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いただきもの2点です。双方、昨日届きました。ありがたいかぎりです。

『平成25年度 盛岡てがみ館 館報』

2014年8月1日  編集発行(公財)盛岡市文化振興事業団  盛岡てがみ館
 
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毎年、送って下さっています。恐縮です。
 
今年2月から6月にかけて開催された第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」の報告も掲載されています。出品物や光太郎の画像も載っており、資料としてありがたいものです。
 

『永瀬清子研究年報 第9号』

2014年2月17日
編集発行 岡山県赤磐市教育委員会熊山分室 赤磐市永瀬清子の里づくり推進委員会事務局
 
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光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子に関する資料集です。こちらも毎年送って下さっています。
 
地元での顕彰活動の記録や、各種出版物その他で永瀬清子が紹介されたものの一覧が載っており、このブログで永瀬清子を紹介した日の記事もくまなく載せて下さっています。恐縮です。

 
ご入用の方、それぞれ上記発行元団体に直接お申し込み下さい。上記にリンクを貼ってあります。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月20日
 
昭和16年(1941)の今日、道統社から評論集『美について』が刊行されました。
 
昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太001郎】で、やはり昭和16年(1941)の今日、詩集『智恵子抄』の刊行を紹介しました。
 
全く同じ日付で、評論集『美について』と詩集『智恵子抄』が刊行されたというわけです。
 
『美について』は戦後になって筑摩選書版、角川文庫版も出版されましたが、内容は同一ではありません。それを言うと、『智恵子抄』もそうですが……。
 
 
当方、本日、先頃亡くなった高村規氏の葬儀に行って参ります。

光太郎に関わる(関わるかも知れない)テレビ放映がぽつぽつあります。 

とことん歴史紀行2時間スペシャル「宮沢賢治~イーハトーブに見た夢~岩手・花巻」

BS11 2014年8月8日(金)  19時00分~21時00分
 
「銀河鉄道の夜」「雨ニモマケズ」「000グスコーブドリの伝記」など数々の名作を遺した宮沢賢治。彼の作品は今なお多くの日本人の心を掴んで離さない。今回は宮沢賢治が理想郷・イーハトーブとして描き、こよなく愛した岩手県花巻市を中心にゆかりの地を訪ねながら、宮沢賢治の素顔と知られざるエピソードに迫ります。さらにに「銀河鉄道の夜」に影響を受けたという漫画家・松本零士さん。宮沢賢治への想いを熱く語ります。番組では林風舎、宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、大沢温泉、羅須地人協会、石と賢治のミュージアムや賢治が通ったそば屋・やぶ屋、小岩井農場なども訪れます。また「銀河鉄道の夜」をイメージした客車の"SL銀河"の勇壮な走りもお楽しみください。
 
ナレーション:石丸謙二郎
 
 
光太郎も 愛した大沢温泉が扱われます。さらに光太郎揮毫の「雨ニモマケズ」詩碑などが紹介されれば、と思います。
 

<ドラマ名作選>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ・181 2014年8月9日(土)003  12時00分~13時55分
 
福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる !!
 
出演 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
 
もともとは平成18年(2006)2月24日に金曜プレステージの枠で、地上波フジテレビさんが放映した2時間ドラマの再放送です。BSフジさんで、たびたび再放送しています。今はもう使われていない、花巻の古い高村記念館でロケが行われました。
 
原作は内田康夫さん。昭和61年(1986)に刊行された浅見光彦シリーズの第10作です。
 
こちらのドラマはかなり原作に忠実に作られています。 

にほんごであそぼ

NHKEテレ 2014年8月11日(月)  6時35分~6時45分 再放送 17時15分~17時25分
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたいコミュニケーション能力や自己表現する感性を育てる番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、痩蛙まけるな一茶是に有(小林一茶)、歌舞伎/「ドンタッポ」、はい!ここで名文/僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる「道程」高村光太郎、うた/マーチング・マーチ、やまなし。
 
出演 中村勘九郎,中村いてう,中村仲助,小錦八十吉,おおたか静流 ほか
 
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「はい! ここで名文」のコーナーで、「道程」が扱われます。このコーナーは、
 
ヨシタケシンスケさんのほんわかイラストと、名文が出会ったら、こんな楽しい世界になりました。日常生活のさりげないひとコマにどんな名文が出てくるのでしょう。みなさんも当ててみてくださいね。
 
だそうです。004
 
 
それぞれ、ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月5日
 
平成2年(1990)の今日、群馬県草津温泉に、光太郎詩「草津」の詩碑が除幕されました。
 
温泉街から少し離れた囲山公園に建てられたこの碑は、推敲の跡が激しく残る光太郎自筆原稿をもとに、鋳金家の西大由がステンレスパネルを制作、自然石に嵌め込んだものです。
 
当方、初めてここに行った時は真冬で、こんな感じでした。
 
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昨日に引き続き、女川ネタです。東京は芝の旅行会社・キッズワールドさんのパッケージツアーのご紹介です。 

宮城県女川町 復興視察ツアー 出かけよう東北へ!

世界遺産や歴史的名所、自然が育んだ多彩な山海の幸。
自然に恵まれ緑も海も豊かな東北は、これからが旅行のベストシーズンです。
今こそ行きたい魅力溢れる東北。
見て・食べて・泊まって・感じて、そして今を知ることが復興支援につながります。
今回は宮城県・岩手県のおすすめ観光スポットと、宮城県女川町の復興視察ツアーをご紹介!
 
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視察ツアースケジュール 仙台駅発着 / 専用バス / 日帰り / 仙台駅からの添乗員付
10:00 仙台駅発 ※1
12:00 昼食 約50分 女川温泉 華夕美(海鮮) 
12:50 女川町内視察(車窓)約30分 語り部ガイドによる震災当時や復興の様子、被災地に今必要なことなどについてのお話を伺います。 
13:25 復興まちづくり情報交流館 約40分 町の復興の様子を映像やパネルを用いて説明していただきます。
14:15 マスカー水産加工品冷凍冷蔵庫 約30分 水産加工冷凍冷蔵施設、津波を受け流す建物構造を見学します。また、マイナス30度の冷凍庫の中も体験できます。※女川魚市場休市の場合はマリンパル女川へご案内します。 
14:55 きぼうのかね商店街 約40分 震災後に設置された仮設の復興商店街にてお買い物。  
15:35 女川町発 
17:30 仙台駅到着、解散 ※2 
 
※1 ご希望に合わせ、JRや国内線の手配、仙台観光や宿泊手配も別途承ります
※2 当日の交通事情により、予定時間は変更になる場合があります
 

ツアー代金 仙台駅発着/5月~7月土曜日催行

15名様20名様25名様
小型バス1台お1人様あたり¥11,300
小型バス1台お1人様あたり¥9,400
中型バス1台お1人様あたり¥8,600
  • ※催行日程、曜日、人数に合わせて料金は変動いたします。まずはご希望をお聞かせください!
  • ※ツアー代金より500円を女川町へお渡しします。
    (うち200円は女川町の復興支援金として利用され、300円は訪れた皆様が現地のお買い物などにご利用いただける地域通貨としてお返し致します。)

女川町はこんな町

宮城県の東端、太平洋に突き出た牡鹿半島の基部に位置する女川町。
石巻市に隣接し、日本有数の漁港「女川漁港」をもつ海のきれいな港町です。
中でも秋の味覚「秋刀魚」の水揚げ量は、全国でもトップクラスの業績を誇ります。

2011.3.11 東日本大震災、そして・・・

東日本大震災の発生。海に広く面している女川町は、津波によって壊滅的な被害を受け、10名にひとりという多くの町民が犠牲になりました。
震災から3年経った現在、町の復興計画は着々と歩みを進め、大型重機による造成工事が行われています。

今しか見ることのできないこのまちづくりを、次の大災害への備えに繋げてほしいと願う女川町の方々が、今回このツアーに協力してくださいました!
 


というわけで、15名以上の団体様で申し込みというツアーのようです。
 
職場や町内会などなど、こうした旅行の幹事をなさっている方、いかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月25日
 
昭和25年(1950)の今日、帝国劇場で藤間節子舞踊リサイタルが開催され、「智恵子抄」第二集(「風にのる智恵子」「昇華」)が発表されました。
 
光太郎はパンフレットにエッセイ「再び村にて」を寄せています。

過日のブログでご紹介した光太郎書簡に関する続報が、『朝日新聞』さんの岩手版に出ました。

光太郎の手紙寄贈 神奈川の縁者

 詩人で彫刻家の故高村光太郎の手紙を所有する神奈川県在住の進(しん)慶子さん(66)が4日、花巻市太田の高村光太郎記念館を訪れ、手紙を寄贈した。館を運営する光太郎記念会の高橋邦広理事は「貴重な資料をありがとうございました」と喜んでいた。
 進さんは、光太郎の実弟で鋳金家の故高村豊周(とよちか)の離婚した妻の故和田美和さんの縁者。その美和さんに光太郎が出した手紙1通で、書かれた日が1933年8月24日と確認した高橋さんは「よく81年も保管しておいてくれました」と感謝の言葉を述べた。
 手紙には「あなたがどうかして此(こ)の悲(かなし)みから早く脱却される事をのみひたすら祈ります」などと、弟と離婚した美和さんをいたわる記載があり、進さんは「光太郎の優しい面がわかる内容でもあり、捨てないでいた」と話した。
 光太郎は、智恵子と1914年に実質的な結婚生活に入り、手紙が書かれた前日の8月23日に婚姻届を出した。これは精神的に不安定な智恵子を法的に守るための対応とされ、翌日には2人で旅行に出かける慌ただしい中で、弟の離婚した妻へ手紙を書いたのは、2人の女性の境遇に「いろいろ重なるものを見たのではないか」と記念会は推測していた。
 進さんは、豊周さんからの手紙も1通寄贈。「ともかくこれで手紙が落ち着くところに落ち着いた」とほっとしていた。
 両方の手紙は高村家のプライベートな部分も多く含まれており、展示について記念会は「関係者とよく協議して決めたい」と話している。
 
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ついでに第一報での誤りについての訂正記事も出ました。
 
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光太郎書簡は、現在までに3,400通ほど見つかっていますが、まだまだ埋もれているものがたくさんあるはずです。
 
筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っていますが、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、高田博厚、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。今回報道されたものもそうですが、 こんな人にも手紙を送っていたのか、というケースもあります。ここ数年で見つかって、『高村光太郎全集』に掲載されていないものとしては、伊藤静雄、谷川俊太郎、佐々木喜善(柳田国男に『遠野物語』の内容を語った人物)、稲垣足穂、マチスなど。また、あるべくしてあったという宛先のものもここ数年でけっこう見つかっています。永瀬清子、中山義秀、平櫛田中、石井鶴三、高祖保など。
 
それから、一通の手紙で、それまで特定できていなかった年譜上の出来事の日付が確定することもあります。
これも最近見つけた例でいうと、大正元年(1912)、智恵子と過ごした銚子犬吠埼から帰京したのが9月4日だったこと、昭和30年(1955)、花巻から東京中野に住民票を異動したのが6月1日であったことなどが、それぞれ1通の書簡の発見により判明しました。
 
幸い、最近、光太郎の新たな書簡が見つからない、という事態にはなっていませんが、本当にまだまだ眠っている書簡がたくさんあるはずです。ご協力をお願いします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月6日

大正8年(1919)の今日、腸チフスで入院していた駒込病院から退院しました。
 
約1ヶ月の入院で、この退院の日付も最近見つかった6月14日付の田村松魚あての書簡により特定できました。
 
御手紙ありがたく拝見しました。六日にやつと退院しましたが筆をとるのがひどくおつくうだつたので まだまるで友達にもその事をしらせず失礼してゐました。

『朝日新聞』さんの岩手版に以下の記事が出ました。

光太郎の手紙見つかる

 詩人で彫刻家の故高村光太郎の手紙が、縁者の家から見つかった。実弟で鋳金家の故高村豊周(とよちか)の元妻に宛てた手紙で、悲しみを慰めるプライベートな内容となっている。近く花巻市の高村記念会に寄贈される予定で、同会は「第一級の資料」と喜んでいる。
 
 手紙は、豊周と離婚した故和田美和さんに宛てたもので、親類の神奈川県大磯町の進(しん)慶子さん(66)が、和田さんから預かっていた荷物の中から見つけた。高村記念会に連絡をとり、光太郎全集や豊周全集などにも載っていない新資料で、直筆だと確認された。
 
 内容は「ただあなたの未来の御幸福御健康を祈ります。あなたがどうかして此(こ)の悲(かなし)みから早く脱却される事をのみひたすら祈ります」などと記され、離婚に関連していると推測される。
 
 手紙の冒頭に「おてがみ再読しました」とあり、和田さんの手紙を受けての返信とみられる。
 
 手紙の末尾に「八月二十四日」と書かれ、封筒の消印は翌日の昭和8(1933)年8月25日。光太郎は23日に、精神が不安定になった妻智恵子との離婚届を出し、24日夜には2人で旅行に出かけており、手紙はその直前に書かれ、投函(とうかん)されたことになる。
 
 忙しい中で書簡をしたためたとみられ、記念会では、光太郎の誠実さが読み取れるとしている。
 
 進さんは、子どもがなかった和田さんの世話をしており、没後約20年たった数年前、預かった荷物を捨てようと整理をしていて、手紙の差出人に「高村光太郎」という文字を見つけた。和田さんから生前、高村家との関係を聞いており、「自分で持っていてももったいないので活用できるならしてもらいたい」と寄贈を決めたという。
 
 光太郎は、「道程」「智恵子抄」などの詩集や、十和田湖畔のブロンズ像「乙女の像」などの作品で知られているが、見つかった手紙には、これらの制作過程にかかわる記載はなく、プライベートなものだけ。
 
