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10月27日(日)のこのブログで「拝観に行きました」的なことだけは書いておきました高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」。個々の出品作品等について解説させていただきます。
 
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左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
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光太郎、文章でも「どこにでも美は存在する」的なこと繰り返しを書いています。「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」昭和4年=1929)。これは、ネット上などで光太郎の名言の一つとしてよく引用されています。が、孫引きの孫引き、伝言ゲームみたいになっており、「路傍」が「道端」になっていたり、「瓦礫」が「がれき」になっていたりと、無茶苦茶です。引用したいのならあくまで原文の通りでお願いします。

さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。

同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
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「うつくしきもの……」も光太郎が好んで書いた文言で、複数の揮毫例が確認できています。「満」を変体仮名的に片仮名の「ミ」としている例があり、山梨県富士川町に建てられた光太郎文学碑には「ミ」を採用した揮毫が彫りつけられています。
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何度も書きましたが、この「ミ」を漢字の「三」と誤読、「光太郎が讃えたこの地の三つの美しいもの――富士山、柚子、そして人々の心」などという噴飯ものの解説が為されたページもネット上に散見されます。

なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。

この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。

光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。

さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。

 宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。

おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。

おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
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心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。

その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
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右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。

仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
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これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。

最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
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「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
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企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
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他に、常設展示の方でも書がたくさん。
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光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。

書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。

【折々のことば・光太郎】

雪のため電燈は断線で修理の見込つかず、ランプでやつてゐます。

昭和25年(1950)2月11日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎68歳

旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。

2泊3日の行程を終えて、昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻より帰って参りました。都度都度、レポートいたしましたが、書ききれなかった件等を。

10月27日(日)、「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演のため訪れた東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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午後からの本番に向け、午前中に会場設営を行い、それが終わったところで館内をぶらぶら。すると、一階ロビーでこんな看板を見つけました。阿部正介氏という方の作品だそうで。
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「切り絵「昔の花巻展」」。3階の展示コーナーで開催中とのこと。光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋・高村山荘もあるじゃん、というわけで、早速拝見に。
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ずらっと10点の色鮮やかな切り絵作品が並んでいました。

雪に覆われた高村山荘。
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よく見ると(よく見なくても(笑))、入口には光太郎の姿も。
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石ノ森章太郎先生の「サイボーグ009」に出てくる死の商人「ブラックゴースト」の首領・スカール(じつは自身もサイボーグで傀儡でしたが)か、と突っ込みたくなりましたが(笑)。
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キャプション。
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他にも光太郎ゆかりのスポットが。

光太郎も愛した大沢温泉さんにかつてあった建造物。
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当方手持ちの古絵葉書。
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今の山水閣さんの新しい建物がある一角だと思うのですが、これが残っていないのは残念です。

光太郎が訪れ、息女・聡子さんのピアノ演奏を聴かせてもらった旧菊池捍(まもる)邸
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光太郎にピアノ演奏を聴かせた聡子さんは、今回の対談のメインテーマ「花巻賢治子供の会」の児童劇で、劇中歌の作曲も担当していました。
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宮沢賢治がらみも。
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帰ってから調べましたところ、作者の阿部正介氏、元は市の職員であらせられたそうで、これまでも同じなはんプラザさんや市内の図書館、宮沢賢治イーハトーブセンターさんなどで作品展が繰り返し開催されていました。

花巻にはこの手の作品の題材となる建造物等がかなり現存していますし、観光推進のためにも、さらなるご活躍を期待したいところです。

ところで、このコーナーの裏側では、こんな催しも。いわずもがなですが、大谷翔平選手は花巻東高校さんのご出身ですので。
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この日は第2戦。
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意外と人がまばらでした。皆さん、ご自宅などでBSの放映をご覧になっていたのではないでしょうか。旅人の当方としてはありがたいところでした。

ちょうど9回表のヤンキースの反撃の場面で、大谷選手、山本投手を擁するドジャースは1点返され4-2、なおも2死満塁のピンチ。「うわぁ~」と思いながら観ました。しかし、最後の打者が中飛に倒れ、「よっしゃ~」。

大谷選手は走塁の際のアクシデントで負傷とのことでしたが、今日も先発出場だそうで、大事に至っていないことを祈念いたしております。

ちなみに花巻の街は、どこへいっても大谷一色。

新花巻駅(左下)。伊藤園さんの自販機(右下)。
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一泊させていただいたホテルグランシェールさんロビー。
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リンゴを買いに立ち寄った道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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肖像権の問題等もあるかもしれませんが、切り絵の阿部正介氏、大谷選手やその先輩・菊池雄星投手らの切り絵も手がけられてはいかが? などとも思いました(笑)。もっとも、すでにやられているかもしれませんが。

以上、花巻レポート補遺を終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生の足のサイズを御記憶ありて心にかけてこの短靴をお探し下さった御厚情に心をうたれました、使用中のもの既に破れはてて居りましたので此の春から早速役に立ち、まことにありがたく存じます、


昭和25年(1950)2月14日 田口弘宛書簡より 光太郎68歳

身長180センチ超と、当時としては大男だった光太郎、足のサイズも昭和5年(1930)のアンケート回答「自画像」には、「十三文半」と書いています。一文が約2.5㌢ですので、おおむね33.75㌢となります。実際にはもう少し小さかったようですが、それでも既製品ではなかなか合うものが見つけられず苦労のし通しでした。

のちに埼玉県東松山市教育長となられた故・田口弘氏。進駐軍の横流し品か何かで大きな靴を見つけ、光太郎に送って下さいました。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻に参りまして、現在、光太郎も愛した大沢温泉♨️さんにてこれを書いております。画像は昨夕の到着時ですが。
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昨日は東北本線花巻駅前のなはんプラザさんでされた「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演させていただきました。
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「花巻賢治子供の会」は、戦後の花巻で児童教育に携わっていた照井謹二郎.登久子夫妻が主宰していた児童劇団で、戦争で荒んだ子供たちに宮沢賢治の童話などを通じて豊かな情操を育てたいとするものでした。

そもそもはそれほど肩肘張ったものではなく、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していた光太郎の慰問から始まりましたが、光太郎らの援助や助言を糧に、地域に根付いて行きました。光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)までは、おおむね春(太田村)と秋(花巻中心街)で年2回公演し、記録に残る限り光太郎はそれらを7回観覧、毎回非常に楽しみにしていました。

光太郎が岩手を去り、さらに没してからも活動は続き、賢治作品に新たな形で息を吹き込むことに多大な貢献がありました。

−−というようなアウトライン的な内容を、まず当方が語らせていただきました。

続いて、当時実際に光太郎の前で劇を披露なさったお二人、熊谷光さん、高橋則子さんによる「雪渡り」朗読劇上演。
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さらに地元のラジオで光太郎作品等の朗読もなさっている高橋さんは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)もご披露くださいました。

休憩をはさみ、賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏。お母様の潤子さんが「花巻賢治子供の会」の役者さんでしたし、お祖母さまの愛子さんも照井夫妻と親しく、劇団創設に関わられました。
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こちらでも貴重なお話を伺えました。

最後に4人で登壇、さらにやはり「花巻賢治子供の会」のメンバーだった(在籍されていたのは光太郎没後)元アナウンサーの田中しのぶさんの司会で、フリートーク。熊谷さん、高橋さんに光太郎とのそれを含む当時の思い出を語って頂いたりしました。

あまり知られていないさまざまなエピソードなども紹介され、非常に良かったと思いました。

さらに会場には照井夫妻の子息にして、「花巻賢治子供の会」ではアコーディオンで劇伴音楽を担当されていた義彦氏もいらしていて(当初予定ではいらっしゃらないとのことだったのですが)、終演後にこれまた貴重なお話を伺うことができました。
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第二の故郷・花巻にはまだまだ生前の光太郎をご存知の方々がご健在。今後ともその方々の証言など掘り起こされて行って欲しいものです。

報道など為されましたらまた改めてご紹介いたします。

昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今日がメインの目的で、東北本線花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」で登壇、宮沢賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏、昭和20年代に児童劇団「花巻賢治子供の会」で光太郎に演劇を披露なさったお二人、計4名での公開対談です。

昨日、花巻入りし、あちこち廻りました。賢治にもからむ対談を控えていますので、賢治テイストにも触れておこうと、まずは新花巻駅で借りたレンタカーを東に向け、遠野市へ。賢治が「銀河鉄道の夜」の構想を得た場所の一つとされる「めがね橋」へ。橋上を走る釜石線に乗って通ったことはありましたが、下から見るのは初めてでした。
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すぐ目の前の道の駅みやもりさん。賢治関連のミニ展示などもなされていました。
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反転して西へ。いったん賢治から離れ、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。企画展「高村光太郎 書の世界」が始まっており、そちらの観覧。
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いい感じに紅葉も始まりました。
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相変わらず案内板や看板類には熊の爪とぎ痕が。くわばらくわばら(死語ですね(笑))。

さて、書を拝見。
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各出品物の細かなご紹介は帰ってからまた改めて致します。今回、これまで展示したことがないものも出ています。特に「へー」と思ったのは、戦前の書で、一時期交流が深かった画家の宅野田夫(でんぷ)の画に光太郎が賛を書いたもの。戦後にはそういう例もありましたが、戦前にもこういうものがあったかという感じでした。
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隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)へ。
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毎度のことながら光太郎遺影に手を合わせて参りました。

小屋の周りには光太郎がこよなく愛した栗。
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レンタカーを花巻市街に向けました。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったら、先月も並んでいた案山子(かかし)がパワーアップしていました。道の駅はなまき西南(愛称.賢治と光太郎の郷)さんに並んでいたものもこちらに集約されていました。
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光太郎案山子も。
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久々に桜町の賢治詩碑に詣でました。碑文の揮毫は光太郎、日本初の賢治詩碑です。
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記憶がはっきりしないのですが平成28年(2016)の賢治祭でこの碑の前に立って講話をさせていただいた時以来かな、という感じでした。

そこから見える「下の畑」も遠望。
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定宿の大沢温泉さんは土曜日は一人だと予約を受け付けておらず、駅前のグランシェール花巻さんに宿泊(今夜は大沢温泉さんですが)。
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昨年、リニューアルがなされ、やはり賢治関連のミニ展示コーナーが設けられました。名付けて「宮沢賢治探索隊本部」だそうで(笑)。

パネル展示など意外と充実していますし、面積もそこそこ確保されています。宿泊客意外にも公開しているようです。
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夕食はすぐ近くのいとう屋さんで。光太郎が花巻市街で最も多く足を運んだ食堂です。
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そして夜が明け、今朝の日の出。
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これからなはんプラザさんで会場設営です。

取り急ぎ、ぃったん終わります。

まずは状況をわかりやすくするために地方紙『岩手日日』さん報道から。

お気に入り求めどっと 東和・土澤アートクラフトフェア 商店街に活気 光太郎作品基にレモンケーキ 花巻南高家庭クラブ提供

 県内外のものづくり作家らが集う「土澤アートクラフトフェア2024秋」(実行委主催)は13日、花巻市東和町の土沢商店街、萬鉄五郎記念美術館前を会場に2日間の日程で始まった。好天の下にクラフトやグルメなど約380店が軒を連ね、大勢の来場者で初日から活況を呈した。
 歩行者天国となった会場には、木工品や革製品、似顔絵、手作り雑貨、楽器、衣類、陶芸、釣り具、ペット用品など多種多様のブースが並び、訪れた人が店主と会話を弾ませながらお気に入り商品を買い求めた。
 飲食の出店や食材・菓子などの販売ブースも並び、フードコートで昼食を取る家族連れの姿も。沿岸ならではの海の幸や地元特産品などが人気を集めていた。
 彫金の宝飾などを製造するアトリエKAZU(東京都)の高田和彦さん(77)は、オリジナルの指輪やネックレスのほか、さまざまな職業の商売道具をモチーフとする「IKIGAIシリーズ」のペンダントトップなどを販売。「何度も出店しているが、今年は天気が良く、特に人出が多いと感じる。みんなおしゃれをして集まっており、雰囲気が良いのものこイベントの魅力だ」と語った。
 10回以上訪れているという盛岡市の齊藤直美さん(55)は「県外の作家に出会えるチャンスは、岩手では貴重。例年通り、良いものがそろっている。帽子やアクセサリーが欲しくて見に来た。幅広い年齢の人たちが遊びに来ているのが素晴らしい」と話していた。
 県立花巻南高校家庭クラブは13日、花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の「レモン哀歌」を基に製造した「レモンのパウンドケーキ」を土澤アートクラフトフェアで提供した。
 同クラブは、光太郎について調査・研究する団体と交流したり、顕彰イベントに参加したりして先人への学びを深めている。
 ケーキは、表面を覆うアイシングや生地にレモン汁を加えており、中までレモンの風味を感じられる。光太郎の顕彰活動に取り組む「やつかの森合同会社」(藤原正代表)が、同フェアに合わせて土沢商店街のワンデイシェフの大食堂で販売する「こたろう弁当」(1200円)を購入した人に100個限定でプレゼントした。
 レモンの果肉、皮を使うと食感や苦味が残るため、レモン汁だけで酸味や爽やかさを表現したといい、同日は東和町出身の1年生2人が接客。菅原美優さんは「光太郎さんのことはよく知らなかったが、勉強する中ですごい人が花巻にいたんだと感じた」、小原優羽奈さんは「自分たちの世代や、さらに下の小中学生にも光太郎さん、智恵子さんのことを知ってほしい。レモンケーキがそのきっかけになれば」と話していた。
 光太郎が秋の花巻でおいしさを再認識したというキノコやクリ、リンゴなどを使った同弁当は14日も数量限定で販売するが、パウンドケーキは提供されない。

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こちらが問題の(特に問題はありませんが(笑)))パウンドケーキ。
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ラッピングなど、高校生の手作りのレベルを超えていますね。もちろんお味もよろしかったようで。
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家庭クラブのお二人、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の際に発表のあった智恵子のエプロンの再現にも関わられました。こういう若い世代が関心を持って下さるのは実に有り難いところです。

やつかの森LLCさんが手がけた「こうたろう弁当」はこちら。やつかの森さんのメニュー構成は光太郎が実際に作った料理の現代風アレンジや、光太郎が使った食材の使用など、常に光太郎がらみです。
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2日間でそれぞれ異なるメニューで販売されたそうです。
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13日こうたろう弁当
14日こうたろう弁当メニュー
14日こうたろう弁当
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これも素晴らしいと思いました。

さらにやつかの森さんがメニュー考案に協力され、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のテナント「ミレットキッチンフラワー」さんで毎月15日に販売されている弁当「光太郎ランチ」の今月分。
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生野菜系が苦手な当方としては、今月のメニューはナイスだと感じました。これなら毎日食べてもいいかな、と(笑)。

何度も引用していますが、光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」で「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。この背後には、野菜類の自給自足、山林での食材採集に余念がなかった光太郎ならではの信念が込められています。

その信念を受け継ぎ、花巻南高校家庭クラブさん、やつかの森さんがさらなるご活躍をなさることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ローマイヤアの店が又出来たと見えます、お贈りのハムはすばらしい事でせう。

