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今月26日、岩手の地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

入館者1万2000人超 高村光太郎記念館

 花巻市は、同市太田に今春仮オープンした高村光太郎記念館の入館状況を11月末現在でまとめた。総入館者数は1万2000人を超え、財団法人高村記念会(佐藤進会長)が運営していた旧記念館の2012年度実績を上回る状況。通年開館となり、この冬の入り込みが注目される。

 高村祭に合わせた5月15日の仮オープンより前の旧記念館分を一部含む4月以降の総入館者数は1万2558人。旧記念館の前年度実績(4月1日~12月15日)は1万1143人で、12月分を残して既に前年度の総数を上回っている。

 入館者の内訳は、一般が1万1112人、高校・学生が217人、小・中学生1229人。個人が9695人で全体の77・2%、団体が2863人(63団体)で同じく22・8%。一般は個人観光客、小・中学生は修学旅行などの団体客が8割強を占め、高校・学生は6対4で個人が多い。

 市賢治まちづくり課の高橋久雄課長は「個人客が目立つが、団体客も少しずつ入るようになった。まだ周知不足の面もあり、徐々に広がれば」と期待。さらに「通年開館で、これからの時期は光太郎が過ごした冬の厳しさの一端も感じ取ることができるはず」と話している。

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)は、宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、晩年を過ごした。同記念館は光太郎が独居自炊した小屋(高村山荘)奥の旧高村記念館が手狭で老朽化したため、山荘の手前にあった市の花巻歴史民俗資料館を活用した。

 彫刻作品や文芸、愛用品など約150点を展示し、光太郎の生誕130年に合わせて展示室のみで暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向け、併設の収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を14年度中に進める計画。
 
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記事にあるとおり、今春仮オープンした花巻の高村光太郎記念館ですが、入館者数の昨年実績を上回っているそうです。ただ、実は、対前年比がもう少し伸びていてもいいのかな、というのが正直な感想です。その分、こうして宣伝していただくことが人寄せになるかと思いますので、ありがたいことです。
 
以前は冬期閉鎖でしたが、今年から通年開館。これも記事にあるとおり、これから雪に覆われる時期で、隣接する高村山荘での光太郎の暮らしを偲ぶにはもってこいですね。当方も、来月、また訪れる予定です。みなさんもどうぞ。
 
『岩手日日』さん、前日には当方に関する記事も載せて下さいました。
 
年2回、4月2日の連翹忌と、10月5日のレモンの日に合わせ、当方が刊行している冊子『光太郎資料』。今年10月に出した第40集を紹介していただきました。
 
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当会名簿に載っている方と、光太郎智恵子に関連のありそうな機関に勝手に送りつけているものですが、『岩手日日』さんにも送っており、紹介して下さった次第です。過分なお褒めのお言葉をいただき、恐縮しております。
 
早速問い合わせも何件かあり、ネットとはまた違う「新聞」の力を実感しました。
 
当方が刊行した第37~40集、まだ若干の残部があります。また、来春刊行予定の第41集、現在、鋭意作成中です(そのために一昨日、国会図書館に調査に行って参りました)。必要な方、このブログのコメント欄等からご連絡下さい。送料のみでお頒けしております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月28日

昭和28年(1953)の今日、十和田湖畔の裸婦像建設委員会がその役目を終え、解散しました。
 
除幕がこの年10月でした。以前にも書きましたが、ちょうど60年です。

ブログ記事のカテゴリは東北岩手としていますが、東京日野でのイベント情報です。  ネット検索で見つけました。

賢治の教え子シリーズその7「クラムボン」 上映会

日 時 : 2013年12月13日(金) 10時~
会 場 : conomiya-cafe 東京都日野市 日野本町 4-22-7-2
問い合わせ:東京賢治シュタイナー学校(担当:竹内様)電話042-523-7112
 
立川にある、幼稚園から高校までの東京賢治シュタイナー学校さんの主催だと思われます。
 
同校にて1990年代に作成されたDVD「宮沢賢治の教え子インタビュー映画」(全8巻+別巻2+総集編1)というものがあります。
 
そのうちの第7巻「クラムボン」(90分)の上映が、上記、日野のカフェで行われる、ということでしょう。
 
さて、その内容なのですが、同校のサイトから抜粋します。

その7「クラムボン」

1999年 90 分
北上川に浮かぶ小舟に乗った宮沢先生と教え子の照井謹二郎さん。その川面にリンゴを落として遊ぶ先生。水面に広がる輪が光を受けて輝く。「きれいだー」と感動し何度もくり返す先生。照井さんは、よく先生に連れられて、山や川に行き、そんな姿を見ていました。その後、幼稚園の園長となった照井さんは、約50年間賢治の童話劇を子どもたちと共に取り組んでいくことになりました。また、浅沼政規さんは詩人高村光太郎や宮沢先生との出会いを語り、「雨ニモマケズ」の詩中の「ヒドリ」をめぐって語ってくれます。
 
故・照井謹二郎氏、故・浅沼政規氏、ともに花巻の方ですが、光太郎とも交流のあった方々です。
 
照井氏は、登久子夫人と共に昭和21年(1946)に子供達による劇団「花巻賢治子供の会」を結成、賢治童話を上演し続けました。そもそもの始まりは、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に独居していた光太郎を慰安する目的だったようですが、光太郎に激賞され、本格的に公演を行うようになったそうです。
 
浅沼氏は山荘近くの太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。
 
ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。今年10月に放映されたNHKの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」中の花巻ロケにご出演、生前の光太郎について語って下さいました。
 
そのお二人の出演されたDVDということで、興味深いものがあります。ただ、当方、日程が合わず行けません。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月3日

昭和23年(1958)の今日、花巻郊外太田村の山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格、開校式が行われ、詩「お祝いのことば」を朗読しました。
 
  お祝いのことば
 
あのかはいらしい分教場が急に育つて
たうとう山口にも小学校ができました。007
教室二つの分教場が大講堂にかはり、
別に新しい教室が三つもでき上りました。
部落の人々と開拓の人々が力を合せて
こんなに早く学校を建てました。
みんなが時間と資材と労力と、
もつと大きい熱情といふものを持ち寄つて
この夢の実現を果しました。
陽春四月の雪解ごろから
夏のあつい日盛りや秋のとり入れの忙がしい中を
汗水流して材木運びや地均しをした人達の群がりが
今ブルーゲルの画のやうに眼に浮びます。
損得を超越して成就を期した棟梁の人、
骨身を惜しまず仕事にいそしんだ大工さん左官屋さん、
みんな物を作り上げるといふ第一等の喜びを知つてゐる人のやうです。
あの製板の器械のうなり、
あの夜おそくまで私の小屋に聞えてきた槌の音、
まるできのふのやうになつかしく耳に残つてゐます。
山口小学校は名実ともに立派にでき上がりました。
西山の太田村山関といふ小さな人間集団が
これで世間並の教育機関を持つのです。
小学校の教育は大学の教育よりも大切です。
本当の人間の根源をつくるからです。
部落の人も開拓の人もそれをよく知つてゐると思ひます。
異常な熱意がこの西山の一寒村にたぎつてゐます。
狐やまむしの跳梁する山関部落が
世界の山関部落とならないとはいへません。
私は大きな夢をたのしみます。
かはいい山口小学校の生徒さん達の上に
私の夢は大きくのびて遊びます。
あめでたうございます。
一歩前進、
いよいよ山口小学校ができました。
 
上の画像はありし日の旧山口小学校校舎です。残念ながら昭和45年に廃校となり、さらに歴史民俗資料館として活用されていた校舎も老朽化のために取り壊されてしまいました。
 
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この写真は、昭和24年(1949)の今日、開校から1008周年の学芸会の日の一コマです。サンタクロースに扮する光太郎。この写真を見ると涙が出そうになります。どういう思いでこの寒村に7年も一人で暮らしていたのか……。
 
ちなみに後ろに写っている「山口小学校」の看板は光太郎の揮毫、その右の窓から顔を出している少年が、浅沼政規氏ご子息・隆氏だそうです。

女優の渡辺えりさんからお葉書をいただきました。新春コンサートのご案内です。
 
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渡辺さん、このブログで何度もご紹介させていただいておりますが、お父様が光太郎と交流があった方で、えりさんご自身、幼い頃からそのお父様の薫陶を受け、光太郎を敬愛なさっています。
 
先日、当方が花巻に行った折、えりさんがご両親と一緒に花巻にいらしたと聞きました。お父様、しばらく入院なさっていたとのことですが、めでたくご退院ということで、十和田から花巻と、光太郎ゆかりの地をご両親と旅されたそうです。花巻高村記念会高橋氏曰く、お父様も実にお元気だったとのこと。
 
以下、えりさんのブログにリンクします。
 
 
その後もえりさん、名古屋の高校で講演をなさったそうで、その中で光太郎にも触れられたそうです。ありがとうございます。
 
そしてご案内をいただいたコンサート。もしかしたらMCで光太郎がらみのお話があるかも知れません。
 
もうお一人、光太郎の詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン歌手、モンデンモモさん。「モモの智恵子抄2013秋」ということで、二本松、福島市、そして原宿でコンサートをなさいました。
 
当方、このところ地方出張が多く(また明日から愛知です)、日程が合わずに参上できませんでしたが、成功裏に終わったようで何よりでした。
 
以下、モモさんブログから。
 
 
ちなみにモモさんのピアノ伴奏を務めていらっしゃるピアニストの砂原嘉博さん、以前に渡辺えりさんのピアノ伴奏もなさったことがあるそうで、世間は狭いものだと思いました。
 
お仲間の皆さんがそれぞれに活躍なさっています。こちらも頑張らねば、と決意を新たにいたしました。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月21日

昭和28年(1953)の今日、『昭和文学全集008 第二十二巻 高村光太郎集 萩原朔太郎集』の印税として、角川書店から1,570,205円の小切手を受け取りました。
 
