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碌山美術館「2026年碌山カレンダー」。
過日、2月15日(日)に信州安曇野市で開催予定の「高校演劇部発表会 青春ドラマシアター2026」についてご紹介しましたが、同市には光太郎彫刻が常設展示されている碌山美術館さんがあるよ、ということでリンクを貼り付けました。
その作業の際に、久々にサイトを覗いてみたところ、同館発行の今年のカレンダーに光太郎作品2点の写真が使われていると知り、慌てて注文たところ、昨日届きました。
届いたのがこちら。
A3版厚手の紙で、表紙的なのを含め各月1枚の全13枚。無綴です。一昨年の同館カレンダーはA4横版の冊子タイプだったので、この変更には驚きました。
いきなり1月と、それから11月が光太郎作品。
左は11月で、光太郎絶作の「倉田雲平胸像」。右が1月で、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作です。
他のラインナップは以下の通り。
当然、碌山荻原守衛の作品が中心ですが、守衛と直接交流があった光太郎、戸張孤雁や、やや遅れての笹村草家人と喜多武四郎、さらにほぼ現代の基俊太郎の作品が取り上げられています。全て彩色されていないものですので、モノクロ写真で十分その魅力が伝わってきます。
圧巻はやはり守衛の代表作「女」かな、という気がします。
それから表紙的な1枚にあしらわれた、今井兼次設計になる本館・碌山館の尖塔部分もいい感じですね。
商品詳細、以下の通りです。
「乙女の像」制作のため、光太郎が帰京した記念という今一つよく分からないコンセプトで発行されました。この頃、出版界では一種の限定本ブームが起こっており、その流れに乗ってのものでしょう。
内容、紙型は前年に刊行された「新版」と同一ですが、二重函で内函は布装、表紙は羊皮、限定200冊ということになっています。しかも外函には「百七拾冊製本、参拾冊廃棄」と書かれており、世に出た冊数はそんなものだったようです。
定価は通常の版が180円だったのに対し、こちらは1,500円でした。
その作業の際に、久々にサイトを覗いてみたところ、同館発行の今年のカレンダーに光太郎作品2点の写真が使われていると知り、慌てて注文たところ、昨日届きました。
届いたのがこちら。
A3版厚手の紙で、表紙的なのを含め各月1枚の全13枚。無綴です。一昨年の同館カレンダーはA4横版の冊子タイプだったので、この変更には驚きました。
いきなり1月と、それから11月が光太郎作品。
左は11月で、光太郎絶作の「倉田雲平胸像」。右が1月で、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作です。
他のラインナップは以下の通り。
当然、碌山荻原守衛の作品が中心ですが、守衛と直接交流があった光太郎、戸張孤雁や、やや遅れての笹村草家人と喜多武四郎、さらにほぼ現代の基俊太郎の作品が取り上げられています。全て彩色されていないものですので、モノクロ写真で十分その魅力が伝わってきます。
圧巻はやはり守衛の代表作「女」かな、という気がします。
それから表紙的な1枚にあしらわれた、今井兼次設計になる本館・碌山館の尖塔部分もいい感じですね。
商品詳細、以下の通りです。
1月始まり・A3サイズ 150冊の限定販売品です
価格1,900円(税込) 別途:送料660円+払込手数料
碌山作品をメインに当館の収蔵作品を掲載しております。表紙、背表紙を含め14枚、すべてモノクロ写真。お好きなクリップに挟んでご掲示ください。(本品にクリップは付属されておりません)
商品のお問い合わせはこちら
ぜひお買い求め下さい。
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【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)41 『智恵子抄』特装版
昭和27年(1952)9月30日 龍星閣 高村光太郎著
目次
人に 明治四十五年七月
或る夜のこころ 明治四十五年八月
おそれ 明治四十五年八月
或る宵 大正元年十月
郊外の人に 大正元年十一月
冬の朝のめざめ 大正元年十一月
深夜の雪 大正二年二月
人類の泉 大正二年三月
僕等 大正二年十二月
愛の嘆美 大正三年二月
晩餐 大正三年四月
樹下の二人 大正十二年三月十一日
狂奔する牛 大正十四年六月十七日
鯰 大正十五年二月五日
夜の二人 大正十五年三月十一日
あなたはだんだんきれいになる 昭和二年一月六日
あどけない話 昭和三年五月十日
同棲同類 昭和三年八月十六日
美の監禁に手渡す者 昭和六年三月十二日
人生遠視 昭和十年一月二十二日
風にのる智恵子 昭和十年四月二十五日
千鳥と遊ぶ智恵子 昭和十二年七月十一日
値ひがたき智恵子 昭和十二年七月十二日
山麓の二人 昭和十三年六月二十日
或る日の記 昭和十三年八月二十七日
レモン哀歌 昭和十四年二月二十三日
荒涼たる帰宅 昭和十六年六月十一日
亡き人に 昭和十四年七月十六日
梅酒 昭和十五年三月三十一日
うた六首
智恵子の半生 昭和十五年九月
九十九里浜の初夏 昭和十六年五月
智恵子の切抜絵 昭和十四年一月
「乙女の像」制作のため、光太郎が帰京した記念という今一つよく分からないコンセプトで発行されました。この頃、出版界では一種の限定本ブームが起こっており、その流れに乗ってのものでしょう。
内容、紙型は前年に刊行された「新版」と同一ですが、二重函で内函は布装、表紙は羊皮、限定200冊ということになっています。しかも外函には「百七拾冊製本、参拾冊廃棄」と書かれており、世に出た冊数はそんなものだったようです。
定価は通常の版が180円だったのに対し、こちらは1,500円でした。
十和田湖冬物語2026報道。
光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも行われているイベント「十和田湖冬物語2026」。一昨日開幕し、報道が為されています。残年ながら「乙女の像」にからめてのそれが見当たりませんが。
地方紙『東奥日報』さん。
地方紙『東奥日報』さん。
十和田湖畔の冬を満喫できるイベント「十和田湖冬物語」(実行委員会主催)が30日、青森県十和田市休屋地区の多目的広場で開幕した。会場では恒例の花火が打ち上げられ、冬の夜空を彩った。2月23日まで。
雪が降りしきる中、午後8時に花火がスタート。次々に打ち上がる花火が辺り一面を照らし、訪れた観光客らが見入った。おいらせ町から家族5人で訪れた、百石小4年の山田胡桃さん(10)は「紫色の花火がきれいだった」と笑顔で話した。
会場には屋台村「雪あかり横丁」が登場。ヒメマスの塩焼きや馬肉鍋、きりたんぽなど、十和田市や秋田県の温かいグルメが並び、多くの来場者が列を作った。このほか、雪の滑り台や、奥入瀬渓流の氷瀑(ひょうばく)をイメージしたフォトスポットが設けられ、会場はにぎわった。
火曜から木曜は定休日(祝日の2月11日は営業)。花火は期間中、毎日午後8時から約150発を打ち上げる。土曜、日曜は「冬の国境祭」と題し、北東北3県の芸能パフォーマンスなどが披露される。イベントの詳細は公式ホームページで確認できる。
『東奥日報』さんでは別の記事でも。
ぜひ足をお運びの上、幻想的な「乙女の像」ライトアップもご覧いただければと存じます。
昭和16年(1941)龍星閣発行のオリジナルの内容に、戦後の詩「松庵寺」と「報告」を追加して出版されました。
沢田伊四郎の龍星閣は太平洋戦争の激化に伴い昭和19年(1944)に休業。『智恵子抄』は店頭から姿を消していましたが、需要があると踏んだ白玉書房の鎌田敬止が復刊させました。
巻末に置かれた光太郎筆の「記」には以下の記述があります。
今度あたらしく白玉書房をはじめられる鎌田敬止氏は沢田伊四郎氏の快諾を得て、「智恵子抄」の再出版を企てられ、その事を私に諮られた。
しかしこの件に関しては鎌田と沢田で認識の違いがあったようで、沢田は認めたつもりはないと激怒。沢田は昭和24年(1949)に龍星閣を再興し、翌年には『智恵子抄』を再刊します。それに伴い白玉書房版は昭和25年(1950)の第五版を以て絶版となりました。
手持ちのものはその第五版です。
『東奥日報』さんでは別の記事でも。
青森県十和田市の十和田湖畔休屋地区で開かれている「十和田湖冬物語」。多くの観光客や親子連れらが訪れ、雪遊びやグルメ、花火など多彩なイベントを楽しんでいる。
全長約15メートルの雪の滑り台は子どもたちに大人気。家族4人で初めて訪れた、大阪府豊中市の茨木咲良さん(7)は「雪は初めて見た。楽しくて、雪が好きになった」と笑顔を見せた。
期間中は雪上で楽しむバナナボートや、青森県や秋田県のグルメが並ぶ屋台村「雪あかり横丁」、奥入瀬渓流の氷瀑(ひょうばく)をイメージしたフォトスポットなどを楽しむことができ、夜には花火が打ち上がる。土曜、日曜には北東北3県の芸能パフォーマンスなどを行う。
会期は23日まで。火曜から木曜は定休日(祝日の11日は営業)。イベントの詳細は公式ホームページで確認できる。
鹿角きりたんぽFMさん。 秋田と青森にまたがる十和田湖で冬の恒例のイベントが始まり、名物の花火の美しさが来場者たちを魅了しました。
ことしで28回めとなる「十和田湖冬物語」が30日に始まり、夜には呼び物の花火のショーが休屋地区で行われました。
音楽と一体化した演出になっており、曲の場面ごとにふさわしい色と形の花火がおよそ5分間、打ち上げられました。
冬の澄んだ夜空に映る花火の美しさは格別で、赤やオレンジの光りが広がるたびに、訪れた人たちから歓声が上がっていました。
東京都世田谷区から訪れていた30代の男性は、「東京から来たので雪自体が珍しいのに、花火と一緒の幻想的な世界を見られて感動しました。息子の2歳の誕生日なので、いい思い出になりました」と話していました。
会場には、両県の名物などが提供される飲食のブースや、雪の大型滑り台なども設けられていて、訪れた人たちが思い思いのスタイルで楽しんでいました。
また去年に続き、イベントと連動した冬の体験型アクティビティーも用意されていて、カヌー遊びやガイドウオーク、湖畔でのサウナなどで楽しませています。
実行委員会では、「雪を楽しみたい外国人などが近年増えていて、手ごたえを感じている。ことしもイベントの期間中、十和田湖から青森、秋田の周遊を活発にしたい」と話しています。
十和田湖冬物語は来月23日までの、祝日以外の火曜、水曜、木曜を除き、十和田湖休屋の多目的広場で開かれます。
地方紙『北鹿新聞』さん。冬の北東北を代表するイベント「十和田湖冬物語」が先月30日、十和田湖畔の休屋で開幕した。今月23日まで土、日、祝日と月、金曜日に開かれる。夜に花火が打ち上げられるほか、会場の屋台村では温かい地元グルメが販売される。
ぜひ足をお運びの上、幻想的な「乙女の像」ライトアップもご覧いただければと存じます。
【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)32 詩集『智恵子抄』
昭和22年(1947)11月25日 白玉書房 高村光太郎著
目次 人に 明治四十五年七月
或る夜のこころ 明治四十五年八月
おそれ 明治四十五年八月
或る宵 大正元年十月
郊外の人に 大正元年十一月
冬の朝のめざめ 大正元年十一月
深夜の雪 大正二年二月
人類の泉 大正二年三月
僕等 大正二年十二月
愛の嘆美 大正三年二月
晩餐 大正三年四月
樹下の二人 大正十二年三月十一日
狂奔する牛 大正十四年六月十七日
鯰 大正十五年二月五日
夜の二人 大正十五年三月十一日
あなたはだんだんきれいになる 昭和二年一月六日
あどけない話 昭和三年五月十日
同棲同類 昭和三年八月十六日
美の監禁に手渡す者 昭和六年三月十二日
人生遠視 昭和十年一月二十二日
風にのる智恵子 昭和十年四月二十五日
千鳥と遊ぶ智恵子 昭和十二年七月十一日
値ひがたき智恵子 昭和十二年七月十二日
山麓の二人 昭和十三年六月二十日
或る日の記 昭和十三年八月二十七日
レモン哀歌 昭和十四年二月二十三日
荒涼たる帰宅 昭和十六年六月十一日
亡き人に 昭和十四年七月十六日
梅酒 昭和十五年三月三十一日
松庵寺 昭和二十年十月五日
報告 昭和二十一年十月五日
うた六首
智恵子の半生 昭和十五年九月
九十九里浜の初夏 昭和十六年五月
智恵子の切抜絵 昭和十四年一月
記昭和16年(1941)龍星閣発行のオリジナルの内容に、戦後の詩「松庵寺」と「報告」を追加して出版されました。
沢田伊四郎の龍星閣は太平洋戦争の激化に伴い昭和19年(1944)に休業。『智恵子抄』は店頭から姿を消していましたが、需要があると踏んだ白玉書房の鎌田敬止が復刊させました。
巻末に置かれた光太郎筆の「記」には以下の記述があります。
今度あたらしく白玉書房をはじめられる鎌田敬止氏は沢田伊四郎氏の快諾を得て、「智恵子抄」の再出版を企てられ、その事を私に諮られた。
しかしこの件に関しては鎌田と沢田で認識の違いがあったようで、沢田は認めたつもりはないと激怒。沢田は昭和24年(1949)に龍星閣を再興し、翌年には『智恵子抄』を再刊します。それに伴い白玉書房版は昭和25年(1950)の第五版を以て絶版となりました。
手持ちのものはその第五版です。
十和田湖冬物語2026。
本日開幕です。
あの光景に出会いたくて。
1999年に始まった「十和田湖冬物語」は28回目を迎えます。親に連れられ、雪にまみれたあの日の子どもはいま、自分のこの手を引いている。温泉宿の夜、語り合った友人たちもあの頃から少しずつ、みんな、シワが増えた。そんな長い月日が経っても十和田湖の冬は今年も美しく、あたたかく、灯ります。
3回お邪魔しましたが、とにかく寒いイベントです(笑)。それを逆手にとって、寒さを楽しんでしまおうというわけで(笑)。
一時期、プロジェクションマッピングなどを主体にした時期もありましたが、数年前に旧に復し、屋台村をメインにした冬花火や雪のステージでのパフォーマンスが中心のスタイルに戻りました。昨年からだったと思いますが、光太郎第二の故郷・岩手花巻から鹿踊りの皆さんも参加なさっています。
そして、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されます。
ただ、メイン会場からやや離れていまして、なかなかそちらまで足を運ぶ方は多くないようですが。吹雪の時などは遭難にくれぐれもご注意下さいのレベルです。
第一期、第二期『明星』などに載った光太郎短歌を集めた歌集です。光太郎、最後までこの歌集の出版には同意せず、姻戚だった詩人の宮崎稔が強引に出版を押し切りました。そのため、光太郎自身は関与していない旨の宮崎による「覚え書」が奥付の前に貼り込まれています。
奥付は昭和22年(1947)11月20日ですが、「覚え書」は昭和23年(1948)2月25日付。この頃まで上梓がずれ込んだようです。
期 日 : 2026年1月30日(金)~2月23日(月・祝)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
時 間 : 平日 午後4時~午後8時30分 土日祝 午前11時〜午後9時
時 間 : 平日 午後4時~午後8時30分 土日祝 午前11時〜午後9時
休 業 : 火曜日、水曜日、木曜日(2月11日(水)を除く)
あの光景に出会いたくて。
1999年に始まった「十和田湖冬物語」は28回目を迎えます。親に連れられ、雪にまみれたあの日の子どもはいま、自分のこの手を引いている。温泉宿の夜、語り合った友人たちもあの頃から少しずつ、みんな、シワが増えた。そんな長い月日が経っても十和田湖の冬は今年も美しく、あたたかく、灯ります。
澄んだ夜空を彩る「冬花火」。匂いの先には「雪あかり横丁」。湯気の向こうで笑い合う人たち。時には、吹雪に鼻水を垂らすことも。それでも、ここが好きで、また来てしまう。
冬の十和田湖へ。あの光景が、きっと待っている。
●冬花火
真冬の澄み切った夜空を彩る冬花火。音楽との競演もお見逃しなく!
大切なあの人へ メッセージ花火 一発8,800円~
各開催日 20:00~
●屋台村「雪あかり横丁」
ローカルの食材を使った美味しいグルメを楽しもう!
平日 16:00~20:30 休日 11:00~21:00
真冬の澄み切った夜空を彩る冬花火。音楽との競演もお見逃しなく!
大切なあの人へ メッセージ花火 一発8,800円~
各開催日 20:00~
●屋台村「雪あかり横丁」
ローカルの食材を使った美味しいグルメを楽しもう!
平日 16:00~20:30 休日 11:00~21:00
●週末限定!冬の国境祭(くにざかいまつり)
北東北の祭りや、地元有志によるパフォーマンスは必須!
なまはげ太鼓/津軽三味線/ねぶた囃子/あけぼの祭典委員会/北里三原色他よさこい4団体
花巻鹿踊
北東北の祭りや、地元有志によるパフォーマンスは必須!
なまはげ太鼓/津軽三味線/ねぶた囃子/あけぼの祭典委員会/北里三原色他よさこい4団体
花巻鹿踊
●かまくらの中で地酒やカクテルが楽しめる「かまくらバー」→中止
●スノーパーク
会場には大きな雪の滑り台が誕生! あなたは何して遊ぶ?
●「乙女の像」ライトアップ
イベント開催日のみ 17:00~20:30
会場には大きな雪の滑り台が誕生! あなたは何して遊ぶ?
●「乙女の像」ライトアップ
イベント開催日のみ 17:00~20:30

一時期、プロジェクションマッピングなどを主体にした時期もありましたが、数年前に旧に復し、屋台村をメインにした冬花火や雪のステージでのパフォーマンスが中心のスタイルに戻りました。昨年からだったと思いますが、光太郎第二の故郷・岩手花巻から鹿踊りの皆さんも参加なさっています。
そして、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されます。
ただ、メイン会場からやや離れていまして、なかなかそちらまで足を運ぶ方は多くないようですが。吹雪の時などは遭難にくれぐれもご注意下さいのレベルです。
八戸駅、十和田市街からのシャトルバスも完備。
ぜひ足をお運び下さい。
ぜひ足をお運び下さい。
【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)30 歌集『白斧』
昭和22年(1947)11月20日 十字屋書店 高村光太郎著 宮崎稔編
目次
無題 二首 明治三十三年十月
無題 二首 明治三十三年十月
無題 六首 明治三十三年十一月
無題 十一首 明治三十四年一月
無題 五首 明治三十四年六月
ささ舟 十三首 明治三十四年七月
無題 十一首 明治三十五年
白斧 二十三首 明治三十七年一月
無題 九首 明治三十七年八月
赤城山の歌 明治三十七年十一月
無題 九首 明治三十九年一月
無題 十九首 明治四十二年十月
無題 十六首 明治四十一年十一月
無題 十一首 明治四十三年十一月
工房より 五十首 大正十三年八月
工房より 二十八首 大正十三年十一月
工房より 八首 大正十四年一月
那須にて 二首 大正十四年十月
智恵子抄 六首
岩手移住後 五首
無題 十五首
コロタイプ版 著者墨蹟
赤城山 己の前に
第一期、第二期『明星』などに載った光太郎短歌を集めた歌集です。光太郎、最後までこの歌集の出版には同意せず、姻戚だった詩人の宮崎稔が強引に出版を押し切りました。そのため、光太郎自身は関与していない旨の宮崎による「覚え書」が奥付の前に貼り込まれています。
奥付は昭和22年(1947)11月20日ですが、「覚え書」は昭和23年(1948)2月25日付。この頃まで上梓がずれ込んだようです。
東石美術館令和八年第一回企画展「雪あかりと春のきざし」。
光太郎の父・光雲の木彫が出ている展示です。
正続2冊セットで並製本として刊行され、内容的には大正9年(1916)に同じ叢文閣から出た初版と同一です。カバーの背文字は光太郎本人の筆。表紙絵はロダンの素描です。
当方手持ちのものは最終刷となった昭和12年(1937)9月20日の版です。
期 日 : 2026年1月10日(土)~3月24日(火)
会 場 : 東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週水曜・木曜
料 金 : 大人 1,000円(800円)ペア 1,800円 高・大学生 800円(600円)
小・中学生 500円(400円) ( )内団体料金
冬の静寂、春を予感させる彩々
凍てつく夜、天上の光を吸い込んだ雪は地上に降り積もることで自らが柔らかなあかりとなりました。それは暗闇の中で自らを保つ、つかの間の希望を象徴しています。
やがて、その白一色の世界の中から水や土、花の芽のやわらかな色がにじみ出、春を待ち望む心が起こす生命の兆しを感じさせます。
本展では、この繊細でドラマチックな季節の移ろいを表現した選りすぐりの名品が一堂に会します。
日本画の幽玄な光と影。洋画の重厚なマチエール。土から生まれた陶芸の温もり。生命を刻む木彫の静かな力。観る者の心の風景を鮮やかに変える、静かな感動の一期一会をぜひ。
◆主な展示品◆
横山大観《神国日本》、《瀑布(ナイアガラの滝、万里の長城)》、北大路魯山人《梅に月》、吉田登穀《浄地》、下村観山《田子の浦》、橋本雅邦《老松霊鷹》、狩野芳崖《江山一望之図》、高村光雲《狗犬》、山崎朝雲《建国》、圓鍔勝三《聖徳太子》、平野富山《稚児普賢》《七福神》、板谷波山《葆光彩磁椿文花瓶》ほか
リニューアル前の同館には一度伺ったことがありまして、その際にはやはり光雲作の木彫「牧童」が出ていました。
この作品は繰り返し展示されているもので、今回もこれかと思ったのですが、そうではなく「狗犬」という作品でした。
「狗犬」と題されていますが、狛犬ですね。像高など画像だけではわかりませんが、さほど大きなものでもなさそうです。木目の生かし方が絶妙ですね。
ほぼ同じ顔を持ち、阿吽の口を呈している獅子頭は複数の作例があり、各地で何度か拝見しましたが、全身像は見たことがありません。まあ、あっても何ら不思議ではないのですが。
阿吽の口の狛犬、獅子頭、そして沖縄のシーサー、さらには仁王像など、民俗学的に興味深いところでもあります。遡ればエジプトのスフィンクスも源流は同じだとか。
来週あたり拝見に行こうかと思っております。ついでに佐野ラーメンでも食べてこようかな、と(笑)。皆様もぜひどうぞ。



