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少年写真新聞社刊『図書館教育ニュース』という刊行物があります。学校図書館向けのもので、本編はB2判のポスターサイズでカラー印刷、付録にB4判二つ折りの冊子がついています。月3回の刊行で、公称7,000部。学校の図書室などに掲示するものです。
 
今日発行の第1300号は、「詩と美の世界に生きた高村光太郎 理想的な生き方や妻への愛情を詩に込めた旧道的な生涯」という題で、光太郎がメインに扱われています。
 
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 道を写したイメージ写真のバックには詩「道程」が印刷されています。
 
本編の編集は版元の少年写真新聞社さんですが、監修は花巻の高村記念会です。
 
また、付録の冊子には「「彫刻」と「詩」、高村光太郎芸術の二本柱」という題で、拙稿が掲載されています。1月末ぐらいでしたか、花巻の高村記念会さんを介して執筆依頼があり、書かせていただきました。
 
学校図書館向けということで、一般には流通しない刊行物ですが、学校の先生方、勤務校で購読されている場合にはご高覧下さい。
 
付録に掲載の拙稿は、PDFファイルの形でご提供できます。ご入用の方はお申し付け下さい。本編は版元の少年写真新聞社さんに連絡すれば、もしかすると入手できるかも知れません。
 
【今日は何の日・光太郎】3月8日

昭和38年(1963)の今日、第6回高村光太郎賞の受賞者が発表されました。詩部門は高橋元吉、金井直、田村隆一の3名、造型部門は堀内正和、西大由の2名でした。

再三お伝えしています花巻の高村記念館リニューアルに関する続報です。
 
まず花巻市HPから市長さんの施政方針。3/1の議会で発表されたようです。 

市長施政方針演述 平成25年第1回(平成25年3月議会) 抄

 平成25年度の目標と力点001
  よって、平成25年度はこれまで築き上げてきた賑わいと活気を逸することなく、観光、スポーツそして文化で、更に熱く強く逞しく、賑わいと活気ある一年を創出してまいりたいと思います。
 まず、観光面では、昨年「いわてデスティネーションキャンペーン」が展開されましたが、アフターデスティネーションキャンペーンとして、好評を博した花巻BB(べつばら)フェアを開催するとともに、新たに宿泊型観光を推進するための花巻オリジナルツアー「銀河鉄道の夜」を巡るツアーの運行や「SL銀河鉄道」の活用など、広域観光の拡大にも取り組んでまいります。
 また、スポーツのイベントとしては、プロバスケットボールbjリーグや日本ハンドボールリーグなど昨年開催した大会をはじめ、新たに全日本マスターズハンドボール大会、全国選抜フットサル大会、全日本クレー射撃選手権大会、バドミントン日本リーグ、全国女子選抜フットサル大会など、スポーツコンベンションビューローのサポートのもと、年間を通して全国レベルの大会を積極的に開催してまいります。
 そして、今年からは特に文化によるまちづくりにも力を入れてまいります。
 「賢治さんの香りあふれるまちづくり」がスタートして2年目の今年は、賢治さんが亡くなってちょうど80年目の年にあたります。この節目のイベントとして冨田勲氏が手掛け日本フィルハーモニー交響楽団が演奏する「イーハトーヴ交響曲」の公演を行うとともに、NHKのど自慢が当市で開催されます。また、市博物館では、賢治作品などを題材にした「藤城清治 光と影展」を開催するほか、特別展「北斎漫画展」の開催など市民をはじめ県内外の皆さんに、普段目にすることができない芸術作品を紹介する機会を設けてまいります。
 さらには、賢治生誕120年となる2016年(平成28年)を目標に、今年から宮沢賢治記念館や宮沢賢治童話村一帯を「賢治胡四王の森」として、ハード・ソフト両面の整備に着手してまいります。また、新幹線新花巻駅から「賢治胡四王の森」までの区間につきまして、賢治にちなんだモニュメントや案内板を整備してまいります。
 加えて、今年は高村光太郎生誕130年の記念の年となっていることから、花巻歴史民俗資料館を新たに高村光太郎記念館として改修整備し、国内唯一の記念館としての価値を高めてまいります。


続いて『毎日新聞』岩手版の報道。 

花巻市:13年度当初予算案 スポーツ施策重点 一般会計は前年度2.1%減 /岩手

毎日新聞 2013年03月01日 地方版
 花巻市は前年度比2・1%減の総額426億1030万円の13年度一般会計当初予算案を発表した。16年度の岩手国体を念頭にスポーツ施策や、文化施設整備に重点配分した。

 歳出のうち、スポーツ施設整備に約3億3900万円、スポーツ大会・合宿誘致に約950万円を計上。文化関連では、宮沢賢治生誕120年を迎える16年をめどに全面改修を予定している宮沢賢治記念館の設計費などを含む「賢治のまちづくり推進事業」に約1億2300万円、高村光太郎記念館整備にも約1400万円を計上した。  


