光太郎ランチ」のメニュー考案にあたられているやつかの森LLCさんもご出店。画像を送って下さいました。
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メインは、パン好きな光太郎をイメージして、こぶし苑銀の鳩さんに特注した「ホットドック、ナポリタンドック、焼きそばドッグ」、加工組合さんに加入している仲間による「あんこ餅、きなこ餅、ごま餅」、タカハシ菓子工房さん「チョコ、アーモンドスフレ、セサミ、パルミエ」などのクッキーなどを販売したそうです。

土曜日は強風でお客さんも多くなかったそうですが、日曜日は好天に恵まれ、用意した品々、あっというまに完売とのこと。お買い求めいただいた方には、光太郎の日記を抜粋しハガキ大にプリントしたものも配布されたそうです。

同じくやつかのもりLLCさんから、光太郎が七年間の蟄居生活を送っていた山小屋(高村山荘)周辺の画像も頂いております。

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上から、水芭蕉、カタクリ、辛夷(コブシ)、キクザキイチゲ。岩手はこれから春本番、という感じですね。

残念ながら、5月15日(日)に予定されていた高村祭は、コロナ禍明けやらぬため、3年連続の中止となりましたが、東北新幹線も復旧したことですし、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

夕方より小坂氏と「火の車」行、又草野氏を加へて林家、東方亭を訪ふ、


昭和27年(1952)10月19日の日記より 光太郎70歳

小坂氏」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための助手・小坂圭二。「火の車」は、当会の祖、草野心平が経営していた怪しい居酒屋(笑)です。「林家」「東方亭」は、共に、戦前から光太郎が通っていた店で、三河島にありました。

花巻郊外旧太田村の山小屋生活では、飲み歩くこともままならなかったわけで、その反動が一気に出ているような気がします。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の図録、というか、展示内容等を解説した冊子が届きました。
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A5判で22ページ、無料で配布中とのことです。

編集は当方ではありませんが、執筆はほとんど当方です。といっても、新たに書き下ろした部分はあまりなく、今回の企画展示及び一昨年に開催された「高村光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」の際の展示解説パネル、双方の関連行事としての市民講座で語った内容を文字起こししていただいたものに手を入れた感じです。
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巻頭の「ご挨拶」的なページは書き下ろしましたが。

内容的には光雲と光太郎、それぞれの歩み、おのおのが目指したもの、共通する点、相違点等々で9ページ、展示の目玉である光雲作「鈿女命」像について2ページ、やはり光雲作の文京区の金龍山大圓寺さんに納められた「准胝(じゅんてい)観音像」の胎内仏のコピーとして寄進者や檀家に配付された懐中仏について1ページ、花巻高村光太郎記念会さん所蔵の、光雲の師・髙村東雲の孫・晴雲(三代東雲)作の聖観音像について1ページ。

さらに彼の地の光太郎ゆかりの寺院、音羽山清水寺さん、法音山昌歓寺さんに関わる光太郎日記・書簡からの抜粋で1ページ。それから英文学者の長沼重隆に送った葉書も新たに寄贈され、展示されていますので、その解説と、やはり光太郎日記・書簡からの抜粋及び散文「ホイツトマンの「草の葉」が出た」(昭和4年=1929)全文。

最後に今回の展示の目録。
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100円くらいで販売しても売れるんではないかな、と思うのですが、無料で配布中だそうです。気前のいいことで(笑)。

ご入用の方、花巻高村光太郎記念館さんまで、お問い合わせ下さい。送っていただけるかどうかは不明ですが。

合わせて企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」、5月15日(日)までの開催です。地震により不通となっている東北新幹線も、当初予定より早く、明後日には全線復旧だそうですので。

【折々のことば・光太郎】

夕方停車場前瀬川氏宅にゆき、発車まで休む、 夜十一時42分停車場、見送人多し、汽車は駐留軍用のもの、しん台車、 汽車ゆれる、


昭和27年(1952)10月11日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半を過ごした岩手を後にしました。およそ1年後には、短期間、また花巻に戻るのですが。

少し前はネタ不足で困っていたのですが、このところ、逆に紹介すべき事項が多く、それはそれで困っています。嬉しい悲鳴ですが。新刊書籍等も取り上げるべきなのですが、そちらは後回しにし、今日は岩手発の情報を、3件まとめてお届けします。

まず、光太郎第二の故郷ともいうべき、花巻から。道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで、毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」。今月分の画像等を、メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから送っていただきました。
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そば粉のパンは以前にも入っていましたが、今回はチーズ入りだそうで、チーズ大好きの当方としては涎が出ます(笑)。先月先々月も使われて好評だったという塩麹入り卵焼きが、引き続き入れられました。イチゴの赤が彩りを添えていますね。

先月分に関してですが、NHKさんのローカルラジオ番組で取り上げられました。仙台放送局さんから岩手、宮城、福島の三県に向けて、平日の夕方5時05分から6時まで放送されていた情報番組で、「ゴジだっちゃ!」(3月11日(金)で最終回だったようですが)。
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「だっちゃ通信」というコーナーがあって、各地の情報提供者から耳寄りな情報を届けてもらうというコンセプトのようでした。3月2日(水)の同コーナーは、花巻のローカルFM「えふえむ花巻」のパーソナリティーを務められている味園史湖さんのリポート。

聞き手はメインパーソナリティーの杉尾宗紀アナウンサーと、水曜日担当パーソナリティーの名雪祥代さん。名雪さんは本職のアナウンサーではなく、サックスプレイヤーだそうです。

