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宮沢賢治の生誕120周年記念事業の一環として、日本郵便株式会社東北支社さんから、オリジナルフレーム切手「宮沢賢治生誕120 年」が発売されました。

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82 円切手×10 枚で、うち1枚、光太郎がその碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑をあしらったものが含まれています。

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定価1,500円。一部の簡易郵便局を除く、岩手県奥州市、北上市、花巻市、西和賀町、金ヶ崎町の全郵便局(計70 局)で販売する他、明日からは日本郵便さんのサイトで通販が開始されます。

ぜひお買い求めを。


それから、岩手花巻宮沢賢治記念館さんで開催中の特別展「「雨ニモマケズ」展」、21日(日)に、光太郎と親しかった賢治の実弟・清六氏の令孫・宮沢和樹氏によるギャラリートークが開催されました。『毎日新聞』さんで、光太郎にからめて取り上げて下さいました。 

宮沢賢治記念館で40人が聴き入る 弟の孫・和樹さん /岩手

 宮沢賢治記念館では21日、賢治の弟清六さん(1904〜2001年)の孫、宮沢和樹さん(52)が講演会を開いた。生前に清六さんが宮沢さんに語った「雨ニモマケズ」の魅力について、参加した約40人が聴き入った。
 手帳の51〜60ページにある「雨ニモマケズ」の詩。祖父の清六さんは「東ニ病気ノコドモ アレバ 行ッテ看病シテ ヤリ」から続く54〜57ページが最も大切な部分だと、強調していたという。困っている人がいれば、東西南北どこにでも駆け付けて助けたいと思う、賢治の心が表現されている。
 宮沢さんは「この『行ッテ』が重要なんです」と説明。「賢治は、知識や知恵をもてあそぶのではなく、実際に行動して物事を変えていく姿勢が大事だと考えていた」と解説した。
 清六さんは、花巻に私塾を開設して農民に技術を講義するなどした賢治の人柄を慕っていた。賢治の死後、彫刻家の高村光太郎らと作品の編集に奔走したという。宮沢さんは「周りの支えがあってこそ、今の賢治があることも忘れないでほしい」と話した。【二村祐士朗】


和樹氏、こうした機会には、必ずと言っていいほど光太郎に言及して下さるので、ありがたい限りです。


【折々の歌と句・光太郎】

かの雲を我は好むと書き終へしボオドレエルが酔ひざめの顔
明治42年(1909) 光太郎27歳

「ボオドレエル」は、フランスの詩人、シャルル・ボードレール。光太郎は留学中に詩の心を彼の作品から学んだといいます。

台風9号が通過した関東地方、昨日も激しい夕立がありました。やんだ後に日が差してきたので、虹でも見えるかなと思って自宅兼事務所の一番高い部屋(なんちゃって三階)から東の空を見ると、虹ならぬ彩雲(環水平アーク)が見えました。デジカメで写真も撮ったのですが、色がうまく写りませんでした。残念。

岩手花巻宮沢賢治記念館さんで開催中の特別展「「雨ニモマケズ」展」地元紙2紙の報道をご紹介しましたが、その後、『朝日新聞』さんでも光太郎にからめて報道して下さっていますので、ご紹介します。 

岩手)「雨ニモマケズ」実物の手帳、展示始まる

005 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が書かれた実物の手帳の展示が20日、花巻市の宮沢賢治記念館で始まった。生誕120年を記念した特別展。賢治が亡くなる2年前に書いたと推察され、同館は「賢治本人の理想や希望といったもの」と説明している。
 同市内での展示は、2007年に萬(よろず)鉄五郎記念美術館であった賢治展以来9年ぶり。手帳は1933年の死後に発見された遺品の一つで、「雨ニモマケズ」は51~60ページに記されている。賢治の弟の孫で同館の宮沢明裕学芸員によると、賢治は詩や童話などの作品は原稿用紙に記しており、雨ニモマケズは手帳に書かれていることから、作品を創作する意識とは一線を画し、「サウイフモノニワタシハナリタイ」で終わっており、「祈りや願いと捉えることができる」という。
 同館ではこのほか、高村光太郎が揮毫(きごう)し、同市桜町にある「雨ニモマケズ」詩碑の原文も初めて展示する。また、俳優の渡辺謙さんと詩人の故草野心平氏による「雨ニモマケズ」の朗読を映像とともに聞くことができる。
 特別展は28日まで。21日午後1時半からは手帳などを所有する林風舎代表で賢治の弟の孫の宮沢和樹氏によるギャラリートークもある。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。(石井力)


また、岩手めんこいテレビさんのニュースも、ネット上で見つけました。 

岩手)「雨ニモマケズ」実物の手帳、展示始まる

岩手・花巻市の宮沢賢治記念館で特別展が開かれていて、賢治が生前愛用していた実物の手帳などが公開されている。
宮沢賢治生誕120年の2016年、花巻市では、さまざまな記念イベントが行われている。
特別展では、賢治の代表作「雨ニモマケズ」を記した実物の手帳が、宮沢賢治記念館としては初公開されている。
記念館の学芸員は「強くなりたいと願い続けた賢治が手帳に記した『行つて』の文字には、強い意志を持って実践する賢治の行動力がみられる。こうした点にも注目してほしい」と話していた。
このほか、賢治の詩をつづった高村光太郎の書の原文も、公開されている。
この特別展示は、8月28日まで、花巻市の宮沢賢治記念館で開かれている。(8/21 18:26)

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8月19日には、NHK BSプレミアムさんで「プレミアムカフェ 宮沢賢治への旅」のオンエアがありました。平成8年(1996)に放映されたものの再放送でしたが、今回展示されている光太郎の揮毫を刻んだ花巻市豊沢町に立つ「雨ニモマケズ」碑もちらっと紹介されました。

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生誕120年の賢治ですが、8月27日が誕生日、9月21日が命日ということで、これから顕彰イベント等がもっと増えていきます。

明日もその辺りで情報をご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

ああ我は火取り蟲かやふるさとの明るき町に夜ごと飛びゆく
明治42年(1909) 光太郎27歳

過日ご紹介した岩手花巻宮沢賢治記念館さんの特別展「「雨ニモマケズ」展」について報道が為されています。ただ、ほとんどは「雨ニモマケズ」が記された手帳のみの紹介で、「雨ニモマケズ」詩碑のために書かれた光太郎の書については触れられていませんでした。

さすがに地元紙2紙ではそちらにも言及されています。

まず『岩手日日』さん。 

実物を初公開 きょうから記念館 賢治生誕120年で 「雨ニモマケズ」手帳 光太郎揮毫 詩碑の書

006 花巻市矢沢の宮沢賢治記念館(鎌田広子館長)は賢治生誕120年記念の特別展として、20日から「雨ニモマケズ」展を開催する。詩「雨ニモマケズ」が記された賢治の手帳と、賢治を高く評価していた詩人で彫刻家の高村光太郎の書を、ともに実物で公開することから広く注目を集めそうだ。
 一般公開に先立ち19日に内覧会を開き、概要を紹介した。目玉となるのは、賢治直筆とされる「雨ニモマケズ」の手帳。複製を常設展示していたが、賢治生誕120年の節目に合わせて実物を公開することにした。
 光太郎が揮毫(きごう)した「雨ニモマケズ」の後半部分の実物も展示。同市桜町の「賢治詩碑」建立の際の書で、後に判明した原文との相違点を碑に追刻補正する前の状態が確認できるという。
 「雨ニモマケズ」の手帳や光太郎の書の実物が同館で展示されるのは今回が初めて。賢治の弟の故・清六さんの孫で同館学芸員の宮澤明裕さんは「『雨ニモマケズ』は作品として推敲されたものではなく、それがかえって生のものとして人の心を打つのでは。この機会に足を運んでもらい、それぞれの応援や励ましとしてもらえれば」としている。
 特別展は28日まで。21日午後1時30分からは明裕さんの兄の和樹さんによるギャラリートークも予定している。
 開館時間は午前8時30分から午後7時30分まで。入館料は小・中学生150円、高校生・学生250円、一般350円。問い合わせは同館=0198(31)2319=へ。


続いて『岩手日報』さん。 

「雨ニモマケズ」手帳公開 花巻・宮沢賢治記念館

005 花巻市矢沢の宮沢賢治記念館(鎌田広子長)は、賢治生誕120周年を記念し、20日から特別展「雨ニモマケズ」展を開く。賢治が病床で「雨ニモマケズ」を記した手帳の現物などを公開する。
 賢治の手帳は縦13・1センチ、横7・5センチ、166ページの手の平サイズ。「雨ニモマケズ」の前文を記した51、52ページを開いて展示する。
 同市桜町の賢治詩碑に刻んだ高村光太郎の書の原文も公開し、有名俳優らの詩の朗読を上映する。
 同展は28日まで。期間中は無休。入館料は小中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。午前8時半~午後7時半。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。


展示期間が短いのが残念ですが、ぜひ多くの方々にご覧いただきたいものです。


当方、本日は埼玉東松山市立図書館さんに行き、「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による」を拝見。さらに戦時中から光太郎とご交流のあった同市元教育長・田口弘氏ご講演を拝聴して参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは
制作年不詳

昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」の雄の方(画像右)を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。写真は故・髙村規氏によるものです。

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木彫「白文鳥」、現在、信州安曇野の碌山美術館さんで公開中です。

生誕120年を迎えた宮沢賢治。記念事業が色々と行われていますが、その一環として開催される、岩手花巻の宮沢賢治記念館さんでの特別展示です。 

「雨ニモマケズ」展

期  日 : 前期2016年8月20日(土)~28日(日)
       後期2016年8月30日(火)~9月13日(火)
会  場 : 宮沢賢治記念館 岩手県花巻市矢沢1地割1番地36
時  間 : 8:30~19:30
料  金 : 一般350円(300円)、高校生・学生250円(200円)
       小・中学生150円(100円)
        ※( )内は20人以上の団体割引料金

国内はもちろん、世界でも多様な広がりをみせている「雨ニモマケズ」。
当館では賢治生誕120年を機に「雨ニモマケズ」が書かれた賢治自筆の手帳と、高村光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の原文を展示いたします。いずれの資料も宮沢賢治記念館では初公開となります。どうぞこの機会をお見逃しなく!!
(後期は「雨ニモマケズ手帳」は複製、詩碑原文は拓本に展示替え)

関連行事 

ギャラリートーク
日  時 : 2016年8月21日(日)  13:30~
講  師 : 宮澤和樹氏(賢治実弟・故宮澤清六氏令孫)

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賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿で開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帳に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのは光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

昭和11年(1936)になって、光太郎は宮澤家の依頼でこの詩の後半部分を揮毫、花巻の羅須地人協会跡にその書を刻んだ碑が建てられました。

その後、「雨ニモマケズ」は賢治代表作の一つとして広く人口に膾炙しています。

今回の展示では、光太郎も手に取った手帳の現物、そして光太郎が書いた碑文書の現物が展示されます。

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それぞれ宮沢賢治記念館さんでは初の展示だそうで、意外といえば意外です。

21日(日)のギャラリートークは宮澤和樹氏。御祖父・清六氏が光太郎と親しかったため、必ずといっていいほど、賢治や宮澤家と、光太郎の密接な交流についてお話下さいます。


今後、これ以外にも、賢治顕彰の様々な企画が目白押し。近くなりましたらご紹介しますが、また当方もお話をさせていただく機会があります。

とりあえず「「雨ニモマケズ」展」。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

夏の日は三里塚にて馬見るか昼寝しせすか山脇彦尊
大正13年(1924) 光太郎42歳

「三里塚」は、現在、新東京国際空港のある成田市です。かつては印旛郡遠山村でした。

「山脇彦尊」は、日本画家・山脇謙次郎。光太郎は山脇のため、前年12月、三里塚に開墾小屋を作り、その移住を助けています。のちに光太郎の親友・水野葉舟がその小屋を引き継ぎました。

かつて近くには宮内省の御料牧場があり、「馬」はそれに関わります。

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跡地は成田三里塚記念公園となり、光太郎に触れる展示も為されている御料牧場記念館、光太郎詩「春駒」碑などがあります。

信州安曇野から三陸女川への4泊5日の出張を終えて帰宅したところ、花巻高村光太郎記念館さんから宅配便が届いておりました。

同館にて刊行の展示品図録的な書籍『光太郎 Kotaro Takamura 1883-1956』。

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縦横25㌢の正方形という特殊な判型で、オールカラー48頁。充実した内容です。当方、一部を執筆し、「監修」ということにしていただいています。

抜粋で画像を提示します。ただ、校正途中に送られてきたPDFファイルから採りましたので、若干、完成品とは異なりますが、大筋はこの通りです。

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四季折々のイメージ画像をバックにした光太郎詩。4篇、8頁。

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ブロンズ彫刻、書作品、遺品などの同館展示物の画像。

展示品以外にも、光太郎芸術の紹介ということで、木彫の写真も。

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『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さんをはじめ、生前の光太郎を知る方々の談話。

さらには、光太郎、父・光雲、妻・智恵子の紹介、賢治や宮沢家との交流、花巻郊外太田村での生活、盛岡や花巻町などのゆかりの地の紹介などなど充実の内容。これで税込定価2,000円はお買い得です。

案内と、FAX注文書を載せておきます。プリントアウトしてご使用下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

とほどほしわれ必ずのせめてもの夏山夏野ただみどり濃き
明治34年(1901) 光太郎19歳

岩手レポートの3回目です。他にもいろいろ書くことが山積みですので、一気に行きます。

7/13(水)、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭のあと、花巻高村光太郎記念館スタッフの方お二人と合流、盛岡市内の加藤千晴氏のお宅にお邪魔いたしました。

加藤氏は今年5月15日、第59回花巻高村祭の記念講演で講師を務められました。氏のお母様の加藤照さんが光太郎の従妹(いとこ)、おばあさまの故・中山ふゆさんが光太郎の叔母という方です。ただ、ふゆさんは叔母といっても光太郎と年令が近く(光太郎の6歳上)、光太郎と「ふーちゃん」「みっちゃん」と呼び合う仲だったそうです(光太郎の本名は「みつたろう」です)。戦前にご夫婦で樺太に渡り、豪商として鳴らしたものの、敗戦で状況が一変、戦後になって内地に引きあげ、お嬢さんの照さんの嫁ぎ先の盛岡に住まわれることになったとのこと。