さらに地元紙『岩手日報』の報道です。 

光太郎作品、ゆったり鑑賞 花巻の記念館が移転

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する花巻市太田の高村記念館が5月、3倍以上の広さとなって生まれ変わる。生誕130年の節目に合わせ、約300メートル先の市花巻歴史民俗資料館に移転し、手狭で作品が〝すし詰め〟だった状態を解消。ゆったりとした空間で、光太郎の作品と偉業をさらに輝かせる。
 移転後の床面積は約330平方メートルとなり、十分な空間の中で作品を展示することが可能。作品や光太郎に関する解説も充実させていく。今の記念館にはない空調設備の設置で、後世に作品を残す環境も整う。冬季休館(12月16日~3月末)はやめ、通年開館にする。
 移転日は、光太郎が東京で戦災に遭い、花巻市に疎開した45(昭和20)年の日付にちなんで5月15日。資料館の花巻人形やこけし、農具などは同市高松の市博物館に移す。
【写真=高村光太郎の顕彰施設として生まれ変わる市花巻歴史民俗資料館。展示スペースは現在の高村記念館の3倍超の広さとなる】


4/2の連翹忌では、花巻高村記念会の皆様に詳しいお話を聴けるのではないかと期待しております。

 
【今日は何の日・光太郎】3月3日

昭和28年(1953)の今日、草野心平が経営していた伝説の居酒屋「火の車」を訪れました。

昨日のブログで御紹介した岩手花巻の高村記念館リニューアルの件、『読売新聞』さんの岩手版で昨日報道されました。

花巻歴史民俗資料館、光太郎記念館に衣替え

 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)が戦中戦後に暮らした花巻市に5月、新たに高村光太郎記念館がオープンする。生誕130年を迎えるのを機に市が同市太田の花巻歴史民俗資料館を記念館に刷新する。
 
 高村光太郎は、太平洋戦争末期、親交のあった宮沢賢治(1896~1933)の弟・清六氏(1904~2001)の家があった旧花巻町(現在の花巻市)に疎開。戦後は旧太田村(同)のあばら家に移り、7年間、農耕自炊の生活を送りながら創作活動を行った。
 
 太田地区には、そのあばら家が「高村山荘」として保存されており、近くには光太郎を顕彰する国内唯一の記念館が財団法人高村記念会(花巻市)によって運営されている。しかし、展示スペースは78平方メートルと狭く、所蔵する資料を展示しきれていない。空調設備もなく、資料の傷みも懸念されていた。
 
 そのため、財団が昨年、資料館の活用を市に要望し、展示品の「十和田湖裸婦像原型」など美術品5点(評価額6000万円相当)や、記念館整備資金として500万円の寄付を申し入れていた。
 
 市によると、現在の記念館は冬は営業していないが、新しい記念館は通年営業とし、光太郎の花巻での暮らしをメーンテーマに、彫刻や絵画、詩などを展示する。現在の歴史民俗資料館の展示品は市博物館に移す。
 
 光太郎が花巻に疎開した5月15日に行われる「高村祭」に合わせてプレオープンし、15年に全体の整備を終える計画という。事業費は未定。
 
 5月時点の展示スペースは現記念館の3倍弱にとどまるが、最終的には、資料館の収蔵庫も展示室に改装し、現在の6倍ほどの広さになる計画。市は「公の施設として記念館を設置し、国内唯一の記念館として存在価値を高めていきたい」としている。
 
2013年2月24日 読売新聞)
 
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公式発表がありましたら、詳細を御紹介します。

 
【今日は何の日・光太郎】2月25日

大正8年(1919)の今日、智恵子の母校、日本女子大学校から創立者・成瀬仁蔵の胸像制作を依頼されました。

完成、除幕されたのは昭和8年(1933)。実に14年かかりました。

このブログで時々触れていますが、花巻市郊外太田地区に、昭和20年(1945)から同27年(1952)まで、光太郎が暮らした山小屋が「高村山荘」として保存されています。
 
その山荘からほど近いところに、光太郎の遺品や彫刻、書画を展示する「高村記念館」があります。開館は昭和41年(1966)。花巻の財団法人・高村記念会が管理運営しています。
 
当方も、なんやかやで10回ほど行ったと思います。非常に素朴で味わい深い館です。夏場は開け放した入口からオニヤンマが迷い込み、館内を飛び回っていました。
 
しかし、建物自体が老朽化し、また、展示も充分とは云えないということで、今年、これも近くにある現在の花巻市歴史民俗資料館を新たな高村記念館とし、全面的にリニューアルされることになりました。
 
