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現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の高村光太郎花巻疎開80年企画展「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」につき、先月の地元紙『岩手日報』さんに続き、やはり地元紙の『岩手日日』さんが報じて下さいました。

花巻ゆかり 2人に焦点 高村光太郎記念館 賢治全集、写真展示

 詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)と、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の関わりに焦点を当てた企画展は、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。
 賢治を世に広めるために光太郎が果たした役割などを資料で紹介し、花巻にゆかりある両偉人の人生が交錯した軌跡をたどる。3月31日まで。
 光太郎と賢治は、東京の光太郎のアトリエで1度だけ面会した。賢治没後の34(昭和9)年、東京で開かれた賢治追悼の会に賢治の実弟・清六が「雨ニモマケズ」の記された手帳を含む遺稿を持ち込み、これに光太郎をはじめとする著名人が感銘を受けた。それから全集刊行の動きが起こり、光太郎と詩人草野心平の手により同年、「宮沢賢治全集」(全3巻)が初めて文圃堂から刊行された。
 高村光太郎花巻疎開80年企画展「光太郎と賢治-宮沢賢治全集ができるまで」と銘打った同展では、最初の全集に加え、宮沢賢治全集全7巻(十字屋書店)、宮沢賢治文庫全7巻(日本読書組合)、宮沢賢治全集全11巻(筑摩書房)、光太郎揮毫(きごう)の書軸「東ニ病気ノ母アレバイッテ看病シテヤリ」、花巻で過ごす光太郎の写真などを展示。編さん者の一員として関わった賢治の友人の藤原嘉藤治の生涯や、光太郎、嘉藤治、清六の関係性にも触れている。
 展示している全集は、いずれも光太郎が編集や装幀作業に関わっており、自ら書きつづった題字や表紙の印刷についての所感も残されている。
 同展は市が主催。監修した高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表は「賢治を世の中に出す大きな力になった一人が光太郎。2人をつないだ草野心平、清六、そこを埋めた嘉藤治らにより、賢治の作品が現在も読まれているということを知ってもらいたい」と意義を語る。
 今月21日午前10時からは、同市大通りのなはんプラザで小山代表、宮沢和樹林風舎代表取締役、瀬川正子共同園芸取締役によるトークイベントを開催する。参加無料。

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取材を受けたのは昨年12月でして、その折には「年内には記事にしたい」ということでしたが、一昨日に掲載されました。感触としては、記者氏、全くといっていいいほど賢治と光太郎の関わりをご存じなく、実に興味深そうで、「こりゃベタ記事にはするべきでない」と考えられたようで、お渡しした50ページほどの冊子資料を読み込まれてから大きく取り上げて下さったようです。ネット上ではリード文部分のみの公開となっていますが。

冊子資料は同館で販売されているかどうか(いろいろ面倒な事情がありまして)。記事の最後にあるトークイベントの際には大々的に売られると思われます。
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ぜひ足をお運び下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)39 『独居自炊』 

昭和26年(1951)6月15日 龍星閣 高村光太郎著
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目次
 独居自炊
 子供の頃
  父光雲のこと 母と姉 父の道をついで
 姉のことなど 母のこと 美術学校時代 彫刻家ガツトソン・ボオグラム氏
 ロダンの手記談話録 七月の言葉 一夏安居の弁 「道程」について 自分と詩との関係
 小刀の味 生きた言葉 触覚の世界 自作肖像漫談 へんな貧 春さきの好物 雷ぎらひ
 しやつくり病 ほくろ 悠久山の一本欅 谷中の家 二世代 蟻と遊ぶ 日記より
 がんがん三つ口 新茶の幻想 三十年来の常用卓 智恵子のにひ盆

光太郎エッセイ集としては2冊目。ただし戦時中の昭和18年(1943)、同じ龍星閣から出た『某月某日』とかなりの部分がかぶっています。

今週土曜日のオンエアです。

土曜ゴールデン 温泉タオル集め旅21 この冬行きたい雪見の絶景露天SP 八幡平~花巻12湯 in岩手

地上波テレビ東京 2026年2月7日(土) 18:30〜20:55

これまで全国各地の温泉地を巡ってきた大久保・川村の温泉タオル集め旅。21回目の舞台となるのは、歴史と自然に包まれ、さまざまな泉質の名湯・秘湯がひしめく“岩手県”へ!旅をするのは、温泉好きな大久保佳代子と、温泉ソムリエアンバサダーの資格を持つ、たんぽぽの川村エミコ。道中には・・・
▽乳白色の野趣あふれる露天風呂
▽立ったまま入浴する深さ1.25mの足元湧出の混浴
▽あわい緑色の美肌の湯など

岩手山の美しい稜線を望み、八幡平の山並みに囲まれた秘湯・松川温泉をスタート。入浴ヘビーローテーション。各施設のロゴ入り温泉タオルを計9枚集めながら、花巻温泉郷の奥座敷、新鉛温泉にある愛隣館の露天風呂に翌日午後5時までのゴールを目指す、1泊2日のガチンコ旅です!地元の人に聞き込みをしながら、その土地ならではの“絶品グルメ”や、“絶景の観光スポット”を大満喫。

スタートとゴール以外、向かう温泉地は2人で自由に決めてOK。ただし、温泉に入浴してからでなければタオルを買うことができない!せっかく温泉に入っても、タオルがレンタルのみや無地だった場合はノーカウントという厳しいルールも健在。今回の助っ人には、特別に2名が参戦!さらに旅を盛り上げます! 1日目に迎えたのは、お笑いトリオ3時のヒロインのゆめっち。2日目に迎えたのは、タレントの岡田結実。

2019年『女芸人No.1決定戦 THE W』で優勝を飾り、人気の波に乗るゆめっちと、2025年4月に一般男性との結婚を発表し、幸せオーラ全開の岡田は、1日5回以上の度重なる入浴や、モデル顔負けの早着替えに耐え、旅の助っ人として活躍できるのか? これまで13勝7敗と高い確率で成功を収めている大久保・川村。果たして21弾の舞台となる岩手県で無事ロゴ入り温泉タオルをゲットし、ゴールできるのか?

出演者 大久保佳代子(オアシズ)、川村エミコ(たんぽぽ) 
ゲスト ゆめっち(3時のヒロイン)、岡田結実
ナレーション 杉本るみ
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温泉好きの当方としては外せない番組で(笑)、ほぼ毎回拝見しています。

大久保佳代子さん、川村エミコさんのコンビと、毎回異なるゲストの方が温泉地巡りをし、温泉宿や公共入浴施設で販売されているタオルをゲット、そこに宿や施設オリジナルのロゴが入っていればOK、おおむね1泊2日で設定された規程枚数のタオルを集められればご褒美の豪華料理にありつけるというルールです。

令和3年(2021)4月に放映が始まり、今回で21回目。これまで光太郎智恵子の足跡が残る温泉地が何度か取り上げられました。福島岳温泉さん、栃木那須塩原温泉さん、信州別所温泉さんなど。しかし岩手が舞台になったことはなかったように思います。ただ、その2ヶ月前に放映されたシーズンゼロ的な「土曜スペシャル 冬本番! 雪見の名湯&絶景露天風呂SP~いいお湯・夢気分~」では、光太郎や宮沢賢治が愛した大沢温泉さんが取り上げられました。

今回は「花巻12湯」がサブタイトルに入っています。12湯には大沢温泉さん、それからやはり光太郎が通った鉛温泉さん、花巻温泉さん、台温泉さん、そして志戸平温泉さんが含まれます。番組説明欄に「立ったまま入浴する深さ1.25mの足元湧出の混浴」とあるのは鉛温泉さんですね。それからゴールは
新鉛温泉の愛隣館さん。こちらは新しい宿ですが、12湯で初めて光太郎が浸かった西鉛温泉の系譜を継ぐ温泉地です。

2年程前だったか、番組のオリジナルグッズプレゼントにスマホから応募しまして、その際にコメント欄的な項目があったので「ぜひ花巻12湯を」と書きました。おそらく他にも同じような意見が寄せられていたのでしょう。

視聴可能な方、ぜひご覧下さい。テレ東系の放映が無い地域の方は、TVerさんなどの配信サービスでどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)35 『典型』 

昭和25年(1950)10月25日 中央公論社 高村光太郎著
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目次
 序
 雪白く積めり
 暗愚小伝
  家
   土下座 ちよんまげ 郡司大尉 日清戦争 御前彫刻 建艦費 楠公銅像
  転調
   彫刻一途 パリ
  親不孝
   親不孝 デカダン
  蟄居
   美に生きる おそろしい空虚
  二律背反
   協力会議 真珠湾の日 ロマン ロラン 暗愚 終戦
  炉辺
   報告 山林
 「ブランデンブルグ」
 脱卻の歌
 人体飢餓
 東洋的新次元
 おれの詩 悪婦
 山荒れる
 月にぬれた手
 鈍牛の言葉
 典型 
 田園小詩
  山菜ミヅ 山のひろば 山口部落 かくしねんぶつ クロツグミ クチバミ 別天地
  岩手の人 山からの贈物 この年

旧著の再編や選詩集的なものを除くと、光太郎生涯最後のオリジナル詩集です。光太郎没後に『典型以後』が出されますが、そこに光太郎の意図は介在されていません。光太郎としてもおそらく生涯最後のオリジナル詩集となるだろうという予感はあったと思われます。

発行日が10月25日。第一詩集『道程』(大正3年=1914)も10月25日でした。意図してこの日にしたのか、偶然なのか、何ともいえないところですが。

ちょっと前ですが、1月21日(水)の『朝日新聞』さん岩手版に以下の記事が載りました。

岩手独特の住所表記「地割=チワリ」の謎 逆境公務員の苦心の結果?

 岩手では普通でも、県外出身者は首をかしげる住所表記の「地割」。私も昨年4月に盛岡に赴任して初めて知った。「ちわり」と読むらしい。これは岩手だけ? だとしたらなぜ? 1年足らずぼんやり抱えていた疑問について、探ってみた。
 「○○市××第5地割30番」のように使われる「地割」。私は岩手に接する青森、秋田、宮城の3県で勤務経験があるが、大字(××)に続く表記は「丁目」「番地」が一般的だ。
 ネットで検索すれば関連情報は出てくるが、確証が持てない。まずは手堅そうな岩手県庁のいくつかの部署に尋ねたが、答えは出ず。中には「他県にはないのですか?」と驚く職員もいた。かつて調査したことがあるという県立図書館も、当時の担当者が不明で詳細な説明はできないとのこと。
 探し回った結果、かつて似た疑問を覚え、調べたという県立博物館専門学芸調査員の工藤健さんに出会えた。
 「『地割』は岩手で独自に生まれたと考えられます。確認できる史料で最初に現れるのは、明治初期の地租改正時。県が地権者に発行した『地券』に出てくるんです」
 地租改正は、明治新政府が行った課税制度の改革だ。それまで村落単位で課せられていた税は、個人への課税に変わった。県や府が実態調査し、土地の所有者を証明する「地券」を地権者に発行。そこに「地割」の文字が記されたという。
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■仙台藩領はなし008
 ではなぜ、そんな文言が記されたのか? ヒントは江戸後期、盛岡藩が徴税のために作った地図にあった。
 各村の地図には、線引きされて「い」「ろ」「は」などと仮名で印が付いた区画が記されていた。その各区画が地租改正後、「第○地割」となっていったことが史料から確認できたという。
 「この『い』『ろ』『は』にもそれぞれ、元来の地名がありました。しかし、個人の土地所有の根拠となる地券に『地割』と記されたことで、そっちが正式な地名になっていったんです」
 このため、北上市近辺より南の仙台藩領だった地域は「地割」がない。元は盛岡藩でも、地租改正の作業時には岩手県ではなかった今の八幡平市の一部も同様だ。こうしたことからも地租改正時、岩手県が盛岡藩の資料を基に、独自に「地割」を導入したことが分かる、と工藤さんは解説する。
 しかし、元の地名をなくして数字化するとはずいぶん大胆な……。
 「証拠がなく、あくまで想像ですが」と断った上で、工藤さんは語る。
 「明治の新政府から届く膨大な命令に、なんとか対応しようとした県職員の苦心の末の策だったのでは。大量の事務仕事を乗り切るため、整理しやすい地名にしたのかもしれません」

■3分割に耐えて
 戊辰戦争で幕府側に付き、賊軍となった盛岡藩は明治に入り3分割され、他藩の管理下に。1870(明治3)年にそのひとつが盛岡県になった後も、江刺県(旧盛岡藩領)や胆沢県(旧仙台藩領)との統廃合などを経て、今の岩手県として落ち着くのは76(明治9)年。地租改正は、そのさなかの大事業だった。
 「岩手で『地割』が生まれた時代の印象は、高村光太郎が『岩手の人沈深牛の如(ごと)し』とうたった詩に重なります。逆境でも人々は思慮深い牛のように沈着に耐え、『その成すべきを成す』日に備えていたのでしょう」
 地租改正から45年。盛岡出身の原敬が初の平民宰相に就いた。そう考えると、「地割」の語感も味わい深く響いた。


「地割」。当方も以前から気になっていました。実際、花巻の高村光太郎記念館さんの住所が「花巻市太田第3地割3-9」だったり、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんは「花巻市轟木第7地割203」だったりするものですから。

地租改正、地券発行の際に分かりやすく、という説はうなずけますね。ちなみに以前に書きましたが、自宅兼事務所のある千葉県北東部では住所に「イ」「ロ」「ハ」が使われていて、これも珍しいケースだそうです(他に石川県にもあるそうですが)。自分の生まれた場所は「佐原市佐原ロ」でしたし、よく行く隣町の県立図書館さんの分館は「旭市ハ」。「くち」や「はち」と間違えられます(笑)。これらも同じような由来なのかも知れないなと思いました。

記事にある「岩手の人沈深牛の如(ごと)し」は、詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。

    岩手の人009

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

記事ではちょっと無理くり取って付けたような引用ですが(笑)、光太郎に触れて下さりありがとうございます。

こうした先人の遺した地名も、一つの文化遺産です。そうした意味でしっかりと受け継いでいくべきものと思われます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)33 『造型美論』 筑摩選書

昭和24年(1949)3月10日 筑摩書房 高村光太郎著
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目次
 現代の彫刻
  実技家の場合 概観 二つの源流について 時間的一瞥 フランスの彫刻 ブルデル
  マイヨル デスピオ ベルナアル 「ぢか彫り」騒動 穏健群 形式主義群団
  ドイツの彫刻 イギリスの彫刻 残余の諸国 現代日本の彫刻
 素材と造型
  素材と造型 造型といふ語 造型芸術 造型本能 造型芸術の本質 造型的諸要素
  造型美 造型芸術の種類 素描 日本画と色彩 日本画に於ける油画について 彫刻
 造型小論
  彫刻に何を見る ミケランジエロの彫刻写真に題す 蝉の美と造型 ロダンの素描
  鷗外先生の「花子」 木彫地紋の意義 仏画賛 彫刻性について 展覧会偏重の弊 手
  能面の彫刻美 九代目団十郎の首 本面について アンドレ ドラン 彫刻十箇條