味園 今日はユニークなお弁当の話をしたいと思います。花巻市にゆかりのある、有名な彫刻家・詩人の名前がついたお弁当なんですが。
杉尾 花巻といえば、宮沢賢治じゃないんですか?
味園 うん、思いますよね。ところがですね、お弁当の名前は「光太郎ランチ」っていうんですね。
杉尾 「光太郎ランチ」?
味園 フフフ、はい、あの、実は詩人で彫刻家の高村光太郎の日記を元に、光太郎が食べたものを再現して詰め合わせたというお弁当なんですね。
名雪 へー。
杉尾 高村光太郎って、花巻の、ゆかりがあるんですか?
味園 あるんです、はい。実はその宮沢賢治とのご縁で、あのー、花巻に疎開していた時期があるんですよ、七年ほど。
名雪 へー。
杉尾 ほー、七年間も。
味園 そうなんですよ。はい、で、ま、その光太郎ゆかりの、あの、ランチ、毎月15日にですね、限定10食だけ販売しております。
杉尾 何と。いや、高村光太郎っていえば、安達太良山で、福島のつながりがあるっていう、そう思い浮かぶんですが。
味園 そうですよね、はい、花巻にも。
杉尾 岩手にもね、つながりがあるんだね。
味園 そうなんです、そうなんです。
名雪 へー。
味園 で、先月、2月15日、私、張り切って何と買いに行ってきたんです。
杉尾 限定10食を。
味園 はーい、そうなんです。たぶん一番乗りだとおもうんですけど。
名雪 さすが、気合い入れて、すごい。
味園 その日のメニューが、ちらし寿司、スルメ入りの焼きパン、これ、シンプルなホットケーキにちょっとスルメが入っているような感じ。
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名雪 へー。
味園 で、あと、鮫の煮つけ、これ、白身魚ですね。煮込みハンバーグの光太郎風、切り干し大根の酢の物に、塩麹入りの卵焼き。めちゃくちゃおいしかったです。
杉尾 ほあー。
味園 あと、お新香。結構入ってて、税込み800円なんですね。
名雪 あらー。
杉尾 これ、あの、味園さんから、あの、画像をですね、送っていただいたんですけど、手許にあるんですが、これ、ちょっと、800円はいいですねー。
名雪 リーズナブルですねー。
味園 見えないですよね、800円。
杉尾 見えない、見えない。
名雪 うんうん。
杉尾 これ、倍ぐらいの値段で売っても……。
味園 スタッフの人が、今、聴いていたら、嬉しくて泣いてるかも。フフフ。
名雪 これを、高村光太郎の日記を元に作られたっていうことなんですか?
味園 はい。日記に、あの、食べたもの、作ったものをですね、記していまして。そこから掘り起こして、メニューを組み合わせて、毎月ですね。あのー、違ったメニューを出してるんですね。
名雪 おもしろー。
杉尾 高村光太郎が煮込みハンバーグとか、なんか、焼きパンとか、食べてたってことですか?
味園 そうです、そうです。
杉尾 ほあー。
味園 あの、実際、あの、御自分で料理される方だったんで、けっこうハイカラな料理も作られて、そうなんんです。で、今回もですね、このランチだけじゃなくてですね、箸袋に「2月の光太郎ランチ」っていう文字と、黄色い福寿草の絵が印刷されていて……。
杉尾 ほんとだ。すごくきれい、オシャレ。
名雪 かわいい
味園 そうなんです。
杉尾 あと、ネコヤナギの絵が、ちょっとね。
味園 そうなんです、そうなんです。
杉尾 隅に、ちょっとあしらってあって。
味園 それ以外にも、昭和21年の光太郎の日記などからちょっと抜粋して、「今日は終日雪が降っていて人が来なかった」とか、「周りの雪の景色が美しくてまた珍しい」とかですね。そういう、あのー、ランチを食べるだけじゃなくて、当時の光太郎の暮らしの雰囲気とか。
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杉尾 あー。
味園 あの、献立表、こういう丁寧なものを作った人たち、お弁当作った人たちの思いまで、あの、伝えられてくるような、あったかいお弁当なんですよねー
名雪 思いを馳せながら食べることが出来て、幸せですねー。
味園 ちなみにこの毎月15日販売というのが、あの、光太郎が東京上野を出発したのが昭和20年の5月15日だったそうで、この15日をとって、毎月15日に販売しているんですけど。
杉尾 なるほど。
味園 今でもですね、高村山荘という、光太郎が住んでいた場所とか、高村光太郎記念館って、この道の駅のそばにあるんですが。
杉尾 記念館もあるんですね。
味園 そうなんです。この道の駅が「道の駅はなまき西南」、「西」に「南」で「はなまき西南」という場所なんですが、令和2年8月に誕生しまして、ま、あのー、産直とか地元の焼肉店とか、コンビニエンスストアとか、コミュニティースペースもあるんですが、実はあの、地域の高齢者の方々への食事の配達という役割もね。
杉尾 あー、大事ですね。
味園 で、お弁当を作って、宅配するだけじゃなくって、この道の駅でも買える、そのお弁当の一つが「光太郎ランチ」ということなんですね。
名雪 へー、なんかいっぱいアイディア詰まってるんですね、みなさんのね。
杉尾 ねー。
味園 ほんとにあの、光太郎と地域の交流が色んな形で残ってまして、地元の中学校で歌われている歌の中に、光太郎の言葉、「心はいつでも新しく、毎日何かしら発見する」っていう歌詞が……で、言葉が入っている書も伝わっていたりというふうに地域とのつながりが、今でも色々と感じられる、そういう場所の道の駅なんですけれども。今までたくさんある道の駅の一つじゃなくて、高村光太郎がこの地域に住んで、その息吹が感じられる道の駅、そういう場所で、毎月一回、15日の11時頃から、この光太郎ランチ、限定10食、販売されてるんですけど、毎月売り切れるほど人気なんですが、事前に別途注文出来るそうなので。
名雪 おお。
味園 まあ、あのー、これからお出かけにいい季節ですからね、はい。あのー、この岩手県花巻市の「道の駅はなまき西南」、東北自動車道花巻南インターチェンジから、車で7分。はい、高村光太郎記念館まで車で8分という場所にあります。
杉尾 はい、お問い合わせ電話番号、お願いします。
味園 はーい。「道の駅はなまき西南」、電話は0198-29-5522、0198-29-5522番です。
名雪 はい、お腹のすいちゃうような、いいお話でしたね。フフフ、ありがとうございました。
杉尾 ありがとうございました。
味園 ありがとうございました。

