昨日の『日本経済新聞』さん日曜版に「The Art of Sharpening 一心に、研ぐ 海を渡る包丁研ぎ 刀が育んだ生活の技、仏シェフも魅了」という3ページにわたる記事が出ました。
メインタイトルの「一心に、研ぐ」は光太郎詩「刃物を研ぐ人」(昭和5年=1930)からのインスパイアで、詩の一部が記事の末尾に引用されています。

詩の全文はこうです。
刃物を研ぐ人
続いてその砥石の採掘から加工までを手がける京都亀岡の「砥取屋」4代目・土橋要造氏。
安価な人造砥石に押されつつあったところ、ネットで販売を始めたら息を吹き返したとのこと。仕上げ用の砥石が採れるのは世界でここだけだそうです。もっとも、砥石を使う風習のない国々では採掘をしていないわけで、探せば鉱脈があるのかも知れませんが。
そして実際に刃物を使う、大阪の料理人・中村重男氏。ミシュランガイドの星を獲得した「ながほり」店主です。天然の砥石は人造ものと比較にならないと証言。さらによく研いだ庖丁で作る料理の魅力についても。
海外の方も。フランスの料理学校で日本式の「研ぎ」の魅力や奥深さを伝えているというマリナ・メニニさん。
こうした講習は日本でも。かっぱ橋道具街の「かまた刃研社」さん。若い料理人も通っているそうです。
こうした人々を紹介した後、最後に光太郎詩「刃物を研ぐ人」でオチが付けられています。
多くの人が研ぐ光景を見ているうち、一編の詩が頭に浮かんだ。高村光太郎の「刃物を研ぐ人」だ。
おなじ文章では、京都鳴滝産の砥石の魅力について語っています。
小刀やノミがいくら良くても砥石が悪ければ切味が出ない。それで彫刻家は砥石を選ぶ。
砥石の味は一般の人でもおよそ分るだらう。書家が硯を珍重するのと似てゐるし、誰でも硯で墨をすつた者ならその手応へを感じてゐるだらう。良い砥石で研げば刃物が細かにおりて、刃先が極めて鋭くなり、切味がよくなるのは当然だが、その上に早く研げる。石が緻密でありながら鋒(ほう)が立つてゐるのである。早く研げながら荒くならない。まるで刃物が石面にすひつくやうにやはらかでゐて、しかも鋼をどしどしおろす。これは硯でも同じであつて、硯では撥墨の色と光とに不可言の美が生じ、砥石では研いだ刃物がいきいきと生きて来て、しかも前述のやうな気品が出て来、切れてくる。
古来、合砥(あはせと)は京都の鳴滝産が一ばんいいといはれてゐるし、まつたくそのやうである。合砥といふのは仕上砥(しあげど)のことで、これが切味の如何を決定するから、昔から砥石ではこれをいちばん大切にする。合砥は全国の所々から出るが、どうも鳴滝に及ぶものはない。それで鳴滝のを本山(ほんやま)といふ。鳴滝の山は既に掘りつくされて今はもう産出しない。丁度端渓の硯のやうに、ただ世人に所蔵される若干の石が転々として誰かの手に渡つて歩くに過ぎない。亡父遺愛の砥石は二面とも鳴滝で、一つは石質軟く、一つは稍硬い。両面それぞれの用を果す。石の四方を朱漆で塗つて、桐の箱に入れてある。
(略)
私は今その一つを花巻町の花巻病院長佐藤隆房氏邸に預つていただいて居り、一つをこの山小屋の座右に置いて愛用してゐる。この砥石に触れる時、天下豊満、こんなあはれな山の掘立小屋が急に魔法のやうに輝き出すのだ。
亡父の門下生であつた関野聖雲といふ木彫家が砥石のことにくはしく、自分でも良い石をかずかず持つてゐたやうであるが、先年死んだ。あとに残つた名石は今どうなつてゐることだらう。
この一節を改めて読んでみて、光太郎や光雲一派のメチエがこういうところにも裏打ちされていたんだなと再確認したような気がしました。逆にこういうバックボーンも身につけないまま、何でもかんでも「アート」とする風潮はどうなの? とも。余計なことかもしれませんが。
日本古来の「研ぎ」の技、今後とも途絶えることの無いように、と祈念せざるを得ません。
【折々のことば・光太郎】
毎日午前モデルが来て試作を小さくやつてゐます、モデルを久しぶりで見るのですばらしいです、 トンチ教室のやうなモダンアートになるのがいやなので、うんと太古にやります、
いよいよ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の試作制作にかかりました。刃物を使うカーヴィングではなく、粘土を積み上げるモデリングですが。雇ったモデルはプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデル・藤井照子。当時19歳でした。