 だが、新たな人となりが見えてくる可能性もあり、同会は「研究者の手で解明してもらいたい」とし、公開については「遺族などと協議をして決めたい」としている。
 
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この書簡の存在については、昨秋、花巻の高村光太郎記念会さんから情報を得ていましたが、予定では明日、記念会さんに寄贈されるとのことで、記事になったようです。
 
傷心の元義妹に宛てたもので、慈愛に溢れたいい文章です。ただ、公序良俗に反することが書いてあるわけでもないのですが、やはり家庭内のゴタゴタにからむ内容なので、記念会さんとしてもあまり大っぴらに公開はしない方向とのこと。それでいいと思います。
 
離婚の経緯などについては、豊周自身が自著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)の中で、かなり具体的に語っており、特に極秘事項というわけでもないのですが、ことさらに取り上げるべき事柄ではないと思います。
 
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売れば売ったでかなりの金額になるものです。ところが、現所有者の方は、全くの善意で寄贈してくださるとのこと。すばらしいと思います。
 
ところで記事の中で「光太郎は23日に、精神が不安定になった妻智恵子との離婚届を出し、」とあるのは大間違いで、正しくは婚姻届です。何をどう間違えたのか、全く逆になってしまっています。
 
昭和8年(1933)というと、智恵子の統合失調症がかなり進んでいた時期です。光太郎は智恵子の故郷近辺の温泉巡りでもすれば少しは病状が好転するかと考え、智恵子を連れて旅に出ました。昨年焼失してしまった福島の不動湯や栃木の塩原温泉などを巡っています。8月24日のことです。その前日に、本郷区役所に婚姻届を提出しています。永らく事実婚だったのを、光太郎は自分に万一のことがあった時の智恵子の身分保障のため、そうしたのです。
 
その同じ日にこの書簡が書かれているということで、忙しい中に手間を厭わなかった光太郎の慈愛の念が感じられます。
 
ちなみに盛岡てがみ館さんでは、来週月曜まで、企画展「高村光太郎と岩手の人」を開催しています。まだまだ各地に眠っている光太郎書簡はかなりあると思われます(もしかすると智恵子書簡も)。こうした書簡類、死蔵されたままにならないことを祈ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月3日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外旧太田村の山小屋に、二間×三間の別棟が増築されました。
 
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右が昭和20年(1945)からの元々の小屋、左が増築された別棟です。ちなみによく見ると二つの小屋の間で光太郎が手を振っています。

現在、増築部分は少し離れた場所に移築、倉庫的に活用されています。
 
費用は詩集『智恵子抄』版元の龍星閣が持ちました。同社は明瞭な印税制をとらず、こういう形で光太郎に還元したそうです。

過日、花巻の第57回高村祭に行った折、入手してきたチラシです。
 
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花巻で運行されている観光タクシー「あったかいなはん花巻号2014」の案内です。昨年から始まった企画ですが、レトロジャンボタクシーで花巻市内の観光施設等を廻って、半日1,000円、1日で2,000円という値段です。
 
半日コースは午前コースと午後コースに分かれており、両方通しで1日コースとなります。午後コースの方に、高村光太郎記念館・高村山荘が含まれています。その午後コースは、他に宮澤賢治記念館マルカン百貨店大展望大食堂を巡回します。なぜにデパートの食堂?と思われるかも知れませんが、ここの巨大ソフトクリームが花巻名物の一つで、最近、旅番組などでもよく取り上げられているからです。しかも「ツアーの参加特典」となっていますので、タクシー料金に含まれているようです。ただ、巨大ソフトクリーム、もともと150円ですが……。こちらは割り箸で食べるのが正式な作法です。当方も話の種にと思い、一度食べたことがありますが、半端なものではありません。
 
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「あったかいなはん花巻号」、要予約ですが、ネットのいわて花巻旅行社さんのページから可能です。
 
以前は在来の花巻駅から高村光太郎記念館・高村山荘行きの路線バスがあったのですが、数年前に廃線となり、公共交通機関で行こうと思ったら、通常のタクシーか、この「あったかいなはん花巻号」しかありません。通常のタクシーは花巻駅から片道3,000円ちょっとですので、往復となると7,000円ほどになってしまいます。まして東北新幹線の新花巻駅からですと、さらに距離があります。
 
ぜひご利用下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月23日

昭和12年(1937)の今日、新潟長岡で「光雲遺作木彫展観」が開催されました。
 
新潟に光雲支援者が多くいたことから開催の運びとなりました。光太郎も観に行っています。
 
この時に、光太郎の文章「〔高村光雲作木彫展観〕」が載っているパンフレット的なものが発行されました。文章は『高村光太郎全集』に掲載されているのですが、パンフレットそのものを探しています。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。

5/15(木)、岩手花巻で行われた第57回高村祭。地元紙に報道されましたのでご紹介します。 

光太郎しのび朗読や合唱 花巻で高村祭

『岩手日報』
 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第57回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、郷土ゆかりの先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。太田小児童の楽器演奏、西南中の合唱に続き、花巻北高の遠藤鮎喜(あゆき)君(3年)と佐々木愛美さん(2年)が「晴天に酔う」「レモン哀歌」を朗読した。
 花巻高等看護専門学校1年の佐藤百(もも)さん(18)は1945年8月の花巻空襲時に、危険を顧みず負傷者救護に尽力した看護師らをたたえた詩「非常の時」を情感を込めて読み上げた。佐藤さんは「戦争作品はあっても、看護師などに目を向けた詩は少ない。意味を調べながら練習した」と話した。
 同看護専門学校のコーラス披露もあり、訪れた市民ら約300人とともに光太郎に思いをはせた。
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光太郎精神 現代に 地元学生ら詩朗読、合唱 名前の由来は光太郎の妻 名付け親に持つ末盛千枝子さん

『岩手日日』
 花巻市ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する高村祭が15日、同市太田山口地区の高村山荘詩碑前で開かれた。地元の学生たちによる光太郎作品の朗読や、編集者の末盛千枝子さん(八幡平市)の特別講演などを通じ、参加者が偉人の足跡に思いをはせた。

 光太郎が東京から花巻に疎開してきた日を記念し、花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が毎年主催。57回目の今年は、詩集「道程」刊行100周年が重なった。

 各地から450人以上が参加。開会に先立ち光太郎の遺影が飾られた詩碑に太田小2年生の中島流星君と石川澄花さんが献花し、三彩流新茗会新田社中が献茶して開会。参加者全員が詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を朗読した。

 続いて地元の学生たちが出演し、新緑に包まれた会場で光太郎の残した言葉を響かせた。太田小2年生21人は光太郎と交流のあった旧山口小の校歌を元気いっぱい歌ったほか、「かっこう」をピアニカで演奏、光太郎の詩「案内」を暗唱した。

 西南中学校1年生49人は「心はいつでも新しく、毎日何かしらを発見する」という光太郎の言葉を取り入れた精神歌を合唱。県立花巻北高校の遠藤鮎喜君(3年)と佐々木愛美さん(2年)、花巻高等看護専門学校の佐藤百さん(1年)による光太郎の詩の朗読後、同校1年生40人が「最低にして最高の道」「リンゴの詩」「花巻の四季」のコーラスを披露した。

 特別講演では、本県出身の彫刻家・故舟越保武氏の長女で、光太郎を名付け親に持つ編集者の末盛千枝子さんが、「私にとっての高村光太郎」と題して光太郎との縁を振り返った。

 末盛さんの父は光太郎が訳した本「ロダンの言葉」を読んで彫刻家になろうと決心した経緯があり、29歳の時に初めての娘である末盛さんが東京で生まれた時、全く面識のない光太郎を突然訪ねて名前を頼んだという。

 光太郎は妻智恵子を亡くしてから3年しか経っていない頃で、「女の名前は智恵子しか浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは替えましょうね」と言って名付けてくれた-と末盛さんは聞かされてきた。

 末盛さんは「自分はそんな大切な名前に値しない。父が無理難題を言って申し訳ない」と感じてきたが、「最近になって父は彫刻家としてやっていく励ましをもらいたくて高村さんを訪ねたのだろう、高村さんは大変さを身に染みて分かっていたから、若い彫刻家の頼みを断れなかったのではと思えるようになった」と心境の変化を語った。

 盛岡にいた当時、光太郎から「おじさんのことを覚えていてください」と言われたことにも触れ、「父が彫刻家になることが高村さんの励ましに応えることだった。弟2人(舟越桂氏、舟越直木氏)も彫刻家になり、曲りなりにも応えられたのでは」と思いをはせた。
 
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それから、撮ってきた写真を整理していたら、過日のブログに載せ忘れていたものがありましたので、ついでに。
 
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左はポスター、右は会場正面に掲げられた光太郎肖像写真です。
 
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会場のゴザの上を飛び跳ねていた蛙。思わず「心平先生、いらしてたんですか?」と呼びかけてしまいました(笑)。
 
今日は福島二本松の智恵子生誕祭に行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月18日
 
昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに入れるベッドの購入契約をしました。
 
メーカーはエムプレス。光太郎、約2年後に、このベッドの上で終焉の時を迎えました。
 
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昨日、岩手花巻で行われた第57回高村祭をレポートします。
 
夜行高速バスで花巻駅前に着いたのが朝6時30分過ぎ。駅の売店で買ったパンとコーヒーで朝食。タクシーで会場の高村山荘―昭和20年(1945)から同27年(1952)まで光太郎が暮らした山小屋―に向かいました。会は10時からなのですが、早めに行って周辺散策、それから敷地内の高村光太郎記念館を観ようと思った次第です。
 
東北北部もようやく新緑の季節となり、昨日は光太郎関連のイベントにしては珍しく雨も降っておらず、いい感じでした。記念館のかたわらの山桜はまだ花を付けていました。
 
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会場の設営を終えて、いったんお帰りになるという花巻高村光太郎記念会事務局長の高橋氏、山口支部の浅沼さんなどにご挨拶、その後、周辺を歩きました。
 
山荘の向かって右手は光太郎が使用していた便所ですが、「月光殿」という洒落た名前が付けられていたものです。明かり取りのために「光」一字が壁に彫りつけられています。
 
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裏手に回ると、中からの様子が見えるようにしてありました。以前はこうなっていなかったので、興味深く拝見しました。
 
記念館は8時30分開館ですが、少し前に入れていただき、お茶まで戴いてしまいました。ショップでは、復刊された花巻版『高村光太郎詩集』も並んでいました。
 
そうこうしているうちに参会の皆様が集まり始め、当方も会場に移動。会場はやはり敷地内の「雪白く積めり」詩碑前の広場です。もともと第1回の光太郎祭(昭和33年=1958)は、この詩碑と山小屋の套屋(とうおく=建物全体のカバー)落成記念を兼ねて開かれたという経緯があり、ここが伝統的に会場になっています。
 
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さて、開会。献花、献茶、参会者全員による「雪白く積めり」朗読、主催者挨拶と続き、これも伝統的に、地元の小中高生、花巻高等看護専門学校生徒の皆さんによる朗読や器楽合奏、合唱などが行われました。
 
小学生の器楽合奏は、もともと光太郎が旧山口小学校に楽器を寄附したことに由来します。おそらく初期の高村祭ではその光太郎寄附の楽器が使われていたと推定されます。

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その後、特別講演。講師は光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご令嬢、末盛千枝子さん。講師紹介で「ご令嬢」と紹介されると、ご来場の末盛さんのお友達の皆さんが非常にウケていました。
 
当方、昨秋、東京代官山でのイベントで末盛さんのお話を伺いましたが、その折りのお話プラスアルファで、興味深い内容でした。やはり直接光太郎をご存知で、家族ぐるみ光太郎と縁のあった方のお話ですので、そうでない方のお話とは違います。
 
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右上は終了後のサイン会の様子です。
 
その後、お昼の弁当を戴いて、さらに当方は記念会スタッフの方と記念館改修についての打ち合わせ。現在は手前の展示スペースのみを使っていますが、その奥のスペースを使い、倍近い広さになるとのことで、図面を見ながら現場を拝見しました。1年後には新規オープンの予定ですが、今年就任された新市長の方針で、地元の皆さんの声も反映させていくとのことです。当方もまた関わらせていただきます。
 
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その後、末盛さんともども山荘内部に特別に入れていただきました。2年ぶりに中に入りましたが、やはり感慨深いものがありました。
 
そして花巻駅まで送っていただき、千葉へと帰りました。
 
高村山荘、記念館、新緑の美しい季節です。ぜひ足をお運び下さい。来年には記念館改修完了の予定ですし、また第58回高村祭もあります。そちらもよろしくお願い申し上げます。
 
昨年運行され、好評だったレトロジャンボタクシー「あったかいなはん花巻号」、今年も運行されています。そちらについてはまた日を改めて書きましょう。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月16日

昭和25年(1950)の今日、花巻の寿デパートで開催されていた「智恵子遺作切抜絵展」が閉幕しました。
 
戦時中、焼失を懼れ、光太郎は智恵子の紙絵を山形、茨城取手、そして花巻の三ヶ所に分けて疎開させていました。そのうち花巻にあったものの中から作品を選択、この展覧会が開催されました。
 
チラシ、パンフレット等お持ちの方、あるいはここに保管されている等の情報をお持ちの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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東北新幹線はやぶさ車中にて書いております。

昨夜は池袋から夜行バスに乗り、今朝、花巻に着きました。今日は花巻郊外、旧太田村の光太郎が暮らしていた山小屋・高村山荘敷地内にて、第五十七回高村祭でした。

詳しくは明日、また投稿いたします。

【今日は何の日・光太郎 補遺】5月15日

昭和33年(1958)の今日、花巻で第1回高村祭が行われました。


当時の呼称は「高村記念祭」。記念講演の講師は草野心平、伊藤信吉でした。

岩手の地方紙『岩手日日』さんの報道です。 

国語教育の向上へ〜高村光太郎詩集 県内学校施設に贈る (05/13)