ほぼ同じ顔を持ち、阿吽の口を呈している獅子頭は複数の作例があり、各地で何度か拝見しましたが、全身像は見たことがありません。まあ、あっても何ら不思議ではないのですが。
阿吽の口の狛犬、獅子頭、そして沖縄のシーサー、さらには仁王像など、民俗学的に興味深いところでもあります。遡ればエジプトのスフィンクスも源流は同じだとか。
来週あたり拝見に行こうかと思っております。ついでに佐野ラーメンでも食べてこようかな、と(笑)。皆様もぜひどうぞ。
【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)14 『続ロダンの言葉』普及版
昭和4年2月28日 叢文閣 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
目次
アウギユスト ロダン(オクターヴ ミルボー)
若き芸術家達に(遺稿)
ロダン手記
花について
女の肖像
芸術家の一日
庭園の朝 古代彫刻の断片 庭園の夕
ゴチツクの線と構造
ゴチツク建築家は写真家である 面と相反と 釣合の知識 石のレース細工 外陣
くりかた
芸術と自然
古代芸術―ギリシヤ 古代芸術の豊かさは肉づけにある 高肉とキヤロスキユロ
ローマ及ローマ芸術 アメリカの為に
ゴチツクの天才
ノートルダム サン トウスターシユ 彫刻に於ける色調について 十八世紀 断片
五部のスレスコ 手紙
ギユスターヴ コキヨ筆録
ジユヂト クラデル筆録
フレデリク ロートン外二三氏筆録
ポール グゼル筆録
「岡の上にて」より 「ロダンの家にて」より フイデヤスとミケランジユ 女の美
「本寺」より(手記)
断片 ムラン マント ネエル アミヤン ル マン ソワツソン シヤルトル
正続2冊セットで並製本として刊行され、内容的には大正9年(1916)に同じ叢文閣から出た初版と同一です。カバーの背文字は光太郎本人の筆。表紙絵はロダンの素描です。
当方手持ちのものは最終刷となった昭和12年(1937)9月20日の版です。
「藝大取手コレクション展2025」「十和田湖の未来を語る東京フォーラム」報道。
昨年開催されたイベントの報道が最近為されていますので、ご紹介しておきます。
まず、11月13日(木)~11月30日(日)に茨城県取手市の東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催され、光太郎の卒業制作「獅子吼」石膏原型が展示された「藝大取手コレクション展2025」につき、同市の『広報とりで』今月号。
学校教育との連携は大切なことですね。未来のアーティストや評論家などが生まれる一つのきっかけとならないともかぎりませんし。
続いて11月30日(日)に港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」につき、青森の地方紙『東奥日報』さん。同紙では翌日にもすでに報道して下さったのですが、改めて昨年大晦日に長い記事にして下さいました。
蔦温泉で二度越冬
フォーラムは東京青森県人会の主催で、参加者の皆さんは十和田湖の歴史、自然、文化、観光に詳しい方々による講演とパネルディスカッションに熱心に耳を傾けていました。大町桂月(以下、桂月)の足跡をたどり、業績を後世に伝える活動を続けている「大町桂月を語る会」の谷川妙子事務局長は、桂月が「日本の昔の好い人情が東北のこの地にまだ残されている」と話していたことや、二度の越冬時にはユーモラスな絵と文で厳冬期や春の雪解けなども楽しんだ滞在の様子を書き残していることを紹介しました。
また、「『十和田湖一帯の地は山水の衆美(しゅうび)を集め啻(ただち)に日本に秀絶(しゅうぜつ)するのみならず世界に冠絶(かんぜつ)す』という美文で固めた請願文が大きな反響を呼びました」と、筆の力で国立公園に大きく押し上げた桂月の功績をたたえました。
湖の感動を表した像
十和田湖のシンボルとして愛されている「乙女の像」について、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が制作に至る経緯などを解説しました。像の設立は国立公園15周年を記念して、十和田開発の功労者である大町桂月、青森県知事の武田千代三郎、十和田村長で県会議員の小笠原耕一の三氏の功績を讃える目的で、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作。高村は、桂月と同様に自分が湖から受けた感動をそのまま正直に表す思いで像を造ることとし、完成後の像は自分の手を離れて十和田湖の自然の中に溶け込むことを願っていたというエピソードを紹介しました。
感動体験から保護・活用へ
初任地が十和田湖事務所だったという環境省自然環境局国立公園課長の長田啓さんは、「自然豊かな日本で一番贅沢な通勤路だった」と話し、会場を沸かせました。その上で、十和田八幡平国立公園は環境省が世界に誇れる国立公園を作る「国立公園満喫プロジェクト」において全国の先行的な取り組みを進める地域の一つに選ばれていることを紹介。訪れた人の感動体験が公園を「守ろう」という意識づけになり、利用によって得られる利益が保護に回る好循環を目指しています。神秘的な自然美、十和田神社の信仰といった歴史文化を守りながら宿泊施設の整備などで滞在環境の上質化を進め、国内外からより多くの訪問者が来ることへの期待を伝えました。
ゼネラル・プロデューサー山田安秀氏は、地域の歴史や自然文化の複合的な価値と、将来を考える機会になればと話し、パネルディスカッションを締め括りました。
フォーラムの最後に登壇した桂月のひ孫にあたる大町芳通さんは、「桂月が愛した十和田の素晴らしい自然を青森の観光資源として維持、活用することを知恵を持って成し遂げていただき、地元がもっと発展するよう祈っています」と謝辞を述べ、会場からは大きな拍手が送られました。
この他、大町桂月の詳細なプロフィール、フォーラム登壇者の全氏名と肩書き、東京青森県人会役員の方々からの「応援メッセージ」などが掲載されていますが、長くなるので割愛します。
また改めてご紹介しますが、十和田湖では今月末から来月末にかけ、「乙女の像」ライトアップも為される「第28回十和田湖冬物語」というイベントも開催予定です。ぜひ足をお運び下さい。
序文
ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)が、妻のマルト・マッサンとの日々を謳った連作詩「明るい時」の翻訳を根幹としたものです。後の『智恵子抄』が想起されます。
光太郎による序文では、「詩の翻訳は結局不可能である。意味を伝へ、感動を伝へ、明暗を伝へる事位は出来るかも知れないが、原(もと)の「詩」はやはり向うに残る。其を知りつつ訳したのは、フランス語を知らない一人の近親者にせめて詩の心だけでも伝へたかつたからである。」と記されています。言わずもがなですが、「フランス語を知らない一人の近親者」は智恵子です。
まず、11月13日(木)~11月30日(日)に茨城県取手市の東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催され、光太郎の卒業制作「獅子吼」石膏原型が展示された「藝大取手コレクション展2025」につき、同市の『広報とりで』今月号。
令和6年に開館30周年を迎えた東京藝術大学大学美術館と、 未来の学生たちの作品を十分に保管できるスペースを持った取手収蔵棟が同年竣工したことを記念し、「藝大取手コレクション展2025」が令和7年11月13日から30日まで開催されました。取手東小学校の3年生も学校行事でコレクションを鑑賞しました。鑑賞した児童からは「いろいろな作品が見られて楽しかった。作品ごとに違う雰囲気や面白さがあった」と話し、“アートのまち取手”ならではの貴重な体験をしました。
学校教育との連携は大切なことですね。未来のアーティストや評論家などが生まれる一つのきっかけとならないともかぎりませんし。
続いて11月30日(日)に港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」につき、青森の地方紙『東奥日報』さん。同紙では翌日にもすでに報道して下さったのですが、改めて昨年大晦日に長い記事にして下さいました。
山は富士、湖水は十和田、広い世界に一つずつ――。明治・大正期の文人で、俳句や美文で十和田湖や奥入瀬渓流の自然美を世に紹介した大町桂月が、蔦温泉で没して100年。今や十和田八幡平国立公園は本県を代表する観光地となっています。「十和田湖の未来を語る東京フォーラム」が11月30日、東京都港区の赤坂区民センターで開かれました。大町の人柄や功績、本県との関わりを振り返り、十和田湖と周辺地域の未来に視線を向けたフォーラムの様子を紙面で採録します。
蔦温泉で二度越冬
フォーラムは東京青森県人会の主催で、参加者の皆さんは十和田湖の歴史、自然、文化、観光に詳しい方々による講演とパネルディスカッションに熱心に耳を傾けていました。大町桂月(以下、桂月)の足跡をたどり、業績を後世に伝える活動を続けている「大町桂月を語る会」の谷川妙子事務局長は、桂月が「日本の昔の好い人情が東北のこの地にまだ残されている」と話していたことや、二度の越冬時にはユーモラスな絵と文で厳冬期や春の雪解けなども楽しんだ滞在の様子を書き残していることを紹介しました。
また、「『十和田湖一帯の地は山水の衆美(しゅうび)を集め啻(ただち)に日本に秀絶(しゅうぜつ)するのみならず世界に冠絶(かんぜつ)す』という美文で固めた請願文が大きな反響を呼びました」と、筆の力で国立公園に大きく押し上げた桂月の功績をたたえました。
湖の感動を表した像
十和田湖のシンボルとして愛されている「乙女の像」について、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が制作に至る経緯などを解説しました。像の設立は国立公園15周年を記念して、十和田開発の功労者である大町桂月、青森県知事の武田千代三郎、十和田村長で県会議員の小笠原耕一の三氏の功績を讃える目的で、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作。高村は、桂月と同様に自分が湖から受けた感動をそのまま正直に表す思いで像を造ることとし、完成後の像は自分の手を離れて十和田湖の自然の中に溶け込むことを願っていたというエピソードを紹介しました。
感動体験から保護・活用へ
初任地が十和田湖事務所だったという環境省自然環境局国立公園課長の長田啓さんは、「自然豊かな日本で一番贅沢な通勤路だった」と話し、会場を沸かせました。その上で、十和田八幡平国立公園は環境省が世界に誇れる国立公園を作る「国立公園満喫プロジェクト」において全国の先行的な取り組みを進める地域の一つに選ばれていることを紹介。訪れた人の感動体験が公園を「守ろう」という意識づけになり、利用によって得られる利益が保護に回る好循環を目指しています。神秘的な自然美、十和田神社の信仰といった歴史文化を守りながら宿泊施設の整備などで滞在環境の上質化を進め、国内外からより多くの訪問者が来ることへの期待を伝えました。
ゼネラル・プロデューサー山田安秀氏は、地域の歴史や自然文化の複合的な価値と、将来を考える機会になればと話し、パネルディスカッションを締め括りました。
フォーラムの最後に登壇した桂月のひ孫にあたる大町芳通さんは、「桂月が愛した十和田の素晴らしい自然を青森の観光資源として維持、活用することを知恵を持って成し遂げていただき、地元がもっと発展するよう祈っています」と謝辞を述べ、会場からは大きな拍手が送られました。
この他、大町桂月の詳細なプロフィール、フォーラム登壇者の全氏名と肩書き、東京青森県人会役員の方々からの「応援メッセージ」などが掲載されていますが、長くなるので割愛します。
また改めてご紹介しますが、十和田湖では今月末から来月末にかけ、「乙女の像」ライトアップも為される「第28回十和田湖冬物語」というイベントも開催予定です。ぜひ足をお運び下さい。
【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)8 『明るい時』
大正10年(1921)10月15日 芸術社 ヹルハアラン著 高村光太郎訳
目次序文
明るい時
一 おうさんらんたるわれらのよろこび 二 無言のままわれらの歩く
三 この野蛮な柱頭 四 夜の空はひろがり
五 いつでも、かほど純真にふかい
六 あなたは時としてあのなよやかな美を示す
六 あなたは時としてあのなよやかな美を示す
七 おう! 戸を叩かせて置かう 八 あどけない頃のやうに
九 わかい、気のやさしい春は 一〇 しづかに来て
一一 火のやうな恍惚の眼をして 一二 長い間私のくるしんでゐた時
一三 どういふわけか何故なのかいはれは何か
一三 どういふわけか何故なのかいはれは何か
一四 黄金と花との階段をしづしづ降りる
一五 私はあなたの涙に、あなたの微笑に 一六 私はあなたの二つの眼の中に
一七 われらの眼を愛するため 一八 われらの愛の園に、夏はつづく
一九 あなたの明るい眼、あなたの夏の眼が 二〇 言つてごらん
一七 われらの眼を愛するため 一八 われらの愛の園に、夏はつづく
一九 あなたの明るい眼、あなたの夏の眼が 二〇 言つてごらん
二一 われら自身以外の一切のものを 二二 おお! この幸福!
二三 生きませう 二四 われらの口の触れ合ふやいなや
二五 底知れぬ深さ神のやうに聖い 二六 たとひもう、こよひ
二五 底知れぬ深さ神のやうに聖い 二六 たとひもう、こよひ
二七 からだを捧げるとは、魂のある以上
二八 われらのうちにたつた一つの心やさしさ 二九 炎に花咲く美しい庭は
二八 われらのうちにたつた一つの心やさしさ 二九 炎に花咲く美しい庭は
三〇 もし万一にも
小曲二章
小さな聖母 サンジヤンさま
二篇
風をたたふ 吾家のまはり
ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)が、妻のマルト・マッサンとの日々を謳った連作詩「明るい時」の翻訳を根幹としたものです。後の『智恵子抄』が想起されます。
光太郎による序文では、「詩の翻訳は結局不可能である。意味を伝へ、感動を伝へ、明暗を伝へる事位は出来るかも知れないが、原(もと)の「詩」はやはり向うに残る。其を知りつつ訳したのは、フランス語を知らない一人の近親者にせめて詩の心だけでも伝へたかつたからである。」と記されています。言わずもがなですが、「フランス語を知らない一人の近親者」は智恵子です。
午年、騎馬像。
明日からは昨年暮れの報道等を紹介しますが、それに先だって松の内の間に正月っぽいネタを。
元日の『日本経済新聞』さん文化面から。
元日の『日本経済新聞』さん文化面から。
伊達政宗、山内一豊、前田利家、井伊直政――。武将たちをたたえる騎馬像を見上げた時、注目されるのは主役の偉人だ。となると、下の馬は見過ごされがち。
馬好きの多くは、生きた馬の美しさに魅了されて、彫像は見向きもしない。かくいう私も同類。仕事の前に馬に乗れると聞いて日本中央競馬会(JRA)に就職したくらいだ。
騎馬像の馬を意識したきっかけは、2011年のイタリア旅行だ。ずっと見たかったダヴィデ像への道すがら、騎馬像に出会った。コジモ1世だ。馬は丸々と肥え、頭が小さく、軽快に動いているように見えた。でも、私が好きなのはサラブレッド。ちらっと見て、通り過ぎた。
その後も騎馬像に出会う。フェルディナンド1世、エマニュエル2世、マルクス・アウレリウス帝。妙に印象に残った。
帰国後しばらくして馬事講座のネタ探しをしていた時、ふと騎馬像を思い出した。案外面白いのでは。とはいえイタリアには簡単には行けない。日本の騎馬像でも巡るか。なんとなく始まったが、結局150ほどある各地の像を制覇した。
日本の騎馬像でまず外せないのが皇居外苑(がいえん)にある楠木正成像だ。騎馬像巡りで最初に見た像だが、馬をずっと見てきた私でも驚くほど、とにかく馬が上手(うま)い。正成がイケメンなのもいい。
1900年に完成したこの像は、別子銅山200年記念事業として当時の東京美術学校(現東京芸大)を代表する芸術家が集まって作った。高村光雲が正成の顔を作り、歴史画家の川崎千虎が史実を踏まえて甲冑(かっちゅう)の図案を作り、彫刻家の後藤貞行が実際の馬の解剖もしながら馬を担当した。原型作りに3年、完成まで10年かけた。
馬はグーッと力を入れて進もうとするが、正成が手綱を引く。顎がぐっと後ろに引っ張られた馬は興奮しているのか、前膝を高く上げて目を見開いている。胸前、前肢の付け根、おしりの筋肉も盛り上がって、全身に力を蓄えている。
「この体勢はありえない」。写実性を重視した後藤は、光雲に抗議したという。だが誇張やデフォルメで、前進する力とそれを引き留める力が拮抗する緊張感が伝わる。
完成当初は馬が大きいという批判もあったらしいが、現代の目で見ると逆に馬が小さく、首も少し短く感じるかもしれない。ただ、とにかくエネルギーはすごい。
例えばJR鹿児島本線伊集院駅前にある島津義弘像。馬は後肢をぐっと曲げて踏ん張り、頭を左に少しひねりながら前半身を高く上げている。馬の首の部分の筋肉の力強く張り詰めた膨らみ、全身の流れるような美しいライン。前歯や後歯、歯が生えていない歯槽間縁も正確に作られている。同じ騎馬像でも馬の力強さを別の形で描写した彫刻家の中村晋也の想像力に圧倒される。
ところが、そもそも馬を理解せずに作られたものもある。馬の肢(あし)は人間の脚とは違う。私が見た限りでは、馬の肢が本来とは逆向きに、まるで人の腕や脚のように曲がった像が2体ほどあった。
こんなの許せない――。当初はそう思った。でも、騎馬像を見ていくうちに考えは変わった。馬のひづめや蹄鉄(ていてつ)の正確さまで、ちゃんと捉えているのは彫刻家の北村西望ぐらい。それでも多くの像は、地域で大切にされている。精いっぱいの思いが込められている。
愛知県吉良町(現西尾市)といえば、忠臣蔵の吉良上野介の地元だ。ここには、6体もの上野介の騎馬像があった。日本中に悪役と思われても、地元はこの殿を支えるという意気込みだろうか。
北海道江別市の榎本公園にある榎本武揚像の馬は、いかにも騎馬像らしいダイナミックさはない。でも華奢(きゃしゃ)な体にもかかわらず目はキリッとしていて、武揚の指示をじっと待っている。旧幕府、新政府の両方で重用された偉人も、相棒の馬といつも一緒にあちこち回ったのかもしれない。
船に乗りレンタカーを借りて佐渡島の山奥の公園にたどり着くと合戦開始目前、2人の騎馬兵が向き合う像があった。馬の像はやや詰めが甘いところがあるものの、全体としてダイナミックだ。
ところがはるばる来た公園の近くにあるのは公衆トイレぐらい。30分ほど見ていたが、そばを通るのはトイレを目指す地元の人ばかり。せっかくの騎馬像、もう少しかっこつけてあげてほしいが、史実に忠実に場所を選んだ結果なのだろう。
作り手や設置者の思い、あるいは何かしらの事情が垣間見える騎馬像は、今の時代にも新たに作られている。どうせなら愛される像を作ってほしい。願わくば、馬にもどうか気を使ってあげてほしい。
当会としての今年の年賀状図案に使った皇居外苑の「楠木正成像」を真っ先に挙げて下さいました。ありがたし。
執筆された山口氏、元JRA職員とのことで、見方が違いますね。楠公像に関しては「前進する力とそれを引き留める力が拮抗する緊張感」という評がまさに我が意を得たり、という感じでした。
楠公像の馬を担当した後藤貞行は、このために東京美術学校に雇われました。光雲が当時の校長だった岡倉天心に頼み込んでの実現でした。後藤が「この体勢はありえない」と言ったエピソードは、光雲の談話筆記『光雲懐古談』を昭和42年(1967)に中央公論美術出版さんが『木彫七十年』の題で復刊した際に附された、光雲三男にして家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ豊周による「あとがき」に語られています。
楠公の馬は左足を勢いよくあげ、踵を上へまげている。ここが問題になった。馬の専門家である後藤さんは馬の足というものはあんなにあがるものではない、それは嘘だといって反対した。けれども父が話すには、嘘でも馬が勢い込んで走ってくるところを手綱をぐっとひきしぼる、勢いが余って足があがる、その動きの激しいところをみせるためにも、また銅像全体としてみて、颯爽とした形のいいところをみせるためにも、例え嘘でもよいから片足をあげないと格好がつかない、そういうことを父はいったけれども、後藤さんは何しろ正確なことを尊ぶ本当の研究家だから、嘘になるから私は出来ないという。それで非常に困ってしまった。父は、いや芸術というものはそういうものではない、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ。本当の馬のように作ると、かえって、少しも馬の勢いが出てこない、動勢というものがあらわれてこない、それではなんにもならない。嘘が本当にみえればそれでよいのだから、その気持ちをのみこんでもらわなくてはいけないということを、銅像制作の主任としての立場から、父はめんめんとして後藤さんを口説き、やっとのことで嫌がる後藤さんに承知してもらったという。
この件は『光雲懐古談』本文には記述がありません。それを書き残して置いてくれた豊周、グッジョブですね。もちろん、こうした措置を執った光雲、その提案をのんだ後藤もですが。まぁ、こうしたデフォルメは彫刻としては初歩的な技法ですが。しかし、こうした点、山口氏曰く「作り手や設置者の思い」を知った上で見るのと、そうでないのとではまるで見方が変わってくると思われます。
午年の今年、全国に150体以上あるという騎馬像、少し注意して観てみてください。

のちほどご紹介しますが、叢文閣からの正続2冊組の普及版も出されます。
当会としての今年の年賀状図案に使った皇居外苑の「楠木正成像」を真っ先に挙げて下さいました。ありがたし。
執筆された山口氏、元JRA職員とのことで、見方が違いますね。楠公像に関しては「前進する力とそれを引き留める力が拮抗する緊張感」という評がまさに我が意を得たり、という感じでした。
楠公像の馬を担当した後藤貞行は、このために東京美術学校に雇われました。光雲が当時の校長だった岡倉天心に頼み込んでの実現でした。後藤が「この体勢はありえない」と言ったエピソードは、光雲の談話筆記『光雲懐古談』を昭和42年(1967)に中央公論美術出版さんが『木彫七十年』の題で復刊した際に附された、光雲三男にして家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ豊周による「あとがき」に語られています。
楠公の馬は左足を勢いよくあげ、踵を上へまげている。ここが問題になった。馬の専門家である後藤さんは馬の足というものはあんなにあがるものではない、それは嘘だといって反対した。けれども父が話すには、嘘でも馬が勢い込んで走ってくるところを手綱をぐっとひきしぼる、勢いが余って足があがる、その動きの激しいところをみせるためにも、また銅像全体としてみて、颯爽とした形のいいところをみせるためにも、例え嘘でもよいから片足をあげないと格好がつかない、そういうことを父はいったけれども、後藤さんは何しろ正確なことを尊ぶ本当の研究家だから、嘘になるから私は出来ないという。それで非常に困ってしまった。父は、いや芸術というものはそういうものではない、時には嘘でもよいのだ。その嘘を承知の上で作った方がかえって本当に見えるんだ。本当の馬のように作ると、かえって、少しも馬の勢いが出てこない、動勢というものがあらわれてこない、それではなんにもならない。嘘が本当にみえればそれでよいのだから、その気持ちをのみこんでもらわなくてはいけないということを、銅像制作の主任としての立場から、父はめんめんとして後藤さんを口説き、やっとのことで嫌がる後藤さんに承知してもらったという。
この件は『光雲懐古談』本文には記述がありません。それを書き残して置いてくれた豊周、グッジョブですね。もちろん、こうした措置を執った光雲、その提案をのんだ後藤もですが。まぁ、こうしたデフォルメは彫刻としては初歩的な技法ですが。しかし、こうした点、山口氏曰く「作り手や設置者の思い」を知った上で見るのと、そうでないのとではまるで見方が変わってくると思われます。
午年の今年、全国に150体以上あるという騎馬像、少し注意して観てみてください。
【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)6 『ロダンの言葉』目黒分店版
大正10年(1921)11月28日 目黒分店 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳

目次
ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
ロダン手記
ヹヌス 原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺 本寺別記
断片(「本寺」、「真のロダン」其他より) 手紙
ジユヂト クラデル筆録
ポール グゼル筆録
肉づけ 芸術に於ける神秘 動静 断片
カミーユ モークレール筆録
フレデリク ロートン筆録
古代芸術の教訓(一) 同(二) 断片
ロダンの手帳(クラデル編)
大正5年(1916)に阿蘭陀書房から出た初版と装幀は異なりますが、中身の紙型は同一のようです。阿蘭陀書房は大正6年(1917)に社名をアルスと改称、そのあたりのバタバタもあってか『ロダンの言葉』の重版が十分に出来なかったようで、目黒分店版が刊行されました。のちほどご紹介しますが、叢文閣からの正続2冊組の普及版も出されます。
東京国立博物館「博物館に初もうで」。
上野のトーハクさんで元日から始まっている企画展示です。
期 日 : 2026年1月1日(木)~1月25日(日)
会 場 : 東京国立博物館 台東区上野公園13-9
時 間 : 9時30分~17時00分 毎週金・土曜日および1月11日(日)は20時00分まで
休 館 : 月曜日 1月12日(月・祝)は開館
料 金 : 東博コレクション展観覧料でご覧いただけます。一般1,000円、 大学生500円
新年恒例の「博物館に初もうで」は、2026年は1月1日(木・祝)13時より開催します
東京国立博物館(館長:藤原誠)は、2026年は1月1日(木・祝)13時より開館し、恒例の正月企画「博物館に初もうで」を開催します。
干支をテーマにした特集展示や、長谷川等伯筆 国宝「松林図屛風」(1月1日(木・祝)~1月12日(月・祝) 本館2室にて展示)をはじめ、本館、東洋館の各展示室で、新年の訪れを祝して吉祥作品や名品の数々をご覧いただけます。
また、当館アンバサダーであり、世界的に活躍する日本画家・千住 博氏より、新作《ウォーターフォール》をご寄贈いただくことになり、1月1日〜1月12日まで本館大階段上にて特別に展示します。1月1・2・3日には本館前ステージでは和太鼓、獅子舞、吟剣詩舞など、新春限定の企画も開催します。
新たな年のスタートは、ぜひ当館でお迎えください。
常設展示を新春らしくおめでたいものや干支にちなんだ作品で揃え、「博物館に初もうで」としゃれこみましょう、というコンセプトで毎年行われている企画です。
サムネイル的に使われているのが、後藤貞行作の木彫「馬」(明治26年=1893)です。
光太郎の父・光雲の4歳年下だった後藤は変わった経歴を持つ彫刻家です。旧幕府の騎兵所や、維新後は陸軍省の軍馬局などに勤務した後、馬の彫刻を作りたい一心で光雲の門を叩いて木彫を学び、さらに東京美術学校に奉職、皇居前広場の楠木正成像の馬や、上野の西郷隆盛像の犬などを任されました。
というだけならこのブログでこの展示をわざわざ紹介しませんが、旧臘に発行された『東京国立博物館ニュース』の第783号(2025-2026年12・1・2月号)でこの「馬」が紹介され、「師の高村が1893年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品するために制作した老猿(ろうえん 重要文化財、当館蔵)と同じ木から、本作を彫り出したと述べています」との記述。実物を何度か拝見していましたが、これは存じませんでした。
光雲が「老猿」に使った木材は、栃木県鹿沼市の山林に自生していた栃の巨木でした。昨年は鹿沼でそのあたりに関するイベント等も行われています。そのあたり『東京国立博物館ニュース』では「高村は老猿の材木を求めて栃木県鹿沼市で直径2メートルほどの巨大なトチの木を購入し、東京都台東区の自宅まで運びました。後藤がこのトチの木の調達に尽力したこともあって、材木の一部を譲りうけたのでしょう」と記されています。
いわば「老猿」とこの「馬」、兄弟だったのですね。
そう思って観ると、また見え方が違ってくるような気がします。
他に群馬県大泉町出土の馬型埴輪や、長谷川等伯筆の「松林図屛風」なども出ているとのこと。それから関連行事として1月10日(土)には本物の馬がトーハクさんにやってきての「在来馬とのふれあい」イベントなども企画されています。
ぜひ足をお運びください。
光太郎初の訳書です。元々、フランスにも『ロダンの言葉』という書物は存在せず、さまざまなところで発表されたロダンの談話を光太郎が集めて一冊にまとめました。
装幀は光太郎自身。函題字は光太郎が得意とした白黒反転の「籠書き」文字で書かれています。
当方手持ちのものは大正7年(1918)10月20日改訂増補五版です。

光太郎の父・光雲の4歳年下だった後藤は変わった経歴を持つ彫刻家です。旧幕府の騎兵所や、維新後は陸軍省の軍馬局などに勤務した後、馬の彫刻を作りたい一心で光雲の門を叩いて木彫を学び、さらに東京美術学校に奉職、皇居前広場の楠木正成像の馬や、上野の西郷隆盛像の犬などを任されました。
というだけならこのブログでこの展示をわざわざ紹介しませんが、旧臘に発行された『東京国立博物館ニュース』の第783号(2025-2026年12・1・2月号)でこの「馬」が紹介され、「師の高村が1893年に開催されたシカゴ万国博覧会に出品するために制作した老猿(ろうえん 重要文化財、当館蔵)と同じ木から、本作を彫り出したと述べています」との記述。実物を何度か拝見していましたが、これは存じませんでした。
光雲が「老猿」に使った木材は、栃木県鹿沼市の山林に自生していた栃の巨木でした。昨年は鹿沼でそのあたりに関するイベント等も行われています。そのあたり『東京国立博物館ニュース』では「高村は老猿の材木を求めて栃木県鹿沼市で直径2メートルほどの巨大なトチの木を購入し、東京都台東区の自宅まで運びました。後藤がこのトチの木の調達に尽力したこともあって、材木の一部を譲りうけたのでしょう」と記されています。
いわば「老猿」とこの「馬」、兄弟だったのですね。
そう思って観ると、また見え方が違ってくるような気がします。
他に群馬県大泉町出土の馬型埴輪や、長谷川等伯筆の「松林図屛風」なども出ているとのこと。それから関連行事として1月10日(土)には本物の馬がトーハクさんにやってきての「在来馬とのふれあい」イベントなども企画されています。

