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光太郎第二の故郷、岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんで、光太郎の実際に作った献立、使った食材などを参考にされてメニューを考案、さらに調理も担当なさっているこうたろうカフェ。遅ればせながら7月31日(木)の分をご紹介します。
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メニュー的にはリーフレット掲載順に「紫蘇のスカッシュ」「アトランティックサーモンステーキ」「豚肉のキクラゲ卵炒め」「夏野菜のラタトゥイユ」「茄子とピーマンの素揚げ」「春雨の彩り酢の物」「しそ巻きご飯」「季節の漬物」「梅と柘榴の二色ゼリー」「コーヒー」。何だか以前より品目が多いような気がしました。夏バテ予防という観点からボリューミーにされたようです。ラタトゥイユあたりは光太郎、明治期にパリで食していたのではないかと思われます。

リーフレットには光太郎が作ったドジョウ汁の紹介が書かれていますが、さすがにそれは再現されていませんでした。

やつかの森さん、今年は毎月末に「こうたろうカフェ」を展開され、毎月15日には道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」のメニュー考案をなさっています。「光太郎ランチ」はもうすぐですね。

次回の「こうたろうカフェ」は8月29日(金)。メニューも既に予告されています。「ハーブのパリパリグリルチキン」「焼き茄子の香味たれ」「オクラと卵の寒天寄せ」「じゃが芋とトマトのバター煮」「サーモンサラダ」「お漬物」「ご飯」「モロヘイヤスープ」「スフレフロマージュ」「コーヒー」だそうで。

ぜひご堪能下さい。

【折々のことば・光太郎】

このごろいたみが少しつよいので閉口しています、


昭和31年(1956)3月1日 宮崎春子宛書簡より 光太郎74歳

確認出来ている限り、最後の自筆書簡から。宿痾の肺結核のため、もはや肺には健康な部分が残っていなかったとのことです。

花巻レポート最終回です。

7月23日(水)、旧太田村の高村光太郎記念館さんでコンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」の準備を始める前、先日始まった特別展を拝見。

まずは玄関を入ってすぐ、「智恵子のエプロン復刻展示」。
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花巻南高校家庭クラブさんの力作です。エプロン自体は一昨年から昨年にかけて制作され、模造紙の説明資料は今年4月から5月、二本松の智恵子記念館さんで展示された際のものが転用されています。その際に当方が作ったパネル2枚も差し上げたので、一緒に並んでいます。

思えばこの高村光太郎記念館さんでの市民講座で講師を務めさせていただいた際にこのエプロンについても触れ、「どなたか作って下さいませんかね」と呟いたのがきっかけでした。呟いてみるもんですね(笑)。

エプロンについては以下をご参照下さい。
智恵子のエプロン。
世田谷文学館「コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事」レポート
東北レポート その1 岩手花巻なはんプラザ 「五感で楽しむ光太郎ライフ」。
「五感で楽しむ光太郎ライフ」報道。
花巻南高校文芸部誌『門 ⅩⅧ』。
みちのく随想 私たちのリレー。
高村智恵子生誕祭 音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた/「智恵子のエプロン」復刻展示。
二本松レポート その2 光太郎智恵子聖地巡礼。

近々、『読売新聞』さんの岩手版で紹介されるはずです。一昨日、電話で取材を受けました。

続いて奥の展示室にて「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」を拝見。
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メインのジオラマは平成30年(2018)に同館で開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際にも制作をお願いした石井彰英氏と、お友達の土屋直久氏の合作。前回は石井氏に大変な御苦労をおかけし、ご自身でも「もうこりごりだ」的なこともおっしゃっていたので、その後当方は依頼を遠慮していたのですが、今回は当方を飛び越えて直接石井氏に依頼が行きました。「一人では無理」ということで、土屋氏を巻き込んで、というか、今回、土屋氏が主導で制作されたそうで、石井氏の名はクレジットされていませんでした。
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前回は戦後すぐの光太郎在住時をイメージして作っていただきましたが、今回の設定は昭和6年(1931)。さらに前回は花卷市内の光太郎と関わりのあるところをだいたいの位置関係で押し込んだ感じでしたが、今回は花巻駅周辺のみを、ほぼ正確な配置で。
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上の画像で、中央上の方が東北本線花巻駅。左の中段が花巻電鉄の駅、下段が軽便鉄道の駅。花巻電鉄、軽便鉄道ともに、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモチーフの一つと言われています。
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精巧な出来栄えに目を見張りました。

周囲の壁には軽便鉄道関連で味のある古写真など。
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「光太郎と花巻電鉄」の際に作っていただいたジオラマも、通常の第2展示室に。
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その向かい側では、特別展「中原綾子への手紙」も開催中。
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というわけで、現在の記念館さんは非常に盛りだくさんです。

隣接する(といっても数百㍍)高村山荘。
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その奥の「雪白く積めり」碑。
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この後、コンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」となりました。

そちらを2公演、つつがなく終え、出演者のお二人、箏の元井美智子さん、朗読の荒井真澄さんともども大沢温泉山水閣さんに宿泊。
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翌朝、以前は宿泊棟「菊水館」として使われ,、光太郎や当方も泊まった(健在の頃は当方も定宿でした)「ギャラリー茅」で、「トトロとジブリとカンヤダと」展を三人で堪能。先月も拝見しましたが、その際は自炊部さんに宿泊で、同展は別料金だったのが、今回のように山水閣さんに泊まれば無料です。それは存じませんでした。
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フロントに戻り、チェックアウト。フロントにはジブリプロデューサーで「カンヤダ」展仕掛け人でもある鈴木敏夫氏の筆になる「雨ニモマケズ」屏風。
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続いて、大沢温泉さん近くの「山の駅 昭和の学校」さんへ。
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廃校になった小学校を使った施設で、館内は昔の商店街をイメージし、所狭しと昭和の品々が並んでいます。
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実際に小学校だった頃に、児童さんが作った卒業記念のオブジェ。郷土ゆかりの偉人ということでしょう、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)がモチーフです。
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その後、元井さんのリクエストで、花巻東高校さんの大谷翔平選手・菊池雄星選手のモニュメントへ。こちらは当方初めてでした。
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最近は市内周遊のレトロジャンボタクシー「どんぐりとやまねこ号」のコースにも入るなど、すっかり新たな観光地化していて、この日も賑わっていました。
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最後は市の中心部に戻り、賢治御用達、さらに光太郎もよく足を運んだやぶ屋さんで昼食。ここでお二人と別れ、帰途に就きました。お二人はさらに宮沢賢治童話村に行かれたそうですが。

そんなこんなで充実の2泊3日でした。皆さまもこの夏、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

リンゴ感謝、今年は東北も不作ときいてゐましたが、二六園ではやはりいつものやうに立派なのが出来たと見えて見事です。中西夫人にもお分けしてよろこばれました。


昭和30年(1955)10月19日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎73歳

「二六園」は、光太郎を花巻に招いた一人、花巻病院の佐藤隆房院長が自宅敷地内に作ったリンゴ園です。

昨日まで2泊3日で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

7月22日(火)、東北新幹線新花巻駅前で借りたレンタカーでまず向かったのは、同駅からそう遠くない花巻市博物館さん。
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こちらでは「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」が開催中で、光太郎に関わる展示もあるだろうと思い、お邪魔しました。

受付で入館料を払うと、まず展示室に入る前の最初のショーウィンドウ的なコーナーに、いきなり38式歩兵銃や99式短小銃、軍刀など。のっけから粛然とした気持にさせられました。
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展示室に入ると、満州事変(昭和6年=1931)の頃から戦後までのリアル資料がずらり。
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花巻とその周辺地域に関わる品々が多く、時期はずれていましたが宮沢賢治が勤務していた花巻農学校の卒業生に関わるものなども。
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いわゆる「青い目の人形」。よくぞ残っていたものです。
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墜落した特攻機の残骸。
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戦死した搭乗員などの多くは、光太郎の書いた翼賛詩に心ふるわせながら戦地に赴いて行き、露と消えていきました。

そうした兵士への弔辞の一部。
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戦争末期には光太郎の詩もこんな感じになっていました。戦後になってその罪深さを感じて当然だったでしょう。他のほとんどの文学者は同じような作品を書いても「あれは軍の命令で仕方なく書いたのだ」と開き直ったり、自らの年譜の中でこの手の作品は無かったことにしたりしましたが。

その光太郎がらみ。

まずは昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲関連で、詩「非常の時」の一節を刻んだ碑の拓本が出ていました。
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碑そのものは、旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内にあります。そもそもはこの詩を贈られた花巻病院長にして戦後は財団法人高村記念会を立ち上げた佐藤隆房医師の顕彰碑です。翌日撮ってきました。
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正面の題字は当会の祖・草野心平の揮毫。両サイドに「非常の時」の一節が光太郎自筆拡大で。元になった書は高村光太郎記念館さんで展示されています。空襲時の極限下で自らの危険を顧みず負傷者の救護にあたった佐藤ら医師や看護師、看護学校生を讃える内容のため、コロナ禍の最中に同じように頑張った現代の医療従事者へのエールともなる、と、少し注目もされました。

詩は終戦直後の9月に行われた病院の表彰式で光太郎自身が朗読しました。その際に表彰された女性への表彰状。
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こんなものも残っていたんだ、と、うるっときました。

その花巻空襲関連の展示。
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投下された(最新鋭のロケット弾も使われたということで、その場合は「発射された」)爆弾の破片も。「うわぁ」という感じでした。
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空襲時、光太郎は豊沢町の宮沢賢治実家に疎開していましたが、そこにも火の手が廻り、必死に消火にあたろうとしたものの、結局はどうにもできませんでした。その際に光太郎が被っていた鉄兜と手にしていた鳶口が現存しています。高村光太郎記念館さんの倉庫に眠っているのでしょう。眠らせておくのならいい機会なのでこちらに貸せばいいものを……と思うのですが、苦言を呈させていただければ、このあたりの連携がまるでなっていないというのが現状です。

直接光太郎に関わる展示がもう1件。戦後の昭和27年(1952)になってからの話ですが、藤根村(現・北上市)の元小学校教師・高橋峯次郎関連です。
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やはり拓本で、高橋が光太郎から贈られた書を写した石碑のもの。
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この碑も北上市内に現存します。小学校教師だった高橋が、戦死した教え子たちなどの供養のため建てた観音堂の境内です。光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京する直前に、高橋が光太郎に観音像の制作を依頼したのですが、無理、ということで代わりに贈られた書で、他にも複数の揮毫例がある観音讃仰の詩が刻まれています。

他に、光太郎と交流のあった岩手で育った画家・松本竣介の絵。
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やはり光太郎と交流のあった写真家・内村皓一の写真。「そういえば内村は大陸にいたんだっけ」でした。
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そして、花巻周辺に残る戦争遺跡などについても。
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最後は花巻らしく賢治の言葉を引用して終わっていました。
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陳腐な表現ですみませんが、実に考えさせられる展示でした。

時間もあるし、ということで、実際に戦争遺跡を見て回りました。以前から気になっていたのですが、場所がわかりにくく、事前に調べておかないとたどりつけそうにない感じで、今回初めて足を運びました。

まず若葉町の「防空監視哨聴音壕」。
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敵機の襲来をいちはやく察知するための施設です。いちはやくと言っても、既に実用化されていたレーダーなどを配備していたわけでもなく、目の良い兵士が目視で、耳の良い兵士が音を聴いて……。「そんなんで勝てる戦争じゃなかっただろう」というのは現代人だから言えることでしょうか。

続いて市役所さん近くの「花川橋」。
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昭和9年(1934)の架橋です。欄干の一部が大きく欠損しています。
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花巻空襲の際、近くに落ちた爆弾の破片による被害とのこと。
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生々しいという言葉がぴったりです。戦争被害を後世に伝えるためにあえて傷痕を残してあるのでしょう。

よく言われることですが、戦後80年の現在が「新たな戦前」とならないよう、一人一人がよく考えないと……と思いました。過日の参議院議員選挙の結果等を見ると、その点が心配でなりません。まぁ、「躍進」といわれる某政党も、ドサクサに紛れて当選した極右の作家もどきなども、そう遠くないうちに馬脚を現すでしょうが。

その後、翌日開催のコンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」でお世話になりますということで会場の一つのカフェ羅須さん、在来線の花巻駅前に新しくできた古書店「港」さんにお邪魔しました。
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さらに港さんの並びの林風舎さんで宮沢和樹氏としばしとりとめのない話を(笑)。
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この日の宿泊は駅前のグランシェールさん。全国的に子供たちの夏休みに入っているからでしょう、定宿の大沢温泉さんは、一人では予約不可でした(翌日は3人で泊まりましたが)。

夕食はすぐ近くの伊藤屋さん。かつて光太郎が市街で最も多く食事を摂った店です。
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この日のキーワードが「戦争」だったので、改めて駅ロータリーの「やすらぎの像」も拝見。
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平成7年(1995)に設置され、花巻空襲で亡くなった方々への慰霊の意味合いが込められています。この像の立っている辺りが、空襲時に最も被害が大きかった地点の一つでした。諸説在るようですが、花巻では50名程の方が亡くなりました。原型作者は花巻出身の故・池田次男氏。昭和30年(1955)、盛岡の岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)卒ということで、もしかすると、同校をたびたび訪れ、アドバイザー的なことも行っていた光太郎を直接ご存じだったかも知れません。

翌日は高村光太郎記念館さんとカフェ羅須さん。明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

映画が学校で公開された由、随分多くカツトされてゐますが、記念にはなるでせう、

昭和30年(1955)10月8日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

「映画」は前年、ブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」。昭和28年(1953)に光太郎が一時帰村した際にも撮影班が同行し、旧太田村の山小屋や、浅沼が校長を務めていた山口小学校などでもロケが行われました。








記憶が正しければ今年3度目の花巻。今回は一昨日から2泊3日の行程で、今日が最終日です。現在、光太郎がよく泊まった大沢温泉山水閣さんでこれを書いております。
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普段は自炊部さんですが、都内からいらした箏曲奏者の元井美智子さん、仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんとご一緒させていただいており、ちと自炊部さんでは⋯⋯というわけで。