現在でも150万円といえば大金ですね。ましてや昭和20年代の150万円というと、現在の価値に換算したらどのくらいになるのでしょうか。
 
実は晩年の光太郎、この手の収入がかなりありました。しかし生活は質素。そこも光太郎の偉いところだと思います。
 
ちなみにこの書籍の月報には前年、十和田湖上で撮った光太郎スナップが載っています。いい写真です。

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花巻郊外の高村光太郎記念館で購入したグッズの数々です。クリアフォルダ、ポストカードなどは以前からありましたが、一筆箋、レターセット的なものがごっそり増えており、思わずたくさん買ってしまいました。それ以外にも、タオル、日本手ぬぐい、コースターなどなどいろいろ増えています。
 
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花巻市役所近くにある「やぶ屋」さん。稗貫農学校に勤務していた頃の宮澤賢治が通い、光太郎も行ったことがある店です。賢治は天ぷらそばとサイダーを注文することが多かったとか。ショーウィンドウには、賢治をあしらった三ツ矢サイダーの看板が出ていました。
 
なぜか店内レジのそばに光太郎の「初夢まりつきうた」の詩稿(コピー)が額に入って飾られていました。「初夢まりつきうた」は昭和26年、『花巻新報』に発表された詩で、花巻商人をモチーフにしています。のちに作曲され、SPレコードにもなり、数年前にそのレコードが花巻市内で見つかったことがニュースになりました。
 
なぜその詩稿のコピーがここにあるのか、お店の方に伺おうと思ったのですが、当方が行ったのはちょうど昼の混雑時でお店の方も忙しそう。迷惑かなと思い、出直すことにしました。まだすいているであろう時間帯に夕食を早目に食べに来て、お尋ねするつもりでした。しかし、夕方来てみると、「本日都合により午後3時まで」の貼り紙。また一つ宿題が増えました(笑)。
 
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「花巻市博物館だより」です。先日のブログでご紹介した企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」の記事が2ページ載っています。㈶高村記念会さんでいただいてきました。2ページ目のスナップは佐藤隆房夫妻と光太郎です。
 
高村記念会さんといえば、テレビ朝日さんから協力要請があったそうで、その情報をゲットしました。明後日11/15、テレビ朝日系の夕方の情報番組「スーパーJチャンネル」の中で、「誰も知らない紅葉巡り、都電で見つけた小さな秋」という15分のコーナーが放映されるそうです。ただ、その部分は全国放映ではなく、首都圏ローカル枠のように思われます。
 
都電荒川線沿線の「誰も知らない紅葉スポット」ということで、椿山荘近くの水神社、雑司ヶ谷鬼子母神、王子飛鳥山、そして光太郎はじめ高村家の人々も眠る駒込染井霊園が紹介されるそうです。染井霊園の部分で、高村家の墓所、そして高村記念会さんの提供により光太郎の肖像写真が写るとのこと。首都圏の方、ご覧下さい。
 
そして昨日は岩手町での光太郎直筆の看板探訪。現物は見られませんでしたが、所在は確認できました。「佐藤隆房展」とあわせ、また近々行くしかないな、と思っています。 

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おまけ。昨日、盛岡駅で買った駅弁です。ウニが食べたくてこの弁当にしたのですが、偶然にも箸袋の文字と絵は、『白樺』で光太郎と交流のあった武者小路実篤。驚きました。他の方のブログによると、系列のホテルに武者が泊まった時に残した書画を使っているとのことです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月13日

昭和50年(1975)の今日、東大地震研究所が創立50周年記念に光太郎木彫「鯰」のレプリカをあしらったペーパーウェイトを作成、関係者に配布しました。
 
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地震といえば鯰ですが、東大さんもなかなか洒落っ気が利いていますね。意外と重宝しています。

昨日は夕方まで花巻市役所がらみの仕事だったもので、花巻駅前の商人宿に一泊、今日は盛岡のさらに北、岩手郡岩手町というところに行って参りました。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
この年の日記は筑摩書房『高村光太郎全集』第13巻に載っており、北川太一先生が書かれた巻末の解題の部分では「川口村は現在の岩手郡岩手町。この看板は現存するという。」とあります。ただ、それ以上具体的なことは不明で、当方、未だこの看板の現物を見ていません。おそらく北川先も伝聞で書かれたのでしょう。
 
少し前に、ネットでこの看板に関しての記述も見つけました。数年前に書かれたもので、岩手町のいわて沼宮内駅の駅ビル内に郷土資料館があり、そこに展示されているとのこと。
 
そこで、花巻に行ったついでに見てこようと思い、行ってきたわけです。
 
さて、いわて沼宮内駅に着き、駅ビル内のネットに書かれていた場所に行ってみました。しかし、郷土資料館なる施設はありません。該当の場所は「会議室」になっていました。ただ、数年前の書き込みだったので、そういうこともあるだろう、と予想はしていました。その場合には聞き込み捜査をするつもりでいましたので、途中で目を付けていた観光案内所に行きました。すると、「町役場で訊けば分かるかも知れません」との答え。役場の場所を教えていただき、行ってみました。
 
役場では受付の女性職員の方があちこちに内線やら外線やらをかけて下さり、最終的に岩手町の川口公民館につないで下さいました。電話を替わって、これこれこういう物を探している旨を伝えると、の方からは「それならここにある」という答。なんのことはない、元の場所に戻っていたのです。
 
下手すると行方不明になっていたり、廃棄されていたりということもあり得るかな、と思っていたので(実際、他でそういう例があり、憤慨したことがあります)、安心しました。
 
ただ、今日は既に帰りの新幹線の切符を取っていて、川口公民館に廻る時間はありませんでした。また近々行って見てこようと思っています。
 
それにしても、岩手県内陸部は今日も小雪がち008らつき、岩手町では日陰にはかすかに積雪もありました。改めて東北の自然の厳しさを知った道中でした。
 
明日も岩手レポートを書かせていただきます。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月12日

昭和63年(1988)の今日、光太郎を敬愛し続けた詩人・草野心平が歿しました。
 
昭和32年(1957)、第一回連翹忌の発起人の一人として案内文を書いた心平。その後も自身が亡くなるまで光太郎顕彰に取り組み続けました。いわば当会の祖、当方の大先輩です。

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岩手花巻に来ています。

7月以来、久しぶりに郊外太田地区にある、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで暮らした高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館に行って参りました。

予想通りに紅葉がいい感じに色づいていました。

記念館で驚いたのは、グッズがかなり増えていたこと。帰ってから画像入りで紹介します。

市街地に戻って、昼食を宮沢賢治がよく行った「やぶ屋」という蕎麦屋で食べました。ここは光太郎も行ったことがある店です。賢治がよく注文したというてんぷらそばを食べました。なかなか美味でした。こちらについても帰ってからレポートします。

そのうち空模様が怪しくなって来たと思ったら、雨が降り出し、さらに夕方には雪に変わりました。積もるような勢いではありませんが、11月中旬にもう雪とは……。

明日は盛岡方面です。

【今日は何の日・光太郎】 11月11日

昭和31年(1956)の今日、TBS系テレビでドラマ「智恵子抄」が放映されました。
 
映画も含め「智恵子抄」初めての映像化でした。キャストは光太郎役が宮口精二さん、智恵子役で新珠三千代さんでした。

花巻市の東方、宮沢賢治記念館近くにある花巻市博物館で、来月から以下の企画展が開催されます。

共同企画展 ぐるっと花巻再発見! 佐藤隆房展―醫は心に存する― 

期 日 : 平成25年12月1日(日)~平成26年2月11日(火・祝)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 8:30~16:30
休館日 : 12月28日から1月1日まで
料 金 : 小、中学生 150(100)円 高、学生 250(200)円 一般 350(300)円
 
 花巻における近代病院の礎となった花巻共立病院。(現【公財】総合花巻病院)を創立し、花巻の先進医療化に寄与するとともに、町政・市政へ多大な貢献をされた佐藤隆房博士。
また、宮沢賢治、高村光太郎など花巻ゆかりの文人と広く親交を持ち、芸術・文化の世界にも深い理解と造詣を有した一面もありました。
今回の展覧会では、御子息の佐藤進氏、(公財)総合花巻病院の全面的な御協力のもと、医師としての活動、市政功労者としての活動、文化・芸術の理解者、庇護者としての活動、さらに乗馬や狩猟、俳句・絵画など趣味人としての活動等、佐藤隆房博士を多角的に顕彰・紹介していきます。(同館サイトより)
 
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佐藤隆房医師は、宮澤賢治の主治医。その関係で、昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役買いました。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
この企画展では、おそらく光太郎関連の品々もいろいろ展示されると思われます。これから雪深い時期となりますが、雪の花巻も乙なもの。また、今年5月にリニューアルとなった花巻郊外の高村光太郎記念館も、かつては冬期間閉鎖でしたが、今年から通年開館となります。併せて足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 11月8日

平成9年(1997)の今日、洋画家・難波田龍起が歿しました。
 
難波田は北海道旭川の生まれ。幼少時に父の仕事の都合で東京に移り、数え9歳の時に駒込林町の光太郎アトリエのすぐ裏に転居。十代の頃から詩を携えて光太郎アトリエに出入りしていました。その後、光太郎の勧めもあって洋画の道に進んでいます。往年は連翹忌にも参加していました。

岩手からイベント情報です。 

岩手大学ミュージアム10周年記念事業 大学収蔵美術展 ~教材としてのアートの魅力~

期間:2013年9月27日(金)~11月3日(日)
会場:岩手大学情報メディアセンター(図書館) 盛岡市上田3-18-8
入場無料
 
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岩手大学さんの美術・デザインコース(特設美術科)で教材として提示するために収集された美術品を一般公開するというものです。
 
光太郎の代表作「手」も含まれているとのこと。
 
以前にも書きましたが、ブロンズの作品は同じ型から鋳造したりということで、複数存在するものがあり、「手」も全国に10点以上あるのではないかと思われます。
 
他にサモトラケのニケや萬鐵五郎の作品なども展示されているようです。
 
同大の特設美術科は、光太郎と交流のあった盛岡出身の画家・深沢紅子、美術史家の森口多里(水沢町出身)らが昭和22年(1947)に開いた岩手美術研究所を母体としているそうで、のちに岩手美術工芸学校、そして岩手大学特設美術科へと発展していったとのこと。
 
光太郎は花巻時代に美術工芸学校で講演を行ったり、卒業式などには祝電を送ったりしています。当方、この頃森口に送った葉書を5通所蔵しています。
 
というわけで、光太郎と縁浅からぬ岩手大学さんで、光太郎の作品も展示されているイベント。お近くの方はぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月4日

