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毎年ご紹介していますが、4月2日の光000太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さん(先頃、閉店が発表されたマルカンデパートさんの裏手)で、花巻としての連翹忌が開催されます。それぞれ花巻高村光太郎記念会さんの主催です。

昨日発行の『広報はなまき』に案内が載りました。

ちなみに東京では日比谷公園内の松本楼さんで行っていますが、今年は「第60回」です。光太郎一周忌の昭和32年(1957)に、「第1回」を行い、カウントが続いています。

花巻の方は「61回忌」として行われるはずです。「~回忌」は、年令の数え年と同じで、亡くなった年の葬儀を「0」ではなく「1」と数え、翌年のみ「一周忌」と表しますが、さらにその翌年が「3回忌」となり、以後、数字が増えていきます。したがって、東京日比谷での連翹忌とは数字が異なります。


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当方、東京での連翹忌を進行しなければなりませんので、花巻の連翹忌に参加したことはありませんが、光太郎第二の故郷ともいえる花巻での取り組みも、末永く続いてほしいものです。お近くの方で、東京には来られないという方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

石崩(いしくへ)の崕(がけ)のはざまのほけ土も足るや花さき瑠璃の色しぬ
明治40年(1907) 光太郎25歳

「ほけ土」は『広辞苑』によれば「ねばりけがなく草木の生育に適さない土」。漢字では「壚土」と書きます。

まずは昨日の『岩手日報』さんの一面コラム。  

風土計 2016.3.4

詩人の高村光太郎は終生、妻の智恵子を愛した。無二の女性との出会いから、光太郎は退廃的な生活と決別。美に生きる人生へ踏み出す
▼智恵子は心の病を患い、光太郎の手が届かない世界に向かう。その時、真の美が立ち現れる。「あなたはだんだんきれいになる」「人間商売さらりとやめて、もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子のうしろ姿がぽつんと見える」
▼「智恵子抄」につづられた光太郎のまなざしは、どこまでも愛をたたえる。この詩集が不朽の名作たるゆえんは、文学的高みに加え、病気や障害がある人に寄り添うとはどういうことか、心の琴線に触れるからでもあろう
▼超高齢社会の今、愛のまなざしは、監視の目線に取って代わられようとしている。認知症患者の徘(はい)徊(かい)事故で、家族が賠償を求められるケースが相次いでいるからだ。2人が現代に生きていたら、光太郎は智恵子の後ろ姿を慌てて追いかけ、家に閉じ込めたかもしれない
▼愛知県で起きた徘徊事故をめぐり、最高裁は家族の監督義務について、防ぎ切れない事故の賠償責任までは負わないとする初判断を示した。在宅介護に苦悩する家族に朗報となった
▼とはいえ、免責される基準は明確ではなく、家族の負担はなお重い。社会で見守る仕組みがない限り、介護の哀歌は生み出され続ける。


岩手は光太郎の第二の故郷ともいえます。そこで『岩手日報』さんや『岩手日日』さんの一面コラムには、かなりの頻度で光太郎智恵子が登場します。

しかし今回の内容は、その件にからめますか、という感じでした。

たしかに実際、智恵子の心の病が昂進した時期には、どうしても出かけなければいけない用事があると、光太郎はアトリエの戸に釘を打って出かけたとのこと。それでも智恵子は戸をこじ開けて往来に出、大騒ぎをしていたそうです。

明日は我が身、かもしれません。


岩手つながりでもう1件。

過日、『岩手日日』さんの記事から、戦後の太田村時代に撮られた光太郎が写った写真の発見をご紹介しました。

その後、『読売新聞』さんと『朝日新聞』さんの岩手版にも記事が載りましたので、ご紹介します。 

高村光太郎 花巻での姿…民家に写真、市へ寄贈

 詩集「智恵子抄」などで知られ、晩年を旧太田村(現花巻市)で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)が写ったスナップ写真が、花巻市内の民家で見つかった。手のひらサイズの白黒写真で、最前列中央に腰掛けた高村は眼鏡に国民服姿。帽子を左手につかみ、柔らかな表情を浮かべている。
 写真が見つかったのは、花巻市太田の主婦、安藤幸子さん(78)宅。地域の役員など十数人と撮影した集合写真とみられ、右端には民生委員を務めた安藤さんの母・アンさんの姿もある。
 東京のアトリエを空襲で失った高村は1945年から7年間、太田村の山あいにある粗末な小屋「高村山荘」で独居自炊生活を送り、地域住民と交流を続けた。没後60年の今年、太田地区の住民らが高村に関する勉強会を開く中で、安藤さん宅に保管された写真の存在に気付き、花巻市に寄贈した。
 花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さんは「個人所蔵のスナップ写真が見つかるのは珍しい。写真はほかにも存在すると思うが、ここ数年は見つかっていなかった。地域住民との交流を裏付ける貴重な写真」と話している。
 市は写真を修復し、撮影時期を特定したうえで、高村光太郎記念館(花巻市太田)で展示することにしている。
2016年02月28日
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岩手)光太郎先生と貴重なショット 花巻の女性が寄贈

 花巻市太田002の安藤幸子さん(78)が、詩人で彫刻家の高村光太郎が写った写真資料を同市に寄贈した。高村光太郎は1945年から7年間、当時の旧太田村で暮らしており、後半期の撮影とみられる。花巻高村光太郎記念会は「光太郎先生と住民との交流が分かる貴重な資料」と説明する。
 当時の医院の前で撮影したとみられ、向かって光太郎の右隣に医師家族、左隣に太田村長を務めた高橋雅郎氏が写っている。市は今後、撮影日時などを調べ、高村光太郎記念館での展示を予定している。
 安藤さんは子どもの頃、光太郎が住んでいた山荘を訪ねたことがあり、部屋中が本でいっぱいだったと記憶している。「大きな人で迫力があった」と話す。(石井力)
2016年3月4日

この記事を執筆なさった石井氏は同紙北上支局長さんです。昨年、「戦争協力、自ら罰した光太郎」というコラムで、当方もご紹介下さいました。


しつこいようですが、光太郎の第二の故郷ともいえる岩手。本来の故郷の東京は有名人の出身者が多く、光太郎レベルでも出身者としては埋没しています。そういう意味で、第二の故郷・岩手での顕彰がもっともっと進む事を期待します。


【折々の歌と句・光太郎】

くれなゐの蕾うれしき春の朝あなこは小雨さく花の白き
明治34年(1901) 光太郎19歳

いよいよ春本番となって参りました。

「あな」は感動詞。「ああ」といったところ。「こ」は「これ」。紅の蕾で咲いたら白いのは、梅でしょうか。

昨日の『岩手日日新聞』さんに、以下の記事が出ました。 

光太郎の新たな資料 住民との集合写真 安藤さん(太田)、市に寄贈

 花巻市に疎開した彫刻家で詩人の003高村光太郎(1883~1956年)の新たな資料が26日、市に寄贈された。住民との交流を示す集合写真で、関係者は貴重な資料の発見を喜ぶとともに、光太郎に関する資料について新たな情報提供に期待を寄せている。
 寄贈したのは、同市太田の安藤幸子さん(78)。2015年10月に開かれた光太郎に関する太田地区振興会の勉強会をきっかけに、安藤さんが自宅で光太郎の写真を見たことを思い出し、母親アンさん(故人)のアルバムから見つけた。高村光太郎記念館の市川清志館長に拡大した写真を自宅で手渡した。
 当時の太田医院と思われる建物を背景に撮影された写真で、中央に光太郎が写っているほか、同医院の関係者や旧太田村役場職員らと共に、アンさんの姿も納められている。
 光太郎は1945年5月から52年10月まで市内太田地区に疎開していた。花巻高村光太郎記念会事務局企画担当の高橋卓也さん(39)は「手にしたブッシュハットを見ると、撮影されたのは疎開後半の頃では。報道関係など公の写真は多いが、当時は写真機を持っている人が少ないため貴重なスナップ写真。地域の人々との交流を裏付ける資料。光太郎は各地で講演を行っているので、写真が残っているのでは。これをきっかけに、新たな情報提供を期待したい」と話している。
 安藤さんは「中学生の頃に友達と光太郎先生の山荘にお邪魔した記憶がある。玄関先からたくさんの本が積まれていた。そんなに偉い先生とは思っていなかった」と当時に思いを寄せている。
 市川館長は「埋もれている資料が見つかって良かった。光太郎についての地元の顕彰活動を一緒に盛り上げたい」と話している。同館では写真資料を保管し、撮影年代や住民を特定したい考え。


ときおりこういうケースがあって、ありがたいかぎりです。特に光太郎の岩手時代(昭和20年=1945~27年=1952)の写真、書、書簡類はまだまだあちこちに埋もれているはずです。光太郎が居た花巻周辺や、たびたび訪れた盛岡方面など。また、講演などで東北各地に足跡が残っていますので、そういう所でも。

実は当方が昨年暮れに訪れた秋田の横手にも書が複数残っているらしく、時間を見つけて調査に行こうと思っております。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。

「うちにも光太郎先生の写真やら書やらがある」という方は、花巻の高村光太郎記念館、または当方までご一報いただければ幸いです。
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【折々の歌と句・光太郎】

山の鳥うその来てなく武蔵野のあかるき春となりにけらしな
制作年不詳

大正14年(1925)制作の木彫「うそ鳥」に関わると考えられますが、細かな制作年は不詳です。

「なりにけらしな」は「なったに違いない」。明治生まれなので、ある意味当然かも知れませんが、こうした古語に対する光太郎の知識や、自然にそれを使えるところには舌を巻かされます。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

まずは今週初めの『日刊スポーツ』さんの記事です。 

競歩で高橋英輝が連覇、リオ五輪代表に決定

<陸上:日本選手権>◇21日◇神戸市六甲アイランド甲南大周辺コース◇20キロ競歩

 リオデジャネイロ五輪代表選考会を兼ねた日本選手権20キロ競歩で、男子は高橋英輝(23=富士通)が1時間18分26秒で2連覇を果たし、五輪代表内定を決めた。派遣設定記録だった1時間20分12秒を悠々と突破。「何度もダメかと思ったのですが、最後まで頑張れた。(これから)メダルを目標に頑張りたい」と喜びを語った。
 
 岩手大の学生として臨んだ昨年の同選手権では、1時間18分3秒の当時日本新記録を樹立。後に世界記録を打ち立てる鈴木雄介(28=富士通)に食らいつき、残り1キロで引き離す展開だった。今回は鈴木が欠場。20日には「去年まで雄介さんの力を借りていた。自分でレースをコントロールしたい」と意気込んでいた。序盤から先頭集団を引っ張ると、17キロ辺りからスパートして優勝。新たな可能性を示した歩みになった。
2016年2月21日


それを受けての『岩手日日新聞』さんのコラムです。 

コラム(2/22)

その青年を間近で見たのは、1年前のことだ。陸上競技の選手らしく体形は細身。背広姿であったが、ステージを歩く際には背筋がピンと伸びていた。まずは姿勢の良さが目に付く。「やっぱりトップアスリートともなると随分と違うな…」と感心した
▼いつになく凡夫が熱視線を送った人物とは、競歩界のホープであった高橋英輝選手。彼は岩手大の4年生だった2014年12月、長崎県で開かれた大会の男子1万メートルで日本新記録を打ち立てて優勝。昨年2月26日に岩手日日学生賞が贈られている
▼その贈呈式に出席した人々は、彼のスピーチにも耳をそばだてた。何しろ次のリオデジャネイロ五輪も狙える逸材である。皆が「リオ」や「五輪」の言葉を待ったが青年は謙虚そのもの。「自分は大きなことを言うタイプではありませんから」と語った
▼あれから1年。青年は21日に神戸市で開かれた陸上の日本選手権20キロ競歩で優勝。五輪代表の座を勝ち取った。決してリオ五輪という4文字を口にはしなかったが、「自分のペースで一歩一歩小さな目標をクリアしながらステップアップしたい」と言う、あの日の決意が花開いた
▼改めて記すまでもないが、彼は花巻北高から岩手大に進んだ岩手人。多くを語らず…の姿を見て、高村光太郎の詩「岩手の人」が頭に浮かんだ。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す」
▼今年は「希望郷いわて国体」の開催年でもあり、われわれ県民にとっては、これ以上ない大きな喜びである。さあ、次はブラジルの地での晴れ姿。楽しみがまた一つ増えた。


岩手の皆さんにとって、光太郎詩「岩手の人」はかなり馴染み深いものなのでしょう。いろいろな場面で引用されています。

    岩手の人
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岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。004
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。

斧をふるつて巨木を削り、

この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

上の画像は高橋選手の母校・花巻北高校の校庭に立つ高田博厚作の光太郎像にはめ込まれたプレートです。像は右の画像。同校と光太郎には直接の関わりはないようですが、光太郎の精神に共鳴した卒業生保護者の拠金で建立されました。

もしかすると高橋選手、これを見てその後の人生が変わったのかも知れません。

寡黙で謙虚な戦士、高橋選手の活躍に期待しております。


【折々の歌と句・光太郎】

河を擁す余寒の窓や筏舟
明治33年(1900)頃 光太郎18歳頃

立春は過ぎましたので、「余寒の候」です。しかし、昨夜から今朝にかけ、当方の住む千葉県北東部でも雪が降りました。積もりはしませんでしたが、我が家の老犬は大喜びでした。


岩手盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から。 

いわて国体 成功へ年頭の気勢 大会実行委事務局 開幕へ準備も追い込み

 希望郷いわて国体・大会の開催の今年に控えた希望郷いわて国体・大会実行委員会事務局は4日、仕事始めを迎えた。岩間隆事務局長が職員約100人に「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。2007年に国体開催の内々定を受け、今まで積み重ねてきたもの、携わってきた関係者、県民の方々の思いをしっかりと形にするという、集大成の年になる」と訓示した。

 岩間事務局長は「被災地で初めて開催する両大会。全国からの注目も非常に大きいものがあり、全国の方々にこれまでに頂いた支援にしっかりと感謝を示す。さらに、将来の岩手づくりのために大いなるきっかけとなる大会にしたい。オール岩手で引き続き準備を進めていきたい」と説いた。

  職員に対し「われわれの役割は大きく二つ。国体、大会の主役である選手の方々がこれまでの練習の成果をいかんなく発揮できるような大会運営に万全を期す。もう一方の主役である県民の方々が、国体・大会に参画する環境を整えること。ぜひ全体的な視点、広い視野を持って関係者の方々と連携を取りながら、自らの責任を果たしてもらいたい。皆さんの奮励努力を」と期待した。

  「岩手で開催してよかったと全国の方々、県内の方々、全ての方に思ってもらえるような大会にしたい。まずは冬季大会に全力を尽くし、その成功を弾みに本大会、障害者スポーツ大会に結び付けたい。全力で取り組もうう」と結び、全職員のガンバロー三唱で開催の意気を上げた。


今年は岩手会場で、「第71回国民体育大会 希望郷いわて国体」「第16回全国障害者スポーツ大会 希望郷いわて大会」が開催されることを受けての記事です。国体の方は、早くも今月末からスキー、スケートなどの冬季大会が始まります。一般競技及び障害者大会の方は秋だそうです。

記事にもあるとおり、東日本大震災後、被災地で初めて開か無題れるそうで、その意味でも注目されますね。調べてみたところ、震災のあった平成23年(2011)は山口県会場。以後、岐阜、東京、長崎、和歌山と回って、今年の岩手です。

ちなみに震災の前年、平成22年(2010)は、当方自宅兼事務所のある千葉でした。当方、柔道有段者でして、当時中学生だった息子(こちらは今も柔道を続けています)と一緒に柔道競技を見に行きました。成年男子団体決勝は千葉対東京。1-1で迎えた大将戦、千葉県警の加藤博剛選手(90㌔級)が100㌔超級の立山選手(JRA)から小内巻き込みで技ありを奪って破り、優勝。感動しました。右はその時買ったストラップ。柔道着姿のチーバくん(千葉県のゆるキャラ)です。

さて、「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。」とありますが、こちらは昭和24年(1949)の元旦、『新岩手日報』に掲載された光太郎の詩「岩手の人」が元ネタです。
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   岩手の人 

岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。


昨年、ラグビーワールドカップが一躍脚光を浴びましたが、同大会、2019年には日本で開催されます。岩手でも、釜石市が会場に選定され、それを報じた『岩手日報』さんの「論説」でもこの詩が取り上げられました

牛のように愚直(というと失礼かも知れませんが)で勤勉な県民性を活かし、国体系も、ラグビーW杯もともに成功に導いていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

こほり結ぶ霜もものかは父君の雪の旅路にいます思へば
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「ものかは」は「問題にならない、物の数ではない」の意。この頃の光太郎は、まだ孝行息子でした。父・光雲が雪国を旅していることを思えば、東京の寒さなど「ものかは」だ、というわけですね。

明治32年(1899)、光雲は古社寺保存会の命で福井、石川方面に出張に行った記録が残っています。

光太郎が晩年を過ごした岩手県花巻市の情報誌『花日和』。県外向けに発行しているPR誌です。時折、光太郎がらみの記事を載せて下さっています。

先月刊行されたそちらの2015年冬号に、「高村光太郎記念館をたずねて」という記事が掲載されています。

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平成27年4月28日にリニューアルオープンした高村光太郎記念館。常設展示室二室に企画展示室も新たに整備され、彫刻や書の展示、映像や詩の朗読などにより光太郎をわかりやすく紹介。平成28年2月22日までは、開館記念企画展「山居七年」を開催中。