当方、昨秋には花巻の高村記念会から聞いていましたし、協力要請もあったのですが、正式発表がまだ、ということでこのブログでも触れずにいました。
 
しかし、正式発表はまだなのですが、2月19日の花巻市議会での議員説明会の議題にのぼり、それを受けて地元紙に報道されてしまいました(「されてしまった」というのも変ですが……)。また、花巻市議会議員さんや大沢温泉さんのブログなどにも掲載されています。
 
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詳しくはやはり正式発表があってからご紹介しますが、差し支えない範囲を今日書きましょう。
 
まず、今年はプレオープンということで(5月15日の花巻高村祭の日に合わせるそうです)、来年には周辺環境等の整備、本格オープンは再来年です。展示スペースはかなり広くなり、企画展等も開催できるスペースを設けるとのこと。そして、現在は冬期間閉鎖ですが、やがては通年開館を考えているとのことです。
 
これを機に、多くの皆様にご来館いただきたいと考えています。
 
先程書いた通り、詳細は正式発表があってからまた書きます。
 
【今日は何の日・光太郎】2月24日

昭和55年(1980)の今日、晩年の光太郎と交流があり、光太郎没後10年間開催された彫刻と詩二部門の「高村光太郎賞」選考委員も務めた彫刻家・本郷新の葬儀が、光太郎と同じ青山斎場で行われました。

1/27(日)の「神戸新聞」さんに以下のコラムが載りました。「朝日新聞」で言えば「天声人語」のような欄でしょうか。 

正平調 

武庫川にほど近い西宮市の住宅地で、レモンがいっぱいなっている002。数日前、本紙阪神版に載った写真である。なんてみずみずしい色だろうと目が留まった◆段上町2の安井進治さん宅だ。阪神・淡路大震災で自宅が全壊し、両親が亡くなった。その翌年、更地になった所にレモンの苗木1本を植えた。実を付けるまでレモンは年月がかかるというが、なるほど実が枝をしならせ始めたのは、かれこれ5年ほどたってのこと◆秋になった実は、年の瀬には黄色く変わる。1月になると香りはいっそう強くなって、近くを通るだけで気づくほどになるそうだ。まるであの日の記憶を呼び覚ますように被災地で香りを放つ…と想像がつい膨らんでいく◆高村光太郎の「レモン哀歌」を重ねてしまう。息を引き取る前に愛妻はレモンを口にする。その「数滴の天のものなるレモンの汁」でかすかな笑みが浮かぶ。そんな別れの詩から、あの香りと味には生きる力をかきたてる何かがあると感じる◆大震災といえばヒマワリが象徴だ。少女の命が奪われた神戸市東灘区の民家跡に咲いたのが、この花。見かけた近くの男性が少女の名をとって「はるかのひまわり」と名付けた。やがてその種が、震災の教訓を伝えるシンボルとして全国に広がる◆明るいヒマワリが復興を語る花なら、かぐわしいレモンは復興への香り。そんな想像を膨らませながら、黄色い実を見続ける。2013・1・27
 
西日本で「大震災」といえば18年前の1月に起きた阪神淡路大震災なのですね。いまだ震災の記憶をとどめるものがこのように残っていることで、記憶の風化を防ぐことにもなっているのでしょう。
 
東日本大震災からもうすぐ2年。こちらの傷跡はまだまだいたるところに残っています。この記憶も風化させないようにしていきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月30日

昭和28年(1953)の今日、中央公論社から刊行された『高村光太郎選集』全6巻が完結しました。

今週発売の『週刊ポスト』に「ニュースを見に行く! 現場の磁力 「光太郎・智恵子」と上野精養軒の時代」という記事が載りました。
 
実は今週の『週刊ポスト』は、月曜日に歯医者の待合室で手に取っていたのですが、グラビアページばかり見ていて気付きませんでした(笑)。昨日、ネットで気づき、今日、慌てて買ってきました。
 
筆者は作家の山藤章一郎氏。大正3年(1914)12月22日、上野の精養軒で光太郎と智恵子の結婚披露宴が行われたことを軸に、同じ年の東京駅落成やJTBの開業などにも触れています。光太郎・智恵子に関しては、津村節子氏の小説『智恵子飛ぶ』や光太郎の詩篇などを引用しつつ、簡潔に二人の生涯をたどっています。当時の世相とからめながら展開する書き方が面白いと思いました。
 
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『週刊××』の類。新聞広告や電車の中吊りなどで、どぎつい見出しがやけに目立ちますが、こういうまじめな記事ももっともっと載せてほしいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月23日

昭和26年(1951)の今日、花巻の大沢温泉に宿泊しています。

昨日の朝日新聞「天声人語」欄に、光太郎の名が。ありがたいことです。
 
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元日の「西日本新聞」でもそうでしたが、やはりこの季節、「旬」の詩人というイメージが定着しているのでしょう。
 