昭和28年(1953)の今日、後楽園に「ホリデイ・オン・アイス」を観に行きましたが、満員で入れませんでした。
 
「ホリデイ・オン・アイス」といえば、アメリカのフィギュアスケーターによるアイスショーで、当方が子供の頃(昭和40年代)、テレビのCMもやっていた記憶があります。昭和20年代にすでに日本公演があったというのは驚きでした。
 
光太郎、この後しかたなく草野心平が経営していた居酒屋「火の車」に出かけています(笑)。

昨日、NHKさんの連続テレビ小説「あまちゃん」がとうとう最終回を迎えました。
 
震災の被災地が舞台ということで、当方、被災地の方々といろいろ付き合いがあるため、4月の放映開始から毎日観ていました。
 
三陸といえば光太郎とも縁の深い土地柄です。昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、三陸沿岸に約1ヶ月の旅をしています。ただ、物語の舞台「北三陸市」のモデルとなった久慈市までは足をのばさず、少し南の宮古までだったようですが。ちなみにBGMとして、岩手出身の宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりのうた」が使われてもいました。
 
もう一つ、「あまちゃん」を見始めた理由として、渡辺えりさんが出演されていたこともあります。
 
以前にも書きましたが、渡辺さんは、お父様が光太郎と直接交流があり、その関係でご自身も光太郎を敬愛、光太郎を主人公とした演劇「月にぬれた手」を作られました。
「月にぬれた手」「天使猫」レポート。
 
連翹忌にもご参加いただき、さらに今年は5月15日の花巻光太郎祭、更に翌日には花巻市文化会館で光太郎に関する講演をなさいました。


 
渡辺さん演じる天衣無縫な海女の弥生さん、渡辺さんご自身は「わけの分からないキャラクター」だとおっしゃっていましたが、毎回笑わせて下さいました。
 
ところで、「あまちゃん」のキャストには、他にもかつて光太郎智恵子がらみの演劇、映画、ドラマなどに出演された方がたくさん名を連ねていました。
 
やはり海女の長内かつ枝役の木野花さん。渡辺さんの書かれた「月にぬれた手」に、光太郎の暮らす花巻郊外太田村山口の農婦役でご出演。
 
光太郎に投げつける「戦争中にこいづが書いた詩のせいでよ、その詩ば真に受げて、私の息子二人とも戦死だ。」「おめえがよ、そんなにえらい芸術家の先生なんだらよ。なしてあんだな戦争ば止めながった? なしてあおるだげあおってよ。自分は生ぎでで、私の息子だけ死ねばなんねんだ。」という台詞、重たいものがありました。
 
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画像は「月にぬれた手」のパンフレット。サインは直筆です。
 
木野さんといえば、当方が「月にぬれた手」の公演を観に行った日、舞台がはねた後、高円寺の駅でお見かけしました。女優さんというとタクシーで移動というイメージでしたが、普通に電車に乗って帰られるところでした。かえってそういうところに好感が持てました。
 
同じく海女の熊谷美寿々役・美保純さん。
 
光太郎詩「樹下の二人」の朗読が入っていた映画「春色のスープ」(平成20年=2008)に、盲学校で朗読のボランティアをしている女性の役でご出演。

 
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漁業組合長で木野花さんのご主人・長内六郎役のでんでんさん、商工会長で渡辺えりさんのご主人・今野あつし役の菅原大吉さんは、「智恵子抄」オマージュの要素もあった反原発映画「希望の国」(平成24年=2012)でも共演されていました。
 
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でんでんさんは、故・夏八木勲さん演じる主人公の隣人で、原発事故の直後に半ば強制的に待避させられる役。菅原さんは頑固に自宅にとどまる主人公に待避を勧める役場職員の役でした。
 
ちなみに菅原さんは、平成18年(2006)にオンエアされたフジテレビ金曜プレステージ「浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎」で、中村俊介さん演じる主人公・浅見光彦とともに事件解決に当たる橋田刑事の役もなさっています。
 
浅見光彦といえば、平成21年(2009)・TBSの沢村一樹さん主演のシリーズ「浅見光彦~最終章~」の「最終話 草津・軽井沢編」(『首の女殺人事件』)で、光彦の幼馴染みという設定の宮田治夫(内田康夫氏の原作とはかなり設定が違います)役を、北三陸市観光協会長役の吹越満さんが演じていました。

 
探せば他にもいらっしゃるかもしれませんんが、思いつくのは以上です。
 
それにしても「あまちゃん」。パ・リーグ楽天同様、東北をだいぶ元気づけてくれたと思います。終盤の震災後の描写は、当方も訪れた石巻や女川などの様子とダブって見えました。肩肘張らず「復興」への歩みを描いた手法には感心しました。
 
ところで、世間では少し前から「あまロス症候群」なる語がささやかれています。「あまちゃん」放映終了後に訪れるであろう虚脱感、ということですね。放映終了前からそうなるのが怖い、という声がネットを賑わせていました。当方もそうなりそうです(笑)
 
スタッフ、キャストの皆さん、お疲れ様でした。そして感動をありがとうございました。
 
12/2追記
同じNHKさんの「八重の桜」について同じようなことを書いていて気づきました。
 
ミズタクこと能年玲奈さん演じる天野アキのマネージャー・水口琢磨役の松田龍平さんが、平成22年(2010)にユニクロのCM「何処もかもだ」篇に、黒木メイサさんとご出演。これは光太郎詩「冬の詩」を使っていて、かなりインパクトのあるものだったので、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。
 
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【今日は何の日・光太郎】 9月29日

明治43年(1910)の今日、神田淡路町に光太郎が開いた日本初といわれる画廊・琅玕洞で開催されていた洋画家・斎藤与里の個展が閉幕しました。

女川光太郎祭でご一緒させていただいたギタリスト・宮川菊佳氏からCDを2枚いただきました。
 
どちらも「花巻夜曲/花巻ブルース」。1枚は大地穂(おおちすい)さんの歌、もう一枚は今福充さんの歌です。
 
作曲が宮川氏ということで、宮川氏が自主製作なさったようです。ともに定価1,500円とパッケージにありました。
 
作詞は高橋雅郎氏。光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に暮らしていた頃の太田村長です。平成5年(1993)頃に作られたようです。
 

 花巻夜曲001
 
花巻くまちの 中原に  北上川の 流れあり
岸辺はるかに うずをまく  ぬれているよな あのひとみ
 
いで湯のまちに 湯げかおり  恋の花咲く 花の里
河鹿の声に 夢破れ  去りしあの人 今いずこ
 
賢治を生んだ 花巻に  詩人光太郎 山に入り
智恵子の愛を 詩にうたう  文化の里が よみがえる
 
  
 花巻ブルース000
 
詩(うた)のふるさと 花巻に  幼馴染のあの女(ひと)と
北上川辺の 道行けば  恋のさくらが 胸に咲く
 
詩(うた)のふるさと 花巻の  思い出おおい あの女(ひと)と
花城(かじょう)の跡を  訪ね見る  愛のたんぽぽ 足に咲く
 
詩(うた)のふるさと 花巻に  別れがつらい あの女(ひと)と
湯の街並木を 送りゆく  涙こぼれる 星の夜
 
お求めは宮川氏まで。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月16日

大正3年(1914)の今日、光雲の東京大正博覧会の出品鑑査員・審査官としての任務に対し、金85円が支給されました。

一昨日の千葉市美術館での講演会においで下さった宮城在住の朗読家・荒井真澄様から花巻のお土産をいただきました。先日、花巻に行かれたそうで、現地で手に入れられたものをお持ち下さいました。ありがたいことです。
 
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『花日和』夏号(2013/6)。花巻で発行されているタウン誌のようなものです。
 
この中に「シリーズ先人紀行 高村光太郎」3ページ掲載されています。
 
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5月に仮リニューアルオープンした高村光太郎記念館の紹介も。新聞を除き、きちんとした印刷物で紹介された先駆けではないかと思われます。
 
調べてみましたところ、花巻市役所のサイト内で紹介がありました。PDFで全文が読めます。ぜひご覧下さい。
 
光太郎以外にも宮澤賢治についても記述があります。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月9日

明治40年(1907)の今日、留学先のロンドンで、カーライル博物館を訪れました。
 
スコットランド出身の歴史家・評論家トーマス・カーライルの旧宅を一般公開していたもので、かの夏目漱石もイギリス留学中にここを訪れ、帰国後の明治38年(1905)に「カーライル博物館」という紀行文を発表しています。

岩手から入ったニュースです。 

詩人三田循司に光 詩歌文学館

 小説家の太宰治らと親交があった花巻市出身の詩人三田循司の書簡やノートなどの遺品が3日、親族から北上市本石町の日本現代詩歌文学館に寄贈された。同館は若くしての戦死が惜しまれた岩手の詩人の作品に光を当て、太宰をはじめとする文人との交友を物語る資料として保管し、研究に役立てる。

 三田は1917年生まれで、東京帝国大文学部に進学。友人の戸石泰一らと同人誌「芥」を創刊して詩を発表し、太宰を訪ねるようになる。太宰の紹介で評論家で詩作も著した山岸外史に師事。学徒動員で同大を繰り上げ卒業して出征し、1943年に戦死した。太宰には三田の記憶と死をつづった短編「散華」がある。

 寄贈したのは奥州市水沢区の佐々木比子さん(55)で、資料は段ボール箱2箱分のノートやはがきなど。佐々木さんの母で三田の妹綾子さん(85)が保管し、太宰生誕100年の2009年に同館で特別公開された物も含む。綾子さんが高齢になったことから、保存のために同館を頼った。

 三田は大卒後すぐに出征したために作品が少なく、ノートなどは貴重。三田の詩を評した太宰からのはがきには「文学でも人間でも『素朴な感動』を忘れてはいけません」という激励の言葉があり、太宰の側面の一つの前向きな人間性が感じられる。また「散華」の中でも触れられている三田の遺稿集出版の打ち合わせについて書かれたはがきもある。

