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開催中の展覧会を報じた報道から2件。

まずは上野の東京藝術大学大学美術館さんでの「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」につき、『朝日新聞』さん。

西洋彫刻で見いだす台湾 黄土水展

 台湾出身者で初めて東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学した彫刻家・黄土水(こうどすい)(1895~1930)に焦点を当てた「黄土水とその時代」展が、東京・上野の東京芸術大学大学美術館で開かれている。
 黄土水は、高村光雲に師事して彫刻を学び、計4度の帝展入選を重ねた。将来を期待されたが、病のため35歳で急逝。今展では黄土水の作品群と共に、芸大コレクションの中から黄土水が学んでいた頃の日本の洋画や彫刻なども展示し、当時の美術界の様子を浮かび上がらせている。 展示の目玉は、帝展入選作の一つで、昨年台湾の国宝に指定された大理石彫刻の「甘露水」(1919年)だ。長らく所在が分からなくなっていたが、2021年に見つかった。同美術館の村上敬準教授は「西洋彫刻を学びながらも、自分のルーツである台湾を表現しようとしていた。『甘露水』も、西洋の理想化された身体ではなく、東洋人の体格で作られている」と話す。10月20日まで。
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続いて、智恵子の故郷・二本松市の大山忠作美術館さんで始まった「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」。KFB福島放送さんのローカルニュースから。

大山忠作さんの襖絵 二本松市に里帰り(福島)

 千葉県の成田山新勝寺で、門外不出とされていた襖絵が、作者である大山忠作さんのふるさとの二本松市に里帰りしました。
 6枚から8枚のふすまを組み合わせて1つの作品となる襖絵。二本松市出身の画家・大山忠作さんが約45年前に手掛けた物で、千葉県の成田山新勝寺に飾られていました。
 「日月春秋」をテーマに描かれた襖絵には、ふるさと福島の自然美も表現されています。
初日の1日はオープニングセレモニーが行われた後、大山さんの長女の采子さんが作品を「戦争で生きるか死ぬかの時に、もし生きて帰ることができたら、自分は絵だけを描いて生きていこう、そういう風に決めて見ていたお日さま。それを父は昇る朝日に置き換えまして、成田山に奉納する襖絵の題材として描きました。」と解説しました。
 訪れた人は「一度見てみたいなと思っていたので、間近に見れて本当に素晴らしいなって。今感動しています。」と話していました。
 この襖絵は、大山忠作美術館の開館15周年を記念して、11月17日まで展示されています。
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画伯のお嬢様・一色采子さん。女優としてのお仕事でない時は、ご本名の「大山采子」さんで通されています。談話の中に戦争云々のお話がありますが、画伯、昭和18年(1943)に東京美術学校を繰り上げ卒業となり、熊谷の航空基地に。その後、フィリピン、台湾と転戦されたそうです。
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ある時、一色さんとお話をしていて信州上田の無言館さんの話題となり、「うちの父も、もしかするとあそこに作品が展示されるようになっていたかも」とおっしゃっていました。

そう考えると、朝日を描いた襖絵、地上からの眺めでなく、軍用機のコックピットで観た俯瞰のような気もします。こじつけでしょうか。

さて、両展、是非とも足をお運びいただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

自分ながら変な親爺と思ひますが争ひがたい都会性と野人性との混淆を感じました。

昭和24年(1949)11月8日 濱谷浩宛書簡より 光太郎67歳

写真雑誌『アサヒカメラ』の取材で、光太郎の蟄居する花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた写真家・濱谷から贈られた自らの写真に対する感想です。
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都会性と野人性との混淆」は、遠く明治44年(1911)に書かれた詩「声」で、既に扱われていたテーマです。

昨日は上京しておりました。メインの目的は光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関連して。また詳しくご紹介いたしますが、中野たてもの応援団さんの企画に乗っかる形で、11月に中野ZEROさんにおいて企画展示を行います。その展示用備品の確認でした。

そちらの終了後、原宿へ。エンパシーギャラリーさんで開催中の彫刻家・瀬戸優氏の個展「ime Traveler」を拝見して参りました。
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今回並んでいるのほとんどの作が動物をモチーフとした具象彫刻で、目玉の一つが光太郎の父・光雲の「老猿」(明治25年)オマージュのもの。
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マルチアーティスト・井上涼氏曰くの「黙すれど語る背中」もしっかり再現。
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事前に画像を拝見して、粘土なんだろうな、と思っていましたが、焼成して着色したテラコッタとのこと。画廊オーナーの方がギャラリートーク的にいろいろとご説明下さいました。その中で「へー」と思ったのが、目の処理。

仏像の玉眼のように、裏側からガラスを嵌め込み、着色。そして瞳がどの角度から見てもこちらを向くようにしてあるというのです。秘密の技法があるようで、これには驚きました。
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他の作。
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テーマの一つが「オマージュ」だそうで(猿もそうでしたが)、他にも過去のいろいろな系統からのオマージュが。上画像の犬は古代エジプトのアヌビス神像ですし、同じエジプトのカノプス壺(ミイラ制作の際に取り出した臓物を入れる容器)も。
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西アジアから広まった祭器・リュトン。
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一見、木彫に見えますが(それを狙っているようです)これもテラコッタ。

さらに東洋の十二支。
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今年の干支、辰(ちなみに当方、年男です(笑))。

他にもライオンやら狼やら。
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硬く焼き締められたテラコッタでありながら、もふもふ感が感じられるのが不思議です。そして躍動感というか、ムーヴマンというか、まぁ、光太郎曰くの「生(ラ・ヴィ)」ですね。アカデミックなにおいのしないワイルドさが好ましいところです。

下世話な話になりますが、かなり売約済となっていました。
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「老猿」も。シールで隠れて価格が見えなかったので訊いたところ、99万円だったそうですが。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

会期は明後日まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

お便りと「パンの会」といただき、ありがたく存じました。此の本は大変立派でパンの会にふさはしいと思ひました、かういふ混雑した時代の事を後で書き分けるのは随分苦労なことと推察します。

昭和24年(1949)8月5日 野田宇太郎宛書簡より 光太郎67歳

「パンの会」は明治末に起こった芸術運動。光太郎の欧米留学中に木下杢太郎、北原白秋、吉井勇らが始め、帰国した光太郎もたちまちその喧噪に巻き込まれます。連翹忌会場の日比谷松本楼さんでも大会が行われたことがありました。

評論家・野田宇太郎は文学散歩的な視点をメインに明治大正の文学史を俯瞰した書物を多く著しましたが、『パンの会』もその一つ。旧悪とまでは行きませんが、若気の至りの数々を記録に残された光太郎、苦笑しながらも懐かしんでいたのではないかと思われます。

都内で彫刻家の方の個展です。

瀬戸優個展「Time Traveler」

期 日 : 2024年9月7日(土)~9月23日(月・祝)
会 場 : エンパシーギャラリー 渋谷区神宮前3丁目21-21 ARISTO原宿2階
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料 

生命の息吹を宿す動物彫刻で知られる瀬戸優が、本展で新たな挑戦に挑みます。

テーマは「Time Traveler」。さまざまな時代に生きた動物たちを彫刻として再現し、時を越えて伝わるその存在感を感じていただける作品が並びます。

本展は、瀬戸優にとって今年最大規模の展覧会となり、34点の作品が出品されます。

ぜひ、この特別な機会にご来場ください。

今回の展示は、瀬戸優にとって初めての「オマージュ」に焦点を当てた試みです。耐久性の高い彫刻作品は、長い年月を経てもなお、私たちに語りかけてきます。古代エジプトの「アヌビス神像」(紀元前1500年)から、19世紀の「老猿」(1893年)まで、幅広い時代と地域の動物彫刻にインスパイアされた作品が展示されます。

前回の個展「星を数える」に続き、今回は「時間」に秘められたロマンを感じ取っていただければ幸いです。
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瀬戸氏ご本人が Instagramのテキストアプリ「Threads」上に作品画像を公開されており、光太郎の父・光雲の「老猿」オマージュの作もアップされています。
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「Threads」テキストによれば、光雲の「老猿」制作の背景もきちっと押さえた上で作られているそうです。「老猿」制作中に、光雲の数え十六歳だった長女の咲(さく)が肺炎で亡くなっています。咲は狩野派の絵師に学び、将来を嘱望される腕前でした。後の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)にそのあたりが語られています。
 総領の娘を亡くした頃のはなし
 栃の木で老猿を彫ったはなし

また、光太郎の回想「姉のことなど」(昭和16年=1941)にも。光太郎は数え十歳でした。

 明治二十五年には姉さんも十六歳になつた。絵画の技倆は驚異的に上達して来た。いよいよこれからといふ其年の九月九日に此の姉さんが死んだ。
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 黙りかへつた家内中の人に囲まれて姉さんはいつものやうに臥てゐた。苦しさうであつたやうな気がしない。母が私の手を持ち添へて、枕元にある茶碗の水を細長い小さな紙に浸まして姉さんの少しあいてゐる口を塗らした事をおぼえてゐる。みんなが泣いてゐたやうだつたが私は泣いたやうに思はない。その時祖父さんがいきなり叱るやうな声で「親不孝め」と言つたので驚いた事が頭に残つてゐる。
(略)
 八月末からは臥たきりであつたやうだ。或る夕方祖父が井戸端でつるべの水を頻に浴びてゐるのを見たので暑いからだと思つてゐたが、後年それは水垢離をとつてゐたのだときかされた。これもあとで聞くと、姉さんは裏隣にあつた総持寺といふ寺の不動尊にひそかに願をかけて、父の無事息災を祈り、父の災難の身代にさせてくれと願つてゐたのださうである。その年が丁度父の厄年にあたり、しかも美術学校で父が高いところから落ちた事があつたりした。其上、父はシカゴ大博覧会へ出品する大きな木彫の猿を作りかけて、これが中々はかどらないやうな状態の時であつた。


このあたりを受けて、瀬戸氏曰く「光雲の無念さははかり知れず、何も手につかないほど落胆したが、制作を通じて気力を取り戻していったという。このエピソードを知り、老猿の迫力の秘密がわかった気がした。我々作家にとって、作品制作だけが精神を安定させ、自身を幸福に導いてくれる」。

なるほど。

他にも動物系の具象作品が多いようですが、不思議な迫力に満ちた作品群です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

油画の方でも梅原安井程度でゆきどまりではなりません。もつと大きくひらけて油画の大道に出ねばならぬと考へます。あれだけではひどく小さいです。

昭和24年(1949)6月21日 椛沢ふみ子宛書簡より光太郎67歳

自らは蟄居生活を送りながらも、美術界に対する期待は大きかったのですね。

9月11日(水)、上野の東京藝術大学大学美術館さんで拝観した企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」レポート2回目です。

まず前室に展示されていた光太郎や光太郎の父・光雲らの作を堪能した後、いよいよメインの台湾人彫刻家・黄土水の作品が並ぶ奥の展示室へ。

中央にドーンと目玉作「甘露水」。
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大理石の白い石肌が何とも云えず艶やかです。ロダンの「接吻」を想起しました。大正11年(1922)に発表された作とのことですが、明治31年(1898)に大理石像が発表された(ブロンズはもっと前)「接吻」について黄が情報を得ていたかどうか、何とも云えませんが。

ただ、大理石であっても荒々しさの残るロダンとは異なり、とにかく優美な作です。そういう意味ではロダン以前のアカデミックなベルニーニあたりの影響の方が強いのかな、という感じでした。

像の足もとに配された貝など、いかにもバロック的です。
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それにしても、大理石という素材の特性をうまく生かしていると思わせる作品でした。

この時代、既に他の日本人彫刻家も大理石像を手がけており、手元にある「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)の図録などを見ると、複数の作家が大理石像を出品しています。しかし、あくまで写真を見てだけの感想ですが、「甘露水」には及ばないという感じです。中には「これを大理石で作る必要性があるの?」とか「明治の牙彫と変わらないじゃん」とかいう雰囲気のものも。作家名を挙げることは控えますが。ところでどちらにも黄の作品は出ていませんでした。

ちなみに光太郎も大正6年(1917)に大理石彫刻を手がけましたが、残念ながら作品の現存が確認できていません。

閑話休題、他の黄作品。
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ブロンズ系。つまり削って作るカービングではなく、粘土を積み重ねる塑像が原型でしょう。

ここから下は木彫です。
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カービングもモデリングも高いレベルで器用にこなしていたんだな、と思いました。それだけに「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)などに出品していないのが不思議でした。帝展等には入選歴があるのですが。
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帰りがけ、受付で簡易図録(500円)をゲット。
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全24ページの薄いもので光太郎・光雲らの出展作は網羅されていませんが、メインの黄作品は全て掲載されています。

館を出ると、コロナ禍の頃は学外の人間は立ち入り禁止だったエリアにも入れるようになっているのに気づきました。となると、ご挨拶せねば。

光太郎作の「光雲一周忌記念胸像」。
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光太郎以外によるこの手の大学功労者の像が複数並んでいますが、これが出色の出来、と思うのは贔屓しすぎでしょうか(笑)。

さて、「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」展、10月20日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。併せてすぐ近くの東京国立博物館さんの常設展「近代の美術」も。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家聯盟の展覧会がありました由いい彫刻家がせめて四五人出てくれるやうにと祈つてゐます。貴下も御精励をねがひます。世界の彫刻を日本がひきうけねばなりません。

昭和24年(1949)6月17日 西出大三宛書簡より 光太郎67歳

戦争の傷跡からも立ち直りつつあり、光太郎の期待通りいい彫刻家が出て来ます。佐藤忠良、舟越保武、柳原義達、本郷新、木内克、菊池一雄などなど。ある意味、光太郎のDNAを継ぐ者たちです。

昭和5年(1930)に満35歳で亡くなった黄なども、戦後まで生きながらえていれば……と思われますが。

上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。昨日、拝見に行って参りました。
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展示会場は3階の2室を使い、奥がメインの展示・台湾から東京美術学校に留学していた黄土水の作品群。
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手前が前座的に黄が師事した光雲や同時代ということで光太郎などの作品群でした。まずはそちらから。

いきなり最初に光雲作品が出迎えてくれます。
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作品というより、学生たちに示すための教材ですね。ラベルにも「標本」とあります。文殊菩薩像を木寄せで作る際の、いわば3D設計図のような。

同様の用途でしょう、観音像の頭部のみ。
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「聖徳太子像」は「作品」として制作されたと思われますが、ことによるとこうしたものも学生たちに手本として示されたかもしれません。
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太子、イケメンです(笑)。

さらに光雲の作が続きます。
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「鷹」。羽根の先端や俵を縛る縄など、細部まで作り込まれています。
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「蘭陵王」。以前に見た時はアタッチメントの面を装着した状態でしたが、今回は外されていて、ラッキーでした。
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「狸」。擬人化された法師の姿です。ここまでの作は、全て一度は他の機会に見たことがあるものでしたが、これは初見。その意味では最も見たかった作品でした。類例は清水三年坂美術館さんやその出開帳などで見たことがありましたが、そちらは立ち姿でした。

この「狸」は、光太郎の「蓮根」と並べてありました。父子競演です。ところでSNS上で父子を混同している投稿をよく見かけます。「高村光雲のレンコン」などと……なげかわしいところです。
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「蓮根」、令和元年(2019)に藝大さんに寄贈されたものです。翌年の「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」で展示されて以来かな、と思われます。コロナ禍もありましたし。
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光太郎作品はもう1点。卒業制作の日蓮像「獅子吼」が出ています。こちらはブロンズです。
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木を削って作るカービングと、粘土を積み上げて形にするモデリング、双方で一流の彫刻家というのも日本ではあまり多くないのでは、と、改めて思いました。光雲はカービングの人ですし、光太郎の親友だった荻原守衛にはカービングの作は無いと思われます。

その守衛の「女」。
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ブロンズは一つの型から鋳造したものが複数存在することが多いのですが、「女」も全国にどれだけあるのか当方も存じません。都内だけでも少なくとも5点は把握していますが。

こちらには「伊藤美術鋳造研究所鋳」の刻印。
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光太郎最後の大作「乙女の像」の鋳造を担当した伊藤忠雄の工房です。「おお!」と思いました。