以下はPDFファイルでご覧下さい。光太郎の生涯、花巻と光太郎との関わり、もちろん記念館の様子も詳しくレポートされています。

冊子になっている現物は、市のサイトによれば「首都圏のほか、市内では花巻市観光協会、花巻観光案内所などで配布しています。」とのことです。


【折々の歌と句・光太郎】

うたがるたひとつひとつによみて見てよせてそろへて憂き思あり
明治34年(1901) 光太郎19歳

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「うたがるた」は、正月の風物詩の一つ、百人一首ですね。華やかな札を見ながらも、「憂き思」。青年期のやるせない煩悶が表されています。

地方紙の一面コラムから。

まずは昨日の『岩手日報』さん。 

風土計 2016.1.1

「老猿」は明治大正期の木彫家高村光雲の代表作。力と威厳に満ちた姿が真に迫る。著書「幕末維新懐古談」にある制作秘話は含蓄がある
▼白猿を彫るため光雲は純白のトチノキを求め栃木の山村へ。山猿のような老人から良材を3円で買うが、問題は東京への運搬。結局、運賃など200円も掛かった。いよいよノミを入れたら純白どころか茶褐色。そこで、野育ちの猿を彫ることに
▼こうして傑作は生まれた。自然を生かし、生かされてこそ真実に到達する。長男光太郎は詩「道程」で「僕を一人立ちにさせた広大な父よ」とうたうが、父とは光雲であり、自然という大いなる父でもあることだろう
▼彫刻家、詩人として名をはせた光太郎。太平洋戦争末期、空襲で東京のアトリエを失い、花巻に疎開した。玉音放送、一億号泣、そして山小屋での独居自炊生活へ。そこには戦時中、戦意を鼓舞する詩をつくったことへの深い悔恨の念があった
▼深い雪に閉ざされた冬の山小屋で独り、自らの内面を見つめ、戦争責任に向き合い続ける日々。厳しくも豊かな岩手の自然に包まれた7年もの歳月を経て、芸術家として再出発した
▼2016年が始まった。後ろには戦後70年の道。だが、私たちの前に道はない。清らかな岩手の自然のただ中に立ち、確かな一歩を踏み出したい。


続いて青森の地方紙『デーリー東北』さん。こちらは昨年暮れに掲載されたものです。

天鐘(12月29日)

 高村光太郎は昭和28年、完成させた十和田湖畔の裸像に寄せて「銅とスズの合金が立っている。どんな造形が行はれようと(略)はらわたや粘液や脂や汗や生きもののきたならしさはここにない」という一編の詩を綴(つづ)った
▼亡き妻智恵子そっくりの「乙女の像」に自身の魂を吹き込んだのであろう。無機質の造形には穢(けが)れがなく、自然と堂々調和して永遠に残ってほしいとの願いを込めた
▼同じブロンズだがソウルの日本大使館前にある「少女像」は慰安婦を象徴したものだという。4年前、市民団体が設置し始め、今では韓国内に10数体、米国にも2体ある
▼碑文には慰安婦を「性的奴隷」と英訳。日本政府に「慰安婦問題の障害」とまで言わしめた象徴である。穢れなき無機質の造形のはずが両国を分かつ高い障壁となり、反日感情を扇動する動力源となってきた
▼28日の日韓外相会談で日本が反省し、新設する財団に資金拠出することで50年来の懸案が氷解することになった。日韓に刺さった棘(とげ)のため日米韓の連携も長く機能不全に陥っていたが、やっと足並みが揃(そろ)いそうだ
▼だが政府間は合意しても反日感情は沈静化するのか。鍵を握る少女像は拳を握り締め口を閉ざしたままだ。像に罪はないが韓国内に「日韓が背を向けたのは像のせい」との批判も出ているとか。脂や汗を洗い流し、早く少女らしい明るい笑顔を取り戻してほしいものだ。


昨年は戦後70年ということで、いろいろと検証が為されました。しかし、まだまだ充分とは云えません。逆に戦前のような世の中に戻そうという輩も横行。今こそ光太郎の精神に学びたいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

初夢の棄てどころ無し島のうち
大正末期 光太郎44歳頃

「歌と句」ということで、このコーナーでは俳句もご紹介します。

友人の作家・田村松魚に宛てた葉書の末尾に記された句です。消印が不鮮明で年月日は特定できませんが、葉書の様式や、多くの書簡を田村に送っていた時期から、大正末期と推定されます。

この時期の光太郎は、関東大震災(大正12年=1923)後に露わとなった社会の矛盾に対し憤りを感じ、プロレタリア文学者たちと近い立ち位置にいました。大正13年(1924)には、詩「清廉」を書き、外部社会への鋭い批判と生の決意を謳う「猛獣篇」の時代に入ります。

この句の書かれた葉書にも、以下の文言があります。

今のままで貧乏しながら行けるところまで行きませう。いよいよせつぱつまつたら ずつと遠い処へ旅立つばかり。僕のやうな性情のものが今日の世に生きてゐるのは時代錯誤と思ひます。

「島」は「日本」。この国に対する「棄てどころ」のない怒りが見て取れます。

ところで、初夢と言えば「一富士 二鷹 三なすび」。それにまつわるNHKさんのスペシャルドラマ「富士ファミリー」が今夜、オンエアされます。


富士山のふもとにある小さなコンビニ『富士ファミリー』には近所で評判の美人三姉妹がいた。長女の鷹子(薬師丸ひろ子)は、一家の大黒柱。自由奔放な次女・ナスミ(小泉今日子)は、東京から夫の日出男(吉岡秀隆)を連れて帰るとすぐに、病気で亡くなってしまう。三女の月美(ミムラ)は面倒な店の経営から逃げるため、さっさと嫁いでいた。
年の瀬もせまったある日、笑子バアさん(片桐はいり)の前に死んだはずのナスミが現れ、あるメモを見つけて欲しいと言う。ケーキ、懐中電灯、四葉のクローバー、光太郎……ナスミの文字でメモに残された脈絡もない7つの言葉。このメモをきっかけに騒動が巻き起こる…。

この「光太郎」が「高村光太郎」なのかどうか、わかりません。とりあえず今夜、視聴してみます。

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13日日曜日にお邪魔しました花巻高村光太郎記念館

受付脇には物販コーナーがあり、書籍や複製の色紙などなど、さまざまな光太郎グッズが並んでいます。行くたびに新商品が増えているのも感心させられます。

定番のポストカード。新たなものがラインナップに入っていました。

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毎年5月15日に敷地内で行われている高村祭会場の「雪白く積めり」詩碑前広場を描いた水彩画。

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光太郎最後の大作、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を描いたものもありました。

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それから、最近流行のA4判クリアファイル。

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半分の大きさのA5サイズのものもありました。

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なかなかもったいなくて使えないのですが(笑)。

その他にもTシャツやら手ぬぐいやら、一筆箋にマグネットなどなど、いろいろと取りそろっています。ほとんどすべて、ここ以外では入手できません。

それから、隣接する高村山荘の無料パンフレットも新しくなっていました。A4判三つ折りです。

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ぜひ足をお運びの上、ゲットして下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月18日

昭和24年(1949)の今日、蕨登という人物に書を発送しました。

この時期の日記は現存が確認できていないのですが、郵便物の授受を記録したノートが残っており、そこに「蕨登といふ人へ揮毫(子供は地上の星云々)」という記述が見えます。

「蕨登」という人物、1980年代の『千葉日報』に光太郎の親友・水野葉舟がらみの寄稿をしていることは解りましたが、それ以上、よくわかりません。

また、「子供は地上の星云々」という書も、他に類例が確認できません。

情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

先週土・日の東北行、最終目的地の佐藤邸編です。

一昨日も書きましたが、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、花巻桜町の佐藤邸離れで暮らしました。元々昭和20年(1945)に、東京を焼け出されて宮澤賢治の実家に疎開してきたものの、再び空襲の被害に遭ってのことです。当時の当主で賢治の主治医だった佐藤隆房は、光太郎を花巻に招いた張本人の一人でした。

現在も隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、ここを来年5月14日(土)、一般公開するということで、その下見。以前から奥様には「機会があったらお寄り下さい」とおっしゃっていただいておりました。

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こちらが元の母屋の正面玄関。昭和初期の建築だそうです。現在は新たに母屋を造られ、そちらで主に生活されているとのこと。とにかく敷地が広大なので、それも可能なのでしょう。

裏手に2階建ての離れがあり、光太郎はこの2階を借りて住んでいました。当方、20年以上前に敷地外から望見したことがありますが、間近で拝見、ましてや内部に入れていただくのは初めてでした。

屋外をぐるりと一周するとこんな感じです。

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すぐ近くを豊沢川が流れ、当時はせせらぎの音がよく聞こえたそうです。そこで、光太郎はこの建物を「潺湲楼(せんかんろう)」と命名しました。「潺湲(せんかん)」とは、水がさらさらと流れるさまです。

さて、いよいよ内部へ。

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正面玄関から入り、渡り廊下的な処を通って離れへ。さらに狭い階段を上がります。すると、四畳半が二間。両側が大きな窓のある廊下になっているのと、ごちゃごちゃ物が置いていないのとで、広く感じられます。

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座卓も当時のもの。それから押し入れには光太郎が使っていたという火鉢もありました。

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下記はここで暮らしていた時か、後に太田村に移ってからのものかよく分かりませんが、この部屋での光太郎です。

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窓からの眺め。

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北側に豊沢川。

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南は母屋の屋根。日当たりも良さそうです。

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このような快適な環境での暮らしを棄て、光太郎は7年間の山小屋暮らしに入ります。他人の家に厄介になるという気苦労は確かにあったでしょうが、ここで暮らし続けていれば、何不自由ない生活だったのに、です。そこに光太郎という人間の生きざまが端的に表されているような気がしました。


その後、母屋の洋間でお茶を戴きました。昔の映画にでも出て来そうなお部屋です。

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ここで撮られた光太郎の写真もあります。左が佐藤隆房です。

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窓外には百日紅の大木。花をつけるとさぞ見事でしょう。

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さらに辞去する前にはお庭も案内して下さいました。こちらは昭和初期、賢治が取り寄せたというバラの子孫。よくぞ残っているものだと感心しました。

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最初に書きましたが、こちらを来年5月14日(土)、一般公開するそうです。詳細が決まりましたらまたお知らせいたします。


というわけで、秋田横手から始まった全ての行程を終え、帰途に就きました。一昨日ご紹介した光太郎も訪れた伊藤屋さん、昨日レポートした光太郎がらみの二つのお寺、そして佐藤邸潺湲楼など、思いがけず訪問することが出来、非常にありがたい限りでした。花巻高村光太郎記念会・高橋事務局長、佐藤様に改めて御礼申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月17日

昭和15年(1940)の今日、大政翼賛会本部で開催された臨時中央協力会議で「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建築物の防空施設」などについて提案、発言をしました。

下記は会議を前に語った光太郎の談話の冒頭部分です。『読売新聞』に掲載されました。

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記事にも名が上げられている大政翼賛会文化部長だった岸田国士が、光太郎を委員として推薦しました。

この時点では、「今回限り」と言っていた光太郎ですが、翌年の第1回(6月)、第2回(12月8日、まさに太平洋戦争開戦の日)の中央協力会議にも出席しました。

12/13(日)、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長にお迎えに来ていただき、旧太田村の高村光太郎記念館に参りました。

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数日前に大雨だったり暖かかったりで、雪はほとんど残っていません。

まずは10月から開催中の企画展「高村光太郎山居七年」(後期)を拝見。旧太田村時代の光太郎の作品や遺品類がいろいろと並んでいます。藁で作られたツマゴ(雪靴)など、季節にこだわったものも。

入り口にはA5判18頁のパンフレット『山居七年 年譜』が置かれています。この企画展のために当方が作成したもので、企画展示室内にパネルとして展示してあるものを、冊子にしてくださいました。光太郎日記、書簡、周辺人物の証言記録などから作成したもので、無料で配布しています。

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こんな感じで18頁です。

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企画展「高村光太郎山居七年」(後期)、2月22日(月)までです。ただし、12/28~1/3が休館です。ぜひ足をお運びください。

その後、隣接する高村山荘へ。基本的に山荘は冬期間閉鎖ですが、役得で中まで入らせていただきました。

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草野心平筆による「無得殿」の扁額。山小屋の廻りを覆う套屋(とうおく)に掲げられています。

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内部には、光太郎がここで暮らしていた頃使っていたものがそのまま残っています。

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ここに入るたびに、粛然とした思いにさせられます。


その後、また高橋事務局長のお車で、昨日も少しご紹介した、この山小屋に入る直前に暮らしていた花巻市街桜町の佐藤家へ。しかし、約束の時間にまだ間があるので、行き道、山荘・記念館近くにある寺院2ヶ所に立ち寄りました。

いずれも光太郎ゆかりのお寺で、まずは音羽山清水寺さん。坂上田村麻呂の勧進による創建ということで、京都の清水寺とつながるお寺です。光太郎は昭和27年(1952)、ここで高村東雲作の聖観音像開眼供養に参加しています。東雲は光太郎の父・光雲の師。前年には東雲の孫に当たる高村晴雲が山小屋を訪れており、その関係もあるようです。

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山門は昭和初期、本堂は江戸時代のものだそうですが、それぞれ立派なものでした。


続いて法音山昌歓寺さん。こちらは光太郎がこの地にいた頃のご住職と親交があり、たびたび訪れたお寺です。毎年、花巻町の松庵寺さんで行っていた光雲・智恵子の法要を、昭和25年(1950)だけはこちらで行っていますし、昭和27年(1952)には、消防団主催の相撲の会を見物したりもしています。

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特筆すべきは、木像十一面観音像。光太郎にその制作を依頼したものの、結局それは果たされず、代わって光雲の弟子筋に当たる森大造が制作しました。昨年、それにまつわる文書が出て来まして、このブログにてご紹介しました。

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いいお顔をなさった立派な仏様です。

こちらはこの像の願主である八重樫甚作の像。やはり森の手になるものだそうです。

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他にも光太郎に絡む品がありそうなので、またゆっくり訪れたいと思っております。皆様も高村山荘・記念館に足をお運びの際はぜひどうぞ。

その後、花巻市桜町の佐藤邸へ。続きは明日。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月16日

昭和25年(1950)の今日、新潮社から新潮文庫版『高村光太郎詩集』のための検印紙5,000枚を受け取りました。

昔の書籍は奥付に検印紙といって、著者の印鑑を押したものが貼られていました。検印紙の発行枚数イコール出版部数とカウントし、著者に払う印税の計算のためのものでした。現在はこうしたシステムは廃止されています。

新潮文庫版『高村光太郎詩集』、編者は伊藤信吉で、結局初版はさらにプラス5,000で、一万部だったようです。

現在も版を重ねています。

12/12(土)、雄物川郷土資料館さんで第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」を拝観するなどした秋田横手をあとに、夕方には花巻に到着しました。

在来の花巻駅で花巻高村記念会の高橋事務局長のお出迎えを受け、まずは宿屋に荷物を置きに行きました。今回は急に決めての東北行だったので、宿も駅前の商人宿に素泊まりです。荷物を置いた後、高橋事務局長のご案内で、歩いて夕食を摂りに行きました。

花巻駅、そして宿のすぐ近くにある伊藤屋さんという大衆食堂です。下の画像は、翌朝撮影しました。

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建物自体は新しくなっていましたが、ここはかつて光太郎が食事をした店だそうで、帰ってから調べてみましたところ、なるほど、戦後の光太郎日記に記述がありました。

朝会計をすまし、山にゆかんとせしがリユツクが重すぎるので花巻駅にゆき、伊藤屋にて中食、ハイヤーをたのみて院長さん宅に来る。二三日又滞在のつもり。(昭和26年=1951 2月2日)

会計云々は、前月23日から宿泊していた大澤温泉です。「花巻駅」は今は廃線となった花巻電鉄。当時、大澤温泉を含む花巻南温泉峡とつながっていました。


畑の手入れ後花巻に出て院長さん宅に泊まる、 伊藤屋にて中食中院長さん車で迎に来らる、八戸の弟さん同乗、(昭和27年=1952 7月10日)

花巻郊外太田村の山小屋から花巻町に宿泊に来た時の日記をあたってみると、以上の記述がありました。日帰りで町に出て来た時については調べていませんので、もしかするとまだあるかもしれません。また、日記も欠落が多いので、記録に残っていない来店もあるのではないでしょうか。

さて、当方、伊藤屋さんでさらに花巻市役所の方と合流。いろいろと打ち合わせをしました。また近くなって正式に決まりましたらご紹介しますが、いろいろと新しい事業を計画中だとのことです。

まず、佐藤隆房邸の一般公開。計画では来年5月14日の土曜日(翌日は旧太田村の高村山荘敷地内で高村祭です)。上記光太郎日記にある「院長さん宅」というのがそれで、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、ここで暮らしました。

順を追って説明しますと、この年4月13日に、智恵子と暮らした東京駒込林町のアトリエが空襲で全焼。しばらくは近所にあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎は、5月15日に花巻に向けて東京を発ちます。賢治を広く世に紹介してくれたということで、恩義を感じていた宮澤家、そして賢治の主治医だった総合花巻病院長・佐藤隆房の招きに応じてのことでした。

花巻では最初に宮澤家に厄介になりましたが、8月10日の花巻空襲で宮澤家も全焼。そこで花巻町南舘の元花巻中学校長・佐藤昌宅に移ります。さらに9月10日は佐藤隆房邸に移ったわけです。

佐藤邸では離れの2階を借り、ここを「潺湲楼(せんかんろう)」と命名、その後、太田村に移ってからも、花巻町に出て来た時にはよく泊めてもらっていました。これも上記日記の通りです。

