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昨日、生活圏の新刊書店にて、光太郎に少しだけ触れている書籍を2冊、買って参りました。

まずは雑誌『サライ』の6月号。

『サライ』6月号「生誕120年記念 今こそ、宮沢賢治」

2016/05/10 小学館 定価700円

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今年の8月に生誕120年を迎える宮沢賢治(1896~1933)。生まれ育った岩手県花巻市を中心に様々な記念行事が予定されていますが、いま、賢治の生き方や作品が再び注目されています。また、東日本大震災の被災地でも賢治は読まれているそうです。

『サライ』6月号の特集は「今こそ、宮沢賢治」と題して、作家の池澤夏樹さん、映画作家の大林宣彦さん、漫画家の松本零士さんをはじめ、賢治作品に影響を受けたという著名な方々に、賢治との出会いと作品の解釈、それぞれの賢治像を語っていただきながら、「いま、なぜ宮沢賢治か」をひもといていきます。

社会学者の見田宗介さんは賢治が今なお多くの人々に読まれている理由として、作品に共通する「人間は生きて在るだけでいい」という考えに共感し救われているからと語ります。また、それは経済的な豊かさを追い求めてきた人々が、従前とは異なる幸福感を考え始めているからだとも述べています。

賢治が生きた時代、日本は戦争への道を進み、故郷・岩手は自然災害にたびたび見舞われました。29歳で農学校の教職を辞し、花巻に「羅須地人協会」を設立。自らも一農民として後半生を農業の発展に寄与する道を賢治は選びます。農民に肥料の相談や指導を無料で行ないながら、自らの考えも説いたのです。

<世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない>
賢治の弟・清六の孫にあたる宮澤和樹さんは、「賢治さんは、自らが率先して実践することで、各人が他人のことを考えて行動し、歩みを進めれば、夢の国『イーハトーブ』は実現できると考えていたのではないでしょうか」と賢治の心の内を代弁します。

本特集では、今も賢治作品に刺激を受け続けているという作家の夢枕獏さんが、岩手県内に賢治ゆかりの地を訪ね歩いています。賢治の世界を肌で感じた夢枕獏さんは、こう言いました。
「災害やテロなど、世の中が混沌としている今だからこそ、賢治の言葉が私たちの心に刺さります」
人は繋がりで生きています。そして、私たちはひとりではありません。誰もの心に賢治の言葉があれば、本当の幸せの花が咲くのです。宮沢賢治が私たちに残してくれたいくつものメッセージにもう一度耳を傾けてみてはいかがでしょうか。


実際に会ったことは一度だけながら、お互いにその詩的世界を認め合い、足かけ8年にわたる光太郎の花巻近辺での生活を実現させた宮沢賢治の特集です。

「イーハトーブ対談 賢治が本当に伝えたかったこと」というコーナーで、作家の夢枕獏氏と、賢治の弟である清六の令孫・宮澤和樹氏の対談で、賢治を見いだし、世に広めるのに一役買った光太郎に言及されています。和樹氏、ことあるごとに光太郎の功績を語って下さり、有り難く思っております。

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また、やはり夢枕さんによる「宮沢賢治の「心」と「風景」を歩く」という紀行文では、旧太田村の山小屋(高村山荘)が紹介されています。

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ちなみに夢枕さんといえば、「智恵子抄」を愛読する、心優しい巨漢の豪傑を主人公とした『怪男児』というエンタメ小説を、かつて執筆なさっています。

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その他、賢治・光太郎ともに愛した大沢温泉さんや、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑など、光太郎がらみの場所も紹介されています。


もう1冊。

月に吠えらんねえ(5)

清家雪子著 2016/5/23 講談社(アフタヌーンKC) 定価740円+税

萩原朔太郎作品のイメージから生まれた「朔くん」、北原白秋作品から生まれた「白さん」、室生犀星作品から生まれた犀。戦中詩を強要され苦しむ朔、□(シカク)街と朔の関係を追求する白、戦場の悲劇を目撃し続ける犀、3人の詩人たちは近代日本の闇に直面する。膨大な資料を下敷きにした、話題集中の近代詩歌俳句エンターテインメント、あいかわらず独走中!

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萩原朔太郎をモデルとした「朔」を中心に、幻想の街・□(シカク)街に交錯するさまざまな文人たちを描くコミックの第5巻です。昨年刊行された第4巻では、アッコさん(与謝野晶子)とチエコさん(高村智恵子)が表紙を飾り、第17話「あどけない話」では、コタローくん(光太郎)とチエコさんがメインのストーリーになっていました。

5巻では、コタロー君とチエコさんは直接登場しませんでした。が、「朔」が幻想の中で、日本近代詩史を辿るという場面に、光太郎詩「牛」、そして「敵ゆるすべからず」が使われています。

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「社会が最上と認めるものが芸術の価値ならば 日本近代詩の頂点は あの無惨な 響きも実験精神も何もない 雰囲気に追い立てられ無理に生み出された出来損ないの 戦争の詩なんだよ」という「朔」のセリフ。なかなか鋭い考察です。


『サライ』、『月に吠えらんねえ』、ともに新刊書店で普通に販売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

朝焼けやぬるき南のしめり風海より吹きて初夏は来ぬ
明治40年(1907) 光太郎25歳

昨日の関東では、真夏日を記録した所もありました。今日も暑くなりそうです。

先週末、花巻でチラシを入手して参りました。

啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~

日 時 : 平成28年6月4日(土) 13:30開演 (13:00開場)
場 所 : 姫神ホール(盛岡市渋民公民館)  盛岡市渋民字鶴塚55番地
講 演 : 「わたしと啄木・賢治・光太郎」渡辺えり氏(劇作家・演出家・女優)
対 談 : 「啄木の母」 渡辺えり氏×森義真氏(石川啄木記念館長)
料 金 : 前売1,000円 当日1,300円
定 員 : 550人
主 催 : 啄木祭実行委員会
共 催 : 盛岡市,盛岡市教育委員会,(公財)盛岡観光コンベンション協会,
      盛岡商工会議所,盛岡芸術協会,(公財)盛岡市文化振興事業団

本年は啄木生誕130年,盛岡市玉山村合併10周年の節目の年であり,郷土の歌人石川啄木を偲び,「2016啄木祭~母を背負ひて~」が開催されます。
今年は,女優でNHK連続テレビ小説「あまちゃん」にも出演していた渡辺えり氏を講師にお迎えして,「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演していただきます。
また,渋民小学校鼓笛隊や渋民中学校群読劇,女性コーラスグループのコールすずらんなど,啄木にちなんだ歌や劇が披露されます。
皆さまどうぞご来場ください。

問合せ先 : 石川啄木記念館 019-683-2315

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宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。明治19年(1886)生まれの光太郎より3歳年少でしたので、智恵子と同じく今年が生誕130年になります。ただし、啄木は前年の出生であるという説もあるようです。明治45年(1912)、数え27歳で歿したその短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がさらに長く続いたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。


さて、講演と対談に、渡辺えりさんがご登場。

えりさんのお父様、渡辺正治氏が光太郎と面識があり、さらに宮沢賢治の精神に共鳴していたというご縁から、えりさんは光太郎を主人公とした「月に濡れた手」、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。そして、今回初めて知ったのですが、啄木に関しても「泣き虫なまいき石川啄木」という舞台では、啄木の母・カツの役をなさったこともあるそうです。

えりさんの講演は、平成25年(2013)の花巻高村祭その翌日の花巻市文化会館で拝聴しましたが、さすが大女優、時の経つのも忘れる素晴らしいお話でした。

ぜひ足をお運びください。

えりさんに関しては、もう一つネタがありますが、またのちほど。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき友ありてわれをよぶみちのはたてに火あるがごとし
昭和24年(1949) 光太郎67歳
山形ご出身の渡辺えりさんにちなんで。

この年11月、詩人の真壁仁らが中心となり、山形市美術ホールで「高村智恵子遺作切抜絵展覧会」が開催され、光太郎は翌年には県綜合美術展のため、山形を訪れています(えりさんのお父様はこの際の講演をお聴きになっています)。この歌はおそらくそれらに関わると推定されます。

先週末から昨日にかけ、岩手花巻に行っておりました。土曜日に行われた高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」のバスツアー、翌日曜日の第59回高村祭といったオフィシャルな部分は昨日のこのブログでご紹介しました。

それ以外のプライベートな時間も活用し、花巻市内、あちこち回りましたので、本日はそちらをレポートします。

まず、夜行高速バスで花巻に着いた土曜の朝、ツアーの集合時刻まで時間がありましたので、市街北部の花巻北高校さんまで歩きました。

こちらには、彫刻家の高田博厚作の光太郎胸像があります。当方、20年ほど前にも見に来ました。

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同じ型から作ったものは、信州安曇野の豊科近代美術館さん、同じく信州塩尻の古田晃記念館さん、福井市美術館さんにも収蔵されています。そして埼玉県東松山市の「彫刻通り」では野外展示。こちらは光太郎の薫陶を受けた、同市元教育長の田口弘氏のお骨折りで設置されました。

花巻北高さんのものは、台座に光太郎詩「岩手の人」の一節が刻まれたプレートが嵌め込まれています。

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光太郎、今も若い世代へのエールを送り続けています。

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同校は光太郎との直接的な縁はないそうですが、昭和52年(1977)、光太郎精神に共鳴した卒業生保護者の皆さんにより、設置されました。

ちなみに昨日のこのブログでやはり高田博厚作の佐藤隆房像(右上)もご紹介しました。


続いて、バスツアー終了後、花巻高村光太郎記念会事務局の方のご案内で、「山の駅 昭和の学校」さんへ。こちらは廃校となった旧前田小学校さんの校舎を利用し、昭和のレトログッズを展示しているミュージアムです。花巻南温泉峡、大澤温泉さんと鉛温泉さんの中間ぐらいのところに、一昨年オープンしました。

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校舎内を昔の商店街に見立て、約5万点という膨大なレトログッズがところせましと並んでいます。

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左上はダイハツミゼット。一度、運転してみたいものです。その文房具店、右はカメラ屋さんの設定です。

当方、子どもの頃に普通に周囲にあったものばかりで、懐かしさに打たれました。

古本屋さんの設定のコーナーに、光太郎著書がありまして、光太郎関連はそんなものだろうと思っていましたが、さにあらず。帰りがけ、出入り口の壁にこんなものを見つけました。

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銅板を組み合わせて作った大きなプレートで「道程」が刻まれています。こちらは旧前田小学校さんのもので、ある年の卒業記念制作。おそらく児童ひとりひとりが作ったプレートをパッチワークのように繋げてあるのでしょう。

前田小学校さんと光太郎との関連もないようですが、やはり花巻北高さんと同じように、ある意味郷土の偉人の顕彰も兼ねる、というわけですね。


さらに日曜日、高村山荘敷地内での高村祭終了後、花巻温泉に行きました。入浴はせず、あくまで調査です(笑)。

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当方の泊まっていた大澤温泉さんを含む花巻南温泉峡とは山一つ隔てたところにあります。ここは温泉宿を中心とした一大レジャーランドとして、大正12年(1923)に開業した、比較的新しい温泉地です。湯は湯量がやけに多く、無駄にしていた近くの台温泉から引き、花巻電鉄花巻線(鉄道線)が町中心部から延引されました。下は廃線となった花巻電鉄の駅の跡です。

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十万坪の敷地全体を花巻温泉株式会社として経営、スキー場、遊戯場、プール、ゴルフコース、テニスコート、動物園、植物園、貸別荘、傷病軍人療養所など、さまざまな施設が作られました。経営には賢治の一族も関係し、賢治が設計した花壇も作られました。入場無料のバラ園があり、その中に花壇跡の碑、賢治詩碑、復元された花壇がありました。桜並木も賢治の土壌改良技術によって可能となったそうです。ちなみに今年は賢治生誕120年です。

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大澤温泉さんと並び、光太郎はこの花巻温泉にも繁く宿泊しています。光太郎の記録に残っている旅館は、松雲閣、およびその別館、紅葉館(まだ健在。しかし、建物は近代的になっています)という旅館です。格としては松雲閣別館が最も高かったようで、光太郎の談話筆記には以下の記述が見られます。「一番奥にある松雲閣というのが一番大きく、ちょっと高いところにある別館が一番の高級で、皇族だの、大尽様などがお泊まりになる。私なども、そこへ入れられてしまうが、さすがに建築は立派である」。

昭和27年(1952)には、NHKラジオ「朝の訪問」のための、詩人の真壁仁との対談をここ松雲閣別館で録音した他、日記が失われているため詳細は不明ですが、前年の『朝日新聞』岩手版に載った岩手県知事国分謙吉との対談も、ここで行われたと推定できます。

こちらが往時の松雲閣別館。古絵葉書です。

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松雲閣自体は老朽化のため営業を終えましたが、この建物はまだ残っているらしいと知り、探しに行きました。はたして、残っていました。

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ただし、公開はされて居らず、バラ園、そして道路から外観が見えるにとどまります。柵があって近づけません。

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総欅造り、釘を一本も使っていないそうです。


また、昭和25年(1950)には、花巻温泉株式会社の創業者、金田一国士を頌える碑が建立され、光太郎はその碑文である詩「金田一国士頌」を作り(揮毫は書家の太田孝太郎)、その除幕式にも参加しています。光太郎生前の数少ない詩碑の一つです。

この詩碑も20年ぶりに拝見。松雲閣別館のすぐ近くです。

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こちらは除幕式の写真。中央やや左に光太郎。ガタイがやけにいいのですぐわかります(笑)。

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左上に写っているのが除幕された碑です。

以前にも書きましたが、この碑は、花巻農学校跡(現在のぎんどろ公園)に建てられた賢治の「早春」詩碑と、どうやら同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。こちらも同じ昭和25年(1950)の建立で、光太郎は詩の選択に関わり、除幕式にも参加しています。

詳しくはこちら


最後に、泊めていただいた大澤温泉さん。

山水閣さん、菊水館さんは、ここ数年で何度か利用しましたが、今回は湯治屋さん(自炊部)に泊まりました。こちらは学生時代以来、30年ぶりです。

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豪華ホテルに慣れている方には絶対にお勧めできません(笑)。「普通の旅館と同じだろう?」という方も、甘いですね(笑)。なにしろ、部屋のカギは存在しません。浴衣もコタツも有料です。隣の声は筒抜け、廊下や階上(当方の部屋は一階でした)を他の人が歩く音が響き渡ります。食事は館内の食堂で摂るか、自炊(共同調理場があります)、もしくは売店でパンやカップ麺など。しかし、風情は大ありです。料金も激安です。

当方、2泊の間、夕食は食堂で、朝食は売店で買ったパンでした。音対策(それが必要だとわかっていたので)は携帯音楽プレーヤー。ヘッドホンでヒーリング系の音楽を聴きながら眠りました。たまにはこういう経験もいいものです(笑)。何より温泉はすばらしいので、2泊の間に8回入ってきました。

以上、花巻レポートを終わります。


【折々の歌と句・光太郎】

白花のリラのさし花さきたわみ石のはだかの肩に触りたり
大正15年(1926) 光太郎44歳

大澤温泉さん、リラ(ライラック)ならぬ遅咲きの桜がまだ咲いていました。澄んだ空には飛行機雲。

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先ほど、2泊4日の行程を終え(夜行高速バスで行きましたので、1泊少ないのです)、岩手花巻より帰って参りました。

本日は、オフィシャルな部分での花巻レポートです。

5/14(土)、花巻市主催の市民講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」が開催され、それに帯同しました。