【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)3 『ロダンの言葉』(近代思潮叢書 第五編)
大正5年(1916)11月27日 阿蘭陀書房 オーギュスト・ロダン著 高村光太郎訳
目次
ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
ロダンの芸術(ユージエヌ カリエール)
ロダン手記
ヹヌス 原則 フランスの自然 ランスの本寺 夜の本寺 本寺別記
断片(「本寺」、「真のロダン」其他より) 手紙
ジユヂト クラデル筆録
ポール グゼル筆録
肉づけ 芸術に於ける神秘 動静 断片
カミーユ モークレール筆録
フレデリク ロートン筆録
古代芸術の教訓(一) 同(二) 断片
ロダンの手帳(クラデル編)
光太郎初の訳書です。元々、フランスにも『ロダンの言葉』という書物は存在せず、さまざまなところで発表されたロダンの談話を光太郎が集めて一冊にまとめました。
装幀は光太郎自身。函題字は光太郎が得意とした白黒反転の「籠書き」文字で書かれています。
当方手持ちのものは大正7年(1918)10月20日改訂増補五版です。
鹿児島の西郷隆盛像。
昨日の『南日本新聞』(本社・鹿児島市)さんに光太郎の父・光雲の名がちらっと出ました。
建立計画はその10年前の27年、南洲神社50年祭の記念事業として始まった。翌年、安藤が制作を依頼された。当時36歳。大山さんは「若手彫刻家として実績や活躍ぶりから当然の成り行き」だったと記す。
現在も鹿児島市に立つ西郷隆盛銅像に関して。原型作者は安藤照。記事では触れられていませんが、戦時中に金属供出で失われた初代「ハチ公」の作者です。現在、渋谷駅前に立つ二代目「ハチ公」は安藤の子息でやはり彫刻家の安藤士(たけし)が復刻したものです。
西郷像竣工は昭和12年(1937)。生前のきちんとした写真が1枚も残っていないとされる西郷ですので、制作には苦労があったとのこと。
この点、先行する上野の西郷隆盛像と共通します。こちらは明治31年(1898)の除幕で、東京美術学校に制作が依頼され、光雲が主任となって作られたものです。この折には明治10年(1877)に戦死した西郷の記憶は多くの人が持っていたので、光雲は榎本武揚や西南戦争時の西郷の部下ら、直接西郷を知る人々の意見を参考にしたとも伝わっています。ちなみに光太郎はまだ美校入学前で、制作には参加しませんでした。
記事では上野の西郷像の原型の木型について触れられています。上野の銅像の竣工後、原型は鹿児島に運ばれ、浄光明寺さんという寺院に納められました。下は当方手持ちの古絵葉書です。右下の写真など、何だか仁王像のようですね。残念ながらこの原型は戦時中の空襲で焼失してしまいました。
はじめ、鹿児島の西郷像も浄光明寺に立てられる計画だったとのこと。それは存じませんでした。
さて、安藤が制作にかかった昭和3年(1928)の時点では、西郷の死から50年以上経っていましたから、なかなか西郷の顔立ちについての証言を集めるのは大変だったでしょう。
ちなみに昨夜、BSフジさんで放映された「TimeTrip 幕末の肖像-古写真に秘められた謎-」というスペシャル番組を拝見しました。ちょうど西郷の写真やキヨッソーネ筆の肖像画について触れられましたし、光雲の名は出ませんでしたが上野の西郷像も画像として再三使われました。
他に当方が尊敬してやまない土方歳三や、坂本龍馬、龍馬の妻・お龍の写真についても。
それから、記事では安藤が西郷の軍服を取り寄せ、体格がよかった藤島武二がそれを着てモデルになったというエピソードも紹介されています。西郷の身長は推定180㌢ほど。藤島もそれに近かったのでしょうか。おそらくこの軍服と同じものも、光雲が上野の西郷造成作の際に参考にしています。
昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』に載った光雲の談話から。
西郷さんのきてゐた軍服や長靴、晴子などを取り寄せてもらつて調べて見たところズボンはわたしの胸まで来るし、長靴はももまでもはゐるといふ代物、帽子のあご革は西郷さんの汗や脂で、真つ黒になつてゐたが、これまたわたしの顔を一ト回り半もする長いものでとにかく非常に大男だつたことは、はつきりしたわけだ。
「ズボンはわたしの胸まで来る」、笑えますね(笑)。それはさておき、安藤が鹿児島の西郷像制作にかかっていた頃はまだ光雲は存命でしたので、藤島同様、何らかのアドバイスをした可能性はあるな、と思いました。もしかすると軍服の存在も光雲から教えられたのかも知れません。
それから意外だったのは、藤島の兄二人が西南戦争で西郷と共に戦死、という件。これも全く存じませんでした。
初代ハチ公像などとは異なり、鹿児島の西郷像も上野の西郷像と共に戦時の金属供出は免れたわけで、その点は良かったと思われます。今後とも鹿児島の人々に愛されて欲しいものですし、今回、記事になった元鹿児島市立美術館長の大山直幸氏がなさったように、その制作背景などの研究等がさらに進むことを祈念いたします。
【折々のことば・智恵子】
元鹿児島市立美術館長の大山直幸さん(71)が「西郷隆盛像 安藤照の制作経過」を自費出版した。「安藤の著作や新聞記事などを基に調べた。今後の研究に使ってほしい」と話している。同書から、西郷像完成までの経緯を振り返ってみた。
西郷隆盛の銅像=鹿児島市城山町
建立計画はその10年前の27年、南洲神社50年祭の記念事業として始まった。翌年、安藤が制作を依頼された。当時36歳。大山さんは「若手彫刻家として実績や活躍ぶりから当然の成り行き」だったと記す。
安藤は、写真のない西郷の顔を探し、西郷を知る人に聞き取りを行い、孫や血縁者の胸像も制作した。「血縁者の容貌の中に共通するものを捉えることにより、そこから翁の姿を思い描いてみようとしたのだろう」と推測する。
制作に関する全ては安藤に一任されていた。安藤は「鹿児島に建てること高さ二丈(約6メートル)内外にすることの外、経費も年限も何も制限されてはいないのです」と話している(「鹿児島新聞」30年7月3日付)。
西郷像の服装は銅像建設奉賛会評議員会が「羽織袴(はかま)の礼装」を希望していたが、安藤の意向も踏まえて「陸軍大将の服」になった。
そのきっかけとなったのは、安藤が鹿児島から取り寄せた西郷の服。明治初めに千葉県習志野で行われた陸軍特別大演習で着用したものだった。
「誠に幸いと云う可き(いうべき)は、この習志野に於(おい)て雨の為(ため)シミのはいった服装が、他の遺品と共に今日尚(な)お西郷家に保存せられてある事である。これが今度の銅像製作の第一の足場となったのである」(安藤「大西郷と銅像」)。
西郷像のモデルの一人に同市出身の洋画家・藤島武二がいた。銅像制作の相談役に就いており、「体格が良かった藤島が陸軍大将の服を着ることになったのだろう」と想像する。
同書には、安藤と藤島が同席している写真が掲載されている。場所は安藤のアトリエで35年撮影とみられる。大山さんが県立図書館で見つけた。「藤島が相談役として安藤を実際に援助していたことを示すもの」で「藤島の兄二人が翁とともに西南戦争に参加して亡くなっており、藤島自身も銅像制作について特別な思いがあったに違いない」と記している。
建立場所は当初、上竜尾町の浄光明寺としていた。同寺には東京・上野にある西郷銅像の原型となった高村光雲作の木像があった。この像は空襲で焼失している。
だが34年、市庁舎移転に伴い跡地が候補地となった。翌年、隣接する旅館の土地まで買収し、建設地として決定した。
完成した西郷像は築山の上に置かれた。安藤は「人工の及ばざる自然の大いさを感ずる造園的築山風の台座が出来た」と記す(安藤「大西郷と銅像」)。
除幕式は37年5月23日に行われた。安藤は「南洲翁を語る会」で「除幕式場では、銅像を仰ぎ見ることは出来なかった」と話し、翌日に行われた銅像建立奉告祭に出て「帰りにやっと見上ぐることが出来た」と語ったそうだ。
大山さんは同書の最後にこの部分を引用し「この時、安藤は南洲翁に何と語りかけ、翁はそれに何と応えたのだろう」と締めくくっている。
同書はA4判、54ページ、2200円(税込み)。大山さん=099(224)2714。
大山さんは27日午後2時から、同市の西郷南洲顕彰館で「西郷隆盛銅像の制作の経過について」と題して話す。一般400円(鹿児島市内在住者300円)。敬老、友愛パス持参者、賛助会員は無料。同館=099(247)1100。
現在も鹿児島市に立つ西郷隆盛銅像に関して。原型作者は安藤照。記事では触れられていませんが、戦時中に金属供出で失われた初代「ハチ公」の作者です。現在、渋谷駅前に立つ二代目「ハチ公」は安藤の子息でやはり彫刻家の安藤士(たけし)が復刻したものです。
西郷像竣工は昭和12年(1937)。生前のきちんとした写真が1枚も残っていないとされる西郷ですので、制作には苦労があったとのこと。
この点、先行する上野の西郷隆盛像と共通します。こちらは明治31年(1898)の除幕で、東京美術学校に制作が依頼され、光雲が主任となって作られたものです。この折には明治10年(1877)に戦死した西郷の記憶は多くの人が持っていたので、光雲は榎本武揚や西南戦争時の西郷の部下ら、直接西郷を知る人々の意見を参考にしたとも伝わっています。ちなみに光太郎はまだ美校入学前で、制作には参加しませんでした。
記事では上野の西郷像の原型の木型について触れられています。上野の銅像の竣工後、原型は鹿児島に運ばれ、浄光明寺さんという寺院に納められました。下は当方手持ちの古絵葉書です。右下の写真など、何だか仁王像のようですね。残念ながらこの原型は戦時中の空襲で焼失してしまいました。
はじめ、鹿児島の西郷像も浄光明寺に立てられる計画だったとのこと。それは存じませんでした。
さて、安藤が制作にかかった昭和3年(1928)の時点では、西郷の死から50年以上経っていましたから、なかなか西郷の顔立ちについての証言を集めるのは大変だったでしょう。
ちなみに昨夜、BSフジさんで放映された「TimeTrip 幕末の肖像-古写真に秘められた謎-」というスペシャル番組を拝見しました。ちょうど西郷の写真やキヨッソーネ筆の肖像画について触れられましたし、光雲の名は出ませんでしたが上野の西郷像も画像として再三使われました。