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、高村光太郎(1883~1956年)の生誕130年を記念して刊行した「高村光太郎詩集」を花巻市内をはじめ、県内の学校施設に贈った。晩年を過ごした花巻市で12日に贈呈式が行われ、光太郎研究の第一人者北川太一氏(東京都)による解説付きの資料として国語教育の向上に役立つことを願った。
 
  同詩集は、「道程」「智恵子抄」「典型」など代表作91編を収めたB6判、320ページ(定価1400円)。一編ごとに北川氏が詩の制作背景や用語などの解説を添え、光太郎の詩を読み解く資料として好評を得ている。
 
  もともとは1969年に旺文社文庫として発刊され、92年に旧高村記念会(現記念会の前身)として再発行。今回、昨年の節目の年を記念して光太郎の誕生日(3月13日)に改定新版として3000部を作った。

同市役所に佐藤会長ら記念会関係者4人が訪れ、贈呈の趣旨説明後、佐藤会長が上田東一市長に詩集を手渡した。

 上田市長は「花巻の子供たちがこれを読んで心を豊かに、光太郎さんと花巻のつながりも学んでもらえればうれしい」と感謝し、佐藤会長が「よろしくお願いします」と思いを託した。

 詩集は「各学校の書架に納めてほしい」と市内の小中学校30校を含め県内の全小中学校、高校、大学の計625校に3月中に寄贈された。

 寄贈に当たっては、光太郎が花巻在住当時に取材を通じて交流のあった写真新聞記者阿部徹雄さんの子息の力(つとむ)さん(静岡県在住)から東日本大震災の復興支援への意味を込めて寄せられた寄付金も役立てられており今後、図書館施設などにも贈る予定。
 
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明日行われる「第57回高村祭」を主催されている一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんが、同会刊行の『高村光太郎詩集』を岩手県内の学校に寄贈したという内容です。
 
この『高村光太郎詩集』、記事にあるとおり、元は昭和44年(1969)に旺文社文庫の一冊として刊行されたものの復刻です。100篇ほどの詩を収め、そのすべてに、北川太一先生による詳細な脚注がついています。
 
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さらに同じく北川先生による巻末の解説も非000常に充実しており、この手のものの中では白眉です。昔の文庫本はものすごく手間がかかっていたというのがよくわかります。
 
ちなみに表紙は、旺文社文庫では洋画家の故・深尾庄介氏のイラスト(これも豪華な起用です)。
 
一方の花巻版は、光太郎自身が大正9年(1920)に、与謝野晶子著『晶子短歌全集』第三巻の挿画として描いたペン画の「手と星空」を使っています。
 
自作のブロンズ彫刻で、光太郎の代表作の一つ「手」をモチーフにしています。
 
この他にも花巻の高村光太郎記念会さんでは、昭和37年(1962)に筑摩書房から無題1刊行された『高村光太郎山居七年』という書籍の復刻版も刊行しています。
 
こちらは故・佐藤隆房氏編。佐藤氏は初代の花巻高村光太郎記念会会長で、宮澤賢治の主治医でもありました。先の記事にもお名前が上がっている現会長・佐藤進氏はそのご子息です。この書籍は題名の通り、光太郎が花巻に住んでいた7年間の様々なエピソードを、地元の皆さんの証言等で構成したもので、非常に貴重な記録です。
 
こちらも何度か再版がかけられていますが、そろそろ在庫が払底してしまっているそうなので、近々再刊する予定とお聞きしています。あるいはもうされているでしょうか。
 
この手のご当地限定光太郎書籍、なかなか花巻でしか手に入りません。明日の高村祭を含め、ぜひとも花巻光太郎山荘付近へお越し下さいませ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月14日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋戸外で誤って転倒、肋骨を傷めました。
 
転倒した際に石油ランプを破壊し、痛みが引くまで1週間かかるほど激しく転んだようです。太田村は無医村でしたので、病院にも行かずに耐えていましたが、日記には毎日のように肋骨の痛みを綴っています。見かねた村人が温泉での湯治を勧めました。高齢者の転倒事故、昔からあったのですね。

先日のブログでご紹介した、岩手花巻で開催される「第57回高村祭」。いよいよ今週となりました。
 
昭和20年(1945)から同27年(1952)にかけ、光太郎が独居自炊の生活を送った花巻郊外・旧太田村山口の山小屋が「高村山荘」として今も保存されています。昨年、山荘近くの花巻市立民俗資料館だった建物を「高村光太郎記念館」にリニューアル、仮オープンしました。
 
「高村山荘」「高村光太郎記念館」とも、花巻の一般財団法人・花巻高村光太郎記念会さんで管理をなさっていて、「高村光太郎記念館・高村山荘」のタイトルでHPも開設されています。「高村祭」もこちらの主催です。
 
「高村光太郎記念館・高村山荘」のHPで、「高村祭」のチラシがPDFでアップされています。
 
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今回の「高村祭」で特別講演をなさる編集者・絵本作家の末盛千枝子さんの詳細なご紹介、交通案内も。
 
午前9時40分発で、JR東北本線花巻駅西口から無料のシャトルバスが出ます。それ以外に路線バスはありませんので御注意下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月11日

昭和21年(1946)の今日、連作詩「暗愚小伝」の制作を始めました。
 
この日の日記に以下の記述があります。
 
夜は読書せず。詩の事。「余の詩を読みて人死に赴けり」を書かんと思ふ。
 
のちに少し題名を変え、次の詩の断片が書かれました。
 
   わが詩をよみて人死に就けり
 
 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞が読んだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 
しかし、結局この詩は未完のままお蔵入りに。代わって、20篇から成る連作詩「暗愚小伝」へと発展していきます。
 
「暗愚小伝」は翌年7月、臼井吉見が編集していた雑誌『展望』に発表されました。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫(るたく)」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
光太郎の太田村での7年間の「自己流謫」に思いを馳せながら、今年も花巻光太郎祭に行って参ります。

岩手花巻の㈶高村記念会さんからご案内をいただきました。 

滴一滴第57回高村祭

日 時 : 平成26年5月15日(木) 午前10時から午後14時30分頃まで
場 所 : 岩手県花巻市太田3-91 高村山荘詩碑前
      (雨天時はスポーツキャンプ村屋内運動場)
主 催 : 一般財団法人花巻高村光太郎記念会 同山口支部
共 催 : 花巻市 花巻市教育委員会 一般社団法人花巻観光協会
内 容 : 式典 地元学生による詩の朗読 器楽演奏 コーラス等
 
特別講演 末盛千枝子先生(編集者) 演題『私にとっての高村光太郎』
 
5月15日は、昭和20年(1945)、駒込林町のアトリエを空襲で焼け出された光太郎が、宮澤家の招きで花巻に疎開するために東京を発った日です。それを記念して、毎年この日に光太郎がかつて暮らしていた旧太田村山口の山小屋(高村山荘)で、高村祭が行われています。
 
昨年は山荘近くにリニューアルオープンした高村光太郎記念館の仮オープンも兼ね、お父さまが光太郎と交流があった女優の渡辺えりさんによる特別講演があり、多くの方でにぎわいました。
 
今年の特別講演は末盛千枝子さん。やはりお父さまの彫刻家、故・舟越保武氏が光太郎と交流があり、ご自身も光太郎と面識がおありです。昨秋、東京代官山でのイベント、読書会「少女は本を読んで大人になる」にご出演、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は「智恵子」にちなんで光太郎が名づけてくれたというお話、その後、成長なさってから光太郎と実際にお会いになった時のお話など、興味深い内容でした。今回もそのあたりが聴けると思います。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月3日

大正15年(1926)の今日、詩人の尾崎喜八に宛てて、自作木彫「鯰」をプリントした絵葉書を送りました。
 
大正末から昭和初めにかけ、光太郎はこのように自作の彫刻や自分と智恵子の写真を使った絵葉書をよく使用していました。「鯰」はこの時開催されていた「聖徳太子奉賛美術展覧会」に出品したものでした。
 
おまけ
 
このブログ、本日をもって、3年目に突入しました。昨日までまる2年、主に新しい情報を中心に、1日も休まず更新して参りました。時折、ネタに苦しむこともありましたが、探せばネタは結構転がっているものですね。
 
地味なブログですのでなかなか閲覧数が伸びませんが、これからもよろしくお願い申し上げます。

4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂き、花巻の財団法人高村記念会・高橋卓也さんにもお願いしました。
 
昨年の高村光太郎記念館のプレオープンについて、さらに今年度のさらなる改修計画等についてのお話を頂きました。
 
地元岩手の地方紙、『岩手日日』さんにも記念館改修についての記事が出ています。 

本格オープンに向け改修 高村光太郎記念館(4/05)

 花巻市は、同市太田に2013年5月にプレオープンした高村光太郎記念館の改修を14年度、計画している。晩年を花巻で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する唯一の施設として展示内容の充実を図る狙い。15日夜に地元で市民説明会を開き、意見を設計に反映させる。
 同記念館は、光太郎が7年間過ごした小屋「高村山荘」を挟んだ東方の旧花巻歴史民俗資料館を活用した。財団法人高村記念会が運営していた高村記念館の老朽化などに伴い、生誕130年に合わせて昨春、暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向けて、併設する収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を今年度に進める計画。
 改修案では、入館してすぐのスペースを第1展示室としてブロンズ像などを自然との関わりの中で展示。奥の収蔵庫は、作品の劣化を防ぐため左側を第2展示室にして文芸や書画を中心に光太郎の人生と関連付けて紹介。右側は企画展室と、常設展の入れ替え資料などを保管する収蔵室とする計画。
 今年度当初予算に同記念館改修と周辺施設改修として駐車場の舗装やトイレ、遊歩道の改修を合わせ約1億7500万円を計上。市民の意見を取りまとめて設計後、夏ごろをめどに工事着手し、12月から来年3月までは休館にして本格的な改修工事を進めたい考え。
 旧記念館は冬季休館したが、新記念館は通年開館し、初年度入館者数は1万2688人。うち昨年12~3月の冬季4カ月間は1245人だった。温泉客や市内の観光施設を巡る「あったかいなはん花巻号」での立ち寄りが多いという。
 市では、15日午後6時30分から太田振興センターで市民説明会を開いて住民の意見を聞くほか、17~23日(土日除く)には市役所本庁舎市生涯学習交流課でも随時受け付ける。
 
また、市の広報紙『広報はなまき』でも。 

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館 より充実した施設を目指して

  昨年5月、高村山荘近くに新たに市の施設としてプレオープンした高村光太郎記念館。晩年を花巻で過ごした高村光太郎を顕彰し、彫刻家や詩人などとして活躍した功績を広く紹介するため、日本に唯一の高村光太郎の記念館として市内外から多くの方が訪れる施設を目指しています。改修の設計に当たっては、関係者の意見を伺いながら進めてきましたが、さらに市民の皆さんの意見を伺い、設計に反映させたいと考えています。
 今回の改修では、来館者の利便向上のため新たに休憩室を設けるほか、トイレの改修やバリアフリーにも配慮します。また作品保護の観点から収蔵室を備え、展示室は次のように考えています。
▽光太郎の根底にある自然賛歌、自然との共生の姿勢を、光太郎のブロンズ像作品を自然と融和させる演出により表現する『展示室1』
▽光太郎の歩み、苦悩、思想などを背景に生み出された作品の紹介を通して人間・高村光太郎と作品を紹介する『展示室2』
 展示室2は、次の六つのゾーンに分けて展示します。
①東京からみちのく花巻へ②地上のメトロポール(「文化の中心地」の意)を求めて③書の深淵④岩手の人⑤賢治を生みき 我を招きき⑥光太郎六つの面
▽常設展だけでは伝えきれない光太郎を伝える『企画展示室』
ご意見をお聞かせ下さい
■市民説明会
 市民の皆さんの意見を伺い設計に反映させるため、市民説明会を開催します。お気軽に参加下さい・
●高村光太郎記念館改修説明会
【日時】4月15日(火)、午後6時30分
【会場】太田振興センター大広間
■市民の意見をお聞きする期間
 市民説明会に参加できなかった方のために、次のとおり意見を伺います。お気軽にお越しください。
【日時】4月17日(木)~23日(水)、午前9時~正午、午後1時~5時(土日を除く)
【会場】高村光太郎記念館改修について 市役所本庁舎2階生涯学習交流課
 
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花巻市では、今年1月の選挙で新市長が誕生し、それに伴って市の組織等が改編されたりしました。市の事業についてもずいぶん風通しがよくなったようです。詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。
 
なお、高村記念会高橋様からは、5月15日(木)の高村祭についても情報のご提供がありました。今年は記念講演で、光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女、末盛千枝子さんにいらしていただくとのこと。

末盛さんは昨冬、東京代官山のクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」で講師を務められ、当方も拝聴して参りました。「千枝子」というお名前は光太郎が名付け親とのこと。また興味深いお話が聴けるものと思います。こちらも詳しい情報が入りましたらまたご紹介します。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月7日000

平成4年(1992)の今日、大阪市立美術館で「天理秘蔵名品展」が開幕しました。
 
天理大学附属天理図書館、同天理参考館の収蔵品が300点余り展示され、「近代作家の原稿」のコーナーに光太郎の詩「カフエ、ライオンにて」の草稿が並びました。
 
この詩は大正2年(1913)3月、雑誌『趣味』に掲載され、翌年刊行の詩集『道程』にも収録されました。
 
カフェ・ライオンは現在も続く銀座のビヤホール・ライオンの前身です。 
 
 
 

一昨日、4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催しましたが、戦中から戦後にかけ、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも詩碑前祭、そして連翹忌の集いがもたれました。

