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毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんから販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは「ぶりの照り焼き」「肉じゃが」「ハムサンド」「ちらし寿司」「キャベツとベーコンのサラダ」「煮豆」「りんごゼリーと干し柿」。まだまだ寒い日が続きますが、彩り的に春を感じさせるようなビジュアルですね。

毎回、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、実際に光太郎が作ったり、人から貰ったりした料理、それらに使われていた食材などを参考に組み立てられています。

メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさん、今日は花巻市内で光太郎がらみの出前講座講師だそうです。また、おそらく来月から、市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんでランチをふるまうこうたろうカフェも再開されるようです。

今後ともますますのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

珍らしいクルミを久しぶりに見てうれしくなりました、ロンドンに居た人は皆知つてゐるでせうが、クリスマス前夜に、ミツスルツウ(やどり木)の枝の下で、此のクルミをクラツカアで割つてたべる家族的たのしさは格別のものです、むろんデコレーシヨン ケーキにも此のクルミを入れます、今年の廿四日夜は山でもたのしいです、


昭和26年(1951)12月11日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

光太郎、実際にもらったクルミを使ったケーキを自作しました。生地やクリームなどもなんとかしたのでしょう。しかし、食べかけのケーキを山小屋内に置いていたところ、寝ている間にキツネかタヌキか野犬かに食べられてしまったそうです(笑)。

昨日お伝えしました通り、一昨日、昨日と、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

そもそもは、作曲家・朝岡真木子氏が光太郎詩をテキストに作曲された独唱歌曲集「組曲 智恵子抄」を歌われ、CDも出された清水邦子さんから、この夏に蒔田尚昊氏作曲の独唱歌曲集「智恵子抄」を抜粋で歌われるという黒川京子さんのお二人で「1月31日(金)・2月1日(土)と花巻で高村光太郎記念館さんや宮沢賢治記念館さんなどを見て歩きたいのですが、二人とも花巻に行ったことがありません。交通機関など現地でどうすればよいでしょうか。また、宿泊場所のおすすめなどありますでしょうか」的な問い合わせがあり、「それなら自分も同行してご案内いたしましょう」という流れ。ちょうど、昨年12月から1月26日(日)まで高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」でお貸ししていた出品物を返却してもらうする都合もありましたので。

しかし「何でこの時期なんですか? 寒いですよ」と訊いたところ「やはりこの厳しい寒さの時こそ、光太郎の花巻(旧太田村)での苦労を体感出来ると思ったので」とのこと。素晴らしいお考えですね。この時期の高村山荘(記念館に隣接し、光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋)を訪れもせずして「光太郎の山小屋暮らしは、世間に対して戦争犯罪を反省していますよ、と言うポーズに過ぎなかった」などとのたまういわゆる文芸評論家のエラいセンセイ方に爪の垢でも煎じて飲ませたいものです(笑)。

さて、1泊2日の行程を画像と共に振り返ります。特に黒川さんは宮沢賢治詩文をテキストとした歌曲にも取り組みたいということで、賢治関連のスポットも行程に入れることに致しました。

東北新幹線車中からの智恵子のソウルマウンテン・安達太良山。そして粉雪の舞う新花巻駅。
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レンタカーを借り受け、市街へ。

賢治御用達、それから光太郎もたびたび訪れて舌鼓を打ったやぶ屋さんで昼食。
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当方、天ぷらそばとサイダーの「賢治セット」をいただきました。

在来線東北本線花巻駅前に出て、林風舎さんへ。残念ながら賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏は愛知経由で九州に行かれているそうでご不在でした。
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続いて、昨年オープンした豊沢町のカフェ羅須さんへ。写真を取り忘れました(笑)。

オーナーで「宮沢賢治・花巻市民の会」の泉沢善雄氏、それからお世話になっておりますやつかの森LLCの皆さん、花巻南高さん家庭クラブの先生、さらに今年6月に当方に講演を依頼して下さった花巻ボランティア連絡協議会の方もいらっしゃり、事務的な打ち合わせ。この手の打ち合わせが出来る拠点が街なかに出来たので、便利になりました。

さて、旧太田村の高村光太郎記念館さん。花巻市街の積雪はそれほどでもありませんでしたが、徐々に標高も上がり、さらにこちらに着く頃には軽く吹雪いてきました。
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隣接する(と言っても数百㍍)高村山荘。途中の除雪が為されていたので行けました。雪を搔いていない場所は数十㌢積もっています。
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この日、最後の訪問地は少し戻って道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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宿泊先は賢治、光太郎ゆかりの大沢温泉さん。いつもは自炊部さんに泊めていただいていますが、今回は通常の温泉ホテル・山水閣さん。令和4年(2022)以来でした。自炊部さんでは、夕食は外で済ませるか館内の食堂で一品料理を頼むか、朝食はこれも館内の売店で前夜にパンなどを買っておいて食べるという感じですが、こちらでは夕食は豪華めのコース、朝食は和洋バイキング。たまにはいいものです。
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翌朝、9時に宿を出て、再び花巻市街へ。午後に花巻を後にするまでの間、日は照りながらぱらぱらと雪が舞い続けていました。

まずは宮沢家菩提寺の身照寺さん。
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近くのぎんどろ公園。賢治が勤務していた花巻農学校の跡地です。
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花巻駅近くの西公園。この2階で光太郎が講演をした旧花巻町役場、光太郎が乗った今は廃線となった花巻電鉄の車輌。
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中心街まで戻り、マルカンさん裏手の松庵寺さん。光太郎詩歌碑が3基。
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豊沢町の宮沢家。
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この奥の方にあった離れに、光太郎が昭和20年(1945)5月から8月まで厄介になっていました。しかし8月10日の花巻空襲で全焼。現在の建物は戦後のものです。

桜町の宮沢家別荘があった場所に建てられた「雨ニモマケズ」碑。数ある賢治碑のうち、第1号。碑文は光太郎の揮毫です。前日に訪れた林風舎さんには拓本が掲げられています。
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そこから見える「下の畑」。かつて賢治が耕作していた場所。
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近くの桜地人館さんは冬期休館中。
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駐車スペース脇には江戸時代の同心屋敷。

賢治命名のイギリス海岸。「海岸」といいつつ北上川の河畔なのですが。
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こちら、当方は約40年ぶりに訪れました。

そして最後のチェックポイント・宮沢賢治記念館さん。駐車場内の山猫軒さんで昼食を摂ってから拝観しました。
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昨夏から開催されている企画展示「刊行100周年 二冊の初版本」が、この日から展示替えと云うことで、当方は昨年12月に続いての観覧です。
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童話「注文の多い料理店」の直筆草稿断片が出ており、興味深く拝見。
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これで全行程を終了し、レンタカーを返却して新幹線で帰りました。1泊2日ではこんなもんでしょう。夕方までねばったり、1泊増やしたりすれば、羅須地人協会やマルカン大食堂さん、茶寮かだんさん、昭和の学校さんなど、もう少し廻れましたが。まぁ、お連れしたお二人にもとりあえずご満足いただけたようで、幸いでした。

御依頼があれば、この手の花巻ツアー、あるいは智恵子の故郷・二本松ツアーなど、運転手兼コンダクターを務めさせていただきます。もっとも、いつでも可というわけでもありませんが(笑)。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今月下半期は小生不在がちになりますし、八月に入ると暑くなり、夏に弱い小生は来訪者に接するのが苦痛になります。もすこし好適な季節の時が御来訪にはいいかと思はれますので此事一寸申し上げます。


昭和26年(1951)7月13日 宮静枝宛書簡より 光太郎69歳

宮は岩手出身の女流詩人。光太郎とは戦前から交流があり、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、光太郎の進言通り秋になってから光太郎の山小屋を訪問した際の写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻に昨日から来ております。ほぼ一ヶ月ぶりです。

今回は、オペラ歌手の清水邦子様と同じく黒川京子様とをお連れしての珍道中となっております(笑)。
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帰りましたら詳しくレポートいたします。


まずは地方紙『岩手日日』さんの記事から。

青春の感性光る 高文連花巻支部合同展 

 県高校文化連盟花巻支部の合同作品展は25、26の両日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれている。花巻、遠野両市の高校生による絵画や書、写真などが展示され、みずみずしい感性や独創的な表現が来場者の関心を引いている。
 文化活動の発表により、創造活動の向上と相互の交流を図ることを目的に毎年開催されており、28回目の今回は花巻北、花巻南、花巻東、花巻農、遠野、遠野緑峰各高校の1~3年生が約140点を出品した。
 美術の部は、高校生らしい繊細な心模様や友人などを題材にした絵画などがずらり。部活動や放課後など充実した高校生活の一瞬を豊かなアイデアで切り取った写真、力強さや流麗さを感じさせる書などもあり、訪れた人が多彩な作品に興味深く見入っていた。
 花巻南高家庭部は、文芸部の活動とタイアップし、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻智恵子がデザインしたエプロンを復刻させて展示。初日は花巻北高茶道部によるお茶会も開かれた。
 横坂貴同支部長は「日ごろの活動で磨き上げた成果を思う存分発揮するため、準備を進めてきた。文化活動に情熱を注ぐ仲間同士の交流を通し、実り多い発表の場となることを期待する」としている。

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記事にあるとおり花巻南高の家庭クラブさん、昨年6月に開催された「五感で楽しむ光太郎ライフ」というイベントでお披露目いただいた「智恵子のエプロン」について(エプロンそのものも)、さらに10月の「土澤アートクラフトフェア」で、「智恵子抄」由来のレモンのパウンドケーキをふるまった件について、展示発表くださいました。
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主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんから画像を頂きました。南高さん、今年というか、来年度というかも、やつかの森LLCさんと合同でなにがしかの活動を展開して下さるとのこと。有り難いお話です。

ちなみに智恵子のエプロン。智恵子本人が身に纏っている画像を発見しました。以前から知られている画像で、このブログでも何度か使ったものですが、モノクロ画像ではわかりにくかったのが、最近流行りの古写真をAIでカラー化するアプリを使って遊んでいたところ、気づいた次第です。
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胸の部分の特徴的な三角形のフォルム、まちがいありますまい。生地も柿渋で染めた酒袋の色です。

今後、智恵子の故郷・福島県二本松で、このエプロンに関わる活動等につなげて行ければ、などと考えております。

花巻南高家庭クラブさん、文芸部さん、さらなるご活躍を期待しておりますし、他校にも光太郎智恵子顕彰の機運が波及していってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

紙絵の画集を企画してゐる本屋が二、三ある事を知りましたが、これには小生同意しかねます。てんらん会と画集とは全く別事です。今の粗雑な感覚の連中に紙絵をいぢくり廻され、つたない印刷技術で印刷されるよりも、自然褪色の方がよいと考へてゐます、粗雑な連中は粗雑な事を自覚してゐないので尚あぶないです。

昭和26年(1951)6月24日 真壁仁宛書簡より 光太郎69歳

銀座資生堂画廊に於いて都内で初めての智恵子紙絵展が開かれると、画集として出版したいという申し出が複数舞い込みました。しかしカラー印刷の技術がまだまだということもあり、全て拒絶。結局紙絵の画集の出版は光太郎生前には行われませんでした。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから今年初めての分の画像が届きました。
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献立は「ポークビーンズ」「鱒の塩焼き」「根菜のきんぴら」「切干大根と干柿の酢の物」「塩麹入り卵焼き」「蕎麦粉クレープ」「古代米ご飯」「煮りんごの甘酒ゼリー」「漬物」。

光太郎の日記などから、光太郎が作ったメニューや使った食材を参考に、現代風のアレンジが施されています。

「古代米」は古代から栽培されてきた稲の品種の特徴を継承しているといわれるもので、光太郎が暮らした旧太田村の隠れた特産品のようです。妻がこの手のものが好きで、当方、道の駅はなまき西南さんなどでよく買って帰ります。白米に混ぜて炊きますが、もち米だけあってボリューミー、腹持ちもいいようです。
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販売元は旧太田村のプロ農夢花巻さん。調べたところ、オンラインショップもありました。ぜひお試し下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日来訪の土門拳氏に委托された滋養食品落手、ありがたく存じました、めづらしいブーダンなどをこの山の中で賞味出来るのを不思議なくらゐに思ひます、幾年ぶりのことか分りません。

昭和26年(1951)5月29日 高見順宛書簡より 光太郎69歳

ブーダン」は豚の血と脂によるフランスのソーセージの一種。この年5月21日の日記には次の記述があります。「ひる頃 土門拳来訪、助手二人同道、(略)写真撮影。三時頃辞去。元気なり。高見順に托された肉類を持参。茶ももらふ。 夕食炒飯みかん。高見氏よりのブーダンでつくる。

