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昨日、このブログで花巻の高橋愛子さんについて書きましたので、続けて花巻ネタで参ります。

今月16日の『朝日新聞』さんの東北の版に、今年4月にリニューアルオープンとなった花巻高村光太郎記念館、そして隣接する光太郎が7年間住んだ山小屋(高村山荘)に関する記事が載りました。

当方、『朝日新聞』さんのデジタル版「朝デジ」の無料会員登録をしてありまして、全国版に載った記事はほぼネット上で読める環境です。しかし、地方版の記事は読めるものと読めないものがあり、この記事は読めませんでした。ただ、見出しとさわりの部分だけは、無料会員向けのコンテンツでも検索で引っかかり、こういう記事が載ったんだ、ということはわかるようになっています。

今回の記事に関しても、16日の当日に、東北での版に載ったことがわかったので、午前中に仙台に住んでいる息子に「東北限定の記事が載ってて読みたいから、今日の『朝日新聞』、コンビニで買っておいてくれ」とメールしたところ、「うぃ」と返信が来ました。

ところが、父親に似て抜け作の息子でして、夜、不安になって再度「買ってくれたか?」とメールすると、案の定「ごめん、忘れてた」……。時計を見ると午後10時を廻っています。経験上、だいたいその時間になると、コンビニさんもその日の新聞は撤去してしまうので、「しょうがねえなあ、じゃあ、いいよ」と返信。まあ、その週末に大学の部活動の大きな試合を控えていて、それどころじゃないのだろう、と、いうことで諦めました。

すると、先週、『朝日新聞』北上支局長さんから、その日の紙面が届きました。支局長さんには、先月の花巻高村祭の折に当方が講演をしたので取材を受け、知遇を得ていました。

読んでびっくり、当方も紹介されていました。高村祭での講演や取材の際に語ったことが載った形です。

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記事を書かれたのが支局長さんでした。感謝、感謝。

この記事を読んで、高村山荘、高村光太郎記念館に行ってみようかな、と思う方がいらっしゃれば、嬉しい限りです。本当に、一人でも多くの方にお出かけいただきたいと思っておりますので。

他にも高村祭での取材の際に、「何か岩手がらみのネタはありませんか」と問われたので、最近見つけた『花巻新報』(戦後発行されていた花巻の地方紙)に関するネタを提供しておきました。そのうちに記事になるかも知れません。期待しております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月28日

明治45年(1912)の今日、駒込林町に新築なったアトリエ建築費用の決算がなされました。

光太郎の母・わか(通称・とよ)の書き残した『朔画室建築費扣』という半紙を綴じて作った冊子が遺っており、細かな出納が記録されています。例えば、「一金六十円 水道工事壱式 西山商会内払」「一金壱円八拾五銭 下駄箱壱個」など。
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その最後に以下の記述があります。

六月二十八日迄合計
惣〆金弐千弐百九十七円七十八銭五リ也

「五リ」は「五リン(五厘)」の誤記でしょう。総額2,297円78銭5厘。ちなみに当会顧問・北川太一先生が電卓で計算されたところ、数字が微妙に合わないとのことですが、そのままとします。

諸説ありますが、安く見積もれば明治末の1円は現在の4,000円くらいにあたるとも言われます。そう考えると919万1,140円。また、諸説あるうち、高く見積もると明治末の1円=現在の10,000円という説もあり、そう考えれば2,297万7,850円となります。ちなみに大正3年(1914)刊行の詩集『道程』は定価1円でした。

この時期の光太郎はコータローならぬプータローですから(せっかく開いた我が国初の画廊「琅玕洞」は、赤字続きで譲渡)、この莫大な金額、全額、光雲が出しています。とんでもないスネかじりですね。

それを言い出せば、詩集『道程』の出版費用も光雲から出ています。

そういう光太郎にある意味反感を抱いた室生犀星の回想が残っており、笑えます。

地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

大瀬川歴史探訪講座 高橋愛子さん、光太郎を語る(6/24)

「気さくなおじいさん」
 花巻市石鳥谷町の大瀬川活性化会議が主催する第35回大瀬川歴史探訪講座は23日、「高村光太郎と大瀬川の芸術」をテーマに大瀬川振興センターで開かれた。花巻で疎開生活を送った詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と交流した高橋愛子さん(83)=同市太田出身、同市石鳥谷町大瀬川在住=から思い出話を聴き、地区住民ら約30人が偉人の暮らしぶりや人柄に思いをはせた。
 高橋さんの実家は、東京から疎開してきた光太郎が同市太田山口(旧太田村山口)を訪れた最初の晩に泊まった場所。当時16歳だったという高橋さんは「背が高く、ひげもじゃで、よれよれのリュックサックを背負って、この人は本当に偉い人なのかなと思うような格好をして来た。脱いだ靴を見たら34センチぐらいあって、びっくりした」と驚きの連続だった光太郎との出会いを振り返った。
 村人の建てた簡素な山荘で7年間暮らした光太郎は、何でも知っている先生として慕われ、講話や学校への寄付を行い、運動会やクリスマスといった行事に参加するなど、地域にすっかり溶け込んでいたと回顧。「光太郎が学校に来ると、生徒たちはみんな駆け寄って手をつないだ。子供にとっては先生でなく、ただのそこらへんのおじいさんという感じ。本当に気さくだった」と偲んだ。
 参加者は興味深げに聴き入り、「妻の智恵子について話を聞いたことはなかったか」「美食家だったといわれているが」「何で7年も山口にいたのか」などと質問。高橋さんは「夏に光太郎が風邪を引いて山荘で休んでいた時に『寂しくないですか』などと聴いたら『ちっとも寂しくない。智恵さんがいる』と言っていた。亡くなっていた智恵子さんをすごく愛していたんだと思う」「外国でおいしい物を食べていた人だった。畑ではオクラやセロリなど山口では珍しかった西洋野菜を植えていた」「母は、光太郎は戦争に賛成した詩を書いた責任を感じて山口に来たんだべ、と言っていた」などと答えた。
 リニューアルした高村光太郎記念館に行って感動し、当時について聞いてみたいと思って参加した菅原房子さん(61)=大瀬川=は「記念館の内容と愛子さんの話が結び付き、なるほどと思った」と目を輝かせていた。

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高橋愛子さん。花巻郊外太田村に住んでいた頃の光太郎をよくご存じの方です。今年2月にオンエアされたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」にもご出演なさっていました。

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お父さんの雅郎さんは、光太郎がいた頃の太田村村長さん。ただし、戦時に外地に行っていて、帰国した時にはすでに光太郎が太田村に住んでいました。その後、村長に就任したというわけです。

お母さんのアサヨさんも、何くれとなく光太郎の世話をやいてくれました。そして愛子さんご自身も、光太郎の元にいろいろと届け物をしたりで、光太郎の日記にお名前が頻出しますし、詩「山の少女」(昭和24年=1949)のモデルとも言われています。そしてお二人とも、昭和41年(1966)、かつての太田村に建った高村記念館の受付を永らくなさっていました。

今年4月にリニューアルオープンとなった花巻高村光太郎記念館の受付で、下記のリーフレットを無料配布しています。題して「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」。

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A3判の用紙両面印刷で、4つ折りになっています。地元スタッフの方々が愛子さんへの聞き書きをまとめたもの。「サンタの衣装づくり」「西洋野菜」「日時計」などなど、中にはこれまで活字になったことがなかったのではないかと思われる、実に貴重な証言が満載です。

花巻高村光太郎記念会の事務局長氏と電話でお話をした際、愛子さんのお話にもなりました。記事にある地域の講座も、このリーフレットができたことで、これを見ながらお話をすれば楽だ、ということで、実現したとのことでした。

他にも、今秋をめどに、旧太田村の皆さんによる光太郎証言をまとめる計画が進んでいます。またお手伝いさせていただくことになりまして、いいものができるよう、頑張りたいと思っております。

来月には、旧太田村の皆さんで作る「太田地区振興会」の方々約40名が、十和田湖にいらっしゃるそうで、当方も現地で合流することにいたしました。やはり生前の光太郎をご存じの振興会の佐藤会長は、二本松で開催されている智恵子命日の集い「レモン忌」にもいらしています。逆に今年は「レモン忌」主催の「智恵子の里レモン会」の皆さんが、5月の「高村祭」に大挙していらして下さいました。

今度は十和田の観光ボランティアの会の皆さんとの交流ということです。こうした地域同市の草の根の交流、ネットワーク作りというのも、非常に重要なことだと思います。さらにいろいろな分野で輪を広げ、強固なものにし、光太郎智恵子の業績を後世に伝えていきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月27日

昭和19年(1944)の今日、『朝日新聞』に詩「婦女子凜烈たり」が掲載されました。


    婦女子凜烈たり003

戦略軍機は揣摩を絶し、
統帥の府厳として大局を握る。
サイパン島一円の戦、
敵これに万の犠牲を傾け来たる。
上陸の敵を邀(むか)へて婦女少年も力を協(あは)せ、
海陸未曾有の真相を呈するに至る。
しかもアメリカ海軍の運命がいま
大挙してここに集る。
連合艦隊の一部百錬の力を出動し、
撃滅の気すでに海に溢(あふ)る。
国民の胸黙すれどもをどり、
国民の血平かなれども白熱し、
補給はひきうけたと
二十四時間が唸りを立てる。
いまつくる此の部品があすは戦ふ。
あそこで撃つ。
いま、いま、いま、
いまを措いて行動の実質はない。
あの要衝で婦女子もまた決然たる
その凜烈の様相が眼に見える。

昭和19年(1944)、勤労動員などで、婦女子までもが駆り出された戦時の世相がよく表されています。近くて遠いどこかの独裁国家では、今も同じようにミサイルの製造などを行っているのでしょうか。我が国がもう一度、いや、永遠に、こういう状況に戻らないことを祈ります。

あそこで撃つ。/いま、いま、いま、」は、現代の婦女子代表・なでしこジャパンのシュートだけにしてほしいものです。

余談になりますが、なでしこジャパン主将の宮間あや選手は、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた豊海村(現・九十九里町)に隣接する大網白里町(現・大網白里市)の出身です。

明日は女子ワールドカップ準々決勝。「あの要衝(カナダ)で、婦女子もまた決然たる/その凜烈の様相が眼に見える。」という状況になってほしいものです。

先月、花巻高村祭の後で現地調査に訪れた奥州市の人首文庫さんから、『高村光太郎全集』等未収録の書簡など、お願いしていた数々の資料コピーが届きました。ありがたや。

その中に、光太郎が写っている写真があったということで、こちらのコピーも含まれていました。クリックで拡大します。

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光太郎は中央やや右の方にいます。これがい007 (2)つどこで撮られたものかというと、昭和25年(1950)1月18日、盛岡にあった菊屋旅館です。

では、何の集まりかというと、その名も「豚の頭を食う会」。記録が残っています。長くなりますが引用します。

まずは昭和51年(1976)、読売新聞社盛岡支局刊行の『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』という書籍の一節です。したがって文中「現在」とあるのは昭和51年の時点です。

 昭和二十五年一月十八日の夕方、菊屋旅館で「豚の頭を食う会」が開かれた。メーン・ゲストはもちろん高村光太郎。これに、“南部の殿さま”南部利英夫妻や盛岡市長、盛岡警察署長、美校(注・岩手県立美術工芸学校)の教授・助教授陣ら約三十人が加わり、豪華な中国料理に舌つづみをうった。
 発起人は深沢省三と堀江赳、それに現在「オームラ洋裁学校」を経営している大村次信の三人だった。この三人が桜山のおでん屋で酒を飲みながら話をまとめ、大村が後日、直接山口に出向いて光太郎を誘った。費用は会費とカンパでまかない、コック長は大村の遠縁で、戦前彼と同じく満州国の「協和会」で一等通訳をしていた浜田敏夫がつとめた。菊屋旅館の台所は数日前から、前述の君子(注・菊屋旅館女将)以下、お手伝いさんたちが仕込みで大騒ぎしていた。
 光太郎は五日前の十三日、盛岡に出て来、教員を対象にした美校の美術講座や「盛岡宮沢賢治の会」の講演会、少年刑務所での講演など多忙なスケジュールをこなしていた。「深沢牧場」を訪問したのはこの翌日になる。
 例えば新聞社でも、夜食にカツドンを食う記者がいれば、同僚から「ほう」という声がもれた時代だ。大村の命名になるこの「豚の頭を食う会」は、翌日の朝刊を写真入りの記事で飾った。その十九日付の地元紙――
<この会は翁(注・光太郎)の日ごろの持論である「日本人の食生活はあやまっている、肉を大いに食うべし、しかも従来日本人の多くはうまい所ばかり食べて臓物や尾など栄養価の高いものを食べていない、豚の頭や牛のシッポを食べなければならない」というのを早速実践に移そうということで計画された>
 この日の献立を挙げておこう。大村ら発起人が出席者に配ったものだが「高度成長」を遂げた二十五年後の今日でも、ちょっとわれわれ庶民の口には入りそうもない。それほど豪華だ。
 <前菜(蒸し肉ほか三種)炒菜(イリ豚肉ほか三種)炸菜(豚の上ロースの天ぷらほか三種) フカのヒレの煮物 コイの丸揚げ 山イモのアメ煮 リンゴの甘煮 豚の白肉の寄せなべ 肉の団子のアンかけ 鶏肉の白玉子とじ アヒルの蒸し焼き カニ玉子 玉子とじ汁 もち米の甘い八目飯 ほかに天津包子>
 どうですか? 実際は「豚の頭」などどこにもない。単にユーモラスな名称以上のものではなかったわけだが、大村も「当日高村さんは席につくなり、ほう、大変なごちそうだねと感心し、次いで、どこに豚の頭が入っているのと聞いた」と笑う。それにしても、光太郎に栄養補給してあげようという大村ら発起人の気持ちはともかく、これだけのものを食べていながら、光太郎が<日本人の食生活はあやまっている>などと記者に語ったのが事実だとすれば、実にいい気なものだといわざるをえない。まだ朝鮮戦争による特需景気もなく、日本人は食べたくても食べられなかった時代だ。


続いて昭和37年(1962)、筑摩書房刊行の『高村光太郎山居七年』(先頃、花巻の高村光太郎記念会より復刊されました)。

 盛岡美校の深沢さんに堀江さん、その友人の大村さん高橋さんの四人が、桜山前のおでんや「多美子」に休んだとき、かわったうまいものの話などが出ました。
 「高村先生を招いて豚の頭を食う会を開こうではないか。」との話がで、皆大賛成です。先生は、頭だの尻尾だの内臓だのに一番栄養があると常々話をしているから、先生に上げみんなも試食しようというわけで、会を開くことにしました。幹事に大村次信さんが当り、日時は美校での講演会の夜、会場は絵が好きで深沢さんと親しくしている菊池正美さんの旅館菊屋にしました。
 次信さんは、今度の会は豚の頭の料理なのだからその通(つう)の人でないとうまい料理が作れそうもないので適材を物色しましたところ、盛中出身の一等通訳で、中国に長くいた浜田年雄さんがその通だというのでそれに頼み、然るべき方々に案内状を出し、又電話をかけました。
 講演会のあとで案内を受けた人々が会場菊屋に集まりました。
 先生は豚の料理を前にして
「日本人は体が小さい。食生活をかえなくては大人(だいじん)になれない。体も心もです。トルストイも一つは大地が育んでいるが一つは食べ物がうんでいる。栄養をうんと摂ることが必要だ。」
 豚の頭の料理を皆で一緒に食べましたが、いろいろの味があり、食べつけない一同は何とも批評ができませんでしたが、先生は蛇の話熊の話動物の叡智など面白く語り、かなり酒もまわって来ました。大いに飲み大気焔になるのもあります。益々まわって来た先生は南の方に向かい両手を畳について
「高山彦久郎ここにあり、はるかに皇居を拝す。」
 と大声をあげ、巨体を前に伏しました。団十郎の声色を真似たのでしょう。酔余の余興ではありましたが、座は粛然と成りました。(大村次信氏談)


同じ大村氏を情報ソースとしながら、微妙に異なるところがありますが、まあ大筋は一致しています。要するに光太郎を囲んでの食事会です。

ちなみに次の日に訪れたという「深沢牧場」は雫石の深沢省三・紅子夫妻の住まい。今年3月に、女優の渡辺えりさんとともに、子息・竜一氏にお話を伺って参りました


当時、盛岡在住だった詩人の佐伯郁郎も「豚の頭を食う会」に出席。そこで、人首文庫さんに上記の写真が残っていたというわけです。人首文庫さんによれば佐伯は最後列の右端です。同じく人首文庫さん情報では、光太郎の左前にいるのは作家の鈴木彦次郎だそうです。

写真には40名弱が写っていますが、当方、顔でわかるのは深沢省三(最後列左端)、深沢紅子(光太郎の右後)、菊池君子(前列左から五人目)ぐらいです。岩手県立美術工芸学校の関係者が多いようです。

他に、大村次信、舟越保武、堀江赳、森口多里、佐々木一郎、南部利英、菊池政美といった面々がいるはずなのですが、どれだかわかりません。また、それ以外には名前すら不明です。

写真を見て、これは「うちのじいちゃんだ」というような方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。

ところで、昨年、盛岡てがみ館さんで開催された企画展「高村光太郎と岩手の人」で、「豚の頭を食う会」の献立が展示されました。『啄木・賢治・光太郎 ―201人の証言―』に記述があるもので、ガリ版刷りです。これを見た時には、よくぞこういうものを遺しておいてくれた、と、涙が出そうになりました。

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ちなみに発起人の一人、大村次信が経営していたという「オームラ洋裁学校」は「オームラ洋裁教室」と名を変え、存続しているようです。ところが会場の「菊屋旅館」が、ネットではヒットしません。こちらも改名されて、このホテルじゃないか、と推理できるところはあるのですが、はっきりしません。そのあたりご存じの方もご連絡いただければ幸いです。

