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1ヶ月程経ってしまいましたが『週刊新潮』さん、4月8日号。漫談の綾小路きみまろさんによる「実況中継 コロナ禍の中高年にエール 公演中止「綾小路きみまろ」が誌上漫談」という記事が載りました。
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インタビューを元に、ライターの方がまとめた記事なのでしょうが、コロナ禍の最中でも明るく生きようという提言が基本です。「自粛疲れに負けるな!」というわけで。

例えば「いまは飛沫感染とかで、中高年が声を出して思い切り笑うことすら憚られる状況でしょう。本当はステイホーム中でも笑えばいいんですよ。それこそ、自分の顔を鏡に映して「いやねぇ、こんなにシワが増えちゃって。ウフフ」ってね。それくらい気持ちを軽くしてもらいたいなぁ」。なるほど。

それから「公演が中止や延期に追い込まれた去年の3月以降は、ちょうど畑を耕す時期と重なった。山梨県の富士河口湖町に自宅があるので、そこにこもってカボチャやナス、ニンジン、大根、ニガウリにハーブまで育てるようになりました。(略)種を蒔いて、収穫する頃まで公演が止まっていたので、200坪近い畑を回って愛情込めて育てましたよ。濃厚接触じゃなく“農耕接触”ですね。ある意味で、コロナがそういう時間をもたらしてくれたとも感じます。あなたは十分に駆け足で生きてきたじゃない、ここらでひと休みしなさいよ、と。そう自分のなかで切り替えることができたのがよかった。「ローマの休日」ならぬ“老婆の休日”といったところです」。笑いました。しかし、きみまろさんの農耕生活、ある意味、戦後の光太郎の花巻郊外旧太田村での生活も彷彿とさせられますね。

その中で、光太郎もネタに使って下さいました。
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長い下積み時代を経て、50歳を過ぎてからブレイクしたきみまろさんの言葉だけに、実感がこもっています。

たとえ中高年でも、年齢を言い訳にしないで頑張れば……」。当方、きみまろさんと違ってブレイクはしていませんが(笑)、平成24年(2012)の3月、不惑を過ぎてから思い切って前職を辞し、この光太郎顕彰をメインにすることとしました。幸い家族の理解は得られたものの、周囲からは「何を考えているんだ?」という声も少なくありませんでした。しかし、自分の中ではそうすべきだという潮時でして……。

そして約1ヶ月後の5月3日、このブログを始めました。昨日で満9年、1日も休まずに書き続け、今日、10年目に突入。それまで日記などというものは、小中生の頃の宿題で仕方なく書いたことがあった程度でしたが、日記にこだわらず、好きな方面のことを書くのなら出来てしまうのだな、と思っております。誰もほめてくれませんので、自分で自分をほめたいと思います(笑)。まぁ、きみまろさん風に言えば「内容が無いよう」なので、出来てしまったのかも知れませんが(笑)。

さて、この後、何年続きますことやら(笑)。とりあえず引き続きよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

バケツ井戸に落ちる。引揚げられずに終る、


昭和22年(1947)8月25日の日記より 光太郎65歳

光太郎の「あ゙あ゙ー!」という声が聞こえてきそうです(笑)。

写真は蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋脇の井戸。昭和26年(1951)、カメラマンの阿部徹雄による撮影です。
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笑っちゃうしかありませんでした。

先月中旬、FNN系のニュースから。

ニセ日本人の怪しい商売 中国で問題に 現地取材でわかった事実

中国で大人気商品となった、日本の伝統技術で作ったという鉄の鍋をPRする人物。4代目家主・伊藤慧太と表示されている。ところが、動画の内容はでたらめ。4代目というのも、日本の伝統技術というのも、うそ。しかも話をよく聞いてみると、「鉄鍋は生活必需品として、人々の生活に便利をお配りしました」などと、日本語がおかしい。
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実はこの人物、中国人の俳優。中国メディアによると、この会社は、日本の伝統技術で作られた鉄の鍋と称して、ネット通販で2020年12月までに5億円近くを売り上げていたとされている。

でたらめなのは、ほかにも...。紹介されている初代と2代目の写真。初代を小説家の志賀直哉と重ねると、ぴったり。さらに2代目には、詩人で彫刻家の高村光太郎と思われる写真が使われている。
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鍋は高いもので、およそ2万円ほどで販売されていた。箱には、すべて日本語で、「日本製輸入品」の文字と、住所には、富山県に実在する地名が書かれている。しかし、富山・射水市に問い合わせると、会社の法人登記はなく、地域で鍋が有名ということも聞いたことがないとのこと。
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一方、上海にあるとされる関係先の住所のオフィスビルを訪ね、警備員に話を聞いてみたが...。警備員「鉄の鍋? 炒めたりするやつ? ここの中にはないね」はたして、ここに関係先はあったのだろうか。

中国メディアによると、中国当局は産地を偽装した鍋を販売した疑いで、2020年12月に関係先の倉庫を封鎖。今も調査が続いているという。


というわけで、笑っちゃうしかありませんでした。光太郎も草葉の陰で苦笑しているのではないでしょうか(笑)。

【折々のことば・光太郎】

宮沢邸の昼食に招かる。珍しき握寿しの御馳走。

昭和22年(1947)5月16日の日記より 光太郎65歳

この前日、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村から花巻町に出て来て、総合花巻病院長・佐藤隆房邸に宿泊していました。さすがに山小屋生活では握り寿司を食する機会はなかったのでしょう。

一昨日、3.11関連で、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町関連をいろいろご紹介しましたが、今日明日は福島で。

まず、先月の『聖教新聞』さん。おそらく一面コラムでしょう。

名字の言 東北の友に心を重ねて

 「3・11」の余震とされる地震が13日深夜、東北地方を襲った。福島県浜通りでコンビニエンスストアを営む壮年部員は「揺れは10年前に匹敵するほどだった」と語る。商品が崩れ散らかった店には、すぐさま従業員らが復旧に駆け付けたという。10年前、店を営業することが、いかに地域を勇気づけたかを、身をもって知るからだろう▼壮年は続けた。「片付け終わると配送トラックが来て、次々と商品を補充し、朝8時半には開店できた。物流が止まらなかったことが大きかった」▼流れを止めない――それは前を向き、歩み続けることを意味する。44年前の3月、池田先生は福島の地で「広宣流布は“流れ”それ自体である」と語った。未来へ、その流れを強く大きくしていく重要性を訴えた。変わらぬ思いで、この10年を前進してきた東北の同志の姿が胸に迫る▼先の壮年の住む地域には高村光太郎の詩「開拓十周年」を刻んだ記念碑がある。詩には「見わたすかぎりはこの手がひらいた十年辛苦の耕地の海だ」「開拓の危機はいくどでもくぐろう 開拓は決して死なん」と、強靱な負けじ魂をつづった一節がある▼フェニックス(不死鳥)のごとく、今も東北の友は苦難に屈せず、復興の大道を切り開いている。私たちも心を重ねて共に進もう。(城)

「開拓十周年」を刻んだ記念碑」は、南相馬市小高区にあります。筆跡は光太郎のものではありませんが、光太郎詩「開拓十周年」が刻まれ、昭和30年(1955)に建立されました。詳しくはこちら
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池田先生云々はともかく、「
フェニックス(不死鳥)のごとく、今も東北の友は苦難に屈せず、復興の大道を切り開いている。私たちも心を重ねて共に進もう。」という部分などは、まさにその通りですね。

続いて、『山形新聞』さん。やはり一面コラムです。

談話室

▼▽奥州の安達ケ原には鬼がいて人を襲う。謡曲「黒塚」は古くからの伝説に材を取った。女が独り住まう野辺の庵(いおり)で、旅の山伏が一夜の宿を請う。女は「閨(ねや)はご覧にならないで」と言い残し、客人の薪(たきぎ)を取りに出掛ける。
▼▽興味を抑え切れずに山伏が覗(のぞ)くと閨は遺骸の山だった。慌てて逃げる山伏を鬼になった女が追ってきて言う。「恨み申しに来りたり」。安達ケ原は今の福島県二本松市にある。東日本大震災の後は宿命に対する鬼の苦悩を、震災の死者の悲しみと重ね合わせる解釈も現れた。
▼▽震災に揺れた心を「詩の礫(つぶて)」などの詩集にまとめた和合亮一さん(福島市)も、鎮魂の祈りや生への意志を鬼に託する。7年前、山形市を会場にした「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」では「わたしは鬼」と銘打ち、自作を気迫の朗読で披露。強烈な印象を残した。
▼▽「一人一人が/優しい鬼となりて/生き抜くのだ/我らは鬼だ」「我ら/祈りとなりて/鬼となりて/夜明けまで/踊る」。この11日は大震災から10年の節目の日だ。だが、原発被害が重なった福島の爪痕は色濃い。鎮魂のため、復興のため、優しい鬼の出番はなおも続く。

光太郎智恵子には触れられていませんが、智恵子の故郷・二本松に伝わる安達ヶ原の鬼婆伝説、そしてこのブログに度々ご登場いただいている詩人の和合亮一氏。

原発被害が重なった福島の爪痕は色濃い。鎮魂のため、復興のため、優しい鬼の出番はなおも続く。」これもその通りですね。

最後に、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

「復興考える契機に」 前宮古市長・熊坂さん、著書「駆けて来た手紙」を出版

005 前岩手県宮古市長で同市の内科医熊坂義裕さん(69)が、著書「駆けて来た手紙」(幻冬舎)を出版した。出身地である福島県の東京電力福島第1原発事故をはじめとする東日本大震災の被災地の課題や地方自治の在り方などについて論評。豊富な経歴を生かし、幅広い観点から被災地の今を分析している。
 2015年4月~20年3月、月刊誌に連載したコラム60編と識者座談会を収録した。四六判230ページで、タイトルは同郷の詩人草野心平の作品から取った。
 医師として、24時間無料電話相談「よりそいホットライン」を運営する一般社団法人の代表理事として、被災者の生きづらさに正面から向き合ってきた。
 身内を亡くした悲しみや経済的困窮、仮設住宅という狭い空間で起こるDV被害、震災関連自殺などにも言及。福島第1原発事故による汚染水の海洋放出に関しては、国民的な議論の必要性を訴える。
 1997年から3期12年、市長を務めた経験から国と地方の関係性にも触れた。中央の目線ではなく、真に地域の自立に資する改革を議論することが「地方創生」につながると強調している。
 このほか「目黒のさんま祭り」への宮古産サンマの提供が縁で、東京都品川区と災害時相互援助協定を締結し、震災直後から救援物資や義援金が届けられた逸話も紹介。首長は「賞味期限付きの消耗品」と意識し、悔いのない仕事を心掛けたと振り返る。
 地域に根差した観点でつづった一つ一つのコラムは、そのまま被災地へのエールになっている。熊坂さんは「震災から間もなく10年になるが、現状は厳しい。復興について考える契機になればいい」と話す。

こちらでは、「震災から間もなく10年になるが、現状は厳しい」。

震災から10年ということで、各種メディアで、例年より取り上げられる回数が多いようですが、怖いのはその反動ですね。10年ということで一区切りつけられ、風化していくこと……。そうであってはならないと、かえすがえす思いました。

【折々のことば・光太郎】006

詩の題を考へる。「暗愚小伝」とせんかと思へど再考。

昭和22年(1947)1月7日の日記より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋で送った、1年余りの蟄居生活(あと5年以上続きますが)。否応なしに己と向き合う時間が増える中で、自らの来し方、そして戦争責任を謳う連作詩の構想が膨らみました。

結局、「暗愚小伝」のタイトルはそのままに、この年7月の雑誌『展望』に、20篇からなる連作詩として発表されています。

過日ご紹介しました、光太郎智恵子も登場する小説『風よあらしよ』。『朝日新聞』さんの西部版に書評が出ましたのでご紹介します。先月20日の掲載でした。

弾圧に屈せず女性のために 伊藤野枝に光「今こそ必要」

003 婦人解放に取り組み、関東大震災の混乱のさなかに28歳で憲兵に虐殺された女性活動家、伊藤野枝(のえ)に、光があてられている。弾圧や批判に屈せず女性のために論陣を張ったが、奔放な生き様に偏って見られることもあった。森喜朗氏の女性蔑視発言が議論を呼ぶなか、今こそ野枝のような存在が必要という声が上がっている。
 伊藤野枝(1895~1923)は福岡県今宿村(現在の福岡市・今宿)に生を受け、苦学のすえ上野高等女学校に進学。後に平塚らいてうから引き継ぐ雑誌「青鞜」では「新しき女の道」などの文書を発表した。青鞜休刊後も「娘たちは男の妻として準備される教育から解放されなければならない」などと女中、女郎、女工の解放を訴えて活動した。米国のアナーキストでフェミニストのエマ・ゴールドマンの著作の翻訳にも取り組んだ。
004 震災の約2週間後、夫で思想家の大杉栄とおいで6歳の橘宗一とともに、甘粕正彦ら憲兵隊に虐殺され井戸に葬られた。思想が政府に害をなすと見なされた。国に盾突いたとして死後も冷遇され、業績に比べ複数の男性と離縁したことなどが注目されがちだった。
 野枝を題材にした小説「風よあらしよ」(集英社)を2020年9月に出版したのは、直木賞作家の村山由佳さん。「理想とする社会のため自分の幸せを振り捨ててでも行動したところに女性として励まされた」と話す。
 「取材し連載を書いて本が出る3年ほどの間に、政府のあり方やまわりの思考停止が野枝が生きた100年前にぐっと近づいてしまった」。虐殺された当時、甘粕を正当化する声が出るなど野枝が世間に冷遇されたことに触れ「今でもそのままなのはかわいそう。権力者に物が言いにくくなっている今こそ、時代が野枝や大杉を必要としているのではないか」と話す。
 「今の時代に野枝がいたらたたかれまくったと思いますよ。それでも動じず世の中を引っかき回し、考えるための話題を作ってくれる野枝みたいな人005が出てきてほしい」
 福岡市在住の自営業、古瀬かなこさん(42)は数年前から、野枝の生涯についての勉強会を開いている。野枝は日本初の女性社会主義団体に参画した。メーデーに参加した女性が警官に暴行されると、出しゃばるなと言うだろうが婦人はそんな圧力ははね返す、と文章を発表した。古瀬さんは「弾圧の中で女性差別の本質を突いた野枝の言葉に共感する」という。命日となる昨年9月16日には、手作りの野枝のTシャツを着て街頭に立ち、野枝について話をした。
 自分自身、脱原発などの訴えを続けてきたが「女性の権利を求める100年前の野枝に背中を押されてきた」と話す。森氏の女性蔑視発言に「今更驚かないが、ありえない発言。野枝がいたら雑誌で特集を組んだり、街頭で先頭に立って批判したりしたと思う」。没後100年にあたる2023年に、功績を振り返るシンポジウムや記念碑の建立を考えている。
007 野枝のおじで庇護者(ひごしゃ)でもあった代準介(だいじゅんすけ)のひ孫と結婚した福岡市の矢野寛治さん(72)は「男系社会の厳しい環境で、よお頑張ったですよ」と話す。野枝は時の内務大臣後藤新平にも「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」と書いた書簡を送り、ひるまずに持論を展開した。文筆家の矢野さんは12年に家に伝わる代直筆の自叙伝をひもとき「伊藤野枝と代準介」を書き起こした。
 福岡市西区今宿町の山中に、野枝の無銘碑の墓がある。矢野さんによると、無銘碑は代が野枝たちの死後の翌年に生家に近い浜辺に建てたが、追われるように転々として現在の場所に落ち着いたという。
 今は当初あった立派な台座もない。矢野さんは「男が女を下に見る風潮は今も残っている」と話す。「野枝さんはそれを打ち破ろうと一生懸命活動した人。やった仕事をちゃんと見てほしい」と語る。
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昨年の刊行直後にも、いろいろなメディアに書評が出たのでしょうが、このブログでこの書籍をご紹介したのが遅くなりましたので、遡っての引用は割愛させていただきます。

村山さんの談話にある「政府のあり方やまわりの思考停止が野枝が生きた100年前にぐっと近づいてしまった」、まさにそうですね。

それにしても、最後の画像にある野枝の墓、こんな状態なのか、と思いました。

「風よあらしよ」、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩碑の加筆は三日にしたき旨院長さんに伝言をたのむ。

昭和21年(1946)10月29日の日記より 光太郎64歳

008「院長」さんは佐藤隆房、伝言を頼んだ相手は、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋をひょっこり訪れた宮沢清六、「詩碑」は昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑です。

まだ東京にいた最初の揮毫の際、花巻から送られてきた原稿の通りに揮毫したところ、賢治が手帳に書いた通りでなかった箇所が複数ありました。

花巻高村光太郎記念会会長であらせられた故・佐藤進氏著『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(地方公論社 平成5年=1993)から。

 以前よりの懸案ではありましたが、賢治さんの詩碑に脱字があったり誤字があったりしているので、これを改めたいとお願いしたところ、高村先生が詩碑に直接加筆され追刻することになり、その心ぐみでそろそろ寒くなった東北の十一月の一日に山から出かけ、私の家に来ました。
 一日おいた三日の朝です。東北の十一月、既に肌寒く、吐く息が白々と見える冴えた冷い朝でした。高村先生に清六さんと父と私とがお供をして桜の詩碑に行きました。着いてみると、先にこの賢治の詩碑を彫った石工の今藤清六さんが、先に来て、詩碑の前に板をさしわたした簡単な足場を作っておき、そのかたわらで焚火をしていました。
 先生はおもむろに碑を眺め、やがて足場に上り、今、加筆をはじめようとしています。
 万象静寂の中に、人も静まり気動かず、冷気肌をおおい、立ち上る煙のみがその静寂を破っているばかりです。先生は筆を取り、『松ノ』『ソノ』『行ツテ』を加筆し、『バウ』を『ボー』とわきに書き替えました。つづいて裏に父が「昭和二十一年十一月三日追刻」と書き入れました。

「ヒドリ/ヒデリ」の改編については、さる高名な宗教学者の方が、詩碑の揮毫を光太郎がしたから光太郎の仕業だ、と、まったくお門違いの珍説をまことしやかに語っており、それを真に受けた記述がネット上にも氾濫していて、超迷惑です。

仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さん。1月24日(日)に載ったコラムです 

デスク日誌(1/24):あぁ雪国

 雪化粧した山が快晴の空に映える。美しい。門灯に照らされた銀世界の夜景は幻想的。眺める分にはいいが、雪がしんしんと降り積もれば試練の域だ。
 山形総局は自社の建物。前任者から申し送りされた「大切な仕事」に除草と雪かきがある。着任し初めての冬は昨年12月半ばから早くも雪の日が増え、暖冬の昨季分を含むかのようだ。
 気合を入れ、玄関前や駐車場など朝から雪かきに精を出す。白いウエアに、前任地の塩釜支局で魚市場取材のため購入した白い長靴。以前いた泉支局(現・富谷支局)の時に頂いたラジオ体操や山岳遭難救助隊の赤い帽子に、緑の手袋が定番スタイルになった。
 新雪なら踏みしめる感覚が楽しい。高村光太郎の詩「道程」の一節<僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る>の気分だ。若手だった青森総局時代、「けんかになるから隣の敷地には絶対除雪しないこと」と教わったことも思い出す。ただ除雪車が路肩に残していく雪の塀には閉口する。
 近年では珍しい大雪。候補者陣営関係者も同僚も奔走した山形県知事選は、本日が投開票日だ。どうか荒天になりませんように。
(山形総局長 松田佐世子)