高見順は詩人。前年には光太郎題字揮毫による詩集『樹木派』を上梓したり、昭和30年(1955)に光太郎と行った対談「わが生涯」が雑誌『文芸』に掲載されたりしました。タレントの高見恭子さんはご息女です。

過日ご紹介した平野レミさんといい、渡辺えりさんといい、お父さまが光太郎と交流があったという芸能人の方、少なからずいらっしゃいますね。







先月、ちょぼちょぼといろいろなところに光太郎の名が出たのですが、速報の必要のないものは紹介しきれていませんでしたので、今日明日あたりで取り上げます。

今日は地方紙『岩手日日』さん、12月15日(日)の記事。

花巻の物知り度は ご当地検定に18人挑戦 歴史や文化、先人、方言も

 花巻観光協会のご当地検定「はなまき通検定」が14日、花巻市葛の市交流会館で行われた。市民らが花巻の歴史や文化、先人、観光など知る人ぞ知る花巻の難問に挑んだ。
 はなまき通検定は、花巻に関する知識の深さを認定する検定試験で、観光従事者だけでなく市民が観光客をもてなせるよう、花巻の知識習得を目的に実施。8回目となった今回は市内を中心に18人が挑戦した。
 受検者は、事前配布された検定の問題作成の基本となるテキストなどで学習。宮沢賢治や高村光太郎、新渡戸稲造らゆかりの先人に関わる設問をはじめ、市内にある高速道路のインターチェンジの数、わんこそば全日本大会の制限時間、国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産に登録された花巻の郷土芸能、方言「とのげる」の意味、メジャーリーガーの菊池雄星投手がプロデュースするトレーニング施設名など多岐にわたった。
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主催は花巻観光協会さん。4択問題が50問出され、1問2点の計算で80点以上が合格だそうです。事前に配付されるテキスト『はなまき通検定 往来物』は全75ページ。結構な分量ですね。
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今回で8回目ということですが、その都度改訂も入っているそうです。確かに記事には花巻東高出身の菊池雄星投手の件など、最近のネタも出題されたとあります。

我らが光太郎についても〈キラリと輝く先人達〉という章で「高村光太郎」の項を設けて下さっています。ありがたし。
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他にも大沢温泉さん、鳥谷崎神社さん、萬鉄五郎、多田等観、佐藤隆房、金田一国士などの項にも光太郎の名。よそ者でも地域に貢献すればこういう扱いになるのですね。

ちなみに令和2年(2020)に行われた第4回の際にも報道に光太郎の名があったので、このブログでご紹介していました。
「はなまき通検定」問題。

全国の自治体さん社会教育のご担当、観光協会さんなど、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

おてがみによると来月見舞に来訪との事ですが、これは取りやめにしてください。無駄な旅費をかけることになります。おめにかかるのはうれしい事ですが実際は病気にはよくありません。静かにしてゐるのが一番いいわけですから。見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です。

昭和26年(1951)3月15日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

宮崎は光太郎姻族。結核性の肋間神経痛でペンを持つのも一苦労という光太郎を見舞おうとしましたが、光太郎の方で謝絶。「見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です」。これは決して強がりではなかったように思われます。

一昨日、中途半端なところで終わってしまった花巻レポートの続きです。

豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさったお店ですが、花巻市さんの広報誌『広報はなまき』12月15日号に紹介されています。
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展示されていました地元の方の賢治オマージュの作品、画像がアップロードし切れていませんでしたので、追加です。
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店内には他にも常設的に賢治関連の展示も。
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それ以外にも、写真を取り忘れましたが、ジャズを中心に、クラシックや懐かしのJ-POP、果ては演歌にいたるアナログレコードがずらり。

そこそこ面積もあり、キャパ数十のちょっとしたコンサートなど音楽や朗読イベント等も可能なようです。光太郎関連でもやらせてくれそうです。
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今後のますますのご繁昌を祈念いたします。

さて、市街地を後に、旧太田村方面へレンタカーを走らせました。目指すは光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋・高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館さん。一見平坦な道に見えて徐々に標高が上がっていき、少しずつ積雪も。

まずは手前の高村光太郎記念館さん。驚くほどの積雪ではありません。というか、逆にこの時期としては雪が少なくて、驚くほどです。以前はスタッフの方が小型の除雪車でメートル単位の雪を排除していました。
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こちらでは、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館、花巻市総合文化センターの4館が連携し、統一テーマ「イーハトーブの先人たち」による同一時期開催の企画展「ぐるっと花巻再発見」の一環として「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」が開催中。
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スペース中央に、どん!と蓄音機。
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パネルは、クラシック音楽に関わる光太郎詩や尾崎喜八、宮沢清六ら周辺人物の回想等。
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SPレコードが4枚。うち2枚は当方がお貸しした、太平洋戦争前の光太郎作詞のものです(楽譜も)。
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自宅兼事務所にはアナログレコードの音声データをPCに取り込めるレコードプレーヤー(SPの78回転にも対応しています)がありますので、こちらで作成したデータも一緒に提供しましたところ、QRコードで聴くことが出来るようにしてありました。
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この2枚以外にもSPレコードを数枚お貸ししたのですが、スペースや予算の関係でしょうか、そちらは展示されていませんでした。以前に使っていた展示ケースが不具合、その後新たに補充されていないそうで、それさえあればずらっと並べられるのに改善されていません。マストの備品なので何とかして下さいと前々から言っているのですが、何だかなぁ、という感じです。

他に、光太郎も聴いたであろう戦後くらいのクラシックの盤。こちらは地元の方のご提供。
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会場内ではこちらから採ったと思われる音楽をエンドレスで流しています。

隣接する(といっても数百㍍)高村山荘へ。市街地でも熊の出没情報が相次いでいますので、十分注意しつつ。この積雪の少なさで、まだ冬眠していないようです。
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ルーティンで、光太郎遺影にご挨拶。

その後、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに立ち寄り、リンゴを一箱購入して自宅に発送。少し前にやつかの森LLCさんからいただいた一箱も食べきっていないのですが、あったらあったで困りませんので。

そして定宿の、光太郎や賢治も愛した大沢温泉さん。
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渓流側の部屋にしていただき、ラッキーでした。

当方、ここのところ毎年冬の初めには手指に内出血系のしもやけが出来て、痛くて堪らないのですが、大沢温泉さんに浸かると不思議と治ります。以前もそうでした。恐るべし、温泉パワー(笑)。

そして翌朝。この日は世田谷の千歳船橋で演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」拝見のため、8時台のはやぶさ号で帰りました。

また来月も花巻行きの予定です。カフェ羅須さん、高村光太郎記念館さん、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

三日に胆沢郡水沢町といふ町の水沢公民館で智恵子の切抜絵の展覧会をやつたやうです。そこには智恵子の旧知の人が居ます。山形市、盛岡市、花巻町でもやりました。


昭和25年(1950)11月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

水沢町は現在の奥州市。こちらの公民館で1日限定で智恵子の紙絵の展示が行われました。作品は花巻の佐藤隆房宅に疎開させておいたものからチョイスし、「智恵子の旧知の人」日本画家の夏目利政が骨折って実現しました。夏目は明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。水沢方面に疎開して、戦後もしばらくいたようです。

パンフレットには夏目による在りし日の智恵子を思い出して描かれた絵も載せられました。
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昨日正午頃、光太郎第二の故郷、岩手花巻に参りまして、ほぼトンボ帰り。帰りの東北新幹線はやぶさ号車内で書いております。光太郎がらみ以外の雑事に追われておりまして、こんな日程になってしまいました。

昨日はまず東北新幹線新花巻駅でレンタカーを借りた後、宮沢賢治記念館さんと、宮沢賢治イーハトーブ館さんへ。ほぼ雪は無く、若干拍子抜けでした。今年2月もそんな感じでしたし、やはり地球温暖化の影響なのでしょうか?
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賢治記念館さん駐車場展望台からの早池峰山。山はともかく、下界には積雪が見えません。
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両館ともに、『春と修羅』『注文の多い料理店』の刊行100周年に関わる企画展が開催中。特にイーハトーブ館さんの方では展示解説パネルに光太郎の名も出して下さいました。
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賢治記念館さんでも常設のパネル、人物相関図に光太郎。
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こちらに伺うのは数年ぶりで(イーハトーブ館さんでは昨年、シンポジウムのパネラーをさせていただきましたが)、賢治のチェロ、妹・トシのヴァイオリンなど興味深く拝見しました。
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もちろん企画展も。
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2ヶ月ほど前にやはり花巻で出演させていただきました「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に関連する内容も含まれましたし、来年も花巻で光太郎と賢治、特に数回にわたり光太郎が関わった『宮沢賢治全集』に特化した講演をさせていただく予定ですので、その予習にもなりました。

この後、市街地へ。

目的地は、豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさり、その開店祝いも兼ねて。
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思いがけず「光太郎を知る会」メンバーの方もスタッフとしていらっしゃり、美味しいコーヒーをいただきつつ、賢治・光太郎談義に花を咲かせました。

結構広い店内はギャラリーも兼ね、地元の方の賢治オマージュの作品が掲げられていました。
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賢治関連の展示も。

と、ここまで書いたところで、画像のアップロードが出来なくなりました。撮った画像をサイズ変更せず上げて来ましたので、スマホからの投稿だとパンクするようです😢

この後、旧太田村の光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを廻り、定宿の大沢温泉♨️さんに泊めていただきましたが、そのあたり、明日以降に回します。

今日は真っ直ぐ千葉に帰らず、大宮で下車し、湘南新宿ラインに乗り換えて世田谷方面に向かいます。過日ご紹介した演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」を拝見に伺います。そのレポートも後ほど。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、光太郎の実際に作ったメニュー、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

昨日販売された今月分がこちら。
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献立は「鶏の唐揚げ」「イカと大根の煮物」「野菜炒め」「塩麹入り卵焼き」「大学芋」「チーズ入り蒸しパン」「白六穀ごはん」「みかん」。

唐揚げはクリスマス感を醸し出していますし、みかんも旬ですね。光太郎の大好物の一つでした。

さて、メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんのお一人、新渕和子さんがこのたび快挙を成し遂げられました。

地方紙『岩手日日』さん。

新たに5人 「食の匠」認定

 県は、郷土食の優れた技術を持ち、伝承する人を認定する2024年度「食の匠(たくみ)」として、新たに花巻市の新渕和子さん(73)ら5人を認定した。
 盛岡市内で11日、認定書の交付式が行われ、佐藤法之県農林水産部長から一人一人に認定書が手渡された。
 代表して新渕さんは「先人から受け継がれてきた食文化や豊かな農林水産物を生かしたふるさとの味を大事に思っている。岩手の素晴らしい食を若い世代へ伝承するとともに、地域内外に向けて発信し、地域活性化に尽力したい」と意欲を示した。
 認定制度は1996年度に始まり、今回を含めこれまでの認定数は306人・団体となった。
 新規認定者と認定料理は次の通り。(敬称略)
 ▽簗場五月(雫石町)=かまやき▽佐々木チヨ子(葛巻町)=凍みじゃがいももち▽新渕和子(花巻市)=ばくろう(香茸)おこわ▽加藤敏子(一関市)=凍み餅▽竹野牧子(宮古市)=ごぼう巻

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IAT岩手朝日テレビさん。

岩手の食文化を受け継ぐ 食の匠 新たに5人が認定

 岩手の食文化を長年受け継いできた「食の匠」に新たに5人が認定され、認定証が贈られました。
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 県は地域の食文化を受け継ぎ、発信を続ける人たちを毎年、食の匠として認定しています。
 今年は5人が選ばれ、認定証が贈られました。
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 宮古市の竹野牧子さんが作る「ごぼう巻き」は、甘辛く味付けされたゴボウとニンジンをシソの葉で巻いた漬物です。
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 花巻市の新渕和子さんが作る貴重な「ばくろう茸」を使用して作った「ばくろうおこわ」は正月などに振舞われるごちそうです。
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 県が認定する食の匠は283の個人と23の団体になりました。
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 今後イベントなどで料理の実演や指導を行う予定です。
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新渕さんは昨年、今年と連翹忌の集いにもご参加下さいまして、当方もお世話になっている方です。生前の光太郎をご存じで永らく語り部を務められた故・高橋愛子さんのご親戚の由。「ばくろうおこわ」の原材料の一つ、香茸もご自分で採集なさり、以前、ごっそりいただいたこともありました。当方はおこわではなく白米に混ぜた炊き込みご飯にしてみましたが、その名の通り香ばしく、その上なかなかに美味で、妻にも好評でした。

今後ともご活躍を祈念いたします。また、「食の匠」制度は団体での認定もあるようなので、やつかの森LLCさんとしてもオーソライズされてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

昨日は花巻で豚肉を仕入れて来て、今日はスズメマヒコといふ茸と一緒に煮てくひました、この茸は楢の木に出る珍らしいもので中々美味です。丁度今は栗がさかんに屋根に落ち、たくさん拾ひます、栗飯も山の景物です、


昭和25年(1950)9月30日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に自生する茸も、貴重な食材でした。ただ「スズメマヒコ」という茸はネットで調べても情報が出て来ません。方言でしょうか?