地元紙2紙の報道から 

光太郎の足跡たどる 花巻で没後60周年ツアー

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の没後60周年を記念したツアー「高村光太郎の足跡を訪ねる-花巻のくらし」は14日、花巻市内で開かれた。戦禍を逃れて花巻に疎開した際に身を寄せた同市桜町の「二岳荘(にがくそう)」が特別公開され、市民ら約20人が光太郎ゆかりの地を巡った。
 高村光太郎記念館講座として企画。光太郎は、花巻共立病院(現総合花巻病院)元院長の故・佐藤隆房さんの招きで佐藤家の二岳荘に滞在。離れの2階にある4畳半ずつの2部屋で過ごしたといわれ、当時使っていた火鉢や妻智恵子が創作した紙絵などが残されている。
 参加者は「タイムスリップしたみたい」「光太郎さんがここで過ごしたんですね」と大喜び。ボランティアガイドの説明を聞きながら広大な庭園を散策し、当時の生活に思いをはせた。
 ツアーでは光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑や同記念館なども見学。同市葛の葛巻秀子さん(65)は「こんなに立派なお屋敷があるとは知らなかった。1928(昭和3)年に建てられたのにモダンな印象。また訪れたい」と雰囲気を楽しんだ。
(2016/05/15 『岩手日報』) 

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細かい話ですが、キャプションに2箇所、誤りがあります。上の写真、こちらに飾られている智恵子の紙絵は複製で、本物は花巻高村光太郎記念館に展示中です。それから下の写真、「光太郎が過ごしたとされる」というあいまいなものではなく、はっきり「光太郎が過ごした」です。 

目と食で〝先生〟思う 高村光太郎没後60周年 足跡巡る記念館講座

 花巻市の高村光太郎没後60周年事業として、高村光太郎記念館講座「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし」が14日、市内で催された。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)ゆかりの深い地を巡り、東京から花巻に疎開して以来7年に及ぶ思索と農耕自炊の日々を送った偉人に思いをはせた。
 定員いっぱいの市民20人が参加。まなび学園を発着点にバスで移動し、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑前で光太郎や賢治らに関する資料や作品を展示している桜地人館を見学後、佐藤家の二岳荘と庭園へ。上太田山関振興会館で昼食を取り、高村山荘と記念館を訪れた。
 このうち、光太郎が東京から花巻に疎開した際、花巻共立病院長で交流のあった佐藤隆房(1890~1981年)の招きで身を寄せた部屋が残されている二岳荘は、今回特別に公開された。
 部屋には光太郎が滞在した当時の様子を紹介する写真パネルが展示され、庭園では植栽や茶室「潺湲亭(せんかんてい)」などが散策でき、抹茶の振る舞いも行われた。
 昼食では、光太郎が記した食事のメモを基に太田山口地区の食生活改善推進員協議会が調理した「そば粉パン」、光太郎が「シュークルート」と呼んだ野菜の酢漬けなどが並んだ。同協議会員で記念館職員の新渕和子さん(64)が「そば粉と重曹、みそ、水を混ぜてフライパンで焼くだけで簡単にできる。光太郎先生はバターをつけ、黒蜜を塗って食べたらしい」と紹介。参加者は自分でも作ってみようと手帳に書き留めたり、食べ方をまねたりして味わった。
 締めくくりは、光太郎が暮らした山荘と、2015年4月にリニューアルオープンした記念館の見学。参加者は「冬の山荘は相当寒かったろうに」「地域の人には、かなり慕われていたんだろう」などと当時の暮らしぶりに思いを巡らせていた。
 同市若葉町から夫婦で訪れた男性(72)は「こういう時じゃないと自分たちだけでは見られない場所があったので参加した。佐藤家は敷地の広さ、古い住宅の良さ、設備に驚いた。そば粉パンは思っていたよりおいしかった」と話していた。
(2016/05/15 『岩手日日』)

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上の写真には、当方が写っています(笑)。

記事をお読みいただければ、概要はつかめますね。

下記は帯同しながら撮った写真です。

賢治詩碑。昭和11年(1936)、光太郎が揮毫。さらに当初あった誤字脱字を昭和21年(1946)に訂正しています。

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新緑がきれいでした。

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詩碑近くの桜地人館。光太郎や賢治関連の貴重な資料が展示されています。大半は佐藤隆房が贈られたものです。昔は「佐藤郷志館」という名前でした。
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その庭に立つ佐藤隆房像。光太郎と親しかった高田博厚の作です。

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佐藤隆房邸。詩碑や桜地人館さんからそう遠くありません。ここの離れに光太郎が昭和20年(1945)、1ヶ月滞在しました。その後も太田村から花巻町に出て来た時の拠点にしていました。

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広大な庭。

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咲き誇る牡丹。

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右上は、賢治が取り寄せたという薔薇。ただし、こちらはまだ咲いていませんでした。


この後、旧太田村に移動。昼食をいただきました。

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記事にあるそば粉パンとシュークルートです。

光太郎が暮らした山小屋・高村山荘および高村光太郎記念館。

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この後、一般参加者の皆さんは、バスで市街へ戻り、解散。当方はこちらに残り、事務的打ち合わせ等々。


翌日は、第59回高村祭。明日以降もブログに書くべきネタがてんこ盛りですので、一気にこちらもご紹介してしまいます。

やはり地元紙の報道から。

没後60年、光太郎の情熱しのぶ 花巻で高村祭

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第59回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれ、市民ら約300人が青空の下、合唱や朗読で没後60年を迎えた先人をしのんだ。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催。佐藤会長は「先生は情熱の詩人で戦時中は士気を鼓舞する作品も発表したが、山荘暮らしの7年間は戦争への反省を重ねた。皆さんも当時をしのんでほしい」とあいさつした。
 太田小、西南中、花巻高等看護専門学校の児童生徒が合唱し、詩の朗読では及川波月(はづき)さん(花巻農高3年)が「レモン哀歌」、藤原詳さん(同2年)が「当然事」、花巻高等看護専門学校1年の石川泰(たい)さんが「非常の時」を読み上げた。
 及川さんと藤原さんは「純粋な思いが伝わるように朗読を心がけた」「自然豊かな高村山荘で朗読する貴重な機会をもらった」と語り光太郎に思いをはせた。
(2016/05/16 『岩手日報』)

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”先生”の教え次代が引き継ぐ 高村祭

 花巻高村光太郎記念会と高村記念会山口支部が主催する「第59回高村祭」は15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。彫刻家で詩人の高村光太郎が、1945年に東京から花巻に疎開してきた日に合わせて毎年実施。詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を会場全体で朗読し、古里ゆかりの偉人をしのんだ。
 地元小中学生らが合唱などを披露。いずれも光太郎作の「レモン哀歌」を及川波月さん(花巻農高3年)、「当然事」を藤原詳君(同2年)、「非常の時」を石川泰君(花巻高等看護専門学校1年)が朗読し、光太郎の偉業に思いをはせた。
 2016年は光太郎没後60年、光太郎の妻・智恵子生誕130年の節目の年。特別講演では、祖母の金谷ふゆさんが光太郎のいとこだった盛岡市の加藤千晴さんが「高村光太郎と金谷一族について」と題し、エピソードを披露した。
 同日は約600人が参加。鎌田志栞さん(西南中1年)は「光太郎先生の詩からは自然の豊かさを感じる。太田の風景とも重なるところがあり落ち着く」と話していた。

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以下、やはり当方が撮りました。

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今朝のNHKさんのローカルニュース。

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永続的に続けていっていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や南へいそぐ旅烏       明治42年(1909) 光太郎27歳 

旅ガラスの当方、このブログを書くために急いで帰って参りました(笑)。

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昨日、岩手花巻に参りまして、今日は光太郎が昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭にお邪魔しました。

からりと晴れ渡った空の下、爽やかな風が吹き渡り、暑くもなく寒くもなく、素晴らしい陽気でした。

例年通り、地元小中高生、高等看護専門学校生による音楽演奏や朗読。記念講演は光太郎の血縁で、盛岡在住の加藤千晴氏。貴重なお話が聴けました。

地元の皆さんをはじめ、福島いわきの草野心平記念文学館の方、青森の十和田湖・奥入瀬観光ボランティアガイドの会の方、このブログをご愛読いただいている方などに久しぶりにお会いできたのも、嬉しい点でした。

詳しくは、帰りましてからレポートいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

うなづけば万語(ばんご)若(し)く無き意は足りぬ山の湯に聴く昼ほととぎす
明治37年(1904) 光太郎22歳

今晩も当方、光太郎が愛した大澤温泉さんです。

「ほととぎす」ならぬカジカガエルの声がよく聞こえます。

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岩手花巻・大澤温泉さんにて、携帯からの投稿です。
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昨夜、池袋西口発の夜行高速バスに乗って、今朝6時半、花巻に着きました。

明日が郊外旧太田村の、昭和20年(1945)から7年間を光太郎が過ごした山小屋(高村山荘)敷地内での第59回高村祭。今日はそれに合わせ、市主催の市民講座で、太田村に移る直前の1ヶ月間、光太郎が厄介になっていた花巻市街地にある花巻病院長・佐藤隆房邸、高村山荘、高村光太郎記念館などの見学ツアーがあって、それに帯同していました。

先ほど、二泊させていただく大澤温泉さんに到着。この後は露天風呂を満喫、早めに夕食をとって寝ます。
詳しいレポートはのちほど。

【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの花巻町に人ありき賢治を生みきわれを招きき
                                                                    昭和21年(1946)光太郎64歳

「人」は前年の空襲で駒込林町のアトリエを失った光太郎を受け入れてくれた宮沢賢治の父・政二郎、賢治の主治医でもあった佐藤隆房らを指します。

昭和20年(1945)、空襲で東京のアトリエを失った光太郎が、岩手花巻への疎開のため東京を発った5月15日、例年、花巻で「高村祭」が行われています。今年で59回目となります。今月号の『広報はなまき』から。 

第59回高村祭

期  日 : 2016年5月15日(日)
会  場 : 高村山荘詩碑前広場 岩手県花巻市太田3-85

光太郎が花巻に疎開してきた5月15日に毎年開かれる「高村祭」。光太郎が暮らした高村山荘にある「雪白く積めり」の詩碑の前では、地元の小・中学生や高校生、花巻高等看護専門学校生による合唱や楽器の演奏、詩の朗読などが行われます。

高村祭特別講演を開催
 高村光太郎と金谷一族について-高村光太郎のいにしえの姿-
【時間】午前11時~正午
【講師】加藤 千晴さん
【内容】
講師の祖母、金谷ふゆは、高村光太郎のいとこで幼なじみでした。祖母ふゆから受け継いだ仏像と光太郎が持っていた仏像のつながりをはじめ、祖母から聞いた光太郎の姿を紹介します。

【駐車場のご案内】
当日はスポーツキャンプむら「メイングラウンド側」駐車場をご利用ください。雨天時は「屋内運動場側」駐車場は利用できません。
【無料臨時バスを運行】往路…花巻駅西口発9時半、復路…高村山荘発15時
【問い合わせ】(一財)花巻高村光太郎記念会事務局(平日電話29-4681)

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毎年、地元小中高生、看護学校生による光太郎詩の朗読、音楽演奏が行われ、さらに記念講演があります(昨年は当方が仰せつかりました)。

今年の講演は、盛岡在住の加藤千晴氏。光太郎の血縁の方です。明治の高村家は、養子縁組等で若干、家系が複雑です。光太郎の父・光雲が徴兵を逃れるため師匠・高村東雲の姉・悦の養子となり、光太郎の母・わかも若くして父を亡くして東雲の妹・きせの養女となりました。きせの実子がふゆ。年齢的には光太郎に近く、幼馴染み的な関係だったので、混乱が生じているようです。光太郎のいとこにあたるのは、ふゆの子の照。その照の子息が加藤千晴氏です。ちなみに照さんは100歳近いということですが、まだご存命です。この方も、戦後に花巻郊外太田村の光太郎の元を訪れています。

昨年暮れに、当方、花巻に参りまして、加藤氏の手記のコピーを戴きました。手記はふゆ・照母子と光雲・光太郎との関わりなどが詳細に記されており、非常に貴重なものでした。今回の講演でも、一般に知られていないエピソードなどが聴けることと思われます。

ぜひ足をお運びください。

前日の5月14日には、光太郎が旧太田村の山小屋に入る前に1ヶ月暮らした、花巻市街の佐藤隆房邸の公開もあります。当方、ここからお邪魔いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

米無くばじやがたらいもをわが喰はむみどりの風に身を養はむ
制作時期不詳

昭和4年(1929)刊行の『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に載った作品です。おそらくあまりさかのぼらない時期の制作とは推定できます。

5月となりました。しかも今日は八十八夜だそうです。「みどりの風」が心地よい季節になって参りました。

花巻市の広報紙『広報はなまき』の記事です。 

高村光太郎記念館講座 「高村光太郎の足跡を訪ねる~花巻のくらし~」

疎開のため花巻に身を寄せた光太郎が滞在した佐藤隆房邸や高村光太郎記念館、高村山荘など、ゆかりの地を巡ります。

【対象】 市内に在住または勤務する方
【日時】 5月14日(土)、午前9時30分~午後3時
【集合場所】 まなび学園
【定員】 20人(抽選)
【受講料】 無料
【申込期限】 5月2日(月)
【問い合わせ・申し込み】 生涯学習課(緯内線418)


翌日には光太郎が7年間を過ごした郊外旧太田村(現・花巻市太田)の山小屋=高村山荘で、第59回高村祭が行われます。こちらはまだ詳細な情報が出ていません。

それとセットで行おう、ということで、メインは佐藤隆房医師邸の公開です。

こちらにある離れは、光太郎が旧太田村の山荘に移るまでの1ヶ月あまりを過ごした場所です。「潺湲楼(せんかんろう)」と命名し、太田村移住後も、花巻町に出て来た時にはここを拠点にすることがたびたびありました。

こちらは光太郎が居た当時の室内。智恵子の紙絵、それから佐藤医師に請われて書いた「彧彧」(「いくいく」または「えきえき」)の書などが写っています(ともに現在は花巻高村光太郎記念館所蔵)。

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下記は現在の様子です。

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昨年暮れに花巻を訪れた際、この計画を聞き、急遽、下見のため中に入れていただきました。

14日当日は、当方も参上します。ただ、今年初めてこういう試みをやるということで、対象はあまり広げずに花巻市内在住及び勤務の方となっています。今後、広く参加を募ったり、他の日程で団体さんの視察等を受け入れたりすることも視野には入れているようですが。

花巻というと、どうしても花巻出身の宮澤賢治の方がメインですが、光太郎が行った賢治のプロデュースの功績も、もっと光が当たってほしいものです。

実は当方、秋にはそのあたりの内容を、花巻で講演いたします。詳細はまた近くなりましたら。


【折々の歌と句・光太郎】

よからずや垣根にちさき名なし草世にさびしきも花の色なり
明治35年(1902) 光太郎20歳

自宅兼事務所の垣根にはこんな花が咲いています。名前が分かりません。

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岩手の地方紙『岩手日日』さんの報道です。 

光太郎 在りし日の面影 太田地区振興会 思い出記録集を発行

 花巻市の太田地区振興会(佐藤定会長)は、晩年の100一時期を同地区で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の思い出を記録集「大地麗(だいちうるわし)」にまとめた。地区住民らの記憶に残る郷土ゆかりの偉人との触れ合いを収録している。
 かつて稗貫郡太田村だった同地区に東京出身の光太郎が入村したのは1945年。以降、帰京するまでの7年間を質素な山小屋で過ごし、地域住民と交流を重ねた。記録集発行は、入村70年を記念し光太郎の人柄を示すエピソードを残そうと、市の地域づくり交付金を活用して事業化した。
 掲載したのは2015年10月に同振興会が開いた光太郎の「思い出を語る会」の内容が中心で、いわて教育文化研究所の吉見正信顧問による記念講演や、地域住民らのエピソードを収録。記録集の発行に合わせて新たに寄せられた体験談なども盛り込んでいる。
 いずれも運動会での奮闘の様子や、いつもあいさつしてくれたことなど、光太郎の人柄が感じられる話ばかり。自身も小学生の頃に光太郎と交流した経験のある高橋征一副会長は「実際の記憶が残っている人がいるうちに記録をまとめたいと取り組んだ。偉大な芸術家と地域のつながりを後世に伝えたい」と話す。
 A4判、18ページ。タイトルには1950年の村役場落成式で光太郎が揮毫(きごう)した「大地麗」を引用した。発行は260部。今後、太田小学校と西南中学校、高村光太郎記念館などに配布するほか、県外の関係団体にも贈ることにしている。


