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一昨日、4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催しましたが、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。

岩手)高村光太郎の命日 花巻で住民らがしのぶ

 彫刻家で詩人の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で「詩碑前祭」があり、地元の児童らが光太郎の詩を朗読した。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。その後東京に戻り、56年に死去。翌年から地元の住民らが毎年、山荘で集まりを持っている。
 この日は山荘近くにある詩碑の前に住民ら約70人が集まった。詩碑には、山荘での生活をうたった「雪白く積めり」が刻まれており、住民はこの詩など8編を朗読し、故人をしのんだ。
(朝日新聞)
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“先生”の教え心に 高村光太郎命日に詩碑前祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた詩碑前祭と連翹忌(れんぎょうき)法要が2日、59回忌に当たる今年も花巻市内で行われ、参加者が花巻ゆかりの偉人をしのんだ。

 詩碑前祭は、同市太田山口地区の住民らで組織する高村記念会山口支部が毎年主催。同地区の高村山荘敷地内広場で催され、約50人が参加した。

 照井康徳支部長は「来年は高村先生が花巻に来てから70周年で、60回忌の節目を迎える。この機会に先生をしのんでもらいたい」とあいさつ。高橋百花さん(太田小学校1年)と小原律君(同2年)が詩碑に献花し、新渕澄副支部長が祭文奏上した。

 詩の朗読も行われ、上太田子供会が「山の広場」を読み上げたのを皮切りに、花巻高村光太郎記念会の駿河いく子さん、山口支部理事の本館文男さんと高橋新吉さん、太田の区長会が発表。詩碑には光太郎の遺影が掲げられ、参加者が線香を上げて静かに手を合わせた。

 光太郎は1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失。翌月に宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、稗貫郡太田村山口の山荘で7年間暮らした。

 上太田子供会の安倍依織莉さん(同6年)は「山の良いところがたくさん書かれている詩『山からの贈り物』が好き。高村先生は誰にでも優しい人だったと思う。地元にいたことに誇りを持ちたい」と話していた。
(岩手日日新聞)
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連翹忌法要にファンら集う

 連翹忌法要は、光太郎の顕彰活動を続けている花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)が毎年開催。光太郎が花巻で暮らしていた際に妻・智恵子や父母の法要を行った同市双葉町の松庵寺で営まれ、約40人が参列し焼香した。

 小川隆英住職は法話で、子供の頃に見た光太郎の姿を「いつもリュックサックを背負い、どた靴を履いて寺に来た。背が高く手足も大きく、風格があった」と振り返った。ほかに光太郎の随筆「顔」を取り上げて「高村先生は『思無邪』の顔、邪のない心を持った人の顔が一番美しいと言っておられる」と、人のあるべき生き方を説いた。

 献茶をした倉金和子さん(78)=同市下似内=は「高村先生は素晴らしい人。世知辛い世の中になってしまったが、豊かな心や思いやりを大事にしたい」と話していた。

 法要に続いて追悼座談会が開かれ、参加者が光太郎の思い出や作品の感想などを語り合った。
(岩手日日新聞)
 
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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月4日

明治45年(1912)の今日、「光雲還暦記念胸像」の贈呈式が行われました。
 
「光雲還暦記念胸像」。光雲の弟子たち000が発願し、海外留学から帰ってきた光太郎に依頼しました。多分に光太郎の腕試し的な意味合いが強かったようです。
 
それに対し光太郎は見事に応えました。
 
おそらく同じ時期におそらく習作として造った「光雲の首」は現存しており、昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも出品されましたが、「還暦記念胸像」自体は残念ながら現存が確認できておりません。
 
時折、この二つの彫刻を混同している記述があり、困っています。
 
写真は贈呈式の模様。右が光雲、左は光雲の妻にして光太郎の母・わかです。
 

戦後に光太郎が7年暮らした花巻市郊外太田村山口(現・花巻市太田)に、昌歓寺という曹洞宗の寺院があります。戦国時代には既に当地にあったという古刹です。光太郎の暮らした山小屋とそう遠くなく、光太郎も時折足を運んでいました。
 
つい先だって、この昌歓寺から光太郎にまつわる文書が出てきました。
 
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書かれたのは光太郎晩年の昭和30年(1955)2月。十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した後のことです。この直前に太田村は花巻町などと合併して消滅、花巻市の一部になっています。筆者は当時の昌歓寺住職と思われます。ほれぼれするような筆跡ですね。
 
内容的には、光太郎に十一面観音像の制作を依頼し、承諾を得たらしいことが記されています。
 
  十一面観音菩薩建立趣意
私は、終戦直後から今時戦役の戦歿勇士の慰霊と社会の混濁を浄化せんとの見地から観世音菩薩の建立を発願しておったことは皆様御承知の通りであります。而も三十三観世音菩薩方の中でも願力の強大なそして功徳力の広大な十一面観世音菩薩の勧請を冀って居た者であります。
然る処宿世の因縁が熟したとでも申しましょうか、現代彫刻界の至寶高村光太郎先生の思召しに依り大体の御約束が結ばれて御病気全快を期とし今年中に記念作品として先生の御作にかゝる佛像が昌歓寺に安置さるゝ運びに至りつゝあることは、当寺院としては勿論、花巻市民否岩手県民として歓喜に堪えない次第であります。
観音経の中に、観音の妙智力はよく世間の苦を救い給うと示された通り、抜苦与楽であって、いわゆる人の意見をよく聞き、立場を替えて物を考え、衝突しそうな時にはどちらかが自主的にバックして自他共に傷つかぬお互いに許し合える場を見つける自由な働きをし、その力のお蔭で危い世間を安らかに渡らせていたゞける大功徳がもたらされるのであります。平和観音と終戦後名づけられたのも、此の辺の消息を申したのでありましょう。
岩手の記念作品ともなしたい此の佛像の製作に対する報謝のしるしとして、広く浄財の喜捨を仰ぎ、先生に御贈りしたいと存ずるものであります。
厚く佛法僧の三寶に帰依せる十方の施主よ、此の悲願に答えられて、此の事業の達成に満腔の御法援あらんことを冀うものであります。
かくすれば世界恒久平和のシンボルともなり、併せて英霊並に施主の供養も成就され、現当二世の安楽も招来されるでありましょう。
茲に此の問題の中心ともなって、因縁をもたらした八重樫甚作氏を願主に依頼し、駿河重次郎氏並びに高橋吉一氏を世話人に依頼して準備にとりかゝりたいと思います。
伏して三寶に祈誓して、此の願成就に邁進するものであります。
 昭和三十年二月二十六日
 観音像建立発願者
 発願主 花巻市太田 昌歓寺三十世天海大典
 願 主 花巻市太田 檀徒 八重樫甚作
 世話人 花巻市太田 信徒 駿河重次郎
 世話人 花巻市太田 檀徒 高橋吉一
 
旧太田村の人々の、光太郎を敬愛してやまなかった念がよく見て取れます。
 
しかし、この観音像、光太郎の手で作られることは叶いませんでした。翌年には宿痾の肺結核のため、光太郎は還らぬ人となってしまいました。
 
この文書、続きがあります。
 
高村光太郎先生の御遺志により同先生厳父故高村光雲翁の上足当代佛像彫刻界の龍象東京世田ヶ谷の森大造先生の手によって成さるゝの因縁が圓熟し時恰も四月二日中𡌛に亡き高村先生の御霊前に弔問の際に於て決定大本山総持寺に参拝して佛前に於て奉告し以て十方施主の檀信徒諸彦に報告するものである
昭和三十一年四月五日契約之日
 於大本山総持寺
       発願主 昌歓寺三十世天海大典
  弔問者 願主  八重樫甚作
       会計  沢田喜代松
右事実を證明する
 昭和三十一年四月五日
  大本山総持寺 監院 岩本勝俊
 
亡くなった光太郎の後任として、十一面観音の制作を、同じ東京美術学校卒(そこで光雲の上足=高弟となっているのでしょう)の彫刻家・森大造に依頼したというわけです。
 
森の名は『高村光太郎全集』には出てきませんが、先頃見つけた雑誌『九元』掲載の、光太郎を講師に招いての座談会「第二回研究部座談会」(昭和15年=1940)に、その名が見えます。
 
この座談は、昨秋当方私刊の『光太郎資料40』及び、明後日、高村光太郎研究会より刊行予定の『高村光太郎研究35』に掲載しました。この時期に森の名を眼にし、不思議な縁を感じます。
 
森の故郷、滋賀県米原には森の個人美術館・醒井木彫美術館があり、一度行ってみようと思っていましたし、次に花巻に行く際には、昌歓寺にも寄って、問題の仏像も見てこようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月31日

明治42年(1909)の今日、イタリア・フィレンツェからパリ在住の画家・津田青楓に宛てて絵葉書を出しました。
 
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今朝ヹニスを出でてフィレンツセに来る。愈々伊太利亜のまんなかに来りたる訳なり。ヹニスの面白かりし事よ。
  春雨や南へいそぐ旅烏
  「ゴンドラ」に雨あたたかし水の色
  「ゴンドラ」を一丁漕ぎぬ春の風
  赤き屋根のあちこちにあり青畠
             三月三十一日 光
  安井君にもよろしく
  
 光 Le31 Mars 1909 â Firenze
 
三年余の欧米留学の終わり近く、パリからスイス経由でイタリア旅行をした際のものです。「ヹニス」はヴェニス。この時期に津田に宛てた葉書には、このように俳句が記されているものがいくつかあります。

先日のこのブログで、作家・津村節子さんについて書きました。ご主人の故・吉村昭氏ともども、岩手の田野畑村とのご縁が深く、東日本大震災後には、村の復興のために骨を折られているとのこと。
 
当方も微力ながら、同じ三陸の女川の復興支援に少しだけ関わっておりますので、興味をひかれ、津村さんの近著を2冊購入しました。
 
まず1冊、昨年6月、集英社より刊行された『愛する伴侶(ひと)を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』を読了しました。
 
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やはり作家の加賀乙彦氏との対談です。加賀氏は奥様に、津村さんはご主人にそれぞれ先立たれていて、それを軸にしたトークです。
 
泣けます。
 
加賀氏――
日曜日には女房と二人で聖イグナチオ教会に行っていました。(中略)春は堤に連翹と桜が満開でね。連翹の花というのは十字架の形ですから、十字架がたくさんあるような感じがして。二人でよく教会の帰りに四谷から市谷のあたりまで歩きました。
 
津村さん――
私は今でも、公園の中を歩いて「ああ、ここ、一緒に歩いたなあ」って、そういうことが始終あるんです。退院して再入院するまでの間、二人でよく、歩きました。公園のあたりで「このベンチに一緒に腰かけたな」とか……。
 
お二人のお話から、智恵子を失った後の光太郎を彷彿とさせられます。
 
ちなみに光太郎曰く、
 
智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
「智恵子の半生」(昭和15年=1940)
 
幸い当方の伴侶は元気です。しかし、いずれこういう立場になるのだろうか、などと考えさせられました。または逆に当方が先に逝き、伴侶が残されることもあり得るな、とも。そうなった場合、「せいせいした」と言われるのではないかと、それが心配です(笑)。
 
もう一冊、やはり昨年の11月に講談社から刊行された『三陸の海』。こちらはまだ読んでいる最中です。
 
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夫妻共に縁の深い田野畑村が描かれています。田野畑は光太郎と縁の深かった宮澤賢治ゆかりの地でもあり、熟読前にざっと斜め読みしたところ、賢治についての記述もありました。
 
以下、講談社さんのサイトから。
 
震災を経て、再びかの地へ――
2011年3月11日。「私」が新婚時代に夫・吉村昭と行商の旅をした三陸海岸を、大津波が襲った。
三陸の中でも岩手県の田野畑村は夫婦にとって特別な場所。夫婦で同人雑誌に小説を書きながらの生活は厳しかったが、執筆に専念するため勤めを辞めた夫は、2泊3日かけて「陸の孤島」と呼ばれていた田野畑へ向かう。鵜の巣断崖の絶景に出会った夫は小説の着想を得て、昭和41年に太宰治賞を受賞、作家の道が開けた。取材以外の旅はしなかった夫は、家族を連れて唯一、田野畑だけには旅行するようになる。
もし夫が生きていたら、津波に襲われた愛する三陸の姿を見て、どんなに悲しんだだろう。三陸は故郷ではない。住んだこともない。でもあの日、津波が襲ったのは、「私」にとってかけがえのない場所だ――。
震災の翌年、夫の分まで津波の爪痕を目に焼き付け、大切な人々に会うため、息子と孫と共に田野畑を巡った妻の愛の軌跡。
 
ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月28日

平成3年(1991)の今日、文治堂書店から北川太一著『高村光太郎ノート』が刊行されました。
 
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高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問もお願いしています北川太一先生の著作集です。書き下ろしではなく、あちこちに発表された文章の集成で、編集は北川先生が高校教諭だった頃の教え子の会「北斗会」の皆さんです。どこをとっても示唆に富む内容です。