同じことを以前にも書いた記憶がありますが、「高村光太郎? 誰、それ?」ということにならないようにしていきたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎】1月6日

昭和56年(1981)の今日、千葉県立美術館で企画展「高村光太郎、その芸術」が開幕しました。
 
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この項目、時には光太郎没後の事項も採用します。何せ365件のエピソードを見つけなければいけないもので……。

「満目蕭條」という語で、冬の厳しい美と、自分の生き方を重ねた光太郎。
 
一昨日(元日)の西日本新聞さんにはこんなコラムが載りました。
 
冬に題を求めた詩を高村光太郎はいくつも書いた。〈きつぱりと冬011が来た〉で始まる「冬が来た」はよく知られている。そのなかで〈冬よ/僕に来い、僕に来い〉とも書いている
▼「冬が来る」と題した詩もある。〈冬が来る/寒い、鋭い、強い、透明な冬が来る〉で始まる。「冬の奴(やつ)」という詩にはこんな一節も。〈ああ、冬の奴がおれを打つ、おれを打つ。/おれの面皮をはぐ。〉
▼木々を裸にし、万物に生地をさらさせる冬が、光太郎は好きだった。人の心の風景からも飾りものをはいでいく決然とした寒さを愛した。精神を研がせ、鍛えてくれる厳しさを友とした
▼今冬の日本列島は12月から震えた。冬が来るのも、寒気が厳しさを増すのも、早かった。冬将軍に抱かれて迎える新年は気分がいっそう締まる。暖房の効いた家から抜け出し、澄んだ冷気に洗われながら光太郎の詩を口ずさみたくなる
▼空の下で身一点に感じることができれば万事において文句はない、と書いた詩人もいる。寒空の下で身一点に感じるものがあれば、正月と向き合う心の背筋が張る。モノがあふれる現代では、そぎ落としたい精神のぜい肉を誰しも少なからずまとっている
▼光太郎は「冬の言葉」と題した詩で〈冬が又(また)来て天と地とを清楚(せいそ)にする。〉ともつづった。詩人に倣って構えていえば、新年がまた来て天と地とを清楚にする。そして、人には皆、正月はきっぱりとやってくる。
=2013/01/01付 西日本新聞朝刊=
 
「人には皆、正月はきっぱりとやってくる。」その通りですね。皆さんはどのようなお正月をお過ごしでしょうか。テレビでは被災地の正月の風景がよく流れています。
 
あらためて、今年一年が良き年であることを祈ります。
 
【今日は何の日・光太郎】1月3日

明治34年(1901)の今日、鎌倉で与謝野鉄幹率いる新詩社の集いに参加。由比ヶ浜で焚火をして20世紀の迎え火としました。

昨日の朝日新聞社会面に「祈 新春 被災地より、一足お先に」という記事が大きく載りました。曰く、
 
東日本大震災から2度目の年越しがやってくる。震災の年だった1年前は出すのを控えた年賀状を、この年の瀬はしたためる人たちがいる。被災地から寄せられた年賀状を紹介する。
 
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11月の草野心平「かえる忌」でお目にかかった福島川内村の遠藤村長のものも載っています。
 
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また、詩人の和合亮一氏のものも。和合氏とは震災前に一度、二本松で行われた智恵子命日の集い「レモン忌」でご一緒させていただきました。震災後は氏のツイッターで発信された詩がかなり取り上げられましたね。
 
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光太郎の「道程」へのオマージュにもなっています。
 
その他、女川、二本松など光太郎・智恵子ゆかりの地からのものが。
 
先日も書きましたが、もうすぐ「一昨年の大震災」と書かねばならなくなります。今回の衆議院選挙では争点になりませんでしたが、被災地復興、喫緊の課題として新政権には取り組んでほしいものです。

昨日のブログで、「古い物を000残す」ということについて書きながら、先月、歯医者の待合室で読んだ『週刊ポスト』の記事を思い出しました。イラストレーター・みうらじゅん氏のコラムです。
 
狙われる骨董コレクターの死 甲冑などには中東マネーも流入
 
老舗の古美術店主曰く。

「骨董病という言葉がありまして、一度はまってしまった人は、買い続けていかないと落ち着かない“中毒状態”に陥ってしまう人が多いのです」

 そのため、骨董集めをする人の中には家族に犠牲を強いてしまうこともあるらしい。「故人が収集したコレクションを見るのもイヤ! という遺族は珍しくありません。膨大なコレクションがあっても子供たちが興味を持つことは稀で、たいがいは処分されます」