岩手)高村光太郎の命日 花巻で住民らがしのぶ

 彫刻家で詩人の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で「詩碑前祭」があり、地元の児童らが光太郎の詩を朗読した。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。その後東京に戻り、56年に死去。翌年から地元の住民らが毎年、山荘で集まりを持っている。
 この日は山荘近くにある詩碑の前に住民ら約70人が集まった。詩碑には、山荘での生活をうたった「雪白く積めり」が刻まれており、住民はこの詩など8編を朗読し、故人をしのんだ。
(朝日新聞)
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“先生”の教え心に 高村光太郎命日に詩碑前祭

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた詩碑前祭と連翹忌(れんぎょうき)法要が2日、59回忌に当たる今年も花巻市内で行われ、参加者が花巻ゆかりの偉人をしのんだ。

 詩碑前祭は、同市太田山口地区の住民らで組織する高村記念会山口支部が毎年主催。同地区の高村山荘敷地内広場で催され、約50人が参加した。

 照井康徳支部長は「来年は高村先生が花巻に来てから70周年で、60回忌の節目を迎える。この機会に先生をしのんでもらいたい」とあいさつ。高橋百花さん(太田小学校1年)と小原律君(同2年)が詩碑に献花し、新渕澄副支部長が祭文奏上した。

 詩の朗読も行われ、上太田子供会が「山の広場」を読み上げたのを皮切りに、花巻高村光太郎記念会の駿河いく子さん、山口支部理事の本館文男さんと高橋新吉さん、太田の区長会が発表。詩碑には光太郎の遺影が掲げられ、参加者が線香を上げて静かに手を合わせた。

 光太郎は1945年4月に空襲で東京のアトリエを焼失。翌月に宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、稗貫郡太田村山口の山荘で7年間暮らした。

 上太田子供会の安倍依織莉さん(同6年)は「山の良いところがたくさん書かれている詩『山からの贈り物』が好き。高村先生は誰にでも優しい人だったと思う。地元にいたことに誇りを持ちたい」と話していた。
(岩手日日新聞)
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連翹忌法要にファンら集う

 連翹忌法要は、光太郎の顕彰活動を続けている花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)が毎年開催。光太郎が花巻で暮らしていた際に妻・智恵子や父母の法要を行った同市双葉町の松庵寺で営まれ、約40人が参列し焼香した。

 小川隆英住職は法話で、子供の頃に見た光太郎の姿を「いつもリュックサックを背負い、どた靴を履いて寺に来た。背が高く手足も大きく、風格があった」と振り返った。ほかに光太郎の随筆「顔」を取り上げて「高村先生は『思無邪』の顔、邪のない心を持った人の顔が一番美しいと言っておられる」と、人のあるべき生き方を説いた。

 献茶をした倉金和子さん(78)=同市下似内=は「高村先生は素晴らしい人。世知辛い世の中になってしまったが、豊かな心や思いやりを大事にしたい」と話していた。

 法要に続いて追悼座談会が開かれ、参加者が光太郎の思い出や作品の感想などを語り合った。
(岩手日日新聞)
 
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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月4日

明治45年(1912)の今日、「光雲還暦記念胸像」の贈呈式が行われました。
 
「光雲還暦記念胸像」。光雲の弟子たち000が発願し、海外留学から帰ってきた光太郎に依頼しました。多分に光太郎の腕試し的な意味合いが強かったようです。
 
それに対し光太郎は見事に応えました。
 
おそらく同じ時期におそらく習作として造った「光雲の首」は現存しており、昨年開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」にも出品されましたが、「還暦記念胸像」自体は残念ながら現存が確認できておりません。
 
時折、この二つの彫刻を混同している記述があり、困っています。
 
写真は贈呈式の模様。右が光雲、左は光雲の妻にして光太郎の母・わかです。
 

戦後に光太郎が7年暮らした花巻市郊外太田村山口(現・花巻市太田)に、昌歓寺という曹洞宗の寺院があります。戦国時代には既に当地にあったという古刹です。光太郎の暮らした山小屋とそう遠くなく、光太郎も時折足を運んでいました。
 
つい先だって、この昌歓寺から光太郎にまつわる文書が出てきました。
 
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書かれたのは光太郎晩年の昭和30年(1955)2月。十和田湖畔の裸婦群像制作のため帰京した後のことです。この直前に太田村は花巻町などと合併して消滅、花巻市の一部になっています。筆者は当時の昌歓寺住職と思われます。ほれぼれするような筆跡ですね。
 
内容的には、光太郎に十一面観音像の制作を依頼し、承諾を得たらしいことが記されています。
 
  十一面観音菩薩建立趣意
私は、終戦直後から今時戦役の戦歿勇士の慰霊と社会の混濁を浄化せんとの見地から観世音菩薩の建立を発願しておったことは皆様御承知の通りであります。而も三十三観世音菩薩方の中でも願力の強大なそして功徳力の広大な十一面観世音菩薩の勧請を冀って居た者であります。
然る処宿世の因縁が熟したとでも申しましょうか、現代彫刻界の至寶高村光太郎先生の思召しに依り大体の御約束が結ばれて御病気全快を期とし今年中に記念作品として先生の御作にかゝる佛像が昌歓寺に安置さるゝ運びに至りつゝあることは、当寺院としては勿論、花巻市民否岩手県民として歓喜に堪えない次第であります。
観音経の中に、観音の妙智力はよく世間の苦を救い給うと示された通り、抜苦与楽であって、いわゆる人の意見をよく聞き、立場を替えて物を考え、衝突しそうな時にはどちらかが自主的にバックして自他共に傷つかぬお互いに許し合える場を見つける自由な働きをし、その力のお蔭で危い世間を安らかに渡らせていたゞける大功徳がもたらされるのであります。平和観音と終戦後名づけられたのも、此の辺の消息を申したのでありましょう。
岩手の記念作品ともなしたい此の佛像の製作に対する報謝のしるしとして、広く浄財の喜捨を仰ぎ、先生に御贈りしたいと存ずるものであります。
厚く佛法僧の三寶に帰依せる十方の施主よ、此の悲願に答えられて、此の事業の達成に満腔の御法援あらんことを冀うものであります。
かくすれば世界恒久平和のシンボルともなり、併せて英霊並に施主の供養も成就され、現当二世の安楽も招来されるでありましょう。
茲に此の問題の中心ともなって、因縁をもたらした八重樫甚作氏を願主に依頼し、駿河重次郎氏並びに高橋吉一氏を世話人に依頼して準備にとりかゝりたいと思います。
伏して三寶に祈誓して、此の願成就に邁進するものであります。
 昭和三十年二月二十六日
 観音像建立発願者
 発願主 花巻市太田 昌歓寺三十世天海大典
 願 主 花巻市太田 檀徒 八重樫甚作
 世話人 花巻市太田 信徒 駿河重次郎
 世話人 花巻市太田 檀徒 高橋吉一
 
旧太田村の人々の、光太郎を敬愛してやまなかった念がよく見て取れます。
 
しかし、この観音像、光太郎の手で作られることは叶いませんでした。翌年には宿痾の肺結核のため、光太郎は還らぬ人となってしまいました。
 
この文書、続きがあります。
 
高村光太郎先生の御遺志により同先生厳父故高村光雲翁の上足当代佛像彫刻界の龍象東京世田ヶ谷の森大造先生の手によって成さるゝの因縁が圓熟し時恰も四月二日中𡌛に亡き高村先生の御霊前に弔問の際に於て決定大本山総持寺に参拝して佛前に於て奉告し以て十方施主の檀信徒諸彦に報告するものである
昭和三十一年四月五日契約之日
 於大本山総持寺
       発願主 昌歓寺三十世天海大典
  弔問者 願主  八重樫甚作
       会計  沢田喜代松
右事実を證明する
 昭和三十一年四月五日
  大本山総持寺 監院 岩本勝俊
 
亡くなった光太郎の後任として、十一面観音の制作を、同じ東京美術学校卒(そこで光雲の上足=高弟となっているのでしょう)の彫刻家・森大造に依頼したというわけです。
 
森の名は『高村光太郎全集』には出てきませんが、先頃見つけた雑誌『九元』掲載の、光太郎を講師に招いての座談会「第二回研究部座談会」(昭和15年=1940)に、その名が見えます。
 
この座談は、昨秋当方私刊の『光太郎資料40』及び、明後日、高村光太郎研究会より刊行予定の『高村光太郎研究35』に掲載しました。この時期に森の名を眼にし、不思議な縁を感じます。
 
森の故郷、滋賀県米原には森の個人美術館・醒井木彫美術館があり、一度行ってみようと思っていましたし、次に花巻に行く際には、昌歓寺にも寄って、問題の仏像も見てこようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月31日

明治42年(1909)の今日、イタリア・フィレンツェからパリ在住の画家・津田青楓に宛てて絵葉書を出しました。
 
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今朝ヹニスを出でてフィレンツセに来る。愈々伊太利亜のまんなかに来りたる訳なり。ヹニスの面白かりし事よ。
  春雨や南へいそぐ旅烏
  「ゴンドラ」に雨あたたかし水の色
  「ゴンドラ」を一丁漕ぎぬ春の風
  赤き屋根のあちこちにあり青畠
             三月三十一日 光
  安井君にもよろしく
  
 光 Le31 Mars 1909 â Firenze
 
三年余の欧米留学の終わり近く、パリからスイス経由でイタリア旅行をした際のものです。「ヹニス」はヴェニス。この時期に津田に宛てた葉書には、このように俳句が記されているものがいくつかあります。

先日のこのブログで、作家・津村節子さんについて書きました。ご主人の故・吉村昭氏ともども、岩手の田野畑村とのご縁が深く、東日本大震災後には、村の復興のために骨を折られているとのこと。
 
当方も微力ながら、同じ三陸の女川の復興支援に少しだけ関わっておりますので、興味をひかれ、津村さんの近著を2冊購入しました。
 
まず1冊、昨年6月、集英社より刊行された『愛する伴侶(ひと)を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』を読了しました。
 
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やはり作家の加賀乙彦氏との対談です。加賀氏は奥様に、津村さんはご主人にそれぞれ先立たれていて、それを軸にしたトークです。
 
泣けます。
 
加賀氏――
日曜日には女房と二人で聖イグナチオ教会に行っていました。(中略)春は堤に連翹と桜が満開でね。連翹の花というのは十字架の形ですから、十字架がたくさんあるような感じがして。二人でよく教会の帰りに四谷から市谷のあたりまで歩きました。
 
津村さん――
私は今でも、公園の中を歩いて「ああ、ここ、一緒に歩いたなあ」って、そういうことが始終あるんです。退院して再入院するまでの間、二人でよく、歩きました。公園のあたりで「このベンチに一緒に腰かけたな」とか……。
 
お二人のお話から、智恵子を失った後の光太郎を彷彿とさせられます。
 
ちなみに光太郎曰く、
 
智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
「智恵子の半生」(昭和15年=1940)
 
幸い当方の伴侶は元気です。しかし、いずれこういう立場になるのだろうか、などと考えさせられました。または逆に当方が先に逝き、伴侶が残されることもあり得るな、とも。そうなった場合、「せいせいした」と言われるのではないかと、それが心配です(笑)。
 
もう一冊、やはり昨年の11月に講談社から刊行された『三陸の海』。こちらはまだ読んでいる最中です。
 
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夫妻共に縁の深い田野畑村が描かれています。田野畑は光太郎と縁の深かった宮澤賢治ゆかりの地でもあり、熟読前にざっと斜め読みしたところ、賢治についての記述もありました。
 
以下、講談社さんのサイトから。
 
震災を経て、再びかの地へ――
2011年3月11日。「私」が新婚時代に夫・吉村昭と行商の旅をした三陸海岸を、大津波が襲った。
三陸の中でも岩手県の田野畑村は夫婦にとって特別な場所。夫婦で同人雑誌に小説を書きながらの生活は厳しかったが、執筆に専念するため勤めを辞めた夫は、2泊3日かけて「陸の孤島」と呼ばれていた田野畑へ向かう。鵜の巣断崖の絶景に出会った夫は小説の着想を得て、昭和41年に太宰治賞を受賞、作家の道が開けた。取材以外の旅はしなかった夫は、家族を連れて唯一、田野畑だけには旅行するようになる。
もし夫が生きていたら、津波に襲われた愛する三陸の姿を見て、どんなに悲しんだだろう。三陸は故郷ではない。住んだこともない。でもあの日、津波が襲ったのは、「私」にとってかけがえのない場所だ――。
震災の翌年、夫の分まで津波の爪痕を目に焼き付け、大切な人々に会うため、息子と孫と共に田野畑を巡った妻の愛の軌跡。
 
ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月28日

平成3年(1991)の今日、文治堂書店から北川太一著『高村光太郎ノート』が刊行されました。
 
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高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問もお願いしています北川太一先生の著作集です。書き下ろしではなく、あちこちに発表された文章の集成で、編集は北川先生が高校教諭だった頃の教え子の会「北斗会」の皆さんです。どこをとっても示唆に富む内容です。

4月2日(水)、光太郎命日の集い・第58回連翹忌を開催いたします。
 
そろそろお申し込み〆切といたしますが、今のところ、昨年とほぼ同じ約70名ほどの方からお申し込みがありました。ありがたいことです。
 
ご案内を差し上げた方の中には、いろいろなご都合でご欠席という方もいらっしゃいますが、中にはご丁寧にお手紙やメールなどで、ご欠席のご連絡を下さる方もいらっしゃいます。
 
そんなお一人が、芥川賞作家の津村節子さん。000
 
平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行なさり、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞、片岡京子さん主演で舞台化もされました。そんなご縁で過去の連翹忌にもご参加いただいています。
 
