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誤植について延々と書いてきましたが、今回でひとまず終わります。
 
今日は光太郎自身の書いたものでの誤植から。
 
まずは明治43年(1910)の『婦人くらぶ』に発表された光太郎の散文。題名にご注目下さい。
 
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100年前にはまだ「スタイル」という外来語は一般的ではなかったのかも知れません。
 
数年前、神田のお茶の水図書館という女性史系の書籍、雑誌を主に収蔵している図書館で発見したのですが、見つけた時には笑いました。
 
笑って済まされなかった誤植が以下のもの。紙が貼り付けてあるのがおわかりでしょうか。
 
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こちらは昭和19年(1944)刊行の光太郎詩集『記録』初版から。
 
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『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、「天皇陛下」とすべきところが「天皇下陛」となっていたとのことです。
 
印刷、製本まで済んだところで、光太郎を敬愛していた他の詩人が誤植に気付いて版元の龍星閣や光太郎に連絡、そのため慌てて紙を貼り付けたそうです。これも『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、そのために発売が2ヶ月以上遅れたとのこと。
 
もし「天皇下陛」のまま流通してしまっていたら、不敬罪(当方のPC、まず『不経済』と出ました。こういうのが誤植の元ですね(笑))に問われてもおかしくない誤りです。
 
数日前にも書きましたが、一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。

いろいろと誤植にまつわる話を書いてきましたが、光太郎自身は自著の誤植にはどう対応してきたのでしょうか。
 
平成11年(1999)に日本図書センターから刊行された『詩集 智恵子抄』愛蔵版という書籍があります。『智恵子抄』は昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、紆余曲折を経て龍星閣から刊行が続いていたのですが、それが差し止められたため、オリジナルに近いものを刊行する目的で出されたものです。校訂には北川太一先生が当たられました。
 
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巻末近くに北川先生の「校訂覚え書」が収録されているのですが、そこを読むと初版以来のテキストの有為転変のさまがよくわかります。
 
初版発行時にあった明らかな誤植(というより脱字)は再版ですぐに訂正されています。その他、細かな句読点や仮名遣い、一字空きなどの点でも光太郎は納得いかなかったようで、昭和18年(1943)4月の第9刷では全面的に改版。しかし、それにより新たな誤植が発生してしまいました。その後、戦後の白玉書房版(昭和22年(1947))、龍星閣復元版(同26年(1951))と、少しずつ訂正が行われています。
 
そして日本図書センター版では北川先生がそれら各種の版を総合的に見て、元に戻すべきところは元に戻し、さらに光太郎の草稿にまで当たって数箇所の訂正が入っています。
 
ここまで神経を使い、一字をもおろそかにしない姿勢、見習いたいものです。
 
今と違い、昔は「文選工」と呼ばれる職人さんが、原稿を見ながら活字を拾って版を組んでいたので、ミスが生じてしまうのは仕方がなかったのでしょう。
 
もちろんミスをしないことも大切ですが、それより大切なのは、ミスが生じてしまった後の対応をきちんとやることでしょう。『智恵子抄』に関しても、「ま、いっか」ではなく、とことんこだわった光太郎や出版社の姿勢、見習いたいものです。
 
そういえば、光太郎がらみで「トンデモ誤植」があったのを思い出しました。明日はそちらを。

先日、古書目録などの記載内容に誤りが多い、という内容を書きました。
 
神保光太郎と高村光太郎を取り違えていたり、高浜虚子や木々高太郎が序文を書いているのに光太郎が書いたことになっていたりとかです。こういう例は混乱が生じるので、はた迷惑なのですが、人間のやることですのである意味仕方がないでしょう。
 
そこまで大がかりなミスではありませんが、それ以上に目立つミスとして「誤植」「誤変換」があります。書籍やインターネットサイト、そういう文字を使ったメディア全般で見受けられます。
 
非常に多いのが「知恵子抄」「千恵子抄」。これが西の横綱とすれば、東の横綱が「高村高太郎」「高村幸太郎」でしょう。

その他、実際に眼にした誤植の数々です。
 
「高山光太郎」……ある雑誌の光太郎特集号の目次にドーンと大きく掲げられていました。さすがに発行前に気付いて、「こりゃまずい!」と思ったようですが、印刷の訂正はできなかったらしく、正誤表が挟まっていました。