 このほか三田の弟悊の遺品の一部も提供。花巻市とゆかりの深い詩人で彫刻家の高村光太郎や宮沢賢治の弟・清六さんからのはがきもあり、文人とのつながりの数々を示す。

 同館では09年の特別展示の際に一度資料の目録を作成しており、再度本格的に整理しての展示を計画している。佐々木さんは「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」と依頼。同館の豊泉豪上席主任学芸員は「三田は『散華』の主人公とも言え、本名で登場している。調べていけばこれまで知られていなかった側面も発見されるだろう」と話し、寄贈に感謝していた。
 
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三田循司・悊(せい)兄弟の遺品で、太宰や光太郎などに関するものが、北上市の日本現代詩歌文学館に寄贈された、という内容です。
 
一連の資料は平成21年(2009)に見つかり、地元では大きく報道され、日本現代詩歌文学館や盛岡市の啄木賢治青春館で公開されました。
 
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上記画像はその時の『岩手日報』さんの記事です。当方のコメントも載っています。
 
というわけで、新発見ではないのですが、一括して寄贈されたというところにニュースバリューがあります。これは考えてみれば、大変なことです。売れば売ったでかなりの金額になるものですから。特に太宰の書簡ということになると、その市場価格は光太郎のそれの比ではありません。太宰は短命だったため、残っている絶対数が少ないので。こういったものがわけのわからない偏狭なコレクターの手に入り、死蔵されてしまうともうそれっきりです。そうではなく、日本国民共有の文化遺産、という考え方にたどり着いてほしいものです。
 
そういうことを考えると、「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」というご遺族のコメントには本当に頭が下がります。
 
先週、花巻に行って、宮沢賢治の妹の婚家から出てきた光太郎書簡について調査して参りました。こちらも花巻の記念会に寄贈されたものです。これもすばらしいことです。
 
花巻の記念会では、こうした寄贈に頼るのではなく、かなり市場に出たものの購入も進めています。特に光太郎花巻時代の草稿など。ところが狙ったものが抽選やら先着順やらで手に入らないケースも多いとのこと。
 
あるべき場所にあるべきものがある、という状態が望ましいとつくづく思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月5日

昭和15年(1940)の今日、河出書房から『芸術論第二巻 芸術方法論』が刊行されました。光太郎の評論「素材と造型」が収められています。
 
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先ほど、2泊3日の行程を終え、花巻から帰って参りました。
 
昨日は、旧太田村の高村山荘近くにある旧高村記念館にこもり、まる1日、寄贈された図書等の分類整理を行いました。
 
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旧記念館の看板 草野心平筆です。
 
山荘近くにお住まいの方の蔵書だったもので、その方が脳溢血で倒れ、蔵書が花巻の記念会に寄贈されたのですが、かなり膨大な量で、リストもなく、入手経路等もほとんど不明のものです。
 
先月、新たな記念館のオープンの際に行ったときにも少しその作業をやったのですが、今回は完全に分類整理し、リストを作成するつもりで行きました。
 
調べてみると、かなり貴重なものも含まれていました。
 
まず光太郎から島崎藤村の三男、蓊助(おうすけ)にあてた葉書が4通。既に『高村光太郎全集』に収録されているものですが、貴重なものです。
 
さらに光太郎の識語署名入りの著書が2冊。これも珍しいもの。このあたりは新しい記念館に展示されてもおかしくないものです。
 
その他、光太郎の蔵書だったもの。光太郎宛の献呈署名が入っている書籍がけっこうありました。中には『念ずれば花ひらく』で有名な仏教詩人・坂村真民からのものもありました。
 
また、昭和20年から27年にかけての雑誌が山のようにあり、どうも光太郎の元に送られてきたものだと思われます。光太郎の山小屋にはこういう若い詩人の著書や雑誌類がたくさん送られていて、光太郎は、特に手元に残す必要がないと思ったものは村の人々にあげてしまったりしていました。
 
そういったもののの分類は終わり、リストまで作成し終わるつもりでいましたが、時間が足りませんでした。最後の頃は頭もクラクラしてきましたし。あと半日あれば終わっていたのですが、結局途中で断念、また近いうちに行って最後の仕上げをします。この書籍類、いずれは新しい記念館で何らかの形で活用されるとのことです。
 
ちなみに頭のクラクラ、かなりひどかったのですが、花巻の記念会の方に車で宿(大沢温泉)に送っていただき、ゆっくり温泉につかったら治りました。大沢温泉、すばらしい(笑)。
 
新しい記念館、といえば、先月の仮オープン以来、閑古鳥が鳴いていないかなどと心配していましたが、あにはからんや、けっこう団体のお客さんがお見えだそうです。実際、昨日もこちらの昼食休憩の時に大型バスが一台。なんと智恵子のふるさと・福島安達の農業関係の団体様でした。ありがたいことです。
 
さらに新しい記念館、といえば、ホームページがリニューアルされました。ご覧下さい
 
ご覧下さい、といえば、いよいよ明日から千葉市美術館において企画展「彫刻家高村光太郎展」が始まります。こちらもぜひご覧下さい。当方、明日は午後から観に行き、夕方から館主催のオープニングレセプションに出席いたします。
 
花巻から帰ってきましたところ、図録が届いていました。担当学芸員さん曰く「自分の葬儀の時には今回のポスターと図録を棺に入れてほしいほどの出来」。たしかに実に立派なものです。こちらもぜひお買い求め下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 6月28日000

昭和20年(1945)の今日、花巻市桜町に建っていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑を初めて訪れました。
 
碑文はかつて昭和11年(1936)に、花巻の関係者からの依頼で光太郎が「雨ニモマケズ」の後半を書いたもの。後に昭和21年(1946)には、碑文に誤りがあるのを知った光太郎が碑面に訂正を書き込み、石屋さんがその場で刻むというちょっと変わった訂正がされました。
 
ところで「雨ニモマケズ」の一節で、一般に「ヒリノトキハナミダヲナガシ」とされている部分、元々賢治が手帳に書いた段階では「ヒリノトキハ」でした。
 
それが現在、一般には「ヒリ」と改変されています。そのことに是非についてはここでは論じませんが、時折、「光太郎がその改変をした」という記述を見かけます。
 
光太郎の名誉のためにこれだけは書いておきますが、それは誤りです。確かにこの碑でも「ヒリ」となっていますが、それは花巻の関係者から送られた原稿の通りに光太郎が書いただけで、光太郎はこの改変には一切関わっていませんのでよろしくおねがいします。

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昨日から花巻に来ています。

昨日はまず花巻病院内にある財団法人高村記念会さんにお邪魔しました。

花巻病院と言えば、宮澤賢治の主治医だった佐藤隆房医師が院長でした。佐藤医師は宮澤家ともども戦災で焼け出された光太郎の花巻疎開に関わり、さらに宮澤家が空襲に遭った後は、自宅の一室を光太郎に提供したりもしました。

光太郎が郊外の太田村に移ってからも何くれとなく世話をしたり、光太郎没後には財団法人高村記念会を立ち上げ、花巻での顕彰活動を推進したりしました。

そうした経緯で病院内に高村記念会の事務局があるのです。ちなみに事務局の外にある花壇は宮澤賢治の設計によるものです。

さて、事務局で最近花巻で新たに出てきた光太郎書簡を見せていただき、その後寄贈してくださったお宅のご婦人のもとに行き、お話を伺いました。

昭和21年(1946)のもので、原稿用紙二枚。封筒も残っていました。宛先は宮澤賢治の妹の婚家です。『高村光太郎全集』第12巻に収録されている光太郎日記と内容が一致し、貴重なものです。

来春刊行予定の『高村光太郎研究』内の当方の連載、「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。

その後、駅近くの 西公園へ。光太郎が講演を行ったこともある旧花巻町役場が移築されていたり、光太郎も利用した花巻電鉄の車両「デハ3」が静態保存されたりしており、興味深く拝見しました。
今日はこれから高村山荘方面に行き、寄贈された資料の整理、リスト作成です。

【今日は何の日・光太郎】 6月27日

昭和22年(1947)の今日、確定申告の書類を記入しました。

昨日、光太郎が足かけ8年暮らした花巻にある大沢温泉さんについて書きました。今日も関連するネタで行きます。

まず、大沢温泉さんの公式ブログから引用させていただきます。

高村光太郎ゆかりの温泉!

先日、5月15日高村祭がありました。今年は生誕130年ということで、新たに「高村光太郎記念館」が開館しました。
特別講演には女優の「渡辺えり」さんを迎えてのイベントもありました。

大沢温泉は高村光太郎ゆかりの温泉として知られており、山水閣の「牡丹の間」は高村光太郎が宿泊の際には必ずご指定されていたというお部屋です!現在は建て直しましたので復元した形となってますが・・・

そして今年の高村祭の特別講演渡辺えりさんに直筆の書を頂戴いたしました!
お忙しい中ありがとうございます!
館内に展示したいと思います!
 
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先月の高村祭の折、記念講演をなさった渡辺えりさん。牡丹の間にご宿泊でした。以前、お父様が高村祭記念講演をなさった際にも牡丹の間にお泊まりになったとのこと。現在、牡丹の間の床の間にはお父様の書かれた色紙が飾られています。
 
そのあたり、渡辺さんのブログに書かれています。さらに高村祭翌日の花巻市文化会館での講演会についても。
 
光太郎が暮らした小屋・高村山荘に隣接する高村記念館さん。リニューアルされて1ヶ月たちました。その後、現地の状況がどうなのか-閑古鳥が鳴いていないかなど-気にかかるところです。来週、また行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月20日

昭和16年(1941)の今日、16日から開かれ、委員として出席していた大政翼賛会第一回中央協力会議が最終日を迎えました。
 
光太郎は18日の教育文化に関する第六分科会で第185号議案として「芸術による国威宣揚について」と題し、提案しています。

来週、また花巻に出向くつもりで居ります。
 
そこで、定宿にしている大沢温泉さんで宿を取ろうと思い、ネットでアクセスしました。すると、以下のページが。

宿泊プラン大沢温泉 山水閣 【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!