この放送の影響があったらしく、今月分は、何と、販売開始から5分で完売したそうです。

NHKさん、全国的にも広めていただきたいものです。

続いて、ラジオの中でも触れられている高村光太郎記念館さんがらみ。現在開催中の企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の関係で、花巻市さんのサイトから。

令和3年度高村光太郎記念館講座「光雲と東雲の彫刻とその系譜」の収録映像を期間限定で配信します

令和4年3月6日(日曜)に収録した令和3年度高村光太郎記念館講座の映像をYouTubeで期間限定配信いたします。
※新型コロナウイルス感染拡大の影響により、観客を集めての講座は中止としました。
配信期間:令和4年3月31日(木曜)まで
下記リンクからぜひご覧ください。
収録映像をご覧になった方は、アンケートにご協力をお願いいたします。
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どうも自分で自分の動画を見る気になりませんし、「ぜひご覧下さい」とも言いにくいのですが……。本来ならしっかり見て反省し、次に生かさなければならないのでしょうが……。

最後に、一昨日の『岩手日報』さん一面コラム。

風土計 2022.3.15

高村光太郎は新聞記者に敬意を払っていたらしい。「記者殿」と、敬称で呼んだ詩がある。〈…事件にぶつけるからだからは/火花となつて記事が飛ぶ。/どこへでも入りこみ/どんな壁の奥でも見ぬく。〉▼〈対象に上下なく、/冒険は日常茶飯。/紙と鉛筆とカメラとテープと、/あとはアキレス筋の羽ばたく翼。〉(「記者図」)。どんな所にも行って、壁の奥を見抜く記者に憧れを抱いていたのかも知れない▼どこへでも入り込むのが記者の使命とはいえ、同業者として胸をえぐられることが起きた。ウクライナ首都近郊で、米国人ジャーナリストがロシア軍の銃撃で亡くなった。避難民の取材に当たっていたという▼今、この時もウクライナでは多くの記者が活動している。彼らによって、暮らしの場が戦場に変わったむごさが白日の下にさらされる。いつ銃弾降り注ぐか分からぬ中、目の前の理不尽を記録しているに違いない▼〈…「記者殿」は超積極の世界に生きて/時代をつくり、時代をこえ、/刻々無限未来の暗黒を破る。〉。 光太郎の詩は、危険を顧みず伝える記者へのエールに聞こえる▼侵略政権は、声高に「フェイクニュース」だと宣伝する。だが壁の奥を見抜く眼力と、カメラが切り取る真実の前では無力だろう。ペンの強さを示し、「未来の暗黒を破る」戦いでもある。

引用されている詩「記者図」は、光太郎最晩年の昭和29年1月11日に書かれ、14日の『新聞協会報』に掲載されました。

   記者図001

 「記者殿」は今でも「記者殿」。
 時間の密度はますます濃く、
 空間は不平等にちぢみ上り、
 事件にぶつけるからだからは
 火花となつて記事が飛ぶ。
 どこへでも入りこみ
 どんな壁の奥でも見ぬく。
 対象に上下なく、
 冒険は日常茶飯。
 紙と鉛筆とカメラとテープと、
 あとはアキレス筋の羽ばたく翼。
 紅顔、白髪、
 「記者殿」は超積極の世界に生きて
 時代をつくり、時代をこえ、
 刻々無限未来の暗黒を破る。


『新聞協会報』は、おそらく新聞記者向けの業界紙のようなものでしょうから、読者は新聞関係者ということで、多分に「ヨイショ」が入っているように思われます。そうと分かっていても、これを読んだ当時の新聞関係者たち、決して悪い気はしなかったでしょう。「風土計」にあるように「光太郎の詩は、危険を顧みず伝える記者へのエールに聞こえる」というのもうなずけます。

いったいに、光太郎の詩には、様々な分野で活動する人々への、エール的な要素を持つものが少なくありません。

戦後の詩でいえば、医療関係者へのエールということで、コロナ禍の中、再び注目を集めた「非常の時」(昭和20年=1945)、花巻の商工会からの依頼で作った「初夢まりつきうた」(昭和25年=1950)、開拓農家をたたえる「開拓十周年」(昭和30年=1955)、すべての岩手県民に向けた「岩手の人」(昭和23年=1948)など。こうした傾向は、戦前から既にありました。

しかし、そのエールが戦時中にはプロパガンダとして使われ、厖大な光太郎の翼賛詩を読んだ前途有為な多くの若者が死地に赴いたわけで、功罪相半ば、いや、差し引き「罪」の方が大きいでしょう。その点は光太郎自身もいたいほどわかっていて、だからこそ七年間も郊外の寒村で蟄居生活を送ったのだと思います。

それにしても、ジャーナリストが巻き込まれているウクライナ危機……。なぜ、満州国やらベトナムやらアフガンやらの教訓が往かされないのでしょうか……。

【折々のことば・光太郎】

花巻温泉より花巻駅、タキシにて買物、やぶまで、 やぶにて中食、タキシにて山口まで、 小屋まで運転手にルツクを運んでもらふ、 小屋無事、スルガさんに挨拶にゆく、

昭和27年(1952)6月22日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための現地下見から帰りました。小屋を出たのが14日ですから、1週間以上ぶりでした。

一昨日、昨日と1泊2日で、光太郎第二の故郷とも云うべき、岩手花巻に行っておりました。

メインの目的は、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の拝見、及び、その関連行事として当初予定されていた当方の講座が、コロナ禍のためリモート配信ということになり、その収録のためでした。

今回は妻を連れて参りました。同居していた妻の母が昨年暮れに亡くなり、それまで数年間、介護で大変だったので、その慰労を兼ねて、ゆっくり温泉に浸かってもらおうということで。