4月2日(水)、光太郎命日の集い・第58回連翹忌を開催いたします。
 
そろそろお申し込み〆切といたしますが、今のところ、昨年とほぼ同じ約70名ほどの方からお申し込みがありました。ありがたいことです。
 
ご案内を差し上げた方の中には、いろいろなご都合でご欠席という方もいらっしゃいますが、中にはご丁寧にお手紙やメールなどで、ご欠席のご連絡を下さる方もいらっしゃいます。
 
そんなお一人が、芥川賞作家の津村節子さん。000
 
平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行なさり、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞、片岡京子さん主演で舞台化もされました。そんなご縁で過去の連翹忌にもご参加いただいています。
 
今年も連翹忌のご案内をお送りしましたところ、過日、丁重なお葉書を頂きました。
 
曰く、
 
ご案内いただき有り難うございました。北川太一様によろしくお伝え下さいませ
「智恵子飛ぶ」は私の代表作の一つになり その節は大変お世話になり有り難うございました 花巻に講演に行ったことを思い出します
次々に仕事に追われ 現在三・一一の大津波の関係で三陸へ往復しております 吉村昭の文学碑のある田野畑村に津波資料館が出来るので田野畑通いです
 
解説いたしますと、津村さんのご主人は、やはり作家の故・吉村昭氏。平成18年(2006)にご逝去されています。氏には『三陸海岸大津波』というご著書があります。こちらは昭和45年(1970)に刊行されたもので、岩手県の田野畑村を襲った明治29年(1896)と昭和8年(1933)の大津波の証言・記録集です。
 
田野畑村では三年前の東日本大震災の折、やはり津波被害で約30名の尊い命が犠牲になっています。
 
『三陸海岸大津波』、氏の作品の中ではあまり有名なものではなかったそうですが、東日本大震災直後から注目が集まり、文春文庫に入っていたものが緊急増刷されました。
 
他にも氏には田野畑村を舞台とした作品がいくつかあり、そうした関係で同村には氏の文学碑、さらに津村さんの詩碑も建立され、村のHPにはご夫妻と村の関わりについての記述もあります。

さらには吉村さんの蔵書を元にした「吉村文庫」も同村に作られましたが、こちらは東日本大震災の津波で流されてしまいました。
 
さて、昨年発表された「東日本大震災田野畑村災害復興計画」によれば、来年開館予定で「津波資料館」を建設するそうです。
 
津村さんからのお手紙によれば、そちらへのご協力で、田野畑によく行かれていて、お忙しいとのこと。ちなみに津村さんは三鷹にお住まいです。
 
失礼とは存じますが、津村さん、昭和3年(1928)のお生まれで、おん年85歳。頭の下がる思いです。また、先述の吉村さんの『三陸海岸大津波』増刷分の印税、すっかり被災地に寄附されたそうです。かつて、光太郎が昭和26年(1951)に詩集『典型』で第2回読売文学賞を受賞した際、賞金を、当時住んでいた花巻郊外太田村にそっくり寄附したエピソードを彷彿とさせられました。
 
津村さんと田野畑村の活動、今後、001注意して行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月23日

昭和17年(1942)の今日、群馬前橋の岩佐直次の遺族を訪問しました。
 
岩佐直次は海軍中佐。この前年の真珠湾攻撃で特殊潜行艇による作戦を敢行して戦死、いわゆる「九軍神」の一人として称えられました。
 
光太郎は前日から日本少国民文化協会主催の講演会のために前橋に入っていました。翌月の『読売新聞』に「天川原の朝」と題して、岩佐家訪問の様子を発表しています。
 
「天川原の朝」、『高村光太郎全集』の第20巻に収録されており、解題では、雑誌『画報躍進之日本』第7巻第6号(昭和17年=1942 5月31日)を初出としていますが、そちらは転載で、同年4月6日の『読売新聞』が初出でした。

4月2日は光太郎の命日、連翹忌。1周忌の昭和32年(1957)に第1回の連翹忌が開催され、今年で58回目となります。
 
東京では日比谷松本楼さんを会場に行っており、現在、参加者募集中です。昨年と比べ、今のところの申し込みが若干少なく、残念に思っております。こちらをご参照の上、お申し込み下さい。
 
さて、毎年同じ4月2日に、光太郎が足かけ8年間過ごした岩手・花巻でも連翹忌が開催されています。
 
以下、花巻市の広報紙『広報はなまき』3月15日号から。 
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高村光太郎の連翹忌(れんぎょうき)

彫刻家で詩人の高村光太郎をしのび、連翹忌を開きます。
【日時】 4月2日(水曜日)、午後1時
【会場】 松庵寺
※当日午前9時から高村山荘敷地内で「詩碑前祭」が開催されます
【問い合わせ】 財団法人高村記念会(総合花巻病院内電話29-4681)
 
会場の松庵寺さんは、花巻滞在中の光太郎が毎年のように父・光雲や妻・智恵子の法要をやってもらっていたお寺です。花巻市街・マルカンデパートさんの裏手の方、双葉町にあります。
 
東北在住の方で、東京の連翹忌にご参加できない方、ぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月19日

平成5年(1993)の今日、鋳金家の故・齋藤明氏を重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定する旨、文化財保護審議会から文部大臣への答申がありました。
 
斎藤氏は光太郎の弟、豊周の工房で主任を務め、光太郎ブロンズ彫刻の鋳造を多数手がけられました。昨年11月にご逝去。東京の連翹忌には昨年までご参加下さっていました。
 

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東北レポートの最終回です。

3/9(日)、盛岡てがみ館さんでの企画展「高村光太郎と岩手の人」を見終わり、最後の目的地に向かいました。
 
てがみ館のほど近く、同じ中津川沿いにある「深沢紅子野の花美術館」です。

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深沢紅子(明治36=1903~平成5=1993)は、盛岡出身の画家。夫の省三ともども、盛岡での美術教育にも力を注ぎ、後進の育成に功績があり、やはり省三ともども、光太郎と交流がありました。
 
野の花美術館、こちらは直接光太郎と関わる展示はないのですが、数年前に立ち寄った際に、非常にいい感じだったので、リピーターとして行ってきました。
 
紅子は生涯野の花を描き続け、そちらの展示がメインです。下の画像は買ってきたポストカード。当方、柄にもなく花々が大好きです。
 
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さらに企画展として「深沢省三 童画原画展」が開催されていました。
 
本当に小さな美術館ですが、味わい深い作品の数々に出会えます。ぜひ足をお運びください。
 
その後、盛岡駅まで歩きました。歩いてみると、いろいろ思いがけない発見があるものです。
 
こちらは岩手県公会堂。昭和27年(1952)に光太郎がここで講演をしています。おそらく当時のままの建物でしょう。
 
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 盛岡市街、この手の古い建物が結構残っています。左下は「もりおか啄木・賢治青春館」。もと第九十銀行だった建物を転用しています。こちらは今回、前を通っただけで中はパスしたのですが、いずれよく観てみようと思っています。
 
街角には啄木もいました(笑)。
 
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 その後、盛岡駅から東北新幹線で帰りました。今回も充実した東北紀行でした。
 
これを読んで行ってみようという気になられる方がいらっしゃったり、あちらの方面に行かれる方のご参考になったりすれば幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月17日

大正4年(1915)の今日、上野精養軒で開かれた作家・歌人の平出修の追悼会に出席しました。
 
平出は与謝野鉄幹の新詩社同人。弁護士資格も持ち、幸徳秋水や管野スガなどのいわゆる「大逆事件」の弁護も務めました。前年のこの日に若くして亡くなっています。
 
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前列左から二人目が平出、後列左から二人目が光太郎、前列右端が鉄幹。明治37年(1904)の撮影です。

3/9(日)、紫波町の野村胡堂・あらえびす記念館を後に、一路、盛岡に向かいました。目指すは今回の東北紀行最大の目的地、盛岡てがみ館さんです。
 
同館では、先月末から第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」が開催中です。
 
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さらに3/9は、関連イベントとして、IBC岩手放送アナウンサー大塚富夫氏による「てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6」があり、この日にお伺いしました。
 
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同館は石川啄木が「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と詠んだ盛岡城にほど近い、中ノ橋というところにある観光文化交流センター「プラザおでって」の6階です。エレベータで上がっていくと、眼下に中津川。いい感じのロケーションです。
 
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館長さんや学芸員さんにご挨拶、早速、展示を拝見しました。
 
展示スペースはあまり広くありませんが、写真パネル等効果的に使い、見やすい展示になっています。
 
展示されている書簡は20通あまり。同館所蔵のもの、それから同じく盛岡にある盛岡先人記念館さんや盛岡市で所蔵しているのものなどでした。書簡以外にも肉筆の詩稿も展示されています。
 
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「そうだったらいいな」と思っていたのがまさにビンゴでした。『高村光太郎全集』等に未収録の書簡もあったのです。聞けば、盛岡先人記念館さんにて最近入手されたものだそうです。いずれ当方編集の「光太郎遺珠」にてご紹介したいと思っております。 
 
光太郎関連以外にも常設展示ということで、宮澤賢治や石川啄木の書簡なども並んでいます。この二人はともに夭折していますので、残っている書簡の数も少なく、非常に貴重なものです。
 
そうこうしているうちに、花巻の財団法人高村記念会の高橋邦広事務局長がいらっしゃいまして、お土産をいただきました。つい先日、花巻のお寺で見つかったという、仏像の縁起書のコピーです。光太郎とも関わっており、のちほどこのブログにてもご紹介します。
 
さて、午後2時となり、IBC岩手放送アナウンサー大塚富夫氏による「てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6」が始まりました。驚いたことに、展示スペースに椅子を並べてイベント会場としていました。ギャラリーなどではそういうこともしばしばあるのですが、文学館の類では別室で行うことが普通です。まぁ、展示資料を視界に入れながら聞く、というのもよいものでした。
 
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朗読されたのは、光太郎の詩、水沢町出身の美術評論家・森口多里宛の書簡や、昭和51年(1976)読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 201人の証言』の一節など。先日このブログでご紹介した、昭和25年(1950)の光太郎誕生日に関するものでした。
 
同館ではこうした朗読イベントも不定期に行っているそうです。
 
第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」、会期は6月までと、かなり長めです。また、4月、5月にも関連行事が予定されています。
 
ふみの日ギャラリートーク 「高村光太郎と岩手の人」   [開催日]4月23日(水)

館長によるギャラリートーク 「高村光太郎と岩手の人」  [開催日]5月31日(土)

 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月16日

平成14年(2002)の今日、NHKラジオ第2放送「NHKカルチャーアワー文学と風土」で「北国名作探訪 第24章 雪中独居……高村光太郎『典型』ほか」がオンエアされました。
 
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ナビゲーターは作家の高田宏氏。花巻郊外旧太田村の山小屋での光太郎が取り上げられました。上記画像のテキストも販売されています。2枚目のゴム長靴の写真は、十和田湖畔の裸婦群像制作のため上京した昭和27年(1952)10月、上野駅での一コマです。

3/8、9東北紀行レポートの3回目です。
 
3/9(日)、仙台から東北新幹線に乗り、北上で在来の東北本線に乗り換えました。この日最初の目的地は、岩手県紫波郡紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」さんです。
 
最寄り駅は「日詰」。花巻と盛岡の中間ぐらいでしょうか。
 
ホームに降り立ち、乗っていた列車が発車して行ってしまうと、実に意外な音、というか声が聞こえてきました。何と、白鳥の声です。
 
ホームから見える田んぼに、ざっと百羽以上の白鳥の群れ。
 
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湖などでなく、こういう形で白鳥を見たのは初めてで、感動しました。
 
駅前には宮澤賢治の短歌が記された碑がありました。
 

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曰く、
 
 さくらばな 日詰の駅のさくらばな かぜに高鳴り こゝろみだれぬ
 
大正6年(1917)、盛岡高等農林学校在学中の作品だそうです。
 
ところで野村胡堂・あらえびす記念館さんケータイの地図アプリで見てみると、日詰駅から約3.5㎞。路線バスは見あたらず、タクシーもいません。仕方なく、歩くことにしました。まぁ、毎日犬の散歩で5~6㎞歩くことはざらですので、さほど苦にはなりません。ただ、一泊分の大荷物を担いでなのが大変でした。

野村胡堂は光太郎より一つ年長。ここ、紫波町の出身で、「銭形平次」シリーズの著者として有名です。また「あらえびす」の筆名で音楽評論家としても活躍しました。
 
そして胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
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野村胡堂・ハナ夫妻
 
というわけで、光太郎智恵子関連の収蔵品があるかも知れないと思い、行ってみることにしました。
 
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途中の北上川に掛かる橋の欄干です。さすが「銭形平次」の里。ところで平次の恋女房・お静には、愛妻・ハナのイメージが投影されているそうです。当方、テレビ時代劇の「銭形平次」-最初の大川橋蔵さん主演の-での香山美子さんのイメージが鮮烈に残っています。「お前さん、いっといで」と切り火を切って送り出すような。
 