ふゆさんは昭和35年(1960)に亡くなったそうですが、その息女で光太郎の従妹(いとこ)にあたる照さんは、今年ちょうど100歳。少々お耳が遠くなられているものの、お元気で、貴重なお話をうかがうことができました。

また、加藤家に遺る光太郎関連の品々を拝見しました。光太郎やその家族が写っている古写真、光太郎から照さんへの書簡、光太郎の姉で、16歳で夭折した咲が絵を描いた扇子などなど。咲は日本画を狩野派に学び、将来を嘱望されていました。

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千晴氏は、そうした加藤家と高村家の歴史についての手記を執筆され、花巻高村光太郎記念会として出版する予定とのことです。それ以外にも花巻ではいろいろと出版物を刊行する計画があって、当方も関わらせていただくことになり、今回の加藤家訪問につながりました。


その後、千晴氏のご案内で、ご自宅からほど近い、岩山という山へ。こちらは盛岡市街を一望できるスポットでした。

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岩手山や姫神山もよく見えました。

また、こちらにも啄木の歌碑、さらに啄木の銅像も立っていました。
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で加藤氏とは分かれ、花巻高村光太郎記念館スタッフの方に送られて、北ホテルさんに戻りました。

翌日(7/14)、盛岡をあとに、再び花巻へ。この日はそれまでの2日間とは一転、雨でした。

在来線の花巻駅から岩手県交通さんの路線バスに乗り、花巻高村光太郎記念館さんへ。出版関係の打ち合わせは、前日に済んでいましたが、翌日(7/15)から開催の企画展、「智恵子の紙絵」の関連で、寄らせていただきました。

当初は午後2時半からの報道陣向け内覧に出る予定でしたが、早く帰宅せねばならない事情が出来、内覧はパスしました。しかし、職権濫用(笑)で、企画展示室を一足早く拝見させていただきました。


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紙絵の現物は、高村家から20点ほどお借りし、1~2点ずつ展示。元々、記念館で持っている2点の現物と合わせて、3点前後が常に展示されるそうです。上記画像で、中央のガラスケースに入っているのがそれです(周囲の壁に掛けてあるのは複製です)。一日展示すれば、それだけ褪色するという本当にあえかな作品なので、1点の展示期間は短くし、どんどん入れ替えるとのこと。昨日から始まりましたが、最初はチラシにも使われた、こちらの作品が出ています。

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金と銀の部分は、チョコレート系の包み紙ですね。おそらくゼームス坂病院に光太郎が届けた見舞いの品でしょう。

複製の方は、企画展示室に20点ほど、それから普段、常設展示を行っている第二展示室にもパーテーションパネルを出し、さらに20点ほどを展示しています。

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昨日の報道から。 

「智恵子の紙絵」展示/花巻・高村光太郎記念館 原画含む30点 一堂に

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、15日から企画展「智恵子の紙絵」が開かれる。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の妻智恵子は晩年、作業療法として身の周りにあった色紙や包装紙を切り抜き、台紙に貼り付ける「切り抜き絵」を制作した。光太郎が「紙絵」と名付けた作品が紹介される。
 智恵子は結婚後、自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散により心の病に侵され、睡眠薬で自殺を図った。一命を取り留めたものの、長い療養生活を送り、1938年に入院先の病院で53歳の生涯を終えた。智恵子は療養中に光太郎に見せるために「切り抜き絵」の制作に取り組んだ。光太郎は岩手と山形、茨城へ紙絵を疎開させて戦争の難から守った。
 智恵子は、花や魚、野菜など身近にモチーフを求め、さまざまな紙をマニュキアばさみで切り抜いて紙絵を制作。独特の色彩感覚による表現方法で、紙の質感を生かした繊細な作品が多い。
 智恵子の紙絵を所有し、今回の企画展に協力している、光太郎の弟の孫高村達さん(48)=東京都=は「デザインを意識したシンメトリーな作品も多い。オリジナルが展示されるのは3年ぶり。これだけの作品が一堂に見られるのは貴重な機会」と話している。
 光太郎没後60年、智恵子生誕130年にちなんだ企画展。展示作品はオリジナルと複製を合わせて約30点。オリジナルは計23点で、期間中に随時入れ替えて紹介される。
 同展は11月23日まで。入場料は、一般550円、高校生・学生400円、小・中学生300円。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。
(『岩手日日』) 

智恵子の紙絵 色とりどりに

花巻市太田の高村光太郎記念館で15日から「智恵子の紙絵」展が始まる。光太郎の妻智恵子が療養中に身近にあった色紙や包装紙などを切り抜いて台紙に貼り付けた作品のオリジナルと複製品を展示。同館は「繊細な表現と色彩感覚を見てほしい」としている。
 今年、智恵子の生誕130年、光太郎の没後60年となるのをログイン前の続き記念して開催する。智恵子が1938年10月に亡くなるまで1千点以上を制作した。光太郎は「紙絵」と名付け、戦時中も花巻など地方に疎開させて大切に保管した。光太郎は作品について「智恵子の詩であり、抒情(じょじょう)であり、機知であり、生活記録であり、此(こ)の世への愛の表明である」と記している。
 14日に内覧会があり、光太郎の弟の孫にあたる写真家高村達さん(48)は「オリジナルを展示する機会はあまりない。身近に感じてほしい」と話した。
 11月23日まで。同館と高村山荘の入場料は一般550円など。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。(石井力)
(『朝日新聞』)


ところで、関連行事、というわけではないのですが、ロビーコンサート的な催しが開かれます

期  日 : 2016年7月29日(金)
会  場 : 花巻高村光太郎記念館 第一展示室
時  間 : 13:00~ 40分間ほど
料  金 : 無料
出  演 : 大西ようこ(テルミン)  荒井真澄(朗読)


仕掛人の一人が当方のような部分がありまして……。

まずテルミン奏者の大西さん。一昨年に「もう一つの智恵子抄」「otoyoMuseum 四ノ館『智恵子抄』」というコンサートを開かれ、それがご縁で昨年の連翹忌でも演奏をしていただきました。

その大西さん、7/31(日)に、岩手の大槌町でコンサートをなさるそうで、その前に花巻に泊まって高村光太郎記念館・高村山荘に寄りたい、とおっしゃるので、鉛温泉さんをご紹介しました。すると、どうせなら演奏したい、というお話になり、大西さんと、毎年連翹忌や、智恵子の故郷・二本松でのレモン忌にご参加いただいている花巻高村光太郎記念会の浅沼隆氏とで話がまとまったそうです。

また、仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんが巻き込まれました(笑)。荒井さんも「無伴奏ヴァイオリンと朗読 智恵子抄」、「シューマンと智恵子抄」などで、光太郎作品を手がけられています。今年の連翹忌で、大西さんと意気投合されたとのこと。

こうした試みは記念館がリニューアルされてから初めてで、どうなることやらというところですが、ぜひ足をお運びください。


話がそれましたが、以上、2泊3日の岩手レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ

明治39年(1906) 光太郎24歳

もうすぐ「海の日」ですので、今日から海がらみの作品をいくつかご紹介します。

この年、3年半に及ぶ欧米留学のため、横浜港からバンクーバーに向けて出港したカナダ太平洋汽船のアセニアン号の船中で詠んだ歌です。

岩手レポートの2回目です。

7/12(火)、花巻宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を拝観した後、盛岡へ。2泊お世話になる内丸の北ホテルさんに入りました。

こちらはかつて菊屋旅館さんといい、光太郎が盛岡で定宿としていたところです。昭和25年(1950)1月18日には、こちらで「豚の頭を食う会」なる催しがありました。「豚の頭」は大げさな表現で、光太郎を囲んでの中華料理をメインにした食事会でした。

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窓からは、同27年(1952)5月3日に光太郎が講演を行った岩手県公会堂がすぐ近くに見えました。こちらではフランス楽団のコンサートを聴いたりもしています。

この日は外で夕食、早めに休みました。というか、いつもですが旅先ではすぐに寝てしまいます。

翌朝、早めに起きて周囲を散歩。

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先述の岩手県公会堂をはじめ、盛岡には当方の大好きなレトロ建築がたくさん遺っており、嬉しくなりました。

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また、そうと知らずにちょっと歩いただけで、光太郎と縁のある人々ゆかりのものがいろいろあって、驚きました。
上は岩手県公会堂前の原敬像。作者は光太郎の父・光雲の高弟である本山白雲です。土佐桂浜にたつ有名な坂本龍馬像の作者でもあります。

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新渡戸稲造像。こちらは光太郎と交流の深かった高田博厚の作。中津川沿いの与の字橋近くにありました。

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何度か訪れた深沢紅子野の花美術館。まだ開館前でしたので入れませんでしたが、昨年、子息の竜一氏の元を渡辺えりさんと共に訪れ、お話を伺ったこともあり、感慨ひとしおでした。

不来方城址では、地元の柔道家の瀬川正三郎像と、裸婦像。深沢を含め、それぞれ岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、同校のアドバイザー的な立場だった光太郎と交流のあった、舟越保武、堀江赳の作品です。

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南部利祥騎馬像の台座。像そのものは戦時の金属供出で無くなりました。南部の身体部分は光雲・光太郎親子と縁のあった新海竹太郎の作、馬は光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠正成像の馬、同じく上野の西郷隆盛像の犬を作った後藤貞行の作だったとのこと。

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あまりに有名な石川啄木歌碑。啄木も与謝野鉄幹の新詩社や、その後の『スバル』を通じ、光太郎と面識がありました。

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宿に戻って朝食後、盛岡少年刑務所さんからお迎え。そもそも今回の岩手行きは、同所での第39回高村光太郎祭への参加です。

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こちらでは、昭和25年(1950)1月14日(「豚の頭を食う会」の4日前です)、光太郎が五百数十名の青少年受刑者を前に講演を行いました。その際には、「心はいつでもあたらしく」と揮毫した書をこちらに残し、昭和52年(1977)、岩手県教誨師会の発意で、その書を刻んだ石碑が敷地内に建立。さらに翌年から、法務省主催の「社会を明るくする運動」月間である7月に、高村光太郎祭が開催されています。ただ、少年刑務所自体が光太郎が訪れた頃とは違う場所に移転しているということで、その点は少し残念でした。

入所者による光太郎詩の群読、更生にかける思いを綴った作文の発表などにまじって、講演がプログラムに入っており、今回、当方が講演をさせていただきました。

この講師は、毎年5月15日に行われている花巻高村祭の記念講演で講師を務めると、翌年の盛岡少年刑務所さんでの講師を依頼されるというシステム?になっているようで、一昨年には渡辺えりさん、昨年は先述の舟越保武の息女・末盛千枝子さんが務められました。そんなわけで、末盛さんの近著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘― 』に、昨年の様子が触れられています。

さて、今年の第39回高村光太郎祭。会場は講堂という建物です。向かって右半分に200名ほどの入所者、左半分は主に地元の招待者(花巻高村光太郎記念館の方々もいらしていました)、総勢数百人と、かなりの人数です。

開会のあと、愛唱歌斉唱。光太郎がこちらに遺した「心はいつでもあたらしく」という句をそのまま題名にした歌で、これが毎日朝夕、館内放送で流されているということです。

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その後、光太郎遺影への献花、所長さんの式辞、来賓の皆さんの祝辞に続き、入所者の皆さんによる詩の朗読。ちなみに少年刑務所といいつつ、入所者のほとんどは成人、全員男子です。彼等が普段働いている所内の工場単位で数十名ずつの群読でした。「新緑の頃」「生けるもの」「あどけない話」「十和田湖畔の裸像に与ふ」「孤独で何が珍らしい」。気合いの入ったいい群読でした。光太郎詩の精神が、少しでも彼等の心の琴線に触れているとすれば、泉下の光太郎も満足でしょう。

続いて、作品発表ということで、更生にかける思いを綴った作文を、2名の入所者が朗読しました。こちらも立派な発表でした。

そして、当方の講演。45分ほどで、パワーポイントを使いながら、光太郎の生涯をざっと語りました。やはり刑務所ということで、順風満帆な生涯ではなく、何度もつまづいて転びながらも、そのたびにそれまでを反省して立ち上がり、「心はいつでもあたらしく」と、道を追い続けた点を強調しました。入所者の皆さんには直接感想を聞けませんでしたが、来賓の方々や、花巻高村光太郎記念館皆さんからは好評でした(お世辞半分でしょうが(笑))。

昨日の『岩手日報』さんに記事が出ましたので、載せておきます。

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閉会後、所内の見学。15年ほど前に、「心はいつでもあたらしく」の石碑は見せていただいたことがあったのですが、それ以外の場所は初めてでした。岩手らしく、南部鉄器の加工を行う工場などなど。どの作業場にも「心はいつでもあたらしく」の語が掲げてあり、光太郎の精神を生かそうと考えられている点、感動しました。

その後、昼食を頂いて、少年刑務所さんでの用件は終わりました。長くなりましたので、午後からについてはまた明日、レポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

風鈴やここ料亭の四畳半    大正中期(1920頃) 光太郎40歳頃 

「料亭」は浅草駒形橋付近のようです。

盛岡北ホテルさん、光太郎が泊まった頃とは異なり、近代的なビジネスホテルになってしまっていましたが、四畳半くらいの部屋のベッドで寝ころびつつ、この句を思い起こしました。

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2泊3日の行程を終え、岩手から千葉に帰って参りましたので、レポートです。まずは一昨日、花巻の宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」。午後2時過ぎ、東北新幹線新花巻駅に着き、コインロッカーに荷物を放り込み、歩くこと20分ほど。同じエリアの宮沢賢治記念館さん、花巻市立博物館さんともども、何度か訪れた場所でした。

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これには驚きました。

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さて、館内へ。展示スペースはあまり広くなく、こぢんまりした展示でしたが、内容の濃いものでした。