1日目、3月5日(土)。正午近くに東北新幹線新花巻駅に到着。まったく雪もなく、拍子抜けでした。レンタカーを借り、市街地へ。昼食はマルカン大食堂さんでいただきました。マルカンさんの1階で、以前にご紹介した、光太郎にも触れられているという泉沢善雄氏著『わんこそば : その歴史と文化』を販売しているそうなので、そちらにしたわけです。ところが、同書、残念ながら売り切れ。

それなら、と、行ってみた、やはり同書を販売しているという近くの「賢治の広場」さんにも行ってみましたが、そちらでも完売とのこと。すると、驚いたことに、たまたま「賢治の広場」さんに泉沢氏ご本人がいらっしゃり、お話をさせていただきました。元々そんなに売れると思わず、少部数しか作らなかったと言うようなお話、それから、国会図書館さんに納めたとおっしゃるので、そちらで見て欲しい的な。千葉の自宅兼事務所に帰ってから調べましたところ、確かに国会図書館さんに納本されていました。近いうちに拝見に行こうと思います。

その後、御朱印マニアでもある妻のため、2箇所の社寺を廻りました。

まず、在来線東北本線花巻駅近くの花巻神社さん。
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つづいて、石神町の身照寺さん。
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こちらは宮澤賢治の菩提寺です。
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御朱印を書いていただいている間、賢治の墓と、宮沢家のそれとにお参り。気持としては光太郎の代参のつもりで。光太郎を花巻に招いた政次郎(賢治の父)に、「ありがとうございました」的な。

この頃から、雨が降り始めました。宿泊した大沢温泉山水閣さんに着き、そのまま雨か、と思っていたら雪に変わり、翌朝は……。
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15㌢ぐらいは積もっていました。

この日、午前中は妻と別行動。

妻は観光タクシー「どんぐりとやまねこ号」(正確に言うと、午前コースの「どんぐり号」)。


通常は、上記動画にあるようなクラシックカーなのですが、この日は大雪のため、ごく普通のワゴン車だったそうです。普段の車輌は積雪が多いと賢治記念館さんへの急な坂が登れないとのことで。勧めた当方としても、ちょっとがっかりでした。

当方は、レンタカーで花巻高村光太郎記念館さんへ。途中、風も強く、ところどころで地吹雪でした。
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隣接する高村山荘。光太郎が戦後の七年間、蟄居生活を送った山小屋です。
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早速、企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」を拝見。
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メインである、光太郎の父・光雲作の「鈿女命」。
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光雲四男にして光太郎実弟、藤岡家に養子に行った植物学者・藤岡孟彦が光雲の形見分けとして受け継いだものです。一昨年にも展示されましたが、そちらが短期間だったと言うこともあり、今回、期間を長めに設定しての再展示。ただ、一昨年には展示された光太郎箱書き揮毫の共箱は、今回は出品されていませんでした。

さらに最近寄贈された、鋳造の懐中仏「准胝(じゅんてい)観音像」。
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元々、都内文京区の金龍山大圓寺さんに納められた、光雲とその高弟の山本瑞雲、三木宗策の手になる観音像(戦災で焼失)の胎内仏として作られたものの鋳造コピーで、寄進者や檀家に配られたものです。そのあたりの経緯を記した『仰高』という書籍、焼け残った胎内仏の写真が掲載された『木彫 髙村光雲』(光雲令孫の故・髙村規氏撮影の写真集)をお貸しし、一緒に展示していただきました。

最近寄贈された、光太郎の葉書と関係資料。
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それから、光雲の師匠・髙村東雲の孫にして、光雲に手ほどきを受けた晴雲改め三代東雲作の聖観音像。この地で蟄居生活を送っていた光太郎に贈られたものです。
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こちらは十数年ぶりに拝見。箱書きは初見でした。

同様に、光雲の系譜ということで、花巻出身で山本瑞雲に師事した佐藤瑞圭などに関するパネル展示。
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光太郎も足を運んだ清水寺さんに瑞圭の作が複数納められていて、市の方に調べていただきました。

光雲が主任となり、東京美術学校として制作を請け負った、上野公園の西郷隆盛像、皇居前広場の楠木正成像を描いた錦絵。こちらも当方からの貸与品です。
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この展示室内で、リモート配信用の当方の講座を収録しました。約1時間、光雲や東雲、その系譜、光太郎と花巻といった話を思いつくままにだらだらと(笑)。当方、各種市民講座等で場数は踏んでいますので、そうやって喋るのにはあまり抵抗はないのですが、さりとて自信があるという訳でもなく、毎回、あんなのでよかったのかな、と思います(笑)。編集後、花巻市さんの方で配信予定です。

記念館さんに着いた頃はそんなでもなかったのですが、収録終了後、外に出ますと猛吹雪でした。
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ホワイトアウトに近い場所もあり、レンタカーを慎重に運転しつつ、新花巻駅へ。「どんぐり号」で高村山荘、光太郎記念館(妻が来た時には当方がべしゃくっていた真っ最中だったそうで)、賢治記念館を廻っていた妻と合流し、昼食を摂って帰途に就きました。

企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」、5月15日(日)までと、長めの設定です。コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

花巻駅より大沢温泉行、山水閣に泊る、新緑美しく、温泉浴心地よし、 マツサージ、よく休む、

昭和27年(1952)6月10日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見と云うことで、翌週から5泊6日で十和田湖方面に出かけます。そのための鋭気を養う目的もあったのでしょうか、大沢温泉さんに1泊しました。

昨日から、一泊二日の日程で光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。

花巻、昨日は☔でしたが、今日は吹雪です。
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昨日は主に市街地をぶらぶら、大沢温泉♨さんに宿泊。今日は光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんで、市民講座のリモート収録に臨みました。同館で開催中の企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の関連行事で、同展も拝見しました。