新聞各紙から2件。

まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん、12月11日(水)の記事。

宮沢賢治「注文の多い料理店」誕生から100年 実は「注文の少ない」童話集だった 出版秘話をひもとく

 岩手県花巻市出身の作家、宮沢賢治(1896~1933年)の短編集「注文の多い料理店」が誕生から今月で100年を迎えた。ほぼ無名だった生前に出版した唯一の童話集。時代を超えて「世界の賢治」へと導いた始まりの一冊の出版秘話をひもといた。
■自筆原稿がないのは…
 「出版100年記念ウイーク」と銘打った公演が今月、盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館で始まり、4日は「3・11絵本プロジェクト」が6作品を朗読やタペストリー劇で表現。メンバーの佐々木優子さん(64)は「賢治の広く深い知識が土台にあり、誰でも楽しめる童話ばかり。少しも古びていない」と強調した。
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 「注文の多い料理店」は1924年12月1日、賢治が28歳の時に刊行された。青年2人が山奥の奇妙な西洋料理店に迷い込む表題作や「どんぐりと山猫」「山男の四月」「鹿踊のはじまり」など9編を所収する。
 出版元は盛岡市材木町にある光原社。現在は民芸品などを販売し、同じく今月1日に100周年を迎えた。
 創業者の及川四郎氏(1896~1974年)は盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)で賢治の1年後輩だった。卒業後、友人と興した「東北農業薬剤研究所」で農薬や農業関係書を販売。売り込み先の花巻農学校(現花巻農高)教師だった賢治から童話の出版話を受けたのがきっかけだった。
 「出版社らしい名前にしよう」。文芸書を手がけるに当たり「光原社」の屋号は賢治が提案した。及川氏の孫で6代目社長、川島富三雄さん(76)は「賢治が夢見ていたユートピア的な発想や思いを込めたのではないか」と想像する。
 川島さんが小学5年の時、出版時の逸話を知った。学校で「よだかの星」を習い、賢治がどんな字を書くのか見たくなった。祖父に頼むと「従業員が東京で原稿を印刷してもらい、盛岡へ戻る途中に上野駅で置引に遭った」と聞かされた。
 賢治の自筆原稿が数多く残っているにもかかわらず、出版元の光原社に「注文の多い料理店」の原稿が現存していない真相だった。
 曲折を経て、光源社は1000部を発刊。定価1円60銭で表紙絵や挿絵も充実し、当時としては豪華な作りだった。無名作家ながら高村光太郎や草野心平ら詩人から絶賛されたが、世間の反応は鈍かった。見かねた賢治が200冊購入するほどで、採算は取れなかった。
 「『注文の多い料理店』はまことに『注文の少ない童話集』でありました」。光原社は当時の様子をホームページで伝える。
 花巻市の宮沢賢治記念館では、1924年に賢治が唯一自費出版した詩集「春と修羅」と合わせ特別展「刊行100周年 二冊の初版本」を開催している。所収作品や書き損じ原稿など貴重な資料を紹介する。
 この2冊以降、賢治が37歳で早世するまで作品集を出版できなかった理由について、賢治の弟清六氏の孫で学芸員の宮沢明裕さん(46)は「体調の問題に加え、自信を持って出した2冊があまりに売れなかったことが大きい」と推測する。
 未発表の原稿は清六氏らが守り、世に広めた。記念館では直筆原稿など約3500枚を所蔵し、資料の修復を進める。宮沢さんは「出版できなくても作品の構想と執筆を生涯続けた賢治と、作品を後世に残すことに生涯を懸けた祖父の思いを大事にしている」と話す。
 出版時に売れなかった一冊は、関係者の尽力が結晶し、不朽の名作となった。川島さんも「祖父は賢治作品が世界中で読まれるよう願っていた」と思いをはせる。「一つの星を見るように、100年受け継いできた及川四郎の思いと賢治の夢。この先も変わることなく生き続けるでしょう」
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よく使われる表現ですが、賢治は時代を突き抜けて早すぎた、ということでしょう。我が国口語自由詩史上の金字塔である光太郎の詩集『道程』(大正3年=1914)にしても、刊行時にきちんと書店を通して売れたのは7冊だけだったらしいと、光太郎自身ものちに回想しています。賢治の『春と修羅』、『注文の多い料理店』ともに売れ残り残本の処理には困ったそうで。

当時からその才に目を付けていた光太郎や心平、炯眼と言わざるを得ません。

心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。おそらく大正末か昭和初めのことと思われます。

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。

光太郎が親友・水野葉舟へ送った書簡(大正15年=1926)から。

宮沢氏からの本先日女中さんに托しましたが、此前の「注文の多い料理店」は黄瀛君に返却しなければなりませんから、お手許へ出して置いて下さい。

「宮沢氏からの本」が『春と修羅』で、その前に『注文の多い料理店』を貸していたようです。ただし黄瀛(光太郎や心平の仲間うちで唯一、賢治本人と会ったことがある人物でした)から借りたものの又貸しだったようですが。

その光太郎にしても心平にしても、賢治の全貌を知るのは賢治が歿してからのことでした。未発表の原稿がたくさん遺されていたことは何となくわかっていたらしく、昭和8年(1933)に賢治が亡くなるや、光太郎は心平に金を握らせて、花巻の宮沢家に向かわせます。遺稿はどうなっているのか、それを確認して来てくれ、というわけで。光太郎自身は智恵子の心の病が昂進していた時期で、動けませんでした。

心平が宮沢家に着くと、賢治実弟の清六が賢治から託された遺稿をしっかり管理していることがわかり、一安心。そして膨大な原稿を見た心平が清六に、一度東京に持ってきてごらんなさい、的なアドバイスをしたのでしょう。翌昭和9年(1934)、新宿モナミで開催された賢治追悼会に清六が原稿の詰まったトランクを持参、光太郎や永瀬清子、新美南吉らはそれを見て仰天。さらにトランクのポケットから「雨ニモマケズ」の書かれた有名な手帳が見つかりました。

おそらく光太郎にしても心平にしても、もっと早くに賢治手を差しのべておくべきだったという悔恨が生じたのでしょう。罪滅ぼしというと何ですが、その後繰り返された『宮沢賢治全集』出版に二人が関わっていくことになるわけです。光太郎は装幀までも手がけました。

さらに光太郎は宮沢家の依頼で、昭和11年(1936)に花巻の桜町、羅須地人協会跡地に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫も行いました。そのあたりで光太郎に恩義を感じていた清六や父・政次郎が、昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招く、というわけで、本当に人の縁(えにし)というのは不思議なものだな、と思います。

今週末、また花巻に行って参りますので、記事にある賢治記念館さんの特別展 「刊行100周年 二冊の初版本」も見てこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

果して選集など出す資格があるかどうか、これまで何ひとつまとまつた仕事もしてゐない者がただ原稿をかき集めて何冊かの出版にしたところで江湖の読者がそれを更に要求しなかつたら甚だ滑稽な仕儀と存じます。この点がまだ気がかりで躊躇せずにゐられない気持に左右されてゐます。世上多くの選集全集の中にはさういふものもあるやうな気がします、徒らに無用の残骸をさらすやうではどうかと思はずにはゐられません、


昭和25年(1950)9月29日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

結局、翌年から松下の勤務していた中央公論社から全六巻の『高村光太郎選集』が出されるのですが、賢治の全集や選集の出版には協力を惜しまなかった光太郎も、自身の選集出版には気乗りがしなかったようです。

毎年恒例ですが、今年度は本日開幕です。

花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~

期 日 : 2024年12月7日(土)~2025年1月26日(金)

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館、花巻市総合文化センターの4館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。
 
■花巻新渡戸記念館 テーマ「島善鄰 没後60年」
 島善鄰は1889年、広島生まれ。善鄰8歳の時に父の故郷、花巻に帰ってきました。「リンゴの神様」「リンゴの恩人」と称されるリンゴ研究の第一人者、島善鄰について紹介します。

■萬鉄五郎記念美術館 テーマ「東和モンパルナスー岩手の小さな町に集った美術家たち―」
 萬鉄五郎の出身地である岩手県花巻市東和町には、1990年代から現在に至るまで多くの画家や彫刻家、陶芸家たちが移り住み活動の場とするなど、岩手の小さな町を拠点に多彩な表現活動を繰り広げてきました。
 本展では、パリのモンパルナスに集った画家たちにちなみ、「東和モンパルナス」と銘打って、この町に集った多様な美術家を紹介します。

■高村光太郎記念館 テーマ「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」
 昭和20年5月に花巻へ疎開し、同年秋に太田村へ移住した高村光太郎。留学中に欧米の音楽に触れた光太郎は帰国後もレコードやラジオを通じ、時にはオーケストラによる生演奏でクラシック音楽を楽しんでいました。太田村への移住後、ラジオを入手した光太郎は放送での演奏のほか、蓄音機でも音楽を楽しみました。
 この企画展では、音楽をテーマに光太郎が山の暮らしの中で執筆した詩など、光太郎にゆかりある楽曲や関連する資料を紹介します。

■花巻市総合文化財センター 「縄文ムラの人々」
 花巻市内から出土する埋蔵文化財の7割は縄文時代のものです。本企画展では、縄文の人々のムラ・信仰・生業など考古資料からひもといてみます。

《関連イベント》
★ぐるっとまわろう!スタンプラリーを実施します!
共同企画展の会期中、開催館4館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。この機会にぜひ足を運んでみてください。
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年によって参加館数が異なったりするのですが、今年は4館。

そのうち花巻高村光太郎記念館さんでは、地元の音楽関係の方にご協力いただき、SPレコード等の展示を行うそうです。関連行事としてレコードコンサート的な催しも。
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当方も史料をお貸ししました。光太郎作詞の戦時歌謡のSPレコードを4枚、それから戦時歌謡ではなく歌曲「ぼろぼろな駝鳥」(弘田龍太郎作曲 昭和18年=1943)、戦後の光太郎詩朗読が吹き込まれたSPもそれぞれ1枚ずつ。さらにそれらの楽譜、歌詞カードなども。全て展示されるかどうか不明ですが。

戦時歌謡4枚のうち3枚は、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)です。「隣組」も歌った徳山璉の歌唱でちょっとしたヒット曲となり、現在再放送中のNHKさんの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でも戦時中のシーンで使われました。徳山歌唱の盤が2種類、それから日本ビクター管絃楽団によるインストゥルメンタルバージョンです。もう1枚は文部省の日本国民歌全5曲の一つとして箕作秋吉が作曲し、関種子が歌った「こどもの報告」(昭和14年=1939)。まぁ、それぞれ光太郎の黒歴史ですね。

戦後の朗読は光太郎最晩年の昭和30年(1955)、家の光協会でリリースした「家の光つどいの歌」。B面に詩朗読で光太郎の「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)、光太郎とも交流のあった竹内てるよの「わたくし」が吹き込まれています。朗読者は不明です。
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通常の盤も存在しましたが、当方手持ちのものは絵が印刷されたピクチャーレコードです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

明六日放送の由、丁度いまラジオ受信機がこはれてゐて残念です、ますます御元気であられる様にいのります。

昭和25年(1950)9月5日 新井克輔宛書簡より 光太郎68歳

故・新井克輔氏はハーモニカ奏者。かつて連翹忌の集いに20回近くご参加下さり、アトラクションとして見事な演奏を披露していただきました。

光太郎、ラジオの音楽番組をよく聴いた他、花巻町中心街に出た際は宮沢家に立ち寄って、賢治実弟の清六にさまざまなレコードを聴かせてもらってもいました。中には賢治の遺品などもあったのでしょうか? そんな中で詩「ブランデンブルグ」(昭和23年=1948)なども生まれました。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で、主に「食」を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさん。様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗する市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんで不定期に「こうたろうカフェ」として参加なさっています。日記などから読み取れる、光太郎が実際に作ったメニュー、使用した食材などを参考になさっています。

今年最後の出店が11月27日(水)だったそうで、画像等お送りいただきましたのでご紹介します。
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メニューは以下の通り。
 ウェルカムドリンク ブルーベリースカッシュ ローストポーク ブルーベリーソース
 大根の海老あん 春菊と水菜の胡麻和え 里芋の胡桃かけ キクラゲの佃煮
 お新香 ミズの実ごはん ふわふわ天使のスープ 林檎パイカスタード コーヒー


メインのローストポークには付け合わせとして粉吹きいも、バターナッツかぼちゃ、人参、紅心大根、パプリカが添えられ、ご飯には光太郎が好んだ山菜ミズの実をトッピング。実が成るとか、ましてや食べられるというのは存じませんでした。