カービングにもどると、光太郎の同級生だった水谷鉄也、光雲高弟の一人・平櫛田中など。

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冒頭の「文殊木寄」や「観音像頭部」のように、教材として使われたであろう手板がずらっと。この手のものが一時、大量に処分されてしまったという話を聞いたことがあるのですが、現存もしているのですね。いちいち作者の銘が入っていません。
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モデリングの方では、中原悌二郎、池田勇八、石井鶴三、朝倉文夫など。
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こちらはほとんど撮影禁止でしたが絵画も。津田青楓、和田英作らにまじって、彫刻科を卒(お)えてから光太郎が入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二など。
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そしていよいよ今回の目玉の黄土水ですが、長くなりましたので、また明日。

【折々のことば・光太郎】

田植の頃に花巻から賢治子供の会の皆さんがはるばる来てくださることもう三度目となりほんとに一年に一度めぐつてくるこよない幸福の日と思ひました 昨日は「雁の童子」だつたので一入感動いたしました 子供等は無邪気にやるのでせうが作の持つ美しさと深さとが自然と素直に表現せられて心にしみ入るやうでした。


昭和24年(1949)6月13日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎67歳

児童劇団「花巻賢治子供の会」の太田村公演に対する礼状の一節。そもそもは光太郎に見てもらうために旧太田村で公演を打っていました。













上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。戦前の台湾から藝大さんの前身・東京美術学校に留学し、光太郎の父・光雲に師事した黄土水(こうどすい)の作品を中心とした展示です。台湾の国宝に指定された大理石の「甘露水」ほか黄作品10点と、師・光雲、そして同時代ということで光太郎らの作品も出ています。

展示開始前日の9月5日(木)、『毎日新聞』さん夕刊で、1面トップと社会面トップで長大な関連記事が出ました。あまりに長いので全文はご紹介しませんが、非常に読み応えのあるいい記事でした。それによると、今回の目玉でフライヤーにも使われている「甘露水」は、黄が昭和5年(1930)に歿したあと台湾に運ばれましたが、その存在が忘れられていき、昭和33年(1958)には元の保管場所から移される中で行方不明となっていたそうです。それが令和3年(2021)に現存が確認され、国宝指定されました。

背景には15年戦争による日台の複雑な関係が。中国本土でもそういうことがありましたが、戦後、日本がらみのものはことごとく排斥の対象となり、そのため「甘露水」も移送途中で放棄に近い状態となるなどぞんざいな扱いを受け、このままでは処分されてしまうと危惧した芸術に理解のあった医師が秘匿していたというのです。また、汚損を修復した日本人技師の苦労話なども紹介されていました。

8月30日(金)のやはり『毎日新聞』さんには、そのあたりの細かな点は出ませんでしたが、ダイジェストというか、9月5日(木)に出る記事の予告編のような記事が。そちらは短いので引用させていただきます。

所在不明60年後、台湾彫刻の幻の傑作「発見」 東京芸大で展示へ

020 大正時代に東京美術学校(現・東京芸術大)に入学し、高村光雲に師事しつつ、自ら西洋彫刻も学んだ台湾人の天才彫刻家、黄土水(こうどすい)(1895〜1930年)。その「幻の傑作」とされた彫像「甘露水」(1919年)が新型コロナウイルス禍の2021年5月、台湾中部のプラスチック工場に置かれた木箱の中から姿を現した。
 戦後に行方不明になってから、実に60年以上の歳月が流れていた。その「発見」は台湾の美術関係者に衝撃を与えた。
 甘露水は1921年に日本の帝展に入選した作品。大理石の彫像で、裸身の女性が大きな貝がらを背に立つ姿から、「台湾のビーナス」とも称される。ただ、西洋のビーナスの姿とは異なる。西洋の方は恥ずかしそうに身をよじっているのに対し、黄の女性像は顔を上げ、堂々とした姿だ。
 黄の死後、日本から台湾に運ばれた甘露水は、台北市の台湾教育会館(現・二二八国家記念館)が所蔵していたが、戦後、この建物は台湾省臨時省議会に替わった。議会は58年に台中への移転が決まり、4月に建物内の文物が台中に運ばれた。ところが、その引っ越しの過程で甘露水は一時、台中駅に放置され、その後こつぜんと姿を消した。
 台湾美術史に重要な位置を占める甘露水を多くの美術関係者が捜し求めた。「発見」に尽力した台北教育大北師美術館創設者で総合プロデューサーの林曼麗(りんまんれい)氏は、曲折を経た約60年の間、甘露水が無事だったことは奇跡に近いと考えている。
 なぜ木箱の中にあったのか。入選から100年という節目の年に姿を現したのは単なる偶然なのか。その驚きの秘話には、台湾の激動の歴史も大きく絡んでいた。
 彫像は黄の母校、東京芸術大の大学美術館で9月6日から展示される。
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当方、本日これから拝観に行って参ります。当初あげられていなかった「出品目録」が公式サイトにアップされまして、光太郎作品は予想通り木彫の「蓮根」(昭和5年=1930頃)とブロンズの「獅子吼」(明治35年=1902)ですが、光雲の木彫が6点も出ています。これは貴重な機会です。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

例年の通りいろんなものを作つてゐますが夜の間に狐や兎が畑を掘り起こして肥料に入れたヌカや魚の骨などをたべてしまひ、苗を倒すので困つてゐます。

昭和29年(1954)6月10日 高村美津枝宛書簡より 光太郎67歳

令姪への微笑ましい書簡の中から。もっとも光太郎にとっては死活問題に近いのかも知れませんが(笑)。

千葉県立美術館さんでは「移動美術館」と称し、所蔵品の出開帳を毎年行っています。毎回異なるコンセプトでテーマを決めています(光太郎をメインテーマにして下さった回もありました)が、そのテーマに縛られない名品も別に展示し、その中にはほぼ毎回光太郎ブロンズも含まれます。

今回も。

多古町合併70周年記念 第48回千葉県移動美術館~田んぼの美~

期 日 : 2024年9月15日(日)~10月8日(火)
会 場 : 多古町コミュニティプラザ 千葉県香取郡多古町多古2855
時 間 : 9時~16時
休 館 : 月曜日 ※9月16日、23日は開館
料 金 : 無料

県立美術館では、より多くの方に作品鑑賞の機会を提供し、芸術に触れ親しんでいただくため、県内各地で収蔵作品を展示する「千葉県移動美術館」を昭和52年から開催しています。

48回目となる今回は、多古町合併70周年を記念し「多古町コミュニティプラザ」を会場として、「田んぼ」をテーマに開催します。地域の歴史と稲作が密接に結びついてきたこの地で、私たちの暮らしと田んぼ、そして美術の間にある深い関係性を探ります。

主な展示作品
・堀江正章《耕地整理図》1901-02年
・浅井忠《農家風俗画手塩皿》1902-07年
・津田信夫《鯰》1941-43年

ギャラリートーク
県立美術館の担当学芸員が作品の見どころなどを解説します。(事前申込不要)
 9月22日(日)11時~ 9月28日(土)13時30分~ 料金 無 料
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[]光太郎はフライヤーに名があるものの出品作品名が明記されておらず、問い合わせたところ、ブロンズの代表作「手」を出すとのことでした。

千葉県と光太郎の縁も意外と深い(銚子犬吠埼で智恵子と愛を誓ったり、九十九里浜で智恵子が療養していたり、成田三里塚の親友水野葉舟をたびたび訪ねたり)ということで、同館では光太郎ブロンズを8点(すべて没後鋳造ですが)収蔵してくださっていて、花巻高村光太郎記念館さん、信州安曇野碌山美術館さんにつぐコレクションです。同館コレクションとしても一つの目玉となっているため、そこからも選ぶというわけでしょう。

他に光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝となった豊周の師・津田信夫の鋳金作品も。
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制作年が昭和16年(1941)~同18年(1943)ということで、大正期に作られた光太郎の木彫「鯰」からのインスパイアなのでしょうか?

それからメインテーマの「田んぼの美」。ちなみに会場の多古町はブランド米「多古米」の産地で、町のゆるキャラ「ふっくらたまこ」もお米由来です。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

去年十月に理髪したきりゆかないので髪はのび放題で俊寛さまのやうな事になりました。

昭和24年(1949)6月2日 宮崎稔宛書簡より光太郎67歳

俊寛さま」は平安時代末、鹿ヶ谷で平家政権転覆を目論む会合を開いたかどで薩摩の鬼界ヶ島に流された僧侶。のちに共に流された二人は恩赦で帰京しましたが、俊寛はその対象とならず、島に残されました。「平家物語」の有名な一場面ですし、歌舞伎の演目にもなっていますね。
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右上は翌年の写真ですが、なるほど、ボサボサの頭が俊寛感を醸し出しています(笑)。

光太郎、自らの山小屋生活を「自己流謫」と名づけました。「流謫」は「流罪」と同義。公的には戦犯として訴追されることはありませんでしたが、自らを罰したわけです。その意味では俊寛にシンパシーを感じるところもあったのでしょうか。

会期残りわずかですが……。

齊藤秀樹展 ― 一木(いちぼく)―

期 日 : 2024年8月28日(水)~9月9日(月)
会 場 : 新宿高島屋10階美術画廊 渋谷区千駄ヶ谷5丁目24番2号
時 間 : 午前10時30分~午後7時30分 最終日のみ午後4時閉場
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

齊藤秀樹氏は、1969年東京に生まれ、1993年大阪芸術大学芸術学部美術学科彫刻コース専攻科修了。自然をテーマに掲げ、猫やトカゲ、金魚や蝶など子供の頃に触れてきた身近な生き物や植物たちを実物大の木彫にて表現し、個展・グループ展、アートフェアなど精力的に発表を続けています。 その精巧な描写、実物大にこだわり制作されていくことで、今にもそこから動き出すかのような空間を放ち、情景さえも想起させてしまうリアルな表現は、動植物の息吹やぬくもりをも感じさせると同時に、木彫だからこそ得られる「木」そのもの香りやぬくもりをも感じることができます。 今展では、大人になり忘れてしまいがちな、人々の心の中にある自然との「思い出」や「記憶」をそれぞれに喚起する最新作の一木造りの木彫達を中心に、様々な自然に生きる生物たちを一堂に展観いたします。この機会にぜひご高覧ください。

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木彫作家の齊藤氏、動物をモチーフとした作品等も手がけられ、その方面での大先達である光太郎の父・光雲作品オマージュなども作られています。

今回展示されている「矮鶏(ちゃぼ)」。氏のX(旧ツィッター)投稿から画像をお借りしました。
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同じ作品は一昨年、西武池袋本店さんで開催された「齊藤秀樹 木彫展~人のそばにいる自然 自然の中にいる人~」でも展示されました。

宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の光雲木彫「矮鶏」(明治22年=1889)の雄鶏の方をモデルとなさったものです。
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光雲の「矮鶏」、当初は一般人から注文を受けて制作されたものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが観覧に来た明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その経緯や制作の苦心譚など、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。


これ以外にも「鳥獣戯画」オマージュの作品、オリジナルの愛らしい柴犬や保護猫なども展示されています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

三好達治さんが来訪されたのには驚きました。どういふわけで来訪されたのかいまだに分かりません。訪問記でも書かれるのでせうか。


昭和24年(1949)5月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村にひょっこり三好がやってきたのは前月のことでした。この時の模様を三好は「高村光太郎先生訪問記」(『文芸往来』第三巻第七号)に詳しく書きました。ただ、初めからそのつもりだったわけでもないようで、こう書いています。

 妙なことをいふやうだが、もともと私は格別な用件をもつて、こんな山間に高村さんをお訪ねしたわけではなかつた。久しぶりで一寸お目にかかりたかつた、さうして暫く雑談でも承ればもう私の望みは足りるといふほどの気持であつた。

三好と光太郎、戦前から面識はあったのでしょうが、それほど親しかったわけではなさそうです。それでも三好にすれば、この時期に会っておきたいと思わせる何かが光太郎にあったのでしょう。

あくまで想像ですが、やはり戦争の問題が背後にあるのではないかと思われます。三好も光太郎同様、戦時中には多くの翼賛詩を書いていました。

東京藝術大学大学美術館での企画展です。

黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校

期 日 : 2024年9月6日(金)~10月20日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし9月16日(祝)、9月23日(振)、10月4日(振)は開館し翌日休館)
料 金 : 一般900円(800円)、高・大学生450円(350円)( )は前売り料金 

展覧会概要
 台湾出身者初の東京美術学校留学生として知られる彫刻家・黄土水(1895-1930)。東アジアの近代美術に独自の光彩を与える彫刻家として近年ますます評価を高めており、本国では2023年に代表作《甘露水》(1919)が国宝に指定されました。
 本展では、国立台湾美術館からこの《甘露水》を含む黄土水の作品10点(予定)と資料類を迎えて展示するとともに、藝大コレクションより彼が美校で学んでいた大正から昭和初期の時期を中心とした洋画や彫刻の作品48点(予定)をあわせて紹介します。
 日本の伝統的感性と近代美術との融合をめざした黄土水の師・高村光雲とその息子光太郎、《甘露水》にも通じる静かな情念をたたえた荻原守衛や北村西望の人物像、あるいは藤島武二、小絲源太郎らが手掛けた20世紀初頭の都市生活をモチーフとした絵画、台湾出身の東京美術学校卒業生の自画像作品など、バラエティに富んだ作品群を用意してお待ちしております。
 台湾随一の彫刻家・黄土水が母校に帰ってくる――その歴史的瞬間を自らの眼でお確かめください。

みどころ
1 台湾の国宝《甘露水》、日本初上陸!
 昨年国宝に指定されたばかりの黄土水の代表作《甘露水》。台湾本国では同年、国立台湾美術館にて本作を含む黄土水の大回顧展が開かれ大きな話題を集めました。早くも本年、彼の母校(東京美術学校)の後身である東京藝術大学に本作がお目見えします。彼の他の作品群とともに本作を観る絶好の機会となります。

2 黄土水の学んだ時代、日本の美術界は......?
 黄土水が東京美術学校に入学した1915年から東京で病にて夭折した1930年までの時代は日本の近代美術においても大きな激動期でした。本展ではこの時代に活躍した高村光雲、高村光太郎、平櫛田中、荻原守衛、朝倉文夫、建畠大夢といった彫刻家、あるいは藤島武二、和田英作、小絲源太郎、津田青楓、石井鶴三(彼は彫刻家でもあります)ら洋画家の作品を紹介します。台湾からやってきた青年黄土水が東京で何を学んだか。それを知ることで黄土水への理解がより深まることでしょう。

3 台湾出身の洋画家たち
 東京藝術大学大学美術館の顕著な特長として、卒業生たちの作品が遺されていることを挙げなければなりません。本展でもその利点を活かし、陳澄波や顔水龍、李梅樹といった近年評価を高めている台湾出身の近代洋画家たちの作品群約10点を紹介します。
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関連行事 シンポジウム「黄土水とその時代――日本と台湾の近代美術史をたどる」 
 期 日 : 2024年9月6日(金)
 会 場 : 東京藝術大学大学美術館地下2階 展示室2
 時 間 : 13:00~16:10
 料 金 : 無料

 黄土水という彫刻家を中心に、大正・昭和初期の日本と台湾の美術、そして東京美術学校の事歴に注目があつまるこの機会に、東京藝術大学大学美術館は、台湾の専門家と本学の教員によるシンポジウムを開催いたします。黄土水の近年の再評価がどのようになされたか、そしてそれが日・台近代美術史研究に与えたインパクトがどのようなものであったかをご紹介いただきながら、黄土水と東京美術学校の関係に注目してゆきます。

 講演1 薛燕玲(国立台湾美術館学芸員)
  「近代台湾初の彫刻家――黄土水芸術「ローカルカラー」の表現」
 講演2 岡田靖(東京藝術大学大学院美術研究科文化財保存学准教授)
  「古きモノからの学びとその保存修復、そして新たな彫刻表現へ」
 講演3 村上敬(東京藝術大学大学美術館准教授 *本展担当者)
  「解題『黄土水とその時代』」
 パネルディスカッション
  登壇者:薛燕玲、村上敬、岡田靖(モデレーター:熊澤弘)