詳しくは帰りましてからレポート致します。


一昨日の『岩手日日』さんから。

「馬面電車」廃線50年 最終運行時の写真や新聞記事展示

 花巻市でかつて運行されていた花巻電鉄が全路線廃線になってから、今年で50年目を迎えた。同市中北万丁目の菅原唯夫さん(72)は、「花巻電鉄を思い出してもらおう」と、同市椚ノ目のデイサービスセンターグリーンホーム落合に花巻電鉄の写真や廃線を知らせる当時の新聞記事を展示している。同施設には花巻電鉄に乗車経験がある利用者が多くおり、地域住民の足として親しまれた「馬面(うまづら)電車」の思い出話に花を咲かせている。
 花巻電鉄は1915(大正4)年に開業。72年に廃線になるまで市民や温泉客の足として親しまれ、花巻ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)も買い物や静養先の温泉に向かう移動手段として利用していたという。
 菅原さんは、花巻に残る貴重な文化遺産を紹介する「Act21」を主宰。花巻電鉄の関係者から譲り受けた写真などの資料を保管し、これまでにも花巻電鉄に関する展示会を開催している。
 施設内に並べているのは写真と新聞記事など約60点。写真では最終運行日の様子や旧市内の路線を走る花巻電鉄、当時の切符、解体される車両、電車内の人々など花巻電鉄の歴史を今に伝えている。同施設では今月末ごろまで展示する予定。
 利用者(93)は「鉛温泉に行く時によく乗っていたので、とても懐かしい。電車が坂道を登らなくて、乗客で押したことを覚えている」と当時を思い返していた。
 菅原さんは「70歳以上なら乗ったことのある人は多いはず。花巻電鉄の記憶を残していかなければいけない。施設の展示が終わったら、材木町公園などでも展示して市民に歴史を伝えていきたい」と話している。
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かつて花巻を走っていた花巻電鉄。記事に有る通り、光太郎もよく乗車していました。2路線あったうち、鉛温泉さん、大沢温泉さんなど花巻南温泉峡へ向かっていた軌道線(鉛線)は、昭和44年(1969)に廃線、花巻温泉郷方面への鉄道線(温泉線)は同47年(1972)2月に廃線となりました。

菅原唯夫さんは、花巻電鉄の歴史などについて造詣が深く、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際にお力添えいただきましたし、BSテレ東さん(当時はBSジャパン)で放映された「空から日本を見てみよう+ 岩手県花巻温泉~遠野」などにもご出演なさっています。

また、当方が存じ上げている限り、平成27年(2015)と、鉛線廃線50周年の令和元年(2019)にも、今回と同様の写真展を開催なさいました。

今後とも、ハート花巻だけでなくぜひ色々なところで開催を続けていただきたいものです(光太郎にからめて(笑))。

ところで、今日から当方、花巻に行って参ります。メインの目的は、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の拝見。及びその関連行事として当初予定されていた当方の講座が、コロナ禍のためリモート配信ということになり、その収録のためです。で、今回は妻を連れて参ります。同居していた妻の母が昨年暮れに亡くなり、それまで数年間、介護で大変だったので、その慰労を兼ねてです。

妻は隠れ鉄子でして、材木町公園に静態保存されている花巻電鉄の馬面電車車輌(もろに光太郎が乗ったもの)を見せてやろうと思っております。もっとも、妻の「鉄分」は、「しなの鉄道さんの「ろくもん」に乗りたい!」とか「「ななつ星in九州」っていいよね」とかの種別なので、興味を示すかどうか怪しいところですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

七時45分のラジオ朝の放送に豊周の声をきく、録音はよし。


昭和27年6月8日の日記より 光太郎70歳

「豊周」は、光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ髙村豊周です。のちに鋳金分野の人間国宝となりました。この時期は金沢美術工芸学校教授を務めるかたわら、日展惨事などの任にもあたっていました。おそらくラジオはこの年開かれた豊周の第一回個展に関わるのではないかと推測されます。

昭和20年(1945)に信州へ疎開した豊周一家を見送って以来、光太郎は豊周には会っていませんでした。久々にラジオを通して聴いた弟の声は、どのような感懐をもたらしたでしょうか。

過日ご紹介した、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」、昨日開幕しました。

今朝の地方紙『岩手日日』さんから。

髙村光雲 系譜に焦点 光太郎記念館企画展 門下作品含む12点公開

001 花巻市太田の高村光太郎記念館で23日、2021年度企画展「光雲の鈿女命(うずめのみこと)―受け継がれた『形』―」が始まった。光太郎の父で彫刻家髙村光雲(1852~1934)の木彫像「鈿女命」をはじめ、門下の作品などを紹介し、その系譜と表現にスポットを当てている。5月15日まで。
 光雲は近代木彫に大きな業績を残した彫刻家。幕末の江戸に生まれ、1863年から11年間、仏師・髙村東雲の下で修業し、髙村姓を継いだ。87年には当時造営中だった皇居・化粧の間の装飾彫刻を担当、89年から東京美術学校に勤務し翌年には教授に就任、帝室技芸員にも推挙され、シカゴ万博に出品した「老猿」は国重要文化財に指定されている。
 企画展では、令和に入り新たに寄贈された光雲作の「鈿女命」「准胝(じゅんてい)観音」や光太郎に関係する品など12点を公開している。
 「鈿女命」は2021年9月の初公開に続き「もう一度見たい」という来館者のリクエストに応えた展示。日本神話で天照大神が天の岩屋戸に隠れた際に、半裸で舞って神々を笑わせて大神を誘い出したとされる巫女(みこ)が題材で、穏やかな顔立ちや、流麗で繊細な髪型や衣紋の表現が目を引く。
 「准胝観音」は、東京都文京区の金龍山大圓寺に寄進された7体ある観音像のうちの一つの胎内に収められた小仏像を、銅製の鋳造仏として模造したもの。観音像は戦火で焼失したが、小仏像の模造は建立の際に寄進者や檀家らに配られたと見られ、精巧に鋳出された像容が分かる。
 このほか、光雲に木彫の手ほどきを受けた髙村晴雲(1893~1969年)が手掛けた聖観音像、光雲が制作で中心的な役割を果たした皇居前広場の「楠木正成像」や上野公園の「西郷隆盛像」に題材を取った錦絵なども会場を彩る。
 光雲の孫弟子に当たる佐藤瑞圭師作の清水寺(同市太田)に安置された十一面観音像(写真パネル)、光太郎が気に入って使っていた「彧彧」という文字を板書したコート掛けと看板、翻訳家として英文学者長沼重隆に宛てた光太郎の直筆はがきなどもある。
 同館の佐々木正晴館長は「光雲の鈿女命を中心に光雲から弟子の作品を展示している。受け継がれてきたさまざまな形を解説しているのでぜひご覧いただきたい」と話している。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。