今年も連翹忌のご案内をお送りしましたところ、過日、丁重なお葉書を頂きました。
 
曰く、
 
ご案内いただき有り難うございました。北川太一様によろしくお伝え下さいませ
「智恵子飛ぶ」は私の代表作の一つになり その節は大変お世話になり有り難うございました 花巻に講演に行ったことを思い出します
次々に仕事に追われ 現在三・一一の大津波の関係で三陸へ往復しております 吉村昭の文学碑のある田野畑村に津波資料館が出来るので田野畑通いです
 
解説いたしますと、津村さんのご主人は、やはり作家の故・吉村昭氏。平成18年(2006)にご逝去されています。氏には『三陸海岸大津波』というご著書があります。こちらは昭和45年(1970)に刊行されたもので、岩手県の田野畑村を襲った明治29年(1896)と昭和8年(1933)の大津波の証言・記録集です。
 
田野畑村では三年前の東日本大震災の折、やはり津波被害で約30名の尊い命が犠牲になっています。
 
『三陸海岸大津波』、氏の作品の中ではあまり有名なものではなかったそうですが、東日本大震災直後から注目が集まり、文春文庫に入っていたものが緊急増刷されました。
 
他にも氏には田野畑村を舞台とした作品がいくつかあり、そうした関係で同村には氏の文学碑、さらに津村さんの詩碑も建立され、村のHPにはご夫妻と村の関わりについての記述もあります。

さらには吉村さんの蔵書を元にした「吉村文庫」も同村に作られましたが、こちらは東日本大震災の津波で流されてしまいました。
 
さて、昨年発表された「東日本大震災田野畑村災害復興計画」によれば、来年開館予定で「津波資料館」を建設するそうです。
 
津村さんからのお手紙によれば、そちらへのご協力で、田野畑によく行かれていて、お忙しいとのこと。ちなみに津村さんは三鷹にお住まいです。
 
失礼とは存じますが、津村さん、昭和3年(1928)のお生まれで、おん年85歳。頭の下がる思いです。また、先述の吉村さんの『三陸海岸大津波』増刷分の印税、すっかり被災地に寄附されたそうです。かつて、光太郎が昭和26年(1951)に詩集『典型』で第2回読売文学賞を受賞した際、賞金を、当時住んでいた花巻郊外太田村にそっくり寄附したエピソードを彷彿とさせられました。
 
津村さんと田野畑村の活動、今後、001注意して行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月23日

昭和17年(1942)の今日、群馬前橋の岩佐直次の遺族を訪問しました。
 
岩佐直次は海軍中佐。この前年の真珠湾攻撃で特殊潜行艇による作戦を敢行して戦死、いわゆる「九軍神」の一人として称えられました。
 
光太郎は前日から日本少国民文化協会主催の講演会のために前橋に入っていました。翌月の『読売新聞』に「天川原の朝」と題して、岩佐家訪問の様子を発表しています。
 
「天川原の朝」、『高村光太郎全集』の第20巻に収録されており、解題では、雑誌『画報躍進之日本』第7巻第6号(昭和17年=1942 5月31日)を初出としていますが、そちらは転載で、同年4月6日の『読売新聞』が初出でした。

4月2日は光太郎の命日、連翹忌。1周忌の昭和32年(1957)に第1回の連翹忌が開催され、今年で58回目となります。
 
東京では日比谷松本楼さんを会場に行っており、現在、参加者募集中です。昨年と比べ、今のところの申し込みが若干少なく、残念に思っております。こちらをご参照の上、お申し込み下さい。
 
さて、毎年同じ4月2日に、光太郎が足かけ8年間過ごした岩手・花巻でも連翹忌が開催されています。
 
以下、花巻市の広報紙『広報はなまき』3月15日号から。 
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高村光太郎の連翹忌(れんぎょうき)

彫刻家で詩人の高村光太郎をしのび、連翹忌を開きます。
【日時】 4月2日(水曜日)、午後1時
【会場】 松庵寺
※当日午前9時から高村山荘敷地内で「詩碑前祭」が開催されます
【問い合わせ】 財団法人高村記念会(総合花巻病院内電話29-4681)
 
会場の松庵寺さんは、花巻滞在中の光太郎が毎年のように父・光雲や妻・智恵子の法要をやってもらっていたお寺です。花巻市街・マルカンデパートさんの裏手の方、双葉町にあります。
 
東北在住の方で、東京の連翹忌にご参加できない方、ぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月19日

平成5年(1993)の今日、鋳金家の故・齋藤明氏を重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定する旨、文化財保護審議会から文部大臣への答申がありました。
 
斎藤氏は光太郎の弟、豊周の工房で主任を務め、光太郎ブロンズ彫刻の鋳造を多数手がけられました。昨年11月にご逝去。東京の連翹忌には昨年までご参加下さっていました。
 

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東北レポートの最終回です。

3/9(日)、盛岡てがみ館さんでの企画展「高村光太郎と岩手の人」を見終わり、最後の目的地に向かいました。
 
てがみ館のほど近く、同じ中津川沿いにある「深沢紅子野の花美術館」です。

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深沢紅子(明治36=1903~平成5=1993)は、盛岡出身の画家。夫の省三ともども、盛岡での美術教育にも力を注ぎ、後進の育成に功績があり、やはり省三ともども、光太郎と交流がありました。
 
野の花美術館、こちらは直接光太郎と関わる展示はないのですが、数年前に立ち寄った際に、非常にいい感じだったので、リピーターとして行ってきました。
 
紅子は生涯野の花を描き続け、そちらの展示がメインです。下の画像は買ってきたポストカード。当方、柄にもなく花々が大好きです。
 
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さらに企画展として「深沢省三 童画原画展」が開催されていました。
 
本当に小さな美術館ですが、味わい深い作品の数々に出会えます。ぜひ足をお運びください。
 
その後、盛岡駅まで歩きました。歩いてみると、いろいろ思いがけない発見があるものです。
 
こちらは岩手県公会堂。昭和27年(1952)に光太郎がここで講演をしています。おそらく当時のままの建物でしょう。
 
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 盛岡市街、この手の古い建物が結構残っています。左下は「もりおか啄木・賢治青春館」。もと第九十銀行だった建物を転用しています。こちらは今回、前を通っただけで中はパスしたのですが、いずれよく観てみようと思っています。
 
街角には啄木もいました(笑)。
 
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 その後、盛岡駅から東北新幹線で帰りました。今回も充実した東北紀行でした。
 
これを読んで行ってみようという気になられる方がいらっしゃったり、あちらの方面に行かれる方のご参考になったりすれば幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月17日

大正4年(1915)の今日、上野精養軒で開かれた作家・歌人の平出修の追悼会に出席しました。
 
平出は与謝野鉄幹の新詩社同人。弁護士資格も持ち、幸徳秋水や管野スガなどのいわゆる「大逆事件」の弁護も務めました。前年のこの日に若くして亡くなっています。
 
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前列左から二人目が平出、後列左から二人目が光太郎、前列右端が鉄幹。明治37年(1904)の撮影です。

3/9(日)、紫波町の野村胡堂・あらえびす記念館を後に、一路、盛岡に向かいました。目指すは今回の東北紀行最大の目的地、盛岡てがみ館さんです。
 
同館では、先月末から第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」が開催中です。
 
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さらに3/9は、関連イベントとして、IBC岩手放送アナウンサー大塚富夫氏による「てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6」があり、この日にお伺いしました。
 
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同館は石川啄木が「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と詠んだ盛岡城にほど近い、中ノ橋というところにある観光文化交流センター「プラザおでって」の6階です。エレベータで上がっていくと、眼下に中津川。いい感じのロケーションです。
 
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館長さんや学芸員さんにご挨拶、早速、展示を拝見しました。
 
展示スペースはあまり広くありませんが、写真パネル等効果的に使い、見やすい展示になっています。
 
展示されている書簡は20通あまり。同館所蔵のもの、それから同じく盛岡にある盛岡先人記念館さんや盛岡市で所蔵しているのものなどでした。書簡以外にも肉筆の詩稿も展示されています。
 
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「そうだったらいいな」と思っていたのがまさにビンゴでした。『高村光太郎全集』等に未収録の書簡もあったのです。聞けば、盛岡先人記念館さんにて最近入手されたものだそうです。いずれ当方編集の「光太郎遺珠」にてご紹介したいと思っております。 
 
光太郎関連以外にも常設展示ということで、宮澤賢治や石川啄木の書簡なども並んでいます。この二人はともに夭折していますので、残っている書簡の数も少なく、非常に貴重なものです。
 
そうこうしているうちに、花巻の財団法人高村記念会の高橋邦広事務局長がいらっしゃいまして、お土産をいただきました。つい先日、花巻のお寺で見つかったという、仏像の縁起書のコピーです。光太郎とも関わっており、のちほどこのブログにてもご紹介します。
 
さて、午後2時となり、IBC岩手放送アナウンサー大塚富夫氏による「てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6」が始まりました。驚いたことに、展示スペースに椅子を並べてイベント会場としていました。ギャラリーなどではそういうこともしばしばあるのですが、文学館の類では別室で行うことが普通です。まぁ、展示資料を視界に入れながら聞く、というのもよいものでした。
 
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朗読されたのは、光太郎の詩、水沢町出身の美術評論家・森口多里宛の書簡や、昭和51年(1976)読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 201人の証言』の一節など。先日このブログでご紹介した、昭和25年(1950)の光太郎誕生日に関するものでした。
 
同館ではこうした朗読イベントも不定期に行っているそうです。
 
第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」、会期は6月までと、かなり長めです。また、4月、5月にも関連行事が予定されています。
 
ふみの日ギャラリートーク 「高村光太郎と岩手の人」   [開催日]4月23日(水)

館長によるギャラリートーク 「高村光太郎と岩手の人」  [開催日]5月31日(土)

 
ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月16日

平成14年(2002)の今日、NHKラジオ第2放送「NHKカルチャーアワー文学と風土」で「北国名作探訪 第24章 雪中独居……高村光太郎『典型』ほか」がオンエアされました。
 
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ナビゲーターは作家の高田宏氏。花巻郊外旧太田村の山小屋での光太郎が取り上げられました。上記画像のテキストも販売されています。2枚目のゴム長靴の写真は、十和田湖畔の裸婦群像制作のため上京した昭和27年(1952)10月、上野駅での一コマです。

3/8、9東北紀行レポートの3回目です。
 
3/9(日)、仙台から東北新幹線に乗り、北上で在来の東北本線に乗り換えました。この日最初の目的地は、岩手県紫波郡紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」さんです。
 
最寄り駅は「日詰」。花巻と盛岡の中間ぐらいでしょうか。
 
ホームに降り立ち、乗っていた列車が発車して行ってしまうと、実に意外な音、というか声が聞こえてきました。何と、白鳥の声です。
 
ホームから見える田んぼに、ざっと百羽以上の白鳥の群れ。
 
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湖などでなく、こういう形で白鳥を見たのは初めてで、感動しました。
 
駅前には宮澤賢治の短歌が記された碑がありました。
 

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曰く、
 
 さくらばな 日詰の駅のさくらばな かぜに高鳴り こゝろみだれぬ
 
大正6年(1917)、盛岡高等農林学校在学中の作品だそうです。
 
ところで野村胡堂・あらえびす記念館さんケータイの地図アプリで見てみると、日詰駅から約3.5㎞。路線バスは見あたらず、タクシーもいません。仕方なく、歩くことにしました。まぁ、毎日犬の散歩で5~6㎞歩くことはざらですので、さほど苦にはなりません。ただ、一泊分の大荷物を担いでなのが大変でした。

野村胡堂は光太郎より一つ年長。ここ、紫波町の出身で、「銭形平次」シリーズの著者として有名です。また「あらえびす」の筆名で音楽評論家としても活躍しました。
 
そして胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
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野村胡堂・ハナ夫妻
 
というわけで、光太郎智恵子関連の収蔵品があるかも知れないと思い、行ってみることにしました。
 
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途中の北上川に掛かる橋の欄干です。さすが「銭形平次」の里。ところで平次の恋女房・お静には、愛妻・ハナのイメージが投影されているそうです。当方、テレビ時代劇の「銭形平次」-最初の大川橋蔵さん主演の-での香山美子さんのイメージが鮮烈に残っています。「お前さん、いっといで」と切り火を切って送り出すような。
 
記念館の少し手前に、野村胡堂の生家も残っていました。

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立派な日本家屋ですが、驚いたことに、まだ「野村さん」がお住まいです。帰ってから調べてみたところ、住まわれているのは胡堂の弟のご子孫だそうです。
 
さて、記念館につきました。

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入口では胡堂の胸像が出迎えてくれます。
 
 
さらに館内に入ると、北大路欣也さん主演のシリーズで実際に使われた平次の衣装が出迎えてくれます。が、ここからは撮影禁止。そこでパンフレットの画像を載せさせていただきます。
 
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展示スペース、それほど広いわけではありませんが、導線がしっかりしているうえに壁の使い方が特徴的で、面白いと思いました。当方、花巻の光太郎記念館改修などに関わっているので、そういうところに目が行ってしまいます。
 
胡堂本人の資料ももちろん、島崎藤村の書や手紙などが多く展示されていました。他に江戸川乱歩やサトウハチローなどからの書簡も。
 
残念ながら光太郎智恵子に直接関わる展示物はなかったのですが、胡堂の生涯を紹介するビデオでは、先述の結婚披露宴介添えの話で、智恵子に触れていました。
 
それから音楽評論家「あらえびす」としてのレコードコレクションもものすごいのですが、こちらはリスト作成中とのこと。もしかすると光太郎作詞の戦時歌謡などの類も含まれているかも知れません。今後に期待します。
 