昭和25年(1950)1月11日 中原綾子宛書簡より光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の光太郎、東京の友人知己達から食材を贈られることも多く、それでかなり助かっていました。特に好物なのに自給できない肉類などはことのほか有り難く感じていたようです。

「ローマイヤア」は現代でも続く「ローマイヤ」さんですね。光太郎、おそらく戦前に銀座のレストラン部門、あるいは商品を卸していた上野の精養軒さんあたりで舌鼓を打っていたのでは、と思われます。

昭和23年(1948)に結成され、光太郎が名付け親となった「花巻賢治子供の会」という児童劇団がありました。主に宮沢賢治の童話を劇化、第一回の公演は光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の山小屋前で行われ、その後しばらく、春には旧太田村、秋には花巻町中心街での公演というスパンで続きました。光太郎が花巻を離れた後も活動は続き、平成9年(1997)までに公演回数は160回を超えたそうです。

その「花巻賢治子供の会」で実際に光太郎の前で演技をなさった当時のお子さん、お母さまが「花巻賢治子供の会」のメンバーだった宮沢和樹氏(賢治実弟・清六令孫)、そして当方でのトークショーです。

令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : なはんプラザCOMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号 
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた花巻賢治子供の会の会員より当時の活動の思い出をうかがい、光太郎の想いや賢治とのかかわりを学びます。

講 師 : 宮沢和樹  株式会社林風舎代表取締役
      熊谷 光  花巻賢治子供の会元会員
      高橋則子  花巻賢治子供の会元会員
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
司 会 : 田中しのぶ 花巻賢治子供の会元会員
チラシ表
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「花巻賢治子供の会」。主宰していたのは、花巻農学校での賢治の教え子の故・照井謹二郎氏と奥様の登久子氏。お二人とも小学校教諭、退職後は花巻で幼稚園経営をなさっていました。戦前から近所の子供達を集め、賢治の詩や童話の読み聞かせ、朗読の指導などを行っていました。戦後になり、戦争は終わったにも関わらず、戦争ごっこを続けている子供達の姿に愕然とし「これではいけない」と活動を再開したとのこと。

その頃、賢治実弟・清六の妻、愛子に「一緒に光太郎先生の山小屋に行こう」と誘われた登久子氏(戦時中から光太郎と面識はありました)、「何の手土産も用意できないから……」といったんは断ったものの、子供達の演劇を披露して娯楽の少ない山村暮らしの光太郎を慰問しようと思い立ったとのこと。そして昭和22年(1947)の6月に、旧太田村の光太郎の山小屋前で第一回公演を打ちました。

以後、記録に残る限り、太田村と花巻町中心街で光太郎は7回公演を観ています。光太郎が観た演目で把握できている賢治作品は「雪渡り」「カイロ団長」「どんぐりと山猫」「雁の童子」「風の又三郎」「狼森と笊森、盗森」「かしわ林の夜」。他にオリジナルの劇もあったようです。元々若い頃から芝居好きだった光太郎でしたし、特に戦後、青少年の健全育成には協力を惜しまなかったところもあり、公演の観覧を楽しみにしていました。

子供達の素朴で、しかし生き生きと演じる姿に好感を感じていたらしく、公演回数を重ねだんだん手応えを感じてきた登久子氏が「東京に出て本格的に演出などを学びたい」ともらすと、「そんなことをして変な児童劇臭さがついたらどうするのか。今のままが一番良い」とたしなめたそうです。

賢治童話の劇化ということで、賢治実弟の清六・愛子夫妻もサポート。お二人の令嬢で今年亡くなられた潤子さんも団員の一人として舞台に立たれていました。そこで潤子さん令息の和樹氏にもお話を伺います。

そして、実際に光太郎の前で演じられたお二人。貴重なお話が聴けることと存じます。
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画像の左下に写っている熊谷光さんと高橋則子さんのお二人です。ちなみに光太郎が二列めの右から3番目にいますが、その左後ろが清六、最後列には潤子さんもいらっしゃるようです。昭和27年(1952)、光太郎最後の観覧の際の集合写真です。
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登久子氏は昭和25年(1950)に脚本集『どんぐりと山猫』を十字屋書店から出版。光太郎にも触れられていますし、光太郎はこれを贈られて絶賛しました。

また、照井夫妻の近所に住んでいた菊池捍(まもる)の息女で、光太郎にピアノ演奏を聴かせてあげた聡子氏も音楽方面でサポートしていたこともわかりました。

そんなこんなでの1時間半。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東京の連中はどうしてゐるかと時々おもひます、みな生活が中々困難だらうと思ひます、勢ひいろんなアルバイトをやらねばならないでせう。此間ラジオの娯楽番組の中へ草野心平が出てきて、唄をうたつたので面白かつたのですが、これもアルバイトの一つでせう。


昭和25年(1950)1月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎68歳

当会の祖・心平。「何やってんだ」という感じですが(笑)。

昨日は上京しておりまして、千駄木浅草新宿と三ヶ所を廻っておりました。レポートしなくてはならないのですが、今日もこれから二本松でして、ゆっくり書いている暇がありません。後に回します。

そこで本日は、群馬の地方紙『上毛新聞』さんの一面コラム、10月9日(水)掲載分です。

三山春秋

▼彫刻家で詩人の高村光太郎は晩年、岩手・花巻に暮らした。空襲で東京のアトリエを焼け出され、宮沢賢治の実家を頼って疎開した。山小屋での1人暮らしはおよそ7年に及んだ▼畑に育つもの、山に生えるものを食べる自給自足の生活。キノコは図鑑と見比べ、「食」と書いてあるものは何でも食べてみた。小屋は栗林の真ん中にあり、採りきれないほどたくさん実がなった。栗飯を炊いたり、ゆでたり、いろりで焼き栗にしたりして毎日味わった▼時には村の人たちがかごを持って栗拾いにやって来た。山の奥へ奥へと入っていき、クマの気配に驚いて逃げ帰った人もいたという。クマもまた冬眠に備え、秋の味覚を満喫していたのである▼近年は山奥だけでなく、人里や、地域によっては市街地でも出くわすことがある。この秋も注意が必要だと県が呼びかけている。主食となるドングリや栗などの実りが悪いらしく、山に餌がなければ人里に出てくる危険が高まる▼廃棄の農作物を放置しない。果樹は早めに収穫し、収穫しない木は切る。隠れ場所となるやぶを刈り払うなど、人里に引き寄せないことが重要だという。対策を万全にして、すみ分けを目指したい▼暑さが去ってようやく秋の味覚の出番になったが、山中と同様にわが家の栗も今年は不作である。「9月末になるとほとんど栗責め」だったという光太郎がちょっとうらやましい。

秋の味覚のシーズンとなり、旬の話題ですね。

光太郎が戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までまる7年間、独居自炊の生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋、「栗林の真ん中」というわけではありませんが、確かに周囲には栗の木がたくさん自生しています。そこで、貴重な食料源の一つでした。

しかし、奥羽国境山脈の麓ゆえ、クマったことに(笑)クマの生息地でもあります。光太郎が居た頃はあまり人里に降りてくることも多くなかったのですが、現代は却って昔よりひどい状況になっています。先般、現地に行った際も、山小屋裏手の智恵子展望台方面への散策路は立ち入り禁止にしてありました。隣接する高村光太郎記念館さんの看板などは、クマの爪とぎ痕で傷だらけです。
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花巻市では、市街地でもクマの出没情報が多数出ています。当方も昨年だったと記憶していますが、夕方、市街地でレンタカー運転中、河原に黒い塊が見え、「ありゃクマなんじゃないか?」でした。

また、今年の4月でしたか、光太郎や宮沢賢治に愛された大沢温泉さんの駐車場にあるゴミ捨て場にクマが現れた映像がニュースで取り上げられていました。

ところでクマと言えば、X(旧ツイッター)上の書き込みなどに、「光太郎が素手でクマを倒したことがある」的な書き込みが散見されます。
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サンドー式体操(ボディビル)で肉体を鍛え、ニューヨークではレスリングだかボクシングだかの経験者だった同級生をねじ伏せた、身長180センチ超の光太郎でしたが、残念ながら「素手でクマを倒した」という事実は確認できていません。

上記画像最後の方が書いてらっしゃるように、ゲームか何かの二次創作でそういうエピソードがあったのかも知れませんが、真に受けないようにお願いいたします。

それにしても、クマにも罪はないわけで、「倒す」のではなく、何とか共存共栄を図りたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

詩集を編さんしてもいいとの事、感謝します、批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます。


昭和24年(1949)12月17日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎67歳

「詩集」は翌年刊行され、現在でも版を重ねている新潮文庫版『高村光太郎詩集』。ただ、昭和43年(1968)に改版となり、それまでの版に含まれていない昭和25年(1950)以後の詩も収められました。

次のようなやりとりがあったようです。

新潮社「高村先生のお若い頃から近作までを集めた詩集を文庫で出したいのですが」
光太郎「そりゃかまいませんが、自分で編んでいる暇がありません」
新潮社「では、どなたか信頼の置ける方に編集と解説をお願いするというのはどうでしょう」
光太郎「草野心平君が適任でしょうが、彼は他社でやってますからね。他の心当たりに頼もうと思うのですが」
新潮社「なるほど、では、高村先生の方で内諾を取っていただけますか?」
光太郎「お願いしてみましょう」

そして伊藤に打診、すると伊藤からは、作品選択(戦時中の翼賛詩も含める)や解説で「批判的」な態度を取るやもしれませんがそれでもいいのなら、的な返答が来たようで、さらにそれへの返信です。

批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます」。まさしく『論語』の「六十而耳順(六十にして耳したがう)」ですね。

昨日開幕の企画展示です。

令和6年度高村光太郎記念館企画展「高村光太郎 書の世界」

期 日 : 2024年10月5日(土)~11月30日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を送り、彫刻制作を一切封印します。山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、大小さまざまな「書」を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では光太郎による晩年に執筆された芸術評論『書についての漫談』を紹介しながら、彫刻・文芸と並び、光太郎第三の芸術とも言われる「書」を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

展示構成
 書額および書軸等 8点
 直筆原稿 7点
 拓本(縮小複製)      1点
 資料合計 16点(参考 常設展示の書は大小各種合わせて18点)

展示の見どころ
 出品する書額及び書軸はすべて実物で、光太郎の肉筆を間近でご覧いただけます。
『書額 乾坤美にみつ』『色紙幅 義にして美ならざるなし』『画賛幅 うつきしきもの満つ』の三作は旧展示施設の高村記念館を通じて、当地では初公開の作品です。
 また、最晩年に執筆された『書についての漫談』からは、光太郎幼少時代の書との出会いから、著名人の作風を例示しての批評など、光太郎の「書」についての考え方を窺い知ることができます。
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同館での同様の展示は、平成29年(2017)12月~翌年2月令和元年(2019)9月~11月に続き、これで3回目になります。所蔵している光太郎書の数が多く、常設展でもかなりの数を出していますが、それでも展示しきれないのでこうして普段は所蔵庫にしまわれているものを出しています。今回が初展示という作品も出ています。

それにしても、市から詳細情報が出たのが開会前日の午後。もう少し早く告知できませんかと常々申し上げているのですが、無視されている状態です。何だかなぁ、という感じですが……。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生自然の中に包まれてゐるやうな生活をしてゐますが、東洋の先輩賢哲の例にはならはぬ気で居ります。小生の彫刻製作をはばむものはもつと現世的な諸条件であり卻つて深刻な感があります。


昭和24年11月21日 森荘已池宛書簡より 光太郎67歳

東洋の先輩賢哲」は、俗世間との交わりを絶って山に隠遁していた中国の竹林の七賢、我が国の兼好法師あたりをイメージしているのでしょうか。彼等とは異なり、自らの戦争責任に対する処罰を自ら行っているという感覚が見て取れます。

一昨日、9月24日(火)から1泊2日で東北に行っておりました。レポートいたします。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。また後ほどご紹介いたしますが、10月末に花巻で光太郎と宮沢賢治がらみのイベントが予定されていて、そのための打ち合わせでした。少しだけ予告しておきますと、光太郎と交流のあった照井謹二郎・登久子夫妻が主宰、光太郎もその公演を何度も見た児童劇団「花巻賢治子供の会」の関係です。光太郎が見た公演の際に出演していた方々、それから賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でいろいろ語らせていただきます。

打ち合わせの前に、東北新幹線新花巻駅からレンタカーで、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。現在、特に企画展示は行っていないのですが、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」のフライヤーを置いてもらうために立ち寄りました。
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秋の気配も漂い、赤とんぼが群れを成していました。
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隣接する高村山荘。光太郎が戦後の7年間の蟄居生活を送った山小屋が、二重の套屋(とうおく・カバーの建物)内に保存されています。
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ここに居るであろう光太郎の分霊にご挨拶。花巻を訪れる際のルーティンです。

続いて道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん方面へ。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったところ、ユニークな案山子(かかし)がずらり。車を駐めて拝見しました。
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パリ五輪の出場選手や、今年発行された新札に肖像が使われている渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎等々。

そういえば太田地区の皆さん、以前も案山子制作やってたっけな、あの時は光太郎案山子もあったけど、今年はないの? と思ったら、ありました。案山子とはちょっと違うのかも知れませんが。さらに制作者は太田小学校の児童さんたちのようで。
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「高村山荘行きねこバス」だそうで、本当にあったらいいですね(笑)。

で、道の駅。
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何と、こちらにも案山子軍団(笑)。
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そしてやはり光太郎案山子(笑)。
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大沢温泉さんからの帰りの光太郎だそうで、首には本物の大沢温泉さんのタオル(笑)。笑わせていただきました。

道の駅で当方大好物の林檎を買い込み、街に戻って上記イベント打ち合わせ。その後、当方も大沢温泉さんに。
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この日はテレビのロケが入っていました。愛知テレビさんの番組で、レポーターはアーティスティックスイミング元日本代表の青木愛さんだそうでした。
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翌日は、以前から行こうと思っていた秋田県美郷町へ。そちらは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

去る二十日に花巻行。二泊してかへりました。廿一日には宮沢賢治十七回忌記念の賢治祭あり、小生も一席漫談をやりました。


昭和24年(1949)9月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

賢治の忌日・9月21日には現在も「賢治祭」が開催されています。今年も盛大に執り行われたとのことでした。

この年の花巻文化劇場に於ける光太郎の「漫談」。地方紙『花巻新報』にその筆記録が載り、『高村光太郎全集』では第20巻に後半部分が掲載されていますが、10年ほど前に前半部分を見付けました。少し読みにくいのですがコピペします。