過日のこのブログでご紹介した冊子『高村光太郎入村70年記念 ~思い出記録集~ 大地麗』に関してです。当方は第60回連翹忌の席上で戴きました。

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題名に採られている「大地麗」は、昭和25年(1950)に光太郎が旧太田村役場の落成記念に贈った扁額に書かれた語です。

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最後の「麗」の字が、はじめは誰も読めなかったというようなエピソードなども紹介されています。確かに当方もいきなりこれを見せられても読めません。

これら生前の光太郎を知る一般の方々の証言が多数掲載されています。エラい先生方が自分勝手な解釈でああでもないこうでもないとひねり出した「論文」などより、こうした生の証言の方が、何層倍も計り知れない価値があるように思われます。

入手につきましては、記事にある旧太田村の高村光太郎記念館さんまでお問い合わせ下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

春の宵好言伶色鮮無仁      明治42年(1909) 光太郎27歳

「好言伶色鮮無仁」は、「こうげんれいしょくすくなしじん」。『論語』の一節で、日本でもことわざ的に使われていますね。通常、「好言伶色」は「巧言令色」と書きます。違う字を使うところに何か意図があったのかなど、不明です。

それにしても『論語』の一節を五・七・五中の七・五に配してしまうというのも、なかなかの荒技のような気がします。不思議な魅力のある句ですね。

4月2日、東京では日比谷公園松本楼さまで、第60回連翹忌の集いを開催いたしました。

同日、光太郎が戦中戦後の足かけ8年を過ごした岩手花巻でも、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後から光太郎ゆかりの花巻市街にある松庵寺さんで、花巻としての連翹忌が開催されました。

東京の方はなかなか報道されませんが、岩手の方は報道されていますのでご紹介します。 

光太郎に思いはせる 詩碑前祭 小中学生が詩を朗読

 花巻ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎(0011883~1956年)の命日である2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で「詩碑前祭」が催され、今年も太田山口地区の住民ら約50人が地元に教えを残した光太郎の遺徳をしのんだ。
 山関、上太田両行政区全94戸で組織し、光太郎の顕彰活動を続けている高村記念会山口支部が毎年主催。照井康徳支部長、来賓で花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長のあいさつに続き、太田小学校の高橋百花さん(3年)、中島絢星君(1年)が光太郎の詩「雪白く積めり」が刻まれた石碑と遺影に献花した。
 同支部の平賀仁理事が「厳しき自然の中に先生は7年間住まわれ、自然をたたえ、詩にうたい、地方の私たちに数々の教えを注いでくださった」と祭文を読み上げて光太郎に感謝を伝え、地元の上太田子供会、戸来園子さん、高橋新吉さん、太田区長会が「山の広場」「岩手の人」など光太郎の詩を高らかに朗読した。
 光太郎は1945年、東京のアトリエを空襲で焼失し、詩人で童話作家の宮沢賢治の生家の招きで花巻に疎開。旧太田村山口の山小屋で7年間、農耕自炊の生活を営みながら住民と交流し、多くの詩作品を生み出した。
 高村山荘の近くにある高村光太郎記念館は、老朽化のため全面改修され、2015年4月にリニューアルオープンし、多数の入場者を迎えている。
 照井支部長は「少子高齢化の影響で地区の子供も減っており、今年は詩の朗読に小学生だけでなく中学生も加わってもらった。高村先生を覚えている人も減っている。リニューアルした記念館とともに行事を通じて先生のことを伝えていきたい」と話していた。
『岩手日日新聞』 2016/04/03
 

”高村光太郎の命日”で法要

 詩人で彫刻家、高村光太郎の命日の2日、光太郎が太平洋戦争の時に疎開していた花巻市で法要が営まれました。
 高村光太郎は、昭和20年の空襲で東京のアトリエを失ったあと、知人を頼って花巻市に疎開し、その後、7年間を過ごしました。
 光太郎の命日の2日、花巻市双葉町の松庵寺で光太郎が好きだったというレンギョウの花の名前をとって「連翹忌」と呼ばれる法要が営まれました。
 法要には、光太郎ファンの市民などおよそ20人が集まり、松庵寺の小川隆英住職が、お経を読みあげたあと、光太郎の詩、「松庵寺」を紹介しました。
 小川住職は、この詩について、「若くして亡くした妻、智恵子への愛情が込められている」などと説明していました。
 出席した70代の女性は、「光太郎の妻への愛情が身にしみてわかりました」と話していました。
 また、2日は、光太郎が過ごした山荘近くにある石碑の前でも、市民や子どもたちおよそ40人が集まり詩を朗読して光太郎をしのんでいました。
「NHKオンライン 岩手」 2016/04/02

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ありがたいことです。こちらも続けられる限り続けていっていただきたいと思います。当方、東京での連翹忌を仕切らねばなりませんので、こちらには参加できません。ただ、来月15日、昭和20年(1945)に光太郎が疎開のため東京を発って花巻に向かった日には、やはり高村山荘敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されます。こちらには例年通り参加させていただきます。


【折々の歌と句・光太郎】

春雨や赤き袴(ジユボン)と黒き傘  明治42年(1909) 光太郎27歳

イタリア旅行中の作。「ジュボン」=「ズボン」に「袴」の漢字を当てる辺りがにくいですね。赤と黒の対比がいかにも南欧の鮮やかな風景を演出しています。

日本では菜種梅雨、というところでしょうか。今日もかなり雨が降っています。2日の連翹忌の日も、朝、そして帰途に就いている途中も激しい雨でした。

光太郎は生前から何か節目の時には必ず雨か雪(連翹忌の日に最終回を迎えたNHKさんの「あさが来た」の新次郎さんみたいですね)。亡くなった昭和31年(1956)4月2日は、東京では季節外れの大雪が積もっていたそうです。没後も雨や雪を降らせる神通力は健在。連翹忌当日は、絶対といっていいほど、雨が降ります。

今日、4月2日は、光太郎忌日・連001翹忌です。昭和31年(1956)に亡くなった光太郎を偲ぶため、翌昭和32年(1957)に第1回連翹忌が、光太郎終焉の地・中野の中西家アトリエで行われました。

発起人は実弟の豊周、草野心平、佐藤春夫ら。彼等によって、光太郎が愛し、その葬儀の際に棺に飾られたアトリエの庭に咲いていた連翹(レンギョウ)にちなみ、「連翹忌」と名付けられました。

その第1回は、いくつか置かれたリンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席の会場だったそうです。

爾来、場所を変えながら一度も途切れることなく連綿と続き、平成11年(1999)の第43回からは、明治末から大正初年、光太郎智恵子がデートをし、また、芸術家達の集まりであった「パンの会」の会場としても使われた日比谷松本楼さんで行っています。

今年は60回の節目の連翹忌です。午後5時半から、松本楼さんで集いを持ちます。土曜ということもあり、昨日の時点で、ここ数年で最も多い77名の皆様のご出席申し込みがありました。生前の光太郎をご存じの方も10名近く。それから新規の方も多く、泉下の光太郎も喜んでいることでしょう。

様子は明日以降のブログにてレポートいたします。

同じく今日、光太郎が戦中戦後の足かけ8年を過ごした花巻でも、花巻としての連翹忌が行われます。午前9時からは光太郎が独居生活を送った山小屋(高村山荘)敷地内で詩碑前祭、午後1時からは、光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さんで、花巻としての連翹忌です。

こちらも報道されれば、明日以降のブログでご紹介します。

さて、その高村山荘へのアクセスですが、花巻駅からの路線バス(岩手県交通さん)が、昨日から復活しました。かつては定期便で運行されていたものが、廃線となりました。それが昨秋、試験運行と言うことで復活。ただし、10,11月の2ヶ月間の限定でした。

すると、花巻市さんの広報紙『広報はなまき』の今月号に、以下の記事が載りました。 

県交通路線バス情報 太田線の増便

昨年度に引き続き、太田線の花巻駅から高村山荘までの区間を増便する試験運行が実施されます。
【運行期間】 4月1日(金曜日)~11月30日(水曜日)
【問い合わせ】  本庁都市政策課(0198-24-2111内線562) 県交通株式会社花巻営業所(0198-23-1020)

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高村山荘まで行くのは日に2往復ですが、タクシーだと片道3,000円以上。ありがたいところです。また、途中の「花巻清風支援学校前」までしか行かないバスもありますが、そこからでも高村山荘まで直線距離で3㌔㍍ほど。のんびり歩くにはいい距離かも知れません。途中には光太郎ゆかりの石碑なども点在しています。

ぜひあちら方面に行かれる場合にはご利用下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

夕月や満山の花仙に入る        明治33年(1900) 光太郎18歳

当方、日比谷松本楼さんでの連翹忌の前に、駒込染井霊園にある光太郎の墓参を致します。こちらはソメイヨシノ発祥の地。また、日比谷松本楼さん周辺も桜が見事なはずです。満開であろう桜の中で、光太郎を偲ばせていただきます。

昨日の岩手の地方紙『盛岡タイムス』さんに載った記事です。 

首都と県都に生きる歌人 東京・文京区 盛岡市 啄木の顕彰に協力 終焉の地歌碑や展示室

 盛岡市と東京都文京区は、石川啄木の縁で地域文化交流に関する協定を結び、それぞれが歌人を顕彰している。昨年3月22日には同区小石川5丁目に石川啄木終焉(えん)の地歌碑が建立、顕彰室が開設された。1年後の今年は生誕130年を迎え、訪れる人が増えている。顕彰室には盛岡市や啄木記念館が協力し、直筆原稿(複製)などを展示。生没の地が手を結び、啄木の歌を今に伝える。文京区には新渡戸稲造、宮沢賢治、高村光太郎の旧居跡もあり岩手、盛岡と縁が深い。先人が生きた時代の風を、首都と県都で現代に受け渡す。

  啄木は1902(明治35)年16歳で初めて上京し、文京区に滞在した。渋民への帰郷や北海道の流浪を経て再び上京し、1908(明治41)年から12(明治45)年まで4年間住み、26歳で没した。

  顕彰室と歌碑は2013年に同区の諮問機関として石川啄木終焉の地歌碑等検討会の設立に始まり、地元の努力で実現した。区立小石川五丁目短期入所生活介護施設等の一角に、寄付を募った文京区石川啄木基金を活用して整備した。啄木の足跡や文京区との関わりを中心に、パネル、年表、書簡などで紹介している。

 現地にはもとは東京都旧跡石川啄木終焉の地の石柱が建っていたが、再開発に伴い撤去され、啄木ファンや住民を寂しがらせていた。歌碑を建立してよすがとし、「悲しき玩具」冒頭の二首を記した。石材は盛岡産の姫神小桜石を用い、渋民建立の最初の啄木歌碑と同じ材質に、望郷の念を刻んだ。昨年3月22日には成澤廣修文京区長、谷藤裕明盛岡市長らが参列し、除幕式が行われた。

  文京区アカデミー推進課観光担当の諸久子主査は「文京区は東大はじめ大学が19ある文化と教育の区であり、名前に文が付く文学の都。森鴎外や夏目漱石はもとより、啄木、樋口一葉、坪内逍遙が住み、宮沢賢治の旧居跡もある」と話す。文壇の奥座敷として都心部にあり、多くの名作の舞台となってきた。

  盛岡市とは区市の共催で啄木学級文の京講座を開くなど、文化や観光で協力してきた。盛岡市教委歴史文化課の岡聰学芸主査は「東京との間に築いた協力の間柄を続けながら、お互いに啄木を顕彰していきたい。文京区は上京した先人たちが一度はお世話になったところだ」と話し、新渡戸や賢治も含めた縁を大切にしている。


というわけで、啄木が取り持つ縁で、盛岡市と東京都文京区の地域交流が行われているとの内容です。調べてみたところ、両市区は、東日本大震災を受け、「「石川啄木ゆかりの地」災害時における相互応援に関する協定」も結んでいました。ある意味、すばらしいですね。

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行政レベルで地方自治体同士が、一人の人物を媒介にして交流。調べれば他にもあるのでしょうが、あまり多い例ではないと思います。

そういえば、戦後、光太郎が暮らした岩手県花巻市と、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が設置された青森県十和田市は、友好都市ということになっています。ただ、そもそもは、花巻出身の新渡戸稲造の祖父・傳(つとう)と父・十次郎、兄・七郎の三代が、十和田三本木原の灌漑開発に功績があったことから結ばれたそうです。

しかし、後付けですが、両市とも光太郎に縁が深いということで、その点からの友好都市交流も行われています。昨年は十和田市主催の花巻市探訪ツアーで、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)と、リニューアルなった花巻高村光太郎記念館の見学、逆に花巻市太田地区振興会の皆さんが十和田湖を訪れての交流会などがありました。

さて、上記『盛岡タイムス』さんの記事にもあるとおり、文京区は光太郎が最も長く暮らしたところです(当時は本郷区でしたが)。また、盛岡にもたびたび足を運んでいます。そして啄木と光太郎も与謝野夫妻の新詩社や雑誌『スバル』を通し、縁がありました。光太郎が脚本を書き、啄木が出演した素人演劇なども上演されています。また、智恵子が通った日本女子大学校も文京区(こちらも当時は小石川区でしたが)です。

そんなこんなで、やはり後付けで、盛岡市さと文京区さんの交流に、光太郎もからめていただきたいものです。

そう考えると、光太郎智恵子に深く関わる自治体さんは他にもたくさんあります。それぞれの地でいろいろやっていただいている部分はありますが、そういったところ同士での、光太郎智恵子を縁(えにし)とする交流も活発になってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

寝顔よき女や春の汽車の中        明治42年(1909) 光太郎27歳

光太郎の短歌、俳句は、その詩と同様に、直截なものが多いのが特徴です。これなどはその最たる例の一つですね。

青森の地方紙『デーリー東北』さん。先週、一面コラムで光太郎について触れて下さいました 

天鐘(3月15日)

彫刻家で詩人だった高村光太郎の手と足は並外れて大きかった。国産の革靴は入らず米国人から譲り受けた13文半(32センチ)を愛用。長靴は靴屋で一番大きい12文半(30センチ)を調達したが小さくて我慢して履いていたという▼花巻市の記念館が所蔵する革靴と長靴を改めて測っていただいた。12文半で窮屈だから32センチ近かったのだろう。身長は6尺(180センチ)で当時としてはかなりの偉丈夫だが、体躯(たいく)にも増して手足が大きかった▼32センチなら身長209センチのジャイアント馬場と同じ。「16文キック」は米靴規格の号を文と取り違えたためで実際は14文だった。光太郎は大きな四肢を気にしていたが、自身の左手を描いた塑像は指が長くて美しい▼24歳の時、留学先の米国で自作にいたずらした学生の腕を締め上げた。すると柔道と勘違いされ、レスリング選手と闘うはめに。柔道は未経験だったが逆手で押さえつけたら相手は悲鳴を上げて降参したとか▼頑丈な体躯をサンドー体操(今のボディビル)で鍛え、腕っ節も人一倍強かった。戦争を賛美した芸術家が素知らぬ顔で転向していく中、彼は戦争詩を書いた贖罪(しょくざい)から花巻の山麓で独居生活に入り、自らを戒めた▼明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。輸入軍靴が大き過ぎたためだが、逆に手足が国際規格の光太郎を悩ませた。和製ロダンの秘話である。


意外と知られていない光太郎のエピソードを紹介して下さり、ありがたく存じます。

30㌢の靴が小さくて我慢して履いていたというのは本当のようで、常に靴や靴下には困っていたことが、いろいろな文献から伺えます。

つい昨年発見した書簡にも記述がありました。

 本当にあるのですね。
 あたたかい十三文の靴下。送つていたゞいて、小生の特大の足もよろこんでゐます。ばけもの屋敷で、あたたかい冬がこせそうです。有り難う存じます。
(昭和16年=1941 12月10日 西倉保太郎宛はがき)