記念館の少し手前に、野村胡堂の生家も残っていました。

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立派な日本家屋ですが、驚いたことに、まだ「野村さん」がお住まいです。帰ってから調べてみたところ、住まわれているのは胡堂の弟のご子孫だそうです。
 
さて、記念館につきました。

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入口では胡堂の胸像が出迎えてくれます。
 
 
さらに館内に入ると、北大路欣也さん主演のシリーズで実際に使われた平次の衣装が出迎えてくれます。が、ここからは撮影禁止。そこでパンフレットの画像を載せさせていただきます。
 
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展示スペース、それほど広いわけではありませんが、導線がしっかりしているうえに壁の使い方が特徴的で、面白いと思いました。当方、花巻の光太郎記念館改修などに関わっているので、そういうところに目が行ってしまいます。
 
胡堂本人の資料ももちろん、島崎藤村の書や手紙などが多く展示されていました。他に江戸川乱歩やサトウハチローなどからの書簡も。
 
残念ながら光太郎智恵子に直接関わる展示物はなかったのですが、胡堂の生涯を紹介するビデオでは、先述の結婚披露宴介添えの話で、智恵子に触れていました。
 
それから音楽評論家「あらえびす」としてのレコードコレクションもものすごいのですが、こちらはリスト作成中とのこと。もしかすると光太郎作詞の戦時歌謡などの類も含まれているかも知れません。今後に期待します。
 
さて、意外とじっくり観たので、時間がおしてしまいました。次なる目的地、盛岡てがみ館に午後2時には入らないといけませんし、その前に昼食も取りたいところです。また日詰駅まで大荷物を抱えて3.5㎞、さらに在来の各停で盛岡、そして盛岡駅からてがみ館までも約2㎞……というのも大変だと思い、奮発してタクシーを使うことにしました。
 
盛岡編はまた後日。
 
今日はまた都内に出かけて参ります。用件は二つ。まずは福岡を拠点に活動されている女優の玄海椿さんの舞台を三鷹まで見に行きます。玄海さんの舞台は一昨年、「智恵子抄」が演目だった時に福岡まで観に行きました。今回は東京公演で、「黒田官兵衛」だそうです。
 
それから表参道のギャラリー山陽堂さんにて、「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」とトークイベント
 
明日のこのブログは東北レポートを一旦休止してそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月14日

平成5年(1993)の今日、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)御崎の海岸公園に、光太郎歌碑が除幕されました。
 
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女川同様、昭和6年(1931)の「三陸廻り」で光太郎が訪れた記念です。
 
刻まれているのは短歌。
 
黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり

今日から岩手の盛岡てがみ館さんで「第43回企画展 高村光太郎と岩手の人」が始まります。
 
過日、チラシ、ポスター等を頂きました。
 
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一番上の写真は、昭和昭和26年(1951)秋に花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れた詩人・宮静枝とその子供たち、宮が写した光太郎ポートレート、さらに宮澤賢治の主治医で、一時、光太郎を自宅に住まわせた佐藤隆房らとともに写っている写真もあります。
 
中央は光太郎詩「岩手山の肩」の直筆。同館ではこの原稿を所蔵しており、常設で展示されています。
 
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書簡に書かれたものもそうなのですが、味のある文字ですね。
 
チラシ裏面はこちら。
 
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右上の写真は花巻の財団法人高村記念会さんのご提供。その下に展示される書簡の写真が二葉。左が新岩手日報社に勤務していた松本政治宛、右が石川啄木研究家の吉田孤羊にあてたもので、どちらも同館所蔵のものです。10年程前に、これらを含む、『高村光太郎全集』未収録の書簡の情報をご提供いただき、補遺作品集「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。
 
他にどんなものが並ぶのか、非常に楽しみです。
 
会期は6月16日までと、かなり長めです。また、関連行事が以下の通り行われます。
 
3/9(日)14:00~15:00 てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6~
  講師・大塚富夫氏(IBC岩手放送アナウンサー)
4/23(水)14:00~15:00 「ふみの日」ギャラリートーク 同館学芸員
5/31(土)14:00~15:00 館長によるギャラリートーク
 
当方、3/9に参上します。皆様もぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月25日

昭和23年(1948)の今日、雑誌『至上律』に詩「蒋先生に慙謝す」が掲載されました。
 
蒋先生は、蒋介石。かつて昭和17年(1942)には、その抗日思想を烈しく批判した詩「沈思せよ蒋先生」という詩を雑誌『中央公論』に発表した光太郎ですが、戦後になって、軍部の走狗となっていた自らを恥じ、この詩を作りました。

昨日は、スキーと智恵子について書きました。
 
それでは、光太郎とスキーの関わりは、というと、次のような記録が残っています。
 
昭和37年(1962)、筑摩書房から初版が刊行され、011花巻の高村記念会で増刷された『高村光太郎山居七年』という書籍があります。編集は佐藤隆房。題名の通り、昭和20年(1945)から同27年(1952)にいたる、光太郎の花巻生活を、当時を知る人々の証言などによって記録したものです。
 
その中で、旧太田村の山小屋近くに住んでいた駿河定見氏の証言を元に書かれた部分が、以下の通りです。
 
定見さんは、スキーが上手で県の代表になって東北大会に出場したこともあり、小屋に行く時も冬はスキーで出かけます。それをみて先生は
「僕もスキーをやりたいんだが」
「先生、はいてみませんか……先生、できますか。」
「イヤー、やったらできそうだが、だが僕は足が大きいから、足にあわせてその金具を作らなければだめなんです。」
「スキーの山歩きは、峯から峯へと跳びまわりますのでとても痛快です。」
「あすこの山の上から降りてみなさい。」
 定見さんは、上からかなりのスピードで木の間を自由にカーブして裾の方まで辷りました。
「うまいですね。見ていても自分が走っているみたいな気になりますよ。」
 先生はスキーが欲しいと思ったようでしたが、定見さんは体のことを心配してそれ程すすめはしませんでした。
 
これは昭和22年(1947)のことだそうですが、翌23年(1948)の日記では、光太郎自身が次のように書いています。
 
午后サダミさんスキーで来訪、暫時談話、ガンジー暗殺されし由、初めてきく。山口部落の高須需(モトム)さんといふ人は日本スキー界の第一人者の由、その人にスキーをなほしてもらつたとサダミさんいふ。九左衛門さん宅の隣家の由。来年は余もスキーを入手したき旨語る、
 
先日のブログにも書きましたが、光太郎の住んでいた山小屋周辺は、この季節、クロスカントリースキーの練習コースになっています。
 
そういう場所での生活の中で、レジャーというより、必要に迫られてスキーに取り組むつもりがあったようです。ただ、年齢的なこと、健康上の懸念、そして光太郎自身言っていたような足の大きさの問題などから断念したようです。それにしても、齢60代後半にして、スキーを覚えようと考えた意欲には敬意を表さざるを得ませんね。
 
さて、いよいよ今日はソチオリンピックの開幕です。すでに開幕前から各競技の予選が始まっています。日本代表スキー選手のみなさんにも、ぜひ活躍してほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月7日

明治42年(1909)の今日、パリから親友の水野葉舟に宛てた書簡が『読売新聞』に掲載されました。
 
一部抜粋しましょう。
 
 さて僕がLondonからParisに来て既に半年はたつた。仏蘭西といふ国の真価が外見よりも遙かに大なのにも驚いたし、一般の国民が他国に比して確かに一歩進んだ地盤に立つて居るのにも感心した。仏蘭西に斯かる文芸の出来るのも不思議は更に無い。よく人が仏蘭西の美術も漸く衰へて、此から遠からず世界の美術の中心が亜米利加の方へ移るだらうなどゝいふが、其の言の誤つて居るのは来てみると直ぐに解る。仏蘭西の美術は漸く衰へる所では無い。此れから益々発展しやうとして居るのだ。
 僕も国を出てから彼是三年近くになる。今日までの研究で漸く根本の研究に会得する所があつたと信じて居る。今年あたりから自分の製作を追々と製作して見やうと思つて去年から此の大きなAtlierを借り込んで居たのだ。

本日も盛岡関連情報です。
 
盛岡市にある盛岡てがみ館さんで、以下の企画展が行われます。
開催期間:2014年2月25日(火)~6月16日(月)
 
彫刻家で詩人の高村光太郎は昭和20年(1945)、宮沢賢治の実家を頼って疎開し、以後約7年間を花巻で過ごしました。岩手の人と風土をこよなく愛した光太郎は盛岡へも足を運んで講演会を行ったほか、昭和23年(1948)に創設された県立美術工芸学校の運営を援助するなど、岩手の文化発展にも貢献しています。光太郎の岩手における人々との交流と足跡を手紙や原稿を通して紹介します。
 
【開館時間】 9時から18時まで(最終入場17時30分まで)
【休 館 日】  毎月第2火曜日 展示入替のため臨時休館有
【入 館 料】 個人 一般200円 高校生100円  団体 一般160円 高校生80円 (20人以上)
▼中学生以下、及び65歳以上で盛岡市に住所を有する方、また障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの介護者は無料。
【住  所】 盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階(地図・アクセス方法)
【電話・FAX】019-604-3302
 
 
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関連行事として、こちら。 
 開催日・期間:2014年3月9日(日)
 時間:14:00~15:00
 場所:盛岡てがみ館 展示室
 講師:大塚富夫(IBC岩手放送アナウンサー)
 料金:入館料が必要です。
 お申込み・受付方法:当日、直接当館にお越しください。
 
一通一通の手紙が織り成すストーリー。朗読を通して伝わる人間の心の機微にふれてみませんか?
☆テレビ、ラジオで活躍中のアナウンサー・大塚富夫氏を講師に迎え、著名人の手紙や第43回企画展に関連した高村光太郎の詩などを朗読していただきます。

 
盛岡てがみ館さんは、公益財団法人盛岡市文化振興事業団さんの運営で、公式サイトによれば、
 
盛岡市の中心部を流れる中津川河畔にある当館は、先人の書簡(てがみ)を中心に原稿・日記等を収蔵・調査研究・展示する、全国でもユニークな施設です。
郷土の発展には、先人の生きた知恵を学ぶことが大切だとよく言われています。 盛岡市には盛岡にゆかりのある著名人やその関係者の書簡(てがみ)、原稿、日記、ノート、筆墨など貴重な資料が数多く残されています。
個人のてがみは、執筆者の知られざる素顔をのぞかせながら、その時代の息吹きを鮮やかに伝える第一級の遺産です。これらの文化遺産を守りながら、多くの人たちに公開していくことが、私たちが未来に先人の知恵を手渡していくことになるのではないかと考えます。
  
とのこと。
 
当方、10年近く前に一度お邪魔したことがあります。こちらには『高村光太郎全集』等に収録されなかった光太郎の書簡がけっこうたくさんあり、その情報を提供していただいた関係です。宛先は石川啄木研究者の吉田孤羊、新岩手日報社関連などでした。
 
今回の企画展でも、『高村光太郎全集』等に収録されていない書簡が並ぶことを期待しています。
 
公式サイトから引用させていただいた011上記画像に写っているのは、詩人の故・宮靜枝。岩手県南部・江刺の出身で、昭和26年(1951)秋に、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れています。宮はその時の体験を元に、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』を上梓、第33回晩翠賞に輝いています。
 
上記の写真はその折のもの。これを含め、光太郎が写った写真20葉ほどを収めたアルバムが盛岡市立図書館に寄贈されており、そちらも見たことがあります。
 
光太郎の元にもこれらの写真が送られましたが、光太郎は宮宛の葉書に「写真はやはり小生の苦手で、気味が悪いと思ひました。」としたためています。
 
光太郎から宮宛の書簡は、『高村光太郎全集』に2通収録されており、今回も並ぶのではないかと思われます。
 
ちなみに宮が訪れた時、裁縫は得意でなかった光太郎、宮に遠慮がちにお願いしてカーテンを縫ってもらっています。ほほえましい交流ですね。
 
この企画展が開催されると知り、こちらから、岩手の公共施設等に収蔵されている光太郎書簡の情報を提供しました。先日、返答を戴き、それらの一部を展示する方向で考えているとのこと。少しはお役に立てたかなと想っております。
 
 当方、3月9日の関連行事に合わせて行ってみようと思っています。皆様もぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月31日

平成9年(1997)の今日、二元社から『智恵子その愛と美』が刊行されました。
 
智恵子の紙絵と文章、光太郎の詩文、自筆詩稿から採った文字で構成された美しい本です。
 
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気がつけば1月も明日で終わりです。そこで、来月行われるイベントをご紹介します。 
 
岩手は盛岡での演劇公演です。

宮沢賢治没後80年記念事業・畑中美耶子『モリーオ童話館』100回記念事業 第12回おでってリージョナル劇場  「泣きビッチョ光太郎」~昭和21年の星めぐり~

作:上田次郎 演出:坂田裕一、中村一二三 作曲:田口友善  
      
~あらすじ~      
時代は、昭和20年戦争末期から戦後。宮沢家に疎開していた高村光太郎を中心に、賢治を慕う大勢の人々が、「雨ニモマケズ」の教科書改ざん騒動を足がかりに、歌あり踊りありのドタバタな楽しい舞台を繰り広げる。      
      