当初予定されていた、関連行事としての当方の講座は、やはりコロナ禍のためリモートでの開催ということになりました。その収録もあり、当方、来週末に行って参ります。

皆様も、コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

駐在巡査が岩谷堂町の依田養七氏といふ老人を案内してくる、家族のため持参の色紙に明治天皇のうたを一枚揮毫す、


昭和27年(1952)4月22日の日記より 光太郎70歳

岩谷堂町」は現在の奥州市。奥州市になる前は江刺市で、「依田養七」は昭和9年(1934)~13年(1938)、同20年(1945)~21年(1946)、さらに同29年(1954)から最後の岩谷堂町長を三度にわたって務め、そのまま江刺市になって、初代市長となりました。

余談になりますが、インターネットとは本当に便利なものですね。このように光太郎日記等に名が出て来る人物で、その素姓を知らなかった場合でも、調べればわかることが往々にしてあります。依田養七もそうでした。

定期購読しております隔月刊誌『花巻まち散歩マガジンMachicocoマチココ』第30号が届きました。

隔月刊誌で通巻30号ということは、30号÷年6回で、ちょうど5周年。そこで、特集が「感謝の5周年」。
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誌上アーカイブ的に、こんなことをやってきたよ、という振り返り。
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平成30年(2018)2月の第6号の特集は、「賢治の足跡 光太郎の足跡」でした。

5周年を期に、次号でリニューアルを行うそうです。
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これまでの隔月刊から季刊に変更、サイズを一回り大きくするとのこと。

光太郎の日記や書簡等から、光太郎が食べていたメニューを現代風にアレンジして紹介する連載「光太郎レシピ」はそのまま継続されるようです。

で、今号の「光太郎レシピ」。「ボロネーゼとカフェノワールエスプレッソ仕立て」だそうで。
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パスタは光太郎書簡に「ヌイエット」があることからのインスパイアとのこと。

さて、メニューの考案、調理等に当たられているやつかの森LLCさんで、もう一つ手がけられているのが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」。

今月分は……
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ちらし寿司など、一足早くひな祭りっぽい感じですね。

こちらの「光太郎ランチ」も、末永く愛されて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

(藤島宇大氏 谷口吉郎氏)来訪、十和田湖記念碑彫刻の件をはじめてたのまれる。談話をいろいろきく。


昭和27年(1952)3月21日の日記より 光太郎70歳

「藤島宇大」は「藤島宇内」の誤りですが、「とうとう来たか」という感じです。当時の青森県知事にして、太宰治の実兄・津島文治の発案による、十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念モニュメント制作の依頼。これが生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として結実することになります。前年から青森県では佐藤春夫ら、中央の著名文化人等に相談するなど、いろいろと段取りを立て、この日の二人の訪問に至ります。二人には佐藤からの丁重な手紙が託されていました。

光太郎第二の故郷とも云うべき岩手花巻から、企画展情報です。

第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」

期 日 : 2022年2月23日(水)~5月15日(日)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30~16:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円(300円)高等学校生徒及び学生 250円(200円)
      小学校児童及び中学校生徒 150円(100円)( )は20名以上の団体

光太郎の父・光雲作の木彫「鈿女命」や、新たに寄贈された光太郎や光雲に関係する作品を公開します。

関連行事 講座「光雲と東雲の彫刻(仮)」
 期 日 : 2022年3月6日(日) 
 会 場 : 花巻高村光太郎記念館
 時 間 : 10:00~12:00 
 料 金 : 受講料無料 (要観覧券)
 定 員 : 15名 (花巻市内在住・在勤者 要予約・抽選)
 講 師 : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
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「第二弾」とあるのは、一昨年、同館で開催された「高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと)」展が「第一弾」という位置づけのためです。

この際に、光雲四男にして、藤岡家へ養子に入った孟彦(植物学者 明治25=1892~昭和52=1977)の子息であらせられる、横浜ご在住の藤岡貞彦氏(一橋大学名誉教授)から寄贈のあった、光雲作の木彫「鈿女命像」の展示が行われましたが、会期が20日間程しかとれず、「見逃した」「もう一度見たい」的な声があったため、再び同像をメインに据えたわけです。

他にも花巻市に寄贈のあった品々なども、一緒に展示する予定です。

やはり光雲がらみで、銅製の懐中仏「准胝(じゅんてい)観音像」。ちなみに「準提」とも表記されます。

由来がちょっと複雑なのですが、そもそもは東京都文京区の金龍山大圓寺さん。こちらに光雲とその高弟・山本瑞雲、三木宗策の手になる七体の観音像が寄進されました。光雲晩年の昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけてのことです。
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その際、各像に、胎内仏としてそれぞれの像のミニチュア版的なものが納められました。そして大圓寺さんで、それを鋳銅仏として複製し、寄進者や檀家などに配付した記録が残っています。
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左下が、準提観音の胎内仏(撮影・髙村規氏)、右下が今回寄贈されたものです。
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この七観音の鋳銅懐中仏、時折、ネットオークションに出ていて、保存状態のいいものであれば、数万円で落札されています(当方、いつも負けています(笑))。できれば七観音コンプリートを目指したいのですが。

で、全く同じ準提観音の鋳銅懐中仏が、全く別々のお二人の方から、ほぼ同時に寄贈されたとのこと。「仏様同士が呼び合ったみたいだ」と、花巻市の担当の方も驚いていらっしゃいました。