「ばけもの屋敷」は、智恵子没後の駒込林町のアトリエ。近所の子供達がそう呼んでいたそうです。


それから花巻高村光太郎記念会さんで復刊した『高村光太郎山居七年』という書籍にも。

 山口に移った旧冬、先生が戸来恭三さんの所へ来た時、
「冬になって雪が降ってきたが、下駄があるだけで、はきものがなくて困りました。何しろ僕の足が特別大きいので、はき物を探すには大変苦労します。」
「それあ、ことだなす。先生などにお使いってもらうのは、ほんとに笑いごったどもが、こっちの方では藁であんだつまごというのめいめいの家でつくってはくもなす。そんなもんでよくおでれば、何時でもつくって上げあんす。」
「つまごというのは藁の靴のことでしょうね。……それはまことにいい話を伺いました。藁は毛皮についで保温の性能がよいということだから、藁の靴ならまことにあたたかでよいでしょう。是非一つお作りになっていただきます。僕の足はとても大きいのだから。十三文位あるんだから。そこをよくしってつくっていただきたいです。」
 恭三さんは、藁細工の上手な老父に頼んで早速大きなつまごを作って貰いました。そのつまごは、編上げの靴風に足くびも隠れる半長の吟味したものでした。
 その靴を先生に届けた所、手にとり色々にもちかえて眺め、靴の中へ手を入れてみたり、足袋の足にあわせてみたりして大変喜ばれ
「これは素晴らしい。これがあれば雪の道も暖かく歩けます。大きさもたっぷりできてるし、それに美しい。」
 先生は冬を通して此の靴を愛用しました。春になってその藁靴が要らなくなった時、小屋の東側の水屋に近い柱にかけておきましたが、その藁靴が何枚かのスケッチの材料となりました。

昭和20年(1945)、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に移り住んで間もなくのエピソードです。

光太郎が愛用したつまごの実物は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。また、昭和22年(1947)、甥の故・高村規氏に送ったはがきに、このつまごが描かれています。

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他にもやはり米兵用と思われる特大の靴下をもらって喜んだ話も載っています。


再び「天鐘」。怪しげな柔道技で米国人学生をギブアップさせた話、ボディービルの話も実話です。4年程前にこのブログでもご紹介しました。

こうした人間くさいエピソードを知ると、ぐっと身近に感じると思うのですが、どうでしょうか。


ちなみに「天鐘」末尾に「明治3年の今日はわが国初の西洋靴工場が東京築地に開設された「靴の記念日」。」とありますが、その工場を造ったのが西村勝三。のち、明治39年(1906)になって、東京向島の西村家別邸に、光太郎の父・光雲が原型を作った西村の銅像が建立されています。

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【折々の歌と句・光太郎】

自転車を下りて尿すや朧月       明治33年(1900) 光太郎18歳

軽犯罪法違反ですが(笑)、これも人間くささの表れ、ということで。

毎年ご紹介していますが、4月2日の光000太郎の忌日の集い「連翹忌」は、東京以外にも、光太郎が足かけ8年を過ごした岩手花巻でも行われています。午前中は光太郎が7年間住んだ、旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地で詩碑前祭、午後から光太郎が毎年のように智恵子や光雲の法要を行ってもらっていた、花巻市街の松庵寺さん(先頃、閉店が発表されたマルカンデパートさんの裏手)で、花巻としての連翹忌が開催されます。それぞれ花巻高村光太郎記念会さんの主催です。

昨日発行の『広報はなまき』に案内が載りました。

ちなみに東京では日比谷公園内の松本楼さんで行っていますが、今年は「第60回」です。光太郎一周忌の昭和32年(1957)に、「第1回」を行い、カウントが続いています。

花巻の方は「61回忌」として行われるはずです。「~回忌」は、年令の数え年と同じで、亡くなった年の葬儀を「0」ではなく「1」と数え、翌年のみ「一周忌」と表しますが、さらにその翌年が「3回忌」となり、以後、数字が増えていきます。したがって、東京日比谷での連翹忌とは数字が異なります。


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当方、東京での連翹忌を進行しなければなりませんので、花巻の連翹忌に参加したことはありませんが、光太郎第二の故郷ともいえる花巻での取り組みも、末永く続いてほしいものです。お近くの方で、東京には来られないという方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

石崩(いしくへ)の崕(がけ)のはざまのほけ土も足るや花さき瑠璃の色しぬ
明治40年(1907) 光太郎25歳

「ほけ土」は『広辞苑』によれば「ねばりけがなく草木の生育に適さない土」。漢字では「壚土」と書きます。

まずは昨日の『岩手日報』さんの一面コラム。  

風土計 2016.3.4

詩人の高村光太郎は終生、妻の智恵子を愛した。無二の女性との出会いから、光太郎は退廃的な生活と決別。美に生きる人生へ踏み出す
▼智恵子は心の病を患い、光太郎の手が届かない世界に向かう。その時、真の美が立ち現れる。「あなたはだんだんきれいになる」「人間商売さらりとやめて、もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子のうしろ姿がぽつんと見える」
▼「智恵子抄」につづられた光太郎のまなざしは、どこまでも愛をたたえる。この詩集が不朽の名作たるゆえんは、文学的高みに加え、病気や障害がある人に寄り添うとはどういうことか、心の琴線に触れるからでもあろう
▼超高齢社会の今、愛のまなざしは、監視の目線に取って代わられようとしている。認知症患者の徘(はい)徊(かい)事故で、家族が賠償を求められるケースが相次いでいるからだ。2人が現代に生きていたら、光太郎は智恵子の後ろ姿を慌てて追いかけ、家に閉じ込めたかもしれない
▼愛知県で起きた徘徊事故をめぐり、最高裁は家族の監督義務について、防ぎ切れない事故の賠償責任までは負わないとする初判断を示した。在宅介護に苦悩する家族に朗報となった
▼とはいえ、免責される基準は明確ではなく、家族の負担はなお重い。社会で見守る仕組みがない限り、介護の哀歌は生み出され続ける。


岩手は光太郎の第二の故郷ともいえます。そこで『岩手日報』さんや『岩手日日』さんの一面コラムには、かなりの頻度で光太郎智恵子が登場します。

しかし今回の内容は、その件にからめますか、という感じでした。

たしかに実際、智恵子の心の病が昂進した時期には、どうしても出かけなければいけない用事があると、光太郎はアトリエの戸に釘を打って出かけたとのこと。それでも智恵子は戸をこじ開けて往来に出、大騒ぎをしていたそうです。

明日は我が身、かもしれません。


岩手つながりでもう1件。

過日、『岩手日日』さんの記事から、戦後の太田村時代に撮られた光太郎が写った写真の発見をご紹介しました。

その後、『読売新聞』さんと『朝日新聞』さんの岩手版にも記事が載りましたので、ご紹介します。 

高村光太郎 花巻での姿…民家に写真、市へ寄贈

 詩集「智恵子抄」などで知られ、晩年を旧太田村(現花巻市)で過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)が写ったスナップ写真が、花巻市内の民家で見つかった。手のひらサイズの白黒写真で、最前列中央に腰掛けた高村は眼鏡に国民服姿。帽子を左手につかみ、柔らかな表情を浮かべている。
 写真が見つかったのは、花巻市太田の主婦、安藤幸子さん(78)宅。地域の役員など十数人と撮影した集合写真とみられ、右端には民生委員を務めた安藤さんの母・アンさんの姿もある。
 東京のアトリエを空襲で失った高村は1945年から7年間、太田村の山あいにある粗末な小屋「高村山荘」で独居自炊生活を送り、地域住民と交流を続けた。没後60年の今年、太田地区の住民らが高村に関する勉強会を開く中で、安藤さん宅に保管された写真の存在に気付き、花巻市に寄贈した。
 花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さんは「個人所蔵のスナップ写真が見つかるのは珍しい。写真はほかにも存在すると思うが、ここ数年は見つかっていなかった。地域住民との交流を裏付ける貴重な写真」と話している。
 市は写真を修復し、撮影時期を特定したうえで、高村光太郎記念館(花巻市太田)で展示することにしている。
2016年02月28日
000 

岩手)光太郎先生と貴重なショット 花巻の女性が寄贈

 花巻市太田002の安藤幸子さん(78)が、詩人で彫刻家の高村光太郎が写った写真資料を同市に寄贈した。高村光太郎は1945年から7年間、当時の旧太田村で暮らしており、後半期の撮影とみられる。花巻高村光太郎記念会は「光太郎先生と住民との交流が分かる貴重な資料」と説明する。
 当時の医院の前で撮影したとみられ、向かって光太郎の右隣に医師家族、左隣に太田村長を務めた高橋雅郎氏が写っている。市は今後、撮影日時などを調べ、高村光太郎記念館での展示を予定している。
 安藤さんは子どもの頃、光太郎が住んでいた山荘を訪ねたことがあり、部屋中が本でいっぱいだったと記憶している。「大きな人で迫力があった」と話す。(石井力)
2016年3月4日

この記事を執筆なさった石井氏は同紙北上支局長さんです。昨年、「戦争協力、自ら罰した光太郎」というコラムで、当方もご紹介下さいました。


しつこいようですが、光太郎の第二の故郷ともいえる岩手。本来の故郷の東京は有名人の出身者が多く、光太郎レベルでも出身者としては埋没しています。そういう意味で、第二の故郷・岩手での顕彰がもっともっと進む事を期待します。


【折々の歌と句・光太郎】

くれなゐの蕾うれしき春の朝あなこは小雨さく花の白き
明治34年(1901) 光太郎19歳

いよいよ春本番となって参りました。

「あな」は感動詞。「ああ」といったところ。「こ」は「これ」。紅の蕾で咲いたら白いのは、梅でしょうか。

昨日の『岩手日日新聞』さんに、以下の記事が出ました。 

光太郎の新たな資料 住民との集合写真 安藤さん(太田)、市に寄贈

 花巻市に疎開した彫刻家で詩人の003高村光太郎(1883~1956年)の新たな資料が26日、市に寄贈された。住民との交流を示す集合写真で、関係者は貴重な資料の発見を喜ぶとともに、光太郎に関する資料について新たな情報提供に期待を寄せている。
 寄贈したのは、同市太田の安藤幸子さん(78)。2015年10月に開かれた光太郎に関する太田地区振興会の勉強会をきっかけに、安藤さんが自宅で光太郎の写真を見たことを思い出し、母親アンさん(故人)のアルバムから見つけた。高村光太郎記念館の市川清志館長に拡大した写真を自宅で手渡した。
 当時の太田医院と思われる建物を背景に撮影された写真で、中央に光太郎が写っているほか、同医院の関係者や旧太田村役場職員らと共に、アンさんの姿も納められている。
 光太郎は1945年5月から52年10月まで市内太田地区に疎開していた。花巻高村光太郎記念会事務局企画担当の高橋卓也さん(39)は「手にしたブッシュハットを見ると、撮影されたのは疎開後半の頃では。報道関係など公の写真は多いが、当時は写真機を持っている人が少ないため貴重なスナップ写真。地域の人々との交流を裏付ける資料。光太郎は各地で講演を行っているので、写真が残っているのでは。これをきっかけに、新たな情報提供を期待したい」と話している。
 安藤さんは「中学生の頃に友達と光太郎先生の山荘にお邪魔した記憶がある。玄関先からたくさんの本が積まれていた。そんなに偉い先生とは思っていなかった」と当時に思いを寄せている。
 市川館長は「埋もれている資料が見つかって良かった。光太郎についての地元の顕彰活動を一緒に盛り上げたい」と話している。同館では写真資料を保管し、撮影年代や住民を特定したい考え。


ときおりこういうケースがあって、ありがたいかぎりです。特に光太郎の岩手時代(昭和20年=1945~27年=1952)の写真、書、書簡類はまだまだあちこちに埋もれているはずです。光太郎が居た花巻周辺や、たびたび訪れた盛岡方面など。また、講演などで東北各地に足跡が残っていますので、そういう所でも。

実は当方が昨年暮れに訪れた秋田の横手にも書が複数残っているらしく、時間を見つけて調査に行こうと思っております。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。

「うちにも光太郎先生の写真やら書やらがある」という方は、花巻の高村光太郎記念館、または当方までご一報いただければ幸いです。
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【折々の歌と句・光太郎】

山の鳥うその来てなく武蔵野のあかるき春となりにけらしな
制作年不詳

大正14年(1925)制作の木彫「うそ鳥」に関わると考えられますが、細かな制作年は不詳です。

「なりにけらしな」は「なったに違いない」。明治生まれなので、ある意味当然かも知れませんが、こうした古語に対する光太郎の知識や、自然にそれを使えるところには舌を巻かされます。

画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

まずは今週初めの『日刊スポーツ』さんの記事です。 

競歩で高橋英輝が連覇、リオ五輪代表に決定

<陸上:日本選手権>◇21日◇神戸市六甲アイランド甲南大周辺コース◇20キロ競歩

 リオデジャネイロ五輪代表選考会を兼ねた日本選手権20キロ競歩で、男子は高橋英輝(23=富士通)が1時間18分26秒で2連覇を果たし、五輪代表内定を決めた。派遣設定記録だった1時間20分12秒を悠々と突破。「何度もダメかと思ったのですが、最後まで頑張れた。(これから)メダルを目標に頑張りたい」と喜びを語った。
 
 岩手大の学生として臨んだ昨年の同選手権では、1時間18分3秒の当時日本新記録を樹立。後に世界記録を打ち立てる鈴木雄介(28=富士通)に食らいつき、残り1キロで引き離す展開だった。今回は鈴木が欠場。20日には「去年まで雄介さんの力を借りていた。自分でレースをコントロールしたい」と意気込んでいた。序盤から先頭集団を引っ張ると、17キロ辺りからスパートして優勝。新たな可能性を示した歩みになった。
2016年2月21日


それを受けての『岩手日日新聞』さんのコラムです。 

コラム(2/22)

その青年を間近で見たのは、1年前のことだ。陸上競技の選手らしく体形は細身。背広姿であったが、ステージを歩く際には背筋がピンと伸びていた。まずは姿勢の良さが目に付く。「やっぱりトップアスリートともなると随分と違うな…」と感心した
▼いつになく凡夫が熱視線を送った人物とは、競歩界のホープであった高橋英輝選手。彼は岩手大の4年生だった2014年12月、長崎県で開かれた大会の男子1万メートルで日本新記録を打ち立てて優勝。昨年2月26日に岩手日日学生賞が贈られている
▼その贈呈式に出席した人々は、彼のスピーチにも耳をそばだてた。何しろ次のリオデジャネイロ五輪も狙える逸材である。皆が「リオ」や「五輪」の言葉を待ったが青年は謙虚そのもの。「自分は大きなことを言うタイプではありませんから」と語った
▼あれから1年。青年は21日に神戸市で開かれた陸上の日本選手権20キロ競歩で優勝。五輪代表の座を勝ち取った。決してリオ五輪という4文字を口にはしなかったが、「自分のペースで一歩一歩小さな目標をクリアしながらステップアップしたい」と言う、あの日の決意が花開いた
▼改めて記すまでもないが、彼は花巻北高から岩手大に進んだ岩手人。多くを語らず…の姿を見て、高村光太郎の詩「岩手の人」が頭に浮かんだ。「地を往きて走らず、企てて草卒ならず、ついにその成すべきを成す」
▼今年は「希望郷いわて国体」の開催年でもあり、われわれ県民にとっては、これ以上ない大きな喜びである。さあ、次はブラジルの地での晴れ姿。楽しみがまた一つ増えた。


岩手の皆さんにとって、光太郎詩「岩手の人」はかなり馴染み深いものなのでしょう。いろいろな場面で引用されています。

    岩手の人
003
岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。004
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。

斧をふるつて巨木を削り、

この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

上の画像は高橋選手の母校・花巻北高校の校庭に立つ高田博厚作の光太郎像にはめ込まれたプレートです。像は右の画像。同校と光太郎には直接の関わりはないようですが、光太郎の精神に共鳴した卒業生保護者の拠金で建立されました。

もしかすると高橋選手、これを見てその後の人生が変わったのかも知れません。

寡黙で謙虚な戦士、高橋選手の活躍に期待しております。


【折々の歌と句・光太郎】

河を擁す余寒の窓や筏舟
明治33年(1900)頃 光太郎18歳頃

立春は過ぎましたので、「余寒の候」です。しかし、昨夜から今朝にかけ、当方の住む千葉県北東部でも雪が降りました。積もりはしませんでしたが、我が家の老犬は大喜びでした。