部屋タイプ 和室 高村光太郎が愛用した 「牡丹の間」 トイレ付 ※バスなし
高村光太郎が愛用したお部屋を復元したものです。
10畳+6畳+3畳でさらに広縁があり非常にゆったりとしています。
光太郎の書画などあり、当時のままを復元しておりますのでクラシックな感じのお部屋です。
お部屋からは渓流「豊沢川」と四季折々の山々の景色を楽しむことができます。
洗浄器付きトイレ/冷・暖房/金庫/冷蔵庫(持ち込み可能)
 
[ プラン内容 ]
いつもと違った雰囲気を楽しみたい方おすすめ!10畳+6畳+3畳の3間つづきでゆったりくつろげる山水閣に1部屋しかないお部屋。高村光太郎が来館の際にはいつもご指名でご利用いただいていたお部屋を移転復元した記念のお部屋です。新館1階の一番奥にあり離れの様な佇まいの特別室となっております。

今回期間限定につき通常価格から1,575円(税込)引きで販売させていただきます。

豊沢川や四季折々の対岸の景色を堪能でき、高村光太郎お気に入りだったお部屋であなたも芸術家の気分となって過ごしてみませんか?

ご夕食はゆっくり過ごすお部屋食!
お食事は花巻産プラチナポーク(白金豚)を含め月替わりの会席膳 全11品
(4名様までお部屋にお持ちします。5名様以上はお客様だけの個室宴会場でのお食事となります。他のお客様とは一緒になりません)
朝は 朝食会場「松風」にて7:00~9:00までの和洋のバイキングとなります。

由来となった「牡丹」(絵画)は高村光太郎の作品でお部屋の入口にレプリカですが飾ってあります。
また、新築の際復元するにあたり当時の木材や格子などそのまま使用しておりますのでクラシックな感じのお部屋となっております。


大沢温泉さんは、通常の温泉旅館的な「山水閣」、主に長期滞在の湯治客用の「自炊部」、築160年の離れ「菊水館」の三つに分かれています(当方、菊水館を定宿としております)。経営は一緒のようで、サイトのトップページは同じです。
で、山水閣のいわばスイートルームに当たるのが「牡丹の間」。建物自体は近代的にリニューアルされていますが、この部屋は昔、光太郎がよく泊まっていた部屋の部材や調度を随所に使い、当時の面影を残しています。当方、泊まったことはありませんが、中には入ったことがあります。
その部屋が、期間限定プラントいうことで、安くなっているそうです。
とはいってもやはりそこそこの値段ですので、今回も当方は料金の安い菊水館に泊まります。こちらも光太郎が泊まったことがあり、さらに当時の建物のままです。ただ、どの部屋に泊まったのかは定かではありません。
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菊水館
 
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左奥が山水閣・右手が自炊部
 
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混浴露天風呂・大沢の湯(3館共通)
 
さて、山水閣のプラン「【期間限定】高村光太郎ゆかりの部屋に泊ろう!」。これから花巻にご宿泊予定の方、ぜひご検討ください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月19日

明治40年(1907)の今日、ニューヨークからイギリスに向け、ホワイトスターラインの豪華客船「オーシヤニック」に乗って、大西洋に出港しました。

乃木坂のTOTOギャラリーで開催中の「中村好文展 小屋においでよ!」。
 
花巻郊外旧太田村山口地区に光太郎が暮らした小屋・高村山荘について取り上げています。企画展会期は6/22(土)までです。
 
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リンクして刊行された、中村氏の著書『小屋から家へ』。
 
「毎日新聞」さんに関連する記事が載りました。

読書日記:著者のことば 中村好文さん

2013年06月11日 東京夕刊
 ■中村好文 小屋から家へ(TOTO出版、2310円)
 
 ◇「不便で粗末」から学ぶ
 普段着のように居心地がいい住宅を手掛けて30年。建築家であり、世界の名建築や旅に関するエッセーでも知られる筆者が今回テーマに選んだのは「小屋」。鴨長明や彫刻家の高村光太郎、建築家のル・コルビュジエら、著名人ゆかりの小屋を文章や自筆のイラストで解説。「住まいの原型」だと考える素朴な魅力に焦点を当てた。
 「家との違いを聞かれると難しい。私が考える小屋の条件は狭いこと。間取りで言えばワンルーム。質素な素材で造られているのもポイントです」
 異色なものとしては1962年、太平洋横断の単独航海に成功した堀江謙一さんのヨット「マーメイド号」が登場する。「洋上の小屋。子供の時からあこがれた」。米国の博物館に保存されていると知り、交渉して内部を見学させてもらった。マーメイド号に搭載された食料や日常品を、詳細に描いたイラストが楽しい。
 「小屋好き」は年季が入っている。幼い時にはミシンの台を新聞紙で覆って自分用の「巣」を作り、大人になると国内外の有名無名の小屋を見て歩いた。
 8年前には長野県に、自分や事務所のスタッフが過ごすための小屋を構えた。ガスや水道はなし。たるにためた雨水を風呂に使い、料理は炭火を入れた七輪で。五感をフル稼働させて暮らすうち<生活の知恵がじわりじわりとわき出してくる>。便利さが人間の能力を退化させることに気付くくだりは説得力がある。
 自身が設計した小屋や小住宅も本書で紹介。家と住み手の個性が重なった爽やかな暮らしが浮かぶ。
 本書は元々、東京・乃木坂「TOTOギャラリー・間」で22日まで開催する中村さんの個展に合わせて企画された。会場で注目されているのは原寸大で造られた「ひとり暮らしの小屋」。記者が訪れた日も、中に入ってじっくりと見て回る人が目に付いた。
 「自分と心静かに向き合える場所。小屋にはそんな良さがあると思う。だからこそ、忙しい現代人に魅力的に映るのかもしれません。家は住む人の精神が表れるもの。不便で粗末な小屋暮らしから私たちが学べることは多いのです」


 
【今日は何の日・光太郎】 6月13日

大正3年(1914)の今日、作品を出品していた三笠会主催の「第一回歌箋展覧会」が閉幕しました。
 
……という内容が『高村光太郎全集』別巻の年譜に記載されているのですが、詳細がはっきりしません。三笠会とは何なのか、会場はどこだったのか(おそらく東京だとは思いますが)、などなど。有名な銀座のレストラン・三笠会館が出来るのはもっと後ですし。
 
ただ、翌月一日から十日まで、京都寺町通竹屋町南入の佐々木文具店芸術品展覧会場で同じ「歌箋展覧会」が開かれており、どうも巡回展だったようです。
 
京都展については主催の佐々木文具店が発行した『睡蓮』という小冊子で概要がわかります。それによれば、光太郎他27名の文学者の短歌・俳句が出展されています。『睡蓮』は、それらを活字で載せています。ちなみに『高村光太郎全集』未収録の短歌・俳句がかなり載っており、これを入手したときは快哉を叫びました。ただし、文庫本より小さい28ページの小冊子で4万いくらという値段でした。

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 しかし、「歌箋」がどういう状態のものなのか(便箋のようなものか、あるいはよくある短冊や色紙、扇面の類か)、出品作が27名の自筆なのかなどはやはり不明です。
 
さらに佐々木文具店についても詳細なことがわかりません。
 
「歌箋展覧会」「三笠会」「佐々木文具店」について情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
 
ただ、国会図書館に所蔵されている当時の新聞のデータを調べたところ、6月の東京?での「歌箋展覧会」を報じた記事があるようですので、近いうちに行って調べてみようと思っています。 
 
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昨日は、乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)に行き、こちらで開催中の「中村好文展 小屋においでよ!」を観て参りました。
 
中村好文氏は建築家、TOTOさんは住宅設備機器メーカーとして有名ですね。
 
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まず、3階の第一会場に入ると、小屋の形をしたブースが7つ。子どもの頃、近所の空き地に友達と作った「秘密基地」を彷彿とさせ、これだけでワクワクしました。それぞれのブースで、中村氏があこがれ影響を受けてきた古今東西の7つの「小屋」をひとつずつ紹介しています。
 
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そのうちの一つが「高村光太郎の小屋」。光太郎が昭和20年(1945)から27年(1952)までを過ごした花巻郊外の高村山荘です。
 
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中に入ると、中村氏による小屋の解説文、図面、イラスト、そして阿部徹雄撮影の小屋内部の写真がパネルで貼り付けられています。さらに、昭和28年(1953)、ブリヂストン美術館作成の美術映画「高村光太郎」(おそらく現存する唯一の光太郎本人が写っている動画)から、小屋に関わる部分の抜粋がモニタで放映されていました。
 
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他には「鴨長明の方丈」、「H・D・ソローの小屋」、「猪谷六合雄の小屋」、「立原道造のヒアシンスハウス」、「堀江謙一のマーメイド号」、「ル・コルビジェの休暇小屋」。その紹介の仕方も均一でなく、それぞれに工夫がされていて面白いと感じました。
 
中庭にはこの企画展のために作られた、理想の小屋「Hanem Hut」。
 
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さらに4階の第二会場では、かつて中村氏が設計制作したさまざまな小屋の紹介も。
 
近年足を運んだ中でもトップクラスの非常に面白い企画展でした。それだけ面白い上に入場無料、写真撮影可。申し訳ない気さえしますので、ここでガンガン宣伝いたします。
 
さて、この企画展とリンクして刊行された中村氏の著書『小屋から家へ』。
 
その中に中村氏と、ファッションデザイナーの皆川明氏の対談が収められており、光太郎の小屋にからめて次の一節があります。
 
中村 僕は、小屋的な建物を見たり、そこに入ったりすると、「こういう場所こそが人のすまいの原型なんだ」という想いに取りつかれてしまうんです。おもに住宅の設計をしているので、無意識のうちに「住宅ってなんだろう?」ということをいつも考えているらしく、魅力的な小屋を見かけたり、足を踏み入れたりすると、その問いかけに対してひとつの答えを得た気がするんです。
 
皆川 なるほど。たとえばどんなときに感じました?
 