白熊は雪がふれば元気になるが私も冬になると元気になる
賢治さんは雨ニモマケズだが僕は子供みたいにすぐ九十度位熱が出る、賢治さんの詩は誰でも知つているが、判る人はない、一歩一歩だんだんに深く進んでもらいたい、賢治は詩人である、詩はさけられないもので、誰れでも梅の花を見ていると体中が香がしてきて始めて見たような気がするが、人一倍謳うのが詩人である、この詩精神は誰でもありこれのない者は存在そのものがつまらない、この詩精神のない政治家は政治家でなくただの事務家でいやおうなしに肩に担いでやつているだけである、詩精神のある政治家は、あふれるような生き生きしたものを持つているし、この詩精神があれば一つの世界ができて美しくなる、義務でなく本当の仕事ができるし、これは金には替えられない、これをやれば一月に幾らになると考えれば精根がつきる、詩の精神は人を救うが、本当に人を救うものは宗教である
 ◇賢治は法華経に生きた
賢治は法華経の世界で、これを読んで皆んなが無上道に入るように云つた、徹頭徹尾法華経に生きた人間であつて、僕はそれまで信仰していない、宮澤さん自身から云えば唯法華経を信じて、仏の世界に入つてくれればよく、賢治さんに向つて詩人だといつても嬉しくない、ちつとも自分の思うことをいつてくれないと思う、賢治は一行書いても詩になる、僕等はその詩に魅せられる、賢治は宗教家で詩人、この二つをもつている、賢治には五感のよさがある、中学時代啄木に影響された、その後急に詩を書き始めた、春と修羅のころから急に……一字書いても詩になり魅力がある
 おおしくは月の夜を 雪の降るらし 黒雲 乱れたり
教わつてできたものではなく、こつちが圧倒される、賢治の詩を本当に読める人は偉いものだ

「おおしくは……」は賢治の「文語詩稿一百篇」中の一篇からの引用。正確には「鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし、黒雲そこにてたゞ乱れたり」です。

光太郎の賢治評、なかなか的確ですね。

光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。6月以来3ヶ月ぶりです。
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メインの目的は来月開催されるイベントの打ち合わせでした。そちらも昨日のうちに終わりまして、今日は少し足をのばし、秋田へ。

詳細は帰りましてから。

光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山小屋に隣接する花巻高村光太郎記念館さん関連で2件。

まず、『広報はなまき』9月15日号から。同誌、1月を除き1日、15日と月2回の発行ですが、毎月15日分にはほぼ毎号「花巻歴史探訪郷土ゆかりの文化財編」という記事が最終ページに載ります。主に市そのものや市内の博物館、記念館等の所蔵品を紹介するもので、今回もそうですが、光太郎関連も時々取り上げられます。

今号は先頃市に寄贈のあった中原綾子関連史料の中から「「みちのく便り」直筆原稿」。中原が主宰していた雑誌『スバル』に寄稿したもので、旧太田村時代の昭和25年(1950)から昭和26年(1951)にかけて不定期に4回掲載されました。そのうちの3回目の原稿が紹介されています。
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記事にあるとおり昭和25年(1950)に盛岡市の川徳画廊で開催された智恵子の紙絵展を見ての感想がメインです。一部分を抜き出しましょう。

 久しぶりに智恵子の作を見てやはり感動した。その上かうやつて一度にたくさん並べて見たのは初めてなので、膝の上で一枚づつ見るのとは違つた、その全体から来る美の話しかけに目をみはつた。一人の作が三十枚程あれば一つの雰囲気が生れる。人はその雰囲気の中で、丁度森の中をゆくやうな一種の匂はしさを感ずる。
 見渡したところ智恵子の作は造型的に立派であり、芸術的に健康であつた。知性の細かい思慮がよくゆきわたり、感覚の真新しい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあたたかさと微笑と、造型のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。

ここまで的確に智恵子の紙絵を表せるのは、やはりそれが自分に向けて作られた光太郎しか居ないのでは、と思われます。

現存する智恵子の紙絵はすべて、心を病んで品川のゼームス坂病院に入院してから作られたものです。健康だった頃、駒込林町のアトリエで、尾崎喜八の幼い娘にシンメトリー式の切り絵を作ってやったという尾崎の証言がありますが、その現存は確認できていません。

のちの心理学者的な人々の考察では、この紙絵が当時の智恵子にとって、人間世界と交信する唯一のツールだったとのこと。その通りでしょう。智恵子没後10年余り経ち、改めてずらっと並んだそれを見た光太郎。その胸中はいかばかりだったのか……。

この「みちのく便り」の原稿はじめ、中原綾子関連の寄贈品、おそらく来年には花巻高村光太郎記念館さんで展示されると思われます。今から楽しみです。

同館関連でもう1点。盛岡で開催されるイベントに同館として参加、だそうです。

同人誌展示即売会 岩漫63

期 日 : 2024年9月22日(日)
会 場 : 岩手県産業会館(サンビル)7階大ホール 岩手県盛岡市大通1丁目2番1号
時 間 : 11:00~15:00
料 金 : 無料

岩漫(がんまん)とは
◆岩漫は、同人誌を中⼼とした創作物を通じて自己表現する場であり、会場に集まった仲間達との交流の場でもあります。
◆岩漫は、様々な世代の参加者が相互交流を図り、同人誌分化が継承され発展していくことを目標とします。
◆岩漫は、岩漫実行委員会が運営しています。岩漫実行委員会は、参加者の有志から構成されています。
◆岩漫は、参加者全員でつくりあげます。運営の手の足りないところへのご協力をお願いします。
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こういう系のイベントですが、記念館の指定管理者である花巻高村光太郎記念会さんも参戦なさるそうです。一昨年行われたゲームとのタイアップ企画「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が好評だったことからの決断のようです。

当日は光太郎に関するミニ展示、詩集や回想録、オリジナルのミュージアムグッズの販売などを行うとのこと。光太郎ファンの新たな拡大に繋がるならいいことですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】IMG_0004

過日那須にて建碑式遊ばされし趣おかげにて小生もかかる名所に筆のあとを残すことを愉快に存じます。


昭和24年(1949)8月4日(日) 
佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が旧太田村に移る直前の約1ヶ月、自宅離れに住まわせてくれたりと、様々な形で光太郎に援助を惜しまなかった総合花巻病院長・佐藤隆房。那須出身の亡父・房之助の短歌を刻んだ歌碑の建立を思い立ち、光太郎に揮毫を依頼、はれて那須町内の寺院に建立されました。

右は拓本。「かくばかりつゝじの花のさかゆるを知らぬもをしきみやこ人かな」と読みます。

しかし、この碑は同地に現存していません。無理解のため撤去されてしまいました。原本が佐藤家に残っているのが救いです。悪意があって撤去したわけではないのですが、それにしても……です。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさん。最近のご活動を。

まず、市内のワンデイシェフの大食堂さんで、「こうたろうカフェ」として光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジによる昼食の提供。基本的に不定期ですが、直近で9月4日(水)に行われたとのこと。
9月ワンデイ
メニュー表 (3)
1725687629465 ふわとろ杏仁豆腐
枝豆。南蛮味噌のせご飯 白身魚のから揚げトロピカルソース
オカワカメと菊花、ゴーヤの佃煮、青トマトきゅうり
メニューは「白身魚のから揚げ トロピカルソース」「夕顔のトロトロ蟹あん」「ゴーヤの佃煮」「オカワカメと菊花の酢の物」「茄子と胡瓜の浅漬け」「バターナッツの満足スープ」「南蛮味噌ご飯」「ふわふわ杏仁豆腐」「コーヒー」だそうで。

レシピというか、食材を細かく教えていただきました。教えていただいても当方には作れませんが(笑)、以下を見て出来る方はご参考までに。

ゴーヤの佃煮 ゴーヤ、裂きイカ、醤油、三温糖、五倍酢、白ごま
バターナッツの満足スープ(カボチャのポタージュ) バターナッツカボチャ、玉ネギ、コンソメ、牛乳、生クリーム
南蛮味噌 ピーマンと麹、三温糖、青唐辛子
夕顔のトロトロ蟹あん 豪華カニ缶の餡をかける
トロピカルソース 夏野菜とパイン、桃
ふわふわ杏仁豆腐 マシュマロと牛乳で作る杏仁豆腐

続いて毎月15日、、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。こちらも光太郎がらみの献立で、やつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられています。
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内容的には「栗ご飯」「サンドイッチ」「チキン南蛮」「かぼちゃの甘煮」「きのこ炒め」「きゅうりの酢の物」「卵焼き」「フルーツ」。

栗やらきのこやら、秋らしい食材ですね。当方、栗ご飯は大好物でして、画像を見てパブロフの犬状態でした(笑)。

やつかの森LLCさん、他にも花巻市内で光太郎に関する「出前講座」をなさっています。

9月6日(金)には「シニア大学講座」とのことで、花巻市生涯学園都市会館(まなび学園)さんで。寸劇を交え、休憩時間には得意の料理もふるまわれたとのこと。
シニア大学1 シニア大学3
シニア大学2 シニア大学5
シニア大学6 シニア大学7
9月11日(水)にも、同じ会場で今度はシニアの方々に招かれての講座をなさったそうです。

わかうさ7 わかくさ2
わかくさ1 わかくさ3
わかくさ5 わかくさ6
わかくさ8 わかくさ9
地元でこういう団体さんがいらしてくださると、ありがたいところです。お一人お二人で、となると無理なのでしょうが、グループでやられることでタイトな日程にもある程度対応できると思われますし。

花巻といえば宮沢賢治。当方、よく存じませんが賢治関連ではこういうグループなりがいろいろあるのでは、と思っております。しかし光太郎がらみではやつかの森LLCさんのみ。ありがたいかぎりです。

今後とも様々な場面でのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

恐らく東京でも珍らしいであらうと思はれるカビヤのびん詰めまで在中、そぞろに戦前の頃を思ひ出しました。カビヤの珍味は小生好物中の好物にて、戦前智恵子の健康であつた頃稀に入手して一緒に酒の肴として賞味した記憶があり、なつかしい限りでした。


昭和24年(1949)7月14日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

「カビヤ」はキャビアのことですね。当時はとてつもない寒村だった花巻郊外旧太田村にいても、方々の支援者からいろいろな食料が送られてきて、なかなかに光太郎の食卓は充実していました。これも人徳ですね(笑)。

光太郎第二の故郷・岩手花巻の花巻南高さん。光太郎と交流のあった宮沢賢治の妹にして、賢治の「永訣の朝」等に謳われたトシの母校であり、トシ自身も短期間教壇に立っていました。

そちらの文芸部さん発行の部誌『門』の第18号をいただきました。
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まず美しい表紙に驚きましたが、部員の生徒さんが和紙を染めた夾纈(きょうけち)染めだそうで。これは正倉院御物にも使われている技法です。美術部さんとコラボして染めにチャレンジされたとのことですが、よき伝統を受け継ぎ、新しいものをクリエイトしていくという姿勢には感心させられました。

昨年送っていただいた第17号でもかなりの分量で光太郎に触れていただきましたが、今号はさらにパワーアップし、2箇所に分けて「特集Ⅰ わたしたちの高村光太郎」と銘打ち、約30ページ(全体の3分の1ほど)費やして下さいました。ありがたし。
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1箇所目は座談「わたしの高村光太郎を語り合う」と題し、当地で光太郎顕彰活動に取り組まれているやつかの森LLCさんのお三方、それから戦後間もない昭和20年代から児童劇団「花巻宮沢賢治子供の会」で活動されていた熊谷光さんへの聞き書きです。

特に「食」に軸足を置いた活動をなさっているやつかの森LLCさん、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」や、市内東和地区の花巻ワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」などで、光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジなどをなさっています。そうした中で改めて見えてきた光太郎の姿などのお話は興味深く拝読させていただきました。

それから実際に生前の光太郎をご存じの熊谷さんのお話は、実に貴重な証言と存じます。「花巻宮沢賢治子供の会」は賢治の童話を劇化、花巻の中心街と、光太郎が蟄居していた旧太田村の山口分教場(のち山口小学校)で公演を行っていて、光太郎はそれを実に楽しみにしていました。熊谷さんの回想から。

私たちが行った時、先生はとても喜ばれて、帰りは山口小学校の道路の下の大きな道路まで出ていらして、私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくださいました。それが、すごく記憶に残っております。

子供たちが見えなくなるまで手を振り続けた光太郎を思い浮かべると、うるっときてしまいました。子供のいなかった当時60代後半の光太郎、「花巻宮沢賢治子供の会」の少年少女たちを本当の孫のように感じていたのかもしれません。
賢治子供の会
上の画像では、熊谷さん、最前列一番左だそうです。今年亡くなった、賢治実弟清六令嬢の宮沢潤子さんもメンバーでした。

そもそもなぜ「花巻宮沢賢治子供の会」ができたのかについても証言が。それによると賢治の教え子だった故・照井謹二郎氏が、戦後になっても戦争ごっこをして遊んでいる子供たちを見て、これではいかん、と思ったのがきっかけの一つだそうです。なるほど、と激しく納得しました。

ところでまだ詳細情報が出ていませんが、10月27日(日)、熊谷さん他「花巻宮沢賢治子供の会」に在籍されていた方、清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でまた花巻にてトークショーを行います。詳しく決まりましたらまたご紹介いたします。

特集のうちのパートⅡは、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」のレポートがメイン。この際は文芸部の生徒さんたちも登壇し、発表や朗読をなさいました。それから家庭クラブの生徒さんと共同で「智恵子のエプロン」の再現。

昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と吉田幾世」で、当方が大正期の『婦人之友』に載った智恵子デザイン・制作のエプロンについてご紹介したところ、それを復刻、披露して下さいました。
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実際に制作に当たった家庭クラブの生徒さんの文章も掲載されています。柿渋の酒袋(おそらく智恵子が実家の長沼酒造から持ってきたか取り寄せたか)が分厚くてミシン縫製に手こずったというお話や、酒袋の規格でほとんどそのまま裁断しなくて使えたというお話など、やってみないとわからないことも。素晴らしいと思いました。

その他、詳しくご紹介する余裕がありませんが、生徒さんたちの詩歌や小説、戯曲などにも感心させられましたし、活動を支える顧問の先生の御尽力なども垣間見えました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

やさしいお手紙は山の中に一人で住む六十六歳三ヶ月の老人の心を静かに慰めてくれました。殊に新しい村の娘さんからなので尚よろこびました。


昭和24年(1949)6月3日 山本武子宛書簡より 光太郎67歳

新しい村」は正しくは「新しき村」で、『白樺』時代からの光太郎の盟友・武者小路実篤が開いた生活共同体。農耕や芸術制作を基本に据え、その意味では花巻郊外旧太田村の光太郎のライフスタイルとリンクする部分も。

現在も埼玉県毛呂山町で存続していますが、現状はかなり厳しいようです。

まず、毎月恒例の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんテナントのミレットキッチンフラワーさんで、各月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分。メニュー考案には花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが協力なさっています。
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今月のメニューは「鰹の南蛮漬け」「牛肉のアヒージョ」「茄子の揚げ浸し」「青海苔入り卵焼き」「小豆ご飯」「ジャガイモ入りカレー炒飯」「ミニトマトゼリー」「瓜の漬物」だそうで。

けっこうこってり系だったようですが、夏バテ予防にはいい感じだったみたいです。卵焼きはいつも塩麹入りなのですが、今月は新しい試みで青海苔入り。それも美味しそうですね。

基本、光太郎が実際に作った料理や使った食材を参考に、現代風にアレンジされたものですが、同様のコンセプトでワンデイシェフの大食堂さんというお店でランチを提供する「こうたろうカフェ」、今月はお休みで次回が9月4日(水)だそうです。先月分はこんな感じ