黄瀛は中国人の父と日本人の母を持ち、日本で青少年期を過ごした詩人です。光太郎の知遇を得、草野心平を光太郎に紹介する橋渡しを務めたり、ここ花巻で晩年の宮沢賢治に会ったりしたこともあります。戦中戦後は日中戦争や国共内戦、さらに文化大革命の嵐に翻弄され、長い獄中生活を送ったりもしましたが、晩年は名誉回復、日中の文学的交流の架け橋となりました。

黄瀛をメインにした企画展というのは、おそらくこれが初めてなのではないかと思われます。黄瀛の人となり、文学的功績などに関わる様々な展示がなされ、光太郎が序文を書いた黄瀛詩集『瑞枝』や、光太郎作の黄瀛像を表紙に使った雑誌『歴程』など、興味深く拝見しました。

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また、賢治と黄瀛の作品が、同じ雑誌に並んで掲載されているというケースが何度かあり、お互い影響しあっていたような点も見られ、ほう、と思いました。

何より、解説パネルが充実しており、感心いたしました。また、拝観後に購入した図録に、そのパネルの文章がそのまま使われていて、これは貴重な資料になります。モノクロ印刷と云うこともあって、たった300円。これは非常に得をした気分です。

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これを機に、もっともっと黄瀛について、世に知られるようになって行ってほしいものです。

上記画像の通り、10月15日(金)までと、長い開催期間になっています。ぜひ足をお運びください。


その後、また歩いて新花巻駅へ。ちょうど釜石線の快速はまゆり号盛岡行きがあり、新幹線を使うより安く済みました。盛岡についてはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

おのづから雲こごりきて夏の夜(よ)の明神嶽の尾根をはなれず

                                                                                  
制作年不詳

やはり草枕の覊旅歌。「明神嶽」は信州上高地付近に聳える山ですので、智恵子と共に上高地を訪れた大正2年(1913)頃の作かも知れません。

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昨日から岩手県の県都盛岡に来ています。

宿泊は北ホテルさんというところで、戦後に光太郎が来盛した際に常宿にしていた菊屋旅館さんの後身です。

メインの目的は、今日、盛岡少年刑務所さんで開催された第39回高村光太郎祭。当方が講演を仰せつかり、先程、つつがなく終えました。

明日は帰りますが、花巻で途中下車、高村光太郎記念館さんに立ち寄ります。明後日から開催される企画展「智恵子の紙絵」の報道向け内覧会がありますので、そちらに顔を出して参ります。

その他色々と用事を済ませて参りました。詳細は帰ってからレポート致します。


【折々の歌と句・光太郎】

はかなかる旅の行方は明日もあり思ふは今よ風草に吹け

                                                       明治34年(1904) 光太郎19歳


草枕の歌。盛岡はさすが東北、晴れていますが風が爽やかです。

昨日の続きになります。光太郎が晩年の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村に建つ、高村光太郎記念館を運営されている花巻高村光太郎記念会さんからのいただきものをご紹介します。

旧太田村の高村光太郎記念館とは別に、花巻市街桜町、光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑近くに桜地人館があります。光太郎没後すぐ、現在の花巻高村光太郎記念会を立ち上げた総合花巻病院長だった故・佐藤隆房氏のコレクションなどが展示されています。今年5月に行われた花巻市主催の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」の行程にも入っており、久々に訪問いたしました。その際のレポートがこちら

そちらのパンフレットも新しいものが作られ、送られてきました。A4判横長三つ折り、両面カラー印刷です。


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佐藤隆房と直接親交があった光太郎・賢治の関連の品々、それ以外にも岩手を代表する芸術家ということで、萬鉄五郎や舟越保武の作品などが展示されています。また、パンフレットには紹介されていませんが、光太郎・賢治と繋がっていた草野心平の書、館の前庭には高田博厚作の佐藤隆房像なども。


それからもう一点、今年2月に放映されたテレビ岩手さんの情報番組、「5きげんテレビ」を録画したDVDもいただきました。前述の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」の際に拝見し、「下さい」とお願いしておいたものです。

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この番組は、平成25年(2013)にNHKさんで放映された連続テレビ小説「あまちゃん」に登場した架空のテレビ局・「岩手こっちゃこいテレビ」制作という設定の架空の番組「5時だべ わんこチャンネル」のモデルとも云われています。

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岩手県ご出身の福田萌さんが、司会者の福田萌さん役で(笑)ご登場なさっていました。


さて、本家「5きげんテレビ」。賢治生誕120年にちなむシリーズの一環で、「賢治と光太郎」という切り口での放送でした。レポーターは六串しずかさんという方。

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まずは旧太田村の高村光太郎記念館の紹介。

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「賢治と光太郎」ということで、展示品の中のこんなものも。

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賢治の実弟・清六と光太郎が編集し、装幀・題字も光太郎が手がけた日本読書購買利用組合(のち、日本読書組合)版の『宮沢賢治文庫』です。テロップが誤っており、発行は昭和21年(1946)~24年(1949)です。こちらは元々当方の蔵書で、記念会さんにお貸ししています。

昨年のNHKさんの「歴史秘話ヒストリア ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」の回では、やはり当方がお貸しした『智恵子抄』が写りましたが、妙な気分です。

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閑話休題。続いて記念会さんで取り組んだ、光太郎日記を元にした、光太郎の食事の再現。

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これで朝昼晩の三食分ですが、そば粉パンやら馬肉入りの汁物やら、なかなか豪勢です。

さらに記念館に隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)からのレポート。当時を知る地元の方々もご出演なさり、光太郎との思い出を語って下さっていました。

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こんなコーナーもありました。

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視聴者の皆さんは、リモコンの赤青黄のボタンを押す、ではなく、電話で参加。スタジオにオペレーターさんたちがいらっしゃる、という点で笑えました。

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さて、問題は……。

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これだけだと、①、②、③、全て正解ですが、光太郎が好きで、なおかつ旧山口小学校の校章デザインに使われた、という条件がつきます。おわかりでしょうか。

正解はこちら。

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上記の幔幕は、詩集『典型』(昭和25年=1950)が第2回読売文学賞に選ばれた際の賞金が化けたものです。デザインの原案も光太郎です。

締めは高村光太郎記念館、高村山荘の案内。

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ぜひとも全国ネットでも放映してほしいような内容でした。


上記の桜地人館ともども、ぜひ足をお運び下さい。



【折々の歌と句・光太郎】

少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし
明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学からの帰国直後、昨日も同趣旨の短歌をご紹介しましたが、日本人女性をこきおろす短歌が数多く作られました。

女性の皆さん、気を悪くなさらないで下さい。あくまで光太郎独自の感想ですので、当方の見解とは異なります(笑)。

光太郎が晩年の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村に建つ、高村光太郎記念館を運営されている花巻高村光太郎記念会さんから、いろいろといただきものがありましたので、ご紹介します。

まず、記念館および隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)の新しいパンフレット。

A4判を横に2枚繋げた大きさで、両面カラー印刷、折りたたみ式。

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おおむね見開き2ページずつで一つの面になっています。

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なかなかの情報量ですし、よくまとまっています。また、QRコードが印刷されており、スマホで読み込むと、記念館内の360度ビューが見られるとのこと。ハイテクです。


過日ご紹介しましたが、花巻高村光太郎記念館さんでは、来週末から企画展「智恵子の紙絵」が開催されます。
下記は今月号の「広報はなまき」に載った案内です。

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ぜひ足をお運びのうえ、新しいパンフレットもご入手下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり

明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学から帰国直後の作。日本女性に対しても、光太郎は絶望していました。

岩手県花巻市の高村光太郎記念館さんからの企画展情報です。 

高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵

期 日 : 平成28年7月15日(金)~11月23日(水祝)
時 間 : 8:30~16:30
場 所 : 高村光太郎記念館(花巻市太田3-85-1)
概 要 : 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎の妻、智恵子。
      その智恵子が晩年制作していた紙絵を展示する企画展。
入館料 : 高村光太郎記念館・高村山荘 一般550円、高校生・学生400円、小中学生300円
連絡先 : 高村光太郎記念館 0198-28-3012

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。その妻、智恵子は雑誌『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、新鋭の画家として注目されるなか光太郎と出会い、結ばれました。結婚後、智恵子は自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散が重なり、心の病に侵され睡眠薬で自殺を図ります。一命は取りとめたものの長い療養生活に入り、その後回復することはなく、昭和13年に入院先のゼームス坂病院でこの世を去ります。享年数え53歳の生涯でした。
 晩年の智恵子は作業療法として身の回りにあった色紙や包装紙など、様々な紙をマニキュア鋏で切りぬき、台紙に貼りつける「切り抜き絵」を多く制作します。それらは光太郎ただ一人に見せるために作られました。後に光太郎は智恵子の遺作となった切り抜き絵を「紙絵」と名づけました。太平洋戦争の空襲で光太郎はアトリを全焼し自身の作品の多くが焼失しましたが、智恵子の紙絵は花巻など地方に疎開させていて難を逃れました。
 智恵子が生み出し、光太郎が守り抜いた紙絵、紙絵の疎開先であり、詩集「智恵子抄その後」が送り出された当地で開催する企画展で、繊細な表現と独自の色彩感覚を持つ智恵子の紙絵をご覧いただき、光太郎と智恵子の思いを感じていただければ幸いです。

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というわけで、智恵子生誕130年を記念し、紙絵の現物が展示されます(複製も)。

過日、その打ち合わせのため、記念館のスタッフお二方と共に、千駄木の高村家に行って参りました。紙絵の大半は今も高村家に保管されています。
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一昨年、光太郎の令甥にあたり、永らく高村光太郎記念会理事長を務められていた写真家の村規氏が亡くなり、今は令息でやはり写真家の達氏が高村家を守られています。

搬入、搬出の日程やら、展示方法等の確認などをして参りました。額装はせず、そのまま斜めに置いて展示すること、作品保存のため、2週間くらいのスパンで作品を入れ替えること等々。紙絵は昭和11年(1936)~同13年(1938)の間に制作されたと推定され、80年が経過しようとしています。もともと高級な紙を使用しているわけでもなく、一日出せばその分褪色するという、非常にあえかな作品です。そのため、展覧会等で現物を出す場合には、照明を落としたり、その照明も熱を発しないものにしたりと、細やかな配慮が必要です。

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現物の何枚かを、手に取らせていただきました。見たことは何度もありますが、触れるのは初めてで、感動しました。約80年を経た智恵子の息遣いが聞こえてきそうでした。

また近くなりましたら改めてご紹介しますが、信州安曇野の碌山美術館さんでも、この夏、智恵子の紙絵現物が展示されます。こちらは「夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」(7/23~8/28)においてです。

さらに智恵子の故郷・福島二本松でもこの秋に歴史資料館さんで、企画展「智恵子と光太郎の世界展」があり、そちらでも(或いはそれに合わせて智恵子記念館さんで)紙絵の現物が展示されます。

以前にも書きましたが、色彩の美は複製で感じられるものであっても、紙絵の現物は、厚さ1ミリに満たない中にも紙の重なりによる立体感が感じられ、これは複製にはないものです。

いずれかの機会に、実際にご覧になることをお勧めします(欲をいえば、3つの機会とも)。


【折々の歌と句・光太郎】001

よび鈴をそつと鳴らして逃げし子はいま横丁をまがらんとする
大正15年(1926) 光太郎44歳

昭和20年(1945)の空襲で全焼した駒込林町のアトリエ。上記の実家とはほとんど背中合わせのような位置関係でしたが、実家は焼け残り、アトリエは灰燼に帰しました。

玄関入り口には紐を引くと中でカランと鳴る呼び鈴があったそうで、それを鳴らすと光太郎か智恵子が玄関脇の小窓を開けて顔を出したそうです。

大正末にはすでにピンポンダッシュの悪戯があったのですね。90年前にそんな子供が近所にいたんだと思いつつ、千駄木の街を歩きました。

一昨日の『岩手日日』さんの記事から。 

花巻の魅力 知って 観光協会 地元塾教本を発行

 花巻観光協会(佐々木博会長)は、冊子「はなまき地元塾教本」を発行した。花巻市内外の人たちに花巻の魅力を知ってもらおうと、市内の歴史や文化を分かりやすくまとめたもので、多くの活用に期待を込めている。
 市内の歴史や文化、先人、イベント、特産物などの知識を深めてもらうことを狙いに、同協会を構成する企業や団体、個人合わせて390会員向けに製作。会員には旅館など、観光客と関わる企業などもあることから、花巻について再認識するとともに、もてなしの一つの手段として役立ててもらうことを想定している。
 同協会が主催している「はなまき通検定」のテキストを基に編成。冊子は▽あなたは知ってるね?花巻市の概要▽歴史を感じる文化財▽技と味な特産品▽キラリと輝く先人達▽にぎわいイベント▽知ってソン(損)のない?雑学―の6項目で構成している。
 このうちキラリと輝く先人達では、宮沢賢治や高村光太郎、多田等観など10人余りについて、年表や写真などを用いて人柄や経歴を説明。史実などは、関係機関やボランティアガイドなどの協力を得て盛り込んだ。
 このほか、市内の民俗芸能や名産、方言などの雑学も分かりやすく掲載。主なイベントを月ごとに紹介するなど、分かりやすさを意識して作製した。
 同協会の髙橋誠吾さんは「花巻の魅力を再認識し、新たな発見にもつながればいい。市外の人にとっては、冊子が花巻を知る足掛かりになってほしい」と願っている。
 冊子はA4判で82ページ。一般販売用に300冊を用意。価格は税込みで一冊500円。同市葛の市交流会館内の同協会事務所やJR花巻駅内の花巻観光案内所、JR新花巻駅内の花巻観光センターで扱っているほか、遠方からの注文には郵送などの相談に応じる。
 問い合わせ先は同協会=0198(29)4522=。


旧太田村を含め、光太郎が足かけ8年を過ごし、第二の故郷ともいうべき花巻。宮沢家との深い交流もあり、花巻では花巻生まれではないものの、光太郎を地元の偉人の一人として扱って下さっています。

記事にもう一人名の上がっている多田等観も、光太郎と縁がありました。

等観は光太郎より7つ年下の明治23年(1890)生まれの僧侶。明治末から大正にかけて、チベットで修行し、チベット大蔵経全巻などの貴重な資料を携えて帰国しました。光太郎同様、花巻(旧湯口村)の円万寺に疎開、隣村にいた光太郎との行き来がありました。