岩手盛岡の地方紙『盛岡タイムス』さんの記事から。 

いわて国体 成功へ年頭の気勢 大会実行委事務局 開幕へ準備も追い込み

 希望郷いわて国体・大会の開催の今年に控えた希望郷いわて国体・大会実行委員会事務局は4日、仕事始めを迎えた。岩間隆事務局長が職員約100人に「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。2007年に国体開催の内々定を受け、今まで積み重ねてきたもの、携わってきた関係者、県民の方々の思いをしっかりと形にするという、集大成の年になる」と訓示した。

 岩間事務局長は「被災地で初めて開催する両大会。全国からの注目も非常に大きいものがあり、全国の方々にこれまでに頂いた支援にしっかりと感謝を示す。さらに、将来の岩手づくりのために大いなるきっかけとなる大会にしたい。オール岩手で引き続き準備を進めていきたい」と説いた。

  職員に対し「われわれの役割は大きく二つ。国体、大会の主役である選手の方々がこれまでの練習の成果をいかんなく発揮できるような大会運営に万全を期す。もう一方の主役である県民の方々が、国体・大会に参画する環境を整えること。ぜひ全体的な視点、広い視野を持って関係者の方々と連携を取りながら、自らの責任を果たしてもらいたい。皆さんの奮励努力を」と期待した。

  「岩手で開催してよかったと全国の方々、県内の方々、全ての方に思ってもらえるような大会にしたい。まずは冬季大会に全力を尽くし、その成功を弾みに本大会、障害者スポーツ大会に結び付けたい。全力で取り組もうう」と結び、全職員のガンバロー三唱で開催の意気を上げた。


今年は岩手会場で、「第71回国民体育大会 希望郷いわて国体」「第16回全国障害者スポーツ大会 希望郷いわて大会」が開催されることを受けての記事です。国体の方は、早くも今月末からスキー、スケートなどの冬季大会が始まります。一般競技及び障害者大会の方は秋だそうです。

記事にもあるとおり、東日本大震災後、被災地で初めて開か無題れるそうで、その意味でも注目されますね。調べてみたところ、震災のあった平成23年(2011)は山口県会場。以後、岐阜、東京、長崎、和歌山と回って、今年の岩手です。

ちなみに震災の前年、平成22年(2010)は、当方自宅兼事務所のある千葉でした。当方、柔道有段者でして、当時中学生だった息子(こちらは今も柔道を続けています)と一緒に柔道競技を見に行きました。成年男子団体決勝は千葉対東京。1-1で迎えた大将戦、千葉県警の加藤博剛選手(90㌔級)が100㌔超級の立山選手(JRA)から小内巻き込みで技ありを奪って破り、優勝。感動しました。右はその時買ったストラップ。柔道着姿のチーバくん(千葉県のゆるキャラ)です。

さて、「高村光太郎の詩の一節を拝借すれば、『ついにその成すべきを成す』時がきた。」とありますが、こちらは昭和24年(1949)の元旦、『新岩手日報』に掲載された光太郎の詩「岩手の人」が元ネタです。
000
   岩手の人 

岩手の人眼(まなこ)静かに、
鼻梁秀で、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるつて巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。


昨年、ラグビーワールドカップが一躍脚光を浴びましたが、同大会、2019年には日本で開催されます。岩手でも、釜石市が会場に選定され、それを報じた『岩手日報』さんの「論説」でもこの詩が取り上げられました

牛のように愚直(というと失礼かも知れませんが)で勤勉な県民性を活かし、国体系も、ラグビーW杯もともに成功に導いていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

こほり結ぶ霜もものかは父君の雪の旅路にいます思へば
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「ものかは」は「問題にならない、物の数ではない」の意。この頃の光太郎は、まだ孝行息子でした。父・光雲が雪国を旅していることを思えば、東京の寒さなど「ものかは」だ、というわけですね。

明治32年(1899)、光雲は古社寺保存会の命で福井、石川方面に出張に行った記録が残っています。

光太郎が晩年を過ごした岩手県花巻市の情報誌『花日和』。県外向けに発行しているPR誌です。時折、光太郎がらみの記事を載せて下さっています。

先月刊行されたそちらの2015年冬号に、「高村光太郎記念館をたずねて」という記事が掲載されています。

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平成27年4月28日にリニューアルオープンした高村光太郎記念館。常設展示室二室に企画展示室も新たに整備され、彫刻や書の展示、映像や詩の朗読などにより光太郎をわかりやすく紹介。平成28年2月22日までは、開館記念企画展「山居七年」を開催中。

以下はPDFファイルでご覧下さい。光太郎の生涯、花巻と光太郎との関わり、もちろん記念館の様子も詳しくレポートされています。

冊子になっている現物は、市のサイトによれば「首都圏のほか、市内では花巻市観光協会、花巻観光案内所などで配布しています。」とのことです。


【折々の歌と句・光太郎】

うたがるたひとつひとつによみて見てよせてそろへて憂き思あり
明治34年(1901) 光太郎19歳

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「うたがるた」は、正月の風物詩の一つ、百人一首ですね。華やかな札を見ながらも、「憂き思」。青年期のやるせない煩悶が表されています。

地方紙の一面コラムから。

まずは昨日の『岩手日報』さん。 

風土計 2016.1.1

「老猿」は明治大正期の木彫家高村光雲の代表作。力と威厳に満ちた姿が真に迫る。著書「幕末維新懐古談」にある制作秘話は含蓄がある
▼白猿を彫るため光雲は純白のトチノキを求め栃木の山村へ。山猿のような老人から良材を3円で買うが、問題は東京への運搬。結局、運賃など200円も掛かった。いよいよノミを入れたら純白どころか茶褐色。そこで、野育ちの猿を彫ることに
▼こうして傑作は生まれた。自然を生かし、生かされてこそ真実に到達する。長男光太郎は詩「道程」で「僕を一人立ちにさせた広大な父よ」とうたうが、父とは光雲であり、自然という大いなる父でもあることだろう
▼彫刻家、詩人として名をはせた光太郎。太平洋戦争末期、空襲で東京のアトリエを失い、花巻に疎開した。玉音放送、一億号泣、そして山小屋での独居自炊生活へ。そこには戦時中、戦意を鼓舞する詩をつくったことへの深い悔恨の念があった
▼深い雪に閉ざされた冬の山小屋で独り、自らの内面を見つめ、戦争責任に向き合い続ける日々。厳しくも豊かな岩手の自然に包まれた7年もの歳月を経て、芸術家として再出発した
▼2016年が始まった。後ろには戦後70年の道。だが、私たちの前に道はない。清らかな岩手の自然のただ中に立ち、確かな一歩を踏み出したい。


続いて青森の地方紙『デーリー東北』さん。こちらは昨年暮れに掲載されたものです。

天鐘(12月29日)

 高村光太郎は昭和28年、完成させた十和田湖畔の裸像に寄せて「銅とスズの合金が立っている。どんな造形が行はれようと(略)はらわたや粘液や脂や汗や生きもののきたならしさはここにない」という一編の詩を綴(つづ)った
▼亡き妻智恵子そっくりの「乙女の像」に自身の魂を吹き込んだのであろう。無機質の造形には穢(けが)れがなく、自然と堂々調和して永遠に残ってほしいとの願いを込めた
▼同じブロンズだがソウルの日本大使館前にある「少女像」は慰安婦を象徴したものだという。4年前、市民団体が設置し始め、今では韓国内に10数体、米国にも2体ある
▼碑文には慰安婦を「性的奴隷」と英訳。日本政府に「慰安婦問題の障害」とまで言わしめた象徴である。穢れなき無機質の造形のはずが両国を分かつ高い障壁となり、反日感情を扇動する動力源となってきた
▼28日の日韓外相会談で日本が反省し、新設する財団に資金拠出することで50年来の懸案が氷解することになった。日韓に刺さった棘(とげ)のため日米韓の連携も長く機能不全に陥っていたが、やっと足並みが揃(そろ)いそうだ
▼だが政府間は合意しても反日感情は沈静化するのか。鍵を握る少女像は拳を握り締め口を閉ざしたままだ。像に罪はないが韓国内に「日韓が背を向けたのは像のせい」との批判も出ているとか。脂や汗を洗い流し、早く少女らしい明るい笑顔を取り戻してほしいものだ。


昨年は戦後70年ということで、いろいろと検証が為されました。しかし、まだまだ充分とは云えません。逆に戦前のような世の中に戻そうという輩も横行。今こそ光太郎の精神に学びたいものですね。


【折々の歌と句・光太郎】

初夢の棄てどころ無し島のうち
大正末期 光太郎44歳頃

「歌と句」ということで、このコーナーでは俳句もご紹介します。

友人の作家・田村松魚に宛てた葉書の末尾に記された句です。消印が不鮮明で年月日は特定できませんが、葉書の様式や、多くの書簡を田村に送っていた時期から、大正末期と推定されます。

この時期の光太郎は、関東大震災(大正12年=1923)後に露わとなった社会の矛盾に対し憤りを感じ、プロレタリア文学者たちと近い立ち位置にいました。大正13年(1924)には、詩「清廉」を書き、外部社会への鋭い批判と生の決意を謳う「猛獣篇」の時代に入ります。

この句の書かれた葉書にも、以下の文言があります。

今のままで貧乏しながら行けるところまで行きませう。いよいよせつぱつまつたら ずつと遠い処へ旅立つばかり。僕のやうな性情のものが今日の世に生きてゐるのは時代錯誤と思ひます。

「島」は「日本」。この国に対する「棄てどころ」のない怒りが見て取れます。

ところで、初夢と言えば「一富士 二鷹 三なすび」。それにまつわるNHKさんのスペシャルドラマ「富士ファミリー」が今夜、オンエアされます。


富士山のふもとにある小さなコンビニ『富士ファミリー』には近所で評判の美人三姉妹がいた。長女の鷹子(薬師丸ひろ子)は、一家の大黒柱。自由奔放な次女・ナスミ(小泉今日子)は、東京から夫の日出男(吉岡秀隆)を連れて帰るとすぐに、病気で亡くなってしまう。三女の月美(ミムラ)は面倒な店の経営から逃げるため、さっさと嫁いでいた。
年の瀬もせまったある日、笑子バアさん(片桐はいり)の前に死んだはずのナスミが現れ、あるメモを見つけて欲しいと言う。ケーキ、懐中電灯、四葉のクローバー、光太郎……ナスミの文字でメモに残された脈絡もない7つの言葉。このメモをきっかけに騒動が巻き起こる…。

この「光太郎」が「高村光太郎」なのかどうか、わかりません。とりあえず今夜、視聴してみます。

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13日日曜日にお邪魔しました花巻高村光太郎記念館

受付脇には物販コーナーがあり、書籍や複製の色紙などなど、さまざまな光太郎グッズが並んでいます。行くたびに新商品が増えているのも感心させられます。

定番のポストカード。新たなものがラインナップに入っていました。

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毎年5月15日に敷地内で行われている高村祭会場の「雪白く積めり」詩碑前広場を描いた水彩画。

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光太郎最後の大作、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を描いたものもありました。

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それから、最近流行のA4判クリアファイル。

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半分の大きさのA5サイズのものもありました。

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なかなかもったいなくて使えないのですが(笑)。

その他にもTシャツやら手ぬぐいやら、一筆箋にマグネットなどなど、いろいろと取りそろっています。ほとんどすべて、ここ以外では入手できません。

それから、隣接する高村山荘の無料パンフレットも新しくなっていました。A4判三つ折りです。

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ぜひ足をお運びの上、ゲットして下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月18日

昭和24年(1949)の今日、蕨登という人物に書を発送しました。

この時期の日記は現存が確認できていないのですが、郵便物の授受を記録したノートが残っており、そこに「蕨登といふ人へ揮毫(子供は地上の星云々)」という記述が見えます。

「蕨登」という人物、1980年代の『千葉日報』に光太郎の親友・水野葉舟がらみの寄稿をしていることは解りましたが、それ以上、よくわかりません。

また、「子供は地上の星云々」という書も、他に類例が確認できません。

情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。

先週土・日の東北行、最終目的地の佐藤邸編です。

一昨日も書きましたが、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、花巻桜町の佐藤邸離れで暮らしました。元々昭和20年(1945)に、東京を焼け出されて宮澤賢治の実家に疎開してきたものの、再び空襲の被害に遭ってのことです。当時の当主で賢治の主治医だった佐藤隆房は、光太郎を花巻に招いた張本人の一人でした。

現在も隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、ここを来年5月14日(土)、一般公開するということで、その下見。以前から奥様には「機会があったらお寄り下さい」とおっしゃっていただいておりました。

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こちらが元の母屋の正面玄関。昭和初期の建築だそうです。現在は新たに母屋を造られ、そちらで主に生活されているとのこと。とにかく敷地が広大なので、それも可能なのでしょう。

裏手に2階建ての離れがあり、光太郎はこの2階を借りて住んでいました。当方、20年以上前に敷地外から望見したことがありますが、間近で拝見、ましてや内部に入れていただくのは初めてでした。

屋外をぐるりと一周するとこんな感じです。

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すぐ近くを豊沢川が流れ、当時はせせらぎの音がよく聞こえたそうです。そこで、光太郎はこの建物を「潺湲楼(せんかんろう)」と命名しました。「潺湲(せんかん)」とは、水がさらさらと流れるさまです。

さて、いよいよ内部へ。

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正面玄関から入り、渡り廊下的な処を通って離れへ。さらに狭い階段を上がります。すると、四畳半が二間。両側が大きな窓のある廊下になっているのと、ごちゃごちゃ物が置いていないのとで、広く感じられます。

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座卓も当時のもの。それから押し入れには光太郎が使っていたという火鉢もありました。

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下記はここで暮らしていた時か、後に太田村に移ってからのものかよく分かりませんが、この部屋での光太郎です。

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窓からの眺め。

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北側に豊沢川。

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南は母屋の屋根。日当たりも良さそうです。

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このような快適な環境での暮らしを棄て、光太郎は7年間の山小屋暮らしに入ります。他人の家に厄介になるという気苦労は確かにあったでしょうが、ここで暮らし続けていれば、何不自由ない生活だったのに、です。そこに光太郎という人間の生きざまが端的に表されているような気がしました。


その後、母屋の洋間でお茶を戴きました。昔の映画にでも出て来そうなお部屋です。

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ここで撮られた光太郎の写真もあります。左が佐藤隆房です。

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窓外には百日紅の大木。花をつけるとさぞ見事でしょう。

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さらに辞去する前にはお庭も案内して下さいました。こちらは昭和初期、賢治が取り寄せたというバラの子孫。よくぞ残っているものだと感心しました。

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最初に書きましたが、こちらを来年5月14日(土)、一般公開するそうです。詳細が決まりましたらまたお知らせいたします。


というわけで、秋田横手から始まった全ての行程を終え、帰途に就きました。一昨日ご紹介した光太郎も訪れた伊藤屋さん、昨日レポートした光太郎がらみの二つのお寺、そして佐藤邸潺湲楼など、思いがけず訪問することが出来、非常にありがたい限りでした。花巻高村光太郎記念会・高橋事務局長、佐藤様に改めて御礼申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月17日

昭和15年(1940)の今日、大政翼賛会本部で開催された臨時中央協力会議で「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建築物の防空施設」などについて提案、発言をしました。

下記は会議を前に語った光太郎の談話の冒頭部分です。『読売新聞』に掲載されました。

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記事にも名が上げられている大政翼賛会文化部長だった岸田国士が、光太郎を委員として推薦しました。

この時点では、「今回限り」と言っていた光太郎ですが、翌年の第1回(6月)、第2回(12月8日、まさに太平洋戦争開戦の日)の中央協力会議にも出席しました。

12/13(日)、花巻高村光太郎記念会の高橋事務局長にお迎えに来ていただき、旧太田村の高村光太郎記念館に参りました。

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数日前に大雨だったり暖かかったりで、雪はほとんど残っていません。

