カテゴリ:その他 > マスコミ

昨日、『朝日新聞』さんの教育面に、以下の記事が出ました。 

休校中の子へ、詩集をどうぞ コールサック社、1千冊を無料配布


 新型コロナウイルスの感染拡大による一斉011休校で不安に駆られている子どもたちを励ましたいと、コールサック社(東京都板橋区)は、200人がつづる「少年少女に希望を届ける詩集」を1千冊、無料で贈呈する。作品は谷川俊太郎さんや新川和江さんといった著名な詩人から、いじめや不登校に苦しんだり、身近な人の自死を経験したりした無名の人のものもある。
 対象者は小中高などの教育関係者、保育園、幼稚園、障害者施設などの従事者、子ども食堂などでボランティアをしている支援者ら。送料も同社が負担する。鈴木比佐雄社長は「子どもたちにとって、今こそ、心の栄養が必要だと感じた。ぜひ、詩集を読んであげてほしい」と話す。
 申し込みは、FAX(03・5944・3238)かメール(suzuki@coal-sack.com)へ、氏名、団体名、住所、電話番号を書いて送る。問い合わせは同社(03・5944・3258)へ。



同書は、平成28年(2016)の刊行です。その当時、けっこう各種メディアで紹介されました。

『少年少女に希望を届ける詩集』。
『少年少女に希望を届ける詩集』 その2。
『少年少女に希望を届ける詩集』 その3。

光太郎の「道程」(大正3年=1914)、「冬が来た」(大正2年=1913)を含む古今の詩人の詩、それから現在各方面で活躍されている方々のエッセイなどが収録されています。作曲家・野村朗氏、光太郎と交流のあった詩人・野澤一の子息・俊之氏、同書の編集に当たられた詩人の曽我貢誠氏など、連翹忌ご常連の方々の作品も。連翹忌といえば、記事にある同社社長の鈴木比佐雄氏もご参加下さったことがあります。

さらに昨日、同社からメールが来まして、この件に関し報道各社にニュースレターを配信した旨が記されていました。抜粋します。 

 編集部より 『少年少女に希望を届ける詩集』を子供たちの心に届けたい。鈴木比佐雄

各種新聞・メディア記者に、子供たちを励ますために『少年少女に希望を届ける詩集』合計1,000冊を寄贈したいというニュースレターを送ったところ、本日の朝日新聞3月17日朝刊で下記のように紹介されました。

(略)

『少年少女に希望を届ける詩集』にご参加くださった200名の皆様の詩篇が、全国の1,000もの施設で読まれることになる可能性があります。
困難な状況だからこそ、活字の詩の言葉から生きる力である希望が少年少女たちに湧いてくることを願って活用してもらうことを考えました。
他の新聞社からも紹介したいとの連絡があり、少しでもこの輪が広がって欲しいと願っています。


ニュースレターの載ったサイトがこちら

拡散していただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

タイサンボクの花。花は何でも好きですが、此花の気品には殊にうたれます。

アンケート「好める花」全文 大正8年(1919) 光太郎37歳

光太郎が「連翹忌」の由来となったレンギョウの花を好むようになったのは、最晩年。終焉の地となった中野の貸しアトリエの庭に咲いているのを見てのことです。それまで「レンギョウ」という名前も知らなかったとのこと。

ちなみに当方自宅兼事務所にある、そこから株分けしたレンギョウはもう咲いています。

013

かつてはアンケート回答の通014り、泰山木(たいさんぼく)が好きだったそうで、もしかすると「連翹忌」が「泰山木忌」になっていたかもしれません(笑)。何だかしっくり来ません(笑)。「連翹忌」と名づけたのは、佐藤春夫や草野心平。語呂もよく、よくぞそのように命名してくれたと、感謝しております。

ちなみに泰山木というと、当方、事故で頸髄を損傷、手足の自由を失い、筆を口にくわえて詩画をかき続ける星野富弘さんの「泰山木」という詩を思い出します。


 ひとは 空に向かって寝る
 寂しくて 空に向かい
 疲れきって 空に向かい
 勝利して 空に向かう

 病気の時も
 一日を終えて床につく時も
 あなたがひとを無限の空に向けるのは
 永遠を見つめよと
 いっているのでしょうか

 ひとは 空に向かって寝る

 
 


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。ただし、現在、関係各方面と開催か中止か協議中です。ご意見のある方、コメント欄(非公開も可能です)よりお願いいたします。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

東京都豊島区の広報誌『広報としま』の今月号に、光太郎智恵子の名が。

桜の代表的な品種の一つ、ソメイヨシノ発祥の地ということで、「春のぽかぽかさくら散歩」というページです。

006

005

光太郎智恵子、光雲たち一族が眠る都立染井霊園の紹介で、光太郎智恵子の名を出して下さっています。 

染井霊園

約6万8千平方メートルの敷地に植えられた、約100本ものソメイヨシノは圧巻!霊園には、高村光太郎・智恵子、岡倉天心、二葉亭四迷など多くの偉人が眠っています。開花の時期には園内の一部がライトアップされ、幻想的な夜桜を楽しめます。(駒込5-5-1)

当方、例年4月2日、日比谷松本楼さんで夕方から開催する連翹忌の集いの前に、参会者を代表してこちらに墓参しております。たしかに園内、美しいソメイヨシノが咲き誇っています。いつも昼間に行っていまして、ライトアップが成されているとは存じませんでした。

ところで、「広報としま」で紹介されている区内の各種「桜まつり」的な催し、区のサイトに拠れば新型コロナ対策ということで、ほとんどが中止だそうです。中止の決定が広報誌の印刷には間に合わなかったようです。

桜が咲く頃にはこの騒ぎも終息していてもらいたいものです。


【折々のことば・光太郎】

まずよいものを食う。賢治さんに叱られるかも知れないが玄米四合ではだめだ。
講演筆録「岩手は日本の背骨 前編」より
 昭和24年(1949) 光太郎67歳

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を下敷きにしています。その芸術性などの部分では、賢治を高く評価していた光太郎ですが、自虐的とも言える菜食主義などには納得が行かなかったようです。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら。新型コロナウイルス対策でイベントの中止等が相次いでおりますが、今後、パンデミック的な事態になってしまった場合は別として、十分に感染防止に留意した上で、今のところ予定通り実施の方向です。

来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

定期購読しております雑誌2誌、届きました。

まず隔月刊誌『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さんの第18号。創刊以来、花巻高村光太郎記念館さんの協力で、「光太郎レシピ」という連載が為されています。今号は「イングリッシュブレックファスト」だそうで。
003  004

光太郎、欧米留学時の経験から、西洋風の食事が合理的かつ意外に安価にできてしまうことに気づき、智恵子との結婚生活の中でも、それから花巻郊外旧太田村の山小屋に蟄居してからも、けっこうこの手の朝食を摂っていたようです。

続いて、『月刊絵手紙』さん。平成29年(2017)から花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

001  002

今号は、昭和24年(19149)、花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎が、校訓として地元の太田中学校さんに贈った言葉「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。花巻高村光太郎記念館さんで展示されることもある光太郎の揮毫を撮った画像も載っています。

太田中学校さんでは、この言葉を盛り込んだ「精神歌」なる歌も作り、歌い継がれているそうです。毎年5月15日の花巻高村祭に生徒の皆さんがご参加下さり、披露して下さっています。

ところで、『月刊絵手紙』さんのこの連載、今号で最終回だそうです。2年あまり続いてきて、非常に残念ですが、仕方ありますまい。またどこかの雑誌などでこういった企画を立ち上げていただけるとありがたいところです。「書け」と言われれば書きますし(笑)。


【折々のことば・光太郎】

文化の表面に附著するさういふ過剰なものが根を張ると、長い間には文化の実体をまでも腐敗せしめる。

散文「倫理の美」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

ここだけ取り出せば、いい言葉です。ただ、戦時中ということで、前後は非常にキナ臭い内容になっています。「さういふ過剰なもの」の例は「チヨコレイトや、フアンシイクリイムや、社交ダンスや、ジヤズ」。「敵国」であったアメリカ文化の象徴ですね。続く一文も「質実にして清純な、東亜の新しい文化を創造することこそ、今日以後の若人の責務である。」となっており、「東亜の」の一語さえなければよかったのに、と思いました。


第64回連翹忌――2020年4月2日(木)――にご参加下さる方を募っております。詳細はこちら
来る4月2日(木)に日比谷松本楼様に於いて予定しておりました第64回連翹忌の集い、昨今の新型コロナウイルス感染防止のため、誠に残念ながら中止とさせていただくことに致しました。

新刊です。といっても2ヶ月ほど経ってしまいましたが。  

渡辺えりの人生相談 荒波を乗り越える50の知恵

2019年12月7日 渡辺えり著 毎日新聞出版 定価1,400円+税

悩み苦しんでいるのは、あなただけじゃない。心に響く名回答に共感の声、続々!
女優、劇作家、演出家、歌手として、舞台や映像や活字などの分野で幅広く活躍する渡辺えり。
「相談者への寄り添い方が凄すぎる」「持論、見識が鋭い」などと大評判の毎日新聞連載「人生相談」、待望の書籍化!
相談者は、愚痴っぽい母親にうんざりしている娘だったり、後輩を指導するのが不安な社会人2年生だったり、トランスジェンダーの人だったりとさまざま。「もう少し大人に扱って」と訴える19歳の女性には、「束縛する母親は嫌っていい」とズバリ言い切る。
夫のわがままに愛想をつかした熟年女性には「別れるなら今」と励まし、愛妻に甘えたい男性には「愛しているなら、甘えるばかりでなく甘えさせてあげては」と痛いところを突く。
本音でぶつかり、真摯に向き合う表現者ならではの"快答"は、参考にしてほしいものばかり。各章末には、感涙必至のエッセイを収録。
悩みは、生きているものが抱えなくてはならない荷物のようなもの。

001


【目次】
 第1章 軽やかに歩む~家族とのかかわり
  01 幸せな家族に嫉妬する(21歳・女性)
  02 夫婦げんかが絶えず将来が不安(49歳・女性)
  03 愚痴っぽいははにうんざり(53歳・女性)
  04 祖母の介護を放棄した母を、心の中で捨てたい(45歳・女性)
  05 嫉妬する母から逃れ、家を出たい(24歳・女性)
  06 夫の鼻毛がみっともなくて、ストレスを感じる(42歳・女性)
  07 帰りが遅くなると罵倒する母(19歳・女性)
  08 話が面白くないと母に言われトラウマに(33歳・女性)
  09 俺様な夫に仕えてきた人生に涙(80代・女性)
  10 長年介護してきた母を亡くし、無気力に(57歳・女性)
  エッセイ 認知症の両親を遠距離介護しながら思うこと

 第2章 したたかに働く~仕事の戸惑い
  11 子供たちの言葉に傷つく(53歳・女性)
  12 夫の仕事が続かない(39歳・女性)
  13 初めての後輩指導に不安を覚える(23歳・男性)
  14 畑違いの部署に左遷され、無気力な日々(48歳・女性)
  15 大学を出ても働かない娘を何とかしたい(60歳・女性)
  16 職場の若い子がうらやましい(52歳・女性)
  17 勤続14年、転職を考えるが不安(37歳・女性)
  18 老人ホーム勤務で不安な日々(33歳・女性)
  19 報道記者を目指し、はや就職浪人2年目(22歳・男性)
  20 何をやっても自信が持てない(51歳・女性)
  エッセイ 夢見る仕事はお金にならない

 第3章 しなやかに愛する~恋と友情の悩み
  21 付き合って1年、結婚を望んでいるが相手にされない(22歳・女性)
  22 30歳上の彼と結婚したい私はファザコン?(23歳・女性)
  23 処女でない女性を毛嫌いしてしまう(26歳・男性)
  24 「お前の人生、やばいね」と言われて(30歳・女性)
  25 同性の恋人のことを家族に認めてほしい(27歳・女性)
  26 「結婚したい!」と思える人と出会えない(21歳・男性)
  27 遠ざけた親友、絶交すべきか(35歳・女性)
  28 悪口ばかり言う知人にモヤモヤする(女性)
  29 突然の彼の死、日々泣き暮らす(40代・女性)
  30 男女2人だけで会うのは避けるべきか(72歳・女性)
  エッセイ 愛する人がどこかで幸せになってくれていたら、失恋の傷も癒える

 第4章 まめやかに暮らす~生活の悩み
  31 子育てが一段落、無趣味な私が友達を作るには(45歳・女性)
  32 野良猫に餌付けした近所の人と仲たがい(78歳・女性)
  33 「下流老人」が心豊かに暮らすにはどうしたらいい?(69歳・男性)
  34 安っぽいものであふれるわが家。老後はスッキリ暮らしたい(60歳・女性)
  35 太っているのは良い? 悪い?(34歳・女性)
  36 がんが心配で家事も手につかない(52歳・女性)
  37 使わないものを処分すると、夫が泣いて怒る(42歳・女性)
  38 84歳の父を元気にしたい(55歳・男性)
  39 人生後半の指針が見えず、だましだましの日々(57歳・女性・ライター)
  40 病を患い、生きがい見つからず(66歳・主婦)
  エッセイ 人間は年を取る

 第5章 ひそやかに向き合う~心の悩み
  41 人からすごいと思われたい(19歳・女性)
  42 吃音のせいで人間関係を結べない(26歳・女性)
  43 小学校時代の担任のひと言に傷つき、いまだに癒えない(32歳・女性)
  44 宝塚への夢があきらめられない(27歳・女性)
  45 死ぬのが怖くて仕方ない(23歳・女性)
  46 観劇後のアンケートで“駄目出し”ばかり書いてしまう(56歳・男性)
  47 せっかちな性格を直し、のんびり過ごしたい(63歳・男性)
  48 時分が何をしたいのか分からない(20歳・女性)
  49 他人を見下してしまう(32歳・男性)
  50 完璧を求めてしまう自分がつらい(23歳・女性)
  エッセイ 生きていることに感謝する

 おわりに

『毎日新聞』さんに連載中の、渡辺えりさんによる人生相談の単行本化です。

渡辺さん、お父様が光太郎と交流があった方でして、お父様ともども連翹忌にご参加下さったこともありました。最近はお父様がお加減宜しくないということで、お一人でご参加下さっています。

平成24年(2012)には、光太郎を主人公とした演劇「月にぬれた手」を初演なさり、翌年にも再演。脚本は昨年、ハヤカワ演劇文庫の一冊として刊行されました。また、お父様と光太郎との関わりなどを中心に、各地で講演をされたり、テレビ番組や各種新聞雑誌等でそうしたエピソードをご紹介下さったりもなさっています。さらに、平成28年(2016)には、お父様が光太郎から贈られた昭和20年(1945)刊行の『道程』再訂版、光太郎からの書簡を花巻高村光太郎記念館さんに寄贈されたりもなさいました。

『毎日新聞』さんの人生相談では平成29年(2017)6月に、「老後はスッキリ暮らしたい」という相談に対し、お父様と光太郎の関わりをご紹介しつつ回答なさっていました。

公式サイトの紹介では詳細な目次が載って居らず、その回の内容が掲載されているかどうか、不明でした。そこで、実際に手にとって中身を確認してから購入しようと思っていましたところ、入手が遅れました。当方生活圏の新刊書店には見あたりませんで、先頃上京した際に、八重洲ブックセンターさんでようやく見つけた次第です。

ちなみに隣町の成田市の大きな書店では、店内に検索機があって、「在庫あり」と表示され、「やったぁ」と思いましたが、表示された棚になく、店員さんに訊いて詳しく調べていただくと「三冊在庫があるはずなんですが」と言いつつ、結局ありませんでした。新刊書店の苦境が叫ばれて久しいのですが、こういういい加減なことをやっているのも一因でしょう。ネットショッピングのせいにしないでほしいものです。厳しいようですが。

閑話休題。他にエッセイ「認知症の両親を遠距離介護しながら思うこと」の項でも、お父様と光太郎について触れられています。

その他、「しょうがねぇな」と思わず笑ってしまうようなくだらない(すみません)相談から、粛然とした気持にさせられるような深刻な相談まで、実にさまざまです。まさに社会全体の縮図のようにも感じました。それぞれに対し、渡辺さんが大まじめに、真摯に、そして的確に回答なさっていて(時に肩肘張らず、時に容赦なく厳しい口調です)、好感が持てます。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

姉は観音経を誦んでゐて、それによつてどんな災厄にも会はないといふことを信じ切つていたのでせう、どんなに晩くてもどんなところでも歩きましたし、悲しいこと、不自由な事に会つても決して動乱するやうなことはありませんでした。そしてしなければならない事は皆しました。

談話筆記「姉」より 昭和7年(1932) 光太郎50歳

光太郎には早世した姉が二人いましたが、ここでいう「姉」は長女のさく(咲)。光太郎より6歳上で、狩野派の日本画を学び、将来を嘱望されていました。しかし、光太郎10歳の明治25年(1892)、肺炎で歿しました。光太郎はこの姉を常に誇りに思っており、大きな感化を受けたと繰り返し語っています。
006  005

福島県の地方紙、『福島民友』さんの連載「福島湯けむり探訪」に、「智恵子抄」の語が。 2月16日(日)の掲載でした。

006


ふくしま湯けむり探訪【二本松市・岳温泉】 山を遊び尽くす拠点 新風を吹き込む温泉宿

 花びらが舞い降りる000露天あり、寒気と湯気がなじむ雪見風呂あり―。気候風土が大きく異なる福島県は豊かな自然に恵まれ、湧き出る湯にさまざまな趣を与えてきた。泉質数は国内有数を誇り、愛され続ける名湯、秘湯もまた多い。「湯けむり」の向こうに隠れたドラマを探して、記者たちが湯の里を訪ねる。その魅力にどっぷりつかってみたい。

 智恵子抄や万葉集にも詠まれ、登山客など多くの人たちから親しまれる安達太良山。その山懐に抱かれるように、古き良きたたずまいの旅館や物産店が立ち並ぶ岳温泉(二本松市)が広がる。旅館のほとんどが温泉街を貫くメインストリート「ヒマラヤ大通り」に沿うように立っている。その通りのほぼ中央に昨年夏、新風を吹き込む温泉宿「mt.inn(マウントイン)」が本格オープンした。
 経営するのは鈴木安太郎さん(40)。温泉街の経営者の中で最も若く、目指すところも既成の枠にとらわれない。「コンセプトは『集え、遊び人』。世界の遊びを愛する人たちの集いの場にしたい。安達太良山を遊び尽くしたいと思う人は本当に大歓迎だ」と気負いなく話す。
 鈴木さんは「安達太良山麓はアクティビティー(遊び)でいっぱいだ」と強調する。確かに登山にスキー、沢登り、そして山野を走るトレイルランなど自然を生かしたアウトドアスポーツ、目の前に広がる美しい景観を心ゆくまで楽しめる仲間たちとのツーリングなど数えだしたら切りがない。