というわけで、台湾出身で東京美術学校に留学していた彫刻家・黄土水(明治28年=1895~昭和5年=1930)をメインに据えた展示です。

黄が留学のため来日したのは大正3年(1914)、光太郎は既に母校を離れていましたが、父・光雲はまだ現役で後進の指導に当たっていました。そこで黄も当初はアカデミックな彫刻で官展系の入選を果たしていましたが、徐々に文学性を排した方向に進み、鳥獣魚介をモチーフとしたりしていく感じで、そこに光太郎や、さらに光太郎が心酔していたロダンの影響を指摘する説もあります。ただ、光太郎との直接の面識はなかったと思われ、『高村光太郎全集』にその名は現れません。

美校を卒(お)えた後の黄は、日台を行き来しながら活動し、昭和5年(1930)、池袋で亡くなっています。フライヤーに使われているのは代表作の一つ「甘露水」(大正10年=1921)。大理石です。

で、師・光雲や光太郎などの作品も展示されます。

プレスリリースによれば、光雲作品は木彫「聖徳太子像」。それから光太郎の親友・碌山荻原守衛のブロンズ「女」も。
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光太郎に関しては、プレスリリースに名はあるものの、出される作品名が明記されていません。そこで電話で問い合わせたのですが「出品目録が作られていなくて分かりません」とのこと。

同館所蔵の光太郎作品は以下の通りですが、おそらくブロンズの「獅子吼」、木彫の「紅葉と宝珠」、同じく「蓮根」あたりが出るのではないかと思われます。
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始まりましたら早い内に見に行きますので、またご紹介します。

皆様もぜひ足をお運びください。すぐ近くの東京国立博物館さんでは、常設展「総合文化展」で、光雲の「老猿」、光太郎の「鯰」と「魴鮄」も出ていますし、あわせてどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

池の端仲町にもう“酒悦”が復活したかとなつかしく存じました。味も殆ど以前と変りなく、東京の風趣を感じます。智恵子も好きだつたのでよくあの店へ買ひにいつた事を思ひ出します。


昭和24年(1949)4月21日 堀尾勉宛書簡より光太郎67歳

酒悦」は現在も続く佃煮や漬物のメーカーです。本店は上野の不忍池のほとりだったのですね。

昨日は久々に上京しておりました。まずは上野の東京国立博物館(トーハク)さんの常設展示・総合文化展の拝観(その後、国会図書館さんに廻って調べもの)。
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盆中でどんなもんだろうと思っていたのですが、そこそこの人出という程度、押すな押すなの盛況というわけではありませんでした。

真っ先に第18室へ。
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最も見たかった作品が、光太郎の木彫「魴鮄(ほうぼう)」(大正13年=1924)。コロナ禍中の令和3年(2021)にもひっそりと出されていたそうなのですが、その際には気づきませんで……。

同じく木彫の「鯰」(大正14年=1925)と並べて展示されています。
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あまり混んでいなかったので、さまざまな角度から見て撮影出来ました。ラッキーでした。
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魴鮄の大きな特徴である巨大な鰭(ひれ)は体側に畳まれた状態。これを広げて表現すると、光太郎の技倆なら不可能ではないのでしょうが、どうも玩具のようになってしまうような気がします。
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cfc02c35鱗(うろこ)なども省略しています。光太郎、同じことを後に「鯉」の木彫でやろうとしました。鱗を彫ると俗っぽくなる、と。しかし鱗がないとどうにも鯉感が出せず、その処理が難しい、というわけで、結局、「鯉」は完成しませんでした。ただ、土門拳による製作中のスナップが残っています。

この「鯉」、注文したのは新潟の素封家にして美術愛好家・松木喜之七でした。光太郎は「鯉」を完成出来なかったおわびにと、代わりに「鯰」を納品。この「鯰」は、現在、愛知県小牧市のメナード美術館さんで展示中です。

ちなみに松木、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、48歳にもなっていたのに「根こそぎ動員」ということで召集され、その年10月に南方で戦死しています。戦後、短歌も趣味だった松木の遺稿歌集『九官鳥』が上梓され、光太郎も追悼文を寄せました。

「魴鮄」と並べて「鯰」。松木に贈られたのとは別物です。さらにいうなら竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さんにもまた別の「鯰」が収蔵されています。今回のものが「鯰1」、MOMATさんは「鯰2」、メナードさんで「鯰3」です。
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「魴鮄」がほぼ真っ直ぐな姿態であるのに対し、「鯰」はゆるやかにカーブを描き、そこが実にいいところですね。このカーブの部分を前後両方向からではなく、一方向からのみ彫っているそうで、それは実に難しいとのこと。この「鯰」を見た光太郎の父・光雲は、まずその点に驚いたそうです。プロは着眼点が違いますね。
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また、近代彫刻史の専門家・髙橋幸次氏は、このカーブによって体側にできる空間に面白味がある、とおっしゃっていました。余白の美、的な。そう考えると、晩年に光太郎が取り憑かれた「書」にも通じるような気がします。無理くりかも知れませんが。

光太郎作品はもう1点、ブロンズの「老人の首」も出ています。
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光太郎生前の鋳造で、もしかすると大正15年(1926)に開催された「聖徳太子奉賛展」に出品されたそのものかもしれません。

そして光雲の「老猿」。
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昨年3月、MOMATさんでの「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」以来の拝観。

像高90㌢程なのですが、何度見てもその迫力に圧倒され、巨大な像に見えてしまいます。不思議なものですね。猿の視線が天空へと放散されているせいかもしれません。トーハクさんでは台座を高く設定しているというのもあるのでしょうが。

今回の展示は10月27日(日)までの予定。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスにはケーキを作りましたが香料がないので不十分でした。


昭和23年(1948)12月28日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

岩手の山中の山小屋で一人クリスマスケーキを焼く66歳……。ケーキと云っても生クリームなどありません。どんなものだったのか……。

001上野の東京国立博物館(トーハク)さんの常設展示「総合文化展」。数ヶ月ごとに展示品を入れ替え、「近代の美術」の展示室(第18室)で光太郎や父・光雲の作が出されることもけっこうあります(常に、というわけではありませんが)。光太郎ですとブロンズの「老人の首」(大正14年=1925)、光雲なら「老猿」(国指定重要文化財 明治26年=1893)が多く展示されます。

現在の展示は8月6日(火)から。10月27日(日)までの予定です。「老人の首」と光雲の「老猿」がやはり出ています。

「老人の首」は、光太郎のアトリエ兼住居に花を売りに来ていた老人がモデル。零落した江戸時代の旗本のなれの果てだそうで。光太郎生前の鋳造で、昭和20年(1945)5月、花巻に疎開する直前に思想家・江渡狄嶺の妻・ミキに託したものです。
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それから光太郎木彫が2点出ています。

まず「鯰」。複数の作例があるうち「鯰1」とナンバリングをされているもの。大正14年(1925)の作です。
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ぬめぬめ感がたまりません(笑)。

この「鯰」はトーハクさんでも時々展示され、それから他館の光太郎展的な展示に貸し出されることもありますが、今回もう1点、そうでない作品が出ています。実はコロナ禍中の令和3年(2021)にも出ていたそうですが、その際は気づきませんでした。

「魴鮄(ほうぼう)」(大正13年=1924)。
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他館での光太郎展等だと、昭和41年(1966)、西武百貨店7階SSSホールで開催された「詩情に生きる〈美と愛〉 高村光太郎と智恵子展」に出されたのが最後ではないかと思われます。したがって、当方も現物を見たことがありません。出品目録によれば「個人蔵」。おそらく寄託されているのだと思われます。

現存が確認出来ている光太郎彫刻は、70種類あるかどうか。ブロンズは同一の型から抜いたものが複数存在するものが多く(代表作「手」など)、のべにすれば倍増しますが、木彫は1点ものですし。

さらに70種類程のうち、ブロンズでもそうですが、特に木彫で「大人の事情」により、ほとんど観ることが不可能になってしまっている作品もかなりの数存在します。中にはそうこうしているうちに火災で焼失してしまったらしい、と云われているものも。

「魴鮄」もそれに近いのかな、と思っていたのですが、健在が確認出来、さらに展示が為されているということで、喜ばしい限りです。

明後日あたり、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

のりは御母上の思召のよし、何ともありがたく存じました。朝食に焼いていただくと子供の頃の事をおもひ出しますし、又「智恵子抄」の中の「晩餐」といふ詩の中の「鋼鉄をのべたやうな奴」といふ句をも思ひ出し何ともいへずなつかしい気がします。


昭和23年(1948)12月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

岩手の山中での暮らしだと、海苔はなかなか手に入りにくかったようです。

「晩餐」(大正3年=1914)は下記の通り。

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 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)から
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて1005
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

8月10日(土)、前日に第33回女川光太郎祭が行われた宮城県女川町をあとに、帰途に就きました。その途中、女川町に隣接する石巻市に寄り道。石巻市博物館さんで開催中の第9回特別展「移動美術館 佐藤忠良展 宮城県美術館コレクションから」拝観のためです。

佐藤忠良は新制作派の彫刻家で、同じく舟越保武らとともに、光太郎のDNAを最も色濃く受け継いだ一人。昭和35年(1960)には第3回高村光太郎賞を受賞しています。仙台市の宮城県美術館さんに作品がまとまって収蔵されていますが、同館が改修工事に伴い休館中とあって、出開帳。
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これは観ておこうと思い、寄り道した次第です。

会場は石巻市博物館さん。けっこう郊外にあり、「マルホンまきあーとテラス」という新しい施設内で、データが古い愛車のカーナビには入っていませんでした。周辺の道路も少し前とはかなり様相が異なっているようで、ナビ頼みだとえらい遠回りを強いられました。
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ありがたいことに写真撮影可。その代わり、「SNSで発信して下さい」だそうで(笑)。
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「略歴」のボードには第3回高村光太郎賞受賞も書かれていました。ありがたし。

会場内はこんな感じ。
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フライヤーにも使われている代表作の一つ、「帽子」。
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こちらも代表作の一つ、「群馬の人」。
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光太郎や荻原守衛、高田博厚などを見慣れている当方、やはりこうした具象彫刻は安心して見られます。ただ、具象なら何でもいいというわけでもなく、ただの立体写真じゃん、というものはパスしたいところ。その違いは何なんだ、と云われてもうまく言葉で表現出来ませんが、やはり纏っているオーラとでも云いましょうか、光太郎曰くの「生(ラ・ヴィ)」ですね。佐藤の作品からもそれがびんびん伝わってきます。

お嬢さんの佐藤オリエさんをモデルとした作品。
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オリエさんは昭和45年(1970)にTBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎は故・木村功さん)。忠良はその際のオリエさんをモデルに「智恵子抄のオリエ」という作品も残しています。それがあるかと期待していたのですが、残念ながら展示されていませんでした。
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以前に仙台の宮城県美術館さん自体で「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展「人間」を探求しつづけた表現者の歩み」を拝見した際にもこれは出ていませんで、もしかすると収蔵されていないのかもしれません。

その他、彫刻以外での佐藤の大きな仕事の絵本関連の展示も充実していました。
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驚いたことに、佐藤以外に、石巻出身の高橋英吉の作品も2点。高橋は東京美術学校で木彫を学んだ彫刻家で、光太郎の後輩、さらに関野聖雲に師事したということで、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たります。

木彫の「少女像」(昭和11年=1936)。薄く彩色が施されています。
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ブロンズの「男の首」(昭和14年=1939)。
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今年4月に信州上田の戦没画学生慰霊美術館 無言館さんに伺った際にも思いがけず高橋の作品が展示されていて驚きましたが、今回も驚きました。
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パネル最後にある通り、高橋は若くして戦没。数え32歳の昭和17年(1942)、太平洋戦争激戦地の一つ、ガダルカナル島でのことでした。そこで無言館さんに作品や遺品が展示されているわけです。

ちなみに無言館さんといえば、今週土曜日、地上波テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」で無言館さんがメインで取り上げられます。系列のBSテレ東さんでは来週でしょう。

新美の巨人たち Artで願う平和の旅② 戦没画学生慰霊美術館「無言館」×内田有紀

地上波テレビ東京 2024年8月17日(土) 22:00~22:30

【沈黙の絵の真実とは】戦没画学生慰霊美術館「無言館」
長野県上田市。戦没画学生たちが遺した見果てぬ夢の数々。内田有紀 さんと訪れます。
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おそらく番組内では高橋より下の世代、もろに学徒動員等で在学中に召集されて戦死した画学生たちが大きく取り上げられると思われますが、ぜひご覧下さい。

それから、石巻市博物館の展示についての詳細情報。

第9回特別展「移動美術館 佐藤忠良展 宮城県美術館コレクションから」

期 日 : 2024年8月3日(土)~9月29日(日)
会 場 : 石巻市博物館企画展示室 宮城県石巻市開成1-8 マルホンまきあーとテラス内
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 祝日の場合は翌日
料 金 : 無料

宮城県を代表する彫刻家 佐藤忠良の名作が石巻に集合します
 佐藤忠良(1912年生、2011年没)は、宮城県黒川郡落合村舞野(現・大和町)出身の彫刻家です。はじめは画家を志望していましたが、オーギュスト・ロダンなどのフランス近代彫刻に触れたことで、彫刻家としての道を歩み始めます。
 その後は太平洋戦争の出征とシベリア抑留を経て彫刻制作を再開、一貫して具象彫刻の制作を続けました。
 愚直な制作態度から生まれる慎ましく清らかな作風が評価され、69歳の時には、国立ロダン美術館から依頼を受けた個展が開催されています。
 この展覧会では、佐藤忠良記念館を有する宮城県美術館のコレクションから、代表作《群馬の人》や《帽子・夏》、石巻(旧・桃生郡鹿又村)出身の母をモデルにした《母の顔》等の29点のブロンズ彫刻を展示します。
 加えて、佐藤忠良が挿絵を手掛けた『おおきなかぶ』等の絵本や紙芝居も35点展示し、画家としての活躍にも注目します。
 展示室内には『おおきなかぶ』のフォトスポットやキッズコーナーを設けており、ご家族で楽しみながら作品を鑑賞することができます。
 加えて、宮城県美術館の教育普及部による参加体験プログラムも開催することで、様々な世代の方々が佐藤忠良作品に親しむ機会を提供します。
 なお、この展覧会は、宮城県美術館の長期休館にともなうアウトリーチ事業です。
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関連企画 講演会「宮城ゆかりの彫刻家  佐藤忠良と高橋英吉 」
 日時 8月24日 土曜日 13時30分から15時まで (13時開場)
 場所 マルホンまきあーとテラス 小ホール
 講師 宮城県美術館 学芸員 土生和彦
 予約不要・参加無料

講演をなさる土生和彦氏、以前、愛知県碧南市の藤井達吉現代美術館さんにお勤めのころ、同館も巡回された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」でお世話になりました。無沙汰を重ねていますが、ご活躍の由、嬉しく存じます。

それから、詳細情報が出ていませんが、佐藤忠良展入口前ではこんな展示も。
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高橋由一や速見御舟、そして光太郎の留学仲間の一人、安井曾太郎らの絵画です。ただし高精細複製。
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なるほど。

ついでですので、地元紙『河北新報』さんの別刷『石巻かほく』さんから、佐藤忠良展報道。

彫刻に宿る愛、佐藤忠良の世界 石巻市博物館で県美収蔵品展示 来月29日まで

 石巻市開成の市博物館(マルホンまきあーとテラス内)で、第9回特別展「移動美術館 佐藤忠良展 宮城県美術館コレクションから」が開かれている。9月29日まで。市博物館と県美術館主催で、宮城出身の彫刻家・佐藤忠良さん(1912~2011年)の記念館を所有する県美術館のコレクションから展示している。
 三つの章から成り、第1章は代表作「群馬の人」や「母の顔」などのブロンズ彫刻14点を紹介する「佐藤忠良の世界」。第2章は友人の子どもや孫をモデルにしたブロンズ彫刻15点を展示する「子どもたちへのまなざし」。第3章「絵本の仕事」では佐藤さんが挿絵を描いた絵本「おおきなかぶ」や紙芝居など35点も公開している。「おおきなかぶ」のフォトスポットやキッズコーナーもある。
 福島県南相馬市から訪れた公務員堀耕平さん(65)は「作者の名前は知っていたが詳しくはなかったので、作風の経過を見ることができて良かった。子どもの彫刻や絵本からは子どもたちへの愛を感じた」と話した。
 黒川郡落合村舞野(現大和町)出身の佐藤さんは画家を志したが、フランス近代彫刻に影響を受けて彫刻家の道へ転向。太平洋戦争やシベリア抑留を経験した後も一貫して制作に取り組んだ。
 17日は県美術館教育普及部の参加体験プログラムが開かれる。自由に絵描きや木工作ができるオープンアトリエは午前10時から午後3時半まで。小学生以下と家族対象のシルエットクイズと紙製スタンド作りは午前10時から同11時半まで。16歳以上対象の彫刻作品やテーマに関するポーズ作りは午後2時から午後3時半までで全身を使ったアート体験ができる。
 このほか24日に講演会「宮城ゆかりの彫刻家 佐藤忠良と高橋英吉」、9月7日には実際に展示作品を見ながら質疑応答などができるギャラリートークがある。いずれも講師は県美術館学芸員の土生和彦氏で、予約不要。参加無料。
 連絡先は市博物館0225(98)4831。
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というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