しかし、いつも思うのですが、これで1,000円というのは、都会ではあり得ない価格ですね。

お店としては営業が続きますが、最初に書いた通り、やつかの森LLCさんの今年最後のご出店だったそうです。次回は来年3月の予定だとのこと。活動拠点からお店までが意外と遠く、積雪のため食材の搬入等が困難になるためだそうです。

再開以後も変わらず繁昌することを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

御委托の抹茶と中村屋の「石ごろも」とありがたくおうけとりしました。石ごろもといふ日本菓子は小生子供の頃からの好物でした。これは江戸の名残です。

昭和25年(1950)8月3日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

「石ごろも」。固有名詞かと思ったらそうではなく、「大福」や「どら焼き」同様、普通名詞なのですね。小豆の漉し餡を固い砂糖の「衣」で包んだ和菓子。現在では無くなっているようですが、当時は中村屋さんでもラインナップに入っていたようです。

書簡からも光太郎の食生活が垣間見え、興味深いところです。

主に「食」を通じ、光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんの最近のご活動を。

まずは
毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当光太郎ランチの今月分。やつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられ、光太郎が実際に作ったメニュー、使った食材などを参考にされています。
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今月の献立は「タラフライ」「牛すき煮」「里芋の胡麻味噌和え」「ほうれんそうと菊花のおひたし」「青海苔入り卵焼き」「小豆ご飯」「漬物」「さつまいも甘煮りんごキャラメルリゼ添え」だそうで。

いつもながらにボリューミーですし、サツマイモやら林檎やら、当方の好物も多く、これはぜひ食べたい感じでした。

続いて、
市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんでのこうたろうカフェこちらのお店は様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗するというシステムです。

やつかの森さん、来週11月27日(水)に出店なさり、メニューは以下の通りです。

・ウエルカムドリンク ~ブルーベリースカッシュ~
・ローストポーク ~ブルーベリーソース~
・大根の海老あん024023
・春菊と水菜の胡麻和え
・里芋の胡桃かけ
・キクラゲの佃煮
・お新香
・みずの実ごはん
・ふわふわ天使のスープ
・林檎パイカスタード
・コーヒー

ところで、上記情報と共に、光太郎が戦後七年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)周辺の最近の様子を画像でお送り下さいましたので、転載します。ようやく紅葉が見頃だそうで。
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最後の大きい画像は光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)をブロンズパネルに鋳造して嵌め込んだ詩碑です。

しかし、ようやく紅葉が見頃といいつつ、既に初雪も観測されているそうで、これも温暖化の影響でしょうか、秋が短い感じですね。

この季節も乙なものです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

わざわざ写真を送つて下さつて感謝します。一九五〇年のいい記念になります、 並んでゐる女性のうつくしい笑ひを愉快に存じます、


昭和25年(1950)6月5日 斎藤充司宛書簡より 光太郎68歳

齋藤充司は大正11年(1923)、岩手生まれ。花巻の隣の黒沢尻在住で、兵役を経て昭和21年(1947)から同57年(1982)まで小学校教員を務め、教員仲間(写真の女性達も?)らとたびたび旧太田村の光太郎の山小屋を訪問しました。この年3月に黒沢尻で行われた光太郎の講演の筆記なども残しました。また、日本美術家連盟会員、岩手県芸術祭洋画部門理事長、新象作家協会会員、北上詩の会会員でもありました。

おそらくこの書簡にある「写真」と同一の写真が、智恵子の故郷・二本松岳温泉の「あだたらの宿扇や」さんに現存します。
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10月27日(日)のこのブログで「拝観に行きました」的なことだけは書いておきました高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」。個々の出品作品等について解説させていただきます。
 
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左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
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光太郎、文章でも「どこにでも美は存在する」的なこと繰り返しを書いています。「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」昭和4年=1929)。これは、ネット上などで光太郎の名言の一つとしてよく引用されています。が、孫引きの孫引き、伝言ゲームみたいになっており、「路傍」が「道端」になっていたり、「瓦礫」が「がれき」になっていたりと、無茶苦茶です。引用したいのならあくまで原文の通りでお願いします。

さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。

同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
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「うつくしきもの……」も光太郎が好んで書いた文言で、複数の揮毫例が確認できています。「満」を変体仮名的に片仮名の「ミ」としている例があり、山梨県富士川町に建てられた光太郎文学碑には「ミ」を採用した揮毫が彫りつけられています。
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何度も書きましたが、この「ミ」を漢字の「三」と誤読、「光太郎が讃えたこの地の三つの美しいもの――富士山、柚子、そして人々の心」などという噴飯ものの解説が為されたページもネット上に散見されます。

なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。

この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。

光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。

さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。

 宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。

おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。

おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
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心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。

その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
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右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。

仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
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これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。

最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
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「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
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企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
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他に、常設展示の方でも書がたくさん。
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光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。

書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。

【折々のことば・光太郎】

雪のため電燈は断線で修理の見込つかず、ランプでやつてゐます。

昭和25年(1950)2月11日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎68歳

旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。

2泊3日の行程を終えて、昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻より帰って参りました。都度都度、レポートいたしましたが、書ききれなかった件等を。

10月27日(日)、「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演のため訪れた東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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午後からの本番に向け、午前中に会場設営を行い、それが終わったところで館内をぶらぶら。すると、一階ロビーでこんな看板を見つけました。阿部正介氏という方の作品だそうで。
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「切り絵「昔の花巻展」」。3階の展示コーナーで開催中とのこと。光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋・高村山荘もあるじゃん、というわけで、早速拝見に。
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ずらっと10点の色鮮やかな切り絵作品が並んでいました。

雪に覆われた高村山荘。
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よく見ると(よく見なくても(笑))、入口には光太郎の姿も。
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石ノ森章太郎先生の「サイボーグ009」に出てくる死の商人「ブラックゴースト」の首領・スカール(じつは自身もサイボーグで傀儡でしたが)か、と突っ込みたくなりましたが(笑)。
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キャプション。
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他にも光太郎ゆかりのスポットが。

光太郎も愛した大沢温泉さんにかつてあった建造物。
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当方手持ちの古絵葉書。
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今の山水閣さんの新しい建物がある一角だと思うのですが、これが残っていないのは残念です。

光太郎が訪れ、息女・聡子さんのピアノ演奏を聴かせてもらった旧菊池捍(まもる)邸
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光太郎にピアノ演奏を聴かせた聡子さんは、今回の対談のメインテーマ「花巻賢治子供の会」の児童劇で、劇中歌の作曲も担当していました。
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宮沢賢治がらみも。
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帰ってから調べましたところ、作者の阿部正介氏、元は市の職員であらせられたそうで、これまでも同じなはんプラザさんや市内の図書館、宮沢賢治イーハトーブセンターさんなどで作品展が繰り返し開催されていました。

花巻にはこの手の作品の題材となる建造物等がかなり現存していますし、観光推進のためにも、さらなるご活躍を期待したいところです。

ところで、このコーナーの裏側では、こんな催しも。いわずもがなですが、大谷翔平選手は花巻東高校さんのご出身ですので。
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この日は第2戦。
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意外と人がまばらでした。皆さん、ご自宅などでBSの放映をご覧になっていたのではないでしょうか。旅人の当方としてはありがたいところでした。

ちょうど9回表のヤンキースの反撃の場面で、大谷選手、山本投手を擁するドジャースは1点返され4-2、なおも2死満塁のピンチ。「うわぁ~」と思いながら観ました。しかし、最後の打者が中飛に倒れ、「よっしゃ~」。

大谷選手は走塁の際のアクシデントで負傷とのことでしたが、今日も先発出場だそうで、大事に至っていないことを祈念いたしております。

ちなみに花巻の街は、どこへいっても大谷一色。

新花巻駅(左下)。伊藤園さんの自販機(右下)。
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一泊させていただいたホテルグランシェールさんロビー。
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リンゴを買いに立ち寄った道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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肖像権の問題等もあるかもしれませんが、切り絵の阿部正介氏、大谷選手やその先輩・菊池雄星投手らの切り絵も手がけられてはいかが? などとも思いました(笑)。もっとも、すでにやられているかもしれませんが。

以上、花巻レポート補遺を終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生の足のサイズを御記憶ありて心にかけてこの短靴をお探し下さった御厚情に心をうたれました、使用中のもの既に破れはてて居りましたので此の春から早速役に立ち、まことにありがたく存じます、


昭和25年(1950)2月14日 田口弘宛書簡より 光太郎68歳

身長180センチ超と、当時としては大男だった光太郎、足のサイズも昭和5年(1930)のアンケート回答「自画像」には、「十三文半」と書いています。一文が約2.5㌢ですので、おおむね33.75㌢となります。実際にはもう少し小さかったようですが、それでも既製品ではなかなか合うものが見つけられず苦労のし通しでした。

のちに埼玉県東松山市教育長となられた故・田口弘氏。進駐軍の横流し品か何かで大きな靴を見つけ、光太郎に送って下さいました。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻に参りまして、現在、光太郎も愛した大沢温泉♨️さんにてこれを書いております。画像は昨夕の到着時ですが。
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昨日は東北本線花巻駅前のなはんプラザさんでされた「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演させていただきました。
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「花巻賢治子供の会」は、戦後の花巻で児童教育に携わっていた照井謹二郎.登久子夫妻が主宰していた児童劇団で、戦争で荒んだ子供たちに宮沢賢治の童話などを通じて豊かな情操を育てたいとするものでした。

そもそもはそれほど肩肘張ったものではなく、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していた光太郎の慰問から始まりましたが、光太郎らの援助や助言を糧に、地域に根付いて行きました。光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)までは、おおむね春(太田村)と秋(花巻中心街)で年2回公演し、記録に残る限り光太郎はそれらを7回観覧、毎回非常に楽しみにしていました。

光太郎が岩手を去り、さらに没してからも活動は続き、賢治作品に新たな形で息を吹き込むことに多大な貢献がありました。

−−というようなアウトライン的な内容を、まず当方が語らせていただきました。

続いて、当時実際に光太郎の前で劇を披露なさったお二人、熊谷光さん、高橋則子さんによる「雪渡り」朗読劇上演。
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さらに地元のラジオで光太郎作品等の朗読もなさっている高橋さんは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)もご披露くださいました。

休憩をはさみ、賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏。お母様の潤子さんが「花巻賢治子供の会」の役者さんでしたし、お祖母さまの愛子さんも照井夫妻と親しく、劇団創設に関わられました。
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こちらでも貴重なお話を伺えました。

最後に4人で登壇、さらにやはり「花巻賢治子供の会」のメンバーだった(在籍されていたのは光太郎没後)元アナウンサーの田中しのぶさんの司会で、フリートーク。熊谷さん、高橋さんに光太郎とのそれを含む当時の思い出を語って頂いたりしました。

あまり知られていないさまざまなエピソードなども紹介され、非常に良かったと思いました。

さらに会場には照井夫妻の子息にして、「花巻賢治子供の会」ではアコーディオンで劇伴音楽を担当されていた義彦氏もいらしていて(当初予定ではいらっしゃらないとのことだったのですが)、終演後にこれまた貴重なお話を伺うことができました。
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第二の故郷・花巻にはまだまだ生前の光太郎をご存知の方々がご健在。今後ともその方々の証言など掘り起こされて行って欲しいものです。

報道など為されましたらまた改めてご紹介いたします。

昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今日がメインの目的で、東北本線花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」で登壇、宮沢賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏、昭和20年代に児童劇団「花巻賢治子供の会」で光太郎に演劇を披露なさったお二人、計4名での公開対談です。

昨日、花巻入りし、あちこち廻りました。賢治にもからむ対談を控えていますので、賢治テイストにも触れておこうと、まずは新花巻駅で借りたレンタカーを東に向け、遠野市へ。賢治が「銀河鉄道の夜」の構想を得た場所の一つとされる「めがね橋」へ。橋上を走る釜石線に乗って通ったことはありましたが、下から見るのは初めてでした。
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すぐ目の前の道の駅みやもりさん。賢治関連のミニ展示などもなされていました。
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反転して西へ。いったん賢治から離れ、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。企画展「高村光太郎 書の世界」が始まっており、そちらの観覧。
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いい感じに紅葉も始まりました。
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相変わらず案内板や看板類には熊の爪とぎ痕が。くわばらくわばら(死語ですね(笑))。

さて、書を拝見。
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各出品物の細かなご紹介は帰ってからまた改めて致します。今回、これまで展示したことがないものも出ています。特に「へー」と思ったのは、戦前の書で、一時期交流が深かった画家の宅野田夫(でんぷ)の画に光太郎が賛を書いたもの。戦後にはそういう例もありましたが、戦前にもこういうものがあったかという感じでした。
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隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)へ。
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毎度のことながら光太郎遺影に手を合わせて参りました。