部屋は1階の渓流側。驚いたことに光太郎関連を含むいろいろと貴重な品々が展示されているコーナのすぐ近くです。
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というか、自分の部屋の外壁には、光太郎令甥の故・髙村規氏の書額が掲げられています。
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かつて光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地で毎年五月に行われていました「高村祭」にご出席なさった際に揮毫されたものと思われます。

今回は、昨日開催された(名目上、当方が主催者扱いですので「開催した」というべきですか)、先述のお二人による朗読と箏曲のコラボのコンサート花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏が二公演、そちらがメインでした。

一公演目が高村光太郎記念館さん。
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二公演目は市街地のカフェ羅須さん。
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それぞれつつがなく終え、三人で山水閣さんにお世話になっているわけです。

さらに花巻市博物館さんで「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」、高村光太郎記念館さんでは「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」と「智恵子のエプロン復刻展示」を拝見。今日もですが、他にもいろいろ回ります。
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今回は「詳しくは帰りましてから」の扱いにさせて頂きます(笑)。

昨日からまたまた花巻に来ております。ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんと箏曲奏者の元井美智子さんとのお二人がコラボなさる公演「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」の名目上の主催者でして、そのためです。同時に現在、花巻高村光太郎記念館さんでは「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」と「智恵子のエプロン復刻展示」が始まりましたし、特別展「中原綾子への手紙」も開催中、さらに花巻市博物館さんでは「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」(こちらは昨日拝観しました)。
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それぞれ帰りましてから詳しくレポートいたしますが、山積している紹介すべき事項を少しでも片付けないといけませんので、花巻関連のネタを(先月も同じようなことがありましたが(笑))。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんで、光太郎の実際に作った献立、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

1週間程経ってしまいましたが、今月分。
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献立は「豚肉と揚げじゃがいもの甘辛炒め」「揚げ鯖の甘酢だれ掛け」「なすの田楽」「茹でとうもろこし」「卵焼き」「胡麻ふかし」「しば漬けとおかかの俵握り」「きゅうりの漬物」「二色羊羹」。

個人的には「豚肉と揚げじゃがいもの甘辛炒め」をぜひいただきたいところです。「胡麻ふかし」は二枚目画像で言うと上の段の中央に鎮座する焦げ茶色のもの。餅米を使った岩手の郷土料理っぽいのですが、見た目の違うものが全国にあるようです。香ばしそうです。

やつかの森さんのもう一つの大きな活動として、花巻市東和町のワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」。やはり光太郎が自分で作った献立、使った食材などを参考にされて、実際に調理もやつかの森さんが担当されています。今年はおおむね月末に設定されているようで、次回が7月30日(水)。

予告されているメニューが「・アトランティックサーモンのステーキ」「豚肉とキクラゲの卵炒め」「茄子とピーマンの素揚げ」「春雨の彩り酢の物」「夏野菜のラタトゥイユ」「季節の漬け物」「ご飯」「麦わら色の冷たいスープ」「梅と柘榴の二色ゼリー」「コーヒー」だそうです。

梅雨も明け、猛暑の日々、夏バテ対策にはやはりきちんと食事を摂ることも大事ですね。

お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

宮沢賢治関連を中心に据えた文芸同人誌『ワルトラワラ』、第54号を頂きました。

ちなみに令和2年(2020)には第45号を頂いています。
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今回、下さったのは、賢治の故郷・花巻で「宮沢賢治・花巻市民の会」の活動をなさるかたわら、賢治生家近くに昨年「カフェ羅須」をオープンされた泉沢善雄氏。氏の玉稿「●生活者の視点で伝記的現場を歩く⑥〈宮沢賢治雑記帳〉 増谷文雄と大原外光そして……」が掲載されていて、当方の名も出て来るため送って下さったようです。多謝。

戦前、まだ賢治がマイナーだった頃、各種雑誌に賢治作品が掲載された経緯についての考察ですが、当方、賢治にはそれほど詳しい訳ではなく、タイトルにある「増谷文雄」「大原外光」ともに全く存じ上げない名でした。

増谷は光太郎もたびたび寄稿していた雑誌『青年』、同じく『真理』に関係し、そして賢治の親友だった藤原嘉藤治と親しかったようです。そこで、『青年』、『真理』に賢治作品が掲載された際(賢治没後の昭和14年=1939)に関わっているのではないかというお話。作品は童話「虔十公園林」ですが、なぜか「虔十の林」という題で掲載されているそうで、ちなみに挿画は光太郎とも親しかった深沢省三とのこと。

石川啄木に関する著書もある大原は増谷と親しく、『真理』の方で賢治を取り上げた記事を書いている人物とのこと。となると、『真理』への賢治作品の掲載に何らかの役割を果たしていたかもしれないそうで。

それから大原は、出版社東雲堂の西村陽吉とも繋がっていたそうです。このあたりでまた光太郎の影。光太郎は東雲堂発行の雑誌『朱欒』『創作』に深く関わっていますし、西村とも個人的に一緒に旅をする間柄だったことがわかりました。『高村光太郎全集』に名が出て来ず、これまで光太郎との個人的な繋がりがどの程度だったのかよく分かりませんでしたが、昨年、兵庫県たつの市の霞城館(かじょうかん)さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」展に、西村と光太郎の連名で三木露風に埼玉から送った『全集』未収録の絵葉書(大正4年)が展示され、一緒に旅する程度の仲だったことが分かりました。

三木露風も『春と修羅』を賞讃する手紙を賢治に送っています。露風と言えば『赤い鳥』。『赤い鳥』には、大正13年(1924)に賢治の『注文の多い料理店』の広告が出ました。これは同誌に挿画を描いていた深沢省三の仲介という説が強いようですが、光太郎、西村、露風らからの働きかけもあったかも、などと素人考えですが……。

さらに当会の祖・草野心平。心平も賢治作品に惚れ込み、心平自身やその人脈に連なる土方定一などの人々も賢治作品の紹介に骨折っています。泉沢氏曰く「賢治周辺の人脈はかなり広くなりそうな気がします。必ずしも深い交友でなくても影響し合っているのでしょう」。なるほど。

今年の冬には花巻の光太郎記念館さんで「賢治全集が出来るまで」的な展示をやるとのことで、関連行事として賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏、嘉藤治顕彰の瀬川正子氏、そして自分とで来春に公開対談が予定されています。参考にさせていただきます。

さて、『ワルトラワラ』、泉沢氏のカフェ羅須さんの記事も出ています。また、奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

現金書留でお送りしますが、東京では時々ぬすまれるさうですが、田舎では大丈夫でせうか。

昭和30年(1955)3月1日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

未亡人となった智恵子の姪・春子への援助です。現金書留の盗難などもあったのですね。

少し前、昭和24年(1949)には、北海道から花巻郊外旧太田村の山小屋に送られたはずの麦が届かず、「おそらくは途中で、誰かの食料となつたのかも知れません、かうした世の中ですから」と書簡に認(したた)めたこともありました。

まず、明日開幕の件。

高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業「昔なつかし花巻駅」

期 日 : 2025年7月12日(土)~11月30日(日)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 明治5(1872)年に新橋と横浜を結ぶ日本初の鉄道が開通。その後、全国で鉄道の整備が進み、明治23(1890)年には花巻駅が開業し、東京と花巻がレールで結ばれました。
 花巻駅開業当時は駅周辺は田畑が広がる場所でしたが、岩手軽便鉄道や花巻電鉄の開業とともに交通の要所として発展していきました。
 この展覧会では、昭和11(1936)年に撮影された記録資料と、それも参考にして今回制作した昭和初期の花巻駅を中心としたまちの賑わいの様子を情景として表現したジオラマを展示します。
このジオラマを通じて、当時の花巻駅やまちの雰囲気を感じていただきたいと思います。
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ジオラマの制作は、平成30年(2018)に同館で開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際にも制作をお願いした石井彰英氏と、お友達の土屋直久氏。今回は土屋氏が中心にやられたそうですが。

前回は当方が仲介し、実現しました。江ノ電さんのジオラマ(運転士になりたかったものの病気で早世した少年にまつわるもの)などを作られていた石井氏が、ご自身のホームタウン・品川区大井町のジオラマも作成され、その中で智恵子が入院し、そこで亡くなったゼームス坂病院も組み込んで下さったのがご縁でした。

その際には仲介した責任上、何度か工房にもお邪魔し、さらに石井氏をロケハンにお連れしたり、資料類をお貸ししたりいたしました。そういえば、全体のレイアウトも当方が考えました。
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作品は企画展終了後も第二展示室の中央に置かれていましたが、先月お邪魔した際には、企画展用の小部屋に移動されていました。
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今回のものと一緒に並べるのかどうか、そこは訊いておりません。再来週伺いますので見て参ります。

今回の作品、石井氏のSNSから。
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前回は戦後すぐの光太郎在住時をイメージして作っていただきましたが、今回の設定は昭和6年(1931)だそうで、宮沢賢治存命中。したがってジオラマ中に賢治も居ます。
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今回は資料をお貸ししたくらいであまり関わって居らず(石井氏のところで土屋氏にもお会いしてお話ししましたが)、完成した現物は未見で、早く見てみたいものです。

もう1件、同館での特別展示が来週7月15日(火)から。

智恵子のエプロン復刻展示 岩手県立花巻南高等学校家庭クラブ制作

期 日 : 2025年7月15日(火)~8月21日(木)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

智恵子デザインのエプロンを高校生がつくりました。素敵なエプロンと制作過程を展示。

8月4日(月)10時から 高校生から来館者に手作りしおりプレゼント(なくなり次第終了)。

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こちらに関してはまだ市のサイト等に詳細情報が上げられていません(苦言を呈させていただければ、どうも花巻市さんはこの辺りの対応が後手後手です。ジオラマ展のフライヤーも作られているのか作られていないのか、ネット上に上がっていません)が、『広報はなまき』の今月号にちらっと紹介されています。

「智恵子のエプロン」。大正13年(1924)の雑誌『婦人之友』で写真と型紙図面入りで紹介されたものです。
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高村光太郎記念館さんで、『婦人之友』にかかわる市民講座を行った際、この件も紹介し、「どなたか復元して下さいませんかね」とつぶやいたところ、聴かれていた花巻南高文芸部顧問の菊池久恵先生が「それなら」と、家庭クラブさんに声を掛けて下さり、制作されました。

その後、昨年、花巻で開催されたイベント五感で楽しむ光太郎ライフ」で完成したエプロンを初披露。岩手の地方紙では大きく取り上げられました。出来上がったエプロンを拝見し、そのクオリティーの高さには舌を巻きました。
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また、今年は福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」でも展示。家庭クラブさん、文芸部さんの生徒さんと顧問の先生方もご覧に来られました。
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で、今度は高村光太郎記念館さんでの展示です。

同館では特別展「中原綾子への手紙」も開催中。また、7月23日(水)には二本松の智恵子生誕祭でも公演をされたヴォイスパフォーマーの荒井真澄さんと箏曲家の元井美智子さんによるコンサート(詳細はまたのちほど)も予定されています。
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さらに駐車場脇の受付では、お子様向けに「木製輪ゴム鉄砲づくり」。実に盛りだくさんです。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生まだ外出しません、しかし今年は仕事しなければなりません、

昭和30年(1955)1月4日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

昭和30年(1955)の年が明け、光太郎、数えで73歳となりました。

この年、国際的にはワルシャワ条約機構が結成され、東西冷戦が激化。第1回原水爆禁止世界大会開催などもありました。国内ではいわゆる55年体制が始まりましたし、 森永ヒ素ミルク中毒事件などもありました。『広辞苑』や現行の1円玉、料金前納式の公衆電話機はこの年に登場。後楽園ゆうえんちが開園(アメリカではディズニーランド)。

光太郎は宿痾の肺結核がどんどん進行、春には赤坂山王病院に入院しますが、手の施しようがなく、結局、中野のアトリエでの療養生活に戻ります。しかし、詩や文章、そして書は制作を続けました。

本日開幕の企画展示です。

令和7年度テーマ展「戦後80年 戦争と花巻」

期 日 : 2025年7月5日(土)~8月24日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 午前8時30分 から 午後4時30分 まで
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 350(300)円 高校生・学生 250(200)円 小中学生 150(100)円
      ( )内は20名以上の団体料金

 1945年8月15日、日本全体で310万人以上にも及ぶ犠牲者を出した太平洋戦争が終結しました。そして、終戦間際の8月10日、ここ花巻でもアメリカ軍による空襲の被害にさらされ、多くの尊い命が失われました。
 太平洋戦争の終結から80年が経過しますが、未だ世界から戦争は無くなっていません。日本においても、かつての戦争の記憶をもつ人々が少なくなっていく時代に至り、私たち博物館には戦争を二度と繰り返さないと発信する役割があると考えます。
 本展では、1931年の満州事変から1945年の終戦までの約15年間を中心に、花巻や周辺地域における戦争の歴史を、当時の貴重な資料を通して紹介します。
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関連イベント

特別講演会「花巻と戦争」
 『花巻が燃えた日』の著者で、郷土史家の加藤昭雄氏を講師に迎え、80年前の岩手県内での空襲について、花巻がなぜ攻撃されたのか、どのような被害があったのか、また花巻に残る戦争遺構についてをご講演いただきます。
 日時:7月20日(日曜)午後1時30分から3時
 講師:加藤昭雄氏(岩手・戦争を記録する会事務局長、『花巻が燃えた日』著者)
 演題:花巻と戦争
 場所:花巻市博物館 講座体験学習室
 定員:30名(要申込)
 費用:聴講無料(入館料不要)
 申込期間:6月20日(金曜)午前8時30分から7月19日(土曜)午後4時30分
 特別講演会はお電話または二次元コードの申し込みフォームから申込みいただけます。
 (注)定員に達し次第申し込みを締め切らせていただきます。
 キャンセルがあった場合は、応募期間内であれば再度申し込みができます。