戦時中の昭和17年(1942)に厚冊のハードカバーで出された同名の書を、2分割してペーパーバック化したうちの一冊です。もう一冊は『印象主義の思想と芸術』。明日、紹介します。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の高村光太郎花巻疎開80年企画展「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」につき、地元紙『岩手日報』さんが報じて下さいました。

賢治全集 支えた光太郎 花巻で企画展 デザインした貴重初版 作品広めた弟らも紹介

 彫刻家・詩人高村光太郎(1883~1956年)らと宮沢賢治全集の関わりを伝える企画展が、花巻市内で開かれている。光太郎が装丁した全集を展示し、賢治の実弟らも編集に携わったエピソードなどを紹介。貴重な資料から、賢治作品を世に広めようと尽力した功労者の軌跡を知ることができる。
 同市太田の高村光太郎記念館に数十点の資料が並ぶ。見どころは童話や詩を集約した4種類の全集計28冊で、珍しい初版も含まれる。企画展を主催した市によると、全集をまとめて披露するのは初の試み。初版は数が少なく、劣化もあり、一般の人が目にするのは貴重な機会という。
 展示資料で光太郎が全集の題字などをデザインしたと解説。編集に関わった賢治の実弟・清六と親友・藤原嘉藤治(かとうじ)のやりとりを記す書簡の複製には、方言を分かりやすく言い換えようとしていた記録などが残り、当時の思いに触れることができる。
 光太郎関連の事業に取り組む同市の合同会社「やつかの森」が協力。藤原正代表は「彫刻家の光太郎がこだわったデザインを見てほしい。賢治のために力を添えたことはあまり知られていない」と説明する。
 同社によると、戦争空襲で宮沢家を頼り、同市旧太田村に疎開した光太郎が、賢治作品を高く評価していたという。
 3月31日まで。午前8時半~午後4時半。期間中無休。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。
 2月21日は同市大通りのなはんプラザで、全集をテーマにしたトークショーを開催。全国で光太郎の顕彰活動を行う小山弘明さん=千葉県香取市=らを招く。問い合わせは市生涯学習課(0198・41・3587)へ。

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記事を書かれたのが新人記者氏だそうで、いろいろ突っ込みどころがあるのですが(光太郎が疎開したのは花巻町中心街の宮沢家で太田村には戦後になってから移ったとか、当方は「全国で顕彰活動」というわけではないとか)、大きく取り上げて下さったのはありがたいところです。

ところで記事終末にある関連行事としてのトークイベントのフライヤーが完成したそうで、載せておきます。
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足をお運びくださらば幸甚に存じます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)25 『をぢさんの詩』

昭和18年(1943)11月3日 武蔵書房 高村光太郎著
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目次
 序 
さくら 軍艦旗 こどもの報告 カタバミの実 約束 路ばた 迎火 少年に与ふ
 少女に 少女立像 五月のうた 少女の思へる 少女よ こころに美をもつ 変貌する女性
 新しき日に 逞しき一念 手紙に添へて 与謝野夫人晶子先生を弔ふ 山道のをばさん
 女性はみんな母である わが大空 新穀感謝のうた 歩くうた 鬱勃たる健康
 私は青年が好きだ 神の如く行へ みなもとに帰るもの 純潔のうた 四月の馬場
 新緑の頃 みかきにしん 漁村曙 仕事場にて 神これを欲したまふ さかんなるかな造船
 供木のことば 無口な船長 春駒 氷上戯技 大きな嚔 晴天に酔ふ 初夏言志
 
先生山を見る 偶成二首 蝉を彫る 提督戦死

青少年向けとして編まれた翼賛詩集です。交流のあった詩人の高祖保が編纂に当たってくれました。高祖には申し訳ありませんが、平易な口調で書かれた詩が多く、それだけにかえってグロテスクさが際立ちます。「これこそが光太郎詩の精髄、真髄、真骨頂」と涙を流さんばかりにありがたがる意味不明のあんぽんたんがいて困っているのですが……。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんが毎月15日に限定10食で出品している弁当「光太郎ランチ」。今年最初の販売が行われました。
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メニューはぶり大根、揚げじゃがいもの甘辛煮、菜花のおひたし、切干大根の酢の物、卵焼き、そば粉クレープ、赤飯、芋羊羹とのこと。

そば粉をパン状にするのは光太郎がよく行っていた調理法です。他も基本的に光太郎日記等から作った料理や使った食材を参考にし、現代風にアレンジしています。メニュー考案やリーフレットの作成はやつかの森LLCさんです。

令和2年(2020)10月から販売が始まり、もう5年以上です。できうるかぎり続けていただきたいものです。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)21 『造型美論』

昭和17年(1942)1月26日 筑摩書房 高村光太郎著
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目次
 素材と造型
 造型小論
  彫刻に何を見る ミケランジエロの彫刻写真に題す 蝉の美と造型 ロダンの素描
  鷗外先生の「花子」 木彫地紋の意義 仏画賛 彫刻性について 展覧会偏重の弊 手
  能面の彫刻美 九代目団十郎の首 本面について アンドレ ドラン 彫刻十箇條
 現代の彫刻
 印象主義の思想と芸術

大正4年(1915)刊行の『印象主義の思想と芸術』、昭和8年(1933)刊行の『現代の彫刻』全文、それから共著で刊行された書籍の光太郎担当部分、さらに前年刊行の『美について』に洩れていた雑誌等に発表した評論などを集めて一冊にしたものです。

昭和18年(1943)の第四刷まで確認出来ています。物資不足が深刻化しつつあり、第四刷ではそれまでの函が無くなり、代わりにカバー装となりました。

光太郎第二の故郷・岩手花巻から。

まずは1月15日(木)発行の『広報はなまき』。毎月15日発行分には最終ページに「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」という連載が為されており、市の施設などに所蔵されている逸品の数々が紹介されています。光太郎に関しても時折取り上げられ、今号も。
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一昨年にご遺族から市に寄贈された、与謝野晶子の弟子にして主に第二期『明星』に依った歌人の中原綾子に宛てた光太郎書簡のうちの一通です。

歌人・中原綾子宛のはがき 太田村山口から発出

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。昭和20年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、同年5月、宮沢賢治の実家に疎開しました。敗戦後の同年10月には、太田村(当時)の山口地区に移住し、粗末な山小屋(現在の高村山荘)で7年間一人暮らしをしました。
 このはがきは、昭和26年3月に、光太郎が歌人・中原綾子宛てに2枚続けて出したはがきの1枚です。肋間(ろっかん)神経痛に悩まされ、1カ月ほど花巻病院長宅や温泉で療養したことが書かれています。花巻病院長とは、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房のことです。佐藤は、光太郎の花巻疎開にも尽力し、光太郎没後は財団法人高村記念会を設立。光太郎が住んだ「高村山荘」の保存と光太郎の顕彰に力を注ぎました。
 使われているのは昭和26年の年賀はがきですが、光太郎は3月に使っています。ちなみに、お年玉くじ付き年賀はがきは、昭和25年から始まりました。

◎特別展「中原綾子への手紙」
 ■会期…2月28日(土)まで
《同時開催》 ◎高村光太郎花巻疎開80年企画展「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」
 ■会期…3月31日(火)まで


記事にあるとおり、花巻高村光太郎記念館さんで特別展「中原綾子への手紙」が開催中ですが、寄贈された書簡がかなりの量なので、4期に分けての展示です。今回紹介されたものが現在出ているかどうかは不明です。

ちなみに文面は以下の通り。001

おてがみ忝くいただきました。小生今冬
は旧臘おしせまつてから肋間神経痛と
いふものにやられ、中々ひどく字も書けない
位でした。それで一カ月近く、山を不在に
して花巻病院長私宅や温泉に行つて
ゐました。山に帰つてからも痛みはまだ
治らず、雪道歩行困難なので引籠つて
ゐます。不在中の郵便物山積、整理
もつかず、又筆とるのが苦手なので爾
来諸方に御無音失礼してゐます。
御恵贈の小包はたしかに年末年始の頃
無事落手しまして、いろいろ珍らしくいた
だきましたが、発病当時の事とて、つい
其由申上げずにそのままだつたものと思へます
ツヅク

この年の光太郎は結核性の肋間神経痛に悩み、それまで行っていた農作業もほぼ放棄するほど症状が悪化していました。ただ、翌年になると小康状態を得ることになります。 「花巻病院長」は佐藤隆房。宮沢賢治の主治医で、その詩「S博士に」のモデルとしても知られています。宮沢家ともども光太郎の花巻疎開に尽力、宮沢家が昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲で全焼した後、郊外旧太田村に移るまで約1ヶ月間、光太郎を自宅離れに仮寓させてもくれました。「温泉」は隣村・湯口村(現・花巻市)の大沢温泉さんです。

同展についてはこちら。

花巻レポート 高村光太郎記念館特別展「中原綾子への手紙」他。
『広報はなまき』8月15日号。
東北地方紙記事等。

寄贈された書簡の全文を翻字し、画像や解説をつけて図録的な書籍として出版する企画が進行中です(執筆を担当しています)。2度ほどゲラの確認を致しましたが、翻字にしても解説文にしても我ながら誤字脱字が多く「バカか、お前は」と自分で自分を叱りたくなっております(笑)。wordで原稿を作成したのですが、普段使い慣れていないせいかもしれません。そちらに関してはまた改めてご紹介いたします。

さて、特別展「中原綾子への手紙」、2月28日(土)までです。同時開催の「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」ともども、よろしくお願い申し上げます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)20 『美について』

昭和16年(1941)8月20日 道統社 高村光太郎著
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目次
 詩精神 国民的美意識 芸術と国民生活 永遠の感覚 奉祝展に因みて 彫刻家の場合
 美の健康性 芸術上の良知 自分と詩との関係 肖像雑談 言葉の事 美 書について
 気について 比例均衡 美意識について 小刀の味 彫刻新人展評 一彫刻家の要求
 詩人の知つた事ではない 日本語の新しい美 七つの芸術 童謡、民謡、小唄 冬二題
 触目いろいろ 生きた言葉 触角の世界 楽聖をおもふ 日本工業美術界に望む 
 彫刻的なるもの 或る音の幻想 自刻木版の魅力 美の立場から 裸体画について 家
 彫刻鑑賞の第一歩 バーナード・リーチを送る 芸術鑑賞その他 ホヰトマンのこと
 岩石のやうな性格 ロダン逝く 芸術雑話 ガツトソン・ボーグラム先生 芭蕉寸言

さまざまな雑誌等に発表された美術評論、文芸評論の集成で、奥付に依れば『智恵子抄』と同じ日の刊行です。昭和17年(1942)8月31日の第10版まで確認できています。手持ちのものは昭和16年(1941)9月15日の2刷です。

目次部分に誤植が多く、「日本語の新しい美」は「日本語の新しい美を」と「を」が抜けていますし、「ホヰトマン」は「ホヰツトマン」、また、「触角」は「触覚」です(光太郎は昆虫ではありません(笑))。

地方紙『岩手日報』さん、昨日の記事から。

書で迫る高村光太郎 県高校教員展 盛岡

 県高校教員書道展(県高校教育研究会書道部主催)は12日まで、盛岡市盛岡駅西通のキオクシアアイーナで開かれている。墨痕鮮やかな力作が来場者の目を引きつける。
 書道教育に携わる28人の約80点を展示。「高村光太郎に寄せて」の共通テーマに沿って詩文をつづったり、好きな言葉や思いなどをしたためたりして、内容も形式も自由で個性が光る作品が並ぶ。
 事務局を務める盛岡市立の伊藤聖子教諭(43)は「教員の研さんの場であり、訪れる方との交流の機会にもなっている。好きな作品を見つけ、書を身近に感じて欲しい」と願う。
 午前9時~午後5時(最終日は同4時)。各日先着10人に色紙などのプレゼントがある。入場無料。
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この書道展についてはまったく存じませんでした。会場のキオクシアアイーナさんのサイトには先月の時点で予告が出ていましたが、「岩手県高等学校で書道を教えている教員による、地域交流を目的とした楽しい書作展です。」というだけで「高村光太郎」の文字が入っていませんで……。

調べたところ、テレビ岩手さんのローカルワイド「5きげんテレビ」でもちらっと紹介されていました。こちらでも「県内の高校で書道を教えている教員たちのバラエティ豊かな作品が並ぶ教員書道展。毎日先着10名様に今年の干支「午」にちなんだ作品のプレゼントもあります。もしかしたら知っている先生の作品もあるかもしれませんよ。」ということで、光太郎の名が出ていませんでした。
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会期は3日間だけで今日までだそうです。もう少し長くてもいいような気がしますね。それならば光太郎がらみの作品だけでも、花巻の高村光太郎記念館さんか、道の駅はなまき西南さんあたりに巡回して下さるとありがたいのですが……。記事に添えられた写真では、左から2点目の幅が光太郎の書論「黄山谷について」(昭和30年=1955)の一節です。曰く「何よりも黄山谷の書は内にこもつた中心からの気魄に満ちてゐて、しかもそれが変な見てくれになつてゐない。強引さがない」。黄山谷(黄庭堅)は中国北宋時代の書家で、自身も独自の書を残した光太郎がことに愛した一人です。

ちなみに花巻高村光太郎記念館さんでは、現在、花巻南高校さんで芸術書道を選択なさった生徒さんたちの光太郎詩文の書が展示されています。先月伺った際、ちょうどその展示が始まるところでした。同校サイトでも紹介されています。
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光太郎自身は自らを「書家」と定義したことはありませんが、独特の優れた書を多く残し、またその書論も同時代では抜きんでた炯眼によって書かれたものでした。今後とも光太郎と書について、掘りさげられた企画が為されることを切に望みます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)12 『ロダン』 アルス美術叢書普及版

昭和3年(1928)4月4日 アルス 高村光太郎著
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目次
 一、一個の全球
 二、親ゆづり
 三、善い姉さんと腹の出た家と
 四、始まり
 五、実地修行
 六、修道院
 七、下働きと仕立女工
 八、総決算と新時代
 九、苦境と愉楽と
 十、振出しへ返る事
 十一、自己の道
 十二、「歩む人」と「地獄の門」と
 十三、胸像群
 十四、記念像群及「バルザツク」の彫刻的意義
 十五、一九〇〇年以後
 十六、晩年、死、死
 十七、「小さい花子」