小屋の周りには光太郎がこよなく愛した栗。
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レンタカーを花巻市街に向けました。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったら、先月も並んでいた案山子(かかし)がパワーアップしていました。道の駅はなまき西南(愛称.賢治と光太郎の郷)さんに並んでいたものもこちらに集約されていました。
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光太郎案山子も。
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久々に桜町の賢治詩碑に詣でました。碑文の揮毫は光太郎、日本初の賢治詩碑です。
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記憶がはっきりしないのですが平成28年(2016)の賢治祭でこの碑の前に立って講話をさせていただいた時以来かな、という感じでした。

そこから見える「下の畑」も遠望。
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定宿の大沢温泉さんは土曜日は一人だと予約を受け付けておらず、駅前のグランシェール花巻さんに宿泊(今夜は大沢温泉さんですが)。
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昨年、リニューアルがなされ、やはり賢治関連のミニ展示コーナーが設けられました。名付けて「宮沢賢治探索隊本部」だそうで(笑)。

パネル展示など意外と充実していますし、面積もそこそこ確保されています。宿泊客意外にも公開しているようです。
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夕食はすぐ近くのいとう屋さんで。光太郎が花巻市街で最も多く足を運んだ食堂です。
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そして夜が明け、今朝の日の出。
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これからなはんプラザさんで会場設営です。

取り急ぎ、ぃったん終わります。

まずは状況をわかりやすくするために地方紙『岩手日日』さん報道から。

お気に入り求めどっと 東和・土澤アートクラフトフェア 商店街に活気 光太郎作品基にレモンケーキ 花巻南高家庭クラブ提供

 県内外のものづくり作家らが集う「土澤アートクラフトフェア2024秋」(実行委主催)は13日、花巻市東和町の土沢商店街、萬鉄五郎記念美術館前を会場に2日間の日程で始まった。好天の下にクラフトやグルメなど約380店が軒を連ね、大勢の来場者で初日から活況を呈した。
 歩行者天国となった会場には、木工品や革製品、似顔絵、手作り雑貨、楽器、衣類、陶芸、釣り具、ペット用品など多種多様のブースが並び、訪れた人が店主と会話を弾ませながらお気に入り商品を買い求めた。
 飲食の出店や食材・菓子などの販売ブースも並び、フードコートで昼食を取る家族連れの姿も。沿岸ならではの海の幸や地元特産品などが人気を集めていた。
 彫金の宝飾などを製造するアトリエKAZU(東京都)の高田和彦さん(77)は、オリジナルの指輪やネックレスのほか、さまざまな職業の商売道具をモチーフとする「IKIGAIシリーズ」のペンダントトップなどを販売。「何度も出店しているが、今年は天気が良く、特に人出が多いと感じる。みんなおしゃれをして集まっており、雰囲気が良いのものこイベントの魅力だ」と語った。
 10回以上訪れているという盛岡市の齊藤直美さん(55)は「県外の作家に出会えるチャンスは、岩手では貴重。例年通り、良いものがそろっている。帽子やアクセサリーが欲しくて見に来た。幅広い年齢の人たちが遊びに来ているのが素晴らしい」と話していた。
 県立花巻南高校家庭クラブは13日、花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の「レモン哀歌」を基に製造した「レモンのパウンドケーキ」を土澤アートクラフトフェアで提供した。
 同クラブは、光太郎について調査・研究する団体と交流したり、顕彰イベントに参加したりして先人への学びを深めている。
 ケーキは、表面を覆うアイシングや生地にレモン汁を加えており、中までレモンの風味を感じられる。光太郎の顕彰活動に取り組む「やつかの森合同会社」(藤原正代表)が、同フェアに合わせて土沢商店街のワンデイシェフの大食堂で販売する「こたろう弁当」(1200円)を購入した人に100個限定でプレゼントした。
 レモンの果肉、皮を使うと食感や苦味が残るため、レモン汁だけで酸味や爽やかさを表現したといい、同日は東和町出身の1年生2人が接客。菅原美優さんは「光太郎さんのことはよく知らなかったが、勉強する中ですごい人が花巻にいたんだと感じた」、小原優羽奈さんは「自分たちの世代や、さらに下の小中学生にも光太郎さん、智恵子さんのことを知ってほしい。レモンケーキがそのきっかけになれば」と話していた。
 光太郎が秋の花巻でおいしさを再認識したというキノコやクリ、リンゴなどを使った同弁当は14日も数量限定で販売するが、パウンドケーキは提供されない。

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こちらが問題の(特に問題はありませんが(笑)))パウンドケーキ。
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ラッピングなど、高校生の手作りのレベルを超えていますね。もちろんお味もよろしかったようで。
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家庭クラブのお二人、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の際に発表のあった智恵子のエプロンの再現にも関わられました。こういう若い世代が関心を持って下さるのは実に有り難いところです。

やつかの森LLCさんが手がけた「こうたろう弁当」はこちら。やつかの森さんのメニュー構成は光太郎が実際に作った料理の現代風アレンジや、光太郎が使った食材の使用など、常に光太郎がらみです。
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2日間でそれぞれ異なるメニューで販売されたそうです。
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14日こうたろう弁当メニュー
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これも素晴らしいと思いました。

さらにやつかの森さんがメニュー考案に協力され、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のテナント「ミレットキッチンフラワー」さんで毎月15日に販売されている弁当「光太郎ランチ」の今月分。
道の駅1
道の駅2
生野菜系が苦手な当方としては、今月のメニューはナイスだと感じました。これなら毎日食べてもいいかな、と(笑)。

何度も引用していますが、光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」で「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。この背後には、野菜類の自給自足、山林での食材採集に余念がなかった光太郎ならではの信念が込められています。

その信念を受け継ぎ、花巻南高校家庭クラブさん、やつかの森さんがさらなるご活躍をなさることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ローマイヤアの店が又出来たと見えます、お贈りのハムはすばらしい事でせう。

昭和25年(1950)1月11日 中原綾子宛書簡より光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の光太郎、東京の友人知己達から食材を贈られることも多く、それでかなり助かっていました。特に好物なのに自給できない肉類などはことのほか有り難く感じていたようです。

「ローマイヤア」は現代でも続く「ローマイヤ」さんですね。光太郎、おそらく戦前に銀座のレストラン部門、あるいは商品を卸していた上野の精養軒さんあたりで舌鼓を打っていたのでは、と思われます。

昭和23年(1948)に結成され、光太郎が名付け親となった「花巻賢治子供の会」という児童劇団がありました。主に宮沢賢治の童話を劇化、第一回の公演は光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の山小屋前で行われ、その後しばらく、春には旧太田村、秋には花巻町中心街での公演というスパンで続きました。光太郎が花巻を離れた後も活動は続き、平成9年(1997)までに公演回数は160回を超えたそうです。

その「花巻賢治子供の会」で実際に光太郎の前で演技をなさった当時のお子さん、お母さまが「花巻賢治子供の会」のメンバーだった宮沢和樹氏(賢治実弟・清六令孫)、そして当方でのトークショーです。

令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : なはんプラザCOMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号 
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた花巻賢治子供の会の会員より当時の活動の思い出をうかがい、光太郎の想いや賢治とのかかわりを学びます。

講 師 : 宮沢和樹  株式会社林風舎代表取締役
      熊谷 光  花巻賢治子供の会元会員
      高橋則子  花巻賢治子供の会元会員
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
司 会 : 田中しのぶ 花巻賢治子供の会元会員
チラシ表
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「花巻賢治子供の会」。主宰していたのは、花巻農学校での賢治の教え子の故・照井謹二郎氏と奥様の登久子氏。お二人とも小学校教諭、退職後は花巻で幼稚園経営をなさっていました。戦前から近所の子供達を集め、賢治の詩や童話の読み聞かせ、朗読の指導などを行っていました。戦後になり、戦争は終わったにも関わらず、戦争ごっこを続けている子供達の姿に愕然とし「これではいけない」と活動を再開したとのこと。

その頃、賢治実弟・清六の妻、愛子に「一緒に光太郎先生の山小屋に行こう」と誘われた登久子氏(戦時中から光太郎と面識はありました)、「何の手土産も用意できないから……」といったんは断ったものの、子供達の演劇を披露して娯楽の少ない山村暮らしの光太郎を慰問しようと思い立ったとのこと。そして昭和22年(1947)の6月に、旧太田村の光太郎の山小屋前で第一回公演を打ちました。

以後、記録に残る限り、太田村と花巻町中心街で光太郎は7回公演を観ています。光太郎が観た演目で把握できている賢治作品は「雪渡り」「カイロ団長」「どんぐりと山猫」「雁の童子」「風の又三郎」「狼森と笊森、盗森」「かしわ林の夜」。他にオリジナルの劇もあったようです。元々若い頃から芝居好きだった光太郎でしたし、特に戦後、青少年の健全育成には協力を惜しまなかったところもあり、公演の観覧を楽しみにしていました。

子供達の素朴で、しかし生き生きと演じる姿に好感を感じていたらしく、公演回数を重ねだんだん手応えを感じてきた登久子氏が「東京に出て本格的に演出などを学びたい」ともらすと、「そんなことをして変な児童劇臭さがついたらどうするのか。今のままが一番良い」とたしなめたそうです。

賢治童話の劇化ということで、賢治実弟の清六・愛子夫妻もサポート。お二人の令嬢で今年亡くなられた潤子さんも団員の一人として舞台に立たれていました。そこで潤子さん令息の和樹氏にもお話を伺います。

そして、実際に光太郎の前で演じられたお二人。貴重なお話が聴けることと存じます。
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画像の左下に写っている熊谷光さんと高橋則子さんのお二人です。ちなみに光太郎が二列めの右から3番目にいますが、その左後ろが清六、最後列には潤子さんもいらっしゃるようです。昭和27年(1952)、光太郎最後の観覧の際の集合写真です。
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登久子氏は昭和25年(1950)に脚本集『どんぐりと山猫』を十字屋書店から出版。光太郎にも触れられていますし、光太郎はこれを贈られて絶賛しました。

また、照井夫妻の近所に住んでいた菊池捍(まもる)の息女で、光太郎にピアノ演奏を聴かせてあげた聡子氏も音楽方面でサポートしていたこともわかりました。

そんなこんなでの1時間半。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東京の連中はどうしてゐるかと時々おもひます、みな生活が中々困難だらうと思ひます、勢ひいろんなアルバイトをやらねばならないでせう。此間ラジオの娯楽番組の中へ草野心平が出てきて、唄をうたつたので面白かつたのですが、これもアルバイトの一つでせう。


昭和25年(1950)1月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎68歳

当会の祖・心平。「何やってんだ」という感じですが(笑)。

昨日は上京しておりまして、千駄木浅草新宿と三ヶ所を廻っておりました。レポートしなくてはならないのですが、今日もこれから二本松でして、ゆっくり書いている暇がありません。後に回します。

そこで本日は、群馬の地方紙『上毛新聞』さんの一面コラム、10月9日(水)掲載分です。

三山春秋

▼彫刻家で詩人の高村光太郎は晩年、岩手・花巻に暮らした。空襲で東京のアトリエを焼け出され、宮沢賢治の実家を頼って疎開した。山小屋での1人暮らしはおよそ7年に及んだ▼畑に育つもの、山に生えるものを食べる自給自足の生活。キノコは図鑑と見比べ、「食」と書いてあるものは何でも食べてみた。小屋は栗林の真ん中にあり、採りきれないほどたくさん実がなった。栗飯を炊いたり、ゆでたり、いろりで焼き栗にしたりして毎日味わった▼時には村の人たちがかごを持って栗拾いにやって来た。山の奥へ奥へと入っていき、クマの気配に驚いて逃げ帰った人もいたという。クマもまた冬眠に備え、秋の味覚を満喫していたのである▼近年は山奥だけでなく、人里や、地域によっては市街地でも出くわすことがある。この秋も注意が必要だと県が呼びかけている。主食となるドングリや栗などの実りが悪いらしく、山に餌がなければ人里に出てくる危険が高まる▼廃棄の農作物を放置しない。果樹は早めに収穫し、収穫しない木は切る。隠れ場所となるやぶを刈り払うなど、人里に引き寄せないことが重要だという。対策を万全にして、すみ分けを目指したい▼暑さが去ってようやく秋の味覚の出番になったが、山中と同様にわが家の栗も今年は不作である。「9月末になるとほとんど栗責め」だったという光太郎がちょっとうらやましい。

秋の味覚のシーズンとなり、旬の話題ですね。

光太郎が戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までまる7年間、独居自炊の生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋、「栗林の真ん中」というわけではありませんが、確かに周囲には栗の木がたくさん自生しています。そこで、貴重な食料源の一つでした。