 掛け流し...手頃に003
 遊びで疲れた体を癒やすにはもちろん温泉だ。泉質は酸
性泉。湯元から約8キロの距離を引き湯する。温泉街まで流れてくる40分の間に湯がもまれて、肌に優しくなるという。
 温泉を気軽に利用してもらおうと、日帰り入浴の開始時間を今年から早めた。料金も良心的な金額を維持している。「源泉掛け流しは大きな強み。温泉は疲れた体を癒やす。何をやろうにも温泉の恩恵を忘れてはいけない」と鈴木さんは話す。
 マウントインでは、フロントを通して登山やネイチャーガイドを手配できる。「集いの場は多くの人が行き交うハブであり、楽しい空間が広がる安達太良山へのゲート、スタートラインにしたい」と鈴木さん。アクティビティー前の入念な準備に気兼ねなく時間を費やせるようにと、スタッフも朝早くから気遣う。施設内には500車種、200コースが楽しめるドライブシミュレーターを備えたり、自炊キッチンが完備されていたりと、多様な楽しみ方ができる。
 歴史をひもとけば、岳温泉は幾多の苦難に見舞われ、その度に立ち直ってきた。鈴木さんは強さの源にフロンティア精神を感じるという。「山崩れ、大火といった災難にめげず、復興、そして新しい道を開拓してきた」と先人たちの踏ん張りをたたえた。
 車社会の現代、日帰りの登山客、スキー客が目立つ。「温泉の宿泊客とほぼ同数の登山客が温泉街を通り過ぎる。そういった人たちをどう取り込むか。宿泊を含め温泉街の滞在時間を増やせれば、にぎわいにつながる。岳温泉の魅力を築き、発信していけるような役割を担いたい」。鈴木さんにもフロンティア精神はしっかりと受け継がれている。
 【メモ】mt.inn(マウントイン)=二本松市岳温泉1の7。日帰り入浴は中学生以上600円、小学生300円、未就学児無料。


 ≫≫≫ ほっとひと息・湯のまちの愉しみ方 ≪≪≪005
 【「五輪新種目」体験できる】岳温泉街から車で5分ほどの所にあるスカイピアあだたらアクティブパークはスケートボード、スポーツクライミング、スラックラインと、若者に大人気のアクティビティーがそろう屋内複合施設だ。2020東京オリンピックから正式種目となったスポーツクライミングのボルダリング、リード、スピードの3種目が体験できる屋内施設は全国でも珍しい。時間は平日午後1時~同9時、土、日曜日、祝日は午前11時~午後7時。水曜日定休。


マウントインさん、当方、昨年5月、安達太良山の山開きに際し、泊めていただきました。前身のせせらぎ荘時代にも一度。リーズナブルな料金の割には、館内施設等整っていました。あまりにリーズナブルだと、廊下を歩く他の宿泊客の足音や、隣室のテレビの音などが筒抜けで、早く眠りたい場合にはスマホの音楽プレーヤーをヘッドホンで聴きながらでないと無理、というケースがあるのですが、ここではそういうこともありませんでした。

また、素泊まりも可というのがありがたいと思います。宿で美味しい料理を供して下さるのもありがたいのですが、多少、好き嫌いのある当方としては、館外の食堂等で好きなものを食べたいと思うこともしばしばですし、地元の方々と夕食を共にするというようなケースも多いので。

それから、記事にもある館内の温泉も、確かにいい感じです。確か、宿泊客は24時間入湯可だったような。なぜか旅先ではさっさと床につくのが当方の流儀でして、すると、夜中に目が覚めます。そして24時間入湯可であれば、ほぼ誰もいない温泉を独占し、その後、また朝まで二度寝、というパターンです。

ぜひ、岳温泉さんをご利用の場合は、ごひいきに。


【折々のことば・光太郎】

玉鋼を本当に鍛へて作つた小刀を、鳴瀧の上もので心ゆくばかりに研いで、檜をざくざく彫つてゆく気持はたとへやうもない。さういふ時、心を潜めて彫つた彫刻の味などは、到底観る者にわかる筈はない。それは永久に分らないままでいいのである。作品は誰にでも分るところまでの姿で世に通用して、しかも奥の知れないままでよろしい。無理はいらない。

散文「通用」全文 昭和6年(1931) 光太郎49歳

「鳴瀧」は京都産の上質な砥石です。

作家に対しては、「無理に分からせようとすべからず」、鑑賞者に対しては「無理に分かろうとすべからず」というところでしょうか。

たしかに造型作品に対し、作者の心情や意図など、全体としてのアウトラインはある程度想像もつきますが、細かな部分まで、制作時に何を考えていたのか、そこである技法をつかった理由など、すべて解明するのは不可能です。

文筆作品に対しても同じことが言えると思います。しかし、それを無理くり「こうだった」と解釈するのが「文学」の「研究」で、そういうことを書くのが「論文」だと、そういう風潮がありますね。当方もそういう畑の出身ですが、そうした風潮にとまどいや限界や反発を感じます。「作品は誰にでも分るところまでの姿で世に通用して、しかも奥の知れないままでよろしい」のです。

1月31日(金)の『日本経済新聞』さん夕刊。文化面の「こころの玉手箱」という連載が、歌手の太田裕美さんによるもので、光太郎の名が。 

こころの玉手箱 歌手 太田裕美(5) 2代目の愛犬 がん治療支える大きな存在

2019年7月に乳がんの手術を受け、抗がん剤治療を続けている。日々の暮らしの中で、飼い犬の十兵衛とのふれあいが大きな癒やしになっている。十兵衛は18年2月から家族の一員になった。飼い犬としては2代目。まずは初代、小太郎の話から始めたい。
時は東日本大震災の直後に遡る。米国に住む友人から連絡があった。彼女の義兄は福島県内で犬のディーラーをしている。「原発が心配だから避難しているんだけど、犬にエサを与えるため毎日2時間かけて家に戻っているんだって」
私は何匹かうちで預かろうかと持ちかけ、そうこうしているうちに、お義兄さんの家の付近は安全だと分かって一件落着となった。
しばらくして、また連絡があった。地震から1カ月後の4月12日、子犬が生まれたという。これも何かの縁だと思い、我が家で引き取ることにしたのだ。
詩人の高村光太郎にちなんで光太郎と名づけようとしたら、息子が友達と同じ名前は嫌だというので、小太郎にした。2人の息子の下に小さな3男ができた。
小太郎は柴犬(しばいぬ)で、わび、さびを解し、一人の世界を好んだ。家族全員がメロメロになった。
ところが16年、5歳7カ月になる1日前に逝ってしまった。これまでの人生で一番悲しい出来事だった。
1年喪に服した後、保護団体が預かっている飼い主のいない犬、いわゆる保護犬を飼うことした。一目で「この子だ」と決め、いかつい顔をしているから剣豪の柳生十兵衛にちなんで十兵衛と名づけた。十兵衛は雑種で大の甘えん坊。今や我が家のプリンスだ。
愛犬を1日10分なでるだけで幸せオーラが出て、免疫力が上がるとの説を聞いた。私は小太郎を愛する中で免疫力がついていたはずだが、喪失感が大きすぎて病気になったのだろうか。
しかし今は十兵衛がいてくれる。朝起きて十兵衛に「おはよう」と声をかけるだけで笑顔になれる。日常を楽しく過ごしていれば、きっと健康を取り戻せる。そう信じている。



001

太田さん、かなりの愛犬家のようでいらっしゃいますね。記事の画像は現在飼われている十兵衛君だそうですが、太田さんのツィッターを調べてみましたら、故・小太郎君の画像も残っていました。かわいいですね。

009

それにしても、なぜ「詩人の高村光太郎にちなんで光太郎と名づけようとした」のかは謎ですが(笑)。

小太郎君は柴、十兵衛君はミックスだそうですが、当方の愛犬にも何となく似ていて親近感を覚えます。

001 005

柴犬系雑種で、先月、16歳になった老犬ですが、まだまだ元気です。

ところで、1週間ほど前の夕方、こいつと散歩中、裏山の杣道を歩いていましたら、道の脇の藪から「ガサガサッ」という音。さらに灌木の枝が大きく揺れていました。最初は「鳥かな?」と思ったのですが、それにしては枝の揺れやガサガサ音が大きく、それもそのはず、藪からひょっこり顔を出したのは、大きなイノシシでした(笑)。

当方及び愛犬との距離は2メートルほど。イノシシと遭遇するのは3度目でしたが(1度目、2度目はこちらをご参照下さい)、最も近距離での遭遇となりました。そのまま通り過ぎようと思ったところ、「それ以上近づくと、いてまうぞ」感を醸し出していましたので、愛犬ともども、慎重に後ずさり、結局来た道を引き返しました。杣道といっても、一番近い民家から100㍍足らずの場所だったのですが……。

愛犬、吠えもせず、意外と平然としていました。下手に吠えると先方を刺激していたかもしれず、そう考えると役に立ったような、立たなかったような(笑)。

無事帰宅して家族に報告したところ、「こんな時間にあんな所歩いたらイノシシいるでしょ!」と怒られました(笑)。「明るいうちなら大丈夫だろう」と、後日、再び現場を見に行きました。すると、どうもその場所に巣(?)でも作っているようで……。

008

007

太田裕美さんの話から、イノシシの話と、何だかまとまりませんが……(笑)。


【折々のことば・光太郎】

日本はありがたい事には到る処豊富な天然美に恵まれてゐる。此が私等の避難場だ。此を利用して健康な趣味と高く清い美との遊園地を造るのが第一だ。
散文「有望なのは天然的遊園地」より 大正10年(1921) 光太郎38歳

ここで言う「遊園地」とは、絶叫マシンなどの立ち並ぶそれではなく、自然の景観を生かしたリゾート地、といった意味合いです。具体的には自分の思い出の地でもある上高地や赤城山などを、なるべく手を加えず整備したらいいだろうという提言にもなっています。

「天然美」はいいのですが、イノシシはちょっと……(笑)。

まずは今朝の『朝日新聞』さん。 

(天声人語)いちばんの寒波

冬という季節に力強さを見ようとするのが、高村光太郎の詩「冬が来た」である。〈きつぱりと冬が来た〉〈きりきりともみ込むやうな冬が来た〉。草木が枯れ、虫もいなくなる寒い季節を、詩人は両手を広げるように歓迎する▼〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。高村のように「冬が来た」と高らかにうたうには、遅すぎる時節ではある。日本列島はきのうになって、この冬いちばんの寒波に見舞われた▼「僕に来い」と待ちわびていたのは、雪不足のスキー場や雪まつりの会場だろう。伝統行事の「かまくら」を控える秋田県横手市では周辺から雪をかき集め、かまくらを何とかこしらえていた。それがようやく自前の雪で仕上げができるようになったという▼和歌山県串本町から届いた知らせは、雪や氷でなく「海霧(うみきり)である。この土地の冬の風物詩で、冷たい空気にさらされて海から霧がのぼる。島影が浮かび、幻想的な景色が生まれるという。今年は暖冬でふるわなかったが、きのうはきれいにたちのぼった▼汗ばむような日もあり、居心地の悪さすら感じていたこの冬である。そのせいだろうか、厳しい寒さがすこしうれしいような気にもなる。春はすぐそこだという心の余裕もあるのかもしれない。寒風のなか、紅梅がほころんでいるのを見かけた▼冒頭の詩で高村は、冬の鋭さを〈刃物のやうな〉とも表現した。刃こぼれをしているような感じがした今年の冬も、今ようやく研ぎ澄まされた。

002

光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)。この手の一面コラムでしばしば紹介されますが、おおむね11月から12月に取り上げられることがほとんどです。平成28年(2016)11月の『東奥日報』さん、平成30年(2018)12月の『河北新報』さん、昨年11月の『中国新聞』さんなど。

ところが、今年になって1月に『山陽新聞』さんがこの詩を取り上げ、「ずいぶん遅い『冬が来た』だなあ」と思っていたところ、今日になって『朝日』さん(笑)。たしかにこの冬の暖冬傾向は異常といえば異常でした。光太郎と違って寒さを苦手とする当方としては、過ごしやすくていいのですが(それでも先週末から昨日くらいまで風邪気味でした)。

ちなみに自宅兼事務所のある千葉県では、既に菜の花も咲き乱れています。北国の皆さん、すみません(笑)。

KIMG3588

もう1件。先月末の『高知新聞』さん。 光太郎の名は出ていませんが。

小社会 言い訳

 文豪には人間の弱さを抱え、失敗も絶えない人が多いようで、さまざまな言い訳を駆使した書簡が残っている。例えば、夏目漱石。友人あてのはがきに〈十銭で名画を得たり時鳥(ほととぎす)〉。

 中川越さん著「すごい言い訳!」によると、漱石はこの友人にあてた絵はがきに切手を貼り忘れた。切手代を取られた友に謝りつつ、自らが描いた「名画」を手に入れたとして感謝を強要したユーモアだという。漱石の絵は、といえば名画にはほど遠い素朴さだった。

 新聞連載の原稿執筆が遅れてしまった泉鏡花が、催促してくる編集者にあてた手紙もある。〈涼風たたば十四五回もさきを進めて其(そ)のうちに一日も早く御おおせのをと存じ…〉。

 簡単にいえば、締め切りを守れないのは暑くてかなわないからだと言っているだけ。ところが、苦しい釈明は美しく流麗な文体で書かれている。中川さんは「編集者は、この言い訳にも原稿料を支払いたくなったのでは」。

 この人の言い訳はどうだろう。国会で「桜を見る会」を巡る疑惑追及が続く。安倍首相は答弁で「歴代内閣も」「鳩山首相も」。追い詰められると「あの人だって」となるのは、どうも成熟した政治家の弁明とは思えない。

 国会はちゃんとした政策論争を、という声も出ている。ただ、「桜」は公文書の廃棄など民主主義の根幹に関わる問題だ。まずは美しい言い訳…ではなく誠実に説明責任を果たす方が先だろう。


昨年刊行され、光太郎も取り上げて下さった中川越氏著『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』を引き合いに、今国会を皮肉っています。ある意味痛快ですが、反面、「ないものねだり」というか、「高望み」というか……。末尾の「美しい」も「見苦しい」だろ、と突っ込みたくなります(笑)。あの人の辞書には、「冬が来た」にある「きっぱりと」という単語は載っていないのだと思います(笑)。

明日も新聞記事系から。


【折々のことば・光太郎】

私のからだの中には確かに手におへない五六頭の猛獣が巣喰つてゐる。此の猛獣のため私はどんなに苦んでゐるか知れない。私をしてどうしても世人に馴れしめず、社会組織の中に安住せしめず、絶えず原野を恋ひ、太洋を慕ひ、高峰にあこがれ、野蛮粗剛孤独不羈に傾かしめるのは此の猛獣共の仕業だ。私は人一倍人なつこく、温い言葉と春のやうな感情とに常に飢ゑてゐるのだが、この猛獣のおかげで然ういふ甘露の味を味ふ事が実にすくない。

散文「私の事」より 大正9年(1920) 光太郎38歳


001
光太郎、実は「春のやうな感情とに常に飢ゑて」いながら、それを得られず、「冬」を愛さざるを得なかったというわけですね。

大正13年(1924)には、前年の関東大震災によってあらわになった社会矛盾を痛烈に批判する連作詩「猛獣篇」の制作が始まります。光太郎の生前に単行詩集としてまとめられることはなかったのですが、没後、昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。

昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念した「高村光太郎文学碑」を建立、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町から、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」関連で、『朝日新聞』さんの宮城版報道です。 

宮城)「女川いのちの石碑」 11月に21基目披露へ

 宮城県女川町内にある21の浜に東日本大震災時の津波到達点の目印となる「いのちの石碑」を建てる活動などをしている団体が19日、同町高白浜の石碑近くで、これまでの取り組みの報告会を開いた。女川小・中学校内に建てられる21基目の石碑の披露式を11月22日に開くことも明らかにした。
 活動しているのは「女川1000年後のいのちを守る会」。小学6年生の時に震災を経験した女川中学校の卒業生を中心に作られ、「いのちの石碑」や防災本「いのちの教科書」などの作成を進めてきた。寄付金でつくった石碑はこれまでに17基が完成している。
 活動に加わった経緯について、阿部由季さん(21)は「家をなくしたのに他人の心配ばかりをしている友人を見て、私も周りのために何かできないかと思った」と振り返った。
 石碑には中学校時代に生徒たちが詠んだ句が刻まれ、「津波が到達した地点なので、絶対に移動させないで下さい」との一文もある。阿部さんは「女川では昔の震災でも石碑が建てられていたが、工事のためにずらされてしまったことがあった」と説明した。
 報告会に訪れた人からは「なぜここまで大きな取り組みができたのか」との質問が出た。「金魚も大きな水槽で飼えば大きく育つ。広い心で見守ってくれた周りの環境が育ててくれたと思う」と、メンバーで大学生の渡辺滉大さん(21)。「防災が『空気』のように当たり前の存在になってほしい」と答えた。
 報告会に参加した「野蒜(のびる)まちづくり協議会」(東松島市)の菅原節郎会長(69)は「つらい過去と向き合うだけでも負担なのに、彼らは未来の命まで救おうとしている。地元の人たちにも彼らの活動を広めたい」と話した。
 21基目の完成日が決まったことについて、メンバーで大学生の鈴木智博さん(20)は「『やっと終わって良かったね』と言われることもあるが、これはゴールでなくスタート。次の災害で本当に命が救われるように、何年かかるかわからないが、活動を続けていきたい」と語った。(山本逸生)

003


1基目が建立されたのが、平成25年(2013)。それから7年間かけて、いよいよ最後の碑が建てられるというわけです。頭が下がります。

元々、かつて女川港近くの公園にあった光太郎文学碑が、「100円募金」で建てられたことに倣い、当時中学生だった若者たちが募金を呼び掛けて、資金を集めました。

004


光太郎や、文学碑の建立に奔走した女川光太郎の会事務局長であらせられ、あの日、津波に呑み込まれて亡くなった貝(佐々木)廣氏も、泉下で目を細めているのでは、と思います。

津波による辛い体験をそれぞれが経たあと、その逆境をバネに、こうした素晴らしい活動を成し遂げつつある彼らに幸あれと、祈念せざるを得ませんね。

続報が出ましたら、またご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

日本へ帰つて来たら矢張り日本の料理が好い。

談話筆記「画室にて」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

「画室にて」は長い談話筆記で、明治39年(1906)から同42年(1909)まで約3年半、留学のため渡り歩いた欧米各地の食文化、それぞれの地で気に入った食べ物、それらにまつわる体験などについて語られたものです。