こちらは現在も佐藤隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、来年5月14日(土)に一般公開するという予定だそうです。時間を決めて公開し、三々五々自由に来てもらうか、市民講座のような形で参加者を募集してバスツアーのような形にするか、そうすると県外などからの希望者はどうするかなど、詳細はこれからです。


2点目、光太郎縁戚の方の手記。盛岡に光太郎の縁戚―それも父方、母方双方につながる―の方がいらっしゃり、今年、そちらのお宅に伝わる光雲・光太郎関係資料等をまとめた手記を書かれました。それを高村記念会として出版するという計画もあるそうです。コピーを戴いて、帰りの新幹線の車中で拝読しましたが、今まで知られていなかったエピソード、見たことのない写真、『高村光太郎全集』未収録の光太郎書簡などが満載で、実に貴重なものです。母方でみれば光太郎の従姉妹にあたる方が98歳でご存命。高橋事務局長がその方のお宅でインタビューなさっているDVDをいただきましたが、それを見ると、まだまだお元気でしっかりされています。手記を書かれたのはその方のご子息です。


その他にも、佐藤家の関係で光太郎筆の色紙が寄贈されるとか、記念館のパンフレットを新たに編集して刊行するとか、記念館の企画展で智恵子紙絵の現物を展示するとか、実に様々な話になりました。それぞれ時期は未定ですが、おおむね来年の話です。詳細が決まったらお知らせします。


かくて伊藤屋さんでの夜も更け、宿屋に退散。翌日は高村光太郎記念館、高村山荘、そして先述の佐藤隆房邸などを回りました。その辺りは、また明日以降に。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月15日

昭和44年(1969)の今日、箱根彫刻の森美術館で企画展「近代日本の彫刻」が開幕しました。

翌年3月31日迄の会期で、光太郎彫刻も7点展示されました。下記は図録の表紙。光太郎の木彫「蓮根」(昭和5年=1930)の写真が使われました。

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岩手から企画展情報です。気付くのに遅れ、紹介が遅くなってしまいました。 

第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」

場 所 : 盛岡てがみ館 盛岡市中ノ橋通一丁目1番10号 プラザおでって6階
期 日 : 2015年10月27日(火)~2016年2月15日(月)
時 間 : 9時から18時まで(最終入場17時30分まで)
休館日 : 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 : 個人一般200円、高校生100円   団体一般160円、高校生80円 (20人以上~)
中学生以下、65歳以上で盛岡市に住所を有する方、また障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの介護者は無料。

数々の名作を残し、今もなお人々を魅了し続ける詩人・童話作家の宮沢賢治。しかし、生前に刊行されたのは心象スケッチ『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』の2冊のみで、無名に近い存在でした。そんな賢治の作品が没後、評価され、多くの人に知られるようになった背景には、賢治とその作品を愛した人々の努力がありました。本展では、賢治の作品を世に広めるべく尽力した人々について手紙を通して紹介します。


関連行事 

館長によるギャラリートーク 「宮沢賢治を愛した人々」

開催日・期間:11月28日(土)
時間:14:00~15:00
場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:盛岡てがみ館 館長 磯田望
料金:入館料が必要です。 

ふみの日ギャラリートーク 「宮沢賢治を愛した人々」

開催日・期間:2016年1月23日(土)
時間:14:00~15:00
場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:盛岡てがみ館 事業推進員 平政光
料金:入館料が必要です。


「宮沢賢治を愛した人々」の中には光太郎も含まれ、光太郎の書簡も5点、展示されています。

松本政治 宛  封 書   昭和21年(1946)1月10日
森口多里 宛  ハガキ  昭和23年(1948)10月20日
森口多里 宛  ハガキ  昭和24年(1949)3月30日
吉田孤羊 宛  ハガキ  昭和24年(1949)11月12日
吉田孤羊 宛  ハガキ  昭和24年(1949)11月21日


いずれも以前から同館に所蔵されていたもので、昨年開催された第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」に出品されました。

また、他にも賢治自身の書簡なども展示されています。

IBC岩手放送さんのサイトから。

「宮沢賢治を愛した人々」展

詩人で童話作家の宮沢賢治と、交友の深かった人たちの手紙を集めた企画展が盛岡で開かれています。会場の盛岡てがみ館には、賢治の死後、作品の出版に力を尽くした人達の手紙を中心に、関連資料45点が展示されています。中でも、盛岡で青少年期を過ごした洋画家の高橋忠彌に宛てて賢治が書いた手紙は賢治が亡くなる3か月前のもので、原稿の依頼に対し「自信がない」と断わっている内容から賢治の苦悩や葛藤を読み取ることができます。賢治の弟の宮沢清六や詩人で彫刻家の高村光太郎の貴重な手紙もあり、賢治の魅力を再発見することができるこの企画展は、来年2月15日まで盛岡てがみ館で開かれています。
2015/11/12

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花巻の高村光太郎記念館などを除き、光太郎の自筆をじかに見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月14日

昭和28年(1953)の今日、日本芸術院第二部会員に選定された旨の新聞報道を読みました。

当日の日記の一節です。

夕刊新聞に芸術院会員決定といふ事出てゐる、第二部文学部、甚だ迷惑を感ず、

結局、辞退しました。これについては第一部(美術)での選定なら受けたのではないか、といわれています。光太郎には「私は何を措いても彫刻家である」との自負がありました。

岩手花巻の光太郎が戦後7年間暮らした山小屋・高村山荘に隣接する高村光太郎記念館情報です。 

滝口企画展「高村光太郎山居七年」(後期)

開催期間 : 平成27年10月9日(金曜日)から平成28年2月22日(月曜日)まで
休  館  日
 : 12月28日(月曜日)から平成28年1月3日(日曜日)まで休館
開館時間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
入館料(高村光太郎記念館、高村山荘) :
 一般550円 高校生、学生400円 小・中学生300円
 団体入場(20名以上)は1人あたり100円割引

彫刻家・詩人として知られる高村光太郎。1945年(昭和20年)の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は宮澤賢治の弟・清六を頼りに花巻へ疎開してきました。
終戦後、太田村山口(現 花巻市太田山口)へ移住した光太郎は1952年(昭和27年)に「乙女の像」制作のため東京へ戻るまでの7年間を当地で生活しました。
本企画展は、これまで詳細が取りまとめられることがなかった七年間の記録を、当地に遺された様々な資料や年譜・エピソードと共に展示するものです。
光太郎を山口に迎えて70年にあたる本年、高村光太郎記念館は全面リニューアルオープンを迎えました。全てが新しくなった常設展示室、「月光殿」を改修した高村山荘とともに、光太郎の山居七年の軌跡をご覧ください。

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花巻高村光太郎記念館、4月にリニューアルオープンした後、5月から企画展示室で企画展「高村光太郎山居七年」(前期)が始まり、常設展示室に並べきれない資料――特に昭和20年(1945)~27年(1952)の、光太郎が地に住まっていた時期のもの――の数々を展示していました。

そちらは入れ替えをしながら展示というわけで、明後日から後期の展示となります。今回並ぶ主なものは、こういう予定です。ただ、少し前に受けた連絡に基づいていますので、多少の異同はあるかも知れません。

・ 光太郎直筆詩稿「蒋先生に慙謝す」(昭和23年=1948)000
  (10/9追記 状態が良くないため展示中止だそうです)
・ 「こころはいつでもあたらしく」書額 (複製)
・ 昭和20年(1945)書簡―山荘入りについて
   (パネル展示)
・ 山口小学校開校挨拶原稿 (同)
・ 「一億の号泣」原稿 (同)
・ 昭和23年8月6日書簡―「一億の号泣」の件 (同)
  (10/9追記 常設展示室で 2点まとめてだそうです)
・ 「花巻新報」題字揮毫 (同)

10/9追記 さらに前期展示から引き続いて以下が並ぶそうです。
・ 散文「雪解けず」原稿 (昭和21年=1946)
・ スケッチ「雪解けず」(同)
・ 雑誌『北方風物』 (同 「雪解けず」掲載)


他に、展示ではありませんが、前期展示に際して、昭和20年(1945)~27年(1952)の年譜を当方が作成したのですが、それを冊子にしたものを希望者に配布するそうです(右画像)。


また、記念館へのアクセスに関し、お知らせがあります。

かつてJR在来線の花巻駅から「高村山荘行き」として運行されていた岩手県交通さんの路線バスは、平成23年(2011)に廃線となってしまいましたが、今月から試験的に復活しています。下記は『広報はなまき』今月号から。

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高村山荘までは1日2往復ですが、約3.5キロ離れた清風支援学校さん発着の便がプラス2往復あります。

『広報はなまき』にあるとおり、利用状況で来年度の運行が決まるとのことで、たくさんの方のご利用が完全復活につながります。よろしくお願いいたします。タクシーだと数千円、こちらは1人580円。この差は大きいですね。


というわけで、花巻高村光太郎記念館、高村山荘、ぜひぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月8日

昭和21年(1946)の今日、版画家の山本鼎が歿しました。

山本は光太郎と同学年。愛知県岡崎の出身ですが、父の仕事の都合で幼少時に上京しました。木版の工房で徒弟修行を終えますが、自分の作品を作ることへの希望が高まり、東京美術学校西洋画科に学びます。同校彫刻科を終えて西洋画科に再入学した光太郎の1年先輩になります。

卒業後は創作版画で名をなし、石井柏亭らと美術雑誌『方寸』を創刊、欧米留学から帰った光太郎共々、パンの会の主要メンバーとしても活動します。また、光太郎が経営していた日本初の画廊、琅玕洞にも作品が並んだようです。

その後はフランス留学を経て、帰国後には信州上田に移り、自由画教育運動、農民実美術運動などにも取り組みました。

テレビ放映情報です。 

空から日本を見てみよう+ 岩手県花巻温泉~遠野

BSジャパン 2015年8月25日(火)  20時00分~20時55分

北上川沿いで栄えた城下町でもあり全国有数の人気温泉町として名をはせた花巻市から、独自の文化や風習が残る民話の里・遠野市まで空から眺めていきます。

花巻市の南端からスタートし、北上川に沿って花巻市の中心市街地へ。宮沢賢治の生家を越えて、江戸時代に城下町として栄えた町のメインストリートでカニのような建物を発見。そこは連日ランチタイム満員の人気大食堂・マルカン百貨店。花巻駅から温泉街を目指す途中で、幅が狭すぎる電車を発見。かつて温泉街まで走っていた馬面電車と呼ばれ保存されている花巻電鉄の車両を見ていきます。昭和の花巻を再現した小学校跡を通り、鉛温泉へ。昔からの湯治宿の不思議な自動販売機などを見ていきます。さらに花巻温泉では昭和初期に一大レジャーランドとして栄えた姿を偲びます。花巻から民話の里として知られる遠野へ。宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」のヒントにしたといわれるSLが走る橋を見ながら遠野市の中心へ向かいます。遠野物語で紹介されたカッパをはじめ、市内に残る民話にちなんだ場所を見て行きます。さらにこの地域特有の曲がった古民家、曲り家や馬を大切にしてきた生活を垣間見ます。  

出演者  伊武雅刀(くもじい)  柳原可奈子(くもみ)

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光太郎が昭和20年(1945)から足かけ8年を過ごした花巻が扱われます。番組説明によれば、光太郎が何度か訪れた鉛温泉や、太田村の山小屋から鉛温泉大沢温泉などを含む花巻南温泉峡や花巻町に出かける際に利用した花巻西公園に静態保存されている花巻電鉄などが紹介されるようです。


もう1件。 

遠くへ行きたい 阿藤快「世界三大漁場 金華山沖の魚と龍神祭り」石巻~女川

日本テレビ 2015年8月30日(日)  6時30分~7時00分

阿藤快が、夏の南三陸を旅する。石巻漁港で「金華カツオ」の水揚げを見学し「金華丼」を食べる。JR石巻線の真新しい「女川」駅で、駅にある温泉に入浴。女川の仮設商店街「きぼうのかね商店街」で各店舗の軒先に貼られた面白いポスターに見入り、スペインタイルを作る工房でタイル作りを体験する。女川の夏の味覚「ホヤ」の水揚げを見て、獲れたてのホヤを刺し身でいただく。島全体が神域だという金華山で「龍神まつり」を見る。

 まずは仙台と石巻を結ぶJR仙石線の車中から。「石巻」駅で下車し、石巻漁港を訪ねる。ここは金華山沖で獲れる「金華カツオ」が有名だ。阿藤は金華カツオの水揚げを見学し、金華山沖で獲れた魚で作る「金華丼」を食べに「富喜寿司」へ向かう。店主の大場英雄さん(71歳)に話を聞きながら、金華丼をいただく。
  JR石巻線で「女川」駅へ。3月21日に完成した真新しい駅舎には、展望スペースや土産物屋のほか温泉入浴施設「ゆぽっぽ」がある。阿藤はさっそく駅の温泉を体験する。
 次に女川の「きぼうのかね商店街」へ向かう。町中で商売をしていた約50店が集まる仮設の商店街で、八百屋、カレー屋に理髪店、スナックなどが営業している。目を引くのは各店舗の軒先に貼られたポスター。どんぶり屋の軒先に「一杯 食わされた!」、つぶ貝の串焼き店には「ツイッター? やってないけど つぶ焼くよ」などなど。これらは被災地の人々を盛り立てようと、地元の新聞社や大手広告会社が協力し、各店舗に1点以上ある宣伝ポスターなのだ。阿藤は「つぶ焼くよ」のポスターが貼られた「串焼きたろう」で、店主の千葉静郎さん(62歳)につぶ貝を焼いてもらう。
  きぼうのかね商店街の中にある「みなとまちセラミカ工房」は、スペインタイルを作る工房だ。代表の阿部鳴美さん(54歳)が「津波で流された町を鮮やかな色彩のスペインタイルで飾りたい」と思い立ち、スタートさせた。スペイン産の素焼きの陶板の上に、スペイン産釉薬を使って絵付けし、3日かけて焼き上げる。民家のタイル表札のほか、壁飾りや看板として公共施設や集合住宅にも利用されている。工房ではオリジナルタイル作りの体験もできる。阿藤は阿部さんの指導でスペインタイル作りに挑戦する。
  女川の夏の味覚といえば、珍味として知られる「ホヤ」。女川湾では夜明け前から水揚げが行われている。阿藤は漁師の阿部次夫さん(63歳)の船に乗せてもらい、ホヤの水揚げ作業を見学する。生簀から揚げられたホヤは巨大な塊状で、船上で漁師さんたちがすばやくさばいていく。ホヤは傷みが早いため、作業はスピードが勝負だ。作業のあと阿藤は漁師さんたちに混じって獲れたてのホヤを刺し身でいただく。
  さらに女川湾から連絡船で35分のところにある金華山へ。金華山は黄金山神社を中心に、島全体が神域とされている。毎年7月最終の土・日に「龍神まつり」が行われ、長さ20メートルの「龍(蛇)踊り」の奉納が見ものだ。阿藤は多くの参拝客でにぎわう神社で龍踊りの奉納を見守りながら、石巻と女川のいまを見つめた、南三陸の旅を振り返る。

出演 阿藤快

<系列各局放送時間>
日本テレビ (日)6:30 札幌テレビ (日)5:45 青森放送 (金)10:25
ミヤギテレビ (日)6:30 テレビ信州 (日)6:30 北日本放送 (金)15:55
中京テレビ (日)7:00 四国放送 (木)10:55 南海放送 (火)10:25
日本海テレビジョン (土)5:29 広島テレビ (日)7:00 福岡放送 (日)7:00
長崎国際テレビ (土)16:25 鹿児島読売テレビ (日)5:45

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女川光太郎祭会場となっている「きぼうのかね商店街」が取り上げられます。

ポスター云々は、「女川ポスター展」。河北新報社さんの「今できることプロジェクト」と電通関西支社さんの復興支援事業コラボ企画で、インパクトのある面白いポスターを作ることで地域を活性化させようという試みです。

会期は終わっていますが、まだ参加したほとんどの店舗、企業でポスターが貼られています。

女川光太郎祭仕掛人の佐々木釣具店さんのものはこちら。先日、当方が撮影してきたものです。

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さらに女川光太郎祭の折に泊めていただいたステイイン鈴家さんのポスター。

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「空から日本を見てみよう+」、「遠くへ行きたい」、ともに今回は光太郎に直接触れることはないかもしれません(それぞれ以前にはちらっと触れて下さいました。こちらこちら)が、それぞれゆかりの地の様子、現状ということでぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月23日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村から詩集『典型』の装幀原案を発送しました。

編集を担当した詩人、宮崎稔宛の書簡に以下の記述があります。

やつと「典型」装幀原図が決定、出来上りましたので、別封で契約書と一緒にお送りします、 原図については説明してありますからお分りと思ひますが、不明の点はおたづね下さい、

さらに版元の中央公論社の松下英麿に宛てた書簡の一部。

「典型」の表紙、見返し、扉、外函の装幀原図がやつと決定しましたので、宮崎さん宛送ります、書留にするには集配人をつかまへるのが一苦労です、

10年ほど前に、その原図がひょっこり出てきました。装幀家としても名を成した光太郎だけあって、詳細な指示が書き込まれ、さらにそれを元に出来上がった装幀も非常にいいものです。太田村では彫刻を封印した光太郎ですが、題字の木版は、この時期に彫刻刀を振るった数少ない作品の一つです。

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昨日は終戦記念日でした。戦後70年ということもあり、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。この国が二度と戦争に荷担することの無いようにするためにも。

さて、それに伴い、光太郎の名も新聞各紙に引用されています。少し前には仙台に本社を置く地方紙、『河北新報』さんで「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事を載せて下さいました。