博物館で小生の彫刻を見られた由、皆ひどい旧作なので気がひけます。あの少女裸像は智恵子像ではなく智恵子像ではありません。あのモデルはヨコハマのチャブ屋の少女でした。随分昔の作です。智恵子の裸体をモデルにしたトルソは焼けてしまひました。智恵子の首も焼失。却つてよかつたかも知れません。

昭和23年(1948)12月13日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

「少女裸像」はこちら。大正6年(1917)の作です。
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それから「智恵子の首」。複数の作例の写真が残っています。
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「智恵子の裸体をモデルにしたトルソ」は残念ながら画像も確認出来ていません。

どうも光太郎、作品を作り上げるととたんに興味を無くしてしまう傾向にあったようで、旧作を自画自賛するということはほとんどありませんでした。自分に厳しい、といえばそうなのでしょうが。

地上波テレビ朝日さん系で昨日オンエアされた「徹子の部屋」。ゲストはテノール歌手の秋川雅史さんでした。サブタイトルは「〈秋川雅史〉二刀流!?彫刻で3年連続二科展に入選」。
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本業の音楽のかたわら、木彫にも本格的に取り組まれ、個展を開催されたり、彫刻家としてのオフィシャルサイトも立ち上げたりされている秋川さん。スタジオには一昨年の二科展入選作「木彫龍図」をお持ちになりました。
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番組前半は彫刻に関して。令和3年(2021)に二科展に初入選された、光雲が主任となって作られた皇居前広場の楠木正成像の模刻作品についても詳しく語られました。
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ヤスリを一切使わなかったそうですし、頬のあたりなど、美術解剖学的な研究もされて臨まれたとのこと。昨年、上野の森美術館さんで実物を拝見しましたが、なるほど、みごとな作でした。

その他、それ以前から取り組まれていた仏像のお話、昨年の二科展入選作のお話などなど。
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後半はご家族や音楽関係のお話などなど。
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最後にミリオンセラー「千の風になって」を熱唱。
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この番組で歌手の方が演奏を披露されるというのは珍しいんじゃないかな、と思いました。

8月7日(水)まで、TVerさんなどで無料配信されています。また、なぜか『婦人公論』さんのサイトで放映内容について詳しく紹介されています。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

此頃よくいろんな人に写真をとられます。中には小生の手の肖像のやうなのがあります。

昭和23年(1948)10月22日 東正巳宛書簡より 光太郎66歳
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てっきりこの写真のことだろう、と思ったのですが、こちらは翌年の撮影でした。作品としての彫刻制作は封印しているということで(手すさびや鍛錬のためには木を彫っていたようですが)、削っているのは木ではなく、鰹節です。

昭和23年(1948)以前の「手の肖像」といえる写真、見あたりません。情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

光太郎の父・光雲の手になる彫刻が施された祭車も出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2024年8月2日(金)~8月4日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8月2日(金) 叩き出し  24:00~
      8月3日(土) 試楽    18:00頃~
      8月4日(日) 本楽    13:00~ 南市場整列  18:30~ 花車渡祭

 石取祭(いしどりまつり)は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を浄(きよ)めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。
 町々から曳き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り回ります。 試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、祭車は各組(地区)に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。
 本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、渡祭(神社参拝)のための順番に曳き揃えを行います。 浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。
 渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。
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光雲の手になる彫刻が施された祭車は「羽衣」。今年は30番目の登場だそうです。
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平成28年(2016)には、全国の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に認定されました。しかし、新型コロナウイルスの影響で令和2年(2020)と翌年は中止、一昨年は規模を縮小して再開、昨年4年ぶりに元の形に戻ったとのこと。

一昨年はBSイレブンさんで、祭りのハイライト「渡祭」の一部が生中継されました。メインの撮影場所は、春日神社(桑名宗社)さん。周辺を練り歩いた各祭車が、籤で決められた順番にここにやってきて、御神前で鉦や太鼓を打ち鳴らし、演奏・演舞を奉納。「羽衣」の祭車は5番目で、ちょうど放送開始の時に映りました。
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今年は地元ケーブルテレビで中継されるそうです。

昨年の様子がこちら。0:53頃から「羽衣」の祭車が映ります。


お近くの方、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

村の人々が小生に風呂場を寄附してくれ、今大工さんが建築中です。今年の冬は助かります。

昭和23年(1948)9月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋には風呂が無く、行水で済ませていたようです。そこで村人達や宮沢家、佐藤隆房らが光太郎に風呂を寄進しました。
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現物が現存しており、平成29年(2017)に花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻の湯」で展示されました。

しかし、コスパが悪く、大量に薪を必要としたため、あまり使われることはありませんでした。

信州安曇野の碌山美術館さんが、館報『碌山美術館報』の第44号をお送り下さいました。多謝。
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発行は3月で、おそらくネット上には既にアップされていたと思うのですが、やはり印刷物・紙媒体で頂けるのは有り難いことです。

昨年4月22日(土)に開催された、第113回碌山忌での、東京藝術大学さんの布施英利教授による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」全文が文字起こしされて掲載されています。
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さらにそれを受けて、巻頭には同館学芸員の武井敏氏による「荻原守衛のスケッチ」。

守衛の絶作にして重要文化財の「女」。跪(ひざまず)いた女性が後ろで手を組み、斜め上を見上げているポージングですが、そこに秘められた仕掛けとは?
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以前にも書きましたが、何らの不自然さも感じられず、純粋な写実に見えるものの、精密に計測して実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。

そこでこの「女」が立ち上がったらどうなる、という図も掲載されています。
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実に不思議ですね。

そして武井氏の稿でも触れられていますが、後ろで組まれている両腕は、当初、斜め上に掲げる構想があったとのこと。そのポージングであれば、乳房の位置などは解剖学的に正しいそうです。それがどうして変更されたのか、謎は尽きません。

その他、昨年11月に開催された美術講座「スト―ブを囲んで 臼井吉見の『安曇野』を語る」も文字起こしされて掲載されています。『安曇野』は大河ドラマ誘致運動も起こっている臼井吉見の小説で、光太郎も登場します。他の箇所でも『安曇野』に触れられています。

主要箇所にはリンクを貼ってあります。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日は東京の吉川富三といふ写真家が来て弱りました。

昭和23年(1948)9月12日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

吉川富三は肖像写真を得意とした写真家。この日の様子を吉川は「快く写真ギライで有名な先生が私のカメラの前に立って下さった」と書き残していますが、やはり「快く」と言うわけではなかったようです。

この日撮影された写真(左下)は、翌年の雑誌『写真手帖』に掲載された他、日本橋三越で開催された「第三回文化人肖像写眞展」に出品、さらに昭和25年(1950)には吉川の写真集『文化人のプロフィル』にも収められました。
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また、吉川は昭和28年(1953)、帰京した光太郎を中野のアトリエに訪ねての撮影もしています(右上)。

1泊2日で仙台に行っておりました初日の7月22日(月)、仙台市内をぶらぶらしました。

まずは仙台駅近くの青葉区本町にある島川美術館さん。以前は蔵王山麓の遠刈田温泉にあり、その頃の名称が「エール蔵王 島川記念館」でした。それが令和元年(2019)に仙台市内に移転、「島川美術館」と改称されました。

健康食品販売メーカー「ジャパンヘルスサミット」という会社の島川隆哉社長のコレクションが根幹で、主に国内の近代美術作家の作品、1,000点ほどが収蔵されています。一部、海外のものも。
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光太郎の父・光雲作の木彫「聖観音像」もあるということで、お邪魔しました。「エール蔵王 島川記念館」時代から収蔵されており、平成29年(2017)にやはり蔵王の青根温泉不忘閣さんに宿泊した際、すぐ近くを通っていながらその頃はそれを存じませんで、通り過ぎていました。そこで、現在「聖観音像」も常設展示されているという情報を得、今回、お邪魔した次第です。

失礼ながら、「え、こんなところに?」という立地でした。広瀬通り、勾当台通り、定禅寺通りといった大通りから入っていく細い道沿いで、いかにも、という佇まいではないごく普通のビルでした。
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c3a12284こちらの2階から5階が展示フロアで、受付の方曰く、まず5階までエレベータで上がり、順繰りに階下に降りて行くのがしきたりだそうでした。

云われた通り5階に上がりますと、まずは現代美術がメインのフロア。続いて4階に降りたところ、入口付近に「聖観音像」が鎮座ましましていらっしゃいました。「鎮座」というか、立像ですが(笑)。

昭和3年(1928)、光雲数え77歳の作だそうで、そろそろ晩年、もはや刀技は円熟の境地に入っています。ことによると弟子の手が入り、仕上げのみ光雲という工房作かもしれませんが、そうでない可能性の方が高いかな、という見事な作でした。

若い頃、「生涯に百体の観音像を彫りたい」という目標を持った光雲ですが、昭和7年(1932)に記録された談話では「今日では二百体であるか三百体であるか一寸数え切れない程観音様を作つて居ります」と語っていて、もうこの頃には眼をつぶっていても出来てしまうんじゃないか、という感じですね(笑)。といっても「粗製濫造」という言葉は全く当てはまりません。

それでも「逃げるべきところはきちんと逃げている」というのが確認できました。

ポイントは、持物(じぶつ)の蓮華や衣など。
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赤丸を附けた部分、垂れ下がった衣や紐が身体や台座とくっついています。蓮華も正面からだと分かりませんが、横から見ると、肩に触れているのです。このくっついている部分を切り離して作るとなると、細く彫り出した部分が折れてしまう危険性が非常に高くなりますが、それをくっつけて彫ることによって、その危険度が軽減しますし、手間もかなり省けます。結局、「穴」をあけることになるわけで。

よくよく注意して見ないと気づかない点で、おそらく受けとった注文主などもそんなことは全く気にしないでしょうし、それが気にならないように自然にやっているわけですね。いい意味での「手抜き」といえるのではないでしょうか。そういう工夫をしなければ量産は不可能でしょう。

この持物等が身体にくっついている件、光雲令孫から花巻市さんに寄贈された「天鈿女命」像と、そのための原図を見ていて気づきました。
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005原図では身体から離れている榊の枝が、完成作では後頭部にくっついています。

「聖観音像」でも同じようなことをやっていたんだなというのが確認できました。

ふむふむ、と思いながら3階に降りたところ、やはり入口付近でびっくりしました。「え、あなた、なぜここに居るの?」。といっても人ではなく、右図の光太郎作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)中型試作」です。

ブロンズの像は同一の型から鋳造したものが複数存在し、この像も花巻高村光太郎記念館さんはじめ、二本松の智恵子記念館さん、信州安曇野碌山美術館さん、千葉県立美術館さん、大阪の御堂筋彫刻ストリートなどにあるのですが、島川さんでも持っているというのは存じませんでした。

ちなみに隣には「乙女の像」のDNAを受け継ぐ秋田田沢湖の「たつこ像」(舟越保武作)も仲良く並んでいました。

その他、光雲・光太郎と交流のあった美術家の作がずらり。横山大観、岸田劉生、梅原龍三郎、安井曾太郎、板谷波山など。

それから、意外と珍しい田中一村や鴨居玲などの作品もあり、まさに眼福でした。

帰りがけ、A4変形版150ページ近い図録を購入。「聖観音像」も載っています。「エール蔵王 島川記念館」時代に刷られたもので、「収蔵作品選」と題されていました。この厚さでほぼオールカラーですので「2,500円くらいだろう」と予想したのですが、何とたったの1,000円。
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ついでに云うなら、入館時、拝観料1,000円を払ったところで、クリアファイルとポストカード3枚組も頂いてしまいました。何と良心的な館なのだろう、と感じ入りました。

というわけで、島川美術館さん、仙台にお出での際はぜひお立ち寄り下さい。

【折々のことば・光太郎】

記念碑の写真おうけとりしました。碑はきれいに彫れたやうに見うけます。


昭和23年(1948)9月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

「記念碑」は宮崎の父・仁十郎が檀家総代を務めていた茨城取手の長禅寺に建てられた「開闡郷土」碑。光太郎がその題字を揮毫しました。
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碑は長禅寺参道石段の右手に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。

7月7日(日)、『読売新聞』さんの日曜版に光太郎の父・光雲の名が出ました。「旅を旅して」という、紀行文や小説、映画、詩歌などに残された「旅の記憶」を記者がたどる連載で、光雲が主任となって、東京美術学校総出で制作された皇居前広場の「楠木正成像」がらみです。
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像に使われた銅は、愛媛県の別子銅山で産出されたもの。そもそも像は銅山の開坑200周年記念という意味合いもあって、住友家から寄贈されました。記事はその別子銅山の「今」がレポートされていました。

旅を旅して 森になった街…別子(べっし)銅山(愛媛県新居浜市)  まるで考古学者のように、産業遺跡を発掘したい。――――荒俣宏「黄金伝説」(1990年) 

001 森になった街――との呼び名通りだった。赤レンガの塀とか、学校跡の石組みとか、静寂の中、むせかえる山の緑のあちこちに、先人の生活の跡が見て取れた。
 江戸中期から1973年の閉山まで65万トンもの銅を産出した別子銅山は、往時の活況を伝える産業遺産が南北約20キロにわたって点在する。標高が1000メートルを超える旧別子のエリアには明治後期、鉱山労働者や家族ら、1万人以上が暮らしたのだという。
 その事跡を確かめようと、作家の荒俣宏さんが山に分け入ったのは春、4月だった。温暖な四国だ。麓で満開の桜を見、軽装で赴いたところ、雪と氷が覆う「厳冬ムード」「冷寒地獄の眺め」で「滑落して死ぬのかと覚悟したりもした」と苦行を 綴つづ っている。
 観光の拠点、マイントピア別子の 永易ながやす 舞さん(26)によると冬の間、銅山関連のツアーは休止にするらしい。今は山歩きには絶好の季節で、頂の 銅山越どうざんごえ (1294メートル)まで、2時間弱の散策を楽しんだ。
 険しい斜面の所々、わずかな平地が石垣で補強され、急階段が据えてある。案内板にかつて、そこにあった建物が写真と共に紹介してあった。
 寺、醸造所、測候所……。巨大な倉庫は明治の頃、劇場にも転用され、上方の名優が歌舞伎を上演した、との説明書きがあった。1000人超の収容規模だったとか。休息の日、山に響いたであろう、拍手や歓声を想像した。
 ゴール近く、歓喜坑は最初の坑口で、1691年にここから採掘が始まった。銅山を経営し、発展の礎とした住友グループの聖地で、新入社員や幹部社員が研修で訪れる。「感激する新人さんも多い」とガイドの石川潔さん(73)が教えてくれた。
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 銅山越の北、 東平とうなる エリアにバスで向かう途中、急斜面にへばりつく社宅跡が見えた。その数2百数十、まさに天空都市の様相である。本当に人が?と、にわかに信じがたい傾斜だ。けれど、近くの歴史資料館には急坂で遊ぶ子らの写真が確かに掲げてあった。
 永易さんは高校時代、東平エリアの元住民から聞き取りをした経験がある。「プールで良いタイムを出したとか、大切な思い出を伺いました」
 実体験を話せる人の多くが鬼籍に入った。この国の近代化を支えた名も無き人たちの記憶、記録を、いかに次世代へと受け渡していくか。思いを巡らす日々だという。
◇ 荒俣宏 (あらまた・ひろし)
 1947年、東京生まれ。約10年間のサラリーマン生活の後、翻訳や事典編集に携わる。87年、小説「帝都物語」で日本SF大賞。94年にはライフワークの「世界大博物図鑑」(全5巻、別巻2)が完結した。「近代成金たちの夢の跡」探訪記、との副題を掲げた表題作は、明治維新以降、日本の近代化に貢献した地場産業の現場を巡り、サトウキビ王や石炭王、鉄道王ら、ずぬけた頭脳、行動力で時代を先導した「飛びっきりのヒーロー」の生涯を紹介する。逸話、雑学満載、筆者の面目躍如の1冊。