しかし、奥羽国境山脈の麓ゆえ、クマったことに(笑)クマの生息地でもあります。光太郎が居た頃はあまり人里に降りてくることも多くなかったのですが、現代は却って昔よりひどい状況になっています。先般、現地に行った際も、山小屋裏手の智恵子展望台方面への散策路は立ち入り禁止にしてありました。隣接する高村光太郎記念館さんの看板などは、クマの爪とぎ痕で傷だらけです。
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花巻市では、市街地でもクマの出没情報が多数出ています。当方も昨年だったと記憶していますが、夕方、市街地でレンタカー運転中、河原に黒い塊が見え、「ありゃクマなんじゃないか?」でした。

また、今年の4月でしたか、光太郎や宮沢賢治に愛された大沢温泉さんの駐車場にあるゴミ捨て場にクマが現れた映像がニュースで取り上げられていました。

ところでクマと言えば、X(旧ツイッター)上の書き込みなどに、「光太郎が素手でクマを倒したことがある」的な書き込みが散見されます。
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サンドー式体操(ボディビル)で肉体を鍛え、ニューヨークではレスリングだかボクシングだかの経験者だった同級生をねじ伏せた、身長180センチ超の光太郎でしたが、残念ながら「素手でクマを倒した」という事実は確認できていません。

上記画像最後の方が書いてらっしゃるように、ゲームか何かの二次創作でそういうエピソードがあったのかも知れませんが、真に受けないようにお願いいたします。

それにしても、クマにも罪はないわけで、「倒す」のではなく、何とか共存共栄を図りたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

詩集を編さんしてもいいとの事、感謝します、批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます。


昭和24年(1949)12月17日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎67歳

「詩集」は翌年刊行され、現在でも版を重ねている新潮文庫版『高村光太郎詩集』。ただ、昭和43年(1968)に改版となり、それまでの版に含まれていない昭和25年(1950)以後の詩も収められました。

次のようなやりとりがあったようです。

新潮社「高村先生のお若い頃から近作までを集めた詩集を文庫で出したいのですが」
光太郎「そりゃかまいませんが、自分で編んでいる暇がありません」
新潮社「では、どなたか信頼の置ける方に編集と解説をお願いするというのはどうでしょう」
光太郎「草野心平君が適任でしょうが、彼は他社でやってますからね。他の心当たりに頼もうと思うのですが」
新潮社「なるほど、では、高村先生の方で内諾を取っていただけますか?」
光太郎「お願いしてみましょう」

そして伊藤に打診、すると伊藤からは、作品選択(戦時中の翼賛詩も含める)や解説で「批判的」な態度を取るやもしれませんがそれでもいいのなら、的な返答が来たようで、さらにそれへの返信です。

批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます」。まさしく『論語』の「六十而耳順(六十にして耳したがう)」ですね。

昨日開幕の企画展示です。

令和6年度高村光太郎記念館企画展「高村光太郎 書の世界」

期 日 : 2024年10月5日(土)~11月30日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を送り、彫刻制作を一切封印します。山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、大小さまざまな「書」を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では光太郎による晩年に執筆された芸術評論『書についての漫談』を紹介しながら、彫刻・文芸と並び、光太郎第三の芸術とも言われる「書」を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

展示構成
 書額および書軸等 8点
 直筆原稿 7点
 拓本(縮小複製)      1点
 資料合計 16点(参考 常設展示の書は大小各種合わせて18点)

展示の見どころ
 出品する書額及び書軸はすべて実物で、光太郎の肉筆を間近でご覧いただけます。
『書額 乾坤美にみつ』『色紙幅 義にして美ならざるなし』『画賛幅 うつきしきもの満つ』の三作は旧展示施設の高村記念館を通じて、当地では初公開の作品です。
 また、最晩年に執筆された『書についての漫談』からは、光太郎幼少時代の書との出会いから、著名人の作風を例示しての批評など、光太郎の「書」についての考え方を窺い知ることができます。
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同館での同様の展示は、平成29年(2017)12月~翌年2月令和元年(2019)9月~11月に続き、これで3回目になります。所蔵している光太郎書の数が多く、常設展でもかなりの数を出していますが、それでも展示しきれないのでこうして普段は所蔵庫にしまわれているものを出しています。今回が初展示という作品も出ています。

それにしても、市から詳細情報が出たのが開会前日の午後。もう少し早く告知できませんかと常々申し上げているのですが、無視されている状態です。何だかなぁ、という感じですが……。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生自然の中に包まれてゐるやうな生活をしてゐますが、東洋の先輩賢哲の例にはならはぬ気で居ります。小生の彫刻製作をはばむものはもつと現世的な諸条件であり卻つて深刻な感があります。


昭和24年11月21日 森荘已池宛書簡より 光太郎67歳

東洋の先輩賢哲」は、俗世間との交わりを絶って山に隠遁していた中国の竹林の七賢、我が国の兼好法師あたりをイメージしているのでしょうか。彼等とは異なり、自らの戦争責任に対する処罰を自ら行っているという感覚が見て取れます。

一昨日、9月24日(火)から1泊2日で東北に行っておりました。レポートいたします。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。また後ほどご紹介いたしますが、10月末に花巻で光太郎と宮沢賢治がらみのイベントが予定されていて、そのための打ち合わせでした。少しだけ予告しておきますと、光太郎と交流のあった照井謹二郎・登久子夫妻が主宰、光太郎もその公演を何度も見た児童劇団「花巻賢治子供の会」の関係です。光太郎が見た公演の際に出演していた方々、それから賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でいろいろ語らせていただきます。

打ち合わせの前に、東北新幹線新花巻駅からレンタカーで、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。現在、特に企画展示は行っていないのですが、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」のフライヤーを置いてもらうために立ち寄りました。
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秋の気配も漂い、赤とんぼが群れを成していました。
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隣接する高村山荘。光太郎が戦後の7年間の蟄居生活を送った山小屋が、二重の套屋(とうおく・カバーの建物)内に保存されています。
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ここに居るであろう光太郎の分霊にご挨拶。花巻を訪れる際のルーティンです。

続いて道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん方面へ。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったところ、ユニークな案山子(かかし)がずらり。車を駐めて拝見しました。
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パリ五輪の出場選手や、今年発行された新札に肖像が使われている渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎等々。

そういえば太田地区の皆さん、以前も案山子制作やってたっけな、あの時は光太郎案山子もあったけど、今年はないの? と思ったら、ありました。案山子とはちょっと違うのかも知れませんが。さらに制作者は太田小学校の児童さんたちのようで。
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「高村山荘行きねこバス」だそうで、本当にあったらいいですね(笑)。

で、道の駅。
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何と、こちらにも案山子軍団(笑)。
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そしてやはり光太郎案山子(笑)。
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大沢温泉さんからの帰りの光太郎だそうで、首には本物の大沢温泉さんのタオル(笑)。笑わせていただきました。

道の駅で当方大好物の林檎を買い込み、街に戻って上記イベント打ち合わせ。その後、当方も大沢温泉さんに。
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この日はテレビのロケが入っていました。愛知テレビさんの番組で、レポーターはアーティスティックスイミング元日本代表の青木愛さんだそうでした。
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翌日は、以前から行こうと思っていた秋田県美郷町へ。そちらは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

去る二十日に花巻行。二泊してかへりました。廿一日には宮沢賢治十七回忌記念の賢治祭あり、小生も一席漫談をやりました。


昭和24年(1949)9月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

賢治の忌日・9月21日には現在も「賢治祭」が開催されています。今年も盛大に執り行われたとのことでした。

この年の花巻文化劇場に於ける光太郎の「漫談」。地方紙『花巻新報』にその筆記録が載り、『高村光太郎全集』では第20巻に後半部分が掲載されていますが、10年ほど前に前半部分を見付けました。少し読みにくいのですがコピペします。

白熊は雪がふれば元気になるが私も冬になると元気になる
賢治さんは雨ニモマケズだが僕は子供みたいにすぐ九十度位熱が出る、賢治さんの詩は誰でも知つているが、判る人はない、一歩一歩だんだんに深く進んでもらいたい、賢治は詩人である、詩はさけられないもので、誰れでも梅の花を見ていると体中が香がしてきて始めて見たような気がするが、人一倍謳うのが詩人である、この詩精神は誰でもありこれのない者は存在そのものがつまらない、この詩精神のない政治家は政治家でなくただの事務家でいやおうなしに肩に担いでやつているだけである、詩精神のある政治家は、あふれるような生き生きしたものを持つているし、この詩精神があれば一つの世界ができて美しくなる、義務でなく本当の仕事ができるし、これは金には替えられない、これをやれば一月に幾らになると考えれば精根がつきる、詩の精神は人を救うが、本当に人を救うものは宗教である
 ◇賢治は法華経に生きた
賢治は法華経の世界で、これを読んで皆んなが無上道に入るように云つた、徹頭徹尾法華経に生きた人間であつて、僕はそれまで信仰していない、宮澤さん自身から云えば唯法華経を信じて、仏の世界に入つてくれればよく、賢治さんに向つて詩人だといつても嬉しくない、ちつとも自分の思うことをいつてくれないと思う、賢治は一行書いても詩になる、僕等はその詩に魅せられる、賢治は宗教家で詩人、この二つをもつている、賢治には五感のよさがある、中学時代啄木に影響された、その後急に詩を書き始めた、春と修羅のころから急に……一字書いても詩になり魅力がある
 おおしくは月の夜を 雪の降るらし 黒雲 乱れたり
教わつてできたものではなく、こつちが圧倒される、賢治の詩を本当に読める人は偉いものだ

「おおしくは……」は賢治の「文語詩稿一百篇」中の一篇からの引用。正確には「鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし、黒雲そこにてたゞ乱れたり」です。

光太郎の賢治評、なかなか的確ですね。

光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。6月以来3ヶ月ぶりです。
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メインの目的は来月開催されるイベントの打ち合わせでした。そちらも昨日のうちに終わりまして、今日は少し足をのばし、秋田へ。

詳細は帰りましてから。

光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山小屋に隣接する花巻高村光太郎記念館さん関連で2件。

まず、『広報はなまき』9月15日号から。同誌、1月を除き1日、15日と月2回の発行ですが、毎月15日分にはほぼ毎号「花巻歴史探訪郷土ゆかりの文化財編」という記事が最終ページに載ります。主に市そのものや市内の博物館、記念館等の所蔵品を紹介するもので、今回もそうですが、光太郎関連も時々取り上げられます。

今号は先頃市に寄贈のあった中原綾子関連史料の中から「「みちのく便り」直筆原稿」。中原が主宰していた雑誌『スバル』に寄稿したもので、旧太田村時代の昭和25年(1950)から昭和26年(1951)にかけて不定期に4回掲載されました。そのうちの3回目の原稿が紹介されています。
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記事にあるとおり昭和25年(1950)に盛岡市の川徳画廊で開催された智恵子の紙絵展を見ての感想がメインです。一部分を抜き出しましょう。

 久しぶりに智恵子の作を見てやはり感動した。その上かうやつて一度にたくさん並べて見たのは初めてなので、膝の上で一枚づつ見るのとは違つた、その全体から来る美の話しかけに目をみはつた。一人の作が三十枚程あれば一つの雰囲気が生れる。人はその雰囲気の中で、丁度森の中をゆくやうな一種の匂はしさを感ずる。
 見渡したところ智恵子の作は造型的に立派であり、芸術的に健康であつた。知性の細かい思慮がよくゆきわたり、感覚の真新しい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあたたかさと微笑と、造型のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。

ここまで的確に智恵子の紙絵を表せるのは、やはりそれが自分に向けて作られた光太郎しか居ないのでは、と思われます。

現存する智恵子の紙絵はすべて、心を病んで品川のゼームス坂病院に入院してから作られたものです。健康だった頃、駒込林町のアトリエで、尾崎喜八の幼い娘にシンメトリー式の切り絵を作ってやったという尾崎の証言がありますが、その現存は確認できていません。

のちの心理学者的な人々の考察では、この紙絵が当時の智恵子にとって、人間世界と交信する唯一のツールだったとのこと。その通りでしょう。智恵子没後10年余り経ち、改めてずらっと並んだそれを見た光太郎。その胸中はいかばかりだったのか……。

この「みちのく便り」の原稿はじめ、中原綾子関連の寄贈品、おそらく来年には花巻高村光太郎記念館さんで展示されると思われます。今から楽しみです。

同館関連でもう1点。盛岡で開催されるイベントに同館として参加、だそうです。

同人誌展示即売会 岩漫63

期 日 : 2024年9月22日(日)
会 場 : 岩手県産業会館(サンビル)7階大ホール 岩手県盛岡市大通1丁目2番1号
時 間 : 11:00~15:00
料 金 : 無料