まずは10月から開催中の企画展「高村光太郎山居七年」(後期)を拝見。旧太田村時代の光太郎の作品や遺品類がいろいろと並んでいます。藁で作られたツマゴ(雪靴)など、季節にこだわったものも。

入り口にはA5判18頁のパンフレット『山居七年 年譜』が置かれています。この企画展のために当方が作成したもので、企画展示室内にパネルとして展示してあるものを、冊子にしてくださいました。光太郎日記、書簡、周辺人物の証言記録などから作成したもので、無料で配布しています。

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こんな感じで18頁です。

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企画展「高村光太郎山居七年」(後期)、2月22日(月)までです。ただし、12/28~1/3が休館です。ぜひ足をお運びください。

その後、隣接する高村山荘へ。基本的に山荘は冬期間閉鎖ですが、役得で中まで入らせていただきました。

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草野心平筆による「無得殿」の扁額。山小屋の廻りを覆う套屋(とうおく)に掲げられています。

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内部には、光太郎がここで暮らしていた頃使っていたものがそのまま残っています。

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ここに入るたびに、粛然とした思いにさせられます。


その後、また高橋事務局長のお車で、昨日も少しご紹介した、この山小屋に入る直前に暮らしていた花巻市街桜町の佐藤家へ。しかし、約束の時間にまだ間があるので、行き道、山荘・記念館近くにある寺院2ヶ所に立ち寄りました。

いずれも光太郎ゆかりのお寺で、まずは音羽山清水寺さん。坂上田村麻呂の勧進による創建ということで、京都の清水寺とつながるお寺です。光太郎は昭和27年(1952)、ここで高村東雲作の聖観音像開眼供養に参加しています。東雲は光太郎の父・光雲の師。前年には東雲の孫に当たる高村晴雲が山小屋を訪れており、その関係もあるようです。

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山門は昭和初期、本堂は江戸時代のものだそうですが、それぞれ立派なものでした。


続いて法音山昌歓寺さん。こちらは光太郎がこの地にいた頃のご住職と親交があり、たびたび訪れたお寺です。毎年、花巻町の松庵寺さんで行っていた光雲・智恵子の法要を、昭和25年(1950)だけはこちらで行っていますし、昭和27年(1952)には、消防団主催の相撲の会を見物したりもしています。

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特筆すべきは、木像十一面観音像。光太郎にその制作を依頼したものの、結局それは果たされず、代わって光雲の弟子筋に当たる森大造が制作しました。昨年、それにまつわる文書が出て来まして、このブログにてご紹介しました。

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いいお顔をなさった立派な仏様です。

こちらはこの像の願主である八重樫甚作の像。やはり森の手になるものだそうです。

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他にも光太郎に絡む品がありそうなので、またゆっくり訪れたいと思っております。皆様も高村山荘・記念館に足をお運びの際はぜひどうぞ。

その後、花巻市桜町の佐藤邸へ。続きは明日。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月16日

昭和25年(1950)の今日、新潮社から新潮文庫版『高村光太郎詩集』のための検印紙5,000枚を受け取りました。

昔の書籍は奥付に検印紙といって、著者の印鑑を押したものが貼られていました。検印紙の発行枚数イコール出版部数とカウントし、著者に払う印税の計算のためのものでした。現在はこうしたシステムは廃止されています。

新潮文庫版『高村光太郎詩集』、編者は伊藤信吉で、結局初版はさらにプラス5,000で、一万部だったようです。

現在も版を重ねています。

12/12(土)、雄物川郷土資料館さんで第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」を拝観するなどした秋田横手をあとに、夕方には花巻に到着しました。

在来の花巻駅で花巻高村記念会の高橋事務局長のお出迎えを受け、まずは宿屋に荷物を置きに行きました。今回は急に決めての東北行だったので、宿も駅前の商人宿に素泊まりです。荷物を置いた後、高橋事務局長のご案内で、歩いて夕食を摂りに行きました。

花巻駅、そして宿のすぐ近くにある伊藤屋さんという大衆食堂です。下の画像は、翌朝撮影しました。

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建物自体は新しくなっていましたが、ここはかつて光太郎が食事をした店だそうで、帰ってから調べてみましたところ、なるほど、戦後の光太郎日記に記述がありました。

朝会計をすまし、山にゆかんとせしがリユツクが重すぎるので花巻駅にゆき、伊藤屋にて中食、ハイヤーをたのみて院長さん宅に来る。二三日又滞在のつもり。(昭和26年=1951 2月2日)

会計云々は、前月23日から宿泊していた大澤温泉です。「花巻駅」は今は廃線となった花巻電鉄。当時、大澤温泉を含む花巻南温泉峡とつながっていました。


畑の手入れ後花巻に出て院長さん宅に泊まる、 伊藤屋にて中食中院長さん車で迎に来らる、八戸の弟さん同乗、(昭和27年=1952 7月10日)

花巻郊外太田村の山小屋から花巻町に宿泊に来た時の日記をあたってみると、以上の記述がありました。日帰りで町に出て来た時については調べていませんので、もしかするとまだあるかもしれません。また、日記も欠落が多いので、記録に残っていない来店もあるのではないでしょうか。

さて、当方、伊藤屋さんでさらに花巻市役所の方と合流。いろいろと打ち合わせをしました。また近くなって正式に決まりましたらご紹介しますが、いろいろと新しい事業を計画中だとのことです。

まず、佐藤隆房邸の一般公開。計画では来年5月14日の土曜日(翌日は旧太田村の高村山荘敷地内で高村祭です)。上記光太郎日記にある「院長さん宅」というのがそれで、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、ここで暮らしました。

順を追って説明しますと、この年4月13日に、智恵子と暮らした東京駒込林町のアトリエが空襲で全焼。しばらくは近所にあった妹の婚家に身を寄せていた光太郎は、5月15日に花巻に向けて東京を発ちます。賢治を広く世に紹介してくれたということで、恩義を感じていた宮澤家、そして賢治の主治医だった総合花巻病院長・佐藤隆房の招きに応じてのことでした。

花巻では最初に宮澤家に厄介になりましたが、8月10日の花巻空襲で宮澤家も全焼。そこで花巻町南舘の元花巻中学校長・佐藤昌宅に移ります。さらに9月10日は佐藤隆房邸に移ったわけです。

佐藤邸では離れの2階を借り、ここを「潺湲楼(せんかんろう)」と命名、その後、太田村に移ってからも、花巻町に出て来た時にはよく泊めてもらっていました。これも上記日記の通りです。

こちらは現在も佐藤隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、来年5月14日(土)に一般公開するという予定だそうです。時間を決めて公開し、三々五々自由に来てもらうか、市民講座のような形で参加者を募集してバスツアーのような形にするか、そうすると県外などからの希望者はどうするかなど、詳細はこれからです。


2点目、光太郎縁戚の方の手記。盛岡に光太郎の縁戚―それも父方、母方双方につながる―の方がいらっしゃり、今年、そちらのお宅に伝わる光雲・光太郎関係資料等をまとめた手記を書かれました。それを高村記念会として出版するという計画もあるそうです。コピーを戴いて、帰りの新幹線の車中で拝読しましたが、今まで知られていなかったエピソード、見たことのない写真、『高村光太郎全集』未収録の光太郎書簡などが満載で、実に貴重なものです。母方でみれば光太郎の従姉妹にあたる方が98歳でご存命。高橋事務局長がその方のお宅でインタビューなさっているDVDをいただきましたが、それを見ると、まだまだお元気でしっかりされています。手記を書かれたのはその方のご子息です。


その他にも、佐藤家の関係で光太郎筆の色紙が寄贈されるとか、記念館のパンフレットを新たに編集して刊行するとか、記念館の企画展で智恵子紙絵の現物を展示するとか、実に様々な話になりました。それぞれ時期は未定ですが、おおむね来年の話です。詳細が決まったらお知らせします。


かくて伊藤屋さんでの夜も更け、宿屋に退散。翌日は高村光太郎記念館、高村山荘、そして先述の佐藤隆房邸などを回りました。その辺りは、また明日以降に。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月15日

昭和44年(1969)の今日、箱根彫刻の森美術館で企画展「近代日本の彫刻」が開幕しました。

翌年3月31日迄の会期で、光太郎彫刻も7点展示されました。下記は図録の表紙。光太郎の木彫「蓮根」(昭和5年=1930)の写真が使われました。

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岩手から企画展情報です。気付くのに遅れ、紹介が遅くなってしまいました。 

第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」

場 所 : 盛岡てがみ館 盛岡市中ノ橋通一丁目1番10号 プラザおでって6階
期 日 : 2015年10月27日(火)~2016年2月15日(月)
時 間 : 9時から18時まで(最終入場17時30分まで)
休館日 : 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 : 個人一般200円、高校生100円   団体一般160円、高校生80円 (20人以上~)
中学生以下、65歳以上で盛岡市に住所を有する方、また障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの介護者は無料。

数々の名作を残し、今もなお人々を魅了し続ける詩人・童話作家の宮沢賢治。しかし、生前に刊行されたのは心象スケッチ『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』の2冊のみで、無名に近い存在でした。そんな賢治の作品が没後、評価され、多くの人に知られるようになった背景には、賢治とその作品を愛した人々の努力がありました。本展では、賢治の作品を世に広めるべく尽力した人々について手紙を通して紹介します。


関連行事 

館長によるギャラリートーク 「宮沢賢治を愛した人々」

開催日・期間:11月28日(土)
時間:14:00~15:00
場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:盛岡てがみ館 館長 磯田望
料金:入館料が必要です。 

ふみの日ギャラリートーク 「宮沢賢治を愛した人々」

開催日・期間:2016年1月23日(土)
時間:14:00~15:00
場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:盛岡てがみ館 事業推進員 平政光
料金:入館料が必要です。


「宮沢賢治を愛した人々」の中には光太郎も含まれ、光太郎の書簡も5点、展示されています。

松本政治 宛  封 書   昭和21年(1946)1月10日
森口多里 宛  ハガキ  昭和23年(1948)10月20日
森口多里 宛  ハガキ  昭和24年(1949)3月30日
吉田孤羊 宛  ハガキ  昭和24年(1949)11月12日
吉田孤羊 宛  ハガキ  昭和24年(1949)11月21日


いずれも以前から同館に所蔵されていたもので、昨年開催された第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」に出品されました。

また、他にも賢治自身の書簡なども展示されています。

IBC岩手放送さんのサイトから。

「宮沢賢治を愛した人々」展

詩人で童話作家の宮沢賢治と、交友の深かった人たちの手紙を集めた企画展が盛岡で開かれています。会場の盛岡てがみ館には、賢治の死後、作品の出版に力を尽くした人達の手紙を中心に、関連資料45点が展示されています。中でも、盛岡で青少年期を過ごした洋画家の高橋忠彌に宛てて賢治が書いた手紙は賢治が亡くなる3か月前のもので、原稿の依頼に対し「自信がない」と断わっている内容から賢治の苦悩や葛藤を読み取ることができます。賢治の弟の宮沢清六や詩人で彫刻家の高村光太郎の貴重な手紙もあり、賢治の魅力を再発見することができるこの企画展は、来年2月15日まで盛岡てがみ館で開かれています。
2015/11/12

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花巻の高村光太郎記念館などを除き、光太郎の自筆をじかに見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月14日

昭和28年(1953)の今日、日本芸術院第二部会員に選定された旨の新聞報道を読みました。

当日の日記の一節です。

夕刊新聞に芸術院会員決定といふ事出てゐる、第二部文学部、甚だ迷惑を感ず、

結局、辞退しました。これについては第一部(美術)での選定なら受けたのではないか、といわれています。光太郎には「私は何を措いても彫刻家である」との自負がありました。

岩手花巻の光太郎が戦後7年間暮らした山小屋・高村山荘に隣接する高村光太郎記念館情報です。 

滝口企画展「高村光太郎山居七年」(後期)

開催期間 : 平成27年10月9日(金曜日)から平成28年2月22日(月曜日)まで
休  館  日
 : 12月28日(月曜日)から平成28年1月3日(日曜日)まで休館
開館時間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
入館料(高村光太郎記念館、高村山荘) :
 一般550円 高校生、学生400円 小・中学生300円
 団体入場(20名以上)は1人あたり100円割引

彫刻家・詩人として知られる高村光太郎。1945年(昭和20年)の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は宮澤賢治の弟・清六を頼りに花巻へ疎開してきました。
終戦後、太田村山口(現 花巻市太田山口)へ移住した光太郎は1952年(昭和27年)に「乙女の像」制作のため東京へ戻るまでの7年間を当地で生活しました。
本企画展は、これまで詳細が取りまとめられることがなかった七年間の記録を、当地に遺された様々な資料や年譜・エピソードと共に展示するものです。
光太郎を山口に迎えて70年にあたる本年、高村光太郎記念館は全面リニューアルオープンを迎えました。全てが新しくなった常設展示室、「月光殿」を改修した高村山荘とともに、光太郎の山居七年の軌跡をご覧ください。

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花巻高村光太郎記念館、4月にリニューアルオープンした後、5月から企画展示室で企画展「高村光太郎山居七年」(前期)が始まり、常設展示室に並べきれない資料――特に昭和20年(1945)~27年(1952)の、光太郎が地に住まっていた時期のもの――の数々を展示していました。

そちらは入れ替えをしながら展示というわけで、明後日から後期の展示となります。今回並ぶ主なものは、こういう予定です。ただ、少し前に受けた連絡に基づいていますので、多少の異同はあるかも知れません。

・ 光太郎直筆詩稿「蒋先生に慙謝す」(昭和23年=1948)000
  (10/9追記 状態が良くないため展示中止だそうです)
・ 「こころはいつでもあたらしく」書額 (複製)
・ 昭和20年(1945)書簡―山荘入りについて
   (パネル展示)
・ 山口小学校開校挨拶原稿 (同)
・ 「一億の号泣」原稿 (同)
・ 昭和23年8月6日書簡―「一億の号泣」の件 (同)
  (10/9追記 常設展示室で 2点まとめてだそうです)
・ 「花巻新報」題字揮毫 (同)

10/9追記 さらに前期展示から引き続いて以下が並ぶそうです。
・ 散文「雪解けず」原稿 (昭和21年=1946)
・ スケッチ「雪解けず」(同)
・ 雑誌『北方風物』 (同 「雪解けず」掲載)


他に、展示ではありませんが、前期展示に際して、昭和20年(1945)~27年(1952)の年譜を当方が作成したのですが、それを冊子にしたものを希望者に配布するそうです(右画像)。


また、記念館へのアクセスに関し、お知らせがあります。

かつてJR在来線の花巻駅から「高村山荘行き」として運行されていた岩手県交通さんの路線バスは、平成23年(2011)に廃線となってしまいましたが、今月から試験的に復活しています。下記は『広報はなまき』今月号から。

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高村山荘までは1日2往復ですが、約3.5キロ離れた清風支援学校さん発着の便がプラス2往復あります。

『広報はなまき』にあるとおり、利用状況で来年度の運行が決まるとのことで、たくさんの方のご利用が完全復活につながります。よろしくお願いいたします。タクシーだと数千円、こちらは1人580円。この差は大きいですね。


というわけで、花巻高村光太郎記念館、高村山荘、ぜひぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月8日

昭和21年(1946)の今日、版画家の山本鼎が歿しました。

山本は光太郎と同学年。愛知県岡崎の出身ですが、父の仕事の都合で幼少時に上京しました。木版の工房で徒弟修行を終えますが、自分の作品を作ることへの希望が高まり、東京美術学校西洋画科に学びます。同校彫刻科を終えて西洋画科に再入学した光太郎の1年先輩になります。

卒業後は創作版画で名をなし、石井柏亭らと美術雑誌『方寸』を創刊、欧米留学から帰った光太郎共々、パンの会の主要メンバーとしても活動します。また、光太郎が経営していた日本初の画廊、琅玕洞にも作品が並んだようです。