中村 岩手県の花巻に、高村光太郎がひとり暮らしをしていた小屋が残っていて、それこそ粗末な小屋なんですけど、「人の暮らしの気配のようなもの」がひしひしと感じられます。必要最低限のものしかない暮らしぶりがとてもいさぎよく感じられ、「これでいいじゃないか、これで十分じゃないか」と納得してしまうのです。小屋の定義のひとつに、「すまいの原型が見えること」という項目を加えてもいいかもしれません。
 
皆川 その感じ、よくわかります。小屋の空間の中には最低限の必要なものだけが納まっているということで、余計にそういう気分になれそうな気がしますね。
 
中村 モノが少ないと、そこに日常生活だけでなく、精神生活が入り込む余地があるってことかな。実際問題として、床面積に限りがあると持ち込めるものも決まってきてしまうので、自分にとって本当に必要なものはなんなのか? と考えることを、建物のほうから要求されるということはありますね。
 
さて、「中村好文展 小屋においでよ!」は乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)を会場に、6月22日まで。ぜひ足をお運びください。ついでに花巻郊外の光太郎が暮らした高村山荘自体にも。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月6日

昭和46年(1971)の今日、「高村光太郎詩の会」会報77号(最終号)が発行されました。
 
同会は光太郎と交流のあった詩人・風間光作が主宰し、昭和38年(1963)に結成されました。
 
その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏です。当方も加入しております。
 
光太郎・智恵子について研究したい、という方は是非ご参加ください。ご連絡いただければ仲介いたします。

今朝の『朝日新聞』さんの記事です。

三陸復興国立公園を指定 八戸から気仙沼の海岸線

環境省は24日、東日本大震災で被災した三陸地方の自然公園を再編成し、青森県八戸市から宮城県気仙沼市までの海岸線を「三陸復興国立公園」に指定した。リアス式海岸などの自然を生かした復興を進める。
 
 岩手、宮城両県に広がる陸中海岸国立公園に、青森県の八戸市と階上町にまたがり、ウミネコの繁殖地などがある種差海岸階上岳県立自然公園を編入した。面積は陸域1万4635ヘクタール、海域4万1300ヘクタール。景観や海鳥の繁殖地、野生植物を保全しながら観光や体験学習の場として利用し、農林水産業を活用したエコツーリズムの支援もする考えだ。八戸市にはビジターセンターを建設する。また、沿岸部の歩道を「みちのく潮風トレイル」として再整備する。これは八戸市から福島県相馬市までの沿岸部約700キロを結ぶ予定だ。
 
 今後、宮城県の南三陸金華山国定公園の同国立公園への編入も2014年中に目指す。将来的には宮城県にある松島など三つの県立自然公園の編入も視野に入れている。
 
 石原伸晃環境相は24日の閣議後会見で、「美しい自然、景観、豊かな文化を感じていただき、地域が活性化していくことを希望している。震災復興に貢献する国立公園を実現する第一歩と考えている」と述べた。
 
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このブログで何度か紹介してきましたが、三陸海岸は、昭和6年に光太郎が約1ヶ月、旅して歩いたゆかりの地です。
 
8月9日には宮城の女川で、「女川光太郎祭」が開催されます。当方、今年は講演の講師として招かれました。それもあって、今秋刊行予定の冊子『光太郎資料40』では、「昔の絵葉書で巡る光太郎紀行」という項で三陸を扱おうと思い、執筆中です。
 
久慈市はNHKの朝ドラ「あまちゃん」の舞台ともなり、ドラマさながらに観光客が増えているという報道も目にしました。過日、花巻で渡辺えりさんにきいたのですが、今後、「あまちゃん」では宮沢賢治をからめたエピソードも入るとのこと。ついでに(笑)光太郎もからめてほしいところです。ただし光太郎、久慈までは足を伸ばしていませんが。
 
さて、「三陸復興国立公園」。何にせよ、復興支援になるのであれば歓迎したいことですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月25日

大正2年(1913)の今日、意見の食い違いから、光太郎も参加していた美術団体「フユウザン会」が解散してしまいました。
 
後に光太郎は同人だった岸田劉生、木村荘八らと生活社を結成します。

花巻へ3泊4日の旅を終え、帰って参りました。
 
一昨日の高村記念館仮オープン、第56回の高村祭と、あちこちで報道されています。
 
まず、昨日の地元紙2紙、大きく取り上げていただいていたのでコンビニで購入してきました。
 
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こちらは『岩手日報』さん。花巻支局の美人記者さん、がんばりました。見開き2ページで特集記事を組んでくださいました。
 
渡辺えりさんの講演の模様も。
 
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ちなみに一番下には当方のコメントも写真入りで掲載されています。
 
それから『岩手日日』さん。こちらは県内社会面で大きく取り上げてくださいました。
 
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こちらの2紙、渡辺さんにも差し上げました。今日あたり、山形で入院されているお父様のお見舞いに行かれるそうで、「いい土産ができた」と喜んでらっしゃいました。

ネット上では『河北新報』さんと『読売新聞』さんの記事が無料で読めました 

光太郎の足跡、後世に 新記念館がきょうオープン 花巻

岩手県花巻市で晩年の一時期を過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の作品を後世に残そうと、同市がことしの生誕130周年に合わせて整備した新しい記念館が15日、開館する。

新記念館は、同市太田の市歴史民俗資料館を衣替えする形で整備。旧記念館の約3倍の216平方メートルに「彫刻」「文芸」「書画」「花巻」「智恵子」の5テーマ別に、作品や愛用品など約300点を展示。代表作の彫刻「手」や詩集「智恵子抄」の初版のほか、眼鏡や彫刻刀などが光太郎の息遣いを伝える。花巻では初公開になる生前の映像も見られるという。
高橋久雄館長は「初展示の作品が15点あり、解説も充実させた。光太郎の生活、作品に親しんでほしい」と話す。
旧記念館は1966年開館。高村記念会が管理していたが、手狭で空調設備がないため、同会と市が整備を検討していた。新記念館は当面市が運営し、年間1万5000人の来館者を見込む。収蔵庫などの整備が残っており、2015年度の完成を目指す。
15日は午前9時から開館式を行い、高村山荘詩碑前で「高村祭」を開く。開館は午前8時半~午後4時半。入館料は一般350円、高校生・大学生250円、小中学生150円。15日は無料。連絡先は0198(28)3012。
(河北新報) 

光太郎記念館プレオープン きょう花巻市直営で

花巻市に新しい高村光太郎記念館(花巻市太田)が15日、市直営施設としてプレオープンする。花巻歴史民俗資料館を改装した新記念館は、高村光太郎の花巻移住70周年となる2015年に本格オープンする。
高村光太郎(1883~1956)は1945年、親交があった宮沢賢治の弟・清六氏を頼って花巻市に疎開、7年間を過ごした。地元の財団法人高村記念会が運営していた旧記念館は、農耕自炊の生活を送りながら創作活動を行ったあばら家「高村山荘」そばにあったが、手狭な上に資料の保存管理体制が十分でなく、財団法人が市に近くの資料館の活用を要望していた。
新記念館はプレオープン時で、旧記念館と比べ、展示スペースが3倍近くの216平方メートル、展示品も20点ほど多い約150点になる。彫刻、文芸、書画、花巻での暮らしなど五つのテーマごとに展示する。十和田湖「乙女の像」の試作ブロンズ像など従来の展示品に加え、花巻空襲後に詠んだ詩など、これまで展示できなかった書画や詩など15点も並ぶ。
花巻での暮らしぶりがわかる映像の上映も予定しており、館長の高橋久雄・市賢治まちづくり課長は「光太郎の新たな魅力を再発見してもらえれば」と話している。
入館料は一般350円など150~200円値下げし、2013年度の入館者は前年度より約4000人多い約1万5000人を見込んでいる。15日は入館無料。
2013年5月15日 読売新聞)
 
ちょうど新緑の美しい季節です。ぜひ、足をお運びください!
 
【今日は何の日・光太郎】5月17日

昭和20年(1945)の今日、疎開した花巻で高熱を発し、肺炎と診断されました。

このあと1ヶ月、宮澤家で床に臥します。

今日も携帯からの投稿です。001

花巻市文化会館において、渡辺えりさんの講演会があり、先程終わりました。昨日の高村祭での講演に続き、2日連続でしたが、さすがにプロですね。満員の聴衆を飽きさせることなく、光太郎と賢治の魅力や、その他に岩手が舞台ということで、朝ドラ「あまちゃん」の裏話など、大いに楽しめるお話でした。
今後、人前で話す機会が増えますので、見習いたいものです。

光太郎や賢治の愛した大沢温泉に泊まり(渡辺さんも泊まられています――当方とは別の部屋です、念のため(笑))、明日帰ります。

【今日は何の日・光太郎】5月16日

昭和4年(1929)の今日、詩人の尾崎喜八との旅の途上、群馬の中之条に一泊しました。

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【今日は何の日・光太郎】5月15日

昭和20年(1945)の今日、疎開のため花巻に向け、東京を発ちました。


というわけで、毎年今日は花巻で高村祭が開催されており、昨年に続いて今年も参加いたしました。

今年はこの日に合わせ、仮オープンとなる高村記念館開館式がまずありました。花巻市長を始めとする皆さんにより、テープカットが行われ、めでたく一般公開スタートです。関係者の皆様(自分もですが)、お疲れ様でした。

その後、例年の通り、高村祭。昨年は雨のため、屋内での開催でしたが、今年は山荘近くの「雪白く積めり」詩碑前広場で実施できました。

地元小中高生、看護学校生の皆さんによる音楽演奏や朗読の後、渡辺えりさんの講演でした。人気女優、しかも岩手県を舞台にしている朝ドラ「あまちゃん」のレギュラーということで、立ち見もたくさん出る盛況でした。

午後は宮城からいらした朗読の荒井真澄さん、大阪から駆けつけた光太郎研究会の西浦氏とともに山荘付近や新しい記念館、花巻駅近くの林風舎さん(宮澤賢治関連ショップ&カフェ)などを巡りました。

宿で撮ったローカルニュース画像を載せます。

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今日から三泊四日の日程で花巻です。

花巻郊外、旧太田村に今も残る光太郎が7年暮らした小屋「高村山荘」周辺で、明日は光太郎祭があり、それにあわせて近くに高村記念館が仮オープンします。

今日は報道関係向けの内覧会があるということで、1日早く現地入りし、解説をしました。館内の説明ボードの文面を当方が執筆しましたので、そういった関係です。

明日の高村祭では、特別講演として渡辺えりさんが来花、光太郎と交流のあったえりさんのお父様のお話などが聴けると思います。

詳細はまた後ほど。

【今日は何の日・光太郎】5月14日

明治43年(1910)の今日、神田淡路町で光太郎が経営していた画廊「ろうかん洞」(携帯で漢字が出ません。「ろう」は王へんに良、「かん」は同じく王へんに干です)で、画家の正宗得三郎の個展を開きました。

