開催中の展覧会を報じた報道から2件。
まずは上野の東京藝術大学大学美術館さんでの「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」につき、『朝日新聞』さん。
まずは上野の東京藝術大学大学美術館さんでの「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」につき、『朝日新聞』さん。
台湾出身者で初めて東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学した彫刻家・黄土水(こうどすい)(1895~1930)に焦点を当てた「黄土水とその時代」展が、東京・上野の東京芸術大学大学美術館で開かれている。
黄土水は、高村光雲に師事して彫刻を学び、計4度の帝展入選を重ねた。将来を期待されたが、病のため35歳で急逝。今展では黄土水の作品群と共に、芸大コレクションの中から黄土水が学んでいた頃の日本の洋画や彫刻なども展示し、当時の美術界の様子を浮かび上がらせている。 展示の目玉は、帝展入選作の一つで、昨年台湾の国宝に指定された大理石彫刻の「甘露水」(1919年)だ。長らく所在が分からなくなっていたが、2021年に見つかった。同美術館の村上敬準教授は「西洋彫刻を学びながらも、自分のルーツである台湾を表現しようとしていた。『甘露水』も、西洋の理想化された身体ではなく、東洋人の体格で作られている」と話す。10月20日まで。
続いて、智恵子の故郷・二本松市の大山忠作美術館さんで始まった「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」。KFB福島放送さんのローカルニュースから。
続いて、智恵子の故郷・二本松市の大山忠作美術館さんで始まった「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」。KFB福島放送さんのローカルニュースから。
千葉県の成田山新勝寺で、門外不出とされていた襖絵が、作者である大山忠作さんのふるさとの二本松市に里帰りしました。
6枚から8枚のふすまを組み合わせて1つの作品となる襖絵。二本松市出身の画家・大山忠作さんが約45年前に手掛けた物で、千葉県の成田山新勝寺に飾られていました。
「日月春秋」をテーマに描かれた襖絵には、ふるさと福島の自然美も表現されています。
初日の1日はオープニングセレモニーが行われた後、大山さんの長女の采子さんが作品を「戦争で生きるか死ぬかの時に、もし生きて帰ることができたら、自分は絵だけを描いて生きていこう、そういう風に決めて見ていたお日さま。それを父は昇る朝日に置き換えまして、成田山に奉納する襖絵の題材として描きました。」と解説しました。
初日の1日はオープニングセレモニーが行われた後、大山さんの長女の采子さんが作品を「戦争で生きるか死ぬかの時に、もし生きて帰ることができたら、自分は絵だけを描いて生きていこう、そういう風に決めて見ていたお日さま。それを父は昇る朝日に置き換えまして、成田山に奉納する襖絵の題材として描きました。」と解説しました。
訪れた人は「一度見てみたいなと思っていたので、間近に見れて本当に素晴らしいなって。今感動しています。」と話していました。
この襖絵は、大山忠作美術館の開館15周年を記念して、11月17日まで展示されています。
画伯のお嬢様・一色采子さん。女優としてのお仕事でない時は、ご本名の「大山采子」さんで通されています。談話の中に戦争云々のお話がありますが、画伯、昭和18年(1943)に東京美術学校を繰り上げ卒業となり、熊谷の航空基地に。その後、フィリピン、台湾と転戦されたそうです。
ある時、一色さんとお話をしていて信州上田の無言館さんの話題となり、「うちの父も、もしかするとあそこに作品が展示されるようになっていたかも」とおっしゃっていました。
そう考えると、朝日を描いた襖絵、地上からの眺めでなく、軍用機のコックピットで観た俯瞰のような気もします。こじつけでしょうか。
さて、両展、是非とも足をお運びいただきたく存じます。
【折々のことば・光太郎】
自分ながら変な親爺と思ひますが争ひがたい都会性と野人性との混淆を感じました。
写真雑誌『アサヒカメラ』の取材で、光太郎の蟄居する花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた写真家・濱谷から贈られた自らの写真に対する感想です。
「都会性と野人性との混淆」は、遠く明治44年(1911)に書かれた詩「声」で、既に扱われていたテーマです。
ある時、一色さんとお話をしていて信州上田の無言館さんの話題となり、「うちの父も、もしかするとあそこに作品が展示されるようになっていたかも」とおっしゃっていました。
そう考えると、朝日を描いた襖絵、地上からの眺めでなく、軍用機のコックピットで観た俯瞰のような気もします。こじつけでしょうか。
さて、両展、是非とも足をお運びいただきたく存じます。
【折々のことば・光太郎】
自分ながら変な親爺と思ひますが争ひがたい都会性と野人性との混淆を感じました。
昭和24年(1949)11月8日 濱谷浩宛書簡より 光太郎67歳
写真雑誌『アサヒカメラ』の取材で、光太郎の蟄居する花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れた写真家・濱谷から贈られた自らの写真に対する感想です。
「都会性と野人性との混淆」は、遠く明治44年(1911)に書かれた詩「声」で、既に扱われていたテーマです。