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「山のスッケチ」……インターネットサイトで見かけました。正しくは「山のスケッチ」、光太郎没後に刊行された花巻の山小屋での素描集です。山小屋での光太郎は読売文学賞の賞金十万円をそっくり地元に寄付してしまうなど、ケチではなかったんですが……。

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ちなみに光太郎を敬愛していた宮沢賢治の「春と修羅」の扉でも、「心象スケツチ」とすべきところが「心象スツケチ」となっているのは、意外と有名な話です。 

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「天井の炎」……火事になりそうです。ある書籍の光太郎年譜的なページから。正しくは「天上の炎」。ヴェルハーレンの詩集で、光太郎が翻訳したものです。「天上の炎」は太陽を表します。

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かくいう自分もよくやらかします。論文の中で「軍歌」と書くはずのところを「軍靴」としてしまったことがありますし、著書では「与謝野鉄幹」とすべきところをすべて「与謝野鉄寛」としてしまったことがあります。

しかし、他の人が書いたものの中には「与謝野鉄管」もありました。水道工事でも始めるのでしょうか。
 
誤植も笑ってすまされるものならいいのですが、その一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。
 
5月から始めたこのブログももうすぐ半年、今日で144回目です。おそらくどこかしらでやらかしていると思います。何か気付かれたらご指摘下さい。

昨日のブログで、かわじもとたか氏編「序文検001索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)を紹介しました。今日はその姉妹編、「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」を調べに行ってまいりました。残念ながらこちらは光太郎の件数が少なく、すべて既に把握しているものでした。
 
さて、並行して「序文検索―古書目録にみた序文家たち」に載っていた、こちらで把握していない光太郎序文の調査も始めました。そのうちの一冊が、国会図書館などの主要な図書館に蔵書がなく、そこで古書店のサイトで探してみたら、出品されていました。
 
以前でしたら喜び勇んですぐに購入しましたが、最近はそんな愚は犯しません。「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と条件をつけました。すると、返ってきた答が「序文は高村光太郎ではなく高浜虚子です」。「高」しか合っていませんが……(笑)。これも以前でしたらがっかりしていましたが、最近はもう慣れてきました。こういうケース、時々あるので、予想していました。予想していたので昨日のブログにも「(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)」と書きました。
 
古書目録、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
もう10年以上前でしょうか、こんなことがありました。自宅に送られてきた古書目録に、ある詩華集(多くの詩人の合同詩集)が掲載されており、「高村光太郎」の名も。把握していないもので、価格も手ごろだったのでさっそく注文しました。数日後、届いた詞華集、いくらページをめくっても高村光太郎の作品は載っていません。代わりに載っていたのが同じく詩人の神保光太郎の作品。「光太郎」ちがいです。目録に「光太郎」しか書いてなければ100%こちらの早とちりですが、「高村光太郎」と書いてあっては古書店のミスですね。買わずに返品しました。
 
こんなこともありました。やはり目録に「詩集智恵子抄 高村光太郎 昭和19年 第15刷」とあったのです。龍星閣から刊行されたオリジナルの『智恵子抄』は第13刷までのはず。15刷があったとすれば、それはそれで大きな発見です。このときは「ほんとに15刷ですか?」と問い合わせてみたら、「すみません、13刷でした」とのこと。
 
こういう例はインターネットサイトにもいろいろあります。ある方のブログで、「××という本の序文を高村光太郎が書いている」という記述を見つけ、これも把握していないものだったので、当該書籍を古書サイトで出品している古書店さんに「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と送ったところ(今回と全く同じケースです)、「高村光太郎ではなく推理作家の木々高太郎です」……。「高浜虚子」よりは近いとは思いますが(笑)。
 
くりかえしますが、古書目録等、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
このブログではそういうことのないように、細心の注意を払っていきたいと思っております。
 
かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)。まだ有望と思われる未確認情報が数件有りますので、そちらに期待します。

昨日は、既に他の雑誌等に発表された文章が転載されている例を紹介しました。今日は逆のパターンです。すなわち、既に『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に収録されているものの、その内容や情報が転載されたものに基づいている場合です。
 
具体例を挙げましょう。
 
昭和17年(1942)に書かれた「天川原の朝」という散文があります。その前年、真珠湾攻撃の際に特殊潜航艇で出撃し、還らぬ人となった「軍神」岩佐大尉(没後二階級特進で中佐)の生家(群馬)を訪ねたレポートです。