今朝の段階ではHP上に来月のメニューが出ていませんが、また凝ったメニューになるのでしょう。

お近くの方(遠くの方も(笑))ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小豆をよろこんでいただいて感謝しました。今年もかなりとりましたが今度はもつと多く作るつもりです。ウヅラ豆の大増産もやらうと思ひます。


昭和24年(1949)1月5日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村での畑作も軌道に乗り、作った作物を他に送れるほどになっていたわけで、「光太郎ランチ」でも使われていた小豆をお裾分けしています。

「今年」とありますが、年が改まっていますので正確には「昨年」、まぁ、「今期」という意味なのでしょう。

過日ご紹介した、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた書簡等が花巻市に寄贈された件につき、仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さいました。

「空襲」「肺炎」「仕事」…高村光太郎がつづった手紙64点寄贈 送り先の孫が岩手・花巻市に

 詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が詩人中原綾子(1898~1969年)に宛てたはがきや手紙計64点が7月、光太郎ゆかりの岩手県花巻市に寄贈された。綾子の孫が米カリフォルニア州の自宅で保管していたもので、光太郎の肉筆がまとまった形で残された非常に貴重な資料。市は高村光太郎記念館(花巻市)での展示を検討している。

戦時中の空気感や光太郎の息遣いを伝える
 綾子は詩人与謝野晶子に師事し、光太郎も寄稿した文芸誌「明星」で活躍。光太郎が統合失調症を患った妻智恵子の看病に疲弊した際は、手紙を送り合って励ました。
 はがきや手紙の執筆時期は1929~51年。ペンによる洒脱(しゃだつ)な筆跡が書家の顔ものぞかせる。疎開先だった宮沢賢治の実家から送った45年のはがきは、東京大空襲による自宅焼失や肺炎の回復、仕事への意欲を伝えている。
 49年の手紙には、綾子が主宰した雑誌「スバル」への寄稿「みちのく便り」を記載。岩手県奥州市水沢で眺める星空の美しさを「頭に覆いかぶさるよう」と情感豊かに表現し、書き損じや修正の跡も見られる。
 資料のほとんどは活字化され、高村光太郎全集に収録されているが、現物は公開されていなかった。市は専門家と資料を整理し、展示時期や方法を協議する。
 記念館の梅原奈美館長は「保存状態が良く、インクの筆跡も鮮やか。活字にはない戦時中の空気感や光太郎の息遣いが感じられる」と評価する。
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また、花巻市さんの広報誌『広報はなまき』8月15日(木)号にも寄贈資料の内、一点が紹介されています。
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花巻市の担当者氏からデータを送っていただきまして、概観したところ、『河北新報』さん記事中の「資料のほとんどは活字化され、高村光太郎全集に収録されている」というわけでもなく、『高村光太郎全集』未収録の書簡も7通含まれていました。うち1通は中原が主宰していた雑誌『スバル』に載ったアンケート「与謝野寛・晶子作中の愛誦歌」に対する回答で、アンケートとしては『全集』に記載されていますが、他の6通はまったく活字化されていないものでした。

『全集』未収のものは高村光太郎研究会さんから来春発行予定の会誌『高村光太郎研究』中の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。

『全集』既出のものも、以前にも書きました通り、昭和10年(1935)前後の、心を病んだ智恵子の病状が詳細に書かれたものなど、後の光太郎智恵子研究に大きく影響を及ぼしたものもありますし、中原の歌集や詩集、中原主宰の雑誌『いづかし』『スバル』等に載った詩文の原稿も含まれ、「書」として見ても優品です。

「専門家と資料を整理し、展示時期や方法を協議」とありますが、早くても来年になると存じます。詳細が決まりましたらまたお知らせいたします。

【折々のことば・光太郎】

絖と一緒にいろいろ御恵贈の文房具まことにありがたく頂戴いたしました。在中のボールペンも珍らしく、早速此の通り使用してみました。大変滑らかなものだと思ひました。先日のおてがみで絖にはモナリザを書く事にいたしました。

昭和24年(1949)1月5日 野末亀治宛書簡より 光太郎67歳

「絖」は「ぬめ」と読み、書画を書くための絹布です。「モナリザ」は遠く明治末に書かれた詩「失はれたるモナ・リザ」。さすがにこれはボールペンで書きませんでしたが。

どうもこの書簡が書かれた際が、光太郎生涯初のボールペン使用だったようです。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で行われた市長さんの定例記者会見の中で、下記の件が発表されました。

令和6年7月 定例記者会見 No6 高村光太郎 歌人中原綾子宛ての手紙等が寄贈されました

 高村光太郎が歌人中原綾子宛てに書いた、はがきや手紙など64点について、高村光太郎記念館に寄贈の申し込みがありました。

■寄贈資料と点数[]
 高村光太郎から中原綾子宛て
  はがき 41点
  封筒入り書簡 20点
  電報 1点
  封筒 1点
  その他封筒 1点
  合計 64点

寄贈者と寄贈の経緯
■寄贈者
 中原毬也(まりや)氏 米国カリフォルニア州在住
■寄贈の経緯
 中原毬也氏は歌人中原綾子の孫。毬也氏が保管している祖母(中原綾子)あて高村光太郎の書簡等について散逸しないように保存してほしいとの意向があることについて、毬也氏の親戚の方から市に連絡があったものです。
 毬也氏は、5月18日に高村光太郎記念館を訪問され、記念館と高村山荘をご覧いただいた際に当該資料をお持ちになり寄贈の申し出をいただきました。
■中原綾子について
 中原綾子(明治31(1898)年~昭和44(1969)年)は与謝野晶子(明治11(1878)年~昭和17(1942)年)門下の歌人で文芸誌『明星』の同人。高村光太郎(明治16(1883)年~昭和31(1956)年)も『明星』の主要な寄稿者であり、綾子氏と親交がありました。後に綾子氏が主宰した雑誌『スバル』などに光太郎は寄稿しており、今回寄贈された手紙にもその原稿が見られます。旧姓は曾我綾子であり、結婚により中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

寄贈資料の特徴と今後の予定
 今回寄贈された資料には高村光太郎が疎開していた宮澤清六宅から出した手紙や、太田山口から郵送した原稿・手紙など、花巻市内に居住していた時に書いた手紙があります。既に『高村光太郎全集』において紹介されている資料がほとんどですが、光太郎の筆跡がわかる資料としてまとまったものであり、非常に貴重なものと考えています。今後専門家にも見ていただき、資料を整理した後、高村光太郎記念館で展示をしていきたいと考えています。

中原綾子はプレスリリースにある通り、与謝野晶子門下の歌人です。同門ともいうべき光太郎とは早くから交流があり、自らの歌集等の題字や序文などを書いてもらった他、主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』等に繰り返し寄稿や装幀を仰ぎました。

昭和10年(1935)刊行の『悪魔の貞操』。表紙と扉に光太郎の書いた題字が使われています。
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光太郎は序詩も寄せました。
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   「悪魔の貞操」に題す

 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。


はじめに光太郎が送ったのはこの詩ではありませんで、以下の詩でした。
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   人生遠視

 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる


のちに詩集『智恵子抄』に収められた「人生遠視」です。

さすがに中原もこれにはダメ出し。光太郎もなるほど、おっしゃる通り、ということで書き直しました。「人生遠視」は中原主宰の雑誌『いづかし』に掲載されました。

昭和10年(1935)というと、智恵子の心の病がもはや完全なものとなり、前年に預けていた九十九里浜の智恵子実母のもとから引き取って、南品川ゼームス坂病院に入院させた年です。光太郎もかなりテンパッていたようですね。

画像は光太郎が手元に残した控えの原稿ですが、今回、中原に送られた二篇の原稿も寄贈されています。

光太郎没後の昭和31年(1956)6月、『婦人公論』で光太郎追悼特集が組まれ、中原は光太郎から送られた書簡の一部を公表しました。題して「狂える智恵子とともに」。これを読んだ当時の人々は皆度肝を抜かれました。それまで、『智恵子抄』所収の詩文等では明らかにされていなかった智恵子の病状がこと細かに、さらに複数書簡で長きにわたって記されていたからです。結局、その後もここまで克明に智恵子の病状が書かれたものは見つかっておらず、以来、研究者たちなどは必ずと言っていいほど中原宛の書簡を引用しています。
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研究者以外にも、例えば野田秀樹氏は智恵子を主人公とした舞台「売り言葉」で。

遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類(たぐ)い希(まれ)なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ! これは、智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! しかも、光太郎に同情したその女流詩人から送られた見舞いの林檎(りんご)を智恵子は食べさせられたのであります。

林檎云々は野田氏の創作と思われますが。

で、これらの智恵子の病状を綴った書簡も今回寄贈されました。

というか、『高村光太郎全集』に収められた中原宛書簡49通、すべてが寄贈されていますし、それ以外にも6通。それとは別に雑誌『スバル』宛となっているものもありますし、草稿の類も複数。光太郎、中原の共通の師である与謝野夫妻に触れられたものも多く、まさに質、量共に一級品です。

ただ、一つ残念なのは、『悪魔の貞操』や『スバル』などの題字や装幀原画などが含まれていなかったこと。それがあれば超一級でしたが、印刷などの関係で中原の手許に残らなかったのでしょう。ちなみに光太郎没後の昭和34年(1959)に出た中原の歌集「灰の詩」には、口絵として複数の光太郎揮毫が使われていますが、それらも寄贈資料に含まれていませんでした。
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それでも一級の資料類です。いずれ花巻高村光太郎記念館さんで展示の運びとなるはずですが、早くても来年でしょう。

詳細が決まりましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

おたづねの智恵子の着物に対する嗜好などを申上げますと、智恵子は概して大柄の模様を好み、又それが似合ひました。縞でも太いものを用ゐました。智恵子は自分で着る物を織つてゐたので、縞などは自由に工夫してゐました。例へば袖口のところに青い大きな縞が一本出るやうに織つて着て歩いたりしてゐました。色は偏する事なく、いろんな色調を草木染で染めてゐました。赤は蘇黄(スワウ)を用ゐました。着物の裾は長めに着てゐました。帯はあまり広くないのをしめました。髪は単純に七三に分けて丸みをもたせてうしろでまるめてゐました。


昭和23年(1948)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

『智恵子抄』を舞踊化するための参考にとの問い合わせに対する返答の一節です。智恵子が亡くなってちょうど10年、さらにこうした服装をしていたのはもっと昔。それが昨日のことのように詳細に書かれていて、舌を巻かされます。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、主に「食」を通じて光太郎顕彰をなさっているやつかの森LLCさんによる最近の取り組みを。

まず、同市土沢地区のワンデイシェフの大食堂さんで、7月13日(土)に「こうたろうカフェ」としてご出店。こちらのお店は様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗するというシステムです。
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やつかの森LLCさんでは、基本、日記等に書かれている実際に光太郎が自炊していた料理や使っていた食材などを参考に、現代風の料理に仕立てています。

メニュー的には以下の通り。

「自家製サラダチキン チリソース添え」
ボイル海老とスナップエンドウが添えられています。

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じゃがいもは新じゃがだそうで。

「夏野菜の揚げびたし」
朝採りの茄子とインゲンが使われています。

「小松菜のじゃこ炒め」
小松菜はゆずポン酢であえてじゃこと白ごまをかけて味を調えています。

「きゃらぶき」
蕗ですね。

「紫蘇巻き胡瓜と茗荷酢漬け」

「ズッキーニの冷製ポタージュ」
玉ネギ、ジャガイモの他にお粥が加えられているとのこと。

「黒米ご飯」
アントシアニンたっぷりでもっちりしているそうです。

「フルーツミルク寒天」
最近、彼の地で栽培が広まっているブルーベリーが使われています。

そして締めは「コーヒー」。

夏らしく、さっぱりとしたヘルシーな感じですね。

土曜ということもあり、事前に予約で完売だそうでしたが、初めての方もいらっしゃったとのことで、輪が広がっているんだなという感じです。

昨日は、毎月15日に道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで調理・販売を行っている弁当「光太郎ランチ」の販売日。メニュー考案はやつかの森LLCさんです。
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こちらのお品書きは「古代米入りご飯」「バターライス」「肉じゃが」「缶詰サンマの揚げ焼き」「いんげんのごま和え」「きゅうりの酢の物」「茄子田楽」「塩麹卵焼き」「水羊羹」。

「こうたろうカフェ」のメニューとかぶっていないところがすごいと思いました。なかなか2本立てでというのも大変かと存じますが、今後とも続けて行かれていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生もおかげで健康、毎日畑仕事にいそしんで居ますが、僅かばかり、力を入れると、比較にならぬほど豊かな酬いをかへしてくれる自然の恵みに感謝せずにゐられません。自然界の生命力は実に不思議です。


昭和23年(1948)7月11日 富谷武宛書簡より 光太郎66歳

青年時代から「自然」を讃美してきた光太郎にとって、農業はある意味天職に近いものがあったのかも知れません。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展、今日開幕です。

山口山(やまぐちやま)のなつやすみ

期 日 : 2024年7月13日(土)~8月31日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

木工房さとう(さとうつかさ氏)の制作した高村光太郎や宮沢賢治をモチーフにした木工のオブジェを展示します。

高村光太郎のやじろべえ
高村光太郎の山の暮らしをモチーフとした木工からくり作品
宮沢賢治の作品をモチーフとしたやじろべえ
宮沢賢治の作品をモチーフとしたオブジェ
その他オリジナルのオブジェなど

木工房さとうの作品は、ほっこりした雰囲気があり、見る人の心を和ませてくれます。また、木工からくり作品の細かな仕掛けや動きは、思わず見入ってしまうような魅力があります。この夏休み、木工房さとうの作り出す和やかな世界をお楽しみください。
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奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏の作品展。高村光太郎記念館さんでは昨年開催された「山口山の木工展」に続き、2回目となります。昨年のレビューはこちら

ちなみにさとう氏の作品、同館ロビーにも常設展示されています。
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ここは光太郎が暮らした旧太田村。この近辺で採れた木材等を使われているそうです。木材ならではの温かみと、佐藤氏の卓越した技倆による工夫を凝らしたからくり、しかし機械的でない手作り感。ほっこりします。

今回の展示では、さらにパワーアップなさっているのでは、と思われます。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

あれから急に春もたけなはとなり、今山桜の盛りにて美しく、地表も薄みどりを呈し、ゼムマイ、ワラビが出て来ました。


昭和23年(1948)4月30日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

山口山にもようやく遅い春が巡ってきました。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通して光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが、「こうたろうカフェ」として不定期に出店なさっている同市東和町のワンデイシェフの大食堂さん。日替わりで様々な団体さん(個人も?)がキッチンを使って料理を饗するというシステムです。

うっかり事前の予告をこのブログで失念してしまっていましたが、先月は25日(火)に出店なさったそうで、その画像をお送り下さいました。
6月ワンデイ
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紫蘇巻トンカツ
人参の白和え・ミズの辛子和え
よもぎ餅・抹茶玄米茶
メニューは「特注タレでいただく紫蘇巻きトンカツ」「ふんわり卵のニラ炒め」「ミズの辛子和え」「新玉と紅鮭のマリネ」「人参の白和え」「きゅうりの浅漬け」「つみれのおすまし」「ゆかりご飯」「黒蜜ときな粉のつきたてヨモギ餅」「お茶」だそうで。これで1,000円ですからお得感も満載ですね。