銅山近代化 先人の足跡
 明治初めまで製錬した 粗銅あらどう は人が背負って麓へ運んだ。重さは男が45キロ、女は30キロ、命の危険もある険しい山道を最盛期は数百人が往復したという。
 牛車道の整備を経て、1893年(明治26年)には標高1100メートルの地点から専用鉄道が走った、というから驚く。
 その第1号、ドイツ製蒸気機関車は、新居浜市街にある別子銅山記念館で見られる。
 館内には坑道の模型も展示してあり、総延長700キロ、高低差2300メートルという規模に2度驚く。「 螺灯らとう 」は鯨油を浸した綿を、サザエの殻に詰めたランプで、明治半ばまで坑道ではこの灯を頼りに作業していた。
 「先人の苦労のほどを想像してもらえたら」と館長の神野和彦さん(62)は話す。
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 新居浜への旅で荒俣宏さんは銅山や街の発展に尽くした2人の偉人の足跡を追った。
 広瀬 宰平さいへい (1828~1914年)は住友初代総理事で銅山の近代化策を作った。
 牛車道や鉄道のほか、製錬所の整備やダイナマイトの本格使用等々。荒俣さんが注目したのが労働者への目配りで例えば旧別子山中で跡を見た醸造所は、うまい酒やみそ、しょうゆを提供し、食生活を充実させる目的で造られた。
 人徳だろう。その名を冠した広瀬公園には市が保全した旧宅(国重要文化財・名勝)や記念館があり、小学生らが授業で功績を学ぶそうだ。
 同じく鉱山の最高責任者を務めた鷲尾 勘解治かげじ (1881~1981年)は昭和初めに早くも閉山後を見据え、幹線道路や港、臨海部の埋め立てなどの案を練り、工業都市の礎を築いた。これらの多くが今も機能する一方、海に近い大規模社宅は防災上の問題や再開発でほぼ姿を消した。
 取り壊し前、市が調査し、一部で保存・整備を進める。市別子銅山文化遺産課の 秦しん野の親ちか史し さん(63)は「各所でぎりぎり残った産業遺産に、どう歴史的、文化的な価値を見いだすか」自問を続けている。
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●ルート 羽田空港から松山空港まで約1時間30分。連絡バスでJR松山駅まで15分。松山駅から新居浜駅まで特急で約1時間10分。
●問い合わせ マイントピア別子=(電)0897・43・1801、別子銅山記念館=(電)0897・41・2200、新居浜市観光物産協会=(電)0897・32・4028、広瀬歴史記念館=(電)0897・40・6333
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[味]もちもち生地のカレーパン
 伊予路の銘菓、別子 飴あめ は明治元年以来の変わらぬ味で、根強い人気を誇る。「地元産品を使った新しい土産を」と、商品開発に余念がない別子飴本舗((電)0897・45・1080)7代目、越智秀司さん(71)が取り組んだのがカレーパンだ。別商品の製造用に導入した大型フライヤーを活用するため、元パン職人の工場長と知恵を出し合ったのがきっかけ。うどんだしを混ぜたルーや、愛媛県産のヤマノイモ「やまじ丸」を練り込んだもちもち食感の生地が特徴で、2020年の発売以来、コンテストで金賞に輝くなど人気を博している。半熟卵(378円)=写真右=や甘とろ豚(同)など、店頭で揚げたてを提供するほか、冷凍商品の通販も。今年は神奈川県横須賀市の商工会議所の協力を得て開発した「よこすか海軍カレー」(同)が加わった。
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ひとこと…読み応えある紀行
 皇居の外苑、勇壮な楠木正成像は別子銅山開坑200年を記念して、住友家が献納した――。荒俣さんは新居浜の歴史を意外なエピソードからひもとく。高村光雲が頭の造形を手掛け、内部までみっちり銅が詰まった逸品は、なぜ、皇居前への設置が許されたのか。体当たりで謎解きに挑む紀行は実に読み応えがある。

四国には光太郎や光雲らの足跡も直接は残って居らず、ほとんど行く機会もありませんで、別子銅山がこういう現状だというのは存じませんでした。てっきり現在も採掘が続いているものとばかり思い込んでいました。

ちなみに記事の後半で触れられている広瀬宰平、楠木正成像の制作と並行して、自身の像も光雲に制作を依頼しました。

明治34年(1901)には銅山に近い当時の中萩村に除幕設置されました(左下)が、戦時中の昭和19年(1944)には例によって金属供出のため失われました。しかし、東京藝術大学さんに奇跡的に木彫原型(中央下)が保存されており、それをもとに平成15年(2003)、元の場所、現在の広瀬公園に二代目の像(右下)が据えられました。
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一度見に行ってみたいのですが、なかなか果たせないでいます。

いずれ銅山記念館等と併せて、と思っております。また、荒俣宏氏の『黄金伝説』も読んでみようと思いました。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

転地のよし、猫実ならば大にいいだらうと想像します。猫実といふところは小生の祖父の釣によく行つたところです。それで名をおぼえてゐました。


昭和23年(1948)8月12日 草野心平宛書簡より 光太郎66歳

「猫実(ねこざね)」は、現在の千葉県浦安市。江戸川河口に近く、少し東に宮内庁の鴨場があったりする海っぺたです。

当会の祖・心平、このころ胸を患い、静養のため彼の地に独居。翌年には石神井に移り、家族を呼び寄せます。一年程でしたが同じ千葉県民だったと思うとさらに親近感が涌きます(笑)。

竹橋の東京国立近代美術館さん。有島武郎旧蔵の光太郎ブロンズ代表作「手」を収蔵なさり、常設展示で「所蔵作品展 MOMATコレクション」に出品なさることもしばしばです。現在も出ています(8月25日(日)まで)。
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光太郎生前に鋳造されたことが確認出来ている3点のうちの1点で、木の台座部分も光太郎の手になる木彫です。接着されていないブロンズ部分を取り外すと、芯ともいうべき部分に旧蔵者の有島、有島没後に受け継いだ秋田雨雀、そして戦時中に秋田から託された雑司ヶ谷本納寺の兜木正享の名が記されています。詳しくはこちら。動画で紹介されています。

戦後、光太郎の意向もあって、同館に寄贈されました。

さて、同館では、動画以外にも「水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアー」を制作され、このほどオンラインで公開されました。

高村光太郎《手》のオブジェクトVRコンテンツ公開

このたび当館では、日本文教出版株式会社と日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社との共同で、「オブジェクトVRコンテンツ」を制作いたしました。
高村光太郎《手》(1918年頃)を水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアーです。
ぐるぐる回したりぐっと近寄ったりしながら、美術館の外でも作品をじっくりお楽しみください。
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*高精細データのため表示されるまで時間がかかる場合がございます。
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光太郎自身、彫刻はぐるっと360度の方向から見るのが大事だと書き残しています。彫刻自体は動かないけれど、自分が動けば彫刻も動く、というわけで。

線の波動の面白味といふのは、空間を劃(かぎ)つた彫刻の輪廓の波動をいふのである。所謂曲線美といふのも此の辺を名づけたのであらう。一つの彫刻の前に立つて見ると、其の後ろの空間の中へはつきりと其の彫刻の「輪廓の影(シルエエツト)」が浮き上つて来る。大小緩急の入り乱れた弧線が端から端へと連続して人間の形や動物の形を成してゐる。そこで一歩横へ寄る。百眼鏡(ひやくめがね)を一転した様に、今までの輪廓の影の弧線は忽ち大活動を始めて変化する。其の変化の途中、大きな弧線が小さくなり、小さなのが大きくなり、縮んだのが伸び、迫つたのが開いてゆく所は、実に不思議な生理的快感を人間の神経に与へるものである。此の輪廓の変転は到底測る可からざる感を人に与へる。かうして、其の彫刻を一周してゐるうちに再び元の位置にかへる。ぴたりと以前の輪廓に復した時には、全く旧知に邂逅した刹那の感があるものである。(「彫刻の面白味」明治43年=1910)

こうした感覚を味わいつつ、ぜひ「《手》のオブジェクトVRコンテンツ」をご覧下さい。

なお同館では、光太郎の親友だった碌山荻原守衛遺作の「女」についても同様のコンテンツを公開するやに聞いております。

こうした動きがさらに広がってほしいものですし、どうせなら水平方向360度だけでなく、斜め上から真上からと、この場合、何度と表現したいいのか解りませんが、全方向から見られるようにもしていただけると、なお有り難いところです。

【折々のことば・光太郎】

先日窓の外の鼠の巣の子どもをのみに蛇が来て鼠を退治してくれました。


昭和23年(1948)6月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での一コマ。何気に書かれていますが、自然界の生存競争の厳しさが感じられます。その連鎖の中に光太郎も身を置いていたわけで……。

明日開幕です。いわゆるコレクション展で、光太郎木彫1点が出ます。

なつやすみ所蔵企画展 額縁のむこうのFRANCE -心惹かれる芸術の地-

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月23日(月・祝) 8/19に一部展示替え
会 場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧5-250
時 間 : 午前10時から午後5時
休 館 : 月曜日(
祝休日の場合は直後の平日
料 金 : 一般 1,000円 (800円) 高大生 600円 (500円) 小中生 300円 (250円)
      ( )内は20名以上の団体

 歴史を感じる建物やおしゃれな人々、そして芸術。心惹かれるものが多くあるフランス。
 この展覧会は、メナード美術館のコレクションからセザンヌやマティス、ブラックといったフランスの美術作品、さらに藤田嗣治や佐伯祐三らフランスに学んだ日本出身の作家たちの作品を、絵画を中心に約80点ご紹介するものです。
 時代を力強く生きる女性たちとその装い、街や農村・避暑地の風景、また20世紀に起こったフォーヴィスムとキュビスムという美術革命などをテーマに、フランスという国とそこで展開された芸術をお楽しみいただきます。
 作家たちが、フランスのどこに惹かれ、いかに表現したのか。額縁を絵画の中と私たち鑑賞者をつなぐものとして、作品からフランスへと思いをめぐらせてみてください。

展示構成《Le paradigme de la transparence. 23. T. T. -1》
 Introduction アントロドゥクシオン この展覧会のはじまりに
  ブールデル/マイヨール/アーチペンコ/高田博厚
 Les Femmes レ ファム 憧れのフランス女性
  クールベ/マネ/ドガ/ロダン/ルノワール/マティス/ピカソ/シャガール/フジタ他
 Les Paysages レ ペイザージュ フランス各地の風景
  モネ/ルソー/ガレ/スーラ/ヴラマンク/ドラン/ユトリロ/佐伯祐三/荻須高徳他
 La Libération ラ リベラシオン フォーヴとキューブ:ふたつの解放
  セザンヌ/ゴーギャン/ゴッホ/マティス/ヴァン・ドンゲン/ピカソ/ブラック他
 L’Étranger エトランジェ 異国の地で出会った美術
  藤島武二/岡田三郎助/高村光太郎/安井曾太郎/梅原龍三郎/長谷川潔/舟越桂他
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光太郎彫刻は、木彫の「鯰」が出ます。
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元々は新潟の素封家・松木喜之七に贈られたもの。直接フランスとは関わりませんが、ロダン流のモドレ(肉づけ)をカーヴィングの木彫に取り入れたという点では、フランス式とも言えるでしょう。

同館では同じく木彫の「栄螺」もお持ちですが、今回は出ません。

光太郎木彫が出る度に書いていますが、木彫は出品が少なく、貴重な機会です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

二ツ堰から徒歩で観音山といふ山上の観音さまの縁日、お神楽見物にまゐり、多田等観さんに招かれて御馳走になり、更に夕方からは村長さん夫妻の案内にて鉛温泉に一泊。久しぶりに温泉に入浴して愉快でした。温泉の主人も挨拶に来ました。


昭和23年(1948)4月27日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

多田等観は僧侶にしてチベット仏教学者。戦時中、チベット将来の品々を花巻に疎開させた縁もあり、円万寺観音堂の堂守を務め、隣村に住む光太郎と意気投合してお互いに行き来していました。

鉛温泉は、現在も続く藤三旅館さん。深さ約1.3㍍の白猿の湯が名物です。

百貨店さんのイベントを2件。

まずは三越日本橋本店さん。

木の呼吸 ー伝統と革新ー

期 日 : 2024年7月3日(水)~7月8日(月)
会 場 : 日本橋三越本店本館6階美術特選画廊 東京都中央区日本橋室町1-4-1
時 間 : 午前10時~午後7時(最終日は午後5時閉場)
料 金 : 無料

このたび日本橋三越本店では 木の呼吸 伝統と革新 を開催いたします。日本古来より受け継がれてきた伝統的技術「木彫」。自然の中ではぐくまれてきた木々との対話を通し、匂いや木肌を感じ取りながら作家それぞれの卓越した技術により、一つの素材が作品へと昇華されます。本展では近代巨匠作家の秀作から、俊英若手作家の作品 約30余点を展観いたします。
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プレスリリース等で使われているサムネイル画像は現代の作家さんの作品ですが(左・佐藤丹山氏、右・百々謙三氏)、光太郎の父・光雲の作も出展されます。最晩年の昭和7年(1932)作の「鬼はそと福はうち」。今年3月に銀座のギャラリーせいほうさんさんで開催された「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」でも展示されました。それから、同じく山崎朝雲の「仔犬」。
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近代はこの師弟二人ですが、他に現代作家でサムネイルのお二人以外に秋山隆、石川時彦、榎戸項右衛門、木村俊也、澤田志功、下山直紀、丸山達也の各氏。系譜を辿ると光雲や朝雲に連なるという方もいらっしゃるのでしょうか?

