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また紹介すべき事項が山積しつつあり、2件まとめてご紹介します。

まず、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」について、地方紙『岩手日日』さん。

山菜味わい推敲重ね 光太郎直筆原稿「七月一日」初公開  高村記念館・花巻

000  東京から疎開し花巻の山口集落で過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が山の暮らしの様子を記した散文の直筆原稿が、花巻市太田の高村光太郎記念館で初公開されている。村人として生活を送っていたことがうかがえる内容で、光太郎の原稿では珍しい推敲(すいこう)の跡もそのまま残っている。
 光太郎は、1945年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼って花巻に疎開し、8月に山口集落(現同市太田)で暮らし始めた。散文は翌年に執筆され、50年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載された。題名は「七月一日」。200字詰め原稿用紙4枚にブルーインクで書かれている。
 散文には地域で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓に上がる様子が山菜の描写と共に詳細につづられている。東北に来て初めて知った山菜「ミヅ」について山奥の谷川の水場にしげり、おひたしや塩漬け、汁の実にして食べると、「ワラビのようなぬめりがあって歯切れが良く、味に癖がなくてさっぱりしている」「ミヅのぬめりとニシンの脂とがよく調和する」などと記し、村人と同じ食生活を送っていたことが読み取れると同時に、東京では絶対に口にすることのないものへの感動が伝わる。
 テーマ展は7月7日まで。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

記事にあるエッセイ的な「七月一日」、全文はこちら。
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『智恵子抄その後』が刊行されたのは昭和25年(1950)11月20日。太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に『智恵子抄』を上梓した澤田伊四郎の龍星閣が、ある意味、二匹目のドジョウを狙って出版しました。「詩集」と冠されていますが、詩は同年1月に雑誌『新女苑』に発表した「智恵子抄その後」の総題を持つ6篇の連作詩、同じ『新女苑』や他の雑誌に発表されたものが5篇。その他は散文で、散文の方が圧倒的に分量が多いものです。

この「七月一日」は、それまでに他の雑誌や新聞等に発表された形跡が無く、初出と推測されます。というか、光太郎本人による「あとがき」に、「澤田君は私の手許から山小屋日記に類する文章その他を物色して、つひに斯ういふ一冊の詩集を校正してしまつた。私も澤田君の熱意に動かされて、結局この六篇を根幹とする詩集といふものの出版に同意した。」とあり、「山小屋日記に類する文章」として、澤田が光太郎から借りた日記の一部なのではないかと推定されます。

目次の「七月一日」下部には「昭和二一・七・一」の文字。実際、この年の5月16日から7月16日までの日記が失われています。同様にやはり『智恵子抄その後』には昭和25年(1950)に書かれた「九月三十日」というエッセイも掲載されており、こちらも他の新聞雑誌等に掲載が見あたらず、そして当該日前後の日記が失われています。「物色」のひと言から澤田による借りパクと断定は出来ませんが……。

閑話休題、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」、ぜひ足をお運び下さい。

もう1件は、『毎日新聞』さんの千葉版から。

君津出身 不運の画家、柳敬助に光 渡辺茂男さんが評伝出版 /千葉

  明治・大正期に渋沢栄一や北原白秋の肖像画を描くなどして活躍した君津市出身の洋画家、柳敬助(1881~1923年)の評伝が出版された。執筆したのは同市の文化財審議会委員を務める渡辺茂男さん(73)。柳が42歳で没した年に関東大震災が発生、多くの作品が失われた。歴史に埋もれた画家の人生を丹念に掘り起こした。
 本のタイトルは「不運の画家―柳敬助の評伝」(東京図書出版)。「西洋画黎明(れいめい)期に生きた一人の画家の生涯」のサブタイトルが付けられている。
  柳は現在の君津市小糸地区で医師の子として生まれた。通っていた籾山尋常小の佐藤善治郎校長に才能を見いだされ、絵描きになることを勧められたと伝わる。後年、柳が描いた佐藤校長の肖像画が小糸小に残されている。
 東京美術学校(東京芸大の前身)で西洋画を学んだ後、米欧に留学。帰国後は渋沢や北原、思想家の三宅雪嶺、政治家の野田卯太郎ら各界で活躍する人物を描き、肖像画家としての地位を確立した。
 だが、1923年5月に42歳の若さで病死。その年の9月1日から日本橋三越で遺作展が開かれる予定だったが、関東大震災が起き、代表作を含む約40点を焼失してしまった。残された作品の多くは現在、柳が終生の友とした彫刻家の荻原守衛(もりえ)を記念した碌山(ろくざん)美術館(長野県安曇野市)に所蔵されている。
 君津市出身の渡辺さんは昨年、柳の没後100年を迎えたのを機に執筆を始めた。「郷土が生んだ洋画家が、どんな絵を描き、どんな人生を送ったのか、記さないといけない」と使命を感じたという。数点の手紙を除き、柳の日記や手記などは見つかっていない。関わった周辺の人物の書籍などから、その歩みを探った。昨年には柳の作品などをまとめたパネル展示も小糸公民館で開いた。
 柳は詩人で画家の高村光太郎らと親交を深め、多くの芸術家が集った「中村屋」(現在の新宿中村屋)の支援を受けて創作活動に打ち込んだ。「多くの作品が焼失し、その絵を見ることはできない。現在の私たちには不運なことではあるが、柳本人の人生は幸せだっただろうと思う」と話す。
 <小糸川の水一滴は七つの海につうじる>。同市の君津高校上総キャンパスに建つ石碑に刻まれている言葉だ。小糸川流域で生まれた人々が「七つの海」、すなわち世界で活躍することを願った言葉とされる。渡辺さんは「柳の人生は、この言葉を正に体現していたと思う。小糸から羽ばたいた青年の人生を広く知ってほしい」と願う。
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君津市出身の画家、柳敬助の評伝「不運の画家」を出版した渡辺茂男さん。
手前は小糸公民館での展示で使用したパネルの原本=君津市

過日ご紹介した『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』についてです。

柳の名は光太郎顕彰に携わる身としてはマストなのですが、やはり一般にはあまり知られていない名前なんだな、と感じさせる書きぶりでした。まぁ、当方も渡邉氏のご講演拝聴するまで、柳の生涯をそれほど詳しく知っていたわけでもありませんが。

ところで「詩人で画家の高村光太郎」とありますが、「詩人で彫刻家の高村光太郎」としていただきたかったところです(さらに云うなら、光太郎自身の優先順位としては「彫刻家で詩人の高村光太郎」でしたが)。おそらく書いた記者さん、光太郎についてもあまりご存じないようで……。

何はともあれ、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。Amazonさん等でも入手可能です。

さらに、記事にある安曇野の碌山美術館さんに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

稚拙の美は無意識にして始めて価値あり、世上に往々あるやうな意識的な稚拙のものは甚だ厭味になります。又いい気になつた稚拙のものは棄てる外なし。無技巧といふ事は本来芸術には存在せず。一見無技巧と見えるものには別個の技巧があるものと思ひます。


昭和22年(1947)9月17日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の芸術論の一端が、端的に表されています。光太郎はいわゆる「ヘタうま」的なものに価値を認めていませんでした。

「始めて」は原文のまま。「初めて」とすべきですが、「始」と「初」の使い分け、光太郎は意外といい加減でした。

岩手盛岡からミニ展示の情報です。

企画展「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」

期 日 : 2024年5月18日(土)~7月21日(日)
会 場 : 岩手県立図書館 岩手県盛岡市盛岡駅西通1-7-1 アイーナ4F
時 間 : 9:00~20:00
休 館 : 5月25日(土)・31日(金)、6月28日(金)
料 金 : 無料

人間にとって身近な動物である牛。古くは塩や海産物を背負って歩いた南部牛、現代ではブランド牛や酪農の取り組みなど、岩手の文化や産業も 牛とともにあゆみを重ねてきました。岩手と牛の関わりについて、所蔵資料で紹介します。
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タイトルの「地を往(ゆ)きて走らず」が、光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。
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    岩手の人

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

翌昭和24年(1949)元日の『新岩手日報』に掲載されました。

光太郎は自身を牛にたとえることもあり、遠く大正初めの『道程』時代にずばり「」という長詩を書きましたし、「岩手の人」より後にも「鈍牛の言葉」(昭和24年=1949)という詩も書きました。「鈍牛」は自分自身です。そこで岩手の人々に感じるシンパシーを「牛」に託して語っているような気もします。

現代でも岩手の皆さん、「岩手の人」を光太郎からの贈り物と考えてらっしゃるようで、今回もそうですが、いろいろなところで使って下さっています。最近では令和3年(2021)に、この年が丑年だったため県として「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を展開、「岩手の人」がキャンペーンソングならぬキャンペーンポエム的な使い方をされました。

また遡れば、花巻北高校さんの庭に建つ高田博厚作の光太郎胸像(昭和51年=1976設置)の台座にも「岩手の人」の一節が刻まれています。

ちなみに「「岩手の人」のモデルは、当時の国分謙吉知事だ」という説があります。国分知事の容貌や業績からの類推と思われますし、実際に光太郎と国分知事は花巻温泉で対談したり、同じ式典でそれぞれスピーチしたりといった交流がありました。しかし、それらは昭和25年(1950)以降のことで、「岩手の人」が書かれた時点で面識があったかどうか不明です。もっとも、面識はなくとも詩のモデルに、ということも無くはありませんが……。

さて、今回の展示、「所蔵資料で紹介」というだけで詳細はよく分かりませんが、光太郎に関わる展示も為されることと思われます。さすがにタイトルだけ借りて終わり、とはなりますまい。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

五、六日間雨ばかり降つてゐました。今朝雨やみ曇。畑に水流れ、往来に水あふれ、川音轟々とひびきます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

いわゆるカスリーン台風です。関東地方での被害が大きく、荒川や利根川の堤防が決壊、都内でも葛飾区や江戸川区は全域が水没したそうで、全国で死者1,077人、行方不明者853人。岩手県内でも北上川が氾濫し、南部の一関をはじめ、109人の死亡が確認されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村でも、橋が流されるなどの被害があったそうです。

岩手では翌年にもアイオン台風が大きな被害をもたらし、国分知事、復旧への陣頭指揮を執りました。

状況をわかりやすくするために、まずは『盛岡経済新聞』さん記事から。

盛岡市先人記念館で池田龍甫展 没後50年に合わせ、作品や遺品を展示

 盛岡市先人記念館(盛岡市本宮)で現在、収蔵資料展「没後五十年 池田龍甫(りゅうほ)展」が開かれている。
 池田龍甫は盛岡出身の日本画家で、今年没後50年を迎える。大正から昭和にかけて女性や花鳥図を描いて活躍したほか、1948(昭和23)年に開校した岩手県立美術工芸学校の設立に尽力し、同校の教授も務めるなど後進の指導を行っていた。
 同館で池田龍甫のみを取り上げる展示は今回が初めてだという。学芸員の中浜聖美さんは「龍甫は岩手の美術専門教育に長く携わってきた人と言える。美しい作品と共に、指導者としての側面も知ってもらいたい」と話す。
 展示は龍甫の若い頃から晩年までを順に追って紹介。「歌垣人々」や「天女図」「初夏」などの作品のほか、スケッチブックや下絵などの遺品が並ぶ。スケッチの中には、明治時代に盛岡で発生した洪水の被害を描いたものもある。東京美術学校卒業後、盛岡に戻った龍甫について解説するパネルでは、日本画を学ぶ女学生たちを指導し、そのうちの一人が後の深沢紅子であることを紹介している。
 展示後半では指導者としての龍甫や岩手の画家との交流に焦点を当て、岩手県立美術工芸学校の教授を命じる辞令や、盛岡短期大学美術工芸科長を命じる辞令、高村光太郎を囲む食事会への案内状、市民の集まりで毛筆画の講師をしていた時の案内状と絵の手本などを展示する。
 晩年、龍甫は「岩手山とキジを描きたい」と話していたという。展示作品には山とキジを描いた未完の作品もある。併せて、日本画画材の質の低下についても嘆いていたという。展示資料の一つには龍甫が使った画材道具類がある。「日本画に使う岩絵の具は鉱物を砕いて作るのでとても高価。材料についても紹介しているので、観察してみて」と中浜さん。「最後まで絵筆を捨てることなく、生涯を日本画にささげた人。岩手最後の本格的な日本画家と呼ばれた龍甫の作品や歩みをじっくり見てもらいたい」と呼びかける。
 開館時間は9時~17時(入館は16時30分まで)。月曜・最終火曜休館(月曜が祝日の場合は翌平日)。入館料は一般=300円、高校生=200円、小・中学生=100円。6月2日まで。
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同展詳細はこちら。

没後五十年 池田龍甫展

期 日 : 2024年3月23日(土)~6月2日(日)
会 場 : 盛岡市先人記念館 盛岡市本宮字蛇屋敷2-2
時 間 : 9時から17時
休 館 : 毎週月曜日(月曜日が祝休日の場合は翌平日) 毎月最終火曜日 
料 金 : 個人:一般300円、高校生200円、小・中学生100円
      団体:一般240円、高校生160円、小・中学生80円(30人以上~)

令和6年(2024)に没後50年を迎える日本画家・池田龍甫の絵画作品や遺品を展示します。

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『盛岡経済新聞』さんの記事にあるとおり、池田は岩手県立美術工芸学校開校時(昭和23年=1948)の教授でした。残念ながら『高村光太郎全集』にはその名が出て来ませんが。
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校長の森口多里は、この名簿に光太郎の名も名誉教授として載せたく、説得に当たりましたが、光太郎は固辞。戦犯の公職追放が為されていた時期ですので、光太郎は自らにその措置を課したのだと思われます。

その代わり、同校には何度も足を運び、式典の際に祝辞を述べたり、生徒対象に講演を行ったり、作品展を見たりしています。また、式典に呼ばれても参加できない時は、祝辞を書いて郵送したり、祝電を送ったりもしました。そちらは生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)以後も続きました。
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盛岡市先人記念館さんには、そうした光太郎からの祝電、校長の森口宛の書簡などが保存されています。その中に、記事にある「高村光太郎を囲む食事会への案内状」も。
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発起人として名が記されているのはやはり美術工芸校の教授だった画家・深沢省三、彫刻家・堀江赳、そして盛岡市でオームラ洋裁学校を経営していた大村次信の三人でした。