メインタイトルの「一心に、研ぐ」は光太郎詩「刃物を研ぐ人」(昭和5年=1930)からのインスパイアで、詩の一部が記事の末尾に引用されています。

詩の全文はこうです。
刃物を研ぐ人
黙つて刃物を研いでゐる。
もう日が傾くのにまだ研いでゐる。
裏刃とおもてをぴったり押して
研水(とみづ)をかへては又研いでゐる。
何をいつたい作るつもりか、
そんなことさへ知らないやうに、
一瞬の気を眉間(みけん)にあつめて
青葉のかげで刃物を研ぐ人。
この人の袖は次第にやぶれ、
この人の口ひげは白くなる。
憤りか必至か無心か、
この人はただ途方もなく
無限級数を追つてゐるのか。
画像はかなり後、昭和24年(1949)頃、花巻郊外旧太田村の山小屋で撮られたもの。研いでいる場面ではなく、おそらく肥後守の小刀で鰹節を削っているところです。残念ながら光太郎が彫刻刀を研いでいるところを撮影した写真は確認できていません。
記事全体はこの「研ぐ」をテーマに、日本各地、さらには海外で活躍する人々を追っています。
まず、大阪府堺市の「山本刃剣」の「刃付け屋」と呼ばれる職人・山本真一郎氏。鍛冶職人が打ち上げた庖丁などを、砥石を使って研いで刃をつけたり、切れなくなった刃物を研いだりというプロです。
欧米ではこのように砥石を使って刃物をメンテナンスするという習慣がほとんど無く、ヤスリのような金属の棒で刃を削るだけだとのこと。これには驚きました。画像はかなり後、昭和24年(1949)頃、花巻郊外旧太田村の山小屋で撮られたもの。研いでいる場面ではなく、おそらく肥後守の小刀で鰹節を削っているところです。残念ながら光太郎が彫刻刀を研いでいるところを撮影した写真は確認できていません。
記事全体はこの「研ぐ」をテーマに、日本各地、さらには海外で活躍する人々を追っています。
まず、大阪府堺市の「山本刃剣」の「刃付け屋」と呼ばれる職人・山本真一郎氏。鍛冶職人が打ち上げた庖丁などを、砥石を使って研いで刃をつけたり、切れなくなった刃物を研いだりというプロです。
続いてその砥石の採掘から加工までを手がける京都亀岡の「砥取屋」4代目・土橋要造氏。
安価な人造砥石に押されつつあったところ、ネットで販売を始めたら息を吹き返したとのこと。仕上げ用の砥石が採れるのは世界でここだけだそうです。もっとも、砥石を使う風習のない国々では採掘をしていないわけで、探せば鉱脈があるのかも知れませんが。
そして実際に刃物を使う、大阪の料理人・中村重男氏。ミシュランガイドの星を獲得した「ながほり」店主です。天然の砥石は人造ものと比較にならないと証言。さらによく研いだ庖丁で作る料理の魅力についても。
海外の方も。フランスの料理学校で日本式の「研ぎ」の魅力や奥深さを伝えているというマリナ・メニニさん。
こうした講習は日本でも。かっぱ橋道具街の「かまた刃研社」さん。若い料理人も通っているそうです。
こうした人々を紹介した後、最後に光太郎詩「刃物を研ぐ人」でオチが付けられています。
多くの人が研ぐ光景を見ているうち、一編の詩が頭に浮かんだ。高村光太郎の「刃物を研ぐ人」だ。
「黙つて刃物を研いでゐる。/もう日が傾くのにまだ研いでゐる。」と始まり、一心に研ぎ続ける人物を活写する。「憤りか必至か無心か、/この人はただ途方もなく/無限級数を追つてゐるのか。」
「心を研ぐ」という表現があるように、刃物を研ぐことは私たちの精神世界と深いつながりがあるのかもしれない。どんなに精巧で簡単な機器ができようとも、人はこれからも砥石の上で自分の手を動かし続けるのだろう。
そうであってほしいものです。
光太郎も砥石に対するこだわりは半端ではありませんでした。昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された際も、砥石を持ち出しています。
いちばん手馴れて別れ難いノミや小刀の最小限度十五六本は別に毛布にくるみ、これも亡父譲りの砥石二丁と一緒に大きな敷布に厚く包んで、これを丈夫な真田紐で堅固にゆはへ、重さ二貫目弱であつたが、空襲警報の鳴るたびに肩にかけ、腰に飯盒をぶらさげて、防火用のバケツと鳶口とを手に持つて往来に飛び出したのであつた。昭和二十年四月十三日の大空襲で遂に駒込林町のアトリエが焼けた時、私はとりあへず近所の空地にかねて掘つてあつた待避壕の中へ避難したが、そこへ持ちこんだのは夜具蒲団の大きな包二つと、外には例の道具箱と、肩からかけた敷布にくるんだ小刀と砥石とだけであつた。