ちなみに花巻市博物館さんでは、現在、テーマ展示「多田等観展~等観が辿った道」を開催中です(7/3まで)。

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こちらは光太郎が等観に贈ったうちわ。「悠々無一物満喫荒涼美 高村光太郎 太田村山口 光」の揮毫が入っています。左の方は、昭和20年(1945)の花巻空襲で宮沢家を焼け出された光太郎を、一時期自宅に住まわせてくれた、旧制花巻中学校元校長・佐藤昌の揮毫です。

花巻に残された等観の遺品等は花巻市博物館さんに収められているはずですので、このうちわも含まれているのではないでしょうか。

それはさておき、『はなまき地元塾教本』、記事にあるとおり、花巻市各所で取り扱っている他、花巻観光協会さんに申し込みも出来るようです。来月にはまた花巻に行って参りますので、入手してこようと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

ちちはははわが顔を見てはらはらと落つるなみだをかくし玉はず

明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半に及ぶ欧米留学からの帰国直後に詠まれ001たものと推定されます。画像はこの頃の両親です。後ろに写っているのは、光太郎作の「光雲還暦記念胸像」。

こうした部分での親心には感謝しつつも、西洋で世界最先端の本物を見てきた光太郎、江戸仏師の流れを汲む光雲とは、芸術上の異なる道を歩み始めざるを得なくなります。

明治43年(1910)、『スバル』に発表された「出さずにしまつた手紙の一束」から。

親と子は実際講和の出来ない戦闘を続けなければならない。親が強ければ子を堕落させて所謂孝子に為てしまふ。子が強ければ鈴虫の様に親を喰ひ殺してしまふのだ。ああ、厭だ。(略)僕を外国に寄来したのは親爺の一生の誤りだった。(略)僕は今に鈴虫の様なことをやるにきまつてゐる。

最晩年の昭和29年(1954)、『新潮』に載った「父との関係」から。

 「父と子」の問題はギリシヤこのかた、この世に於ける最もむつかしい、解決に苦しむ関係の一つである。それは時代のもつれにかかはり、遺伝の入り交じりつながり、個と個との相反親和、処世と信念との衝突妥協の微妙な有機的因縁に左右せられ、その上、親子の愛といふ本能的原始感情が加はつて、大局は一つの運命といふやうな形となつてこの問題に被ひかぶさつてくる。
 小さくはあるが、私たちも亦私たちなりに苦しんだ。

今日は「父の日」だそうで。

昨日、光太郎や宮沢賢治と交流のあった詩人・黄瀛の評伝『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』をご紹介しました。

その関係で、黄瀛についてネットで調べていたところ、現在、黄瀛をメインに据えた企画展が開催されて居ることに気付きました。4月から始まっていましたが、気付きませんでした。

『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』著者の佐藤竜一氏が理事を務める「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」さんの主催です。 

宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展

会  期 : 2016/04/15~10/13
会  場 : 宮沢賢治イーハトーブ館 岩手県花巻市高松1-1-1
時  間 : 8:30から17:00
料  金 : 無料

中国人を父に、日本人を母に重慶に生まれた。
日本語で詩を書き、大正時代に詩壇の寵児として活躍、宮沢賢治とは草野心平が始めた雑誌『銅鑼』を介して知り合う。
中国での宮沢賢治研究のいしずえを築いた。

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関連行事

ギャラリートーク「黄瀛と宮沢賢治」

7月2日(土)13001630

 13:00~13:30 「黄瀛の生涯」佐藤竜一(宮沢賢治学会理事)
 13:30~14:00 「黄瀛研究の現状」守屋貴嗣(法政大学非常勤講師)
 14:00〜14:30 「黄瀛と宮沢賢治」岡村民夫(宮沢賢治学会副代表理事)
 14:30〜14:40  質疑応答
 14:50〜16:20 
 ビデオ鑑賞
         「詩人・黄瀛さんを知っていますか」(1991.11.16全国放映)
         「詩人・黄瀛からの伝言」(1994.7.2、全国放映)

黄瀛、なかなかスポットライトの当たることのない詩人ですが、これを機に、彼の数奇な人生と、その特異な詩的世界についての認識が広まってほしいものです。

展示や関連行事のトークでも、光太郎に触れられると思います。

来月、盛岡に行く予定がありますので、時間を見つけて寄ってみようと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

毒うつぎ花は美くし旅のひといづみくむ手に物を欲(ほ)りすな

明治38年(1905) 光太郎23歳

「毒うつぎ」は、その名の通り強烈な毒草です。

その花をモチーフとし、『伊勢物語』を下地にした架空の恋物語を連作短歌にしたうちの一首です。

一昨日のこのブログでご紹介した、渡辺えりさんから花巻の高村光太郎記念館への資料ご寄贈の件、昨日の『岩手日日』さんに報道されました。 

光太郎ありき 父の人生 女優・渡辺えりさん ゆかりの資料を記念会へ

 演出家、劇作家としても活001躍する女優の渡辺えりさんが、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの資料2点を、花巻市の花巻高村光太郎記念会に寄贈した。資料は光太郎に心酔していた渡辺さんの父・正治さんに宛てられたはがきと署名入りの詩集「道程」。はがきは、かつて光太郎が稗貫郡太田村(現在の同市太田)で暮らしていた頃のもので、当時がしのばれる貴重な資料となっている。
 贈呈式は盛岡市渋民の姫神ホールで4日、生誕130年を迎えた同市出身の歌人・石川啄木をしのぶ「啄木祭」の閉会後に行われた。記念会の高橋邦弘業務執行理事が、講演や対談のためホールを訪れていた渡辺さんから資料を受け取った。
 渡辺さんらによると、詩集は終戦間近の1945(昭和20)年4月10日に、光太郎が東京のアトリエで正治さんにプレゼントした。安否確認で来訪した正治さんに、「記念に」とサインし手渡したという。米軍の空襲でアトリエが焼失する数日前のことだった。
 当時10代後半だった正治さんは、軍需工場で航空機の製造に携わっていた。空襲により生きた心地がしなかった時、戦争賛美の詩「必死の時」をそらんじたことで不思議と恐怖心が和らぎ、作者の光太郎に心酔するようになったという。
 はがきは戦後、古里の山形県で精進していた正治さんからの便りを受けたとみられる47年11月30日付の返信で、住所地は太田村。「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでいくやうに見えます」など後進を激励する内容で、当時の心境や思いがしのばれる貴重な資料と言える。
 記念会への寄贈は2000年に正治さん、13年に渡辺さんが、それぞれ花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた「高村祭」で講演した縁もあって実現した。
 ゆかりの資料について渡辺さんは「父は、自分は光太郎のおかげで生きていると常々話していた。はがきとサイン入りの本は父の人生そのもの」と話した。
 記念会では準備が整い次第、花巻市太田の高村光太郎記念館で資料を公開する方針。高橋理事は「貴重な本とはがきの寄贈で本当にありがたい。正治さんの意向に沿うよう取り扱いたい」とし、光太郎の人柄をより深く知る資料として丁重に扱う考えを示している。
 贈呈式には、市生涯学習課の市川清志課長や高村光太郎記念館職員の新渕和子さん、生前の光太郎と交流のあった高橋愛子さんらも出席。盛岡市渋民の石川啄木記念館の森義真館長も立ち会った。


記事にある戦時中の正治氏の光太郎訪問体験は、株式会社文伸さん刊行の『戦時下の武蔵野 Ⅰ 中島飛行機武蔵製作所への空襲を探る』という書籍に詳しく書かれています。

その頃、渡辺正治氏がそらんじていたという光太郎詩「必死の時」は、以下の通り。昭和16年(1941)の作です。戦時中には旧制中学校の教科書にも採用されていました。

  必死の時002

必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋としてゆたかなのは
われら民族のならひである。
 
人は死をいそがねど
死は前方から迫る。

死を滅すの道ただ必死あるのみ。
必死は絶体絶命にして
そこに生死を絶つ。
必死は狡知の醜をふみにじつて
素朴にして当然なる大道をひらく。003
天体は必死の理によって分秒をたがえず、
窓前の茶の花は葉かげに白く、
卓上の一枚の桐の葉は黄に枯れて、
天然の必死のいさぎよさを私に囁く。
安きを偸むものにまどひあり、
死を免れんとするものに虚勢あり。
一切を必死に委(ゐ)するもの、
一切を現有に於て見ざるもの、
一歩は一歩をすてて
つひに無窮にいたるもの、
かくの如きもの大なり。

生れて必死の世にあふはよきかな、
人その鍛錬によつて死に勝ち、
人その極限の日常によつてまことに生く。
未練を捨てよ、
おもはくを恥ぢよ、
皮肉と駄々をやめよ。
そはすべて閑日月なり。
われら現実の歴史に呼吸するもの、
今必死のときにあひて、
生死の区区たる我慾に生きんや。
心空しきもの満ち、
思い専らなるもの精緻なり。
必死の境に美はあまねく、
烈々として芳しきもの、
しずもりて光をたたふるもの
その境にただよふ。
 004
ああ必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋々としてゆたかなのは
われら民族のならひである。


戦後、岩手花巻郊外太田村の山小屋に蟄居し、自らの戦争責任を反省する中で、この詩を書いたことも思い起こされます。

  わが詩をよみて人死に就けり 
 
爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の大腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向かつた。
その詩を毎日読みかへすと家郷へ書き送つた
潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 

光太郎にとっては、「必死の時」はまったくの「負の遺産」だったわけですね。

昭和16年(1941)に「必死の時」を書いた時点では「爆弾は私の内の前後左右に落ちた。/電線に女の大腿がぶらさがつた。/死はいつでもそこにあつた。」という状況ではなかったはずですが、戦時中、求められてこの詩を揮毫して人に贈ったことがありました。おそらく複数回あったのではないかと思われます。そこで「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になつて私は書いた。」わけです。
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そのあたり、えりさんもおわかりのようで、啄木祭のご講演での、「今は啄木も想像しないような世の中になってきたのではないか」と言い、「文化人を残すためにも平和教育を受けた私たちが戦争を食い止めなければいけない」(『朝日新聞』)というご発言につながるのでしょう。えりさんの書かれた、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」も、光太郎の戦争責任にスポットを当てた内容でした。

光太郎を考える上で、避けて通れない問題でしょう。


【折々の歌と句・光太郎】

ああ我はDAHLIA(ダリア)の花を賞づるにも人を離れて思ひがたかり
明治42年(1909) 光太郎27歳

最近、ダリアの花というのもあまり見かけなくなったような気がします。昔はセレブの庭には必ずあり、光太郎も智恵子の実家、福島の長沼家に球根を贈り、それが咲いた際には近隣の住民が見物に来たというエピソードもあります。

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こちら、愛犬の散歩中に見かけました。庭ではなく、畑の一角に咲いていました(笑)。

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先週土曜日、岩手盛岡で、「啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~」が開催され、連翹忌ご常連でもある女優の渡辺えりさんが、「わたしの啄木・賢治・光太郎」と題するご講演、対談をなさいました。
 

啄木の世界観ひもとく 盛岡、渡辺えりさんが講演

 盛岡出身の詩人石川啄木をしのぶ啄木祭(同実行委主催)は4日、盛岡市渋民の姫神ホールで開かれた。地元小中学生やコーラスグループの発表のほか、舞台で啄木の母カツを演じた劇作家で女優の渡辺えりさんが講演し、啄木の世界観をひもといた。
 渋民小児童のドラムマーチで開演し、同校鼓笛隊が啄木作詞の「ふるさとの山に向ひて」など3曲を披露。渋民中の生徒たちは啄木の詩を題材にした群読劇で「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」とかみしめるよう朗読。啄木の心象を表現した。
 渡辺さんは「わたしの啄木・賢治・光太郎」と題し講演。啄木と賢治の共通点として友人たちが作品を広めたことを挙げ、「応援してくれる人たちがいなければ、私たちは詩を読むこともなかったのかも」と交友関係の広さを語った。
 渡辺さんと石川啄木記念館(同市渋民)の森義真(よしまさ)館長との対談では、自身が演じた母カツの人柄について「役作りをしながら、カツは本当に啄木のことを手放しで愛していたのだと感じた」と役者の目線で啄木像に触れた。
(『岩手日報』)
 

渡辺えりさん 啄木祭で講演

 生誕130周年を迎えた歌人石川啄木の業績をたたえる啄木001祭が4日、盛岡市の渋民文化会館であった。
 劇作家、演出家、女優として活躍する山形市出身の渡辺えりさんが「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演。以前、井上ひさしの戯曲「泣き虫なまいき石川啄木」の上演で啄木の母カツを演じた際、背負われた時のことや啄木の歌などを引き合いに出し、観客の笑いを誘っていた。
 渡辺さんは「今は啄木も想像しないような世の中になってきたのではないか」と言い、「文化人を残すためにも平和教育を受けた私たちが戦争を食い止めなければいけない」と力を込めた。
 市立渋民小学校の鼓笛隊による演奏や、渋民中学校の生徒が演じる啄木の詩を題材にした群読劇なども披露された。(金本有加)
(『朝日新聞』)

 

啄木憎めない人柄…生誕130年で渡辺えりさん

 生誕130年を迎えた盛岡市出身002の歌人・石川啄木をしのぶ「啄木祭~母を背負ひて~」が4日、同市の姫神ホールで開かれた。女優の渡辺えりさん=写真=が「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演し、約520人が耳を傾けた。
 渡辺さんは生前はほぼ無名だった啄木について「金田一京助など死後、作品を世に出してくれる友人に恵まれた」と、同じ県出身の宮沢賢治との共通点を指摘。啄木が多くの友人から借金をするなど奔放な生活を送っていたことについては「悪人なら友人がいないはず。憎めない人柄だったに違いない」と推し量った。
 また、井上ひさしの戯曲「泣き虫なまいき石川啄木」で母カツを演じたことに触れ、「啄木を目に入れても痛くないというほど大事にしていた。心から啄木を応援していたと思う」と役作りを振り返った。
(『読売新聞』)


記事にはありませんが、えりさんのお父様、渡辺正治氏無題2が光太郎と戦中戦後に面識がおありで、さらに宮沢賢治ファンだったということもあり、劇作家でもあるえりさんは、光太郎を主人公とした月にぬれた手、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。