それから、光太郎がらみで、英文学者の長沼重隆に送った葉書。長沼訳のホイットマン詩集『草の葉』を贈られた礼状です。『高村光太郎全集』及びその補遺「光太郎遺珠」に、長沼宛の書簡は既に5通採録してありますが、こちらは未収録のものでした。
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さらに、光太郎の書を写した品々。書を贈られた佐藤隆房が院長を務めていた花巻病院で使われていたものとのこと。
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ついでに当方手持ちの、光雲が主任となって作られた皇居前広場の「楠木正成像」、上野公園の「西郷隆盛像」の明治期の錦絵を七枚ばかりお貸ししまして、そちらも展示されるそうです。

更に言うなら、手前味噌で恐縮ですが、関連行事として当方の講座が予定されています。ただ、コロナ禍のため、リモートになる可能性も。

今回は会期が長いので、それだけ多くの方々にご覧頂きたく存じます。コロナ感染には十分お気をつけつつ、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。

昭和27年(1952)3月20日の日記より 光太郎70歳

詳細はこちら

1月11日(火)、『毎日新聞』さんの岩手版から。

「わんこそば」発祥は花巻 40年歴史追い続け結論 花巻の泉沢さん、研究成果自費出版 /岩手

000 「はい、じゃんじゃん!」。給仕の掛け声で、次々とおわんにそばが入れられる岩手名物のわんこそば。花巻市の泉沢善雄さん(68)はその歴史を約40年追い続けた。発祥の地を巡り「盛岡説」と「花巻説」で論争が続いたが、泉沢さんは自身の調査で「100%花巻」と結論付けた。
 花巻説は江戸時代前期の盛岡藩主・南部利直が花巻に寄った際、献上されたそばがおわんに盛られていたことに、盛岡説は大正時代の首相、原敬=盛岡市出身=が同市に墓参りで帰省した際に「そばは椀コに限る」と言ったことに由来。両市は互いに「発祥」を譲らなかった。
 泉沢さんは、店主らの聞き取りや郷土史の文献調査などで、明治時代に初めてわんこそばという名称で提供したのが花巻の「大畠家」だと突き止めた。一方、盛岡で広まったのは、戦後、盛岡のそば屋が大畠家を参考にして始めたことがきっかけだった。
 さらに盛岡で普及する前の1946年、詩人高村光太郎が知人に送った手紙に「花巻のワンコソバでも早く復活すればいい」という記述を見つけたのが決定打となった。「重要な証拠。2年ほど前に古本屋で偶然見つけたときはうれしかった」
  泉沢さんは県内の高校を卒業後、上京し銀行に勤務した。そばとの関わりは79年、体調を崩した母親のため25歳で花巻市のそば屋に転職したことから始まる。「いろいろな巡り合わせでそばと出合った」と懐かしむ。仕事にも慣れた83年ごろ、調査を始めた。
 研究成果をまとめた本を2021年8月に自費出版。「わんこそばの調査は終えた」と肩の荷を下ろす。今後は従来、関心がある宮沢賢治研究にいそしむつもりだが「新事実を見つければまた調べ始めるかも」。わんこそばとの縁は切れそうにない。

泉沢氏とわんこそばの件につきましては、昨年11月に『日本経済新聞』さんに取り上げられまして、このブログでも紹介させていただきました。

日経さんには、戦後、花巻の老舗そば店・嘉司屋さんに光太郎が訪れていたという記述があった程度でしたが、今回の記事によると、光太郎の書いた書簡にわんこそばに関する記述があって、それが花巻発祥説の根拠となったそうで、驚きました。

となると、泉沢氏のご著書にも光太郎に関する記述があるだろうと思い、調べてみました。題名は『わんこそば―その歴史と文化―』。昨年8月の刊行でした。県内の図書館さんやそば店さんに寄贈された他、花巻のマルカンビルさんや賢治の学校さんで販売、とのこと。先月、マルカンビルさん、賢治の学校さん双方に立ち寄りましたが、気づきませんでした。もう売り切れていたのか、そちらで販売されていることを知らなかったので見落としたのか、というところです。

また3月に花巻行きの予定ですので、その際に探してみようと思っております。地元の方々は、その前にぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

弘さんに風呂桶進呈の約束、


昭和26年(1951)11月13日の日記より 光太郎69歳

弘さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた、花巻郊外旧太田村の山小屋近くの開拓地に入植した青年。「風呂桶」は、昭和23年(1948)、村人や宮沢家の厚意で光太郎に贈られた物でしたが、薪を大量に使わなければならず、結局、あまり使われませんでした。

花巻に現存し、平成29年(2017)、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻の湯」で展示されました。
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一昨日から昨日にかけ、光太郎第二の故郷・花巻に行っておりました。レポートいたします。

今回は、特に現地で何かのイベント等があるために行ったわけではなく、友人3人を案内するというのがメインの目的でした。あとはついでに花卷高村光太郎記念会さんなどと、事務的な手続き、相談等もありましたが。

18日(日)朝、東京駅に集合し、東北新幹線で一路、花巻へ。雪が心配でしたが、花巻の積雪はほとんどありませんでした。
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今年の花巻のトレンドと言えば……。
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他にも菊池雄星選手ら、花巻東高校さんや富士大学さんの関係で、ゆかりのプロ野球選手がたくさん。新花巻駅の待合室、観光案内所を兼ねた展示スペース「ステップイン・はなまき」です。
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レンタカーを調達し、市街へ。

まずは光太郎ゆかりの松庵寺さん。光太郎歌碑、詩碑が計3基。
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その後、周辺を歩きました。

少し前にこのブログでご紹介した、嘉司屋さんで昼食。
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左上は光太郎揮毫の賢治詩碑拓本の縮小版。右上は店内にあった書籍の一節。そう遠くないところにかつてあった支店の方に、光太郎が訪れていたということでした。ただ、残念ながら「四代目の佐々木喜太郎さん」の名は、『高村光太郎全集』に見あたりませんでした。またお店がすいている時にでもお邪魔し、何か光太郎ゆかりのものをお持ちでないかどうか訊いてみようと思いました。