昨日ご紹介した、前年刊行の通常版と本文の紙型は同一で、ハードカバーではなくペーパーバックとして出されたものです。

このところ新聞記事ネタが続いていますので、続けます。

昨日の『読売新聞』さん他、地方紙でも同じ記事が出ていました。

[岩手のお風呂2026⑦大沢温泉「湯治屋」]冬の自然美墨絵の世界 文化人魅了 心安らぐ情緒

 しんしんと雪が降る昨年12月上旬、大沢温泉「湯治屋」(花巻市)の本館には、続々と温泉客が入っていった。古い日本家屋のようなたたずまいの本館の建築年代はわかっていないが、板敷きの廊下や障子などは昭和の趣を残し、どこか郷愁を感じさせる。
 窓から雪の様子を眺めながら廊下を歩くと、奥にあるのが混浴の大露天風呂「大沢の湯」だ。風呂にゆっくり肩までつかって景色を眺めると、粉雪の白と、山々の墨色といった美しい自然のコントラストが広がる。眼下に流れる豊沢川や、川をまたぐ「曲り橋」、川の奥にある 茅葺かやぶ き建築のギャラリー「菊水舘」も含め、まるで絵画のような風景にほれぼれする。
 「3月にも来たんだけど、この雪景色が見たくてリピーターになったよ」。神奈川県から訪れた男性(66)はリラックスした表情でそう話す。この自然が数々の温泉客を魅了してきたのだろう。
 ずっと変わらぬ冬景色はもちろん、弱アルカリ性で無色透明の湯は保温性が高く、一度入浴すれば体の中から湧き出る温かさが長く続くという。
 大沢の湯は約1200年前に坂上田村麻呂が傷を癒やしたという伝説が残り、江戸末期には盛岡藩主・南部利剛が湯治に訪れたという由緒ある温泉だ。
 数々の文化人にも愛されてきた。幼い頃に何度も訪れた花巻出身の宮沢賢治は、教師時代に生徒たちを連れて来たこともある。戦時中に花巻に疎開していた彫刻家の高村光太郎は戦後もたびたび足を運び、「本当の温泉の味がする」と評した。
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 大沢温泉は、古い建物の「湯治屋」と新しい旅館「山水閣」、ギャラリー「菊水舘」の三つからなる。近年ではスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーらも湯治屋を定期的に訪れているといい、その縁からジブリ関連の企画展が開催されている。
 湯治屋の支配人・西村真之介さん(53)は、「人の息づかいや人間らしさが感じられる」と魅力を語る。かつては農家や漁業者が仕事が一息ついた冬の時期に数週間投宿して体を休めた。滞在中は海の幸と山の幸などを物々交換したり、漁業者は来期に向けて漁網を手直ししたりし、英気を養っていたという。そうした湯治文化が今につながっており、当時の建物が残る湯治屋では名残を感じられる。
 「変わらぬ文化と自然、そして大沢の湯。絶対の自信があります」と、西村さんは胸を張る。せわしない世間を一時忘れ、心を安らげる力が温泉にはある。

畳の部屋余韻に浸って 
 温泉や公衆浴場は入浴はもちろん、その後の「余韻」に浸るのも 醍醐だいご 味だ。すぐ帰るなんてもったいない。
 湯治屋の待合室は畳の部屋で、温泉を堪能した後、ここで寝っ転がるのが至福の時間だ。1人だったらぼんやりとするのもいいし、友人と訪れたら卓を囲んで会話を楽しむのもいい。漫画もテレビもあり、ゆったりとした時間を過ごすことができる。
 壁にかかっているのは、宮沢賢治が幼い頃に大沢温泉を訪れた100年以上も前の写真。岩手の偉人もこの温泉に触れたのかと、感慨深い思いになった。
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戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、光太郎が何度も宿泊した大沢温泉さんの紹介記事です。

当方も花巻出張の際には可能な限りこちらを利用させていただいております。現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」の関係で、先月も泊めていただきました。次回は同展関連行事のトークイベントのため来月お邪魔します。

豊沢川添いの雪見の露天風呂は格別ですし、記事の最後に紹介されている畳の部屋もマストです。当方、着いた日には夕方、それから朝と、ここで地元紙『岩手日報』さんや『岩手日日』さんに目を通すのがルーティンです。

皆様方も是非どうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)10 『天上の炎』

大正14年(1925)3月25日 新しき村出版部 エミイル・ヹルハアラン著 高村光太郎訳
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目次
 序詩 未来 新しい都 昔の信仰 私の眼よ 誇 機械 熱烈な生活 港の突堤で
 今日の人に
 健康 死者 問題 機会 トンネル 波止場で 私の都 わが友風景 木蔦
 東西南北 森
 花の方へ 並木の第一樹 散歩 或る夕暮の路ゆく人に 題跋詩 私の集

大正10年(1921)刊行の『明るい時』に続き、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)の詩集の翻訳です。

元々、函とカバーが付いていましたが、手持ちのものには欠けています。完全な状態のものはほとんど市場に出ません。

しばらく訳書の紹介が続きましたが、共著を除いて翻訳以外はしばらく出版されませんでした。大正期には光太郎自身、「翻訳をやると一番安全に金になつたから、たとえば「ロダンの言葉」なども一つは生活のために書いた」(「遍歴の日」昭和26年=1951)と述懐しています。

今日明日と、遡って旧臘中の報道をご紹介します。

まず、12月28日(日)付けの『朝日新聞』さん岩手版。

花巻の鉛温泉・藤三旅館本館と白猿の湯 国登録有形文化財に

 多くの文豪が滞在、執筆したことでも有名な岩手県花巻市の鉛温泉・藤三旅館本館と白猿(しろざる)の湯が、国登録有形文化財(建造物)に登録される見通しになった。国の文化審議会が11月、文部科学相に答申した。
   藤三旅館本館は豊沢川沿いに建つ1941年建築の木造3階建て。南面東寄りに唐破風(からはふ)造りの玄関が突出し、入母屋(いりもや)屋根になっている。内部は各階の廊下の南北に客室が並んでいる。
 岩盤をくりぬいた白猿の湯は深さが1・3メートルあり、浴槽に立って入る。浴槽の周囲の床は石敷きで重厚な造り。上部は吹き抜けで開放的な雰囲気だ。
 県内の登録有形文化財(建造物)は今回を含めて111件になる。
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花巻の有形文化財建築といえば、ここと山一つはさんだ花巻温泉さんの旧松雲閣別館、市街地の旧菊池家住宅西洋館と、それぞれ光太郎の足跡が残る建造物です。そして今回も。「多くの文豪が滞在」とあるうちの一人が光太郎です。戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、確認出来ている限り、昭和23年(1948)に3回、一泊ずつ宿泊しています。

まず4月25日の日記。

朝、村長さん来訪、どこかへ一緒に遊びにゆきたしと誘はる。今日円万寺観音山の祭に行く予定の旨答へる。午后村長さんも観音山に来て夕方より鉛温泉に一泊する事約束。(略)四時頃村長さん奥さん尋ね来る、五時辞去。 奥さんと共に二ツ堰。村長さんも自転車でくる。共に鉛温泉行。七時過着、入浴、酒、夜食。

「観音山」は親しくなった僧侶にして仏教学者の多田等観が暮らしていた山、「二ツ堰」は当時鉛温泉方面に走っていた花巻電鉄の駅です。「尋ね」は「訪ね」の誤記ですね。

翌26日。

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同浴場にも入る。泉質よきやうなり。温度余に適す。 沼田の吉二さんといふ人村長さんを訪ね来り、濁酒一升もらひ皆でのむ。 吉二さん(村の肴配給掛)と同宿。朝五時頃入浴。二三人老人が入り居るのみ。きれい也。

続いて5月11日。

午后五時五分の電車にて二ツ堰発、鉛温泉まで。 宿にては村長さんより電話ありたりとて待つてゐたり。此前と同じ室三階三十一号室。畳あたらし。 入浴、抹茶、夕飯後又抹茶、甚だ快適なり。入浴客も少し。椛沢さんも喜ぶ。 夜宿の主人と帳場の老人話にくる。史跡の話などきかせる。椛沢さん詩の朗読をしてきかせる、夜十一時半に至る。自然風呂の方の温泉に入浴。一人も客無し。十二時頃ねる。 セキも多く出ずよくやすむ。 雨もふらず。心地よし。

「椛沢さん」は椛沢佳乃子。戦時中からの知り合いで、東京から訪ねてきたお茶の先生です。

翌12日。

朝七時頃までねてゐる。 入浴。 朝食後抹茶。 午后一時十七分の電車にてかへる事にきめ、中食をたのむ。談話、休憩、入浴、十二時中食丼なり。会計をすます。五百円と少し。少々やす過ぎると思ひしが帰宅後うけとりを調べると宿料一人分のみ記入しあり。余の分をとらざりしと見ゆ。宿の主人電車まで送り来る。県道が秋田大曲の方へ開ける由語る。今は客二百名位。八月には千名余になる由。

「三階三十一号室」には当方も一度泊めていただきました。ほぼ当時のままのようでした。

さらに5月18日。

午后支度して宮崎さんと一緒に出かけ、二ツ堰より電車にて鉛温泉。 乗車中豪雨降る。後止み、晴れる。温泉にては前と同じ31号室(三階)。宮崎さんも喜ばる。鉛の共同風呂に入浴。この湯甚だよろし。あまり混雑せず。持参の玉露を入れたりする。休憩。 夜食時濁酒半分ばかりのむ。 幾度か入浴、十時頃ねる。

「宮崎さん」は姻戚の茨城在住だった詩人・宮崎稔です。

翌朝。

午前八時〇七分の電車にて花巻西公園まで。弁当のむすびをもらふ。宿にて米を少し返却し来る。会計全部にて435円也。

確認出来ているのはこの三泊ですが、昭和24年(1949)と25年(1950)の日記が失われている他、それ以外の時期にも日記が抜けている時期もぽつぽつあり、もう少し多いかもしれません。

生前最後の談話筆記「花巻温泉」でも、大沢温泉さん、台温泉さんなどとともに鉛温泉さんに詳しく触れています。

 花巻の駅から一時間かかって、やっとたどりつく四つ目の駅、鉛温泉は、かなり上った山奥の湯で、今はラッセルがあるから心配はないが、私がいた頃は雪が降ると電車が止って厄介だった。
 鉛温泉の湯は昔から名湯とされている。非常に大きな湯舟が一軒別棟でできていて、一杯の人が入っている。その様を小高い所から見下せるが、まるで大根が干してあるように人間の像がズラリと並んで、それは壮観である。
 たいていの温泉は引湯だが、鉛はじかに湯が湧いている。湯の起りの底の砂利を足でかき廻すとプクプクあぶくが出てきて身体中にくつついてピチンとはねるのも面白いが、大変薬効のある湯といわれている。
 昔は男女混浴で、お百姓さんや、土地の娘さんや、都会の客などがみんな一緒に湯を愉しんでいたが、だんだんに警察がうるさくなって、「男女区別しなけりやいかん」ということで、形式的に羽目を立てた。が、これがまた一層湯を愉しくした。
 はじめのうちは男女両方に分れて入っているが、土地の女というのが男以上に逞しくて、湯に入りながら盛んにいいノドをきかせる。と、男の方はこれに合せて音頭をとりだし、しまいに掛け合いで歌をはじめ、片方が歌うと片方が音頭をとるというわけで、羽目をドンドンと叩くからたまらない、羽目がはずれて大騒ぎになる。なんとも云えない愉しさだ。
 宿もこんな山の中によく建つたと驚くような大きなもので、鉄筋コンクリート建である。


この「鉄筋コンクリート建」が、今回、有形文化財登録になるという本館と思われますが、冒頭の記事では「木造」となっています。思うに純粋な木造ではなく、コンクリートとの折衷ではないかと。

ちなみに『朝日』さんでは暮れに報じていてその時点で気づいたのですが、既に11月には地元で報道が為されていました。

IBC岩手放送さんのローカルニュース。

鉛温泉・藤三旅館と白猿の湯が国の登録有形文化財に 岩手・花巻市

 岩手県花巻市の鉛温泉にある旅館と浴室用の建物2件が、新たに国の登録有形文化財に登録されることになりました。
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 国の登録有形文化財に登録されるのは、花巻市鉛の「鉛温泉藤三旅館本館」です。この建物は1941年に建てられ突き出した玄関の屋根が曲線の美しい唐破風造(からはふづくり)となっています。
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 もう1件は、この旅館の浴室用の建物「白猿の湯」です。建設時期は昭和の前期で、中には岩盤をくり抜いた深さ約1.3メートルの大浴槽があり、上が吹き抜けとなっています。県内にある国の登録有形文化財は、今回を含め111件となります。
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『朝日』さんに戻りますが、「多くの文豪が滞在、執筆したことでも有名」とあるうち、「滞在」には宮沢賢治が含まれます。童話「なめとこ山の熊」に「腹の痛いのにも利けば傷もなほる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありといふ昔からの看板もかかつてゐる」という記述があります。元々、藤三旅館の経営者だった藤井家は宮沢家とは親戚関係でした。熊といえば、つい先日、宿泊した際には白猿の湯ではない豊沢川沿いの露天風呂で熊とニアミスがあり肝を冷やしました。

また「執筆」は田宮虎彦。「銀心中」という短編小説はこの宿をモデルにし、ここで書かれたそうで、公式サイトでもそのあたりが紹介されています。忘れ去られつつある作家に光を当てるのも大事ですが、先述のようにいろいろ書き残している光太郎ももっと前面に押し出していただきたいのですが……。

ところで、光太郎が泊まったというと、鉛温泉さんよりやや南の大沢温泉さん。こちらの自炊部は江戸時代の建築ですし、光太郎も愛した露天風呂「大沢の湯」も歴史あるなかなかの風情で、一説には能舞台を模した造りとも言われているようです。こちらもぜひ有形文化財登録を目指してほしいものです。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)7 『回想のゴツホ』

大正10年(1921)4月22日 叢文閣 エリザベツト・ゴツホ著 高村光太郎訳
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目次
 小序 
 一 準備
 二 はじまり
 三 再び仏蘭西へ
 四 をはり
 附録 ゴオガンに宛てた手紙 最後に就てのゴオガンの手紙 略年譜 挿画目録

フィンセント・ヴァン・ゴッホの妹であるエリザベットによる兄の回想録です。

これも本来カバー付きですが、手元のものはカバーが欠けています。カバー付きが市場に出ることはまずありませんので半分諦めているのですが、若松英輔氏のモクレン文庫さんで数年前に出ました。その稀少価値をご存じなかったのか、超廉価で。気づいた時には既に売れていました。

雑誌新刊です。

『Begin』2026年2月号

発行日 : 2025年12月16日
版 元 : 世界文化社
定 価 : 745円+税

●大特集:2025年の人気モノランキング!  2026年の大モノ先駆けスクープ!「Begin Best 100」
●第2特集:「本当に使える」北欧デザインの雄 イノベーターの“革新”を学ぶ
●第3特集:いつもの年末年始を10倍回復させる!「リカバリーギフトCATALOG」