また、『毎日新聞』さんには、8月13日に以下の記事が載りました。

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「銃後のくらし:戦後70年/4 婦人標準服 「興亜の精神」美しさ消え」という記事です。長いので全文は引用しませんが、戦時中の物資欠乏を受け考案された「婦人標準服」について書かれています。

和服は非常時に動きにくいし、贅沢。洋服も「米英の模倣」と敵視され、そこで考え出されたのが和服でもなく洋服でもない「婦人標準服」。布地の節約のため、着物を仕立て直した洋服タイプの「甲型」、和服タイプの「乙型」、もんぺ・スラックスの「活動衣」の3種類が推奨されたそうですが、このうちの「甲型」の評判はさんざんだったそうです。曰く「「洋服と和服のちゃんぽんで、格好悪かった。両方の美しさを消す服だった」。着物専門学校「清水学園」(東京都渋谷区)理事長の清水ときさん(91)は眉をひそめた。」。

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記事ではここで光太郎に言及されます。

彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)は「家庭週報」(43年6月)への寄稿で、「新しい美を此(こ)の服式から創出し得る」とし、標準服を持ち上げている。

調べてみると、「服飾について」という散文でした。問題の箇所は以下の通り。

 一切の美の根源は「必要」にある。いかなるものが美かと考へる前に、いかなるものが必要かと考へる方が早いし確実である。今日の戦時生活にはモンペ短袖は必要である。それ故モンペ短袖は必ず美であり得る。昨日の美を標準とする眼を新にすれば、目がさめたやうに新しい美を創り出すことができる。又平常服としての女子標準服も資材の節約上必要である。それ故此の標準服も美であり得る。強い魅力を持つ新しい美を此の服式の範疇から創出し得る。

こういう部分でもプロパガンダとして光太郎が期待された役割、果たした役割は大きかったと思います。しかし「創出し得る」ということは「まだ創出されていない」ということではありますが、それにしても上記の画像を見て、ここから「美」が創出できるとは思えませんが……。


もう1件、『毎日新聞』さんでは今日の読書面に光太郎がらみの記事が載りました。文芸評論家の加藤典洋氏による「今週の本棚・この3冊:終戦」の中に、吉本隆明の『高村光太郎』が紹介されています。  

今週の本棚・この3冊:終戦 加藤典洋・選

<1>太宰治全集8(太宰治著/ちくま文庫/1188円)
<2>高村光太郎(吉本隆明著/講談社文芸文庫/品切れ)
<3>戦時期日本の精神史 1931〜1945年(鶴見俊輔著/岩波現代文庫/1274円)
 終戦、またの名を敗戦。それは戦争の終わりであり、同時に、戦後のはじまりでもある。

 終戦前後を描く白眉(はくび)の短編は、<1>所収の「薄明」だ。空襲で甲府まで逃げる途中、幼い娘が眼病で目が見えなくなる。そして数日。猛烈な空襲の後、ようやく、娘の目があく。小説家の父親が家の焼け跡を見せに連れていく。「ね、お家が焼けちゃったろう?」「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している、と小説家は書いている。私には、これが八月一五日をはさんで、一時的に失明した女の子が、戦後のはじまりに回復し、ほほえむ小説として読めた。『敗戦後論』に引いたが、もっとも美しい「戦争の終わり」と「戦後のはじまり」を描く短編だと今も考えている。<1>全体は太宰治の敗戦直後の作品を集めた一冊。収録の短編はどれもこれもすばらしい。

 戦後、誰もが戦時中に間違わないで正しい振る舞いをした人について書いたとき、例外的に間違いに間違った人を取りあげ、なぜこの人を自分は信じるに足る人として読み続けたのかと、自分の誤りをみつめて書いたのが<2>。そのなかの章「敗戦期」で、著者吉本隆明は敗戦直後、尊敬する高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にするのを見て、その立ち直りの早さに、はじめて違和感をおぼえた、と書いている。それが彼のただひとりで歩む戦後の起点となる。吉本は、自分は皇国少年で、間違った、と述べ、戦後そのことを足場に考えた絶対的少数派だった。

 <3>は戦時期の日本について、戦後のことを何一つ知らない外国の学生に英語で講義したものを、著者がその後、日本語で口述してなった。戦争と日本人についてもっともコンパクトな見取り図がえられる。その一章「戦争の終り」では、終戦の日の天皇の玉音放送を聞く日本人に対する当時軽井沢に軟禁されていたフランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランの観察が取りあげられている。放送が終わると、人びとは感情を押し殺すように押し黙り、姿を隠した。ギランを驚かせたのは、これまで降伏よりは死を選ぶ覚悟をもっていた日本人が、「いまや天皇とともに回れ右をし」、「翌日から」、自分やほかの白人たちに「明るい笑みを見せて挨拶(あいさつ)したこと」だった。

 私は、この鶴見俊輔の講義をカナダで贋(にせ)学生として聞いた。戦後七〇年もたてば無理もないが、みんな退場する。そしてコトバが残る


講談社現代文庫版の単行書『高村光太郎』として取り上げられていますが、昨年刊行された『吉本隆明全集5[1957‐1959]』に件の論考が収められています。

高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にする」は、昭和20年(1945)、終戦の2日後に発表された詩「一億の号泣」に典拠します。詩の終末部分の「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす/真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」です。

戦時の光太郎の詩文を注意深く読むと、「鋼鉄の武器」で鬼畜米英を殲滅せよ、というようなジェノサイド的発言はほとんどなく、「精神の武器」で闘おう、といった内容が多く見られます。そういう意味では吉本の指摘のように、敗戦直後に突如としてそういう方向に行ったわけではありません。しかし、当時、全ての光太郎詩文をチェックしていたわけでもない吉本にとってこの発言は違和感を覚えるものだったのでしょう。

リアルタイムを生きた吉本の論考、この際に改めて読み解くべきかと思います。

「一億の号泣」については、70年前にそれが掲載された『岩手日報』さんでも、昨日の一面コラムにて取り上げて下さいました。

風土計 2015.8.15

「綸言(りんげん)一たび出でて一億号泣す。/昭和二十年八月十五日正午、」という書き出しの詩が1945年8月17日付の本紙に載った▼作者は、花巻に疎開していた高村光太郎。玉音放送を聞くために神社に出掛け、天皇の声に接した。国防色の粗末な服を身にまとい、両手を畳の上について聞き終わった後は、無言で静かに立ったという。失意の姿が目に浮かぶ▼太平洋戦争開戦を詠んだ作品もある。「記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史あらたまる。/アングロ・サクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。」と始まる。戦争の大義を信じて高揚した思いが伝わる▼光太郎には他にも戦争をうたった詩が数々ある。鼓舞するような内容だ。そんな姿勢に対して戦後、批判が相次いだ。本人は山小屋で独居自炊の生活を送りながら、戦争に協力したことと向き合ったという▼自己責任を問うことを避けた文学者は多くいる。そんな中、戦時中の言動を批判されても「自己を弁護するようなことはせず、正面からそれを受け止めた」(岡田年正著「大東亜戦争と高村光太郎」)姿勢は、評価されていいのではないか▼8月15日の敗戦の日は言論界に深く刻印された。もちろんジャーナリズムにおいても。反省を踏まえて新たに出発した日の決意を忘れてはなるまい。


やはりリアルタイムを生きた光太郎の詩文も、この際に改めて読み解くべきかと思います。

最初にも書きましたが、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。ただ、散見されるのですが、それを美化につなげようとしたり、一種の「戦後70年ブーム」に乗り遅れまいと、とんちんかんな引用をしたお粗末な作りだったりでは困るのですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、詩「蒋先生に慙謝す」の執筆に取り組みました。

当日の日記の一節です。

午后詩「蒋先生に慙謝す」書きかける。

「蒋先生」は蒋介石。その激しい抗日思想に対し、戦時中の昭和17年(1942)には「沈思せよ蒋先生」という詩を書いた光太郎。戦後になって、それと対を為す詩篇として作りました。しかし、なかなか書き上がらず、結局、完成したのは9月30日でした。

    蒋先生に慙謝す
000
わたくしは曾て先生に一詩を献じた。
真珠湾の日から程ないころ、
平和をはやく取りもどす為には
先生のねばり強い抗日思想が
厳のやうに道をふさいでゐたからだ。
愚かなわたくしは気づかなかつた。
先生の抗日思想の源が
日本の侵略そのものにあるといふことに。
気づかなかつたとも言へないが、
国内に満ちる驕慢の気に
わたくしまでが眼を掩はれ、
満州国の傀儡をいつしらず
心に狎れて是認してゐた。
人口上の自然現象と見るやうな
勝手な見方に麻痺してゐた。

天皇の名に於いて
強引に軍が始めた東亜経営の夢は
つひに多くの自他国民の血を犠牲にし、
あらゆる文化をふみにじり、
さうしてまことに当然ながら
国力つきて破れ果てた。
侵略軍はみじめに引揚げ、
国内は人心すさんで倫理を失ひ、
民族の野蛮性を世界の前にさらけ出した。
先生の国の内ではたらいた
わが同胞の暴虐むざんな行動を
仔細に知つて驚きあきれ、
わたくしは言葉も無いほど慙ぢおそれた。
日本降伏のあした、
天下に暴を戒められた先生に
面の向けやうもないのである。

わたくしの暗愚は測り知られず、
せまい国内の伝統の力に
盲目の信をかけるのみか、
ただ小児のやうに一を守つて、
心理を索める人類の深い悩みを顧みず、
世界に渦まく思想の轟音にも耳を蒙(つつ)んだ。
事理の究極を押へてゆるがぬ
先生の根づよい自信を洞察せず、
言をほしいままにして詩を献じた。
今わたくしはさういふ自分に自分で愕く。
けちな善意は大局に及ばず、
せまい直言は喜劇に類した。
わたくしは唯心を傾けて先生に慙謝し、
自分の醜を天日の下に曝すほかない。


先頃発表された、主語のない「談話」などよりも、ぐっと来るものがありますね。

今週の月曜日に載った、福島の地方紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」です。限定公開されている二本松市の智恵子生家について言及して下さいました。 

智恵子が過ごした部屋(8月10日)

 〈如何[いか]なる場合に処するにも ただ一つの内なるこえ たましいに聞くことをお忘れにならないよう…〉。詩人の高村光太郎の妻智恵子が、40歳のころに書き残したとされる。
 二本松市にある智恵子の生家が特別公開されている。普段は入れない2階の智恵子の居室や光太郎の過ごした部屋、杜氏[とうじ]の寝室などが見られる。明治16(1883)年、酒造業の家屋として建てられた。この四畳半で時代の先端を行く気質が育まれたのかと、しばし感じ入る。裕福だった生家は後に経営が行き詰まり破産する。智恵子も精神を病む。
 光太郎が「智恵子抄」を出版したのは昭和16(1941)年の8月だ。12月に日本は太平洋戦争に突入するが、詩集は3年間で13刷を重ねる。戦時下で死が日常だった若者は、光太郎のように愛し、智恵子のように愛されることを願った(二本松市教委刊「高村智恵子-その愛と美の軌跡」)。
 戦意高揚で書き連ねた詩を恥じ、光太郎は疎開した岩手県花巻市郊外の粗末な小屋に戦後も住み続ける。戦争協力の行為を弁明するでもなく、「内なるこえ」に耳を澄ませた。心の中の智恵子と暮らすことは本望だったのだろう。

生家二階部分の限定公開、10月から11月の菊人形期間、来年2月にも予定されていますが、8月は23日までの土日、つまり8/15・16・22・23です。ぜひとも智恵子の息吹を感じて下さい。

戦意高揚で書き連ねた詩を恥じ、光太郎は疎開した岩手県花巻市郊外の粗末な小屋に戦後も住み続ける。」とあるように、光太郎の息吹を感じるなら、花巻郊外の高村山荘、高村光太郎記念館です。

花巻観光協会さんで作った新しいチラシがこちら。

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同じ花巻市にある宮沢賢治記念館さんもこの春にリニューアルオープンしています。

ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月14日

昭和22年(1947)の今日、東京女子高等師範学校に勤務していた椛沢ふみ子に長い書簡を書きました。

椛沢ふみ子(佳乃子)はたびたび花巻郊外太田村の山小屋を訪れ、地元の皆さんとも親しく交流しました。以前にご紹介した高橋愛子さんも椛沢に茶道を習ったそうで、花巻高村光太郎記念館の受付で配布されているリーフレット「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」に記述があります。

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書簡の最後には、「紀州の人からクマ蟬のモデルを送つてもらひました。秋には此を彫ります。」とあります。「紀州の人」は俳人の東正巳。この月6日付けの東宛てのはがきには、以下の記述があります。

待望のクマゼミ到着、感激に堪へません。よく捉へられたものです。小生は先年つひに失敗、今まで熟覧できなかつた蟬です。実に美しいので今夏中に彫刻したいと思つてゐます。

しかし、結局、この彫刻は完成せずに終わったようです。日記にも詳細な記述がなく、着手もしなかったかもしれません。それでいて書簡では蟬を彫ると明言しているのは、光太郎の蟄居生活を案じる周囲へのポーズなのでしょうか。

仙台に本社を置く地方紙、『河北新報』さん。先週、以下の記事が載りました。

先月中頃でしたが、記事を書いた記者氏から電話があり、記述のある「わが詩をよみて人死に就けり」についてレクチャーし、その際に7/26の紙面に載ると聞きました。そこで仙台在住の息子に頼んで取り寄せました。6月に当方も紹介された『朝日新聞』さんの東北版を送れ、と頼んだところ、忘れやがった抜け作の息子ですが、今回はしつこくメールしたので、大丈夫でした(笑)。

ただし、「この封筒に入れてポストに投函せよ」と、140円切手を貼った封筒を送ったところ、料金不足でゴタゴタしました。抜け作の父でした(笑)。

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毎週日曜日の文化面に掲載されている「戦災の記憶を歩く 戦後70年」という連載で、花巻市の高村山荘が取り上げられています。

戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念

 「智恵子抄」などの詩で知られる高村光太郎(1883~1956年)が終戦後、1945年から7年間を過ごした建物が花巻市西部の太田地区にある。
 高村山荘。静かな山村に立つ。木造平屋。約5㍍四方で、土間と板の間からなる簡素な造りだ。高村が使った机やランプ、いろりなどが今も残る。
 高村は45年5月、宮沢賢治の弟清六を頼り、東京から花巻に疎開。宮沢家が空襲に遭い、知人の勧めで太田地区に移り住んだ。
 地区に住む高橋愛子さん(83)は当時、農作業のため山荘のそばにある畑に毎日通い、高村の暮らしぶりを間近で見てきた。
 「偉い先生がなんで、こんな所で大変な思いをして住んでいるのか、不思議だった」と振り返る。
 
雪をかぶる布団
 地区の冬は厳しい。山荘の間仕切りは障子一枚しかない。室内の布団が雪をかぶることもあったという。
 山荘での暮らしを、高村は自ら「自己流謫(るたく=罪のため遠くに流されること)」と称した。戦時中、戦意を高揚する詩を数多く発表したことに自責の念を抱き、進んで厳しい環境に身を置いたのだった。
 「われら自ら力を養ひてひとたび起つ/老若男女みな兵なり/大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ」
 41年作の「十二月八日」の一節だ。「愛の詩人」と称された高村には、似つかわしくない言葉が並ぶ。
 山荘で暮らした7年で、高村は詩を多く残した。
 「暗愚小伝」は当時の代表作の一つ。幼少期から戦後に至る自己批判を中心とする連作詩だ。構想段階で書いた詩「わが詩をよみて人死に就けり」から、高村の思いが読み取れる。
 「死の恐怖から私自身を救ふために/『必死の時』を必死になつて私は書いた/その詩を戦地の同胞がよんだ/人はそれをよんで死に立ち向かつた」
 
地区の子と交流
 試作に励む傍ら、高村は地区の子どもらと交流を深めた。地区の山口小(現在の太田小)を頻繁に訪れ、開校式で祝辞を述べたり、学芸会に参加したりした。新刊の辞典を寄附するなど支援も惜しまなかった。
 太田地区山関行政区で区長を務める高橋征一さん(72)は幼少時、山口小に通った一人。学校で何度も高村と接し、山荘で掃除を手伝ったこともあった。
 「大人になって、光太郎先生の伝えたかったことが分かった。平和な世の中で、子どもたちが文化的で心豊かに育ってほしいと願ったのでしょう」と話す。
 反戦、平和を声高に訴えることはなかったという高村だが、48年に作った詩「新年」にこう記した。「世界に戦争の来ませんやうに(中略)われら一人一人が人間でありますやうに」。
 流謫の末に見出した、切なる願いに違いない。

メモ 高村山荘は保存のため、太田地区の住民と花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)がそれぞれ作った上屋で、二重に覆われている。午前8時半~午後4時半、有料で内部を見学できる。隣接地に市営の高村光太郎記念館がある。連絡先は総合案内所0198(28)2270。

文 生活文化部・肘井大祐 写真も


読んでおわかりだとは存じますが、単なる観光案内の記事ではなく、太平洋戦争とのからみで光太郎の内部世界をよく省察した内容となっています。

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高村山荘。行くたびに粛然とした気持ちにさせられますが、単に光太郎が住んでいた小屋、というだけでなく、ここでの7年間が「自己流謫」の日々だったことに思いを馳せざるを得ないからです。

6月のこのブログでご紹介した高橋愛子さんがご登場。

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それから後半に談話が載っている高橋征一さんは、先だっての花巻市太田地区の皆さんと、十和田湖関係者の方々の交流会にご参加なさっていました。