さて、意外とじっくり観たので、時間がおしてしまいました。次なる目的地、盛岡てがみ館に午後2時には入らないといけませんし、その前に昼食も取りたいところです。また日詰駅まで大荷物を抱えて3.5㎞、さらに在来の各停で盛岡、そして盛岡駅からてがみ館までも約2㎞……というのも大変だと思い、奮発してタクシーを使うことにしました。
 
盛岡編はまた後日。
 
今日はまた都内に出かけて参ります。用件は二つ。まずは福岡を拠点に活動されている女優の玄海椿さんの舞台を三鷹まで見に行きます。玄海さんの舞台は一昨年、「智恵子抄」が演目だった時に福岡まで観に行きました。今回は東京公演で、「黒田官兵衛」だそうです。
 
それから表参道のギャラリー山陽堂さんにて、「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」とトークイベント
 
明日のこのブログは東北レポートを一旦休止してそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月14日

平成5年(1993)の今日、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)御崎の海岸公園に、光太郎歌碑が除幕されました。
 
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女川同様、昭和6年(1931)の「三陸廻り」で光太郎が訪れた記念です。
 
刻まれているのは短歌。
 
黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり

今日から岩手の盛岡てがみ館さんで「第43回企画展 高村光太郎と岩手の人」が始まります。
 
過日、チラシ、ポスター等を頂きました。
 
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一番上の写真は、昭和昭和26年(1951)秋に花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れた詩人・宮静枝とその子供たち、宮が写した光太郎ポートレート、さらに宮澤賢治の主治医で、一時、光太郎を自宅に住まわせた佐藤隆房らとともに写っている写真もあります。
 
中央は光太郎詩「岩手山の肩」の直筆。同館ではこの原稿を所蔵しており、常設で展示されています。
 
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書簡に書かれたものもそうなのですが、味のある文字ですね。
 
チラシ裏面はこちら。
 
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右上の写真は花巻の財団法人高村記念会さんのご提供。その下に展示される書簡の写真が二葉。左が新岩手日報社に勤務していた松本政治宛、右が石川啄木研究家の吉田孤羊にあてたもので、どちらも同館所蔵のものです。10年程前に、これらを含む、『高村光太郎全集』未収録の書簡の情報をご提供いただき、補遺作品集「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。
 
他にどんなものが並ぶのか、非常に楽しみです。
 
会期は6月16日までと、かなり長めです。また、関連行事が以下の通り行われます。
 
3/9(日)14:00~15:00 てがみシアター~手紙の朗読を聴くvol6~
  講師・大塚富夫氏(IBC岩手放送アナウンサー)
4/23(水)14:00~15:00 「ふみの日」ギャラリートーク 同館学芸員
5/31(土)14:00~15:00 館長によるギャラリートーク
 
当方、3/9に参上します。皆様もぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月25日

昭和23年(1948)の今日、雑誌『至上律』に詩「蒋先生に慙謝す」が掲載されました。
 
蒋先生は、蒋介石。かつて昭和17年(1942)には、その抗日思想を烈しく批判した詩「沈思せよ蒋先生」という詩を雑誌『中央公論』に発表した光太郎ですが、戦後になって、軍部の走狗となっていた自らを恥じ、この詩を作りました。

昨日は、スキーと智恵子について書きました。
 
それでは、光太郎とスキーの関わりは、というと、次のような記録が残っています。
 
昭和37年(1962)、筑摩書房から初版が刊行され、011花巻の高村記念会で増刷された『高村光太郎山居七年』という書籍があります。編集は佐藤隆房。題名の通り、昭和20年(1945)から同27年(1952)にいたる、光太郎の花巻生活を、当時を知る人々の証言などによって記録したものです。
 
その中で、旧太田村の山小屋近くに住んでいた駿河定見氏の証言を元に書かれた部分が、以下の通りです。
 
定見さんは、スキーが上手で県の代表になって東北大会に出場したこともあり、小屋に行く時も冬はスキーで出かけます。それをみて先生は
「僕もスキーをやりたいんだが」
「先生、はいてみませんか……先生、できますか。」
「イヤー、やったらできそうだが、だが僕は足が大きいから、足にあわせてその金具を作らなければだめなんです。」
「スキーの山歩きは、峯から峯へと跳びまわりますのでとても痛快です。」
「あすこの山の上から降りてみなさい。」
 定見さんは、上からかなりのスピードで木の間を自由にカーブして裾の方まで辷りました。
「うまいですね。見ていても自分が走っているみたいな気になりますよ。」
 先生はスキーが欲しいと思ったようでしたが、定見さんは体のことを心配してそれ程すすめはしませんでした。
 
これは昭和22年(1947)のことだそうですが、翌23年(1948)の日記では、光太郎自身が次のように書いています。
 
午后サダミさんスキーで来訪、暫時談話、ガンジー暗殺されし由、初めてきく。山口部落の高須需(モトム)さんといふ人は日本スキー界の第一人者の由、その人にスキーをなほしてもらつたとサダミさんいふ。九左衛門さん宅の隣家の由。来年は余もスキーを入手したき旨語る、
 
先日のブログにも書きましたが、光太郎の住んでいた山小屋周辺は、この季節、クロスカントリースキーの練習コースになっています。
 
そういう場所での生活の中で、レジャーというより、必要に迫られてスキーに取り組むつもりがあったようです。ただ、年齢的なこと、健康上の懸念、そして光太郎自身言っていたような足の大きさの問題などから断念したようです。それにしても、齢60代後半にして、スキーを覚えようと考えた意欲には敬意を表さざるを得ませんね。
 
さて、いよいよ今日はソチオリンピックの開幕です。すでに開幕前から各競技の予選が始まっています。日本代表スキー選手のみなさんにも、ぜひ活躍してほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月7日

明治42年(1909)の今日、パリから親友の水野葉舟に宛てた書簡が『読売新聞』に掲載されました。
 
一部抜粋しましょう。
 
 さて僕がLondonからParisに来て既に半年はたつた。仏蘭西といふ国の真価が外見よりも遙かに大なのにも驚いたし、一般の国民が他国に比して確かに一歩進んだ地盤に立つて居るのにも感心した。仏蘭西に斯かる文芸の出来るのも不思議は更に無い。よく人が仏蘭西の美術も漸く衰へて、此から遠からず世界の美術の中心が亜米利加の方へ移るだらうなどゝいふが、其の言の誤つて居るのは来てみると直ぐに解る。仏蘭西の美術は漸く衰へる所では無い。此れから益々発展しやうとして居るのだ。
 僕も国を出てから彼是三年近くになる。今日までの研究で漸く根本の研究に会得する所があつたと信じて居る。今年あたりから自分の製作を追々と製作して見やうと思つて去年から此の大きなAtlierを借り込んで居たのだ。

本日も盛岡関連情報です。
 
盛岡市にある盛岡てがみ館さんで、以下の企画展が行われます。
開催期間:2014年2月25日(火)~6月16日(月)
 
彫刻家で詩人の高村光太郎は昭和20年(1945)、宮沢賢治の実家を頼って疎開し、以後約7年間を花巻で過ごしました。岩手の人と風土をこよなく愛した光太郎は盛岡へも足を運んで講演会を行ったほか、昭和23年(1948)に創設された県立美術工芸学校の運営を援助するなど、岩手の文化発展にも貢献しています。光太郎の岩手における人々との交流と足跡を手紙や原稿を通して紹介します。
 
【開館時間】 9時から18時まで(最終入場17時30分まで)
【休 館 日】  毎月第2火曜日 展示入替のため臨時休館有
【入 館 料】 個人 一般200円 高校生100円  団体 一般160円 高校生80円 (20人以上)
▼中学生以下、及び65歳以上で盛岡市に住所を有する方、また障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの介護者は無料。
【住  所】 盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階(地図・アクセス方法)
【電話・FAX】019-604-3302
 
 
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関連行事として、こちら。 
 開催日・期間:2014年3月9日(日)
 時間:14:00~15:00
 場所:盛岡てがみ館 展示室
 講師:大塚富夫(IBC岩手放送アナウンサー)
 料金:入館料が必要です。
 お申込み・受付方法:当日、直接当館にお越しください。
 
一通一通の手紙が織り成すストーリー。朗読を通して伝わる人間の心の機微にふれてみませんか?
☆テレビ、ラジオで活躍中のアナウンサー・大塚富夫氏を講師に迎え、著名人の手紙や第43回企画展に関連した高村光太郎の詩などを朗読していただきます。

 
盛岡てがみ館さんは、公益財団法人盛岡市文化振興事業団さんの運営で、公式サイトによれば、
 
盛岡市の中心部を流れる中津川河畔にある当館は、先人の書簡(てがみ)を中心に原稿・日記等を収蔵・調査研究・展示する、全国でもユニークな施設です。
郷土の発展には、先人の生きた知恵を学ぶことが大切だとよく言われています。 盛岡市には盛岡にゆかりのある著名人やその関係者の書簡(てがみ)、原稿、日記、ノート、筆墨など貴重な資料が数多く残されています。
個人のてがみは、執筆者の知られざる素顔をのぞかせながら、その時代の息吹きを鮮やかに伝える第一級の遺産です。これらの文化遺産を守りながら、多くの人たちに公開していくことが、私たちが未来に先人の知恵を手渡していくことになるのではないかと考えます。
  
とのこと。
 
当方、10年近く前に一度お邪魔したことがあります。こちらには『高村光太郎全集』等に収録されなかった光太郎の書簡がけっこうたくさんあり、その情報を提供していただいた関係です。宛先は石川啄木研究者の吉田孤羊、新岩手日報社関連などでした。
 
今回の企画展でも、『高村光太郎全集』等に収録されていない書簡が並ぶことを期待しています。
 
公式サイトから引用させていただいた011上記画像に写っているのは、詩人の故・宮靜枝。岩手県南部・江刺の出身で、昭和26年(1951)秋に、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れています。宮はその時の体験を元に、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』を上梓、第33回晩翠賞に輝いています。
 
上記の写真はその折のもの。これを含め、光太郎が写った写真20葉ほどを収めたアルバムが盛岡市立図書館に寄贈されており、そちらも見たことがあります。
 
光太郎の元にもこれらの写真が送られましたが、光太郎は宮宛の葉書に「写真はやはり小生の苦手で、気味が悪いと思ひました。」としたためています。
 
光太郎から宮宛の書簡は、『高村光太郎全集』に2通収録されており、今回も並ぶのではないかと思われます。
 
ちなみに宮が訪れた時、裁縫は得意でなかった光太郎、宮に遠慮がちにお願いしてカーテンを縫ってもらっています。ほほえましい交流ですね。
 
この企画展が開催されると知り、こちらから、岩手の公共施設等に収蔵されている光太郎書簡の情報を提供しました。先日、返答を戴き、それらの一部を展示する方向で考えているとのこと。少しはお役に立てたかなと想っております。
 
 当方、3月9日の関連行事に合わせて行ってみようと思っています。皆様もぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月31日

平成9年(1997)の今日、二元社から『智恵子その愛と美』が刊行されました。
 
智恵子の紙絵と文章、光太郎の詩文、自筆詩稿から採った文字で構成された美しい本です。
 
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気がつけば1月も明日で終わりです。そこで、来月行われるイベントをご紹介します。 
 
岩手は盛岡での演劇公演です。

宮沢賢治没後80年記念事業・畑中美耶子『モリーオ童話館』100回記念事業 第12回おでってリージョナル劇場  「泣きビッチョ光太郎」~昭和21年の星めぐり~

作:上田次郎 演出:坂田裕一、中村一二三 作曲:田口友善  
      
~あらすじ~      
時代は、昭和20年戦争末期から戦後。宮沢家に疎開していた高村光太郎を中心に、賢治を慕う大勢の人々が、「雨ニモマケズ」の教科書改ざん騒動を足がかりに、歌あり踊りありのドタバタな楽しい舞台を繰り広げる。      
      
【会 期】 平成26年2月21日(金)~平成26年2月23日(日) ◆4回公演      
                ①2/21(金)開場18:30 開演19:00
                ②2/22(土)開場13:30 開演14:00
                ③2/22(土)開場18:00 開演18:30
                ④2/23(日)開場13:30 開演14:00      
【会 場】 プラザおでって 3階おでってホール (盛岡市中ノ橋通1-1-10)
【入場料】 (前売)大人1,500円 大学生以下1,000円
        (当日)大人1,800円 大学生以下1,300円 (期日指定・全席自由)
【主 催】 盛岡市・公益財団法人盛岡観光コンベンション協会      
【提 携】 いわてアートサポートセンター      
【後 援】 岩手日報社、NHK盛岡放送局、IBC岩手放送、テレビ岩手、めんこいテレビ、 
      岩手朝日テレビ、エフエム岩手、岩手ケーブルテレビジョン、
      朝日新聞盛岡総局、
毎日新聞盛岡支局、読売新聞盛岡支局、
      産経新聞盛岡支局、盛岡タイムス社、 河北
新報社盛岡総局、岩手日日新聞社、
      ラヂオもりおか、月刊アキュート、 マ・シェリ、
情報誌游悠      
【プレイガイド】 プラザおでって、盛岡市民文化ホール、 盛岡劇場、都南文化会館、
         カワトク      
【お問い合わせ】 (公財)盛岡観光コンベンション協会 企画管理部 019-604-3300
 
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「泣きビッチョ」とは「泣き虫」といった意味でしょうか。
 
主演? の畑中美耶子さんという方は、盛岡で宮澤賢治作品の朗読等に取り組まれている方です。
 
明日詳しく紹介しますが、同じプラザおでって内の「盛岡てがみ館」さんでは、25日から「第43回企画展 高村光太郎と岩手の人」が開催されます。日程が重なっていればgoodだったのですが……。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月30日