『全集』では第20巻に掲載されています。そして『全集』第20巻の解題では、昭和17年5月31日発行『画報躍進之日本』第7巻第6号が初出となっています。しかし、さかのぼること約2ヶ月、同年4月6日発行の『読売新聞』に同じ「天川原の朝」が掲載されていることが、新たにわかりました。こうなると、『全集』の解題を訂正しなければなりません。

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こういう例はいくつかあり、判明したものは「光太郎遺珠」に記録、公にしています。
 
それぞれ作品名、『全集』解題での初出誌、新たに判明した掲載誌の順です。
・訳書広告ヹルハアラン『明るい時』大正10年(1921)12月1日『白樺』第12巻第12号  同年11月10日『東京朝日新聞』
・山本和夫編『野戦詩集』昭和16年(1941)4月20日『歴程』第14号    同年2月26日『読売新聞』
 
これらは内容的には同一ですので、初出掲載誌さえ訂正すればよいものです。
 
ただし、それすらもさらに訂正されるべき場合があるかも知れません。例えば「天川原の朝」にしても、4月6日に『読売新聞』に掲載されるより前に、他のマイナーな雑誌などに発表されている可能性も皆無ではありません。

それを言い出すと、現在登録されている初出掲載誌の情報は、ほとんど全て「推測」でしかないということになります。我々は「現在判明している初出誌はこれです」というスタンスで作品の解題を書いています。でも、それはあくまで「現在判明している」であって、確定ではないものがほとんどです。例外は、光太郎自身が書簡や日記、散文等で「いついつに『○○』という雑誌に発表した「××」という作品で……」のようなコメントをしっかり残している場合のみです。それすらも光太郎の勘違いがあったらおしまいです。まぁ、そこまで問題にしたらきりがありませんが……。
 
学者先生達はとかく「出典を明らかに」とのたまいますが、現在判明している典拠はこのように推測に過ぎぬ不確定なものであるということを認識してほしいと思います。それがどんなに有名な作品であっても、です。例えば「明治43年(1910)4月、我が国で初めての「印象派宣言」が世に出た。『スバル』第2年第4号に掲載された「緑色の太陽」である。」などという文言を目にすることがありますが、こういう場合も『スバル』に載った「緑色の太陽」が他の雑誌からの転載ではないとは断言できません。軽々に「初出」の語を使うのは避けるべきでしょう。
 
自戒を込めてここに書き記します。
 
「転載」がらみでは他にも色々なケースがあります。明日はそのあたりを。

最近刊行された雑誌を紹介します。雑誌系はぼやぼやしていると店頭や版元に無くなってしまいますので。

2012/3/20 祥伝社発行 定価 838円+税

特集 谷村志穂「この時代のことばを探しに。」~福島・安達太良山紀行

カラーグラビアを含め、13ページにわたり、安達太良山や智恵子生家周辺の現状(3・11から一年経って)のレポート。昨日の時点で近所の書店の店頭にまだ並んでいました。
 
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2012/3/30 六曜社発行 定価 1428円+税

『青鞜』創刊100周年記念特集
 青鞜物語
 特別対談 瀬戸内寂聴×森まゆみ 「青鞜の女たち」
 宝石箱-「青鞜」短歌を読んで 林あまり
 青鞜の俳句・らいてうの俳句 飯島ユキ
 「青鞜」異聞-「青鞜」的な、余りに「青鞜」的な-或る恋の行く末
   正津勉
 
80頁にわたり、豪華執筆陣が様々な角度から『青鞜』が語られています。光太郎・智恵子にも触れられます。 

日本古書通信2012年4月号

2012/4/15 日本古書通信社発行 定価667円+税

川島幸希氏の連載「私がこだわった初版本」で、驚いたことに、おそらく献本として一部あるいは少部数作られたと思われる『道程』私家版について語られています。光太郎の識語署名三カ所、三方金、桐箱入(箱書・佐藤春夫)だそうで、当会顧問の北川太一先生にこの本の正体を尋ねるくだりもあったりし、とても興味深い内容でした。

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普通の書店では置いていないと思いますので、リンク先からご注文を。
 
最近入手した雑誌以外の書籍についても、後ほどレポートします。

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