【会 期】 平成26年2月21日(金)~平成26年2月23日(日) ◆4回公演      
                ①2/21(金)開場18:30 開演19:00
                ②2/22(土)開場13:30 開演14:00
                ③2/22(土)開場18:00 開演18:30
                ④2/23(日)開場13:30 開演14:00      
【会 場】 プラザおでって 3階おでってホール (盛岡市中ノ橋通1-1-10)
【入場料】 (前売)大人1,500円 大学生以下1,000円
        (当日)大人1,800円 大学生以下1,300円 (期日指定・全席自由)
【主 催】 盛岡市・公益財団法人盛岡観光コンベンション協会      
【提 携】 いわてアートサポートセンター      
【後 援】 岩手日報社、NHK盛岡放送局、IBC岩手放送、テレビ岩手、めんこいテレビ、 
      岩手朝日テレビ、エフエム岩手、岩手ケーブルテレビジョン、
      朝日新聞盛岡総局、
毎日新聞盛岡支局、読売新聞盛岡支局、
      産経新聞盛岡支局、盛岡タイムス社、 河北
新報社盛岡総局、岩手日日新聞社、
      ラヂオもりおか、月刊アキュート、 マ・シェリ、
情報誌游悠      
【プレイガイド】 プラザおでって、盛岡市民文化ホール、 盛岡劇場、都南文化会館、
         カワトク      
【お問い合わせ】 (公財)盛岡観光コンベンション協会 企画管理部 019-604-3300
 
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「泣きビッチョ」とは「泣き虫」といった意味でしょうか。
 
主演? の畑中美耶子さんという方は、盛岡で宮澤賢治作品の朗読等に取り組まれている方です。
 
明日詳しく紹介しますが、同じプラザおでって内の「盛岡てがみ館」さんでは、25日から「第43回企画展 高村光太郎と岩手の人」が開催されます。日程が重なっていればgoodだったのですが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月30日

昭和4年(1929)の今日、萬里閣書房から「光雲懐古談」が刊行されました。
 
光太郎の父・光雲が語った自己の半生、同時代の美術界の様相などをまとめたものです。
 
前半は「昔ばなし」。後書きによれば、大正11年(1922)に光太郎の朋友・田村松魚が、光太郎とともに光太郎アトリエや光雲邸で懐古談を聞き、それを筆録したとあります。
 
後半は「想華篇」。やはり光雲が、美術界の社交機関「国華倶楽部」で語った内容や、雑誌に発表された談話などの集成です。
 
前半の「昔ばなし」の部分のみ、その後何度も版を改めて刊行されています。
 
オリジナル萬里閣書房版の題字は光太郎、装幀は豊周。幕末から明治にかけての、当時の美術界の様子や、それにとどまらず、世相、江戸の街の様子などなど、多岐にわたる内容で、非常に貴重な回想です。また、光雲の軽妙洒脱な語り口も優れています。
 
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さて、前半の「昔ばなし」編。先述のとおり、後書きによれば、大正11年に光太郎の朋友・田村松魚が、光太郎とともに光雲の懐古談を聞き、それを筆録したとのこと。他に同席者は居なかったそうです。
 
その後再刊された各種の版についている解説等、すべてこれを鵜呑みにしていますが、どうも事実とは異なる部分があるようです。
 
『光雲懐古談』にさかのぼる昭和2年(1927)に春陽堂から刊行された『漫談明治初年』という書籍があります。「同好史談会」という団体の編纂ということになっていますが、中心は市島春城。春城による「はしがき」には以下のような記述があります。
 
 吾等は近年十数の同人と同好史談会と云ふを設け、折々会して維新当時の事につき互ひに知ることを語り合ひ、往々他から故老を招待してその談話を聴き、時には会員を諸方に派して故老の談話を筆記せしめたりして、其筆記が今は漸く積んで堆を為すに至つた。(略)春陽堂主人聞きつけてぜひ出版せよと勧めらるゝので、先づ明治十年頃までのものを選んで刊行することにした。
 
この『漫談明治初年』の中に、光雲の談話筆録も多数収録されているのですが、『光雲懐古談』の昔話と重複しています。部分によっては「国醇会講話」という説明も見えます。「国醇会」とは日蓮宗の運動家・田中智学を中心とする会でした。
 
光太郎アトリエや光雲邸で、田村と光太郎のみが聴いたはずの談話と、一字一句違わない談話が2年前に刊行された『漫談明治初年』に載っており、しかもそれが国醇会で語ったという説明がある。どう考えても矛盾していますね。
 
田村が光雲の懐古談を聞いて筆録したのはおそらく事実でしょう。しかし、刊行にあたって、田村が聴いた以外の談話も使用されていると考えるのが自然だと思います。あるいは『漫談明治初年』に収録されているのとほぼ同じ内容の話を聴いた田村が、それなら『漫談明治初年』に書かれている部分をそっくり引用してしまえ、と考えたのかも知れません。
 
または田村も「同好史談会」の構成員で、光雲に話を聴くのは会の事業だったのかもしれません。
 
いずれにせよ、「『光雲懐古談』の「昔ばなし」編は、田村松魚が、光太郎とともに光太郎アトリエや光雲邸で懐古談を聞き、それを筆録したものである」と断言するのは危険ですのでよろしくお願いします。

東北レポート最終回です。
 
1/19(日)、花巻を後にして、東北本線でさらに北に向かいました。次なる目的地は岩手郡岩手町。盛岡よりさらに北、青森との県境に近い地域です。
 
昨秋、その岩手町の川口公民館に、光太郎自筆の看板が2枚あるという情報を得まして、見に行ったわけです。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
また、同じく4月29日には
 
川口村立図書館、川口村公民館を板に揮毫、
 
の記述があり、同じく5月10日の日記は以下の通りです。
 
川口村の帷子氏看板2枚受け取りに来る、川魚クキ20尾程ヒエ一升もらふ。
 
ちなみに川口村は昭和30年(1955)には合併で岩手町となっています。
 
盛岡で第3セクターのIGRいわて銀河鉄道に乗り換え、岩手川口駅を目指しました。途中、「渋民」という駅がありましたが、こちらは石川啄木の故郷です。
 
午前10時30頃、岩手川口駅に到着、そこから川口公民館まで歩きました。空は晴れていましたが、雪がちらついていました。
 
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あらかじめお伺いすることを伝えてありましたので、職員の方が待っていて下さいました。早速、木箱に収められた2枚の看板を出していただきました。
 
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上の2枚が「川口村公民館」、下006の2枚が「川口村立図書館」。墨で書かれたものですが、残念ながら、どちらも文字はほとんど読めなくなっていました。
 
裏面の碑陰記的なものは裏面なので墨痕鮮やかに残っていました。ただし、こちらは光太郎の筆跡ではありません。
 
実際に看板として屋外に掲げられ、風雨や雪に晒され続けたため、文字が薄くなってしまったのでしょう。最初の段階で墨ではなく油性の塗料で書くとか、透明なニスなどでのコーティングでもされていればこうはならなかったのだと思いますが、昭和27年当時ではそれも望むべくもなかったのでしょう。
 
しかし、実用されたた結果、文字が薄れたことについては、泉下の光太郎もかえって喜んでいるのではないかと思います。
 
逆に、文字が薄くなったからといって、誰かが上からなぞって濃くするというような乱暴な処置がされていないのは幸いでした。
 
ところで現在、同公民館の玄関には、下の画像の看板が掲げられています。こちらも結構年期が入っています。どうも書体の特徴から、もともとの光太郎の筆跡から「村」を除いて写し取ったもののように思われます。

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「関連する資料があればコピーをいただきたい」と、事前にお伝えしておいたため、2枚の看板を紹介する『岩手日報』さんの記事、公民館移転の際の行事に盛り込まれた故・帷子敏雄氏の談話筆録、昭和30年代に当時の公民館長が書き残した覚え書きなどをいただきました。有り難いかぎりです。
 
さらに、これが最も驚いたのですが、光太郎から帷子氏宛の自筆葉書のコピーもいただきました。4月29日付けで、揮毫が終わった旨の報告でした。『高村光太郎全集』等に未掲載のもので、いずれ当方編集の「光太郎遺珠」(今春発行のものには間に合いません)、当方刊行の『光太郎資料』にてご紹介します。
 
そしてこれも驚きましたが、たまたま公民館に帷子氏のご子息がいらしていましたので、お話を聴くことも出来ました。いただいた資料と合わせ、当時の経緯がよく分かりました。それによると、村の若者が集まっての炉端談義の中で、公民館、図書館の看板を立派なものにしようという提案が出、一流の文化人に書いてもらおうということになったそうです。そして同じ岩手県内に住んでいた光太郎に白羽の矢が立ち、花巻出身の村内教育委員の親類筋のつてで依頼したとのこと。こちらの経緯なども「光太郎遺珠」、『光太郎資料』にて詳述します。
 
かくて予定していた目的は全て終了。岩手川口駅の隣、いわて沼宮内から東北新幹線で帰りました。
 
1泊2日の東北紀行でしたが、いつにもまして実り多い調査行でした。今回も行く先々でいろいろな方々のお世話になり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月24日

昭和16年(1941)の今日、有楽町産業組合中央会間で開催された「講演と朗読-愛国詩の夕」で「詩人の魂」と題して講演を行いました。

東北レポート4回目になります。もうしばらくおつきあい下さい。
 
1/19(日)、花巻南温泉峡鉛温泉藤三旅館をあとにし、タクシーで太田地区に向かいました。目指すは光太郎が7年間暮らした山小屋「高村山荘」、そしてすぐ近くに建つ「高村光太郎記念館」です。この区間はタクシーを利用せざるを得ません。
 
以前は冬期間閉鎖でしたので、当方、この時期に行ったことはありませんでした。それが、記念館の方は昨年5月のリニューアルオープンを機に花巻市営となり、他の市営施設同様、通年開館となったので、雪に埋もれる様子を実際に観て、光太郎のいた冬を実感してみようと考えた次第です。
 
鉛温泉からタクシーで約20分、現地に着きました。やはり一面の銀世界です。
 
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記念館が開くのは午前8時30分。まだ少し間があるので、先に高村山荘を目指しました。駐車場から歩くこと数百㍍、途中までは道らしき形になっていましたが、あと百㍍くらいのところで、道は山荘の方から外れた山の上に向かっていました。後で聞いたところでは、道的なものはロスカントリースキーの練習コースだそうです。しかたなく、道から外れ、ほとんど道なき道を山荘に向かいました。地面の積雪は1㍍くらいでしょうか。晴れていたのが幸いで、吹雪いている時などはまず歩けないところです。
 
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奥の白い建物が山荘。ただし中尊寺金色堂のように、套屋(とうおく)というカバーの建物が二重にかぶせてあり、その外側の第二套屋です。通常は第二套屋の中に入って、第一套屋のガラス越しに山荘を見る形になります。しかし、この時期は錠をあけていないとのこと。ここに至るまでの雪かきが事実上不可能だからだそうです。ただ、記念館の方で頼めば開けてくれないでもないそうです。また、記念館で長靴を貸して下さるとのこと。
 
手前の小さな建物は、便所として光太郎が使用していたもの。草野心平の命名で「月光殿」というしゃれた名が付いています。こちらにもトタン板の簡素な套屋がついています。
 
さらに近づいてみるとこんな感じです。
 
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 月光殿の方は、ガラス越しに光太郎が彫った明かり取りのための「光」一字が見えます。
 
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「ミニかまくら」というか「雪見だいふく」というか、この丸いのは灌木です。
 
山荘の前を通り過ぎ、南西方向から撮ったショットがこちら。
 
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この套屋のないむき出しの山小屋で、光太郎は7回も冬を越したわけです。当時(今も)、一番近い民家まで数百㍍。日記を読むと、冬場には誰一人訪ねてこない日も珍しくありませんでした。どんな思いでここに住み続けたのか、その思いに少しでも近づけたら、と考えています。
 
ここからさらに奥に、光太郎の「雪白く積めり」石碑、佐藤隆房博士顕彰碑、智恵子抄泉、智恵子展望台などがあるのですが、さすがにそちらまで行くのは断念しました。遭難しかねません。
 
そろそろ記念館の開館時間なので、そちらに向かうと、女性職員の方が駐車場からの道の雪かきをなさっていました。さらに記念館のすぐ近くでは、小型除雪車が雪を吹き飛ばしています。と、運転していた方が当方に気づいて「や、どうも」と言いつつ降りてきました。何と、㈶高村記念会の高橋卓也氏でした。当方がうかがうことは事前に連絡してあったので、待っていてくださったわけです。
 
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二人で中に入り、現状をうかがいました。とりあえず来館者は毎日いるとのこと。「ワンコインタクシー」なるものが運行されていて、それを利用する方がけっこういらっしゃるそうです。
 