そして今回のご講演、最近、お父様のお加減がよろしくないとのことで、涙ぐまれながら、お父様に関するお話をご披露なさったとのことを、参会された方からメールで教えていただきました。

えりさんからも翌日、「無事に好評のうちに終わりました」とメールを頂きました。


その後、えりさんから花巻の高村光太郎記念館へ、資料の贈呈が行われました。

お父様が戦時中に光太郎から贈られた、サイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)、戦後に光太郎から届いたハガキをご寄贈下さいました。

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先月でしたか、お電話を頂いた際、これらの寄贈先を探しているというお話で、都内の文学館などもご紹介しましたが、ハガキの方は賢治にも触れている内容ですし、発送元が花巻郊外旧太田村ですので、結局、花巻にご寄贈下さいました。えりさんは、平成25年(2013)、お父様も平成12年(2000)に、花巻高村祭でご講演なさっているというご縁もあります。いずれ花巻の記念館で展示されると思います。

同館では、この夏、企画展「智恵子の紙絵」を開催しますし、現在、館としてのあらたな出版物2種類、当方が校正中です。

それぞれまた詳細は後ほどお知らせいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき酒ありてわれをよぶのまざらめやも酔はざらめやも

昭和24年(1949) 光太郎67歳

以前も同一題の短歌をご紹介しましたが、山形出身の渡辺えりさん父子にちなんで。

月が改まりまして6月となりました。

光太郎とゆかりのある岩手県花巻市、青森県十和田市。それぞれの広報紙の今月号から。

まずは花巻市の『広報はなまき』。先月15日に行われた第59回高村祭のレポートが掲載されました。

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前日に行われた「高村光太郎記念館講座 高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」についても載るかな、と思っておりましたが、残念ながらそちらは掲載されませんでした。

双方に関する当方のレポートはこちら


続いて青森県十和田市の『広報とわだ』。十和田八幡平国立公園の十和田・八甲田地域が国立公園指定80周年を迎えたということで、今月号から「受け継がれる歴史 十和田・八甲田」という連載が始まりました。

第一回は「十和田と大町桂月」。

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 十和田国立公園(現十和田八幡平国立公園十和田八甲田地域)指定80周年を迎えました。
 桂月が、明治41年に初めて十和田を訪れて著した「奥羽一周記」は大正天皇(当時の皇太子)にも感動を与え、全国に十和田の名を知らしめました。晩年には「十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願」という請願文を起草し、国立公園の指定にも貢献しています。
 十和田国立公園指定15周年を記念して建立された「乙女の像」は、十和田の観光開発に功績のある桂月、県知事武田千代三郎、地元の村長で県議会議員小笠原耕一の3氏を顕彰したものです。
 桂月は、十和田の紀行文、漢詩、和歌など多く残しています。上の写真の歌は、桂月が好んで揮毫(きごう)したものです。晩年には、「山は富士 湖水は十和田 広い世界に ひとつづつ」「住まば日本(ひのもと) 遊ばば十和田 歩きゃ奥入瀬三里半」と、推敲しています。
 この二つの歌が、初めて文献に登場するのは、4回目の訪問で定宿の蔦温泉に滞在中の大正11年8月29日の日記です。   【文責・大町桂月を語る会】


十和田湖の景勝美を初めて中央に紹介した大町桂月。昭和28年(1953)に除幕された光太郎作の「乙女の像」は、記事にあるとおり、桂月ら3人の顕彰のためのものでした。

以下、当会顧問北川太一先生の談話筆記から。実際に光太郎から聴いた話の紹介です。

 大町桂月と高村さんは、早くから直接面識がありました。しかし、桂月は若い頃に高村さんが加わっていた新詩社の与謝野鉄幹とか晶子とかとは、むしろ反対の立場でした。鉄幹は『文壇照魔鏡』事件の時に桂月と喧嘩したことがあったし、晶子の詩「君死に給ふことなかれ」を桂月は「非国民」だと言って非難した。
 高村さん自身も「僕もよく知っていた。桂月に怒鳴られたこともあるし、十和田湖のモニュメントにしても、桂月がもし生きていて、僕が裸の女の人を造ると言ったら、必ず憤慨して『なぜこんなものを造った』と怒られただろう」と言っています。
 (略)
 高村さんは、十和田湖の景色にものすごく感動しています。大町桂月も同じく十和田湖の景色に感動した。だから自分の感動をそのまま表現すれば、それは大町さんだって喜んでくれるだろうという思いがあった。
(『十和田湖乙女の像のものがたり』 十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会 平成27年=2015)


さて、『広報とわだ』さんの連載、いずれは光太郎も紹介していただけるでしょう。注意していたいと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

雲まよふ刀根(とね)のゆふべの真菰舟なにか悲しき風のおもひぞ
明治35年(1902) 光太郎20歳

「(以下五首常陸の旅の歌の中に)」という詞書きがついています。「刀根」は「利根」、千葉、茨城県境を流れる利根川です。また、連続する他の歌の中に「出島」の語が使われており、かつて利根川につながる霞ヶ浦沿岸に「出島」という地名がありました。ただ、地名ではなく、「小さな半島状の地形」の意味で使われているかも知れません。

明治35年(1902)のこの旅行の記録が残っておらず、どのあたりを回ったのか不明です。「出島」が地名として使われているのであれば、当方の住む千葉県香取市にそう遠くない場所です。利根川も当方自宅兼事務所から2㎞足らずのところを流れています。もしかすると104年前に当地の近くを舟で通ったのかも、と思っています。

「真菰」は「まこも」と読み、水辺に生えるイネ科の草です。かつては食用や眉墨、お歯黒の原料などに使われ、それを刈るための小舟を「真菰舟」と言っていました。夏の季語です。

昨日、生活圏の新刊書店にて、光太郎に少しだけ触れている書籍を2冊、買って参りました。

まずは雑誌『サライ』の6月号。

『サライ』6月号「生誕120年記念 今こそ、宮沢賢治」

2016/05/10 小学館 定価700円

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今年の8月に生誕120年を迎える宮沢賢治(1896~1933)。生まれ育った岩手県花巻市を中心に様々な記念行事が予定されていますが、いま、賢治の生き方や作品が再び注目されています。また、東日本大震災の被災地でも賢治は読まれているそうです。

『サライ』6月号の特集は「今こそ、宮沢賢治」と題して、作家の池澤夏樹さん、映画作家の大林宣彦さん、漫画家の松本零士さんをはじめ、賢治作品に影響を受けたという著名な方々に、賢治との出会いと作品の解釈、それぞれの賢治像を語っていただきながら、「いま、なぜ宮沢賢治か」をひもといていきます。

社会学者の見田宗介さんは賢治が今なお多くの人々に読まれている理由として、作品に共通する「人間は生きて在るだけでいい」という考えに共感し救われているからと語ります。また、それは経済的な豊かさを追い求めてきた人々が、従前とは異なる幸福感を考え始めているからだとも述べています。

賢治が生きた時代、日本は戦争への道を進み、故郷・岩手は自然災害にたびたび見舞われました。29歳で農学校の教職を辞し、花巻に「羅須地人協会」を設立。自らも一農民として後半生を農業の発展に寄与する道を賢治は選びます。農民に肥料の相談や指導を無料で行ないながら、自らの考えも説いたのです。

<世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない>
賢治の弟・清六の孫にあたる宮澤和樹さんは、「賢治さんは、自らが率先して実践することで、各人が他人のことを考えて行動し、歩みを進めれば、夢の国『イーハトーブ』は実現できると考えていたのではないでしょうか」と賢治の心の内を代弁します。

本特集では、今も賢治作品に刺激を受け続けているという作家の夢枕獏さんが、岩手県内に賢治ゆかりの地を訪ね歩いています。賢治の世界を肌で感じた夢枕獏さんは、こう言いました。
「災害やテロなど、世の中が混沌としている今だからこそ、賢治の言葉が私たちの心に刺さります」
人は繋がりで生きています。そして、私たちはひとりではありません。誰もの心に賢治の言葉があれば、本当の幸せの花が咲くのです。宮沢賢治が私たちに残してくれたいくつものメッセージにもう一度耳を傾けてみてはいかがでしょうか。


実際に会ったことは一度だけながら、お互いにその詩的世界を認め合い、足かけ8年にわたる光太郎の花巻近辺での生活を実現させた宮沢賢治の特集です。

「イーハトーブ対談 賢治が本当に伝えたかったこと」というコーナーで、作家の夢枕獏氏と、賢治の弟である清六の令孫・宮澤和樹氏の対談で、賢治を見いだし、世に広めるのに一役買った光太郎に言及されています。和樹氏、ことあるごとに光太郎の功績を語って下さり、有り難く思っております。

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また、やはり夢枕さんによる「宮沢賢治の「心」と「風景」を歩く」という紀行文では、旧太田村の山小屋(高村山荘)が紹介されています。

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ちなみに夢枕さんといえば、「智恵子抄」を愛読する、心優しい巨漢の豪傑を主人公とした『怪男児』というエンタメ小説を、かつて執筆なさっています。

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その他、賢治・光太郎ともに愛した大沢温泉さんや、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑など、光太郎がらみの場所も紹介されています。


もう1冊。

月に吠えらんねえ(5)

清家雪子著 2016/5/23 講談社(アフタヌーンKC) 定価740円+税

萩原朔太郎作品のイメージから生まれた「朔くん」、北原白秋作品から生まれた「白さん」、室生犀星作品から生まれた犀。戦中詩を強要され苦しむ朔、□(シカク)街と朔の関係を追求する白、戦場の悲劇を目撃し続ける犀、3人の詩人たちは近代日本の闇に直面する。膨大な資料を下敷きにした、話題集中の近代詩歌俳句エンターテインメント、あいかわらず独走中!

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萩原朔太郎をモデルとした「朔」を中心に、幻想の街・□(シカク)街に交錯するさまざまな文人たちを描くコミックの第5巻です。昨年刊行された第4巻では、アッコさん(与謝野晶子)とチエコさん(高村智恵子)が表紙を飾り、第17話「あどけない話」では、コタローくん(光太郎)とチエコさんがメインのストーリーになっていました。

5巻では、コタロー君とチエコさんは直接登場しませんでした。が、「朔」が幻想の中で、日本近代詩史を辿るという場面に、光太郎詩「牛」、そして「敵ゆるすべからず」が使われています。

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「社会が最上と認めるものが芸術の価値ならば 日本近代詩の頂点は あの無惨な 響きも実験精神も何もない 雰囲気に追い立てられ無理に生み出された出来損ないの 戦争の詩なんだよ」という「朔」のセリフ。なかなか鋭い考察です。


『サライ』、『月に吠えらんねえ』、ともに新刊書店で普通に販売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

朝焼けやぬるき南のしめり風海より吹きて初夏は来ぬ
明治40年(1907) 光太郎25歳

昨日の関東では、真夏日を記録した所もありました。今日も暑くなりそうです。

先週末、花巻でチラシを入手して参りました。

啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~

日 時 : 平成28年6月4日(土) 13:30開演 (13:00開場)
場 所 : 姫神ホール(盛岡市渋民公民館)  盛岡市渋民字鶴塚55番地
講 演 : 「わたしと啄木・賢治・光太郎」渡辺えり氏(劇作家・演出家・女優)
対 談 : 「啄木の母」 渡辺えり氏×森義真氏(石川啄木記念館長)
料 金 : 前売1,000円 当日1,300円
定 員 : 550人
主 催 : 啄木祭実行委員会
共 催 : 盛岡市,盛岡市教育委員会,(公財)盛岡観光コンベンション協会,
      盛岡商工会議所,盛岡芸術協会,(公財)盛岡市文化振興事業団

本年は啄木生誕130年,盛岡市玉山村合併10周年の節目の年であり,郷土の歌人石川啄木を偲び,「2016啄木祭~母を背負ひて~」が開催されます。
今年は,女優でNHK連続テレビ小説「あまちゃん」にも出演していた渡辺えり氏を講師にお迎えして,「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演していただきます。
また,渋民小学校鼓笛隊や渋民中学校群読劇,女性コーラスグループのコールすずらんなど,啄木にちなんだ歌や劇が披露されます。
皆さまどうぞご来場ください。

問合せ先 : 石川啄木記念館 019-683-2315

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宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。明治19年(1886)生まれの光太郎より3歳年少でしたので、智恵子と同じく今年が生誕130年になります。ただし、啄木は前年の出生であるという説もあるようです。明治45年(1912)、数え27歳で歿したその短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がさらに長く続いたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。


さて、講演と対談に、渡辺えりさんがご登場。

えりさんのお父様、渡辺正治氏が光太郎と面識があり、さらに宮沢賢治の精神に共鳴していたというご縁から、えりさんは光太郎を主人公とした「月に濡れた手」、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。そして、今回初めて知ったのですが、啄木に関しても「泣き虫なまいき石川啄木」という舞台では、啄木の母・カツの役をなさったこともあるそうです。

えりさんの講演は、平成25年(2013)の花巻高村祭その翌日の花巻市文化会館で拝聴しましたが、さすが大女優、時の経つのも忘れる素晴らしいお話でした。

ぜひ足をお運びください。

えりさんに関しては、もう一つネタがありますが、またのちほど。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき友ありてわれをよぶみちのはたてに火あるがごとし
昭和24年(1949) 光太郎67歳
山形ご出身の渡辺えりさんにちなんで。

この年11月、詩人の真壁仁らが中心となり、山形市美術ホールで「高村智恵子遺作切抜絵展覧会」が開催され、光太郎は翌年には県綜合美術展のため、山形を訪れています(えりさんのお父様はこの際の講演をお聴きになっています)。この歌はおそらくそれらに関わると推定されます。

先週末から昨日にかけ、岩手花巻に行っておりました。土曜日に行われた高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」のバスツアー、翌日曜日の第59回高村祭といったオフィシャルな部分は昨日のこのブログでご紹介しました。