 この連載の担当者Xが昭和50年代に発行された有名な神社の社史の中で、戦国武将ゆかりの赤備えを揃えた博物館があることを知ったそうだ。関心を覚えたXは、実物を見たいと、その博物館を検索してみた。ところが、全くヒットしない。あれ? と思って、所在地の役場に聞いたそうだ。

 すると、「昔は確かにありましたが、個人で収集したものを展示していたところで、その方が亡くなってから閉鎖されて、鎧もどこにいったのかわかりません」といわれた。せっかく一箇所に集められた「赤備え」は、離れ離れになってしまったのだ。

 同様の話は西日本の方でもあるらしい。これまた珍しい鎧のコレクターがいて、その人が亡くなった後、売りに出されてしまったそうだ。なんでもドバイの大富豪から引き合いがあったというのだ。

 そう。良質のコレクションは、虎視眈々と狙われている。

「親戚の中には、“これ、形見としてもらっていくね”なんて高価なものを狙う人もいるのです。価値のわからない遺族は狙われやすいですね」

 前出のように、甲冑などのジャンルは今や中東マネーも流入するほど活気づいている。だが、「骨董」というくらいだから「新製品」が売りに出されるわけではない。数少ない供給源である「コレクターの死」は狙われるってわけだ。

※週刊ポスト2012年10月12日号
 
いろいろ難しい問題をはらんでいますね。
 
個人の収集家が、家族を犠牲にして収集に明け暮れているようではやはりよくありません。まして個人が自分の収集欲を充たすためだけに収集し、公開も何もせず死蔵してしまったらそれは犯罪にも等しい行為です。

しかし、たとえ死蔵でも、きちんと物が残り、将来的にも保存されるということであればそれはそれで意義はあるでしょう。逆に「断捨離」ブームだからといって、何でもかんでも捨てられてしまっては困ります。
 
当方の自宅兼事務所にも数千点(と思われる……もはや数えられません)の光太郎関連資料が集まっています。幸い、甲冑とか焼き物とかと違い、単価が安いので家族に犠牲を強いるという状態にはなっていません。肉筆物などで単価の高い物も世の中には出回っていますし、まして彫刻作品となるととんでもない値になりますが、そういうものは収集の対象にしていません。そのため家族もある程度理解を示してくれているので助かっています。
 
そして「死蔵」にならないように、こういう物がありますよ、という情報の発信を出来るだけしていこうと考えています。そのためにもこのブログを活用していこうと思っていますので、宜しくお願いします。

昨日、10月5日は智恵子の命日、レモンの日でした。
 
智恵子が亡くなったのは昭和13年(1938)10月5日。没後74年ということになりますか。
 
下の画像は智恵子の死亡記事と、死亡広告です。

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これを読むと、葬儀は8日に行われたことがわかります。その葬儀の日を謳った光太郎の詩。
 

   荒涼たる帰宅001
 
 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。
 
残された詩稿によれば、智恵子没後3年近く経った昭和16年6月11日の作。雑誌等に発表された形跡がなく、おそらくこの年8月20日刊行の『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されます。
 
愛する者の死を謳い、詩集『智恵子抄』刊行。それで一区切りと考えたのでしょうか、以後、詩の中に智恵子が謳われることがなくなり、空虚な戦争詩の乱発の時期になります。再び智恵子が詩の中に登場するのは戦後になってからでした。
 
ひとまずレモンの日関連、これで終わります。

昨日のブログで御紹介した逸見久美氏の『新版評伝与謝野寛晶子』。本日の朝日新聞読書欄に紹介されました。
 
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ただ、昨日のお話の中でも、今日紹介されるということをおっしゃっていましたが、何やらあまり歓迎されていなかった御様子でした。読んでみて納得しました。もう少し違う切り口があるのでは、という評ですね。
 
多産だったというのは、知らなかった人にとっては驚きなのでしょうし、「評伝はこんな読み方もできる」というのは個人の勝手かも知れませんが。
 
この評を読んで思い出したのが光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。大正15年(1926)の『婦人の国』という雑誌に載った文章で、『高村光太郎全集』の第20巻に載っています。
 