基本、光太郎の日記などから光太郎が作っていたメニューや使っていた食材などを参考に、現代風にアレンジしてというコンセプトです。山菜のミズは光太郎が暮らした旧太田村の山小屋近く、故・高橋愛子さんのお宅附近で採集された由。

固定ファンがいらっしゃるのでしょう、平日にもかかわらず、ランチタイムに48食分が完売だとのこと。
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今月は13日(土)に出店なさるそうです。

その際のメニュー予定が「自家製サラダチキン」「じゃが芋と牛肉のしぐれ煮」「夏野菜の揚げびたし」「小松菜のじゃこ炒め」「きゃらぶき」「お新香」「ズッキーニの冷製ポタージュ」「黒米ご飯」「フルーツミルク寒天」「コーヒー」だそうです。

ぜひご予約下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日は小生の誕生日だつたので、朝から赤飯を炊いたり、小豆を煮たり、いつかの上等の小麦粉でうまいバタ入り蒸しパンをつくつたりしました。其上折よく昨日新聞の日報社からもらつた一級酒があつたので、それをあたためて炉辺でやりました。山口市の人から揮毫の礼にもらつた下関の「うに」が何よりの肴となりました。


昭和23年(1948)3月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

光太郎、誕生日を迎えて満で65歳となりました(上記に「66歳」としていますが、この項、数え年で表記していますのでずれています)。この日の日記を見ると、夕方、村の娘さんが薬を届けに来たくらいで、他に来訪者はなく、寂しいと云えば寂しい誕生日でした。

それでも自分のためにいろいろ御馳走を作る光太郎、マメですね。もっとも現代のようにお総菜やら弁当やらがそこらで売っているという時代ではありませんでしたが。

光太郎第二の故郷・岩手花巻郊外旧太田村で開催中の「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」につき、一昨日、NHK盛岡放送局さんが県内向けのローカルニュースでご紹介下さいました。

疎開先の花巻で描く 高村光太郎の草花のスケッチ展示

 詩人で彫刻家の高村光太郎が、疎開先の花巻で描いた花などのスケッチが、花巻市にある「高村光太郎記念館」で展示されています。
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 高村光太郎は1945年、62歳の時に東京のアトリエが空襲で焼け、花巻に疎開して7年間を過ごしました。
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 今回の企画展には光太郎が疎開中に描いた身近な草花のスケッチやスケッチしている最中の写真などが展示されています。
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 このうち湯治に訪れた西鉛温泉で描いたスケッチは、山菜のミズを描いています。昭和20年6月20日という日付ともに、「丈1尺5寸」などと観察したミズの大きさなどもつづっています。
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 今回の展示では「七月一日」と題された散文の直筆の原稿が初めて公開されました。この文章では山菜のミズを朝食のみそ汁に入れて食べたとし、珍味だと記しています。
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 秋田県横手市から訪れたという男性は「緻密な中にもほのぼのとしたスケッチを初めて見ました。自然を愛する心が表れているように思えました」と話していました。
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 東京から訪れたという女性は「光太郎が山野草をスケッチしているのに驚きました。精密に描かれていて感動しました」と話していました。
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 この企画展「山のスケッチ」は「高村光太郎記念館」で来月7日まで、開かれています。
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会期末に近くなってきましたが、かえってこのタイミングで紹介していただくと、「ああ、そんなのやってるんだ。あれ、もうすぐ終わりか、では行ってみよう」というニーズを掘り起こすことになりますので、ありがたいところです。

展覧会詳細情報はこちら

まだ行かれていない方(既に行かれた方もリピーターとして)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「花と実」は今年はものになるかと思ひますが「至上律」誌上の印刷では随分ひどい成績でしたが、果して印刷が出来るものでせうか。せめて鉛筆単色でも、その感じが印刷で出ればいいのですが。「花と実」はあくまでたのしい詩集に、「猛獣篇」はきびしい詩集にしたいと思つてゐます。


昭和23年(1948)2月19日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎66歳

「令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」に展示されている山野草のスケッチを添えた詩集『花と実』、そして戦前から書きためていた連作詩「猛獣篇」をまとめ、鎌田の経営していた白玉書房から出版する計画がありましたが、いずれも実現しませんでした。

光太郎第二の故郷・岩手花巻にある道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売される弁当「光太郎ランチ」。メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは、鮭の塩焼き、豚肉とミズの煮物、スナップエンドウとニラのバター炒め、じゅんさいとイカの酢の物、伽羅蕗、グリーンピースご飯、白六穀ご飯、抹茶甘酒のゼリーだそうです。

「ミズ」はこの地でよく食べられている山菜、「伽羅蕗」はフキの佃煮ですね。意外と山菜好きの当方としては食欲をそそられます。

昨日もご紹介した6月1日(土)、NHK仙台放送局さん制作の東北6県向け情報番組「ウイークエンド東北」。建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関して報じて下さいましたが、それにからめ、東北各地で光太郎や智恵子の顕彰に当たられている人々がご紹介され、やつかの森LLCさんの中心メンバーのお一人、井形幸江さんも。
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GW中の5月4日(土)、5日(日)に花巻で開催された「土澤アートクラフトフェア2024春」で取材が行われ、画像は上記の光太郎ランチと同様の、光太郎が実際に作ったメニューや使った食材などを参考にした「こうたろう弁当」制作の模様です。
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井形さんの「食」にかける思い。
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なるほど。

しかし、そこにとどまらず……。旧太田村の高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)に移動してロケ。
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同感です。

最近見つけた、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎の長い談話筆記の一節。

 美はどこにでもある。といふことは結局美は発見だといふことです。美をみとめようとしない人には、美はわかりませんよ。そのかはり、美は発見しようとすればどこにでもあるといふのです。美は先刻もいつた通り、人間にとつて、もつとも根源的な力だから、美をみとめる力は誰しももつてゐるはずだけれど、それが心のなかで眼ざめずに眠つてゐるのだといへます。さういふ美にはぐれた人たちは実に気の毒です。それは美を発見する土台が与へられなかつたからだと思ひます。さういふ人は救はねばなりません。
 だから心をそこに留めれば美は至るところにあるわけで、私は本郷から上野までの間の道路を映画化して毎日何気なく通つてゐる道すぢに、無限の美があることを示さうとしたことがあるのです。それは道の上に落ちた木の葉とか、生垣、足跡、プラタナスのもとに立つたお巡りさん……といつたやうな日常平凡なものですが、それらの中に事実無限の美があるのです。

旧太田村の山小屋に移って約1年後の昭和21年(1946)9月1日『婦人朝日』第一巻第九号がソースです。題して「山里に美を語る」。

「映画化」云々は、一時16㍉カメラでの動画撮影に凝っていたことに由来すると思われます。昭和9年(1934)には、九十九里浜で千鳥と遊ぶ智恵子の姿もフィルムに収めました。しかし、カメラもフィルムも、昭和20年(1945)の空襲で焼けてしまいました。

閑話休題、「食」を足がかりとした光太郎顕彰、末永く継続して行かれることを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

東京では冬でも野菜が出来るのですが、ここの山の中では畠の上に雪が三尺近くかぶさつてゐて、雪のとける四月まではお休みです。村の人たちは雪の深い山へ炭焼に皆行つてゐます。その炭が東京の方へ行くのです。


昭和23年(1948)1月10日 高村美津枝宛書簡より 光太郎66歳

東京に住む令姪に宛てた葉書の一節です。何しろビニルハウスなども無かった時代ですから……。

ともに再放送ですが、テレビ放映情報です。

まず、岩手系。

新日本風土記「銀河の鉄路 釜石線の旅」

NHK BS 2024年6月16日(日) 午前6:00~7:00

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のモデルといわれる岩手県の釜石線。賢治のふるさと花巻、河童と馬の里遠野、鉄の町・釜石を結ぶ。この鉄路に思いを込めて暮らす人々を訪ねる。

釜石線の前身は明治13年に鉄鉱石を運ぶために作られた釜石鉱山鉄道。日本で3番目の路線だった。近年はSL銀河が人気を博したが、昨年運行終了。そんな鉄道をコスプレで応援する家族、早朝の列車で大谷翔平の母校に通いダンスに熱中する少女、子どもやぶさめで地域の伝統を守る「撮り鉄」宮司、東日本大震災からよみがえった釜石の居酒屋と常連客の絆、宮沢賢治の銀河を手作りアクセサリーで表現する女性職人、思いをたどる旅。

語り 松たか子 井上二郎 渡邊佐和子

〇オープニング
 花巻と釜石を結ぶJR釜石線 愛称「銀河ドリームライン」
 子どもたちが歌う、宮沢賢治 作詞作曲「星めぐりの歌」
〇これからもずっと見送り隊(遠野市)
 観光列車「ひなび」
 土日・祝日に「柏木平駅」近くで観光列車を見送る活動をする見送り隊
 道の駅と宮守川橋梁、通称「めがね橋」
 令和5年まで走っていた「SL銀河」
 人気アニメキャラクターの観光列車
〇鉄だけじゃないぞ(釜石市)
 2024年現在、全日本鉄鋼弓道大会三連覇中の製鐵会社の弓道部
 鉄製の鳥居を構える「山神社(さんじんじゃ)」
 製鐵会社の歴史と鉱山跡
 仙人峠と釜石線開通までの道のり
〇カッパと馬の遠野物語(遠野市)
 カッパ渕とカッパおじさん
 カッパが多く棲んでいたと伝わる猿ヶ石川
 馬を大切に扱う家の間取り~曲り家
〇宮司は撮り鉄(遠野市)
 800年の歴史をもつ「遠野郷八幡宮」
 ホップの蔓(つる)から作られた和紙の御朱印
〇青春のレール(花巻市)
 大リーグで活躍する大谷翔平選手や菊池雄星選手が卒業した花巻東高等学校
 ダンス部
〇守とお恵(釜石市) 
 かつての吞ん兵衛横丁の店主と常連で再出発した飲み屋
〇花巻発 温泉郷行き(花巻市)
 花巻電鉄レール跡のサイクリングロード
 宮沢賢治もたびたび訪れた、1200年の歴史を持つ温泉
〇残雪の幸せ争奪戦(花巻市)
 早池峰山(はやちねさん)
 早池峯神社~「蘇民祭(そみんさい)」
〇夢を射止める馬場(遠野市)
 遠野郷八幡宮で春から秋にかけて月に一度開催される朝市
 5月5日に行われる子ども流鏑馬(やぶさめ)
〇賢治の銀河に憧れて(遠野市)
 宮沢賢治の世界をイメージして作品作りをするアクセサリー作家
 卯子酉(うねどり)神社
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初回放映が6月4日(火)でした。拝見しようと思っていたのですが、うっかり録画予約を失念し、まだ見ていません。

宮沢賢治がメインで、説明欄に光太郎の名がないのですが、「宮沢賢治もたびたび訪れた、1200年の歴史を持つ温泉」とあり、光太郎も訪れたどこかの温泉が紹介されたと思われます。その前に「花巻電鉄レール跡のサイクリングロード」とありますし。

もう1件。こちらは光太郎がメイン。

10min.ボックス現代文 道程(高村光太郎)

NHK Eテレ 2024年6月19日(水) 午前6:00~6:10

中学・高校で学ぶ文学作品の魅力を10分間でコンパクトに解説します。朗読は、元NHKアナウンサーの加賀美幸子さんです。20年近く前に制作されましたが、最新の映像技術により、高画質のハイビジョン映像でお楽しみいただけます。今回は、高村光太郎の詩人としての代表作「道程」。詩の完成までの経緯を紹介するとともに、様々な人に、この詩を自由に解釈してもらい、その人なりの朗読を聞かせてもらいます。

【朗読】加賀美幸子

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「20年く前に制作されました」ということで、何度も再放送されてきましたし(最近だと今年2月)、実はネット上でも常時視聴可能なのですが、ハイビジョンリマスター版だそうで、DVDで保存するにはいいと思います。

タイトルのの通り10分間番組ですが、なかなか濃い内容です。

scene 01 詩人・彫刻家 高村光太郎
『道程』は、1914年、大正時代に書かれた詩です。それまでの詩とは違い、ふだん話している言葉、口語体で書かれていました。若者が持つ将来への不安と、前向きな決意が感じられることから、多くの人々に親しまれてきました。この詩の作者は高村光太郎。詩人として、また彫刻家として、明治末から昭和にかけて活躍しました。

scene 02 西洋の芸術から受けた衝撃
光太郎は、8人兄弟の長男として生まれました。父は、明治時代を代表する木彫り彫刻家高村光雲です。偉大な父光雲のあとを継ぎ彫刻家になることは、光太郎にとってごく当たり前のことでした。14歳のとき、東京美術学校、いまの東京芸術大学の予科に入学します。美術学校を卒業した光太郎は、1906年、海外へ留学。アメリカやヨーロッパで学びました。そこで目の当たりにしたのは、西洋の最先端の芸術でした。欧米と日本、その文化の違いに光太郎は衝撃を受けます。

scene 03 新しい芸術を生み出す苦しみ
3年後、帰国した光太郎は、日本の古い美術界の慣習にことごとく反発します。展覧会に作品を出品せず、美術界を批判する評論、エッセイや、詩などを次々に発表し続けました。父の期待に応えられず、新しい芸術を生み出すこともできないまま、当時の光太郎はもがいていました。

scene 04 智恵子との出会い
そんなとき転機が訪れます。のちに妻となる長沼智恵子との出会いです。光太郎はそれまでの生活を改め、生まれ変わることを決意します。出会ってから3年後、二人は結婚。その年発表されたのが『道程』です。1914年、31歳のときの作品でした。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため」。

scene 05 広く共感を呼ぶ詩
自分の人生を自分の力で切り拓いていこうという強い決意がこめられた光太郎の『道程』。この詩は、いまも卒業や入学、就職など、人生の転機を迎えるときに、広く読み継がれています。入学したばかりの不安と、大学生活でどんなことが起きるんだろうという期待を持って読んだという大学一年生。将来への不安のなか、自分を奮い立たせるような気持ちで読んだという就職活動中の大学四年生。親としての責任や、家族のことを考えたという31歳の夫婦。さまざまな受けとめ方があります。

scene 06 自立する決意
昭和33年に発行された高村光太郎全集第三巻。ここに、初めて雑誌に掲載されたときの『道程』の原型が収められています。オリジナルの『道程』は、102行からなる、いまとはまったく違う詩だったのです。光太郎は、この詩をばっさりと削っていきます。残したのは、自立を宣言する最後の部分のみでした。わずか9行のこの詩に光太郎がこめた思い。それは、偉大な父との精神的な決別であり、新しい人生を自分の力で切り拓く決意です。

scene 07 未来への道程003

それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は二日で例年の通り書初をやりました。硯凍らず。「顕真実」と「金剛心」と四枚書きました。

昭和23年(1948)1月2日 
宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活も、足かけ4年目、数え年で66歳となりました。

正月二日は書き初めをする習慣があったそうで、戦前からだったのかもしれません。「顕真実」「金剛心」ともに仏典由来の語です。この頃、これらの書き初めは世話になっている人々に進呈するのが常で、この年の書き初めは複数現存しています。