新刊を取り寄せました。
 
建築家の中村好文さんの著書で、『小屋から家へ』。2013/4/16、TOTO出版、定価2200円+税です。
 
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同社のサイトから。
 
本書のテーマは「小屋」。「人のすまいの原型は小屋にある」と考える中村氏が手がけてきた極小の小屋から、小屋の面影を宿した小住宅まで12作品を、雨宮秀也氏の撮り下ろしの写真で紹介します。

また、「古今東西 意中の小屋たち」と題して、中村氏が長年魅了され続けてきた「7つの小屋」を巻頭に紹介します。旅好きの建築家としても知られる中村氏が訪ね歩いてきた世界中の小屋から厳選された「ル・コルビュジエの休暇小屋」など実在する小屋から、「鴨長明の方丈」など歴史上の小屋まで、氏が愛してやまない7つの小屋を通して、小屋の魅力を解き明かします。
 
この「7つの小屋」のうちの一つが、花巻郊外の光太郎が7年暮らした高村光太郎山荘。写真や1/75の図面入りで4ページにわたって紹介されています。
 
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写真は写真家の阿部徹雄(大3~平19)の撮影。昭和26年(1951)に『サン写真新聞』という雑誌に阿部による光太郎訪問記事が掲載され、そのために撮影されたものです。
 
『サン写真新聞』に掲載されなかったものを含め、写真の原板と光太郎からの書簡4通が平成22年に阿部氏の子息宅で見つかり、『岩手日報』で報じられました。その後、ご子息の厚意で、大伸ばしされた写真が花巻の高村光太郎記念会に寄贈され、現在、山荘に飾られています。当方の元にもメールで送っていただきました。
 
この手の山荘内部が大きく写っている写真は珍しく、また、それが掲載されている書籍もあまりありません。是非お買い求めください。
 
また、「7つの小屋」のうち、他に光太郎と交流のあったスキーヤー・猪谷六合雄が群馬の赤城山に建てた小屋も紹介されています。猪谷の実家は赤城山の猪谷旅館。たびたび光太郎が訪れたところで、猪谷の名は光太郎日記にも記されていますし、明治37年(1904)に光太郎が描いたスケッチ帳が『赤城画帖』として昭和31年(1956)に刊行された際、その解説を書いているのが猪谷です。
 
さて、乃木坂の建築・デザイン専門ギャラリー「TOTOギャラリー・間」において、著者の中村好文氏の個展「小屋においでよ!」が開催中です。
 
『小屋から家へ』の出版とリンクしているようで、3階の第1会場では「7つの小屋」の紹介、中庭には中村氏が設計した原寸大の「ひとり暮らし用」の小屋が展示されているとのことです。そこには光太郎山荘のエッセンスも取り入れられているのではないでしょうか。
 
暇を見つけて行ってこようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】5月9日

大正7年(1918)の今日、智恵子の父・長沼今朝吉が歿しました。

これを機に、素封家だった長沼家は没落の道を歩み始めます。

一昨日でしたか、花巻の財団法人高村記念会様から、5/15の高村祭のご案内をいただきました。
 
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水曜日なのでいろいろ大変でしょうが、ご都合のつく方はいらしてください。画像の通り、渡辺えりさんの講演『光太郎と父』があります。
 
同じ日にリニューアルされた高村記念館の仮オープンです。財団法人高村記念会様から、メールでいろいろな図面などが送られてきました。今までは、はっきりいうとごちゃごちゃした展示でしたが、今度は広い建物を利用できるということで、すっきりした展示のようです。当方、館内に展示する説明版の執筆を頼まれまして、昨日、メールにて送付しました。
 
さて、別件ですが、このブログ、昨年の5月3日に開設しまして、今日の投稿が365件目です。とりあえず1年間、1日も休まずに更新しました。今後も地道にやっていきますのでよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】5月2日

昭和23年(1948)の今日、太田村の開拓事務所で、保健婦さんにビタミンB1の注射をしてもらっています。

岩手県花巻市のHPから、『広報はなまき』がPDFで閲覧できます。
 
その4月15日号、光太郎関連情報が満載です。
 
まず「高村光太郎130周年」と題し、見開き2ページで光太郎と花巻、賢治のつながりなどの紹介。それから以前のブログでご紹介した太田地区にある光太郎記念館新装に関して詳しく書かれています。

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続いて、次のページに各種イベントの案内

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日付順に、市内矢沢地区にある宮沢賢治記念館での特別企画展「高村光太郎と宮沢賢治」。4月27日(土)から8月7日(水)だそうです。
 
それから5月15日(水)は、光太郎が過ごした山小屋周辺での「高村祭」。昨年初めて参加させていただきましたが、地元の人々による朗読や、講師を招いての記念講演などがあります。今年の講師は渡辺えりさんです。昨年は雨だったため、近くの屋内運動場での開催となりましたが、本来、新緑の森の中、光太郎詩碑の前で行われるイベントです。
 
そして翌16日にも渡辺さんの講演会。こちらは午後6:30~7:30、花巻駅近くの文化会館大ホールでの開催です。
 
以前のブログにも書きましたが、渡辺さんのお父上が光太郎と交友があり、渡辺さんは子供の頃、家に飾ってあった光太郎の写真を見てご自分のおじいさんだと思いこんでいらしたとのこと。一昨年、昨年と、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」の公演をなさいましたので、そのあたりのお話が聞けることと期待しています。
 
是非、足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月16日

昭和3年(1928)の今日、東京会館で光雲喜寿の祝賀会が催され、智恵子ともども壇上に並びました。

この際の模様を、後に詩「のつぽの奴は黙つてゐる」(昭和5年=1930)で自嘲的に描いています。

本日もいただきもののご紹介です。
 
福島二本松の現代詩研究会様より雑誌『現代詩研究』第70号。
 
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「編集後記」で光太郎について触れられています。
 
続いて花巻の財団法人高村記念会様より「高村記念会山口支部報」。
 
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4月2日の連翹忌当日、花巻の太田地区にある高村山荘周辺で行われた詩碑前祭のレポートです。こうした地域に根ざした活動には本当に頭が下がります。
 
それから、きたる5月15日(水)の高村祭の案内も掲載されています。開始は午前10時。講演の講師は女優の渡辺えりさんとのこと。
 
送っていただいた皆さん、ありがとうございました。
 
【今日は何の日・光太郎】4月15日

明治43年(1910)の今日、神田淡路町に日本初の画廊、琅玕洞(ろうかんどう)を開店しました。
 
光太郎と交友のあった新進の画家の作品を並べたりした、時代の先端を突き抜けたこの試みは世間には受け入れられず、ちょうど1年後の明治44年(1911)の今日、琅玕洞は閉店しています(後に知り合いに譲渡、コンセプトを変更して再オープンされました)。
 
名目上の店主は光太郎の次弟、道利でした。ちなみに今日、4月15日はその道利(と双子の妹・しづ)の誕生日でもあります。

今日もいただきもののご紹介ですが、ともに新聞関連です。
 
まず、花巻の財団法人高村記念会様より、『岩手日日』さんの4月3日号。
 
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花巻での連翹忌などの様子が報じられています。
 
記事の内容自体は4/6のブログでご紹介しました。
 
当方、ネットで内容を見たのですが、やはり新聞そのもので見ると、また感じが違いますね。
 
続いて福島県川内村のかわうち草野心平記念館からいただきました、4月6日の福島民報さんの記事です。
 
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先日のブログで東京の連翹忌の様子がなかなか報道されない、と書きましたが、福島の地方紙で報道されていました。これは全く存じませんでした。
 
ただ、記者の方がお見えになったわけではなく、参加者どなたかからの伝聞で書かれたようで、若干、事実と異なる部分があったります。まぁ、何はともあれありがたいことです。
 
お送りいただいた皆様、ありがとうございました。
 
まだまだいろいろなものが届いており、順次、ご紹介します。順不同となりますことご了承ください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月14日

昭和28年(1953)の今日、前後3日間にわたりNHKラジオで『ロダンの言葉』が放送され、光太郎も録音で出演しました。

4/2は東京だけでなく、光太郎の第二の002故郷ともいえる岩手・花巻でも連翹忌が催されています。場所は、光太郎ゆかりの寺院・松庵寺さん。

晩年の光太郎が足かけ8年過ごした地ということもあり、花巻にはまだ当時の光太郎を知る方もかなりご存命、花巻の財団法人高村記念会様を中心に、そういう方々の手で花巻連翹忌が続けられています。
 
今年の「天声人語」は別として、東京の連翹忌の様子はなかなか報道されませんが(在京各紙にご案内を出したのですが……)、花巻の連翹忌は地方紙に取り上げられています。
 
『岩手日報』さんの「風土計」。『朝日新聞』さんの「天声人語」にあたる欄でしょうか。 

風土計 2013.4.2

「さあさ田植だ、田植だ田植だ」。高村光太郎の「田植急調子」は1947年に書かれた。花巻・山口で山中独居を始めて2年目の春
▼村の老若男女のにぎやかな農作業を花巻弁で活写する。「のんでくって うんとねて、みりみりかせいで あははと笑へぢや」。きょうは光太郎命日の連翹(れんぎょう)忌。花巻市出身の朗読家谷口秀子さん(東京)から頂いた朗読CDを聴いてみる
▼詩ができた当時、粗末な山小屋で光太郎は自省の日々を送る。戦争賛美の作品を世に送り続けた自らを「暗愚」と呼び「醜を天日の下に曝(さら)すほかない」とまで記した。だが、描いた田植え風景に陰りはなく、喜びと明るさに満ちている
▼光太郎が他界する前年の55年、家族付き合いがあった谷口さんは母と東京の病床を見舞った。その時、朗読を頼まれたのが「田植急調子」だった。読み終えると光太郎は「方言はこれでいいですか」と尋ねたという
▼陽光降り注ぐ花巻の春に深い思いがあったに違いない。「手植えや小昼(こびる)の情景が鮮やかに浮かぶ」と谷口さん。朗読ではカッコウの声も楽しい。沈思の中で生まれた詩は働くことの賛歌、働く者への応援歌に聞こえる
▼各職場に配属された新人の皆さんは緊張に身を硬くしていることだろう。でも大丈夫、「みりみりかせいで あははと笑ふ」日は遠からず来るから。
 