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主に男性向けのシャレオツなグッズを紹介する雑誌です。

「ミュージアムグッズ愛好家」なる肩書きの大澤夏美氏という方による「博ブツ観」という連載が為されており(今号は第32回だそうで)、「岩手県花巻市で発見 高村光太郎記念館 本革しおり Bookmark」のサブタイトルで、そのままずばり、高村光太郎記念館で販売されているしおりをご紹介下さいました。ありがたし。
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問題の(別に問題もありませんが(笑))しおり、モチーフは本文で詳しく語られていますが、光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋(高村山荘)に隣接するトレの壁に自らが彫りつけた明かり採りの窓です。
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トイレの内部から見ると「光」の文字が反転して見えるわけで。現在ではトイレも套屋で覆われていますが、裏側から右上画像のように外光が差し込むさまが見られるようになっています。
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この反転バージョンを、同館ではロゴや、今回のしおりなどさまざまなグッズに使用しているというわけです。ところでしおり、イタリアの牛革製だそうで、それは存じませんでした。

ただ、現在の物販はというと、二重三重四重五重にいろいろ面倒くさい問題がありまして、非常に品数が少ない状態です。もっとうまくやれよ、と言いたいのですが……。

閑話休題、大澤氏曰く

 一枚のしおりをきっかけに、光太郎と智恵子、そして山荘に射し込む「光」という小さな物語へと誘われたのかもしれません。まだしばらく続く寒い季節の読書時間に、そんな“自分だけの光”を運んでくれるしおりを忍ばせてみるのも、悪くないのかも。

なるほど。

さて、『Begin』2月号、Amazonさんなどでも扱っています。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・智恵子】

こんどといふこんどこそは、何がなんでもいゝ絵をかいて そして生活をしてゆかなければ 私はかうしてはゐられないのですから 今からいそいでかゝなければならないのですから

大正2年(1913)8月12日 長沼セン宛書簡より 智恵子28歳

結婚前の二人でしめしあわせ、光太郎が先行滞在していた信州上高地に智恵子も追って行くのですが、そのための旅費を実家の母親に無心する手紙の一節です。もっとも、そうした事情は一切語らず、いわばだまし討ちですね。結果的には金銭を送ってもらい、上高地で光太郎と合流、二人は婚約を果たします。

花巻レポートの承前です。

12月15日(月)、旧太田村の高村光太郎記念館さんにて「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」拝観の前、同じく旧太田村の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに立ち寄りました。
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まず農産物等の直売や土産物等の販売を行っている「すぎの樹」さんで、林檎を箱買いして自宅兼事務所に発送(左下)。この季節のルーティンです。後述のやつかの森LLCさんから既に大量に送られてきている(右下)のですが、いくらあっても困りませんので(笑)。
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「すぎの樹」さんの正面の壁には光太郎を描いた大きな壁画。
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その右下に、弁当やお総菜を販売なさっているミレットキッチン花(フラワー)さんがあります。
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こちらでは毎月15日、豪華弁当「光太郎ランチ」を限定10食で販売中。ちょうど15日でしたので、「どれどれ」と見に行きました。

この時点で13:00近かったのですが、残り2食。
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売り切れていたら画像が出せないなと思っていたのでラッキーでしたし、逆に全然売れていなくても悲しいところで、いい塩梅でした。

現物を見るのは3度目でした。最初は販売が始まった令和2年(2020)のお披露目会の折、2度目はやはりたまたま15日に訪れ、ゲットして帰って妻と二人でいただいた一昨年の冬。今回は1泊2日の初日で、既に新幹線車内で駅弁を食した後だったので購入はしませんでした。

メニューの考案には、地元で主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが担当されています。そのやつかの森さんから送られてきた画像。
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品目は「チキンの照り焼き」「牛すき煮」「大根とさつま揚げの煮物」「卵焼き」「さつま芋入り蒸しパン」「青豆入り麦ご飯」「大学芋」「みかん」。今月は当方の好物が並んでおり、こりゃ食べたかったな、というメニューでした。

それにしても、この諸物価高騰の折、変わらず800円というのがすごいと思います。令和2年(2020)の段階では800円だと安くはないな、という感じでしたが、現在ではお手頃価格感です。なし崩し的に諸物価高騰に馴らされてしまっているようで、逆に怖いなと思いました。壺が大好きな無策な政府の思う壺にはまっているようで(笑)。

今年はこれで終了ですが、来年以降も愛され続けることを祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

この繁雑な世の中に出て奮闘するには随分よく心身をきたへて置かねばなりませんよ くれぐれも祈ります


明治42年(1909)2月7日 鈴木謙二郎宛書簡より 智恵子24歳

鈴木謙二郎は、明治40年(1907)に智恵子が父・今朝吉やきょうだいと共に宿泊した福島相馬の原釜海岸にあった金波館という宿で知り合った、その当時の旧制米沢中学生です。智恵子は7歳年下の鈴木と姉弟のように親しくなり、確認できている限り明治44年(1911)まで文通を続けていました。

のち、鈴木は山形県伊佐沢村村長や長井市教育委員などを歴任します。
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監修させていただいた「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」の関係で、12月15日(月)・16日(火)と1泊2日で花巻に行っておりました。

14日(日)にちょっとした降雪があったそうで、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんはこんな感じ。
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入ってすぐ、「おっ!」と思ったのがこちら。まだ正式に展示が始まってはいなということですが、花巻南高校さん書道部の生徒さんたちの書。

追記:書道部さんではなく、授業で書道を選択された生徒さんたちだそうでした。
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すべて違う生徒さんの作品で、それぞれ思い思いに光太郎詩の一節を書いて下さっています。「卒業記念」的な意味合いもあるそうで。こういうのを見ると、不覚にもうるっときてしまいます(笑)。

同校の文芸部さんと家庭クラブさんにはいろいろとお世話になっていますが、今度は書道部さんも巻き込んだか、という感じでした(笑)。若い世代に光太郎を知ってもらうという意味でも、良い試みですね。

奥の企画展示室へ。
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花巻と光太郎を結びつけたキーパーソンである宮沢賢治との繋がりに焦点を当てました。
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2人が実際に顔を合わせたのは、大正15年12月のたった1度だけでした。しかし、2人の天才は、それぞれの作品を通してお互いを深く敬愛していましたし、残念ながら賢治が歿してからになりますが、その結びつきはより強固なものとなっていくことになります。

昭和8年(1933)に賢治が亡くなり、すぐ翌年には光太郎も編集者として名を連ねた『宮沢賢治全集』の刊行が始まります。光太郎が関わった賢治の全集は4種類。それらにより、生前は無名の地方詩人に過ぎなかった賢治の名が世に広く知られていくことになります。

そこで今回の展示では、光太郎が関与した4種類の全集にスポットを当て、それらの成立過程やさらに派生して刊行された書籍、それらに関わった人々の思いといったところを前面に押し出しました。

最初の文圃堂版全三巻(昭和9年=1934~同10年=1935)。
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それを補完する形で出された十字屋版(昭和14年=1939~昭和19年=1944)。
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『全集』とは冠されていませんが、戦後の日本読書購買利用組合『宮沢賢治文庫』(昭和21年=1946~同24年=1949)。
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そして筑摩書房版(昭和30年=1955~同32年=1957)。
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装幀、題字揮毫は全て光太郎です。特に筑摩書房版は、光太郎のこの手の仕事の最後のものとなりました。

賢治作品を世に出す強い意志を持って臨んだ実弟の清六、賢治の親友だった藤原嘉藤治についても詳しく紹介されています。当会の祖・草野心平についても。
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テレビモニターでは、昭和11年(1936)、光太郎が碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」碑除幕式の様子。碑の近くの桜地人館さんで常時上映されているものです。
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桜地人館さんでは、戦後の光太郎書も貸して下さいました。これまで門外不出だったものですが。
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右上は、藤原嘉藤治の顕彰をなさっている瀬川正子氏ご提供の写真。世に出るのは初めてではないかと思われるものです。

賢治の遺言で、没後に配付された「国訳妙法蓮華経」。
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なかなかに充実した展示でした。

その他、同時開催中の4月に始まった特別展「中原綾子への手紙」(2月28日(土)まで)。
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先月末まで開催されていた企画展「昔なつかし花巻駅」に出品されていたジオラマは、第一展示室に移動されていました。
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その後、隣接する高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)へ。
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少し早かったのですが、寒いので(笑)、宿泊先の光太郎も愛した大沢温泉さんへ。
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最近は予約を取るのもけっこう一苦労です。

翌朝(昨日ですが)、再び高村光太郎記念館さんに。この日はNHKさんの取材ということで。余裕を持って行きましたので、まずまた山荘に。夜のうちに新たに雪が降り積もることもほぼなく、助かりました。
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さらに奥の「雪白く積めり」碑。この地下には光太郎の遺髯が埋まっています。
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碑の前の広場。熊の足跡でしょうか。
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明らかに狐や兎ではありません。

裏山の智恵子展望台からの眺め。
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記念館に戻り、取材を受けました。NHKさん以外に地方紙『岩手日日』さんにも。

NHKさんには、「民間通信員」という制度があり、業務委託された民間の方が取材、撮影なさり、放送局でそれを編集し放映するシステムになっています。今回いらしたのは旧知の北山公路氏。花巻のタウン誌『Machicoco』の編集・発行もなさっている方です。
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早速昨日のうちに夕方のローカルニュースで流れ、ネットにも出ました。

高村光太郎と宮沢賢治のつながり紹介する企画展 花巻

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 詩人で彫刻家の高村光太郎と花巻市出身の詩人で童話作家の宮沢賢治のつながりを紹介する企画展が、花巻市で開かれています。
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 花巻市の「高村光太郎記念館」で開かれている企画展では、光太郎が賢治の作品に出会って賢治の家族と交流を深め、賢治の死後に発行された全集の編集や装丁を手がけた過程などが、4種類の全集などとともに紹介されています。
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 また、賢治の作品を広めた、賢治の弟の清六や賢治の親友の藤原嘉藤治の功績も一緒に紹介されていて、昭和11年に市内に設置された「雨ニモマケズ」が刻まれた賢治の詩碑の除幕式を撮影した動画を見ることができます。
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 企画展を監修した高村光太郎研究者の小山弘明さんは「生前は無名だった賢治が世界的に有名になった過程に、光太郎が関わっていたことを広く知ってほしい」と話していました。
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 また、主催する花巻市生涯学習課の菊池功昇課長補佐は「賢治と花巻の関わりは広く知られているが、光太郎と花巻の関わりについても、もっと市民に知ってほしい」と話していました。
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 この企画展は、来年3月末まで開かれています。

次回は来年2月21日(土)、関連行事として、清六令孫にして林風舎代表取締役・宮沢和樹氏、藤原嘉藤治の顕彰を勧められている瀬川正子氏とのトークショーの際に参ります。

というわけで、皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・智恵子】

この福島がいゝ人もあるか知れませんが私には一向よくもありませんねー 住めばみやこの習にて人気少ない家郷の山川もしのぶの空にすむ身には降りしきる五月雨につけ何となうなつかしう存られ候

明治34年(1901)7月5日 安田卯作宛書簡より 智恵子16歳

安田卯作は智恵子の母校・油井村の油井小学校に勤務していた教師です。この年、同校高等科を卒業した智恵子は福島町(現・福島市)の町立高等女学校に進み、大熊ヤスら同級生とともに町内の弁護士方に下宿していました。3ヶ月程でホームシックになっていたようです。

「しのぶの空」は女学校近くの信夫山(しのぶやま)に関わります。『古今和歌集』や『小倉百人一首』に収められた源融(河原左大臣)の有名な歌「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」も背景にあるでしょう。

そして故郷の山川を「偲ぶ」と、信夫山の「しのぶ」の掛詞(かけことば)。智恵子少女の教養の高さが窺えます。また、その筆跡の見事さも。
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今年5回目(たぶん(笑))、そして今年最後となりますが、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。
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先週末に高村光太郎記念館さんで、監修させていただいた「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」が始まりまして、そちらの拝観。さらに来春開催予定の関連行事としてのトークイベントの打ち合わせ。
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隣接する高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんなどに寄り(ほぼいつも代わり映えしないのですが(笑))、現在は光太郎ゆかりの大沢温泉さんに宿泊しております。
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今日また朝から記念館さんに参り、企画展につきNHKさんの取材を受け(ローカルニュース用でしょう)、それで帰ります。

詳しくは帰りましてからお伝え致します。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展情報です。

高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで

期 日 : 2025年12月13日(土)~2026年3月31日(火)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(日)~1月3日(土)
料 金 : 一般 350(300)円 高校生・学生250(200)円 小中学生150(100)円
      ( )内は20名以上団体料金 高村山荘は別途料金 

 高村光太郎は、当時、無名だった宮沢賢治の作品に出会い、宮沢賢治を広く後世に知らしめるための大きな役割を果たしましたが、37歳で早逝した宮沢賢治の今日に至る評価に高村光太郎が関与したことは一般的には知られていません。
 賢治没後の昭和9年(1934)、光太郎も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会では、実弟の清六がトランクに入った賢治の遺稿を披露しました。その中の手帳には「雨ニモマケズ」の詩もあり、光太郎をはじめとする著名人たちが感銘を受け、全集刊行へと動き出します。
 当企画展では、光太郎が携わった4つの「宮沢賢治全集」に注目し、編集や装幀作業に係わるエピソードや宮沢賢治評について紹介します。また、賢治没後、清六と共に藤原嘉藤治が、文圃堂版と十字屋版の全集に編纂者の一員として携わっていたことにも焦点をあてています。

関連行事 トークイベント 光太郎と賢治―宮沢賢治全集ができるまで―
 2026年2月21日(土) 10:00~11:30
 なはんプラザ コムズホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号
 講師 
  宮沢和樹 株式会社林風舎代表取締役
  瀬川正子 株式会社共同園芸取締役 第35回(2025年)イーハトーブ賞受賞
  小山弘明 高村光太郎連翹忌運営委員会代表

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光太郎が携わった4つの「宮沢賢治全集」」は、以下の通りです。

・文圃堂書店版『宮沢賢治全集』 全三巻 昭和9年(1934)~同10年(1935)
・十字屋書店版『宮沢賢治全集』 全六巻+別巻一 昭和14年(1939)~同19年(1944)
・日本読書購買利用組合『宮沢賢治文庫』 既刊六冊 昭和21年(1946)~同24年(1949)
・筑摩書房版『宮沢賢治全集』 全十一巻 昭和30年(1955)~同32年(1957)

このうち、『宮沢賢治文庫』は「全集」と冠されていませんが、先行する十字屋書店版に収録されていなかった作品も網羅するつもりで刊行が始まったものです。ただ、当初予定は全十一冊でしたが、第五冊及び第八冊以降が未刊のまま中絶してしまいました。

これら四種類の現物や、成立過程、周辺人物などについての解説パネルで構成されます。

解説パネルを執筆させていただきましたが、書き始めたら「あれも書きたい、これにも触れたい」で止まらなくなり(笑)、50枚程になってしまって、とても全てを出せませんので「ここから適当にセレクトして下さい」とお願いしました。パネルにならなかった稿も含め、図版を入れた冊子が作られ、販売される予定です。よろしければお買い求め下さい。
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詳細はまた改めて紹介いたしますが、来春2月21日(土)に花巻駅前のなはんプラザさんで関連行事としてのトークイベントが行われ、登壇いたします。こちらもぜひどうぞ。