それから、記事では安藤が西郷の軍服を取り寄せ、体格がよかった藤島武二がそれを着てモデルになったというエピソードも紹介されています。西郷の身長は推定180㌢ほど。藤島もそれに近かったのでしょうか。おそらくこの軍服と同じものも、光雲が上野の西郷造成作の際に参考にしています。
昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』に載った光雲の談話から。
西郷さんのきてゐた軍服や長靴、晴子などを取り寄せてもらつて調べて見たところズボンはわたしの胸まで来るし、長靴はももまでもはゐるといふ代物、帽子のあご革は西郷さんの汗や脂で、真つ黒になつてゐたが、これまたわたしの顔を一ト回り半もする長いものでとにかく非常に大男だつたことは、はつきりしたわけだ。
「ズボンはわたしの胸まで来る」、笑えますね(笑)。それはさておき、安藤が鹿児島の西郷像制作にかかっていた頃はまだ光雲は存命でしたので、藤島同様、何らかのアドバイスをした可能性はあるな、と思いました。もしかすると軍服の存在も光雲から教えられたのかも知れません。
それから意外だったのは、藤島の兄二人が西南戦争で西郷と共に戦死、という件。これも全く存じませんでした。
初代ハチ公像などとは異なり、鹿児島の西郷像も上野の西郷像と共に戦時の金属供出は免れたわけで、その点は良かったと思われます。今後とも鹿児島の人々に愛されて欲しいものですし、今回、記事になった元鹿児島市立美術館長の大山直幸氏がなさったように、その制作背景などの研究等がさらに進むことを祈念いたします。
【折々のことば・智恵子】
大空をみて一ぱいにいきをすいませうよ。
昭和3年(1928)10月 長沼セン宛書簡より 智恵子43歳
昭和3年(1928)といえば、光太郎が詩「あどけない話」で「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」と謳った、まさしくその年です。
10年前に智恵子の父・今朝吉が歿して弟の啓助があとを継いでから、徐々に傾き始めた実家の長沼酒造はこの年にはもはやどうにもならない状態に陥り、「あどけない話」が書かれた前日には、不動産登記簿によると長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けています。
そんな中で出した、母を励ます手紙の一節です。しかし、翌年には完全に破産、母と弟は僅かに残った山林などの所有権を巡り裁判沙汰。一家は離散することとなります。
十和田湖「乙女の像」関連。
光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連で2件。
まず、先月30日(日)に港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」で登壇なさった山本隆一氏が、同フォーラムの様子を報じた地元紙2紙を送って下さいました。そのうち『東奥日報』さんで、同フォーラムの記事の下に以下の記事が載っていました。
東北新幹線・新青森-八戸開業15周年 3駅で記念カード配付
東北新幹線・新青森-八戸間が4日に開業15周年を迎えるのを記念し、JR東日本は1日から、新青森、七戸十和田、八戸の3駅で「駅カード」を枚数限定で配布する。当日有効の乗車券類か入場券(定期券を除く)を、各駅の新幹線の有人改札で提示すると、1人1枚もらえる。駅カードで3駅を取り上げるのは今回が初めて。
駅カードは鉄道車両と地域の特色を組み合わせたデザインとなっており、JR東など鉄道会社がキャンペーン企画の一環として制作することが多い。新青森駅のカードはE5系新幹線「はやぶさ」と青森ねぶた、七戸十和田駅はE2系新幹線「はやて」と十和田湖、八戸駅は観光列車「TOHOKU EMOTION」と八戸えんぶりをそれぞれ描いている。
本県では弘前駅や五所川原駅、深浦駅などが題材となったことがある。
4日は新青森駅と七戸十和田駅で開業15周年セレモニーなどの記念企画を行う予定。
七戸十和田駅の駅カードに「乙女の像」があしらわれています。記事本文に「乙女の像」の語が入っていなかったので、掲載紙が送られてくるまで気づきませんでした。
新青森駅、八戸駅のものはこちら。
「こりゃ欲しいな」と思いまして、ネットオークションのサイトを見てみると、早速売りに出ていました。しかし3枚で8,000円。まぁ、好きな人はその価格でも買うのでしょうが、何だかなぁ……です。
もう1件。やはり地元紙の『秋田魁新報』さんで12月20日(土)に掲載された記事です。
このイベントについても事前に把握できていませんでした。公式サイトにやはり「乙女の像」の語が無く、さらに演目題名も「智恵子と智恵子」ということで、「高村」の語を書いていただければ見逃さなかったのですが、「智恵子」だけでは検索網でカバーしきれません。
ちなみに「千古水すむ十和田湖いだき」という「青森市民の歌(愛市の歌)」の歌い出しの一節を総題にした3本仕立ての演劇公演で「神秘の十和田は田沢と共に」「十和田湖のこわい話」そして「智恵子と智恵子」だったそうです。智恵子の顔を持つ「乙女の像」の制作意図が、光太郎曰く「人間の心の中を、内部を見る。そういう一種の感じをうけたんで、その一つの人間が、同じものが、どこを見ているかわからないが、とにかく向かいあって見合っている――片方は片方の内部で、片方は片方の外形なのです」ということで、「智恵子と智恵子」だったのでしょう。
「乙女の像」が主人公というと、10年ちょっと前に十和田湖国立公園協会さんでから刊行された能町みね子氏の『十和田湖アイドル伝説! 乙女の像S 解散の危機 !?』が思い出されました。
これからも「乙女の像」、地元で、さらに全国区で愛されてほしいものです。
【折々のことば・智恵子】
この世に生れて来た甲斐に、どれだけの事が成功するか、各自に与へられた力の最善を尽して一生の使命を果すので、誰れにとつても生やさしい面白いおかしい事ではなく、いつも目的を最高の処に置いて立派な、悔いのない、あゝこれでよかつたと、生の終りに自分で感謝する事の出来る生涯を築く覚悟がなければなりません。
大正7年(1918)に歿した父・今朝吉の跡を継いで長沼酒造を任された弟・啓助と、その妻となった禎子との若い二人に宛てた書簡から。
智恵子自身、昭和13年(1938)に南品川ゼームス坂病院でその生涯を閉じる際、「あゝこれでよかつたと、生の終りに自分で感謝する事の出来る生涯」だったのでしょうか……。
七戸十和田駅の駅カードに「乙女の像」があしらわれています。記事本文に「乙女の像」の語が入っていなかったので、掲載紙が送られてくるまで気づきませんでした。
新青森駅、八戸駅のものはこちら。
「こりゃ欲しいな」と思いまして、ネットオークションのサイトを見てみると、早速売りに出ていました。しかし3枚で8,000円。まぁ、好きな人はその価格でも買うのでしょうが、何だかなぁ……です。
もう1件。やはり地元紙の『秋田魁新報』さんで12月20日(土)に掲載された記事です。
遠い風近い風[畑澤聖悟]神秘の十和田は田沢と共に
今年で3年目となる「北のまほろば祭り」は、私が主宰する渡辺源四郎商店の定例イベントである。本拠地である青森市の渡辺源四郎商店しんまち本店で、秋から冬にかけて、月終わりの週末にリーディングや一人芝居など、語り芸を中心に短編2、3本を上演する。今回は11月~来年1月に実施。毎回、期間中に計8~12作品が集まることから、「北の小さな演劇祭」を名乗っている。
先月の公演タイトルは「千古水澄む十和田湖いだき」。ズバリ、十和田湖がテーマである。ゲストに秋田の「けやはす演劇部」を招いた。おととし1月にあきた芸術劇場ミルハスで上演された県民参加型ミュージカル「欅(けやき)の記憶・蓮(はす)のトキメキ」の出演者有志を中心に結成した劇団で、昨年に引き続きの登板である。
演目は「神秘の十和田は田沢と共に」。秋田を憂う謎の集団「秋田賢人会議」が秘密会議を行う。県境にまたがる十和田湖を青森県が独り占めしようとしている。そうはさせじ。「十和田湖が名実ともに秋田のものであることを強く意識させるためには、物語を利用せばいい!」とリーダーが号令する。
十和田湖、田沢湖、八郎湖を巡る「三湖伝説」を、都合のいい「秋田史観」で改変しようと試みるのだ。台本を持った演者8人によるリーディング公演であるが、歴史うんちくあり、アクションあり、ギャグあり。盛りだくさんの28分。客席は沸きに沸いた。劇団代表である伊藤展洋氏の記念すべき初の作・演出作品。堂々のデビューである。
迎え撃つ「小なべの会」は、渡辺源四郎商店の若手によるユニット。これまで劇団内ワークショップ、台本評論、作詞作曲、演出練習などの活動を経て、今回が初公演となった。演目は「智恵子と智恵子」(沼畑枝里作・演出)。十和田湖畔に立つ裸像、通称乙女の像が主人公。制作途中の像が、作者の高村光太郎が寝ている間に動き出し、歌ったり漫才をしたりする。コント風の展開だが、亡き妻、智恵子への高村の愛情が徐々に浮かび上がってくる。ゲストに負けぬ大受けであった。
終演後はロビーで出演者、スタッフ、観客が入り乱れての座談会「まほろばトーク」。そして乾杯。そのまま打ち上げになだれ込んだ。大量に持ち込まれた秋田の美酒とお土産がありがたい。
私が「欅の記憶・蓮のトキメキ」の演出を担当させてもらってから間もなく3年。あの日、演劇の世界に足を踏み入れた彼らは、自作を引っ提げて遠征するまでになり、アウェーの観客を大いに喜ばせた。そして、初めて私の手を離れて芝居を打ったウチの若手たち。みんな楽しそうに芝居談義をしている。これはすごいことである。報われた気がした。空きビルを大工仕事で劇場に改装したのも、身銭を切って劇団を19年続けてきたのも、何もかもこのためだったのではないか。
けやはすの面々とは「またね」と言って別れた。また、いい芝居やりましょう。そして、楽しく飲みましょう。芝居は終われば何も残らないが、縁は続くのである。
(劇作家・演出家、五城目町出身、青森市住)
このイベントについても事前に把握できていませんでした。公式サイトにやはり「乙女の像」の語が無く、さらに演目題名も「智恵子と智恵子」ということで、「高村」の語を書いていただければ見逃さなかったのですが、「智恵子」だけでは検索網でカバーしきれません。
ちなみに「千古水すむ十和田湖いだき」という「青森市民の歌(愛市の歌)」の歌い出しの一節を総題にした3本仕立ての演劇公演で「神秘の十和田は田沢と共に」「十和田湖のこわい話」そして「智恵子と智恵子」だったそうです。智恵子の顔を持つ「乙女の像」の制作意図が、光太郎曰く「人間の心の中を、内部を見る。そういう一種の感じをうけたんで、その一つの人間が、同じものが、どこを見ているかわからないが、とにかく向かいあって見合っている――片方は片方の内部で、片方は片方の外形なのです」ということで、「智恵子と智恵子」だったのでしょう。
「乙女の像」が主人公というと、10年ちょっと前に十和田湖国立公園協会さんでから刊行された能町みね子氏の『十和田湖アイドル伝説! 乙女の像S 解散の危機 !?』が思い出されました。
これからも「乙女の像」、地元で、さらに全国区で愛されてほしいものです。
【折々のことば・智恵子】
この世に生れて来た甲斐に、どれだけの事が成功するか、各自に与へられた力の最善を尽して一生の使命を果すので、誰れにとつても生やさしい面白いおかしい事ではなく、いつも目的を最高の処に置いて立派な、悔いのない、あゝこれでよかつたと、生の終りに自分で感謝する事の出来る生涯を築く覚悟がなければなりません。
大正11年(1922)12月1日 長沼啓助・禎子宛書簡より 智恵子37歳
大正7年(1918)に歿した父・今朝吉の跡を継いで長沼酒造を任された弟・啓助と、その妻となった禎子との若い二人に宛てた書簡から。
智恵子自身、昭和13年(1938)に南品川ゼームス坂病院でその生涯を閉じる際、「あゝこれでよかつたと、生の終りに自分で感謝する事の出来る生涯」だったのでしょうか……。
石川県七尾美術館「冬季所蔵品展 私たち七尾美術館PR隊! 」。
光太郎の父・光雲の作品が出ています。
期 日 : 2025年12月20日(土)~2026年2月8日(日)
会 場 : 石川県七尾美術館 石川県七尾市小丸山台1-1
時 間 : 午前9時〜午後5時
休 館 : 毎週月曜日 (1/12は開館)、1/13
12/29(月)から1/3(土)までの6日間
料 金 : 一般350円(280円) 大学生280円(220円) 高校生以下無料
( )は20名以上の団体料金
令和6年能登半島地震により1年9カ月にわたって臨時休館を余儀なくされた当館。臨時休館中には文化財レスキューや市内学校への出前講座などを行っていました。
そんな中、臨時休館が続く当館の状況を知った七尾市立小丸山小学校の5年生(当時)が、再開館に向けて自分たちにできることはないかと考え、昨年の総合学習の一環として「震災に負けずに立ち上がろう。七尾美術館PR隊」という活動を行ってくれました。
その活動内で、子どもたちに当館所蔵品の中からお気に入りの作品ベスト3を挙げてもらい、それを元に学芸員が展示品を選抜・展示計画を作成しました。
そして、子どもたちには自分たちなりの視点で作品の見どころを伝える「作品解説」を書いてもらいました。
子どもたちの「作品解説」とあわせてお楽しみください。
同時開催 まなざしの先
案内文にある通り、昨年1月の能登半島地震により同館は臨時休館となり、地震発生の際に開催中だった企画展示「彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜」は途中で打ち切られました。
2年近くの休館中、被害の少なかった石川県立歴史博物館さんでの出開帳「令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく」などを行ってきましたが、今秋から再開とのことで、喜ばしく存じます。
「彫刻って面白い!」「七尾美術館 in れきはく」にも出品された、光雲作の聖観音像(昭和6年=1931)が今回も展示されます。七尾市出身の実業家で、美術品コレクターでもあった池田文夫氏(1907~87)が蒐集した美術工芸品「池田コレクション」の一つです。他に多く作られた聖観音像と少し趣が異なり、工房作かな、という感じもします。
地元の小学校さんの協力も入った展示だそうで、タイトルに「七尾美術館PR隊」。すばらしい取り組みですね。
訪れるだけでも復興支援の一環となります。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・智恵子】
人間はお互に助け合はねばならないでせう 人を教へるとか 又は与へる力があるなぞと誰しも思ふものはないことゝ思ふけれど 元来信仰の問題は知識ではなく(知も一部ではあるが)随て教へるなどゝいふ事とは遠いことのやうに私は思ひます
斎藤は智恵子と同郷の彫刻家。光雲の孫弟子にあたります。のち、二本松霞ヶ城に建てられた光太郎詩碑の建立に尽力しました。
斎藤の母が智恵子の妹・ミツの肺結核による東京病院(のちの慈恵医大病院)入院に付き添っており、末期の患者にどんな話をしたらよいのか、といった質問に対する返答の一節です。
ミツは翌年死去。その遺児・春子はのちに当時の一等看護婦の資格を取得、智恵子晩年のゼームス坂病院での付き添いを務めることとなります。
同時開催 まなざしの先
「目は口ほどに物を言う」ということわざがあるように、私たちの「目」は時に言葉以上に相手に感情を訴えかける力があります。
それは喜びであったり、悲しみであったり、あるいは怒りであったりと様々ですが、相手の顔を見た時に、思いがけない感情に気づき、ドキッとした経験は誰しもあるのではないでしょうか。
本テーマではこの「まなざし」に着目。現代絵画を中心に、写真や工芸などの当館所蔵品のうち、まなざしや視線、あるいは表情が印象的な作品を展示します。
それぞれの作品の「まなざしの先」に何があるのか、皆さまも思いを馳せてみてください。
案内文にある通り、昨年1月の能登半島地震により同館は臨時休館となり、地震発生の際に開催中だった企画展示「彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜」は途中で打ち切られました。2年近くの休館中、被害の少なかった石川県立歴史博物館さんでの出開帳「令和6年能登半島地震復興応援特別展 七尾美術館 in れきはく」などを行ってきましたが、今秋から再開とのことで、喜ばしく存じます。
「彫刻って面白い!」「七尾美術館 in れきはく」にも出品された、光雲作の聖観音像(昭和6年=1931)が今回も展示されます。七尾市出身の実業家で、美術品コレクターでもあった池田文夫氏(1907~87)が蒐集した美術工芸品「池田コレクション」の一つです。他に多く作られた聖観音像と少し趣が異なり、工房作かな、という感じもします。
地元の小学校さんの協力も入った展示だそうで、タイトルに「七尾美術館PR隊」。すばらしい取り組みですね。
訪れるだけでも復興支援の一環となります。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・智恵子】
人間はお互に助け合はねばならないでせう 人を教へるとか 又は与へる力があるなぞと誰しも思ふものはないことゝ思ふけれど 元来信仰の問題は知識ではなく(知も一部ではあるが)随て教へるなどゝいふ事とは遠いことのやうに私は思ひます
大正10年(1921) 斎藤辰之介宛書簡より 智恵子36歳
斎藤は智恵子と同郷の彫刻家。光雲の孫弟子にあたります。のち、二本松霞ヶ城に建てられた光太郎詩碑の建立に尽力しました。
斎藤の母が智恵子の妹・ミツの肺結核による東京病院(のちの慈恵医大病院)入院に付き添っており、末期の患者にどんな話をしたらよいのか、といった質問に対する返答の一節です。
ミツは翌年死去。その遺児・春子はのちに当時の一等看護婦の資格を取得、智恵子晩年のゼームス坂病院での付き添いを務めることとなります。
高村光太郎「手」 和と洋、静と動 感じる彫刻。
12月7日(日)、地方紙『岩手日日』さんに載った記事です。ご執筆は東京国立近代美術館(MOMAT)さんの主任研究員・成相肇氏。ネット上に見当たらず、同紙独自なのか、よくある通信社等の配信記事なのか判然としませんが。
東京国立近代美術館のコレクションの中から、「手」にまつわる作品を紹介していきましょう。時代や表現方法を問わずさまざまに表されてきた手の図像の中に、美術の魅力の手掛かりを探ります。
東京国立近代美術館のコレクションの中から、「手」にまつわる作品を紹介していきましょう。時代や表現方法を問わずさまざまに表されてきた手の図像の中に、美術の魅力の手掛かりを探ります。 ちょうど新聞紙片面の横幅くらいの高さの大きなブロンズ製の手。詩人として も知られる高村光太郎(1883~1956年)の彫刻です。あるとき自身の左手をじっと見ていると「自分の手でないやうな気が」して、「何か大きなものの見えない手が不意に形を現はした」かのように思えた。そして、おもむろに「施無畏印(せむいいん)」(奈良の大仏と同じポーズ)の形にしたときに感じた「自分の手の威厳」と「霊光」をどうにか再現しようと思った、と光太郎は述べています。
実際、この作品のてのひらに正対して眺めてみると、仏像のように穏やかで落ちついた印象です。そういえば光太郎の父・光雲は江戸時代に仏師からキャリアを始めた彫刻家でした。
この作品で何より興味深いのは、台座に対して手が少し横を向いている点です。この台座は作者が彫った木ですから、角度にも意図が込められています。そこで今度は台座に対してまっすぐ向き合ってみると、たちまち緊張した指の筋肉が際立ち、ダイナミックな動きが立ち現れます。光太郎は近代彫刻の祖とされるオーギュスト・ロダンを日本に紹介した人物でもありました。この手の力強いひねり、張り詰めた劇的な筋肉の動きは、まさしくロダンからの影響といえるでしょう。
「霊光」はこのひねりにこそ宿っています。すなわちこの作品には、一点において和と洋が、静と動が、同居しているのです。ほんのわすかな角度の差で、洋の東西が大きくシフトする。真横から見ると鳥のような優美な形をしたこの「手」は、まさしく近代の彫刻が飛躍しようとする一瞬を凝縮した作品なのです。
当館ウェブサイトでは、本作のブロンズ部分を台座から引き抜いてみる解説動画や、作品を全方向から見られるデータも公開しています。自宅でも、ぐるぐるといろんな角度から眺めて楽しんでみてください。
前半に引用されている「自分の手でないやうな気が」「何か大きなものの見えない手が不意に形を現はした」などは、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に載った光太郎の「手紙」と題する散文の一節です。筑摩書房『高村光太郎全集』にもれていたものですが、「手」に関して最も多くが語られており、しかもほぼ制作リアルタイムのもので、これを参照しなければ「手」の考察は不可能と言っていいくらいのものです。MOMATさんでも気づいて下さったかという感じでした。
その後の「角度」の話や「和と洋」「動と静」といった解釈、確かにその通りですね。ただ、同じ光太郎生前鋳造の「手」でもMOMATさんのもの(有島武郎・秋田雨雀旧蔵)と朝倉彫塑館さん所蔵のもの(朝倉文夫が購入したもの)では微妙に角度が異なり、そのあたり詳細な考察が為されることを期待します(或いは既に為されているかもしれませんけれど)。それを言えば、台座の形状、ブロンズの仕上げ(つやの有無)もかなり異なります。
最後に「当館ウェブサイトでは、本作のブロンズ部分を台座から引き抜いてみる解説動画や、作品を全方向から見られるデータも公開しています」とありますが、「台座から引き抜いて……」はこちら、「全方向から見られるデータ」はこちらをご参照下さい。
「手」は、同じ型から鋳造されたものが数多く存在します。ぱっと思いつくだけで、 国立東京近代美術館(MOMAT)さん、朝倉彫塑館さん、髙村家、碌山美術館さん、花巻高村光太郎記念館さん、島根県立美術館さん、たましん美術館さん、呉市立美術館さん、岩手大学さん、千葉県立美術館さん、山口県宇部市さん(なぜか中国地方に多いのが不思議です)。その他の公的機関でもまだ所蔵があるような気もしますし、オークションに出たこともあります(ただ、中には「レプリカ」と断られているものもあるようで)。
各地で「手」をご覧になる方、上記のような点に注意して観て下さい。ちなみに当方、また明後日、花巻で観て参ります。
【折々のことば・智恵子】
この一節も、智恵子の言葉としてはよく引用されるものの一つです。
結局、智恵子は「あらゆる事にあなたを大胆にお放ち」出来なかったと思われますが……。
前半に引用されている「自分の手でないやうな気が」「何か大きなものの見えない手が不意に形を現はした」などは、大正8年(1919)1月25日発行の雑誌『芸術公論』第3巻第1号に載った光太郎の「手紙」と題する散文の一節です。筑摩書房『高村光太郎全集』にもれていたものですが、「手」に関して最も多くが語られており、しかもほぼ制作リアルタイムのもので、これを参照しなければ「手」の考察は不可能と言っていいくらいのものです。MOMATさんでも気づいて下さったかという感じでした。
その後の「角度」の話や「和と洋」「動と静」といった解釈、確かにその通りですね。ただ、同じ光太郎生前鋳造の「手」でもMOMATさんのもの(有島武郎・秋田雨雀旧蔵)と朝倉彫塑館さん所蔵のもの(朝倉文夫が購入したもの)では微妙に角度が異なり、そのあたり詳細な考察が為されることを期待します(或いは既に為されているかもしれませんけれど)。それを言えば、台座の形状、ブロンズの仕上げ(つやの有無)もかなり異なります。
最後に「当館ウェブサイトでは、本作のブロンズ部分を台座から引き抜いてみる解説動画や、作品を全方向から見られるデータも公開しています」とありますが、「台座から引き抜いて……」はこちら、「全方向から見られるデータ」はこちらをご参照下さい。
「手」は、同じ型から鋳造されたものが数多く存在します。ぱっと思いつくだけで、 国立東京近代美術館(MOMAT)さん、朝倉彫塑館さん、髙村家、碌山美術館さん、花巻高村光太郎記念館さん、島根県立美術館さん、たましん美術館さん、呉市立美術館さん、岩手大学さん、千葉県立美術館さん、山口県宇部市さん(なぜか中国地方に多いのが不思議です)。その他の公的機関でもまだ所蔵があるような気もしますし、オークションに出たこともあります(ただ、中には「レプリカ」と断られているものもあるようで)。
各地で「手」をご覧になる方、上記のような点に注意して観て下さい。ちなみに当方、また明後日、花巻で観て参ります。
【折々のことば・智恵子】
あなた御自身、如何なる方向、如何なる境遇、如何なる場合に処するにも、たゞ一つ内なるこゑ、たましひに聞くことをお忘れにならないやう。この一事(いちじ)さへ確かならあらゆる事にあなたを大胆にお放ちなさい。 それは最も旧く最も新しい、生長への唯一の人間の道と信じます故。
アンケート「新時代の女性に望む資格のいろいろ」より
大正15年(1926) 智恵子41歳
大正15年(1926) 智恵子41歳
この一節も、智恵子の言葉としてはよく引用されるものの一つです。
結局、智恵子は「あらゆる事にあなたを大胆にお放ち」出来なかったと思われますが……。
「彫刻三昧(ざんまい)―札幌芸術の森美術館の名品50選」「プラカードのために」報道。
現在開催中の企画展示についての報道を2件。いずれも『毎日新聞』さんから。
まず、北海道版。札幌の本郷新記念美術館さんの「彫刻三昧(ざんまい)―札幌芸術の森美術館の名品50選」についてです。
まず、北海道版。札幌の本郷新記念美術館さんの「彫刻三昧(ざんまい)―札幌芸術の森美術館の名品50選」についてです。
展覧会「彫刻三昧(ざんまい)―札幌芸術の森美術館の名品50選」が、札幌市中央区の本郷新記念札幌彫刻美術館で開かれている。ロダン、高村光太郎、佐藤忠良をはじめとする国内外の著名作家の作品50点を展示している。2026年1月4日まで。
展覧会は、札幌芸術の森(南区)開園40周年を記念して開催。収集してきた彫刻コレクションから50展を選んだ。印象派の画家、ルノアールの彫刻も含まれ、2点展示。ブロンズ「ヴェールを持つ踊り子」(1908年)は優美な動きを感じさせる。ルノアールは晩年、リウマチに苦しみながら弟子と共に彫刻を制作した。 日本の近代彫刻の先駆け荻原守衛の作品も展示している。ブロンズ「文覚」(同年)は筋骨隆々とした男性が厳しい表情で腕を組む。荻原は渡仏して、近代彫刻の父ロダンに影響を受けた。 休館日は月曜と年末年始(12月29日~1月3日)。問い合わせは同館(011・642・5709)へ。
光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。
明けて1月4日(日)までの会期です。ただ、前日まで年末年始休館ですが。
続いては大阪国立国際美術館さんの「特別展 プラカードのために」。
こちらに関しては、年が明けてから行こうと思っています。年内はまだあちこち足を運ぶ予定がつまっていまして。
皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・智恵子】
すべてを破壊し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新しい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。
関東大震災を受けての文章の一節です。
昨日の青森での大地震には驚きました。地震そのもので亡くなった方がいなかったようなのは不幸中の幸いですが。
光太郎作品は「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)。
明けて1月4日(日)までの会期です。ただ、前日まで年末年始休館ですが。
続いては大阪国立国際美術館さんの「特別展 プラカードのために」。
生活者の視点から創作を続け、既存の制度や構造に問いを投げかける7人の作家の作品を集めた特別展「プラカードのために」が大阪市北区の国立国際美術館で開かれている。
タイトルは出展作家の一人で、時代に先駆けたフェミニズム作品で再評価が進む田部光子さん(1933~2024年)が、61年に発表した文章から取っている。当時の安保闘争や三池闘争、米公民権運動、コンゴ動乱などを背景に<大衆のエネルギーを受け止められるだけのプラカードを作>り、<たった一枚のプラカードの誕生>によって、社会を変える可能性を記した文章だ。思いは同年制作の5点のコラージュ作品「プラカード」(61年)に結実した。
本展を企画した同館主任研究員の正路佐知子さんは<たった一枚のプラカード>とは「行き場のない声をすくいあげ、解放の出発点となるような、生きた表現の象徴でもある」と指摘。それが本展を貫く一つの道標となっている。
田部さんは福岡発の前衛芸術家集団「九州派」(57~68年)の主要メンバーとして活躍。90年代からは海外にも活動の場を広げ、10年代まで旺盛な創作活動を続けた。本展では「プラカード」や、同時に発表された妊娠からの女性解放をうたったオブジェ「人工胎盤」(61年、04年に再制作)など28点を展示している。
壁一面に色とりどりの切り絵が並び、天井からもつり下がる。谷澤紗和子さん(82年生まれ)の作品群だ。11枚組みの新作インスタレーション「目の前に開ける明るい新しい道」(25年)のほか、洋画家・切り絵作家の高村智恵子(1886~1938年)への手紙などを切り絵にした連作「はいけいちえこさま」など女性表現者の先達との架空の「対話」によって生み出されたシリーズを展示。
「目の前に~」のうちの一作「お喋りの効能(西瓜(すいか))」は、中国の民間芸術「剪紙(せんし)」作家、庫淑蘭(クー・シューラン)さん(1920~2004年)の作品を基にしている。庫さんは季節の表象としてスイカを配置したが、谷澤さんはスイカがパレスチナ連帯のモチーフとして知られていることもふまえ、現代の視点で再構成した。作品を縁取る枠に並ぶ切り抜き文字は、無政府主義者の大杉栄らが虐殺された甘粕事件について智恵子が書いた文章。谷澤さんの作品は幾重にも覆われた「周縁化」のベールを一枚ずつめくり内にあるものを見つめる視点を持つ。「切り絵」という芸術もまた、美術史の中では周縁化されてきた。
暗い地下道を男が何かつぶやきながら歩いている。飯山由貴さん(88年生まれ)の映像作品「In−Mates」(21年)はそんな場面から始まる。飯山さんは社会の周辺に置かれた人々への聞き取りや記録資料を糸口に個人と社会の関係を考察し、作品づくりに取り組んできた。「In~」は、戦前に東京都内の精神科病院に隔離入院していた2人の朝鮮人患者の看護日誌を基に、関東大震災時の朝鮮人虐殺などの歴史を追う。22年、東京都人権プラザでの上映を「企画趣旨に合わない」などとして都が認めず問題となった。美術館での上映は初。
「In~」は、川崎市出身の在日コリアンのラッパー、FUNIさんが、看護日誌に残った2人の言葉や葛藤を自身の肉体を通して「再現」し、現在まで続く差別の歴史を重ね合わせていく。冒頭から登場する地下道は、彼らが隔離された精神科病院にも、在日コリアンらが置かれた、あるいは私たち自身が置かれた閉塞(へいそく)した状況にも見える。自由への問いは、さまざまな自由を知らぬ間に手放しつつある私たちへも鋭く突き刺さる。
ひときわ大きな空間をひときわ大きな空間を使っているのが福岡県八女市在住の牛島智子さん(58年生まれ)の新作インスタレーション「ひとりデモタイ箒(ほうき)*筆*ろうそく」(25年)だ。牛島さんは地元の産業や歴史に根ざした素材を使ったインスタレーションで知られる。 本作は八女和紙とコンニャク糊(のり)で作った二十七角形の巨大な「フィールド」の上に、家や箒、ろうそく、筆などを模した造形物が置かれ、天井からは牛島さんの詩や言葉を記した和紙のカードがつるされる。家の屋根の上に座っているのは一人の女性。歴史的に「家」に閉じ込められてきた「家婦」(家庭の中で仕事をする妻)がその外に出ている姿だ。 牛島さんは展示室の空間を見て「すぐに革命前夜の沸き立つイメージが出てきた」と語る。あらがうのは「私」であり、でも、一人一人が集まれば「隊」にもなる。タイトルにはそんな思いも込められている。
このほか、労働と支配の関係を問う笹岡由梨子さんのインスタレーション▽複数の男性と女性1人による自身の共同生活を撮影し、家族や結婚の常識を問う金川晋吾さんの写真シリーズ▽08年から宮城県で暮らし、制作する志賀理江子さんの映像インスタレーションなど。来年2月15日まで。
こちらに関しては、年が明けてから行こうと思っています。年内はまだあちこち足を運ぶ予定がつまっていまして。
皆様も是非どうぞ。
【折々のことば・智恵子】
すべてを破壊し尽した今、われわれの偉大な理想へのよき機会を逸してはならない。建築に対する新しい道程は開かれてゐる。急がずあせらず、自然界の生長の如く、微細に入念にそして大胆に、生命の奥底に仕事を育たしめよ。
散文「建設の根源は此処に在り」より 大正12年(1923) 智恵子38歳
関東大震災を受けての文章の一節です。
昨日の青森での大地震には驚きました。地震そのもので亡くなった方がいなかったようなのは不幸中の幸いですが。
信州善光寺三面大黒天像・三宝荒神像補修。
光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海作の木彫についてです。地方紙『信濃毎日新聞』さんから。
光太郎は大杉らのグループに対し、シンパのような立ち位置でした。
ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子はそれを知らなかったのではないかと思われます。
善光寺(長野市)は2日、仁王門内に設置されている三宝荒神像と三面大黒天像の修復を始めた。善光寺事務局によると、両像の修復作業は100年余ぶり。同日は、文化財修復の専門家が像表面に積もったほこりを、はけを使って丁寧に落としていた。
両像は、1919年(大正8)年に彫刻家の高村光雲と弟子の米原雲海が作った木彫り像。仁王門内の東側で守護矢を手に持つ三宝荒神像は、災害から寺や参拝者を守る。同門内の西側にある三面大黒天像には、五穀豊穣(ごこくほうじょう)の願いが込められている。
この日は文化財修復を専門とする藤白彫刻研究所(東京都)の藤曲隆哉代表(43)=東京都=ら5人が三面大黒天像の清掃を進めた。高さ約3・5メートルある像の周辺に組んだ足場を使い、像の頭を黒く染めたほこりを丁寧に払った。
作業は4日まで続き、像の欠落箇所の修復などを予定している。長野市内の大沢真弓さん(79)は「毎朝(像の)お顔を見ている。きれいになってお出迎えしてくれるのが楽しみです」とほほ笑んだ。
記事を読んで「あれっ?」と思いました。たしか10年くらい前にも補修が入っていたような……という気がしまして「100年ぶり」というのに引っかかりを覚えました。
ところが調べたところ、10年前に補修されていたのは善光寺史料館さんで展示されている3分の1スケールの雛形でした。今回のものは仁王門で仁王像の裏側に据えられている完成作です。
画像にある三面大黒天像と対になっている三宝荒神像の方も補修が入り、記事が出たのが12月3日(水)。2日(火)に作業開始で4日(木)には終わるとのことですから、それほど大々的な補修ではないようです。もう既に元の通りに据えられているのではないかと思われます。
気になるのが褪色した彩色ですが、おそらくそれはそのままなのでしょう。彩色にまで手を入れるとなると、その場では不可能でしょうし、3日ばかりで終わるとも思えません。
ちなみに仁王像の方は、最初に制作された際にあえて彩色は施さなかったそうです。
光雲の談話筆記「善光寺仁王尊の製作 参考資料と新しき意企」(大正8年=1919)から。
由来仁王像は大抵着色したものであるが、我々は少しく考ふる処があつて今度は殆ど着色をしなかつた。彩色をしようとしても我々の期待に添ふ丈の立派の着色をして呉れるものゝ無いのが其理由の一つであるが又一方着色が出来たとしても、何十年何百年経過する内には自然彩色は剥落して醜いものとなる。此場合は勢い着色の修理をすると云ふ順序となり、此修理を重ねる場合には、遂に製作当初の価値を失ふ事になるのは明らかな事である。此意味から無彩色の方が此像の存する限りは、製作当初の真価を永劫に伝へる事が出来ると云ふ理由で彩色をしなかつたのである。一体着色すると云ふ事は木の継ぎはぎの無様を隠す事にも利用されたものであるから、彩色をしないと云ふ為には、木地の無様をかくす事が出来ず、従つて醜くない様に仕上げなければならなかつたから、此辺の苦心は着色以上な処があつた。又此仁王には玉眼を入れなかつた。此理由も、要するに無着色の理由と同様である。
なるほど、と思わされました。
しかし、裏側に配した三面大黒天像と三宝荒神像は彩色を行ったわけで、そこの違いがよくわかりませんが。
これらの計4体、令和4年(2022)のご開帳時、に夜間のライトアップ、翌朝に通常の状態とを拝見して以来、見に行っておりません。来年あたりは久々に参拝しようかなと思いました。みなさまもぜひどうぞ。
【折々のことば・智恵子】
われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。
関東大震災直後のドサクサで、アナーキスト大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥の橘橘宗一少年を、憲兵大尉・甘粕正彦らが虐殺した事件に対しての感想です。しごくまっとうな意見ですね。
ところが調べたところ、10年前に補修されていたのは善光寺史料館さんで展示されている3分の1スケールの雛形でした。今回のものは仁王門で仁王像の裏側に据えられている完成作です。
画像にある三面大黒天像と対になっている三宝荒神像の方も補修が入り、記事が出たのが12月3日(水)。2日(火)に作業開始で4日(木)には終わるとのことですから、それほど大々的な補修ではないようです。もう既に元の通りに据えられているのではないかと思われます。
気になるのが褪色した彩色ですが、おそらくそれはそのままなのでしょう。彩色にまで手を入れるとなると、その場では不可能でしょうし、3日ばかりで終わるとも思えません。
ちなみに仁王像の方は、最初に制作された際にあえて彩色は施さなかったそうです。
光雲の談話筆記「善光寺仁王尊の製作 参考資料と新しき意企」(大正8年=1919)から。
由来仁王像は大抵着色したものであるが、我々は少しく考ふる処があつて今度は殆ど着色をしなかつた。彩色をしようとしても我々の期待に添ふ丈の立派の着色をして呉れるものゝ無いのが其理由の一つであるが又一方着色が出来たとしても、何十年何百年経過する内には自然彩色は剥落して醜いものとなる。此場合は勢い着色の修理をすると云ふ順序となり、此修理を重ねる場合には、遂に製作当初の価値を失ふ事になるのは明らかな事である。此意味から無彩色の方が此像の存する限りは、製作当初の真価を永劫に伝へる事が出来ると云ふ理由で彩色をしなかつたのである。一体着色すると云ふ事は木の継ぎはぎの無様を隠す事にも利用されたものであるから、彩色をしないと云ふ為には、木地の無様をかくす事が出来ず、従つて醜くない様に仕上げなければならなかつたから、此辺の苦心は着色以上な処があつた。又此仁王には玉眼を入れなかつた。此理由も、要するに無着色の理由と同様である。
なるほど、と思わされました。
しかし、裏側に配した三面大黒天像と三宝荒神像は彩色を行ったわけで、そこの違いがよくわかりませんが。
これらの計4体、令和4年(2022)のご開帳時、に夜間のライトアップ、翌朝に通常の状態とを拝見して以来、見に行っておりません。来年あたりは久々に参拝しようかなと思いました。みなさまもぜひどうぞ。
【折々のことば・智恵子】
われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。
アンケート「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」より
大正12年(1923) 智恵子38歳
関東大震災直後のドサクサで、アナーキスト大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥の橘橘宗一少年を、憲兵大尉・甘粕正彦らが虐殺した事件に対しての感想です。しごくまっとうな意見ですね。
光太郎は大杉らのグループに対し、シンパのような立ち位置でした。
ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子はそれを知らなかったのではないかと思われます。
福島二本松、JR東北本線安達駅ライトアップ。
智恵子の故郷・福島県の地方紙『福島民友』さん記事。
きらめく安達駅、東西口をライトアップ 二本松、2月1日まで
二本松市のあだち観光協会は1日、安達駅イルミネーション点灯式を行った。2年目の今冬は、新たに智恵子像、折り鶴オブジェの足元を彩るなど発光ダイオード(LED)を2千個増やし、東西口合わせて約8千個が輝きを放っている。点灯は午後4時半~同10時。来年2月1日まで。
駅利用者ににぎわいとぬくもりを届けようと行っている。東口には阿武隈川の流れをイメージした青色のイルミネーションを新設した。
加藤和信会長は「多くの人に楽しんでもらえるよう点灯を昨年より1時間延長した。にぎわい創出へ努めていく」とあいさつした。
JR東北本線安達駅は、二本松市に合併された旧安達町にあり、智恵子生家/智恵子記念館さん最寄り駅です。ただ、徒歩では20分以上かかりますが。
平成28年(2016)に新駅舎が完成、令和3年(2021)には光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家、故・橋本堅太郎氏の最後の作品「今 ここから」が設置されました。これが記事にある「智恵子像」です。
その「今 ここから」もイルミネーションで飾られ、とのこと。上記記事にその画像がありませんでしたが、あだち観光協会さんのX(旧ツィッター)投稿にありましたので、お借りします。
実にエモーショナルですね。
ちなみに折り鶴のモニュメントは駅の改修前からあったもので、こちらも智恵子がらみと言えばそうなのでしょう。智恵子は南品川ゼームス坂病院で紙絵を作り始める前段階として、まずは折り鶴から始めましたので。
日が暮れてからでないと仕方がないので、なかなか見に行けないところですが、お近くの方などはぜひどうぞ。
明日も二本松・智恵子系のネタで。イベント目白押し・怒濤の11月も終わり、ネタが減って参りましたので小出しにします(笑)。
【折々のことば・智恵子】
豊かな自然の嘆美、幸福は芸術から私(わたくし)へくる。その愛と光りは、苦しく寂しい、透徹した情熱です。
恋愛は咲き満ちた花の、殆ど動乱に近いさかんな美を、私の生命に開展(かいてん)した。生命と生命に湧き溢れる浄清(じやうせい)な力と心酔の経験、盛夏のやうなこの幸福。凡ては天然の恩寵です。あゝ恋愛と芸術と、私にはこれを同時にお答へする外しかたがありません。
光太郎と結婚披露を行って約2年後のアンケート回答です。この時期にはまだ自分の将来に無限の可能性が拡がっているという感覚だったのでしょう。やがて一生の仕事と定めた絵画の道が頓挫していくのですが……。
JR東北本線安達駅は、二本松市に合併された旧安達町にあり、智恵子生家/智恵子記念館さん最寄り駅です。ただ、徒歩では20分以上かかりますが。
平成28年(2016)に新駅舎が完成、令和3年(2021)には光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家、故・橋本堅太郎氏の最後の作品「今 ここから」が設置されました。これが記事にある「智恵子像」です。
その「今 ここから」もイルミネーションで飾られ、とのこと。上記記事にその画像がありませんでしたが、あだち観光協会さんのX(旧ツィッター)投稿にありましたので、お借りします。
実にエモーショナルですね。
ちなみに折り鶴のモニュメントは駅の改修前からあったもので、こちらも智恵子がらみと言えばそうなのでしょう。智恵子は南品川ゼームス坂病院で紙絵を作り始める前段階として、まずは折り鶴から始めましたので。
日が暮れてからでないと仕方がないので、なかなか見に行けないところですが、お近くの方などはぜひどうぞ。
明日も二本松・智恵子系のネタで。イベント目白押し・怒濤の11月も終わり、ネタが減って参りましたので小出しにします(笑)。
【折々のことば・智恵子】
豊かな自然の嘆美、幸福は芸術から私(わたくし)へくる。その愛と光りは、苦しく寂しい、透徹した情熱です。
恋愛は咲き満ちた花の、殆ど動乱に近いさかんな美を、私の生命に開展(かいてん)した。生命と生命に湧き溢れる浄清(じやうせい)な力と心酔の経験、盛夏のやうなこの幸福。凡ては天然の恩寵です。あゝ恋愛と芸術と、私にはこれを同時にお答へする外しかたがありません。
アンケート「私の最も幸福と感じた時」全文 大正6年(1917) 智恵子32歳
光太郎と結婚披露を行って約2年後のアンケート回答です。この時期にはまだ自分の将来に無限の可能性が拡がっているという感覚だったのでしょう。やがて一生の仕事と定めた絵画の道が頓挫していくのですが……。
十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~関連。
一昨日、都内港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」関連です。
青森県の地方紙二紙が報道して下さいました。
『東奥日報』さん。
第1部は、十和田奥入瀬観光機構元事務局長の山本隆一さんらが講演。第2部では、有識者が十和田湖の魅力を全国に広めた桂月や「乙女の像」を制作した高村の足跡、日本と米国の国立公園の違いなどについて解説した。
「大町桂月を語る会」事務局長の谷川妙子さんは、桂月が起草した十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願文が、名文として大きな反響を呼んだエピソードに触れ「十和田を愛した桂月は、筆の力で国立公園の候補地に押し上げた」と紹介した。
高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明さんは、乙女の像の制作秘話を披露。作家の佐藤春夫が、当時の津島文治知事に高村を紹介した逸話などを明かした。参加者は、各登壇者の話に興味深そうに耳を傾け、十和田湖の歴史について思いをはせていた。
ゼネラルプロデューサーとしてイベントを統括した山田安秀さん(七戸町出身)は取材に「大町桂月や高村光太郎といった非常に大きな存在が十和田湖に関わっていたことを若い世代に知ってもらい、未来につないでもらえれば将来は明るくなるのではないか」と話した。
続いて、いただいてきた品々をご紹介します。
まずは聴衆の皆さんにも配られた配付資料で、トークイベントの際に登壇された谷川妙子氏率いる「大町桂月を語る会」さん作製の2種。
A4判両面印刷二つ折りの桂月紹介リーフレット。
随所で光太郎や「乙女の像」にも触れて下さっています。
A2判両面印刷の「「奥羽一周記」現代訳マップ」。
桂月が最初に雑誌『太陽』で十和田湖を紹介した明治41年(1908)の旅の記録です。
広げると、こんな感じ。
これらは今回のイベントのために作られたのではなく、さまざまなところで活用されているのでしょう。
「乙女の像」制作の際、光太郎の助手を務めてくれた野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二子息の竜氏からは、図録を2冊戴いてしまいました。
まず、お父さまのカタログ・レゾンネ(作品集)。昭和59年(1984)、日動画廊さんでの個展開催にあわせての発行でした。