岩漫(がんまん)とは
◆岩漫は、同人誌を中⼼とした創作物を通じて自己表現する場であり、会場に集まった仲間達との交流の場でもあります。
◆岩漫は、様々な世代の参加者が相互交流を図り、同人誌分化が継承され発展していくことを目標とします。
◆岩漫は、岩漫実行委員会が運営しています。岩漫実行委員会は、参加者の有志から構成されています。
◆岩漫は、参加者全員でつくりあげます。運営の手の足りないところへのご協力をお願いします。
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こういう系のイベントですが、記念館の指定管理者である花巻高村光太郎記念会さんも参戦なさるそうです。一昨年行われたゲームとのタイアップ企画「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が好評だったことからの決断のようです。

当日は光太郎に関するミニ展示、詩集や回想録、オリジナルのミュージアムグッズの販売などを行うとのこと。光太郎ファンの新たな拡大に繋がるならいいことですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】IMG_0004

過日那須にて建碑式遊ばされし趣おかげにて小生もかかる名所に筆のあとを残すことを愉快に存じます。


昭和24年(1949)8月4日(日) 
佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が旧太田村に移る直前の約1ヶ月、自宅離れに住まわせてくれたりと、様々な形で光太郎に援助を惜しまなかった総合花巻病院長・佐藤隆房。那須出身の亡父・房之助の短歌を刻んだ歌碑の建立を思い立ち、光太郎に揮毫を依頼、はれて那須町内の寺院に建立されました。

右は拓本。「かくばかりつゝじの花のさかゆるを知らぬもをしきみやこ人かな」と読みます。

しかし、この碑は同地に現存していません。無理解のため撤去されてしまいました。原本が佐藤家に残っているのが救いです。悪意があって撤去したわけではないのですが、それにしても……です。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさん。最近のご活動を。

まず、市内のワンデイシェフの大食堂さんで、「こうたろうカフェ」として光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジによる昼食の提供。基本的に不定期ですが、直近で9月4日(水)に行われたとのこと。
9月ワンデイ
メニュー表 (3)
1725687629465 ふわとろ杏仁豆腐
枝豆。南蛮味噌のせご飯 白身魚のから揚げトロピカルソース
オカワカメと菊花、ゴーヤの佃煮、青トマトきゅうり
メニューは「白身魚のから揚げ トロピカルソース」「夕顔のトロトロ蟹あん」「ゴーヤの佃煮」「オカワカメと菊花の酢の物」「茄子と胡瓜の浅漬け」「バターナッツの満足スープ」「南蛮味噌ご飯」「ふわふわ杏仁豆腐」「コーヒー」だそうで。

レシピというか、食材を細かく教えていただきました。教えていただいても当方には作れませんが(笑)、以下を見て出来る方はご参考までに。

ゴーヤの佃煮 ゴーヤ、裂きイカ、醤油、三温糖、五倍酢、白ごま
バターナッツの満足スープ(カボチャのポタージュ) バターナッツカボチャ、玉ネギ、コンソメ、牛乳、生クリーム
南蛮味噌 ピーマンと麹、三温糖、青唐辛子
夕顔のトロトロ蟹あん 豪華カニ缶の餡をかける
トロピカルソース 夏野菜とパイン、桃
ふわふわ杏仁豆腐 マシュマロと牛乳で作る杏仁豆腐

続いて毎月15日、、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。こちらも光太郎がらみの献立で、やつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられています。
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内容的には「栗ご飯」「サンドイッチ」「チキン南蛮」「かぼちゃの甘煮」「きのこ炒め」「きゅうりの酢の物」「卵焼き」「フルーツ」。

栗やらきのこやら、秋らしい食材ですね。当方、栗ご飯は大好物でして、画像を見てパブロフの犬状態でした(笑)。

やつかの森LLCさん、他にも花巻市内で光太郎に関する「出前講座」をなさっています。

9月6日(金)には「シニア大学講座」とのことで、花巻市生涯学園都市会館(まなび学園)さんで。寸劇を交え、休憩時間には得意の料理もふるまわれたとのこと。
シニア大学1 シニア大学3
シニア大学2 シニア大学5
シニア大学6 シニア大学7
9月11日(水)にも、同じ会場で今度はシニアの方々に招かれての講座をなさったそうです。

わかうさ7 わかくさ2
わかくさ1 わかくさ3
わかくさ5 わかくさ6
わかくさ8 わかくさ9
地元でこういう団体さんがいらしてくださると、ありがたいところです。お一人お二人で、となると無理なのでしょうが、グループでやられることでタイトな日程にもある程度対応できると思われますし。

花巻といえば宮沢賢治。当方、よく存じませんが賢治関連ではこういうグループなりがいろいろあるのでは、と思っております。しかし光太郎がらみではやつかの森LLCさんのみ。ありがたいかぎりです。

今後とも様々な場面でのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

恐らく東京でも珍らしいであらうと思はれるカビヤのびん詰めまで在中、そぞろに戦前の頃を思ひ出しました。カビヤの珍味は小生好物中の好物にて、戦前智恵子の健康であつた頃稀に入手して一緒に酒の肴として賞味した記憶があり、なつかしい限りでした。


昭和24年(1949)7月14日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

「カビヤ」はキャビアのことですね。当時はとてつもない寒村だった花巻郊外旧太田村にいても、方々の支援者からいろいろな食料が送られてきて、なかなかに光太郎の食卓は充実していました。これも人徳ですね(笑)。

光太郎第二の故郷・岩手花巻の花巻南高さん。光太郎と交流のあった宮沢賢治の妹にして、賢治の「永訣の朝」等に謳われたトシの母校であり、トシ自身も短期間教壇に立っていました。

そちらの文芸部さん発行の部誌『門』の第18号をいただきました。
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まず美しい表紙に驚きましたが、部員の生徒さんが和紙を染めた夾纈(きょうけち)染めだそうで。これは正倉院御物にも使われている技法です。美術部さんとコラボして染めにチャレンジされたとのことですが、よき伝統を受け継ぎ、新しいものをクリエイトしていくという姿勢には感心させられました。

昨年送っていただいた第17号でもかなりの分量で光太郎に触れていただきましたが、今号はさらにパワーアップし、2箇所に分けて「特集Ⅰ わたしたちの高村光太郎」と銘打ち、約30ページ(全体の3分の1ほど)費やして下さいました。ありがたし。
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1箇所目は座談「わたしの高村光太郎を語り合う」と題し、当地で光太郎顕彰活動に取り組まれているやつかの森LLCさんのお三方、それから戦後間もない昭和20年代から児童劇団「花巻宮沢賢治子供の会」で活動されていた熊谷光さんへの聞き書きです。

特に「食」に軸足を置いた活動をなさっているやつかの森LLCさん、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」や、市内東和地区の花巻ワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」などで、光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジなどをなさっています。そうした中で改めて見えてきた光太郎の姿などのお話は興味深く拝読させていただきました。

それから実際に生前の光太郎をご存じの熊谷さんのお話は、実に貴重な証言と存じます。「花巻宮沢賢治子供の会」は賢治の童話を劇化、花巻の中心街と、光太郎が蟄居していた旧太田村の山口分教場(のち山口小学校)で公演を行っていて、光太郎はそれを実に楽しみにしていました。熊谷さんの回想から。

私たちが行った時、先生はとても喜ばれて、帰りは山口小学校の道路の下の大きな道路まで出ていらして、私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくださいました。それが、すごく記憶に残っております。

子供たちが見えなくなるまで手を振り続けた光太郎を思い浮かべると、うるっときてしまいました。子供のいなかった当時60代後半の光太郎、「花巻宮沢賢治子供の会」の少年少女たちを本当の孫のように感じていたのかもしれません。
賢治子供の会
上の画像では、熊谷さん、最前列一番左だそうです。今年亡くなった、賢治実弟清六令嬢の宮沢潤子さんもメンバーでした。

そもそもなぜ「花巻宮沢賢治子供の会」ができたのかについても証言が。それによると賢治の教え子だった故・照井謹二郎氏が、戦後になっても戦争ごっこをして遊んでいる子供たちを見て、これではいかん、と思ったのがきっかけの一つだそうです。なるほど、と激しく納得しました。

ところでまだ詳細情報が出ていませんが、10月27日(日)、熊谷さん他「花巻宮沢賢治子供の会」に在籍されていた方、清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でまた花巻にてトークショーを行います。詳しく決まりましたらまたご紹介いたします。

特集のうちのパートⅡは、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」のレポートがメイン。この際は文芸部の生徒さんたちも登壇し、発表や朗読をなさいました。それから家庭クラブの生徒さんと共同で「智恵子のエプロン」の再現。

昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と吉田幾世」で、当方が大正期の『婦人之友』に載った智恵子デザイン・制作のエプロンについてご紹介したところ、それを復刻、披露して下さいました。
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実際に制作に当たった家庭クラブの生徒さんの文章も掲載されています。柿渋の酒袋(おそらく智恵子が実家の長沼酒造から持ってきたか取り寄せたか)が分厚くてミシン縫製に手こずったというお話や、酒袋の規格でほとんどそのまま裁断しなくて使えたというお話など、やってみないとわからないことも。素晴らしいと思いました。

その他、詳しくご紹介する余裕がありませんが、生徒さんたちの詩歌や小説、戯曲などにも感心させられましたし、活動を支える顧問の先生の御尽力なども垣間見えました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

やさしいお手紙は山の中に一人で住む六十六歳三ヶ月の老人の心を静かに慰めてくれました。殊に新しい村の娘さんからなので尚よろこびました。


昭和24年(1949)6月3日 山本武子宛書簡より 光太郎67歳

新しい村」は正しくは「新しき村」で、『白樺』時代からの光太郎の盟友・武者小路実篤が開いた生活共同体。農耕や芸術制作を基本に据え、その意味では花巻郊外旧太田村の光太郎のライフスタイルとリンクする部分も。

現在も埼玉県毛呂山町で存続していますが、現状はかなり厳しいようです。

まず、毎月恒例の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんテナントのミレットキッチンフラワーさんで、各月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分。メニュー考案には花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが協力なさっています。
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今月のメニューは「鰹の南蛮漬け」「牛肉のアヒージョ」「茄子の揚げ浸し」「青海苔入り卵焼き」「小豆ご飯」「ジャガイモ入りカレー炒飯」「ミニトマトゼリー」「瓜の漬物」だそうで。

けっこうこってり系だったようですが、夏バテ予防にはいい感じだったみたいです。卵焼きはいつも塩麹入りなのですが、今月は新しい試みで青海苔入り。それも美味しそうですね。

基本、光太郎が実際に作った料理や使った食材を参考に、現代風にアレンジされたものですが、同様のコンセプトでワンデイシェフの大食堂さんというお店でランチを提供する「こうたろうカフェ」、今月はお休みで次回が9月4日(水)だそうです。先月分はこんな感じ

今朝の段階ではHP上に来月のメニューが出ていませんが、また凝ったメニューになるのでしょう。

お近くの方(遠くの方も(笑))ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小豆をよろこんでいただいて感謝しました。今年もかなりとりましたが今度はもつと多く作るつもりです。ウヅラ豆の大増産もやらうと思ひます。


昭和24年(1949)1月5日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村での畑作も軌道に乗り、作った作物を他に送れるほどになっていたわけで、「光太郎ランチ」でも使われていた小豆をお裾分けしています。

「今年」とありますが、年が改まっていますので正確には「昨年」、まぁ、「今期」という意味なのでしょう。

過日ご紹介した、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた書簡等が花巻市に寄贈された件につき、仙台に本社を置く『河北新報』さんが報じて下さいました。

「空襲」「肺炎」「仕事」…高村光太郎がつづった手紙64点寄贈 送り先の孫が岩手・花巻市に

 詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が詩人中原綾子(1898~1969年)に宛てたはがきや手紙計64点が7月、光太郎ゆかりの岩手県花巻市に寄贈された。綾子の孫が米カリフォルニア州の自宅で保管していたもので、光太郎の肉筆がまとまった形で残された非常に貴重な資料。市は高村光太郎記念館(花巻市)での展示を検討している。