追記 「菊屋旅館」は現在の「北ホテル」さんと判明しました。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月18日

昭和17年(1942)の今日、日比谷公会堂で日本文学報国会の発会式が開催されました。

「報告会」ではありません。「報国会」です。「七生報国」の「報国」です。定款第三条によれば、

本会ハ全日本文学者ノ総力ヲ結集シテ、皇国ノ伝統ト理想ヲ顕現スル日本文学ヲ確立シ、皇道文化ノ宣揚ニ翼賛スルヲ以テ目的トス

という団体です。

当時の『日本学芸新聞』の報道。

  一堂に会す全日本の文学者 皇道文化創造へ邁進 日本文学報国会力強き第一声

 全日本の文学者を打つて一丸となし、愛国尽忠の至誠烈々として、その総力を集結する「社団法人日本文学報国会」の発会式は六月十八日午後一時から日比谷公会堂に於いて挙行された。
 この日、全国から馳せ参じた三千有余の文学者はもとより、友好団体たる少国民文協、音協出版、文協、都下大学文化学生等参加。甲賀三郎氏(総務部長)司会の下に下村宏氏座長となり、久米正雄常務理事が会務を報告し、会長に徳富猪一郎を推挙、つづいて八部会の各代表の華々しい宣誓に移り――菊池寛(小説部会代表)、太田水穂(短歌部会代表)、河上徹太郎(評論随筆部会代表)、深川正一郎(俳句部会代表)、茅野蕭々(外国文学部会代表)、橋本進吉(国文学部会代表)、尾崎喜八(詩部会代表)、武者小路実篤(劇文学部会代表)――東條翼賛会総裁、谷情報局総裁、文部大臣橋田邦彦氏の祝辞があり、最後に吉川英治氏の提唱で「文学者報道班員に対する感謝決議」を行つたが、この誠に文壇未曾有の盛事に、際会して、全日本文学者の意気凛々として満堂を圧する観があつた。

光太郎は詩部会長でしたが、代表として宣誓を行ったのは尾崎喜八でした。尾崎は光太郎の詩「地理の書」を朗読しています。

お父様が光太郎と親交がおありだった関係で、連翹忌にもたびたびご参加下さっている、女優の渡辺えりさん。演劇以外にも歌手としてのご活動もなさっています。

今月16日の『朝日新聞』さんの岩手版に、以下の記事が載りました。

敬愛の光太郎・賢治へ 歌声届け 渡辺えりさん、花巻で来月公演

 女優で劇作家の渡辺えりさん(60)が「還暦記念コンサート」を6月1日、花巻市文化会館で開く。渡辺さんには高村光太郎や宮沢賢治の作品から触発された劇作品があり、2人にゆかりの花巻市で「感謝を込めて、力いっぱい歌いたい」と張り切っている。

 渡辺さんの父が光太郎や賢治が好きで、幼い頃から2人の作品に親しんできたという。これまで光太郎の作品から「月にぬれた手」、賢治から「天使猫」を作ってきた。上演には予算や時間もかかり、出演も大人数になるため、「小回りがきく」コンサートを開くことになったという。
 4月30日には同誌のイーハトーブ館で、賢治の弟の孫にあたる宮沢和樹さんと対談。渡辺さんは「光太郎は大事な人にあげる色紙に賢治の『雨ニモマケズ』を書いて贈った」と話し、宮沢さんは「光太郎先生は賢治の作品を最初に評価した人。それがなければ賢治は世に出なかったかもしれない」と話した。
 コンサートでは渡辺さん作詞のシャンソンやオリジナル楽曲を「歌い語る」という。賢治の「星めぐりの歌」も歌う予定だ。「花巻はしょっちゅう訪れていて、親戚がいるような気持ち。感謝の気持ちと震災からの復興への思いを込めて歌いたい」と話している。
 コンサートは6月1日午後6時半から、全席指定で4800円。公演の問い合わせは「オフィス3○○(さんじゅうまる)」(03・6804・4838)、チケットの問い合わせは市文化会館(0198・24・6511)へ。

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というわけで、「光太郎・賢治へ捧げるコンサートだそうです。

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ちなみに「還暦記念コンサート」としては、東京、そして渡辺さんの故郷・山形でも公演があります。

東京公演 
 2015年5月31日(日) 東京キネマ倶楽部 台東区根岸1丁目1-14
 昼公演 13:30開場 14:00開演
 夜公演 17:30開場 18:00開演

山形公演
 2015年6月2日(火) 山形市民会館 山形市香澄町2-9-45
 18:00開場 18:30開演

それぞれ問い合わせ等はオフィス3○○(さんじゅうまる)さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月27日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、詩人・宮崎稔の長男の命名揮毫をしました。

宮崎は、光太郎が取り持って、智恵子の最期を看取った智恵子の姪の春子と結婚。長男を「光太郎」と名付けました。

5月16日土曜日、奥州市水沢図書館さんをあとに、同じ奥州市内の米里人首地区にレンタカーを走らせました。光太郎と親交のあった詩人の佐伯郁郎の生家、人首文庫さんが目的地です。

こちらには、佐伯郁郎の厖大な遺品が収蔵されており、その中に佐伯に宛てた光太郎の書簡が複数あって、10年ほど前に当主の佐伯研二氏にコピーを送っていただきました。それらの現物を見てみたい、というのと、もしかすると他にも光太郎関連資料があるのでは、という思いがありました。結果的にそれが当たりました。

さて、大船渡方面につながる盛街道を東へ、山あいののどかな風景の中を走ること30分あまり、目指す人首地区に着きました。

ここは宮澤賢治の作品に登場する種山ヶ原の麓に位置し、賢治もたびたび訪れたそうで、賢治ゆかりの場所の大きな案内図が道端に建っていました。

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目的地の人首文庫さんは地区のほぼ中心、人首城跡の入り口にありました。江戸時代には人首城主・沼辺家の家老職、廷内に学問所を併設していたというだけあって、豪壮な構えでした。

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しかし、当方が着いた時には、お留守でした。こちらの電話番号を把握して居らず、また、旅の途中ゆえ、何らかのトラブルで訪問できなくなる危険もなきにしもあらずでしたので、事前に来意は告げてありませんでした。ただ、門が開いているので、近くに出かけているだけだろうと思い、しばし門前で待たせていただきました。やがて佐伯研二氏ご夫妻がご帰宅。推測通り、お買い物に出かけていたとのこと。

門をくぐって敷地内に入ると、立派な庭園、いかにも格式のある母屋、そして蔵が何棟もあって驚きました。

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樹齢200年という桜の木もあり、花の時期にはものすごいことになるだろうな、と思いました。
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早速、資料を収蔵してある蔵を拝見しました。

一歩入って驚愕しました。天井まで届く複数の大きな書棚に溢れんばかりの書物、展示ケースや壁には書幅や色紙などの類、しかもそれが一室でなく、何部屋もあるようです。

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佐伯氏は、突然の来訪にもかかわらず、懇切ご丁寧にご説明下さり、恐縮でした。「こんなものもあります」と、次々にいろいろなものを出して見せて下さいました。

佐伯郁郎は戦前に内務省に入省、戦時中は情報局文芸課に勤務、検閲の任にあたっていたという特異な経歴があり、非常に文壇内で顔が広かったようです。有名どころからマイナー、マニアックな文学者まで、著書や書簡、肉筆原稿、書など、いったいどれだけあるんだ、という感じでした。

こちらは光太郎の書。

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先日、埼玉の田口弘氏のお宅で拝見したのと似た、若干粗悪な色紙に書かれています。おそらく物資の乏しかった戦後の物でしょう。

「針は北をさす」という句は、初めて目にしました。類似の例として「いくら廻されても針は天極をさす」という揮毫は何種類かあるのですが、「北をさす」という揮毫は類例が確認できていません。岩手という北の大地に流れてきての思いが込められているのかも知れません。

こちらは光太郎から佐伯郁郎宛の葉書。以前にコピーを送っていただいたものでした。

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これら以外にも、『全集』等未収録の光太郎からの葉書が2通、ありました。昭和6年(1931)の、佐伯の第一詩集『北の貌』、同10年(1935)の第二詩集『極圏』の、ともに受贈に対する礼状でした。それぞれ50名ほどでしょうか、他の文学者たちからの礼状とともに、一括してまとめられていました。

昨日ご紹介した、水沢図書館での智恵子資料などと合わせ、まだまだ岩手には未知のお宝が眠っていたということで、大興奮でした。

また、光太郎とも親交のあった文学者たち(特に詩人)の資料も数多くあり、興味深く拝見しました。以前に連翹忌にご参加くださっている詩人の宮尾壽里子様からいただいた文芸同人誌『青い花』第79号に掲載されていた柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」という評論で紹介されていた萩原朔太郎と中原中也、そろっての署名など。

書簡類も、それぞれの文学者の全集に未収のものがほとんどのように思われます。近代詩人の研究をされている方、ぜひ一度、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月23日

昭和23年(1948)の今日、詩人の大上敬義に詩集受贈の礼状を書きました。

北海道の更科源蔵氏から貴著詩集「愁ひの実」を回送され、又貴下のおてがみを昨日いただきました。御恵贈ありがたく存じます。今は畑のいちばん忙しい時なので、中々読んでゐられませんが、そのうち繙読するのをたのしみに存じます。

上記の佐伯郁郎との親交も、こうした詩集受贈から始まっています。

確認できている光太郎書簡の中には、この手のものがかなり多く存在します。光太郎は詩集などを贈られると、相手が無名の詩人であっても、貰って貰いっぱなしではなく、必ずと言っていいほど礼状を書いています。

この手のもの、やはりまだまだ眠っている物も多数存在するはずです。「うちのおじいさんはあまり有名ではなかったけど、詩人だった」などという方、捜してみて下さい。

5月16日土曜日、大沢温泉さんを後に、花巻南温泉峡組合さんで運行する無料シャトルバスに乗り込んで、東北新幹線の新花巻駅に向かいました。この日は南下して、奥州市で現地調査です。

駅前の土産物屋で買い物を終えて外に出ると、豪快な汽笛が聞こえました。「SL銀河」がJR釜石線の新花巻駅に入線していました。

当方鉄道マニアではありませんが、レトロなものは大好き人間ですので、見に行きました。しかし、残念ながら釜石方面へ向けて出発したところで、後ろ姿しか見えませんでした。

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ちなみにこの機関車はC58型239号機。昭和15年(1940)製で、同18年(1943)から宮古機関区に配属され、同48年(1973)まで現役でした。その後、盛岡で静態保存されていたのが、昨年、再び運行が開始になりました。

だいぶ以前にこのブログでご紹介した、当方の住む千葉県北東部を期間限定で走った「おいでよ銚子&佐原号」のC61-20号機同様、もしかすると光太郎もこの機関車が牽引する列車を利用したかも知れない、などと思いながら見送りました。

さて、東北新幹線やまびこ号にて、水沢江刺駅に着き、駅前で予約していたレンタカーを借りました。地方では路線バスがどんどん少なくなり、かといってタクシーは料金が高く、逆に最近のレンタカーは高性能のカーナビも標準装備ですので、それほどの長時間でなければこちらの方が便利です。

目的地は2ヶ所。まず、一ヶ所目の、奥州市水沢図書館さんに行きました。水沢江刺駅から約5㌔です。

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こちらでは、昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で1日だけ開催された智恵子切抜絵展に関する資料が所蔵されているというので、それが目当てでした。その情報を花巻の記念会さんから得た際には「二つ折り見開きの簡易なパンフレット的なものだろう」と思っていました。

ところが、書庫から出していただき、手に取ってみると、あにはからんや、20ページ以上もある冊子でした。

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前半は、日本画家の夏目利政が書いた文章とカット、後半は光太郎の「智恵子抄」からの抜粋でした。

夏目利政は光太郎より10歳、智恵子より7歳年下で、東京本郷動坂の生まれ。光太郎同様、岩手(水沢)に疎開し、そのまま水沢にとどまっていました。

その頃から数えて約40年前、明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が夏目家の離れに下宿していたのです。それ以前に入居していた同校卒業生用の楓寮が閉鎖となり、同郷で同窓だった幡ナツ夫妻が、自分達も下宿していた夏目家に智恵子が下宿できるよう計らってくれたとのこと。そうした縁もあり、戦後の水沢での智恵子展の開催に、夏目が骨を折りました。

夏目の文章、初めは花巻の佐藤隆房邸で智恵子の紙絵を初めて観た際の印象が語られています。観る前はたいしたものではなかろう、とたかをくくっていたのが、実際に目にして、瞠目したことが書かれています。後半は、夏目家に下宿していた頃の智恵子の回想。約40年前の回想ですが、芸術について生き生きと語る智恵子の姿が再現されています。


智恵子の言葉の部分を一部引用します。句読点、改行等は原文のままです。明らかな誤字は訂正しました。

ほんとうのことって よっぽどしっかりしないと、008
持ちつづけられないわ
嘘は、すぐわかるから、たいした、おそろしいものではない
一番こわい、たえず警戒しなければならないのは、
妥協すること、よ  妥協が一番きらい
ほんとうのような姿で、親切らしい形で
やってくる、しつっこく、執拗に、よ
けれど一歩でも妥協をゆるしたら それこそ大変
あとから、あとから、絶間なしにくる
これで、皆 大てい崩れてしまう、新しい命を失ってしまう
人間が生きながら干物のようになってしまう
生きているように見せかけることばかり気にする様になる
生きた絵も、生きた生活だって出来やあしない
妥協こそ卑俗に落ちる第一歩なのよ
ほんとうを失って生きるのなら
生きたって、無意味
卑俗への妥協 憎むべきだわ妥協
もし、妥協しないで、生き抜くことの出来ない
そんなのが世の中なら、
けれども立派に生きて絵をかいている人がある
立派な絵がある
ゴッホなんて 気が狂ったって尊いわ
この生きている絵 いつまでも生きている絵――

いかにも智恵子が語りそうな内容ですね。

右上と下は、夏目がその頃の智恵子を思い起こして描いたカットです。上記のゼームス坂病院と思われる表紙画も夏目作です。

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こうした貴重な資料がまだまだ埋まっているのだな、と、感慨ひとしおでした。

その後、水沢図書館を後にし、同じ奥州市の山中、米里人首(よねさとひとかべ)地区にレンタカーを走らせました。こちらは光太郎と親交のあった詩人、佐伯郁郎の生家があり、遺品を展示する「人首文庫」として公開されています。そちらについてはまた明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月22日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『和』に詩「和について」が掲載されました。

同誌は大阪の四天王寺事務局内太子鑽仰会発行の雑誌です。009

  和について

物思はせたまふ時
太子斑鳩の宮に入らせたまふ。
ただおんひとり幽暗の座を占めたまふ。
大陸の文化に伴ふ大陸の強圧。
帰化豪族らの不規異例。
守屋がともがら今は亡けれど
蘇我の権門やうやく微妙の兆(きざし)あり。
門閥世襲の割拠独善。
部曲(かきべ)の民を財とする兼併貪癡。
貧富の隔絶すでにはげしく
飯(いひ)に餓ゑてやせこける民は巷にあり。
われらに今欠けたるもの和なり。
億兆の和なくして社稷なし。
和は念慮にして又具顕なるを。
大いなるかな和をおもふことの力。
これ人倫のもとゐ社稷の血脈。
わがものせんとする文(ふみ)すでに成れり。
太子まなこを開きて座を起こさせたまふ。
香煙袖を追うて春の宵いまだ暮れやらず。

飛鳥の世の話を、戦後間もない当時の世相に擬しているように思われます。

5月15日(金)に行われた花巻高村祭のため、前日から花巻入りし、花巻には2泊しました(もう1泊は仙台)。

14日(木)は鉛温泉藤三旅館さん。昨年先月に続き、3回目の宿泊でした。今回は、㈶花巻高村光太郎記念会さんのご厚意で、昭和23年(1948)に光太郎が泊まった3階の31号室に泊めていただきました。

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リフォームはされているようですが、基本的に昔のままのようで、部材や調度品などは非常にレトロな感じでした。また、非常に天井が高いのが印象的でした。

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窓を開けると、下には豊沢川の清流。

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館内各所にも、レトロなアイテムが随所に見られます。

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深さ約130㌢の自噴岩風呂「白猿の湯」や、渓流沿いの露天風呂など、堪能しました。

よく「枕が変わると寝られない」という方がいらっしゃいますが、当方はそんなことはなく、というか真逆で、「枕が変わると起きていられない」という感覚です。旅先では夕食を摂って一風呂浴びると、もう眠くて仕方がありません。8時から9時にはたいがい眠ってしまいます。その代わり、2時とか3時とか、真夜中に目が覚めます。そこでまた温泉に浸かるとまた眠くなり、朝までぐっすり。また5時、6時くらいに起きて、さらに一風呂。今回の3泊ともそうでした。

2泊目は大沢温泉山水閣さん。こちらも光太郎がよく泊まっており、当方も学生時代から、数え切れないほど泊まっています。ただ、大沢さんは宿が3つに別れており、学生時代は自炊部さん(基本的に湯治客用の木賃宿)、その後は築160年という別館の菊水館さんに泊まっていて、山水閣さんでの宿泊は初めてでした。山水閣さんは少し高級な温泉ホテルという感じです。3館は全て館内でつながっています。

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左奥の白い建物が山水閣さん、右手の古い2棟が自炊部さん。

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こちらが菊水館さん。茅葺きです。下は3館共通の露天風呂、「大沢の湯」です。

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さて、山水閣さんでは、「牡丹の間」という部屋に泊めていただきました。こちらも光太郎ゆかりの部屋です。

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山水閣さん自体が建て替えられた際、光太郎がよく利用した部屋を再現したそうで、部材や調度品は当時のものを転用しているそうです。

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こちらの箪笥、飾りかと思っていたら、ちゃんと浴衣が入っている実用のものでした。

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そして、「光太郎ゆかりの部屋」を前面に押し出しているため、室内には光太郎の書「大地麗」、水彩画「牡丹」の複製が。本物はともに記念館に展示されています。