延々語った後で、最後に「矢張り日本の料理が好い」。基本的には、日本の料理店で供される洋食が本場のものと比較にならないという苦言です。

しかし、ただそれだけというより、結局、東京美術学校西洋画科での同級生だった藤田嗣治や、年齢差を超えて親炙した高田博厚らと異なり、フランスに軸足を置くことをしなかった=やはり日本、という表れかな、という気もします。

本日午後6時から、当会顧問にして、生前の光太郎に親炙された、北川太一先生のお通夜が、文京区向丘の浄心寺さんにて行われます。ご葬儀は明日です。一昨日、昨日と、その関連の内容でこのブログを書きましたが、そうしている間にも、注文しておいた光太郎がらみの記事が載った雑誌が届いたり、光太郎にも関わる新たなニュースが出たり、今年行われる光太郎に関する某美術館さんの企画展示に関する連絡のメールが来たりと、世間は普通に動いています。

「僕のことはいいから、そのあたりを紹介しなさい。あなたはあなたの仕事をするように」と、北川先生のお声が聞こえてくるようで、そうさせていただきます。お通夜、ご葬儀については、終わりましてから、また。

さて、注文しておいた雑誌。 

月刊致知 2020年2月号

2020年1月1日(水) 致知出版社 定価1,100円


存じ上げない方ですが、国際コミュニオン学会名誉会長・鈴木秀子氏という方が、「人生を照らす言葉」と題する連載で、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を取り上げて下さっています。

002

003

他に、三好達治の「雪」、永井荷風のこれもまた「雪」、それから堀口大学の「葦」という詩も紹介され、最後の締めに「道程」です。

鈴木氏曰く

人それぞれいろいろな生き方があるにせよ、その後ろでは大きな力が働いて見守ってくれている。そして進むべき道を整えてくれている。そういう存在に深い信頼を置いて力強く人生を歩んでいけたら、こんなに安心な事はありません。

なるほど。

見守ってくれ、道を教えてくれる大きな力、亡くなった北川先生にとっては、ご自身が親炙された光太郎がそうだったのでしょう。光太郎が亡くなってから生まれた当方は、光太郎自身というより、北川先生がそういう存在だなのだと、勝手に思い定めております。

さて、『月刊致知』さん。正規ルートで入手しようとすると、定期購読せねばなりません。そこで当方、いつもの闇ルート(笑)。ネットオークションで手に入れました。ご参考までに。


【折々のことば・光太郎】

此人が自己の魂から遊離した詩を決して書かない詩人だといふ事を感じました。
散文「田中清一詩集『永遠への思慕』読後感」より
大正14年(1925) 光太郎43歳

基本的に、光太郎自身もそうでした。戦時の熱に浮かされた如き空虚な翼賛詩オンパレードの時期を除いて、ですが。

田中清一は明治33年(1900)生まれの詩人です。自身で詩神社という出版社も経営していました。

岡山市に本社を置く地方紙『山陽新聞』さん。昨日の一面コラムで光太郎を取り上げて下さいました。 

滴一滴

高村光太郎の「冬が来た」(詩集「道程」)は凛(りん)としてすがすがしい。〈きりきりともみ込むやうな冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た〉▼そして続く。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。立ち向かう強い意志。寒い、寒いと縮こまるわが身に熱い芯が通りそうである▼嫌がられる冬ではあるが、ただ厳しい寒さがなければ春の生命の躍動もない。桜が夏に花芽をつくって休眠し、冬の寒さで目覚める「休眠打破」はよく知られる▼同様に、秋にサナギとなったアゲハチョウが羽化するには、休眠して冬の寒さを経験する必要があるという。地面に葉が放射状にはりつく「ロゼット」状態で北風をやりすごすタンポポなども、震えているように見えて実はせっせと内部に養分を蓄えて春を待つ▼逆境やつらい時期はいつまでも続かない。「冬来たりなば春遠からじ」の言葉通り、やがては春を迎える大切な準備期間である。そう思えば最後のひと踏ん張り。今月半ばには大学入試センター試験が始まり、受験シーズンはいよいよ本番入りする▼きょうは寒の入りの「小寒」。7日は七草がゆの「人日の節句」。若菜の生命力をいただき成就を願う家庭もあるだろう。ほのかな野の香りや緑が、もうすぐだよと言ってくれそうである。


引用されている「冬が来た」は、大正2年(1913)12月の作です。

   冬が来た
 
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
001

きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た



画像は花巻高村光太郎記念館さんで販売しているポストカード。写っている建物は、光太郎が昭和20年(1945)から7年間暮らした山小屋(高村山荘)です。ただし、小屋はむき出しではなく、中尊寺さんの金色堂のように、建物全体にカバーのような套屋(とうおく)をかぶせてあり、外から見えるのは套屋です。それも近在の農家の納屋風に設計したということで、レトロな感じが醸し出されています。

この季節に何度かお邪魔しましたが、ちょうど今頃はこんな感じなのではないかと思います(今シーズンは雪が少ないやに聞いていますが)。光太郎も「冬が来た」を書いた大正年代には、まさか後に岩手の山懐でこんな暮らしをすることになるとは思っていなかったことでしょう。もっとも、明治末には北海道移住を企てたりしていたのですが。

「滴一滴」子さん、話の展開が巧みですね。枕に光太郎詩を使い、チョウやらタンポポやらの自然界に話題を広げ、冬の寒さが無いと実は駄目なんだ、と。そこまで読んで、この後、人生訓に行くかな、と思ったらその通りでした。この手の文章のお手本のような見事な構成です。

光太郎も、その74年の生涯に於いて、何度も厳しい「冬」の時代を経て生きていました。「冬」のような厳しい状況に、時に自分の意志と関係なく見舞われたり、時に自らそうした状況を選び取ったり……。

欧米留学で最先端の芸術を見聞きして帰朝した青年期には、旧態依然の日本美術界(そのピラミッドの一つの頂点に、父・光雲が居ました)との対立を余儀なくされ、壮年期を迎えると、妻・智恵子の心の病、そして、死。老年期に入る頃には泥沼の戦争に歯車として荷担することになります。そして戦後、上記画像のような環境に身を置き、自分自身の来し方と向き合う日々……。

そうした峻烈な「冬」を何度も体験したからこそ、光太郎芸術は磨かれていったのでしょう。

比較的温暖な房総の地に暮らし、それでも寒い寒いと騒いでいるのが、ある意味、申し訳ないような気もします(笑)。


【折々のことば・光太郎】

峯あり谿あり河あり、山巓に日はかがやき、山峡に雲は湧く。人その間に住み、つぶさに隠密な人情の深みに生きる。

散文「山田岩三郎詩集『国の紋章』序」より
 昭和18年(1943) 光太郎61歳


結局、自然と人間の付き合いは、そういうことなのでしょう。

2020年となってしまいましたが、暮れの内に光太郎らがメディアで紹介された件をご紹介しておきます。


まず、『朝日新聞』さん。12月28日(土)の書評欄。同紙で書評をご担当の方々が、「今年の3点」をそれぞれ挙げられている中に、中村稔氏ご執筆の『高村光太郎の戦後』を選ばれた方が。

心を揺さぶる本とともに 書評委員が選ぶ「今年の3点」 石川健治(東京大学教授)

①人外(にんがい、松浦寿輝著、講談社・2530円)001
②主権論史 ローマ法再発見から近代日本へ(嘉戸一将著、岩波書店・9900円)
③高村光太郎の戦後(中村稔著、青土社・2860円)
 人外という「被造物の尊厳」との対比で「人間の尊厳」を考えさせるのは①。人格の始期と終期、人格的同一性と「記憶」、人格内部での相剋、人格の「承認」と社会関係、疎外された類的存在=他者としての「神」など根本問題を巡る。
 天皇代替わりの年に、日本的な「国民主権と天皇制」の存立機制に迫ったのが②。明治憲法と皇室典範の双方を起草した、法制官僚・井上毅の章は必読。
 ③は、己を虚しくして宇宙の大生命を体現しようとした以上責任のとりようがない表現人が、「戦後の」一市民の立場でこれを再読することで「戦後責任」をとろうとした事例を探求。射程は当然、自主表現人(筧克彦)であった現人神(あらひとがみ)天皇と、戦後の象徴天皇の関係にも及んでいよう。

石川氏、7月の同紙には「自らの「愚」究明する表現人の責任」と題した同書の長い書評を寄せられていました。


続いて、NHK Eテレさんで放映の「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。12月22日(日)の放映で、光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった髙村豊周が取り上げられています(昨年の記事「回顧2019年(10~12月)。」でもちらっとご紹介しましたが)。

東京都庭園美術館さんで、10月から開催されている「アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」」展の紹介の中ででした。同展は、日本の近現代の造形作家たちがインスパイアを受けた、「アジア」の伝統的な作品と並べるという、面白い展示が為されています。

まず、古代中国の青銅器。

033

豊周の師・香取秀真の作。

034

そして豊周。

035

036

037

かなり磊落な性格だったという豊周ですが、その作は緻密です。

工芸だけでなく、絵画も。光太郎の留学仲間だった安井曾太郎。花瓶がやはり古代中国のものです。

038

同展ポスターやフライヤーに使われた、杉山寧の仏画(素描)。

039

同館館長の樋田豊次郎氏のコメント。

040

同展、1月13日(月・祝)までの開催です。レポートはこちら。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

質樸な字面のみから考へればこれは不思議のやうであるが、結局詩は内にあるものだけは、どんな形のもとにも必ず人の心へその響を伝へるものであるといふ事を示してゐるのである。

散文「矢野克子詩集『いしづゑ』序」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

「内にあるものだけは、どんな形のもとにも必ず人の心へその響を伝へるものである」。文学作品だけでなく、造型やら音楽やら、あらゆる芸術に当てはまることではないでしょうか。

元日の『中日新聞』さん。一面コラムで、当会の祖・草野心平に触れて下さいました。 

中日春秋

 冷たい風に葉を落とされた木々も近づいてみれば、新たな芽が001枝先に生まれていて生命の気が伝わる。冬芽の時節である。柔毛に覆われたモクレン、丸みを帯びたハナミズキ…。花の姿を思ってながめるのは季節のちょっとした楽しみでもある
▼あけましておめでとうございます。俗説に「めでたい」の語源は「芽出たし」といわれ、「芽出度(めでた)し」などと当てられてきた。寒さの中でその身を小さく、固くしつつ、花や葉となるのを待つ冬芽は、一年の吉事を願う正月の「めでたさ」に通じていようか
▼人の営みは、相変わらず先行きおぼつかないけれど、めでたさをいつにも増して覚えるのは五輪という花を咲かせる冬芽がそこにあるからであろう。東京五輪とパラリンピックが迫っている
▼「勇気と夢と青春の年」。前回の東京五輪があった年、元日の新聞に詩人草野心平が、そう題した詩を寄せている。<新鮮で若いエネルギーがこの秋/極東の島に集ってくる…よき哉(かな)/一九六四年>。青春期のまっただ中にある若い国の熱が伝わる
▼再び東京に五輪を迎える日本は青春期をとうに過ぎ、枯れたと思える時季も経験している。どんな花になるだろうか。派手でおおぶりでなくても、よきかなと後々笑顔で語り継げる大会になればいい
▼<真直(まっす)ぐに行けと冬芽の挙(こぞ)りけり>金箱戈止夫。冬芽の成長を思う二度目の青春の年である。


オリンピックイヤーということで、各種マスコミ、やはり五輪関連の話題が目立ちます。「派手でおおぶりでなくても、よきかなと後々笑顔で語り継げる大会になればいい」そのとおりですね。

ちなみに最初に触れられているハナミズキ。自宅兼事務所の庭ではこんな感じです。キノコではありません(笑)。

KIMG3503

モクレンは自宅兼事務所には植えていませんで、代わりに……。

当会の象徴、連翹(レンギョウ)。元々、光太郎終焉の地、中野アトリエの庭に咲き、光太郎がそれを愛(め)で(ちなみに「中日春秋」子さん、俗説ということで「めでたし」=「芽出たし」説を紹介されていますが、俗説ではない一般的な解釈は古語の「愛でたし」が由来です)、昭和31年(1956)の葬儀には棺の上に置かれたコップに一枝が挿された、その連翹から株分けしたものです。

KIMG3504


004

その際に、弔辞として詩の朗読をしたのが、やはり心平でした。

こちらはミモザ。近々花が咲き始めます。

KIMG3505

桜も芽がふくらんできました。

KIMG3506

春遠からじ、ですね。

春になる頃、第64回連翹忌(4月2日(木))のご案内を致します。よろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

この些かの飾り気をも持たぬ詩人の心が、同じく妻を失つた悲しみのまだ消えやらぬ私の心をうつ。悲しみが深められながら又清められる。これが詩の微妙なはたらきである。

散文「伊波南哲詩集『麗しき国土』序」より
 昭和17年(1942) 光太郎60歳


伊波は石垣島出身の詩人。『麗しき国土』は、基本、翼賛詩集ですが、光太郎同様、妻に先立たれ、亡き妻への思いを謳った詩篇も含まれるため、このような一節が含まれています。

逆に言うと、伊波は『智恵子抄』を念頭に置いていたのではないでしょうか。


さらに言うなら、上記光太郎葬儀で詩を朗読した心平も、「悲しみが深められながら又清められる。これが詩の微妙なはたらきである」的なことを考えていたような気がします。

当会顧問・北川太一先生のご著書など、光太郎がらみの出版物を数多く手がけられている文治堂書店さん。そちらのPR誌2種が届きました。

まず、PR誌というより同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第9号。


拙稿が「連翹忌通信」の題で連載されております。かつてこのブログに書いたことをもとに、その後の調査等によって新たに判明した点などを踏まえて、さらにふくらませています。

それから、今号には詩人の佐相憲一氏による書評「野沢一「木葉童子」復刻版に寄せて 木葉童子がいま 微笑んだ」が掲載されています。野沢一は、光太郎と交流のあった詩人。山梨県の四尾連湖畔に独居生活を送り、膨大な量の書簡をほぼ一方的に送り続けました。その野沢生前唯一の詩集『木葉童子詩経』(昭和9年=1934)の復刻版が、佐相氏と縁の深いコールサック社さんから昨年刊行され、その関係です。ちなみに同書はかつて文治堂さんでも2回、復刻版を出しています。


それから、PR誌というか、パンフレットというか、おそらく月報のように、販売する書籍に挟み込む広告的な冊子だと思うのですが、『トンボの眼玉』という題名の無綴のもの。

005


今年4月に刊行された北川太一先生の『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』の宣伝になっています。

やはり今年、『高村光太郎の戦後』を青土社さんから上梓された中村稔氏、吉本に詳しい評論家の久保隆氏、同じく芹沢俊介氏の玉稿、そしてこちらにも拙稿が載っています。

なぜここにそういうものを載せる必要があるのか、今ひとつ理解に苦しんだのですが、文治堂さんからの指示で、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』全21巻別巻1の刊行終了後に見つかった光太郎文筆作品(「光太郎遺珠」として当方がまとめ続けています)の一覧表。

006

008

009

010「『高村光太郎全集』未収録作品集成」という題にしました。

詩が1篇、短歌11首、俳句で6句、散文は50篇くらいでしょうか。それから翻訳も3篇、新聞記事等に附された短い談話などの「雑纂」が30篇ほど。アンケートも多く10数篇、対談・座談が4篇、色紙等に揮毫した短句も10数篇。

それから文筆作品以外にも、他人の著書の題字揮毫や装幀が8点、絵画が4点。さらに書簡は新たに200名近くの人物に送った400通ほどが見つかっています。

さらに、『高村光太郎全集』刊行の時点で、初出掲載紙等が不明・不詳だったのが判明したものなどについても載せました。

画像、クリックで拡大します。

まぁ、『全集』刊行終了から20年。ここらで一覧表的にまとめておくのもいいかな、と思い、引き受けました。

ご入用の方は、文治堂さんまでご連絡を。


【折々のことば・光太郎】

いささかの詩的まぎらしや、やけな自己放漫無くはつきり、まともに現実に対する此のやうなギリギリな魂の眼を持ち、又其に相当する表現を平気でする勇気のある人の居てくれる事は心強い。

散文「てるよさんの詩をよんで――詩集『叛く』について――」より
昭和4年(1929) 光太郎47歳

「てるよさん」は竹内てるよ。女流としては光太郎が最も高く評価し、交流の深かった詩人です。 

光太郎関連の連載が為されていて、定期購読しております雑誌2誌、最新号が届きました。


まず、隔月刊の『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。第17号です。花巻高村光太郎記念館さんの女性スタッフの方々のご協力で為されている「光太郎レシピ」。今号は「元旦のお点前」だそうで。

004003

細かなメニューとしては「豚肉とキャベツのケチャップ鍋とホワイトアスパラガスのサラダ」。昭和22年(1947)の光太郎日記にこんな感じのメニューが載っています。


続いて『月刊絵手紙』さん。

001002

「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載です。今号は詩「下駄」(大正11年=1922)。

この連載は平成29年(2017)の6月号からですので、けっこう長くなりました。ただ、最近は画像もなく文字だけ、詩や散文の一節を紹介するにしても、解説も、執筆年等の記載もなく、ちょっと安易だな、と言う気がします。月刊誌の編集となると大変なのはわかりますし、光太郎について取り上げて下さるのはありがたいのですが……。

明日も雑誌系をご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

画を見る人よ、画面のコバルトとカドミユウムは無機物である。無機物を見たまふな。その関係を見たまへ。そのオルガニザシヨンを。

散文「神戸雄一詩集『岬・一点の僕』序」より
 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「コバルト」と「カドミユウム」は、元素や重金属としてのそれではなく、前者は寒色系、後者は暖色系の油絵の具の代表、象徴です。「オルガニザシヨン」は、「Organisation」。おそらくフランス語として書いています。「組織」「機構」といった意味です。ここでは絵の具の選択、配置等にこめられた画家の意図ということでしょう。

まず、青森の地方紙『陸奥新報』さん。「日曜随想」というコラムで、12月8日(日)の掲載でした。 

「アート悶々2」彫刻って?