「ワンコインタクシー」。半日で一人500円とのこと。東北新幹線の新花巻駅を午後1:05に出発し、宮澤賢治記念館→花巻新渡戸記念館→高村光太郎記念館→花巻温泉郷→花巻空港→新花巻駅というコースで、最後は在来東北本線花巻駅に18:00着だそうです。
 
これで500円は確かに安すぎですね(各施設の入館料は別ですが)。しかも宿までいけてしまうというのも便利だと思います。「花巻温泉郷」というのは、鉛温泉や大沢温泉などを含む「南花巻温泉峡」とはまた別の、高級ホテルが並ぶ区域(そちらにも光太郎賢治ゆかりの宿等があります)ですが、南花巻温泉峡もまわるようです。
 
ただし、要予約、さらに基本コースは上記のとおり既定ということです。また、他のコースも設定されています。
 
さて、高村記念館を後にし、待っていていただいたタクシーに再び乗り込んで、在来の花巻駅に向かいました。結局、料金は6,000円ちょっとでした。当方のたどった南花巻温泉峡→高村光太郎記念館→花巻駅というコースを普通にタクシーを利用すると、このくらいはかかってしまいます。逆のコースでも同じでしょう。以前は「高村山荘行」という路線バスがあったのですが、今は廃線になっています。これから行かれる方、ご参考までに。
 
さて、在来の花巻駅から東北本線でさらに北を目指しました。次なる目的地は岩手郡岩手町。そちらはまた明日。
 

 
別件です。俳優の高橋昌也さんの訃報が出ました。
 
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高橋さんは、昭和51年9月、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の「智恵子抄」(北条秀司作)で、光太郎役をなさいました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月23日

明治45年(1912)の今日、光太郎が扉の図案を描いた与謝野晶子の歌集『青海波』が刊行されました。
 
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東北レポートの3回目です。
 
1月18日(土)、午前中は福島市での調査、午后には新花巻駅近くの花巻市博物館の企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」を拝見しました。その後新花巻駅に戻り、そこから宿へと向かいました。
 
宿は花巻南温泉峡の鉛温泉藤三(ふじさん)旅館さん。当方、花巻での定宿は、同じ花巻南温泉峡の、光太郎、そして宮澤賢治ゆかりの宿大沢温泉さんですが、今回はそちらが取れませんでした。そこで、大沢温泉さんより少し奥地にある鉛温泉さんに宿を定めました。こちらも光太郎・賢治ゆかりの宿なので一度泊まろうと思っており、ちょうどよかったと言えます。
 
花巻南温泉峡に行く手段としては、タクシー、岩手交通さんの路線バス、そして温泉組合的なところで運行している無料のシャトルバスがあります。昔は花巻電鉄というローカル線が走っていましたが、廃線となってしまいました。
 
鉄道の駅は、新幹線の新花巻駅が温泉峡と市街地をはさんで反対側の東部なので若干遠く、アクセスしやすいのは在来の花巻駅からの方です。ただ、無料のシャトルバスは新花巻駅から出て在来の花巻駅を経由するので、当方、今回はこれを利用しました。下記が時刻表です。
 
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光太郎は、昭和31年(1956)2月、亡くなる2ヶ月前の談話筆記「花巻温泉」で、鉛温泉について以下のように述べています。
 
 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 
他にも賢治の童話「なめとこ山と熊」にも鉛温泉が登場しますし、昭和25年(1950)には作家の田宮虎彦が滞在、ここを舞台にした小説「銀心中」を執筆したそうです。
 
新花巻駅の観光案内スペースに置いてあった花巻市発行の情報誌『花日和』の2013年冬号を1冊頂きました。旧太田村の光太郎が暮らした山小屋付近の風景や、鉛温泉さんが大きく扱われていたためです。
 
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そちらによれば、藤三旅館は鉛温泉の一軒宿で、天明6年(1786)の開業。開湯はさらに古く、室町時代にさかのぼるとのこと。オーナーの先祖が、この地で白猿が傷を癒していた温泉を見つけたのが始まりだそうです。
 
名物は深さ約130㌢という、立ったまま入る岩風呂「白猿の湯」。上の2枚目の画像にうつっています。光太郎の談話筆記で「その様を小高い所から見下せる」とあるのが、ここのことだと思われます。現在は光太郎の時代とは異なり、また混浴に戻っています(女性専用の時間帯あり)。しかし、当方が入った時には残念ながら男性しかいませんでした(笑)。他にも男女別の露天風呂や内風呂がいくつかあり、24時間入浴可です。当方、1泊2日で3回入浴しました。
 
昭和16年(1941)竣工という本館は非常に趣がありましたし、何より料理が美味しく、手が込んでいました。また、夜は窓を開けると豊沢川の流れにライトアップが施され、幻想的な雰囲気でした。
 
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というわけで、温泉と料理を堪能し、翌朝、宿を出ました。手配して置いたタクシーに乗り、高村山荘・高村光太郎記念館へ。そちらについてはまた明日レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月22日

昭和26年(1951)の今日、花巻の靴屋で12文(約30㌢㍍)の長靴を買いました。
 
光太郎、身長もそうですが、手足が異様に大きかったことも有名です。
 
ちなみにこの時、昨日ご紹介した佐藤隆房宅に1週間ほど逗留していました。その後は大沢温泉に行き、10日ほど宿泊しています。

前回からの続きです。
 
福島市を後に、再び東北新幹線に乗って、次なる目的地、花巻を目指しました。途中、仙台を過ぎても平地には雪がほとんどありませんでしたが、やがて岩手県内に入ると徐々に雪が積もっている様子が目につくようになりました。新花巻駅に着いた頃は、すっかり白銀の世界でした。
 
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新花巻駅の観光案内的なコーナーでは、光太郎が出迎えてくれました。
 
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普段、花巻に行く時は、北上で東北新幹線から在来の東北本線に乗り換えることが多く、新花巻駅に降り立ったのは久しぶりでした。そのため、こういうコーナーがあることを存じませんでした。
 
新花巻駅から雪道を歩くこと約15分、花巻市博物館に到着しました。
 
 
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こちらでは、企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」が開催中です(2/11まで)。
 
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佐藤隆房は明治23年(1890)、栃木那須の生まれ。千葉医専(現・千葉大学医学部)卒業後、医療施設の少なかった東北での医療活動に従事することを志願、縁あって大正12年(1923)、花巻に花巻共立病院(現・総合花巻病院)を開業しました。
 
地元の有力者だった宮澤家も開院に協力、その関係で賢治晩年の主治医を務め、その最期を看取りました。賢治の詩「S博士に」は佐藤のことを描いたものだそうです。
 
さらに宮澤家の関連で、光太郎とも知遇を得、交流を深めました。宮澤家の意向を受けて既に戦時中に東京で光太郎に会い、花巻疎開を勧めたといいます。
 
光太郎が花巻に来てからは、旧太田村の山小屋に移る前、一時、自宅の離れに光太郎を住まわせたり、その後も折に触れ、行き来をしていたりしました。
 
光太郎歿後は財団法人高村記念会を創設、花巻での顕彰活動を牽引し、昭和54年(1979)歿。現在は子息・進氏が理事長を務めています。
 
企画展では佐藤の生涯と業績をたどる品々の他、賢治の草稿や光太郎の揮毫、彫刻なども展示されていました。一見の価値はあります。ぜひ足をお運びください。
 
その後、新花巻駅に戻り、そこから無料送迎バスでその日に泊まる鉛温泉藤三旅館に向かいました。そちらについてはまた明日。
 

 
BS-TBS 2014年1月25日(土)  21時00分~21時54分
 
「阿多多羅山(あだたらやま)の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。」
安達太良山は、高村光太郎の『智恵子抄』に歌われたことで広く知られるようになりました。
 
南北9キロに渡って連なる安達太良連峰のひとつで、標高は1700メートル。なだらかに美しい稜線を引き、山頂には突き出た岩峰があるため遠目には女性の乳房のようにも見え、別名「乳首山(ちちくびやま)」とも言われています。
 
智恵子のふるさとの山であり、また、そのたおやかな山容から女性的なイメージを持たれる山ですが、実際に登って見るとまた別の姿を見せます。北西からの季節風が遮られることなく吹き付けるため、この時期の稜線は突風が吹き荒れます。また、連峰の山頂部には大きな火口跡があり、荒々しい景観が広がっています。安達太良山は火山活動によって生まれた山で、最近では明治時代に爆発を起こしています。
 
厳冬期の安達太良山を雪山初挑戦の女優の春馬ゆかりさんが目指します。雪の状態を見極め、アイゼンとスノーシューを履き替えながらの山行となりました。
 
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さすがに標高1700㍍の山ですね。ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月21日

昭和3年(1928)の今日、丸の内中央亭で開かれた第一回詩人協会総会に出席しました。
 
この席上、光太郎は年鑑編纂委員、評議委員を引き受けたそうです。同年6月には実際に『詩人年鑑1928』がアルスから刊行されました。
 
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いわゆる詩壇の大御所とは深いつきあいをしなかった光太郎ですが、この「詩人協会」はどちらかというと若い詩人を中心に結成されたもので、この時期の光太郎は若い詩人達にカリスマ的存在と見られていました。
 
しかし、その活動は長くは続かず、昭和6年には解散してしまいます。年鑑も1回限りの刊行でした。

暮れに岩手花巻の浅沼隆様から地元紙『岩手日日』さんが送られてきました。
 
浅沼さんは花巻郊外旧太田村にお住まいで、太田村時代の光太郎をご存じの方です。昨秋、NHKさんで放映された「日曜美術館」で、その頃の思い出を語られました。現在は農業のかたわら、花巻の財団法人高村記念会理事として、現地での光太郎顕彰活動に取り組まれています。
 
送っていただいた『岩手日日』さんの記事のうち、先月6日の記事がこちらです。
 
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光太郎の業績伝えて 高村記念会 市へ美術品5点寄付

 財団法人高村記念会(佐藤進会長)は5日、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作した美術品5点(評価額6400万円相当)と記念館整備資金として500万円を花巻市に寄付し、同市太田の高村光太郎記念館で後世に伝えていくよう願った。
 
 寄贈された美術品は▽十和田湖畔裸婦像原型▽光雲還暦記念像(光雲の首)▽少年の首(薄命児頭部)▽裸婦坐像▽手。
 同記念会の佐藤会長、宮澤啓祐理事ら関係者が市役所を訪問、父親の故隆房さんが光太郎と親交のあった佐藤会長は「高村先生のことを忘れてもらいたくない。市から支援を頂いて後世に残したい」と語り、美術品と寄付金の目録を受け取った大石満雄市長は「本物の作品が花巻にあるのはすごいこと。後世に残すため十二分に対応していきたい」と応じた。
 東京出身の光太郎は、宮澤賢治との縁で花巻に疎開し7年間暮らした。
 市は、同市太田の旧花巻歴史民俗資料館を活用し、同記念会が設置・運営して老朽化していた高村記念館の収蔵資料を全て移す計画で「高村記念館」を整備している。光太郎の生誕130年に当たる2013年度は、5月15日の高村祭に合わせてプレオープンした。
 新しい記念館では、今回寄贈された美術品5点を含む光太郎の彫刻、書画、文芸、愛用品などを展示している。光太郎の顕彰施設としては国内唯一で、市賢治まちづくり課によると入館者数は着実に伸びているという。
 14年度も施設や周辺環境の全体整備を継続し、光太郎の疎開70年目に当たる15年度の本格オープンを目指している。

というわけで、昨春仮オープンした高村光太郎記念館で展示されている光太郎ブロンズ彫刻のうち、5点が財団法人高村記念会から花巻市に寄贈され、所有権が移ったという記事です。
 
彫刻の名前が、多少誤解を招きそうなので補足しますが、「十和田湖畔裸婦像原型」とあるのは「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」が正しい名称で、七尺の十和田の裸婦群像の2分の1スケールで作られた試作です。
 
「光雲還暦記念像(光雲の首)」とあるのは、「光雲の首」を正しい名称としています。明治44年に作られた「光雲還暦記念像」そのものは空襲で焼け、現存しませんが、こちらはそのための試作として作られたと推定されているものです。石膏のまま高村家の蔵から見つかり、昨秋亡くなった人間国宝の鋳金家・斎藤明氏がブロンズに鋳造しました。
 
ところで記事にもあるとおり、今後も花巻の記念館の整備が続きます。当方、そちらにも関わっております。
 
それからやはり記事にあった高村記念会の創設者・佐藤隆房に関する企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」が、現在、花巻市博物館で開催中です。当方、来週、観行く予定です。
 
花巻の今後にご注目下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月5日

大正4年(1915)の今日、北原白秋に宛てて年賀状を書きました。
 
麻布区坂下町十三 北原白秋様
 
賀正 大正四年一月五日 駒込林町二十五 高村光太郎 <いつも貴重な雑誌を頂いて居りましてありがたく存じます。>
 
当方、今年もたくさんの年賀状を頂いております。ありがとうございます。

今月26日、岩手の地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

入館者1万2000人超 高村光太郎記念館

 花巻市は、同市太田に今春仮オープンした高村光太郎記念館の入館状況を11月末現在でまとめた。総入館者数は1万2000人を超え、財団法人高村記念会(佐藤進会長)が運営していた旧記念館の2012年度実績を上回る状況。通年開館となり、この冬の入り込みが注目される。