竜氏、お父さまは小坂圭二ですが、母方のお祖父様は、画家の夏目利政(明26=1893~昭43=1968)ということで、平成9年(1997)に青梅市立美術館さんで開催された「夏目利政展」の図録も。
夏目の画業は日本画からのスタートでしたが、のちに油彩画に転じています。小坂圭二同様、作品群画像をまとめて見たのは初めてで、これも驚嘆すべきものでした。
そして夏目利政と言えば、光太郎を知る前の智恵子が、利政の父・音作(象牙彫刻師だったとのこと)の家に下宿をしていたことでも知られています。明治40年(1907)に日本女子大学校を卒業した智恵子は、卒業生用の楓寮に入寮していましたが、同42年(1909)、楓寮が閉鎖となりました。おそらくその直後は寮近くの女子大学校の先輩だった永野初枝宅に一時的に厄介になったようですが、同じく女子大学校の同級生だった幡ナツ(旧姓・小松)が夫の英二と共に住んでいた本郷区動坂町(現・文京区本駒込)の夏目宅を紹介してくれたとのこと。同44年(1911)春まで、智恵子はここに住んでいたようです。
下は夏目家で撮られたショット。
残念ながら写っていませんが、この時、数え16歳で既に日本画を描いていた利政もその家に暮らしていました。利政は智恵子が描く油彩画に興味を示し、智恵子もいろいろアドバイスをしたそうです。
下って昭和20年(1945)、利政は岩手県胆沢郡真城村(現・水沢市)に疎開。その後、光太郎も花巻の宮沢賢治実家に疎開。その宮沢家も終戦5日前の花巻空襲で全焼し、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に転がり込んでいた光太郎の元に、利政がやってきます。どういう伝手(つて)だか、利政を案内したのは賢治実弟の清六でした。
昭和20年(1945)9月1日の光太郎日記の一節。
訪問客、清六さんが夏目利政氏佐々木さんといふケイオウ生徒をつれてくる、夏目氏は智恵子が止宿し居れる頃の事を話しくれる。その為水沢より来訪し来れるなり。
その後も9月25日には宮沢家で利政と会っています。
さらに下って昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で「智恵子切抜絵展」が1日だけ開催されましたが、その際に尽力したのが、智恵子紙絵の3分の1ほどを預かっていた花巻病院長・佐藤隆房と利政でした。パンフレット(ガリ版)を利政が制作、さらに記憶にある智恵子と、おそらくこんな感じだったろうという南品川ゼームス坂病院での紙絵制作中の智恵子を描いたカットを載せ、12ページにわたり智恵子についての思い出等を執筆しています。
このパンフレットについては小坂竜氏、ご存じなかったそうで、これからコピーのコピーを取ってお送りする予定です。
続いて、上記『デーリー東北』さん記事にもお名前が挙げられている山本隆一氏からいただいたのがこちら。
十和田市の相馬菓子舗さんで販売されている「十和田アップルケーキ」。リンゴの果肉を練り込んだずしりと重いパウンドケーキです。スポンジのしっとり感と当方大好物のリンゴのシャキシャキした歯触りのバランスが絶妙でした。箱に「乙女の像」をあしらっていただき、ありがたい限りです。ロゴの昭和感もたまりません(笑)。
そんなこんなで、いろいろといただけてそれもありがたいうえに、また各方面に人脈を拡げることもでき、実に有意義でした。
関係の皆様の今後のますますのご活躍と、十和田湖の発展を切に祈念いたします。
【折々のことば・智恵子】
さまざまな時代に、まことの芸術家達が、それぞれ自身の生命を掘り下げて行つた。その作品は、いきていまも、私達の前に息づく、それ等のものは、魂をめざめさせる、恰も自然が私達をめぐむ恵のやうに、清らかに力強く、押迫つて透徹する、私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、又は崇拝してゐる。
素晴らしい作品を残した先人へのリスペクトは大切なことですね。
こう語っていた智恵子自身、「紙絵」で、後代の人々から「思慕」や「尊敬」、「いきていまも、私達の前に息づく」という感覚を得る事が出来ています。しかし、その「紙絵」が心を病んでからのものだったことは残念と言えば残念です。

『東奥日報』さん。
十和田湖や奥入瀬渓流を愛し、その名を全国に広めた高知県出身の文人・大町桂月(1869〜1925年)が蔦温泉で没して100年。今や青森県を代表する観光地となった十和田湖の未来を語るフォーラムが30日、東京都港区の赤坂区民センターで開かれた。パネリストらは大町の功績を振り返りつつ、自然、歴史、文化、観光などの視点からその価値をいかに継承していくか意見を出し合った。
大町は、請願文を起草するなど十和田湖周辺の国立公園化に尽力した。「大町桂月を語る会」の谷川妙子事務局長は「美文で固められた請願文は大きな反響があった。筆の力で候補地に押し上げた」と説明した。
大町らの功績をたたえる顕彰碑は詩人・彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が制作、今は「乙女の像」として知られる。「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」の小山弘明代表は碑の制作経緯などを解説した。
フォーラムには大町のひ孫に当たる大町芳通さん(69)も出席し、「桂月の愛した十和田の素晴らしい自然が活用され、地元がもっと発展するよう祈っています」と謝辞を述べた。
東京青森県人会が主催、約70人が参加した。運営に当たった七戸町出身の山田安秀さんは「大町ら偉人たちが築いた土台を再認識することで、新しい未来をつくるための自信につなげたい」と話した。
『デーリー東北』さん。東京青森県人会は30日、十和田湖について考えるフォーラムを東京都内で開いた。参加者約70人が、十和田湖に縁が深い文人の大町桂月や彫刻家の高村光太郎の歩みなどに理解を深め、多角的な視点から青森を代表する景勝地の歴史的価値を再発見した。
第1部は、十和田奥入瀬観光機構元事務局長の山本隆一さんらが講演。第2部では、有識者が十和田湖の魅力を全国に広めた桂月や「乙女の像」を制作した高村の足跡、日本と米国の国立公園の違いなどについて解説した。
「大町桂月を語る会」事務局長の谷川妙子さんは、桂月が起草した十和田湖を中心とする国立公園設置に関する請願文が、名文として大きな反響を呼んだエピソードに触れ「十和田を愛した桂月は、筆の力で国立公園の候補地に押し上げた」と紹介した。
高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明さんは、乙女の像の制作秘話を披露。作家の佐藤春夫が、当時の津島文治知事に高村を紹介した逸話などを明かした。参加者は、各登壇者の話に興味深そうに耳を傾け、十和田湖の歴史について思いをはせていた。
ゼネラルプロデューサーとしてイベントを統括した山田安秀さん(七戸町出身)は取材に「大町桂月や高村光太郎といった非常に大きな存在が十和田湖に関わっていたことを若い世代に知ってもらい、未来につないでもらえれば将来は明るくなるのではないか」と話した。

まずは聴衆の皆さんにも配られた配付資料で、トークイベントの際に登壇された谷川妙子氏率いる「大町桂月を語る会」さん作製の2種。
A4判両面印刷二つ折りの桂月紹介リーフレット。
随所で光太郎や「乙女の像」にも触れて下さっています。
A2判両面印刷の「「奥羽一周記」現代訳マップ」。
桂月が最初に雑誌『太陽』で十和田湖を紹介した明治41年(1908)の旅の記録です。
広げると、こんな感じ。
これらは今回のイベントのために作られたのではなく、さまざまなところで活用されているのでしょう。
「乙女の像」制作の際、光太郎の助手を務めてくれた野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二子息の竜氏からは、図録を2冊戴いてしまいました。
まず、お父さまのカタログ・レゾンネ(作品集)。昭和59年(1984)、日動画廊さんでの個展開催にあわせての発行でした。

他の作家の作品とともに画像が収められている図録は手元にありましたが、まとめて拝見したのは初めてで、実に興味深いものでした。やはり光太郎のDNAを感じますし、キリスト教の洗礼を受けての作品などには、同じく光太郎の世界観を受け継いだ舟越保武にも通じるような。
竜氏、お父さまは小坂圭二ですが、母方のお祖父様は、画家の夏目利政(明26=1893~昭43=1968)ということで、平成9年(1997)に青梅市立美術館さんで開催された「夏目利政展」の図録も。

そして夏目利政と言えば、光太郎を知る前の智恵子が、利政の父・音作(象牙彫刻師だったとのこと)の家に下宿をしていたことでも知られています。明治40年(1907)に日本女子大学校を卒業した智恵子は、卒業生用の楓寮に入寮していましたが、同42年(1909)、楓寮が閉鎖となりました。おそらくその直後は寮近くの女子大学校の先輩だった永野初枝宅に一時的に厄介になったようですが、同じく女子大学校の同級生だった幡ナツ(旧姓・小松)が夫の英二と共に住んでいた本郷区動坂町(現・文京区本駒込)の夏目宅を紹介してくれたとのこと。同44年(1911)春まで、智恵子はここに住んでいたようです。
下は夏目家で撮られたショット。
残念ながら写っていませんが、この時、数え16歳で既に日本画を描いていた利政もその家に暮らしていました。利政は智恵子が描く油彩画に興味を示し、智恵子もいろいろアドバイスをしたそうです。
下って昭和20年(1945)、利政は岩手県胆沢郡真城村(現・水沢市)に疎開。その後、光太郎も花巻の宮沢賢治実家に疎開。その宮沢家も終戦5日前の花巻空襲で全焼し、旧制花巻中学校の元校長・佐藤昌宅に転がり込んでいた光太郎の元に、利政がやってきます。どういう伝手(つて)だか、利政を案内したのは賢治実弟の清六でした。
昭和20年(1945)9月1日の光太郎日記の一節。
訪問客、清六さんが夏目利政氏佐々木さんといふケイオウ生徒をつれてくる、夏目氏は智恵子が止宿し居れる頃の事を話しくれる。その為水沢より来訪し来れるなり。
その後も9月25日には宮沢家で利政と会っています。
さらに下って昭和25年(1950)11月、当時の水沢町公民館で「智恵子切抜絵展」が1日だけ開催されましたが、その際に尽力したのが、智恵子紙絵の3分の1ほどを預かっていた花巻病院長・佐藤隆房と利政でした。パンフレット(ガリ版)を利政が制作、さらに記憶にある智恵子と、おそらくこんな感じだったろうという南品川ゼームス坂病院での紙絵制作中の智恵子を描いたカットを載せ、12ページにわたり智恵子についての思い出等を執筆しています。

続いて、上記『デーリー東北』さん記事にもお名前が挙げられている山本隆一氏からいただいたのがこちら。
十和田市の相馬菓子舗さんで販売されている「十和田アップルケーキ」。リンゴの果肉を練り込んだずしりと重いパウンドケーキです。スポンジのしっとり感と当方大好物のリンゴのシャキシャキした歯触りのバランスが絶妙でした。箱に「乙女の像」をあしらっていただき、ありがたい限りです。ロゴの昭和感もたまりません(笑)。
そんなこんなで、いろいろといただけてそれもありがたいうえに、また各方面に人脈を拡げることもでき、実に有意義でした。
関係の皆様の今後のますますのご活躍と、十和田湖の発展を切に祈念いたします。
【折々のことば・智恵子】
さまざまな時代に、まことの芸術家達が、それぞれ自身の生命を掘り下げて行つた。その作品は、いきていまも、私達の前に息づく、それ等のものは、魂をめざめさせる、恰も自然が私達をめぐむ恵のやうに、清らかに力強く、押迫つて透徹する、私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、又は崇拝してゐる。
散文「女流作家の美術観」より 大正5年(1916) 智恵子31歳
素晴らしい作品を残した先人へのリスペクトは大切なことですね。
こう語っていた智恵子自身、「紙絵」で、後代の人々から「思慕」や「尊敬」、「いきていまも、私達の前に息づく」という感覚を得る事が出来ています。しかし、その「紙絵」が心を病んでからのものだったことは残念と言えば残念です。
十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~レポート。
昨日は港区で開催された東京青森県人会さん主催の「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」に出演しておりました。
明治期に十和田湖の景勝美を広く世に紹介し、国立公園指定の礎を築いた大町桂月没後100年を記念してのもので、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が、元々は国立公園指定15周年、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰するモニュメントであることから、当方にも「乙女の像」についてしゃべれという依頼があった次第です。
会場は赤坂見附の赤坂区民センターさん。
当方も出演させていただいたトークイベントは3階ホールで14:15からでしたが、その前に13:00から4階会議室で展示品の公開が行われました。
桂月の書幅。
十和田湖を紹介した桂月の紀行文「奥羽一周記」が載った『太陽』(明治41年=1908)。
桂月没後に、光太郎の姉貴分・与謝野晶子が桂月をモチーフに詠んだ歌の幅。
桂月は晶子の「君死に給ふこと勿れ」(明治37年=1904)を痛烈に批判しましたが、論争が終われば遺恨はさらりと流し、晶子は桂月を偲ぶ歌を詠んだりもしたわけです。
この幅は大阪堺の与謝野晶子記念館さんからお借りしたものだそうですが、こちらが展示されるという情報は事前に得ていませんでしたので驚きました。ちなみに会場に入って数㍍先に下がっているこれを見た瞬間にキャプションを見ずとも「あ、晶子だ!」とわかりまして、自分を褒めたくなりました(笑)。まぁそれほど独特な筆跡だからなのですが。
そして、光太郎作の「大町桂月メダル」。「乙女の像」除幕式(昭和28年=1953)に際し150個が鋳造され、関係者に配付されたもので、光太郎最後の完成作となったものです。
14:15、3階ホールでトークイベント開幕。
2部構成で、第1部は4人の方々がお一人ずつ十和田湖や桂月、光太郎などについて語られました。
明治期に十和田湖の景勝美を広く世に紹介し、国立公園指定の礎を築いた大町桂月没後100年を記念してのもので、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が、元々は国立公園指定15周年、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰するモニュメントであることから、当方にも「乙女の像」についてしゃべれという依頼があった次第です。
会場は赤坂見附の赤坂区民センターさん。
当方も出演させていただいたトークイベントは3階ホールで14:15からでしたが、その前に13:00から4階会議室で展示品の公開が行われました。
桂月の書幅。
十和田湖を紹介した桂月の紀行文「奥羽一周記」が載った『太陽』(明治41年=1908)。
桂月没後に、光太郎の姉貴分・与謝野晶子が桂月をモチーフに詠んだ歌の幅。
桂月は晶子の「君死に給ふこと勿れ」(明治37年=1904)を痛烈に批判しましたが、論争が終われば遺恨はさらりと流し、晶子は桂月を偲ぶ歌を詠んだりもしたわけです。
この幅は大阪堺の与謝野晶子記念館さんからお借りしたものだそうですが、こちらが展示されるという情報は事前に得ていませんでしたので驚きました。ちなみに会場に入って数㍍先に下がっているこれを見た瞬間にキャプションを見ずとも「あ、晶子だ!」とわかりまして、自分を褒めたくなりました(笑)。まぁそれほど独特な筆跡だからなのですが。
そして、光太郎作の「大町桂月メダル」。「乙女の像」除幕式(昭和28年=1953)に際し150個が鋳造され、関係者に配付されたもので、光太郎最後の完成作となったものです。
14:15、3階ホールでトークイベント開幕。
2部構成で、第1部は4人の方々がお一人ずつ十和田湖や桂月、光太郎などについて語られました。
トップバッターは環境省自然環境局国立公園課長の長田啓氏。そもそもの国立公園というシステムについてや、十和田湖畔の事務所で勤務されていた際のお話、十和田湖周辺の現状など。続いて十和田市議・中尾利香氏。ご実家が桂月と交流がおありだったそうで。
お三方め、山本隆一氏。現在の肩書きは「十和田湖畔乙女の像研究会代表」とのことですが、定年退職される前は十和田市役所や十和田奥入瀬観光機構にお勤めで、『十和田湖乙女の像のものがたり』の刊行や「十和田湖観光交流センターぷらっと」での展示などなどで十数年来お世話になっている方です。最後にお会いしたのが令和4年(2022)の1月で、久闊を叙させていただきました。
ちなみに上記画像のQRコード、詳細な資料へのリンクとなっていますので、御覧下さい。スマホで読み取ってそちらで見るか、PCに転送するかですね。
第1部最後はインテリアデザイナーの小坂竜氏。「乙女の像」制作に際し光太郎の助手を務めた彫刻家・小坂圭二(野辺地町出身)の子息です。
ちなみに上記画像のQRコード、詳細な資料へのリンクとなっていますので、御覧下さい。スマホで読み取ってそちらで見るか、PCに転送するかですね。
第1部最後はインテリアデザイナーの小坂竜氏。「乙女の像」制作に際し光太郎の助手を務めた彫刻家・小坂圭二(野辺地町出身)の子息です。
右上画像は「乙女の像」除幕式(昭和28年=1953)の際の記録動画の一コマ。光太郎の背後で光太郎と佐藤春夫(光太郎と青森県の仲介役でした)に傘を差し掛けているのが父君です。ここに父君が映っていたというのは当方も気がついていませんでした。
休憩後、第二部。
第一部に引き続き長田氏、十和田市の「大町桂月を語る会」谷川妙子事務局長、桂月の故郷・高知で桂月の名を冠した日本酒を製造販売されている土佐酒造代表取締役・松本宗己氏、米国ご出身で比較文化研究家のシエナ・ラッチ・デイリー氏、そして当方が登壇。モデレータで主催団体の山田安秀氏の進行でした。当方は「乙女の像」について語らせていただいたのですが、何せ時間が短く、意を尽くし得ませんでした。平成29年(2017)には十和田市でたっぷり時間をいただいて講演をすることができましたが、またそうした機会がどこかであれば、と祈念いたしております。
当方、桂月や国立公園のシステムなどについてはそれほど詳しいわけではありませんでしたので、谷川氏、松本氏の桂月がらみのお話、シエナ氏によるアメリカのnational parkと日本の国立公園の相違など、こちらも興味深いかぎりでした。
最後に桂月令曾孫の大町芳通氏による謝辞。
いずれYoutubeでイベントの模様がアップされるそうですので、またその際にはお伝えいたします。
閉幕後は、近くの中華料理店で懇親会。この際には小坂氏や、芳通氏とは別の桂月令曾孫と同じテープルに着かせていただき、またいろいろな話で盛り上がりました。
さらに小坂氏からは貴重な書籍をいただいてしまいました。山本氏にいただいたものやイベントの配付資料ともども、明日ご紹介いたします。
十和田湖、それから同一地域といえる奥入瀬渓流や蔦温泉、旅行ブームの最盛期と比較すると人出はかなり減ったとのこと。さらに近年はコロナ禍が追い打ちをかけました。しかしその後回復傾向にあり、また、長田氏のお話では、周辺の廃墟と化したエリアの整備も少しずつ進んでいるとのこと。皆様方にはぜひ現地に足をお運びになり、「乙女の像」を御覧いただきたいものです。
ちなみにイベント前日の一昨日、NHK Eテレさんで全国放映された「東北ココから 鈴木京香の東北オトナ旅 青森県十和田市編」、NHK ONEさんで配信されています。併せて御覧下さい。
【折々のことば・智恵子】
少なくも自己といふものに思ひ至りし程のものならば田子作のおかみさんも行き当り申すべき新旧思想の衝突に候。
智恵子が唯一『青鞜』に寄せた文章の一節です。幸い、この号を入手することができました。表紙は前年の創刊号と同じ、智恵子によるもの(ウイーン分離派の画家、ヨーゼフ・エンゲルハルト作品の模写)です。
「マグダ」はズーダーマン作、島村抱月が翻訳した脚本で、松井須磨子主演、文芸協会の第3回公演として有楽座で上演されました。オペラ歌手・マグダがかつて自分と子供を捨てた男に復縁を迫られ、「家の名誉」的な発想でマグダの父親がマグダに復縁か死か、どちらかを選べと迫るというストーリー。結局、マグダはどちらも拒否します。この内容が「風紀紊乱」ということで、内務省から上演禁止の警告。抱月は終末部分を公演中に改変して上演継続の許可を取りつけました。
制作サイドは自立した新しい女性を描く意図でしたが、この程度の選択はごくあたりまえのこと(「田子作のおかみ」云々)に過ぎない、と、智恵子。さらにこの程度で上演禁止とは何事か、という意図も見え隠れします。
休憩後、第二部。
第一部に引き続き長田氏、十和田市の「大町桂月を語る会」谷川妙子事務局長、桂月の故郷・高知で桂月の名を冠した日本酒を製造販売されている土佐酒造代表取締役・松本宗己氏、米国ご出身で比較文化研究家のシエナ・ラッチ・デイリー氏、そして当方が登壇。モデレータで主催団体の山田安秀氏の進行でした。当方は「乙女の像」について語らせていただいたのですが、何せ時間が短く、意を尽くし得ませんでした。平成29年(2017)には十和田市でたっぷり時間をいただいて講演をすることができましたが、またそうした機会がどこかであれば、と祈念いたしております。
当方、桂月や国立公園のシステムなどについてはそれほど詳しいわけではありませんでしたので、谷川氏、松本氏の桂月がらみのお話、シエナ氏によるアメリカのnational parkと日本の国立公園の相違など、こちらも興味深いかぎりでした。
最後に桂月令曾孫の大町芳通氏による謝辞。
いずれYoutubeでイベントの模様がアップされるそうですので、またその際にはお伝えいたします。
閉幕後は、近くの中華料理店で懇親会。この際には小坂氏や、芳通氏とは別の桂月令曾孫と同じテープルに着かせていただき、またいろいろな話で盛り上がりました。
さらに小坂氏からは貴重な書籍をいただいてしまいました。山本氏にいただいたものやイベントの配付資料ともども、明日ご紹介いたします。
十和田湖、それから同一地域といえる奥入瀬渓流や蔦温泉、旅行ブームの最盛期と比較すると人出はかなり減ったとのこと。さらに近年はコロナ禍が追い打ちをかけました。しかしその後回復傾向にあり、また、長田氏のお話では、周辺の廃墟と化したエリアの整備も少しずつ進んでいるとのこと。皆様方にはぜひ現地に足をお運びになり、「乙女の像」を御覧いただきたいものです。
ちなみにイベント前日の一昨日、NHK Eテレさんで全国放映された「東北ココから 鈴木京香の東北オトナ旅 青森県十和田市編」、NHK ONEさんで配信されています。併せて御覧下さい。
【折々のことば・智恵子】
少なくも自己といふものに思ひ至りし程のものならば田子作のおかみさんも行き当り申すべき新旧思想の衝突に候。
散文「マグダに就て」 明治45年(1912) 智恵子27歳
智恵子が唯一『青鞜』に寄せた文章の一節です。幸い、この号を入手することができました。表紙は前年の創刊号と同じ、智恵子によるもの(ウイーン分離派の画家、ヨーゼフ・エンゲルハルト作品の模写)です。
「マグダ」はズーダーマン作、島村抱月が翻訳した脚本で、松井須磨子主演、文芸協会の第3回公演として有楽座で上演されました。オペラ歌手・マグダがかつて自分と子供を捨てた男に復縁を迫られ、「家の名誉」的な発想でマグダの父親がマグダに復縁か死か、どちらかを選べと迫るというストーリー。結局、マグダはどちらも拒否します。この内容が「風紀紊乱」ということで、内務省から上演禁止の警告。抱月は終末部分を公演中に改変して上演継続の許可を取りつけました。
制作サイドは自立した新しい女性を描く意図でしたが、この程度の選択はごくあたりまえのこと(「田子作のおかみ」云々)に過ぎない、と、智恵子。さらにこの程度で上演禁止とは何事か、という意図も見え隠れします。
Art Space癒心庵「日本の工芸品展」 高村光雲「鯉」。
本日から開始、京都の画廊での展示情報です。
期 日 : 2025年11月28日(金)~12月23日(火)の火、金曜日
会 場 : Art Space癒心庵 京都府長岡京市今里畔町24-8
時 間 : 10:00〜15:30 午前、午後各1組4名様まで完全予約制
休 館 : 毎週火、金曜日以外
料 金 : 無料
Art Space 「癒心庵」は京都府長岡京市岡村医院 腎•泌尿器科クリニック南側にございます。
患者様にも楽しんで頂けますよう、貴重な美術品を、不定期に開催し展示しています。
美術品をごゆっくりご覧頂けるようコンパクトに設計された空間で、作品のファンの方から、初めてご覧になる方までお気軽に楽しんでいただける癒しのArt Spaceとなっております。お気軽にご来館お待ちしております。
癒心庵の展示は浮世絵版画、新版画、漆芸、陶磁器 (西洋陶磁器、日本陶磁器)、絵画、ガラス工芸等、幅広いジャンルの美術品を期間ごとに展示いたしております。料金は無料。ご来館いただける方々の心の癒しになればと願い、貴重な美術品を展示しています。
当館は多くの方々、特に普段気軽に美術館に出向く事が困難な高齢者や要介護者等の方々に心休まる一時、心躍る一時を感じて頂ける事を目的といたしております。
当館では一時間帯一組(一組3名程度まで) のみですので 、 気兼ねなくゆっくりとご鑑賞いただけます。
展示は年間 6テーマを2ケ月間隔で開催いたしております。
また作品を単に展示するのみではなく、スタッフが詳細に作品の説明を行い、出来るだけ有意義な一時を過ごしていただき、皆様にとって心豊かな時間となりますようようご体験いただければ幸いです。
美術品の展示によって、作品に対する興味、理解 等を深めていただく事が、さらなる文化の普及と美の創造に真献できるものと信じております。
展示室では、主として江戸期から現代までの様々なジャンルの美術品を展示しており、その美しさや歴史的価値を伝えています。
患者様の心の癒しになれるよう、ご来場は無料。
幅広い年齢層の方々に、芸術の素晴らしさを伝えることができます。また、初めてアートに触れる方々にとっても、アートの世界を探求することができる貴重な場所です。
美術に興味がある方はもちろん、初めて美術館に足を運ぶ方も楽しめるような展示を心がけていますので、ぜひお越しください。
癒心庵さんのinstagram投稿から情報を得ました。光太郎の父・光雲作の木彫「鯉」が出品されるとのこと。一見して見事な造りですね。
ほぼ同一と思われる作が、山梨県の嘯月美術館さんに所蔵されていて、平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。
また、京都の清水三年坂美術館さんには、鯉に乗った琴高(きんこう)仙人像が所蔵されています。
さらに鯉というと端午の節句の関係での注文が多かったようで、鯉のぼりをあしらったレリーフも複数例確認出来ています。
光太郎も鯉の木彫のチャレンジしました。新潟の素封家・松木喜之七の依頼で、やはり端午の節句がらみだったようです。
癒心庵さんのinstagram投稿から情報を得ました。光太郎の父・光雲作の木彫「鯉」が出品されるとのこと。一見して見事な造りですね。
ほぼ同一と思われる作が、山梨県の嘯月美術館さんに所蔵されていて、平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。
また、京都の清水三年坂美術館さんには、鯉に乗った琴高(きんこう)仙人像が所蔵されています。
さらに鯉というと端午の節句の関係での注文が多かったようで、鯉のぼりをあしらったレリーフも複数例確認出来ています。
光太郎も鯉の木彫のチャレンジしました。新潟の素封家・松木喜之七の依頼で、やはり端午の節句がらみだったようです。
ところが結局、光太郎の鯉は完成しませんでした。鱗の処理が難しいというのがその理由でした。右上は光雲の「琴高仙人像」の鱗ですが、こういういわばお約束的な様式化はやりたくない、しかしリアルな鱗を彫ろうとしてもどうもうまくゆかない、ということでした。
閑話休題、癒心庵さんでの光雲「鯉」、ぜひ足をお運びになってご覧下さい。他にフライヤーでは 前史雄、葉山有樹、宍戸濤雲の作が紹介されていますし、ハッシュタグには板谷波山、松田権六らの名もありました。
【折々のことば・光太郎】
彼は光と陰とを彫刻した。炎の教訓の前に熱狂した。
ロダンもそうですし、光太郎、そして光雲にも、彫刻は「業(ごう)」のようなものだった気がします。
閑話休題、癒心庵さんでの光雲「鯉」、ぜひ足をお運びになってご覧下さい。他にフライヤーでは 前史雄、葉山有樹、宍戸濤雲の作が紹介されていますし、ハッシュタグには板谷波山、松田権六らの名もありました。
【折々のことば・光太郎】
彼は光と陰とを彫刻した。炎の教訓の前に熱狂した。
光太郎訳 マルセル チレル「ロダンのモデエル達」より
大正12年(1920)訳 光太郎41歳
ロダンもそうですし、光太郎、そして光雲にも、彫刻は「業(ごう)」のようなものだった気がします。
「藝大取手コレクション展 2025」報道。
東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催中の「藝大取手コレクション展 2025」につき、地元紙『茨城新聞』さんが光太郎の名を出して報道して下さいました。
東京芸術大の大学美術館取手館(茨城県取手市小文間)の多目的ホールで30日まで、収蔵作品を展示する「藝大取手コレクション展2025」が開かれている。卒業制作や資料など約50点が並ぶ。隣に新収蔵棟が完成し、保管スペース不足が解消されたことで実現した。同大と市が主催した。
1994年に開館した取手館は開学当初からの卒業生の自画像はじめ、優秀な卒業制作など大学買い上げの作品や資料などを収蔵している。だが、保管場所が不足し、展示を想定した多目的ホールも収蔵品で埋まり、一般公開がほとんどできなかった。渡り廊下で結ぶ新収蔵棟が昨年完成してスペースが広がり、取手館の30周年も記念して今回の展示が実現した。
取手館で収蔵する約1万3000件の中から厳選した作品を公開している。自画像約7000件のうち、明治から現在までの24点をはじめ、卒業・修了作品の絵や造形、先端芸術をそろえる。同大前身の東京美術学校の校長だった岡倉天心使用の椅子や高村光太郎の彫刻などの資料も見ることができる。
大内伸輔特任准教授は「これまでなかなか公開できなかった貴重なコレクションを見てほしい」と話す。
観覧無料。時間は午前10時から午後5時まで(入館は午後4時半まで)。25日は休館。
画像も上げていただいた光太郎作品は、明治35年(1902)の彫刻科卒業制作「獅子吼」石膏原型。腕まくりをして憤然と立つ日蓮をモチーフとしています。調べてみましたところ、取手キャンパスの収蔵棟は主に卒業制作を保管しているということで、まさにその対象でした。
ところで同展につき最初にご紹介した際、うっかり関連行事について書き忘れていたことに気づきました。すでに予約で一杯かもしれませんが、一応ご紹介しておきます。
我々日本人の多くは欧米の人々のようにキリスト教への篤い信仰というようなバックボーンを持ちませんが、決して「美」を忘却した民族ではないと思います。個々が宗教心を強く持たなくとも、身近に鎮守の杜やちょっとしたお堂などがあったりする環境が、民族全体として敬虔な心持ちを保っているように思われます。