 彫刻という言葉が芸術(アート)として捉えられるようになったのは明治以降のことで、それ以前は文字通り「彫り刻む技術」を意味するものだった。では、彫刻は「芸術(アート)である」というイメージはどのようにつくられてきたのだろうか。以下、ざっくりと見てみよう。。
 1876(明治9)年に工部美術学校が開設され、そこに彫刻学という学科がつくられた。ここにおいて教育機関として彫刻という文言が初めて出てきたが、その言葉の意味は、彫刻をつくる技術を指していた。西洋化を図るべく、所謂(いわゆる)銅像などをつくる技術を教えることが主な目的だったのである。その後、西洋一辺倒への反動から日本美術への回帰を唱えるフェノロサと岡倉天心によって82(明治15)年東京美術学校が開校された。当初は木彫科しか無かったが、やがて98(明治31)年に洋風彫塑が実技に加えられた。その後、高村光太郎や荻原守衛などの近代の作家がロダンの影響のもとに具象彫刻の概念を築き上げてきた(ただし高村光太郎は日本の伝統的な木彫も並行して制作しており、日本の彫刻の在りようを模索していたようにも見える)。
 やがて、抽象的な表現(これも西洋から入ってきた)が出てきて野外彫刻などの公共の場へとその活動の場が広がり、彫刻という概念に空間造形的なニュアンスも加わった。また近代以降の前衛芸術の中の立体作品や身体表現、形がない概念的なものなども彫刻と呼ばれ得るようになり、その捉え方は広がっていった。
 現代でもアーティストがつくった立体造形物であればあえて〝彫刻〟といったりすることがある。これらは以前であれば〝オブジェ〟などと表現されたりしたのであるが、〝オブジェ〟より〝彫刻〟の方が重厚なイメージがあるし、何と言っても芸術の香りがし、蘊蓄(うんちく)もある。これらは先人たちが築き上げてきた〝彫刻は芸術である〟というイメージを(意識的、または無意識的に)拠(よ)り所とし、これは芸術作品である、と主張しているようにも見える。
 以上、彫刻という言葉の持つ意味・イメージの変容を大雑把(おおざっぱ)に見てきた。彫刻の概念は時代とともに広がって(というより曖昧(あいまい)になって)捉えるのが難しくなった。ただ使われている意味はいろいろだが、彫刻という言葉だけに限って言えば、今のところアートの範疇(はんちゅう)に収まっていることは確かであるようだ。
 かこさとしの子ども向け美術入門書「すばらしい彫刻」というすばらしい絵本がある。。その冒頭に彫刻家のことを「にんげんは 大むかしから 石を つみあげたり いわを きざんだりして いろいろな かたちや すがたを つくってきました。それを つくるひとを 彫刻家とよびます。。」と定義している。彫刻家の仕事は、これで十分なのかもしれない。。
 (弘前大学教育学部教授 塚本悦雄)



たしかに「彫刻」の定義、難しいですね。


続いて仙台に本社を置く『河北新報』さん。短歌等を紹介するコラムです。12月15日(日)の掲載。 

うたの泉(1121)

野がへりの親は親馬子は子馬 乗鞍おろし雪はさそふな/高村光太郎(たかむら・こうたろう)(1883~1956年)
 詩人で彫刻家の高村光太郎は短歌も作りました。「野がへり」は野原に放たれたのち帰ってくる馬のことでしょうか。「親は親馬子は子馬」。当たり前のことですが、リズムが良く。足音が聞こえてくるようです。「乗鞍」は長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる山々の総称。その山々から強い風が吹いてくる。結句から、雪よ降らないでくれという作者の気持ちが伝わります。下句の朴訥(ぼくとつ)としたリズムに、光太郎の立ち姿が見えてくるようです。(駒田晶子)

明治35年(1902)、与謝野夫妻の雑誌『明星』に発表された「旅硯」31首中の一つ。前年8月から9月にかけ、長野、戸隠、野尻、赤倉、松本、木曽福島、御岳などを巡った旅の途上での作です。この時光太郎19歳でした。


さらに、『読売新聞』さん。12月16日(月)の夕刊一面コラム。 

よみうり寸評

冬の日に枯れ枝を見て何を思うか。高村光太郎の言葉は意表をつくかもしれない。<何というその枝々のうれしげであることだろう。>◆来年の花を咲かせる喜びにみちている。詩人にはそう映ったらしい。こう書いてもいる。<季節のおこないそのものは毎年規律ただしくやってきて、けっしてでたらめではない>(随筆「山の春」)規律は今もただしいだろうか。この9~11月の平均気温は東日本、西日本とも史上最高となり、秋を実感できないとの声が聞かれた。木々が枯れる以前に紅葉の遅れた地域も少なくない◆冬のマドリードで開かれたCOP25が閉幕した。国連の「気候変動枠組み条約第25回締約国会議」の略称だが、今回は「気候変動」ならぬ「気候危機」の表現で問題の深刻さが強調されたという。個々の事象の原因はともあれ、地球規模で従来の季節の規律が失われたなら、それは「危機」にほかならない◆総論で何とか一致をみても、内実は足並みが乱れている。この現状に終止符を打たねば春は遠い。

そのためには、CO削減に全く意欲を示さない某大国大統領や、それにシッポを振るだけしか能のない某国首相などを何とかしないといけないような気がしますが……。「桜」は大好きなようですけれど(笑)。


最後に、光太郎智恵子などの名は出て来ませんが、一昨日、このブログでご紹介した谷崎由依さんの小説『遠の眠りの』(智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた『青鞜』に関わる部分もある小説です)が取り上げられています。 小説の舞台となった福井の地方紙『福井新聞』さんの一面コラムです。 

越山若水 12月15日

福井が太平洋戦争に至るまでのつかの間きら004りと輝いている時があった。だるま屋百貨店と少女歌劇部が象徴的な存在だった。その時代の街並み、人間模様を描いた小説「遠(とお)の眠(ねむ)りの」(集英社)が発刊された▼福井市出身の作家、谷崎由依さんが5年がかりで出版にこぎつけた。小説では仮名扱いだが、だるま屋の少女歌劇部を主な舞台に据え、隆盛を誇った羽二重、人絹の工場などを丹念に再現。“戦前の福井賛歌”の趣を随所に配しつつ、主人公の少女の淡い恋、福井の人々の多様な生活ぶりが、巧みな空想で膨らまされ詩情豊かな味わい▼だるま屋は1928(昭和3)年に創業。県庁舎が旧福井城本丸跡に移転した跡地だった。当時の繁華街は九十九橋から呉服町周辺のため県庁舎跡地はなかなか買い手が付かず、県から要請を受けた坪川信一氏が熊谷組の熊谷三太郎氏の援助を受け開業した▼坪川氏の友人だった本紙の藤田村雨編集局長による「坪川信一の偉業」に詳しい。福井停車場には近かったのだが、跡地の約2万平方メートルは草っ原だったという。90余年を経た今日の駅前商店街からは想像もできない▼後継の西武福井店は、2021年には本館のみの営業となるが、県都の顔としての存在感が揺らぐものではない。だるま屋が草っ原を一変させたことに思いを巡らせれば、改めて地域のけん引役にと期待は募る。

明日も報道系、特に光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」がらみで。


【折々のことば・光太郎】

われわれ日本人はその天成の中に純文学には這入り易い素質を持つてゐる。けれども思想問題については得手ではない。

散文「思想全集を手にして」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

確かにそうかもしれません。花鳥風月を愛でたり、人情の機微を描いたりといったことは得手な国民ですが、個々にしっかりした思想があるかと問われると、「否」でしょう。特に現代は「思想」などと口にしたら「意識高い系」と揶揄されるのがオチです。ですから流される。歴史が証明していますね。それは光太郎も例外ではありませんでした。

四紙誌から、ご紹介します。

まず、『朝日新聞』さん。11月14日(木)、岩手版に載った記事が、1週遅れで11月21日(木)、夕刊の全国版にも掲載されました。見出しのみ、「高村光太郎のはがき寄贈 70年前に受け取る」だったのが「高村光太郎、ファンに宛てた感謝 当時中3の85歳、はがき寄贈 「死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります」」と変更されていますが、記事本体は同一でした。

003


続いて、『しんぶん赤旗』さん。11月24日(日)の日曜版。智恵子がその表紙絵を描いた雑誌『青鞜』編集部を舞台とした、劇団・二兎社さんの公演「私たちは何も知らない」について、脚本家の永井愛さんへのインタビューが大きく載っています。

001

長いので全文は引用しませんが、『青鞜』がらみの箇所のみ。

 平塚らいてうさんは70年安保でも運動の先頭に立たれていました。私には年配の偉い人という感じで、若い娘の時『青鞜』を旗揚げした人という実感がありませんでした。
 数年前、森まゆみさんの『「青鞜」の冒険』を読みました。森さん自身の雑誌づくりの経験をまじえながら、「青鞜」編集部の様子を書いていました。
 それを読んで、あの時代に女性だけで雑誌をつくることの大変さが、初めて現実的に感じられたんです。
 『青鞜』の提起した三大論争があります。貞操=結婚まで処女を守ること、堕胎=人工妊娠中絶、公娼=当時公認されていた売春制度―です。この三つはいずれも女性の体に関する自己決定権の議論だと、最近になって見直されるようになりました。
 女性の体は誰のものか。当時はまず親のもので、次いで夫のもの、あるいは兵士を産む国家のものでした。本当はそうではないと、『青鞜』が稚拙ながらも問題提起して、真面目に語り合ったのは画期的なことです。
(略)
 モデルにした人がみんなおかしいし、人間模様がすごいんです。作家が考えた話なら、普通もっとシンプルにします(笑い)。あの時代に若い女たちが、真剣に雑誌作りに取り組んだ日を描けば、その中にすべてがあると思います。
 いまでも出産で退職する女性は多いですし、『MeToo』運動など、『青鞜』が提起した問題は今も続いています。昔の話でなく、今のスタイルでやってみようと。


なるほど。

ちなみに紹介されている、森まゆみさんの『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』についてはこちら


続いて、『日本経済新聞』さん。11月26日(火)、千葉市美術館館長・河合正朝氏による文化面の連載で、光太郎の父・光雲の代表作にして国指定重要文化財の「老猿」(明治26年=1893)を取り上げて下さいました。 

日本美術の中の動物十選(10) 高村光雲「老猿」

 西洋美術史の概念に、てらしあわせるなら、日本に「彫刻」は、無いのではないかとわたしには思える。素人ゆえの無謀、無知との謗(そし)りは覚悟の上である。

 敢(あ)えて言えば、8世紀の初めと13世紀の前半に、幾(いく)らかは、彫刻と言える作品があったとは思う。
そのように考えた時、高村光雲作の「老猿」は、日本の彫刻の本質、日本の彫刻の「何か」を語っているように思える。
 近年、日本の近代彫刻、それも木彫の研究が活発になっているという。「老猿」をもって、日本の彫刻、日本の近代彫刻について識者の説くところを聞きたい。
 光雲は、江戸末期の東京浅草に生まれた。仏師・高村東雲に学び、東京美術学校開設に際し教授となって、彫刻科の基礎を築いた。仏師の伝統に、西洋美術に学ぶ写実を加味し、木彫に新しい作風を拓(ひら)いたと評される。
 1893年のシカゴ万博に出品、高い評価を得た「老猿」を、今年、わたしは再びワシントンDCのナショナルギャラリーに展示した。欧米人に、真の日本彫刻とは何かを問い、示したかったからだ。実は、モチーフが人体でなく動物であることも重要なのである。
(1893年、高さ108.5センチ、東京国立博物館蔵)

002



最後に、雑誌で、『月刊絵手紙』さん12月号。連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」。毎年、11月号は年賀状特集ということで、通常の連載がお休みになるので、2ヶ月ぶりの掲載でした。

今号は、詩「冬の言葉」(昭和2年=1927)全文。

    冬の言葉004

 冬が又来て天と地を清楚にする。
 冬が洗ひだすのは万物の木地。

 天はやつぱり高く遠く
 樹木は思いきつて潔らかだ。


 蟲は生殖を終へて平気で死に、
 霜がおりれば草が枯れる。


 この世の少しばかりの擬勢とおめかしとを
 冬はいきなり蹂躙する。


 冬は凩の喇叭を吹いて宣言する。
 人間手製の価値をすてよと。


 君等のいぢらしい誇をすてよ、
 君等が唯君等たる仕事に猛進せよと。005


 冬が又来て天と地を清楚にする。
 冬が求めるのは万物の木地。


 冬は鉄碪(かなしき)を打つて又叫ぶ、
 一生を棒にふつて人生に関与せよと。


11月も末となり、確かに冬に蹂躙される時期となってきました。冬の寒さに弱い当方としては、憂鬱な期間が続きます(笑)。


皆様もお風邪など召しませぬよう、ご自愛下さい。


【折々のことば・光太郎】

美は発見によつて豊かにされる。

散文「詩の朗読について」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

「美ならざるなし」、「美しきもの満つ」といった言葉を好んで揮毫した光太郎。ありふれた風景の中にも美は充満している、それに気付くか気付かないかは、あなた次第(笑)、そして気付ける者には豊かな人生が待ち受けているよ、ということでしょうか。

嬉しい悲鳴ですが、連日のように光太郎やその血縁者等の名が新聞雑誌等に出ています。今日は3件ご紹介します。

まず 、広島に本社を置く「中国新聞」さん。昨日の一面コラムです。 

天風録  冬が来た?

きのうの朝、起きるといつも居間にいる猫の姿がない。ヒーター付きのハウスで丸まっていた。窓の外を見ると小学生が厚い上着にマフラー、手袋をして登校している。各地で一番の冷え込みとなり、鳥取県の大山は初雪をかぶったという▲きつぱりと冬が来た―。高村光太郎が詠んだ詩のように、到来を実感した人も多いだろう。「人にいやがられる」「刃物のやうな」と、高村は冬をさんざんに表現しながらも「僕の餌食(えじき)だ」と立ち向かう覚悟をうたう▲見習って、寒さに負けないように気を引き締めなければと思ったら…おや、きょうはまた、小春日和でも訪れそうな予報である。まだ秋なのだろうか。そう言えば、ことしは秋を十分には楽しんでいない気がしている▲例年通りマツタケは手が出ないし、せめてサンマをと思っても先日まで高値だった。色づかずに枯れそうな木々の葉も目立つ。夜長を読書で過ごすには冷え込んできた。満喫しないうちに、秋は逃げたのかもしれない▲寒さが例年以上にこたえる人も多いはずだ。秋の台風や大雨に襲われた東日本の被災地である。冬将軍は到来したか。足踏みしてくれないか。詩人の言う刃物など持たない冬がいい。

冬の寒さに弱い当方としては、最後の一文、まったく同感、激しく同意します(笑)。

ちなみに我が家の猫も、コタツの中や日向のマッサージチェアなどに居ることが多くなりました(笑)。

004


続いて、一昨日の『朝日新聞』さん北海道版。

湯めぐり編 観音湯 仏に見守られ「極楽、極楽」

 お金には未(いま)だに縁がないが、学生の頃はもっとなかった。だから旅に出ると、野宿か、ちょっと贅沢(ぜいたく)してユースホステル。当時は寺経営のユースが結構あり、飛騨高山の寺ではドラム缶風呂に入った。でも仏像が見守るお風呂は、登別温泉の浄土宗観音山聖光(しょうこう)院にある「観音湯」がはじめて。

 寺の縁起は1895年。室蘭の満冏(まんけい)寺の住職が登別に開いた説教所に遡(さかのぼ)る。その後寺は解体するが、現住職である渋谷隆芳さんの父隆道が1950年に再建。62年から92年まではここもユースホステルを営んでいた。「食べていくための副業です」と隆芳さん。

 温泉は隆道が67年に発見。400メートル離れた源泉を家族や檀家(だんか)らと苦労して引いてきた。「ここの湯は殺菌力が強く、傷の治りが早いんです」。ほぼ中性だが硫黄臭のある温泉。2009年に素泊まりの「宿坊」を開業したが、日帰り入浴は浴室清掃の大変さから2年ほど前にやめた。

 宿泊の7~8割は外国人で、それも欧米の人。「日本人はいい所に泊まろうとするけど、欧米の人は宿代が安く味わいのある所を探します」と隆芳さん。“観音寺”とも呼ばれる寺の本堂には、彫刻家高村光雲の弟子筋にあたる3代目東雲が彫った34体の観音像と、寄進された円空の「聖(しょう)観音像」が安置されている。

 肌にやさしく、よく温まるお湯。その泉質は浴槽を覆う石灰華からも伝わってくる。観音様に見守られながら入るお風呂は、まさに「極楽、極楽」。

 (文と写真・塚田敏信)

002

三代高村東雲。光太郎の父・光雲の師匠・初代東雲の孫です。

光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)から。

今一人、私の弟子には違ひないが、家筋からいへば私の師匠筋の人――私の師匠東雲師の孫に当たる高村東吉郎君(晴雲と号す)があります。(「その後の弟子のこと」)

二代目東雲の栄吉氏の子息は、祖父東雲師の技倆をそのまま受け継いだやうに中々望みある人物であります。此は私の弟子にして、丹精致しまして、目下独立して高村晴雲と号して居ります。三代目東雲となるべき人であります。只、惜しいことには、健康すぐれず、今は湘南の地に転地保養をして居りますが、健康恢復すれば、必ず祖父の名を辱めぬ人となることゝ私は望を嘱して居ります。(「東雲師の家の跡のことなど」)

三代東雲、戦後の昭和26年(1951)まで北海道にいたそうで、聖光院さんに納められているのはその頃作った諸仏なのでしょう。帰京する帰途、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋に立ち寄り、自作の観音像を光太郎に贈っています。ちなみにその令孫は三代高村晴雲として、今もご活躍中です。

当方、久しく北海道には足を踏み入れていませんが、いずれそのうち、と思っております。


最後に、『週刊ポスト』さん。11/8・15号の書評欄から。

【平山周吉氏書評】伝説の俳人・河東碧梧桐に肉迫

【書評】『河東碧梧桐 表現の永続革命』/000石川九楊・著/文藝春秋/2500円+税
【評者】平山周吉(雑文家)
「五七五のリズムの生れるべき適当な雰囲気が、芭蕉の身辺に醸生してゐたのではないでせうか」「芭蕉の時代に近い、それと相似た雰囲気のもとに立たねば、再び五七五のリズムの物をいふ時は復帰しないのではないでせうか」
 本書に引用されている河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の『新興俳句への道』の一文である。碧梧桐は高浜虚子と並ぶ正岡子規門下の巨人だった。虚子が花鳥諷詠を愛で、「ホトトギス」を一大文芸企業に発展させたのに対し、碧梧桐は旅を続け、定型を破壊し、遂には俳壇を引退した。
 書家・石川九楊による評伝『河東碧梧桐』は、俳句と書のいずれでも近代の最高峰となった碧梧桐を描き出す。「近代史上、書という表現の秘密に肉迫した人物は、河東碧梧桐と高村光太郎の二人しかいない」という判断があるからだ。俳句は五七五と指折り数えてヒネるのではない。俳句の母胎である「書くこと」=書字へと降りて行くことによって新たな俳句へ至るという「俳句―書―俳句」なる回路の作句戦術に向かった」のが碧梧桐だ。
 明治末、碧梧桐は六朝書の新鮮な衝撃をバネに子規的世界から離脱できた。その当時は、「書は文芸と密接な関係にあり、切り離すことはできない」(『近代書史』)時代だった。いまでは視えなくなったその関係が多くの図版を援用しながら論証されていく。
 碧梧桐の俳句は活字ヅラで読むより、書として鑑賞する時に、その「自由で愉快な」魅力が伝わってくる。日本の近代化が「西欧化」であると同時に「中国化」でもあったことをも、碧梧桐を論じることで解明していく。
 著者は「かく」ことなくして文はない、という強力なワープロ・パソコン否定論者である。本書の中では芥川賞を二種に分け、手書きの「芥川賞」と別に「e芥川賞」をと提言している。その箇所を読んでいる時に思い出したのは長らく芥川賞銓衡委員を務めた瀧井孝作のごつごつとした選評の文章だった。瀧井こそが碧梧桐に激しく傾倒した大正文学青年だった。