特別上映会「戦争の足跡を追って 北上・和賀の十五年戦争」
 北上市出身の都鳥兄弟が制作した、北上・和賀地域の「戦争の足跡」を追った、ドキュメンタリー映画を上映します。
 (注)本上映会では著作権保護への配慮から、上映中の録音、録画、および写真撮影は固くお断りいたします。
 日時:8月11日(月曜・祝日)午後1時30分から3時30分
 監督:都鳥 伸也氏(登壇予定)
 場所:花巻市博物館 講座体験学習室
 定員:40名(要申込)
 費用:観覧無料(入館料不要)
 申込期間:7月11日(金曜)午前8時30分から8月10日(日曜)午後4時30分
 特別上映会はお電話または二次元コードの申し込みフォームから申込みいただけます。
 (注)定員に達し次第申し込みを締め切らせていただきます。
 キャンセルがあった場合は、応募期間内であれば再度申し込みができます。

ギャラリートーク
 日時:7月21日(月曜・祝日)、8月9日(土曜)
 両日とも午後1時30分から2時30分
 場所:花巻市博物館 企画展示室
 申込:不要
 費用:参加される場合入館料が必要となります。

同時開催「令和7年度花巻市非核平和展
 ヒロシマ・ナガサキの原爆写真ポスターを展示します。今年は戦後80年になります。この機会に平和の尊さについて考えてみませんか。
 開催期間:令和7年7月5日(土曜)から令和7年8月24日(日曜)まで
 開催時間:午前8時30分 から 午後4時30分 まで
 開催場所:花巻市博物館 企画展示室:花巻市高松26-8-1
 費用:一般 350円 高校生・学生 250円 小・中学生 150円
 主催:花巻市担当総合政策部総務課法規文書係

光太郎に関わるかどうか微妙なところですが、関連行事として予定されている特別講演会「花巻と戦争」の講師を務められる加藤昭雄氏は、御著書『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)で、宮沢賢治実家が8月10日の花巻空襲に遭った際の光太郎について触れて下さっており、そのあたりで期待が持たれます。

ちなみに昭和20年(1945)の戦争末期、終戦直後の光太郎の動向は以下の通り。

 4月13日  いわゆる城北空襲で本郷区駒込林町の住居兼アトリエ全焼。
      近くにあった妹の婚家に避難。
 5月3日  杉並の思想家・江渡狄嶺宅(江渡自身は前年に没)を訪れ1泊。
      リヤカーを借り、徳田秀一と共に荷物を茨城取手駅まで運搬。
 5月9日  リヤカー返却。
 5月14日  近くに住んでいた画家・池田永治が着ていたチョッキに揮毫。
 5月15日  のちに縁戚となる宮崎稔と共に上野駅から花巻に向けて出発。
 5月16日  雨中、花巻に到着。宮沢家に入る。
 5月17日  急性肺炎で高熱を出し、倒れる。
 6月15日  この日まで佐藤隆房医師の診療を受けて臥床。
 6月18日  予後を養うため西鉛温泉へ湯治に出発。
 6月24日  西鉛温泉から帰還。
 8月10日  花巻空襲。宮沢家全焼。旧制花巻中学校元校長・佐藤昌宅に移る。
 8月13日  旧太田村の太田小学校山口分教場教師、佐藤勝治に村への移住を誘われる。
 8月14日  朝日新聞記者からの極秘情報で敗戦を知る。
 8月15日  終戦の玉音放送を鳥谷ヶ崎神社で聴く。
 8月17日  詩「一億の号泣」が『朝日新聞』、『岩手日報』に掲載。
 8月21日 初めて太田村に足を踏み入れる。
 8月25日 盛岡に行き一泊。県庁内で講演
 9月5日  佐藤隆房の花巻病院にて空襲下で決死の看護に当たった職員の表彰式出席。
      詩「非常の時」を朗読。
 9月10日  佐藤隆房宅離れに移る。
 9月16日  19日まで太田村視察。佐藤勝治らの手配で移築中の山小屋を見る。
 10月10日 松庵寺で智恵子の法要を営む。
 10月17日 太田村に移る。しばらく分教場宿直室で寝泊まり。自身で山小屋の造作。
 11月17日 山小屋で生活開始。

なかなか激動の半年間ですね。

今回の展示及び関連行事の講演等で、少しでもこうした光太郎に触れていただけるとありがたいところです。

また月末近くに花巻に参りますので、観てきます。皆様もぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東北一といふ定評のある二六園の見ごとなリンゴ一箱昨日いただき感謝の至りです。青森リンゴのはんらんしてゐる東京では特に珍重に存じます。


昭和29年(1954)11月3日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎72歳

「二六園」は佐藤が自宅敷地内に作ったリンゴ園。「東北一といふ定評」あたりはかなりヨイショが入っているように思われますが(笑)。「青森リンゴ」も悪いものではありませんし……。

花巻観光協会さん主催のワークショップです。うっかりご紹介を失念しており、すでに始まっています。

木製輪ゴム鉄砲づくり

期 日 : 2025年7月1日(火)~8月31日(日) 期間より早く終了する場合もございます。
会 場 : 高村光太郎記念館受付 岩手県花巻市太田3-91-3
時 間 : ①10:00~12:00 ②14:00~16:00
休 館 : 期間中無休 屋外テントでの実施のため、暴風雨の場合など天候により直前に
      中止となる場合がございます。
料 金 : 1,800円 ⇒ 900円

高村山荘周辺で採れた木を使用したキットで木製の輪ゴム鉄砲づくり!
彫刻家や詩人として知られる高村光太郎が晩年を過ごした高村山荘。その裏手に広がる山口山の豊かな景観のなか、木製の輪ゴム鉄砲を作って的当てで遊ぼう!

花巻市では、小学生以下のお子様を対象に、ドキドキわくわくの体験がなんと【半額】で楽しめるお得なキャンペーンを開催! 雄大な北上川をゴムボートで楽しむ遊覧体験や、水面を自由に探検するカヌー&ボート体験、そして、手びねりやろくろでつくる創造的な陶芸体験!普段はなかなかできない特別な体験が、花巻にはいっぱい!

さあ、家族みんなで手をつないで、笑顔あふれる花巻で、忘れられない夏の思い出を作ろう! 小学生以下のお客様を対象に、お子様向け体験の体験料が半額になるお得なキャンペーン! 花巻観光協会からのお申込み&体験終了後のアンケートにご協力いただくことで、お得な料金にてお楽しみいただけます。
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花卷市内各所で行われる「はなまきサマーキャンペーン」の一環だそうで、高村記念館さんでは木製輪ゴム鉄砲づくり。他にもカヌーやバギーなどの体験、陶芸や和紙の手漉きなどの伝統工芸系、野菜の収穫体験、果てはわんこそばも(笑)。

お子様と共に親御さんたちもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今年は汽車にのるのが無理なので山口に行かれさうもありません、来年はゆきたいものです。子供等によろしく。


昭和29年11月3日 浅沼政規宛書簡より光太郎72歳

浅沼は光太郎が蟄居生活を送っていた郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの山口小学校長。浅沼と、小学校の児童たちから届いた書簡への返信です。前年には病をおして10日間ほど一時帰村したのですが、もはやそれも不可能な健康状態でした。

一昨日から1泊2日で光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりまして、昨夜帰宅いたしました。レポートします。

メインの目的は、昨日行われた、さまざまな方面でご活躍中の花巻市の登録ボランティアの方々への講演でしたが、もう一つ、花巻高村光太郎記念館さんで4月26日(土)に始まった特別展「中原綾子への手紙」の拝観。
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中原は与謝野晶子の弟子の歌人、詩人。戦前から同門ともいうべき光太郎と交流があり、自身で雑誌『いづかし』『スバル』などを主宰して光太郎の寄稿をあおいだり、複数の自著歌集・詩集にも光太郎に序文を書いてもらったりしています。記念館さんのある花巻郊外旧太田村の山小屋にも訪れ、その際の様子や、昭和31年(1956)に光太郎が歿したことなどを大量の短歌に詠んだりもしています。
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昨年、ご遺族より中原から光太郎宛の書簡類、原稿類がごそっと寄贈され、そのうち書簡類のお披露目です。原稿等に関しては来年度以降とのこと。
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量が多いので、4期に分け、現在第1期です。
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それでもこうした場合に使う小部屋では狭すぎて、通常の第2展示室を縦断する形でパーテーションのボードを立て、その両面に。ちなみに小部屋の方ではブリヂストン美術館歳作制作の「美術映画 高村光太郎」をモニターで流し、第二展示室中央にあったジオラマを移動させています。
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ケースに入れての展示も。
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宛先苗字が「曽我」や「小野」となっているものもあるのは、中原が結婚・離婚を繰り返したためです。結局、ペンネーム的には「中原」姓を使い続けましたが。

書簡類だけでは地味ですし、一般の方には馴染みの薄い名前なので、ビジュアル的な部分と、こういう業績を残した人物なんだよ、という意味で、手許にあった(一部は新たに購入した)光太郎がらみの中原の著書や主宰雑誌など関連史料をお貸ししました。それらもケースで展示して下さっています。
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中原が光太郎に贈られ、光太郎没後に自著詩集『灰の詩』に口絵として写真版を掲載した色紙も。
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昨年、タイミング良く京都の思文閣さんで入札に出したものです。七五調四句の今様スタイルで「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。複数の揮毫が確認出来ています。

これを包んでいた畳紙(たとう)も額に入れてお貸ししました。題箋は中原の自筆なので。
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「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりたるもの 綾子誌す」。一度、「山口村」と誤記して「太田村山口」と訂正されています。

寄贈された書簡の中には、他に類例のない、智恵子の心の病の病状を事細かに記したものも複数あります。それらは今回はあまり展示されず、2期以降となります。

また、今後、短期間で実にいろいろと他の企画が目白押しです。当会を含めたいろいろな組織等がそれぞれ別個に「あれもやりたい、これもやりたい」となってしまったようで。また近くなりましたらそれぞれご紹介いたします。

拝観後、隣接する山小屋(高村山荘)へ。ルーティンですがこちらにおわすであろう光太郎のご分霊にご挨拶。
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宿泊は定宿の大沢温泉さん。
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翌日が市街地で講演でしたが、9時過ぎに会場入りすればいいということなので、朝はゆっくり致しました。

以前は宿泊棟「菊水館」として使われ,、光太郎や当方も泊まった「ギャラリー茅」。スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏が大沢温泉さんのご常連ということで、ミニジブリ美術館的な感じで運用されています。
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現在は「トトロとジブリとカンヤダと」展が開催中(入館料600円)。
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ジブリ関係のお仕事も多数なさっているカメラマンのカンヤダ・プラテン氏の作品など。
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当方、ジブリファンというわけではありませんが、朝からほっこりさせていただきました(笑)。

講演会場へ。
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宮沢賢治が教鞭を執っていた花巻農学校跡地のぎんどろ公園、賢治の菩提寺・身照寺さん近くの花巻市総合福祉センターさん。

「光太郎はなぜ花巻に来たのか」という題で、90分ほど語らせていただきました。
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光太郎とはどういう人物だったのかのアウトライン、そして賢治本人や、賢治没後の宮沢家との関係、花卷市内に残る光太郎関連史跡などなど。

終了後、昼食をやつかの森LLCさんに御馳走になってしまい、恐縮。

さらに市街豊沢町のカフェ羅須さんへ。
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来月当会がらみで、こちらと、それから高村光太郎記念館さんとで、箏曲家の元井美智子さん、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんのコンサート(詳細はまたのちほど)を開催させていただくことになりまして、ご挨拶。
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こちらはギャラリーも併設されています。現在は市内の高校さんで教壇に立たれている髙橋圭子さんという方の作品が飾られています。
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ポストカードが販売中。高村山荘を描かれたものがあり、購入させていただきました。いい感じです。
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こちらには何度かお邪魔していたものの、その際に気づきませんでしたが、賢治の親友で、光太郎とも交流のあった藤原嘉藤治が写った写真も掲示されていました。
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今後、嘉藤治がらみでいろいろ調べたりしなければならないことがあるので、奇縁に驚きました。

そんなこんなで用件を済ませ、帰途に就きました。

途中にも書きましたが、花卷では今後もいろいろなイベントが企画されています。また後ほどご紹介いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生も肋間神経痛といふものがあつて、動きまはるのに不自由を感じてゐます、東京の街上へもあまり出ないでゐる始末なので、録音なども先方から来てもらつてやつてゐます、泊町まで果して行けるかどうか、まだ決定しかねてゐます、

昭和29年(1954)4月20日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎72歳

「結核」の語は使っていませんが、もはやかなりの重度でした。「泊町」は富山県。ぜひ一度おいであれ、というのですが、それが可能な状態ではありません。

結局、前年11月から12月にかけて旧太田村に帰村したのを最後に、一歩も東京を出ることはありませんでした。

ところが花卷の宮沢賢治記念館では、宮沢家で撮られた集合写真のキャプションに「昭和29年」。賢治関連の複数の文献にそう書かれていて、そのまま引き写されているのですが、大間違いです。昨日はその話もさせていただきました。
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昨日から1泊2日の行程で、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市に来ております。
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いつものように宿泊は大沢温泉さん。光太郎や宮沢賢治ゆかりの宿です。
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クローズドのイベントなので告知しませんでしたが、今日はこれから市のボランティアの方々に講演です。
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昨日は夕方に来花、旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんと、光太郎が昭和20年(1945)から7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)に足を運びました。
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そちらのレポートは帰りましてから。

しかし、取り上げるべき事項が山積しておりまして、花巻ネタを今日のこのタイミングで扱わせていただきます。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんで、光太郎の実際に作った献立、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

今月分がこちら。
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「鮭の塩焼き」、「イカとアスパラのバター醤油炒め」、「ワラビの煮物」、「きゃら蕗」、「ミズときゅうりの漬物」、「ニラチャーハン」、「白六穀ご飯」、「紫芋の羊羹」だそうで。

やつかの森さんからのメールによれば、「ミズとキュウリの漬物・・・塩味の浅漬け、ミズの歯触りが心地よいです。きゃら蕗 ・・・ 蕗の香りがする甘辛でご飯が進みます。わらびの煮物・・・わらびは、ふんわり仕上がり、他の具材との相性もよく程よい味でした。」とのこと。ミズは光太郎が殊の外好んだ山菜です。

また、今月は販売日の15日が日曜だったため、普段(10個)より多めに出したそうですが、完売だったのではないでしょうか。

個人的には「ニラチャーハン」にそそられます(笑)。

さて、そういうわけで、これからべしゃくって参ります。

BS11(イレブン)さん及び一部地域の地上波で放映中の深夜アニメ「ざつ旅-That's Journey-」。KADOKAWAさんの月刊コミック誌『電撃マオウ』で連載の石坂ケンタ氏による漫画が原作です。新人賞に入賞し、プロの漫画家をめざす女子大生・鈴ヶ森ちかを主人公とし、ちかの一人旅や友人たちとの女子旅などが描かれます。

4月オンエアの第2旅「伊達じゃない! きときとふたり旅」では、宮城県の松島が舞台となり、瑞巌寺さんに納められている光太郎の父・光雲作の聖観音像も登場しました。
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そして来週月曜放映分は、後半が光太郎第二の故郷・花巻です。

ざつ旅-That's Journey- 第10旅「ココロのふるさと」 

BS11 イレブン 2025年6月9日(月) 23:00〜23:30

潮岬で初日の出を拝んだちかは、バスで熊野川沿いの道を行き、初詣のために熊野本宮大社へ。そこで彼女が願ったものとは? 1月末、ちかは暦と岩手県の新花巻駅に来ていた。しかし、どこか暦の元気がないようで……!?