ちなみに会食会の名称は「豚の頭を食う会」。昭和25年(1950)1月18日(水)、盛岡の菊屋旅館(現在の北ホテルさん)での開催でした。詳細はこちら
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旧華族・南部の殿様の末裔やら市長やら警察署長、文学方面で佐伯郁郎やら、森荘已池やら、錚々たるメンバーが集まったそうですが、美術工芸校の教授・助教授陣も。そこで、池田もここに写っているのではと思われます。

池田の絵画がメインの展覧会ですが、こうした背景もあるんだよ、ということで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

いつもお願するもの健康上不可欠のものですが暑熱の季節には郵送不可能ではないかと存じ御遠慮いたして居りました。郵送する方法があるものでせうか。溶けて流れ出しはしないでせうか。其辺の事おきかせ願へれば幸甚に存じます。

昭和22年(1947)7月21日 佐々木一郎宛書簡より 光太郎65歳

佐々木はやはり美術工芸校で洋画科の講師を務めていた画家です。「いつもお願するもの」はバターでした。盛岡ではこうした光太郎のグルメぶりが知られていたため、「豚の頭を食う会」の開催につながった部分もあるようです。

先週末に開幕しましたが、昨日になって市のHPに情報が出ました。

令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」

期 日 : 2024年4月27日(土)~7月7日(日)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎は、昭和二十年の空襲で東京のアトリエを失い、同年五月に賢治の実家を頼って花巻に疎開しました。東京からの疎開後に滞在した先々で目にした岩手の初夏の光景に感動した光太郎は、花や山菜などをスケッチして残しました。
また、山口集落(現 花巻市太田)での自然に囲まれた暮らしの中で接した植物もスケッチに残されており、自然を題材にした詩集の構想がうまれました。
 結局詩集は未刊に終わったものの、光太郎が山の暮らしの中で詠んだ詩や散文、スケッチは文芸誌や雑誌、詩集『智恵子抄 その後』に掲載され、世に知られることとなりました。
 今回のテーマ展『山のスケッチ』では、光太郎が花巻で過ごした七年間で描いたスケッチを中心に紹介し、自然を題材にした散文の原稿などの資料を展示します。

展示資料
 散文『七月一日』直筆原稿(初公開資料)4枚
 素描集『山のスケッチ』より鉛筆画および精密複製10点
 他、山のスケッチに登場する草花写真パネル

展示の見どころ
 散文『七月一日』直筆原稿は今回が初公開の資料です。本作は昭和21年に執筆され、昭和25年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載されました。文中では当地で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓にあがる様子が山菜の描写と共に詳細に記されています。東京在住時代に刊行された最初の「智恵子抄」は有名ですが、花巻在住当時に刊行された「智恵子抄 その後」の存在は広く知られてはいません。現在刊行されている「智恵子抄」の原型となった詩集で詠まれた花巻の自然を、今回の展示を通じて知っていただければ幸いです。
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展示風景の画像を市役所さんから送っていただいています。
展示風景 (1) 展示風景 (2)
展示風景 (3) 展示風景 (4)
7月1日原稿写真1 7月1日原稿写真2
風薫る5月となり、同館や隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)周辺にも山野草が色とりどりの花を付けたり、新緑が萌え立ったりしていると思われます。ぜひ足をお運びの上、展示と共に自然美もご堪能下さい。

【折々のことば・光太郎】

海草でヤギといふ彫刻材ある由、小生始めて聞く事でまるで此迄知らず、むろん彫つた経験がありません。根付材になりのかと想像しますが、使つてみたいと存じますので、あまり面倒でなかつたら小さいのでいいですから御送り下さいませんか。苟も彫刻に関する事は何でもやつてみたいと存じます。


昭和22年(1947)7月13日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

「ヤギ」は「海草」というより珊瑚の一種です。東は三重県在住。あちらの方の海で産出していたのでしょうか。

花巻郊外旧太田村の山小屋在住中、作品としての彫刻は一点も発表しなかった光太郎ですが、技倆を鈍らせないための鍛錬などのために彫刻刀をふるっていました。現存が確認できていませんが、宮沢賢治実弟・清六の妻に木彫(?)の帯留めも贈りましたし、「蟬」を彫っていたという目撃談も複数存在します。

過日ご紹介した「花巻周遊デジタルスタンプラリー」について、地方紙『岩手日報』さんから。

温泉も まちも楽しんで 花巻北高生CF企画スタンプラリー27日開始 スマホ使い参加 市内観光地周遊

 花巻北高(佐々木信明校長、生徒675人)の2年生4人は27日、花巻市内の観光地などを巡る周遊デジタルスタンプラリーを始める。2月に実施したクラウドファンディング(CF)で善意が集まり企画が実現。花巻温泉郷にとどまらない魅力あるスポットを観光客らにアピールする。
 ラリーは温泉施設のほか、昭和の学校など見学体験施設、そばやジェラートといった飲食店の計20カ所が参加。5月27日までに、スマートフォンで各所にある2次元コードを読み取るとスタンプがたまる。
 景品は2種類を準備。スタンプ3個以上か6個以上でそれぞれ抽選に応募でき、市内5企業が提供する地元の特産品などが当たる。どのように施設を巡りスタンプを獲得したかなど、計測データを基に新たな観光アイデアを検討し市に提案する。
 メンバーは菊池碧斗(あおと)さん、伊藤琉賀(りゅうが)さん、三瓶由偉(ゆうい)さん、斎藤蒼大(そうた)さん。探求活動の一環で2023年度から企画に取り組み、2月にCFに挑戦。目標額を7万円余り上回る67万600円が集まった。支援者からは「楽しい街に変える企画」「若いエネルギーにワクワクしている」など多くの応援メッセージが届いた。
 同市大通りのビアバル「リットワークプレイス」を経営するトルクストの高橋亮代表(39)は「企画の完成度が高い。(自身も)温泉以外の魅力をつくりたいとの思いで事業を始めた。ぜひ次につなげてほしい」と応援する。
 4人は春休みを利用して各店舗に自作のポスターやチラシを配り準備に励んだ。斎藤さんは「地元住民のまちを活性化したいとの思いや応援の気持ちに触れ、一緒に頑張りたかった。花巻の暖かさに触れてほしい」と力を込めた。
 ラリーへの参加や抽選への応募は特設ウェブサイトで受け付けている。

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過日も書きましたが、スタンプがもらえるポイントに、高村山荘・高村光太郎記念館さんも含まれています。

ところで高村光太郎記念館さんでは、同じく昨日からテーマ展「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催されています。

市役所さんから通知が来たのですが、送られてきた画像が切れており、会期が分かりません。
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「これじゃ宣伝しようがありません」と返信したのですが、ナシのつぶて。市のHPにも何らの情報も出ていませんし(昨年行った同名の展示の情報は残っていますが――また、2年続けて同じ企画というのもどうかと思いますし……)、館のX(旧ツイッター)は2年近く更新されていません。

苦言を呈させていただけるなら、真剣に集客を考えているのか? と感じざるを得ません。困ったものです。

閑話休題、やる気に溢れている花巻北高生さん考案のスタンプラリーは、ぜひ皆さん、チャレンジして下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻はまだ出来ません。仕事部屋が出来ないので当分は手がつきません。畑や開墾にはいろいろのものをつくり、副食物は自給してゐます。此辺には山菜もあるので仕合です。

昭和22年(1947)7月15日 山端静子宛書簡より 光太郎65歳

山端静子は光太郎の直ぐ下の妹。鎌倉在住でした。鎌倉では令孫夫妻が「カフェ兼ギャラリー笛」さんを経営なさっています。

つい先日、光太郎第二の故郷花巻ご在住で、少年時代に光太郎と深く交流された浅沼隆氏の訃報を伝えたばかりですが、またお一人、生前の光太郎と深く交流のあった方が花巻で亡くなりました。

宮沢潤子さん――宮沢賢治実弟の故・宮沢清六氏の次女で、賢治から見れば令姪にあたられます。ただ、昭和12年(1937)のお生まれだったとのことで、昭和8年(1933)に歿した賢治には会われていません。

しかし、光太郎とは一時期、同じ屋根の下で生活されていました。昭和20年(1945)4月、本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を空襲で失った光太郎は、翌月、賢治の父・政次郎や清六氏らの誘いで、花巻の宮沢家に疎開しました。その際に潤子さんも居住されていたわけです。そこで光太郎のこの年の日記には潤子さんの名も現れます。光太郎滞在中に潤子さんが痲疹(はしか)に罹患され、光太郎が心配していたことが記されています。

それから終戦後、秋になって光太郎が郊外旧太田村に移住すると、光太郎の山小屋を訪ねたこともおありでした。

また、光太郎から潤子さん宛の書簡も遺されています。昭和23年(1948)8月19日付けで、文面は以下の通り。

おみまひのおたよりをいただいてありがたく思ひました。畑で虫にくはれたのがもとらしく鼻の下のまんなかに面疔がでてき困りましたがよい薬を手に入れてつづけてのんでゐるのでもう九分通り退治しました。このはれものは中々すごい勢のものです。もう安心ですからおぢいさまはじめ皆様によろしくお伝へください。

「面疔」は黄色ブドウ球菌などによる炎症で、化膿を伴う大きな腫れ物。8月15日に清六氏に宛てた書簡に面疔になったと書いたところ、数え12歳の潤子さんから御見舞の書簡が届き、それへの返信です。「おぢいさま」は賢治や清六氏の父・政次郎ですね。

さらに潤子さん、「花巻賢治子供の会」のメンバーでした。同会は賢治の教え子の一人、故・照井謹二郎氏、登久子氏ご夫妻が立ち上げた児童劇団で、主に賢治の童話を劇化して上演していました。
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その第一回公演は昭和22年(1947)。光太郎の山小屋の前でした。もともとは光太郎の無聊を慰問する目的もありました。その後、光太郎のアドバイスで本格的に公演をするようになりましたが、年に一度は山小屋近くの山口分教場(のち小学校に昇格)でも公演を行い、光太郎に見てもらっていました。

当方、潤子さんにお会いしたことはおそらく無いのですが、子息で林風舎代表取締役の和樹氏とは昨年、ともに花巻で行われた、公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」、トークリレー「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」などでご一緒させていただいております。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

十五日の日には潤子さん共々路のわるいところを遠くおいで下されどんなに喜んだか知れません その上いろいろいたゞき唯恐縮の外ございません。


昭和22年(1947)6月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

この項、現在は光太郎書簡からほぼ年月日順に「これは」と思う記述を拾っていますが、ちょうど紹介しようと思っていた頃の書簡に潤子さんの名があったので驚きました。

6月15日は日曜日で、「賢治子供の会」の第一回公演の日でした。この日の日記のうち、関連する記述は以下の通り。

十時頃、花巻の子供賢治の会の連中(二十人余)来る。照井氏と同夫人とが引率。宮沢さん夫人も同道、ジユン子さんもゐる。ケイ子さんもゐる。ジユン子さんに水飴をもらふ。宮沢夫人よりみそをもらふ。(略)小屋前で一同田植え連中に向つて唱歌をうたふ。ひる学校にて弁当を宮沢夫人にもらふ。劇、唱歌、朗読等あり。村の少年も集る。二時頃すむ。三時半頃余もかへる。

昨日に引き続き、光太郎第二の故郷・花巻ネタで。

まずは花巻で光太郎顕彰活動に当たられているやつかの森LLCさんによる、「こうたろうカフェ」。同市郊外、旧東和町にある「ワンデイシェフの大食堂」さん。日替わりで一般の方々が調理を担当されるというレストランですが、やつかの森LLCさんが「こうたろうカフェ」として出店なさっています。

先月26日の「こうたろうカフェ」で饗されたのがこちら。
3月ワンデイ
3月ワンデイ (2)
甘酒・ガレット・シュークルート
鶏団子のスープ
バッケ味噌ご飯・茶碗蒸し・おひたし 白身魚の黒酢あんかけ (2)
ベリーベリーベリーアイス
3月メニュー表
お品書きは「林檎の甘酒」「ほっけ味噌ご飯」「ビアソーセージのガレットロール」「白身魚の黒酢あんかけ」「ふきのとうとチーズの茶碗蒸し」「紅菜苔のおひたし」「春野菜の鶏団子スープ」「お新香」「カフェドシトロン」「ベリーベリーベリーアイス」。

光太郎日記などを元に、光太郎が実際に作った料理を現代風にアレンジしたり、光太郎が使った食材を取り入れたりして考案されています。

この充実のメニューで驚きの1,000円。固定ファンがついているようで、今回はメニュー公開前から予約で満席だったそうです。

続いて、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチの今月分がこちら。
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やはりやつかの森LLCさん考案によるメニューが、「白六穀ごはん」「筍ごはん」「ホッケの塩焼き」「茹で豚肉の香味ダレがけ」「ほうれんそうとコーンのバター炒め」「カッコ菜の酢味噌和え」「塩麹卵焼」「漬物」「フルーツ白玉」。

これもいい感じですね。

あまり食材等には詳しくない当方、「こうたろうカフェ」の「紅菜苔」というのは存じませんでしたし、「光太郎ランチ」の「カッコ菜」というのも「?」。調べてみましたところ山菜の「野萱草(のかんぞう)」の東北方言のようでした。「野萱草(のかんぞう)」と言われても分からないのですが(笑)。

「こうたろうカフェ」「光太郎ランチ」、それぞれ末永く愛され続けてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

此処ではジヤガイモもやつと芽が出たところです。茄子のいつかいただいた種子が苗になりかかつてゐます。今年は去年より二割増しのつもりでやつてゐます。ゴマもまきました。紅花をまきました。食料兼染料です。 酸性土壌のため出来ないとされてゐたハウレン草がタンカルで中和したら立派に出来ました。

昭和22年(1947)6月3日 小森盛宛書簡より 光太郎65歳

こんな感じで野菜類は概ね自給できていました。「タンカル」は炭酸カルシウム。かつて宮沢賢治が肥料として推奨していたものです。

過日、智恵子の故郷、福島二本松での「春のにほんまつドライブスタンプラリー2024」をご紹介した中でちらっと触れておきましたが、光太郎第二の故郷・岩手花巻でもスタンプラリーが開催されます。チェックポイント的な場所の一つに、高村山荘/高村光太郎記念館さんも。

花巻市の魅力発見!花巻周遊デジタルスタンプラリー

期 間 : 2024年4月27日(土)~5月27日(月)