ところで同展につき最初にご紹介した際、うっかり関連行事について書き忘れていたことに気づきました。すでに予約で一杯かもしれませんが、一応ご紹介しておきます。
藝大コレクションの作品を囲み、アート・コミュニケータ「トリばァ」とともに参加者同士の自由な対話を通じて、作品の持つ新たな魅力や、ご自身の内面にある気づきを発見する、豊かな鑑賞体験をお届けします。どうぞお気軽にご参加ください。
日時 11月29日(土)11:00-12:00・14:00-15:00 11月30日(日)11:00-12:00・14:00-15:00
会場 東京藝術大学大学美術館取手館 多目的ホール
各回 定員12名
※以下のサイトより事前予約が必要です。
アクセス 東京藝術大学取手キャンパス大学美術館取手館(茨城県取手市小文間5000)
JR常磐線・関東鉄道常総線取手駅東口前2番乗り場から大利根交通バスで約15分、
「東京藝術大学」または「東京芸大前」下車 徒歩5分
我々日本人の多くは欧米の人々のようにキリスト教への篤い信仰というようなバックボーンを持ちませんが、決して「美」を忘却した民族ではないと思います。個々が宗教心を強く持たなくとも、身近に鎮守の杜やちょっとしたお堂などがあったりする環境が、民族全体として敬虔な心持ちを保っているように思われます。
新聞各紙より 「老猿」「冬が来た」「乙女の像」。
4件ご紹介します。
まず、石川県立美術館さん他で開催中の「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」について、地元紙『北国新聞』さん。
まず、石川県立美術館さん他で開催中の「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」について、地元紙『北国新聞』さん。
●県立美術館など3会場で順次
東京の美術館や博物館の名品が金沢に集結する特別展「ひと、能登、アート。」(北國新聞社共催)は15日、石川県立美術館で開幕した。東京国立博物館(東博)をはじめ、約30の文化施設や個人が所有する国宝、重要文化財(重文)など86点が、金沢市内3会場で展示される。県立美術館では43点が並び、来場者は教科書で目にするほど著名な文化財の「オールスター」を心ゆくまで鑑賞した。
同展は県、金沢市、東博などが来年3月1日まで主催し、県立美術館、国立工芸館、金沢21世紀美術館で順次、名品を並べる。3館合同の展覧会は初めて。
重文に指定されている高村光雲の彫刻「老猿」は、オオワシと格闘した後の気迫に満ちたサルの姿を表現している。大正天皇のご成婚25周年を祝い献上された平福百穂(ひゃくすい)の屏風「丹鶴青瀾(たんかくせいらん)」は青い波と金泥が織りなすダイナミックな背景に、夫婦円満や長寿を象徴する鶴が対照的に描かれている。
このほか、七尾生まれの画聖・長谷川等伯の重文「牧馬図屏風(ぼくばずびょうぶ)」と「烏鷺図(うろず)屏風」、高い人気を誇る江戸時代中期の絵師伊藤若冲の「松梅孤鶴図(しょうばいこかくず)」、菱川師宣の「見返り美人図」なども来場者の注目を集めた。
●知事「オールスター」
開会式では、馳浩知事があいさつで今回の特別展を「美術・工芸・博物館のオールスター戦」とたとえ、「石川にはアートの底力がある。県民の湧き上がる力をもっと応援していきたい」と語った。東博の藤原誠館長、北國新聞社の小中寿一郎社長もあいさつした。
会期は県立美術館が12月21日まで、国立工芸館が12月9日〜来年3月1日、金沢21世紀美術館が12月13日〜来年3月1日となる。入場料は一般千円、大学生800円、高校生以下無料。昨年の能登半島地震と豪雨の復興支援を目的としており、内灘町以北の住民のほか、被災後に能登から移住した人は無料となる。
同じ件で『朝日新聞』さん石川版。
同じ件で『朝日新聞』さん石川版。
2024年の能登半島地震や奥能登豪雨で被災した地域と人々を励まそうと、東京を中心とする美術館・博物館などの文化財を、金沢市内で展示する「ひと、能登、アート。」(朝日新聞社など後援)が15日、始まった。
東京国立博物館が呼びかけ、約30の美術館・博物館や個人などが所有する文化財計86件を、金沢の3館に分けて展示する。15日に開幕した石川県立美術館(12月21日まで)では、室町時代の雪舟等楊(とうよう)による国宝の水墨画「秋冬山水図」をはじめ、重要文化財では江戸時代の尾形光琳の「風神雷神図屛風(びょうぶ)」、明治時代の高村光雲の「老猿」、黒田清輝の「湖畔」など、教科書でも取り上げられるような名作40件あまりが展示されている。
野々市市から夫婦で訪れた主婦の高田みどりさん(51)は「有名な作品を直接見ることができて感激した」と話す。「被災された方も、作品を見て前向きな気持になってもらいたい」
金沢21世紀美術館(12月13日~2026年3月1日)では、ルノワールやルソーといった西洋の名画など15件が展示される予定。国立工芸館(12月9日~26年3月1日)では30件近くが出展され、重要文化財の遮光器土偶のほか、国宝の「秋草文壺(あきくさもんつぼ)」など工芸品が中心となる見込み。
問い合わせは県文化振興課(076・225・1371)へ。
続いて、少し前ですが『毎日新聞』さん北九州版。読者の方の投稿欄のようです。
まだ11月ですが、たしかにもう冬が来た感がいっぱいですね。秋はどこへ行ってしまったんだ? と思わされます。
光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)、この時期のコラム等にはよく取り上げられます。
最後に『朝日新聞』さん青森版。
宮城県出身の俳優・鈴木京香さんが、改めて東北の魅力を再発見してみようというNHKの紀行番組「鈴木京香の東北オトナ旅」。今回の「青森県十和田市編」は8月にパイロット版の30分で放送され、10月には43分の完全版として放送された。
金沢21世紀美術館(12月13日~2026年3月1日)では、ルノワールやルソーといった西洋の名画など15件が展示される予定。国立工芸館(12月9日~26年3月1日)では30件近くが出展され、重要文化財の遮光器土偶のほか、国宝の「秋草文壺(あきくさもんつぼ)」など工芸品が中心となる見込み。
問い合わせは県文化振興課(076・225・1371)へ。
続いて、少し前ですが『毎日新聞』さん北九州版。読者の方の投稿欄のようです。
少年時代に読んだ高村光太郎の詩「冬が来た」をこの日、独唱した。冒頭、「きっぱりと冬が来た」、末尾「刃物のやうな冬が来た」。
霜月、未明にベッド頭上の窓をまるで切り裂くような雷が鳴り、カサカサと音をたてて落ち葉の上をたたく時雨の音を聞いた。
ふと目を覚まし、暦を見る。残すところ、あと2枚だ。独唱のごとく、ものみな枯れる冬に立ち向かわなければならない。
73歳という人生を。厳しく生きる術を。そこに老齢の未来があることを信じて。そして輝かしいということも。冬が来た。
73歳という人生を。厳しく生きる術を。そこに老齢の未来があることを信じて。そして輝かしいということも。冬が来た。
まだ11月ですが、たしかにもう冬が来た感がいっぱいですね。秋はどこへ行ってしまったんだ? と思わされます。
光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)、この時期のコラム等にはよく取り上げられます。
最後に『朝日新聞』さん青森版。
宮城県出身の俳優・鈴木京香さんが、改めて東北の魅力を再発見してみようというNHKの紀行番組「鈴木京香の東北オトナ旅」。今回の「青森県十和田市編」は8月にパイロット版の30分で放送され、10月には43分の完全版として放送された。 「オトナ旅」ということもあって、番組では、自然・建築・アート・人気スポット・伝統工芸・夜の街の六つのテーマで十和田を紹介していた。
冒頭で、十和田の代名詞である十和田湖を久しぶりに訪れた京香さんは、湖畔にたたずむ乙女の像を鑑賞した。
像を造った高村光太郎による直筆の詩が刻まれた碑銘を読み上げる。
「この原始林の圧力に堪へて立つなら幾千年でも黙って立ってろ」
作品名の「乙女」から抱くイメージとは大きく異なる光太郎のメッセージに京香さんは、「ものすごく生命の力強さを詠んだ言葉ですね」と感嘆していた。
番組のハイライトは、十和田市現代美術館に常設展示されている作品《ザンプラントSumpf Land》だ。
造型作家の栗林隆氏の空間芸術作品で、真っ白の部屋の天井にポコっと首だけが出せる穴が空いている。その天井穴から顔を出した京香さんは、眼前の別世界を見て思わず声を上げた。
「私、『地獄の黙示録』になっている!」
主人公が、ジャングルの沼からすっと顔を出す、あの名シーンをさながら再現したかのような、緑が生い茂る湿地に鏡のように張る一面の水面が飛び出した首の周りを360度囲んでいたのだった。
京香さんも、「全く予備知識なく来てよかった」と大満足。作品名を調べたら、ザンプ(Sumpf)が湿地の意味だから感動は半減していたかもしれない。アート作品は、まず、予備知識なく全身で体感するのが大事だと、この番組は教えてくれた。
NHKさんの東北限定番組「鈴木京香の東北オトナ旅」。「8月にパイロット版の30分で放送」とありますが、そちらは旧NHKプラスさんの配信で拝見しました。
その後、10月17日(金)に「43分の完全版」の放映があったそうで、そちらは存じませんでした。
民放さんでもそうですが、こうした地方限定の番組、系列のBS局などで放映してほしいものだと思いました。
さて、最初に戻りますが、「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」、それから十和田湖も、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
一つの胴と四つの肢体。此が実に無限だ。どんなにいろいろの事が此で物語れる事ぞ!
作品モチーフとしての人体について。胸像や頭部のみと異なり、四肢を使うことができれば表現の幅はぐっと広がるわけで。ロダン代表作の一つ「カレーの市民」など、まさにその具体例ですね。造型作家の栗林隆氏の空間芸術作品で、真っ白の部屋の天井にポコっと首だけが出せる穴が空いている。その天井穴から顔を出した京香さんは、眼前の別世界を見て思わず声を上げた。
「私、『地獄の黙示録』になっている!」
主人公が、ジャングルの沼からすっと顔を出す、あの名シーンをさながら再現したかのような、緑が生い茂る湿地に鏡のように張る一面の水面が飛び出した首の周りを360度囲んでいたのだった。
京香さんも、「全く予備知識なく来てよかった」と大満足。作品名を調べたら、ザンプ(Sumpf)が湿地の意味だから感動は半減していたかもしれない。アート作品は、まず、予備知識なく全身で体感するのが大事だと、この番組は教えてくれた。
NHKさんの東北限定番組「鈴木京香の東北オトナ旅」。「8月にパイロット版の30分で放送」とありますが、そちらは旧NHKプラスさんの配信で拝見しました。
その後、10月17日(金)に「43分の完全版」の放映があったそうで、そちらは存じませんでした。
民放さんでもそうですが、こうした地方限定の番組、系列のBS局などで放映してほしいものだと思いました。
さて、最初に戻りますが、「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」、それから十和田湖も、ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
一つの胴と四つの肢体。此が実に無限だ。どんなにいろいろの事が此で物語れる事ぞ!
光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 フランシス ド ミオマンドル筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃
十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~。
都内からイベント情報です。東京青森県人会さんの主催で、当方もパネリストの一人として登壇させていただきます。
期 日 : 2025年11月30日(日)
会 場 : 港区赤坂区民センター 港区赤坂4丁目18-13
時 間 : 展示/13:00〜16:30 トークイベント/14:15〜16:30
料 金 : 無料(事前申込制) 参加登録フォームはこちら
パネリスト(予定)
谷川妙子(大町桂月を語る会)
小坂竜(建築デザイナー)
小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表) ほか 大町桂月は明治の文豪。十和田湖や周辺の景観を愛し、明治末にそれまで全国区では知られていなかったその美しさををさまざまな紀行文で広く世に紹介しました。明治44年(1911)、それらを読んだ皇太子時代の大正天皇が十和田湖に興味を持ち、当時の青森県知事・武田千代三郎に、北海道巡啓のついでに十和田湖に行ってみたいのだが現地の様子はどんな感じか? と問うたのですが、武田は十和田湖に足を運んだことがなく、ろくに答えられませんでした。それを恥じた武田は、地元の法奥沢村長兼県会議員の小笠原耕一と共に道路整備、国立公園指定の請願等に腐心、彼等の活動が実り、昭和11年(1936)には十和田湖周辺が国立公園に指定されました。
下って戦後の昭和26年(1951)、当時の青森県知事・津島文治(太宰治実兄)が中心となり、国立公園指定15周年を期に、桂月等を「十和田の三恩人」として顕彰するモニュメントの建設を計画。しかしそういう前例のほとんど無かった時代で、どんな物を作るべきか、誰に頼めばいいのかなど、さっぱりわからずに頭を抱えていたところ、たまたま十和田の三本木高校の校歌を作詞した佐藤春夫が来県。津島知事から相談を受けた佐藤は「そういうことなら日本で一番の造型作家は高村光太郎先生だから」と、光太郎を推薦しました。
光太郎は当時、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していましたが、佐藤からの「あなた以外の作品が十和田湖に建っては日本の恥だ」的な内容の懇切丁寧な書簡を読み、また、自身でも死期がそう遠くないことを自覚しており、そろそろ生涯最後の大作にかからねば、と考えていた時期だったこともあり、いろいろ逡巡したものの、結局、制作を引き受けました。その結果、「乙女の像」が誕生したわけです。ざっくりですが。
太田村での山小屋では巨大彫刻の制作は不可能なので、光太郎は昭和27年(1952)、7年半ぶりに上京。貸しアトリエとして運用されていた中野区の中西利雄アトリエに入り、助手として野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二を雇い、像の芯に針金を巻き付けたり、粘土をこねたりなどの力仕事を手伝ってもらいました。
今回のイベントでは、小坂の子息・建築デザイナーとして活躍されている竜氏もご登壇なさるそうです。
メインは没後100年となった桂月。桂月といえば、光太郎の姉貴分・与謝野晶子が日露戦争に出征した弟・籌三郎の身を案じた「君死にたまふこと勿れ」(明治37年=1904)を痛烈に批判したことでも知られています。時を経て光太郎がその桂月顕彰に携わったというのも面白いところです。
当日はざっくりとそんな話をさせていただこうと思っております。
ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
いのちあるものに醜はない。人間の感情を暗示するもの、悲愁にしても苦痛にしても、温良にしても忿怒にしても、憎悪にしても、恋愛にしても、其は皆それぞれの美の刻印を持つてゐる。それ故、私は一切の存在は美であり、一切の美は真であるとする――人は真なるものの中から選択する権利を持つてゐる。
ロダンはつくづく「人間」が好きだったんだなぁと思わせられます。
明治・大正期に活躍した文人・大町桂月(1869〜1925)の没後100年を記念し、十和田湖・奥入瀬渓流の自然と文化の価値を再発見しながら、国立公園としての未来を展望するトークイベントです。
桂月が全国を旅して自然の美を詠んだ足跡や、彼の影響で全国に広まった保勝運動、そして高村光太郎による**「乙女の像」**制作の背景などを紹介。
また、日本とアメリカの国立公園制度を比較しながら、自然と文化の融合的価値を見つめ直します。会場では、桂月ゆかりの掛け軸や資料の展示も行われ、彼の文学と思想に触れられる貴重な機会です。
パネリスト(予定)
谷川妙子(大町桂月を語る会)
小坂竜(建築デザイナー)
小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表) ほか 大町桂月は明治の文豪。十和田湖や周辺の景観を愛し、明治末にそれまで全国区では知られていなかったその美しさををさまざまな紀行文で広く世に紹介しました。明治44年(1911)、それらを読んだ皇太子時代の大正天皇が十和田湖に興味を持ち、当時の青森県知事・武田千代三郎に、北海道巡啓のついでに十和田湖に行ってみたいのだが現地の様子はどんな感じか? と問うたのですが、武田は十和田湖に足を運んだことがなく、ろくに答えられませんでした。それを恥じた武田は、地元の法奥沢村長兼県会議員の小笠原耕一と共に道路整備、国立公園指定の請願等に腐心、彼等の活動が実り、昭和11年(1936)には十和田湖周辺が国立公園に指定されました。

光太郎は当時、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していましたが、佐藤からの「あなた以外の作品が十和田湖に建っては日本の恥だ」的な内容の懇切丁寧な書簡を読み、また、自身でも死期がそう遠くないことを自覚しており、そろそろ生涯最後の大作にかからねば、と考えていた時期だったこともあり、いろいろ逡巡したものの、結局、制作を引き受けました。その結果、「乙女の像」が誕生したわけです。ざっくりですが。

今回のイベントでは、小坂の子息・建築デザイナーとして活躍されている竜氏もご登壇なさるそうです。
メインは没後100年となった桂月。桂月といえば、光太郎の姉貴分・与謝野晶子が日露戦争に出征した弟・籌三郎の身を案じた「君死にたまふこと勿れ」(明治37年=1904)を痛烈に批判したことでも知られています。時を経て光太郎がその桂月顕彰に携わったというのも面白いところです。
当日はざっくりとそんな話をさせていただこうと思っております。
ご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
いのちあるものに醜はない。人間の感情を暗示するもの、悲愁にしても苦痛にしても、温良にしても忿怒にしても、憎悪にしても、恋愛にしても、其は皆それぞれの美の刻印を持つてゐる。それ故、私は一切の存在は美であり、一切の美は真であるとする――人は真なるものの中から選択する権利を持つてゐる。
光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 クラリ筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃
ロダンはつくづく「人間」が好きだったんだなぁと思わせられます。
東京藝術大学大学美術館取手館「藝大取手コレクション展 2025」レポート。
昨日は茨城県取手市にて「藝大取手コレクション展 2025」を拝観して参りました。
会場は東京藝術大学大学美術館取手館さん。
会場は東京藝術大学大学美術館取手館さん。
同館の開館30周年記念、さらに隣接して大きな収蔵庫が竣工した記念を兼ねて、ということでした。
出品目録。
こちらに光太郎の卒業制作「獅子吼」(明治35年=1902)の石膏像。
360°見て廻れるように展示して下さっていました。ありがたし。
台座に彫られた「獅子吼」の文字。若き光太郎の気概がこういうところにも見て取れます。
これを拝見するのは平成29年(2017)に上野キャンパスで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」以来2度目(ブロンズは数知れず)でしたが、その生々しさに圧倒されます。
石膏原型といえば、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型も同大に所蔵されています。そちらは見たことが無く、またの機会にはぜひ出品していただきたいものだと思いました。
他に、ともに光太郎の父・光雲に学んだいわば光太郎の兄弟弟子、新納忠之介と板谷波山のレリーフ。
新納は仏像修復、板谷は陶芸と、それぞれ彫刻とは異なる道で名を成しましたが、それぞれそのバックボーンには光雲に学んだ木彫のメチエあってこそだったんだなと改めて思いました。
教材としての手板の手本。石膏かと思ったら大理石でした。
もしかすると光雲の手になるものかもしれません。明治26年(1893)の時点では、彫刻科の教授陣は光雲、竹内久一、石川光明、山田鬼斎、林美雲、後藤貞行、藤田文蔵でした。また、この頃には石彫教場も存在し、明治27年(1894)には俵光石が助手に雇われたと記録にあります。
光太郎入学時の校長だった岡倉天心が使っていたと伝わる椅子。
出品目録。
そして最も見たかったのが、第三章「過去に学ぶ:未来へ繋ぐ教育資料」。明治/大正のものが中心です。
こちらに光太郎の卒業制作「獅子吼」(明治35年=1902)の石膏像。
360°見て廻れるように展示して下さっていました。ありがたし。
台座に彫られた「獅子吼」の文字。若き光太郎の気概がこういうところにも見て取れます。
これを拝見するのは平成29年(2017)に上野キャンパスで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」以来2度目(ブロンズは数知れず)でしたが、その生々しさに圧倒されます。
石膏原型といえば、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏原型も同大に所蔵されています。そちらは見たことが無く、またの機会にはぜひ出品していただきたいものだと思いました。
他に、ともに光太郎の父・光雲に学んだいわば光太郎の兄弟弟子、新納忠之介と板谷波山のレリーフ。
新納は仏像修復、板谷は陶芸と、それぞれ彫刻とは異なる道で名を成しましたが、それぞれそのバックボーンには光雲に学んだ木彫のメチエあってこそだったんだなと改めて思いました。
教材としての手板の手本。石膏かと思ったら大理石でした。
もしかすると光雲の手になるものかもしれません。明治26年(1893)の時点では、彫刻科の教授陣は光雲、竹内久一、石川光明、山田鬼斎、林美雲、後藤貞行、藤田文蔵でした。また、この頃には石彫教場も存在し、明治27年(1894)には俵光石が助手に雇われたと記録にあります。
光太郎入学時の校長だった岡倉天心が使っていたと伝わる椅子。
上野キャンパスに鎮座する平櫛田中作の天心像が腰かけているのもこの椅子だそうで。
「日本最古のオルガン」。
東京音楽学校との関連もありますが、外装の部分が才田光則という指物師の手になることにも注目されています。
こんな感じで、それほど出品点数は多くないものの、実に興味深い展示でした。同大には膨大な数の歴史的に貴重な収蔵品が存在しますので、今後も手を変え品を変え、この手の展示が為されることを期待します。
というわけで、ぜひ足をお運び下さい。会期は今月いっぱいです。
【折々のことば・光太郎】
芸術に於て、われわれは何を生命と呼ぶか。君達のすべての感覚を通して君達に話しかけるものの事だ。
「日本最古のオルガン」。
東京音楽学校との関連もありますが、外装の部分が才田光則という指物師の手になることにも注目されています。
こんな感じで、それほど出品点数は多くないものの、実に興味深い展示でした。同大には膨大な数の歴史的に貴重な収蔵品が存在しますので、今後も手を変え品を変え、この手の展示が為されることを期待します。
というわけで、ぜひ足をお運び下さい。会期は今月いっぱいです。
【折々のことば・光太郎】
芸術に於て、われわれは何を生命と呼ぶか。君達のすべての感覚を通して君達に話しかけるものの事だ。
光太郎訳 ロダン「ロダン手記 芸術家の一日」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃
120年以上経った「獅子吼」からも「生命」を確かに感じました。
栃木県鹿沼市 「高村光雲作《老猿》を学ぶ」。
昨日に続き、光太郎の父・光雲の代表作「老猿」関係で2件のイベント、いずれも栃木県鹿沼市で開催されます。「鹿沼・粟野合併20周年記念 高村光雲作《老猿》を学ぶ」と冠された事業の一環です。
まずは「老猿」の原材料となった栃の木の子孫を見学するツアー。平成24年(2012)にも同様の催しがありました。
光太郎は光雲やその弟子筋の仕事をあまり高く評価しませんでしたが(「芸術」とは言えないと)、しかし光雲は光雲で、「決してためら」わず「自分の感ずる所を表現」し、光雲なりに「深く、恐ろしく真実を語」ろうとしていたのは間違いありません。ロダンや光太郎とは、その道筋が異なっていただけですね。
まずは「老猿」の原材料となった栃の木の子孫を見学するツアー。平成24年(2012)にも同様の催しがありました。
期 日 : 2025年11月24日(月・振休)
会 場 : 集合場所 高見林業 栃木県鹿沼市上粕尾870-2
時 間 : 午前9時~正午
料 金 : 500円
続いて、講演会。
それぞれ「第2弾」「第3弾」となっていますが、「第1弾」は9月に開催された鹿沼市民向けの東京国立博物館で「老猿」を見るツアーということで、このブログではご紹介しませんでした。
「老猿」の材となった栃は、光雲自ら鹿沼の山中に買い付けに赴き、伐採前の巨木を当時の金額で3円という安価で手に入れることができました。しかし運搬に苦労し、そちらにかかった金額が200円以上。シカゴ万博出品作ということで政府から補助金が出ていましたが、その半分以上を運送に費やしてしまいました。落語のような話です(笑)。そのあたりは昭和4年(1929)に出版された『光雲懐古談』で語られ、青空文庫さんにも入っています。
見学ツアー、講演会、それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
深く、恐ろしく真実を語る者であれ。自分の感ずる所を表現するに決してためらうな。たとひ公定思想と反対である事がわかつた時でさへもです。
持ち物 : 飲み物・登山向けの靴と服装
定 員 : 中学生以上10組20人(先着)
高村光雲《老猿》は、明治26年(1893)のシカゴ万博に出品された彫刻作品です。現在は東京国立博物館に収蔵され、国指定重要文化財に指定されています。
実は、その材は鹿沼の上粕尾発光路から伐りだされた「栃の木」でした。
この度、鹿沼市・粟野町合併20周年を記念して「Made in 鹿沼」の代表する作品の一つとして《老猿》と高村光雲について学ぶ連続企画を開催します。
第2弾は、《老猿》の材になった木の孫木と伝わる木を見に行きます。申し込み方法
11月14日(金曜日)までに、文化課へ電話(0289-62-1172)またはフォームよりお申し込みください。
続いて、講演会。
記念講演会
期 日 : 2025年11月29日(土)
会 場 : 粟野コミュニティセンター大会議室 栃木県鹿沼市口粟野1780
時 間 : 午後1時30分~3時
料 金 : 無料
定 員 : 100人(先着)
《老猿》を所蔵する東京国立博物館から児島大輔先生(東京国立博物館保存修復室長)をお招きしての講演会です。
11月14日(金曜日)までに、文化課へ電話(0289-62-1172)またはフォームよりお申し込みください。
定 員 : 100人(先着)
《老猿》を所蔵する東京国立博物館から児島大輔先生(東京国立博物館保存修復室長)をお招きしての講演会です。
11月14日(金曜日)までに、文化課へ電話(0289-62-1172)またはフォームよりお申し込みください。