同紙は東北一円を範囲としていますので、山形総局があり、そちらのデスク方がご執筆なさったようです。

やはりこの冬の雪は尋常ではないようで、温暖な房総に暮らしている身としては申し訳ないような気がします。

同じ東北、岩手花巻の高村光太郎記念館さんのブログサイトから、最近の画像を拝借。
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太平洋側である岩手でこうですから、日本海側の山形は推して知るべし、ですね。左下はウサギの足跡です。

昨年末のこのブログで書きましたが、光太郎が面白いと思って日記にスケッチした通りですね。
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明日が節分、明後日は立春です。雪国の皆さん、もう少しのご辛抱を。


【折々のことば・光太郎】

晴、風なし、朝やや冷える。露一ぱい。 食前、分教場の近くまで馬糞を拾ひにゆく。塵取りと箒を持ちゆく。

昭和21年(1946)5月1日の日記より 光太郎64歳

畑の肥料のためなのでしょうが、ここまでやっていたのですね……。

今年に入ってから、「牛」(大正2年=1913)、「冬が来た」(同)、「冬の詩」(大正3年=1914)が、各地の地方紙等の一面コラムに取り上げられていますが、『岩手日報』さんでも一面コラムで「冬の言葉」(昭和2年=1927)、「冬」(昭和15年=1940)を引用して下さいました。掲載は1月5日(火)でした

風土計

〈冬が又来て天と地を清楚にする。/冬が洗ひだすのは万物の木地。〉。高村光太郎の「冬の言葉」は、そう始まる。詩人にとって冬は、天と地のあらゆるものを浄化してくれる季節らしい▼だから新年を愛した。〈新年が冬来るのはいい。〉〈ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。〉(「冬」)。きりりと冷たい風が汚れを洗ってくれるのが新年だという。「冬の詩人」と称されるゆえんだろう▼冬の寒さが万物を清浄にするものならば、迎えた2021年ほどその霊力を請い願う年はない。しんしんとした寒空が続いた新年、仕事始めの日に大きな動きがあった。今週にも首都圏に緊急事態宣言が出される▼医療を崩壊させられない、との苦渋の判断だろう。冬によって地上が清められる祈りとは逆に、感染の広がりはとどまるところを知らない。それにしても、再び最後の切り札を出す前に、打つ手はなかったか▼きょうは小寒、長い寒の季節に入る。きのう首相はワクチン接種を2月下旬に始めたいと語った。すると光が見え始めるのは、とうに寒も明けた啓蟄(けいちつ)か、春分の頃か▼〈雪と霙と氷と霜と、/かかる極寒の一族に滅菌され、/ねがはくは新しい世代といふに値する/清潔な風を天から吸はう。〉。滅菌された風が吹くのを今は待つほかない。胸いっぱいに吸い込める日を。

引用されている「冬の言葉」(昭和2年=1927)、「冬」(昭和15年=1940)の全文は以下の通りです。
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それぞれ「冬の詩人」の面目躍如の詩で、こうなってくると、歳時記の冬の季語として「高村光太郎」という単語が登録されてもおかしくないかもしれませんね(笑)。
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冗談はさておき、まさに「天と地を清楚」に、そして「雪と霙と氷と霜と、かかる極寒の一族に滅菌され」という状態になってほしいものです。そのためには、「この世の少しばかりの擬勢とおめかし」のような「人間手製の価値をすて」ること、「精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、一切をアルカリ性の昨日に投げこむ」ことが必要なのかもしれません。

ところで、最近になって気がついたのですが、青森の地方紙『東奥日報』さんの一面コラムでも、元日掲載分で「牛」を取り上げて下さっていました

天地人

1年前には予想しなかったコロナ禍の中での年明けだ。例年なら初詣や宴会といった行事が目白押しで、あちこち出歩いたりするのも楽しみだった。残念ながら今年は、手放しで正月を満喫できない。それでも感染予防に留意して工夫を凝らせば、家族や友人らと新年の喜びを分かち合うことができるはずだ。▼干支(えと)は子(ね)(ネズミ)から丑(ウシ)に。すばしっこいイメージのネズミに対して、ウシは「牛歩」という言葉もあるように、おっとりしているとされる。ただし、それが欠点であるとは限らない。▼<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>。「牛」と題した高村光太郎の詩の冒頭である。「のろのろと」でも、<ふみ出す足は必然だ/うはの空の事ではない/是でも非でも/出さないではゐられない足を出す>のだ。▼一斉休校を突然要請したり、布マスク配布が不評を買ったり、菅義偉首相が旗振り役の「Go To トラベル」が一時停止を余儀なくされたり…。ちくはぐな政府のコロナ対応は、しっかりとした牛の足取りと対照的に見える。▼「牛の歩みも千里」ということわざがある。怠らず努力すれば、大きな成果を上げることができることのたとえだ。急がず落ち着いて、コロナに負けない安心できる暮らしを取り戻す道筋を見いだす新年としたい。

年明けから1週間程で、すでに全国の地方紙一面コラムに光太郎が5件ほども大きく取り上げられていまして、こんな年は記憶にありません。「丑年」と、「冬の詩人」とが重なっているというのもあるのでしょうが、やはりコロナ禍の今、光太郎のポジティブで力強い詩句に、人々の心の琴線へ訴えかけるものがある、ということなのだと思います。ありがたいことです。

ちなみに『千葉日報』さんでも、元日の一面コラム「忙人寸語」に光太郎の名を出して下さいましたが、「高村光太郎、宮沢賢治、田村隆一に石垣りん。感銘を受けた詩人は数え切れないが、昭和初期に活動した中原中也は別格だ。」ということなので割愛します(笑)。

【折々のことば・光太郎】

名古屋の石田岳堂氏より大国主命を作つてくれとのテガミあり。檜材は木曽に近きところ故入手出来る筈と思ひ、返事の中に檜が入手出来たら彫刻の希望の大きさの檜材を小包で送つてくれれば大に助かると書く。


昭和21年(1946)1月23日の日記より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での生活の中で、後には手すさび程度のものを除いて、完全に「作品」としての彫刻制作を封印する光太郎ですが、山暮らしを始めた当初はまだ作品制作の意志があったようです。

昨日まで、さまざまな場面で取り上げられた詩「牛」(大正2年=1913)について書きましたが、今日は別の詩で。1月4日(月)、『神奈川新聞』さんがやはり一面コラムで光太郎詩「冬が来た」を取り上げて下さいました

照明灯 厳しい冬 1月4日(月)

きりきりともみ込むような冬が来た/人にいやがられる冬/草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た〉。この季節を愛し、好んで題材に選んだ高村光太郎は冬 の詩人とも呼ばれる▽凜(りん)としてすがすがしい「冬が来た」という詩はこう続く。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。自らを、そして人を鼓舞する言葉の連なり。苦難に立ち向かう力強い意志の力が一句一句にみなぎっている
 ▼光と気温の季節変化は冬至を過ぎて逆行が始まっている。太陽はすでに春に向かってUターン中だ。ただ、気温はなお冬の道を歩み続ける。あすは小寒。寒さがより深まっていく
 ▼〈こんなに さむい/おてんき つくって/かみさまって/やなひとね〉。「サッちゃん」の作詞で知られる阪田寛夫の詩。いやがられる冬ではあるが、草木や虫も、厳しい寒さが春への目覚めのスイッチになっていることはよく知られる
 ▼センター試験に代わる大学入学共通テストがまもなく始まる。今年の受験生は新テストとコロナ禍の両方に神経を使わねばならない。万全の体調で努力を結実させてほしい。冬の詩人の詩に、こんな一節がある。〈冬は未来を包み、未来をはぐくむ〉。厳しい冬は、すでに春を内包しているのだ。

なるほど、コロナ禍の中、光太郎詩が人々へのエールとなるなら、実に嬉しい限りです。

最初に引用されている「冬が来た」の全文は下記の通り。短い詩です。

  冬が来た
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きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た

光太郎詩の中ではよく知られている方で、この詩もいろいろな場面で取り上げられますが、驚くべきことに、初出発表誌が「牛」と同じ『我等』創刊号(大正3年1月1日発行)でした。ついでに言うなら、昨日ご紹介した「狂奔する牛」(大正14年=1925)同様、『智恵子抄』に収められた「僕等」(「僕はあなたをおもふたびに/一ばんぢかに永遠を感じる」で始まる、これも有名な作品です)も、同時に発表されています。少し後の3月5日には「道程」の初出発表形(102行もある長大なもの)も発表されており、ある意味、光太郎詩業の一つのピークがこの時期だったといえるでしょう。

『神奈川新聞』さん、最後に引いている〈冬は未来を包み、未来をはぐくむ〉は、「冬の詩」から。やはり大正3年(1914)3月1日、雑誌『創作』に発表されました。

さて、「冬が来た」に戻りますが、NHK Eテレさんで放映されている「にほんごであそぼ」。来週の放映で「冬が来た」が取り上げられます

にほんごであそぼ「日本全国いいとこコンサート 新潟・村上(4)」

NHK Eテレ 2021年1月14日(木)  6時35分~6時45分  再放送 17時00分~17時10分

日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につける番組。言葉を覚え始めるお子さんから大人まで、あらゆる世代の方を対象に制作しています。
今週は、日本全国いいとこコンサート 新潟・村上!曲「ドゥーララ」作詞:千晴 作曲:千晴・木下航志・三浦大知、「汽車」作曲:大和田愛羅、「ベベンの冬が来た」詩:高村光太郎 作曲:うなりやべベン、「たまげた駒下駄東下駄」作詞・作曲:国本武春


出演 神田山陽(三代目),おおたか静流,ラッキィ池田,中尾隆聖 ほか

「うなりやベベン」はこの番組のキャラクターのお一人で、その実体は平成27年(2015)に亡くなった浪曲師の国本武春さん。番組ではその功績を讃える意味でも、ビデオ出演が続いています。

新潟でのコンサートで、亡くなった方がどうご出演? と思って調べてみましたところ、公式サイトに以下の文言。

日本全国いいとこコンサート、今回は新潟の魅力をたっぷりとお伝えします! 残念ながら新潟でコンサートを開催することはできませんでしたが、村上市のお友達が「新潟のいいところ」を送ってくれました。ゲストに太鼓の田代誠さんをお迎えし、元気いっぱいにお届けします。

おそらくやはり過去の映像でのご出演なのでしょう。

追記・音楽は過去のものでしたが、背景の映像は新たなテイクのようでした。
003 001
「冬が来た」、子供たちにも親しんでほしい詩ですので、どんどん取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

万年筆使用中に凍りてインキ出なくなる。息をかけると出る。


昭和21年(1946)1月11日の日記より

室内でインクが凍る生活……「自虐」に近いような気もします……。

このブログでこれまでもご紹介しました通り、丑年となり、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)が、さまざまな場面で取り上げられています。

まだご紹介していない件を。

まず、学校さん。『神戸新聞』さんから。

気持ち新たにきょうから3学期 兵庫県内の小中学校で始業式

000 兵庫県内の多くの公立小中学校で6日、冬休みが明け、3学期の始業式があった。新型コロナウイルスの感染拡大による長期休校の影響で、多くの学校が冬休み期間を短縮。元気な姿で登校した子どもたちは新年の目標を決め、気持ちを新たにした。
  神戸市西区の市立美賀多台小学校では、例年のような全校児童による始業式ではなく、校内放送を通じて各教室で実施。藤坂裕子校長(60)は高村光太郎の詩「牛」を紹介し、「この詩の牛のように、一度決めたら目標に向けてしっかり歩いて行きましょう」と呼び掛けた。5年を代表して児童2人が「積極的に発表したい」「国語と算数を頑張りたい」など目標を述べた。
 式の後、6年の教室では児童それぞれが今年の目標を二つ決めて、紙に書き上げた。「友達にかける言葉を選ぶ」と書いた女児(12)は「冬休みはコロナがはやっていて、おじいちゃんとおばあちゃんの家にいけなくて残念だった。健康に気を付けて、元気に毎日学校に通いたい」と話していた。

報道はなされなくとも、全国の学校さんで同じような「訓話」があったのではないかと察せられます。実際、いろいろな学校さんのブログサイトなどでやはり「牛」が引かれた記述をあちこちに見かけました。

地方自治体さんの広報誌でも。佐賀県玄海町さんの『広報玄海』。教育長さんによる連載のようです。

牛のように  ゆっくりと力強く  教育長 中島安行

 明けましておめでとうございます。新しい年、令和 3 年(2021年)を迎えました 。
昨年はコロナで始まり、コロナで終わった1年でした。「不要不急の外出はやめよう」「三密を避けよう」と言われ、一方では「GoToトラベル」「GoToイート」とさかんに旅行や外食を勧められ、まるでブレーキを踏みながらアクセルを踏むような、納得のいかない気持ちをいだきながら過ごした1年でした。毎日知らされる県内や全国の感染者数と死亡数に一喜一憂し、出口の見合えないトンネルに入ってしまったかのような不安な日々を過ごした1年でした。
 今年の干支(えと)は丑(うし)。そこで牛年にちなんで、高村光太郎(たかむらこうたろう)の「牛」という詩を紹介します。
 ほんとうは115行もある大変長い詩ですが、一部だけ抜粋して掲載します。

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも001
自分の行きたいところへは
まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼って行く
自分を載せている自然の力を信じきって行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味わって行く

がちり、がちりと自然につつ込み食い込んで
遅れても、先になっても
自分の道を自分で行く

牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く

 作者の高村光太郎は日本を代表する詩人・彫刻家・画家。『道程』『智恵子抄』などの詩が有名で、教科書にも多くの作品が掲載されています。
  115行におよぶ詩の中に、何度も「牛はのろのろと歩く」や「がちり、がちり」が繰り返し出てきます。まさに牛がゆったりと力強く歩んでいる様子がよく表れている詩です。
 一歩一歩あゆみは遅くとも着実に前に進んでゆく牛の姿に、作者自身の生き方の理想を重ねているようにも思います。
 また、優しさとたくましさのある一語一語からは、作者の人柄をも感じることができます。
 さて、牛年の今年はどんな年になるのでしょうか? まだまだコロナウイルスの猛威は収まりそうにありませんが、モ~コロナは、けっこう‼ 令和3年が牛の歩みのようにゆっくりと、しかし確実に明るい希望に向かうことを願っています。
 「遅れても、先になっても、自分の道を自分で行く」。この詩に登場する「牛」のように私も、急がず、人に振り回されず、自分が決めた道をのろのろと力強く歩んでいきたいと思います。

ありがとうございます。

ところで、昨日は「牛」以外にも、牛をモチーフとした詩ということで、戦後の「鈍牛の言葉」をご紹介しましたが、もう一篇、牛がらみの詩を。詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)にも収められた作品です。

  狂奔する牛
005
ああ、あなたがそんなにおびえるのは
今のあれを見たのですね。
まるで通り魔のやうに、
この深山のまきの林をとどろかして、
この深い寂寞の境にあんな雪崩をまき起して、
今はもうどこかへ往つてしまつた
あの狂奔する牛の群を。

今日はもう止しませう、
画きかけてゐたあの穂高の三角の屋根に
もうテル ヴエルトの雲が出ました。
槍の氷を溶かして来る
あのセルリヤンの梓川に
もう山山がかぶさりました。
谷の白楊(はくやう)が遠く風になびいてゐます。
今日はもう画くのを止して
この人跡たえた神苑をけがさぬほどに
又好きな焚火をしませう。
天然がきれいに掃き清めたこの苔の上に
あなたもしづかにおすわりなさい。

あなたがそんなにおびえるのは
どつと逃げる牝牛の群を追ひかけて
ものおそろしくも息せき切つた、
血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう。
もつと多くの事をこの身に知つて、
いつかは静かな愛にほほゑみながら――

「牛」が書かれた大正2年(1913)、光太郎は智恵子と一夏を信州上高地で過ごし、婚約を果たしましたが、その際の想い出を大正14年(1925)になってつづった詩です。

二人が訪れた頃の上高地では牛の放牧なども行われており、発情した牡牛が雌牛を追いかけている光景を「露骨な獣性」と表しています。おそらく、やはり光太郎自身の姿がそこに仮託されているのでしょう。光太郎はかなり性欲も強かったようで……。
004
詩の右の画像は、古い話で恐縮ですが、平成27年(2015)の山岳雑誌『岳人』さんで「高村光太郎と智恵子の上高地」という記事を書かせていただいた時、「この詩全文を載せておいて下さい」とお願いして載せてもらったページから。上の画像は、編集の方が「こんなものを見つけました」ということで載せて下さった上高地の古絵葉書です。

ところで、この詩の書かれた大正14年(1925)がやはり丑年。ちなみに昨年亡くなった、当会顧問であらせられた故・北川太一先生がお生まれになった年です。またのちほど詳しくご紹介しますが、今年の仕事始めは、今年出版される予定の北川先生の遺稿の校正でした。赤ペンを握りつつ、「あ、そういえば北川先生、丑年だったっけ」と思い出しました。ご存命なら今年3月の御誕生日で満96歳、8回目の年男だったわけですね。

ついでに言えば「牛」が書かれた大正2年(1913)、昨日ご紹介した「鈍牛の言葉」の書かれた昭和24年(1949)も丑年でした。偶然なのでしょうか?