平成27年(2015)、NHKさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で、講師を務められた書家・石川九楊氏の新著書評です。

石川氏、けっこうな光太郎ファンで、これまでのご著書でも、光太郎の書をだいぶほめて下さっていましたが、「近代史上、書という表現の秘密に肉迫した人物は、河東碧梧桐と高村光太郎の二人しかいない」は、ほめすぎではないかという気もします(笑)。


3日ほどこのような内容でしたが、とりあえずストックは吐き出しました(笑)。明日から他の内容で。


【折々のことば・光太郎】

父の遺作がどの位世上に存在するかは関東大震災があつた為にその調査が中々困難である。今度長岡市有志の方々が長岡市所在の父の遺作を一堂に集めて展観せられるといふ事を知つて喜びに堪へない。かねてから同市には父の第一品が多いと聞えてゐるので之は見のがし得ない催であると思ひ、感謝と期待とを以て其日をたのしみにゐる。

散文「高村光雲作木彫展観」全文 昭和12年(1937) 光太郎55歳

同年5月23日、一日限定で長岡市の常盤楼という料亭を会場に開催された「高村光雲作木彫展観」出品目録に掲載された文章です。この出品目録を入手したいと思って探してはいるのですが、なかなか難しいですね。

005

昨日からのつながりで、まず、新聞各紙に載ったコラム等から。

最初は、11月10日(日)、『産経新聞』さんに載ったイラストレーターのみうらじ001ゅん氏の連載コラム「収集癖と発表癖」。サブタイトルが「菊人形 恐怖乗り越え仲間入り」。

みうら氏といえば、その仏像愛でも有名で、今年、開眼100周年を迎えた光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による信州善光寺さんの仁王像等をめぐる「善光寺サミット」でも講師を務められました。

長いので全文は引用しませんが、幼児期から最近までの、菊人形を巡るみうら氏の体験等がユーモラスに語られています。

京都ご出身のみうら氏、幼稚園に通われていた頃、お母様たちに連れられて、初めて見た菊人形展で、リアルなその人形に恐怖を覚え、トラウマとなったそうです。なるほど、小さい子供にとっては恐ろしく見えるかもしれません。

しかし、長じて、「トラウマを再調査したくなって」、各地の菊人形展を積極的に見て歩いたそうです。


 角川映画『犬神家の一族』で菊人形が生首と変わるシーンを観(み)た時、原作者の横溝正史もたぶん幼い頃、僕と同じような体験をしたに違いないと思った。
 以来、トラウマを再調査したくなって、大阪の遊園地、ひらかたパークの『ひらかた大菊人形展』(現在は終了)や、福島県の『二本松の菊人形』の会場に足を運んだ。こんなカンジである(写真❷)。



 写真❸は、二本松の菊人形による『智恵子抄』の一幕。何とストーリー仕立てで、智恵子と夫である高村光太郎(当然、ご両人は体中に菊の花を差し、グラム・ロック・テイストで)舞台から迫(せ)り上がってくるという仕掛けだ。僕の驚きは恐怖からそのエンターテインメント性に移行し、釘付(くぎづ)けとなった。
 そして、“いつか僕も菊人形の仲間入りをしてみたい”とまで思ったのだが、NHK大河ドラマの出演経験もなく、まして高村光太郎のような偉人でもない僕にとってそんなチャンスは訪れるはずもない。

しかし、昨年、ご自身のイベント会場にご自身の菊人形を飾られたとのこと。素晴らしい「菊人形愛」です(笑)。

ちなみにみうら氏がご覧になった二本松の光太郎智恵子、平成6年(1994)のようです。二本松の菊人形、現在開催中ですが、最近は光太郎智恵子人形が出なくなってしまいましたので、このブログではご紹介していません。ぜひ復活させてほしいものです。

平成26年(2014)の光太郎智恵子。

005 006

翌平成27年。この年は智恵子のみでした。



続いて、11月12日(火)の『読売新聞』さん。「時代の証言者」という連載で、001サブタイトルが「令和の心 万葉の旅 中西進19 比較文学 広がる視野」。新元号「令和」の考案者であらせられる国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏へのインタビューです。

これも長いので全文は引用しませんで、光太郎に関わる箇所のみ。

 そもそも日本文学とか中国文学とか生物学、天文学というのは、人間が勝手につくったジャンルで、古代の人は、漢籍どころか、中東の影響も受けながら、日々、自然を見つめ、天を眺め、生命の歌を歌っている。それをしっかり受け止めるには、広く世界のことを見つめなければならないと思います。
・春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(をとめ)
 これは万葉集を編纂(へんさん)した大伴家持(やかもち)の代表歌ですが、この歌は、聖書の「アダムとイブ」や中国の唐代に盛行した樹下美人図にも通じるところがあります。
《樹下に立つ女性を描く樹下美人図は、古代アジアでは広く行われ、唐代に流行した》
 現代では高村光太郎の詩「樹下の二人」にもつながります。このように古典の息吹を現代に伝えるには、幅広い目配りが大切です。


なるほど。

中西氏、ご専攻は比較文学ですので、まさにこういったお考えなのでしょう。言わずもがなですが、「樹下の二人」(大正12年=1923)は「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な、智恵子の故郷・二本松を舞台とした詩です。


もう1件、同日の『毎日新聞』さん。

003

デジタル版の記事は、もう少し長い内容でした。そして結びが「「時代の先端は福島のほんとの価値に気づいています」と左今さんが言った。 福島の名峰、安達太良(あだたら)山(1700メートル)の上に広がる美しい空を「 ほんとの空」と表現した詩人・高村光太郎の妻智恵子の言葉を想起させた。

これも「なるほど」と思わせられました。


続いて、安達太良山系のテレビ放送もご紹介しておきます。

にっぽんトレッキング100「満喫!紅葉ワンダーランド~安達太良山&磐梯山~」

NHK BSプレミアム 2019年11月20日(水)  21時00分~22時00分

今回の舞台は福島を代表する安達太良山と磐梯山。紅葉の名山としても知られる2つの山で秋を満喫!水と火山が生んだ絶景が錦秋の山々に彩られる様はまさにワンダーランド!
古くは万葉集にも歌われた安達太良山。いまが紅葉の真っ盛り。美しい渓谷沿いを歩けば、滝と紅葉との見事なコラボレーションが!歩いてしかいけない温泉の山小屋に泊り、絶景の稜線を堪能する。一方、300もの湖沼群が作り出す絶景が魅力の裏磐梯。神秘的な沼と紅葉がこの時期ならではの景観を生み出している。さらに磐梯山に登れば、火山が生み出す絶景の数々に遭遇!秋真っ盛り、火山と水と錦秋のトレッキングを満喫!

出演 大杉亜依里 一双麻希  語り渡部紗弓 大嶋貴志

007 (2)

安達太良山。「令和」改元に伴って、『万葉集』という強力なライバルが出現してしまい(笑)、「『智恵子抄』に謳われた山」という枕詞が使われなくなってきましたが、「ほんとの空」的な紹介もしていただきたいものです。


それから、地上波テレビ朝日さんでは、安達太良山、智恵子の生家等でロケが行われた、伊東四朗さん、羽田美智子さん主演の「おかしな刑事~居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査 東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」の再放送があります。11/18(月)13:59~15:53です。

007

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

一般に仏像といへば、殆ど金ピカなるものであるが、清浄な白木の仏像の製作を亡父は思ひ立つたのである。

散文「父・光雲作の仏像」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

彩色を施さない白木の仏像。確かに寺院のご本尊などにはありませんね。古仏で彩色が剥げ、白木のように見えるものも、元々は極彩色だったわけで。

またまた溜まってしまっています(笑)。2日に分けてご紹介します。

まず、先月30日、『読売新聞』さんの北海道版。

伊藤整の青春時代 特別展 小樽 写真や詩など200点

 小説、詩、評論に幅広く活躍した小樽ゆかりの文学者・伊藤整の青春時代にスポットを当てた特別展が、市立小樽文学館(小樽市色内)で開かれている。
 没後50年を記念した展示「伊藤整と北海道」で、旧塩谷村(小樽市塩谷)で育ち、上京するまでの歩みを伝える写真や詩の草稿、創作ノートなど約200点が並ぶ。
 小樽高等商業学校(現・小樽商科大)時代の演劇大会の写真には、羊に扮(ふん)した先輩の小林多喜二と伊藤が舞台の隅に並んで写っている。
 初の詩集「雪明りの路」(1926年)は、後半部分の直筆原稿などが展示されている。小樽市の中学校教諭だった21歳の時に自費出版したこの作品は伊藤の飛躍の契機となり、小樽の名物行事に今も名を残す。
 会場には文学誌に載ったこの詩集の広告も展示され、詩人・彫刻家の高村光太郎は推薦文で伊藤の詩を「(ロシアの作家)チェホフの様な響」と評した。
 展示は11月24日まで。同9日には作品の解説講座とミニ文学散歩(ともに無料)も行う。問い合わせは同文学館(0134・32・2388)へ。


というわけで、小樽文学館さんで開催中の特別展「歿後50年 伊藤整と北海道展」の紹介です。

002

記事にある光太郎の評とは、昭和2年(1927)3月の雑誌『椎の木』に載ったもので、「「雪明りの路」の著者へ――伊藤整詩集――」の題で、『高村光太郎全集』別巻に掲載されています。おそらく、伊藤宛の礼状そのままを引用したと思われる文章です。

 あなたの著書「雪明りの路」をいただいてからもう二三度読み返しました。その度に或る名状し難い深いパテチツクな感情に満たされました。チエホフの感がありますね。この詩集そのものもどこかチエホフの響がありますね。

「パテチツク」は仏語で「pathétique」。「感傷的な」「哀れな」「悲愴な」といった意味です。


続いて、11月12日(火)、『信濃毎日新聞』さん。一面コラムです。

斜面(11月12日)

教科書で出合った高村光太郎の「道程」は不安定な思春期を勇気づけた詩だ。<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る…>。周りの反対を押し切って智恵子と結婚した年の発表である。わが道を行く強い決意と高揚感が感じられる

   ◆

きのうの信毎選賞贈呈式の若い受賞者に、この9行の詩が重なった。女子柔道の出口クリスタさんとピアニストの藤田真央さん。ともに3歳から始めた道を力強く歩んでいる。出口さんの転機は父の母国カナダの代表として東京五輪を目指す決断だった

   ◆

迷いが吹っ切れたのか自信を持って戦えるようになり、8月の世界選手権初優勝。来夏の「金」へ突き進む。藤田さんもやはり果てしない音楽の道に真摯(しんし)に向かう決意をした。ベートーベンの曲演奏で、自らを信じ歩み続ける強さを感じる作品で自分の気持ちと同じ―と紹介した

   ◆

原点は県ピアノコンクールという。2歳上の兄に負けた悔しさが6月のチャイコフスキー国際コンクール2位につながった。団体受賞の日本ジビエ振興協会も道を切り開く。イノシシやシカの肉を活用するシステム作りは農業の存亡にもかかわる問題だ

   ◆

現地に出向いて新鮮なうちに処理する車を開発するなど数々の工夫を重ねる。信州発の先進的な試みに全国が注目する。飯田OIDE長姫高校原動機部は電気自動車の製作に取り組んで10年目。全国大会の高校部門で8連覇した。飽くなき向上心と積み重ねが頼もしい技術者を育てている。


信毎選賞」というのは、同社の主催で、県内在住、または長野県に関わりが深く、文化、スポーツ活動などを通じて社会に貢献し、将来なお一層の活躍が期待できる個人、団体を顕彰するものだそうです。

女子柔道の出口クリスタ選手。当方、柔道有段者ですのでよく存じていますが、ご存じない方のために解説しますと、長野県の松商学園さんから山梨学院大さんに進み、現在は日本生命さん所属の選手です。以前は全日本の強化指定選手でしたが、お父さんがカナダ人ということで、カナダ代表の道を選びました。やはりオリンピックでは各階級一人しか代表に選ばれませんので、ある意味苦渋の決断だったと思われます。来年の東京五輪での活躍が期待されます。

藤田真央さんという方は、当方存じませんでしたが、今年のチャイコフスキー国際コンクールで第2位を受賞されたそうです。「真央」さんなのでてっきり女性だと思いこんでいましたが、男性でした。すみません。

さらに団体受賞の方々も。

みなさん、<僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る…>という「わが道を行く強い決意と高揚感」を持って、今後もご活躍いただきたいものです。


最後に同日の『岩手日報』さん。やはり一面コラムです。

風土計

 「(賢治は)将来、啄木ほど有名になる可能性がありますか」。そんな質問に、詩人の草野心平は困った。宮沢賢治の没後に発刊した全集を何とか売りたい、と在京岩手の人々に相談した時のことだ
▼「あります」と答えたものの内心、確信はない。「可能性があるなら、応援してもいいだろうけど…」と質問者。全く無名の作家の本を売る。その支援を、同じ岩手出身の人から得るのさえ楽ではなかったらしい
▼心平の命日のきょう、全集発刊の労を思う。賢治を世に出した功績者だが、当時は売れる見込みはない。出版社の命取りにもなりかねない。それでも諦めなかったのは、「いつか必ず読まれる」の一念だったろう
▼そういう話を新鮮に感じるのは、あまりに目先の利を追う時代だからかもしれない。企業や大学では基礎研究より「実利」が重んじられる。高校の国語教育も、3年後は教養より「実用」に重きを置くという
▼今は何の富も生まないが、いつか必ず役に立つ。そう考える余裕が社会から失われて久しい。目先の利を追う時代だったら、賢治が世に現れることもなかったのだが
▼「同時代には、近すぎて全貌が目に入らない。でも100年、200年後には拝まれる人だろう」。金田一京助はそう賢治を評した。100年の時を経て、本当の価値が光を放ち始めるものもある。

光太郎の名は出て来ませんが、当会の祖・草野心平が、光太郎ともども手がけた『宮澤賢治全集』に関してです。心平らの「目先の利」を追わない姿勢があったからこそ、今日、賢治が世界的に有名になりました。考え指させられる内容です。

あと4件ほどご紹介すべき記事等がありまして、明日、ご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

美というものはだんだん進んで行くのであつて、三段跳びのようにとぶものではない。その進み方は面白い。

講演筆録「美の源泉」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

自ら「美」を創出すると共に、先人達の残した「美」にも関心が高く、美術史についても一家言持っていた光太郎ならではの発言です。

のんきにあちこち見て回ったり、そのレポートを書いたりしている間に溜まってしまいました。5件、ご紹介します。

まず、先月の『聖教新聞』さん。現在、新宿の中村屋サロン002美術館さんで開催中で、光太郎作品も展示されている「生誕140年・中村屋サロン美術館開館5周年記念 荻原守衛展 彫刻家への道」について、同館学芸員で、連翹忌にもご参加下さった太田美喜子さんへの長いインタビューが載っています。太田さん、『新美術新聞』さんや、雑誌『美術の窓』さんにも寄稿されたり、NHKさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」にもご出演されたりと、最近、その麗しいお姿をあちこちのメディアさんでお見かけします。

記事全文は長いので全文の引用は致しませんが、光太郎に触れて下さった箇所のみ、以下に。

 荻原が帰国後、新宿につくったアトリエには、戸張孤雁(こがん)や柳敬助、高村光太郎ら、荻原が留学中に知り合った若い芸術家が訪(たず)ねてくるようになりました。当の荻原は毎日、愛蔵と妻・黒光(こっこう)の相馬夫妻が新宿に開業していた中村屋に通(かよ)っていたため、やがて芸術家たちも中村屋に集まるようになったのです。
 相馬夫妻が彼らを温かく迎えたことによって「中村屋サロン」が生まれましたが、荻原は、その中心的人物でした。友人から慕(した)われる彼の人柄がなければ「中村屋サロン」は出来なかったでしょう。


001

同展、12月8日(日)までの開催です。


続いて、『毎日新聞』さんの西日本版。11月3日(日)に掲載された記事。やはり光太郎作品も出ている熊本市現代美術館さんでの「きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」展に関してです。こちらも長いので、抜粋で。

日曜カルチャー 近、現代の「彫刻」一望 熊本市現代美術館開催 同館の所蔵品も存在感

 「きっかけは『彫刻』。」。そんなタイトルの二つの展覧会が、000熊本市現代美術館(同市中央区)で開かれている。前者は2019年度国立美術館巡回展(東京国立近代美術館所蔵品展)で、「近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」の副題が付く。後者はCAMK(熊本市現代美術館)コレクション展vol・6。こちらの副題は「現代日本の彫刻と立体造形」となっている。展覧会名はどちらも同じ、副題も酷似していて頭が混乱するが、要するに、東京国立近代美術館と熊本市現代美術館の所蔵品を連続して紹介し、近代から現代に至るまでの日本彫刻の展開をたどる試み。一続きの彫刻展として鑑賞できる。
 鎌倉時代の運慶の例を持ち出すまでもなく、日本には古くから世界に誇るべき彫刻の歴史があった。だが、「彫刻」なる言葉が生まれたのは明治に入ってから。34点で構成する東京国立近代美術館所蔵品展の会場を巡ると、ロダンが、荻原守衛や高村光太郎ら、日本近代彫刻の巨匠たちに多大な影響を与えていたことが分かる。 フランスで直接指導を受けた荻原のブロンズ像「文覚」(1908年)が好例だろう。図録には<恋に悩む作家自身を重ねた作>とあるが、男性の上半身像は力強く、ロダン作品に特徴的な生命感が凝縮されている。
 107歳の天寿を全うした平櫛田中(ひらくしでんちゅう)は江戸・明治時代には、見せ物とみなされていた生(いき)人形の技術を習得するところから、キャリアをスタートさせた。そのせいだろう、作品のたたずまいは人形的である。「鏡獅子試作頭(かがみじししさくかしら)」(38年)は代表作「鏡獅子」(57年)の試作品として作られた。モデルは歌舞伎の六代目尾上菊五郎。東京・国立劇場のロビーに飾られている完成品は木彫の全身像(高さ約2メートル)で、試作品はブロンズの頭部と違いがあるが、どちらも彩色を施す。本作(試作品)の場合、金箔(きんぱく)を貼り、その上に岩絵の具で着色している。西洋の写実に和の感覚を溶かし込むスタイル。鋭い眼光が名優とうたわれた六代目の精神を映し出す。
(以下略)