アプリをインストールせず楽しめるスタンプラリー! 花巻の魅力的な施設20か所にQRコードを設置し、デジタルスタンプラリーを開催♪ スタンプは温泉(日帰り入浴でも対象)、見学・体験、飲食店の3種類。条件を満たすことで、花巻の特産品や温泉宿泊券が当たる抽選に応募できます(*^▽^*)
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●A賞(花巻の特産品 40名)
 温泉スタンプ1個 見学・体験スタンプ1個 飲食店スタンプ1個
 白金豚二刀流セット 10名
 早池峰のむヨーグルト 720ml×2本 5名
 佐々長醸造 銀河のしずくセット 10名
 佐々長醸造 つゆ 15名
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●B賞(温泉宿泊券など 15名)
 温泉スタンプ1個 見学・体験スタンプ3個 飲食店スタンプ2個
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<利用推奨環境>
 iPhoneの場合:iOS 13 以降+Safari(ブラウザ)
 Androidの場合:Android 10 以降+Chrome(ブラウザ)
 ※上記OSのスマートフォンに搭載されているブラウザ以外は推奨しておりません。
  スタンプラリーの参加はスマートフォンからのみ可能でございます。
  パソコン、タブレット、フィーチャーフォンは非対応となります。

参加方法
 STEP1 対象施設を利用しQRコードを読み取る
 STEP2 初めての場合は規約に同意
 STEP3 スタンプをGETしていき条件達成
 STEP4 特産品が当たる抽選に応募

※エントリー数を上限1万人に設定しております。人数に達し次第、新規エントリーはできません。
※イベントは予告なく変更、中止する場合がございます。

対象施設
〇温泉
 花巻温泉 ホテル千秋閣 ホテル花巻 ホテル紅葉館
 志戸平温泉 湯の杜ホテル志戸平
 鉛温泉 藤三旅館
〇見学・体験施設
 宮沢賢治童話村 賢治の学校 宮沢賢治記念館 花巻市博物館 花巻新渡戸記念館
 高村山荘・高村光太郎記念館 母ちゃんハウスだぁすこ 花巻おもちゃ美術館 昭和の学校
〇飲食店
 レストランポパイ マルカンビル大食堂 やぶ屋花巻総本店 嘉司屋 山猫軒本店
 Lit work place 茶寮かだん 森のジェラートポエーマ 金婚亭
 ※金婚亭、茶寮かだんはお買い物でもスタンプをGETできます

よくあるスタンプラリーかな、と思ったのですが、フライヤーの一番下を見て「えっ⁉」。何と主催が「岩手県立花巻北高校 Revolotions」。調べてみたところ、高校生が発案し、クラウドファンディングで資金を集め、実施されるとのこと。

2月の『岩手日報』さんなどに記事が出ていました。

花巻の観光振興へ周遊スタンプラリー 高校生が企画、資金募る

 花巻北高(須川和紀校長、生徒683人)の1年生4人は、花巻市の観光地などを巡る周遊デジタルスタンプラリーを計画している。データを分析し、新たな観光アイデアを市に提案する目標も掲げ「花巻の未来への一歩に」と熱を注ぐ。活動資金を29日までクラウドファンディング(CF)で募っている。
 探究活動の一環で行う。スタンプラリーは5月ごろ開始予定で、宿泊・観光施設、飲食店など約20カ所に2次元コードを設置する。スマートフォンで読み取り、スタンプを集めると特産品が当たる抽選に応募できる仕組みだ。
 花巻の魅力を観光客ら多くに知ってもらう機会としつつ、リアルなデータを収集。それを基に地域の観光を盛り上げるアイデアを検討し、市に提案する。
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記事中に「高村光太郎記念館」の文字があればもっと早く気づき、当該クラウドファンディングにもご協力できたのですが……。

まぁ、それでも目標を超える金額が集まったそうで、良かったと思いました。
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さらに素晴らしいのは、今回の試みが単なるスタンプラリーで終わるのではなく、そこからデータを収集し、「地域の観光を盛り上げるアイデアを検討し、市に提案」というくだり。なるほど、と思いました。こういう柔軟な発想は、「キックバック」だの「中抜き」だの、そんなことばかり考えているジジイどもには出てこない発想でしょう。もっとも、若くても、「セクシーダンス」だのにうつつを抜かしている輩もいましたが(笑)。ちなみにその中心メンバーのセンセイも岩手でしたね。

ちなみに花巻北高さん、全く別の分野ですが、超小型人工衛星「YODAKA」のミッションにも関わられているそうです。光太郎が「内にコスモスを持つ」と評した宮沢賢治の精神が脈々と息づいているように感じます。

全国の学校関係者の皆さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

部落の図書館をつくりたいと青年達がいつてきてさしあたり分教場に図書棚をつくり、小生も書籍や雑誌を寄附、今後大いに助力しようと思ひます。部落の青年が自発的にかういふ事を発案したのをよろこんでゐます。いい村に、そして進んだ村にしたいものです。


昭和22年(1947)6月30日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

およそ80年前にも、光太郎、花巻(というか旧太田村ですが)の若者たちに感銘を受けていました。

またお一人、生前の光太郎をご存じの方がお亡くなりになりました。

浅沼隆さん。

光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村のご出身で、その当時は小学生。お父さまが分教場から昇格した山口小学校の校長先生だった関係もあり、小学校までしか届けてくれない光太郎宛の郵便物を光太郎の山小屋に届けられたこともしばしばでした。光太郎もそんな浅沼さんを随分とかわいがってくれたそうです。
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こちらは比較的有名な写真ですが、昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に現れたサンタクロース(光太郎)と小学校の児童たち。右手後方の窓から顔を出してこちらを見ているのが浅沼さんです。

光太郎歿後はその語り部として、ご活動くださいました。花巻高村光太郎記念会さんの理事も務められました。
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平成25年(2013)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」。

令和2年(2020)、花巻周辺で発行されているタウン誌的な『シニアズ』
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かつて旧太田村で毎年5月15日に開催されていた高村祭では、運営の中心的な役割を務められ、平成30年(2018)の第61回では、当方が司会を務め、浅沼さんはじめ4名の光太郎を直接知る方々にお話を伺うトークイベントも行いました。昨年、同様の企画を花巻の宮沢賢治イーハトーブセンターさんで行い、それが浅沼さんとお会いした最後となりました……。

花巻以外でも、当会主催の連翹忌、二本松でかつて行われていた智恵子を偲ぶレモン忌、同じく二本松での野村朗氏作曲「歌曲集智恵子抄」コンサート(二本松と言えば、二本松の皆さんをおもてなしなさったことも)、仙台で行われたテルミン奏者の大西ようこさんと朗読の荒井真澄さんのコラボ公演、さらには十和田湖でお会いしたこともありました。

かつて花巻高村光太郎記念館さんで無料配付されていたリーフレット。「せいいち」はやはり冒頭のサンタの写真に写っている高橋征一さん。一昨年、亡くなりました。
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こんなエピソードを元に、当方、平成27年(2015)に十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんが刊行された『十和田湖乙女の像のものがたり』中のジュブナイル「乙女の像ものがたり」で、光太郎を慕う太田村の少年「隆くん」を登場させました。言わずもがなですが、幼い日の浅沼さんがモデルです。
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思い出は尽きません……。

ご葬儀は4月6日(土)11:00~ 〒025-0089 花巻市岩手県花巻市豊沢町8-8 花巻葬祭センターさんで執り行われるとのことです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

山でも急に春になり、雪がとけ、草が芽を出し、畑仕事が忙しくなりました。今月中にいろいろ種子まきや植込みをするので今畝つくりです。畑をやつてゐると汗みづくです。


昭和22年(1947)4月20日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

浅沼さん、光太郎への来信を山小屋に届けるだけでなく、こうした手紙を預かって郵便屋さんに渡すということもなさっていたのではないでしょうか。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、日記などを元に光太郎が作ったメニューを現代風にアレンジし、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニューの考案などにあたられている「やつかの森LLC」さんから今月分の画像を送っていただきました。
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今月のメニューは「白六穀米ご飯」「じゃがいもピラフ」「豚肉と大豆のトマト煮込み」「鮭の昆布巻き」「ほうれん草とベーコンの炒め」「大根煮」「塩麹卵焼き」「お新香」「みかん」だそうで。

もう1件、こちらは来週、3月26日(火)です。花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さん。日替わりで一般の方々が調理を担当されるというレストランですが、「光太郎ランチ」のメニュー考案に当たられている「やつかの森LLC」さんが「こうたろうカフェ」として出店なさいます。昨年11月以来4ヶ月ぶりです。

メニューが既に公示されています。「生ハムのガレットロール」「白身魚の黒酢あんかけ」「ふきのとうとチーズの茶碗蒸し」「紅菜苔のおひたし」「お新香」「りんごの甘酒」「バッケ味噌ご飯」「春野菜の鶏団子スープ」「ベリーベリーベリーアイス」「カフェドシトロン」だそうで。「バッケ」は現地の言葉でふきのとう。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺にいくらでも生え、光太郎が愛した食材です。
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この充実のメニューで1,000円とのこと。都市部では考えられませんね。

いつも書いていますが、「食」からの偉人の生き様へのアプローチも大いに意義のあることと存じます。末永く続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

電報いくども読みかへしましたが水野君亡くなられたとどうしても読めます。まさかと思ひますが、結局やつぱりさうなんでせう。今何もいふこと出て来ません。

昭和22年(1947)2月5日 水野葉舟家中宛書簡より 光太郎65歳

明治後期の第一期『明星』以来、光太郎の一番の親友だった葉舟水野盈太郎が歿しました。大正12年(1923)の関東大震災以後は東京を離れ、千葉の遠山村(現・成田市)で半農生活に入り、その意味では光太郎の大先輩でした。

光太郎の落胆、いかばかりだったことでしょう。

紹介すべき事項が山積しておりまして、せっかく情報をご提供いただいても取り上げるのが遅くなってしまい、申し訳なく存じます。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんがメニュー考案に携わられ、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチンフラワーさんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分です。
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メニューは「ちらし寿司」「白米ご飯」「豚肉とじゃがいもの炒め」「焼き鮭」「切り干し大根とふのりの酢の物」「長芋の塩昆布和え」「塩麹卵焼き」「豆銀糖とりんご」「お新香」だそうで。

基本的には日記等から光太郎が実際に作った料理や使った食材を参考にし、現代風にアレンジしています。

やつかの森LLCさん、この他にもいろいろと活動に当たられています。

先月22日には光太郎が山小屋(高村山荘)で7年間の蟄居生活を送った旧太田村の上太田山関振興会館さんで、出前講座 「光太郎のハイカラ料理を知ろう」。

花巻市では、各種市民団体や、学校さんや企業さんなどで特定の内容の講座を受けたいという場合に「この人の、あるいはこのグループのこういう講座を開いてほしい」と要望を出せば、それが実現する「出前講座」というシステムがあるそうです。やつかの森LLCさん、昨年10月にもやられていました。

先月の様子がこちら。
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やはり光太郎グルメ系で実際に調理。
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「食」からのアプローチは、偉人を身近に感じる一つの手だてですね。

さらに今月16日には、花巻南高校さんを会場に行われた岩手県高教研国語部会中部支部の研修に呼ばれ、お話をなさったそうです。対象は高校の国語の先生方が中心で、他に南高文芸部の生徒さん、家庭クラブ顧問の先生も参加されたとのこと。
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タイトルは「こうたろう散歩道 山小屋暮らしの高村光太郎」。光太郎のプロフィール、宮沢賢治とのかかわり、旧太田村での生活などをお話しされたとのこと。

意外といえば意外でしたが、岩手の高校の国語の先生方の中にも、光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945 高村山荘敷地内に詩碑あり)をご存じなかった方がけっこういらしたとのこと。まぁ地元でも専門外であればそんなものなのかも知れませんが。

やけに長い尺を与えられたそうで、寸劇を入れたり、やつかの森LLCさんお得意の食事方面のお話をされたりもなさったとのことでした。
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今後とも多方面でご活躍いただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

小生多分来月三日か四日頃又お邪魔に参上、今度は七日頃まで御厄介に相成度存じ居ります。その間に一度お風呂もいただきたくお願申上げます。

昭和21年(1946)9月29日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

旧太田村から花巻町中心街に出る際には、山小屋に移る直前の前年9月から10月にかけ、厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房宅の離れ(潺湲楼)に宿泊するのが通例でした。

この頃は山小屋に風呂が無く、佐藤邸で入浴するのを楽しみにしていた部分も。佐藤邸が花巻の桜町なので、光太郎は巫山戯て「桜温泉」と呼んだそうです。

今週、花巻に行って参りましたが、現地で仕入れたりした情報等を。

まず、コンサート系です。

VALENTINE CONCERT 朗読と音楽で楽しむお茶時間 高村光太郎『智恵子抄』より

期 日 : 2024年2月23日(金)
会 場 : 喫茶店 ココ・タベルバ・ラパン 岩手県花巻市若葉町3丁目14-30
時 間 : 13:00 開場 13:30 開演
料 金 : 1,500円(1ドリンク・お菓子付き)

出 演 : 朗読 牧野幹  フルート 牧野詩織  ピアノ 菅原千恵子

2/23(金祝)ココ・タベルバ・ラパンにて、VALENTINE CONCERTがあります💕

ラパンのレジ前でおなじみ!「やつかのもり」さんのお菓子や、とりあえずココ・クレバで読み聞かせをしてくださっている牧野幹さんも登場します✨

牧野詩織さんのフルートと菅原千恵子さんのピアノも楽しみです~🎶
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朗読をなさる牧野幹さんという方、「光太郎を知る会」のメンバーのお一人で、フライヤーを直接いただきました。フルートの牧野詩織さんという方は、お嬢さんだそうです。

もう1件、テレビ放映情報を。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #99

BSよしもと(無料) 2024年2月21日(水) 19:00~19:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は岩手県花巻市をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!? マルカンビル大食堂、高村光太郎記念館 ほか

【出演者】又吉直樹(ピース)、せきしろ(構成作家) ほか
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盛岡の回だったかを1度拝見したことがあるのですが、毎回東北でロケが行われているというのは存じませんでした。