【折々のことば・光太郎】

おだやかなよい日和となる。雪の上にさす日かげうつくし。樹々の影横さまに青く白雪の上に落つ。


昭和21年(1946)1月8日の日記より 光太郎64歳

温暖な房総半島に住んでいる身には、ほとんど縁のない光景です。画像は花巻高村光太郎記念館さんのサイトから拝借しました。光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)周辺です。
007

このところブログの訪問者数が1日300件を超え、このブログとしてはバズっている方の部類です。どうも、あちこちで光太郎詩「牛」(大正2年=1913)や、「岩手の人」(昭和24年=1949)が取り上げられ、その余波のようです。

1月3日(日)の『中日新聞』さんの一面コラム(系列の『東京新聞』さんも同一)でも「牛」

筆洗

<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>。新年はウシ年。高村光太郎の有名な「牛」を連れてくるとする▼<牛は急ぐ事をしない><ひと足、ひと足、牛は自分の道を味はつて行く>。この牛は急がないが、着実に前へと進んでいく。<遅れても、先になつても/自分の道を自分で行く>である。<ひとをうらやましいとも思はない/牛は自分の孤独をちやんと知つている>。力強くまわりにも振り回されず、道を行く牛が生きる上でのお手本のように思えてくる▼光太郎の詩に子どもの時に教わった牛の話を思い出す。牛が十二支に選ばれたいきさつである。競走で決めるというが、足の遅い牛は間に合わないので前の晩から出発することにした。それを牛小屋で見たネズミ。ちゃっかり牛の背に飛び乗った▼牛は夜通し歩き続けた。背中ではネズミが眠っている。ゴールの直前にネズミは牛から飛び降りて一着入賞。結果、干支(えと)は子(ね)、丑(うし)の順となった▼憎らしいネズミだが、光太郎の詩や、牛の優しい顔を思えば、牛は気にせず、ただ自分の歩みに満足したかもしれぬと勝手な想像をしたくなる▼ウイルスとの闘いは今年も続く。日常を取り戻すための歩みは遅くとも焦らず、牛のがまん強さで一歩ずつ前に進むしかあるまい。<見よ/牛の眼は叡智(えいち)にかがやく>−。

さらに昨日の『神戸新聞』さんも一面コラムで

正平調

食べてすぐ寝ると、牛になる。親から子へと伝えられてきた行儀作法の戒めにある。自宅で過ごす時間が長くなったこの三が日は、牛になった人間の最多記録を更新したかもしれない◆〈牛飼(うしかい)が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる〉。世は明治のころ、歌の作者である伊藤左千夫は牛乳搾取業を営んでいた。自分のような庶民でさえ歌を詠む時代になったのだ、と高らかに宣言している◆今はインターネットの世界がさまざまな創作発表の舞台として万人に開かれ、流行はたいていここから火が付く。今年は何がはやるだろう。下火になった時分に追いつく牛後となれど、頑張ってついていきたい◆高村光太郎に「牛」という長い詩があった。〈牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く〉。しかも〈牛は為(し)たくなつて為た事に後悔をしない〉そうだ◆あたふた急ぐ者には目もくれず、ゆうゆうとわが道を歩き、粘り強く、悔いることなく、争いを好まず、優しくて洞察力のある目を持つ-。何とすてきな牛賛歌だろう。読めばいっぺんに牛のことが好きになる◆さあ、丑(うし)年である。多難の時代ゆえか、これも何かの巡り合わせに違いない。「ゆっくり行け」と牛が言う。

以前にも「牛」全文をご紹介しましたが、この際ですので(笑)もう一度掲載します。

   牛

牛はのろのろと歩く004
牛は野でも山でも道でも川でも
自分のきたいところへは
まつすぐに行く
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
自然を信じ切つて
自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない005
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも
十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける
牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
 
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。

画像は昭和14年(1939)になって光太郎自身が「牛」全文をしたためた書です。本来なら、昨年、富山県水墨美術館さんにおいて開催予定で、当方も協力していた「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」に出品予定だったのですが、コロナ禍で中止。仕切り直して開催の方向で検討して下さっているというお話は聞きましたが、どうなりますやら……。

2021/3/26追記 「「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

さて、詩「牛」。新聞一面コラム以外でもいろいろ取り上げられており、ありがたいかぎりです。意外と皆さん、この詩をご存じだったんだな、という感じで、もっと知られていない詩なのかなと思っていたため、想定外でした。

他の紹介例についてはまた明日以降、このブログで書かせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

鼠天井に巣をつくる様子なり。天井板なき屋根うらの何処に巣をつくる場所あるか不思議なり。此家たのむべしと思へるか。

昭和21年(1946)1月5日の日記より 光太郎64歳

「牛」ならぬ、『中日新聞』さんで取り上げられていたネズミに関してです。ネズミは冬眠しないのですね(笑)。

光太郎、かわいそうと思いつつも毒をしかけたりして退治しようとしますが、敵もさる者(笑)、なかなか絶滅には至らず、しばらく奇妙な同居人(人ではありませんが(笑))として、時に短歌に詠まれたりもしています。

わが前にとんぼがへりをして遊ぶ鼠の来ずて夜を吹雪くなり(昭和22年=1947)




地方紙『岩手日日』さんの一面コラム、一昨日掲載分です

日日草 2020年11月27日

海の幸、山の幸、そして豊かな自然に恵まれている本県。県民性はと言うと、口数は少なくとっつきにくい面があるが真面目で忍耐強く、物事に動じないといったイメージが強い。東北人に共通する気質だろう▼太平洋戦争下、詩人宮沢賢治の実家を頼って東京から花巻に疎開し、その後、周辺の山村に粗末な小屋を建てて7年間過ごした詩人で彫刻家の高村光太郎も詩の中で「岩手の人沈深牛の如し」と寡黙で冷静沈着、思慮深い人柄を表明している▼クラスター(感染者集団)の発生で県内でも新型コロナウイルスの患者数は増加スピードを増し、緊張感が急速に高まっている。感染拡大に歯止めをかけるには「真面目」な県民性に頼る他ない▼マスクの着用、手指消毒、室内の換気に加えイベントの自粛や密閉、密集、密接の「3密」を回避する県民の行動、それに行政や医療関係者らの献身的な取り組み。見えない「敵」の封じ込めに官民一丸となった懸命の活動が続く▼1日の感染者数の最多更新が全国で相次ぎ、飲食店の時短営業や不要不急の外出自粛も呼びかけられるなど、感染は「第3波」の様相を呈している。1人ひとりが忍耐強く真面目に対策を講じる「岩手の人」で在り続けること。それが一日も早い収束への近道だろう。

まったくもって、感染拡大が止まらない状況ですね。昨日は全国で新たに2,600人超の感染が確認されたそうで……。下記グラフは昨日時点での全国の新規感染者数です。
003
また、当方だけかも知れませんが、こうした状況に対し、以前より危機感が薄くなっているような気がします。『岩手日日』さんに引用されている「岩手の人」(昭和24年=1949)にあるように、「沈深牛の如し」でなくてはいけないのではないでしょうか。「岩手の人」、全文はこちら

【折々のことば・光太郎】

あゝ人生のはかなさよ。

明治37年(1904)4月17日の日記より 光太郎22歳

東京美術学校彫刻科の同級生だった山本筍一の見舞いに行っての感懐です。この前の部分には「いたくも痩せ衰へたる様とても恢復はむつかしかるべしとは誰が胸にも浮びし所なるべし。」とあり、そして他の用を済ませて帰宅したところ、「程なきに知らせありて山本君死去! あゝ。」。

山本は、どのクラスにも一人はいる、空気が読めずに素っ頓狂な発言をして先生にこっぴどく怒られるような生徒でした。美学の講義を担当していた森鷗外には、けちょんけちょんに言われています。彫刻の技倆もはじめはまるで駄目で、同級生から小馬鹿にされていました。ところが、奈良へ修学旅行に行き、古仏の数々を目の当たりにして開眼、皆に「山本の奴は急にうまくなった」と、一目置かれるようになりました。しかし、若くして亡くなりました……。

コロナでは、相変わらず若年層の死亡はほとんどないようですが、高齢だから死んでいい、というわけでもありません。亡くなった方々の死を警鐘と捉えなければ、その方々も浮かばれませんね……。

3件ご紹介します。

掲載順に、まず、『読売新聞』さん。11月11日(水)の夕刊一面コラム

よみうり寸評

山本周五郎の短編に、こんな台詞(せりふ)が出てくる。<もし秋だったらどんなに悲しかったでしょう。……木や草が枯れて、夜なかに寒い風の音などが聞こえたら>(「落ち梅記」)◆青々と色づいていた草木から、その色が消えてゆく。晩秋の光景に悲しみや寂しさが増すことはあっても、元気づけられるという話はあまり聞かない◆数少ない例だろう。<秋に木の葉の落ちる時、その落ちたあとにすぐ春の用意がいとなまれ……>と高村光太郎は随筆に綴(つづ)った。よく知られる英詩の一節「冬来たりなば春遠からじ」よりさらに早く、秋の落葉に春の萌芽(ほうが)があるのだと気づかされる◆これも春の兆しと受け止められよう。新型コロナのワクチンを開発中の米大手製薬会社が、臨床試験参加者の9割超で効果が確認されたと発表した。ただし安全性などで不明な点も多く、日本で接種が始まる時期は見通せない◆実用化を待ちつつ、来たる冬をしっかり耐え抜く。その覚悟を当面は固めるしかないのだろう。思えば冬を経ずに来る春はない。

引用されているのは、随筆「山の春」(昭和26年=1951)の一節です。

続いて、定期購読している、日本古書通信社さん発行の月刊誌『日本古書通信』の11月号(11月15日発行)。巻末に掲載のコラムです

談話室

▼10月9、10日、GoToを利用して花巻と盛岡に車で行ってきた。二日で走行距離一〇四三キロ、66歳になるが疲れもせず、まだ体力あるなと自信が持てた。主な目的は花巻在太田の高村光太郎山荘と、宮沢賢治生家跡、渋民村の石川啄木記念館。山荘で、光太郎は終戦前から昭和27年まで約七年間を過ごした。伊藤信吉さんが古通豆本『亡命高村光太郎』に書かれたように、戦争の痛手から再生する厳しい試練を自らに課した時間と所だ。山荘での生活は、詩「雪白く積めり」に象徴的である。当時山荘を訪ねた人は多い。七十年前どのくらい時間がかかったのか。今は花巻中心街から車で30分だが、当時は山荘から小さな鉄道の駅二ツ堰まで徒歩四キロ歩き、鉄道で花巻まで20分。東京から花巻までは充分一日を要したろう。確かに亡命に相応しい遠隔の地であった。記録は多いが実感できた。
 渋民では、啄木の「やはらかに柳あをめる」の歌碑の前に立ちたかった。啄木の「ふるさとの山」は、岩手山か、対面する姫神山か。両山だという説もあるが、姫神山はきれいな稜線だが、迫力が違う。岩手山がふるさとの山であろうと実感した。


終戦前から昭和27年まで」は誤りで、正しくは「終戦直後から昭和27年まで」です。

『亡命高村光太郎』は、光太郎と交流のあった伊藤信吉著。同社でかつてシリーズとして刊行していた「こつう豆本」の一冊で、書き下ろしではなく、雑誌『国文学 解釈と鑑賞』や、『高村光太郎全集』の月報に初出の文章を再掲したものです。
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「豆本」というだけあって、タテ10㌢、ヨコ7.5㌢の可愛らしい本です。

最後に、『日本農業新聞』さんの一面コラム。昨日の掲載です

四季 日ごと色づく木々の葉に、秋の深まりを知る

照り映える紅葉に、八木重吉の詩「素朴な琴」が重なる▽「この明るさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美くしさに耐えかねて/琴はしずかに鳴りいだすだろう」。詩人の郷原宏は、この詩を「おそらく日本語で書かれた最も美しい四行詩である」と評した。宗教詩人にして自然詩人の重吉の悲しいまでに澄んだまなざしが、 そこにある▽高村光太郎は、重吉の詩集に「このきよい、心のしたたりのやうな詩はいかなる世代の中にあつても死なない」との一文を寄せた。秋が巡るたびに、重吉の詩に浸るのをささやかな喜びとする。井上靖の詩の一節も忘れ難い。「刻一刻秋は深まり、どこかで、謙譲といふ文字を少年が書いています」(「十月の詩」より)▽北国からはもう雪の便りが届く。同じく井上に次の詩句がある。「ひしゝと迫る晩秋の寂しさを、落葉をふんでゆく母の老の姿に感ずる」(「冬の来る日」)。こちらの方が実感に近いか。 はらはら舞い落ちる落ち葉の中でも、ひときわ優美なのはイチョウである。今度は、フランク永井の歌った「公園の手品師」が頭の中で流れ始める▽<秋がゆくんだ冬がくる 銀杏は手品師 老いたピエロ>。長い影を引き連れ、散歩の足が伸びる。

光太郎の引用部分は、昭和18年(1943)に書かれた「八木重吉詩集序」から。ただ、戦時ということもあり、この時点では刊行に至りませんでした。

早世した八木重吉と光太郎、直接出会ったことはなかったようですが、当会の祖・草野心平らを通じ、その詩業に触れていたようですし、八木の未亡人・登美子とは交流がありました。

昨日までは季節はずれの暖かさでしたが、今日からは一転して平年並みの気温となっていくようです。秋も深まりつつありますね。

画像は自宅兼事務所の庭の紅葉です。
KIMG4499

【折々のことば・光太郎】

山岸氏の侠気は厚く謝するところなり。彫塑の上のみならず、文学上にてもかゝる方面に知人あるは最も都合よきことなればうれしともうれし。


明治36年(1903)4月2日の日記より 光太郎21歳

「山岸氏」は山岸荷葉。先日も書きましたが、光太郎より7歳年上の作家です。光太郎が五代目尾上菊五郎の肖像彫刻を作るに際し、いろいろと骨折ってくれました。

人脈が広がってゆくのを喜ぶ光太郎。当方も常々それを感じています。

3件ご紹介します。

まず、『読売新聞』さんの朝刊一面コラム、10月24日(土)の掲載分

編輯手帳

来年の干支(えと)「丑(うし)」にちなんだダルマ作りが神奈川県平塚市の製作所でピークを迎えているという。本紙オンラインが着色の済んだ縁起物の写真を掲載していた◆「牛の歩みのように、ゆっくりでも前に進める年に」と主人の荒井星冠さん。まさにそうですねと相づちを打ちつつ、高村光太郎の詩「牛」が頭に浮かんだ。<牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く>と始まる◆のろのろとさえ行きたいところへまっすぐに進めなかったのが、残り2ヵ月となった2020年だろう◆春先を振り返ると、本当にあったことなのかと疑いたくなる。学校が休みになり、家から出るなと言われ、患者数の増加や亡くなる方の訃報に触れて過ごす日々――一時はみんなで迷子になったかのような不安が暮らしを取り巻いた◆コロナ禍はまだ去ってはいないものの、何とかすべく足を踏み出していることは確かだろう。光太郎の詩には次の一節がある。<ひと足、ひと足、牛は自分の道を味はつて行く>。のろのろであれ、歩いてよかったと思える来年になるといい。

同じ読売さん、夕刊の一面コラム「よみうり寸評」でも、先月、「牛」を取り上げて下さいました。引用されている詩「牛」全文はこちら。全部で115行もある長大な詩です。

続いて『日本経済新聞』さん。舞踊家・俳優の麿赤兒さんご執筆のコラム的記事。10月22日(木)に掲載されました。

ジャポニズムあれこれ 舞踏家 麿赤兒

昔見た映画でちょっとした感慨を覚えた事がある。イギリス映画だ。おそらく、ロンドン、パリ万博辺りの時期が舞台となっているようだ。ある演出家が、何やら自分の創作意欲も失せて落ち込んでいた。見かねた奥さんが、気晴らしに博覧会に行こうと誘う。渋々連れ立って出かけたが、何を見ても興味を唆らない。その内、日本の芝居を演っている場所に来た。少しは惹(ひ)かれたか、しばらくボンヤリ観ていると、コレだと何やら閃(ひらめ)いた。突然、明日からレッスンだ準備にかかる!と急ぎ足。

翌日、稽古場に呼ばれたのは昨日の舞台に出ていた端役の娘たち。島田髷(しまだまげ)に粗末な着物、素足に日和下駄。なんのことやらと、手を口元にモジモジと恥ずかし気。その姿をじっと見ていた例の演出家、娘たちにそのまま向こうからこちらに歩いてくれと指示を出す。言われた通り、カラコロカラコロ内股小走りに、中腰ナヨナヨ柳腰。そこに同じく集められた、タイツにレオタード姿のバレエダンサーたち数人。演出家が、娘たちのステップと動きをマスターせよと指示を出した。長い足、腰の高い彼女たちにはなかなか難儀だが、一心不乱の姿はなんとも微笑ましくも滑稽だ。この演(だ)し物が喝采を浴びたかどうか、おそらく成功しなかっただろう。残念ながら映画としての最後も記憶していない。

だが私は、この演出家の視点は好ましく面白いと思った。娘たちの歩行や姿態を舞踊の1メソッドとしてとらえようとしていたからだ。より追求すればチュチュ姿でも異化効果を起こし、斬新な技法のひとつになったかも知れぬ。娘たちにとっては日々の生活習慣のなかで無意識に会得された様態だ。和服としての着物の拘束があり、裾が乱れないためには自然に内股で小幅の一歩一歩が求められる。親の躾(しつけ)もさることながら、何かと恥じらう娘の年頃にもなれば自ずとそうなる。演出家もそこまで思い至らなかった。そこで私は土方巽が、秋田の農民の「ガニ股」をメソッド化して、世界のダンスシーンに衝撃をもたらしたことを連想したのだ。

ロンドンやパリでの万博を機に、鎖国久しい謎の国からベールを脱いだ出品物はエキゾチシズムをかき立て、それ以上にジャポニズムなる言葉を生み出すほどの熱を帯びだした。工芸品は職人たちに、浮世絵は錚々(そうそう)たる画家たちに深く影響を及ぼした。それからは文明開化の波に乗り、欧米への芝居、舞踊の興行も敢行された。川上音二郎、貞奴を先駆けに数年後、花子の劇団が渡欧し各地で公演、喝采を浴びている。これらにも名だたる芸術家が立ち会っている。「フジヤマ」「武士」「ゲイシャ」は北斎、広重の絵、音二郎、貞奴の芝居等で日本の象徴になる要因にもなったとも言える。

マルセイユでロダンが花子の芝居を見て、その苦悶(くもん)の表情に心打たれ、モデルとして招き、作品をいくつも制作した。ちなみにロダンは、その何年か前に貞奴にもモデルを頼んだがすげなく断られたそうだ。いずれにせよ彼を惹きつけた引力の秘密には興味が湧く。他の名だたる芸術家にもそれは言えることだ。そういえば、映画監督の岩佐寿弥氏によるTVドラマ「プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子」(1995年)に我が舞踏団の舞姫であった古川あんずが花子の役で出演した。私は高村光太郎役でチョット、ヨロシク。

そして私は、引力の秘密は何か、と問い続けている。100

花子」は本名太田ひさ。確認できている限り、ロダンの彫刻モデルを務めた唯一の日本人です。そのため、昭和2年(1927)、ロダンの評伝を書き下ろしで刊行するに際し、光太郎が岐阜にいた花子のもとを訪れてインタビューも行っています。平成30年(2018)には、岐阜県図書館さんで「花子 ロダンのモデルになった明治の女性」展が開催され、光太郎から花子に宛てた書簡や名刺なども展示されました。その折りに、関連行事として、上記『日経』さんで紹介されている、平成7年(1995)テレビ朝日さん制作の「プチト・アナコ~ロダンが愛した旅芸人花子~」の上映があり、当方、拝見して参りました
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それにしても麿さん、川上貞奴がロダンのモデル依頼を断ったというエピソードをよくご存じだな、と感心しました。

明治43年(1910)、雑誌『婦人くらぶ』に掲載された光太郎の散文(談話筆記?)「美術家の眼より見たる婦人のスタイル」より。

ロダン先生とマダム貞奴について面白い話を聞きました。ロダンといふ人は誰れにも知られてゐるとほり近代の大彫刻家ですが過般(いつぞや)例の女優の貞奴を彫刻にしたいと云ふことでそれを申込んだのです。ところが、貞奴はその画室に招かれることを厭(きら)つたのか其れとも他に事情があつた為ですか、兎に角断わつてしまつたと云ひます。大変に惜しいことをしました。ロダン先生の手で、日本人を彫刻にしたと云へば、如何(どんな)に興味の深いものだつたでせう。私どもから云へば、ロダン先生が東洋の人種を芸術の上に如何(どう)観られるか、どんなに表はされるかが知りたかつたにも拘はらず、永久に失望しなければならぬやうになりました。