 高村祭に合わせた5月15日の仮オープンより前の旧記念館分を一部含む4月以降の総入館者数は1万2558人。旧記念館の前年度実績(4月1日~12月15日)は1万1143人で、12月分を残して既に前年度の総数を上回っている。

 入館者の内訳は、一般が1万1112人、高校・学生が217人、小・中学生1229人。個人が9695人で全体の77・2%、団体が2863人(63団体)で同じく22・8%。一般は個人観光客、小・中学生は修学旅行などの団体客が8割強を占め、高校・学生は6対4で個人が多い。

 市賢治まちづくり課の高橋久雄課長は「個人客が目立つが、団体客も少しずつ入るようになった。まだ周知不足の面もあり、徐々に広がれば」と期待。さらに「通年開館で、これからの時期は光太郎が過ごした冬の厳しさの一端も感じ取ることができるはず」と話している。

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)は、宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、晩年を過ごした。同記念館は光太郎が独居自炊した小屋(高村山荘)奥の旧高村記念館が手狭で老朽化したため、山荘の手前にあった市の花巻歴史民俗資料館を活用した。

 彫刻作品や文芸、愛用品など約150点を展示し、光太郎の生誕130年に合わせて展示室のみで暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向け、併設の収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を14年度中に進める計画。
 
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記事にあるとおり、今春仮オープンした花巻の高村光太郎記念館ですが、入館者数の昨年実績を上回っているそうです。ただ、実は、対前年比がもう少し伸びていてもいいのかな、というのが正直な感想です。その分、こうして宣伝していただくことが人寄せになるかと思いますので、ありがたいことです。
 
以前は冬期閉鎖でしたが、今年から通年開館。これも記事にあるとおり、これから雪に覆われる時期で、隣接する高村山荘での光太郎の暮らしを偲ぶにはもってこいですね。当方も、来月、また訪れる予定です。みなさんもどうぞ。
 
『岩手日日』さん、前日には当方に関する記事も載せて下さいました。
 
年2回、4月2日の連翹忌と、10月5日のレモンの日に合わせ、当方が刊行している冊子『光太郎資料』。今年10月に出した第40集を紹介していただきました。
 
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当会名簿に載っている方と、光太郎智恵子に関連のありそうな機関に勝手に送りつけているものですが、『岩手日日』さんにも送っており、紹介して下さった次第です。過分なお褒めのお言葉をいただき、恐縮しております。
 
早速問い合わせも何件かあり、ネットとはまた違う「新聞」の力を実感しました。
 
当方が刊行した第37~40集、まだ若干の残部があります。また、来春刊行予定の第41集、現在、鋭意作成中です(そのために一昨日、国会図書館に調査に行って参りました)。必要な方、このブログのコメント欄等からご連絡下さい。送料のみでお頒けしております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月28日

昭和28年(1953)の今日、十和田湖畔の裸婦像建設委員会がその役目を終え、解散しました。
 
除幕がこの年10月でした。以前にも書きましたが、ちょうど60年です。

ブログ記事のカテゴリは東北岩手としていますが、東京日野でのイベント情報です。  ネット検索で見つけました。

賢治の教え子シリーズその7「クラムボン」 上映会

日 時 : 2013年12月13日(金) 10時~
会 場 : conomiya-cafe 東京都日野市 日野本町 4-22-7-2
問い合わせ:東京賢治シュタイナー学校(担当:竹内様)電話042-523-7112
 
立川にある、幼稚園から高校までの東京賢治シュタイナー学校さんの主催だと思われます。
 
同校にて1990年代に作成されたDVD「宮沢賢治の教え子インタビュー映画」(全8巻+別巻2+総集編1)というものがあります。
 
そのうちの第7巻「クラムボン」(90分)の上映が、上記、日野のカフェで行われる、ということでしょう。
 
さて、その内容なのですが、同校のサイトから抜粋します。

その7「クラムボン」

1999年 90 分
北上川に浮かぶ小舟に乗った宮沢先生と教え子の照井謹二郎さん。その川面にリンゴを落として遊ぶ先生。水面に広がる輪が光を受けて輝く。「きれいだー」と感動し何度もくり返す先生。照井さんは、よく先生に連れられて、山や川に行き、そんな姿を見ていました。その後、幼稚園の園長となった照井さんは、約50年間賢治の童話劇を子どもたちと共に取り組んでいくことになりました。また、浅沼政規さんは詩人高村光太郎や宮沢先生との出会いを語り、「雨ニモマケズ」の詩中の「ヒドリ」をめぐって語ってくれます。
 
故・照井謹二郎氏、故・浅沼政規氏、ともに花巻の方ですが、光太郎とも交流のあった方々です。
 
照井氏は、登久子夫人と共に昭和21年(1946)に子供達による劇団「花巻賢治子供の会」を結成、賢治童話を上演し続けました。そもそもの始まりは、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に独居していた光太郎を慰安する目的だったようですが、光太郎に激賞され、本格的に公演を行うようになったそうです。
 
浅沼氏は山荘近くの太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。
 
ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。今年10月に放映されたNHKの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」中の花巻ロケにご出演、生前の光太郎について語って下さいました。
 
そのお二人の出演されたDVDということで、興味深いものがあります。ただ、当方、日程が合わず行けません。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月3日

昭和23年(1958)の今日、花巻郊外太田村の山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格、開校式が行われ、詩「お祝いのことば」を朗読しました。
 
  お祝いのことば
 
あのかはいらしい分教場が急に育つて
たうとう山口にも小学校ができました。007
教室二つの分教場が大講堂にかはり、
別に新しい教室が三つもでき上りました。
部落の人々と開拓の人々が力を合せて
こんなに早く学校を建てました。
みんなが時間と資材と労力と、
もつと大きい熱情といふものを持ち寄つて
この夢の実現を果しました。
陽春四月の雪解ごろから
夏のあつい日盛りや秋のとり入れの忙がしい中を
汗水流して材木運びや地均しをした人達の群がりが
今ブルーゲルの画のやうに眼に浮びます。
損得を超越して成就を期した棟梁の人、
骨身を惜しまず仕事にいそしんだ大工さん左官屋さん、
みんな物を作り上げるといふ第一等の喜びを知つてゐる人のやうです。
あの製板の器械のうなり、
あの夜おそくまで私の小屋に聞えてきた槌の音、
まるできのふのやうになつかしく耳に残つてゐます。
山口小学校は名実ともに立派にでき上がりました。
西山の太田村山関といふ小さな人間集団が
これで世間並の教育機関を持つのです。
小学校の教育は大学の教育よりも大切です。
本当の人間の根源をつくるからです。
部落の人も開拓の人もそれをよく知つてゐると思ひます。
異常な熱意がこの西山の一寒村にたぎつてゐます。
狐やまむしの跳梁する山関部落が
世界の山関部落とならないとはいへません。
私は大きな夢をたのしみます。
かはいい山口小学校の生徒さん達の上に
私の夢は大きくのびて遊びます。
あめでたうございます。
一歩前進、
いよいよ山口小学校ができました。
 
上の画像はありし日の旧山口小学校校舎です。残念ながら昭和45年に廃校となり、さらに歴史民俗資料館として活用されていた校舎も老朽化のために取り壊されてしまいました。
 
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この写真は、昭和24年(1949)の今日、開校から1008周年の学芸会の日の一コマです。サンタクロースに扮する光太郎。この写真を見ると涙が出そうになります。どういう思いでこの寒村に7年も一人で暮らしていたのか……。
 
ちなみに後ろに写っている「山口小学校」の看板は光太郎の揮毫、その右の窓から顔を出している少年が、浅沼政規氏ご子息・隆氏だそうです。

女優の渡辺えりさんからお葉書をいただきました。新春コンサートのご案内です。
 
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渡辺さん、このブログで何度もご紹介させていただいておりますが、お父様が光太郎と交流があった方で、えりさんご自身、幼い頃からそのお父様の薫陶を受け、光太郎を敬愛なさっています。
 
先日、当方が花巻に行った折、えりさんがご両親と一緒に花巻にいらしたと聞きました。お父様、しばらく入院なさっていたとのことですが、めでたくご退院ということで、十和田から花巻と、光太郎ゆかりの地をご両親と旅されたそうです。花巻高村記念会高橋氏曰く、お父様も実にお元気だったとのこと。
 
以下、えりさんのブログにリンクします。
 
 
その後もえりさん、名古屋の高校で講演をなさったそうで、その中で光太郎にも触れられたそうです。ありがとうございます。
 
そしてご案内をいただいたコンサート。もしかしたらMCで光太郎がらみのお話があるかも知れません。
 
もうお一人、光太郎の詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン歌手、モンデンモモさん。「モモの智恵子抄2013秋」ということで、二本松、福島市、そして原宿でコンサートをなさいました。
 
当方、このところ地方出張が多く(また明日から愛知です)、日程が合わずに参上できませんでしたが、成功裏に終わったようで何よりでした。
 
以下、モモさんブログから。
 
 
ちなみにモモさんのピアノ伴奏を務めていらっしゃるピアニストの砂原嘉博さん、以前に渡辺えりさんのピアノ伴奏もなさったことがあるそうで、世間は狭いものだと思いました。
 
お仲間の皆さんがそれぞれに活躍なさっています。こちらも頑張らねば、と決意を新たにいたしました。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月21日

昭和28年(1953)の今日、『昭和文学全集008 第二十二巻 高村光太郎集 萩原朔太郎集』の印税として、角川書店から1,570,205円の小切手を受け取りました。
 
現在でも150万円といえば大金ですね。ましてや昭和20年代の150万円というと、現在の価値に換算したらどのくらいになるのでしょうか。
 
実は晩年の光太郎、この手の収入がかなりありました。しかし生活は質素。そこも光太郎の偉いところだと思います。
 
ちなみにこの書籍の月報には前年、十和田湖上で撮った光太郎スナップが載っています。いい写真です。

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花巻郊外の高村光太郎記念館で購入したグッズの数々です。クリアフォルダ、ポストカードなどは以前からありましたが、一筆箋、レターセット的なものがごっそり増えており、思わずたくさん買ってしまいました。それ以外にも、タオル、日本手ぬぐい、コースターなどなどいろいろ増えています。
 
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花巻市役所近くにある「やぶ屋」さん。稗貫農学校に勤務していた頃の宮澤賢治が通い、光太郎も行ったことがある店です。賢治は天ぷらそばとサイダーを注文することが多かったとか。ショーウィンドウには、賢治をあしらった三ツ矢サイダーの看板が出ていました。
 
なぜか店内レジのそばに光太郎の「初夢まりつきうた」の詩稿(コピー)が額に入って飾られていました。「初夢まりつきうた」は昭和26年、『花巻新報』に発表された詩で、花巻商人をモチーフにしています。のちに作曲され、SPレコードにもなり、数年前にそのレコードが花巻市内で見つかったことがニュースになりました。
 
なぜその詩稿のコピーがここにあるのか、お店の方に伺おうと思ったのですが、当方が行ったのはちょうど昼の混雑時でお店の方も忙しそう。迷惑かなと思い、出直すことにしました。まだすいているであろう時間帯に夕食を早目に食べに来て、お尋ねするつもりでした。しかし、夕方来てみると、「本日都合により午後3時まで」の貼り紙。また一つ宿題が増えました(笑)。
 
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「花巻市博物館だより」です。先日のブログでご紹介した企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」の記事が2ページ載っています。㈶高村記念会さんでいただいてきました。2ページ目のスナップは佐藤隆房夫妻と光太郎です。
 
高村記念会さんといえば、テレビ朝日さんから協力要請があったそうで、その情報をゲットしました。明後日11/15、テレビ朝日系の夕方の情報番組「スーパーJチャンネル」の中で、「誰も知らない紅葉巡り、都電で見つけた小さな秋」という15分のコーナーが放映されるそうです。ただ、その部分は全国放映ではなく、首都圏ローカル枠のように思われます。
 
都電荒川線沿線の「誰も知らない紅葉スポット」ということで、椿山荘近くの水神社、雑司ヶ谷鬼子母神、王子飛鳥山、そして光太郎はじめ高村家の人々も眠る駒込染井霊園が紹介されるそうです。染井霊園の部分で、高村家の墓所、そして高村記念会さんの提供により光太郎の肖像写真が写るとのこと。首都圏の方、ご覧下さい。
 
そして昨日は岩手町での光太郎直筆の看板探訪。現物は見られませんでしたが、所在は確認できました。「佐藤隆房展」とあわせ、また近々行くしかないな、と思っています。 

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おまけ。昨日、盛岡駅で買った駅弁です。ウニが食べたくてこの弁当にしたのですが、偶然にも箸袋の文字と絵は、『白樺』で光太郎と交流のあった武者小路実篤。驚きました。他の方のブログによると、系列のホテルに武者が泊まった時に残した書画を使っているとのことです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月13日