 結婚が恋愛の墓場であるとは一般によくいはれる言葉ですが、私は決してさうではないと思ひます。またさうであつてはならないと思ひます。少なくとも常に心に火を持つて生活してゐる人にとつて、結婚前の恋愛はお互に未知なものを探し求め相引く気持ちですし、結婚によつて一緒の生活をするやうになれば、更にまたその恋愛は充実し、ますます豊富になり完全になるべきです。
 芸術に対する考へ方などについてはいろいろ意見の相違もありますけれども、その意味に於てすぐ私の胸に浮んでくるのは、与謝野寛先生御夫婦です。先生たちの生活が恵まれたものであることは可なり有名な事実ですが、全く、もう結婚後三十年近くにもならうといふお二人の間(なか)が、未だ新婚当時と同じやうな恋人同士の生活なのです。
 喜びと悲しみ、意欲と望とが常に相剋(あひこく)してゐるこの世の生活では、永久に若々しい魂の情熱を失はない人々の道は、決して静かな滑らかな、平坦なものではありません。そこには常に波瀾があり、また凹凸があります。従つてお互の不断の精進と努力とが必要になつてきます。そしてそこには新鮮な生々した気分が醸し出され漲ります。与謝野夫妻がそれなのです。
  よい夫婦といつても、決して事なき平和といふのではなく、今でも時々争ひなどもされるらしい……といつてそんなお話をなさつたり、私たちの前で争つたりされるといふのではありませんが、折々争ひした後で口惜し紛れに詠んだやうな歌など見かけますから、歌に偽りがなければ事実でせう。その癖お二人ともお互いに相手を心から充分尊敬してゐられます。そしてその長い結婚生活の間中を、お二人はどんなにいゝ伴侶者として過ごされたことでせう。時々先生が対外的に何か失意なさつたやうな場合、晶子さんは一緒に沈んでしまはないで、その限りない熱情を籠めて慰め且つ励ますかと思ふと、また晶子さんがさういふ場合には先生が力づけるといふ具合にほんとによく助け合つてゐらした。
 
もうすこし続くのですが、長くなりますので、以下は明日。

誤植について延々と書いてきましたが、今回でひとまず終わります。
 
今日は光太郎自身の書いたものでの誤植から。
 
まずは明治43年(1910)の『婦人くらぶ』に発表された光太郎の散文。題名にご注目下さい。
 
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100年前にはまだ「スタイル」という外来語は一般的ではなかったのかも知れません。
 
数年前、神田のお茶の水図書館という女性史系の書籍、雑誌を主に収蔵している図書館で発見したのですが、見つけた時には笑いました。
 
笑って済まされなかった誤植が以下のもの。紙が貼り付けてあるのがおわかりでしょうか。
 
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こちらは昭和19年(1944)刊行の光太郎詩集『記録』初版から。
 
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『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、「天皇陛下」とすべきところが「天皇下陛」となっていたとのことです。
 
印刷、製本まで済んだところで、光太郎を敬愛していた他の詩人が誤植に気付いて版元の龍星閣や光太郎に連絡、そのため慌てて紙を貼り付けたそうです。これも『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、そのために発売が2ヶ月以上遅れたとのこと。
 
もし「天皇下陛」のまま流通してしまっていたら、不敬罪(当方のPC、まず『不経済』と出ました。こういうのが誤植の元ですね(笑))に問われてもおかしくない誤りです。
 
数日前にも書きましたが、一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。

いろいろと誤植にまつわる話を書いてきましたが、光太郎自身は自著の誤植にはどう対応してきたのでしょうか。
 
平成11年(1999)に日本図書センターから刊行された『詩集 智恵子抄』愛蔵版という書籍があります。『智恵子抄』は昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、紆余曲折を経て龍星閣から刊行が続いていたのですが、それが差し止められたため、オリジナルに近いものを刊行する目的で出されたものです。校訂には北川太一先生が当たられました。
 
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巻末近くに北川先生の「校訂覚え書」が収録されているのですが、そこを読むと初版以来のテキストの有為転変のさまがよくわかります。
 
初版発行時にあった明らかな誤植(というより脱字)は再版ですぐに訂正されています。その他、細かな句読点や仮名遣い、一字空きなどの点でも光太郎は納得いかなかったようで、昭和18年(1943)4月の第9刷では全面的に改版。しかし、それにより新たな誤植が発生してしまいました。その後、戦後の白玉書房版(昭和22年(1947))、龍星閣復元版(同26年(1951))と、少しずつ訂正が行われています。
 
そして日本図書センター版では北川先生がそれら各種の版を総合的に見て、元に戻すべきところは元に戻し、さらに光太郎の草稿にまで当たって数箇所の訂正が入っています。
 
ここまで神経を使い、一字をもおろそかにしない姿勢、見習いたいものです。
 
今と違い、昔は「文選工」と呼ばれる職人さんが、原稿を見ながら活字を拾って版を組んでいたので、ミスが生じてしまうのは仕方がなかったのでしょう。
 
もちろんミスをしないことも大切ですが、それより大切なのは、ミスが生じてしまった後の対応をきちんとやることでしょう。『智恵子抄』に関しても、「ま、いっか」ではなく、とことんこだわった光太郎や出版社の姿勢、見習いたいものです。
 