もう1件、同様の催しで、そごう千葉店さん。

近代木彫秀作展008

期 日 : 2024年7月2日(火)~7月8日(月)
会 場 : そごう千葉店 千葉市中央区新町1000番地
時 間 : 午前10時~午後8時 最終日は午後4時閉場
料 金 : 無料

近代木彫を代表する彫刻家 高村光雲、平櫛田中や、鎌倉時代の名佛師運慶・快慶の流れをくむ現代の大佛師 松本明慶氏の作品を中心にご紹介いたします。

こちらは先月、そごう大宮店さん、それから先月から今月にかけ、大和百貨店富山店さんで行われたものと同じ業者さんによる巡回のようです。それぞれ光雲の聖徳太子像が出ていました。今回もそうだろうと思われます。

ちなみに令和2年(2020)にも千葉そごうさんで同様の展示即売がありまして、その際は光雲の「孔子像」、「大国主命」、レリーフの「瑞雲」、それから光雲の師・髙村東雲の孫にあたり光雲に師事した髙村晴雲の「釈迦如来像」が出ていました。

光雲の木彫、じっくり見られる機会はあまり多くありません。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

送つて下さつた貴下の小説「塔」をまだ雪に埋まつてゐる小屋の中でいただきました。貴下の小説をよむのははじめてなのでひどくたのしみに思ひます。感謝。
昭和23年(1948)2月23日 福永武彦宛書簡より 光太郎66歳

福永は光太郎を尊敬していたようで、こまめに著書を贈っていました。前年にはボードレールに関する評論を贈っています。また、個人的な悩みの相談もしていたようです。

本日開幕です。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月29日(水)~6月4日(火)
会 場 : 大和百貨店富山店 5階コミュニティギャラリー 富山市総曲輪3丁目8番6号
時 間 : 10:00~19:00
料 金 : 無料

今展は、大仏師松本明慶先生の仏像彫刻作品を中心とした木彫作品約40点の展観です。

《出品予定作家》
 松本明慶 高橋勇二 高村光雲 平櫛田中 他

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フライヤーに光太郎の父・光雲の「太子像」。光雲が得意としたモチーフの一つで、複数の作例が確認できています。ただ、画像だけでは、弟子の手が入った「工房作」なのか、光雲単独の作なのかは判然としません。

おそらく5月8日(水)~18日(土)、そごう大宮店さんで開催された同名の展観の巡回的な、同じ業者さんによるものだと思われます。

光雲の木彫、間近に見られる機会はそう多くありません。

ところで「光雲」「弟子」といえば、昨夜、地上波テレビ東京さん系でオンエアされた「開運!なんでも鑑定団」。番組予告欄に「上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像」とあったので、てっきり光雲だと思って紹介したのですが、光雲ではなく、上野公園の西郷隆盛像の犬、皇居前広場の楠正成像の馬を手がけ、「馬の後藤」と呼ばれた後藤貞行の作でした。「ウマすぎる像」の「ウマ」は「馬の後藤」に引っかけていたのですね。気づきませんで、「そうだったのか、やられた!」という感じでした。

依頼品はその後藤作という馬の丸彫り。
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以前に同じ番組で、レリーフが出たことがありましたが、丸彫りは初めてではないでしょうか。

作者紹介のVはいつもどおり秀逸な出来でした。光雲にも触れて下さいました。
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この「ツン」の部分は後藤の手になるものだ、と。

西郷像より前に楠公像制作の依頼があった際(いろいろあって除幕は西郷像の方が先でしたが)は、後藤は東京美術学校に勤務しておらず……しかし、馬の部分にはどうしても後藤の手を借りたい光雲は校長・岡倉天心に直談判。このエピソードは『光雲懐古談』に語られています。
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そうして美校に雇ってもらった後藤ですが、だからといって妙な忖度はせず、光雲ともやり合いました。このあたり、気骨を感じますね。
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「なるほど、そういうものか」と、後藤の方が折れましたが。

依頼品は、明治天皇に献上された南部馬「金華山号」に関わるもののようでしたが、そうだと断定できない、また、「おそらく後藤の作」としか言えないという点で金額は差っ引かれました。それでも高額の鑑定がつきました。

後藤貞行、もっともっと注目されていい彫刻家だと思います。

さて、富山大和さんの「近代木彫秀作展」。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花巻滞在中にはレコードコンサートであのバツハの「ブランデンブルグ」をきいて感動したり、「モロツコ」の映画再演を見たりしました。十数年前見たデイトリヒを久しぶりで又見て、昔の映画情趣を味ひました。今日のアメリカのスリラアなどに比べると随分テムポののろいものですがやはりいいものがあります。芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。

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昭和22年(1947)10月24日 椛沢ふみ子宛書簡より
 光太郎65歳

隠棲していた旧太田村から花巻町に出ると、賢治実弟の清六らとともに映画を観ることもしばしばでした。この際は、ゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリヒ主演の「モロッコ」。昭和5年(1930)公開のアメリカ映画でした。

芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。」そのとおりですね。

テレビ放映情報です。

追記 光雲ではなく後藤貞行でした‼

開運!なんでも鑑定団【超絶彫刻&昭和<美人画巨匠>東郷青児作にド級値】

地上波テレビ東京 2024年5月28日(火) 20:54〜21:54

■エッ東郷青児!?…昭和<美人画巨匠>の超大作にド級鑑定額■上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像に驚き値■人気<ロレックス>に…仰天鑑定■

番組内容
 コレクションは全てネットオークションで入手した絵画コレクターが登場!その審美眼は鑑定団で証明済みで、過去2回出演し、2回とも高額鑑定を出している。それに自信をつけ、さらに買いまくり、遂には調子に乗って114万円で、家に飾れないほど巨大な絵を購入!
 それは昭和洋画壇の重鎮の傑作だというが…3匹目のどじょうを狙うが、果して結果は!?

出演者
【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香    【ゲスト】岩城滉一
【出張鑑定】出張鑑定 in 愛知県犬山市   【出張リポーター】岡田圭右
【出張アシスタント】吉川七瀬     【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

鑑定士軍団
 中島誠之助(古美術鑑定家)       北原照久(ブリキのおもちゃ博物館館長)
 安河内眞美(ギャラリーやすこうち店主) 山村浩一(永善堂画廊代表取締役)
 川瀬友和(株式会社ケアーズ会長)    大熊敏之(日本大学大学院非常勤講師)
 森由美(陶磁研究家)          額賀大輔(ヌカガファインアート代表取締役)
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番組説明欄や次回予告等では、イチオシは東郷青児の絵。本物かどうかまだわかりませんが。
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そして「上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像に驚き値」とあり、「天才彫刻家」は光太郎の父・光雲ですね。いわずもがなですが、「アノ像」の「上野」は西郷隆盛像、「皇居前」は楠正成像でしょう。

この番組、光雲の真作が出たこともしばしば。平成17年(2005)にはゲストとしてご出演なさった山口もえさんのご実家にあったレリーフ「朝日に虎」、平成31年(2019)にはやはりゲストの秋川雅史さんがお持ちの「寿老舞」、令和3年(2021)には富山県の一般の方の鑑定依頼で「聖徳太子像」。逆に真っ赤なニセモノもありましたが、たとえニセモノであっても、鑑定結果オープンの前に為される作者等の紹介のVはなかなか凝った作りです。また、「出張鑑定」が智恵子の故郷・二本松市で開催されたこともありました。

今回は番組紹介欄に「驚き値」。高額なので「驚き」なのか、何千円とかで「驚き」なのか……。前者であってほしいものですが。

地上波テレビ東京さん系は全国に系列局が少なく、この日に見られないという地域が多いのですが、ネットの見逃し配信(https://video.tv-tokyo.co.jp/kantei/)、後日、BSテレ東さんでの再放送、さらに番販によるローカル局での放映がありますのでよろしく。

【折々のことば・光太郎】

バツハのブランデンブルグのレコードに実に打たれました。その美は天上のものでこんな高い、しかも親しい美があるものかと今更のやうに驚きました。

昭和22年(1947)10月23日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳

レコードは宮沢家で聴いたものと思われます。ことによると賢治の遺品だったりしたのでしょうか?

初めて聴いたわけではないので「今更のやうに」と書かれていますが、改めてその魅力にとりつかれ、すぐにずばり「「ブランデンブルグ」」という比較的長い詩を書きました。

   「ブランデンブルグ」006

 岩手の山山に秋の日がくれかかる。
 完全無欠な天上的な
 うらうらとした一八〇度の黄道に
 底の知れない時間の累積。
 純粋無雑な太陽が
 バツハのやうに展開した
 今日十月三十一日をおれは見た。

 「ブランデンブルグ」の底鳴りする
 岩手の山におれは棲む。007
 山口山は雑木山。
 雑木が一度にもみじして
 金茶白緑雌黄の黄、
 夜明けの霜から夕もや青く澱むまで、
 おれは三間四方の小屋にゐて
 伐木丁丁の音をきく。
 山の水を井戸に汲み、
 屋根に落ちる栗を焼いて
 朝は一ぱいの茶をたてる。
 三畝のはたけに草は生えても
 大根はいびきをかいて育ち、008
 葱白菜に日はけむり、
 権現南蛮(ごげなんばん)の実が赤い。
 啄木は柱をたたき
 山兎はくりやをのぞく。
 けつきよく黄大癡が南山の草蘆
 王摩詰が詩中の天地だ。
 秋の日ざしは隅まで明るく、
 あのフウグのように時間は追ひかけ
 時々うしろへ小もどりして
 又無限のくりかへしを無邪気にやる。
 バツハの無意味、009
 平均率の絶対形式。
 高くちかく清く親しく、
 無量のあふれ流れるもの、
 あたたかく時にをかしく、
 山口山の林間に鳴り、
 北上平野の展望にとどろき、
 現世の次元を突変させる。

 おれは自己流謫のこの山に根を張つて
 おれの錬金術を究尽する。
 おれは半文明の都会と手を切つて
 この辺陬を太極とする。
 おれは近代精神の網の目から010
 あの天上の音に聴かう。
 おれは白髪童子となつて
 日本本州の東北隅
 北緯三九度東経一四一度の地点から
 電離層の高みづたひに
 響きあふものと響きあふ。

 バツハは面倒くさい岐道(えだみち)を持たず、
 なんでも食つて丈夫ででかく、
 今日の秋の日のやうなまんまんたる
 天然力の理法にに応へて
 あの「ブランデンブルグ」をぞくぞく書いた。
 バツハの蒼の立ちこめる岩手の山山がとつぷりくれた。
 おれはこれから稗飯だ。
 
「平均率」は「平均律」の誤りですが、原文の通りとしました。

最後の画像は北上市の飛勢城趾に建てられた、この詩の一節を刻んだ詩碑。「北上平野の展望」の語があるので、選ばれたようです。

この後、光太郎自身は「幻聴」としていますが、いわゆる「脳内リフレイン」の状態になったようです。

 やはり山の中で、まだ手許にラジオのないときに、バツハの「ブランデンブルグ協奏曲」を幻聴で聴いたことがある。ちようど谷の底の方から聞えてくるもんだから、私はとりわけバツハが好きでもあるし、あとで谷底の家へ行つて、そのレコードをもう一度聴かせて貰いたいと頼みに行つたら、そんなものはないというので驚いた。考えてみれば、月に一度花巻の町に出かけて行つて聴かせて貰つていたのが再生されて聞えたものだと気がついた。そんなとき、音楽は人間に非常に必要なものだということをしみじみ感じた。 「ラジオと私」(昭和28年=1953)

『読売新聞』さん青森版、先週末に出た記事です。

十和田湖 輝く新緑

 十和田湖畔に広がる木々に若葉が生え始め、訪れる人の目を楽しませている。遊覧船やボート、カヌーなどに乗ると、新緑と湖水の青とのコントラストが一望でき、湖畔とはひと味違った風景が楽しめる。
 十和田八幡平国立公園の中にある十和田湖は、周辺にブナなどの林が広がる。透明度が約12メートルの湖水は、光の反射で深い青色からエメラルドグリーンまで様々な表情を見せる。
 10日は白波が立つ荒れた天候だったが、高村光太郎の最後の作品として知られる「乙女の像」の近くにボートツアーがさしかかると、雲の切れ間から日光が差し込み、ブロンズ像と新緑、湖水のブルーが輝いていた。
 十和田奥入瀬観光機構は、「10、11月の晩秋まで多くの観光客に楽しんでほしい」としている。
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画像からも湖畔の新緑の美しさが伝わってきますね。

ただ、記事中の「最後の作品」というのは誤りで、「最後の大作」というべきです。何度も書いておりますが「最後の作品」は、完成したものとしては、昭和28年(1953)10月21日に行われた「乙女の像」の除幕式の際に関係者に配付された記念メダルです。小品ですが黙殺されていいものではありません。また、体調不良で未完のまま終わりましたが、その後取り組んだ「倉田雲平胸像」も含めれば、そちらも「最後の作品」ということになります。
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004ネット上や印刷物だと関係団体さんなどの紹介であっても「乙女の像」を「光太郎最後の作品」としている記述が目立ち、辟易しておりますが、一度こうとなってしまうとたとえ事実と異なっていてもそれが定着してしまうという例ですね。

閑話休題、「新緑」ということで、これも再三取りあげていますが、「新緑」を謳歌する光太郎詩を。

     新緑の頃
 
 青葉若葉に野山のかげろふ時、
 ああ植物は清いと思ふ。
 植物はもう一度少年となり少女となり
 五月六月の日本列島は隅から隅まで
 濡れて出たやうな緑のお祭。
 たとへば楓の梢をみても
 うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
 小さな葉つぱは世にも叮寧に畳まれて005
 もつと小さな芽からぱらりと出る。
 それがほどけて手をひらく。
 晴れれば輝き、降ればにじみ、
 人なつこく風にそよいで、
 ああ植物は清いと思ふ。
 さういふところへ昔ながらの燕が飛び
 夜は地蟲の声さへひびく。
 天然は実にふるい行状で
 かうもあざやかな意匠をつくる。

昭和15年(1940)、雑誌『婦人之友』に掲載されました。既に日中戦争が泥沼化、国家総動員法がしかれていた時期で、「日本という国は何と素晴らしい国なのだ!」というプロパガンダ的な要素が見え隠れします。

そういう点を抜きにすれば、いい詩ですね。

さて、「新緑」の十和田湖、ぜひ足をお運び下さい。先月末からは遊覧船の運航も再開していますし。

【折々のことば・光太郎】

他の人の序をつけるのは東洋の風習でせうが、再考してもよくはないでせうか。序文とは結局何でせう。


昭和22年(1947)9月15日 菊池正宛書簡より 光太郎65歳

自著に序文を書いてくれ、という依頼に対しての断りの一節です。詳しくはこちら

ギャラリーでの展示を2件、ご紹介します。

まず、光太郎の父・光雲の木彫。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月8日(水)~5月14日(火)
会 場 : そごう大宮店 七階美術画廊 埼玉県さいたま市大宮区桜木町1-6-2
時 間 : 10:00~20:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

明治以降の彫刻界の発展に大きく貢献した彫刻家・高村光雲、平櫛田中を始め、現在活躍中の大仏師・松本明慶などの木彫作品30余点を展観いたします。

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高村光雲「太子像」W13.5×D11.5×H17.5cm 共箱

そごうさんではあちこちの支店で同様の展示即売会を行っています。今回と同じ大宮店さんで、全く同じ「太子像」が出た「近代木彫・工芸逸品展」が一昨年に開催されていますし、令和2年(2020)には千葉店さんで「近代秀作木彫展」があり、この際には光雲作品が3点、そして光雲の師・髙村東雲の孫の髙村晴雲の作も出ました。

続いて大阪から現代アート系。こちらは先週から始まっています。

『ARTる 檸 展』

期 日 : 2024年5月2日(木)~5月12日(日)
会 場 : galleryそら 大阪市中央区谷町6丁目4-28
時 間 : 13:00〜19:00
休 廊 : 5月7日(火)・8日(水)
料 金 : 無料

出展作家
 下元直美 / かまのなおみ / ヨシカワノリコ / 虹帆 / Q-enta / An / 稲富尊人 / 古川美香 /
 TELA / somen_ / Hanon

色を感じて想いを物語る「檸」

「檸」は、檸檬のような明るい緑が混じった黄色

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こちらではこれまでに一つの「色」を統一テーマにした展示を行われてきたそうで、「紅・墨・翠」に続く第4弾・最終組だそうです。
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「檸」といえば「檸檬」。「檸檬」といえば「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。「レモン哀歌」といえば「智恵子抄」。

出展作家のうち、somen_さんという方が「与えられたテーマが「檸(レモン色)」だったので、5月だし、黄色だし、レモンだし、P30+F30でどデカいたっきー先生の智恵子抄を描きました。」だそうです。
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P30」「F30」はともにキャンバスの規格で、前者は約910×652mm、後者は約910×727mm。「」とあるので約910×1.379mmでしょうか。たしかに「どデカい」ものですね。

たっきー先生」は故・滝口幸広さんでしょう。「智恵子抄」は中村龍介さん、三上真史さんらと行った朗読劇「僕等の図書室」と思われます。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤さんなどはまづさしあたり時間の規律などが教育でせう。授乳にしても入浴にしてもその他なるべくきちようめんにする事です。でたらめ、行きあたりばつたりの生活に慣らすとあとで困ります。 子供のウソツキも大抵は親が教へるやうなものです。


昭和22年(1947)8月27日 宮崎春子宛書簡より 光太郎65歳

今日は「こどもの日」ということで、ちょっと過激な物言いですが。

注文しておいた新刊が届きました。

瀏瀏と研ぐ――職人と芸術家

2024年4月10日 土田昇著 みすず書房 定価4,200円+税

 町の仏師から日本を代表する木彫家、帝室技芸員、東京美術学校教授へと登りつめた高村光雲。巨大な父の息子として二世芸術家の道を定められながら、彫刻家としてよりもむしろ詩人として知られることになる高村光太郎。そして、刀工家に生まれた不世出の大工道具鍛冶、千代鶴是秀。
 明治の近代化とともに芸術家へと脱皮をとげ栄に浴した高村光雲は、いわば無類の製作物を作る職人でありつづけた。その父との相似、相克を経て「芸術家」として生きた光太郎の文章や彫刻作品、そして道具使いのうちに、著者は職人家に相承されてきた技術と道徳の強固な根を見る。
 戦後、岩手の山深い小屋に隠棲した光太郎が是秀に制作を依頼した幻の彫刻刀をめぐって、道具を作る者たち、道具を使って美を生みだす者たちの系譜を描く。
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目次
第一章 職人の世界――火造り再現の旅のはじまり
火起こし / 千代鶴是秀の鍛冶場 / 仕事の領分――冷たい鉄と熱い鉄 / 鋼作り / 地金作り / 鍛接 / 火造り / 山の鍛冶場 / 最後の職人たち――作業感覚に支えられて / 売るためでなく / 「絶滅種」の道具 / 剣錐を造る / 本三枚の刃物の難しさ / 本三枚と格闘する / 出来る時には出来てしまう / 驚異の青年鍛治 / 本三枚の切出小刀の製作仲介 / 作業感触の支配下で