戦後70年。あの戦争とは何だったのか、考えるいい契機になります。夏休みということもあり、ぜひ若い世代を交えたご家族で、高村山荘、隣接する4月にリニューアルオープンした高村光太郎記念館、足を運んでいただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月5日

昭和24年(1949)の今日、筑摩書房から『印象主義の思想と芸術』が復刊されました。

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オリジナルは大正4年(1915)。「筑摩選書」の一冊としての復刊です。

標記の件、今週、各紙一斉に報道されました。代表して時事通信さんのものを引用させていただきます。

「玉音放送」原盤を初公開へ=来月1日、「聖断」の防空壕も―宮内庁

 宮内庁は9日、戦後70年に当たり、終戦の日の昭和天皇の「玉音放送」を録音したレコードの原盤(玉音盤)と音声を8月1日に初めて公開すると発表した。昭和天皇が終戦の「聖断」を下した「御前会議」が開かれた皇居の防空壕(ごう)についても、内部の写真と映像などを公開する。音声などはホームページに掲載する予定。
 玉音盤は、玉音放送前日の1945年8月14日夜、当時の宮内省庁舎内の一室で録音された。昭和天皇がマイクに向かって「終戦の詔書」を2回読み上げ、計2組の玉音盤が完成。このうち2回目に録音した方のレコードが翌15日正午にラジオで放送された。
 今回公開されるのは実際に放送された方のレコードで、時間は約4分30秒。宮内庁は原盤から音声を新たにデジタル録音したという。
 宮内庁関係者によると、天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さまは6月下旬、皇居・御所で音声を聞かれたという。玉音盤は現在、皇室の私有物である「御物」として庁内で管理されている。
 宮内庁は、昭和天皇が終戦後の46年5月23日に録音し、翌日にラジオ放送された食糧問題の重要性に関するお言葉についても、原盤と音声を初めて公表する。玉音盤と一緒に保管されていたのが今回発見されたという。
 風岡典之長官は「歴史的な意義からも国民の関心からも戦後70年の機会に公表するにふさわしいと考え、両陛下のお許しを得て公表することにした。この機会に多くの方々にご覧いただきたい」と話している。


光太郎ファンなら、この記事を読んで、次の詩を思い浮かべるはずです。

  一億の号泣001

綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん


放送のあった昭和20年(1945)8月15日、光太郎は岩手花巻に疎開していました。はじめに厄介になっていた宮澤賢治の実家は、5日前の8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は被災を免れた元旧制花巻中学校長・佐藤昌宅に身を寄せていました。

このあたり、加藤昭雄著『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、同『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)に詳しく記述があります。

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そして15日の玉音放送は、花巻町の中心部にある鳥谷崎神社で聴きました。

こちらが鳥谷崎神社。戦前(おそらく)の絵葉書です。

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翌16日には上記「一億の号泣」を執筆、さらに翌日の17日にはこの詩は『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。

ここには「聖戦完遂」のスローガンを信じて疑わなかった光太郎の、その目標を失った虚脱感がよく表されています。しかし、虚脱だけでなく、「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす」というある種の変わり身の早さもうかがえ、この時点ではまだまだ平和の到来を喜ぶ心情は読み取れません。ましてや自身が書き殴った大量の空虚な大政翼賛の詩を読んで、膨大な数の前途有為な若者が散華していったことになど、思い及んでいません。

二度にわたり、空襲で焼け出された光太郎にしてみれば、無理もないのかも知れません。一度目(昭和20年=1945の4月13日)には、智恵子と共に過ごした思い出深い東京本郷Ⅸ駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエを失い、二度目はつい5日前でした。

しかし、この年の秋に、花巻町郊外の太田村の山小屋で独居自炊の生活を始め、いやが上にも自らの来し方を
省察せざるをえない日々の中で、光太郎の内部世界に変化が生じました。

同じ玉音放送を題材にしたこちらの詩は、昭和22年(1947)の作。

終戦003
 
すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わずかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の目からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


これは連作詩「暗愚小伝」中の一篇として書かれたものです。

光太郎は他の多くの文学者のように、無邪気に民主主義を謳歌するというわけではありませんでした。同じ「暗愚小伝」の終曲、「山林」という詩では、以下のように謳っています。
 
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の避難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
 
他の多くの文学者たちは、というと、戦時中に書いた戦意昂揚の作品を「あれは軍の命令で仕方なく書いたものだ」と言い訳したり、その手の作品を書いたことをひた隠しにして「非戦の詩人」の称号を得たりしていました。それどころか、自らも戦争協力詩を書いていたにもかかわらず、やはりそれを隠して、公然と光太郎を非難した詩人もいます。

それに対し、光太郎は自らの過ちを潔く認め、さらに自らを罰することを実践する(花巻郊外太田村での過酷な独居生活、彫刻の封印は7年に及びました)、そういう点こそ、光太郎の素晴らしさだと考えられます。

いったいに光太郎の生涯は、順風満帆なものでは決してなく、いわばつまづきの連続でした。青年期にはロダンに学んだ新しい彫刻理念が受け入れられず、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界との対立を余儀なくされ、それも盟友・碌山荻原守衛の早逝により、孤軍奮闘。光雲の勧める銅像会社設立や美術学校教師の話も断り、智恵子と二人、社会との交わりを極力絶って「都会のまんなかに蟄居」(詩「美に生きる」昭和22年=1947)する清貧の生活。

そんな生活の中で、智恵子は心を病み、光太郎を残して先立ちます。その反省から、一転して社会と積極的に関わり始めたところが、社会の方が泥沼の戦時に突入。その旗振り役を務めざるを得ませんでした。

そして敗戦。公的に戦犯とされなくとも、先述の通り、過酷な環境に身を置いて、自らを罰する光太郎。

最晩年に、自らに課した彫刻封印の重罰を解き、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をこの世に残すことが出来たのは、最後に訪れた幸福だったといえるかと思います。それすら残せず、寒村の山小屋で朽ち果てていたとしたら、虚しいだけの一生だったように思えます。

「玉音放送」の報道を知り、こんなことを考えました。乱筆御免。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月11日

昭和19年(1944)の今日、『日本読書新聞』にアンケート回答「読書会に薦める-中込友美著『勤労青年の教育』」が掲載されました。

 さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。

『高村光太郎全集』第20巻に掲載されています。どうもどこかで誤植が生じたようで、書名やカギカッコ、カッコの位置がむちゃくちゃです。

誤 「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行
正 「勤労青年の教養的生活」(国民教育会出版部発行

です。

こういうところにも、戦時の混乱が見て取れます。

昨日、このブログで花巻の高橋愛子さんについて書きましたので、続けて花巻ネタで参ります。

今月16日の『朝日新聞』さんの東北の版に、今年4月にリニューアルオープンとなった花巻高村光太郎記念館、そして隣接する光太郎が7年間住んだ山小屋(高村山荘)に関する記事が載りました。

当方、『朝日新聞』さんのデジタル版「朝デジ」の無料会員登録をしてありまして、全国版に載った記事はほぼネット上で読める環境です。しかし、地方版の記事は読めるものと読めないものがあり、この記事は読めませんでした。ただ、見出しとさわりの部分だけは、無料会員向けのコンテンツでも検索で引っかかり、こういう記事が載ったんだ、ということはわかるようになっています。

今回の記事に関しても、16日の当日に、東北での版に載ったことがわかったので、午前中に仙台に住んでいる息子に「東北限定の記事が載ってて読みたいから、今日の『朝日新聞』、コンビニで買っておいてくれ」とメールしたところ、「うぃ」と返信が来ました。

ところが、父親に似て抜け作の息子でして、夜、不安になって再度「買ってくれたか?」とメールすると、案の定「ごめん、忘れてた」……。時計を見ると午後10時を廻っています。経験上、だいたいその時間になると、コンビニさんもその日の新聞は撤去してしまうので、「しょうがねえなあ、じゃあ、いいよ」と返信。まあ、その週末に大学の部活動の大きな試合を控えていて、それどころじゃないのだろう、と、いうことで諦めました。

すると、先週、『朝日新聞』北上支局長さんから、その日の紙面が届きました。支局長さんには、先月の花巻高村祭の折に当方が講演をしたので取材を受け、知遇を得ていました。

読んでびっくり、当方も紹介されていました。高村祭での講演や取材の際に語ったことが載った形です。

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記事を書かれたのが支局長さんでした。感謝、感謝。

この記事を読んで、高村山荘、高村光太郎記念館に行ってみようかな、と思う方がいらっしゃれば、嬉しい限りです。本当に、一人でも多くの方にお出かけいただきたいと思っておりますので。

他にも高村祭での取材の際に、「何か岩手がらみのネタはありませんか」と問われたので、最近見つけた『花巻新報』(戦後発行されていた花巻の地方紙)に関するネタを提供しておきました。そのうちに記事になるかも知れません。期待しております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月28日

明治45年(1912)の今日、駒込林町に新築なったアトリエ建築費用の決算がなされました。

光太郎の母・わか(通称・とよ)の書き残した『朔画室建築費扣』という半紙を綴じて作った冊子が遺っており、細かな出納が記録されています。例えば、「一金六十円 水道工事壱式 西山商会内払」「一金壱円八拾五銭 下駄箱壱個」など。
001
その最後に以下の記述があります。

六月二十八日迄合計
惣〆金弐千弐百九十七円七十八銭五リ也

「五リ」は「五リン(五厘)」の誤記でしょう。総額2,297円78銭5厘。ちなみに当会顧問・北川太一先生が電卓で計算されたところ、数字が微妙に合わないとのことですが、そのままとします。

諸説ありますが、安く見積もれば明治末の1円は現在の4,000円くらいにあたるとも言われます。そう考えると919万1,140円。また、諸説あるうち、高く見積もると明治末の1円=現在の10,000円という説もあり、そう考えれば2,297万7,850円となります。ちなみに大正3年(1914)刊行の詩集『道程』は定価1円でした。

この時期の光太郎はコータローならぬプータローですから(せっかく開いた我が国初の画廊「琅玕洞」は、赤字続きで譲渡)、この莫大な金額、全額、光雲が出しています。とんでもないスネかじりですね。

それを言い出せば、詩集『道程』の出版費用も光雲から出ています。

そういう光太郎にある意味反感を抱いた室生犀星の回想が残っており、笑えます。

地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

大瀬川歴史探訪講座 高橋愛子さん、光太郎を語る(6/24)

「気さくなおじいさん」
 花巻市石鳥谷町の大瀬川活性化会議が主催する第35回大瀬川歴史探訪講座は23日、「高村光太郎と大瀬川の芸術」をテーマに大瀬川振興センターで開かれた。花巻で疎開生活を送った詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と交流した高橋愛子さん(83)=同市太田出身、同市石鳥谷町大瀬川在住=から思い出話を聴き、地区住民ら約30人が偉人の暮らしぶりや人柄に思いをはせた。
 高橋さんの実家は、東京から疎開してきた光太郎が同市太田山口(旧太田村山口)を訪れた最初の晩に泊まった場所。当時16歳だったという高橋さんは「背が高く、ひげもじゃで、よれよれのリュックサックを背負って、この人は本当に偉い人なのかなと思うような格好をして来た。脱いだ靴を見たら34センチぐらいあって、びっくりした」と驚きの連続だった光太郎との出会いを振り返った。
 村人の建てた簡素な山荘で7年間暮らした光太郎は、何でも知っている先生として慕われ、講話や学校への寄付を行い、運動会やクリスマスといった行事に参加するなど、地域にすっかり溶け込んでいたと回顧。「光太郎が学校に来ると、生徒たちはみんな駆け寄って手をつないだ。子供にとっては先生でなく、ただのそこらへんのおじいさんという感じ。本当に気さくだった」と偲んだ。
 参加者は興味深げに聴き入り、「妻の智恵子について話を聞いたことはなかったか」「美食家だったといわれているが」「何で7年も山口にいたのか」などと質問。高橋さんは「夏に光太郎が風邪を引いて山荘で休んでいた時に『寂しくないですか』などと聴いたら『ちっとも寂しくない。智恵さんがいる』と言っていた。亡くなっていた智恵子さんをすごく愛していたんだと思う」「外国でおいしい物を食べていた人だった。畑ではオクラやセロリなど山口では珍しかった西洋野菜を植えていた」「母は、光太郎は戦争に賛成した詩を書いた責任を感じて山口に来たんだべ、と言っていた」などと答えた。
 リニューアルした高村光太郎記念館に行って感動し、当時について聞いてみたいと思って参加した菅原房子さん(61)=大瀬川=は「記念館の内容と愛子さんの話が結び付き、なるほどと思った」と目を輝かせていた。

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高橋愛子さん。花巻郊外太田村に住んでいた頃の光太郎をよくご存じの方です。今年2月にオンエアされたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」にもご出演なさっていました。

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お父さんの雅郎さんは、光太郎がいた頃の太田村村長さん。ただし、戦時に外地に行っていて、帰国した時にはすでに光太郎が太田村に住んでいました。その後、村長に就任したというわけです。

お母さんのアサヨさんも、何くれとなく光太郎の世話をやいてくれました。そして愛子さんご自身も、光太郎の元にいろいろと届け物をしたりで、光太郎の日記にお名前が頻出しますし、詩「山の少女」(昭和24年=1949)のモデルとも言われています。そしてお二人とも、昭和41年(1966)、かつての太田村に建った高村記念館の受付を永らくなさっていました。

今年4月にリニューアルオープンとなった花巻高村光太郎記念館の受付で、下記のリーフレットを無料配布しています。題して「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」。

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A3判の用紙両面印刷で、4つ折りになっています。地元スタッフの方々が愛子さんへの聞き書きをまとめたもの。「サンタの衣装づくり」「西洋野菜」「日時計」などなど、中にはこれまで活字になったことがなかったのではないかと思われる、実に貴重な証言が満載です。

花巻高村光太郎記念会の事務局長氏と電話でお話をした際、愛子さんのお話にもなりました。記事にある地域の講座も、このリーフレットができたことで、これを見ながらお話をすれば楽だ、ということで、実現したとのことでした。

他にも、今秋をめどに、旧太田村の皆さんによる光太郎証言をまとめる計画が進んでいます。またお手伝いさせていただくことになりまして、いいものができるよう、頑張りたいと思っております。

来月には、旧太田村の皆さんで作る「太田地区振興会」の方々約40名が、十和田湖にいらっしゃるそうで、当方も現地で合流することにいたしました。やはり生前の光太郎をご存じの振興会の佐藤会長は、二本松で開催されている智恵子命日の集い「レモン忌」にもいらしています。逆に今年は「レモン忌」主催の「智恵子の里レモン会」の皆さんが、5月の「高村祭」に大挙していらして下さいました。

今度は十和田の観光ボランティアの会の皆さんとの交流ということです。こうした地域同市の草の根の交流、ネットワーク作りというのも、非常に重要なことだと思います。さらにいろいろな分野で輪を広げ、強固なものにし、光太郎智恵子の業績を後世に伝えていきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月27日

昭和19年(1944)の今日、『朝日新聞』に詩「婦女子凜烈たり」が掲載されました。


    婦女子凜烈たり003

戦略軍機は揣摩を絶し、
統帥の府厳として大局を握る。
サイパン島一円の戦、
敵これに万の犠牲を傾け来たる。
上陸の敵を邀(むか)へて婦女少年も力を協(あは)せ、
海陸未曾有の真相を呈するに至る。
しかもアメリカ海軍の運命がいま
大挙してここに集る。
連合艦隊の一部百錬の力を出動し、
撃滅の気すでに海に溢(あふ)る。
国民の胸黙すれどもをどり、
国民の血平かなれども白熱し、
補給はひきうけたと
二十四時間が唸りを立てる。
いまつくる此の部品があすは戦ふ。
あそこで撃つ。
いま、いま、いま、
いまを措いて行動の実質はない。
あの要衝で婦女子もまた決然たる
その凜烈の様相が眼に見える。

昭和19年(1944)、勤労動員などで、婦女子までもが駆り出された戦時の世相がよく表されています。近くて遠いどこかの独裁国家では、今も同じようにミサイルの製造などを行っているのでしょうか。我が国がもう一度、いや、永遠に、こういう状況に戻らないことを祈ります。

あそこで撃つ。/いま、いま、いま、」は、現代の婦女子代表・なでしこジャパンのシュートだけにしてほしいものです。

余談になりますが、なでしこジャパン主将の宮間あや選手は、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた豊海村(現・九十九里町)に隣接する大網白里町(現・大網白里市)の出身です。

明日は女子ワールドカップ準々決勝。「あの要衝(カナダ)で、婦女子もまた決然たる/その凜烈の様相が眼に見える。」という状況になってほしいものです。

先月、花巻高村祭の後で現地調査に訪れた奥州市の人首文庫さんから、『高村光太郎全集』等未収録の書簡など、お願いしていた数々の資料コピーが届きました。ありがたや。

その中に、光太郎が写っている写真があったということで、こちらのコピーも含まれていました。クリックで拡大します。

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光太郎は中央やや右の方にいます。これがい007 (2)つどこで撮られたものかというと、昭和25年(1950)1月18日、盛岡にあった菊屋旅館です。

では、何の集まりかというと、その名も「豚の頭を食う会」。記録が残っています。長くなりますが引用します。

まずは昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』という書籍の一節です。したがって文中「現在」とあるのは昭和51年の時点です。