そういえば、光太郎がらみで「トンデモ誤植」があったのを思い出しました。明日はそちらを。

先日、古書目録などの記載内容に誤りが多い、という内容を書きました。
 
神保光太郎と高村光太郎を取り違えていたり、高浜虚子や木々高太郎が序文を書いているのに光太郎が書いたことになっていたりとかです。こういう例は混乱が生じるので、はた迷惑なのですが、人間のやることですのである意味仕方がないでしょう。
 
そこまで大がかりなミスではありませんが、それ以上に目立つミスとして「誤植」「誤変換」があります。書籍やインターネットサイト、そういう文字を使ったメディア全般で見受けられます。
 
非常に多いのが「知恵子抄」「千恵子抄」。これが西の横綱とすれば、東の横綱が「高村高太郎」「高村幸太郎」でしょう。

その他、実際に眼にした誤植の数々です。
 
「高山光太郎」……ある雑誌の光太郎特集号の目次にドーンと大きく掲げられていました。さすがに発行前に気付いて、「こりゃまずい!」と思ったようですが、印刷の訂正はできなかったらしく、正誤表が挟まっていました。

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「山のスッケチ」……インターネットサイトで見かけました。正しくは「山のスケッチ」、光太郎没後に刊行された花巻の山小屋での素描集です。山小屋での光太郎は読売文学賞の賞金十万円をそっくり地元に寄付してしまうなど、ケチではなかったんですが……。

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ちなみに光太郎を敬愛していた宮沢賢治の「春と修羅」の扉でも、「心象スケツチ」とすべきところが「心象スツケチ」となっているのは、意外と有名な話です。 

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「天井の炎」……火事になりそうです。ある書籍の光太郎年譜的なページから。正しくは「天上の炎」。ヴェルハーレンの詩集で、光太郎が翻訳したものです。「天上の炎」は太陽を表します。

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かくいう自分もよくやらかします。論文の中で「軍歌」と書くはずのところを「軍靴」としてしまったことがありますし、著書では「与謝野鉄幹」とすべきところをすべて「与謝野鉄寛」としてしまったことがあります。

しかし、他の人が書いたものの中には「与謝野鉄管」もありました。水道工事でも始めるのでしょうか。
 
誤植も笑ってすまされるものならいいのですが、その一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。
 
5月から始めたこのブログももうすぐ半年、今日で144回目です。おそらくどこかしらでやらかしていると思います。何か気付かれたらご指摘下さい。

昨日のブログで、かわじもとたか氏編「序文検001索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)を紹介しました。今日はその姉妹編、「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」を調べに行ってまいりました。残念ながらこちらは光太郎の件数が少なく、すべて既に把握しているものでした。
 
さて、並行して「序文検索―古書目録にみた序文家たち」に載っていた、こちらで把握していない光太郎序文の調査も始めました。そのうちの一冊が、国会図書館などの主要な図書館に蔵書がなく、そこで古書店のサイトで探してみたら、出品されていました。
 
以前でしたら喜び勇んですぐに購入しましたが、最近はそんな愚は犯しません。「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と条件をつけました。すると、返ってきた答が「序文は高村光太郎ではなく高浜虚子です」。「高」しか合っていませんが……(笑)。これも以前でしたらがっかりしていましたが、最近はもう慣れてきました。こういうケース、時々あるので、予想していました。予想していたので昨日のブログにも「(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)」と書きました。
 
古書目録、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
もう10年以上前でしょうか、こんなことがありました。自宅に送られてきた古書目録に、ある詩華集(多くの詩人の合同詩集)が掲載されており、「高村光太郎」の名も。把握していないもので、価格も手ごろだったのでさっそく注文しました。数日後、届いた詞華集、いくらページをめくっても高村光太郎の作品は載っていません。代わりに載っていたのが同じく詩人の神保光太郎の作品。「光太郎」ちがいです。目録に「光太郎」しか書いてなければ100%こちらの早とちりですが、「高村光太郎」と書いてあっては古書店のミスですね。買わずに返品しました。
 
こんなこともありました。やはり目録に「詩集智恵子抄 高村光太郎 昭和19年 第15刷」とあったのです。龍星閣から刊行されたオリジナルの『智恵子抄』は第13刷までのはず。15刷があったとすれば、それはそれで大きな発見です。このときは「ほんとに15刷ですか?」と問い合わせてみたら、「すみません、13刷でした」とのこと。
 
こういう例はインターネットサイトにもいろいろあります。ある方のブログで、「××という本の序文を高村光太郎が書いている」という記述を見つけ、これも把握していないものだったので、当該書籍を古書サイトで出品している古書店さんに「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と送ったところ(今回と全く同じケースです)、「高村光太郎ではなく推理作家の木々高太郎です」……。「高浜虚子」よりは近いとは思いますが(笑)。
 
くりかえしますが、古書目録等、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
このブログではそういうことのないように、細心の注意を払っていきたいと思っております。
 
かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)。まだ有望と思われる未確認情報が数件有りますので、そちらに期待します。

昨日は、既に他の雑誌等に発表された文章が転載されている例を紹介しました。今日は逆のパターンです。すなわち、既に『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に収録されているものの、その内容や情報が転載されたものに基づいている場合です。
 
具体例を挙げましょう。
 
昭和17年(1942)に書かれた「天川原の朝」という散文があります。その前年、真珠湾攻撃の際に特殊潜航艇で出撃し、還らぬ人となった「軍神」岩佐大尉(没後二階級特進で中佐)の生家(群馬)を訪ねたレポートです。

『全集』では第20巻に掲載されています。そして『全集』第20巻の解題では、昭和17年5月31日発行『画報躍進之日本』第7巻第6号が初出となっています。しかし、さかのぼること約2ヶ月、同年4月6日発行の『読売新聞』に同じ「天川原の朝」が掲載されていることが、新たにわかりました。こうなると、『全集』の解題を訂正しなければなりません。

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こういう例はいくつかあり、判明したものは「光太郎遺珠」に記録、公にしています。
 
それぞれ作品名、『全集』解題での初出誌、新たに判明した掲載誌の順です。
・訳書広告ヹルハアラン『明るい時』大正10年(1921)12月1日『白樺』第12巻第12号  同年11月10日『東京朝日新聞』
・山本和夫編『野戦詩集』昭和16年(1941)4月20日『歴程』第14号    同年2月26日『読売新聞』
 
これらは内容的には同一ですので、初出掲載誌さえ訂正すればよいものです。
 
ただし、それすらもさらに訂正されるべき場合があるかも知れません。例えば「天川原の朝」にしても、4月6日に『読売新聞』に掲載されるより前に、他のマイナーな雑誌などに発表されている可能性も皆無ではありません。

それを言い出すと、現在登録されている初出掲載誌の情報は、ほとんど全て「推測」でしかないということになります。我々は「現在判明している初出誌はこれです」というスタンスで作品の解題を書いています。でも、それはあくまで「現在判明している」であって、確定ではないものがほとんどです。例外は、光太郎自身が書簡や日記、散文等で「いついつに『○○』という雑誌に発表した「××」という作品で……」のようなコメントをしっかり残している場合のみです。それすらも光太郎の勘違いがあったらおしまいです。まぁ、そこまで問題にしたらきりがありませんが……。
 
学者先生達はとかく「出典を明らかに」とのたまいますが、現在判明している典拠はこのように推測に過ぎぬ不確定なものであるということを認識してほしいと思います。それがどんなに有名な作品であっても、です。例えば「明治43年(1910)4月、我が国で初めての「印象派宣言」が世に出た。『スバル』第2年第4号に掲載された「緑色の太陽」である。」などという文言を目にすることがありますが、こういう場合も『スバル』に載った「緑色の太陽」が他の雑誌からの転載ではないとは断言できません。軽々に「初出」の語を使うのは避けるべきでしょう。
 
自戒を込めてここに書き記します。
 
「転載」がらみでは他にも色々なケースがあります。明日はそのあたりを。

最近刊行された雑誌を紹介します。雑誌系はぼやぼやしていると店頭や版元に無くなってしまいますので。

2012/3/20 祥伝社発行 定価 838円+税

特集 谷村志穂「この時代のことばを探しに。」~福島・安達太良山紀行

カラーグラビアを含め、13ページにわたり、安達太良山や智恵子生家周辺の現状(3・11から一年経って)のレポート。昨日の時点で近所の書店の店頭にまだ並んでいました。
 
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2012/3/30 六曜社発行 定価 1428円+税

『青鞜』創刊100周年記念特集
 青鞜物語
 特別対談 瀬戸内寂聴×森まゆみ 「青鞜の女たち」
 宝石箱-「青鞜」短歌を読んで 林あまり
 青鞜の俳句・らいてうの俳句 飯島ユキ
 「青鞜」異聞-「青鞜」的な、余りに「青鞜」的な-或る恋の行く末
   正津勉
 
80頁にわたり、豪華執筆陣が様々な角度から『青鞜』が語られています。光太郎・智恵子にも触れられます。 

日本古書通信2012年4月号

2012/4/15 日本古書通信社発行 定価667円+税

川島幸希氏の連載「私がこだわった初版本」で、驚いたことに、おそらく献本として一部あるいは少部数作られたと思われる『道程』私家版について語られています。光太郎の識語署名三カ所、三方金、桐箱入(箱書・佐藤春夫)だそうで、当会顧問の北川太一先生にこの本の正体を尋ねるくだりもあったりし、とても興味深い内容でした。

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普通の書店では置いていないと思いますので、リンク先からご注文を。
 
最近入手した雑誌以外の書籍についても、後ほどレポートします。

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