昭和50年(1975)の今日、東大地震研究所が創立50周年記念に光太郎木彫「鯰」のレプリカをあしらったペーパーウェイトを作成、関係者に配布しました。
 
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地震といえば鯰ですが、東大さんもなかなか洒落っ気が利いていますね。意外と重宝しています。

昨日は夕方まで花巻市役所がらみの仕事だったもので、花巻駅前の商人宿に一泊、今日は盛岡のさらに北、岩手郡岩手町というところに行って参りました。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
この年の日記は筑摩書房『高村光太郎全集』第13巻に載っており、北川太一先生が書かれた巻末の解題の部分では「川口村は現在の岩手郡岩手町。この看板は現存するという。」とあります。ただ、それ以上具体的なことは不明で、当方、未だこの看板の現物を見ていません。おそらく北川先も伝聞で書かれたのでしょう。
 
少し前に、ネットでこの看板に関しての記述も見つけました。数年前に書かれたもので、岩手町のいわて沼宮内駅の駅ビル内に郷土資料館があり、そこに展示されているとのこと。
 
そこで、花巻に行ったついでに見てこようと思い、行ってきたわけです。
 
さて、いわて沼宮内駅に着き、駅ビル内のネットに書かれていた場所に行ってみました。しかし、郷土資料館なる施設はありません。該当の場所は「会議室」になっていました。ただ、数年前の書き込みだったので、そういうこともあるだろう、と予想はしていました。その場合には聞き込み捜査をするつもりでいましたので、途中で目を付けていた観光案内所に行きました。すると、「町役場で訊けば分かるかも知れません」との答え。役場の場所を教えていただき、行ってみました。
 
役場では受付の女性職員の方があちこちに内線やら外線やらをかけて下さり、最終的に岩手町の川口公民館につないで下さいました。電話を替わって、これこれこういう物を探している旨を伝えると、の方からは「それならここにある」という答。なんのことはない、元の場所に戻っていたのです。
 
下手すると行方不明になっていたり、廃棄されていたりということもあり得るかな、と思っていたので(実際、他でそういう例があり、憤慨したことがあります)、安心しました。
 
ただ、今日は既に帰りの新幹線の切符を取っていて、川口公民館に廻る時間はありませんでした。また近々行って見てこようと思っています。
 
それにしても、岩手県内陸部は今日も小雪がち008らつき、岩手町では日陰にはかすかに積雪もありました。改めて東北の自然の厳しさを知った道中でした。
 
明日も岩手レポートを書かせていただきます。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月12日

昭和63年(1988)の今日、光太郎を敬愛し続けた詩人・草野心平が歿しました。
 
昭和32年(1957)、第一回連翹忌の発起人の一人として案内文を書いた心平。その後も自身が亡くなるまで光太郎顕彰に取り組み続けました。いわば当会の祖、当方の大先輩です。

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岩手花巻に来ています。

7月以来、久しぶりに郊外太田地区にある、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで暮らした高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館に行って参りました。

予想通りに紅葉がいい感じに色づいていました。

記念館で驚いたのは、グッズがかなり増えていたこと。帰ってから画像入りで紹介します。

市街地に戻って、昼食を宮沢賢治がよく行った「やぶ屋」という蕎麦屋で食べました。ここは光太郎も行ったことがある店です。賢治がよく注文したというてんぷらそばを食べました。なかなか美味でした。こちらについても帰ってからレポートします。

そのうち空模様が怪しくなって来たと思ったら、雨が降り出し、さらに夕方には雪に変わりました。積もるような勢いではありませんが、11月中旬にもう雪とは……。

明日は盛岡方面です。

【今日は何の日・光太郎】 11月11日

昭和31年(1956)の今日、TBS系テレビでドラマ「智恵子抄」が放映されました。
 
映画も含め「智恵子抄」初めての映像化でした。キャストは光太郎役が宮口精二さん、智恵子役で新珠三千代さんでした。

花巻市の東方、宮沢賢治記念館近くにある花巻市博物館で、来月から以下の企画展が開催されます。

共同企画展 ぐるっと花巻再発見! 佐藤隆房展―醫は心に存する― 

期 日 : 平成25年12月1日(日)~平成26年2月11日(火・祝)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松第26地割8-1
時 間 : 8:30~16:30
休館日 : 12月28日から1月1日まで
料 金 : 小、中学生 150(100)円 高、学生 250(200)円 一般 350(300)円
 
 花巻における近代病院の礎となった花巻共立病院。(現【公財】総合花巻病院)を創立し、花巻の先進医療化に寄与するとともに、町政・市政へ多大な貢献をされた佐藤隆房博士。
また、宮沢賢治、高村光太郎など花巻ゆかりの文人と広く親交を持ち、芸術・文化の世界にも深い理解と造詣を有した一面もありました。
今回の展覧会では、御子息の佐藤進氏、(公財)総合花巻病院の全面的な御協力のもと、医師としての活動、市政功労者としての活動、文化・芸術の理解者、庇護者としての活動、さらに乗馬や狩猟、俳句・絵画など趣味人としての活動等、佐藤隆房博士を多角的に顕彰・紹介していきます。(同館サイトより)
 
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佐藤隆房医師は、宮澤賢治の主治医。その関係で、昭和20年(1945)に空襲で東京のアトリエを失った光太郎を花巻に招くのに一役買いました。
 
花巻到着後にすぐ高熱を発して倒れた光太郎を看護したり、終戦直後の短期間、光太郎を自宅に住まわせたりもしています。その後も足かけ8年花巻及び郊外太田村で暮らした光太郎と深い交流を続けました。光太郎歿後は、花巻に財団法人高村記念会を立ち上げ、初代理事長を務めています。
 
この企画展では、おそらく光太郎関連の品々もいろいろ展示されると思われます。これから雪深い時期となりますが、雪の花巻も乙なもの。また、今年5月にリニューアルとなった花巻郊外の高村光太郎記念館も、かつては冬期間閉鎖でしたが、今年から通年開館となります。併せて足をお運び下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 11月8日

平成9年(1997)の今日、洋画家・難波田龍起が歿しました。
 
難波田は北海道旭川の生まれ。幼少時に父の仕事の都合で東京に移り、数え9歳の時に駒込林町の光太郎アトリエのすぐ裏に転居。十代の頃から詩を携えて光太郎アトリエに出入りしていました。その後、光太郎の勧めもあって洋画の道に進んでいます。往年は連翹忌にも参加していました。

岩手からイベント情報です。 

岩手大学ミュージアム10周年記念事業 大学収蔵美術展 ~教材としてのアートの魅力~

期間:2013年9月27日(金)~11月3日(日)
会場:岩手大学情報メディアセンター(図書館) 盛岡市上田3-18-8
入場無料
 
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岩手大学さんの美術・デザインコース(特設美術科)で教材として提示するために収集された美術品を一般公開するというものです。
 
光太郎の代表作「手」も含まれているとのこと。
 
以前にも書きましたが、ブロンズの作品は同じ型から鋳造したりということで、複数存在するものがあり、「手」も全国に10点以上あるのではないかと思われます。
 
他にサモトラケのニケや萬鐵五郎の作品なども展示されているようです。
 
同大の特設美術科は、光太郎と交流のあった盛岡出身の画家・深沢紅子、美術史家の森口多里(水沢町出身)らが昭和22年(1947)に開いた岩手美術研究所を母体としているそうで、のちに岩手美術工芸学校、そして岩手大学特設美術科へと発展していったとのこと。
 
光太郎は花巻時代に美術工芸学校で講演を行ったり、卒業式などには祝電を送ったりしています。当方、この頃森口に送った葉書を5通所蔵しています。
 
というわけで、光太郎と縁浅からぬ岩手大学さんで、光太郎の作品も展示されているイベント。お近くの方はぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月4日

昭和28年(1953)の今日、後楽園に「ホリデイ・オン・アイス」を観に行きましたが、満員で入れませんでした。
 
「ホリデイ・オン・アイス」といえば、アメリカのフィギュアスケーターによるアイスショーで、当方が子供の頃(昭和40年代)、テレビのCMもやっていた記憶があります。昭和20年代にすでに日本公演があったというのは驚きでした。
 
光太郎、この後しかたなく草野心平が経営していた居酒屋「火の車」に出かけています(笑)。

昨日、NHKさんの連続テレビ小説「あまちゃん」がとうとう最終回を迎えました。
 
震災の被災地が舞台ということで、当方、被災地の方々といろいろ付き合いがあるため、4月の放映開始から毎日観ていました。
 
三陸といえば光太郎とも縁の深い土地柄です。昭和6年(1931)、『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、三陸沿岸に約1ヶ月の旅をしています。ただ、物語の舞台「北三陸市」のモデルとなった久慈市までは足をのばさず、少し南の宮古までだったようですが。ちなみにBGMとして、岩手出身の宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりのうた」が使われてもいました。
 
もう一つ、「あまちゃん」を見始めた理由として、渡辺えりさんが出演されていたこともあります。
 
以前にも書きましたが、渡辺さんは、お父様が光太郎と直接交流があり、その関係でご自身も光太郎を敬愛、光太郎を主人公とした演劇「月にぬれた手」を作られました。
「月にぬれた手」「天使猫」レポート。
 
連翹忌にもご参加いただき、さらに今年は5月15日の花巻光太郎祭、更に翌日には花巻市文化会館で光太郎に関する講演をなさいました。


 
渡辺さん演じる天衣無縫な海女の弥生さん、渡辺さんご自身は「わけの分からないキャラクター」だとおっしゃっていましたが、毎回笑わせて下さいました。
 
ところで、「あまちゃん」のキャストには、他にもかつて光太郎智恵子がらみの演劇、映画、ドラマなどに出演された方がたくさん名を連ねていました。
 
やはり海女の長内かつ枝役の木野花さん。渡辺さんの書かれた「月にぬれた手」に、光太郎の暮らす花巻郊外太田村山口の農婦役でご出演。
 
光太郎に投げつける「戦争中にこいづが書いた詩のせいでよ、その詩ば真に受げて、私の息子二人とも戦死だ。」「おめえがよ、そんなにえらい芸術家の先生なんだらよ。なしてあんだな戦争ば止めながった? なしてあおるだげあおってよ。自分は生ぎでで、私の息子だけ死ねばなんねんだ。」という台詞、重たいものがありました。
 
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画像は「月にぬれた手」のパンフレット。サインは直筆です。
 
木野さんといえば、当方が「月にぬれた手」の公演を観に行った日、舞台がはねた後、高円寺の駅でお見かけしました。女優さんというとタクシーで移動というイメージでしたが、普通に電車に乗って帰られるところでした。かえってそういうところに好感が持てました。
 
同じく海女の熊谷美寿々役・美保純さん。
 
光太郎詩「樹下の二人」の朗読が入っていた映画「春色のスープ」(平成20年=2008)に、盲学校で朗読のボランティアをしている女性の役でご出演。

 
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漁業組合長で木野花さんのご主人・長内六郎役のでんでんさん、商工会長で渡辺えりさんのご主人・今野あつし役の菅原大吉さんは、「智恵子抄」オマージュの要素もあった反原発映画「希望の国」(平成24年=2012)でも共演されていました。
 
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でんでんさんは、故・夏八木勲さん演じる主人公の隣人で、原発事故の直後に半ば強制的に待避させられる役。菅原さんは頑固に自宅にとどまる主人公に待避を勧める役場職員の役でした。
 
ちなみに菅原さんは、平成18年(2006)にオンエアされたフジテレビ金曜プレステージ「浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件~福島‐島根、高村光太郎が繋ぐ殺人ルート!智恵子抄に魅せられた男が想いを託した首の女の謎」で、中村俊介さん演じる主人公・浅見光彦とともに事件解決に当たる橋田刑事の役もなさっています。
 
浅見光彦といえば、平成21年(2009)・TBSの沢村一樹さん主演のシリーズ「浅見光彦~最終章~」の「最終話 草津・軽井沢編」(『首の女殺人事件』)で、光彦の幼馴染みという設定の宮田治夫(内田康夫氏の原作とはかなり設定が違います)役を、北三陸市観光協会長役の吹越満さんが演じていました。

 
探せば他にもいらっしゃるかもしれませんんが、思いつくのは以上です。
 
それにしても「あまちゃん」。パ・リーグ楽天同様、東北をだいぶ元気づけてくれたと思います。終盤の震災後の描写は、当方も訪れた石巻や女川などの様子とダブって見えました。肩肘張らず「復興」への歩みを描いた手法には感心しました。
 
ところで、世間では少し前から「あまロス症候群」なる語がささやかれています。「あまちゃん」放映終了後に訪れるであろう虚脱感、ということですね。放映終了前からそうなるのが怖い、という声がネットを賑わせていました。当方もそうなりそうです(笑)
 