 
『岩手日日新聞』さんでは、連翹忌と、それに先立つ高村山荘敷地内での詩碑前祭も記事にして下さいました。  

「光太郎先生」の足跡回想 花巻で法要、追悼座談会も (04/03)

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせ2日、花巻市双葉町の松庵寺(小川隆英住職)で「連翹忌(れんぎょうき)法要」が行われた。市民ら約30人が参列して遺影に手を合わせ、花巻の地に大きな足跡を残した偉人を回想。終了後は同寺で追悼座談会も開かれ、ゆかりの市民や熱心なファンが、思い思いに故人をしのんだ。

 連翹忌は今回で58回目。光太郎がかつて生活した山小屋=同市太田=の管理などに当たっている高村記念会の主催。法要では一人ひとりが焼香し、法話に耳を傾けた。

 小川住職は「光太郎先生は詩『松庵寺』で、戦禍に遭ったこの寺に触れておられる。『すっかり焼けた松庵寺は 物置小屋に須弥壇(しゅみだん)をつくった二畳敷のお堂でした』という部分は、焼けた寺に残された小屋に作られたお堂」などと、同寺と光太郎の縁を紹介。花巻で質素な生活を送った約7年間については「光太郎先生は、あの山小屋生活で最高の芸術と感動を手にしたのではないか」などと分析した。

 終了後は追悼座談会が開かれ、それぞれが記憶するエピソードや思い出話を披露。「光太郎さんの近所に住んでいた友人が配給米を届けたら、小屋脇のクリの木に『登って(実を)採っていきなさい』と言ってくれた」「宮沢賢治さんの童話劇などに取り組んでいた児童たちに『賢治子供の会』と、名前を付けてくれたのが光太郎さんだった」などの逸話が、次々と飛び出していた。

 光太郎は1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失。同年5月に花巻の宮沢清六さん(賢治の弟)方へ身を寄せ、11月から約7年にわたり山小屋で生活した。  

偉人の思いに心重ね 詩碑前祭〜地元児童が作品朗読

 高村光太郎をしのぶ連翹忌法要に先立ち2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で、詩碑前祭が開かれた。参加者が遺影が置かれた詩碑前で線香を上げたほか、地元児童が光太郎が残した詩を朗読。花巻ゆかりの詩人、彫刻家の遺徳をしのんだ。

 地元子供会のメンバー11人をはじめ、高村記念会山口支部員ら約70人が参加。照井康徳支部長が「きょうは光太郎先生の58回忌。先生がこの地の7年間で残したものを花巻、太田に伝え、引き継いでいきたい」とあいさつした。

 続いて子供たちが「山のひろば」「案内」「山からの贈物」などを朗読。「うしろの山つづきが毒が森。そこにはカモシカも来るし熊も出ます。智恵さんこういうところ好きでしょう」(案内)ほか、光太郎独特の感性と妻・智恵子へ寄せる愛情があふれる作品が、参加者の感動を誘っていた。

 花巻市立太田小学校の高橋妃香瑠さん(6年)は「上手に朗読できた」とにっこり。佐藤陽さん(同)は「『案内』という詩が好き。展望台から見える風景のように描いている所がすごいと思う」と話し、光太郎の作品からイメージを広げている様子だった。

 同詩碑前では、光太郎が花巻に疎開した5月15日に「高村祭」が開かれる。
 
当方、立場上、花巻の連翹忌には参加できませんが、こちらも末永く続けてほしいものです。
 
5月15日の高村祭の件も書いてありますが、今年は翌16日に女優の渡辺えりさんの講演会が花巻で開かれるとのこと。渡辺さんと云えば、お父様が光太郎と交流があり、東京の連翹忌のご常連です。今年は朝ドラの「あまちゃん」の撮影でお忙しかったのか、ご参加いただけませんでしたが……。
 
詳細が入り次第、お伝えします。もちろん当方、高村祭ともどもお邪魔いたします。
 
【今日は何の日・光太郎】4月6日

大正8年(1919)の今日、詩話会編『日本詩集』の出版記念会に出席しました。

4月2日の光太郎命日、連翹忌まであと1週間となりました。
 
おかげさまで東京日比谷松本楼様での連翹忌の集まりには、昨年より多い70名程のご参加申し込みをいただいております。
 
さて、連翹忌といえば、東京のみではなく、光太郎が足かけ8年暮らした岩手花巻でも開催されています。
 
以下、花巻市のページ、「広報はなまき 平成25年3月15日号」から。

高村光太郎の連翹忌

彫刻家で詩人の高村光太郎を偲び、連翹忌を開きます。
【日時】 4月2日(火)、午後1時
【会場】 松庵寺
※当日は、午前9時から高村山荘敷地内で「詩碑前祭」が開催されます
【問い合わせ】 財団法人高村記念会(総合花巻病院内29-4681)
 

松庵寺さんは、宮沢賢治の生家にもほど近い花巻市街にあり、光太郎が花巻滞在中、よく光雲や智恵子の法要をしてもらっていました。昭和20年(1945)の10月には、そんな縁で、ずばり「松庵寺」という詩も作っています。
 
   松庵寺001
 
奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました

 
 
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松庵寺さんには、この「松庵寺」を刻んだ詩碑、「松庵寺」を英訳した碑、そして短歌「花巻の 松庵寺にて 母にあふ はははりんごを たべたまひけり」という光太郎の短歌を刻んだか歌碑が建てられています。
 
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岩手方面在住で、東京まで出てくるのはちょっと、という方、是非とも花巻の連翹忌にご参加下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】3月26日

昭和10年(1935)の今日、鉄幹与謝野寛が亡くなりました。

光太郎も葬儀の手伝い等をしたそうです。

【今日は何の日・光太郎】3月14日

昭和25年(1950)の今日、講演旅行を終え、地元の青年二人の引く橇(そり)に乗って花巻郊外太田村山口の山小屋に帰りました。
 
『高村光太郎全集』別巻収録の年譜によれば、「三月十日、秋田県横手町で講演、二、三日滞在し、黒沢尻をまわって十四日に帰る。」の記述があります。『全集』には漏れていましたが、13日には黒沢尻町(現・北上市)でも講演を行いました。その際の筆録が残っており、「高村光太郎講演会」という題で「光太郎遺珠④」(平成21年=2009『高村光太郎研究(30)』所収)に収めてあります。
 
この筆録は岩手県北上市教育委員会発行の『きたかみ文学散歩』(平成16年=2004)から転載させていただきました。筆録の最後には、筆録をした黒沢尻町の小学校教諭斎藤充司による「●おしまいに」という短文が附されています。
 
講演の日、高村先生は、森口氏宅でにわとりの丸焼きを食べ、十四日の朝、郡司忠治氏と菊池啓治郎氏がつきそって山口の小屋に帰っていきました。雪道をそりにのせて、二人は汗だくだったようです。十三日の食事には、森口氏、郡司直衛氏、郡司忠治氏、小田島専司氏が加わっていました。
 
また、一緒に食事をした郡司直衛氏の回想も載っています。
 
 黒沢尻の駅に降り立った高村光太郎は、大きな防空頭巾にどんぶくはんど(綿入レ半纏)を着てリュックサックに防寒靴。全くの村夫子然。日本で初めてベレー帽をかぶって銀座を歩いたモダンボーイと誰が思うものか。
 横手の雪をみての帰途、「もう私には残された時間がないから」と云うのをお願いして講演会を開く。その講演に先立ち、お昼を茅葺の民家の二階で差し上げた。そこには空襲で家を焼かれた森口多里が疎開していた。
 その日は昭和二十五年の「三月十三日」。光太郎の誕生日であった。昼食のメニューは鶏の丸焼きにコリフラワとオニオン添え、これは森口夫人の力作で、それに母が手造りの五目ずしという簡素なものであった。具が美味しいとほめられる。母は「高村さんに褒められた」と一生の自慢であった。卓上には発酵し始めた山ぶどうの赤い液が、切子の徳利に入れて添えられていた。当時これが精一杯のもてなしであった。
 食卓は淋しかったが、美の奉仕者である二人の会話は途切れることなく続いた。ロダンの誕生日の話、ハムレットを見ながら気が付くと眼鏡を握りつぶしていた話などなど。森口はパリの街のどこの通りの、何番目のマロニエのどの枝が、一番早く花を咲かせるか知っていると自慢気に話した。二人のパリの思い出は盡きなかった。
 木マンサクもキブシも花にはまだ早く、ネコ柳を一本根元から切って、有田焼の染付の大花瓶に投げ入れ、講演会の壇上を飾った。会場は身動きできぬ程の聴衆で溢れていた。
 講演を終えて、「誕生日には智恵子と食事をするのです」というのを無理に引き止めてお泊まり頂く。翌朝、長ぐつを履こうとする足の大きなこと、靴に添えられた手の大きなこと。私は高村光太郎が〝美の世界の巨人〟であることを、そのときこころではなく、目で理解したのであった。
 
森口多里は美術評論家。岩手県立盛岡美術工芸学校の校長を務めていました。この直後、15日に光太郎から森口に宛てた書簡(『全集』第15巻)が残っています。
 
このたびは思ひもかけず黒澤尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします。あの豪華なチキンをこの日いただいた事をたのしく思ひ出します、又帰途御恵贈の栄養物は山にては中々入手困難のものとてありがたく存じました、 帰路青年達二人に小屋まで送られ、小生足を痛め居りました事とて雪中の行進に大いに助かりました。(略)奥様御令嬢はじめ御一同様にくれぐれもよろしく小生の感謝をお伝へ下さい、
 
この満67歳の誕生日については、昭和51年(1976)読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 201人の証言』にも記載されています。
 
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まだ戦争の爪痕が残り食糧事情も良くなかった時代に、このような歓待を受け、さらに青年二人の引く橇に乗って帰った光太郎。岩手の人々に敬愛されていた証でしょう。

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