で、今回は花巻市。調べてみたところ、花巻は2回目だそうです。最初は昨年8月の第74回で、宮沢賢治記念館さん、光太郎もよく行ったやぶ屋さんなどを廻られたとのこと。気づきませんでした。
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で、今回は郊外旧太田村の高村光太郎記念館さん。
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それから隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った山小屋)。
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そしてマルカンさん。
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マルカンさんはともかく、光太郎記念館はなかなか全国放映の番組で取り上げられることが少ないので、ぜひご覧下さい。

ところでこの番組、又吉直樹氏と構成作家のせきしろ氏が自由律俳句を詠むという文学的テイストの番組です。そこで文学館系もよくロケ地になっています。ということは、今後、二本松の智恵子生家/智恵子記念館さん、十和田湖畔の観光交流センターぷらっとさんなどにも行っていただきたいものです。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生もあなたのsituationの好転の一日も早く来るやうに此所で祈ります。意識せられなくともさういふ時こそあなたの内部を豊饒にし、逞しくする何事かがあなたに加へられてゐるのだと思ひます。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

福永武彦は小説家・詩人・仏文学者。この頃、北海道帯広で英語教師をしていた福永は、結核に罹患したことが元で、最初の妻・原條あき子との間で不和が生じていました。そのあたりを愚痴ったと思われる福永からの書簡への返信の一節です。

岩手レポート2回目です。

2月12日(月)、郊外旧太田村の高村光太郎記念館/高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)から道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんを廻り、再びレンタカーを市街に向けました。

次なる目的地は南万丁目地区の「わいんさっぷ」さん。
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以前はカレー屋さんとして営業なさっていましたが、現在は閉店されているとのこと。こちらはリンゴ園の一角です。
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リンゴ園を開かれたのが、故・阿部博氏。花巻農学校での宮沢賢治の教え子で、宮沢家を通じて光太郎とも知り合い、交流を重ねました。おそらく光太郎もここに足を運んでいます。
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子息の阿部弥之氏は、宮沢賢治花巻市民の会会長、宮沢賢治学会副代表などを歴任された方。光太郎についても花巻高等看護専門学校さんで特別講義をなさいました。昨年10月には、宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 続 光太郎はなぜ花巻に来たのか」の際にパネラーのお一人として登壇されています。当方はコーディネーターでした。

その阿部氏を中心に、花巻とその近隣の方々で「光太郎を知る会」という会を結成、花巻に疎開してからの光太郎日記を会員の皆さんで読み合わせしたりといった活動をなさっているそうです。他にもいろいろと光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCの方、花巻南高校文芸部さんの顧問の先生などもメンバーです。

で、そちらの会に招かれまして、参上した次第です。
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会員の皆さんが日頃から疑問に思われていることを挙げてもらい、当方が質問に答えたりといった形で進めました。

印象的だったのは、光太郎の花巻及び郊外旧太田村での足かけ8年、特に太田村での戦後のまる7年の位置づけに関して。リアルタイムでは当会の祖・草野心平らがとにかく早くその生活を切り上げて帰京するように繰り返し催促していました。光太郎実弟の豊周も光太郎の世話をしてくれた人々に感謝しつつも、特に彫刻の部分で空白となったこの時期が惜しいとか、光太郎の寿命を縮めた年月だったかもしれないとか回想に残しています。地元の皆さんにとってはそれが悔しい、というわけで。

なるほど、そういう見方もあるか、という感じでした。で、当方の返しは、「光太郎が戦争責任を含め、自分を見つめ直すためにどうしても必要な時間だった」。光太郎は繰り返し「脱却」という言葉を使いましたが、1年やそこらでは「ほんとに「脱却」できたのかよ、早すぎるだろ」という感じです。やはり7年という長さに重みを感じざるを得ません。豊周の言い分ももっともですが。

閉会後、リンゴ園の敷地内にある光太郎碑を拝見。
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昭和62年(1987)に建立されたもので、光太郎が故・博氏に贈った「酔中吟」という即興詩が刻まれています。
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 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に
 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光紅玉デリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。親しみを込めてそう呼んだわけですね。

当方、こちらの拝見は3度目でした。最初は平成の初め頃。その際は一面識もなかった阿部氏のご自宅に突撃訪問し、案内していただきました。2度目は花巻市さん主催の市民講座「詩と林檎のかおりを求めて 小山先生と訪ねる碑めぐり」で講師を務めさせていただいた際。それももう5年前になるか、という感じでした。

その後、定宿の大沢温泉さんへ。
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着いてすぐ、真夜中、さらに翌早朝と、3回、温泉を愉しみました。

2月13日(火)となり、大沢温泉さんから午前7時30分頃出立しました。午前11時に花巻市役所近くでやつかの森LLCの皆さんとお会いする約束でしたが、それまでどうしようかというところで、ふと思い立ち、レンタカーを東に向けました。目指すは沿岸の釜石市。昭和6年(1931)、光太郎が紀行文「三陸廻り」執筆のため船で訪れた街です。それを記念して平成7年(1995)には「三陸廻り」の釜石を訪れての一節を刻んだ文学碑が建立されました。建立された頃拝見に伺ったのですが、その後御無沙汰しており、いずれまたと思っておりました。
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平成31年(2019)には花巻-釜石間の東北横断自動車道が全線開通し、概算で1時間ちょっとで着けそうだな、というわけで、その通り午前9時頃に到着しました。
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釜石駅。

NHKさんの「あまちゃん」で一躍有名になった三陸鉄道、通称「三鉄」さん(「あまちゃん」では「北鉄」)。
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光太郎碑は市街地の只越町というところにあったはずで、そちらに向かいました。約30年前には意外とすぐに見つけられました。しかし、街の様子が一変していて、戸惑いました。まぁ、何もなくても30年経てばいろいろ変わるでしょうし、何と言っても平成23年(2011)の東日本大震災がありましたから。その爪痕を物語るもろもろ。
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青いプレートは津波がここまで来たよという目印です。
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午前11時には花巻に戻らねばならず、30分程探し、石川啄木の歌碑などは見つかったのですが、結局、光太郎碑は発見できずでした。もしかすると津波で流されたり、損壊したので撤去されたりしたのかもしれません。情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。

というわけで、午前11時、花巻に戻ってやつかの森LLCの皆さんと会食。その席上、6月にはまたイベントを開きたいというようなお話がありました。詳細が出ましたらまたご紹介します。

以上、岩手レポートを終わりますが、明日以降も地元で仕入れてきた花巻ネタ等を取り上げます。

【折々のことば・光太郎】

身のまはりの品など可笑しい程簡単ですが不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由です。電燈なくランプとローソクです。


昭和21年(1946)9月13日 西岡文子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村での7年間、まさに「不自由といへば不自由、又自由といへば結構自由」。禅問答のようですが(笑)。

2月12日(月)、13日(火)と1泊2日で光太郎第二の故郷・岩手花巻方面に行っておりました。レポートいたします。

1日目。あちら方面に行く際には、ほぼほぼ毎回これに乗る東北新幹線やまびこ53号で北へ。特に急ぐ場合でもなければ全席指定のはやぶさ号は使いません。

途中、智恵子の故郷・福島二本松を通りますが、この日は智恵子の愛した安達太良山の上に拡がる「ほんとの空」が実にみごとでした。
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正午前、新花巻駅着。花巻在住の方々のSNS等で情報を得てはいましたが、ほんとうに雪が全くなく、驚きでした。この日のためにワークマンさんで防水のブーツを購入して履いていったのですが(笑)。
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右上画像はこの日の夕刻、宿で見たその日の『岩手日報』さん。除雪に当たられている業者さん、この冬は商売あがったりだそうで。まあ、安全面等を考えれば積雪が少ないのも悪くはないのかもしれませんが、農業面等で春以降の水不足が心配という声も多く聞かれました。

新花巻駅の観光案内的なスペースでは、花巻東高さん出身の菊池雄星投手、大谷翔平選手にまつわるコーナーがリニューアルされていました。
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駅前でレンタカーを借り受け、市内西部、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。市街地からだらだらと長い坂を上り続けてたどりつく奥羽山脈山麓ですので、さすがにこちらでは雪が見られました。
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令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として開催されている「光太郎からの手紙」を拝見。今回の展示では、当方、読めないという字を読んであげた程度であまり関わりませんでしたが。
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劇作家・女優の渡辺えりさんのお父さま、故・渡辺正治氏に宛てた葉書。宮沢賢治にも触れられています。
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平成28年(2016)に寄贈されたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。当方、20年ぶりくらいに現物を拝見しました。

その他は、光太郎の花巻疎開やその後の生活などに支援を惜しまなかった、総合花巻病院長・佐藤隆房とその家族に宛てたもの。
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佐藤編著の『高村光太郎山居七年』(初版 昭和37年=1962 筑摩書房/新版 平成27年=2015 花巻高村光太郎記念会)から関連する一節を抜き出したり、当時の写真をパネルにしたりで並べて展示。

フライヤーに画像が使われていた光太郎愛用の矢立は、常設展示コーナーに。
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ロビーに戻ると、こんなものが。
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昨年、同館で開催された企画展「山口山の木工展」で作品が展示された、奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作なさっているさとうつかさ氏の新作と思われます。素晴らしい。

記念館さんを後に、隣接する高村山荘(光太郎が暮らした山小屋)へ。
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多い年ですと1㍍以上の積雪で、この時期には山荘に近づくこともできないのですが、今年はこんな感じで。

山小屋内部の光太郎遺影に「また来ました」と合掌。
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さらに山小屋裏手の智恵子展望台に。この季節に展望台に登れるというのは通常ではありえません。ある意味、そら恐ろしく感じました。
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展望台からの眺望。これだと例年の3月末から4月初めの感じです。
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展望台下の「雪白く積めり」詩碑。
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ここも雪はかすかに「積めり」状態でした。

その後、車で10分程の、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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産直等のコーナー。光太郎肖像画も掲げられています。
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無料休憩所、図書コーナーを兼ねたインフォメーションスペース。
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その一角で、主に地元の方々によると思われる写真展が開催されていました。
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光太郎がらみの写真も出品、ありがたく存じました。

光太郎がよく足を運んだ旧山口小学校跡地。
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光太郎が歩いた道。
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この後、市街地に戻りましたが、長くなりましたので、続きは明日。

【折々のことば・光太郎】

旧盆を過ぎると自然界は急に変つてくるやうです。夏の土用までが生成の盛季であとは成熟期に入るやうです。足並揃へてゐた草木が今は銘々がそれぞれが自分流の歩き方をはじめた感じがします。昨夜の明月は山中特に冴え渡つて凄いほどでした。万籟死してただ蟲の声ばかりでした。


昭和21年(1946)9月11日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

前年5月まで東京暮らしだった光太郎、花巻郊外旧太田村に移ってことさら自然の季節による推移には敏感となりました。今年のような異常な暖冬の様子を見たら、何と言ったでしょうか。

昨日から一泊二日で光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。

市街地は全く雪がありませんでした。
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さすがに光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺には積雪が有りましたが、例年より全然少ない状態。

隣接する高村光太郎記念館さんで、令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」の一環として開催されている「光太郎からの手紙」を拝見。
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その後、道の駅はなまき西南さん、市街地のリンゴ園などを訪問。地元で光太郎顕彰にあたられている方々とお会いして参りました。
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宿泊は例によって大沢温泉さん。
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今日もこれからいろいろと廻ります。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

終戦直後の昭和20年(1945)秋から、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京した昭和27年(1952)秋まで、光太郎がまる7年間暮らした、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。主にその当時を紹介する高村光太郎記念館さんも隣接し、ぜひ皆様に足をお運びいただきたいスポットです。

しかし、いかんせん交通の便がよろしくありません。昔は市の中心街から路線バスが通じていましたが廃線。通常のタクシーですと片道数千円。当方はほぼほぼ毎回(来週もですが)レンタカーです。

そこで、花巻市の老舗タクシー会社、文化タクシーさんが「どんぐりとやまねこ号」という最大9人乗りのジャンボタクシーを運行して下さっています。現在は高村山荘や宮沢賢治記念館さんもコースに入った「どんぐり号」が午前中、南部杜氏伝承館・酒匠館さん、宮沢賢治童話村さんなどを廻る「やまねこ号」が午後、その2コースを「どんぐりとやまねこ号」として1日で運行されています。
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以前、妻と二人で花巻に行った際は、午前中に当方が高村光太郎記念館さんで市民講座講師、その間に妻が「どんぐり号」を利用という荒技(笑)もやりました。

さて、同じ文化タクシーさんで最近、「観光ジャンボタクシー 花巻市周遊 高村光太郎ゆかりの地コース」を設定して下さいました。車両は「どんぐりとやまねこ号」と同じレトロジャンボタクシーで、高村山荘・高村光太郎記念館さん及び近くの音羽山清水寺(光太郎もたびたび訪れた古刹)のみを廻るコースです。
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発着場所は東北本線花巻駅、東北新幹線新花巻駅、さらに花巻空港も選べるそうで。所要時間は約1時間30分となっていますが、出発時間も含めかなり融通が利くようです。また、予約が重なった場合には通常のワゴン車での対応となる感じでしょう。料金は1台借り切って15,600円だそうで、1人2人での使用だと割高ですが、大人数でなら元は取れそうです。また、他にも色々なコースが設定されています。

グループで行かれるという方、ぜひ利用をご検討下さい。

【折々のことば・光太郎】

冬は雪にこそ埋れて居れ、身神の充実はさは夏の比ではありません。アトリエを建てて冬期凍結の虞なく彫刻の出来る日をひたすら待望いたして居ります。フランスあたりなら、きつと請求すれば政府で建ててくれるに違ひないのですが、此の国の有様ではやむを得ません。


昭和21年(1946)8月22日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

結局、後に自ら戦争責任への処罰として彫刻制作は封印するのですが、移住1年目のこの頃はまだ太田村にアトリエ建設という夢は捨てていなかったようです。

新聞各紙から2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手の『岩手日報』さんから。1月13日(土)に出た「岩手とロダン“考える”」という記事を受けてのコラムです。