続いて、「賢治の広場」。どうも宮沢家の親戚で、さらに賢治の妹のシゲ(光太郎とも交流)が嫁いだ岩田家の関係で作られた施設のようです。
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宮沢家の親戚筋などに保存されていたとおぼしきいろいろなものも展示されていました。

そして、マルカンビル。大食堂で、名物の10段巻きソフトクリームに挑戦。当方、2度目でしたが、作法通りに割り箸を使って(笑)美味しく頂きました。女性陣はお二方で一つをシェア。実はお一人ずつでも食べられそうでしたが(笑)。
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腹もふくれたところで、再びレンタカーで、花巻南温泉峡。宿泊させていただく大沢温泉さんを一旦通り過ぎ、「山の駅 昭和の学校」さんへ。
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廃校になった小学校を使い、昔の商店街を再現し、レトロな昭和グッズを大量に展示しています。
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現役の小学校だった頃、卒業記念として昔の児童さん達が作ったらしい、大きな銅板のプレート。地元ゆかりの偉人ということでしょう、光太郎詩「道程」がモチーフです。
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南下して、大沢温泉山水閣さん。

当方、大沢温泉さんでは、かつては菊水館さんを定宿としていましたが、平成30年(2018)、台風による土砂崩れで物資搬入が不可能となり、現在休業中。その後は自炊部に泊まり続けています。今回、お連れしたのはセレブの方々ですので、さすがに自炊部というわけにはいかず、通常の温泉ホテル形態の山水閣さんにしました。自炊部は自炊部で非常に風情があるのですが、裏を返せば風情しかありません(笑)。自炊部ではこの季節、コタツも有料。コタツの台とコタツ布団は常備ですが、頼んで別途料金を支払わないと、コードを貸してくれません(夏場は扇風機も有料だったはず)。一人旅ならそれがいいのですが……。

ただ、館内でつながっていますので、温泉は自炊部棟の温泉にも入れます。
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自炊部棟にある、大露天風呂「大沢の湯」。当方、ここに入らないと気が済みません(笑)。女性専用の時間帯もあり、同行のレディーたちにも気に入っていただけたようです。

豪華な夕食をいただき、就寝。この夜は10㌢くらいの雪が降ったようでした。

翌朝の窓外の風景。眼下には豊沢川の清流。木々は樹氷のように見えました。
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朝食後、光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村(現・花巻市太田地区)の高村光太郎記念館さんへ。
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この周辺は、だいぶ道路にも積雪がありました。レンタカーがセダンタイプで、屋根に積もった雪がずり落ちてトランクの上に溜まり、後ろが見えなくなったりもしました。いつもワンボックスで、雪はすぐ落ちるのためそういうことはなかったのですが、セダンだとそうなるんだ、と初めて知りました。

こちらで、企画展「光太郎の三陸廻り」の際にお貸ししていた鳥瞰図や古絵葉書などを返していただき、ありがたいことにその分のギャラが出て、拝受。さらに事務的な相談を少々。その間に友人達には展示を見て貰いました。

隣接する光太郎が7年間暮らした山小屋(高村山荘)へ。
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これでもまだ雪が少ない状態です。来月には1メートル以上積もるでしょう。そうなるとここに近づけません。
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中尊寺金色堂のように、二重の套屋(カバーの建物)の中に、山小屋が保存されています。通常非公開ですが、久しぶりに山小屋内部に入れてもらいました。この季節に中に入ったのは初めてかもしれません。
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光太郎の蟄居生活、それを「単に戦争責任を反省しているポーズにすぎなかった」的な論調を眼にしますが、「そう思うならここでこの季節に一晩でもすごしてみろ」と言いたくなります。

駐車場にはジャンボレトロタクシー、どんぐりとやまねこ号。現在は1日3,000円で、ここや賢治記念館などを廻っているそうです。
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その後、ほど近いところに昨年オープンした道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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光太郎グッズコーナー。新製品も。
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インフォメーションスペースには、いわて花巻空港さんに先月まで展示されていた写真パネルなども。
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こちらで、地元の関係者の皆さんとお会いし、また事務的な話など。
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お土産を大量に頂いてしまいました。多謝。

そして最後の目的地、宮沢賢治記念館に。

と、その前に、予定にはありませんでしたが、花巻駅近くの公民館的な「市民の家」に寄り道。元の花巻町役場を移築したものです。
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敷地内には、光太郎も乗った花巻電鉄デハ3型
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そして、新花巻駅近くの宮沢賢治記念館へ。
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こちらは平成27年(2015)にリニューアルされましたが、新しくなってから初めて足を踏み入れました。リニューアル後の展示については、賛否両論いろいろです。賛否両論いろいろだろうな、というのがわかる感じでした。

敷地内の「注文の多い料理店 山猫軒」さんで昼食。
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レンタカーを返却し、帰途につきました。

細かくレポートする余裕がなく、アバウトに辿っただけでしたが、心も胃袋も満腹の1泊2日でした。コロナ禍も漸く落ち着きつつあり、観光客も戻ってきています。皆様もぜひどうぞ。また、依頼があって、日程的な都合などかみ合えば、今回のようにツアーガイド的なことも致します(笑)。

【折々のことば・光太郎】

昨日式場から Black & White ヰスキーをもらふ。


昭和26年(1951)9月5日の日記より 光太郎69歳

式場」は式場隆三郎。精神科医でしたが、文学にも関心が強く、戦前には白樺派の面々と親しく交わり、この頃は『日曜日』という雑誌を主宰?していました。同誌には光太郎の山小屋の訪問記も写真入りで掲載されています。

Black & White」は高級ウイスキーですね。

昨日から一泊二日の日程で、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻に来ております。
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今回は、普段の単独行ではなく、友人3名と共に、です。
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何やら珍道中ですが(笑)、詳しくは帰りましてからレポート致します。

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