出演 月城日花 鈴代紗弓 平塚紗依 佐藤聡美 日笠陽子 小林ゆう 窪田等
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東北新幹線/釜石線の新花巻駅ですね。
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光太郎に関する展示も為されている宮沢賢治記念館さん。
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市街地へ出て、マルカン大食堂さんで定番の10段巻きソフトクリーム。

そして、光太郎や賢治に愛された大沢温泉さん。当方も再来週、またお世話になります。
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おおむね廻る箇所は原作に忠実になっているようです。
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残念ながら花巻高村光太郎記念館さんには廻らないようですが、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

二十五六日頃でかけるつもりで居りますが、汽車からすぐ大沢温泉にまゐります。今度は山で映画撮影の事などあるので、お目にかかるのは月末か十二月初めと存ぜられますし、宿泊は大沢等の温泉地だけにするつもりで居ります。

昭和28年(1953)11月23日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎71歳

前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村へ、約1年ぶりの帰村。ただ、当会の祖・草野心平や、美術映画「高村光太郎」撮影スタッフが一緒で、元の山小屋で寝泊まりはしませんでした。
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それでも村人たちと旧交を温めました。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻で、主に「食」を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、記録を基に光太郎が実際に自作して食したメニューや、使った食材などを現代風にアレンジしたメニューを饗する「こうたろうカフェ」。花巻市東和町のワンデイシェフの大食堂さんで月に一回、開催されています。こちらは日替わりで様々な個人や団体にキッチンを貸し出し、ランチを販売というスタイルのレストランです。

5月分が一昨日でした。
5月ワンデイ
5月ワンデイシェフ
鶏ももスティック天、人参シリシリ、イブりガッコクリームチーズオリーブオイルかけ。
鶏ももスティック天・人参シリシリ・イブりガッコクリームチーズオリーブオイルかけ
葉わさび奴、蕨のお浸し、サクの煮物、新玉ねぎシーフードサラダ。
葉わさび奴・蕨のお浸し・サクの煮物・新玉ねぎシーフードサラダ
筍ご飯、トマトと卵のジンジャースープ。
筍ご飯・トマトと卵のジンジャースープ
食べられる花ナスタチウムとレタス。
食べられる花ナスタチウム・レタス
別腹で(笑)ヨモギ餅粒あんのせ、コーヒー。
ヨモギ餅粒あんのせ
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いつも書いていますが、首都圏ではあり得ない1,000円というお手頃価格です。季節的に山菜系を素材としたメニューが多く、実にヘルシーな感じですね。山菜の採取もやつかの森さんがご自分たちで行ったそうです。

次回は6月27日(金)だそうで、今年度はほぼ毎月末に取り組まれるようです。光太郎も自分で採取し、好んで食材に使った山菜「ミズ」をつかわれるとのこと。

末永く続いてほしい取り組みです。

【折々のことば・光太郎】

鋳金像はやつと工場で出来上り、あと十日間位で十和田休屋といふ所の湖畔にたち、廿一日に除幕式、小生も十九日には出かけて列席、


昭和28年(1953)10月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎71歳

「鋳金像」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。鋳金家・伊藤忠雄の都内の工房でブロンズに鋳造され、十和田湖に運ばれました。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの取り組みを2件。ともに記録を基に光太郎が実際に自作して食したメニューや、使った食材などを現代風にアレンジしたりしています。

まず先月末の4月30日(水)、花巻市東和地区の「ワンデイシェフの大食堂」さんでの「こうたろうカフェ」。日替わりで様々な個人や団体にキッチンを貸し出し、ランチを販売というスタイルのレストランです。やつかの森さんも月に一度出店されています。
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メインディッシュが「ミートローフ&ポテトサラダ」。
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サイドメニューで「ほうれん草のわさび醤油和え」「卵焼き」「ひろっこのチヂミ」。
ほうれん草わさび醤油和え、卵焼き、ヒロッコのチヂミ
「ひろっこ」は葱の仲間の「アサツキ」という野菜の新芽だそうで。香ばしそうですね。

同じく「すき昆布煮」、「キャベツ塩漬、二十日大根、ヤーコン、キュウリ古漬」。
キャベツ塩漬、二十日大根、ヤーコン、キュウリ古漬
さらにご飯と「アスパラスープ」が付いて、デザート的に「黒豆ゼリーの胡桃かけ」とコーヒー。
黒豆ゼリー胡桃かけ
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これで1,000円ですから、もうけはほとんど無いのでは、と思われます。都心などでは考えられませんね。

今月も月末で、5月30日(金)に出店なさるそうです。その際のメニューは……
 ・鶏ももスティック天  ・山菜盛り合わせ
 ・葉わさびやっこ    ・新玉ねぎのシーフードサラダ
 ・キャロットラペ    ・お漬物
 ・筍ご飯        ・トマトスープ
 ・ヨモギ餅       ・珈琲
と、予告されています。

同じくやつかの森さんがメニュー考案に当たられている、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されているテイクアウトの豪華弁当・光太郎ランチ

今月分がこちら。
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こちらのメニューは「サバの塩焼き」、「豚肉の春キャベツ炒め」、「わらびのおひたし」、「山菜の酢味噌かけ」、「卵焼き」、「筍ご飯」、「古代米入りご飯」、「うぐいす餅」。季節的に山菜系が旬を迎え、非常にヘルシーな感じですね。「うぐいす餅」は別腹でしょうか(笑)。

「食」を通して偉人の実像に迫るのも、一つのアプローチ。両取り組み、今後とも人気を博すことを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

山口は今頃さぞよいだらうと想像してゐます、東京では八百屋の青物がふるくてまづいです。とり立てのニラをくふ事も出来ません。


昭和28年(1953)5月17日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

浅沼政規は、光太郎が前年まで7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。

終戦直後の混乱は解消されたものの、まだまだ流通の事情はよくなかったはずで、都内では新鮮な野菜など、なかなか手に入らなかったようです。

昭和20年(1945)5月15日、前月の城北空襲で本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、宮沢賢治の実家や賢治の主治医であった佐藤隆房医師等の勧めで、岩手花巻に疎開のため、上野駅を発ちました(到着は翌日)。この日を記念して、光太郎三回忌に当たる昭和33年(1958)から、光太郎が7年間の蟄居生活を送った郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されるようになりました。

当初は光太郎と直接交流のあった人々による回顧談的な講演、地元の山口小学校の児童による光太郎から贈られた楽器を使用しての音楽演奏などが行われていました。徐々に生前の光太郎を知る人が減り、講演は大学教授や渡辺えりさん、当方など、直接的には光太郎を知らない人が担当することが多くなりましたが、それでもとびとびながら、光太郎と面識のあった方々がお話しされることもありました。末盛千枝子氏、藤原冨男氏、旧太田村の皆さんなど。また、楽器は新しいものになってしまいましたし、山口小学校も統合されてしまいましたが、統合先の太田小学校の児童の皆さんをはじめ、中高生、看護専門学校生の生徒さんたちも、音楽演奏や朗読、郷土芸能などで出演されていました。

その高村祭、令和元年(2019)の第62回をもって終了となってしまいました。翌年からはコロナ禍もありましたし、それが沈静化しても、以前の形での開催はもはや難しい、との判断だったようです。

しかし、地元では復活を望む声が強く、実際、当方がパネラーなどを務めた別のイベントで質疑応答の時間にそういう要望が出されたこともあったりしました。

そこで昨年から、「高村祭」とは銘打たないものの、やはり5月15日に「花巻 光太郎を知る会」さんという有志の市民団体の主催で、山荘敷地内の光太郎詩碑前で光太郎詩の朗読を行うというイベントが行われています。今年も開催したそうです。

ちなみに同会代表の阿部彌之氏の父君は、宮沢賢治の教え子にして、花巻に林檎栽培を広め、光太郎とも深く交流のあった故・阿部博氏です。
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「高村祭」時代には花巻市さんの共催だったので、小中校生・看護専門学校生などが大挙して参加、そうすると保護者の皆さんも我が子の晴れ舞台を見ようと集まり、大勢の方々で賑わいました。それが無い分、こぢんまりとした集いですが、「高村祭」の精神を受け継ぐという意味では、有意義なものだと思います。たまたま訪れていた観光客のご夫婦なども見守られていたそうです。

泉下の光太郎も照れくさそうにしつつも喜んでいたのではないでしょうか。ちなみにこの詩碑の地下には、当会顧問であらせられた北川太一先生が保管なさっていた、光太郎が歿した時に剃った髭(ひげ)が、第一回高村祭に合わせて行われた詩碑の建立の際、分骨のように遺髯として埋納されています。

ただ、精神を受け継ぐというだけでなく、やはり「高村祭」の名称の復活が望まれるところですが……。

【折々のことば・光太郎】

早速木炭十俵安着、感謝します、ちかく為替をお送りしますが、とりあへず到着のおしらせまで、

昭和28年(1953)5月12日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

昨日も書きましたが、駿河は光太郎に山小屋の土地を提供してくれた村の長老でした。
駿河
元々太田村は炭焼きが主産業の一つで、良質な炭が生産されていました。村にいた頃、当たり前のように使っていた炭が、上京して改めていいものだったと再確認し、取り寄せたわけです。

4月2日(水)、当会主催の第69回連翹忌の集いにご出席下さった『毎日新聞』さんの記者氏による大きな記事が、4月23日(水)、『毎日新聞』さんの関東版に載りました。

旅するみつける 高村光太郎の理想郷 岩手と東京、最後の道程 「戦争責任」 「小屋」暮らし、文化向上へ交流 アトリエ取り壊しの危機

 アジア太平洋戦争が終結した80年前、みちのくの山野にわが身を「島流し」にした文化人がいた。日本の近現代を代表する彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)である。妻・智恵子への愛を支えとしつつ、戦争責任を背負った光太郎の最後の道程を岩手、東京とたどった。【高橋昌紀】

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㊧高村光太郎の命日で、遺影と献杯酒とレンギョウの花=東京都千代田区で

 ちえこ、ちえこ――。近くの裏山から、光太郎は妻をしばしば呼んだという。「高村山荘」は岩手県花巻市の郊外にある。「大仰な名称がついていますが、本人は『小屋』と呼んでいました」。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」の高橋卓也さん(48)がほほ笑む。
 3月に訪れた光太郎の旧居は、質素を超えて粗末に見えた。山中にあった林業用の作業小屋を転用し、終戦直後の1945年11月に建てられた。土壁に囲まれた板間と土間は計15畳ほどしかなく、杉皮ぶきの屋根が載る。冬には雪が吹き込み、夜具に積もったこともあったそうだ。
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「高村山荘」の板間。当初は電気も通っていなかった。通常は外側からの拝観になる=岩手県花巻市で

  東京都文京区にあった自宅兼アトリエが同年4月、米軍機の空襲で焼損し、光太郎に疎開先を提供したのが旧知の宮沢賢治の弟らだった。しかし、8月には花巻市内の宮沢家も被災し、次に選んだのが内陸部の太田村(現・花巻市)だった。 光太郎は戦時中、戦意高揚の詩を書いた。それを胸に特攻出撃した若者らがいたという。高橋さんが解説する。「戦争に協力したことへの反省があった。彫刻も封印した」。光太郎はここでの生活を「自己流謫(るたく)」と表現したそうだ。
 かといって、世捨て人となったわけではない。戦後の日本に必要なのは文化の向上、と見定めていた。村民はもちろん、東北の芸術家らとの交流エピソードには事欠かない。一般公開されている山荘にはには子供たちと並んだサンタクロース姿の写真もあり、ほほ笑ましい。
 ――智恵子は死んでよみがへり、わたくしの肉に宿つてここに生き、かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ(「メトロポオル」1949年10月、一部抜粋)
 智恵子も共にいた。 
「ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ」(同)とたたえた理想郷だったが、光太郎は離れることになる。1952年10月、青森県から「乙女の像」の制作依頼を受け、一時的な帰京を決める。
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㊧覆屋に守られた「高村山荘」。周囲の農地で、 拡大. 覆屋に守られた「高村山荘」。周囲の農地で、光太郎は「自耕自炊」の日々を送った=岩手県花巻市で
㊨高村光太郎が最後の日々を過ごしたアトリエ。当時のままの大きな窓と斜め屋根が特徴的だ=東京都中野区で