展望台 高村光太郎のアイドル

 「知らないグループが増えたな~」
 大みそかのNHK紅白歌合戦。ここ最近、冒頭のつぶやきの方が恒例となりつつある。そんなワタシでも注目したのは、音楽ユニットYOASOBI(ヨアソビ)の大ヒット曲「アイドル」だった。
 子どもから大人まではまるキャッチーで中毒性のある曲調。ビルボードのグローバルチャート(米国を除く)で日本語曲として初めて1位を獲得するなど、とにかく世の中を席巻した。
 時をさかのぼること100年前、同じく日本中を席巻したのがフランスの彫刻家ロダンだった。ブームの火付け役となったのが、花巻市ゆかりの高村光太郎。本県では花巻へ疎開した後の山小屋(高村山荘)暮らしのイメージが強く、最初は結びつかなかった。だが興味を持ち調べると、面白い話がいくつもあった。
 20代からロダンの造形に傾倒した光太郎、1908(明治41)年にはフランスのロダン邸を訪ねた。本人は不在で夫人に待たせてもらったが、部屋にある素描にすら参ってしまい、逃げるように帰ったという。
 光太郎は帰国後、知りたいロダンの秘密、これこそ私なりの愛、とばかりに対話録の翻訳に取りかかり、16(大正5)年に「ロダンの言葉」として出版。光太郎にとって、まさにロダンは完璧で究極のアイドルだったのだろう。
 現在、ロダンの代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示中。台座を含めると高さ3㍍を超え、想像よりも大きい。誰も彼もとりこにした造形の美しさを、ぜひ間近で見てほしい。


光太郎がロダン邸を訪れたのは確認できている限り2回ありました。最初は明治40年(1907)11月、当時ロンドンにいた光太郎がパリの荻原守衛の元を訪れ、パリ郊外ムードンのロダン邸を一緒に訪れました。しかし、ロダンは留守。妻のローズ・ブーレはパリ市内のアトリエに廻るよう勧めましたが、光太郎がロンドンに帰る時間の都合であきらめたと、守衛からロダン宛の書簡に記されています。

2度目は年月日がはっきりしません。ロンドンを引き払ってパリに移り(明治41年=1908 6月10日)、帰国の途に就く(明治42年=1909 5月)までの約1年の間であることは間違いありませんが。晩年に書かれたエッセイ「遍歴の日」(昭和26年=1951)に次の一節があります。

 ロダンには熱中していたけれど、やはり訪問する気にはなれなかつた。訪問客が多くて困るだろうということも察しられたし、それを無理おしして出かけてゆく神経の太さもなかつた。アトリエの外を通つたり、展覧会でも遠くからロダンの姿を見かけるといつた程度だつた。ある日曜日、有島、山下などの諸君の発意で、多勢でロダンのムードンのアトリエに行つてみようということになつて、僕もついて行つたが、ロダンは留守だつた。奥さんがロダンの部屋に案内してくれた。扇の地紙の形をした大きな机があつて、要のところに椅子がある。僕はロダンの椅子に腰かけ、床の上にうず高く積み重ねてあるたくさんのデツサンをあかず見た。一枚一枚台紙に貼つて整理されている無数のデツサンを次々に見ていると、実に威圧される感じだつた。庭に出ると、ちようど白い布をグルグル巻いてバルザツクの像が立つていた。布でつつんであつても、大きな量塊の感じが強く出ていて、今でもそれが印象にのこつている。

「有島」は有島生馬、「山下」は山下新太郎です。展覧会でせっかく姿を見かけたロダンにも声をかけずじまい。高村家の家訓として、「あつかましいことは厳禁」といった戒めがあったのですが、それよりも「自分はまだ何者でもない」という気後れのようなものが先に立っていたのではないでしょうか。

もう1件、過日、ちらっとご紹介した岡山出身の詩人・永瀬清子のからみで、『毎日新聞』さんの岡山版から。

 日々の暮らし つむぐ言葉 赤磐出身の詩人、永瀬清子 来月17日 無料朗読会 ピアノの弾き語りも /岡山

012 岡山県赤磐市は、市出身の詩人で「現代詩の母」ともいわれる永瀬清子(1906~95年)を広く知ってもらおうと2月17日、市くまやまふれあいセンター(同市松木)で朗読会「永瀬清子の詩の世界~貴方がたの島へ」を開く。
 永瀬は2歳までを現赤磐市で、その後は父親の転勤や結婚のため金沢や名古屋、東京で過ごした。学生時代に始めた詩作は結婚後も続け、昭和初期には高村光太郎や宮本百合子らに認められるなど、当時随一の女性詩人の一人となった。
 45年、戦況の悪化に伴い帰郷し、農業をしながら結婚生活や子育て、古里を詩に詠んだ。後進の指導にも情熱を傾けた。
 朗読会は赤磐市が毎年、永瀬の誕生日で命日でもある2月17日前後に開いている。副題「貴方がたの島へ」は、岡山県瀬戸内市・長島にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」に通い、約40年間にわたって詩を指導した永瀬が入所者への思いをつづった詩の題名。
 当日は市民による詩の朗読などのほか、シンガー・ソングライターの沢知恵(ともえ)さん(52)による「永瀬清子とハンセン病療養所」と題したピアノの弾き語りコンサートもある。
 沢さんは音楽活動の傍ら、永瀬と同じように長年、瀬戸内のハンセン病療養所に通っている。2014年に岡山市に移住し、岡山大大学院でハンセン病療養所の音楽文化を研究した。永瀬の詩に曲をつけた楽曲や、ハンセン病患者の隔離の歴史に関する著書もある。 主催者の一つで「赤磐市永瀬清子の里づくり推進委員会」の担当者は「多感な青春時代、結婚の戸惑い、子育ての悩みなどそれぞれの人生のステージで、自分の気持ちを代弁してくれているように感じられる永瀬の詩の魅力を知って欲しい」と話している。
 午後1時半~4時。入場無料だが、事前申し込みが必要(先着順)。問い合わせ・申し込みは市教委熊山分室(086・995・1360)


いつもながらに赤磐市さんの永瀬清子顕彰の取り組みには頭が下がります。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今胡瓜が伸びるさかり、ゑん豆、いんげんは実をつけ、トマトは蕾、茄子も蕾、南瓜は成長の途中、葱は仮植、稗は雑草のやうに繁つてゐます。時無大根や山東菜などは既に賞味、とりたての美味に感嘆しました。ジヤガが秋にどの位とれるかたのしみです。


昭和21年(1946)7月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移住し、生まれて初めて取り組んだ農作業も、そこそこ成果を上げているようです。行き当たりばったりや思いつきなどではなく、文献等でしっかり研究し、さらに村民に謙虚に教えを請うてちゃんと計画を立てるという姿勢が成功の要因でした。数年後に近くの開拓地に入植した元軍人はまったくの我流を押し通そうとし、村人の忠告に一切耳を傾けず、結局、うまくいかずに撤退しました。

当時の光太郎が書いた「農事メモ」というノートが残っています。
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過日、概要をお伝えした岩手県花巻市立の記念館さんが「イーハトーブの先人たち~」の統一テーマで行う企画展示「ぐるっと花巻再発見!」。今日開幕です。

高村光太郎記念館さんでは「光太郎からの手紙」と題し、光太郎が諸家に送った書簡12通を中心にした展示です。詳細な情報、展示風景の画像等が花巻市役所さんからもたらされましたのでご紹介します。

まずフライヤー。
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プレスリリースから。

・展示主旨および概要
 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻町へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎の消息を外部に知らせる手段は手紙が中心でした。
 光太郎からの手紙は事務連絡的なものから、日々の生活や心境を語るものまで多岐にわたります。特に、太田村山口集落への移住にかかわっては、建設準備から食生活、初めての越冬など日記のように詳細に記されています。
 この企画展では昭和20年の戦災による疎開直前から昭和31年に東京のアトリエで没するまでの間に、花巻の医師・佐藤隆房とやり取りされた手紙を中心に展示し、山居七年から最晩年に至る光太郎の足跡をたどります。
 また、女優の渡辺えり氏より寄贈された、渡辺正治宛に光太郎から差し出された葉書をあわせて展示します。(渡辺正治氏は渡辺えり氏の実父、令和4年5月逝去)

・展示の見どころ
昭和21年に渡辺正治宛に差し出された葉書は初公開の資料です。
展示室内には昭和20年から27年までの間に高村光太郎から佐藤隆房宛に差し出された手紙を中心に展示しており、『山居七年エピソードパネル』と併せて見ることで、手紙の内容の背景を詳しく知ることができます。

渡辺正治宛葉書 昭和21年11月30日付
佐藤隆房宛葉書 昭和20年10月18日付
昭和21年10月23日付
昭和21年11月6日付
昭和23年11月29日付
昭和23年12月28日付
昭和26年5月9日付
昭和27年7月19日付 2通
昭和27年10月29日付
佐藤雪江宛葉書(隆房の妻) 昭和22年5月11日付
加藤房子宛葉書(隆房の娘) 昭和24年2月19日付
資料合計12点

展示風景画像。
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展示ケースは使わず、額に入れた光太郎書簡を壁面に吊しての展示です。
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すべてペン書きと思われますが、独特の味わい深い筆跡は「書作品」としても一級のものといえるでしょう。

以前に開催された企画展示の使い回しかも知れませんが、それぞれの書簡と関連する事項の説明パネル。佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』からの抜粋です。
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古写真もパネルで。
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書簡の大半は、宮沢賢治の主治医にして、総合花巻病院長だった佐藤隆房に宛てたもの。佐藤は光太郎歿後には花巻に高村記念会を興し、初代理事長を永らく務めました。

佐藤に送った書簡は『高村光太郎全集』に66通収録されていますが、今回、それに含まれていないものも1通出ています。以前にも66通以外のもの(昭和31年=1956 3月27日付、確認できている光太郎生涯最後の書簡)が展示されたことがありました。今回のものはそれとはまた別の書簡です。『全集』所収の66通も大半は「岩手日報」に佐藤が発表したものからの採録で、いろいろ大人の事情があったようです。

他に佐藤の妻・雪江と息女の房子にあてたものが一通ずつ。そして渡辺えりさんの亡きお父さま、渡辺正治氏に宛てたものが一通。
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平成28年(2016)に寄贈を受けたものですが、これまで展示する機会が無く、この手の一般公開は初めてです。「この手」というのは、『月刊絵手紙』さんの平成15年(2003)6月号通巻90号や、えりさんの舞台「月にぬれた手」の公式パンフレットに画像入りで紹介されたほか、平成24年(2012)にはえりさんが出演なさった「徹子の部屋」で御披露なさいましたので、「この手」です。当方は平成12年(2000)頃の連翹忌の集いで、正治氏が御持参下さったものを手に取って拝見しました。

会期は2月18日(日)まで。当方、来月中旬に伺う予定ですが、皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

右の手掌手術の為下山、目下佐藤院長先生宅に滞在毎日病院に通ひつつあり。

昭和21年(1946)5月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り、生まれて初めての農作業にチャレンジし始めたところ、てのひらにできたマメが潰れてひどく化膿、佐藤隆房の執刀で手術を受けました。木彫の彫刻刀と農作業の鍬とでは、やはり勝手が違ったようです。

光太郎第二の故郷、岩手花巻からの情報を2件。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチン花(フラワー)さん販売の豪華弁当「光太郎ランチ」。毎月15日の限定販売で、メニューは光太郎の日記などを元に、光太郎が作った料理や使った食材などを研究、現代風にアレンジし、彼の地で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの考案です。

今月15日分がこちら。
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小豆飯、ゆかりご飯、ブリの醤油麹焼き、豚肉のトマトケチャップ炒め、キャベツの煮浸し、かぼちゃ煮、塩麹入り卵焼き、干し柿入り甘酒ゼリー、大根の漬物だそうです。今月はご飯が2種類でボリューミーですね。しっかりデザートもついています。

もう1件、全く別件です。

昨年11月2日(木)、花巻高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎と吉田幾世」の関連行事としまして、同題の市民講座を当方が致しました。その動画が今月いっぱいYouTube上に上げられるそうです。
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会期中にあがるのかな、と思っていたのですが、このタイミングでの公開。まぁ担当各所もいろいろお忙しいと存じますので、いたしかたありますまい。

当方としては自分がべしゃっくっている動画はあまり見たくないのですが、テロップを付けていただき、誤字脱字等ないか確認してくれということでしたので拝見しました。もうちょっとしっかりしゃべれよ、という感じです。

三本に分割されています。リンクを貼り付けておきますのでよろしくお願い申し上げます。
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」①
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」②
 令和5年度高村光太郎記念館講座「光太郎と吉田幾世」③

【折々のことば・光太郎】

里から此の小屋に来るまでの道路に熊の出るやうな所はありませんが、小屋のあるところよりも奥へゆくと出るやうです。去秋茸取りの人達が逃げて帰つてきた事があります。小生猟師から熊膽を求めました。


昭和21年(1946)5月6日 喜田聿衛宛書簡より 光太郎64歳

昨年の花巻は熊の出没がものすごく、市街地でもたびたび目撃情報がありました。当方もレンタカー運転中にちらっと見かけたような気がしています。先週は隣接する北上市のショッピングセンターに冬眠しそこねたと思われる子熊が侵入とのことで、ニュースになりました。

花巻郊外旧太田村の山小屋付近、現在も熊が生息していますが、かえって光太郎がいた頃はあまり里には降りてこなかったようです。この頃の方が共存が図れていたということなのでしょうか。