6月9日(日)、花巻市のなはんプラザで開催されましたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」。地方紙で報道されていますのでご紹介します。

まず、『岩手日日』さん。

智恵子エプロン披露も 高校生がデザイン復刻 高村光太郎顕彰イベント

000 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は9日、ゆかりの先人高村光太郎(1883~1956年)の顕彰イベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開いた。参加者は、光太郎に関する児童生徒の学習活動や光太郎が暮らした環境に理解を深めるとともに、生前の食卓を再現した昼食を楽しみ、光太郎の暮らしぶりに触れた。
 光太郎に関する認知度・親密度を高め、顕彰活動の維持向上が目的。2022年度の対談、23年度のトークリレーに続き企画した。
 市立太田小学校の藤田聖子校長は「正直親切」を掲げた学校活動や総合学習の時間の柱となっている光太郎先生学習の実践内容などについて紹介。県立花巻南高校文芸部の生徒は光太郎と宮沢家や花巻とのつながりを調べた成果、同校家庭クラブの生徒は「智恵子さんのエプロン復刻プロジェクト」、県環境アドバイザーの望月達也さんは光太郎が7年間暮らした巨木林がある山口山の環境を映像で紹介した。
 同プロジェクトでは、大正時代の雑誌「婦人之友」に掲載された光太郎の妻智恵子がデザインしたエプロンを、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の協力を得て製作。酒を搾る時に使った袋を生地に使い、古代更紗で縁を取り、中央に大きなポケットが付いている。同校2年の高橋萌菜さんは「酒袋には防水や防腐などの効果があり、智恵子の実家が福島の造り酒屋だったことから酒袋を利用したと思う。使い方や組み合わせからリメークして生活を楽しんでいたことがうかがえる」と語った。
 昼食には「ソバ粉のむしパン」など光太郎の日記や書簡に残っている記録からイメージして再現した弁当を味わった。
 イベントは同市大通りのなはんプラザで開かれ、約100人が参加。平賀会長は「光太郎について学び、次世代に語り継いでいくことが大切。地元太田からもっと情報を発信して光太郎ファンになってもらい、高村山荘や高村光太郎記念館を訪れる人が増え、地域の活性化につなげたい」と話していた。


続いて、『岩手日報』さん。

いわて旧村巡り 40/642 太田村 現花巻市太田 光太郎顕彰 脈々と 清掃やエプロン復刻 地区振興会 活動を共有

001 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は9日、同市大通りのなはんプラザで「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開いた。参加者は、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)に関する地元の小学校、高校の取り組みなどを共有し、地域を愛した偉人の顕彰を誓った。
 市内外の約100人が参加。太田小の藤田聖子校長(59)は、児童による高村山荘周辺の清掃や詩の音読活動など紹介した。市内の多くの小学校では宮沢賢治を「賢治先生」と呼ぶ一方、「太田小では先生といえば光太郎。『光太郎先生』『賢治さん』と呼んでいる」と説明した。
 花巻南高の家庭クラブは、妻智恵子が使ったエプロンの復刻制作について発表。大正時代に雑誌「婦人之友」に掲載されたもので、同校文芸部の依頼で取り組みを始めた。研究者のブログなどを参考に作り、酒袋や古代更紗(さらさ)を使った完成品を披露した。
 1年の小原優羽奈さんは「制作の合間に光太郎や智恵子について調べた。活動を通じ視野が広がった」と学びを深めた様子だった。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、賢治の実家を頼って花巻に疎開。太田村(現花巻市太田)に移り、約7年間過ごした。山荘生活の中、詩や書の創作に励み、旧山口小学校児童ら住民と交流を深めた。
 同日は、当時の日記などに残る食事記録を基にした弁当も提供され、光太郎が口にした「ソバ粉のむしパン」から着想したそば粉のパンケーキなど味わった。
 新型コロナウイルス禍を機に地元の高村祭の中止が続く中、振興会は2022年度から催しを継続する。平賀会長(73)は「光太郎を知る輪が広がる機会となった」と充実感をにじませ高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表(59)=千葉県=は「若い人たちが(伝承の)バトンを受け継いでいる。光太郎が愛した旧太田村に残る自然は宝だ」と評した。


やはり智恵子のエプロンに関してはインパクトが強かったようで、2紙ともそちらを前面に押し出しています。下画像は家庭クラブさんのスライドショーから。
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また、2紙とも紙幅の都合もあったと思われ、詳細が取り上げられませんでしたが、文芸部さんの発表は、光太郎と花巻との関わり、智恵子についてを知る上での、ある意味基調講演のような役割を果たして下さいましたし、文芸部さん自体プラス地域の方々の活動も紹介され、会場の皆さんの興味を惹いたようです。
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太田小さんは、まさに学校ぐるみで取り組んで下さっていることがわかり、ただただ感謝です。
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『岩手日報』さんの当方コメント最後の部分「光太郎が愛した旧太田村に残る自然は宝だ」は岩手県環境アドバイザー・望月達也氏のご発表を受けてのものです。
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さらにランチが加わり、そんなこんなで、実に有意義なイベントでした。

各団体さんの取り組み、今後の継続とさらなる発展を願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

来年は相当に書くでせう。彫刻にも手をつけるでせう。


昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

旧太田村での生活、足かけ3年目の昭和22年(1947)が暮れて行きました。

新年へ向けての、詩や文章、書などを「書くでせう」は実現したものの、「彫刻にも手をつけるでせう」は、戦争への加担に対する自責の念の深化に伴い、逆に自らへの罰として封印する方向に転じてしまいます。

昨日は、6月9日(日)に花巻市で開催されたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の模様をご紹介いたしました。

今日は遡って前日の6月8日(土)、花巻に到着してからのレポートを。

いつものように東北新幹線新花巻駅に降り立ち、予約して置いたレンタカーを受けとって、旧太田村の高村山荘/高村光太郎記念館さんを目指しました。今年2月以来です。

まずは手前の高村光太郎記念館さん。
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こちらではテーマ展「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中。
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光太郎が戦後の7年間を過ごしたこのあたり一帯で描かれた山野草などのスケッチ(複製)を中心にした展示です。
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スケッチと描かれた植物の写真とを並べて展示。このあたり一帯の環境破壊が進んでいないためにできることですね。もしかすると、中には描かれている植物がもはや見あたらない、というケースもあるのかも知れませんが。

昭和26年(1951)秋に撮られた写真も。
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それから光太郎の肉筆原稿。
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昭和25年(1950)刊行の詩文集『智恵子抄その後』が初出と推定される「七月一日」と題するエッセイ。つくづく味のある文字です。

昭和22年(1947)の雑誌『至上律』に口絵としてカラー印刷で掲載された「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」(複製)。当時の太田村山口地区は茅葺きの農家ばかりだったのですね。少し離れた所には開拓地が設けられ、引き揚げ者などが続々入植、そちらはまた違った感じだったのでしょうが。
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今日のブログ、一番下の【折々のことば・光太郎】を併せてご覧下さい。

この展示、これはこれで見応えはあるのですが、問題も。まず、昨年、ほぼ同じ内容のテーマ展示を行っているということ。どうしても二番煎じ感がぬぐえません。「またか」という感じなのでしょうか、地元メディア等にもあまり紹介されていません。積極的に宣伝もしていないのかもしれません。

それから、壁面を使ったパネルやスケッチ等の展示のみであるということ。平面的というか、平板というか、美術館等での絵画の展示はそうなりがちですが、展示ケース等を活用すればもっと立体的に変化をつけた展示が出来るはずなのですが……。聞くところによると、使用出来る展示ケースが無いとのこと。ちょっと有りえない事態なんじゃないかな、と思い、市の方には何とかしてくれと提言はしておきました。

まだ詳細は公表されていないので内容は明かせませんが、先月、新たな資料がごっそりと寄贈されました。質・量ともにとんでもない品々です。いずれそれらの展示も為されるはずですが、その際には二次元的な展示に終わることの無いようにしていただきたいものです。

こちらを拝見後、隣接する、といっても数百メートル離れていますが、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)へ。
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いつものことですが「また来ました」と遺影に合掌。

そろそろ閉館時間で、そうなると熊の出没も心配ですので、周辺散策はせずに引き上げました。
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小屋の南側、かつて光太郎が三畝の畑を営んでいた一角には、ハナショウブでしょうか。「では、また」と念じつつ。

レンタカーを東に向けました。いつもは北に向けて定宿の花巻南温泉峡の大沢温泉さんなのですが、今回は宿泊予約が取れず、やむなく花巻空港近くのルートインさんに。
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たまにはこういうのもありかな、という感じでした。

夕食は、翌日の「五感で楽しむ光太郎ライフ」打ち合わせを兼ね、共催に入られているやつかの森LLCの皆さんと、市内の和食店で。

その席上、というか会食開始前、「こんなものが出てきました」と、見せられたのがこちら。
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光太郎に山小屋の土地を提供した旧太田村の顔役の一人、駿河重次郎宛の葉書2通です。共に差し出し元は「乙女の像」制作のため借りた中野区の貸しアトリエ。保存運動が起きている場所です。

1通目は昭和28年(1953)10月11日。

青森へ行つたかへりに山へまゐるつもりでしたが、青森でいろいろな会に出るので疲れるでせうから、今度は帰途山へ寄らずに直ぐ東京にかへり、一旦休んでから又あらためて十一月に山へまゐることにいたしますので、その時お目にかかるのをたのしみに思ひます、

青森」云々は10月21日に行われた、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式参加を指します。「」は太田村山口地区。除幕式後、25日に帰京した光太郎は、11月25日から12月5日、太田村に帰りましたが、半分はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のロケのためでした。映画には駿河夫妻も出演しています。
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太田村から帰京したあとで投函された2通目ではその映画についても言及。

お餅と白いんげんとたくさんいただきありがたく存じました。
これでお正月のお雑煮も出来ました。東京は此頃たいへんあたたかです。山口ではもう雪になつた事でせう。
此間の映画はまだ見ませんがよくとれて居るとききました。

同じ昭和28年(1953)12月25日付けです。

この頃、光太郎は宿痾の肺結核が悪化。そこで厳冬期には中野の貸しアトリエで、それ以外は太田村の山小屋で、と二重生活を目論んでいたようなのですが、もはや健康状態が山での暮らしに耐えられる状態ではなく、結局、太田村に帰ったのはこの時が最後となりました。

見せられた際には「新発見かも」と思ったのですが、帰りましてから調べたところ、2通とも既に『高村光太郎全集』に収録済みでした。貴重なものであることには変わりありませんが。

それから、ソースが不明なのですが、何かの雑誌の切り抜き。表は管理を任されていた光太郎の山小屋内で撮られた駿河の写真。
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光太郎もそうでしたが、古武士のような風格ですね。

裏は山小屋近くに昭和33年(1958)に除幕された光太郎詩「雪白く積めり」碑。山小屋近くの山口小学校の児童が碑を取り囲んでいます。おそらく竣工間もない頃と思われます。ことによると現在地に設置する前なんじゃないかとも思えます。
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すべて駿河の令孫のご所蔵。貴重なものを拝見できました。

この後、ホテルに帰り、翌朝は「五感で楽しむ光太郎ライフ」の前に、以外とホテルに近かったので、花巻農業高校さんへ。

宮沢賢治の羅須地人協会の建物が移築されています。
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この像、以前に見た時には作者名を見落としていたのですが、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たり、智恵子の故郷・福島二本松に2体の智恵子像を作られた故・橋本堅太郎氏の作です。不思議な縁を感じました。
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そして在来線東北本線花巻駅前のなはんプラザさんへ。この後、昨日のブログに続きます。

明日はさらに遡って、花巻到着前に立ち寄った仙台をレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ忝く拝見、「至上律」のは随分ひどい印刷でやれやれと思ひました。あの屋根の中に村長さんの家もあります。うしろの山の三ツ目の山には熊がゐます。

昭和22年(1947)12月31日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳

上記の高村光太郎記念館テーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」で展示されているスケッチ「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」に関してです。この当時のカラー印刷のクオリティはまだまだでした。それもあって、光太郎は生前には智恵子の紙絵の画集としての出版は承諾しませんでした。

1泊2日の東北行を終え、昨夜、千葉の自宅兼事務所に帰りました。レポートいたします。時系列に逆行し、昨日行われ、メインの目的だった岩手花巻でのイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」参加の件から。

会場は在来線東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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主催は花巻市の太田地区振興会さん。太田地区というのは光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村です。

同じ太田地区振興会さん主催の光太郎関係イベントのうち、昨年2月に開催された、宮沢賢治実弟清六の令孫にして株式会社林風舎代表取締役・宮沢和樹氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」もこちらの会場でした。
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満員御礼でした。ありがたし。見知った顔もたくさん。

今回は3組の方々のご発表がメイン。先に教育関係で、地元の学校さんによる光太郎顕彰の取り組み。その後で環境保護の観点から、特に光太郎が7年間暮らした旧太田村の自然について。当方はコメンテーター的な役割でした。
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まずは市立太田小学校校長の藤田聖子先生による「光太郎先生と太田小のまなび」。
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光太郎が7年間暮らした山小屋の近くにあり、児童や先生方と深く交流した山口小学校は、もともと光太郎移住時には太田小学校山口分教場。その後、周辺に開拓地が広がって児童数が増加したことから、昭和23年(1948)に山口小学校として独立しました。その際に光太郎は「正直親切」という校訓や詩「お祝いの言葉」、直筆の「山口小学校」という看板などを贈りました。また、同校の学芸会や運動会、卒業式などに招かれたり、PTAの会合等で講話を行ったりもしましたし、楽器や講堂の幔幕、幻灯機などの寄附も行いました。

光太郎歿後には山小屋敷地内で開催されるようになった「高村祭」で、児童たちが光太郎から贈られた楽器を使って演奏を披露したりもしていました。しかし同校は昭和45年(1970)に廃校となり、再び太田小学校さんに統合。以来、太田小学校さんでは山口小学校の精神を受け継いで、高村祭への参加なども続けてこられました。下は平成30年(2018)の第61回高村祭です。
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ところが高村祭はコロナ禍前の令和元年(2019)に行われた第62回以後、途絶しています。再開のめどは立っていません。いろいろ大人の事情もあるようで……。

しかし、太田小さんでは各学年とも教育活動の一環として、光太郎顕彰への取り組みは継続して行って下さっていました。1、2年生は生活科で、3~6年生は総合的な学習の時間での活動が中心だそうですが、それ以外にも様々な学校行事等で。山荘周辺の清掃等も行って下さっているそうで、頭が下がりました。
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上はかつて光太郎が山口小学校の学芸会に、サンタクロースのコスプレで乱入したエピソードの再現。サンタ役の児童さんは、下記の写真に写っている当時の児童のお孫さんだそうで、それを聞いて、うるっと来てしまいました(笑)。
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他にも「朗読朝会」という催しがあるそうで、児童の皆さんが光太郎詩を群読。その映像も流されました。群読はかつての高村祭で楽器演奏と共に行われていまして、その灯は途切れていないんだと、こちらでもうるっと来てしまいました。

続いて、花巻南高校さん。賢治の最愛の妹・トシの母校にして、トシ自身も教壇に立った花巻高等女学校の後身です。そちらの文芸部の生徒さんと、家庭クラブの生徒さんによるご発表。