「老猿」の材となった栃は、光雲自ら鹿沼の山中に買い付けに赴き、伐採前の巨木を当時の金額で3円という安価で手に入れることができました。しかし運搬に苦労し、そちらにかかった金額が200円以上。シカゴ万博出品作ということで政府から補助金が出ていましたが、その半分以上を運送に費やしてしまいました。落語のような話です(笑)。そのあたりは昭和4年(1929)に出版された『光雲懐古談』で語られ、青空文庫さんにも入っています。
見学ツアー、講演会、それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
深く、恐ろしく真実を語る者であれ。自分の感ずる所を表現するに決してためらうな。たとひ公定思想と反対である事がわかつた時でさへもです。
光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃
光太郎は光雲やその弟子筋の仕事をあまり高く評価しませんでしたが(「芸術」とは言えないと)、しかし光雲は光雲で、「決してためら」わず「自分の感ずる所を表現」し、光雲なりに「深く、恐ろしく真実を語」ろうとしていたのは間違いありません。ロダンや光太郎とは、その道筋が異なっていただけですね。
石川県立美術館他 令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業「ひと、能登、アート。」。
今年の年明けぐらいから、鳴り物入りで宣伝されています。
時 間 : 9:30~18:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 1,000円(800円) 大学生 800円(600円) 高校生以下 無料
能登(内灘町以北)の方は観覧無料 ※被災後、能登から移住された方も無料
( )内は65歳以上の方、または20名以上の団体料金
金沢21世紀美術館
国立工芸館
期 日 : 2025年12月9日(火)~2026年3月1日(日)
2024年1月に発生した能登半島地震、さらに9月の奥能登地域における豪雨災害により被災された皆様に寄り添うべく、復興を支援する想いを込めた展覧会を開催します。
金沢21世紀美術館
期 日 : 2025年12月13日(土)~2026年3月1日(日)
会 場 : 金沢21世紀美術館 石川県金沢市広坂1-2-1
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 月曜日(ただし1月12日、2月23日は開場)、
12月30日〜1月1日、1月13日、2月24日
12月30日〜1月1日、1月13日、2月24日
料 金 : 無料
国立工芸館
期 日 : 2025年12月9日(火)~2026年3月1日(日)
会 場 : 国立工芸館 石川県金沢市出羽町3-2
時 間 : 9:30~17:30
休 館 : 月曜日(ただし1月12日、2月23日は開館)、
年末年始(12月28日~1月1日)、1月13日、2月24日
年末年始(12月28日~1月1日)、1月13日、2月24日
料 金 : 一般 1,200円(1,100円) 大学生 700円(600円) 高校生500円(400円)
能登(内灘町以北)の方は観覧無料 ※被災後、能登から移住された方も無料
( )内は20名以上の団体料金、他館の半券提示の場合
2024年1月に発生した能登半島地震、さらに9月の奥能登地域における豪雨災害により被災された皆様に寄り添うべく、復興を支援する想いを込めた展覧会を開催します。
東京所在の美術館・博物館が連携し、本事業趣旨に賛同する各館が自ら選んだ、復興を支援する想いを込めた文化財を石川県金沢市内各施設で展示する展覧会です。また能登に生まれた桃山絵画の巨匠・長谷川等伯の国宝「松林図屛風」を題材とした映像コンテンツ事業や普及事業(訪問授業)を、石川県内で開催予定です。
数百年の時を重ねて大切に守り伝えられてきた文化財の数々は、自然災害が絶え間なく襲う日本において、時に人々の安らぎの心を求める強い祈りが込められて造られてきたものです。そうした想いの詰まった文化財を、被災された皆様への励ましのメッセージとすることを目指します。
関連イベント
■井上涼の”びじゅつ”コンサート!
NHK Eテレ「びじゅチューン!」でおなじみの井上涼さんによるコンサート。
本展覧会で展示される作品にゆかりのある楽曲を披露。
日時:11月23日(日・祝)
午前の部|11時~12時(開場10時30分) 午後の部|14時~15時(開場13時30分)
会場:石川県立美術館 ホール
定員:各回200名 参加費:無料
■トークセッション「いつも、”能登の”そばに」
俳優の常盤貴子さんと珠洲焼作家の篠原敬さんによる、能登とその文化を想う語らい。
日時:11月30日(日) 13時30分~14時30分(開場13時)
会場:石川県立美術館 ホール
定員:200名
参加費:無料
■東京国立博物館研究員による3館合同展示解説
日時:12月14日(日) ※各会場45分程度
①11時~ 金沢21世紀美術館展示室13
※申込不要、先着順(定員30名程度)
②13時30分~ 石川県立美術館企画展示室
※申込不要、要観覧料
③15時~ 国立工芸館多目的室
※要ウェブ申込、先着順(定員50名)
■土曜講座 いずれも 会場:石川県立美術館 講義室 *参加無料、申込不要
①「高村光雲の古仏復元事業」
11月29日(土)13時30分~15時 担当:寺川和子(当館学芸第二課長)
11月29日(土)13時30分~15時 担当:寺川和子(当館学芸第二課長)
東京美術学校で木彫の教授として教鞭を取った彫刻家・高村光雲。
木彫技術を教えるだけでなく、古い仏像の保存修復、復元事業にも携わっています。
創作以外の高村の側面を紹介します。
木彫技術を教えるだけでなく、古い仏像の保存修復、復元事業にも携わっています。
創作以外の高村の側面を紹介します。
12月6日(土)13時30分~15時 担当:竹内唯(当館学芸主任)
日本美術のあけぼのの時代に、木彫の分野で活躍した高村光雲。江戸末期に生まれた
高村が、明治の激変を懐古したライブ感あふれる回想録をご紹介します。明治初期の
美術界に飛び込んだ気分になること間違いなし!
能登地震・豪雨災害の復興支援事業という位置づけで、都内の美術館・博物館から国宝・重文級の所蔵品がごっそり出張します。
目玉として紹介されているのは、菱川師宣の「見返り美人図」、長谷川等伯筆「松林図屏風」、黒田清輝で「湖畔」、そして光太郎の父・光雲の手になる「老猿」(明治26年=1893)。
これらはメイン会場の石川県立美術館さんでの展示と思われます。
「老猿」のフットワークは意外と軽く、近年も台湾やワシントンD・Cで展示されました。まぁ、元々がシカゴ万博のための制作だったものですから、さもありなんですが。
関連行事も充実しており、特に2回行われる「土曜講座」はともに光雲・「老猿」がらみです。また、井上涼さんのコンサートも「本展覧会で展示される作品にゆかりのある楽曲を披露」だそうですので、「老猿は主役じゃなくても」も演奏されそうな気がします。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
眼を欺く事で満足し又つまらない細部をむやみと拘泥して表現する芸術家は決して大家にならない。
造型に限らず全ての芸術にいえることでしょうが、それでも細部をおろそかには出来ませんし、どこから、またどこまでが「むやみと」なのか、このあたりはセンスとしか言いようがないのかも知れません。
高村が、明治の激変を懐古したライブ感あふれる回想録をご紹介します。明治初期の
美術界に飛び込んだ気分になること間違いなし!
能登地震・豪雨災害の復興支援事業という位置づけで、都内の美術館・博物館から国宝・重文級の所蔵品がごっそり出張します。
目玉として紹介されているのは、菱川師宣の「見返り美人図」、長谷川等伯筆「松林図屏風」、黒田清輝で「湖畔」、そして光太郎の父・光雲の手になる「老猿」(明治26年=1893)。
これらはメイン会場の石川県立美術館さんでの展示と思われます。
「老猿」のフットワークは意外と軽く、近年も台湾やワシントンD・Cで展示されました。まぁ、元々がシカゴ万博のための制作だったものですから、さもありなんですが。
関連行事も充実しており、特に2回行われる「土曜講座」はともに光雲・「老猿」がらみです。また、井上涼さんのコンサートも「本展覧会で展示される作品にゆかりのある楽曲を披露」だそうですので、「老猿は主役じゃなくても」も演奏されそうな気がします。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
眼を欺く事で満足し又つまらない細部をむやみと拘泥して表現する芸術家は決して大家にならない。
光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃
造型に限らず全ての芸術にいえることでしょうが、それでも細部をおろそかには出来ませんし、どこから、またどこまでが「むやみと」なのか、このあたりはセンスとしか言いようがないのかも知れません。
東京藝術大学大学美術館取手館「藝大取手コレクション展 2025」。
フライヤーに光太郎作品をメインで使っていただきました。
期 日 : 2025年11月13日(木)~11月30日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館取手館 茨城県取手市小文間5000
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 11月17日(月)、18日(火)、25(火)
料 金 : 無料
東京藝術大学大学美術館取手館は、昨年で開館30周年を迎えました。さらに、未来の学生たちの作品を十分に保管できるスペースを持った取手収蔵棟が、令和6年(2024)に竣工いたしました。これを記念し、取手市と共催で「藝大取手コレクション展 2025」を開催いたします。
取手館ならびに取手収蔵棟には、約13,000件の作品が収蔵されています。その多くは明治から現代に至るまでの、本学で研鑽を積み卒業していった学生たちの作品です。一方で、明治時代に納入されたデッサン用の石膏像や古墳時代の埴輪といった、後進育成のために収集された教育資料もまた、取手における藝大コレクションの特色の一つです。
そこで、本展では「自画像:1925→2025」、「卒業・修了制作:学びの集大成」、「過去に学ぶ:未来へ繋ぐ教育資料」の3つのセクションから、当館収蔵品の粋と魅力をご紹介いたします。まもなく創立140周年を迎える本学の、長きにわたる学びと教育の結晶をご堪能ください。
光太郎の母校である上野の東京藝術大学さん、平成3年(1991)に茨城県取手市の郊外に取手キャンパスを開設、大学美術館さんの分館も作られ、昨年で30周年だそうです。それを記念しての展覧会で、収蔵品の一部が展示されます。
光太郎作品は、「卒業・修了制作:学びの集大成」のセクションで、明治35年(1902)、東京美術学校彫刻科の卒業制作として作られた「獅子吼」の石膏原型。これから型を取ってブロンズに鋳造したものが各地に存在しますが、その大元です。光太郎はこの形で卒業制作として提出しました。
昨今、ブロンズ彫刻の石膏原型に注目する展示がちょっとした流行りです。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館・信州安曇野の碌山美術館さんでは、平成30年(2018)に「彫刻家 荻原守衛 -石膏原型に彫刻の生命を観る-」という展示もなさいました。
石膏原型とブロンズ、結局は同じ形なのですが、型抜きや鋳造の過程などで、石膏原型にあった細かな部分がわからなくなってしまうこともあり、やはり石膏原型の方が作者の意図をよく表しているところがあります。
まぁ、それを言うと、石膏原型よりもその前の段階の粘土原型の方が、ということになりますが、粘土原型は通常、石膏に取る際に破壊されてしまいますので……。
「獅子吼」の石膏原型は、上野の大学美術館さんで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」(平成29年=2017)の際に拝見しました。その時は石膏原型とブロンズとが並べて展示されていて、見比べられるようになっていました。
今回は石膏原型のみの出展ではないかと思われますが、経巻を擲って憤然とした表情で立つ日蓮の姿、生々しく表現されています。
また、取手市内には、光太郎の足跡があちこちに残されています。また、今回の会場に近い明星院さんという寺院そばの共同墓地には、光太郎が揮毫した墓石も残っていることを数年前に発見しました。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
画家諸君。やはり現実を奥行で観察せよ。例へば、ラフワエルの画いた肖像を見よ。此の大家は一人の人物を正面から描出する時、胸を斜めに奥まらせる。さうやつて彼は第三伸張(デマンシヨン)の幻覚を与へる。
昨日のこの項でご紹介した「彫刻家諸君」で始まる一節を対を為す部分です。言っていることはほぼ同じです。
「第三伸張(デマンシヨン)」は、いわゆる「3D」ですね。「3D」の「D」は「dimensions」の「D」。「dimensions」に光太郎は「デマンシヨン」とルビを振り「第三伸張」と漢語に翻訳していますが、大正期に既に「3D」に近い語が使われていたというのは驚きでした。
光太郎の母校である上野の東京藝術大学さん、平成3年(1991)に茨城県取手市の郊外に取手キャンパスを開設、大学美術館さんの分館も作られ、昨年で30周年だそうです。それを記念しての展覧会で、収蔵品の一部が展示されます。
光太郎作品は、「卒業・修了制作:学びの集大成」のセクションで、明治35年(1902)、東京美術学校彫刻科の卒業制作として作られた「獅子吼」の石膏原型。これから型を取ってブロンズに鋳造したものが各地に存在しますが、その大元です。光太郎はこの形で卒業制作として提出しました。
昨今、ブロンズ彫刻の石膏原型に注目する展示がちょっとした流行りです。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館・信州安曇野の碌山美術館さんでは、平成30年(2018)に「彫刻家 荻原守衛 -石膏原型に彫刻の生命を観る-」という展示もなさいました。
石膏原型とブロンズ、結局は同じ形なのですが、型抜きや鋳造の過程などで、石膏原型にあった細かな部分がわからなくなってしまうこともあり、やはり石膏原型の方が作者の意図をよく表しているところがあります。
まぁ、それを言うと、石膏原型よりもその前の段階の粘土原型の方が、ということになりますが、粘土原型は通常、石膏に取る際に破壊されてしまいますので……。
「獅子吼」の石膏原型は、上野の大学美術館さんで開催された「東京藝術大学創立130周年記念特別展 藝「大」コレクション パンドラの箱が開いた!」(平成29年=2017)の際に拝見しました。その時は石膏原型とブロンズとが並べて展示されていて、見比べられるようになっていました。

また、取手市内には、光太郎の足跡があちこちに残されています。また、今回の会場に近い明星院さんという寺院そばの共同墓地には、光太郎が揮毫した墓石も残っていることを数年前に発見しました。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
画家諸君。やはり現実を奥行で観察せよ。例へば、ラフワエルの画いた肖像を見よ。此の大家は一人の人物を正面から描出する時、胸を斜めに奥まらせる。さうやつて彼は第三伸張(デマンシヨン)の幻覚を与へる。
光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃
昨日のこの項でご紹介した「彫刻家諸君」で始まる一節を対を為す部分です。言っていることはほぼ同じです。
「第三伸張(デマンシヨン)」は、いわゆる「3D」ですね。「3D」の「D」は「dimensions」の「D」。「dimensions」に光太郎は「デマンシヨン」とルビを振り「第三伸張」と漢語に翻訳していますが、大正期に既に「3D」に近い語が使われていたというのは驚きでした。
埼玉県立歴史と民俗の博物館特別展「大名と菩提所」。
まだまだ情報収集力が足りないようで、事前に気づかなかった展覧会がさらにありまして、昨日は実地に拝見して参りました。
ちなみに建物の設計は前川國男だそうで。展覧会詳細。
ちなみに建物の設計は前川國男だそうで。展覧会詳細。
期 日 : 2025年10月11日(土)~11月24日(月・振休)
会 場 : 埼玉県立歴史と民俗の博物館 さいたま市大宮区高鼻町4-219
時 間 : 9:00 ~16:30
休 館 : 月曜日(ただし11/24は開館)
料 金 : 一般600円 高校生・学生300円
埼玉県立歴史と民俗の博物館では令和7年10月11日(土)から、特別展「大名と菩提所」を開催します。
江戸時代の埼玉県域には忍・岩槻・川越に城郭が存在し、いずれも江戸近郊の要所の守りを固めるため、城主には幕府の要職に就いた譜代大名らが任ぜられました。
これらの大名たちは、参勤交代や転封(てんぽう)を繰り返すなかで江戸と国許(くにもと)の両方に菩提寺を持ったり、転封に伴い菩提所を変えたり、一貫した墓域を形成したりと、菩提所や墓の在り方は「家」ごとに異なりました。
そもそも菩提所とは、菩提を弔(とむら)う場所のこと、すなわち先祖の供養(くよう)を行う場のことを指します。江戸時代の大名たちにとって先祖を供養し、子として親の葬儀を執行することは、正当な後継者としての立場を表明する重要な場でもありました。
本展では260余年の泰平の世を支えた大名が眠る菩提所に注目します。
江戸時代、主に現在の埼玉県内に領地を与えられていた大名家の「菩提所」にスポットを当てた展覧会です。当時の文書や図絵、刀剣やら甲冑やらのゆかりの品々、古写真などなど。
で、光太郎の父・光雲作の木彫が一体出ていると数日前に知り、馳せ参じた次第です。
現在の行田市にあたる忍(おし)城、や川越城の城主で、老中も務めた「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱の坐像です。伊豆守というと、島原の乱で幕府軍の総大将としてキリシタン虐殺を行った人物ということもあり、あまり良いイメージはないのですが……。
像高1尺はないかという小さな像で、厨子に収められていました。似たような感じとしては、今年特別開帳が行われている鎌倉覚園寺さんの後醍醐天皇像。時期的にも同じ頃(明治中期)と思われます。ただ、あちらは白木でしたが、こちらは彩色が施されています。驚いたのは、厨子の上部に設(しつら)えられた帳(とばり)。これも木彫でした。
外側は黒漆塗り、内側に金箔を貼った厨子も見事な造作でした。蝶番(ちょうつがい)も精緻な彫金が施されています。ただし、この手の仕事は分業制が通常で、厨子は厨子、彫金は彫金で、それぞれ専門の職人の手になるものでしょう。そのあたり、光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)に記述があります。
所蔵は新座市の金鳳山平林寺さん。こちらにこの像が納められていることは以前から存じ上げていましたが、寺院の場合、こういった像が平時に公開されているとは限らず、無駄足になってはと思い、これまで足を運んだことがありませんでした。その意味でもこの機会に、と思った次第です。
これ以外に「おっ」と思ったのが、芝増上寺の「台徳院殿霊廟」関連。広大な面積を持った徳川二代将軍・秀忠の墓所ですが、現物は太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。しかし、それ以前の明治43年(1910)、イギリスで開催された日英博覧会にその10分の1スケールの精巧模型が作られて出品されました。手がけたのは東京美術学校、監督が光雲でした。
模型は当時の英国王・ジョージ5世に献上されましたが、平成25年(2013)に日本に里帰り。現在は平成27年(2015)にオープンした増上寺さんの宝物展示室に展示されています。
そのオリジナルの霊廟も描かれた屏風絵。
霊廟自体の絵図面。
こちらに関する出品物もあるとは思っていなかったので、望外の喜びでした。
帰りがけ、図録(1,300円也)を購入。
おまけ。駐車場にいたにゃんこ(笑)。
光雲木彫を間近で見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
「自然」をして唯一の神たらしめよ。
ロダンは無神論者というわけでもありませんでしたが、キリスト教の教義に縛られる「××を表す時にはこうするのが決まりだ」的な暗黙のルール等はほとんど無視していました。
江戸時代、主に現在の埼玉県内に領地を与えられていた大名家の「菩提所」にスポットを当てた展覧会です。当時の文書や図絵、刀剣やら甲冑やらのゆかりの品々、古写真などなど。
で、光太郎の父・光雲作の木彫が一体出ていると数日前に知り、馳せ参じた次第です。
現在の行田市にあたる忍(おし)城、や川越城の城主で、老中も務めた「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱の坐像です。伊豆守というと、島原の乱で幕府軍の総大将としてキリシタン虐殺を行った人物ということもあり、あまり良いイメージはないのですが……。
像高1尺はないかという小さな像で、厨子に収められていました。似たような感じとしては、今年特別開帳が行われている鎌倉覚園寺さんの後醍醐天皇像。時期的にも同じ頃(明治中期)と思われます。ただ、あちらは白木でしたが、こちらは彩色が施されています。驚いたのは、厨子の上部に設(しつら)えられた帳(とばり)。これも木彫でした。
外側は黒漆塗り、内側に金箔を貼った厨子も見事な造作でした。蝶番(ちょうつがい)も精緻な彫金が施されています。ただし、この手の仕事は分業制が通常で、厨子は厨子、彫金は彫金で、それぞれ専門の職人の手になるものでしょう。そのあたり、光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)に記述があります。
所蔵は新座市の金鳳山平林寺さん。こちらにこの像が納められていることは以前から存じ上げていましたが、寺院の場合、こういった像が平時に公開されているとは限らず、無駄足になってはと思い、これまで足を運んだことがありませんでした。その意味でもこの機会に、と思った次第です。
これ以外に「おっ」と思ったのが、芝増上寺の「台徳院殿霊廟」関連。広大な面積を持った徳川二代将軍・秀忠の墓所ですが、現物は太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。しかし、それ以前の明治43年(1910)、イギリスで開催された日英博覧会にその10分の1スケールの精巧模型が作られて出品されました。手がけたのは東京美術学校、監督が光雲でした。
模型は当時の英国王・ジョージ5世に献上されましたが、平成25年(2013)に日本に里帰り。現在は平成27年(2015)にオープンした増上寺さんの宝物展示室に展示されています。
そのオリジナルの霊廟も描かれた屏風絵。
霊廟自体の絵図面。
こちらに関する出品物もあるとは思っていなかったので、望外の喜びでした。
帰りがけ、図録(1,300円也)を購入。
おまけ。駐車場にいたにゃんこ(笑)。
光雲木彫を間近で見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
「自然」をして唯一の神たらしめよ。
光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃
ロダンは無神論者というわけでもありませんでしたが、キリスト教の教義に縛られる「××を表す時にはこうするのが決まりだ」的な暗黙のルール等はほとんど無視していました。
北関東三県(栃木・群馬・埼玉)レポート その2。
10月28日(火)、愛車を駆って北関東三県を巡りましたレポートの続きです。
栃木市立文学館さんの「『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武」展、群馬県立土屋文明記念文学館さんの第127回企画展「愛の手紙-友人・師弟篇-」を制覇し、最終目的地は埼玉県東松山市の総合会館さん。こちらでは光太郎に私淑していた彫刻家・高田博厚の作品を集めた「彫刻家 高田博厚展2025―Vitrail(ヴィトロー)―「窓」から見る高田博厚」を拝見しました。

栃木市立文学館さんの「『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武」展、群馬県立土屋文明記念文学館さんの第127回企画展「愛の手紙-友人・師弟篇-」を制覇し、最終目的地は埼玉県東松山市の総合会館さん。こちらでは光太郎に私淑していた彫刻家・高田博厚の作品を集めた「彫刻家 高田博厚展2025―Vitrail(ヴィトロー)―「窓」から見る高田博厚」を拝見しました。

同市の元教育長で、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が光太郎繋がりで高田とも意気投合、同市での高田の個展や、東武東上線高坂駅前の高田作品を集めた彫刻プロムナード設置などに尽力され、その関係で高田遺族から鎌倉にあったアトリエ閉鎖の際に高田作品や遺品がごっそり寄贈され、それらを毎年、少しずつ展示する催しです。
今年の目玉は、ジョルジュ・ルオーの息女であるイザベル・ルオー作のステンドグラス。鎌倉の高田アトリエに設置されていたものです。
今年の目玉は、ジョルジュ・ルオーの息女であるイザベル・ルオー作のステンドグラス。鎌倉の高田アトリエに設置されていたものです。
裏にLEDライトが仕込んであり、良い感じに光が洩れていました。
そのルオー父娘を高田が作った肖像彫刻。
父ルオーが元々ステンドグラス職人だったというのは存じませんでした。そういわれてみると、あの太い輪郭線で描いた宗教画には、ステンドグラスの影響がありありと見えます。
いただいてきた無料の簡易図録。
拝観後、会場を出て、前橋ICから乗って東松山ICで下りた関越道には戻らず一般道を南下。隣接する川島町の川島ICから圏央道に入り、一気に自宅兼事務所最寄りの神崎ICまで。我ながらがっつり走ったな、という感じでした(走ったのは愛車ですが(笑))。
高田の紹介Vの部分では、光太郎についてもかなり触れて下さいました。
光太郎没後、記憶と写真を基に高田が作った光太郎像も。同一のものは東松山市の東武東上線高坂駅前彫刻プロムナードにも据えられています。
で、「ロマン・ロラン像」。鑑定金額は思ったより伸びませんでした。「ニセモノではないが、数多く鋳造されたうちの一つ」という扱いで。たしかにブロンズ彫刻は同一の型から鋳造されたものでも、いつ、どんなコンセプトで、誰が鋳造したか、といった要素でかなり価値の幅が出ます。それにしてもちょっと辛い鑑定のような気もしましたが。
TVerさんなどで配信が見られます。ぜひご覧下さい。東松山市の高田展も11月13日(木)までの開催でして、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
お前の葉は皆平たい。さうでなく、お前の方へ葉の先が向く様におし。奥行きで作るのだ。平(ひら)で無くだ。いつでもさういふ様に仕事をおし。さうすれば表面が一つの塊まりの端と見える様になる。それでなくては彫刻はうまく行かない。
まだ一人前の彫刻家となる前の若き日のロダンが、修業先の石膏細工の先輩職人から言われた言葉です。無名のこの職人の教えが、ロダンの眼を開かせました。
彼等が手がけていたのは主に建造物の外壁の装飾でしたが、そこに葉っぱをあしらう際、葉っぱと言われて誰もが思い浮かべるこういうアングルでは立体感が出ない、というのです。
こうではなく、先端を手前に配せ、と先輩職人。
なるほど。
ちなみにこの葉は、光太郎智恵子ゆかりの花、グロキシニアです。5月くらいに咲き始め、以来、半年近くしぶとく花をつけ続けています(笑)。
そのルオー父娘を高田が作った肖像彫刻。
父ルオーが元々ステンドグラス職人だったというのは存じませんでした。そういわれてみると、あの太い輪郭線で描いた宗教画には、ステンドグラスの影響がありありと見えます。
いただいてきた無料の簡易図録。