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床の間には渡辺えりさんのお父様、渡辺正治氏の書。渡辺氏も当方と同じく、高村祭の記念講演講師をなさった際にここに泊まられています。

さらに出てすぐの廊下には、智恵子の紙絵の複製も。

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この部屋はスイートルームの扱いなので、非常に広く、3部屋もあります。

また、やはり窓を開ければ豊沢川の清らかな流れ。鉛温泉さんより下流に位置し、流れも多少穏やかで、この季節、耳を澄ませばカジカガエルの声が聞こえます。

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さらに館内廊下には、光太郎や賢治ゆかりの品々が。光太郎自身の書「顕真実」、仏典の言葉です。さらに渡辺氏同様、高村祭の講師をなさった、鋳金家の故・斎藤明氏、光太郎の実弟・豊周の子息、故・高村規氏の書。

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その他、昨日もご紹介した光太郎写真や、光太郎が訪れた頃の大沢温泉さんの写真などなど。

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廃線となった花巻電鉄の駅が、温泉入り口にかつてあり、その写真です。

こちらでも温泉を堪能しました。それから鉛温泉さん、大沢温泉さんともに料理もすばらしく、おそらく太って帰りました(笑)。

花巻にお越しの際は、ぜひ両館にお泊まり下さい。鉛さんの31号室、大沢さんの牡丹の間、ともにスイートルーム的な部屋ですが、プチ贅沢ということで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月21日

昭和56年(1981)の今日、佐藤隆房が歿しました。008

佐藤は総合花巻病院の院長を長らく務め、宮澤家ともども、昭和20年(1945)、戦災で焼け出された光太郎を花巻に招くのに一役買いました。

さらに、戦後、太田村に移る前の光太郎を約1ヶ月、自宅離れ(光太郎が「潺湲楼-せんかんろう」と名付けました)に住まわせました。太田村移住後の光太郎は、花巻町に出てきた際には主にここに宿泊しています。

光太郎歿後は顕彰運動を進めるべく、財団法人高村記念会を立ち上げ、その先鞭をつけました。

『高村光太郎山居七年』をはじめ、貴重な光太郎回想も数々残しています。

また、宮澤賢治の主治医だったことでも知られ、賢治の詩「S博士に」のモデルが佐藤だと言われています。

現在の㈶花巻高村光太郎記念会会長、進氏は、佐藤の子息です。

5月15日、第58回高村祭終了後、生前の光太郎を知る人々からお話を伺うことが出来ました。

まず、JR東北本線花巻駅近くにお住まいの、内村義夫さん。内村さんの奥さんのお父様が、故・内村皓一氏。平成5年(1993)に亡くなった写真家で、光太郎の日記にお名前が散見されます。国内より国際的に評価され、海外のコンクールで多数の入賞歴があります。

平成21年(2009)の5月3日、地元紙『岩手日報』さんに以下の記事が載りました。

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昭和26年(1951)6月16日に、光太郎は花巻公会堂で講演を行っています。その際、同時に光太郎作詞の「初夢まりつきうた」が舞踊となり、上演されています。その「初夢まりつきうた」が収められたレコードの発見が報じられた記事でした。記事中に「一九四六(昭和二十一)年」とあるのは誤りです。

この件について詳しく調査しようと思っていたところ、内村さんと連絡が取れ、高村祭のため当方が花巻に滞在中にお会いできることになりました。内村さんは、お仕事が終わってから、わざわざ高村光太郎記念館までお越し下さいました。

事前にお願いしてあったので、レコードの現物をご持参下さいました。当時の新聞記事と一緒に額に入れて保管されているとのこと。

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記事はこちらです。クリックで拡大します。

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光太郎の講演、「初夢まりつきうた」の上演と同時に、内村皓一氏の写真展も開催されていたとのことです。

この日の光太郎日記が以下の通り。

細雨、 ひる近く花巻新報の平野智敬氏、及写真家内村皓一氏車で迎にくる。一緒に花巻行、ヤブにて中食、商工会議所の連中集まる、後公会堂行、講演一席、後舞踊見物、まりつきうた。 花巻温泉に一泊。紅葉館、皆とのむ、小田島氏、岩田氏は十一時頃辞去、平野氏、内村氏は泊る、

さて、レーベルを見て驚きました。印刷ではなく手書きです。記念館事務局の方曰く、その場で録音されたものではないか、とのこと。昭和50年代くらいまで、テープレコーダーのようにその場で録音したものをレコードにする機械が使われていたそうで、これもそうなのでは、というわけです。

ちなみに手書きの文字は以下の通り。

花巻初夢まりつき唄  作詞 高村光太郎  作曲 杵屋正邦  唄 宮田五郎  三味 杵屋正邦  小謡 梅田金太郎  打楽器 梅田勝法  ピアノ 加納時雄  

裏面のレーベルには「花巻新報社」とのみ書かれています。

ネットで調べてみると、杵屋正邦、宮田五郎という名は、当時の邦楽家としてヒットしました。花巻新報社で、中央の邦楽家を引っ張り出したようです。

先述の平成21年(2009)の記事に「劣化が進んでおり聴くことはできない」とありますが、盤が割れてしまっているわけではなく、現在の技術ならレーザー光線等で凹凸を読み取ってデジタル化することも可能らしく、そちらの手配は記念館の方にお任せすることにしました。聴くのが楽しみです。また、ひょっとすると光太郎の講演も収録されているのでは、などと期待しています。

追記 その後の調査で、レコードはライブ録音ではなく、花巻新報社が発売したものと判明しました。

内村さんは、他にも貴重な資料をたくさんお持ち下さいました。

光太郎から皓一氏宛の葉書2通のコピー。こちらは『高村光太郎全集』等に未収録のものです。帰ってから詳しく調べてみたところ、昭和25年(1950)2月と、27年(1952)3月のものと判明しました。

前者は、

帰つて来ましておたよりと小包とをいただきました、大好きな、しかも上質な唐辛子をお贈りいただき、忝く存じました、朝の味噌汁がどんなにたのしみか知れません、
盛岡には五日ほど居てかなりしやべりました、前後十日間ほどになり少々疲れましたが、もう恢復しました、高橋氏より「群像」の写真の原画も先日ありがたく存じました、「群像」では皆によろこばれました、

という文面で、1月13日から22日にかけ、盛岡や西山村(現・雫石町)を廻ったことが記されています。ちなみに以前にご紹介した深沢竜一氏のお宅が西山村で、この時に光太郎が2泊しています。「群像」は雑誌名。来週、他の調査と合わせて国会図書館で調査して参ります。

この時期の光太郎日記は失われているのですが、「通信事項」という郵便の授受を記したノートの2月10日の項には、「内村皓一氏へ礼ハカキ(唐からし礼)」と書かれています。


後者は、

先日はいろいろいただき、思はぬたのしい半日を過ごしました。おハガキと唐がらしと感謝。
唐がらしは早速つけものに入れます。朝鮮づけのやうに。
ここの土壌は南蕃に合はぬと見えて昨年つくつたものも殆と辛味がなく出来ました。 今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。

とあり、3月2日の日記の、

宮澤清六氏内村皓一 氏来訪、岩手川一升豚鍋の材料いろいろもらふ。豚鍋をして岩 手川をのむ。夕方辞去。

と照応しています。

こういうパズルのピースがぴたっと合った時のような感覚は、たまりません。

さらに内村さんから、こんなものを戴きました。まったく同じものを、記念館に一つ、当方に一つ。ご自宅にあったものだそうです。

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一見、何の変哲もないただの丼です。中島誠之助氏が「いい仕事してますねー」と讃えるようなものではなく、大量生産の品のようです。

しかし、こちらの写真をご覧あれ。

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何と、光太郎の足元に写っているこちらと、同一のものです。驚きました。

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写真右端の方の模様が濃くなっているのがおわかりでしょうか。実際にこの丼もそうなっています。

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内村さんもなぜこれがご自宅にあったのかよく分からないとのことでした。写真に写っているものは、先の光太郎日記にあった豚鍋の会の際に皓一氏が持参したものかも、と思ったのですが、残念ながら写真が撮られたのが昭和26年(1951)で、豚鍋の会の前年でした。

想像するに、別の機会に皓一氏、または共通の知人(宮澤清六など)から贈られたか、たまたま花巻町の同じ店でそれぞれが購入したか、といったところでしょう。いずれにしても、光太郎ゆかりの丼ということで、大切にしたいと思います。感謝に堪えません。


内村さんとの会見後、記念館近くの公民館で、高村祭の打ち上げが行われ、当方も顔を出し、地元の皆さんと酒を酌み交わしました。

この場にも、生前の光太郎を知る方が何人もいらっしゃいました。当時山口小学校の児童だったという方々です。下は昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に現れたサンタクロース(光太郎)と撮った写真です。

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66年前の、右から二人目のお子さんが、こちらの方007です。面影が残っていますね。

写っている他の方のうち、既に亡くなった方もいらっしゃるそうですが、大半はご存命だそうです。

ちなみに以前もご紹介しましたが、後ろの窓から顔を出している子供は、浅沼隆さん。花巻高村光太郎記念会山口支部の中心になっている方です。お父様は山口小学校の校長先生で、貴重な光太郎回想をたくさん残されました。当方の書いた年少者向けの「乙女の像ものがたり」に「隆君」として登場させて戴きました。

皆さん口々に、「大人たちが光太郎先生は偉い人だ、と言っていたからそうなんだろうと思っていたが、子供の自分達にとっては優しい普通のおじいさんだった」とおっしゃっていました。何だか涙が出そうになりました。


この日は、大沢温泉山水閣さんに一泊。前日の鉛温泉藤三旅館さんと合わせ、明日はそのあたりをレポートします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月20日

昭和9年(1934)の今日、黄瀛詩集「瑞枝」が刊行されました。

黄瀛(こうえい)は、中国人の父と、日本人の母無題を持つ詩人。光太郎と草野心平の出会いを演出しました。

「瑞枝」には光太郎が寄せた序文、光太郎が制作した黄瀛像彫刻の写真が掲載されました。

一部抜粋します。

つつましいといへばつつましいし、のんでゐるといえばのんでゐる。黄秀才は少しどもりながら、最大級を交へぬあたりまえへの言葉でどこまで桁はづれの話をするか知れない。黄秀才の体内にある尺度は竹や金属で出来てゐない。尺度の無数の目盛からは絶えず小さな泡のやうなものが体外に向かって立ちのぼる。泡のはじけるところに黄秀才の技術的コントロオルが我にもあらず潜入する。まことに無意識哲学の裏書きみたいだ。

ちなみに今日は智恵子の誕生日ですが、そちらは2年前にご紹介しました。

昨日ご紹介した花巻高村祭に関しての新聞報道で、各紙とも触れて下さっていましたが、花巻高村光太郎記念館で企画展示「山居七年」が始まりました。

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彫刻を中心とした展示室1、光太郎の業績を幅広く紹介する展示室2は、基本的に常設展として展示替えはあまり行いません。ところが、その2室に並べきれない貴重な資料がまだまだたくさんあり、そういったものを半年~1年のスパンで出していこうというわけです。また、将来的には外部からの資料等も活用する方向です。

最初の企画展「山居七年」は、昭和20年(1945)から27年(1952)までの、この地での光太郎の暮らしにスポットを当てています。9月28日までが前期、10月9日から2016年2月22日を後期とし、展示を入れ替えます。前期は春から秋の生活、後期は冬の暮らしを中心にとのことでした。

そのために、足かけ8年分の詳細な年譜を作成しました。それが壁面にパネルとなって貼られています。下の画像の緑色のパネルです。

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「どこどこに講演に行った」とか、「××温泉に何泊した」とか、「何々の文字を書いた」などです。

その下の白いパネルは、『高村光太郎山居七年』という書籍からの抜粋。こちらは花巻高村光太郎記念会を創設した佐藤隆房の編集になるもので、佐藤自身の回想や、花巻町、太田村、さらに岩手県内の他の地域の人々の証言などをまとめたものです。元版は昭和37年(1962)に筑摩書房から刊行され、記念会に版権を移して再刊されていましたが、それも品切れとなり、このたび新装版が刊行されました。

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以前は函入りハードカバーでしたが、今度のものはソフトカバーです。その分、定価1,800円+税と、お求めやすくなっています。ぜひお買い求めを。

さて、展示に話を戻します。

現在並んでいるのは、光太郎が佐藤に贈った水彩画「牡丹」、光太郎が文字を書いた山口小学校や絵画サークル雑草社の標札板、光太郎が山口小学校に寄贈した楽器や映写機、当時の写真などです。

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『高村光太郎山居七年』からの抜粋のパネルは、それぞれのものの由来などがわかるような部分を抜き出しています。

また、リニューアル前に流していた、昭和29年(1954)、ブリヂストン美術館制作の映画「高村光太郎」も常時上映中。この地での光太郎の姿が写っている貴重なものです。

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ちなみに、こんなものも並んでいます。かなり大007きいので、等身大かと思いきや、これでもまだ小さいということ。ボードの上下幅が最大180㌢しか取れないというので、確かに光太郎の身長ははそれ以上ありました。

企画展示室、狭い部屋ですが、こうした充実した内容になっています。

繰り返しますが、10月からは展示替えです。以後、半年から1年のスパンで内容を変更していきます。当方、アドバイザーとして関わっており、これからの内容を考えると、あれもやりたい、こんなものも並べたい、とワクワクしてきます。
当方自宅兼事務所にも珍しいものがいろいろあり、そういうものも見ていただきたいと考えたりもしています。既に展示室2に当方がお貸ししたものも並んでいますが。

そこで皆様にお願いです。光太郎智恵子に関し「家にこんなものがある」という方、ぜひ記念館にお知らせください。どういうものかよくわからないけれど、という場合でも結構です。また、岩手時代のものでなくてもかまいません。もしかするとものすごいお宝かも知れません。

明日のこのブログでご紹介しますが、まさしくそういうケースで貴重なものが出てきましたので。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月19日

平成8年(1996)の今日、劇作家の北條秀司が歿しました。008

北條は、光太郎が歿した昭和31年(1956)、雑誌『婦人公論』に戯曲「智恵子抄」を発表、初代水谷八重子主演で上演されました。光太郎生前から上演の話はありましたが、自身が登場することに光太郎が難色を示していたため実現しませんでした。

その後、この戯曲は藤純子(現・富司純子)さんや有馬稲子さん主演でも上演されています。

光太郎と北條の出会いは戦時中。ともに日本文学報国会に所属し、情報局の命で光太郎に軍歌の作詞を頼みに行ったのが北條だったそうです(ただし断られました)。

そのあたり、北條の著書『演劇太平記(二)』(昭和61年=1986 毎日新聞社)に記述があります。

3泊4日の東北行を終え、昨日遅くに自宅兼事務所に帰りました。数回に分けてレポートいたします。

まずは5月15日(金)に執り行われました、第58回高村祭について。

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佐藤進花巻高村光太郎記念会会長

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上田東一花巻市長

翌日の新聞各紙を購入して帰りましたので、その記事を元にします。 

岩手)参加者ら詩を朗読、光太郎しのぶ 花巻で高村祭

『朝日新聞』 岩手版

詩人で彫刻家の高村光太郎が東京から花巻に疎開した日を記念して開かれている「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前広場であった。新緑の中、参加者全員で「雪白く積めり」を朗読し、光太郎をしのんだ。
 空襲で東京のアトリエを失った光太郎は1945年5月15日、夜行列車で東京を出発し、翌日、花巻に着いた。光太郎がその詩を高く評価した宮沢賢治の実家に疎開。10月に旧太田村山口に移り、7年間過ごした。高村祭は花巻高村光太郎記念会が主催、今回が58回目。疎開から今年でちょうど70年となり、記念会の佐藤進会長は「高村先生をしのびたい」と話した。
 地元の小中学生らが詩を朗読、合唱を披露した後、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が講演し、「戦争に協力した自分を自分で罰するため、ここでは彫刻を封印し、自省する日々を過ごした」などと話した。(石井力)

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記事に有るとおり、昭和20年(1945)の詩「雪白く積めり」の朗読を全員で行いました。自分の隣には上田市長がいらしたのですが、誰よりも大きな声で朗読なさっていました。すばらしい。

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地元小中高生、看護学校生のみなさんによる朗読や演奏。太田小学校の2年生児童は、統合で廃校となった旧山口小学校の校歌も披露し、同校卒業生の皆さんは非常に懐かしがっていました。

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高村光太郎の功績 後世へ

『読売新聞』 岩手版

 詩集「智恵子抄」などで知られ晩年を太田村(現花巻市)で過ごした彫刻家高村光太郎(1883~1956)の功績をしのぶ高村祭が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。     
 1945年5月15日、高村は東京のアトリエを空襲で失い、親交のあった宮沢賢治の弟・清六を頼りに夜行列車に乗った。この旅立ちの日を記念して毎年、高村祭が開かれている。今年で70年を迎え、児童・生徒らが高村の手掛けた詩の朗読や合唱などを行った。
 高村山荘は、疎開した高村が7年間、腰を落ち着けて暮らしたゆかりの地。狭い小屋ながら地域住民と触れ合い、農耕と自炊の生活を送った。
 元中学校教諭で、高村光太郎を研究している小山弘明さん(50)は講演で、「高村はこの地で大きく視野を広げた。残念なのは、一時期の日記や手紙が全く見あたらないこと。高村の功績を考え、しっかりと後世に伝える必要がある」と話した。
 高村山荘に隣接する高村光太郎記念館では、高村が太田村山口で暮らした7年間を紹介する企画展も開かれている。問い合わせは、記念館(0198・28・3012)へ。
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「日記や手紙が」とありますが、正しくは「日記が」です。以前にも書きましたが、昭和24年(1949)と25年(1950)の日記大部分が行方不明です。同じく行方不明だった昭和20年(1945)の分は、花巻で見つかりました。そう考えると、24、5年のものも、もしや……と考えています。