ところで、企画展自体の詳細情報が、まだ花巻市さんのサイトに上がっていません。今月1日発行の『広報はなまき』には、トークイベントと共に小さく紹介されていますが。
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この手の企画展示の情報などは遅くとも1ヶ月前位には出していただきたいのですが、いつもギリギリ、下手すると始まってから出されます。もうそういうもの、という感じになってしまっているようで……。

追記 12月10日(水)に市の方で詳細情報を出しましたので、最上部、リンクを貼りました。

同時開催で、4月に始まった特別展「中原綾子への手紙」も2月28日(土)まで開催しています。併せてご覧下さい。

【折々のことば・智恵子】

芸術――文学の使命は、それら一切のコンヴエンシヨンを如何に離れて、輝く天然の光りのうちにその全きを理法と愛とに生きむがため、一切を鋳なほし、息づまつた熱鬧に涼風をおくる、天に向つてあげる烽火ではあるまいか。

散文「現代日本の文学に対するアマチユアの注文と感想」より
大正12年(1923) 智恵子38歳

この文章は文学全般をイメージしてのものですが、光太郎同様、智恵子も賢治作品を愛していました。「輝く天然の光りのうちにその全きを理法と愛とに生きむがため、一切を鋳なほし、息づまつた熱鬧に涼風をおくる、天に向つてあげる烽火」、まさに賢治作品を彷彿とさせられます。

当会の祖・草野心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。 

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。

光太郎第二の故郷、花巻市内のワンデイシェフの大食堂さんで、月に一度出店されている「こうたろうカフェ」。主に食を通じて光太郎顕彰を進められているやつかの森LLCさんによるものです。12月3日(水)が今年最後の出店だったとのことでした。1764766631726

今月は以下のメニュー。

・鶏肉のハニーマスタード焼き
・ひじきの煮物
・糸コンの胡桃和え
・大学いも
・季節のサラダ
・漬け物
・舞茸ご飯
・彩り野菜のコンソメスープ
・栗ぜんざい
・抹茶入り玄米茶

現地では初雪も降り、しかもかなり積もったそうで、冬本番。メニュー的にも冬らしい感じが出ています。
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やつかの森さんからのメールの一節。

季節のサラダはクリスマスツリーをイメージしました。光太郎の手作りのお汁粉を栗ぜんざいとして搗き立てのお餅を入れました。さつまいも、カボチヤ、蕪、大根など野菜たっぷりです。舞茸たっぷりのご飯も好評でした。

栗ぜんざいに西瓜の皮の味噌漬けを添えました。シャキシャキして軽めの塩加減で激ウマです。


基本、光太郎が自炊した献立や使った食材などを参考にメニューを組み立てられています。なかなか考えるのも大変だと存じますが、アレンジの仕方は現代風なので、そうそうネタ切れになることもないのでしょう。間を置けば同じ品目があってもいいわけですし。

来年も御馳走が饗され続けることを祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

巣籠つた二つの魂の祭壇。こゝろの道場。並んだ水晶の壺の如く、よきにせよ不可なるにせよ、掩ふものなく赤裸で見透しのそこに塵埃(ちりほこり)をとゞむるをゆるさない。それ故、清らかなるものに膏(あぶら)を沃(そゝ)ぎ、深められ掘り下げらるべき、内の世界――自らの性情と仕事に対し――血をもつてむかふ。それ故こゝに根ざす歓喜と苦難とは、更に新しく恒(つね)に無尽に、私達の愛と生命(せいめい)とを培ふ。


散文「病間雑記」より 大正12年(1923) 智恵子38歳

理想とすべき生活の在り方への言及です。文体はともかく、内容的には光太郎の追い求めていたそれとの驚く程の一致が見られます。そんなに肩肘張らず気楽に行こうよ、みたいな。

智恵子もこうした考えに至る過程を、光太郎によって強制されたある種のマインドコントロールとする見方もあれば、智恵子自身、そうした生きたかを求めていたとも考えられますし、何とも言えません。












光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じての光太郎顕彰を続けられているやつかの森LLCさんの取り組み。

毎月15日は、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナントのミレットキッチン花(フラワー)さんで、やつかの森さんがメニュー考案に当たられている弁当「光太郎ランチ」が販売されていまして、その今月分。
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品目は「鱈フライ」「大根と牛肉のきんぴら」「ポテトサラダ」「卵焼き」「漬物」「ハムカツサンド」「麦ご飯」「南瓜の茶巾と秋の果物」だそうです。基本的には、光太郎が実際に自作したメニューや使った食材を参考に組み立てられています。

同様の方法で、ランチを提供する「こうたろうカフェ」としての活動。市内のワンデイシェフの大食堂さんで、こちらも月に一度行われています。今月は一昨日でした。
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画像2枚、追加いたします。
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こちらのメニューは「こうたろう春巻き」「手羽元とコンニャクの甘辛煮」「柿ドレッシングサラダ」「のり巻き卵焼き」「ほうれん草のピーナッツ和え」「漬け物」「手作り味噌の具だくさん豚汁」「新米ごはん」「林檎のケーキ」「コーヒー」。

いずれも秋の実りがふんだんですね。秋、といっても、もうあちらでは既に初雪も降ったそうで、冬本番も間近のようですが。

双方の取り組み、末永く続く事を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

天賦の才といふものも其を価値あらしめるだけの意志がなければ何にもなりません。芸術家は一滴一滴岩に喰ひ込む水の辛抱強さを持たねばなりません。

光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

才能を生かすことができる才能というものも、確かにあるような気がします。逆にそれが欠けているばかりに、あたら天賦の才を無駄にしてしまった例も。

若干先の話ですが、申込〆切が近いもので……。

令和7年度第9回『はなまき通検定』

期 日 : 2025年12月14日(日)
会 場 : 花巻市交流会館 岩手県花巻市葛3-183-1
時 間 : 10:00~ 試験時間50分間
料 金 : 無料

◆はなまき通検定とは?
 花巻に関する知識の深さを認定する検定試験です。この検定を通じて、花巻の良さを再認識していただくとともに、観光に従事する方だけではなく市民皆で観光客をおもてなしできるよう、花巻の知識を習得していただくことを目的に実施します。今回は初級編の検定となります。

◆合格特典
 合格者全員に合格証と合格記念ピンバッジを進呈いたします。

◆お申込みについて
 お申込み期間:令和7年10月14日(火)~11月21日(金)
 お申込み方法:以下の申込み方法を参考にFAX(FAX:0198-29-4447)
        またはメール(kero@kanko-hanamaki.ne.jp)でお申込みください。
◆合格基準等
 出題・配点:4択問題形式、全50問(1問2点、100点満点)
 合格基準:80点以上合格 ※今回は簡単な初級編です。
 出題内容:花巻の市勢、歴史、文化、先人、観光、時事、旬な話題など

◆合格発表
 発表日時:令和6年12月18日(水)午前10時
 発表方法:花巻観光協会ホームページに合格者の受験番号を掲載します。
      合格者へは合格証と記念ピンバッジを併せて郵送いたします。 

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今回で第9回となる検定。事前にテキストが提示され、その内容を中心に出題されます。テキスト以外からも問題になるようで、注意が必要ですが。テキストはこれまでとほぼ同一と思われ、花巻を第二の故郷とした光太郎についても5ページにわたり記述があります。

昨年度の第8回検定の際には、光太郎に関する問題が4問出題されました。
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このブログの愛読者の皆さん(あまり居ないと思われますが(笑))にはチョロい問題ですね。念のため正解を書いておきますと、【問題30】は「3」の「約7年間」、【問題31】が「2」で「1936年(昭和11年)」、【問題32】だと「1」の「非常の時」、【問題33】では「3」の「れんぎょう」です。

他に宮沢賢治がらみの問題が15問ほど出ていまして、それも楽勝でしたが、方言の問題などはお手上げでした。「ごしゃっぱらげる」「とのげる」、何語ですか?(笑)

後は、花巻ゆかりの新渡戸稲造、萬鉄五郎、菊池雄星選手などについても出題されていました。

我こそはと思う方、ぜひどうぞ。また、全国の自治体/観光協会などの方、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

だが幾度も繰返すのが恥かしいほど、自明な、解り切つた、根本的な真理を再建するのに、何といふ努力のいる事だ! それにも拘らず此等の事は肝腎な事である。


光太郎訳 ロダン「ロダン手記 ゴチツクの天才 復興期及十八世紀に及ぶ」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

芸術に於いて、いわゆる「王道」を突き進もうとすると却って困難である、ということです。目先の新しさにとらわれ、変化球的なものがもてはやされる傾向がありますので。

ロダンに学んだ光太郎の芸術も、彫刻にしても詩にしても、外連味のない「王道」を根幹としています。しかし、それが却って正統派過ぎて高い評価を得られないことにもなっているような気もします。

今年4回目、来月もまた来るのですが、光太郎第二の故郷・花巻に来ております。
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今回の宿泊は、いつもの花巻南温泉峡・大沢温泉さんではなく、さらに奥まった鉛温泉さん。こちらも光太郎がたびたび泊まった宿です。
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先程、川岸の露天風呂に行ったら、先に入浴されていた方々が「熊が出た!」と騒がれていました。対岸に親子連れの熊がいたそうです。当方が行ったらもう立ち去った後でしたが。

今回は来春行われる市主催のイベントの打ち合わせで参りました。のちほど詳しくご紹介いたしますが、「光太郎と賢治―宮沢賢治全集ができるまで―」という企画展示が来月から始まり、その関連行事として来春2月21日(金)に、賢治実弟・宮沢清六令孫の和樹氏、賢治の親友だった藤原嘉藤治の顕彰に当たられている瀬川正子氏と当方によるトークイベントが予定されています。昨夜はその方々や市の皆さんなどとの打ち合わせでした。

その前に、花巻高村光太郎記念館さん、隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)に。
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記念館では現在は企画展「昔なつかし花巻駅」と特別展示「中原綾子への手紙」(第三期)が同時進行で開催されています。

先週、地元のIBC岩手放送さんのローカルニュースで「中原綾子への手紙」が紹介されました。ついでというと何ですが、このタイミングでないと紹介できませんので引用しておきます。他に取り上げる事項が山積しておりますので。

親しい友人に宛てた手紙から高村光太郎の素顔や苦悩を感じられる企画展「中原綾子への手紙」 岩手・花巻市

 詩人で、彫刻家としても活躍した高村光太郎が、友人で歌人の中原綾子に送った手紙を集めた企画展が、花巻市で開かれています。
 この企画展は中原綾子の親族から花巻市に寄贈された、高村光太郎が中原綾子に送った手紙60点を4期に分けて行われているもので、今回がその3期にあたります。
今回の展示では高村光太郎の直筆の葉書、封書や関連資料合わせて30点あまりが公開されています。
中原綾子に宛てた直筆での手紙が公開されるのは今回が初めてです。
 高村光太郎が書いた葉書は下書きをせず、一気に書き進めているため、最初は行間が広めに設けられているのに、後半になると行間が狭まり、左下の隅のほうまで文字が細かく書き込まれています。
このことにより、光太郎と綾子が気の置けない友人であり、光太郎には綾子に伝えたいことがあふれていたことが想像できます。
 また一方で封書には「ちえ子の狂気は日増しにわろく」や「此を書いているうちにもちえ子は治療の床の中で出たらめの嚀語を絶叫してゐる始末でございます」などと、精神分裂病(現在は統合失調症)を患っていた智恵子の病状を伝えています。光太郎は「智恵子抄」を発表するまで、親類にしか智恵子の病気のことを伝えていなかったといわれていることから、綾子のことを信頼し、話を聞いて欲しかったのではないか、ということが感じられます。
 花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さんは「智恵子抄に至るまでの道のりを示す貴重な資料です」と話していました。
 この企画展は年内いっぱい第3期の展示が続けられます。
そして、展示内容を入れ替えて1月から第4期の展示となり、2月28日まで行われる予定です。
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今回はあまり長居ができませんで、この後、智恵子の故郷・福島二本松に立ち寄って帰ります。そちらではまだ「高村智恵子レモン祭」が開催中でして。

それに関しては、帰りましてからレポートいたします。

光太郎第二の故郷・花巻市のワンデイシェフの大食堂さん。日替わりで個人やグループの方々がランチタイムにシェフを務めるというスタイルのレストランです。同地で主に食を通じての光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、おおむね月に一度「こうたろうカフェ」として出店なさっています。

10月29日(水)分の画像。42食完売だそうです。
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品目は、「白身魚のフライ&タルタルソース」「コールスローサラダ」「鶏つくねの串焼き」「菊の胡麻和え」「バターナッツのポタージュスープ」「蕪の漬物」「新米ご飯」「マロンブラウニー」「コーヒー」。基本、光太郎が自炊した料理や使った食材などを参考にというコンセプトです。諸物価高騰の折、これまで1,000円だった定価が1,200円に値上げ(全出店者共通です)だそうですが、それでも割安感がありますね。

やつかの森さんからのメールの一節。

菊の花の胡桃和えやバターナッツのポタージュは、初めてという方も結構いらしてとても喜ばれました。根生姜が効いたつくねは絶品‼️ 白身魚フライはサクサクで軽く何枚でもいけちゃう美味しさ。サラダも沢山の食材で好評。かぶと白菜ときゅうりの漬物も赤かぶを添えて彩り良く柔らかくて美味。北上市の二子の里芋と昆布の煮物も蓮根、人参、枝豆を入れてほっとする味。ブラウニーは大きな栗たっぷりと胡桃を散らして。誰一人残さずにペロリと完食でした‼️ 八幡平市から友人がきてくれたり、赤ちゃん連れのご家族もゆっくりランチを楽しんでました。ありがたきかな。

次回ご出店は11月18日(火)だそうです。

ところで最近、こんな雑誌を入手しました。
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タイトルが『鶏の研究』。そのまんま「鶏の研究社」という社からの刊行物ですが、養鶏業者や食肉加工業者向けの月刊誌です。巻号は第26巻第10号、光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居していた昭和26年(1951)10月号です。

なぜこんなマニアックな古雑誌を購入したかというと、以下のアンケートが載っており、光太郎の回答もありましたので。『高村光太郎全集』に洩れていたものです。
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こうあってほしい鶏卵肉」というテーマで、質問項目は8つ。

一、鶏卵はお好きですか。
二、生ですか、それとも料理(例えば?)したものを好まれますか。
三、卵殻は赤いのと白いのとどちらを好まれますか。
四、卵を召上がつてこうだつたら良い、こういうのは嫌だと思われること。例えば栄養、価格、内容、外観、何でも結構です。
五、鶏肉はお好きですか。
六、どんな料理をして召上りますか、お得意の料理法がありましたら公開して下さい。
七、鶏を飼つて居られますか、どんな鶏がお好きですか。
八、その他養鶏についての御所感を。