さて、帰宅したところ、東松山市役所の方からLINEにメッセージ。この日、同市を訪れたこととは関係なく、まったくの偶然ですが「今夜のテレビ東京『開運! なんでも鑑定団』で高田博厚の彫刻が出るそうです」とのことでした。何とタイムリーな。
拝見しましたところ、鑑定依頼品は「ロマン・ロラン像」。さっき見てきたばかりの高田博厚展に並んでいたものと同じものでしたので、さらにびっくり。
「高田は精神を……」云々は、ロランが語った言葉だそうで。拝見しましたところ、鑑定依頼品は「ロマン・ロラン像」。さっき見てきたばかりの高田博厚展に並んでいたものと同じものでしたので、さらにびっくり。
高田の紹介Vの部分では、光太郎についてもかなり触れて下さいました。
光太郎没後、記憶と写真を基に高田が作った光太郎像も。同一のものは東松山市の東武東上線高坂駅前彫刻プロムナードにも据えられています。
で、「ロマン・ロラン像」。鑑定金額は思ったより伸びませんでした。「ニセモノではないが、数多く鋳造されたうちの一つ」という扱いで。たしかにブロンズ彫刻は同一の型から鋳造されたものでも、いつ、どんなコンセプトで、誰が鋳造したか、といった要素でかなり価値の幅が出ます。それにしてもちょっと辛い鑑定のような気もしましたが。
TVerさんなどで配信が見られます。ぜひご覧下さい。東松山市の高田展も11月13日(木)までの開催でして、ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
お前の葉は皆平たい。さうでなく、お前の方へ葉の先が向く様におし。奥行きで作るのだ。平(ひら)で無くだ。いつでもさういふ様に仕事をおし。さうすれば表面が一つの塊まりの端と見える様になる。それでなくては彫刻はうまく行かない。
光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃
まだ一人前の彫刻家となる前の若き日のロダンが、修業先の石膏細工の先輩職人から言われた言葉です。無名のこの職人の教えが、ロダンの眼を開かせました。
彼等が手がけていたのは主に建造物の外壁の装飾でしたが、そこに葉っぱをあしらう際、葉っぱと言われて誰もが思い浮かべるこういうアングルでは立体感が出ない、というのです。
こうではなく、先端を手前に配せ、と先輩職人。
なるほど。
ちなみにこの葉は、光太郎智恵子ゆかりの花、グロキシニアです。5月くらいに咲き始め、以来、半年近くしぶとく花をつけ続けています(笑)。
ライトアップ3件 安曇野碌山美術館、二本松智恵子の生家、京都知恩院。
今週末から11月ですね。毎年そうなのですが「芸術の秋」ということで、関連するイベントが集中しています。「怒濤の11月」という感じです(笑)。既にこのブログで取り上げ開催中である諸館の企画展示や各種イベントも継続、さらにこれからご紹介すべき事項も20件を下りません。そこで関連するようなものは一括して扱わせていただきます。
今日のキーワードは「ライトアップ」。3件ご紹介します。
まず、光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館にして、光太郎ブロンズ彫刻も多数展示して下さっている信州安曇野碌山美術館さん。
通常の閉館後、無料開放だそうで。ただし複数ある展示棟のうちの本館にあたる碌山館のみライトアップ及び内部の観覧が可となります。
昨年は降雨のため中止となってしまったので、今年こそは、ですね。フライヤー画像は一昨年のものと思われます。建築家・今井兼次の設計になる教会風のロマネスク様式が実にいい感じですね。
開催順に、続いては福島二本松の智恵子生家。10月5日(日)、智恵子忌日の「レモンの日」に続いて2回目の開催です。
最後は京都から。
今日のキーワードは「ライトアップ」。3件ご紹介します。
まず、光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館にして、光太郎ブロンズ彫刻も多数展示して下さっている信州安曇野碌山美術館さん。
期 日 : 2025年11月1日(土) 雨天中止
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 17:00~19:00
料 金 : 無料
展示室は碌山館のみご覧いただけます。暖かい服装でお出かけください。昨年は雨で中止でしたので晴れるといいな~
展示室は碌山館のみご覧いただけます。暖かい服装でお出かけください。昨年は雨で中止でしたので晴れるといいな~

昨年は降雨のため中止となってしまったので、今年こそは、ですね。フライヤー画像は一昨年のものと思われます。建築家・今井兼次の設計になる教会風のロマネスク様式が実にいい感じですね。
開催順に、続いては福島二本松の智恵子生家。10月5日(日)、智恵子忌日の「レモンの日」に続いて2回目の開催です。
期 日 : 2025年11月16日(日)
会 場 : 智恵子生家 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 17:00~20:00
料 金 : 無料
こちらも通常の閉館後、無料開放となりますが、ライトアップ自体は館外から観る形になる感じです。開催中の「高村智恵子レモン祭」最終日を飾るイベント、といった位置づけのようです。最後は京都から。
期 日 : 2025年11月19日(水)~12月7日(日)
会 場 : 浄土宗総本山知恩院 京都市東山区林下町400
時 間 : 17:30~21:30
料 金 : 大人800円 小中学生400円
知恩院さんでは毎年、春と秋にライトアップが為され、光太郎の父・光雲が主任となって作られた露座のブロンズ聖観音菩薩像も照らし出されています。
こちらは期間が長く、関連行事等も充実しています。当方、ライトアップの時期には行ったことがありませんが、令和4年(2022)に妻がお友達と行きまして、画像を京都から送ってもらいました。自分でも行きたいのですが、先述の通り「怒濤の11月」で、あちこち飛びまわらなければなりませんで、なかなか京都までは足が向きません。
皆様はそれぞれぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
それ故此の正確な返相に忠実なら、モデルの実相は、皮相の再現でなくて、内面から発して来る様に見える。全体の確実、面の正確、芸術品の生命は其処から出て来ます。
「辺相」は、ほぼ「輪郭線」と同じ意味で、光太郎の造語と言われています。
知恩院さんでは毎年、春と秋にライトアップが為され、光太郎の父・光雲が主任となって作られた露座のブロンズ聖観音菩薩像も照らし出されています。
こちらは期間が長く、関連行事等も充実しています。当方、ライトアップの時期には行ったことがありませんが、令和4年(2022)に妻がお友達と行きまして、画像を京都から送ってもらいました。自分でも行きたいのですが、先述の通り「怒濤の11月」で、あちこち飛びまわらなければなりませんで、なかなか京都までは足が向きません。
皆様はそれぞれぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
それ故此の正確な返相に忠実なら、モデルの実相は、皮相の再現でなくて、内面から発して来る様に見える。全体の確実、面の正確、芸術品の生命は其処から出て来ます。
光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃
「辺相」は、ほぼ「輪郭線」と同じ意味で、光太郎の造語と言われています。
柳川一『三人書房』文庫版。
一昨年出た四六判単行本が文庫化されました。
光太郎の親友だった碌山荻原守衛は、パリからの帰国に際し、ロダンに別れの挨拶し、「帰国後は師と仰ぐべきものがないが、誰を師と仰ぐべきか」と尋ねると、ロダンから「自然、自然こそ最大の師ではないか」と諭されたそうです。
発行日 : 2025年10月24日
著者等 : 柳川一
版 元 : 東京創元社
定 価 : 780円+税
大正8年(1919年)東京・本郷区駒込団子坂。平井太郎は、通と敏男の二人の弟とともに《三人書房》という古書店を開いた。店には同年に亡くなった女優・松井須磨子の遺書らしい手紙をはじめ、奇妙な謎が次々と持ち込まれ──。同時代を生きた、宮沢賢治や宮武外骨、高村光太郎たちとの交流と不可解な事件の顛末を、若き日の平井太郎=江戸川乱歩を通して描く、滋味深い連作推理。著者あとがき=柳川一/解説=辻真先
目次
「三人書房」 「北の詩人からの手紙」 「謎の娘師(むすめし)」 「秘仏堂幻影」
「光太郎の〈首〉」
「光太郎の〈首〉」
五話の連作で、それぞれ江戸川乱歩がらみのミステリーです。表題作、そして表紙に描かれている「三人書房」は、史実で乱歩が弟たちと共に経営していた古書肆です。
最終話「光太郎の〈首〉」が、題名通り、光太郎彫刻に関わる事件を描いています。架空の事件ですが、さもありなんという感じです。
他の登場人物等は、宮沢賢治、横山大観、宮武外骨など。さらに物故者として松井須磨子や葛飾北斎、その娘お栄(応為)、岡倉天心、そして智恵子らにも触れられます。
単行本でお買い求め頂いていない方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
先づ第一に、芸術は唯自然の綿密な研究です。此が無くてはわらわれは救はれない。芸術家たり得ない。
最終話「光太郎の〈首〉」が、題名通り、光太郎彫刻に関わる事件を描いています。架空の事件ですが、さもありなんという感じです。
他の登場人物等は、宮沢賢治、横山大観、宮武外骨など。さらに物故者として松井須磨子や葛飾北斎、その娘お栄(応為)、岡倉天心、そして智恵子らにも触れられます。
単行本でお買い求め頂いていない方、ぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
先づ第一に、芸術は唯自然の綿密な研究です。此が無くてはわらわれは救はれない。芸術家たり得ない。
光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃
光太郎の親友だった碌山荻原守衛は、パリからの帰国に際し、ロダンに別れの挨拶し、「帰国後は師と仰ぐべきものがないが、誰を師と仰ぐべきか」と尋ねると、ロダンから「自然、自然こそ最大の師ではないか」と諭されたそうです。
テレビ放映情報 「わたしの芸術劇場 千葉県立美術館」「遠くへ行きたい【ますだおかだ増田が福島へ】名湯に絶品ソースかつ丼!」。
テレビ番組の放映情報を2件。
まず、明日です。
「美術館」を堅苦しい場所だと思っている方々へ送る。舞台を鑑賞しているような気持ちにしてくれ、番組を見た後は、美術館に足を運び、芸術に浸りたくなること間違いなし。
まず、明日です。
わたしの芸術劇場 「千葉県立美術館(千葉県千葉市)」
BS11(イレブン) 2025年10月18日(土) 10時35分~11時00分「美術館」を堅苦しい場所だと思っている方々へ送る。舞台を鑑賞しているような気持ちにしてくれ、番組を見た後は、美術館に足を運び、芸術に浸りたくなること間違いなし。
今回の舞台は、千葉県立美術館。印象派から近代まで、女性像を描くことに情熱を注いださまざまな芸術家の作品を紹介。女性の肌の表現を探求したルノワールのさりげない高度なテクニックとこだわり。彼の影響を受けた多くのフランスの芸術家。そしてその風は日本にも。油絵の枠を超えて様々な作品に大きな影響を与えた。女性の表現を追求し続けた芸術家たちに、大きな拍手を。
出演:片桐仁
元々はTOKYO MXテレビさんで放映されていたもので、今回のものは初回放映が令和4年(2022)2月12日でした。TOKYO MXテレビさん、自宅兼事務所のある千葉も田舎の方になると受信できず、当方も未見です。
メインで取り上げられるのはルノワールの絵画のようですが、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)も紹介されるようです。
千葉と光太郎智恵子の縁は浅くないということもあるのでしょう、同館では光太郎ブロンズをいずれも新しい鋳造ながら8点収蔵してくださっています。
同番組、7月に放映のあった中村屋サロン美術館さんの回では、光太郎の油彩「自画像」(大正2年=1913)を取り上げて下さいました。
もう1件、明後日です。
それぞれぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
――歩行は景色の真相を見つけ出すのに一番いい方法です。自分の好きな程歩けて、自分の好きな時に立ち停れて、そして何もかも見てたのしめます。
テレビで散歩番組などが隆盛なのも、こういうところからなのかも知れませんね。
出演:片桐仁

メインで取り上げられるのはルノワールの絵画のようですが、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)も紹介されるようです。
千葉と光太郎智恵子の縁は浅くないということもあるのでしょう、同館では光太郎ブロンズをいずれも新しい鋳造ながら8点収蔵してくださっています。
同番組、7月に放映のあった中村屋サロン美術館さんの回では、光太郎の油彩「自画像」(大正2年=1913)を取り上げて下さいました。
もう1件、明後日です。
遠くへ行きたい【ますだおかだ増田が福島へ】名湯に絶品ソースかつ丼!
地上波日本テレビ 10月19日(日) 06:30〜07:00ますだおかだ増田が福島の名湯と名物を巡る!
まずは安達太良山で高村光太郎の『智恵子抄』に登場する「ほんとの空」と、秘湯の源泉の場所を教えてもらう。麓にある共同浴場「岳温泉」にお邪魔して湯につかってホッと一息。福島名産「桃狩り体験」でジューシーな桃にかぶりつく。そしていよいよ標高1500メートルにある秘境の源泉と対面することに! 安達太良山の自然が育む湯と名物を巡る福島旅のはじまりです!
旅のはじまりは福島県二本松市にある安達太良山から。増田は今回の旅の目的を秘湯と「ほんとの空」だと話す。高村光太郎の『智恵子抄』に登場する「ほんとの空」が安達太良山にある、という。ロープウェイを降りると「安達太良・吾妻自然センター」の一瀬圭介さんが迎えてくれる。ほんとの空と秘湯の源泉もあると聞き、増田は一瀬さんといざ山道へ! 「この上の空がほんとの空です」との標識を見つけるが、残念ながら空には雲がかかっている。しかし、しばらくすると雲が晴れてきて――?!
安達太良山の麓にある「岳温泉」を散策する増田は、甘い匂いに誘われて「くろがね焼 玉川屋」へ。3代目・渡辺茂雄さんが目の前で焼いてくれる「くろがね焼」は玉子焼きのようないい香りがする! カステラ生地にこしあんが入ったシンプルな美味しさで岳温泉の名物だそう。
増田は渡辺さんがおすすめしてくれた共同浴場「岳の湯」へと向かう。湯の熱さが特徴だという。入浴料は大人400円、そのほかリーズナブルな値段で日帰り体験や素泊まりも可能だ。さっそく湯に入ろうとする増田、しかし本当に熱い! 先客の安齋善成さんが水道を少しひねって温度を調整してくれる。美肌の湯と有名なお湯の温度はなんと51度! さらに安齋さんが「湯守さんがいなくては湯を楽しめない」と教えてくれる。湯上がりに安齋さんの母・サチ子さんと対面した増田は、つやつやのお肌にびっくり!
次に増田は昼に行列のできていたソースカツ丼の店「成駒」を訪ねる。3代目・佐藤朋圭さんに「ソースカツ丼 ヒレ」をオーダーした増田は、出てきたカツ丼の分厚さとボリュームにびっくり! 成駒は昭和23年創業で、初代で祖父の伊助さんが終戦後の世でお腹いっぱい食べてほしい、との思いで始めたそう。その思いをつなげる朋圭さんの味と心意気に増田はうなる!
そしていよいよ標高1500メートルにある安達太良山の源泉を目指す! 増田は湯守の武田喜代治さんと遠藤憲雄さん、矢吹梓さんとともに山道を行く。途中までは車だが、かなりの悪路だ。それでも今日の安達太良山の空は青く、増田は「これがほんとの空?!」と感激する。源泉が通るパイプをさかのぼっていき、源泉のひとつに到着。透明なお湯が沸いている。ここから8キロ、約40分かけて麓の温泉へ流れていく。パイプの内側にはたくさんの湯花がついており、やわらかいうちに「湯花流し」という掃除を週に1度しなければならない。増田は湯守さんたちの労力を尊びながら、湯花流しをお手伝いする。
作業の終わりに増田は湯守さんおすすめの「ホテル光雲閣 山の湯 露天風呂」へ。湯花を流したあとの湯は乳白色になり「ミルキーデイ」と呼ばれている。増田は湯守さんたちに感謝しながらゆっくりと風呂につかる。
福島市には果樹園が多く、国道13号線は別名「ピーチライン」と呼ばれているそう。増田は「まるせい果樹園」を訪ね、全身ピーチ色の代表取締役・佐藤清一さんに迎えられる。桃には多くの品種があり、まるせい果樹園でも20~25種類ほどの品種を作っている。増田は佐藤さんと果樹園へ行き、佐藤さんが一番好きだという「川中島白桃」の収穫を体験! ジューシーな桃にかぶりついて大満足! 増田は佐藤さんに東日本大震災後の影響などについて聞きながら、温泉や桃、そして数々の名産を育む福島の自然と空を堪能した旅を振り返る。
出演者 ますだおかだ増田
智恵子のソウルマウンテン・安達太良山とその周辺です。旧安達町の智恵子生家/智恵子記念館までは行程に入っていないようで残念ですが、ロープウェイ山頂駅近くの「この上の空がほんとの空です」木柱が取り上げられます。それぞれぜひご覧下さい。
【折々のことば・光太郎】
――歩行は景色の真相を見つけ出すのに一番いい方法です。自分の好きな程歩けて、自分の好きな時に立ち停れて、そして何もかも見てたのしめます。
光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃
テレビで散歩番組などが隆盛なのも、こういうところからなのかも知れませんね。
平櫛田中関連 全日本大学ダンスフェス/旧宅保存クラウドファンディング。
今日、10月10日は光太郎の父・光雲の忌日です。昭和9年(1934)、数え83歳で、息子の光太郎より10年近く長命だったことになります。最期は胃ガンでした。
その光雲の名が、先週の『山陽新聞』さんに。ただし、弟子の平櫛田中を紹介する中でのものでしたが。
タイトル「燃ゆる鏡獅子―平櫛田中、木彫に捧ぐ血潮」(5分40秒)は、歌舞伎の六代目尾上菊五郎をモデルに田中が22年の歳月をかけ86歳で鏡獅子を完成させた道のりを描いている。
1~4年の部員30人は昨秋以降、平櫛田中美術館(井原市)を何度も訪れ、鏡獅子に見入った。「今にも動き出しそうな躍動感や圧巻の存在感…。学生たちが深い感銘を受け、田中さんをテーマに創作を思い立った」と小澤尚子監督。関連資料を読み込み、大学に歌舞伎役者を招いて動きを教わりながら振り付けやストーリーを仕上げたという。
はかま姿の田中ときらびやかな鏡獅子を中心に、血潮のごとく真っ赤な衣装の部員たちが躍動する。歌舞伎の見えを切るポーズや部員を担ぎ上げるリフト技、鏡獅子の豪快な毛振りを随所に取り入れ、終盤にはアクロバティックな空中交差を披露。全国優勝経験のある強豪・井原高新体操部出身の波多地陸人さん(19)、福田悠斗さん(18)の両1年生は「井原の偉人に関する作品で技を出せたのは光栄」と口をそろえる。
フェスティバルには24校が出場。特別賞は最優秀など四つの賞に次ぐ位置づけで、環太平洋大を含む4校が受賞した。主将の4年荻野清純さん(22)は「田中さんの名言「わしがやらねばたれがやる」の思いで一人一人が練習した結果、美術館をはじめ多くの方々の協力のおかげで受賞できた」と感謝している。
ズーム 平櫛田中 近代彫刻の第一人者・高村光雲に師事し、伝統的な木彫に西洋の写実性を加える技術を磨いた。1962年に文化勲章を受章。最晩年まで創作を続け、107歳で亡くなるまで現役を全うした。「鏡獅子」は36年に着手し、戦争の激化などによる一時中断を経て58年に完成。高さ2㍍超の威容や木肌の質感で田中芸術の集大成とされる。国立劇場(東京)の建て替えに伴い平櫛田中美術館に「里帰り」している。
地元の偉人、歌舞伎の演目(映画「国宝」がロングラン中ですし)と、着眼点が素晴らしいですね。演舞そのものも高評価を得たのでしょうが。ちなみに公式サイトによれば、「クロスカルチャーへの新しい挑戦」という枠組みでの特別賞受賞だとのこと。
先の話ですが、今回の受賞を受けて、井原市の平櫛田中美術館さんで開催中の企画展「彩色の世界―色から読み解く鏡獅子―」の関連イベントとして、同市での公演が開催されるそうです。
光太郎智恵子をモチーフとした舞踊も、これまでにぽつりぽつりと公演がありましたが、ごく最近は聞きません。また演じられてほしいものです。ちなみにこのブログの「舞踊」カテゴリ、最新の記事は昨年の4月、上野桜木町の旧平櫛田中邸で行われた「旧平櫛田中邸 de タコダンス」でした。たまたま田中旧邸での公演で、内容的には関連がありませんでしたが。
田中ついでにもう1件。ダンスの話題は田中の故郷・岡山井原でしたが、こちらは田中が版円の晩年の10年を過ごした東京都小平市から。
皆様もぜひご協力ください。
【折々のことば・光太郎】
――要するに、美は到る処にあります。美がわれわれの眼に背くのでは無くて、われわれの眼が美を認めそくなふのです。
「そくなふ」は「そこなう」の古語です。
その光雲の名が、先週の『山陽新聞』さんに。ただし、弟子の平櫛田中を紹介する中でのものでしたが。
大学創作ダンスの国内最高峰の大会、「全日本大学ダンスフェスティバル」(8月・神戸市)で、環太平洋大(岡山市東区瀬戸町観音寺)ダンス部が2年連続の特別賞に輝いた。井原市出身で日本近代彫刻の巨匠・平櫛田中の傑作「鏡獅子」から着想を得て、田中の生きざまや鏡獅子の迫力をダンスで表現し、高い評価を受けた。
タイトル「燃ゆる鏡獅子―平櫛田中、木彫に捧ぐ血潮」(5分40秒)は、歌舞伎の六代目尾上菊五郎をモデルに田中が22年の歳月をかけ86歳で鏡獅子を完成させた道のりを描いている。
1~4年の部員30人は昨秋以降、平櫛田中美術館(井原市)を何度も訪れ、鏡獅子に見入った。「今にも動き出しそうな躍動感や圧巻の存在感…。学生たちが深い感銘を受け、田中さんをテーマに創作を思い立った」と小澤尚子監督。関連資料を読み込み、大学に歌舞伎役者を招いて動きを教わりながら振り付けやストーリーを仕上げたという。
はかま姿の田中ときらびやかな鏡獅子を中心に、血潮のごとく真っ赤な衣装の部員たちが躍動する。歌舞伎の見えを切るポーズや部員を担ぎ上げるリフト技、鏡獅子の豪快な毛振りを随所に取り入れ、終盤にはアクロバティックな空中交差を披露。全国優勝経験のある強豪・井原高新体操部出身の波多地陸人さん(19)、福田悠斗さん(18)の両1年生は「井原の偉人に関する作品で技を出せたのは光栄」と口をそろえる。
フェスティバルには24校が出場。特別賞は最優秀など四つの賞に次ぐ位置づけで、環太平洋大を含む4校が受賞した。主将の4年荻野清純さん(22)は「田中さんの名言「わしがやらねばたれがやる」の思いで一人一人が練習した結果、美術館をはじめ多くの方々の協力のおかげで受賞できた」と感謝している。
ズーム 平櫛田中 近代彫刻の第一人者・高村光雲に師事し、伝統的な木彫に西洋の写実性を加える技術を磨いた。1962年に文化勲章を受章。最晩年まで創作を続け、107歳で亡くなるまで現役を全うした。「鏡獅子」は36年に着手し、戦争の激化などによる一時中断を経て58年に完成。高さ2㍍超の威容や木肌の質感で田中芸術の集大成とされる。国立劇場(東京)の建て替えに伴い平櫛田中美術館に「里帰り」している。
地元の偉人、歌舞伎の演目(映画「国宝」がロングラン中ですし)と、着眼点が素晴らしいですね。演舞そのものも高評価を得たのでしょうが。ちなみに公式サイトによれば、「クロスカルチャーへの新しい挑戦」という枠組みでの特別賞受賞だとのこと。
先の話ですが、今回の受賞を受けて、井原市の平櫛田中美術館さんで開催中の企画展「彩色の世界―色から読み解く鏡獅子―」の関連イベントとして、同市での公演が開催されるそうです。

田中ついでにもう1件。ダンスの話題は田中の故郷・岡山井原でしたが、こちらは田中が版円の晩年の10年を過ごした東京都小平市から。
平櫛田中彫刻美術館は作品展示をする展示館と、平櫛田中が実際に暮した旧宅(記念館)の二館併設の美術館です。昭和43年(1968)に竣工した記念館は、老朽化が著しく、令和元年より実施した耐震診断で基準を大きく下回る結果となりました。それを受けて令和5年度には耐震補強・改修工事の設計を行ない、翌6年度より工事を実施しています。令和7年度には工事を完了し、再び一般公開できるようつとめてまいります。近代彫刻の巨匠が暮した記念館を後世へ保存し再び活用するため、皆様のご協力をお願いいたします。
寄附について
募集期間:令和7年10月1日(水曜)~12月29日(月曜)
目標金額:200万円 一口1円より寄附いただけます。ただし、インターネットサイト「ふるさとチョイス」で寄附される場合は、最低金額は2,000円になります。なお、税額控除は2,000円以上から発生します。
寄附金募集の目的:平櫛田中の旧宅(記念館)の耐震補強・改修工事を実施するとともに芸術文化振興の活性化を図る
(注)寄附金が目標額に達しなかった場合、いただいた寄附金は工事をするために必要な費用の一部に充てさせていただきます。
寄附の手続き方法
[1]インターネットでの寄附
ふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」のページ(準備中)より寄附いただけます。上記の期間中にご覧ください。
[2]納付書での寄附
小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾)(PDF 197.1KB)に必要事項をご記入いただき、小平市役所財政課にご提出ください。後日、納付書をお送りしますので、金融機関または郵便局にてお支払いください。
[3]現金書留による寄附
小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾)(PDF 197.1KB)に必要事項をご記入いただき、現金書留に同封し小平市役所財政課に郵送ください。
[4]現金持参による寄附
平櫛田中彫刻美術館または小平市役所財政課にお越しいただき、小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾)に必要事項をご記入のうえ、現金にてお支払いください。美術館に来館された方にはその場で預り証と返礼品(対象者のみ)をお渡しいたします。
PDFデータはこちら小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾(PDF 197.1KB))、小平市寄附申請書記入例(PDF 224.1KB)
Excelデータはこちら小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾(Excel 33.1KB))
送付先 〒187-8701 東京都小平市小川町2-1333 小平市役所 企画政策部 財政課 財政担当
(注)申請書を郵送いただく場合、郵送料はご負担いただきます。
問合せ先 小平市役所 企画政策部 財政課 財政担当 042-346-9504
返礼品について
寄附金額にあわせて返礼品をお渡しします。金額ごとの返礼品は以下の通りです。
1万円以上 図録等(美術館が発行する作品集や、過去の特別展の図録等)
5千円以上 エコバッグ・封筒・一筆箋・クリアファイル大のセット
2千円以上 絵はがきセット・クリアファイル大のセットまたは手ぬぐい
(注1)小平市在住の方には返礼品をお渡しできません。
(注2)美術館へお越しの方は、その場でお渡しします。
それ以外でご寄附いただいた方には、後日郵送いたします。
それ以外でご寄附いただいた方には、後日郵送いたします。
返礼品の内容
返礼品の対象となる図録等は、記念館記録集(2025年刊行予定)、「彫刻コトハジメ」(2018年)、「ロダンと近代日本彫刻」(2016年)、「ジャパニーズ・ヴィーナス彫刻家・藤井浩祐の世界」(2014年)、「仏像インスピレーションー仏像に魅せられた彫刻家たちー」(2008年)、「石井鶴三展」(1999年)です。
「ジャパニーズ・ヴィーナス彫刻家・藤井浩祐の世界」と「石井鶴三展」は、いずれも「平櫛田中作品集」とセットになります。絵はがき、クリアファイル、一筆箋、手ぬぐいの柄は選べません。
昨年、第2弾が行われ、当会として微力ながら協力させていただきました。こちらでも光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動を行っておりますので、他人事ではないなという感じで。今回も現金書留にて送る予定です。皆様もぜひご協力ください。
【折々のことば・光太郎】
――要するに、美は到る処にあります。美がわれわれの眼に背くのでは無くて、われわれの眼が美を認めそくなふのです。
光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃





























































































































































































