文芸部さんは、これまでの活動のご報告や光太郎詩の朗読。
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家庭クラブさんは、何と、「智恵子のエプロン」を再現して下さいました。

そもそもは昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と吉田幾世」が始まりでした。吉田は盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した人物で、「友の会」は雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部。同校は同誌主宰の羽仁吉一・もと子夫妻が創設した自由学園の精神を受け継ぐ学校でした。

当方、同展の関連行事としての市民講座を仰せつかり、そこで、『婦人之友』と光太郎について改めて調査。その結果、同誌の第18巻第7号(大正13年=1924 7月)の記事を見つけました。たまたま駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れた同誌記者が、智恵子がまとっていたエプロンを「面白い」と、写真入りで紹介した記事です。

型紙まで載っていましたので、講座の際に紹介しつつ、「誰か作ってくれませんかね?」とつぶやいたところ(自分では絶対に作れませんので(笑))、講座を聴きにいらしていた文芸部さんから家庭クラブさんに話が伝わり、実際に作って下さったというわけです。素晴らしい。
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会場の皆さんも、「おお」という感じでした。

のちほど改めて撮らせていただきました。
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素材は酒袋(さかぶくろ)。日本酒を造る際に使われるもので、茶色いのは柿渋が塗られているためです。最近は帆布のように、これを使ったトートバッグなどもひそかに人気のようです。智恵子は実家が造り酒屋でしたから、酒袋をいち早く身の回りの素材に取り入れたというわけでしょう。また、『婦人之友』の記述通りに上部の縁取りには古代更紗。かなり忠実に再現して下さり、舌を巻きました。
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発表の中では、右上画像で智恵子が締めている帯も更紗っぽい、というお話でした。「へー」という感じでした。
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ぜひともこのエプロン、世に広めていただきたいものだと思います。

休憩を挟み、最後のご発表は岩手県環境アドバイザー・望月達也氏。題して「奇跡の里山・山口山」。
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「山口」は光太郎が暮らした山小屋のあるあたりの字(あざ)名で、光太郎詩などにも「山口山」の語は頻出します。当方、漠然と「山口地区の山」程度の意味だと思い込んでいたのですが、さにあらず。ちゃんと「山口山」という山があるそうで、これは存じませんでした。
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上記航空写真の左上部分一帯でしょうか。何の変哲もない里山だと思い込んでいましたが、望月氏曰く「日本中探してもこんな原生的な森は少ないと思う」。
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特に植物の種類がとんでもないそうで。
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単に種類だけでなく、巨木も数多く。
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さらには動物。
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クマタカの生息地だというのも存じませんでした。今度行く時には空にも注意してみます。それから、ここでは紹介されていませんが、リスやキツネ、タヌキもいます。ちなみに当方、上記航空写真の中央あたりの場所で、レンタカーを運転中、道端からシカが飛び出してきたことがあり、驚きました。高村祭からの帰りで、その年は光太郎詩碑前で花巻農高鹿踊り部さんの演舞があり、それに誘われてきたのかな? などと思ったことを覚えております。

休憩時間には望月氏撮影のビデオも上演されました。
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こうした自然が破壊され、旧太田村山口地区を訪れる人々が、「光太郎が書いた詩のとおりじゃないぞ」ということにならないようにと願わざるを得ませんでした。

3組の発表の後は、ランチタイム。
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ガレットとデリのお店TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当。こちらは令和3年(2021)に、紫波町の店舗で「GOOD LIFE TABLE 高村光太郎をたべよう」というイベントを開催して下さったお店です。
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そば粉のパンケーキは光太郎もよく作って食べていた一品です。

今回、共催に入られていたやつかの森LLCさんによるメニュー等解説。
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美味しく頂きました。

最後の最後は、参加者の方による感想発表、当方のコメント。とにかくいつも言っていることですが、光太郎の生きざまや業績を正しく受けとめ、こういう人がいたんだ、と、次の世代へと橋渡しをしていって欲しいというお願いを致しました。そうした意味では、今回、学校さん2校の取り組みで、若い皆さんにもバトンが繋げられていることを知り、有り難かったのですが。

さらに、ついでというと何ですが、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存についてもお話をさせていただき、署名もお願いいたしました。多くの方がご協力くださり、有り難く存じました。

終了後、会場にいらしていた、生前の光太郎をご存じの方ともお話ができました。宮沢賢治記念館の初代館長も務められた故・照井謹二郎氏が昭和22年(1947)に立ち上げ、第一回公演は光太郎の山小屋前の野外で行い、以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続た児童劇団「賢治子供の会」の団員だった女性です。たぶん左下の画像にも写っていると思われます。「優しいおじいさんだった」などと貴重なお話を伺えました。
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会場片付け終了後、すぐ近くの林風舎さんへ。ちょうど宮沢和樹氏もいらっしゃいましたので、久闊を叙し、帰途に就きました。

というわけで、実に有意義なイベントでした。お骨折り下さった皆様方の、さらなるご活躍を祈念いたします。

明日以降、時系列を遡ってレポートを続けます。

【折々のことば・光太郎】

点字抜粋詩集を作り終られた由、随分大変なお仕事であつた事と思ひます。小生もいろいろの仕事があるため、おたよりするのも遅れました。お約束の「花のひらくやうに」といふ詩をうつして同封しました。


昭和22年(1947)12月29日 照井登久子宛書簡より 光太郎65歳

照井登久子は、「賢治子供の会」主宰の謹二郎の妻。夫妻で「賢治子供の会」を運営していました。また、点字の普及活動等にも取り組んでおり、光太郎詩を点訳してほうぼうに寄贈したり、光太郎自身に贈ったりもしていました。それらの表紙を光太郎が揮毫することもありました。

この頃まで光太郎は点字についての知識がほとんど無かったようで、人一倍指先の感覚が鋭敏だった光太郎(ガラスの鏡板を撫でて凹凸を感知したといいます)、非常に興味をひかれたようです。

昨日から一泊二日で光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。
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今日は花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「五感で楽しむ光太郎ライフ」にコメンテーター的な役割で出演させていただきます。

市内の学校さんの光太郎顕彰的な取り組み、自然保護団体さんの活動などが報告されます。その後、光太郎が食べたメニューに基づくランチ。

詳細は帰りましてからレポート致します。

講座的なイベントを2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻から。

移住者交流会・花巻めぐりバスツアー 花巻エリア編

期  日 : 2024年6月8日(土)
集合場所 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時  間 : 9時45分   受付開始 
       10時00分 まなび学園出発
       15時00分 アンケート記入・解散
料  金 : 昼食代:1,000円程度
対  象 : 花巻市へ移住希望の方 花巻市外からの移住者(時期は問いません)
       移住者と交流したい市民
見学場所 : まなび学園、こどもセンター、母ちゃんハウスだぁすこ
       高村光太郎記念館、花巻図書館、花巻市文化会館
       また、バス車内から花巻エリアのマストスポットを眺めます。
昼  食 : マルカンビル大食堂(各自注文・支払いをお願いします。)
       移住の先輩トーク&交流タイム
〆  切 : 6月5日(水)

 花巻市外から移住した方、移住者と交流したい市民、市へ移住希望の方向けに交流会・バスツアーを開催します。「ここはおさえておきたい!花巻マストスポット」を中型バス・フラワーロール号で巡ります。
 6月は花巻エリア編と東和エリア編を実施します。また、年度内に石鳥谷エリア編と大迫エリア編も実施予定です。花巻市の魅力を知り、交流を楽しみましょう。
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なるほどね、という感じですね。高村光太郎記念館さんも廻って下さるということで、ありがたいところです。

他の自治体等のこの手の事業の関係者さん、ご参考までに。

もう1件、福岡から市民講座の情報です。

遊友塾 日本の文学作品を読む 第3回

期 日 : 2024年6月12日(水)
会 場 : ふくふくプラザ6階 601号室 福岡市中央区荒戸3丁目3番39号
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料

講 師 : 船津正明先生(元九州大学非常勤講師)
内 容 : 『平家物語』~小督~  高村光太郎『道程』
申 込 : 6/5までに当仁公民館まで(電話可)092-751-6824
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講師の船津氏、幅広く日本文学全般に関する講座をなさっているようで、今回は「平家物語」と光太郎「道程」。

「道程」に関しては、令和2年(2020)に開催された同じ遊友塾さんの講座でも扱われていました。

こちらも主体は自治体さんのようです。そうでないとなかなか「無料」というわけにはいかないでしょう。

当方もあちこちで市民講座講師を務めさせて頂いておりますが、やはり自治体さん等が主体で「無料」の際にはそこそこ集まるものの、民間の運営で「有料」となると人集めに苦労する場合があるようです。

過日ご紹介した6月9日(日)にやはり花巻で行われる「五感で楽しむ光太郎ライフ」、「有料」の、しかも1,000円(ほぼ昼食代ですが)ということで、どうなのかなと思っていたのですが、定員を上回る103名もの申込があったと言うことで、胸をなで下ろしております。

閑話休題、上記2件、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】[]

今日は青年達が集つて小屋のまはりにヤトヂを造つてくれました。此の風除けが出来ると城砦のやうになり、まつたく冬らしくなります。其後雨がふつて雪は消えました。

昭和22年(1947)11月14日
宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「ヤトヂ」は「家閉じ」なのでしょう。茅(かや)の束で家屋の周りを囲み、雪よけとするものです。この年は11月12日に初雪、さっそく3㌢ほど積もったそうです。

花巻で光太郎顕彰にあたられている民間の方々の活動をご紹介します。

まず「光太郎を知る会」さん。文字通りの会で、かつて花巻及び郊外旧太田村に足かけ8年を過ごした光太郎の生活ぶりなどを、当時の光太郎日記などの読み合わせをする読書会的な感じで繙いていく活動などをなさっています。今年2月に当方が花巻にお邪魔した際、わざわざお集まり下さいまして、懇談させていただきました。

かつて花巻では毎年5月15日、光太郎が昭和20年(1945)に花巻の宮沢賢治実家に疎開のため東京を発った日を記念して、「高村祭」が開催されていました。最初は「高村記念祭」という名称でしたが、いつの頃からか「高村祭」となりました。
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第一回は、光太郎が歿して2年後の昭和33年(1958)。宮沢家、そして賢治の主治医だった佐藤隆房、それから旧太田村民の皆さんたちなどの醵金で、光太郎が暮らした山小屋の套屋(カバーの建物)と初の本格的な光太郎詩碑が作られ、そのお披露目という意味合いもあったようです。光太郎実弟の豊周をはじめ、当会の祖・草野心平や伊藤信吉、会田綱雄ら、錚々たるメンバーも来花。おそらく当会顧問であらせられた北川太一先生も列席なさったのではないでしょうか。

その頃撮られたと推定される16㍉フィルムから。
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もう少し後、昭和40年頃の絵葉書から。
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高村祭はこの詩碑の前で連綿と続けられていたのですが、コロナ禍前の令和元年(2019)に行われた第62回以後、途絶しています。再開のめどは立っていません。

そこで、「光太郎を知る会」さん、その代わりにということで5月15日(水)に詩碑前にお集まり下さり、皆さんで詩碑に献花、さらに光太郎詩の朗読をなさったそうです。ちなみに詩碑の地下には、分骨的に光太郎の遺髯が埋められています。
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かつての高村祭では、こうした朗読は市内の学校の生徒さんが行って下さっていましたし、児童の皆さんは器楽合奏や歌唱など、さらに途絶する直前には花巻農高さんによる鹿踊りの披露もありました。器楽合奏は高村祭が始まった頃には、実際に光太郎から寄贈された楽器を使用してのものでした。

そうした若い世代の光太郎顕彰行事参加の機会が無くなってしまったことに危機感を抱き、地元の太田振興会さんで、昨日このブログでご紹介した 「五感で楽しむ光太郎ライフ」を企画なさったという流れです。

さて、もう一つの顕彰団体、やつかの森LLCさんの取り組み。

まず、GW中の5月4日(土)、5日(日)に開催された、「土澤アートクラフトフェア2024春」へのご参加。こちらは光太郎と交流のあった画家・萬鉄五郎の出生地である花巻市東和町を会場に「絵画、陶芸、木工、アクセサリー、イラスト、写真、革製品、ガラスなど色々な手作りの品物が並ぶアート市。展示会場は、空き家・空き地はもちろん、営業中の店舗や、実際に生活している家屋まで、さまざまな場所が利用され、商店街や美術館前が彩られます。」だそうで。

光太郎が自作したメニューの現代風再現や、光太郎が使った食材の活用など、「食」を中心とした光太郎顕彰活動がメインのやつかの森LLCさんですので、お弁当の販売で参戦なさったとのことです。
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初日は110食、45分で完売だったそうです。すごいですね。

それから、5月15日(水)、毎月恒例の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニュー考案にやつかの森LLCさんが入られています。
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何事も継続していくことは困難も伴うと存じますが、今後ともよろしくお願い申し上げます。

ちなみに「土沢アートクラフトフェア」の件、光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで6月1日(土)、NHKさん東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で取りあげられるそうです。詳細が入りましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

もう秋でススキ、ハギ、ヲミナヘシがさかん。栗もキノコももう直です。

昭和22年(1947)9月25日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

山小屋周辺で採れる栗やキノコは貴重な食材でした。

若干先の話ですが、申込締め切りがありまして……。

五感で楽しむ光太郎ライフ

期 日 : 2024年6月9日(日)
会 場 : なはんプラザ COMZホール
       岩手県花巻市大通一丁目2番21号 東北本線/釜石線花巻駅前
時 間 : 10:30~14:00
料 金 : 1,500円(昼食代金込み)

申 込 : kotarocafe@gmail.com (下記フライヤー画像にQRコード有り)
〆 切 : 5月27日(月) 先着100名

趣 旨 :
 ここ数年「高村祭」の中止が続いていること等から、一般市民はもちろん、毎年高村祭に参加していた小中高生達の高村光太郎に関する認知度・親密度の低下が懸念される。
 宮沢賢治を世に出した人であると言う事を含め、光太郎の偉業について、各種企画展のみならず、次世代を担う子供達との対談やふれあいの場を設けることから光太郎顕彰の維持向上を継続的に図っていく必要がある。

内 容 :
 10:30~12:00 アーティストのまなざしにふれて 
  ① 「光太郎にかかわる総合学習」の状況について 花巻市立太田小学校長 藤田聖子氏
  ②  花巻南高校の取り組み紹介
      「文芸誌作品・詩朗読及び感想」「智恵子のエプロン紹介」  
      文芸部・家庭クラブ生徒数人及び担当教師
  ③ 「光太郎の愛した山口山の自然」 岩手県環境アドバイザー 望月達也氏
  アドバイザー 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明

 12:15~12:50 おいしいランチ 光太郎を食べよう
  TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当
  ドリンク&デザート やつかの森LLC
 
 12:50~13:15 参加者交流

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前半は、花巻市内の学校さんの光太郎に関する取り組みの紹介および、岩手県環境アドバイザー・望月達也氏による光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山口山の環境説明。