昭和4年(1929)の今日、萬里閣書房から「光雲懐古談」が刊行されました。
 
光太郎の父・光雲が語った自己の半生、同時代の美術界の様相などをまとめたものです。
 
前半は「昔ばなし」。後書きによれば、大正11年(1922)に光太郎の朋友・田村松魚が、光太郎とともに光太郎アトリエや光雲邸で懐古談を聞き、それを筆録したとあります。
 
後半は「想華篇」。やはり光雲が、美術界の社交機関「国華倶楽部」で語った内容や、雑誌に発表された談話などの集成です。
 
前半の「昔ばなし」の部分のみ、その後何度も版を改めて刊行されています。
 
オリジナル萬里閣書房版の題字は光太郎、装幀は豊周。幕末から明治にかけての、当時の美術界の様子や、それにとどまらず、世相、江戸の街の様子などなど、多岐にわたる内容で、非常に貴重な回想です。また、光雲の軽妙洒脱な語り口も優れています。
 
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さて、前半の「昔ばなし」編。先述のとおり、後書きによれば、大正11年に光太郎の朋友・田村松魚が、光太郎とともに光雲の懐古談を聞き、それを筆録したとのこと。他に同席者は居なかったそうです。
 
その後再刊された各種の版についている解説等、すべてこれを鵜呑みにしていますが、どうも事実とは異なる部分があるようです。
 
『光雲懐古談』にさかのぼる昭和2年(1927)に春陽堂から刊行された『漫談明治初年』という書籍があります。「同好史談会」という団体の編纂ということになっていますが、中心は市島春城。春城による「はしがき」には以下のような記述があります。
 
 吾等は近年十数の同人と同好史談会と云ふを設け、折々会して維新当時の事につき互ひに知ることを語り合ひ、往々他から故老を招待してその談話を聴き、時には会員を諸方に派して故老の談話を筆記せしめたりして、其筆記が今は漸く積んで堆を為すに至つた。(略)春陽堂主人聞きつけてぜひ出版せよと勧めらるゝので、先づ明治十年頃までのものを選んで刊行することにした。
 
この『漫談明治初年』の中に、光雲の談話筆録も多数収録されているのですが、『光雲懐古談』の昔話と重複しています。部分によっては「国醇会講話」という説明も見えます。「国醇会」とは日蓮宗の運動家・田中智学を中心とする会でした。
 
光太郎アトリエや光雲邸で、田村と光太郎のみが聴いたはずの談話と、一字一句違わない談話が2年前に刊行された『漫談明治初年』に載っており、しかもそれが国醇会で語ったという説明がある。どう考えても矛盾していますね。
 
田村が光雲の懐古談を聞いて筆録したのはおそらく事実でしょう。しかし、刊行にあたって、田村が聴いた以外の談話も使用されていると考えるのが自然だと思います。あるいは『漫談明治初年』に収録されているのとほぼ同じ内容の話を聴いた田村が、それなら『漫談明治初年』に書かれている部分をそっくり引用してしまえ、と考えたのかも知れません。
 
または田村も「同好史談会」の構成員で、光雲に話を聴くのは会の事業だったのかもしれません。
 
いずれにせよ、「『光雲懐古談』の「昔ばなし」編は、田村松魚が、光太郎とともに光太郎アトリエや光雲邸で懐古談を聞き、それを筆録したものである」と断言するのは危険ですのでよろしくお願いします。

東北レポート最終回です。
 
1/19(日)、花巻を後にして、東北本線でさらに北に向かいました。次なる目的地は岩手郡岩手町。盛岡よりさらに北、青森との県境に近い地域です。
 
昨秋、その岩手町の川口公民館に、光太郎自筆の看板が2枚あるという情報を得まして、見に行ったわけです。
 
昭和27年3月20日の光太郎日記に、以下の記述があります。
 
午前九時半川口村の公民館帷子敏雄といふ人来訪、公民館図書館の看板の字をかいてくれとの事、鈴木彦次郎氏のテガミ持参、承諾。二枚の板を置いてゆく。
 
また、同じく4月29日には
 
川口村立図書館、川口村公民館を板に揮毫、
 
の記述があり、同じく5月10日の日記は以下の通りです。
 
川口村の帷子氏看板2枚受け取りに来る、川魚クキ20尾程ヒエ一升もらふ。
 
ちなみに川口村は昭和30年(1955)には合併で岩手町となっています。
 
盛岡で第3セクターのIGRいわて銀河鉄道に乗り換え、岩手川口駅を目指しました。途中、「渋民」という駅がありましたが、こちらは石川啄木の故郷です。
 
午前10時30頃、岩手川口駅に到着、そこから川口公民館まで歩きました。空は晴れていましたが、雪がちらついていました。
 
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あらかじめお伺いすることを伝えてありましたので、職員の方が待っていて下さいました。早速、木箱に収められた2枚の看板を出していただきました。
 
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上の2枚が「川口村公民館」、下006の2枚が「川口村立図書館」。墨で書かれたものですが、残念ながら、どちらも文字はほとんど読めなくなっていました。
 
裏面の碑陰記的なものは裏面なので墨痕鮮やかに残っていました。ただし、こちらは光太郎の筆跡ではありません。
 
実際に看板として屋外に掲げられ、風雨や雪に晒され続けたため、文字が薄くなってしまったのでしょう。最初の段階で墨ではなく油性の塗料で書くとか、透明なニスなどでのコーティングでもされていればこうはならなかったのだと思いますが、昭和27年当時ではそれも望むべくもなかったのでしょう。
 
しかし、実用されたた結果、文字が薄れたことについては、泉下の光太郎もかえって喜んでいるのではないかと思います。
 
逆に、文字が薄くなったからといって、誰かが上からなぞって濃くするというような乱暴な処置がされていないのは幸いでした。
 
ところで現在、同公民館の玄関には、下の画像の看板が掲げられています。こちらも結構年期が入っています。どうも書体の特徴から、もともとの光太郎の筆跡から「村」を除いて写し取ったもののように思われます。

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「関連する資料があればコピーをいただきたい」と、事前にお伝えしておいたため、2枚の看板を紹介する『岩手日報』さんの記事、公民館移転の際の行事に盛り込まれた故・帷子敏雄氏の談話筆録、昭和30年代に当時の公民館長が書き残した覚え書きなどをいただきました。有り難いかぎりです。
 
さらに、これが最も驚いたのですが、光太郎から帷子氏宛の自筆葉書のコピーもいただきました。4月29日付けで、揮毫が終わった旨の報告でした。『高村光太郎全集』等に未掲載のもので、いずれ当方編集の「光太郎遺珠」(今春発行のものには間に合いません)、当方刊行の『光太郎資料』にてご紹介します。
 
そしてこれも驚きましたが、たまたま公民館に帷子氏のご子息がいらしていましたので、お話を聴くことも出来ました。いただいた資料と合わせ、当時の経緯がよく分かりました。それによると、村の若者が集まっての炉端談義の中で、公民館、図書館の看板を立派なものにしようという提案が出、一流の文化人に書いてもらおうということになったそうです。そして同じ岩手県内に住んでいた光太郎に白羽の矢が立ち、花巻出身の村内教育委員の親類筋のつてで依頼したとのこと。こちらの経緯なども「光太郎遺珠」、『光太郎資料』にて詳述します。
 
かくて予定していた目的は全て終了。岩手川口駅の隣、いわて沼宮内から東北新幹線で帰りました。
 
1泊2日の東北紀行でしたが、いつにもまして実り多い調査行でした。今回も行く先々でいろいろな方々のお世話になり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月24日

昭和16年(1941)の今日、有楽町産業組合中央会間で開催された「講演と朗読-愛国詩の夕」で「詩人の魂」と題して講演を行いました。

東北レポート4回目になります。もうしばらくおつきあい下さい。
 
1/19(日)、花巻南温泉峡鉛温泉藤三旅館をあとにし、タクシーで太田地区に向かいました。目指すは光太郎が7年間暮らした山小屋「高村山荘」、そしてすぐ近くに建つ「高村光太郎記念館」です。この区間はタクシーを利用せざるを得ません。
 
以前は冬期間閉鎖でしたので、当方、この時期に行ったことはありませんでした。それが、記念館の方は昨年5月のリニューアルオープンを機に花巻市営となり、他の市営施設同様、通年開館となったので、雪に埋もれる様子を実際に観て、光太郎のいた冬を実感してみようと考えた次第です。
 
鉛温泉からタクシーで約20分、現地に着きました。やはり一面の銀世界です。
 
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記念館が開くのは午前8時30分。まだ少し間があるので、先に高村山荘を目指しました。駐車場から歩くこと数百㍍、途中までは道らしき形になっていましたが、あと百㍍くらいのところで、道は山荘の方から外れた山の上に向かっていました。後で聞いたところでは、道的なものはロスカントリースキーの練習コースだそうです。しかたなく、道から外れ、ほとんど道なき道を山荘に向かいました。地面の積雪は1㍍くらいでしょうか。晴れていたのが幸いで、吹雪いている時などはまず歩けないところです。
 
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奥の白い建物が山荘。ただし中尊寺金色堂のように、套屋(とうおく)というカバーの建物が二重にかぶせてあり、その外側の第二套屋です。通常は第二套屋の中に入って、第一套屋のガラス越しに山荘を見る形になります。しかし、この時期は錠をあけていないとのこと。ここに至るまでの雪かきが事実上不可能だからだそうです。ただ、記念館の方で頼めば開けてくれないでもないそうです。また、記念館で長靴を貸して下さるとのこと。
 
手前の小さな建物は、便所として光太郎が使用していたもの。草野心平の命名で「月光殿」というしゃれた名が付いています。こちらにもトタン板の簡素な套屋がついています。
 
さらに近づいてみるとこんな感じです。
 
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 月光殿の方は、ガラス越しに光太郎が彫った明かり取りのための「光」一字が見えます。
 
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「ミニかまくら」というか「雪見だいふく」というか、この丸いのは灌木です。
 
山荘の前を通り過ぎ、南西方向から撮ったショットがこちら。
 
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この套屋のないむき出しの山小屋で、光太郎は7回も冬を越したわけです。当時(今も)、一番近い民家まで数百㍍。日記を読むと、冬場には誰一人訪ねてこない日も珍しくありませんでした。どんな思いでここに住み続けたのか、その思いに少しでも近づけたら、と考えています。
 
ここからさらに奥に、光太郎の「雪白く積めり」石碑、佐藤隆房博士顕彰碑、智恵子抄泉、智恵子展望台などがあるのですが、さすがにそちらまで行くのは断念しました。遭難しかねません。
 
そろそろ記念館の開館時間なので、そちらに向かうと、女性職員の方が駐車場からの道の雪かきをなさっていました。さらに記念館のすぐ近くでは、小型除雪車が雪を吹き飛ばしています。と、運転していた方が当方に気づいて「や、どうも」と言いつつ降りてきました。何と、㈶高村記念会の高橋卓也氏でした。当方がうかがうことは事前に連絡してあったので、待っていてくださったわけです。
 
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二人で中に入り、現状をうかがいました。とりあえず来館者は毎日いるとのこと。「ワンコインタクシー」なるものが運行されていて、それを利用する方がけっこういらっしゃるそうです。
 
「ワンコインタクシー」。半日で一人500円とのこと。東北新幹線の新花巻駅を午後1:05に出発し、宮澤賢治記念館→花巻新渡戸記念館→高村光太郎記念館→花巻温泉郷→花巻空港→新花巻駅というコースで、最後は在来東北本線花巻駅に18:00着だそうです。
 
これで500円は確かに安すぎですね(各施設の入館料は別ですが)。しかも宿までいけてしまうというのも便利だと思います。「花巻温泉郷」というのは、鉛温泉や大沢温泉などを含む「南花巻温泉峡」とはまた別の、高級ホテルが並ぶ区域(そちらにも光太郎賢治ゆかりの宿等があります)ですが、南花巻温泉峡もまわるようです。
 
ただし、要予約、さらに基本コースは上記のとおり既定ということです。また、他のコースも設定されています。
 
さて、高村記念館を後にし、待っていていただいたタクシーに再び乗り込んで、在来の花巻駅に向かいました。結局、料金は6,000円ちょっとでした。当方のたどった南花巻温泉峡→高村光太郎記念館→花巻駅というコースを普通にタクシーを利用すると、このくらいはかかってしまいます。逆のコースでも同じでしょう。以前は「高村山荘行」という路線バスがあったのですが、今は廃線になっています。これから行かれる方、ご参考までに。
 
さて、在来の花巻駅から東北本線でさらに北を目指しました。次なる目的地は岩手郡岩手町。そちらはまた明日。
 

 
別件です。俳優の高橋昌也さんの訃報が出ました。
 
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高橋さんは、昭和51年9月、新橋演舞場にて「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の「智恵子抄」(北条秀司作)で、光太郎役をなさいました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月23日

明治45年(1912)の今日、光太郎が扉の図案を描いた与謝野晶子の歌集『青海波』が刊行されました。
 
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東北レポートの3回目です。
 
1月18日(土)、午前中は福島市での調査、午后には新花巻駅近くの花巻市博物館の企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」を拝見しました。その後新花巻駅に戻り、そこから宿へと向かいました。
 
宿は花巻南温泉峡の鉛温泉藤三(ふじさん)旅館さん。当方、花巻での定宿は、同じ花巻南温泉峡の、光太郎、そして宮澤賢治ゆかりの宿大沢温泉さんですが、今回はそちらが取れませんでした。そこで、大沢温泉さんより少し奥地にある鉛温泉さんに宿を定めました。こちらも光太郎・賢治ゆかりの宿なので一度泊まろうと思っており、ちょうどよかったと言えます。
 
花巻南温泉峡に行く手段としては、タクシー、岩手交通さんの路線バス、そして温泉組合的なところで運行している無料のシャトルバスがあります。昔は花巻電鉄というローカル線が走っていましたが、廃線となってしまいました。
 