実はこの時すでに花子がロダンのモデルを務めていたのですが、光太郎はこれについてはまだ知らなかったようです。

さて、もう1件。10月21日(水)、『千葉日報』さんから

【千葉まちなかアート】「千葉発祥の地」でアートと歴史堪能 亥鼻山の彫刻・石碑 (千葉市中央区)

 千葉県文化会館を核に文化施設が集まる亥鼻山(千葉市中央区)には、有名彫刻家が手掛けた屋外彫刻や石碑が点在。木々に囲まれた自然の中を散策しながら、アートと歴史を堪能できる。
 同会館の西側玄関前の広場で目を引くのは、カラスをモチーフにしたブロンズ像「道標」。柳原義達(1910~2004年)の著名なシリーズ作品で、荒々しく形作られた体や存在感のあるくちばしには、野鳥ならではの生命力の強さがみなぎる。風雨にさらされ経年劣化も激しいが、かえって命の凄みが強調されて見えるから不思議だ。
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 階段を上って庭園に出ると、耽美(たんび)な雰囲気にあふれた膝立ち姿の裸婦像に出合う。これはロダンの影響を強く受けた荻原守衛(1879~1910年)の最晩年の作品「女」(10年)。東京国立博物館所蔵の原型は国の重要文化財に指定されている。なお、台座は千葉大教育学部跡記念碑で、この地が同学部の創設の地であったことを伝える。
 庭園には佐藤忠良(1912~2011年)のブロンズ像「女・夏」、同じく佐藤作品で教育関係者の慰霊碑「教育塔」と一体となった「冬の子供」もある。
 隣接する亥鼻公園に抜けると、小田原城をモデルにした市郷土博物館の傍らで、この地に居城を構えた千葉氏の中興の祖、常胤の騎馬像が風格を放つ。近くの甘味処で名物の団子とお茶を味わいながら、この文化の薫る地が「千葉発祥の地」でもあることに思いを馳せるのも悪くない。

昨日も触れました、光太郎の親友・碌山荻原守衛の代表作「女」。いくつも鋳造されていまして、そのうちの1点が千葉市でも屋外展示されています。

柳原義達佐藤忠良は、光太郎より一世代あと、直接光太郎に師事したわけではありませんが、光太郎のDNAを受け継いだと言っていいでしょう。

亥鼻山、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】004

思想の伸張、輿論指導などに新聞の果す使明と影響は極めて大きいものがあるが小新聞にはこうした編集方針と全然変つた行き方を望みたい


散文「希望 親切な案内役を」より
 昭和23年(1948) 光太郎67歳

地方紙『花巻新報』に掲載されたもの。同紙は『岩手自由新聞』『岩手大衆新聞』『読む岩手』を統合して誕生した地方紙ですが、戦前にあった『花巻新報』の名を踏襲しました。その創刊号(というか復刊第一号というか)に載ったおそらく談話筆記です。「使明」は明らかに「使命」の誤植です。

題字は光太郎が揮毫し、昭和35年(1960)の終刊号まで使われました。創刊号(復刊号)のコラム「伯楽茸」でこの題字に言及されています。

◆本紙の題字は高村光太郎先生の筆だが、先生は本職の木彫のほか詩文、書画にも最高境地を示す日本文化界のえがたい宝だ◆稗貫郡太田村山口部落の山中に農民の飾りない敬いと親しみをうけて手作りの小家で天地草鳥を見つめ世界の大勢を案じている姿には大芸術誕生の脈動を感ずる◆所が世間はガサツなもので「私は遠方の者ですが、今度この辺へ用字があつて来たので一寸ツイデに寄りました」ナドと、寸暇をおしんで芸術に精進する老先生の大切な時間をムダにさせる文化人があるなどは、同じ「文化人」でも原子爆弾と竹ヤリほどのちがい

「用字」は「用事」の誤植ですね。

新聞記事等2件ご紹介します。

まず『岩手日報』さん。昨日掲載分で、花巻高村光太郎記念館さんでの光雲作「鈿女命」像展示について

高村親子の作品花巻に 光雲の木彫像を展示 孫が寄贈、特徴色濃く 光太郎記念館

009 花巻市太田の高村光太郎記念館(佐々木正晴館長)は23日まで、彫刻家で詩人の光太郎の父で、日本近代彫刻界の礎を築いた光雲(1852~1934年)の木彫像「鈿女命(うずめのみこと)」を展示している。1月に光雲の孫で一橋大名誉教授の藤岡貞彦さん(85)=横浜市=が寄贈。光太郎が疎開した地に、日本を代表する彫刻家親子の作品が初めてそろった。
 題材は日本神話の天鈿女命。天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸にこもり世界が暗闇になったが、天鈿女命が踊りを披露して天照大神が岩戸の隙間から顔をのぞかせた逸話がモチーフとなっている。
 木彫像は桜材の一木造りで高さ33㌢。作品には光雲の銘がなく、緻密な仕上げも施されていないことから、習作や制作途中だった可能性が高い。しかし、躍動感のある身のこなしや着物の細やかな意匠など光雲の木彫像の特徴が色濃く表れている。
 木彫像を入れる箱には光太郎の自筆で「男 光太郎 識」と書かれており、間違いなく光雲の作品であることが示されている。1935(昭和10)年前後に光太郎が使っていた「光」の文字が彫られたはんこも押されている。
 藤岡さんは、光太郎の弟に当たる父から遺産として木彫像を相続。「記念館は光太郎さんが移り住んでいた場所にあり、作品を譲るのに最もふさわしい」と寄贈を決めた。
 同館は午前8時半~午後4時半で、会期中は無休。入場料は一般350円、高校・学生250円、小中学生150円。問い合わせは同館(0198・28・3012)へ。


他紙等で既報の記事は以下の通り。『朝日新聞』さん『岩手日日さん』と『河北新報』さんIBC岩手放送さんNHKさん

展示は23日(水)までです。


まったく別件ですが、『読売新聞』さんの夕刊1面コラムに光太郎の名が。9月16日(水)掲載分です

よみうり寸評

「牛」という詩の冒頭で高村光太郎はその特徴を挙げた。〈のろのろと歩く〉と。だが意志は強い。〈牛は後(あと)へはかへらない/足が地面へめり込んでもかへらない〉◆政界でまず連想されるのは鈍牛と呼ばれた大平正芳元首相だが、この人の経歴も牛の歩みに重なろう。午後の国会で首相に指名される運びの菅義偉氏である。47歳で国政に進出するまでの半生はすっかり知れ渡った◆牛は力も強い。詩人はいう〈弾機(ばね)ではない/ねぢだ/坂に車を引き上げるねぢの力だ〉。バネが跳ね上げるようだった前政権の手並みを思う。アベノミクスで景気を一気に回復軌道に乗せたが、近頃はバネの伸びも案じられた◆先の連想から菅氏の身上はネジの力にあるとも考えられよう。地方創生、財政再建等々、粘り強さを生かすにはあつらえ向きの中長期的課題が待ち受ける。ただしコロナ禍という眼前の関門を越すにはバネの力が欠かせない◆新政権の本領はネジかバネか。その船出にあたり、両方の力を併せ持つに違いないと願望を記す。

さすがに前政権のおぼえめでたかった同紙だけある論調ですね。

引用されている詩「牛」全文はこちら


【折々のことば・光太郎】

新しい時代感覚を持たなければ、世の中の指導者になる資格がありません。時代という流れは大きな力を持っています。

談話筆記「高村光太郎先生説話 六」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳
だ、そうです、新総理。

新着情報紹介に戻ります。本日は岩手県からのニュースを2件。

まずは花巻高村光太郎記念館さんで先週はじまった展示「光太郎の父 光雲の鈿女命(うずめのみこと)」について、IBC岩手放送さんがローカルニュースで報じて下さっています。  

高村光太郎の父・光雲の木像 初公開/岩手・花巻市

 岩手ゆかりの詩人で彫刻家の高村光太郎の父・光雲が手掛けた作品が、花巻市の高村光太郎記念館で初めて公開されました。
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こちらが高村光太郎の父で、仏師であり近代彫刻の巨匠と言われる高村光雲の作品「鈿女命」です。
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高さは33センチ、サクラの木を材料とし、今から80年以上前に制作したとみられています。
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この木像は、光雲の孫で、光太郎の甥にあたる横浜市在住の藤岡貞彦さんが所有していたもので、今年1月に花巻市に寄贈されました。木像は日本神話の中で天照大神が天の岩戸に隠れた際、その前で踊って大神を誘い出した神が題材で、微笑みながら優雅に舞っている様子が表現されています。
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(高村光太郎記念館・佐々木正晴館長)
「光雲の木彫りの特徴が随所に色濃く出ている細かい衣装とかをご覧いただきたい」
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このほか、木像が父・光雲の作品であることを証明する光太郎直筆のサインが書かれた木箱も一緒に展示されていて、高村親子の作品に対する思いを身近に感じることができます。
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展示会は今月23日まで開かれています。
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ついでに同じ件で、地方紙『岩手日日』さんに先月載った記事。
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関連行事としての当方の講座についてもご紹介いただきました。多謝。

別件で、やはり花巻からのニュース。地方紙『岩手日報』さんの記事です。 

花巻温泉、修学旅行受け入れ本格化 県内小中の予約大幅増

 新型コロナウイルスの影響で修学旅行の「県内志向」が強まる中、花巻市の花巻温泉(安藤昭社長)で県内小中学校の受け入れが本格化してきた。

 2日は第1陣となる岩泉町の小川小が宿泊。予約は19校(同日現在)と昨年度の3校から大幅に増加した。感染リスクが比較的低い県内で、宮沢賢治や高村光太郎ら偉人ゆかりの地としてクローズアップされている。

 小川小は当初、公共交通機関を使って仙台方面を計画していたが、感染リスクを考慮し貸し切りバスで移動できる県内に変更。6年生12人が国語の授業で学んでいる賢治ゆかりの地を巡った。

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だるまみたいな(笑)着ぐるみは、花巻温泉さんの公式キャラクター「フクロー」だそうです。

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賢治の一族が創業に関与し、桜並木や花壇の設計は賢治が行って、さらに光太郎もたびたび宿泊した花巻温泉さん、近代的なホテルが建ち並び、こうした需要にはうってつけのように思われます。

子供たちに郷土の魅力について理解を深めてもらうというコンセプトもいいと思います。コロナ禍収束/終息後も続けて欲しいものですね。そしてできれば全国から受け入れていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は絵画の立体化ではない。その胚胎からして別種である。彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の触覚、此れを深くしては心の触覚。此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。
散文「彫刻について」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「心の触覚」、いい言葉ですね。

青森十和田湖畔で今日まで開催されている「第55回十和田湖湖水まつり2020」。例年ですと光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップや、花火の打ち上げがあったのですが、今年はコロナ禍のため代替措置として実施方法が大きく変わりました。

地元の報道から。

まずはNHKさんのローカルニュース。 

十和田湖の夜空をランタンが彩る

和紙でできたランタンの明かりをともして夜空に上げる催しが28日夜、青森県と秋田県にまたがる東北有数の観光地、十和田湖で開かれ、およそ200の光が夜の湖畔を照らしました。

十和田湖畔では毎年夏に花火が打ち上げられ大勢の観光客が楽しんでいますが、ことしは新型コロナウイルスの影響で中止となってしまいました。
そんな中、少しでも夏の十和田湖を楽しんでもらいたいと地元の観光業者などで作る団体は、事前に予約した人だけに見物客を限定し、受け付けの際に客の体温を測ることを徹底するなどの感染対策を取った上で、ランタンで夜空を彩るイベントを企画しました。
28日夜は県内外からおよそ450人の見物客が集まり、午後7時半すぎに高さ50センチ、幅35センチの和紙でできたランタン219個が一斉に夜空へと浮かび上がりました。
ランタンにはヘリウムガスが入れられていて、十和田湖畔はランタンのランプのオレンジや青の明かりで幻想的な雰囲気に包まれ、訪れた人たちは写真を撮るなどして夏の終わりのひとときを楽しんでいました。
地元の青森県十和田市から来た女性は「とてもすてきな光景で『インスタ映え』すると思います」とうれしそうに話していました。
イベントを主催した団体は天気がよければ29日と30日も夜空にランタンを浮かべることにしています。

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続いて地方紙『デーリー東北』さん。 

幻想的ランタン、コロナ終息願い/十和田湖

 十和田湖湖水まつりが28日、十和田市の休屋地区を主会場に開幕した。恒例の花火大会の代わりに、新型コロナウイルスの終息に願いを込めた約220個のスカイランタンが打ち上げられ、来場者が夏の夜空と湖面に映える幻想的な明かりに酔いしれた。
 スカイランタンとは、空に飛ばす紙製の小型熱気球。同まつりでは、光源にオレンジ色と青色の発光ダイオード(LED)を使用した。
 打ち上げには、来場者ら約470人が参加。願い事を書き込んだ短冊と一緒にスカイランタンを夜空に放った。
 家族4人で訪れたという十和田市東十二番町の会社員鳥谷部昌平さん(28)は「生まれたばかりの次女の成長を願った。思うように外出ができない夏だったが、いい思い出ができた」と笑顔。長女の結唯夏さん(7)も「ディズニー映画みたいで、とてもきれい」と夢中で空を見上げていた。
 打ち上げは29、30の両日も午後7時半から実施する。

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同じく『東奥日報』さん。 

明るい未来 願い舞う/スカイランタン 十和田湖でイベント

 湖面と夜空を彩る幻想的なあかり-。十和田湖畔休屋で28日、オレンジやブルーの「スカイランタン」を飛ばすイベントが行われた。午後7時半の合図で新型コロナウイルス収束などそれぞれの願いを込めたランタン約220個が宙に舞い、参加者や観覧者約500人が柔らかな灯を見つめた。
 十和田湖湖水まつり実行委員会(小野田金司会長)が、新型コロナウイルス感染予防のため、恒例の花火大会の代替イベントとして企画。ランタンは和紙製で発光ダイオード(LED)を内蔵し、縦横30センチ、高さ50センチで、飛び去ってしまわないよう細い糸が付いている。
 同日は波風が立たず、絶好のコンディション。太陽広場と秋田県との県境・桂ケ浜を会場に、ランタンの光が闇夜を照らした。八戸市の無職富塚榮子さん(81)は「新型コロナの沈静と医療従事者の身体の安穏を祈った。思いを込められるイベントに参加できてうれしい」と話した。
 イベントは30日まで連日行う。参加チケットと無料の同行者チケットは完売したが、会場外から見物できる一般観覧者向け無料チケットはある。問い合わせは十和田湖観光交流センターぷらっと(電話0176-75-1531、午前9時~午後5時)へ。

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ところで、ランタン。静かにブームとなっていますね。来月には智恵子の故郷・福島二本松に聳える安達太良山でも行われます。明日はそのあたりを。

しかし一方で、十和田湖でもそうですし、全国的に例年行われていた花火打ち上げが無くなり、花火師の皆さんは苦境に立たされているそうで……。 

花火の役目「人の心明るく」/コロナで苦境 十和田の業者、活路探る

009 漆黒の夜空に、色鮮やかな「光の絵の具」で大輪を描く花火職人たち。この夏は新型コロナウイルス感染症の影響で、全国的に花火大会の自粛が相次いだ。青森県十和田市の打ち上げ業者「青森花火」(芳賀克司社長)も収益が前年比で大幅に減るという苦境に立たされているが、「いつの世も花火には、人々の心を明るくする役目があるはず」との信念を持ち、活路を見いだそうと奮闘している。
 「1月のイベント『十和田湖冬物語』では、例年通りの花火を打ち上げたが、その頃から中国などの観光客来日に規制がかかり、何となくコロナの暗雲を感じていた」と同社専務の野村孝さん(39)は振り返る。
 花火打ち上げは観覧者の「3密」を引き起こしかねない-と言われ、同社が予定していた花火大会も5月の時点で大小合わせて約40件が中止になった。
 「電話が鳴る度に、またキャンセルかと恐怖を感じた。小中学校の運動会の実施を告げるノロシ(号砲)も、約200発がキャンセルに」。数十人のスタッフに、野村さんは「今年は仕事がなく申し訳ない」と頭を下げた。
 そんなさなか、全国の163業者が心を一つにして「コロナ収束、悪疫退散祈願」サプライズ花火を、6月1日午後8時ちょうど、各地で一斉に打ち上げるイベントが行われた。費用は各社の持ち出し。青森花火は十和田湖畔と八戸市の2カ所を担当し、数十万円を負担した。
 「この企画には、即答で参加を決めた。コロナとの闘いの最前線に立つ医療従事者への感謝という趣旨に賛同したし、先が見えない状況に苦しむ街の人たちを元気づけたいと思った。それに、私たち自身も打ち上げの機会を与えていただき励まされた。本当にありがたかった」と力を込める野村さん。
 これがきっかけになり、「3密」回避に留意した小規模の花火打ち上げが8月までに10回以上あったという。野村さんは「エンターテインメント性は低くても原点回帰という気がする。花火はかつて、地域の神社などで人々の祈りとともに打ち上げられた。コロナの時代に合った新しいスタイルとなるかもしれない」と話している。
(『東奥日報』 2020/8/25)

コロナ禍収束/終息への思い、花火やランタンと共に天に届いてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