 昭和二十五年一月十八日の夕方、菊屋旅館で「豚の頭を食う会」が開かれた。メーン・ゲストはもちろん高村光太郎。これに、“南部の殿さま”南部利英夫妻や盛岡市長、盛岡警察署長、美校(注・岩手県立美術工芸学校)の教授・助教授陣ら約三十人が加わり、豪華な中国料理に舌つづみをうった。
 発起人は深沢省三と堀江赳、それに現在「オームラ洋裁学校」を経営している大村次信の三人だった。この三人が桜山のおでん屋で酒を飲みながら話をまとめ、大村が後日、直接山口に出向いて光太郎を誘った。費用は会費とカンパでまかない、コック長は大村の遠縁で、戦前彼と同じく満州国の「協和会」で一等通訳をしていた浜田敏夫がつとめた。菊屋旅館の台所は数日前から、前述の君子(注・菊屋旅館女将)以下、お手伝いさんたちが仕込みで大騒ぎしていた。
 光太郎は五日前の十三日、盛岡に出て来、教員を対象にした美校の美術講座や「盛岡宮沢賢治の会」の講演会、少年刑務所での講演など多忙なスケジュールをこなしていた。「深沢牧場」を訪問したのはこの翌日になる。
 例えば新聞社でも、夜食にカツドンを食う記者がいれば、同僚から「ほう」という声がもれた時代だ。大村の命名になるこの「豚の頭を食う会」は、翌日の朝刊を写真入りの記事で飾った。その十九日付の地元紙――
<この会は翁(注・光太郎)の日ごろの持論である「日本人の食生活はあやまっている、肉を大いに食うべし、しかも従来日本人の多くはうまい所ばかり食べて臓物や尾など栄養価の高いものを食べていない、豚の頭や牛のシッポを食べなければならない」というのを早速実践に移そうということで計画された>
 この日の献立を挙げておこう。大村ら発起人が出席者に配ったものだが「高度成長」を遂げた二十五年後の今日でも、ちょっとわれわれ庶民の口には入りそうもない。それほど豪華だ。
 <前菜(蒸し肉ほか三種)炒菜(イリ豚肉ほか三種)炸菜(豚の上ロースの天ぷらほか三種) フカのヒレの煮物 コイの丸揚げ 山イモのアメ煮 リンゴの甘煮 豚の白肉の寄せなべ 肉の団子のアンかけ 鶏肉の白玉子とじ アヒルの蒸し焼き カニ玉子 玉子とじ汁 もち米の甘い八目飯 ほかに天津包子>
 どうですか? 実際は「豚の頭」などどこにもない。単にユーモラスな名称以上のものではなかったわけだが、大村も「当日高村さんは席につくなり、ほう、大変なごちそうだねと感心し、次いで、どこに豚の頭が入っているのと聞いた」と笑う。それにしても、光太郎に栄養補給してあげようという大村ら発起人の気持ちはともかく、これだけのものを食べていながら、光太郎が<日本人の食生活はあやまっている>などと記者に語ったのが事実だとすれば、実にいい気なものだといわざるをえない。まだ朝鮮戦争による特需景気もなく、日本人は食べたくても食べられなかった時代だ。


続いて昭和37年(1962)、筑摩書房刊行の『高村光太郎山居七年』(先頃、花巻の高村光太郎記念会より復刊されました)。

 盛岡美校の深沢さんに堀江さん、その友人の大村さん高橋さんの四人が、桜山前のおでんや「多美子」に休んだとき、かわったうまいものの話などが出ました。
 「高村先生を招いて豚の頭を食う会を開こうではないか。」との話がで、皆大賛成です。先生は、頭だの尻尾だの内臓だのに一番栄養があると常々話をしているから、先生に上げみんなも試食しようというわけで、会を開くことにしました。幹事に大村次信さんが当り、日時は美校での講演会の夜、会場は絵が好きで深沢さんと親しくしている菊池正美さんの旅館菊屋にしました。
 次信さんは、今度の会は豚の頭の料理なのだからその通(つう)の人でないとうまい料理が作れそうもないので適材を物色しましたところ、盛中出身の一等通訳で、中国に長くいた浜田年雄さんがその通だというのでそれに頼み、然るべき方々に案内状を出し、又電話をかけました。
 講演会のあとで案内を受けた人々が会場菊屋に集まりました。
 先生は豚の料理を前にして
「日本人は体が小さい。食生活をかえなくては大人(だいじん)になれない。体も心もです。トルストイも一つは大地が育んでいるが一つは食べ物がうんでいる。栄養をうんと摂ることが必要だ。」
 豚の頭の料理を皆で一緒に食べましたが、いろいろの味があり、食べつけない一同は何とも批評ができませんでしたが、先生は蛇の話熊の話動物の叡智など面白く語り、かなり酒もまわって来ました。大いに飲み大気焔になるのもあります。益々まわって来た先生は南の方に向かい両手を畳について
「高山彦久郎ここにあり、はるかに皇居を拝す。」
 と大声をあげ、巨体を前に伏しました。団十郎の声色を真似たのでしょう。酔余の余興ではありましたが、座は粛然と成りました。(大村次信氏談)


同じ大村氏を情報ソースとしながら、微妙に異なるところがありますが、まあ大筋は一致しています。要するに光太郎を囲んでの食事会です。

ちなみに次の日に訪れたという「深沢牧場」は雫石の深沢省三・紅子夫妻の住まい。今年3月に、女優の渡辺えりさんとともに、子息・竜一氏にお話を伺って参りました


当時、盛岡在住だった詩人の佐伯郁郎も「豚の頭を食う会」に出席。そこで、人首文庫さんに上記の写真が残っていたというわけです。人首文庫さんによれば佐伯は最後列の右端です。同じく人首文庫さん情報では、光太郎の左前にいるのは作家の鈴木彦次郎だそうです。

写真には40名弱が写っていますが、当方、顔でわかるのは深沢省三(最後列左端)、深沢紅子(光太郎の右後)、菊池君子(前列左から五人目)ぐらいです。岩手県立美術工芸学校の関係者が多いようです。

他に、大村次信、舟越保武、堀江赳、森口多里、佐々木一郎、南部利英、菊池政美といった面々がいるはずなのですが、どれだかわかりません。また、それ以外には名前すら不明です。

写真を見て、これは「うちのじいちゃんだ」というような方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。

ところで、昨年、盛岡てがみ館さんで開催された企画展「高村光太郎と岩手の人」で、「豚の頭を食う会」の献立が展示されました。『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』に記述があるもので、ガリ版刷りです。これを見た時には、よくぞこういうものを遺しておいてくれた、と、涙が出そうになりました。

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ちなみに発起人の一人、大村次信が経営していたという「オームラ洋裁学校」は「オームラ洋裁教室」と名を変え、存続しているようです。ところが会場の「菊屋旅館」が、ネットではヒットしません。こちらも改名されて、このホテルじゃないか、と推理できるところはあるのですが、はっきりしません。そのあたりご存じの方もご連絡いただければ幸いです。

追記 「菊屋旅館」は現在の「北ホテル」さんと判明しました。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月18日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で日本文学報国会の発会式が開催されました。

「報告会」ではありません。「報国会」です。「七生報国」の「報国」です。定款第三条によれば、

本会ハ全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想ヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス

という団体です。

当時の『日本学芸新聞』の報道。

  一堂に会す全日本の文学者 皇道文化創造へ邁進 日本文学報国会力強き第一声

 全日本の文学者を打つて一丸となし、愛国尽忠の至誠烈々として、その総力を集結する「社団法人日本文学報国会」の発会式は六月十八日午後一時から日比谷公会堂に於いて挙行された。
 この日、全国から馳せ参じた三千有余の文学者はもとより、友好団体たる少国民文協、音協出版、文協、都下大学文化学生等参加。甲賀三郎氏(総務部長)司会の下に下村宏氏座長となり、久米正雄常務理事が会務を報告し、会長に徳富猪一郎を推挙、つづいて八部会の各代表の華々しい宣誓に移り――菊池寛(小説部会代表)、太田水穂(短歌部会代表)、河上徹太郎(評論随筆部会代表)、深川正一郎(俳句部会代表)、茅野蕭々(外国文学部会代表)、橋本進吉(国文学部会代表)、尾崎喜八(詩部会代表)、武者小路実篤(劇文学部会代表)――東條翼賛会総裁、谷情報局総裁、文部大臣橋田邦彦氏の祝辞があり、最後に吉川英治氏の提唱で「文学者報道班員に対する感謝決議」を行つたが、この誠に文壇未曾有の盛事に、際会して、全日本文学者の意気凛々として満堂を圧する観があつた。

光太郎は詩部会長でしたが、代表として宣誓を行ったのは尾崎喜八でした。尾崎は光太郎の詩「地理の書」を朗読しています。

お父様が光太郎と親交がおありだった関係で、連翹忌にもたびたびご参加下さっている、女優の渡辺えりさん。演劇以外にも歌手としてのご活動もなさっています。

今月16日の『朝日新聞』さんの岩手版に、以下の記事が載りました。

敬愛の光太郎・賢治へ 歌声届け 渡辺えりさん、花巻で来月公演

 女優で劇作家の渡辺えりさん(60)が「還暦記念コンサート」を6月1日、花巻市文化会館で開く。渡辺さんには高村光太郎や宮沢賢治の作品から触発された劇作品があり、2人にゆかりの花巻市で「感謝を込めて、力いっぱい歌いたい」と張り切っている。

 渡辺さんの父が光太郎や賢治が好きで、幼い頃から2人の作品に親しんできたという。これまで光太郎の作品から「月にぬれた手」、賢治から「天使猫」を作ってきた。上演には予算や時間もかかり、出演も大人数になるため、「小回りがきく」コンサートを開くことになったという。
 4月30日には同誌のイーハトーブ館で、賢治の弟の孫にあたる宮沢和樹さんと対談。渡辺さんは「光太郎は大事な人にあげる色紙に賢治の『雨ニモマケズ』を書いて贈った」と話し、宮沢さんは「光太郎先生は賢治の作品を最初に評価した人。それがなければ賢治は世に出なかったかもしれない」と話した。
 コンサートでは渡辺さん作詞のシャンソンやオリジナル楽曲を「歌い語る」という。賢治の「星めぐりの歌」も歌う予定だ。「花巻はしょっちゅう訪れていて、親戚がいるような気持ち。感謝の気持ちと震災からの復興への思いを込めて歌いたい」と話している。
 コンサートは6月1日午後6時半から、全席指定で4800円。公演の問い合わせは「オフィス3○○(さんじゅうまる)」(03・6804・4838)、チケットの問い合わせは市文化会館(0198・24・6511)へ。

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というわけで、「光太郎・賢治へ捧げるコンサートだそうです。

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ちなみに「還暦記念コンサート」としては、東京、そして渡辺さんの故郷・山形でも公演があります。

東京公演 
 2015年5月31日(日) 東京キネマ倶楽部 台東区根岸1丁目1-14
 昼公演 13:30開場 14:00開演
 夜公演 17:30開場 18:00開演

山形公演
 2015年6月2日(火) 山形市民会館 山形市香澄町2-9-45
 18:00開場 18:30開演

それぞれ問い合わせ等はオフィス3○○(さんじゅうまる)さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月27日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、詩人・宮崎稔の長男の命名揮毫をしました。

宮崎は、光太郎が取り持って、智恵子の最期を看取った智恵子の姪の春子と結婚。長男を「光太郎」と名付けました。

5月16日土曜日、奥州市水沢図書館さんをあとに、同じ奥州市内の米里人首地区にレンタカーを走らせました。光太郎と親交のあった詩人の佐伯郁郎の生家、人首文庫さんが目的地です。

こちらには、佐伯郁郎の厖大な遺品が収蔵されており、その中に佐伯に宛てた光太郎の書簡が複数あって、10年ほど前に当主の佐伯研二氏にコピーを送っていただきました。それらの現物を見てみたい、というのと、もしかすると他にも光太郎関連資料があるのでは、という思いがありました。結果的にそれが当たりました。

さて、大船渡方面につながる盛街道を東へ、山あいののどかな風景の中を走ること30分あまり、目指す人首地区に着きました。

ここは宮澤賢治の作品に登場する種山ヶ原の麓に位置し、賢治もたびたび訪れたそうで、賢治ゆかりの場所の大きな案内図が道端に建っていました。

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目的地の人首文庫さんは地区のほぼ中心、人首城跡の入り口にありました。江戸時代には人首城主・沼辺家の家老職、廷内に学問所を併設していたというだけあって、豪壮な構えでした。

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しかし、当方が着いた時には、お留守でした。こちらの電話番号を把握して居らず、また、旅の途中ゆえ、何らかのトラブルで訪問できなくなる危険もなきにしもあらずでしたので、事前に来意は告げてありませんでした。ただ、門が開いているので、近くに出かけているだけだろうと思い、しばし門前で待たせていただきました。やがて佐伯研二氏ご夫妻がご帰宅。推測通り、お買い物に出かけていたとのこと。

門をくぐって敷地内に入ると、立派な庭園、いかにも格式のある母屋、そして蔵が何棟もあって驚きました。

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樹齢200年という桜の木もあり、花の時期にはものすごいことになるだろうな、と思いました。
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早速、資料を収蔵してある蔵を拝見しました。

一歩入って驚愕しました。天井まで届く複数の大きな書棚に溢れんばかりの書物、展示ケースや壁には書幅や色紙などの類、しかもそれが一室でなく、何部屋もあるようです。

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佐伯氏は、突然の来訪にもかかわらず、懇切ご丁寧にご説明下さり、恐縮でした。「こんなものもあります」と、次々にいろいろなものを出して見せて下さいました。

佐伯郁郎は戦前に内務省に入省、戦時中は情報局文芸課に勤務、検閲の任にあたっていたという特異な経歴があり、非常に文壇内で顔が広かったようです。有名どころからマイナー、マニアックな文学者まで、著書や書簡、肉筆原稿、書など、いったいどれだけあるんだ、という感じでした。

こちらは光太郎の書。

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先日、埼玉の田口弘氏のお宅で拝見したのと似た、若干粗悪な色紙に書かれています。おそらく物資の乏しかった戦後の物でしょう。

「針は北をさす」という句は、初めて目にしました。類似の例として「いくら廻されても針は天極をさす」という揮毫は何種類かあるのですが、「北をさす」という揮毫は類例が確認できていません。岩手という北の大地に流れてきての思いが込められているのかも知れません。

こちらは光太郎から佐伯郁郎宛の葉書。以前にコピーを送っていただいたものでした。

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これら以外にも、『全集』等未収録の光太郎からの葉書が2通、ありました。昭和6年(1931)の、佐伯の第一詩集『北の貌』、同10年(1935)の第二詩集『極圏』の、ともに受贈に対する礼状でした。それぞれ50名ほどでしょうか、他の文学者たちからの礼状とともに、一括してまとめられていました。

昨日ご紹介した、水沢図書館での智恵子資料などと合わせ、まだまだ岩手には未知のお宝が眠っていたということで、大興奮でした。

また、光太郎とも親交のあった文学者たち(特に詩人)の資料も数多くあり、興味深く拝見しました。以前に連翹忌にご参加くださっている詩人の宮尾壽里子様からいただいた文芸同人誌『青い花』第79号に掲載されていた柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」という評論で紹介されていた萩原朔太郎と中原中也、そろっての署名など。

書簡類も、それぞれの文学者の全集に未収のものがほとんどのように思われます。近代詩人の研究をされている方、ぜひ一度、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月23日

昭和23年(1948)の今日、詩人の大上敬義に詩集受贈の礼状を書きました。

北海道の更科源蔵氏から貴著詩集「愁ひの実」を回送され、又貴下のおてがみを昨日いただきました。御恵贈ありがたく存じます。今は畑のいちばん忙しい時なので、中々読んでゐられませんが、そのうち繙読するのをたのしみに存じます。

上記の佐伯郁郎との親交も、こうした詩集受贈から始まっています。

確認できている光太郎書簡の中には、この手のものがかなり多く存在します。光太郎は詩集などを贈られると、相手が無名の詩人であっても、貰って貰いっぱなしではなく、必ずと言っていいほど礼状を書いています。

この手のもの、やはりまだまだ眠っている物も多数存在するはずです。「うちのおじいさんはあまり有名ではなかったけど、詩人だった」などという方、捜してみて下さい。

5月16日土曜日、大沢温泉さんを後に、花巻南温泉峡組合さんで運行する無料シャトルバスに乗り込んで、東北新幹線の新花巻駅に向かいました。この日は南下して、奥州市で現地調査です。

駅前の土産物屋で買い物を終えて外に出ると、豪快な汽笛が聞こえました。「SL銀河」がJR釜石線の新花巻駅に入線していました。

当方鉄道マニアではありませんが、レトロなものは大好き人間ですので、見に行きました。しかし、残念ながら釜石方面へ向けて出発したところで、後ろ姿しか見えませんでした。

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ちなみにこの機関車はC58型239号機。昭和15年(1940)製で、同18年(1943)から宮古機関区に配属され、同48年(1973)まで現役でした。その後、盛岡で静態保存されていたのが、昨年、再び運行が開始になりました。

だいぶ以前にこのブログでご紹介した、当方の住む千葉県北東部を期間限定で走った「おいでよ銚子&佐原号」のC61-20号機同様、もしかすると光太郎もこの機関車が牽引する列車を利用したかも知れない、などと思いながら見送りました。

さて、東北新幹線やまびこ号にて、水沢江刺駅に着き、駅前で予約していたレンタカーを借りました。地方では路線バスがどんどん少なくなり、かといってタクシーは料金が高く、逆に最近のレンタカーは高性能のカーナビも標準装備ですので、それほどの長時間でなければこちらの方が便利です。