戦時中の空気感や光太郎の息遣いを伝える
 綾子は詩人与謝野晶子に師事し、光太郎も寄稿した文芸誌「明星」で活躍。光太郎が統合失調症を患った妻智恵子の看病に疲弊した際は、手紙を送り合って励ました。
 はがきや手紙の執筆時期は1929~51年。ペンによる洒脱(しゃだつ)な筆跡が書家の顔ものぞかせる。疎開先だった宮沢賢治の実家から送った45年のはがきは、東京大空襲による自宅焼失や肺炎の回復、仕事への意欲を伝えている。
 49年の手紙には、綾子が主宰した雑誌「スバル」への寄稿「みちのく便り」を記載。岩手県奥州市水沢で眺める星空の美しさを「頭に覆いかぶさるよう」と情感豊かに表現し、書き損じや修正の跡も見られる。
 資料のほとんどは活字化され、高村光太郎全集に収録されているが、現物は公開されていなかった。市は専門家と資料を整理し、展示時期や方法を協議する。
 記念館の梅原奈美館長は「保存状態が良く、インクの筆跡も鮮やか。活字にはない戦時中の空気感や光太郎の息遣いが感じられる」と評価する。
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また、花巻市さんの広報誌『広報はなまき』8月15日(木)号にも寄贈資料の内、一点が紹介されています。
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花巻市の担当者氏からデータを送っていただきまして、概観したところ、『河北新報』さん記事中の「資料のほとんどは活字化され、高村光太郎全集に収録されている」というわけでもなく、『高村光太郎全集』未収録の書簡も7通含まれていました。うち1通は中原が主宰していた雑誌『スバル』に載ったアンケート「与謝野寛・晶子作中の愛誦歌」に対する回答で、アンケートとしては『全集』に記載されていますが、他の6通はまったく活字化されていないものでした。

『全集』未収のものは高村光太郎研究会さんから来春発行予定の会誌『高村光太郎研究』中の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。

『全集』既出のものも、以前にも書きました通り、昭和10年(1935)前後の、心を病んだ智恵子の病状が詳細に書かれたものなど、後の光太郎智恵子研究に大きく影響を及ぼしたものもありますし、中原の歌集や詩集、中原主宰の雑誌『いづかし』『スバル』等に載った詩文の原稿も含まれ、「書」として見ても優品です。

「専門家と資料を整理し、展示時期や方法を協議」とありますが、早くても来年になると存じます。詳細が決まりましたらまたお知らせいたします。

【折々のことば・光太郎】

絖と一緒にいろいろ御恵贈の文房具まことにありがたく頂戴いたしました。在中のボールペンも珍らしく、早速此の通り使用してみました。大変滑らかなものだと思ひました。先日のおてがみで絖にはモナリザを書く事にいたしました。

昭和24年(1949)1月5日 野末亀治宛書簡より 光太郎67歳

「絖」は「ぬめ」と読み、書画を書くための絹布です。「モナリザ」は遠く明治末に書かれた詩「失はれたるモナ・リザ」。さすがにこれはボールペンで書きませんでしたが。

どうもこの書簡が書かれた際が、光太郎生涯初のボールペン使用だったようです。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で行われた市長さんの定例記者会見の中で、下記の件が発表されました。

令和6年7月 定例記者会見 No6 高村光太郎 歌人中原綾子宛ての手紙等が寄贈されました

 高村光太郎が歌人中原綾子宛てに書いた、はがきや手紙など64点について、高村光太郎記念館に寄贈の申し込みがありました。

■寄贈資料と点数[]
 高村光太郎から中原綾子宛て
  はがき 41点
  封筒入り書簡 20点
  電報 1点
  封筒 1点
  その他封筒 1点
  合計 64点

寄贈者と寄贈の経緯
■寄贈者
 中原毬也(まりや)氏 米国カリフォルニア州在住
■寄贈の経緯
 中原毬也氏は歌人中原綾子の孫。毬也氏が保管している祖母(中原綾子)あて高村光太郎の書簡等について散逸しないように保存してほしいとの意向があることについて、毬也氏の親戚の方から市に連絡があったものです。
 毬也氏は、5月18日に高村光太郎記念館を訪問され、記念館と高村山荘をご覧いただいた際に当該資料をお持ちになり寄贈の申し出をいただきました。
■中原綾子について
 中原綾子(明治31(1898)年~昭和44(1969)年)は与謝野晶子(明治11(1878)年~昭和17(1942)年)門下の歌人で文芸誌『明星』の同人。高村光太郎(明治16(1883)年~昭和31(1956)年)も『明星』の主要な寄稿者であり、綾子氏と親交がありました。後に綾子氏が主宰した雑誌『スバル』などに光太郎は寄稿しており、今回寄贈された手紙にもその原稿が見られます。旧姓は曾我綾子であり、結婚により中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

寄贈資料の特徴と今後の予定
 今回寄贈された資料には高村光太郎が疎開していた宮澤清六宅から出した手紙や、太田山口から郵送した原稿・手紙など、花巻市内に居住していた時に書いた手紙があります。既に『高村光太郎全集』において紹介されている資料がほとんどですが、光太郎の筆跡がわかる資料としてまとまったものであり、非常に貴重なものと考えています。今後専門家にも見ていただき、資料を整理した後、高村光太郎記念館で展示をしていきたいと考えています。

中原綾子はプレスリリースにある通り、与謝野晶子門下の歌人です。同門ともいうべき光太郎とは早くから交流があり、自らの歌集等の題字や序文などを書いてもらった他、主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』等に繰り返し寄稿や装幀を仰ぎました。

昭和10年(1935)刊行の『悪魔の貞操』。表紙と扉に光太郎の書いた題字が使われています。
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光太郎は序詩も寄せました。
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   「悪魔の貞操」に題す

 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。


はじめに光太郎が送ったのはこの詩ではありませんで、以下の詩でした。
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   人生遠視

 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる


のちに詩集『智恵子抄』に収められた「人生遠視」です。

さすがに中原もこれにはダメ出し。光太郎もなるほど、おっしゃる通り、ということで書き直しました。「人生遠視」は中原主宰の雑誌『いづかし』に掲載されました。

昭和10年(1935)というと、智恵子の心の病がもはや完全なものとなり、前年に預けていた九十九里浜の智恵子実母のもとから引き取って、南品川ゼームス坂病院に入院させた年です。光太郎もかなりテンパッていたようですね。

画像は光太郎が手元に残した控えの原稿ですが、今回、中原に送られた二篇の原稿も寄贈されています。

光太郎没後の昭和31年(1956)6月、『婦人公論』で光太郎追悼特集が組まれ、中原は光太郎から送られた書簡の一部を公表しました。題して「狂える智恵子とともに」。これを読んだ当時の人々は皆度肝を抜かれました。それまで、『智恵子抄』所収の詩文等では明らかにされていなかった智恵子の病状がこと細かに、さらに複数書簡で長きにわたって記されていたからです。結局、その後もここまで克明に智恵子の病状が書かれたものは見つかっておらず、以来、研究者たちなどは必ずと言っていいほど中原宛の書簡を引用しています。
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研究者以外にも、例えば野田秀樹氏は智恵子を主人公とした舞台「売り言葉」で。

遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類(たぐ)い希(まれ)なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ! これは、智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! しかも、光太郎に同情したその女流詩人から送られた見舞いの林檎(りんご)を智恵子は食べさせられたのであります。

林檎云々は野田氏の創作と思われますが。

で、これらの智恵子の病状を綴った書簡も今回寄贈されました。

というか、『高村光太郎全集』に収められた中原宛書簡49通、すべてが寄贈されていますし、それ以外にも6通。それとは別に雑誌『スバル』宛となっているものもありますし、草稿の類も複数。光太郎、中原の共通の師である与謝野夫妻に触れられたものも多く、まさに質、量共に一級品です。

ただ、一つ残念なのは、『悪魔の貞操』や『スバル』などの題字や装幀原画などが含まれていなかったこと。それがあれば超一級でしたが、印刷などの関係で中原の手許に残らなかったのでしょう。ちなみに光太郎没後の昭和34年(1959)に出た中原の歌集「灰の詩」には、口絵として複数の光太郎揮毫が使われていますが、それらも寄贈資料に含まれていませんでした。
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それでも一級の資料類です。いずれ花巻高村光太郎記念館さんで展示の運びとなるはずですが、早くても来年でしょう。

詳細が決まりましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

おたづねの智恵子の着物に対する嗜好などを申上げますと、智恵子は概して大柄の模様を好み、又それが似合ひました。縞でも太いものを用ゐました。智恵子は自分で着る物を織つてゐたので、縞などは自由に工夫してゐました。例へば袖口のところに青い大きな縞が一本出るやうに織つて着て歩いたりしてゐました。色は偏する事なく、いろんな色調を草木染で染めてゐました。赤は蘇黄(スワウ)を用ゐました。着物の裾は長めに着てゐました。帯はあまり広くないのをしめました。髪は単純に七三に分けて丸みをもたせてうしろでまるめてゐました。


昭和23年(1948)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

『智恵子抄』を舞踊化するための参考にとの問い合わせに対する返答の一節です。智恵子が亡くなってちょうど10年、さらにこうした服装をしていたのはもっと昔。それが昨日のことのように詳細に書かれていて、舌を巻かされます。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、主に「食」を通じて光太郎顕彰をなさっているやつかの森LLCさんによる最近の取り組みを。

まず、同市土沢地区のワンデイシェフの大食堂さんで、7月13日(土)に「こうたろうカフェ」としてご出店。こちらのお店は様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗するというシステムです。
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やつかの森LLCさんでは、基本、日記等に書かれている実際に光太郎が自炊していた料理や使っていた食材などを参考に、現代風の料理に仕立てています。

メニュー的には以下の通り。

「自家製サラダチキン チリソース添え」
ボイル海老とスナップエンドウが添えられています。

「じゃがいもと牛肉のしぐれ煮」015
じゃがいもは新じゃがだそうで。

「夏野菜の揚げびたし」
朝採りの茄子とインゲンが使われています。

「小松菜のじゃこ炒め」
小松菜はゆずポン酢であえてじゃこと白ごまをかけて味を調えています。

「きゃらぶき」
蕗ですね。

「紫蘇巻き胡瓜と茗荷酢漬け」

「ズッキーニの冷製ポタージュ」
玉ネギ、ジャガイモの他にお粥が加えられているとのこと。

「黒米ご飯」
アントシアニンたっぷりでもっちりしているそうです。

「フルーツミルク寒天」
最近、彼の地で栽培が広まっているブルーベリーが使われています。

そして締めは「コーヒー」。

夏らしく、さっぱりとしたヘルシーな感じですね。

土曜ということもあり、事前に予約で完売だそうでしたが、初めての方もいらっしゃったとのことで、輪が広がっているんだなという感じです。

昨日は、毎月15日に道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで調理・販売を行っている弁当「光太郎ランチ」の販売日。メニュー考案はやつかの森LLCさんです。
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こちらのお品書きは「古代米入りご飯」「バターライス」「肉じゃが」「缶詰サンマの揚げ焼き」「いんげんのごま和え」「きゅうりの酢の物」「茄子田楽」「塩麹卵焼き」「水羊羹」。

「こうたろうカフェ」のメニューとかぶっていないところがすごいと思いました。なかなか2本立てでというのも大変かと存じますが、今後とも続けて行かれていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生もおかげで健康、毎日畑仕事にいそしんで居ますが、僅かばかり、力を入れると、比較にならぬほど豊かな酬いをかへしてくれる自然の恵みに感謝せずにゐられません。自然界の生命力は実に不思議です。


昭和23年(1948)7月11日 富谷武宛書簡より 光太郎66歳

青年時代から「自然」を讃美してきた光太郎にとって、農業はある意味天職に近いものがあったのかも知れません。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展、今日開幕です。

山口山(やまぐちやま)のなつやすみ

期 日 : 2024年7月13日(土)~8月31日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

木工房さとう(さとうつかさ氏)の制作した高村光太郎や宮沢賢治をモチーフにした木工のオブジェを展示します。

高村光太郎のやじろべえ
高村光太郎の山の暮らしをモチーフとした木工からくり作品
宮沢賢治の作品をモチーフとしたやじろべえ
宮沢賢治の作品をモチーフとしたオブジェ
その他オリジナルのオブジェなど

木工房さとうの作品は、ほっこりした雰囲気があり、見る人の心を和ませてくれます。また、木工からくり作品の細かな仕掛けや動きは、思わず見入ってしまうような魅力があります。この夏休み、木工房さとうの作り出す和やかな世界をお楽しみください。
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奥州市胆沢に「木工房さとう」を構え、木のおもちゃやカラクリ作品などを製作しているさとうつかさ氏の作品展。高村光太郎記念館さんでは昨年開催された「山口山の木工展」に続き、2回目となります。昨年のレビューはこちら

ちなみにさとう氏の作品、同館ロビーにも常設展示されています。
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ここは光太郎が暮らした旧太田村。この近辺で採れた木材等を使われているそうです。木材ならではの温かみと、佐藤氏の卓越した技倆による工夫を凝らしたからくり、しかし機械的でない手作り感。ほっこりします。

今回の展示では、さらにパワーアップなさっているのでは、と思われます。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

あれから急に春もたけなはとなり、今山桜の盛りにて美しく、地表も薄みどりを呈し、ゼムマイ、ワラビが出て来ました。


昭和23年(1948)4月30日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

山口山にもようやく遅い春が巡ってきました。

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