その後はフランス留学を経て、帰国後には信州上田に移り、自由画教育運動、農民実美術運動などにも取り組みました。

テレビ放映情報です。 

空から日本を見てみよう+ 岩手県花巻温泉~遠野

BSジャパン 2015年8月25日(火)  20時00分~20時55分

北上川沿いで栄えた城下町でもあり全国有数の人気温泉町として名をはせた花巻市から、独自の文化や風習が残る民話の里・遠野市まで空から眺めていきます。

花巻市の南端からスタートし、北上川に沿って花巻市の中心市街地へ。宮沢賢治の生家を越えて、江戸時代に城下町として栄えた町のメインストリートでカニのような建物を発見。そこは連日ランチタイム満員の人気大食堂・マルカン百貨店。花巻駅から温泉街を目指す途中で、幅が狭すぎる電車を発見。かつて温泉街まで走っていた馬面電車と呼ばれ保存されている花巻電鉄の車両を見ていきます。昭和の花巻を再現した小学校跡を通り、鉛温泉へ。昔からの湯治宿の不思議な自動販売機などを見ていきます。さらに花巻温泉では昭和初期に一大レジャーランドとして栄えた姿を偲びます。花巻から民話の里として知られる遠野へ。宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」のヒントにしたといわれるSLが走る橋を見ながら遠野市の中心へ向かいます。遠野物語で紹介されたカッパをはじめ、市内に残る民話にちなんだ場所を見て行きます。さらにこの地域特有の曲がった古民家、曲り家や馬を大切にしてきた生活を垣間見ます。  

出演者  伊武雅刀(くもじい)  柳原可奈子(くもみ)

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光太郎が昭和20年(1945)から足かけ8年を過ごした花巻が扱われます。番組説明によれば、光太郎が何度か訪れた鉛温泉や、太田村の山小屋から鉛温泉大沢温泉などを含む花巻南温泉峡や花巻町に出かける際に利用した花巻西公園に静態保存されている花巻電鉄などが紹介されるようです。


もう1件。 

遠くへ行きたい 阿藤快「世界三大漁場 金華山沖の魚と龍神祭り」石巻~女川

日本テレビ 2015年8月30日(日)  6時30分~7時00分

阿藤快が、夏の南三陸を旅する。石巻漁港で「金華カツオ」の水揚げを見学し「金華丼」を食べる。JR石巻線の真新しい「女川」駅で、駅にある温泉に入浴。女川の仮設商店街「きぼうのかね商店街」で各店舗の軒先に貼られた面白いポスターに見入り、スペインタイルを作る工房でタイル作りを体験する。女川の夏の味覚「ホヤ」の水揚げを見て、獲れたてのホヤを刺し身でいただく。島全体が神域だという金華山で「龍神まつり」を見る。

 まずは仙台と石巻を結ぶJR仙石線の車中から。「石巻」駅で下車し、石巻漁港を訪ねる。ここは金華山沖で獲れる「金華カツオ」が有名だ。阿藤は金華カツオの水揚げを見学し、金華山沖で獲れた魚で作る「金華丼」を食べに「富喜寿司」へ向かう。店主の大場英雄さん(71歳)に話を聞きながら、金華丼をいただく。
  JR石巻線で「女川」駅へ。3月21日に完成した真新しい駅舎には、展望スペースや土産物屋のほか温泉入浴施設「ゆぽっぽ」がある。阿藤はさっそく駅の温泉を体験する。
 次に女川の「きぼうのかね商店街」へ向かう。町中で商売をしていた約50店が集まる仮設の商店街で、八百屋、カレー屋に理髪店、スナックなどが営業している。目を引くのは各店舗の軒先に貼られたポスター。どんぶり屋の軒先に「一杯 食わされた!」、つぶ貝の串焼き店には「ツイッター? やってないけど つぶ焼くよ」などなど。これらは被災地の人々を盛り立てようと、地元の新聞社や大手広告会社が協力し、各店舗に1点以上ある宣伝ポスターなのだ。阿藤は「つぶ焼くよ」のポスターが貼られた「串焼きたろう」で、店主の千葉静郎さん(62歳)につぶ貝を焼いてもらう。
  きぼうのかね商店街の中にある「みなとまちセラミカ工房」は、スペインタイルを作る工房だ。代表の阿部鳴美さん(54歳)が「津波で流された町を鮮やかな色彩のスペインタイルで飾りたい」と思い立ち、スタートさせた。スペイン産の素焼きの陶板の上に、スペイン産釉薬を使って絵付けし、3日かけて焼き上げる。民家のタイル表札のほか、壁飾りや看板として公共施設や集合住宅にも利用されている。工房ではオリジナルタイル作りの体験もできる。阿藤は阿部さんの指導でスペインタイル作りに挑戦する。
  女川の夏の味覚といえば、珍味として知られる「ホヤ」。女川湾では夜明け前から水揚げが行われている。阿藤は漁師の阿部次夫さん(63歳)の船に乗せてもらい、ホヤの水揚げ作業を見学する。生簀から揚げられたホヤは巨大な塊状で、船上で漁師さんたちがすばやくさばいていく。ホヤは傷みが早いため、作業はスピードが勝負だ。作業のあと阿藤は漁師さんたちに混じって獲れたてのホヤを刺し身でいただく。
  さらに女川湾から連絡船で35分のところにある金華山へ。金華山は黄金山神社を中心に、島全体が神域とされている。毎年7月最終の土・日に「龍神まつり」が行われ、長さ20メートルの「龍(蛇)踊り」の奉納が見ものだ。阿藤は多くの参拝客でにぎわう神社で龍踊りの奉納を見守りながら、石巻と女川のいまを見つめた、南三陸の旅を振り返る。

出演 阿藤快

<系列各局放送時間>
日本テレビ (日)6:30 札幌テレビ (日)5:45 青森放送 (金)10:25
ミヤギテレビ (日)6:30 テレビ信州 (日)6:30 北日本放送 (金)15:55
中京テレビ (日)7:00 四国放送 (木)10:55 南海放送 (火)10:25
日本海テレビジョン (土)5:29 広島テレビ (日)7:00 福岡放送 (日)7:00
長崎国際テレビ (土)16:25 鹿児島読売テレビ (日)5:45

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女川光太郎祭会場となっている「きぼうのかね商店街」が取り上げられます。

ポスター云々は、「女川ポスター展」。河北新報社さんの「今できることプロジェクト」と電通関西支社さんの復興支援事業コラボ企画で、インパクトのある面白いポスターを作ることで地域を活性化させようという試みです。

会期は終わっていますが、まだ参加したほとんどの店舗、企業でポスターが貼られています。

女川光太郎祭仕掛人の佐々木釣具店さんのものはこちら。先日、当方が撮影してきたものです。

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さらに女川光太郎祭の折に泊めていただいたステイイン鈴家さんのポスター。

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「空から日本を見てみよう+」、「遠くへ行きたい」、ともに今回は光太郎に直接触れることはないかもしれません(それぞれ以前にはちらっと触れて下さいました。こちらこちら)が、それぞれゆかりの地の様子、現状ということでぜひご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月23日

昭和25年(1950)の今日、花巻郊外太田村から詩集『典型』の装幀原案を発送しました。

編集を担当した詩人、宮崎稔宛の書簡に以下の記述があります。

やつと「典型」装幀原図が決定、出来上りましたので、別封で契約書と一緒にお送りします、 原図については説明してありますからお分りと思ひますが、不明の点はおたづね下さい、

さらに版元の中央公論社の松下英麿に宛てた書簡の一部。

「典型」の表紙、見返し、扉、外函の装幀原図がやつと決定しましたので、宮崎さん宛送ります、書留にするには集配人をつかまへるのが一苦労です、

10年ほど前に、その原図がひょっこり出てきました。装幀家としても名を成した光太郎だけあって、詳細な指示が書き込まれ、さらにそれを元に出来上がった装幀も非常にいいものです。太田村では彫刻を封印した光太郎ですが、題字の木版は、この時期に彫刻刀を振るった数少ない作品の一つです。

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昨日は終戦記念日でした。戦後70年ということもあり、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。この国が二度と戦争に荷担することの無いようにするためにも。

さて、それに伴い、光太郎の名も新聞各紙に引用されています。少し前には仙台に本社を置く地方紙、『河北新報』さんで「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事を載せて下さいました。

また、『毎日新聞』さんには、8月13日に以下の記事が載りました。

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「銃後のくらし:戦後70年/4 婦人標準服 「興亜の精神」美しさ消え」という記事です。長いので全文は引用しませんが、戦時中の物資欠乏を受け考案された「婦人標準服」について書かれています。

和服は非常時に動きにくいし、贅沢。洋服も「米英の模倣」と敵視され、そこで考え出されたのが和服でもなく洋服でもない「婦人標準服」。布地の節約のため、着物を仕立て直した洋服タイプの「甲型」、和服タイプの「乙型」、もんぺ・スラックスの「活動衣」の3種類が推奨されたそうですが、このうちの「甲型」の評判はさんざんだったそうです。曰く「「洋服と和服のちゃんぽんで、格好悪かった。両方の美しさを消す服だった」。着物専門学校「清水学園」(東京都渋谷区)理事長の清水ときさん(91)は眉をひそめた。」。

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記事ではここで光太郎に言及されます。

彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)は「家庭週報」(43年6月)への寄稿で、「新しい美を此(こ)の服式から創出し得る」とし、標準服を持ち上げている。

調べてみると、「服飾について」という散文でした。問題の箇所は以下の通り。

 一切の美の根源は「必要」にある。いかなるものが美かと考へる前に、いかなるものが必要かと考へる方が早いし確実である。今日の戦時生活にはモンペ短袖は必要である。それ故モンペ短袖は必ず美であり得る。昨日の美を標準とする眼を新にすれば、目がさめたやうに新しい美を創り出すことができる。又平常服としての女子標準服も資材の節約上必要である。それ故此の標準服も美であり得る。強い魅力を持つ新しい美を此の服式の範疇から創出し得る。

こういう部分でもプロパガンダとして光太郎が期待された役割、果たした役割は大きかったと思います。しかし「創出し得る」ということは「まだ創出されていない」ということではありますが、それにしても上記の画像を見て、ここから「美」が創出できるとは思えませんが……。


もう1件、『毎日新聞』さんでは今日の読書面に光太郎がらみの記事が載りました。文芸評論家の加藤典洋氏による「今週の本棚・この3冊:終戦」の中に、吉本隆明の『高村光太郎』が紹介されています。  

今週の本棚・この3冊:終戦 加藤典洋・選

<1>太宰治全集8(太宰治著/ちくま文庫/1188円)
<2>高村光太郎(吉本隆明著/講談社文芸文庫/品切れ)
<3>戦時期日本の精神史 1931〜1945年(鶴見俊輔著/岩波現代文庫/1274円)
 終戦、またの名を敗戦。それは戦争の終わりであり、同時に、戦後のはじまりでもある。

 終戦前後を描く白眉(はくび)の短編は、<1>所収の「薄明」だ。空襲で甲府まで逃げる途中、幼い娘が眼病で目が見えなくなる。そして数日。猛烈な空襲の後、ようやく、娘の目があく。小説家の父親が家の焼け跡を見せに連れていく。「ね、お家が焼けちゃったろう?」「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している、と小説家は書いている。私には、これが八月一五日をはさんで、一時的に失明した女の子が、戦後のはじまりに回復し、ほほえむ小説として読めた。『敗戦後論』に引いたが、もっとも美しい「戦争の終わり」と「戦後のはじまり」を描く短編だと今も考えている。<1>全体は太宰治の敗戦直後の作品を集めた一冊。収録の短編はどれもこれもすばらしい。

 戦後、誰もが戦時中に間違わないで正しい振る舞いをした人について書いたとき、例外的に間違いに間違った人を取りあげ、なぜこの人を自分は信じるに足る人として読み続けたのかと、自分の誤りをみつめて書いたのが<2>。そのなかの章「敗戦期」で、著者吉本隆明は敗戦直後、尊敬する高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にするのを見て、その立ち直りの早さに、はじめて違和感をおぼえた、と書いている。それが彼のただひとりで歩む戦後の起点となる。吉本は、自分は皇国少年で、間違った、と述べ、戦後そのことを足場に考えた絶対的少数派だった。

 <3>は戦時期の日本について、戦後のことを何一つ知らない外国の学生に英語で講義したものを、著者がその後、日本語で口述してなった。戦争と日本人についてもっともコンパクトな見取り図がえられる。その一章「戦争の終り」では、終戦の日の天皇の玉音放送を聞く日本人に対する当時軽井沢に軟禁されていたフランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランの観察が取りあげられている。放送が終わると、人びとは感情を押し殺すように押し黙り、姿を隠した。ギランを驚かせたのは、これまで降伏よりは死を選ぶ覚悟をもっていた日本人が、「いまや天皇とともに回れ右をし」、「翌日から」、自分やほかの白人たちに「明るい笑みを見せて挨拶(あいさつ)したこと」だった。

 私は、この鶴見俊輔の講義をカナダで贋(にせ)学生として聞いた。戦後七〇年もたてば無理もないが、みんな退場する。そしてコトバが残る


講談社現代文庫版の単行書『高村光太郎』として取り上げられていますが、昨年刊行された『吉本隆明全集5[1957‐1959]』に件の論考が収められています。

高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にする」は、昭和20年(1945)、終戦の2日後に発表された詩「一億の号泣」に典拠します。詩の終末部分の「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす/真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」です。

戦時の光太郎の詩文を注意深く読むと、「鋼鉄の武器」で鬼畜米英を殲滅せよ、というようなジェノサイド的発言はほとんどなく、「精神の武器」で闘おう、といった内容が多く見られます。そういう意味では吉本の指摘のように、敗戦直後に突如としてそういう方向に行ったわけではありません。しかし、当時、全ての光太郎詩文をチェックしていたわけでもない吉本にとってこの発言は違和感を覚えるものだったのでしょう。

リアルタイムを生きた吉本の論考、この際に改めて読み解くべきかと思います。

「一億の号泣」については、70年前にそれが掲載された『岩手日報』さんでも、昨日の一面コラムにて取り上げて下さいました。

風土計 2015.8.15

「綸言(りんげん)一たび出でて一億号泣す。/昭和二十年八月十五日正午、」という書き出しの詩が1945年8月17日付の本紙に載った▼作者は、花巻に疎開していた高村光太郎。玉音放送を聞くために神社に出掛け、天皇の声に接した。国防色の粗末な服を身にまとい、両手を畳の上について聞き終わった後は、無言で静かに立ったという。失意の姿が目に浮かぶ▼太平洋戦争開戦を詠んだ作品もある。「記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史あらたまる。/アングロ・サクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。」と始まる。戦争の大義を信じて高揚した思いが伝わる▼光太郎には他にも戦争をうたった詩が数々ある。鼓舞するような内容だ。そんな姿勢に対して戦後、批判が相次いだ。本人は山小屋で独居自炊の生活を送りながら、戦争に協力したことと向き合ったという▼自己責任を問うことを避けた文学者は多くいる。そんな中、戦時中の言動を批判されても「自己を弁護するようなことはせず、正面からそれを受け止めた」(岡田年正著「大東亜戦争と高村光太郎」)姿勢は、評価されていいのではないか▼8月15日の敗戦の日は言論界に深く刻印された。もちろんジャーナリズムにおいても。反省を踏まえて新たに出発した日の決意を忘れてはなるまい。


やはりリアルタイムを生きた光太郎の詩文も、この際に改めて読み解くべきかと思います。

最初にも書きましたが、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。ただ、散見されるのですが、それを美化につなげようとしたり、一種の「戦後70年ブーム」に乗り遅れまいと、とんちんかんな引用をしたお粗末な作りだったりでは困るのですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、詩「蒋先生に慙謝す」の執筆に取り組みました。

当日の日記の一節です。

午后詩「蒋先生に慙謝す」書きかける。

「蒋先生」は蒋介石。その激しい抗日思想に対し、戦時中の昭和17年(1942)には「沈思せよ蒋先生」という詩を書いた光太郎。戦後になって、それと対を為す詩篇として作りました。しかし、なかなか書き上がらず、結局、完成したのは9月30日でした。