そうであってほしいものです。
光太郎も砥石に対するこだわりは半端ではありませんでした。昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された際も、砥石を持ち出しています。
いちばん手馴れて別れ難いノミや小刀の最小限度十五六本は別に毛布にくるみ、これも亡父譲りの砥石二丁と一緒に大きな敷布に厚く包んで、これを丈夫な真田紐で堅固にゆはへ、重さ二貫目弱であつたが、空襲警報の鳴るたびに肩にかけ、腰に飯盒をぶらさげて、防火用のバケツと鳶口とを手に持つて往来に飛び出したのであつた。昭和二十年四月十三日の大空襲で遂に駒込林町のアトリエが焼けた時、私はとりあへず近所の空地にかねて掘つてあつた待避壕の中へ避難したが、そこへ持ちこんだのは夜具蒲団の大きな包二つと、外には例の道具箱と、肩からかけた敷布にくるんだ小刀と砥石とだけであつた。
(「信親と鳴滝」 昭和25年=1950)
おなじ文章では、京都鳴滝産の砥石の魅力について語っています。
小刀やノミがいくら良くても砥石が悪ければ切味が出ない。それで彫刻家は砥石を選ぶ。
砥石の味は一般の人でもおよそ分るだらう。書家が硯を珍重するのと似てゐるし、誰でも硯で墨をすつた者ならその手応へを感じてゐるだらう。良い砥石で研げば刃物が細かにおりて、刃先が極めて鋭くなり、切味がよくなるのは当然だが、その上に早く研げる。石が緻密でありながら鋒(ほう)が立つてゐるのである。早く研げながら荒くならない。まるで刃物が石面にすひつくやうにやはらかでゐて、しかも鋼をどしどしおろす。これは硯でも同じであつて、硯では撥墨の色と光とに不可言の美が生じ、砥石では研いだ刃物がいきいきと生きて来て、しかも前述のやうな気品が出て来、切れてくる。
古来、合砥(あはせと)は京都の鳴滝産が一ばんいいといはれてゐるし、まつたくそのやうである。合砥といふのは仕上砥(しあげど)のことで、これが切味の如何を決定するから、昔から砥石ではこれをいちばん大切にする。合砥は全国の所々から出るが、どうも鳴滝に及ぶものはない。それで鳴滝のを本山(ほんやま)といふ。鳴滝の山は既に掘りつくされて今はもう産出しない。丁度端渓の硯のやうに、ただ世人に所蔵される若干の石が転々として誰かの手に渡つて歩くに過ぎない。亡父遺愛の砥石は二面とも鳴滝で、一つは石質軟く、一つは稍硬い。両面それぞれの用を果す。石の四方を朱漆で塗つて、桐の箱に入れてある。
(略)
私は今その一つを花巻町の花巻病院長佐藤隆房氏邸に預つていただいて居り、一つをこの山小屋の座右に置いて愛用してゐる。この砥石に触れる時、天下豊満、こんなあはれな山の掘立小屋が急に魔法のやうに輝き出すのだ。
亡父の門下生であつた関野聖雲といふ木彫家が砥石のことにくはしく、自分でも良い石をかずかず持つてゐたやうであるが、先年死んだ。あとに残つた名石は今どうなつてゐることだらう。
この一節を改めて読んでみて、光太郎や光雲一派のメチエがこういうところにも裏打ちされていたんだなと再確認したような気がしました。逆にこういうバックボーンも身につけないまま、何でもかんでも「アート」とする風潮はどうなの? とも。余計なことかもしれませんが。
日本古来の「研ぎ」の技、今後とも途絶えることの無いように、と祈念せざるを得ません。
【折々のことば・光太郎】
毎日午前モデルが来て試作を小さくやつてゐます、モデルを久しぶりで見るのですばらしいです、 トンチ教室のやうなモダンアートになるのがいやなので、うんと太古にやります、
昭和27年(1952)11月30日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎70歳
いよいよ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の試作制作にかかりました。刃物を使うカーヴィングではなく、粘土を積み上げるモデリングですが。雇ったモデルはプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデル・藤井照子。当時19歳でした。