それ以外のプライベートな時間も活用し、花巻市内、あちこち回りましたので、本日はそちらをレポートします。

まず、夜行高速バスで花巻に着いた土曜の朝、ツアーの集合時刻まで時間がありましたので、市街北部の花巻北高校さんまで歩きました。

こちらには、彫刻家の高田博厚作の光太郎胸像があります。当方、20年ほど前にも見に来ました。

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同じ型から作ったものは、信州安曇野の豊科近代美術館さん、同じく信州塩尻の古田晃記念館さん、福井市美術館さんにも収蔵されています。そして埼玉県東松山市の「彫刻通り」では野外展示。こちらは光太郎の薫陶を受けた、同市元教育長の田口弘氏のお骨折りで設置されました。

花巻北高さんのものは、台座に光太郎詩「岩手の人」の一節が刻まれたプレートが嵌め込まれています。

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光太郎、今も若い世代へのエールを送り続けています。

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同校は光太郎との直接的な縁はないそうですが、昭和52年(1977)、光太郎精神に共鳴した卒業生保護者の皆さんにより、設置されました。

ちなみに昨日のこのブログでやはり高田博厚作の佐藤隆房像(右上)もご紹介しました。


続いて、バスツアー終了後、花巻高村光太郎記念会事務局の方のご案内で、「山の駅 昭和の学校」さんへ。こちらは廃校となった旧前田小学校さんの校舎を利用し、昭和のレトログッズを展示しているミュージアムです。花巻南温泉峡、大澤温泉さんと鉛温泉さんの中間ぐらいのところに、一昨年オープンしました。

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校舎内を昔の商店街に見立て、約5万点という膨大なレトログッズがところせましと並んでいます。

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左上はダイハツミゼット。一度、運転してみたいものです。その文房具店、右はカメラ屋さんの設定です。

当方、子どもの頃に普通に周囲にあったものばかりで、懐かしさに打たれました。

古本屋さんの設定のコーナーに、光太郎著書がありまして、光太郎関連はそんなものだろうと思っていましたが、さにあらず。帰りがけ、出入り口の壁にこんなものを見つけました。

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銅板を組み合わせて作った大きなプレートで「道程」が刻まれています。こちらは旧前田小学校さんのもので、ある年の卒業記念制作。おそらく児童ひとりひとりが作ったプレートをパッチワークのように繋げてあるのでしょう。

前田小学校さんと光太郎との関連もないようですが、やはり花巻北高さんと同じように、ある意味郷土の偉人の顕彰も兼ねる、というわけですね。


さらに日曜日、高村山荘敷地内での高村祭終了後、花巻温泉に行きました。入浴はせず、あくまで調査です(笑)。

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当方の泊まっていた大澤温泉さんを含む花巻南温泉峡とは山一つ隔てたところにあります。ここは温泉宿を中心とした一大レジャーランドとして、大正12年(1923)に開業した、比較的新しい温泉地です。湯は湯量がやけに多く、無駄にしていた近くの台温泉から引き、花巻電鉄花巻線(鉄道線)が町中心部から延引されました。下は廃線となった花巻電鉄の駅の跡です。

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十万坪の敷地全体を花巻温泉株式会社として経営、スキー場、遊戯場、プール、ゴルフコース、テニスコート、動物園、植物園、貸別荘、傷病軍人療養所など、さまざまな施設が作られました。経営には賢治の一族も関係し、賢治が設計した花壇も作られました。入場無料のバラ園があり、その中に花壇跡の碑、賢治詩碑、復元された花壇がありました。桜並木も賢治の土壌改良技術によって可能となったそうです。ちなみに今年は賢治生誕120年です。

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大澤温泉さんと並び、光太郎はこの花巻温泉にも繁く宿泊しています。光太郎の記録に残っている旅館は、松雲閣、およびその別館、紅葉館(まだ健在。しかし、建物は近代的になっています)という旅館です。格としては松雲閣別館が最も高かったようで、光太郎の談話筆記には以下の記述が見られます。「一番奥にある松雲閣というのが一番大きく、ちょっと高いところにある別館が一番の高級で、皇族だの、大尽様などがお泊まりになる。私なども、そこへ入れられてしまうが、さすがに建築は立派である」。

昭和27年(1952)には、NHKラジオ「朝の訪問」のための、詩人の真壁仁との対談をここ松雲閣別館で録音した他、日記が失われているため詳細は不明ですが、前年の『朝日新聞』岩手版に載った岩手県知事国分謙吉との対談も、ここで行われたと推定できます。

こちらが往時の松雲閣別館。古絵葉書です。

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松雲閣自体は老朽化のため営業を終えましたが、この建物はまだ残っているらしいと知り、探しに行きました。はたして、残っていました。

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ただし、公開はされて居らず、バラ園、そして道路から外観が見えるにとどまります。柵があって近づけません。

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総欅造り、釘を一本も使っていないそうです。


また、昭和25年(1950)には、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑が建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加しています。光太郎生前の数少ない詩碑の一つです。

この詩碑も20年ぶりに拝見。松雲閣別館のすぐ近くです。

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こちらは除幕式の写真。中央やや左に光太郎。ガタイがやけにいいのですぐわかります(笑)。

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左上に写っているのが除幕された碑です。

以前にも書きましたが、この碑は、花巻農学校跡(現在のぎんどろ公園)に建てられた賢治の「早春」詩碑と、どうやら同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。こちらも同じ昭和25年(1950)の建立で、光太郎は詩の選択に関わり、除幕式にも参加しています。

詳しくはこちら


最後に、泊めていただいた大澤温泉さん。

山水閣さん、菊水館さんは、ここ数年で何度か利用しましたが、今回は湯治屋さん(自炊部)に泊まりました。こちらは学生時代以来、30年ぶりです。

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豪華ホテルに慣れている方には絶対にお勧めできません(笑)。「普通の旅館と同じだろう?」という方も、甘いですね(笑)。なにしろ、部屋のカギは存在しません。浴衣もコタツも有料です。隣の声は筒抜け、廊下や階上(当方の部屋は一階でした)を他の人が歩く音が響き渡ります。食事は館内の食堂で摂るか、自炊(共同調理場があります)、もしくは売店でパンやカップ麺など。しかし、風情は大ありです。料金も激安です。

当方、2泊の間、夕食は食堂で、朝食は売店で買ったパンでした。音対策(それが必要だとわかっていたので)は携帯音楽プレーヤー。ヘッドホンでヒーリング系の音楽を聴きながら眠りました。たまにはこういう経験もいいものです(笑)。何より温泉はすばらしいので、2泊の間に8回入ってきました。

以上、花巻レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

白花のリラのさし花さきたわみ石のはだかの肩に触りたり
大正15年(1926) 光太郎44歳

大澤温泉さん、リラ(ライラック)ならぬ遅咲きの桜がまだ咲いていました。澄んだ空には飛行機雲。

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先ほど、2泊4日の行程を終え(夜行高速バスで行きましたので、1泊少ないのです)、岩手花巻より帰って参りました。

本日は、オフィシャルな部分での花巻レポートです。

5/14(土)、花巻市主催の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」が開催され、それに帯同しました。

地元紙2紙の報道から 

光太郎の足跡たどる 花巻で没後60周年ツアー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の没後60周年を記念したツアー「高村光太郎の足跡を訪ねる-花巻のくらし」は14日、花巻市内で開かれた。戦禍を逃れて花巻に疎開した際に身を寄せた同市桜町の「二岳荘(にがくそう)」が特別公開され、市民ら約20人が光太郎ゆかりの地を巡った。
 高村光太郎記念館講座として企画。光太郎は、花巻共立病院(現総合花巻病院)元院長の故・佐藤隆房さんの招きで佐藤家の二岳荘に滞在。離れの2階にある4畳半ずつの2部屋で過ごしたといわれ、当時使っていた火鉢や妻智恵子が創作した紙絵などが残されている。
 参加者は「タイムスリップしたみたい」「光太郎さんがここで過ごしたんですね」と大喜び。ボランティアガイドの説明を聞きながら広大な庭園を散策し、当時の生活に思いをはせた。
 ツアーでは光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑や同記念館なども見学。同市葛の葛巻秀子さん(65)は「こんなに立派なお屋敷があるとは知らなかった。1928(昭和3)年に建てられたのにモダンな印象。また訪れたい」と雰囲気を楽しんだ。
(2016/05/15 『岩手日報』) 

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細かい話ですが、キャプションに2箇所、誤りがあります。上の写真、こちらに飾られている智恵子の紙絵は複製で、本物は花巻高村光太郎記念館に展示中です。それから下の写真、「光太郎が過ごしたとされる」というあいまいなものではなく、はっきり「光太郎が過ごした」です。 

目と食で〝先生〟思う 高村光太郎没後60周年 足跡巡る記念館講座

 花巻市の高村光太郎没後60周年事業として、高村光太郎記念館講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし」が14日、市内で催された。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの深い地を巡り、東京から花巻に疎開して以来7年に及ぶ思索と農耕自炊の日々を送った偉人に思いをはせた。
 定員いっぱいの市民20人が参加。まなび学園を発着点にバスで移動し、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑前で光太郎や賢治らに関する資料や作品を展示している桜地人館を見学後、佐藤家の二岳荘と庭園へ。上太田山関振興会館で昼食を取り、高村山荘と記念館を訪れた。
 このうち、光太郎が東京から花巻に疎開した際、花巻共立病院長で交流のあった佐藤隆房(1890~1981年)の招きで身を寄せた部屋が残されている二岳荘は、今回特別に公開された。
 部屋には光太郎が滞在した当時の様子を紹介する写真パネルが展示され、庭園では植栽や茶室「潺湲亭(せんかんてい)」などが散策でき、抹茶の振る舞いも行われた。
 昼食では、光太郎が記した食事のメモを基に太田山口地区の食生活改善推進員協議会が調理した「そば粉パン」、光太郎が「シュークルート」と呼んだ野菜の酢漬けなどが並んだ。同協議会員で記念館職員の新渕和子さん(64)が「そば粉と重曹、みそ、水を混ぜてフライパンで焼くだけで簡単にできる。光太郎先生はバターをつけ、黒蜜を塗って食べたらしい」と紹介。参加者は自分でも作ってみようと手帳に書き留めたり、食べ方をまねたりして味わった。
 締めくくりは、光太郎が暮らした山荘と、2015年4月にリニューアルオープンした記念館の見学。参加者は「冬の山荘は相当寒かったろうに」「地域の人には、かなり慕われていたんだろう」などと当時の暮らしぶりに思いを巡らせていた。
 同市若葉町から夫婦で訪れた男性(72)は「こういう時じゃないと自分たちだけでは見られない場所があったので参加した。佐藤家は敷地の広さ、古い住宅の良さ、設備に驚いた。そば粉パンは思っていたよりおいしかった」と話していた。
(2016/05/15 『岩手日日』)

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上の写真には、当方が写っています(笑)。

記事をお読みいただければ、概要はつかめますね。

下記は帯同しながら撮った写真です。

賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫。さらに当初あった誤字脱字を昭和21年(1946)に訂正しています。

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新緑がきれいでした。

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詩碑近くの桜地人館。光太郎や賢治関連の貴重な資料が展示されています。大半は佐藤隆房が贈られたものです。昔は「佐藤郷志館」という名前でした。
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その庭に立つ佐藤隆房像。光太郎と親しかった高田博厚の作です。

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佐藤隆房邸。詩碑や桜地人館さんからそう遠くありません。ここの離れに光太郎が昭和20年(1945)、1ヶ月滞在しました。その後も太田村から花巻町に出て来た時の拠点にしていました。

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広大な庭。

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咲き誇る牡丹。

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右上は、賢治が取り寄せたという薔薇。ただし、こちらはまだ咲いていませんでした。


この後、旧太田村に移動。昼食をいただきました。

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記事にあるそば粉パンとシュークルートです。

光太郎が暮らした山小屋・高村山荘および高村光太郎記念館。

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この後、一般参加者の皆さんは、バスで市街へ戻り、解散。当方はこちらに残り、事務的打ち合わせ等々。


翌日は、第59回高村祭。明日以降もブログに書くべきネタがてんこ盛りですので、一気にこちらもご紹介してしまいます。

やはり地元紙の報道から。

没後60年、光太郎の情熱しのぶ 花巻で高村祭

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第59回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、市民ら約300人が青空の下、合唱や朗読で没後60年を迎えた先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。佐藤会長は「先生は情熱の詩人で戦時中は士気を鼓舞する作品も発表したが、山荘暮らしの7年間は戦争への反省を重ねた。皆さんも当時をしのんでほしい」とあいさつした。
 太田小、西南中、花巻高等看護専門学校の児童生徒が合唱し、詩の朗読では及川波月(はづき)さん(花巻農高3年)が「レモン哀歌」、藤原詳さん(同2年)が「当然事」、花巻高等看護専門学校1年の石川泰(たい)さんが「非常の時」を読み上げた。
 及川さんと藤原さんは「純粋な思いが伝わるように朗読を心がけた」「自然豊かな高村山荘で朗読する貴重な機会をもらった」と語り光太郎に思いをはせた。
(2016/05/16 『岩手日報』)

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”先生”の教え次代が引き継ぐ 高村祭

 花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が主催する「第59回高村祭」は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。彫刻家で詩人の高村光太郎が、1945年に東京から花巻に疎開してきた日に合わせて毎年実施。詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を会場全体で朗読し、古里ゆかりの偉人をしのんだ。
 地元小中学生らが合唱などを披露。いずれも光太郎作の「レモン哀歌」を及川波月さん(花巻農高3年)、「当然事」を藤原詳君(同2年)、「非常の時」を石川泰君(花巻高等看護専門学校1年)が朗読し、光太郎の偉業に思いをはせた。
 2016年は光太郎没後60年、光太郎の妻・智恵子生誕130年の節目の年。特別講演では、祖母の金谷ふゆさんが光太郎のいとこだった盛岡市の加藤千晴さんが「高村光太郎と金谷一族について」と題し、エピソードを披露した。
 同日は約600人が参加。鎌田志栞さん(西南中1年)は「光太郎先生の詩からは自然の豊かさを感じる。太田の風景とも重なるところがあり落ち着く」と話していた。

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以下、やはり当方が撮りました。

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今朝のNHKさんのローカルニュース。

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永続的に続けていっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や南へいそぐ旅烏       明治42年(1909) 光太郎27歳 