 花巻市から約500キロ。東京都中野区のアトリエを訪れた。「ここに置かれていたベッドの上で、伯祖父( おおおじ )は亡くなったそうです」。光太郎の弟の孫娘、桜井美佐さん(61)が特別に案内してくれた。所有者は別なので内観は変わったが、木造一部2階建ての外観はほぼ当時のままだ。「いつ来ても、感無量になります」。桜井さんがしみじみと語る。
 光太郎はアトリエで花巻の「小屋」をしばしば気にしていたという。やがて智恵子をモデルにした塑像を完成させたが、体調は悪化するばかりだった。帰郷はかなわず、1956年4月2日、肺結核のために死去、73歳だった。
 空が無い、ほんとの空が見たい――。そんな智恵子のつぶやきが枕元で聞こえただろうか。アトリエからの帰路、知らず知らずのうち、ビルの合間の空を見上げていた。 
アトリエ取り壊しの危機
 高村光太郎の死後も、旧太田村の住民らは「小屋」=「高村山荘」を守ってきた。風雪害などを防ぐため、1957年に木造の覆屋を建て、さらに77年には鉄骨造の上屋で覆った。光太郎がいかに尊敬され、愛されていたかが分かる。隣接の記念館では詩、彫刻、書、遺品などを展示し、地元の小学校に贈られた「正直親切」と書かれた扁額(へんがく)は光太郎の人柄をしのばせる。
  遺作となった「乙女の像」は青森・十和田湖畔に建つ。塑像が制作された東京都中野区のアトリエは洋画家、中西利雄(00~48年)が建てたが、老朽化が著しい。取り壊しの危機にあり、有志が集まって2023年に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(渡辺えり代表)が発足した。
 光太郎は詩集「道程」「智恵子抄」などで知られるが、アジア太平洋戦争中は戦意高揚のための詩も書いた。劇作家で俳優の渡辺代表は光太郎の半生を舞台劇にしたこともあり、「保存する会」の意義を語る。「光太郎は自らに罰を与えました。反省と悔悟のうえで、『平和と自由の祈り』を『乙女の像』に込めました。その思いを伝えるためにも、アトリエを残したい」
 メモ 「高村山荘」(岩手」(岩手県花巻市太田3の91の3)は、東北新幹線新花巻駅から車で約25分。記念館も近くにある。詳しくは記念館0198・28・3012。東京都中野区のアトリエは「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が署名・寄付などを募集している。同会事務局090・4422・1534(曽我貢誠さん)。

昭和20年(1945)秋からまる7年間を過ごした、花巻郊外旧太田村の山小屋「高村山荘」は、地域住民や宮沢家、佐藤隆房らの尽力で残されました。「お世話になった光太郎先生の小屋を残さなければ申しわけが立たない」という強い意志を花巻の人々が共有して下さった結果です。お世話になったのは光太郎の方でしたが……。

中野のアトリエもそうであってほしいところなのですが、現状、実に厳しい段階です。中野区としては一銭も出さないと明言されています。その後の管理運営活用の問題もありますし。ことはそう単純ではありません。

関連する件で、展示の情報を。

主に現地の皆さんに、こういう建造物があって存続の危機なんだということを広く知っていただく目的で、昨年、なかのZEROさんで「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」を開催しました。その際の展示資料のうち、解説パネル類を転用した展示を行っています。一昨日、会場設営をして参りました。

『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会

期 日 : 2025年4月24日(木)~5月23日(金)
会 場 : 中野区桃園区民活動センター2階ロビー 東京都中野区中央4丁目57-1
時 間 : 9:00~22:00
休 館 : 5月19日(月)
料 金 : 無料

昨年11月、中野ZERO美術ギャラリーにて「中野たてもの応援団」と協力し「中野を描いた画家たちのアトリエ展」を開催しました。今回はその時の一部ですが、地域の皆様に中西利雄先生やアトリエのことをもっと知っていただきたいと、ミニ展示会を開催することにしました。日本の優れた美術家、彫刻家、建築家、詩人などが関わったアトリエについてご紹介します。 

主催:中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会  協力:中野たてもの応援団 
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花巻の「高村山荘/高村光太郎記念館」、中野の「『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会」、それからアトリエ自体も外観は見学可です。桃園区民活動センターから南西方向に徒歩10分ほど、桃園川緑道添いにあります。モダニズム建築家・山口文象設計によるかなり特徴的な建物なので、行けばすぐ分かります。
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表は行き止まりの路地ですが、そちらからも見られます。
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それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今度の仕事のすむまではお医者さんにみてもらはない覚悟で他の医者からの申出も辞退してゐます、(そのわけはお分りでせう)、何卒あしからず、


昭和28年(1953)1月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に励みつつも、宿痾の肺結核を心配した姻族の宮崎が「いい医者を紹介する」的な手紙を寄越したようですが、それに対する返答です。2日後には「普通なら仕事など出来ないからだで今仕事をしてゐるのです。医者に診せたら仕事をやめろといはれるにきまつてゐます」とまで書いています。

それほどの覚悟と決意で「乙女の像」を作った中西アトリエ、取り壊しという事態は本当に勘弁してほしいものです。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、市立図書館さんの移転計画が持ち上がっています。

現在地は光太郎と関わりの深かった宮沢賢治が勤務していた市内若葉町の花巻農学校跡地・ぎんどろ公園に隣接する場所で、同じ敷地内には市の文化会館なども建っています。当方、光太郎が花巻郊外旧太田村在住時の地方紙記事などの調査のため、何度か利用させていただきました。

移転先候補地は、当初6案、それが絞り込まれて2案あったそうです。

まず、市役所に近い旧総合花巻病院跡地(花城町)。同院は賢治の主治医でもあり、光太郎の花巻疎開やその後の7年半にわたる花巻及び旧太田村での生活に物心共に多大な援助をしてくれた佐藤隆房が院長を務めていました。病院は令和元年(2019)に市内御田屋町に移転し、その跡地が候補地の一つでした。

それからJR東北本線花巻駅前という案も。

2つの案を巡っては、どちらも一長一短があり、市内でも意見が分かれていたようで、地元の方のSNS等を見ると、なかなか紛糾していたようです。

市では市民の意見等を聞く機会を設けたりし、さまざまな検討を行った結果、花巻駅前の方で、ということになったそうです。このほど、市のホームページに「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」がアップされました。
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現在、タケダスポーツさんのある場所のようです。

部外者としては、場所の決定に関しては何も言うことはありません。

で、「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」。どのように新図書館を運営していくか、そういったコンセプトが述べられており、そちらではなるほどね、と思わせられました。やはり宮沢賢治のお膝元、という部分が前面に押し出されています。

まず「基本方針」。

 本市は、宮沢賢治や萬鉄五郎をはじめとした多くの先人を輩出しています。江戸時代の先人を顕彰した「鶴陰碑(かくいんひ)」に記された人々は、自らの研鑽に精進し学術文化はもとより地域や産業の振興と発展、そして後継者の育成に努力を重ねてきました。花巻には歴史的に学びの風土があり、この精神は私たちも次の世代に受け継いでいかなければなりません。
 新しい花巻図書館の整備にあたっては、市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して、次の3つを基本方針とします。

郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館
 花巻市は輝かしい功績を遺した数多くの先人を輩出しています。この先人達を顕彰し次の時代を担う子どもたちにその精神を継承し、郷土を愛する心を育むことができるよう、郷土資料や先人の資料の充実を図ります。
すべての市民が親しみやすく使いやすい図書館
 幼児、子ども、高齢者、障がい者、すべての市民が気軽に利用できるように、親しみやすく使いやすい施設とします。自然や周辺に調和した明るくゆったりしたスペースとし、読書はもちろんのこと、くつろぎの場でもあり、交流の場ともなる施設とします。
暮らしや仕事、地域の課題解決に役立つ知の情報拠点としての図書館
 これからの図書館は市民の読書や生涯学習を支援するだけでなく、情報を得る場、生活、仕事、教育、産業など各分野の課題解決を図る図書館であることが求められているため、広い分野にわたる資料やレファレンス(検索・相談)機能の充実を図ります。

輩出された「輝かしい功績を遺した数多くの先人」には、花巻出身ではないもの、光太郎も含めて下さっているようです。「蔵書・資料の収集について」という項の中に「宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎、新渡戸稲造などの資料を積極的に収集・保存。可能な限り開架閲覧スペースに配架」という一節があります。まぁ、現在の図書館さんでも、光太郎や賢治に関する資料類はかなり所蔵されていて一室が設けられている感じで、それを引き継ぐという部分もあるのでしょうが。

やはり賢治は別格で、「宮沢賢治に関する資料については、市民から、宮沢賢治の出身地にふさわしい図書館としてほしいなどの意見が多いことから、今後出版される図書資料はもちろん、未所蔵で購入可能な資料は古本も含め積極的に収集し、地域(郷土)資料スペースにおいて配架する予定ですが、宮沢賢治専用のスペースを設けることも検討します。また、イーハトーブ館と役割分担をし、現在イーハトーブ館が保有している専門的な研究資料や絶版等入手困難な資料等は、引き続きイーハトーブ館で保有することとし、図書館で閲覧または貸出できるようシステムの構築を検討します。」だそうです。光太郎もそれに準ずる扱いくらいにはしていただきたいところです。

また、「花巻駅前も賢治作品「シグナルとシグナレス」の舞台であり、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道や花巻電鉄の駅があった場所で賢治ゆかりの地」といった記述も。多少の無理くり感は否めないなと感じつつも「なるほどね」と思いました。

もう一つの候補地だった病院跡地の方は「宮沢賢治ゆかりの地に相応しい図書館以外の公共事業に活用することも考えられる」だそうです。
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とにもかくにも「基本方針」どおり、「先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館」実現に向けて頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

丸ビルの展らん会も御覧下されし由、古いものばかりで殆ど現代的意味はない事でした、

昭和27年(1952)11月26日 吉野秀雄・登美子宛書簡より 光太郎70歳

「丸ビルの展らん会」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したことを記念し、中央公論社の肝煎りで開催された「高村光太郎小品展」。
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意外や意外、光太郎生前唯一の個展でしたが、当の光太郎自身はあまり興味がなかったようです。彫刻の制作年代の説明も無茶苦茶です。「手」は大正7年(1918)、「裸婦坐像」は大正6年(1917)です。

光太郎第二の故郷、岩手花巻から特別展示の情報です。

高村光太郎記念館特別展「中原綾子への手紙」

期 日 : 2025年4月26日(土)~2026年2月28日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(日)~2026年1月3日(土)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 中原綾子は与謝野晶子門下の歌人で、文芸誌『明星』に作品を発表しており、同誌に作品を寄せていた光太郎と交流がありました。交流は光太郎が花巻へ疎開してからも続き、昭和26年9月に山荘を訪れて光太郎を見舞うなど生涯にわたって交流を持つ間柄であったと考えられます。この展示では、智恵子抄など作品に通じる光太郎の心境を、中原に宛てた手紙からたどります。
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高村光太郎は、昭和20年5月に花巻の宮沢家に疎開。このハガキは同年6月に疎開先の宮沢家から綾子宛に発出したもの。
※旧姓は曾我綾子、結婚によって中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

中原綾子は明治31年(1898)の生まれ。光太郎より15歳下です。与謝野晶子の高弟の一人で、大正10年(1921)に復刊された第二期『明星』誌上に光太郎共々作品を発表し、その頃から光太郎の知遇を得ていたようです。前年の大正9年(1920)、与謝野家での歌会に招かれた作家の江口渙が残した回想に、光太郎、中原、生田長江、そして芥川龍之介も参加していたことが記されています。

昨年、中原遺族より、光太郎が中原に宛てた書簡など60点余りが花巻市に寄贈されました。中には『高村光太郎全集』に洩れていたものも含まれます。書かれた期間も長期にわたり、昭和4年(1929)から同26年(1951)までと、20年以上に及びます。そこで、今回の展示では来年2月までを4期に分け、入れ替えながら展示するとのことです。

書簡類の大部分は中原が主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』などへの寄稿をめぐる事務的な内容ですが、それ以外に「智恵子抄など作品に通じる光太郎の心境」。心を病んだ智恵子の病状を細かく伝える長い書簡が多数含まれており、今のところ他の人物にはこうした内容の書簡を送ったことが確認出来て居らず、その意味でも貴重です。以前にも書きましたが、中原は光太郎没後すぐ、『婦人公論』に「狂える智恵子とともに」の題で智恵子がらみの書簡を発表しました。これを読んだ人々は皆瞠目しました。

書簡以外に、『スバル』などに載った作品の草稿類も。内容的には新出のものではありませんが、ペン字の書としての魅力にも溢れています。また、多くは高村光太郎記念館のある旧太田村の山小屋で書かれたもの。これらが言わば「里帰り」したという意味での価値も大きいと思います。

いずれ展示資料全て翻刻もし、図録的な書籍にすると言う計画もあるようです。また、当方手持ちの中原がらみの史料類も併せて展示していただくつもりでおります。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜はまるで夢中で数時間を楽しく過ごしました、久しぶりでしたが以前と何の変りもなくお話をきき杯をあげたのは愉快でした、山にゐてはやはり出来ない事でした、

昭和27年(1952)11月7日 宮崎丈二宛書簡より光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前月に再上京した後、戦前からの友人知己が中野のアトリエにやってきたり、一緒に呑みに出たりということも重なりました。

11月6日には旧知の詩人・宮崎丈二と西倉保太郎、さらにその時が初対面だったようですが、二人の友人の木材商・浅野直也を交え、四人で新橋に繰り出しました。

花巻郊外旧太田村に居た頃は、当会の祖・草野心平や中原綾子なども訪ねてきましたが、そうした機会も限られていましたし、ましてや夜の町を呑み歩くということはほとんど出来ませんでした。盛岡に出た際に行きつけにしていたバーがあったり、心平のリクエストで花巻からタクシーを飛ばしてその店まで行ったり、ということもありましたが……。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの取り組みです。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。実際に光太郎が調理した献立や使った食材を参考に、メニュー考案にあたられているのがやつかの森LLCさんです。
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今月分のメニューは「ホッケの塩焼き」「豚肉のすき焼き風煮」「切り干し大根の煮物」「じゃがいもとコーンのバター炒め」「蕗味噌」「卵焼き」「おにぎり」「筍ご飯」「よもぎ入り白玉団子」。