同展は11月24日(日)まで開催されています。


続いて、同じく『毎日新聞』さんで、集英社さんから刊行された津上英輔氏著 『危険な「美学」』の書評。11月6日(水)に掲載されました。

危険な「美学」 津上英輔著

「美」という言葉には完璧な「善」のイメージがある。しかし「美化」となると一転する。アニメ映画「風立ちぬ」に登場する「美しい」戦闘機、高村光太郎の戦争「賛美」、「魔の山」で結核を「美的」に描いたトーマス・マン――。美学者である著者は、「美」を感じようとする人の感性が負を正に反転させてしまう、という作用を具体的に例示し、「美」に潜む危険性を解き明かす。美しくも恐ろしい指摘だ。(集英社インターナショナル新書・882円)


同日の『日本経済新聞』さんのコラムにも光太郎の名が。

春秋 2019/11/6付

朝晩、冷え込むようになった。近畿地方では、はや木枯らし1号が吹いたという。札幌も本格的な雪の季節が間近い。東京近郊の公園ではドングリがパラパラと落ち、春、満開の花で人々を楽しませたコブシやサクラの木の葉が黄や赤に色を変え、音もなく散っている。
▼「きりきりともみ込むやうな冬が来た」。高村光太郎の詩「冬が来た」の一節だ。まもなく誰もが実感しよう。「人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た」。しかし、厳しい局面を待ち望み、むしろ挑もうという作者は続けている。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」と。
▼いてつきそうな境遇を乗り切ろうとの気概が満ちる。抗しがたい人口構成の変化や長引く低金利といった冷たい逆風にさらされ、さまざまな業界が苦境にあえぐ昨今。「冬の時代」という言葉には停滞や低迷の時期といった意味合いがあるのだが、高村の「冬」は逆境に学び、それをはね返す人間をたたえる季節のようだ。
▼いっときユニクロがCMで使った「冬の詩」には、こんな言葉もある。「冬は見上げた僕の友だ」「冬は未来を包み、未来をはぐくむ」。昨今の報道を見渡せば、国内外の諸関係の中にも冷え込みが長引きそうなものが、そこここにある。高村の心の強さにあやかり、冬支度を整えようか。「春遠からじ」の言葉も信じて。




冬の寒さが苦手な当方としては、「『日経』さん、気が早いです、まだ秋です」と言いたくなりますが(笑)。紹介されているユニクロさんのCM、松田龍平さんと黒木メイサさんのご出演でしたが、インパクトがありました。



 




さて、最後に、昨日の『福島民報』さん。

宮沢賢治の書簡、市に寄贈 郡山出身の詩人 故寺田弘さん遺族

 詩人で童話作家の宮沢賢治が亡く
005なる半月前に書いたとみられる書簡が七日、郡山市に寄贈された。市によると、賢治直筆の書簡は貴重だが、最晩年の物はさらに資料的価値が高いという。
 書簡は二〇一三(平成二十五)年三月に九十八歳で死去した郡山市出身の詩人の寺田弘さんが所蔵していた。寺田さんらが賢治に詩誌への寄稿を求め、要請に応じた際に送られた。手紙には、賢治が一九三三(昭和八)年九月二十一日に死去する直前の同月五日の日付が記されており、市によると、九日に届いたという。
 「ご指示の原稿を一応送りましたが、役に立ちますかどうか。もしお使いになるのなら、名前を迦莉または迦利として出してほしい」などといった内容が書かれていた。「迦莉」「迦利」はペンネームと考えられているが、使用例は知られておらず、なぜ使うよう要望したかは分かっていないという。
 寺田さんの妻ツルさん(96)=千葉県=が寄贈した。代理として長女の古宮敬子さん(71)と夫の滋さん(73)=大阪府=、寺田弘さんの弟の寺田秀夫さん(88)=郡山市=が郡山市こおりやま文学の森資料館を訪れ、品川萬里市長に書簡を手渡した。書簡の他、寺田弘さんの原稿や詩集、写真、彫刻家・詩人の高村光太郎の掛け軸などを寄せた。
 敬子さんは「皆さんに見ていただければ父が喜ぶと思い、家族で相談して決めた」と寄贈に至った経緯を語った。
 市は同資料館の企画展などで寄贈品を展示する。

故・寺田弘氏。やはり連翹忌ご常連でした。昭和20年(1945)4月13日、空襲で本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が燃えはじめた時、真っ先に駆けつけたのが寺田氏だったそうです。氏はその際の回想を、平成21年(2009)にTBSラジオさんでオンエアされた「爆笑問題の日曜サンデー」中の「27人の証言」というコーナーにご出演され、語られました(ちなみに当方も出演)。のち、平成24年(2012)に書籍化もされています。

現存数の少ない賢治書簡がクローズアップされていますが、光太郎の書が気になりますので、今後、展示情報に気をつけ、拝見に伺おうと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

あらかじめ道があつたわけではない。けれども、真の芸術家の必然向はねばならない道であつた。単純で平明な、しかし歩きにくい道であつた。「自然」に帰依する熱情。此が凡ての根本だが、しかし此は芸術家といふ名に値する芸術家たる以上、当然の事であつて、特に此所に数へる迄もない事である。――実は中々忘られ勝ちな事だけれども。

散文「ロダンに就いて二三の事」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

題名の通り、ロダンについての文章です。しかし、光太郎自身のこれからの「道程」を表しているようにも読めます。

岩手での展示等につき、紹介の記事が出ています。ありがたし。


まず、『朝日新聞』さん。花巻高村光太郎記念館さんの企画展「高村光太郎 書の世界」を紹介して下さいました。

高村光太郎の書 記念館で企画展

 晩年の約7年間、花巻市で山居生活を送っ001た、詩人で彫刻家の高村光太郎による「書」を集めた企画展が、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。

 1945年、宮沢賢治との縁で花巻に疎開した光太郎は、戦争に加担した悔恨から彫刻制作を封印する一方、大小さまざまの味わいのある書を残した。

 企画展「高村光太郎 書の世界」は、彫刻、文芸と並んで光太郎の「第3の芸術」ともいわれる書を通じ、花巻時代前後の足跡を浮かび上がらせる狙い。1951(昭和26)年、花巻の山口小学校長から校訓の考案を頼まれて書いた「正直親切」など十数点を展示し、書の理論について光太郎がつづった散文などもパネルで紹介している。

 11月25日まで。会期中は休館なし。(溝口太郎)



続いて、『盛岡経済新聞』さん。

盛岡・赤レンガ館で「ホームスパン」イベント再び 羊毛の魅力を見て触れて

 工芸展「赤レンガ伝統工芸館 vol.4 ホームスパン」が11月2日・3日、「岩手銀行赤レンガ館」(盛岡市中ノ橋通1)で開催される。(盛岡経済新聞)

 「岩手銀行赤レンガ館」を管理する「岩手銀行」が、県内に継承される伝統工芸品を広く知ってもらおうと企画した同展。観光施設として県内外から多くの人が訪れる同施設を活用し、岩手という地域や産業の価値をPRする拠点にするとともに、県内で伝統工芸に関わる人を応援する。

 展示は年4回の予定で6月にスタートし、1回目は「漆」、7月の2回目は「かご」、10月に行われた3回目は「南部鉄器」、最後となる4回目は「ホームスパン」をテーマに行われる。工芸展の企画の背景には2017(平成29)年に開催されたホームスパン工房・作家による合同展示会「Meets the Homespun」の成功もあるという。今回の展示は「Meets the Homespun」の2回目という位置付けでもある。

 同展のコーディネートを担当してきた「まちの編集室」の木村敦子さんは「これまで開催している中で、県外や海外からの来場者が多かったのも印象的。県内の人からも、1つのものについて複数の作家や工房が集まるので、見比べながら購入できるという感想が聞こえている」と話す。「伝統工芸についてよく知らないという声はあるが、興味を持つ人は県内外に確実にいるということが分かったのも収穫」とも。

 今回の展示では県内17のホームスパン工房・作家が参加。ベテランから若手まで幅広い作り手が一堂に集まる。このほか、県産羊毛「i-wool(アイウール)」を使った製品の展示販売や、毛糸やつむぎ道具など羊に関わるものが並ぶ「ひつじまわり展」、ワークショップ、高村光太郎の妻・智恵子が大切にしていたエセル・メレエ製のホームスパンの毛布の特別展示なども行われる。

 初日には「プラザおでって」で特別講演も開く。展示にも参加している「蟻川工房」の蟻川喜久子さんによるホームスパンと実用についての内容のほか、岩手県立大学盛岡短期大学部教授の菊池直子さんが特別展示のエセル・メレエのホームスパン、高村光太郎愛用のホームスパンについての調査結果を報告する。

 木村さんは「完成された製品だけではなく、毛糸や道具、小物などの販売もあるので、自分で作りたいという人の素材探しにもぴったりだと思う。ホームスパンの工房や作家が一度に集まる機会はなかなかない。見て、触れて、自分好みのアイテムや誰かに贈るプレゼントを見つけてほしい」と呼び掛ける。

 開催時間は10時~16時。入場無料。

000


こちらは今度の土日に開催される「IWATE TRADITIONAL CRAFTS year 2019 ~(ホームスパン)」の予告です。

当方も土日、盛岡、花巻、さらに智恵子の故郷である福島二本松にも立ち寄って参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】


芸術は各個の持つ魂を表現したもので比較されたりなどすべきものではないと思ひます。

談話筆記「聖徳太子奉賛展への出品について」より
大正15年(1926) 光太郎44歳


000「第一回聖徳太子奉賛美術展」は、この年5月から6月にかけ、上野の東京府美術館で開催された大規模な展覧会です。

文展などの官設の展覧会には出品しようとしなかった光太郎が、ブロンズ「老人の首」(大正14年=1925)、木彫「鯰」(大正15年=1926)を出品し、「高村が展覧会に作品を出した!」と驚かれました。

同展が無審査の展覧会だったためで、それならば出品もやぶさかでない、という考えでした。この後も昭和2年(1927)と翌年に開催された、やはり無審査の「大調和展」にも作品を出しています。


ちなみにこの時出品された「鯰」は、竹橋の国立近代美術館さんの所蔵。現在、熊本市現代美術館さんで開催中の「2019年度国立美術館巡回展 東京国立近代美術館所蔵品展 きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形」に出品されています。

3件ご紹介します。

まず、『福井新聞』さんの一面コラム。

【越山若水】

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。詩人の高村光太郎の代表作「道程」である。偉大な彫刻家の父・光雲から独立し、わが道を切り開く決意を高らかに宣言している▼ロダンの「考える人」に衝撃を受けた光太郎は、自然こそが美の根源という考えに傾倒。芸術家としての自立を誓う。ただ不安は消えず、自然を父親に見立て懇願する。「僕から目を離さないで守る事をせよ/常に父の気魄(きはく)を僕に充(み)たせよ/この遠い道程のために」▼敷かれたレールの上を歩くのでなく、前例のないことに挑戦するのは勇気がいる。彫刻「手」や詩集「智恵子抄」で名をなした光太郎でさえ、自身を鼓舞するほどの緊張心。学業にしろ、仕事にしろ、新たな一歩を踏み出すとき、ぜひ声に出して読みたい詩文である▼教育学者、齋藤孝さんの「日本人のすごい名言」(アスコム)を参考にしたが、では、安倍内閣の注目株・小泉進次郎環境相の思いはどうだろう。原子力防災担当相を兼務し、父親は「脱原発」を主張する純一郎元首相だ▼きのうは福島第1原発を初めて訪問。汚染土を搬入する中間貯蔵施設を視察した。ただ就任後には場違いな発言や答弁も見受けられた。関西電力の金品受領問題もあって、原発への注目度は高まっている。親の威光に頼ることなく、小泉氏が自らの「道程」をどう歩むのか、お手並み拝見したい。

話題作りのための入閣で終わるのか、原発問題に鋭くメスを入れてくれるのか、まさに「お手並み拝見」という気分です。


続いて、『福島民報』さん。

山肌覆う秋の装い 安達太良山・二本松

 日本百名山の安達太良山(標高一、七〇〇メートル)は上部で紅葉が進んだ。山肌の木々が赤や黄、茶色に染まり、鮮やかなコントラストを描いている。二本松市出身の洋画家・高村智恵子が愛した「ほんとの空」の下、秋のモザイクが映える。
 連日、大勢の登山者が訪れている。二本松市の奥岳登山口からロープウェイで八合目の薬師岳に登ることができる。降りてからは、一面に広がる錦絵のような景色を楽しみながら山頂を目指す。
000
同じ件で、福島テレビさん。

10月3日は「登山の日」 錦秋の安達太良山を楽しむ <福島県> 

秋の訪れとともに鮮やかな彩りをまとうのは標高1700mの安達太良山。
10月3日は語呂合わせで「登山の日」。
「ほんとうの空」の下、美しい紅葉が登山客を出迎えた。

10月3日、午前9時。
ロープウェイ乗り場にはすでに多くの登山客が訪れていた。
ロープウェイに乗り込み山頂を目指す。

眼下に広がる緑は標高が高くなるにつれ、徐々に秋の装いに。
息を弾ませ勾配のある山道を進めば…赤や黄色に染まる木々が一面に広がる。

美しい紅葉を眺めながらしばしの休憩。

登山客:「まだ関東とか紅葉の時期には早いのでいいですね」

美しい紅葉を満喫し、登頂の喜びをかみしめた登山客。
安達太良山の紅葉は10月下旬まで見ごろでさらに多くの人でにぎわいそうだ。
001
智恵子の愛した「ほんとの空」、ぜひ現地で御覧下さい。

当方、本日行われる智恵子を偲ぶ「レモン忌」出席のため、これから二本松に行って参ります。さらに今日の夜には花巻に移動し、明日は市民講座の講師です。天気が心配ですが……。究極の雨男・光太郎の魂を背負って歩いていますので、当方も行く先々で雨、雨、雨です(笑)。


【折々のことば・光太郎】

自然な人の頭に安定を感ぜしめるものは、理法に適つた所がある。そこを是等のものの美の根本としてかからなければ、凡てのことが枝葉に分れて終ふ。
散文「家具及住宅の美」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

建築に関する評論の一節です。いわゆる「用の美」を説き、適度な趣味のいい装飾の必要性も語られています。

訃報、というか、近々執り行われる「お別れの会」二件の情報です。

お二人とも、今年6月と7月に亡くなられていましたが、当方、報道等見落としておりまして、自宅兼事務所に「お別れの会」の開催通知を頂いて初めて亡くなったことに気づきました。

お一人目、水野清氏。『明星』時代からの光太郎の親友・水野葉舟の子息にして、建設大臣や総務庁長官などを務められた元衆議院議員です。

先月初めに共同通信さん配信で訃報が出ていました。

水野清元総務庁長官が死去 行革推進、橋本首相を補佐

 橋本内閣で行政改革担当の首相補佐官として中央無題省庁再編の実現などに尽力し、建設相や総務庁長官も務めた水野清(みずの・きよし)氏が7月28日午後11時、老衰のため東京都内の老人ホームで死去した。94歳。千葉県出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻陽子さん。

 1983年、中曽根内閣で建設相で初入閣。自民党総務会長などを経て、89年には総務庁長官に就任した。96年の衆院選に出馬せず、国会議員を引退後、橋本内閣で行政改革担当の首相補佐官になった。橋本龍太郎首相が会長を務める行政改革会議の事務局長として、中央省庁再編を柱とする最終報告のとりまとめに尽力した。


先週、「お別れの会」のご案内が届きました。


002

ご自身、ご幼少のみぎりから光太郎をご存じで、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、昭和8年(1933)、満7歳の水野氏に送った光太郎からの年賀状が掲載されています。

しんねんおめでたうごさいます おはがきありがと おばさんからもよろしく 高村光太郎 昭和八年一月三日

「おばさん」は存命だった智恵子ですね。

成人された水野氏、NHKさんに入社、昭和27年(1952)に、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元に足繁く通われました。NHKさんの仕事として亀井勝一郎と光太郎の対談に関わったり、父君・水野葉舟の歌碑建立に光太郎の力を貸して貰ったりするためでした。

光太郎歿後は、父君の暮らされていた成田三里塚に建てられた光太郎「春駒」詩碑の建立(昭和52年=1977)に奔走されたり、政界入りされてご多忙だったにもかかわらず連翹忌にもかなりの回数ご参加下さったりしました。


もうお一方、出版社・二玄社さんの元会長の渡邊隆男氏。亡くなられたのは6月だそうですが、昨日、やはり「お別れの会」の通知を頂きました。

001

調べてみましたところ『毎日新聞』さんには6月18日(火)に訃報が出ていました。

渡辺隆男さん 

渡辺隆男さん 90歳(わたなべ・たかお=出版社「二玄社」会長)16日、肺炎のため死去 。葬儀は近親者で営む。

二玄社さんからは、光太郎に関わる書籍がたくさん出版されています。書の作品集『高村光太郎書』(初版・昭和34年=1959、改訂新版・昭和41年=1966)、光太郎の手控え原稿をそのまま写真製版にした『高村光太郎全詩稿』上下二冊(昭和42年=1967)。

003

さらに智恵子の紙絵作品集『智恵子その愛と美』(平成9年=1997)、光太郎の彫刻、絵画、書などの写真集的な『高村光太郎 美に生きる』(平成10年=1998)、光太郎の書や書論を紹介する『高村光太郎 書の深淵』(平成11年=1999)、光太郎がその生涯を振り返って書いた連作詩「暗愚小伝」にスポットを当てた『詩稿「暗愚小伝」高村光太郎』(平成18年=2006)、女川を含む三陸一帯を旅した光太郎の足跡を追う『光太郎 智恵子 うつくしきもの "三陸廻り"から"みちのく便り"まで』(平成24年=2012)などなど。すべて当会顧問・北川太一先生の編刊です。

無題2

はっきり言うと、商業的にはあまりものにならない出版物ですが、いずれも光太郎智恵子を語るには必携の書。採算を度外視してこうした良書を世に送り続けた心意気に感服します。

そして渡邊氏、水野氏同様、お忙しい中、連翹忌にたくさんご参加下さっていました。ありがたいかぎりです。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

Mite iruto hitorideni hohoemare, Yononaka ga  ôkiku nari, Shimai ni a-haha to waratte shimau. 