企画展に関しては後日、詳述します。 

光太郎の思い 次代に 疎開70年、花巻で高村光太郎祭 住民ら500人がしのぶ 朗読や合唱のびやか

『岩手日報』

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第58回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。児童生徒らが朗読や合唱を披露し、光太郎の花巻疎開から70年の節目に思いを重ねた。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催し、住民ら約500人が参加。佐藤会長は「今年は高村光太郎記念館がリニューアルオープンし感謝している。高村先生をしのび楽しい一日にしたい」とあいさつ。上田東一市長は「70年前のきょう、高村先生は東京を出発し花巻に向かった。新しい記念館も見ていただき、高村先生の功績と人生に思いをはせてほしい」と参加者に呼び掛けた。
 太田小児童が楽器演奏を披露し、西南中の生徒は光太郎が残した「心はいつもあたらしく」の言葉を歌詞にした「精神歌」を合唱した。花巻高等看護専門学校1年の大尻真海(まみ)さん(18)は花巻空襲で負傷者救護に尽力した看護師らをたたえる「非常の時」を朗読。「光太郎先生が岩手を愛し、深く地域と関わっていたことを高村祭であらためて感じた」と話した。同専門学校はコーラスも披露し、会場に優しい歌声を響かせた。
 光太郎の妻智恵子の出身地、福島県二本松市からメンバー約20人と訪れた「智恵子の里レモン会」の渡辺秀雄代表は「新緑の林の中で開かれる高村祭は規模も大きく、伸び伸びとしている。雰囲気がいい」と感心していた。
 光太郎は45年5月15日、戦災のため花巻に疎開し約7年間を過ごした。

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看護学校の大尻さんは、詩「非常の時」の朗読をなさいましたが、朗読だけでなく、その前に、この詩が作られた背景を説明して下さり、感心しました。

光太郎の偉業 しのぶ 高村祭 詩朗読や楽器演奏

『岩手日日』 はなまき

 花巻市ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第58回高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)が15日、同市太田の高村山荘の詩碑前で行われた。多くの参加者が、かつて光太郎が暮らした自然環境に親しみながら、詩の朗読や合唱、有識者による特別講演を通じ、その偉業に思いを巡らせた。
 同記念会の佐藤進会長や上田東一市長をはじめとする関係者や地元の児童生徒ら約600人が参加。彫刻の代表作とされる「乙女の像」がある青森県十和田市や、光太郎の妻・智恵子を顕彰する福島県二本松市の智恵子の里レモン会からも関係者が来場した。
 光太郎の遺影を飾った詩碑に、太田小学校の戸來尚暉君(2年)と髙橋百花さん(同)が花を手向け、三彩流新茗会の新田社中が献茶。碑に刻まれた「雪白く積めり」の詩を一同で朗読した。
 同校2年生16人が詩の群読や楽器演奏、光太郎が指導したという旧山口小学校の校歌を披露。西南中学校の1年生54人も「心はいつもあたらしく 日々何かしら見いだそう」という光太郎の言葉を盛り込んだ同校の精神歌を合唱した。
 続いて詩作「道程」を花巻南高の久保田彩花さん(3年)、同じく「レモン哀歌」を池田菜美さん(2年)が朗読。静かに心へ染み入るような光太郎の詩の魅力を会場全体で味わった。
 花巻高等看護専門学校の大尻真海さん(1年)は、1945年の花巻空襲で、身をていして負傷者を救護した医師や看護師に光太郎が贈った詩「非常の時」を朗読した。同校1年生男女40人の混声合唱では、光太郎作詞の「最高にして最低の道」などを披露した。
 太田小学校の安藤大翔君(2年)は「上手に発表できた。自分が中学生になった時も、今日の中学生に負けないように頑張りたい」と笑顔。花巻高等看護専門学校の石澤直人君(1年)は「伝統ある高村祭に参加できてうれしい。高村先生のように強い意志を自分も持って看護師を目指す」と意欲を見せていた。
 高村祭は、戦火で東京のアトリエを失った光太郎が、70年前に花巻へ疎開してきた日に合わせて毎年開催。今回はリニューアルした高村光太郎記念館のオープン記念も兼ねている。
 同記念館では、新設の企画展示室を活用した初の企画展「山居七年」が同日から開幕。9月28日までの前期は希少な光太郎の水彩画など18点と詳細な年譜などを紹介し、10月9日から2016年2月22日の後期は展示を入れ替える。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

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『岩手日報』さんと『岩手日日』さんは、二本松の智恵子の里レモン会さんにも触れています。渡辺代表、夕方のローカルニュースでもご出演。
 
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真摯に生きた光太郎の姿紹介 小山代表が特別講演

『岩手日日』 はなまき

 15日の第58回高村祭では、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎と花巻・山口」をテーマに特別講演。つまずきながらも真摯(しんし)に生きた光太郎の姿を多くのエピソード共に紹介した。
 小山代表は、花巻での光太郎について「戦争を賛美した自らに最も重い罰を科そうと彫刻を封印していた。だが、地元の人から敬愛され、幸せな日々を送ることができたのでは」などとした。
 高村光太郎記念館で同日開幕した企画展「山居7年」を監修。「光太郎が過ごした花巻ならではの展示を見てほしい」と呼び掛けている。

さらに当方も写真入りでご紹介下さいました。よい記念になります。

ところで記事にはなっていませんが、第二部もあり、そちらは地元の皆さん(モンデンモモさんも特別出演)の歌や踊りなどでした。地元の皆さんはこちらを楽しみにしています。自分で講演をやっておいてこういうのも何ですが、こういう催しは講演とか朗読とかの小難しいことだけをやっていても駄目ですね。高村祭の、半分は地域のお祭り的な要素が、長く続いている秘訣だと思います。泉下の光太郎も、存命中は地元の田植え踊りや神楽に非常に興味をひかれていました。そういう意味では、いいはなむけにもなっています。

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しかし、先述の『読売新聞』さんで、当方の講演の要旨として、「高村の功績を考え、しっかりと後世に伝える必要がある」というのが、肝です。そこで、小中高生、看護学校生などの若い皆さんが出演して下さり、さらに講演を聴いていただき、次の世代へとしっかりと光太郎の遺徳を伝えることを考えているのも、素晴らしい点だと思います。上記新聞各紙の見出しに「次代に」「後世へ」といった語を入れていただいたのは、そういう意味では非常にありがたいかぎりです。

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その頃まで当方が生きているとも思えませんが、42年後は第100回高村祭、その頃まで変わらずに続いていって欲しいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月18日

大正12年(1923)の今日、新潮社から詩話会編纂007の『日本詩集 1923版』が刊行されました。

光太郎詩「真夜中の洗濯」「米久の晩餐」が掲載されています。

詩話会は、詩人の大同団結を目指し、大正6年(1917)に結成された団体です。『日本詩集』は年刊誌として毎年刊行。さらにこれと別に『日本詩人』という機関誌もあり、ともに光太郎も何度か詩を載せています。

しかし、こうした団体の常で、主義主張の相違から、大正15年(1926)には会が崩壊してしまいました。

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仙台のホテルに居ます。

昨日、第58回高村祭を終え、花巻郊外の大沢温泉山水閣さんに泊まり、今日は主に宮城との県境に近い奥州市で現地調査を致しました。

行った先は、水沢図書館、そしてかなり山の中に入った人首米里地区にある人首文庫さん。こちらは光太郎と親交のあった詩人、佐伯郁郎の生家です。

昨日、高村祭の後には花巻市街にお住まいの内村義夫氏(やはり光太郎と親交のあった写真家、内村皓一の縁者)とお会いし、実に貴重な資料を拝見したり、戴いたりしました。
今日は今日で、これまたとんでもない資料の数々に出会い、頭がくらくらしております。
やはり詳しくは帰ってからレポートいたします。

明日は仙台にて、朗読の荒井真澄さん他による「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」を聴いて、千葉に帰ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月16日

昭和11年(1936)の今日、東京府美術館で光太郎の実弟にして、のちに鋳金の人間国宝となる豊周も参加した実在工芸美術会第一回展が開幕しました。

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本日(15日)、花巻郊外旧太田村の光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内にて、第58回高村祭が行われました。

地元小中高生、看護学校生による朗読や演奏、当方の記念講演などがあり、光太郎の遺徳を偲びました。

心配された天気もどうにかもち、つつがなく終了。ほっと胸をなで下ろしております。

詳しくは帰ってからレポートいたします。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月15日

慶応4年(1868)の今日(旧暦ですが)、薩長軍と、彰義隊を中心とする旧幕府軍の間で上野戦争が起こりました。

光太郎の父、光雲は師匠・東雲の元で年季奉公中。砲弾銃弾の飛び交う下を、師匠の兄弟弟子のもとに向かったことが、昭和4年(1929)刊行の『光雲懐古談』に記されています。

今週金曜日、5月15日に岩手花巻で行われる第58回高村祭につき、高村山荘・高村光太郎記念館さんのサイトに案内がアップされました。

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毎年、高村祭当日はJR東北本線花巻駅(東北新幹線新花巻駅ではありません)から無料のシャトルバスが出ていますが、今年は2本出ます。鉄道でお越しの方、花巻市街にご宿泊の方、ご利用下さい。かつてあった路線バスは廃線になっています。

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発車は花巻駅西口。改札があるのは東口ですのでご注意下さい。東口改札から出て左にゆくと、西口に通じる地下道があります。

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敷地内の高村光太郎記念館は、当日は入館無料。先月末にリニューアルオープンした新しい記念館も、ぜひご覧下さい。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月11日

平成3年(1991)の今日、岩手県北上市の飛勢(とばせ)城址に、光太郎詩「ブランデンブルグ」の一節を刻んだ碑が除幕されました。

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この日、市内で6つの文学碑が除幕されました。若山牧水、子日庵一草、寺山修司、浜夢助、豊田玉萩、そして光太郎です。全国の各市町村に1億円が公布された、いわゆる竹下内閣の「ふるさと創生事業」によるものでした。

詩「ブランデンブルグ」は、J・S・バッハの「ブランデンブルグ協奏曲」に題を採ったもので、昭和22年(1947)の作。この年、花巻町で行われた稗貫郡農会でのレコードコンサートでこの曲を聴いた印象が元になっています。太田村の山小屋の近くを歩きながら、この曲が幻聴のように聞こえていた、というエピソードも伝わっています。

昭和25年(1950)には、光太郎は黒沢尻町(現・北上市)の文化ホールで講演を行い、その際にこの詩を朗読したとのこと。そのためにこの詩の一節が採られています。

高くちかく清く親しく、
無量のあふれ流れるもの、
あたたかく時にをかしく、
山口山の林間に鳴り、
北上平野の展望にとどろき、
現世の次元を突変させる。

先頃リニューアルオープンした、花巻高村光太郎記念館。例年、同じく光太郎が戦後の7年間を過ごした高村山荘敷地内で、光太郎の遺徳を偲ぶ「高村祭」が催されています。開催日は、昭和20年(1945)光太郎が空襲で東京を焼け出され、花巻に向けて旅だった日に合わせ、5月15日に設定されています。

今年は高村光太郎記念館の開館記念、さらに光太郎がこの地に住み始めて70周年の節目の年になります。以下、花巻市さんのサイトから。

第58回「高村祭」

1 日時 平成27年5月15日(金)10時から

2 概要
   献花、献茶、主催者あいさつ
   楽器演奏(太田小学校)、合唱(西南中学校)、
   詩の朗読(花巻南高校、花巻高等看護専門学校)、
   特別講演(小山弘明氏 演題「高村光太郎と花巻・山口」)
    *小山弘明 氏(高村光太郎研究者・高村光太郎連翹忌運営委員会代表・
      高村光太郎記念館の展示の指導者)

*高村祭の主催は、(財)花巻高村光太郎記念会、高村記念会山口支部

3 その他 5月15日(金)は入館料無料

 担当 生涯学習部 生涯学習交流課 0198-24-2111 内線416

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というわけで、記念講演を仰せつかりました。

昨年までの57回の記念講演は、初期の頃は草野心平、伊藤信吉、深沢省三、高田博厚、北川太一先生、最近も、渡辺えりさん、末盛千枝子さんなど、錚々たるメンバーが務めてこられました。その流れを崩さぬよう、精一杯やらせていただきます。

題目は「高村光太郎と花巻、山口」。「山口」というのは、高村山荘、そして高村光太郎記念館の建つ地区の名前です。やはり光太郎がこの地に住み始めて70周年の節目、さらにリニューアルオープンした高村光太郎記念館でも、この地と光太郎との関わりをかなり詳しく掘り下げた展示を行っていますので、そうした内容をメインとしようと考えました。

式典の中では、地元の小中高生、看護専門学校生の皆さんが朗読や演奏で花を添えて下さいます。それがなぜ行われているのか、といったことも講演の中でお話しさせていただこうと思っております。

リニューアルなった記念館の見学と合わせ、ぜひ、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月3日

昭和27年(1952)の今日、盛岡市の岩手県公会堂で開催された独立記念式で講演を行いました。

「独立」とは、サンフランシスコ講和条約の発効(4月28日)により、日本の主権が回復したことを指します。

この日の講演は、その一部分がNHK盛岡放送局からラジオで放送されました。

下記画像が岩手県公会堂。昨年、盛岡に行った際に、偶然、その前を通りかかりました。

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ちなみに本日を以て、当ブログ、開設より4年目に突入いたしました。これからも細々と(笑)更新していきますので、よろしくお願いいたします。

一昨日の高村光太郎記念館リニューアルオープンのため、岩手花巻に行きましたが、オープン前日に花巻入りし、鉛温泉藤三旅館さんに宿泊いたしました。豊沢川の渓流沿い、花巻南温泉峡の奥の方です。
昨年1月に泊めていただいた時以来、2度目の逗留でした。
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少し前にも書きましたが、光太郎もこの鉛温泉藤三旅館さんに泊まっています。確認できている限りでは、昭和23年(1948)に3回、それぞれ一泊しています。同24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記執筆をサボっていることがあるので確認できませんが、もしかするとその間にも泊まっているかもしれません(旅館ではその頃の宿帳は保存していないとのこと)。

その当時の建物もまだ健在。前回は、宿泊前に下調べを十分にして行かず、光太郎がどの部屋に泊まったのかわかりませんでしたが、今回はちゃんと調べてから行きました。

二度目に訪れた昭和23年(1948)5月11日の日記に、以下の記述があります。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。

また、三度目の宿泊となった同月18日の日記では、

二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。

とあり、確認できている3回とも、3階の31号室に泊まったことが分かりました。ちなみに「電車」は花巻電鉄です。

当方の部屋は、同じ3階の85号室。だいぶ番号が離れているので、昔と部屋番号が変わってしまっているのかも、と思いましたが、部屋に備え付けの館内案内を見てみると、ちゃんと「31号室」があり、早速行ってみました。

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当方の部屋は後から建て増しされた棟のようで、光003太郎の泊まった31号室は古い棟の角部屋でした。渡り廊下的な場所からこういう風に見えます。

さらに、帰ってからネットの公式サイトで調べてみると、「寛ぎのゆったり部屋」ということで紹介されていました。

ちなみに20号室という部屋は、田宮虎彦が泊まって小説「銀心中」を執筆したということで、「文人ゆかりの部屋」と紹介されています。

それよりは光太郎が泊まった部屋を前面に押し出すべきだと思うのですが、どうも藤三旅館さんではそのことをご存じないようです。

機会があったら、ぜひこの31号室を予約しようと思います。ただ、このタイプの部屋は、通常、1名での宿泊は受け付けていないようです。どなたかご一緒しませんか(笑)。

前回泊まった時も書きましたが、料理は美味しく、それでいて料金はリーズナブルでした。

それから、深さ約130㌢の「白猿の湯」をはじめ、光太郎も誉めた温泉もやはりグッドでした。1泊で3回入ってきました。当方の好きながっつり熱い湯もあったのが嬉しいところでした。

ちなみに「白猿の湯」については、光太郎日記では以下の通り。昭和23年(1948)4月26日のものです。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。
(略)
朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

館内あちこちのレトロな雰囲気もいい感じです。

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翌朝、高村光太郎記念館リニューアルオープンに向かう前に、宿の周辺を散歩しました。市街地ではないため、昭和20年代の光太郎がいた頃の雰囲気がまだよく残っているように感じました。

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このあたりも春を迎え、いろいろな花が咲き誇っていました。関東では盛りを過ぎた桜、連翹、さらにカタクリやふきのとう。

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特にカタクリ(すぐ上の画像)が普通に道端に咲いているのは、初めて見たように思いました。

さらに迎えに来ていただいた㈶花巻高村光太郎記念会事務局長さんの車の中からは、やはり道端にミズバショウが咲いているのも見えました。

ちなみに高村光太郎記念館、そして光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺も、花々が咲き乱れていました。

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山荘は、隣接する便所「月光殿」の鞘堂を改築中です。004
右の画像は、記念館前のコブシの花です。

この地域、これから1年中でもっともいい季節となります。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月30日

昭和22年(1947)の今日、雑誌『農民芸術』に、宮澤賢治がらみの散文「玄米四合の問題」を発表しました。

賢治の「雨ニモマケズ」中の「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」に触れ、次のように述べています。

 私の見るところでは宮澤賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた。宮澤賢治に限らず、かういふ最低食生活をつづけながら激しい仕事をやつてゐたら、誰でも肋膜にかかり、結局肺結核に犯されて倒れるであらう。
(略)
 私は玄米四合の最低から、日本人一般の食水準を高めたい。牛乳飲用と肉食とを大いにすすめたい。日本人の体格を数代に亘って改善したい。消極的健康から積極的健康に日本人を転換させたい。食生活の合理化を実行して此の結核国から結核を駆逐したい。精神力涵養に不可欠な身体力の培養に十全の力をそそぎたい。