これらに対しての光太郎の回答は、

一、好きです。殊に夏は肉が腐り易いので鶏卵は恰好な動物質蛋白質源と思います。
二、非常に急な場合は生で食べ、時間のある時は料理します。生みたてに近い卵がいつでもあります。
三、殻の赤白に好き嫌いはありません。
四、殻に必ず日附をつけたいと思います。飼養の條件がすぐ卵にあらわれます。
五、鶏肉は好きです。殊に所謂モツを賞味します。
六、特別変つた料理法も知りません。多く中華料理風にして食べます。卵は五分間半熟が甚だ便利です。
七、独居自炊の山中生活なので自家では飼えません。飼うと外出が出来なくなります。
八、人がもつと多く鶏を飼つて利用するといいと思います。

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編集部で描いたのでしょうが、似ているような似ていないような光太郎横顔のカットも(笑)。それはさておき、しっかり自炊していた光太郎の言だけに説得力があるように感じました。

他の回答者は山川菊栄、越路吹雪、藤山一郎、横綱千代の山、元首相片山哲、箏曲の宮城道雄、歌舞伎の市川海老蔵、将棋の木村義雄名人など割と豪華なメンバーでした。

こんなふうに昔の雑誌には各界著名人に回答を求めるアンケート欄が普通にあり、光太郎のアンケート回答はこれまでに100篇超が見つかっています。最近も見つけ続けていますし、これからも見つかるでしょう。ただ、アンケートの場合、掲載誌の目次に回答者名が全て載って居らず「諸名家」などとなっている場合も少なくありませんで、なかなか大変です。

さて、やつかの森さんには、いずれ光太郎回答にあるような「中華料理風」や「所謂モツ」を使ったメニューも考案していただきたいものです(笑)。今回の「こうたろうカフェ」でも「鶏つくねの串焼き」が入っていましたが。

【折々のことば・光太郎】

われらの不安、われらの失望、われらの感激、われらの壮烈、われらの情熱、われらの肉感、彼は一切を訳出し、一切を表現した。詩人よりも善く、言葉によるよりも善く、形によつてだ。

光太郎訳 オクーヴ・ミルボー「アウギユスト ロダン」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

訳書『続ロダンの言葉』巻頭に置かれた評論の一節です。光太郎の目指した彫刻のありようも、こういうことだったのかもしれません。

オリジナルが改訂版となり、さらに文庫化されたもの。光太郎の名もちらっと出ています。

鉄人文庫 改訂版 日本ボロ宿紀行

発行日 : 2025年9月25日 
著者等 : 上明戸聡
版 元 : 鉄人社
定 価 : 1,000円+税

懐かしの人情宿が、”旅心”を刺激する
観光でも出張でもない、目的なき旅の途中で出会った“ボロ宿”たち。
ベストセラー旅行記が、改訂文庫版で新たに甦る!

“ボロ宿”は決して悪口ではありません。歴史的価値のある宿から、古い安宿までひっくるめ、愛情を込めてそう呼んでいます。ボロ宿は最高の誉め言葉です――。テレビ東京でドラマ化された傑作旅行記の決定版、待望の文庫化! 歴史的宿から湯治宿、商人宿、駅前旅館まで、古い建物を守り続ける宿を愛してやまない著者のベストセラー旅行記がリニューアル復刻。懐かしの人情宿が“旅心”を刺激する。

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目次
 グラビア
 改訂版の文庫化にあたって
 はじめに
 第一章 昔の姿を残す青森の湯治宿
  八戸 新むつ旅館 五所川原 音治郎温泉旅館 黒石 温湯温泉飯塚旅館
 第二章 花巻のお馴染み宿から、遠野へ
  花巻 大沢温泉・自炊部 遠野 旅館福山荘 花巻 鉛温泉藤三旅館
 第三章 つげ義春ゆかりの宿を訪ねて西伊豆へ
  伊豆 天城湯ヶ島温泉白壁荘 松崎 長八の宿山光荘 松崎 岩地温泉民宿大清水
 第四章 忍者の里をさまよい歩く
  伊賀 薫楽荘
 第五章 伊勢から鳥羽へ歴史を訪ねる旅
  伊勢 星出館 伊勢 旅館海月
 第六章 四国から瀬戸内を渡って尾道へ
  松山 道後温泉ホテル椿館 大崎上島 きのえ温泉ホテル清風館 尾道 佐藤旅館 
 第七章 鳥取の限界集落と出雲への旅
  智頭町 河内屋旅館 出雲 持田屋旅館 境港 かぐら旅館
 第八章 熊本の日奈久温泉から鹿児島へ
  八代 日奈久温泉新湯旅館 出水 白木川内温泉旭屋旅館
 第九章 雪国を旅する
  横手 尾張屋旅館 角館市 高橋旅館 弘前市 石場旅館
 第十章 震災後の東北を巡る旅
  酒田 最上屋旅館 東鳴子温泉 まるみや旅館 千厩 勢登屋旅館 能代市 民宿水月
 第十一章 熱海から小田原へ昭和レトロを求めて
  熱海 福島屋旅館 小田原 日乃出旅館
 第十二章 町にも宿にもドラマあり
  長浜市 三谷旅館 大津市 ホテル大津 鳥取市 旅館常天
 第十三章 瀬戸内海の風と光に魅せられて
  小豆島 オリーブ温泉小豆島グランドホテル水明 津山あけぼの旅館
  今治 ビジネス旅館 ビジネス旅館笑福


解説文にあるとおり、「ボロ宿」は蔑称ではなく、限りない愛着を込めての呼称です。新しさや利便性とは無縁の、しかし温かみにあふれる全国のレトロな宿がこれでもか、と紹介されています。本書でも取り上げられているつげ義春氏が愛したような宿、といえば通じる方も多いと思われます(笑)。

戦後の7年間の蟄居生活中に光太郎が何度も訪れた、花巻南温泉峡の大沢温泉さんと鉛温泉さんが取り上げられています。鉛温泉さんの項では光太郎の名は出て来ませんが、大沢温泉さんの方には「平安時代に坂上田村麻呂が見つけ、宮沢賢治や高村光太郎のお気に入りだったという歴史あるお湯」と紹介されています。

なぜか文春さんのサイトに大沢温泉さんの項がほぼ全文引用されており、それで本書の存在を知って購入した次第です。そちらには本書ではモノクロ画像で載っているものがカラーで掲載されています。
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当方も年に数回、大沢温泉さんに泊めていただいており、「そうそう、こういうところがたまらないんだよな」などと思いながら拝読いたしました。ただし、平成20年(2008)時点でのレポートなので、菊水館さんの休業、その後の「ギャラリー茅」としてのリニューアルなどには触れられていませんが。

自炊部さんは江戸時代の建物を使っており、まさに「ボロ宿」(これも良い意味での、です)ですが、根強い固定ファンも多いようで、このところ予約に苦労しています。やはり菊水館さんに泊まれなくなったことでキャパ自体も減りましたし。この冬には来月、12月、来年2月と3回花巻行きの予定ですが、自炊部さんがとれたのは2月だけでした。12月は建物が繋がっている近代的な温泉ホテルの山水閣さん、来月は本書でも取り上げられている鉛温泉さんの自炊部をとりました。こちらも光太郎ゆかりの宿で、3回ほど泊めていただいたことがあります。やはり寒い時期はシティホテルより大きな温泉が望ましいところです。

12月には同じ花巻南温泉峡に「大江戸温泉物語Premium 岩手花巻」がオープンします(元々渡り温泉で他の宿だったところですが)。ファミリーや、手軽なお得感、がっつりの食事などを優先される方々はそちらへ泊まっていただけると、大沢温泉さんの予約も取りやすくなるかな、等と考えていますが、どうでしょうか。

ところで『日本ボロ宿紀行』、上記解説文に「テレビ東京でドラマ化された」とありますが、平成31年(2019)のことでした。原案は『日本ボロ宿紀行2』ですが、売れない歌手・桜庭龍二(高橋和也さん)と芸能プロダクション社長兼マネージャー・篠宮春子(深川麻衣さん)がプロモーションのためボロ宿を泊まり歩くという、書籍とは全く異なる設定になっていました。

当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市の木の下旅館さんというボロ宿(現在は旅館業は廃業し、食堂になっています)も舞台となったので、放映当時にリアルタイムで拝見しました。桜庭の唯一のヒット曲「旅人」のPVを新たに制作するというストーリーで、背景は木の下旅館とその周辺。調べたところ、YouTubeにまだ動画が残っていました。昭和レトロを茶化す感じがたまりません(笑)。


ちなみにこの場所では、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」のロケも行われています。

閑話休題、『改訂版 日本ボロ宿紀行』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

――自然は至上の建築家です。何もかも最美の釣合で建てられてゐます。それに何もかも三角か、六面体か或は其の変化の中に閉ぢ込められてゐます。私は此原則を自分の彫像を組立てる時に使ひます。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

葛飾北斎が『北斎漫画』『略画早指南』などで万物がコンパスと定規で描けるとしていたのを想起しました。
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我々凡人とは見え方が違うのかも知れません。

10月12日(日)、13日(月)と、花巻市の土澤地区で開催された「土澤アートクラフトフェア」に、花巻で主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが参加なさったそうです。
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この催しは基本、「アート」と「クラフト」の「フェア」で、それ系が約300店、それから来場の皆様や出店者の方々に販売するということでしょう、飲食系の出店が100店近く。なかなか大規模なイベントですね。

やつかの森さんは出店者名簿に名がありませんでしたが、おおむね月に一度「こうたろうカフェ」として出店されている「ワンデイシェフの大食堂」さん名義でワンデイさんのスタッフの方々共々ご参加、「こうたろう弁当」を販売されたとのこと。
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やつかの森さんの作られる料理はいつもそうですが、光太郎の日記などを元に、実際に光太郎が自分用に調理したメニューや、使った食材などを参考に現代風にアレンジされたものです。

昨秋の「土澤アートクラフトフェア」で、智恵子にちなむレモンケーキを配付なさった花巻南高校家庭クラブさん。今年もやつかの森さん、ワンデイシェフの大食堂さんのヘルプに入られたそうです。
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特筆すべきは、生徒さんたちがまとっているエプロン。大正時代の『婦人之友』に紹介され、彼女たちが復刻して下さった智恵子のエプロンをアレンジしたものです。

オリジナルは智恵子の実家である福島の長沼酒造で使われていた酒袋(酒を搾るのに使うもの)の再利用でしたが、それだとまず素材を入手するのが大変ですし、布地も硬く縫製が難しい(復刻の際にはミシンの針が折れたそうです)とのことで、現代の普通の生地を使っての制作。これなら量産がききますね。これはこれで売りに出せば売れるような気もします。

そんなこんなで、今後のますますの活動の発展に期待したいところです。

【折々のことば・光太郎】

――感情に種類のあるやうに美にも多くの種類があります。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「美」のありようは、美術方面、造型芸術に限らないということでしょうか。当然、文学や音楽などにもそれぞれの「美」がありますし、人間が介在しない自然界にも「美」は溢れています。

001当会で会報的に発行している『光太郎資料』。第64集が完成しまして、関係の団体や個人の方々へ順次発送しております。

元々は当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、筑摩書房版第一次『高村光太郎全集』完結後、その補遺などを最初の目的として昭和35年(1960)に刊行を始めたものです。以後、平成5年(1993)の第36集まで不定期に発行が続き、全集の補遺や、その他、光太郎智恵子光雲に関する様々な「資料」が収められました。

平成24年(2012)に当会としてその名跡をお譲りいただき、4月の連翹忌と10月のレモンの日に合わせて、年2回の発行としています。

今号の内容は以下の通り。

「光太郎遺珠」から 第二十八回 岩手にて その二
増補版『高村光太郎全集』(平成10年=1998に完結)後に見つかった光太郎文筆を集成しています。昭和20年(1945)から7年半暮らした花巻町と郊外旧太田村で書かれたもののうち、今号では昭和20年(1945)と翌年前半の、主に書簡です。

光太郎回想・訪問記 『宮沢賢治批判』まえがきより 佐藤勝治/出会いの重みについて 四竈経夫(しかまつねお)
前者は『山荘の高村光太郎』(昭和31年=1956 現代社)を書いた、元太田小学校山口分教場の教師・佐藤勝治によるもの。同書と重なる部分もありますが、多少のニュアンスの違いもあったので採りました。光太郎の旧太田村移住の経緯等が記されています。

後者は『海のように深く 現代の忘れもの』(平成5年=1993 宝文館出版)より。四竈は学徒出陣後、戦後は東京女学館中学高校長を務めた人物であった他、八木重吉に関する著書もあります。光太郎日記の昭和20年(1945)9月10日の項に「午後佐藤院長さん宅へ清六さんの知人四カマ氏といふ航空気象の軍人来訪、詩の話などす。余の詩を読んでゐる人。水沢へ来たついでとの事。」の記述があります。この日は8月10日の花巻空襲で宮沢賢治の実家を焼け出された後、身を寄せていた旧制花巻中学校元校長・佐藤昌宅から、花巻病院長・佐藤隆房邸へ移った当日でした。これまで「四カマ氏」については不分明でしたが、四竈自身の回想を発見したことで、詳細が明らかにできました。

光雲談話筆記集成 善光寺仁王尊の製作 米原雲海/高村光雲
大正8年(1919)、光雲とその高弟の米原を中心に制作された信州善光寺さんの仁王像他について。制作過程や細部の意図、参考にした他寺院の仁王像について等が語られています。

昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  安房館山周辺(千葉県)
大正10年(1921)に与謝野夫妻、深尾須磨子ら新詩社の一行10名程で、さらに同14年(1925)には光太郎智恵子二人で訪れた安房館山を紹介しました。
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音楽・レコードに見る光太郎  「家の光つどいの歌」
昭和30年(1955)にリリースされた、光太郎詩「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)朗読(朗読者は不明)が吹き込まれたSPレコードに関してです。2種類の盤が確認出来ています。
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第六十九回連翹忌報告
4月2日(水)に日比谷松本楼さんで執り行った、第69回連翹忌の集いについてです。
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高村光太郎初出索引
現在把握できている光太郎文筆作品を、初出掲載誌題名によりソート・抽出し、初出掲載年順に表にしています。今号では昭和11年(1936)から翌年に初出のあったものを掲載しました。智恵子が南品川ゼームス坂病院に入院していた時期です。
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ご入用の方にはお頒けいたします(ご希望が有れば37集以降のバックナンバーも)。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします。通信欄に「光太郎資料購読料」と明記の上、郵便局備え付けの「払込取扱票」にてお願いいたします。ATMから記号番号等の入力でご送金される場合は、漢字でフルネーム、ご住所、電話番号等がわかるよう、ご手配下さい。申し訳ありませんが手数料はご負担下さい。

ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

今号のみ欲しい、などという方は、このブログのコメント欄等でご連絡いただければと存じます。送料プラスアルファで1冊200円とさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