先週土曜日、1月13日に地方紙『岩手日報』さんに出た記事です。

岩手とロダン“考える” 舟越保武 大理石に刻んだ哲学 高村光太郎 日本へ紹介 熱狂生む 陸前高田市立博物館「考える人」

004 「近代彫刻の父」と称されるフランスの彫刻家ロダン(1840~1917年)。昨秋から代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示公開され話題を呼んでいるが、さかのぼると本県とロダンには深いかかわりがあることが浮かび上がってくる。ロダンが広く日本で知られるようになったのは、花巻市ゆかりの高村光太郎(1883~1956年)の書籍がきっかけ。盛岡市出身の舟越保武(1912~2002年)は、多大な影響を受けて彫刻の道へと進んだ。考える人を間近に見られる今、その系譜と歴史をたどってみたい。
 日本にロダンの存在を広く知らしめたのは、光太郎が1916(大正5)年に翻訳・出版した「ロダンの言葉」だった。光太郎は08年にフランスへ行くなど、20代からロダンの雄弁な造形に傾倒。15年ごろから、ロダンの対話録を集めて翻訳を始めた。
 同書は刊行されると同時に、すさまじい熱量と引力を放った。とりわけ、「若き芸術家たちに(遺稿)」という部分ではメッセージ性が強い。
 「真実であれ、若き人々よ」「最も美しい主題は君たちの前にある」
 内容は芸術論だけでなく生き方や精神論にも及び、芸術を志す若者を中心に大ヒット。熱狂的なロダンブームを巻き起こした。000
 ロダンとの出会いで人生が変わった一人が舟越だ。盛岡中学を病気休学中だった1929(昭和4)年、兄健次郎が買ってくれた同書にのめり込んだ。
 初期の大理石作品には、ロダンの影響が顕著に見られる。フランス大使が購入した「女の顔」(1947年)は、美しい造形に荒々しい彫り跡を残す作り方がロダンに通じるという。
 県立美術館の藁谷(わらがい)収館長は「舟越の大理石への憧れは、まさにロダンの影響だろう。光太郎も舟越も見たままを写し取ることはせず、『奥行きで捉えよ』というロダンの哲学が垣間見える」と指摘する。
 国内がロダン一色だった昭和初期にかけ、多くの彫刻展は大仰で演劇的な身ぶりの作品が主流に。一方、同じ時期に本県は動的なロダンの作風とは対極とも言える潮流が生まれていた。
 象徴的なのが、盛岡市出身の堀江尚志(1897~1935年)の「少女座像」。左右対称で内省的な雰囲気が漂い、エジプト彫刻のような崇高さも感じさせる。
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 ロダンともう一人、舟越を彫刻の道へといざなった宮古市出身の吉川保正(1893~1984年)の作品にもうかがえる。舟越は31年、吉川の「自像」を見て、単純化された塊の内にある心(しん)の強さに「彫刻とはこういうものだ」と感動したという。
 舟越も戦後はカトリックの洗礼を経て、独自の道を歩み出す。ロダンがもたらした熱を浴びつつも、静けさの中に光を見いだすのは、岩手人の気質や風土ゆえだろうか。
 ロダンが本県の地を踏むことがあったなら、何を思い、感じ取っただろう。考える人を鑑賞しながら、思いをはせてはどうだろうか。
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心構え 生き方 若者の熱に 美術史家・髙橋幸次さん(東京)に聞く
 高村光太郎が「ロダンの言葉」を記した経緯と、日本に与えた影響は、いかなるものだったのか。ロダンに関する著書がある美術史家の髙橋幸次さん(東京都)に聞いた。
 -高村光太郎にとって、ロダンはどのような存在だったのか。
 「光太郎は、生命や思想、内面の感情まで表現するロダンの造形に衝撃を受けた。1905(明治38)年、カミーユ・モークレールの『ロダン』英訳を入手し熟読している。仏師の父光雲から彫刻を教え込まれたが、父への反発のばねになったのも、ロダンだったのではないだろうか」
 -「ロダンの言葉」は、どのようにして日本で受け入れられたのか。
 「明治から大正へ時代が変わって開放的になり、若者には『どう生きるか』という熱気が渦巻いていた。当時、芸術家は偉人であり、ロダンの説く心構えや生き方が求道精神や熱となり刺さったのだろう。さらに彫刻家を志す青年たちにとっては格別だったろう」
 -光太郎の文章の力も大きかったのでは。
 「光太郎は翻訳に関しては『文学ではない』との姿勢を崩さなかった。ことロダンにおいては芸術論や技術論であり、言葉と現実の事象が正確に対応している。文章もわかりやすく、口にしやすいものだった」
 -舟越保武の作品にロダンの影響は見られるか。
 「ロダンの男性像は筋肉が張っている。一方、舟越のは女性像に特徴的だが、静けさの中に軸と立ち上がる力がある。強さがなければ静かにもなれない。ロダンの造形手法の力強さを舟越流に取り入れていると感じられる」
 -岩手の作家に受け継がれている部分はあるか。
 「岩手の良さは、大都市と距離を保っているところ。また文化芸術性が歴史的にも豊かで、芸術面では表現がストレートでいて、決して素朴などではない。菅木志雄(現代美術家、盛岡市出身)もそうだ。先人たちが本当によいものを残してくれている」

日本に於けるロダン受容、そこに光太郎の果たした役割、そして岩手県の近代彫刻史と、実に示唆に富む内容ですね。

陸前高田市立博物館さんでの「考える人」展示というのは、収蔵する名古屋市博物館が大規模改修に伴い長期休館することから、東日本大震災を機に友好協定を結んだ陸前高田市に再来年秋まで無償で貸し出されているとのことです。

髙橋幸次氏には、連翹忌にもご参加いただくなど当方もいろいろお世話になっております。
 『花美術館 Vol.68 特集 オーギュスト・ロダン 人体こそ魂の鏡』。
 『「ロダンの言葉」とは何か』。
 『彫刻 SCULPTURE 1 ――空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ』。
 美術番組3つ。
 国立西洋美術館 《地獄の門》への道―ロダン素描集『アルバム・フナイユ』。
 小平市平櫛田中彫刻美術館特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」関連行事「音楽と巡るロダンの世界」。
 「日本大学芸術学部紀要」。
 <N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。

ロダンや光太郎、舟越や堀江、吉川のDNAを受け継ぎ、彫刻方面でさらなる新しい才能が岩手から生まれることを祈ります。

【折々のことば・光太郎】

昨夜セキと一緒に三寸五分ばかりの蛔蟲が一匹が飛び出しました。


昭和21年(1946)5月4日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

蛔蟲」はカイチュウ。カタカナにするとピカチュウみたいでかわいらしい感じですが(笑)、とんでもありません。今の日本ではほとんど聞かなくなりましたが、人体に寄生する寄生虫の一種です。「三寸五分」、マジか? という感じです。

この際かどうか不明ですが、光太郎、「俺の栄養分をかすめ取りやがって!」と怒り心頭、口から出て来たカイチュウを噛みきってやろうとしたそうですが、堅くて無理だったとのこと。花巻郊外旧太田村での暮らし、こういう部分でも壮絶なものでした。

光太郎第二の故郷とも言うべき岩手県花巻市。市立の博物館等が統一テーマの元に行う共同企画展です。

令和5年度共同企画展「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館の3館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。

期 日 : 2022年1月20日(土)~2023年2月18日(日)

統一テーマ 「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」

花巻新渡戸記念館 テーマ「須美子工房~春を彩る貝雛の世界~」
 須美子工房の貝のお雛様は、日本古来の佳き風習を受け継ぎつつ、海と山の幸と日本の文化をつなぎ、「未来への希望をつなぐ」ものとなることを願い、「愛海雛(めぐみびな)」と名を付けました。故・西村須美子さんが製作した貝雛(かいびな)と、夫の故・文夫さんの書と併せて、貝雛の世界を紹介します。

萬鉄五郎記念美術館 テーマ「師岡和彦 早池峰山伏神楽 写真展」
 山形県高畠町出身の師岡和彦(1926-2012)は、1982年、大迫町の岳神楽との出会いをきっかけに、早池峰山伏神楽に魅せられ、以後20年近くに亘り、早池峰山伏神楽を撮影し続けました。数年後には、岳神楽の流れを汲む東和町の石鳩岡神楽にも注目し、数多くの写真を残しています。本展では、師岡がファインダー越しに捉えた、早池峰山伏神楽の躍動する姿を中心に、大迫町、東和町の懐かしい情景を振り返ります。

高村光太郎記念館 テーマ「「光太郎からの手紙」
 昭和20年5月に花巻へ疎開した高村光太郎は、昭和27年10月に彫刻制作で帰京するまでの間に数多くの手紙のやり取りで自身の消息を伝えるだけでなく、文筆から彫刻まで様々な創作活動に関わるやりとりも行っていました。この企画展では光太郎からの手紙を通じて太田村在住当時の様子、創作活動に関わる光太郎周辺の人々との関わり合いをたどります。

協賛館
花巻博物館、花巻市総合文化財センター、宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、宮沢賢治童話村、石鳥谷農業伝承館、早池峰と賢治の展示館
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 今回の開催館3館すべてをバスに乗って一日で巡るツアーです。参加料、入館料ともに無料!!(注 昼食代は自己負担)さらに各企画展の担当者が解説をしてくれます。

ぐるっとまわろう!スタンプラリー
 共同企画展の会期中、開催館3館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。さらに、開催館3館すべてといすれかの協賛館3館の計6個スタンプを集めた方には、さらに記念品を差し上げますので、この機会にぜひ足を運んでみてください。
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昨年度、コロナ禍がほぼ終息ということで2年ぶりに復活し、5館が参加して開催されました。どうしたわけか今年度は3館のみ、期間もあまり長くありませんが。

旧太田村の高村光太郎記念館さんでは、「光太郎からの手紙」。同館では一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんで購入したり寄贈を受けたりした光太郎の書簡を多数所蔵しています。種別としてもハガキあり封書あり巻紙に毛筆で書かれたものもありイラストの入ったものありと、バリエーションに富んでいます。それらは常設展示では出品しきれないため、この機会に、ということでしょう。

ペン書きのものであっても、光太郎の筆跡は実に味わい深く、「書」としての価値も高いものです。色紙や条幅などに気負って書いたものとはまた異なるリラックスして書かれたものである点にも面白味が感じられます。

また、送られた相手も多岐に亘っています。以前に伺った話ですと、女優・劇作家の渡辺えりさんのお父さま・故渡辺正治氏から平成28年(2016)に寄贈を受けたハガキなどもまだ展示していないので、機会があれば、というお話でした。
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おそらくこれも出るんではないかと思われますが、違ったらごめんなさい。

また詳しい情報が入りましたらご紹介します。厳冬期ということでなかなか大変ですが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

随分雪の多いところで昨日も終日降つてゐました。開墾が出来ないので何かがすべて遅れます。

昭和21年(1946)4月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

4月に入ってもまだ雪のため畑仕事にかかれなかったそうで、岩手、おそるべしですね。

直接、光太郎智恵子には関わりませんが、花巻高村光太郎記念館さんで始まった展示です。

小学生紙絵作品展

期 日 : 2023年12月20日(水)~1月21日(土)
会 場 : 高村光太郎記念館 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(木)~1月3日(火)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円 高村山荘は別途料金
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8月に行われた「高村光太郎記念館夏休みワークショップ 紙絵をつくろう!」で制作された、花巻市内の小学校児童の皆さんによる紙絵の展示です。

市役所の方から展示風景の画像を頂きました。
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10月に智恵子の故郷・福島二本松で開催された「第28回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」と連動しての企画でした。
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展示作品のほとんどはそちらに応募されたそうです。そのうち、上の画像3枚目の右下、「きつね」の紙絵が入賞していました。
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光太郎記念館の周辺など普通にキツネが歩いており、おそらく実物を見た記憶で作られたものでしょう。下の画像は今年の2月、当方が記念館近くで撮ったキツネの足跡です。
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光太郎も書簡に記していました。
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10月に二本松で入賞作品展があり、その後、作品が返却されて花巻で展示、というわけですね。二本松での展示風景はこちら。
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こういった企画を含め、さらに花巻市さんと二本松市さん、光太郎智恵子つながりでのさまざまな交流がさらになされていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の干柿の小包昨日到着、感謝いたします。小包の板箱二つに割れて届きましたが中身は傷ついて居りません。多分原型のままと存じます。早速賞味いたしましたが、お言葉の通り、自然の甘味無類にて、此の醇乎たる味の美は名状し難い高さがあります、


昭和21年(1946)1月22日 三輪吉次郎宛書簡より 光太郎64歳

三輪吉次郎は山形在住だった詩人。当方、以前に光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)内部に入れていただいた際、三輪から送られた木箱を目にしました。ラベルが貼ってあり、三輪の名が記されていたのです。この時のものか、その後も同様に食料などを送った際のものかは判然としませんでしたが。現在もそのまま山荘内部にあると思われます。

6月に発行された書籍です。少し前に手に入れていたのですが、紹介するタイミングを失っていました。

賢治学+(プラス)【第3集】

2023年6月20日 岩手大学人文社会学部 宮沢賢治いわてセンター編 杜陵高速印刷出版部刊
定価1,800円+税

平素は「岩手大学 人文社会科学部 宮沢賢治いわて学センター」の活動へのご理解・ご支援・ご協力を賜り、誠にありがとうございます。当センターの第2回シンポジウムなどを特集した『賢治学+(プラス)』第3集が刊行されました。ご高覧いただければ幸いです。
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目次
《巻頭言》横山英信「『賢治学+(プラス)』第三集に寄せて」
《特集「盛岡藩の言論と出版」》
 〈報告〉宮沢賢治いわて学センター第二回シンポジウム
「盛岡藩の言論と出版」(木村直弘)
 〈総評〉宮沢賢治いわて学センター第二回シンポジウム「盛岡藩の言論と出版」(脇野 博)
 講演①「直訴と目安箱からみる盛岡藩政――南部利済の時代に注目して――」(兼平賢治) 
 講演②「盛岡藩における出版事業――盛岡・花巻・遠野――」(中村安宏)
 シンポジウム「盛岡藩の言論と出版」
 〈ディスカッション〉(司会:脇野 博、シンポジスト:兼平賢治、中村安宏)
《岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター研究会より》
 髙橋 愛「文学ツーリズムとその可能性」
 朴 鍾振「韓国における賢治絵本翻訳の展開――
ヨユーダン出版社の〈宮沢賢治コレクション〉――」 
 桑原尚子「国際開発・国際協力からみた宮沢賢治――
「農民芸術概論綱要」から読み解く――」
 中里まき子+エリック・ブノワ
  講演録「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:
『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」 
 岩手大学人文社会科学部宮沢賢治いわて学センター研究会のこれまで
《フォーラム「賢治学」》
〈エッセイ〉
 谷口義明「天文学者、宮沢賢治と遊ぶ――椀コの謎――」
 金野吉晃「賢治随想」
〈論文〉
 大野眞男「『春と修羅』第一集における括弧表現と語りの複層的構造に関する一試論」
 大沢正善「「風野又三郎」と『新編農業気象学』――宮沢賢治の高層気象学――」
 小松田儀貞「宮沢賢治の〈芸術〉――賢治という薬あるいは毒――」
 瀬川愛美「宮澤賢治のオノマトペとフランス語訳――
「なめとこ山の熊」と Les Ours de la Montagne Nametoko──」 
 木村直弘「デクノボーとしてのゴーシュ――愚者が智者となる〈革命〉をめぐって――」
《フォーラム「いわて学」》
〈エッセイ〉
 佐藤竜一「自転車を乗り回した漢学者・那珂通世――夏目漱石との接点をめぐって――」
 船場ひさお「岩手と横浜をつなぐ」
 前田千香子「公園林としての気仙茶の木々」
 寺崎 巖「いわてフィルハーモニー・オーケストラ」
〈論文〉
 家井美千子「岩手大学図書館蔵『十和田山本地由来記』テキストの特徴」
〈編集後記〉 (木村直弘)