賢治を殺し、智恵子を奪い、そして今また、自らの身を冒す結核への憎しみが見て取れます。

昨日リニューアルオープンなった花巻高村光太郎記念館に関する報道です。  

花巻・高村光太郎記念館がリニューアルオープン

『朝日新聞』 岩手版 004

 彫刻家で詩人の高村光太郎の記念館(花巻市太田)のリニューアル工事が終わり、28日、再オープンした。展示面積がこれまでの3倍に広がり、市は「初心者から深く知るファンまで満足できる展示となるよう工夫した」とPRしている。
 記念館は光太郎が1945年から52年まで暮らした「高村山荘」の近くにある。以前は財団法人高村記念会が「高村記念館」を運営していたが、2013年5月に市が花巻歴史民俗資料館を改修し、「高村光太郎記念館」と改称して暫定オープンしていた。昨年12月から資料庫だったスペースも展示スペースに改修し、今回、本格オープンした。広さは約640平方メートルで、改修費は約1億6300万円。
 展示室は1と2に分かれ、1では青森県の十和田湖畔にある「裸婦像」の中型試作などの彫像を展示。映像コーナーもあり、光太郎の詩と岩手の風景を流して、「光太郎の世界に導く」という。2では、書や詩などテーマ別に作品を展示しているほか、花巻での暮らしぶりなども詳しくパネルで紹介している。展示品は全体で約110点。
 2では妻の智恵子についても紹介しており、今回、智恵子の「紙絵」の「いちご」と「あじ」の実物2点を展示している。「いちご」には光太郎直筆の短歌も添えられており、館は「唯一の合作」と説明している。紙絵の色あせを防ぐため、「当分の間」という限定展示だ。
 この日の記念式典には高村家から光太郎の弟の孫にあたる写真家高村達(とおる)さん(47)=東京都文京区=も参加し、「全国でもただ一つの光太郎記念館。7年間暮らした花巻に造っていただき、ものすごくうれしい。期待以上の展示になっています」と話していた。
 入場料は高村山荘がある敷地内が一般200円で、記念館がほかに同350円。問い合わせは記念館(0198・28・3012)へ。(石井力)

光太郎の作品世界を体感 花巻・記念館リニューアル

『岩手日報』

 花巻市太田の高村光太郎記念館は28日、リニューアルオープン記念式典を現地で行い、関係者ら約100人がテープカットなどで再出発を祝った。2013年に移設し暫定的に開館していたが、今回は旧収蔵庫を展示スペースに改修し全面開館。記念館は光太郎が暮らした高村山荘にも隣接し、花巻での生活とともに作品世界を体感できる。新緑のさわやかな光と風に包まれ、自然環境と調和した文化拠点に生まれ変わった。
 終戦70年の節目に重なる意義深い記念式典となった。光太郎が花巻に疎開したのは1945年。今回の全面改修で記念館の総面積は約636平方メートルとなり、展示スペースは約2倍に拡充された。
 二つの展示室は渡り廊下でつながり、入り口側の「展示室1」は白を基調とした内装。「乙女の像(中型試作)」などの彫刻作品を紹介する。
 朗読体験コーナーでは「道程」「レモン哀歌」などの音声が流れ、風景映像とともに作品世界を感じ取れる。レプリカの彫刻「手」は実際に触ることができるなど体感型コーナーが充実した。
 開館記念で29日は入館無料。  

詩の朗読、映像と共に 光太郎記念館リニューアル 愛用品、多数展示

『岩手日日』無題

 花巻市太田の高村光太郎記念館で28日、リニューアルオープン記念式典が行われ、関係者によるテープカットで新たな門出を祝った。光太郎の詩の世界を映像や音声で堪能できる機器を設置したほか、光太郎と妻・智恵子の唯一の合作とされる切り絵も実物を初めて展示。29日まで入場無料とし、来場者を歓迎する。
 約80人が出席した。上田東一市長は「記念館が全国のファンの聖地となることを祈念する」とあいさつ。光太郎の弟の孫にあたる高村達氏と上田市長、市議会の川村伸浩議長、花巻高村光太郎記念会の佐藤進会長、太田地区振興会の佐藤定会長の5人でテープカットを行い、来場者を迎えた。
 記念館は旧館の老朽化に伴い、旧花巻歴史民俗資料館を活用して2013年5月に暫定オープン。その後、資料の保存や展示の環境整備、内容充実などに向けて、14年12月から全面的に改修した。
 改修後は、ゆったりした空間が特徴の展示室1でブロンズ像の「手」や「裸婦坐像」など彫刻を中心に紹介。「手」は新たに複製を設け、実際に触れて造形の奥深さを感じられるようにした。
 映像や音声で光太郎の世界を紹介する仕組みも導入。大型スクリーンに映し出される岩手の風景と共に朗読される詩を楽しむことができ、早速、来場者が光と音による演出を体感していた。
 収蔵庫を改修した展示室2では、書や詩などの作品と愛用のパイプなどを紹介。宮沢賢治らとの親交や地域住民との交流などを示す展示も含め、同記念館ならではの構成となっている。
 特に注目されるのは、初めての実物展示となる智恵子が作った切り絵。このうち「いちご」と題された切り絵には光太郎の短歌が添えられており、唯一の二人の合作とされている。
 光太郎は太平洋戦争末期から終戦後にかけて花巻に居住。同記念会事務局の高橋卓也さんは「花巻は光太郎の暮らしにゆかりのあるものがそろっている。愛用品を展示できるのはここだけ。今後もファンの声を聞きながら、展示を充実させていきたい」と話していた。
 

高村光太郎記念館がリニューアル

IBC岩手放送ニュース

改修工事が行われていた花巻市の高村光太郎記念館が28日リニューアルオープンし、記念の式典に多くの人がかけつけました。詩人で彫刻家の高村光太郎は太平洋戦争末期に花巻に疎開し、終戦後、花巻市太田に移り住みました。28日は花巻市の上田市長や光太郎の弟の孫である高村達さんがテープカットをして記念館のリニューアルを祝いました。記念館は去年末からおよそ1億6300万円をかけて改修工事が行われました。館内は展示室の広さが2倍になり、光太郎の詩を映像で表現するコーナーが設けられました。また彫刻作品や直筆の詩などおよそ110点が展示されています。高村光太郎記念館では来月15日に、詩の朗読や講演会などが行われる「高村祭」が開かれます。


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高村光太郎記念館リニューアル

NHK盛岡放送局

 花巻市にある、詩人で彫刻家の高村光太郎の記念館が彫刻の展示室や大型スクリーンなどを新たに設けて、28日、リニューアルオープンしました。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は、昭和20年の空襲で東京のアトリエを失ったあと、知人を頼って花巻市に疎開し、その後、7年間を過ごしました。
 昭和42年に開館した高村光太郎記念館はおととしから現在の場所に移って展示を行っていますが、展示内容を大幅に見直して、28日、リニューアルオープンしました。
リニューアルした記念館には、光太郎の彫刻を展示する展示室や光太郎が作った詩などを紹介する大型スクリーンなどが新たに設けられました。
 記念館には、光太郎が大正7年に制作した「手」というブロンズ像や、光太郎と妻の智恵子が合作したとされる「いちご」という切り絵などが展示されています。
 光太郎の弟の孫にあたる高村達さんは「山の中をイメージした記念館のデザインは光太郎が花巻市で滞在していた山小屋のイメージとぴったりとあっています。展示も工夫されていてとてもよかったです」と話していました。
 訪れた69歳の女性は「千葉県や埼玉県に知り合いがいるので、ぜひ案内してみたいです。すばらしい記念館になったのでみんなで大切にしていきたいです」と話していました。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月29日

平成21年(2009)の今日、「妄想姉妹〜文學という名のもとに〜」DVDコンプリートBOXが発売されました。

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妄想姉妹〜文學という名のもとに〜」は、地上波日本テレビ系でこの年に深夜ドラマとして放映されていたものです。吉瀬美智子さん、紺野まひるさん、高橋真唯さん、田中哲司さんらが出演していました。

2月14日オンエアの第5話が「智恵子抄」。紺野さんが智恵子役、光太郎役は高橋洋さんでした。

DVDコンプリートBOXは3枚組。第11話までの全編と、メイキングの特別編が収録されています。

先ほど、昨日から行っておりました岩手花巻より帰って参りました。

今日、午前11時から、花巻高村光太郎記念館のリニューアルオープン記念式典があり、その関係でした。

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昭和20年(1945)から、同27年(1952)までの7年間、光太郎が独居自炊の生活を送ったこの地に、最初の記念館が建設されたのは昭和41年(1966)。約半世紀が経って建物の老朽化が進み、2年前には、近くにあった、もともと花巻市の歴史民俗資料館だった建物を高村光太郎記念館として移転、暫定オープンいたしました。その時点では、2棟ある建物のうち、手前の1棟のみの使用でしたが、このたび、2棟めも使用してのグランドオープンとなった次第です。

テープカットは今月2日の第59回連翹忌にもご参加下さった上田東一花巻市長、昨年亡くなった、光太郎の令甥・高村規氏令息の高村達氏、㈶花巻高村光太郎記念会会長・佐藤進氏(宮澤賢治の主治医で、昭和20年=1945には光太郎が一時その邸宅に寄寓していた佐藤隆房令息)、花巻市議会議長・川村伸浩氏、そして生前の光太郎を知る、花巻市太田地区振興会長・佐藤定氏。

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以前から使っていた手前の棟も、内容を一新。「展示室1」と名付けられ、彫刻作品の展示と、映像・音声を駆使したハイテク展示コーナーなどが設けられています。

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ハイテクコーナーでは、声優の堀内賢雄さんによる朗読と、岩手の四季のイメージ映像が組み合わさり、玄妙なバーチャル空間が創出されています。

さらには壁に埋め込まれたディスプレイでは、光太郎の紹介ビデオも。よくまとまっています。

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こちらは光太郎代表作、「手」のレプリカ。本物はガラスケースに入っていますが、こちらはレプリカですので、自由に触れます。

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「十和田湖畔の裸婦群像」(通称・乙女の像)のための中型試作。実物およそ2分の1です。当方監修の書籍『十和田湖乙女の像のものがたり』が刊行されたばかりですので、感慨深く拝見しました。


渡り廊下を通って、2棟目が「展示室2」。こちらには光太郎の遺品、書、草稿、著書、彫刻、智恵子の紙絵(本物)、その他100点ほどが並んでいます。それも雑多に並べるのではなく、小テーマごとに展示しています。光太郎と花巻との関わり、岩手ということで、石川啄木や宮澤賢治とのつながり、書、智恵子、山小屋生活、といった具合に。


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すぐ上の画像に写っているえんじ色の説明パネル、当方が執筆させていただきました。また、展示品の一部も当方がお貸ししています。2枚上の画像に写っている日本読書組合版の『宮澤賢治全集』です。こちらは賢治の弟・清六と、光太郎の編集。装幀・題字は光太郎。全10冊の予定が6冊刊行されて中断してしまったものですが、既刊6冊が揃っているのはなかなか珍しいものです。

さらに、こちらでも光太郎紹介のビデオが流れています。展示室1とは異なる内容で、一昨年、千葉市美術館他を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展に際して作られたものを転用させていただきました。故・高村規氏もご出演なさっています。

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さらに、今日の段階ではまだ閉鎖していますが、来月中頃からは「企画展示室」も使用を開始します。今のところの予定では、1年間のスパンで、さらに細かくテーマを決めて、展示の入れ替えをするコーナーです。最初はこの地での光太郎の7年間の生活にスポットを当てる予定です。追ってご紹介します。

ここに来るまでの、関係者の皆様のご労苦には、頭の下がる思いです。㈶花巻高村光太郎記念会スタッフの方は、最後の頃は不眠不休に近かったとか……。

それを狙って、今日のオープンに設定したのですが、ゴールデンウィークです。さらに、こちらも追ってご紹介しますが、来月15日にはこの地で「第58回高村祭」が開催されます。5月の花巻は、一年中でもっともいい季節。ぜひぜひ、足をお運び下さい。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月28日

昭和46年(1971)の今日、日比谷芸術座でフラメンコダンサー、アキコ・カンダの第5回リサイタル「能の音によるモダンダンス―智恵子抄 Poems to Chieko」が上演されました。

演出/天野二郎、振付/アキコ・カンダ、音楽/観世寿夫でした。

昨日に続き、岩手花巻ネタで。

先週末の地方紙『岩手日日』さんの記事です。 

花巻電鉄で地域おこし 志戸平温泉「しどの日」

 志戸平温泉の恒例企画「しどの日」は10日、花巻市湯口の同温泉で開かれた。ステージイベントに加え、1970年代まで市中心部から同温泉などを結んでいた花巻電鉄を紹介する展示会を初開催。出展趣旨に賛同する市民から多くの協力が寄せられており、同社のイベントを中心に、新たな地域おこしが芽生えている。
 同社は毎年4月10日を「しどの日」と名付け、さまざまな会員参加型サービスを展開。5回目となる今年は、同社顧客通信紙の編集スタッフに同電鉄に乗車経験がある委員がいたことから、展示会の企画が持ち上がった。
 これに協力したのが、地元の記録や資料を掘り起こして研究、紹介している「Act21」主宰の菅原唯夫さん(65)=同市南万丁目=。懐かしい「馬面(うまづら)電車」の勇姿を収めた写真のほか、かつて同温泉に設置されていた遊園地の様子を収めた映像、同電車を利用する高村光太郎の姿、同温泉の絵はがきなど多彩な内容が市民の関心を集めている。
 会場には、菅原さん所蔵の物だけでなく、Act21の活動に賛同する市民が菅原さんに託した写真なども並ぶ。「こういった展示会がなかったら捨てていたアルバム。使っていただければうれしい」などと、菅原さんと同社に感謝の手紙が添えられた物もあるという。
 イベントに携わる同社宿泊部の田中弘子次長は「当初は10日だけの展示予定だったが、反響が大きく、19日まで延期することにした。多くの方に見ていただき、思い出を蘇らせてもらえたらうれしい」と、多数の来場に喜びの表情。菅原さんは「イベントをきっかけに一層の協力が得られ、回顧展の開催などにつながれば」と、地域の盛り上がりに期待する。
 来場者は「これに乗って何度も志戸平に来たよ」「高村光太郎も乗ったことがあるんだね」などと懐かしそう。藤原茂男さん(57)は「小さな電車だったけど、憧れていた。街並みに昔の面影が残っている写真が多く、何だかホッとしますね」などと語り、興味深げだった。
 展示会は観覧無料。問い合わせは同社=0198(25)2011=まで。


昭和20年(1945)に空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎は、宮澤家などの誘いで花巻に疎開、終戦後も帰郷せず、7年間、花巻からさらに山奥の太田村に独居自炊の生活を送りました。

光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)に近い花巻南温泉峡の一つ、志戸平(しどだいら)温泉でのイベントです。

光太郎は山小屋で暮らしながらも、時折花巻町まで出ることが有りました。年に数回は賢治の主治医だった佐藤隆房邸(太田村に移る前にここにも暮らしていました)に宿泊したり、納税やら金融機関での雑務やらのため日帰りで行ったりしていたのです。その際には山小屋から4㎞ほどの二ツ堰駅まで歩き、そこから花巻電鉄を利用しました。また、二ツ堰から花巻町と逆の花巻南温泉峡方面に行くために、花巻電鉄に乗ることも。

この路線は昭和44年(1969)に廃線となっています。車両は花巻駅近くの材木町公園に静態保存されています。

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下の画像、中央に立っているのが光太郎です。

この花巻電鉄に関する写真展が、志戸平温泉さんで開催中です。光太郎が写っている写真も展示されています。下の画像で、右の方の大きなパネルに光太郎の顔が見えます。

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同様の写真展は、以前に花巻に行った際、市内のショッピングモールで開催されていました。また、昨日お知らせした花巻高村光太郎記念館の企画展的な展示をするスペース――奥の副室――で、来年の展示にこういった内容をやりたいと、㈶花巻高村光太郎記念会さんの事務局の方がおっしゃっていました。

次の日曜日、19日まで志戸平温泉さんで開催中です。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月14日

昭和17年(1942)の今日、光太郎が題字を揮毫した竹内てるよ詩集『灯をかかぐ』が刊行されました。

題字のみ光太郎。装幀、表紙画は画家の古沢岩美です。竹内は戦前から、多くの詩集の題字を光太郎に依頼しています。

少し前からぽつぽつ書いていましたが、岩手花巻の高村光太郎記念館のリニューアルオープンについてです。

以下、花巻市のサイトから。

高村光太郎記念館のリニューアルオープンについて

改修工事を行っている高村光太郎記念館の開館日程が決まりましたのでお知らせします。
開館に先立ち記念式典を行う予定です。
なお、高村光太郎記念館は、旧花巻歴史民俗資料館を活用して平成25 年5 月15 日から市営の記念館として暫定的にオープンしていたもので、平成26 年度において全面的に改修を行っていたものです。
記念館の展示は、彫刻をメインに映像や音響などを工夫して光太郎の世界に誘導する「展示室1」と、書や詩などを時代背景とともに解説してテーマ別に理解を深める「展示室2」の2つのゾーン構成となっております。
改修にあたっては、顕彰活動を行っている財団法人花巻高村光太郎記念会や地域の皆さんのご意見を聞きながら進めてきており、今回の記念館整備により、以前より多くの来館者においでいただけることを期待しております。

                記

1  開館日時  平成27年4月28日(火)正午から
2  式典概要  開館日の午前中に式典を実施
    市長あいさつ、来賓祝辞、テープカット等  テープカット後に式典参加者に対し展示説明
3  その他 工事に伴いまなび学園で開催中の「高村光太郎展」は4月15日まで会期を延期します。

なお、式典の内容については、詳しく決まり次第ご案内します。
開館を記念して、28日(火)29日(水・昭和の日)は入場無料。
5月15日(金)、高村山荘 詩碑前で開催される「高村祭」は開館を記念した行事として、記念講演や地域の小中学生による朗読や合唱などを行う予定です。