旅ガラスの当方、このブログを書くために急いで帰って参りました(笑)。

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昨日、岩手花巻に参りまして、今日は光太郎が昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭にお邪魔しました。

からりと晴れ渡った空の下、爽やかな風が吹き渡り、暑くもなく寒くもなく、素晴らしい陽気でした。

例年通り、地元小中高生、高等看護専門学校生による音楽演奏や朗読。記念講演は光太郎の血縁で、盛岡在住の加藤千晴氏。貴重なお話が聴けました。

地元の皆さんをはじめ、福島いわきの草野心平記念文学館の方、青森の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアガイドの会の方、このブログをご愛読いただいている方などに久しぶりにお会いできたのも、嬉しい点でした。

詳しくは、帰りましてからレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

うなづけば万語(ばんご)若(し)く無き意は足りぬ山の湯に聴く昼ほととぎす
明治37年(1904) 光太郎22歳

今晩も当方、光太郎が愛した大澤温泉さんです。

「ほととぎす」ならぬカジカガエルの声がよく聞こえます。

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岩手花巻・大澤温泉さんにて、携帯からの投稿です。
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昨夜、池袋西口発の夜行高速バスに乗って、今朝6時半、花巻に着きました。

明日が郊外旧太田村の、昭和20年(1945)から7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭。今日はそれに合わせ、市主催の市民講座で、太田村に移る直前の1ヶ月間、光太郎が厄介になっていた花巻市街地にある花巻病院長・佐藤隆房邸、高村山荘、高村光太郎記念館などの見学ツアーがあって、それに帯同していました。

先ほど、二泊させていただく大澤温泉さんに到着。この後は露天風呂を満喫、早めに夕食をとって寝ます。
詳しいレポートはのちほど。

【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの花巻町に人ありき賢治を生みきわれを招きき
                                                                    昭和21年(1946)光太郎64歳

「人」は前年の空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を受け入れてくれた宮沢賢治の父・政二郎、賢治の主治医でもあった佐藤隆房らを指します。

昭和20年(1945)、空襲で東京のアトリエを失った光太郎が、岩手花巻への疎開のため東京を発った5月15日、例年、花巻で「高村祭」が行われています。今年で59回目となります。今月号の『広報はなまき』から。 

第59回高村祭

期  日 : 2016年5月15日(日)
会  場 : 高村山荘詩碑前広場 岩手県花巻市太田3-85

光太郎が花巻に疎開してきた5月15日に毎年開かれる「高村祭」。光太郎が暮らした高村山荘にある「雪白く積めり」の詩碑の前では、地元の小・中学生や高校生、花巻高等看護専門学校生による合唱や楽器の演奏、詩の朗読などが行われます。

高村祭特別講演を開催
 高村光太郎と金谷一族について-高村光太郎のいにしえの姿-
【時間】午前11時~正午
【講師】加藤 千晴さん
【内容】
講師の祖母、金谷ふゆは、高村光太郎のいとこで幼なじみでした。祖母ふゆから受け継いだ仏像と光太郎が持っていた仏像のつながりをはじめ、祖母から聞いた光太郎の姿を紹介します。

【駐車場のご案内】
当日はスポーツキャンプむら「メイングラウンド側」駐車場をご利用ください。雨天時は「屋内運動場側」駐車場は利用できません。
【無料臨時バスを運行】往路…花巻駅西口発9時半、復路…高村山荘発15時
【問い合わせ】(一財)花巻高村光太郎記念会事務局(平日電話29-4681)

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毎年、地元小中高生、看護学校生による光太郎詩の朗読、音楽演奏が行われ、さらに記念講演があります(昨年は当方が仰せつかりました)。

今年の講演は、盛岡在住の加藤千晴氏。光太郎の血縁の方です。明治の高村家は、養子縁組等で若干、家系が複雑です。光太郎の父・光雲が徴兵を逃れるため師匠・高村東雲の姉・悦の養子となり、光太郎の母・わかも若くして父を亡くして東雲の妹・きせの養女となりました。きせの実子がふゆ。年齢的には光太郎に近く、幼馴染み的な関係だったので、混乱が生じているようです。光太郎のいとこにあたるのは、ふゆの子の照。その照の子息が加藤千晴氏です。ちなみに照さんは100歳近いということですが、まだご存命です。この方も、戦後に花巻郊外太田村の光太郎の元を訪れています。

昨年暮れに、当方、花巻に参りまして、加藤氏の手記のコピーを戴きました。手記はふゆ・照母子と光雲・光太郎との関わりなどが詳細に記されており、非常に貴重なものでした。今回の講演でも、一般に知られていないエピソードなどが聴けることと思われます。

ぜひ足をお運びください。

前日の5月14日には、光太郎が旧太田村の山小屋に入る前に1ヶ月暮らした、花巻市街の佐藤隆房邸の公開もあります。当方、ここからお邪魔いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

米無くばじやがたらいもをわが喰はむみどりの風に身を養はむ
制作時期不詳

昭和4年(1929)刊行の『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に載った作品です。おそらくあまりさかのぼらない時期の制作とは推定できます。

5月となりました。しかも今日は八十八夜だそうです。「みどりの風」が心地よい季節になって参りました。

花巻市の広報紙『広報はなまき』の記事です。 

高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」

疎開のため花巻に身を寄せた光太郎が滞在した佐藤隆房邸や高村光太郎記念館、高村山荘など、ゆかりの地を巡ります。

【対象】 市内に在住または勤務する方
【日時】 5月14日(土)、午前9時30分~午後3時
【集合場所】 まなび学園
【定員】 20人(抽選)
【受講料】 無料
【申込期限】 5月2日(月)
【問い合わせ・申し込み】 生涯学習課(緯内線418)


翌日には光太郎が7年間を過ごした郊外旧太田村(現・花巻市太田)の山小屋=高村山荘で、第59回高村祭が行われます。こちらはまだ詳細な情報が出ていません。

それとセットで行おう、ということで、メインは佐藤隆房医師邸の公開です。

こちらにある離れは、光太郎が旧太田村の山荘に移るまでの1ヶ月あまりを過ごした場所です。「潺湲楼(せんかんろう)」と命名し、太田村移住後も、花巻町に出て来た時にはここを拠点にすることがたびたびありました。

こちらは光太郎が居た当時の室内。智恵子の紙絵、それから佐藤医師に請われて書いた「彧彧」(「いくいく」または「えきえき」)の書などが写っています(ともに現在は花巻高村光太郎記念館所蔵)。

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下記は現在の様子です。

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昨年暮れに花巻を訪れた際、この計画を聞き、急遽、下見のため中に入れていただきました。

14日当日は、当方も参上します。ただ、今年初めてこういう試みをやるということで、対象はあまり広げずに花巻市内在住及び勤務の方となっています。今後、広く参加を募ったり、他の日程で団体さんの視察等を受け入れたりすることも視野には入れているようですが。

花巻というと、どうしても花巻出身の宮澤賢治の方がメインですが、光太郎が行った賢治のプロデュースの功績も、もっと光が当たってほしいものです。

実は当方、秋にはそのあたりの内容を、花巻で講演いたします。詳細はまた近くなりましたら。


【折々の歌と句・光太郎】

よからずや垣根にちさき名なし草世にさびしきも花の色なり
明治35年(1902) 光太郎20歳

自宅兼事務所の垣根にはこんな花が咲いています。名前が分かりません。

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岩手の地方紙『岩手日日』さんの報道です。 

光太郎 在りし日の面影 太田地区振興会 思い出記録集を発行

 花巻市の太田地区振興会(佐藤定会長)は、晩年の100一時期を同地区で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の思い出を記録集「大地麗(だいちうるわし)」にまとめた。地区住民らの記憶に残る郷土ゆかりの偉人との触れ合いを収録している。
 かつて稗貫郡太田村だった同地区に東京出身の光太郎が入村したのは1945年。以降、帰京するまでの7年間を質素な山小屋で過ごし、地域住民と交流を重ねた。記録集発行は、入村70年を記念し光太郎の人柄を示すエピソードを残そうと、市の地域づくり交付金を活用して事業化した。
 掲載したのは2015年10月に同振興会が開いた光太郎の「思い出を語る会」の内容が中心で、いわて教育文化研究所の吉見正信顧問による記念講演や、地域住民らのエピソードを収録。記録集の発行に合わせて新たに寄せられた体験談なども盛り込んでいる。
 いずれも運動会での奮闘の様子や、いつもあいさつしてくれたことなど、光太郎の人柄が感じられる話ばかり。自身も小学生の頃に光太郎と交流した経験のある高橋征一副会長は「実際の記憶が残っている人がいるうちに記録をまとめたいと取り組んだ。偉大な芸術家と地域のつながりを後世に伝えたい」と話す。
 A4判、18ページ。タイトルには1950年の村役場落成式で光太郎が揮毫(きごう)した「大地麗」を引用した。発行は260部。今後、太田小学校と西南中学校、高村光太郎記念館などに配布するほか、県外の関係団体にも贈ることにしている。


過日のこのブログでご紹介した冊子『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』に関してです。当方は第60回連翹忌の席上で戴きました。

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題名に採られている「大地麗」は、昭和25年(1950)に光太郎が旧太田村役場の落成記念に贈った扁額に書かれた語です。

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最後の「麗」の字が、はじめは誰も読めなかったというようなエピソードなども紹介されています。確かに当方もいきなりこれを見せられても読めません。

これら生前の光太郎を知る一般の方々の証言が多数掲載されています。エラい先生方が自分勝手な解釈でああでもないこうでもないとひねり出した「論文」などより、こうした生の証言の方が、何層倍も計り知れない価値があるように思われます。

入手につきましては、記事にある旧太田村の高村光太郎記念館さんまでお問い合わせ下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

春の宵好言伶色鮮無仁      明治42年(1909) 光太郎27歳

「好言伶色鮮無仁」は、「こうげんれいしょくすくなしじん」。『論語』の一節で、日本でもことわざ的に使われていますね。通常、「好言伶色」は「巧言令色」と書きます。違う字を使うところに何か意図があったのかなど、不明です。

それにしても『論語』の一節を五・七・五中の七・五に配してしまうというのも、なかなかの荒技のような気がします。不思議な魅力のある句ですね。

4月2日、東京では日比谷公園松本楼さまで、第60回連翹忌の集いを開催いたしました。

同日、光太郎が戦中戦後の足かけ8年を過ごした岩手花巻でも、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後から光太郎ゆかりの花巻市街にある松庵寺さんで、花巻としての連翹忌が開催されました。

東京の方はなかなか報道されませんが、岩手の方は報道されていますのでご紹介します。 

光太郎に思いはせる 詩碑前祭 小中学生が詩を朗読

 花巻ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(0011883~1956年)の命日である2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で「詩碑前祭」が催され、今年も太田山口地区の住民ら約50人が地元に教えを残した光太郎の遺徳をしのんだ。
 山関、上太田両行政区全94戸で組織し、光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が毎年主催。照井康徳支部長、来賓で花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長のあいさつに続き、太田小学校の高橋百花さん(3年)、中島絢星君(1年)が光太郎の詩「雪白く積めり」が刻まれた石碑と遺影に献花した。
 同支部の平賀仁理事が「厳しき自然の中に先生は7年間住まわれ、自然をたたえ、詩にうたい、地方の私たちに数々の教えを注いでくださった」と祭文を読み上げて光太郎に感謝を伝え、地元の上太田子供会、戸来園子さん、高橋新吉さん、太田区長会が「山の広場」「岩手の人」など光太郎の詩を高らかに朗読した。
 光太郎は1945年、東京のアトリエを空襲で焼失し、詩人で童話作家の宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開。旧太田村山口の山小屋で7年間、農耕自炊の生活を営みながら住民と交流し、多くの詩作品を生み出した。
 高村山荘の近くにある高村光太郎記念館は、老朽化のため全面改修され、2015年4月にリニューアルオープンし、多数の入場者を迎えている。
 照井支部長は「少子高齢化の影響で地区の子供も減っており、今年は詩の朗読に小学生だけでなく中学生も加わってもらった。高村先生を覚えている人も減っている。リニューアルした記念館とともに行事を通じて先生のことを伝えていきたい」と話していた。
『岩手日日新聞』 2016/04/03
 

”高村光太郎の命日”で法要

 詩人で彫刻家、高村光太郎の命日の2日、光太郎が太平洋戦争の時に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
 高村光太郎は、昭和20年の空襲で東京のアトリエを失ったあと、知人を頼って花巻市に疎開し、その後、7年間を過ごしました。
 光太郎の命日の2日、花巻市双葉町の松庵寺で光太郎が好きだったというレンギョウの花の名前をとって「連翹忌」と呼ばれる法要が営まれました。
 法要には、光太郎ファンの市民などおよそ20人が集まり、松庵寺の小川隆英住職が、お経を読みあげたあと、光太郎の詩、「松庵寺」を紹介しました。
 小川住職は、この詩について、「若くして亡くした妻、智恵子への愛情が込められている」などと説明していました。
 出席した70代の女性は、「光太郎の妻への愛情が身にしみてわかりました」と話していました。
 また、2日は、光太郎が過ごした山荘近くにある石碑の前でも、市民や子どもたちおよそ40人が集まり詩を朗読して光太郎をしのんでいました。
「NHKオンライン 岩手」 2016/04/02

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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。当方、東京での連翹忌を仕切らねばなりませんので、こちらには参加できません。ただ、来月15日、昭和20年(1945)に光太郎が疎開のため東京を発って花巻に向かった日には、やはり高村山荘敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されます。こちらには例年通り参加させていただきます。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や赤き袴(ジユボン)と黒き傘  明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作。「ジュボン」=「ズボン」に「袴」の漢字を当てる辺りがにくいですね。赤と黒の対比がいかにも南欧の鮮やかな風景を演出しています。

日本では菜種梅雨、というところでしょうか。今日もかなり雨が降っています。2日の連翹忌の日も、朝、そして帰途に就いている途中も激しい雨でした。

光太郎は生前から何か節目の時には必ず雨か雪(連翹忌の日に最終回を迎えたNHKさんの「あさが来た」の新次郎さんみたいですね)。亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、東京では季節外れの大雪が積もっていたそうです。没後も雨や雪を降らせる神通力は健在。連翹忌当日は、絶対といっていいほど、雨が降ります。