昨年の12月22日に開催された「岩手大学人文社会科学部【宮沢賢治いわて学センター】第16回研究会」の記録中の、同大教授・中里まき子氏とボルドー・モンテーニュ大学教授のエリック・ブノワ氏による講演「高村光太郎と宮沢賢治の喪のエクリチュール:『智恵子抄』仏訳体験に触れながら」が収められています。「『智恵子抄』仏訳」は、一昨年、フランスのボルドー大学さんから出版された中里氏、ブノワ氏訳の『Poèmes à Chieko』です。
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同書、新潮文庫版『智恵子抄』を底本としていますので、多くの詩篇が訳されていますが、特に「レモン哀歌」(昭和14年=1939)について詳述されています。宮沢賢治いわて学センターさんでのご講演ということもあったのでしょうが、賢治の「永訣の朝」との類似性などが述べられています。光太郎は妻・智恵子、賢治は妹・トシと、それぞれ最愛といえる女性に先立たれ、おのおのの死の瞬間を謳い、そしてその間際に智恵子は「レモン」、トシは「あめゆじゆ」を口にし……。

こうした点は諸家によって夙に指摘されてきたことですが、さらにフランスの思想家、ジョルジュ・バタイユの日記が比較対象として挙げられています。バタイユは明治30年(1897)の生まれで、光太郎より14歳下、賢治とは一つ違い、同世代ですね。バタイユは智恵子が亡くなった同じ昭和13年(1938)、恋人のコレット・ペニョ(通称・ロール)を奇しくも智恵子・トシと同じく結核で亡くしています。そしてロールはその死の間際、智恵子の「レモン」、トシの「あめゆじゆ」と同じように、バタイユから受けとった薔薇の花を、まぁ当然食べはしませんでしたが、口づけをして……というわけで。

ついでに言うなら、ロールは智恵子同様に心の病でもあったようですが、バタイユ曰く「私が薔薇を手渡すと、彼女は異常な状態を抜け出して私に微笑み、はっきりと最後の言葉を述べた。「美しいわ」と言った」。レモンをがりりと噛んだ智恵子は「昔山巓でしたやうな深呼吸を一つ」しただけで言葉は発しませんでしたが、トシは賢治詩「松の針」によれば「ああいい さつぱりした まるで林のながさ来たよだ」とつぶやいたそうで、このあたりの洋の東西を問わない類似性には驚かされました。

それ以外の部分でも、「智恵子抄」中の「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な「樹下の二人」(大正12年=1923)と、戦後の『智恵子抄その後』に収められた「案内」(昭和24年=1949)との比較。「樹下の二人」は智恵子が光太郎に故郷・二本松をガイドするというシチュエーションが謳われていますが、「案内」では、光太郎が亡き智恵子に花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)周辺を紹介するという、主客の逆転といった点について述べられています。なるほど、と思いました。

Amazonさん等で入手可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

当地は雪がふかく三尺平均位になり、歩行困難な次第です。寒気も相当で万年筆も使用中に凍ります。幸ひ燃料があるので助かります。


昭和21年(1946)1月11日 矢沢高佳宛書簡より 光太郎64歳

厳寒期にはマイナス20℃にもなるという太田村の山小屋。書いている最中の万年筆のインクまで凍りました。

光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)にほど近い道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に限定販売中の豪華弁当「光太郎ランチ」。道の駅テナントのミレットキッチン花(フラワー)さんの商品で、光太郎の日記などを元に、光太郎が作った料理や使った食材などを研究し、現代風にアレンジしています。

今年最後の販売が12月15日(金)。メニューの考案等に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは「青豆入り麦飯」、「白六穀御飯」、「牛かつ」、「里芋とイカの煮付け」、「大根のバター炒め」、「キャベツの甘酢和え」、「チョコレートムースとりんご」、「塩麹入り卵焼き」、「お新香」。彩り的にも何となくクリスマスっぽい感じですね。

作りたてが味わえて、このボリュームで800円。さまざまな物品等の価格高騰の折、予算内におさめるのがなかなかに大変なようです。おそらく地産地消的な部分で食材の仕入れ価格も都会よりは安く抑えられるから可能なのでしょう。

概ねすぐに完売するそうですが、来年以降も愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

何と申上げてよいか分からぬやうな新年がまゐりましたが、ともかくも無事に越年して新春を迎へた事はやはりうれしい気がいたします 謹んで御慶申納めます。今年こそ最悪の年だらうと言はれてゐますがどうか国民が間違を起さずにそれを乗り切つてくれるやうにと思つて居ります。


昭和21年(1946)1月3日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎64歳

前年の敗戦から4ヶ月。新しい年がやってきましたが、GHQの占領方針なども一般国民には不透明な中、この国は何処に向かうのだろうという不安を抱えての新年スタートでした。

もうすぐ令和6年となりますが、違った意味でこの国は何処に向かうのだろうという不安を感じざるを得ないこの年末です。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で光太郎顕彰活動にあたられているやつかの森LLCさん。同市土沢にあるレストラン・ワンデイシェフの大食堂さんで、「こうたろうカフェ」としておおむね月に一度出店なさっています。一般の皆さんが店の調理場を借りてランチを作り、それを販売するというシステムなので「ワンデイシェフ」というわけです。

11月28日(火)に「こうたろうカフェ」出店があったということで、画像等送っていただきました。
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光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、光太郎に親しんでもらおうという取り組みです。

今回のメニューは下記画像の通り。
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「新米ご飯」、「キャッシュトースト」、「鮭のムニエル」、「野菜畑のローストチキンテリーヌ」、「ごぼうチップス」、「ミネストローヌスープ」、「シュークルート風浅漬け」、デザートに「焼き林檎のアイスクリーム添え」(林檎は光太郎の暮らした山小屋近くの林檎園のもの)、「アメリカンコーヒー」だそうで、いつもながらバラエティーに富んでいますね。早めのクリスマスバージョンというコンセプトだそうです。

予約ががっつり入り、過去最高の42食、スタッフ分を併せて51食分を作られたとのこと。今年は鮭が不漁ということで、中々手に入るめどが立たず苦労なさったそうでした。

いつも書いていますが、「食」へのこだわりも一方ならぬものがあった光太郎、その方面からのアプローチも大切なことです。

現地ではこれから雪深い季節となるため、「こうたろうカフェ」としての出店はしばらくお休み、次回は3月だそうです。その間にこれまで(5月から計7回行われたそうで)の検証と今後のメニュー作りに当たられるとのことですが、もう予約が入っているそうで、盛況ぶりが何よりです。

再開後のさらなる飛躍を期待します。

【折々のことば・光太郎】

太田村には今小屋が建ちつつあります。うしろに山を負ひ、前に山清水がわき、畑と林とに囲まれたところ。開墾が楽しみです。明日又検分にゆきます。人情実に純朴。ほんとの日本の山村です。稗とおジヤガを主食として小生もやります。山羊を飼つて栄養と肥料をとります。山には兎が多く、これから茸で一ぱいのやうです。


昭和20年(1945)9月15日 小盛盛宛書簡より 光太郎63歳

約1ヶ月後の10月17日に太田村に移り、しばらく山口分教場の宿直室に寝泊まりしながら小屋の造作を整え、独居生活を始めます。

山羊を飼ったり兎を捕ったりということは実現しませんでしたが、野菜類の自給自足(ほぼ、ですが)、茸や山菜などの採集は実際に行われました。

道の駅はなまき西南愛称・賢治と光太郎の郷)さんに入っているテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんが、光太郎の日記などを元に現代風にアレンジしたメニューを組み、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから今月分の画像を送っていただきました。
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今月のメニューは「アマランサスご飯」「大根餅」「牛すき煮」「魚のムニエル」「白菜と菊花のお浸し」「キャベツのオイスターソース炒め」「りんご入りさつまいも巾着」「塩麹入り卵焼き」「お新香」。ちゃんと栄養バランスも考えた上で、いい感じの品々が詰め合わさっています。

やつかの森LLCさん、これ以外の活動として、不定期に(おおむね月イチで)花巻市東和町の「ワンデイシェフの大食堂」さんに「こうたろうカフェ」としてご出店なさっていますが、今月は1週間後の11月28日(火)だそうです。

「食」からの光太郎へのアプローチ、これもまた一つの方法ですね。光太郎自身、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。

そちらもこんな料理を饗しましたというご報告を頂きましたらご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

御申越の詩集について左の通り略定めました。 ○書名 詩集「花と実と」(或は「花と実」) ○頁数 十二行詰六〇頁程 ○篇数 三〇篇ほど ○内容 草木の花、果実、蔬菜、穀類などを短章の詩にうたひたり。日本の山野に取材せるもの多し。

昭和20年(1945)7月4日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎63歳

終戦直前のこの時期、こんな詩集を出すことを構想していました。戦争の敗色濃厚ということもあり、もはや翼賛詩は阿呆らしくて書けないという感じだったかも知れません。「果実、蔬菜、穀類など」を謳うとのことでしたが、この後の花巻空襲、終戦の玉音放送、花巻郊外旧太田村への移住などのバタバタで、結局この詩集の計画は頓挫しました。入れる予定だった詩篇は断片的に残ってはいますが。

これが実現していたら、「光太郎ランチ」「こうたろうカフェ」などのよいネタになったことでしょう。

いただきものの書籍と雑誌をご紹介します。

まず書籍。光太郎と親交のあった、岡山県出身の詩人・永瀬清子の詩集です。

永瀬清子詩集

2023年10月13日 永瀬清子著 谷川俊太郎選 岩波書店(岩波文庫) 定価1,050円+税

女の生きにくい世の中で身を挺して書き継いだ、勁く、やさしく、あたたかい、〈現代詩の母〉永瀬清子の決定版詩集。

妻であり母であり農婦であり勤め人であり、それらすべてでありつづけることによって詩人であった永瀬清子(1906-95)。いわば「女の戦場」のただ中で書きつづけた詩人の、勁い生命感あふれる詩と短章。茨木のり子よりずっと早く、戦前から現代詩をリードしてきた〈現代詩の母〉のエッセンス。(対談=谷川俊太郎)

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目次
 はしがき(谷川俊太郎)無題
 [詩]
  『グレンデルの母親』――(歌人房、一九三〇)より
  『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
  『大いなる樹木』――(桜井書店、一九四七)より
  『美しい国』――(爐書房、一九四八)より
  『焰について』――(千代田書院、一九五〇)より
  『山上の死者』――(日本未来派発行所、一九五四)より
  『薔薇詩集』――(的場書房、一九五八)より
  『永瀬清子詩集』――(昭森社、一九六九)より
  『海は陸へと』――(思潮社、一九七二)より
  『続 永瀬清子詩集』――(思潮社、一九八二)より
  『あけがたにくる人よ』――(思潮社、一九八七)より
  『卑弥呼よ 卑弥呼』――(手帖舎、一九九〇)より
 [短章ほか]
  『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
  『女詩人の手帖』――(日本文教出版、一九五二)より
  『蝶のめいてい 短章集1』――(思潮社、一九七七)より
  『流れる髪 短章集2』――(思潮社、一九七七)より
  『焰に薪を 短章集3』――(思潮社、一九八〇)より
  『彩りの雲 短章集4』――(思潮社、一九八四)より
 渦巻の川――わが詩作の五十年(永瀬清子)
 《対談》やさしさを教えてほしい(永瀬清子・谷川俊太郎)
 《研究ノート》(白根直子)
 永瀬清子自筆年譜

先にハードカバーがあっての文庫化ではなく、初めから文庫本としての刊行です。永瀬が亡くなったのが平成7年(1995)、没後30年近く経ったわけですが、この時期に岩波文庫さんのラインナップに入るというのが稀有といえば稀有と思われます。

永瀬の故郷・岡山県赤磐市の教育委員会にお勤めで、永瀬の顕彰活動に当たられている白根直子氏(今回も解説的な《研究ノート》をご執筆)から送られてきました。同市ではこれまでも永瀬について多方面でその名を知らしめる活動をなさっていて、今年は伝記漫画も刊行されましたし、永瀬の名をしっかり後世に伝え続けるぞ、という気概が感じられます。すばらしい。

永瀬は谷川俊太郎氏と交流が深く、その谷川氏による選です。また、谷川氏による「はしがき」、生前の永瀬と谷川氏の対談も収録されており、谷川ファンにもおすすめですね。

残念ながら光太郎が書いた永瀬詩集『諸国の天女』(昭和15年=1940)の序文は掲載されていませんが、「短章ほか」と題された散文を集めた項、谷川氏との対談などで、随所に光太郎の名が出て来ます。

特に「へー」と思ったのが、こちら。

 高村光太郎氏がある時夫人のことを
「智恵子は画家でしたが、僕が彫刻家としての立場から、あまりに厳しくその絵を批評したのを本当に今から思うと可哀想なことをしたと思います。芸術家には賞讃と云うことが必要なのです。その事によって心をゆたかにされ、のびてゆけるのです」とおっしゃったことがあり深く心を打たれた。


おそらく同じ時のことを谷川氏との対談の中でも。

 高村光太郎先生のところへお寄りしてお話ししていたら、高村先生もやはり奥さんの病気の原因が自分にありはしないかと苦しんだとおっしゃってました。ご自分が彫刻家なので、芸術に対して高い要求を持っているから、智恵子さんが絵を描いているのをちっともほめてやれなかった。そのことが悪かったんじゃないか、といろいろおっしゃいました。結局、お医者さんにも訊いたりしたんですけれども、それは原因じゃないと言われたそうです。

その他、永瀬と光太郎が共に出席し、かの『雨ニモマケズ』が「発見」されたという、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会の話なども。

ぜひお買い求め下さい。

紹介すべき事項がまだ山積していますので、いただきものつながりでもう一冊。光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんを介して届きました。