良い彫刻家が人間の胴体を作る時、彼の再現するのは筋肉ばかりではありません。其は筋肉を活動させる生命です。……生命よりも以上のもの、……力です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

光太郎訳の『ロダンの言葉』は、日本の若き芸術家たちにバイブルの如き扱いを受けました。やはりこういう一節などが沁みたのでしょう。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で、10月5日(日)の智恵子の忌日「レモンの日」に行われるイベントです。

第2回 レモンの日イベント

期 日 : 2025年10月5日(日)
会 場 : 田舎labo 岩手県花巻市湯口字蟹沢13−1
時 間 : 11:00~16:00
料 金 : 無料

10月5日〈レモンの日〉にちなんで開催 レモンいっぱい、お楽しみに!
花巻ゆかりの彫刻家で詩人・高村光太郎氏の“レモン哀歌”にちなんで制定された、特別なレモンの記念日です。いろんなジャンルの飲食店が、いちおしのレモンメニューを持って集まります。レモン尽くしの爽やかな1日をぜひお楽しみください🍋

出店者一覧
 焼き菓子工房シャノアール (レモンビスケット・レモンケーキ他)
 バックシュトゥーべ (檸檬トルテ)
 うずら森のこよみ (レモンカード)
 志たあめや (レモンたぬきさん)
 んだばシトラス (レモネード・レモンジンジャートニック)
 スイーツ工房ヘンゼル2 (蜂蜜レモンタルト・レモンヨーグルトシフォンケーキ他)
 Cocoon BAKE (レモンパイ)
 ぱん☆d'argileさんの『デリバリーひよこ隊レモンバージョン』を数量限定販売します!
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花巻と、附近の自治体さんにある複数のお店によるレモン系スイーツの饗宴です。

昨年
から開催が始まり、2回目の実施です。昨年は告知に気づくのが遅れ、当日になってあわててご紹介しましたが、今年は早めに(笑)。個人的には「レモンたぬきさん」が気にかかります(笑)。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

散歩する度び散歩は私にとつていつでも新らしい驚嘆です。都会で疲れた後などは、広大な恢復期の中に浸つてゐる様です。一切のものが悦楽です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

光太郎もそうでしたが、ロダンにも田舎志向があったようで……。

昨日は1週間ぶりに上京しておりました。行き先は品川区大井町にある、ジオラマ作家の石井彰英氏の工房兼スタジオ(氏はミュージシャンでもあらせられますので)。昨日もご紹介した、土屋直久氏と石井氏が作成され、高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「昔なつかし花巻駅」で展示されている昭和10年代の花巻駅付近のジオラマの関係です。

石井氏はこれまでもジオラマ作成と並行してジオラマをビデオで撮影し、DVDも制作なさっています。

品川区大井町-智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む-のジオラマDVD
「高村光太郎ジオラマDVD」。
「高村光太郎ジオラマDVD」上映会。
中原中也ジオラマDVD ダダさん。

今回もDVD制作をなさり、昨日はその上映会というわけで、馳せ参じた次第です。
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石井氏、土屋氏以外に集まられたのは、DVDのBGMを演奏された石井氏の音楽仲間の皆さんや、これまでのジオラマの関連で石井氏と親しくなられた方々。
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おおむね40分程の映像です。
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光太郎第二の故郷・花巻の玄関口、花巻駅周辺。展示されているジオラマ本体には無い建造物等も、これ用に作成されているようです。
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先週行われた「花巻まつり」も。昭和10年代という設定ですので、宮沢賢治やその妹・トシは既に亡くなっていますが、二人の魂が祭りを堪能しているというわけで。
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現在のJR釜石線にあたる岩手軽便鉄道がメインですので、花巻の東、遠野方面も。
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さらに古写真や現在の現地の写真。
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最後に制作日誌。
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2年以上かかっての制作、実に頭が下がります。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展示は11月30日(日)まで。おそらく記念館さんでDVDの販売も為されているかと存じます。

また、今回、あまり協力しなかったにもかかわらず、8枚ばかりいただいてしまいました。数枚は花巻のお世話になっている方々に送ろうと考えていますが、まだ残りそうなのでご連絡いただければお送りします。大口のご注文等は、石井氏まで。

【折々のことば・光太郎】

あなたは頭がどういふ様に頸に嵌り込んでゐるかを注意しなかつた。あなたはモデルを顎の下から見ませんでしたね。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

女弟子の一人が製作を見て貰ひに来た時」という小題が付いた部分の一節です。「女弟子」はカミーユ・クローデルかもしれません。

頭は頭、胴体は胴体、ではなく、部分部分の繋がりが大切、と、当たり前と言えば当たり前ですが、造型芸術ではなかなかそれがうまく出来にくいのでしょう。

今日はこれから上京します。現在、高村光太郎記念館さんでの企画展「昔なつかし花巻駅」で展示されている昭和10年代の花巻駅付近のジオラマを作成したお一人、石井彰英氏の工房にお邪魔する予定です。

石井氏、ジオラマを制作された後は、ビデオカメラで作品を撮影し、DVD化することをルーティンとされており、その完成記念に、メインで制作された土屋直久氏、その他協力者を招いての上映会だそうで、当方も招かれました。今回はほとんど協力もして居らず恐縮なのですが。

企画展「昔なつかし花巻駅」、少し前に地元紙『岩手日日』さん、NHKさんのローカルニュースで取り上げられましたが、地元テレビ局IBC岩手放送さんのニュースでも紹介されました。

昭和11年に撮影された記録映画をもとに、当時の花巻駅周辺を表現 精巧なジオラマ公開 岩手・花巻

昭和11年7月に作られた記録映画をもとに製作された、昭和初期の花巻駅周辺を情景として表現したジオラマが岩手県花巻市で公開されています。
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このジオラマは昭和初期の花巻駅やまちの雰囲気を感じてもらおうと、高村光太郎記念館が企画、東京の土屋直久さんに依頼して製作されたものです。
高村光太郎記念会の初代会長である佐藤孝房さんが昭和11年に撮影した、岩手軽便鉄道の記録映画に残る花巻駅周辺の街並みを表現しました。
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 ジオラマのサイズはヨコ180センチ、タテ60センチとかなりの大きさ。
当時の花巻駅は岩手軽便鉄道、花巻電鉄、日本国有鉄道の三路線が乗り入れ、かなりの賑わいを見せていたことがわかります。
こちらが日本国有鉄道の花巻駅。
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 着物姿で駅の案内板に見入る親子の姿に、当時の日常が垣間見られます。

そしてこちらは岩手軽便鉄道の花巻駅。
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 二階建ての駅舎です。2階にはレストランがありました。
外観からも、かなりハイカラな駅舎だったことが分かります。

こちらは岩手軽便鉄道の花巻駅構内。
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停車している蒸気機関車のすぐ近くには給水塔と石炭台があります。
ここで水と石炭を補給し、列車は終着駅の仙人峠を目指しました。

こちらは、駅前にあったタクシー会社。
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 レトロな車の形状が、今見ると逆にオシャレでカッコ良いです。

会場では、モニターで昭和11年7月に撮影された記録映画を見ることもできます。
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そこに映し出された当時の人々の姿や表情を見るだけでも、ここを訪れる価値があります。
(筆者は終点の仙人峠駅に「駕籠かき」の姿が映っていることに驚きました)
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高村光太郎記念会事務局の高橋卓也事務局長補佐は「電気鉄道(花巻電鉄)を含めた3路線が乗り入れている駅は、当時は非常に珍しかった。是非、花巻駅の当時の賑わいを感じて欲しい」と話していました。
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 このジオラマと記録映画は11月30日(日)まで、花巻市の高村光太郎記念館で公開されています。

石井氏工房でのDVD上映、9月23日(火・祝)に一般向けにも開催されるそうです。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

確かに、のろいといふ事は一つの美です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

〆切に追われる仕事では、いいものは作れない、と。わかっていながらなかなかできないのですが(笑)。

昨日、高村光太郎記念館さんでの企画展「昔なつかし花巻駅」を紹介して下さった地元紙『岩手日日』さんの記事をご紹介しましたが、同じ件をNHKさんのローカルニュースでも報じて下さっています。昨日朝の時点では動画がアップされていなかったのですが、その後、出されました。

昭和初期の花巻駅周辺を再現した模型の展示会 岩手 花巻

昭和初期の花巻駅周辺を再現した模型の展示会が花巻市で開かれています。
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この展示会は、花巻電鉄や岩手軽便鉄道の開業で交通の要所として発展していた当時の花巻駅の雰囲気を味わってもらおうと、花巻市にある高村光太郎記念館が企画しました。
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模型は、昭和11年に撮影された映像や当時の地図などをもとに作成され、駅舎や列車、利用客が精密に表現されているほか、列車は模型のレールの上を動く仕組みになっています。
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また、駅前の広場では祭りが開かれ、大勢の人でにぎわっている様子も表現されていて、訪れた人たちは、在りし日の花巻駅の雰囲気を味わっていました。
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横浜市から観光で訪れた男性は「すごいジオラマでびっくりしました。こんなに立派な駅舎があったんですね」と話していました。
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高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さんは「屋根や建物が大変繊細に作られているのが特徴です。映画の画像とジオラマとを見比べてもらえたらと思います」と話していました。
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この展示会はことし11月30日まで開かれています。
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上の方にリンクを貼っておきました。数日間は動画が見られるはずですのでご覧下さい。

同じく「運輸/交通」カテゴリで、「花巻」ということもあり、テレビ番組の放映情報を1件、ご紹介しておきます。

ほろ酔いドラマアワー・#居酒屋新幹線[終] #12「新花巻編 銀河鉄道で懐かしい味と思い出に浸る夜」

BS11 イレブン 2025年9月10日(水) 18:27〜18:54

居酒屋新幹線開店! 損保会社の内部監査室で働き、日帰り出張で全国を飛び回る高宮進(主演:眞島秀和)。出張先で見つけてご当地グルメやお酒を帰りの新幹線で堪能する。

タクシー運転手の案内で花巻駅界隈にやってきた高宮進。勧めに従い、花巻の原料にこだわったクラフトビールや、奥羽山脈の水と国産の餌で育てた白金豚のジャーキーを買う。最後に連れて行かれたのはビルの上階。そこは昭和レトロな面影漂う大食堂だった。ショーケースに並ぶ洋食やラーメンやデザートのサンプル、家族連れで賑わう店内。懐かしい景色と味に、進はデパートの食堂に行った子供の頃、そして幼い夢を思い出すのだった。

出演者 眞島秀和 田中要次 【声】星野真里(友情出演) 
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令和4年(2022)の制作で、元々は関西のMBS毎日放送さんで8話までが放映され、その後CS放送で、さらに一昨年、BS-TBSさんで全12話が放映されたそうでしたが、存じませんでした。すでにシーズン2も制作されています。それから、天宮さろん氏によるコミック版も。「原作」というわけではなく「コミカライズ」と謳われていますので、ドラマが先だったのでしょう。
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JR東日本さんとのコラボ企画のようで、コミック版1巻は新花巻駅を含む東北新幹線の駅が舞台です。来週オンエアの第12話、光太郎の話題になることはないと思いますが、「銀河鉄道」と冠していますので、宮沢賢治には触れられそうですね。
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マルカン大食堂さんなども取り上げられます。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

若し急いだり行きつかうとあせつたり、労働其自身を目的として考へなかつたり、成功、金銭、勲章、註文などを思つたりしたら、お仕舞です! 決して芸術家にはなれません。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

ロダン流のこういう考え方を光太郎も実践してしまい、その結果、赤貧とはいかないまでも、生活不如意の状態は長く続きます。そして智恵子もそれを肯んじていたわけで……。

昨日に続き、光太郎第二の故郷・花巻ネタで。

郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「昔なつかし花巻駅」について、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さいました。

光太郎が見た花巻駅 ジオラマや記録映画紹介 記念館企画展 昭和初期に

003 高村光太郎記念館の企画展「昔なつかし花巻駅」は、花巻市太田の同館で開かれている。花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が見た昭和初期の花巻駅周辺の様子をジオラマや記録映画でたどっている。11月30日まで。
 光太郎の花巻疎開80年の節目を記念し企画。昭和初期の花巻駅を中心としたまちの情景を表現したジオラマを展示するほか、岩手軽便鉄道が釜石線へ移管された1936(昭和11)年に撮影された記録映画を上映している。
 岩手軽便鉄道は花巻市から遠野市の仙人峠を約3時間で結ぶ鉄道として13(大正2)年に開業。36年に国有化され、50年には釜石線が花巻から釜石まで鉄路で全線開通した。
 同年、岩手軽便鉄道の社長を務め花巻温泉の開発にも取り組んだ金田一国士さんの功績を光太郎が詠んだ「金田一国士頌」碑が花巻温泉に建立され、除幕式には光太郎も出席している。
 記録映画は総合花巻病院創立者で初代院長佐藤隆房(1890~1981年)が私財を投じて制作。約16分の貴重な映像で、花巻駅から仙人峠までの沿線の様子が収められている。
 ジオラマは記録映画などを参考に、当時の花巻駅周辺の様子をNゲージ(150分の1程度の大きさ)の模型で再現した。電車の模型は実際に走らせることもできる。
 企画展を担当した花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐は「写真ではなく、映画で駅前の人々が実際に動いている姿や、銀河鉄道のモチーフになった岩手軽便鉄道が実際に走行する姿をぜひご覧いただきたい」と話している。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小・中学生
150円。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。

7月23日(水)に拝見して参りました。その際の様子はこちら。ジオラマを制作された土屋直久氏、石井彰英氏のご苦労が偲ばれました。お二人のお名前が記事に出ていないのが残念ですが。
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石井氏、この手のジオラマを制作されると、その細部をビデオ撮影したDVDを作られるのを常とされています。そもそもは氏の地元の品川区大井町-智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む-のジオラマDVDを拝見し、平成30年(2018)にやはり花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に、光太郎が居住していた頃の昭和20年代前半くらいの花巻をイメージしたジオラマ制作を依頼したことが、今回のジオラマに繋がっています。その際のジオラマも展示されています。
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石井氏、今回もDVDを制作されたとのことで、9月19日(金)に品川の氏のご自宅兼工房兼スタジオ(氏はミュージシャンでもあらせられまして)で上映会だそうで、お邪魔して参ります。ご興味おありの方、ご連絡下さい。

花巻高村光太郎さんでの企画展「昔なつかし花巻駅」は、会期が長く、11月30日(日)まで。ぜひ足をお運びください。
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【折々のことば・光太郎】

文学といふ芸術は細かい事になると私に解りませんが、法則は書く者にとつても彫る者にとつても同じだと信じます。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

ロダンと異なり、文筆活動も多方面で行っていた光太郎にとって、この言葉は励みになったのではないでしょうか。どんな芸術でも根幹のところは一緒だ、というわけで。

一昨年昨年と送っていただいた花巻南高校文芸部さんの部誌『門』、今年の第19号もいただきました。
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同校は宮沢賢治の妹にして、賢治の「永訣の朝」等に謳われたトシの母校であり、トシ自身も短期間でしたが教壇に立っていました。