相変わらず甲板に出て石鹸の泡のやうな舷側の波を飽かず眺めてくらした。波といふものはいくら見てゐても面白い。

散文「海の思出」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

明治41年(1908)、ニューヨークから大西洋を渡ってイギリスへと向かう、ホワイトスター社の豪華客船オーシャニック号での一週間の船旅の回想です。

大西洋とは比ぶべくもありませんが、十和田湖の遊覧船に乗った際のことを思い出しました。

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『朝日新聞』さんの岩手版に以下の記事が載りました。 

岩手)光太郎の心、今も 東京で空襲、賢治の縁で疎開

000 岩手県花巻市の中心市街地から南西へ10キロ余り。旧太田村山口の雑木林の中に、彫刻家で詩人の高村光太郎が戦後の7年間を暮らした山荘がある。杉皮ぶきの屋根に板戸、畳3畳しかない粗末なこの小屋に光太郎を導いたのは、宮沢賢治との縁、そして2度の空襲だった。
 1945年4月13日の空襲で東京文京区千駄木の自宅兼アトリエを失った光太郎は翌月、花巻の宮沢家に身を寄せた。賢治の死後に全集や詩碑の建立に尽力した光太郎。それに感謝した賢治の父・政次郎の招きや賢治の主治医・佐藤隆房らを頼っての疎開だった。
003 そのわずか3カ月後、今度は花巻空襲で宮沢家を焼け出され、11月に知人らが世話をしてくれた山口の山荘に移り住んだ。
 冬は零下20度、すきま風や吹雪も舞い込む山荘で7年間も暮らした理由はよくわからない。戦時中、日本文学報国会の詩部会長を務め、多くの戦争協力詩を書いた「自責の念」からの蟄居(ちっきょ)だったとも言われる。ここで自らを省みる詩集「暗愚小伝」も書いている。
 ただ、周囲の知人には「私は静かな山の生活が好きなのです」とも話し、農耕にいそしみ、地域と深く交流もした。ホームスパンを指導し、小学校ではサンタクロースにも扮した。
001 光太郎との記憶は今も残る。農家の三男、藤原秀盛さん(93)は14歳から東京・蒲田の軍需工場で働き、大空襲の火の海の中で九死に一生を得て故郷の太田村に帰り、20歳で開拓に取り組んだ。痩せ地で大豆も実らぬ厳しい暮らし。仲間と気晴らしに郷土芸能のカセ踊りを舞っていたある夜、後ろからついてきた「乞食(こじき)じいさん」が光太郎だった。「いい笛の音色だ。十二支踊りの面をつくって郷土芸能にしよう」と語ったといい、新しい文化の灯をともそうとしてくれた心に藤原さんは思いをはせる。
 渡辺安蔵さん(87)は48年春、光太郎に招かれて山荘に遊びに行った。前年の秋、光太郎と顔見知りだった義父に「外で待っているから米けてやれ」と命じられ、一升を届けたのが出会いだった。「白いひげに法被姿。最初はホイド(乞食)かと思った」
 山荘で、光太郎は外国に行った経験や向こうの子どもの話をしてくれた。日が暮れ、「家さ帰る」と別れを告げると「胸を出してごらん」と言われた。光太郎は大きな手の指先で胸に文字を書き、「心という字だ。『シン』とも読むんだ」と言って送り出してくれた。「本当に温かく、人を引きつける人でした」
002 人と自然を愛し、地元の中学校には「心はいつでもあたらしく」の書を送った光太郎は52年、依頼された十和田湖乙女の像の制作のため、山荘を離れた。「仕事が終わったら山口に帰る」と繰り返していたという。持病の肺結核が悪化し56年、東京で帰らぬ人になった。享年73歳。
 花巻市では毎年5月、山荘で光太郎をしのぶ高村祭が続く。花巻高村光太郎記念会の高橋邦広事務局長は「戦後の苦しい時代、光太郎先生が地域に残してくれたものはかけがえがない宝。『心はいつでもあたらしく』は、生きる指針です」と話した。(溝口太郎)

今年は戦後75年という節目の年で、各種メディア、例年より戦争特集的な企画が多かったように感じました。この記事もそうした流れの一環かな、と思います。やはりあの戦争による戦後をどのように過ごしたのか、という点に於いて、岩手での光太郎の生き様は一つの指針となるのではないでしょうか。

岩手での光太郎の生き様、といいますと、岩手のローカルテレビ局・いわてめんこいテレビさんで、8月29日(土)、「智恵子さん、岩手は気に入りましたか、好きですか?~高村光太郎の山小屋暮らし7年~」という1時間の特番を放映して下さるとのこと。

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高村光太郎の山小屋暮らし7年」といいつつ、智恵子の故郷・二本松でのロケも敢行されています。そちらは明日、ご紹介します(なにぶん、ネタ不足は相変わらずなもので(笑))。


【折々のことば・光太郎】

あの詩集の内容を考えると一つの告白といつたもので文学賞をもらうようなものではなかつた。だから感想といわれても困る。それに年も年だから賞をもらつても感激するということもない。

談話筆記「賞を受けて」より 昭和26年(1951) 光太郎69歳

016「あの詩集」は前年刊行の『典型』、「文学賞」は第二回読売文学賞です。

『典型』は、自らの半生を顧みた連作詩「暗愚小伝」20篇を含む、生前最後の詩集(「選集」等を除いて)。光太郎の詩集というと、第一詩集『道程』(大正3年=1914)や、ベストセラー『智恵子抄』(昭和16年=1941)に注目が集まりがちですが、「到達した境地」ということを考えると、『典型』こそがその総決算であるといえます。

しかし、賞を貰うようなものではないというわけで、このような談話。さらに、当方手持ちの、親しかった詩人の川路柳虹にあてた葉書にも、「拙詩集のプリーはくだらんです。もつと若い人にやるべきだつたと思ひます。」としたためました。「プリー」は「グランプリ(Grand Prix)」などの「Prix」。「栄誉」、「賞」などを表します。

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光太郎、賞金五万円は山小屋近くの山口小学校や地元青年会などにそっくり寄付してしまいました。

8月23日(日)、安曇野市豊科近代美術館さんでの「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」を拝見後、次なる目的地へ。長野県は光太郎ゆかりの人物の記念館等が多く、これまでも何かあって長野に行った際には、ほぼ必ずメインの目的地以外にもう1カ所廻ることにしてきました。

今回は諏訪市の信州風樹文庫さん。

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基本的には図書館的な施設なのですが、「岩波茂雄記念室」が併設されています。

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岩波茂雄は岩波書店の創業者。同社と光太郎の縁は深く、昭和8年(1933)に「岩波講座世界文学」シリーズの『現代の彫刻』を書き下ろしで単独執筆し、同シリーズ中の『近代作家論』(6人による共著)ではベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの評伝を寄せています。また、昭和30年(1955)には美術史家の奥平英雄の編集で『高村光太郎詩集』が岩波文庫のラインナップに組み込まれた他、光太郎歿後、『ロダンの言葉抄』(同35年=1960)、『芸術論集 緑色の太陽』(同57年=1982)も同文庫で刊行されました。さらに、同社刊行の雑誌『図書』にも寄稿しています。

そんな縁から、昭和8年(1933)には、ミレーの「種まく人」をあしらった同社のロゴマークの制作を、岩波が光太郎に依頼しています。ところが光太郎作のものは不採用。しかし、そのあたりの経緯が不分明となっているようで、同社では光太郎作ということで通しています。

また、昭和17年(1942)には、岩波書店店歌「われら文化を」の作詞を光太郎が手がけました。作曲は「海ゆかば」などで有名な信時潔でした。各地の学校の校歌作詞を何度依頼されても、その都度かたくなに拒んだ光太郎ですが、岩波の店歌は例外だったようです。ちなみにもう一つの例外が、戦後の昭和26年(1951)に作った「初夢まりつきうた」。こちらは岩手花巻の商店街の歌的なものです。

記念室では「われら文化を」の紹介もありました。ただ、光太郎自身の筆跡ではありませんでしたが。

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ただ、抜粋でした。作詞が戦時下ということもあり、上記以外に「あめのした 宇(いへ)と為(な)す、 かのいにしへの みことのり。」「おほきみかど のりましし かの五箇条の ちかひぶみ。」といったキナ臭い文言が並んでいるのですが、そこはカットされています。

その他、記念室には岩波の遺品類、書簡類、岩波書店の資料などもいろいろ並んでおり、興味深く拝見しました。特に「おっ」と思ったのは、岩波文庫の巻末に必ず載っている「読書子に寄す」の紙型。

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紙型というより、金属活字の版というべきでしょうか、並べた活字を木枠に収めた状態で展示されていました。

000ところで、高田博厚と岩波の縁も深いものがあります。高田がまだ若造だった大正11年(1922)、岩波書店から『ミケランジエロ伝』の翻訳を上梓しました。原典著者はアスカニオ・コンディヴィ。この翻訳依頼は、はじめ光太郎にもたらされたのですが、光太郎は「ミケランジェロなら、高田という若者が詳しい」と、高田を岩波に紹介しました。もっとも、光太郎、英語や仏語と異なり、イタリア語にまでは通じていなかったためということも考えられますが。

その他にも、高田の著書が岩波書店から複数出版されています。そんなこんなで、高田は岩波の肖像も作っています。「高田博厚生誕120年記念展―パリと思索と彫刻―」でも展示されていました。

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さらにいうなら、戦後の昭和35年(1960)、岩波文庫のラインナップに入った光太郎訳の『ロダンの言葉抄』。編集は高田、それから高田同様に光太郎を敬愛していた彫刻家の菊地一雄です。いろいろ不思議な因縁があるものですね。

さて、風樹文庫さんをあとに、すぐ近くの小泉寺さんという寺院へ。

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こちらの一角に、岩波の生家があったそうで。

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建物はもはやありませんが、やはり岩波と縁の深かった安倍能成の筆になる石碑が建っていました。

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曰く「低処高思」。ワーズワースの詩集から採られた岩波の座右の銘の一つだそうです。原文は「Plain living and high thinking」、「質素なる生活、高遠なる思索」といった意味だとのこと。そういえば、光太郎にも「低きに居む」などの言葉があります。

それにしても信州のこの地域、他にも筑摩書房の古田晁臼井吉見など、光太郎と縁の深かった気骨の出版人を多く輩出しています。そういった土地柄なのでしょうかね。ちなみに当方も父方のルーツは信州ですが。

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

さういふ人情をのり越えて必死のことを行ふといふのは、ただわきめもふらずに一番貴いことを行ふといふ根本の精神にばかりいきてゐる清らかな心の者だけにできることである。

散文「神風」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

岩波、そして高田博厚など、「わきめもふらずに一番貴いことを行ふといふ根本の精神にばかりいきてゐる清らかな心の者」と言えるのではなかろうかと思いました。

光太郎智恵子の名は出て来ないかもしれませんが、ゆかりの地などを扱うテレビ番組、放映日時順に3件ご紹介します。 NHK Eテレ 2020年8月9日(日) 9時00分~9時45分 再放送8月16日(日) 20時00分~20時45分

700点を超える戦没画学生の遺作を所蔵する『無言館』。館長窪島誠一郎(78)が収集をはじめたのは、戦争の記憶の風化が叫ばれた戦後50年1995年のことだった。半世紀の時を越え、若き画家たちの作品と出会った瞬間の衝撃。そこには50年の歳月の重みがあった。絵の中に込められた“熱き思い”と半世紀という時間の中で確実に劣化していく絵の運命。そのリアルを伝えるか。修復家山領まりと窪島誠一郎の戦いを見つめる。

出演 作家/美術館館主…窪島誠一郎 絵画修復家…山領まり
司会 小野正嗣 柴田祐規子

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戦後75年の節目の年らしく、長野県上田市の無言館さんが取り上げられます。こちらは太平洋戦争で亡くなった戦没画学生の遺作・遺品等が展示されています。

作品が展示されている戦没画学生の多くは東京美術学校西洋画科の出身でした。光太郎も留学前の一時期、彫刻科を卒業してから西洋画科に入り直していますので、その意味では光太郎の後輩達です。また、西洋画科以外でも、もろ光太郎の後輩となる彫刻科、さらに光太郎実弟の豊周が教授を務めていた鋳金科出身の人々の作品も展示されていました。中には光太郎の書いた翼賛詩文を読んで奮い立った学生や、ことによると出征前に光太郎のアトリエに挨拶に来たなどという学生もいたかも知れません(無事復員できましたが、画家・深沢省三/紅子夫妻の子息で彫刻科出身の故・深沢竜一氏もそうでした)。

 

なりゆき街道旅【九十九里で夏の海を満喫! 豪華浜焼き&高級魚釣り!癒やしの温泉】

フジテレビ 2020年8月9日(日)  12時00分~14時00分

今週は、個性派女優久保田磨希&ロッチ中岡創一と夏を満喫、九十九里を旅! 中岡の運転でビーチラインをドライブ! 旬のハマグリ、特大岩牡蠣、伊勢海老、アワビと超豪華浜焼き!徳川家ゆかりのパワースポット日吉神社を参拝! 超お得な農業体験スポットでジャンボにんにく&もぎたてトマト…夏野菜収穫! 手ぶらで海釣りが楽しめる関東最大の海の釣り堀で、高級魚ヒラマサが爆釣! さらに白子温泉のしょっぱい湯で体の芯まで癒やされる!

出演者 澤部佑(ハライチ)  豪華ゲスト 他

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昭和9年(1934)、智恵子が半年あまり療養していた九十九里浜が取り上げられます。

この番組、7月5日(日)放映分に、当会会友・渡辺えりさんがご出演。この時期はリモート収録でしたが、上野が取り上げられ、国立西洋美術館のからみでロダン、そしてお父様がロダンを敬愛していた光太郎と交流があったということで、ちらっとそのお話をなさってくださいました。

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当方、その部分は見逃しました。階下で愚妻が「渡辺えりさんが光太郎の話をしているよ!」と教えてくれたのですが、急いで居間に降りていったところ、すでにその話は終わっていました。その後のえりさんの暴走ぶりはしっかり拝見しましたが(笑)。

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もう1件。 

秘湯ロマン

テレビ朝日 2020年8月9日(日)27時00分~27時30分=8月10日(月)午前3時00分~3時30分

日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は栃木県、塩の湯温泉「柏屋旅館」・馬頭温泉郷「元湯 東家」。

◇出演者 旅人 吉山りさ  ナレーション 丸山未沙希

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柏屋旅館さんは、昭和8年(1933)、心の病が昂進した智恵子を連れて、東北/北関東の温泉廻りを約1ヵ月した際、最後に逗留したところです。公式サイトにも光太郎智恵子の名を出して下さっていますので、期待したいところです。岳温泉の回では、光太郎智恵子の名を出して下さいましたし。

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それぞれ、ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

美の深さは測り知れない人間必須の深さである。

散文「飛行機の美」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

雑誌『飛行日本』に載った比較的長い散文からの抜粋です。戦闘機や爆撃機の無駄をそぎ落としたフォルムの美しさを、茶室との対比で語っています。

曰く、「美が物体から遊離してゐるものでなくて、物体そのものの機構が即ち美しいのだといふ原理をよく示してゐる点で、飛行機の美は茶室の美と似てゐる。一方は動の極、一方は静の極でありながら、どちらむ無駄をあくまで除ききつて、其上、その性能を最大限に発揮するやうに工夫されてゐる。かういふ角度から追求された造型物は、欲せずしても美に到達せずにはゐない。

言わんとする所は「用の美」なのですが、戦闘機や爆撃機が殺戮のための兵器であるという視点がすっぽり抜け落ちています……。

『毎日新聞』さんに月1回のペースで連載されている、詩人の和合亮一さんの「詩の橋を渡って」。5月に「智恵子抄」の「あどけない話」を引用下さいましたが、7月の掲載分にも光太郎詩を引き合いに出して下さいました。 

詩の橋を渡って 一瞬で消えてしまう発想

 あなたは真っすぐな視線を

 僕に向けて

 どう生きたらいいのでしょうか?

 と、突然

 「五十年ぶりに詩を書いてみました」との小さなお便りが挟まれていて、興味が湧いて矢澤準二の『チョロス』(思潮社)を読み始めた。「あなたは真っすぐな視線を/僕に向けて/どう生きたらいいのでしょうか?/と、突然」「檸檬(れもん)を切るみたいに/そんなこと急に訊(き)かないでほしい/金色の靄(もや)がたちこめて」。かんきつ類を切った後にたちこめる香気を思い浮かべて新鮮さを感じた。高村光太郎の詩「レモン哀歌」を連想させる詩句である。
 詩の発想は一瞬にして現れてすっと香りが引くように消えてしまうものである。例えば私は毎日のように詩を考えたり書いたりしてきて三十数年程なのだが、一向にその瞬きを捕まえるコツがつかめず悔しい限りだ。「今まで生きてきた中で/一番うれしかったのは/中学一年のころ/母が/狭い家の六畳間を/半分カーテンでしきって/僕の部屋を作ってくれたこと」。なるほど、記憶の引き出しを開けて探すことも一つの方法かもしれない。 書き手の気持ちを貫く<一瞬>の何か。予測など出来るものではない。しかし無意識にキャッチ出来た時、そこにふだんのイメージを裏返してしまうかのような新発見が生まれてくることがある。その偶然の瞬きを信じて日々を見つめる。詩人は五十年の間、気づかないうちにもそれを集めて、再び書き始めたのかもしれない。詩作とはそのような不意の出会いを待ち続けるようにして、長い人生をかけて書き留めていくことなのかもしれない。 宙に浮いている不思議な詩。「地平線まで砂の海で/太陽の落ちるあたりに/小さくシルエットがあって//目を凝らしてみると/それは夕陽(ゆうひ)の中の/ピラミッドの影/つまりそこはお墓で//そうか/そういうことかと」。イメージ遊びの印象だが読後にひらめきの感触がある。何への「そうか」なのか、 はっきりしなくて正しく空に飛ばされた感覚にもさせられるが、しだいにとらえがたい生死の深い実感がユニークに伝わってくる気がした。 末尾の詩にも独特の面白さがある。自分や飼い犬の死をめぐる作品。「自分の終期と犬の終期を/ゆるーく認識して共に生きるというのは/(いい加減じゃなく)/いい湯加減みたいで/いいんじゃないか」。言葉遊びによる無作為な発見が、全体に妙な味わいをもたらしている。思いがけない詩の<一瞬>を求めながらも、暮らしの中で見つけてきた心の「加減」のようなもので、 人生をありのままにとらえていこうとする姿がある。
 杉本真維子の散文集『三日間の石』(響文社)。実力派の書き手の詩に通ずる研ぎ澄まされた言葉が並ぶ。そして随所にユーモアの妙味も。菓子袋などを歯でかじって開ける家族の習慣があるが、家の外でも何度かやってしまい、周囲に驚かれたという話にひかれた。「人を慌てさせるような『野蛮』の出現。そのイビツさのなかに、いまは思い出のなかにしかいない、私の家族が棲(す)んでいる」。日常に顔出す「野蛮」。そこに詩の歯応えがある。  

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紹介されている矢澤準二氏『チョロス』はこちら。「「チョロス」って何?」と思ったのですが、「「チョロスではなくチュロスよ」という妻の声を背に、人生の七十年分を、とぼけた足どりで描く。飄々と、淡々と。」だそうで(笑)。自分も最近、「「ラン・ド・グシャ」ではなく「ラング・ド・シャ」」と娘に指摘されて恥ずかしい思いをしましたが(笑)。まぁ、「竜雷太さん」を「雷竜太さん」と思い込んでいた人よりましかも、と思いますが(笑)。

閑話休題、もう一冊の杉本真維子さん『三日間の石』はこちら

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それぞれご興味のある方、どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

此処の分教場には生徒が三十八人ばかり居り、皆逞しい、いい少年達です。人に会ふと「左様なら」と挨拶します。

散文「若鮎短評」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

雑誌『水脈』第一巻第一号に掲載されました。『若鮎』は祝算之介による散文集。おそらく受贈の礼状がそのまま(あるいは抜粋で)「短評」として載せられたようです。祝は本名・堀越正雄。『水脈』の編集に当たっていました。

人に会ふと「左様なら」と挨拶します。」、和合さん曰くの「詩の発想」「 書き手の気持ちを貫く<一瞬>の何か。予測など出来るものではない。しかし無意識にキャッチ出来た時、そこにふだんのイメージを裏返してしまうかのような新発見」に通じるのではないでしょうか。または、分教場の少年達が長じてから「「左様なら」と挨拶」し、そういう習慣のない人に怪訝な顔をされた時、杉本さんの「菓子袋などを歯でかじって開ける家族の習慣があるが、家の外でも何度かやってしまい、周囲に驚かれた」時と似たような感覚になったのでは、とも思います。

新潮社さんのオンラインショップで見つけました。おそらく新たにラインナップに加わったのかな、と。 

ブックカバーにも便箋にも。使い方はあなた次第の5枚セットです!