鉄道の駅は、新幹線の新花巻駅が温泉峡と市街地をはさんで反対側の東部なので若干遠く、アクセスしやすいのは在来の花巻駅からの方です。ただ、無料のシャトルバスは新花巻駅から出て在来の花巻駅を経由するので、当方、今回はこれを利用しました。下記が時刻表です。
 
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光太郎は、昭和31年(1956)2月、亡くなる2ヶ月前の談話筆記「花巻温泉」で、鉛温泉について以下のように述べています。
 
 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 
他にも賢治の童話「なめとこ山と熊」にも鉛温泉が登場しますし、昭和25年(1950)には作家の田宮虎彦が滞在、ここを舞台にした小説「銀心中」を執筆したそうです。
 
新花巻駅の観光案内スペースに置いてあった花巻市発行の情報誌『花日和』の2013年冬号を1冊頂きました。旧太田村の光太郎が暮らした山小屋付近の風景や、鉛温泉さんが大きく扱われていたためです。
 
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そちらによれば、藤三旅館は鉛温泉の一軒宿で、天明6年(1786)の開業。開湯はさらに古く、室町時代にさかのぼるとのこと。オーナーの先祖が、この地で白猿が傷を癒していた温泉を見つけたのが始まりだそうです。
 
名物は深さ約130㌢という、立ったまま入る岩風呂「白猿の湯」。上の2枚目の画像にうつっています。光太郎の談話筆記で「その様を小高い所から見下せる」とあるのが、ここのことだと思われます。現在は光太郎の時代とは異なり、また混浴に戻っています(女性専用の時間帯あり)。しかし、当方が入った時には残念ながら男性しかいませんでした(笑)。他にも男女別の露天風呂や内風呂がいくつかあり、24時間入浴可です。当方、1泊2日で3回入浴しました。
 
昭和16年(1941)竣工という本館は非常に趣がありましたし、何より料理が美味しく、手が込んでいました。また、夜は窓を開けると豊沢川の流れにライトアップが施され、幻想的な雰囲気でした。
 
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というわけで、温泉と料理を堪能し、翌朝、宿を出ました。手配して置いたタクシーに乗り、高村山荘・高村光太郎記念館へ。そちらについてはまた明日レポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月22日

昭和26年(1951)の今日、花巻の靴屋で12文(約30㌢㍍)の長靴を買いました。
 
光太郎、身長もそうですが、手足が異様に大きかったことも有名です。
 
ちなみにこの時、昨日ご紹介した佐藤隆房宅に1週間ほど逗留していました。その後は大沢温泉に行き、10日ほど宿泊しています。

前回からの続きです。
 
福島市を後に、再び東北新幹線に乗って、次なる目的地、花巻を目指しました。途中、仙台を過ぎても平地には雪がほとんどありませんでしたが、やがて岩手県内に入ると徐々に雪が積もっている様子が目につくようになりました。新花巻駅に着いた頃は、すっかり白銀の世界でした。
 
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新花巻駅の観光案内的なコーナーでは、光太郎が出迎えてくれました。
 
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普段、花巻に行く時は、北上で東北新幹線から在来の東北本線に乗り換えることが多く、新花巻駅に降り立ったのは久しぶりでした。そのため、こういうコーナーがあることを存じませんでした。
 
新花巻駅から雪道を歩くこと約15分、花巻市博物館に到着しました。
 
 
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こちらでは、企画展「佐藤隆房展―医は心に存する―」が開催中です(2/11まで)。
 
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佐藤隆房は明治23年(1890)、栃木那須の生まれ。千葉医専(現・千葉大学医学部)卒業後、医療施設の少なかった東北での医療活動に従事することを志願、縁あって大正12年(1923)、花巻に花巻共立病院(現・総合花巻病院)を開業しました。
 
地元の有力者だった宮澤家も開院に協力、その関係で賢治晩年の主治医を務め、その最期を看取りました。賢治の詩「S博士に」は佐藤のことを描いたものだそうです。
 
さらに宮澤家の関連で、光太郎とも知遇を得、交流を深めました。宮澤家の意向を受けて既に戦時中に東京で光太郎に会い、花巻疎開を勧めたといいます。
 
光太郎が花巻に来てからは、旧太田村の山小屋に移る前、一時、自宅の離れに光太郎を住まわせたり、その後も折に触れ、行き来をしていたりしました。
 
光太郎歿後は財団法人高村記念会を創設、花巻での顕彰活動を牽引し、昭和54年(1979)歿。現在は子息・進氏が理事長を務めています。
 
企画展では佐藤の生涯と業績をたどる品々の他、賢治の草稿や光太郎の揮毫、彫刻なども展示されていました。一見の価値はあります。ぜひ足をお運びください。
 
その後、新花巻駅に戻り、そこから無料送迎バスでその日に泊まる鉛温泉藤三旅館に向かいました。そちらについてはまた明日。
 

 
BS-TBS 2014年1月25日(土)  21時00分~21時54分
 
「阿多多羅山(あだたらやま)の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。」
安達太良山は、高村光太郎の『智恵子抄』に歌われたことで広く知られるようになりました。
 
南北9キロに渡って連なる安達太良連峰のひとつで、標高は1700メートル。なだらかに美しい稜線を引き、山頂には突き出た岩峰があるため遠目には女性の乳房のようにも見え、別名「乳首山(ちちくびやま)」とも言われています。
 
智恵子のふるさとの山であり、また、そのたおやかな山容から女性的なイメージを持たれる山ですが、実際に登って見るとまた別の姿を見せます。北西からの季節風が遮られることなく吹き付けるため、この時期の稜線は突風が吹き荒れます。また、連峰の山頂部には大きな火口跡があり、荒々しい景観が広がっています。安達太良山は火山活動によって生まれた山で、最近では明治時代に爆発を起こしています。
 
厳冬期の安達太良山を雪山初挑戦の女優の春馬ゆかりさんが目指します。雪の状態を見極め、アイゼンとスノーシューを履き替えながらの山行となりました。
 
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さすがに標高1700㍍の山ですね。ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月21日

昭和3年(1928)の今日、丸の内中央亭で開かれた第一回詩人協会総会に出席しました。
 
この席上、光太郎は年鑑編纂委員、評議委員を引き受けたそうです。同年6月には実際に『詩人年鑑1928』がアルスから刊行されました。
 
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いわゆる詩壇の大御所とは深いつきあいをしなかった光太郎ですが、この「詩人協会」はどちらかというと若い詩人を中心に結成されたもので、この時期の光太郎は若い詩人達にカリスマ的存在と見られていました。
 
しかし、その活動は長くは続かず、昭和6年には解散してしまいます。年鑑も1回限りの刊行でした。

暮れに岩手花巻の浅沼隆様から地元紙『岩手日日』さんが送られてきました。
 
浅沼さんは花巻郊外旧太田村にお住まいで、太田村時代の光太郎をご存じの方です。昨秋、NHKさんで放映された「日曜美術館」で、その頃の思い出を語られました。現在は農業のかたわら、花巻の財団法人高村記念会理事として、現地での光太郎顕彰活動に取り組まれています。
 
送っていただいた『岩手日日』さんの記事のうち、先月6日の記事がこちらです。
 
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光太郎の業績伝えて 高村記念会 市へ美術品5点寄付

 財団法人高村記念会(佐藤進会長)は5日、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作した美術品5点(評価額6400万円相当)と記念館整備資金として500万円を花巻市に寄付し、同市太田の高村光太郎記念館で後世に伝えていくよう願った。
 
 寄贈された美術品は▽十和田湖畔裸婦像原型▽光雲還暦記念像(光雲の首)▽少年の首(薄命児頭部)▽裸婦坐像▽手。
 同記念会の佐藤会長、宮澤啓祐理事ら関係者が市役所を訪問、父親の故隆房さんが光太郎と親交のあった佐藤会長は「高村先生のことを忘れてもらいたくない。市から支援を頂いて後世に残したい」と語り、美術品と寄付金の目録を受け取った大石満雄市長は「本物の作品が花巻にあるのはすごいこと。後世に残すため十二分に対応していきたい」と応じた。
 東京出身の光太郎は、宮澤賢治との縁で花巻に疎開し7年間暮らした。
 市は、同市太田の旧花巻歴史民俗資料館を活用し、同記念会が設置・運営して老朽化していた高村記念館の収蔵資料を全て移す計画で「高村記念館」を整備している。光太郎の生誕130年に当たる2013年度は、5月15日の高村祭に合わせてプレオープンした。
 新しい記念館では、今回寄贈された美術品5点を含む光太郎の彫刻、書画、文芸、愛用品などを展示している。光太郎の顕彰施設としては国内唯一で、市賢治まちづくり課によると入館者数は着実に伸びているという。
 14年度も施設や周辺環境の全体整備を継続し、光太郎の疎開70年目に当たる15年度の本格オープンを目指している。

というわけで、昨春仮オープンした高村光太郎記念館で展示されている光太郎ブロンズ彫刻のうち、5点が財団法人高村記念会から花巻市に寄贈され、所有権が移ったという記事です。
 
彫刻の名前が、多少誤解を招きそうなので補足しますが、「十和田湖畔裸婦像原型」とあるのは「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」が正しい名称で、七尺の十和田の裸婦群像の2分の1スケールで作られた試作です。
 
「光雲還暦記念像(光雲の首)」とあるのは、「光雲の首」を正しい名称としています。明治44年に作られた「光雲還暦記念像」そのものは空襲で焼け、現存しませんが、こちらはそのための試作として作られたと推定されているものです。石膏のまま高村家の蔵から見つかり、昨秋亡くなった人間国宝の鋳金家・斎藤明氏がブロンズに鋳造しました。
 
ところで記事にもあるとおり、今後も花巻の記念館の整備が続きます。当方、そちらにも関わっております。
 
それからやはり記事にあった高村記念会の創設者・佐藤隆房に関する企画展「佐藤隆房展―醫は心に存する―」が、現在、花巻市博物館で開催中です。当方、来週、観行く予定です。
 
花巻の今後にご注目下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月5日

大正4年(1915)の今日、北原白秋に宛てて年賀状を書きました。
 
麻布区坂下町十三 北原白秋様
 
賀正 大正四年一月五日 駒込林町二十五 高村光太郎 <いつも貴重な雑誌を頂いて居りましてありがたく存じます。>
 
当方、今年もたくさんの年賀状を頂いております。ありがとうございます。

今月26日、岩手の地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

入館者1万2000人超 高村光太郎記念館

 花巻市は、同市太田に今春仮オープンした高村光太郎記念館の入館状況を11月末現在でまとめた。総入館者数は1万2000人を超え、財団法人高村記念会(佐藤進会長)が運営していた旧記念館の2012年度実績を上回る状況。通年開館となり、この冬の入り込みが注目される。

 高村祭に合わせた5月15日の仮オープンより前の旧記念館分を一部含む4月以降の総入館者数は1万2558人。旧記念館の前年度実績(4月1日~12月15日)は1万1143人で、12月分を残して既に前年度の総数を上回っている。

 入館者の内訳は、一般が1万1112人、高校・学生が217人、小・中学生1229人。個人が9695人で全体の77・2%、団体が2863人(63団体)で同じく22・8%。一般は個人観光客、小・中学生は修学旅行などの団体客が8割強を占め、高校・学生は6対4で個人が多い。

 市賢治まちづくり課の高橋久雄課長は「個人客が目立つが、団体客も少しずつ入るようになった。まだ周知不足の面もあり、徐々に広がれば」と期待。さらに「通年開館で、これからの時期は光太郎が過ごした冬の厳しさの一端も感じ取ることができるはず」と話している。

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)は、宮沢賢治との縁で花巻に疎開し、晩年を過ごした。同記念館は光太郎が独居自炊した小屋(高村山荘)奥の旧高村記念館が手狭で老朽化したため、山荘の手前にあった市の花巻歴史民俗資料館を活用した。

 彫刻作品や文芸、愛用品など約150点を展示し、光太郎の生誕130年に合わせて展示室のみで暫定オープン。疎開70年に当たる15年度の本格オープンに向け、併設の収蔵庫や周辺環境を含めた全体整備を14年度中に進める計画。
 
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記事にあるとおり、今春仮オープンした花巻の高村光太郎記念館ですが、入館者数の昨年実績を上回っているそうです。ただ、実は、対前年比がもう少し伸びていてもいいのかな、というのが正直な感想です。その分、こうして宣伝していただくことが人寄せになるかと思いますので、ありがたいことです。
 
以前は冬期閉鎖でしたが、今年から通年開館。これも記事にあるとおり、これから雪に覆われる時期で、隣接する高村山荘での光太郎の暮らしを偲ぶにはもってこいですね。当方も、来月、また訪れる予定です。みなさんもどうぞ。
 
『岩手日日』さん、前日には当方に関する記事も載せて下さいました。
 
年2回、4月2日の連翹忌と、10月5日のレモンの日に合わせ、当方が刊行している冊子『光太郎資料』。今年10月に出した第40集を紹介していただきました。
 
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当会名簿に載っている方と、光太郎智恵子に関連のありそうな機関に勝手に送りつけているものですが、『岩手日日』さんにも送っており、紹介して下さった次第です。過分なお褒めのお言葉をいただき、恐縮しております。
 
早速問い合わせも何件かあり、ネットとはまた違う「新聞」の力を実感しました。
 
当方が刊行した第37~40集、まだ若干の残部があります。また、来春刊行予定の第41集、現在、鋭意作成中です(そのために一昨日、国会図書館に調査に行って参りました)。必要な方、このブログのコメント欄等からご連絡下さい。送料のみでお頒けしております。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月28日

昭和28年(1953)の今日、十和田湖畔の裸婦像建設委員会がその役目を終え、解散しました。
 
除幕がこの年10月でした。以前にも書きましたが、ちょうど60年です。

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