門 ⅩⅦ

2023年8月24日 岩手県立花巻南高等学校文芸部
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目次(抄)
 特集Ⅰ 「銀河鉄道の妹・宮沢トシ」を追って
  座談 宮沢賢治・トシ研究者 山根知子教授をかこんで
  文芸研究 銀河鉄道の妹たちへ 
   ――妹宮沢トシが花巻高等女学校『校友会誌』に託し、
        兄宮沢賢治が雑誌『女性岩手』に寄せた思い――
  コラム 「宮沢トシの勇進」寄贈に感謝して
 特集Ⅱ 聖地開演
  一幕 「こども本の森遠野」
  二幕 「高村光太郎記念館」
 随筆
 詩
 小説
 短歌
 戯曲
 花南文芸部活動録
 編集後記


賢治の妹・トシが通った旧制花巻高等女学校の後身である花巻南高校さん(現在は共学です)。少し前の話ですが、令和元年(2019)、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)そばのスポーツキャンプむら屋内運動場(旧山口小学校跡地 通称・高村ドーム)で開催された第62回高村祭では、当時の同校3年生の生徒さんが光太郎詩朗読をなさってくださいました。ちなみに高村祭はこの第62回を以て休止。おそらく最後の高村祭となるのでしょう。

で、同校文芸部さんで出されているもので、おそらく年刊でしょう。高校生の文芸誌とあなどるなかれ、100ページ超のきちんと印刷製本されたもので、写真等も豊富に使われています。内容的にももりだくさんですし、何より生徒さんたち、それぞれに実にしっかりしたものを書かれています。

特集は賢治没後90年ということもあるのでしょう、賢治の妹・トシがらみ。ノートルダム清心女子大学教授の山根知子氏を招いて同校で開かれた座談会の様子など。当方は山根教授とお会いしたことはないと思うのですが、上記永瀬清子関連で岡山県赤磐市で開催された講演会の講師をなさった方で、奇縁に驚きました。

他の項で光太郎についても触れて下さっています。まず、今年2月に花巻で行われた宮沢和樹氏(賢治実弟清六令孫  林風舎代表取締役)と当方との公開対談高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」のレポート。さらに、それとは別に旧太田村の高村山荘、高村光太郎記念館さん訪問記的なものも。ありがたし。

そういえば、今月初めに開催された、花巻高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事としての当方の同題の講座にも、顧問の先生と生徒さんがお一人、聴きに来て下さっていました。

若い世代の皆さんに光太郎やそこに連なる人々の世界を広く知っていただきたい、というのが当方の目指す点のひとつでして、そうした意味ではこちらの取り組みは非常にありがたく存じますし、「文学の聖地」として花巻を盛り上げようという生徒さんたちの熱意には心打たれました。

ちなみに智恵子の故郷・福島でも、いわき市の高校の文芸部さんが智恵子に関するもろもろを……という件が昨日の地方紙『福島民報』さんで報じられています(改めて後日紹介します)。

この国もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

小生今に智恵子観音といふ彫刻を作りますから、それに一度紫陽花を生けてください。

昭和20年(1945)7月3日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎63歳

智恵子観音」。ここでは具体的に語られていませんが、昭和25年(1950)に太田村の山小屋と志戸平温泉で神崎清と行った対談「自然と芸術」中に以下の発言があります。

智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(千葉県)におきたいと考えています。

この構想は、さらに2年経って昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として具現化します。

11月1日(水)に開催されました「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件が岩手で報道されましたのでご紹介します。

『岩手日日』さん。

光太郎の思い出後世に 生誕140年記念トークリレー 花巻・太田地区振興会

 太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念しトークリレー「続・光太郎はなぜ花巻に来たのか」を行った。7人のパネリストが、1952年10月までの7年間を花巻市太田山口で暮らした光太郎のエピソードの数々を披露し、聴講者の関心を誘った。
 今年2月に開催した光太郎が太田に疎開するまでのいきさつやエピソードをひもといた講演会に続く企画。高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんの進行で、メインパネリストに林風舎代表取締役の宮沢和樹さん、パネリストに高村山荘がある太田地区に住む人と、太田以外で光太郎と関わりのある人を迎え、2部構成で光太郎との思い出や関わりを聴いた。
 小学1年生の頃に初めて光太郎と会った浅沼隆さん(82)は、秋の学芸会に来賓として参加した光太郎がステージに上がった時には背広姿から赤い衣装を着て白いひげを着けたサンタクロース姿に変わっていたことを紹介。「白い大きな袋に駄菓子をたくさん入れて持ってきて皆に配った。(見たことのない姿に)みんなびっくりして大喜びだった」と振り返った。
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『岩手日報』さん。

高村光太郎 記憶をつなぐ 生誕140年記念トークイベント

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、同市高松の宮沢賢治イーハトーブ館で、彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年記念事業としてトークイベントを開いた。
 約60人が来場。光太郎と縁がある市民ら6人、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さん(59)=千葉県=と賢治の実弟・清六さんの孫の宮沢和樹さん(59)が登壇した。
 光太郎は宮沢家を頼りに疎開。花巻高村光太郎記念会理事の浅沼隆さん(82)の父親は、住民との交流の場になった旧山口小学校長を務めた。自身も交流し「背が高く体格が良かった。封筒入りの菓子をくれた」と振り返った。
 盛岡一高時代、文芸部員として山小屋(高村山荘)を訪れた菊地節子さん(88)は「マロングラッセに村の人が関心がないことや、牛の尻尾を煮る西洋料理について話す姿が印象的で(当時の)日本人は食に関心がなさ過ぎると話していた」と笑いを誘った。
 宮沢さんは、音楽好きだった光太郎に触れ「賢治はレコードを多く買うほどクラシック好きで、共通する部分だ」と述べた。小山さんは「今の若い人に賢治と光太郎の精神を伝えていくべき」と力を込めた。

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生前の光太郎をご存じの方々の証言はもちろん、報道された以外にも、いろいろな話が聴け、貴重な機会でした。今回のパネラーの方々のうち、直接的には光太郎との交流は無かった皆さんも、海外向けを含め、様々な機会で光太郎について広める活動に当たられていて、有り難い限りです。

当方としましても、交流の輪が広げられたことで、新たな情報の収集につながることを期待しております。それらが入りましたらまたおいおいご紹介して参ります。

【折々のことば・光太郎】

尚厄介とは存じますが近く宮田さんの奥さんと娘さんがそちらに参られる幸便に託して、小生作のブロンズ「手」、木彫「蓮根」、智恵子の切抜絵壹包(箱入)をお届けいたします故お持ち下さるやうお願いいたします、


昭和20年(1945)4月1日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

真壁仁は山形在住だった詩人。激化する空襲のため、父・光雲や自分の彫刻作品、智恵子の紙絵などはほうぼうに疎開させました。紙絵は山形の真壁、茨城取手の素封家・宮崎仁十郎、そして花巻の佐藤隆房(賢治の主治医)の元に。

ところがそれらを疎開させるにしても、鉄道便などもむちゃくちゃな状態で、このように人に頼んで持って行ってもらったりということが多かったようです。「宮田さん」は彫刻家の宮田喜代三。品々を託された宮田の妻は真壁との面識はなく、山形でそれらを渡す際「ほんとに真壁さん?」と何度も確かめたそうです。それにしても紙絵や木彫はともかく、ブロンズの「手」はおそらく10㌔㌘くらいあるのではと思われ、大変だったことでしょう。

10月31日(火)~11月2日(木)、2泊3日で花巻に行っておりました。レポートいたします。

10月31日(火)、新幹線を新花巻駅で下車、レンタカーを駆り、まずは宮沢賢治イーハトーブセンターさんへ。翌日、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」があり、会場設営のお手伝いです。
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同センターでは、「ますむらひろし『銀河鉄道の夜 四次稿編』複製原画展」が開催中でした。
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設営も終わり、続いて花巻高村光太郎記念館さんへ。
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今年は花巻市内、熊の目撃が多発。記念館さんの看板も新たな爪痕だらけでした。
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11月2日(木)には、レンタカーで北上川にかかる朝日大橋を渡っている最中、ふと河岸を見ると何やら黒い塊。もしかすると熊だったかも知れません。市役所さんのホームページには11月1日(水)にその場所で目撃情報があったと記されていました。くわばら、くわばら(死語ですが)。

同館では企画展「光太郎と吉田幾世」が開催中。吉田が初代校長を務め、学校ぐるみで光太郎とお互いに行き来した、盛岡の生活学校(現・盛岡スコーレ高校さん)がらみです。
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例によって説明パネルを書かせていただきました。
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吉田が雑誌『婦人之友』との関わりも深いということで、同誌の誌面を拡大したパネル、スコーレ高校さん所蔵の古写真なども。
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光太郎が同校に勧め、現在も続くホームスパンとぶどうジュースに関する展示。
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そして注目すべきは、書。初公開のものを含め、5点の書が出ています。スコーレ高さんや吉田の縁者の方々の所蔵のものです。
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光太郎の山小屋(高村山荘)を訪れた生徒さんが持参したお土産の弁当の包み紙に光太郎が書を揮毫したものも。紙もただの紙ではなく生徒さんが染めた夾纈(きょうけち)染めです。
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右上の方は表装して掛けているうちに色あせてしまったそうですが。

そして一番驚いたのがこちら。
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開幕前にこういうものを展示しますということで市役所さんから画像を頂いていたのですが、それを見て仰天しました。10年前に、陶芸家の方のブログで画像を見て「これは!」と思ったものだったのです。その方は吉田の縁者だったと判明しました。

5点中3点は「智恵子抄」がらみです。詩「晩餐」(大正3年=1914)から「生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ」と「われらのすべてに溢れこぼるゝものあれ」をアレンジした(記憶違いで書き間違えた?)「われらのすべてに満ちあふるゝものあれ」、「人類の泉」(大正2年=1913)から「私にはあなたがある あなたがある あなたがある」。この手の書で「智恵子抄」の詩句を揮毫することは珍しく、それが3点も、というのも驚きでした。

拝見後、隣接する高村山荘へ。紅葉がいい感じでした。
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そして宿泊先の大沢温泉さんへ。こちらも紅葉が見事。
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チェックイン後、再び市街へ出て、「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の打ち合わせを兼ね、主催者の太田地区振興会、共催のやつかの森LLCの方々、そしてメインパネラーにして宮沢賢治令弟、故・清六氏令孫の宮沢和樹氏と会食。

翌朝、時間がありましたので、大沢温泉さん内のギャラリー茅(旧菊水館)で開催中の「もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展」を拝見。
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4月に続き、2回目です。

さらに部屋でごろごろし、11時頃、出発。イーハトーブセンターさん近くの蕎麦屋さんで早めの昼食。
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渡辺えりさんのサインがあって、笑いました。
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イーハトーブセンターさんに到着。
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勢ぞろいしたパネラーの皆さんと打ち合わせ後、本番。

二部構成で、第一部は、浅沼隆氏をはじめとする、高村山荘のある太田地区にお住まいの方々に、光太郎の思い出を語っていただきました。
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第二部は、太田地区以外の方々。宮沢和樹氏は一部、二部、通しです。
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皆さんにそれぞれの体験、光太郎への思いなど、時に当方の無茶振りもありましたが、時間いっぱい語っていただきました。

本番中に、驚くべき事実が判明しました。キーワードは「帯留め」。

太田村での7年間の蟄居生活中、光太郎は、きちんとした「作品」としての彫刻を一点も発表しませんでした。しかし昭和23年(1948)、盟友の武者小路実篤に送った書簡に、「やつと板彫とか小さな帯留め程度のものを、世話になつた人に贈るため作る位の事に過ぎない」とあります。また、昭和22年(1947)に山小屋を訪れた詩人の竹内てるよや、浅沼隆氏の、山小屋で蝉の彫刻を見た、という証言がありますし、三重県の東正巳から、彫刻材として椿の木片や、珊瑚の一種である「ヤギ」というものが贈られ、それで蝉を彫りたい、的なことを礼状にしたためています。しかし、現物は確認出来ていません。

その蟬の帯留めを、和樹氏のお母さまが光太郎からもらった、という話が和樹氏から語られ、「どひゃー」となった次第です。しかし残念ながら、宮沢家にも現物は残っていないそうで……。

そんなこんなで午後4時過ぎ、つつがなく終わり、途中、中華屋さんで夕食を摂って宿へ。
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翌11月2日(木)朝、再び花巻高村光太郎記念館さんへ。
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この日は企画展「光太郎と吉田幾世」関連行事としての講座講師です。
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約1時間半、光太郎と吉田、さらに『婦人之友』について、スライドショーを使いつつ話しました。近いうちにYouTubeに動画が上がると存じます。

終了後、光太郎や吉田と交流のあった深沢省三・紅子夫妻令孫の多聞氏や、吉田の令姪にして展示されている書をお貸し下さった丹波とも子氏からいろいろ貴重なお話が伺えました。

そしてレンタカーを新花巻駅で返却、帰途に就きました。

実に充実した3日間でした。

企画展「光太郎と吉田幾世」、11月30日(木)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「道程再訂版」といふ小さな本が出来ましたから別封でお送りします。内容が以前のと変つてゐます。


昭和20年(1945)2月14日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

『道程再訂版』はこの年1月15日、青磁社から刊行された文庫本です。大正3年(1914)のオリジナル、昭和15年(1940)の「改訂版」とも異なり、この時期であるにもかかわらず翼賛詩を全く含まず、『智恵子抄』との重複は避けながら、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えてある不思議な詩集です。北川太一先生曰く「傾く戦局の中で死を予感する光太郎の意図を伺う事が出来る」。
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画像は渡辺えりさんの父君、故・正治氏が4月10日、光太郎から直接貰ったものです。この3日後に、光太郎自宅兼アトリエは空襲で全焼します。

2泊3日、予定は全てこなし、帰りの新幹線🚄に乗り込みました。

昨日は宮沢賢治イーハトーブセンターさんで「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」でコーディネーターを務めました。
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今日は花巻高村光太郎記念館さんで
開催中の企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事として同題の市民講座講師を務めました。
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どちらもつつがなく終えることができました。

すみません。決まり文句ですが、詳しくは帰りましてからレポート致します。




昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。
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今日、宮沢賢治イーハトーブセンターさんで、シンポジウム的な「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」でコーディネーターを務めさせていただきます。

昨日はその会場設営をちらっとお手伝い。
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その後、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄り、開催中の企画展「光太郎と吉田幾世」を拝見。
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明日はこちらで関連行事としての市民講座講師を仰せつかっております。

隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間暮らした山小屋)。いい感じに紅葉が始まっています。
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宿泊は定宿とさせていただいている大沢温泉自炊部さん。
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詳しくは帰りましてからレポート致します。



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