新潮社に所縁のある模様+文豪トートと同じイラストの5種類の包装紙を封入。使い方しおり付きです!

・緑の孔雀:
 1914(大正3)年から刊行された第一期新潮文庫の見返しにあしらわれていたマーク。
・金の潮:
 「潮」の文字を図案化したマーク。
 1922(大正11)年、12,016点の応募作品の中から、高村光太郎らの審査員によって選ばれた。
・水色の木と鳥:
 1933(昭和8)年から刊行された第三期新潮文庫の裏表紙にあしらわれていたマーク。
・灰色のぶどう:
 戦後の1947(昭和22)年に復刊された第四期新潮文庫の本扉にあしらわれていたマーク。
・黄色の文豪イラスト:
 芥川龍之介、川端康成、太宰治、夏目漱石、松本清張、三島由紀夫。
 イラストレーター柳智之 による書き下ろし。

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1922(大正11)年、12,016点の応募作品の中から、高村光太郎らの審査員によって選ばれた。」という「「潮」の文字を図案化したマーク」。最後の画像に使われているものです。

筑摩書房さん『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜、大正11年(1922)の項に、光太郎らによる審査という記述がなく、この件は存じませんでした。

また、「こんなデザインがあったのか」という感じでしたが、改めて手元にある新潮社さんの古い出版物を調べてみたところ、随所に使われていました。これまで気に留めていませんで、汗顔の至りです。

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左から、昭和8年(1933)発行の新潮文庫『大正詩選』検印紙。同じ検印紙は昭和2年(1927)の『昭和詩選』、同4年(1929)の『現代詩人全集第九巻』にも使われていました。さらに『大正詩選』では、上記包装紙の別バージョンにあしらわれている「木と鳥」が裏表紙に。

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左から二番目は、昭和28年(1953)刊行の『高村光太郎詩集』(伊藤新吉編)裏表紙。

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右から二番目で、昭和30年(1955)に出た新潮文庫『詩集 天上の炎』検印紙。ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンのもので、光太郎訳です。光太郎の表記では「ヴェルハアラン」ですが。

一番右は、光太郎遺著の一つ、『アトリエにて』(昭和31年=1956)カバー。

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戦後もしばらく使われていたのですね。

さて、「新潮社オリジナル包装紙」、なかなかシャレオツです。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

翁と亡父光雲との対話を傍聴してゐる時は面白くたのしかつた。亡父は耳が相当に遠かったし、翁は純朴な東北弁まる出しであつたから、話は時々循環してその尽くる所を知らなかつた。今や、翁も父も此世に亡い。

散文「『青沼彦治翁遺功録』序」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

青沼彦治は宮城県志田郡荒雄村(現・大崎市)で酒造業を営んでいた素封家。その銅像制作が大正14年(1925)、光雲に依頼され、光太郎が原型制作に当たりました。像は戦時中の金属供出のため現存しませんが、光太郎らの名が刻まれた当時のプレートを貼った台座は残っています。

青沼と光雲の会話の様子、ほほえましいものがあります。「時々循環して」、「あるある」ですね(笑)。

主要紙地方版記事シリーズです。今回は『朝日新聞』さんの岩手県版から。 

(いま聞きたい)大滝克美さん マーケティングから見た岩手の強みは/岩手県

■「行ってみたい」豊富な資源 岩手に移住したコンサルタント

 30年近く岩手に関わってきた、マーケティングコンサルタントの大滝克美さん(53)。一昨年からは県内でペンション経営を始め、埼玉から移住した。人口減少が進むなか、何が人を引きつけるのか。マーケティングのプロの目から見た岩手の強みとは。

――岩手に移住したきっかけは
 コンサルタントの仕事で、もともと10年ほど前から1年の半分ほど岩手に来ていました。少し前に、安比で飲食店の物件を探していた知人から相談を受けましたが契約には至らず、いっそ自分でやってみようと、ペンション経営を始めました。これまでコンサルとしてやってきたことの、いわば実証実験です。2018年夏から岩手に単身赴任し、今年春から家族も移住しました。
――岩手の魅力はどんなところでしょうか
 広い県土、海や山、川、起伏に富んだ土地、歴史、そのバリエーションが強みです。人も多様で個性的。人を引きつける資源が豊富です。それらを、今しかない、行ってみたいというライブ価値に高めていくと、観光の可能性は無限に広がります。
 その場に行ってみたいという本能的な欲求は、例えば、八幡平のドラゴンアイの人気ぶりを見ても根強いものがあります。今年もSNSでは、「(桜などになぞらえ)まだ8分咲き」とか「天気悪く来週もう一度来よう」などと、2度3度訪れる様子が伝わってきました。
――どうアピールすればいいのでしょう
 高村光太郎は「岩手の人 牛のごとし」と記し、寡黙で真面目な面を表現しました。宣伝がうまくないと言われるのも、そうした県民性が底流にある。ただ、それは愛すべき特性で、無理に変える必要はない。私も岩手で仕事をするなかで、「人知れずそんな努力をしていたのか」と驚くことが何度もありました。思慮深く、奥ゆかしいのです。コツコツ努力したという情報をじっくり伝えていくことが、遠回りなようで、岩手らしい王道のような気がします。
 都内の大手百貨店のバイヤーは「北海道や沖縄の物産展は盛り上がりが前半に集中するけれど、お客さんが長く続くのは岩手だ」と言う。魅力を伝え切れていない分、未知の何かがある。だからまた来る、というわけです。観光に置き換えると、岩手に長くいたい、また来たいと思う人が多いということになるので、勝算ありと言えます。
――岩手にとって課題はどこにあると感じますか
 物を加工する力を育てることでしょう。観光の先進地でもある北海道や沖縄、長野などはさまざまなよい商品を出し、価格競争力もあります。岩手の物作りは素材にこだわり、手作りで、デザインに凝っていて品質は高い。けれども生産量や価格に課題があります。豊富な岩手県産原料が県外の製造を支えていることを誇りにしながらも、安定的に供給できる加工業は県内にもっともっと育っていい。
 人口減少との向き合い方も大事です。自治体の地域活性化事業では、成果指標として「定住人口を増やす」と記すことがあります。果たして現実的でしょうか? 市町村の数だけ独自色がある。それぞれの個性を生かして、例えば「30歳代を増やす」「子育て世代を呼び込む」などと戦略的なテーマが必要です。
 「(うちの自治体には良いものが)何もない、どうしよう」と困ることはない。岡目八目、30年近く岩手を見てきてそう断言できます。

 おおたき・かつみ 1966年、新潟県村上市(旧山北町)生まれ。東北大工学部を卒業後、リクルートグループを経て、バブル崩壊後に安比高原でリゾート開発に携わる。97年、マーケティング業へ転身。地方食材ならではのこだわりを重視したブランドづくりや、販売支援を手がけた。2007年に岩手県の産業創造アドバイザーに就任。18年、泊まれるビアバー「安比ロッキーイン」の経営を始め、岩手に移住した。

岡目八目」、なるほど、という感じでした。地域の良さは、他から移ってきた人や、一度離れて戻ってきた人の方が、他の地域との違いもよく分かり、見えやすいようです。

当方も岩手の皆さんとの付き合いが長いせいか、挙げられている岩手県民の美徳的な部分には納得がいきますね。実に堅実にものごとを進め、決して慌てない、といいますか。

しかし、「生き馬の目を抜く」江戸ッ子や、「もうかりまっか?/ぼちぼちでんな」のなにわ商人(あきんど)などからすれば、「まだるっこしい」「もどかしい」と感じることがあるだろう、というのも想像がつきますね。

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光太郎はラジオ放送のために録音したアナウンサーとの対談(昭和24年=1949)で、こんな発言をしています。読みにくいかもしれませんが、すみません。テープから文字起こしをしたそのままですので。

で、岩手が、岩手の大地が好きな、岩手の牛みたいな性格ですね。しっかりものをやって、確かにものをやって、で、のろいですよ、すごく。のろいけれども確かにやるってことは、確かにやる。根本からやるってことは、日本の生活の中に非常に欲しいところなんです。ええ。これは、これまで、明治以来、あんまり文化の進み方を速く急いだから、根本からやるってことはおろそかになった。それでものをしっかりこさえるってことが、どうもうまく行ってない。で、国民性にも、国民性まで、そうなりがちだったですね。かえって、その、昔は、そういうこと、できていたんです。昔の手の周りの道具類とか家具類なんかよく見ると、しっかりできてんですね。明治以来の商品化したそういうものは、もう、すぐ壊れるようにできてる。これじゃ、あの、とてもいけない。で、岩手は、そこ、まだ、その伝統、生きてるんです。

ここでも「牛」のたとえが出ていますね。

この対談の年に書かれた「岩手の人」という詩が元ネタです。既に何度がご紹介しましたが、改めて全文を。画像は花巻北高校さんに立つ、高田博厚作の光太郎胸像の台座に刻まれたものです。

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、006
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

さて、大滝氏のインタビュー。コロナ禍で、東京一極集中の弊害がまた新たに顕現した昨今、示唆に富んだ提言ですね。これから、本当の意味での「地方創成」がさらに進むことを期待します。


【折々のことば・光太郎】008

人間の心の中を、内部を見る。そういう一種の感じをうけたんで、その一つの人間が、同じものが、どこを見ているかわからないが、とにかく向かいあって見合っている――片方は片方の内部で、片方は片方の外形なのです。

談話筆記「「十和田記念碑」除幕式における高村光太郎先生のお話」より
昭和28年(1953) 光太郎71歳

昨日のこの項同様、最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」序幕の日のもので、昨日は新聞『東奥日報』に語った談話、本日のものは式典での挨拶の筆録です。

「霊肉一致」という境地までたどり着いているのかな、という気がしますね。

長野県松本平地区で発001行されている地域情報紙『市民タイムス』さん。時折、一面コラムで光太郎に言及して下さいますが、一昨日も。 

2020.7.5みすず野

こんなに静かな上高地は冬期を除けば初めてだった。ニッコウキスゲやレンゲツツジの花が咲き、梓川の向こうに六百山や霞沢岳がそびえていた。河童橋に都会風の二人連れの姿がちらほら。皆マスクを着けている。山の支度をした人はいなかった彫刻家で詩人の高村光太郎が上高地に滞在して展覧会に出す油絵を描いていた大正2 (1913)年9月、翌年に妻となる智恵子が訪ねて来る。もちろんバスなんか無い時代、 知らせを受けた光太郎は徳本峠を越えて岩魚留まで迎えに行った。その道をたどってみたかったのだ◆明神を経て峠まで7キロほど。さらに岩魚留へ4キロ近くある。恋しい人に会うため、山道を跳ぶ気持ちだっただろう。その思いは終生変わらなかった。 おかげで私たちは詩集『智恵子抄』を手に取り、優しい詩句を口ずさむことができる。〈 あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川〉◆明神池のほとりで、幼い男の子がうれしそうにぴょんぴょんと先へ走り、両親が後ろから見守り歩くのを見た。「坊や幾つ?」と尋ねると、得意げに指3本を立てる。「大きくなったら山へおいで」と願い、峠への登りにかかった。

コロナ禍による人出の減少上高地も例外ではないようですね。経済優先で考えれば大打撃でしょうが、本来の静謐な雰囲気が戻ったという意味では悪くないような気もします。ただ、あまりに閑散、ではやはり困りますが……。


【折々のことば・光太郎】

詩はわたしの安全辨  短句揮毫 戦後期? 光太郎65歳頃?


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大正12年(1923)の詩「とげとげなエピグラム」には、「詩はおれの安全辨」の一節があります。彫刻と詩、二本柱の光太郎芸術でしたが、彫刻は純粋に造形芸術たるべき、喜怒哀楽や思想信条などが反映されてはいかん、と、光太郎は考えていました。そこで、喜怒哀楽や思想信条などは詩で吐露しようとしたのです。

若し私が此の胸中の氤氳を言葉によつて吐き出す事をしなかつたら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢ひ、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。(「自分と詩との関係」 昭和15年=1940)

そういう意味での「安全辨」ですね。

『毎日新聞』さんで昭和29年(1954年)3月から続く読者投稿コラム。「日常の出来事やうれしかったこと、悩みや願い。「時代の心を映す鏡」が読者の高い支持を集めています」だそうです。

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6月17日(水)の掲載分に光太郎の名が。

女の気持ち 道程 山口県下松市・濱田道子(78歳)

 コロナ禍の中で最近亡き父のことをよく思い出す。父は田舎の寺に生まれた。7歳前後の時にスペイン風邪が流行し、病人を寺で看病していたらしく、まず父の父親が、そして1週間後に母親も亡くなった。両親を亡くした父のその後の苦労は想像もできない。
 父は分校の教師の頃、理科の授業で芋あめをなめさせてくれたり、星座を教えてくれたりした。本校に勤める頃は、おんぼろ自転車で1里半の道を通っていた。小学5年生の私は、学校に遅れそうになっては毎日のように途中で父の自転車に乗せてもらっていた。同級生との写真を見せると私が一番素直な顔をしていると母に言ってくれた。 父の弟は海軍の軍人だったが、父は高齢の祖父母の介護をしていて赤紙は来なかった。産めよ増やせよの時代で、8人の子供に赤貧の中で教育を受けさせ、すべて結婚させた。寺があったので、平教師のままで定年を迎えた。
 退職金でしたことは念願の本を何十万円も買うこと。仏教書が多かった。あの時のうれしそうな父の顔は忘れられない。後に母に全部目は通したよと話していた。一生に一度のぜいたく。しかし間もなく、がんを患って亡くなった。 私は端正でありながら、生気のある父の字が大好きである。長男が小学校入学の時に書いてくれた高村光太郎の「道程」の額を見上げながら、コロナ禍が収まる日を祈るように待っている。

このように、光太郎詩は、市井の人々の何気ない日常を支える役割も担ってきたのだな、と、感懐を覚えました。また、改めて、光太郎顕彰への使命感的なことも感じております。


【折々のことば・光太郎】

明治十六年三月、東京下谷に生る。東京美術学校彫刻科出身。与謝野寛氏に就き短歌を学ぶ。一九〇六年三月より一九一〇年迄、紐育巴里等に滞在す。詩集『道程』訳詩集『明るい時』及『ロダンの言葉』等の訳著がある。

雑纂「略歴」全文 昭和4年(1929) 光太郎47歳

改造社発行の『現代日本文学全集第三十七篇 現代日本詩集 現代日本漢詩集』の「現代日本詩家年譜」収録。序文には「著者八十五人の略伝は故人以外その自記を請うたが、編輯の都合上止むを得ず添削案配するところがあつた。記して諸家の寛恕を乞ふ次第である。」と記されています。

光太郎も自分自身を市井の一芸術家と捉えていたようです。「一九一〇年」は明治42年(1909)の誤りです。

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雑誌の新刊です。 

2020年6月5日 鹿砦社 税込定価600円

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 新型コロナ禍のなかで爆発した検察庁法改正案。時の内閣が検察の人事をコントロールするものだとして批判が集まり、コメント数一千万、数百万人ともいわれる人々が参加したツイッターデモの影響もあって法案は見送りとなりましたが、この騒動はあらためて総括する必要がありそうです。まず確認しておきたいのは、2014年に創設された「内閣人事局」にみられるような、内閣が行政トップの人事権を握るやり方が、すでに安倍政権の常套手段となっていること。本誌2月号の「天木直人×木村三浩対談」でも指摘されていますので、ぜひお読みください。
 
 そして、公訴権を一手に握る検察という組織そのものについても、彼らがただ政権に翻弄される存在ではないことを、強調しておきたいと思います。黒川弘務元東京高検検事長の賭け麻雀問題は、検察の現実の一端を見る良い機会だったとすら言えます。実際、検察はこれまでたびたび暴走してきました。最も有名なのが2009年の郵便不正事件。主任検事らの証拠捏造により村木厚子・元厚生労働省局長が冤罪逮捕されましたが、これを主導し、逮捕された大坪弘道氏は、本誌発行元の出版社・鹿砦社への、いわゆる出版弾圧事件の中心になった検事でした。大手パチンコ企業等を批判する書籍が名誉棄損にあたるとして、鹿砦社代表が逮捕。すでに出版されている本の内容が問題、つまり証拠隠滅や逃亡のしようがないにもかかわらず逮捕という、検察の弾圧目的が垣間見える事件でした。その詳細は、5月号(本誌15周年記念号)の特集にまとめています。起訴する権利を一手に握るということは、冤罪が起きれば責任が問われるべきですが、検察組織をチェックするようなシステムはありません。また、いま政治の不正として検察の動向が伺われるのが、自民党の河合案里参院議員の選挙違反事件ですが、仮に逮捕までいったとしても、今回の騒動が片付いたように見せるためのスケープゴートにすぎないのかもしれません。
 
 前号に引き続き、「新型コロナと安倍失政」特集第3弾としました。特に「専門家会議」に焦点を当てています。5月末には「メンバーの了解」のもと、議事録が作成されていなかったことが明らかになりましたが、検証を阻害する点で政府を批判すべきである以上に、再現性を無視する態度はとても専門家のものとは思えません。本誌では、彼ら「感染症専門家」(と政府・マスコミ)のそもそもの誤りを指摘しています。さらに、尾身茂副座長の要請により加えられた「経済専門家」メンバーについても、5月号に続き再登場いただいた藤井聡・京都大学大学院教授(元内閣官房参与)が分析しています。
 
 さらに、コロナ禍を7月の選挙に向けてのアピールとした小池百合子東京都知事、なぜか人気の吉村洋文大阪府知事についても論考を掲載しました。とくに大阪の「医療崩壊」に維新政治があることは、決してスルーしてはならない事実です。詳細にわたりレポートしています。ぜひご一読をお願いいたします。  

「紙の爆弾」編集長 中川志大

目次
 検察庁法改正案「見送り」の舞台裏 黒川“賭けマージャン”直撃 自民党ガタガタ内情
 特集第3弾 「新型コロナ危機」と安倍失政
 政府・専門家会議・マスコミ 素人たちが専門家を僭称して
 経済専門家会議にみる政府の中小企業切り捨て
 コロナ禍利用し“事前運動”小池百合子と東京都知事選
 吉村洋文知事に騙されるな 維新が招いた大阪・医療崩壊
 「感染対策に“緊急事態条項”必要」という改憲勢力の嘘
 「自粛」から「強制」へ 進行する監視社会
 誰がPCR検査を妨害したのか 隠された数万人「肺炎死」
 日本を包み込む「東京五輪バイアス」
 東京五輪「延期」でさらに泥沼 「東京ビッグサイト」使用停止が生む巨額損失
「ロックダウン」と「解除後」 マレーシアから見た日本の“異常” 
 日米安保60年と安倍無責任政権 検察庁法改正案の語られざる「本質」 
 前立腺がん患者をモルモットに 滋賀医大病院事件「疑惑の判決」
 ビートたけし・岡村隆史・手越祐也 本当に自粛すべきはこの芸能人たち
 永田町アンタッチャブル アベ・カポネを嗤う
〈連載〉
 あの人の家   NEWS レスQ   
コイツらのゼニ儲け 西田健  
 「格差」を読む 中川淳一郎
 ニュースノワール 岡本萬尋   シアワセのイイ気持ち道講座 東陽片岡
 村田らむ キラメキ★東京漂流記   マッド・アマノの裏から世界を見てみよう
 権力者たちのバトルロイヤル 西本頑司   広島拘置所より… 上田美由紀
 元公安・現イスラム教徒西道弘はこう考える   まけへんで!! 今月の西宮冷蔵