今日、4月2日は、光太郎忌日・連001翹忌です。昭和31年(1956)に亡くなった光太郎を偲ぶため、翌昭和32年(1957)に第1回連翹忌が、光太郎終焉の地・中野の中西家アトリエで行われました。

発起人は実弟の豊周、草野心平、佐藤春夫ら。彼等によって、光太郎が愛し、その葬儀の際に棺に飾られたアトリエの庭に咲いていた連翹(レンギョウ)にちなみ、「連翹忌」と名付けられました。

その第1回は、いくつか置かれたリンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席の会場だったそうです。

爾来、場所を変えながら一度も途切れることなく連綿と続き、平成11年(1999)の第43回からは、明治末から大正初年、光太郎智恵子がデートをし、また、芸術家達の集まりであった「パンの会」の会場としても使われた日比谷松本楼さんで行っています。

今年は60回の節目の連翹忌です。午後5時半から、松本楼さんで集いを持ちます。土曜ということもあり、昨日の時点で、ここ数年で最も多い77名の皆様のご出席申し込みがありました。生前の光太郎をご存じの方も10名近く。それから新規の方も多く、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。

様子は明日以降のブログにてレポートいたします。

同じく今日、光太郎が戦中戦後の足かけ8年を過ごした花巻でも、花巻としての連翹忌が行われます。午前9時からは光太郎が独居生活を送った山小屋(高村山荘)敷地内で詩碑前祭、午後1時からは、光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さんで、花巻としての連翹忌です。

こちらも報道されれば、明日以降のブログでご紹介します。

さて、その高村山荘へのアクセスですが、花巻駅からの路線バス(岩手県交通さん)が、昨日から復活しました。かつては定期便で運行されていたものが、廃線となりました。それが昨秋、試験運行と言うことで復活。ただし、10,11月の2ヶ月間の限定でした。

すると、花巻市さんの広報紙『広報はなまき』の今月号に、以下の記事が載りました。 

県交通路線バス情報 太田線の増便

昨年度に引き続き、太田線の花巻駅から高村山荘までの区間を増便する試験運行が実施されます。
【運行期間】 4月1日(金曜日)~11月30日(水曜日)
【問い合わせ】  本庁都市政策課(0198-24-2111内線562) 県交通株式会社花巻営業所(0198-23-1020)

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高村山荘まで行くのは日に2往復ですが、タクシーだと片道3,000円以上。ありがたいところです。また、途中の「花巻清風支援学校前」までしか行かないバスもありますが、そこからでも高村山荘まで直線距離で3㌔㍍ほど。のんびり歩くにはいい距離かも知れません。途中には光太郎ゆかりの石碑なども点在しています。

ぜひあちら方面に行かれる場合にはご利用下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夕月や満山の花仙に入る        明治33年(1900) 光太郎18歳

当方、日比谷松本楼さんでの連翹忌の前に、駒込染井霊園にある光太郎の墓参を致します。こちらはソメイヨシノ発祥の地。また、日比谷松本楼さん周辺も桜が見事なはずです。満開であろう桜の中で、光太郎を偲ばせていただきます。

昨日の岩手の地方紙『盛岡タイムス』さんに載った記事です。 

首都と県都に生きる歌人 東京・文京区 盛岡市 啄木の顕彰に協力 終焉の地歌碑や展示室

 盛岡市と東京都文京区は、石川啄木の縁で地域文化交流に関する協定を結び、それぞれが歌人を顕彰している。昨年3月22日には同区小石川5丁目に石川啄木終焉(えん)の地歌碑が建立、顕彰室が開設された。1年後の今年は生誕130年を迎え、訪れる人が増えている。顕彰室には盛岡市や啄木記念館が協力し、直筆原稿(複製)などを展示。生没の地が手を結び、啄木の歌を今に伝える。文京区には新渡戸稲造、宮沢賢治、高村光太郎の旧居跡もあり岩手、盛岡と縁が深い。先人が生きた時代の風を、首都と県都で現代に受け渡す。

  啄木は1902(明治35)年16歳で初めて上京し、文京区に滞在した。渋民への帰郷や北海道の流浪を経て再び上京し、1908(明治41)年から12(明治45)年まで4年間住み、26歳で没した。

  顕彰室と歌碑は2013年に同区の諮問機関として石川啄木終焉の地歌碑等検討会の設立に始まり、地元の努力で実現した。区立小石川五丁目短期入所生活介護施設等の一角に、寄付を募った文京区石川啄木基金を活用して整備した。啄木の足跡や文京区との関わりを中心に、パネル、年表、書簡などで紹介している。

 現地にはもとは東京都旧跡石川啄木終焉の地の石柱が建っていたが、再開発に伴い撤去され、啄木ファンや住民を寂しがらせていた。歌碑を建立してよすがとし、「悲しき玩具」冒頭の二首を記した。石材は盛岡産の姫神小桜石を用い、渋民建立の最初の啄木歌碑と同じ材質に、望郷の念を刻んだ。昨年3月22日には成澤廣修文京区長、谷藤裕明盛岡市長らが参列し、除幕式が行われた。

  文京区アカデミー推進課観光担当の諸久子主査は「文京区は東大はじめ大学が19ある文化と教育の区であり、名前に文が付く文学の都。森鴎外や夏目漱石はもとより、啄木、樋口一葉、坪内逍遙が住み、宮沢賢治の旧居跡もある」と話す。文壇の奥座敷として都心部にあり、多くの名作の舞台となってきた。

  盛岡市とは区市の共催で啄木学級文の京講座を開くなど、文化や観光で協力してきた。盛岡市教委歴史文化課の岡聰学芸主査は「東京との間に築いた協力の間柄を続けながら、お互いに啄木を顕彰していきたい。文京区は上京した先人たちが一度はお世話になったところだ」と話し、新渡戸や賢治も含めた縁を大切にしている。


というわけで、啄木が取り持つ縁で、盛岡市と東京都文京区の地域交流が行われているとの内容です。調べてみたところ、両市区は、東日本大震災を受け、「「石川啄木ゆかりの地」災害時における相互応援に関する協定」も結んでいました。ある意味、すばらしいですね。

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行政レベルで地方自治体同士が、一人の人物を媒介にして交流。調べれば他にもあるのでしょうが、あまり多い例ではないと思います。

そういえば、戦後、光太郎が暮らした岩手県花巻市と、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が設置された青森県十和田市は、友好都市ということになっています。ただ、そもそもは、花巻出身の新渡戸稲造の祖父・傳(つとう)と父・十次郎、兄・七郎の三代が、十和田三本木原の灌漑開発に功績があったことから結ばれたそうです。

しかし、後付けですが、両市とも光太郎に縁が深いということで、その点からの友好都市交流も行われています。昨年は十和田市主催の花巻市探訪ツアーで、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)と、リニューアルなった花巻高村光太郎記念館の見学、逆に花巻市太田地区振興会の皆さんが十和田湖を訪れての交流会などがありました。

さて、上記『盛岡タイムス』さんの記事にもあるとおり、文京区は光太郎が最も長く暮らしたところです(当時は本郷区でしたが)。また、盛岡にもたびたび足を運んでいます。そして啄木と光太郎も与謝野夫妻の新詩社や雑誌『スバル』を通し、縁がありました。光太郎が脚本を書き、啄木が出演した素人演劇なども上演されています。また、智恵子が通った日本女子大学校も文京区(こちらも当時は小石川区でしたが)です。

そんなこんなで、やはり後付けで、盛岡市さと文京区さんの交流に、光太郎もからめていただきたいものです。

そう考えると、光太郎智恵子に深く関わる自治体さんは他にもたくさんあります。それぞれの地でいろいろやっていただいている部分はありますが、そういったところ同士での、光太郎智恵子を縁(えにし)とする交流も活発になってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

寝顔よき女や春の汽車の中        明治42年(1909) 光太郎27歳

光太郎の短歌、俳句は、その詩と同様に、直截なものが多いのが特徴です。これなどはその最たる例の一つですね。

青森の地方紙『デーリー東北』さん。先週、一面コラムで光太郎について触れて下さいました 

天鐘(3月15日)

彫刻家で詩人だった高村光太郎の手と足は並外れて大きかった。国産の革靴は入らず米国人から譲り受けた13文半(32センチ)を愛用。長靴は靴屋で一番大きい12文半(30センチ)を調達したが小さくて我慢して履いていたという▼花巻市の記念館が所蔵する革靴と長靴を改めて測っていただいた。12文半で窮屈だから32センチ近かったのだろう。身長は6尺(180センチ)で当時としてはかなりの偉丈夫だが、体躯(たいく)にも増して手足が大きかった▼32センチなら身長209センチのジャイアント馬場と同じ。「16文キック」は米靴規格の号を文と取り違えたためで実際は14文だった。光太郎は大きな四肢を気にしていたが、自身の左手を描いた塑像は指が長くて美しい▼24歳の時、留学先の米国で自作にいたずらした学生の腕を締め上げた。すると柔道と勘違いされ、レスリング選手と闘うはめに。柔道は未経験だったが逆手で押さえつけたら相手は悲鳴を上げて降参したとか▼頑丈な体躯をサンドー体操(今のボディビル)で鍛え、腕っ節も人一倍強かった。戦争を賛美した芸術家が素知らぬ顔で転向していく中、彼は戦争詩を書いた贖罪(しょくざい)から花巻の山麓で独居生活に入り、自らを戒めた▼明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。輸入軍靴が大き過ぎたためだが、逆に手足が国際規格の光太郎を悩ませた。和製ロダンの秘話である。


意外と知られていない光太郎のエピソードを紹介して下さり、ありがたく存じます。

30㌢の靴が小さくて我慢して履いていたというのは本当のようで、常に靴や靴下には困っていたことが、いろいろな文献から伺えます。

つい昨年発見した書簡にも記述がありました。

 本当にあるのですね。
 あたたかい十三文の靴下。送つていたゞいて、小生の特大の足もよろこんでゐます。ばけもの屋敷で、あたたかい冬がこせそうです。有り難う存じます。
(昭和16年=1941 12月10日 西倉保太郎宛はがき)

「ばけもの屋敷」は、智恵子没後の駒込林町のアトリエ。近所の子供達がそう呼んでいたそうです。


それから花巻高村光太郎記念会さんで復刊した『高村光太郎山居七年』という書籍にも。

 山口に移った旧冬、先生が戸来恭三さんの所へ来た時、
「冬になって雪が降ってきたが、下駄があるだけで、はきものがなくて困りました。何しろ僕の足が特別大きいので、はき物を探すには大変苦労します。」
「それあ、ことだなす。先生などにお使いってもらうのは、ほんとに笑いごったどもが、こっちの方では藁であんだつまごというのめいめいの家でつくってはくもなす。そんなもんでよくおでれば、何時でもつくって上げあんす。」
「つまごというのは藁の靴のことでしょうね。……それはまことにいい話を伺いました。藁は毛皮についで保温の性能がよいということだから、藁の靴ならまことにあたたかでよいでしょう。是非一つお作りになっていただきます。僕の足はとても大きいのだから。十三文位あるんだから。そこをよくしってつくっていただきたいです。」
 恭三さんは、藁細工の上手な老父に頼んで早速大きなつまごを作って貰いました。そのつまごは、編上げの靴風に足くびも隠れる半長の吟味したものでした。
 その靴を先生に届けた所、手にとり色々にもちかえて眺め、靴の中へ手を入れてみたり、足袋の足にあわせてみたりして大変喜ばれ
「これは素晴らしい。これがあれば雪の道も暖かく歩けます。大きさもたっぷりできてるし、それに美しい。」
 先生は冬を通して此の靴を愛用しました。春になってその藁靴が要らなくなった時、小屋の東側の水屋に近い柱にかけておきましたが、その藁靴が何枚かのスケッチの材料となりました。

昭和20年(1945)、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に移り住んで間もなくのエピソードです。

光太郎が愛用したつまごの実物は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。また、昭和22年(1947)、甥の故・高村規氏に送ったはがきに、このつまごが描かれています。

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他にもやはり米兵用と思われる特大の靴下をもらって喜んだ話も載っています。


再び「天鐘」。怪しげな柔道技で米国人学生をギブアップさせた話、ボディービルの話も実話です。4年程前にこのブログでもご紹介しました。

こうした人間くさいエピソードを知ると、ぐっと身近に感じると思うのですが、どうでしょうか。


ちなみに「天鐘」末尾に「明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。」とありますが、その工場を造ったのが西村勝三。のち、明治39年(1906)になって、東京向島の西村家別邸に、光太郎の父・光雲が原型を作った西村の銅像が建立されています。

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【折々の歌と句・光太郎】

自転車を下りて尿すや朧月       明治33年(1900) 光太郎18歳

軽犯罪法違反ですが(笑)、これも人間くささの表れ、ということで。

毎年ご紹介していますが、4月2日の光000太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さん(先頃、閉店が発表されたマルカンデパートさんの裏手)で、花巻としての連翹忌が開催されます。それぞれ花巻高村光太郎記念会さんの主催です。

昨日発行の『広報はなまき』に案内が載りました。

ちなみに東京では日比谷公園内の松本楼さんで行っていますが、今年は「第60回」です。光太郎一周忌の昭和32年(1957)に、「第1回」を行い、カウントが続いています。

花巻の方は「61回忌」として行われるはずです。「~回忌」は、年令の数え年と同じで、亡くなった年の葬儀を「0」ではなく「1」と数え、翌年のみ「一周忌」と表しますが、さらにその翌年が「3回忌」となり、以後、数字が増えていきます。したがって、東京日比谷での連翹忌とは数字が異なります。


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当方、東京での連翹忌を進行しなければなりませんので、花巻の連翹忌に参加したことはありませんが、光太郎第二の故郷ともいえる花巻での取り組みも、末永く続いてほしいものです。お近くの方で、東京には来られないという方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

石崩(いしくへ)の崕(がけ)のはざまのほけ土も足るや花さき瑠璃の色しぬ
明治40年(1907) 光太郎25歳

「ほけ土」は『広辞苑』によれば「ねばりけがなく草木の生育に適さない土」。漢字では「壚土」と書きます。

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