白玉にヨモギを入れたのは「なるほど」という感じでした。また、「ホッケの塩焼き」。光太郎は肉が大好物でしたが、昭和27年(1952)に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京して入った中野のアトリエで、大家の中西夫人に頼んだ買い物メモなどにもホッケやブリなどの切り身を依頼する内容が残っています。

同じくやつかの森さんが、こちらは調理まで担当されている花巻市東和地区の
ワンデイシェフの大食堂」さんでの月に一度の「こうたろうカフェ」。連翹忌の集いを開催する間際でバタバタしており紹介出来ませんでしたが、今年初の出店だったという先月分は3月25日(火)だったそうです。

右下画像、智恵子の故郷・二本松市の智恵子の生家/智恵子記念館さんで開催される高村智恵子生誕祭 の一環としての、共に当会プロデュースによる、コンサート「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」(4月27日(日))、花卷南高校家庭クラブさんのお手を煩わせた「智恵子のエプロン」復刻展示のフライヤーを貼って下さっていて恐縮いたしました。
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こちらのメニューは「鶏むねローストのなぞソース」「たまご巾着」「バッケ風味のピザ」「春ワカメの3色和え」「イカ風味大根」「生麩のすまし汁」「きざみのせご飯」「お新香」「干柿のミルフィーユ」「コーヒー」。これで1,000円は首都圏だと考えられない価格ですね。ちなみに道の駅の「光太郎ランチ」も800円だか900円だかのお手頃価格です。

「なぞソース」はタマネギ、ニンジンがベースとなっているとのこと。「バッケ」はふきのとう。すまし汁に使われているお椀はメンバーの方のお宅に代々伝えられている塗り物だそうで、なるほど、こういうところにも工夫がされているのかと感心いたしました。

今月分は30日(水)に出店だそうです。既に30人ほどの予約が入っているとのこと。しかし、このブログが若干ネタ切れ気味でして(笑)、また日を改めましてご紹介いたします。
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【折々のことば・光太郎】

東京の空気は悪いですが、健康はまづ大丈夫らしく、このアトリエで自炊を始めました、

昭和27年(1952)10月29日 
宮沢清六宛書簡より 光太郎70歳

再上京後、外食や寿司の出前を取ることも増えましたが、基本的には自炊でした。

7年間暮らした花巻郊外旧太田村とは異なり、少し歩けば桃園町の商店街で、一通りの買い物は出来ました。そこで
七輪なども入手していました。

足腰が弱り、外出がほぼ不可能になっても先述の通り、大家の中西夫人や家政婦さんに頼んで食材を買ってきてもらい、調理は自分でという生活が最晩年まで続きます。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんから販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは「ぶりの照り焼き」「肉じゃが」「ハムサンド」「ちらし寿司」「キャベツとベーコンのサラダ」「煮豆」「りんごゼリーと干し柿」。まだまだ寒い日が続きますが、彩り的に春を感じさせるようなビジュアルですね。

毎回、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、実際に光太郎が作ったり、人から貰ったりした料理、それらに使われていた食材などを参考に組み立てられています。

メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさん、今日は花巻市内で光太郎がらみの出前講座講師だそうです。また、おそらく来月から、市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんでランチをふるまうこうたろうカフェも再開されるようです。

今後ともますますのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

珍らしいクルミを久しぶりに見てうれしくなりました、ロンドンに居た人は皆知つてゐるでせうが、クリスマス前夜に、ミツスルツウ(やどり木)の枝の下で、此のクルミをクラツカアで割つてたべる家族的たのしさは格別のものです、むろんデコレーシヨン ケーキにも此のクルミを入れます、今年の廿四日夜は山でもたのしいです、


昭和26年(1951)12月11日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

光太郎、実際にもらったクルミを使ったケーキを自作しました。生地やクリームなどもなんとかしたのでしょう。しかし、食べかけのケーキを山小屋内に置いていたところ、寝ている間にキツネかタヌキか野犬かに食べられてしまったそうです(笑)。

昨日お伝えしました通り、一昨日、昨日と、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

そもそもは、作曲家・朝岡真木子氏が光太郎詩をテキストに作曲された独唱歌曲集「組曲 智恵子抄」を歌われ、CDも出された清水邦子さんから、この夏に蒔田尚昊氏作曲の独唱歌曲集「智恵子抄」を抜粋で歌われるという黒川京子さんのお二人で「1月31日(金)・2月1日(土)と花巻で高村光太郎記念館さんや宮沢賢治記念館さんなどを見て歩きたいのですが、二人とも花巻に行ったことがありません。交通機関など現地でどうすればよいでしょうか。また、宿泊場所のおすすめなどありますでしょうか」的な問い合わせがあり、「それなら自分も同行してご案内いたしましょう」という流れ。ちょうど、昨年12月から1月26日(日)まで高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」でお貸ししていた出品物を返却してもらうする都合もありましたので。

しかし「何でこの時期なんですか? 寒いですよ」と訊いたところ「やはりこの厳しい寒さの時こそ、光太郎の花巻(旧太田村)での苦労を体感出来ると思ったので」とのこと。素晴らしいお考えですね。この時期の高村山荘(記念館に隣接し、光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋)を訪れもせずして「光太郎の山小屋暮らしは、世間に対して戦争犯罪を反省していますよ、と言うポーズに過ぎなかった」などとのたまういわゆる文芸評論家のエラいセンセイ方に爪の垢でも煎じて飲ませたいものです(笑)。

さて、1泊2日の行程を画像と共に振り返ります。特に黒川さんは宮沢賢治詩文をテキストとした歌曲にも取り組みたいということで、賢治関連のスポットも行程に入れることに致しました。

東北新幹線車中からの智恵子のソウルマウンテン・安達太良山。そして粉雪の舞う新花巻駅。
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レンタカーを借り受け、市街へ。

賢治御用達、それから光太郎もたびたび訪れて舌鼓を打ったやぶ屋さんで昼食。
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当方、天ぷらそばとサイダーの「賢治セット」をいただきました。

在来線東北本線花巻駅前に出て、林風舎さんへ。残念ながら賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏は愛知経由で九州に行かれているそうでご不在でした。
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続いて、昨年オープンした豊沢町のカフェ羅須さんへ。写真を取り忘れました(笑)。

オーナーで「宮沢賢治・花巻市民の会」の泉沢善雄氏、それからお世話になっておりますやつかの森LLCの皆さん、花巻南高さん家庭クラブの先生、さらに今年6月に当方に講演を依頼して下さった花巻ボランティア連絡協議会の方もいらっしゃり、事務的な打ち合わせ。この手の打ち合わせが出来る拠点が街なかに出来たので、便利になりました。

さて、旧太田村の高村光太郎記念館さん。花巻市街の積雪はそれほどでもありませんでしたが、徐々に標高も上がり、さらにこちらに着く頃には軽く吹雪いてきました。
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隣接する(と言っても数百㍍)高村山荘。途中の除雪が為されていたので行けました。雪を搔いていない場所は数十㌢積もっています。
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この日、最後の訪問地は少し戻って道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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宿泊先は賢治、光太郎ゆかりの大沢温泉さん。いつもは自炊部さんに泊めていただいていますが、今回は通常の温泉ホテル・山水閣さん。令和4年(2022)以来でした。自炊部さんでは、夕食は外で済ませるか館内の食堂で一品料理を頼むか、朝食はこれも館内の売店で前夜にパンなどを買っておいて食べるという感じですが、こちらでは夕食は豪華めのコース、朝食は和洋バイキング。たまにはいいものです。
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翌朝、9時に宿を出て、再び花巻市街へ。午後に花巻を後にするまでの間、日は照りながらぱらぱらと雪が舞い続けていました。

まずは宮沢家菩提寺の身照寺さん。
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近くのぎんどろ公園。賢治が勤務していた花巻農学校の跡地です。
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花巻駅近くの西公園。この2階で光太郎が講演をした旧花巻町役場、光太郎が乗った今は廃線となった花巻電鉄の車輌。
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中心街まで戻り、マルカンさん裏手の松庵寺さん。光太郎詩歌碑が3基。
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豊沢町の宮沢家。
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この奥の方にあった離れに、光太郎が昭和20年(1945)5月から8月まで厄介になっていました。しかし8月10日の花巻空襲で全焼。現在の建物は戦後のものです。

桜町の宮沢家別荘があった場所に建てられた「雨ニモマケズ」碑。数ある賢治碑のうち、第1号。碑文は光太郎の揮毫です。前日に訪れた林風舎さんには拓本が掲げられています。
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そこから見える「下の畑」。かつて賢治が耕作していた場所。
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近くの桜地人館さんは冬期休館中。
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駐車スペース脇には江戸時代の同心屋敷。

賢治命名のイギリス海岸。「海岸」といいつつ北上川の河畔なのですが。
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こちら、当方は約40年ぶりに訪れました。

そして最後のチェックポイント・宮沢賢治記念館さん。駐車場内の山猫軒さんで昼食を摂ってから拝観しました。
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昨夏から開催されている企画展示「刊行100周年 二冊の初版本」が、この日から展示替えと云うことで、当方は昨年12月に続いての観覧です。
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童話「注文の多い料理店」の直筆草稿断片が出ており、興味深く拝見。
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これで全行程を終了し、レンタカーを返却して新幹線で帰りました。1泊2日ではこんなもんでしょう。夕方までねばったり、1泊増やしたりすれば、羅須地人協会やマルカン大食堂さん、茶寮かだんさん、昭和の学校さんなど、もう少し廻れましたが。まぁ、お連れしたお二人にもとりあえずご満足いただけたようで、幸いでした。

御依頼があれば、この手の花巻ツアー、あるいは智恵子の故郷・二本松ツアーなど、運転手兼コンダクターを務めさせていただきます。もっとも、いつでも可というわけでもありませんが(笑)。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今月下半期は小生不在がちになりますし、八月に入ると暑くなり、夏に弱い小生は来訪者に接するのが苦痛になります。もすこし好適な季節の時が御来訪にはいいかと思はれますので此事一寸申し上げます。


昭和26年(1951)7月13日 宮静枝宛書簡より 光太郎69歳

宮は岩手出身の女流詩人。光太郎とは戦前から交流があり、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、光太郎の進言通り秋になってから光太郎の山小屋を訪問した際の写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻に昨日から来ております。ほぼ一ヶ月ぶりです。

今回は、オペラ歌手の清水邦子様と同じく黒川京子様とをお連れしての珍道中となっております(笑)。
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帰りましたら詳しくレポートいたします。


まずは地方紙『岩手日日』さんの記事から。

青春の感性光る 高文連花巻支部合同展 

 県高校文化連盟花巻支部の合同作品展は25、26の両日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれている。花巻、遠野両市の高校生による絵画や書、写真などが展示され、みずみずしい感性や独創的な表現が来場者の関心を引いている。
 文化活動の発表により、創造活動の向上と相互の交流を図ることを目的に毎年開催されており、28回目の今回は花巻北、花巻南、花巻東、花巻農、遠野、遠野緑峰各高校の1~3年生が約140点を出品した。
 美術の部は、高校生らしい繊細な心模様や友人などを題材にした絵画などがずらり。部活動や放課後など充実した高校生活の一瞬を豊かなアイデアで切り取った写真、力強さや流麗さを感じさせる書などもあり、訪れた人が多彩な作品に興味深く見入っていた。
 花巻南高家庭部は、文芸部の活動とタイアップし、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻智恵子がデザインしたエプロンを復刻させて展示。初日は花巻北高茶道部によるお茶会も開かれた。
 横坂貴同支部長は「日ごろの活動で磨き上げた成果を思う存分発揮するため、準備を進めてきた。文化活動に情熱を注ぐ仲間同士の交流を通し、実り多い発表の場となることを期待する」としている。

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記事にあるとおり花巻南高の家庭クラブさん、昨年6月に開催された「五感で楽しむ光太郎ライフ」というイベントでお披露目いただいた「智恵子のエプロン」について(エプロンそのものも)、さらに10月の「土澤アートクラフトフェア」で、「智恵子抄」由来のレモンのパウンドケーキをふるまった件について、展示発表くださいました。
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主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんから画像を頂きました。南高さん、今年というか、来年度というかも、やつかの森LLCさんと合同でなにがしかの活動を展開して下さるとのこと。有り難いお話です。

ちなみに智恵子のエプロン。智恵子本人が身に纏っている画像を発見しました。以前から知られている画像で、このブログでも何度か使ったものですが、モノクロ画像ではわかりにくかったのが、最近流行りの古写真をAIでカラー化するアプリを使って遊んでいたところ、気づいた次第です。
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胸の部分の特徴的な三角形のフォルム、まちがいありますまい。生地も柿渋で染めた酒袋の色です。

今後、智恵子の故郷・福島県二本松で、このエプロンに関わる活動等につなげて行ければ、などと考えております。

花巻南高家庭クラブさん、文芸部さん、さらなるご活躍を期待しておりますし、他校にも光太郎智恵子顕彰の機運が波及していってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

紙絵の画集を企画してゐる本屋が二、三ある事を知りましたが、これには小生同意しかねます。てんらん会と画集とは全く別事です。今の粗雑な感覚の連中に紙絵をいぢくり廻され、つたない印刷技術で印刷されるよりも、自然褪色の方がよいと考へてゐます、粗雑な連中は粗雑な事を自覚してゐないので尚あぶないです。

昭和26年(1951)6月24日 真壁仁宛書簡より 光太郎69歳

銀座資生堂画廊に於いて都内で初めての智恵子紙絵展が開かれると、画集として出版したいという申し出が複数舞い込みました。しかしカラー印刷の技術がまだまだということもあり、全て拒絶。結局紙絵の画集の出版は光太郎生前には行われませんでした。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから今年初めての分の画像が届きました。
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献立は「ポークビーンズ」「鱒の塩焼き」「根菜のきんぴら」「切干大根と干柿の酢の物」「塩麹入り卵焼き」「蕎麦粉クレープ」「古代米ご飯」「煮りんごの甘酒ゼリー」「漬物」。