何度もご紹介していますが、同部と家庭クラブさんとが連携、大正13年(1924)の『婦人之友』で紹介された智惠子デザイン・制作のエプロンを復刻して下さり、昨年に続き、今号でもその関係の記事が多く掲載されています。

昨年は制作に関してと、岩手花巻なはんプラザで開催されたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」での初披露についてがメインでしたが、今年は4月から5月にかけての福島二本松の智恵子記念館さん、7月から8月にかけての花巻高村光太郎記念館さんでの実物展示についていろいろ書かれていました。
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智恵子記念館さんでの展示の際は、4月27日(日)に文芸部・家庭クラブの生徒さんと先生方が観覧にいらして、さらに周辺の智恵子遺跡を廻られてのレポート。写真などもふんだんに使われていました。
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花巻高村光太郎記念館さんでは、7月25日(金)と8月4日(月)に報道の取材、生徒さんたち作成の夾纈(きょうけち)染めのしおりを来館者に配付するというイベントがあり、そのレポート。
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いずれも文芸部さんだけでなく、家庭クラブの生徒さんも寄稿されていて、よく書けていました。また、文芸部顧問の菊池久恵先生が地元紙『岩手日報』さんに昨年寄稿されたエプロンに関する「みちのく随想 私たちのリレー」も再録されています。

他に、四国の徳島商業高校文芸同好会さんとのコラボ企画「ケンシとケンジトシ」。両校の顧問の先生同士が大学時代の同級生とのことで実現した交流会のレポートです。「ケンシ」はかの米津玄師さんから。米津さんが徳島商業さんの卒業生だということで。米津さん、光太郎詩「レモン哀歌」からのインスパイアもあるとご自身でおっしゃっていた「lemon」以外にも近代文学オマージュ作品が多く、「カムパネルラ」「恋と病熱」「地球儀」などの楽曲は賢治由来です。花巻南高さんは先述の通り、賢治の妹・トシの母校。そこで「ケンジトシ」。不思議な縁を感じますね。

両校の交流会、「短歌甲子園」ふうに「咲」と「空」、二つの題による短歌の競詠をなさったそうで、そのうち「空」の方で、応援メンバーとして参加された花巻南高家庭クラブの生徒さんが智恵子がらみの短歌を。二本松での「ほんとの空」体験が鮮烈だったのでしょう。
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さらに望月善次・岩手大名誉教授が監修・編集されたトシの『自省録(宮澤トシ)』についてなども。盛りだくさんです。

南高さんでは先月末には文化祭「花南祭」が開催され、やはり文芸部さん、家庭クラブさんによるエプロン関連のステージ発表や、夾纈(きょうけち)染めしおりの配付なども行われたそうです。
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素晴らしいと思いました。

関係の皆さんのますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

本当の才能に行きつく辛抱の無い芸術家は、真実を外にして、題目や形の気まぐれなもの、変なものを探します。それが世人の独創と称してゐるものです。しかし其は何にもなりません。


光太郎訳 ロダン「ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

奇を衒うことを嫌ったロダン、そしてそれを受け継いだ光太郎の思想がよく表されています。

花巻ネタが続きまして、本日もです。

毎月15日に
道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。メニュー考案をなさっているのは主に食を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんです。

今月分の画像がこちら。
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「牛かつ」、「鰹の南蛮漬け」、「かぼちゃの甘煮」、「茄子の揚げ浸し」、「きゅうりの佃煮」、「卵焼き」、「豆おこわ」、「白六穀ご飯」、「干し柿入り甘酒ゼリー」。

基本的には光太郎が自分で調理したメニューや、使った食材を参考に現代風にアレンジしたものです。

同様のメニュー考案の方法で、調理までやつかの森さんが担当し、市内東和町のワンデイシェフの大食堂さんでランチタイムに饗される「こうたろうカフェ」が、今月29日(金)です。「ハーブのパリパリグリルチキン」「焼き茄子の香味たれ」「オクラと卵の寒天寄せ」「じゃが芋とトマトのバター煮」「サーモンサラダ」「お漬物」「ご飯」「モロヘイヤスープ」「スフレフロマージュ」「コーヒー」だそうで。

ぜひ足をお運び、ご賞味下さい。

【折々のことば・光太郎】

何といふ良い友だらう、野菜の如きは! サラダにしろ、セロリにしろ、此等のものが何で「装飾用」植物よりも美しくないか。

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

自然の造型美についての言ですが、実際に野菜類を自給するようになった戦後の光太郎、もしかするとかつて自分で翻訳したこのロダンの言葉を思い浮かべていたかもしれません。
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昨日に続き、光太郎第二の故郷・岩手花巻からの情報を。今月15日発行の『広報はなまき』。同誌は基本的に1日と15日、月2回の発行で、15日の発行分に為されている連載「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」で、花巻高村光太郎記念館さんで開催されている特別展中原綾子への手紙」関連で、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた葉書が取り上げられています。ちなみに同欄の昨年9月15日号掲載分には綾子主宰の雑誌『スバル』に寄稿したエッセイ「みちのく便り」の草稿が紹介されました。
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発信の日付は昭和26年(1951)7月1日。文面は以下の通りです。
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 今日阿部三夫さんからのハガキに
 よりますと七月に御来訪の
 おつもりといふ事ですが、山ももう
 夏の季節となり、相当に暑い日も
 ありますので、二ツ堰からの御徒歩は
 無理かと存ぜられますし、二ツ堰のあの
 運送屋さんは今病気をしてゐて、
 お供もできない次第、 時候のよい時
 までおのばしになつた方がよくは
 ないかと考へられますので此事一寸
 申上げます。 小生打身の方は全治、
 神経痛は少〻残つてゐますが減退しました。

当時、綾子は雑誌『スバル』(第3次)を主宰しており、「阿部三夫」はその編集等に当たっていた人物のようです。原稿の受け渡しなどの用事もあったのか、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を何度か訪れてもいます。

この葉書の翌月の8月21日にも。その日の光太郎日記には「阿部三夫氏と友人一人来訪、ビール4本つまみものをもらふ、詩や歌の朗読をきく、三時辞去。」とあります。

また、前年9月に綾子に送った葉書にも、阿部の来訪の様子が。003

 今朝スバルの阿部三夫さんが友達
 と一緒に来訪、 お名刺の紹介と
 委托のビール五本とを拝受しまし
 た。早速三人でビール三本をいただ
 き、時ならぬ山の会飲をいたし
 ました。阿部氏は自作詩朗読、
 尚浜離宮での写真も拝見し
 ました、ここでお弁当をつかひ、
 正午少し過ぎに辞去されました、
 スバル表紙の事について阿部氏に
 御伝言をたのみましたから、いづれ
 お話あることと存じます。

残念ながら昭和24年(1949)、25年(1950)の光太郎日記は大半が失われており、この時の様子は日記で確認できません。

26年7月1日の葉書では、綾子自身も光太郎の山小屋を訪問したいという旨を阿部から伝えられたと書かれ、しかし今は暑い最中(さなか)、もう少し涼しくなってから、的な返答をしました。

それを受けて綾子の訪問は9月14日・15日に為されました。この件についての光太郎日記。

 午前花巻にゆかうとしてゐる時、中原綾子さん突然来訪。ダツトサンで来た由。花巻行を中止、中原さん今夜田頭さんに泊る事になり、夕方まで談話。いろんな食品をもらふ。開拓の方を案内し、夕方田頭さんにゆかれる(9月14日)

 十二時頃中原さんくる、午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。四時迎ひの自動車来る。中原さん辞去。台温泉泊りの由。(略)中原さん持参の食パン美味、中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。(9月15日)


「一年の間に大層年よりじみ」とある通り、前年11月にも山小屋を訪問していました。「田頭さん」は屋号で、元太田村長の高橋雅郎宅、「台温泉」は大田村同様、のちに花巻市に編入された湯本村の鄙びた温泉地です。光太郎も何度か宿泊に訪れています。

2回の訪問それぞれの折に、歌人だった綾子は短歌を詠んでいます。

2度目の訪問時のもの。

  奥州街道を行く

 先生の小屋の屋根見ゆ萩すすき 野菊なんどは踏みしだき急ぐ

 すこやかに師おはしまし自在鉤につもれる煤の厚くなり居り

 しぐれかとたちいでて見ればひと叢(むら)のやつかの梢(うれ)を渡る風なり

 みちのくの清水(きよみず)の野に人と見し一世一代の仲秋の月

 さしわたし二(に)千里(せんり)と見る暈(かさ)を着て月の占めたる空ひろし広し

  台温泉にて

 ないしよごとするがやうにも一人来て山の温泉(いでゆ)におくる夜昼

 花巻を過ぎてまた入る山の道太田村とは方角遠(ちが)ふ

 そつとしておきたき心にかかはり無し田舎芸者は広間で騒ぐ

 東京へ帰りたくなきしたごころ相手のあらば心中もせむ

最初の訪問時、さらに昭和31年(1956)4月2日の光太郎逝去時のものなどと併せ、綾子歌集『閻浮提(えんぶだい)』(昭和35年=1960)に収められました。

今回『広報はなまき』で紹介された葉書、綾子歌集『閻浮提』、そして光太郎日記で「新小屋にて色紙五枚揮毫」とあるうちの一枚(「観自在こそ……」)、特別展「中原綾子への手紙」で花巻高村光太郎記念館さんにて展示中です。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧下さい。
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【折々のことば・光太郎】

単純は完全である。貧寒は無能である。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

ごてごてとした余計なものをそぎ落とした理想的な「単純」と、「単純」を目指しつつしかし実は中身の乏しい「貧寒」とは似て非なり、ということでしょう。

光太郎第二の故郷・花巻の高村光太郎記念館さんで開催中の「智恵子のエプロン復刻展示」について、2紙が報道して下さっています。

まず『読売新聞』さん、岩手版。

智恵子のエプロン再現 高村光太郎の妻 花巻南高 華やか更紗「酒袋」使用

001 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)の妻・智恵子がデザインし、実際に使っていたエプロンを、県立花巻南高の家庭クラブが再現し、新たに制作した。21日まで、花巻市太田の高村光太郎記念館で展示されている。
 エプロンは、雑誌「婦人之友」の第18巻第7号(1924年7月)で取り上げられた。編集者が光太郎宅を訪れた時、智恵子が「面白い前掛」をしていたと紹介。「厚地の渋い茶色に印度更紗(いんどさらさ)を取り合わせてある、めずらしい形」として、作り方も添えられていた。
 胸当て部分は三角形で、中央に大きなポケットがある。布には酒を搾る時に使った「酒袋」が使われており、智恵子の実家である福島県内の造り酒屋から持ち帰ったとされる。
 製作のきっかけは、一昨年に同館で行われた小山弘明さん(高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会代表)の講演。小山さんが記事を紹介し、「誰か作ってくれないかな」と話したところ、聴いていた同校文芸部の生徒が、別の部活動の家庭クラブに相談し、実現した。
 同クラブの生徒たちは、小山さんの協力を得て、雑誌にあった素材や型紙を参考に製作。酒袋はなかなか見つからず、インターネットで探して入手したという。同クラブの小原優羽奈さん(2年)は「難しいデザインではなかったが、酒袋が硬くてミシンの針が折れた」と明かす。色華やかな紋様があしらわれた更紗が部分的に使われており、菅原美優さん(同)も「今でも通用するデザイン。身近にあった酒袋を使うなど、自然を大事にした智恵子の暮らしを感じた」と振り返る。
 智恵子といえば、光太郎の詩集「智恵子抄」にある「智恵子は東京に空が無いといふ(あどけない話)」が知られているが、小山さんは「大正末は、まだ女性は和装が中心と思われ、エプロンからは画家を目指した智恵子のクリエイティブな一面が感じられる」と話す。


続いて地元紙「岩手日日」さん。

智恵子のエプロン 生徒が復刻 高村光太郎記念館で展示

 花巻市太田の高村光太郎記念館で、ミニギャラリー「智恵子のエプロン復刻展示」が開かれている。花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)の妻智恵子がデザインし、実際に使用していたエプロンを県立花巻南高校家庭クラブの生徒が復刻。制作過程などと合わせて紹介している。21日まで。
 智恵子は、1886年に福島県二本松市の酒造家長沼家に生まれ、日本女子大学校卒業後、画家・芸術家として活躍。女性運動家・平塚らいてうの「青鞜」の表紙を描いたことで知られる。1914年に29歳で光太郎と結婚し、38年に53歳で病没した。
 復刻は、2023年に同校文芸部の生徒が高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会代表の小山弘明氏による講座を聴講したことがきっかけ。「高村夫妻が理想とした暮らしの様子を具体的に思い浮かべたい」と同高家庭クラブへ制作を依頼した。
 高村夫妻が寄稿していた雑誌「婦人之友」には、智恵子がデザインしたエプロンの図案が残っており、同クラブの小原優羽奈さんと菅原美優さん(ともに2年)が掲載されていた作り方や素材、型紙などを参考に制作。実際のエプロンと同じ「酒袋」を再利用した。
 2人によると、エプロンの制作には、構想を含めて約1ヶ月かかった。また、同クラブや文芸部の生徒は、光太郎が愛用した「キョウケチ染め」のしおりを手作り。4日に同館を訪れ、来館者にプレゼントした。
 小原さんは、「展示を通じてより光太郎と智恵子の暮らしぶりについても知ってもらいたい、菅原さんは「展示を見て2人を知ってもらい、自分でも調べて考えてもらえたらいい」とそれぞれ語った。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。入館料は一般350円、高校生・大学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館=0198(28)3012=へ。
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ちなみに同校のサイトにも高村光太郎記念館さんでの展示を行っている旨の記事が出ています。
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展示は明後日まで。もう少し長期間でもいいような気もしますが、おそらく月末には同校の文化祭「花南祭」が開催されるので、その関係ではないかと思われます。

現在、復刻されているのは一点のみ。そこでその一点が、今年4月から5月にかけては、「高村智恵子生誕祭」に合わせて福島県二本松市の智恵子記念館で展示され(下記画像)、先月から明後日にかけては花巻高村光太郎記念館さんでの展示。
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出来うることならもう1~2点作っていただければ、両館での常設展示と言うことも考えられなくはありませんね。

型紙も大正期の『婦人之友』に掲載されましたので、そちらを使っていただければスキルのある方なら制作可能。大量生産で商品化ということも夢物語ではないかもしれません。ご興味おありのかた、ご一考を。

【折々のことば・光太郎】

「叡智」を地(ぢ)(背景)にした「精神」。


光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

光太郎の心の師・ロダンの目指す「創造」を為すための心の在り方です。

無理くりですが、秀逸なデザインを持つ智恵子のエプロンなども、「叡智」を背景としているように思えます。このポテンシャルが油絵の方面でも存分に発揮できていれば、後の悲劇は訪れなかったのに……と思われます。

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