詩「Fuyu no Kodomo」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

駒込林町の住居兼アトリエの前を通る千駄木小学校の児童をモチーフにした詩で、雑誌『RÔMAJI』に寄稿されたため、全文ローマ字表記です。漢字仮名交じりに書き下すと「見てゐるとひとりでにほほゑまれ、世の中が大きくなり、しまひにあははと笑つてしまふ。」となります。

昭和初め、水野清少年に会った際にもこのように感じたのでしょうか。

3件ほど。

まずは『日本経済新聞』さんで先週の記事です。長いので抜粋で。

〈詩人の肖像〉(7)中村稔 曇りなく歴史を見つめる

弁護士でもある中村稔が、学生時代に詩を発表003してから、すでに70年以上がたった。自然の表情に自らの心情を投影させる端正な叙情詩で、独自の世界を築いた詩人は、近代の詩人や作家の評論にも、多くの筆を割いてきた。92歳になった今も、執筆意欲に衰えはない。

この夏には、3冊の新刊を出した。評論『高村光太郎の戦後』、エッセー『回想の伊達得夫』、それに詩集『むすび・言葉について 30章』(いずれも青土社)である。
「弁護士の仕事の負担が減ってきたので、執筆に費やす時間がとれるようになりました」と言うが、気力がなければ、到底続けられる仕事ではない。今回の高村光太郎論は原稿用紙にして860枚。昨年刊行した大著『高村光太郎論』(青土社)に続く光太郎論で、前著にはなかった見方を打ち出している。
(略)
004

「高村光太郎は、萩原朔太郎とともに現代詩の父であり、母でもある詩人。どうしても改めて論じ直しておきたかった」。その思い入れは深い。中学時代に初めて光太郎の詩に触れ、1941年に龍星閣から出た詩集『智恵子抄』は、新刊で読み、感銘を受けた。戦後は、弁護士としても思わぬ形で光太郎に関わった。『智恵子抄』の著作権登録をめぐって争われたいわゆる『智恵子抄』裁判に、73年以来20年間携わった。編集著作権があると主張した龍星閣主人に対し、
光太郎自身が編集したとする高村家側の代理人弁護士として、勝訴の判決をもたらした。「亡き光太郎のため」を思って奮闘した20年だった。
2冊の評論では、光太郎の詩を丁寧に読み解きながら、その生涯を厳しく見つめている。たとえば、『智恵子抄』は精神を病み、肺結核で亡くなった智恵子への純粋な愛の詩集として長く読み継がれてきたが、前著で中村は、夫婦生活でも芸術第一に考え、智恵子へのいたわりが足りない光太郎の姿勢を問題にした。真の画家をめざした智恵子が精神を病んだのは、光太郎のそんな態度にも原因があったと見る。さらに戦時中に書いた光太郎の戦意高揚の詩編には、「高村光太郎の罪責は重い」と仮借無く批判している。
000

一方、新刊の『高村光太郎の戦後』で、変わった点もある。光太郎が戦後書いた詩集『典型』の詩の評価について、これまでの考えを改めたのである。愚かな自分の半生を振り返る「暗愚小伝」を含むこの詩集について、前著までは「弁解の詩ばかりではないか」と厳しい見方を示していたが、後者では、弁解は多いものの「心をうつ作品がいくつか確実に存在する」と変わった。「『典型』の読み方が浅かったんです。1年ほどで考えを変えるのは、恥ずかしいけれど、書かなくてはならないと思った」と話す。92歳にしてこれまで自分の考えが至らなかったことを率直に認めている。
(略)

同紙編集委員の宮川匡司氏のご執筆。調べてみましたところ、宮川氏、平成28年(2016)にも同紙で中村氏の近況レポート的な記事を書かれていました。そのアンサー報告的な感じです。

中村氏が昨年刊行された『高村光太郎論』、今年5月に出された『高村光太郎の戦後』について述べられています。


続いて昨日の『毎日新聞』さん。こちらも長いので抜粋で。

わくわく山歩き 徳本峠 いにしえの道たどる 柏澄子

 徳本峠と書いて、「とくごうとうげ」と読む。日本有数の山001岳観光地となった風光明媚(めいび)な上高地にある峠。上高地へ向かう自動車道は、上高地を流れる梓川沿いに走る国道158号。それがやがて、上高地公園線へと続いていく。1933年に開通した。現在は、通年マイカー規制をしているので、その区間は、特定のバスやタクシーなどに乗車しアプローチするが、この道が開通する以前は、徳本峠を越えて、上高地へ入っていた。
(略)
 明治に入ると、山に登る者たちも、徳本峠を越えるようになった。なかには、イギリスの宣教師であり幾つもの日本の山を登ったウォルター・ウェストンや、志賀重昂、高村光太郎・智恵子夫妻、芥川龍之介といった、上高地を愛した文豪たちもいた。そして、大正12
002
(1923)年、徳本峠小屋が登山者に向けた山小屋として営業を始めた。 上高地や槍・穂高連峰が、登山者でにぎわい始めたころである。
(略)
 明神岳のたもとにある
明神池と穂高神社奥宮、誰よりも上高地を知り尽くした猟師であり山案内人だった嘉門次の小屋。上高地の歴史と自然を知るビジターセンター、文豪たちが愛した上高地温泉やウェストンのレリーフなど、知的好奇心も満足させてくれる。

003


山岳ライターの柏澄子氏による上高地の紹介です。大正2年(1913)、光太郎智恵子がこの地で婚約を果たしました。

当方、残念ながら未踏の地です(そのくせ山岳雑誌『岳人』さんに
高村光太郎と智恵子の上高地」という記事を書かせていただきました(笑))。河童橋やらのバスで行けるエリアであればあまり苦もなく行けるのでしょうが、光太郎智恵子の歩いた徳本峠のクラシックルートとなると、不案内な身ではなかなか足が向きません。いずれは、と思っております。


最後に『宮崎日日新聞』さん。少し前ですが、先月23日の「ことば巡礼」というコラムです。ご執筆は
文芸評論家・細谷正充氏。

「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」 「道程」

 高村光太郎(1883〜1956年)には、有名な詩が二つある。一つは、「智恵子は東京に空が無いといふ」で始まる「あどけない話」。そしてもう一つが、標記の文章で始まる「道程」だ。
 この詩は「ああ、自然よ父よ」と続き、自然を父親になぞらえているように読める。周知の事実だが、光太郎の父は、上野公園の西郷隆盛像の制作者として知られる彫刻家の高村光雲だ。自身も彫刻家であった光太郎にとって、父が大きな存在であったことは、容易に察せられる。そのような思いが、この詩には込められている。
 というのは私の勝手な解釈だが、それほど外れてはいないと思う。高名な父を持った息子の人生には、それゆえに厳しいこと、つらいことがあったはずだ。だが、誰だって生きることは厳しくつらい。標記の文章が真理だからだ。
 この地球に生きるすべての人間が、明日、自分がどうなるかを知らずにいる。未来は常に不定形だ。最期の瞬間に、人生という道程を振り返り、歩いてきた道を確認した時、初めて自分の選択が正しかったか、間違っていたのか判明する。そのことをみんな分かっているから、この詩は多くの人の心を、引きつけるのだろう。


講演等で「道程」に触れる際にはいつも申し上げていますが、この詩は大正3年(1914)の作、つまり100年以上前の作品です。しかし、現代に生きる我々の心の琴線にしっかり響いてくるものです。未来永劫語り継がれてほしい作品です。


【折々のことば・光太郎】

行く末とほき若人(わかひと)の ここにもひとりうらぶれて 室(へや)に散り布(し)く鑿の屑 噛みては苦(にが)き世を嘆くかな

詩「なやみ(若き彫刻家のうたへる)」より
 明治35年(1902) 光太郎20歳

現在のところ確認できている最も早い詩作品です。文語定型の習作的なもので、いい出来とは言えませんが、彫刻制作を題材にしている点、「道程」にも謳われている父・光雲との彫刻観の相違から来る齟齬などが背景にあることなどが注目に値します。


雑誌系を2件。


まず、NHKサービスセンターさんで発行している『NHKウィークリーステラ』。NHKさんのテレビ・ラジオ番組ガイド的な雑誌です。

イメージ 1

明後日放映の「偉人たちの健康診断 東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」が、意外と大きく取り上げられています。

イメージ 2

高村光太郎と妻・智恵子の愛の記録 『智恵子抄』を現代医学の視点で読み解く

 太平洋戦争前夜の1941年8月、ある一冊の詩集がこの世に出た。彫刻家の高村光太郎が、妻・智恵子との日々をつづった『智恵子抄』だ。
 明治末期、まだ女性が画家になるなど考えられなかった時代に画家を目指した智恵子。世間の冷たい目にさらされる中、「芸術は自由であるべき」と主張する光太郎に出会い、2人は結ばれる。
 しかし生活は困窮、結婚の翌年、智恵子は肺結核を患う。病状が悪化するたびに福島県の実家へと赴いた智恵子は、東京よりも濃い安達太良山の青空を“ほんとの空”と呼んで愛した。現代医学の視点から見ると、自然に親しむことは副交感神経を活性化し、リラックス効果を得ることができるという。
 智恵子が40代半ばになったころ、商売をしていた実家が倒産。直後から智恵子には、幻覚の症状が表れ、それを絵に描き写すようになる。医師の診断は現代で言う「統合失調症」。入院した智恵子は、差し入れの千代紙などを使って切り絵に没頭していった。近年の研究によると、統合失調症の人は好きなことに熱中すると、症状が安定するという。
 智恵子は何に苦しみ、何を救いとして生きたのか? 美しくも悲しい2人の愛の記録『智恵子抄』を現代医学の目でひもとく。


NHK BSプレミアムさんで、初回放映は明後日、7月25日(木)です。再放送は来週8月1日(木)の朝。ぜひご覧下さい。


続いて、毎月ご紹介しています『月刊絵手紙』さん。「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載があり、今号は昭和14年(1939)の随筆、「書について」から。

イメージ 3  イメージ 4

平成29年(2017)の12月号でも、まったく同じ文章が使われましたが、今号が光太郎も絶賛した良寛の書を特集しているということで、あえて同じものを再録したとのことです。

この連載もさらに長く続いて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

僕の芸術のよい所とわるい所とをたしかにありありと、感知し得るものは世に二人しかない。君は其の貴い一人だ。君にこのあはれな集をおくる僕のまづしい喜びを信じて下さい。

雑纂「水野葉舟宛「道程」献辞」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

親友の作家・水野葉舟に贈った第一詩集『道程』の見返しにしたためた文言です。

イメージ 5

二人しかない」という「僕の芸術のよい所とわるい所とをたしかにありありと、感知し得るもの」の一人が葉舟。もう一人は、おそらく智恵子でしょう。

明治末に急逝した碌山荻原守衛が存命であれば、ここに加わったかも知れませんが。

まず『朝日新聞』さん。5月に亡くなった彫刻家・豊福知徳氏の追悼記事です。

(惜別)豊福知徳さん 彫刻家 楕円の穴に見いだした抽象世界 5月18日死去(老衰) 94歳

 楕円(だえん)形の穴がいくつも開いた独特な造形000――。シンプルだが一見しただけで豊福さんの作品とわかるほど強烈な個性があった。剣道や居合道を愛した好男子は、西洋の近代彫刻に東洋の精神性を融合させた深遠な表現をひたむきに探求し続けた。
 国学院大学在学中の1944年、飛行兵に志願。終戦後、故郷の和尚の紹介で、福岡・太宰府にいた木彫家の冨永朝堂(ちょうどう)に弟子入りし、木彫の腕を磨いた。
 59年に「漂流’58」で高村光太郎賞を受けたのが転機になった。翌年のベネチア・ビエンナーレに選ばれ、展覧会を見に行くつもりがそのまま滞在し、イタリアのミラノに居を構えて約45年にわたり創作を続けた。
 新たな抽象表現のアンフォルメル(不定形)運動などに刺激され、それまでの具象を卒業して自分の抽象世界を作りたいともがく日々。苦悩の末につかんだのが終生のテーマとなる、木板に穴をうがつ表現だった。
 回顧録には「板の表裏からくぼみをつけたら偶然穴が開いた」とあったが、滞欧時代を知る美術評論家で多摩美術大学長の建畠晢(たてはたあきら)さん(71)は「木塊に穴という空間をうがつ表現がむしろ作品の存在感を際立たせ、強靱(きょうじん)な造形に昇華させることに気づいたからだろう」と話す。
 無数の穴が織りなすリズムに魅了され、平面から立体まで素材を変えて創作を重ねた。作品に哀感や叙情性が感じられるのは「死を覚悟した戦争体験が創作の原点にあったからではないか」と、元福岡アジア美術館長の安永幸一さん(80)は語る。
 福岡市の博多港にある引き揚げ記念碑「那(な)の津(つ)往還」(96年)は、船上に人が立つ姿をイメージした集大成の大作だ。凜(りん)としたモニュメントは、特攻隊の一員として死の影を踏んだ自分と、命からがら引き揚げてきた人々が敗戦の辛苦を乗り越え、再び大海へこぎ出す希望の象徴に見える。(安斎耕一)

10年間限定で実施された高村光太郎賞、大きな意義があったことが再確認されます。


続いて『産経新聞』さん神奈川版。

【書と歩んで】(3)中国大使館文化部賞・梅山翠球さん 無心に生きる思い込め

「ここまで続けてきてよかった」。梅山翠球さん(71)は受001賞の喜びを、こう笑顔で語った。「にはち」と呼ばれる書道紙(約60センチ×240センチ)に書き上げたのは、近現代の日本を代表する詩人、高村光太郎(1883~1956年)の「冬の言葉」。厳しい冬の情景に人生の苦難や苦悩を重ね合わせ、それらを乗り越えていくことの意義深さをつづった。
 出身の新潟県五泉市は、冬の寒さが厳しい土地だったという。「冬の言葉」には、「冬は凩(こがらし)のラッパを吹いて宣言する 人間手製の価値をすてよと」との一節がある。
 日本海側の冬は、いつ晴れるとも知れぬ鉛色の雲が空を覆い、身を切るような風が吹きすさぶ。書き上げた「冬の言葉」には、そうした自分自身の冬のイメージも投影されているという。「人によって色々な解釈ができる詩だが、自分は『人生は厳しいけれども、自然のように無心に生きなければ』という思いを込めた」と振り返る。
                 × × × 
 筆とすずりで脳裏をよぎるのは、幼少のときの記憶だ。昔ながらの茶の間で、母が小筆を使って手紙などをしたためていた姿が、今でも印象に残っている。
 本格的に書道を始めたのは、長女が小学校に入学したころ。学校の保護者会で、書家の永島南翠氏(全日本新芸書道会常任理事、21世紀国際書会専管理事)と知り合ったことが、きっかけだった。永島氏が書く字の美しさに魅せられ、「ぜひ自分にも書道を教えてほしい」と頼み込み、長女と一緒に教室に通った。
 ときにはまだ小さい次女の育児や家事などに追われ、書道を続けるか悩んだこともあった。だが、永島氏のアドバイスもあり、子供が昼寝をしているときなどの僅かな時間を利用して、根気よく勉強を続けたという。「1枚でも2枚でもいいから、書くことができればと思って頑張りました。その経験があったからこそ、書道を長く続けることができたと思います」
                 × × × 
 30年以上続けてきた書道で、自身が「本当に衝撃的だった」という体験は、食器洗いなどに使われるスポンジで字を書いたときだったという。生き生きとした躍動感を出すため、線によってスポンジの角や面などを使い分け、墨の濃淡も工夫。バケツいっぱいの墨にスポンジを浸し、大きな紙にしたためたのは「動」の一字だった。筆とはまたひと味違った、迫力のある仕上がりとなった。
 「自分が表現したいと思えば、どんなことでも表現できると分かり、書いているときが楽しかった。表現の転換点にもなったと思う」と、目を輝かせながら当時の感動を語った。
 現在は小中学生を中心と002して、十数人の生徒に書道を教えている。良い字を書く上で欠かせない要素は、書き手がもっている「個性」。「きれいでなくてもいいから、人に何かを伝えることができるような字を書きなさい」と、生徒たちにも指導している。「書いているときに自分自身が楽しいと感じられることが、一番大切なことだと思います」。ほほ笑みながら、書の魅力を語った。  (太田泰)
                   ◇
【プロフィル】うめやま・すいきゅう
 昭和22年8月、新潟県五泉市生まれ。全日本新芸書道会教務理事、21世紀国際書会審査会員。趣味は染紙作りなど。

受賞云々は、同社主催の公募展「第34回21世紀国際書展」。光太郎詩「冬の言葉」(昭和3年=1928)から詩句を選んで、中国大使館文化部賞を獲得されたそうです。

期日は7月10~14日、横浜市民ギャラリー(横浜市西区宮崎町26の1)で開催。入場無料で午前10時から午後6時(最終日は4時)までとのこと。

昨年ですと、第38回日本教育書道藝術院同人書作展第40回東京書作展などで、やはり光太郎の詩句を書かれて上位入選された方々がいらっしゃいます(調べればもっとあるのでしょうが、ネットでの検索に引っかかるのは一部だと思われます)。書家の方々、今後も光太郎作品を取り上げていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

一、山は重に低山を所々歩きましたが、大正二年夏期二箇月間上高地に滞在して山嶽写生に暮した日夜の詳細な記憶がいまだに昨日の如くあざやかです。其処ではじめて妻の智恵子と婚約をしました。
二、自然と人間との交錯に小生は最大の喜を感じます。自然のみの自然は無慈悲で物凄い絶対力です。

アンケート「印象の山々」全文 昭和10年(1935) 光太郎53歳

設問一は「山の名」、二は「その印象」。このアンケートで初めて智恵子との婚約が上高地だったことが公にされました。その智恵子はこの年2月から、終焉の地となった南品川ゼームス坂病院に入院しています。

このブログでご紹介すべき事項が多く、東北発の地方紙掲載ニュースをまとめて2件、ご紹介します。ネタに困っている時期ですと分割するのですが(笑)。

まずは光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ十和田湖から。

二紙での報道が確認できておりまして、最初に『東奥日報』さん。

手作りパンフで十和田市紹介/三本木小児童/十和田湖畔で配布、歌や踊り披露も

 青森県十和田市の三本木小学校(坂本稔校長)の4年生97人が21日、同市奥瀬十和田湖畔休屋で地元のPR活動を行った。児童たちは、市の観光名所や特産物などを紹介するオリジナルパンフレットの配布、地域の踊りなどの披露で古里の良さをアピールした。
 児童は3班に分かれ、乙女の像や商店周辺、遊覧船発着場所の桟橋前広場でパンフレットを配布。受け取った県外客は「うれしい」「感動しちゃった」と笑顔で、手作りパンフレットをじっくりと眺めていた。
 桟橋前広場では、郷土を題材にした同校オリジナルソング「たからもの」を全員で合唱した。観光客たちは、カメラで撮影したり、手拍子をしたりして児童の元気な歌を満喫。流し踊り「三本木小唄」の披露では、見物客を誘い込んで一緒に踊りを楽しんだ。児童代表の大西花奈さん(10)が「また十和田に来て、良いところやおいしい食べ物を楽しんでください」とあいさつすると、盛んに拍手が送られた。
 PR活動について、丸井沙弥子さん(9)は「パンフレットを渡して十和田の魅力を紹介できた」、起田武君(9)は「恥ずかしがらずに伝えられた」と胸を張った。合唱や踊りについては、瀬川湧生(ゆうせい)君(9)が「踊りの輪に入れるよう誘い一緒に踊ってくれてうれしかった」といい、高渕鈴華(すずは)さん(9)は「(合唱では)盛り上がってくれてみんなも笑顔になれた」と満足そうに話した。