目的地は2ヶ所。まず、一ヶ所目の、奥州市水沢図書館さんに行きました。水沢江刺駅から約5㌔です。

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こちらでは、昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で1日だけ開催された智恵子切抜絵展に関する資料が所蔵されているというので、それが目当てでした。その情報を花巻の記念会さんから得た際には「二つ折り見開きの簡易なパンフレット的なものだろう」と思っていました。

ところが、書庫から出していただき、手に取ってみると、あにはからんや、20ページ以上もある冊子でした。

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前半は、日本画家の夏目利政が書いた文章とカット、後半は光太郎の「智恵子抄」からの抜粋でした。

夏目利政は光太郎より10歳、智恵子より7歳年下で、東京本郷動坂の生まれ。光太郎同様、岩手(水沢)に疎開し、そのまま水沢にとどまっていました。

その頃から数えて約40年前、明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が夏目家の離れに下宿していたのです。それ以前に入居していた同校卒業生用の楓寮が閉鎖となり、同郷で同窓だった幡ナツ夫妻が、自分達も下宿していた夏目家に智恵子が下宿できるよう計らってくれたとのこと。そうした縁もあり、戦後の水沢での智恵子展の開催に、夏目が骨を折りました。

夏目の文章、初めは花巻の佐藤隆房邸で智恵子の紙絵を初めて観た際の印象が語られています。観る前はたいしたものではなかろう、とたかをくくっていたのが、実際に目にして、瞠目したことが書かれています。後半は、夏目家に下宿していた頃の智恵子の回想。約40年前の回想ですが、芸術について生き生きと語る智恵子の姿が再現されています。


智恵子の言葉の部分を一部引用します。句読点、改行等は原文のままです。明らかな誤字は訂正しました。

ほんとうのことって よっぽどしっかりしないと、008
持ちつづけられないわ
嘘は、すぐわかるから、たいした、おそろしいものではない
一番こわい、たえず警戒しなければならないのは、
妥協すること、よ  妥協が一番きらい
ほんとうのような姿で、親切らしい形で
やってくる、しつっこく、執拗に、よ
けれど一歩でも妥協をゆるしたら それこそ大変
あとから、あとから、絶間なしにくる
これで、皆 大てい崩れてしまう、新しい命を失ってしまう
人間が生きながら干物のようになってしまう
生きているように見せかけることばかり気にする様になる
生きた絵も、生きた生活だって出来やあしない
妥協こそ卑俗に落ちる第一歩なのよ
ほんとうを失って生きるのなら
生きたって、無意味
卑俗への妥協 憎むべきだわ妥協
もし、妥協しないで、生き抜くことの出来ない
そんなのが世の中なら、
けれども立派に生きて絵をかいている人がある
立派な絵がある
ゴッホなんて 気が狂ったって尊いわ
この生きている絵 いつまでも生きている絵――

いかにも智恵子が語りそうな内容ですね。

右上と下は、夏目がその頃の智恵子を思い起こして描いたカットです。上記のゼームス坂病院と思われる表紙画も夏目作です。

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こうした貴重な資料がまだまだ埋まっているのだな、と、感慨ひとしおでした。

その後、水沢図書館を後にし、同じ奥州市の山中、米里人首(よねさとひとかべ)地区にレンタカーを走らせました。こちらは光太郎と親交のあった詩人、佐伯郁郎の生家があり、遺品を展示する「人首文庫」として公開されています。そちらについてはまた明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月22日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『和』に詩「和について」が掲載されました。

同誌は大阪の四天王寺事務局内太子鑽仰会発行の雑誌です。009

  和について

物思はせたまふ時
太子斑鳩の宮に入らせたまふ。
ただおんひとり幽暗の座を占めたまふ。
大陸の文化に伴ふ大陸の強圧。
帰化豪族らの不規異例。
守屋がともがら今は亡けれど
蘇我の権門やうやく微妙の兆(きざし)あり。
門閥世襲の割拠独善。
部曲(かきべ)の民を財とする兼併貪癡。
貧富の隔絶すでにはげしく
飯(いひ)に餓ゑてやせこける民は巷にあり。
われらに今欠けたるもの和なり。
億兆の和なくして社稷なし。
和は念慮にして又具顕なるを。
大いなるかな和をおもふことの力。
これ人倫のもとゐ社稷の血脈。
わがものせんとする文(ふみ)すでに成れり。
太子まなこを開きて座を起こさせたまふ。
香煙袖を追うて春の宵いまだ暮れやらず。

飛鳥の世の話を、戦後間もない当時の世相に擬しているように思われます。

5月15日(金)に行われた花巻高村祭のため、前日から花巻入りし、花巻には2泊しました(もう1泊は仙台)。

14日(木)は鉛温泉藤三旅館さん。昨年先月に続き、3回目の宿泊でした。今回は、㈶花巻高村光太郎記念会さんのご厚意で、昭和23年(1948)に光太郎が泊まった3階の31号室に泊めていただきました。

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リフォームはされているようですが、基本的に昔のままのようで、部材や調度品などは非常にレトロな感じでした。また、非常に天井が高いのが印象的でした。

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窓を開けると、下には豊沢川の清流。

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館内各所にも、レトロなアイテムが随所に見られます。

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深さ約130㌢の自噴岩風呂「白猿の湯」や、渓流沿いの露天風呂など、堪能しました。

よく「枕が変わると寝られない」という方がいらっしゃいますが、当方はそんなことはなく、というか真逆で、「枕が変わると起きていられない」という感覚です。旅先では夕食を摂って一風呂浴びると、もう眠くて仕方がありません。8時から9時にはたいがい眠ってしまいます。その代わり、2時とか3時とか、真夜中に目が覚めます。そこでまた温泉に浸かるとまた眠くなり、朝までぐっすり。また5時、6時くらいに起きて、さらに一風呂。今回の3泊ともそうでした。

2泊目は大沢温泉山水閣さん。こちらも光太郎がよく泊まっており、当方も学生時代から、数え切れないほど泊まっています。ただ、大沢さんは宿が3つに別れており、学生時代は自炊部さん(基本的に湯治客用の木賃宿)、その後は築160年という別館の菊水館さんに泊まっていて、山水閣さんでの宿泊は初めてでした。山水閣さんは少し高級な温泉ホテルという感じです。3館は全て館内でつながっています。

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左奥の白い建物が山水閣さん、右手の古い2棟が自炊部さん。

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こちらが菊水館さん。茅葺きです。下は3館共通の露天風呂、「大沢の湯」です。

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さて、山水閣さんでは、「牡丹の間」という部屋に泊めていただきました。こちらも光太郎ゆかりの部屋です。

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山水閣さん自体が建て替えられた際、光太郎がよく利用した部屋を再現したそうで、部材や調度品は当時のものを転用しているそうです。

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こちらの箪笥、飾りかと思っていたら、ちゃんと浴衣が入っている実用のものでした。

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そして、「光太郎ゆかりの部屋」を前面に押し出しているため、室内には光太郎の書「大地麗」、水彩画「牡丹」の複製が。本物はともに記念館に展示されています。

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床の間には渡辺えりさんのお父様、渡辺正治氏の書。渡辺氏も当方と同じく、高村祭の記念講演講師をなさった際にここに泊まられています。

さらに出てすぐの廊下には、智恵子の紙絵の複製も。

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この部屋はスイートルームの扱いなので、非常に広く、3部屋もあります。

また、やはり窓を開ければ豊沢川の清らかな流れ。鉛温泉さんより下流に位置し、流れも多少穏やかで、この季節、耳を澄ませばカジカガエルの声が聞こえます。

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さらに館内廊下には、光太郎や賢治ゆかりの品々が。光太郎自身の書「顕真実」、仏典の言葉です。さらに渡辺氏同様、高村祭の講師をなさった、鋳金家の故・斎藤明氏、光太郎の実弟・豊周の子息、故・高村規氏の書。

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その他、昨日もご紹介した光太郎写真や、光太郎が訪れた頃の大沢温泉さんの写真などなど。

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廃線となった花巻電鉄の駅が、温泉入り口にかつてあり、その写真です。

こちらでも温泉を堪能しました。それから鉛温泉さん、大沢温泉さんともに料理もすばらしく、おそらく太って帰りました(笑)。

花巻にお越しの際は、ぜひ両館にお泊まり下さい。鉛さんの31号室、大沢さんの牡丹の間、ともにスイートルーム的な部屋ですが、プチ贅沢ということで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月21日

昭和56年(1981)の今日、佐藤隆房が歿しました。008

佐藤は総合花巻病院の院長を長らく務め、宮澤家ともども、昭和20年(1945)、戦災で焼け出された光太郎を花巻に招くのに一役買いました。

さらに、戦後、太田村に移る前の光太郎を約1ヶ月、自宅離れ(光太郎が「潺湲楼-せんかんろう」と名付けました)に住まわせました。太田村移住後の光太郎は、花巻町に出てきた際には主にここに宿泊しています。

光太郎歿後は顕彰運動を進めるべく、財団法人高村記念会を立ち上げ、その先鞭をつけました。

『高村光太郎山居七年』をはじめ、貴重な光太郎回想も数々残しています。

また、宮澤賢治の主治医だったことでも知られ、賢治の詩「S博士に」のモデルが佐藤だと言われています。

現在の㈶花巻高村光太郎記念会会長、進氏は、佐藤の子息です。

5月15日、第58回高村祭終了後、生前の光太郎を知る人々からお話を伺うことが出来ました。

まず、JR東北本線花巻駅近くにお住まいの、内村義夫さん。内村さんの奥さんのお父様が、故・内村皓一氏。平成5年(1993)に亡くなった写真家で、光太郎の日記にお名前が散見されます。国内より国際的に評価され、海外のコンクールで多数の入賞歴があります。

平成21年(2009)の5月3日、地元紙『岩手日報』さんに以下の記事が載りました。

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昭和26年(1951)6月16日に、光太郎は花巻公会堂で講演を行っています。その際、同時に光太郎作詞の「初夢まりつきうた」が舞踊となり、上演されています。その「初夢まりつきうた」が収められたレコードの発見が報じられた記事でした。記事中に「一九四六(昭和二十一)年」とあるのは誤りです。

この件について詳しく調査しようと思っていたところ、内村さんと連絡が取れ、高村祭のため当方が花巻に滞在中にお会いできることになりました。内村さんは、お仕事が終わってから、わざわざ高村光太郎記念館までお越し下さいました。

事前にお願いしてあったので、レコードの現物をご持参下さいました。当時の新聞記事と一緒に額に入れて保管されているとのこと。

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記事はこちらです。クリックで拡大します。

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光太郎の講演、「初夢まりつきうた」の上演と同時に、内村皓一氏の写真展も開催されていたとのことです。

この日の光太郎日記が以下の通り。

細雨、 ひる近く花巻新報の平野智敬氏、及写真家内村皓一氏車で迎にくる。一緒に花巻行、ヤブにて中食、商工会議所の連中集まる、後公会堂行、講演一席、後舞踊見物、まりつきうた。 花巻温泉に一泊。紅葉館、皆とのむ、小田島氏、岩田氏は十一時頃辞去、平野氏、内村氏は泊る、

さて、レーベルを見て驚きました。印刷ではなく手書きです。記念館事務局の方曰く、その場で録音されたものではないか、とのこと。昭和50年代くらいまで、テープレコーダーのようにその場で録音したものをレコードにする機械が使われていたそうで、これもそうなのでは、というわけです。

ちなみに手書きの文字は以下の通り。

花巻初夢まりつき唄  作詞 高村光太郎  作曲 杵屋正邦  唄 宮田五郎  三味 杵屋正邦  小謡 梅田金太郎  打楽器 梅田勝法  ピアノ 加納時雄  

裏面のレーベルには「花巻新報社」とのみ書かれています。

ネットで調べてみると、杵屋正邦、宮田五郎という名は、当時の邦楽家としてヒットしました。花巻新報社で、中央の邦楽家を引っ張り出したようです。

先述の平成21年(2009)の記事に「劣化が進んでおり聴くことはできない」とありますが、盤が割れてしまっているわけではなく、現在の技術ならレーザー光線等で凹凸を読み取ってデジタル化することも可能らしく、そちらの手配は記念館の方にお任せすることにしました。聴くのが楽しみです。また、ひょっとすると光太郎の講演も収録されているのでは、などと期待しています。

追記 その後の調査で、レコードはライブ録音ではなく、花巻新報社が発売したものと判明しました。

内村さんは、他にも貴重な資料をたくさんお持ち下さいました。

光太郎から皓一氏宛の葉書2通のコピー。こちらは『高村光太郎全集』等に未収録のものです。帰ってから詳しく調べてみたところ、昭和25年(1950)2月と、27年(1952)3月のものと判明しました。

前者は、

帰つて来ましておたよりと小包とをいただきました、大好きな、しかも上質な唐辛子をお贈りいただき、忝く存じました、朝の味噌汁がどんなにたのしみか知れません、
盛岡には五日ほど居てかなりしやべりました、前後十日間ほどになり少々疲れましたが、もう恢復しました、高橋氏より「群像」の写真の原画も先日ありがたく存じました、「群像」では皆によろこばれました、

という文面で、1月13日から22日にかけ、盛岡や西山村(現・雫石町)を廻ったことが記されています。ちなみに以前にご紹介した深沢竜一氏のお宅が西山村で、この時に光太郎が2泊しています。「群像」は雑誌名。来週、他の調査と合わせて国会図書館で調査して参ります。

この時期の光太郎日記は失われているのですが、「通信事項」という郵便の授受を記したノートの2月10日の項には、「内村皓一氏へ礼ハカキ(唐からし礼)」と書かれています。


後者は、

先日はいろいろいただき、思はぬたのしい半日を過ごしました。おハガキと唐がらしと感謝。
唐がらしは早速つけものに入れます。朝鮮づけのやうに。
ここの土壌は南蕃に合はぬと見えて昨年つくつたものも殆と辛味がなく出来ました。 今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。

とあり、3月2日の日記の、

宮澤清六氏内村皓一 氏来訪、岩手川一升豚鍋の材料いろいろもらふ。豚鍋をして岩 手川をのむ。夕方辞去。

と照応しています。

こういうパズルのピースがぴたっと合った時のような感覚は、たまりません。

さらに内村さんから、こんなものを戴きました。まったく同じものを、記念館に一つ、当方に一つ。ご自宅にあったものだそうです。

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一見、何の変哲もないただの丼です。中島誠之助氏が「いい仕事してますねー」と讃えるようなものではなく、大量生産の品のようです。

しかし、こちらの写真をご覧あれ。

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何と、光太郎の足元に写っているこちらと、同一のものです。驚きました。

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写真右端の方の模様が濃くなっているのがおわかりでしょうか。実際にこの丼もそうなっています。

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内村さんもなぜこれがご自宅にあったのかよく分からないとのことでした。写真に写っているものは、先の光太郎日記にあった豚鍋の会の際に皓一氏が持参したものかも、と思ったのですが、残念ながら写真が撮られたのが昭和26年(1951)で、豚鍋の会の前年でした。

想像するに、別の機会に皓一氏、または共通の知人(宮澤清六など)から贈られたか、たまたま花巻町の同じ店でそれぞれが購入したか、といったところでしょう。いずれにしても、光太郎ゆかりの丼ということで、大切にしたいと思います。感謝に堪えません。


内村さんとの会見後、記念館近くの公民館で、高村祭の打ち上げが行われ、当方も顔を出し、地元の皆さんと酒を酌み交わしました。

この場にも、生前の光太郎を知る方が何人もいらっしゃいました。当時山口小学校の児童だったという方々です。下は昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に現れたサンタクロース(光太郎)と撮った写真です。

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66年前の、右から二人目のお子さんが、こちらの方007です。面影が残っていますね。

写っている他の方のうち、既に亡くなった方もいらっしゃるそうですが、大半はご存命だそうです。

ちなみに以前もご紹介しましたが、後ろの窓から顔を出している子供は、浅沼隆さん。花巻高村光太郎記念会山口支部の中心になっている方です。お父様は山口小学校の校長先生で、貴重な光太郎回想をたくさん残されました。当方の書いた年少者向けの「乙女の像ものがたり」に「隆君」として登場させて戴きました。

皆さん口々に、「大人たちが光太郎先生は偉い人だ、と言っていたからそうなんだろうと思っていたが、子供の自分達にとっては優しい普通のおじいさんだった」とおっしゃっていました。何だか涙が出そうになりました。


この日は、大沢温泉山水閣さんに一泊。前日の鉛温泉藤三旅館さんと合わせ、明日はそのあたりをレポートします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月20日

昭和9年(1934)の今日、黄瀛詩集「瑞枝」が刊行されました。

黄瀛(こうえい)は、中国人の父と、日本人の母無題を持つ詩人。光太郎と草野心平の出会いを演出しました。

「瑞枝」には光太郎が寄せた序文、光太郎が制作した黄瀛像彫刻の写真が掲載されました。

一部抜粋します。

つつましいといへばつつましいし、のんでゐるといえばのんでゐる。黄秀才は少しどもりながら、最大級を交へぬあたりまえへの言葉でどこまで桁はづれの話をするか知れない。黄秀才の体内にある尺度は竹や金属で出来てゐない。尺度の無数の目盛からは絶えず小さな泡のやうなものが体外に向かって立ちのぼる。泡のはじけるところに黄秀才の技術的コントロオルが我にもあらず潜入する。まことに無意識哲学の裏書きみたいだ。

ちなみに今日は智恵子の誕生日ですが、そちらは2年前にご紹介しました。

昨日ご紹介した花巻高村祭に関しての新聞報道で、各紙とも触れて下さっていましたが、花巻高村光太郎記念館で企画展示「山居七年」が始まりました。

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彫刻を中心とした展示室1、光太郎の業績を幅広く紹介する展示室2は、基本的に常設展として展示替えはあまり行いません。ところが、その2室に並べきれない貴重な資料がまだまだたくさんあり、そういったものを半年~1年のスパンで出していこうというわけです。また、将来的には外部からの資料等も活用する方向です。