第二章 道具と芸術
不思議を転写した彫刻 / 芸術家とはなにか / 美しいとはなにか / 大工の技術、彫刻家の技術 / 大工の研ぎ、彫刻家の研ぎ / 岐れ道を歩む者たち――千代鶴是秀と高村光太郎 / 千代鶴是秀と明治日本 / 高村光雲と明治日本 / 明日の小刀を瀏瀏と / 高村光雲の彫刻道具 / 仏像作家、森大造と道具 / 特殊鋼の刃物、純炭素鋼の刃物 / 是秀作、左右の印刀――実用本位の刃物 / 津田燿三郎の墨坪 / 道具はどう機能すべきか――森大造と津田燿三郎

第三章 職人的感性と芸術家――高村光雲と光太郎
高村光雲『幕末維新懐古談』との出会い / 『光雲懐古談』想華篇――「省かれてしまった部分の方が面白い」 / 芸術家父子と技法の移譲――岩野勇三と岩野亮介 / 息子がなす無謀――父親と同じではいない / 職人手間、物価の話と、道具の単位 / 世間に知られぬ名人の話 / 無類の制作物を作る「職人」たち――村松梢風『近代名匠傳』 / 職人の道徳――錆びた木彫道具 / 父との相似、相克――息子、光太郎と「のつぽの奴は黙つてゐる」 / 《薄命児》と川縁の地 / 二代目芸術家の洋行 / 帰国と芸術論「緑色の太陽」 / あやうい上手さからの脱却のシミュレーション――「第三回文部省展覧会の最後の一瞥」 / 鋸の色と切味の間の微妙な交渉 / 鋸の製作 / 健康な道具の色 / 三尺の目と一厘の目 / 職人と社会の問題 / 芸術家と社会の問題、芸術家と戦争――佐藤忠良、西常雄 / 「まだうごかぬ」――高村光太郎と西常雄 / 千代鶴太郎と彫塑の師、横江嘉純 / 息子がみつめた「父の顔」 / 工房の中の芸術家――光太郎による光雲作品の評価 / 木彫地紋――修業の第一歩 / 木彫地紋を彫る小刀 / 小さな木彫作品群――《桃》と《蟬》、光雲の荒彫りの洋犬 / 道具調べと職人道徳 / 後進の彫刻家にとっての高村光太郎 / 十和田湖畔の裸像 / 研ぎという刹那な達成 / 名人大工<江戸熊>の研ぎ / 光太郎の変容、是秀の変容 / 随筆身近なものへの感触の確かさ――「三十年来の常用卓」/ 折りたたみの椅子

第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎
コロナ禍の研ぎ比べ――是秀の二本の叩鑿 / 錆びた彫刻刀――光太郎と是秀の接点たる道具 / 光雲の玄能、光太郎の彫刻刀 / <マルサダ>の一文字型玄能 / 錆落とし / 父の検証 / 研ぎ / 焼班やきむら / 仮説と消えゆくウラの文様 / 異形、異例の彫刻刀

借受記録帳より――光太郎のアイスキ刀 図面および寸法と覚書
参考文献
あとがき

著者の土田昇氏は、三軒茶屋の土田刃物店三代目店主であらせられます。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等を行う職人さんであると同時に、お父さまの二代目店主・一郎氏と交流のあった伝説の大工道具鍛冶・千代鶴是秀作品の研究家としてもご活躍。平成29年(2017)に『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』という書籍を刊行されています。

千代鶴是秀は光太郎の木彫道具も制作しましたし、実現したかどうか不明なのですが、光太郎は終戦直後、是秀に身の回りの道具類の制作をお願いしたいという旨の書簡を送っています。また、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した光太郎を、是秀が中野のアトリエにひょっこり訪ねたりもしています。「乙女の像」の石膏取りをした牛越誠夫は是秀の娘婿でした。

是秀が光太郎のために作った彫刻刀は、令和3年(2021)に東京藝術大学正木記念館さんで開催された「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展で初公開されました。その少し前に髙村家で見つかったもので、土田氏がその錆び落とし、研ぎにあたられたとのこと。「第四章 道具を作る、道具を使う――是秀と光太郎」に、その経緯や作業の工程などが詳しく語られていて、実に興味深く拝読いたしました。

問題の彫刻刀は、先端部分のみを木製の柄にすげる通常の彫刻刀と異なり、柄の部分まで鉄で出来た「共柄」と呼ばれるタイプ。当方、この手の道具類にはさほど詳しいわけではなく、現物を拝見した時には「へー、このタイプか」と思っただけでした。しかし、本書を読むと「共柄」のものは実用に適さず、土田氏は「異形」とまで言い切られています。光太郎と交流のあった朝倉文夫は、わざわざ是秀が作った「共柄」の彫刻刀の鉄製の柄に木製の柄をかぶせていたそうで。

また、材質も特殊。是秀は早い時期から日本の伝統的な「玉鋼」ではなく、より良質な輸入鋼の「洋鋼」による制作を主流としていたにもかかわらず、光太郎の彫刻刀は「玉鋼」製だったとのこと。そうした異形、異質な作品が光太郎に作られた理由について、考察が為されています。

また、光太郎の父・光雲が使っていた玄能(げんのう)についても。こちらは「丸定」という明治期の名工の作。こちらも錆び落としや柄の補修などを土田氏が担当され、そのレポートも読み応えがありました。作業が一段落した際の記述に曰く「空振りするだけで、握る手、振り上げ振り下ろす肩や腕に制作者丸定と、柄をすげて実用した光雲が憑依しているかのように感じました」。

昨日届いたばかりですし、300ページに迫る厚冊ですので、まだ全て読み終えていませんが、他にも『光雲懐古談』、光太郎のさまざまな評論やエッセイ、詩についての考察などがちりばめられています。木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげ込み等に取り組まれている土田氏の読み方は、やはりいわゆる「評論家」のセンセイとはひと味もふた味も違います。なにげに読み飛ばしてしまうような一行に、「この背景にはこういうことがある」という指摘、唸らせる部分が多々ありました。

また、光雲や光太郎の周辺にいたさまざまな彫刻家などについての記述も。荻原守衛はもちろん、森大造などについても触れられていて、舌を巻きました。

ちなみにタイトルの「瀏瀏と研ぐ」は、『智恵子抄』にも収められた光太郎詩「鯰」(大正15年=1926)からの引用です。

   鯰

 盥の中でぴしやりとはねる音がする。000
 夜が更けると小刀の刃が冴える。
 木を削るのは冬の夜の北風の為事(しごと)である。
 煖炉に入れる石炭が無くなつても、
 鯰よ、
 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
 檜の木片(こつぱ)は私の眷族、
 智恵子は貧におどろかない。
 鯰よ、
 お前の鰭に剣があり、
 お前の尻尾に触角があり、
 お前の鰓(あぎと)に黒金の覆輪があり、
 さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、
 何と面白い私の為事への挨拶であらう。
 風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。
 智恵子は寝た。
 私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
 研水(とみづ)を新しくして
 更に鋭い明日の小刀を瀏瀏と研ぐ。

土田氏にかかると、終わりから二行目の「研水(とみづ)を新しくして」だけでも深い意味。詳しくはぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩稿「暗愚小伝」(題名未定)は、いつまでも書き直してゐてもきりがありませんから此の十五日までに遅くもそちらに届くやうにするつもりで居ります。 一応読んでみて下さい。雑誌でも検閲があるのでせうが一切自由に書きましたからご注意下さい。

昭和22年(1947)6月1日 臼井吉見宛書簡より 光太郎65歳

自己の生涯を振り返り、同時に戦争責任にも言及した20篇から成る連作詩「暗愚小伝」。前年から取り組んでいて、ようやくほぼ脱稿しました。これを書く前と後とでは、花巻郊外旧太田村での山小屋生活の意味もかなり変容したように思われます。移住当初はここに仲間の芸術家たちを招いて「昭和の鷹峯」を作るといった無邪気な夢想もありましたが、続々入る友人知己の戦死の報(木彫「鯰」を贈った新潟の素封家・松木喜之七なども)、東京で巻き起こった戦犯追及の声などに押され、自らの戦争責任を直視せざるを得ず、「自己流謫」へと。「流謫」は「流罪」に同じです。

明治末、光太郎ともどもロダニズムを日本に持ち込み、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を偲ぶ催しが、信州安曇野の碌山美術館さんで開催されます。

第114回碌山忌

2024年4月22日(月)
 10:00~ コンサート グズベリーハウス
 13:30~ ミュージアム・トーク 約15分
 14:00~ 薩摩琵琶演奏会
       坂麗水氏 「文覚発心」「耳なし芳一」 グズベリーハウス
 16:00~ 墓参
 18:00~ 偲ぶ会
当日は入館無料 ぜひおでかけください
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関連行事としての講演会が前日に開かれます。

井上涼トークセッション「表現とアイデンティティ☆」

期 日 : 2024年4月21日(日)
会 場 : 碌山公園研成ホール 長野県安曇野市穂高5613-1
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(要碌山美術館入場券)一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
定 員 : 120名(先着順・事前申込制)

講 師 : 井上涼
ナビゲーター : 濱田卓二(碌山美術館学芸員)

NHK Eテレの美術番組「びじゅチューン!」で知られるアーティスト・ 井上涼氏が自身の表現や観点、いままでやこれから、LGBTQ などについて、ナビゲーターとの会話形式でお話しします。

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案内にあるとおり、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されている井上涼氏。

同番組ではこれまでに光太郎とその父・光雲を取り上げて下さいました。

光太郎の回は「指揮者が手」。平成30年(2018)に初回放映がありました。
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光雲は一昨年初回放映の「老猿は主役じゃなくても」。
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それぞれ小学館さん発行の『びじゅチューン!DVD BOOK』に収められ、販売中。「指揮者が手」は第5巻、「老猿は主役じゃなくても」は第7巻の収録です。
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また、ロダンの「地獄の門」で、「ランチは地獄の門の奥に」という回もありました。
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井上氏、『毎日小学生新聞』さんに「井上涼の美術でござる」という連載をお持ちで、そちらでも「高村光太郎の巻」(平成31年=2019)、「高村光雲の巻」(令和5年=2023)。
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「びじゅチューン!」、「井上涼の美術でござる」、どちらも守衛作品は未だ取り上げられていないようです。今回のご訪問を機に、守衛彫刻のトリビュートをお願いしたいところです。

今回のトークセッション、申込フォームからの完全予約制ですが、まだ定員に達したというお知らせが出ていません。翌日の碌山忌ともども、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山はツツジのまつ盛りです。ヤマツツジ、ウマツツジ等、


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。たしかに光太郎の山小屋の裏山にはツツジの木が自生しています。「ウマツツジ」はレンゲツツジの別称です。

新刊です。

日本の近代思想を読みなおす3 美/藝術

2024年3月7日 稲賀繁美著 末木文美士/中島隆博責任編集 東京大学出版会 定価5,400円+税

ヨーロッパの基準で日本文化を判断し、そこにいかなる「美」の存在、むしろ不在を認定するか、あるいはいかなる「藝術」の発見を認知するか、それとも否認するか、その闘争の場として「日本の近代思想」における「美/藝術」は「読みなお」しを迫られている。本書はその視角から美/藝術を活写する。
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目次
総論 「近代日本」の「美」と「藝術」の「思想的」「問い直し」――本書の前提と限界
 一 学術分野と担い手の問題
 二 実践者と研究者と
 三 輸入概念としての「美」「藝術」
 四 内と外との鬩ぎ合い
 五 海外発信の使命と蹉跌と
 六 「日本」固有の「美の本質」探求とその自己矛盾
 七 国際的評価基準と「美」や「藝術」の位相
 八 先行業績の瞥見と再評価
 九 「脱近代後」から回顧する「日本近代の美/藝術」
 一〇 本書の前提と限界
Ⅰ 「藝術」の「制度」と「近代」
 一 渡邊崋山「崋山尺牘」
 二 『國華』第一巻 第一号 序文
 三 九鬼隆一「序」『稿本帝国日本美術略史』
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea(一九〇六)
 五 高村光雲『高村光雲古譚』
Ⅰ 資料編
 一 坂崎坦「崋山椿山の学画問答」
 二 『国華』第一巻第一号序文/"Introduction to the New English Edition"
 三 九鬼隆一 序『稿本帝国日本美術略史』"Préface",Historie de l'art du japan
 四 岡倉覚三『茶の本』The Book of Tea
 五 高村光雲『高村光雲懐古譚』
Ⅱ 東洋美学の模索
 一 橋本関雪『南畫への道程』
 二 園頼三『藝術創作の心理』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅱ 資料編
 一 橋本関雪『南画雑考』
 二 園頼三『感情移入より気韻生動へ』
 三 金原省吾『東洋美論』
 四 鼓常良「結語」『日本藝術様式の研究』
 五 小出楢重『油絵新技法』
Ⅲ 外からのまなざし、外への視線――内外の交差にみる日本の「美」と「藝術」
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」『印象派の思想と藝術』/「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô, Heinemann, 1913
 三 大西克禮『幽玄とあはれ』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe?”
「予は日本の建築を如何に観るか」岸田日出刀(訳)
 五 今村太平「日本藝術と映画」『映画藝術の性格』
Ⅲ 資料編
 一 高村光太郎「ポール・セザンヌ」 高村光太郎「触覚の世界」
 二 Marie C. Stopes, Plays of Old Japan, The Nô
 三  大西克禮『幽玄論』
 四 Bruno Taut “Wie ich die japanische Architectur ansehe
ブルーノ・タウト「予は日本の建築を如何に観るか」(岸田日出刀譯)
 五 今村太平「日本藝術と映画」
Ⅳ 「日本美」の彼方への思索――伝統と創造との綻び目
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」『面とペルソナ』
 二 柳宗悦 “The Responsibility of the Craftsman”
Sōetsu Yanagi,Bernard Leach(ed.), The Unknown Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」『水墨画』
 四 丹下健三「日本建築における伝統と創造│桂」『桂:日本建築における伝統と創造』
 五 Taro Okamoto, L’esthétique et le sacré, Seghers, 1976,«L’énigme d’Inoukshouk», 
«le jeu de berceau »「イヌクシュックの神秘」、「宇宙を彩る」『美の呪力』
Ⅳ 資料編
 一 和辻哲郎「面とペルソナ」
 二 柳宗悦「日本人の工藝に対する見方」 The Responsibility of the Craftsman
 三 矢代幸雄「滲みの感覚」
 四 丹下健三「桂にいたる伝統」 The Tradition leadung up to Katsura
 五 岡本太郎「イヌクシュックの神秘」 L’énigme d’Inoukshouk
   岡本太郎「宇宙を彩る――綾とり・組紐文の呪術」 le jeu de berceau
おわりに

日本の近代思想を読みなおす」という全15巻のシリーズ中の3巻目です。幕末から昭和の岡本太郎あたりまでの、いわばその時点でのエポックメーキング的な書籍、論文その他をピックアップし、その美術史的位置づけや背景、その後に与えた影響などをつぶさに検証しています。原文の抄録も「資料編」として掲載。非常に読み応えがあり、なるほどと目を開かれる部分が少なくありませんでした。

上記目次で色を変えておきましたが、第Ⅰ章で光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣)、第Ⅲ章で光太郎の『印象主義の思想と芸術』(大正4年=1915 天弦堂書房)から「ポール セザンヌ」、評論「触覚の世界」(昭和3年=1928 『時事新報』)が取り上げられています。