光太郎の日記などから、光太郎が作ったメニューや使った食材を参考に、現代風のアレンジが施されています。

「古代米」は古代から栽培されてきた稲の品種の特徴を継承しているといわれるもので、光太郎が暮らした旧太田村の隠れた特産品のようです。妻がこの手のものが好きで、当方、道の駅はなまき西南さんなどでよく買って帰ります。白米に混ぜて炊きますが、もち米だけあってボリューミー、腹持ちもいいようです。
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販売元は旧太田村のプロ農夢花巻さん。調べたところ、オンラインショップもありました。ぜひお試し下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日来訪の土門拳氏に委托された滋養食品落手、ありがたく存じました、めづらしいブーダンなどをこの山の中で賞味出来るのを不思議なくらゐに思ひます、幾年ぶりのことか分りません。

昭和26年(1951)5月29日 高見順宛書簡より 光太郎69歳

ブーダン」は豚の血と脂によるフランスのソーセージの一種。この年5月21日の日記には次の記述があります。「ひる頃 土門拳来訪、助手二人同道、(略)写真撮影。三時頃辞去。元気なり。高見順に托された肉類を持参。茶ももらふ。 夕食炒飯みかん。高見氏よりのブーダンでつくる。

高見順は詩人。前年には光太郎題字揮毫による詩集『樹木派』を上梓したり、昭和30年(1955)に光太郎と行った対談「わが生涯」が雑誌『文芸』に掲載されたりしました。タレントの高見恭子さんはご息女です。

過日ご紹介した平野レミさんといい、渡辺えりさんといい、お父さまが光太郎と交流があったという芸能人の方、少なからずいらっしゃいますね。







先月、ちょぼちょぼといろいろなところに光太郎の名が出たのですが、速報の必要のないものは紹介しきれていませんでしたので、今日明日あたりで取り上げます。

今日は地方紙『岩手日日』さん、12月15日(日)の記事。

花巻の物知り度は ご当地検定に18人挑戦 歴史や文化、先人、方言も

 花巻観光協会のご当地検定「はなまき通検定」が14日、花巻市葛の市交流会館で行われた。市民らが花巻の歴史や文化、先人、観光など知る人ぞ知る花巻の難問に挑んだ。
 はなまき通検定は、花巻に関する知識の深さを認定する検定試験で、観光従事者だけでなく市民が観光客をもてなせるよう、花巻の知識習得を目的に実施。8回目となった今回は市内を中心に18人が挑戦した。
 受検者は、事前配布された検定の問題作成の基本となるテキストなどで学習。宮沢賢治や高村光太郎、新渡戸稲造らゆかりの先人に関わる設問をはじめ、市内にある高速道路のインターチェンジの数、わんこそば全日本大会の制限時間、国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産に登録された花巻の郷土芸能、方言「とのげる」の意味、メジャーリーガーの菊池雄星投手がプロデュースするトレーニング施設名など多岐にわたった。
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主催は花巻観光協会さん。4択問題が50問出され、1問2点の計算で80点以上が合格だそうです。事前に配付されるテキスト『はなまき通検定 往来物』は全75ページ。結構な分量ですね。
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今回で8回目ということですが、その都度改訂も入っているそうです。確かに記事には花巻東高出身の菊池雄星投手の件など、最近のネタも出題されたとあります。

我らが光太郎についても〈キラリと輝く先人達〉という章で「高村光太郎」の項を設けて下さっています。ありがたし。
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他にも大沢温泉さん、鳥谷崎神社さん、萬鉄五郎、多田等観、佐藤隆房、金田一国士などの項にも光太郎の名。よそ者でも地域に貢献すればこういう扱いになるのですね。

ちなみに令和2年(2020)に行われた第4回の際にも報道に光太郎の名があったので、このブログでご紹介していました。
「はなまき通検定」問題。

全国の自治体さん社会教育のご担当、観光協会さんなど、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

おてがみによると来月見舞に来訪との事ですが、これは取りやめにしてください。無駄な旅費をかけることになります。おめにかかるのはうれしい事ですが実際は病気にはよくありません。静かにしてゐるのが一番いいわけですから。見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です。

昭和26年(1951)3月15日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

宮崎は光太郎姻族。結核性の肋間神経痛でペンを持つのも一苦労という光太郎を見舞おうとしましたが、光太郎の方で謝絶。「見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です」。これは決して強がりではなかったように思われます。

一昨日、中途半端なところで終わってしまった花巻レポートの続きです。

豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさったお店ですが、花巻市さんの広報誌『広報はなまき』12月15日号に紹介されています。
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展示されていました地元の方の賢治オマージュの作品、画像がアップロードし切れていませんでしたので、追加です。
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店内には他にも常設的に賢治関連の展示も。
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それ以外にも、写真を取り忘れましたが、ジャズを中心に、クラシックや懐かしのJ-POP、果ては演歌にいたるアナログレコードがずらり。

そこそこ面積もあり、キャパ数十のちょっとしたコンサートなど音楽や朗読イベント等も可能なようです。光太郎関連でもやらせてくれそうです。
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今後のますますのご繁昌を祈念いたします。

さて、市街地を後に、旧太田村方面へレンタカーを走らせました。目指すは光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋・高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館さん。一見平坦な道に見えて徐々に標高が上がっていき、少しずつ積雪も。

まずは手前の高村光太郎記念館さん。驚くほどの積雪ではありません。というか、逆にこの時期としては雪が少なくて、驚くほどです。以前はスタッフの方が小型の除雪車でメートル単位の雪を排除していました。
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こちらでは、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館、花巻市総合文化センターの4館が連携し、統一テーマ「イーハトーブの先人たち」による同一時期開催の企画展「ぐるっと花巻再発見」の一環として「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」が開催中。
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スペース中央に、どん!と蓄音機。
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パネルは、クラシック音楽に関わる光太郎詩や尾崎喜八、宮沢清六ら周辺人物の回想等。
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SPレコードが4枚。うち2枚は当方がお貸しした、太平洋戦争前の光太郎作詞のものです(楽譜も)。
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自宅兼事務所にはアナログレコードの音声データをPCに取り込めるレコードプレーヤー(SPの78回転にも対応しています)がありますので、こちらで作成したデータも一緒に提供しましたところ、QRコードで聴くことが出来るようにしてありました。
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この2枚以外にもSPレコードを数枚お貸ししたのですが、スペースや予算の関係でしょうか、そちらは展示されていませんでした。以前に使っていた展示ケースが不具合、その後新たに補充されていないそうで、それさえあればずらっと並べられるのに改善されていません。マストの備品なので何とかして下さいと前々から言っているのですが、何だかなぁ、という感じです。

他に、光太郎も聴いたであろう戦後くらいのクラシックの盤。こちらは地元の方のご提供。
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会場内ではこちらから採ったと思われる音楽をエンドレスで流しています。

隣接する(といっても数百㍍)高村山荘へ。市街地でも熊の出没情報が相次いでいますので、十分注意しつつ。この積雪の少なさで、まだ冬眠していないようです。
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ルーティンで、光太郎遺影にご挨拶。

その後、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに立ち寄り、リンゴを一箱購入して自宅に発送。少し前にやつかの森LLCさんからいただいた一箱も食べきっていないのですが、あったらあったで困りませんので。

そして定宿の、光太郎や賢治も愛した大沢温泉さん。
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渓流側の部屋にしていただき、ラッキーでした。

当方、ここのところ毎年冬の初めには手指に内出血系のしもやけが出来て、痛くて堪らないのですが、大沢温泉さんに浸かると不思議と治ります。以前もそうでした。恐るべし、温泉パワー(笑)。

そして翌朝。この日は世田谷の千歳船橋で演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」拝見のため、8時台のはやぶさ号で帰りました。

また来月も花巻行きの予定です。カフェ羅須さん、高村光太郎記念館さん、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

三日に胆沢郡水沢町といふ町の水沢公民館で智恵子の切抜絵の展覧会をやつたやうです。そこには智恵子の旧知の人が居ます。山形市、盛岡市、花巻町でもやりました。


昭和25年(1950)11月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

水沢町は現在の奥州市。こちらの公民館で1日限定で智恵子の紙絵の展示が行われました。作品は花巻の佐藤隆房宅に疎開させておいたものからチョイスし、「智恵子の旧知の人」日本画家の夏目利政が骨折って実現しました。夏目は明治42年(1909)からおそらく同44年(1911)春まで、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。水沢方面に疎開して、戦後もしばらくいたようです。

パンフレットには夏目による在りし日の智恵子を思い出して描かれた絵も載せられました。
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昨日正午頃、光太郎第二の故郷、岩手花巻に参りまして、ほぼトンボ帰り。帰りの東北新幹線はやぶさ号車内で書いております。光太郎がらみ以外の雑事に追われておりまして、こんな日程になってしまいました。

昨日はまず東北新幹線新花巻駅でレンタカーを借りた後、宮沢賢治記念館さんと、宮沢賢治イーハトーブ館さんへ。ほぼ雪は無く、若干拍子抜けでした。今年2月もそんな感じでしたし、やはり地球温暖化の影響なのでしょうか?
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賢治記念館さん駐車場展望台からの早池峰山。山はともかく、下界には積雪が見えません。
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両館ともに、『春と修羅』『注文の多い料理店』の刊行100周年に関わる企画展が開催中。特にイーハトーブ館さんの方では展示解説パネルに光太郎の名も出して下さいました。
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賢治記念館さんでも常設のパネル、人物相関図に光太郎。
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こちらに伺うのは数年ぶりで(イーハトーブ館さんでは昨年、シンポジウムのパネラーをさせていただきましたが)、賢治のチェロ、妹・トシのヴァイオリンなど興味深く拝見しました。
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もちろん企画展も。
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2ヶ月ほど前にやはり花巻で出演させていただきました「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に関連する内容も含まれましたし、来年も花巻で光太郎と賢治、特に数回にわたり光太郎が関わった『宮沢賢治全集』に特化した講演をさせていただく予定ですので、その予習にもなりました。

この後、市街地へ。

目的地は、豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさり、その開店祝いも兼ねて。
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思いがけず「光太郎を知る会」メンバーの方もスタッフとしていらっしゃり、美味しいコーヒーをいただきつつ、賢治・光太郎談義に花を咲かせました。

結構広い店内はギャラリーも兼ね、地元の方の賢治オマージュの作品が掲げられていました。
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賢治関連の展示も。

と、ここまで書いたところで、画像のアップロードが出来なくなりました。撮った画像をサイズ変更せず上げて来ましたので、スマホからの投稿だとパンクするようです😢

この後、旧太田村の光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを廻り、定宿の大沢温泉♨️さんに泊めていただきましたが、そのあたり、明日以降に回します。

今日は真っ直ぐ千葉に帰らず、大宮で下車し、湘南新宿ラインに乗り換えて世田谷方面に向かいます。過日ご紹介した演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」を拝見に伺います。そのレポートも後ほど。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、光太郎の実際に作ったメニュー、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

昨日販売された今月分がこちら。
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献立は「鶏の唐揚げ」「イカと大根の煮物」「野菜炒め」「塩麹入り卵焼き」「大学芋」「チーズ入り蒸しパン」「白六穀ごはん」「みかん」。

唐揚げはクリスマス感を醸し出していますし、みかんも旬ですね。光太郎の大好物の一つでした。

さて、メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんのお一人、新渕和子さんがこのたび快挙を成し遂げられました。

地方紙『岩手日日』さん。

新たに5人 「食の匠」認定

 県は、郷土食の優れた技術を持ち、伝承する人を認定する2024年度「食の匠(たくみ)」として、新たに花巻市の新渕和子さん(73)ら5人を認定した。
 盛岡市内で11日、認定書の交付式が行われ、佐藤法之県農林水産部長から一人一人に認定書が手渡された。
 代表して新渕さんは「先人から受け継がれてきた食文化や豊かな農林水産物を生かしたふるさとの味を大事に思っている。岩手の素晴らしい食を若い世代へ伝承するとともに、地域内外に向けて発信し、地域活性化に尽力したい」と意欲を示した。
 認定制度は1996年度に始まり、今回を含めこれまでの認定数は306人・団体となった。
 新規認定者と認定料理は次の通り。(敬称略)
 ▽簗場五月(雫石町)=かまやき▽佐々木チヨ子(葛巻町)=凍みじゃがいももち▽新渕和子(花巻市)=ばくろう(香茸)おこわ▽加藤敏子(一関市)=凍み餅▽竹野牧子(宮古市)=ごぼう巻

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IAT岩手朝日テレビさん。

岩手の食文化を受け継ぐ 食の匠 新たに5人が認定

 岩手の食文化を長年受け継いできた「食の匠」に新たに5人が認定され、認定証が贈られました。
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 県は地域の食文化を受け継ぎ、発信を続ける人たちを毎年、食の匠として認定しています。
 今年は5人が選ばれ、認定証が贈られました。
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 宮古市の竹野牧子さんが作る「ごぼう巻き」は、甘辛く味付けされたゴボウとニンジンをシソの葉で巻いた漬物です。
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 花巻市の新渕和子さんが作る貴重な「ばくろう茸」を使用して作った「ばくろうおこわ」は正月などに振舞われるごちそうです。
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 県が認定する食の匠は283の個人と23の団体になりました。
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 今後イベントなどで料理の実演や指導を行う予定です。
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新渕さんは昨年、今年と連翹忌の集いにもご参加下さいまして、当方もお世話になっている方です。生前の光太郎をご存じで永らく語り部を務められた故・高橋愛子さんのご親戚の由。「ばくろうおこわ」の原材料の一つ、香茸もご自分で採集なさり、以前、ごっそりいただいたこともありました。当方はおこわではなく白米に混ぜた炊き込みご飯にしてみましたが、その名の通り香ばしく、その上なかなかに美味で、妻にも好評でした。

今後ともご活躍を祈念いたします。また、「食の匠」制度は団体での認定もあるようなので、やつかの森LLCさんとしてもオーソライズされてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

昨日は花巻で豚肉を仕入れて来て、今日はスズメマヒコといふ茸と一緒に煮てくひました、この茸は楢の木に出る珍らしいもので中々美味です。丁度今は栗がさかんに屋根に落ち、たくさん拾ひます、栗飯も山の景物です、


昭和25年(1950)9月30日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に自生する茸も、貴重な食材でした。ただ「スズメマヒコ」という茸はネットで調べても情報が出て来ません。方言でしょうか?