最初の企画展「山居七年」は、昭和20年(1945)から27年(1952)までの、この地での光太郎の暮らしにスポットを当てています。9月28日までが前期、10月9日から2016年2月22日を後期とし、展示を入れ替えます。前期は春から秋の生活、後期は冬の暮らしを中心にとのことでした。

そのために、足かけ8年分の詳細な年譜を作成しました。それが壁面にパネルとなって貼られています。下の画像の緑色のパネルです。

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「どこどこに講演に行った」とか、「××温泉に何泊した」とか、「何々の文字を書いた」などです。

その下の白いパネルは、『高村光太郎山居七年』という書籍からの抜粋。こちらは花巻高村光太郎記念会を創設した佐藤隆房の編集になるもので、佐藤自身の回想や、花巻町、太田村、さらに岩手県内の他の地域の人々の証言などをまとめたものです。元版は昭和37年(1962)に筑摩書房から刊行され、記念会に版権を移して再刊されていましたが、それも品切れとなり、このたび新装版が刊行されました。

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以前は函入りハードカバーでしたが、今度のものはソフトカバーです。その分、定価1,800円+税と、お求めやすくなっています。ぜひお買い求めを。

さて、展示に話を戻します。

現在並んでいるのは、光太郎が佐藤に贈った水彩画「牡丹」、光太郎が文字を書いた山口小学校や絵画サークル雑草社の標札板、光太郎が山口小学校に寄贈した楽器や映写機、当時の写真などです。

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『高村光太郎山居七年』からの抜粋のパネルは、それぞれのものの由来などがわかるような部分を抜き出しています。

また、リニューアル前に流していた、昭和29年(1954)、ブリヂストン美術館制作の映画「高村光太郎」も常時上映中。この地での光太郎の姿が写っている貴重なものです。

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ちなみに、こんなものも並んでいます。かなり大007きいので、等身大かと思いきや、これでもまだ小さいということ。ボードの上下幅が最大180㌢しか取れないというので、確かに光太郎の身長ははそれ以上ありました。

企画展示室、狭い部屋ですが、こうした充実した内容になっています。

繰り返しますが、10月からは展示替えです。以後、半年から1年のスパンで内容を変更していきます。当方、アドバイザーとして関わっており、これからの内容を考えると、あれもやりたい、こんなものも並べたい、とワクワクしてきます。
当方自宅兼事務所にも珍しいものがいろいろあり、そういうものも見ていただきたいと考えたりもしています。既に展示室2に当方がお貸ししたものも並んでいますが。

そこで皆様にお願いです。光太郎智恵子に関し「家にこんなものがある」という方、ぜひ記念館にお知らせください。どういうものかよくわからないけれど、という場合でも結構です。また、岩手時代のものでなくてもかまいません。もしかするとものすごいお宝かも知れません。

明日のこのブログでご紹介しますが、まさしくそういうケースで貴重なものが出てきましたので。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月19日

平成8年(1996)の今日、劇作家の北條秀司が歿しました。008

北條は、光太郎が歿した昭和31年(1956)、雑誌『婦人公論』に戯曲「智恵子抄」を発表、初代水谷八重子主演で上演されました。光太郎生前から上演の話はありましたが、自身が登場することに光太郎が難色を示していたため実現しませんでした。

その後、この戯曲は藤純子(現・富司純子)さんや有馬稲子さん主演でも上演されています。

光太郎と北條の出会いは戦時中。ともに日本文学報国会に所属し、情報局の命で光太郎に軍歌の作詞を頼みに行ったのが北條だったそうです(ただし断られました)。

そのあたり、北條の著書『演劇太平記(二)』(昭和61年=1986 毎日新聞社)に記述があります。

3泊4日の東北行を終え、昨日遅くに自宅兼事務所に帰りました。数回に分けてレポートいたします。

まずは5月15日(金)に執り行われました、第58回高村祭について。

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佐藤進花巻高村光太郎記念会会長

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上田東一花巻市長

翌日の新聞各紙を購入して帰りましたので、その記事を元にします。 

岩手)参加者ら詩を朗読、光太郎しのぶ 花巻で高村祭

『朝日新聞』 岩手版

詩人で彫刻家の高村光太郎が東京から花巻に疎開した日を記念して開かれている「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前広場であった。新緑の中、参加者全員で「雪白く積めり」を朗読し、光太郎をしのんだ。
 空襲で東京のアトリエを失った光太郎は1945年5月15日、夜行列車で東京を出発し、翌日、花巻に着いた。光太郎がその詩を高く評価した宮沢賢治の実家に疎開。10月に旧太田村山口に移り、7年間過ごした。高村祭は花巻高村光太郎記念会が主催、今回が58回目。疎開から今年でちょうど70年となり、記念会の佐藤進会長は「高村先生をしのびたい」と話した。
 地元の小中学生らが詩を朗読、合唱を披露した後、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が講演し、「戦争に協力した自分を自分で罰するため、ここでは彫刻を封印し、自省する日々を過ごした」などと話した。(石井力)

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記事に有るとおり、昭和20年(1945)の詩「雪白く積めり」の朗読を全員で行いました。自分の隣には上田市長がいらしたのですが、誰よりも大きな声で朗読なさっていました。すばらしい。

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地元小中高生、看護学校生のみなさんによる朗読や演奏。太田小学校の2年生児童は、統合で廃校となった旧山口小学校の校歌も披露し、同校卒業生の皆さんは非常に懐かしがっていました。

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高村光太郎の功績 後世へ

『読売新聞』 岩手版

 詩集「智恵子抄」などで知られ晩年を太田村(現花巻市)で過ごした彫刻家高村光太郎(1883~1956)の功績をしのぶ高村祭が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。     
 1945年5月15日、高村は東京のアトリエを空襲で失い、親交のあった宮沢賢治の弟・清六を頼りに夜行列車に乗った。この旅立ちの日を記念して毎年、高村祭が開かれている。今年で70年を迎え、児童・生徒らが高村の手掛けた詩の朗読や合唱などを行った。
 高村山荘は、疎開した高村が7年間、腰を落ち着けて暮らしたゆかりの地。狭い小屋ながら地域住民と触れ合い、農耕と自炊の生活を送った。
 元中学校教諭で、高村光太郎を研究している小山弘明さん(50)は講演で、「高村はこの地で大きく視野を広げた。残念なのは、一時期の日記や手紙が全く見あたらないこと。高村の功績を考え、しっかりと後世に伝える必要がある」と話した。
 高村山荘に隣接する高村光太郎記念館では、高村が太田村山口で暮らした7年間を紹介する企画展も開かれている。問い合わせは、記念館(0198・28・3012)へ。
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「日記や手紙が」とありますが、正しくは「日記が」です。以前にも書きましたが、昭和24年(1949)と25年(1950)の日記大部分が行方不明です。同じく行方不明だった昭和20年(1945)の分は、花巻で見つかりました。そう考えると、24、5年のものも、もしや……と考えています。

企画展に関しては後日、詳述します。 

光太郎の思い 次代に 疎開70年、花巻で高村光太郎祭 住民ら500人がしのぶ 朗読や合唱のびやか

『岩手日報』

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第58回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。児童生徒らが朗読や合唱を披露し、光太郎の花巻疎開から70年の節目に思いを重ねた。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催し、住民ら約500人が参加。佐藤会長は「今年は高村光太郎記念館がリニューアルオープンし感謝している。高村先生をしのび楽しい一日にしたい」とあいさつ。上田東一市長は「70年前のきょう、高村先生は東京を出発し花巻に向かった。新しい記念館も見ていただき、高村先生の功績と人生に思いをはせてほしい」と参加者に呼び掛けた。
 太田小児童が楽器演奏を披露し、西南中の生徒は光太郎が残した「心はいつもあたらしく」の言葉を歌詞にした「精神歌」を合唱した。花巻高等看護専門学校1年の大尻真海(まみ)さん(18)は花巻空襲で負傷者救護に尽力した看護師らをたたえる「非常の時」を朗読。「光太郎先生が岩手を愛し、深く地域と関わっていたことを高村祭であらためて感じた」と話した。同専門学校はコーラスも披露し、会場に優しい歌声を響かせた。
 光太郎の妻智恵子の出身地、福島県二本松市からメンバー約20人と訪れた「智恵子の里レモン会」の渡辺秀雄代表は「新緑の林の中で開かれる高村祭は規模も大きく、伸び伸びとしている。雰囲気がいい」と感心していた。
 光太郎は45年5月15日、戦災のため花巻に疎開し約7年間を過ごした。

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看護学校の大尻さんは、詩「非常の時」の朗読をなさいましたが、朗読だけでなく、その前に、この詩が作られた背景を説明して下さり、感心しました。

光太郎の偉業 しのぶ 高村祭 詩朗読や楽器演奏

『岩手日日』 はなまき

 花巻市ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第58回高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)が15日、同市太田の高村山荘の詩碑前で行われた。多くの参加者が、かつて光太郎が暮らした自然環境に親しみながら、詩の朗読や合唱、有識者による特別講演を通じ、その偉業に思いを巡らせた。
 同記念会の佐藤進会長や上田東一市長をはじめとする関係者や地元の児童生徒ら約600人が参加。彫刻の代表作とされる「乙女の像」がある青森県十和田市や、光太郎の妻・智恵子を顕彰する福島県二本松市の智恵子の里レモン会からも関係者が来場した。
 光太郎の遺影を飾った詩碑に、太田小学校の戸來尚暉君(2年)と髙橋百花さん(同)が花を手向け、三彩流新茗会の新田社中が献茶。碑に刻まれた「雪白く積めり」の詩を一同で朗読した。
 同校2年生16人が詩の群読や楽器演奏、光太郎が指導したという旧山口小学校の校歌を披露。西南中学校の1年生54人も「心はいつもあたらしく 日々何かしら見いだそう」という光太郎の言葉を盛り込んだ同校の精神歌を合唱した。
 続いて詩作「道程」を花巻南高の久保田彩花さん(3年)、同じく「レモン哀歌」を池田菜美さん(2年)が朗読。静かに心へ染み入るような光太郎の詩の魅力を会場全体で味わった。
 花巻高等看護専門学校の大尻真海さん(1年)は、1945年の花巻空襲で、身をていして負傷者を救護した医師や看護師に光太郎が贈った詩「非常の時」を朗読した。同校1年生男女40人の混声合唱では、光太郎作詞の「最高にして最低の道」などを披露した。
 太田小学校の安藤大翔君(2年)は「上手に発表できた。自分が中学生になった時も、今日の中学生に負けないように頑張りたい」と笑顔。花巻高等看護専門学校の石澤直人君(1年)は「伝統ある高村祭に参加できてうれしい。高村先生のように強い意志を自分も持って看護師を目指す」と意欲を見せていた。
 高村祭は、戦火で東京のアトリエを失った光太郎が、70年前に花巻へ疎開してきた日に合わせて毎年開催。今回はリニューアルした高村光太郎記念館のオープン記念も兼ねている。
 同記念館では、新設の企画展示室を活用した初の企画展「山居七年」が同日から開幕。9月28日までの前期は希少な光太郎の水彩画など18点と詳細な年譜などを紹介し、10月9日から2016年2月22日の後期は展示を入れ替える。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

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『岩手日報』さんと『岩手日日』さんは、二本松の智恵子の里レモン会さんにも触れています。渡辺代表、夕方のローカルニュースでもご出演。
 
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真摯に生きた光太郎の姿紹介 小山代表が特別講演

『岩手日日』 はなまき

 15日の第58回高村祭では、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎と花巻・山口」をテーマに特別講演。つまずきながらも真摯(しんし)に生きた光太郎の姿を多くのエピソード共に紹介した。
 小山代表は、花巻での光太郎について「戦争を賛美した自らに最も重い罰を科そうと彫刻を封印していた。だが、地元の人から敬愛され、幸せな日々を送ることができたのでは」などとした。
 高村光太郎記念館で同日開幕した企画展「山居7年」を監修。「光太郎が過ごした花巻ならではの展示を見てほしい」と呼び掛けている。

さらに当方も写真入りでご紹介下さいました。よい記念になります。

ところで記事にはなっていませんが、第二部もあり、そちらは地元の皆さん(モンデンモモさんも特別出演)の歌や踊りなどでした。地元の皆さんはこちらを楽しみにしています。自分で講演をやっておいてこういうのも何ですが、こういう催しは講演とか朗読とかの小難しいことだけをやっていても駄目ですね。高村祭の、半分は地域のお祭り的な要素が、長く続いている秘訣だと思います。泉下の光太郎も、存命中は地元の田植え踊りや神楽に非常に興味をひかれていました。そういう意味では、いいはなむけにもなっています。

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しかし、先述の『読売新聞』さんで、当方の講演の要旨として、「高村の功績を考え、しっかりと後世に伝える必要がある」というのが、肝です。そこで、小中高生、看護学校生などの若い皆さんが出演して下さり、さらに講演を聴いていただき、次の世代へとしっかりと光太郎の遺徳を伝えることを考えているのも、素晴らしい点だと思います。上記新聞各紙の見出しに「次代に」「後世へ」といった語を入れていただいたのは、そういう意味では非常にありがたいかぎりです。

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その頃まで当方が生きているとも思えませんが、42年後は第100回高村祭、その頃まで変わらずに続いていって欲しいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月18日

大正12年(1923)の今日、新潮社から詩話会編纂007の『日本詩集 1923版』が刊行されました。

光太郎詩「真夜中の洗濯」「米久の晩餐」が掲載されています。

詩話会は、詩人の大同団結を目指し、大正6年(1917)に結成された団体です。『日本詩集』は年刊誌として毎年刊行。さらにこれと別に『日本詩人』という機関誌もあり、ともに光太郎も何度か詩を載せています。

しかし、こうした団体の常で、主義主張の相違から、大正15年(1926)には会が崩壊してしまいました。

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仙台のホテルに居ます。

昨日、第58回高村祭を終え、花巻郊外の大沢温泉山水閣さんに泊まり、今日は主に宮城との県境に近い奥州市で現地調査を致しました。

行った先は、水沢図書館、そしてかなり山の中に入った人首米里地区にある人首文庫さん。こちらは光太郎と親交のあった詩人、佐伯郁郎の生家です。

昨日、高村祭の後には花巻市街にお住まいの内村義夫氏(やはり光太郎と親交のあった写真家、内村皓一の縁者)とお会いし、実に貴重な資料を拝見したり、戴いたりしました。
今日は今日で、これまたとんでもない資料の数々に出会い、頭がくらくらしております。
やはり詳しくは帰ってからレポートいたします。

明日は仙台にて、朗読の荒井真澄さん他による「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」を聴いて、千葉に帰ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月16日

昭和11年(1936)の今日、東京府美術館で光太郎の実弟にして、のちに鋳金の人間国宝となる豊周も参加した実在工芸美術会第一回展が開幕しました。

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本日(15日)、花巻郊外旧太田村の光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内にて、第58回高村祭が行われました。

地元小中高生、看護学校生による朗読や演奏、当方の記念講演などがあり、光太郎の遺徳を偲びました。

心配された天気もどうにかもち、つつがなく終了。ほっと胸をなで下ろしております。

詳しくは帰ってからレポートいたします。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月15日

慶応4年(1868)の今日(旧暦ですが)、薩長軍と、彰義隊を中心とする旧幕府軍の間で上野戦争が起こりました。

光太郎の父、光雲は師匠・東雲の元で年季奉公中。砲弾銃弾の飛び交う下を、師匠の兄弟弟子のもとに向かったことが、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記されています。

今週金曜日、5月15日に岩手花巻で行われる第58回高村祭につき、高村山荘・高村光太郎記念館さんのサイトに案内がアップされました。

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毎年、高村祭当日はJR東北本線花巻駅(東北新幹線新花巻駅ではありません)から無料のシャトルバスが出ていますが、今年は2本出ます。鉄道でお越しの方、花巻市街にご宿泊の方、ご利用下さい。かつてあった路線バスは廃線になっています。

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発車は花巻駅西口。改札があるのは東口ですのでご注意下さい。東口改札から出て左にゆくと、西口に通じる地下道があります。

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敷地内の高村光太郎記念館は、当日は入館無料。先月末にリニューアルオープンした新しい記念館も、ぜひご覧下さい。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月11日

平成3年(1991)の今日、岩手県北上市の飛勢(とばせ)城址に、光太郎詩「ブランデンブルグ」の一節を刻んだ碑が除幕されました。

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この日、市内で6つの文学碑が除幕されました。若山牧水、子日庵一草、寺山修司、浜夢助、豊田玉萩、そして光太郎です。全国の各市町村に1億円が公布された、いわゆる竹下内閣の「ふるさと創生事業」によるものでした。

詩「ブランデンブルグ」は、J・S・バッハの「ブランデンブルグ協奏曲」に題を採ったもので、昭和22年(1947)の作。この年、花巻町で行われた稗貫郡農会でのレコードコンサートでこの曲を聴いた印象が元になっています。太田村の山小屋の近くを歩きながら、この曲が幻聴のように聞こえていた、というエピソードも伝わっています。

昭和25年(1950)には、光太郎は黒沢尻町(現・北上市)の文化ホールで講演を行い、その際にこの詩を朗読したとのこと。そのためにこの詩の一節が採られています。

高くちかく清く親しく、
無量のあふれ流れるもの、
あたたかく時にをかしく、
山口山の林間に鳴り、
北上平野の展望にとどろき、
現世の次元を突変させる。

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