精神科医・評論家の野田正彰氏による「政府・専門家会議・マスコミ 素人たちが専門家を僭称して」という稿の終末部分、光太郎の名が。

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新型コロナウイルス感染症が発生して以来、国の取ってきた対応のまずさを、これでもかと列挙しています。特に、現場の医療機関には必要な情報がおりて来ず、それぞれが手探りで対処するしかなかったという現状。なるほど、そうだったのか、と、いろいろ腑に落ちました。

そして、青少年にとって、この現状が社会を認識するための格好の教材になりうる、という提言。戦時下の大本営発表を鵜呑みにしていた光太郎らの愚を繰り返すまじ、ということでしょうか。

その他の記事を読んでも、なかなか気骨のある雑誌です。「タブーなきラディカルスキャンダルマガジン」と謳っているのもうなずけます。

オンラインで入手可。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

列車の上の大立廻りなどは痛快で面白いけれども、その根柢に何物もないので、私は常に遺憾に思つて居る。

散文「外国映画と思想の輸入」より 大正9年(1920) 光太郎38歳

この部分、アメリカ映画に対しての批判です。100年前からそうだったのですね(笑)。

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まずは『読売新聞』さんの一面コラム、6月4日(木)の掲載分です。 

編集手帳

詩人の高村光太郎は彫刻家でもあった。後者の職業の視点だろう。「顔」と題する小文に、顔ほど人を語るものはないと書いている◆仙人のような風貌(ふうぼう)でも内心俗っぽい者は俗っぽさが顔に出る。欲張りな者にも人情に厚い人がいて、それが顔に表れる。誠実であろうとするあまり無理をする者は、その無理を顔に隠せないと例を連ねている◆この論に従えば、顔は大事な表現手段になり得る。東京地裁での殺人事件の裁判員裁判で、弁護人がマスク着用を拒否した。表情を裁判員に見せなければ全力での弁護が困難との考えかららしい◆正義や熱意をお顔に貼り付けるタイプの弁護人なのだろう。裁判は裁判員と弁護人の間にアクリル板を設置し、2時間半遅れで開廷した。といっても被告はマスクをしていたという。裁判員は真実を見極めるのに、被告より弁護人の表情に目を奪われぬよう注意しなければならない◆光太郎の顔論には社会で地位を築く人への戒めのような一節もある。〈お山の大将はお山の大将〉。今は法律にないルールが多くある。考えや気持ちを柔軟にして山を下りねばならないことがある。

ルイ十六世気取りの「お山の大将」いや、「裸の王様」にも「山を下り」てもらいたいものですが(笑)。

続いて福岡に本社を置く『西日本新聞』さんに載った記事。美術評論家の椹木野衣(さわらぎのい)さんによる連載です。 

近代秀作木彫展遮られる世界 パンデミックとアート <14>【連載】芸術にとっての手や顔 不気味さに向かっていた高村光太郎の著名な彫刻

 新型コロナウイルス感染症がアートに与える影響は、遠隔型のアート(メディア・アートの伸張)のようなわかりやすい対症療法だけでなく、より根源的な次元にまで及んでいるように考えられる。
たとえば、芸術家にとっての手や顔の位置付けがこれにあたる。人類が手を駆使して道具を操り、文明を築いていったことや、鏡に写る自己像を認識し、個人という枠組みが形成されていったことを思い起こそう。あらためて確かめるまでもなく、手や顔は芸術にとって、技芸や内省といった成立条件そのものに関わる器官なのだ。
 ところが、新型コロナウイルスがヒトに宿す場所は、 まさしくこの手と顔にほかならない。ウイルスは手によって媒介され、顔の粘膜から体内に侵入する。徹底した手洗いとマスク(顔を触らない)がなにより奨励されるのは、そのためにほかならない。
 私たちはこれまで、自分の手や顔が身体のなかで、もっとも危険な場所だなどとは、よもや認識してこなかった。むしろ逆だろう。手や顔は自分にとって、もっとも親密な場所だった。新型コロナウイルス感染症では、それが逆転してしまう。手や顔が、自分にとって最大の警戒すべき対象となる。場合によっては敵となる。
 このことが、アーティストたちにとって、たいへん大きな価値観の転倒に繋(つな)がらないはずがない。もはや手は技芸の味方ではなく、これまで通り絵を描くにせよ、最先端の装置を操るにせよ、つねに清潔に保たなければならない危ない他者性を帯びてくる。同時に顔では、 ときにやさしく(それこそ)手で慰撫し、表現する主体の実在を確かめるにも気を使わなければならなくなる。
 アーティストにとって新型コロナウイルスの蔓延( まんえん)は、以後、避けることができない自己の分裂が生じることを意味するのだ。
 人間の器官を扱った彫刻では、三木富雄の巨大な耳の彫刻がすぐに思い浮かぶ。
 耳をかたどった三木の彫刻の不気味さは、そもそも彫刻の主題として耳を前面化するアーティストが過去にいなかったことに多くを負っている。耳は音楽にとってはしごく身近でも、美術にとってそれほどまでのことはない。美術には、視覚をつかさどる眼がなんといっても根本的なのであって、ゆえに肖像画の主題は同じ顔でもひときわ目に集中している。耳は物理的にも意味的にも脇役だ。三木はそれを主題化した。
 ところが新型コロナウイルスが蔓延した状況では、耳のように、表現の対象としてわざわざ意識をめぐらす必要のなかった手こそが、最大限に不気味な対象となる。
 たとえば高村光太郎の彫刻に「手」がある。だが、その著名さとは裏腹に、その不自然さは、ふだん手が取るポーズではない。ゆえにこの作品への解釈はこれまでも様々( さまざま)だった。だが、高村の意識が手の不気味さそのものに向かっ向かっていたのはあきらかだ。
 なぜ高村は、手をこれほどまでに不自然視したのだろう。この作品の制作年は確定していないものの、一般に1918年頃とされている。 私たちはいまでは、この年号から、ただちにスペイン風邪によるパンデミックを連想する。むろん、高村の制作時期がスペイン風邪の蔓延と重なっているかはわからない。また、手がウイルスを媒介する最大の感染源という認識があったかどうかも不明だ。
 だが、少なくとも私たちは、これらのことを通じ、高村によるこの手の彫刻に、かつてない意味を見出すようになっている。

光太郎ブロンズの代表作「手」001大正7年=1918)を引き合いに出してくださいました。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

この手の形は、観音菩薩像の「施無威」の相。まぁ、仏像の手印ですから「不自然」といえば「不自然」ですが、一見ものすごく「不自然」に見える親指のそり工合は、粘土で塑像を作る際の光太郎の親指の形そのままです。下の方の画像はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」から。最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作風景です。

そう考えれば、この形もそれほど「不自然」ではありませんし、ましてや「高村の意識が手の不気味さそのものに向かっ向かっていた」とか「高村は、手をこれほどまでに不自然視した」というのは意味不明なのですが……。

また、最後に「少なくとも私たちは」とありますが、「少なくとも私は」としていただきたいものです。

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ただ、ブロンズ「手」が、スペイン風邪の流行した大正7年(1918)の作だという指摘は、ほう、と思いました。しかし、そこに意味を見出すのは牽強付会に過ぎるように思われますが……。

明日も新聞記事からご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

僕は芸術だつてエネルギーだと思うんですよ。エネルギーの発散が芸術だと思うんです。

座談会筆録「簡素生活と健康」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

まさに最後の大作「乙女の像」制作にかかろうという時期の発言です。

30余年前の「手」も、こうしたエネルギーの発露として、ポジティブに作られたものだと思うのですが……。

シニアズ』さんという、岩手の盛岡でシニア世代向けに発行されている情報誌があるそうです。基本、新聞折り込みで近郊に配付、さらに病院さんや銀行さんの待合席等にも置いているとのこと。

そちらの4月26日(日)号に、生前の光太郎をご存じで、花巻ご在住の浅沼隆さんの談話筆記が載りまして、花巻高村光太郎記念館さんから情報を頂きました。 

晩年を花巻で過ごした芸術の天才 高村光太郎の人柄

 明治~昭和を芸術とともに生き抜いた日本を代表する彫刻家・詩人、高村光太郎。その光太郎が昭和20年5月、東京空襲でアトリエを失った時に宮沢賢治の実家に招かれ、花巻市に疎開、その後太田村山口地区(現花巻市太田)の山荘で7年間農耕自炊の生活をしていました。現在もその山荘を保管し、隣接して高村光太郎記念館があります。
 幼少期に光太郎と出会い、現・花巻高村光太郎記念会理事も務められる浅沼隆さん(78)から光太郎にまつわるお話を伺いました。
 当時、小学生だった浅沼さんは校長であった父の頼みで光太郎の山荘まで郵便物や小包を運ぶのが日課になっていたと話します。温厚で誰にでも親切だったという光太郎は、自宅前の菜園で野菜を育てていたそうで「光太郎先生と一緒に野菜の収穫をしていた時、キャベツについていた青虫をはらうと「蝶々になるから殺すな」と怒られましたね。先生は当時では珍しかった西洋野菜も育てていて、先生からセロリをもらってかじったらとっても苦くて。吐き出せないから頑張って飲み込んだよ」と話されました。
 留学の経験もあった光太郎は、新鮮な野菜でシチューや牛鍋などハイカラな料理を作っていました。山荘での食卓風景を再現するイベント「ゆかりの盛岡・公会堂~高村光太郎の食卓」を今秋には開催を予定しています。
 ここを文化の発信地としようとした光太郎の意志は今も岩手の人々に受け継がれています。
(4月2日の「連翹忌(れんぎょうき)」、5月15日の「高村祭」はいずれも今年は中止)


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余談ですが、最後に書いてあるイベント、本来、今月の予定で、当方、講師を仰せつかっていましたが、秋に延期となりました。その頃にはコロナ騒ぎも終息していてほしいものです。

閑話休題。浅沼さん、以前から光太郎の語り部として、さまざまな機会でお話をなさっています。

平成25年(2013)の「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像~」。

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平成28年(2016)、テレビ岩手さんの情報番組、「5きげんテレビ」。

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一昨年の第61回高村祭。当方が進行役を務め、浅沼さん他4名の、生前の光太郎をご存じの方に思い出を語っていただきました。

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昨年は、地元の太田小学校さんでゲストティーチャーとして。

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花巻高村光太郎記念館さんで、かつて作ったリーフレット。同じく生前の光太郎をご存じの、高橋征一さんと浅沼さんの証言録です。

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当方など、どんなに偉そうにいろいろ語ったところで、生前の光太郎を存じません。そういう意味では、浅沼さんたちのように生前の光太郎と親しく接せられた皆さんを実にうらやましく感じますし、こういう皆さんの体験談をしっかり残していかねば、とも思います。

これからもお元気で、語り部としてご活躍いただきたいものです。

おまけ(その1)。浅沼さんのお父様、故・浅沼政規氏が校長先生で、浅沼さん、高橋さんが通い、光太郎がよく茶飲み話に訪れた、山口小学校の在りし日の姿です。

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おまけ(その2)。『シニアズ』さんの読者プレゼントに、花巻高村光太郎記念館さんが協力なさったそうで。「太っ腹だな」と思ったら、5名様限定でした(笑)。

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【折々のことば・光太郎】

美にして実 実にして潤    短句揮毫 戦後期 光太郎70歳頃

欅の板に書き付けられた揮毫、というか柿の実を描いた絵の画賛です。自画自賛ではなく、他の人物の画です。美しいうえに、食べることができて実用的、さらに食べたらその潤いもすばらしい、ということでしょう。

ちょうど浅沼さんが郵便物を届けていた頃のものです。

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定期購読しております日本古書通信社さん発行の『日本古書通信』今月号が届きました。

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同誌編集長の樽見博氏による「感謝 北川太一さん」が掲載されています。今年1月に逝去された、当会顧問であらせられた北川太一先生の追悼記事的な。

同誌と北川先生は因縁浅からぬものがありました。先生の玉稿が紙面を飾ったこともしばしば。当方が同誌を定期購読するようになってからのものですと、以下がありました。

「高村光太郎凝視五十年(上)ガリ版「高村光太郎年譜」作製まで」平成11年(1999) 12月号
「      〃        (中) 全集の編纂」       平成12年(2000) 1月号
「      〃        (下) 次の時代へ」                     〃      2月号
「さらば東京古書会館」      平成13年(2001) 10月号
「無知の罪を知った『展望』」   平成17年(2005) 4月号
「『連翹忌五十年――挨拶の解説――』 平成18年(2006) 5月号
「『古書通信』の六十年」       平成24年(2012) 11月号  


このうち、「さらば東京古書会館」、「無知の罪を知った『展望』」、「『古書通信』の六十年」は、平成27年(2015)に文治堂書店さんから刊行された、北川先生の著作集『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』に転載されています。

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それから、平成6年(1994)には、同社から当時刊行されていた「こつう豆本」シリーズの一冊として『光太郎凝視』がラインナップに入りました。「こつう」は『日本古書通信』の略称「古通」、「豆本」ですので、実際にてのひらにおさまるサイズで、10㌢×7.5㌢です。内容的には既刊の書籍に発表されたものの転載ですが、「あとがき」は書き下ろし。改めて読んでみますと、樽見氏に触れられていました。こうした関係もあって、樽見氏、1月のお通夜にご参列下さいました。

樽見氏、追悼文の中で、北川先生のご著書『愛語集』に触れられています。こちらは平成11年(1999)、先生が都立向丘高校さんに勤務されていた頃の教え子の皆さん、北斗会さんの発行です。

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布装角背の上製本で、扉にはおそらく北川先生がご趣味で取り組まれていた版画。それを表紙では二分割して空押しに使っています。

内容的には、北川先生の「座右の銘」ともいうべき、先人のさまざまな言葉とその解説等。見開き2頁ずつ、右頁には先生のペン書き、左頁が解説等となっています。

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もちろん光太郎智恵子の「言葉」も収録されていますが、それは少なく、他に聖書や仏典、ゲーテ、ロダン、白居易、柳宗悦、尾崎喜八、立原道造、はては民謡など、その幅は実に広く設定されています。

先生のお人柄そのままのような、柔らかな、味わい深いペン字、そして選び抜かれた言葉の数々。樽見氏、数ある先生のご著書の中から、これを特に取り上げるあたり、「なるほど」と思わされました。

限定300部の非売品でしたので、今となってはなかなか入手困難だろうと思いましたが、東京都古書籍商業協同組合さんのサイト「日本の古本屋」で、昨日の段階で2冊、出ていました。早い者勝ちです(笑)、ぜひどうぞ。

また、『日本古書通信』さんは、日本古書通信社さんのサイトから注文可能です。


【折々のことば・光太郎】

不幸にして一つもありません、出版所が註文通りに造りません。

アンケート「装幀について」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

設問は「既刊御自著中、装幀のお気に入つた本」。昭和10年(1935)の時点では、訳書や共著を含め、光太郎の著書は10数冊。しかし、どれもこれも光太郎のお眼鏡にはかなわなかったようです。当時の日本に於ける印刷や造本の技術の問題もあったような気もしますが……。

その点、上記『愛語集』などを手がけられた北斗会さんは、会長の小川氏が特殊印刷の会社を経営されていた関係で、他の北川先生のご著書を含め、美しい装幀、造本ばかりです。

今月初めの『福島民友』さんの記事です。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語が。

免許返納者に「反射缶」県内初 二本松交対協、夜間事故防止へ

 春の全国交通安全運動(6~15日)を000前に、二本松地区交通対策連絡協議会は1日、運転免許証を自主返納した二本松市の高齢者に対し、「運転者卒業記念」として夜光反射材のグッズを詰めた缶詰「反射缶」の配布を始めた。反射材の着用を促し、夜間の高齢歩行者の事故防止につなげる。二本松署によると、反射缶の配布は県内で初めて。

 同署によると、各種啓発活動で夜光反射材を配布したが、着用が進んでいない。自分の物と意識する「保有効果」により着用率を高めようと、同署は反射材を詰めた「ガチャガチャ」を交通課窓口に設置している。

 反射缶も同様の考えに基づき配布する。缶には、伸縮するたすきや靴用のシール、キーホルダーと、同市の「ほんとの空」をイメージした青いリストバンド型の反射材を詰めた。300個を用意。同署で免許証を返納した市民に贈る。

 「出るなら昼間!夜なら光れ☆」がキャッチフレーズで、配布時には、夜間の不要不急な外出を控えるよう助言し、外出時には反射材を着用するよう促す。

 配布第1号となったのは同市下長折の男性(74)。脳梗塞で右半身が少し不自由になり、中学1年になる孫から「じいちゃんの運転は怖いから乗らない」と言われ、50年以上取得した免許を返納した。佐藤祐一交通課長から反射缶を贈られ「反射材を着けて事故に遭わないようにしたい」と話した。

 同市の免許返納は年々増え、昨年は前年より70件多い225人が返納した。

こんなところでも「ほんとの空」、と、微笑ましく思いました。

当方自宅兼事務所の近辺もかなりの田舎ですので、自家用車は必需品です。また、東北や中部地方などの光太郎智恵子ゆかりの地に行く際も、公共交通機関を使うより安かったり便利だったりもします。

しかし、やはり、永久に運転もできないでしょう。いずれ返納することとなる時、車が無くても困らない世の中になっていて欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

多くの場合、本郷通松屋製青色 二十字詰

アンケート「文房用品――ペン・インク・原稿用紙――」より
 昭和9年(1934) 光太郎52歳

文藝春秋社発行の雑誌『文芸通信』に載ったアンケート回答、愛用の原稿用紙についてです。

「松屋」は、光太郎が生まれた翌年、明治17年(1884)創業の紙製品店。光太郎以外にも、夏目漱石や芥川龍之介らがその原稿用紙を愛用していました。昭和30年(1955)まで存続していたそうです。

光太郎は、詩稿に限れば大正11年(1922)~昭和15年(1940)頃、確かに松屋製のものがほとんどでした。それ以前は銀座伊東屋製、それ以後、戦時中までは出版社・道統社のロゴが入ったもの(中央部分には「高村光太郎」と印刷されています)を主に使っていました。戦後はさすがに物資が不足、原稿用紙もあまり統一されることなく、いろいろな用紙を使っています。

こちらは「ほんとの空」の語の初出、「あどけない話」。

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こちらも松屋製です。

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先週の『神戸新聞』さんの一面コラム「正平調」。光太郎と、当会の祖・草野心平について触れて下さいました。