こちらは今月2日の第59回連翹忌にて配布されたチラシです。

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一昨年の5月に仮オープンとなった高村光太郎記念館。その時点では上記画像の展示室1のスペースのみの使用となっていました。

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それがこれまで使用していなかった奥のスペースも使用、約2倍の面積となり、さらに展示内容も一新されます。

手前の展示室1は「彫刻をメインに、映像や朗読で光太郎の世界に誘導する」というコンセプトです。朗読は声優の堀内賢雄さん。先月、東京水道橋のスタジオにての収録に立ち会って参りました。イメージ映像も流れ、ハイテクな展示となるようです。

展示室2は、書、草稿、著書、遺品などのテーマ別展示がメインです。特に書に関しては、充実しています。また、宮澤賢治や石川啄木など、岩手の人々との関わりについての展示も為されます。この部屋の説明パネルの一部を執筆させていただきました。

さらに上記図面で云うと展示室2の右側が副室となっていて、そちらは1年間のスパンで企画展的に展示を入れ替えます。最初の展示のテーマは「光太郎山居七年」ということで、昭和20年(1945)から同27年(1952)の、この地での光太郎にスポットを当てます。ただし、副室のオープンは来月となります。


おりしもGW。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月13日

明治45年(1912)の今日、歌人・石川啄木が歿しました。

宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。光太郎より0103歳年少でしたが、明治45年(1912)の今日、数え27歳で歿しました。その短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がまだ続いていたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。

毎年ご紹介していますが、光太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さんで花巻としての連翹忌です。それぞれ報道されていますのでご紹介します。

岩手)高村光太郎60回忌 花巻で詩碑前祭

朝日新聞 岩手版 4月3日
 詩人で彫刻家の高村光太郎の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘で詩碑前祭があった。山荘での生活をうたった「雪白く積めり」など光太郎の詩を、参加者が朗読するなどして故人をしのんだ。
 光太郎は1945年から7年間、高村山荘で暮らした。56年4月2日に亡くなり、今年が60回忌にあたるという。
 詩碑前祭は地元住民でつくる「高村記念会山口支部」が主催。照井康徳支部長は「先生の偉業を後世に伝え、先生が愛した山荘を守ることを肝に銘じていく」と話した。

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光太郎の遺徳しのぶ 60回忌詩碑前祭 児童が「山の広場」朗読

岩手日日 4月3日 002
 花巻ゆかりの詩人で彫刻家・高村光太郎(1883~1956年)の命日に合わせた「詩碑前祭」と「連翹(れんぎょう)忌法要」が2日、花巻市内で行われた。第60回忌に当たり、参加者が詩の朗読などを通じて、遺徳をしのんだ。
 「詩碑前祭」は、同市太田の高村山荘敷地内広場で行われた。光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が主催。光太郎が暮らした太田山口地区の住民有志を中心に約50人が参加した。
 照井康徳支部長は「今年は60回忌で、高村先生が太田山口地区に来てから70年目の節目でもある。高村先生と面識のあった人は少なくなっている。われわれが高村先生を後世に伝えていくことが大事になる」とあいさつ。
 光太郎の遺影を飾った詩碑前で、太田小学校の高橋百花さん(2年)と中島流星君(3年)が花を手向けた後、同支部の平賀仁理事が祭文を奏上。上太田子供会、太田区長会、いずれも地元住民の戸来洋子さん、浅沼功さん、高橋新吉さんが光太郎の詩を朗読した。
 このうち、上太田子供会は太田小児童5人が声をそろえて「山の広場」「山口部落」「山からの贈り物」を読み上げた。高橋梨々菜さんと髙橋誉桂さん(ともに6年)は「『山の広場』が好き。この辺の景色を思い出す感じがする」「どうやって詩を作ったのか詳しく知りたい」などと話し、地元に足跡を残した偉人に思いをはせていた。
 光太郎は戦時中の1945(昭和20)年、東京のアトリエを焼失し、宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開した。旧太田村山口の山小屋で7年間、地元住民と交流しながら農耕自炊の生活を営み、多くの詩を生み出した。


また、同じ『岩手日日』さんには、前日に花巻連翹忌会場の松庵寺さんがらみの記事も載りました。 

慰霊と更生祈る 松庵寺 小川住職が盛岡へ行脚

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 花巻市双葉町の松庵寺住職、小川隆英さん(74)は1日、東日本大震災の犠牲者の霊を慰めようと、盛岡市に向け追悼行脚に出発した。教誨(きょうかい)師を務めている縁で、盛岡少年院や盛岡少年刑務所を目指す。約80キロを2日間で踏破する強行軍だが「慰霊と被収容者の更生を祈りながら歩く。こんな私だが、何か一つでも皆さんの心のよりどころになれれば」と願う。
 小川住職は1961年(昭和36年)夏、東京都から本県まで、600キロを超える道のりを托鉢(たくはつ)行脚した経験を持つ。「戦後復興途上の道路は舗装されておらず、ハエや蚊が多く安眠などできなかった。震災で被害を受けた方々の苦しみはよく分かる」と避難生活を深く思いやり、今回の行脚を決めたという。
 同日はあいにくの雨模様だったが、この熱意に感銘を受けた市民約20人が同寺を訪れた。「気を付けて」「無理だけはしないで」などと言葉を掛け、早朝の出発を見送った。
 到着予定の2日は、花巻に大きな足跡を残した詩人・彫刻家の高村光太郎をしのぶ連翹(れんぎょう)忌が行われる日。同寺は市内外から多くの参列者を迎える。小川住職は「法要の時間に合わせ、光太郎の書碑がある同少年刑務所でお勤めしたい。一歩ずつ進めば必ず目的地に着く。前を向いて頑張ってほしい、という気持ちを被収容者、被災者へ伝えるためにも歩き通す」と固く誓う。
 小川住職は追悼行脚のほか、震災犠牲者の供養に役立ててほしいと託された市民からの寄付金を生かすため、慰霊碑の建立も計画している。


光太郎が智恵子や光雲の法要をしてもらっていた頃のご住職が、小川金英師。おそらく記事にある小川住職のお父様でしょう。金英師の光太郎に関する回想など、とても面白いのですが、いずれまた改めてご紹介します。


岩手ではありませんが、同じ東北青森の地方紙『東奥日報』さんは、一面コラムで連翹忌にふれて下さいました。東京日比谷での連翹忌当日、十和田奥入瀬観光ボランティアの会の山本氏がわざわざ持ってきて下さいました。

天地人 2015.4.2

<連翹(れんぎょう)のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎>。連翹は黄色の花をいっぱいに咲かせる。色彩は遠目にも実に鮮やかで、花のあと小さな葉が萌(も)え出る。詩人、彫刻家でもあった高村光太郎は連翹の鮮黄色(せんおうしょく)を愛した。1956(昭和31)年4月2日の没。きょうが忌日「連翹忌」である。
  光太郎といえば、詩集「智恵子抄」が真っ先に浮かぶ。最愛の妻、智恵子の最期を綴(つづ)った「レモン哀歌」などを収める。智恵子の死後、世俗を離れ東北の山村にこもるが、彫刻家として最後の一作に渾身(こんしん)の思いを刻む。
  静謐(せいひつ)な湖を背景に、左手を合わせて向かい合う2体の裸像。十和田湖休屋の湖畔に立つ「乙女の像」がその作品だ。光太郎が亡くなる3年前に完成した。
  病弱で華奢(きゃしゃ)だった智恵子とは対照的に、2体の像は豊満で生命力に満ちあふれる。「立つなら幾千年でも立ってろ」。光太郎の言葉通り、建立から60年余を経て十和田湖のシンボルであり続ける。
  十和田湖は「ドル箱観光地」ともてはやされた。新緑から紅葉にかけ湖畔は人であふれた。乙女の像には記念撮影を待つ大きな人垣があった。往時のにぎわいよ、どこへである。八甲田・十和田ゴールドラインがきのう開通したが、今年は定番のJR一番バスの姿はなし。乗客の落ち込みを理由に運行は18日からである。栄枯盛衰、乙女の像は何を思う。

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松庵寺さんの記事でもそうですが、やはり東北、東日本大震災がからみます。津波や原発の直接の被害がなかった地域でも、観光客の落ち込みは深刻なようです。

十和田では乙女の像、花巻では高村山荘・高村光太郎記念館(今月28日にグランドオープンです)。言葉は悪いのですが、少しでも光太郎が「客寄せ」になれば、と念じています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月4日000

昭和3年(1928)の今日、書肆ARSから『ロダン』普及版が刊行されました。

光太郎による気鋭のロダン評伝。前年にはハードカバーで刊行されており、こちらはペーパーバックです。

終末部分には、ロダンのモデルを務めた日本人女優・花子を岐阜に訪問した際の体験が付されています。

地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

教え子と音楽CD制作 元英語教諭平賀さん 「深い愛情」印象的に(3/17)

 花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さん(83)は、教え子と音楽CD「DEEP LOVE」を共同制作した。歌曲集「英語で歌う日本の歌」と、心に残る詩を読み上げた「日本語・英語朗読」の2枚組み。101歳を迎えた義母幸子さんの長寿祝い、亡き妻郁子さんの十三回忌追善供養とも銘打ち、師弟愛や家族愛、夫婦愛などさまざまな「深い愛情」が印象的な作品になっている。
 平賀さんは、花巻北や盛岡一など県内高校の英語教師として、1992年まで勤務。学校を訪れる外国人客に日本文化を伝えようと、在職中から歌詞の英訳に取り組んできた。難しいとされる宮沢賢治の「精神歌」など多くの作品の翻訳に取り組み、原詩とは一味違った魅力を引き出してきた。私家版訳詩集「日本の名曲 英訳」シリーズも作っている。
 今作は英詩に加え、花巻北高時代の平賀さんに指導を受けた花巻出身で元高校長熊谷司郎さん(69)=神奈川県海老名市=が編曲協力し、メロディーにバーチャル(仮想)歌手の声を重ねている。平賀さんが翻訳時に単語選択を工夫したこともあり、機械音声とは思えないほど滑らかな節回しが実現している。
 朗読編には、平賀さんが思い入れを持つサミュエル・ウルマンの「青春とは」、高村光太郎の「松庵寺」など4詩を収録。英詩は日本語に、日本語詩は英語に訳され、熊谷さんによる音楽を背景に、雰囲気よく仕上がっている。
 「熊谷さんも私も楽しんで作っているから、健康にもいい。打ち込めるものがあるのは幸せ。命ある限り続けたい」と笑顔を見せる平賀さん。今回の歌曲集は英訳CD4作目になるが「第4集にして、やっとこつが分かってきた。好きなことを続けるのは、人生のエネルギーになる。これからもどんどん制作したい」と創作意欲を語っている。

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「松庵寺」は昭和20年(1945)の作。おそらく戦後になって初めて智恵子が謳われた詩です。昭和22年(1947)に刊行された白玉書房版の『智恵子抄』に収められました。

  松庵寺
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奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました


松庵寺さんは花巻の中心街、双葉町にある寺院です。

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岩手在住時代の光太郎が、ほぼ毎年、10月の光雲・智恵子の命日の法要を、ここで行ってもらっていました。

そこで、松庵寺さんには、昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」を、光太郎と親交の深かった佐藤隆房の揮毫によって碑にしたものが建てられました。

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また、今回の記事で紹介されている平賀氏の英訳「松庵寺」を刻んだ詩碑も建っています。

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朗読はこちらのサイトで聴けます。009


ところで松庵寺さんでは、毎年4月2日の午後、花巻としての連翹忌が行われています。今年も市の『広報はなまき』に案内が出ました。

これも毎年ですが、午前中には光太郎が7年間暮らしていた旧太田村の山小屋(高村山荘)で「詩碑前祭」があります。

ともに花巻の㈶高村光太郎記念会さんの主催です。

当方、東京日比谷松本楼での連翹忌を取り仕切っている立場上、こちらには参加できませんが、お近くの方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月19日

昭和25年(1950)の今日、花巻農学校跡地に建てられた宮澤賢治の「早春」詩碑除幕式に参加しました。

以前にも書きましたが、同じ年に花巻温泉に建てられた光太郎の「金田一国士頌」詩碑と同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。

昨日は都内に出かけておりました。

メインの目的は、4月末にリニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館関連でした。

新しい記念館内に、イメージ映像と朗読の音声で光太郎の詩を紹介するコーナーが設置されます。そのための朗読の収録が、昨日、水道橋の高速録音スタジオさんで行われました。

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朗読を担当されたのは、ベテラン声優の堀内賢雄さん。洋画の吹き替えで、ブラッド・ピッドの声などを担当されています。アニメでもご活躍で、一昨日は「クレヨンしんちゃん」の収録だったそうです。記念館の朗読コーナーでは、光太郎詩4篇を流すとのことで、その朗読をしていただきました。4篇は、「道程」、「レモン哀歌」、「雪白く積めり」、「メトロポオル」です。

収録にかかる前に打ち合わせをしました。その中で堀内さんがおっしゃっていたのですが、記念館で流れる光太郎の詩の朗読をなさるということを、「声優冥利に尽きる」ということで、声優仲間から非常にうらやましがられたそうです。しかし、ある意味、ものすごいプレッシャーでもあるとのことでした。なるほど、そういうものかと思いました。

さて、収録。まずは「道程」。ただし、詩集『道程』に収録され、よく知られている短い形ではなく、雑誌『美の廃墟』での発表形、すなわち102行ある大作です。これ1篇で8分を超えました。渋い落ち着きのある、しかし張りのあるバリトンの声で、素晴らしい朗読でした。よくある「さあ、感動しなさい」と言わんばかりに感情移入丸出しの妙な抑揚をつけた朗読ではなく、あくまで淡々と、しかし内に込めたエネルギーを感じさせるものでした。

比較的短い残り3篇の収録も続けて行われましたが、こちらも1篇ごとに詩の内容をよく勘案されて調子を変え、テンポも変え、しかし感動の押し売りではない、これまた素晴らしい朗読でした。サブ(副調整室)で聴いているスタッフさんたちや、当方など、1篇終わるごとに、感嘆のため息でした。

レモン哀歌」、「雪白く積めり」は以前のこのブログでご紹介しています。左記リンクでご覧下さい。「メトロポオル」のみ、このブログ内にありませんでしたので、下記に全文を載せます。画像は詩の舞台、花巻郊外旧太田村にある光太郎が暮らした山小屋です。

   メトロポオル
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智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。

岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
わたくしの肉に宿つてここに生き、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、003
転変かぎりない世代の起伏。
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑ひ、
山林孤棲と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。


どうもボキャブラリーが貧困で、うまく堀内さんの至芸を言葉で表せません。ぜひ、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際にお聴き下さい。

堀内さんの朗読もそうでしたが、スタッフの皆さんの仕事ぶりにも感心しきりでした。「最高のものを作ろう」という気概といいますか、とにかく妥協を許しません。ベテラン堀内さんの朗読にも、ばしばしダメ出しが出ましたし、収録後に行った映像部分の打ち合わせでも、よりよくするためにはどうしたらいいかと、侃々諤々の議論でした。たとえばイメージ映像に載せて、詩が画面に映し出されるのだそうですが、そのフォント(字体)をどうするか一つとっても、「ビジュアル的に考えてこれがいい」「いや、これは無難すぎて面白くない」「これは癖がありすぎだろう」「詩の内容を考えるとこれでしょう」といった具合に。プロというものはこういうものだな、と感じました。

繰り返しますが、4月末リニューアル完了・グランドオープン予定の、花巻高村光太郎記念館で、実際に視聴なさってみて下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月10日

昭和26年(1951)の今日、岩手県立盛岡美術工芸学校の第一回卒業式のために祝辞を書きました。

昭和23年(1948)、盛岡に県立美術工芸学校が開校しました。初代校長は、美術史家・美術評論家の森口多里が務め、教員には画家の深沢省三・紅子夫妻、彫刻家の舟越保武、堀江赳らがいました。その後、ことあるごとに光太郎は同校を訪れ、生徒に講話をしたり、祝辞や祝電を寄せたりしました。

県立美術工芸学校は、その後、盛岡短期大学美術工芸科を経て、岩手大学特設美術科に移行、現在に至ります。

昨年から連翹忌にご参加いただいている詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』第79号をいただきました。ありがたく拝受いたしました。

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今回で最終回だそうですが、宮尾様のエッセイ「断片的私見『智恵子抄』とその周辺(五)」が6ページ。『智恵子抄』からインスパイアされた小説、舞台芸術、映画・ドラマ、音楽などでの二次創作の紹介、光太郎智恵子略年譜に見る二人の生の軌跡、オリジナルの『智恵子抄』(昭和16年=1941)のあとに刊行されたさまざまな『智恵子抄』の紹介などの内容です。

他の記事や詩作品等も興味深く拝読しました。中でも柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」は特に興味深いものがありました。現在の『青い花』は第四次ということですが、第一次は昭和9年(1934)の刊行で、今官一を編集発行人とし、太宰治、壇一雄、そして中原中也を含む十数名が参加していたそうです。

中也は同じ年に、光太郎に題字を書いて貰い、第一詩集『山羊の歌』を刊行しています。柏木氏の記事の中には、岩手県奥州市の人首文庫(ひとかべぶんこ)さんに所収されている中也がらみの資料についての紹介があり、「ほう」と思いました。やはり昭和9年(1934)、「胡桃の会」というサークルの会合で書かれた署名帖に、中也の名があったというのです。

人首文庫さんは、詩人の佐伯郁郎の生家に作られた史料館です。佐伯は内務省警保局図書課に勤務し、戦時中は情報局情報官として図書の検閲等に当たっていました。10年以上前になりますが、こちらに光太郎から佐伯宛の全集未収録の書簡が5通、さらに詩稿も収蔵されていることを知り、コピーを戴きました。『青い花』の記述がその人首文庫さん収蔵の資料の紹介だったので、「ほう」と思った次第です。

以下、憶測に過ぎませんが、オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)刊行などの陰に、佐伯の尽力があったのではないかと、当方は考えています。

