最近、こんなものを手に入れました。
「鉄道荷札」。宅配便などのなかった時代、鉄道で荷物を発送する際につけたタグです。年配の方にはなつかしいものかもしれません。当方は、子供の頃、こんなのがあったっけなとうっすらとした記憶がある程度ですが。
太田村山口の住所になっていますので、戦後昭和20年(1945)から27年(1952)までのものです。
宛先の「長沼重隆」は、英文学者・翻訳家。アメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの研究、翻訳などを行っていました。同じくホイットマンの翻訳を手がけた光太郎とは戦前から交流があり、光太郎は長沼の訳書の紹介文などを書いています。また、戦後の日記や書簡に長沼の名が散見されますし、長沼宛の書簡も何通か確認できています。
ここまではこの荷札を手に入れる前から、当方の脳内データベースにありました。そこで改めて長沼について調べてみると、昭和26年(1951)10月27日付の光太郎からのこんな葉書が『高村光太郎全集』第15巻に載っていました。
おてがみいただきました、 長い間拝借してゐたので、ご返却いたさうと思つてゐながら、ついのびのびになつてゐました、 ヰロリの煙がひどいため、大分くすぶりましてまことに申しわけございませんがおゆるし下さい。拙訳「自選日記」の貴下蔵本もその前拝借いたし居りますので、これも同封御返却申上げます。ひどい古本になつてすみません。 ここは書留小包の発送がむつかしいので近日花巻にまゐつて発送の事御諒承下さい。
これに先立つ昭和21年の書簡では、ホイットマンの原著と、光太郎訳の「自選日記」(大正10年=1921刊)を長沼から送られて借りた旨の記述があり、「長い間拝借していた」というのはこれらを指すと思われます。光太郎、自分の出版物を借りていますが、おそらく空襲で焼けてしまい、手元になかったと推定されます。
そして興味深いのは、上記はがきの宛先住所が、荷札に書かれた「新潟市医学町二CIE図書館内」と同一であること。その前年に送られた長沼宛の葉書では同じ新潟でも別の住所になっています。となると、上記はがきで返却のため「花巻にまゐつて発送」と書かれている、まさにその際に使われたのが、この鉄道荷札なのではないかと思われます。荷札に年月日の記載がないので確証はありませんが、そうそう何度も鉄道便を使っていないと思います。
ちなみに「CIE図書館」は、戦後、GHQ幕僚部の一つ、民間情報教育局が全国23カ所に作らせた開架式の図書館です。
このように、パズルのピースがはまっていくような感覚。これがこの手の研究の一つの醍醐味ですね。ただ、まだ不確定要素が多いので、もう少し調べてみます。