正平調2020・4・10

詩人の草野心平さんは東京で居酒屋を開いていた。品書きがしゃれている。「悪魔のこまぎれ」は酢だこのこと。スープは「白夜」で、ウイスキーは「炎」。さすがは言葉遊びの名手◆生活を支えるために始め、なじみの客には高村光太郎や佐藤春夫らがいたというが、商いとしては実際のところどうだったか。4年で閉じた店の名は「火の車」である◆作家の山口瞳さんがサントリーの社員だったころ、「バー調査」なる仕事があった。著書に書いている。夜ごと酒場に足を運んで客のふりをし、1時間でトリスは何杯売れたか、ソーダは何本…と数えたそうだ◆トリスが1杯30円の店もあった時代で、会社から500円をもらい一晩に3軒まわる。ぐびりとのどを鳴らす音が聞こえそうだが、仕事となれば苦労も多かったとか。いずれにせよ、景気のいい話には違いない◆酒場に限らず、いま町のお店で調査をすれば、聞こえてくるのは火の車の悲鳴と損失補償を求める声、声、声だろう。外出自粛の要請で客が来ない。といって店を閉めれば収入の道は途絶える。どうすりゃいい◆政府はしかし、個別の休業補償には後ろ向きという。みなが額に汗して働き、まじめに税金を納めてきたのはこういうときのためではなかったのかい。

新型コロナに伴う居酒屋等への休業要請→損失補償無し→火の車。なるほど。

概して地方紙さんは「忖度」の必要性があまりないようで、政権に対しての手厳しい論調が目立ちます。全国の52新聞社さんと共同通信さんのニュースを束ねた地方紙連合「47NEWS」のサイトには、こんな論評も。おそらく、いくつかの地方紙さんには紙面にも載ったのではないでしょうか。

いったい何だったのか「緊急事態宣言」対策失敗でも責任取るつもりない安倍首相

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、安倍晋三首相が7日に発令した緊急事態宣言。本来なら大きな局面転換のはずである。だが、結果として宣言の発令後も多くの人々が出勤などのために外出し、多くの店も営業を続けざるを得ない状況になっている。それどころか、宣言から3日を経た現在も、休業補償を要請する店舗や施設などの範囲すら分からない。「決められない政治」も極まれりである。(ジャーナリスト=尾中香尚里)

 ▽国民の痛み和らげる「補償」を否定
 緊急事態宣言とは一体何だったのか。そんな疑問がわいてくる。
 感染拡大の防止に向け、本気で国民の行動変容が必要だと首相がいうなら、まず「十分な補償によって国民の生活を守りきる」ことをしっかりと示した上で、外出自粛や休業を要請しなければならなかった。ところが首相のしたことは、逆に国会質疑や記者会見で「補償を行わない」方針を明確に伝えることだった。
 これで国民の行動変容を促せるわけがない。それどころか、このままでは感染拡大を抑えられないまま、いらだつ首相がさらなる強制力を求めて憲法改正など「不要不急」の政治案件に傾き、コロナ対策がさらに置き去りにされる、という最悪の展開になりかねない。
 今回の緊急事態宣言は、憲法改正のテーマに挙げられる「緊急事態条項」とは全く異なり、現行の日本国憲法による制約を受けている。その発令は、首相が国民に一方的に何かを求めるだけのものであってはならない。宣言発令の最大の意義は、感染拡大を食い止めるため「全ての責任を持つ」と、首相が国民に誓うことだ。
 痛みを伴う協力を国民に求めなければならない。しかし、その痛みを可能な限り和らげる責任は、自らが引き受ける。首相はそのことを誠心誠意、全身全霊をかけて国民に訴えなければならなかった。
 痛みを和らげるために最低限必要なのが「補償」である。補償によって将来への安心感が得られれば、さまざまな私権制限に対する国民の協力が得やすくなり、感染拡大の防止につながるはずだ。
 ところが、安倍首相は宣言発令に先立つ7日の衆参の議院運営委員会の質疑で、「民間事業者や個人の個別の損失を直接補償することは現実的ではない」と答弁した。むしろ「補償を行わない」メッセージを強く打ち出してしまったのだ。

▽「感染症対策」=「経済対策」なのか?
 与野党問わず多くの質問者が補償について尋ねたが、答弁は毎回、見事に同じ表現。官僚の答弁書をただ読んでいるだけだった。補償が難しいなら難しいなりに、多少なりとも苦渋をにじませる表現や表情の一つもあればまだ良かったのだが、全く無機質な答弁が、壊れたテープレコーダーのように繰り返された。
 ここで問題にしたいのは、補償を否定したこと自体ではない。その「理由」である。答弁で首相はこう言っていた。
 「直接の自粛要請の対象となっていない分野においても、売り上げや発注の減によって甚大な影響が生じていることも勘案すると、政府としてさまざまな事業活動のなかで発生する民間事業者や個人の方々の個別の損失を直接補償することは現実的でない」
 この答弁からうかがえるのは、首相は「休業補償」を「経済への悪影響を防ぐための対策」と考えており、「感染症対策」として見ていない、ということだ。
 「経済対策」と「感染症対策」は明確に違う。東京電力福島第1原発事故で「原子力緊急事態宣言」を発令した経験を持つ菅直人元首相が、8日のブログでその点を指摘している。以下に引用したい。
 「例えば夜、国民が盛り場で酒を飲むことをやめさせるためには、国民に『店に行かないように』と訴えるより、店自身に一時休業してもらう方がより確実です。こうした店に、休業に伴う減収分の補償をしっかりと約束した上で休業を要請すれば、店側も安心して従うはずです。
 総理は7日の国会質疑で『民間事業者や個人の方々の個別の損失を直接補償することは現実的ではない』と繰り返し答弁しました。理由は、経済的な影響は休業を直接要請する店だけでなく、そこに材料を卸している業者にも及ぶため、店だけを休業補償することはできない、ということのようです。
 しかし、実際に人と人が接触する場所はお店です。お店に休業してもらえば、人と人の接触は確実に減り、感染を減らすことができるはずです。補償はそのために行うべきなのです」

▽居酒屋に休業要請と補償が必要な理由
 首相は感染拡大の防止に向け「人と人との接触を8割削減する」必要があることを訴えた。そんなことを国民の努力だけに求めても無理だ。まず国として「人と人とが接触する場をできるだけ作らせない」ことに全力を挙げなければならない。例えば国民に「飲み会を避けてほしい」のなら、国民に「飲み会はやめて」と言うだけでなく、国として「飲み会を行う場所をふさぐ」ために、居酒屋に一時休業を求めるべきなのだ。
 もしそうなれば、それは居酒屋に対する大きな私権制限である。居酒屋の経営は壊滅的な打撃を受ける。だから、首相は十分に言葉を尽くして居酒屋側に休業への協力を求めつつ、同時に十分な補償を約束し、居酒屋が自発的に休業に協力しやすい状況をつくることが肝要なのだ。休業を求める期間をできる限り短くし、その間に感染拡大を抑止できるよう最大限の力を尽くすことは言うまでもない。
 居酒屋への休業補償が「経済対策」ではなく「感染症対策」であること、すなわち「人と人との接触の場をふさぎ、感染拡大を防ぐ」という目的を達成するために補償が必要なのだ、ということを明確に理解していれば、「(居酒屋の)関連業界に補償しないこととの不公平さ」を気にした答弁は出てこないだろう。
 もちろん、苦境に立つ関連業界を救うための経済対策は、別途行うべきだ。しかし、あの首相答弁は、政権が施策の目的とその優先順位を理解できていないことを露呈したという点で、大きな不安を抱かせるものだった。
 この問題に限らないが、首相は結局、今回のコロナ問題を経済問題としか考えていない気がしてならない。発想の起点がいちいち「国民の生命と健康を守る」ことではなく「景気の悪化を防ぐ」ことにあるのだ。
 だから、事業規模108兆円の緊急経済対策にコロナ収束後の観光やイベントのキャンペーン費用が盛り込まれ、その総額が国民への現金給付の規模より大きかったり、「お魚券」「お肉券」などの消費喚起策が取り沙汰されたりする。
 そう言えば、西村康稔経済再生担当相は8日、緊急事態宣言の対象7都府県知事とのテレビ会議で「休業要請の2週間程度見送り」を打診したとの報道も流れた。この件については菅義偉官房長官が9日の記者会見で「そうした事実は承知していない」と否定したが、こうした報道が流れること自体、政権がコロナ対策を「景気対策」と考えていることの証左と言えるし、政府の発信の混乱は「政権の意思決定過程がどうなっているのか」という別の不安を抱かせる。ただでさえ不安な多くの業者を、さらに混乱に陥れている。
 こんなことで、首相がうたう「2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせる」ことが、本当にできるのか。極めて心許ない。

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 ▽この有事に、憲法改正の活発な議論?
 今懸念しているのは、こうした政権の対応のまずさによって、結果として感染拡大を防げなかった時、首相がどういう態度に出るかである。
 安倍政権がコロナ問題でこんなにも腰の引けた対応しかできないのであれば、おそらく2週間で感染拡大を食い止めるのは難しいだろう。政治決断によってこれだけ国民に多くの負担を強いておいて、感染拡大防止に失敗したのであれば、当然政治責任を負うべきはずである。だが、安倍首相は7日の記者会見で「私が責任を取ればいいというものではない」と言い放った。
 この発言だけでも衝撃的だったが、筆者が危機感を抱くのはその後である。首相が自らの政治責任を取ることなく、その座に居座った後に「緊急事態宣言には罰則規定がないから国民の外出を止められなかった」などと言って、自分たちの無策による結果を法律に転嫁し、それを改憲によるさらなる「強権」獲得への理由付けにしかねない、ということだ。
 その兆候はすでにある。記者会見に先立つ衆院議院運営委員会。安倍首相は、憲法改正による緊急事態条項の導入について質問した日本維新の会の遠藤敬氏に対し「新型コロナウイルス感染症への対応も踏まえつつ、国会の憲法審査会の場で、与野党の枠を超えた活発な議論を期待したい」と答えたのだ。
 少なくともこうしたことは、感染拡大を防ぐために「もうこれ以上の手はない」と自他ともに認めるだけのあらゆる手立てを尽くすまで、どんなことがあっても決して口にすべきではない。そもそも憲法改正といった大きなテーマの議論は、最低でも「平時」に行うべきことだ。自ら緊急事態宣言を出しているような「有事」の今、どさくさに紛れて議論すべきことでは決してない。
 今は新型コロナウイルスの感染拡大防止に全力を注ぐべき時だ。緊急事態宣言を含め、現行法で政権が現在手にしている「道具」を十分に使い切って、あらゆる対策を行うべき時だ。それをしないうちに「道具が悪い」としてさらに強力な「武器」を求めるのは、単に政権の能力不足を棚に上げているだけだ。そのことを強く自覚してほしい。


いかが思われますか?


【折々のことば・光太郎】

いろいろありますが、その一例 トルストイ著 人生読本

アンケート「家庭教育によいよみもの」全文 昭和7年(1932) 光太郎50歳

トルストイの『人生読本』は、明治20年(1887)の刊行。おそらく光太郎が読んだのは、昭和3年(1928)の八住利夫訳(春秋社)だと思われます。

アンケートに回答した昭和7年(1932)といえば、7月には智恵子が睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂も起こしました。アンケート自体は3月に発表されていますので、その少し前ですが、前年頃から智恵子の心の病は誰の目にも明らかになっており、光太郎、「人生」について色々考えるところがあったのかもしれません。

日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。先月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていましたが、それも終わってしまいました。ところが年間購読の手続きをしていましたので、まだ届きました。しかし、「うーん、連載は終わってるんだがなぁ」と思ってページを繰ると、これまでに同誌の特集等で取り上げたさまざまな芸術家30名ほどの紹介的な記事があり、光太郎も紹介されていました。

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確かに同誌では、かつて何度も光太郎智恵子の特集などを組んで下さいました。

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No.53  2000年5月号   特集 高村光太郎の世界   No.81  2002年9月号   特集 智恵子紙絵


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No.90  2003年6月号 特集  高村光太郎 山のスケッチと手紙  No.103  2004年7月号  彫る・高村光太郎


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No.118  2005年10月号   特集 高村光太郎の絶筆  No.142  2007年10月号   特集 高村光太郎の書


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No.158  2009年2月号   特集 岩手県・花巻に高村山荘を訪ねて 高村光太郎の絶筆
No.219  2014年3月号   特集 高村光太郎詩と不即不離60年の道 松尾ちゑ子


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No.257  2017年5月号   視る 高村光太郎の書  No.258  2007年6月号~   連載 高村光太郎のことば


ありがたいかぎりです。連載「高村光太郎のことば」は終わってしまいましたが、今後も折に触れて光太郎特集などを組んでいただければ幸いに存じます。


ちなみに今号で、もう1本、光太郎智恵子がの名はありませんでしたが、こんな記事も。

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実践レッスン「レモン」をかこう」だそうで。なるほど、と思いました。

今号も含め、上記アーカイブも在庫が残っていればバックナンバーとして注文可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

果物は柑橘類が第一で、蜜柑などは一晩に一箱位平気で食べて了ふが、他人には嘘と思はれる位である。

アンケート「名士と食物」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

智恵子はレモンを好みましたが、光太郎も柑橘系が好きだったのですね。それにしても「一晩に一箱」(笑)。蜜柑に含まれるカロテンという色素が沈着し、手足が黄色くなる「柑皮症」というのもあるそうですが、大丈夫だったのでしょうか。

昨日の『毎日新聞』さん朝刊、「歌壇/俳壇」のページから。明星研究会等でお世話になっている、歌人の松平盟子氏の玉稿です。

「「明星」創刊120年 理想の火、俊秀集め=松平盟子002

 もし与謝野鉄幹という詩人が出現しなかったら。もし「明星」という文芸美術誌が鉄幹によって創刊されなかったら。歴史に「もし」はないが、そう仮定したくなるのは、二十世紀初頭を彩るこの雑誌から優れた詩人・歌人を多く輩出したからだ。与謝野晶子、石川啄木、北原白秋、吉井勇、高村光太郎。名を列挙するだけで納得されよう。
 では、なぜ「明星」にかくも俊秀たちが集まったのか。

 創刊は一九〇〇(明治三十三)年四月。ただしページ数も限られたタブロイド版で、雑誌形態に移行したのは同年九月。 ここから「明星」は飛躍的に読者を増やす。それは形態の違いによるものではなく、雑誌本体が画期的であったからだった。
 まず表紙画に読者は驚倒しただろう。瞼(まぶた)を伏せ髪を長く垂らした若い女性は乳房もあらわな半裸。しかし片手に持つ白百合が聖女の面持ちを演出し、その周囲には大小の星が輝く。フランスのポスター画家ミュシャの模倣ではあったが、まさに西洋の匂いが横溢( おういつ)する。
 次に注目すべきは鳳(のちの与謝野)晶子の歌の鮮烈さだろう。鉄幹との恋愛以前にあって、こんな歌が掲載されている。
 ・病みませるうなじに細きかひなまきて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ
 鉄幹が多忙で発熱したと知り、ではあなたの首に腕をまき口づけして差し上げましょうの意。この大胆さは翻訳文学の影響下にあってのものだろう。「明星」は創刊号から外国文学の紹介にページを割き、留学などで欧州にある画家の滞在記が載った。西欧の美術本からの図版とおぼしき作品も数多く本誌を飾ることになる。鉄幹に宛てた晶子、山川登美子らの私信さえも掲載され、リアルタイムのSNSにも似た様相を呈する。
 重要なのは十項目余の「新詩社清規」だろう。「明星」の発行母体は東京新詩社。ゆえに同社の規則である。虚名のために詩を書かない。過去の詩歌の模倣ではなく、新しい「国詩」を目指して互いに「自我独創」の詩を楽しむべし。交情はあっても師弟の関係はなし。このような理想の火が燃やされた。
 二十世紀スタート直前。日清戦争に勝利し自己肯定感を抱く日本人は、新世紀をときめきつつ迎えようとしていた。鉄幹の野心は新時代の詩歌を「明星」で展開することにあり、その勢いと華やかさに惹(ひ)かれた若者たちが続々と集まったのである。(まつだいら・めいこ=歌人)


新詩社発行の雑誌『明星』が創刊されたのが明治33年(1900)なので、今年はちょうど120年という節目の年です。

光太郎作品が同誌に初めて載ったのは、創刊の年10月の第7号でした。この時光太郎、数え18歳でした。

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本名ではなく、「篁(たかむら)砕雨(さいう)」の号を使用しています。青年らしい気概に溢れている点など、後の口語自由詩にもつながる要素が見て取れます。ただ、留学以前の掲載作は、与謝野寛(鉄幹)の添削が激しく入り、光太郎は「自分の作とは言えない」という感覚もあったようです。

光太郎の文筆作品は、これ以前にも『東京美術学校校友会雑誌』に短歌、『読売新聞』に俳句、そして雑誌『ホトトギス』にも俳句が載りましたが、それらは単発だったり、一投稿者としての掲載だったりでしたので、光太郎の本格的文学活動の出発点は、やはりこの『明星』と言っていいでしょう。

この後、光太郎は明治40年(1907)までの間に、短歌やエッセイ、戯曲などを断続的に寄稿しています。同39年(1906)からは、留学先のニューヨークからの寄稿でした。

下記画像は明治34年(1901)1月、新詩社の「鎌倉小集」という集まりでの記念撮影。由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうです。

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後列左端が光太郎、同じく後列右から二人目が与謝野寛、前列の右端が、光太郎の親友だった水野葉舟です。光太郎、数え19歳ですが満ですと17歳。まだ若干のあどけなさが残っていますね。

松平氏を中心とする明星研究会さんでは、毎年春に「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」を開催されていて、今春は3月20日(金)に「明治浪漫主義の鮮やかなる狼煙~「明星」創刊120年」と題し、講演や対談が予定されていたのですが、新型コロナのために中止となってしまいました。

これも毎年、秋には研究会が持たれていますので、そのころにはコロナ騒ぎも収束し、例年通り開催できることを切に祈っております。


【折々のことば・光太郎】

三、酒を少しのむといゝ気持になります。友達と麦酒をのむのは楽しみです。
四、自然に任せて節酒などしてゐませんが、おのづから矩を踰えずです。

アンケート「名士の飲酒所感」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「三」は「酒が身体に齎(もたら)す御体験について。」、「四」が「飲酒或は節酒に対して何か御自身で御実行になつてゐらるゝことはございませんか。」という問いへの回答です。

当方、アルコールを摂取する習慣がほぼほぼ無くなりましたが、雰囲気で酔えますので、「三」の回答には賛成します。ただし、「おのづから矩(のり)を踰(こ)えず」(『論語』からの引用で、「自分の思うがままに行動しても、正道から外れない」の意)ではない人が同席するのは勘弁こうむりたいですね(笑)。

東京都の小池知事は、新型コロナ感染予防のため、「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブなど接待を伴う飲食店を控えて」と要請しています。この状況下では仕方がないでしょう。もっとも、自粛要請など何処吹く風、の「ワーストレディー」も居るようですが。

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