スタッフ、キャストの皆さん、お疲れ様でした。そして感動をありがとうございました。
 
12/2追記
同じNHKさんの「八重の桜」について同じようなことを書いていて気づきました。
 
ミズタクこと能年玲奈さん演じる天野アキのマネージャー・水口琢磨役の松田龍平さんが、平成22年(2010)にユニクロのCM「何処もかもだ」篇に、黒木メイサさんとご出演。これは光太郎詩「冬の詩」を使っていて、かなりインパクトのあるものだったので、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。
 
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【今日は何の日・光太郎】 9月29日

明治43年(1910)の今日、神田淡路町に光太郎が開いた日本初といわれる画廊・琅玕洞で開催されていた洋画家・斎藤与里の個展が閉幕しました。

女川光太郎祭でご一緒させていただいたギタリスト・宮川菊佳氏からCDを2枚いただきました。
 
どちらも「花巻夜曲/花巻ブルース」。1枚は大地穂(おおちすい)さんの歌、もう一枚は今福充さんの歌です。
 
作曲が宮川氏ということで、宮川氏が自主製作なさったようです。ともに定価1,500円とパッケージにありました。
 
作詞は高橋雅郎氏。光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に暮らしていた頃の太田村長です。平成5年(1993)頃に作られたようです。
 

 花巻夜曲001
 
花巻くまちの 中原に  北上川の 流れあり
岸辺はるかに うずをまく  ぬれているよな あのひとみ
 
いで湯のまちに 湯げかおり  恋の花咲く 花の里
河鹿の声に 夢破れ  去りしあの人 今いずこ
 
賢治を生んだ 花巻に  詩人光太郎 山に入り
智恵子の愛を 詩にうたう  文化の里が よみがえる
 
  
 花巻ブルース000
 
詩(うた)のふるさと 花巻に  幼馴染のあの女(ひと)と
北上川辺の 道行けば  恋のさくらが 胸に咲く
 
詩(うた)のふるさと 花巻の  思い出おおい あの女(ひと)と
花城(かじょう)の跡を  訪ね見る  愛のたんぽぽ 足に咲く
 
詩(うた)のふるさと 花巻に  別れがつらい あの女(ひと)と
湯の街並木を 送りゆく  涙こぼれる 星の夜
 
お求めは宮川氏まで。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月16日

大正3年(1914)の今日、光雲の東京大正博覧会の出品鑑査員・審査官としての任務に対し、金85円が支給されました。

一昨日の千葉市美術館での講演会においで下さった宮城在住の朗読家・荒井真澄様から花巻のお土産をいただきました。先日、花巻に行かれたそうで、現地で手に入れられたものをお持ち下さいました。ありがたいことです。
 
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『花日和』夏号(2013/6)。花巻で発行されているタウン誌のようなものです。
 
この中に「シリーズ先人紀行 高村光太郎」3ページ掲載されています。
 
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5月に仮リニューアルオープンした高村光太郎記念館の紹介も。新聞を除き、きちんとした印刷物で紹介された先駆けではないかと思われます。
 
調べてみましたところ、花巻市役所のサイト内で紹介がありました。PDFで全文が読めます。ぜひご覧下さい。
 
光太郎以外にも宮澤賢治についても記述があります。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月9日

明治40年(1907)の今日、留学先のロンドンで、カーライル博物館を訪れました。
 
スコットランド出身の歴史家・評論家トーマス・カーライルの旧宅を一般公開していたもので、かの夏目漱石もイギリス留学中にここを訪れ、帰国後の明治38年(1905)に「カーライル博物館」という紀行文を発表しています。

岩手から入ったニュースです。 

詩人三田循司に光 詩歌文学館

 小説家の太宰治らと親交があった花巻市出身の詩人三田循司の書簡やノートなどの遺品が3日、親族から北上市本石町の日本現代詩歌文学館に寄贈された。同館は若くしての戦死が惜しまれた岩手の詩人の作品に光を当て、太宰をはじめとする文人との交友を物語る資料として保管し、研究に役立てる。

 三田は1917年生まれで、東京帝国大文学部に進学。友人の戸石泰一らと同人誌「芥」を創刊して詩を発表し、太宰を訪ねるようになる。太宰の紹介で評論家で詩作も著した山岸外史に師事。学徒動員で同大を繰り上げ卒業して出征し、1943年に戦死した。太宰には三田の記憶と死をつづった短編「散華」がある。

 寄贈したのは奥州市水沢区の佐々木比子さん(55)で、資料は段ボール箱2箱分のノートやはがきなど。佐々木さんの母で三田の妹綾子さん(85)が保管し、太宰生誕100年の2009年に同館で特別公開された物も含む。綾子さんが高齢になったことから、保存のために同館を頼った。

 三田は大卒後すぐに出征したために作品が少なく、ノートなどは貴重。三田の詩を評した太宰からのはがきには「文学でも人間でも『素朴な感動』を忘れてはいけません」という激励の言葉があり、太宰の側面の一つの前向きな人間性が感じられる。また「散華」の中でも触れられている三田の遺稿集出版の打ち合わせについて書かれたはがきもある。

 このほか三田の弟悊の遺品の一部も提供。花巻市とゆかりの深い詩人で彫刻家の高村光太郎や宮沢賢治の弟・清六さんからのはがきもあり、文人とのつながりの数々を示す。

 同館では09年の特別展示の際に一度資料の目録を作成しており、再度本格的に整理しての展示を計画している。佐々木さんは「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」と依頼。同館の豊泉豪上席主任学芸員は「三田は『散華』の主人公とも言え、本名で登場している。調べていけばこれまで知られていなかった側面も発見されるだろう」と話し、寄贈に感謝していた。
 
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三田循司・悊(せい)兄弟の遺品で、太宰や光太郎などに関するものが、北上市の日本現代詩歌文学館に寄贈された、という内容です。
 
一連の資料は平成21年(2009)に見つかり、地元では大きく報道され、日本現代詩歌文学館や盛岡市の啄木賢治青春館で公開されました。
 
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上記画像はその時の『岩手日報』さんの記事です。当方のコメントも載っています。
 
というわけで、新発見ではないのですが、一括して寄贈されたというところにニュースバリューがあります。これは考えてみれば、大変なことです。売れば売ったでかなりの金額になるものですから。特に太宰の書簡ということになると、その市場価格は光太郎のそれの比ではありません。太宰は短命だったため、残っている絶対数が少ないので。こういったものがわけのわからない偏狭なコレクターの手に入り、死蔵されてしまうともうそれっきりです。そうではなく、日本国民共有の文化遺産、という考え方にたどり着いてほしいものです。
 
そういうことを考えると、「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」というご遺族のコメントには本当に頭が下がります。
 
先週、花巻に行って、宮沢賢治の妹の婚家から出てきた光太郎書簡について調査して参りました。こちらも花巻の記念会に寄贈されたものです。これもすばらしいことです。
 
花巻の記念会では、こうした寄贈に頼るのではなく、かなり市場に出たものの購入も進めています。特に光太郎花巻時代の草稿など。ところが狙ったものが抽選やら先着順やらで手に入らないケースも多いとのこと。
 
あるべき場所にあるべきものがある、という状態が望ましいとつくづく思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月5日

昭和15年(1940)の今日、河出書房から『芸術論第二巻 芸術方法論』が刊行されました。光太郎の評論「素材と造型」が収められています。
 
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先ほど、2泊3日の行程を終え、花巻から帰って参りました。
 
昨日は、旧太田村の高村山荘近くにある旧高村記念館にこもり、まる1日、寄贈された図書等の分類整理を行いました。
 
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旧記念館の看板 草野心平筆です。
 
山荘近くにお住まいの方の蔵書だったもので、その方が脳溢血で倒れ、蔵書が花巻の記念会に寄贈されたのですが、かなり膨大な量で、リストもなく、入手経路等もほとんど不明のものです。
 
先月、新たな記念館のオープンの際に行ったときにも少しその作業をやったのですが、今回は完全に分類整理し、リストを作成するつもりで行きました。
 
調べてみると、かなり貴重なものも含まれていました。
 
まず光太郎から島崎藤村の三男、蓊助(おうすけ)にあてた葉書が4通。既に『高村光太郎全集』に収録されているものですが、貴重なものです。
 
さらに光太郎の識語署名入りの著書が2冊。これも珍しいもの。このあたりは新しい記念館に展示されてもおかしくないものです。
 
その他、光太郎の蔵書だったもの。光太郎宛の献呈署名が入っている書籍がけっこうありました。中には『念ずれば花ひらく』で有名な仏教詩人・坂村真民からのものもありました。
 
また、昭和20年から27年にかけての雑誌が山のようにあり、どうも光太郎の元に送られてきたものだと思われます。光太郎の山小屋にはこういう若い詩人の著書や雑誌類がたくさん送られていて、光太郎は、特に手元に残す必要がないと思ったものは村の人々にあげてしまったりしていました。
 
そういったもののの分類は終わり、リストまで作成し終わるつもりでいましたが、時間が足りませんでした。最後の頃は頭もクラクラしてきましたし。あと半日あれば終わっていたのですが、結局途中で断念、また近いうちに行って最後の仕上げをします。この書籍類、いずれは新しい記念館で何らかの形で活用されるとのことです。
 
ちなみに頭のクラクラ、かなりひどかったのですが、花巻の記念会の方に車で宿(大沢温泉)に送っていただき、ゆっくり温泉につかったら治りました。大沢温泉、すばらしい(笑)。
 
新しい記念館、といえば、先月の仮オープン以来、閑古鳥が鳴いていないかなどと心配していましたが、あにはからんや、けっこう団体のお客さんがお見えだそうです。実際、昨日もこちらの昼食休憩の時に大型バスが一台。なんと智恵子のふるさと・福島安達の農業関係の団体様でした。ありがたいことです。
 
さらに新しい記念館、といえば、ホームページがリニューアルされました。ご覧下さい
 
ご覧下さい、といえば、いよいよ明日から千葉市美術館において企画展「彫刻家高村光太郎展」が始まります。こちらもぜひご覧下さい。当方、明日は午後から観に行き、夕方から館主催のオープニングレセプションに出席いたします。
 
花巻から帰ってきましたところ、図録が届いていました。担当学芸員さん曰く「自分の葬儀の時には今回のポスターと図録を棺に入れてほしいほどの出来」。たしかに実に立派なものです。こちらもぜひお買い求め下さい。
 

【今日は何の日・光太郎】 6月28日000

昭和20年(1945)の今日、花巻市桜町に建っていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑を初めて訪れました。
 
碑文はかつて昭和11年(1936)に、花巻の関係者からの依頼で光太郎が「雨ニモマケズ」の後半を書いたもの。後に昭和21年(1946)には、碑文に誤りがあるのを知った光太郎が碑面に訂正を書き込み、石屋さんがその場で刻むというちょっと変わった訂正がされました。
 
ところで「雨ニモマケズ」の一節で、一般に「ヒリノトキハナミダヲナガシ」とされている部分、元々賢治が手帳に書いた段階では「ヒリノトキハ」でした。
 
それが現在、一般には「ヒリ」と改変されています。そのことに是非についてはここでは論じませんが、時折、「光太郎がその改変をした」という記述を見かけます。
 
光太郎の名誉のためにこれだけは書いておきますが、それは誤りです。確かにこの碑でも「ヒリ」となっていますが、それは花巻の関係者から送られた原稿の通りに光太郎が書いただけで、光太郎はこの改変には一切関わっていませんのでよろしくおねがいします。

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昨日から花巻に来ています。

昨日はまず花巻病院内にある財団法人高村記念会さんにお邪魔しました。

花巻病院と言えば、宮澤賢治の主治医だった佐藤隆房医師が院長でした。佐藤医師は宮澤家ともども戦災で焼け出された光太郎の花巻疎開に関わり、さらに宮澤家が空襲に遭った後は、自宅の一室を光太郎に提供したりもしました。

光太郎が郊外の太田村に移ってからも何くれとなく世話をしたり、光太郎没後には財団法人高村記念会を立ち上げ、花巻での顕彰活動を推進したりしました。

そうした経緯で病院内に高村記念会の事務局があるのです。ちなみに事務局の外にある花壇は宮澤賢治の設計によるものです。

さて、事務局で最近花巻で新たに出てきた光太郎書簡を見せていただき、その後寄贈してくださったお宅のご婦人のもとに行き、お話を伺いました。

昭和21年(1946)のもので、原稿用紙二枚。封筒も残っていました。宛先は宮澤賢治の妹の婚家です。『高村光太郎全集』第12巻に収録されている光太郎日記と内容が一致し、貴重なものです。

来春刊行予定の『高村光太郎研究』内の当方の連載、「光太郎遺珠」にて詳細を公表します。

その後、駅近くの 西公園へ。光太郎が講演を行ったこともある旧花巻町役場が移築されていたり、光太郎も利用した花巻電鉄の車両「デハ3」が静態保存されたりしており、興味深く拝見しました。
今日はこれから高村山荘方面に行き、寄贈された資料の整理、リスト作成です。

【今日は何の日・光太郎】 6月27日

昭和22年(1947)の今日、確定申告の書類を記入しました。

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