ただ、残念なのがありえないほどの誤植の多さ。目次からして『光雲懐古談』が『光雲古譚』とか『光雲懐古譚』になっています。そうかと思うと本文では正しく『光雲懐古談』となっている箇所もあったりします。また、光太郎の『印象主義の思想と芸術』は全ての箇所で『印象の思想と芸術』と誤記。「ポール・セザンヌ」と書かれている題名も正しくは「・」なしの「ポール セザンヌ」です。さらに本文中にやはり光太郎の評論集『造美論』(昭和17年=1942 筑摩書房)が紹介されていますが、これも『造美論』……。どうすればこうやって取り上げる書籍等の題名を誤記できるのかと呆れてしまいました。せっかくの労作なのにもったいないというか……。そうなると、当方の詳しくない他の作家の部分でも同様の誤記が少なからずあるのではないかと勘ぐってしまいます。当方も時々やらかすのであまり大きなことは言えませんが……。

ついでにいうなら、いちいち気になって仕方がなかったのが、旧字と新字の混交。なぜか「芸」の字、旧字の「藝」と新字の「芸」が混ざっています。何かこだわりがあるのかも知れませんが、使い分けている基準や意図が全く不明です。きちんと校正者の校正を経ていないのでしょうか(経ていれば『光雲懐古談』『光雲古譚』『光雲懐古譚』、「藝」「芸」が共存していることは有りえませんね)……。そういった部分では版元の姿勢も問われます。

まぁ、そういう点を差っ引いても日本近代の美術思想史を概観する上では良書といえます。誤植の多さには目をつぶってあげて、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

ミカンはまことに珍重、早速夕食後にコタツでいただきました。昔一晩に一箱たべてしまつたやうな時代のあつた事を思ひ出しました。


昭和22年(1947)1月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

昭和2年(1927)の『婦人公論』に載ったアンケート「名士と食物」に「果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。」と回答していました。それにしても「一晩に一箱」(笑)。ミカンに含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

最近ではミカンも貴重品のような気がします。一度に2つも食べると罪悪感に責めさいなまれます(笑)。

都内で一昨日から始まっている展示即売会的な展覧会です。

近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜休廊
料 金 : 無料

《作品展示作家》
 高村光雲     1852-1934  山崎朝雲     1867-1954  米原雲海     1869-1927
 吉田白嶺     1871-1942  平櫛田中     1872-1979  吉田芳明     1875-1945
 佐藤玄々     1888-1963  澤田政廣     1894-1988  橋本高昇     1895-1985
 宮本理三郎 1904-1998  圓鍔勝三     1905-2003  長谷川   昻   1909-2012
 鈴木 実     1930-2002  及川 茂     1940-
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「高村光雲の流れ」と謳っていますので、一番の目玉が光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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これは髙村家で持っているはずのものなのですが、価格が千五百万。まぁ、ほぼ非売品という意味の設定なのでしょう。

他に光雲高弟は山崎朝雲「狗子」、平櫛田中「霊亀」(田中作は他にも色々)、米原雲海「恵比寿尊像/大黒天像」など。
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さらに佐藤玄玄(朝山)や澤田政廣は光雲の孫弟子ですし、同じく孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇の作なども。

会場のギャラリーせいほうさん、昨年はブロンズ中心の「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」を開催して下さっていました。

明後日、光太郎中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、過日ご紹介しました「星センセイと一郎くんと珈琲」ともども、立ち寄ってみようかと思っております。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は一日買物をして歩きました。山の夜にどうしても必要なので手さげラムプを買つたら七十五円もとられたので驚きました。つまらない金物にガラスのホヤがはまつてゐるだけのラムプです。

昭和21年(1946)11月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる新円切替はこの年2月。花巻郊外旧太田村での蟄居生活を送っていると、この日のようにたまに花巻町中心街に買い出しに出た時以外、実感がなかったようです。
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画像は光太郎の山小屋(高村山荘)内部に残されているランプ。この日に買ったものかどうか判りませんが。ランプ生活は、見かねた村人が電線を引っ張る工事をしてやった昭和24年(1949)まで続きました。

またしても紹介すべき事項が山積して参りましたので複数件まとめてご紹介します。無理くりですが「オンライン系」というくくりで。

まずは動画投稿サイトYouTubeさんに今月初めにアップされた動画。名古屋ご在住の作曲家・野村朗氏作曲の「連作歌曲「智恵子抄」〜その愛と死と〜」です。


初演は平成25年(2013)ですから、もう10年以上経ちますね。その後、野村氏プロデュースで楽譜やCDが発売されたり、氏の地元・名古屋都内、智恵子の故郷・二本松などでの演奏会で取り上げられたりしました。さらにバリトン歌手の新井俊稀氏ドイツをはじめ各地で演奏なさったり、CD化されたりなさっています。

YouTube上ではこれまでも各曲ごとの動画はありましたが、今月、全曲まとめてのアップ。演奏は野村氏プロデュースの演奏会等でいつも担当されるお二人、森山孝光氏(バリトン)、康子氏(ピアノ)御夫妻です。

野村氏のお言葉。

 彫刻家で詩人の高村光太郎は、詩集「智恵子抄」で愛する妻、智恵子を詠い、「永遠の愛の姿」と賞賛されました。しかし、本当の愛は、智恵子を失った後に結実しました。
 智恵子を亡くした後の光太郎は、終戦後、岩手県花巻市郊外の山小屋にたった一人で篭って、7年もの間隠棲するのですが、心に智恵子を住まわせ、毎日智恵子に話しかける日々であったことが、詩「案内」に語られています。
 だんだんと智恵子の心が壊れていく様を悲しく見守る光太郎を表現した第1曲「千鳥と遊ぶ智恵子」、「東京に空がないと言う」という有名な詩句を含む第2曲「あどけない話」、智恵子が病没する瞬間を描いた悲痛な絶唱、第3曲「レモン哀歌」、その後の歳月を表現した短いピアノの第4曲「間奏曲」、心に住む智恵子に話しかける晩年の光太郎を描いた第5曲「案内」の5曲を、連作歌曲「智恵子抄」として皆様にお届けいたします。
 特に、「案内」の最後の場面で、「智恵さん」と2度、歌われる部分に、私は自分の全ての想いを託しました。1度目はもう手の届かない智恵子に、2度目は心に住む智恵子に、万感を込めて呼びかけるのです。
 私はある日、この作品の録音を持って、光太郎が暮らした山小屋「高村山荘」にでかけました。山荘の裏山を登ると、光太郎が「見晴し」と称した小高い展望台があり、まさに「案内」の中で「智恵さん」と呼びかける、その場所でした。静かな晩夏の真昼。「智恵さーん、智恵さーん」と歌われる呼びかけは山麓にこだまし、やがて天にのぼっていくように思われました。
 願わくば、この作品に出会われた皆様の心にも、なにものか熱いものが届かんことを! 切に!

もう1件、というか2件というか、美術系のオンライン講座です。

知っておきたい!日本の美術 ~高村光雲「老猿」/~高村光太郎「手」

主 催 : NHKカルチャー梅田教室
配 信 : 2024年2月6日(火)~4月7日(日)
時 間 : 90分
講 師 : 大阪国際大学教授 村田 隆志
料 金 : 2,750円(税込み)

 本講座は録画済の動画を視聴する講座です。 
 美しい自然と四季折々の美に恵まれた日本は、長い歴史の中で多くの美術品を伝えてきました。特に、大阪を中心とする関西圏は古来文化の中心地だったために、多くの作品が伝えられています。この講座では、日本が世界に誇る「これだけは知っておきたい」日本美術の名品をご紹介しながら、鑑賞ポイントもお知らせします。
 「感動」は心を若く保つ、最良の方法です。日本美術の名品に大いに感動してください。
 この講座は、自宅でパソコンやタブレット、スマホなどで受講していただくオンライン講座です。Zoomを使ったもので、ご受講に不安がある方は、お問い合わせ下さい。

光太郎の父・光雲作の「老猿」篇と、光太郎の代表作「手」篇で2件です。
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「手」篇、なぜかサムネイル画像が光太郎ではなく川合玉堂の絵になっているのですが……。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「日本の山水」忝拝受しました。装幀が大変よいのと版画が美しいので、たのしく拝見いたしました。近頃もらつた本の中で一番美しい、注意の行届いた本と思ひました。

昭和21年(1946)9月22日 井上康文宛書簡より 光太郎64歳

『日本の山水』は冨岳本社から刊行された光太郎詩を含むアンソロジー。恩地孝四郎の装幀で、畦地梅太郎、前川千帆らの木版画が挿画として使われています。
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終戦から1年経ち、ようやくこうした出版も再び可能になったわけで、光太郎も喜んでいます。

光太郎の父・高村光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた「西郷隆盛像」関連で2件。

まずは今日から5日間限定で開催の展示です。

出張!江戸東京博物館

期 日 : 2024年2月21日(水)~2月25日(日)
会 場 : 東京都美術館 ロビー階第4公募展示室、1階第4公募展示室、2階第4公募展示室
      東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 9:30~17:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館しました。これまで国内はもとより、海外からも多くの方々が江戸東京博物館に足を運んでくださいました。
 開館から約30年経過した現在、大規模改修工事のため、2025年度中(予定)まで休館の予定です。そのため、ご覧いただけない常設展示室の一部を、上野の東京都美術館で展示することとなりました。
 本展では、第4公募展示室のロビー階と1階のフロアで、常設展示室の一部をまとめた展示をご覧いただきます。おなじみの「千両箱」や「人力車」などの体験模型を中心に、その関連資料を展示します。
 また2階の第4公募展示室では特集展示として、開催場所である上野の歴史を錦絵や絵葉書からご紹介します。現在でも上野のシンボルとなっている西郷隆盛の銅像や不忍池など、現代と重なる風景を見ることができます。もしかすると、東京都美術館への道の途中で見かけるものもあるのかも知れません。
 本展で多彩な江戸博コレクションをご覧いただき、当館の魅力や江戸東京の歴史と文化を体感していただけますと幸いです。
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というわけで、現在改修工事中の江戸東京博物館さんから、展示品の出開帳。三の丸尚蔵館さんなどでも行っていた手法ですね。

かつての常設展からの出品と、会場が上野ですので「特集展示「上野の山」をめぐる」の二本立てのようで、後者の方で、西郷隆盛像を描いた錦絵が展示されます。
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楊斎延一が明治32年(1899)に描いた「上野山王台西郷隆盛銅像」。

平成30年(2018)、東京藝術大学大学美術館で開催された「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展」の際、ミュージアムショップでこちらをあしらったクリアファイルが2種類販売されていて、ゲットいたしました。
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ちなみに今回はこの絵を含む「入場者特典カード」が10種類作られ、無料配付されるそうです。ただし、日替わりで2種類ずつ、選べないとのことですが。
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錦絵の展示がもう1点、藤山種芳が描いた「上野山王台故西郷隆盛翁銅像」。こちらも明治32年(1899)です。
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他にも展示されるかもしれません。

当方もこの手の錦絵を何点か所持しておりまして、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。

ところで西郷隆盛像、テレビ番組でも取り上げられます。

カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」

地上波NHK総合 2024年2月25日(日) 04:15〜04:18

100年の間に震災と戦争によって2度焼け野原となり、そこから不死鳥のようによみがえった都市・東京。NHKは、東京を撮影した白黒フィルムを世界中から収集、現実にできるだけ近い色彩の復元に挑んだ。色を取り戻した東京は、どんな表情を見せるのか。今回は上野にしぼって、激動の歩みを、初公開フルカラー映像でたどる。

語り 塚原愛アナウンサー


平成26年(2014)に、やはり地上波NHK総合さんで放映された特番「カラーでよみがえる東京~不死鳥都市の100年~」から、都内の区域ごとに細切れにして放映され続けている番組の上野編です。昨年末にも放映があって拝見。西郷隆盛像が二つの時期で取り上げられました。

最初は大正12年(1923)の関東大震災。同じ動画は昨年放映された「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」でも使われていて、これは予想していました。
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ところがこれだけでなく、なんと戦時中の動画も。昭和18年(1943)、早稲田大学海軍予備学生壮行会が西郷像の前で開催され、その際に撮影されたものでした。
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この手の動画だと、国立競技場で行われた雨中の出陣学徒壮行会のものが有名でよく使われますが、西郷像の前でこんな催しがあったというのは存じませんでした。
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つくづくこういう時代に戻してはいかんな、と思いました。こういう時代に戻したくて仕方のない輩が政権を握っている国ですが……。

館外展示「出張!江戸東京博物館」/カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」、それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の論難はすべて快くうけるつもりです。壺井さんのはよみましたが小田切さんのはまだ見ません。時間が一切を裁断するでせう。

昭和21年(1946)9月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

「壺井さん」は壺井繁治、「小田切さん」は小田切秀雄。ともに戦時中の光太郎の翼賛詩等を痛烈に批判しました。それに対し、弁解めいたことは言わないよ、と、こういうところが光太郎です。
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しかし、戦時中、特高に逮捕されていた小田切はともかく、自らも翼賛詩を書いていながら戦後になるとそれを無かったかの如く批判に転じた壺井は、まさに「おまいう」。そういう点などを後に糾弾され、詩壇からは葬られて行く感じです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像」ライトアップも為されているはずの「第26回十和田湖冬物語2024 冬の十和田湖を遊びつくそう」が先週金曜に開幕し、その模様が報じられています。

ATV青森テレビさん。

冬空に200発の花火や名物「かまくらバー」も!「十和田湖冬物語」が開幕

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冬の十和田湖をイルミネーションや花火で彩る「十和田湖冬物語」が、2日に開幕し、訪れた人たちが、幻想的な世界を楽しみました。
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十和田湖冬物語は十和田湖休屋地区の特設会場で始まりました。イルミネーションで色鮮やかに飾り付けられた会場では大きな「かまくら」を使ったバーが登場。訪れた人たちはお酒を飲んだり、肉まんや串焼きといった温かい食べ物を食べたりして楽しんでいました。
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また午後7時半を迎えると、冬の澄んだ夜空に200発の花火が打ち上げられました。
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※訪れた人は「きれいでした。よかったです見に来て。」「花火、音楽と一緒に上がってきれいでした」「雪があっての花火ですごいきれいでした」
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十和田湖冬物語は2月25日まで毎週火曜日と水曜日を除いて開催され、イベント期間中の週末にはステージイベントも行われます。
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RAB青森放送さん。

十和田湖冬物語 開幕 毎日 冬空に花火

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冬の十和田湖が満喫できる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
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会場の十和田湖畔休屋地区では4年ぶりにコロナ禍前に戻して、地元の食を味わえる雪灯り横丁やスノーパークが設置されました。
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雪不足が心配されましたが名物のかまくらバーもお目見えしました。

また今月25日までの期間中、午後7時30分から毎日打ち上げられる花火が冬空に大輪の花を咲かせて訪れた人たちが冬の十和田湖を楽しんでいました。
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地方紙『デイリー東北』さん。

澄んだ夜空に光の大輪 「十和田湖冬物語」開幕

 十和田八幡平国立公園の十和田湖畔休屋地区で2日、厳寒期の自然の魅力に触れる「十和田湖冬物語」が開幕した。雪が舞う夜空に光の大輪が咲き、来場者が見入っていた。25日まで。
 冬期の誘客促進などを目的に、実行委員会(中村秀行委員長)が主催して26回目。期間中は火、水曜を除き、午後7時半から花火約200発を打ち上げる。1玉7千円のメッセージ花火もある。
 会場の多目的広場は入場無料。新型コロナウイルスの5類移行を経て、飲食を提供する屋台村が4年ぶりに復活した。酒類を扱うかまくらバーを含め、地元業者ら7店舗が出店し、家族連れや訪日客らでにぎわいを見せた。
 初日は十和田市無形文化財の「晴山獅子舞」も披露された。週末には青森、岩手、秋田3県の芸能パフォーマンスが行われる。
 東京都から夫婦で訪れた主婦服部博子さん(68)は「澄んだ空の冬花火は華やかできれい。思い出の一つになった」と喜んでいた。
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会場の十和田湖畔休屋地区、半端ない寒さですが、その寒さを吹き飛ばす熱気に溢れていることと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

あのいただいた和紙は実に珍重です。秋には障子をすつかり新しくします。ワラビ糊をつくつて張るつもりです。 貴下手植えの萩は今年花を持つかどうか分りませんが、勢は盛んです。

昭和21年(1946)8月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

前年5月の花巻疎開の折には光太郎を花巻まで送りとどけた宮崎が、久しぶりに茨城から光太郎に会いに来ました。障子紙や萩の苗は手土産。花巻町中心街の宮沢賢治実家や花巻病院長・佐藤隆房から託されたものかもしれませんが。

この書簡には萩の葉のイラストが描かれていました。
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