イメージ 1   イメージ 2


同じ件で、『デーリー東北』さん。

観光客に十和田湖の名所や名産品PR/十和田・三本木小

 十和田市立三本木小(坂本稔校長)の4年生97人が21日、十和田湖畔で観光客らにふるさとの魅力を伝える活動を展開した。児童たちは三本木小唄を一緒に踊ったり、観光パンフレットを配ったりして、地元が誇る観光地の魅力をPRした。
 同校は「ふるさと力日本一」を教育目標に掲げ、郷土学習に力を入れている。2016年には、児童が考えた地域の宝物が登場する歌「たからもの」を制作し、翌年から4年生が湖畔で披露するなど、地元のPR活動を展開している。
 この日は、乙女の像と商店前、桟橋前に分かれ、道行く人に観光パンフレットを配布し、観光名所や名産品などを紹介。その後、十和田湖遊覧船の帰着に合わせ、外国人観光客らと一緒に三本木小唄を輪になって踊ったほか、高らかに歌を披露し、もてなした。
 江渡美莉亜さん(9)は「静岡県から来た人に十和田の自然の美しさを伝えた。踊りや歌は少し恥ずかしかったけど、喜んでもらえてうれしい」と声を弾ませた。
010

微笑ましいニュースです。


続いては、仙台発で『河北新報』さん。

古里・女川の支援続ける洋画家佐藤幸子さん 来月3日から仙台で個展 ◎キャンバスに広がる希望 三陸の海、日の出力強く

 河北美術展顧問で日展会友の洋画家佐藤幸子さん(78)=仙台市青葉区=の油絵展「希望と共に」が7月3日、青葉区の仙台三越本館7階アートギャラリーで始まる。宮城県女川町で育ち、東日本大震災の津波で実家を失った佐藤さんが、被災地に希望を届けたいと4年ぶりの個展に願いを込める。9日まで。
 佐藤さんは現在、自宅アトリエでキャンバスに向かい、花をモチーフに最後の作品作りに絵筆を握る。これまで描いた三陸の海の風景も合わせ約35点を展示する予定で、うち「照耀(しょうよう)松島」は100号の大作。松島湾の日の出を力強く描き、2018年の日展で22回目の入選を果たした。
 「明るく希望あふれる作品を目指した。震災から8年が過ぎたが、立ち直れずにいる人にも見てもらえたらうれしい」と語る。
 他に中学生の時に女川の入り江を描いた水彩画「海」を展示し、21歳で山道に咲くヤマブキを情熱的な色使いで描いた油絵「萌(も)える」もパネルで紹介。思い出の作品で60年を越える画業を振り返る。
 佐藤さんは女川の子どもたちに毎年クリスマスカードを送るなど、古里の支援を続けている。震災後は絵
の収益を図書購入費として贈ったり、3校を再編した女川小を慰問して児童と交流したりした。「大変な思いをした子どもたちに逆に励まされた。再び絵が描けるのか悩んだ時期もあったが、創作の意欲をもらっている」と感謝する。
 個展の収益の一部は、女川の中学生が始めた津波の教訓を後世に伝える「いのちの石碑プロジェクト」に寄付される。

イメージ 4  イメージ 5

昭和6年(1931)に紀行文執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑を建立、さらに毎年女川光太郎祭を開催して下さっている女川町がらみです。

佐藤さんは女川ご出身ということで、記事の最後にあるとおり、収益の一部は「いのちの石碑」プロジェクトに寄付されるとのこと。光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動ですので、ありがたいかぎりです。

殺伐としたニュースが多い中、このようなニュースで日本中が埋め尽くされれば、と思います。


【折々のことば・光太郎】

御質問の第二十一世紀を迎へる迄に世界平和の日が来り得ると思ふかどうか、といふ事については、遺憾ながら、来ないであらふと思ふ方に私は傾いてゐます。世界平和の日を懇望するにつけても、人類進化の遅々たるを痛感します。人種同志の偏見に勝ち得る人類総体のもう一段の進化にはどの位の年月を要するでせう。一寸想像もつきません。

アンケート「世界平和の日」全文 大正15年(1926) 光太郎44歳

残念ながら、光太郎の予想は当たってしまいました。22世紀を迎えるまでに、世界平和の日は来るのでしょうか。大阪で開催されていたG20が閉幕しましたが、その報道に接するにつけ、それも望み薄だろうと思われます。

雑誌系、いろいろと届いております。

まず、当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌――というよりは、同社と関連の深い皆さんによる文芸同人誌的な『トンボ』の第八号。拙文「連翹忌通信(五) 「光太郎遺珠」その四」が掲載されています。

イメージ 1    イメージ 2

当会刊行の冊子『光太郎資料』、購読していただいている方には、次号(10月発行)と併せてお送りいたします。その他、入用な方は文治堂書店さんまで。


続いて、日本絵手紙協会さん発行の、『月刊絵手紙』。

イメージ 3    イメージ 4

「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされています。今号は詩「最低にして最高の道」。昭和15年(1940)の雑誌『家の光』に掲載されました。意外とファンの多い詩です。
006


    最低にして最高の道
 
 もう止さう。
 ちひさな利慾とちひさな不平と、
 ちひさなぐちとちひさな怒りと、
 さういふうるさいけちなものは、
 ああ、きれいにもう止さう。
 わたくし事のいざこざに
 見にくい皺を縦によせて
 この世を地獄に住むのは止さう。
 こそこそと裏から裏へ
 うす汚い企みをやるのは止さう。
 この世の抜駆けはもう止さう。
 さういふ事はともかく忘れて
 みんなと一緒に大きく生きよう。
 見えもかけ値もない裸のこころで
 らくらくと、のびのびと、
 あの空を仰いでわれらは生きよう。
 泣くも笑ふもみんなと一緒に
 最低にして最高の道をゆかう。
 

最愛の妻、智恵子を喪くして約2年。かつて実践していた、俗世間とは極力交わらず、己の芸術精進に明け暮れる生活が智恵子の心の病を引き起こし、さらにそれを続けていては自分もおかしくなってしまうという危機感から、一転して社会と関わりを持とうと「改心」したことが宣言されています。しかし、その社会は泥沼の戦時体制に入っており、日中戦争は膠着状態、局面打破をはかって翌年には太平洋戦争に突入する、その前夜です。

したがって、「みんなと一緒に」、挙国一致体制を支持し、聖戦完遂、神国日本に勝利をもたらそう、手を貸してくれと、そういうきな臭い背景のあるいわば翼賛詩でして、当方、あまり好きになれません。そういった裏の作詩事情を抜きにして読めば、それなりに悪い詩ではないのですが……。


明日も雑誌系で。


【折々のことば・光太郎】

作文の用意は「無駄の無い」と言ふ事から始まると思ひます。心に思ひ感ずる事は必ず表現が出来るものです、たとひ、言語文字が足らなくとも。

アンケート「現代名家文章大観」より 大正5年(1916) 光太郎34歳

「無駄の無い」というと、普通は「無駄なものを削ぎ落として」という意味になることが多いのですが、光太郎、逆ですね。「心に思ひ感ずる事」をすべて「表現」しなさい、と。なるほど、そういう考え方も成り立ちますか。

インターネットを使うと、全国の各市区町村などの広報誌が閲覧できます。このブログでも、光太郎智恵子ゆかりの市区町村のそれからネタにさせていただくことがしばしばです。

概ねこの手の広報誌は月刊、各月1日発行というところが多く、月初めには光太郎智恵子ゆかりの市区町村のサイトをチェックしています。ある意味、自分の住む市の広報誌より細かく目を通しているかも知れません(笑)。

今月は豊作でした(笑)。

北から順に、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市の『広報はなまき』。

イメージ 3

表紙が、先月15日に行われた第62回高村祭の様子。なかなかインパクトがありますね。

続いて、毎年8月9日に、女川光太郎祭を開催して下さっている宮城県女川町の『広報おながわ』。平成から令和となり、平成のアーカイヴ的な「あの日あの時 女川町史」というコーナーがあります。今月号は「平成3年 高村光太郎文学碑完成」。

イメージ 2

東日本大震災の大津波で倒壊した光太郎の文学碑――女川光太郎祭開催のきっかけとなった――が紹介されています。震災後に設置が始まり、現在もその活動が続く「いのちの石碑」に連なる、百円募金活動で建立された件にもふれられています。


さらに、智恵子の故郷・福島県二本松市の『広報にほんまつ』。直接、光太郎智恵子に関わるイベントではありませんが、「智恵子が愛したほんとの空の下で、バーベキューランチを楽しみながら、さわやか交流会を開催します♪」だそうで(笑)。参加しよう! と思ったら当方のごときは対象外でした(笑)。

イメージ 1

ところで、全国のそれを全て調べたわけではありませんが、この手の広報誌、タイトルのほとんどが「広報」プラス「ひらがなで市町村名」となっています。何かそういう法令でもあるのでしょうか? ご存じの方、ご教示いただければ幸いです。


【折々のことば・光太郎】

亡妻智恵子の実家が街道つづきの漆原という部落にあつたが、私も祖母から其時の戦争話をきいた事がある。今は何もなく、丘を埋める桜の花が満開で、うしろの空の阿多多羅山に雪が残つている。「阿多多羅山の山の上に、毎日出てゐる青い空」が今日も見えるようだ。

散文「二本松霞ヶ城」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

この年発行の『週刊読売』に掲載された文章の一節です。2ページ見開きのグラビア「古城にうたう」と題したコーナーで、二本松霞ヶ城址の写真も掲載されていました。それを見ての感想的な。

「戦争」は戊辰戦争です。

現在、定期購読している雑誌は、隔月刊誌が1誌、月刊誌は2誌です。隔月の方は『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん。偶数月発行ですので今月はお休みでした。月刊の方は、『月刊絵手紙』さんと『日本古書通信』さんです。

『月刊絵手紙』さんは、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載がなされていますので、その連載がお休みの月を除いて毎号光太郎の名が。

今月は初夏の高村山荘(光太郎が戦後の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋)の写真に添えて、詩「クロツグミ」。

イメージ 1    イメージ 2

クロツグミは夏に日本にやってくる渡り鳥。その声を光太郎は「こつちおいで、こつちおいでこつちおいで。/こひしいよう、こひしいよう、」と表しました。何だか、光太郎自身の心の声のようでもあります。


『日本古書通信』さんは、古書全般に関する情報誌的な雑誌で、ある意味、古書店さんたちの業界誌のような側面もあります。以前は当会顧問・北川太一先生や、光太郎令甥・故髙村規氏の連載などもあり、光太郎の名が頻出していました。今月号はたまたまでしょうが、複数回その名が出ていました。

イメージ 3    イメージ 4

まず秀明大学学長にして、筋金入りの初版本コレクター・川島幸希氏を囲む座談会的な連載「初版本蒐集の思い出」。詩集『道程』特製版署名入り(大正3年=1914)についてのご発言があります。

イメージ 5

イメージ 7

続いて「美術雑誌総目次大正編」という連載。明治末から大正にかけ、青年画家達の活動を裏方から支えて洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支援したペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれてた北山清太郎が刊行した雑誌『現代の洋画』、『現代の美術』について述べられています。光太郎もしばしば寄稿した雑誌で、やはり光太郎の名を出して下さいました。

イメージ 8


さらに「受贈書目」の項。当会顧問北川太一先生の最新刊『光太郎ルーツそして吉本隆明ほか』と、当会刊行の冊子『光太郎資料51』を並べてご紹介下さいました。ありがたいかぎりです。

イメージ 6

各種メディア等で「高村光太郎」の名を見かけなくなる、という事態にならないよう、今後も努力していきたいと存じます。


【折々のことば・光太郎】

芸術上の新機運は無限に発展してとどまることころもなく進むであらうし、造型上の革命も幾度か起るべきであるが、しかしその根元をなす人間の問題は千古不磨である。誠実ならざるもの、第二思念あるもの、手先だけによるもの、気概だけに終始するもの、一切のかういふものは、いつか存在の権利を失ふであらう。

散文「荻原守衛 ――アトリエにて5――」より
 昭和29年(1954) 光太郎72歳

彫刻家としては、唯一無二の親友だった碌山荻原守衛を回想した文章、末尾近くの一節です。守衛の遺した芸術は、このようなものではないというわけで。

守衛といえば、新宿中村屋さん。明治末、同郷の先輩・相馬愛蔵が興し、守衛ら若い芸術家たちの援助を惜しまなかった店です。守衛もパン作りを手伝ったりもしましたし、光太郎も守衛を訪ねて来店しています。

現在、NHKさんで放映中の「連続テレビ小説 なつぞら」。広瀬すずさん演じるヒロイン・奥原なつがアニメーターめざして奮闘する物語です。北海道編が終わり東京編になって、中村屋さんをモデルにしている「川村屋」が舞台の一つとなっています。戦後の話なので、守衛や光太郎は登場しませんが、守衛が思いを寄せ、その絶作「女」(明治43年=1910)のモチーフとなった相馬黒光をモデルとした「前島光子」を、比嘉愛未さんが演じています。

『朝日新聞』さんの記事等から。

まず、今月9日の一面コラム「天声人語」。当会の祖・草野心平を取り上げて下さいました。

天声人語 危機の100万種

草野心平は「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれた。その小さな生き物になりきるようにして、いくつもの詩をつくった。たとえば「秋の夜の会話」。〈痩せたね/君もずゐぶん痩せたね/どこがこんなに切ないんだらうね……〉▼切ないのは空腹のためだろうか。2匹の会話は続く。〈腹だらうかね/腹とつたら死ぬだらうね/死にたくはないね/さむいね/ああ虫がないてるね〉。やせこけた蛙たちの姿が浮かんでくる▼冬眠の前を描いた詩ではあるが、いまや別の読み方もできるかもしれない。国際的な科学者組織が先日、地球上に800万種いるとされる動植物のうち、100万種が絶滅の危機にあるとの報告書を公表した。なかでも両生類は40%以上が危機に直面している▼主犯は人間である。報告書によると湿地の85%はすでに消滅させられ、陸地も海も大きく影響を受けた。海洋哺乳類の33%以上、昆虫の10%も絶滅の可能性があるという▼農業や工業を通じ、地球をつくり変えながら生きてきたのが人間だが、その地球に頼るのもまた人間である。ハチがいるから農作物が育ち、森林があるから洪水が抑えられる。当たり前のことが改めて浮き彫りになっている。報告書は「今ならまだ間に合う」と各国政府に対策を求める▼草野心平にとっての蛙は、生きとし生けるものの象徴にも見える。〈みんなぼくたち。いっしょだもん。ぼくたち。まるまるそだってゆく〉。おたまじゃくしの詩である。全ての命のことだと読み替えてみたい。

「秋の夜の会話」、さらに言うなら、核戦争後の人類が滅亡した地球を描いているようにも読めます。この詩は昭和3年(1928)の詩集『第百階級』に収められたもので、いまだ核兵器は開発される前のことですが……。

心平といえば、現在、心平の故郷・福島いわき市の市立草野心平記念文学館さんで、企画展「草野心平 蛙の詩」が開催中です。ぜひ足をお運びください。


ついでというとなんですが、同じ『朝日新聞』さんから、光太郎にも言及されている中川越氏著『すごい言い訳!  二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石』の書評。5月11日(土)の掲載でした。

文豪たちの機知に味わい 中川越さん「すごい言い訳!」

 言い訳には「姑息(こそく)」「卑怯(ひきょう)」というイメージがある。だが、この本で取り上げられた文豪たちの言い訳は機知に富んでいて、一味違う。
 例えば中原中也。酒に酔って友人に迷惑をかけた際、詫(わ)び状の文末に署名代わりに「一人でカーニバルをやってた男」と記した。中川さんは「カーニバルの中にいる人は、無礼講に決まっています。その人にとやかく言うのは無粋です。こんなふうにトリッキーに書かれてしまっては、もう許すしかありません」と解説している。
 ほかにも「禁じられた恋人にメルヘンチックに連絡した北原白秋」「二心を隠して夫に潔白を証明しようとした恋のモンスター林芙美子」「不十分な原稿と認めながらも一ミリも悪びれない徳冨蘆花」など、思わず読みたくなる項目が並ぶ。森鴎外、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫、太宰治らも次々と登場する。
 文豪たちの言い訳の魅力は何か。
 「辛気くさいものではなく、おしゃれに整えられていて、ユーモアのおまけまで付いている。一方で、いたわりの気持ちが深い味わいになっている」と話す。
 最高峰は夏目漱石だとみている。「返済計画と完済期限を勝手に決めた偉そうな債務者」を読むと、いかにも漱石という感じでニヤリとさせられる。「文章の神髄は『そこに詩があるか』だと思うが、漱石がまさにそう。ある言葉が大きな意味合いを放って、心に触れてくる。漱石のすごみです」
 10年前から漱石の手紙2500通を分析し始め、4年前から漱石以外の文豪たちの書簡や資料にも手を広げた。「砂金探しみたいで楽しかった」と振り返る。
 土壇場に追い詰められたとき、気の利いた言い訳をしてみたい人にとって、最適の指南書だ。(文・西秀治、写真・篠塚ようこ)=朝日新聞2019年5月11日掲載

イメージ 1 イメージ 2

評には名前が出ていませんが、光太郎も「序文を頼まれその必要性を否定した 高村光太郎」という項で取り上げられています。

こちら、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

本号にその文章が掲載されるといふ草野天平さんは若いのに昨年叡山で病死された優秀な詩人である。草野心平さんの実弟だが、詩風も行蔵もまるで違つてゐて、その美は世阿弥あたりの理念から出てゐるやうで、極度の圧搾が目立つ。きちんと坐つたまま一日でもじつとしてゐるやうな人で、此人のものをよむとシテ柱の前に立つたシテの風姿が連想される。

散文「余録」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

心平ならぬ実弟の天平を評した文章の一節です。兄の心平は1分たりとも「じつとしてゐ」られない人でしたので(笑)、たしかに「まるで違つてゐ」たのでしょう。

ちなみに天平、過日亡くなった彫刻家の豊福知徳氏と共に、昭和34年(1959)、第2回高村光太郎賞を受賞しています。故人への授賞だったわけです。

↑このページのトップヘ