学校さんは、まず光太郎の山小屋近くにあった旧山口小学校の後身の太田小学校さん。「後身」というか、元々山口小学校は光太郎が移住した時点では太田小学校の山口分教場で、光太郎が暮らしていた間に山口小学校に昇格、しかし光太郎没後にまた太田小学校に統合されて廃校となった経緯があります。そちらの「総合的な学習」の時間での学年ごとの取り組みを、校長先生がご紹介下さるそうです。

もう1校、花巻南高校さん。こちらは宮沢賢治の妹にして「あめゆじゆとてちてけんじや」のトシの母校にして、日本女子大学校を卒業後、トシも教壇に立った花巻高等女学校の後身です。文芸部さんが光太郎と宮沢家や花巻とのつながりについて調べた結果などを、家庭クラブさんは昨年このブログでご紹介した「智恵子のエプロン」(大正時代の雑誌『婦人之友』で紹介されました)を実際に作って下さったそうで、その紹介。

順番的には学校さん2校が先で、トリが望月氏です。望月氏のパワーポイントのスライドショーを添付ファイルで送っていただき拝見しましたが、改めて旧太田村山口山、貴重な自然が残っている里山だな、という感じでした。

後半はランチタイム。メインディッシュはガレットとデリのお店TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当。こちらは令和3年(2021)に、紫波町の店舗で「GOOD LIFE TABLE 高村光太郎をたべよう」というイベントを開催して下さったお店で、やはり光太郎がらみのメニューとなるのではないでしょうか。

ドリンクとデザートは、花巻で「食」を軸に光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんのご提供。

その後、閉会行事的に少し時間を取って、13:15終了だそうです。

当会も共催として名を連ねさせていただいており、当方も参上、コメンテーター的なことをやらせてていただく予定です。

皆様方もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

花巻の水害にも驚きましたが賢治忌への参集者の多いのにもおどろきました。あの夜の鹿踊は見事でした。


昭和22年(1947)9月25日 宮沢清六宛書簡より 光太郎65歳

「水害」はカスリーン台風によるものです。

賢治忌」は9月21日。光太郎は旧太田村在住中、この日に合わせてほぼ毎年花巻町に出て、賢治忌で講演を行ったりしていました。「参集者の多いのにもおどろきました」とありますが、戦後2年が経過し、こうしたイベントへの他地域からの参加も以前より容易になったのでしょうし、清六と光太郎の編集になる『組合版宮沢賢治文庫』の刊行も始まって、賢治ファンの増殖につながったのでしょう。

この年の講演については、筑摩書房版『高村光太郎全集』に漏れていましたが、10年ほど前、『新岩手日報』に筆記が掲載されていたのを発見しました。一字一句、光太郎が語ったとおりではないとは思われますが、概要は捉えられます。若干読みづらいのですが、原文のまま。

 ◇…ここに来て二年になる、岩手はいい、風土に接し実際に経験をつむと東京にいたとき考えていたのと賢治さんの相ぼうが大部違つて来た、理解が深まつたようだ、芸術そのものは独立しているものだがその人の時代を越え、土地を越え、国をも越えて世界中に広まる性質をもつものである、必ずしもその人を知らなくともいい、ぼくらはボードレールもフランスのパリも知らなくても詩はわかるように賢治さんを知らぬ東京でも詩はわかる、判るほど詩は強い
 ◇…本質的には―大綱のところは世界のどこへ行つてもわかるけれども智のうがこまかい言葉の中にある、肉体的にも奥のあるような人間的親しみが言葉の陰にかくされている、真正面から詩をよむのではわからない、文字ばかと机の上でコネていては本当の詩は生れない、妙な言いかたかも知れないが文学的詩人というものは多いが人間的詩人というものは実に少ない、賢治さんは世界に通ずる本当の詩人だと思う
 ◇…賢治さんはそのほか生活の中でせられたことが全部詩となり行動そのままが詩で、ラヂウムが放射されるように体から放射された一つ一つが詩ということがこちらへ来てこまかく聞いたり、みたりしてはつきりわかつた、賢治さんの根底は宗教つまり法華経の実に熱烈な実行家で、その念願にもえて行動がともないそれが生れつきの詩人的素質と結びついているが、宗教詩人のようなくさみもなく、大きく自然から受けるものを素直に自分の体を通じてうたつている、自然にうたつたことが自ら法華経の教えにピツタリ合つて自然にうたつているようにみえる、これはえらく精進されたのですが――ともかくご自分で行者として精進されたばかりでなく一般の人を無上道に誘おうとして自分の体を投げ出して働いた、こうした中から人工で出来ないものを実現してくれた、これは非常に貴い
 ◇…賢治さんがいたということは将来の日本の詩人へ暗示を与える、また岩手は社会主義的詩人石川啄木をうみ対照的なのも面白いし時代を前後して出たのも輝かしいことだ、こゝに来てダンダン感ずることは岩手の国のよさ岩手県人の性格、人間の厚みなどこの性格は今後の日本の大きな背骨になるのだと考える

また紹介すべき事項が山積しつつあり、2件まとめてご紹介します。

まず、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」について、地方紙『岩手日日』さん。

山菜味わい推敲重ね 光太郎直筆原稿「七月一日」初公開  高村記念館・花巻

000  東京から疎開し花巻の山口集落で過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が山の暮らしの様子を記した散文の直筆原稿が、花巻市太田の高村光太郎記念館で初公開されている。村人として生活を送っていたことがうかがえる内容で、光太郎の原稿では珍しい推敲(すいこう)の跡もそのまま残っている。
 光太郎は、1945年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に宮沢賢治の実家を頼って花巻に疎開し、8月に山口集落(現同市太田)で暮らし始めた。散文は翌年に執筆され、50年に刊行された詩集「智恵子抄 その後」に掲載された。題名は「七月一日」。200字詰め原稿用紙4枚にブルーインクで書かれている。
 散文には地域で収穫された山菜が光太郎自身によって調理され、食卓に上がる様子が山菜の描写と共に詳細につづられている。東北に来て初めて知った山菜「ミヅ」について山奥の谷川の水場にしげり、おひたしや塩漬け、汁の実にして食べると、「ワラビのようなぬめりがあって歯切れが良く、味に癖がなくてさっぱりしている」「ミヅのぬめりとニシンの脂とがよく調和する」などと記し、村人と同じ食生活を送っていたことが読み取れると同時に、東京では絶対に口にすることのないものへの感動が伝わる。
 テーマ展は7月7日まで。開館時間は午前8時30分~午後4時30分。一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

記事にあるエッセイ的な「七月一日」、全文はこちら。
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『智恵子抄その後』が刊行されたのは昭和25年(1950)11月20日。太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に『智恵子抄』を上梓した澤田伊四郎の龍星閣が、ある意味、二匹目のドジョウを狙って出版しました。「詩集」と冠されていますが、詩は同年1月に雑誌『新女苑』に発表した「智恵子抄その後」の総題を持つ6篇の連作詩、同じ『新女苑』や他の雑誌に発表されたものが5篇。その他は散文で、散文の方が圧倒的に分量が多いものです。

この「七月一日」は、それまでに他の雑誌や新聞等に発表された形跡が無く、初出と推測されます。というか、光太郎本人による「あとがき」に、「澤田君は私の手許から山小屋日記に類する文章その他を物色して、つひに斯ういふ一冊の詩集を校正してしまつた。私も澤田君の熱意に動かされて、結局この六篇を根幹とする詩集といふものの出版に同意した。」とあり、「山小屋日記に類する文章」として、澤田が光太郎から借りた日記の一部なのではないかと推定されます。

目次の「七月一日」下部には「昭和二一・七・一」の文字。実際、この年の5月16日から7月16日までの日記が失われています。同様にやはり『智恵子抄その後』には昭和25年(1950)に書かれた「九月三十日」というエッセイも掲載されており、こちらも他の新聞雑誌等に掲載が見あたらず、そして当該日前後の日記が失われています。「物色」のひと言から澤田による借りパクと断定は出来ませんが……。

閑話休題、令和6年度高村光太郎記念館テーマ展 「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」、ぜひ足をお運び下さい。

もう1件は、『毎日新聞』さんの千葉版から。

君津出身 不運の画家、柳敬助に光 渡辺茂男さんが評伝出版 /千葉

  明治・大正期に渋沢栄一や北原白秋の肖像画を描くなどして活躍した君津市出身の洋画家、柳敬助(1881~1923年)の評伝が出版された。執筆したのは同市の文化財審議会委員を務める渡辺茂男さん(73)。柳が42歳で没した年に関東大震災が発生、多くの作品が失われた。歴史に埋もれた画家の人生を丹念に掘り起こした。
 本のタイトルは「不運の画家―柳敬助の評伝」(東京図書出版)。「西洋画黎明(れいめい)期に生きた一人の画家の生涯」のサブタイトルが付けられている。
  柳は現在の君津市小糸地区で医師の子として生まれた。通っていた籾山尋常小の佐藤善治郎校長に才能を見いだされ、絵描きになることを勧められたと伝わる。後年、柳が描いた佐藤校長の肖像画が小糸小に残されている。
 東京美術学校(東京芸大の前身)で西洋画を学んだ後、米欧に留学。帰国後は渋沢や北原、思想家の三宅雪嶺、政治家の野田卯太郎ら各界で活躍する人物を描き、肖像画家としての地位を確立した。
 だが、1923年5月に42歳の若さで病死。その年の9月1日から日本橋三越で遺作展が開かれる予定だったが、関東大震災が起き、代表作を含む約40点を焼失してしまった。残された作品の多くは現在、柳が終生の友とした彫刻家の荻原守衛(もりえ)を記念した碌山(ろくざん)美術館(長野県安曇野市)に所蔵されている。
 君津市出身の渡辺さんは昨年、柳の没後100年を迎えたのを機に執筆を始めた。「郷土が生んだ洋画家が、どんな絵を描き、どんな人生を送ったのか、記さないといけない」と使命を感じたという。数点の手紙を除き、柳の日記や手記などは見つかっていない。関わった周辺の人物の書籍などから、その歩みを探った。昨年には柳の作品などをまとめたパネル展示も小糸公民館で開いた。
 柳は詩人で画家の高村光太郎らと親交を深め、多くの芸術家が集った「中村屋」(現在の新宿中村屋)の支援を受けて創作活動に打ち込んだ。「多くの作品が焼失し、その絵を見ることはできない。現在の私たちには不運なことではあるが、柳本人の人生は幸せだっただろうと思う」と話す。
 <小糸川の水一滴は七つの海につうじる>。同市の君津高校上総キャンパスに建つ石碑に刻まれている言葉だ。小糸川流域で生まれた人々が「七つの海」、すなわち世界で活躍することを願った言葉とされる。渡辺さんは「柳の人生は、この言葉を正に体現していたと思う。小糸から羽ばたいた青年の人生を広く知ってほしい」と願う。
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君津市出身の画家、柳敬助の評伝「不運の画家」を出版した渡辺茂男さん。
手前は小糸公民館での展示で使用したパネルの原本=君津市

過日ご紹介した『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』についてです。

柳の名は光太郎顕彰に携わる身としてはマストなのですが、やはり一般にはあまり知られていない名前なんだな、と感じさせる書きぶりでした。まぁ、当方も渡邉氏のご講演拝聴するまで、柳の生涯をそれほど詳しく知っていたわけでもありませんが。

ところで「詩人で画家の高村光太郎」とありますが、「詩人で彫刻家の高村光太郎」としていただきたかったところです(さらに云うなら、光太郎自身の優先順位としては「彫刻家で詩人の高村光太郎」でしたが)。おそらく書いた記者さん、光太郎についてもあまりご存じないようで……。

何はともあれ、『不運の画家-柳敬助の評伝 西洋画黎明期に生きた一人の画家の生涯』、ぜひお買い求め下さい。Amazonさん等でも入手可能です。

さらに、記事にある安曇野の碌山美術館さんに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

稚拙の美は無意識にして始めて価値あり、世上に往々あるやうな意識的な稚拙のものは甚だ厭味になります。又いい気になつた稚拙のものは棄てる外なし。無技巧といふ事は本来芸術には存在せず。一見無技巧と見えるものには別個の技巧があるものと思ひます。


昭和22年(1947)9月17日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の芸術論の一端が、端的に表されています。光太郎はいわゆる「ヘタうま」的なものに価値を認めていませんでした。

「始めて」は原文のまま。「初めて」とすべきですが、「始」と「初」の使い分け、光太郎は意外といい加減でした。

岩手盛岡からミニ展示の情報です。

企画展「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」

期 日 : 2024年5月18日(土)~7月21日(日)
会 場 : 岩手県立図書館 岩手県盛岡市盛岡駅西通1-7-1 アイーナ4F
時 間 : 9:00~20:00
休 館 : 5月25日(土)・31日(金)、6月28日(金)
料 金 : 無料

人間にとって身近な動物である牛。古くは塩や海産物を背負って歩いた南部牛、現代ではブランド牛や酪農の取り組みなど、岩手の文化や産業も 牛とともにあゆみを重ねてきました。岩手と牛の関わりについて、所蔵資料で紹介します。
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タイトルの「地を往(ゆ)きて走らず」が、光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。
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    岩手の人

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

翌昭和24年(1949)元日の『新岩手日報』に掲載されました。

光太郎は自身を牛にたとえることもあり、遠く大正初めの『道程』時代にずばり「」という長詩を書きましたし、「岩手の人」より後にも「鈍牛の言葉」(昭和24年=1949)という詩も書きました。「鈍牛」は自分自身です。そこで岩手の人々に感じるシンパシーを「牛」に託して語っているような気もします。

現代でも岩手の皆さん、「岩手の人」を光太郎からの贈り物と考えてらっしゃるようで、今回もそうですが、いろいろなところで使って下さっています。最近では令和3年(2021)に、この年が丑年だったため県として「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を展開、「岩手の人」がキャンペーンソングならぬキャンペーンポエム的な使い方をされました。

また遡れば、花巻北高校さんの庭に建つ高田博厚作の光太郎胸像(昭和51年=1976設置)の台座にも「岩手の人」の一節が刻まれています。

ちなみに「「岩手の人」のモデルは、当時の国分謙吉知事だ」という説があります。国分知事の容貌や業績からの類推と思われますし、実際に光太郎と国分知事は花巻温泉で対談したり、同じ式典でそれぞれスピーチしたりといった交流がありました。しかし、それらは昭和25年(1950)以降のことで、「岩手の人」が書かれた時点で面識があったかどうか不明です。もっとも、面識はなくとも詩のモデルに、ということも無くはありませんが……。

さて、今回の展示、「所蔵資料で紹介」というだけで詳細はよく分かりませんが、光太郎に関わる展示も為されることと思われます。さすがにタイトルだけ借りて終わり、とはなりますまい。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

五、六日間雨ばかり降つてゐました。今朝雨やみ曇。畑に水流れ、往来に水あふれ、川音轟々とひびきます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

いわゆるカスリーン台風です。関東地方での被害が大きく、荒川や利根川の堤防が決壊、都内でも葛飾区や江戸川区は全域が水没したそうで、全国で死者1,077人、行方不明者853人。岩手県内でも北上川が氾濫し、南部の一関をはじめ、109人の死亡が確認されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村でも、橋が流されるなどの被害があったそうです。

岩手では翌年にもアイオン台風が大きな被害をもたらし、国分知事、復旧への陣頭指揮を執りました。

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