『智恵子抄』には詩や短歌の他に、書き下ろしではありませんが散文も三篇収められています。そのうち昭和15年(1940)の『婦人公論』に載った「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)には、以下の記述があります。

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。

大君=天皇と、一人の女性を同列に並べたこの表現、当時の社会状況を考えると、読みようによっては不敬のそしりを免れないものです。

当方には、この文言が検閲をすり抜け、雑誌や詩集に掲載された陰に、光太郎を敬愛していた佐伯の影がちらついて見えるのですが、どうでしょうか。

人首文庫さん、行こう行こうと思いつつ、まだ足を運んだことがありません。『青い花』での柏木氏も「岩手の山村にある「文庫」には、戦前の文学活動を物語る”宝物”がまだ眠っている気がする。」と記されています。改めて、折を見て行ってみようと思いました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月8日008

昭和2年(1927)の今日、光太郎が装幀、題字を担当したロマン・ロラン著、市谷佳義訳 『マハトマ・ガンヂ』 が刊行されました。

右は扉の画像です。

版元の叢文閣は、この前後、ロマン・ロランがらみの書籍をたくさん出版し、装幀や題字を光太郎に依頼しています。片山敏彦訳の戯曲『愛と死の戯れ』、『時は来たらん』、高田博厚訳『ベートォヹン』、『ヘンデル』、尾崎喜八訳の戯曲『花の復活祭』。

智恵子はまだそれなりに健康で、光太郎も円熟期、精力的に仕事をこなしていた時期です。

先月末に、花巻市さんのサイトで、市議会に於ける市長演述がアップされました。

長いので全文は引用しませんが、郊外太田地区の高村光太郎記念館に関する発言もありましたので、そこのみ引用させていただきます。

宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルについては、平成26年度当初予算に予算計上しておりましたが、市民の意見を十分に反映するために、説明会を開催するとともに、市民の皆様から意見をお聞きするよう指示いたしました。
宮沢賢治記念館と高村光太郎記念館の展示リニューアルは、事業の進捗に若干の遅れが生じておりますが、宮沢賢治記念館は本年4月に、高村光太郎記念館はゴールデンウィーク前後にそれぞれリニューアルオープンする予定となっております。


昭和41年(1969)、光太郎が暮らしていた山小屋(高村山荘)敷地内に建てられた最初の記念館は、施設の老朽化が進み、閉鎖。一昨年の5月、それまで花巻市の歴史民俗資料館だった建物を新たに高村光太郎記念館とし、花巻市営として再スタートしました。ただし、あくまで仮オープンということで、とりあえずのものでした。それが今年の「ゴールデンウィーク前後」にグランドオープンする予定だそうです。

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初代記念館


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現在の記念館


というわけで、現在はリニューアル工事中ですが、上記画像でいうと、手前の建物のみでの展示だったものを、奥のもう一棟も使用することとなり、展示面積は2倍程になります。常設展示以外にも、企画展示を行うスペースも設定されています。展示内容もほぼ固まっています。

そこで、㈶花巻高村光太郎記念会事務局の方が、昨日、当方自宅兼事務所にお見えになり、いろいろと打ち合わせをしました。当方、館内に掲示される説明パネル、展示品のキャプション等の一部を執筆することとなり、早速作成にかかっています。

また、来週には館内の映像や音声で光太郎詩を紹介する「朗読コーナー」の録音のため、東京水道橋に出向いてきます。朗読を担当なさるのは、ベテランの男性声優さんだそうです。楽しみです。


グランドオープンとなりましたら、ぜひぜひ、008ぜひぜひ、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月6日

平成元年(1989)の今日、PHP研究所から、日野多香子著『冬よ ぼくに来い いちずに美をもとめつづけた高村光太郎』が刊行されました。

「PHP愛と希望のノンフィクション」というジュブナイル(年少者向けの刊行物)シリーズの一冊です。

幼少期からその死までの、光太郎の生涯をわかりやすくまとめたものです。

昨日の『岩手日報』さんの「論説」です。いわゆる社説のようなものでしょうか。

釜石がW杯会場に 日本開催の意義を象徴

 ラグビーの2019年ワールドカップ(W杯)日本大会の開催12会場の一つに釜石市が選ばれた。16年のいわて国体とともに、国内外に本県の今を発信する好機としたい。

 ラグビーW杯は4年に一度の開催。世界的にはサッカーW杯や五輪、パラリンピックに次ぐスポーツの大イベントと位置付けられている。開催年に当たる今年は9月から10月にかけて、第8回となるイングランド大会が行われる。

 これまでは欧州やニュージーランド、オーストラリア、南アフリカなどのラグビー伝統国のみで開催され、日本大会はアジア初。サッカーなどに比べ国内の注目度は決して高いとは言えず、集客など運営面での不安は拭えない。

 会場地として12カ所程度を目安としてきた日本大会組織委に対し、大会運営を委託される「W杯リミテッド」が10程度を望んだのも、財政面のリスク回避が背景だ。

 それでも12に落ち着いたのは、リスクより日本開催の意義を重んじたからだろう。その象徴的存在が釜石だ。

 花園ラグビー場がある大阪府東大阪市が日本ラグビーの「西の聖地」なら、既に大卒選手が主流だった1980年代、高卒選手を主力に鍛え上げながら日本選手権で7連覇した新日鉄釜石(当時)の地元釜石は「東の聖地」。その誇りは全県民が共有する。

 開催地には15自治体が立候補。釜石は、競技場新設を予定する唯一の候補地だった。

 仮称「釜石鵜住居復興スタジアム」の建設予定地は津波で被災した釜石東中、鵜住居小跡地周辺。東日本大震災の津波で、地区防災センターの避難者を含め多数の市民が犠牲になった地域だ。

 同市では依然、2千人以上が仮設住宅で暮らす。「被災者の感情に配慮すべき」という声も聞こえる中、野田武則市長は昨夏の誘致表明で、財源に一定の見通しが立ったことなどを背景に「地域の宝となるのであれば、多少の非難はあっても開催する意義がある」と決意を語った。

 スタジアム予定地には、かさ上げ用の土砂がうずたかく積まれる。1月中旬、現地を視察したW杯リミテッド幹部は「非常に心を動かされた」と語った。葛藤を超えて誘致に動いた釜石市民の思いが通じた瞬間だろう。

 復興はラグビーにも似る。15人が塊となり、ひたすら前を目指す姿は釜石ラグビーの真骨頂であり、高村光太郎が「沈深牛の如し」と表現した県民性にも重なる。

 約29億円とされる施設建設費をはじめ、実現までに課題は多いが、W杯を運営する側も労苦を共にする覚悟で決めたからこその会場決定に違いない。その総意を励みに、ひたすら前を目指したい。


そこで光太郎を使うか、という感じですが、なかなか上手いですね。『岩手日報』さんは一面コラムの「風土計」でしばしば光太郎の名を上げて下さっています。2013年4月2日昨年の11月13日今年もすでに1月13日に。

「沈深牛の如し」というのは、昭和24年(1949)の元旦、『新岩手日報』に掲載された詩「岩手の人」の一節です。

  岩手の人007

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。


花巻市の花巻北高校さんの校庭に、高田博厚作の光太郎胸像が立っています(埼玉の東松山にも同型の胸像があります)。

台座に嵌め込まれたプレートには、こ008の「岩手の人」の一節が刻まれています。

この詩は、一説には当時の岩手県知事、国分謙吉をモデルにしたとも言われています。「沈深牛の如し」は光太郎自身にも当てはまるような気がしますが。

さて、ラグビーW杯、釜石での開催決定。東日本大震災からの復興支援となるのであれば、非常にいいことだと思います。また、松尾雄治選手がいた頃の新日鐵釜石の黄金時代を知る身には、感慨深いものがあります。ラグビーは高校の体育の授業でやった程度ですが、あの頃は、普段着に横縞の009ラガーシャツの襟を立てて着るのが結構流行っていました。松任谷由実さんの名曲「ノーサイド」とともに、青春時代を想い出します(笑)。

釜石といえば、光太郎は昭和6年(1931)、新聞『時事新報』連載の紀行文「三陸廻り」で、船を使って釜石にも立ち寄っています。それを記念して、釜石にも光太郎の文学碑が建てられました。平成7年(1995)のことです。

写真は建立間もない頃に当方が撮ったものです。碑文は「三陸廻り」の釜石の項から抜粋したもので、光太郎署名だけ自筆拡大、他は活字です。

当方、東日本大震災後、釜石には足を運んでいませんが、この碑は健在でしょうか。同じ三陸の女川の光太郎文学碑は無惨に倒壊四基中の二基は津波によって流失してしまいました。

機会があったら、ぜひまたこの碑を見に行きたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月5日

昭和16年(1941)の今日、東和音楽出版社から『新国民楽譜 歩くうた』が刊行されました。

前年発表された、光太郎作詞、飯田信夫作曲、徳山璉の歌唱による国民歌謡「歩くうた」の楽譜です。

オフィシャルな楽譜は前年12月にNHKさんの前身、日本放送協会から『国民歌謡第七十六輯』として刊行されていますが、比較的ヒットしたためでしょうか、こうした後追いの出版もなされました。

左が『新国民楽譜』、右がオフィシャルな『国民歌謡 第七十六輯』です。

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今週火曜日の『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」が、光太郎に触れて下さいました。 

風時計 2015.1.13

戦後、岩手には1万戸もの開拓農家が入植した。開拓5周年の労苦をたたえ、1950年に高村光太郎が寄せた詩がある
▼<宮沢賢治のタンカルや源始そのものの石灰を唯ひとつの力として、何にもない終戦以来を戦つた人がここに居る>(開拓に寄す)。タンカルとは宮沢賢治が名付けた肥料用の炭酸石灰。晩年の賢治は土壌を改良するため、この普及に命を懸けた
▼志半ばで逝ったが、その尽力は戦後の開拓で花開いたと言える。光太郎が記すように、酸性の火山灰土壌と闘う人々はタンカルを力とした。岩手の開拓者たちは、まず土を変え、不毛の荒れ地を豊かな耕地に一変させた
▼国連の「国際土壌年」の今年、土が大きな国際テーマになる。世界にある農地の半分で土が劣化し、1年に砂漠化する面積は日本の国土の3割に及ぶ。食料供給の危機でありながら忘れられた資源にようやく光が当たる年だ
▼賢治は酸性土を「病土」とみて健康にしようとした。国際年の標語「健全な暮らしは健全な土地から」に通じる。厳しい現状でも、救いは日本の技術が途上国の土壌改良に役立っていることだろう
▼開拓10年に光太郎は再び寄せた。<見わたすかぎりはこの手がひらいた十年辛苦の耕地の海だ>。知と技で、病土を耕地の海にする。それに勝る国際貢献はなかろう。
 
 
引用されている詩は二つ。まず、昭和25年(1950)に盛岡市で行われた岩手県開拓五周年記念開拓祭に寄せた「開拓に寄す」。

   開拓に寄す000
 
岩手開拓五周年、
二万戸、二万町歩、
人間ひとりひとりが成しとげた
いにしへの国造りをここに見る。
 
エジプト時代と笑ふものよ、
火田の民とおとしめるものよ、
その笑ひの終らぬうち、
そのおとしめの果てぬうちに、
人は黙つてこの広大な土地をひらいた。
見渡す限りのツツジの株を掘り起こし、
掘つても掘つてもガチリと出る石ころに悩まされ、
藤や蕨のどこまでも這ふ細根(ほそね)に挑(いど)まれ、
スズラン地帯やイタドリ地帯の
酸性土壌に手をやいて
宮澤賢治のタンカルや
源始そのものの石灰を唯ひとつの力として、001
何にもない終戦以来を戦つた人がここに居る。
 
トラクターもブルドウザも、
そんな気のきいたものは他国の話、
神代にかへつた神々が鍬をふるつて
無から有(う)を生む奇蹟を行じ、
二万町歩の曠土(あかつち)が人の命の糧(かて)となる
麦や大豆や大根やキヤベツの畑となつた。
さういふ歴史がここにある。
 
五年の試煉に辛くも堪へて、
落ちる者は落ち、去る者は去り、
あとに残つて静かにつよい、
くろがね色の逞ましい魂の抱くものこそ
人のいふフランテイアの精神、
切りひらきの決意、
ぎりぎりの一念、
白刃上(はくじんじやう)を走るものだ。
開拓の精神を失ふ時、002
人類は腐り、
開拓の精神を持つ時、
人類は生きる。
精神の熱土に活を与へるもの、
開拓の外にない。
 

開拓の人は進取の人。
新知識に飢ゑて
実行に早い。
開拓の人は機会をのがさず、
運命をとらへ、
万般を探つて一事を決し、
今日(けふ)は昨日(きのふ)にあらずして
しかも十年を一日とする。
心ゆたかに、
平気の平左(へいざ)で
よもやと思ふ極限さへも突破する。
開拓は後(あと)の雁(がん)だが
いつのまにか先の雁になりさうだ。
 
開拓五周年、
二万戸、二万町歩、
岩手の原野山林が
今、第一義の境(さかひ)に変貌して
人を養ふもろもろの命の糧を生んでゐる。
 
 
この詩の一節を刻んだ碑が、花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くに建っています。昭和51年(1976)建立の「太田開拓三十周年記念碑」です。
 
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もう一篇の「開拓十周年」は、昭和30年(1955)にやはり盛岡市の県教育会館で行われた岩手県開拓十周年記念大会に寄せたものです。
 
  開拓十周年
 
赤松のごぼう根がぐらぐらと003
まだ動きながらあちこち残つていても、
見わたすかぎりはこの手がひらいた
十年辛苦の耕地の海だ。
 
今はもう天地根元造りの小屋はない。
あそこにあるのはブロツク建築。
サイロは高く絵のようだし、
乳も出る、卵もとれる。
ひようきんものの山羊も鳴き、
馬こはもとよりわれらの仲間。
 
こまかい事を思いだすと
気の遠くなるような長い十年。
だがまた、こんなに早く十年が
とぶようにたつとも思わなかつた。
はじめてここの立木へ斧を入れた時の
あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。
歓迎されたり、疎外されたり、
矛盾した取扱いになやみながら004
死ぬかと思い、自滅かと思い、
また立ちあがり、かじりついて、
借金を返したり、ふやしたり、
ともかくも、かくの通り今日も元気だ。
 
開拓の精神にとりつかれると
ただのもうけ仕事は出来なくなる。
何があつても前進。
一歩でも未墾の領地につきすすむ
精神と物質との冒険。
一生をかけ、二代、三代に望みをかけて
開拓の鬼となるのがわれらの運命。
食うものだけは自給したい。
個人でも、国家でも、
これなくして真の独立はない。
そういう天地の理に立つのがわれらだ。
開拓の危機はいくどでもくぐろう。
開拓は決して死なん。
 
開拓に花のさく時、
開拓に富の蓄積される時、
国の経済は奥ぶかくなる。
国の最低線にあえて立つわれら、
十周年という区切り目を痛感して
ただ思うのは前方だ。
足のふみしめるのは現在の地盤だ。
静かに、つよく、おめずおくせず、
この運命をおおらかに記念しよう。
 
 
どちらも晩年の作。智恵子の死や戦争や、さまざまなことを経てたどりついた境地が表されています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月16日

昭和3年(1928)の今日、『東京日日新聞』に、散文「日本家庭大百科事彙」が掲載されました。
 
書肆・冨山房により前年から刊行が開始された「日本家庭大百科事彙」の書評です。同書は日本女子大学校での智恵子の先輩で、光太郎と智恵子の間を取り持った柳八重が家事家政方面の編集に当たり、自らも執筆しています。他に、光雲(木彫)、豊周(工芸美術、室内装飾)も執筆者に名を連ねました。
 
ところで日本女子大学校といえば、NHKさんの今年後期の連続テレビ小説(朝ドラ)が、同校の設立に奔走した女性実業家・広岡浅子が主人公の「あさが来た」となることが発表されました。
 
広岡は、光太郎がその胸像を作った同校初代校長成瀬仁蔵や、柳八重、さらに同じく智恵子の先輩・小橋三四子などとも深いつながりがありました。もしかすると智恵子や光太郎も登場するかも、と期待しています。

テレビ放映情報です。 

いにしへ日和 #122 岩手県・花巻市・高村光太郎と大沢温泉

BS朝日 2014年12月25日(木)  21時54分~22時00分  再放送2015年1月1日(木) 22時54分~23時00分
 
日本の東国各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。美しい景色の中に息づく「時の記憶」。旅をしながら、現在と過去を自由に行き来する。そんな気分を味わう番組です。時をこえ、小さな旅に出かけよう。今日は、いにしへ日和…日本の各地をめぐり、歴史上の人々が残した足跡をたどります。
 
高村光太郎は、1945年花巻に疎開し、7年の間、この地で過ごしました。 光太郎62歳。最愛の妻・智恵子も既に他界し、東京大空襲で自宅とアトリエを失ってやってきた花巻。 そんな光太郎が「本当の温泉の味がする」と、何度も訪れた大沢温泉を訪ねます。
 
出演 ナレーター キムラ緑子
 
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JR東日本さん提供の5分間番組です。
 
今年5月には、「#107 福島県・二本松市・智恵子の空」ということで、二本松の智恵子生家周辺を取り上げて下さいました。公式サイトはこちら
 
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今回は、光太郎が何度も訪れた、花巻郊外の大沢温泉さんからです。宮澤賢治や相田みつをゆかりの宿としても有名です。
 
当方も定宿としています。一昨年はつごう7泊ほど泊めていただきました。しかし、今年は花巻には2回行きつつも、1回も泊まりませんでした。1度目は1月下旬。大沢さんがいっぱいで、やはり光太郎が何度か訪れた鉛温泉さんに泊めていただきました。2度目は5月15日の光太郎祭でしたが、この時は夜行高速バスを使い、車中泊でした。だからしばらく行っていません。テレビを見て、懐かしみたいと思います。
 