新聞各紙から2件。

まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん、12月11日(水)の記事。

宮沢賢治「注文の多い料理店」誕生から100年 実は「注文の少ない」童話集だった 出版秘話をひもとく

 岩手県花巻市出身の作家、宮沢賢治(1896~1933年)の短編集「注文の多い料理店」が誕生から今月で100年を迎えた。ほぼ無名だった生前に出版した唯一の童話集。時代を超えて「世界の賢治」へと導いた始まりの一冊の出版秘話をひもといた。
■自筆原稿がないのは…
 「出版100年記念ウイーク」と銘打った公演が今月、盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館で始まり、4日は「3・11絵本プロジェクト」が6作品を朗読やタペストリー劇で表現。メンバーの佐々木優子さん(64)は「賢治の広く深い知識が土台にあり、誰でも楽しめる童話ばかり。少しも古びていない」と強調した。
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 「注文の多い料理店」は1924年12月1日、賢治が28歳の時に刊行された。青年2人が山奥の奇妙な西洋料理店に迷い込む表題作や「どんぐりと山猫」「山男の四月」「鹿踊のはじまり」など9編を所収する。
 出版元は盛岡市材木町にある光原社。現在は民芸品などを販売し、同じく今月1日に100周年を迎えた。
 創業者の及川四郎氏(1896~1974年)は盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)で賢治の1年後輩だった。卒業後、友人と興した「東北農業薬剤研究所」で農薬や農業関係書を販売。売り込み先の花巻農学校(現花巻農高)教師だった賢治から童話の出版話を受けたのがきっかけだった。
 「出版社らしい名前にしよう」。文芸書を手がけるに当たり「光原社」の屋号は賢治が提案した。及川氏の孫で6代目社長、川島富三雄さん(76)は「賢治が夢見ていたユートピア的な発想や思いを込めたのではないか」と想像する。
 川島さんが小学5年の時、出版時の逸話を知った。学校で「よだかの星」を習い、賢治がどんな字を書くのか見たくなった。祖父に頼むと「従業員が東京で原稿を印刷してもらい、盛岡へ戻る途中に上野駅で置引に遭った」と聞かされた。
 賢治の自筆原稿が数多く残っているにもかかわらず、出版元の光原社に「注文の多い料理店」の原稿が現存していない真相だった。
 曲折を経て、光源社は1000部を発刊。定価1円60銭で表紙絵や挿絵も充実し、当時としては豪華な作りだった。無名作家ながら高村光太郎や草野心平ら詩人から絶賛されたが、世間の反応は鈍かった。見かねた賢治が200冊購入するほどで、採算は取れなかった。
 「『注文の多い料理店』はまことに『注文の少ない童話集』でありました」。光原社は当時の様子をホームページで伝える。
 花巻市の宮沢賢治記念館では、1924年に賢治が唯一自費出版した詩集「春と修羅」と合わせ特別展「刊行100周年 二冊の初版本」を開催している。所収作品や書き損じ原稿など貴重な資料を紹介する。
 この2冊以降、賢治が37歳で早世するまで作品集を出版できなかった理由について、賢治の弟清六氏の孫で学芸員の宮沢明裕さん(46)は「体調の問題に加え、自信を持って出した2冊があまりに売れなかったことが大きい」と推測する。
 未発表の原稿は清六氏らが守り、世に広めた。記念館では直筆原稿など約3500枚を所蔵し、資料の修復を進める。宮沢さんは「出版できなくても作品の構想と執筆を生涯続けた賢治と、作品を後世に残すことに生涯を懸けた祖父の思いを大事にしている」と話す。
 出版時に売れなかった一冊は、関係者の尽力が結晶し、不朽の名作となった。川島さんも「祖父は賢治作品が世界中で読まれるよう願っていた」と思いをはせる。「一つの星を見るように、100年受け継いできた及川四郎の思いと賢治の夢。この先も変わることなく生き続けるでしょう」
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よく使われる表現ですが、賢治は時代を突き抜けて早すぎた、ということでしょう。我が国口語自由詩史上の金字塔である光太郎の詩集『道程』(大正3年=1914)にしても、刊行時にきちんと書店を通して売れたのは7冊だけだったらしいと、光太郎自身ものちに回想しています。賢治の『春と修羅』、『注文の多い料理店』ともに売れ残り残本の処理には困ったそうで。

当時からその才に目を付けていた光太郎や心平、炯眼と言わざるを得ません。

心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。おそらく大正末か昭和初めのことと思われます。

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。

光太郎が親友・水野葉舟へ送った書簡(大正15年=1926)から。

宮沢氏からの本先日女中さんに托しましたが、此前の「注文の多い料理店」は黄瀛君に返却しなければなりませんから、お手許へ出して置いて下さい。

「宮沢氏からの本」が『春と修羅』で、その前に『注文の多い料理店』を貸していたようです。ただし黄瀛(光太郎や心平の仲間うちで唯一、賢治本人と会ったことがある人物でした)から借りたものの又貸しだったようですが。

その光太郎にしても心平にしても、賢治の全貌を知るのは賢治が歿してからのことでした。未発表の原稿がたくさん遺されていたことは何となくわかっていたらしく、昭和8年(1933)に賢治が亡くなるや、光太郎は心平に金を握らせて、花巻の宮沢家に向かわせます。遺稿はどうなっているのか、それを確認して来てくれ、というわけで。光太郎自身は智恵子の心の病が昂進していた時期で、動けませんでした。

心平が宮沢家に着くと、賢治実弟の清六が賢治から託された遺稿をしっかり管理していることがわかり、一安心。そして膨大な原稿を見た心平が清六に、一度東京に持ってきてごらんなさい、的なアドバイスをしたのでしょう。翌昭和9年(1934)、新宿モナミで開催された賢治追悼会に清六が原稿の詰まったトランクを持参、光太郎や永瀬清子、新美南吉らはそれを見て仰天。さらにトランクのポケットから「雨ニモマケズ」の書かれた有名な手帳が見つかりました。

おそらく光太郎にしても心平にしても、もっと早くに賢治手を差しのべておくべきだったという悔恨が生じたのでしょう。罪滅ぼしというと何ですが、その後繰り返された『宮沢賢治全集』出版に二人が関わっていくことになるわけです。光太郎は装幀までも手がけました。

さらに光太郎は宮沢家の依頼で、昭和11年(1936)に花巻の桜町、羅須地人協会跡地に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫も行いました。そのあたりで光太郎に恩義を感じていた清六や父・政次郎が、昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招く、というわけで、本当に人の縁(えにし)というのは不思議なものだな、と思います。

今週末、また花巻に行って参りますので、記事にある賢治記念館さんの特別展 「刊行100周年 二冊の初版本」も見てこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

果して選集など出す資格があるかどうか、これまで何ひとつまとまつた仕事もしてゐない者がただ原稿をかき集めて何冊かの出版にしたところで江湖の読者がそれを更に要求しなかつたら甚だ滑稽な仕儀と存じます。この点がまだ気がかりで躊躇せずにゐられない気持に左右されてゐます。世上多くの選集全集の中にはさういふものもあるやうな気がします、徒らに無用の残骸をさらすやうではどうかと思はずにはゐられません、


昭和25年(1950)9月29日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

結局、翌年から松下の勤務していた中央公論社から全六巻の『高村光太郎選集』が出されるのですが、賢治の全集や選集の出版には協力を惜しまなかった光太郎も、自身の選集出版には気乗りがしなかったようです。

毎年恒例ですが、今年度は本日開幕です。

花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~

期 日 : 2024年12月7日(土)~2025年1月26日(金)

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館、花巻市総合文化センターの4館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。
 
■花巻新渡戸記念館 テーマ「島善鄰 没後60年」
 島善鄰は1889年、広島生まれ。善鄰8歳の時に父の故郷、花巻に帰ってきました。「リンゴの神様」「リンゴの恩人」と称されるリンゴ研究の第一人者、島善鄰について紹介します。

■萬鉄五郎記念美術館 テーマ「東和モンパルナスー岩手の小さな町に集った美術家たち―」
 萬鉄五郎の出身地である岩手県花巻市東和町には、1990年代から現在に至るまで多くの画家や彫刻家、陶芸家たちが移り住み活動の場とするなど、岩手の小さな町を拠点に多彩な表現活動を繰り広げてきました。
 本展では、パリのモンパルナスに集った画家たちにちなみ、「東和モンパルナス」と銘打って、この町に集った多様な美術家を紹介します。

■高村光太郎記念館 テーマ「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」
 昭和20年5月に花巻へ疎開し、同年秋に太田村へ移住した高村光太郎。留学中に欧米の音楽に触れた光太郎は帰国後もレコードやラジオを通じ、時にはオーケストラによる生演奏でクラシック音楽を楽しんでいました。太田村への移住後、ラジオを入手した光太郎は放送での演奏のほか、蓄音機でも音楽を楽しみました。
 この企画展では、音楽をテーマに光太郎が山の暮らしの中で執筆した詩など、光太郎にゆかりある楽曲や関連する資料を紹介します。

■花巻市総合文化財センター 「縄文ムラの人々」
 花巻市内から出土する埋蔵文化財の7割は縄文時代のものです。本企画展では、縄文の人々のムラ・信仰・生業など考古資料からひもといてみます。

《関連イベント》
★ぐるっとまわろう!スタンプラリーを実施します!
共同企画展の会期中、開催館4館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。この機会にぜひ足を運んでみてください。
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年によって参加館数が異なったりするのですが、今年は4館。

そのうち花巻高村光太郎記念館さんでは、地元の音楽関係の方にご協力いただき、SPレコード等の展示を行うそうです。関連行事としてレコードコンサート的な催しも。
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当方も史料をお貸ししました。光太郎作詞の戦時歌謡のSPレコードを4枚、それから戦時歌謡ではなく歌曲「ぼろぼろな駝鳥」(弘田龍太郎作曲 昭和18年=1943)、戦後の光太郎詩朗読が吹き込まれたSPもそれぞれ1枚ずつ。さらにそれらの楽譜、歌詞カードなども。全て展示されるかどうか不明ですが。

戦時歌謡4枚のうち3枚は、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)です。「隣組」も歌った徳山璉の歌唱でちょっとしたヒット曲となり、現在再放送中のNHKさんの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でも戦時中のシーンで使われました。徳山歌唱の盤が2種類、それから日本ビクター管絃楽団によるインストゥルメンタルバージョンです。もう1枚は文部省の日本国民歌全5曲の一つとして箕作秋吉が作曲し、関種子が歌った「こどもの報告」(昭和14年=1939)。まぁ、それぞれ光太郎の黒歴史ですね。

戦後の朗読は光太郎最晩年の昭和30年(1955)、家の光協会でリリースした「家の光つどいの歌」。B面に詩朗読で光太郎の「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)、光太郎とも交流のあった竹内てるよの「わたくし」が吹き込まれています。朗読者は不明です。
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通常の盤も存在しましたが、当方手持ちのものは絵が印刷されたピクチャーレコードです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

明六日放送の由、丁度いまラジオ受信機がこはれてゐて残念です、ますます御元気であられる様にいのります。

昭和25年(1950)9月5日 新井克輔宛書簡より 光太郎68歳

故・新井克輔氏はハーモニカ奏者。かつて連翹忌の集いに20回近くご参加下さり、アトラクションとして見事な演奏を披露していただきました。

光太郎、ラジオの音楽番組をよく聴いた他、花巻町中心街に出た際は宮沢家に立ち寄って、賢治実弟の清六にさまざまなレコードを聴かせてもらってもいました。中には賢治の遺品などもあったのでしょうか? そんな中で詩「ブランデンブルグ」(昭和23年=1948)なども生まれました。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で、主に「食」を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさん。様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗する市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんで不定期に「こうたろうカフェ」として参加なさっています。日記などから読み取れる、光太郎が実際に作ったメニュー、使用した食材などを参考になさっています。

今年最後の出店が11月27日(水)だったそうで、画像等お送りいただきましたのでご紹介します。
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メニューは以下の通り。
 ウェルカムドリンク ブルーベリースカッシュ ローストポーク ブルーベリーソース
 大根の海老あん 春菊と水菜の胡麻和え 里芋の胡桃かけ キクラゲの佃煮
 お新香 ミズの実ごはん ふわふわ天使のスープ 林檎パイカスタード コーヒー


メインのローストポークには付け合わせとして粉吹きいも、バターナッツかぼちゃ、人参、紅心大根、パプリカが添えられ、ご飯には光太郎が好んだ山菜ミズの実をトッピング。実が成るとか、ましてや食べられるというのは存じませんでした。

しかし、いつも思うのですが、これで1,000円というのは、都会ではあり得ない価格ですね。

お店としては営業が続きますが、最初に書いた通り、やつかの森LLCさんの今年最後のご出店だったそうです。次回は来年3月の予定だとのこと。活動拠点からお店までが意外と遠く、積雪のため食材の搬入等が困難になるためだそうです。

再開以後も変わらず繁昌することを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

御委托の抹茶と中村屋の「石ごろも」とありがたくおうけとりしました。石ごろもといふ日本菓子は小生子供の頃からの好物でした。これは江戸の名残です。

昭和25年(1950)8月3日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

「石ごろも」。固有名詞かと思ったらそうではなく、「大福」や「どら焼き」同様、普通名詞なのですね。小豆の漉し餡を固い砂糖の「衣」で包んだ和菓子。現在では無くなっているようですが、当時は中村屋さんでもラインナップに入っていたようです。

書簡からも光太郎の食生活が垣間見え、興味深いところです。

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