    蒋先生に慙謝す
000
わたくしは曾て先生に一詩を献じた。
真珠湾の日から程ないころ、
平和をはやく取りもどす為には
先生のねばり強い抗日思想が
厳のやうに道をふさいでゐたからだ。
愚かなわたくしは気づかなかつた。
先生の抗日思想の源が
日本の侵略そのものにあるといふことに。
気づかなかつたとも言へないが、
国内に満ちる驕慢の気に
わたくしまでが眼を掩はれ、
満州国の傀儡をいつしらず
心に狎れて是認してゐた。
人口上の自然現象と見るやうな
勝手な見方に麻痺してゐた。

天皇の名に於いて
強引に軍が始めた東亜経営の夢は
つひに多くの自他国民の血を犠牲にし、
あらゆる文化をふみにじり、
さうしてまことに当然ながら
国力つきて破れ果てた。
侵略軍はみじめに引揚げ、
国内は人心すさんで倫理を失ひ、
民族の野蛮性を世界の前にさらけ出した。
先生の国の内ではたらいた
わが同胞の暴虐むざんな行動を
仔細に知つて驚きあきれ、
わたくしは言葉も無いほど慙ぢおそれた。
日本降伏のあした、
天下に暴を戒められた先生に
面の向けやうもないのである。

わたくしの暗愚は測り知られず、
せまい国内の伝統の力に
盲目の信をかけるのみか、
ただ小児のやうに一を守つて、
心理を索める人類の深い悩みを顧みず、
世界に渦まく思想の轟音にも耳を蒙(つつ)んだ。
事理の究極を押へてゆるがぬ
先生の根づよい自信を洞察せず、
言をほしいままにして詩を献じた。
今わたくしはさういふ自分に自分で愕く。
けちな善意は大局に及ばず、
せまい直言は喜劇に類した。
わたくしは唯心を傾けて先生に慙謝し、
自分の醜を天日の下に曝すほかない。


先頃発表された、主語のない「談話」などよりも、ぐっと来るものがありますね。

今週の月曜日に載った、福島の地方紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」です。限定公開されている二本松市の智恵子生家について言及して下さいました。 

智恵子が過ごした部屋(8月10日)

 〈如何[いか]なる場合に処するにも ただ一つの内なるこえ たましいに聞くことをお忘れにならないよう…〉。詩人の高村光太郎の妻智恵子が、40歳のころに書き残したとされる。
 二本松市にある智恵子の生家が特別公開されている。普段は入れない2階の智恵子の居室や光太郎の過ごした部屋、杜氏[とうじ]の寝室などが見られる。明治16(1883)年、酒造業の家屋として建てられた。この四畳半で時代の先端を行く気質が育まれたのかと、しばし感じ入る。裕福だった生家は後に経営が行き詰まり破産する。智恵子も精神を病む。
 光太郎が「智恵子抄」を出版したのは昭和16(1941)年の8月だ。12月に日本は太平洋戦争に突入するが、詩集は3年間で13刷を重ねる。戦時下で死が日常だった若者は、光太郎のように愛し、智恵子のように愛されることを願った(二本松市教委刊「高村智恵子-その愛と美の軌跡」)。
 戦意高揚で書き連ねた詩を恥じ、光太郎は疎開した岩手県花巻市郊外の粗末な小屋に戦後も住み続ける。戦争協力の行為を弁明するでもなく、「内なるこえ」に耳を澄ませた。心の中の智恵子と暮らすことは本望だったのだろう。

生家二階部分の限定公開、10月から11月の菊人形期間、来年2月にも予定されていますが、8月は23日までの土日、つまり8/15・16・22・23です。ぜひとも智恵子の息吹を感じて下さい。

戦意高揚で書き連ねた詩を恥じ、光太郎は疎開した岩手県花巻市郊外の粗末な小屋に戦後も住み続ける。」とあるように、光太郎の息吹を感じるなら、花巻郊外の高村山荘、高村光太郎記念館です。

花巻観光協会さんで作った新しいチラシがこちら。

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同じ花巻市にある宮沢賢治記念館さんもこの春にリニューアルオープンしています。

ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月14日

昭和22年(1947)の今日、東京女子高等師範学校に勤務していた椛沢ふみ子に長い書簡を書きました。

椛沢ふみ子(佳乃子)はたびたび花巻郊外太田村の山小屋を訪れ、地元の皆さんとも親しく交流しました。以前にご紹介した高橋愛子さんも椛沢に茶道を習ったそうで、花巻高村光太郎記念館の受付で配布されているリーフレット「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」に記述があります。

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書簡の最後には、「紀州の人からクマ蟬のモデルを送つてもらひました。秋には此を彫ります。」とあります。「紀州の人」は俳人の東正巳。この月6日付けの東宛てのはがきには、以下の記述があります。

待望のクマゼミ到着、感激に堪へません。よく捉へられたものです。小生は先年つひに失敗、今まで熟覧できなかつた蟬です。実に美しいので今夏中に彫刻したいと思つてゐます。

しかし、結局、この彫刻は完成せずに終わったようです。日記にも詳細な記述がなく、着手もしなかったかもしれません。それでいて書簡では蟬を彫ると明言しているのは、光太郎の蟄居生活を案じる周囲へのポーズなのでしょうか。

仙台に本社を置く地方紙、『河北新報』さん。先週、以下の記事が載りました。

先月中頃でしたが、記事を書いた記者氏から電話があり、記述のある「わが詩をよみて人死に就けり」についてレクチャーし、その際に7/26の紙面に載ると聞きました。そこで仙台在住の息子に頼んで取り寄せました。6月に当方も紹介された『朝日新聞』さんの東北版を送れ、と頼んだところ、忘れやがった抜け作の息子ですが、今回はしつこくメールしたので、大丈夫でした(笑)。

ただし、「この封筒に入れてポストに投函せよ」と、140円切手を貼った封筒を送ったところ、料金不足でゴタゴタしました。抜け作の父でした(笑)。

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毎週日曜日の文化面に掲載されている「戦災の記憶を歩く 戦後70年」という連載で、花巻市の高村山荘が取り上げられています。

戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念

 「智恵子抄」などの詩で知られる高村光太郎(1883~1956年)が終戦後、1945年から7年間を過ごした建物が花巻市西部の太田地区にある。
 高村山荘。静かな山村に立つ。木造平屋。約5㍍四方で、土間と板の間からなる簡素な造りだ。高村が使った机やランプ、いろりなどが今も残る。
 高村は45年5月、宮沢賢治の弟清六を頼り、東京から花巻に疎開。宮沢家が空襲に遭い、知人の勧めで太田地区に移り住んだ。
 地区に住む高橋愛子さん(83)は当時、農作業のため山荘のそばにある畑に毎日通い、高村の暮らしぶりを間近で見てきた。
 「偉い先生がなんで、こんな所で大変な思いをして住んでいるのか、不思議だった」と振り返る。
 
雪をかぶる布団
 地区の冬は厳しい。山荘の間仕切りは障子一枚しかない。室内の布団が雪をかぶることもあったという。
 山荘での暮らしを、高村は自ら「自己流謫(るたく=罪のため遠くに流されること)」と称した。戦時中、戦意を高揚する詩を数多く発表したことに自責の念を抱き、進んで厳しい環境に身を置いたのだった。
 「われら自ら力を養ひてひとたび起つ/老若男女みな兵なり/大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ」
 41年作の「十二月八日」の一節だ。「愛の詩人」と称された高村には、似つかわしくない言葉が並ぶ。
 山荘で暮らした7年で、高村は詩を多く残した。
 「暗愚小伝」は当時の代表作の一つ。幼少期から戦後に至る自己批判を中心とする連作詩だ。構想段階で書いた詩「わが詩をよみて人死に就けり」から、高村の思いが読み取れる。
 「死の恐怖から私自身を救ふために/『必死の時』を必死になつて私は書いた/その詩を戦地の同胞がよんだ/人はそれをよんで死に立ち向かつた」
 
地区の子と交流
 試作に励む傍ら、高村は地区の子どもらと交流を深めた。地区の山口小(現在の太田小)を頻繁に訪れ、開校式で祝辞を述べたり、学芸会に参加したりした。新刊の辞典を寄附するなど支援も惜しまなかった。
 太田地区山関行政区で区長を務める高橋征一さん(72)は幼少時、山口小に通った一人。学校で何度も高村と接し、山荘で掃除を手伝ったこともあった。
 「大人になって、光太郎先生の伝えたかったことが分かった。平和な世の中で、子どもたちが文化的で心豊かに育ってほしいと願ったのでしょう」と話す。
 反戦、平和を声高に訴えることはなかったという高村だが、48年に作った詩「新年」にこう記した。「世界に戦争の来ませんやうに(中略)われら一人一人が人間でありますやうに」。
 流謫の末に見出した、切なる願いに違いない。

メモ 高村山荘は保存のため、太田地区の住民と花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)がそれぞれ作った上屋で、二重に覆われている。午前8時半~午後4時半、有料で内部を見学できる。隣接地に市営の高村光太郎記念館がある。連絡先は総合案内所0198(28)2270。

文 生活文化部・肘井大祐 写真も


読んでおわかりだとは存じますが、単なる観光案内の記事ではなく、太平洋戦争とのからみで光太郎の内部世界をよく省察した内容となっています。

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高村山荘。行くたびに粛然とした気持ちにさせられますが、単に光太郎が住んでいた小屋、というだけでなく、ここでの7年間が「自己流謫」の日々だったことに思いを馳せざるを得ないからです。

6月のこのブログでご紹介した高橋愛子さんがご登場。

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それから後半に談話が載っている高橋征一さんは、先だっての花巻市太田地区の皆さんと、十和田湖関係者の方々の交流会にご参加なさっていました。


戦後70年。あの戦争とは何だったのか、考えるいい契機になります。夏休みということもあり、ぜひ若い世代を交えたご家族で、高村山荘、隣接する4月にリニューアルオープンした高村光太郎記念館、足を運んでいただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月5日

昭和24年(1949)の今日、筑摩書房から『印象主義の思想と芸術』が復刊されました。

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オリジナルは大正4年(1915)。「筑摩選書」の一冊としての復刊です。

標記の件、今週、各紙一斉に報道されました。代表して時事通信さんのものを引用させていただきます。

「玉音放送」原盤を初公開へ=来月1日、「聖断」の防空壕も―宮内庁

 宮内庁は9日、戦後70年に当たり、終戦の日の昭和天皇の「玉音放送」を録音したレコードの原盤(玉音盤)と音声を8月1日に初めて公開すると発表した。昭和天皇が終戦の「聖断」を下した「御前会議」が開かれた皇居の防空壕(ごう)についても、内部の写真と映像などを公開する。音声などはホームページに掲載する予定。
 玉音盤は、玉音放送前日の1945年8月14日夜、当時の宮内省庁舎内の一室で録音された。昭和天皇がマイクに向かって「終戦の詔書」を2回読み上げ、計2組の玉音盤が完成。このうち2回目に録音した方のレコードが翌15日正午にラジオで放送された。
 今回公開されるのは実際に放送された方のレコードで、時間は約4分30秒。宮内庁は原盤から音声を新たにデジタル録音したという。
 宮内庁関係者によると、天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さまは6月下旬、皇居・御所で音声を聞かれたという。玉音盤は現在、皇室の私有物である「御物」として庁内で管理されている。
 宮内庁は、昭和天皇が終戦後の46年5月23日に録音し、翌日にラジオ放送された食糧問題の重要性に関するお言葉についても、原盤と音声を初めて公表する。玉音盤と一緒に保管されていたのが今回発見されたという。
 風岡典之長官は「歴史的な意義からも国民の関心からも戦後70年の機会に公表するにふさわしいと考え、両陛下のお許しを得て公表することにした。この機会に多くの方々にご覧いただきたい」と話している。


光太郎ファンなら、この記事を読んで、次の詩を思い浮かべるはずです。

  一億の号泣001

綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん


放送のあった昭和20年(1945)8月15日、光太郎は岩手花巻に疎開していました。はじめに厄介になっていた宮澤賢治の実家は、5日前の8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は被災を免れた元旧制花巻中学校長・佐藤昌宅に身を寄せていました。

このあたり、加藤昭雄著『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、同『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)に詳しく記述があります。

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そして15日の玉音放送は、花巻町の中心部にある鳥谷崎神社で聴きました。

こちらが鳥谷崎神社。戦前(おそらく)の絵葉書です。

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翌16日には上記「一億の号泣」を執筆、さらに翌日の17日にはこの詩は『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。

ここには「聖戦完遂」のスローガンを信じて疑わなかった光太郎の、その目標を失った虚脱感がよく表されています。しかし、虚脱だけでなく、「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす」というある種の変わり身の早さもうかがえ、この時点ではまだまだ平和の到来を喜ぶ心情は読み取れません。ましてや自身が書き殴った大量の空虚な大政翼賛の詩を読んで、膨大な数の前途有為な若者が散華していったことになど、思い及んでいません。

二度にわたり、空襲で焼け出された光太郎にしてみれば、無理もないのかも知れません。一度目(昭和20年=1945の4月13日)には、智恵子と共に過ごした思い出深い東京本郷Ⅸ駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエを失い、二度目はつい5日前でした。

しかし、この年の秋に、花巻町郊外の太田村の山小屋で独居自炊の生活を始め、いやが上にも自らの来し方を
省察せざるをえない日々の中で、光太郎の内部世界に変化が生じました。

同じ玉音放送を題材にしたこちらの詩は、昭和22年(1947)の作。

終戦003
 
すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わずかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の目からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


これは連作詩「暗愚小伝」中の一篇として書かれたものです。

光太郎は他の多くの文学者のように、無邪気に民主主義を謳歌するというわけではありませんでした。同じ「暗愚小伝」の終曲、「山林」という詩では、以下のように謳っています。
 
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の避難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
 
他の多くの文学者たちは、というと、戦時中に書いた戦意昂揚の作品を「あれは軍の命令で仕方なく書いたものだ」と言い訳したり、その手の作品を書いたことをひた隠しにして「非戦の詩人」の称号を得たりしていました。それどころか、自らも戦争協力詩を書いていたにもかかわらず、やはりそれを隠して、公然と光太郎を非難した詩人もいます。

それに対し、光太郎は自らの過ちを潔く認め、さらに自らを罰することを実践する(花巻郊外太田村での過酷な独居生活、彫刻の封印は7年に及びました)、そういう点こそ、光太郎の素晴らしさだと考えられます。

いったいに光太郎の生涯は、順風満帆なものでは決してなく、いわばつまづきの連続でした。青年期にはロダンに学んだ新しい彫刻理念が受け入れられず、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界との対立を余儀なくされ、それも盟友・碌山荻原守衛の早逝により、孤軍奮闘。光雲の勧める銅像会社設立や美術学校教師の話も断り、智恵子と二人、社会との交わりを極力絶って「都会のまんなかに蟄居」(詩「美に生きる」昭和22年=1947)する清貧の生活。

そんな生活の中で、智恵子は心を病み、光太郎を残して先立ちます。その反省から、一転して社会と積極的に関わり始めたところが、社会の方が泥沼の戦時に突入。その旗振り役を務めざるを得ませんでした。

そして敗戦。公的に戦犯とされなくとも、先述の通り、過酷な環境に身を置いて、自らを罰する光太郎。

最晩年に、自らに課した彫刻封印の重罰を解き、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をこの世に残すことが出来たのは、最後に訪れた幸福だったといえるかと思います。それすら残せず、寒村の山小屋で朽ち果てていたとしたら、虚しいだけの一生だったように思えます。

「玉音放送」の報道を知り、こんなことを考えました。乱筆御免。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月11日

昭和19年(1944)の今日、『日本読書新聞』にアンケート回答「読書会に薦める-中込友美著『勤労青年の教育』」が掲載されました。

 さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。

『高村光太郎全集』第20巻に掲載されています。どうもどこかで誤植が生じたようで、書名やカギカッコ、カッコの位置がむちゃくちゃです。

誤 「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行
正 「勤労青年の教養的生活」(国民教育会出版部発行

です。

こういうところにも、戦時の混乱が見て取れます。

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