ただ、来年は既に泊めていただくことが決まっています。今から楽しみです。とにかく温泉が素晴らしいし、料理や部屋、そして宿全体の雰囲気が非常にいい感じです。
 
一年中、いつ行っても、それぞれの季節ごとの良さがありますが、一番お薦めなのは、冬です。
 
こちらは4年前の今頃撮った画像です。今の季節はこんな感じです。
 
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寒さは半端ではありませんが、雪見の露天風呂、そして温泉で火照った身体に染み渡る清冽な冷気、そして寒くなったらまたザブン。たまりません。
 
ただし、この冬は近くの高村山荘・高村光太郎記念館は、グランドオープンに向けてのリニューアルで閉鎖中ですので、お気をつけ下さい。
 
さて、「いにしへ日和」。ぜひご覧下さい。本放送は明後日、再放送が来年1月1日。再放送とはいえ、元日から光太郎がらみの放映があるというのは、幸先がいいですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月23日
 
昭和20年(1945)の今日、詩「雪白く積めり」を執筆しました。
 

   雪白く積めり
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雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を発す。
燐光あをくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に坐す。
風なきに雪蕭々と鳴つて梢を渡り
万境人をして詩を吐かしむ。
早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。004
わづかに杉の枯葉をひろひて
今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖めんとす。
敗れたるもの卻て心平らかにして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくしてつひにとらへ難きなり。
 
この年、秋、花巻町から郊外の太田村山口に移り住んだ光太郎。鉱山の飯場小屋だった建物を村人の協力で移築してもらい、7年間の孤独な山小屋(高村山荘)暮らしを始めました。北川太一先生曰く「生涯で最も鮮烈な冬」。その山小屋での冬を謳った、記念すべき第一作です。右上の画像は、昭和23年(1948)冬に撮影された光太郎の山小屋です。
 
この詩を刻んだ碑が、のちに山小屋近くに建てられ、毎年5月15日には、この碑の前の広場で光太郎を偲ぶ高村祭が行われています。
 
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こちらは30年程前、初めてここを訪れた時に撮影したものです。3月下旬でしたが、日陰にはまだ膝まで雪が残っていました。

新刊です。
2014/11/01 株式会社花美術館発行 定価1200円+税
 
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目次(抄)000
 祈り―東日本大震災
 啄木、賢治の共通性 望月善次
   長男としての誕生―戸籍と誕生日の揺れ
   誕生時の恵まれた環境
   宗教の家
   盛岡中学校入学と挫折
   先進的教育教授と中途退職
   夭死
   国民的人気と国際的展開
   献身的支援者~肉親の証言から
 明治の青春 金田一秀穂
 生涯にわたる兄への敬愛と献身-宮澤清六 宮澤明裕
 啄木、賢治の異質性 望月善次
   文学的ジャンルの相違―「童話」VS「評論・日記」
   宗教への態度―遠ざかる(拡散)VS格闘(集中)
   結婚の有無―積極的VS消極的
   美術的側面―デザインVS絵画
   全集発行時期―死後8年VS死後1年
   学問と知識―文系人間VS理系人間
   運の在り方―文学的幸運VS経済的幸運
 『一握の砂』と『注文の多い料理店』その装丁 原田光
 郷愁のモニュメント 藤田観龍
 美術館紹介 石川啄木記念館/岩手県立美術館/宮澤賢治イーハトーブ館/宮澤賢治記念館
 
というわけで、岩手の生んだ二人の天才、石川啄木と宮澤賢治について、故郷岩手を軸にした53ページの特集です。特に賢治に関し、その世界を世に広める功績のあった光太郎の名が随所に現れます。
 
後半は「現代の短詩型文学-故郷と幻想の間」「現代作家-原風景への憧憬」「現代工芸-美の精粋」ということで、各分野の現代作家の皆さんの作品がたくさん。
 
その中で白井敬子さんという歌人の方の作品です。
 
光太郎・北斎・虚子・百閒忌花の四月に皆連れ立ちて
 
4月2日、光太郎忌日連翹忌を題材になさって下さいました。ちなみに葛飾北斎の北斎忌は18日、高浜虚子の虚子忌(椿寿忌)は8日、内田百閒の百閒忌は20日。短歌ではなく、俳句としては季語にもなり、歳時記に載っているようです。
 
さて、『花美術館』、ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 12月7日
 
平成20年(2008)の今日、愛知県一宮市尾西歴史民俗資料館で開催されていた、「特別展 花子とロダン―知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い―」が閉幕しました。
 
花子といっても、今年度上半期のNHKさんの001朝ドラ「花子とアン」の村岡花子ではなく、明治期の日本人女優、花子です。
 
明治元年(1868)、岐阜県の生まれ。本名・太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年(1906)、その舞台を見たロダンの強い要望で、彫刻作品のモデルを務めました。
 
大正10年(1921)には帰国、その際、自身をモデルにしたロダン彫刻2点を持って帰りました。それらは一時、東京美術学校に寄託され、光太郎の目にとまりました。昭和2年(1927)にアルスから評伝『ロダン』を出版する取材の一環として、光太郎は花子を岐阜の実家に訪ねています。
 
同展ではその後送られた光太郎からの書簡も展示されました。
 
 
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当方の住む関東南部は秋たけなわ。紅葉もこれから見頃です。
 
しかし、北東北はもう冬支度が始まっていることと思います。
 
そういうわけで、岩手花巻の高村光太郎記念館・高村山荘と、青森十和田湖の観光交流センター(愛称「ぷらっと」)が、今月いっぱいで冬期閉鎖に入ります。
 
この冬、花巻や十和田にお越しの皆様、ご注意願います。
 
花巻の記念館の方は、冬期というより、グランドオープンのための改修工事という事情ですが、やはり秋の観光シーズンを終え、冬期をねらったという側面もあるのでしょう。
 
以下、同館サイトからのコピペです。

高村光太郎記念館 リニューアル工事に伴う閉館について

高村光太郎記念館は、光太郎生誕130 年に当たる平成25 年の5 月15 日に旧花巻歴史民俗資料館を活用して暫定的に開館しました。
 
また、平成25 年度に行われた展示設計に基づき、同館では本年度、旧資料庫を含めた建物全体を改修し、より魅力的な展示とするためリニューアルすることとしています。
 
平成26 年12 月1 日より平成27 年4 月中旬まで、記念館は閉館します。      
 
本年12 月より工事を行う予定です。資料等の入れ替えのための期間を含め、本年12月1 日より来年4 月中旬(予定)までの間、高村光太郎記念館は臨時閉館いたします。

大変ご不便をお掛けしますが、ご理解のほどよろしくお願いします。なお、隣接する高村山荘も同期間、冬季閉鎖いたします。
 
閉館中は、まなび学園(生涯学園都市会館)において資料の展示を行います。  
 
高村光太郎記念館の閉館中、まなび学園において同館収蔵資料の一部を展示します。
 
会期は本年12 月上旬からを予定しておりますが、内容や期間など、詳しいことは決まり次第お知らせします。
 
 
来春にはグランドオープンということで、改修計画が進んでいます。より一層充実した施設となることを願ってやみません。
 
 
また、先月、十和田湖畔にオープンした十和田市観光交流センター「ぷらっと」も、11月30日をもって、冬期閉鎖に入ります。
 
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再オープンはやはり来春4月と聞いていますが、こちらはネット上に日時の情報が見つかりません。上記は『広報とわだ』の今月号、オープンの記事です。
 
それぞれ情報が入りましたら、またお知らせします。
 
ちなみに十和田湖といえば、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんで、十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)の建立60周年にあたり、記念誌的な書籍の刊行を進めています(当方も一部執筆させていただきました)。同会のサイトで、昨日、その話題がアップされています。ご覧下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月5日
 
昭和27年(1952)の今日、龍星閣『智恵子抄』特装版の製本が完了しました。
 
『智恵子抄』特装版。十和田湖畔の裸婦像制作のため光太郎が帰京した記念、ということで刊行されました。
 
外函のラベルによれば、「最上羊皮丸革朱赤染表装・紺染布函入」、「限定貳百冊」、「但限定貳百冊印刷之内百七十冊製本、参十冊廃棄」、「昭和二十七年十一月五日製本出来」だそうです。
 
こちらが外函。
 
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ぱかっと開けると中函が出てきます。
 
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さらにそれを開けると本体。マトリョーシカ状態です(笑)。
 
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表紙に羊の皮を使っているそうです。昔、この手の皮装本が流行った時期がありました。
 
ところが、奥付を見ると「九月三十日発行」となっています。
 
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一般に、奥付の発行日と、実際に刊行された日が一致しないことは往々にしてありますが、1ヶ月以上もずれているとは、少し不思議です。
 
通常、図書館等のデータは、奥付の日付を公式な発行日とします。しかし、この場合、外函には「十一月五日製本」と明記されています。何だかなー、という感じですね。
 
ちなみに龍星閣さんでは、昭和34年(1959)4月10日には、「皇太子殿下(現・今上天皇)ご成婚記念」で、『智恵子抄』の「紅白版」なるものも出しています。表紙に紅白の布を使っている、というだけですが(笑)。

「智恵子抄」中の詩に曲を付けた作品を自由曲に取り上げた学校があったので、先日、このブログにてご紹介しましたが、昨日、盛岡の岩手県民会館で、第67回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門が開催されました。
 
共に鈴木輝昭氏作曲の「亡き人に」が神奈川の清泉女学院音楽部さん、「レモン哀歌」が北海道の北海道帯広三条高校合唱部さん。
 
また、智恵子の後輩に当たる福島県立橘高校合唱団さん、日本女子大附属高校コーラスクラブ さんも出場しました。
 
結果、清泉さんが金賞、帯広三条さんと日本女子大附属さんは銀賞、橘さんは銅賞でした。
 
以下、朝日さんの神奈川版の記事から。見出しに光太郎の名が。 

神奈川)清泉女学院、光太郎表現し金賞 全日本合唱コン

岩手県民会館で25日に開かれた第67回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門で、Aグループ(8~32人)に関東支部代表として出場した清泉女学院は金賞、日本女子大付属は銀賞を受賞した。
 
 清泉女学院の自由曲は高村光太郎が作詩した「亡き人に」。妻の智恵子への深い愛情を表現した。部長の當麻真利奈さん(2年)は「部員で詩の意味を話し合い、詩の内容を、聞いている人たちに届けられるように歌った」。部員たちはステージ上で左右に分かれて立ち、高音の見事なハーモニーで会場を包んだ。當麻さんは「支えてくれた多くの方に感謝の気持ちを込めた」と振り返った。
 
 日本女子大付属は、与謝野晶子作詩の「絵師よ」を披露。伸びのある力強い声で、晶子の情熱を歌い上げた。部長の安藤春菜さん(3年)は「高校生には難解な歌詞もあったけれど、晶子の他の詩や短歌をいっぱい読んで学んだ」。歌詞をよく読み、日本語を美しく表現できるよう力を注いだという。気持ちよく楽しく、練習してきたことを出し切れた、と明るい笑顔で話した。
 
全国版にも大きく記事が出ました。
 
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写真は清泉さんです。
 
北海道版では帯広三条さんについて以下の記述が。
 
帯広三条は8年連続出場。自由曲で女声合唱とピアノのための組曲「智恵子抄」から選曲した「レモン哀歌」を、一体感のあるハーモニーで歌い上げた。部長の中居沙耶さん(3年)は「自分たちらしい合唱ができた」と話した。
 
12月17日には、ブレーン株式会社さんから、ライブ録音のCDが発売されます。こちらは全出場団体の演奏を収録。さらに後ほど、金賞受賞団体の演奏を収めたDVD/ブルーレイも発売されるはずです。今からたのしみです。
 
12/24追記 今年から、全出場団体のDVD/ブルーレイが発売されています。ただし、受注生産ですが。
 
ところで全国版の記事は、このように結ばれています。
 
日本人作曲家の曲が例年以上に多かったように感じたが、言葉の意味がいま一歩伝わらず、ちょっぴりもどかしくなる演奏も。合唱の醍醐味は、歌い手と聴き手の「共振」にあり。響きの源流である言葉にぜひ、もう少し意識を。
 
なるほど。
 
「部員で詩の意味を話し合い、詩の内容を、聞いている人たちに届けられるように歌った」という清泉さん、そういう意味でも頭一つ抜けたのかも知れません。
 
こうした入り口からでも、光太郎詩の世界に入っていく若い人達がもっともっと増えて欲しいものですね。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月26日
 
昭和38年(1963)の今日、資生堂ギャラリーで開催されていた第1回連翹会展が閉幕しました。
 
かつて昭和33年(1958)から42年(1967)にかけ、10回限定で、造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」が存在しました。筑摩書房の『高村光太郎全集』の印税を賞金にあて、初めから10回限定と決めて始められたものです。
 
連翹会展は、その高村光太郎賞造型部門の選考委員、受賞者による展覧会として、この年から昭和43年(1968)まで、6回開催されました。
 
第1回展の出品者は以下の通り。
 
木内克、菊池一雄、佐藤忠良、白井晟一、高村豊周、高田博厚、谷口吉郎、豊福知徳、西大由、舟越保武、堀内正和、本郷新、向井良吉、柳原義達。錚々たるメンバーですね。
 
さらにこの年、京都で見つかった光太郎の木彫「蝉」「柘榴」も出品されました。

第67回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の中学、高校部門が今月25(土)、26日(日)に盛岡市の岩手県民会館で行われます。
 
合唱楽譜の発行、販売を専門にしているパナムジカさんのサイトに、コンクール情報として、参加校と演奏曲目の一覧が書かれています。
 
それによると、高校Aの部(8~32人)で、光太郎作詞、鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための組曲 智恵子抄」」から自由曲を選んだ学校が2校ありました。
 
北海道帯広三条高校合唱部さんが「レモン哀歌」、神奈川の清泉女学院高等学校音楽部さんが「亡き人に」。それぞれ難曲ですが、さすがに全国まで駒を進める学校ですので、しっかり歌いこなせているのでしょう。入賞してほしいものです。
 
以前にも書きましたが、この「女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄」は、智恵子の母校・福島高等女学校の後身である福島県立橘高校合唱団による委嘱作品です。同校合唱団は、この組曲全3曲の中から1曲ずつを自由曲とし、平成21年(2009)から3年間、全日本合唱コンクール全国大会に出場し、上位入賞しています。昨年には楽譜が刊行され、他校でも取り上げるようになったということでしょう。
 
ちなみに橘高校さん、やはり今回の全国大会に出場します。同じく鈴木輝昭氏の作曲で、大岡信作詞の「肖像」が自由曲です。
 
智恵子の後輩、といえば、日本女子大附属高校コーラスクラブ さんも出場します。自由曲は、やはり鈴木輝昭氏の作曲、与謝野晶子作詞の「絵師よ」。
 
昨日の『朝日新聞』さんに、この全国大会の特集記事が載りました。中高・大学一般合わせて出場122団体のうち、4つがピックアップされ、紹介されています。
 
高校の部では、初出場の京都女子高さん。開催地である岩手出身の宮澤賢治作詞「無声慟哭」(西村朗作曲)が自由曲ということです。「無声慟哭」は賢治の妹・トシ(やはり智恵子の後輩です!)の死に際して作られたもので、「レモン哀歌」と並び称される有名な挽歌です。
 
記事から一部引用させていただきます。
 
 部員たちの楽譜を見せてもらうと、意味の解釈がびっしりと書いてある。「無声慟哭」は、宮沢賢治が、愛していた妹を亡くした悲しみや葛藤を表現した詩だ。5日間、昼休みも話し合いを重ね、難解な詩を解釈。意味を意識しながら歌うようにしている。
 豊かな表情で表現することにも、力を入れているといい、「一つ一つの歌詞に合わせた表情を心がけたい」とアルトパートリーダーの成田千夏さん(17)。
 
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大切なことですね。合唱ですから、音程やハーモニー、リズム、ディナミークといった音楽としての要素がしっかりしていなければ仕方がありませんが、それと同じくらい、歌詞をどう伝えるか、ということも大切だと思います。
 
ここまで書いて想い出しました。当方、学生時代から合唱を続けています(社会に出てからサボっていた時期もありましたが)。学生時代に歌った曲の中に、故・伊藤海彦氏作詞の「島よ」(大中恩作曲)、「季節へのまなざし」(荻久保和明作曲)があり、当時、やはり詩の解釈に随分こだわりながら歌ったなあ、と。
 
そこで、過日、鎌倉のギャラリー笛さんにお邪魔した際、偶然にも伊藤氏の夫人にお会いすることができ、驚くと同時に感激いたしました。当方にとっての伊藤氏は、光太郎と交流のあった詩人というだけでなく、「島よ」「季節へのまなざし」の伊藤氏なのです。
 
閑話休題。全日本合唱コンクール全国大会、各校ともがんばってほしいところです。特に北海道帯広三条高校合唱部さん、清泉女学院高等学校音楽部さん(そういえば、清泉さんも鎌倉でした)には、しっかりと光太郎詩のこころを表現していただきたいものです。
 
ちなみに一般公開もされるはずですので、岩手方面の方、足をお運び下さい。25,26両日とも9:45開演だそうです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 10月22日
 
昭和24年(1949)の今日、智恵子の母・センが、千葉県九十九里で歿しました。
 
智恵子に負けず劣らず、波乱の生涯でした。センは智恵子の祖母・ノシが智恵子の祖父・次助と結婚した際の連れ子。智恵子の父・斎藤今朝吉と結婚し、智恵子をもうけてから夫婦で長沼家の養子に入りました。
 
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8人の子供のうち、智恵子を含む5人に先立たれ、1人は音信不通。さらに長沼酒造の隆盛と破産……。しかし、晩年は五女セツのもとで落ち着いた生活を送り、光太郎からの心遣いもあり、それなりに幸福だったと思われます。
 
下記画像は昭和3年(1928)夏、箱根で撮られた一葉。光太郎智恵子夫妻と、センです。
 
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